《バックナンバー》
アイスブルーのひとりごと  2006年9月〜2015年8月
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2015/08/19 (水)  お盆休みが終わって
2015/08/02 (日)  初の試みと雑感と
2015/06/21 (日)  川治温泉
2015/06/10 (水)  続 パリ、そして旅が終わって
2015/04/025 (土)  パリにて
2015/04/04 (土)  グッバイ! 南仏
2015/03/18 (水)  南仏ドライブ紀行の三日目
2015/03/04 (水)  南仏ドライブ紀行の二日目
2015/02/28 (土)  南仏ドライブ紀行の一日目
2014/04/20 (日)  昭和の日々を思い出す
2013/12/25 (水)  ヒョウ柄の彼女
2013/12/14 (土)  屋上にゾウがいた時代
2013/12/08 (日)  ターキー
2013/12/04 (水)  湯布院の朝霧
2013/08/27 (火)  無限
2013/08/16 (金)  ドリームガールズ
2013/08/06 (火)  物欲
2013/07/18 (木)  粘土細工
2013/07/14 (日)  若き日に触れた優しさは
2013/07/10 (水)  暑い夏がやって来た
2013/04/13 (土)  鉛筆
2012/10/20 (土)  ぬか漬け
2012/09/11 (火)  心残り
2012/06/20 (水)  摩天楼にて
2012/06/02 (土)  溝の口夜話
2012/05/13 (日)  目白風景
2012/04/28 (土)  背番号24
2012/04/17 (火)  ほったらかしの湯
2012/04/08 (日)  名前
2012/02/22 (水)  百回目のひとりごと
2011/11/02 (水)  ザ・ガードマン
2011/10/16 (日)  誕生日会
2011/09/21 (水)  健康
2011/07/31 (日)  蓮華往生
2011/07/10 (日)  噂話
2011/06/19 (日)  メールにインターネット
2011/06/12 (日)  妙な事
2011/05/27 (金)  銭湯
2011/05/25 (水)  あれから
2011/01/11 (火)  冬の旅
2010/12/15 (水)  思い出し笑い
2010/12/08 (火)  東京スカイツリー
2010/11/28 (日)  懐石料理
2010/10/18 (月)  サウナ
2010/09/27 (月)  こだわりの一品
2010/09/14 (火)  避暑地巡り
2010/07/31 (土)  将来の夢
2010/07/20 (火)  青いヘルメット
2010/05/19 (水)  雨の日
2010/05/08 (土)  たらこ
2010/05/01 (土)  同窓会
2010/02/18 (木)  知られない歌
2009/12/28 (月)  プレゼント
2009/11/30 (月)  親子の関係
2009/10/17 (土)  秋の海釣り
2009/09/30 (水)  積み重ね
2009/08/08 (土)  月夜に思うこと
2009/07/22 (水)  2本の映画
2009/06/17 (水)  ヘアスプレイ
2009/06/10 (水)  重要課題
2009/06/09 (火)  嗅覚
2009/05/12 (火)  心に残るだけ
2009/04/23 (木)  瓢箪から駒
2009/04/20 (月)  今だから言える
2009/04/18 (土)  いつもと違う日
2009/02/23 (月)  悪戯
2009/02/11 (水)  香る季節がやって来る
2009/02/02 (月)  深い緑色のセーター
2009/01/28 (水)  危ない食い意地
2009/01/27 (火)  とかくに人の世は
2009/01/10 (土)  江ノ島詣で
2008/12/24 (木)  偶然
2008/12/15 (月)  憧れが冷めた今
2008/12/01 (月)  今年、私のナンバー・ワン
2008/11/29 (日)  一泊旅行
2008/11/16 (日)  持ち帰った詩
2008/11/07 (金)  酒の話
2008/09/26 (金)  ヤンキー・スタジアム
2008/09/02 (火)  新赤坂風情
2008/08/24 (日)  2008年、夏の終わりに
2008/08/11 (月)  外来種は何処から
2008/07/23 (水)  伝書鳩と遺失物
2008/07/20 (日)  ほどほどという話
2008/07/11 (木)  柴又慕情
2008/07/08 (火)  百年後の東京
2008/06/09 (月)  ラジオドラマ
2008/05/29 (木)  コーラと夜の遊園地
2008/05/22 (木)  相撲の新時代
2008/05/08 (木)  男の分水嶺
2008/04/26 (土)  秘密の場所
2008/04/22 (火)  蘇る日々たち
2008/04/01 (火)  花吹雪
2008/03/31 (月)  懐かしのハワイ
2008/03/24 (月)  最近の車事情
2008/01/25 (金)  春の散歩日和に
2007/12/28 (金)  天才アスリートと心温まる話
2007/12/04 (火)  いろいろな敗者たち
2007/11/15 (木)  出会いの不思議(パートU)
2007/11/11 (日)  出会いの不思議
2007/11/10 (土)  スポーツの規定に疑問符
2007/09/09 (日)  天女と屋台の羊肉
2007/09/07 (金)  昼下がりの窓
2007/09/01 (土)  夏の終わりのハーモニー
2007/08/31 (金)  伊豆の旅
2007/08/13 (月)  落葉松
2007/07/19 (木)  アヴェ・ヴェルム・コルプス
2007/06/28 (木)  あの夏の日を拾いに
2007/06/27 (水)  旅を2度楽しむ
2007/06/14 (木)  夏の想い出・大瀬崎
2007/06/09 (土)  町の有名人
2007/06/08 (金)  其のときを楽しむ
2007/05/29 (火)  十二食うかい? もう結構!
2007/05/20 (日)  大相撲観戦記
2007/05/15 (火)  輝く意外性
2007/05/02 (水)  小さな車の話
2007/04/15 (日)  心に残る名場面とは
2007/03/20 (火)  世界ふれあい街歩き
2007/03/18 (日)  東京で今
2006/11/26 (日)  年末は江戸気分
2006/11/19 (日)  悲恋と黄色いロールス
2006/11/01 (水)  忘れられない昼食
2006/10/29 (日)  浄土が浜まで
2006/10/28 (土)  澄んだ秋空に思う
2006/10/18 (水)  青森までの55分間
2006/10/17 (火)  恋愛専科で会いにゆく
2006/10/08 (日)  17歳の夏に
2006/10/02 (月)  9月28日午前11時
2006/09/17 (日)  神保町のタッセル・スリップォン
2006/09/10 (日)  「泥棒成金」とコートダジュール
 2015.08.19 (水)  お盆休みが終わって
梅雨明けと共に照りつける太陽にうだるような暑さ、そして今、ようやく微かながら救いの秋風を感じるこの季節になるといつも思う事がある。それぞれの故郷へ帰り、又戻ってくるお盆休みの事だ。この間、何年か前まで東京がガラガラになり空が澄み、何となく自分が世間様から切り離されたような、そこはかとなく嬉しいような寂しい様な不思議な気分になっていた。私が生まれ育ったところは昔の地名で言えば東京の文京区水道町2番地、今で言う春日と呼ばれているところだ。それこそ大きな山や長閑な田んぼは無かった。小川の代わりに神田川が流れ、大きな森や山の代わりに所々に空き地があり、少々お金を出せばその中に入れる後楽園の庭園や小石川植物園があった。これが私にとっての故郷である。

家の裏にはニワトリ小屋があって、そこにいたニワトリは御多分に漏れず朝日が昇るとコケコッコー!と派手にやっていた。松葉牡丹の新芽を好物にして、その季節ごとに祖父を怒らせていた伝書鳩の小屋もあり、一時期には天井裏を運動場と勘違いするネズミ達もいた。寝床に入った後、父や兄と“今日は何時になく頑張っているね!”等と言いながら実況中継さながらのチューチューという歓声やトコトコ走りまわる音を聞いた。彼等が連夜の運動会を止めて大人しくなると、決まって庭の無花果や桜の木にシマヘビやアオダイショウなんていう大きな蛇が出没する。そんなある時、何処かの田舎の古い家の天井が抜け、蛇が落ちて来たなんて言う話を聞いたので、ネズミ達の運動会の突然の中止と、蛇が庭に出る相関関係を真剣に考えていた事が懐かしい。今思えばとても想像しがたい大自然の食物連鎖を彷彿とさせる出来事だった。

食べきれなかった桃の実が熟し饐えた様な甘酸っぱい匂いをさせて落ちると、それを待ち構えていた緋縅蝶(ヒオドシチョウ)がオレンジ色の羽をヒラヒラさせて舞い、大きな日よけの様な草棚から、ぶら下がるように実った糸瓜(ヘチマ)を切り取っては乾かし、皮を剥いてそれで体をゴシゴシ洗った。悪戯盛りの私は、クマンバチ、ミツバチ、アシナガバチという、スズメバチ以外の蜂には一通り刺されて泣いた。その痛さは筆舌に尽くしがたく、刺されたところは時間が経つにつれ大きく腫れあがり、中心部から憎き蜂の針がポロリと出て来たものだった。そしてその庭には無二の親友である雑種犬のエスがいつも私を待っていた。彼も又、私の事を大親友だと思っていたらしく、暇な二人?はいつも一緒だった。

彼は何時いかなる時も私に優しかった。ある朝どうしても一緒に行く!と私から離れない。門を少しでも開けると強引に鼻先を突っ込んで外へ出てしまう。何度やっても同じだったので諦め、私が常連客になっていた駄菓子屋まで綱もつけずについて来てしまった事があった。当然、そこのおばさんに私とエスが怒られた。私にとっては親友なのだが、そのおばさんにとって、エスはいきなり無遠慮に店に入って来たただの汚い犬である。今思えば、小さい私が手のひらに10円玉を握りしめ、ほとんど毎日やってくるお得意様だったのでその叱り方も幾分遠慮がちだったと記憶している。その駄菓子屋の名は以前このひとりごとにも書いた“福森”である。この写真は庭にあった砂場のエスと私である。

時が経ち私がやっと小学生になった頃、エスが死んだ。誰よりも幼い私を優しく見守ってくれた親友との辛い別れに堪えきれず涙がこぼれ落ちた。この様子を見ていた祖母がこれを“涙の別れ”と呼んでいた。当時の私にとってその言葉が妙に恥をさらしたようで痛痒く感じたものだった。それが証拠に今もこのようにあのシーンを忘れないでいる。それからシェパード犬のベアから続き故郷の犬たちの歴史は6代も続いた。

暑い夏の終わりが近づくこの時節になるとあの頃を思い出す。おまけに中高男子校だった純情可憐な青春の淡い恋心なんていうのもない交ぜになって蘇る。誰にでも千差万別、いろんな土地にいろんな思い出の故郷がある。私の両親はもう既に亡くなったが、今はその庭と家に兄とその家族たちが住んでいる。母の肝いりでその家はマンションになり、庭は当時の三分の一か4分の一になってしまった。そこは私の住んでいるここから自転車でゆっくり走ってもたった30分ほどの距離である。今や近くて遠い故郷の思い出は、原色からモノクロームになり、いつの頃からかセピア色に変わりつつある。今年は懐かしいあの故郷の庭の片隅にでも立ってみるのも一興だと思い始めている。BGMに蝉の真打、ツクツクボウシでも鳴いてくれれば一層懐かしく盛り上がるのかもしれない。

追伸:
先日、毎年恒例化した様にお邪魔している会社時代の先輩の広大なる菅平の別荘へ行ってきた。その間に須坂、高山、山田そして笠ヶ岳から志賀高原、湯田中を巡った。いよいよ東京へ帰る時に後ろから撮影してくれた写真で、乗車しているのは私を含め老いた?3人のオヤジ達だ。行く先はそれぞれの家ではなく、まるであの世に向かっているようだ!あまりにもドンピシャな写真なので掲載させていただいた。
 2015.08.02 (日)  初の試みと雑感と
今年の4月から盆栽教室に通い始めた。このブログの仲間であり良き先輩である“ジャズとミステリー”の担当者から、とうとう枯淡の境地か!とか、最近、初孫が生まれた鮨屋の魚悠の主からは、全然似合わない!などといろんな事を言われている。一人静かにあの小さな世界に引き込まれると、そこから生まれ広がる空想や夢を面白がっている。少し前の朝日の天声人語に、韓国の知日派で文化相も務めた李御寧(イ・オンリョン)氏・“縮み志向の日本人”の著者でもある彼が、何事にも小さくしていく事に日本文化の特質を見つけているのが面白い。具体例ではこの盆栽に一寸法師、俳句、トランジスタ・・・。そう、私にとってそのどれもがとても好きなものだ。これにミニカーや鉄道模型、ジオラマ等々挙げればきりがない。小さなゲルマニウムラジオを自分で作り、やっと音が出た時の感動は忘れがたいものになっている。小さなものに細かい細工が施されている物などにも惹かれる。幼い頃から確かに小さく可愛いモノが好きだった。

この盆栽教室では楓に野バラに五葉の松などに挑戦した。残念ながら松は枯らしてしまったのだが、自分で大宮の盆栽村まで行き買ってきた物などを含めると今や六鉢ほどになっている。何十年も育て上げた芸術の域に達したものを観ると、私の人生後半に至った年齢からして、今、手元にある物からはおそらくそんなに価値ある物には育たないだろう。盆栽教室の先生が“この苗も15年も経てば立派になります”との事、それを聴いていた私と同年代と思しき人物が“それまで生きていられるかな〜!”と皆を笑わせたのだが、“その通り!”と私も密かに相槌を打った。人それぞれの楽しみ方があり、景色盆栽に対峙すると、いろんな思い出が蘇りひっそりと心穏やかになる時間がやってくる。今の私にとってはそれだけで十分だと思っている。

この盆栽と共に始めたのがミントの栽培である。ミントにはスペアミント、クールミント、ブラックミントなどがあり、それぞれが多少甘かったり辛かったりで、微妙な味や香りの違いがある。何故、ハーブ栽培などしたのかは、ある飲み物がきっかけで始めて見た。それはモヒートというラムベースの爽やかな口当たりのカクテルである。いろいろなバーで飲んでみたのだが、やはり決め手はミントの葉が新鮮でしかもたっぷりと入っているものが旨いという結論に至った。娘からの提案もあり、それならどこにも負けない旨いモヒートを家で作ろう!というのが、そもそもこのミント栽培のきっかけである。調子に乗ってもう4回ほど<モヒート・パーティー>なるものを我が家で開催したのだが、葉っぱの成長が追い付かず今は小休止といった所である。

パーティーのメンバーは常に流動的で、近所にある研究熱心で凝った旨い酒を飲ませる、これまた鮨屋の小松や雑司ヶ谷鬼子母神前のTUJI・BARのオーナー、彼は私が出た高校の後輩という事が縁でこのパーティーに参加するようになった。他には娘たちの会社の同僚などである。ライムを絞りそこにたっぷり目のミントの葉、ここでは辛めが好きな人にはブラックミントを多めに、スタンダードな甘さが好みの人はスペアミントという具合である。それにブラウンシュガーかシロップを少々、そこにメジャー・カップからホワイトラムを入れ、良く馴染ませるようペストルと呼ばれる棒で押す。それから氷、そして最後に炭酸水を入れ、バー・スプーンで軽く優しくかき回して出来上がり。こうして作るモヒートのなかなかの味に自分も満足!BGMはやはりジャズかラテン系の物を選んでいる。

雑感
今年は春から初夏にかけて、昔からの友人たちとの心のすれ違いを続けて2度ほど経験した。何もかもが旨く行くとは限らないのが人生。それは百も承知のジジイになり、決して自分だけが正しいとは思わない常識は身につけたはずなのに、酒も弱くなり人を許す許容範囲が狭まったと思えなくもない。そんな未だ大人になりきれない自分が寂しく情けないのだが、反面スッキリ・ハッキリ自分の思いを隠さない、友好な人間関係を保つ為のじっと我慢!が大嫌いな自分も又小気味いいのである。いろいろな事を思いながら今年も暑い夏は過ぎてゆく。
 2015.06.21 (日)  川治温泉
梅雨入り前の先日、高校時代からの友人のN君と川治温泉に行ってきた。彼は体を壊して以来酒は飲めない。酒が人生の楽しみとして生きている私と会う時は、必然的にお互いが気兼ねせずゆっくりできるように温泉旅館に一泊する事になる。因みに前回は旧軽井沢のつるや旅館だった。川治から12キロほど手前の鬼怒川には行った記憶があるのだが、おそらくここは人生初の温泉地である。この旅は必ずドライブを兼ねたものなので、今回は私のメルセデスEのカブリオレで行くことになった。昔のメルセデスの“最善か無か”というキャッチフレーズのもと、ネジ一本に至るまで完璧を心がけた製品を知るものとして、近年は燃費向上を考えた軽量化とコストダウンで所々が頼りなく安っぽくなったと感じている。惜しいかな、これが当たり前に世界の潮流になった感がある。

昨年の11月に納車されてから、走行距離が未だ2千キロ未満と慣らし運転すら終わらない状況だ。車も走らせてナンボの物、信号で止まればエンジンストップはもちろんの事、バックの時は後ろの映像がナビの画面に映り、ボケナス達の遂うっかりの衝突防止装置から、後続の車が来ているのにウインカーを出すと、警告音が鳴ってドアミラーが赤く点滅する。又長時間運転すると休みましょうとなる。ちょくちょく車に私が怒られている気分になる。これは車に限らず現在の世の傾向のようだ。新しい我が家のトイレも便座から立ち上がり、考え事などをしてのんびりパンツを上げていると“モタモタするなよ!”とばかり、勝手に便器がジャーッ!と水を流してしまう。そして“もうすぐお風呂が沸きます”から“白米、固めの炊飯を開始いたします”それからいちいちトンマな音を出す洗濯機。いろんなモノが音楽や女性の声でしゃべりまくる。それもこれも安全と気配り、経済性を企業が考えての有難い先進技術だろうが、時々機械がコウルサイ小姑のように思える今日この頃だ。

慣らし運転を兼ねた車で東北道を宇都宮まで行き、日光宇都宮道路に入るのだが、いつものことながらホテルのチェックイン時間には早いので、目的地近辺の美術館に寄り道をするのが我々の常套手段である。今回は宇都宮美術館に行くことになった。宇都宮インターで降り、梅雨入り直前のさわやかな季節なので車をオープンにしてゆったりと流す。美術館の傍まで来ると街の様相が変わる。バブルの頃の千葉県にチバリーヒルズなるものが出来たのだが、まさにそれの栃木県版である。立派な住宅が建ち並び、ここだけ下界とは一線を画した空気になる。素敵な街並みに初夏の心地よいそよ風が吹き抜け、この時ばかりは浮世の憂さを忘れる。

宇都宮の中心部から5キロほど北へ行った所にその美術館はあり、広大な森と芝生が広がる緑の空間の中にひっそりと佇んでいる。多くの地方美術館がそうであるように、此処も見事な近代建築だ。大谷石の採掘が盛んな大谷が近いので、この石と大きなガラスを実にうまくコラボさせ、より自然光を巧みに取り入れて作品の魅力を際立たせている。収蔵品の中にはシャガール、パウル・クレー、黒田清輝、浅井忠、中村彜(つね)などの絵が展示されている。中村彜は下落合に可愛らしいモダンなアトリエが残されていて、地元ではなじみのある画家である。余談になるが西武新宿線の中井駅で降りてから、少し歩くと森光子の放浪記でお馴染みの林芙美子の家がある。彼女がそれは長い年月をかけてやっと探し当てたお気に入りの高台に位置する土地で、その風情ある日本家屋は一見の価値がある。それから山手通りを渡って昭和の古き良き時代を感じる佐伯祐三のアトリエ、そしてこの中村彜のアトリエで終わるというお気軽散歩もお勧めである。後は冷たいビールと行きたいところだ。

話は栃木に戻り、宇都宮美術館のレストランで昼食を!と考えていたのだが、エライ混みようで30〜40分ほど待たされそうなので此処は早々退散という事になる。インターに戻り日光宇都宮道路を下り、今市インターで降りる。そろそろお腹も減り、宿の夕飯の時間を考えるとここらあたりで食べておかないと、腹ペコかお腹いっぱいでホテルの食事という間抜けなオヤジになりそうでまずい。インターすぐ右手に見えて来たのが<日光のけっこう漬け、今市インター店>という結構派手な看板の店構え。ここで手打ちそばを啜ることにする。私は穴子天麩羅のセイロを頼んだ。暫く待って来たのは大きくブリンとした美味しい穴子天だ。蕎麦も切り方は荒いがちゃんとした手打ちである。一時期、北東製粉で修業を積んでそば職人を目指した私が言うのだから間違いない。(注:結局ただの蕎麦打ちの趣味で終わる!)この昼食の選択は大正解だった。

それから自分がガリバーになり、世界中の名所旧跡を歩き回る気分が結構楽しい東武ワールド・スクェアなどを右手にみて、大ホテルが並ぶ鬼怒川温泉街を抜けて暫く走ると、川治温泉の今宵の宿である界川治に到着する。北は北海道から南は沖縄まで全国に24ほど傘下に置く、今、飛ぶ鳥を落とす勢いの星のリゾートの一つである。車のナビには宿屋伝七という名で出て来るので、そこを買収してまだ間もないようだ。猪苗代湖畔に建っていた立派な猫魔ホテルもこの傘下に入ったらしい。チョット昔の話になるが、香港で随一のレストランと私が勝手に決めている福臨門が、こんな田舎のホテル(失礼!)の中に入っていたのには驚いたものだった。日本がバブル期の終焉を迎えるころだったと思う。とりあえず食事までにはずいぶん時間があるのでN君と散歩がてら街に出てみた。以前の繁栄を偲ばせる数件並んだ飲み屋も、ほとんどの旅館やホテルも閉めた様子で人気がない。僅かに2軒ほどのホテルが開いているだけだ。私たちが泊まるホテルもそんな状況で星のリゾートに売り渡したのかもしれないと推察する。ホテルに戻って、ロビーに広がる緑の大パノラマ、それと同じ山を眺めながらの露天風呂も良かったし、食事のピカピカに輝くお米がとても美味しかった。以前を知らないのであくまでも想像だが、全体の外壁や宴会場の舞台だったと思われる上の鴨居など、所々前の宿の面影が残ってしまうのだが、よくぞここまで斬新に生まれ変わったものだと感心する。

世の中には変わらなければ存続が叶わないモノと、人の懐かしい思い入れとして変わって欲しくないモノとがある。先に記した車や家電、そしてこの旅館やホテル業はまさに前者で、実に厳しい経営を迫られる時がいく度かあるのだろう。風呂場でタオルを取り換えに来た従業員の方に聞いた話では、この川治という立地、やはり震災以後の原発の影響が大きかったそうだ。ここからは随分距離があるのに!との事だった。界川治はこの地の希望の星かもしれない。ともすれば時代に抱かれて流される移り気な人々の心を捉え、負けを引き継ぎ自在な変化で勝ちとなす。湯の中で、昭和の忘れ形見の私がボーっと新緑の山の遥か上、これもまた変わることがなさそうな、ゆったりとしたトンビの空中遊泳を眺めている。
 2015.06.10 (水)  続 パリ、そして旅が終わって
早くも初夏から梅雨を迎えた東京にいれば随分昔の事のようだが、4か月前のフランス旅行記の締めくくりとしてのひとりごと。3日目のパリはホテルから歩いてすぐ傍の、馬に乗ったジャンヌダルクの黄金像の横から出発し、バスで50分ほど郊外のアウトレットに行ってみた。今となってはこれと言って欲しいものは無いのだが、果たしてヨーロッパのそれはどんなものだろうかと家族に付き合ってみた。殆ど日本と同じ形態で、弱冠出店している店が違うかな?といったところだったが、若い頃に流行ったスポーツ用品を扱っていたマクレガーがあった。懐かしさと旅の思い出に綿のサマーセーターを一枚買う。

それからホテルに戻り、駆け足で息子と二人で閉館時間寸前のオルセー美術館へも行ってみた。館の入り口には鎧を纏った様な、大きくていかにも強そうなインドサイの銅像がドドーンと飾られている。フランス人は何故かこのインドサイが好きなようで、旅行中に幾度かこれと同じようなモノを見た。館内にはミレーの“落穂ひろい”、同じく彼の作品で小学校時代にこの制作過程を読んで親しみのある“晩鐘”、ドガの“ダンス教室”、何故か女性だけが裸でいる不思議な絵であるマネの“草上の朝食”、青さが際立つゴッホの“自画像”等を足早に見る。絵が引き立つように壁の色が替えられたと聞いていたが、深みがあり実にいい色合いだ。大きくて一日では観ることがかなわないルーブルと違って、私にはこんな駅舎を利用した美術館がちょうどいいい大きさだと思った。残念ながらここは写真撮影が不可だった。その夜はホテルの横にある手軽なビストロでエスカルゴ、日本ではまず見られないボリューム満点のハムとチーズの盛り合わせなどを味わった。フランスは公共料金や服飾、食べ物にしても呆れるほど物価高だが、ことワインとチーズに関していえば、やはりここが本場で割安感がある。

旅行最終日の最初に行ったところは、凶悪なテロリストたちに一番注目されそうなノートルダム寺院。やはり警察の車が何台か横付けされていて、物々しい警備が行われていた。その後、いつも横目でセーヌ川を渡る遊覧船を見ては常々その客になって見たいと思っていたのだが、遂に今日はその遊覧船に乗ることになった。食事をしながら船に乗るという事も考えたのだが、一説によると一生懸命食べていてせっかくの景色を見逃してしまった等という事を聞き、今回はただ乗って景色だけに集中する一人14ユーロの船を選んだ。良く晴れ渡った日なのだが、やはりまだ風は冷たい。船の上から眺めるオルセーにルーブル美術館、パリの橋を幾つも潜り、エッフェル塔の下でUターン。セーヌから眺める午後の光に照らされたパリはいつもと違う趣がある。此処では粋な旅人を気取ってのやせ我慢!凍える片手に缶ビール。どこの国から来たのやら?見知らぬ客と、気持ちのいい晴れの日の幸運を祝う。

旅情あふれる遊覧船初体験を味わった後に、前夜から気になっていたフランスを代表するカジュアル・シューズのパラブーツ専門店に行ってみた。そこでインクブルーのプレーントゥを買った。この会社の定番商品にチロリアン・シューズがある。その中でもアザラシの毛足の短い皮が、靴の甲に着いているモノがずっと以前から欲しかったのだが、動物愛護団体からの強い反発で製造中止を余儀なくされていた。今は真っ白なウサギのプワプワの毛皮が付いているモノに変わっている。それを履いてみたのだが、どうやっても変わり者にしか見えないので諦めることにした。鯨やイルカ、そしてここではアザラシに代表される動物愛護団体の妙な思い入れの理論は未だに理解できないでいる。その夜はオペラ座のすぐ横のビストロで、前日に引き続き分厚いステーキを食べてみた。ここ数年、まず東京では好んでステーキ類は食べないのだが、こちらはたっぷりと掛ったソースが見た目よりさっぱりしていて酸味と甘みが特徴だ。焼き方も野性的で外側は香ばしい焦げ目をつけ、切ると肉は赤くジューシーなので久し振りに美味しいと感じる。それからホテルをレイト・チェックアウトして深夜のフライトで帰国の途に就いた。

まだまだしてみたいことは一杯あるのだとつくづく思う。今回も偶然通りがかった小さな店やスーパーで、現実に此処で今を生きている人々の生活を肌で感じることが楽しかった。益々身近になった海外旅行でも、初めて歩くその街の匂いやそこで出会う人々が作り上げている異文化は、何時になっても新鮮だ。そして本や写真で見知っていた物が実際に目の前に現れた感動などを今も楽しんでいる。又酒飲みの私見として、フランスの料理はしっかりとした味と香りがあり、この料理を食べていると日本酒や焼酎などではなく、唯一ワインだけが飲みたくなる。すべてはワインを飲む為に作られている料理だという事を感じた。食を通してもすごく幅広い選択肢を持つのは我が日本だと改めて思う。今自分がどんなに便利で清潔な国に生きているのか、又、ちっぽけな自分を外から見つめ直すいい旅だった。いろいろな問題を抱えながらも、やっぱりこの日本という国が私は好きだ。

そして最後に南仏のカールトンホテルに泊まれることができて本当に良かったと思っている。以前のひとりごとでも触れた事だが“泥棒成金”という映画の中で、グレース・ケリー扮するアメリカ生まれの素敵な女性が、ホテルの部屋まで送ってくれた以前はカリスマ的宝石泥棒だったケーリー・グラントに、いきなりキスをするあのシーンを観た男たちは、私ならずとも誰もが憧れ心躍った瞬間だと確信している。それから60年という月日が流れ、今もその面影を残す撮影現場に行けたことに感謝である。それと同じような体験が3年前にもあった。次女と2人で行ったローマで、どうしても行ってみたかったデヴュレ川に架かるサンタンジェロ城の橋の上に立った。そこは映画“恋愛専科”で、恋に悩むスザンヌ・プレシェットと、マセラティを粋に乗りこなし、渋い大人のプレイボーイを演じたロッサナ・ブラッツイが恋について諭し、語り合った素敵な所だ。又、その橋のすぐ下は“ローマの休日”で王女のオードリーが、自国の護衛団を相手に、船上パーティーで大立ち回りをした場所だ。遠い日の心に沁みたあのシーンが走馬灯のように蘇る。そんな憧れに出逢う旅、又いつの日か探してみようと思う。
 2015.04.25 (土)  パリにて
午後の2時半に快晴のニース空港からどんより曇ったパリへ到着。この地や人々に惚れ込んだ訳でもないのだが、単なる成り行きで4度目のパリである。大きな荷物と家族5人の移動はどうしてもタクシー2台の移動になってしまうので、長距離移動を考えると、経済的で無駄のない7〜8人は乗れる大型のミニバンをあらかじめ頼んでいた。当然日本からも予約が可能で、しかも空港の到着ロビーでプラカードをもって出迎えてくれる。帰りもホテルのロビーまで来てくれるので安心で便利だ。ホテルはパリの中心地のチュイルリー庭園のほぼ中央に面したサン・ジェームス・アルバニー。ここは左に行けばすぐ隣がルーブル美術館、このチュイルリー庭園を真っ直ぐに横切って、セーヌ川に架かるロワイヤル橋を渡るとオルセー美術館。右に行けばコンコルド広場から御存知シャンゼリゼ大通りに繋がる。そしてコンコルド広場を右に曲ればギリシャ風建物のマドレーヌ教会。その途中にはエルメスやグッチ等、ブランド好きにはたまらない店が並ぶフォーブル・サン・トノレ通りがある。地下鉄の駅は目の前にあり、オペラ座まで苦も無く歩いていける好立地なホテルだ。

この4日間の毎朝、目の前のチェイルリー庭園を出勤途中のパリジャンをしり目に、日本でもやっている健康維持のために1時間ほど歩いた。昔は宮殿と隣接のイタリア式庭園があったそうだが、今は所々にポツンとさり気なく置かれた彫像や多くのカモメたちが集まる二つの池、道幅が大きすぎてなかなかそれだと解らない並木道があるのだが、何ともそのだだっ広さには驚くばかりだ。パリ到着後一休みしてから、以前にはなかった大きな観覧車がピカピカと光りだしたコンコルド広場まで行き、しばし撮影タイムとなる。ここでは44年前に私が初めてパリに来た時の思い出が沸々と蘇る。フランス革命勃発後にギロチンが設置され、ルイ16世、その妻のマリー・アントワネットほか1343人の命がここに消えたという。この場所でガイド氏からマリー・アントワネットが処刑される時に、自分の血が目立たぬように真っ赤なドレスを着ていたという切なくも悲しい話を聞かされた。死に行くその時まで、彼女の美へのこだわりに感銘を受けた若き日を今も忘れないでいる。革命広場とも呼ばれたこの広場は、血塗られた歴史を遠く偲ぶ所でもある。そこから続く夕暮れのシャンゼリゼ大通りを歩く。最近の東京は何処へ行っても外国人の多さには本当に驚くのだが、フランスはこれまで行ってきた緩めの移民政策や、ヨーロッパの各国に地続きという事もあり、その比較にはならない人種の坩堝である。凱旋門に向かって左側にある、今や中国人の店員に中国人のお客が殆どというルイヴィトンの本店を左に折れて、逆戻りするように暫く歩くと、ディナーを7時に予約したレストラン“シェ・アンドレ”に着く。

此処は長女の会社のパリ支店のすぐそばで、そこで働いていた先輩たちのお薦めのビストロの一つだそうだ。今回のパリのホテルも彼等の紹介だった。なるほどお気軽な感じで中は広いが地元の人たちでほぼ満席で賑わっている。一見して外国人は私たち家族だけだった。食事のメニューを見ながら、まずは白ワインと牡蠣を注文する事にした。牡蠣の値段は六個で18,20、22ユーロと3段階ある。この店のユーモア溢れるウェイターのおじさんが“これはベストだ!”と薦められるままに思い切って22ユーロの物にした。ニューヨークのグランドセントラル・ステーションにあるオイスターバーと同じ食べ方で、身の中に程よく残った海水の塩味を利用して、そこに軽くレモンを2,3滴絞るだけで、牡蠣本来の旨さをシンプルに享受するお馴染みの食べ方だ。これは本当に美味だった。他には舌平目にチキン、ムージャンで食べたあの帆立も頼んでみた。さすがに評判通り、どの料理も庶民的で気取りもなく、これだけ多くの客に愛される理由が解った。こうして美味しいパリの一日目の夜は更ける。

2日目、家族の中で妻たちのルーブル美術館必見組と、それはもういい組との2組に分かれる。もういい組の私と長女はひたすらパリを歩くことにした。ホテルを出発してから、オペラ座の前で最初に出くわしたのがジプシーらしき不良少女達で、前を歩く中年の日本人夫婦に5〜6人で無理やりチラシを押し付けながら、集団でスリを働こうというモノだった。なんとか周りの人たちも手伝って無事だったが、朝っぱらから人目もはばからず大胆な事をするものである。今度はすぐ先の百貨店、ギャラリー・ラファイエットの前で、アンケートを取る振りをして待ち構える別のスリ集団らしき少女達がいる。私たちは完璧に無視を貫く。どうも今日は彼女たちの稼ぎ時の様だ。先日のテロに対して、フランスは国を挙げての防衛体制に入っているため、逆にこの少女達のチンケな悪行にまで手が回らないといった所らしい。確かに南仏でもポリスはもちろんの事、迷彩服に自動小銃を構えた兵隊をよく見かけた。彼らはいつでも発砲できる状態なので、傍に来られると危ない威圧感がある。

それからパリの北の坂道が延々と続くモンマルトルの丘を登り、テルトル広場に出て画家たちの絵を鑑賞する。やはり今回も私の好きなタッチの絵には出会えない。ここでは自画像を描いてあげるという画家も多く、時間もないし顔に自信もないしで断るのに閉口する。隣のサクレクール寺院からパリの全景を眺めながら、街に降りて左方面を歩いてみた。間もまくリヴィングストヌ通りという東京で言うなら、日暮里の生地問屋街のパリ版といった街になる。裁縫をする女性なら実に楽しそうな、可愛いフランスの生地や小物の店が続いている。この問屋街が終わりそのまま東へ真っ直ぐ向かう。今度は中近東を思わせるベリーダンスの衣装の様なものがショーウインドーに飾られ、何やら怪しげな雰囲気が辺り一面に漂う街になる。いきなり別世界に来たようでかなり面白いのだが、至る所に犬の糞があり、油断してよそ見などしていると悲惨なことになる。“ここは本当にあの憧れのパリかよ!”などと娘に話しかけながら、ようやく目指していた地下鉄のシャトールージュ駅に着く。ここからセーヌ川の下等を潜り、乗り換えなしで13番目の駅であるサン・ジェルマン・デ・プレへ向かう。乗り込んだ車両の中は私達も含め、何故か有色人種だけという珍しい光景だった。

降りたこの街は私にとっておそらく初めて来る場所である。サン・ジェルマン・デ・プレ教会の正面のカフェ“フロール”で、長女とルーブル美術館へ行った妻たちを待つ事にした。この国では新聞等を持った年配の男性が一人でお茶を楽しんでいる姿をよく見かける。それがなかなか渋い。私の席から教会の方を見ていると、長年の恋人と思しきカップルや、見るからに仲の良い顔もよく似た母娘の旅人などが前を通る。又、暫くするとお葬式なのだろうか、静々と進む棺の後に、遺族らしき人々が教会の中へ入っていった。そんな異国の人生模様をぼんやり眺めたりしている内に、パリの時間はゆっくりと過ぎてゆく。ようやく家族が揃い、サン・ジェルマン大通りやレンヌ通りをウインドーショッピングで楽しんだ。ここはソルボンヌ大学などがあり、フランスを代表する知的で洗練されたエリアだそうだ。イヴ・シモンというフランスの歌手がこの地を題材に歌った“カルチェラタンの孤独”という懐かしいアルバムを思い出していた。あの頃はまだ優しい音がするレコード全盛の時代だった。そしていきなり44年前に戻った、先のコンコルド広場にいる時もそうだったのだが、その地へ行って再び蘇る遠い日の思い出は、時空を超えた心の旅と今ここにいる現実が交差するとてもいい瞬間になる。歩き続けたパリの二日目がようやく終わる。
 2015.04.04 (土)  グッバイ! 南仏
早朝、東方のモナコに続く丘陵がほんのり明るくなってきたようだが、西のカンヌ方面はまだこの通り月が出ている。同じブルーでも幾種類もの色を見せ始めた空の下、まだニースの町は眠っているようだ。今日でこの南仏ともお別れ、私達家族5人と冬の旅の重い荷物を文句も言わずに乗せよく走ってくれた車ともお別れだ。旅には必然的な束の間の出会いがあり別れがある。人生は幾度もこれをロングタイムで繰り返すわけだが、人が好んで行う旅というこの短い期間にそれが凝縮されている。

ここでの観光客の誰もが行くマティス美術館やシャガール美術館見学は飛行機の出発時間の関係でこの際カットする。そしてちょうど今日は日曜日、毎週この街で花の朝市が開かれているので早々行ってみる事にした。私個人の本音を言えば、ニースで一番楽しいのがこの朝市である。ホテルからほど近いマセナ広場に出る。もうすぐヨーロッパの3大カーニバルと呼ばれる祭りがこのニースで開かれる。毎年世界中から実に多くの観光客が訪れるという。その観客で一杯になる大きな観覧席がメイン道路を挟んで両側に出来ていた。今はガランとしているが、何日か後にここに集まる大勢の人々の賑わいを用意万端、今はただ静かに待っているという風情である。そこからしばらく西に進んでから海岸方面に行くと、花束を持った人たちとすれ違う。やはり朝市(マルシェ)は前に来た場所と同じところだった。

朝陽の中で観る花の色は眩しいほど鮮やかだ。この時に合わせて咲き誇るそれはまさにニースの顔である。市場の横では幸運にもクラシックカーのイベントもやっていた。赤いモーガンやオースチンヒーレー等、私が中学や高校時代の頃に憧れた懐かしい車も数多く参加していた。環境基準が厳しくて、今の日本を走る車ではなかなか嗅げなくなってしまった、生のガソリンを感じる懐かしい排気の匂い!それがエンジンの勇ましい音に混じって漂っている。市場で働いている元気なおじさんやおばさん達は皆大きな声で良く動く。ここへ来ると人はもとより売られている商品までも活気があり、私も心が弾んできて何となく嬉しくなる。ご自慢の花の他には新鮮な果物や野菜、ラベンダーやバニラに変わり種ではチョコレートの香りがするカラフルな石鹸、これはほとんど色も同じなので思わずかじりたくなる。この他にはいろんな種類のオリーブオイル、まだ粉になっていない粒のままの香辛料にニース土産の可愛い小物類、その先へ行くと熱々のトマトとオニオンのピザがいい匂いをさせている。早速そのトマトがのった方のピザを食べながら又一回り。

ホテルに戻りチェックアウトを済ませていよいよニース空港へ。悔しいほど良く晴れ渡ったコートダジュールの海岸線を走りいよいよ空港が近くなる。いざ!サラバである。日本もフランスも借りた車を満タンにして返すというこれだけは同じ決まり事らしく、不慣れなガソリンスタンドで何とかセルフで軽油を満タンにした。空港内のレンタカー会社へお約束の時間である午前11時ジャストに車を無事に返却する。ここで思った事、この私、日本では安全で平和で実に起伏のない日々を繰り返している。言わば努力に見合った分相応、見栄は張らず無理をせずの精神である。だが今回の南仏で長年の小さな望みが叶ったという充実感は、本当に久しぶりに味わう嬉しい感覚だった。いつの間にか自分でも驚くほどの年齢になり、冒険心のカケラなど微塵もなくなったと諦めていた。それでも人間は幾つになっても、そして多少の危険やリスクを背負ってでも、踏み出しを躊躇する心を解き放つ為の挑戦は必要なのではないか!とふと思う。パリ行きの午後便の中、我が身に応えるように“今度は何をやらかそうかな?”と心の中でのひとりごと。長い事忘れていたこの気分!これは私にとってこの旅の最大の収穫だったのかもしれない。
 2015.03.18 (水)  南仏ドライブ紀行の三日目
今日は南仏に入って3日目、ムージャンのホテルを後にしてこのシトロエン・ピカソでモナコへ行く。切手収集に熱中していた子供の頃、モナコと言えば綺麗でいろいろな形をした切手がある国だという記憶がある。1956年にグレース・ケリーがカンヌ映画祭で知り合ったモナコ大公であるレイニエ3世と結婚した事も御承知の通り。ちなみに映画の“泥棒成金”はその前年の55年の作品だ。私はこの映画と結婚は大いに関係があると思っている。絶頂期にあった女優の座をあっさり蹴っての潔さ、これが本当のシンデレラストーリーなどと言われて一大センセーションを巻き起こした。これまでの大スターであるマリリン・モンローに象徴される、可愛くてセクシーな美しさとは対照的な、クールビューティーと呼ばれた気品と優雅さが漂うグレース・ケリー。モンテカルロという世界でも有数な高級地を持つモナコとクールビューティーの見事なコラボの相乗効果は素晴らしく、それから欧米はもとより、世界各地から多くの観光客を集めることにもなったと聞く。

コートダジュールを西から東へドライブする今日は、今回の旅では一番長い道のりである。気持ちのいい海辺を走りたいのだが、時間の関係でここもしばらくは高速道路を走る。ようやく一般道に出ると、予定通り地中海を右に見る丘の上で少し渋滞した。それでも意外と早くモナコの町中に入った。今日はこのモナコに泊まるか、それともサン・ジャン・カップ・フェラという岬の別荘地にするか、何処へ行くにも中心のニースにするかで散々迷ったあげく、最終的に地の利がいいニースになった。10年前には街中に電車を走らせる為の工事で渋滞していたが、今どんな風に変わったのかを確かめたい私の要望もあっての決定だった。このモナコの旧市街に入ると、街の建物の至る所が上品なパステルカラーに塗られていてとても華やいだ気分になる。ヤッパリ此処に宿を取らなかったことを少し後悔する。

モナコで最も高級なホテル・ド・パリやエルミタージュ、カジノ・ド・モンテカルロ等が集まる、モンテカルロ地区の坂の途中の地下駐車場に車を入れて通りに出る。今度は前精算が必要な料金所の確認もした。道の向こう側に渡ってモナコの湾を見下ろすと、お馴染みの風景になっている富豪たちの所有する大きなクルーザーが何艘も止まっている。船の世界は車と違って全ての優劣がその大きさで決まるといわれている。ニューヨークのアッパーイーストに住んでいる金持ち達が、自家用機でコートダジュール空港に着き、F1グランプリの日にはグラス片手にこの船で海からのF1観戦!なんて勝手な想像をしてみる。妻と娘たちは例によって買い物で店を覗きたいとのリクエスト。私と息子は少々腹も減り、有名なカフェ・ド・パリでお茶と軽い朝食をとることにする。ここは一流のファッションを身にまとった人々と最先端の高級車達をマン&カー・ウォッチングするのにはもってこいのカフェだ。一番の特等席となる道路際の席に座る。午前の光でより一層人や車たちが輝いて見える。

ここで私はカフェオレにサーモンとチーズ、息子はクラブハウスのサンドイッチをそれぞれ注文した。サンドイッチが20ユーロとかなり高い。暫く待って私の所に来たサーモン・チーズサンドを見てビックリ。たったの4切れしかなく、しかもとても小さい。“ちょっとー!カールトンホテルのデッカイあのオムレツを見習えよ!”と一人ぶつぶつ言いながら、一口つまんでみると温められていて、中身の具とパンが共に圧縮された食感がたまらなく旨い!小さな一切れ凡そ700円の超高価なサンドイッチを息子も食べた。彼にとっておそらく忘れられない思い出のサンドイッチになるだろう。そして目の前をブロンドの髪を束ねたカッコイイ女性が、銀色に塗られた最新のフェラーリ458イタリアでいい音を響かせながら走ってくれる。次に来たのは黒髪の女性が乗る白いマセラーティーGT、何故かイタリア車と女ばかりだが、まるで映画のワンシーンを観ているようだった。どうやらこのカフェ、このご自慢の車たちの見せびらかしの拝観料も含めた値段のようだ。

そしてそこからF1のモナコ・グランプリで世界一有名になったヘアピンカーブに行ってみる。ローズヘアピンと呼ばれ、レース中ここを観る絶交のポイントに建つホテル、フェアモント・モンテカルロはこの時期は常に予約でいっぱいだと聞く。それから私達はニースに向かうのだが、途中、さすがに大人5人で大きなトランクを4個も積んだ我らのシトロエンは遅いらしく、ジモチーの車にクラクションまで鳴らされて煽られる。やはり何処の国にも身勝手な奴は必ずいるものだが、良識ある多くの日本人はここまではしない。そして偶然通りかかった、これも鷲の巣村として有名なエズに寄った。此処のホテルのシャトー・エザではゆったりと地中海を見渡しながら食事ができる。前に来た時に行かなかった一番高い所にあるエズ庭園まで登ってみる。サボテンだらけのつまらない庭で入園料は一人6ユーロだ。だが、古い城跡だったエズの天辺である此処からの眺めは、遠く地中海の水平線が弧を描き、地球の丸さを感じる実に雄大な景色だった。

それから青い海が広がる港町、ヴィルフランシュ・シュルメールや、宿の候補に挙がったサン・ジャン・カップ・フェラなどに立ち寄りながらニースに入った。ニースのほぼ中心にあるボスコロというイタリア系のホテルが今日の宿。ロビーから全て白が基調になっている。部屋のど真ん中にカーテンも何もない全面ガラス張りの風呂があり、開放的でお洒落もいいが、私の様な慎み深い?日本人は少々面食らう。それから観光客や地元の人で賑わう夕暮れのニースの町に出てみた。楽しみにしていた電車は私の想像よりもはるかに大きく、2両編成で観光というよりも市民の通勤や通学の足といった風情だった。実はサンフランシスコのケーブルカーの様な物を心に描いていたのだが、イメージしたものとはえらく違っていた。とりあえず今日も無事で良かったね!とホテルの迎えのレストランで乾杯。
 2015.03.04 (水)  南仏ドライブ紀行の二日目
いつものことながら外国にくると時差でなかなかよく眠れない。微かな波の音に引き寄せられるように、まだ真っ暗な早朝の部屋から通りを覗く。すると清掃車が2度も来て町を掃除している。一度目はゴミを強烈な水圧で吹っ飛ばし、2度目は吹っ飛ばされた物を拾ってゆく。これを見ている私も相当暇でありますが、さすが世界のリゾート地である。南仏の二日目はカンヌのカールトンホテルのビュッフェから始まる。映画“泥棒成金”でよく出て来た廊下に大理石の柱が立っているレストランである。このホテルの至る所に撮影当時のグレース・ケリーとケイリー・グラントの写真が飾られている。何処かの会社のコンベンションがあったらしくかなり混んでいる。このドサクサで私たちはスィートルームに入れたのかもしれないと推察する。日本から楽しみにしていた此処の朝食はやはり新鮮で美味しい。エスプレッソコーヒーのミルクの泡にはこのホテルのマークが浮かんでいた。食事も後半になって、止せばいいのに娘たちが愛想のいいウエイトレスに勧められるままにオムレツを頼んだ。これが大人の靴ぐらいデカイ!一口食べるとバターの何とも言えない風味が口いっぱいに広がるのだが、もうお腹はパンパンだ。早々腹ごなしにカンヌの町へ出る。

毎年5月に開かれるカンヌ映画祭で有名な所だけあって、ホテルの前のクロワゼット大通りを右手に少し歩くと、雨上がりの公園の至る所にパイレーツ・オブ・カリビアン、スターウォーズ、チャーリーズ・エンジェルなどの映画をテーマにした物がいっぱいある。それぞれに主演したスター達の看板の顔の部分がくり抜かれているので、早速そこから変顔を出しての撮影会となる。それをあざ笑うかのように遠くでカモメたちが鳴いている。それから少し行くとパレ・デ・フェステイバル・エ・デ・コングレには世界のスター達が歩く、例の有名なレッドカーペットの階段がある。おもむろにそこに立ち、サクセスストーリーの主人公よろしくニッコリ笑って手を挙げてみる。するとひしめき合うカメラのフラッシュと拍手の嵐。この片時の楽しい空想はただの二日酔いの妄想だろうか・・。ふと我に帰れば、目の前を出勤途中の人々が会社やコンベンション会場に向かって足早に歩いている。これが現実である。町にはさすがに土産屋と映画館が多かった。

後ろ髪をひかれるようにカンヌを後にして、今日は数ある鷲の巣村の中でも最も美しいと言われるサンポール・ド・ヴァンスに向かう。高速を下りて信号のないロータリーを回る。フランスの郊外にはほとんど信号はない。この独特なクルリと時計回りの交差点にかなり馴染んだ。既に底をついたと思っていた私の適応能力はまだ何とか残っていたらしい。目的地に近くなり、細くて硬い石畳の田舎道を行く。昔からフランス車の乗り心地が良いのは、このゴツゴツとした石の道路を安楽に走破する為だ。そしていよいよ小高い丘に白っぽい家が幾重にも重なった特異な風景の村、サンポールが右側に見えてくる。ここは以前にも来たのだが、家族にもこの村の素晴らしさを教えようと再び訪ねてみた。まるでお伽の国に来たような不思議な感覚を味わう事が出来る。村の入り口には例によって(前回も全く同じ光景)男たちがペタングという鉄の球を投げて遊ぶゲームに興じている。村に入ると偶然、イブ・モンタンとシモーニュ・シニョレが結婚式を挙げたという教会の鐘が鳴る。何処からでも見えるこの塔は村のシンボルである。石鹸や香水、置物に絵画やお菓子の専門店等々、可愛らしいお店が幾つもあって時を忘れてしまう。ここでは時間を自由に使える個人旅行の強みで、存分にサンポール村の楽しさを味わった。

そして駐車場から車を出そうとしたのだが、料金所でお金を入れようとしてもどこにも入れる所が無い。当然バーは降りたままで車は立ち往生となる。ここフランスでは駐車場内の何処かで先に精算を済ませ、最後にはカードを入れるだけの前払い精算となる。ここでまた一つ勉強した。それから今日の宿であるル・マ・カンディーユがあるムージャンを目指す。ここはグルメと芸術の村とも言われ、サン・ローランやデイオール、芸能界ではカトリーヌ・ドヌーブやエディット・ピアフ、そしてあのピカソ等が住んだ町としても知られている。今朝のカンヌから内陸にほんの10キロほどの所にある静かな村だが、その高台に位置する眺望と便利さゆえに著名人からも愛されたのではないだろうか。村は40分も歩けば全体を見て回れるほど小さいのだが、ここにナント数十軒ほどレストランがある。今夜のディナーは私たちが泊まるホテルのレストラン、ルレ・エ・シャトーに決定した。

今朝のカールトンホテルのビュッフェが効いてしまって未だにお腹が空かない。19時45分という遅めの夕食を予約し、その前にやたらと広い敷地を持つホテルのスパや綺麗なプール、夕暮れの村を一回りする。食事はコース料理を頼み、ワインは白と後半はロゼ。前菜の人参の冷たいスープから始まり、グリーン色のシャーベッドの上にほんのり甘いリンゴが薄切りにされた繊細なサラダ、魚はご自慢のソースにほんの少しだけ焙った帆立、メインの肉料理は濃厚なブラウンソースがかかった鴨。最後のチーズを何か軽いモノにしてくれるように頼んだが、ナント!デザートが三種類も来てしまい、又も食傷気味になる。流石にグルメ村のムージャンを代表するレストランでどれを取ってみても本当に美味しかった。欲を言えばもう少し私のお腹が空いていれば最高だった。朝食の大きなオムレツは夜まで尾を引いた。

この旅の3日目(正確には4日目だが)にあたる早朝に、いつも日本でやっている様に一人でムージャン村を散策した。この季節、こちらでは朝日が顔を出すのは8時少し前になる。昨夜の美味に酔いしれた客達の思いがそのまま眠るレストランが建ち並び、そこには温かそうな料理の残り香と宴の後に必ずやって来る侘しさも静かに漂っていた。それらを慰める様にムージャン村をオレンジ色に染め上げる朝焼けは、冷めた心に久しぶりの感動を呼び覚ましてくれた。

 2015.02.28 (土)  南仏ドライブ紀行の一日目
久し振りのひとりごと。昨年の6月初旬に15年の間、文字通り寝食を共にした愛犬のピノを亡くしてから何もかもが変ってしまった。今でもその可愛かった面影やこの手に残る小さな体の感触が蘇り、突然涙する事もしばしばで何とも情けない自分である。それから暮れに心機一転のつもりで、家族用の屋根が全部空くメルセデスのEクラス・カブリオレと呼ばれる新しい車に替え、何とか気分を変えようと試みたのだがそれもままならず、家族中が命あるものの必然的な別れという万物の掟に何か割り切れない思いでいた。年が明けたある日、学生である長男はもちろんの事、社会人である長女と次女が休暇を取って家族が全員参加の旅に出てみようという事になった。決定した所は事もあろうにその数日後に事件のあったフランスであるのが何とも我が家族らしいのであるが。

私にとって10年ぶりの南仏であり、2年前の北イタリア以来のヨーロッパ。今度は長年の夢だった憧れのコートダジュールを、遂に自分の運転で巡るドライブ旅行をしてみようという事になった。これには自分がもう年になって、叶えられなかった夢で終わるかもしれないという寂しく何とも切迫した思いが、いつまでも煮え切らないでいた私を後押ししたのだった。どうしてもやっておきたいこと、手に入れてみたかったものがこの年になると白黒はっきりして来る。それは自分自身の体の衰え(いつの頃からか視野が狭くなり動体視力も落ち、不安なるがゆえに執拗に安全を心がけるようになる)を感じるようになった者にしか解らないものである。前項の私の車好き人生に一度は乗ってみたかったオープンカーもしかり、何時までも夢で終わらせない事にここへ来て一生懸命である。

さて、旅行当日の出発間際になって、次女と長男のパスポートが3月で期限を迎えるという事に気が付き、入国から3か月以内に期限が切れるモノはフランスでは旅行許可が下りなかったと言う前例があった事を知る。さてどうしよう!パリも事件、しかも初日に着くニースでは兵隊が刺されたなどと言う嫌なニュース。二重三重苦である。おっかなびっくりエールフランスでのチェックイン、無事税関もパス。何度も呼び止められるのでは、などとビクビクしながらいたのだが遂にエールフランスのカウンターから私の名前がアナウンスされた。絶体絶命、遂にこの旅行もこれまでか!との思いで行ってみると、私たちの席(プレミアム・エコノミーは変わらないのだが)より少し余裕のある前席が空いているので、そちらに移られたら?という御親切なお話。ヒヤヒヤ・ソワソワ、やっとの思いでパリに着いた。それから僅か一時間ちょっとでニース行きの国内線に乗り換えることができた。これはエールフランスでしか叶わない事である。前回もそうだったのだが他の航空会社では乗り継ぎ時間が5、6時間も掛かり、シャルルドゴールの空港内で実に退屈な時間をつぶさねばならない。さすが地元航空会社と綿密にスケジュールを組んでくれた妻に感謝である。そして1時間40分ぐらいでニースのコートダジュール空港に到着。レンタカーの予約時間まで一時間、暇つぶしに空港内でお茶をする。やっぱりフランスはお菓子も美味しい。

いよいよ夢実現へのスタート。ニースの第二ターミナルでレンタカーを借りる。7人乗りのルノーのグラン・セニックを借りる予定だったが、シトロエンC4の5人乗りのピカソに変更になっていた。大雑把なフランス人の事と予想はしていたが、こんな事は想定内である。シトロエンのピカソはフロントの窓が大きく開放感があり、一度乗ってみたかった車である。しかも5千キロしか走っていない新車同然の車だった。納得の嬉しい誤算である。いい加減な現地のお姉ちゃんの車の説明を受けて、エ〜イ!どうにかなるさ!と不安を抱えながらとりあえず最初の目的地であるカンヌへ向かう事になった。日本から必需品として予約していたナビなのだが、これがナント日本語も設定できたので大感激。それを見つめる助手席の長女の言葉を頼りに、ただハイ!ハイ!と私は一生懸命前を見て運転する。車はやがてニースの海よりの一般道から内陸部の高速道路を走り、インターを左に下りて小雨模様の長閑でお洒落なカンヌの町に入る。ここで驚いたのはフランスでは高速料金が出る時にしかわからない。後ろに続く車に気を使いながら焦りまくって料金所で小銭を入れるのである。日本人(特に私なのだが)の他者に対する過剰な気配りが、妙に情けなく感じる時である。

いよいよ今日の宿であるカンヌのカールトン・ホテルに到着し、玄関の駐車係のおじさんに大きなボストンバッグが4個も入った車を預ける。このカールトン・ホテルはケイリー・グラントとグレース・ケリーという絶世のハンサムと美女の二人が出演した映画“泥棒成金”の舞台になったホテルだ。私のこの“アイスブルーのひとりごと”の最初のテーマに選んだ夢のある映画だった。風光明媚なカンヌを象徴する明るく気品ある建物が印象的で、いつかは泊まってみたいと思っていた。フロントで妻と次女がチェックインをしていると何やら嬉しい言葉が聞こえて来た。我々家族5人の予約した部屋は3人と2人のコネクティング・ルームだったのだが、オーシャンビューのスイートルームにアップグレードしたという。しかもノーギャランテイーだと幾度も安心させるように言っている。ドット喜びが湧いてくる。そのフロントの男性は誇らしげに部屋まで案内してくれた。部屋に入るといきなり長い廊下で、その真正面には地中海を見渡す白いベランダが回っている大きなリビングルーム。廊下の両サイドには素敵な二つのベッドルームとそれぞれにバスルームがゆったりと設えてある。ただただ“メルシー!”の連発と相成った。夏の繁盛記には一泊いったい幾らするのだろう?等と楽しい想像を巡らせる。それにしても今回の旅は、直前までテロという重い事件が絡み、しかも子供たちの期限切れ寸前のパスポート騒ぎ、直前までキャンセルを考えた気が重い旅だった。来てみれば不安を忘れるラッキーな事もあり、やれやれ!非日常的な旅の第一日目が無事に終わる。
 2014.04.20 (日)  昭和の日々を思い出す
東口はある程度開発が進み、西側はいよいよこれからという渋谷の駅前ロータリーでの事だった。タクシーに乗り込んで“霞町の交差点までおねがいします”と言ったら運転手さんの返事がない。あまりに近いので怒ったのかな?と思っていると、暫くして“西麻布の交差点でよろしいのでしょうか?”との返事にそうか!あの町名は今や通用しなくなったのか。遂、解っているけど何かの拍子で出てくる昔の言葉。今やその名を残すのは浅田次郎の“霞町物語”ぐらいだろう。レッドシューズもアマンドも、怪しげな輩が夜毎集ったフォックスバーロウも今はない。時代は移り、残ったのは一杯飲み屋の浜の家と焼肉店の十々や叙々苑あたりだろうか。私も遂に堂々たる年寄りの仲間入りを痛感する。

そういえば子供の頃、今の神田川を地元の私達は江戸川と呼んでいた。勿論総武線の小岩の先を流れ、東京と千葉を分けている江戸川も充分知ってのあちらの江戸川、こちらの江戸川と言ったところだった。それが当時ヒットしたかぐや姫の“神田川”で地元の誰もがそう言うようになった。歌謡曲のパワーとでも言うのだろうか、その昔ながらのローカルな呼び名を唯一残すのは、有楽町線の飯田橋と護国寺の間の駅である江戸川橋である。

慣れ親しんだ呼び名や町名は懐かしく、自分が生きて来た昭和をいつの間にか美化する傾向が私の中にある。それはある意味、自分の人生を肯定したいという切ない願望から来るのかもしれない。そして近年、あの時代を背景にした映画や小説のヒット以来、昭和がやたらとクローズアップされるようになった。先週行った有楽町駅のガード下にも、あの時代のポスターを外壁に貼り付けている飲み屋はなかなかの繁盛ぶりである。

果たして私が生まれた戦後の昭和はそんなに良かったのか?と冷静に振り返る。今の時代よりは不便この上なかったし、私にとってあの時代はかなり臭かったという記憶がある。町中にバキュームカーが走り回り、今より鼻が利いた幼い頃は、行先にその姿が見えた途端思いっきり息を吸い込み、その横を全速力で走り抜けなければならなかった。それでも私の住んでいた文京区では比較的早い時期に下水の工事が行われ、小学校の中頃にはトイレは水洗に変わったという記憶がある。高校や大学時代に入って、中野区や杉並区に住んでいた友人たちの家に行くと、(遊びに行かせて頂きながら失礼極まりないのだが)まだ水洗が復旧していなくて、家に入ると真っ先に例の臭いがまず初めに鼻を突いたのを覚えている。又、何処の魚屋にも必ずあめ色のハエ取り紙がぶら下がり、長い紐が商品である魚たちの上をユックリと回っていた。要するにハエが今よりは確実に多くて元気だった。したがってハエの飛んでいない綺麗な昭和の映画“三丁目の夕日”はチョット違うぜ!になる。

これは余談になるが、魚屋の隣の店にはいつも5円玉を耳に入れている八百屋のオヤジさんがいた。ねじり鉢巻きをした彼の坊主頭はいつも小刻みに揺れていた。どうして5円だったのか、思うに一円ではチンケだし、10円では大きすぎて風通しや音が遮断されるのである。家に帰ると、何でも真似をする私が身を持って体験したのだから本当である。そしてあれから何十年も経って気付いたのだが、お客様とご縁(5円)があります様に!と、あのオヤジさんなりの洒落だったのかとも思える。

道を歩けば車が落とした油が黒い染みを作り、至る所に犬の糞が落ちていた。草野球でそれを踏んづけてしまったことも一度や二度ではなかった。妙に柔らかな靴底で感じるあの感触には無性に腹が立ち、此処で世の中が終わればいいとも思った。今になっても柔らかいモノを踏んづけるとドキン!とする。これはきっとあの時代のトラウマなのだろう。大雨や台風が来ると、先の神田川は簡単に氾濫して川底の泥が周りの家々を汚した。それらが乾くときに発する臭いがまた強烈だった。およそ私の顔に鼻の穴というモノが開いて以来の悪臭で、もしも私がそこの家の子だったら、最低でも一週間は家出したいとその度に思っていた。あの夏のゴミ収集車が垂らす液体の猛臭も辟易とする。昭和の臭いの思い出である。そして昭和のお母さんは忙しく、今の様に学校の先生にすぐ文句を付ける暇人も皆無で、ほったらかしで寝せられてばかりいた赤ん坊には絶壁頭が多かった。確かに人は今より熱く単純で、幸せになろうという事に真摯に向き合っていた。生活は大方今よりは貧しく、便利とは程遠い手間のかかる時代だった。

そして今は平成になり26年目を迎えている。先日、スマフォを見つめながら黙々と歩いてゆく人々を眺めていた。いつもながらの風景である。彼らの頭上には真っ青な空が広がり、爽やかな風に薄紅色の花吹雪が舞っていた。そんな素敵な光景を見上げることもない。町は老人ばかりだが清潔になり、生活は至極便利で必要なモノがあれば、ほとんど労せず居ながらにして即座に手に入る。恋も友情も夢中になるゲームの全てがスマフォのほんの小さな画面の中にある。イヤフォンで下界もシャットアウト!寝過ごせば、化粧も朝飯も通勤電車の中を誰はばかることなく洗面所や食卓に変わらせる。どんな生き方も一人納得でオーケー、うるさく言う人も少なくなった。

この時代より、昭和は好いのか?嫌なのか?此処はそれぞれの感性や判断に委ねることにしよう。最後に、あの昭和には世間体なるものがあった。時にそれは煩わしく自由への足枷にもなる厄介モノだった。親から子へ、子から孫へと家族や先人が嫌でも繋がり人格や人の道なるものを継承した。それなりの常識を維持するのに世間体がまかり通った昭和。嫉妬にやっかみ、虚栄に誇り、お節介なその目達が爛々と輝いていた時代。それはそれで面白かったのも又事実である。
 2013.12.25 (水)  ヒョウ柄の彼女
年のせいなのか、物欲も下り坂で何時の頃からか欲しいものが大分少なくなってきている。それでも私が小銭を握って即興的に買い物をすると案の定失敗する。すぐ飽きるのだ。それなりに熟考するのに越したことはないのだが、やりすぎると誰かに先を越されて買い逃してしまう事もしばしばだ。ではどうするのか、この年になるとそれなりの買物哲学なんてものが出来ている。それはある期間を決めてから結論をだすこと。短い時はその辺を歩き回ってからの決定か、一晩よく考えてみる。大きな買い物の時には一か月も間を置くことがある。そしてそれがどうしても必要、欲しいとなれば買いに行く。もしも売れてしまっていた場合には縁がなかったのだときっぱりと諦める。この諦めが肝心だ。これでお金を無駄にせず、しかも余計なものを背負い込まずに済んだのだと自分に納得させる。性分なのだろうか、意外に早く諦められる。当たり前の事を言っているようだが、常にこれを念頭に置かないと後悔する事になる。

それと私には自分が好きな雰囲気の店、街角や通りに行くと必ず一つは良いモノがあるのだと決め込む悪い癖がある。昔、六本木が洒落た大人の街だった頃のロアビルのななめ迎え、今ドンキが建っているあたりに“IN&OUT”という地下に入る男性専門の小さな洋服屋があった。ここだけしか売っていない、手作りで胸元に細かくギャザーが入っているのにカジュアルに着られるシャツや、同系色でまとめられたパッチワークのサマージャケットなどがあり私が大好きな店だった。独身で気ままなこともあり、そこへ行くと一つは必ず買うものだと決めていたことがあった。

暫くはそんな店もなくなり落ち着いていたのだが、私はここ数年ホテル・ニューオータニでディナーショーのイベントを毎年2月にやっている。慣れもあるので必然的に時間や心に余裕ができてくる。今はそこの4階のロビーフロアと、地下2階のショッピング・アーケードを見るのが楽しみになっている。そのシーズンは何処かで必ずセールをやっている。これまで何かしらお気に入りを見つけていたが、今年もその地下のアーケードで何気なく覗いたモノの中に、とても気になる人形を見つけた。その時、この感覚は以前に何処かで体験したような不思議な気持ちになった。その下半身は冗談のように腰と太ももが大きく、豊満すぎる体型はどこかリッチで芸術の香りもしていたのを覚えている。はて何処でこんな感覚を味わったのだろう?としばし立ち止まって人形と睨めっこをしたのだが、とうとう思い当たることもなくそこを立ち去った。

それから一週間ほど経ったある時、旅行雑誌を広げていたらあっ!あれだったと遂に思い出した。8年前に行った南仏のニースにあるネグレスコ・ホテルでの事だった。このホテルお薦めのピンクシャンパンをフロント横のバーを兼ねた休憩所で飲み、ほろ酔い加減でロビーに出ると、身の丈4メートルもあろうかというグラマラスな女性のオブジェに出会った。その圧倒的な存在感は女性だけが持つコケティッシュな豊かさと、あっけらかんとしたユーモアが混然となって表現されていた。正にあの雰囲気と同じものが小さな例の人形に流れていたのだ。

それから一か月が経った。ニューオータニのすぐそばの赤坂に行くことになった私は、ついでにもう売れてしまっていないかもしれないヒョウ柄のドレスの例の人形に会いに行くことにした。気分は南仏の感動を再び!である。その日私を待っていたかのように彼女は窓際にいた。時間もずいぶん経ち確率は低かったのだが、もしもあったらこれも何かの縁だと買う事に決めていた。そばにいた店の女性に一瞬の間をおいて“これを下さい”と言った。生れて初めて買う人形は超下半身グラマー!何となく変態オヤジのようで年甲斐もなく恥ずかしい。所在無げに勘定を済ませると、今度はお店の主人らしい女性までも出てきてご丁寧にお見送り!である。早く立ち去りたいのに、こんな時に限って私が気を揉んで待つB2へのエレベーターはなかなか降りて来ない。まだいるのかな?とお店の方に目をやると、2人の女性はにこやかに微笑みながらじっとこちらを見ている。体中がカッと熱くなり、冷や汗が脇の下や額に噴き出している。ピンポーンとドアが開いて、深々とお辞儀をしてくれている女性たちとやっと別れることができた。ドアが閉まり誰もいないのを確認し“いや〜参ったな!”と大きなため息交じりの独り言。

この話、かなり素敵な場所とモノばかりだ。ニースのネグレスコ・ホテルに紀尾井町のホテル・ニューオータニ、ついでにほんのり柑橘系の香りが嬉しかったピンクシャンパン。そしてこれを書いているのは、リッチでカッコ良かったあの時のアラン・ドロンならぬ風采の上がらない、そして預金もない日本のオヤジ!つまり私なのだ。此処にこの話の落としどころがある。俗にいうアンバランスとはこんな時に使う最も的確な言葉だ。以来、冷や汗をかいた甲斐があり?人形である彼女は時々家族には内緒で酒の相手をしてくれる。当然、動かないしそのうえ無口なのでBGMが必要となる。曲は中島みゆきの“悪女”も良かったが、やはりフランス語で大海原を漂うように恋心歌った“カリプソ”などが似合っている。歌手はその名ゆかしきフランス・ギャルだ。

年末のひとりごと4連作、また来年もこんなお馬鹿なことが一杯書けます様に!そのネタになる間抜けな出来事に出会えます様に!と願う年の瀬は淡々と流れ暮れてゆく。
 2013.12.14 (土)  屋上にゾウがいた時代
誰もが人生の中で一つや二つ、不確かな記憶というものが頭の中の何処かに存在すると思う。私もここへきて益々その記憶の正確性が怪しくなってきた。あったような無かったようなあれは夢、それとも幻だったのかとも思える。例えば、屋根もないひなびた駅のホームの休憩所で、母と温かなストーブの前で過ごした夕暮れ時の事。ビル街のまだ薄暗い早朝に飲んだグリーン色のスープ(今思えばグリンピースだろう)の場面などが、これまで幾度となく蘇るのだが、もう父母も世を去りあの映像が現実だったのか否かはわからない。

それと同じような事だが、子供のころに抱いていた謎が大人になるまで未解決のままである事も間々ある。そんなことは人生を辿るうえで何ら重要でもなく、知らないでもいいことが殆どであることも事実だ。しかし、半世紀以上も経ってからその謎が解けた何て言う、ほんのりとした事があったので書き留めることにした。昨年の9月、このひとりごとに“心残り”というタイトルで日本橋・高島屋の屋上での出来事を書いた。大きな象に気押されて乗れずに泣いた幼い日、私の代わりに3歳上の兄がその象に乗った事を書いたのだが、あの時に抱いていた疑問は、どうやってあんなに大きな動物が屋上に上がっていたのか、永遠の謎だとか言っていた。

11月の初旬の朝、いつものように何気なく朝刊を見ていたら、

     屋上にゾウがいた時代  タイから日本橋高島屋へ名は高子

というとても気になるタイトルの記事。やはり、私が大衆の面前で大泣きしてしまったあの日の恥ずかしい思い出そのままのイベントの写真が載っている。そして私を泣かせた象、(いや、勝手に私が泣いたので象にはなんの罪もありません)のことが詳しく書かれていた。名は公募して高島屋の高をとって高子、昭和24年にタイの南部に生まれ、翌25年に生後8か月で下関に運ばれ、それから東京の高島屋の屋上で飼われたという。おすわり、旗振り、ラッパ吹きと芸達者だったらしい。子供たちが喜ぶその姿が目に浮かぶ。やがて500キロから1,5トンになった高子は上野動物園に移り、それから平成2年に多摩動物公園で死んだという。これを読んでいるうちに目頭が熱くなってきた。ジジイ特有の涙もろさである。

いよいよ今日の本題。どうやって大きな象が屋上に上がったのかと言えば、クレーンで地上から一気に屋上に吊り上げたという。基本的には現代の技術と変わらない、アバウト60年目の真実と言えば大袈裟だろうか?当時の写真でかなりぼやけているのだが、象の高子が吊り上げられている写真が掲載されていた。何気に哀れである。さぞ恐かったろうに!と益々目頭が熱くなってきた。

この象に何度か乗り(私の名誉の為に付け加えさせていただく、やはり私より2歳年上のこの人も最初は怖いと言って泣いて乗れなかったそうだ)この思い出を“デパートのうえのたかちゃん”というタイトルで絵本を出した荒井静枝さんという方がいる。20数年前、荒井さんご本人が多摩動物公園で、この象に数十年ぶりに再会したそうだ。思わず“高ちゃん”と大声で呼んだら振り返ってこちらへ歩いてきたそうだ。こういう動物が絡んだ話にはめっぽう弱く、遂に一筋なみだが落ちる。反則である。

これで私の凡そ半世紀に及ぶたわいない謎が解けたという話。この絵本を買いに行こうかな?とふと思う。子供時代に乗れずに泣いて、この新聞記事で泣いて、今度は絵本か。この象の高子に人生を通して3度も泣かされるのはどんなものだろう。薄れゆくプライドは許すのだが・・・、やはり止めておこう。
 2013.12.08 (日)  ターキー
もう師走に入ってしまった。来年は平成になってから四半世紀を超える事になる。朝の運動と称して歩いているコースの中で、ここ数か月いつも気になる中華そば屋がある。早稲田から出発している都電の雑司ヶ谷駅の踏切を渡るとそこには雑司ヶ谷霊園があり、その中には夏目漱石や永井荷風、大川橋蔵などの有名人の墓がある。道なりに暫く行って右に折れるとそれはある。その店の名前である“ターキー”がいつも通るたびに気になるのである。昭和生まれの私は人気テレビ番組だった“ジェスチャー”の紅組キャプテン、水の江滝子の愛称であった“ターキー”を連想してしまう。もしかしてこの店の経営者は彼女の大ファンだったのでは?等と勝手に想像して、小さな古い店を通る度に微笑みながら眺めていた。

ある日の事、年甲斐もなく前夜の盛り上がりで二日酔いに悩まされ、いつもより5時間も遅くそこを通りかかった。もうとっくに昼を回っているので当然店が開いていた。カシャン・カシャンと中華鍋を前後に振っているような威勢のいい音が中から聞こえている。ゴーッと自動販売機の上で鳴っている換気扇からは、おそらくチャーハンを作っているのだろうか、プーンとゴマ油やラードが焦げるようないい香りも漂っている。

“ヨシ!このターキーの名前の由来を今日こそ確かめてみよう”と決心した私は思い切ってその店に入った。幼稚園児ぐらいの小さな子供連れの女性と、今まさに出来立てというラーメン半チャーハンを食べている中年の男性がいた。暫く探したのだが、店のメニューがどこに書いてあるのか解らない。厨房の中のむっつりとしたオヤジさんが何にするの?とばかりに突っ立って私をじっと見ている。私は少し焦って思わず“ラーメンください”と言ってみた。まずは手っ取り早く間違いのない注文である。それから落ち着いて良く見渡すと、カウンターの前にB5ほどの油が滲んで黄色くなった紙が貼ってあった。そこに書かれているのが店のメニューだと気づいた。こんな隠れた所に!こりゃ無理だぜ!

そのオヤジさん、高橋さんのおばあちゃんは医療介護付きの老人ホームに入ったとか、ご近所のローカルな話題を子連れのお母さんと話している。気難しいオヤジではなさそうだ。暫くして皆が出てゆき、私の前には昔ながらのラーメンが出て来た。麺は弱冠太めでスープの色は濃いが味はさっぱり系だ。チャーシューが分厚く、一口噛むと柔らかで妙に旨い。

遂にそのオヤジさんと私だけになった。チャンス到来である!“どうしてターキーというのですか?”とイキナリやってみた。するとオウム返しに“七面鳥”という答え。七面鳥だったのか!と私。それからはそのオヤジさんの口上が始まる。彼は生まれも育ちも新宿の牛込で、昔、新宿に七面鳥という名前の美味しいラーメン屋があったそうな。同じ店名を名乗るのも面白くないとそれを英語にしてみた。お話がまだ出来ない赤ちゃんまでもすぐ言えるターキー!パパ、ママ、が言えたら今度はターキー!と勝手に判断。しかも中華そば屋でターキーとは何となく洒落ていて面白い。パソコンで調べたら洋食屋では10店ほどあるそうだが、中華そば屋ではここ一軒だそうだ。そりゃごもっとも。

私はこの名で連想したのは水の江滝子さんでしたというと、オヤジさんはそれも詳しい。あの人自身も大スターだったが、映画のプロヂューサーで石原裕次郎などのスターを発掘したとか話していたら、いつの間にかターキーは彼方へ飛んで行ってしまい、ラーメンが支那そばと呼ばれ、その値段は30円だった時代にさかのぼる。新宿の南口の遊技場で遊んだ話、やがてオヤジ達の会話は力道山がシャープ兄弟を空手チョップでやっつける、昭和の真っ只中の時代にまでタイムスリップする有様。

ようやく他の客が来て、また今度寄らせて頂きますと店を出た。今の話が引き金になり“夢であいましょう”“シャボン玉ホリデー”“スチャラカ社員”等々昭和のヒット番組を思い出し、昔のテレビは本当に面白いものがいっぱいあったと懐かしむ。歩きながら、ふと先日のテレビの投書を思い出した。<年寄りたちは過去を語り、若者たちは明日の未来を語る>アナウンサーのもっともらしい落ち着いた語り口であった。ちょっと待て!過去のない若者たちよ!おいらにゃ山ほど過去がある。そんな投書には、私は藤田まこと扮する“てなもんや三度笠”のあんかけの時次郎になる。“耳の穴から手ぇ〜突っ込んで奥歯ガタガタいわしたろか”と心に残る名ゼリフ?を思い出した。その小さな昭和の呟きは、枯葉舞う柔らかな午後の日差しの中に消えていった。
 2013.12.04 (水)  湯布院の朝霧
暗闇の枕元で、結構な音量で電話が鳴っている。モシモシっと言った自分の干からびた様なダミ声に戸惑う。明らかに昨日の酒のせいだ。
“おはようございます!フロントでございます。今朝はとても冷え込みましたので、幸運にも朝霧が出ました!”という爽やかな男性の声。そう言えば昨夜の夕食の時にこの“亀の井別荘”の朝霧ツァーなるものに長女が申し込んだのだった。ここは大分県、湯布院。毎年十一月の何日か、朝霧が湯布院の町全体をすっぽりと包み込んでしまう珍しい現象が起きるそうだ。それを由布岳の中腹から見下ろすという、この旅館ならではのサービス・ツァーである。

早々寒さに耐えうる身支度を整えてフロントに向かう。黒塗りの車で、音もなく結構なスピードで山肌を登って行きながら運転手氏曰く、“お客様はとてもラッキーです。この時期でも毎日は当然見ることはできませんし、年間でも十四日ほどしか朝霧は出ませんので”とのこと。宿の隣にある湖と呼ぶにはあまりにも小さい金鱗湖には温泉が流れ込んでいる。この町全体に湧き出る温泉の温かさが漂っている所に、この時期特有の冷気が山から降りてくると、その寒暖の差で霧が発生するそうだ。上から見下ろすと湯布院の町が殆ど白い雲に覆われている。天と地が逆になった様相で、後ろには由布岳が、朝の光に紅葉で染まった赤茶の頂きを輝かせている。そんな面白い景色を寝ぼけ眼で堪能する。

この3年間、私は晩秋や暮れになると旅に出ている。別にこの時期を狙って旅に出ているわけでもないのだが、何故か不思議にそうなっている。去年は北イタリア、一昨年はこのひとりごとにも書いたしまなみ海道を渡り、安芸の宮島から山口へ向かう結構な道のりをこなす旅だった。今年は娘達と何十年かぶりの九州の阿蘇から湯布院を回る旅になった。次女と二人で大分空港まで行き、すぐ隣でレンタカーを借り、別府で遅い夏休みの休暇で我々とは別ルートで九州に来ていた長女とおち合い、九重にある日本一の長く高いつり橋で緑や赤や黄色の紅葉を楽しんだ。

最初の宿、久住のスパ・グリネスという一軒家のコテージに泊まる。五日前にオープンしたという離れのイタリア・レストランでは、どこそこの絶滅危惧種の山羊のチーズだの、何とか地方の数少ない豚だとか、時が時だけに珍しい食材のオンパレードに思わずホントかよ!と心の中で言ってみる。何せ片時を貪るように楽しむ旅烏の身なので、疑わしきは罰せずの気分である。腕とセンスのいいシェフがいるらしく味はなかなかのものだった。次の日は阿蘇のカルデラまで“やまなみハイウエイ”で行くのだが、どこまで行っても今はススキが一面に広がっていて、どこか懐かしい日本の秋の決定的な風景が切なく心を揺さぶる。そして目的の大観峰に到着。この阿蘇のカルデラの雄大な景色は感動ものだった。

思えば去年の今頃、ミラノのスカラ座の前で生まれて初めてスリにあった。まさか自分がそんなにトンマだったとはガックリである。ツァコンのおばちゃんが、これはプロ中のプロの仕業だと、間抜けなお客である私を一生懸命慰めてくれた。そしてベニスやフィレンツェで出くわす中国人観光客の傍若無人さにも舌を巻く。何しろホテルのビュッフェでコーヒーやジュースを自分たちが持ってきた魔法瓶に詰め、それらを空にしてしまう。挙句の果てはジャムやバターまでも!開いた口が塞がらないとはこのことだ。それと勿論、ヨーロッパには素晴らしい絵や彫刻に歴史ある建造物もある。だが世界の名画と呼ばれている、ビーナス誕生、春のめざめ、受胎告知、天地創造等々、宗教家たちのでっち上げの物語をこれでもか!と見せつけられると、信仰というものには縁遠い、ましてキリスト教でもない私には幾分食傷気味になる。

そんな一年前の旅を思い出していると、やっぱり日本はいい国だとつくづく思う。私にとっての海外旅行というのは、日本人とこの国の良さを再認識する為の旅でもある。交通機関の正確さは、この国で培った勤勉という言葉に裏打ちされた絶大な安心感がある。そして全国に散らばる一流と言われる旅館のサービスは、我々日本人が胸を張って世界に誇れるものだと思う。部屋風呂から大浴場は常に清潔で気配りが行き届いているし、墨で霜月・秋の膳など書かれた料理長自筆の風流な献立表などは、ここへ来た外国人客などにはとてもいい土産になるだろう。前菜から始まり、それらは一つの料理が無くなる頃に次から次へと温かいものや冷やしたものが運ばれてくる。絶妙な頃合いはまるで何処かで皿の中を覗いてかのようだった。

近年、常に色々な問題や悩みを抱えていて、それを挙げれば切りがない国である。それでも私が日本人に生まれてきて良かった、と実感できるのはこんな旅のひと時である。
 2013.08.27 (火)  無限
私たちは常に大きなものに思いを馳せることが好きなようだ。最近では深海のダイオウイカなどはその最たるもので、今、博物館で展示されている剥製でもない実物大の模型でも人気を呼んでいるらしい。もっともこれはNHKスペシャルで、世界初の生きている貴重な映像が放映されたのがきっかけだった。これまではあくまでも仮定や想像の世界で、マッコウクジラとの深海における食うか食われるかの攻防が有名で、その存在は広く知られてきた。しかし実際にどんな場所でどんな動きをして生存しているのかは未知の世界だった。 この生きている映像は、以前放映されたシーラカンスに続いて衝撃的だった。食卓や鮨屋で食べているあのイカの同じ仲間が5メートルとも7メートルともあると聞けば、深海への興味はいやがうえにも増してくる。これぞ未知なる大きなモノへのロマンである。子供のころにマンモスは象の何倍も大きいのだろうと勝手に想像していたのだが、実際には意外と小さかったと知らされてがっかりしたのを覚えている。

この4月の初旬の朝日の天声人語にこれとは逆に、小さいモノの話が載っていた。アイルランド生まれの作家スウィフトの詩で <ノミにたかるノミがいた ノミのノミにたかるノミもいた これではどこまでいってもきりがない> これはミクロの世界で、当時、中国で流行っていた鳥インフルエンザのウイルス対策の話にもってゆくのだが、細菌を大豆だとすれば、ウイルスの大きさは明太子の一粒ほどらしい。人間が発明した電子顕微鏡なるものでその存在が明らかになったという。中国の隠ぺい体質を諭し、最後はこの小さくて脅威なる厄介者を地球人が協力し合って撃退しようという、アメリカ映画の題材になるような主旨で締めくくる。この世界にも我々の物差しでは測りきれないもっともっと小さな生き物がいるとすれば、ミクロの世界もまた無限に広がってゆく。

さて誰もが大好きなスケールの大きな話に戻って、確かに何万光年の宇宙の果てに何があろうとも、それは我々が生きている現実の枠の外のことである。それでもなお、想像を絶する遠いところの新しい星を探して毎日を過ごす研究者もいるだろうし、私も含め、それに夢や果てない想像をかき立てられる人も少なくない。見上げれば、私たちの上には常にこの空と一体になっている宇宙がある。例えば東京ドームで応援団の妙に籠った歓声や音を聞かされるよりは、神宮球場の空に消えゆく音のほうが心地いいし、自然の風に吹かれて飲むビールは、密封された屋根付きの下で飲むものよりも数倍旨いと感じる。

宇宙から見れば、ウイルスの万分の一よりも小さいであろう私たちは、この青い小さな星で日々怒ったり笑ったり泣いたりしている。おまけに取るに足らない事でひがんだりいじけたりもしている。普段何も考えずに一生懸命生きているわけだが、改めてこう大局に構えてみると、自分のあまりの小ささに冷めた可笑しさが込み上げてくる。そして私たちの一生は宇宙の瞬きにも及ばないほど短いとなれば、ここはほぼ満足という合言葉を胸に、日々を何とか楽しくやり過ごすしかないとも思えてくるのだがどうだろう。

極小の世界やとてつもない大きな世界を垣間見ても、所詮は昨日を悔い、明日の希望や不安を抱きながら、今を生きている等身大の自分がここにいる。せめて三日に一度は大空を見つめ、穏やかにそしておおらかに、ちっぽけな自分を笑いながら生きていきたいものである。
 2013.08.16 (金)  ドリームガールズ
連日の酷暑にうんざりとする。家のドアを開けるとムッとする暑さで息が詰まるようだ。今夏の東京は、まるで夜も朝も暑い赤道直下のシンガポールのようだ。このうだるような蒸し暑い夜に久し振りの感動があった。この10日にかねてから楽しみにしていたブロードウェイ・ミュージカルの“ドリームガールズ”を娘達と観て来た。場所は何度か人の為にチケットを買いに行くのだが、一度も入ったことがなかった渋谷の東急シアターオーブ。渋谷の新名所ヒカリエの中にある。

このミュージカルは1981年にニューヨークのブロードウエイで初演され、トニー賞を6部門で受賞したという。その当時のことはあまり知らなかったのだが、ジェイミー・フォックス、ビヨンセ、エデイー・マーフィー等が出演していた映画化でこれを知った。それに伴い2010年に来日公演もあったという。ストーリーは60年代の飛ぶ鳥を落とす勢いだったモータウン・レコードの興隆期。黒人女性トリオ“シュープリームス”のサクセスストーリーだ。栄光と挫折と友情、そして生き馬の目を抜くショービズの世界の裏側を短い時間の中で巧妙に鋭く描いている。私もこのレコード業界に四半世紀の間身を置いていたので、なおさら面白く見ることができた。

以前、このひとりごとで書いていたのだが、シュープリームスに在籍していたダイアナ・ロス役がこのミュージカルの主人公の一人である。彼女には忘れられない思い出がある。私がまだ20代の頃、ラスベガスから帰ってきた両親を羽田に迎えに行った車の中で、母が私に“ラスベガスのシーザースパレスで、とても歌のうまい黒人女性歌手に握手をしてもらい、その人のレコードまで貰ったのよ”と言っていた。家へ帰ってそのレコードを見たら、驚くことにその歌手はダイアナ・ロスで、おまけにジャケットに彼女のサインまでしてあった。彼女はアメリカを代表する女性ヴォーカルだよ!と言ったら目を丸くして感激していた。そして一言“緊張していたらしく、手は冷たかったよ”という言葉が、今でもダイアナ・ロスを見ると私の心の中で蘇る。

実際の主役は、シカゴから娘3人でオーディションを受けにニューヨークにやって来た時のリードヴォーカルで、チョイ太目のエフィだ。男に裏切られ、それでも愛してと女のプライドをかなぐり捨てた時の歌、そして二人のヒロインがこれまでのわだかまりをぶつけて心を許しあう時の歌。この熱唱はいい年をしたオヤジの頬にいく筋もの涙が零れ落ちることも忘れさせてしまう。地の底から湧き上がって天辺に持ってゆくまでのよどみない豊かな歌声と迫真の感情表現は、そこにいたすべての観客の心を鷲づかみにする。この初めてのシアターオーブの建築設計が新しいだけに、光や音響による臨場感も本場のブロードウエイよりも上回っていた。

出演者のほとんどが黒人でその歌唱と踊りの素晴らしさにも感激するのだが、60年代の懐かしいレコードの時代と現代センスの巧みな融合は、派手な振り付けやバックの光の装飾などによって一段と盛り上がる。そしてシュープリームスを演じる出演者たちの煌めくような衣装が、次から次へ早変わりしていく様は夢のよう。英語が苦手な私にとっても舞台左右に見やすい字幕のスーパーがあり、話が見えずに困った時は横目でそれを見ればいい。

本場へ行けば飛行機で12時間もかかり、ホテル代は一泊5万〜7万円と高い。名だたる美術館に世界をリードする最新流行の店もヤンキースもある。それはとても魅力だが、此処では飽きることのない別世界の2時間30分がある。その時間だけは渋谷がブロードウエイに変わる楽しいひと時である。お気軽に心湧きたつミュージカル!近いのだから暑いのは我慢、たまには相応のお洒落をして、いつもと違うもう一人の自分に化けてみる。
 2013.08.06 (火)  物欲
遂にあの幸せの国に政変が起きたという。少し前のこと、馴染みである新宿の昭和レトロ漂うレストランで、いつもの仲間と人の幸せについて語ったことがあった。そこで世界で一番幸せな人が住んでいるというブータン王国の話になった。今、私があの国に行って幸せになれるかという仮説を立ててみたのだが、にべもなくそれは所詮無理な話だという結論に至った。物質文明の世の中に生まれ育ち、あの国の人々のように人と人との和を生きがいとし、良き来世を願う神への信仰に日々精進することもできないし、ましてやさまざまな便利な物に囲まれた生活に慣れ親しんだ身に、限りなく慎ましく悟りを開いた宗教家のような境地に至るまでには、私が何かよほどの修行か人生観が変わるような体験をしない限りは、そこに届きそうもないという事だ。

そんな今、あのブータンにも政治が変わる時が来たらしい。これまで注目されていなかったインドと中国に挟まれた秘境とも言える土地柄に、他国の人・金・文明の流入で、ここにもグローバルな波が多少なりとも押し寄せたのかとも思える。どうやらインド軽視で中国ヨイショの与党が下野したらしい。やはり人間が多少なりとも物質的豊かさを知ることは、食欲を満たし、肉体の重労働から解放され、時間短縮の技を知り、やがて現状に満足することなく、常により上を標榜する運命になっていくのだろう。この政変こそ、ブータン国民の現在の本音が聞こえてくるような気がする。

さて、物質文明の忘れ形見のような私事。この国に生きている多くの人がそうかもしれないが、私は自分の今の生活に何が必要かを常に考えている。そう考えることは人生の一部になりつつある。振り返れば、少しでも余裕ができると常に何かを欲しがる傾向にある。それでもこの年になってようやく欲しいものが少なくなってきた。それは手に入れた時の感動が薄れてきていること、そして悲しい事に日常の消耗品以外はあまり必要性を感じなくなって来ている。

物欲が年々減りつつある私の中で、欲しいけれどまだまだその資格がないと自分を戒め手が出せないでいるモノ、無理をすれば手に入るかもしれないが、その心境に到達できないまま何十年も経ってしまっているモノを探してみた。

1. タヒチのボラボラ島の水上コテージから、そこの朝食の余りのベーコンかパンを餌にして釣糸を垂らしてみる、これは長年の夢である。おそらく獲物は鮮やかなコバルト色やグリーン色のベラの仲間が釣れるだろうと予想している。

2. 一時は靴がファッションの原点とまで考えていたことがあった私にとって、靴の王様的存在であるジョンロブのストレートチップが欲しいと思ってから既に20年の歳月が流れた。あの頃よりも値段も大分上がってしまっている。

3. ここ数年ではパテックフィリップのカラトラバという、とてもシンプルで美しい時計を腕にはめるのを夢見ている。

以上は行ってみたい、手に入れたいがどうにも一歩踏み出せないまま長年の夢となりつつあるモノたちだ。常日頃からお金は決して貯めるものではなく、楽しむ為にあるものだと頑なに信じて来た。それでもタヒチもジョンロブもパテックも、一生の夢で終わるのかもしれない。人間の俗人を長くやれば夢は実現すると夢でなくなる事も学んだ。届きそうで届かないもどかしさも快く受け入れるようになってきた。生れ出る数々の楽しい欲望との葛藤は、残る人生を生きてゆく為の糧とも思える。結果資本主義にドップリ浸かった物欲の申し子は“ブータン王国に生まれないで本当に良かった”と胸をなでおろす図式と相成る。
 2013.07.18 (木)  粘土細工
昔取った杵柄という言葉がある。子供のころから粘土細工が好きだったのだが、私の場合は少し、いや大いにその言葉から想像できる芸術性とかいうものには程遠いものがあった。早く言えば粘土遊びである。今思えば女の子がお人形さん遊びでその世界に入り込むのと同じようなもので、これの男子版だったような気がする。

ここで遊んだ粘土は固くならない油粘土で、あの頃のプロレスラーを幾人も作っては、テーブルで戦わせるのである。言わば男の子のお人形さんごっこと言えるのではないだろうか。もちろん試合開始から最後の勝敗が決するまでの完結ストーリーは、作者である私が全権を握っている。その日の気分で激戦の末、私の応援する主人公が立ち上がれないほどのダメージを負う時もある。そんな時は自分がこの一人遊びに飽きて来た頃で、粘土で作られたプロレスラーの傷が癒えるまで、しばらくの間この興行はお休みとなる。このレスリングごっこは幼稚園の年長から小学校まで、かなり長く続いたという記憶がある。

これに出演したレギュラー陣は、力道山から遠藤幸吉、豊登(トヨノボリ)や毛だらけのマンモス鈴木、力道山がブラジルから連れてきた痩せのアントニオ猪木に、アメリカで武者修行をして、やたらと強くなって帰ってきた若きジャイアント馬場。そして試合最初の何分間かは威勢のいい二人、吉村道明や変なタイツ(膝にパッチのようなモノが付いていた)の芳の里などで、そこに外国の悪役レスラーたちが週替わりで出演する。ユセフ・トルコや沖識名(オキシキナ)などという、試合の度にシャツを破られたり、外人レスラーの反則に知らない振りをしたりするレフェリーたちの仕事や実況の解説は、勝手に戦わせている何でも屋の私の仕事だった。途中、あまりの熱戦に我を忘れて声が大きくなる。それを茶の間の円卓でやるものだから、必然的に祖父母も母も、実況の私のそれを聞かされるわけだ。

“あ〜っ!もうだめです!ブラッシーの噛みつきに力道山 立ち上がれません!”などと良く母に私の口真似をされてからかわれたものだった。年上ばかりの従妹たちも始終私の家に遊びに来ていたものだから、私の油粘土は親戚の間でも有名になっていた。洋裁がとても得意な従妹などは、僅か身長5センチほどの粘土のレスラーが試合前に着てくる花柄のガウンなども作ってくれた。それは本当に小さいガウンだった。振り返ると、今の私からは想像もつかないほど恵まれたガキだったとおもう。

そう、それでやっと最初の話に戻り辻褄合わせをするのだが“昔取った杵柄”である。かつて鍛えた腕前のことで、それを今でも失っていないという意味らしいのだが、私が鍛えたものはレスラーの戦いのストーリーで、別に粘土細工が旨かったわけではなかった。ただ今度の家の玄関わきにある水盤が殺風景で、かねてからそこに守り神のような置物が欲しかった。これが何十年かぶりで粘土いじりをするきっかけになった。そこへきて梅雨空の長雨で思いついたのが、粘土で作られた河童である。

御存知のとおり河童は想像上の生き物である。ただその伝説は本当に見たとか、ミイラになった手がどこそこの寺にあるなどと聞いたことがあったので、心の中では唯一実在の可能性が僅かに残っている妖怪としてのロマンがあった。故に水盤の守り神としてこれ以上の適任者はいないという結論にいたった。子供時代を思い出しながら、凡そ制作時間4時間もかけて出来上がったのがこの河童だが、撮影のために水盤から屋上に連れ出してみた。実に素人くさくて大雑把ではあるが、可笑しいことに作っているとだんだん魂が入ってゆき、似非芸術家の心境になってゆく。猛暑の強い日差しで、腹の辺りの色が変わってきてしまったのだが、それもご愛嬌。気のせいだろうか?何故かあの頃に作っていた粘土レスラーの面影を感じてしまう。“三つ子の魂百まで”とは良く言ったものである。
 2013.07.14 (日)  若き日に触れた優しさは
今に始まったことではないのだが、最近益々新聞もテレビも面白くない。まして政治などはその最たるもので、NHKで参議院の立候補者の顔が出てくると消すか、チャンネルを変えてしまう。年を取ると非国民になるのか諦めの境地になるのかと思うのだが、一般的には年を取るほど選挙率が上がると聞く。この分だと、日本のお年寄りたちが大好きな自公が圧倒的な勝利をおさめて、民主主義の形をかろうじて守っていたネジレが解消しそうである。

そんなある日、試し読みという形で東京新聞が我が家のポストに入っていた。この試し読みは何回か入れてもらっているのだが、マンネリの朝日と何ヶ月も先まで契約してしまっているので、なかなか思い切って変える気になれないでいる。いつになく新鮮な気持ちでその新聞を広げてみると、社会面にニッポン放送のアナウンサーだった糸井五郎さんの懐かしい笑顔の写真が載っていた。“元祖DJの一万枚博物館へ” というタイトルがついていて、彼の収集したレコードが北海道の新冠町の音楽ミュージアムに寄贈されるとのことだった。

亡くなられてから29年も経つそうで、改めて前の“ひとりごと”に続き時の流れの速さを感じる。記事の中で、現在86歳になられたという、とてもお洒落だった奥様は今もお元気なようで、東京の御自宅の転居とともに収集品のレコードの整理方法を親戚の方にお願いされたとのことだった。幾度かお邪魔した糸井さんの御自宅は広尾の最上階のマンションで、外苑西通りを臨む西側一面がすべて広い窓になっていた。それにかかっているブラインドが一気に自動で開いてゆく様は、まさに劇場の幕が開くようで壮観だった。その横には大きな世界地図が貼ってあり、それまでご夫婦が行かれたところを、数多くの綺麗なピンで止められていた。この記事で転居と聞いてあの時の懐かしい情景を思い出す。

レコード会社で一宣伝マンの若僧だった私は、ニッポン放送の騒然とした制作の大部屋で ろくに話も聞いてくれない放送局のディレクター達を相手に、いつも空しく寂しい思いをしていたものだが、その中にあった糸井さんのデスクは私にとってのオアシスだった。糸井さんのところへ行くと必ず隣の席を空けてくれ、稚拙な私のプロモーション話に耳を傾けてくれた。そこに座るといつも愛用のラクダの絵が描かれたパッケージの煙草、キャメルを私に勧めてくれた。何時のころからか、この一服が楽しみでニッポン放送へ行くようになっていた。レコード各社との競争にも明け暮れて自分に自信を無くした時、こんなさりげない優しさが心に沁みたのを昨日のことのように覚えている。

しばらくして私はレコードの宣伝の仕事から編成に移り、ソウルをはじめとするブラック・ミュージック全般を担当することになった。そしてRCAの“マイケル・ワイコフ”という黒人アーチストを日本で発売することになった。当時としては(実は今聞いても)大人っぽいお洒落なサウンドで、担当者の私も惚れ込んだ一枚だった。糸井さんはそのアーチストの解説書を快く引き受けてくださり、そこに書かれた文章は、このミュージシャンの特性を的確にとらえた実に心のこもった素晴らしい解説だった。おそらくこのレコードも新冠町のこのミュージアムの中の一枚として寄贈されるのだろう。今後はそこで糸井さんの声も聴けるようになるらしい。いつの日か青春のカケラを拾いに行ってみたいものである。

日常の中で、ふとしたこんなニュースで蘇る昔日の熱い心。感受性の強かった若き日に受けた何気ない優しさ、今も心の中で密かに生き続けているのだと実感する
 2013.07.10 (水)  暑い夏がやって来た
今更ながら時が経つのは速いものである。はっきりしない梅雨が終わり、一昨日は七夕で今年も半ばを過ぎてしまった。この分だと猛暑の夏が過ぎてくれるのもあっという間かも?などと思うのだがそうはいかない。暑さも早朝のほんのひと時は優しいのだが、それからがどうにもならない。今年も寝苦しい夜との対戦をどうやってしのぐのか、今から暗い気持ちでいる。

相変わらず健康を考えて歩くことを日課にしている今朝、雑司ヶ谷の鬼子母神の参道を横切っていると、黒い大きな蝶が飛んできた。それがなんとカラスアゲハだった。アゲハ蝶より一回りも大きい羽根が陽光に当たると、黒地に鮮やかな緑色がキラキラと輝く実に美しい蝶である。2年ほど前に江古田の森公園でも見かけたことがある。子供時代に家の庭で初めて見たのが感激の初対面だった。以来高校時代に那須高原で2度目の再会という体験しかなかったのだが、それが何十年も経った今の都会にさりげなく飄々と飛んでいる。何とも美しい緑色の羽根がヒラヒラと舞うのに見とれて、思わず30メートルほど追いかけてみた。怪しげな足取りをした突然のオヤジの出現に、そこに建っている家のシーズーとヨークシャーの小さい二匹の犬が、2階のベランダから目いっぱい顔を出して吠え立てるのでこれまで!と断念する。宙を見つめて何かに取りつかれた様にフラフラとさまようオヤジ!確かに怪しいに違いない。

梅雨が終わると間もなく夏休みになる。少年時代に長く楽しかった夏休みが終わって2学期が始まる日、久しぶりに会う友達に何となく気恥ずかしい思いをしたのが懐かしい。あの時は随分と長い時が経ったと感じていたのだが、今や40日や50日振りの会食や再会などは、遂さっき会ったばかりじゃないか、などと感じてしまう。どんどんスピードを上げてゆく時間に否応なく乗せられている身には、時の速さを辛く感じる年代になってきた。

先週末、珍しく家族全員が揃った夕食時にこんな時間の話を家族としていたら、一年を人生の五分の一や十分の一を生きている子供と、五十分の一や六十分の一を生きている人間では、時の流れは全く違う感じ方をするのだろうと息子や娘たちが言っていた。人生を長く過ごしてきた人間、つまり私のことだが、一年はこれまで生きてきた人生の僅か六十二分の一という事になる。もちろん流れている時間は同一なのだが、少年達とはその一年という時間の大きさに対する量や質が感覚的に違ってくる。生きてきた年を分母とすると、年寄りにとっての一年は当然ほんの小さな分子になってゆくわけである。

とりあえず時は経ち、この夏も日々過ぎてゆく。青紫の朝顔の色にトンボに蝶に蝉の声、スイカの青臭さに蚊取線香、波打ち際の楽しそうな笑い声、これらに出会うと過ぎ去りし懐かしい夏の瞬間が所々で顔を出す。そこで感傷的な夏の終わりまで思い出すのは、先読みするには早すぎる。時の流れをしっかりと肝に据え、しかも納得してのことならいいのだが、自分自身を客観的に見ると、目前の出来事ばかりを追い続ける、ちょうど今朝のカラスアゲハを追っていたあの心許ない足取りで時を巡っているのでは?・・そんな気もしないでもないのだが、これもまた一つの人生と開き直る。
 2013.04.13 (土)  鉛筆
ちょっと前の話になるが、鉛筆の広告が新聞の一面に載っていた。それは小学生用の子供サイズの鉛筆が売り出されたとのことだった。あって当然のようだが今までは無かったようである。これまでのものと比べると1センチ半ほど短いものだそうだ。

それを見て小学校に上がるときに、母に鉛筆を買ってもらったのを思い出した。自分の名前が金のひらがな文字で刻印されているもので、今思えばそれはとても誇らしく、大切な宝物のように思っていたことが蘇る。それを使って一生懸命勉強に励み、これから始まる学校生活に夢や希望をいっぱいにさせようとする親心。あの時は母も、この私に多少なりとも期待を寄せてくれていたようだった。親というものは有難いもので、未知なる子供の未来には本人が望まない、いや!到底及ばない高い人生設計を淡々と心に描いているものなのだ。多くの人々に言えるのは、最初からとうに諦めたようなダメ出しは、子を思う親心の中には微塵もない。

今年の2月に入って私が在籍していたレコード会社の懐かしい人たちと会う機会があった。 その飲み会の少し離れた席で誰が悪筆だったか?というような、私にとって誠に痛痒い展開の話が聞こえてきた。ラジオ、テレビ局の電波媒体の宣伝マンだった私を、洋楽ディレクターに推挙してくれた、当時デヴィット・ボウイやプレスリーなどを担当していた女性課長の高橋氏が、突然私の名前を呼んであの時の字!などと言ってプッ!と噴出した。絶体絶命!遂に避けたい話題のど真ん中に私が躍り出る羽目になった。人はこんな事をピンチとか言うのだろう。当時、このような便利なパソコンの普及もなく、青焼きで会議の資料を自筆で作っていた時代だった。当然私の悪筆は会議に出席の全員の目に曝された訳である。それでも人間歳をとると、いかなる難局をも回避する狡さが身に付いていて、昔の笑い話として受け流せる業が身に付いている。幸い酒の勢いも手伝って、すぐその話題は他に移ってくれた。だが今もって私の悪筆は当時と同様変わらない。常に最小の努力で最大の効果を狙う身にとって、結果、達筆になれることは当然望むべき事ではない。

そして季節は今、苦楽を共にした仲間たちとの別れ、その後、矢継ぎ早に期待と不安が混然とする出会いが一度にやってくる春を迎えている。駅前で父や母と連れ立って入園、入学に向かう子供たちを見るにつけ、あの日の母に渡された金字の名前入りの鉛筆が目に浮かんでくる。これからどんな出会いが待っているのだろう、期待よりも不安のほうが勝っていたと記憶している。早くいい友達ができればと思うのは、本人ばかりではなく親も同様の気持ちでいる。切なくもいい季節だ。この悪筆を天にいる母に詫びながら、節目、節目で見せてくれた親の愛情を思い出す。日を追うごとに温かくなった日差しの中で目を閉じると、埃まみれの自分の存在価値が、久し振りに無から有へと変わってくれる。
 2012.10.20 (土)  ぬか漬け
やっと涼しくなったと思ったら今度は肌寒い。延々と続いた残暑からいきなり秋を飛ばして初冬の感がある。そんな今日も起きるといつもの儀式が始まる。まずは小便の溜まった愛犬を急いで散歩に連れて行き、それが終わると玄関横の6鉢ほどの貧相な草花に水をやり、脆弱な日本の政治・経済の体質と行き詰まりを毎日の様に知らせる新聞を広げる。最近ここでヌカミソを捏ねるという新作業が加わった。これまでの人生には考えられなかった事で、これをしている母の姿が蘇る事もあり実に新鮮な思いでやっている。

いつも飲み屋で中盤からあがりにかけて頼むぬか漬けで、旨いものに当たるとこれを心行くまで食べつくしたいという憧れをここ数年抱いていた。以前は家でも作っていたのだがいつの間にか終わってしまい、自前のぬか漬けは過去の遠い出来事になりつつあった。この夏、ある方からたっぷりとしたヌカミソの中に好物の水茄子が入ったものを頂いた。そのままヌカミソを捨てるにはもったいないと、これを種にぬか漬けが何年かぶりに我が家で再燃した。ご参考までにこの水茄子の時期は終わったが、生で食してもその皮が果物にも似た香りがあり実に旨い。その際、塩を少々付けると甘味が増す。

ぬか漬けは夏の朝に漬けると、夕方には立派なご馳走として食卓に上がる。また、夕に漬けると朝には目覚めのさわやかな一品として輝きを増す。この時期、茄子、谷中、茗荷、きゅうり。添え物として小梅に砂糖を少々塗すと一日の始まりとしてはこの上ない。そこに濃い目の茶があれば完璧だ。なんだか急に老け込んだことを言っているようだが、口と体が要求するものを本能として素直に受け止めている。その他の漬物は、ニンジン、ダイコン、キャベツ、変り種としては山芋なんかもお勧めである。

ぬかに籠める愛? 忘れかけた昔日の日本の心をつかむ気分と言えばいいのだろうか。もちろん始めたばかりで漬かりすぎたり、まだ生だったりナンともおぼつかないのではあるが、それはそれで発展途上の自分に期待するオモシロさがある。仕込みのヌカをかき混ぜ野菜を洗い、どんな風に切るかで味の沁みこみ方も違う。最後にペタペタと手の平で軽く叩いて今度は待つ作業である。その日の温度、置き場所、漬ける時間で微妙に味が変化する。発酵という生き物のようなものと付き合う事は、待つ作業としての楽しさもある。

人はいかに貧しくとも裕福でも、生きて行くためには生まれてから死ぬまで食べ続ける。ニューヨークのアッパーイーストに住んでいようが一国の大統領であろうとも、毎日ちっぽけな胃に高価な食材をギュウギュウに詰め込もうがたかだかの能力だ。所詮人間は小さな胃を一つしか持てない。これは今の世ではありえない程平等な事である。

それでも自分に欲を持ち、少しでも俗に言うご馳走だというものでなく、自分流の美味しい物を食べようと努力することは私の本望だ。昔、下手な歌を歌うとヌカミソが腐るとよく言った。女性が家事に追われ、所帯じみることをヌカミソ臭くなるとも言われた。そのほか歯止めの利かないヌカに釘とか、決してカッコイイ言葉の形容には使われないヌカミソなのだが、その旨さを生み出す効用は絶大だ。

男として、女としての世間体、一般的な定義や常識とは片意地張った人間社会が多勢に無勢の数の勝負で作り上げたもの。それは民主主義の根幹である。それを揺るがす事は、小学校で皆と違う事をすると異端として白い目で見られたアレに良く似ている。そろそろこれまで一個人として培ってきた物差しで生きてみようと思う。この手に残るヌカミソの香がここ暫くは続きそうである。社会が疎んじる?ヌカミソ臭い一人のオヤジが、誇り高く生きる日本男児たちの概念とやらを敵に回しての見参! 秋晴れの朝にパリパリッと噛む。幸福とは身近なものを何気なく拾い集め、ささやかに感じるものと思えるお年頃。枯れてきた季節に、以前より少々枯れてきた自分を重ね合わせてみる。
 2012.09.11 (火)  心残り
これまでの人生で最も重大で忙しない家の売買や、賃貸という事柄がここ2年ほど続いていた。やっと一息ついた先日、久しぶりに日本橋の高島屋に行った。どうしても住んでいる地域の利便性から池袋、新宿方面に行きがちだが、日本橋はなかなか格調があって素敵な街だ。目的はこの百貨店に出店している焼鳥・伊勢廣の塩つくねだった。噛み締めると、軟骨と新鮮な肉と塩の旨みがじわりと口中に広がり、備長炭で焼き上げた煙のいい香りが鼻腔を心地よく通り抜ける。時間帯で時には商品が空っぽになるのだが、すぐそばの京橋本店の焼き上がりを待てば補充される。いつかこのひとりごとに書いたとても高い“たらこ”を買った地下の名店が集まる例の場所である。伊勢丹の超モダンで先鋭的な地下食品売り場も面白いが、やはりここの何処かに昭和の名残と粋を感じさせてくれる空気は和む。一階のエレベーターの横の石塀の中にはオウムガイ類の化石が何気なく散見されるのもこのデパートの歴史を感じる所である。

しなやかで礼儀正しいエレベーターガールに導かれ、手入れの行き届いた金色の格子のエレベーターに乗り込む。ここで昔、恥ずかしくも心残りな出来事があったことをふと思い出した。日本には心残りという、いかにも後ろ髪引かれるような素敵な言葉がある。これまで生きてきた中でそれを幾度とも経験してきたのだが、その度に大小さまざまなため息をついてきた言葉だ。誰もが幼い頃には不鮮明な思い出を幾つか持っているものだが、私のこれは幼いながら絶対的な事実として、この高島屋の高という頭文字が私の脳裏にしっかりと刻印されている。

何時の頃かは定かではないが、子供時代に人前で涙を見せることは絶対に恥だと感じていた時があった。最初に飼っていたエスという名前の犬が死んだ時、知らず知らずに私の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。それを祖母が見て“私とエスとの涙の別れ”と表現していた。この時は泣き虫のレッテルを貼られてしまったという、少年の妙に勝気な記憶だけが残った。以来、不利で無様な喧嘩の時でさえ、よほどのことがない限り涙を流さずに生きて来た。その成れの果ての今の私が、朝ドラを観ていて、ここで見ている単純な奴を泣かせるぞ!という作者の思惑通り、まんまとハマッテすぐ泣いてしまうというヘンテコなおやじになるのだから、人生はわからない。

涙を見せないで懸命に生きていた追憶のあの日、高島屋の屋上で子供たちを象に乗せるという一大イベントがあった。もちろん象は陸上に生きるものでは最大の生物である。ここであえて解明はしないのだが、どうやってあの大きな奴を屋上に上げたのかは、私のとっておきの永遠の謎である。そのイベントにきっと親が申し込んだのだろう、大勢の人が見守る中で私と兄がその象に乗る順番が回って来た。私はどうしてもあの像の背中に乗ることが出来なかった。あろう事か!公衆が見守る面前で、怖いと言って大泣きをしたのである。強気一本だった私が、どうしてそんな気持ちになったのかはいまだにわからないでいるのだが、おそらく、その像の背の大きさと見物客の多さに圧倒されたのだと思う。

一生に一度体験できるか否かの有難くもお節介な親心。今の私もあの場にいたら、子供たちにきっとそうさせたに違いない。強情な私は手を引っ張られても、なだめられてもガンとしてあの象に乗らなかった。象の背の布に描かれた、高島屋の高という豪華で大きな一文字が涙で滲んだ。そして泣いているしょうも無い私を置いて、しかたなく兄が独りで象に乗った。おそらくこの兄の年頃から推測すると、私は3歳か4歳の頃の事である。

今でも心残りという言葉がこれほど似合う場面にはそうそう出会う事は無い。あそこでああすれば良かった、こうしたらどうなっただろうか?という悩む日々の繰り返しが人生である。それは最も身近なライバルだった兄という少年に、主演男優賞を譲った幼き日のことである。
 2012.06.20 (水)  摩天楼にて
決して明るいなどとは言えないこの社会、たまには馬鹿にならないとつまらないと思っている。実はいつも馬鹿なのだが、前に家からスカイツリーを見ていたらヨシッ!あそこの下まで行ってみようという事になった。それは一年半ほど前のこのひとりごとに書いたのだが、今日は、引っ越してきた我が家の物干しを兼ねた屋上から、池袋サンシャインを見ていると、又例のヨシッ!が出た。こちらからも見えるのだから、あちらからもここが見えるはずだと常々思っていた。とにかく一度はあそこに上って、天空のような所から自分の家を探してみたかった。ちょうど隣の東急ハンズに、靴の内側に貼る革を探しに行こうと思っていたこともあり、思い立ったが吉日、実行に移す事にした。

いつもの早歩きで約20数分、思ったより意外に早くサンシャインビルに到着。一階の守衛さんに展望台はありますか?と聞いてみた。地下一階からエレベーターで上がりますとの事。それに続き料金はかかりますか?と聞けば"当然です"と冷たい一言。もう少し違う答え方があるだろうにと気が滅入る。とにかく、地下からエレベーターで一気に60階の展望台まで上がって料金は620円。海抜は251メートルだそうだ。さすがに池袋随一の高さを誇っているので、近辺にはこれに適う建物がなく清々している。

60階に着くと私一人で驚くほどシンと静まり返っている。"いまや世界に誇るスカイツリーもあり、こんな所でうろつく奴はオレぐらいか!"と呟く。とりあえず東西南北、ビルを一回りする事にした。すると人の似顔絵がいっぱいかかっている場所にやってきた。そこにポツンとプロの似顔絵師らしき人物が所在なげに座っていた。どうやら私一人の60階ではなかったようで、安心感が湧いてきた。

似顔絵は遠い昔、父に連れられた日本橋のデパートで絵皿に描いてもらったことがある。幼い頃は人一倍恥ずかしがりやでとても嫌がったのだが、父はいつになく熱心に勧めた。これをクリアすれば、食堂で好物のチョコレートパフェを条件に承諾してしまったのだが、いざモデル?になると、通りすがりの多くの人達が足を止め、私の顔と絵描きのキャンバスならぬ絵皿を交互に見て納得顔で去って行く。当時は今のデパートの少なくとも5倍は客がいた頃である。それは文字通り顔から火が出る思いだった。そんな懐かしくも恥ずかしかった思い出が、こんな摩天楼のテッペンで蘇る。

そこから再び歩き出し、いよいよビルの南西の我が家の方角に差し掛かる。やはり衰えてきた肉眼ではよく見えない。備え付けの双眼鏡があり、その横に書かれている説明書きの手順に従う。下に取り付けてある滑車のような物を20回も手で回せと書いてある。俗に言う自家発電だがこれが思いのほか重く、それから100円を入れる。なんでこんな善良な市民?が懸命に発電したのに金が要るのだろうか、これは公共のボッタクリだ。家の方角に見当をつけて覗いてみると、最近オープンした目白駅前にある和菓子屋の寛永堂の看板が大きく映る。そこからゆっくり家の方にずらして行くと見えた!小さな白い家は間違いなく私の家である。

感激のライブ映像なので、思わず携帯で我が家に電話を入れてみた。すると、起きているのかいないのか、夜明けのガス灯を連想させる妻の声、素早く状況説明をして屋上に出てもらう。やがてコードレスフォン片手に家の階段を上がる彼女の姿が映ってきた。私がサンシャインの大きなビルの中の何処にいるのか全然実感がないようだが、こちらは全てお見通し。"今、左手を上げているだろ"などと勝ち誇ったように興奮してしゃべる私は、魔法の望遠鏡を持ち、天守閣から下界を見下ろしているようないい気分である。しばらく上空からの景色を楽しんだ後、今度はその先で自分の生まれた日の新聞がコピーで出てくると言う自販機に出くわす。子供の声で"面白いヨ!"と繰り返し機械が呼びかけるので、つい手を出してしまう。私がどんな日に生まれたのかを知るのに400円かかった。

後日、私の似顔絵が描かれた絵皿をずっとそのままになっていたダンボールから探し出した。なんとも古い髪型の少年で、裏には昭和34年11月3日と言う日付と私の名前が書かれていた。持ち帰った生まれた日の新聞には、<日本は民主国家群へ復帰、トルーマン大統領一般教書発表、共産主義ソ連の陰謀>などと言ったアメリカへの傾倒と2大国の冷戦時代の始まりが色濃く出ている。本質的にアメリカへの従属は、今とあまり変わってはいないようだ。

私の家から再びあのサンシャインを見ていると、あの日の展望台の位置がわかる。そもそも自分はあそこに何をしに行ったのか、最初の目的や思いなどは霞か雲のように消えかけている。所詮我が人生は気まぐれに吹く風のオモシロ風見鶏で、その鶏は刻々と過ぎてゆく、時間という名の決して降りる事が出来ない列車に乗せられている。右往左往に紆余曲折、今日もこうして未知なる成り行きの中を生きている。
 2012.06.02 (土)  溝の口夜話
"飲むほどに酔うほどに笑いの輪が広がる"

そもそもスウェーデンから来たアルトのクラシック・ヴォーカリスト、マリア・フォシュストロームのコンサートへ行ったのが始まりだった。溝の口は渋谷から田園都市線で多摩川を越えて二駅ほどの所にある。私にとって初めて降りた駅だった。ここは驚くほど人が多く、吉祥寺や立川という何でもあるような大型の駅と同じような風情だった。そこから歩いて6分ほどに洗足学園音楽大学があり、その講堂でのコンサートだった。男性ピアニストのマッティと二人だけのコンサートだが、その美しい声と表現力の豊かさを堪能した。

その帰りにいつものKさんとオヤジ二人で飲んでいたのだが、その後4人の女性陣が加わり、偶然にも皆が勤めていた今は無き会社の同窓会という形になった。必然的に記憶や話題はその頃にフラッシュバックする。こんな場合、いつもそのネタはやはりあの人は今?的な話にはなるのだが、それはそれで面白い。何しろ同じ釜の飯を食ったのに今は全く音信不通になってしまっているのだが、その後の意外な人生展開に驚かされる事もある。例えば私の部下だった人が六本木でラーメン屋をやっているとか、又、ある人は離婚して何処かの島に渡り一人で農業をやっているとか、そんな話で結構盛り上がった。

夜も深くなると、仕事帰りの客も減り今までざわついていた店が急に静かになる。いよいよ話は佳境に入り、二人のスター?が俄然脚光を浴びる事になった。当然二人は酒の肴代わりでそこにはいない。一人はナントいってもW氏である。たまたまその夜は、彼の持つ一風変わった趣味に話題が集中した。渋谷から宮益坂を上がった青山通りの左側に、志賀昆虫という老舗がある。そこはもちろん昆虫採集に必用な網や注射器、その他グッズもさることながら、実際に珍しい昆虫の標本も売っている。
ある時、そこでW氏がとてつもなく大きなバッタの標本を買っていたと、会社で大騒ぎになった。パタパタと空を飛びまわったりする例のバッタである。なにしろ緑色で体長10センチ越えの稀に見る大物だったという。またその状況を垣間見てしまったのがTA氏だった。W氏にとって悔やんでも悔やみきれない、事もあろうに歩くスピーカーと異名を持つTA氏に見られたのである。いかにも気味が悪そうに大声で語るので、話は地球の裏側にまで届きそうな勢いで広まった。

当時の私はその事を半信半疑で聞いていたのだが、その夜のT嬢の話によると、この話に尾ひれや背びれまで付いていた。志賀昆虫のお店の人が新しい昆虫標本が入ると、まだ店頭に並ぶ前にW氏を捕まえて"新モノの凄いのが入りましたヨ"とニコニコ顔で報告するというのだ。いわゆるとっておきの得意様へのサービスである。これには全員が大笑いになった。会社ではただの変わり者(失礼!)が志賀昆虫店ではVIP、という二つの顔を持つ男というわけである。そして都内近郊にあるケーブルカーで上下する傾斜を利用したマンションに住み、常に全身黒尽くめの衣装。朝礼当番の時は、決まって最後に訳のわからない教訓やことわざを英語で言ってのけた。このW氏、いつまでも人を楽しませる並外れた能力を持つ男である。

その日のもう一人のスターはTS氏である。東大を卒業し、有名な大物政治家の家系に生まれた人が何故、我々のいたレコード業界などに来たのだろうという疑問が、あれから何十年も経ったこの夜に再燃した。もしかすると彼は俗人のような上昇志向はなく、上流階級にありがちな、あえて下降を好んだ風流人だったのでは?などという、大きなお世話な憶測が、ビールの泡と共に浮かび上がる。基本的に無口な人だったが、そこにいたM嬢曰く、"彼の本当の優しさに溢れた一言が、今でも心に残っている"という。

その時、私も彼の優しさを実感する出来事を思い出した。会社で昼食の弁当を開けると箸が入っていなかった。今のようにコンビニも弁当屋もない時代である。しかも場所は気取った原宿のピアザビル。どうしようと途方にくれていると、その様子を向こう側でじっと見ていたTS氏がわざわざ私の所にやって来て、イキナリ自分の割り箸の一本を半分に折り"これを使いなさい"と渡してくれた。お互いにえらく短い箸で弁当を食べたのだが、あの時の有難さは生涯忘れる事はない。一見人間嫌いのように見えてしまう不器用なTS氏。今宵はあの人の、あの時の優しさに5杯目の乾杯!となる。

気が付くと終電近くで、店の客もほとんどいなくなっていた。その帰り道、西口近くの昭和レトロ漂う店の前で足を止めたほろ酔い加減の6人は、しばしそこのホルモン焼きのどこか懐かしい煙に包まれた。過ぎ去りし日々、それを彩った優しくもユニークな人たちに思いを馳せたひと時。溝の口の楽しい夜をくれたお二人に感謝。
 2012.05.13 (日)  目白風景
一見枯れたような桜の枝にぽちぽちと蕾がつき、それがいつの間にか膨らんでその先端に白色が覗いている。それがほんのり桜色になってから早咲き、遅咲きの枝を見ながら徐々に満開を迎え、花吹雪舞う中を歩いたのは遂昨日のようだ。間もなく綺麗な赤色が先端の黄緑色の葉が、今はとても鮮やかな緑に変わっている。ここ目白に越して来て2ヶ月あまり経った。というより経ってしまったというほうが的確かも知れない。荷物の整理に終われる日々、時の経つのは早いものである。年だろうか?以前より頑張る気力が起きない。

それでも少しずつこの土地柄や周辺事情がわかってきた。私の家の前を右に暫く行くと、間もなく西武池袋線の踏切になる。それを渡ると国の重要文化財になっている自由学園の明日館がある。著名な人たちがここで学んだらしい。フランク・ロイド・ライト設計によるこの建物は、今の建築では出せなくなった趣がある。彼は日比谷の帝国ホテルの設計でも有名ではあるが、何といっても米国ピッツバーグのエドガー・カウフマン邸の落水荘が世界的に知られている。一般住宅においても私はすぐ窓に目が行く。木枠で少々古ぼけたものでも、今の時代のように画一的なものは無く、大正、昭和の時代のナンとも言えぬ郷愁にも似た感覚が蘇る。あの時代から今日に至るまで、誰がどんな思いで外を眺め、また明かりの漏れる部屋にはどんな人間ドラマがあったのだろう、などと思いを馳せてみる。いつも私が行くと結婚式や集会の日にぶつかってしまい、未だに中には入っていないのだが、今度は空いていそうな平日にでもお茶を飲みに行こうと思っている。

そこから家に戻る途中に目白庭園という日本庭園があり、そこを見学や茶会などで訪れる人も少なくない。歴史はそう長くはないようだが、長女の卒業式の日はご近所でお手軽な事もあり、記念にここで写真を撮った。学校がすぐそばという事で彼女が友人たちを呼び、その娘たちの撮影までする事になってしまい、迷カメラマンは冷や汗を掻いた。何しろ一生に一度の晴れ姿、いつもながらのいい加減な気持ちでは撮れない。それぞれ無事に社会人になれたとのことで一安心したのだが、10日ほど前にその撮影現場になった目白庭園でカルガモのヒナが孵ったと聞いた。

早速、再び迷カメラマンに成りすまし撮影してみた。この親子たち、もうそろそろ池ばかりではなく陸にあがって一列になって歩き出すようである。可愛い雛たちとそれを一生懸命育てている母鳥の姿にほっと一息つく。確か長女の卒業の日、この岩の上には亀たちが甲羅干しをしていたのだが、カルガモ親子の愛情に遠慮したのか、それとも水の中から優しく雛を見守っているのだろうか、自分たちの憩いの場である岩を片時でも譲ってくれている。そんな勝手な動物ストーリーを心の中に描いてみる。自国の経済を守る為とはいえ、何処かの島を俺たちのものだと主張しあう人間たちが悲しく思える。このカルガモの母は自分の尾で日陰を作り、そこで子供たちを人目や直射日光から守っている事もあるそうだ。

今日は母の日。私の母が亡くなってから20年にもなるのだが、今もって心の中でその存在が薄れる事はない。長男の妻として何かと親戚中が集まる事が多かった我が家は、母の手作りの料理を大人数で食べる事もしばしばで、その苦労は今思えば大変だったと思う。父の仕事を手伝って、夜更けまでタイプライターを打っていたその音も忘れる事はない。ちょっと大き目が難だったが、私の洋服などは大方忙しい母が作ってくれた。あの頃、まだ日本にはボタンダウンのシャツが製品として存在していなかった時代、映画の中のトロイ・ドナヒューが着ていたボタンダウンのシャツが欲しくて、襟の先にボタンを付けてもらった事もあった。生意気な小学生のニセのボタンダウン・シャツである。その愛情は偉大であり他に代われるものが無い。これを読んで下さっているお母様がご存命の羨ましい諸兄たちには、出来る限りの親孝行をお勧めする一日である。
 2012.04.28 (土)  背番号24
プロ野球が開幕し早くも一月あまりが経過した。やはり私は最近のサッカーも面白いとは思うのだが、少年時代からずっと草野球で慣れ親しんだこちらの方が寄り身近に感じる。子供の頃、温かくなると家の裏の原っぱで父とキャッチボールをしたものだった。多くの場合、私がキャッチャー役だったのだが、小柄だった父の投げるボールは意外に速く、そのシューっと唸る音は今でも耳の何処かに残っている。こんな野球少年だった頃に忘れられない事があった。

西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)の在京の定宿が、後楽園球場から歩いて5分ほどの春日町にあった時代の事。普段は東京にやってきた学生たちの修学旅行の宿舎にもなっていて、その名は大黒屋といった。純和風建築のなかなか趣のある旅館だったと記憶している。日本シリーズで西鉄ライオンズが優勝した1958年のことだった。西鉄が巨人に3連敗した後に4連勝で優勝した、今でも語り継がれる熱戦シリーズである。優勝監督の"三原マジック"という言葉が本当に浸透した年でもある。彼は父と大学時代の同期で、必然的にわが家は三原氏が率いるチームを応援する事になっていた。しかもこの年、チームには"神様、仏様、稲尾様"と言われたタフな鉄腕投手までいた。マジシャンの監督と神様と呼ばれた投手、まさに鬼に金棒のコラボである。奇跡は起こるべくして起こったのかもしれない。

ある時、私より年上だった近所の子供たちと、その宿舎へ選手たちのサインを貰いに行こうという話しになった。当時小学校の2年生だった私は、本当にそんな事が家の近くで実現するのものか、サイン帳を小脇に半信半疑で彼等に付いて行ったのだった。その日の朝、大黒屋の玄関横に選手たちのヘルメットが無造作に置かれていた。憧れの選手たちが被っているヘルメット!良く見るとずいぶん傷も付いていて、そんなに綺麗なものではなかったのだが、思わず手で触れてみた。ジーンと感動が染み渡る。すると"コラ!コラ!コラ〜ッと!"と大きな声が玄関先に響いた。ビックリしてその声の方を見ると、寝巻き姿で片手にバナナを持った、あの豊田泰光内野手がじっとこちらを睨んでいた。当時バナナは私にとってアイドルのようなもので、高価な美味しい果物だった。病気の時には母が可哀想に思ったのか?バナナが食べられた。学校は休めるし、好物はあるしでまんざら病気になるのも嫌いではなかった。それよりも強打者のスター選手に怒られたショックは相当なものだった。

意気消沈している間もなく、今度は背広姿の三原監督がやってきた。誰かを迎に来たらしいのだが急いでいるらしく、外で待っていると旅館の人に伝えていた。その待ち人であり、後に監督の長女と結婚した中西太選手が忽然と登場した。当たり前だが彼のトレードマークの艶消しのヘルメットは被っていない。風呂から直接出てきたらしく、タオルを腰に捲きつけたまま、上は素肌にワイシャツ一枚という驚きの姿だった。すると電光石火の早業か?下着も付けずにズバズバッと!大きな音をたてながらズボンを穿いて、監督の後を追うように飛び出して行った。俗に言うノーパンである。少々色は違うが、彼は今で言うライオンズのオカワリ君・中村選手のような存在だった。中西選手が平和台球場の大映(現・千葉ロッテマリーンズ)戦で放った特大のホームランは、史上最長という伝説にもなっている。それから新人でまだ恥ずかしそうにしていた城戸選手にもサインを貰った。大国屋の玄関先はまさに西鉄ライオンズの人間ドラマを映していた。

その後、一際オーラを放つ選手が廊下の奥に見えた。当時、日本中のマスコミが時の人と称えた稲尾投手だった。起き抜けだったのだろうか、普段でも愛嬌のある細い眼が一層細く見える。体はどの選手よりも大きく、既にライオンズのユニフォームを着ていた。その稲尾投手が子供の中で一番小さな私を見つけ、"坊やチョット!"と手招きをしている。私は夢を見ているように前に行くと、彼は玄関の上がり框(かまち)に座った。すると彼の大きな足のつま先が、遠慮がちに私の履いている靴の上に乗った。新しい真っ白な靴下だった。この図は今思っても可笑しくなる。相対する大小の二人、小さな子供が立っていて、とても大きな男が座ったままで、その子供の小さな運動靴の上につま先を乗せているのである。そしてその子の為に一生懸命にサインを書いている。ユーモア溢れるアメリカ漫画を連想させる。憧れの人は自然で飾らない大投手だった。暫くすると、私の足に彼の温もりが伝わって来た。

あれから半世紀という時が過ぎた。少年時代に何度か行き詰まり落ち込んだ時、足の甲に残ったこの思い出で救われた夜もあった。大国屋は大国ビルという僅かに名前だけが残る貸しビルになり、あの背番号24をつけた稲尾和久投手も2007年に他界した。以来ふと"24"という数字に出会うと、あの懐かしく優しい瞬間が蘇る。
 2012.04.17 (火)  ほったらかしの湯
雑誌にその雄大でのんびりした写真が載っていた。中央自動車道の人気の日帰りの湯としていつも上位に君臨しており、その名もズバリ"ほったらかしの湯"というのがある。
天空を仰ぎながらたっぷり湯に浸かる。以前から一度は行ってみたいと思っていた。

友人からホテル・チェーンの宿泊券をもらっていたのだが、ここ最近の引越しなどでいつまでも行けず、いよいよ優待期間が切れてしまうので焦って宿を探したのだが、何処も満杯だった。諦めかけた最後に、山梨県のフルーツパーク富士屋ホテルだけが何とか予約が取れた。春休みが終る寸前の息子との二人旅となった。いつも決まるまで何かと厄介な我が家ではあるのだが、あまり考えずにすぐ結論を出したがる男二人、かなりお気軽でシンプルな旅となった。

そんな行き当たりバッタリの旅は結構な拾い物があって面白い事になる。その偶然の拾い物とは、例の私がいつか行ってみたかった"ほったらかしの湯"がそのホテルのすぐ傍にあることだった。さすがに一泊旅行であるため、行った当日は大人しくホテルの湯に浸かりその近辺の施設などを見学する事にした。それにしてもここにあるフルーツパークはおそらく山梨県が総力を挙げて取り組んだと思われるお金のかかった施設である。道の駅ぐらいが我々庶民にはちょうどいいのだが、これも役人たちが何度も会議を繰り返し造ったモノで、学術めいた無用の長物といういつものパターンである。

ホテルが山の中腹にあり、しかも最上階である為必然的に見晴らしのいい部屋だった。食事は和・洋・中から中華料理を選んだ。エレベーターは降りる人より乗る人が優先という、今時珍しい客がいたり、食べている横を物凄い勢いで子供が走り抜けたりで、異文化の何処か懐かしいローカル色が伝わってくる。今回は地元や近県からの客が多いそうで、品位を何とか保ちたい従業員にはご苦労さんと声をかけたくなる。

帰る日の早朝、いよいよ"ほったらかしの湯"へ出発である。出発とは言っても車でほんの数分山道を上がるだけなのである。その日は車が数台止まっているだけで、ラッキーにも空いていた。到着するとこっちの湯、あっちの湯と二手に分かれている。
迷ったのだが、あっちの湯というのが何となくその時の気分だった。地元のまんまという受付のオジサンに700円支払って入る。ロッカー付きの脱衣場はあるし、ドライヤーまで完備。それで"ほったらかし"とはよく言ったものであるが、なかなかどうして充分なサービスである。

いよいよ露天風呂である。例の雑誌やインターネットで見た寸分違わぬ光景が目の前に広がる。違うのはなんとも心地のいい風が吹いていて、優しい日の光があたり一面に降り注いでいること。湯に浸かりながら、至上の幸せを手に入れた自分が、何処か違う所に行ってしまうのかもしれないと不安になり、幾度も目を閉じ又開ける。その都度太陽の光で一瞬暗くなるのだが、眼下には雄大で青く霞む甲府盆地が広がっている。それを囲む山々、右手奥には真っ白な富士が浮かび上がるように佇み、それを賛美するように冬の名残の枯れススキが揺れている。これまでいろんな風に吹かれてきたが、ここの風は格別である。湯で火照ってきた顔を爽やかに、癒すように吹きぬけてゆく。春の訪れを届ける鳥の声もなく、静まり返っているのも乙である。

男の旅は年とともに何処に行ったか、そこで何を食べたいか?などということにはあまり興味も執着も無くなってくる。そこではどんな風に吹かれたか、どんな光に包まれたかを感じる為に大なり小なり、チョッとしたリスクまで背負って旅をするものである。
ゆったりと流れる時は、面倒な現実も過去も未来もない。ただ心の中にある、鏡のような水面に細波だけが広がってゆく。そんな一瞬を求めてのボン・ヴォヤージュっと!ま〜こんな具合である。
 2012.04.08 (日)  名前
やっと春がやって来ている。ここ数年間は別れの卒業式に咲く桜が、今年は寒かったせいか出会いの入社式・入学式に八分咲きのとてもいい状況になっている。遅かろうが早かろうが桜の咲かない春は無く、必ずその時はやって来る。この季節の移ろいの中でも同じ顔をした春はないし、私とて昨年と同じではなく、あの頃よりも血糖値が下がり少しばかり体重も軽く、又一つ年をとった自分がここにいる。
それとこの引越しで想い出の品々とも別れた。これまで捨て切れなかった仕事で知り合った懐かしい人たちの名刺、何十年にも渡るスケジュール帳。これは自分の具体的な記録であり、歩んできた人生そのもののようなものであると感じてきた。それがここに来て、あえて区切りを付けてみた。今更、明日に向って生きる!などという意気込みを演出する気力もないのだが、天災人災、こうも世知辛く世の中が日々変わって行くのだから、過去を懐かしみ、時が止まっていることを大好きでいる自分が生野暮に感じた結果である。

この一連の動きの中で唯一変わらないのが自分の名前である。大きくなり何時しか腰が曲がっても、赤ん坊の時からずっと同じで古くも新しくもならないのがこの名前。女性は結婚や離婚で姓が変わるというのが大方ではあるのだが、それも近い将来、夫婦別姓というものになるのかもしれない。大いに結構な事であり、本来そうあるべきことだと思う。

自分の名前、小さい頃はこの秋場功司(アキバ コウジ)を呼ばれると、とても恥ずかしい気がしていた。カッコ悪いとさえ思っていた。近年、秋葉原をアキバという事が当たり前になり、そこから今をときめくアイドルも出現した。その昔、都電の13番系統は水天宮から秋葉原、万世橋を通って新宿の角筈辺りまでを結んで走っていた。私が通った中学・高校がその途中にあり、車掌がよく"アキバ行きますよ!"等と言っていた。その度に自分の名前を呼びつけにされた気になって、"違うだろアキハバラとちゃんと言えよ"と6年間もの長きに渡って思っていたものだ。それがかれこれ40年以上も前の話になるのだが、もう既にその時から今日の傾向があった事になる。

これは残念ながら過去を振り返った話である。前途のとおり妙に自分の名前を恥ずかしいと思っていた小学校の3年の頃だった。自分が誰にも負けない照れ屋で悪戯好きだった事は今でもはっきり覚えている。ある時、校庭で遊んでいるとツカツカっと違うクラスの女の子3人が私の前に立った。そしていきなり"お名前は何ていうのですか"と言われた。思えば逆ナンパである。突然の事、恥ずかしさを隠すことが精一杯で真面目に答える事はできない。咄嗟に口をついて出たのが"バキア"だった。トルコの景勝地のようであるが、何のことはない自分の名前を逆さにしただけの、今で言う業界用語である。

そしてそれを聞いた女の子たちの反応は何度も何度も聞き返し、その度に"バキア"と答えた。全然納得がいかないという風情で去って行ったのだが、実はこれからが私の試練の始まりだった。この区立の小学校、珍しくクラス替えというものが全くない学校だった。したがってその三人の女の子たちも六年の卒業まで、私とは実際に話す機会はほとんどと言っていいほどなかった。しかし、休み時間の校庭、運動会、遠足と他クラスと合同で動く事もあるわけで、その度に彼女たちに出くわす事になる。
以来、会えば"アッ!バキア君だ!"とキャッキャと笑い騒がれる。真面目に答えなかった仕打ちかもしれない。私より体も大きく、声もデカイ彼女たちを当然のことながら自然と避けるようになった。ちょっと厄介な事になったと思ったが、今更ながらの訂正やふざけた事へのお詫びも男が廃ると、一途な我慢であった。

高学年になった二学期の良く晴れた朝、寝坊で大幅に遅刻した事があった。一時間目の授業が始まりそうな時間帯に、又の名を"遅刻の王者"と呼ばれた私はトボトボと校庭を歩いていた。すると突然上のほうから"遅いぞ!バキアク〜ン!"と例の3人娘の黄色い歓声が静かな校舎に響き渡った。見あげれば、学校中のいろいろな教室から顔が出ている。もちろん私の所属するクラスからも。クラスの友人たちはそんな私の別名を知る筈もなかった。その後を追いかけるように、キャ~ッ!という嬌声が真っ青な空の果てまで伸びていった。校庭のど真ん中で何処にも逃げ場のない私にとって、それはまさに突然の襲撃だった。

この話、一生付き合う自分の名前は大切にしなくてはならないという事。そして人、特に女性に対して誠実に対応しなければ、しっぺ返しは必ず来るという私の子供時代における痛痒い教訓である。

余談になるが、先日、私より3歳年上の兄達の学年である先輩たちが、何十年振りかでクラス会をしたそうだ。その中の一人が水泳の北島康介氏の母上だったそうだ。当然そこにいた人たちから大きな歓声が上がったという。幼馴染みの○○ちゃんが世界ナンバーワンのスイマーを生み、育てたと聞けば、そこにいた皆がさぞかし驚いた事だろう。近所のお米屋さんの娘さんだったというその人と、3年間ほどこの"バキア君"も同じ小学校に通っていた事になる。
 2012.02.22 (水)  百回目のひとりごと
やっと天の恵みの雨とも雪ともいえないものが降ってきたと思ったら、又晴天が続いている。今年の寒さは一段と厳しく感じていたのだが、それはなにも私の年のせいだけではなく、例年にない寒波が列島を覆っていたようだ。晴れ渡った空と一体となった冷たい空気が、火照った肺に入るのが心地いいと感じる。私の朝の森の中を早歩きで一時間半、糖尿病撲滅の為の一個人の運動は未だ速やかに、密やかに続いている。昨年の晩秋から暮れにかけては、いろんな木々が赤や黄色に染まり真っ青な空に一際鮮やかだった。それもあっという間に年を越し、はや節分が終ってしまった。ここでは多くの年輩の人々が連れ立って和やかに歩いているのだが、私にとって唯一の相棒はウォークマンに入っている大好きな曲たちである。それとこの丈夫な体?があれば美しい絆も見せかけの友情もいらない。

リタ・クーリッジやジャニス・イアンの優しい歌声を聴き、白い息を吐きながら只黙々と歩き続ける。何よりも健康になるのだという強い意志と、私を励ましてくれている!と勘違いさせてくれるこの女性ヴォーカルの面々。およそ40年前になる成人式の日、同じ区民のガールフレンドとふざけ半分に文京公会堂(現シビックセンター)へ行ってみようという事になり、その家で彼女を待つ間、彼女の姉さんがレコードで聴かせてくれたディオンヌの"小さな願い"など、いくつもの曲には私なりの懐かしい想い出が脳裏を過ぎる。 光によって空と雲はいつも表情を変えて飽きさせる事はない。頬や鼻に吹きつける風はめっぽう冷たいのだが、それらはいつも生きている実感を自分に教えてくれる。この森では、つい先々月まで大振りのプラタナスの枯葉が風に舞いながら振り落ちてきていたが、小さなもみじ等の葉の中にはクルクルと、まるでヘリコプターの羽のように舞いながら再浮上を何回も繰り返しながらフィナーレを飾るモノもある。我が人生を投影させ、あんな散り方もいいな!などと納得している自分に思わずハッとなる。

このアイスブルーのひとりごとを書き始めてから今回でちょうど百回目になる。何事も飽きやすい私にとって、良くも続いたものである。言い訳がましく少々間が空いてしまったのは、昨年の夏から建築中だった目白の家も今週やっと完成し、それまではやれ照明器具だ、次はカーテンだ、屋上はどうする?部屋の壁紙の選択だと忙しなく、思う間もなく引越しの準備に追われている。貧乏性が骨の髄まで染み込んでいるものだから、何十年の蓄積の上に捨てる事が出来なかった膨大な荷物の整理は苦痛以外の何ものでもない。それとこんな時代である、ナニよりもお金の心配もある。

ただ唯一、煩雑な整理中の楽しみは思いがけない物の出現である。再会といったほうがいいのかもしれない。もうとっくに何処かで失くしてしまったような写真や服、想い出の品などが何気なく忽然と出てくる。小学校時代のご立派な?通信簿などはすぐに破り捨てたいのだが、先生の実に的確で冷ややかな言葉と、しょうもない我が子である私に期待を賭け、かばう母の文字。思わず目頭が熱くなる。今更ながら無償の愛に感謝である。その中の一つで、もう二十年以上も見ていなかった父と母と3人で行った台湾旅行の写真がひょっこりと出てくるのだからたまらない。確か、"ファーストクラスで行く台湾一周の旅"などという仰々しいタイトルの旅だった。

私の祖父は日本の統治時代に仙台から台湾の小学校に渡り、そこで校長をしていたと聞いていた。もちろん父も幼い頃の思い出の大半はそこにあった。私が幼い頃、南方の果物である、当時日本では珍しかったパパイアやマンゴーが良く我が家の食卓に上がったのも、父が昔を偲んでいる事と理解していた。旅の途中、ツァーの一行と別れ、3人で嘉義県の大林駅という所からその想い出の小学校に行くときの事が懐かしく、父にとってこの旅行のハイライトだったと思う。製糖工場の古ぼけた灰色の倉庫から出てきたトラックが、大きく横に傾きながら南国の並木道を走りすぎて行った光景が、どうしても忘れられない心の風景である。そんな通信簿や写真が出てきたりするものだから、一向に整理する仕事が進まない。通信簿は本当に残念ながら?母の字だけを切り取る事にする。そして写真は持って行けるが、一大決心で今回は想い出たちが染み付いた服や物たちとも別れようと思う。

それともうとっくに諦めていた夢の一つが実現しそうだ。夢なんてものはあくまでも只の夢で、現実ではないという思いがここ何年間の私の実感だった。この"アイスブルーのひとりごと"のアイスブルーというのは、私の所に来てからこの3月で、ちょうど20年目を迎えるポルシェの色のことである。かねてから私の願いだったのは、家の中の生活空間からこの車を眺めるということだった。そんな車好きのささやかな夢が実現する。長年付き合って来た友達の様な車がやっと日の目を見るという心境である。ひとりごとの百回目に免じて、この自己満足の極みとも言える写真も掲載させていただきたい。

私の人生にもこのたった3キロほどの移住で、また新たな節目が来ようとしているのかもしれない。無常であるのが人生、枯れて来たのか、感動も半減、見栄も半減。熱く大事なものを失うのもこれ又人生と感じる。転がり行く時の中、日々無遠慮に押し寄せてくる煩わしさという重荷と共に、新しい所での新鮮な驚きや発見を多少とも期待したいものである。
 2011.11.02 (水)  ザ・ガードマン
街ではもう"年賀状の印刷を承ります"などという広告が張り出されている。また一年が早くも終盤に差し掛かったということだろうが、夏から長閑な秋が無くなり、いきなり冬を迎える心境といえばいいのだろうか、こちらは一向にその気になれない。それでもそろそろ歳暮の時期になるのだろう、百貨店からそれらしい物が載っている小冊子が届いた。この時期の10度を下回る寒い朝には、ふと若い頃のアルバイトを思い出す事がある。自分なりに結構面白いバイトを経験してきたと一人合点している。人とその話をすると"俺がやらなかったのは、人殺しと強盗ぐらいかな?"とつまらないジョークを言うのがこの上なく好きだった。これが実に反響のないジョークだった。

普通の人は、自分のジョークが受けなかった時などは、その白けた空気を恥かしい事として捉えるらしいが、私の場合、例え気詰まりな雰囲気が訪れようとも、受けなかった事自体がとても可笑しく、一瞬の沈黙の後のなんとも言えない呆れた顔を見ていると、益々愉快になるという図々しさを持っている。要するに他人への受け狙いではなく、一人悦にいる孤独なジョークである。コレを近年では寒いとも言うらしいが、こういうジョークにハマルと、相手は笑いが止まらなくなる事もある。ただ確率はかなり低い。

そのアルバイトであるが、晴海ふ頭では歳暮品の客の住所不明による返品集積場での仕分け。ある時は白衣を着たレントゲンのエセ医師、又ある時は首に手拭いを巻いてトラックで走り回る、害虫駆除の運転手。美味しいアルバイトでは、いろんなチョコレートを食べてその感想を書き入れたこともあった。残念ながらこのバイトはたった一日で終る。このチョコの様に世の中そう甘くはない。そして極めつけは競輪、競馬場のガードマンだった。内訳はざっとこんな程度のものである。結構友人の家がその家業で、枯れ木も山の賑わいで、急場の助っ人としてやる事もあったと記憶している。

この中で今でも笑えるのがガードマンだった。寒い時期だったので、ほとんど街で見かける紺色の警察官と同じような服を着せられるバイトだった。他にも高校の友人である二人がこのアルバイトに参加した。集合場所は警備保障会社の友人宅であるが、私が最初に到着し、制服と帽子まで被って出動を待っていた。少し遅れてきた友人たちは、私の姿を見るなり、倒れるようにして笑い出した。その笑いが何時終るのかと思いきや、今度は息が出来ないと床に這いつくばってまで笑っている。なんとも失礼な話であるが、確かに鏡に写る我が姿、チリチリの髪が帽子の下から漫画のようにはみ出ている。それより何より顔も童顔で、しかも体重50キロそこそこの小柄と来ている。警官のような服は似合うわけが無いのであるが、詳細を聞かずに引き受けた以上、ここで辞めて帰るわけにはいかない。私だけが可笑しいのではなく、友人たちのガードマン姿も似たり寄ったりだったのだが、今更ここでは触れまい。

そして着いた所は立川の競輪場だった。早朝20人ほどのガードマンの整列から始まった。ここへ来るまでの道中、本日の予定や注意事項などを優しく語っていた、隊長らしき肥ったガードマンが我々の前へ出てきた。それまでとは打って変わって怖い顔になっている。そして"気を付け!敬礼!"と割れんばかりの大声で怒鳴った。いきなりの豹変振りに驚愕したのか?これまで私の姿を散々笑っていた友人の阿久津君のブカブカの制服が、目の前で震えている。それを見て思わず噴き出しそうになるのだが、ここは我慢である。見様見真似の生涯最初で最後のおぼつかない敬礼をした。そのジキルとハイド氏の訓示の後に続いて驚いたのは、競輪客の入場だった。開門と同時に全員が、われ先にチケット窓口へ全速力で突っ走る。我等ガードマンが"走らないでください!"などと叫んでもおとなしく聞く連中ではない。これと同じような光景は何処かの神社からのテレビ中継で見た事があった。これは今日一日の席の捕り合いらしく、誰もが死に物狂いだった。転んだりつまずいたりする者までいる。何故ここまで一生懸命になれるのかがわからない。

暫くしてから、私の今日の仕事場である場所に連れて行かれる。私が警備を担当する所は、人の往来の激しい階段の踊り場だった。午後になり冬の日が早くも西に傾く頃、私の前に立ちはだかる見知らぬおじさんがいた。こちらは暫く知らぬふりをしていたのだが、あまりにも執拗に私を見ているので、仕方無くそのおじさんの顔を見た。すると一言"ザ・ガードマン!"と言って、振り向きもせず去っていった。フラフラした足取りの後姿は、若く凛々しい?私の目に焼きついた。

当時、宇都井健や藤巻潤等が出演のテレビドラマの"ザ・ガードマン"は、年間を通して2度も最高視聴率を誇る超人気番組だった。あの競輪場のおじさんは、こんなジョークを言いたいが為に、ずっと私の前で待っていたのだ。今思えばこのジョーク、他人への受け狙いではなく、一人悦にいる私と同種のジョークだったとも言える。やはりと言えば何だが、人それぞれの顔があるように、人それぞれのユーモアがある。そしてこの思い出にちょっぴりほろ苦さを感じるのは、警察官の様な服が、私には全く似合わなかった事。そして、今最も新聞やテレビを賑わせている警備会社だった事である。その後社長になった友人は7年ほど前に早世している。
 2011.10.16 (日)  誕生日会
心地よい秋風が吹きぬける神社の前を通りかかると、先を行く年輩の女性が一礼して通り過ぎて行った。さわやかな情景だった。ここで思ったのだが、私は神社で拝む時、常にお賽銭を放りこまなければ願いが叶わないような気になる。タダで拝むと何となくズルをしたような後ろめたい気持ちになる。それでもケチな私はいつも形だけの5円か10円、たまに奮発して100円という功徳?を行なう。それは妥当な金額だと思う10円がないときである。生まれてからお札を入れたことは無く、いつもコロコロ、チャリン!である。その音に神様が気付いて"ハイわかりました"と言ってくれる様な気になる。何を願うかその時々の自分勝手なニーズだが、およそこれも形式的に行なう。晦日になると、人気の神社に祭られている神は大忙しで寝る暇も無いだろう。責任感の強い神などは、一度に数万人の願い事を聞いてやらねばならない。まさに神技に次ぐ神技の連発である。詰る所、人は願い事をした事実を自己に言い聞かせ、安心する為にお賽銭があるのだと思っている。

その日の夕方、珍しい事に友人のお誕生日会にお呼ばれした。こう書けば何となく少年のようで可愛いのだが、実は彼は62歳で呼ばれた私も今年60歳になっている。しかも本人が自腹で、自由が丘にある立ち食い小籠包の専門店を借り切っての誕生日会である。なかなか可笑しく粋なことをすると思いながらも、これはさすがに手ぶらでお邪魔するわけにも行かない。畏れながら神社のお賽銭と友人の誕生日プレゼントをゴチャ混ぜにする気は無いのだが、あちらはおよそ私の知らない人々の神社運営費になり、こちらは良い友人である為の友好継続費となる。金額の差こそあれ、どちらが有益かといえば言うまでも無い。

それで何をプレゼントしたかといえば、ラルフローレンのパープル・カラーの下着のパンツである。普通、おじさんたちのパンツはおよそ日の目を見ることが無い。ほとんど一生日陰者、いや日陰物である。しかも時たま無遠慮なオナラを直接吹きかけられる。今となってはどこかの妖艶な美女から、薄明かりの中で"あら、可愛いパンツ!"などと褒められる事もまずない。それでもわずかに日の目を見るとすれば、洗濯物として物干しに架かる時ぐらいのものである。故に、いまだ現役で頑張っている一握りのチョイ悪オヤジ意外は、こういうものに一切お金をかけない。だからといえば何だが、小粋なパンツをはいて気分の高揚を謀る。そんなチョッとした洒落心で贈った方も楽しいのである。

誕生日会に到着すると、そこには懐かしい面々が顔を揃えていた。ニッポン放送、Jwave、トーキョーFM、NHKなどの番組制作スタッフや私と同じレコード業界だった人々である。それぞれ手ぶらでは無かった様なので一安心、何とか小さな面目を保ったようだ。 しばし、昔話に花が咲く。忘却の彼方にあった出来事は、その人の顔を見るなり鮮明に蘇るから不思議だ。例えば昔の平凡社、今のマガジンハウスが提供のパンチ・パンチ・パンチという番組がニッポン放送にあった。そこに冨田勲さんというシンセサイザー奏者の第一人者がクイズを出す事になった。

当時レコード発売になった彼の6作目のアルバム"バミューダ・トライアングル"のサウンドの中に円盤が登場する。当時、そのレコードの元は5チャンネルの音で制作された。それを一般の2チャンネル・ステレオにトラックダウンして発売となったのだが、例の番組も月〜金の五日間で15分の帯だった。冨田氏曰く、5チャンネルを月〜金で一日1チャンネルずつ音を流せば、円盤がどのように部屋を駆け巡るのかが解るという。今日は前方の右のスピーカー、明日は天上ってな具合である。

そのアイデアに一同大いに盛り上がったのだが、そこで大きな問題がある事に気が付いた。5チャンネルを同時に聞くとなるとラジカセは5台も必要になるし、それを同時に押す人が5人必要となる。しかも1チャンネルにいつも音が入っているわけも無く、15秒も20秒もの空白のチャンネルがある。点けているのに音が出なくなった!などと言って、ラジオの故障か放送事故と勘違いする人も出てくる。しかし当時、若かった担当の宮本ディレクターは局の上司に掛け合い、その難題溢れるクイズ番組を実現させてしまった。

こうして難しいクイズに応募した聴取者の人たちは70名にも及んだ。ちなみに円盤は、左回りに旋回しながら真上の上空に消える。というのがクイズの正解だった。この後、真面目な冨田勲氏はクイズに応募した諸君たちにいたく感動され、一人一人に自筆で"何さん!良く頑張りました"という葉書を送ったのであった。この世界の冨田氏、こよなく日本酒を愛し、壮大な宇宙のロマンに夢を託し、どちらかといえば派手なアーチストというよりは、実直な技術屋で純粋な心を持った素敵な人である。そこに来ていたニッポン放送の宮本氏等とそんな懐かしい出来事を楽しく語った。

ここでは本当に久しぶりの出会いがあった。一緒に番組を作ったことがある三木氏から、FM番組の選曲の仕事も引き受ける事になった。変わった人、当時と体系も髪型も全然変わらず、あの時のままという小憎らしい人もいる。何はともあれ昔の仲間に会うことは、しばし心はあの時代に帰ることが出来る。小籠包とエスニックなビールも美味しかったが、私にはこんな事、あんな事を語り合い、そして何よりそこには懐かしい笑顔があることが最高のご馳走だった。そしてこれはあくまでもお節介極まりない推測だが、おそらく日陰物になりそうなパンツ一枚のおかげで、こんなに楽しんだ人の誕生日会も初めてである。
 2011.09.21 (水)  健康
話は昨年の5月の事だった。人間ドックが終わり、最後に例の結果発表となる医者との面談の際"あなたは立派な糖尿病です"とにべも無く言われたのはつい昨日の事のようだ。人間何処かに過信している所がある。私はかなり丈夫な体の持ち主でいると思っていたのだが、あの一言でそれがもろくも崩れ去った。あれから早一年が過ぎ、2度目の炎暑に悩まされながらもう9月。

今年の4月、膀胱に痛みが走るようになり再び医者にかかった。いろいろな検査の結果、おそらく糖尿から来ているのではないかとの事。その際に栄養士まで面会させられ、本格的に体重を減らし、必然的に結果を出すような風向きになってきた。目指せ!体重65キロと、年始めの誓いを立ててからズルズルと実行出来ぬままに、少なくとも7年は過ぎたと思う。幼い頃は何しろ食が細く、チビで痩せっぽちな少年だった。そしてその反動か、社会人になってからの暴飲暴食、特に独身時代の酒は、六本木や原宿、渋谷を中心に毎夜のごとく良く体が続いて耐えたと、私にではなく胃袋と肝臓に何とか栄誉賞を捧げたい気分である。それから結婚して四半世紀、痛風の発作と腎臓結石に見舞われたのも2度3度。続く、いや勝手に続かせた酒と飽食の蓄積が、我が家系では前代未聞の、糖尿病患者の出現となった訳である。真面目に生きていて、しかも先天的な糖尿病の方には申し訳ないのだが、私の場合は欲望がいつも理性に勝ち、怠惰とわがままが招いた結果という事になるのだろう。

この際本格的に心を入れ替える事にした。ちょうど7年前に禁煙をして今に至っている強い決意を思い出した。運動の場として少々飽きていた哲学堂公園近辺に別れを告げて、今度はある時に偶然見つけた、もう少し広大な面積を誇る江古田の森公園に、私と糖尿病の決戦の場を移す事にした。家からそこへたどり着くまで20分、チャリはやめて歩いている。道端に咲いている藍色の朝顔に暫し足を止め、遠い日の夏の朝に思いを馳せたり、通りかかった家の味噌汁の香りに何故かほっとしたり、こんな朝の早歩きを始めて4ヶ月あまりになる。大きな木が生い茂るここはちょっとした森である。早朝は元気な老人たちが、気の会う仲間たちとペチャクチャしゃべりながら散歩を楽しみ、同時に健康も手に入れるという一石二鳥の離れ業?を毎日のように繰り返している。8時ぐらいからは若者がかなりのハイペースでジョギングに励んでいるという具合である。

文献によると、ここは江戸時代から将軍が鷹狩に使っていたそうで、その後、東京市になり結核の療養所になったという。その歴史の重みが育てたのだろうか、今の東京には珍しい立派な大木が多い。早朝の森はどんな暑い日でも清々しくて気持ちがいい。そして遂この前までは、黒アゲハや青筋アゲハは当たり前、日本ではまず見ることが稀な、グリーン色に輝くカラスアゲハが飛んでいるのには感動モノである。普通に野生のカブト虫のオスとメスが、ハグしたり樹液を吸っているのにも驚くばかりである。そして今は8月には全盛を誇っていたアブラ蝉、ミンミン蝉がいなくなり、夏の終わりのツクツクホウシがわずかに鳴いている。おそらく今日のこの強烈な台風で、明日からは蝉の鳴かない森が待っているのかもしれない。

以来私の食事は野菜中心に切り替え、夜は極力炭水化物を控える。水は硬水を良く飲み、朝の早足での1時間~2時間をかけた運動の効果あり、結果、体重は念願の65キロほどになった。多い時から7キロ減である。とりあえず目標達成。何をするにしても体が軽くなったと感じるし、だるさも以前に比べると圧倒的に少なくなった。それにしても不思議に感激はない。

そして、今月の初めに再び検査があった。相変わらず病院は混んでいて、待ち時間もたっぷりあるので必然的に人間ウォッチングになる。せっかちなお爺さんが受付で揉めている。するとあちらから、お腹の大きな妊婦さん達が一列に並んで行進して来た。みんな真面目に病院施設の説明を聞きながらの行進、何故か可笑しく笑いがこみ上げて来る。みんな揃って外股で、しかも体を左右に揺らして歩いている。失礼ながら、まるで小型の幕内力士たちの土俵入りの風情である。あの人たちもやがて母になり、愛情たっぷりの子育てに自身の半生のほとんどを懸けるようになる。どうか無事に丈夫な子を産んでくださいと心の中で祈る。この病院で母が兄を産んだと聞いている。当時、私の祖母にあたる姑がその長い入院に閉口し、まだ小さい兄を残されたら面倒と、二番目の私は自宅で生んでくれと言う事になったらしい。そこでお産婆さんを呼んでの在宅出産で私は世に出たらしい。生前母から何度もその話を聞いた。今思えば、あれは母の愚痴だったとも思える。

待つ事およそ40分。やがて栄養士との4度目の面談が始まった。別に下心があるわけでもないが、4度も会っていればその人の名前を覚えようと、ふとその胸元に付いている名札を見た。幾度目を凝らしても、そこには"色魔"と書いてある。SIKIMAと読み方もそうである。彼女は華のある若い女性である。独身なら早く結婚して違う名前になったほうが、などという大きなお世話な事を考えながら、一生懸命な彼女の話を神妙な顔で聞いた。こうしてみると患った人が集まる真摯で固い病院も、中々どうして笑いの種は転がっている。そして、医者からも努力の結果の好数値にお褒めのお言葉をもらった。

こうして私は、健康に対して初めて真剣に取り組んでみた。4月21日から4度目でHbA1c、という見慣れない記号であるヘモグロビンの数値は不十分、また不十分、そして良から優へ。学生時代になかなか取れなかった優が、私の糖尿病連携手帳の中にある。健康という言葉の二文字は生きている事の有難さや喜びの源、つまり全てである。今更ながら健康オタクにはなれないだろうが、人並みに自分の体に気を使う事への第1歩を、私なりに踏み出せたのかもしれない。

<後日談>

栄養士さんの名前の件で友人たちから思いもよらない反響があった。あれは色麻(シカマ)だろう、いや色魔の魔は摩周湖の摩だろう、などと中野や新橋などの酒場で盛り上がった。何度も見直し確認したと自分でも思っていたのだが、それでも不安になってきた。それを確かめるチャンスが偶然にも昨日巡ってきた。内科の医師の前に、幸運にも?栄養士との面談を行なってくださいと言われた。部屋に入り、恐る恐る彼女の胸元の小さな文字を盗み見すると、なんと魔ではなく摩であった。読み方はシキマであるのは間違いないのだが、大変失礼な見間違え。自分の軽率で野暮な早合点を深くお詫びする。
 2011.07.31 (日)  蓮華往生
暑い夏が来る前だった。池袋のジュンク堂でこの本を手に入れ、そのままになっていた種村季弘著の「江戸東京<奇想>徘徊記」というものを読んでみた。選んだ三十ほどの東京の街を闊歩し、その街のこぼれ話や、古い文献から伝わる興味深い事柄などを紹介している。著者はもう故人となっているのだが、読書家で博学もさることながら、その前向きで粋な探究心に感服する。中でも最初の項にある碑文谷の蓮華往生というものが私は個人的に気に入っている。

そんなある日、東急東横線の都立大学前に、以前私の勤めていたレコード会社の専属歌手だった前川清氏の事務所があり、そこへ来春のイベントの打ち合わせで行く事になった。確かあの本に書かれたお寺は一つ手前の学芸大学前だったのを思い出し、仕事の後のお楽しみとして、目黒近辺の散策方々訪ねてみる事にした。

まずは柿の木坂をスタートし、圓融寺(えんゆうじ)という蓮華往生の舞台になったという寺を目指す。都立大の駅方面に目黒通りを渡り、閑静な住宅街を暫く北に向うと環七に出る。途中、"雀のお宿"という東京にしては珍しい立派な竹林の公園がある。ここが昭和初期には竹の子の特産地として知られた農村地だったという。この竹林と田畑が広がっていた碑文谷村が、東横線開通後、中流住宅地に変わった歴史を偲びつつ、暫し癒しの休憩をとる。ここは例の"ささのはさらさら、のきばに揺れた"という懐かしい七夕の唄が、ふと口をついて出る風情である。

それから15分ほど歩いて目指す寺に到着。圓融寺が日蓮宗法華寺として栄えた江戸寛永年間、3万7千余坪の寺域に18の坊舎を擁し、末寺は75を数えたと言う。入口には木造の金剛力士像が睨みを聞かせる名物の仁王門がある。そこを抜けて暫く行くと、室町時代初期の建立とあって、現存する東京都区内、最古の寺院建築である釈迦堂がある。当然のことだが、俗人の私が興味を持ったのは、そういう一般の知識人的な歴史や建造物ではない。この寺で行われたと言われる蓮華往生という怪しげな宗教アトラクションの事だ。

ここから原文のまま表記する。蓮華往生とは何か。信者に即身成仏を願うものがあるとしよう。まず希望者を募ったうえで、その人に経帷子(かたびら)を着せ、唐金(からかね)の八葉の蓮華の台に座らせて花を閉じる。坊主どもが蓮華台を囲んで木魚や鉦(かね)をジャンジャンたたき、耳を聾せんばかりに読経の声をあげる。と、そのすきに蓮華台の下にもぐりこんだ黒衣の男が、犠牲者の肛門を槍先(焼け火箸とも)でエイヤッとばかり刺し貫くのである。ギャ、ギャッーと断末魔の叫びもものすごく。と思いきや、読経の合唱にかき消されて周囲を取り巻く信者たちの耳には届かない。やがて蓮華の花がおもむろに開くと、往生した信者がうっとりと安らかな死に顔を浮かべているという寸法。ありがたや。これぞ蓮華往生、極楽往生。並みいる信者たちはコロリとまいって、財産をありったけ寄進してしまう。以上原文のままである。往生料金は一人というか、一体につき百両から二百両。思うに蓮華往生稼ぎに笑いが止まらなかった事だろう。

この諸説、始めたのは寛政時代の住職の日附ではなく、それから百年をさかのぼる元禄時代の日奥だったということだ。それにしてもあの時代に、蓮華の花弁を機械仕掛けで閉じたり開いたりする事を考え付いた悪住職も相当なものだったと思われる。一方、どうもこの中に仕掛けがあるらしいとの噂が世間に広まり、お上の手が伸びて遂に悪事露見。それぞれの時代の二人の住職は、同じように死罪にはならず遠島処分になった。と言うことは百年の時を経て2度も同じような宗教アトラクションが開かれた事になる。当時、処分の生ぬるさに憤慨する向きもあったという。その後、法華寺は日蓮宗から天台宗に宗旨替えし、その名も圓融寺と改めて今日に至っている。

そんな事を思いながらこの寺を巡る。この本の付録にも書かれているのだが、こんな静かな寺でいかにも危ない宗教イベントがなされたとはどうも信じがたい。この話の裏には当局が絡んだか、それともひがみの塊となった他宗教が隆盛を極める法華寺を潰す為の、風評被害を流したと言うところではあるまいか。それが私の小旅行の感想である。だが、およそ大正時代、この写真の仁王門の横の藪を掘り起こすと、焼いた人骨の壷が数えきれないほど出たそうである。(目黒随筆"ひなたぼっこ"より)それが蓮華往生の犠牲者かどうかは知るよしもない。

ここへ来るまで約一時間半、少々歩き疲れた体に閑散とした寺の静けさが沁み込んでいく。その片隅に座り、遥か往時に思いをめぐらせると、万が一この話が本当にあったなら、蓮華の花弁が閉まり、坊主たちの読経の中、開く時には当人は極楽に行っているという事になる。この世で貧困や病なりで苦しむ信者達は、藁をもつかむ思いでこの詐欺イベントに夢を馳せたに違いない。

私の知る限り、とかく宗教は科学的、現実的であってはならない。キリストの母が処女で彼を産み、釈迦は生まれて間もなくスタスタ歩き、天上天下唯我独尊との賜ったという。 近年では座ったまま宙に浮いた悪い奴もいた。言い伝えというものは常にご都合主義の虚飾、脚色が付き物であり、このように我々の知りうる偉人、聖人、極悪人も然もありなんと言ったところである。幻が現実か、現実が幻か、その全ては人の心が動かし、創造してきたのではないかと思う常日頃。優しく愚かでもあり、弱くも怖くもある人の心。そんな人間の真を思う夏の午後だった。
 2011.07.10 (日)  噂話
今年も本格的な夏がやって来たようだ。ようやく震災ショックから立ち上がる心構えが出来たのだろうか、暑気払いなどと称して人と会う機会も多くなってきた。巷には絶えることなくいろんな噂が流れていて、誰かと誰かが会うと必ずそれになる。その中でも大人がする噂話と、子供どうしの噂話とは中身はもちろんだが、意味合いも異なって来る。前者はとかくテレビのワイドショー的なお節介な話しが多く、しかもそれは超現実的で夢のカケラすら見当たらない。そこへ行くと子供たちの噂のほとんどは生活感がないものが大半だったし、嘘っぽい所にアッケラカンとした夢やロマンを感じた事もあった。

この噂話は私の小学校時代まで溯る事になる。東京にも至るところに野原や森、崖が点在していた時代だった。家から歩いて間もない所に、崖に森が覆いかぶさったような所があり、その途中あたりに妙な煙突らしきものがあった。ローカルでとても古い話はこれから本筋に入る。

ある時そこを通りかかると、あろう事か、煙突から恐ろしい声が聞こえて来て、その後にフワっと煙が上がったと言う怖い噂が私たち子供の間に広まった事がある。当時、おっちょこちょいという言葉が、そのまま男の子になってしまった様な連中によって、それを確かめる為の探検隊が編制された。総勢3人、その中心人物は他ならぬ私だった。理由は、噂の現場から家が一番近いという事だけだった。実態のない恐怖がともなうこの手の噂はとても苦手だった。成り行きに流されたという所は今と同じである。

一応何が起こってもいいように木の枝で作った剣まがいの棒とロープを持ち、用意万端、勇猛なる探検隊は発動した。崖を這う道なき道を下る。途中カマキリの卵のついた木や、虫の死骸がいっぱいの蜘蛛の巣などを掻き分けながら、例の現場に到着した。眼下の向こうは小石川後楽園の森が鬱蒼と広がっていた。今、その隣は東京ドームだが、当時は最終を知らせる鐘の音に湧き上がる歓声、そんな荒んだ空気が場外にもこぼれ落ちる競輪場だった。その噂の煙突は、素焼きで一抱えほどの土管が地中に刺さったような状態で、ちょうど子供の腰ぐらいの高さだった。上には魚を焼く網のようなものが被っていた。

辺りは静まり返っている。噂の怖い声もしていないし煙もない。即席探検隊のプライドが後押したのだろう、恐々ながら中を覗き込んでみた。そこは真っ暗で何も見えない。井戸ではないらしく奥底に光る水も無く、ただただ暗闇が広がっていた。一瞬、何か異様な空気が立ち上がった気がしてゾクっとするが、やはりそこには凛とした静粛があるだけだった。暫くして何も問題(恐い事)がないとわかれば、調子に乗るのはもちろん私だった。試しに"アッ"と大きな声を出してみた。これがエコーをかけた様に美しくとても良く響いた。それからは子供特有の楽しいと何度でも繰り返す、例の癖が出た。

アッアッという大合唱!怖い噂を遂に征服!勝ち誇ったように愉快になりかけた時だった。"うるせーぞ!このヤロー!"という大音響が、真っ暗な地獄の底から響き渡った。いきなりだった。それはもうビックリ仰天なんてものではなかった。その場で飛び跳ねた後に尻餅をつく者もいて全員が暫く動けなかった。気を取り直し、一目散に崖を駆け登った。やっとの思いで逃げた所が天神様の境内で、そこで暗雲立ち込める緊急会議が行なわれた。議題はもちろん、<今のはいったいナンだったのか!>というものだった。お化けにしては声が大きすぎるし、言葉も乱暴すぎる。いくらやっても結論が出ないし、つい先ほどのショックにもめげずお腹も空いてきた。残念ながら探検隊はこれにて解散という結論に至った。そぞろ夕闇が迫る頃、怖かった思いをそれぞれの胸に家路についた。

夕食の時、3歳年上の兄に今日の恐怖の出来事を語った。すると、"馬鹿だな〜お前たちは、あそこの下には小倉さんという一家が住んでいて、それは(噂の煙突の事)家に外気を取り入れるのに使っているのだろう"という話だった。あの時代、たった3歳でこうも情報量に差があった。怖い噂や無駄に終った冒険心、何よりも驚かされた漆黒の地獄からの大声、そのすべての謎があっけなく解決する夜だった。残ったのは空虚感と安心が入り混じった複雑な思いだけだった。

およそ少年時代の出来事は寄せては返す波のようで、次から次にやって来ては何も残さず去って行った。だが緊張、楽天、地獄と、三つ巴の感覚が一緒になってやって来たこのシーンは今も心に残っている。子供達の噂話の本質とは所詮こんなものだったと回想する。 私がそうであるように、大人になった男の多くは、失くしてしまった冒険心を見果てぬ夢のようにいつも心のどこかに探している。もう取り戻す事が出来ない無垢な心があった時代である。これから先も、私はこんなささやかな思い出をいつまでも忘れないでいるだろう。
 2011.06.19 (日)  メールにインターネット
先日、一寸嬉しい事があった。そろそろあらゆることを経験したと勘違いしてくるこの年齢になると、生意気にもちょっとやそっとのことでは喜ばないし、そう嬉しい事にめぐり合う事も少なくなってくる。そんな日常に流されている私にとって、やはりそれは嬉しい事だった。

ここ何回か文面に登場した、深谷の割烹亀山からの電話だった。この"アイスブルーのひとりごとを見て食事に来ました"というお客さんが来て下さったとのこと。他にも同じ理由で問い合わせがあったという。驚いたのは、これを書いている私の知り合いではないという事だった。全く見ず知らずの方がこんなひとりごとを読んでくれて、しかも深谷までわざわざ足を運んでくださった事に、そこはかとない感動を覚えた。

オープンして約半年。亀山氏の料理人としての徹底した味へのこだわりと、私共のそろそろ80年に手が届きそうな民家とのコラボがうまく機能して、今では中々予約が取り辛い隠れ家的な料理屋になっているらしい。そんな折に、このインターネット時代で膨大な数の中の一つでしかない、私のブログに目を留めてくれる人がいた。よくよく考えれば凄い時代を迎えたものだと思う。子供の頃から字を書くのが億劫で、夏休みの宿題の日記すら苦労していた私が、今こうして"ひとりごと"なるモノを継続している。私の昔を知る人達には到底信じられない事だろう。

これまで四半世紀にも及ぶサラリーマン生活でも転勤ということにもならず、したがって何処の地にも暮らさずこの東京に生まれ、住み続けているという事になる。
このひとりごとの舞台は必然的に東京であり、時は昭和に行ったり、またこの平成に戻ったりを自由に出来てしまう。言わば無賃乗車を繰り返す時空の旅人と言った所だろう。確かに若い頃とは違い、細くなりつつある記憶の糸を手繰るのには時間もかかる。それでも、思いもよらない昔日の情景は、今は亡き若かりし父母のその時々の表情や言葉、幼い頃や青春時代真っ盛りの仲間たちが忽然と現れる懐かしいひと時である。その一方では悔し涙にくれた事や、悲しい現実もあった。そんな思いの何もかもが、主体性やこだわりなどというものを日々失いつつある、今の私の中の一部分である事は間違いないようだ。

現在は何処にいても携帯を鳴らされチェックが入る。恋人同士がお互いを無意識の内に縛りあい、友人や仕事仲間からも、その返事がないとサボリのレッテルが貼られてしまう時代だ。秘密も間違えれば、メール一発で鼠算のごとく何万、何十万の人に知られてしまう。例の大相撲も携帯メールさえなかったら、相撲という歴史が始まって以来行なわれた、手に汗握る勝負の世界が、八百長として世の中のそしりを受ける事はなかっただろう。
だが確かに心情的にも怪しい勝負も昔からあったし、大方の予想を裏切る歓喜の意外性もあった。大人も子供もそんなプロの世界の怪しさと厳しさを、独特の風土として捉えて来た。これが我々大衆と角界の暗黙の了解だった。それが小さな証拠を後ろ盾に、本来、表も裏も承知のハズのマスコミが寄って集って悪だ!八百長だ!と騒ぎまくる。群衆の悪癖で、それを一丸となってやる事自体が八百長だ。真実を伝える義務は認める。しかし夢を大切にしてきた日本人としての節度というものを、なんでも食っては吐き出すマスコミには必用と考える。

その昔と言ってもつい先頃のようだが、直接会ってその人の目を見て話し、心通わせた時代だった。待ち合わせ場所に遅れているあの人は、どの辺りにいるのだろうとイライラしながらも心配し、家族たちはこの時間にそれぞれ何をしているのだろう?などと思いを馳せた事も今となっては懐かしい。スピードと効率のあくなき追求に辟易とし、新しい時代なるが故に生まれ出た困難に直面することもしばしばだ。それでも私はこの時代に生きている。朝起きてその気になれば、何十人の知り合いとでも一度に情報を交換ができる。又、いながらにして金の振り込みや、午前に注文した酒の肴や重たい米が、その日の夕方には自宅に届く。指先一本、それは何といっても便利な時代に突入している。そしてこの"ひとりごと"によって、見知らぬ人と心が繋がっていたりすることに、ほのぼのとした幸せも実感できる。

明日に背を向け、意固地な固い殻に閉じこもりたがるもう一人の自分が、時々心の中にひょっこりとやって来る。でもここは "時代への感謝"と言う寛容を受け入れ、長年人間を演じて身に付けた、僅かな知恵を頼りに楽しさを模索しながら生きる。そんな肯定がほんのささやかな幸福感を呼び寄せてくれるなら、今はそれで充分だと思う。"心開けば幸せが!"なんて言うこのワタクシ。もっともらしい悟りを開いた似非(エセ)坊主になってしまったようだが、詰る所、今をエンジョイする。只それだけの事だ。
 2011.06.12 (日)  妙な事
世の中には理解に苦しむ事や、妙な事がいつもそこらに転がっている。書きとめたならとても面白いと思うのだが、いつもその場限りになって忘れてしまう。今ポツリ、ポツリと思い出しているのだが、それでも三つほど浮かんできた。

<オカマとオナベ>
これはオカマ全盛時代の単なる疑問である。TVを点けると必ず何処かでオカマが映っている。以前はその存在だけでも可笑しく、しかもペラペラ良くしゃべる者から(私の知る限り、大体無口はいないようだ)ファッションや芸能にうるさいのが中心だった。最近は横とか立てがやたらとデカイのから、美容の専門家に大・小取り混ぜた声楽家、踊りの振付師にマッサージがお得意のやら、怪しい霊能力を持っていそうな者まで、あらゆるジャンルで活躍するオカマ達がTV業界を支えている。私のホンのわずかな経験ではあるが、もともとは新宿の2丁目やゴールデン街、西麻布あたりで夜半から深夜に出没していた人々だったと記憶している。それがTBSのラジオに出演していたおすぎとピー子あたりから、メジャー・デビューとなったと思われる。ホモはいやだがオカマは面白いという、それを何処で線引きするのかは未だにわからない。イメージとしてホモは暗くてオカマは明るく面白いという事なのだろうか。それをマスコミの連中がたまたま取り上げて、現在のオカマ時代を作り上げたのかもしれない。

それに比べて女性のオナベはどうして世に出ないのだろう?と思う。何故かいまだに日陰者あつかいになっている。男っぽい女、女っぽい男、人間そんな人々は身近に数えてもゴマンといる。何故か男っぽい女は強い女として別の道を歩んでいる。その昔、ある女性歌手が、それと知られて芸能界から姿を消した事もあった。当時から女と女はジョークにもならない。オカマとオナベ、下から温めるというどちらも同じような機能と用途なのだが、どうもTV業界で働くオヤジどもは、チヤホヤされるのが嬉しいらしく、男の要らない女のオナベよりも、男が男をヨイショするオカマのほうが好きらしい。今、有名になりたければ、オカマになってテレビに出るのが一番の早道かもしれない。私は絶対に嫌だが。

<真面目にやれよ>
国の一大事を決める内閣不信任案の国会中継を見た。マアなんともひどい政治家ばかりなのだろうと思うのだが、最近は特に目に余るものがある。二言目には国民の皆様の為!と言っていればナントカなると思っているらしく、与野党入り乱れて異口同音の連呼となっている。こんな大変な時節でも、政権を握る為なら何でもする。本当は国民の為などと思ってもいない事など、国民は百も承知だ。それにしても国会中継という生放送、議員たちは如何にここで頑張っているのかを、国民に見せる場面である。代表答弁などしている者は、さすがに紙を見ながら読み間違えては大変と緊張感があるのだが、それを聞く議員たちをカメラが映すと、三人に一人、いや席の後方に行けば二人に一人は居眠りしている。 前日の料亭での酒が残ってしまったのだろうか、本格的に寝ていてイビキまで聞こえてきそうだ。

歌手でいうならば、紅白に生出演しているような晴れの場である。テレビは全国津々浦々の国民が見ている。そこで国民の為の議会をしているのに、どうしてあんなに大っぴらに居眠りが出来るのだろう。一事が万事である。会議中は居眠り防止の検査官か、何処かの寺の坊さんが歩き回り、眠っているジジイたちの頭の一つでも張るか、拝んでから背中を棒でビシビシっと叩くヤツが必用である。多少、坊さんの戒めは意味合いが異なるのだが、そんな事はこの際どうでもいい、政府はせめてそれ位は誠意を見せて欲しいものである。復興を掲げる今の日本には、テレビ写りさえ全く気にしなくなった、ユルユルの図々しい奴らに支払う血税は、一円たりともないはずだ。

<水深>
高級腕時計ブームになって何年になるのだろう。この流行は実に長く、相当の年数がたっていると思われるのだが、ここ数年の傾向として大きく重いものがもてはやされている様だ。腕にはめると異常に大きくご立派で、自然にどや顔になっていそうで恥ずかしくなる。洋服はアバクロの店員よろしく、肉体美を誇る為かキチキチで小さくなっていて、腕時計ばかりがそれとは逆な傾向にあるようだ。その機能はありとあらゆるモノが付いているらしく、それが原因で大きくなるのだとも思われるのだが、そんな機能の一つで昔から大いに疑問に思っていたことがある。それは水深と書かれている表示なのだが、ある物では数100メートル、突出したのは1000メートルとか2000メートルと書かれているのだが、いったい誰がそんなに潜れるのだろう?という疑問である。それに挑戦した目ん玉が飛び出ている(勝手な想像ではあるが)深海魚のような奴に、一度でいいからお目にかかりたいものである。
 2011.05.27 (金)  銭湯
今年の初頭に私はいきなり還暦を迎えた。このいきなりという表現が私の心情を一番的確に表現していると思う。初めて行った割烹亀山で食事をした時の事、ナント!家族から赤いチャンチャンコを贈られてかなりムッとなった。そんな日本の古く可笑しな風習が我が家にまかり通るとは思ってもみなかった。この年になると少しでも若くありたいという願望がある。人間大事なものはセンスである。実際、もっと気のきいた区切りの年のプレゼントを期待していたのかもしれない。

しかし、あれから映画は千円、今夏あたりから年金が貰えるとのこと。そして場所によってまちまちらしいが、新宿区からは毎月4回まで、区内なら何処の銭湯にでもタダで入れるチケットが贈られてきた。自は認めないが他が認めるお爺さんというところであろうか。だが実際に、NHK朝ドラの"てっぱん"に続く井上真央の"おひさま" や、民放の綾瀬はるかの"JIN"を見ては毎回涙ぐんでしまう所など、もう立派に年寄りの入口に立ったようである。

そんな訳で久しぶりに銭湯に行ってみた。なにしろタダというものは得をした気分に浸れる。入る時に風呂屋のオバちゃんに何といっていいか解らず、唐突に"男一人"と言ってみた。ちょっと間を置いて"今のはいいね!"と笑っている。その後に座布団いちまい!と言いそうな雰囲気だった。考えれば私がオバサンや少年少女に見えるわけはない。そんなトンマな客を軽くいなすこの人に、そばを流れる妙正寺川の粋な川風が吹きぬけた様だ。
とりあえず、私のノートについたシールを一枚はがすとそれでオーケー。

脱衣用ロッカーの鍵を受け取り、中に入ってふと記憶が蘇る。子供の頃の銭湯は、脱いだ服は大きな丸い竹籠に入れたものだった。脱衣所は竹篭だらけで、それを風呂屋の従業員であるお姉さんたちが仕切っていて、小さい子の着付けまでも手伝っていた。当然小学校の友人なんかも偶然そこで出くわす事になる。当時、家の風呂があるのに父が銭湯好きで、幼い私を連れてよく通ったものである。

ある夜、同級でしかも席も隣の礼子さんがお父さんに連れられ、その銭湯にやって来た。私はもう湯から上がって来た所だったのだが、彼女と目が合ったとたん"やだもう!"という礼子さんの黄色い声。"こっちこそ!ここは男湯だぞ"と言いたい気分である。

それ以来、どうも彼女の動きが気になり、そろそろ入った頃だろうと見ると、驚いた事に半分脱いだパンツに手をかけたまま、私をジッと見つめて突っ立っている。今で言う"ハンケツ状態"である。暫くしてよせばいいのに、また見てしまう。するとキャ!などといってせっかく脱ぎかけたパンツを、又穿いてしまう。少女の恥らいか、脱ぐに脱げない女の意地といったところだったのか、その気持ち、何となく少年の私にもわかるような気がした。

2人の父親たちも、とうとうそこで何が起きているのかを気付いて笑っている。私も助平少年というレッテルを貼られた気分で落ち着かない。まだまだ汗が噴出しているのに、すごすごと親子二人でその風呂屋から退散したのを思い出した。父にとって、その事がよっぽど可笑しかったのだろう、しばらくあの出来事を楽しそうに家族や親戚に語っていた。そこでの礼子さんは、私のガールフレンドという誇張した肩書きが付いていた。
幸いにもあの風呂屋の次の日、教室でどんな気持ちで彼女に再会したのかは記憶がない。青春ではなく幼春の1ページである。

久々の湯に浸かると結構熱い。これが江戸っ子の心意気なのだろうか?家の風呂やサウナ、お宿の温泉が如何にやさしい温度なのかがわかる。ほとんどの人が高齢者で昔ほどの活気はないのだが、ここでもまた思い出が蘇る。

ある時、友人の原君と菖蒲湯の日に銭湯に行った。我々は小学校低学年の悪戯盛りである。一番風呂のいたるところに菖蒲が撒かれていて、それを走りながら拾い集めるのが嬉しかった。そして戦利品の菖蒲を横に置き、二人で体を洗っていると、目の前の鏡にやたらとデカイ男のイチモツが映っていた。それはもう言葉を失うくらいの大きさだった。思わず二人は振り返ったのだが、その見上げた先にいたのは、同じクラスの海老沢君のお兄さんだった。挨拶をしたら、まずい事に彼は私たちの隣に座ってしまった。
どうしても気になり、自然と目は例のモノに行く。どう少なく見積もっても、私たちのチンケなイチモツの5倍はある。その瞬間から海老沢君のお兄さんのイチモツ伝説が始まった。それは原君と悪ガキだった私の二人にしかわからない"ビックリ青虫"という、秘密の伝説である。風呂屋の帰り、その唄まで作るほどの気の入れようだった。

こうして久々の銭湯は、長い間放っていたおもちゃ箱が、何かの拍子にひっくり返ったようなものだった。どれを拾いあげても、その一つ一つが忘れかけていた懐かしい思い出。最後までパンツを脱げなかった礼子さんも今や60歳。あのお兄さんの大きなイチモツの今頃は?などという、お得意の馬鹿な事に思い巡らせていると、ア〜っと大きなため息。その後にはフフッ!という含み笑いが、立ち上る湯気の中に消えていった。
 2011.05.25 (水)  あれから
少々サボりすぎかな?と思っていたこの"ひとりごと"。あの3.11が起こる直前に思っていた事である。今年の初めに、突然降って沸いたような目白の土地購入の話が現実の事となり、銀行や不動産関係者達とで右往左往している真最中に、あのとんでもない揺れである。これまでは大地震による社会の変化と、人生の一大決心をするような事項が重なって、パソコンのキーを叩く心の余裕などなかった。時間があっという間に過ぎた今、果たしてあの大きな出来事は何だったのだろうと、あれ以来、ふと気付くと今生きている事や、命のことなどを折に触れ考えるようになった。

良く人は心安らかに生き、平等や公平になりますようにと、甚だ疑問だらけの国のリーダーや天下り先で頭が一杯の役人が作った法律や規制を、嫌々ながら守ったりしながら生きてきた。又、尊敬に値する先人や、あらゆる所で神や仏の道を説く宗教家たちの言葉にも癒され、それを心の何処かで信じ、励ます事で精神の柱を築いてきたようにも思う。もちろん父や母、祖父母を始めとするそれぞれの先祖。どうやらこれが一番の心の支えでもあるのだが、そんなより身近な人々にも守られて生きているとも思ってきた。しかしあれ以来、そのすべてのものが自分の中で木っ端微塵に吹き飛んでしまった様だ。

5年前、宮古の港から一時間以上かけて浄土が浜まで歩いた時、そこでの道すがら出会った、穏やかで優しかった人々はおそらく何らかの形で被災者になっているのだろう。東北の人たちが、なぜあんな過酷な目に会わなければならないのか、よほどの嘘つきか偽善者でない限り、誰もがその答えを知らない。あえてそれを探すならば、常時偶然で成り立っている自然というものが、淡々と起こした一出来事なのかもしれないという事だ。

生きる私たちにとって、人生には幾度か忘れられない事が起こる。深く一生心に刻み込まれた今回の出来事。ここには明らかに天災とは言い難い事柄も含んでいる。
ある記事で、原発を見学に来た小学生が、施設の説明をしている女性に、"それがだめだったらどうするの?" "それはこうして解決します" "それがだめだったらどうするの?" これを何回か繰り返すうちに、"そんな事は絶対にありません!"で終ったという。しかし、実際にはそんな事は絶対にあった。

大自然を企画や想定の中に無理やり押し込み、効率ばかりを追った人間の驕りかもしれない。これまでの普段や、夢や未来を打ち砕き、現実の殺伐とした世界だけが残っている。2ヶ月以上たった今でもその深刻な状況は変わらず、毎日のように暗いニュースばかりが流れてくる。それでも人は命の限り生きていかねばならない。時間の経過というものは、いつかは人を立ち直らせるという不思議な力を持っている。もう、学ぶ事はないと高を括っていた人間は、今回の事で沢山の課題を突きつけられた。そして明日が、そして5分後に何が起こるかわからない未来を痛感した今。いつか皆が本当に笑える日が来るのを、心一つにして待とうと思う。
 2011.01.11 (火)  冬の旅
この時期、たまには洒落で山口県に河豚を食べに行こうという冗談が、どうしたことか本当の事になってしまった。JALのマイレージのポイントが貯まり、ここで申し込まないと上限以上は切り捨てになるという、もったいないが先にたつ旅。メンバーは妻と珍しくラグビーの部活が休みの長男との"再現不可能トリオ"での珍道中になった。

まずは四国・愛媛の松山空港に降り、それからレンタカーで今治から瀬戸内しまなみ海道に出て、五つの島を橋で渡って広島の尾道に入るというルートを辿ってみた。この道を走るのも今回の目的の一つでもある。ちょうど5年前の9月の終りに、ここ瀬戸内の海を客船のパシフィックビーナスで渡った事があるのだが、今度はそれを橋の上から見下ろす事になった。ゆったりと晴々とした気分になる。途中、前回立ち寄った生口島で、懐かしい瀬戸の塩のソフトクリームなんかを食べながら本州へ。お金がかかった道なので致し方ないのだろう、大枚4千7百円ほどの立派な通行料金を支払った。

それから山陽自動車道で広島県をほぼ横断し、平成8年に世界遺産に登録された厳島神社のある安芸の宮島へ向う。日本三景で有名だがこの年になるまで一度も行った事がなく、いい機会なのでここに泊まる事にした。そろそろ夕闇が近づいて来たので、レンタカーのプリウスのアクセルを深く踏み込んだ。これが良く走り静粛な上に居住性も良く、しかも燃料計の針がほとんど動かない。この世界に誇れる国産車の実力には目から鱗といった所だった。

宮島に着いた時はもう夕闇がせまっていた。海と夕暮れのカップリングには何故かいつも切なくなって、風の中に感じる汐の香りが目に沁みる。そこから車ごとフェリーに乗って今宵の宿の錦水館へ。途中には灯りが綺麗な遊覧船とすれ違いながら、やがて厳島神社の有名な赤い鳥居がポーッと照明されて見えてきた。次の日は朝早く、宿から歩いて2分の昨日の大鳥居へ。干潮でナンと鳥居の真下まで行けるのには驚いた。足元は明るいグリーン色の海草が良い匂いをさせていて、思わず拾い上げて海鮮サラダにしたくなるようだ。以前、東京の美術館で平家一門が収集していた、貴重な絵巻物などを観賞した事があるのだが、寝殿造りの様式を取り入れて、海上社殿を完成させた平清盛という人は、美を追い求める実にロマン溢れる人物であった事をここで改めて知る。

今度は広島から山口県へ、今回の旅のメインイベントの河豚を食べに向う。途中、日本の三名橋といわれる岩国の錦帯橋に寄る。川原に車を止めて、5連のアーチの橋を3百円の通行料を支払って徒歩で往復。風が強くて感動も半減し、早々に長門湯元温泉の今宵の宿の"別邸 音信(おとずれ)"へと車を走らせた。山陽自動車道から中国縦貫自動車道に出て、美弥インターで下りると一般道で40分ほど。途中の景色はけっこうな田舎で、こんな所に河豚を食わせる旅館などあるのかと心配になったのだが、着いてみればまるで別世界が待っていた。ひなびた土地に忽然と桃源郷が出現したようである。個人的感想を言えば、宿や部屋の造りは箱根の強羅花壇などと肩を並べるほどの素晴らしいもので、料理の味も絶品と呼べるものだった。山口の河豚を堪能した次の日は、山口宇部空港・夜7時半のフライトまで時間がたっぷりある。

以前からその風流な名前を聞くだけで興味があった萩焼。その釜などを見学したいとホテルに相談してみると、この道では有名な十四代・新庄貞嗣という方をご紹介にあずかった。これはエライ事になってしまったと心中穏やかではない。何しろ萩焼界では知らない人がないほどの人で、そんな所へひやかし交じりには行けない。"ビールや茶を飲むのに一つぐらいは欲しいと思っただけで、芸術の域に達しているものは気が引ける"と言うと、宿の美人お上は"先生は大変いい方で買わずとも何も気にしなくて大丈夫、喜んで見学させてくれます"と太鼓判を押してくれた。

それでもおっかなびっくり宿から車で10分ほどの細い田舎道を登ると、そこには新庄先生の奥様が出迎えてくれた。先生はお留守らしくて少し安心。萩焼きの由来、この土地の風土や素材になる土の話からそれを焼く釜、薪には桜を使い、それをくべる時に細心の注意を払うという。千度あまりに達した炎は白いカーテンの様に揺らめく事など、それぞれの場所で大変興味深い話をして頂いた。素晴らしい作品もいくつか見せて頂き、素朴な中になんとも深みのある色合いにしばし魅了された。3月には日本橋三越で個展もあるそうなので、ぜひ又覘いて見たいと思う。

それから萩へ向かい、街の専門店で先生の淡い色をした素敵な湯飲み茶碗を記念に買った。地元客で賑わうシーマートでは海産物が並んでいて、天然の形のいい虎河豚が1万8千円、しかも昨夜のコースにはなかった立派な白子が付いている。映画・おくりびとで山崎努が旨そうに食べていたヤツである。とても気になるのだが、さすがに昨日の今日では罰が当たるような気になって、2度3度通り過ぎては流し目をおくるだけに留めておいた。

いよいよ帰りの空港に向い、レンタカーを返して定刻どおりに飛行機は飛び発った。やがて左手に夜の瀬戸内海が見えてくる。何千、何万というオレンジ色のイルミネーションに飾られた日本地図そのままに、一昨日走ったしまなみ海道、淡路島と神戸を結ぶ明石海峡大橋が夜のしじまにくっきりと見えている。やがて、眼下に広がる光の大きな湖は大阪だ。そこを泳ぐ漆黒の蛇のような淀川が大阪湾に注いでいるのが見えてきた。晴天という幸運にも恵まれた旅の終りには、思いがけず素敵なラストショーが待っていた。

東京に帰った次の日の我が家の夕食は、珍しく"おでん"だった。いろいろな具の中で私が常に気になるのが"ゆで卵"である。いつもその売れ先が気になり目で追ってしまう。 ただの"ゆで卵"、可愛そうに普段は気にも留められないモノ。そう、この"ゆで卵"こそ、我が人生の日常そのもので、これが旅という名の"おでん"に浸かると、その具は俄然輝きだして味わい深いものになる。旅で出会う非日常の人々や出来事は、新たなる何かを心の中に生んでくれる様だ。成人の日の柔らかな冬の日差しの中で、こんな可笑しな比喩をつらつらと思い浮かべながらその余韻に浸る。
 2010.12.15 (水)  思い出し笑い
紅葉の赤や黄色から褐色に変わってしまった落ち葉を踏みながら歩くと、白い息とカサカサと乾いた音が心地よい。北の地からは雪の便りが届くようになり、ここ東京もようやく真冬を実感するようになって来た。そんな季節になってからシルヴィー・バルタンの記事を見たり、ジョニー・アリディの"冷たい雨に撃て、約束の銃弾を"という、復讐モノの渋いアクション映画を見たり、最近ではカトリーヌ・ドヌーヴの来年早々公開の映画"しあわせの雨傘"の告知を見たりで、懐かしい人たちの活躍を楽しんでいる。"シェルブールの雨傘"からドヌーヴは雨傘に縁があるようだが、それも旧作を連想させる一手段なのかもしれない。その昔、この三人が集った赤坂の料亭に取材陣を集めた事がある。

私の勤めるレコード会社の所属アーティストだったシルヴィーは、久々の10万枚ヒットとなった"デイスコ・クィーン"という曲でプロモーション来日していた。彼女の夫でもあり別件で来日中だったジョニー・アリディの誕生日を、これもまた偶然に映画の仕事で来日中のカトリーヌ・ドヌーヴと妻のシルヴィーの二人が祝うという、話題作りの為のハプニングイベントで、ヒットの上乗せを狙う私にも好都合な企画だった。

スポーツ紙は一社に絞り込んで欲しいという条件だったので、当時何かと世話になった東京中日スポーツの外部記者だったYさんに取材を頼んだ。木造建築の料理屋の2階広間で待つ事およそ30分、いよいよスターたちのご登場である。女性二人は優雅な外見にもかかわらず、意外にもドスの利いた低い声で話しながら入ってきた。共に裾の広がった明るい色の素敵なドレスを着こなしている。畳に座るという習慣がない彼女達は、もちろん優雅に日本的所作で座ること等は教えられていない。その時、ドヌーヴがドッコイショ!とばかり大胆にも立膝をしたので、当然のことながらスカートの中が丸見えになってしまった。一瞬、目の前が真っ白?になるほど!ドキドキしたのを覚えている。少し遅れてその日の主役、背が高く、赤ら顔でふんわりとしたリーゼントのジョニー・アリディが登場。スーツを着ているのだが靴をはかないフレンチ・ロックンローラーは、陸に上がった河童のごとく所在なげで絵にならない。やがてビッグスターの3人が杯を挙げて乾杯!フラッシュがパパっと光ったと同時にお役ゴメンの我々は、取材陣とともにこの場から退場となった。

次の日、早々に東京中日スポーツの記事の切り抜きを手に取り、上司だったK氏が部下である私の仕事をチェックした。すると突然"オイ、どうなっているんだ!うちの曲の告知が載ってないぞ!"といつもの大声でわめき散らすのだった。私もその記事を見て焦る。今度は例の記者のYさんに私が怒りの電話だ。これが単細胞人間の怒りの連鎖という所か?
するとYさんは拍子抜けする"載っていますよ、しっかり良く見てください!"との答え。再び調べた結果は何のことはない、その切り抜きをした我が社の I さんというオジサンが、一番重要なレコードの告知を外して切り抜いてしまったのだった。それが判明したら今度は I さんが私の上司であるK氏にまたまた大きな声で怒られた。I さんが他部門の記事の切り抜きを親切心でやったのに、アベコベに怒られるという、ナンとも可哀想な結末になってしまった。

ここから話はフランスの3大スターから、我が社の切り抜きゴメン?のTさんに移る。彼は根っから真面目な人だったが、どういう訳かくだけた人間が働く邦楽宣伝部に所属していた。当時は歌手担当制というものがあり、彼は"中川みどり"という新人の女性歌手の担当になった。その歌手にまつわる業界からの問い合わせなど、すべての窓口がTさんになる。ある時、レコード会社からプロダクション、放送局のデイレクターが集まる視聴会があった。歌手デビューした中川みどりを横に立たせ、我が社の代表として参加したTさん、意気揚々としての第一声が"みどりの窓口のTでございます"だった。一瞬間を置いてドットその場が笑いに包まれたそうだ。本人は皆がナンの事で笑ったのかわからずにキョトンとしていた。そのTさんのとぼけた顔が再び笑いを呼んだという話。暫く業界宣伝マンの間では語り草になった。

それから暫くして、Tさんは人事異動で総務部になった。何度も言うが彼はクソがつくほど真面目ないい人である。我が社でも一年の始まりは何時になく綺麗な花や、クネクネ曲がった金色の木などが飾られて、厳かな気分で始業式の幕が開く。その時の司会進行役は、もちろん総務部のあのTさんである。社長の訓示や初春の挨拶の前には必ず彼の言葉が聞ける。彼がかしこまった顔をしてみんなの左側前方に立つ。
何かが起こる!そんな予感がするのだろうか、只それだけで幾人かの女性社員からクスクスと期待の笑い声が聞こえてくる。人前に立つだけで笑いがとれる芸人は、そうざらにいるものではない。まして彼は普通のオジサンである。そしてしゃべり始めてから必ずやるトチリ、可笑しな咳払い、言葉に詰まり間が空いたりする度に新年の会場は和やかな笑いに包まれる。こうなると次の社長の話はどうでも良くなる。早く彼の次の出番を全社員が待ちわびる。あの瞬間、彼はアイドルという領域に達していたのではないだろうか。

人生の一コマを楽しくさせてくれた心の恩人Tさん、これまでには何度も思い出し笑いをさせられてきた。いつも人を笑わせようなどと思ったことはないのだろう。もしもこれが計算づくならば、彼は笑いの神である。TVに出ずっぱりのお笑い芸人たちなどは、彼が醸し出す自然体の可笑しさにはどうやってもかなわない。Tさんの飄々として何気ない親切にも何度か触れた事がある。いつもこうして年の始めが近づく頃になると、私は決まって彼を思い出す。
 2010.12.08 (火)  東京スカイツリー
今年も実感が湧かぬまま師走入りとなり、忘年会と称し何かと人に会う機会が多くなってきたと思う間もなく、年越しという事になりそうだ。先日のこと、何げなく窓の向こうを見ていると、今までなかった青い塔が遠くに見えていた。今話題のスカイツリーだと確認できた瞬間、暫く忘れていた嬉しさがこみ上げてきた。灯台下暗し、やはり本当に高い物だと再認識させられた。それまでは少し見晴らしがいい所からだと、必ず東京タワーを探したものだが、次なる東京の景色の基準はコレに変わるのかもしれない。地元の商店街でもこのツリー景気に期待が膨らんでいるらしい。

こんな飛びぬけた存在は誰もが楽しめ心和むものだが、今は高層ビルがいたるところに建ち視界を塞いでいる。できれば西新宿、丸の内、汐留などの一部の所だけに固めて欲しいと思うのだが、そもそも税金で建てた都庁などが無用の高さを誇っているのだから、他に条例や規制などは出来るわけがない。これら高層ビルのそもそもの始まりは1968年に完成した霞ヶ関ビルだったと記憶している。以来、浜松町の世界貿易センターから、京王プラザ、住友、三井と70年代に西新宿に日本一を競った高いビルが集中して建てられた。次に池袋のサンシャイン、都庁、93年の横浜のランドマークタワーで今のところ高さの競争は終っているようだ。しかし、まだまだ高層ビルの建築はあちこちで続いていて、今まで見えていたものが突然見えなくなるという、近隣の人々に異常な閉塞感を与え続けている。

私の子供時代には家の庭から富士山が見えていた。隣の牛天神(北野神社)に上がれば遥か小さく勝鬨橋が大型船を通す為、ハの字になって上がるのも見えた。夏の夜には花火も見えたのだが、それが今をときめく両国なのかは今となっては定かではない。富士山はともかく、勝鬨橋や両国は電車や車では遠いのだが、地図で見ればいずれもその神社から直線にして5キロ程なので、やはり空気が澄んで晴れた日には充分に可能な視界だったと思われる。何も遮る物がなかったならば、どんなに楽しく遠いものが見えたことだろうと今更ながら感じている。

気持ちよく晴れた5日の日曜日。朝早くからあの日以来気になるスカイツリーを見ているうちに、ヨシ!あそこまで行ってみようと、まるで冒険好きの子供のようにカメラを持って車に乗った。目白通りの銀杏は緑からほとんど黄色くなり、早朝の光に益々鮮やかに映えている。いつもは人でごった返している上野は嵐の前の静けさよろしく、朝のけだるい空気の中で閑散としている。浅草を過ぎる辺りから、ビルの間から見え隠れするスカイツリーがだんだん高く大きくなって心が弾む。景勝地?らしい業平橋前と言うバス停のそばに車を止めた。既に家族ずれや、老人のグループや多くの人が来ており、かなりの賑わいを見せている。

いよいよその場所に立った。すぐ下から見あげると、銀色の威容を誇る巨大なスカイツリーが、真っ青な空に挑みかかるように建っている。もう既に見た人も少なくないようだが、晴れた日には此処へ来るのも一興ではないだろうか。川がすぐ下を流れ、キラキラ輝く川面を見ながら風に吹かれての散歩。土地柄、流行のB級グルメを食すのもいいし、又、懐かしい下町人情にも出会えるかもしれない。街の何処からでも見えるスカイツリーが、明日の未来という新しい東京を常に見せてくれている。此処には新旧の時が渾然と混ざり合ったお祭り的な明るさが漂っている。今までは、ほとんど馴染みのなかった押上という下町にニョッキリと表れた未来塔は、あと100メートルほど力強く伸びるそうだ。その見上げる先には優しさと希望が溢れていることを願う年の瀬である。
 2010.11.28 (日)  懐石料理
埼玉県の深谷駅から徒歩7分という所に、日本家屋の妻の祖母が住んでいた家がある。祖母は長い間病院に入院していたのだが3年前に亡くなり、かれこれ10年は空き家の状態が続いていた。以来、そこを相続した妻や私にとって"何とか活用しなければ"という責任感とともに、気の重い不動産となっていた。180坪に及ぶ家は、5坪ほどの池やいろいろな種類の木々、ほんの小さな丘に大きめな灯篭などが立つ庭もあり、なかなか趣のある家なのだが、なにせ古くなり、人がまともに住もうとするならば基礎からかなり手を加えなければならない状態だった。

今の時代は建築の合理化が進み、まずパソコンの中で家を建て、そのデータから材料を発注・調達し一気に組み建てる手法が主体のようだ。昔からの伝統的技術がなくなりつつある現代では、この家の廊下の上に渡っている8メートルにも及ぶ長く丸い柱や、すべての桟の角が削られている雪見の障子、細かい格子の欄間などを造る職人もほとんどいなくなり、もう二度と同じような家を造る事が出来ないだろうと、この家に良く出入りしている知人から何度も聞かされていた。潰すには惜しく、いっそド素人の私が乗り込んで蕎麦屋でもやろうか、いや等価交換でマンションかいっそ駐車場に!などと考え迷いながら、月日ばかりが無駄に流れていった。

今年の記録的猛暑の夏が始まろうとしていたそんなある日、昔、新宿で料理屋を経営していた義母(22年前に他界)に世話になったという、亀山佳幸氏から何十年か振りで妻に電話があった。生まれ故郷の深谷で一旗上げたいと、料理屋になるべく物件を探していた所、その構想にぴったりの家があり、その家の持ち主が偶然にも若い頃に修行を積んだ料理屋の娘だったという、偶然が重なっての出会いがあった。

私達にとっても、あの家が再生されて綺麗な懐石料理屋になる事は願ったり叶ったりである。双方にとってまたとない相思相愛の賃貸契約がなされ、早々に工事の運びとなった。しかし、何十年もの間一度も整理されることなく溜まりに溜まった膨大な荷物の整理は、想像をはるかに超える大変なものになった。何せ記録ずくめの暑い夏に、関東で最も暑い地域となる深谷での力仕事である。水を飲んでもすぐ汗になってしまい、またすぐ喉が乾く。怠惰な生活で鈍った体には少々辛かったのも事実である。幸いにして、世間が騒いだ熱中症などという恐ろしい事にもならず、何とか無事に終えることが出来た。

そんな炎暑の日々が嘘のような肌寒い季節になり、あの家は懐石亀山という名の料理屋になって無事にこの11月19日にオープンした。オーナーシェフになった亀山氏は、義母の料理屋であった"むさし"をスタートに、東京會舘、長瀞の"長生館"の料理長として腕を磨き、セヴンイレブンジャパンの料理顧問、日本料理研究会師範などで幅広く活躍されてきた。先日、普段出回る事がない醤油などの調味料を使い、あくまでも天然にこだわり厳選された素材の味や、ほのぼのとした香りが嬉しい本格的な彼の懐石料理を堪能した。慣れ親しんだ家が、半年で割烹料理屋というものに見事に変身するところを目の当たりにして、又一つ人生における人とのつながりや、時間が織り成す偶然の妙味を味わっている。

世間では、あざとく古民家風に造られた多くのレストランが、今風な創作料理との意外な折衷の面白さで客を惹きつけている。そんな状況に、多くの人がそろそろ飽きてきた事も事実である。この家は80年前に建てられ出来る限り昔のままを残した、古き良き昭和の趣がそこここに残っている。ゆっくりと味わう懐石料理に、暗く慌しい日々が続くこの世相に、遂、忘れがちな懐かしい日本の心を感じて欲しいと思う。ふと気付くと、こんな手前味噌の老婆心になっている所などは切にお許しいただきたい。
プレオープンでの評判もよかったのか、土・日はかなり予約が入ってきているとの事。昼のランチは1500円から用意できるそうだが、これを読んで下さっている皆様に、日帰りの小旅行やドライブのひと時に、是非一度足を運んでいただける事を願うばかりである。
  
懐石 亀山
埼玉県深谷市西島町1丁目5−15
電話 048−598−5400
営業時間 昼 午前11時30〜午後2時
      夜 午後5時30〜午後9時
定休日 木曜日
 2010.10.18 (月)  サウナ
私は無類のサウナ好きだった。体質も変わったのか、今は以前ほど頻繁には行かなくなった。火照った体で冷たい水風呂に入った時のあの爽快感がこたえられなかった。銭湯が無くなってゆく時代と共に、東京のサウナもかなり数が少なくなってきたようだ。そんな、今はなきサウナの思い出を一つ二つ思い浮かべてみた。

家のそばにあったハイルバードというサウナも、ケンコーというレンズの会社に変わってしまった。千駄ヶ谷にあった外苑サウナも無くなってから随分時が経つ。ここで働いていた垢すりの人は、最初はキビキビしたおにいちゃんだったが、長年通ううちに、ゴマ塩頭の痩せたおじいさんの様なおじさんになってしまった。彼はいつも私に声をかけるのだが、その度に田中さん!と私を呼ぶ。どこでどう私が田中になったのだか、全く見当が付かない。最初のうちは違うよ!と繰り返し言っていたのだが、一度インプットされたら最後まで変わらない脳の持ち主らしく、仕舞いには私もあきらめて、このサウナでは田中さんと言う名で通す事になった。

面白い事に、東京の比較的閑静な場所にあったのだが、イレズミ、暴力団はお断りしますといたるところに書いてあるのにもかかわらず、客は妙に暴力団関係者が多く、洗い場では、つるつる頭を安全かみそりで剃っている、体中イレズミの太ったダンナがいたり、店ではヤクルトのサービスがあり、1本までですと書いてあるにもかかわらず勝手に開けて5本も飲んでしまうヤクザがいたり、又ある時代、関西の暴力団抗争事件が頻繁に起こった時などは、すっかりその気になって、兄貴分らしき人物をサウナ室から洗い場に至るまで、一生懸命に護衛している間抜けなチンピラがいたりで結構楽しめた。その懸命なチンピラに、いったい誰が?何のために?こんな東京で、しかも素っ裸で平和なサウナまで攻めて来るのか?ぜひ聞きたかったのだが、触らぬ馬鹿にたたりなしである、怖いのでやめた。例の垢すりのおにいちゃんは、そんなお客とも結構うまくやっていたようで、最後まで立派に勤め上げたと、今でも営業している上の焼肉やで噂を聞いた。

池袋・西口のビルの8階にもサウナがあった。かなり見晴らしが良く、出来た当初は綺麗だったのだろう。近年ではかなり老朽化が進んで店を閉める事になったらしい。そこはサウナ室から出てすぐ横に水飲み場がある。足でペダルを踏むと水が出るという、昔から何処にでもあったタイプのものだった。ある時、誰かが水を飲もうとした時、水が2メートルも吹き上がった。その後誰がやっても物凄い勢いで吹き上がる。皆それぞれに驚きの個性の差はあるのだが、見ていると飽きない。いつの間にか私はドッキリカメラの仕掛け人の気分になっていて、その水場にカモの誰かが来るのが楽しみになっていた。

そんな事を鼻でせせら笑っているうちにかれこれ40分、そろそろ私も本当に水が欲しくなってきた。水を飲みたいと思えば思うほど我慢がならない。また、皆と同じようにビューンと吹き上がるのかな?と思いつつも、俺だけはあんなドジは踏まない筈だと、いつもの傲慢な心が頭をもたげる。それに体中の汗を一杯出し切った喉の渇きには勝てない。110度の熱いサウナ室を出て、一目散に例の水のみ場へ!

すると、すぐ隣には今まで誰もいなかったはずなのに、誰かが頭を洗っている。こりゃまずいぞ!と思いながらもおっかなびっくり、つま先でそっとペダルを踏んでみた。 やはりである。氷のように冷たい水は、放水車のごとく吹き上がって思いっきり鼻に入り込み、ツーンと前頭葉を痺れさせたまま息ができない。思わず顔を引っ込めたのはいいが、高々と吹き上がったその水、今度は隣で一生懸命に頭を洗っていた、何処かのオヤジさんの背中を、真上からバシャバシャと直撃している。思わず心の中でもう止めてくれ!と水に叫んだが、ショッキングな場面はスローモーションの様に続いている。何も知らずに頭を洗っていたのだが、異変に気が付いたオヤジさん、よほど驚いたのだろう。ツッツッツメテ〜!と女のような悲鳴をあげながら隣の私を見上げた。

やってしまった私は放心状態でオヤジさんの顔を見つめていた。ナント、そのオヤジさんは驚きのあまり目が寄っている!と最初は思ったのだが、後でよくよく考えれば、普段からその目は寄っているにちがいない。愛嬌のあるその顔に、思わず笑いがこみ上げる。暫くしてやっと言えた苦し紛れのゴメンナサイ! もちろん本当に申し訳ないという心でいっぱいなのだが、可笑しさもいっぱい! 生涯でこんなに苦しくて変なゴメンナサイはそうあるものではない。さんざん水のみ場のトンマな人達を笑っていた私が、今度は人に大変な迷惑をかけてドジな笑い者になる。まるでイソップ童話のような出来事だった。 人と人との文字通りの悲喜こもごもの裸の触れ合い。実はもっともっといろんな事があったのだが、今日はこの位でお開きにしよう。

 2010.09.27 (月)  こだわりの一品
パソコンのマイドキュメントが一杯になり、探すのに大変な労力を要するようになってしまった。これを期に整理する事にしたのだが、その中で以前"ひとりごと"用にと書いたものを、放って置いたのが何件か見つかった。このままゴミ箱に入れるには忍びなく、少々手を加えての掲載になった。

私にとっての物欲とは多くの人が欲しがるもの、みんなが憧れるものだったような気がする。それがいつのころからか、自分なりのこだわりというものがようやく芽生え、それが自己満足という、誰も踏み込むことのできない唯一無二の価値観になった。

贅沢品というものは、基本は必需品ではないもの。一時代に隆盛を極めるがそこにはかなさが漂うもの、そんな一過性が贅沢の極みと言われるものと、伝統に育まれ、造る者、持つ者が互いの価値観を永続的に共感しえるものとに2分されると思っている。当然ケチな私は後者の倫理的な贅沢という、反する言葉の並びの方に惹かれる。
面白い事にこの話、自分が昔から欲しかった物でもなく、かといって安価でもなく、私のとっておきの価値観とは別の所にあったもの。人へ贈るものが自分にとって掛替えのない人生の思い出や、こだわりの一品になったという話。

【ピアス】
ニューヨークの五番街のティファニー。ヘップバーンの映画にもなったその店で、小さなピアスの買い物をした事があった。その時の店に漂う上品な雰囲気と、ブロンドヘアの男性だった店員の、誠実そうで(とりあえずそう見えた)、洗練された物腰は一流で、サスガ!と思わせるものだった。
よく日本での有名ブランドショップでは、そこで売っている商品が主役で、それを見ている客は黒子です!なんて雰囲気の店もあるのだが、ここでは商品ではなく、客があくまでも主役であり、その心をあくまでも尊重する姿勢が徹底されていた。店のそばのアッパーイーストには、アメリカを代表するような億万長者たちが毎日のように、この辺りを闊歩している。そんな客から私のような通りすがりの小物買いの客まで、おもてなしの態度は寸分違わないように思えた。もちろんこれは土産用の買い物だったが、今でも水色のパッケージの粋な広告を見るにつけ、あの時の笑顔や店を出る時の満ち足りた思いが蘇る。

【時計】
今からおよそ39年前のこと、初めての海外旅行に行った時のことだった。その頃はまだ、こんなに頻繁に海外旅行が身近なものではなかったような時代だった。まだまだ海外からの土産は宝物のように思えた当時、いつも何も言わない父が、珍しく腕時計を買ってきてくれと私に頼んだ。学生だった私はお金もなく、当時の海外旅行はとても高価で、今思えば情けない話だが、旅行代から小遣いのほとんどを父が出してくれた。そんな後ろめたさもあり、喜んでその重責を引き受けた。

旅の終わりも近くなったある日。ジュネーブでやっと見つけたお目当ての時計専門店で、白髪の上品なおばさんからいろんな時計を見せてもらった。思ったより小さなその店は、ショーウィンドゥーというものはなく、時計はいちいち黒いビロードが張られた木枠の板に何本か載せられ、厳かにやってくる。そのご婦人から見れば、東洋人の私は若く見え、孫のような年頃に写ったのだろう。私がホワイトゴールドはどうだろうなどと言うと、眉間にしわを寄せ"Very Expensive!"という一言でピシャリ!まるで先生が生徒を叱っている様だった。何故かVeryだけを大きく強調する。どちらにしてもどれも高価で、私の旅費の小遣いでは足りなかったようだ。そして、最終的に勧められて決めたのが、この中では比較的安価で、最もオーソドックスな定番でもある"デイトジャスト"というタイプの時計だった。

小雨が降るレマン湖のほとりの小さなホテルに帰って、もう一度その時計を眺めて"本当にこれでよかったのだろうか?"などという不安が頭をよぎる。その時、ラジオから流れてきたのはサイモン&ガーファンクルの"ボクサー"だった。何故かこの曲に勇気付けられたのを覚えている。そしてこの時計を持ち帰った日本では、ジュネーブで買った時の3倍以上の嬉しい価格が付いていたと記憶している。

この土産を父は心から喜んでくれた。それから晩年に至るまで大事に愛用してくれた。 あの時の腕時計は今、このパソコンを叩いている私の手首に巻かれている。買ってからずっと変わらぬ時を刻み続けて、来年は40年目を迎える。愛着のある物だが、これをいつの日か大人になった息子に渡そうと決めている。命あるものすべてが一分、一秒ずつ公平に老いてゆく、その事を明確に知らせ、規律や約束を守る為に人が作り出したもの。想い出多き腕時計、今は世代を超えた継承という、新たな時を刻み始めたようだ。
 2010.09.14 (火)  避暑地巡り
先日この暑い東京を逃れて、北軽井沢、菅平を回ってきた。そもそもは息子のラグビー合宿に、親バカ隊の一員として参加した菅平がきっかけだった。そのすぐ近くにある、二年前にお邪魔した石橋さんの広大な別荘を思い出し、東京に帰ってから彼にメールしたところ、またこの夏来ないかとの嬉しいお誘い。彼とも親交のある赤坂の焼き鳥や"てけてけ"で毎月飲んでいる仲間と共に、再び彼の別荘にお邪魔する事になった。

その"てけてけ仲間"の一人である伍井さんが、今度は目先を変えて、自分の北軽井沢の別荘に来ないかという。ではそちらに行こうと、いつもの付和雷同振りをいかんなく発揮する。現地にいる石橋さんとは菅平と北軽井沢の中間にある風呂屋で待ち合わせる事になった。楽しい旅の始まりである。

てけてけメンバーの川嶋さん、伍井さんと待ち合わせ、心機一転、私も12年ぶりに車を変えて一路、北軽井沢へ。そしていつもの様に、高速道路の一番右側の追い越し車線だけを走る。この悪癖は、母が免許をとって間もない頃に、嫌がる少年の私を無理やり乗せて、時速40キロほどのスピードで首都高速を走ったのが原因と、自己診断している。追い越してゆく車の全員と言っていいほど、遅い我家の車を嘲笑うような目で、(中には本当に笑っている輩もいた)振り返って行ったのが目に焼きついている。
その時"いつか僕が免許を取ったら、絶対に速い車に乗り、高速道路にいる全部の車を抜き去ってやろう"と心に誓った。それを実現させたのは25年前だった。当時の愛車、ポルシェ928のアクセルを床まで踏み込んだ瞬間、前を走っていた車群が、瞬く間に遥か後方に吹っ飛んで行く心地よさを味わった。年齢と共に大分治まったとはいえ、たまにあの少年時代の誓い?の片鱗が蘇る。ハイブリットやワンボックス・カーが延々と連なる高速道路を、かなりのハイペースを保って軽井沢に到着した。

中軽井沢の駅前の蕎麦や"かぎもとや"で、けんちん汁とざる蕎麦のセット(1100円)を食べて、2年ぶりの石橋さんと風呂屋で落ち合う。地元のスーパーで、今夜の食事を買ってから北軽井沢の伍井荘へ。内装をリフォームしたとかで白木が嬉しい綺麗な別荘。森の中のおやじ達は、つい開放感と酒で羽目をはずしがちになる。夜更けまで大きな声で、話は社会ネタから得意の猥談へと移行する。たまたま来ていた御近所の人に、"声が大きいですよ"と何十年か振りでお小言をくらう。薄明かりのベランダで、しょんぼりするオヤジたちの姿をご想像いただこう。さぞや可笑しな風景だったろうと、今も含み笑いが出る。

次の日はやはり?全員暇なので、もう一泊しようと言う事になった。今度は菅平の石橋荘へ。その前に、久しぶりの軽井沢見学となった。まずは滝めぐり。魚止めの滝から歩いてすぐの浅間大滝、この二つの滝は初めてだった。豊富な水量に圧倒され、その涼しさに感激、灼熱の東京をしばし忘れさせてくれるひと時だった。三つ目の滝は、地中から湧き出る水が人気の白糸の滝。幾度か行った、浅間牧場からのハイキングの終着点で、熱くなった足をここで冷やしたものだった。そして長野県と群馬県にまたがる碓氷峠見晴らし台へ向かう。ここも想い出の場所で、キャンプ中のユースホステルを真夜中に出発し、ここまで登って御来光を見た。ちょうど妙義山の左手方面からオレンジ色の太陽が顔を出したのを、今は失くした純真な心で見つめたものだった。あの頃と同じように、今回もすぐ近くの、涼風が吹きぬける峠の茶屋で力餅を食べた。くるみやゴマ、アンコと色々あるが、やはり大根おろしの餅が一番だった。体系は大きく緩み変化しても、舌の感覚は昔も今も変わらないようである。それから旧軽井沢の街へ下り、しばしの散歩。新しい店が出店しては、すぐに変わってしまう旧軽の街。多少雰囲気は変わってしまったが、懐かしい甘味やの"ちもと"、つるや旅館、茜珈琲店、土屋写真館などは未だに元気に店を開いていた。

軽井沢から菅平の石橋荘へ向かう。ここは高度が一段と高く、涼しい。広い庭の敷地には熊や日本カモシカが出没し、ある時はヤマネが空を飛んだとかで、大自然と共存しているという実感がわいてくる。その夜は幸いにして熊も出ず、石橋さん演奏のエレキピアノでジャズを楽しんだ。私はそれをバックグラウンド・ミュージックに、ログ・ハウスの柱の切り口に、フジTVのビートポップスの水森亜土のように(古すぎて、もう誰も知らないだろう)音楽にあわせながら可愛いフウロウの顔を描いた。しかし、その絵がお化けの嘔吐に見えると、心無い野次が飛んでいた。又来年、今度は素面でお邪魔して、もし、どうしてもフクロウに見えなかったら、再度、挑戦させていただこうと思っている。

いずれにしても、あの二晩は東京の暑さを忘れる、爽やかで星の綺麗な夜だった。普段、自然を徹底的に排除した景色の中で、身の回りの事や、金の事なんかをちまちまと考えながら、コンクリートの道を歩きまわっている。ビルの中の居酒屋で、肝心な事に触れない、いい加減なマスコミ報道にオダをあげ、楽で便利で、しかし厄介な機械達に囲まれながら生きている。そんな人工化した自分も、実は、こんな大自然の摂理の片隅に生まれたのだという事を、久々に実感した。すべてのしがらみは消え、解き放たれた心は、ほんの一瞬ながら星空を浮遊した。夜気が心地いい夏の終わりの旅だった。
 2010.07.31 (土)  将来の夢
近頃の暑さにはほとほと参る。特に今年は例年になく辛い夏になっている。何もしたくないし、考えるのも億劫になるほどの暑さだ。過日、思わず子供時代に良く入った水風呂を試してみた。暫く浸かっていたら、ジャングルで暑さしのぎをしている虎の気分になった。コレも孤独感がこみ上げて来て一興なのだが、何故かこんな暑い夏の思い出は、前項の"青いヘルメット"に続き子供時代が多い。その子供の時には、誰でも大人になったら何になりたいか?という絵空事を書かされたり、言わされたりを経験するようである。もちろん、歌舞伎などに代表される伝統芸能や、その道の家元、議員の2世3世たちは生れ落ちたその日から、一日一回必ずドジを踏む奴でも、世襲による将来像が見えている。一般では極稀に、その夢を迷わず努力と運で実現させる偉いのもいる。

やはりと言っては何だが、幼い頃の自分の場合は心に決めた道もなく、こだわりがあったわけでもなく、ごく普通に生きていたようだ。小学校の文集などに無理やり、その場しのぎの"将来の夢"を書いた覚えはあるのだが、当然のことながら、その内容に関しては全く記憶がない。ただ俗に言う夢のない子ではなく、願えば必ずかなう!風な、何の根拠もない神がかり的な感覚を信じていたようでもある。

私の場合、特に将来の夢という未体験ゾーンにおいては、恥ずかしい思い出がある。もちろん小学校に上がればとりあえず人の目を意識した、カッコイイ宇宙飛行士だの、先生にケーキ屋さん、野球選手だのと誰もがノタマワルのだが、それ以前の無防備な幼少時代に、私は勝手に母からその仕事がピッタリだと言われた職業がある。

今の時代では、その看板すら見られなくなったのだが、あの時代、妙に気になる"乳もみマッサージ"という看板があった。その字は伝通院の手前の路地の入口に、白地に真っ黒な文字で書かれていた。まずい事に毎日通った幼稚園の通園路である。
当時、園児だった私の就職先はこれがいい!と母が言った。おそらく乳離れの遅い私を、からかい半分、冗談半分のつもりだったのだろう。暫くたって、子供が生まれ、乳の出が悪い母の為にある職業と聞いたようだが、未だにそれを確かめたわけでもない。

私も大好きなオッパイを一日中揉んでお金がもらえるなら、それも良いと思ったことを覚えているのだが、しかしそれは母の乳だけが好きなだけで(その頃はだが!)、どこの誰かもしれない、しかも変な顔をしたオバサンのオッパイを揉むとなると、それはヤダと言ったのを記憶している。その時に噴出した母の笑顔は、未だに私の心の中にある。
以来、その職業と私の関係を、母が楽しそうに祖父に祖母、父や兄に話すのを顔から火の出る思いで聞いたものだった。これが最初の私のなりたい!ではなく、向いていると一方的に勧められた職業"乳もみマッサージ"である。

自覚に目覚め始めた小学校に上がった頃、コレも私の心からの希望ではなく、今度はゴリラの飼育係という事になった。もともと動物好きで、いつも家には犬、鯉、カエル、インコ、鳩、時々天井を駆けるネズミ、庭にはこれも時々出没する蛇やトカゲなどがいた。そういう環境もあり、いつか動物に関係した仕事がしたいと常々思っていた。私とゴリラのそもそもの関係は、子供時代の私は小さくて痩せこけていた。アフリカにあるコンゴのマウンテン・ゴリラの強そうなオスは、優に250キロを超えるものがいた。そんな小さな私が、大きく勇ましいゴリラに憧れたのは必然だったともいえる。

ちょうどその時代に、上野の動物園にムブルとザークとブルブルという3頭の西ローランド・ゴリラの子供がやって来た。彼らを見に、何回も都電で上野に通っているうちに、将来の夢は、いつの間にか彼等の飼育係にさせられていた。これも母の仕業だった気がする。この夢も、やはりというか!多数の親戚縁者たちに広がった。少年の突飛なる夢、ゴリラの飼育係という事を聞いた大人たちは、最初は、ヘーッ!と意外そうな顔をしてから、その後一応に笑った。幾度かその場を和ませたようだ。当時、私の動物図鑑は、小学校の教科書の何十倍も大切なものだった。ゴリラにかかわらず、動物関係の仕事をするのを夢見たのが懐かしい思い出になっている。

こうして、私が実際に大人になって何になったかというと、レコード会社のサラリーマンだった。乳もみか、はたまたゴリラの飼育係、そしてレコード会社の社員。果たしてそのうちのどれが良かったのかは、あのお釈迦様でもわからない。先日、亡くなった数学者の森毅さんが"予定通りの人生なんて、そうあるもんやないよ"と言っていた。確かにコレまでの人生は予定外だらけだ。そして、誰が言ったか"人生、一寸先は闇だ"という格言は、私のニュアンスとは少々異にする。子供時代の私の場合は、一寸前の何になるかが問題で、候補にあがった職業が妙に可笑しい。したがって"人生、一寸前は滑稽だ"があの頃の私には、とてもお似合いの言葉のようだ。
 2010.07.20 (火)  青いヘルメット
午前中の大リーグ中継を見ていると、アメリカ各地の遊び心溢れる球場風景が映し出されて楽しい。先日、シカゴ・カブスの福留選手の鮮やかな青いヘルメットを見ていて、"あっこの色は!"と、子供の頃の懐かしい出来事を思い出した。

私の子供時代は、広場や路地で行なうメンコにビー玉、紙芝居に缶蹴りと毎日が忙しかった。子供が多く、よく落語家が洒落で佃煮にするほど!などと言うが、休み時間の小学校の校庭はまさにそんな具合だった。近所とのつながりは、今よりもずっと親密な時代だったと記憶している。

当時、家を出て坂を下ると畳屋があって、そこの小母さんはこの季節、店の前を汗まみれの私が通りかかると、必ず呼び止めて、冷たくて美味しい井戸水を飲ませてくれた。そこではご亭主の小父さんが、ヤカンの蛇口から直接水を口に含み、真新しい畳にブワーッと、霧状になった水を吐き出す光景をいつも見ていた。それはまるで魔法のようで、家へ帰ってから、早々小父さんの真似をしたのだが、何度やっても霧とは程遠く、決まって服や靴がびしょ濡れになるだけだったのを思い出す。

畳屋のすぐ隣の製本屋では、小母さんたちが井戸端会議よろしく、いつも世間話に花を咲かせている。大きめな物差しのようなもので小気味いい音をたてながら、きっちりと紙を折っていた。時たま大きな声で笑いながら、どれも一部の狂いもなく折られてゆく。その家で、見学ついでに朝ごはんまでご馳走になった事もあった。当然今と違って、純情で恥ずかしがりやだった私は、なかなか箸をつけず、そこのオバサンと暫く睨めっこになったのが懐かしい。そのご飯は、今では貴重な麦飯だった。思えば町のいたるところに人情や風情があり、大人が他人の子供を可愛がる、和やかな時代だったとも言える。

あの頃の私は、こんなご近所触れ合いの旅を、親に内緒で毎日のように繰り返していたようである。その中でも一番好きな場所は看板屋で、そこの小父さんたちの仕事振りを見るのが何よりも楽しみだった。ここへ来るといつも鼻にツンと来る、乾きかけの塗料の匂いがした。
小父さんたちの定番だった仕事は、舞台の大道具の塗装、他に公園や遊園地にあった木製のベンチを黄色に塗り、乾くと白地に紺の角張った文字で書かれた"森永キャラメル"の鉄板を、背に付け完成させる。そのすべての作業が職人の手で行なわれていた。赤鉛筆で書かれた下地の線の上を、一ミリもはみ出さずに筆が動くのを、私も息を殺して見守った。

後楽園球場も近く、必然的に野球少年だった私は、父に買ってもらったヘルメットをいつも被っていた。この時代、子供の野球用ヘルメットなどは貴重で、宝物のように大事にしていたのだが、そのヘルメットには唯一の欠点があった。当時のプロ野球選手のヘルメットはみんな紺色なのに、何故かこのヘルメットの色は白だった。その事が私にとって残念でならない、しかも白色は手垢や土にまみれいつしかネズミ色に変色していた。

例の看板屋にはいつも元気な小父さんがいた。あだ名は外米(ガイマイ)と言い、どうしてそのあだ名が付いたのかは知らないし、また、彼の本名も知らなかった。
暑さで柔らかくなったアスファルトは靴跡を残し、あたりに陽炎が立ち昇るような午後だった。私はいつもの白いヘルメットを被り看板屋の一階にいた。すると階段の上からガイマイさんがヒョイと顔を覗かせ"オイ、ちょっと二階に上がって来いよ"と言った。
私が上がってゆくと、彼は二階の窓辺に寄りかかり、"このヘルメット、白ではやなんだろ!"と笑っている。突然、本心をつかれた私は声も出さずに黙って頷いた。ガイマイさんは"ヨシッ"と言ってコバルトブルーの鮮やかな色のペンキを棚から下ろし、"動くなよ!"と言い、私が被ったままのヘルメットに色を塗りだした。

サッサッサと手際よく、平たい筆がヘルメットの上を滑るように動き回るのがわかる。
いよいよ、やっと念願の色になるヘルメット。でも、余りにもその時が唐突にやってきて、大事なヘルメットは私の頭の上で、どんな事になっているのだろうかと不安でもあった。
まもなく大きな声で"出来たぞ!"と言って注意深く、私の頭からヘルメットを取った。夏の日差しが、青く細かい筆跡の中で、きらきらと眩しく踊っていた。薄汚れた白いヘルメットはピカピカに光る、鮮やかな青ヘルに変身していた。嬉しかった!本当にあっという間の見事な職人技だった。それ以来、ガイマイさんは私の恩人になった。

今思えば、当事は国も貧しく物もない時代だった。悪戯小僧が一歩外に出ると、怖いカミナリオヤジに年上のいじめっ子、必ず同じ道を通る昼間の酔っ払いに、痩せた意地悪おばさんもいた。そして何よりも心に残る、いくつもの優しさにも出会った。懸命に生きる事を、みんなが寄り添い体で受け止めた時代だった。町のいたる所で、子供たちと大人たちが渾然と混ざり合って生きていた時代とも言える。
シカゴの福留選手の真っ青なヘルメットは、私の懐かしいあの時の出来事を、忽然と蘇らせてくれるものだった。
 2010.05.19 (水)  雨の日
此処へきて珍しく良い天気が続いていたが、今日は雨。思えばこの春はこんな雨も多く、寒暖の差もあり、半袖から冬のコートを日替わりで着た日もあった。やっと心地よい風が吹く快晴を喜んでいたら、基地問題で揺れている沖縄では、既に一部梅雨入りとのこと。やはりこの季節、自分は水の国に生きているのだという思いがする。

この雨の文化が芯から根付いた日本には、小粋な雨の呼び名が多い。春と呼んでいた先頃までは、春雨(はるさめ)が降っていた。立夏が過ぎた今月の雨は、五月雨(さみだれ)という素敵な呼び名を持っている。この時期、翠雨(すいう)という青葉に降りかかる雨や、緑雨(りょくう)という新緑の頃に降る雨の呼び名もあるらしい。こんな雨の呼び名を聞くと、しっとりとした風情を感じ、遠くいにしえの世にまで思いを馳せてしまう。憂い、涙、物思い、そんな言葉が良く似合う雨の日。

歌の世界でも、雨をタイトルにした作品のヒットも多く、失恋や慕情にからんで雨を歌詞に使った名曲は数知れない。雨に絡んだ異国の曲も多く、古くは"悲しき雨音""雨の日と月曜日は""雨を見たかい"などなど、雨に寄せる思いは万国共通といったところかもしれない。只、米のミュージカル映画"雨に歌えば"の有名なワンシーンに、底抜けに明るくはしゃぐジーン・ケリーがいる。雨も大いに楽しもうという、欧米人の気質や遊び心を大いに感じさせる所ではある。凡そ日本には、温泉街の蛇の目傘、棚田や神社仏閣の古池などにお似合いの、静寂な雨がよく降るようだ。

水の豊富な日本に住んでいる私たちには、蛇口をひねると豊富に出てくる水が当たり前だが、海の向こうでは事情が違ってくる。一昔前、タクシーの運転手さんから聞いた忘れられない話がある。中近東の御偉いさんが日本に来た際、"大事な飲み水を、トイレで流す水に使うとはけしからん"と激怒したそうだ。異国にはコップ一杯の水で、身体全体を洗わなければならない人や、毎日何キロも水場まで歩いて、その日に必要な水を汲みに行く女性や子供たちがいる。ここ日本に生まれた私は、それを実感として捉える事は難しい。 時に雨は河川を氾濫させ、山や崖を崩して大変な災害をもたらすこともあるのだが、多くの人が毎日のように風呂を使い、晴れた日には洗濯をしながら、心地よく過ごせる環境に生きている。振り返り、雨という水をくれる天に感謝し、恵まれていることを常に把握すべきなのだろう。

この雨の国に生まれた私にも傘の想い出がある。学校帰りに、珍しく予報通りのにわか雨にあった時の事。首尾よく傘を差して通りがかったいつもの薬屋の前、そこに佇んでいる女(ひと)と暫し目が合った。私より幾つか年上のショートヘアの素敵なひとで、突然の雨に途方にくれているようだった。若さと照れくささもあり、どうしても"どうぞ"の一言が言えず、傘を差し掛けられなかったあの時、後ろ髪を惹かれる思いで立ち去ってしまった。暫くして、神田川を渡る交差点で信号待ちをしていたら、向こうから申し訳なさそうにしている例の彼女と、身体の丸い何処かのオヤジ(まるで今の私のような!)が、アイアイ傘でこっちにやって来るのが見えた。私は逃げるように家路を急いだ。安堵と後悔が入り混じる、青く苦い雨の想い出である。もしも、その女(ひと)が自分の好みのタイプでなかったら、果たして、こんな思い出になったのだろうか?と言うのが、今の偽らざるひとりごとであるのだが・・。

時に雨は、人を優しくする力もある。夕闇漂う雨の中、傘を持って行かなかった人を家族や恋人が当然のように駅に迎えに行った時代があった。電車が着き、改札を出る人ごみの中にその人を探す。モノクロームの冷たい雨は降り続けるけれど、帰る身も、待つ身もほんのり心は温かい。そんなシーンを幾度か目にしたことがある。これから始まる梅雨時に、こんな昭和の忘れ形見のような景色を、又再び見てみたいとも思う。はたしてその心を繋いだ傘、今はコンビニや駅の構内など、どこでも簡単に手に入る。効率や利潤のもと、人の施策によって生まれた便利さが、残念ながら人の温もりや絆を一つ、又一つと消してゆく時代になってしまったのかもしれない。
 2010.05.08 (土)  たらこ
ゴールデンウイークも終わり車の渋滞も解消、新緑が嬉しい季節になった。
あの期間、近郊のアウトレットや旨いもの探しのデパ地下でやり過ごそうと決めたある日のこと。またやってしまったという出来事があった。
都はるみの名曲、"大阪しぐれ"の2番の歌詞に出てくる堂島。好きな歌なので私には馴染みのある地名だが、おそらくその場所で作られているのだろう。堂島ロールというサッパリ系で何気に美味しいロールケーキと、京橋の伊勢廣が出店している、鳥のつくね(塩焼きに限る)を目当てに、暇に任せて日本橋の二つのデパ地下をハシゴした時のこと。

いつものように、いろんな食材を見ながらボケッと歩いていたのだが、いきなりニューッとサーモンピンクの綺麗なたらこが鼻先に出現した。何のことは無い、旨くやり過ごせない私が、やってはいけない試食の始まりである。威勢のいいお兄さん、その日は客も少なく、馬鹿面さげて歩いて来たいいカモを、数メートル前から狙っていたようである。
思わず手に取ってしまったら食べるしかない。口に運ぶと、これがなんとも甘塩で粒の硬さもちょうど良い。たかが"たらこ"だが、その美味にちょっと感激。
"スーパーじゃ絶対に出会えないたらこだよ"なんて殺し文句も一流?で、食い意地の張った私の琴線に触れることを言う。もう決まりである。

"よし、頂こう(アイ・ウィル・テイク・ディス?)"。それにしてもよくよく見れば、大きく立派なたらこである。"大きすぎるので一本でいいよ"と言うと、二本で一対になっていて、無理に離すと崩れてしまうとの事。しょうがないのでひとはら買う。売り場のお兄さんの肩を持つわけではないが、余ればアルミ箔にでも包んで冷凍という手もある。そして、手に取ったたらこの値札をみて、感激から動揺へと私の心は豹変する。何とたらこひとはらで三千七百円を越えている。しつこいようだがアワビじゃない、たかが"たらこ"である。

帰りの車の中では自然と無口になっている自分に気が付く。私の主義という大げさなものではないのだが、とりあえずの買い物でも、その過程が楽しくなければ良い買い物とは言いがたい。買うときの直前まで悩んだり迷ったり、そしてその店の空気や店員の態度(五番街のティファニー程までは求めはしない)なども、その値段に含まれているものだという考えが私にはある。反面、即答の勢いで買うという、大変悪い癖もある。特に苦手な試食という事もあるが、これは絶対に悪い癖が出たとしか言いようがない。

今回は、失敗がいつまでも残る衣類などに比べると、食べたら綺麗サッパリ何もかもが終わり、たまにはこういう買い物も良いだろうと割り切って思う事にした。そして、こんなことでしばし悩んでいる自分が、だんだん哀れに思えてきた。
夕食時の子供たち(既に大人だが)に"今まで食べた中で、一番美味しいたらこを買って来たぞ"と大げさに言ってみた。心の底からの叫びであり、食べる前の一種の洗脳である。すると、全員が本当に美味しいと言って、息子はご飯を3杯も御代わりし、その次の日もみんなでソレを楽しんだ。それから、何日か経った今日も、あの余ったたらこは大事に冷凍庫に仕舞われてある。もしかして、大変良い買い物をしたのかもしれないと、今は密かに思いだしている。

新聞を見てもTVをつけても、マスコミはエコだ!安くてよい品!旨い店!とバリューフォーマネーをうんざりするほど叫んでいる。あらゆる時に、みんながみんなユニクロやマックや富士そばでは面白くない。こんなに財布や舌の記憶に残るたらこはそうはあるまい。
<失敗は成功の元>では無く、失敗がわからないうちは失敗とは言わず、失敗だったと結論を下すまでには、それ相応の時間がかかるという事。もしかするとこのたらこ、私にとって"忘れえぬバリューフォーマネー"だったのかもしれない。
 2010.05.01(土)  同窓会
"ひとりごと"を書かずに3ヶ月、困ったサボリ病である。しょうがないので徒然にパソコンのキーを叩く事にした。そもそも私は、小学校の夏休みの宿題以来、継続的に自分の出来事を記録するという節操が無いのかもしれない。

この春には、長女の成人式、次女の大学入学、長男の高校受験と入学。それぞれの子供たちの節目もあり、身近に何かとイベントが続いていたのだが、それをネタに書くとなると、"平凡な私の幸せ"とかいう、書く方も読むほうも、妙に面白くない事になる。必然的に益々筆が進まなくなってしまった。

そんな慌しい日々の中で、先日、私の中学・高校の同窓会なるものがあった。これを計画したのは、以前"一泊旅行"というひとりごとを書いた時のメンバーである。あの頃、真面目か不良の二者択一となると、どう甘く見ても、間違いなく後者に当たる面々である。 男子校だった我らの同窓会に集まったのは、後に校長になったお二人、それに体育、音楽、生物、国語、数学が各専門の先生方と、約60名の生徒たち。生徒たちは、私の学年が一番上で、その二つ下の学年までの三学年だった。とはいえ、もうそろそろ60歳に届こうという年代なので、いいオヤジ達ばかりである。中には先生方よりも先輩に見える輩も見うけられる。

会は正午の時間に始まり、その最初の盛り上がりは、坂本先生の紹介の時だった。英語の教師だった彼女は、驚く事に、中学生だった我々のクラス、47人の一人一人に英語がより身近になるようにと、欧米人の名前を付けたのだ。私たち生徒にとっては、芸能界や盛り場で言う、芸名や源氏名を貰ったようなもので、当時ふざけては、その名前を呼び合っては喜んでいた記憶がある。そして、其処に集まった一人一人が、あの頃の名前を立って言う事になった。サム、ヴィンセント、ハンス、エリック、そしていよいよ私の番になり、"ビル"と大声で言った。このクラスの参加は20人ほどだったが、全員が自分の源氏名?を覚えていて、その都度大笑いになった。懐かしい名前を聞いているうちに、まるで中学の英語の授業にタイムスリップしたようだ。もちろん、それぞれの名を付けた坂本先生のご努力もさることながら、40数年前の名前を覚えていた、我々生徒の記憶力も捨てたものではないと、自画自賛の笑いの渦になった。後日聞いたところによると、先生は我々の記憶に、いたく感動されたそうだ。

そして音楽の中島先生の"オー・ソレ・ミーオ"の堂々の独唱は、当時の音楽室独特の雰囲気が蘇る。やがて、生徒たちが影で先生や学校関係者に付けていた、あだ名の告白タイムになった。ヤクザのような風貌の谷口先生は"タニ公"、生真面目一本の浜中先生は"ハマチュー"となり、私たち学生に、いつも喧嘩腰の用務員さんには"軍鶏平(シャモヘー)"など、今だから言える?懐かしくも、非礼極まりないあだ名が飛び出していた。先生方の中には、心中穏やかならぬ方もいたはずだ。

私事ではあるが、年を追うごとに、未練がましく時間の経過が早いと感じる年齢になった。幼さが残る中学時代の写真が、同窓会のテーブルに置いてあった。誰もが輝いていたあの頃。私達のこれまでの人生には、幾度かの挫折と、幾度かの悔し涙に暮れた日もあったはずだ。そんな思いを糧に再会の喜びに浸った日。先生方は70代から80代の年齢になる。集まった人の中には、おそらくもう会うことがない人もいる事だろう。出会いと別れを繰り返す日々の中、この春、珍しく心地よく晴れた土曜の昼下がりだった。このひと時だけでも、あの頃に戻れた白髪混じりのみんなの笑顔。オヤジ達の青春のカケラはふわふわと、ビルのすき間の風に乗り、切なく輝く4月の青空に漂った!・・ように見えた。

後記: 昨日の夜半から降り続く冷たい春の長雨、雨雲の切れ間から薄く日差しが漏れている。それを眺めながら、心の中でつぶやいてみる "あの日は確かにいい日だった"と。

 2010.02.18(木)  知られない歌
こんな年になって、今更ながら人の立場の違いに、時々思いもよらぬ事を知る。良く子供の頃に先生や親から"人の立場にたって考え行動するように"と言われたのを、皆さんも経験された事だろう。これは人の立場ではなく、自分の立場が心配な為に起こることではあるのだが、私は昔からデパ地下や地方物産展などで良く見かける、ご試食なるものを、出来る限り避ける様にしている。あれをしてしまうと、遂、買わなければいけないような気になるのだ。"ご馳走様"と言って、さりげなくそこを去るのが苦手である。どこかに食い逃げという罪の意識が働いているのかもしれない。そして本当に買う意識がある時だけは試食してみる。だから店員さんにとって私は、とても効率のいい上客と言えるだろう。今時、私のような律儀な客はごく稀らしい事を知った。

これは、先日のバレンタインデーになるまでの2週間ばかり、高級で鳴らすデパ地下で、チョコレート売りのアルバイトをしていた娘から聞いた笑い話である。2,3名で、有名チョコレート・メーカーの売り場を担当し、笑顔を絶やさず、清く明るくをモットーに、声高らかに売るそうである。その時、必ず試食タイムなるモノがあるのだが、その時の彼女等の極秘の歌があるそうだ。"ポッポッポ、鳩ポッポ、豆が欲しいかそらやるぞ〜" もちろん客には絶対に聞こえないように、小さな声で歌われる。そして間もなく出された、大皿に乗った沢山の試食用チョコレートは、今まで何処にいたのだろうというぐらい、多くの女性たちがワッと集まって来ては、ひとかけらも残すことなく、瞬く間に無くなるそうである。その光景は、まるで神社や公園に撒かれた、餌に群がる鳩のようだという。この歌が、この小イベントが行なわれる前歌として、絶妙に似合うそうである。当然のことながら食べた客の多くは、いや、ほとんどの客は何食わぬ?顔で立ち去ってしまうそうだ。チョコの味を愛する人(男)の為に、真剣に吟味する女性客(何故かオバサンが多いそうだ)の立場は強い。ほんの数パーセントの確立での売り手市場。その空しさを軽く冗談で受け流す、その為には格好の歌なのだそうだ。

この話を聞いて、その立場に立たなければわからないこと、その裏にはいろいろの願いや思惑があるものだと、いま一度再考したのだった。その昔、力仕事の労働には、全員がその肉体に新たな力を呼び込む為、一丸となって歌われた"よいとまけの歌"や、アメリカでは奴隷制度による、辛い労働を癒す"黒人霊歌"があった。そんな深刻な心の叫びとも思える立派な志とは、大分かけ離れてはいるものの、折れそうな心を支えようと、元気になれる心の歌。絶対的に偉い立場にいる客に、一矢報いる秘密の逆襲歌として、小気味良く笑えるものがある。

このバレンタインデーにはおかしな思い出がある。私が若手の社員だった頃のこと、会社の上司で、この日になると、義理チョコを幾つも机の上に積み上げる男がいた。誰がどう見てもその人間に、心からチョコレートをあげる女性などいるわけがないのに、必ずこの時期になると、懲りずに毎年それをやっていた。自分はモテル男だという、そこには切ない自己主張の立場があって、あげる女性にも仕事上の義理と、一人だけ取り残されまいという重圧の立場がある。そしてその状況を冷ややかに見つめる若かった私達。それぞれの思惑や願いのすべてが、ガラスの箱の中身のように丸見えになっていた。

明るく活気あるデパ地下の秘められた歌の意外性と、アッピールしたい男の喜劇的必然性。今年のバレンタインは日曜日だった。面倒な義理と多少の出費から救われた女性もいれば、貰えるか貰えないか、結構不安だった世の男たちにも、ある意味救いだったかもしれない。お菓子会社が仕掛けた、バレンタインという名のヘンテコな風習には、悲喜こもごもの心の裏通りがある。そこを歩く人間模様に哀愁漂う可笑しさもある。
 2009.12.28(月)  プレゼント
早いもので今年も残りあとわずかになった。ここへ来て先日までの寒い曇り空から、優しい日がさす穏やかな日が続いている。つい一昨日までは、街にはクリスマスの飾りつけがなされ、例の歌が流れていた。年の瀬の空気は、慌しさの中に懐かしさも加わって、イルミネーションの光の中で心が弾む。子供の頃、この時期になるとプレゼントやお年玉のことで頭が一杯になって、そればかりを四六時中考えていたような記憶がある。父にデパートに連れて行ってもらい、好物だったチョコレートパフェを食べ、目的のプレゼントを買ってもらったあの日のことが蘇る。

私は若い頃から先日亡くなられた、森繁さんの社長シリーズが大好きだった。彼の舞台を始めて観たのはミュージカル"屋根の上のヴァイオリン弾き"で、その後、日本のディスクジョッキーの草分け的存在で、レコード会社の駆け出し宣伝マンであった私を、よく広尾のご自宅にまで招待して下さった、糸居五郎さんの出版記念のパーテイーでも氏とお会いしている。アナウンサーとして先輩と後輩の関係だったと、その時に初めて知った。

先週の事、寂しくも懐かしく"おしゃべり社長"という森繁さんのシリーズの一本を見た時の事だった。この映画、日本が高度成長の時代を迎え、気ままなルンペン生活を楽しんでいるという役柄の彼が、以前に勤めていた玩具メーカーの代理社長を、3ヶ月間だけ頼まれ、独自のカラーを打ち出しながら活躍するというストーリーだった。
このオープニングの映像に、ナント!私が幼い頃にクリスマス・プレゼントで貰ったゴリラのおもちゃが出てきた。その時はあの刹那を思い出し、思わずジーンとなって画面に釘付けになった。当然のことながら、こんな私でも純真無垢な子供時代があり、サンタクロースが本当にいるものだと信じていた頃がある。

このプレゼントは、これまで貰ったどのプレゼントよりも印象が深く、私が憧れたサンタクロースと決別した時のものだった。
昔日の師走に入ったある時、母がデパートのおもちゃ売り場で、このゴリラのおもちゃが面白いと、私に執拗に言った事があった。おそらく母自身が、以前からこのおもちゃを気に入っていたようである。どんなものかと言うと、縁日などでもよく見かける、コルク弾のピストルで、身の丈25センチ程のブリキのゴリラの人形を狙う。そして、弾が胸の丸い箇所に当たると、目が赤くピカピカと光りだし、"ウァーッ"と怒ったように声を出しながら、バンザイをするように両手を挙げるという代物だった。今の時代でも、その面白さは充分通用するだろうと思われる。その頃、近所の後楽園遊園地に出かけてはよく遊んだ、野球選手の絵に軟球のボールを投げて、真ん中の浮き出た箇所に当たると、球場のサイレンと同じような大きな音が鳴り出すゲームと、原理は同じだったようだった。

そして、ようやくやってきたクリスマスイブの夜、おそらくそのゴリラのおもちゃをサンタがくれる事になっているのだと、妙な予感はしていたのだが、その夜はいつになっても寝付かれずにいた。そのうちに遠く微かに"ウァーッ"という機械的な声と共に、父や母の笑い声が聞こえてきた。今思うに、私へのプレゼントを渡す前に、ゴリラの試験作動?をしていたものだと思える。そんな声が聞こえてくると、興奮のあまり益々眠れない。
それから暫くして、母が私の枕元にやって来て"あっ、まだ起きている"と耳元で囁きながら、例のプレゼントを置いていったのを覚えている。親子の仲とはいえ、それは仁義に反する事と、私は一生懸命寝たふりはしたのだが、所詮は三流役者?の子供の演技、母には何でもお見通しだったようだ。以来、やはりサンタは両親だったことが、確かになったあの夜の事を忘れずに、今日に至っている。

新しい虎の年がもうすぐ始まる。少しでも多くの子供たちに優しいサンタが来てくれていますように。そして多少にかかわらず、笑顔でお年玉が貰えますようにと願う。
これは私の胸の片隅にある、追憶の出来事である。これまでは想像すらしなかった、資本主義の曲がり角に来てしまった、今日の辛い世相の年の瀬に思う事。
親から子へ、そしてその子から孫へ、そんなほのぼのとした想い出の繰り返しが、優しくいつまでも人の世に続いて欲しいと願う。
 2009.11.30(月)  親子の関係
初冬を迎えたある日、部屋の掃除を兼ねて本の整理をしていた折、"一個人"という昨年の春に発売されていた雑誌を手にとってみた。今をときめく作家たちの心に残る一冊、人生観を変えた一冊を挙げている興味深いものだった。大勢の選考で決める何々賞なるものには、全然興味がわかないのだが、名を成した作家が独断と偏見で選んだ作品には、かなり興味をそそられる。

その中で山本一力氏が時代劇小説の傑作として挙げていたものに"剣客商売"があった。私は知らなかったのだが、TVでも人気だったようである。たまたま先日、次女の学園祭を覘いてみた際、一冊90円という嬉しい安さで、この古本を数冊手に入れた。一編に七話ほどあるテーマが、その都度話が完結していくので、何処からでも入っていけて読みやすい。しかも、鶯谷にある私の菩提寺や、馴染み深い東京の町が其処ここに出てきて、その描写が実に正確なのには驚く。ちょっとした江戸散歩の気分になれるのも、このシリーズの魅力でもある。作者である池波正太郎氏は、おそらく江戸の古地図片手に、綿密に現代の東京を歩いたものと察せられる。又、彼は広く食通で知られるだけに、何気なく随所に書かれている酒の肴や蕎麦の話は、酒好きの私を楽しませてくれる。この物語は父と息子の強い絆が全編に流れている。この二人の絶妙な関係がお互いを支え、何処か冷めた時代の今に生きている私には、それが新鮮で心が和む。

つい先日まで上映されていた"幸せはシャンソニア劇場から"というフランス映画も偶然にも、父と息子の愛情が物語のテーマにあった。1936年のパリの下町。世界不況の影響を受け、不景気で潰れそうなパリのミュージック・ホールがその舞台になる。支配人で働く主人公をジェラール・ジュニョが好演している。久々の歌える美人女優のノラ・アルネゼデールの存在も大きく、この映画に花を添えている。19歳という若さもさることながら、彼女の美貌と美声はこの次の作品を大いに期待させる。

寂れ行く劇場の支配人として苦戦している父を、少しでも助けようと息子役のマクサンス・ペランが、街でアコーデイオン弾きをするが、少年の為に補導されてしまう。 生活力のない父から、息子は別の男と結婚した別れた妻に引き取られ、一緒に暮らしたい父と息子は離れ離れの辛い生活を送る事になる。長い間息子に会えなかった父は、劇場の仲間達に支えられながら、元妻の所へ遥々息子に逢いに来る。通された子供部屋で、其処にいない息子のシャツの匂いを嗅ぎながら、こらえきれずに泣くシーンはぐっと来る名場面だった。ジム・キャリーのマジェスティックを髣髴とさせるストーリー、後半の舞台のお洒落な色彩に感動し、フランス映画には珍しいハッピーエンドに胸をなでおろす。

この"剣客商売""幸せはシャンソニア劇場から"は玄人好みの方に言わせるならば、どちらも軽すぎの娯楽作品と言われてしまうかもしれない。だが、この小説では私を江戸時代の世界に何の違和感もなく、忽然と入れてくれる自然さがある。また一方のフランス映画では、ノスタルジックなパリの下町や、入った事もない小さな劇場の楽屋の雑踏に、慌しくも心が弾む。所詮は多くの経験も、まして他人に成り代わることもかなわない時間制限つきの人生である。私はこんなに単純でハッピーでいられる時間が好きだ。

今日の二つの物語の本題は、どちらにしても父と息子の愛と絆がメインである。私はどちらかといえば、異国である劇場の支配人の父が共感できる存在だ。今の日本では何処へ行っても、とかく親父は煙たいものと思われがちである。母が本質的に子供からの愛情を独り占めにしてしまうのが多いように思えてしまう。親子の縁あって、こんな私を懸命に育ててくれた父には大変失礼だが、自分の子供時代の体験もそんな所ではないだろうか。

ここで稀な話、私の知り合いの中で"世界で一番尊敬するのは父です"なんてのたまう息子さんを目の前にしたことがある。もしかすると世間には良くある言葉なのかもしれない。それは同じ父という存在としてうらやましい限りではあるのだが、反面、最も脆弱で頼りない言葉の一つが尊敬でもある。ましてや、信仰にも似た尊敬というややこしいものに限っては、その期待を裏切った時の反動は計り知れないものがある。力が抜ける日常まで、立派な父は演じていられないのが、多くの巷の男たちの本音ではなかろうか。

私に限り不幸にして?自分の息子がその言葉を使うことは、万分の一の可能性もないのだから、ひとまずは肩の荷なしに、馬鹿をしながら気楽に生きていられる訳である。 友達、夫婦の関係と違うのは、具体的には切っても切れない血で繋がっている事。同じ両親から生まれた兄弟といえども、その親子関係には差異がある。誰もが親から生まれ、人の数と同じ数だけこの関係が存在する。一般で良くいう、似て非なるもの。願わくはそのすべてが"温もりの関係"であって欲しいものである。
 2009.10.17(土)  秋の海釣り
よく晴れた秋の一日、久しぶりに海に出てみた。古くからの知り合いの上野氏に誘われ、横浜の磯子から釣り船に乗り、今が旬のアジを狙う事になった。海釣りといえば朝が早いのが常識だが、遊びまで怠け者の私にとって有難かったのは、お昼の12時30分に出航という楽なスケジュールだった。釣り船には何と20年ぶりの乗船である。

大人の男6千円(女性と中学生までは3千円)の乗船料に5百円の貸し竿、餌などが用意されているので、後は着替えと釣った魚を持ち帰るクーラーボックスがあれば大丈夫。ここの所あまりいい天気に恵まれなかったこともあり、穏やかな日差しと潮の香の海風が嬉しい。船は結構なスピードで波しぶきを上げる。水面に跳ねる幾百もの光と遠ざかる神奈川方面の景色を見ているうちに、20分程で目的の釣り場にやって来る。


釣り針にイソメをつけて、小さな鉄の籠にまき餌を入れればオーケー。重りが海の底に達したら、2,3メートルぐらいリールを巻き上げてクイっとしゃくる。それを繰り返すうち、竿にビビっとあたりが来たらリールを巻いて引き上げる。よく釣りの名人達が微妙な感覚で合わせるというが、そんなテクニックはいらない。あたりが来たら巻き上げるだけだ。船は魚影探知機を積んでいるので、初心者でもかなりの確率で釣れると思っていいだろう。
時間はたっぷりの4時間30分なのだが、かなり忙しくてゆっくり食事などとる暇がない。

そんな私に最初のあたりが来たのはイシモチだった。腹をぎゅっと掴んだらキューっと泣く、一寸可哀想になるがここは心を鬼にして針を外す。しばらく集中しない生活が続いていたのだが、この時ばかりは時を忘れて釣りに打ち込む。2時間ほどでようやく慣れてくると、船の周りにいる沖のカモメなんかに目をやりながら、魚の当たりを待つようになる。それまでは糸を巻き上げすぎて大きめな重りをコツンと頭に当てたり、あがった魚を逃がすまいと、揺れる甲板で尻餅をついたりで、後ろで見守る船頭の嘲りの笑い声が聞こえていた。こうして暫く不本意な醜態をさらけ出していたのだが、そういつまでも恥さらしはゴメンである。久しぶりにむくむくと湧き上がるプライドが、とうに忘れていたひたむきな心を蘇らせる。

やがて日が傾く頃、気が付けば結構な豊漁だった。アジにイシモチ、サバにカツオと、ざっと20尾ほどが今日の私の努力の結晶だった。秋のひんやりとした風の中でほっとするひと時、帰りの船のエンジンや波の音なんかにまぎれて"お酒はぬるめの燗がいい、肴はあぶったイカでいい、女は無口な人がいい"なんて、母もそうだったが今は妻に娘たち、私の周りには何処を探してもいない、無口な女の"舟歌"を口ずさむ。
やはりこの場では加山雄三は歌わない。彼の詩は、宇宙的規模の自信に溢れていて迷いがない。ここ数年、未練や哀愁の歌心に惹かれる私の心情とは、如何にもかけ離れすぎている。幸いにもこの年になってやっと正直になり、自分に似合わないことは避けるようになって来た。

ふと日常を忘れた5時間あまり、思えばほとんど立ちっぱなしでいたようだ。安堵感と心地よい疲労感がカラダ全体に広がっていた。これから紅葉狩りにゴルフにと絶好の行楽シーズンだ。こんな少しお宝的で、気軽に釣りを楽しむ海の一日もお勧めである。なにしろ帰ってから、何処の一流料理屋にも負けない新鮮で旨いアジやカツオのたたきと、イシモチの塩焼きでの一杯が待っている。釣る楽しみと食べる楽しみの一石二鳥。いつまでもついてくるカモメたちに別れを告げて、早々家路に着いた。
 2009.09.30(水)  積み重ね
ひんやりとさわやかな秋風に心が弾む季節になってきた。若いころは、この秋風が街角を吹き抜けたりすると、ひと夏の出来事なんかを思い出し、むやみに感傷的になったりした時もあった。悲しいかな、今では白い渚に青い海、恋する小麦色なんて事もなく、あの暑い寝苦しさから開放されることに嬉しくなる一方である。このひとりごとの休憩の間、やっと多くの国民が首を長くして待っていた政権交代があり、その前は夏の甲子園もあった。今年は昨年のオリンピックイヤーと違って注目度も増し、しかも名勝負も多かった。この甲子園に、日本野球が世界に誇れる基礎があるのだと実感する。そしていつもの高校球児たちの涙に、幾度ももらい泣きをさせられた。

ここ数年、我が涙腺は緩みっぱなしで、男の意地も誇りも消え失せている。そんなある時、車で聴いていたラジオで誰かが言っていた"人生はどの位多くの涙を流せたかで、その人の幸せ度がわかる"と言っていた。最初これは異な理論であると思ったが、その心は、悲しいにつけ嬉しいにつけ、心がしっかりと働いたこと。つまり感情の動物である人間として、良く生きたという事らしい。気が強くてなかなか涙を流さない子供だった私が、成人してから何十年も経った今、情けないほど涙もろくなって思うに、あのラジオの名言?多くの幸せは多くの涙を伴うという、ほっとするような言葉のどこかに救われているようである。

先日、イチローが9年連続200本安打という大リーグの新記録を打ち立てた。昨年からこの記録に期待していたのだが、WBC疲れの胃潰瘍や左のふくらはぎの故障などで、一時はかなり心配だったが、さすがイチローである。最後は難なくクリアしてくれた。この記録、当分破られることはなさそうである。何しろ9年連続という長い年月の間、普通どんな選手でも大きな故障も怪我もある。試合に臨む、誰にも負けない世界一の準備と鍛錬、類稀なる素質がこの栄冠を彼にもたらせたのだろう。後はピート・ローズのもつ、通算10年の200安打記録を塗り替えることは間違いないだろう。このまま歴代の記録をまだまだ塗り替えそうである。海を越えた本場のプライド高きメジャー・リーグで、しかもなんでも一番でなきゃ気がすまない国アメリカで、彼はその国技の歴史を塗り替えている。もう地元の評価など気にならない、私はこのイチローの活躍が本当に小気味よくて嬉しい。

さて、天性の努力の達人からこれを書いている私こと凡人は、これまでどんな事を積み重ねてきだろうとふと思う。毎日を振り返ると必ずおなかが空き、必ず眠くなる。生まれてから日々それだけは積み重ね、食べた量と寝た時間は自己新記録を更新中である。
先日、目に留まった文章に、日本人の食生活は目覚しく向上し、今や寿命も世界一延びて、人生80年時代になったという。では、日本人は一生の間にどれ位食べるのか。
女子栄養大学の五明教授という人がはじき出した数字によると、米は6トン(ご飯11万杯分の量)、鳥獣肉類が2,2トン、それはおよそ牛6頭分。小麦2,6トン、魚介類3トン、卵1,3トン(37,000個)、野菜7,5トン、その他の食物を加算すると、およそ50トンの量が、一生の内に身体を通過するそうだ。

私の場合、これに別腹もしくは憂さ晴らし?の為の酒が加算される。少なく見積もっても毎夜350ccのビールを30年間飲み続けていたとすると、これまでおよそ4千リッターばかり飲んだ事になる。CCで言うと400万CC。これからも飲み続けて、元気で平均寿命を全うすれば7千〜8千リッターの酒類を胃に放り込む事になる。私にとってこの数字はかなり控えめな数字である。人によって下戸と酒飲み、大食いと小食の違いはあるかもしれないが、毎日積み重ねていくとかなり立派な数字になる。

継続は力なり、ベストセラーよりロングセラーにいい物がある。天才で努力家のイチローの世界的記録とは比べるものではないが、凡人としてこれだけの偉業?を進行中である。つまり、山あり谷ありの起伏の人生を何とかこなしているという事。それはある意味、天に感謝してもいいものではないだろうか。
そして、先の涙の話に戻って、嬉しいにつけ、悲しいにつけ人として生きている証として、やはりこれからも大いに涙を流したいものである。そう、あと1リッター位は流したいものである。その涙、嬉し涙や感動の涙ばかりだといいのだが・・・。

 2009.08.08(土)  月夜に思うこと
相変わらず朝のスロージョギングを続けている。自画自賛ではないが、すぐやめるこれまでの私にしてみれば、かなり頑張っている方かもしれない。そろそろ受診期限が過ぎてしまった健康診断を受けようと思っている。暑くうっとうしいこの時期、まさに蝉時雨の季節である。緑はいよいよ濃く深く、不順な気候にもめげず、自然は常に生という期限つきの枠の中で、愚直なまでに精一杯の営みを続けている。今年は特にミンミンゼミの当たり年で、以前は希少価値であったその鳴き声は、小雨交じりの曇り空の下、何処までも私の行く手にはこの声が聞こえてくる。東京の自然もまだ捨てたものでもないらしい。

そんな日照時間が異例に短いこの夏に、皆既日食から、今度は宇宙飛行士の若田さんの帰還と宇宙付いた話題が続いた。私の知人が中国の僻地まで、その皆既日食なるものを見に行くといっていたのだが、果たしてその後どうなったことか。地球上の命の根源である大いなる太陽を隠した、この月にまつわるロマンの話は尽きない。人類は夜に美しく輝くこの星を、宇宙のどの星よりも身近に感じ、密やかな願い事などをしてきたのだろう。

今でこそ、こんな事をする家庭は無くなってしまったのだろうが、すすきに饅頭を供えた子供の頃の十五夜の時、そこにはウサギが映るかもしれないと、いつも双眼鏡を放さない私がいた。今思えばなんて風流な子供時代だろうと懐かしく思う。
そんな人類のロマンや夢だった月に、今からちょうど40年前の7月に、アポロ11号はそこへ行って帰って来てしまうという、とんでもない芸当をやってのけた。あの頃、人類の夢がついに実現!などと世界中が驚喜してその映像に見入ったものである。あれから当然、科学技術も研究も進んだ今、なぜ行ったりきたりしないのか、人類最大の快挙から、全世界を欺いた史上最強のトリックなのでは、などという率直な疑問もあるようだ。

あのアポロ11号のアームストロング船長が見たものは、広大なパウダー状の砂の海だったようだ。そこには残念ながら、餅をつく可愛いウサギも、涙ながらにそこに帰って行った、かぐや姫の子孫も、その星の使者である月光仮面の親戚もいなかった。これが現実である。冷戦時の大国の威信とか科学の進歩は、人類の希望を実現したようで、古代より大切にしてきた信仰や夢を奪ってしまったことも事実である。結局のところ夢やロマンは、未知なるもの、想像の中にこそ価値があるという事なのだろう。

この月に人が行った映画で忘れられないものがある。クリント・イーストウッドの監督・主演の"スペース・カウボーイ"のラストシーンである。この映画のストーリーは、宇宙飛行士だったメンバーが現役時代、宇宙に行く夢をNASAからの指令で断たれてしまう。全員が引退した老後に、再び重大な任務でお呼びがかかり、誰よりも月を愛していたメンバーのトミーリー・ジョーンズ扮するウイリアムが、余命いくばくもない病を患い、自分の命と引き換えに、人類の危機を救う為に、一人で月に向かって突っ込んでゆく。宇宙服を着たまま、愛する月で死んだ男のカッコよさを、ビッグバンドをバックに底抜けに明るく歌う、シナトラの"フライ・ミー・トウー・ザ・ムーン"が盛り上げる。

あの時から私の中で、月が究極の墓であるという思いは変わらない。嬉しい時も悲しい時も、見上げれば我々を優しい光で包み込んでくれる。大きな古墳もピラミッドも、大聖堂やタジ・マハールも惜しいかな、この成層圏を超えた壮大さには及ばない。本来は国の威信ではなく、人が人の為にやる科学技術や宇宙開発である。遠い未来のいつの日か、月にお墓なんて時代が来るのかもしれない。雨上がりの月の光が綺麗な夜に、たまにはこんな、外れて飛んだ思いを巡らせて見る。
 2009.07.22(水)  2本の映画
「レスラー」
 ミッキー・ロークが本当に久しぶりに銀幕の世界に帰って来たという話題性もあって、果たしてどんなものかという期待と不安の入り混じった観賞だった。物語は過去の輝かしい栄光を背負ったレスラーが、老いと孤独を向かえ人生の岐路にたつ。そして、これまで振り向きもしなかった自身の娘や恋人に心の救いを求めるといったものである。かなり試合でのえぐいシーンもあるが、ローカルなアメリカのプロレス界の内情や実像などがうかがい知れる。
 この映画の主演であるレスラー役を演じているのがミッキー・ローク。何年間もどん底時代を味わった彼の実の人生と、役柄がどうしても重なり合って来る。監督であるダーレン・アロノフスキーは、この役をどうしてもロークにと、有名スターを推薦するスタジオと随分戦ったと聞いた。今思うに彼以外にこの役は浮かばないほど、実に適役だったと思う。劇中、彼がやっとの思いで、何年間も放っておいた娘と話をするシーンは実に美しい。海辺のある場所なのだが、季節外れの誰もいない海辺の薄茶色の風景が、この親子に良く似合う。趣のある寂しい建物、何故か二人の心がそのまま情景に映し出されたようだった。いつかこんな海辺に行ってみたいと思わせるような、忘れられない場面となった。
 この映画、男のロマンや生き場所がテーマのようである。栄光を一度手にした男のこだわり、しかし、現実は年月の経過と共にいつまでもそのままにしておいてはくれない。何処で過去への思いやこだわりを手放せるかを考える映画だった。それは少なからず長く生きている人間の男が経験するものであり、仕事を持つ者の永遠の課題でもある。成り行き任せ、出たとこ勝負という私のような性格の主人公。ラストシーンでの、彼のわだかまりを捨てた決心が感動的に映し出される。これから見る方に申し訳ないのでこれぐらいにしておくが、エンデイングロールで、ブルース・スプリングスティーンの歌とアコースティックなギターの音色が心に染みる。この映画のためだけに作られたこの曲が流れてくると、心地よさと一抹の寂しさがこみ上げてくる。

「扉をたたく人」
 妻に死に別れた大学教授が主演の話である。淡々とした日常に生きがいを求めながら、物足りなさと孤独を抱いてかたくなに生きている。そこに移民のジャンベという太鼓の奏者である青年との衝撃的な出会いがある。
 01年の9・11以来、ニューヨークでは特にイスラム文化への締め付けが厳しくなる。このシリア出身の音楽を愛し、平和が大好きな移民のハーズ・スレイマン扮する青年が、不法滞在から厳しい対処を受ける事になる。確かに9・11は人権や文化も置き去りにするような、あまりにも大きな出来事ではあった。それでも、常に国際社会の中で他の者を見下しがちな欧米独特の中心主義、近代的啓蒙のいきすぎと偏見もこの映画にはしっかりと盛り込まれている。
 その舞台のニューヨークの何気ない街の描写が実にいい。セントラルパークやバッテリー・パークから出発してスタテン島へ向かう、無料フェリーから眺めるマンハッタン。グリニッジ・ヴィレッジらしき町並み、地下鉄とそこで仕事をするサブウェイ・ミュージシャン。ニューヨークが舞台になった映画は"ラブソングが出来るまで""プラダを着た悪魔""ティファニーで朝食を""スパイダーマン3"など、幾つもあげられるのだが、その中でもこれはかなり高得点をあげられる情景描写の世界である。そして主演の教授役のリチャード・ジェンキンスも素晴らしい。これもミッキー・ローク同様、彼以外にこの役は考えられないほどはまっている。そしてそれぞれの助演の役者たちが実に本物臭くて、本当にその職業の人たちがそのまま映画に出てきてしまったような錯覚に陥る。この映画の原題は"ビジター"である。それが日本のタイトルは"扉をたたく人"だ。こんなキャッチーな原題を、あえてこの題名にした名付け親に心から拍手を贈りたい!
 この映画を深く心から愛した人なのだろう。このジェンキンス扮する大学教授、最後のシーンの心の中にその扉の意味がある。原題を超えた心に残る名タイトルに出会えた。

 これらの映画を観終えて思うこと。相変わらずこの日本では、展覧会、レストランやホテルのランチ、スポーツ施設や温泉と何処へ行っても活きのいい小母さんたちばかりである。いったい日本の小父さんたちは何処に消えてしまったのだろうかと常に思う。
 多くはこれを書いている私のように、何処かの居酒屋で過去の思い出を肴に群れては散る日々を過ごしているのかもしれない。この映像の中の小父さんたちの人生、それらしい生き様を魅せてくれる。ここで今更、男の哀愁なるものを述べるつもりはないが、やはりこだわりや生きがい等というものが失われた毎日はつまらない。ここ何年間か"事なかれ主義"という名の長患いにかかっている私でも、決別や出会い、落胆に挑戦や奮起、そんな起伏のある人生もいいな! と思わせてくれるような久しぶりの名画たちだった。
 2009.06.17(水)  ヘアスプレイ
 6月12日の朝刊に、あの懐かしいミュージカル、ウエストサイド・ストーリーの日本公演が決定したと言う広告記事が載っていた。ブロードウェイで再演が決定したことはインターネットで知っていたのだが、こんなに早く日本にやってくるとは思わなかった。映画でも大ヒットとなり、ニューヨークの上空から指の鳴る音を頼りに、地上にカメラが降りてゆく感動的なオープニング・シーン、シャーク団のナンバー2と思しきタッカー・スミスが歌う"クール"の場面も好きだった。なんとこの名作は1957年の9月にブロードウェイで幕を開けたそうだ。
 我家では今週、ミュージカルの話で大いに盛り上がっている。先日の10日、新宿の厚生年金会館でやっていた、"ヘアスプレイ"というブロードウェイ・ミュージカルを見てきたばかりだった。おまけにその日のショーが終り、偶然外に出て来た役者たちと、暫くそこで握手をしたりいっしょに写真を取ったりで、その興奮がいまだ冷めやらずといった所である。そもそもは、昨年行ったニューヨークのニール・サイモン劇場で、私と長女が"ヘアスプレイ"の大ファンになった。そしてこの6月、まさかの日本の再演決定のニュースに喜んだ。家族の誰よりも人生を楽しんでいると勘違いしている私は、家族を優先させるのが人の道と考え、化膿した子宮を取って間もない病み上がりの愛犬と、仲良くお留守番の役をかってでた。
 この物語は我々日本人にとって、アメリカが最も輝いて見えた1960年代初頭、南部のボルチモアが舞台である。2003年のトニー賞のミュージカル部門で、8部門の栄誉に輝いたハチャメチャに弾けた楽しい作品だ。2007年の2度目の映画化でも大ヒットしている。太めの主人公より、また3回りほどデカイお母さん役は、常に男優と決まっているようだが、その役になりきったジョン・トラボルタの怪演ぶりもかなりの凄みがあった。古きよき時代のファッションは、まさに今年、生誕50年を迎えたバービー人形の世界で、そのノスタルジックで鮮やかな色使いや髪型は、当時夢見た憧れの世界にタイムスリップしたようである。音楽もまさにあの頃で、アレサ・フランクリンやシュープリームス、コニー・フランシスなどのスター達を追想するフレーズや、キャラクターが随所に出てくる。ストーリーは人気テレビ番組"コーニー・コリンズ・ショー"が中心になる。
 これは昔、日本のフジテレビが、同じ時間帯の土曜の午後にやっていた"ビート・ポップス"を髣髴とさせる。このコリンズ・ショーのレギュラーになることを夢見る、トレイシーという太目で純真無垢な女の子が主人公で、彼女の前向きで一生懸命な姿は、多くの人に勇気と希望を与えたことだろう。"太目はスターになんかなれないよ"と暗に否定する、恋のライバルである細く美しい女の子と、その番組プロデューサーである性悪な母親。又、劇中には黒人社会への差別も、しっかりと組み込まれている。古きボルチモアが舞台ではあるが、なにもこの話の本質はアメリカに限ったものではない様にも思える。どんな人間でも何処かに隠し持つエゴや差別が、このストーリーの根底に流れている。そんなちっぽけな偏見も吹っ飛ばそうじゃないか!がんばって夢をつかもう!という底抜けに明るくカラフルなメッセージが、我々観客にパワーや元気をくれる。
 私がブロードウェイで初めて観たミュージカルは、1930年代のニューヨークが舞台の"クレイジー・フォー・ユー"だった。その時の感動を今でも鮮明に覚えている。キャスト達には、世界中から集まる多くの強力なライバルたちとの戦いを勝ち抜いて、憧れのブロードウェイの舞台に立ったという、プライドと喜びが溢れる。常に自分とも戦い、懸命に歌い踊る彼らの素晴らしいパフォーマンス、舞台の誰もが輝いていた。
 わが国には世襲と言う古い体質を今も踏襲し、日本文化を代表する閉鎖的な伝統芸能がある。その成り立ちの違いを痛感する。近年、アメリカのお家芸のベースボールを、日本の野球が打ち負かすような時代になった。しかし、このミュージカルの世界だけは、それを超えるのが当分難しいように思えるのは、これを実感した私だけではないだろう。
 今度はブロードウェイそのものが舞台である"コーラスライン"の日本公演も決まったらしい。また舞台と観客は一つになるのだろう。うっとうしい季節に、あまりいいニュースが聞こえてこない今、こんな憂さ晴らし観劇は実にスカッとするだろう。
 あのニューヨークの劇場では、お洒落をした皆が席についていよいよ幕が開くその時、胸をときめかせる娘が囁いた。"昨日のヤンキースの試合とこのミュージカル、どっちが面白いかな?"私は躊躇なく答えた"そりゃ、勿論こっちだよ"と。
 2009.06.10(水)  重要課題
 とりあえず"枝豆とビール"の季節がやってきた。緑が美しい季節でもあるこの頃、朝の一時間を森の中で過ごしている。そういうと聞こえはいいのだが、実はご多分に漏れずメタボ対策の一環で、このような非常事態になった。今年3月に区の検診を受けた所、若干ではあるが糖尿の数値が出たと言われた。白人の若い女医から流暢な日本語で聞かされ、あまりの突然な言葉に愕然となって聞き返した。彼女の血の気のない薄い唇から出る言葉は、淡々と"糖が出た"と言う事実を繰り返すだけだった。2週間後のかかりつけの医者での精密検査結果と結論は、まず薬を使わず体重を減らすことだった。そこへもってきて先月の半ばからの腰痛。新たにかかった外科医の結論は、これまた同じ体重を減らすこと、腰の骨にかかる重量を軽減し負担を減らす、それ以外に方法はないという。
 食事制限と多少の運動。まずはその運動、今更、以前に通ったスポーツクラブで、隣に来る誰かを気づかいながら、ハツカネズミのようにカラカラとウォーキングのローラーを回す気にもなれない。ペダルをこぐのもしかり、何であんな景色も変わらず、空気もよどんでいる騒々しい場所で汗を流すのだろう?それこそストレスがたまる。
 そんな時、昔あるサウナで読んだ効用を思い出した。1920年代に金メダルを9個も獲得した中・長距離の陸上選手、フィンランドの英雄のヌルミが言った"サウナはなんて気持ちがいいのだろう。まるで森の中を何キロも走ったかのような爽快感だ"という言葉だった。以来その言葉が気になって、一度はその森の中の心地よさを体験したいものだと思っていた。そこでとりあえず、ご近所の哲学堂の森の中を、マラソンならぬ早歩きで汗を流すようになった。朝8時には門が開く。早朝の木漏れ日が射すひんやりとした森の中は爽快である。決して大きな公園ではないが幾つもの石畳の階段やなだらかなスロープ、そんな高低を行き来するうちに汗が噴出してくる。今は池の周りのアヤメが満開で、藤色、赤紫、純白と実に綺麗だ。小道の木々の匂いも様々で、これを必要以上に肺に入れてやる。そのうち少しきつくなったらベンチにゴロンと横になり、頭上の高い木々を見上げる。やがて広い空間にたった一人でいる、束の間のネイチャーワールドがやって来る。風が葉を揺らし、その擦れる音や野鳥たちの声が、遠い日々への郷愁を誘う。十色の様々な緑色にしばし見とれ、その葉先から何本もの光の糸がきらきらと輝き、風になびいている。手を伸ばしてみるとそれは蜘蛛の糸だった。上下に激しく波打つ腹(横になっているにもかかわらず、かなりの厚みがある)と、悲しいまでに新しい酸素を欲しがる我が鼻腔と口。毎日続けているうちに、汗が出るのが早くなっているのに気付く。
 長年の習慣である湯上がりの、とりあえずの冷えたビールと枝豆。茹で立ての豆に、きりきりっと碾き臼の役割をした蓋を回しながら、岩塩をふり掛ける。少々熱いが、早々に口の中にプチプチッと入れる。広がる豆の甘さと塩からさ、そこに感動的な冷たいビールを流し込んでゆく。カリット香り豊かな若い谷中、今はいっぱいの青ネギに紫蘇、生姜や薄切りのニンニクをのせた鰹がうまい。ほろ酔いかげん(たまに酩酊状態もあるが)に仕上げの飯とそれに合うおかず。そんなやりたい放題が繰り返された夜毎に、この取り返しのつかないような体が出来てしまったようだ。こちらも真剣に節度をもって臨まなくてはならない。ここ何年も定期的な運動もしていない怠惰な生活、当然の帰結という所なのだろう。いつかはやろう、やらなくてはと心に誓うのだが、つい先延ばしにしてきたのが、やらねば明日はないような心持ちになった。4年前、気合を入れた禁煙も、思いのほかスムーズに出来たのだから、こんなこと位は出来ないはずはない。子供の時から根性だけは誰にも負けないと自負していたのだが、そんな根性も脂肪が増えたと同時に消えうせた感がある。ついドッコイショと言わせるこの体、街のガラスに映るどこかのデブ、それが自分だと気付いた時からどの位の時が経ってしまったのだろう。つい使ってしまうメタボなどという、最近の流行語は大いに気に食わない。されど我が体が糖だ、腰痛だと訴えてきた今、来月の問診までにはあと2キロ、今年の秋にはあと5キロ、今度こそ取り組まねばならない重要な課題になった。遠い昔に置いてきた"身軽さ"にもう一度逢ってみたいと切に思う。"武蔵とお通"または"チェジウとクォンサンウ"のように、逢えそうで逢えないすれ違いだけは避けたい心情である。人生一度ぐらいは真面目になろう。"デブは一日にして成らず、ヤセも一日にして成らず"これが私の本日の格言であり、本音のひとりごとである。
 2009.06.09(火)  嗅覚
 動物と人間の心温まる触れ合いを題材にした映画やドラマは相変わらず多く、最近ではTVのゴールデンタイムのバラエティー番組でも動物を取り上げるものが多い。きっと動員力や視聴率で安定しているのだろうが、ただ人と動物がテーマのものはお涙ちょうだい的なストーリーも多く、動物好きの私にとって、わかりきっていても必ずやられてしまう本当に苦手なジャンルである。いい年をした男の泣き顔などを他人に見せないために、動物と人間の絡んだものを上映中の映画館には、ここ何十年も足を運んでいない。この話は動物の持つ能力を、身近な犬で経験した事を書き留めた、涙いらずの"ひとりごと"である。
 遠い夏の日の朝の出来事だった。飼っていたシェパード犬のベアがいなくなった。夜は庭に放し飼いにしていたのだが、当然のことながらいつものように朝になり、母が小屋に入れようとベアを呼んでも彼は何処へ行ったか姿形もない。毎朝必ず小屋の前で母を待っていたのにこんなことは初めてだった。この犬は歌が好きで、ハーモニカや笛などを彼の前で吹くと必ず歌ってくれた。小学校の友人たちもそれを見たいが為に見学に来ていた。今思えば、それは子供だった私の一人合点だったらしく、その声はかなりもの悲しく、狼やコヨーテが遠吠えをするときの野生を連想させるものだった。その後飼ったアフガン・ハウンドもそれと同じで、彼女が生んだ5匹の子供たちも消防車や救急車のサイレンが聞こえてくると、皆で輪になって同じように長い鼻を空に向け、いっせいに遠吠えを始めたのだった。
 その歌の旨い?ベアがいなくなって3週間ほど経った。保健所その他を探してもいっこうにらちがあかない。家族もそろそろあきらめかけていたそんなある日のこと、父の妹である叔母がやって来た。彼女は文京区の小日向というところに住んでいて、後楽園にほど近い、実家である私の家に月に二、三度は遊びに来ていた。いつものように、そこにいない親戚の連中を話のネタにしては、声高らかに笑っていたのだが、帰り際になって"あ、そうそう私の家でも犬を飼い始めたのよ、しかもここの家と同じ大きなシェパードなのよ"という。ベアがいなくなって今度は叔母の家で同じシェパード犬を飼うという、珍しい偶然だなと驚いた。不思議に思いながら、しばらく叔母の犬の自慢話を聞いていた。白に黒が混ざったような毛色、叔母がそういえばと、我が家の犬の名前を思い出し"ベア"と呼ぶと飛んでくるという。ある日の早朝、その叔母の娘であり、私にとっては従姉妹が通うラジオ体操にその犬を連れて行ったそうだ。そこにいた多くの子供たちが 口々に"狼が来た!"と叫び出し、天地がひっくり返るような大騒ぎになったそうだ。確かに家のベアも狼に似ていた。そしてその犬はいつから叔母の家に来たのかを訊ねると、3週間位前の朝に、玄関の前におとなしく座っていたと言う。大きな犬のいきなりの出現に、玄関を開けた叔母は本当に驚いたそうだ。まさにベアがいなくなった頃である。
 これは怪しいと思ったのだが、それにしてもベアは叔母の家に一度も行ったことはない。しかも、普段全く叔母とベアは接触がなく、お互いをほとんど知らない。まして真夜中に叔母の家へ行く事はありえないと益々疑問は募るばかり。しかしこれは確かめるしかないだろう、という事になった。叔母も少々残念そうだが、それが良いと納得のご様子。私が一緒にいく事になり、不安と興奮を覚えながら叔母の家に向かった。あの頃大スターだった大川橋蔵宅などという大きな家並みを通って、いよいよ叔母の家に着いた。高鳴る胸、やがてドアが開くと、そこには愛しのベアがおもいっきり尻尾を振って私を出迎えた。ベアは間違いなく我家から続く叔母の匂いを頼りに彼女訪ねたのだった。
 退屈な毎日に新天地を求めて旅に出たのか、それとも真の自由を求めたか否かは彼、ベアのみぞ知る。宮沢賢治が私だったら、きっといい童話をまた書き上げただろう。以来、人間では知りえない神秘とも言える動物の能力を信じ、その頼もしさに畏敬の念さえ感じるようになった。それにしても、人間の持つとっぽさと動物の鋭い嗅覚が際立った出来事だった。
 2009.05.12(火)  心に残るだけ
 時代の風潮や傾向というものを時流というらしいが、人類の歴史が始まって以来誰も止められなかった時間と同じで、例え人為的なものであっても誰もそれに身を任せずにはいられない。乗車拒否の利かない、しかも途中下車のきかない列車のように生まれ落ちたその日から強制的にそれに乗せられている。世界的大不況もさることながら、少子化の影響かそれとも合理化かここ何年か良く聞くのは、自分の出身校が統廃合などで消滅してしまったなどという話。私の場合幸いにして、一心不乱に勉学に励んだ?幼稚園から始まる学び舎が廃校になったという噂は聞いていない。ただ、子供の頃に良く遊んだ場所などは、そのほとんどが跡形もなく消えている。多くは過去の想い出と言う形のないモノに変わり、それを知る誰かと遠い目をして語り合い、脳細胞のどこかに隠れ潜んでゆくものなのかもしれない。
 先月、以前私の勤めていたレコード会社が解散した。いろいろな会社と吸収合併を繰り返し生き抜いて来たのだが、そんな栄枯盛衰の歴史に幕が下りた。このレコード会社におよそ四半世紀という長きに渡りお世話になり、又ほんのひと時お世話もした。振り返ればそこに若い情熱の限りをつぎ込み、それにまつわる数え切れないほど多くの楽しかった事が蘇る。もちろん幾多の辛い涙もあるが、今のように効率優先で数字だけを追いかけるだけという殺伐としたものではなく、そこにはロマンや夢もあるおよそいい時代だった。自分自身も若く思いっきり元気だった時代に、音楽と言う素晴らしいものを仕事に出来た事に感謝している。
 中学時代から趣味でかき集めたレコード。お金もなかったのでシングル盤には思いいれが強く、最初に買ったのはリッキー・ネルソンの"ハロー・メリー・ルー"と"トラベリン・マン"のカップリングのシングルで、彼のハンサムなモノクロの写真をブルーに反転したジャケットだった。何でも最初は鮮烈なインパクトがある。そして会社に入り、最初に出会った有名人は当時一世を風靡したシルヴィー・バルタンだった。彼女は私の中学時代からの憧れで、"アイドルを探せ"という歌が大好きでシングル盤をほとんど毎日のように聴いた。曲名がタイトルになった映画、シャルル・アズナブールや、後に彼女の旦那さんになったジョニー・アリデイが出演していたものを、友人たちと映画館に観に行ったのも懐かしい。青山のビクタースタジオで、日本で企画したアルバムのレコーデイング中に先輩のディレクターから彼女を紹介された。スタジオの分厚く重い銀色のドアが開くと、どっと溢れ出した熱気と大音量にしばし圧倒される。そこに真っ赤なジャンプスーツであの"アイドルを探せ"を歌ったバルタンがブロンドの髪をかき上げながら登場した。映画やTVでしか見なかった本物が私の目の前に立ち、にこやかに握手してくれた感動の一瞬を忘れない。
 それからは洋・邦問わず、怒涛の有名、無名の歌手たちとの出会いの人生が始まるのだが、先の記述のように何でも最初はとても印象が残る。会社では月に一度の企画、編成それぞれの会議があり、3ヵ月後にレコードショップに並び発売日を迎えるレコード、CDを決定する。企画会議では各ディレクターが洋楽では海外レーベルから、邦楽では前もって作ったものやプロダクションなどから持ち込まれた楽曲等をプレゼンして、そこに居並ぶ出席者の合意が得られれば発売が決定する。編成会議は発売の再確認と曲のタイトルなどを決定する。外国語を親しみやすい日本語に変える曲のタイトルなどは個人の感性の問題だが、しばしばその感性を巡って舌戦が展開され会議が頓挫する。大体トラブルを起こす純粋な(ここでは子供じみたとは言うまい)ディレクターはいつも決まっていて、これも会議の楽しみの一つだった。そんな音楽を愛した人々が集った会社、今思えばアーチストが誠心誠意、言わば人生をかけて作った音楽を売れる、売れない、良いの悪いのと言っていたあの頃。随分偉そうでいい加減な商売だったと思う反面、そこには放送局を初めとするマスコミの助けも借りて、ヒットさせるという素晴らしい目的と喜びがあった。全国のレコード店での売り上げを集計した、日々の出荷枚数に一喜一憂していたあの頃、いつもその中心にいられたことは幸運だった。
 私の部下であった人たちはこの解散日まで何人もいた。この業界に限らず本当に厳しい時代になってしまったが、その人たちの新たに始まる人生にエールを送りたい。あの頃悔しかったり、楽しかったりの日々を過ごした仲間たち。いつの日か、毎月発売したあの懐かしい歌たちを持ち寄って、酒がすすみそうなレコード・コンサートを企画しよう。心に染み付いた想い出の曲の数々。感極まり酔って泣くお馬鹿な奴が出るかもしれない。それが私でなければよいのだが。
 2009.04.23(木)  瓢箪から駒
 私は人の可笑しい失敗談というものを聞くのも読むのもけっこう好きだ。そこはかとない人間味に安心し、その存在が私の同類として、より身近に感じられるからだと思う。人は忘れ物などを含めると一年の内で大小どのくらい失敗するのだろう。正直に言って私はかなりの回数でドジを踏む。しかしドジを数え切れないほど踏むと、そのまま踏みっぱなしでは本当に悔しくなる。それを繰り返すうちにただでは転ばない、ただでは起きなくなる。と言うよりは転んで突いた手の近くにある石ころでも、何でもいいから拾って立ち上がるようになる。それがお金だったら今頃は!と時々思う今日この頃である。
 良く小さな頃、いじめられっ子がある日いじめっ子に突然変身するように、良くドジを踏んで泣いていた人間が、ドジがらみで飛び出す、瓢箪から駒を常に捜すようになる。そして最後はそのドジを踏んだからこそこんな経験がつめた、こんな成功があったなどと訳のわからない肯定論を持ち出したりする。私も人より多くドジを踏んだおかげで、多少は人並みの苦労人を自負している。若いうちに苦労は買ってでもしろというが、悲しいかな若くもない今でも、ドジのおかげで小さな苦労は止まない。
 先日のことだった、これは近年稀に見る面白いドジだった。息子と次女に誘われるままに西武球場に西武対ロッテ戦を見に行った時の事。試合開始時間は14時、家を出たのは13時30分、到底間に合わないが、とりあえず途中からの観戦でもと出発。電車の乗り継ぎが悪く、来ない電車をイライラしながらやっと着いたのは14時40分。しかし公式戦がスタートして間もないのに、西武球場前という駅は閑散として、ほんの数えるぐらいの人しかいない。少し心配になりながらもチケット売り場に急ぎ足で行き、"今、試合は何回ぐらいでしょうか"と言った所、"そろそろ5試合目が終る所です"と訳のわからない答えが返ってきた。親子3人でキョトンとしていると、何のことはないその日は関東地区の少年野球大会とのこと、我々が見に来たはずの試合は、遠く千葉のマリンスタジアムで行なわれていたのだった。私のドジが息子や次女にも伝染してしまったのかもしれない。まさか若い息子たちがそんな間違いはないだろうと、確かめもせずにノコノコ付いて来た私。3人で笑おうかと言ったのだが、そんな気力も失せている。
 しょうがないせっかく来たのだから、この間WBCの東京ドームで声が嗄れるほど応援した、中島選手たちのホーム球場を見て帰ろうと、とりあえず中に入ってみた。球場は野球少年たちと、その親やコーチの関係者でかなりにぎわっていた。どの選手も小さくて、いつかはイチローやダルビッシュにと、かろうじてまだ夢を見られる年代で、歓声が上がるたびに、親が子供に託す夢や希望が開放感のある球場の風となって駆け巡っていた。そしてチケット売り場のお兄さんが最後に言った"今日は第二球場で二軍選手の試合をやっていますよ!"と教えてくれた言葉を頼りに、何の期待もせずに行ってみた。これが今日の瓢箪から駒だった。言い換えれば、ドジで転び、悔し紛れにつかんだ石ころには思いがけない感動が詰まっていた。
 第二球場と言っても誰でも入れて、しかも観客席があるわけでもない。バックネット裏でほんの数十人が立ったり、土手に座って観戦していた。私たちも早速その中に加わった。その内容は一軍と少しも変わらない。とにかくすぐそばで見られる投球、打球がすごく、遥か向こうに消える大きな2本のホームランも見られた。本当に目の前でプロが思いっきりやっている。実際、一軍と二軍は我々素人目では何らその実力差は変わらない。たまたま息子が持っていたすべてのプロ選手が載っている本が役に立ち、背番号でけっこうその名を知っている選手もいる。いつかは一軍でという若い選手、たまたま怪我などで調子を崩したベテラン、ここは一つの通過点という意識を、どの選手もその鍛えられた身体から発散していた。その皆のスマートさ、カッコよさには驚く。
 試合が終わり。駅に向かう帰り道、また子供たちのいる球場から歓声が上がった。あの少年たちが夢見る有名選手たち、そしてそう旨くはいかず二軍で必死に頑張る多くの選手たち。彼らとて甲子園などを経験した野球の世界ではエリート街道を走ってきた人々である。彼等のひたむきに生きる姿を見せられて、久々にすがすがしい気持ちを味わった。ガランとした帰りの西武線に乗りながらふと思う。又、いつものドジを肯定する言い訳が出来てしまったようだと。そして本当に困った時に母が良く言った"大丈夫、何とかなるから"という言葉を思い出していた。
 2009.04.20(月)  今だから言える
 珍しく雨が降らない日が続き、ここ何ヶ月間の乾燥のせいで住宅や幾つかの山火事の記事が載っていた。そういえば昔、火事はもっと頻繁でしかも身近に起こっていたという記憶がある。そんな中の一つ、真相は何十年も経った今でも幸いにして闇の中。今だからこそ面白おかしく、当時ではとても口外できなかったちょっと危ない話を思い出した。
 私たちは兄弟で同じ中高一貫の学校に通っていた。兄の学年は今で言う団塊の世代の末期に当たる、とても人数の多い学年だった。その中に兄の友人でKさんというけっこう二枚目で、どちらかと言うと不良っぽいがとても気のいい先輩がいた。私も良く知る先輩で、当時通学に利用した狭く混んだ都電の中で会うと、人目もはばからず大きな声で私に話しかけてくる。ある朝、運悪く?また一緒の電車に乗り合わせてしまい、学校に付くまで延々と彼の自慢話を鼓膜が痒くなるほどの大声で聞かされた。それから暫くたったある日、学校が火事になった。
 かなりの火勢でテニスコート横の、古い木造建築物がバリバリと大きな音を立てて燃えた。何しろその日のTVのニュースに、空からの映像で火事の模様が映し出されるほどの大事だった。どの新聞でも写真入で燃える我が母校が載っていた。丁度昼休みで、やがて5時間目を迎えようとしていた所だったので私たちもゆっくり見物?が出来た。 ここからこの話は佳境に入る。兄の話によれば、高校の廊下の窓から身を乗り出し、誰よりも大きな声で騒いでいたのは例のKさんだったという。サイレンを鳴らし何台もの大きな消防車が校内に入って消防士たちが慌しく動き出した時、彼の叫んでいる言葉を聞くと"みんな!あそこに俺のオヤジがハッスルして頑張っているぞ!"であったという。何を隠そう彼の父上はそこの管轄の消防所の所長だった。
 しかし、ここにとんでもないこの火事の裏話がある。兄たちが言うには、その火事が起こる日の午前中に、何とKさんがその火事現場で隠れてタバコを吸っていたという信憑性の高い噂があったという。火事になるまでの一部始終を誰も見ていたわけではないので断定や確定は出来ないのだが、そのタバコの火の不始末の可能性は大きかったらしい。 火のない所に煙は立たない、それでは息子が火をつけて親父がその火を消しに来た。一見素晴らしい親子愛のお話ではあるのだが、タバコ好きの不良息子と消防士の父のあまりにもふざけすぎた偶然の出来事である。良くタレントや有名人の息子が法に触れる罪で捕まり、親たちがマスコミの前で、涙ながらにその罪を世に詫びることとは対極にある。仕事の原因を作った息子の学校で火消しの父が大活躍、いつもと違う凛々しくカッコイイ父の姿を見た息子は我を忘れてはしゃいでいる。その根源の事実は闇から闇に。
 世の中にこんな隠れた裏話は星の数ほどあるのかもしれない。報道される表面的な言葉だけを頼らざるを得ないのが世の常である。この後Kさんは何事もなかったかのよう勉学に励み、無事高校を卒業し大学にいった。もちろん彼の消防士の父上は、何も知らずに長年に渡る仕事を全うしたことだろう。確かに火事そのものは深刻な出来事だったが、怪我人も出なかった事も幸いして、その裏のとんでもない噂話は今になっても可笑しい。真実とは案外こんなもので、人は大小さまざまな出来事の中で、表ざたの一大事になるのか、それともこんな話のように世間には知られず、しかも自分の親にも知られない一部受けの笑い話で終るのか、その人の持つ運しだいで大雑把に二分されるようである。私個人の思い出の中でもこれは極端な一例だった。
 そう言えばこれまでに、紙一重の様々な分かれ目が自分にもあったような気がして来た。喜んだり悲しんだり泣き笑いを繰り返す人生の日々、そんな渡世に滑稽さが滲む。もう戻れないあの頃、瞼を閉じてその懐かしい出来事たちの糸を手繰ると、いつもそこには微笑や苦笑いが待っている。
 2009.04.18(土)  いつもと違う日
 パソコンの故障や部屋の引越しとそれにまつわる工事など、ここ一ヶ月間はパソコンとは縁遠くなっていた。いい機会だったのでこれまで描きかけで、何年間も放っていた30号ほどの絵を完成させてみた。大きな絵だけに額も大きく、その分経費がかかってしまったが、いつも気がかりだっただけに何となく自分にけじめをつけたような、重荷が解けたような、完成時には久々にさわやかな気持ちになった。その間季節は移り、絶好の行楽日和が続いている一日を選んで、いつもの友人N氏と横須賀美術館に行ってきた。ここへきて芸術に目覚めたわけではないが、ちょうど私のド素人はだしの絵の完成と、芸術家であるN氏の上野で開かれた行動展への大作の出品も終り、一段落となったところだった。ここ何年か日帰りできる美術館を訪ねている。東京で行なわれる期間限定の何とか展の人の多さに辟易している方にはこの長閑な美術館めぐりはお勧めである。
 読みかけの単行本を片手にのんびり電車に乗るもよし、窓を全開にしてペリー・コモでも聴きながら車でゆっくりと流すもよし、どちらにしても今はそれをやる絶好の季節である。千葉県の佐倉にある川村美術館などはレンブラントを初め、ピカソ、ゴッホ、モネ、シャガール、マティス、横山大観など驚くほど多彩な名画にお目にかかれる。又、これらの美術館を取り囲む素晴らしい環境にも心和む。首都圏近郊の美術館は特にそこに置かれている作品も重要だが、半日旅行を兼ねた遊び感覚の私にとっては、建物や周りの環境、庭、レストランの質等もかなり重要である。少し距離はあるが、茨城の笠間日動美術館も珍しいルノワールの彫刻、ドガ、ウォーホル、岸田劉生などこちらもなかなかのものである。
 今回行った、横須賀美術館はそこの所蔵品に関しては一般に良く知られているものはそれほどでもないのだが、その建物と周りの環境には一見の価値がある。実は一番気に入ったのがここのレストランだった。外のテラスに座ると、ちょうど三浦側から遠く富津、館山あたりが正面になる房総半島が薄く遥かに眺められ、東京湾に面している横浜港や、内房の千葉方面に出入りする大きなタンカーから小さな個人のクルーザーまで、さまざまな船が行きかうのを、柔らかな春の風に吹かれながらのんびりと眺めることが出来る。外洋に出るには必ずここを通らなければならないので必然的に船の行きかう量は多いのだが、聞こえるのは遠く国道を走る車の音とさわやかな風の音だけ、横浜の山手が舞台のユーミンの歌の世界よりもっと浮世離れした感覚になれる。われわれが頼んだのは2800円のランチ・コースだった。多少高めな設定だが、出てくるものは地元で取れた野菜を使ったオードブル、その素材の新鮮さに最初から二重丸がつく。パンとパスタと料金に関係なく選べる好きな飲み物、このほか2種類のデザートと何よりも心に美味しいこの景色、かなり融通の利く従業員たちのサービスには充分に満足感がある。外から見える近代的な建物は一見平屋風なのだが、下に深く掘られていて、白い壁と存分に使われた薄いグリーン色のガラスを基調に計算された設計は、地上の海辺の光を実にうまく取り入れているので明るく開放的だ。しかも自然光なので作品の色が現実的で綺麗だ。以前、レコーディングのスタジオがあったので宿泊した事のある京急観音崎ホテルの少し先で、横浜横須賀道路で新しく開通した馬堀海岸インターを出ればホンの数分程度で着く。
 桜も終わり、花粉もそろそろ納まりつつある。4月改変のTV局の番組に目を通してみても、新聞を広げてみても、マンネリと与党政権の下心が透けて見えるメディア報道に閉塞感を感じるばかりだ。スポーツや芸術、心を解き放つ何かを求めて動いてみる。物心が付き始めた頃に、学校の美術の先生から芸術は一瞬のひらめきと感動の再現だと教えられてから多くの時間が流れた。優しげな風の吹く日、世界的な芸術家たちの残してくれた情熱や感動を静かに受け止める。たまにはそんな煌きを自分の中に探しに行くのもいいと思う。それこそいつもと違う新鮮で雑念のない時間に出会える。
 2009.02.23(月)  悪戯
 誰でもこれまでの人生にちょっとした悪戯をしたなんてことがあるだろうが、ただそれは人によって悪戯か、そうでないのかその解釈が大いに異なる場合もある。私の場合、なんでもない事の成り行きが高じて、大人や友人から悪戯と評価されることが多かった。ある人は昔の事として触れるのを嫌がりあえて封印してしまったり、又ある人は大事に心に仕舞い、いつまでも面白く人に語ったり、根っから忘却を得意とする都合のいい脳を持つ人などといろいろである。良く仲間内で昔の出来事や悪戯話をすると、やっていた張本人が"そんな事あったっけ?"などと言って皆を白けさせる。記憶と言うものにはかなりの個人差があるようだ。ここにご紹介するのは、幸運にも公にならなかった私の少年時代のある時期、飼育係に所属していた頃の悪戯話である。

 第一話は私が小学校の飼育係になって暫くして、チャボやニワトリの中に二羽の軍鶏(シャモ)がいるのに気が付いた。訳ありげに別々の小屋に入っていたのだが、この二羽はどう見ても喧嘩で有名な軍鶏である。果たしてどうなるのか、考えるよりはまずは実行と、この二羽を同じ小屋に入れ、しかも友人と一羽ずつ抱いて顔を近づけてから放してみた。するとたちまち首の周りの長めの毛がグッと逆立った。絵や写真で見た闘鶏のスタイルである。当時、昼間はペッタンコだが夜のお出かけになるとワッと盛り上がる、何処かのアパートにいたお姉さんの髪型と同じである。それまでおとなしかった鳥とは思えない、まるで鳥が変わったようである。口ばしと口ばしがくっつくほど睨み合い、顔のどこかが磁石で引き合っているかのように、同じようなタイミングで二つの頭が上下し始めた。それからが大変である。タイミングを見計らったように、いきなり同時に飛び上がっての蹴りあい、突っつきあいが始まった。まさかやらないだろうと高をくくっていたのだが、本当に始まってしまった闘鶏の迫力に驚いた。
 それからは頑張れ!やっつけろ!などと我を忘れての大興奮。学友の誰かが喧嘩をすると何故か全く関係のない外野の奴がハイになるそれである。この鳥は本当に闘争心が強く、それからどのくらい経過したのか、トサカに血が登るのではなく、トサカから血が出てきたのでさすがに止めさせた。ほうっておけば死ぬまでやりそうな根性を持っていた。それから幾日か放課後になるとそのエキサイティングなイベントが再開された。賭場のご開帳のように、その小屋には口の堅そうな友人たちを招き入れ、私は得意になってリングアナウンサーの真似をして、いい加減な鳥のリングネームを読み上げる。出場する軍鶏は二羽しかいないので、必然的にいつも同じ対戦相手の名を呼ぶ事になる。おそらくこの小学校が始まって以来、唯一の貴重な試合見せては友人たちを驚かせたのを覚えている。今思えば、金にならない軍鶏のマネージャー兼興行師のようであった。

 第二話は、チャボというニワトリより二まわりほど小さく、ニワトリと同じ仲間の黒い鳥たちの話になる。ある日、世界で一番身勝手な私たち飼育係のミーティングは、この連中(チャボ)も鳥で、しかも立派な羽があり飛べないことはないだろうと言う結論になった。再び考えるよりまずは実行という、どこかが欠落してしまったような子供だった私と友人は、最初の内は校庭の朝礼台から1メートルほど高く、訓練!などと勝手な事を叫んでは両手で宙に投げて飛ばしていた。チャボたちもそのまま落ちたら痛いので必死に羽ばたいて着地する。けっこう旨く着地するので自信が付いてきた。それは肝心なチャボにではなく、私たちに自信がついたというあべこべな話なのだが、チャボにとっては大へん迷惑な話だったに違いない。棒高飛びの選手が挑戦するように、投げ上げる高さは2メートルから3メートルと段々高くなっていった。そのうち調子づいた私は鳥を思いっきり空に投げ上げてみた。すると宙に高々と上り、例によって必死にバタバタと羽ばたいた。次の瞬間、チャボは魔法にかかりコウモリかカラスにでも変身してしまったかのように高く舞い上がった。それからそのままの高さを保ったまま、校庭のブランコや塀の遥か上を悠々と飛んで行き、100メートルも先のお寺の向こうに消えてしまった。
 その時はさすがに私も友人たちも、いったい何が起こったのだろうと茫然自失、言葉を失った。そのお寺には怖い犬がいる。お寺の中のお墓とお墓の間をうろついていたコウモリならぬチャボを見つけ、やっとの思いで無事連れ戻したのだが、今思えば飛べない鳥のギネス記録だったかもしれない。しかし、こんな事が見つかったら学校や先生から大目玉を食らうだろうと本当に心配になった。それまでも調子に乗りすぎて最後は必ず怒られるというのが私の得意のパターンだった。その空高くチャボが飛んで行くシーンが目に焼きついてどうも目覚めが悪い。以来、ピタリと軍鶏の鬼気迫るK1グランプリもチャボのミラクルな空中遊泳もなくなった。チャボの必死の飛行は、私と言う少年を更生?させるのに充分な出来事だった。そして、昼にはクラスのみんなから給食の残り物のパンをもらい集め、可哀想だったチャボや軍鶏、ニワトリやアヒルの餌にしたりして、私は本来の優しい?飼育係の少年に返り咲いた。
 それまではいつもクラスの中で悪戯事件が起きると常に疑われる側の一人だった。しかし、今こうして大人になり思い返せばそれもやむなし、どこかの国の悪童日記などという名の小説の素材にでもなりそうである。そしてこの悪戯を肯定するわけではないが、いつも小さなニワトリ小屋の低い目線の景色しか見ていなかったチャボ。この鳥は本来身につけていた飛ぶという本能を体験した。先祖代々からとうに忘れてしまっていた空を舞ったその気分、さぞや気持ちがよかったろうと思うのも、あの頃の偽らざる私の心境である。
 2009.02.11(水)  香る季節がやって来る
 今は色もなく、香りもない季節の真只中といった所だが、日増しに日が伸びていることは実感する。やがて何処からともなく吹く風の中に梅の香りが嬉しい季節になるだろう。
 今が出荷の最盛期に入った私の最も好きなヒヤシンス、この香りを嗅ぐと幼稚園の窓辺にあった球根から突き出た鮮やかな青紫の色、先生の弾く、常にどこかで空気が抜けているような情けないオルガンの音などが蘇る。この梅が終わりしばらくすると沈丁花、これも好きな香りで、庭先で満開になったその木の前で深呼吸をしながらいつまでも立っていた。小さな花たちが密集しているその中で私は小さな虫になり、いい香りのする花々を家に見立てて、どの家に住もうかなどという楽しい空想をめぐらした事も懐かしい。ディオールの香水のディオリッシモはこの花の香りに良く似ていた。
 目や耳で覚えていることは確かに沢山あり、映画、本、写真やCD、車のエンジン音や人の声などという具体的なもので普段から触れられるのだが、こと香りは実態としてつかみ所がない。その出会いは街や田舎のふとした所で、前触れもなくいきなり鼻の中に入ってくる。たそがれ時が来て家々に明かりが灯る頃、あたりに夕食のしたくをしている匂いが漂う。今夜のこの家のおかずなどを想像しながら歩くと楽しい。家に帰ってご近所の晩御飯のおかずを得意顔で発表してみるとけっこう和やかに笑える。懐かしい匂いは、あの時代やその情景の中に私を引き戻す。それは脳のほんの片隅で眠っていた細胞が匂いによって目覚めてしまうかのようだ。そして時には懐かしさと同居している切なさなどというセンチな奴までもが心の奥から滲み出てくる。言いかえれば匂いは実体のない心の故郷であるかもしれない。
 2年ほど前、友人と法師温泉に行ったその朝の薪(まき)を燃やす煙の匂いに、近所で飯を薪でたく家があった幼かった昔が蘇る。当時、家のそばに福森と大和屋という二つの駄菓子屋があった。ほとんど毎日のように10円玉を握りしめてそこに現れる青白く痩せこけた私は、おばさんたちにとって、とても小さなお得意さんだったのだろうと今も思う。 福森は靴屋の新しいゴムと皮の匂い、大和屋は小さな文房具店の香水消しゴムと紙の匂い、忘れられない懐かしい匂いである。どちらも併用の商売で、駄菓子屋だけでは子供が多かったその時代でも厳しかったようである。
 そして未だに豆腐屋の湯気の中の大豆の匂いに、ドラム缶に積まれたおからを貰いに言った昔日を思い出したりする。小学校時代に私は飼育係で毎日のようにバケツ片手にウサギの餌を貰いにいった時の事である。又、息子のほこり臭い学生服にあの頃の勝気だった私が思い出され、親に迷惑や心配をかけた幾つかの出来事も蘇る。
 このように匂いの思い出は尽きないのだが、やはりこれから迎える花の季節が一年の中で一番楽しみである。前途のように今は花の香りや雨上がりの匂い、そんな折々の自然を感じることに喜びを感じている。まるで枯れた風流人を気取っているようだが、ついこの間までは、女性の洗い髪のシャンプーの香りがこの世で一番だと思っていた。そのついこの間は遠い過去のように靄か霞に覆われたままである。人間年を重ねると楽なほうに身も心も進んでゆくものらしい。
 当然のことながら花は人を喜ばせる為にあるのではなく、必死になって虫たちを呼んで受粉を待ち、子孫繁栄を願っている。そこに余計な人間がカメラを向けたり鼻を近づけたりしている。それでも花は寡黙で誰にでも鷹揚に微笑んでくれる。けなげなその姿は自分の短い命を知らぬかのような、一途で慎ましやかな佇まいがある。
 これに対し、霞の中の優しげなシャンプーの香りを思うと、寡黙とは正反対の時が多い。花の何千倍もの生命力を持つしなやかさと強さがあり、とうてい一筋縄ではいかない。 しかしこの香りには懐かしい悲喜こもごもの想いが刻まれている。すべてをいまだに引きずっているのか、その温もりのある想いの一つが、錆び付き軒下に忘れていた風鈴のように、心の中で微かに鳴るときがある。
 2009.02.02(月)  深い緑色のセーター
 私は銀座という街が好きだ。その濁音で終る歯切れのいいそれを聞くと、落ち着いた大人の世界を思い浮かべる。三愛や和光、三越、日産のそれぞれが角にある4丁目の青空の似合う交差点、ミユキ通りに繋がるそれぞれの道の少しくだけた高級感もいい。ゆったりここを楽しもうという人が持っている余裕や心意気が程よくこの街の風に溶け込んでいるのだろう。私がまだ中学生の頃、この街の古い歴史から見ればほんの片時の流行でしかなかったアイビーに身を固めた、ミユキ族と呼ばれる若者たちがこの街を闊歩していた。
 私も早生だったのか、今にいたる自分の服装へのこだわりが芽生えたのもあの頃だったと思う。ジャケット、セーター、ネクタイ以外は色を何色も使わない、柄物と柄物を基本的に組み合わせない。昨今の大流行の柄物のシャツに柄物の上着を重ねるということは私の覚えたファッションの基本にはなかった。先日も伊勢丹の男の新館に行ったとき、新しいブランドの靴が並んでいた。全く知らない新興勢力のメーカーの陳列には時の流れを感じる。グレーや黒のスーツに明るい茶の靴を合わせるなんてこともなかったが、今時の町を歩くお洒落な若者たちはそれを旨く履きこなしている。私も若い時から銀座に出た時ぐらいは楽しもうと、それなりに着るものには気を使うようにしている。そこには全く以前の街が消えてしまったような六本木などとは違う、どんなに海外の高級ブランドが進出してきても、昔ながらの面影が残っている安心感と郷愁のような想いがこの街にはある。数寄屋橋交差点から和光に向かう左側にテイジン・メンズショップや今ここには見られないモトキという男物中心の洋服店、鉄道や飛行機などの模型を扱う天賞堂などがある。
 私が学生だったある夜のこと、父と三笠会館で食事をした帰りにたまたま通りかかったモトキに入った時があった。父は昔かたぎの固い人間だったが、ネクタイやマフラーなどは大きな箱が一杯になるほど持っていて、夏には白いジャケットなんかをさりげなく着る、あの時代の男にしてはかなりお洒落な人だったという記憶がある。私はそのモトキの中でとても気になるセーターを見つけた。深い緑色をしたモヘアーのX襟だった。父もいろいろ自分の物を見ていたようだが、私の手にしているセーターをしばらく横から覗き込んでいた。"それはとてもいい色のセーターだな、気に入ったのか"と私に聞いた。その時、実は本当に欲しかったのだが、何故か素直にウンと言えずに今度にするよと言って帰った。
 それから数日が経った。外出から帰って来た父が珍しく元気がなく寂しそうな顔して、 "あの時、お前が欲しがっていたモトキのあのセーター、あれ以来気になって今日の午後に買いに行ってみたら、丁度、先ほど来られた若い方が買っていかれましたと言われてしまい、他の在庫はないのかと食い下がっても最後の一枚だったらしい、残念だったよ" それを聞いた私は愕然とした。普段は無関心を装っている父は私の本心をしっかり見抜いていた。そのやさしさに報いられなかった事、そして何よりもその運命とも言うべき、私の最悪のタイミングの悪さ、何とも言えぬ気まずさ。これで一生父に頭が上がらないとも思った。
 モトキの店の人が父に言った、セーターを買って行ってしまった若い方は私だった。 それからひとしきり、そのセーターを着るたびに我家ではその話題で盛り上がった。 あれから数十年という多くの時が流れた。不思議な事に、あの日の父の言葉や表情を逐一覚えているのだが、私が銀座に行ってどのようにしてセーターを買ったのか、何故かそのシーンだけポッカリ穴があいた様に記憶がない。今年はその長生きをしてくれた父の7回忌を迎える。そしてグレーの表紙の古いアルバムを思いついたように開くと、あのセーターを着て嬉しそうに笑っている、とても若かった私がいる。
 2009.01.28(水)  危ない食い意地
 人間の体とは本当に実直であり、又不思議で奥が深いといつも思う。同じ食べ物でも腹をすかせた時が何より一番美味く感じるし、体を多く動かした時にもそれなりにいつもよりは食欲が増す。実際には脳の指令によってすべてが管理されているのだろうが、要するに体が欲している時が一番のご馳走となることは間違いないようだ。酒も風邪で寝込んで飲めなかった数日後、久々に飲む酒は五臓六腑に染み渡り感激の一杯となる。これが毎日続き、しかも運動不足が重なると美味い料理も酒もさして美味いとは感じなくなる。
 歴史上有名な美食家であったと言われる西太后は、旅をする時には何十人もの料理人を引き連れたそうだ。私が思うに来る日も来る日もご馳走の連続、しかも想像するに運動不足であることは否めない彼女、本当に美味しく食事を取ったのかは疑問が残る。それとは逆に動物の世界では不幸にも(連中にとっては大きなお世話かもしれないが)一種類のものしか食べないというものがいて、その代表的なのはパンダの笹、コアラのユーカリの葉であろう。大スターのパンダはともかく、コアラはいつもボーッとしている。ユーカリの葉をちぎるとミントのようなさわやかな香りがあり、これが麻薬のような効能があるそうだ。それでコアラはいつもボーッとしているのではないかという面白い話を聞いたことがある。
 あくまでもここでは雑食で、しかもそれが嬉しい庶民の話になるが、昨日食べたイカの腸(ワタ)と思しき物でどうもおなか具合がよろしくない。これは毎回食べるとこうなる。凍っていて醤油とみりんが程よくイカ腸に沁みていて、口に入れると磯の香りとともにフワッと解けてゆくあの感触が止められない。そこに辛口の日本酒をすかさず口に流し込む。これは至福のチェイサーである。この味を覚えたのは渋谷の百軒店にあった地酒という居酒屋だった。最近では顔なじみの魚清のオヤジさんが刺し身を買うと、時々オマケに付けてくれる。あまりに美味なので食べ過ぎる。これに限らず、特に酒の場合ここでやめれば次の日が楽だった何てことは数知れず。要はかなり食い意地・飲み意地が張っていると言うことなのだろう。もっと明確に表現すれば、意地汚いとも言うらしい。
 世の中には危ないと知りながら美味を食す人もいる。有名なのは河豚である。その危ない肝(主に卵巣と肝臓が有名)の部分が天にも昇るように美味いそうだが、本当に天に昇ってしまった粋人が昔から何人もいる。物は変わりスケールは小さくなるが、私にも以前こんな事があった。
 鯖は酢でしめてない生は止めとけと言われたのに、美味そうに青く光る肌の誘惑と威勢のいいすし屋の亭主に勧められるままに生で食べたのだが、その夜、ギューンと胃が差し込むように痛くなった。暫くすると消えて、また海老形になるほど凄い痛みがやって来る。その繰り返しが遂に朝まで続いたので、近所の胃腸科医院に駆け込んだ。やはり痛みは治まらず、午後一番にめでたく胃カメラ撮影と相成った。胃の中にカメラが入り暫くすると、医者が、いました!いました!とまるで珍獣でも見つけたように叫んでいる。麻酔の効いたうつろな目でモニターを見つめると、私の美しい?ピンク色の胃の壁に、白く太い糸のような虫が食い込んでいる。医者はそれを起用にカメラを使って三つ又のハサミのような物でつまみ上げた。その虫が食いついていた私の可愛そうな胃には赤く小さな穴が開いた。 その虫名はアニサキスというもので、特に鯖やイカの体の中で多く生息していると言う。 胃から出てきた憎きそいつをビーカーの水の中に放すと、これがまるで元気な鰻のように活き活きと泳ぎ回ったのだった。この虫は人間の体の中でも3,4日さんざん悪さをした後に死ぬそうだが、その間七転八倒ではたまったものではない。こんなヤツが世の中にいると身をもって知ったのは10年ぐらい前のことだった。以来、鯖とイカは粉々になるまで良く噛んで食べるようになった。人間、欲が募れば募るほど美味しいもの、危ないものについつい手や口?が出てしまうものらしい。
 美味なるもの、綺麗なものには毒にはがあるとは良く言ったものである。同じように誰が言ったか "美しい女(ひと)には毒がある"という。その毒をブスとも読む。顔は美女だが心はブス、まるで誰かさんのような珍妙なる帳尻と公平さに、それとなく窓に写っていた私の顔は、間の抜けた笑顔になっていた。
 2009.01.27(火)  とかくに人の世は
 昨夜から降り続いたみぞれ混じりのこぬか雨もやみ、雲間から温かな光が射している。思えば暮れから暫く晴天が続いた今年最初の雨だったと思う。深く息を吸い込むと、冷たく湿った朝の空気が肺いっぱいに心地よく広がっていく。
 東の空には青空が多く、浮かんでいる白い雲は煙のように勢い良く南に流されてゆき、それと重なりすれ違う雲はかなり高い所にいるようで、そこだけ時が止まった絵のようにじっとして動かない。日常のふとしたこんな時、いつも頭上にあるこの自然は、海や山よりも変化に富んだ表情を楽しませてくれているのだと気付く。家々の庭木も久しぶりの雨に息を吹き返したようで、常緑樹が日に輝いている。
 道には未だに所々水溜りがあり、それを起用によけながら我家の犬が早足で歩いてゆく。昨日は苦手な雨で表に出られなかったその分、彼女はこの時をいつもの2倍楽しんでいるようだ。しかし、ここ何年かマーキングといって自分の陣地取りの様に、小便をいたるところに引っかけて歩くようになってしまったのには閉口している。犬任せ、好きなように歩かせた飼い主の責任は明白なのだが、そのきっかけが何だったのかは未だにわからないでいる。もし行儀の厳しい犬の品評会なるものにでれば、彼女はおそらく最下位になるだろう。
 私がまだ10代前半の頃、どこでどう間違ったのか、飼っていたボクサー犬でそれに挑戦したことがある。それはまず採点評を手にした審査員が犬のところにやってきて、目鼻や耳の形、唇をまくりあげての歯並びのチェック、毛の色艶、体型から骨格にいたる細かい採点がなされる。最後には大きな円の外側を飼い主と共に回り、小走りから普通に歩くのを何度か繰り返す。この場合飼い主と息が合っている事、頭をあげて軽やかに歩いているかなどが採点の重要ポイントとなる。最初は外見でいい所にいたのだが、首がたれいやいや歩くその態度(良く犬は飼い主に似るという)に審査員の厳しい採点が下ったのを思い出す。どうもわが家系は伝統的に犬にしつけが甘く、飼う犬と私には気の向くまま、本能が赴くままの飼育が続いたようだ。
 以来、牧場も持たず猟にも行かず、ましてブリーダーでもない我家では、品評会やドッグショーは無縁の存在になった。以前にも書いたが、今の私が犬に要求することは、まずは帰ってきたら喜んで出迎えること。ベルが鳴ると大騒ぎは余計だが、ある程度の防犯に寄与すること、物を盗んで食べぬことなどで、マーキングに目をつむれば彼女は世間一般でいう優秀な犬とは一味違う、私が望む役目を充分果たしている。ここで万物の価値なるものが何たるものであるかを考えると、それは単に人がそのニーズに合わせてつくった基準であり、そのニーズがなければ何の価値も見出せない事になる。
 一億人の人間がいるとすれば、当然一億人分それぞれの個性がある。そこに個性を尊重する柔軟な価値基準等というものが人生の選択肢にあれば、いろんな事に挑戦する人がより多く出現するだろう。残念ながら過去も現在も、そしてこれからも、そのあらゆる才能や志がどんなに豊かな人物がいても、生きる糧、人の安心と優越感を煽るお金が絡まない限り、およそ世間はそれを幸福とは言わず、たて前ではない本音の評価を得がたいのも世の常だろう。そして往々にしてその人の行なった仕事や名前が認められるのは、この世を去ってから何てこともしばしばある。
 こんな時、あの "とかくに人の世は住みにくい"という漱石の草枕の一説を思い出す。人の世にいる限り誰もがお金と時間に追われて生きてゆく。そして人の世は神や鬼が作ったものではなく、向こう三軒両隣にちらちらしているただの人が造ったものであることも確かである。人のために悲しみ、苦しみ、人のために喜びを繰り返す所詮は皆ただの人。これが60回目のひとりごと、益々世知辛くなってゆくと感じる今の世で、せめてお金と時間は有効に、杓子定規のお国仕えの人々はさて置いて、仲間内では規定や基準などというお堅い事は、緩やかにおおらかに行きたいものである。
 2009.01.10(土)  江ノ島詣で
 正月のここ何年かの行事は、ご近所の蓮華寺に除夜の鐘を突きに行くのと江ノ島詣でが続いている。何のことはないオヤジ達が江ノ島に行って新年の夕日を見ながら酒を飲むだけなのだが、これがないと何となく寂しい年の初めになるようで参加して5年目になる。 江ノ島への行き方もさまざまで、江ノ電、モノレール利用、小田急ロマンスカー、急行やのんびり各駅と楽しい。今年は新宿駅からプラス600円奮発してリッチな気分のロマンスカーにしてみた。
 正月の穏やかな日に包まれた町並みを見ながら約一時間で到着、この時期は流石に雨に降られたことがなく心地よい。柔らかな海風に吹かれながら長く続く人の流れに身をまかせ、左に逗子、右に茅ヶ崎方面を見ながらゆっくりと橋を渡る。坂の上に祭られた幾つかの神々にお参りをしながら島の突端のいつもの店に入る。メニューは毎年全く同じイカの丸焼き、アジのたたき、おでん、貝や刺し身が盛られた江ノ島サラダ、酒の友は他にないのでこれらを肴に取り留めのない話をしながら日没を待つ。
 何しろ12時の待ち合わせで中に必ず遅れる不届き者(今年は私)が出るのだが、遅くとも午後1時には飲み会のスタートを切るので、少なくとも4時間はたっぷり飲みっぱなし、しゃべりっぱなしとなる。江ノ島の突端の高台に位置するこの店のベランダには、カップルや家族連れが眼前に広がる海を見ながら食事の出来る、単に板切れを並べた細長いテーブルがある。遥か正面に大島、そのやや右に富士山が望め、すぐ手前には海沿いの道を楽しむ車が走り、遠く薄く見える伊豆半島に続く絶景が堪能できる。しかも空を見上げれば、例年お馴染みのトンビがピーヒョロロといい声で歌っている。
 飲み始めは昼食時と重なってかなり混み合っているのだが、2時間もすると客もまばらになって絶好の泥酔タイムがやって来る。我々の話も最初はまともな音楽、映画、小説、時事と多岐に渡って話が進んでゆくのだが、それもそろそろ体中に酔いが回る頃になると、人に化けたキツネや狸がつい油断して尻尾を出すように、一般常識人なら口にしない言葉の数々がアルコールにまみれた口から飛び出すようになる。ほんの50センチ四方の小さなテーブルで話し合われる声は、店の遥か上を飛ぶトンビにまで聞こえそうなほど大きな声となって湘南の海風と交わる。現に先ほどまで切々と哀愁を歌っていたトンビの名唱が、いつの間にかオヤジ達を小馬鹿にしたような笑い声に聞こえてくる。
 ひとしきり猥談で思いのたけを語ってから、興奮が続いた疲労によるものか、しゃべり続けて頭の中が空っぽになったものかは定かではないが、つかの間の静粛が訪れてから、今度は窓の外が本当の絶景タイムになる。酩酊した我々も美しいものを前にしたこの時ばかりは真面目な面持ちになり、心は純粋だった少年時代に帰る。先ほどまで輝いていた太陽が、いつの間にか西の空の茜雲にすっぽりと隠れ、行き場を失ったオレンジ色の光は真下の海に第二の太陽を生まれさせた。その横にも縦にも広がった擬似太陽は、一瞬の眩い輝きを潮目が美しい凪の海に映しだす。そしていよいよ雲と山並みの隙間から本物の大きな夕陽が顔を出す。数分にも満たないこの間、白い三日月が浮くインクブルーの空とは対照的に、地上のすべての木々や建物、そして酔ってゆるんだオヤジ達の顔のすべてをオレンジ色に染め上げながら、大自然の一日を締めくくる泡沫(うたかた)のステージの幕は降りる。
 私のような寒さや暗さに弱い人間は初日の出やご来光を見ることは稀だが、こんな素晴らしいサンセットは日常の中でも時たま出くわすことが出来る。子供の頃、家のそばの崖の上から沈みゆくこんな夕日を見ていたのを思い出した。
 時は流れ、ついあの頃と言ってしまう昭和という時代が終わり早20年以上が過ぎた。そして2009年のスタートは切られ、当分、暗澹たる金融市場の混乱と人間軽視の経済が続きそうである。やがて日本の政治も大きな節目を迎え、アメリカも新しいリーダーに期待する時代が始まる。もともと信仰心の薄い日常を過ごす身の上だが、一年に一度はあんな美しい自然に願をかける事もいいと思う。酔っていなければもっといいのだが何はともあれ年の初め、すべての人が迷いながらも前向きに体と心のバランスをとりながら、優しげな陽光が射すいい一年であって欲しいと願う。
2008.12.25(木)  偶然
 この世相を反映してかそれとも気のせいか、例年より街も静かで何となく盛り上がらない忘年会が多いように感じる。昨日、東京タワーが50歳を迎えたそうだが、表参道には毎年見るたびにロマンチックな気持ちにさせられた、並木のイルミネーションもない。
 先日、銀座の焼き鳥やでささやかな飲み会があった。わざわざ岡山からその為に出てきたT氏との取り留めのない話の中で、藤沢周平を今一度ゆっくり読んでみたいという話で盛り上がった。この閉塞感に追い討ちをかけるメディアの四六時中の不景気連呼、国民はそのずっと以前からそんな事に気付いている。このチグハグで殺伐とした時代、少しでも日本人の心の故郷、優しい気持ちに触れてみたいものである。これまでの膨大な作品の中で、ほんの代表作しか読んでいない藤沢周平を探しにジュンク堂に行った。
 選んだ本は四つの話からなっており、その中で強く話の中に引き込まれたのは"榎屋敷宵の春月"だった。幼い頃からの女同士のライバルの話で、ヒロインの田鶴はかなりの剣の使い手であり、婿に来た夫の出世を助けながら話は進む。ライバルの三弥は、田鶴の夫のこれまたライバル関係にある自分の夫の出世をもくろむ。いろんな思惑が絡んだ結果、藤沢流の人情味溢れる終わり方で落着と相成る。
 それを読み終わった夜、何気なくTVを見ていると9時からNHKの時代劇スペシャルが始まった。何と藤沢周平の原作とある。よりによって読んだその日のこと、これも何かの縁と当然見る事にした。花の誇り〜というタイトルで瀬戸朝香が主演のドラマが始まり、途中からアレッとなった。彼女が演じているのは紛れもなく先ほど読み終わったばかりの"榎屋敷宵の春月"主人公の田鶴だった。その万分の一の偶然に驚くばかりだった。多少、瀬戸の語気の強さが私の中の田鶴のイメージとは異なったが、女性の脚本家の丁寧な作りは、原作より具体的な表現が多くてわかりやすかった。
 その偶然を喜んでその本をもう一度開き、何気なくブックカバーをはずしてみると単なる私の不注意であったことに気が付いた。タスキにはしっかりと田鶴役の瀬戸朝香が映っていて、NHKの当日の放送予定日まで明記されていた。それさえ見なければ2008年を締めくくる私の千載一遇の出来事として一生心に残るものだったに違いない。
 このように世の中には見なければ良かった。聞かなければ良かった何て事が星の数ほどある。これは外的要素が多く、自発的なのは言わなきゃ良かったであろう。日光東照宮の3匹の猿みたいな話になるが、この暮れから年始にかけて人が集まることも多く、時節柄、井戸端会議のような人の噂話がこれまで以上に多くなりそうである。感情の赴くまま、思いつきを軽々しく口に出す悪い癖は、この際慎みたい。沈思黙考、来年は丑の年、物事を良く噛み砕き、以前に慌しく飲み込んでしまった出来事をもう一度噛み直してみるのもいいだろう。何処からともなく飛んでくるハエやアブをしっかりと尾で叩き、ゆっくりとしかも確実に前進する来年でありたいと願う年の瀬である。
2008.12.15(月)  憧れが冷めた今
    慌しい年の瀬の朝刊に月刊PRAYBOY誌の廃刊の記事が載っていた。実に33年の歴史に幕が下りたということだ。実際には私はこの本の愛読者でもなんでもないのだが、アメリカ文化への憧れの終息という感慨深いものが胸をよぎった。週間プレイボーイの後発となる、アメリカ本誌の姉妹誌としてスタートした記憶がある。あの頃アメリカ版本誌に掲載された女性の体の圧倒的ボリュームに驚かされ、お洒落なマンガの挿絵に憧れの文化を感じ、コマーシャルのページにもその洗練されたインパクトが新鮮だった。その特徴であり、売りである女性のヌードはそのままに、日本独自の展開でその時々の時代のドキュメントを追って、社会性もしっかりと前面に打ち出していたこともこの誌の魅力であったと思う。高度成長がいよいよ円熟期を迎えた頃、当時のエリート・サラリーマンと、そうであると勘違いした男心をくすぐるプレイボーイクラブなるものが六本木のロアビルの中に出来た。20代半ばの私も商社マンの先輩である方々に連れて行かれたのを覚えている。そこには網タイツのバニーファッションに身を包んだ美しい女性たちと、そうでもない女性たちが優しく微笑んで私たちの酒などを運んでくれたことなども思いだした。そしてあのウサギのロゴマークの付いたセーターやポロシャツの流行なども今思えば懐かしい。
 アメリカそのもののイメージが色濃く残るその名前"プレイボーイ"。今となってはその響きに懐かしさも感じてしまう。今風で言うならイケメンにチョイ悪が絡んだようなものだろうか? 以前、"コーラと夜の遊園地"というひとりごとでも触れた、アメリカへの憧れを心に青春を過ごした私の世代。それから長い年月を経てグローバル化が進む中、アメリカは常に我々の日常に入り込み、日本人は直接その文化や企業精神そのものに触れるようになる。今ではメジャー・リーグから事件、事故の類まで、ライブ映像でアメリカの現実が日本の茶の間に入ってくるようになり、前記の様な憧れや興味が薄れたことも、今回のPRAYBOY誌の廃刊につながった一因かもしれない。
 サブプライム・ローンに端を発した金融危機、米証券大手のリーマン・ブラザースは私がニューヨークに着いた当日に破綻し、翌朝その問題のビルの前を通った。一等地であるタイムズ・スクエアを南に下る左側に建ち、色つきガラスが張り巡らされたその外観は、マネーゲームに明け暮れた果てのアメリカ資本主義の残骸を見るようだった。もっと下ってウォール街に行けば、大きな米国の旗の下、幾つものTV局が実況中継をしていて大へんな騒ぎになっていた。そして今、あの車のビッグスリーが経営破綻の危機となって政府に支援を求めている。最終的には11兆円にも上る支援金が必要になるという。これまでの放漫経営の付けを国民の税金でまかなうとはけしからんという世論、一昨日の夕刊では米議会、救済協議決裂とある。バブル期崩壊後の日本の銀行救済への民意と良く似ているのだが、京都議定書に代表されるブッシュ政権のエネルギー資源に背を向けた姿勢しかり、その将来への甘さと傲慢さが、そのままアメリカ企業を代表する経営にも反映したかのような現実も見え隠れする。経済で繋がれた一国が咳をすれば、明日には地の果ての国までもが風邪を引く、リアルタイムで何もかもすべての情報が行きかう世の中になり世界は狭くなった。わからない事、伝わらなかった事が懐かしく思える今日この頃である。
 いつもの突然の例えで恐縮だが、"美人は三日で飽きるが、ブスは三日も経てば慣れる"という、美人と結ばれなかった大勢の男たちを慰めるような、もっともらしいジョークがある。しかし、日本人のアメリカ感と同様、どちらにしても慣れる事での好感や長く付き合うほど惚れていくなんて事は稀で、一緒にいれば"あばたもえくぼ"もいずれ"あばたはあばた"だったという真実を知る時が来る。それを許容で包み込めるかが一生の伴侶、長年の友でいることの別れ目のようだ。街ですれ違う美人やどこかで知り合った初対面の異性に胸をときめかせたことが幾度あったろうかと懐かしむ。しかし、良く観察してみたらそうでもなかったなんていう経験はないだろうか?この腹がせり出たわが身を省みず、又自分を支えてくれている家族を省みずの言いたい放題だが、もの皆賞味期限が付き、日本の首相じゃないがそれが驚くほど短くなっている時代が到来した。そこでいつかは冷めるという今日のテーマ、それだけでは世の中は儚く悲しすぎる。逆もまた真なり、かつての素晴らしかったアメリカ映画の数々、今も輝き続けるブロードウェイ・ミュージカルのように噛めば噛むほど味が出る、知れば知るほど好きになる〜永遠の賞味期限を誇るその何かを求めて〜をサブタイトルに置いてみた。
2008.12.01(月)  今年、私のナンバー・ワン
  今日からいよいよ師走に入った。先日ある読み物で、今の世の中はつらい事に目を向けず、楽しく楽な方向に進んでいる事柄を取り上げてばかりいると指摘していた。まさに私のこのひとりごとを指しているようだった。実際、そのほうが書いていても楽しいからだということもあるのだが、この世に生を受けたからには理不尽、悲哀にも必ず出会い、そして終局の死という誰もが飛び越えることの出来ない現実にも向き合わねばならない。
  もうかなり時間は経ってしまったのだが、日本映画で久々のロングランを続けている"おくりびと"を10月に見た。実はこの映画との出会いは今年の春先だった。知人から九段会館の地下にあるレストランで渡された台本で、黒い艶のある表紙に白字で"おくりびと"と書かれたひらがな文字、もう既にその時から今使われているロゴが決定されていた。 "とりあえず読んで感想を聞かせてよ"が彼の言葉で、とりあえず読んでみた。監督は滝田洋二郎、キャストに本木雅弘、広末涼子、山崎努という名が連なって大体の雰囲気をつかみながらの読み始めだった。そして読み終わって気がつくと涙が頬を伝わっていた。
  仕事上TVの番組の台本などは良く目を通したのだが、こうして映画の台本を真面目に読んだのも初めてだったし、台本で泣いたのも初めての経験だった。そしてその台本の回し読みがこの時の仲間内で始まった。それぞれの感想を逐一聞いたわけではないのだが、その話し振りから想像するに、多かれ少なかれ皆私と同じような状況に陥った模様である。台本を読んだ4人が、是非この映画をいっしょに見に行こうと楽しみにしていた封切間じかになって、この作品がモントリオールの世界映画祭でグランプリを受賞したと聞いた。こんな冠に弱い日本人のこと、多分大勢が押し寄せるだろうと少し間を置いての観賞会となった。
  実際に見終わってからの感想は、まさに死と直接向かい合う映画だった。外国でも受けたという万国共通の死がテーマ、それも良くある物語の愛する者の一人の死を追うのではなく、複数の死を淡々と綴ってゆく、それが妙に心に響き、私の身近にあったこれまでの死を克明に思い出させ、当時の感覚に引き戻された。それは残された者の心の描写を音である言葉や表情によって浮かび上がらせる映像の勝利である。こればかりは良くある"台本にはなかった言葉"ではなく"台本にはなかった映像"である。山形県庄内平野の叙情的風景、その季節の移ろいの中で物語は進んで行く。誰もが迎える死、誰もがその直前まで元気でいたいと願い、そして誰もがこの映画のように死んだ時には出来ることなら綺麗でありたいと願うだろう。それはこれまでの人生のフィナーレを飾る大切な事のような気にさせられた。
  私を含む多くの日本人はもともと本質的に無宗教であり、結婚式にはキリスト教になったり神教になったり、親族の葬儀や法事にはいきなり仏教になったりするのが当たり前で、日本人はいったいあの世には何教が待っているのだろうかとも思う。しかもあの世があるのかも、すべての人は行ったことがないのでわからずじまいだ。その恐怖と重苦しい気持ちを癒す為に生まれたのが宗教であり、キリストや釈迦、アラーやその他の神々に生ける者の心の救いとして皆が手を合わせる。どちらの宗教を選ぶかはそれぞれの個人がお好きなようにすればいいのだが、 "おくりびと"ではそんな宗教心なるものを追いかける事もなく、現実的なことを直接見せて感動させてしまう力を感じる。実際に神に祈るのではなく、身近で亡くなったその人に語りかけるように手を合わせる人が多いと私は信じている。
  テーマがテーマだけに暗く辛いものを連想しがちだが、かなりコミカルな映画ならではの娯楽的要素も含ませている。広末の演じる妻が夫の仕事の内容にあきれ果て別居するのだが、夫のもとに帰ってくる所に映画を見ている男性諸君への救いがあり、風呂屋のおかみさんに扮する吉行和子が劇中、主役の本木が子供の頃に風呂屋で両親の離婚を悩み、誰にも見られないように一人で泣いていたという言葉に思わずほろっとさせられ、この映画の最後の見せ場、台本でも私が泣かされた部分である父と子の愛情を受け継ぐ心を、握られた丸い石に託しているところは卓越した展開だった。実際に死というものは空虚ではかなくてとても悲しい。だがこの映画のように"心"を唯一次世代に繋ぎ残せる温かな財産として表現し、それに伴う家族の絆を所々でさりげなく覗かせた心憎い演出は、いつまでも人々の心に残る、近年の名作となりえるのではないだろうか。
2008.11.29 (日)  一泊旅行
  マスコミが騒ぐ紅白の出場者も決まり、いよいよ今年もあとわずか。もう終り、早いね!とそれがきまって巷の挨拶になっている。年々時が経つのが早くなると感じているのは、人類共通の感覚のようだ。今月までにもう7枚もの喪中葉書を頂いている。限りある寿命、人生における過去はドンドン大きく膨らんでゆくが、未来はドンドン削られ小さくなっている。当然ながらそれは生まれた時から始まっていたことなのだが、人生半ばを越えたあたり、未来と過去の大きさが逆転したあたりから身に沁みてそれを感じるようになる。
  実際にこれからこんなこともしてやろう、あんなこともしてやろう等と思っている心が揺らぐこともしばしばで、それでもそれを達成する為の努力と心意気だけは離すまいと、日夜怠け心との戦いは続いている。先日、その膨大に膨れ上がった思い出の箱の中に、雑然と転がっている過去の石ころを一つ拾い上げ、中学時代の旧友たちと初めての温泉旅行に行ってきた。男子校だった為、今TVを付けると一場面の人の中に、必ず一人は登場しているようなオカマにならなかった限り、当然むくつけきオヤジ達ばかりである。しかも面白い事に、結構悪ガキで名を馳せた6人が揃った。それぞれ持っている車に便乗は止めて、一台のワンボックスのレンタカーに全員が乗り込み、酒とつまみを買い込んでいざ熱海へ出発とあいなった。
  今、街中を走り回っている家族思いの父さんが愛してやまないワンボックスカー、高校・大学時代を通してラグビー部だった大柄な3人と少々?太めな私と中村君、あの頃の華奢な体を未だに維持しているのは、運転をしてくれた森田君だけだった。そんなオヤジたちをゆったり余裕で飲み込んでしまうその実力と便利さは、やはり車の品格などという小さな事柄にはかまってはいられない空間がある。その車の中から気分は既に、皆中学生のあの頃に帰っている。当然、思い出の出来事が話題の中心になるのだが、それは年の功、話は尾ひれから背びれ、胸びれもつき実際にあったことが、いつの間にか数倍大げさな笑い話に成長して行く。こうなると普段鬱積を溜め込んだオヤジ達の心は、野に放たれた鷹のごとく、高く、高く舞い上がり収拾の糸口さえ見つからなくなる。休日の大渋滞もなんのその、上気した気分であっという間に熱海に到着、そのまま夜まで冗談とも本気ともつかない会話と笑いは続いた。嬉しい事に?皆が寝静まった丑三つ時、誰かが寝言で当時の校歌を熱唱というオマケまでついた。ナント寝言で校歌!その約43年ぶりの校歌を聞き、あまりの懐かしさに感動、朝まで眠れなかったという輩まで出る始末だ。こうして次の日の朝は、やはりと言えばそれまでなのだが、酒と寝不足で指で押せばアルコールが吹き出しそうなむくんだ顔の品評会。お別れの日、早々部屋に射す朝の光がレフ板役の、素晴らしいハンサムたちの撮影会となる。
  そして今、その写真を見ている私、たるんだ腹筋が痙攣したように一人笑いがこみ上げてくる。青春の入り口でなんでも新鮮だったあの頃、共に過ごしたいい時間だったと思う。当然のことながら多くの人たちも、こんな想い出を両手からこぼれるほど持っているのだろう。一度、毎時毎分大きくなってゆく過去から、今を楽しむ為の材料を拾い集めてはどうだろう。それを選ぶのは自分自身、誰に気を使うでもなく、その日の気分で好き勝手に行なえばいい。そんな事を待っている人も膨大な過去の箱の中には沢山いるような気がするし、その面白さに気付かずに過ごしていくのは惜しい気がする。もしかするとその玉手箱には、これからの人生を変えてしまうような面白いこと、新しい展開の元も転がっているのかもしれない。
2008.11.16 (日)  持ち帰った詩
 旅番組のTVを見て気になるその場所を地図で探してみると、今年の夏に行った菅平高原の資料が出てきた。会社の先輩だった石橋さんの広大な敷地に建つログハウスの別荘を、やはり同じ会社仲間だった伍井さんと訪ねた時のことが思い出された。
 嬬恋のパノラマラインをドライブしていると、なだらかな傾斜に緑鮮やかな高原の畑が広がっていた。収穫期を迎えたキャベツたちが幾重にも整然と並び、それらを実らせたとてつもなく大きな壁が、まるで向こう側に倒れ掛かったような形状であり、すぐその先は濃淡のある緑色の地平線になっていた。青く澄んだ空は高く、そこに忽然と立ち上がった入道雲がその景観にいよいよ迫力を添えて、雄大なる一画面の夏を謳歌していた。
 運動選手たちが合宿で良く使うスポーツセンターに行けば、圧倒的に強いフランスの高校代表のラグビー・チームと日本では常勝の名門校が集まった関東代表との交流戦を見ることが出来た。残念ながら日本は大差で負けた。このスポーツほど偶然性の少ない実力どおりのスポーツはない。日本人が得意とするチームワークにおける連携や集散、思いっきりのいいタックル、そのすべてを完璧に行なっても直接ぶつかり合う体力とスピードで勝るものが勝利する。問答無用の男のスポーツである。その夜、石橋氏がお勧めの炭火焼の川魚料理屋で貰った詩もその資料に挟み込まれていた。岩魚の骨酒で多少酔ってはいたが、トイレに張ってあったこの詩が何気なく目に留まった。そして読み終わって"面白い詩がトイレに張ってありますね!"というと店のおばちゃんがその詩のコピーをくれたものだった。そこに来る客から褒められると喜んで配っているようなその詩は作者名も題名もなく、いきなりこう始まっていた。
 "お前はお前で丁度よい 顔も体も名前も姓もお前にそれは丁度よい 歩いたお前の人生は悪くもなければ良くもない お前にとって丁度よい"こんな調子で"丁度よい"が続く。そして詩は最後に"自惚れる要もなく卑下する要もない 上もなければ下もない 死ぬ日月さえも丁度よい"で終っている。誰が詠んだのか知らないが、いい加減な詩で面白いと思った。流れるままの人生のすべてを肯定し、独り合点な悟りを開いている。当然のことながら人はそれぞれの人生観を持っている。作者のすべてを諦めたような達観振りも垣間見られる。改めて自分の人生の後姿を見つめて、その中で培った価値観とはなんだろうと思う時、正直そのあまりにも稚拙で単純な貧しさに苦笑いが漏れる。
 この詩はいつ終わりを告げるか分からぬ未来のどんな事でも受け入れようとし、今から刹那に変わって行くどうしようもない動かぬ現実の過去も真摯に受け入れること。それはまた、幸福を願う人々に程よい安らぎの世界を提供しているかのようだ。只、私の場合は悩みもするし悔いもある。そして現状の上もまだ夢見、又ある時はこの詩のように丁度良いとも、結構幸運の人生とも感じる。このトライアングルの中にさ迷い歩き、結果の出ない結果が"私には丁度いい人生"ということなのだろう。
2008.11.07 (金)  酒の話
先日の朝日新聞の天声人語の中で、酒についてとても興味深いことが書かれていた。 私のこれまでの人生には冠婚葬祭に始まり、愚痴を言い合う仲間や久しぶりに逢う旧友との席など、あらゆる場のテーブルの中心にあったのは酒だった。酔った勢いでの面白い成り行きなどが幾度あったろうとも思い返す。残念ながら私の場合は、反省しきりの失敗談が大半を占めるのだが、それでも酒は私の人生になくてはならない存在である。
ここで書かれているのは"社交の酒は薄味になる。その場ではいかにブルゴーニュや上等のスコッチなどの高級な酒を飲んでも、それは会話を弾ませるための小道具に退く"とある。振り返り仕事上どうしても御願いしたい件、誤解やこちらの一方的な都合で謝らなければならない時、また、仕事が上々の出来でお礼をしたい時、そんな時にも必ず酒があった。この時の酒をいくつか思い出してもその味は記憶のかなたに消えている。
逆に利害関係のない人にふと誘われた神田駅のガード下の酒、新宿の裏通りで飲んだ思いがけない小さな店の酒が妙に懐かしく、その味覚を思い出すことがある。ここでは麻生首相の一流料理店から高級ホテルのバーのはしごのことにも触れていた。常に明日の発言の為の情報をかき集めているのだろうか、政財界の酒は社交であるという。庶民である私が経験した、言葉尻にまで気を使う社交の酒は疲れる。一国を代表する首相の酒の場所をどうのこうのと騒ぎ立てるマスコミにも辟易するが、終わりに"たまには独り酒のグラスに自分を映してみませんか"と結んでいる。これが今日の本題である。
別世界の話しはさておき、私の場合ここ数年、飲むところは居酒屋が常なのだが、嬉しい事に酒の席に呼んだり、呼ばれたりには事欠かない。得てしてそれは、旨い酒を飲むという趣旨としない例が多く、場が盛り上がったら声を張り上げて最近の出来事に対する意見や冗談を聞かせたり、聞かされたりの繰り返しに終始している。中には毎回、昔の同じ出来事を繰り返しいう人間まで出始めた。そんな酒は旨いとかまずいとかの範疇ではなく、その場で楽しく盛り上がり早く酔う為の酒であり、当然居酒屋料理の品々も悪酔い回避や空腹を満たす為だけのものになる。それはそれでいいものだが、それが何処までも続くと思い出すのは香のいいウィスキーで酔うほどに無性に想いが募る、理由のないひとり酒である。本当に酒が旨く感じる時は五感全体を使ってそれを味わい酔う。的確な表現は出来ないが、酒がしんみりと体に滲みてくるような、私はこの時ほど美味しい酒はないと思っている。
酔うほどにせいぜい昔の恋心なんかを呼び戻すいい機会であり、そこにはあの頃のままの可愛かった?女性たちを幻覚の入り混じった回想の中に登場させては夢想する。これ以上の酒の肴はなく、当然浮遊を始めたわが心は純粋だったあの頃に行ったり、来たりを繰り返す。こうなると口の中に広がるウィスキーの香は最高潮に達してゆく。こんなことを想いださせる一節に、作家の開高健が"一人で部屋にたれこめて黄昏に飲む酒の悦楽"を残している。"ツベコベいうやつもいず、チヤホヤいうやつもいず、壁に揺らめく自分の影と回想だけを相手にしてたわむれていると、これくらい愉しい事はない"と書かれていた。常に夜になると当然のごとく飲んでいる晩酌のマンネリを止めて、体調を整えてからのひとり酒に浸りたいと思った。早速長らく切らしていたシングルモルトのウィスキーを買いに行く。あとは酔いに任せて聞くCDを数枚用意すればいいだけのこと。近年、時の流れが一段と速くなったと感じる私からすれば、つい先頃までの暑い夜には考えも及ばず、又逆にこれからすぐ訪れるであろう寒い冬の夜は、部屋をボーッとするまで暖めることなど煩わしいことが多くなる。
最もいい季節が訪れた今、用意万端その気になってひとり酒の夜を待つ事にする。そこで酔ってしまったら、青春していたあの頃にタイムスリップしてしまった熱い心を懐に、脳の芯まで覚醒するようなキーンと冷えた空気と丸い月を相手に、ふらふらと晩秋の夜を密かに楽しんで見たいものである。
2008.09.26 (金)  ヤンキー・スタジアム
先日の17日水曜日の夜、日本時間では18日の朝、私はかねてからの夢だったヤンキー・スタジアムの中にいた。多少の時差ぼけで、今本当に自分は憧れていたこの場所にいるのかという半信半疑の気持ちに襲われながら、目に映るのは濃いピンク色の綺麗な夕焼けの空に飛行船が飛び、既に照明塔がきらきらと輝いている。スタジアムのファイナルのロゴが入ったTシャツ、例のヤンキースの帽子をかぶった地元のファンが上気した顔で右往左往している。
一昔前、日本にも巨人軍の帽子をかぶった子供たちが沢山いた。今はほとんど見かけなくなったが、ここニューヨークでは街中いたるところで、子供から大人まで多くのヤンキース帽を見かける。そして日本の球場にいる可愛い女の子たちの売り子とは対極にある、ごつい小父さん達がビックリするほど大きな声でビールやピーナッツを売っている。そばに来ていきなり怒鳴るので何度か飛び上がった。以前ヤンキー・スタジアムのホットドッグは格別に旨いと聞いていた。実際にはマスタードとケチャップだけのシンプルな味付けもので、太めのかなりしょっぱいソーセージだった。それが冷たいビールにはお似合でついつい飲みすぎてしまう。TVでしか見なかったスーパー・スターのデレク・ジーターやA・ロッドの本物が私の30メートルほど先にいる。特にキャプテンのジーターはニューヨークっ子の憧らしく誰よりも温かい声援が飛ぶ。
そもそもこの旅はマイレージのチケットがたまったので、昨年の暮れに決めていた旅だった。大リーグの試合を見るのは初めてだった。運のいい事にホームベースより少し三塁側のネット裏に程近い、前から11番目という、この時期では奇跡的なチケットを手に入れることが出来た。日本でのインターネットの売買では、プレミアが付いて、どんなはずれの席でも250ドルでも買えないかもしれないと言われたのに、現地ニューヨークのミッドタウンにあるクラブ・ハウスのショップで一枚180ドル、約2万円弱で手に入れることができた。確かに高価ではあるが、何しろ歴史的スタジアムが閉まる最終日のボルチモア戦のネット裏のチケットは、プレミアがついて6万ドル(6百万円)という噂が出ていた。
この球場は1923年の4月18日にスタートを切った。こんなに大きなものがわずか284日間で建設され、開幕戦には約7万4千人が押し寄せ、2万人が中に入れなかったという。通称ルースが建てた家と呼ばれたそうだ。その伝説の主役であるベイブ・ルースをはじめ、ジョー・ディマジオ、ミッキー・マントルの500号ホームラン、ワールド・シリーズでのMRオクトーバー、レジー・ジャクソンの3連発ホームラン、デビッド・ウィリアムス、デビッド・コーンの完全試合、イチローがあこがれたバーニー・ウィリアムスの活躍、松井秀樹のデビュー戦の満塁ホームランなど、数々の歴史と栄光がここで生まれた。このスタジアムの86年の歴史に幕を閉じるファイナルカウントダウンが既に始まり、ニューヨークはもとよりアメリカの夢が一つの時代の幕を下ろそうとしていた。これで見納め、最後の日が5日後の日曜日に迫っていた。同行した大学生の長女と、私の2枚分のチケット代の躊躇は何処かへ飛んで行った。
野茂投手が海を渡り、1989年からNHKが大リーグ中継を始めてからは、日本でも大リーグはただの夢からより身近な存在になった。滞在しているミッドタウンから地下鉄に乗ってアップタウン方面、ブロンクスのヤンキー・スタジアムを目指した。途中から外に出て地上より10メートルほど高い高架を走ると間もなく到着。第一印象は思っていたよりも古ぼけていて少々柄が悪い。ミッドタウンから向かって進行方向の右側、ヤンキース・グッズのお土産屋がずらりと並んでいる。左に渡ると右側には既にベージュの立派な新スタジアムが2009年のオープンを待っている。日本でも一昔前にいた、ダフ屋風の怪しげな連中が仲間と談笑しながらたむろしている。道を隔てていよいよスタジアムの中に。入り口ではヤンキースのユニフォームを着た可愛いスヌーピーのぬいぐるみが、気前良く誰にでも配られる。さすが金持ちヤンキースだ。
試合はシカゴのケン・グリフィーJRのいるホワイト・ソックス戦で、ロビンソン・カノー、ジョニー・デーモン、A・ロッド(彼はそれまでは凡打に三振、彼の球界随一の年棒への容赦ない野次が飛び、ヤンキースのファンは噂どおり厳しい)の3人のホームラン、お得意の一発攻勢の5対1でヤンキースが勝った。松井選手は膝の具合が完全ではなく残念ながらお休みだったが、試合前のセレモニーで慈善団体からの花束を嬉しそうに貰っていた。5回が終ると例のグランド整備で、ヴィレッジ・ピープルが歌うお馴染みの"YMCA"、7回には"ゴッドブレス・アメリカ"から"私を野球につれてって"を皆で大合唱、試合終了後にシナトラのニューヨーク、ニューヨークが大きな音で流れ始める。帰りの地下鉄へ向かう道すがら、タクシーと書いてある紙を広げて何人もの白タクが待ち受ける。超満員に膨れ上がった地下鉄の駅のホーム、入ってきた電車のドアがなかなか開かない。少し停止線をオーバーしたらしく後戻り、ホームにいた全員でブーイング!その時のみんなの楽しそうな笑顔、日本ではとても味わえない何だか懐かしい一体感。このニューヨークに又来て見たいと思わせる瞬間だった。
日本に帰って王監督の辞任が大きく報道されていた。絶対的な実力と人気を誇ったON時代も本当の終わりを告げた。そして、ヤンキー・スタジアムの最終戦もこの21日に終り、もうあのスタジアムでの試合を見ることはない。日米の夢と栄光に綴られた日々、そんなアルバムが今静かに閉じられた事を実感した。
2008.09.02 (火)  新赤坂風情
先日、仕事の関係で赤坂山王の日枝神社の裏手にある事務所を尋ねた。いつの間にか全く違う建物が立ち並び、浦島太郎状態の私はその光景にしばし茫然として立ち尽くしていた。日枝神社の裏手の駐車上に立つと、それを見下ろすように建っている摩天楼のようなビルには、かつてビートルズをはじめ一世を風靡したアーチストを泊めたキャピタル東急ホテルがあったはず、昔の面影今いずこである。
ここから神社をぐるっと回り大通りをTBS方面へ渡る。一ツ木通りから六本木のミッドタウンまでの景観は、近年の東京で最も変わった地域のひとつだろう。唯一、その面影や雰囲気を残すのは赤坂東急の2階のショッピングアーケードとベルビー赤坂ぐらいで、後はほとんどすべてが別世界になっている。"追憶の街東京""都電が走った東京"など過去の街の写真集を見かけると、ついつい手を出してしまう悪い癖。これもあまりに変わってしまう町並みをどうにかして記憶の片隅に残しておきたい、そんな思いが私の中にある。
その想い出の一つに、赤坂で初めて行ったディスコのマノスという店がある。確か高校2年の2学期が始まる直前だった。季節は丁度今頃のこと、後で聞いた話では、当時ここは不良外人の溜まり場と噂されていたという。ムゲンやビブロスという有名なものもあったのだが、木場の若旦那というあだ名の友人に誘われるままに行ったのがマノスだった。ドアを開けるとまず音の大きさに圧倒される。当時、走りのフィリピン・バンドがフォークソングのレモンツリーをダンスミュージック風に実に旨くアレンジして演奏していたのだが、これには多少の違和感は残った。丸い台に乗って踊っているブロンドの女の子が、若い私たちを見て髪をかきあげながら、からかい半分で片目をつぶる。酒と香水の入り混じった大人の匂い、青い光のスポットライトはタバコの煙を流行く雲のように鮮明に浮き上がらせた。しばらくして、耳鳴りが起きるような喧騒から逃れるように外に出ると、蒸し暑かった昼間には想像すらしなかった、季節を告げる秋の夜風が上気した頬を心地よく冷ましてくれたのを覚えている。
ここから想い出は芋づる式になる。その向かいには地下のニューラテンクォーターでの力道山の殺傷事件や火事で有名になったホテル・ニュージャパン。その並びを溜池に向かうと山王ホテルという、アメリカの国旗を立てた白い外観の地味な建物があった。ここは米軍の仕事に従事する関係者たちが集まる、普通の日本人では入りづらい治外法権的な名ばかりのホテルであった。ある時、友人のステラがこの山王ホテルへ昼食に誘ってくれたことがあった。彼女の父はイタリア系のアメリカ軍人で母は日本人、その関係で彼女はここを頻繁に利用していたらしい。この時、私はその日のランチのラザニアを頼んだのだが、これがまた大きく分厚く、付け合せのポテトも山のようで残さず食べるのに一苦労した。まさにアメリカ本土の料理そのままの量だった。その食堂は薄いミントグリーンの壁、油が染み込んだ床、真っ白なテーブルクロスには一輪の花が飾られ、大きめなノスタルジックな窓には、古めかしい花柄のカーテンが揺れていた。回りはすべてアメリカの白人で小柄な醤油顔はわたし一人だけ(ステラはハーフだが何処から見ても外人だった)、もちろん想像の世界だが50年代の古き良き時代のアメリカにいるがごとく、とてもここが東京の赤坂とは思えない不思議な感覚を味わった。その食事中に免税のタバコや酒、そして男性雑誌のプレイ・ボーイやペントハウスの無修正の本もここで買えるという、私にとって願ってもない事を彼女が教えてくれた。
今の時代当たり前のことが当時では大変なことだった。彼女は私より4歳も年下のハイティーン、そこの購買部には関係者のカードがなければ入れない。もちろん私は外からの見学になる。カードを入れて体で押すとクルッと回る太い真鍮の棒、いかにも慣れた感じで彼女が中に入って行った。部外者の私が外から祈るような気持ちで見守る中、彼女は私が頼んだ薄荷タバコのセーラムのワンカートンと男性誌、何度もしつこいが無修正のペントハウスを平然と売場のおばさんに差し出した。眼鏡をかけた銀髪で、いかにも元気のよさそうなアメリカ人のおばさんは、その買う物とステラの顔をしばらく交互に見比べ、それから何秒間かじっと彼女を睨んだ。彼女は顔を真っ赤にして絶対におばさんの目を見ない。私にとってその何秒間かが永遠に終らない気がした。ようやくおばさんは両肩をピクンと上げ、両手を広げてあきれたという得意のポーズ。ゆっくりと紙袋に目的のモノを入れてくれた。ステラは私の所にニッコリと笑いながらピースサインで無事出獄?いや生還してきた。彼女の無邪気な笑顔が、ほんの成り行きとはいえ、気まずい思いをさせてしまったという年上の私の後ろめたさを忘れさせた。その夜、六本木の飲み屋でその大事な本を酔って忘れた一生の不覚は、今でも時々思い出す。それから何年か後に、彼女はアメリカ南東部出身の若い男と結婚をして海を渡ったのだが、封建的な社会で苦労していると風の噂で聞いた。今頃幸せでいてくれればいいと思う。
そんな時代の一こまを楽しませてくれた街、赤坂。この街での想い出の数々、それは私の心の中では決して色褪せることなく幾重にも積み重なっている。時が経ちあの時のマノスも山王ホテルも風のように消えた。すれ違う遠い世界を生きているような人の群れ、そこにはあの頃を知り、あの頃より大分古くなって今を生きている私と、あの頃を見事に消した赤坂と言う名の、片時も変化を止めない見知らぬ街が強い日差しに輝いていた。
2008.08.24 (日)  2008年、夏の終わりに
この時期になると、人はあの夏の暑さから解放された安堵と、涼しげな風が吹く黄昏時に多少の寂しさを感じる。以前、このひとりごとに"年末は江戸気分"を書いた。例の忠臣蔵の軌跡をたどる話なのだが、そこに日本人が大好きな仇討ちを取り上げていた。耐えに耐え、結局は最後に感情を爆発させて完遂または勝利をつかむ。日本人が愛してやまないワンパターン。
力道山が戦後間もないこの日本で、シャープ兄弟やフレッド・ブラッシーを初めとする外国人レスラーの反則技に耐えに耐え、最後は日本古来の技である空手チョップで外国人レスラーをやっつけるという、終戦の傷の癒えない荒んだ日本人の心にこの上ない自信と感動をあたえてくれた筋書きのあるドラマは、いまだしっかりと庶民の記憶に刻まれている。予想を超えたあまりにも凄い日本人の熱狂ぶりに、戦勝国である米国のマインドコントロールが大きく揺らいだと聞く。昔話のさる蟹合戦、かちかち山から毎週やっていたTVの必殺シリーズや水戸黄門を初めとする時代劇しかり、日本人の心の中には、一方的にやられて最後に勝利する完結の美しい筋書きが物語の定番になっている。
先日、オリンピックで女子ソフトが悲願の金メダルを獲得した。圧倒的なパワーで常に女王の座を独り占めにしてきた米国チーム。米国の弁慶のようなキャッチャーが仁王立ちになると、日本のバッターはその体の半分にしか見えない。その体力差をまざまざと見せ付けられての初勝利。米国はこの競技が採用された96年アトランタ大会から3連覇中のチャンピオン、いつも日本の光が見え出した頑張りに、最後は必ず立ちふさがった厚い壁。私の中で、常に肩を落とした日本選手の横で抱き合って喜ぶ大きな外国人選手たちの姿は、いつの間にかそれがお決まりの悔しい最終シーンとして瞼に焼きついていた。
それが今回3度目の正直、鉄腕上野が耐えて413球!という新聞の見出し。やはり日本人が大好きな、耐えてという言葉が入る勝利。これで次のロンドンでは野球同様、競技からはずれる事になったソフトの有終の美、本当に涙が出た。そして北島選手を初めとする日本選手たちの活躍。野球に限っては、誰もが期待した日本球界の星、ダルビッシュ投手をなぜ金か銀を決める重要な一戦に登板させなかったのか、4点差でほぼ負けが決定した3位決定戦の9回に登板させたのはなぜだろうという、星野采配に幾つかの疑問が残った。
私ども見るほうは勝手である、勝つ時は一緒に喜び幾度も流される勝利の映像に、幾度も感動を呼び起こす。負けるとその悔しさをすぐ忘れようと心がける。しかし、その負けにはどれほどの努力が込められているかということを顧みずにいる自分に、時々呆れる事もある。予選で敗退した人、最後の最後で勝利を逃した人、それぞれの人たちにメダルを取った人たち同様の拍手を送りたい。この時期ほど自分が日本人であることを意識することはない。常に外国の言いなりで、思った正しいことさえ言えない保身とばら撒きの日本外交に比べれば、これは4年に一度、堂々と渡り合う胸のすく夏の戦いである。
そんな時、ある面白い記事があった。時期が重なり今回あまり注目されなかった高校野球について、この試合を見ていて楽だという人がいた。なぜならば自分の故郷代表が負けても相手は同じ日本人、その悔しさが半分以下だという。これも素直な心と言えばそうなのだが、いずれにしてもこの時期のナショナリズムの高揚はいやがうえにも盛り上がる。水泳、柔道・レスリングのメダルを取った選手が言った言葉の中で印象に残ったのは、兄弟、親からの愛情に対する感謝と家族の強い絆を意味する言葉。そしてメダルは自分ひとりのものではなく支え応援してくれた人々のものですという感動のコメントも聞かれた。その精神はスポーツマンならずとも、人として社会を生き抜くとても大切な言葉である。
数々の感動、突き上げた拳、抱き合う姿、喜びの涙、悔し涙、そして男子の力の柔道、スピード・マラソンに代表される世界の無常。風や瞬間のいたずら、誤審や偶然という無情。そんな多少の悔いと大きな感動の数々を残したスポーツ・ドラマ、2008年北京オリンピックは今日で閉幕、ひんやりと郷愁を感じる秋風が吹き、微かに聞こえだした虫の声でこの夏も終る。
2008.08.11 (月)  外来種は何処から
人間の文明がもたらす地球温暖化によって、幾多の生物たちが絶滅の危機に瀕していると言われてから久しい。それこそ何10分に一種類ずつ、この地球上からその動植物種が消えていると言う。反面、日本のあるところでは毒蛇対策のはずだったマングース、芦ノ湖でそれを釣るときに引きが強くて面白いという理由で放されたブラックバス、私が高校時代に流行った綺麗な色が可愛いミドリ亀(ミシシッピー・アカミミガメ)、このほかアライグマ,ヤギなどが繁殖し、日本の在来種が生存の危機に瀕したり、その土地の生態系が崩れたりという記事やニュースも目にする。もとは人間がいろんな目的を持ってそこに連れてきたものだが、その目的が外れたり完了したりすると、ただの厄介者としてその存在を疎んじるようになる。一番身勝手なのは人間であり、懸命に生きている動物にはなんの罪もない。そんな事をつらつらと思い浮かべていると、その昔とんだ外来種が私の身近に現れた事があったのを思い出した。
私より一回りほど年上の従姉が、はるばるアフリカのタンザニアから海外青年協力隊の仕事を終え、2年ぶりに帰ってきた時の話。私と違い彼女はネイティブな英語はもちろんのこと、現地で洋裁を教えながら、この2年間でタンザニアの言葉であるスワヒリ語まで完璧に話せるようになって帰ってきた。その何年か後にはタンザニアの大統領が来日した際、驚くことにその同時通訳としてNHKのTVにライブ出演する実力を備えていた。その従姉が日本に帰国した時にくれた民芸品の土産の中に、よく狩猟の時に原住民が持つような毛皮の盾があった。この盾がしばらくして問題を引き起こすことになる。
いつの頃からか、家の中に見たこともないようなベージュの羽を持つ5ミリほどの蛾が飛ぶようになった。最初は蛾などよく見る時代だったので気にもせずにいたのだが、なぜか外から入ってくる様子もない締め切りの客間で飛び、しかも日増しに多くなるのがおかしいという事になった。そんなある日、我家に来た伯父が"私も貰った例のアフリカ土産の盾だけど、そこから小さな蛾がプーンと飛んでさ"と言う。さて、それを聴いて一同ビックリでやっぱり!ということになった。その盾を改めて詳しく調べた所、要するに革のなめしが利いておらず、そこに現地のタンザニアで産み付けられた蛾の卵が、はるばる日本に来てから孵化したという事だった。タンザニア産で検疫なしの直輸入である。
こうして、外来種があらゆる形で日本にやってくることの一例を、私は身をもって知ることになった。そして現在、日本は犬猫のペットはもちろん、その他の野生動物の輸入大国であるという話をある記事で知った。確かに昔から比べるとマニアックなペットショップも増え、小さなリス猿、ボアなどと言う南米の大きな蛇や砂漠に住む大きな耳を持つキツネ種のフェネックなど、これまで動物園や映像でしか見なかった珍しい動物が街のペットショップで売っているのを見るにつけ、ただただ驚くばかりである。亀なんぞは年間に何10万という数で輸入されているそうだ。
動植物の絶滅の危機のほとんどは、不本意にも人間たちが繰り広げる地球温暖化の原因ともなる森林の伐採や砂漠化、生物の移動は勝手なニーズや個人的趣味がほとんどであり、私が経験したタンザニアの蛾や近年では輸入木材などに混ざって入り込む害虫などの望まない偶然も多いと聞く。最近、年を重ね宗教家になろうというわけでもないが、家に迷い込んできた小さな虫も手のひらに乗せ、できるだけ窓から逃がすようにしている。卵を抱え動けないでいる白鳥や黒鳥を、人間は只面白いという理由だけで殴り殺す。先日も散歩をしていた生後4ヶ月のチワワ犬が、いきなり男に蹴られて即死したというニュースを見た。誰でもよかったと言って人が人を殺す信じられないことが頻繁に起こる今、捨てられたり殺されたりする動物たちを見るにつけ、死の直前まで生きることにひたむきなあの表情や可愛い動作が悲しく愛おしく感じる。地球上の営みからすれば、ほんの一瞬という同じ時を生きる友として、人はもっと優しくなれないものだろうか。
そして一昨日、いよいよ人類の平和の祭典である北京オリンピックが素晴らしい開会式で始まった。今朝の朝刊に残念そうな我らの谷亮子選手の裏に透けているのは、ロシアの砲弾による親類の亡骸を抱え泣いているグルジアの男の写真。永久に戦いを止められない、愚かな生き物としての人間の表裏がそこに映し出されている。
2008.07.23 (水)  伝書鳩と遺失物
7月15日の火曜日、中央線で新宿から立川方面に向かっていると何十羽という鳩が群れを成して飛んでいた。飼われている鳩は一糸乱れぬ編隊を組むのでそれと解る。未だにあんなに鳩を飼っている人がいるのだと懐かしく、ある想い出が蘇った。私の少年時代、鳩を飼うことが大流行した。屋根を見上げるといたるところで大小の鳩小屋を見つけられた時代だった。私もその流行に乗り、鳩に夢中になった少年の一人だった。学校へ行っても一羽一羽の鳩のことばかりが頭に浮かんで離れなかった。鳩は生まれたときは黄色い産毛で覆われている。たいていはどの鳥類も同じだが、やがて棒状の硬いものが生えて無様になる、その硬い棒の先から本来の羽毛や羽が殻を破るように出てくると、やがて大人と同じような若い鳩になる。この棒のような羽が生えると体も大きくなり、生意気に手などを出すと口ばしでかなり抵抗するようになる。この時になると伝書鳩である事の証拠である足管という、従来手紙をつける時のアルミ製の一生モノを足にはめる。その鳩が何処の鳩舎の鳩であるかを示すものでもあった。
当時、既に鳩に手紙を託すなどという風流なことはなく、もっぱら愛玩の為に飼う人がほとんどだった。中には100キロ〜1000キロに及ぶ距離を如何に早く自分の鳩舎に帰ってきてかを競うレースがあり、その為に飼う専門的な人もいた。良くクラッシックなどで勝ち抜いた優秀な競走馬は、仔馬の種付け料が高額なことで知られるが、実はこの伝書鳩も全く同じで、両親とも鳩レースで優秀な成績だとやはり優秀な子が生まれる。私の飼っていた中で一番優秀な牡と雌の鳩のツガイの子を育て、その鳩で水戸から東京までを飛ぶ100キロレースに挑戦した事がある。鳩も私も初体験のことだった。前の晩に伝書鳩協会に籐の籠に入れたその鳩を預けに行く。そこは大人ばかりの世界で小学生は私一人だった。鳩たちが何百羽と集まりだし騒然としている中で、"頑張れよ、必ず帰って来いよ"と言ってその鳩の頭をなでて別れた。その時、誰かが持ってきたラジオから、コニー・フランシスが日本語で歌った"夢のデイト"が雑音の混じる大きな音で流れていた。夢の中で友達の恋人を抱きしめてしまうという歌だった。星空の帰り道、その切ない歌詞がやけに心に沁みた。
次の日は早朝からずっと空を見つめていた。いつになっても帰ってこない、母がしつこく呼ぶのでしかたなく遅くなった朝食を急いで食べてまた庭に出ると、なんと例の鳩が帰って来ていた。屋根の上にもう何時間もここにいるよと言いたげに、首をすくめて寝ている風情。あの時の感動は生涯忘れられない。そして焦れば焦るほど、なかなか鳩舎に入ってくれない鳩を、口笛と餌で釣ってやっと入れた。その日の夕方、早速に伝書鳩協会でレースの結果発表と表彰式があった。残念ながら期待した入賞者の中に私の名前と鳩の番号はなかった。しかし、私の夢を乗せた100キロの道のりを、一生懸命に我が家を目指して飛んでくれた鳩が可愛かった。これ以上の長距離になるとハヤブサなどの猛禽類や心無いハンターの散弾に襲われ帰って来られない事も多く、最初で最後の大空にかけた夢になった。入賞への願いは届かなかったが、この一羽は少年時代の素晴らしい感動を私にくれた。来る日も来る日も朝に夕に空を駆けた鳩の群れ。揺れる電車でうたた寝でもしたのだろうか、私はいつの間にか優しい羽音を立てて集まった懐かしい鳩たちの中にいた。
やがて電車が駅に着き、多くの人の気配で目が覚めてふと思う。あの日、夕空にあの鳩と一緒に飛んでいた一途な熱い心、私はそいつを何処に置いてきてしまったのだろう。今となってはなかなか見つからない遠い夏の日の遺失物。またいつの日か必ず手に入れたいものである。
2008.07.20 (日)  ほどほどという話
ほどほどという話
古くからこの日本には"ほどほど"といういい言葉がある。辞書によると、分に応ずるさま、適度という意味になる。似たような意味を持つ言葉として英語のモデレーションがある。 語句に優しい響きがある"ほどほど"は中性脂肪や尿酸値が気になりだした頃から、私の大切な言葉になっている。食についての"ほどほど"という話。

量の多いラーメン屋
良く町で見かける行列のできるラーメン屋、その日はさほどの行列もしていないので興味津々で並んでみることにした。入ってみると出されているどの器も凄い大盛りになっているので悪い予感がしたのだが、とりあえず席に座ってそのラーメンを待つこと5分、私の前に出てきたその量はやはり皆と同じ大盛りだった。要するに普通が大盛りになっており、それがこの店の人気を支えていることだとわかった。そもそもここの本店の創業者は、学生や若い労働者を応援する為に、安くて腹が一杯になるようにと奉仕の精神も含めての開業だったらしい。それにしても多い。世の中には大食いの人が如何に沢山いるかを知った。味もうまいが食べても、食べても減らない、逆にどんどん湧いて来るような麺には私の"ほどほど"が通じないらしい。

社長は連日の豪華デイナー
まだどの業界も景気のよかった頃、取締役になったI氏はある時、上司である社長に連れられて銀座の高級すし店へ行ったそうだ。出てくるものすべてが、アワビ、うに、大トロ、数の子といった高価なものばかりだった。その社長が自慢げに曰く、"ねえT君、僕みたいに社長になったら、毎日こんなものが食べられるようになるのだよ。頑張れよ"。その話を聞いた時、ウンザリしたとともに言いようのない侘しさを感じた。もし私がそんな食事を毎日続けたら、中性脂肪、尿酸値過多で10日も待たないで入院することになるだろう。お付き合いで続けるしかないのなら、一日何キロも走らなければならない事になる。美味しいものはそれぞれの解釈もあろう、それにしてもブランドに始まるただ高価なものだけを追い求めるこの手の人の真意がわからない。気持ちと体は別である。この社長の胃袋と価値観には"ほどほど"がないらしい。

栄養のバランス
ある放送局の社員食堂でのこと、一時期凄い人気を誇っていた男性歌手を夫に持つ有名女優が、私の隣のテーブルに来た。その時の彼女のテーブルの上に並んだ料理の種類に驚いた。ゆうに6,7種類はあったと思う。その中には蕎麦やカレーという立派にそれ一つだけでも食事が成立してしまう物まである。このやせた人が何でこんなに食えるのかと不思議に思い、見て見ぬふりをしながら窺っていると、それぞれの料理をほんの二口か三口しか食べないでほとんどを残してしまった。なんとも合点がいかずその道の人に話すと、"それは女優の方が良くやる食べ方で、できるだけ多くのおかずを少しずつ食べ栄養のバランスをとる、その世界では当たりまえのように行われていることです"という。いくら安い放送局の社員食堂とはいえ、私の得意の言葉"もったいない"が口をついて出てきた。栄養のバランスも"ほどほど"がいいと思うのだが。

グローバルな心
"料理長殿、ご用心"というジャクリーン・ビセット等が出演の映画。素晴らしい腕を持つ有名なコックたちが、次々に殺されてゆくミステリーとコミックを合わせた様な映画だった。クライマックスで、その真犯人は有名コック達が作る料理をこよなく愛する男(マックス)の秘書の犯行だとわかる。その殺人理由が振るっている。これ以上食べて太ったらマックスの命が危うくなる。やむなくその美味しい料理を作る料理人たちを暗殺すれば、身の回りから美味しいものがなくなり、マックスの寿命が延びるという殺人事件なのだ。言うなれば健康維持の為の名コックと美味のリストラである。その身勝手さは想像を絶するものがあり、ここまで来れば立派なジョークとして成立する。太る事への問題には、徹底的な原因追究の果ての責任転嫁。一部だけが持つ独占的権力による歪み。常に右肩上がりで、たとえそれが虚構でも目的を達成し、その為なら方法も選ばないというグローバル化などで知る企業エゴ。その精神を垣間見るようなこの西洋映画は、残念ながら私の尺度である"ほどほど"という好きな言葉のかけらも見当たらなかった。
2008.07.11 (木)  柴又慕情
その日はとても暑い日になった。それまではハッキリしない梅雨のせいか、例年のこの頃と比べても比較的過ごしやすい日が続いていた。日暮里でJRから京成線に乗り換えて、幾つかの河を渡って着いた高砂駅。柴又や金町方面に行く為の乗り換えの駅なのだが、そこから眺める景色は一気に下町の一昔前に迷い込んだ気分になる。ホームから見える店の名前もぐっと私の琴線に触れてくる。歌える居酒屋さぶ、小料理ふみ、そしてニューグッピーと昭和の演歌がそのまま店に化けた風情である。落ち着いた声の笑顔が素敵なママさんなんかを想像し、気分はすっかり寅さん状態で金町行きの一つ目の柴又で降りた。そこで待ってくれていたのは古くからの友人の早野さんと久松さん。イヨッと右手を上げてお得意の挨拶。もう一人の待ち人だった沖縄男のドタキャンに3人は少々落ち込んだがそれは年の功、めげずに柴又ツアーの始まりと相成った。
早速、駅前に出来ている寅さんの銅像で記念撮影。そして団子屋やみやげ物の店が並ぶ参道ですぐ団子を食すと、我々のツアーの台本にはなっていたのだが暑いので氷に変更。ここでは町の雰囲気を大事にあずきか抹茶がいいだろうと言う事になった。やってきた氷あずきは真っ白な氷ばかりで下にも横にもあずきが見えない、心配しながらスプーンで掘りさげてゆくとありました、真ん中に甘いあずきのかたまり、これぞ!柴又マジックなどと馬鹿を言いながら帝釈天境内へ。映画で見慣れた鐘や二天門をくぐり境内に入るとかなり広い、子分役の源公や寅さん、御前様の姿が蘇る。ここでは見学料を払って、一枚の大きな分厚い板から掘り起こしたという、本殿の外壁の彫刻の数々を見られることをお勧めする。それは見事なものである。そして共有のチケットでオーケーな隣接している美しい庭なども見学。帝釈天にこんな素晴らしいものがあるとは新発見であった。
そして、寅さんの映画になくてはならないシーンだった川原の緑の土手を歩いて矢切の渡しへ。ここは暑い日にもかかわらず、水のそばゆえ多少涼しく感じる。江戸川の川風が心地よく、例の歌が自然と口をついて出てくる。渡しの船に乗り、"やっぱりオリジナルのちあきの歌がいい、いやヒットした細川の歌もいい、なぜ二人は逃げたのか、詞では親に背いたとは言っているが、実は吉原あたりからの足抜けだったのでは"などと話しているうちに、松戸、市川側の川向こうに着き、何もないので又すぐ戻って来る。ほとんど折り返し乗船である。そして"寅さん記念館"でシリーズの想い出をおさらいする。ここでは柴又の歴史にも触れられる。次は隣の山本邸へ、昭和初期に建てられた実業家の家で、ここの緑豊かな和風庭園を見ながら、書院造りの和室でお茶という贅沢もいい。我々にはこの後に冷たいビールが待っているのでお茶を飛ばしてしまったのだが、こちらも是非お勧めである。
いよいよ、今日の打ち上げは参道にも面している川魚料理で老舗の川千屋さん。静かな部屋に通されると参道の賑わいが嘘のような別世界になる。鯉の洗い、鯉こくなどに舌鼓を打ち、今日一日で柴又の魅力をほぼ堪能できた事をツアコンの早野さんに感謝し、ほろ酔い加減で帰りの京成電車に乗った。成田へ行くスカイライナーに乗ってしまうと気付かない、お花茶屋、堀切菖蒲園などというなんとも響きのいい駅がある。すっかり夜も深くなり窓から見えるのは黒い河、そのそばには大きなマンションが限りなく建っている。 河を越してしばらく行ってもマンションは続いている。どれほどの数なのだろうか、横に縦に光が整然と並んでいる。遥か遠くまで見えるそれぞれの光の中には、当然それぞれの人生がある。そこにいるどれだけの人があの寅さんを知っているのだろうか、昭和という時代も終わり早20年。あの頃の人の優しさ、一生懸命なるが故の泣き笑い、そんな思いが一杯詰まった柴又を行くとてもいい一日だった。人の心の片隅に、乾いたすきま風が吹きぬける平成の今、誰からも親しまれ、人情味溢れるあんなシリーズがいつの日か又生まれないものだろうか。そんな思いを乗せて電車は夜更けの下町を走り抜けていった。
2008.07.08 (火)  百年後の東京
私が小学生の頃、図工や美術の時間が来るのを楽しみにしていた。絵を描くという行為は、話すことや文章を書くことがとても苦手だった私にとって、思いっきり自分を表現できる場でもあり、その時間がとても短く感じられる唯一の授業だったのを覚えている。他は大して興味もなく、せいぜい体育の時間が、大いに体を動かせるし開放感があるという理由で、それに準じるくらいだった。
その最も好きな美術の授業の中でも忘れられない時があった。それは担当の先生から、"百年後の東京"と言うテーマで絵を描きなさいと言われた時だった。小学校の6年間でそのテーマは3回ほどあったかと思う。どんな未来かを想像すること自体が心ときめくものだった。その時代、暗くなるまで草野球やかくれんぼに明け暮れる子供たちにとって、未来は何でもありだった。高いビルが整然と建ち、それぞれを結ぶ廊下や橋がかけられている。下には空中を渡るストロー型の道路を車が走り、木などは一本も生えていないコンクリートの街だった。
昨日の午後にたまたま用があって、汐留の再開発地区を歩いている時のこと、そんな絵を描いていたのを突然思い出した。まさにあの頃の空想でしかなかった百年後の東京がそこにあった。その洗練されたビル群は遥か天辺のほうまで西日に輝き、計算された上品な色彩感覚、ビルとビルのそれぞれが主張し、調和したカッコよさにしばし見とれていた。この東京という都会は面白く、銀座・新宿・渋谷などの本当の中心街には土地の値段や制約などによって、このような未来都市の景観はない。せいぜいヒルズやミッドタウンのある六本木の一部がそれらしい雰囲気を醸し出している。少しはずれた西新宿、お台場、天王洲、千葉の幕張などにこそ、そんな未来が現実化してきたのだと実感する時がある。
私たちが子供の頃に描いた夢は、百年を待たず、半分の年月でその夢や景観を完成させようとしている。視点をそのまま海外に移せば、日米欧が集めてきた膨大な金が、今まさに流れ込んでいる産油国に至っては、人が想像すらしなかった夢のような未来都市がついこの前までは砂漠や海だったドバイなどに出現している。そんなドバイでも、ここ日本でもその建設に携わる為に出稼ぎで来た、下請けの下請けで働く人たちがいる。格差は何処にでも限りなく広がりつつある。今どの街でも目にする首からカードをぶら下げ、パソコンを一日中たたき、マニュアルでしか動けなくなったサラリーマンたちを見るにつけ、窮屈そうな管理の下、その安全という名のもとに本人を確認しなければどうにもならなくなった社会の心の闇が見え隠れしてくる。あの頃、子供心にもこの絵の中に生きる人間はどれだけの幸せを手に入れるのだろうかと、ワクワクしながら描いていたのを思い出す。夢を追っていたあの時代、想像すらしなかった格差と情報という不幸もここにはある。
その汐留からの帰り道、日比谷経由で通ったひと気のない国会議事堂。改めてその荘厳さに圧倒された。ここだけは小学校の社会科見学で訪れた時と全く同じだ。百年後もこうして偉容をたたえて建ち続けるのだろうか。つい先日まで、この中では政権や地位確保の為、何一つ変えたくない政治家と、豊かな現状維持の為、何一つ変わらせないという官僚たちが国民の血税を求めてうごめいていた。
このすぐ傍では再開発が行なわれ、街は刻々と変貌を遂げ、多くの国民は重税や福祉の切捨て、諸物価の高騰や年金問題に喘いでいる。陽炎が立つような熱く静かな7月5日の土曜の午後、ひっそりと静まり返ったここは、堂々とした威厳とは裏腹に、その中身から崩れ行く砂上の楼閣として泣いているようだった。私たち国民が唯一与えられている政治への権利、来るべき選挙には心を込めた祈りの一票を投じようと思う。将来を託す子供たちが百年後の未来を思い、夢のある絵を描けるようにと。
2008.06.09 (月)  ラジオドラマ
先日の日曜日の夕方、いつもより早めの風呂に入り、その中でも聞ける安物のラジオでドラマを聴いた。久しぶりと言うよりも何十年ぶりのことだろう。チャンネルは驚くことに洋楽志向のDJたちが多いJ-WAVEである。確かスピリット・オブ・アジアのワンコーナーだったが、思いもよらないことだったのでとても懐かしく感じた。
その昔、トーキョーFMの深夜にやっていたラジオドラマ、"あいつ"という番組が好きで、その時間が来るのを楽しみにしていた時期があった。ドラマと言うよりは短編小説のような作りで、話がその都度完結しているのだが、主人公の"あいつ"は、常に冷静沈着で圧倒的に強く、秘密組織のギャングや東の国のスパイたちとの戦いは痛快だった。そして番組の最後に流れる曲は、洗練されたブラック・ミュージック系という決まりがあって、そのたびに今度は誰の歌が流れるのかも楽しみの一つだった。ハロルド・メルビンとブルーノーツの"二人の絆"という名曲に出合ったのもこの番組だった。出演は俳優の日下武史氏、彼の知的な声とスリリングな語りも印象的で、番組の最大の魅力になっていた。
私がこの業界に就職してからしばらくして、"あいつ"の番組を制作しているディレクターの宇土氏から聞いた所では、時代背景やあの冷静な強さは「ゴルゴ13」をヒントにしているとのことだった。当時、今でも良く聴く沢山の名曲たちが生まれた時代で、ちょうど映画界では、強い男のスタローンやシュワルツェネッガーがデビューした時期でもあった。ラジオドラマも、ミステリー小説の主人公も、あくまでも自分の中で想像するものであって、主人公の顔を、漠然としたイメージで心の中に描くところも魅力になっている。
この4月から、NHKは保管している4000本のラジオドラマの中から昭和40年代のものを中心に選び出し、ラジオ第一で毎月の第4日曜日、深夜のワンコーナーで紹介している。先日、たまたま偶然だろうが、昨今の後期高齢者医療問題で、再び脚光を浴びる事になった言葉、姥捨て山が題材の"やまんば"をやっていた。ラジオドラマは達者な出演者たちの言葉もさることながら、そこに使われている効果音や片時の沈黙に、そこに漂う出演者たちの微妙な心の動きが見事に写し出される。あの当時、朝は必ずラジオを聴いていた。
今は起きるとTVをつけてしまうマンネリをそろそろ止めて、音だけが流れているさわやかな朝もいいかもしれないと思い始めている。丹精込めて作家が執筆した小説やドラマの世界、彼等が心の中で描く世界を、自分が旅をすることに、改めてその魅力を感じている。大きな本屋やCDショップで見かける、歴史に残る名著を語りや演技の旨い俳優たちが朗読するCDには、自分が読んでいるときとは又違う、味わい深いものがある。
小説界では時代を映したヒット作も定期的に出ている。ラジオ業界もどうでもいいゲストの近況や、DJがニューソングを紹介する安易な番組ばかりではなく、過去に優れた放送作家を育ててきた実績を背景に、より想像や夢が膨むような世界を作ってみてはどうだろう。 ここ数年、主に車に乗っている時にしか聞かなくなってしまったラジオの世界に、心待ちするような名ドラマや名番組が出現することを願うのは、単なる私の昭和ノスタルジアなのかもしれない。しかし、ラジオは五感の中で二つ以上使うことが多くなったこの時代、その一つだけを集中させる文化、耳からでしか作れない想像の文化を持っている。
雨音が静かに窓を叩くこんな季節に、珈琲の香がする部屋でお待ちかねのラジオが流れている、そんなほのぼのとした新ラジオ時代が来ることを期待してみたい。
2008.05.29 (木)  コーラと夜の遊園地
人は生まれて初めて口にするのは母乳、もしくはそれに最も近い類のものだろう。残念ながらその神聖な記念すべき行事は、生れ落ちたすべての人々の記憶に残らない。それからは初めて尽くしの人生がスタートしていく。様々な初体験、初恋、初仕事、中でも飲んだり食べたりは、世界の果ての料理からゲテモノ、新しく開発された新商品に至るまで、留まる所を知らない。多分一生掛けても終らないのだろう。ここに現代でこそポピュラーになり、誰もが飲んでいるもので忘れられない想い出がある。
私の中学時代、まんまと会社の戦略に乗せられ、コーラを飲むことはその時代の先端を感じるような、とても活き活きした行為として受けとめていたのを覚えている。何でもアメリカナイズされていることがカッコよく、日本的なものは古臭くてダサイという風潮があった。戦後からスタートした大国のマインドコントロールか、それとも我々日本人が勝手にそちらに向かったのかは定かではない。例えば、なんとかザウルスの背中の剣板を二枚ほどテールにつけた様な、大きなアメ車のコンバーティブル、そのドアが開くと櫛のよく通った髪の青年が降り立ち、車に鍵をつけたままで颯爽と家の中へ、そして人の背よりも大きな冷蔵庫の扉を開ける。取り出したのは1リッターほどの丸くて大きな牛乳ビン、蓋を開けると躊躇なくそのままラッパ飲み。その映像は私にとって贅沢の極みだった。町にも家庭にも溢れた、アメリカのファミリー・ドラマや青春映画を見るにつけ、多くの国民がその豊かさに憧れを持った。
そう、今日は牛乳ではなくコーラの話。時代はその中学時代よりさらに6年ほど遡る。私が小学校に上がるか上がらないかの頃だった。未だに父と私が、なぜ夜の閉園時間が差しせまった後楽園遊園地に、しかも二人だけでいたのかはわからない。家の傍とゆう事もあったのだろう。当時、今のトーキョー・ドームの場所は競輪場だった時代のことである。競輪が開催される日は、赤鉛筆を耳に挟み、いく筋も赤線が引かれた新聞を、尻のポケットに突っ込んだオッサン達で丸の内線は一杯になった。水道橋から後楽園に渡ると、左には50メートルの野外プール、右にはローラー・スケート場があり、遊園地の面積は今の三倍はあった時のことである。遠くで3,4人しか乗っていない、丸いとぼけた顔が真ん中にあるオクトパスが、多くの小さな電球をそれぞれの足に付けて、クルクルと回っていた。寂しげで、優しい時間が流れる遊園地の夜だった。夜風が吹き抜けるガランとしたオープンの軽食レストラン。色あせたビニールが巻きついている、パイプ椅子に座った父が、何時になく優しかったのを覚えている。
"何でもいいから好きなものを選んできなさい"と指差す向こうには、日焼けして黄ばんでしまった綿が、泡のふりをして乗っているビールや、ホコリで黒ずんでいるハム・サンドのイミテーションが並ぶショーケースがあった。私は勇んで大好きなチョコレートパフェを選びに行ったのだが、デパートの食堂のようなわけにはいかず、残念ながら目的のものはなかった。いろいろ思い悩んだ挙句、選んだのはバャリース・オレンジのようなビンに入ったチョコレート色の液体だった。そして一口飲んでみると、異様な味とにおいに思わず吐き出してしまった。これがコーラと私の、鉢合わせのような出会いである。
あの頃、水洗がまだ普及していない家が沢山あった。そのトイレの消臭剤を連想するにおいがする。好物のチョコレートの色によく似ていたこともあり、その味を思い描いていた。よく水だと思って飲んだ時に酒だったり、お酢だったりして仰天する時のアレである。父も私の行動に驚いたらしく、"どうした?大丈夫か"といって心配そうに私の顔を覗き込んでいた。閉園の"蛍の光"が静かに流れ、口に残った薬臭い飲み物のにおいが、もう一度鼻の中を通り過ぎた。それから幾年という月日が過ぎ、ようやくコーラという飲み物が一般的に世に出だした。以来、初体験の体たらく?はさておき、私はコーラを日本人の中でかなり早く飲んだ子供として、誇りを持って生きることにした。そして最初に飲んだ感想の"トイレの消臭剤"という言葉は、以来この胸の中に深く刻まれている。
そんな夜のコーラとの出会いから約半世紀、この炭酸飲料との長い付き合いは、良くある腐れ縁の友人のように、今も続いている。
2008.05.22 (木)  相撲の新時代
昨年の5月場所の大相撲観戦記でも触れ、今年の1月場所に再び現場で思ったのだが、国技館にいる外国人ファンが又増えていると感じた。この5月場所は琴欧洲の活躍に加え、幕内に16人もの外国人力士がいる。十両を合わせると22人にもなるそうだ。その中でも極めつけはモンゴル勢の躍進だ。幕内に8名、十両に6名、幕下9名、3段9名、以上、実に32名のモンゴル力士が大相撲界にいる。特に上位の二人の横綱を初めとする幕内力士たちの強さと早さは際立っている。一世を風靡したハワイ勢は何処へ言ったのだろうと思っていたら、国技館の正門で大きな武蔵丸親方が小さな箱の中でいっぱいになって、切符のもぎりをしている場面は微笑ましかった。格闘技に出ればノックアウトされ続けているもう一人と違い、痛い思いもせず大正解である。
昨年、朝青龍が謹慎して又土俵に上がる時、何事もなかったように優勝するのではと、本当に思っていた人も多い。練習をしなくても、多少何処かが痛んでいても、日本人力士よりも先天的に強く、それはもって生まれた血が、まるで肉食獣と草食獣のように違うからだという極端な意見もあった。最近の相撲中継を見て何となく納得してしまう点もあるのだが、そうは思いたくないのも、これまで大相撲を楽しんできた私たち日本人の本音である。では何処に彼らモンゴル人力士と、日本人力士の違いがあるのだろうと考える。
もともと遊牧民族であり、主食は主に羊肉、例によって少し横道にそれるが、彼らにとって草は家畜が食べるもの、魚は命を宿す沢山の卵を持っているので殺生だという冗談とも本気ともとれる話を聞いた。それを聞いた時、草のサラダはともかく、タラコや数の子、イクラの魚卵類が大好きな私は、どれだけ多くの命を口に放り込んだのだろうかと、心中穏やかではなかった。家畜とともに新しい土地を求め、常に地続きの異邦人や先住民などの危険と対峙し、自分の力と知恵だけを頼りに生きてきた民族だ。チンギス・ハーンを初めとする代々のリーダー達は、年齢の差、身分、敵味方、異邦人などにこだわらず、自分達にないものや異文化を取り込んでゆく合理性があったといわれている。根っから自由であり、すべては力が正義で、その力の前ではすべてが公平であるということ。今、日本にいるモンゴル力士たちはこの思想を受け継ぐ子孫たちである。朝青龍の行動なども、先祖から伝わる力が正義という思想から来ているものだとすれば、頷ける部分も見えてくる。
日本人はもともと農耕定住の民族であり、土地を耕し、米を主食に、暗くなると、早い明日に備えて寝る。身分、上下の主従関係、徒弟制度などの徹底によって歴史を刻んできた。しかも島国である為、日常において外部からの文化や思想の流入や危険も少なく、士農工商から始まり、延々と今も議員や歌舞伎の世界に続く世襲のように、生れ落ちた時からその身分に守られ、いい面でも悪い面でもそれを継承してきた。そんな子孫が、私たちと今の日本人力士たちである。
日本の相撲の場合、正面左右に真っ白な塩が置かれた丸い土俵、青竜(青)、朱雀(赤)、白虎(白)、玄武(黒)の季節と方角を表す、四色の房が下がる天井があり、伝統に裏打ちされた礼を重んじる神聖な戦いの場でもある。モンゴル相撲は果てしなく続く大地のすべてが土俵であり、夜になると満点の星空になる宇宙がその天井である。そこには自然とともに生きる民族のスケールの大きさを感じる。その歴史ははるか紀元前から行なわれ、ナーダムの祭りではこれに弓と騎馬の競い合いが加わる。女性は家畜の世話から子育て、食事の用意、そのすべてをこなし、勉強が盛んになった近年では、学歴は男子よりも優先するという。今の二人の横綱、白鵬、朝青龍のそれぞれの母親は共に国立大学の出身だ。そんなお国柄を少しでも知っておくと、今活躍しているモンゴルから来た力士たちが、より身近に感じられ、親しみもわき、相撲観戦もより楽しくなってくる。
いずれにしろ大自然の中で育ち、先祖から受け継がれた思想の違う力士たちが、鍛えられた見事な体にマワシを締め、いい香の鬢ずけ油で大銀杏を結う。日本語を勉強し、礼を重んじる日本の相撲界で一生懸命やっている。彼の地には、日本に来ることを夢見る有望な若い力士が沢山いると聞く。日本人の入門希望者が減った今、日本相撲協会の頭の痛いところでもある。当分、彼らモンゴル力士の優位は揺るぎそうもない。これは将来の笑い話になるのか、現実になるのかは定かではないたとえ話。ほんの一握りになってしまった日本人力士を、はるかモンゴルのある場所から、衛星中継を見ながら、異国にいる私達が応援する時代が来るのかもしれない。それはそれで、今の大リーグに行った日本人選手を応援するように、日本から送り出した稀勢の里や琴奨菊のような期待の力士が、屈強なモンゴル力士の中で、如何に活躍するかを考えると、判官贔屓が大好きな日本人は、多分、今よりもっと燃えるだろう。
判官といえば義経、日本から逃れて強大なモンゴルを率いるチンギス・ハーンになったという夢のような話は、この諸事情を考えると絶対にありえない、単なる夢だったと此処に宣誓する。逆に戦後間もなく江上波夫博士によって唱えられた"騎馬民族は日本を征服したか"という雄大でロマン溢れる説が、私の中でさらに大きく真実味を帯びてきている。
2008.05.08 (木)  男の分水嶺
一年で最もさわやかな新緑の季節がやってきた。街では初々しかった新社会人らしき人達が、落ち着きのある表情に変わり始めている。よく世間では、人生で最も幸せなことは、職業が自分の趣味と一致していることだと言う人がいる。ただその通りになって、不安なくそれなりの生活を支え、ましてや人並み以上の生活をしている人は、ほんの一握りの人達だろう。
私の高校時代、科学の橋爪先生という年配の先生がいた。いつも華奢な体に白衣を着て、伸び縮みする細い金属製の棒を持っていた。先生は東京大学を優秀な成績で卒業され、直接ご本人からではないが、金時計まで贈られたという輝かしい前歴を聞いた事がある。血気盛んな男子校はいつも騒がしく、教室に入ってくると常に例の金属棒を天井に向かって差し、眉間にしわを寄せて"静かにして〜!"が先生の第一声だった。今振り返ると、本当にいつもご迷惑ばかりかけていた。
ある時、先生が眼鏡を鼻の先端まで下ろし、上目ずかいに我々一人、一人を見ながら、しみじみと言った事があった。<これから話す事は科学ではなく人生の事だが、皆よく聴きなさい。男というものは一生のうちで、三つの大きな仕事をしなければならない。その第一は、いい大学に入り卒業すること。第二は、一生懸命になれる、いい仕事に就くこと。第三は、いいひと(女性)を見つけて結婚をすること。これを旨くやれば大概の男は幸せな一生を送れる。僕の場合、第一まではうまくいったのだが、第二、第三で失敗してしまった! 夢や未来のある君たちは頑張りなさい>
その時、私も含め多くの生徒から、知らない所で勝手な事を言われている先生の奥様の無念を空想し、妙な笑いが漏れたのだが、なぜかその後、教室全体が物思いにふけったように静かになった。たしかに、第一のいい教育を志す、いい学校は、第二、第三を成功させるべき布石や基盤のようなものだ。逆に第二、第三は日常に延々と続き、人生そのものといってもいいものである。ほんの一例に過ぎない先生の人生教訓は忘れられない言葉として今も鮮明に覚えている。
仕事と結婚はたまたま縁があって、その会社なり、その結婚相手を自分が選び、選ばれ、日々を送るうちに、より掛替えのないものになる事が理想と言えるかもしれない。もっと言えば仕事や結婚した相手の中に、好きなものをより多く見つけられる能力を培うことが、自分を幸福と思える人たちの仲間入りが出来る事なのかもしれない。本来、幸福とは自分を知る他人や社会が数値や客観論で決めるものでもなく、自分自身を励まし、自然に感じられるまで努力する事だと信じている。あの時、先生が話し終わった後、ふと見せた老人のいたずらっぽい微笑みを私は見逃してはいない。先生の本音か、他愛無い冗談なのか、何十年たった今もわからない。それでもあの時は、一生を左右する選択の大切さを教え、先生ご自身の人生の哀歓を達観し、それを笑ったような気がする。
今もって流されるがまま生きている私の人生を振り返り、自分が選んだ道である分水嶺の右か左か、それが幸せだったか、不幸だったかの判断は、これまで生きてきた道程にもかかわらず、未だに遠く霞がかかっている。多分これからもその霞に救われて生きるのだろう。こうしている今が、既に過去になる過去に舌打ちしたり、笑ったりを繰り返す迷夢の人生に、今宵も酩酊の杯を上げる事になりそうだ。
2008.04.26 (土)  秘密の場所
この年齢になって妙な話だが、私には心落ち着く秘密の場所がある。秋の日のとある日曜日の午後、偶然通りかかった公園の裏手に見つけた五坪程のこじんまりした空き地で、ストレッチなるものを始めた。すると可愛い鳥の声がする。人の笑い声も遠くでかすかに聞こえるような静かな所だった。声のする上空を見上げると、高い所に南天の実が真っ赤に熟していて、それをヒヨドリ達が楽しげについばんでいた。黄緑色の美しい葉の色と秋空の青さが、赤い実との絶妙な色の調和を見せており、まるで南国の楽園にいるようだった。 その美しい光景の中で、気がつくと私自身が鳥になったような気分になっていた。以来、夏から秋にかけて、ひと気のないのを確認してから、此処に来るのを楽しみにしている。 普通、感動を誰かと一緒に共有したいと思うものだが、自由で心地のいい時間をくれる、独りでいたい不思議な場所である。
此処で目を閉じると、子供の頃にも秘密の場所があったのを思い出す。当時、家の裏手は広い野原になっていて、そこから続いている崖の上にまた土地が広がり、真ん中に一本の大きな木があった。夏の晴れた日、何時行ってもその木には、大好きなアオスジアゲハが私を出迎えるように飛んでいた。羽にブルー・グリーンの綺麗な筋がある小振りなアゲハ蝶の仲間で、木の上に咲いた白っぽい玉のような花の上を、群れをなして飛んでいることもあった。その秘密の場所には、不幸にもこの土地を守る恐ろしい名物婆さんが住んでいた。いつも夢のような情景に見とれていると、突然現れては棒や竹のほうきで、純真でいたいけな私(?)を追いかけますのだった。彼女は出刃包丁こそ持たないが、常にトレード・マークのタスキがけの和服姿でいるので、近所の悪童たちの間では、ヤマンバ(顔の色は同じようだが、以前、渋谷のセンター街にいたのとは、かけ離れた本物ファッション)というあだ名がついていた。今もあの棒を持ったヤマンバとトルコ石色のアオスジアゲハが飛ぶシーンは忘れない。
月日が流れ、私の新しい大人版(?)秘密の場所は、赤い実と鳥たちが主役の安らぎの場所となっている。何時も感じているのだが、現代は生活の便利さと引き換えに、個人情報の氾濫による干渉など、沢山の煩わしさも増えた。ほとんどの人が何処にいてもメールや携帯を鳴らされチェックが入る。お年寄りの年金・医療費天引きの問題、車のシートベルトを装着しないと"自分自信の安全を守れない人は、国がお仕置きします"とお巡りさんから罰点が出てしまい、心地よく酔って歌うカラオケにまで、歌に点数をつけるお節介な機械が登場してしまうような、大きなお世話の時代だ。当然、秘密というものは社会や他人から知られることもない。ましてや所詮万能でもない欲に絡んだ人間達が作る基準や評価などは、思いっきり蚊帳の外まで蹴飛ばせる。自分の感性を公にひけらかすマイ・ブームとは対極にあるもの。そっと自分だけの奔放な世界に心地よく浸る事と考える。何もかもが基準や数字で人生までもが決まりかねない今の世に、守るべき楽しみの糧として、心ときめくような秘密たちとめぐり逢って行きたいものである。
2008.04.22 (火)  蘇る日々たち
紫陽花
もうすぐ紫陽花の花が咲く頃になる。この花が咲くと必ずある朝の出来事を思い出す。ある時、庭に咲いた紫陽花を母が切って、私の両手が一杯になるほどの大きな花束にして、幼稚園に持って行かせたことがあった。小さいながらも男らしさを意識して、花を持つということは私の感性にはなかったのだが、慌しい突然の朝の出来事だったので、その成り行きに乗せられてしまったと言うのが本音であった。無口で大変な恥ずかしがりやという、今の私を知る人からはとても想像ができない、小さな頃の私は、黙って先生に花束を差し出すことさえも大変なプレッシャーがかかることだった。そんな私を誰よりも理解していたのが母であることは間違いないのだが、今思うに私を鍛える為か、可愛い子供が幼稚園でよく思われる為だったのか、多分そんな思いだったのだろう。いつもの自転車で父の弟の伯父さんに送られ、顔を真っ赤(多分そうだったに違いない)にしてその花束を先生に渡した。すると、その先生の反応がまたいけなかった。目を丸くして大声で"まあ!綺麗"などと感嘆の声を上げ始めている。もともと無口なので止めてくださいともいえない。そこで友達は集まるは、騒ぎを聞きつけ他のクラスの先生までもが加わるやで、大騒ぎになってしまった。恥ずかしさのあまり、その日一日、ほとんど顔を上げずに過ごしたのを覚えている。雨に濡れた青紫、赤紫の大きな美しい花が咲くと、あの日の朝が蘇る。

ユーモレスク
友達が帰り始めたある日の午後、家の都合で居残ることになったのだろうか、今となっては定かではないが、私は窓から木々が長く影を落とす講堂に一人いた。何時もそこにいると香るワックスの匂いが好きだった。手入れの行き届いた濃い茶色をした寄木の床が、午後の光を反射して眩しく光っていた。するといつもの終礼の合図である曲が突然大きな音で流れ始めた。バイオリンの弓と弦がわずかに移行する時に擦れる音までもその曲の一部として感動的に聴こえた。いつも何気なく鳴っていた終礼の合図でしかない曲は、突然私の情感に訴える名曲になった。そしていつもの好きなワックスの香りが、妙に切なくバイオリンの音の中に溶け込んでいった。時が経ち、大きくなってから無理やり行かされた音楽会で、再びその曲を耳にする機会があって題名を知った。"ユーモレスク"。軽く明るいタッチから、徐々に切なく、やがて官能的に高まって行き、また、何事もなかったようにはじめのフレーズに戻る。以来この曲は私にとってとても切なく甘い曲である。もう、何十年も経つのに、この"ユーモレスク"を聴くたびに、必ず西日射す講堂のシーンとあの懐かしいワックスの匂いが蘇る。

大の字
早稲田から三ノ輪まで、今の東京では唯一になってしまった都電が走っている。私が子供の頃、都電は網の目のように東京中を走りまわっていた。当時、父方の叔母たちから、私が大人になるまで言われ続けたことがある。まだ、私の記憶が確かではないほど小さな時、叔母の良く知る娘さんが、子守ついでに私を連れて出かけたのだそうだが、その娘さんと私が些細なことでトラブルになったとの事。そして私が広い道路の真ん中、しかもそこを走る都電の線路を枕に、大の字に寝てしまったという。岩のように動かなくなった私を、そこにいた何人かの人に助けてもらい、道端まで移動して何とかその場をしのいだと言う話だった。そして、むずかる私を、家まで届けてくれた娘さん曰く、"いろんな多くの子供を見てきましたが、こんな悪い子は初めてです"ときっぱりと叔母が言われたという。以来、親戚(従兄弟たちも多く、常に大人数だった)が集まると、必ず大きな声でその昔話が始まるのだった。世の中の常で、それに便乗して、私からこんな事もされた、あんな悪い事もしたなどという話が出てくる。圧巻は噛まれたヤツまで現われる始末だ。自伝ではない他伝・悪童物語の発表会になるのがいつもの落ちだった。今になっても都電の写真や模型、ましてや実物を見ると、叔母たちの合言葉であった私の大の字伝説が蘇る。
2008.04.01 (火)  花吹雪
昨日の午後は一昨日から降り続いた雨が止み、湿り気と多少の寒さが残り、時折日が射すかなり気持ちのいい午後になった。せっかく咲いた桜が冷たい雨によって散り急いだのかもしれないと思い、早々にご近所の桜の名所である哲学堂に行ってみた。満開から時間が経っていなかったのが幸いしてか、まだまだ見ごろだったので一安心。まさにこれから散ってゆく所なのだろう、風が吹くと青空に花びらが舞って思わず立ち止まり、しばし青とピンクのコントラストに見とれてしまった。
私の場合いつもこの時期になると口ずさむ歌がある。それはちあきなおみの"花吹雪"と言う歌である。この曲は学生時代からギターの弾き語りで歌ってきた。もちろん下手の横好きで、私の数少ないレパートリーの一つである。いつも情感迫る彼女にしてみれば、珍しくさらっと歌うナンバーで、注意しないとちあきなおみと気付かずに聞き流してしまう。そんな所に彼女の歌唱力の奥深さを感じる。詞の内容は、駅裏の小さなお店のママである主人公が純粋な学生と恋をする。やがてその学生は卒業の期を迎え故郷に帰ってゆく。それまでの想い出を胸に、花吹雪が風に踊る中で自分もまた、生まれた町に戻る決心をするというものである。ちあきの声と切なさが気に入ってこの時期には必ず口ずさむことになってしまった。
考えてみれば、最近の桜がらみのビッグヒット曲の多さには驚くばかりだ。桜は日本の象徴であり、日本人の心に強く訴える花であることは衆目の一致する所である。パッと咲いてパッと散るそんな潔さを持つ花が、人生の中で最も感受性の強い世代の節目の時期に満開を迎える。なんと日本人の琴線に訴えかける花なのだろう。そして社会人になって何年かすると、その感受性も失って、近しい仕事仲間と、その花の下で憂さ晴らしのように酒を飲んで酔っ払う。それでも心の片隅にはその甘酸っぱいような昔日の思いは残り、切なさを感じながら酔った目で落ちてゆく花びらを追う。昨日、素面の私はその散り際の桜をしっかりと見つめてみた。風にあおられ一生懸命に一輪の花は負けまいと揺れるのだが、それに耐えかねてその中の一枚の花びらが去ってゆく、ここではいろいろな感慨があるだろう。それを新たな旅立ちとして元気に見送ることもよし、遠い昔の仲間たちを振り返るもよし、また、ある者は(実は私のことであるが)目減りしていく銀行の預金通帳を思い浮かべ、ある者は自分の人生そのものを投影させる。
いずれにしろ、多くの日本人である学生や社会人にとって、この今は新しい時を迎へ心を新たにする。そこに絵に書いたような桜が目一杯に咲き誇る。そしてそのBGMには目頭を熱くする数多くの名曲が生まれている。近年、花見に訪れる外国人の多さには驚くばかりである。彼らには、万葉の世から伝わる桜の花のはかなさや繊細さ、それにまつわる物語などは、理解の範囲に及ぶかもしれない。されど共に泣き、大いに笑い、大いに悩んだ青春、その惜別の時に咲いていた桜に対する愛惜の情の中にまで、グローバル化の風はどうしても入り込むことが出来ない。桜が咲き散ってゆく、そのすべての事柄は密やかな心の文化、日本人によって創られた日本人だけが共有するセンチメントなのかもしれない。
2008.03.31 (月)  懐かしのハワイ
先日、その昔"てんとう虫のサンバ"のヒットで有名だったチェリッシュが、夫婦でハワイのコンドミニアムに住んで英語の勉強をするという番組をやっていた。スーパーで働く地元の人とのやり取りなど、実際に良く使う生活に密着した英語なのでとても面白かった。
それを見て、37年前のこと、ハワイのヒルトン・ハワイアン・ヴィレッジの中にあったダイアモンドヘッド・アパートメント(今はタワーとなっている)で20日間ほど過ごした事を思い出した。毎日を自炊することで安く上げようとしたのだが、蚊取り線香のようなゆっくりと温まる電気コンロなどが馴染めず、結局ハンバーガー屋のジャック・イン・ザ・ボックスの常連客になった。マカハ・ヴァーレイにかかった二本の虹やワイキキからハナウマ・ベイへのサイクリング、アパートメントの下にやってきた移動遊園地等、そんなことを思いだしているうちに無性に昔のハワイが懐かしくなり、あの頃感激したエルヴィスの「ブルー・ハワイ」のDVDが折良くバーゲン・プライスになっていたので買ってみた。
何を今さらと笑う方もおられるであろうが、本当に久々に見る「ブルー・ハワイ」はこれでもかと言うほど数々のヒット曲満載で、見ていて楽しい。この映画をきっかけにエルヴィスは第二の黄金時代を迎える。映画の中の恋人マイリが乗っている真っ赤なMG・Aがダイアモンドヘッド側からカラカウア大通りをアラモアナに向けて走る。今はビルに覆い尽くされているのだが、この頃は澄んだ大きな空が広がっている。まだローカル色満載のホノルル空港、いい香がする生花のレイをかけてもらった事などが蘇る。
彼の映画らしく、例によってストーリーなどはどうでもよく、先にエルヴィスの素敵な歌ありきの青春映画である。浜辺を走る車で歌う"オールモスト・オールウエイズ・トルー"や華やかなオープンカーで女学生たちと歌う"月影の渚"、私が最も好きなシーンは、マイリのお婆さんの誕生日に彼がオルゴールをプレゼントする場面だ。お婆さんが蓋を開けると、あの"好きにならずにいられない"のイントロがオルゴールの音で流れ始め、エルヴィスが歌いだすという心憎い演出。“ロカ・フラ・ベイビー”しかり、“アロハ・オエ”しかり、それぞれの曲をいかにカッコよく聴かせ魅せるかの抜群の演出力は、今も色あせることはない。最近の私は記憶に自信をなくしていて、所々思っていたのとは違う展開に驚くことがある。それと同時に思わぬ発見もある。母親役のアンジェラ・ランズベリーはTVの"ジェシカおばさんの事件簿"のジェシカだったり、その時には気にも留めていなかった街角や俳優が着ている服、車や店や化粧品の類まで、今の時代になって懐かしくなったものがポツンと写っていたりすると嬉しくなる。
近年CGの目覚しい進歩で、何をやっても死なない主人公が空を飛んだり、架空生物やジェット戦闘機が街の中や宇宙を旋回したりするようなことなどは容易く出来る。いわゆる映像に関しては不可能と言う言葉が当てはまらない時代を迎えた。最新技術をこれでもかと執拗に強調し、観る者を驚きの連続で圧倒する。そんな映画に飽きてきたのは私だけではないだろう。この古き良き時代を思わせる映像は、その時の人や町や渚があるがままの姿でいる。其処には素の美しい世界があり、優しい穏やかな人々の心が揺れていた。そして見る者すべての心の窓に束の間の夢世界を映しだしている。
2008.03.24 (月)  最近の車事情
遂に国産車史上最強といわれる日産のGTRが街を走り始めた。数年前までは国産車の馬力は280馬力が上限とされてきたのだが、ホンダを皮切りに馬力の上限が無くなった。このGTRはなんと480馬力というモンスター並みのパワーを誇る。ゼロヨン、つまり0〜400メートルに要する時間はたったの11秒6という物凄さである。これはどれだけ凄いかと言うと、公道を走ることがないレーシング・カー並の速さなのだ。しかもその値段は700万円代という。一般的には高価ではあるが、今この性能を有する車といえば最新のポルシェ911ターボとか、フェラーリの最高峰クラスになる。そのクラスはその倍の金を支払っても到底買えない、要するにGTRはとても安い超高性能車ということになる。
この車の発売は世界的にもセンセーショナルだ。以前トヨタのセルシオが発売されたときは、その静かさで世界をアっと言わせた。ドイツの高級車メーカーがいち早く買い上げ、バラバラにしてその静かさの秘密を探ったという。又、モーターとエンジンを競合したハイブリッドのプリウスがその革新と経済性で世界を驚かせた。ここで車産業の将来の夢を現実したのである。そして今回、ドイツ勢にどうしてもかなわなかった超高速性能のジャンルで世界に名乗りを上げた。かくして日本の自動車産業は安くて丈夫で壊れない車から、高価を代償とする高性能面でも世界のトップレベルとして君臨するにいたったわけだが、車好きの日本男子の一人としてどうしても欲しいものがもう一つある。それは華やかな歴史を誇るヨーロッパ勢に対するブランド力である。
トヨタが必死になってレクサスを高級ブランドとして売り出している。JALの上等な客が利用する桜ラウンジのようなショールーム、ここではオーナーたちの憩いの場、待ち合わせの場としても利用できる。そして黒のスーツに身を包んで上品な物腰をした従業員が待ち受ける。ある時こんなことがあった。ある町のショールームでそのキリっとした従業員が小父さんに深々と頭を下げているシーンを目にした。問題はそのお客である小父さんのファッションである。サンダル履きで、今となりの家に枝豆でも届けに行くような様子であった。それがこの国の一つの文化であり現状であることは間違いないのだが、ここで一つの提案である。せっかく企業側も最善の努力をして高級感で客をその気にさせて楽しませようとしている。それなら客も埋もれた遊び心を大いに発揮して、その舞台で主役になってはどうだろうか。レクサスの車を買う財力があるのなら革靴の一足も持っているだろう、金があるから、客だからどんな格好でも態度でもかまわないでは、日本のオヤジ達の品格が上がらない。
そもそも、ブランドはそれを所有したり使ったりする客が創り育てるものである。エルメスのケリー・バッグしかり、ある地位の人や知識人がそれを愛用していることがブランドになる例がままある。まずは手っ取り早く、TPOの基本である身だしなみとマナーから磨こう。ここ日本では、伝統を重んじる世界のブランドでも、それを使用する輩が下品な立ち振る舞いで度々台無しにしてしまうことがあるのが現実だ。日本の企業努力がここまで来れば、後は客たちのほんのささやかな自覚である。世界に名だたるヨーロッパ車ブランドへの楽しみな日本の挑戦は、ここで新たな展開を見せはじめている。
2008.01.25 (金)  春の散歩日和に
夏目漱石の作品に、岩波文庫の読者投票ナンバーワンに輝いた"こころ"と、ほぼ同じ場所を中心に物語が進行する"三四郎"がある。司馬遼太郎の本郷界隈でもお馴染みのところだが、のどかな春の日の一日を選んで、柴田錬三朗の"赤い影法師"、"こころ"に出てくる先生や"三四郎"になり変わってその話の舞台を散策するのはどうだろう。私の地元なるがゆえ、いろいろスタート地点で迷ったのだが、まずは地下鉄後楽園で降りることにしてみた。改札をでたら左に向かい礫川公園を見て春日通りに出る。それを左に上がる。
三代徳川家光の乳母・春日局の銅像に拝礼、やがて伝通院交差点を右に入る。ここからすぐ先の左側に永井荷風が生まれ育った金富町、多くの芸能人が住み、当時近代的で格式があった事で話題になった川口松太郎の川口マンションがある。隣には財閥・三井家の大きな屋敷がある。正面の伝通院で家康の母である於大の方の墓や、徳川家一門の墓を参拝、どれも立派なのでかなり荘厳な気持ちにさせられる。このほか詩人・作家の佐藤春夫、柴田錬三郎、永井荷風、日本画家の橋本明治などの墓がある。
ここのすぐ裏手に私が通った幼稚園がある。西門の鉄の扉から入り、罰当たりにもこの由緒あるお墓群の横を、思いっきり走り抜けて近道をすることが私の通園の日課だった。何時のときだったか、この門の前に"十億の人に十億の母あらむも、我が母にまさる母ありなむや"という言葉が書かれていた。ここで先回りした私が母を待っていた場所でもあり、微笑みながら歩いてくる母の面影が昨日のことの様に思い出された時があった。ご存知の通り、伝通院とは於大の方の戒名であり、この下に延々と十一文字が続く。門を出たらすぐ左に下る。やがて江戸図にも出てくる有名な枯れたムクの大木が見えてくる。右に日本の料理研究家の走りであった赤堀家がある。
その数メートル先には"赤い影法師"にも出てくる鐸蔵司稲荷(たくぞうすいなり)慈眼院がある。伝通院の覚山上人が因果坂(今の善光寺坂と思われる)で出会った眉目秀麗、才覚非凡の若僧の鐸蔵司の仏道への入門を許可した。彼は院での修行の際に睡魔に負けて狐の性を現し、それを先輩僧に見つけられる。獣身ながら仏道を志したことを謝し何処かへ逐電してしまったという話。境内の石碑には狐がもっと格式高く書かれていて、その違いが面白い。上人はその心事を哀れんで祠(ほこら)を立て、柳を植えたという。それが今の鐸蔵司稲荷だ。この隣に幸田露伴や文、同じ町内に宮沢賢治も住んでいた。隣の善光寺の門などは今が平成の世とはとても思えない趣が新鮮だ。
漱石の"こころ"に出てくる先生の一生を左右することになった下宿先は、ムクの木と春日通りのちょうど中間あたりになる。現在の地名は小石川二丁目となる。それから先生が下宿に帰る時にいつも通ったこんにゃくえん魔(源覚寺)は、坂の下の通りを右に行くとある。その名の由来は、えん魔様に目を患った老婆が祈願に来た所、不憫に思いえん魔自らの右目を与えた。老婆はお礼に自分の好物のこんにゃくを供えたということでその名がついたという。あきれるほど安易だが、その名が面白いので○としておこう。先生は表門から小さな裏門へ抜けたと思われるが、今は裏門が閉ざされている。これまでのところは漱石を始め、永井荷風、菊池寛、樋口一葉、石川啄木等の文人たちが好んで歩いた所とされている。
こんにゃくえん魔をでてまっすぐ進み白山通りを渡って左に行くと樋口一葉の碑がある。それから何でも売っているディスカウント・ショップのオリンピックを越して右に入ると大きく曲がって急坂になる。息を切らしながら其処を登りきると西片町になる。一葉はすぐそばの本郷に抜ける菊坂にも住んでいたが、ここに越して執筆活動をする。漱石の三四郎と美禰子が始めて会話した広田先生の借家があり、此処を拠点に話が回る。この地は漱石自身が相当思い入れのあったと思われ、千駄木に続き文京区での二番目の居宅にもなった閑静な住宅街である。東大の学者が多く住んでいたこともあり、学者街とも呼ばれたそうだ。しばしここの静かな公園で文学の空気を吸って休憩、しばらく行くと言問通りをまたぐ橋にでるのでそれを下りる。言問通りを上がり本郷通りを右に行けば、三四朗が通ったご存知、加賀・前田家の東大の赤門などがある。
本郷三丁目交差点にでて左に(右に行けば真砂町の先生の家になる)。泉鏡花の"婦(おんな)系図"の新派の芝居で、早瀬主税が柳橋の芸者お蔦を呼び出し、歌にもなった湯島天神がある。今は受験生達の切なる願いの絵馬で一杯である。そこを下り春日通りを左に、まだ行ってない方は岩崎邸を見学。三菱の創始者、岩崎弥太郎の屋敷である。"我輩は猫である"の一節に大金持ちの岩崎男爵のような顔云々とも書かれているまさにその人物の家である。設計は神田のニコライ堂を設計した英国人のジョサイア・コンドルで明治時代に建てられた。実に見事な洋館建築で階段の手すり、窓の三連アーチ、外壁の彫刻、水色と金の居間の由緒ある壁紙にいたるまですべてが素晴らしく、ボランティアの叔父さんが丁寧に説明してくれるのも嬉しい。まさにその時代の栄華が偲ばれる。
それから池之端を回って、不忍池に浮かぶ弁天堂に柴錬の影法師の淫靡なる一節を思い出しながら、上野の山を登り三四郎や友人の与次郎たちが食事を楽しんだ、おなじみの精養軒で、夕日を見ながら今年のささやかな希望と決意を肴に、麦酒と熱燗で半日がかりの散歩の打ち上げはどうだろうか。
2007.12.28 (金)  天才アスリートと心温まる話
今年一年を振り返り、この「ひとりごと」ではのんきなことを書き続けたが、私事では近年まれに見る大変な一年だった。来年こそはいい年になりますようにと願う今日この頃、あわただしい年の瀬に入り納得の言葉とほっとする話題。

在米の女性ゴルフ・ジャーナリストが、朝日新聞にタイガー・ウッズのことを"天才ゆえの知識の深さ"というタイトルで書いていた。それを読んでなるほどと頷いてしまった。今、全米を揺るがす薬物使用の話題、彼の小さな頃の事、米ツアーの出来事など、ウッズが研究し的確な深い知識を持っているからこその言葉や行いが綴られている。この最後の章に、"ウッズは生まれたときから豪打を打てたわけじゃない。どれだけ研究を重ね、知識を増やせるか。どれだけ鍛錬と努力を続けられるか。その能力が長けているからこそ、人より秀でることが出来る。天才アスリートの本質は、自らを磨く能力が天才的であること。王者が王者たるゆえんだ"。と結んでいる。これをそっくり私に置き換えるならば、凡人の本質は自らを甘やかす能力が天才的であるということ。そして常に最小の努力で最大の効果を狙う、当然ながらその成果にいつも失望する。それが凡人の凡人たるゆえんだ、となってしまう。
恐れ多くも、もしこのジャーナリストの章に一言加えるならば、恵まれた体力を維持し、限られた時間の中でいかに有効な努力をするかという言葉を贈りたい。自分を磨く能力の中に含まれる研究と知識、努力の継続。なぜかマリナーズのイチロー選手が頭に浮かんでくるのは、彼がそれに最も近い日本人アスリートの一人なのだろう。ウッズとイチローどちらも天才アスリートであるが、この二人には誰にも負けない大切なものがもう一つあることを忘れてはならない。それは二人のゴルフと野球に注ぐそれぞれの愛情が、ずば抜けた一級品であるということだろう。

連日のいやな事件や事故、自らの悪を黙認し善を封印する役人達の身勝手な天下りや接待漬け。人込みを歩き電車に乗ると、以前より笑顔が少ないことに気付く。格差拡大で一番大きくなったのは国と国民の差ではないだろうか。公平であるべき新聞の親玉が画策した、独裁政権擁立の為の連立構想。彼は過去に一番から九番まで四番バッターを掻き集めたが失敗した。毎日、毎日、日時や産地偽装の企業をこれでもかと叩き続け、これを生んだ管理・指導の甘い国の責任は問わないマスコミ。どうでもいい悪役スポーツマンや芸能人ネタを追いかけ、毎夜繰り広げる民放TVのおぞましいガキ向け番組の羅列。二〜三日まさに大騒ぎした疑惑の経団連の長の話しがピタリと見事に無くなる。小泉以来この国の崩壊は加速度を増している。
そんな日々の中で一公務員の心温まる出来事があった。場所は新目白通りの高戸橋から都電と平行して走る道でのこと、私はいつものように車で江戸川橋方面に向かって走っていた。すると前から来る自転車に乗った警察官が、急ブレーキをかけて私の車をじっと見ている。すれ違いざまだったので気にはなったが、別に合図をするでもないのでそのまま走り去った。しばらくしてバックミラーで点のように小さくなった彼を覗くと、驚いたことに、車体を左右に揺らしながらずっと全速力で私を追って来ている。ちょうど三つ目の信号も赤になり左に寄せて止まった。やっと彼が追いつきハーッハーと息を切らしながら、"新聞! 新聞がフロントグリルに張り付いています。オーバーヒートの原因になりますので"とわざわざ数百メートルを全速力で走って知らせてくれた。彼の一途な目を見て、まだまだ世の中捨てたものじゃないとほっと心救われる思いがした。自分しか見ない、見えない利己主義という文字が幅をきかせる今の世に、こんな人がいつまでも幸せでいて欲しいと願う。戸塚一丁目交番の若いおまわりさんに感謝。
2007.12.04 (火)  いろいろな敗者たち
先日、ある図書館で六年前に書かれた天声人語集を読んだ。その中の一つに"いろいろな敗者たち"というタイトルで、当時のボクシングのことが書かれている。南アフリカで行なわれた試合で、絶頂期にあり、負けるはずがないといわれた英国のチャンピオン、レノックス・ルイスがまさかのK0負けを喫したという話。それとともに74年に行なわれた今も語り継がれ伝説になったモハメッド・アリとジョージ・フォアマンの試合のことに触れている。私の心に昨日のことのように思い出される試合である。
同じアフリカ大陸のザイール・キンシャサで行なわれ、これまた絶頂期にあったチャンピオンのフォアマンは40戦無敗、実際に彼の試合をTVで見ていた私は凄い男が出てきたなと思っていた。象をも倒すといわれた彼のパンチの威力はすさまじく、下から突き上げたこぶしは前チャンピオンだったジョー・フレイジャーの体を弾けたゴム人形のように浮き上がらせた。おそらくその後に現れた野獣のようなマイク・タイソンもこの時のフォアマンには負けただろうと勝手に確信している。かたや徴兵を拒否し、チャンピオン・ベルトを剥奪され、5年ものブランクを余儀なくされて盛りを過ぎたアリ。誰もがフォアマンの圧倒的な勝利を疑わなかった。そして試合が始まりロープを背に強烈なパンチを受け続けた老雄アリが8回、すっと体を入れ替えワンツーでフォアマンを倒した。それが"キンシャサの奇跡"として語り伝えられる。アリの一撃はフォアマンの人生をも打ち砕いた。"本当に虚ろだった。タイトルを失っただけではない。人間としての俺を証明するものまで失ったのだ"と彼は自伝の中で回想している。
そして、この伝説の試合を意識してアフリカを希望し、KOされたルイスは虚ろな目で "いったい、何が起きたのだ"といい続けたという。さらに皮肉なことは当のフォアマンがこの試合の解説者であったことで、ルイスを"慢心、自信過剰だった"と切って捨てた。私は当時のことを思い出していた。なぜ、アフリカのへそと言われるキンシャサなのか、それは史上最強の二人の黒人ボクサーの遥かな故郷であり、そのヘソ(中心)を選んだことにこの試合の意味があったのではないだろうか、それは二人だけの戦いではなく平等と自由を圧殺してきたアメリカの歴史との戦いでもあったということだ。そして、その20年後に本当の奇跡が起こる。敗者であったフォアマンは自信喪失の結果、紆余曲折あって牧師も経験するのだが、キンシャサから20年経った1994年にマイケル・モーラーに勝ち、再びヘビー級のチャンピオン・ベルトを巻くとは誰が予想できただろう。
未来永劫45歳という高齢チャンピオンはフォアマンしかいないだろう。そして1997年11月22日シャノン・ブリックスに判定負けで、再び敗者となって引退する。栄光から挫折の20年間、なにが彼をこれまで突き動かしたのだろう、あのキンシャサの敗戦の時、フォアマンはこうも言っている、"自分の中の芯が、消えてなくなってしまったような気がした"。フォアマンにとってその自分の中の芯を探し続けた20年だったのかもしれない。こんな想いをめぐらしながら静かに本を閉じた。そして次の日、TVのワイドショーに今度は日本の敗者が映っていた。
どうして反則を行なったのか? "あまり思い出せない、緊張してたんでしょう"。試合が終ったらまた歌うのですか? "多分、歌好きやしな"。こんなレベルの敗者が、悲しいかな、どのチャンネルを回しても映っていた。まさにいろいろな敗者たちである。
2007.11.15 (木)  出会いの不思議(パートU)
世間ではよく人の運命は最初から決められていると言われるが、それは結果論であり、私は人の出会いや出来事はその瞬間の偶然や成り行きから始まっていると考えている。
その昔、私が兄と初めてラスベガスに行った時の忘れられない出来事である。飛行機は大韓航空だった。シートベルトの金具にあの一世を風靡したパンアメリカン航空のマークが刻印されていた。よくよく聞いてみると大韓航空がパンナム機の中古を譲り受けて使用していたのだった。途中ハワイで入国手続きをして、広大な光の海のような夜のロスで国内線に乗り継いだ。何処までも続く真っ暗な砂漠に忽然と赤や緑の綺麗な光の固まりがはるか彼方に見えてきた。真夜中に不夜城のラスベガスに到着。
そもそもラスベガスはフーバー・ダム建設にかかわった工事関係者の慰安の為に造られたものだった。ここで最古のホテルであるフラミンゴ・ヒルトンに着いたのは午前3時、気が高ぶって眠るにも眠れず、恐る恐るカジノを覗いてみることにした。やはりここは真夜中にもかかわらずかなりの賑わいを見せていた。ざわめきの中、狙いが的中したらしく大きな声を上げる男や、背中の大きく開いたロング・ドレスを着た女性たちの華やかさ、網タイツでにこやかにお酒やタバコを配るセクシー・ガール、見るものすべてが目新しく驚きの連続だったそんな中、真っ白なサマージャケットを着て、一人ポツンとブロンドの女性デイーラー相手にポーカーをしている少年のような日本人らしき男がいた。グラス片手にかなりその雰囲気に慣れている様な彼はじっと私の顔を見つめている。そしていきなり声をかけてきた。<ねえ君! 俺の事知らない?>である。
真夜中、ラスベガスのカジノという初めての場所でかなり気後れしている二十歳の私は、驚きと警戒で声を出すのがやっとだった。妖しげな彼の顔をまじまじと見つめたのだが見覚えがない。<いや、知らない>と答えると、彼は畳み掛けるように学校は何処、その前は!と必要に食い下がり、とうとう私の出身中学までさかのぼって聞く。しかしどうしても接点がないらしい、それでも彼は<いや、俺は絶対に君と以前、何処かで会っている>と言った。それからは彼の迫力に少し白けた雰囲気になり、私は今初めてアメリカの本土に来たことなどを告げて別れた。こんなインパクトのある体験をして、ホテルの中庭に出るともう朝の光がさしていた。
そして、その二ヵ月後に父と母の二人で同じラスベガスに行った。なんだかこんな話をするとギャンブル好きのどうしようもない一家のようだが、たまたま父がラスベガス・ツアー専門のゴルフ会員になり、当時ホテルにまとまったお金さえ預ければ格安な旅行の特典がついていたのだった。そして賭け事をしない両親はシーザース・パレスのダイアナ・ロスやMGMのショーなどを楽しんだ(余談だがダイアナを知らない母は握手やサインまで貰い、その感想は"すごく歌の旨い冷たい手の人だった")。そして当時一番大きかったラスベガス・ヒルトンのベニハナのレストランで食事をしていたのだが、目の前で日本人コックが繰り広げるリズミックなショーのような包丁裁きに感激し、拍手までして意気投合。いろいろな話で盛り上がり、コックさんの出身地に至るまで話が及んだらしい、すると東京の我家の隣町の小石川とのこと、名は矢野といい小学校は私と同じ金富小学校の一年上で、母も知っている小石川郵便局の隣のラ・ボーグ美容院の末っ子だった。帰ってくるなり母がその一部始終を面白おかしく私に話して聞かせた。その時、私はゾクっと身震いしながらラスベガスに着いた時に出会った白いジャケットの男の事を鮮明に思い出していた。
<その人は色が浅黒くて、小柄で髪にウエーブがかかっている目の大きな人じゃない?> と私が言うと母が目を丸くして真顔でその通りだという。事の顛末を父と母に聞かせると二人は確信を持って間違えなくその人がコックの矢野氏だという。それにしても、彼が中学校までさかのぼって聞いて小学校まであと一歩だったとは! 当時、子供が多く一学年が4クラスも5クラスもある時代、よくぞ彼は一つ年下の私の小学校時代の顔を覚えていたものだと感心するとともに、裏を返せば私の外見はその頃から全然変わっていないということになる。うれしくもあり、情けなくもありの心境だった。そしてその翌月に再び私はラスベガスに向かい意気揚々と彼を訪ねた。母から矢野氏への手紙をベニハナのボーイさんに預けて待つこと20分!彼は厨房から白い帽子をかぶり早撃ちのガンマンのように腰に包丁やハサミを差し、まるでスターのように颯爽と登場! 私を見つけて勝ち誇ったような彼の一言は、<やっぱり! 俺の思った通りだった。あ〜っ、すっきりした!>。 この後、この出来事はしばらく我家の語り草になった。
2007.11.11 (日)  出会いの不思議
日常の変わらぬ長い付き合いの中で、過去に偶然同じ場所にいたり、共通の友人を知っていたり、なんていう経験をした事はないだろうか、突然そんなことがあると、ついつい大げさに人生や運命の不思議なんかを感じたり論じてしまう。なぜか私はこの縁という言葉に弱い、人生縁なき人の結びつきはないと常々理解しつつも、奇遇や偶然に運命を感じてしまう。その典型的な話の一つとして先日、番組制作会社を経営していた佐藤氏から社長退任の知らせが届いた。若い人に今の事業を譲り、より音楽プロデュースの仕事に力を入れるとのこと。
思えば彼とは不思議な縁で結ばれている。それは私が16歳で季節はちょうど今頃だったと思う、当時、渋谷のリキスポーツ・パレスや大久保の三福会館などで、しきりにダンス・パーティーが行なわれていた頃、以前これに書いた中学時代からの友人M君こと森田君(本人が実名でOKとの事)がある時、普段500円前後が相場のパーテイー券の3倍の1500円というとてつもなく高い券を先輩から頼まれて持ってきた。四谷の"フランクス"という雪印本社の隣にあった本格ステーキ・ハウスが閉店し、その場所で行なわれたパーティーだった。なんでもここ"フランクス"は、あの石原裕次郎が常務をしていたとかで、最盛期には映画や芸能関係者でいつもにぎわっていたという。そのパーティーは子供(今の私からみて)のくせに全員がダークスーツで生バンド、演奏曲は「フライ・ミートウ・ザ・ムーン」などをボサノバのアレンジで決めている。当時の高校生がボサノバを生演奏である。今思えばずいぶん生意気なパーテイーだった。私は少し大きめの兄の一つボタンの黒のアメコンのスーツを借りてUチップの靴、金色のケーリー・グラントが好んだ無地のタイという全て借り物のいでたちで参加した。飲み物はどれにもアルコールが入っていた。コーラと思って飲んだものが全く違う杉の香りのようなハイカラな味がする。後で聞けばそれがジンコークとか、親の目を盗んで飲んだ酒とは全く違うもので、世の中にこんな洒落た飲み物があるのかと驚いたものだった。会場は噂どおり垢抜けた所で、大きなガラス戸の外は広いテラスになっていて、市ヶ谷から長い坂を上りきった道を隔てた向こう側には、四谷の黒い林が広がっていた。パーティーでは酔った男が丸テーブルをくるくると回し、並々と注がれたグラスの酒がその遠心力で四方に飛び散り、滑りやすくなった床で踊っていたお姉さん達が転んだりして、えらい騒ぎになっていた。
例によって前置きが長くなってしまったが、こんな想い出のパーティーで洒落たボサノバのギター演奏をしていたのが先の佐藤氏であった。ある時佐藤氏といつものように酒を飲んでいて若い頃の話になった。学生時代の想い出話をしているうちに二人が参加したこのパーティーに行き着いたというわけである。その時の二人はまさに大声を上げて興奮状態になったのはいうまでもない、その結びつきをたどるとパーティーを主催した私の高校の先輩(余談だがその先輩の萱沼氏は落第し、その後同級生になり私の真後ろの席に座ることになる)と佐藤氏が友人関係でバンド演奏を頼まれたとのこと、必然的に二人は結びついているのだが、知り合ってから何十年も経ってからそれに気付くことが妙な感動を呼び、奇遇や偶然を大いに喜んだという訳である。以来、新しい出会いがあると、ついその人と私との過去の結びつきや共通の知り合いはいないかと、無意識のうちに探している自分に気づくことがある。
2007.11.10 (土)  スポーツの規定に疑問符
先日の中華料理屋での盛り上がりは、究極のスポーツはなんだろうという話から始まった。最近の格闘技やいろんなものが出たが、最終的にそれは100メートル競走だという話になった。なぜならば東京オリンピックの予選、追い風で記録にならなかったボブ・ヘイズという大男が陸上競技場にいる私の目の前で出した9.9秒、アレから43年という月日が流れ、以来人類がどんなに頑張っても0コンマ3秒も縮められないでいる、あれこそ人間の限界を知る究極のスポーツなのだということになった。
それから話題は先の世界陸上にさかのぼり、女子マラソンの土佐の最後の粘に拍手!そのほか日本選手の頑張りにもかかわらず、大阪の今夏の暑さによる痙攣や故障、あの成績には一抹の寂しさを味わったのは私達だけだはではないだろう。暑さや湿気をものともしない世界レベルの強さは本物で、強者なるものこういうものだと改めて教えられた。それにしても興奮し喋り捲る、司会の織田の頭に氷を乗せて冷やしてやれるTBSのまともな従業員はいないのだろうか。
次の話題で一気に酒が進んでしまったのだが、皆さんは気付いただろうか、競技場のレーンが一つ使われなかったのを、いつもは8レーンで今回は9レーンあった。決勝はいつも8人で行なわれ、一番内側の1レーンは常に空だった。そういえばと思われるかもしれないが、なんのためにそんなことになったのか、それは足の長い外国人選手にとってコーナーのきつい1レーンは不利になる事でそうなったのだと、一緒に飲んでいた自称陸上競技評論家である大泉のN氏が言う。我々一般人にとって、いつの間にかルールが変わっていたという常がスポーツ競技の規定ではあるものの、これはせっかく日本選手が得意とするきついコーナーをなくするのは釈然としない。結果論だが、これがなければ日本男子のリレーはメダルに手が届いたかもしれない。車のF1でホンダがセナとプロストを擁して常勝した時もターボを規制し、スキー・ジャンプで日本選手が日の丸を挙げていた時も板の長さを変え、水泳の鈴木大地のバサロ泳法で勝利した時も、即、横槍が入りそれ以後いとも簡単に規定や基準を変えてしまう。近年、飛び込んだらすぐ終る50メートルなど、闇雲に増えてきた水泳競技の種目も気になるのだが(その昔、アメリカのマーク・スピッツ選手が金メダルを7つも首からぶら下げていた。こんな馬鹿げた競技は他にない)、最近では国技の柔道までも一本勝ちの後に技をかけるような卑劣な行為がまかり通る時代だ。それぞれの委員の上層部の外人特有のポーズをとりながらまくし立てる建て前はいいから、誰が何時なんの為に規定を変えるのかその本音の本音を知りたいものである。
今回も世界陸上とは名ばかりで、アメリカはその明白な奴隷制度の歴史でわかるのだが、フランス、イギリスをはじめとするヨーロッパ人は白人ではなかったのだろうかという単純な疑問である。何しろ短・中・長距離を走っているヨーロッパ各国の選手はほとんどアフリカ系ヨーロッパ人であった。これは極端な例えになるが、古代のコロッセオと呼ばれる闘技場で自分達の家紋や地域の旗を体に付けさせ、異国からつれてきた奴隷や敗残兵たちを走らせたり戦わせたりして、それを見て市民や貴族たちが熱狂していたローマ時代の再現のような趣である。真ん中で物を投げたり、飛んだり跳ねたりしている白人やごく一部の黄色人種を省いて、その周りを走っているのは元・現アフリカ人がほとんどで、しかも競技の上位を独占する。ことトラック競技において黒人選手の運動会状態になっている。もちろん他国のその背景には移民を容易に受け入れ、それぞれの国政や制度の違いを理解しての話なのだが、やはり単純に見て変な光景である。この小さな飲み会の最後に、悲惨な紛争を抱え、乏しい経済力や多くの諸問題に悩むアフリカの国々に思いを馳せ、そんなアフリカ大陸で一度もやったことのないオリンピックや世界陸上を開催し、頑張っている多くの黒人選手たちの故郷にいつの日か錦を飾らせたいという想いと共に、大国や先進国の意識高揚の為だけにあり、今、馬脚を現しつつあるスポーツ競技の規定を広く公平なものにする願いが酩酊する二人の結論となった。そしていつものシメの台湾ラーメンが目の前に運ばれたのだった。
2007.09.09 (日)  天女と屋台の羊肉
そもそもの事の始まりは中国の旅からである。以前、北京から西安に向かう時に中国・国内線の西安航空に乗ったときの事、女性の客室乗務員の魅力に驚いたことがある。私たちが良く知るハーフの人の美しさではない、初めて見る美しさなのである。髪はブロンドに近く、目の色は透き通る様な明るい緑色にクリーム色の肌、顔立ちは中高の東洋系。これまで若い時からの仕事に縁あって幾多の美人は見てきたつもりだったが、このような美形は初めてだった。彼女には同じ東洋の血が流れてはいるのだろうが、アングロサクソン系よりも遠い人種に思えた。何代にも渡って血が混ざって偶発的に美を形成した時、孤高でエキゾチックな魅力を創るときがある。彼女はまさにその典型的な人だった。中国は広く西域へ行けば金髪やアラブ系やトルコ系まで、幾多の人種がいるとわかっていたのだが、そのたった一人の空で出会った女性に広大な中国をうかがい知ることになった。
今日の話題は、この旅のときに数百メートルにも及んで屋台が集まっている中の一軒で食べた羊肉のことである。何処までも店が続くその見事な情景は、今まで目にしたことがなかったが、なぜか郷愁を誘うものだった。細長い鉄の串にくるくると巻きつけた羊肉を路上に置かれた幾つもの木箱の中の香辛料を降りかけて食べる。地元の客はどうやって、膨大な数の同じような店の中から一つの店を選んでいるのか考えてみた。それぞれの店の親父が降りかける香辛料の微妙な味の違いや肉の焼き方で、客は店を選んでいるらしい。それまで私にとってマトンといえばジンギスカンで、札幌をはじめ地方の高原で何度も挑戦したけれど、その日はいいのだが次の日まで鼻の奥に残る匂いが苦手だった。それがここでは本当に美味しく食べられ、いつかまた食べてみたいと本気で思っていた。
その串焼き羊肉に日本の大久保で再会することが出来た。総武線・大久保駅と山の手線・新大久保駅の間にある千里香という店、中国では羊だけだったがさすが日本が世界に誇るオリエンタル・タウンの大久保、羊はもちろん牛や豚のモツからカルビなどあらゆる肉を串に刺して目の前の炭火で焼いて食べる。しかも皿に入った三種類の香辛料を指でつまんで振りかけて焼き、自分流の味を作ることが楽しい。近年、どんなに美味しい焼肉でも少しマンネリ化していたところ、この再会の味は新しいお気に入りを作ってくれた。
世界中で少し名の通った料理の味はここ日本で簡単に楽しめるようになった。しかしローカルの個性の強い料理は、まだまだそこでしか日の目を見ていないようだ。いつか覚えた五感の感動を頼りに、その想い出の味をこの日本で気長に探し出す事は私の楽しみの一つになっている。何年かかるかわからないがまだ探している料理が3つある。見つけ次第ここでご紹介させていただこうと思う。
大陸の2月の凍える寒空の下、煙に包まれながら食べたあの羊肉、空で出会った異国情緒あふれるマドンナまで、懐かしい旅が蘇る大久保の夜だった。
2007.09.07 (金)  昼下がりの窓
9月4日、もう今年も余す所あと4ヶ月になってしまった。業者の手数料があまりに高く、ここにきて久々に肉体労働をした。アパートの手すりのペンキ塗りや壁の補修、蛍光灯の取替え、水道の蛇口の交換、果ては便器の蓋の取替えなどを汗にまみれてやっていて時間を忘れた昼下がり、遅い昼食のミックスサンドを練馬区の桜台の喫茶店で窓の外を見ながら摘んでいた。ちょうど目の前の大きなタイル張りのマンションのような一軒家は、4年前に亡くなった中学時代からの友人の大内君の家である。亡くなる5時間ほど前に、彼と会っていて取り留めのない四方山話に花が咲いた。8月の終わりで今度会うのは9月に入ってからだなと言って別れた。その夜、家で食事をしている時に大内君が今しがた息を引き取ったとの突然の訃報の電話が掛かってきた。さっきまで私と元気に冗談を飛ばしていた男である。湯島の同じ中学時代の共通の友人の金子君が経営している料理屋で倒れ、脳溢血でそのまま逝ってしまった。あの時の驚きは筆舌に尽くしがたく、またあの時ほど人生のはかなさを痛切に感じた事はなかった。
私と大内君は中学時代から大の洋楽ポップスが好きで、あの頃何曲も彼のコレクションのシングル・レコードを、少しでも貯まるとそれぞれの曲を彼がD.Jになりきって電話で聞かせてくれた。二人で当時の青春映画、「パームスプリングスの週末」や「アイドルを探せ」、「ポップ・ギア」などを見に行ったのも懐かしい想い出だ。大人になってからは映画ではなく、もっぱら浅草や上野、地元の池袋のフィリピン・パブへ行くのが専門になってしまった。彼の一家は池袋東口を出て目の前の、今の芸術劇場横の八階建てのビジネス・ホテルを経営していた。
蒸し暑さがぶり返してきた日、そんな彼の家の横を見上げると、電柱に風もなくだらりと垂れた桜台商店街の旗に何処か見覚えのある絵が描かれている。上に小さく練馬区独立60周年と書かれ、下には大きく白蛇伝と書かれている。小学校の講堂に集まって皆で見たアニメの映画である。こんな時の私は電気が消えて暗くなると、何かいたずらをしなければ気がすまない性質で、なるべく後方に座り準備宜しくポケットに詰めた小さな砂利石を、普段何かといえばすぐ先生に言いつけるヤツの頭めがけて投げた。しかも最高潮に盛り上がって全員が映画に集中している時じゃないとバレルので、まともに映画を見ている余裕はほとんどなかった。そんな私でもこの白蛇伝だけはちがった。アニメといえばディズニー映画全盛の時代だった。日本映画でこんなきれいなアニメは今まで見たことがなかった。話は中国の説話がもとで、白蛇が幼い頃、可愛がってくれた若者のところへ若い女に変身して表れて二人は恋に落ちる。白蛇なるがゆえ妖怪とみなされ二人は苦難の道を歩むという筋書き。二人と仲良しのレッサー・パンダやジャイアント・パンダなどの中国特有の動物たちが実にいい、街の愚連隊である大きな豚とパンダの喧嘩のシーンなどは今の子供たちにも大いに受けるに違いない。この映画は海外でも3、国内では7つもの賞を獲得している。現在の日本が世界に誇るアニメ映画のきっかけになった代表作と言えるものだ。 声優陣も森繁久弥、宮城まり子、その頃新人の佐久間良子など豪華で、当時の東映としては並々ならぬ力の入れ具合が窺えた。
さて、サンドイッチの皿もアイス・コーヒーも空になった。窓の外の大内君の母上がご存命の家に軽く会釈し、風が吹いて揺れ始めた白蛇伝の旗に笑いかけてから、まだまだ暑い桜台の町の空気を吸いに外に出ることにした。
2007.09.01 (土)  夏の終わりのハーモニー
もう彼女が我が家に来て8年になる。ピノという名の8歳のボストン・テリアで、本で探しブリーダーから買った犬のことである。40年ほど前になるだろうか、父が揃えた百科事典のエンサイクロペディアに載っていた犬種で、その写真に一目惚れしてどうしても一度は飼って見たい犬だった。長女が幼いときからほとんど毎日のように犬を飼いたいと言い続け、それに根負けしてのことだったのだが、犬は人間より短命で本当に悲しい別れを経験するといっても、実体験をしていない子供にはわかるすべもなく、一大決心をしてのことだった。そう言う私は子供の時から何代にも渡りずっと犬を飼いつづけた家庭に育った為、その後ろめたさもあったのかもしれない。どうせ飼うなら私の望みの一つもかなえても良いだろうとの犬種選びだった。その昔、川端康成が飼っていて、彼の禽獣という小説にも出てくる。目は大きめで耳が立ち、短毛の黒と白で鼻が短く、散歩しているとよくフレンチ・ブルドッグに間違えられるが、それよりも以前飼ったことのあるボクサー種により近く、それを3廻りほど小さくしたようなものだ。シェパードやアフガン・ハウンドという鼻の長い犬とも生活したが、一度でもこの鼻ペチャを経験するとそれに見事にハマルのである。快活で遊び好きでボールを渡したら最後、何処までも遊びをせがむ。
良く世間では犬派か猫派かと問われるが、私は絶対に犬派だと思う。猫派の方には私とは何かが違う雰囲気がある。この人は猫が好きそうだなと思うと大体その勘はあたる。良く犬は人につき猫は家につくという、その言葉どおり猫は犬ほど人に媚びない、プライドが高くのびのびした所が良いと猫派の人から聞かされるのだが、私としては帰ってくると本当に喜びを体一杯に表現する犬が可愛くてたまらない。犬の飼い方には大きく分けて二通りあって、室内で飼う犬と外で飼う犬に分かれる。もちろん大きな庭で思いっきり自由に走らせたいところだが、我家には残念ながらそんな庭はない、必然的に家の中で人間と犬が入り混じっての生活になる。すると面白いことに犬が人の話や言葉を多少なりとも理解するようになる。私の単なる思い込みかもしれないが、一生懸命左右に顔を傾けて今なにを言っているのか聴くようになる。自分のこれから置かれる状況や人の心を把握しようとしているように思える。家族内でよくやるいつもの喧嘩でも、起こるといつの間にか忍者のようにどこかに消えている。同じようにお風呂とかシャンプーとか嫌いな言葉を聴くと何処かへ消えようと試みる。もちろん、好きな言葉を聴くと一瞬にして耳を立て目が輝きだす。禁句のボールや散歩などを口にしてしまうことがあり、それを聴いたらたちまち興奮する。以外なのは、どの犬も苦手な獣医さんだが、その名前を聞くと生き生きとしてくる。よほど獣医さんと馬か犬?が合うらしい、午前の医者めぐりが大好きなどこかの国のおばあさんの様である。
何はともあれ、最初に子供たちと飼う時に固い約束をした朝と夜の2回の散歩は見事に裏切られ、いつの間にか私の担当となった。しかも夜は私のベッドでしか寝ないようになってしまった。そして先週の午後、麻婆豆腐が旨い練馬の楼蘭という店で妻が言うには、私と犬のピノが絶妙のハーモニーで毎夜いびきの共演をしているという。それはまさに井上陽水と玉置浩二で、交互に旨く歌っていると思うと、どちらかが遅れ気味になったり追いついたり、私の艶やかな声の陽水風のイビキより、陰影を含んでハスキーな玉置浩二役のピノのイビキがいきなりソロになったり(それは単に私が時々なる無呼吸症候群になっている時のことなのだが)、2人?が目一杯盛り上がって大いにハモるサビの所は、思わず暑いのにタオルケットを被り、おまけに耳を塞ぐらしい。ご苦労なことである。今時、曲名は"夏の終わりのハーモニー"だそうだ。もちろん歌っている私達にとっては寝耳に水の話なのだが、そろそろ涼しくなるので、曲目もラ・メールか枯葉に変えて欲しいと突然のリクエスト。了解とは言ったものの、これからも続くだろう野放図なイビキ・レイト・ショーに向けて、犬と私の厳しいレッスン?が夢の中で始まる。
2007.08.31 (金)  伊豆の旅
以前ある出版社の方から聞いた話で、目の前の海を180度見渡しながら入る露天風呂があり、その雄大さに感激したといっていたのを思い出し、先日、子供たちの夏休みも終盤に差し掛かり、この夏の想い出にと北川温泉にいってきた。今まで北川は下田や南伊豆に行くときに左側に数件並んだホテル群を見ながら通り過ぎるだけだった。
なるほど、国道135号を背に海の際に作られた野趣溢れる風呂で、遠く180度の丸い水平線を見ながら湯に浸かる。町営で近辺のホテル客は只だが、通りすがりの一般の客も金600円を支払えば入浴可能だ。少しのぼせたら、岩場を20メートルほど渡ってすぐそばの海で体を冷やしてまた入ればいい、考え事をするのにもお勧めである。事実上混浴なのだが、女性はバスタオルを巻いて入れる。しかし老若の男ばかりなので、かなりの決意がいる。夜の7時〜9時は女性専用になるそうだが、その時間帯では雄大な水平線などは暗くて見られない。女性なら出来れば私達家族が泊まったホテル望水で、大浴場でなく約一時間の貸しきり露天風呂をお勧めする。しかも朝の食事前、入館してから予約が必要だが、晴れていたらかなり東洋的なリッチな気分を味わえる。この望水は、玄関から入った所がこの建物で一番高い8階の海一望のロビーになっている。夜と朝の海の幸が盛りだくさんな豪華な食事といい、風呂好きで食道楽の人にはかなりの満足のいく宿だろう。昨年の5月にはその先の下田の蓮台寺温泉の清流荘に行ったのだが、こちらはフェニックスが茂る一年中入れる温泉プールと昔日の趣がある建物、廊下にある休憩所やバーに見られる昭和や大正の時代に西洋様式を旨く取り入れた、和の格調が売りの旅館である。カーター前大統領が立ち寄ったことでも知られているようだ。
この伊豆の旅に欠かすことの出来ない私のお勧めの海岸をご紹介する。清流荘の雰囲気満点のバーを任されているサーファーの上野氏が教えてくれた場所で、白砂で綺麗な青い海が広がる入田浜という日本にいながら海外気分を味わえる浜だ。ここは伊豆の海が好きな方なら良くご存知だと思うが、ちょうどハワイ・オアフ島の北東にあるカイルアのビーチをかなり小さくしたような所だ。このカイルアまで来ると観光客もほとんどいない。地元の人が多く本当のハワイの美しいビーチを堪能できる。入田浜はそんな隠れ処の雰囲気もあり、国道からこの浜に出るのでも小さな看板と狭い道を見落としてしまいそうになる。夏も過ぎこれから秋が深まる時期、良く晴れた日に海風に吹かれてのんびり冷たい飲み物と好物を入れた弁当でも持っていけば最高の気分を味わえるだろう。
ちょっと古めのラジカセにP・P・Mの"風に吹かれて"なんかを吹き込んで持ってゆくといいかもしれない。ギターを持っていって歌うのはもっといいかもしれない。このほか多々戸浜、白浜大浜などがある。ぜひ、伊豆に行ったら下田まで足を伸ばしてこの浜へ行かれるようお勧めする。今回ご紹介した二つの宿、一般の宿からすれば多少高めの料金設定だが、伊豆の中ではかなり満足感を味わえる宿としてご推薦させていただく。当然ながら旅の回数も多ければそれに越したことはあるまい、ある晴れた日にふらっと風に任せて旅するのも捨てがたいが、年々感激度が薄まる年になってきた私事で申し訳ないのだが、いい旅をするのにはそれなりに信頼の情報を得、金額なら感動の少ない旅に2回行くのを一回にして、本当に充実した心に残る時間を持つ事も大切に思えるようになってきた。雑感のひとりごととして参考にしていただければ幸いである。
 
2007.08.13 (月)  落葉松
軽井沢回顧録。北原白秋の落葉松という詩がある、初めて触れたのは青春時代真只中の夏の終わりの頃、私たちの個人的な文集の巻頭に使われていたものだった。その詩に映し出された風景にある種の愛惜の念を感じ、自分の胸にその絵を刻み込んだままずっと今に至っている。ご存知のとおり白秋は歌の世界でも名曲の作詞を手がけ多くの人に知られている。この道、砂山、からたちの花、城ヶ島の雨、そのほか学校の校歌など多くの作品を残している。この落葉松は彼が3度目の結婚をした大正10年、信州にいるときに作られた。全部で八章からなる大作のこの詩は、延々と落葉松の林を行くもので、その道すがら心の描写を語っている。それはまさに人生そのものであり、作者はもとより読む者のそれぞれに生きてきた道程を切々と振り返らせる。落葉松の道は日々の経過をたどるがごとく続く。落葉松にかかる雨、吹きぬける風に出来事を投影させる。八章の中のたった一箇所に浅間山の煙で此処が何処であるかを知らしめている。同時に人生の晴れやかな時を映し出している。先程触れた私の心の中の絵は、道が続く深遠たる落葉松の林から望む浅間山である。起承転結に完璧を見せる名詩は最終章に当たる部分で、人生への達観、そして触れ合ったものへの慈しみと優しさを詠い完結にいたっている。ここではほんのさわりの三章をご紹介させていただく。

    からまつの林を過ぎて
    からまつを見き
    からまつはさびしかりけり
    たびゆくはさびしかりけり

    からまつの林を出でて
    からまつの林に入りぬ
    からまつの林に入リて
    また細く道はつづけリ

    からまつの林の奥も
    わが通る道はありけり
    霧雨のかかる道なり
    山風のかよふ道なり

2007.07.19 (木)  アヴェ・ヴェルム・コルプス
7月初旬の夜、いつものように酒を飲んでぼうっとしてTVを見ていると、どこかで見たような家が出てきた。最初は良くあるデジャヴかなと思っていると違うのである。どうしても見覚えがあり、そればかりか中に入ったことがある家なのだ。そのうちに主人らしき人物がその家のことを詳細に説明し始めた。中央に据えられた暖炉や広々と弧を描くように並んだ窓、カメラがそれらを写してゆくと私にある歌が浮かんできた。
アヴェ・ヴェルム・コルプス。この家でこの暖炉を囲んでみんなで歌った曲だった。私がまだ十代の頃で、当時から大変有名な建築家のレーモンド氏の別荘にお邪魔したときのこと、TV(番組名はNHKのプレミアム10)に映っているのはまさにその家である。もちろんレーモンド氏ご自身で設計されたというそれは、窓から見える森を360度のパノラマに見渡せ、燦燦と光が入る12角形をした大きなリビング、ちょうど真ん中に円錐形の暖炉があった。当時建築には何の興味もなかった私がその独創的な斬新さに驚き感動した。氏はチェコに生まれたアメリカ人で恰幅のいい白髪の老人だった。ご招待いただいたお礼に私たちが覚えたての讃美歌アヴェ・ヴェルム・コルプスを歌ったのだった。氏はアメリカで亡くなり、現在は師弟の方がその家を受け継いでいるとの事。
今は閉めてしまった軽井沢ユース・ホステルを借り切り、毎年夏の5日間だけ行われた軽井沢ミュージック・キャンプ。母体は青少年音楽協会といい、その一環として私の人生の師でもある(故)山本徳源氏が中心となって、音楽を通して健全なる青少年の育成を目的に始められたキャンプである。なぜ、不良の私がこのアカデミックなキャンプに参加したのかは、長くなるので省略させていただく。基本は音楽が中心のキャンプで、期間中にはさまざまなレクリエーションがあり、その中の一つに旧軽の町からレイク・ニュータウンまでのサイクリングがあった。途中にレーモンド氏のこの別荘があり、山本氏のお知り合いということでキャンプに参加している私達もご招待にあずかったのだった。キャンプ中には音大の弦楽四重奏の方々も来ていたが、サイクリングの途中とあってこの時ばかりはアカペラになった。
まだ旧軽の町も近年のようにやたらと店や人も多くなく、真夏でも何処かのんびりとしていて、かなり洗練度も高かった時代のことである。目白にあるこの時代洒落たスナックの一角を担っていた"水野"や、その後、何年か遅れて六本木のカレー屋の"デリー"が旧軽の町に出店してきた時代だった。今は何処のスーパーでも手に入る此処のカシミール・カレーは当時から半端な辛さではなかった。帽子の似合う上品な老婦人を乗せたロールス・ロイスのシルヴァー・クラウドが歩むように進み、裏道を少し行けば、日が高い昼間でも、真夏の林の中はしんと静まり返り、その温度は2度ほど下がる。大きな木から四方に散らばりながら落ちてゆく木漏れ日は、薄暗い小道を生き生きと照らし、その遥か上で吹く風は、幾千もの葉影を長く続く轍の上で踊らせた。今思えば俗化の波がやってくる以前の古き良き時代、その面影を残す最後の軽井沢だったのかもしれない。
TVを見ながらふと、私の人生の中で不釣合いなものがあったとすればこの賛美歌のアヴェ・ヴェルム・コルプスだろうと思った。賛美歌というものが今までの私の人生観や信条に一度たりとも交わる所がなく、子供の時から神社やお寺で手をあわせるようなことも、こそばゆく苦手だった。まして西洋の宗教歌ときてはなおさらである。自他共に認める不似合いの最たる取り合わせだったのだと思う。その不似合い極まりないものが、どうしてこのようにはっきりと記憶の中に生きているのだろう。あまりに違うものへの思い、それは自分にないものを持つ人に惹かれたり、別の社会に少しだけ足を踏み入れたりすることにいくばくかの満足感を得る、そんな人の真理が働いているのかもしない。緩んだ目じりに刺激が走る、久々に懐かしい場面や人達を思い起こさせてくれる番組だった。
2007.06.28 (木)  あの夏の日を拾いに
6月の日曜日の朝、5時に起きて砧公園に向かう、早朝の環七はガラガラで約束の時間より20分も早く着いてしまったのだが、M君の二人乗りのオープンのメルセデスが、朝日にシルバーの車体を光らせて私を待っていた。今日はオープンの彼の車で行くことが決まっていた。私が乗ってきた車を駐車場に入れてから彼の車で出発した。彼はなんと4時に起きてしまい早々とスタンバイしていたようだ。6月とはいえ梅雨の狭間の快晴、完全なオープンにして走るには朝の6時は肌寒い、あの頃の中学時代の思い出をたどる旅は多少の若さと行動力、やせ我慢も必要だ。何せ中学一年の臨海学校で写っている昔の私達2人がそれから何十年も経った今、同じ場所、同じ格好で写真を撮ろうというノー天気な企画である。こういうのには私もノリが悪い方ではないのだが、私の知る限りM君も子供のときからノリのいい方で、それが今日までずっと続いている人である。
彼とは高校時代の志賀高原のスキー以来の個人旅行となるはずだ。東館山から滑った誰もいない林間コースは本当にいい思い出になっている。良く晴れた日、聞こえるのはスキーのエッジが雪と擦れる音と自分たちの吐く息の音だけ、転んで雪の中で仰向けになると、見えるのは何処までも澄み渡った青い空と顔が半分埋もれた白銀の世界、後は何も音がしない。東京でもほんの時たま降る雪で街が静かになる、しかしあれだけ無音というのは異次元の世界になる。そこでは白い尾根や木々に降り注ぐ光にさえかすかな息使いを感じるような不思議な感覚を体験した。
そして今、流れる景色や昔話を楽しみながら東名を100キロ弱で真ん中の車線をゆっくり流している。右の追い越し車線からは当然なのだが、右側が開いているのにわざわざ左から抜きに来るけしからん輩もいる、人生はいろいろである。車は沼津インターで下り、県道の17号を目指す。ベージュ系の明るい配色の淡島ホテルを右の海に見て、三津シーパラダイスを通り越し、いよいよ海岸線のローカルな道になってくる。早起きは三文の徳、日曜日の朝なのに車は何処までも空いた道をスムーズに走り、8時には目的の大瀬崎に到着した。東側の眼下に懐かしい岬が見えてくるとやはり胸が高鳴った。あそこで少年時代の夏を4度も過ごしたと思うと感慨もひとしおだ。車を停めてからお世話になった木造の古い宿だった大瀬館を訪ねてみた。そこはすっかり近代的になり、湘南に良く似合いそうなプチホテルの雰囲気が漂っていた。毎朝、赤フンドシで準備体操した浜はスキューバ・ダイビング用の沢山のボンベやメガネなどが置かれていて昔の面影はない。今ここは日本でも有数のダイビングのメッカになったらしく、これから大勢やって来るであろう、ダイバー客の為の準備に追われている人々がいた。
いよいよカメラを持って想い出の場所である岬に向かう。お化け大会でけっこう怖い思いをした大瀬神社の参道らしき細い道を抜けていくと、丸い大きな石が幾重にも転がっている写真のあの場所に出た。感動の瞬間である。きれいな透き通った水、打ち寄せる波は以前にもまして優しい、ここだけは昔のまま何一つ変わっていない。あえて変わった所を上げると、遠くに霞んで見える沼津方面の建物が多くなった事と、当時7月の終わりの臨海学校で富士は夏富士で、全体が淡い青緑だった、今はその頂に多少の雪が残っているぐらいの違いである。早速、昔の写真を見ながらその場所を探す。私が座ってM君が富士をはさんで立っている場所、なんとなく此処だろうと二人の話がついたのだが、まだ早朝とあって誰もカメラのシャッターを押してくれる人がいない。遠くで何か獲物を探しているダイバーがいるだけだ。ちょうどいい岩の上に適当なカメラ位置を決めて、自動シャッターに切り替え撮影を開始した。シャッターを押して3メートル先まで小走りでポーズをとる、やがてフラッシュが光る瞬間まで何秒間あったのだろうか。その時、あの頃と同じ懐かしい匂いの風が吹いた。
あれから幾十もの夏が過ぎ、そしてその思い出と数え切れないほどの熱い思いを募らせた。いずれそのすべての事柄はここに広がる青い海と大きな空の中に無常という名をつけて消えてゆく。私の心の中にそんな囁きを言い残し、その風は岬から海へと吹き抜けていった。
2007.06.27 (水)  旅を2度楽しむ
車の世界3大レースといえばインデイー500、ルマン24時間、そしてF1モナコ・グランプリとなる。先月の27日夜中にTVでモナコ・グランプリを見た。ご存知の通り世界中の金持ちが集まる場所だ。この世界で2番目に小さな国の人口は普段32、000人を数えるそうだが、このときばかりはその約10倍近くの人口になるらしい。まさに一年に一度の国を挙げての大イベントなのだ。ここで優勝することはドライバーにとって大変な名誉となる。それは車の性能よりもドライバーの技術が優先される難コースで、細く幾つものきついコーナーがあり、前を走る車を抜くのにも細心の注意と最高の技術を必要とするからだ。各コーナーにはその場所にちなんだ名前がついており、最も有名なのはローズ・コーナーでモナコのヘアピン・カーブとして世界で一番知られているカーブである。このヘアピン・カーブを真正面で見られるホテルがホテル・ローズ・モンテカルロでその名前がついた。今はモンテカルロ・グランド・ホテルに経営が変わってコーナーの名前もグランド・コーナーとなった。このレースが行なわれる時期にこのホテルを予約するのは至難の業で何年も前から特別予約がされているという、世界で最も難しいといわれるコーナーを、今最高の技術を持つ選び抜かれたドライバーが、企業の頭脳を結集させた世界一早い車で走る。それを目前に見るのだから当然その価値は上がるのだろう。私が一昨年の2月にここのグランド・コーナーに行ったときの事。 ニースからの半日のツァーで、ここによらないで食事もせずに帰るという。せっかくモナコに来たのにここを見ないで帰っては一生悔やむと思って残ることにした。
ツァーのバスに別れを告げてから、友人のN氏とKご夫妻の4人でこのコーナーに感激に浸りながら30分もいただろう。かつてセナやプロスト、今シューマッハ(昨年引退)たちが走り抜けたコーナーはのどかな午後の地中海の光に包まれて、モナコ湾の真っ青な海がグランド・ホテルの東に広がっていた。そこから下ると、このレースでは最もスピードが出るというトンネルの入り口があり、そのすぐそばの海辺のレストラン、ゼブラ・スクエア(K奥様が本で調べたご推薦のレストラン)で4人で昼食を楽しんだ。私はオリーブオイルで炒めた三種の魚を、それぞれ違う香菜を乗せたものとビールとロゼ・ワインを頼んだ。ランチョンマットをはじめ、すべての物がゼブラのシマウマ模様が施され、大きな窓の外は文字通りのコートダジュールの景色、美味しい料理と楽しい会話で忘れられない昼食になった。その後、Kご夫妻とお別れして赴いたグラン・カジノの前では、偶然モンテカルロ・ラリーのクラシック・フェスティバルが開催されていた。地元の老夫婦が乗っていた1950年代に制作されたプジョー203に乗せて頂いたり、グラン・カジノ横のカフェ・ド・パリでソーダを飲んだり、快晴のモナコを楽しんだ。広場の上のバークレイ銀行前の停留所から約4ユーロの長距離路線バスで帰路に着いた。左に地中海、右に大きな岩が居座っている急な山肌があり、その西側には幾重にも折り重なるように道路が見えている。グレース・ケリーが交通事故で亡くなった所もその山の中腹の道だったという、今グレース王妃の墓はモナコ大聖堂の中にある。そんな海岸線を一時間ほど揺られながらニースに戻った。
あれから2年4ヶ月、先週、山梨の甲府でKご夫妻と再会を果たした。旅で知り合った人と口では又お会いしましょう等と言って別れるが実現した為しがない、海外旅行等での再会は始めての経験である。たまたま私のメール・アドレスが変わったので御連絡した所、話がとんとん拍子に運びこの再会となった。荻窪で友人のN氏を乗せて、中央高速の勝沼でお二人と再会、そこから河口湖方面に約50分走った。良くある田舎の一軒家がそのまま商売をしているというすべてがセルフのうどん店、のれんも出ていない普通の家に靴を脱いで上がる。モナコ以来の4人の昼食会の味は地元で知られている<吉田のうどん>という手打ちで素朴なものだった。光降り注ぐ地中海ではなく、そこのお店の人の家族写真が飾られた壁を見ながら、素うどんとは別にゆでたキャベツを入れて食べるという本当にシンプルなのだが、この家(店?)の雰囲気が実に新鮮だ。その歯ごたえ、いい塩梅の汁の味、しばらくすると又食べてみたくなるような魅力あるものだった。今時300円という値段にも驚かされた。ちなみにモナコでご夫婦が頼んだミネラル・ウォーターの値段は1800円だったそうだ。石和温泉に到着して、あの時のアルバムやビデオなどを持ち寄って思い出話に花が咲いた。お二人が予約してくださった"ホテルやまなみ"は、部屋よし、風呂よし、料理よしの三拍子揃った大満足の宿だった。旅は不思議なものだ、いつもと違う自分になっている事に気づく時がある。大胆になっていたり、ある時は素直で感動的になっていたりで普段の生活から開放される時こそ、本来の素の自分が顔を出すように思える。会社では上下関係やライバル関係、たとえ学校でも仲間意識という友人のしがらみはある。それに引き換え旅の友は何の利害関係もない、お互いに素のままの自分が選ぶ、素のままの友とも言えるのだろう。写真やビデオを見て想い出をたどる時の皆の笑顔、持って行った南仏のアルバムが又、厚みと温もりを増したようだ。
2007.06.14 (木)  夏の想い出・大瀬崎
最近TV取材などで知られている戸越銀座という日本でも有数の長い商店街が品川にある。ブラック・ミュージックの評論家として著名なS氏が、いつも行っていた自由が丘からここに飲み会を移すことになったので2度ほど訪ねてみた。何処へ言っても大きなスーパーが幅を利かせる今の世で、ここだけは個々の商店がそれぞれの個性を出して頑張っている。なんでも日本で一番初めに何々銀座と名乗った所だそうで、大正時代に銀座のレンガを貰い受けたのが名前の所以になったとか、規模が大きく第二京浜をまたいで1,6キロにも及ぶ長さだ。
S氏の仕事場もあり、中学時代からの友人のM君もここに住んでいる。あの頃学校中で絶世の美女と謳われた彼の母にヒルマンという車で羽田空港まで送ってもらい、初めてモノレールに乗せて貰ったのを覚えている。家は全部フローリングになっていて土足でそのまま上がり、玄関の木箱に入ったコーラは飲み放題、アメリカのTVドラマがそのまま日本に来たようなカルチャー・ショックを受けた。現在、彼は戸越銀座で歯科医を営んでいる。そんな時代にもここ戸越銀座は通ってはいるものの、今、改めてその大きさに驚いている。飲み会の前にせっかくなのでM君のところへ顔を出すのだが、先日アルバムを整理していたら偶然にも彼と2人で写っている中学時代の臨海学校の写真が出てきたので、ここに遠い日の夏の想い出を一つご紹介させて頂く、場所は大瀬崎といって沼津港から船で30分ほど渡ったところである。ちょうど西伊豆の上に当たる所で松林の岬の先に富士山を望むという素晴らしい景色が眺められた。
景色は良いのだが我々にとって大きな問題が一つあった。それは学校の伝統の水着、真っ赤な6尺フンドシをつけなければならない事であった。どんなに勉強が出来ても、どんなに不良でもお尻丸出しの赤フンである。最悪なのが水に入る前の準備体操の時である。 いつも私たちが体操を始めると、いつの間にか年上の若い女性達が笑いながら回りをぐるりと取り囲んでいる。どの友人も普段日に焼いたことのない真っ白な尻がほんのり桃色に焼けていて艶かしい、何故かそこだけを見られているようで13〜4歳の少年には酷な場面だった。観客?が多い為、腰にタオルを巻いたヤツが、若くてバリバリの体育教師のT先生に、思いっきりお尻を蹴られたのでそれも出来ない。まるで少年ストリッパーである。 友人の真面目で正義感のあるO君は、眼前に広がる青い海を見つめながら"悲劇だな"と一言ったきり涙ぐんだのだった。中学時代いつも夏が来ると悲しくなるのはこの為だった。ここに高校1年までの4年間通った。最後の年は我々の生徒会長が立候補の時に、赤フン廃止を公約に入れたので、生徒の全員が彼に投票して学校創設以来の長かった赤フンの時代に幕が降りた。今でも6尺フンドシなら30秒以内にきっちりと締めることが出来るのだが、多分それがどうした?と言われるので誰にも言わないことにしている。
戸越のM君は大変お洒落な子だった。本当の銀座が大好きで、みゆき通りで当時人気のジュリアン(正式な店名は「赤と黒」の主人公のまんまの"ジュリアン・ソレル"と言った)という喫茶店が好きだった。その店に入り、2Fへ上がる隙間だらけの螺旋階段を女性が登って行くと、いつも話が中断するのだった。しかしこの臨海学校の大瀬ではオシャレもクソもない、只の赤フン・桃尻少年である。
そんな想い出多き臨海学校の写真は彼と写っているこの一枚しかない。再びあの大瀬崎に行って見ようと思う。大瀬崎の突端に近い所での写真、彼が立って私が座って2人の真ん中に遠く富士山が見えている。彼はともかく私の変わりようはすさまじく、多分この頃の体重は今のおよそ半分位だろう。年月と酒が華奢な私の顔も体も2倍に膨れさせてしまった。ぜひ二人であの場所に立って同じ様な写真を撮りたいと思う。上半身裸で下は白のトレパンで、3年間途絶えてしまったクラス会の案内状に2人の使用前、使用後のような新旧2枚の写真を載せたなら、旧友達に絶対にウケルこと間違いないだろう。そして、見出しの文句は、<集まれ!大瀬の桃尻少年達よ!>で決まりだ。
大人と子供の狭間の中で純な男心が揺れ動く、可笑しいような、悲しいような夏の想い出である。
2007.06.09 (土)  町の有名人
私がまだ幼い頃、隣町にみんなに親しまれた知的障害の青年がいた。彼のあだ名は鞍馬天狗といった。なぜそのあだ名がついたのかは知らずに、小さな私が彼を呼ぶときにはいつも鞍馬天狗と呼びつけにしていた。身の丈は私の二倍近くあったのに彼が優しくて怒らないのをいい事に、悪ガキの私がずいぶん生意気なことも言った。今になっても反省しきりである。彼は必ず何かの町のイベントの時に登場して来ては仕切るのである。
いつも風のように現れては、そこの交通整理や責任者にパッと早代わりする。祭りや盆踊りに始まり、縁日、害虫駆除、事件や事故、果ては米屋の御用聞き、事件や事故のときは警官の横で手帳まで出して書き真似までする念のいりようだ。通りすがりの野次馬なんかはすっかり関係者だと思い、彼に取材する始末である。その登場は百パーセントといっていいだろう。彼がどうしてその情報を素早く仕入れて登場するのかは、当時から町の七不思議の一つになって語り継がれた。時が経ち、昭和天皇が、亡くなられた御長女のお墓参りに私の家の前の安藤坂を通られることになった。
警察官も大勢出て警備にあたっていた、しばらくしていつもの彼がいないのに気がついたのは皆が並びだして大分経っての事だった。もうそろそろ、天皇の乗られたお車が見える頃である、"さすがに今日は、鞍馬天狗は出て来ないね"と後ろにいた母に言った。すると下のほうから大きな下駄の音が聞こえてきた。カッカッカッカっと、だんだん大きくなる。そして遂に"みなさ~ん!今来ますから前に出ないでくださ〜い!"といつもの良く通る甲高い声、疾風のように広い坂のド真ん中を上方に駆け上がってゆくカリカリの坊主頭は、紛れもないあの鞍馬天狗である。
警官も半ばあきれ顔で笑っていて停めようともしない。大勢の人を目の前にしていつもよりテンションが上がっていた。そして後ろの母に"やっぱり出たね!"といって二人で微笑んだ。間もなく白バイが現れてエンジ色の大きな車に乗られた陛下が我々に手を振りながら行かれた。鞍馬天狗が先陣を切って後ろから来る白バイの露払いをする形になった。その後、私も成長しそのあだ名の由来を考えて見るとある事に気付いた。それは映画に出てくる嵐勘十郎の鞍馬天狗は、美空ひばりの杉作や善良な市民が悪人にやつけられそうになると必ず登場する。こちらの鞍馬天狗は町のイベントに必ず登場する。神出鬼没、出るぞ!出るぞ!で必ず登場!どちらもみんなのヒーロー、かたや映画、こなた町の鞍馬天狗ということだった。
それから間もなくして悲しい出来事があった。今より頻繁に火事があった時代だった。私の小学校でも一年生と三年生の時、教室の窓から自分の家が燃えているのをライブで目撃する同級の子が二人もいた時代であった。そしてあろう事か、彼・鞍馬天狗の家が火事にあって全焼してしまったのだ。いつも人のことで大騒ぎしていた彼が、今度はなんと自分の家が燃えてしまったのだから大変である。走りに走ったのだろう、行き着いた先はその三日後の夕方、総武線の両国駅で保護されたという。飯田橋から両国はかなりの距離だ。三日三晩かけ何処をどうやって走ったのかは未だに彼しかわからない人類の謎である。
それ以来彼の姿は見かけなくなった。何年か経って、民生委員をしていて近所のことは何でも知っている母によれば、彼は施設で元気そうにしていて"私のこと覚えている?"と母が声をかけたら"ウン"と頷いたそうだ。それだけ聞くと昔の日本映画の恋人同士の会話のようである。
その火事のときから町のイベントは普段と同じように続いているものの、何かが足りなくなった。いつもそこにいて場を盛り上げた鞍馬天狗がいない。今度こそ登場しないだろうという時にも最後には登場してくれた鞍馬天狗は、例えれば幾多の賞を貰ってここで泣いてとファンが心の中で叫ぶとき、必ず泣いてくれる松田聖子の涙と同じだ。民衆にとって聖子の涙と鞍馬天狗は人の期待を裏切ることを知らない特別な存在だった。そしてどちらもいずれ劣らぬ目立ちたがりやなのは言うまでもない。この物語は町から出た有名人の記録より、人々の記憶の片隅、余情に残る人の話である。
2007.06.08 (金)  其のときを楽しむ
今年の春先にNHKの朝のラジオ番組で、しきりにゲストが褒めていたミネソタが舞台の"煉獄の丘"という小説を読んでみた。そこは私が数少ないアメリカ旅行で行った所で懐かしさも手伝っての読書だった。著者はウイリアム・K・クルーガーで、主人公の元保安官コーク・オコーナーは、秀逸なミステリー小説のハリー・ボッシュやスペンサー・シリーズのスペンサーに比べそんなに強くもなく、やることもさしてかっこよくもないが、自然を愛し、家族を愛す親近感が湧く普通人である。また、地域性も良く説明されており、ミネソタをより知ることが出来た。ただそれだけでは小説にならず、例によっていろんな事が次から次へと起こり、読んでいて飽きることはなかった。さかのぼって読んだ前作の"凍りつく心臓"の方が私は面白く感じた。この二連作を読み終わってから、ミネソタの旅行が懐かしく思い出され、この雑感を書くことにした。
1994年の2月にミネソタのミネアポリスで行なわれたNBAプロ・バスケットボールのオールスター戦の観戦に行ったときの事。ここは夏とても暑く、冬はとことん寒いという典型的な大陸性気候で、私の行った少し前にバス停で酷寒の為、人が凍え死んだという怖い話を聞いた。私の泊まったホテルの400メートルほどの向いにアメリカで一番大きいといわれるショッピング・センターのモール・オブ・アメリカがあり、そんな近くでもあまりの寒さの為にシャトル・バスを利用したのを覚えている。そこは店の数の多さもさることながら、屋根つきのモールの中にローラー・コースターが走り回り、観覧車、高さ5〜6メートルはあろうかというスヌーピーが置いてある大きな遊園地や病院があるのには驚いた。セール中の衣服や化粧品は州法で定められ無税となっており、買い物好きの人ならこのモールの中に一週間いても退屈することはないだろう。例によって前置きが長くなってしまったが"其の時を楽しむ"というテーマはこの時の オールスター戦のことである。
観客である私の周りにはなぜか、バスケットボール関係者の大きな黒人ばかりだった。いろんな所で握手やハグが交わされている。有名選手だったと思われる一人を大勢の人が取り囲んでいたり、同じチームだったのだろうか、グループの輪が出来ていたりで大変な賑わいだった。しかも、真冬で酷寒のミネアポリスとあって、多くのツルツル頭の大男たちがどれもご自慢の毛皮のロング・コートをはおり(とにかく身の丈2メートル近くの男達の毛皮である。いったい何匹の動物たちが命を落としたのだろうと余計な事を考える)皆お揃いのように金のピアスやブレスレット、ダイヤ入りの指輪をしている。正直に言って東軍と西軍に分かれ、シャキール・オニールを始めとするスーパー・スター達が一生懸命走り回っている試合よりも、こちらの休憩時間の客の方が見ていて飽きない。なんだか訳アリの大男たちの同窓会に紛れ込んだような錯覚に陥る。
この日のために一張羅を着て、そのどの顔も本当に楽しそうで、この時を長い間待ち望んでいたという喜びで沸き立つような雰囲気に包まれていた。この風景は今でも深く心に焼き付いている。以前テレビで見たリオのカーニバルに出た若い踊り子のコメントに"この一年間、この為に生き、働き頑張ってきたのよ!"と言った真剣なまなざしを思い出す。
人生の節目やその人にとっては大きな喜びの時、又ささやかな楽しみの時でも、それを大いに楽しむための努力には決して手を抜かない、準備万端、頭のてっぺんからつま先まで思いっきりお洒落をして、楽しい時をすごす為に躊躇なく積極的に人と接する。たとえその努力が無駄になっても、終ってからの空虚感にさいなまれても最善を尽くす。悲しいことや避けて通りたいことも一杯ある世の中で、人はこんなその時があるからこそ今を何とか生き続けているのだと思う。そう明日の事、来週の事、何気なく今後の楽しみにしている事や節目の日を探している、そんな懲りない自分にフッと笑いが込み上げてくる。
2007.05.29 (火)  十二食うかい? もう結構!
先週、久しぶりに神楽坂に出かけた。ここはTVドラマの舞台になったことで、今、多くの人が集まるようになっている。ウイーク・デイの夕方5時過ぎぐらいから、ネクタイを締めたサラリーマンが飯田橋方面から行列の様に続々と神楽坂を登ってくる。子供の頃毎月縁日が開かれ、それを楽しみに父に手をひかれ神田川を渡って遊びに来た事等でおなじみの場所である。古くから花柳界の土地柄、料金は例え裏道でも、いや逆に裏道の方が食べもの屋は少々高めの設定の店が多く、黒塀に石畳という小粋な雰囲気が細い裏道に漂っていた。今回は飯田橋から程近い、かなり安いのが売りの居酒屋に集合ということで懐かしさも手伝ってわざわざ遠回りをして歩いてみた。坂上の赤城神社で宮司をしている友人のK氏に会ってから大久保通りを渡リ、田原屋という高級な西洋レストランが毘沙門天の傍にあったのだが、今は無くなってしまったのか見つけられなかった。確か飯田橋の駅前にも姉妹店があり、こちらは高級な果物とそれを使ったパフェ等を出していた。そのすぐ隣の五十鈴という甘味屋は健在だった。実はこの店には懐かしい思い出がある。
高校時代に甘いものが大好きな友人が隣町の筑土八幡下に住んでいた。2人で飯田橋近くの紀の膳のお汁粉を食べた後、坂を登って五十鈴を通りかかったところ、突然!彼から無理やりこの店に押し込まれたのを今も覚えている。普段静かで痩せた男の何処にそんな腕力があったのだろうか、いくらなんでも甘味屋のハシゴは勘弁である。店の中で押し問答しているうちにお姉さんがお茶を持って来てしまい万事休す、私が憮然としている間に小豆ぜんざいを二つ注文してしまった。お店の人も客も、九割がた女性なのに学生服を着た男の子の2人ずれは珍しかったのだろう、いろいろと気遣いしてくれたのを覚えている。付け合せの紫蘇の実を摘み、お年寄りのようにお茶をすすり、彼にぶつぶつ文句を言いながら何とか食べ終えたのだった。この話にはその伏線としてこんな話がある。
その日の午前の事、生物の授業で原田先生という年配の先生が、中学時代の復習として何時になく熱く語ったことに端を発している。それは先生が学生だった頃、浅草の甘味屋で"お汁粉を十二杯食べたら只にします"という大きな張り紙があったという、先生達は若さも手伝い、よし!挑戦しようということになった。6杯まではなんとかいけたのだが、危険を察知した店の親父もそれからは必死の形相で、砂糖の量をいつもの何倍にもして掻き混ぜる。(その時の白衣を着た原田先生が、目をつぶり思いっきり手を回すしぐさが私達の笑いを誘った)7杯目からは、ほとんどあんこの塊の様なお汁粉を出してきたという、どちらも意地の張り合いが続いたのだが、すごい胸焼けになった先生達が遂に白旗を挙げたという。さすがに店の親父も若い学生相手に食ったもの全額を支払えとは言わず、多少安くしてくれたそうだが、その時の問答が可笑しい、"12食うかい? もう結構!"と何回も繰り返して言う、ほとんど落語状態になっている。
いつも生真面目で冗談も言わない先生が、高座に上がった噺家の重鎮のようである。実はこれ、体の消化器官の順番に、十二指腸、空腸、回腸、盲腸、結腸、肛門、のことだった。これを(十二空回?盲結肛!=じゅうにくうかい?もうけっこう!)私たちにこんな面白い話?で、覚えさせたのだった。勉強嫌いで親泣かせだった私がこれまで記憶に残っているとは先生の狙い通りだ。
原田先生のその時の名講義で、私と友人の劣等生コンビの頭の中に一番印象に残ったのはもちろん"お汁粉"である。早速に2人が繰り出したのは甘味屋のある神楽坂ということだった。いつもは飯田橋の愛想のいい美人ママがいるオカノという喫茶店に寄り道する所だが、あの時ばかりは先生の"お汁粉"が効いた。紀の膳と五十鈴のハシゴである。この2店舗は今も元気である。
この界隈もすっかり変わり、近くには高層マンションが建ち、ファミレスやコンビニ、大手の居酒屋チェーンがいくつも出店して来ている。いつも何気なく歩いていたのに、こんな懐かしい事を芋づるしきに思い出させたのは新しい時代の波を感じて、回想の念が起きたのかもしれない。私の手を引いて縁日へ連れて来てくれた父も、原田先生も、そして若くして逝った甘い物好きの友人ももういない、どんなに街が変わっても、今もこれからも私にとってここ神楽坂は、来るたびにあの頃を思い出す懐旧の場所である。
2007.05.20 (日)  大相撲観戦記
大相撲5月場所6日目。昨年9月場所以来、8ヶ月ぶりに国技館を覗いてみた。得意の裏技を使い2100円の特別自由席を買い安くあげようとしたのだが見事に失敗、午前11時には売り切れで少々割高な席に着くことになった。ここ最近思うことはいつも外人客の多さである。世界各国の人種が両国の国技館に集まっている。さながらオリンピック会場のようである。当然ながら力士もいろんな国からやってきている。まさに日本独自の国技から、世界のプロスポーツへと変遷を遂げた感がある。
今場所、私のひそかな希望の星、豊ノ島が朝青龍に稽古中にプロレスまがいの技をかけられ右ひじと右ひざを痛めて5連敗中、今日も琴奨菊に両腕を決められ負けてしまった。168センチという小兵ながら大柄な力士を一回転させるワザは本当に大相撲の醍醐味を味あわせてくれる力士である。はやく良くなって欲しいと心から思う。そして、いつも応援している軽量の安馬が白鵬に挑戦したが、突っかけ気味だったが立会いの善戦むなしく敗れた。白鵬の強さと落ち着きは既に横綱の風格を備えている。安馬という力士は勝負へのこだわりとともに、客がどんな相撲を見たいのかを心得ている。それに裏表のない一生懸命さが伝わる数少ない力士だ。今の相撲界の宝である。稀勢の里、豊真将と日本人力士の期待の星も育っているが栃東が引退した今、とにかくこの2人の日本の星、怪我をしないように順調にいって欲しいものだ。
相撲はご存知のように体重別クラス分けがない、したがってどんなに体重差のある巨大な相手にでも、あの土俵で裸一貫、まわし一本で戦わなくてはならない。古くは栃錦と大内山、先代貴ノ花と高見山、舞の海と曙、最近では豊ノ島と琴欧州、"小よく大を制す、"の言葉どおり、全然体格の違うものが土俵の上で正々堂々と戦いハンデを負った軽量のものでも勝つ、それは義経、頼朝の時代より日本人の根底に流れる判官びいきの心がいやがうえにも盛り上がる一番ではないだろうか、天下の双葉山が去り、昭和の30年代初頭から立派な体格を持ったおなかの大きい鏡里、鉄腕の千代の山、美男力士の吉葉山、突っ張りと胸毛の朝潮という大柄力士が代等してきた時代、栃錦と若乃花という二人の小兵力士の活躍は、その頃の戦後の傷もいえぬ多くの日本人の心をどれだけ勇気付けたことだろう。ちなみにこの二人、栃錦が小結、若乃花が前頭筆頭の初対戦の時の体重はなんと85キロと83キロ、先日行った秋葉原周辺には、これよりはるかに体の大きく重そうなオタクがごろごろしている。今の十両・幕内の力士達のおよそ半分しかなかった。現在の力士の驚くべき体重増である。体が大きければ何でもいいから即・相撲取り的昔日の発想は、現代も生きているのだろうか。
剛の柏戸・柔の大鵬、どちらも譲らぬライバル横綱、憎らしいほど強い北の湖対黄金の左の輪島、今の朝青龍のように一人天下の一匹狼、ウルフの千代の富士、巨大なハワイ勢対若貴兄弟、言い換えて外国勢対愛される日本の兄弟、その時代背景もさることながら常に悪役と正義、どちらも魅力ある強者のライバル、皆さんも私と同じ意見だと思うが、いずれにしろ優勝争いのそこに日本人力士がいて欲しいと思う。
大リーグの日本人選手の活躍に胸をなでおろす日も多くなってきたが、日本にいながら言いたい放題の外国人上司の利益の為に働いているサラリーマンや大国の顔色を伺いながら生きている政治家や官僚の多い今の世で、せめて心技体、日本の心の故郷である相撲に夢を馳せたいものである。いつもの"どぜう"を食べに涼風吹き抜ける隅田川、水上バスが眼下を通る、夕闇迫る厩橋をぶらぶらと渡りながらのひとり言。
2007.05.15 (火)  輝く意外性
最近又、CDを良く聴くようになった。何かしている時にも聴くように心がけている。
時間や天候によってなんとなくその雰囲気に会う音楽を探して見ると、その意外性に戸惑うことがある。雨の日の朝にハワイアンを聞くと心が和む、日本映画の"フラガール"の頭のBGMに使われていたナレオやケアリー・レイシェルなどのかなりポップでもOKである。スラック・キー・ギターの本格派や男性グループなんかもイイ、窓を開けた時の雨の匂いなんかにも良く似合う、まるでシャワーの後のオアフ島の外れにいる気分になる。
ちょっと頑張ってシングル・モルトの12年〜15年ものなんかをロックでやりながら、 夜更けに聞くのは大人の女性ヴォーカルに限る。今日は何処の誰を選ぼうかなんて思いながらCDの背表紙を探していると、選り取り見取りの大奥の殿様になった気分である。今宵、選ばれなかった女性歌手に何の気兼ねもしないでいられるのが又いい、その点でもう殿様を越えている心境である。ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン、サリナ・ジョーンズ、ナタリー・コール、ニーナ・シモン、最近のノラ・ジョーンズ、挙げればきりがないが、その中でも今の私にとってジュリー・ロンドンがいい、彼女の大きく胸の開いたモノクロの写真をパープルに反転しただけのジャケット、シングル・レコードの"想い出のサンフランシスコ"を子供の時から大事にしていたのだが、アルバムを聴いてこんなにいい歌手であることは大人になるまで知らなかった。先日まではランディ・クロフォードとジョー・サンプルの昨年の作品、"フィーリング・グッド"にはまっていた。その前は最愛のドライブの友でもある美系のダイアナ・クラール、今またジュリーの歌声を聞いている。彼女の低めの乾いた声とビブラート、歌心のすべてがいい。私にとっての音楽は、ただその時の心の赴くまま好きなものを聴く、酒と夜更けとジュリー・ロンドンである。この3つが揃えばかなりイイ夜になる。 酒ばかりで恐縮だが、ビールが美味しい季節になってきた。私は決してアル中ではないが、缶ビールを片手に昼下がりの休日にはトゥーツ・シールマンのハーモニカをお薦めする。 酒が利いてきた気だるい午後に、まとわり着くように優しい音が体に沁み込んでくる。 心は南風に吹かれながらハンモックで揺れているようである。人生もうどうにでもなれや、という怪しげな心持ちと煩わしい小さな事が気にならなくなる。ただ私のささやかな経験上、夜更けにしろ、休日の午後にしろ、ノメリ込んでの飲みすぎには要注意である。
さて、言いたい放題の音楽選びになってしまったが、今日のテーマはバッドではなく、グッドな意味での意外性である。雨降りの朝のハワイアン、夜更けのヴォーカル、午後のハーモニカ、常識や概念だけでは人生は退屈なだけだ。とても似合わないと思っている事や人間が、いきなり何かのときに素晴らしい調和や才能を見せてくれる。そんな素晴らしい意外性が私は大好きだ。例えば、濃い茶色に何色を合わせるか、普通はベージュなどの暖色系で無難にまとめたい所だが、そこに鮮やかな水色を合わせると超モダンな調和を見せたりする。ここからは人についての意外性になる。いつも強面の男がある事で凄く優しい一面を見せたり、又、普段音楽のおの字もない人間が、ピアノの置いてあるバーで突然名演奏を披露したり、ゆっくりと動きが遅い太めの人間が、クラブでいきなり素晴らしいダンサーに変身したり、こんな以外を見るたびに驚きと新鮮な感動を覚えてきた。
人生は意外性があるから楽しく、もしこれがなければ何とつまらない世の中だろうと思う。意外性は自分の中に違った自分を作ること、又はもって生まれた両極端な二面性のどちらかが際立つ時だろう。そう簡単に人を感動させるグッドな意外性は手に入らない、それを無理に作ろうとすると無様という文字が見え隠れする。本来、それは心に培い静かに秘めているもの、重要なのはあざとく表すのではなく秘めている事、それがいつしか表舞台に立った時、何もまして魅力的に輝きを増すものだ。
2007.05.02 (水)  小さな車の話
先日読んだ本に、東ドイツと西ドイツが分かれていた時代の話があった。西側はメルセデスやBMW、アウデイ等がアウトバーンで途方も無いスピードで走り回っている頃、東側では最高速が100キロそこそこの600CCにも満たない空冷エンジンを乗せた、トラバント601という車が国民車のように走りまわっていたという。そんな話を読んで思い出したのだが、前にも記したブダペストに行った時の事、ニュートン・ファミリーというバンドの女性ヴォーカル、チェプレギ・エーヴァが所有していた車がまさにその車だった。
ペスト街にあったレコーディング・スタジオから私の泊まっているホテル(ドナウ川の中の島にある旧名テルマル・ホテル)までその車で送ってくれたのだが、パタパタとなんとも頼りないエンジン音を発しながら一生懸命走っていた可愛い車だった。日本のスズキ自動車が1955年から造っていたスズライト(軽自動車フロンテの前身)という車を髣髴とさせる小さな車で、まるでブリキのおもちゃがそのまま大きくなったようなものだった。走っているといろんな所からギシギシときしむ音が車内に充満し、いつ止まってしまうのかハラハラした。次の日、他のバンド・メンバーからあの車に乗って良くぞ無事に今日を迎えられたものだと、冗談とも本気ともつかないような事を言われて笑われたのを覚えている。その頃ハンガリーは西よりとはいえ社会主義の国であり、東ドイツとの交流や貿易は当然のごとく行なわれていたのだろう。ただ、メンバーの中には実家が金持ちの女性と結婚したダステイン・ホフマン似で、ドラムス担当のジュラ・バルドーツィは、かなりの重税にもかかわらずメルセデスのワゴンに乗っていた。その後トラバント601の美女、チェプレギはグループのギター担当のアダム・ベグヴァーリと2人で来日して、1983年のヤマハ世界歌謡祭に参加、"愛のゆくえ"という曲でグランプリを獲得し、賞金である10,000ドルをバンドの関係者と山分けした。
そして、もう一つの小さな車の思い出にメッサーシュミットという車がある。その昔、まだ軽井沢へ行くのにくねくねと幾重にも曲がる碓氷峠しかない頃のことである。その頃VANジャケットのアイビー・ルックに身を包み、4711の柑橘系コロンが好きだった4年先輩のT氏が、そのメッサーシュミットではるばる東京から碓氷峠を登って私達が毎年行なっていた軽井沢のキャンプへやってきたことがあった。それこそやっとたどり着いたという表現がぴったりで、無事に到着した事を本当に喜んでいた。この車はなんと3輪で、前と後ろ、縦に2人が乗る仕様になっている。わずか200CCぐらいの小さなエンジンを積んでいて、大人2人を乗せ平坦な道を走るのも大変だろうに、今思えばあの碓氷峠を登ったことにただただ驚くばかりである。このT氏、いつもプラターズのオンリー・ユーをアカペラで懸命に歌っては私たちを笑わせた。
こんな時代から今日まで、多くの車はモデルチェンジの度に肥大化し、日本の街を背の高い大きなSUVやワンボックスが頻繁に行きかうのを見るにつけ、あの頃の車はなんと小さく華奢だったのだろうかと思う。車の性能や道路の発達とともに、大きく安全でしかも静かでスピードが出る車が当たり前になった。故障の為、道端に車を停めてボンネットを開けている人もほとんど見られなくなった。車の選択肢がいくらでもあり、あらゆるニーズのすべてが満たされてしまう今、あるディーラーの修理担当者は、ほとんどの部品はコンピューター制御で動いているので、悪くなればその部分を直すのではなく、そっくりその部品を換える仕事になったという。車社会が発展途上だったあの頃の、作り手の温もりが感じられるような車をガレージに仕舞い込み、本を片手に、こつこつと自分でメンテナンスやレストアなどをやる事を夢見てしまう、無いものねだりのこの頃である。
2007.04.15 (日)  心に残る名場面とは
古い映画の予告編ばかりを編集して、DVDで売り出そうとしている人が私の知り合いにいる。思いつきではとてもいいと思うのだが、果たしてそれが売り上げに結びついてくれるのかは多少不安が残る。確かに映画の一番キモとなるシーンだけを集めて製作者、映画会社などが気合を入れて作るものだから、その映画の全体の趣旨やかっこよさなどを短時間で垣間見ることが出来る。しかもこの予告編は出来如何で客の動員が決まりかねない重要なものだ。余談になるが映画の成功、不成功は初日の客の動員でほとんど決着がつくという、かなりギャンブル性が高いものだということを映画会社の宣伝マンから聞いたことがある。何はともあれこの企画、映画好きの記録用としてはとてもいいアイテムにはなるだろう。
そう言う私がそれを買って見たわけではないのだから何ともここまでの話になってしまうのだが、これをヒントに自分自身が今まで見た映画の中で、どのシーンを予告編にするのかを思い巡らせて見ると面白い事に気付く、意外なのは私にとってオープニングのシーンがいかに重要である事かがわかった。例えばアラン・ドロンが刑事役の"リスボン特急"では夕闇せまる薄暗い海辺の町に雨が降っている。車のワイパーがひっきりなしにフロント・ウィンドーを拭いている。その海辺の町は新しそうなアパートが立ち並んでいていかにも外れの新興住宅地の雰囲気があっていいのである。"栄光のルマン"ではフランスの静かな田舎町のルマンが舞台。この街は一年に一度、自動車レースの期間だけ世界中から人が集まりTV中継などで注目される。その静かなルマンを空冷エンジン独特の乾いた音を響かせて黒いナロー・ポルシェ(911の初期型)でそこを走るシーンで始まる。ドライバーはあのスティーブ・マックィーン、レース中に自分が起こしてしまった事故現場で車を停めて回想するシーンまで、まさに彼しか出来ないかっこよさである。又、オードリーが早朝のニューヨーク5番街にあるティファニーの前で宝石を見ながらパンを摘んでいる。映画タイトルそのものがオープニングのシーンになった"ティファニーで朝食を"。そして"ウエスト・サイド・ストーリー"ではニューヨークの上空から空撮が行なわれる。セントラル・パークからダウン・タウンへ何処からか口笛とコンガの音、そこに指を弾く音が聞こえてくる。バスケット・ボールのコートになっている空き地の上にさしかかるとその指の鳴る方にカメラは下りてゆく。そこで音の源である主人公のジェット団が現れる。同じような手法のものでは"サウンド・オブ・ミュージック"の空撮も素晴らしい。最初はのどかな序曲が流れ、観客の我々は雲の中を飛んでいるのだが、やがて霧が晴れて遥かに山肌が見えてくる。その中の遠くて米粒のように小さなジュリー・アンドリュースにカメラが徐々に近づいてゆくシーン。そして序曲からいよいよ曲は盛り上がり彼女の歌が始まると同時にカメラは地上に降りる。後から聞いた話ではこのシーンは撮影隊も出演者も大変な苦労があったという。名画というものは決まって素晴らしいシーンを持っている。多分私が挙げたオープニング・シーンは予告編にはなっていないだろう。名画と言われなくとも自分にとって素晴らしいシーンがあれば、それはそれぞれの心に焼きつき、何時までも忘れられない映画となる。何処かに置き忘れてしまったのかもしれないが、ふと私自身の人生の中で名場面は何だったのだろうかと一生懸命思い巡らせ探して見た。当然と言ってしまえばそれまでなのだが、皆無である。残念ながら恥をかいたシーンは次から次へと脳裏に浮かんできては留まる所を知らない。
さて、心打つ名場面とは50年、いや100年後も人々に愛され続ける、脚本家や天下の名監督、名優たちがその一瞬の為に多くの時間と心血を注いだ夢とロマンの結晶ということなのだろう。最後にもう一つ"ローマの休日"のラストシーンで、誰もいなくなった記者会見場に静かに響くコツ、コツ、という足音。芽生えた愛はお互いの身分の違いで超えられない、その愛ゆえに世紀の特ダネを綺麗な思い出に替えた男の優しさ、グレゴリー・ペックの哀愁こもる足音で本日の幕を下ろすことにする。
2007.03.20 (火)  世界ふれあい街歩き
TVがつまらないと感じるようになって何年たつのだろう。
民放の同じような顔ぶれの出演者たちの馬鹿騒ぎにCM音量の大きさ、一つの結果が出るまでこれでもかと同じCMを見せられる。そんな状況が続く中、最近ちょっと面白い番組を見つけた。NHKの総合では木曜日の深夜、ハイビジョンならかなり頻繁に見ることが出来る"世界ふれあい街歩き"という番組である。私はかなり旅好きでいろんな所へ行くのが大好きなのだが、この番組を見るとやはり世界は広く、未だに行ってない所がいかに多いことかがわかる。それなりの限られた予算で番組が作られているようだ。地元の案内人がカメラマンと数人で取材の街歩きをする。カメラは人の目の高さなのでまるで自分がそこで旅人になっているような気分にさせられる。行きずりのその町の人の自然さがカメラに写る。とかくこの手の番組は自然さを装いながらヤラセがバレバレな場合が多いものだが、これに関しては見知らぬ旅人役(先の地元の案内人)にそこでの生活を楽しんでいる人が初めて声をかけられていることが素人目にもわかり、お国柄や国民性、土地柄などが感じ取れる。
先日、この番組でハンガリーのブダペストをやっていたのだが、20数年前、私がレコーディングの仕事でこの街へ行ったときの社会主義が色濃く残る空気とはずいぶん違っていた。モノトーンだった街並みがかなり華やいでいて時の流れを感じさせる。その昔、ブダペストはパリやウィーンと並ぶヨーロッパを代表する華麗な都として名を馳せていた。町の真ん中をドナウ川が流れ、ブダ街とペスト街に分かれている。ペスト街には幾つも温泉が湧き出ている。マジャール語を話し、その発音は非常に日本語に近く、黒い髪も多く、ヨーロッパ圏では珍しく、生まれる子供の尻に蒙古斑が見られることも少なくないという。また、姓と名が日本と同じで、姓が先で名が後に来る。何かと親しみを感じるお国柄だ。しかし、私が行った頃は市内を少し離れるとソ連の兵隊を頻繁に見かけ、56年のハンガリー動乱の影が色濃く残っていたのを覚えている。この思い出を書き綴れば原稿用紙15枚以上に及ぶことになるので、これまでにしておくが、本当に久しぶりにあのマジャール語を聞き、星空の下で入った街中の温泉プールが映し出された。労働を終えた人々が集まり、大きな声のマジャール語が飛び交うビヤ・ホールで、油紙に包んで食べた、硬く乾き香辛料がたっぷり入ったハンバーグの味などもよみがえり、懐かしくまた再び行ってみたくなった。
最近の私は誰がどんな家に住もうが、何を買ったり、食べたりしようがあまり関心はないのだが、事、旅に限っては別である。特に見知らぬひなびた海辺の街や市場なんかがいい、人の声や雑踏の音を聞き、その空気を吸っていることが無性に羨ましくなる事がある。人は旅をするということに人生を投影させ、ある人は命をかけてきた。生前、母も旅好きで若かった私の旅をずいぶん応援してくれた。その素晴らしさを教えてくれたことを今もって感謝している。良い時間は心の財産、すぐ何処かへ消えてしまうお金や古びてしまう物と違い、何時になっても好きなときに心に引き出せる素晴らしいものだと思う。この番組何時まで続くことだろう、是非頑張ってほしいものである。いながらにして見知らぬ街を行く、お茶でも飲みながらほっと一息つくにはとても良い時間だ。
2007.03.18 (日)  東京で今
私が生まれ育った所で今、面白い話で盛り上がっている。後楽園や飯田橋から歩いて10分ほどの所なのだが、再開発で道路が拡張されたり大手の企業が移ってきたりで、もはや人が静かに住むところではなく、通勤で通うオフィス街に変貌しつつある。昔の面影は今何処という具合なのだが、そんな所に最近、あろうことか夜な夜なある生き物が出現するというのだ。現に先日、私の兄がその噂の生き物に出くわしたのだそうだ。夕闇がせまる中、猫にしては大きく動きも違うものが目の上の高さの土手にいたという、それと目が合いしばらく見詰め合っていたのだが、それは間違いなく狸なのだそうだ。区立中学の南東の土手、つまり私の実家の横に100坪ほどの土手がある。その中の穴にでも棲んでいるのではという話なのだが、ご近所でもそれを見た人がいて、その時は2匹でいたという話だ。蛇やモグラ、鼠のたぐいなら話はわかるが、今時東京の真ん中でなんと狸である。ペットとして飼われていたのか、学校で飼われたものなのか、それとも何処からか逃げ延びてきたものなのか、疑問が疑問を呼んでいる。ただ、マンション街でペットとして狸を飼うことは、まずないだろう、しかもどんな物好きなペット・ショップでもほとんど狸は売っていない。学校でも飼育としてはよほどのことがない限り飼う可能性は低いだろう。では後楽園からやって来たのか、後楽園は遊園地やトーキョー・ドームなどで有名だが、本来、ここは水戸光圀の別邸で、私が小さな頃から水戸様と呼んでよく遊びにいった所だ。確かに狸やイタチの類が生息していてもおかしくは無い程の森も大きな2つの池、菖蒲田や梅林もある。小さい頃その林の中に入ると妙な動物臭を感じたことがあった。それと考えられるのは北に位置する小石川植物園だが、それには大きな春日通りや千石通りを二つも越えて、徳川家康の母が眠る伝通院という寺がある丘も越えなくてはならない。それは狸にとってかなりシンドイ旅なので、今の所後楽園説が有力だ。早速、TV局がとびつきそうなこの特ダネ話を家で自慢げに話をしたところ、娘達は全然驚かず"私達の学校には狸も出るし、ハクビシンまで出るのよ"との事、これには二度ビックリである。娘達の学校は高田馬場から早稲田方面に歩いて15分ほどの女子校なのだが、こんな都会にもとんでもない野生が生息していた。ジャコウネコ科のあのハクビシンである。さすがにこれを見たときは病原菌の関係で学校に報告をしなければ行けないことになっているとの事だ。
何かこんな話をしているうちに楽しくなってきて、少し前のことを思い出した。確か昨年、秋晴れのさわやかな朝に犬と散歩していると、異常な鳥たちの声がするので上空を見上げたら、1羽のカラスと7羽ぐらい尾長が空中戦をしていた。尾長が大きなカラスめがけて勇敢にも何度と無く宙返りをしながら突撃をするのである。カラスが電線にとまっても攻撃の手を緩めない、しばらく見ていてわかったのは尾長の中にひときわ体の小さなヒナがいることがわかった。それをカラスが狙いこの騒ぎになったのだった。無事カラスは退散、親鳥は2羽しかいないはずなのに、他の仲間が命懸けでヒナを守ることを目の当たりにして胸が熱くなった。困っているものを見て見ぬ振りをして通りすぎる何処かの生き物とはえらい違いである。こんな事を思い出しながら考えた。ビルの中では多くの人間たちが息を潜めて日がな一日パソコンに向かい仕事をしている。外にはバイクや車が排気ガスを撒き散らしながら走り回り、満員電車の中では携帯片手に押し合いながら毎日を暮らしている。そんな東京のド真ん中で人が思いもよらない生物や自然がすぐそばにいて、ほんの小さな隙間を一生懸命生き抜いている。なんとも微笑ましく勇気付けられる話ではないだろうか。

2006.11.26 (日)  年末は江戸気分
先日、友人のN氏と皇居東御苑に行ってきた。皆さんは江戸城の天守閣跡とか、忠臣蔵発端の事件が起きた松の廊下跡等を見学できるのをご存知だろうか、恥ずかしながら私はそこから3駅のところに生まれ育ちながら、皇居の中で厳重な警備のもと、行くことも見ることも出来ないものだと思っていた。そんなことも知らないのかとあきれる方もいるだろうが、身近なリサーチの結果、意外と知られていないと思いここにご紹介する。東西線の竹橋で降りてから、内堀通りを渡って平川門から入った。道なりに行き白いプラスチックの札を貰う、これが入苑許可証となり、出るときにもこれを提出して帰る。この他出入り口は北桔橋門と大手門がある。いずれの門でも入る際に札を貰い何処の門でも出られる。月曜と金曜が休みだそうだ。まず入って、都会のド真ん中にこんなに静かで広くゆったりした場所がある事に驚く。昭和皇后の還暦を記念して建造された美しい桃華楽堂を左に見ながら歩くと江戸城天守閣跡にでる、高さ18メートルの石垣だけのものだが、この上に5層の天守閣が建っていたという。石垣の上からは南西に大手町や日比谷の大きなビル街が見通せる。この景色はなかなかのものだ。この他広い御苑には旧百人番所や綺麗な庭々や広い芝生があり、静かな時間をすごせる。ここに池があり体は鯉でヒレが金魚という面白い魚が泳いでいる。城跡の南西に松の廊下跡の碑が立っている。ここから今日の本題に入る。1701年(元禄14年)の3月、吉良上野介と浅野内匠頭の刀傷事件が起こった場所だと思うとなんだか不思議な気持ちになる。この事件、残った文献によると生来のいじめっ子と生来の短気という二人なのだが、刀傷事件にまで及んだ内容はいまだに謎めいている。指南役の吉良が浅野の付け届けが少なく、腹を立て差別をしたという説もある。今の豊かな役人達と違い、この時代は登城するも、それを受ける側もかなり厳しい生活だったという。そこでは、今よりもっとストレートに生きるということに真剣だったのだろう。とにかく紆余曲折、この話がいつからか日本の3大仇討ちの代表格となり、近代日本の年末のマスコミ用目玉商品となった事はいうまでもない。結果日本人は仇討ちものが大好きになった。
ここで突然何を思ったか、師走の忠臣蔵ツアーを企画してみた。まず前日の夜、ビデオで映画の忠臣蔵を見る。なるべく片岡千恵蔵か長谷川一夫の時代、百歩譲って錦之助までとする。そして次の日、皇居東御苑の松の廊下跡(ただ木が茂っているだけなのだが)を見学、大手門から出て、都営線を使い三田乗換えで泉岳寺へ、四十七士の墓参りの後は資料館で討ち入りの際に実際使われたものなどを見学、順序は逆になるがここから又、都営線に乗り大門乗換えで両国へ、本所松坂町の吉良邸(本所松坂町公園の一部)を見学、もともと吉良邸は呉服橋にあったのだが、この事件以来、もし赤穂浪士の仇討ちなどで江戸の真ん中で騒ぎが起きたら面倒と、まだ新興住宅地であったこの地に邸を移されたそうである。そんな話を聞くと幕府は仇討ちを予見していたのかということになる。この少し前に本所深川で松尾芭蕉が読んだ句(秋深し隣はなにをする人ぞ)と詠ったくらい古くからの下町と違い、ここは隣近所の付き合いはなかったようだ。それゆえに討ち入りは成功したといわれている。その後、時間があれば両国北側の江戸東京博物館で時代背景などを見学、夕食はそこからすぐの厩橋を渡って歩いてもいける、タクシーならワンメーターの"駒方どぜう"で、来年の実現不可能っぽい夢等を語りながら、熱燗と刻みネギがお代わり自由のどじょう鍋をつつく。その後、気が向けば歩いて浅草の神谷バーで、つたない色恋話しで締めるというのはどうだろう。
2006.11.19 (日)  悲恋と黄色いロールス
映画<黄色いロールス・ロイス>を10年ぶりで見た。ご存知のとおりロールス・ロイスは車の王様的存在でメーカーもそのプライドゆえに生まれた数々の逸話を生み出してきた。その中でもこんな面白い話がある。あるとき、アルプスの山の中でロールス・ロイスが故障した。持ち主が困ってロールス社に電話を入れたところ、何処からともなくヘリコプターが現れて、その車を直して飛び去っていったという。それから何日か経ち、その時の金の支払いの件で連絡した所、一言"ロールス・ロイスは故障いたしません"というそっけない返事が返ってきたという。昔から車好きの間では語り継がれた逸話である。
この映画は一台の黄色いロールス・ロイスを中心に、それぞれの人生模様を3部作のオムニバスで綴ってある。第一話は新車のロールスが幌を被ってロンドンの町を行くシーンから始まる。レックス・ハリソン扮する外務大臣兼公爵が、月遅れの結婚記念日に妻役のジャンヌ・モローへこの車を贈る。しかし、その妻は若き外交官との道ならぬ恋にゆれるという設定。レックス・ハリソンといえば「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授やドリトル先生などの英国紳士の手本のような役柄が定着している。車のショー・ルームでの老セールス・マンと車内の電話の位置やデカンタの形のやり取りは、見ている方までリッチな気分にさせてくれる。いつも陰影のある知的な役柄の多いジャンヌ・モローは今回の役に限り、多少の妥協を許したといっていいだろう。第二話はこの映画のメインだ。舞台はイタリア、第一話の黄色いロールスをギャングに扮するジョージ・C・スコットが観光用に使う。情婦役のシャーリー・マクレーンの好演が素晴らしい。「チャンス」しかり、「アパートの鍵貸します」しかり、少しとぼけた可愛い女を演じさせたら彼女にかなう女優はいない。それに絡む観光地で働く、ナンパな写真師役のアラン・ドロンが明るくて軽快だ。彼が出演した「お嬢さんお手やわらかに」のキャラクターとダブルのだが、この手のプレイ・ボーイ役をやらせても超一流である。アメリカへ行ったスコットの留守中にこの二人は恋に落ちる。ギャングの情婦ゆえに恋人の命が危なくなることで、ドロンとの恋を諦める。苦労しながらも純粋な心を持ち続けた可愛い女が本当の恋を知り、冷淡な女を装って別れを告げるシーンは思わずほろっとさせられる。この第二話だけに使われる主題歌の"フォゲット・ドマーニ"があり、ドロンもカフェでこの曲のワン・フレーズを歌う。名曲"モア"の作詞でも知られているノーマン・ニューウェルの曲で、南欧の風を運んでくれる。第三話はイングリッド・バーグマンとオマー・シャリフ、舞台は動乱のユーゴ。戦争という重いテーマになるのだが、「カサブランカ」から18年経ち、貫禄と自信に溢れ、女優としての円熟期に入ったバーグマンが米国の気丈な貴婦人役を熱演している。「アラビアのロレンス」で迫力あるベドウィン族の首領役だったオマー・シャリフは、今度は解放軍の首領を演じ、車とバーグマンに助けられる。このようにいろんなオーナーとの出来事を経験した黄色いロールス・ロイスは、海を渡りバーグマン扮する貴婦人の故郷、アメリカに到着した所で幕が下りる。いずれにせよ、この物語の全三話はすべて悲恋である。
一話では妻と若き外交官の不倫の恋は実らない。二話では怖いギャングの情婦ゆえ、恋人の命が危なくなるので別れを余儀なくされる。三話では戦争という名のもとに、お互いの立場や戦時下の状況で結ばれない。美しい風景の中を、黒と黄色のツートン・カラーのロールス・ロイスという一方の華麗なる主役が、それぞれの悲恋を慰めている。実際に愛や恋はこんな制約や、立場、すれ違いなどで成就されない場合が多いものだ。切ない心を抱きながら生きて行く、それが人生かもしれない。良く晴れた日、クレーンに吊るされたこの黄色いロールス・ロイスが、これまでの思い出を一杯詰め込んでニューヨークの波止場に下ろされる。片時のオーナーだった人々、それぞれの人生や思いのたけを刻んできたかのように、少し傷んだ車体がそのすべてを語っている。何とも感慨のあるラスト・シーンだった。
2006.11.01 (水)  忘れられない昼食
岩手県パートUである。宮古と同じ岩手県の盛岡市を訪れたときの事、盛岡といえば忘れられないこんな思い出がある。仕事を終えた後、仙台からわざわざ私の出張にお付き合いをしてくれた東北営業所のM君と2人、噂のわんこ蕎麦に挑戦しようということになった。わんこ蕎麦はいくら食べても同じ料金で、薬味の種類の多少で値段が決められている。昼の混む時間帯をはずれていたということもあり、すんなり席につけた。間もなくそのわんこ蕎麦の儀式?が始まった。整然と御わんが並べられた四角いお盆を軽々と片手で支え、赤いたすきがけの姉さん(実はちょっとおばさんだが、ここでは姉さんと呼ぶことにする)が、せわしない地元の民謡らしき音に合わせ、空いた手で前後に御わんを揺すり回している。私の頭の横なので、早く食べなさいとせかされているようで落ち着かない。彼女の御わんは私が蕎麦を食べ終わった瞬間、電光石火のごとくひっくり返り、気がつくと私の御わんに新しい蕎麦が入っている。御わんから御わんへ、心から心へ、蕎麦がつなぐ食い意地と、早ワザの連携プレイである。なんとか30杯ぐらいまでは食べ終えることが出来た。せっかく取った薬味を味わいもせず、又そんな余裕も与えてくれない。33杯目あたりから急にきつくなってきた。ペースが落ちてくるとジャン・ジャンと言って姉さんが発破をかける。それから数杯頑張ってはみたが、遂に限界を感じて最後に御わんに蓋をすることにした。皆さんはご存知だろうか、わんこ蕎麦は最後に自分の御わん(その時は食べ終えて空になっている事が条件)に自身で蓋を閉めてから初めて終了するという約束事があることを。しかし、私の場合終らないのである。なぜならば、食べ終えてから大急ぎで蓋を閉める前に姉さんの早ワザで蕎麦が入ってしまうのだ。いくら急いでも蓋をする前に蕎麦が入ってしまう。
最初はそのことが新鮮で笑っていたのだが、それを幾度となく繰り返す内にほとんどヤケになってきた。これは常識的にどう考えてもおかしな話で、同じ料金なら客が蕎麦を食えば食うほど店は損をするわけで、それがもういらないとわかっていて、どうして無理やり私の御わんに蕎麦を放り込むのか理解に苦しむ。M君とも顔を見合わせて大笑いしていたのだがだんだん真顔になってきた。このままでは胃のパンクである。その時、苦し紛れの素晴らしい一手を思いついたのでここに御披露する。それは姉さんが蕎麦を放り込んだと同時に、すばやく自分の御わんに蓋をすることだ。そして、ほんの少しだけ蓋をずらした部分に口をつけ、そこから思いっきり蕎麦をススルのだ。これでは姉さんは蕎麦を放り込めない、そして大きな声で終了と叫ぶ。遂に姉さんの神ワザを封じ込めた。苦し紛れとはいえ我ながらいいアイデアを思いついたものだと自画自賛。結局私は43杯で終った。わんこ蕎麦は15杯でかけ蕎麦一人前ぐらいの量との事、多少店によって誤差はあるだろうが、そこの壁に貼られた記録は300杯を超える横綱級から、ずらっと驚くほど多くの蕎麦を食べた人たちの名が並んでいる。ちなみに現在の最高はその後の96年に21歳の山梨県の男性が食べた559杯!だそうだ。信じられない!
店を出て、北へ行くM君とも礼を言って別れた。それにしても、空いていれば客一人に天下の早ワザを会得した従業員が一人付き、最初から最後まで付きっ切りで世話をする仕組みはここ日本でも世界でも珍しいのではないだろうか。高級食材より高い人件費を惜しみなく使うセレブなランチと久しぶりに大笑いさせてくれた姉さん達に感謝!と帰りの登り電車で1人うす笑いを浮かべながら、右手でいまだにパンパンな腹を無意識にさすっている自分に気づき、思わずドキッとして周りを見渡した。

あとがき:古い話で記憶が不鮮明なところや多少ふざけた表現もあるが、盛岡へ行ったなら、ぜひ楽しいわんこ蕎麦に挑戦することをお勧めする。何しろ旅と腹が重みを増すのだ。
2006.10.29 (日)  浄土が浜まで
今日10月15日、日曜日に本州最東端の町、宮古にやってきた。この宮古というところは岩手県の三陸海岸のちょうど中間に位置し、豊かな海と山の自然に恵まれた、県庁所在地の盛岡から太平洋にまっすぐ東に向かった所に位置する港町である。森進一の港町ブルースにも出てくる所だ。今日はこの宮古湾の埠頭から宮古随一の景勝地、浄土が浜まで歩いてみることにした。午前9時30分、いよいよスタート。埠頭から歩くこと10分、山から切り出された沢山の材木が潮風に乗っていい香りを運んでくる。杉の木だろうか軽井沢の森の中と同じにおいがする。その材木置き場の広さは驚くばかりである。こんなに切って大丈夫だろうか、などと要らぬ心配をしながら歩いてゆくと、大きく左に曲がって国道に出る。日曜日ということもあり、長閑な町並みは人がほとんど歩いていない、行楽地や買い物に向かうであろう車だけが2車線を行ったり来たりしている。道なりにしばらく行くと程なく宮古大橋に出た。隣にもう一本小さな橋が平行に渡っている。浜風に吹かれながら大橋をゆったり渡って右方向へ、しばらく行くと右側に小さな釣り船が何艘も泊まっている所に、休日の光を浴びながら釣りを楽しんでいる人たちが見えてきた。防波堤に空けられた小さなトンネルのような門をくぐると車の喧騒からも隔絶され、静かに時を刻んでいる別世界となる。釣り人のバケツの中の取った獲物を覗いて見ると、クチボソより大きくて色が白い魚が30匹ほど泳いでいる。叔父さんに"これはなんという魚ですか"と聞くと、"チヌだ"と答える。キヌとも聞こえたがいずれにしても、チヌと言うのは確か黒鯛だったのではと思いながらも、黒鯛とは似ても似つかない地元の魚として、これまで私の知っている数少ない魚類の新種として受け止めなければなるまい。"そうですかチヌですか"とずっとその魚を見ていると、その釣り人の叔父さん、私を可愛そうに思ったのか、"湖のワカサギと同じ魚だよ"と言った。そういえば、あの天ぷらにするワカサギ以外のなにものでもないと納得。"今日は美味しい天ぷらですね"というと叔父さんはにっこり笑った。
こんな釣り人や家族ずれが集う波止場の隣の臨海通りに別れを告げて、思いっきり日が当たっているアパートらしき木造を左に見ながら、岬を上がってゆくと又新しい湾が出現した。ここからは、ローカル色がより一層強くなる。行きかう人と目が会えば、私に挨拶をしてくれる。なんだか昔に戻った様で、懐かしくてとっても優しい気持ちになる。しばらく進むと古びた風情のある鉄筋の建物の前にやってきた。上の窓が割れている所まで絵になっている。そこだけステンレスで真新しい扉の横で、雨にさらされ色あせた小泉前首相のポスターがいまだに貼られ、"改革を止めるな"と書かれた白い文字が遠くむなしく感じられる。そこから数メートル先の小さな看板に宮古鮮魚共同組合・冷凍倉庫と書かれていた。映画のロケで使えそうなシブイ倉庫だ。静かな湾を右に見ながらしばらく歩いてゆくと、汐の香が一段と強くなり何艘もの小船がコンクリートの陸に上げられている。その横でいくつもの発色の強いオレンジ色の丸いブイが日に光っている。ここでは漁師町の典型的景色が展開している。最後の坂を上がると浄土が浜だ。ちょうどその坂は、うっそうとした木が茂る小高い丘の陰になっていて空気が急に冷たくなる。気温が2,3度違うのだろう、湿った風が吹いていてずっと歩き続けて熱くなった体に心地いい。
かなり長い道を上がりきると浄土が浜の駐車場や、レストランが出てくる。その先が遊歩道で今度は長い下り坂を降りきると、いきなり綺麗な水をたたえた湾、お目当ての浄土が浜に出た。なるほど、そこは素晴らしい景色で、沖に遊ぶボートが岩と岩の間に何艘も浮かんでいる。なんでも300余年前、霊鏡和尚という人がここを訪れたときに「さながら極楽浄土のようだ」と感嘆したとか、その言葉によってこの浄土が浜という名前がついたそうである。海沿いに手すりのついた細い道を先に進むと白い石灰岩のような岩が連なって、青緑の海の色との見事な調和に目を奪われる。たくさんのカモメ達が空を舞い、手を上げると何かくれるのかと寄ってきて結構スリルを楽しめる。遠くに見える岩の上を松が覆っている。一番近い大きな白い岩は、画家セザンヌがこよなく愛し、その絵を何枚も書き残したプロバンスの石灰岩の白い山、サン・ビクトワール山そのものが海に浮いているように見える。この浄土が浜の岩は石英粗面岩といって鉱物成分が入っているものらしい。しばらくは、かもめと白い岩と水あくまでも澄んだ群青の海の眺めを楽しんだ。
ここまで歩いてきて本当によかったと思う。車やバスでは一瞬で通り過ぎてしまう町並みや港には、私と同じ今という時を共有している見知らぬ人たちがいる。小さな床屋さんで髪を切ってもらっている少年の可愛い横顔、立ち話している年配の漁師の楽しげな姿、材木の香りや強い汐の香り、暑い日差しやひんやりとした風、始めてきた遠い港町で出会う人や風景が一コマ単位の絵となって心に沁みこんでくる。自然の中のトレッキングも素晴らしいと思うが、こんな見知らぬ町で思いつきのような散歩の旅もいいと思う。インターネットや豊富な情報が載った旅行雑誌などで、前もってその距離や寄り道するところを調べることもたやすく判る今、何気ない出会いや何気ない発見がおもしろい。それよりうれしい驚きは、自分の中のめったに起きない冒険心が目を覚ますことだ。
2006.10.28 (土)  澄んだ秋空に思う
55分間の空の旅を終えて青森空港でレンタカーを借りる、雲ひとつない秋晴れで最高のドライブ日和になった。まずは、当初の目的どおり八甲田山を目指すことにした。ちょうど、機中から見ていたのでわかっているつもりだったが、いざ下に降りてみると様子も違い方向がわからなくなる。そこで文明の利器カー・ナビ登場でお任せのドライブとなる。見晴らしのいい国道を右の方角へ30分ほど走ると多少の登りになってくる。しっかりと山を目指している。
八甲田山とは連峰の総称で10余を数える山々から構成されている。冬や春にはスキー、夏には高山植物、秋の紅葉と一年を通じて楽しめるという。途中で消防士か自衛隊を連想させる男の団体がバーベキューを楽しんでいる萱野高原を通って、いよいよ八甲田ロープウェーについた。行楽シーズンの土曜日とあって車の停める所も一苦労、やっと停めてからロープウェーを待つこと40分と書いてある。ここでも中国人の団体が一杯いる。先日は御殿場のアウトレット、去年はパリのルーブル、何処へいっても元気のいい中国人で一杯、まさか八甲田までがこの状況かと驚くばかりである。人口13億とも14億ともいわれるパワーはいつのまにか世界中に散らばっている。ひと頃、世界中どこへ言っても日本人がいると良く言ったものだが、今、何処へ行っても中国人が、しかも団体でいるのだ。ちなみに、ルーブルでは日本語の解説はなくなり、中国語に取って変わられているのには一抹の寂しさを感じた。待つこと35分、中国語だけが飛び交う満員のロープウェーの中、圧倒的少数の日本人の私は、黙々と赤黄緑に染まった山肌をカメラに収めた。このロープウェー、定員がなぜか101名なのである。何でそんな半端な数字なのだろう、もし、大きなお相撲さんと小さな幼稚園児も一人ならこの半端は変なことになる。それならきっちり100名でもイイじゃないかと思いつつ頂上に着く。
そこはさわやかな風が吹き、陸奥湾から青森港、それに続く市内、反対側には青森で一番高い岩城山などが一望できる。先場所、国技館で見た人一倍大きかった岩城山はこの辺りの出身なのだろう。遊歩道を少し下ると右側に笹の茂み、そこに生えた枝のない枯れた松が、その後ろに見える山々と抜群の調和を見せている。手付かずの自然が時々偶然に造る見事な景観は、到底人間の作り出すものと比べることが出来ない優れたものになる。そこを下りきると湿原が現れ、沼のほとりには低木が茂りその向こうの山を写し出し、自慢のカメラを持った人々の格好の撮影場所になっていた。高山植物も多く、いわば天空の庭園のようだ。山を降り今度は市内に向かう途中のねぶたの里に寄ってみる。祭りで使われた本物のねぶたが暗く大きな倉庫のような所に10台も置かれ、内側から綺麗に照明されていて、その大きさと迫力に驚く。武田信玄と上杉謙信、義経など時代物が多く、これらものは市長賞や何らかの賞を取ったものばかりだが、祭りの後その他の賞を逃したねぶたは大きくて始末に困るのだそうだが、せっかく作られたものなので何とか利用できないものか地元では頭痛の種だそうだ。製作費も大企業がスポンサーに付いていなければ難しいとのこと。これはこの夜お会いした、地元の裏事情に詳しい津軽三味線の名手の山上氏からお聞きした話。
そこから、国道7号バイパスで市内を通り越して、三内丸山遺跡に向かう。国道を右に折れて間もなく、近代的な建物の縄文自由館があり、無料で入れることにまず驚く。今から約4000〜5500年前、ここに縄文の550棟にも及ぶ集落があったという。西暦のはるか昔ということは、日本の歴史というものの記述がない時代。ここで驚くのは、その人たちの食事の痕跡である。ブリ、カレイ、アサリなどの海産物、栗、柿をはじめとする木の実や果実、鹿、うさぎなどの動物、これら、バランスのとれた食物をとっていたということに驚く。もちろん防腐剤や油ものは皆無である。館を出ると静かな平地が広がっていてそこに竪穴式住居や、堀立柱建物などがいくつも想定復元されている。この住居そばに子供の墓と大人の墓がきれいに2列に長く並んでいたという。子供の遺体は土器の中に埋葬され、その多くの土器の中にはこぶし大の石が入っていたという。これらは祈りの為なのかいろんな憶測を呼ぶが、実際どんな意味があるのかはわかっていない。もちろん今のように先進医療もなければ新薬もない時代、この時代の平均寿命は30代半ばといわれている。遠方に山々を見て小高い丘にすすきが群生しているのどかな景色の中に、先人達の短い命ながらも平和な生活が偲ばれる。きっと、子を思う親心、家族の絆などはこの時代から延々と時を刻み育んできたのだろう。それにしても、私たちが生きている今を思うに、平気で地球を傷つけ、私利私欲の為に差別や勝ち負けにこだわり、戦争やテロという名のもとに殺戮の引き鉄を引く現代人は、この古代から今日までの5000年という月日を費やして、いったい何を学んできたのだろう。ふと、こんなことを思わせる夕映えの澄んだ秋空だった。
2006.10.18 (水)  青森までの55分間
飛行機で日本の北へ行くのは今が最も面白い時期だ。もしそれが風もなく晴れの日で、しかも窓際ならいう事なしである。私は先週の土曜日、10月14日の午前7時35分羽田発、青森行き1201便でその条件をすべて満たすことが出来た。なぜ北がいいかと言えば海へ外れることなく、本州のほぼ真ん中の起伏に富んだ陸地を飛んでくれるからだ。
機内誌の終わりの方の頁にある日本地図と見比べながら行くと実に面白い。まず、上昇中にディズニーランドを左下に、ずっと先にトーキョー・ドームの屋根が見える。空から見るとビッグ・エッグのニックネームの由来がわかる。いつも地上で見ている身近なものが、久しく会わなかった友人のように懐かしく感じる。朝の空気はあくまでも澄んでいるようだ。埼玉・群馬・栃木と見当をつけてゆく、まだ見えているかなと、左斜め後方の富士山を振り返ると輪郭がやけに大きく見える。そして、眼下の山々はそろそろ頂上近辺が赤くなっているのが見えて来る。北へ飛ぶほど赤が多くなり、緑の部分はだんだん下に侵食されて行く、まさに紅葉前線を追って時間差のない高みの見物となる。これが海外となるとそうはいかない、何処まで行っても海やツンドラと雲、せいぜい暇つぶしに100万分の1の確立のUFO探しぐらいである。こうして上から見てゆくと、日本はいかに少ない平地を有効利用しているかがわかる。田畑と人家の集まりが狭い所に寄り添うように見える、川が谷の真ん中をうねるように流れていたり、山間に満々と水をたたえた湖が青く光ったりしている。
昨年、南仏に旅をした時のこと、鷲の巣村という小高い丘や山の上に民家や土産屋や協会、ホテルなどが集まっている村があった。これが至る所にあり、その昔そこが好きで集まる画家や資産家が多くいたという。今ではそのすべての村が観光化され多くの旅行者を集めている。確かに景色が良く治安の面でも外部を拒む安心感があるが、もともとはあらゆる民族からの攻撃や侵略を防ぐ為に、その地の利に必然的に作られた要塞の様なものだったのだと思う。もし日本が無防備で平和な島国でなかったら、あの南仏の様に人々は丘や山の上に住んだのだろうか、そうなっていたら今の何倍もの見晴らしのいい居住区ができたのか等という稚拙な空想をしてみた。しかし、日本の鎌倉幕府の開設にあたり、頼朝などは海と山に囲まれているからこそ安全な平地を選んだといわれている。その時代の文明や国民の習性もあり、一概にその違いを決め付けるわけにはいかないが、面白おかしくその空想話をエスカレートさせて見た。丘に住む者(見下ろす所に住みたい者)・平地に住む者(見上げる所に住みたい者)、外部からの侵略を守る者・そんなものがないから守らない者、夜になると元気になる狩猟民族・夜になると寝る農耕民族、アングロサクソンであるところの白人と我々東アジアの黄色人種にいたる民族や人種の対比にまで及んで、力と雄弁な言葉で伝えてゆく者・無口な努力で伝えてゆく者、ここまで行くときりがない。とりあえず私はこの空の下で生まれ育ち、今の季節に赤く染まり行く日本が好きなのだろう。
そんな事を思っているといつの間にか左に海が見えている。日本海に突き出た大きな半島が左下に見える、あれが男鹿半島だろう。しばらく日本海の側を飛んでいたが又内陸に戻る。さっきからなんとなく機体が前に傾きだしたなと思っていると、早くもシメの機内アナウンス。"皆様、当機は間もなく着陸態勢に入ります。シートベルトを〜、御使用になられましたテーブルは〜。"私の隣にはこの機を一人で17分も待たせた一見セレブ風というファッションが好きな、香水のきついギャルが座っている。"尚、この機が遅れました事を深くお詫び申し上げます"と離陸時と着陸時の2度に渡ってギャルにプレッシャーをかける小利口そうなスッチーこと機内乗務員の言葉。小柄なギャルは益々小さくなって、隣で寝たふりを決め込んでいる。根はそんなに大胆ではなさそうだ。最初は無神経でズボラなやつだと思っていたが、同じ旅人という同胞意識がわくのか、段々可愛そうに思えてくるから不思議だ。左下に見えてきた八甲田山の上を軸に、機体を左に大きく傾けてから小さく半回転させると、小さな飛行場がずっと先に見えてきた。たったの55分間だが、いろんなことを考え、いろんなドラマが起きている。こうやってまめに筆にすると貧しい脳がいかに活動しているのかが、改めてわかっていじらしい。さあっ!いよいよ初めての青森だ。
2006.10.17 (火)  恋愛専科で会いにゆく
又、少々古い話になるが、トロイ・ドナヒューとスザンヌ・プレシェット主演・共演の"恋愛専科"という映画の話。ストーリーは単純明快そのもので一度見ると何年かは見ないことにしている。
封切落ちからしばらくして、飯田橋の大交差点の隣にあった小さな映画館、クララ劇場でそれを見た。その先の神楽坂に上がる少し手前の多少綺麗で入場料が30円ほど高かった佳作座ではないところにこの話のマイナーさがある。私にとって青春時代に入る2〜3歩手前の映画だったと思う。めまぐるしく変わる時代これらの映画館は、今はもうない。俳優もストーリーもアメリカ映画そのものなのだが、舞台はイタリアの素晴らしい観光地、音楽も小道具もこれまたイタリア、このイタリアが映画の重要なキモになっていてそれを豪華な出演者たちが花を添えて成り立っている。
まずストーリーは、大学の図書館に勤めるプルーデンス(スザンヌ・プレシェット)が猥雑な本(恋人たちのレッスン)を生徒に貸し出して、御偉い女の先生方に呼び出されて注意される。彼女は恋を知らないつまらない人生なら恋愛の自由なイタリアに勉強に行くと、啖呵をきって辞表を出す所からこの映画は始まる。1962年のアメリカでまだ船旅という事も意外だが、イタリア行きの船で知り合ったイタリア人の中年男性ロベルト(ロッサノ・ブラッツィ)にローマで滞在するアパートを紹介してもらうのだが、両親まで送りに来ていた大事な娘の長期滞在型のお宿、オイオイまだ決まっていなかったのかよという事にも驚かされる。そのアパートに住んでいたアメリカ人の若者のドン(トロイ・ドナヒュー)と知り合い、プルーデンスが本屋に就職が決まった日、一緒に祝ったドンとの恋が始まる。それからはイタリア観光旅行のような旅が始まる。その後、多少の心の行き違いはあるものの最後は出来すぎで見ている私が恥ずかしくなるほどのハッピー・エンド。
映画のオープニングから流れるサントラの"ローマ・アドベンチャー"というインストゥルメンタルは、珍しく最初のワンフレーズから盛り上がりのサビがくる。これがオリジナルの映画タイトルになっていて、美しいヨーロッパの町並みの為につくられたような名曲、レコードやCDでは教会の鐘の音が最初に入る。そして、もう一曲はこの曲なくしてこの映画は成り立たないという1961年のサンレモ音楽祭での優勝曲"アルディラ"である。これを世界的なヒットにさせたエミリオ・ペリコリ本人が出演して歌うという贅沢なことをやっている。しかも、このサントラ2曲は劇中いろんな場面で実に効果的にアレンジを変えて使われているのだ。ゆえに、たった一枚のシングルのA/B面2曲で立派なサントラ盤になる。ドンが乗る赤いスクーターは"ローマの休日"を思い出させるものでイタリアの代表的な名車。主演の2人ともこの時が最も旬で、特にスザンヌ・プレシェットは彼女が出演したどの映画よりもこの時が一番美しい。トロイ・ドナヒューはもともとTVスターとして日本でもお馴染みだったが、"避暑地の出来事"、"遠い喇叭"(スザンヌと共演)、"パームスプリングスの週末"など、白いパンツに真っ赤なセーターが良く似合うアメリカ青春映画の代名詞的存在だった。後にこの2人は実生活でも結婚したが、ご多分に漏れず長くは続かなかった。
共演陣がまたシブイ。優しいイタリア人でプルーデンスのアパートを世話し、赤茶のマセラティ・コンヴァーチブルに乗る恋の指南役のロッサノ・ブラッツィは、名画とされる"旅情"、ミュージカル映画"南太平洋"などへの出演で有名。名曲"魅惑の宵を"歌っている時の彼は本当に素晴らしかった。ドンの年上(多分)で、元彼女役のアンジー・ディッキンソンは西部劇の"リオ・ブラボー"でジョン・ウエインの恋人役で出演し、一躍スターになった人。彼女がジョン・ウエインに「そんな肌を出した服は着るな」(映画の流れから実質のプロポーズ)の様なことを言われて、黒いボディスーツ風な服を2階の窓から外に脱ぎ捨てると、ちょうどその下を通りかかったウォルター・ブレナン扮するひょうきん爺さんの上に落ちてくる。わけがわからないブレナンがヒーヒー笑いながら洒落でソレを首に掛けて去ってゆくという有名なラストシーンは何とも粋だった。かなりド派手なドンパチの最後に色気で締めるとは心憎い演出である。劇中で歌われるディーン・マーチンとリッキー・ネルソンのデュオの"ライフルと愛馬"はいつ聞いてもそのカッコよさに鳥肌が立つ。西部劇での劇中歌ではマリリン・モンローの"帰らざる河"と双璧ではなかろうか。
大幅に脱線してしまったが、このように"恋愛専科"はかなりの実力を持った俳優たちが助演している。監督はヘンリー・フォンダ、モーリン・オハラ出演の"スペンサーの山"、"二十歳の火遊び"等多数のトロイ・ドナヒュー出演の作品で知られるデルマー・デイビスの1962年の作品。映画はストーリーがすべてという人も多かろう、しかし、こういう考えはどうだろう。イタリア観光局御推薦的なローマ市街を皮切りに、フィレンツェ、ピサ、マジョレ湖、イタリア・アルプス等を団体旅行のバスガイドを始めとする出演者達の生の解説入りで行く1時間20分ほどのイタリアの旅。同行するのは背が高くブロンドがかっこいいトロイ・ドナヒューと黒髪で誰にも負けない美しい目をしたスザンヌ・プレシェット。2人の恋の演技入りのサービスもあり、しかも煩わしい機械操作や耳にヘッドフォンをつけずに、BGMの素晴らしい曲達がここ1番という時に聞こえてくる。こんな肩の力を抜いた映画の楽しみ方も一興ではなかろうか。というようにいろんな見方を模索し提案する私の本音は、じつの所あの頃、最も多感だった自分自身に会いに行く心の旅をしているのだと思う。そして、又何年かしたら埃の被ったビデオ・ライブラリーの棚からそっと引き出してみる。私にとってかけがえのない映画がこの"恋愛専科"である。
2006.10.08 (日)  17歳の夏に
昔日に徳島を旅した日の事、3歳年上の兄の友人である一楽氏が、ちょうど阿波踊りのある時期に実家の徳島へ兄を招待してくれたのだったが、母が無理やり弟の私を連れて行く事、そうしなければその旅行は許可しないとまで言い、仕方なく兄は足手まといな弟の私を連れて行ったのだった。今思えば、母も一人残るも2人残るも同じ苦労の厄介払いと兄のお目付け役の一挙両得だったのだろう。羽田発の始めて乗る飛行機で大阪へ、ちょうどジャイアント馬場氏も同じ飛行機でいっしょになり、あまりの大きさに驚き感激したのを覚えている。なにせ、彼が持つと普通の雑誌が手帳に見えるのである。それから船で徳島へ、夏の徳島はその3日後にせまった阿波踊りの祭りの為の準備で慌しくも活気があり、町全体がお囃子の音に溢れていた。町の角々には微妙に違うお囃子が流れ、聞く所によると各グループごとにそれぞれのリズムを持っているとの事で、何人もの踊り手たちがその拍子にあわせるように楽しそうに手で間をとっていた。
どの顔もこれから予想される華やかな展開のなかで、一瞬の高揚を待つ熱い心が伝わり、それが私にはとても新鮮だった。そして、祭りの夜、むせ返るような人いきれと喧騒の中、昼間よりも明るい光の中で呆然と観覧席の中に私はいた。自分たちのお囃子に一糸乱れぬ動きを見せる娘たち。眼前の空気を小気味良く切り裂くような手の動き、黒下駄の先はあくまでも前に傾き軽やかに進む、高潮した頬、真紅の紅を引いた少し開いた唇、汗の筋が光る白いうなじ、笠の下から時々覗く漆黒の瞳。男踊りの男たちはしっかり腰を落とし、おどけた動きの中に一瞬見せる真剣勝負の厳しい視線。その横で先端に提灯をつけた長い竿を思いっきり突き上げては下ろすたくましい若者の腕、年に一度繰り広げられる南国の祭りは何処までも熱く感動的だった。翌日の午後、兄の友人達と鳴門海峡を徳島側の浜辺から望んだとき、波と遊ぶ仲間の笑い声が途切れ途切れに聞こえていた。浜に座り目を閉じて磯シギの声に耳を澄ませていると風と波の音がそれをかき消すように重なる。人の気配でふと目を開けると、砂の上に長く影を引いた一人の女が私の前に立っていた。私より4歳年上の彼女の名前は真琴さんといい、兄達の友人の一人で対岸に見える淡路島から来た人だった。サーモンピンクのワンピースが同色の夕日に映え、長い黒髪が揺れていた。その美しい瞳が微笑みながらじっと私を見ていることに気がつき、思わず下を向いてしまったウブな自分が今もこの胸の中にいる。遠い日の中でいつまでも心に残る一瞬がある。
それが、何かのついでに完璧な形で蘇るときがある。前回の(9月28日午前11時)の中で記した先日の船旅で、私が17歳だったあの時以来の懐かしい淡路島を見たことで、その情景の数々が走馬灯のように私の心の中で回った。年を重ねて来たせいか、過去のささやかな思い出の遺産を時折食い潰しているようにも思える今日この頃。さて思うに、昨日、今日、明日という日々がいつも挑戦で、新しい人の出会いや出来事の中に過去を埋没させる事も人生ならば、過ぎ去りし日々を振り返り、振り返り噛み締めながら歩むのも人生。 出来ればその中庸をまっすぐ進みたいものである。
2006.10.02 (月)  9月28日午前11時
9月28日午前11時、今、全長9368メートルという島国の日本が誇る瀬戸大橋の下を抜けて2時間半になる。実に穏やかな瀬戸内海の上にいる。太陽からこぼれ落ちた光たちは、小波の上をぱちぱちと無数にはじけ跳び、遠くに行けば行くほど、それは徐々に小さく細かな粒となって水面に現れては消えてゆく。その先の遠い水平線の上は白くかすみ、蜃気楼のように多くの島々を静かに浮かび上がらせている。横浜をたって4日目、昨日は生口島の瀬戸田に寄港、その前の晩に今、乗船しているこの船パシフィック・ビーナスでお知り合いになった平山郁夫画伯の弟さんである平山助成氏が館長を勤められている平山郁夫美術館を訪ねてみた。私より数時間早く下船なされた氏は私を快く迎えてくれた。
氏は郁夫画伯の12歳年下の同じ干支の実弟で最も郁夫画伯を知る方の一人である。日本を代表する日本画家、平山郁夫氏は世界中を取材や親善、各地の文化遺産保護のために旅をされご活躍されている。まず、美術館の門をくぐると右手の中庭は、瀬戸内海を縮小したものになっていて木々の緑が趣を添える。館内はバーミアンの大石仏、アンコールワット、シルクロード、もちろん瀬戸の風景等、素晴らしい作品で見所満載であるが、その中でも画伯が子どもの頃に描いた絵日記から素描にいたるまでが保存展示されている事には驚く、あの時代、昭和初期から現代に至るまでの日常のものが残されている事は、ご本人の作品に対する思い入れはもとより、お母様をはじめとしたご家族がいかに幼少の頃より、その類まれなる才能を温かく育んできたかを思うのである。そして今、私が感じているこの瀬戸の光と風は、画伯の鋭い感性と情熱を培わせた証のように思われる。船は右に淡路島を見ながら、これからしばらくして下を潜り抜けるであろうと思われる明石海峡大橋が遠くかすんでいる。陸上と隔絶した船上だけの世界に浮世を離れた開放感がある。これにはまる旅行経験豊かな年配者が多いという。
のんびりと島々を見ながら、風に吹かれて幾つもの橋をくぐりぬけていく始めての船旅。途中寄航する各地にそれぞれの思いを詰め込んで行く旅、なんとなくいいものである。
2006.09.17 (日)  神保町のタッセル・スリップォン
先日、TVで懐かしい平凡パンチの特集を見ました。ちょうど団塊世代の青春真っ盛りの頃、この平凡パンチも全盛を迎えたようです。大橋歩さんの遊び心一杯のイラストの表紙、アイビー・ファッションに身を包んだ青年たちの日常が描かれていました。これはもう涙もので毎週どんなテーマになるのか、私の密かな楽しみでもありました。この表紙は1964年のゴールデンウイークから1971年の12月までなんと390号にも及ぶそうです。パンチと共に、メンズ・クラブや男子専科などの、まだ当時としては珍しい男性ファッション誌が隆盛を極めていました。その番組を見ていてふとその時代の記憶が蘇りました。
やはり1964〜65年ぐらいの事だったと思います。そのメンズ・クラブにホーム・パーティーの写真が載っていて、その中の一人の男性モデルが履いていた甲の中心にリボンの付いたスリップォンがどうしても気にかかりました。なぜ、男の靴にリボン?(今から30年位前に大流行し、その時、大きな靴店では必ず置いてあったタッセル・スリップォンのことです。)6〜7人ものモデルが写っている中のたった一人の本当に小さな靴の部分ですが、何度見てもそれだけが気になります。そこで、その頁の後に載っている取材協力店の中からシューズ部門で平和堂靴店の名前を見つけました。
どうにもそのことだけが頭から離れず、東京の飯田橋に生まれ育った私はその地の利を活かし、お年玉で貯めたお金を握り締め、早速調べ上げたその店を訪ねてみました。神田・神保町の交差点から靖国通りを須田町方面に向かい、石原裕次郎や芦川いずみの看板の出ている、神田日活という映画館(今、観葉植物などを売っている大きな店)を左に、斜め迎えの三省堂を右に見てしばらく道なりに進んだアーケードが途切れた左の角、神田小川町(おがわまちと読む)に平和堂はありました。創業は大正12年という歴史あるもので、新しさの中に格調を感じる雰囲気のある店でした。そして、そのショーウインドーの片隅にお目当てのその靴はありました。
当時のお金で8000円を超えたと思います。中学生の私にとってはすごい大金でしたがやっと見つけたお宝を、ここでそのまま帰れるものかと、エイッ!とばかりに清水の舞台から飛び降りる覚悟で買ったのを覚えています。早速次の日、自慢げに学校に履いていき、見たこともない靴を前にクラスメートの間では大変な話題になりました。その靴を底が擦り切れるまで履いて、何時までも箱に入れて大事にしました。もうおよそ40年も前の事ですが、多分、いや絶対にタッセル・スリップオンを最初に履いた日本人の男子中学生は私だと信じています。それがどうしたと言えばそれまでなのですが、自分で雑誌の片隅から気に入ったそれを見つけ、それを1人で捜し当てて手に入れたことが当時中学生の私にとってとても嬉しかったのです。それ以来、私は平和堂のファンになり、店のオリジナルで先の丸いゴム底の軽くて履き心地のいい靴にはまり、2足も履きつぶしたのを覚えています。
ここから話は少し長めの最終章に入ります。先日、久しぶりに神保町のスポーツ用品店にほしいものがあり、行くと必ず寄る平和堂を覗いて見ると、なんと、誰もが知っている大手の男性服飾店に変わっているのです。しばらくたたずみ、新しい店の店員さんに聞けば、今年の3月の末に店を閉めたとの事。また一つ、私の数少ない青春の証が神保町の街から消えてしまいました。思い出と言うものはしっかりと心に刻んでそっと胸にしまいこむものとは言いつつも、心配になってその先の高級ギターの老舗、カワセ楽器に行ってみるとしっかり営業中でした。一安心して、もう一つ気になる店、そのまま前方へ進み大きな交差点を右に折れ、すぐ右側の坊主頭の男性が描かれた、大きな看板が有名なYシャツ屋さんまで行ってみました。そこもしっかり頑張っていて、坊主の叔父さんの絵もありホッとしました。子供の頃、父や母に連れられ日本橋方面へ向かう都電から、必ずこの叔父さんの看板を見てはそろそろ目的地が近くなった事を確認して喜んでいたものです。
がっかりしたり、安心したりで腹が減り?そこから歩いて1分の大好きな蕎麦のまつや(最近、こだわりだとかで形ばかりのキザな蕎麦屋が多くなってきたのですが、創業100年を超えるというこの店は、いつ行ってもさりげなく優しく迎えてくれます。)で一杯やりながら考えました。何もかもが変わるこの世の中でそれが常だとわかっていても、変わって欲しくない大切なもの、何時までもそこにいて欲しいもの、そんな存在を自分という人間に置き換えて、私自身がそんな存在になれたらいいな〜。ナア〜ンチャッテ!大それた、ひとりごと、ひとりごと。
2006.09.10 (日)  「泥棒成金」とコートダジュール
いきなり唐突で恐縮ですが、車好き、お洒落で旅好きの人へ、私ことアイスブルーのお勧めの映画は"泥棒成金"です。1954年のアルフレッド・ヒッチコックの作品。ヒッチコック本来の手に汗握るサスペンスから比べると少々手ぬるいかなとは思いますが、その舞台は南仏コートダジュール、出てくる俳優は最もヒッチコックのお気に入りだったケーリー・グラント、グレース・ケリーという絶世の美男美女、世界的にも有名な美しい景色、2人の俳優の素晴らしい衣装とその着こなしは、まさに技ありです。舞台になったホテル、カンヌにあるカールトン・インターコンチネンタルの粋、コンヴァーティブルの車の色、そのどれをとっても見ているだけで夢のような気分にさせられます。それとともに、もうこの製作者、出演者たちはほとんどこの世を去ってしまっている事から来ているのでしょうか、時代を思わせるフィルムの色なんかに一抹の哀愁を感じます。
グレースはこの一年後にカンヌ映画祭で再びこの地を訪れ、モナコのレーニエ大公と知り合い、その一年後に結ばれます。世間的に言えば、これはまさにシンデレラ・ストーリーそのものでした。そしてこの映画の中でケーリー・グラントとピクニックやドライブを楽しんだ丘の道で、1982年9月14日に交通事故で他界します。其処はニースからエザを抜け、右手に地中海を見ながらモナコへ差し掛かった小高い丘の中腹が現場になった所です。永遠にモナコ大聖堂に眠るグレース王妃の運命をこの映画に強く感じます。
この"泥棒成金"の中で、2つの忘れられない私の大好きなシーンがあります。1つは始めて出会った時にグレースがホテルの部屋の前で、お休みを言うロビー役のケーリー・グラントにいきなりキスをするシーン。自信に満ちた美しい顔とライト・ブルーのドレスが鮮やかでした。2つ目は先にも述べた、丘の上でのランチの時間です。濃いインクブルーのコンヴァーティブルに乗って、コートダジュールの海を眼下に見ながら、2人が茶色の小瓶のビールらしき飲み物を飲みながら、チキンを食べるシーンです。お洒落な大人のハイキングという微笑ましい感じがして素敵でした。
私はかなりの車好きなのですが、この2人が所有していた車、ケーリーのはエンジ、グレースのは濃いインクブルー、その両車ともいまだに車種がわかりません。ピニンファリーナやギアなどのカー・デザイナーによって限定数台という形で作られた、かなりオーダー・メイド色の強い車なのでしょうか、50年以上も前の高級ヨーロッパ車は相当素人にとって判りにくい事も事実ですが、それがちょっと癪の種です。まぁ、それはよしとして、とにかく宝石泥棒というテーマの軽妙さ、明るいタッチと恋愛のさわやかさ、粋なファッション、極悪非道の悪人は出演カット、今では何処の封切館でも見ることができないこんな軽さがとても心地いいのです。
長〜いひとりごとになりました!


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