アイスブルーのひとりごと
2016.02.26 (金) 春の感謝祭
ようやく桜の枝の先に蕾が膨らんできたようだ。そしてこの時節になると沈丁花が咲き始める。何処からともなくこの香りが漂ってくると、いよいよ生き物たちが皆活動を始める春が近くなったのだと思う。その昔、母が好んでいたクリスチャン・ディオールのトワレであるディオリッシモがまさにこの香りだった。俗にスズランの香りなどと呼ばれていたのだが、スズランの花に縁のない私には、この沈丁花がそれに一番近い香りだといまだに思っている。私がまだまだ若僧だったある時、待ち合せている場所に遅れて走ってきたガールフレンドのM譲はまさにこの香りがした。私は迷わずその好きなディオリッシモの事を言ったのだが、“いいえ!これはミス・ディオールよ!”との答えだった。その時、私の嗅覚もろくなモンじゃないと少々がっかりしたのを覚えている。それからしばらく経った日の事。彼女が申し訳なさそうに“あなたの言った通りであれはやっぱりディオリッシモでした!”との返事が返ってきた。私の鼻の穴のメンツも潰れずに済んだ?という、他愛のない思い出がこの沈丁花が咲く今の頃に蘇る。
こんな話をもう一つ。先月買った車雑誌を見ていて思い出したこの話のタイトルは<サスペンションのバネ>とでもしておこう。昔、昔、私が二十歳になった成人式の話である。その数年前から一緒に行こうと決めていた、同じ文京区民であるH譲を迎えに行った時の事。この時代、その区に住む二十歳になった成人はそこの公会堂に行くのが常だった。当時の私は当然ながら今よりも世間知らずで、妙なこだわりを持つ生意気な小僧だった。成人式といえばどの女の子も華やかな振袖を着ている事につまらなさを覚えていたのだが、その時は何を着ようかな?と彼女が言うので“思い切ってマキシ丈の洋服にしてみては?”などと、ふとその時にすんなり頭に浮かんだファッションを提案してみた。軽口をたたくのはあの頃から変わらない。すると思いがけず彼女も同意してくれたのだった。いよいよその日がやって来た。彼女の家へ迎えに行き、美容院から帰ってくる御本人を待つ間、応接間にお茶を持ってきてくれた彼女のお姉さんがレコードをかけてくれた。(この時代はまだCDではない)その時の会話である。“どんな音楽がお好きなの?”すると私“いえ、これといったものはないです”そしてレコードを探してくれている間は何気に居心地の悪い時間が流れていた。“それでは私が勝手に選んでみました”と言ってかかった曲はディオンヌ・ワーウィックの“小さな願い”だった。粋で弾んで“なかなかヤルジャン!”と思わず心の中で囁いた。何故だか解らないのだが、不思議なほど鮮明な記憶である。
やがて成人式の洋風バージョンに仕上がった彼女の御登場である。髪は私が初めて見るアップになっていた。クルクル巻いた一部の髪がちょうど車のサスペンションのバネのようで、それが彼女の顔の両側で可愛く揺れていた。私は当時の若い女性たちが正装で決める時のこの髪型が好きだった。それが白と黒の太い糸で織られたダイアゴナルのロングコートを一層華やかにさせていた。別人のように大人びて淑女になった彼女はとても眩しかった。以来、私はディオンヌの“小さな願い”を聴くたびに、そしてクルクル巻かれたコイルスプリングのバネを見るにつけ、あの時の成人式の朝が蘇るのである。
今も私にとって人生の谷間というべき、小さな失敗を気にしたり困難な立場に追い込まれて落ち込んだりした時、起死回生のよりどころはこんな女性たちとの優しい思い出の数々である。ただ、永遠に残りそうな小学校の卒業文集にまで掲載されてしまった個人評“わがままでいたずらっ子”という、私に張り付いて離れないレッテルのもと、これまで唯一無二の愛情をくれた母から始まり、優しくしてくれた女友達、そして今に至る妻や娘達。私に関わってしまった女性たちにご迷惑をお掛したことは周知の事実かもしれない。又、それが現在進行形である事もこの場をお借りしてお詫びしたい。罪深い?私の人生を慰め、そして彩りを添えてくれるのはいつも女性たちなのだ。日常のひょんなことから蘇る愛おしい昔日の出来事。その場限りの実行委員長に化け、誰にも知られずに行い終わる“春の感謝祭”である。
2016.02.07 (日) はしご園
雑司ヶ谷の都電の駅を毎朝のごとく通る度にいつの頃からだろうか、此処から何の目的もなくフラッと半日ぐらいの旅に出てみたいと思っていた。東京でありながらどこか懐かしく鄙びた郷愁を感じるこの駅は、人をそんな気持ちにさせる雰囲気がある。晴天に恵まれたある日、私は何ら気負う事もなくそれを実行してみた。
都電に乗ると老人大国をそのまま絵にしたような社内風景が広がる。私も遂この間誕生日を迎え、堂々とこの人たちの仲間入りを果たした筈なのだが、実の所、世間離れとまだ孫もいない本人は全くその自覚に至っていない。枕木を超える時のカタンコトンという懐かしい音を響かせながら電車は進み、東池袋から大塚を抜け、庚申塚から王子に向かう。その途中に飛鳥山公園が見えて来た。待てよ!ここはこの年になるまで歩いたことがない未体験ゾーンだった事に気が付いた。右回りに広い坂を旋回するように下った王子駅で早々下車する事にした。
さて公園に登ろうかと思っていると、可愛らしいおもちゃの様なモノレールが丘の上から私の方に降りてきている。優し気なオジサンが一人いるだけの簡単な駅で、吸い込まれるようにその昭和を思わせる丸い乗り物に入ってみた。まずは世知辛い現代でこれが無料である事に感動する。定員は10名ほどだろうか?今日は私を含め4名ほどの乗車だった。ゆっくりと王子の街を眼下に収めながら上昇し始めると、子供帰りしたようでワクワクしている私の耳に馴染のある声が聞こえて来た。この滝野川が地元である女優の倍賞千恵子の声である。地元愛に溢れたそのアナウンスはたかだか数10秒程のものなのだが、流石に名女優!人の心を充分に和ませるものだった。因みにこの乗り物、飛鳥山とエスカルゴを足して2で割ったような“アスカルゴ”なる名前が付いていた。
この飛鳥山公園は八代将軍の徳川吉宗が行楽地として、千本以上の桜を植樹した事が始まりとされている。なかなか大きい公園で、この中には紙の博物館、北区飛鳥山博物館、渋沢栄一の渋沢資料館が建っている。今日は深谷の駅前に彼の銅像がある渋沢資料館に入ってみた。深谷で生まれた渋沢は1867年パリの万博に幕府の使節団の一人として参加してその文明の高さに感銘を受けた。
この経験を活かして後に500社に上る銀行や株式会社の経営指導に尽力し、近代日本の礎を築いたという。飛鳥山公園の此処は渋沢の賓客用の別邸だったそうだが、91歳で亡くなるまでの30年間をこの大きな邸宅で過ごしたそうだ。今は当時あったほとんどの建物は戦災で焼失してしまい、書庫として建てたモダンな青淵(せいえん)文庫と来客をもてなす為の洋室茶屋の晩香蘆(ばんこうろ)の二つの館が残っているだけだ。ステンドガラスやタイルに照明器具など、すべてに何らかの意味があり繊細で美しい。これに携わった職人のプライドや日本人の心意気が溢れていた。その邸宅の正門があったと思われる所を出て、本郷通りを左へ東の方角に向かって歩き出した。
しばらく行くと古川庭園が右側にある。行き当たりばったりの気ままな旅にしてはグッドな散歩コースと自画自賛。ここは庭園の本館にあたるルネッサンス風の建物が有名で、イギリスの建築家のジョサイア・コンドルの設計としても知られている。ニコライ堂や鹿鳴館なども彼の作品だ。古川虎之助が経営した東京を代表する大正初期の庭園と謳われている。今は花の季節の最盛期ではないので空いているのだが、本館前の色とりどりの薔薇園はその時期になると見事な花を咲かせ訪れた人々を楽しませている。ここを出て本郷通りをそのまま下ると何となく見覚えのある建物が出て来た。それは古川庭園の南東の際に立っている。古川ガーデンマンションという名で思い出したのだが、その昔、私より一つ年上の白百合女子学園のYさんがここに住んでいた。私が十代だった夏の頃、男子校で一緒の友人と彼女の家に遊びに行った事があった。彼女の女子校の友人も来ていてその時は確かご両親が旅行に出かけていて留守だった。それをいいことに、未成年の身でありながらお酒を少々飲んだのかもしれない。今となってはそのきっかけが謎の枕投げから始まって、あげくの果てはプロレスごっこにまで発展してしまい、ここでは悲しいかな、決して甘い口づけなどは無かったと記憶している。ただ一つ、彼女に組み伏せられた時にその髪が夢の様にいい香りだったのを覚えている。その後、エキゾチックで魅力的な眼をしていた彼女は結婚し、御主人と一緒に草木染の個展を青山で開いた。それも30年以上も前の事でそれ以後の事は解らない。その建物を見上げながら青春の懐かしい出来事に一人思い出し笑いをしていると、そこを通りがかった住人が不審な目で私を見ていたのでふと現実に引き戻される。人生すべては幻のごとし!である。
そこから又本郷通りを上がり駒込駅を左に見ながら歩いてゆくと、六義園入り口という小さな看板が見えて来た。確かここ文京区に生まれた私はこの六義園に入った記憶がない。おそらくこの年にしてこれが初めての入園である。五代将軍、徳川綱吉の信任の厚かった柳沢吉保が元禄15(1702年)に築園した大名庭園との事。明治に入って三菱の創業者である岩崎弥太郎の別邸となるが、今から凡そ78年前に岩崎家から東京都に寄付され、後に国の特別名勝に指定された。湯島にある岩崎邸も素晴らしいのだが、こんなに広い庭園を別邸にする財力にはただただ驚くばかりである。回遊式築山泉水と呼ばれ、東京でも最も心和む、そして水と土と木が実に美しい調和を見せる庭園である事を感じた。ちょうど今読んでいる、佐伯泰英の古着屋総兵衛影始末の文中、駒込別邸の設定で幾度となく登場しているのがこの六義園だ。彼の一連の小説はとても馴染のある東京の川や地名が出てくるので読んでいて楽しい。それとNHKの朝ドラに先日から渋沢栄一の役で三宅裕司が出演している。二つの事柄はたまたまの偶然とはいえ、とても面白いタイミングでの庭園巡りになった。この気の向くまま赴くままの小旅行、途中では思いがけずちょっぴり切なくほのぼのとした青春のカケラも拾えた。このひとりごとのタイトルは“はしご酒”に引っかけて“はしご園”と、単なるおやじギャグ風に小さくまとまった。あの日は万歩計で一万七千歩を数え、今こうして何とか無事に生きている事を素直に感謝する一日でもあった。
2016.01.24 (日) 今も音楽と共に
今年も年が明けてから早々に否応なく私の誕生日がやってきた。いよいよ競馬で言えば人生の第4コーナーを回ったのかな?いや直線に入ったかな?とも思えるのだが、自分の未来も当然のことながら寿命もわからない。幾つになっても全ては成行き任せ、風任せの生き方は変わらない様だ。その誕生日の夜、家族から私の名前○○君お誕生日おめでとう!などと言う丸ごと冗談ケーキとウォークマン用のBOSEのイヤフォンをプレゼントされた。時々音が聞こえなくなってそろそろ替え時かな?と思っていたのでこれは嬉しかった。早々試聴したのだが、今までとは全く違う奥行きを感じる。そして個々の楽器の繊細な音質が頭の中を駆け巡った。たかが小さなイヤフォンだが、これだけで圧倒的に違う事を改めて知る。
次の日の朝、最近気に入っている散歩のルートである神田川沿いの遊歩道を、早々この新しいイヤフォンを聴きながら歩くことにした。ここへ来てようやく冬将軍の到来、ネックウォーマーに厚手の手袋で武装しているので肺に入ってくる空気だけが冷たくて心地いい。暫く行くと川岸に一羽の白鷺が舞い降りている。どことなく寂し気で冬の朝日に眩しいほどの白さが際立っている。初夏になるとすぐ隣の新江戸川公園の池には、瑠璃色の羽を持つ本当に美しいカワセミがやってくる。その時は何処から湧くのだろうか?カメラ小僧ならぬカメラオヤジ達が池のほとりに立ち並ぶ。暫くぶりに寄ってみると今は青い空に紅梅が甘い香りを漂わせていた。この神田川は私が十代の頃に悪化した水質を改善するために、当時検査もかねて実験的に放たれた鮒や鯉が成長し、今や40センチにもなろうかという大物になっている。落合から御茶ノ水方面に行く川の流れに逆らいながら、蜜柑色に薄墨を落としたような一匹の緋鯉が、何処か意味ありげにその場を動かずにいる。それと小さい時だけはミドリガメなどと呼んで綺麗で可愛かった筈のミシシッピーアカミミガメが、今では憎らしいほど大きくなって岩の上で甲羅干しをしている。これもまた俗にいう外来種である。
すっかり葉が落ちた桜並木と神田川の冷たい川風がこの街の粛々とした冬の風情である。ここはあと3か月もすれば毎年やって来る老若男女の花見客でごった返すだろう。いつもよりはウォークマンの音量を上げて歩き始めた。それはまるでライブ会場というよりはレコーディングのスタジオにいる様だ。そしてそのクリアで大きな音は、私がレコード会社に勤務して洋楽の編成をしていた頃の事を思い出させる。私のプレゼンが企画会議に通ると、日本での発売が決まった洋楽ポップスのマスターテープ(レコードやCDの源になるテープ)が海外の本社から届く。担当しているアーテイスト達が渾身の願いを込めて世に送りだした音を、当時のJBLの大きなスピーカーを誰はばかることなくガンガン鳴らして音質や雑音をチェックするのである。これも又洋楽ディレクターの特権だった。ウィスパーズやデルズ、ステファニー・ミルズ、膨大なカセットテープから見つけ出して日本デビューさせたハンガリーのニュートンファミリー等、私はディスコやブラックミュージック担当だった。アメリカでは凄い人気だが日本では売り上げがイマイチだったカントリー・ミュージックのケニー・ロジャースやドリー・パートンまで任されるようになったのだが、それはそれで人脈も広がって楽しい思い出である。
今と違ってレコードやCDがよく売れた時代である。今思えば70年代から90年代にまで及ぶ業界の黄金時代と言われた時に、思いっきり好きな音楽の仕事に打ち込んで青春を謳歌できた事はとてもラッキーだった。遊歩道の先の丘に椿山荘の赤いホテルが見えて来た。それと同時に耳の中では今も大好きなカーリー・サイモンのヨーソーベイン、日本語タイトルで“うつろな愛”が始まった。独特のイントロからすかさず“サナバガン”といつもの囁き。サビの所でさりげなくバックコーラスに回ったミック・ジャガーの声が左側からせつなく彼女のヴォーカルを応援する。こうして今も私は心に沁みる音楽と共に文字通り日々を歩き続けている。又、これが無ければこの長年に渡る健康を維持する為の散歩は続かなかっただろう。朝の爽やかな光が眩しい、曲はホール&オーツから次々に変わり自分を取り巻く現実の景色が、何処か違う世界の映像のように見えてくる。そして“このまま自分が永遠に消えてしまってもかまわない!”と思える不思議な瞬間がやってくる。
お年頃だろうか?最近コレが多い。
2015.12.26 (土) 北陸の冬の旅と食欲と
北陸新幹線の開通で石川や富山がとても身近になった。それと11月初旬に蟹が解禁になったという事で能登半島と富山に行ってきた。近年、何故か暮れになると何処かへ旅に出るというのが我が家の年中行事になった感がある。今回は会社の休みが取れた次女と妻と私の3人の旅になった。まず上野を出発して大宮に停まりお馴染みの軽井沢、そして上田を通過して長野、富山、終点の金沢という路線である。およそ富山まで2時間、金沢までは2時間半という何とも嬉しい時短と安心の旅が実現していた。いつになっても私は地に足の着かない飛行機は苦手である。国内であるのなら北海道や九州は諦めるのだが、他は時間の許す限り電車で行きたい!というのが本音である。
金沢からレンタカーで能登の突端に近い九十九湾まで走る予定だ。予約したのはプレミオというカローラのちょうど兄貴分にあたる車である。今更ながら壊れない!燃費がいい!しかも車格や大きさから言って安い!というバリュー・フォー・マネー、これまでの日本経済を支え原動力となった世界に誇れる日本車である。まずはその前に北陸に着いたら鮨である。金沢の駅ビル百番街の鮨・歴々で朝食を兼ねた昼ご飯で腹ごしらえをする。この写真の握りの他に、魚の王様?(こちらの人がそう呼んでいた)焙ったノド黒の手巻きとお吸い物が付いていた。噂を聞いて東京から予約を入れて置いた店だったがさすが北陸!噂通りの美味である。
車は金沢市街からやがて現れてくる冬の外海を見ながら、九十九湾を目指して半島の左側にあたる能登里山海道をひた走る。松本清張の“点と線”の小説のある一説が蘇る様な鉛色の海に真っ白な荒波、それが幾重にも重なり合っている。千里浜なぎさドライブウェイだろうか、その白波が怒涛のように打ち寄せる際を疾走する何台もの四駆の車たち。まるで映画のワンシーンのようである。そして半島中部の徳田大津を通り、能登空港から九十九湾、今日の宿である百楽荘にやっと!到着。思っていたより能登半島は大きく、今どきの国状に反した無料の高速道路を突っ走ってもたっぷり3時間以上のドライブである。
先ほどの半島の左側である外海と違って、地図上では右側のこちら富山湾側は、嘘のように静かな海になる。この百楽荘の魅力は長閑で静かな湾を見下ろし、宿の客だけのプライベートの桟橋で優雅に釣糸を下ろし、岩を切り崩した洞窟風呂や北陸の魚を楽しむといった所である。夕食はこの時期なのでやはり蟹がメインの食事となる。とりあえずこの旅の目的でもあった旬な越前蟹を堪能した。最後に膳にあがったのは足に青いラベルが付いた一定の基準に達している立派な蟹だ。これを一人一匹はかなりヘビーだった。あくる日の朝食は他の客と顔を合わすことのない我々だけの水上コテージでの食事だった。中々粋な計らいである。
さて2日目は富山県の宿を目指すことになる。今度は能登半島の右側の富山湾側を走ることになる。途中、穴水湾で魚のボラの群れを見張って漁をした“ボラ待ちヤグラ”等の観光名所を見学。ちょうど岸から数メートル先に建てられた、3本の丸太の柱を簡単に組んだヤグラがある。その上に座っている原寸大の漁師の骸骨に帽子をかぶせた様なヘンテコな人形が薄気味悪い。そして幸運なことにその日は爽快な晴天に恵まれ、富山方面に向かう前方には、常に真っ白な雪を頂いた雄大な立山連峰が見えていた。こんな事はめったにないらしく、私が生まれ落ちてからずっと続いている、常日ごろのクジ運の悪さをこんなところで挽回した気分だった。今度はたっぷりと4時間以上もかかって次の富山の宿、リバーリトリート雅楽倶に到着。
このホテルはまるで美術館のようだ。入ったロビーから上を見上げると、吹き抜けになった高い大きな空間が広がっていて非日常の解放感に包まれる。そして宿の至る所にはお洒落な美術品が何気なく置かれている。私たちの日本間、寝室とリヴィングからなる150平米にも及ぶ部屋の迎えには、せき止められた川が深い青緑の水を湛え湖のように広がっている。それを眺めながら大きなジャグジーにゆったりと浸かると、不慣れな道をレンタカーでひたすら走った疲れは煙のように何処かに消えてゆく。そこには3人の大きな大人が悠々と入れる低温サウナもついていた。
既に妻も娘もホテルのスパに出かけて行ったので、私一人がこの部屋で至福の時間を独り占めにする。室内を静かに流れているのはノラ・ジョーンズのファーストアルバム。囁くような甘く乾いた歌声が心地いい。想紅の間という名の付いたこの部屋の中で、一日中過ごしたくなったのは長いこと人生をやって来て初めての経験だった。
この北陸の食と数々の銘酒たちが誘う旅は気軽に又行きたいものである。それには時間と金と何よりも大事な健康体が必要になる。人間にはいろいろな欲がある。征服欲、独占欲、物欲に色恋が絡んだ性欲、金銭欲や名誉欲等々挙げればきりがない。これらはトラブルや事件を引き起こし、ひいては自分に都合のいい正義などと言いだしてはテロから戦争までやってしまう。人間をろくでもない生き物にしてしまうモノが欲だとつくづく思う。その中でも食欲はこの世に生を受けたすべての動物の共通のものである。人間の持つ欲の中でも罪のない一番可愛い欲だと私は思っている。お腹が空いて何か食べたいという、たかだか人間の小さな胃袋を満たす単純で明快なものである。年齢を重ねさすがに旺盛さを欠いてきたのだが、流星の如く過ぎ去ってゆくだろう来年も、私は何処かの旅の空でその食欲という欲を楽しもうと思う。それには健康の為、一日に九千歩という早朝散歩をクリアする事も頑張らなくてはならない。又、今年も年越し蕎麦に正月のおせち料理がすぐそこに!という年の瀬である。
2015.10.07 (水) ポルシェ・クラッシック オータムミーティング
来年の春にポルシェ911も我が家に来てから24年目を迎える事になる。この間、勿論いろいろな事があった。振り返り時の経つのは速いもの、今となっては泡のように沸き起こっては消えていった出来事の追想ばかりが残るだけである。そしてこれといった理由はないのだが、今までポルシェが主催する新車発表会以外のイベントには一度も参加した事はなかった。六本木の飯倉にあった当時ポルシェの総代理店だったミツワ自動車でこの車を買って以来、本当に長い付き合いになった平岡氏や、現在世田谷のポルシェジャパンの工場長の小俣氏のお誘いもあり、ようやく重い腰を上げて御殿場のタンタローバ“ミュゼオ御殿場”で行われたポルシェ・クラシック オータムミーティングなるものに行ってきた。ここは普段は結婚式場とレストランになっているらしい。富士山が真正面に見え、それをバックに二人が永遠の愛?を誓うには絶好のロケーションのようだ。ただし晴れていればの事、残念ながら当日は曇り空でその絶景を楽しむ事は出来なかった。参加したのは基本的に空冷時代のポルシェ、いわゆるクラシックと呼ばれるようになった古いポルシェたちである。
この空冷というのは熱くなったエンジンを10リッター以上の油で冷やそうとするものだ。現在、世界中を走り回っている殆どの車は水冷と呼ばれ、冷却システムに水が使われている。1996年より現在に至るポルシェも、頑固なまでにこだわって来た空冷から空間効率の良い水冷に全車が変わってしまった。しかしこの空冷時代のポルシェが最近ヨーロッパを中心に俄かに人気が沸騰し、日本から多くの空冷ポルシェ達が海を渡ってしまっている状態なのだという。以前、家の前のマンションに住んでいたフランス大使館の参事官が、私が車を磨いていると必ず飛んできてこのポルシェを欲しがっていた。ヨーロッパでは走行距離がやたらと多い物ばかりで、日本の様に程度の良い車が見つからないとの事だった。既に20年も前に製造中止になったので、新しい空冷の車はどんなに探しても手に入れることができない。この状況は無い物ねだりに懐かしさも加わったコレクターズアイテムになりつつある。今の時代である、インターネットで今日売りに出ていて結論を出さないでいると、次の日の朝にはヨーロッパで買い手が付いて売れてしまった等という事があるのだという。考えてみれば日本の夜中はあちらでは仕事中の時間帯である。このインターネットという化け物は世界を小さくし、足を運んで現物を確かめて買う楽しみや、人と人とが互いの目を見て直接話すという、人間の本来あるべき姿を徐々に変えてしまっているようだ。
このイベントに向かう道中、東名の大和トンネルの先で事故があったらしく、10キロ近い渋滞に巻き込まれてしまい遅刻が決定的になる。東名が右と左に分かれ、又御殿場の手前で合流する所があるのだが、そこで止むを得ず?決して口には出せないスピードで何とか集合時間を10分ほどのオーバーで到着した。前記のごとく生憎の曇り空だったのだが幸い現場では雨に降られることはなかった。このイベントの主旨として、世田谷のポルシェジャパンはこれまでは新車販売とメンテナンスを行ってきたのだが、この秋より新しく中古車の販売から引き続きポルシェのこれまでのメンテナンス、部品の供給やレストアまでを手掛けようという、世界で10番目に出来上がったアンテナショップのお披露目を兼ねたものだった。要は古いポルシェとの生活や魅力をいつまでもオーナーである我々に楽しんでもらう、その心意気を示したイベントである。イタリアンランチを食べ、総勢20台ほどのクラシックポルシェが会場の芝生の庭に並んだ。そしてそれぞれのご自慢の愛車を前に車談義に花を咲かせるというものだった。
今やポルシェも年間で16万台以上を生産し、それを好調に売りさばく大企業になった。基本のスポーツカーからSUV、4ドアセダンまであらゆる種類の車を作る会社になりつつある。ポルシェが空冷だった当時、まだ日本で年間500台にも及ばない販売台数だった。それが今やその10倍の5000台が売れているそうだ。あの頃、西ドイツのツッフェンハウゼンではエンジンだけを組み上げる者や塗装の専門職など、すべての工程に少数精鋭のスペシャリストたちが育つ土壌があった。基本的には今もその精神は変わらない。そしてサーキットでは無敵であることを常に心がけていた。そんなポルシェ社に私は憧れ、夢を抱いていた。ここに来た人達は勿論車が大好きで、しかも空冷という古いポルシェを大事にしているオタクとも言えるマニアの集まりである。その情熱は益々燃えているように感じた。趣味や好きなモノが一緒であるという事は、初対面の人の垣根をすんなり越えられるものである。楽しい時間が過ぎて行った。
今、人の手を借りずに自動運転で水素や電気モーターで走り、白物家電と化した車が安全に整然と目的地に着くという近未来の時代が見えて来た。このモータリーゼーションの世界も大きな変換の時を迎えている。帰り道の東名高速の車の流れは順調だった。チョット深めにアクセルを踏み込んでみると、幾年変わらない乾いたエンジン音である。残念ながら変わってしまったのは私とこの社会である。