《バックナンバー》
クラシック 未知との遭遇  2008年5月〜2023年6月


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2023/06/14 (水)  競馬人生、光と影
2023/05/10 (水)  超私的坂本龍一観〜「雪列車」に寄せて
2023/04/05 (水)  春爛漫〜WBC、そして中島みゆき
2023/03/15 (水)  加茂川洗耳評論第3弾〜おかしな評論あれこれ
2023/02/15 (水)  加茂川洗耳評論第2弾〜志鳥流ステレオタイプ的批評術
2023/01/11 (水)  2022/2023年またぎ音楽時評
2022/12/14 (水)  秋の信州〜コンサート2連荘
2022/11/15 (火)  加茂川洗耳の怪評論を解読する
2022/10/12 (水)  ベートーヴェン、その楽曲に籠めた思い
2022/09/18 (日)  ベートーヴェンの「不滅の恋人」を考察する
〜小山実稚恵の第31番に触発されて

2022/08/16 (火)  小山実稚恵 衝撃のクレッシェンド
2022/07/26 (火)  ショパン・コンクールにまつわる日本人女流ピアニスト2
〜中村紘子という妖怪ピアニスト

2022/06/20 (月)  ショパン・コンクールにまつわる日本人女流ピアニスト1
〜原智恵子と田中希代子

2022/05/20 (金)  プーチンのウクライナ侵攻とショスタコーヴィチの交響曲
2022/04/23 (土)  春なのに・・・・・
2022/03/15 (火)  女優カラスVS天使テバルディ
2022/02/25 (金)  北京冬季オリンピック〜感動と欺瞞の祭典
2022/01/25 (火)  DIVAマリア・カラスのオペラ歌手人生
〜ギリシャ、アメリカ、イタリア、そして「ノルマ」

2021/12/18 (土)  Come Come Everybody からルイ・アームストロングを思う
2021/11/11 (木)  MLB、そして大谷翔平について思うこと
2021/10/20 (水)  秋に寂しきもの
2021/09/25 (水)  拝啓 茅田俊一先生〜岡村 晃(1964年入学・Tp)
2021/08/25 (水)  モーツァルト「レクイエム」ニ短調KV626〜その補筆部分をめぐって
茅田俊一 1954年入学 Va (一響No.21掲載)

2021/07/20 (火)  モーツァルト「レクイエム」におけるジュスマイヤー最大のミスを是正する
岡村 晃 1964年入学 Tp(一響NO.20掲載)

2021/06/20 (日)  阪神タイガースの背番号「完全数」と「4の階乗」のお話
2021/05/20 (木)  宇野功芳先生のこと
2021/04/15 (木)  マスターズ2021 松山英樹の初制覇を考証する
2021/03/20 (土)  中くらいなり おらが春
2021/02/10 (水)  追悼〜なかにし礼さんへの私的レクイエム第二章
2021/01/15 (金)  追悼〜なかにし礼さんへの私的レクイエム第一章
2020/12/05 (土)  チャーリー・パーカー伝記「バード」を読んで
2020/11/12 (木)  2020米大統領選挙クラ未知的総括
2020/10/10 (土)  大統領選挙から不思議の国アメリカを探る
2020/09/05 (土)  安倍政権の7年8カ月を総括する with Rayちゃん
2020/08/16 (日)  八月、父のことからワーグナーと万葉集に想いを馳せる
2020/07/13 (月)  7月雑感
〜なぜかノルウェー、そしてエリントンからベートーヴェン経由ラヴェルまで

2020/06/26 (金)  626に纏わるブラウニーとアマデウス10
〜PORTRAIT OF SIDNEY BECHETにおけるエリントンの選択

2020/05/20 (水)  626に纏わるブラウニーとアマデウス9
〜再度、瀬川先生とのやり取り、検証

2020/04/25 (日)  626に纏わるブラウニーとアマデウス8
〜やはりプロコープ、そして瀬川昌久先生

2020/03/25 (水)  626に纏わるブラウニーとアマデウス7〜あれはジョニー・ホッジス
2020/02/25 (土)  626に纏わるブラウニーとアマデウス6〜あれはシドニー・ベシェ
2020/01/25 (土)  626に纏わるブラウニーとアマデウス5
〜駆け出し愛好家の「ELLINGTON UPTOWN」研究

2019/12/15 (日)  626に纏わるブラウニーとアマデウス4
〜ガーシュイン「ラプソディ・イン・ブルー」の構造

2019/11/05 (火)  追悼 八千草薫さん
2019/10/25 (金)  626に纏わるブラウニーとアマデウス3
〜アンドレ・プレヴィン、オンリーワン

2019/09/22 (日)  626に纏わるブラウニーとアマデウス2
〜ジャズの名手 モーツァルトを演奏する の巻

2019/08/16 (土)  626に纏わるブラウニーとアマデウス1
〜ジャズの名手はクラシックの名曲をどう料理したか?

2019/07/13 (土)  憲法第9条自民党改正案をぶっ潰せ
2019/06/25 (火)  復興支援のモツレク、そして、新しい岡村版の提唱
2019/05/25 (土)  随想〜風薫る5月に
2019/04/25 (木)  私のオーディオ史
2019/03/31 (日)  野口久光先生の思い出
2019/02/25 (月)  NHK大河ドラマ「西郷どん」が終わって〜クラ未知的西郷隆盛論 後編
2019/02/01 (金)  クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」リポート
2019/01/20 (日)  年末年始雑感・音楽篇〜ウィーンフィル・ニューイヤーと純烈
2018/12/25 (火)  NHK大河ドラマ「西郷どん」が終わって〜クラ未知的西郷隆盛論 前編
2018/11/25 (日)  ジネット・ヌヴー賛〜稀代の天才ヴァイオリニストを偲ぶ
2018/10/27 (日)  ストラディヴァリウス考察〜奇跡、その真相
2018/09/30 (日)  さらばFMえどがわ
2018/08/31 (金)  わが母を偲んで
2018/05/25 (金)  エジソンを凌駕した知られざる偉人2〜エミール・ベルリナー
2018/04/25 (水)  エジソンを凌駕した知られざる偉人1〜ニコラ・テスラ
2018/03/05 (月)  平昌五輪 二人の長野県人メダリストの明と暗
2018/02/15 (木)  贋作昨今〜曜変天目からモーツァルト「アデライード協奏曲」を考察する
2018/01/15 (月)  2018年始雑感〜アルゲリッチ、ABC予想など
2017/12/10 (日)  一橋大学オーケストラ47年ぶりの同期会
2017/11/16 (木)  カズオ・イシグロからFMえどがわ20周年、そして、おめでとう奈良さん!
2017/10/25 (水)  小池百合子の失敗〜希望から絶望へ
2017/10/04 (水)  小池百合子必勝のサプライズ〜最後の一手はミスターXの出馬だ
2017/09/29 (金)  政変は8年周期でやってくる!?〜小池百合子は「この戦は勝てる!」と踏んだ
2017/09/20 (水)  旧Cafe ELGAR店主からのメールを読んで〜後編「誤認を訂正する」
2017/09/05 (火)  旧Cafe ELGAR店主からのメールを読んで〜前編「クラ未知」記述は不正確
2017/08/15 (火)  真夏の夜の夢〜シェイクスピア あれこれ
2017/07/25 (火)  夏のクラシック音楽〜「りんりんクラシック」から
2017/07/15 (土)  ドキュメント〜シャーンドル・ヴェーグのK137を解明する
2017/06/26 (月)  モナリザ500年目の真実 後編〜4人目のモナリザは誰?
2017/06/20 (火)  モナリザ500年目の真実 前編〜隠れていたジョコンダ
2017/05/25 (木)  安倍とトランプ、辞めるのはどっち?
2017/05/15 (月)  エルガー「愛の挨拶」とドラマ「相棒」に纏わる面白話
2017/03/25 (土)  「死なばモリトモ」問題 私感
2017/03/15 (水)  3月の「りんクラ」は「唱歌VSクラシック」の春対決
2017/02/25 (土)  追悼 船村徹〜歌は心でうたうもの
2017/02/15 (水)  第156回直木賞受賞作「蜜蜂と遠雷」はなかなかの傑作だ
2017/01/25 (水)  2017年頭雑感「スポーツ」編〜with Rayちゃん
2017/01/15 (日)  2017年頭雑感「内外情勢」編〜with Rayちゃん
2016/12/25 (日)  ボブ・ディランより中島みゆき
2016/12/10 (土)  丸山泰弘さん追悼演奏会
2016/12/05 (月)  杉並公会堂のことなど〜with Rayちゃん
2016/11/15 (火)  至福のワーグナー体験
2016/10/25 (火)  ボブ・ディランのノーベル賞受賞を抉る
2016/10/15 (土)  FMえどがわ「りんりんクラシック」
2016/09/26 (月)  奇跡の夜〜トム・ハンクスと遭遇の顛末
2016/09/25 (日)  リオ五輪を歴史で斬る 4 〜ボルト 短距離侍4 マラカナンの歓喜
2016/09/07 (水)  リオ五輪を歴史で斬る 3 〜柔道と競泳 お家芸復活!?
2016/08/31 (水)  リオ五輪を歴史で斬る 2 〜ラケット球技 奇跡の5連続ポイント
2016/08/25 (木)  リオ五輪を歴史で斬る 1 〜吉田と伊調そして内村とベルニャエフ
2016/08/10 (水)  スコッチ・ウイスキーにまつわるエトセトラ
2016/07/25 (月)  閑話窮題〜都知事選、鳥越候補のトはトンチンカンのト
2016/07/05 (火)  ブッシュミルズから「ダニー・ボーイ」が聞こえる
2016/06/19 (日)  閑話窮題〜「マスゾエはフォークだ」内田裕也
2016/05/30 (月)  葉加瀬太郎 “再度”違いだらけの音楽講座
2016/05/15 (日)  世の中 ヤキが回ってきたようで!? with Rayちゃん
2016/04/25 (月)  パクリとオリジナルの間に7〜「瀬戸の花嫁」誕生㊙物語C
津村の詞がなかったら「瀬戸の花嫁」は誕生しなかった!?

2016/04/10 (日)  パクリとオリジナルの間に6〜「瀬戸の花嫁」誕生㊙物語B青春の置き土産
2016/03/25 (金)  パクリとオリジナルの間に5〜「瀬戸の花嫁」誕生㊙物語A津村、喜んだのも束の間!
2016/03/10 (木)  パクリとオリジナルの間に4〜「瀬戸の花嫁」誕生㊙物語@津村公という男
2016/02/25 (木)  パクリとオリジナルの間に3〜浜口庫之助のリニューアル二題
2016/02/10 (水)  パクリとオリジナルの間に2〜「また逢う日まで」は阿久悠自身のパロディ
2016/01/25 (月)  パクリとオリジナルの間に1〜美空ひばり「悲しい酒」は二番煎じ
2016/01/10 (日)  個性とセンスの完全主義者ブーレーズの死を悼む
2015/12/28 (月)  2015年末放談 with Rayちゃん
2015/12/10 (木)  テロはなくならないのか?
2015/11/25 (水)  世界野球プレミア12 日韓戦の敗戦
2015/11/10 (火)  バーンスタイン&NYP 2つの幻想交響曲の秘密 後編
2015/10/25 (日)  バーンスタイン&NYP 2つの幻想交響曲の秘密 前編
2015/10/15 (木)  モツレクに斬り込む 最終回〜「レヴィン版」の欠点と岡村版の提唱
2015/09/25 (金)  モツレクに斬り込む11〜「レヴィン版」を含む3つの版を考察する
2015/09/10 (火)  戦後70年に寄せて(後編)〜戦後復興、そしてJiijiの提言
2015/08/25 (火)  戦後70年に寄せて(前編)〜日本はなぜ負けたのか?
2015/08/10 (月)  モツレクに斬り込む10〜モーンダー版は問題あり!
2015/07/25 (土)  モツレクに斬り込む9〜厚化粧を是正したバイヤー版
2015/07/10 (金)  モツレクに斬り込む8〜すべてはモーツァルトの指示
2015/06/25 (木)  モツレクに斬り込む7〜ジュスマイヤーの失敗はなぜ起きてしまったのか?
2015/06/15 (月)  モツレクに斬り込む6〜ジュスマイヤー最大の失敗
2015/05/25 (月)  これでいいのか 日本!!with Rayちゃん
2015/05/15 (金)  モツレクに斬り込む5〜「サンクトゥス」Sanctusは「孤児院ミサ」の引用
2015/04/29 (水)  モツレクに斬り込む4〜「涙の日」Lacrimosaにおけるモーツァルトの指示
2015/04/12 (日)  モツレクに斬り込む3〜コンスタンツェ その見事な裁量
2015/04/01 (水)  ちょっと変だぜ世の中が with Ray ちゃん
2015/03/25 (水)  モツレクに斬り込む2〜奇妙な三角関係
2015/03/10 (火)  モツレクに斬り込む1〜可哀想なジュスマイヤー
2015/02/25 (水)  アメリカが「モツレク」で犯した罪
2015/02/10 (火)  中東にレクイエムを
2015/01/25 (日)  映画「バンクーバーの朝日」と沢村栄治
2015/01/13 (火)  新年に寄せて with Rayちゃん
2014/12/25 (木)  2014ランダム回顧 with Rayちゃん
2014/12/10 (水)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究11〜
          バッハ第3の不易流行「バッハはユーミンの先導師」

2014/11/25 (火)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究10〜バッハ第2の不易流行「平均律」
2014/11/10 (月)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究9〜バッハ不易流行その1「対位法」
2014/10/25 (土)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究8〜「旅に病んで」の深意
2014/10/10 (金)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究7〜果てしなき不易流行
2014/09/025 (木)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究6〜「おくのほそ道」に「不易流行」を探る
2014/09/05 (金)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究5〜芭蕉における「不易流行」の概念
2014/08/05 (火)  Jiijiのつぶやき〜葉加瀬太郎 間違いだらけの音楽講座
2014/07/25 (金)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート 番外編〜出た!蓮實重彦のとんでもない論評
2014/07/20 (日)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート6 〜 ドイツ優勝と大会総括
2014/07/13 (日)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート5 〜 最後に綻んだファンハール采配
2014/07/11 (金)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート4 〜 戦犯はダビドルイス
2014/07/08 (火)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート3 〜 ベスト4出揃う
2014/06/30 (月)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート2 〜 グループリーグに異変
2014/06/26 (木)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート1 〜 日本終戦にJiijiの提言
2014/06/25 (水)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究4〜「おくのほそ道」に見る対置 Contraposition の妙
2014/06/10 (火)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究3〜J.S.バッハ シンメトリーの意識
2014/05/25 (日)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究2〜「ゴールドベルク変奏曲」に見る宇宙観
2014/05/05 (月)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究1〜芭蕉の宇宙観
2014/04/15 (火)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する7〜ある作曲家の論評
2014/04/01 (火)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する6〜拝啓 神山典士様
2014/03/20 (木)  Jiijiのつぶやき〜春なのに
2014/03/11 (火)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する5〜フィクサーXの存在
2014/03/01 (土)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する「最終回」〜長木誠司はとんでもない
2014/02/25 (火)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する3〜許光俊の前代未聞の推奨文
2014/02/20 (木)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する2〜本当に知らなかったのか?
2014/02/16 (日)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する1〜空前絶後の事件
2014/02/10 (月)  Jiiijiのつぶやき〜春呼ぶクラシック
2014/01/25 (土)  クラウディオ・アバド追悼
2014/01/20 (月)  Jiijiのつぶやき〜年末年始エンタメ編
2014/01/10 (金)  Jiijiのつぶやき〜年末年始スポーツ編
2013/12/15 (日)  閑話窮題〜GlobalクリスマスSongs
2013/12/05 (木)  晩秋断章〜今年の秋は回帰がテーマ
2013/11/20 (水)  上原浩治&ボストンの奇跡2〜「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」
2013/11/10 (日)  上原浩治&ボストンの奇跡1〜それは「スイート・キャロライン」から始まった
2013/10/31 (木)  閑話窮題〜天野祐吉さん死す
2013/10/25 (金)  閑話窮題〜「ベートーヴェンとベートホーフェン」
2013/10/10 (木)  私的「下山事件論」最終回〜時代に殺された下山定則
2013/09/15 (日)  閑話窮題〜突然の贈りもの
2013/09/02 (月)  閑話窮題〜「風立ちぬ」を観て
2013/08/25 (日)  私的「下山事件論」5〜事件当時の情勢
2013/08/10 (土)  私的「下山事件論」4〜矢板玄の話 後編
2013/07/22 (月)  閑話窮題〜映画「25年目の弦楽四重奏」を見て
2013/07/20 (土)  閑話窮題〜サプライズ連発のコンサート
2013/07/17 (水)  閑話窮題〜ソムリエ検定奮闘記
2013/07/10 (水)  私的「下山事件論」3〜矢板玄の話 前編
2013/06/25 (火)  私的「下山事件論」2〜犯人の行動を追う
2013/06/10 (月)  私的「下山事件論」1〜事件の本質とあらまし
2013/05/25 (日)  閑話窮題〜風薫る季節に
2013/05/15 (木)  「魔笛」と高山右近12〜松本清張「モーツァルトの伯楽」を読んで
2013/04/25 (木)  「魔笛」と高山右近11〜高山右近は「魔笛」の中に生きている
2013/04/15 (月)  閑話窮題〜今年のマスターズは二日目15番タイガーの第3打で終わった
2013/04/10 (水)  「魔笛」と高山右近10〜モーツァルトに高山右近が降臨!
2013/03/25 (月)  「魔笛」と高山右近9〜ウィーンでの再会と「魔笛」への着手
2013/03/10 (日)  「魔笛」と高山右近8〜フリーメイソンへの入会
2013/02/25 (月)  「魔笛」と高山右近7〜人生最大の転機
2013/02/10 (日)  「魔笛」と高山右近6〜ミュンヘンからウィーンへ
2013/01/31 (木)  「魔笛」と高山右近5〜シカネーダーという男
2013/01/25 (金)  「魔笛」と高山右近4〜モーツァルトとウコンドノの接点
2012/12/25 (火)  「魔笛」と高山右近3〜「ティトス・ウコンドノ」という宗教劇
2012/12/10 (月)  「魔笛」と高山右近2〜モーツァルトとミヒャエル・ハイドン
2012/11/25 (日)  「魔笛」と高山右近1〜タミーノは高山右近か?
2012/11/05 (月)  大滝秀治最後の台詞に健さんが涙したわけ
2012/10/25 (木)  リアリズムよりリリシズム〜「あなたへ」を観て読んで
2012/10/20 (土)  村上春樹と尖閣問題とノーベル賞と そして、山中教授
2012/10/05 (金)  尖閣問題の真相〜それは田中角栄の不用意な発言から始まった
2012/09/05 (水)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックE
2012/08/25 (日)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックD
2012/08/15 (水)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックC
2012/08/13 (月)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックB
2012/08/10 (金)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックA
2012/08/07 (火)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピック@
2012/07/25 (水)  私の中の中島みゆき5−中島みゆきは“演歌”である4
2012/07/10 (火)  私の中の中島みゆき4−中島みゆきは"演歌"である3
2012/06/27 (水)  閑話窮題〜波動スピーカーなど
2012/05/31 (木)  閑話窮題〜風薫る季節の中で
2012/05/20 (日)  私の中の中島みゆき3−中島みゆきは"演歌"である2
2012/05/10 (木)  私の中の中島みゆき2−中島みゆきは"演歌"である1
2012/04/20 (金)  私の中の中島みゆき1〜私的一元的中島みゆき論
2012/04/05 (木)  痛快!芥川賞作家田中慎弥D 記者会見発言の真相
2012/03/20 (火)  痛快!芥川賞作家田中慎弥C 作家としての石原慎太郎
2012/03/10 (土)  痛快!芥川賞作家田中慎弥B「共喰い」を読んで
2012/03/01 (木)  痛快!芥川賞作家田中慎弥A「ポトスライムの舟」VS「神様のいない日本シリーズ」
2012/02/20 (月)  慎んで「懺悔の記」
2012/02/15 (水)  緊急臨発!もう一つの芥川賞作品を考証する
2012/02/10 (金)  痛快!芥川賞作家田中慎弥@「神様のいない日本シリーズ」の面白さ
2012/02/05 (日)  FM放送
2012/01/25 (水)  小澤征爾 日本の宝
2012/01/10 (火)  閑話窮題〜2012新年雑感
2011/12/25 (日)  閑話窮題〜2011今年も暮れ行く
2011/12/05 (月)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション31−40
2011/11/25 (金)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション21−30
2011/11/15 (火)  閑話窮題〜リュウちゃんのシューベルト超天才論
2011/10/31 (火)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション11−20
2011/10/25 (火)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション1−10
2011/10/13 (木)  「究極」ついに完成
2011/09/30 (金)  「ローレライ」は「春の夢」から生まれた
2011/09/20 (火)  「白鳥の歌」から
2011/09/11 (日)  「冬の旅」から
2011/08/31 (水)  「さよならドビュッシー」を読んで〜不協和音の巻2
2011/08/25 (木)  「さよならドビュッシー」を読んで〜不協和音の巻1
2011/08/15 (月)  「さよならドビュッシー」を読んで〜協和音の巻
2011/07/31 (日)  閑話窮題〜とんでもないサッカー論
2011/07/25 (月)  閑話窮題〜「なでしこジャパン」クラ未知的総括
2011/07/10 (日)  閑話窮題〜「シェエラザード」にまつわるエトセトラ
2011/06/30 (木)  大震災断章[9] 圧巻の長渕 剛
2011/06/20 (月)  大震災断章[8]届け!音楽の力〜海外アーティスト編
2011/06/05 (日)  大震災断章[7]赤子の特権で踊り捧げる
2011/05/25 (水)  大震災断章[6]自民党よ、あんたに言われる筋合いはない
2011/05/20 (金)  大震災断章[5]菅直人を戴く不幸
2011/05/12 (木)  大震災断章[番外編] 東北に捧げるアダージョ
2011/05/09 (月)  大震災断章[4] エネルギー政策の正しいあり方
2011/04/30 (土)  大震災断章[3] 原発をどうする
2011/04/25 (月)  大震災断章[2] 原発事故は人災
2011/04/20 (水)  大震災断章[1] 想定外は恥
 2011/03/23 (水)  シューベルト歌曲の森へ21 なんてったって「冬の旅」14
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる 最終回>
 2011/03/10 (木)  シューベルト歌曲の森へS なんてったって「冬の旅」13
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その4>
 2011/02/25 (金)  シューベルト歌曲の森へR なんてったって「冬の旅」12
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その3>
 2011/02/15 (火)  シューベルト歌曲の森へQ なんてったって「冬の旅」11
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その2>
 2011/02/05 (土)  シューベルト歌曲の森へP なんてったって「冬の旅」10
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その1>
2011/01/20 (木)  閑話窮題――地デジ化の効用
2011/01/10 (月)  シューベルト歌曲の森へO なんてったって「冬の旅」9<いかがなものかこの本は!>
 2010/12/25 (土)  シューベルト歌曲の森へN なんてったって「冬の旅」8
<「最後の一葉」は「最後の希望」がべース の根拠>
2010/12/10 (金)  シューベルト歌曲の森へM なんてったって「冬の旅」7 <シューベルトとオー・ヘンリー>
2010/11/29 (月)  シューベルト歌曲の森へL なんてったって「冬の旅」6 <「冬の旅」は僕の分身>
2010/11/19 (金)  シューベルト歌曲の森へKなんてったって「冬の旅」5 <これですべてが読めた!>
2010/11/10 (水)  シューベルト歌曲の森へJなんてったって「冬の旅」4 <シュ−ベルト戸惑う>
2010/10/28 (木)  シューベルト歌曲の森へIなんてったって「冬の旅」3 <ミュラー順番決定の真相>
2010/10/18 (月)  シューベルト歌曲の森へHなんてったって「冬の旅」 2<「勇気」におけるミュラーの事情>
2010/10/07 (木)  シューベルト歌曲の森へGなんてったって「冬の旅」1<曲順の謎>
2010/09/22 (水)  シューベルト歌曲の森へF法隆寺のリュウちゃん6「すぐに権威にならないで!」
2010/09/03 (金)  シューベルト歌曲の森へE法隆寺のリュウちゃん5「拙速は禁物」
2010/08/23 (月)  シューベルト歌曲の森へD法隆寺のリュウちゃん4「野ばら」は鈍感?
2010/08/09 (月)  シューベルト歌曲の森へC〜フェリシティ・ロット
2010/07/26 (月)  シューベルト歌曲の森へB〜法隆寺のリュウちゃん3「ひとまず 3大歌曲集以外へ」
2010/07/15 (木)  シューベルト歌曲の森へA〜法隆寺のリュウちゃん2「涙の雨」
2010/07/07 (水)  シューベルト歌曲の森へ@〜法隆寺のリュウちゃん1「三大歌曲集」
2010/06/24 (木)  シューベルト歌曲の森へ〜プロローグ
2010/06/07 (月)  シューベルト1828年の奇跡19〜キルケゴールとシューベルトA
2010/05/30 (日)  シューベルト1828年の奇跡18〜キルケゴールとシューベルト@
2010/05/10 (月)  ショパン生誕200年 独断と偏見による究極のコンピレーション
2010/04/22 (木)  シューベルト1828年の奇跡17〜ブレンデルとポリーニ3
2010/04/14 (水)  映画「ドン・ジョヴァンニ」〜天才劇作家とモーツァルトの出会い を観て
2010/04/09 (金)  シューベルト1828年の奇跡16〜ブレンデルとポリーニ2
2010/03/31 (水)  シューベルト1828年の奇跡15〜ブレンデルとポリーニ1
2010/03/21 (日)  シューベルト1828年の奇跡14〜内田光子の凄いシューベルト2
2010/03/11 (木)  シューベルト1828年の奇跡13〜内田光子の凄いシューベルト1
2010/02/24 (水)  シューベルト1828年の奇跡12〜アインシュタイン、その引用の謎C
2010/02/15 (月)  シューベルト1828年の奇跡11〜アインシュタイン、その引用の謎B
2010/01/29 (金)  シューベルト1828年の奇跡10〜アインシュタイン、その引用の謎A
2010/01/20 (水)  シューベルト1828年の奇跡9〜アインシュタイン、その引用の謎@
2010/01/11 (月)  永ちゃんとリヒテル
2009/12/25 (金)  シューベルト1828年の奇跡8〜ミサ曲第6番
2009/12/09 (水)  シューベルト1828年の奇跡7〜駒からはなれよ
2009/11/26 (木)  シューベルト1828年の奇跡6〜「グレート、この偉大な交響曲」E
2009/11/16 (月)  シューベルト1828年の奇跡5〜「グレート、この偉大な交響曲」D
2009/11/06 (金)  シューベルト1828年の奇跡4〜「グレート、この偉大な交響曲」C
2009/10/26 (月)  シューベルト1828年の奇跡3〜「グレート、この偉大な交響曲」B
2009/10/17 (土)  シューベルト1828年の奇跡2〜「グレート、この偉大な交響曲」A
2009/10/07 (水)  シューベルト1828年の奇跡1〜「グレート、この偉大な交響曲」@
2009/09/29 (火)  Romanceへの誘いG「ブラームスはワルツが好き?」
2009/09/21 (月)  Romanceへの誘いF「シューベルトはソナタが苦手?」その5
2009/09/16 (水)  Romanceへの誘いE「シューベルトはソナタが苦手?」その4
2009/08/31 (月)  Romanceへの誘いD「シューベルトはソナタが苦手?」その3
2009/08/24 (月)  Romanceへの誘いC「シューベルトはソナタが苦手?」その2
2009/08/17 (月)  Romanceへの誘いB「シューベルトはソナタが苦手?」その1
2009/08/03 (月)  Romanceへの誘いA「ドメニコ・スカルラッティとJ.S.バッハは同期の桜」
2009/07/20 (月)  Romanceへの誘い@「セザール・フランク二つの顔」
2009/06/29 (月)  茂木健一郎氏クオリア的冬の旅――3
2009/06/22 (月)  茂木健一郎氏クオリア的冬の旅――2
2009/06/15 (月)  茂木健一郎氏クオリア的冬の旅――1
2009/06/01 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――最終回
2009/05/25 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――8
2009/05/18 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――7
2009/05/11 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――6
2009/04/27 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――5
2009/04/13 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――4
2009/04/06 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――3
2009/03/30 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――2
2009/03/21 (土)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――1
2009/03/09 (月)  閑話窮題――チャイ5
2009/03/02 (月)  閑話窮題――「フィガロの結婚」真実の姿 後日談
2009/02/23 (月)  閑話窮題――もう一度吉田秀和を斬る
2009/02/09 (月)  生誕100年私的カラヤン考――最終章
2009/02/02 (月)  生誕100年私的カラヤン考――7
2009/01/26 (月)  生誕100年私的カラヤン考――6
2009/01/19 (月)  生誕100年私的カラヤン考――5
2009/01/12 (月)  生誕100年私的カラヤン考――4
2008/12/29 (月)  生誕100年私的カラヤン考――3
2008/12/22 (月)  生誕100年私的カラヤン考――2
2008/12/15 (月)  生誕100年私的カラヤン考――1
2008/12/01 (月)  ケネディ追悼 モーツァルト「レクイエム」に纏わる石井宏と五味康祐
2008/11/17 (月)  石井宏のこの一枚を聴け!
2008/11/10 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――7=エピローグ
2008/10/27 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――6
2008/10/13 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――5
2008/10/06 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――4
2008/09/29 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――3
2008/09/22 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――2
2008/09/15 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――1
2008/09/01 (月)  真夏の夜の支離滅裂――小林秀雄を斬る 2
2008/08/25 (月)  真夏の夜の支離滅裂――小林秀雄を斬る 1
2008/08/11 (月)  二つのバイロイトの第九――エピローグ
2008/08/04 (月)  二つのバイロイトの第九――その2
2008/07/29 (火)  二つのバイロイトの第九――その1
2008/07/14 (月)  続・ハイフェッツの再来
2008/07/07 (月)  ハイフェッツの再来
2008/06/30 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――最終回
2008/06/23 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――6
2008/06/16 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――5
2008/06/09 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――4
2008/06/02 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――3
2008/05/26 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――2
2008/05/21 (水)  「フィガロの結婚」〜3人の風雲児が産んだ奇跡の傑作
2008/05/19 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――1
2008/05/12 (月)  クラシック 未知との遭遇――プロローグ

 2023.06.14 (水)  競馬人生、光と影
(1)谷口弘子さんの場合

 5月28日、東京競馬場、第90回日本ダービーは5番人気のタスティエーラが優勝しました。騎手はダミアン・レーン。この人、昨年はロードレゼルに騎乗して14着でしたが、私は昨年の方が気合が入りました。というのは、この馬、谷口弘子さんの持ち馬だからです。谷口さんは昨年の「クラ未知」4月に登場した中学校の同級生で、多数の馬を持つスゴ腕馬主なのです。きっかけは30年前、ご主人を亡くしたことだったそうで・・・・・ご主人は自治省のキャリア官僚でしたが、「行ってくる」とゴルフに出かけたまま、帰らぬ人になってしまった。ついさっき元気で出かけて行った人が数時間後にはこの世にいない!想像を絶する衝撃です。彼女はその後数年間生きる屍になっていたそうですが無理もありませんね。
 そんな彼女に一口馬主ロードサラブレッドオーナーズを薦める方がいて、なんとなく案内書のページをめくっていたら、一頭の馬に目が釘付けになった。父エーピーインディ、母メイプルジンスキーの2歳馬で1995年4月22日生まれとある。4月22日は亡くなったご主人の誕生日! なんたる運命のめぐりあわせと、即購入を決意したとか。ご主人を亡くして4年目、1997年の秋のことでした。その馬はロードメイプルと名付けられ3勝を挙げました。出走の度、ご主人の生まれ変わりとの思い入れに、心の痛手も徐々に癒されていったのではないでしょうか。

 その後の谷口さんの持ち馬は目覚ましい活躍ぶり。中でもレディアルバローザは、中山牝馬ステークス(G3)を、2011、2012年と連覇、2011年のヴィクトリアマイル(G1)では、アパパネ、ブエナビスタの僅差3着と健闘、牝馬中距離で大きな存在感を示しました。その他、G1出走馬は、ロードアリエス(菊花賞2008)、ブリュネット(オークス2013)、キャトルフィーユ(ヴィクトリアマイル、エリザベス女王杯2014)、エンジェルフェイス(オークス2016)、オールフォーラヴ(オークス2018)、ロードレゼル(ダービー2022)と6頭を数えます。これまでの持ち馬は70頭で累計勝ち鞍は109。なんとも華々しい実績、錚々たるスーパー馬主といえるでしょう。
 さて、谷口厩舎(?)今年後半戦の期待馬は、新馬勝ちした3歳牝馬アルジーヌと、障害転向後5戦3勝重賞2着と勢いに乗るロードアクアでしょうか。その他の馬もとにかく無事に元気に走ってほしいものです。

 ご長男の結婚披露宴の話も傑作です。新婦のお父さんがもとJRAのお偉いさんということもあって、競馬にちなんだアトラクションが行われたそうです。当日までに新郎の母弘子さんが荒れそうなレースを買いまくる。息子さんはまだ足りないもっと大穴をと発破をかける。馬券の現物が必要なので、毎週後楽園の場外売り場に足しげく通ったそうです。その間3か月、母は頑張りました獲りました万馬券含む大穴の数々。結婚式当日、来賓のお客様に当たり馬券のコピーをお配りし帰りに配当金をお渡しする。披露宴では万馬券の出たレースの録画中継を敢行。ゲットしたのは競馬には全く無縁の教育畑一筋の元校長先生で、「たまげた、ビックリ」の連発だったとか。披露宴は唯一無二空前絶後のアトラクションに大いに盛り上がったそうです。
 発想力といい、万馬券を当てちゃう博才といい、馬券購入の手間といい、人を喜ばせるにはアイディアと才と運と実行力が伴わなければなりません。これも谷口家のチームワークの結晶なのでしょう。そこへゆくと、私の場合は才もなければ運もない、弘子さんの「光」に比べると「影」の競馬人生なのであります。

(2)岡村晃の索然たる競馬人生

 わが競馬人生の始まりは、大学3年生1966年の日本ダービーでした。前年、吉祥寺から国分寺に引っ越して、近くにある東京競馬場に下宿のみんなと興味本位で繰り出しました。場内に入って少し歩くといきなりコースの緑が目に飛び込んできました。なんて広大で美しいんだ と感動したものです。ところが馬券の種類も買い方もわからない。でもせっかくだからと、5タマシュウホウ、10シェスキイ、20ショウグン、21スピードシンボリ、28ナスノコトブキを200円ずつ買ってレースを見ました(多少の事前研究はしていたもので)。2400mを走ってゴールに入る。ゼッケン9番が飛び込んできた。12番人気のテイトオーです。この時の9番のゼッケンは未だ目に焼き付いています。掲示板には上から、9、24、28、25、16と並ぶ。おう、28番がある「獲った」と喜び勇んで払い戻し所へ。そこでおばちゃんに「あんたこれは単勝馬券だよ。1着だけしか駄目なのよ」と言われてシュン! なんともお寒い馬券デビューでした。

 馬券を初めて獲ったのはその年の6月12日、東京障害特別でした。アアタックモアーマルノオーの連複5−7は配当910円。200円が1820円となりました。なんだそれっぽっち、という勿れ。当時、国電(JR)の一区間が10円。国分寺金ちゃん食堂のとんかつ定食が140円の時代なので、これはもう大喜びのゲッツでした。

 中山競馬場に初めて行ったのは1967年11月23日。この年はここで天皇賞・秋が行われるという変則開催でした。結果は8番人気のカブトシローが優勝。まさかの結果に馬券は惨敗。帰路、むしゃくしゃしてオケラ街道を歩いていると、道端に人だかりが。何気なく見ていたら、「これどこに入ってる?」とオア兄さん。私「これでしょう」と3つのうちの一つの球を指さしました〜これが地獄への第一歩とは思いもよらずです。「流石だね。当たりだよ」と千円札を掴まされる。「じゃ、今度はどこだ」に「これ」というと、「千円賭けな」というから、さっき渡された千円札を出すと、「自分の金で賭けるんだよ」とスゴまれる。何言ってんだと思いながらどうせ当たっているからと、自分の千円を出して空けたら、なんと外れ。それから何度かやらされていたらとうとう1万円巻き上げられちゃった。泣きっ面に蜂とはこのことです。 あとで聞くと、これデンスケ賭博といいましてヤクザの資金源なんだそうで。一万円で済んでよかったんじゃないと慰められるのオソマツでした。カブトシローはその年の有馬記念も制しました。我が青春の苦い思い出は稀代のクセ馬カブトシローと共にあり でしょうか。

 日本ビクターに就職したのが1968年。この年のダービーは7月7日に行われ、七夕ダービーと呼ばれました。卒業時に約束した国分寺の競馬仲間と東京競馬場で再会したまではよかったのですが、馬券は大外れ。9番人気の伏兵タニノハローモアが、人気を集めた3強 マーチス、タケシバオー、アサカオーを尻目に、あれよあれよという間の逃げ切りを決めました。競馬は難しい!ハズレ馬券を握りしめ切歯扼腕したものです。

 その後、ダービーでは、1969年ダイシンボルガード、1970年タニノムーティエ、1971年ヒカルイマイ、1972年ロングエース、1973年タケホープとことごとく外れ、その他のレースにも際立った成果なく、巨人のV逸と長嶋ミスターの引退を機に(あまり関係ないか!?)競馬熱も徐々に冷めていったのであります。

 競馬熱が復活したのは1986年の日本ダービーでした。勝ったのはダイナガリバー。社台グループ悲願の初制覇でした。ゴール前「ガリバー、ガリバー」と絶叫、入線すると「やったっやった」となりふり構わず拳を振り上げる 総帥吉田善哉氏の姿がとても印象的でした(NHK特集「北の大地の戦い」より)。これは一時代を作ったノーザンテーストの総決算だったのでしょう。社台はこの直後にケンタッキーダービーを制した米国最強馬サンデーサイレンスを輸入。産駒はダービー6勝、その最強の仔ディープインパクトは7頭のダービー馬を輩出。日本にサンデーサイレンス時代を築きます。

 この連複馬券2-3は、馬券を始めてから苦節22年、我がダービー初ゲットでもありました。今更ながら我ながら、博才のなさにあきれるばかりであります。翌1987年のダービーは皐月賞馬サクラスターオーが怪我のため不出走、メリーナイスの優勝でした。スターオー、7か月ぶり出走の菊花賞は9番人気で勝利。杉本清アナの実況「菊の季節に桜が満開」は競馬放送史に残る名アナウンスでした。

 これ以降数年間は、新潟競馬場や福島競馬場に出かけ夏競馬も楽しみました。気の合った仲間たちと、昼は競馬夜は予想やカラオケなど、獲っても獲らなくても、和気藹々と過ごす二日間は楽しいことこの上なし。まるでこの世の桃源郷。我が競馬人生最良の時代だったかもしれません。

 そんなこんなの競馬生活の中、何気なく「自分はいったい年間どのくらい損をしているのだろう」と計算してみたところ、毎年70〜80万円という数字が出ました。まあこんなもんだろう、いやちょっともったいないな などと考えるうちに、この金があれば一口馬主になれるんじゃなかろうか、と思い立ちます。そして・・・・・
 1993年、社台ダイナースサラブレッドクラブへ入会。いよいよ第2の競馬人生の始まりです。募集パンフレッドにはサンデーサイレンスの初産駒が並びます。グルーピアレディーの92は後の皐月賞馬ジェヌイン。いいなあと思いつつも200万円ではチト手が出ない。ノースオブダンジグの92なら90万円。これならばと購入しました。>
 初の持ち馬はノースショアーと名付けられ翌年1994年8月13日、新潟の新馬戦でデビューを果たします。見事に勝利。次戦新潟3歳ステークス(G3)は2着と上々の成績です。しかし、その後は振るわず、1996年6月22日、阪神「垂水ステークス」で直線心不全のため死去競争中止の最期を遂げました。このあと5頭を購入、特にカーリーパッション(トニービン×ダイナカール)はオークスと天皇賞・秋を制したエアグルーヴの全妹とあって大いに期待しましたが1勝止まり。我が持ち馬ノースショアーからマリーシャンタルまで6頭の通算成績は6勝。馬券も持ち馬も「スーダラ節」にあるとおり「馬で金儲けした奴ぁないよ」で終わりを告げたのです。

 1996年4月25日、社台スタリオンステーションを訪ねてサンデーサイレンスやトニービンと顔を合わせました。そのとき馴れ馴れしくし過ぎたのでしょうか、トニービンに噛まれた傷跡は今も左腕に残っています(ホントだよ)。
 その前年、1995年には、大好きなシンザンに会いに浦河の谷川牧場に出向きました。彼の誕生日4月2日に合わせ満34歳のおめでとうを告げに行ったのです。そこで撮った写真はテレカにして今も大切に保有しています。
 強い馬はたくさんいます。シンボリルドルフ、ディープインパクトetc。でも、シンザンこそが史上最高の名馬と信じて疑いません。史上初の五冠馬という偉業はもちろんですが、狙ったレースを決して落とさなかったこと、負けても2着は外さなかったこと などがその理由です。ルドルフもディープも狙ったレースを落としているし3着以下もある。シンザンの生涯成績は19戦15勝4敗。4敗は平場のオープンとトライアルのみ。これほど美しい戦績はシンザンを置いて他にはいません。
 シンザンは翌1996年7月13日、天国に旅立ちます。会っておいて本当に良かった!35歳、競走馬として種牡馬として堂々たる一生でした。

 最後の持ち馬マリーシャンタルを購入して間もない1998年の春、中学校のクラス会が開かれて、久しぶりに会った谷口さんがロードサラブレッドオーナーズで馬主生活を始めたばかりと聞きました。私が最後で彼女は最初というわけです。初の持ち馬ロードメイプルのデビュー間近のころで、頭はメイプルのことでいっぱいだったのでしょう。話しは競馬のことばかりだったように記憶しています。それからというもの、彼女自身の持ち馬やシャンタルの子供たちの出走まで、実にこまめに情報を送ってくれました。そして、それは今でも続いています。
 私の方は、シャンタル引退後は馬主も馬券もすっかり遠ざかってしまい、楽しみは、谷口さんの持ち馬の活躍がもっぱら。なぜか彼女の馬が自分の馬のように思えるんですね。谷口弘子さん、あなたの愛馬がいつかG 1を獲れますように! そう願いつつ応援に力を籠めています。
 2023.05.10 (水)  超私的坂本龍一観〜「雪列車」に寄せて
 4月2日、坂本龍一さんが亡くなりました。71歳でした。YMOで一世を風靡し、映画「ラストエンペラー」の音楽でアカデミー作曲賞を受賞。日本人として最も世界に名を馳せた音楽家でした。謹んでご冥福をお祈りします。

(1) 坂本龍一の「雪列車」、そして前川清

 私事ですが、RCAレコード時代、坂本龍一さんとは少しだけ関りがありました。それは、前川清さんがグループ「内山田洋とクール・ファイブ」から独立するきっかけとなった「KIYOSHI」というアルバムと先行シングル「雪列車」のプロモーション(販売促進)においてでした。
 1982年夏のある日、上司に呼ばれてこう言われます。「今度、前川清がソロでアルバムを出す。ついてはそのプロモーションをお前さんにお願いしたい」。それまで宣伝2課で山下達郎、竹内まりや、角松敏生などJポップ系を担当していた私は、「なんでまた演歌を?」と引きましたが「これは演歌じゃないニューミュージック(当時Jポップをこう称していました)だ。坂本龍一、加藤和彦、矢野顕子、伊勢正三、後藤次利らが前川のために曲提供している作品なんだ。レーベルもクール・ファイブとは別の“ANOTHER”を用意した」と説明され、「ならばやらせていただきます」と引き受けました。

 アルバムは、ヴォーカリスト前川清へのリスペクトに満ちて、素晴らしい作品が並びます。タイトルはズバリ「KIYOSHI」。中でも、糸井重里作詞、坂本龍一作・編曲の「雪列車」が群を抜いていました。
一人の女が夜汽車に乗っている。窓外は降りしきる雪。「さよならが夢ならば引き返すけど あのころが夢ならばこのまま行く」・・・・・もう戻らない日々を胸に秘め、女は列車に身をゆだねる。ぬくもりを求めて。
 シンプルなメロディーライン。長音階と短音階が行き交う和声進行。シンセサイザーと生楽器の融合による和のテイストを湛えた深遠で格調高いサウンド。坂本龍一の技の冴えが、 しんしんと降りしきる雪と粛々と進む列車の風景を墨絵のように描き出します。女の微妙な心情をシンクロさせて。音から映像が見えるドビュッシー的音世界。まさに坂本龍一の真骨頂です。前川清はグリッサンドやコブシを捨てる脱演歌唱法でそんな歌世界を見事に表現しました。

 「雪列車」はシングルとして1982年10月に、アルバムは12月に発売されました。

 前川清がソロ・ヴォーカルを務める内山田洋とクール・ヴァイブは1969年「長崎は今日も雨だった」でデビュー。いきなりミリオンをかっ飛ばし、続く「逢わずに愛して」、「噂の女」、「恋唄」、「そして 神戸」、「中の島ブルース」、「東京砂漠」etcとコンスタントにヒットを連発。歌謡界の押しも押されもしない大スターになっていました。そんな中、洋楽志向の前川と類まれなるヴォーカリスト前川清の才能に惚れ込んだJポップ系のソングライターの思惑が一致して このプロジェクトが成立したというわけです。

 業界初ともいえるこのプロジェクトは、各メディアから若干の驚きと多大な興味をもって迎えられ、クール・ファイブ本来の媒体〜テレビ、AMラジオ、有線放送、週刊誌、女性誌、新聞などに加え、Jポップ系の媒体〜FM放送、音楽専門誌からアイドル誌に至るまで、全方位的宣伝展開が実現しました。前川本人も、新聞記者に洋楽少年時代のことを話したり、音楽専門誌の若いライターに「アルバム制作コンセプト」を語ったりと、初体験のプロモーションに気分も乗ってとても楽しそうでした。私は逆に、演歌の営業、歌謡曲系の番組、雑誌、週刊誌など未開拓の媒体体験に新鮮味を覚えたものです。プロモーションは約1年半。その中で、忘れられない出来事〜よかったこと、失敗したこと、面白かったことなど、少々披露させていただきます。

@制作発表会
 発売前の1982年秋、メディアやレコード店の皆様にシングル「雪列車」とアルバム「KIYOSHI」をお披露目するため、都内のパブレストランを借り切って行いました。プロデュースの水谷公生氏と糸井重里氏が会を進行。特別ゲストとして坂本龍一氏にも参加いただきました。当時30歳の坂本氏がどんな話をしたか?残念ながら全く記憶がありません。が、“教授”の仇名の通り、独特のオーラを感じたことはよく覚えています。

Aクビを覚悟した写真ネガ置忘れ事件
 9月某日、前川清にとって初体験となる少女雑誌「セブンティーン」への掲載をお願いすべく、千代田区一ツ橋の集英社に単身乗り込みました。撮影したばかりの前川清のネガと紙焼きを携えて。迎えてくれた中村哲夫編集長は即座に「この写真なら違和感なく使えるね」と、グラビア頁を確約してくれました。「やった!セブンティーンに前川が」これは称賛モノだ と意気揚々、会社に戻らず直帰を決め込みました。帰宅時間に重なって電車はかなりの混雑、写真ネガの入った紙袋を網棚に置きました。途中で席が空いたので座る。なんかボーっとしていたら乗換駅。スワっと降りてホームを歩いている時「しまった!」、置忘れに気付く。電車走り去る。駅遺失物室に届けて帰宅。これはえらいことになった。忙しい前川さんがやっと一日空けて名手田村仁さんが撮った写真の数々。こともあろうにネガまで置き忘れるとはなんたる不覚! 我が人生最大のピンチにまんじりともせず一夜を過ごしました。
 翌日の午前中、駅からの連絡はナシ。これはもう出てこないぞ。あんな写真、そうそう撮れるもんじゃないし金を積んで済むものでもない。責任取ってクビか。終わったな。家で悶々としている時ジーン 電話が鳴りました。受話器を取ると「おい、のんびり家になんかいるんじゃねーよ。お前さん、なんか忘れ物してないかい」と聞きなれた事務所の和久井保社長の声。「実は前川さんの大事なネガを電車に置き忘れてしまいまして」と告白。すると、「今から、九段下の薬局に誰某さんという人を訪ねな。ネガを預かってくれているから」。九死に一生。地獄から天国。早速受け取りに参じました。この方は女性の薬剤師さんで、乗った電車の網棚に紙袋があるので届けようと持って電車を降りた。そこで中を見ると前川清の写真がある。とっさに心当たりのあるTBSに連絡。TBSが和久井音楽事務所に連絡 という手順だったようです。なんたる幸運。もし、心無い人に拾われていたらどうなっていたか。考えただけでもゾっとします。好意ある方に拾われた幸運とその方への感謝は一生忘れることはできません。

B赤坂の喫茶店で大喧嘩の巻
 LP「KIYOSHI」にAssociate Producer:Takashi MAEDAのクレジットがあります。前田隆さん。アーティストとレコードメーカーを繋ぐ事務所のコーディネーター。温厚な紳士です。宣伝プロジェクトの全てを彼との二人三脚で行いました。「できることはすべてやろう」との合意のもとプロモーションは順調に進んでいました。そんなある日、所は赤坂の喫茶店。静岡の特約店での店頭サイン会の打ち合わせで事件が発生します。営業が提案してきた店の地下駐車所でのカラオケによる実演に、前田氏が「今の前川清にこれはできない」と言うのです。私は「この店は有力店。要望は聞くべき」と抗議。「クール・ファイブならいざ知らずソロの前川にどぶ板もどきはやらせられない」、「何でもやると言ったじゃないか」の応酬が加熱して普段温厚な二人が激高。店内に怒声が轟く異常事態に。でも、最後は前田氏が前川さんを説得してくれて静岡のキャンペーンは無事成功裡に終了と相成りました。立場の違いはあれど売るという目的は一つ。喧嘩は一瞬のもので、彼とはその後も友好関係が続きます。しかし、今年の2月、前田氏は帰らぬ人になってしまいました。部屋に「雪列車」を流し線香を焚いて彼を偲びました。謹んでご冥福をお祈りします。

C村田英雄さんが呈した苦言
 TBSラジオが「前川清 ニューミュージックを歌う」なる特番を組んでくれました。その中で村田英雄さんにインタビューを試みました。「前川清が『雪列車』、森進一さんが『冬のリヴィエラ』(松本隆作詞、大瀧詠一作曲)をリリースするなど、昨今、演歌歌手がニューミュージック系の作家の曲を歌っています。このあたりの風潮をどう思いますか」との問いに、村田さん答えて曰く「そういう公私混同は許さん」。流石の村田節! 歌謡界の大御所、貫禄の一言ではありました。

 「KIYOSHI」プロジェクトは、1983年4月6日、FM静岡の開局記念イヴェント「われら音楽仲間 KIYOSHI MEETS YOU」のコンサートで一応の区切りを迎えました。言い出しっぺはTokyo-FM「ニューニュージック・ナウ」のDJをされていた評論家の伊藤強さんとディレクターの葛西さん。前川清を中心にアルバム「KIYOSHI」に参加したミュージシャンたちに特別編成のコーラス隊 八神純子、渡辺真知子、福島邦子を配すというユニークで豪華なステージとなりました。当初、坂本氏も参加の予定でしたが、お子様の入学式が重なったとのことで直前にキャンセル。これはとても残念でした。
 「雪列車」は大ヒットには至らずも、前川清の中では異色の、知る人ぞ知るロングセラー名曲となりました。此度の坂本氏の逝去に際し、メディアもアーティストも批評家も一切これに触れておらず、いささか残念ではあります。しかしながら、私の中では、意義深い思い出の曲として生き続けています。

 その後、坂本龍一は1983年5月公開の映画「戦場のメリークリスマス」(大島渚監督)に俳優として出演、映画音楽も担当しテーマ曲「Merry Christmas Mr. Lawrence」が大ヒット。さらに1987年公開の映画「ラストエンペラー」の音楽を担当。日本人初のアカデミー賞作曲賞に輝き、「世界のサカモト」として充実の音楽人生を歩んでゆくことに。同年、前川清はソロ歌手として独立を果たします。1982〜1987年は、坂本/前川にとって、音楽人生の一大転機の期間だったことは間違いないところです。

(2) 超私的坂本龍一観

 坂本龍一とはどんな音楽家だったのか? 私はこれまで彼の作品は、アルバム「KIYOSHI」収録の数曲以外、ほぼテレビでしか聴いたことがなく、坂本龍一論をブツなんぞはおこがましいところ。でも、私的視点からの観方なら書けるかもしれません。では、超私的坂本龍一観をどうぞ。

 4月30日〜5月5日、朝日新聞に「SOUND for LIFE 坂本龍一から生まれたもの」という追悼記事が掲載されました。各界のお歴々の立派な坂本龍一論が展開されています。この中から印象に残ったフレーズを下記。
彼が残した音楽は、人類の芸術文化の音楽の中で、本当の宝だ
                      (佐々木敦、著述家)
音に対する好奇心と執念が尋常じゃない 真に純粋な「芸術家」です
                          (藤倉 大、作曲家)
自分で試行錯誤しながら純度の高いものを生み出している(槇原敬之、S.ソングライター)
クラシックをきちんと学んだひとでないと書けない(松武秀樹、シンセサイザープログラマー)
俺たちは生きている だから新しいものを追求するんだ の気概があった(同上)
最終的にサウンドアーティストの域に至った(伊東信宏、音楽評論家)
音と音とのシステム連関を無くしていくような作品を作った(中沢新一、人類学者)
坂本さんはベートーヴェンに重なって見える(湯山玲子、著述家・プロデューサー)
ドビュッシーに憧れつつジョン・ケージを自らのヒーローとした(同上)
 坂本龍一への思いや賛辞が数々並びます。でもこれらの文章、印象に残っても心に響かない。音楽が聴こえてこない。私の読解力不足かもしれませんが・・・・・。ところが中に一つだけ、具体的な楽曲から彼の音楽そのものに言及した文章がありました。それを下記。
「アウト・オブ・ノイズ」というアルバムの「hibari」(2009)という作品では、見事にメロディーの魅力と音響が「結託」します・・・中略・・・バッハの音楽にも見いだせる、この「個」を超えた普遍性こそが、実は坂本龍一というアーティストの本質なのだと私は思うのです(湯山玲子)
 早速この作品をyou-tubeで聴いてみました。2小節の単純なメロディーが9分間繰り返されます。音のズレが独特の陰影を生みだして単なる繰り返しでないことは聞き取れます。だがしかし、“メロディーの魅力も音響の結託の見事さ”も感じられません。“バッハの音楽にも見出せる「個」を超えた普遍性”も感知できません。ただただ退屈なだけ。せっかく取り上げた記述ですが残念でした。

 でも、これはこれとして、「戦場のメリークリスマス」や「ラストエンペラー」など、坂本龍一が映画音楽に遺した足跡は大いに称賛されるべきでしょう。独自の世界を築いて世界に冠たる賞を獲ったのですから。
 バルセロナ五輪開会式のための合唱付きフル・オーケストラ楽曲「El Mar Mediterrani」(1992)や、「弦楽四重奏曲」(1970年代)のような純音楽、「箏とオーケストラのための協奏曲」(2010)などの現代音楽もあり、各々独自の魅力が光ります。
 「energy flow」(1999)はCMにも使われた透徹した美しさを湛えた作品、心癒される音楽です。でも彼は「僕はヒーリング音楽という云い方は好きじゃない」と言う。ヒーリングそのものなのに。天邪鬼なのかなあ?
 彼はまた「非戦、非核、非原発」そして「平和」「被災地の復興」を唱えます。音楽家ならそれを音楽に籠めればいい と思うのですが、音楽にメッセージなんかない、ただ音の塊があるだけと云う。さらには、「音楽に力なんて、おこがましい」とも。稀代のテレ屋なのかも知れませんね。

 坂本龍一はマルチな作曲家です。自由な音楽家です。その時々興の趣くままに作ってきた。そう感じます。生み出した音楽は多岐多様。そんな夥しい作品の中で、たとえ世間から忘れ去られてしまおうとも、私にとって、彼のベスト・チューンは紛れもなく「雪列車」です。「雪列車」はまさしく我が会社人生最愛の楽曲でした。この曲を遺してくれた坂本龍一に最大の感謝を捧げます。坂本龍一さん本当にありがとうございました。どうぞ安らかに・・・・・。

<参考資料>
朝日新聞「日曜に想う」2023.4.23
朝日新聞「SOUND for LIFE」坂本龍一から生まれたもの 2023.4.30〜5.5
NHK-BSP「坂本龍一100年インタビュー」2023.4.8 O.A.
TV朝日「題名のない音楽会」〜坂本龍一の音楽会 2023.4.22 O.A.
LP 「KIYOSHI」(RHL8809)RCA ANOTHERレーベル
 2023.04.05 (水)  春爛漫〜WBC、そして中島みゆき
(1)WBCは大谷翔平の大会だった

 3月9日から2週間の日本はWBCに明け暮れた まさにWBC狂騒列島の様相でした。準々決勝イタリア戦での大谷値千金のセーフティ・バント。準決勝メキシコ戦での、吉田の同点3ラン、源田の1mmとスリーバント、村神様覚醒のサヨナラ打。決勝アメリカ戦での、今永〜戸郷〜高橋宏〜伊藤〜大勢〜ダルビッシュ〜大谷の投手リレー。特に最後、トラウトとの真剣勝負を三振で締めた大谷翔平の快投は後世に語り継がれるべき圧巻の大団円でした。
 その他、今大会は話題満載。宮崎キャンプからダルビッシュが催した宇田川会とダル塾、ヌートバーのたっちゃんTシャツとチームを一つにしたペッパーミル・パフォーマンス、牧が配った善光寺の必勝お守り「勝守龍凰」、佐々木朗希お詫びのロッテ菓子。そして、栗山監督の信じる力が結実した世界一というパーフェクトな結末。このため理想の上司NO1に祭り上げられた栗山監督。「あんな上司だったらいいのに」と言うサラリーマンに、「向こうは大谷のような部下だったらいいのに」と言ってるぜ との爆問太田のツッコミもおかしかった。
 とまあ、見どころ満載の大会でしたが白眉はやっぱりこれ。決勝戦前、大谷のメッセージの全文を下記。
僕から一個だけ 憧れるのをやめましょう ファーストにゴールドシュミットがいたりセンターを見たらマイク・トラウトがいるし外野にムーキー・ベッツがいたりとか 野球をやっていれば誰しもが聞いたことがある選手がいると思うんですけど 今日一日だけは やっぱり憧れてしまっては超えられないんで 僕らは今日 超えるために トップになるために来たんで 今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて 勝つことだけを考えていきましょう さあ行こう!!
 こんな素晴らしい檄は聞いたことがありません。決勝前日の朝日新聞に大谷の意気込みが載っていまして、それは「みんなが臆することなく、『メジャーには』と受け身にならない。自分たちの野球ができるよう、絶対に勝てると切り替えたい」というもの。メッセージはこれを完璧に修辞化したもので、歴史的名言といっていいでしょう。普通なら「相手は強いが今日一日は死ぬ気でぶつかっていこう」あたりでしょうか。でもこれじゃプレッシャーには打ち克てない。憧れるのはいい、だけど、今日一日だけは憧れるのをやめよう とスマートにまとめるから聞いた者は気が楽になる。これはチームの、特に若手ピッチャーには利いたと思います。彼らが、ランナーを出しながらも、土俵際で踏ん張れたのも大谷の言葉の力だったかも知れません。打ってよし、投げてよし、走ってよし、そして話してよしの大谷選手でした。

 何事も日本を病的にライバル視する韓国メディアはWBCを評してこうコメントしました。「野球と書いて大谷と読む」。コレ、中島みゆきの「命に付く名前を“心”と呼ぶ」(♪命の別名)と同相?流石に韓国も大谷には脱帽だった ということでしょうか。

 此度はまた解説者の良し悪しもはっきりしました。例えば・・・・・大谷の最後の一球に「なんで伝家の宝刀スプリットじゃなくてスライダーだったの?」などトンチンカン言いまくりの長嶋一茂。大谷の価値あるセーフティ・バントに「私だったらやりません。クリーンアップですから」と一蹴したヘソマガリの落合博満氏。オウム返しばかり 松坂大輔のユルユル解説。これらに反して、吉田の3ランの前に「さっき空振りをとった球が甘く入れば」など、準決勝のあらゆる場面でピタリ当たりまくった槙原寛己解説は聞きごたえ十分でした。

(2)中島みゆきニュー・アルバムと工藤静香の大炎上

 3月1日、中島みゆきのニュー・アルバム「世界が違って見える日」が発売されました。コロナでツアーが頓挫、3年ぶりの新作とあって大いに期待し多少の不安を抱きつつ即購入しました。結果、熱く強い思いに溢れ優しさも哀愁も戒めもある、変わらぬ多様な楽曲の集合に、中島みゆき健在を感じ、安堵&感激でした。
 ユーミンなどビッグなアーティストの新作発売時にはテレビ露出も拡大。みゆきさんも例にもれず、まずはNHK-BSP「SONGS中島みゆき特集」がありまして。ホストは大泉洋、ゲストは工藤静香。アシスタント進行役として大泉の仲間の戸次重幸。そこで、大泉と戸次が乗せるものだから工藤静香、語るは語るは・・・・・。

 ♪ヘッドライト・テールライトの歌終わりで「カワイイ!」はないだろう、コノー! で始まりまして。工藤さん、この曲の解釈を語ります。
星が輝くには自分の身を焦がしながら光らないといけなくて だから星イコール頑張る人というイメージが私にはあります 自分で自分のことが満足できなかったり自分にゴール地点が万一見えてしまったときに、いや、旅はまだ終わらないって前を見させてくれる力がこの曲にはあります
 まあ、解釈は人それぞれでいい とみゆきさんも仰っているから否定はしませんが、違和感は否めません。大体、星には二通りあって自ら光る恒星と光を受けて輝く惑星があるわけで。でまたこの歌は前を見る力を与えてくれる というよりは、テールライトはあどけない昔の夢をヘッドライトは見果てぬ夢を照らすという、夢を軸にして人生という旅を淡々と綴った歌 と感じます。
 で、工藤さんの解釈は解釈として、どうした司会の二人。「その解釈は工藤さんのオリジナルですか。なんて深い! いや勉強になりました」と絶賛のヨイショ大会。ちょっとみっともなかったなあ。

 お次は♪あの娘(1983年のシングル) の講釈です。参考のために歌詞の要約を。
やさしい名前をつけたこは 愛されやすいと言うけれど
私を愛してもらうには 百年かけてもまだ早い
よくある名前をつけたこは 忘られずらいと言うけれど
私を忘れてしまうには 一秒かけてもまだ多い
ゆう子あい子りょう子けい子まち子かずみひろ子まゆみ
似たような名前はいくらもあるのに 私じゃ駄目ネ
 工藤さん、またまた、曲終わりで「カワイイ」ですか。そして言うには「こんなに名前があるけど私じゃ駄目ネっていう歌なの。あの娘には私はなれない。あの娘はとっても覚えやすい名前なんでしょうね」ときました。何言ってんだかワカラナイ。

 この歌のココロは、私もあの娘もやさしいよくある名前の持ち主なのに、なんであの娘は愛されて私は駄目なの?というもの。羅列する名前は、私もあの娘も同じの、よくある名前の象徴なんですね。工藤さんはこの関係性を「けど」という逆接の接続詞で繋げちゃった。だから何を言いたいのかわからなくなっちゃう。これは、残念ですが、完全な読み違えです。

 番組OA直後、「解釈が合わない」「邪魔なだけ」「カワイイって何なん」など、工藤さん、ネットで大炎上したそうです。番組の最後にアルバムの決め楽曲「倶に」のPV本邦初公開があったので、中島みゆきファンも多数見ていたのでしょう。だから、工藤さんの解釈もさることながら、「私はみゆきさんの伝道者よ」みたいな態度に、ファンの皆さんは「あなたに何が解るのよ。偉そうに語らないで」と憤った といったところでしょうか。私の中島みゆき師匠のN.Y.さんも大いにご立腹で、大炎上話は彼女から聞いたものです。

 お次は、BSフジ2020年OAの「輝き続ける中島みゆき」の再放送です。ここでも工藤さんは大いに語っています。3時間の長丁場の中から、工藤さんのやらかしちゃってる発言を少々抽出させていただきます。

 初めに♪地上の星 での発言。ゲストのスノーボーダー岩垂かれんさんが、「私が初めて聴いたみゆきさんの曲は、小学3年生の時、母が買ってきてくれた♪地上の星 のシングルでした」に工藤さん、「それってスペシャルCDですよね。カップリングが♪ヘッドライト・テールライトじゃありませんか」と来た。「地上の星」のシングルは2000年7月19日発売♪ヘッドライト・テールライトのカップリング盤が唯一。スペシャルでもなんでもありません。知ったかぶりはみっともないですよ。

 二つ目。工藤さんは「中島みゆきさんは日本のエディット・ピアフだと思います」と宣われた。が、これはあまりに微視的一面的な考察です。ピアフの声は力強くて説得力があり、これは確かにみゆきさんに通じるものではありますが、声色も唱法もほぼワンパターン。みゆきさんの多彩さとは雲泥の差です。さらに、みゆきさんは、その多彩な歌声で多様な歌世界を描き出します。

 「時代」〜生きとし生けるものへの優しいまなざし。「ファイト!」〜弱者を鼓舞する力強い歌声。「重き荷を負いて」〜苦しむ者へのエール。「小さき負傷者たちの為に」〜傷ついた者への慈愛。「うらみ・ます」〜恐ろしいまでの女の情念。「誕生」〜ベルカントで朗々と歌い上げる歌唱。「あなたが海を見ているうちに」〜情景・心理描写的ノン・ビブラート唱法。「海」〜清らかで透明な声色。「糸」〜優しくメロウなテイスト。「ホームにて」〜ノスタルジックなフォーク感。「永久欠番」〜大スケールのド迫力。「ミルク32」〜絶妙な語り口。「NOBODY IS RIGHT」〜ゴスペル的ソウル感。「倒木の敗者復活戦」〜打ちひしがれた者への救済心。「童話」〜社会的政治的不条理さ。「命のリレー」〜人生の摂理・・・・・これでもとても書き尽くせない中島みゆきの歌世界!

 私は、みゆきさんを、美空ひばりをも凌ぐ、多彩な歌声で多様な歌世界を表現する世界に冠たるシンガー(・ソングライター) と考えています。そんなみゆきさんを工藤さんは「日本のエディット・ピアフ」と一括してしまった。これはあまりにもみゆきさんを知らな過ぎる発言です。「私、みゆきさんから23もの楽曲を提供いただいているの」なんて喜んでいないで、みゆきさんの歌をもっとしっかりと聴きなおしていただきたいものです。

 最後に。司会者が「みゆきさんの歌は、誰もが、これ私のことを描いているかも と思わせるものが必ずあるんじゃないでしょうか」と言うと、工藤さん、「でもその逆もありますよ。自分にフィットするものと自分には全然ない女性像を描いていて驚くとか、両面あると思います」と来た。みゆきさんの歌を聴いた人は、各々が夫々の共感をもって受け取る。司会者はこう言っているわけで、「その逆もありますよ」はトンチンカンもいいところ。自分のことを書いてくれていると感じる歌もあれば、未知の人間像や知らない世界を提示してくれる歌もある。コレ、芸術作品の常識。工藤さんがネットで炎上する理由が解るような気がします。

 2020年に中断したみゆきさんのコンサートが今年は復活しそうな雰囲気です。私としては、2016年「一会」以来7年ぶりとなります。再会できるその日まで、44枚のアルバムから当日の曲目などを想像しつつ、楽しみに待ちたいと思います。
 2023.03.15 (水)  加茂川洗耳評論第3弾〜おかしな評論あれこれ
(1) 大先生に右に倣えの巻

 辻荘一(1895-1987)という音楽学者がいらっしゃいます。日本音楽学会創設に関わり2代目会長を務めたわが国音楽学界の大長老先生。本章は辻氏の著述に関するお話です。
 「最新名曲解説全集」全24巻(音楽之友社)はクラシックの名曲をほぼ網羅した解説集。執筆は高名な音楽学者の先生方。作品の成立過程、初演の状況、作品自体の内容構成など、客観的事実を把握するには格好の著作。我々音楽愛好家にとってはまさにバイブル的存在といっても過言ではありません。
 その中のシューベルト:交響曲 第8番 ハ長調 「グレート」は辻荘一氏の執筆。この記述を見てみましょう。
1828年3月―これは彼の死の9か月前であるー彼は大きな抱負をもって、たいした下書きも作らないで、この大交響曲を総譜に書きおろした。友人にむかって「歌はもうやめた。オペラと交響曲だけにする」と言ったとつたえられているほどこの曲に夢中になっていた・・・・・中略・・・・・シューマンが作曲者の弟フェルディナントのもとでこの譜を発見、作曲からちょうど10年後の1838年3月21日にメンデルスゾーンの指揮で短縮した形で、ライプツィヒのゲヴァントハウス演奏会で初演された。
 たったこれだけの文章の中に間違いが3つあります。チョット多すぎますね(笑)。

 @作曲したのは1828年ではなく1826年
 A「歌はもうやめた・・・・・」はこのとき友人にむかって言ったのではなく、以前手紙に書いたこと
 B初演が行われたのは1838年ではなく1839年

 @はシューベルトの総譜には1828年3月と直筆で書いてあるのだからまあ仕方がないでしょう。シューベルトは、1826年に書き上げた交響曲ハ長調を楽友協会に提出するために若干の手直しを加えたのが上記の日付、ということなのでここは良しとしましょう。Aは少々問題ありです。シューベルトの「歌はもうやめた・・・
・・」のセリフは、1824年3月31日、友人クーペルウィーザーへの手紙に書かれたもの。だから“(1828年に)言った”はW間違いです。この手紙を書いた1824年に歌曲は(手紙のとおり)6曲しか作っていませんが、1828年には歌曲集「白鳥の歌」など20曲ほどの歌曲を作っています。辻氏ほどの方ならば、感覚的にここは間違えないでほしかった、と思います。Bは年代を間違えただけの単純ミスですが、問題はこのミスが与えた影響の大きさです。私の所有するシューベルト交響曲第8番「グレート」のCD解説からその事例を拾ってみましょう。

渡辺護氏(カール・ベーム指揮:ベルリン・フィル、発売元UM)
大宮真琴氏(ハインツ・レーグナー指揮:ベルリン放送響、コロムビア)
宇野功芳氏(カール・シューリヒト指揮:南ドイツ放送響、コロンビア)
平林直哉氏(フランツ・コンヴィチュニー指揮:チェコ・フィル、コロンビア)
堀内修氏(ヘルマン・アーベントロート指揮:ライプツィヒ放送響、徳間)
柴田龍一氏(カール・ベーム指揮:ウィーン・フィル75東京ライブ、UM)

 これらの中から、ハインツ・レーグナー指揮:ベルリン放送交響楽団(1978録音 コロムビア)のライナーノーツを抽出しますと。
この交響曲を発見したシューマンは、当時ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者をしていたメンデルスゾーンのもとに送った。メンデルスゾーンがこの曲を初演したのは1838年3月21日である。
 このライナーノーツの著者は大宮真琴氏(1924-1995)。わが国音楽学会の重鎮です。その権威が、初演年を1838年との間違いを犯している。のみならず、上記5名の方が同じミスをしています(これらの中には、渡辺護、宇野功芳という重鎮の方々も含まれています)。偶然がここまで重なるはずがありません。原因は明らかです。上記音楽評論家諸氏は、重鎮・駆け出しを問わず、シューベルトの交響曲第8番「グレート」のライナーノーツ執筆において、一様に辻荘一氏の手になる「最新名曲解説全集」を、検証もせずに引用した、ということです。昨今、若者のWikipedia丸々引用論文などが問題となっていますが、上記音楽評論家の方々は「最近の若い奴は・・・・」なんて言えませんね。
 さらに音楽之友社に一言。「最新名曲解説全集」は、ライナーノーツ執筆において、リファレンス的存在なのですから、このことを重要視して不断の検証を怠ることなく、重版時には適切な改訂を加えていってほしいと思います。
 歴史上の事象はその後の発掘研究によって時々刻々と変わるものです。例えば同じ辻荘一氏の手になる「最新名曲解説全集」ベートーヴェン:交響曲 第8番 ヘ長調 作品93の項の中に「ベートーヴェンの『不滅の恋人』はアマーリエ・ゼーバルドである・・・・・」なる記述がありますが、これは既にアントーニア・ブレンターノが定説になっています。このあたりも是非訂正していただきたいものです。

(2) 巨匠リヒテルのとんでもない演奏と「レコード芸術」評

 スヴャトスラフ・リヒテル(1915-1997)といえばウクライナ生まれロシアのピアニスト。同世代の一方の雄・エミール・ギレリス(1916-1985)が晩年抒情派に変身し神経の行き届いた精緻な演奏を旨としたのに対し、あくまで豪快さを保ち最後までスケールの大きな演奏を貫き通した巨匠ピアニストでした。
 そんな彼が豪放さ余って(?)とんでもないミスをしでかした演奏が遺っています。モーツァルト:ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K595 共演はベンジャミン・ブリテン指揮:イギリス室内管弦楽団、1965年6月16日、ブリスバーク教会でのライブ録音です。

 第1楽章 アレグロ。長いオーケストラの前奏を経て81小節目にピアノのソロが入る。4小節後、リヒテルはどうしたことか、85〜88小節をオミットして89小節目に飛んでしまう。そのまま4小節を経過した後、オケは已む無く88/89小節の合いの手を入れる。ソロは同じフレーズを繰り返しギクシャクしたままオーケストラと合流する。モーツァルトの書いた淀みのない流れが完全に堰き止められ、まるで間の抜けた無残な姿を露呈してしまいました。しかもこれは開始直後の出来事。共演者に与えた影響は計り知れず、まさに巨匠らしからぬミスを犯してしまったことになります。指揮者のブリテンは、バーンスタインと同じ嗜好の女性的で繊細な感覚の持ち主。この後は図らずもまったく精彩のない演奏に終始することになりました。ブリテンのショックの大きさがうかがい知れます。

 ではこの大失敗演奏の批評はどうだったか?レコード誌の最高権威「レコード芸術」の新譜月評を検証してみましょう。
ブリテンが主宰したオールドバラ音楽祭と同地で行われたコンサートのライヴ録音集で、注目されるのは、やはりリヒテルをソリストに迎えたモーツァルトの≪ピアノ協奏曲第27番≫だろう。1965年6月16日の演奏で、50歳となってまもないリヒテルは、この巨匠ならではの磨きぬかれた強靭な音を柔らかく繊細に生かして、美しく味わい深い演奏を作っている。第1楽章は少し抑えぎみかなと思われるが、次第に感興を加えてゆく演奏は、柔らかく澄んだ美しさと共に、作品への深い共感に裏打ちされた親密さをそなえており、滋味豊かである。
                                   (歌崎和彦 推薦)

BBC放送収録の音源による一連のシリーズとして、演奏家としてのブリテンがモーツァルトを演奏した際のライヴを集めた一枚が登場した。協奏曲の欄なので≪第27番≫のピアノ協奏曲からコメントしよう。もちろんブリテンはコンチェルトのソリストとしても十分に弾ける腕前だったわけだが、ここではイギリス室内管弦楽団を振って指揮者としてリヒテルと共演している。ブリテンの棒がゆったりめに敷きつめた絨毯の上で、リヒテルはフレーズ単位の自在な伸縮を適度に織り交ぜながら、持ち前の密度の高い音楽を繰り広げる。質量感のあるタッチと、言語的な語り口によるモーツァルト解釈の見本のような秀演だ。
                                   (金子健志 推薦)
 なんというか、“磨き抜かれた強靭な音を柔らかく繊細に生かして”とか、“作品への深い共感に裏打ちされた親密さ”とか、“フレーズ単位の自在な伸縮を適度に織り交ぜながら”とか、“質量感のあるタッチ”とか、“言語的な語り口”とか、サンドイッチマン風にいえば、「何言ってんだかワカラナイ」表現が脈々と続いています。まあ、これらはこれ以上追及いたしませんが、肝心なのは、お二方共、誰が聴いても一発で判るリヒテルのスッとばしには一言も触れていないということです。そして、この演奏をベタ褒めして輝く「推薦」印を打っています。さらに月評者二人が推薦すると「特選」に認定されますから、この前代未聞の欠陥演奏を「レコード芸術」誌は「今月の特選盤」に祭り上げてしまったというわけです。 歌崎氏はレコード会社出身だから大目に見るとして(笑)、金子氏はれっきとした東京芸大出。この方がスッとばしを見逃すとはどう考えても合点がゆきません。

 加茂川氏は「たいこもち批評家『座右の銘』」の中で、「〇〇なる人物の名誉のためにいえば、多分、彼はこのレコード(小沢征爾の「新世界より」)の第3楽章を聴かなかったのであろう。聴いたのに気がつかないとすればもっと恥ずかしいことになる」と述べておられます。この言に従えば、歌崎、金子両氏は聴かずに書いたか、聴いても気づかなかったかのどちらかになります。どちらなのかを深追いはしませんが、どちらにしても大失態に変わりはありません。可哀そうなのはこのレコ評を見て欠陥CDを買ってしまった音楽ファンの方々です。でもまあ、これには、ブリテンのピアノによる「ピアノ四重奏曲 ト短調K478」とエリー・アメリンク歌唱のモテット「踊れ、喜べ、汝幸なる魂よ」K165の素晴らしい演奏がカップリングされているので、十分元は取れるでしょう。ことにピアノ四重奏曲はこの名曲随一絶品の名演奏です。
 作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913-1976)のモーツァルト演奏家としての凄さとスヴァトスラフ・リヒテルの豪快過ぎるパフォーマンスの対比が衝撃的かつ面白く、その意味では珍盤にして貴重盤。これはとても価値あるCD といえるかもしれません。

 私が所有する数千枚のCDの中には、このような珍しい盤がまだまだ存在します。今後折を見てそれらを紹介できればと思っています。

<参考資料>
最新名曲解説全集≪交響曲編1≫(音楽之友社)
CD 「ブリテン、モーツァルト・コンサート」(キングレコードKKCC7011)
レコード芸術2000年4月号(音楽之友社)
「新潮45」 1991年8月号(新潮社)
 2023.02.15 (水)  加茂川洗耳評論第2弾〜志鳥流ステレオタイプ的批評術
 ここ2回ほど臨発を入れたため、やっと今回加茂川モノに戻りました。第1弾で書いたように加茂川氏のお歳に似合わぬ暗記力に触発されて、私も、ここ数か月、なんでも丸暗記にトライしてみました。やってみたのが歴代ダービー馬と有馬記念馬の丸暗記。どうして競走馬なのか? これ、やはり、昨年の「クラ未知」4月に登場した谷口弘子さんの持ち馬を毎週応援している影響かと。 彼女の持ち馬はとにかく走るんです。私と違い馬主運がいい。持ち馬はこれまで通算100勝越え、今年に入ってからアルジーヌ(新馬戦/写真)、ロードアクアともう2勝しています。週末がとても楽しみ。まるで自分の馬のように思えてくるから不思議です。いつかクラシックが取れるといいね、と勝手に念じながら応援しております。
 さて、丸暗記の方ですが、ダービー馬がワカタカからドウデュースまで89頭。有馬記念はメイジヒカリからイクイノックスまで67頭。全156頭、すべて頭の中にインプットいたしました。コレ、ボケ防止には最適なんですね。その上、車で移動中も退屈せずに済むんです。目に入る車のナンバーの下二ケタに当てはまる馬名を呼び起こす。例えば、車番1741なら1941年のダービー馬はセントライト。2405なら2005年のダービー馬はディープインパクトで有馬記念はハーツクライといった具合。ダービーは1932年から行われているので、下二ケタで空白なのが23〜31と開催されなかった(19)45と46だけ。それ以外は全部当てはまるので走っている車のほぼ9割は該当する。なので、コレ結構楽しめます。ではそろそろ本題に入りましょう。

 加茂川文書でヤリ玉に挙げられている批評家の中でも一際目立つ存在が志鳥栄八郎先生(1926-2001)です。この方、長年「レコード芸術」の月評を受け持ち、音楽愛好者の大きな指針となってきました。加茂川氏の志鳥評はこんな感じであります。
・・・・・その適当派の代表の一人に志鳥栄八郎がいる。彼の書く手口の“いい加減さ”はいつもワン・パターンで、たとえば、マリナーをホめるときには「演奏はマリナーのイギリス人的気質がよく表れたもので・・・・・」、「アバドはやはりイタリア人だけに、こうしたラテン系の作品を指揮させるとその実力を発揮する」、「さすがにルーマニア出身のコミッショーナの棒はこうした東洋的な音楽特性と田園的な気分を・・・・・」というぐあいにはてしなく続いてゆく。なんのことはない、この筆法を真似れば簡単に三文批評が出来上がる。「彼は〇〇人だから、〇〇の曲と肌が合うせいか、遺憾なく実力を発揮している」。 この〇〇のところに何かを入れればいいのである。
 私の手許に、昨年、ひょんなことから手に入った志鳥栄八郎「新版・不滅の名曲はこのCDで」なるガイド本があります。この本には志鳥氏書きおろしの名曲名演解説1300点超が掲載。加茂川評論を立証するのにこれ以上の書はありません(鈴木洋之さんありがとう)。では、そんな志鳥流解説術を検証してみましょう。

●クーベリックの表現は、チェコスロヴァキア出身だけに、適度にロマンティックで、しなやかな表情を持っている(モーツァルト:交響曲第39番、ラファエル・クーベリック指揮:バイエルン放送交響楽団の演奏評)

いかにもワルターらしい風格が感じられるが・・・・・(モーツァルト:交響曲第40番、ブルーノ・ワルター指揮:コロンビア交響楽団)

●クリュイタンスならではの格調の高さと、手際のよさにひかれる名演である(ベルリオーズ:幻想交響曲、アンドレ・クリュイタンス指揮:フィルハーモニア管弦楽団)

●ことに、旋律の歌わせ方など、イタリア人ならではのものだ。(メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」、クラウディオ・アバド指揮:ロンドン交響楽団)

●シャイーはイタリア人だけに、旋律の歌わせ方が抜群にうまく、この名門オーケストラの豊潤な響きを存分に生かしながら、力強い演奏を行っている(フランク:交響曲、リッカルド・シャイー指揮:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団)

●全体に、ワルターならではの柔和なブラームスとなっているが・・・・・(ブラームス:交響曲第1番、ワルター指揮:コロンビア交響楽団)

●その白熱的演奏は、まさにこの巨匠ならではのものである(ブラームス:交響曲第1番、ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

●ドイツ・オーストリア系以外の指揮者は、この曲の流れるような歌の性格を強調しすぎることが多いが、スウィトナーは、オーストリア出身だけに、曲の対位法的な性格をよくつかみ、入り組んだ旋律を美しく聴かせてくれる(ブラームス:交響曲 第2番、オトマール・スウィトナー指揮:ベルリン国立歌劇場管弦楽団)

いかにもムラヴィンスキーらしいきびきびした鋭い表現で・・・・・(チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮:レニングラードフィルハーモニー管弦楽団)

●チェコスロヴァキアの指揮者とオーケストラの演奏だけに、スラブ民族の血のたぎりを感じさせるような躍動感にあふれた演奏だ(ドヴォルザーク:交響曲第8番「イギリス」、ヴァーツラフ・ノイマン指揮:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団)

 出るは出るは志鳥節 〇〇だけに、〇〇ならではの、いかにも〇〇らしい のオン・パレード!最初の1割ほどで最早このありさま。バカバカしいのでここらでやめておきますが、まさに加茂川文書に偽りなしです。で、何ですか? ――イタリア人は旋律の歌わせ方がうまい。チェコスロヴァキアの演奏家は、スラブ民族の血のたぎるような躍動感がある。同じく、適度にロマンティックでしなやかな表情を持つ。オーストリアの指揮者は対位法的な性格をよくつかみ入り組んだ旋律を美しく聴かせる ――ですって?その国の演奏家はみな同じような演奏をするんかいな。あきれるほどの画一性。失礼ながら、浅薄の極みとしか言いようがありません。
 固有名詞で、〇〇ならではの とおっしゃられても、〇〇を知らない人には実相がつかめず、どんな演奏なのかがサッパリ伝わってこない。これじゃ買っていいのかどうか判らない。

 私が信頼する批評家は違います。例えば、宇野功芳氏〜「金管が主題を圧倒的なフォルティッツモで吹き鳴らす場面は、さながら悪魔の高笑いだ。クナッパーツブッシュの『ざまァ見やがれ』という声が聞こえてくるようであるが、その遊びには命が賭かっていることを忘れてはならない」(クナッパーツブッシュ「ウィーンの休日」〜「バーデン娘」への言及)。石井宏氏〜「ことこのジャンルに関しては右顧左眄する必要はない。迷わずこのセットを買えばいいのである」(シャーンドル・ヴェーグ「モーツァルト:ディヴェルティメント集」の推薦文)。志鳥先生とは月とスッポン。まるで迫力が違う。すぐにでも飛んでいって買いたくなる文章ではありませんか。

 さて、これまでで加茂川文書に間違いないことが立証されました。もうこれ以上のリサーチは不要なのですが、最後にもう一つだけ、志鳥先生ならではの演奏評の全文を付け加えさせていただきます。
マーラーの弟子がワルター、ワルターの弟子がバーンスタイン、そのまた弟子がインバルである。この4人は、いずれもユダヤ人だ。インバルが、マーラーの音楽を自家薬籠中のものとしているのは、まさにそうした血の流れによるものであろう。ここでも、インバルは、いかにもユダヤ人らしく、旋律をたっぷりと、豊麗な音色で歌わせており、ことに、やや遅めのテンポでじっくりと表現した終楽章など、すばらしい。録音も優秀だ(マーラー:交響曲第3番、エリアフ・インバル指揮:フランクフルト放送交響楽団)
 4人の音楽家をユダヤ人の血で一括りにして論じている。まさにこれ、志鳥流画一的批評の極致といえる迷文です。

 加茂川文書にはまた批評家先生とレコード会社の関係についてのこんな記述があります。曰く「月評の先生方の行きつけの鮨屋とか飲み屋というのがあって、レコード会社の連中はちょいちょい連れていかれる。払いはもちろんレコード会社だ。ツキアイが悪いと(例えば「レコード芸術」の)月評の“推薦”が減るとあって、担当者はせっせとお供をして金を払う。ささやかな飲み代が、レコード会社と先生方を結びつける絆となり、月評に手加減が加わる。また、たいていの先生はライナー・ノート(レコード付属の解説文)を書かせてもらうが、そのお礼に、まずい演奏でも手加減、匙加減を忘れない。これはレコード会社の先生方への形を変えた献金なんだ とはっきり言う者もいる。その効果があってか、ただでも常套句ばかりを並べた月並みな月評が、ますますいい加減なものになる・・・・・」
 さすが加茂川氏、レコード会社と批評家の癒着をズバリ言い当てています。月評がいい加減に堕してゆくのは確かに批評家の責任ではありますが、そうさせたのはレコード会社です。レコード会社は何よりも月評者の“推薦”というお墨付きを求める。”推薦“の二文字があれば中身なんかどうでもいい。それは”推薦“こそが売り上げの決定打になるからにほかなりません。なぜなら、(これも加茂川氏によれば)レコード愛好者のほとんどが、批評家たちに劣らぬ幼稚な人たちで、買う買わないの判断を、ひとえに”推薦“の有無に置いているから ということになります。

 私がレコード会社で営業に携わっていた1970年代あたりの新譜発注会議の一例を引いてみましょう。本社のクラシック担当者が営業所にやってきてこうプレゼンします〜「今月の一押しはドミンゴ〜スコット〜レヴァインのヴェルディ『オテロ』全曲。超強力盤です。イニシャル(新譜の初回発注数)を大いにはずんでください」。これを受けて我々営業は「やりますから、必ず『レコード芸術』の”推薦“を獲ってくださいよ。そうでなければ大量の返品が生じてしまいますから」と要請。「頑張ります」と担当者。さあ、翌日から担当者は月評者先生を供応、”推薦“獲得に邁進する・・・・・これがレコード会社の姿でした。私は月評者番をしたことはありませんが、間接的に、先生方の“月並みな月評の堕落”の一端を担っていたことになりますね。この「オテロ」ですか?確か「レコード芸術」準推薦止まりだったと記憶しています。

 そんなこんなで、レコード会社の月評者への供応は日常茶飯事だったわけです。これも加茂川文書通りですね。レコード会社の月評者への供応→月評の匙加減→購買動機 という流れ。志鳥栄八郎先生もこの例にもれなかった。それどころか一番のたかり屋さんだったとも・・・・・レコード会社の月評者番は、こんな浅薄な大先生のお相手をして、さぞや気疲れしたことでしょう。ご苦労お察しいたします。

 志鳥氏をはじめとして、小石忠雄、大木正興、門馬直美、佐川吉男各氏の「レコード芸術」月評者を実名でメッタ斬りした加茂川洗耳の「新潮45」は、発売当座一大センセーションを巻き起こしました。それはそうでしょう、人間は、隠しておきたい真実を突きつけられれば、怒り慄きウロタエるものですから。加茂川洗耳って誰? とんでもない奴、許しておけないなど、加茂川探しが始まりました。当人にも、加茂川さんはあなたですか?の問い合わせが毎日のようにあったと聞きます。でも大切なのは犯人探しではありません。加茂川氏が指摘する「批評の堕落」を当事者は真摯に受け止めてスキル・アップを図ることが重要だったのです。告発から30年余。日本の批評は堕落から抜け出せたのでしょうか? それとも、レコード=CDの売り上げ激減は、そんなことは意に介さない時代を作りだしてしまったのでしょうか? いずれにしても、レコード産業に携わったものとして、一抹の寂しさを感じるものであります。

<参考資料>
「新潮45」 1991年8月号(新潮社)
「新版・不滅の名曲はこのCDで」 志鳥栄八郎著(朝日新聞社)
宇野功芳著作選集3「名曲とともに」(学習研究社)
「モーツァルト ベスト101」石井宏編(新書館)
CDクナッパーツブッシュ/ウィーンの休日(KING RECORD)
CDシャーンドル・ヴェーグ/モーツァルト・ディヴィルティメント集(CAPRICCIO)
 2023.01.11 (水)  2022/2023年またぎ音楽時評
 新春第1弾は「加茂川洗耳」2を考えていましたが、1点どうしても調査が及ばなかったためどうしたものかと思い巡らせていた折、この年末年始のTV放映がいつになく面白かったことに気づき、これを書くことにしました。加茂川モノは順延いたします。

 まず取り上げたいのは、昨年7月14日、パリのシャン・ド・マルス公園広場で行われたパリ祭コンサート2022(NHK-BSP 11月27日O.A.)です。オーケストラはフランス国立管弦楽団。指揮はクリスティアン・マチェラル。1980年ルーマニア生まれ、中堅の有望株です。曲目はすべて親しみやすいものばかり。ゲストが多彩でみな素晴らしい。近年随一楽しめたコンサートでした。
 コロナ前は年一回、アパルトマンを借り切ってパリに滞在、フランスのあちらこちらを駆け巡るほどのフランス好きな我が従妹の真理ちゃんに「これでも見て行った気になって」と、このDVDを送ってやると大喜びでした。コンサートが進み、時が過ぎて暮れなずみ、やがて背後のエッフェル塔が夜のとばりと共にライトアップされる。なんて幻想的!真理ちゃんならずともゴージャスなパリの宵に酔いしれるひと時です。
 昨年は、エリザベス女王が逝去されたためか、イギリス最大の音楽イヴェント「プロムス音楽祭」が開催されなかったようで、一抹の寂しさを感じていたのですが、「パリ祭コンサート」は補って余りある素晴らしさでした。ところで、数多ソリストの中で際立っていたのはソプラノのナディーン・シエラとピアノのアリス・紗良・オットの二人です。

 ナディーン・シエラはアメリカ生まれの若手ソプラノ歌手。演目はヴェルディ:「椿姫」から「ああ、そはかの人か〜花から花へ」。伸びやかな美声と豊かな表現力で堂々たるパフォーマンスを披露しました。容姿端麗、スタイル抜群、キュートな佇まい。まるで、パリの社交界を席巻した主人公・ヴィオレッタの生き写しのよう。このアリアはまたソプラノの技量を測るには格好の曲ですが、我が基準では堂々のAランク。現役ソプラノ歌手の第一人者はアスミク・グリゴリアンだと思いますが、彼女を追いかける一番手がこのシエラ嬢ではないでしょうか。今後の活躍が楽しみです。

 アリス・紗良・オットはグリーグ:ピアノ協奏曲 第3楽章 を演奏。全身で音楽にぶつかる溢れんばかりの情熱と限りない生命力に会場は大喝采でした。
 アリスの姿は、オクサーナ・リーニフ指揮:ミュンヘン・フィルと共演したモーツァルト:ピアノ協奏曲 第13番 (NHK-BSP 2022年2月1日 O.A.)でも拝見していましたが、モーツァルトの音楽に没入しきって音楽する喜びを体中から発散させるような演奏にいたく感動したものです。また別の番組(「ザ・ヒューマン」NHK-BSP 2022年7月30日OA)から、彼女は数年前に難病・多発性硬化症に罹り現在闘病中と知りました。また、この病は天才チェリスト ジャクリーヌ・デュ・プレ(1945-1987)の命をその絶頂期に奪った病気です。アリスが見せる音楽する喜びの表情は、自身の置かれた状況から生まれる、一瞬一瞬を大切にする気持ち=覚悟の表れなのかもしれません。アリスには、これからも、できる限り長く演奏家人生を歩んでほしい、と祈るのみです。
 余談ですが、オクサーナ・リーニフは気鋭の女性指揮者。その腕を買われて2021年のバイロイト音楽祭に登場しています。演目は「さまよえるオランダ人」。力強さとしなやかさを絶妙に交錯させる彼女の指揮ぶりは、アスミク・グリゴリアンの圧倒的歌唱と相まって、圧巻でした。

 さて、年が明けた元旦は恒例のウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2023となります。今年の指揮はフランツ・ウェルザー・メスト。地元ウィーン出身、3度目の登場です。それはさておき、今回度肝を抜かれたのはプログラム。最後に置かれるお決まりの「美しく青きドナウ」〜「ラデツキー行進曲」以外、よく知られた曲は皆無! しかも、ワルツ王ヨハンの弟ヨーゼフの曲が全15曲中9曲を占めるという特異さ。しかもヨーゼフの名曲「天体の音楽」も「オーストリアの村つばめ」はナシ。
 これは指揮者ウェルザー・メストの所望だそうで、楽団のライブラリアンなどは「図書館から公文書館、はては一般音楽愛好家まで一年がかりで楽譜を集めました」と述懐。シュトラウス一族の末裔エドゥアルト氏は「ヨーゼフは特別の才能の持ち主。世界観が全く違う」、また、音楽学者は「ヨーゼフの曲は耳触りの良い音楽の奥に驚くほど深遠な世界が広がっている」と礼賛。関係者はこの特異すぎるプログラムをなんとか正当化?しようと躍起になっている。そんな気がしました。
 レパートリーが偏っていることで有名な名指揮者カルロス・クライバー(1930-2004)でも、タクトを執った1992年のニューイヤーで、「雷鳴と稲妻」「トリッチ・トラッチ・ポルカ」「ウインザーの陽気な女房たち序曲」などの有名曲や上記ヨーゼフの名曲2つをプログラムに入れていました。こう見ると、ウェルザー・メストは、シューベルトのような穏やかな風貌に似合わず、かなりの変人?なのかもしれません。彼の今後に注目したいと思います。
 それにしても、会場の盛り上がりはすさまじいものがありまして。あれほどのスタンディング・オベーションはとんと見たことがありません。ニューイヤーの聴衆は新しいモノ好きなのかなあ、なんて思案しながら見ていたら、来年の指揮者の発表がありました。クリスティアン・ティーレマンです。2019年に続き2度目の出演ですね。2019年は私が母を亡くした次の年。正月、FMえどがわで、これをテーマに特番をやったことが懐かしく思い出されます。

 この日の夕刻には、正月恒例となったどちらが本物かを当てっこする芸能人格付けチェック(テレ朝系)がありまして、音楽モノが必ず含まれます。今年はジャズバンドと弦楽六重奏でした。
 ジャズバンドは、東京キューバンボーイズVS明治大学のバンド。私も勝手に自主参加しましたが、見事に外れ。プロのキューバンボーイズがフワフワとメリハリがなく、明治大学は音がクッキリと粒立ちよく聞こえたもので。
 弦楽六重奏は、総額70億円のストラドとガルネリVS音楽教室で借りてきた総額600万円の楽器。これまた外れ!弾き方にまったく抑揚がなく、終始弱音のまま。これじゃ楽器の優劣を聞き分けられるはずがない と自己弁護するも、間違いは間違い。お粗末の一席です。
 数年前、ソプラノのプロと音大生の聞き比べで、圧倒的に音大生の方がうまくて、ほぼ全員外れたことがありました。とまあ、音楽モノはなかなか難しい。そんな中で、GACKT様が71連勝を達成。これも番組の売りなのでしょうが、どう見ても異常すぎます。やらせ疑惑が出るのも当然でしょうか。

 1月3日はNHKニューイヤー・オペラコンサート。今年の司会は演出家の宮本亜門氏。いつもはテキパキ話す亜門さんですが、今回はどういうわけかややトチリが目立ちました。昨年も、司会の檀ふみさんがちょっとおぼつかなくて、ハラハラのし通し。こちらはお歳のせいかもしれません。失礼!
 そこへゆくと、紅白歌合戦の橋本環奈ちゃんの司会ぶりはお見事でした。初登板にも関わらず、臆することなく終始堂々たるもの。かわいい顔に似合わず胆が据わっているのかな。紅白ではまた、85歳・加山雄三さんがコンサート活動終了を宣言。歌うは中興の名曲「海 その愛」。我が学生時代の憧れのスター 若大将、お疲れさまでした。
 そして、なんてったってユーミン。特別仕立てのCall me backを歌い終わって、これでオシマイか と思った瞬間、予告のなかった「卒業写真」を歌い出したのには大感激。この曲、私のユーミンNo.1 Favorite Numberなもので。審査員席の時政おやじ坂東彌十郎さんが感じ入った表情で口ずさんでいたのが印象的でした。彌十郎さん、ユーミン世代なんだね。

 オペラコンサートに登場した歌手の中で気になったのはテノールの第一人者 福井敬さん。十八番の「誰も寝てはならぬ」を歌ったのですが、あまり調子がよくなくて。もしや年齢的な衰えか?とも思いましたが、62歳は老け込む歳ではないような。福井氏に比べれば、81歳のプラシド・ドミンゴと76歳のホセ・カレラスが、今月26日、「パヴァロッティに捧げる奇蹟のコンサート」と称するジョイント・コンサートを行うのはまさに奇蹟的 と言っていいかもしれません。

 多くの登場歌手の中ではなんてったって森麻季さんです。この人、声も容姿も美しくて清潔感がある。現在わが国オペラ界で唯一無二のスターといえるのではないでしょうか。歌ったのはドヴォルザークの歌劇「ルサルカ」からアリア「月に寄せて」でした。

 「月に寄せて」は、昨年、中学の同級生谷口弘子さんの依頼でカセットテープのCD化作業(この件はクラ未知4月に書いています)を行ったときに、「いい曲だなあ」と印象に残っていた曲です。CD化した数枚の中に、彼女の卒業校である東京学芸大学の卒業生が集うコンサート「おたまじゃくしの会」(1991年と1993年に開催)というのがありまして。そこで、古庄英子さんというソプラノの方が谷口さんのピアノで歌った曲の一つが「月に寄せて」だったというわけです。
 古庄&谷口さんコンビは、この他に、ドヴォルザーク「我が母の教え給いし歌」やレハール:喜歌劇「メリー・ウィドウ」から「ヴィリアの歌」を共演。谷口さんはまた、1987年鳥取でのリサイタルで、ソプラノの森原紀美子さんと「ウィーン わが夢の街」などを演奏しています。これらがなかなか素敵で印象的だったので、手持ちのCDを引っ張り出し、少々買い足したりして、世界の名歌手による「ヴィリアの歌50%」と題するプライベートCDなんぞを作りました。お遊びでコルトレーンを入れたりしましてね。これまさに“谷口さんの教え給いし歌”といったところ。珠玉の歌たちがびっしり詰まった上々の出来だったので、このCD、きっかけをくれた谷口さんに献呈しました。そのラインアップを下記。数字は録音年です。

       「ヴィリアの歌」 50%
01 エリザベート・シュワルツコップ(S) 1962
02 唇は黙し withニコライ・ゲッダ(T) /マタチッチ:PO
03 エリザベス・ハーウッド(S) 1973
04 唇は黙し withルネ・コロ(T) /カラヤン:BPO
05 アンネリーゼ・ローテンベルガー(S) /ヘルムート・ツァハリアスO
06 バーバラ・ヘンドリクス(S) /フォスター:PO 1992
07 バーバラ・ボニー(S) /マルコム・シュナイダー(P)2002
08 マルガリータ・デ・アレラーノ(S) 〜メルビッシュ湖上2005
09 森麻季(S) /鈴木優人(P) 2022 (TV 「題名のない音楽会)より」
10 ジョン・コルトレーン(ts) マッコイ・タイナー(P)
    ジミー・ギャリソン(b) エルヴィン・ジョーンズ(ds) 1963
   ドヴォルザーク:歌劇「ルサルカ」〜月に寄せて
11 リタ・シュトライヒ(S) /ゲーベル:ベルリン放響 1958
12 ガブリエラ・ベニャチコヴァ/ノイマン:チエコPO 1982
   ドヴォルザーク:わが母の教え給いし歌
13 ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(S) /ブルコス:SoL 1965
14 マグダレナ・コジェナー(S) /マルコム・マルティノー(P) 2007
15 アンナ・ネトレプコ(S) /ヴィヨーム:プラハP 2008
16 シーチンスキー:ウィーン、わが夢の街
    エリザベート・シュワルツコップ(S) /アッカーマン:PO

 「月に寄せて」は、水の精ルサルカが恋する王子を思い月に自らの心情を吐露する恋の歌。森麻季さんはルサルカの切ない思いを情感たっぷりに歌い上げます。まさに絶品の歌唱でした。これ、「ヴィリアの歌50%」に加えて新編を作ろうかな。なんて考えながら、今回はこの辺で。来月は「加茂川洗耳」第2弾といきましょう。

 2022.12.14 (水)  秋の信州〜コンサート2連荘
 長野から東京に移り住んだのは最初の東京オリンピックの年だから、かれこれ58年。ウーン、歳をとったものだ!この間、東京―長野間を何度往復したかは知らないが、2週連続で行き来したのは今回が初めてのような気がします。この人生初体験のキイ・パーソンは門多丈さん。親しくお付き合いさせていただいている音楽仲間であり我ら夫婦の結びの主でもある人生の恩人的友人です。門多氏は東大卒業後三菱商事に勤務、フィナンシャル部門のトップを務め、退職後は海外投資のコンサルティング会社を設立、長野県経済の金融面での元締め的存在ともいえる八十二銀行の社外取締役、さらには大学の非常勤講師を務めるなど、未だ現役経済人として活躍しています。そんな彼が企画した手作りのコンサートとチケットをプレゼントいただいた音楽会が偶然長野で2週連続行われた というわけです。今回は、加茂川洗耳モノを繰り延べして、急遽「晩秋の信州 コンサート2連荘」に切り替えさせていただきます。

(1)第1週〜大本山活禅寺大伝法授法記念コンサート:海老原みほさんのピアノ演奏

 第1週は11月19日(土)、門多氏が長年修行を行っている長野の禅寺・活禅寺に関係する皆様に向けたコンサートで、今回が2度目の開催となります。第1回は、2019年、門多氏が大伝法授法の報恩として企画開催。そのアットホームな雰囲気はとても好評でした。3年ぶりとなったのは無論新型コロナの影響です。
 ピアノの海老原みほさんは門多氏の三菱商事時代の上司のお嬢さん。英国王立音楽院に学びイタリアのイブラ国際ピアノコンクールで3位入賞。そして現在は、日本を基点に欧米各地でリサイタル、室内楽等を積極的に行い、さらには、コンサートのプロデュースや後進の指導に情熱を注ぐなど、その活動は多岐にわたっています。
 会場は善光寺にほど近い竹風堂善光寺大門ホール。晩年の葛飾北斎が行き来した小布施に本拠を置く栗菓子の老舗竹風堂さんがオーナーの、木の香漂う収容100名ほどの、当コンサートの趣旨にぴったりのホールでした。曲目は以下の通り。

J.S.バッハ(ラフマニノフ編曲):ヴァイオリン・パルティータ第3番のプレリュード
ドビュッシー:ベルガマスク組曲
ショパン:舟歌
ショパン:雨だれ前奏曲
ベートーヴェン:ピアノソナタ第14番「月光」

 海老原さんは、確かなテクニックと直截的で明快なピアニズムの持ち主。好きなピアニストの一人がシューラ・チェルカスキー(1909-1995)だということです。

 演奏に先立って門多氏から挨拶。3年ぶりの開催を喜び、会場を提供くださった竹風堂竹村社長への御礼を述べられました。さあ、いよいよ海老原さんの登場です。

 ラフマニノフ編曲のバッハのプレリュードで演奏がスタート。旋律線がクッキリと際立った靭く清澄な表現で、チェルカスキーの弾くシャコンヌ(ブゾーニ編)を彷彿とさせてくれます。
 ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」は海老原さん得意の演目。数年前の彼女のリサイタルで曲解説を書かせていただいたことを懐かしく思い出します。4曲からなる組曲の第3曲「月の光」は単独で演奏されることが多い人気曲なので近頃も聴く機会が結構ありました。がなぜか、どれもこれも皆ネットリとして光が淀んでいるようなものばかり。私はこの曲、ミシェル・ベロフのようなキリっと締まった演奏が好きなのですが、最近なかなかこの手の演奏にお目にかかれていないのです。そこへゆくと、この日の海老原さんの「月の光」はナイスでした。玲瓏なタッチで抒情がベトつかない実に爽やかな後味を残してくれました。これはショパンの2曲も同様の印象でした。
 ベートーヴェン「月光ソナタ」は、詩人レルシュタープが「月の光が降り注ぐルツェルン湖の波に揺らぐ小舟のよう」と形容した第1楽章とダイナミックな第3楽章の対比が、幻想感と爽快感を際立たせて、聴きごたえ十分な演奏となりました。

 前回も今回も、この海老原さんコンサートは曲ごとに楽しくてためになるお話を挟みながら進みます。だからコンサート初心者にも評判がいい。当日私を車でエスコートしてくれたわが従妹の三男俊くんも「クラシックの演奏会にはほとんど行ったことがないけれど、今日のはとても楽しかった」との感想を私に述べていました。
 一方、私にとってはこの日のベートーヴェンのエピソードがとても興味深いものでした。それはこんな話です。
 ベートーヴェンが「月光ソナタ」を献呈したのはピアノの弟子で貴族の娘ジュリエッタ・グイチャルディだった。二人は相思相愛の間柄だったが、父親は「身分の低い音楽家にうちの娘はやれない」と許さなかった。ところが、ジュリエッタが結婚した相手はなんと音楽家だった! その名はヴェンゼル・ロベルト・フォン・ガレンベルク。フォンは貴族の印。父親は“ヴァン”ベートーヴェンではなく“フォン”ガレンベルクを選んだ。つまりは才能よりも身分を優先したということです。

 ショパンが「雨だれ」を書いたのは地中海に浮かぶマヨルカ島でした。患っていた肺の病の静養を兼ねた恋人ジョルジュ・サンドとの逃避行でしたが、そこに唯一持参した楽譜がJ.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」だったのです。このJ.S.バッハとショパンのつながり。ドビュッシー「月の光」とベートーヴェン「月光ソナタ」のつながり。工夫を凝らしたプログラムです。アコースティックな空間に、スタインウェイが華麗に豊潤に響いた、心温まる素敵なコンサートでした。

(2)第2週〜サイトウ・キネンのマーラー「第9」

 第2週は11月26日(土)、長野ホクト文化ホールで行われたアンドリス・ネルソンス指揮:サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)の演奏会。長野に向かう新幹線の車窓から見た浅間山は一週前と違って山頂がうっすら雪化粧をしていました。昔みんなで楽しく過ごした御代田の別荘ライフを懐かしく思い出しました。

 演奏会では、久しぶりに従妹の姉妹、真理子とめぐみに会いました。妹のめぐは今週は長男の壮くんを連れて私の送り迎えをしてくれました。感謝! 姉の真理ちゃんは上智大学時代の同級生・関美江子さんを同伴。関さんの娘さんがセイジ・オザワ音楽事務所の広報に携わっていて、その関係で演奏会をご一緒することになったとのことです。関さんは「鎌倉えんぴつの会」という自主夜間中学校の日本語教師。不登校などで学校にあまり行かれなかった人や、外国から来て日本語がよく分からない人たちにボランティアで教えていると聞きました。真に他人のためになることを無償で実践している。立派なことだと思います。二人は卒業以来50年ぶりの再会だったようで、長野に一泊した関さんと、夜遅くまでおしゃべりしたとか。国文科の真理ちゃんがフランス語の教師をやり、フランス語学科の関さんが日本語教師をしているパラドクス的因果等大いに盛り上がり、その中で私の話が出て、関さんがコンサートの感想を所望されたとのこと。以下はその感想文です。

          サイトウ・キネンのマーラー:交響曲 第9番 ニ長調

 この演奏会は、セイジ・オザワ松本フェスティバル30周年特別公演として、指揮にボストン交響楽団日本公演で来日中のアンドリス・ネルソンスを迎えて行われた。
 フェスティバルの総監督小澤征爾さんは3日前の11月23日、4年ぶりにSKOを指揮。演奏されたベートーヴェンの「エグモント序曲」は若田光一さんが滞在する国際宇宙ステーションに届けられた。小澤さんは「音楽を通して、同じ星に住む同じ人間同士、みんなで一つになれることを願います」とコメント。若田さんは「小沢征爾さんの指揮で心揺さぶられる演奏を宇宙という特等席で聴くことができて興奮が収まりません」と返す。音楽を通して地球の安寧を願う日本と宇宙の交信メッセージだった。

 演奏会の曲目はマーラー作曲:交響曲 第9番 ニ長調。総監督と指揮者との打ち合わせで、ネルソンスは第7番「夜の歌」を提案したが、小澤氏は「9番」を切望して、この演目に落ち着いたという。小澤にはマーラーの9番に特別な思い入れがある。作曲者のマーラーも「9番」には特別の思いを抱く。まずは、マーラーが「9番」という交響曲に寄せた思いを手繰っておこう。

@ マーラーが抱く「9番」への思い

 ベートーヴェンは生涯で9つの交響曲を作曲したが、これに続く交響曲作曲家ブルックナー、ドヴォルザーク、マーラーらも9曲を残して世を去った。クラシックの世界では、これを「9番の呪い」とか「第9のジンクス」などというが、実際これをまともに意識したのはグスタフ・マーラー(1860−1911)だけだったのではなかろうか。 マーラーが、“「交響曲第9番」を書いたら死ぬ”という恐怖にも似た不安に駆られていたのは確かなことのようである。1908年に完成した交響曲は、順番からは「第9番」と名づけるはずのものだが、実際には、番号抜きで交響曲「大地の歌」と命名したのはその表れに他ならない。

 マーラーの妻アルマの「回想録」には、「第9番」について僅かばかりの著述がある・・・・・「彼は(1909年の)夏の間に全力を傾けて仕事をし、『第9番』を完成させた。だが、それをその名で呼ぶことを嫌った。冬になると毎年のウィーンでの生活律を守り、毎朝その修正とオーケストレーションを進めていた」(「グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想」アルマ・マーラー著、石井宏訳<中公文庫>)というものだ。
 これによると、マーラーは交響曲「大地の歌」作曲のあと「第9番」を1909年夏に集中して完成させ、その後修正とオーケストレーションを順次行っていたことが判る。そして、その後、清書稿を1910年4月に完成する。死の前年である。初演は、死の翌年1912年6月12日、ブルーノ・ワルター指揮:ウィーン・フィルハーモニーによって行われた。マーラーは「第9番」の演奏を聴くことなく世を去ったのである。

 ここで注目すべきは、マーラーは9番目の交響曲を完成ぎりぎりになっても“第9番”と名付けることに逡巡していたという事実である。そこには死への恐怖と生への執着が同居していたはずである。しかしながら、遂には「第9番」と命名する。マーラーは、そこで初めて死と向き合い死を受け容れる決意をしたのではなかろうか。

 マーラーは幼いころから身近に幾度となく死を体験している。5人の兄弟はジフテリアで、すぐ下の弟は心嚢水腫で、妹は脳腫瘍で亡くしている。少年期から死の恐怖を覚えてきた。彼の死生観がそのころから形成されたとしても不思議ではない。

 「第9番」は紛れもなくマーラーの生への決別の辞である。だがそこに悟りの境地はない。死への恐れ、死の憂鬱、死への慟哭、生への執着、死と向き合う勇気、死の受容。これらが複雑に絡み合い葛藤している。「第9番」は円熟した作曲技法の中に幼いころから持ち続けた死生観を内包している。音楽的には究極の美意識が、思想的には独自の死生観が息づいている。そう考えても間違いではないだろう。
 第4楽章はアダージョ。最後に緩徐楽章を置くのはチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」くらいしか前例がない。ここには第1楽章や第3楽章に使った動機が呼び起こされ、さらには、終盤近く、歌曲集「なき子をしのぶ歌」の第4曲「子供はちょっとでかけただけだ」のモティーフが転用される。マーラーはまるで決別の総決算を企図しているようだ。それは自らの生への決別か、はたまた、去り行く時代との決別なのか。ブルーノ・ワルターは「その結尾は、あたかも青空に溶けいる白雲のようである」と形容している。

A サイトウ・キネン・オーケストラの演奏と小澤征爾の思い

 小澤征爾さんがアンドリス・ネルソンスに「9番」を切望したのは、彼が29年間勤めあげたボストン交響楽団の告別演奏会(2002年)でこの曲を演奏したことと無関係ではありえない。さらには、自身の状況を含め、かつての手兵の音楽監督に託すには、マーラーの「第9番」を置いて他になかったということだろう。
 アンドリス・ネルソンスは44歳、ラトヴィア出身の有能な中堅指揮者である。その手腕の確かさは、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2020の指揮者に抜擢されたことでも明らかだ。

 ネルソンス&SKOは、「第9番」において、大きな構えからゆったりとした自然な流れのマーラーを生み出した。音色はやや明るめで強弱の起伏は大きく、精緻な音作りは明快なメロディーラインを造成。これらをしなやかな歌心が包み込む。
 すべてを集約した終楽章の長大なアダージョは、ロンド主題の転調の連なりから生じるグラデーションの妙が時に大らかに時に繊細に響き、憂鬱と清澄が入り混じる。そして結尾、マーラー自らが記した「死ぬように」の指示そのままに、儚く消え入るように曲を閉じる。どこか透明な寂寞感が空間を漂う。
 バーンスタインのように情念を表出する演奏よりも、ブーレーズのように造形美を造成する演奏に近い。マーラーが籠めた生死における複雑な心の襞を自然な流れの中に清澄に表出した素晴らしい演奏だった。

 斉藤秀雄〜小澤征爾〜アンドリス・ネルソンス。マーラーの音楽を通して、長野の地に、新旧の音楽家の心情が行き交う。まさに世代を超えた魂のリレー。かけがえのない至福のひとときだった。
 2022.11.15 (火)  加茂川洗耳の怪評論を解読する
 話は少々古くなりますが、1991年、「新潮45」8月号に加茂川洗耳「たいこもち批評家『座右の銘』」なる評論が掲載され、これがクラシック音楽界を揺るがす大センセーションを巻き起こしました。それはそうでしょう、この評論、「いわせていただければ、カラスをサギといいくるめるのが音楽批評である。カラスをカラスといった批評家は滅多にお目にかかれない。『食うためにはクサすな』―これが批評家の座右の銘か?」とリードにありまして、音楽批評家の先生方を実名でぶった切りしている怪(快)文書なんであります。名指しされた批評家先生たち、「加茂川洗耳って誰なんだ。このイカサマ野郎、絶対に許せない」の大合唱になったとか。
 こんな思い切ったことをなさる加茂川氏とはいったいどんな人物なのか? 昔から大いに興味を持っていたところ、ある方の仲立ちで先月ついにお会いすることができました。ところは目黒の洒落たイタリア料理店。どんな怪人が現れるかと期待と戦慄半々に覚えながら待つことしばし。ところが、お会いした加茂川氏、予想に反していたって穏やかな品の良い紳士でした。とはいっても、一方で、時折見せる鋭い眼光と切れ味鋭い舌鋒から繰り出される正論には流石に襟を正さずにはおかない凄みがありました。中でも驚いたのは「教育勅語」「軍人勅諭」をすべて暗記されていること。これらの与えた日本人の精神性について滔々とお話になりました。また、「日本語訳には間違いばかり」とおっしゃられ、例えば「モーツァルトの権威だか何だか知らないがモーツァルト本人の性格が解っていたら絶対ありえない訳を平気でやっている学者がいる」等々、話は尽きず時の経つのも忘れて聞き入ってしまいました。私が加茂川氏に抱いた印象。それは、巷間いわれたイカサマ野郎でもなんでもない、正義感の強い論理性ある公明正大な方、というものでした。
 ということで、今回は、加茂川洗耳「たいこもち批評家『座右の銘』」(以下「加茂川文書」)をクラ未知的に解読してみたいと思います。

(1)セイジ・オザワの「新世界より」はトンデモナイ代物

「加茂川文書」はこう始まる
ここに奇妙なステレオ・レコードが一枚ある。表紙は小澤征爾の横向きのポートレートで、彼の背景にゴールデン・ゲイト・ブリッジが写っている。この合成写真が示すように、レコードの中味は小澤征爾指揮のサン・フランシスコ交響楽団による“新世界”交響曲で、ジャケットを裏返すと、?1975、発売元日本フォノグラム株式会社と書いてある。このレコード何が奇妙かと言えば・・・中略・・・第3楽章冒頭部分のティンパニーの強打が繰り返しのところで欠落しているのである。
 数年前にこれを読んだ私は早速この「CD」を買い求めたのですが、残念ながらこの現象は起こっていませんでした。加茂川氏の指摘は「LP」発売時(1975年)のものだから、CD化の際には修正されたということでしょう。このことを加茂川氏にお話しすると「今度僕のLPを貸してあげるよ」と言われました。楽しみに待ちたいと思います。
 それはそれとして、加茂川氏がここでおっしゃりたいこと。それは、「誰が聴いても判るはずの『欠落』についてふだん偉そうに“月評”を書いている批評家先生方が、発売当時、どの批評でもこのまちがいを指摘していない。これは彼らが聴かずに書いているか、聴いても気づかないかのどちらかだ」という由々しき事実なのです。
 加茂川氏はこのLP盤のジャケット解説を書いた小石忠男氏を実名でこう切り捨てます。
小石なる人物はジャケット裏にこう書いている。「小沢は”新世界“でひとつの普遍性を持った解釈を樹立したといえる。それはスコアをあらためて原点に戻って読み返し、どの角度から見てもバランスのよい造形を作り上げているのである。彼はコンサートとレコードの別なくスコアのすみずみまで考え抜きながら、それがまるで即興演奏のような自在さと柔軟性を獲得していたことに全く感心させられてしまった」とホめたあと、第3楽章の件では、「第3楽章のさらりとした感覚や軽やかなリズム、室内楽的に整理された演奏についても同じことがいえる」、とこれだけである。あの不可解なティンパニーの「欠落」については一言も語られていない。小石なる人物の名誉のためにいえば、多分、彼はこのレコードの第3楽章を聴かなかったのであろう。聴いたのに気がつかないとすればもっと恥ずかしいことになる。
 加茂川文書の核ともいうべき「批評家先生が誰でもわかるはずの『欠落』を指摘していないこと」を確かめるため、先日、東京文化会館の音楽資料室に行ってきました。久々に訪ねた晩秋の上野の杜は、澄んだ空気と青い空 林立する木々の中にさりげなく個を主張する建物が点在して、いつもながら心癒される空間でした。
 失効していた「入室証」を発行してもらい、小沢征爾指揮:サンフランシスコ交響楽団1975年5月録音のドヴォルザーク作曲:交響曲 第9番 ホ短調 「新世界より」のレコ評調査開始。あれこれ当たらずとも、当時影響力最大の「レコード芸術」に絞れば事足りると考え、調べた結果、このLPは1975年9月号で「推薦」の評価を得ていました。そのレコ評の要約を下記。
この演奏は大変美しい。派手なオーケストラ効果をねらうのではなく、暖かい共感に立つ抒情の豊富な表現で、全篇にほのぼのとした優しさが溢れている。しかも小沢の指揮はすこぶる克明で、冒頭の序奏の部分からすでに彼が選びとった音の質やバランスへのこまかい配慮が手にとるようにわかる。オーケストラがその彼の要請のもとで少しも委縮せずにのびのびとやれているのは、彼の人柄に由るのであろうか。サンフランシスコ響はこれまで実演をきいた限りの印象ではここまで精度の高い表現をつくりうるオーケストラとは思わなかった。それをはるかに突き抜けるものがここに実現されているということは、これも小沢のひととなりと思われる。
 選者は大木正興氏。この曲の本質は「ドヴォルザークがアメリカから発信した故国チェコへの強烈な望郷の念」と考える私は、氏が評する小沢の演奏表現「暖かい共感に立つ抒情」も「ほのぼのとした優しさ」も上っ面のものとしか感じませんでした。さらに、「オーケストラが少しも委縮せずのびのびとやれているのは小沢の人柄に由る」の件、アメリカ有数の名門オーケストラが「委縮せずのびのびと」やるなんて当たり前のこと。その上これは「小沢の人柄による」ときた。本来指揮者の技量とは関係のない人柄をホめるなんざあ的外れもいいところ。さらにはまた「精度の高くないサンフランシスコ響が見違えるような演奏を実現しているのは小沢のひととなりの賜物」とオケを蔑みつつ再度の人柄評価を繰り出す始末。ほかに褒めるものがないのかい!? しかも、第3楽章のティンパニーの「欠落」には全く触れられていません。この方もやはり、聴かずに書かれたのでしょうか。

(2)山銀一派の一番弟子大木正興

 加茂川文書に山根銀二という古参批評家が登場します。それによると、山根氏は資産家の左翼で、東欧圏とソ連のアーティストなら全部ホめあげ、アメリカ在住のアーティストは皆けなすという批評家一派の先駆的存在で、お坊ちゃん左翼だからかなりわがまま、かつ、相当にいい加減な批評家だったということです。彼にはこんなエピソードが・・・・・山銀(山根氏の通称)氏はコンサートに行かずに書くという特技(?)を持っている。アーティストごとの特質技量を見定めておいて、その先入主で書く。あるとき、山銀氏はその特技でコンサート評を書いた。が、そのコンサートは当日になって曲目変更があったため、新聞には当夜演奏されなかった曲の批評が出てしまった というものです。大先生の慌てぶりはいかばかりだったでしょうか。
 しかるに山銀派は元祖亡き後もわが国音楽批評界においてそれなりの一派を成しており、大木正興、門馬直美、佐川吉男氏らがこれにあたるということです。中でも、山銀氏の一番弟子が前述大木正興氏で、彼には親分と同じようなエピソードがあるようです。これを下記。
あるとき(といっても30年も前だが)あるフランス帰りのピアニストの音楽会が開かれ、会場で大木を見かけた者はいなかったが、数日後、東京新聞に批評が出た。それによると当該ピアニストの演奏は「いかにもフランス帰りらしく洒落ていたが、気まぐれで統一感がない」と査定されていた。ところがこのピアニストは少しも洒落っ気がなく、気まぐれでもなく、一途に頑固な演奏をするタイプなのである。もし大木が現場にいて、本気でこのピアニストを、そう評価したとしたら、まるで耳のない批評家ということになる。だから、人の噂どおり、彼は会場に行かずに書いたのだろう。
 私はこの新聞記事を手に入れて読んでみました。ピアニストは松岡三恵さん、会場は山葉ホール(現ヤマハホール)とありました。ヤマハホールは席数333。これなら当夜誰がいて誰がいなかったかがわかります。加茂川氏の「彼は会場に行かずに書いたのだろう」は信憑性があります。

(3)世にもトンチンカン!大木正興氏の松岡三恵評

 大木正興氏が松岡三恵評を演奏会に行かずに書いたかどうかは別にして、加茂川氏の反論は、“耳のない批評家”などの文言も出てきて、かなり強烈。大いに興味をそそられました。本章ではこれをもう少し深く掘り下げてみようと思います。まずはかの新聞記事の全文を下記。
昨年9月に3年間のフランス留学をおえて帰ってきた松岡三恵が帰国後初めての独奏会を開いた。音の質はチカチカしているがやせて硬い。緩急、強弱、フレージングなどかなり自由で、全体としてシャレた味の表現を意図しているようだ。最後に弾いたラベルの「スカルボ」は荒削りながらその効果の出ているところもあり、留学中につちかわれた趣味が生きていたといえる。しかしスカルラッティではそれが音楽の様式をこえてどぎつくあらわれ、効果一点張りの品の足りない表現になっていた。シューマンの「子供の情景」やバッハの「半音階的幻想曲とフーガ」などでは問題はいっそう深くなり、とくにバッハは軽い環境のつぎはぎで、堅実な一貫した設計がみられなかった。ベートーヴェンの作品109はもっと音でじっくりと思考し深く精神的内容をさぐる態度が必要である。
 この演奏会が開かれたのは1960年、当時長野の中学生だった私は聴けるはずもありません。が、しかし、大木氏が言わんとすることは推測できます。察するところ、おそらく、フランス帰りの若手ピアニストが、バッハやベートーヴェンをちゃんと演奏できるはずがない との先入主をもって書かれたのでしょう。公正なる加茂川氏が憤るのも理解できます。
 それにしてもこのケナシ方はどうなんでしょうか。「留学中につちかわれた“趣味”」って何?清貧の女子学生が決死の思いで留学。学んだ「パリ音楽院」で、主席をとるため卒業を一年延ばしたほどのガンバリ屋さんに向かって “趣味”とは何たる軽口!ろくすっぽピアノも弾けない坊っちゃま批評家に無責任なことを言ってほしくないものです。
 私は松岡さんの唯一のCDを聴きましたが、大木氏のケなすシューマンのなんと素晴らしいことでしょう! ここに入っているのは「クライスレリアーナ」。強靭かつ瑞々しいタッチから生み出される音は一つ一つがくっきりと粒立ち、堅固な造形美の中、音楽が活き活きと息づいています。確かなテクニックと作品への共感と深い読み。これらが混然一体となった比類ない名演奏が現出しています。天才的なアルゲリッチ、ロマンの奔流ホロヴィッツ、健全で節度あるルービンシュタインなど世界の大家と比較しても、まったく遜色ない。そればかりか、独特のえも言われぬ気品さえ漂っています。氏の言われるような「チカチカしてやせて硬い音」も「効果一点張りの品の足りない表現」も「軽い環境のつぎはぎで一貫した設計が見られない」ことも「音でじっくりと思考し深く精神的内容を探る態度の欠落」もありません。そんなことより、この中身空洞、平板陳腐な文章は何なんでしょう。“チカチカした音”ってどんな音? “軽い環境のつぎはぎ”って何? “音でじっくり思考”ってどういうこと? “深く精神的内容を探る”ってどうすること? 意味不明な表現のオン・パレード。この文章からは何をおっしゃりたいのか何一つ見えてこない。しかも、もしも加茂川氏が仰るように「行かずに書いた」としたならば、さらに失礼千万まさに許されざる行為と言わなければなりません。

 加茂川文書は、批評家を興味本位でケなすだけの怪文書ではありません。こんなことをしていたら、許していたら、日本の音楽文化は終わっちゃうぞ! という警告の書なのです。今回だけでは足りません。次回、今年最後のクラ未知も加茂川文書関連でいかせていただこうと思います。

<参考資料>
新潮45 1991年8月号
レコード芸術1975年9月号(音楽之友社)
CD松岡三恵リサイタル(ゼール音楽事務所)
 2022.10.12 (水)  ベートーヴェン、その楽曲に籠めた思い
 ベートーヴェンがアントーニア・ブレンターノにかけた思いは特別なものだった。それは「不滅の恋人」の手紙からも明らかだが、彼の残した楽曲からもうかがい知ることができる。今回は、ベートーヴェンが曲に刻み込んだアントーニアへの思いを探ってみたいと思う。

 「不滅の恋人」の手紙には、アントーニアへの尽きることなき恋情が記されているが、同時にベートーヴェンの自制の念が併存する。この相反する思いこそがベートーヴェンの真情であり、楽曲理解へのカギとなるものだ。
 ベートーヴェンが「不滅の恋人」の手紙を書いた4か月後の1812年11月、ブレンターノ家はウィーンを去りフランクフルトに戻っていった。そのあたりから、ベートーヴェンの胸の内にはアントーニアへの抑えきれない恋情と抑えるべき自制心が併存するようになる。このころの日記を引用してみよう。
諦め、お前の運命に対する心の奥底における諦め・・・・・ああ、苦しい闘い。・・・・・お前はもう自分のための人間ではありえない。ただ他人のための人間でしかありえない。お前にとっては、お前自身の中と、お前の芸術の中以外には、もう幸福はない。ああ神よ、己に打ち勝つ力をわれに与えたまえ。私を人生にしっかり結びつけるものはもう何もない。こんなふうに、αとの関係はすっかり切れてしまった・・・・・。
 文中のαはAもしくはTと読めるようだ。AならアントーニアのA、Tならアントーニアの愛称トニーのTだ。「お前」とは「自分自身」への呼びかけである。諦めねばならない宿命と諦めきれない真情との葛藤。無理に振り切って自己の芸術に没頭しようとする覚悟。ベートーヴェンの胸の内が覗える。

(1)連作歌曲「遥かなる恋人に」

 ベートーヴェンの歌曲は、歌曲王シューベルトの約600曲に比べれば少ないものの、それでも100曲近くが残されている。中でも、連作歌曲「遥かなる恋人に」作品98 は、傑作の誉れが高い。作詩はアロイス・ヤイテレス(1794-1858)、1816年の作品である。

第1曲 丘の上に腰をおろし
第2曲 灰色の霧の中から
第3曲 天空を行く軽い帆船よ
第4曲 天空を行くあの雲も
第5曲 五月は戻り、野に花咲き
第6曲 愛する人よ、あなたのために

 この歌曲集が、アントーニアとの関係が物理的に断ち切られながら、気持ちは変わらず持ち続けている時期の作品 ということを考えると、意味深い符号が感じ取れるのである。
 ベートーヴェンは、モラヴィア辺境伯領に疫病が流行ったときに献身的に看護を尽くした医学生アロイス・ヤイテレスの行為を伝え聞いて感激し、称賛と激励の手紙を送った。その返礼として送られてきたのがこの「遥かなる恋人に」の詩だった といわれている。この詩は当時のベートーヴェンの心情があまりにも如実に反映しており、まるで、彼が書かせたかのような感覚にさせられる。もしや、ベートーヴェンは、詩作に何らかの関与をしたのかもしれない、と思わせるほどだ。
 6曲を続けて演奏する連作歌曲だが、第1曲の主題が第6曲の末尾に再現され全体に統一感をもたらす。形式に敏感なベートーヴェンらしい手法である。

 全6曲の中では、なんといっても最後を締める第6曲「愛する人よ あなたのために」が胆だろう。
 この曲の冒頭「愛する人よ、あなたのために私が歌ったこの歌を受け取っておくれ」のメロディーは、ベートーヴェンが1811年に作った歌曲「恋人に」WoO 140からの引用である。「恋人に」の自筆譜には「わたしのお願いで作者から、1812年3月2日に」という書き込みがあって、これがメイナード・ソロモンの筆跡鑑定によってアントーニアのものと確定されている。
 即ち、ベートーヴェンは、1811年、恋人アントーニアの願いを受けて捧げた歌曲のメロディーを、1816年、歌曲集の最後の楽曲に転用したのである。
 第6曲の大意は「わたしはあなたのため憧れをこめて歌う。あなたもこの歌を歌ってください。そうすればこの歌によって私たちを遠く隔てたものが消え去り、愛の心と心が固く結ばれるのです」というものだ。特に最後の最後「愛の心と心が固く結ばれる」の部分には、ベートーヴェンの抑えきれない真情が噴出している。ベートーヴェン、魂の叫びである。

 1812年秋、アントーニアがウィーンを離れて、二人の恋は終わった。しかし、ベートーヴェンの心の中からアントーニアへの思いが消えることはなかった。おそらく、アントーニアも同じだったことだろう。1811年、熱い思いをこめて贈った歌のメロディーが、1816年、離れ離れになった後の歌曲集に転用されている。これこそベートーヴェンの消し去ることができない思いの証ではないだろうか。

(2) ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110

 諦めつつも消し去ることのできない恋情を「遥かなる恋人へ」に籠めたベートーヴェンは、1820〜1822年、作品109〜110の3曲のピアノ・ソナタを書きあげる。
 これら最後の3つのソナタは、それまでのものとは一線を画した屹立孤高の作品で、形式的には自由斬新な発想で書かれ、慈しみ、苦悩、決意、深慮、寛容、希望など多様な精神が美しい楽想の中に息づいている。

 32曲のピアノ・ソナタは、ベートーヴェンが22歳から51歳の29年間、ほぼ作曲家人生全般にわたって書かれている。交響曲9曲が25年、弦楽四重奏曲16曲が27年。これらを考えてみてもピアノ・ソナタはベートーヴェンが生涯にわたって追求し続けた大切なジャンルであることが解る。交響曲が様式の改革者として世にアピールする側面を持ち、弦楽四重奏曲が曲中に哲学的思索を盛り込んだものだったとすれば、ピアノ・ソナタはベートーヴェンの内面の真情を率直に吐露する器だったのではないだろうか。とすれば、最後の3つのソナタは、32曲のピアノ・ソナタの集大成といえるだろう。

 ロマン・ロランはこれらを「ブレンターノ・ソナタ」と呼んだ。第30番 作品109はアントーニアの娘マキシミリアーネに捧げられたが、他の2作品について、ベートーヴェンは「アントーニア・ブレンターノに捧げるはずだった」とシントラーへの手紙に書いている。が、結果的に、第31番 作品110は誰にも捧げられず、第32番 作品111は最大のパトロン ルドルフ大公に捧げられている。

 第30番 作品109には「遥かなる恋人に」の音型が終楽章の主題や第1変奏に使われている、という向きもある。これは遥かな存在となってしまった不滅の恋人アントーニアへの思いに違いない。ただ、ベートーヴェンはブレンターノ家と行き来するうちに、アントーニアの夫フランツの高潔な人間性や娘マキシミリアーネの可憐さに触れ、この一家を壊してはならないと思うに至ったと考えられている。そこで、作品109を、ブレンターノ一家の象徴としてマキシミリアーネに捧げたのだろう。

 ベートーヴェンが第31番 作品110をアントーニアに捧げようと考えたのは事実だろう。変イ長調=A♭のAはアントーニアのAかもしれないし、彼のアントーニアへの思いがこれほどまでに詰まった曲は他にはないと考えられるからだ。
 互いに愛し合ったアントーニアはもういない。それが「嘆きの歌」である。一度ならず二度までも嘆くのである。嘆いた後の和音の10連打!それは未来に向かうフーガにつながる。嘆き切ったあとはすべてを吹っ切って自己の道に生きる。これは決別と決意の10連打である。これを教えてくれたのは小山実稚恵の演奏である。
 ベートーヴェンはこの作品に確かにアントーニアへの思いを込めた。しかし、自分の決意も乗せている。これは二人の決別のレクイエムだ。ベートーヴェンはそう考えたのではないか。であるからこそ、アントーニアへの献呈を取り消したのではなかろうか。

 ピアノ・ソナタ 第31番 作品 110で、アントーニアへの思いを封じ込めたベートーヴェンは、その後、自らの生きる道=作曲に没頭する。そして生み出された、「荘厳ミサ曲」、「ディアベリ変奏曲」、交響曲第9番、弦楽四重奏曲第12〜16番などは彼の作曲家人生の最後を飾る傑作となった。これらのなかで、「ディアベリ変奏曲」はアントーニアに献呈されているが、彼の中では、これらすべての楽曲がアントーニアへの思いの産物だったのではないだろうか・・・・・そんなことをつらつら思い巡らす、短くなった秋の夜長である。

<参考資料>
ベートーヴェン「不滅の恋人」の探求 青木やよひ著(平凡社)
ベートーヴェン上下 メイナード・ソロモン著(岩波書店)
CD ベートーヴェン:連作歌曲集「遥かなる恋人に」他
    ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br) イエルク・デムス(P)(DG)
最新名曲解説全集「声楽曲」U(音楽之友社)

 2022.09.18 (日)  ベートーヴェンの「不滅の恋人」を考察する
          〜小山実稚恵の第31番に触発されて
 小山実稚恵のベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110 第3楽章「嘆きの歌」における和音10連打の衝撃はすさまじいものだった。彼女は、ベートーヴェンの嘆きは特定なものに対するのではなく、より普遍的な何か に対するもの と語っている。これが演奏者としてのまっとうな解釈だろうし、だからこそ万人の胸に響くのだろう。だが、私はそこにどうしてもベートーヴェンの個人的な心情を見てしまう。作曲家個人の心情、特に恋心が楽曲に投影されることはクラシック音楽の歴史においてはさして珍しいことではない。ブラームスの交響曲第1番にクララへの一途な思いが充満しているのは周知の事実。ベルリオーズの「幻想交響曲」はもっと具体的。女優スミッソンへの満たされぬ恋情が夢という形を借りて噴き出したものだ。だからベートーヴェンが特定の女性を思い描いていたとしても別に不思議はないのである。

(1)不滅の恋人への手紙

 ベートーヴェンがその生涯を閉じたのは1827年3月26日。そこに遺された手紙があった。書いたのはベートーヴェン本人。名宛人なし。内容は恋文。そこでの呼びかけからこの手紙はベートーヴェンの「不滅の恋人」に宛てた手紙とされた。不滅の恋人とは果たして誰?なぜ手許にあったのか? 等々音楽愛好家にとって興味尽きない問題提起がなされたのである。これらを辿るため、まずは手紙の心情的部分を抽出して掲げておこう。手紙は三信ある。

7月6日朝

私の天使、私のすべて、私自身よ。―やむをえないこととはいえ、この深い悲しみはなぜでしょう。私たちの愛は、犠牲を通じてしか、すべての望みを捨てることでしか、存在しないのだろうか。あなたが完全に私のものではなく、私が完全にあなたのものでないことを、あなたは変えられますか。―ああ、美しい自然を眺め、そしてあなたの気持ちを落ち着かせてください、どうしようもないことを乗りこえてー
元気を出してー私の忠実な唯一の大切な人、わたしのすべてでいてください、あなたにとって私がそうであるように。

7月6日 月曜日 夜

あなたは苦しんでおられる。最愛の人よーあなたといっしょに暮せたら、それはどんな暮らしでしょうか!!!!そう!!!!あなたなしには・・・・・。あなたがどんなに私を愛していようとーでも私はそれ以上にあなたを愛しているー私からけっして逃げないでーおやすみーああ、神よーこんなにも近しい!こんなにも遠い!私たちの愛こそは、天の殿堂そのものではないだろうかーそしてまた、天の砦のように堅固ではないだろうか。

おはよう 7月7日

ベッドの中からすでにあなたへの愛がつのる、わが不滅の恋人よ、運命が私たちの願いをかなえてくれるのを待ちながら、私は喜びにみたされたり、また悲しみに沈んだりしていますー完全にあなたといっしょか、あるいはまったくそうでないか、いずれかでしか私は生きられない。そうです、私は遠くへあちこちとしばらく遍歴しようと決心しました。あなたの腕に身を投げ、あなたのもとで完全に故郷にいる思いを味わい、そしてあなたに寄りそわれて私の魂を霊の王国へと送ることができるまでーそう、悲しいけれどそうしなければならないのです。他の女性が私の心を占めることなど決してありえません。―おお神よ、こんなに愛しているのに、なぜ離れていなければならないのでしょう。―あなたへの愛が、私をこの上なく幸せにすると同時に、この上なく不幸にしています。―この年齢になると、波瀾のない安定した生活が必要です。―私たちの関係でそれが可能でしょうか?―冷静にして、愛してほしいー今日もー昨日もーどんなにあなたへの憧れに涙したことかー私のいのちー私のすべてー元気でいてーおお、私を愛しつづけてくださいーあなたの恋人のこの上なく誠実な心を、決して疑わないで。

永遠にあなたの
永遠に私の
永遠に私たちの

 すさまじい恋心である。この手紙から読み取れるのは、ベートーヴェンの限りない恋情であり、絶対に失いたくない心情であり、自分への愛を確信する相手への思慮であり、それらを許さない境遇への嘆きである。
 これらから、お互いが相思相愛であること、女性は既婚者もしくは結婚できない境遇にあることが想像できる。そして、ベートーヴェンはやむに已まれぬ恋心を振り払って遠く遍歴することを決意する。遠くへの遍歴とは即ち仕事=作曲への没頭と考えていいだろう。

(2)不滅の恋人究明への道筋

 ベートーヴェンの死後、「不滅の恋人」とは誰か? がベートーヴェン研究の一つのテーマとなった。

 まずは、手紙の最初の発見者ベートーヴェンの秘書役を自認していたアントン・シンドラ―の考証である。シンドラーは、ベートーヴェンの死から13年後に書いた伝記「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」の中で、「問題の手紙は1806年にハンガリーの温泉地からジュリエッタ・グイチャルディ(1782-1856)に宛てて書いたもの」と公表した。これは、手紙と一緒にあった2枚の象牙板の一つがジュリエッタの肖像だったことから推測したもので、ロジカルな根拠には乏しいものだったが、ベートーヴェンの死に際して最も近しい人物の見解だったから、世間は当分の間、「不滅の恋人」はジュリエッタ・グイチャルディであると信じることになった。ジュリエッタはベートーヴェンがピアノ・ソナタ第14番「月光」を献呈した女性である。

 その後、ベートーヴェンからピアノ・ソナタ 第24番 を献呈されたテレーゼ・ブルンスヴィック(1775-1861)、ベートーヴェンが「アンダンテ・ファボリ」に思いを託したといわれるテレーゼの妹ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック(1779-1821)、「エリーゼのために」の当事者と目されるテレーゼ・マルファッティ(1792-1851)をはじめ、マグダレーネ・ヴィルマン、アマリエ・ゼーバルト、マリー・エルデーディ、ドロテア・エルトマン等々、次々と「不滅の恋人」候補の名が挙がる。ベートーヴェンはなかなか恋多き男だったのである。

 そんな中、20世紀の初め、事態は急展開を迎える。1909年に出版された「ベートーヴェンの不滅の恋人」(トマス=サン=ガリ著)と翌年これをさらに補強した形の書「ベートーヴェンの不滅の恋人を求めて」(マックス・ウンガー著)から、件の手紙は、ベートーヴェンが、1812年7月6日と7日、ボヘミアの温泉地テプリッツで、その近くの温泉地カールスパートにいる恋人に宛てて書いたものと確定された。著者は、手紙に書かれた「7月6日 月曜日」という日付、気象状況、二つの温泉地の湯治客名簿などから上記の結論を割り出したのである。
 さあ、あとは「不滅の恋人」とは誰か? の特定である。カールスパートの湯治客名簿には該当しうる4人の名前があった。アントーニア・ブレンターノ、ドロテア・エルトマン男爵夫人、エリーゼ・フォン・デア・レッケ男爵夫人、マリア・リヒテンシュタイン大公妃である。
 ここで、「不滅の恋人」探しに参戦した大御所ロマン・ロランは「アントーニア・ブレンターノとエルトマン男爵夫人に対するベートーヴェンのややよそよそしい態度は恋人としての条件を満たさない」として二人を退けた。ならばあとの二人はどうなのか・・・・・? ロランはこれには言及せずに、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックに未練を残しつつ検証を終えている。ノーベル賞作家もここでは論理性に欠ける結果に終わらせてしまった。
 せっかく核心近くまで迫った「不滅の恋人」探しの道はここでいったん途切れてしまう。そして、半世紀後の1959年、一人の日本人女性が、ついにこの謎を解き明かすのである。

(3)青木やよひ「不滅の恋人」を特定する

 1959年のNHK交響楽団の機関紙「フィルハーモニー」に「愛の伝説〜ベートーヴェンと<不滅の恋人>」と題するエッセイが掲載された。著者は青木やよひ(1927-2009)。これが現在では定説となっている「ベートーヴェンの『不滅の恋人』はアントーニア・ブレンターノである」と論じた世界初の論考となった。
 青木氏は、3通の「不滅の恋人」の手紙を熟読・洞察し、ガリ/ウンガーの検証からアントーニア・ブレンターノに照準を合わせ、ロマン・ロランが排除する因としたベートーヴェンのよそよそしさをむしろ真実の愛を隠すためのカムフラージュと捉えるなどして、ついに長年の謎だったベートーヴェンの「不滅の恋人」をアントーニア・ブレンターノと特定したのである。青木の説は、メイナード・ソロモン1972年の論文「ベートーヴェンの未知の女性への手紙についての新見解」によって確固たる裏付けを与えられた。
 青木やよひは長年の謎だったベートーヴェンの「不滅の恋人」を解き明かした世界最初の人物である。その後「不滅の恋人」関連の著書を多数刊行、生涯をベートーヴェン研究に捧げている。これは日本音楽界の大いなる誇りではなかろうか。しかるに、彼女に何らかの論功行賞が与えられた形跡はない。わが国音楽界は青木の功績をもっと重視、尊重すべきであると思うが、いかがだろうか。

(4)不滅の恋人の半生とベートーヴェン

 ではここで、不滅の恋人=アントーニア・ブレンターノ(1780-1869)の半生をベートーヴェンとの関連において辿っておこう。

 ベートーヴェンが大望を抱いてウィーンにやってきた1792年、最も足しげく通ったのがヨーゼフ・メルヒオール・フォン・ビルケンシュトック伯爵の屋敷だった。芸術を解する伯爵はパトロンとしてベートーヴェンを優遇、娘のアントーニアのピアノ教師を彼に委託した。ベートーヴェン21歳アントーニア12歳。この時点で、少女が、才能に溢れ野心と情熱に満ちた少壮の音楽家にある種の憧れを抱いたとしても不思議はないだろう。
 音楽の都で才能を開花させ名声を博すようになったベートーヴェンは他の多くの貴族の邸にも出入りするようになり、アントーニアとは自然に疎遠になってゆく。
 その後、18歳になったアントーニアは父の勧めを受け容れてフランクフルトの銀行家フランツ・ブレンターノと結婚する。しかしながら、アントーニアにとって、フランクフルトでの結婚生活は決して幸福なものではなかった。15歳年上の夫は思いやり深い人間で、そこに不満はなかったが、フランクフルトという土地柄にどうしても馴染めなかったようである。そのためか、その間、短期的なウィーンへの里帰りを何度も試みている。そして1809年10月、父の危篤の報をきっかけ(口実)に、アントーニアは夫と4人の子供と共に、ウィーンの実家ビルケンシュトック邸に(一時的に)居を移すことになったのである。

 さて、ここに登場するのがフランツの妹ベッティーナである。1810年5月、フランクフルトから憧れのウィーンに出てきた彼女は兄が住むビルケンシュトック邸に身を寄せた。ある日、この邸の音楽会で、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」を聴き、これまで経験したことのない感動を味わう。芸術を解する行動派の彼女はこの作者に会いたいと願い、ついにベートーヴェンの住いを探し当て訪ねることに。そこにはウィーンに明るい義姉アントーニアが道案内人として同伴していた。ベートーヴェンとアントーニア、18年ぶりの再会だった。義妹は義姉とベートーヴェンのキューピット役を果たしたということになる。

 ベートーヴェンは39歳。交響曲「英雄」「運命」「田園」、ピアノ協奏曲「皇帝」、ヴァイオリン協奏曲、ヴァイオリン・ソナタ「春」「クロイツェル」、弦楽四重奏曲「ラズモフスキー」、ピアノ・ソナタ「悲愴」「月光」「ワルトシュタイン」「熱情」 などの傑作群を世に送り出し、既に押しも押されもせぬ大作曲家となっていた。
 アントーニアは30歳。魅力的な貴婦人となっていた。この時の二人の気持ちはいかばかりだっただろうか。2年後の1812年7月に、ベートーヴェンがあれほどの手紙を書くのだからして、運命の糸に導かれたようなドラマティックな再会に、二人の気持ちは大いに揺れ動き、どこかの時点で炎の如く燃え上がったに違いない と思うのである。
 交響曲 第7番 イ長調と第8番 ヘ長調はこのあたりの作品。第7番はワーグナーが「舞踏の神化」と呼んだように躍動感が充満し、第8番には安らいだ幸福感が宿る。ベートーヴェンの心情の表れといえないだろうか。

 ベートーヴェンとアントーニア禁断の恋は、1812年11月、ブレンターノ一家がウィーンを去ることで、一定の結末を迎えた。恋は次なるフェーズに入る・・・・・ベートーヴェンは、このあとスランプに陥ったのか、さしたる作品を書いていない。後期の傑作群を書き始めるのは1820年代からだ。そんな中、1822年に書かれたピアノ・ソナタ 第31番は、ベートーヴェンのアントーニアへの思いが最大限に集約されている と私は考えるようになった。そう思わせてくれたのは、紛れもなく小山実稚恵の演奏である。次回は、このあたりに、もう少し深く切り込んでみたいと思う。

<参考資料>
N響機関紙「フィルハーモニー」1959.8.9
ベートーヴェン「不滅の恋人」の探求 青木やよひ著(平凡社)
ベートーヴェン上下 メイナード・ソロモン著(岩波書店)
 2022.08.16 (火)  小山実稚恵 衝撃のクレッシェンド
 猛暑只中の7月25日、NHK-BSPのクラシック倶楽部で小山実稚恵のベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110 のオンエアがあった。2021年6月23日、めぐろパーシモン大ホールでの収録である。後期3大ソナタの中で、というより、ベートーヴェンのソナタの中で私が最も好きなこの曲を小山がどう弾くか? とても楽しみだった。第1楽章〜第2楽章と進み第3楽章に入る。
 「嘆きの歌」Klagender Gesang とベートーヴェン自らが書き込んだアダージョからフーガへ。そして再度「嘆きの歌」が現れる。ここには「疲れはて、嘆きつつ」Ermattet, klagend と書かれている。嘆きが増幅しているのだ。そしてこの部分の終結部132小節目からクレッシェンド付きの和音の10連打がくる。フーガへ連なるブリッジである。ここで、私は息をのんだ。もの凄いクレッシェンド!小山はここを渾身の力を振り絞って弾くのである。なんという迫力。なんという気持ちの入れよう。特に最後の一撃には鬼気迫るものがある。これがあの穏やかな小山実稚恵なのかと見まごうばかりである。私はこの部分、これほどまでに強烈な弾き方をするピアニストはこれまで見たことも聞いたこともなかった。

 そこで、手持ちのCDすべてを改めて聴きなおしてみた。そのために小山のCDも急遽購入した。以下は、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110第3楽章 第2の「嘆きの歌」132〜134小節部分のクレッシェンド度合いの検証結果である。ベートーヴェンは、クレッシェンドの前後に強弱の記号を書き入れていないから、音の大きさ自体は演奏者に委ねられている。クレッシェンド度合い&音量の大きい方からA、B、Cの3段階に格付け。全15W、録音順に列記。数字は録音年。「」はクレッシェンド部分の所感。続けて演奏全体の概要を併記する。

アルトゥール・シュナーベル 1935 B 「キッチリと鳴らす」 教科書的スタンダード
イーヴ・ナット 1954 B 「早めのテンポであっさりと」 さりげなくも含蓄ある歌心
ワルター・ギーゼキング 1956 C 「控え目」 基本おおらかな表現
グレン・グールド 1956 B 「サラっと流す」 さすがのフーガの処理
ウィルヘルム・バックハウス 1963 B 「10打目を抑制する独自の解釈」 悠揚たる自在性
ウィルヘルム・ケンプ 1964 C 「テヌートであっさりと」 内に向く情熱
クラウディオ・アラウ 1966 A 「音量大柔らかな響き」 平明だが重厚感薄い
アルフレード・ブレンデル 1973 C 「音量クレッシェンド共に極小」 全体的に極度に内省的
マウリツィオ・ポリーニ 1976 A 「早めもきっぱりと」 完璧な技巧で確たる造形美を実現
エミール・ギレリス 1985 B 「程よく強く」 美音による細やかな歌心
ルドルフ・ゼルキン 1987 C 「あっさり流す感」 枯淡の境地をありのままに表出
スヴャトスラフ・リヒテル 1991 C 「思い入れ小」 無骨なまでのスケール感
内田光子 2005 A 「力強い打鍵」 神経の行き届いた音楽づくり
中道郁代 2005 B 「中庸の節度」 実直に穏やかに歌いこむ
小山実稚恵 2021 A 「音の強さ&増幅度 最大」 深い洞察力 丁寧かつ力強い音楽づくり

 剛腕と目されるリヒテル、ゼルキンがランクBなのは意外だった。もっともゼルキンは84歳のラスト・レコーディングではあるが・・・。思索型のブレンデルの弾き方は予想外。ポリーニ、アラウ、内田らランクAの中では、小山実稚恵が群を抜いている。打鍵は強靭で芯がある。ただ力任せに弾くのではない。心を込めて奥深く打ち込むのである。まるで刀鍛冶の趣である。これは特Aランクといってもいい。和音10連打はピアノ・ソナタ第31番にベートーヴェンが籠めた思いが象徴的に表れた箇所である、と私は考えている。小山はそれを十全に理解している。
 ここで一つお断りしておきたいことがある。それは、小山実稚恵の演奏において、CDとテレビでは印象がやや異なるということだ。CDは2021年2月16日-19日、テレビは同年6月23日の収録。その差4ケ月強。解釈に基本的な違いがあるはずもないが、収録の環境、映像の有無等のせいだろうか、テレビの方の印象が強い。より小山の意図が明確に見て取れる。もしや、この4か月間で作品への読みがより深化した ということもあるかもしれないが。

 取り上げた演奏は各々定評ある名盤ぞろいだ。ゼルキンは「瞑想的な美しさと人間的なぬくもりが同居した名演奏」、ポリーニは「俗世を越えたロマン主義の美しさ」、ギレリスは「ひたむきに追求し続けてきたすべてが集約された最後を飾るにふさわしい出来栄え」などの評が並ぶ。だがこれらの評は、総じて、抽象的でどこがどう素晴らしいかがよくわからない。その他の評も概ね似たようなものだ。なおゼルキンのCDについて一言。この盤、1989年度レコード・アカデミー賞を受賞しているらしい。ところが第3楽章のチャプターがフーガのところに付いている。冒頭のアダージョ部分が第2楽章に含まれてしまっているのだ。これは単純かつ大いなるミステーク。言ってしまえば欠陥CDだ。選考者は気づかなかったのだろうか。

 さてここに、28年前の小山の対談(音楽之友社のMOOK「クラシック現代の巨匠たち」)がある。これによると、最も尊敬するピアニストはアルトゥール・ルービンシュタインだという。フーガ部分、内田のがやや恣意的に聞こえるのに対し小山は音楽が実に自然に流れる。これはもしやルービンシュタインのDNAか。ポリーニについては「聴くと未来の希望を失う気が・・・・・こんなに完璧な人がいるのに、なぜ自分が弾いているんだろうかって・・・・・」などと話している。小山の謙虚さがよく表れている。確かに、当時、ポリーニは既に完成されたピアニストだったからして、彼女のコメントはもっともではある。しかしながら、小山は日々の精進により、芸術家として、いま高い境地に達しつつある。現在円熟の極致にあるポリーニに追いついたとは無論まだ言えるはずもないが、近づきつつあることは間違いないと思う。

 そして私は断言する。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110において、小山実稚恵は際立った名演奏を為し得たと。
 小山は、和音10連打を含め、楽曲全体にわたり、丁寧に楽譜を読み込み、すべての音に神経を行き届かせる。そしてそこにベートーヴェンが一音一音に籠めた意味を見出す。
 第1楽章。冒頭の慈愛に満ちた表情。まるで全身を包んでくれるように優しく気高く美しい。展開部、第1主題の転調を伴う8変奏。前代未聞、形式の革命家ベートーヴェン至上の技である。小山はこの8つの変奏を変幻自在のグラデーションでくっきりと描き切る。
 第2楽章は、粒立ちよく歯切れのよいタッチで、叙情的な第1楽章と壮大な第3楽章の蝶番をきっちりと形成する。この楽章の旨趣を理解した節度あるアプローチだ。
 そして、第3楽章である。これはピアノ・ソナタとしては異色の構成。緩―急―緩―急。急の部分はフーガと反行フーガ。3箇所にベートーヴェン本人が書き込みを入れている。

「緩」 嘆きの歌 Klagender Gesang
「急」 フーガ
「緩」 疲れはて、嘆きつつ Ermattet klagend
「急」 反行フーガ しだいに元気をとりもどしながら Nach und nach wieder au flebend

 ベートーヴェンは何かに「嘆く」。そして、気を取り直して先に進もうとする。だがまだ振り切れない。さらに深い「嘆き」が襲ってくる。”疲れはて“ているから「嘆き」がとぎれとぎれになる。第1の「嘆き」には見られなかった16分休符が頻発するのはこの証だ。そして、ついにすべてを振り切って、前を向いて歩み始めるのである。
 ベートーヴェンは、第1の「嘆き」の終わりに、A♭のオクターブ3音重ねの和音をppで3連打させる。それが、第2の「嘆き」では、DGHのオクターブ6音重ねの和音をクレッシェンドで10連打させる。より増幅された「嘆き」を振り払うための置き換えである。大きな嘆きを振り払ったあとの第2のフーガは、より力強く大きく未来に羽ばたく。小山はこの流れの意味合いを完璧に理解している。

 小山実稚恵は、ピアノ・ソナタ第31番、特に第3楽章について、こう語っている。
ベートーヴェンは誰かの思いとか事柄とかに嘆くというのではなく、もっと深い、なにごとともいえないものに二度嘆くのです。二度目はとぎれとぎれになって嘆いて、だけどそこから「フーガ」という緻密なものを組み立てていって、最後には、ベートーヴェンらしい力が宿ってきて、全身が突き動かされて、心の底から勇気が湧き上がってくる。これこそがベートーヴェンだし、人間だから感じられる感情だと思う。ベートーヴェンも耳が聞こえなくなるという苦悩があって、苦悩の中に自己のあり方を見つけて、新しい自分の音楽が聞こえてきた。ピアノ・ソナタ第31番は単に傑作というだけではなく人類へのメッセージではないでしょうか。人間であるからこそ生きる。音楽を奏でる。そんなことを念じて私は弾いています。
 二度嘆いたあとは勇気を掻き立て前を向いて突き進むのである。あの和音の10連打は嘆きへの決別なのだ。小山はそう言っているように思う。嘆きに決別する強靭な意志。だからこそあれほどの衝撃的なクレッシェンドと強烈な最後の一撃を施したのだろう。小山はベートーヴェンの「嘆き」を、具体的なものではなく、もっと深く普遍的なものと言う。表現者としてのこれが解釈なのだろう。だがしかし、私はここにベートーヴェンの“個人的具体的”な嘆きとそれに打ち克とうとする意志を見る。これについては次回探求しようと思う。

<参考資料>
NHK-BSPクラシック音楽館「ピアニスト小山実稚恵の世界T」 2022.7.25OA
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110 楽譜(G. Henle Verlag)
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110 CD 16W
最新名曲解説全集 独奏曲U(音楽之友社)
クラシック現代の巨匠たち(音楽之友社)
21世紀の名曲名盤T(音楽之友社)
 2022.07.26 (火)  ショパン・コンクールにまつわる日本人女流ピアニスト2
          〜中村紘子という妖怪ピアニスト
(1)中村紘子のプロフィール

  1944.7.25 野村典夫と中村曜子の長女として山梨県塩山町に生れる
  1948 桐朋学園の「子供のための音楽教室」第1期生としてピアノの
     勉強を始める
  1954 全日本学生音楽コンクール小学生の部第1位
  1959 日本音楽コンクール第1位
  1960 NHK交響楽団初の世界ツアーのソリストとして抜擢
  1965 第7回ショパン国際ピアノコンクールで第4位に入賞
  1974 芥川賞作家 庄司薫と結婚
  2016.7.26没

 16歳でN響世界ツアーのソリスト、21歳でショパン・コンクール第4位入賞とくれば、これはもう、当時、日本人の誰もが為しえなかった偉業にして若きスターの誕生である。その後は演奏者としてのみならず、ショパン・コンクールの審査委員を務めるなど、ピアノ界の女王と呼ばれた。
 コンクールを舞台とした直木賞受賞小説「蜜蜂と遠雷」の中に、ロシア人で70歳近い女性審査委員長が登場するが、「妖艶さとバイタリティは些かの衰えもなく、音楽界に顔も広いし、実務能力や政治手腕にも秀で、吉ケ江国際ピアノコンクールを文字通り世界に通用するコンクールに育て上げたのは、何度も審査委員長を務めてきた彼女の力が大きい・・・・・」あたりの記述は、ロシア人を日本人、吉ケ江を浜松に置き換えれば、まさに中村紘子そのもの。そう、中村紘子は1995年から15年間の長きにわたり浜松国際ピアノコンクールの審査委員長を務めている。

 彼女の死に臨んでは各界から多くの哀悼の辞が寄せられた。その中からわが国音楽界の長老である海老沢敏(1931-)氏の弔文を要約して下記。
中村紘子さん、モーツァルトのニ短調コンチェルトの響きとともに安らかに憩え

 中村紘子さんが逝った。ここではまこと、個人的ともいうべき憶い出、それも響きの回想を語らせていただこう。故有馬大五郎国立音楽大学前学長の追悼演奏会。中村紘子の独奏、尾高忠明指揮:NHK交響楽団のモーツァルトのニ短調コンチェルトの演奏は私の脳裡に深く刻み込まれ、決して忘じ去られることはない。
 彼女はまた独奏ピアニストとしてばかりか、ピアノ教育の世界にも心血を注がれ、幾多の若いピアニストの育成、発見、そして輩出にも長年努力傾注されたことは私が指摘するまでもない。
 浜松の国際音楽コンクールで私は数回に亘って運営委員長として、審査委員長をつとめられた中村さんのお手伝いをしてきたが、並みいる海千山千の外国人審査委員の皆さんを見事な手捌きで纏め上げる手腕には感嘆の声を漏らさざるをえなかったのが懐かしく思い出される。合掌。
 国際モーツァルト財団名誉財団員という肩書ゆえかわが国モーツァルト研究の第一人者と目される海老沢氏が称賛をもって哀悼の辞を贈る。大ベストセラー小説のモデルにもなる。芥川賞作家を夫に持つ。演奏者、教育者に加えて、文筆家としても高く評価される。中村紘子はまさに輝かしい芸術家人生を全うしたのである。

 さて、そんな中村紘子には別の顔がある。華々しい音楽家の顔が陽ならば、陰なる顔である。

(2)時実新子さんが出会ったグリーン車の女
 今や新幹線はグリーン車から席が埋まってゆくときく。昔のグリーン車は「シワブキ一つ聞こえず、トイレに立つさえ礼儀に反する」雰囲気であり、網棚のスーツケース、オーバーコートの類も「さすがあ」の感があった。今はどうだろう。「五千円、六千円?それっぽっち高いだけならグリーンにしようや」そうしようそうしようと若者であふれる。団体さんも「グリーンにしまほ」ということになって、普通車と何ら変わらない様相を呈してきた。赤ん坊は泣くしガキは走りまわるし・・・・・。
 過日私は四国の予讃線だったか土讃線だったかのグリーン席を仕事で取ってもらった。高松から乗ってきた隣席の人が、ピアノ演奏家でカレーのコマーシャルのH.N.女史によく似た人であったが、私は何の気なしにやれやれと煙草を一本つけた。するとその人は、露骨にいやなそぶりをなさったので私はあわててもみ消した。その席は禁煙席ではない。これはよくよくたしかめてもらった席だったから。 
 “N女史”はバンと起ち上がるが早いか隣の車輌に移り、私の方を指さして車掌と交渉中であるらしい。やがてペコペコする車掌と共に彼女は席を移って行った。やれやれ。私は隣席へ荷物を置いて窓外の景色を楽しんでいた。
 やがて下車駅。“N女史”は私の荷物を指さして「そこは私の席よ!」とおっしゃった。いやはやグリーン車も昨今はらくではない。
 これは時実新子(1929-2007)さんがとある新聞に投稿した全文である。他の記事から推察して1990年のこととわかる。時実さんは川柳界の与謝野晶子といわれた高名な川柳作家。句集「有夫恋」はベストセラーとなっている。文中の“H.N女史”は「よく似た」とぼかしているが中村紘子その人(当時46歳)に間違いないだろう。おそらく中村女史は相手が著名な川柳作家とは知らなかったのだろう。知っていたらこのような態度をとらない人だ。隣席のどこかのオバハンが憚ることなく煙草を吸っている。「私、中村紘子よ。失礼じゃないの」ってな感じだろうか。腹に据えかねて席を移り、戻ってきて捨て台詞を吐き立ち去った。という顛末である。傲慢不遜な女の姿が覗える。中村紘子のもう一つの顔である。

(3) 著名童話の執筆を蹴った女

 以下は音楽評論家H.I.氏から聞いた本当の話である。時は1979年、氏はすでに音楽評論を手掛けてはいたが、まだ本職はサラリーマン。TBSブリタニカに籍を置いていた時代の出来事だ。

 企画会議で、ジュリー・アンドリュースが書いた童話「偉大なワンドゥードルさいごの一ぴき」を翻訳出版することが決定。物語は、想像の世界に住む動物ワンドゥードルを3人の兄妹が探しにゆき、その過程で人のやさしさや思いやりや協力することの大切さを学んでゆく、ファンタスティックでためになる童話だ。訳は中村紘子にお願いしようということに。彼女は絶大な人気を誇るピアニストであり、夫は芥川賞作家の庄司薫で文学的香りも十分。翻訳はお手の物のH.I.氏が訳文のサンプルを用意、中村紘子が住む三田の高級マンションを訪ねる。
 「原作は海外での評価も高く、あなたの名前が冠されればベストセラーは必至、ご多忙と思われるのでサンプル訳文に目を通していただきそれを使うことも可能です」。H.I.氏は真摯に丁重に説明する。さて、彼女の返答は・・・
・・。
 「あなたね、私は今忙しいの。執筆の依頼も山ほどきているわ。朝日新聞社、新潮、河出など一流のところばかり。それらを断っているのに、”ブリタニカ“ですって、そんなわけのわからないところから出すなんてできるはずがないでしょ」。けんもほろろ。まるで出版会社のパシリの扱いである。それでもと、「企画書と訳文はお預けします。一週間後にまた伺わせていただくので、お返事はその時に」と告げて、H.I.氏はその場をあとにした。
 一週間後に出向くと、本人の代わりに秘書が現れて「お預かり物はお返しします。返事は先生が申しあげたとおりです」。企画はあえなくチョンとなった。

 しからば、中村紘子の代打をどうするか。会議で、作詞家岩谷時子さんはどうか ということに。H.I.氏は岩谷氏に打診する。「私なんかでよろしいのでしょうか」が第一声だった。岩谷時子といえば数々のヒット曲を生み出している第一級の作詞家。執筆者としてはこちらの方が格上である。「とんでもありません。何卒よろしく」ということになる。そこで、岩谷の出した条件は「期日までに上げるので他の仕事はシャットアウトしたい。そのため2週間ホテルに缶詰めになって集中したい」というものだった。「もちろんです」とH.I.氏はホテルを手配し2週間待った。
 2週間後完成した原稿を受け取る。そこで、H.I.氏は唸った。訳文はH.I.氏のサンプルを元に、ところどころ彼女なりの手が入っている。ところがその中で、H.I.氏が単に「父親が新聞に目を通す」とした部分に新聞の具体名が記されていたのだ。これは原作を読まなければ判らないこと。驚くなかれ、岩谷氏は、2週間の間に原作本を入手して、参照していたのである。なんという誠実な対応。中村女史とは人間として雲泥の差というべきか。岩谷時子訳「偉大なワンドゥードルさいごの一ぴき」は20万部のベストセラーとなった。

 これには後日談がある。刊行前後のある日、H.I.氏はトルコ大使館で行われたイベントに招待されて出向いた。とそこに、中村女史が臨席していたのである。しきりにこちらに秋波を送ってくる。H.I.氏、当然無視。そして数日後、中村女史から、特大ポスター付の最新盤LPレコード「グリーグ作曲:ピアノ協奏曲他」が送られてきた。ジャケットには「謹呈 石井宏様 1979年夏に 中村紘子」との直筆サインが。「きっと私が音楽評論をしていることを知ったのだろうね。それで『よろしく』という気になったのかな。それにしても、こんなもの私が喜ぶとでも思ったのかね」とH.I.氏は苦笑する。メリットなき相手にはぞんざいに、有益な者には一転して媚びを売る、そんな中村紘子の気質が見えてくる。

 H.I.氏とは誰? 我が敬愛する音楽学者・評論家の石井宏(1930-)先生である。先述した海老沢敏氏は、巷間、モーツァルト研究の第一人者といわれているが、それは肩書のなせる業だろう。実質的には石井先生こそ第一人者の名にふさわしい。それは両者のモーツァルト著作を一読すれば明白である。例えば海老沢氏の「モーツァルトの廻廊」。せっかくレヴィン版「レクイエム」の初演(1991)に立ち会っているのに、レヴィン改訂の核心である「ホザンナの調性」には一言も触れていない。何かといえば、モーツァルトのメモリアル・イヤー(1956、1991、2006)の話が繰り返し現れるだけで、モーツァルトそのものに切り込む筆法は欠片もない。遠くからモーツァルトの周りをうろついているだけだ。これぞまさにタイトルに恥じない“モーツァルトの廻廊”である。
 片や石井先生の、例えば「素顔のモーツァルト」。ピアノ協奏曲K595に彼岸の音を聴く感性、「魔笛」のパパゲーノはモーツァルトの化身とする慧眼、「レクイエム」に埋め込んだモーツァルトの真情を読み解く感動的な筆致。これらの記述はおしなべて実証的・論理的でかつモーツァルトへの愛にあふれている。海老沢氏のモーツァルト論とは月とスッポン、大谷翔平と筒香嘉智の差である。緻密な論理構成、情感あふれる描写、語り上手な筆致。先生の生み出す文章は深く面白い。そしてそれらは、物事をうわべで判断することなく本質を射抜く公正な視点に準拠している。

 そんな石井先生が、評論家に専念する前のサラリーマン時代、中村紘子にまつわる体験談を語ってくれたのである。先生に代わって中村紘子を評するならば「とんでもない女」ということになろうか。また、その二面性から、ヤーヌス〜妖怪に例えることもできる。バーンスタインは主宰する「ヤング・ピープルズ・コンサート」の中でクラシック音楽をhigh brow(高尚な)音楽ではなくexact(緻密な)音楽と定義した。だがこれはクラシックの啓蒙者として「お高い」と思われたくない気持ちの表れで、クラシックにかかわる人間は本音のところでクラシック音楽を「高尚な」音楽と考えている。だがしかし、高尚なクラシック音楽を高尚でない人間が演奏する。そしてそれが名声と富を生む。そんなパラドクスが厳然として存在するのも世の面白さというものだろう。

<参考資料>
NHK-BS 魂に響くピアノを〜中村紘子さんの残したもの(2016 OA)
「有夫恋」 時実新子著(朝日新聞社)
「偉大なワンドゥードル最後の一匹」ジュリー・アンドリュース著、青柳佑美子訳(小学館)
「素顔のモーツァルト」石井宏著(中公文庫)
「モーツァルトの廻廊」海老沢敏著(春秋社)
「蜜蜂と遠雷」恩田陸著(幻冬舎)
DVD レナード・バーンスタイン&ニューヨーク・フィルハーモニック
   「ヤング・ピープルズ・コンサート」(Sony Music)
 2022.06.20 (月)  ショパン・コンクールにまつわる日本人女流ピアニスト1
          〜原智恵子と田中希代子
 ショパン国際ピアノコンクール、エリザベート王妃国際コンクール、チャイコフスキー国際コンクールを世界3大コンクールと呼ぶそうだ。エリザベート王妃国際は、1937年、名ヴァイオリニスト ウジェーヌ・イザイの名を冠して始めたヴァイオリンのコンクールが発端。チャイコフスキー国際は、1956年、ガガーリンが人類初の有人宇宙飛行を成功させて勢いに乗るソ連が、1958年、芸術面でも自国の優位を誇示すべく創設した。ところが第1回の優勝者はライバル国アメリカのヴァン・クライバーン。してやったりのアメリカと切歯扼腕のソ連。捲土重来を期して行われた第2回は目論見通りソ連のウラディミール・アシュケナージが優勝。ところが彼はその後ソ連を離れて自由主義陣営に亡命したため当局は優勝を取り消すという仕打ちに出た。ソ連の思惑にコンクールが揺れ動いたというわけである。今も昔もソ連=ロシアの身勝手は変わらない。
 ショパン国際ピアノコンクールの創設は1927年。開催は5年に一度、部門はピアノのみ、課題曲はショパン作品のみ、決勝はショパンの二つの協奏曲のどちらか という実にユニークなコンクールだ。とはいえ現在ピアニストが最も憧れるコンクールでもある。それは、優勝者に、マウリツィオ・ポリーニ(1960)、マルタ・アルゲリッチ(1965)、内田光子(1970、2位)、クリスティアン・ツィマーマン(1975)など、名だたるピアニストが名を連ねているからだろう。

 今回はショパン国際ピアノコンクールにまつわる2人の日本人女流ピアニストを取り上げたいと思う。

(1) 原智恵子〜波乱の人生

 ショパン国際ピアノコンクールの日本人パイオニアは1937年第3回大会に出場した原智恵子(1914-2001)である。結果は15位だった。ところが、聴衆から会場を揺るがすほどのブーイングの嵐が起きる。審査側は急遽「特別聴衆賞」を新設授与してこれを収めた。審査員が、「音楽後進国の日本だからここらあたりが妥当だろう」と考えたかどうかはわからないが、聴衆の耳には強烈に訴える何かがあったのだろう。ショパン・コンクール95年の歴史の中で、聴衆の不満によって受賞内容が変更されたのは後にも先にもこのケースだけである。
 当時原はパリで研鑽中の身だった。そこで一人の日本人留学生と出会う。川添浩史(1913-1970)である。日本と西洋の文化交流に情熱を燃やす川添と原は意気投合。1938年に結婚。象郎と光郎の二児をもうける。
 終戦後、浩史は外務省の外郭団体・国際文化振興会の嘱託として活動。歌舞伎や文楽の海外興行等を手掛ける。イタリアで歌舞伎公演の際ナレーターとして参加した岩元梶子と出会いこちらも意気投合。浩史は梶子に乗り換える。

 1960年、浩史と梶子は飯倉片町にレストラン「キャンティ」を開設。日本初の本格的イタリアン・レストランだった。三島由紀夫、黒澤明、岡本太郎、小澤征爾、フランク・シナトラ、ピエール・カルダン、カトリーヌ・ドヌーヴ、マーロン・ブランドなど最先端の文化人の社交場となってゆく。若者では、かまやつひろし、ミッキー・カーチス、堺正章、加賀まりこらが象郎を軸に輪を広げ、10代の荒井由実はここを起点に新しい音楽の道を切り拓いてゆく。キャンティは新旧文化人交流のサロンであり、次代をリードするスター養成工場としての役割をも担ったのである。

 私が東京に出てきたのは1964年。キャンティは既に存在していた。が、その存在も知らなければ知っていたとしても気後れして出入りなどできはしなかっただろう。せいぜい少し先のニコラスあたりでピザをつまむのが精いっぱいだった。しかしながらここの常連の方々とは、後になって仕事上多少の関りが生じた。

 BMGビクター在籍の1993年、カントリーを歌う片山誠史という17歳の少年歌手のデビューに携わった。片山少年はわが国カントリー・ミュージック黎明期のミュージシャンの御子息。プロデュースは“ムッシュ”かまやつひろし、作曲には吉田拓郎、玉置浩二らが名を連ねる。レコーディングはナッシュビルで敢行。デビュー作「BACK FROM MUSIC CITY」が完成する。発売を記念して、原宿クロコダイルにマスコミや特約店などを招き、ライブイベントを派手に打ち上げた。当時、私は制作宣伝コーディネート(CDのクレジットはCreative Co-ordination)を担当しており、メーカー側の責任者の一人としてムッシュと同じテーブルにつく。芸能界のレジェンドを前に緊張気味だった私にムッシュは気さくに声をかけてくれた。話の折に彼が発した「昔取った篠塚」は笑えた。器の大きい優しい人という印象だった。
 ミッキー・カーチスと川添象郎氏とは、「FROM THE MOON FOR THE TREES JUST ROCK’N ROLL」(1994発売のアルバム)での付き合いである。このアルバムはミッキー・カーチス芸能生活40周年記念、彼の世界観とロックンロールを結び付けた意欲作だった。レコーディング終了直後に会議室でミッキー講師の「制作コンセプト説明会」が行われた。第1曲「静かの海」では、「これ“静かな”じゃないんだよ。『“静かの”海』という固有名詞。アームストロングさんが月に到着した地点のこと」など蘊蓄を交え、延々2時間、制作意図を話し続ける。本人の意欲と情熱がひしひしと伝わってきたものである。発売直前、こちらも、マスコミ向け発表会を都内のホテルで大々的に敢行。ここの仕切りは川添氏。強引で唯我独尊、だがどこか憎めない人懐っこさがある、そんな印象だった。確かに、「俺の曽祖父は後藤象二郎、父はキャンティの創業者、ミュージカル『ヘアー』」の上演は俺がやった、お前らとは住む世界が違うんだ」ってな雰囲気を醸していたような・・・・・ともあれ、戦後日本の文化はメインもサブもある部分「キャンティ」から生まれてきたのは事実だろう。それを担ってきた方々と多少なりともかわりを持てたのは貴重な体験だったというべきか。ところで、CDの売り上げは? まったく売れませんでした(失笑)。

 時を戻そう。1958年、原智恵子は世界的チェリスト ガスパール・カサド(1897-1966)と出会い再婚する。演奏者として円熟の境地にあったカサドは智恵子を厳しく鍛えたという。夫の愛のムチによって智恵子の音楽は更なる成熟をみせる。「3年かかってやっと彼の境地にたどりつけたと思う」と彼女は回想している。その後二人は「デュオ・カサド」として世界各地で演奏会を開き喝采を博す。智恵子は、カサドの死後、夫の名を冠した「ガスパール・カサド国際チェロコンクール」を立ち上げた。

 昔から興味があって原智恵子のCDは「パリの原智恵子」と「伝説のピアニスト」の2枚を所有している。ラモー、リュリ、クープランのフランスバロックの小品には馥郁たる典雅な香りが漂い、デュオ・カサドのブラームスのソナタでは端正な叙情と底に潜む情熱が程よくバランスする。とはいえここは、私ごときが四の五の評するよりも巨匠ピアニストの原智恵子評を掲げる方が適切であろう。
あの子は本当の芸術家ですよ
            〜アルフレッド・コルトー
パリでラザール・レヴィの教えを受けた彼女は偉大なピアニストでした
            〜アリシア・デ・ラローチャ
(2) 田中希代子〜薄幸のピアニスト

 ショパン国際ピアノコンクールで、日本人初の入賞者は田中希代子(1932-1996)である。1955年2月、第5回、田中は順調に予選をクリア。協奏曲で覇を競う本選10人の枠に入る。当時の演奏順はアルファベット順だったため田中は9番目の演奏となった。出番までほぼ5時間。かなりきつい待ち時間である。選んだピアノ協奏曲第1番を弾き終えたときには「どう弾いたかほとんど憶えていない。まるでうわごとを言っているようなピアノだった」と述懐している。もろもろの状況からおそらく集中力が十分ではなかったのだろう。オーケストラも同じ曲の繰り返しでは演奏もダレれる。結果は10位、とはいえ日本人初入賞。原智恵子の初出場から18年が経過していた。そこでまた事件が起きる。審査員のイタリアの天才ピアニスト アルトゥール・ベネディッティ=ミケランジェリが、田中の順位を不服として審査員を降りてしまう。原の時は聴衆が、田中の時には大物審査員が異を唱えたのである。ミケランジェリは田中の天才の萌芽を感知したのだろう。天才は天才を知るということか。そして、田中はこのコンクールで「東洋の奇跡」と称えられた。

 そのころの田中希代子はパリ音楽院で名伯楽ラザール・レヴィに就いて研鑽を積んでいた。作曲専攻の宍戸睦郎(1929-2007)とは既にパートナーとして付き合っており、この年の秋結婚する。翌1956年夏、二人は音楽院でヴァイオリンを専攻する田中の弟千香士を伴ってバカンスをニースの知人の別荘で過ごす。ある日、海岸で作曲科の三善晃と遭遇。「うちにおいでよ」と声をかけパリ音楽院生4人の共同生活とあいなった。三善はそこで希代子のピアノを耳にする。
あれは、閉じられた静謐のなかに熱く滾っていたものの凄絶な奔流であっただろうか。希代子さんが「神」と交わす音の対話が、南仏の未明の静寂から漏れ聴こえたのだったろうか・・・・・奇跡の音だった。あれは一切のものの介在を許さなかった。あの永遠につながる透明な時刻に。
 これは三善晃が田中希代子の死に寄せた追悼文である。なんという美しい文章だろう。曲はショパンの練習曲嬰ト短調作品25-6だったという。どんな音だったのだろうか。ポリーニの演奏あたりから想像を掻き立てるしかないのだろうか。三善先生とは仕事でご一緒したことがある。その時この文章を知っていればと悔やまれてならない。

 ショパン・コンクール後の田中希代子の活躍はすさまじかった。しかし、まさにこれからという希代子に突然病魔が襲う。難病の膠原病である。診断が下されたのは1968年4月のことだった。演奏家としての道を断たれた希代子は後進の指導に勤しみ大学で教鞭をとるも、1996年2月26日に永眠。享年64歳だった。

 田中希代子の死に際して石井宏先生はこんな一文を寄せている。
ディヌ・リパッティというピアニストがいた。ジネット・ヌヴーというヴァイオリニストもいた。それぞれごくわずかな録音を残してこの世を去っている。これらの録音を聴くと、もしこの人たちが生きていたらどれほどの芸術家になっていたかと思われる。この人たちは”持っているもの“が違うのである。時に神はこの世にそうした巨大なスケールの人間を送り出してくれる。田中希代子もまたそうした神の贈り物の一人だ。極めて鋭敏な感性。けたはずれの知性と理性。すばやい判断力と決断。強い向上心を支える厳しい道徳心。努力を惜しまない資質。音楽への愛情と豊かな情緒。それらのすべてが、ただならぬほど彼女の体に充満している。しかも彼女は私が生涯に出会った人の中でも、人間として最もすぐれた、その故に深く敬愛するに値する人物なのである。
 高名な先生方がありったけの筆致で渾身の賛辞を捧げている。そんな田中希代子に対して私ごときが何かをつけ加えたり書き記すことなどできるはずがない。ただただ虚心坦懐に、残された彼女のドビュッシーに耳を傾けアールグレイの香りを楽しむ。そんなところが関の山である。

<参考資料>
田中希代子〜夜明けのピアニスト 萩谷由喜子著(株式会社ショパン)
CD 田中希代子「東洋の奇蹟」(キングレコード)
CD「田中希代子の芸術」5枚(キングレコード)
CD「パリの原智恵子」(コロムビアミュージックエンタテインメント)
CD 原智恵子「伝説のピアニスト」(コロムビアミュージックエンタテインメント)
 2022.05.20 (金)  プーチンのウクライナ侵攻とショスタコーヴィチの交響曲
 ロシアのウクライナ侵攻から2か月半が経った5月9日の戦勝記念日。プーチン大統領はこんな演説をした。「ロシアは西側と対話による合理的な解決を目指していたが、NATOは耳を貸さなかった。ドンバス、クリミアを含む我々の領土への侵略準備が公然と進められていた。危険は日増しに増大していた。ロシアは侵略に対して先手を打つことにした。それはやむを得ない唯一の判断だった。我々の義務はナチズムを粉砕し油断してはならないと教えてくれた人々の記憶を守ること。世界大戦の悲劇を二度と繰り返さないことだ」。自己が踏み込んだ侵略をNATOの侵略を食い止めるためと理由づける。身勝手な論理による自己の行為の正当化である。自ら推進するナチス的侵略行為をナチス排除のためと言い、悲劇を繰り返さないと言いながら悲劇を生み出している。言行に矛盾をきたし破綻する論理の展開はむしろ哀みさえ覚える。巷間予想された「戦争宣言」もなければ最重要文言であるはずの「ウクライナ」という一語も発しない。苦戦を強いられる戦況から国民の目を反らし正義の戦いを印象付けてなんとか支持を保ちたいという引き味の演説。1か月半前には反戦デモを「人間のクズ・裏切り者」と罵った強気は影を潜める。外野席から見れば完全な肩透かしである。

 ロシアがウクライナ侵攻の大義としたこと。それは、「ウクライナが『ドンバス地区に特別な地位(事実上の自治権)を与える』という2014年のミンスク合意を履行していない、それどころかその地で虐殺まで行っている」というものだ。ゼレンスキー氏は2019年、NATO加盟を公約に掲げて大統領になった。ミンスク合意を差し置き、クリミア解放を唱え、NATOに急接近を図る。プーチンに危機感が生じる。2022年2月、北京冬季五輪終盤あたりから、世界でロシアのウクライナ侵攻が取りざたされるようになる。バイデン米大統領は早々に、「アメリカは軍事的介入はしない」と明言した。ロシアがこれを侵略の安全弁としたのは明白である。2月24日、プーチンはウクライナ侵攻に踏み切った。バイデンの責任は重い。
 アメリカが「世界の警察」としての力を保てなくなったのは事実である。しかしながら世界随一の大国でありNATOのリーダーであることに変わりはない。ここは世界のリーダーとしての役割を果たす責務があったはずだ。ならばどうすべきだったか? プーチンがミンスク合意不履行を口実にしたのであれば、バイデンは1994年のブダペスト覚書を持ち出せばよかったのだ。ブダペスト覚書とは、核を手放したウクライナに対してアメリカ、ロシア、イギリスの核保有3か国が安全保障を提供するというものだ。「当事者が侵略してどうなる。もしもそんなことをしたらアメリカにも考えがある」。せめてこれくらいは言うべきではなかったか。そうすればプーチンは侵攻に踏み切れなかったはずだ。ところがバイデンにはこの意識がなかった。歴史認識が欠けていた。さらには危機感知力も。それとも、この事態を望んでいたとすれば・・・・・!?

 戦争が始まった直後、尊敬する盟友の一人門多丈氏からメールが届いた。ロシア文学者で名古屋外国語大学学長の亀山郁夫氏の2月26日読売新聞掲載の文章だった。そこには私がかねてから不可解だったロシア人の性向がはっきりと記されていた。
ロシアの内在的な論理に目を向けると、「ロシア人は歴史を引きずるが、歴史から学ばない」といえる。ソ連崩壊後、欧米流の自由と民主主義を基軸とするグローバリズムの波はロシアにも及んだ。しかし、ロシアには古来、個人の自由は社会全体の安定があってようやく保たれるという考えがある。この「長いものに巻かれろ」的な考えについて、ドストエフスキーは「わが国は無制限の君主制だ、だからおそらくどこよりも自由だ」という逆説的言葉を遺した。ロシア人の心柱には、永遠の「神の王国」は歴史の終わりに現れるという黙示録的な願望があり、それが政治の現状に対する無関心を助長している。だから自立した個人が市民社会を形成するという西欧のデモクラシーが入ってきても、やがてそれに反発する心情が生まれ、再び権力に隷属した以前の状態に戻ってしまう。この国民性をロシアの作家グロスマンは「千年の奴隷」と呼んだ。
 なるほどと思わせる内容である。プーチンの支持率がやや下がったとはいえ高止まりを保っているのは、政府のプロパガンダのせいだけではなく、ロシア人が根源的に持つ意識の表れでもあること。プーチンの「自由主義は時代遅れ。自由を制限してでも秩序を優先すべきだ」との発言も、欧米への個人的敵意だけではなく、ロシア人気質に根差したものであること。自己の任期延長のために憲法改正を行ったことも、“強ければついてゆく”ロシア人の性向を踏まえてのものだったこと。そう、ロシア国民は基本強いリーダーを求めているのだ。それがたとえ強権的であったにしても・・・・・おぼろげだったプーチンの言動とそれを支持するロシア人の性向は、亀山見解を通して、かなり明確に理解できた。

 肩透かしという言葉から思い起こされるのは、かつてのソ連の作曲家ドミトリイ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)である。彼の作品に戦争三部作〜交響曲第7番「レニングラード」、第8番、第9番 がある。これらは第2次世界大戦中から終結直後までに書かれた作品である。
 第7番は、副題どおり、1941年〜1943年、900日にわたるナチス・ドイツのレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)封鎖をモチーフに描いた作品である。抑圧された精神が最後は力強く高揚して幕を閉じる。レニングラード市民の不屈の精神力を暗示しているかのようだ。封鎖から345日目に当地初演されたこの楽曲は、実演とラジオO.A.により飢餓に苦しむ市民を鼓舞した。ラジオを聞いたドイツ兵は「暖房も食料もないこのような状況下で交響曲を演奏するとは! こんな街を陥落させるのは不可能だ」と恐れ慄いたと伝えられる。
 第8番は1942年秋からのスターリングラード攻防戦がモチーフだ。前作よりも戦況は好転しているのであるから、より力強い描写が、と思われるが、楽想は終始重苦しい。戦争は悲惨、二度と起こしてはならない とのメッセージだったのかもしれない。
 第9番は、1945年、ソ連を含む連合国の勝利直後の作品であり、ベートーヴェンの「第九」が想起されることもあり、政府当局も国民も世界も勝利の喜び溢れる壮大な作品を期待した。ところが完成されたのは、軽妙で安らぎに満ちた小品。まさに肩透かしである。戦争が終わって彼の胸に帰したのは、勝利の喜びよりも安堵感だったのではなかろうか。

 肩透かしと言われようが何と言われようが自分の内なる真実を表現する。これがショスタコーヴィチという作曲家なのだ。
 1917年のロシア革命のあと、プロコフィエフ、ラフマニノフ、ホロヴィッツ、ミルシテインらロシアの著名音楽家の多くが、政権の統制に堪えかねて国を出た。そんな中、ショスタコーヴィチは祖国に留まり続けた。スターリン主義の当局が強制する音楽とは「社会主義リアリズム」に即したもの、すなわち「勝利する前進的な真実の原則を目指し、卓越したソヴィエト人民精神の英雄的な、輝かしくも美しい特性を、美と生とを肯定する力にあふれた音楽的イメージで具現化するものでなくてはならない」というものだった(ロシア作曲家同盟規約より)。彼はこれに、時に従い、時に背き、時に揶揄しながら、作曲を続けた。作曲家の環境にとって最も大切なこと。それは自由に他ならない。なのに、ショスタコーヴィチはスターリン統制下のソ連を離れなかった。なぜ? 彼はロシアという国が大好きだったのだ。ロシア人であることに誇りを持っていた。作曲家として自由に音楽を作ることよりも、人間として自己のアイデンティティー保持を優先した。不自由さは作曲技術で晴らせばいい。当局は隠した揶揄の暗号を解けるものなら解いてみよ。解けるはずがない。自分はこうしてこの地で生きてゆく・・・
・・ショスタコーヴィチはそう考えたと思うのである。祖国を離れることなく音楽で逆境の市民に生きる希望を与えた彼こそが真の愛国者ではなかったか。

 プーチンは愛国者を自認し「ロシア人とウクライナ人はもともと一体の民族。ウクライナの主権はロシアとのパートナーシップおいてこそ存在しうる」と身勝手な持論を盾に侵攻に踏み切った。彼の家族はかのレニングラード封鎖で死の恐怖を味わったという。そして今、彼は一体であるはずのウクライナ市民に対しナチス・ドイツが企てたと同じ悲劇を見舞っている。まるで個人の恨みを同胞に晴らしているかのようだ。こんなバカな行為があろうか。こんな不条理が許されるのか。こんな愛国者がいるのか!
 プーチンが踏み込んだ蛮行のツケは大きい。世界は一斉にウクライナの側に立つ、多数の最新兵器がウクライナに運び込まれる、フィンランドとスウェーデンはNATO加盟申請に踏み切った、一国の加盟阻止が二国加盟の裏目と出る。まさに安全保障上の失政である。ロシア要人の海外資産の凍結、国際決済網SWIFTからの排除、EUのロシアからの原油輸入停止、ロシアとのプロジェクトからの各国の撤退、ドイツのノルドストリーム2の完全停止、象徴的なマクドナルドの撤退等々、これらの経済制裁は、一人当たりのGDPが世界第66位の経済小国ロシアにとって大きな打撃となるに違いない。強大な権力者を渇望するロシア国民も、生活が立ち行かなくなれば権力者を見放す。戦争の実態がわかってくれば権力者に幻滅を感じる。安全保障と経済両面での失敗。思想統制の破綻。プーチンの行く先は限りなく暗い。

<参考資料>
クラシック音楽史大系10「現代音楽」(パンコンサーツ)
最新名曲解説全集第3巻「交響曲V」
ロシアから西欧へ〜ミルスタイン回想録(春秋社)
亀山郁夫「視点 ウクライナ危機」(読売新聞デジタル2月26日)
CD ショスタコーヴィチ作曲:交響曲第7番「レニングラード」
      マリス・ヤンソンス指揮:レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(東芝EMI)他
レニングラード 女神が奏でた交響曲 2016.3.25 O.A(BSフジ)
 2022.04.23 (土)  春なのに・・・・・
(1)H.T.氏とY.I.さん〜突然の訃報

 先月、二人の大切な人を亡くしました。一人は母の会社の同僚のH.T.氏90歳。もう一人は会社のかつての仲間のY.Iさんです。
 前者は故郷長野の方で高校の先輩でもあります。コロナ以前、年末年始は必ずお宅に伺い奥様お手製のおせちで酒宴を楽しませていただいたものでした。魂胆見え見え(?)の息子にはお年玉を、私には高級ウィスキーを土産にくださいました。いただいた七宝焼きのボールペン、今でも大切に使っております。スマートで温厚な紳士(洗礼名)ヨセフに心からのアーメンを。

 もう一人のY.I.さんはまだ50代。いくらなんでも若すぎる!武蔵野音大のピアノ科卒、卒論のテーマはラヴェルの「夜のガスパール」というからただものじゃない。季節ごとに下町のうまいものを食べ歩く「下町会」、クラシックとジャズ各10人の演奏家を当てるセミナー「柳原キャンパス」など、楽しい時間をたくさん過ごしました。彼女との思い出の中で、私が一番うれしかったこと。それは「クラ未知」2019.2.1「ボヘミアン・ラプソディ リポート」を激賞してくれたことです。
シェイクスピア、ギリシア悲劇、オペラ等、様々なジャンルに絡めたり、調性や構成様式の分析まで含め、ここまでQueenの音楽を掘り下げているブログにはまだ出会っていません。

〜びっくり仰天有頂天でした

 聡明で優しく 爽やかで美しい人でした。亡くなってしまった彼女にはモーツァルトの「夕べの想い」(カンペ詩)K523がよく似合います。
恋の幕切れの夕べに 私は悲しみをおおい 安らぎの国へと旅立つことでしょう
墓の前であなたが泣いてくれたら わたしは風となってくちづけするわ
すみれの花を私の墓にたむけ やさしい目で見下ろして泣いてください
涙というその贈り物は 私の冠の美しい真珠になるわ 真珠になるわ(なかにし礼訳)

〜安らかにお眠りください

(2)谷口弘子さん〜突然のメール

 桜満開、3月が終わろうとしていたある日、中学校の同級生の谷口弘子さん(以下H.T.さん)からメールが届きました。これまで競馬のことを中心に時々交わしてはいましたが、今回は予想外の中身でした。「思い出のカセットテープ(CT)を聞きたくなって機械にかけたら、テープが絡まってダメにしてしまいました。あとまだ数本あるのですが、どこかCT→CDに変換してくれるところを知りませんか」というもの。人の喜ぶことをやれ・・・・・これは4年前に亡くなった母の遺訓。仏教でいう利他の精神。「私でよければお任せを。すぐ送ってくださいな」と即答しました。CTデッキSONYの333ESGは、たまたま3年前、Y.I.さんの夫君H.S.氏の工房でオーバーホール完了、作動は万全。なにか、この時を待っていたような・・・・・。

 H.T.さんとは古い付き合いで、初めて出会ったのはお互い小学4年生、長野の斉藤直子先生のピアノ教室の発表会でした。西洋的な顔立ちの飛び切りの美少女がベートーヴェンのソナチネ 第6番 ヘ長調 を弾きましてね。流れといい、抑揚といい、実に音楽的で衝撃を受けました。私のバイエル(何番かは失念)とは雲泥の差で、この人には絶対に敵わないな と子供心に思ったものです。これがH.T.さんでした。まあ、今は昔の物語です。彼女はこの後東京学芸大学のピアノ科を出て教鞭を取りました。私のほうは大学のオーケストラ部に入ってトランペットを・・・・・まあ、こちらの話はやめておきましょう。

 さて、送られてきたカセットテープは全8本。ほとんどが鳥取女声合唱団のもの。自治省のキャリア官僚だった彼女のご主人が、1980年代、鳥取県に赴任、やがて副知事に就任した、これはそのころのものだということです。
 なんだ、アマチュア合唱の伴奏か、と言うなかれ。合唱団の実力はなかなかのもの。聴くと心が清らかに澄み切ってくるのが感じられます。宇野功芳氏が著書「名曲とともに」(学習研究社)のあとがきで、「女声合唱こそモーツァルトやブルックナーの音楽にも通じる純潔な透明感や寂しさを持ったものであり・・・・」と書いておられるのが解ったような気がしました。
 くだんのCTには鳥取女声合唱団の1980年代の演奏会が録音されていて、驚くことに高名な作曲家の先生が指揮を執ったりゲスト出演されたりしています。参考までにとリハーサルの録音も追っかけ送られてきました。それらの中から、湯山昭、大中恩、青島広志、各先生方の指揮ぶり指導ぶりをたどってみましょう。

 鳥取女声合唱団第4回演奏会1982.6.5は作曲家の湯山昭先生(1932-)がゲスト。演奏された 「小さな目」は朝日新聞投稿欄に掲載された子供の詩10編に先生が曲をつけた合唱組曲。純真無垢な子供の心世界を描いた素敵な作品です。演奏会では、地元の小学生の朗読を導入として合唱に繋げるという形をとっていて、この趣向が湯山昭の歌世界に更なる魅力を添えていました。
 リハーサルの録音を聞くと、作曲家が表現したいことを演奏者にどう伝達するのか、そんな過程が手に取るようにわかります。例えば第1曲「おうちの人」。詩は下記。いやはや子供の感性にはホトホト感心させられます。

  パパはやさしいからお砂糖 ママはこわいからカラシ 妹はだれにでも貼りつくからおもち
  わたしは意地悪だからコショウだってさ 妹が言った

 湯山先生は「もっとテンポをアップして この曲のヴィヴィッド感を出してください」「パパはやさしいの“やさしい”に付いているスラーの意味を考えること スラーとかレガート、テヌート、スタッカートなど記号の指定(アーティキュレーション)には意味があることを知ってください」「みなさんの“カラシ”は気の抜けたカラシです このカラシは怖いカラシなのです」「わたしは意地悪だから の“意地悪”はテヌートでアクセント これを忘れないで」「言葉に生命を吹き込んでください」「休符は休みじゃない ためる時間」「変身してください 女性はお化粧するんだから」etc 熱っぽく確信を持って、時にユーモアを交えながら、演奏者を自分の世界に引きこんでいきます・・・・・レッスン後では音楽の躍動感と表情がガラっと変わっていました。

 ピアノのH.Tさんには「ピアノは伴奏じゃない」「もっと強く それで精いっぱい?」「そこは合唱をリードする」「もっと鋭く弾いて」「アクセントを強調して」「妥協のない正確なテンポで」・・・
・・このあとの様子は彼女のメールでどうぞ。
湯山先生のピアノへの注文はことのほか厳しく、もっともっととどんどん加速。突き指するくらい頑張りました。プレッシャーも限りなくのしかかり、先生が心配して電話しようと思ったとか。ピアノというものに改めて目覚め脱皮??して鳥取でセンセーションが起きました。湯山先生は私にとって大恩人となりました。
 私が一番笑ったのは、第4曲「ママへ」の前奏でのやりとりでした。
先生「ここは molto espressivo もっと表情たっぷりにお願いします」
H.T.さん「あまりやるといやらしくなっちゃうんじゃないかと」
先生「私しゃ いやらしくなったあなたを見てみたい」(大爆笑)
 貴重な経験でしたね。  子供の詩といえば、私が会社時代、ストラティジック部の時に作った「きりんのなみだ」(2003年リリース)を思い出します。八千草薫さんが戦後間もないころの子供の詩を朗読したCDです。録音や写真撮影、山野楽器での即売会、旭日小綬章受賞パーティー等における八千草さんの優雅な佇まいは決して忘れることはないでしょう。著作権手続きで文化庁に赴いたのも貴重な体験でした。
 「合唱」という文言からは、ストラティジック部に異動直後の1997年、制作の大詰めを迎えていた「新・合唱講座」を想起します。これは我が社と契約した「合唱普及会」という会社が全国の小中高校に直に訪問販売する商品。30万円の高額セットを2000セットも売り上げる超強力な商品でした。私はこの過程で、三善晃、池辺晋一郎先生らと知り合えて実に有意義でした。殊に、池辺先生が松山市のホテルのバーで発したギャグ「NHKオートマチック(=児童)合唱団」とか「あなた知ってる?タコはベートーヴェンに不満を持ってるってこと。なんでエロイカがあるのにエロダコはないんじゃ!」など。作曲界のダジャレ王の面目躍如。なんとも印象的な宵でした。
 鳥取女声合唱団のJOINTCONCERT1987.3.13のアンコール曲「ひとつの朝」は「新・合唱講座」にも入っています。

 1984年6月9日の鳥取女声合唱団第5回演奏会は10周年記念と銘打って行われました。ゲストは大中恩先生(1924-2018)。童謡「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」の作者。放映中の朝ドラで大森南朋扮する一家の長が三線を弾きながら歌っていたのが「椰子の実」(島崎藤村詩)で、これを作曲した大中寅二のご子息が恩先生です。
 先生のレッスンはいつもたおやかな空気が流れています。そしてユーモアたっぷり。公演曲の女声合唱組曲「愛の風船」の第1曲「音楽会のあと」の私が好きな2番の詩を下記。
音楽会のあとはだれともおしゃべりしたくない 
枯葉をヒールにからませて どこまでも小径をたどる ふたりきりで
さっきのピアノが まだほら まつげを揺らしてるから
 「わかるなあ」と思わせる素敵な詩は中村千栄子さんの作。大中先生はこの詩に優しい調べを乗せました。まさに珠玉の作品です。これを先生は穏やかに丁寧に指導されます。「“クレッシェンド”は大きくさせ方(=徐々にか急にか)を意識して」「p は小さくという意味だけど“緻密に”という感覚が必要」。「f は大きくだけど“おおらか”という意味がある」etc。H.T.さんは「先生の『優しく、優しく』という言葉がとても印象的でした」と語っています。また「先生の指揮するテンポはとてもゆったりとして的確で、自分のピアノの音がいつもよりいい音に聞こえました」とも。そう、確かに彼女のピアノのタッチは繊細で情感がこもっています。

 鳥取女声合唱団第6回演奏会1986.6.7は青島広志先生(1955-)がゲスト。演奏された「マザーグースの歌」(谷川俊太郎訳詞 青島広志作曲)は才気溢れるとてもハイセンスな作品。このコンサートの模様も彼女のメールから引用させていただきましょう。
青島広志先生はすべて即興でピアノに参入。ピアノを2台ステージの両端に置いて、先生は自由に・・・・・。私はステージ右のピアノで7曲目の『ソロモン・グランディ』から交代しました。この曲はかなりJAZZ的で、助けが欲しいと思っていると、先生は自然に飛び込んできてくれる。大いに助かりました。演奏が終わって私はすぐにステージ裏手に引っ込みましたが、青島先生はお客様そっちのけで私を探してくださって、ステージに出てゆく私と鉢合わせ。お客様大爆笑のシーンでした。
 古びたカセットテープに聞く先生方のレッスン。情熱的な湯山、温厚な大中、愉悦の青島・・・・・各先生方は三者三様の個性で演奏者を高みに導いてゆきます。その手腕はまるで魔法のようで、私にとっても、音楽との接し方を再考させてくれた、そんな貴重な時間でした。

 CT→CDのダビングは、CD→CDに比べれば多少手間がかかるので、「GWまでにはなんとか」とH.T.さんに告げて作業に取り掛かりました。最初はベタ焼きでいいかなとも思ったのですが、どうせやるならと、曲ごとにChapterを入れました。聴くにはこの方が便利なので。曲目と演奏者を書き込んだジャケットも作成。進めるうちに慣れてきてスピードもアップ。思ったより早く、ほぼ一週間で、CT8本をCD6枚にダビング完了。即、宅配便で送ったところ、すぐにメールが届きました。
 「こんなに早く! GWあたりとばかり思っていましたのに。一つ一つ丁寧に仕上げていただいて心より勿体なく思っています。早速、年代順にまとめていただいたCDを一気に聴きました。胸がいっぱいになっています。素晴らしい宝物になりました。我が人生に悔いなしの心境です」との感想が来ました。「わが人生に悔いなし」とまで喜んでいただければ私のほうこそ悔いなしです。また丁寧さに気づいてくれたのも本望です。「何事も丁寧に」は私のモットーなので・・・・・。
 鳥取に、娘さんがH.T.さんのお弟子さんということから、彼女の熱烈なファンになったという整形外科の名医のU先生という方がいらっしゃって、このCD化の話をしたところ、「夢のよう 是非いただきたい」との要望があったそうです。PioneerのCDレコーダー名機(?)PDR-D50 はまだまだ健在。一人分も二人分も同じこと。快くお受けしました。喜んでいただければ幸いであります。

 H.T.さんとはまだ競馬に関する話題があるのですがこれはまたいずれ。「春なのに」いろいろなことがあった2022年の3月〜4月ではありました。
 2022.03.15 (火)  女優カラスVS天使テバルディ
 世にライバルは数々あれど・・・・・宮本武蔵VS佐々木小次郎、大鵬VS柏戸、長嶋VS王、大山康治VS升田幸三、ビートルズVSローリング・ストーンズ、中島みゆきVS松任谷由実・・・・・クラ未知的に最も興味深いのはカラスVSテバルディである。

(1) 先行するテバルディ〜トスカニーニ 「天使の声」と激賞

 レナータ・テバルディは1922年、イタリアのペーザロに生まれた。ペーザロはロッシーニの生まれ故郷というイタリア・オペラ所縁の地でもある。持って生まれた美声によって、年齢未達も特例でパルマ音楽院に入学、研鑽を積んだ。やがてテバルディに羽ばたくチャンスがやってくる。1946年、ミラノ・スカラ座再開記念公演である。指揮者はトスカニーニ(1867-1957)。そのオーディションでテバルディはトスカニーニから「天使の声」と激賞されたのである。トスカニーニといえば、フルトヴェングラー、ワルターと並び世界三大指揮者といわれた大御所。プッチーニ(1858-1924)との親交も厚く、「ボエーム」「トゥーランドット」の初演を指揮、「トスカ」と「蝶々夫人」は初演失敗後の手直しに携わり見事に蘇演を成功に導いている。テバルディはそんな権威からのお墨付きを得たのだ。役柄は「ボエーム」のミミ。観客は「この上なく清らかな声」と大絶賛。若き「スカラ座の女王」の誕生だった。カラスが1947年、アレーナ・ディ・ヴェローナでやっとイタリア進出を果たした時にはテバルディは既にオペラ界の大スターだった。

 カラスの願いはテバルディに勝ち、スカラ座の女王になることだった。イタリア各地で評判を得たカラスが総本山ミラノ・スカラ座に初めて登場したのは1950年4月12日、ヴェルディの「アイーダ」である。ただしこれは、体調不良で舞台を降りたテバルディのピンチヒッターだった。とはいえチャンスはチャンス。ところがカラスのくせの強い声はまだまだコントロールされておらず「高音がキンキンして聞きづらく、音楽をバラバラにしている」と酷評された。スカラ座の聴衆は、正統的ベルカント唱法のテバルディの美声の方を好んだのである。

 二人がライバルとして初めて激突(?)したのは1951年、リオ・デ・ジャネイロである。この年はヴェルディ(1813-1901)没後50年のメモリアル・イヤー。リオ・デ・ジャネイロ市立劇場は、「椿姫」のヴィオレッタをカラスとテバルディのダブル・キャストで上演するという(今考えれば)夢としか思えない企画の舞台となった。その時、劇場側主催の食事会の席上でカラスはテバルディに「あなたのスカラ座での『椿姫』は散々だったわね」と執拗に繰り返したという。後塵を拝しているカラスの負けず嫌いな性格が出たエピソードではある。ところがこの公演、観客もメディアも圧倒的にテバルディを支持した。カラスはまだまだ追いつけない。

(2) スカラ座での女王争い〜ヴィスコンティ「優れた女優」とカラスを絶賛

 カラスの声は生まれつきやや硬め、だが一方で大きな声量と広い音域に恵まれていた。が、まだトレーニングされていなかったため聞き手には不快な金切声としか聞こえなかった。謂わば未完の大器。これらがコントロールされれば大きな武器となる。聞き苦しさは強靭さに変わり劇的表現を可能にする。音域の広さはレパートリー拡大に寄与するはずだ。カラスは仮想敵テバルディを見据えて研鑽に励んだ。
 1951年12月7日、カラスはヴェルディの「シチリアの晩鐘」でスカラ座に再登場する。トレーニングを積んだカラスの声は見事にコントロールされていた。観客は大喝采を送る。前回の「アイーダ」が3日で終わったのに対し今回は7日間の公演となった。スカラ座は追加の出演をオファー、即座に次の公演が決まる。カラスのファンの輪が徐々に広がってゆく。

 1952年1月13日、カラスはスカラ座の舞台に立った。演目はベッリーニの「ノルマ」。「ノルマ」は1948年11月のフィレンツェ テアトロ・コムナール以来、10ヵ所28公演をこなしておりもはや完全に手のうちに入れていた。結果は圧倒的大成功。コッリエーレ・デッラ・セーラ紙は「音域は驚異的な広がりをもち殊に中音域と低音域は煌めくような美しさに満ちている」と絶賛。カラスはついにテバルディと肩を並べたのである。そしてこのころから、スカラ座の観客はカラス派VSテバルディ派の様相を呈するようになった。公演では反対派がヤジを飛ばし合う。テバルディ派が舞台のカラスに花束を擬した野菜を投げつける。カラス派がテバルディ派を運河に突き落とす等々、まるで現代のサッカーのサポーター同士の争いの体だったともいわれている。当のスカラ座は煽りはせずともこの熱狂ぶりをむしろ歓迎していた節がある。興行が盛り上がるのだから当然だろう。

 1953年に公開された映画「ローマの休日」を見たカラスは一大決心をする。オードリー・ヘプバーンのようなスタイルを身に着けるべくダイエットに励んだのだ。そして2年足らずで100kgあった体重を35kg減量、60kg台の細身で美しい容姿を体現したのである。
 1955年のスカラ座は新生カラスの独壇場。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。1、2月はマリオ・デル・モナコとのジョルダーノ「アンドレア・シェニエ」。5、6月は巨匠ルキノ・ヴィスコンティ(1906-1976)演出によるヴェルディ「椿姫」。12月、翌年1月のスカラ座1956年シーズン幕開け公演は十八番の「ノルマ」。中でも「椿姫」は伝説的公演として今も語り継がれている。幕が開いた瞬間観客は息をのみヴィオレッタの生き写しのようなカラスに魅了されたとも。映像があったら見てみたいものだ! ヴィスコンティは「ギリシャ人であるカラスには悲劇女優の血が流れている。カラスは優れた女優だ」と絶賛した。カラスはついに「スカラ座の女王」となった。このあたりからイタリアを追われる1958年くらいまでがカラスの絶頂期だったように思う。
 カラスに女王の座を奪われたテバルディは「一つの鳥小屋に雄鶏を2羽入れておくことはできないわ」との台詞を残しスカラ座を去った。歌える女優は天使の歌声を追いやったのである。行く先はNYメトロポリタン歌劇場。メトはテバルディを歓待・優遇。新天地で生き返ったテバルディはその後18年もの間NYの観客に愛され続けた。
 短くも美しく燃えたカラス、永く安定した活動を続けけたテバルディ。マスコミにスキャンダラスな話題を振りまいたカラス、母親の庇護の下堅実な人生を歩んだテバルディ。芸風も芸歴も私生活も真に対照的な二人だった。

(3)二人のDIVA〜厳選比較

 我が音楽仲間ではどちらかといえばテバルディ派が多い。実は小生もテバルディの方が好きだった。でも近年、カラスの凄さも解るようになった。タイプの違う二人のDIVAを比較視聴するのも楽しい。
 オペラは、1600年代初頭に生まれて以来、常に娯楽の王様だった。当初は上流階級の贅沢だったが時を経て庶民の息抜きにもなった。一時現実を忘れ別世界に誘ってくれる娯楽、それがオペラだ。オペラには美しい音楽とどろどろとした人間模様が共存している。美しく歌い上げる歌手も人間の真情を抉る歌手も、どちらも存在理由がある。テバルディもカラスも両立しうるのである。
 レパートリー的にはおそらくカラスの方が広いだろう。「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデや「カルメン」のカルメンなど、ドイツものやフランスものをテバルディはやっていない。ただ、イタリアものに限れば両者のレパートリーはほぼ五分五分といえるのではないか。カラスがやる「ノルマ」、「ランメルモールのルチア」、「メディア」などはテバルディはやらない。一方テバルディがやる「メフィストーフェレ」、「オテロ」、「アドリアーナ・ルクブルール」などはカラスはやらない。ともあれ、イタリア・オペラの演目の多くは二人の共通のレパートリーということになる。以下、これらの中から厳選して2つの演目を比較視聴してみたい。

*ジョルダーノ「アンドレア・シェニエ」の場合

 1955年1月、マリア・カラスはミラノ・スカラ座で当代随一のテノール マリオ・デル・モナコとジョルダーノ「アンドレア・シェニエ」で共演した。モナコのシェニエは並ぶものなき当たり役であるが、カラスのマッダレーナは、私が知る限り、これが唯一の出演である。聞くところによると、このプロダクション、当初の予定はヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」だったという。それがモナコの調子が悪く彼の手慣れたこの演目に変わったとか。「アンドレア・シェニエ」はカラスのレパートリーではない。だから一回こっきりなのだ。

 マッダレーナの聞かせどころは第3幕のアリア「亡くなった母を」と第4幕フィナーレのシェニエとの二重唱だろう。「亡くなった母を」のカラスの歌唱。ここからは、やり場のない悲しみから、それを乗り越えて、逞しく生きてゆこうとする強い決心と揺るぎない覚悟がひしひしと伝わってくる。そして、フィナーレの二重唱。これはもう迫力の権化だ。刑吏の呼び掛けに答えるカラスの「So nio!」の凄み。日本語訳は「私です!」だが、カラスのは「私よ!違いないわ!文句ある!」とした方が相応しい気がする。歌唱もシェニエに寄り添って断頭台に向かうのではなく、一緒に、いやむしろ率先して歩を進める牽引力がある。モナコは、いつものテバルディと違う、と感じたかどうかは知らないが、カラスに引っぱられるように感情の限りを噴出する。歌い終わった二人に観衆はもう興奮の坩堝、いつ果てるとも知らない拍手と歓声の嵐だ。音質は相当に貧弱だがこのライブは極めて貴重な録音である。ところでこのCD(CDM26002)、いつどこで手に入れたのだろうか?

 テバルディの「アンドレア・シェニエ」もまた共演者はモナコである。ソフトは1961年10月のライブDVD(KIBM1014)。NHKが招いた第3回イタリア歌劇団の公演で、会場はこの年新築されたばかりの東京文化会館。当時高校生だった私は白黒テレビに映るモナコ&テバルディを食い入るように見聴きしたものである。思い出はさておき、カラス盤から5年ほど後になるが、比較するのに差支えはないだろう。
 「亡くなった母を」におけるテバルディの歌唱はさすがに清らかで美しい。貴族の娘らしい育ちの良さと時代に翻弄されながらも懸命に生きようとする健気さが見事に歌われる。フィナーレのモナコとの二重唱。テバルディの歌唱からは、愛するシェニエと共に毅然として死出の旅に立つマッダレーナの一途さが伝わってくる。モナコも、カラスの時とは違い、リベラルな詩人の矜持を熱く力強く歌い上げる。同じモナコとの二重唱だが、カラスの場合は戦うような感情の激流が、テバルディの場合は夫唱婦随的一体感が見て取れる。実に興味深い対照である。

*ヴェルディ「椿姫」の場合

 歌劇「椿姫」(La Traviata)はアレクサンドル・デュマ・フィス(1824-1895)の戯曲「椿姫」(La Dame Aux Cameilas)が原作。オペラのタイトルLa Traviataは「道を外した女」という意味だが、日本語訳では原作のタイトルに倣った。ヒロインのヴィオレッタは、19世紀、パリ社交界の華といわれた実在の女性マリー・デュプレシがモデルといわれている。パリの社交界で自由気ままに生きるヴィオレッタが純真な青年アルフレードと出会い恋に落ちるが結局は身を引き病で死んでゆくという物語である。

 比較楽曲は第1幕のラストで歌われるアリア「花から花へ」。アルフレードと出会ったヴィオレッタがこれまで経験したことのない感情に襲われる「ああ、そはかの人か」に続き、テンポは一転アップとなって、「やっぱり私は快楽の世界に生きるのがお似合い」と無理やり自分に言い聞かせる微妙な恋の歌。世紀のDIVAを比較するのに相応しい王道のアリアである。

 二人の比較はシンプルにゆきたい。どちらが椿姫らしいか などという情緒的な要素は排除して、聴かせどころ=エンディングをどのように歌っているか? 最後の歌詞 dee volare il mio pensier(私の思いは飛び回る)のpensierの「sier」部分をどう歌っているかの一点を比較する。

カラス(35歳)〜ギオーネ指揮:サン・カルロス歌劇場管弦楽団 1958録音
 E♭6-A♭5
テバルディ(32歳)〜モリナーリ=プラデルリ指揮:ローマ聖チェチューリア管弦楽団 1954録音
 A5-G5

 最高音を比べるとカラスE♭6でテバルディA5だから実に減5度もカラスが高い。着地はカラスA♭5でテバルディG5だからテバルディは半音低い。原調はA♭なのでテバルディはオリジナルを半音下げて歌っていることになる。メロディーラインも不自然で、ちょっとこのいじり過ぎはいただけない。この一点だけでカラスを上位に見るのは短絡的に過ぎると思うが、少なくともカラスの方が曲への向き合い方が真摯だと思う。
 因みにこのアリアを完璧な音型で歌っているのは、私が知る限り、イレアーナ・コトルバスとステファニア・ボンファデッリの二人だけである。

 「椿姫」のヴィオレッタ、「イル・トロヴァトーレ」のレオノーラ、「マノン・レスコー」、「ラ・ボエーム」のミミ、「トスカ」、「蝶々夫人」、「ジャンニ・スキッキ」のラウレッタ、「アンドレア・シェニエ」のマッダレーナ・・・・・これらは我がオペラ・コレクションの中でのカラス/テバルディ共通の演目である。一声聴いただけで判る個性。聴くほどに際立つ持ち味。二人がいかに傑出したDIVAだったかを教えてくれる。 カラスとテバルディ。どちらがいいか、どちらが好きか ということよりも、時々の気分に合わせてどちらを聴くか・・・・・これまたオペラを聴く醍醐味の一つである。

<参考資料>
KAWADE夢ムック「マリア・カラス」(河出書房新社)
最新名曲解説全集第19巻歌劇U、第20巻歌劇V(音楽之友社)
BS世界のドキュメンタリー「カラスVSテバルディ」(NHK-BS)
ジョルダーノ歌劇「アンドレア・シェニエ」
 ミラノ・スカラ座 1955ライブCD
 東京文化会館 1961ライブDVD
レナータ・テバルディ/ソプラノ・アリア名曲集CD(POCL4140)
CALLAS IN PORTRAIT CD(TOCE55575)
 2022.02.25 (金)  北京冬季オリンピック〜感動と欺瞞の祭典
 いったいどうなっちゃってんの、北京冬季オリンピック。おかしなことが起こりすぎじゃあー。なので今回は斜に構えた観戦記といきましょう。

 まずは、カミラ・ワリエワちゃん。15歳の少女なので“ちゃん”付で呼ばせてもらいます。ワリエワちゃんはダントツの金メダル候補。団体戦は圧巻の演技でロシア・チームの優勝に貢献した。とそんなとき、ワリエワちゃんのドーピング疑惑が発覚した。いったいどういうこと?こんなもん、本人が自主的に服用するはずはないだろうから、“鉄面皮女”エテリ・トゥトベリーゼ・コーチ一派が服用させたと考えるのが普通でしょう。ドーピングの権威(?)フィリップ・シュベツキーというお医者さんも帯同しているようだし。とはいえ自主的他動的問わず検出されればアウトがドーピングの常識。検出された薬剤トリメタジジンは狭心症の錠剤で心臓への血流を促す薬だから、スポーツ選手の持久力upが図れる。ワリエワちゃんは天才でなんでもできちゃうけれど、まだ15歳だから体力がない。唯一持久力がアキレス腱なわけ。飲ませる動機はアリアリということになる。
 昨年12月25日、ロシア選手権直後にワリエワちゃんから検体採取。ストックホルムの検査機関に送られた。検査結果は通常なら10日で出るというから、年明けにはロシア側はワリエワちゃんの陽性を認識していてもおかしくはない。ところがロシアは公表しなかった。なぜ? すればワリエワちゃんのオリンピック出場が不可能になっちゃう。そこでギリギリ出してドサクサ紛れに強行突破の策に出た・・・・・という可能性が強いなあ。

 ロシア・アンチ・ドーピング機構(RUSADA)の報告とこれを受けたIOC&世界アンチ・ドーピング機構(WADA)の対応、そしてスポーツ仲裁裁判所(CAS)の裁定は以下の通り。
●2月8日、RUSADAに検査結果の報告が来る→ワリエワ側に出場停止処分を通達→ワリエワ側異議申し立て→RUSADAは処分を解除・・・・・これがRUSADAの報告
●2月11日、これを受けたIOC&WADAらがRUSADAの処分解除の決定を不当としてCASに提訴
●2月13日、CASがワリエワや関係者に聞き取り調査を行う
●2月14日、CASが「ワリエワは要保護者の15歳だから違反基準が違う。もしここで出場停止にすれば取り返しのつかないダメージを与えてしまう。これらのことを考慮して北京オリンピックの継続出場を可能とする。ただし本ケースは未決着の状態でありワリエワはあくまで懲罰対象手続きにある」との裁定を発表。同時にIOCは「ワリエワが3位以内に入ったら表彰セレモニーは行わない」との見解を出した。
 あまりに曖昧かつ玉虫色の裁定である。ここで注視すべきはCASの所長はIOCコーツ副会長が兼任しているという事実。またRUSADAがロシアという国家と不可分なのも常識だ。このあたりIOC=CAS=ロシアのきな臭い構図が見え隠れ。今回のドーピング裁定の一連の流れは出来レースではないかとさえ思えてくる。
 が、とにかくワリエワちゃんの出場は継続となった。ロシア側はひとまず安堵したことだろう。だが問題はこれから。ここに至るまでのロシア側の不可解な言い訳が果たして真実なのかは今後の解明を待たねばならない。
 一つは、なぜ検査結果の報告が1か月半もかかったか ということ。ロシア側は「ストックホルムの検査員が新型コロナに罹ったから」と説明しているがホントかね。報告が団体戦終了の翌日に来たなんてあまりにも不自然。こんなもん、検査機関を調べれば判るはずだよね。こんな簡単なことをそのままにしているのも変だ。
 もう一つは「クリスマス・イブに祖父が心臓の薬を飲んだ同じワイングラスを使って飲んでしまった。それが陽性反応の原因と母が言っています」とのワリエワちゃんの弁明。これどう見てもおかしい。じいちゃんの薬は錠剤なのになんでグラスに溶け出ていたのかね。だいたいロシア正教のクリスマスは1月7日だし。これはどう考えても作り話でしょう。こんなことを15歳の少女に言わせてまで正統性を主張するロシアという国家はなんなんだろう。恐ろしさよりもむしろ憐れみを覚えますワ。

 2月17日、女子シングル個人が行われた。そこには衝撃の光景が現出した。ワリエワちゃんはまるで別人。世界最高得点を出しまくったあの天才ワリエワの姿はどこにもなかった。得点224.09の4位。惨憺たる結果。これまで競争相手を“絶望”させてきたワリエワだったが今回は自らが絶望することになってしまった。団体戦が267.45だったから個人戦では43.36も下回ったことになる。ドーピング騒動の影響は明らかだろう。出場停止は選手にダメージを与えるとした一見温情に見えるCASの裁定が逆に選手に多大なダメージを与えてしまった。皮肉なものである。
 しかも失意のワリエワちゃんにトゥトベリーゼ・コーチは「なんで途中から投げてしまったの。理解できない。説明して」と詰問したとも。これがチーム・エテリ流なのかもしれないが、ちょっと残酷過ぎはしないか。銀メダルのトルソワは「あなたはすべてを知っているはずなのに」とハグを拒んだ。この意味は? いずれにしてもロシアはかけがえのないスケーターを葬ってしまった。それでも金メダルは同じロシアのシェルバコワ。少女を国威発揚の道具としか考えない使い捨て主義のプーチン・ロシアはこれでよしとするのだろうか。ワリエワちゃん、スケートだけが人生じゃないよ 頑張って! と激励したい。でもまだやるのかな。やるなら応援しまっせ。
 日本の坂本花織は自己ベストの演技で3位。最強ロシアの一角に食い込んだ。天晴れの銅メダルであります。

 だいたいトーマス・バッハ氏の今回の振る舞いは何なんだろうね。セクハラ事件の彭帥さんと親し気に競技を観戦。この映像を世界に流したんですよ。おいおいちょっと待ってくださいな。彭帥さんはインスタグラムに中国共産党幹部からのセクハラ被害を訴えた。中国政府はもみ消しにかかり「なかったこと」と言わせた。これぞ人権無視の国家の圧力。バッハさん、あんたはこんな中国の片棒を担ぐのですか。「ハムレット劇で政治問題を聞きたいかね」とか言っちゃって。これが人権尊重のオリンピック精神ですか。あんた、習近平のなんなのさ!
 また、女子フィギュア終了後の談話。ワリエワちゃんへの憐憫の情もロシアコーチ陣への批判もどこか儀礼的。そんなセンチメンタルな感想じゃなくて、ドーピングそのものを撲滅するという本質的大局的な発言が出来ないものかなあ。でまた、ドーピングで国として謹慎中のロシアの大統領が開会式に堂々と出席しているのに文句ひとつ言わない。あんた、IOCの会長なんでしょ!.

 お次は、2月7日、ジャンプ混合団体の違反者続出事件。高梨沙羅ちゃん大ジャンプの歓喜も束の間。なんとスーツの規定違反だという。女子の場合スーツの厚さは体から2−4センチまで、それ以上は違反という規定がある。検査はいつやるか?競技開始前に全員である。沙羅ちゃん、ここでは通っている。しかも、二日前の個人戦と同じスーツなのだ。違反と出たのは最初のジャンプ直後の抜き打ち検査だった。これはまあよくあることのようだが、「測り方がいつもと違っていた」という。同じく違反とされたノルウェーの選手は「違反が出るまで測っていた」との証言も。違反者は日本の他にドイツ、オーストリア、ノルウェーの4ケ国5人。なぜか女子選手ばかり。測定箇所は20〜30あるらしい。女子選手の検査員はポーランドの女性だったようで、この人がなぜか頑張っちゃって普段はやらないような箇所を検査しまっくっちゃったのかね。背景には過剰なスーツ競争があるとも言われているね。いずれにしても、ここは検査方法の標準化が必要でしょう。沙羅ちゃんはまじめな人だから、自分のせいでと謝罪したけど、謝ることはないよ。普段通りにやって立派に飛んだんだし。たまたま想定外の事故に遭っちゃっただけ。それにしても日本チーム、7人での4位入賞は立派でした。

 羽生結弦くんは頑張ったけど残念だったね。だれも成功してない4回転アクセル(4A)を飛んで3連覇・・・・・これが青写真だったはず。表向きにはね。でも本心は違うと思うな。普通にやったらネイサン・チェンには敵わない。ただの敗者で終わってしまう。でも2連覇の王者として何かを残さなきゃいけない。それはもう4Aしかなかった。子供のころの夢をかなえるってことでもね。
 でもこのアクセル・ジャンプというやつぁとてつもなく難しい。最初の1回転半ジャンプ=1Aはノルウェーのアクセル・パウルゼンが成功した。だからアクセル・ジャンプなんだけど、これが1882年。2Aはその66年後、3Aはそのさらに30年後。そしてそこから44年後の今日、4Aはまだ誰も成功していないというんだから大変なもんだ。この成功は偉業となる。羽生結弦は4Aを北京へのモチベーションにしたんだね。
 2月8日、ショート・プログラム。なんと最初の4回転サルコウでブレードが穴にはまって1回転になってしまう。前の選手がつけた穴なんだけど、こういう穴は常にあるみたい。誰かが数えたら、この時の羽生くんの氷には30個くらいの穴があったというよ。「スケートの神様に嫌われたのかな」とコメントしていたけど、どうだろう、嫌われたのではなく見落としたのではないのかな。どっちにしても、ショートは8位。もう金はおろかメダルも絶望的。ならば4Aを飛ぶしかない。逆に踏ん切りがついたんじゃなかろうか。
 2月10日、フリー冒頭。羽生は4Aを飛んだ。惜しくも転倒。でも認定!些少の回転不足の注釈付きで。これで史上初4A試技者となった。聞けば8日の4Aの練習で足首を捻挫していたという。満身創痍の羽生結弦の3度目のオリンピックが終わった。「報われない努力だったかもしれないけれど精いっぱい頑張りました」。それなりの満足感はあったと思う。

 2月11日、平野歩夢くんのスノーボード・ハーフパイプの金メダルは立派だったね。彼は15歳、最初の五輪 ソチで銀、次の平昌でも銀。もう銀はたくさん、今回は金しかなかった。そのため3コーク1440ともう一つの計2つの世界で誰もやってない大技を引っ提げて北京に乗り込んだんだね。
 競技は3本の最高点で決まる。平野は2本目で3コーク1440を成功 91.75。トップを確信するもS.トーマスの92.50に及ばず2位。「なんで?世界初の大技を決めたのに」。彼の予定が狂った。予定ではここで金メダルを確定して3本目はもう一つの大技をトライして凱旋跳躍で終わる。そんなはずだったと思う。
 平野は2本目と同じプログラムでその精度を上げる作戦を選んだ。金を獲るにはこれしかない。これは想像を絶するプレッシャーだったはず。そして飛んだ 96.00。文句のつけようのないパフォーマンスだった。平野歩夢は見事プレッシャーに打ち勝った。このメンタルはいくらほめても褒め過ぎることはない。でまた、平野の金を阻み続けた尊敬するライバル ショーン・ホワイトと健闘を称え合うシーンも印象的だったね。
 試合後平野は「2本目の点数には納得がいかなかった。その怒りが3本目の力になったと思う。採点基準がもっと明確になることを願う」と語っていたね。今の採点方式は100点満点の減点方式。昔のように限られた技の中でその完成度を競うのならこれでいいが、今回の平野くんの3コーク1440のような超難易度の新技がでてきたら、減点法では間に合わない。ここは加点法にすべきだろう。技ごとに難易度に沿った技術点があり、その出来栄え点とで評価する。得点は青天井。フィギュアと同じ方式だ。これなら、難しい技をやるほどに点数が上がり、平野くんのような不満は出てこないだろう。スケボー協会に一考をお願いしたいね。

 ジャンプの小林陵侑くんは立派でした。オリンピック8回出場の師葛西紀明監督は銀までだったから弟子の金メダルは自分のことのように嬉しかったんじゃないのかな。ノーマルとラージの金銀は長野五輪の“フナキ〜”和喜から24年ぶり日本選手史上二人目の快挙だ。長野では金だった男子の団体戦は無念の5位。陵侑選手と他の3選手との差がありすぎたってことかな。長野は日の丸飛行隊だったけど北京は日の丸片肺飛行隊じゃ(失礼)。
 高木美帆ちゃんはもっと立派でした。5種目に出場。3000mはいいとして、金狙いの1500mは銀で終わって、どうかと思った500mは銀。金最有力の女子パシュートはあと100mで姉の菜那がまさかの転倒(このあとのマススタートでもコケちゃったね)で銀。そのアクシデントからたったの中1日、疲労極限で臨んだ2月17日の1000m、見事オリンピック新記録で金。最後の最後で念願の個人金メダルを手にした。思えば初出場の2010バンクーバーで1000mは最下位だった。そこから這い上がっての世界一。そして今大会で獲得したメダルは金1と銀3。これはもう文句なしの天晴れです。これはまた、ヨハン・デビッドコーチの存在も大きかった。彼は前半コロナで合流が遅れたけわけだけれど、復帰した後半、高木の動きは明らかに変わってきたね。「氷上の女王」誕生に彼の力は欠かせなかったと思う。

 スケートのショートトラックも疑惑の判定だらけでした。確かにこの競技、いろいろなことが起こる競技なんだよね。例えば2002年、ソルトレークの珍事。あまり有力でないオーストラリアのブラッドバリーBradburyという選手がショートトラック1000mに出場してきた。2位以内が必要な準々決勝で自分より実力上位の二人が転倒と失格で準決勝へ。準決勝は2人が転倒、決勝へ進む。決勝も実力最下位だから順当に(?)最後方を滑っていたら3人が次々と転倒、なんと金メダルを獲っちゃった。こんなことありえます?オーストラリアではDo a Bradburyという語が辞書に載っているらしい。意味は「たなぼた」。
 2月7日、男子1000m準決勝。韓国ファン・デホン選手が1位入選も中国選手を追い抜いた時に反則があったとして失格、中国選手は決勝進出。決勝では、ハンガリーのリュー選手が1位入選も進路妨害を犯したとして失格。中国選手が金を獲得した。
 前者では、どう見ても韓国選手は反則じゃない。普通に追い抜いている。後者は、先に妨害したように見えるのはハンガリーの選手だが、直後の中国選手の行為は明らかな妨害だ。サッカーでは中東の笛が有名だが、ショートトラックは中国の笛か。「大地の歌」じゃあるまいし。

 「たなぼた」といえば、カーリング娘ロコ・ソラーレの今世紀最大のサプライズ。2月17日、予選最後でスイスに完敗。これでオシマイと大泣きしていたら、「準決勝行ける」の報に破顔一笑、再度の大泣き。これは「たなぼた」というより神様のプレゼントかな。翌日の準決勝の相手は完敗したスイス。これを会心のゲームで勝利。決勝戦は平昌で日本が銅メダルを獲った3位決定戦と同じイギリスが相手。イギリスの手堅い試合運びに最後までゲームの主導権を取れずに完敗。イギリスは平昌の雪辱を果たし金、日本惜しくも銀に終わりました。でも、前回を上回る銀メダル獲得は文句なしの天晴れです。
 吉田夕梨花〜鈴木夕湖〜吉田知那美〜藤沢五月のロコ・ソラーレ。信頼という絆で結ばれた強固なチームワークとどんなピンチにも笑顔を絶やさない明るいチームカラーが幸運を呼んだこれは結果でしょう。緻密な計算と並外れたコミュニケーション能力も見事。陰で支えたリザーブの石崎琴美の存在も忘れちゃいけない。彼女は史上最年長(43)のメダリストになった。素晴らしいパフォーマンスを示してくれたロコ・ソラーレに乾杯!

 感動もあったけど欺瞞に満ちた北京冬季五輪でした。ドーピング問題への不透明な対応。垣間見える癒着と見え透いた茶番。興行優先のIOCの姿勢。聖火ランナーで人権問題をカモフラージュする中国。堂々と開会式に臨席する謹慎国家の大統領。極まれるオリンピックの政治利用。それを容認するIOC。習近平・中国〜プーチン・ロシア〜バッハ・IOCのどす黒いトライアングルが見えてくる・・・・・オリンピックは元来、フェアプレイの精神、人権の尊重、世界の平和、これを標榜してきたはず。オリンピックも世界もどうかこの精神を忘れないでいただきたい。そう願うばかりであります。
 2022.01.25 (火)  DIVAマリア・カラスのオペラ歌手人生
          〜ギリシャ、アメリカ、イタリア、そして「ノルマ」
 昨年末、テレビで映画「フィラデルフィア」(1993米)を観た。トム・ハンクス扮する有能な弁護士がエイズに罹患し勤務する大手弁護士事務所を解雇される。これを不当として会社側を提訴し命の火を燃やしながら不正と戦う物語だ。
 物語の終盤、真に感動的なシチュエーションがあった。自宅で、自分の弁護士(デンゼル・ワシントン)と証言の予行演習中にオペラ・アリアをかける。静かな序奏からマリア・カラスの歌声が響き出す。下記はカラスの歌に重なるハンクスの台詞である(「」は歌詞)。

大好きなアリアだ〜マリア・カラス〜アンドレア・シェニエ〜ウンベルト・ジョルダーノ〜マッダレーナの歌だ〜彼女は言う〜フランス革命で暴徒が彼女の家に火をつけ 彼女を救うために母親は死んだ〜「私のゆりかごの家が消えてゆく」〜この苦痛に満ちた声 わかるかい?弦楽器が始まると曲が希望に満ちてくる〜「愛された人にまで悲しみを」〜このチェロのソロ!〜「その苦しみの中で愛が私に訪れた」〜「調和に満ちた声が言う」〜「まだ生きるのよ」・・・
 カラスの歌うアリアは、ジョルダーノ(1867-1948)の歌劇「アンドレア・シェニエ」第3幕の「亡くなった母を」である。貴族の娘マッダレーナが、フランス革命という激動の時代に翻弄されながらも、シェニエとの愛に希望の灯を見出して歌いあげる渾身のアリアだ(管弦楽はセラフィン指揮:フィルハーモニア管弦楽団)。
 エイズによる死が間近に迫っていることを自覚するトム・ハンクスは、愛するシェニエと共に死を選ぶことになるマッダレーナに自らの運命を重ね合わせるかのように、まるで二人芝居のように、心通じ合う空間を作り出すのである。響き合う魂の叫び。映画の中でクラシック音楽が使われる場面は数々あれど、これほどまでに心動かされる場面は滅多にあるものではない。
 トム・ハンクスの迫真の演技。余人をもって代え難いマリア・カラスの絶唱。この二つが高度に化学反応を引き起こしたこれは結果だろう。今回は、このような感動の場面を作り出した一方のアーティスト マリア・カラス(1923-1977)のオペラ歌手としての人生をたどってみよう。

(1)ギリシャとアメリカ

 マリア・カラスは1923年、ギリシャ移民の次女としてアメリカ ニューヨークに生まれた。父は実直な薬剤師、母は上昇志向が強い教育ママ。家庭生活のイニシャティブは母がとっていたようだ。かつて歌手を志していた母は娘にオペラ歌手の夢を託した。最初は長女が標的だったが、後にマリアの才能を知って乗り換える。しかしながら愛情を注いだわけではなく、あくまで自己欲求達成の手段としてだった。存在感の薄い父、折り合いの悪い姉、自我の強い母。家庭はマリアにとって決して安住の地ではなく、音楽への没頭だけが安らぎとなった。才能は徐々に磨きがかかっていく。

 マリアが13歳の時、母は故郷ギリシャでの教育を決断。父を残してギリシャに移住。マリアはアテネ音楽院に入学する。そこで出会った教師が世界的名ソプラノのエルビラ・デ・イダルゴ(1891-1980)。これが幸運だった。イダルゴはマリアの桁違いの才能に惚れ込み並々ならぬ情熱を注いだ。同時にマリアの家庭内での孤独を感じ取り娘のように可愛がった。そんな環境の中、マリアは益々音楽にのめりこみ、才能は一気に開花する。

 1942年18歳、イダルゴの推薦でオペラ・デビューを果たす。演目は「トスカ」。評判は上々だった。時折しも第二次世界大戦中。ギリシャはドイツ=イタリアの全体主義国家の占領下にあった。マリアは乞われるままに占領軍下の演奏会に出演。ところが終戦後、これが災いして劇場追放、奨学金打ち切りの憂き目に合ってしまう。マリアは活路を求めてアメリカに戻った。

 アメリカでの活動はままならない。メトロポリタン歌劇場はじめ受けたオーディションすべてに落選。ギリシャで多少の評判をとったくらいではアメリカでは通用しなかったのである。だがマリアの自信は揺るがなかった。「メトロポリタンはいつか歌ってくれと私に頭を下げるでしょう」。有名な台詞である。

 誕生の地アメリカとルーツとしてのギリシャ。この所縁ある二つの国はこの後二人の人間によりマリアの生涯に更に深くかかわることになる。ギリシャ人オナシスとアメリカ人ジャクリーン・ケネディである。

 ギリシャの海運王アリストテレス・ソクラテス・オナシス(1906-1975)。彼がマリアの前に現れたのは1958年、マリア35歳、オナシス52歳のときだった。もはや世紀の歌姫としての名声をほしいままにしていたマリアだったが、夫メネギーニの背信、大劇場とのトラブル、声の陰りなどが重なり、気分が荒んでいた時期でもあった。そんな中、1959年、オナシスは自ら主催する地中海クルーズにマリア・カラス夫妻を招待する。豪華客船と風光明媚な地中海。そこには、これまで出会ったことのないタイプの活気にあふれ魅力的なオナシスがいる。殊に、二人の共通の地ギリシャでのひとときはマリアの心をこの上なく燃え上がらせた。下船するとマリアは夫との離別を決意する。マスコミは世紀の歌姫と大富豪の恋 と囃し立てる。1960年、オナシス離婚。1966年、マリアはアメリカの市民権を放棄してギリシャ国籍を取得。ここに至ってマリアはもちろん、世間も二人の結婚を信じて疑わなかった。この頃のマリアの手紙が残っている。宛先はオナシス「8年半もの間共に生きてきてわたしは心から言います。あなたのことをとても誇りに思い全身全霊をかけてあなたを愛していますと。そしてあなたもまた私に対して同じ思いでいることを願っています」。
 ところがである。1968年、こともあろうにオナシスはケネディ大統領の未亡人ジャクリーンと結婚してしまうのである。マリアはこの報を新聞で知ったという。一途な女性の気持ちを踏みにじるあるまじき行為。オナシスはマリアとの付き合いの中、一貫して自己のわがままを通している。発声練習中のマリアを「そんなものは不要だ、すぐに出て来い」と呼び出してもいたという。芸術を理解せず、オペラ界の至宝マリア・カラスをわがもの顔で私物化する。世界の海運王だかなんだか知らないが、この野卑で成り上がり者の俗物を決して許すわけにはいかない。

(2)イタリア、そして「ノルマ」

 時は終戦後間もないころに遡る。カラスの名が世界に知れ渡ったのはやはりオペラの本場イタリアだった。アメリカでの活動がままならない中、アレーナ・ディ・ヴェローナの仕事が舞い込んだのだ。1947年8月、演目はポンキェルリの歌劇「ジョコンダ」。指揮はセラフィン。公演はまずまずの成功だった。だが、それ以上に幸運だったのは、指揮者がイタリア・オペラ界の巨匠トゥリオ・セラフィン(1878-1968)だったこと。そして地元の実業家メネギーニと出会ったことだった。カラスの実力を認めたセラフィンは強力な支援者&助言者となり、カラスに惚れ込んだメネギーニはイタリア各地の歌劇場のブッキングに勤しんだ。

 カラスのオペラの公演数を年度別に見ておこう(同一演目同一会場連続公演は1と見做す)。
1946年 0、1947年 2、1948年 11、1949年 11、1950年 17、1951年 20
1952年 18、1953年 18、1954年 14、1955年 11、1956年 10、1957年 8
1958年 10、1959年 5、1960年 2、1961年 2、1962年 2、1963年 0
1964年 3、1965年 4、1973年 1
          (KAWADE夢ムック「マリア・カラス」よりカウント)
 メネギーニと出会ってからの公演数は一目瞭然上昇一途。1951年をピークに1956年まで9年連続2ケタ公演が続く。カラスのメネギーニへの気持は感謝から愛情へと変わってゆく。1949年、二人は結婚。二人の仲は、メネギーニへの不信感が芽生え、オナシスが現れる1958年まで続くことになる。公演数はそれ以降減少の一途を辿る。

 上記期間中の演目数ベスト10は下記のとおり。
  1 ベッリーニ:ノルマ(26)
  2 ヴェルディ:椿姫(20)
  3 プッチーニ:トスカ(13)
  4 ケルビーニ:メディア(12)
  4 ヴェルディ:アイーダ(12)
  6 ドニゼッティ:ランメルモールのルチア(11)
  7 プッチーニ:トゥーランドット(8)
  8 ヴェルディ:トロヴァトーレ(7)
  9 ベッリーニ:清教徒(6)
10 ポンキェルリ:ジョコンダ(4)
 実に多彩な演目である。殊にベッリーニ「ノルマ」、ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」、ケルビーニ「メディア」などはカラスが演じるまで長い間埋もれていた、謂わば、忘れられたオペラだった。カラス以降これらは世界のオペラハウスで頻繁に上演されるようになる。発掘し次世代に新たなレパートリーを遺したカラスの功績は大きい。中でも上演回数第1位の「ノルマ」はカラス最大の十八番として名高いが、また、因縁の演目でもあった。

 1948年11月30日、マリア・カラスはフィレンツェ テアトロ・コムナーレの舞台に立った。指揮はセラフィン。演目はベッリーニの歌劇「ノルマ」。カラスがセラフィンの助言によって挑んだ難役にして勝負演目だった。
 「ノルマ」の舞台は紀元前のガリア地方。ノルマはローマの支配下にあるドルイド教徒に神の信託を告げる尼僧長。だが一方でローマ派遣の地方総督ポリオーネと愛し合い二児を儲けた背徳の身でもある。ノルマはそんな葛藤を秘め祭祀を司るが、最後は気高く火刑台に歩を進める という物語である。
 ベルカントを超える高難度のテクニック。神性と俗性が混在する複雑な性格描写。そんな高度な技量が要求されるヒロインを、カラスは見事に歌い演じ切った。公演はセンセーショナルな成功を収め、カラスの名は一夜にしてイタリア全土、そして世界に知れわたったのである。

 カラスがイタリアの最高峰ミラノ・スカラ座に「ノルマ」を引っ提げて登場したのは1952年1月16日。そのあと4月まで公演は合計9回。圧倒的大成功を収め、カラスは「スカラ座の女王」と呼ばれるようになる。そして、1956年10月29日、カラスはついにニューヨーク メトロポリタン歌劇場の舞台に立った。演目は「ノルマ」。熱狂した観衆は16回ものカーテン・コールでカラスに喝采を贈った。10年前の予言通り、メットはカラスにひれ伏したのである。1952-1956、このあたりがマリア・カラスの絶頂期だったかもしれない。

 1958年1月2日、ローマ歌劇場、演目は「ノルマ」。この日はジョヴァンニ・グロンキ イタリア大統領が臨席する特別な日だった。
 カラスはここ1、2年、声の不調を訴えていた。何度かドクター・ストップがかかることもあったという。この日は特に調子が悪く、なんとか第1幕は歌い切ったが、そこまでが限界だった。
 第1幕のノルマは尼僧長として一族の祭祀を司る役回りで出番はほぼ15分、有名なアリア「清らかな女神よ」が含まれる。第2幕は不実な恋人と恋敵を前に激情をぶつける修羅場となり、約25分出ずっぱりとなる(カラス、セラフィン指揮:ミラノ・スカラ座管1960録音より計測)。素人考えだが第2幕の方がはるかに厳しそうだ。
 カラスはここで打ち切りを申し出た。スタッフは継続を要請するが、カラスは受け入れなかった。誰が来ていようが、歌えないものは歌えない。アーティストとしてはむしろ誠実な判断だったと思う。公演は中止。しかしながらマスコミは容赦なかった。「気まぐれ、わがまま、尊大。大統領を袖にした」と非難を浴びせる。遂には全イタリアの歌劇場からボイコットされてしまうのである。

 この日の「ノルマ」を起点に、カラスのオペラ公演数は、声の衰えとも相まって(オナシスへの傾倒も重なって)急速に減少。翌1959年からは年間一桁に落ち込んでしまう。これらの事実から、全盛期は1948-1958だったことが見えてくる。なんと僅か10年。オペラ歌手として異例の短さだった。
 カラスの成功は「ノルマ」に始まり「ノルマ」で終わったことになる。カラスといえばノルマ。ノルマといえばカラス。「ノルマ」こそ不世出のDIVAマリア・カラスのオペラ人生における究極のレパートリーだったのである。

<参考資料>
KAWADE夢ムック「マリア・カラス」(河出書房新社)
最新名曲解説全集第20巻歌劇V(音楽之友社)
CDベッリーニ作曲:歌劇「ノルマ」全曲(カラス、セラフィン:ミラノ・スカラ座管弦楽団他)
CDマリア・カラス「永遠のディーヴァ」(東芝EMI)
DVD映画「マリア・カラス 最後の恋」(2005伊)
ザ・プロファイラー「マリア・カラス」編(NHK-BSP 2015.12.12放映)
 2021.12.18 (土)  Come Come Everybody からルイ・アームストロングを思う
 現在放映中のNHK朝ドラは「Come Come Everybody」。このタイトル、終戦直後から始まったNHKラジオ「英語講座」のテーマ曲で、童謡「証城寺の狸ばやし」の改訂英語版である。元歌の作詞は野口雨情で作曲は中山晋平。歌謡曲の源流の一曲「船頭小唄」のコンビだ。「証城寺の狸ばやし」の中で「負けるな 負けるな 和尚さんに負けるな」という一節があるが、これ昔からギモンだった。負けるなというからには和尚と戦っていることになる。何を戦うのだろうか? これがやっと最近気が付いた。戦う相手は和尚の叩く木魚だと。だから「おいらの友だちゃポンポコポンノポン」なのだ。和尚の木魚VS狸の腹鼓。さしずめドラム合戦である。まあ、これは無駄話。先を急ごう。

 朝ドラの舞台は太平洋戦争真っ只中の岡山。上白石萌音演ずるヒロインの安子が将来の夫となる学生稔に連れていってもらった喫茶店の名前が「DIPPER MOUTH BLUES」だった。”サッチモ“ ルイ・アームストロング最初期の重要曲のタイトルが店名になっている。彼のナレーション入り3枚組アルバム「音楽自叙伝」の第1曲がこの「Dipper Mouth Blues」で、ここでルイはこんな風に語っている。 
私が音楽を始めたのはニューオリンズ。そこで出会ったのが憧れの師 ”パパ・ジョー“ キング・オリヴァーです。彼こそは私の友であり、師であり、影響力であり、偉大なクリエイターでした。私は彼のバンドでセカンド・コルネットを吹いていました。ファーストはもちろんパパ・ジョー。そのころの代表曲が「Dipper Mouth Blues」。Dipper Mouthはパパ・ジョーが私につけたあだ名です。
 喫茶店 DIPPER MOUTH BLUES で流れてきたのがサッチモの「明るい表通りで On The Sunny Side Of The Street」だった。安子はこれにすっかり魅せられてしまうのである。この曲、サッチモには複数回の録音がある。年代順に列記しておこう。

  @ 1934.11.7 パリ
  A 1937.11.15 ロサンジェルス
  B 1947. 5.17 タウン・ホールNY
  C 1947.11.30 ボストン・シンフォニー・ホール
  D 1956.12.11 ニューヨーク

 BとCがコンサート・ライブ、他はスタジオ録音である。Dは「音楽自叙伝」に収録されているが、ここでのサッチモのナレーションは下記の通りである。
1934年、二度目に渡欧したとき、10月にパリで録音セッションをやりました。その内の1曲が、2面を使った倍の長さのヴァージョンで、「明るい表通りで」です。
 ナレーションとデータが微妙にずれているが、これはさほど気にすることはないだろう。本人が自分の誕生日を1900年7月4日と思い込んでいたが、実は1901年8月4日だった という話もあるのだから。要は、「明るい表通りで」の最初の録音は、パリで現地のミュージシャンと、1934年秋に行われたということだ。

 BとCはどちらもライブ録音だが演奏は対照的。Bタウン・ホールは、速いテンポに乗ったサッチモの躍動感溢れる歌が聞きもの。Cは一転してスローなテンポで情感豊かな歌唱とtpソロを聞かせる。ジャック・ティーガーデン(tb)の洒落っ気たっぷりのオブリガートとメロウなソロも文句なし。どちらも素晴らしい演奏である。この対比、その間わずか半年余。流石のサッチモ、匠の表現力というべきか。
 朝ドラに使われている音は@の1934年パリ録音だ。サウンドは当時流行り始めたスイング・ジャズの香りがする。ヒロインの安子は、「明るい表通りで」のメロディーを口ずさみながら、混沌とした戦後を、明るく力強く生きてゆくことになる。戦死した夫が名付けたわが子 ルイちゃんと手を取り合って〜悩みなんか振り払って まずは歩き出そう 明るい表通りへと・・・・・。

 「明るい表通りで」はサッチモ以外にも夥しい数の録音がある。そんな中で、我がジャズ友、いや、師匠二人のお気に入りは?
  MR. Brownie K:ライオネル・ハンプトン楽団1937.4.26 ニューヨーク録音
  MR. Duke N:デューク・エリントン・オーケストラ1963.2.1 パリ オランピア劇場のライブ録音
 偶然にもジョニー・ホッジスが両方でアルトサックスの妙技を聴かせる。軽妙愉悦の前者、清澄耽美な後者と異なる顔を見せるのも名手の証だろう。

 11月20日、「この素晴らしき世界〜分断と闘ったジャズの聖地」と題するドキュメンタリー番組がNHKで放映された。番組は、ジャズ・クラブの名門「ヴィレッジ・ヴァンガード」がコロナ禍を乗り越えて18ヶ月ぶりに再開したことを告げていた。そしてこの間、パンデミックによって多大な被害を被ったニューヨークでは、憎悪、差別が増大し分断が深まっていった と語られていた。
 グラミー賞トランペッター キーヨン・ハロルドは、黒人ということだけで弟が盗みの嫌疑をかけられ、ニューヨーク在住の日本人ピアニスト海野雅威は中国人と間違えられて暴行を受けたという。
 そんな中、行き場を失ったミュージシャンたちが路上等でよく演奏したのがルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界 What A Wonderful World」だった。いまなぜ「この素晴らしき世界」なのか?

 ルイ・アームストロングの歌う「この素晴らしき世界」の冒頭の旋律は「きらきら星」とそっくり。全編にわたり変化記号は皆無、長音階のみで成り立っている。ブルーノートの欠片もない。実にシンプルで明快なメロディー・ラインである。これにサッチモのしわがれ声が乗る。
緑の木々が萌え 赤いバラが咲く 私と君のために
青い空や白い雲も 昼間は輝く祝福となり 夜は神聖なものとなる
赤ちゃんたちの泣声がきこえ 友人たちは「ごきげんいかが?」と握手する
そんな光景に 私は一人思う なんてすばらしい世界なんだと
 素晴らしき世界とは特別な世界ではなくありふれた日常のことだ。特別はいらない、当たり前があればいい。サッチモはそう歌い祈る。パンデミックの今、当たり前が失われた。だからこそ、サッチモの「この素晴らしき世界」が心に響くのだろう。

 「この素晴らしき世界」がリリースされたのは1967年。アメリカ、混沌の時代である。ベトナム戦争は拡大の一途を辿り、公民権法が成立したとはいえ差別はなくならない。翌年にはキング牧師が暗殺されてしまう。ルイのレコード会社ABCの社長ラリー・ニュートンはこの歌を好まず、そのため宣伝行為は一切行われなかったという。これは、ベトナム戦争に邁進するジョンソン政権への忖度か とも言われた。結果、イギリスでは1位に輝くがアメリカでは不発に終わる。

 1987年、映画「グッド・モーニング、ベトナム」が公開される。ロビン・ウィリアムズ扮するDJエイドリアン・クロンナウアがベトナムに赴き、前線の兵士を独特のトークで慰問する物語だ。
 速射砲のような強烈トークでいきなり兵士の心を鷲掴みにしたクロンナウアだったが、ある日の放送で、軍が発表を禁じたニュースをしゃべってしまう。真実を報道するというジャーナリスト魂のなせる業だったのだが、軍は危険人物とみなして降板させてしまう。わずか5ヶ月の任務。ただ兵士を元気づけたいだけのクロンナウアと規律を優先する軍の対立の虚しい結末だった。
 クロンナウアは最後の放送で「この素晴らしき世界」を選ぶ。早朝のベトナムにサッチモの歌が流れる。スクリーンには、マイクに向かうDJから一転、兵士を乗せた米軍のトラック〜ベトナムの美しい自然〜田園風景〜平和な人々の暮らし〜空爆する米軍の飛行機〜燃える家屋〜泣き叫ぶ子供たち〜軍に追い立てられる民衆〜ゲリラに戸惑う兵士たち等の映像が映し出される。サッチモの歌声をバックに映し出されたこの景色こそがクロンナウアと前線の兵士の胸に共通に浮かんだものだったはずだ。曲が終わって、「ルイ・アームストロング、偉大なサッチモ」とクロンナウアが締める。これが彼の最後の言葉だった。
 この映画がきっかけで、「この素晴らしき世界」はアメリカで蘇生しルイ・アームストロング最大のヒットとなった。初発売から20年後のことである。

 ジャズの世界に刻んだルイ・アームストロングの功績は計り知れないものがある。ほとんどのジャズ・トランペッターに与えた奏法上の影響。ジャズ・ヴォーカルにおけるスキャットの創始と悪声という市民権の確立。ジャズの芸術化と大衆化に寄与した偉大なクリエイターであり稀代のエンターテイナー。まさに“ジャズの王様”と呼ぶにふさわしいアーティストだった。
 1950年代、アメリカはジャズを国の独自の文化として世界にアピールし始めた。それはアメリカが掲げる自由と民主主義標榜のツールでもあった。裏には覇権への野望と差別の意識を潜めつつ。ルイ・アームストロングは、そんな国家の思惑を承知の上で、ジャズ親善大使としての役割を全うした。胸に矛盾と悲哀を秘めながらも、そんなことはおくびにも出さずに、ひたすら明るく力強い音楽を送り出し続けたのである。そして、世界は彼と彼の音楽を愛した。

 最後に、ジャズのもう一人の巨人デューク・エリントンの言葉を引いて締めたいと思う。二人が残した絶品のコラボレーション「ソリチュード」を聴きながら・・・・・。
ルイ・アームストロングはジャズの縮図であったし今後もそうあり続けるだろう。わたしは彼を愛したし尊敬もした。ルイは貧乏に生まれ金持ちになって死んだ。そして一生涯、だれ一人として傷つけなかった。
 本文を書くにあたり、多大なご教示とご協力をいただいた、前出、MR. Brownie K と MR. Duke N 両氏に最大級の謝意を捧げます。

<参考資料>

「ルイ・アームストロング 音楽自叙伝」 3枚組CD
映画「グッド・モーニング、ベトナム」 DVD
A列車で行こう〜デューク・エリントン自伝(晶文社)
Louis Armstrong〜生誕120年 没50年に捧ぐ(冬青社)
 2021.11.11 (木)  MLB、そして大谷翔平について思うこと
(1)MLBポストシーズンが終わって

 11月3日、MLB 2021ワールドシリーズが幕を閉じた。4勝2敗でアストロズを破りチャンピオンの座についたのはアトランタ ブレーブス。26年ぶりの栄冠だった。 戦前のブレーブスの評価は決して高くはなかった。勝率は.547と地区優勝6チーム中の最下位。ちなみに最高勝率はジャイアンツの.660で、勝ち星の差は19もある。ポストシーズンの開幕直前、NHK-BS「ワースポMLB」で行ったワールドシリーズ進出チームの予想も、解説者の黒木知宏氏がア・リーグのホワイト・ソックスとナ・リーグのブルワーズ、ゲストの石橋貴明がア・リーグのアストロズとナ・リーグはジャイアンツ対ドジャース(ワイルドカード)の勝者といった具合。両者ともブレーブスは問題外だった。

 ワールドシリーズはア・リーグの覇者ヒューストン アストロズとナ・リーグの覇者アトランタ ブレーブスの対戦となったわけだが、ゲーム展開も不思議がいっぱいだった。
 第5戦はブレーブスが3勝1敗と王手をかけて本拠地トゥルーイストパークで行われた。初回ブレーブスの攻撃でなんと満塁ホームランが飛び出す。ブレーブス4-0とリード。王手をかけた本拠地での満塁ホームラン。もう勝った!球場がお祭り騒ぎと化したのも無理はない。ところが勝負はわからない。ブレーブス スニッカー監督は、この試合で決めるべく早め早めの手を打つが、鉄壁左腕リリーフ陣の一角ミンターに綻びが出るなど誤算が相次ぎ、9-5とアストロズに逆転勝利を許してしまう。ブレーブス3勝2敗。勝負は第6戦に持ち越された。
 第6戦はアストロズの本拠地ヒューストンのリトルメイドパークに移して行われた。ブレーブスの先発投手は第2戦5失点で敗戦投手となっているフリード。方やアストロズは第3戦、1失点に抑えたガルシア。本拠地で決めきれなかったブレーブスと本拠地に戻れたアストロズ。地の利と勢いそして先発投手の差からアストロズが有利、3勝3敗として第7戦にもつれ込む という筋書きが順当と思われた。しかも、フリードは1回、1塁ベースカバーに入ったとき、打者走者に足をもろに踏まれて負傷してしまう。ところが結果は7対0とブレーブスの圧勝。4勝2敗でワールドシリーズを制した。ことほど左様に勝負というものはわからない。
 個人的には、息子のいた少年野球チームの名前が「越中島ブレーブス」だったものだから、この結果にまずは満足している。

 MLBが終わった今、日本プロ野球はポストシーズンの只中にある。クライマックスシリーズなどと大そうに銘打ってはいるが、この仕組み、なんとも不可解な代物なのだ。レギュラーシーズンが終わりリーグ優勝が決まったあと、1位から3位までの3チームで付け足しの短期決戦を行う。長いシーズンを戦って決着がついているはずのチーム同士が改めて日本シリーズへの出場権を争うのである。3位のチームが、1位のチームと、例えば、10数ゲーム離れていても、リーグ代表〜日本一のチャンスがあるということだ。これはどう考えてもおかしい。日本一とリーグチャンピオンが別という珍現象もこれまで何度も現出している。
 では、なぜこんなおかしな仕組みが存在するのか。理由はただ一つ。経済優先、儲かるからである。クライマックスシリーズは最低10最大18強の試合がある。この収益は大きい。経済のために非公正がまかり通る。何か今の日本の縮図を見るような気もする。

 それに引き換え、MLBのメカニズムは筋が通っている。アメリカンリーグとナショナルリーグの2リーグ制。1つのリーグは東・中・西3地区に各5チームの15チームで構成される。レギュラーシーズン162試合を終えて、地区別に勝率1位のチームが地区優勝チームとなる。+αとしてワイルドカードというシステムがあり、これはリーグ優勝以外のチームで勝率1位と2位が一発勝負で決着をつけ地区シリーズに臨む。地区優勝の勝率1位チームとワイルドカード勝ち上がりチーム、地区優勝の勝率2位と3位のチームが準決勝を行い、勝者同士の決勝戦で勝ったチームがリーグチャンピオンとなる。
 今年のナショナルリーグを例にとる。東地区優勝・勝率3位(.547)のブレーブスと中地区優勝・勝率2位(.586)のブルワーズで一山。西地区優勝・勝率1位(.660)のジャイアンツとワイルドカードで勝ち上がったドジャースで一山。準決勝を勝ち上がったブレーブスとドジャースが決勝を戦い勝ったブレーブスがナショナルリーグのチャンピオンとなった という次第。
 ブレーブスは、アメリカンリーグ・チャンピオン アストロズとワールドシリーズで対決。結果、ブレーブスがアストロズを破りワールドチャンピオンに輝いた というわけである。つまり、この方式ならリーグチャンピオンとワールドチャンピオンが違う などという矛盾は生じない。実に公正な仕組みである。

 ならば、日本はどうあるべきか。ここはMLBに倣うことである。現在はセパ両リーグ各6チーム、計12チームで構成されている。これを、1リーグを4チームずつ2地区 計8チーム、両リーグ16チーム構成に変える。ポストシーズンは、レギュラーシーズンの地区優勝チーム同士がリーグチャンピオンを争い、勝ち上がった両リーグのチャンピオン同士が日本シリーズを戦い日本一を決めるのである。こうすれば 地区シリーズ〜リーグチャンピオンシップ〜日本シリーズの流れがまともになり、リーグチャンピオンと日本一が違うという矛盾も起こらない。
 4チームを増やすのは容易ではないかもしれない。だが、2004年、「たかが選手が・・・・」と球界のドンに毒づかれ1リーグ制移行の危機に晒されながら、楽天の新規参入で乗り越えた日本プロ野球界ではないか。やってできないはずがない。しかも現在、日本には、北海道、東日本、関西、四国、九州に5つの独立リーグがあり、合計25チームが活動している。これを基盤に新たなプロ野球チームを作ればいいのだ。
 例えば、長野にゼンコージマイリーズ、静岡にチャッキリーズ、四国にコンピラフネフネ、鹿児島にセゴドンズなんてどうだろう。これで4チーム。創意工夫、そして情熱があれば、必ずや実現できるはずである。

(2)大谷翔平スーパースター

 MLB 2021年度における大谷翔平の活躍はすさまじかった。投打の二刀流 Two-way Player としてコンスタントにシーズンを全うし素晴らしい成績を残した。
 大谷のこれ以前メジャー3年間の成績はといえば・・・・・2018年は22本塁打-4勝2敗、オフにはトミージョン手術を受ける。2019年は(リハビリをやりながら)打者専門で18本塁打。2020年は二刀流に戻るも7本塁打-0勝1敗であった。年々下降する成績に二刀流は無理 との声も囁かれはじめる。それが一転今年の成績である。これは、手術〜リハビリの成功、食事療法による栄養面の改善、科学的トレーニングによる体力強化、バレルゾーン打法の習得、デジタルツールを使った日々のチェックなどが総合的に機能した結果である。これを成し遂げたのは大谷の絶えざる向上心とひたむきな努力であることはいうまでもない。名将野村克也はかつてこんなことを言っていた「悩み苦しみ工夫した経験は決して無駄にはならない」。昨年から今年にかけての大谷はこのステップを踏んだということになる。まさにどん底からの逆襲だった。
 加えて、忘れてならないのは今季から就任したペリー・ミナシアンGMの存在である。「オフシーズンのショウヘイの努力を見て、前年までのショウヘイ・ルールを撤廃することにした」と語る。ショウヘイ・ルールとは、負担の大きい二刀流を維持するためのルールで、登板の前後は休養日に当てるというものだった。2020年のオフシーズン、大谷は前述の如くトータルなトレーニングを自らに課し実行した。体は一回り大きくなり疲労回復力もアップした。成果は日を追うごとに顕著になってゆく。これを目の当たりにした新GMが大谷の常時出場の可能性を見出した。それでも二刀流の負担は少なからずあるわけで、それを試合ではなく練習量の軽減で補う。この提言に同意したジョー・マドン監督が“新ショウヘイ・ルール”を採用。こうして常時出場を果たした大谷は、2021年シーズン、驚くべき飛躍を遂げたのである。

 ここで2021シーズンの二刀流・大谷翔平の主なスタッツを列記しておこう。

<打者>
 打率.257 安打138 本塁打46 打点100 得点103 盗塁26

<投手>
 9勝2敗 投球回数130 1/3 奪三振156

 打者&投手としてこれだけの成績を残したのはベーブ・ルース(1895-1919)以来といわれている。ベーブ・ルースは1918年に11本塁打-13勝。1919年に29本塁打-9勝という記録を残している。1920年からは打者専門となったため二刀流の成績はこの2年間だけである。1918年には11本ながら本塁打王になっている。今年の大谷に欠けるものがあるとすればこれと2桁勝利に届かなかったことか。だが今後順調にいけばルースの記録を完璧に抜くことは間違いないだろう。

 二刀流大谷の凄いところはもう一つ、走力である。長打力と俊足は本来両立が難しいとされている。MLB史上、シーズン50本塁打-20盗塁を達成したのは僅かに3人。1955年のウィリー・メイズ(51本-24盗塁)、1998年のケン・グリフィーJr.(56本-20盗塁)、2007年のアレックス・ロドリゲス(54本-24盗塁)だけである。だが彼らは打者専門である。二刀流でありながら彼らに比肩する46本-26盗塁を記録した大谷は称賛に値する。

 二刀流ならぬ攻・投・走三刀流の大谷翔平を最も端的に表すスタッツがある。クインティプル100である。5つの部門が100を超える、即ち、138安打、100打点、103得点、130 1/3投球回数、156奪三振。この記録を持つものは、メジャーリーグ118年の歴史でも、大谷翔平ただ一人である。

 10月26日、歴史に冠たる記録を残した2021年の大谷翔平に対して、MLBコミッショナーは「コミッショナー特別表彰」を行った。
 この賞はMLBの歴史を塗り替えた選手に与えられるものだから、毎年あるわけではない。第1回は1998年、それまでのシーズン・ホームラン記録(61本)を超える高次元でホームラン王を競ったマーク・マグワイヤ(70本)とサミー・ソーサ(66本)に与えられた。以来、2632試合連続出場の記録を作ったカル・リプケン(2001)、年間73本のホームラン記録を作ったバリー・ボンズ(2002)、7度のサイ・ヤング賞に輝いたロジャー・クレメンス(2004)、262本の安打を放ち年間最多安打を更新したイチロー(2005)など、歴史を塗り替えた錚々たる選手に与えられている。大谷も栄えあるMLBの歴史に名を連ねたことになる。

 10月28日、大谷はMLBの現役選手たちが選ぶ“Players Choice Awards”の年間最優秀選手とアメリカンリーグ最優秀野手のW受賞を果たした。後者は2004年にイチローが受賞しているが前者は日本人初受賞となる。シーズンを一緒に戦ったMLBの一流選手たちが、大谷を「2021年最も顕著な活躍をした選手」と認めたことになる。そんな大リーガーたちの賛辞を並べておこう。

 「こんなピッチングとバッティングは誰も見たことがない」
                〜サイ・ヤング賞3度受賞の名投手 マックス・シャーザー
 「リトルリーグで全力プレイする12歳の少年がそのまま大人になったようだ」
                〜ジャイアンツの名捕手 バスター・ポージー
 「凄い才能と優れた人格の持ち主 必ずメジャーを代表する選手になる」
                〜大谷と最後まで本塁打王を争った ブラディミール・ゲレーロJr.
 「一番好きなのは謙虚な姿勢 2塁ベースにくると必ず挨拶してくれるのもうれしい」
                〜アストロズの小さな大打者ホセ・アルトゥーベ
 「大谷のプレイは歴史的瞬間ばかりだ」
                〜通算310本塁打の現役最強打者 マイク・トラウト

 技術や成績だけではなく、ゲレーロJrやアルトゥーベが称賛する謙虚さと人格も大谷の際立つ魅力の一つだ。グラウンド上のゴミを拾う、打者が折ったバットを拾って渡す、審判のチェックに笑顔で応じる、ファンがグラウンドに落としたサングラスを丁寧に投げ返す、死球を受けても怒らない等々。日本的礼儀正しさの極致。それをさりげなくやってのけるスマートさ。日本人として誇らしい限りである。

 11月18日には、MLB2021年度MVPが発表される。ここまでの流れから大谷の受賞はほぼ間違いないだろう。選考委員のひとり全米記者協会記者ボーランド氏はこう証言する。「大谷に投票したよ。選考は簡単だった。ライバルと目されるゲレーロJr.も確かに立派な成績を残したが、これは想定できうる数字。投打にまたがる大谷の数字はまさに前代未聞。異次元の世界だ。オールスターゲームでも、タティースJr.やゲレーロJrらのスター選手が大谷に会って話をしたがっていた。サインをねだり一緒に写真を撮る者もいた。選手の間でも大谷は憧れの的なんだ。なんといっても、指名打者と投手での出場という84年の歴史あるオールスターゲームのルールを変えさせてしまうのだから半端な話じゃない。これ一つだけでも十分MVPに値するよ」。発表を楽しみに待ちたいと思う。

 もはやスーパースターを超えたといってもいい大谷だが、彼の言葉を聞くと更なる期待に胸が膨らんでくる。シーズン終了直後、大谷はこんな言葉を口にした。
 「今年できたことが来年出来ないということはなくしたい。自分にとってもチームにとっても。今年の数字は最低ラインと考えたい」。彼は自分自身に今年以上の数字を課しているのだ。

 今季大谷の一番印象に残ったコメントがある。9月26日、勝てば10勝、2桁勝利となる最終登板を、7回10奪三振1失点の好投ながら打線の援護なく勝利できなかったあとの会見でのものである。
エンゼルスのファンも球団自体の雰囲気も好きだ。ただそれ以上に勝ちたいという気持ちが強い。プレイヤーとしてはその方が正しいと思うし僕は僕で個人としてどうチームに貢献できるかを考えてやりたい。今年は叶わなかったが、もっともっと楽しいヒリヒリするような9月を過ごしたい。クラブハウスの中もそんな会話であふれるような9月になることを願っている。
 この発言から、「大谷は移籍を望んでいる」などとの憶測も出た。だがそれは浅読みである。大谷は常に、個人としてどうチームに貢献できるかを考えている。最優先はチームの勝利だ。「ゲームに勝ててよかった」のコメントを何度耳にしたことだろう。
 確かにもっと強いチームに移ればこの日のような試合をものにできたかもしれない。でも大谷はエンゼルスというチームが好きなのだ。他のチームでやるという考えは今の大谷にはないと思う。このチームでヒリヒリするような9月を過ごしワールドシリーズに向かう。それが大谷の最大の望みなのである。自分の成績よりも。

 2020年に就任したマドン監督、2021年に就任したミナシアンGMによるエンゼルスのチーム改革はスタートを切ったばかりだ。特にミナシアンGMは不振だったアトランタ ブレーブスを再建、ワールドシリーズ制覇の道を切り拓いた立役者だ。彼にはエンゼルスの弱点がはっきりと見えているはずだ。第一手として、駒の足りない先発投手陣と弱体リリーフ陣に対して、補強を含め着実な整備を図ってくるだろう。負傷により今シーズンを棒に振った強打者トラウトも来期は復帰して大谷の後ろを打つことになるはずだ。そうなれば、大谷のホームラン数も勝ち星もさらに増える環境が整う。これはチームの勝利に直結する。そうすればポストシーズン進出の可能性が出てくる。ワールドシリーズ制覇への道も開けるというものだ。これは私の想像だが、ミナシアン=マドンのエンゼルス首脳ラインは、大谷を中心軸としたチーム作りを目指しているのではないか と思う。
 来シーズン、新生エンゼルスの躍進とさらなる進化を遂げた大谷の活躍を、大いに期待したいものである。

 そしていつの日か、大谷翔平には打撃三冠王とサイ・ヤング賞のW取得を達成してもらいたいと思うのである。これぞ空前絶後、野球選手の見果てぬ夢だろう。でも彼ならやってくれるかもしれない。そんな期待を抱かせてくれる存在が大谷翔平なのである。
 2021.10.20 (水)  秋に寂しきもの
 マーラーに「大地の歌」という交響曲がある。交響曲に声楽を入れたのはベートーヴェンの「第九」が初めてだが、それから87年後に完成した「大地の歌」は全6楽章すべて声楽入りという異色の作品である。そしてまたその構成が実に興味深い。

 実は最近、不眠症というほどのものではないが、睡眠が不安定である。11時に床に入り、寝つきはよいが、4時半頃に決まって目が覚める。問題はそこからで、そのあとまったく眠れなくなるのである。そこでどうするかといえば、一人悶々(笑)あれやこれや記憶を呼び覚ます作業を始める・・・・・戦後歴代総理大臣38名。同じく、アメリカ大統領14名。ロシアの指導者12名。中国の首席6名。五輪開催地32ケ所、MLB地区別チーム30。1950〜70年代のレコード大賞受賞曲21曲。飛鳥時代の天皇(敏達から聖武)16人。徳川将軍15人。真田十勇士、維新十傑。ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」の10曲。スメタナの組曲「わが祖国」6曲等々。そして、「大地の歌」の6曲である。
 世の中には世界遺産1154個、はなはだしきは円周率11万桁なんていう化け物のような人もいるようだが、それはそれ、興味ある事柄の我が暗記力の限界30個あたりがちょうどいい。

 さて、「大地の歌」Das Lied von der Erdeである。副題は「アルト、テノール独唱と大オーケストラのための交響曲」。構成は下記の通り。

  第1楽章 大地の哀愁を歌う酒の歌
  第2楽章 秋に寂しきもの 
  第3楽章 青春について
  第4楽章 美について
  第5楽章 春に酔えるもの
  第6楽章 告別

 これらをまずは丸暗記する。それを反復する。最初のうちは頭に入っているがそのうち忘れる。それをその都度照合し再度頭に刻み込む。これを繰り返しているうちに、何とか記憶が固定してくる。不眠中の確認作業は記憶固定の貴重な時間となる。そしてある時、おや、この並びには法則性があるのでは、と気づいたりする。

 第1楽章と第6楽章。第2楽章と第5楽章。第3楽章と第4楽章。合計数字が7。サイコロの対面同士の数字が対置の関係にある、と気づく。奇数曲がテノール、偶数曲がアルト(メッゾ・ソプラノ)だから一対は男声と女声の対置にもなる。

 1と6のキイ・ワードは「大地」erde。第1楽章にerdeはタイトル上にあり、第6楽章には詩の中にある。その他の楽章にはerdeという語は一切出てこない。第2楽章と第5楽章は「秋」と「春」、季節同士だ。第3楽章と第4楽章は「青春」と「美」で、これは若さの象徴の対置だ。
 これらの対置はバッハや芭蕉にもある。マーラーはきっと意図して並べたに違いない、と確信する。歴史上の人物と心が通じたような気分になる。これが楽しい。最近やり取りしたある人が「そんなの意味がない」と仰ったので、こういう方と付き合っていても意味がないと思い交流を絶った。

 「大地の歌」の詩は、李白、銭起、孟浩然、王維の漢詩が元である。テキストは、ジュディット・ゴーティエが仏語訳した「玉書」などを介して、独語訳したハンス・ベートゲの「中国の笛」である。マーラーが少し手を加えている。西洋音楽と東洋の詩の融合。作曲家であって指揮者。西洋と東洋の中間に位置するチェコの生まれ。子供のころから心に抱き続けてきた生と死の問題=死生観。ユダヤ人でありながら改宗してのキリスト教徒。これらの二律背反性がマーラーの精神の根源にあるわけだから、漢詩の選択はマーラーの必然だった といっていい。

 そして今、季節にちなんで第2楽章「秋に寂しきもの」(詩:銭起)を聴く。

  秋霞は蒼く湖上に湧き立ち 霜なべて草花を覆う
  孤独に閉ざされた頬を涙が濡らし 心の秋は果てしなく拡がってゆく

 歌はクリスタ・ルートヴィヒのメッゾ・ソプラノ、管弦楽はクレンペラー指揮のフィルハーモニアorニュー・フィルハーモニア管弦楽団である。オケ名が二つクレジットされているのは録音の最中(1964-1969)に名称が変わったからだろう。「秋に寂しきもの」がどっちなのかは不明だが、実体は同じなのだからどちらでもいいか。

 ルートヴィヒの格調高くして哀愁を湛えた歌唱はマーラーの世界観にシンクロして文句なし。奇数曲を歌うテノール、フリッツ・ヴンダーリヒの美声と輝くばかりの表現はこれまた詩の本質と合致して他の追随を許さない。絶え間なく移り変わる知情の起伏を、悠揚たるテンポの下、精緻に的確に表現するクレンペラーの指揮も見事というほかはない。まさに三位一体、余人に代えがたい名演である。

 NHKは毎年秋、テーマを持って音楽番組を送り出す。今年のテーマはピアノだそうだ。でも私は、「秋の日のヴィオロンの・・・・・」ではないけれど、秋はやはりヴァイオリンを聴きたい。なぜなら、ピアノは夏に聴きすぎてしまうからだ。夏場は清涼感あるピアノが断然いい。逆にヴァイオリンは聴く気が起こらない。あの擦音は猛暑にはきつい。だから、秋になると気分は一気にヴァイオリンに傾く。夏はピアノ、秋はヴァイオリンだ。

 去る9月26日、従妹の真理子から「今夜NHK-FMで尾高惇忠のヴァイオリン協奏曲の放送があるから聞いてみて」と電話があった。尾高氏の奥様綾子さんが真理子の夫君の従姉という関係で連絡が来たというわけだ。
 折角なので録音しようと思い、準備に取り掛かる。エアチェックは、2015年9月4日、マタチッチ&N響の「モンテヴェルディ:聖母マリアの夕べの祈り」以来だからかれこれ6年前になる。もう録り方を忘れている。トリセツを引っ張り出してあれこれ奮闘。ミニコンポにMDをセットし終えたのは放送開始直前、滑り込みセーフだった。日本の現代音楽にはとても疎い私であるが、本番からMD→CDへのダビングなど何度か聞いているうちに、とても親しみを覚えてきた。

 尾高惇忠の「ヴァイオリン協奏曲」は2020年5月30日に完成を見るも、惇忠氏は今年2月に逝去。享年76歳。この作品が遺作である。
 3つの楽章からなるが、第1楽章にはひたむきに何かに向かう情熱が、第2楽章には静謐な安らぎが、第3楽章には混沌を打ち破る確かな意志が、其々、黒光りする佇まいの中に息づいている。
 演奏は、ヴァイオリンが米元響子、指揮は作曲者の弟子・広上淳一。2021年6月25日に行われた京都市交響楽団 第657回定期演奏会のライブ録音。これが世界初演だそうだ。

 惇忠氏の父は尾高尚忠(1911-51)で戦後日本のオーケストラ活動を牽引。作曲家としても活躍した。旅から旅への過酷な音楽活動で体を壊し、1951年に他界。享年39歳という若さだった。そのとき長男惇忠は6歳、現在指揮者として活躍中の次男忠明は3歳だった。遺作となった「フルート協奏曲」は、ヨーロッパの様式の中に和の精神が巧みに織り込まれ、漲る生気が新時代の鼓動を感じさせる名曲である。父子の協奏曲の名作が互いの遺作となったのも不思議な符合である。

 録音した「ヴァイオリン協奏曲」のCD-Rは惇忠氏の奥様綾子さんにお送りした。「録音ができなかったので本当に嬉しゅうございます」とのお返事と共に、メゾ・ソプラノ歌手として夫君惇忠氏のピアノ伴奏で録音したCD「尾高惇忠 歌曲の世界」(2010年録音、ナミ・レコード)が送られてきた。ジャケットには歌い手の綾子氏と作曲者でピアノの惇忠氏のツーショット写真が使われている。ジャケットを見つつCDを聴くと、ご夫妻の素敵な関係が覗われ羨ましくも心温まる思いがする。

 尾高惇忠はパリ国立音楽院で研鑽を積んでいる。師事したのはモールス・デュリュフレ(1902-86)。同じ時期には加古隆が師事したオリビエ・メシアン(1908-92)がいた。惇忠氏がメシアンではなくデュリュフレを選んだのはむべなるかなと思う。加古隆のNHK「映像の世界」のテーマから覗われる劇性と惇忠作品の清澄さの対比がそう感じさせる。
 デュリュフレは直接フォーレから教えを受けてはいないが、互いの「レクイエム」の相似性から共感の意識はあったはずである。惇忠作品の清澄さはデュリュフレを通してフォーレに繋がっていると感じる。

 CDに聴く尾高惇忠の歌曲には、洗練されたフランス的リリシズム、上質な美感、節度ある劇性、芯に宿る優しさと熱さ、さらには日本のテイストがバランスよく調和している。そしてこれは尾高生来の格調高く誠実な音楽性と合致するものだろう。尾高綾子の歌唱力もみごとなものだ。中でも「秋の日」「たままゆ」「再會」の歌唱には詩への共感がひときわ強く感じられる。
 余談だが、現在放映中のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で田辺誠一扮する尾高惇忠は作曲家尾高惇忠の曽祖父である。

 コロナが一旦収束したかに見える今秋は昨年よりはるかに気分がいい。友達の輪も徐々に復活しつつある。先日は久々に会った友人からクレンペラーのCD集をいただいた。「OTTO KLEMPER conducts CONCERTGEBOUW ORCHESTRA」と題するクレンペラー指揮:コンセルトヘボウ管弦楽団1947-1961のコンサート・ライブ24枚組という膨大なコレクションである。何を隠そう、私はクレンペラーの大ファンである。手始めに1947録音のブルックナーの第4交響曲を聴いてみる。ライブの熱気がヒシヒシと伝わってくる。スタジオ録音とはまったく違うクレンペラーのもう一つの顔を見るようだ。最新マスタリングによるSACDハイブリットの音もいい。これからクレンペラー芸術の深遠な森に踏み入ることになる。まさにワクワク感全開。秋に寂しきならぬ秋に楽しきもの である。深謝!
 2021.09.25 (水)  拝啓 茅田俊一先生〜岡村 晃(1964年入学・Tp)
 前回、茅田俊一先生の意見書を掲載しましたが、今回はこれに対する私の所感を述べさせていただきます。

 「一響」No.21に「モーツァルト レクイエム ニ短調 KV626〜その補筆部分をめぐって」が掲載されました。これはNo.20に私が書いた「モーツァルト レクイエム におけるジュスマイヤー最大のミスを是正する」に対するご意見書でした。著者は茅田俊一(1954年入学、Va)とあります。どこかで聞いたお名前だな と思いめぐらすと、はたと気づきました。なんと、「フリーメイスンとモーツァルト」(講談社現代新書)の著者の方ではありませんか。茅田氏が同じ一橋大学の卒業生であることはその本のプロフィールから存じ上げておりましたが、この度オーケストラの先輩でもあることを知り、新たな感激の思いに駆られております。そして、私の率直な気持ちから、これから茅田先生と呼ばせていただきたく存じます。とにかく、「フリーメイスンとモーツァルト」は私にとってたいへんに意義深い書なのであります。

 私が「フリーメイスンとモーツァルト」を読んだのは2013年の1月頃で、この本からは様々なことを教わりました。曰く、モーツァルト作品の中には、メイスンリーのシンボリズムがわかりやすく現れていること。例えば、弦楽四重奏曲 ニ短調 K421(ハイドン・セット第2番)終楽章における第1ヴァイオリンによる戸を3回叩くリズム。ソナタ 変ロ長調K454終楽章の隣り合う音がスラーで繋がる友愛の形。弦楽四重奏曲 ハ長調 K465(ハイドン・セット第6番)「不協和音」第1楽章において、不協和の序奏が主部に流れ込んだあと、メイスンリーの光の象徴であるハ長調に転じること、等々。これらの説明を読んだあと改めて楽曲を聴くと、メイスンリーに加入前後のモーツァルトの心境が以前よりはるかにくっきりと胸に迫ってきます。
 さらにまた、茅田先生はこう述べられています。「モーツァルトの音楽は自己の状況や気持ち、あるいは外界の事態や現象を直接意味したり描写したりするものではない。しかしながら、モーツァルトの音楽が特定の感情をわかりやすく表現することにおいて際立っていることは事実である。そうでなければ、モーツァルトのオペラが今日でもこれほど支持されることもなかったであろう」。モーツァルトの音楽の特質を突く説得力ある見解です。

 それにもまして、私が印象に残ったのは、この本の「あとがき」でした。それは、「日本人のモーツァルト好きはよく言われているし、日本人による書物も数多い。今回、私もその末席をけがすことができて、いささかの感慨を覚える。が、ひるがえって、モーツァルト自身は果たして日本や日本人を知っていたかどうかとなると、これは心許ない」という書き出しで始まっていました。

 実は私、その当時、一つの仮説を立てておりました。それは「モーツァルトの歌劇『魔笛』の主人公タミーノは高山右近ではなかろうか」というものです。「魔笛」の台本の冒頭に“日本の狩衣を着たとある国の王子が大蛇に追われて・・・・・”とあります。なぜ日本の狩衣なのだろうか。モーツァルトは日本のことを知っていたのだろうか?と素朴な疑問が湧きました。日本の音楽愛好家にとって興味深いはずのテーマが、これまでほとんど論じられてこなかったことも不思議に感じたものです。

 あれこれ調べた結果、ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)に高山右近を主人公にした「キリスト者の忠誠」という宗教劇があることを知りました。そして、この日本上演を実現した京都在住のドイツ人音楽家の方とコンタクトがとれ、その上演映像を提供していただきました。その方によりますと、この上演はおそらくザルツブルグで初演されて以来のものだろう とのことなので大変貴重な記録です。
 ミヒャエル・ハイドンとモーツァルト一家が親しかったことは存じておりましたので、モーツァルトがこの宗教劇を通して高山右近を知っていた可能性がある と推測しました。しかし、証拠がありません。そんなとき、出会ったのが茅田先生の「フリーメイスンとモーツァルト」だったのです。

 「あとがき」はこう続きます・・・・・ミヒャエル・ハイドンの宗教劇「キリスト者の忠誠」のコーラス「カンターテ・ドミノ」が、そのままモーツァルトのオラトリオ「救われたベトゥーリア」K118=74cにほぼ同じ形で転用されている。「キリスト者の忠誠」は1770年8月30日、ザルツブルクで初演されたが、このときモーツァルトは、第1次イタリア旅行の途中で、ザルツブルクにはいなかった。「救われたベトゥーリア」は約1年後の1771年夏、モーツァルトがザルツブルクで書いたものである。モーツァルトがこのような借用をしているということは、「キリスト者の忠誠」の再演を見たか、ミヒャエル・ハイドンの楽譜を見てこれを書き写したことを意味している。実は「キリスト者の忠誠」は日本のキリシタン大名高山右近を主人公にした宗教劇である。当時15歳のモーツァルトがこの劇の舞台と主人公の日本人を意識したと推測してもよいのではないだろうか。

 これを読んで私は、「やった」と快哉を叫びました。この記述こそ、モーツァルトが高山右近を認知していたことの証拠ではありませんか。おかげさまで自説「タミーノは高山右近」の解明が進み一つの結論を出すことができました。無論想像上の推論ではありますが・・・・・。

 このように、私の中では、「フリーメイスンとモーツァルト」はかけがえのない書であり、著者茅田俊一先生は敬愛すべき音楽学者です。「一響」に書いた拙論がそんな先生の目に留まったことは望外の喜びというほかはありません。そして、ここからは、先生のご意見に対し私の所感を述べさせていただきたいと存じます。

(1)茅田先生のご指摘

 拙論「モーツァルト『レクイエム』におけるジュスマイヤー最大のミスを是正する」で、私は、おおよそ以下のように記しました。
「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」における二つの「ホザンナ」は同一調性でなければならない。ジュスマイヤーはこのミサ曲の「決め事」を外してしまった。これを是正したのが「レヴィン版」であり、この弱点を補正したのが「岡村版」である。 「ジュスマイヤー版」では「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」がニ長調と変ロ長調。「レヴィン版」ではニ長調とニ長調で同一。「岡村版」は変ホ長調と変ホ長調で同一というもの。「ジュスマイヤー版」はミサ曲の決め事を外しているので是正が必要。「レヴィン版」は♯系から♭系への転調なので無理が生じている。「岡村版」は♭系同士なのでスムーズ。
 これについて茅田先生は「18世紀の教会音楽において、“2つのホザンナは同一調性で書かねばならない”というのは演奏者の便宜上好ましかったからで、決して決め事ではない」として、いくつかの実例を提示されました。その内の一つはこう記されています。
エーベルリーン(1703-63)の「レクイエム」第6番とガッティ(1743-1827)の「レクイエム」ハ長調では、2つの「ホザンナ」は異なる調性、異なる曲で書かれている。
 そして、先生はこう結論されました。
議論の前提条件が不確かである以上、その前提条件故にミサ通常文の1つ「サンクトゥス」の調性を書き換えるということは、如何にも行き過ぎの様に思えます。ジュスマイヤーは、当時の作曲家がしていた通りのことをしただけであり、2つの「ホザンナ」を同一調性にすることを目的に、その「サンクトゥス」の調性を変える必要はない様に思います。
 このように、茅田先生は私がミサ曲の「決め事」とした事柄には例外がある と指摘されました。二つの「ホザンナ」の同一調性はミサ曲の「決め事」ではなかったのです。

(2)「決め事」の訂正とレヴィン版の是非について

 私は拙論を書くにあたり、可能な限り多くの「ミサ曲」を検証したつもりでした・・・・・ギョーム・デュファイ「パドヴァの聖アントニウスのためのミサ曲」、シャルパンティエ「真夜中のミサ曲」、ビーバー「レクイエム」、J.S.バッハ「ミサ曲ロ短調」、ヨーゼフ・ハイドン「ネルソン・ミサ」、モーツァルト「ミサ・ソレムニス」K139(孤児院ミサ)、「戴冠式ミサ」K317、ベートーヴェン「荘厳ミサ曲」、シューベルト「ミサ曲第6番」、ブリテン「戦争レクイエム」 等々。これらはすべて、ホザンナは同一調性・同一曲でした。作曲年代は14世紀〜20世紀にわたります。これらのことから、ホザンナの同一調性はミサ曲の「決め事」と判断したわけです。

 しかるに先生のご指摘で例外の存在が判明したわけで、これは「決め事」とは言い難い。ただし、音楽史上かなりの長きにわたってほとんどのミサ曲がそうであったわけですから、これを「通常形」と言い換えることは許されるのではないかと考えます。次に私が参考にした「レヴィン版」の検証に入らせていただきます。

 1995年、ロバート・レヴィン(1947-)は彼の版によるモーツァルト「レクイエム」のCD(チャールズ・マッケラス指揮)のライナーノーツで以下のように記しています。
ジュスマイヤーは変ロ長調の「ベネディクトゥス」のあとに、この「ホザンナ」をオリジナルのニ長調ではなく変ロ長調のまま繰り返してしまった。このことは当時のすべての教会音楽に矛盾するものである。・・・・・中略・・・・・「ベネディクトゥス」では後半部分を少々改訂した。すなわち、オリジナルのニ長調の「ホザンナ」フガートの短い反復へつなげるために新たに経過句を作って結んだ。
 レヴィンは、ジュスマイヤーの「ベネディクトゥス」における補筆作業について、当時のすべての教会音楽に矛盾する(in conflict with all church music of the time)という言い方をしています。これはレヴィンが茅田先生ご指摘の内容を知らなかったということでしょう。
 レヴィン版はモーツァルト「レクイエム」の2つのホザンナの調性に初めてメスを入れた版です。私は、ジュスマイヤー版を“2つのホザンナを同一調性にする”という教会音楽の「通常形」に是正したレヴィン版を大いに評価するものです。

(3)レヴィン版を是正する

 レヴィン版は確かに教会音楽の通常形に是正しましたが、これは果たしてモーツァルトのやり方なのだろうか、と考えました。
 世の中には、「モーツァルトのやり方など、本人でなければ分かるはずはないのであるから、考えること自体に意味はない」とする向きもあるようですが、私はそうは思いません。これを想像し究明する努力は決して無駄なことではないと考えます。

 そこで、私は、モーツァルトの(「レクイエム」以外の)ミサ曲における「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」の調性の関係を調べました。

 ミサ・ソレムニスK139「孤児院ミサ」 「サンクトゥス」ハ長調、「ベネディクトゥス」ヘ長調
 ミサ・ブレヴィスKI40 ト長調、ハ長調
 三位一体のミサ曲KI67 ハ長調、ヘ長調
 クレド・ミサK257 ハ長調、ヘ長調
 戴冠式ミサ曲K317 ハ長調、ハ長調

 これらほとんどが下属調の関係。“転調がスムーズにできる”関係 といえます。少なくともジュスマイヤー版=レヴィン版のような♯系(ニ長調)と♭系(変ロ長調)という関係ではありません。そこで私が思いついたのは、「サンクトゥス」変ホ長調、「ベネディクトゥス」変ロ調という設定にすることでした。これならば、双方が♭系で、転調の際は♭一個の±で済み、転調がスムーズになされます。レヴィン版のように、経過句を付加する必要もありません。
 これをもってモーツァルトは「絶対こうしたはずだ」などと断言は出来ません。あくまで想像の世界です。ですが、ジュスマイヤーの設定した調性よりはモーツァルトの意思に近いのではないか と考えました。

 「一響」No.21の拙論における表現は下記のようなものでした。
「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」は調性含め全く同一でなければならない。これは「ミサ曲」の決め事であり古今東西唯一の例外も存在しない。

「岡村版」はジュスマイヤーの設定そのものをモーツァルトならではの方法に置き換えた。これぞコロンブスの卵。これこそがモーツァルトの意思に最も近い「レクイエム」の形といえないだろうか。
 これらは、今読み返してみると、ずいぶん前のめりにすぎる表現です。そこには、自己の方法論は絶対的に正しい、とする不遜な気持ちがありありとうかがえます。さらには未だ何一つオーソライズされてないエディションを「岡村版」など自称する奢りがあります。これはまずい、もっと謙虚にならなくては・・・・・。そんな自戒の念を喚起してくださったのは茅田先生の警告でした。曰く、「『サンクトゥス』の調性を書き換えるということは、如何にも行き過ぎの様に思えます」。

 私は拙論を再検証することにいたしました。「サンクトゥス」を変ホ長調に設定するのは本当にモーツァルトのやり方なのだろうかと。
 そのためには、「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」ではなく、「楽曲」と「サンクトゥス」の調性の関係を知る必要があります。煩雑さを避けるため、モーツァルトの「短調のミサ曲」に絞って検証を行いました。私の知る限りモーツァルトの短調のミサ曲は2曲でした。
ミサ・ソレムニス ハ短調 K139 「孤児院ミサ」
          ・・・・・「楽曲」はハ短調、「サンクトゥス」はハ長調
ミサ曲 ハ短調 K427・・・・・「楽曲」はハ短調、「サンクトゥス」はハ長調
 モーツァルトは、両曲ともにハ短調でハ長調、いわゆる同主調の関係を選んでいます。このことから、無論断言はできませんが、モーツァルトが短調のミサ曲において「サンクトゥス」の調性を設定する際には、同主調を選ぶ可能性が高い と考えてもよさそうです。この形は、残念ながら、拙論のニ短調と変ホ長調という関係ではありません。ここで、ジュスマイヤー版を鑑みれば、ニ短調とニ長調、同主調の関係。なんと、モーツァルトのやり方に準拠しています。なんのことはない、積み重ねた研究が振出しに戻ってしまいました。

 それではこれを踏まえて、「サンクトゥス」をニ長調に固定します。次は「ベネディクトゥス」です。ジュスマイヤーはこれを変ロ長調に設定しました。レヴィンもこれを踏襲しました。しからばモーツァルトはどうでしょうか。これは前掲のとおり、ほぼすべてが下属調への転換となっています。ハ長調ならばヘ長調、ニ長調ならばト長調です。したがって、モーツァルトなら、ニ長調の「サンクトゥス」に対してト長調の「ベネディクトゥス」を設定する と考えることに無理はないと思います。とここで、私はハタと気づきました。この設定は私の研究の初期段階で考えたものだったことを。

(3)モーツァルト「レクイエム」の真正な形を求めて

 モーツァルト「レクイエム」の真正な形とは何か? すなわち、「サンクトゥス」+「ホザンナ」、「ベネディクトゥス」+「ホザンナ」の調性はどうあるべきか。この探求は、いつしか私の大きな研究課題となりました。そして、その経緯は私のWeb-Site「クラシック未知との遭遇」に書いてまいりました。以下、「モーツァルト『レクイエム』における調性解明」の変遷をこれに沿って時系列的に記させていただきます。

「クラシック未知との遭遇」2013年10月15日
 「サンクトゥス」ニ長調〜「ホザンナ」ニ長調
 「ベネディクトゥス」ト長調〜「ホザンナ」ニ長調

「クラシック未知との遭遇」2019年6月25日
 「サンクトゥス」変ホ長調〜「ホザンナ」変ホ長調
 「ベネディクトゥス」変ロ長調〜「ホザンナ」変ホ長調
 or
 「サンクトゥス」変ホ長調〜「ホザンナ」変ロ長調
 「ベネディクトゥス」変ロ長調〜「ホザンナ」変ロ長調

2020年8月発行「一響」No.20
 「サンクトゥス」変ホ長調〜「ホザンナ」変ホ長調
 「ベネディクトゥス」変ロ長調〜「ホザンナ」変ホ長調

 このような変遷を経て、「一響」No.20の形にたどり着いたというわけです。「一響」に掲載をお願いしたのは、これこそが究極の形と勇んだためでした。今回、茅田先生のご指摘から再検証を試みた結果、「サンクトゥス」の調性設定(変ホ長調)に問題があることを認識しました。ならばと、最初の形に戻すと、♭系の楽曲に♯系が混在してしまう。なかなかに厄介な代物です。
 モーツァルト「レクイエム」真正の形の探求は険しい道のりです。モーツァルトはこれに関して何一つ自身の意向を直接的に残してはいないのですから、探求は状況証拠を積み重ねるしかありません。まさにこれは「答えのない質問」といっていいのでしょう。だからこそ楽しいともいえるのですが・・・
・・。この探求の過程で、音楽仲間の友人、先輩諸氏から数々のご意見をいただきました。反応は、賛同、不可解、無関心等様々でした。

 そんな中で、茅田先生から頂戴したご意見は格別に貴重なものでした。温かく戒めてくださいました。だから素直に受け取ることができました。自らの未熟さと研究不足を思い知ることができました。なので、これは反論ではなく自戒の論です。
 今後も、モーツァルト「レクイエム」のみならず、様々な音楽についての研究を深めてゆくつもりです。そして、なによりも、音楽を心から楽しんでゆきたいと思っております。

   2021年 秋
                                       岡村 晃

 2021.08.25 (水)  モーツァルト「レクイエム」ニ短調KV626〜その補筆部分をめぐって
          茅田俊一 1954年入学 Va (一響No.21掲載)
 これは一橋大学管弦楽団の会報誌「一響」No.21に掲載された投稿文です。No.20に掲載された拙文「モーツァルト『レクイエム』におけるジュスマイヤー最大のミスを是正する」に対するご意見書です。

            =================

 本誌昨年号(20号)に、岡村晃さんのモーツァルトのレクイエムに関するご投稿が掲載されました。小生は長年モーツァルトとその周辺の音楽に親しんできた身です。当然大きな興味を持って読ませていただきました。岡村さんの投稿の内容は専門的なご提案で、ご労作です。内容が専門的なので、僭越ながら、小生がご提案をどう受け止めているかを、多少説明的に書いてみます。皆様のご参考の一助になれば幸いです。

 岡村さんは、モーツァルトのレクイエム未完成部分を補作したジュスマイヤーに作曲上に問題があったこと、更にそれを20世紀後半に補作したロバート
・レヴィンの補作内容にも問題があることを指摘されて、独自の新しい補作案を提示されています。

 そもそもモーツァルトのレクイエムに限らず、大作曲家の作品の誤りを修正するという問題は、昔から論争になりがちな性格をはらんでいます。日本でも、20世紀後半にモーツァルトの作品の誤りをめぐって相当激しい論争があり、痛み分けになっています。此の種の論争は、所詮決着が着かない問題なのです。従って、小生は、今回そういう根源の問題からはいったん離れて、論旨を岡村さんのご主張、ご提案に絞って卑見を書くことにします。

1) ジュスマイヤー版、レヴィン版の何が問題で、岡村さんのご提案とはなにか?

 モーツァルトのレクイエムが未完のまま残されたので、主に弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤー(1766-1803)が補筆、完成させました。これをジュスマイヤー版と呼びます。
 ジュスマイヤー版については、昔からモーツァルトの真筆部分との差を気にして、これを修正しようという動きがありました。20世紀後半にアメリカのピアニスト、作曲家、音楽学者のロバート・レヴィンが、独自の補作修正案を提唱しました。これをレヴィン版と呼びます。

 今回岡村さんが、ジュスマイヤー版を修正したレヴィン版にも、いまだ問題が残ると指摘された点は1つに限りませんが、一番重要だと指摘されたのは、レクイエムの第11曲「サンクトゥス」と第12曲「ベネディクトゥス」とそれに続く「ホザンナ」の間の調性関係です。

 ジュスマイヤー版では次の対になっています。

  ・「サンクトゥス」:ニ長調、「ホザンナ」:ニ長調
  ・「ベネディクトゥス」:変ロ長調、「ホザンナ」:変ロ長調

 岡村さんは、ミサ曲(レクイエムも含まれます)では『2つの「ホザンナ」は調性含め全く同一でなければならない』、『これがミサ曲の決め事=伝統である』、と指摘され、ジュスマイヤー版で2つのホザンナが異なる調性を採っているのは『宗教音楽上例のない奇形』であり、『ジュスマイヤーはやってはならないミスを犯す』、と主張されています。

 レヴィン版は次の様になっています。

  ・「サンクトゥス」:ニ長調、「ホザンナ」:ニ長調
  ・「ベネディクトゥス」:変ロ長調、「ホザンナ」ニ長調

 こうして、2つの「ホザンナ」は同一調性に統一されましたが、岡村さんは、レヴィン版が「ベネディクトゥス」変ロ長調と続く「ホザンナ」の間に、経過句を挟むという無理をしなければならなかった点に着目され、新しい提案をなされています。
 岡村さんのご提案は、そもそも「サンクトゥス」を♯系のニ長調に設定したところに問題があり、これを♭系の変ホ長調に変えると、「ベネディクトゥス」変ロ長調から「ホザンナ」変ホ長調への転調は無理がなくなり、スムーズに2つの「ホザンナ」の同一調性化が実現できる、しかも「サンクトゥス」変ホ長調と「ベネディクトゥス」変ロ長調の間に族長関係(完全5度の関係で近親調関係の1つです)が出来るという利点を生むことにもなる、と主張されています。岡村さんのご提案では次の様になります。

  ・「サンクトゥス」:変ホ長調、「ホザンナ」:変ホ長調
  ・「ベネディクトゥス」:変ロ長調、「ホザンナ」:変ホ長調

2) 2つの「ホザンナ」が同一調性にならなければならないとは、どういう意味か?

 先述しましたが、小生は長年モーツァルトや周辺の音楽に親しんできました。しかし、ミサ曲で2つの「ホザンナ」が同一調性でなければならないということが、岡村さんが主張されるほど、絶対的な決め事=伝統であるという認識は持っていません。

 なぜ、そのようなことが流布したのでしょうか。小生は、それは2つの理由があると考えています。

 ミサ曲では「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」は、通常性格の違う音楽として作曲され、演奏されます。しかしながら、ミサの通常文では2つは大きくくくった「サンクトゥス」章の中で、「サンクトゥス」+「ホザンナ」と「ベネディクトゥス」+「ホザンナ」が書かれ、歌われているのです。従って、同じ調性を持つ「ホザンナ」に関しては、特別な理由がない限り、同じ曲を書くのが最も自然だということになります。なおミサの通常文とはすべてのミサに共通する5つの章(キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ)を指します。

 18世紀の教会音楽では、他の器楽合奏曲も同じですが、その時1回限りの演奏というのが普通であったため、練習時間は極めて限られており、初見で演奏しなければならないことが多々ありました。そのため、同じ「ホザンナ」の詞には、同じ音楽を書くのが演奏者の便宜上好ましかったのです。音楽が異なっても、調性が同じなら、それだけ演奏者にもありがたかったと思われます。(モーツァルトの交響曲第39番 変ホ長調 第1楽章の序奏と主部の下降音階の類似性は、このような配慮の結果だったと思われます。このことは、小生はクリストファー・ホグウッドの講習会で聞きました。)

 こうして、いつの間にか、2つの「ホザンナ」は同一調性で書かねばならない、ということが一種の決め事の様に受け取られるようになったと考えられます。ロバート・レヴィンは、それを「18世紀教会音楽の通常の慣習」と解釈して受け入れて、先述のような補作を行ったものでしょう。

 しかしながら、音楽上の規則や伝統は、私たちの日常生活を取り巻いている法律や条例の規則とは違います。そこには作曲家や演奏家が、もっと自由に解釈して振舞える余地があるという側面があるように思われます。小生は、2つの「ホザンナ」が同一調性でなければならないという決め事、伝統、習慣(とどう表現しても構いませんが)は、本当にそうなのかと実例で確かめることにしました。

3) 18世紀、2つの「ホザンナ」は本当に同じ調性で書かれていたか?

 小生は、18世紀モーツァルトが若い頃、教会で聴き、そして参考にもしたザルツブルクの音楽家たちが、この問題をどう取り扱っていたかについて、特にレクイエムに絞って調べてみました(小生は、ザルツブルクの「ヨハン・ミヒャエル・ハイドン協会」の創設時からの会員なので、此種の情報を入手出来たのです)。音楽家たちは、下記の3名です。

・エーベルリーン、ヨハン・エルンスト(1703-63):1749年ザルツブルク大聖堂楽長。モーツァルト一家とは親しく、父レーオポルトの教師。モーツァルトは、エーベルリーンの楽譜を書き写すなどの学習をしています。
・ガッティ、ルイージ(1743-1827):1787年ザルツブルク大聖堂楽長。モーツァルトとは折り合いの悪かった大司教ヒエローニュムス・フォン・コロレート伯爵の下で楽長を務めました。
・ヒーヒテーラー、ジーギスムント(1670-1743):1690年ザルツブルク大聖堂楽長。18世紀初頭ザルツブルク宗教音楽を代表する音楽家でした。

 3人のレクイエムから拾い上げて、2つの「ホザンナ」をどう書いたかをまとめると、次の通りです。

・2つの「ホザンナ」を同一調性で、且つ同じ曲を書いているもの:エーベルリーンのレクイエム2番、同3番
・2つの「ホザンナ」は同一調性ながら、異なった曲を書いているもの:エーベルリーンのレクイエム5番、ガッティのレクイエム イ長調(1794年)
・2つの「ホザンナ」を異なった調性で、且つ異なる曲を書いているもの:エーベルリーンのレクイエム6番、ガッティのレクイエム ハ長調(1803年)
・2つの「ホザンナ」を全く書いていないもの:ビーヒテーラーのレクイエム

 これで明らかな様に、18世紀ザルツブルクでは、作曲家は必ずしも2つの「ホザンナ」を同一調性で書いていません。作曲家は時と事情に応じて、色々書き分けており、それが受け容れられていたと思われます。岡村さんが主張された決め事=伝統は、必ずしも決め事や伝統ではなかったのです。

 この様に、議論の前提条件が不確かである以上、その前提条件故に、ミサ通常文の1つ「サンクトゥス」の調性を書き換えるということは如何にも行き過ぎの様に思えます。ジュスマイヤーは、当時の作曲家がしていた通りのことをしただけです。小生は、2つの「ホザンナ」を同一調性にすることを目的に、その「サンクトゥス」の調性を変える必要はない様に思います。

4) 岡村さんへのお礼とお詫び

 最後に、岡村さんへのお礼とお詫びを書かせてください。

 今回、小生は「一響」誌上では初めてと思いますが、モーツァルトについて考えさせられるご投稿に接しました。岡村さんの知識、情熱、エネルギーから生み出されたご労作に触発されて、拙稿を書くことになりました。岡村さんが提起された問題は、音楽学の分野の問題ともいえます。問題提起をされた岡村さんに、熱くお礼を申し上げます。有難うございました。

 後輩にあたる岡村さんのご主張を、先輩として支持できればよかったのですが、それができませんでした。先述の通り音楽学に類する問題提起なので、感情的な受け止め方は許されないからです。岡村さんのご主張には添い得ない卑見を書かざるを得なかったことをお詫びします。どうかお許しください。

 若し、モーツァルトについてご質問なり、ご要望があれば、どうぞ仰ってください。お役に立てるかもしれません。

 2021.07.20 (火)  モーツァルト「レクイエム」におけるジュスマイヤー最大のミスを是正する
          岡村 晃 1964年入学 Tp(一響NO.20掲載)
 モーツァルトの「レクイエム ニ短調 K626」は私の最愛の楽曲の一つである。親しい知人の永遠の別れの際には必ず聴く。そんな特別な機会でなくても常日頃よく聴く楽曲でもある。要するに好きなのだ。なぜだろう? と考える。動と静、濁と清、穢と美、恐と安。相反する人間の感情がこれほどまでに混在し調和する曲はない。心が震え、揺さぶられ、そして安らぐ。音楽の多様さと本質がそこにある。
 モーツァルトは、1791年12月5日、帰らぬ人となった。未完の「レクイエム」を遺して。未完であるから、完成には他人の手を要する。ジュスマイヤーの手によって一応の完成を見るまでには、コンスタンツェが当初アイブラーに依頼する等、若干の紆余曲折があった。完成後も、多種多様な論争が飛び交ってきた。唯一無二の天才が遺した未完の作品だからして、普通の才能がどう頑張っても真性たる完成形には届くはずもない。とはいえ、そこに近づける努力はしたいと思う。基本姿勢は「モーツァルトならどうしたか」の一点である。

(1) ジュスマイヤーが犯した最大の欠陥

 「レクイエム」において、「モーツァルトは『ラクリモサ』の8小節までを書いて息を引き取った」というよく知られた定説があるが、近年の研究では「聖なる生贄」末尾の指示Quam olim da capoが絶筆ではないか、との指摘が出てきたりしている。が、それはさておき、モーツァルトが遺した形は以下のようなものだった。完全な形で残されたのは、第1曲「入祭唱」のみ。第2曲「キリエ」はほぼ完成。第3曲「怒りの日」−第10曲「聖なる生贄」は部分完成。第11曲「サンクトゥス」−第14曲(終曲)「聖体拝領唱」は空白、というものである。
 因みに「レクイエム」全体の構成は以下の通りである。

1 入祭唱 Introitus 2 キリエ Kyrie 3 怒りの日 Dies Irae 4 妙なるラッパ Tuba Mirum 5 みいつの大王 Rex Tremendae 6 レコルダーレ Recordare 7 呪われし者 Confutatis 8 涙の日 Lacrimosa 9 主イエスよ Domine,Jesu 10 聖なる生贄 Hostias 11 サンクトゥス Sanctus 12 ベネディクトゥス Benedictus 13 神の子羊 Agnus Dei 14 聖体拝領唱 Communio

 これらを補筆完成したのはモーツァルトの弟子のフランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー(1766−1803)であった。モーツァルトは死の間際までジュスマイヤーに「レクイエム」補筆の手順を教授していた。ジュスマイヤーの手紙が遺されている。
モーツァルト自身の生存中に「入祭文」「キリエ」「怒りの日」「主イエスよ」などを、一緒に演奏したり歌ったりしました。また、この曲の仕上げについて彼がしばしば私に話したことや、オーケストレーションの方法等について私に教えてくれたことは衆知の事実です。私はこの曲を聴く専門的な人たちに、彼の教示の跡がこの中にあることをときどき発見してもらえるように書ければ成功だと思ってやりました。「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」と「神の子羊」はまったく新しく私が作曲しました。
 これはジュスマイヤーが、ライプツィヒの大手出版社ブライトコップ・ウント・ヘルテル宛てに書いた手紙の一部である。だから中に、自分を売り込むための誇張が混在しているのは事実である。なので、これを私なりに検証・補正してモーツァルトの指示を整理してみる。

 第1曲「入祭唱」は完成品につきそのまま。第2曲は若干の指示のみ。第3曲―第10曲はオーケストレーションと楽曲構成上の指示。第11曲―第13曲は既存楽曲からの転用を指示。具体的には、第11曲「サンクトゥス」は「ミサ・ソレムニス ハ短調」K139(通称「孤児院ミサ」)、第12曲「ベネディクトゥス」は「バルバラ・プロイヤーのための練習帖」K453b、第13曲「神の子羊」は「ミサ曲ハ長調 雀のミサ」K220の「グローリア」、である(これらは各々を聴き比べると明白にわかる)。第14曲「聖体拝領唱」は、第1曲「入祭唱」の途中から第2曲「キリエ」までの繰り返しを指示。

 上記から、モーツァルトは、ジュスマイヤーに(新たな曲作りをしなくて済むような)かなり詳細な指示を与えていたことが見て取れる。ジュスマイヤーはモーツァルトの指示に従いなんとか完成にこぎつけた。この努力があったからこそ名曲「レクイエム」は世に出たのである。そんなジュスマイヤーの功績はいくら称賛してもしきれるものではない。しかしながら、彼は絶対にしてはならないミスを犯してしまう。それは第11曲「サンクトゥス」と第12曲「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」の調性を同じにしなかったことである。

(2) ジュスマイヤーがミスを犯した経緯を推理する

 前章に記したように、ジュスマイヤーは「サンクトゥス」を作るにあたり、「ミサ・ソレムニス ハ短調K139」を基にしたと思われる。「ミサ・ソレムニス」はハ短調、「サンクトゥス」はハ長調。同主調の関係にある。ジュスマイヤーはこの部分も踏襲する。即ちニ短調の「レクイエム」に対して「サンクトゥス」をニ長調に設定した。次は「ベネディクトゥス」である。これも「ミサ・ソレムニス」に倣い、一旦は下属調のト長調に設定した(と思う)。ところがこれでは音程が下がり過ぎて、声楽特に男声部がきつくなる。そこで、機械的に短3度上げ、変ロ長調に設定し直した。これで音域的な解決は適った。が、彼はやってはならないミスを犯す。「ホザンナ」の調性同一の原則を外してしまったのである。かくして、ここに、「サンクトゥス」ニ長調―「ホザンナ」ニ長調、「ベネディクトゥス」変ロ長調―「ホザンナ」変ロ長調という宗教音楽上例のない奇形が生じてしまったのである。
 モーツァルトは、前章の通り、かなり詳細な指示を与えていたと思われる。にもかかわらず、なぜこんな肝腎なことを指示しなかったのだろうか? それはおそらく、音楽家たるものかくなる基本は当然備えていて然るべきと考えていたからだろう。天才の常識は凡庸な弟子の常識ではなかった。

(3) ミサ曲における「ホザンナ」の形

 「ホザンナ」はイエス・キリストのエルサレム入城の際、群集が発した歓呼の声“Hosanna in excelsis”(いと高き天にホザンナ)のことである。ミサ曲において、「ホザンナ」は、「サンクトゥス」Sanctus(聖なるかな)と「ベネディクトゥス」Benedictus(祝せられたまえ)両曲の末尾に付属する。二つの「ホザンナ」は調性含め全く同一でなければならない・・・・・これが「ミサ曲」の決め事=伝統であり、古今東西唯一つの例外も存在しない(モーツァルト「レクイエム」ジュスマイヤー版を除いては)。
 J.S.バッハ「ミサ曲 ロ短調」、ハイドン「ネルソン・ミサ」、ミヒャエル・ハイドン「レクイエム ハ短調」、モーツァルト「戴冠式ミサ」K317、モーツァルト「ミサ曲 ハ短調」K427、ベートーヴェン「荘厳ミサ曲」、シューベルト「ミサ曲 第6番」など、「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」は対を成し、各々に付属する「ホザンナ」は調性含め全く同一である。後々、例えばフォーレの「レクイエム」のように、「ベネディクトゥス」の省略など、変則的な形式のものも出てくるが、「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」が対を成す楽曲においては全てこの決め事が当てはまる。これは近代の作品、ブリテンの「戦争レクイエム」においても然りである。

(4) ジュスマイヤー版に対する改訂作業

 ジュスマイヤー版に対しては今日まで幾多の改訂作業がなされてきた。主なものを挙げておこう。

<バイヤー版>
ミュンヘン音楽大学ビオラ科の主任教授フランツ・バイヤーが1971年に行った。オーケストレーションに関する非モーツァルト的(と彼が考える)部分の改訂である。ジュスマイヤー版に比して、響きの透明感が増しているように感じる。

<ランドン版>
高名な音楽学者H.C.ロビンズ・ランドンが1989年に編纂した。1「入祭唱」はモーツァルト、2「キリエ」はモーツァルトとフライシュテットラーとジュスマイヤー。3「怒りの日」から7「呪われし者」はアイブラー、8「涙の日」から14終曲まではジュスマイヤーという寄せ集めスタイルである。

<モーンダー版>
イギリスの音楽学者リチャード・モーンダーが、非モーツァルト的部分の徹底削除を意図して1983年に作られた。ジュスマイヤーが作ったとされる「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」がカットされ、「ラクリモサ」の後にアーメン・フーガが置かれる。特異にして大胆な版である。

<レヴィン版>
上記3版はオーケストレーションの是正等を重点に行われたものだが、この「レヴィン版」は初めて、ジュスマイヤーが犯した最大のミスを是正した画期的なエディションである。次章でこれを手短に検証する(他には、鈴木優人版、ドルース版等があるが、ここでは敢えて触れる必要はないだろう)。

(5) レヴィン版の特徴と問題点

 ロバート・D.レヴィン(1947−)は、アメリカのピアニスト、作曲家、音楽学者。1987年、ヘルムート・リリングが主宰する国際バッハ・アカデミーから依頼を受けて改訂。1991年に完成を見た。

 「レヴィン版」の特徴は数々あるが、重要なものは2つ。最重要は、「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」を同一の調性にそろえたこと。もう一つは「アーメン・フーガ」を加えたことである。ここで、いよいよ本論の核心に近づくのであるが、その前に「アーメン・フーガ」における筆者の見解を述べておこう。

 1962年、16小節のフーガのスケッチがベルリン国立図書館で発見された。これはモーツァルトの真筆であり、同じ五線紙に「レクイエム」第5曲「みいつの大王」の断章が書かれていたため、第8曲「ラクリモサ」の末尾を飾るフーガの主題と判定された。モーンダーもレヴィンもこれを活用した。だが、「ラクリモサ」をフーガで締めくくるという宗教音楽上の決め事=伝統はない。確かにこれはモーツァルトの真筆であるからして、一旦はこの形を取ろうと意図したのは間違いないだろう。だが果たしてモーツァルトは、最後までこの考えを持ち続けただろうか。ジュスマイヤーは2小節の「アーメン」で曲を閉じた。これがモーツァルトの指示ではないと断言はできない、と私は考える。なぜなら、このあと、第9曲「主イエズスよ」と第10曲「聖なる生贄」の各々にそこそこ長めのフーガが置かれていることから、ここでフーガを排除するという選択肢は、楽曲バランス上、ありうると思うからである。ジュスマイヤーが為した「ラクリモサ」エンディングの措置は(気が変わった)モーツァルトの最終的な指示だったとしてもおかしくはないのである。

 では本論に戻ろう。レヴィン版は、変ロ長調の「ベネディクトゥス」に新たな経過句を加えて、オリジナルであるニ長調の「ホザンナ」につなげた。これにより、200年もの間放置されてきたジュスマイヤー版最大のミスが是正される形となった。
 だが、この措置は、変ロ長調(♭2つ)からニ長調(♯2つ)への転調であることから、円滑ならざる手順を余儀なくされ、結果、既存4小節の経過句に新たに3小節を加えざるを得なかった。
 確かに「レヴィン版」のお陰でモーツァルトの「レクイエム」は教会音楽の伝統に適ったものになった。だがしかし、この形はモーツァルトが思い描いた姿だっただろうか。モーツァルトが生きていたら果たしてこうしただろうか? 岡村版はこれに解答を与えるものである。

(6) モーツァルト「レクイエム」岡村版の提唱

 第2章で記した通り、ジュスマイヤーが「サンクトゥス」を同主調に設定したのは確かに「ミサ・ソレムニス ハ短調K139」に倣ったものだっただろう。ただし「ミサ・ソレムニス」のケースは、ハ短調の曲にハ長調の「サンクトゥス」の設定であるからして、♭系に対する無調号の設定である。ところが「レクイエム」でジュスマイヤーが行ったニ短調に対するニ長調は、♭系に対する♯系の設定となる。これはホザンナの調性を同一化するには厄介であり、このような事例はモーツァルトの宗教曲には例がない。私は、そもそもこの設定が間違いだったのではないか、と考えた。ならばどうするか。

 「サンクトゥス」の調性を変ホ長調(♭3個)に設定する。「ホザンナ」は同じ調性のまま締める。「ベネディクトゥス」はジュスマイヤー版のまま変ロ長調(♭2個)とし、「ホザンナ」を変ホ長調に戻す。
 「レヴィン版」はジュスマイヤーが設定した調性をそのままにして是正した。そのため円滑さを欠く手順を余儀なくされたが、岡村版はジュスマイヤーの設定そのものをモーツァルトに準拠する形に置き換えた。問題の「ベネディクトゥス」主部から「ホザンナ」への転調は♭一つを加えるだけで済む。これにより、教会音楽の決め事である「ホザンナ」の調性同一がスムーズに実現する。実にシンプル。まさにコロンブスの卵ではなかろうか。さらには、♭系の楽曲に♯系が混ざる非モーツァルト的構成が払拭され、「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」の調性が属調関係となるなど、付随効果も生じた。

楽譜改訂作業は以下の通りである。

@ 基本ジュスマイヤー版を使用。「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」のみ変更する。
A 「サンクトゥス」を「ホザンナ」含めニ長調から変ホ長調に移調する。
B 「ベネディクトゥス」を、ジュスマイヤー版のまま、主部を変ロ長調で始め、既存経過句の4小節目内の末尾2拍にブリッジを作成し、変ホ長調の「ホザンナ」に繋げる。
(ベーレンライター社「新モーツァルト全集」を例に取れば、「Y BENEDICTUS」の53小節目が既成経過句の4小節目に相当する)。

 たったこれだけの作業である。音程的には、ジュスマイヤー版の「サンクトゥスはニ長調、岡村版は変ホ長調なので差異は半音だけ。「ベネディクトゥス」主部はジュスマイヤー版と同一。音域的にも全く問題はない。

< エピローグ>

 モーツァルト「レクイエム」ジュスマイヤー版が完成を見た1793年以降、何人のモーツァルティアンがいて、何人がこれを試みたのかは知らないが、その最大の誤りが適切に是正されないまま、長い年月が流れている。レヴィン版は、宗教音楽の伝統に適う形にはなったが、モーツァルトの意思からは遠いものだった。
 「岡村版」は、“モーツァルトならこうしたはずだ”との観点から是正を果たした。これはおそらく、かつて誰も気づかなかった方法だろうと思う。そして、これこそがモーツァルトの意思に最も近い「レクイエム」の形ではないだろうか。
 拙論は、「一響」同人では最初に伊藤徳三君(1965年入学・Vc)が興味を示してくれた。次に彼が内田紘三郎先輩(1962年入学・Ob)に案内して称賛をいただいた、と聞いた。残念ながら内田先輩はこのあと間もなく亡くなられてしまったが・・・・・。この真正「レクイエム」が「一響」発信にて全世界に波及したらどんなに素晴らしいことだろう、と思う。世のモーツァルト「レクイエム」の演奏が一日も早くこうなることを、切に願うものである。

<参考資料>

モーツァルト「レクイエム ニ短調」K626原典 直筆版 アイブラー補筆版 ジュスマイヤー補完版
モーツァルト「レクイエム ニ短調」K626 ジュスマイヤー版楽譜(ベーレンライター社刊)
モーツァルト「レクイエム ニ短調」K626 レヴィン版楽譜
                     (シュトゥットガルト・モーツァルト出版刊)
「最新名曲解説全集」第22巻 声楽曲U(音楽之友社)

モーツァルト「レクイエム ニ短調」K626 CD
  [ジュスマイヤー版] カール・リヒター指揮:ミュンヘン・バッハ管弦楽団
  [バイヤー版] シュミット=ガーデン指揮:コレギウム・アウレウム管弦楽団
  [ランドン版] ヴァイル指揮:ターフェルムジーク・バロック管弦楽団
  [モーンダー版] ホグウッド指揮:エンシェント室内管弦楽団
  [レヴィン版] マッケラス指揮:スコットランド室内管弦楽団

モーツァルト「ミサ・ソレムニス ハ短調 孤児院ミサ」K139 CD
  クレオベリー指揮:ケンブリッジ・キングズカレッジ聖歌隊
モーツァルト「雀のミサ」K220 CD
  クーベリック指揮:バイエルン放響

「モーツァルト最後の年」H.C.ロビンズ・ランドン著 海老澤敏訳(中央公論新社)
「モーツァルト」メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
「モーツァルトの手紙」高橋英郎編(小学館)
「帝王から音楽マフィアまで」石井宏著(学研M文庫)
「素顔のモーツァルト」石井宏著(中公文庫)

 2021.06.20 (日)  阪神タイガースの背番号「完全数」と「4の階乗」のお話
(1)完全数28の背番号 江夏豊の場合

 6月8日、何気なくテレビのチャンネルを回していたら、プロ野球交流戦の阪神タイガースと日本ハムファイターズの試合をやっていた。最近は野球中継をとんと見ることのない私だが、解説が江夏豊だったのでついつい見入ってしまった。
 阪神はここまで交流戦5勝7敗で7位。開幕からの快進撃にブレーキがかかっている。落とせば3連敗の大事なこのゲーム、接戦の末3−2で勝利した。試合終了後、今日のゲームのポイントとなった一球を選定する「江夏の一球」が披露される。江夏はこれを「阪神1点リードの5回裏日ハムの攻撃、1アウト1塁2塁、西勇輝がフルカウントから高浜に投じたストライクからボールに外れるスライダー」とした。高浜はこれを空振り三振。西はチャンスの芽を摘んで阪神の勝利につなげた。接戦だったからこの他にもポイントは数々あったのだが、「ボール球を振らせる」場面を選んだのはいかにも江夏らしい。これこそが江夏投法の極意だからだ。

 この試合を機に息を吹き返した阪神は、交流戦の最終盤を6連勝と勝ち進み、11勝7敗の2位フィニッシュを決めた。セリーグ・ペナントレースでも貯金20、2位巨人に7ゲーム差をつけ独走態勢を作った。2アウトランナーなしから再三得点する粘り強く切れ目のない打線、クローザー スアレスの抜群の安定感等を考えると、他チームとの差は歴然で、今年のセリーグは阪神優勝の可能性が著しく高い。思い起こせば前回の東京オリンピック1964も阪神のリーグ優勝だった。今年もし阪神が優勝することになれば、普段ほとんど野球中継など見ない私が、そのキッカケの一つとなるだろう大事なゲームを偶然江夏の解説で堪能できたことになり、これは幸運というべきである。

 江夏豊について思い起こされるのは小説(映画)「博士の愛した数式」である。記憶が80分しかもたない数学者である博士は江夏の大ファン。過去の記憶はある時期で止まっているから、江夏の背番号は28のままだ。博士はこう言う「江夏の背番号28は完全数だ。全ての約数の和がその数字と等しくなる貴重な数だ。最小の完全数は6。28の次は496。次は8128。次は33550336、次は8589869056、次は・・・・・。数が大きくなるほど見つけるのが難しくなる。今日まで30しか見つかってない希少な数なんだ」。
 江夏は1966年、ドラフト第1位で阪神タイガースに入団。背番号は、提示された候補(1,13,28)の中から28を選ぶのだが、これが完全数とは知る由もなかったという。後に江夏が遺す類まれな実績は完全数28に導かれたものだったかもしれない。「博士の愛した数式」は、数の不思議、数式の美しさ、数学の魅力等を教えてくれた私にとって貴重な読み物であることは確かだ。

 阪神タイガースの背番号28 江夏豊は、1968年9月17日の巨人戦で、とんでもないことを考えていた。この試合で、稲尾和久の持つシーズン奪三振記録353(1961年)を更新する354個目を生涯のライバル王貞治から奪おう というのである。ところが353個目を王で獲ってしまったから大変だ。王の次打席までの8人を三振なしで料理しなければならない。これを江夏は持ち前のコントロールで打たせて取るピッチングに徹し誰からも三振を取ることなく王を打席に迎える。そして思惑通り王から354個目を奪ったのである。このゲームで江夏が一番緊張したのは、王から三振を取った時ではなく、相手のピッチャー高橋一三の打席で2ストライクと追い込んでしまった場面、三振させないように投じた一球だった というからいかにも江夏らしい人を食った話だ。超一流の技術あればこその遊び心である。
 この年の江夏の奪三振数は401個を数えた。これはプロ野球記録として未だ破られておらず、かつMLBの記録(ノーラン・ライアン1973年の383個)をも上回るとてつもない数字である。直近20年間の最多奪三振数は2011年ダルビッシュ有の276だから江夏の記録には遠く及ばない。おそらく今後、ほぼ永久に破られることのないだろう不滅の大記録である。

 次なる伝説は1971年7月17日、オールスター・ゲームで起きた9連続奪三振である。オールスター・ゲームでは、投手は最大3イニングしか投げられない不文律がある。だから3回打者9人連続三振は永久に超えられることのない記録となる。江夏はこれに挑み見事に成し遂げた。今日現在この記録に並んだ者はいない。最も近づいたのは1984年の江川卓だった。連続8奪三振を達成しあと一人で江夏と並ぶところまでこぎつける。しかし大石大二郎にセカンドゴロを打たれて未達に終わった。しかしこれには後日談がある。江川は江夏の9連続を“超える”ことを考えていたというのだ。9人目の打者を振り逃げ三振で生かして次の打者を三振で打ち取れば10連続三振となるというのである。だから大石には三振が取れてしまう直球ではなくキャッチャーが後逸するようなワンバウンドのカーブを選んだというのである。結果、それが若干甘く入りゴロを打たれてしまったというわけだ。こんな江川も江夏に匹敵する遊び心の持ち主である。

 その後、江夏は通算150勝を達成するも、首脳陣との確執、血行障害、心臓疾患などによる成績の下降などから、1976年南海ホークスにトレードされる。背番号は17に変わった。江夏は当初頑なに移籍を拒んでいたが、南海の選手兼監督・野村克也との会談で考えを変えたという。野村は挨拶代わりにこう言った「去年の広島戦(1975年10月1日)な、満塁2ストライク3ボールで、衣笠にボール球を振らせて打ち取ったやろ。あれは意図して放ったんやろ」。これを聞いた江夏は「この人はわかっている。この人の下ならやってもいい」と即座に南海入りを決断したそうだ。
 1977年ペナントレースの途中で、野村は体力的に長いイニングを投げられなくなっている江夏に「野球界に革命を起こそうじゃないか」とリリーフ投手への転向を勧告。江夏はこれを了承した。江夏はその年19セーブをマークして最優秀救援投手に輝く。選手の適性を見抜く野村の見事なマネジメントだった。現在、日本のプロ野球では当たり前になっている投手の分業制は野村&江夏の連携から生まれたのである。江夏は野村を「野球に関する見識は球界一」、野村は江夏を「自分が知る一番の頭脳を持つ最高の速球投手」と互いを賛辞する。さらに江夏は野村を「自分の野球人生の後ろ半分を導いてくれた最大の恩人の一人」と感謝する。
 ところがこの年、野村は、サッチー野村沙知代騒動で南海を解任されてしまう。江夏は「野村のいない南海でやる意味はない」として広島東洋カープに移籍する。それにしても、あの球界隋一の頭脳・野村克也がなぜあのような女性を生涯の伴侶に乗り換えたのか?男女の仲は不可解とはいえ、これは永久の謎である。

 広島東洋カープでの背番号は26。そしてあの「江夏の21球」が生まれるのである。1979年11月4日、大阪球場、天候小雨、古葉竹識率いる広島東洋カープVS西本幸雄率いる近鉄バファローズの日本シリーズ第7戦。双方3勝3敗、どちらが勝っても、チームも監督も初優勝 という大一番だった。野村克也はこの試合を「野球の本質が詰まった空前絶後のゲーム」と述懐している。
 4-3と広島が1点リードして9回裏近鉄の攻撃を迎える。マウンドには7回からリリーフした抑えの切り札江夏豊。ところが江夏の読み違いやキャッチャー水沼の送球ミスなどが絡みノー・アウト満塁のピンチとなった。迎える打者は江夏と相性がいい代打佐々木恭介。ここで監督の古葉が動く。同点延長も想定して2人のピッチャーをブルペンに走らせた。これを見た江夏は「俺を信頼できないのか」と憤り顔色が変わる。「ヤバイ!」、野手にもベンチにも不穏な緊張感が走る・・・・・これを救ったのは親友衣笠祥雄だった。衣笠はマウンドに駆け寄りこう言った「ブルペンはブルペンでいいじゃないか。お前が辞めるなら俺も辞めてやるよ。いらんこと考えんといつもどおり集中して投げろ」。監督としての古葉の措置も妥当だしプライド高い江夏の気持ちも理解できる。偉いのは場の空気を察知して即動いた衣笠である。この言葉に気を取り直した江夏は佐々木を空振り三振に打ち取る。決め球は江夏の極意ストライクからボールに外れるカーブだった。

 1アウト満塁、打者は1番石渡茂。いよいよ伝説のシーンである。第1球カーブを見送り1ストライク。江夏はこれを見て「打つ気なし、ここはスクイズ」と直感したという。一方、石渡はストレート一本に絞っていたから当然見送った、と言う。西本監督は後年「ファースト・ストライクから行け」とも「スクイズもあるからサインに注意」とも言っている。後日談というものは、記憶に見栄が交錯するから人其々というケースが生じるもの。だが、第2球を待つ石渡に出たサインが「スクイズ」だったのは紛れもない事実だ。江夏はキャッチャー水沼とサインを交わしてカーブを選択する。投球動作に入った江夏の右目に3塁ランナー俊足藤瀬のスタートが映る。「スワッ!スクイズ」。カーブの握りのまま咄嗟に外す。石渡空振り、走者はアウト。19球目、神技としかいいようのないウェスト・ボールだった。これで2アウト2、3塁、カウント2ストライク。次球はファウル。そして奇跡を締めくくる第21球、ここもまた江夏の極意、ストライクからボールに外れるカーブだった。空振り三振ゲームセット。野村克也は江夏の19球目を「彼がそれまで歩んできた12年間のプロ野球人生の過程が生んだ奇跡の一球」と評した。

 シリーズを制した広島は翌年も同じ近鉄を破り連覇。逃した近鉄は日本一になれなかった唯一のチームのまま2005年球団の歴史を閉じる。敗軍の将西本も日本シリーズに勝つことなく1981年に引退。「悲運の名将」といわれた。
 江夏はこの後、1981年大沢監督に乞われて日本ハムに移籍し優勝に貢献、1984年には広岡・西武に移籍も一年で退団、1985年には米大リーグに挑戦するもこの年引退、18年の野球人生にピリオドを打った。206勝158敗、193セーブ、生涯防御率2.49、最多勝利2回、最多奪三振6回、MVP2回、ノーヒットノーラン、沢村賞、ベストナインなど見事な成績を残した。野村克也、大沢啓二など尊敬できる指導者には心を許すが、吉田義男、広岡達朗などソリが合わないとそっぽを向く。それが江夏豊という男である。気分の赴くままに技術と感性をストイックに磨いて大好きな野球を極めた。記録にも記憶にも残る眩いばかりの野球人生である。

(2) 4の階乗24の背番号 横田慎太郎の場合

 「博士の愛した数式」に、博士と新来の家政婦のこんなやりとりがある。「君の靴のサイズはいくつかね」。「24です」。「24か。4の階乗。実に潔い数字だ」。本章は、阪神タイガースの背番号24 横田慎太郎の話である。

 横田は鹿児島実業で1年生から4番を務めたプロ注目の選手。ドラフト2位で阪神に指名され、2014年に入団。背番号は24。徐々に頭角を現し、3年目の2016年には開幕スタメンを張るまでに成長した。
 飛躍を期して臨んだ2017年の春季キャンプ。左目に黒い影が走りひどい頭痛が断続的に起こる。念のため診てもらった医者から告げられたのは「脳腫瘍。野球なんてとんでもない。即手術が必要」。思いもよらない宣告だった。即、18時間に及ぶ大手術。なんとか命は取り留めたものの、眼前には暗闇が広がるだけ。抗がん剤の影響もあって体重は16kgも減少。野球などは思いもよらない状態だった。術後2か月が経ったある朝、横田は目に眩しさを感じた。視力回復の兆しか!? 微かな希望が芽生えた。リハビリの甲斐あって体力はなんとか回復、体重も戻った。だが、ものが二重に見えるなど視力の回復は滞ったままだった。

 2018年、球団は解雇することなく育成選手の契約を結ぶ。背番号は124に変わる。球団の厚情に報いるべく懸命にリハビリに励む横田。しかし視力は戻らず、翌年、ついに引退を決意した。

 2019年9月26日、球団は二軍の公式戦 阪神VSソフトバンク を横田の引退試合に設定した。育成選手のための引退試合は異例中の異例である。8回表、横田はセンターの守備につく。実に1096日ぶりの公式戦の舞台だった。2アウト走者2塁。打者の放った一打はセンター前ヒット。横田懸命に前進、おぼつかない視力でなんとかボールをキャッチ。次の瞬間、横田の左腕から放たれたボールは一直線に、まるで矢のように、ホームベースに向かいキャッチャーミットに吸い込まれた。タッチアウト! 奇跡としか思えない見事なノーバウンド送球だった。もう一度野球をやりたい! この一心で頑張り続けた横田慎太郎への、これは野球の神様のビッグな褒美だったに違いない。真に感動の一場面だった。

 試合後の引退セレモニー。そこには背番号24のユニフォームに着替えた横田慎太郎がいた。「諦めずに野球を続けてきて本当によかった。神様は見てくれていたんだと思います。お世話になったみなさま本当にありがとうございました」。この試合に駆けつけた一軍監督矢野燿大は花束を渡しながら横田の耳元でこう囁いた「今日はお前に素晴らしいものを見せてもらった。次は俺たちの番だ。見ていてくれ」。
 名もない選手に引退試合を設定した球団。シーズン中にもかかわらず駆けつけた一軍監督。阪神は冷とうないやさしいチームだ。頑張って目指す目標に到達してほしい。横田への温情を思うと真に応援したくなる今年の阪神タイガースである。

<参考資料>
NHK-BSP「江夏の21球」1983 O.A.
小説「博士の愛した数式」(小川洋子著 新潮文庫)
映画「博士の愛した数式」2006
 2021.05.20 (木)  宇野功芳先生のこと
 少し前の朝日新聞「文化の扉」欄で「はまるブルックナー」なる記事があった。今なぜブルックナー(1824-1896)なのかは読み取れなかったが、その中で、久々に宇野功芳先生(1930-2016)の名前を見たのは懐かしかった。というのも、会社時代、先生とは多少のご縁があったからである。

 宇野先生は、「ワルキューレ」という草野球チームを率いており、レコード・メーカーとの試合をよく行っていた。私も、ビクター・クラシック部の助っ人として何度かプレイしたことがある。1970年代のことである。先生は千葉茂の大ファンだったことから背番号は3(長嶋ではない)、監督で2番二塁手、先生の打席に限り見逃したらすべてがボール(但し四球はナシ)、という特別ルールでゲームは行われた。とにかく打って塁に出たいのである。なんとも奇怪なルールではあるが、先生はワルキューレを統括する大神ヴォータンなのだから人間どもに文句は言わせない。まさに宇野流、落合の“オレ流”なんて目じゃないのだ。ピッチャーは弟の通芳氏だったが、もう一人の弟さんは創美企画で文化パステルという部署の室長をされており、私が所属したメディア開発事業部とは同じフロアの隣同士というご縁もあった。
 いまでも思い出されるのは多摩川の河川敷グラウンドと近くの居酒屋での打ち上げの宴である。そんなときの先生は、評論家としての鋭い眼光が優しい眼差しに変わり、場は和気藹々たる雰囲気に包まれたものである。

 宇野先生は評論家になる前、様々な合唱団の指導者を歴任されており指揮者がむしろ本職ともいえる。そんなことから、私の一橋オケの同輩宮城敬雄とはジョイント・コンサートを何度か開催している。2007年9月14日、宇野功芳VS宮城敬雄 白熱の競演!と題されたコンサートに足を運んだ。会場は東京オペラシティ コンサートホール。宇野氏はベートーヴェンの「英雄」、宮城氏はブラームスの4番をメインとしたプログラムだったが、楽しかったのは二人の解釈の違いを聴かせるスペシャル・コーナーだった。演目はブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」。宮城の楽譜を逸脱しない正統的な演奏に対し宇野氏のそれは奇想天外。アッと驚くテンポの変化に会場がドッと沸いた。「この方が面白いでしょ」と云っているようで、独断と奔放怖いもの知らずの宇野功芳の面目躍如であった。「私は写実派、先生は超印象派」と宮城は言う。

 評論家としての宇野功芳からは、多大な影響を受けた。特にブルックナーを聴くようになったのは間違いなく先生の影響である。
人はよく、ブルックナーの入門曲として、第4交響曲「ロマンティック」を挙げるが、ぼくはむしろ、いきなり「第8」の世界にとびこんだ方が良いような気がする。「第8」のアダージョとフィナーレには、ブルックナーの魅力が悉く封じ込められている。そこには、深い瞑想と沈思があり、天国の浄福があり、宇宙の鳴動があり、アルプスの厳しさがあり、偉大な自然やそれを創造した神への畏敬の心と、生きとし生けるもののはかなさがあり、小鳥の啼声や花々の香りがある。必ずしも親しみやすい音楽ではないが、それは非常にスケールが大きく、厳しく、俗っぽさや大衆性に欠けているためで、その中に一度でも入り込めば旱天の慈雨のごとく、心を潤してくれるであろう。
 これは氏の著「名曲とともに」の一文だが、溢れんばかりのブルックナー愛が見て取れる。また、ブルックナーの音楽の理解に関しては、名著「モーツァツトとブルックナー」の中にこんな一節がある。
彼の音楽は、その気になりさえすればきわめて聴きやすく、耳に快い旋律やひびきが充満するが、さてその本質となると直感以外にとらえる道がないのである。・・・・・中略・・・・・むかしの僕にとって、ブルックナーは徒に冗長で巨大にすぎ茫洋としてつかみどころがなかった。要するに彼の芸術が視えなかったのである。それがある日突如として理解できた。急に眼前が開けたのである。きっかけはブルックナー好きの友人の言葉であった。『ブルックナーの音楽は逍遥だよ』、これにすべてが含まれていたのだ。
 かくなる私もブルックナーが苦手だった。曲の構成がつかめない。解説に「ソナタ形式」とあるのに実態が判らない。例えばモーツァルトやベートーヴェンだったら、第1主題と第2主題、提示部〜展開部〜再現部の流れ、再現部における第2主題の調性の主調合致の法則など、少し聴き込めば判明・解明できる。ブルックナーはそれができない。第1、第2、第3、各主題に際立った差異が感じられず、追いかけるのに苦労する。ベートーヴェンなどとまったく違ってつかみどころがない。まるで鵺みたいな音楽なのだ。美しければいいじゃないかと感覚で楽しんじゃえばいいものを、まずは音楽の形を掌握しないと落ち着かないという、これは私の悪しき性分なのだから仕方がない。
 そんな私がブルックナーに多少なりとも近づけたのは、宇野先生の「直感以外にとらえる道はない」と「ブルックナーは逍遥」という二つの啓示のおかげである。「君、ただ浸ればいいんだよ」と言われているようだった。

 なかにし礼氏が「僕はね、さあ詩を書くぞというとき流すのは決まってブルックナーの交響曲なんだ。これを聴くと頭の中が全部空っぽになる。まあ心の初期化っていったところかな。モーツァルトやベートーヴェンじゃダメ。ひっかかってしまうから」と仰っていたが、これもブルックナーの特質を言い得ていると思う。

 私のブルックナー初体験はハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)指揮:ミュンヘン・フィルハーモニー(ウェストミンスター1963録音)による「第8」だった。無論これも宇野先生の推薦による。冒頭のいわゆるブルックナー開始から音楽が徐々に高揚して第2主題を出したあと、2分音符によるゆったりとした音型の悠揚迫らぬ歌わせ方に瞬時に魅入られた。先生は同時にシューリヒト:ウィーン・フィル(EMI 1963録音)も同等に評価。最終的には朝比奈隆:大阪フィルハーモニー(EXTON サントリーホール・ライブ2001録音)をNo.1としている(クラシック人生の100枚)。私はこれらすべてを聴いたが、最終的に最初のクナに落ち着いた。立川談志は五代目志ん生の芸について「作品を語るのではなく人間を語っている。私もこうありたい」と語ったが、クナのブルックナーは本人と作品が合致しているのがさらに凄い。純朴で深遠なブルックナーの音楽にクナの武骨で巨大な表現がドンピシャ嵌っているのである。

 ワーグナーもまたクナッパーツブッシュに限る、と教えてくれたのも宇野先生である。同時に、孫のヴィーラント・ワーグナーが「クナおじさん」と呼んで敬愛していたというエピソードも。クナのワーグナーで世評真っ先に挙げられるのが「パルシファル」(1962年バイロイト音楽祭のライブ録音)だが、自分としてはまだ作品の理解に届いていない。今の私の中での最高峰は「ワルキューレ」第1幕全曲(1957録音)である。前奏曲の冒頭、嵐の動機からして得も言われぬ緊張感が漂う。続く、ジークムントとジークリンデが交わす情念の馥郁たるロマンの香り。そして、フンディングの登場で響き渡るその動機の不気味さ重々しさ。さらには第3場における奔流さながらの情感の高揚。流石のフルトヴェングラー(1954年ライブ録音)もこの尋常ならざる表現力には敵わない。宇野先生はこれを「いついつまでも宝となるべき凄まじいばかりの名演」と絶賛している。

 先生には、これら大曲の他にもクナの名演の数々を教えられたが、一番のお気に入りは「ウィーンの休日」(キング1957録音)である。これはウィンナ・ワルツを中心とした選曲だから本来肩の凝らない娯楽作品のはずなのだが、どっこい、クナは気楽に聴かせてはくれない。良くも悪くも音楽が巨大なのだ。中でも特筆すべきはコムザーク:ワルツ「バーデン娘」だろうか。「バーデン娘」ってどんな娘? モーツァルトが、ここの教会の合唱長に贈った「アヴェ・ヴェルム・コルプス K618」のイメージからすれば純真無垢な女性を想像するが、とんでもない。クナの手にかかれば、デモーニッシュな美魔女に変身するのである。今年のウィーンフィル・ニューイヤーでも、同曲がムーティの指揮で演奏されたが、とても同じ曲とは思えない。ムーティは優美、クナは巨大。ムーティも決して魅力がないわけではないが、クナのインパクトには遠く及ばない。特に先生が“悪魔の高笑い”と称したクライマックスでの金管の強奏は強烈過ぎて腰を抜かす。先生はそんなクナの演奏を“いのちを賭けた遊び”と言った。

 宇野先生の特徴は断言にある。独りよがりと揶揄されようがお構いなし。一刀両断の潔さである。重鎮といわれる吉田秀和氏とはここが大きく異なる。吉田氏の記述からはレコードを買っていいかどうかがわからない(このあたりは「クラ未知」2008年秋に書いたとおりだ)。宇野先生は有無を言わせない。可否を即断できる。これぞ人生を懸けた推薦ではなかろうか。だから、私は宇野先生のほうを信頼する。

 先生推薦の演奏は、ほとんどが私の嗜好に合ったが、稀に例外もあった。その最たるものが、モーツァルトの「交響曲 第40番 ト短調 K550」におけるジョージ・セル:クリーヴランド管弦楽団の演奏(1967年スタジオ録音)である。私はこれを「精緻な造形の中に微妙なテンポの揺れがある。これぞセルの極意が生み出した真にモーツァルト的な名演」と評価した。方や先生は、「第40番のテンポの動きは、あれだけロマンティックな表情をつければもっと感動する筈なのに、どこか頭で考えられた要素が払しょくされないで残されている」と書かれている。私が肯定的に捉えた「テンポの揺れ」を先生は恣意的に感じられたのである。

 演奏表現についての評価は様々である。それを恣意的と感じるか、個性と捉えるか。これはまさに紙一重、というより人によって違う。だからこそ面白い。
 パフォーマンスについて「恣意的か否か」を判断する基準は自分の感性でしかないが、一つ、私が論理的な尺度にしている言葉がある。会社時代の晩年、邦楽系の商品制作にあたって、ここぞというときに解説をお願いした小西良太郎さんの言葉である。曰く「流行歌がヒットする秘密は“独創性とインパクトの強さ”と“奇をてらうに止まらぬ完成度の高さ”にある」というものだ。これは2005年に作った5CD-BOX「内山田洋とクール・ファイブDOLDEN BOX」にいただいた「時代を背負った男たち」と題したライナーノーツの一節にある。表現が恣意的か否か? 「奇をてらうに止まる」ならばそれは独りよがりであり恣意的となる。「奇をてらうに止まらぬ完成度の高さ」があれば、そこには普遍性があり芸術作品としての感動を呼ぶ。これは流行歌に止まらないクラシック音楽にも通じる真理だと思っている。小西さんもまた尊敬する評論家の一人である。

<参考資料>
宇野功芳著作選集1モーツァルトとブルックナー(学習研究社)
    〃   3 名曲とともに(学習研究社)
宇野功芳責任推薦:クラシック人生の100枚(音楽之友社)
小西良太郎著:内山田洋とクール・ファイブGOLDEN BOXライナーノーツ
CD ブルックナー:交響曲 第8番 ハ短調
    クナッパーツブッシュ指揮:ミュンヘン・フィルハーモニー(1963録音)
CD ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」第1幕 全曲
    クナッパーツブッシュ指揮:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1957録音)
    フルトヴェングラー指揮:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1954録音)
CD クナッパーツブッシュ/ウィーンの休日(1957録音)
    クナッパーツブッシュ指揮:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
CD モーツァルト:交響曲 第40番 ト短調 K550
    ジョージ・セル指揮:クリーヴランド管弦楽団(1967録音)

 2021.04.15 (木)  マスターズ2021 松山英樹の初制覇を考証する
<プロローグ>

 2017年1月25日の「クラ未知」に松山英樹のことを書いた。
松山英樹23歳。世界ランク6位、米ツアー賞金ランキング2位、FedExランキング2位。昨年から今年度にまたがる米ツアーと日本ツアーでは5戦4勝の戦績を収める。特に2016年10月に行われたWGC-HSBCチャンピオンズの勝ちっぷりは超ド級だった。通算23アンダー、2位のローリー・マキロイに7打差の圧勝劇はWGC史上最多ストローク差のオマケ付き。世界は度肝を抜かれた。マキロイは「ヒデキは今週のフィールドで誰よりも凄まじいゴルフを展開した。彼がチャンピオンになるのは当然だ」とコメント。マキロイは世界ランク2位、メジャー3勝の名手。ジョーダン・スピースも「これから間違いなく何度もメジャーを獲る選手」と称えた。スピースは世界ランク5位、メジャー2勝の若手のホープだ。

抜群の飛距離。切れのよいアイアン・ショット。多彩な小技。磨きがかかるパッティング。メジャー・ホルダーにして世界ランク上位者が、一様に松山英樹の存在を称え畏れている。この状況こそ、この男がメジャー制覇の最至近距離にいることの証だろう。期待は膨らむ一方である。ただ、一言だけ言わせてほしい。ゴルフ選手に好不調の波は付き物。好調のうちはいい。問題は調子が狂った時。その原因を素早く見抜き適切なアドヴァイスを与えられるのは専任コーチしかいない。松山は未だコーチを持たない。コーチを持たない超一流ゴルファーは一人もいない。松山英樹よ、早急に専任コーチを付けるべし!これがメジャー制覇のカギである。
 2017年松山のメジャーは、マスターズ11位、全米オープン2位T、全英オープン14位T、全米プロ5位T とまずまずの成績である。ところがこれ以降、成績は下降線をたどる。マスターズにおいては、 2018年19位、 2019年32位、 2020年13位、世界ランクも20位にまで下げた。そしてついに昨年末、目澤秀憲(30歳)を専任コーチとしてチーム松山に迎え入れた。

 2021年マスターズ。松山英樹(29歳)が4打差首位で迎えた最終日の前日、ゴルフ・ティーチング・プロの肩書を持つ息子に訊いてみた。「松山は勝てるかね」。
 「4打差は大きい。松山は70で回ることだけを考えてやることだ。そうすれば、他の選手は66が必要となる。これはそうそう出るスコアじゃない。この差はでかいよ。自分は優勝する方に賭ける」。これが答えだった。だが、ゴルフ専門家の息子に言われても私は不安だった。
 同じ夜、友人の小嶋正義からメールが来た。「これが最終日だったらなあ!ただ、4打差もあるからこれまでとは違うかな。見解はどう?」。これに対して、「4打差はあってなきがごとし。1996年、世界ランク1位のグレッグ・ノーマンは6打差をひっくり返されて負けた。問題はメンタル。コーチが付いたのは最大級の好材料だがその効果がメンタル面にまで及ぶなら可能性はあると思う」と私は答えた。

 私が松山のメンタル面を危惧するようになったのは、2017年の全米プロと全米オープンの最終日、その対照的な松山の戦いぶりを見たからである。
 6月、エリンヒルズで行われた全米オープン。松山は首位と6打差のスタート。攻めるしかない状況で見事ベストスコアの66を叩き出し2位タイでフィニッシュした。
 8月、クエイルホロークラブで行われた全米プロゴルフ選手権。松山は首位と1打差の2位でスタート。同伴のジャスティン・トーマスと優勝争いを演じたが、11番で1m弱のパッを外し、12番はグリーン・オーバーから寄せをチャックリ、13番は1オン逃しの寄らず入らず。勝負どころで3連続ボギーを打ち脱落した。
 首位との差があって気楽に回れるときは爆発的なスコアを出す。プレッシャーのかかる優勝争いでは他のゲームではやらないようなミスを連発する。これがメジャーの重圧かもしれないが、でも、これに打ち克たなければ勝利の女神は微笑まない。

<2021年マスターズ最終日の松山英樹>

 さて松山、今年のマスターズはどうだろうか。力のあるのはわかっている。4差首位は無論絶好のチャンスである。彼が自分のゴルフをすれば勝っても不思議はない。だが一方で、4は絶対的な差ではないことを過去の歴史は教えている。否応なしに懸かってくるプレッシャーに彼は勝てるだろうか?緊迫の最終日が始まった。

 −11でスタートの松山は1番ボギーのあと即2番でバーディー。このバンス・バックは大きい。5番パー4。5mのパー・パットを強めに打ちど真ん中から放り込む。この積極さが8番、9番のバーディーにつながって、フロント・ナインは −2の通算−13。2位に5打差をつける。ドライバーの精度、アイアンの切れ、正確なアプローチ、安定したパッティング。技術的に不安は感じられない。
 同伴競技者は65を出した前日と同じザンダー・シャウフェレ(27歳 米)。松山の好プレイには「ナイス・ショット」と気さくに声をかける。松山が気分よくプレイできている一因か。だが、自身は調子が上がらず、松山とは7打差がついた。

 さあ、いよいよ勝負のサンデー・バックナインである。難所アーメン・コーナー(11番〜13番)は、13番のラッキーも手伝って-13をキープ。14番はパー。一方シャウフェレは12番からの3連続バーディーで松山に4打差と迫ってきた。さすがランキング6位の実力者だ。

 そして迎えた15番530yパー5。シャウフェレはティーショットをフェアウェイにビッグ・ドライブを放つ。松山はカット気味に打ち同じくフェアウェイ、シャウフェレの後方40ヤードに置く。これを見たゲスト解説者の宮里優作は「距離を抑えたコントロール重視のティーショットですね。2019年、タイガーが勝った時にかぶります」と語る。なるほど、5ホールを残して4打差なら安全運転を試みてもおかしくはない。ならば残り236ヤードをレイアップという手もある。だがここは松山、第2打を4アイアンでツー・オン狙いにでた。放たれたボールは勢いよく飛び出しグリーンに向かうがオーバー。ボールは無情にも奥の池につかまった。放送席ため息。
 翌日のテレビで、ゲストの中嶋常幸プロに司会者が、「あの場面、レイアップはなかったですか」と質問。中嶋プロは「ありえません。あれが松山のゴルフですから。もし、レイアップなんかしたら、なめられてしまう」と答えていた。そうだろうか。私の意見は少し違う。
 ティーショットを、距離を犠牲にして安全に打ち出したのであれば、第2打をレイアップして3オン狙い、という選択のほうが一貫性がある。もし松山がこうしたら、プロ仲間はむしろ「松山にはこんな多様性があったのか」と畏敬の念を抱くのではなかろうか。私はそう思うが、いかがだろうか。
 さて、松山の池の淵からの第4打はグリーンオンせず、5オン1パットのボギーに終わった。トータル −12。シャウフェレはバーディーで −10。二人の差は一気に2と縮まった。7つあった差が2つ。4連続バーディーと上り調子のシャウフェレと下降気味の松山、16番ホールに向かう。

 16番170yパー3。これまで最終日の終盤に、様々なドラマを生んできた左が池の名物ホールである。私の印象にあるのは1975年、ジャック・ニクラウスの見たこともないような欣喜雀躍ぶりと2005年、タイガーのナイキ・ボールである。まあ、それはさておき、オナーのシャウフェレ、8か7で迷いつつ、右からの風を感じて8アイアンを選択。右に打ち出して風に乗せる作戦だ。しかし、ややダフってフェースがかぶりボールは左に。結果、無情にも池。中嶋プロの「ミスショットじゃないよね」は間違いだ。これを見た松山は、「絶対に左にはいかない」と念じて右目に打ち出す。この意識が思った以上にボールを右に押し出すことになりグリーン右12.5mにオン。難しいパットを残した。ファースト・パットを見事なタッチで2mにつける。中嶋プロは「これが入ればグリーン・ジャケットが見えるね」と宮里プロに話しかける。そのとおりだ。が、このパットを外してボギー。シャウフェレはトリプル・ボギーで脱落した。−11の松山の相手は、この時点で、18番で上からの長いパー・パットを残すザラトリスに代わった。ザラトリス、5mをねじ込んでパー、−9でホール・アウト。松山は2打差のリードで残り2ホールに臨むことになった。

 17番440yパー4。松山の第1打。ドライバーを思い切りよく振り抜きFWど真ん中に運ぶ。15番とは全然違う攻めのドライバー。以前の松山なら曲げていたかもしれない勝負所で、このような完璧なショットが打てたのは、技術的にも精神的にも、彼が成長した証だろう。2オン2パットのパー。2差のリードを保って、さあ、あと1ホールだ。

 最終18番465y パー4。2差はボギーも許される。迷いなく抜いたドライバーから放たれたボールはパワー・フェードの放物線を描きフェアウェイ左センターに。315ヤードのビッグ・ドライブとなった。中嶋プロも宮里プロも「王手」と呟く。第2打残り134ヤードPW。が、どうした松山、へなちょこショットでバンカー。本人苦笑。バンカーショットで3オン1.5m。もう安心だ。2パットでボギー、トータル−10。1打差の勝利。悲願のマスターズそしてメジャー初制覇だった。

 松山の長い一日は終わった。私の「メンタル面の不安」は杞憂に終わった。「4打差はでかい。勝つと思う」と言った息子の読みは正しかった。

 勝因は、緊張感の中、自分のゴルフを貫けたことだろう。やはり専任コーチを得たのは大きかった。松山は言う「これまで自分の感性を正しいと信じ一人でやってきた。そこを今、客観視してくれる人ができた。それが目澤コーチだ」。技術への確信がメンタルの不安を払拭したのだろう、これまでのメジャーとは違う松山がそこにいた。また、決勝ラウンドの二日間、友好的なシャウフェレと一緒にプレイできたのも幸運だった。いつになく表情にゆとりがあったのも彼のおかげだったかもしれない。

<エピローグ>

 1936年の第3回大会、戸田藤一郎がオーガスタ・ナショナルの舞台に立って以来、日本人ゴルファーの挑戦は続いてきた。そして、マスターズ制覇はいつしか日本ゴルフ界の悲願となり果てなき夢となった。
 1970年 河野高明 12位、1973年 尾崎将司 8位、1986年 中嶋常幸 8位、2001年 伊沢利光 4位、2009年 片山晋呉 4位。そして、2021年4月11日、松山英樹がついに悲願の扉をこじ開けた。実に長く遠い道のりだった。放送ブースで中嶋プロはじめ関係者が嗚咽で言葉にならなかったのはもっともである。

 2011年、東日本大震災があり、マスターズへの出場を逡巡していた松山だったが、被災した地元仙台の人たちのあと押しもあって出場を決断。感謝の気持ちを胸に戦い見事ロー・アマチュアの栄誉に輝いた。「次は優勝」と少年時代の夢をゆるぎのない目標に変えたことだろう。しかし、寄せられる勝利への期待はいつしか大きな重圧と化して彼を苛んだ。長く険しい道のりが続いた。そして10年目の今年、ついにプレッシャーに打ち克って夢に辿りついた。おめでとう!松山英樹! 私にしても、ゴルフ愛好者として、“生きているうちに日本人がマスターズで優勝する姿を見る”ことが夢だった。それが実現した。ありがとう!松山英樹!

 試合後の表彰セレモニーで松山はこう挨拶した。

 「この素晴らしいオーガスタ・ナショナルの場に立てることをうれしく思っています。そして多くのファンの皆様、ありがとうございました。Thank You!」。直後に通訳に促されて、「オーガスタ・ナショナルのメンバーの皆様、ありがとうございました」とつけ加えた。
 実にシンプル。松山らしいといえばらしいのだが、できれば、オーガスタ・ナショナル・メンバーへの感謝は、促されずに言ってほしかった。さらには、もう少し丁寧に、できれば具体性を持って、スピーチしてほしかった。心の中に感謝の気持ちが様々あるのはわかっている。シャイなのも知っている。でも言葉にしなければ伝わらない。またいつの日か、メジャー競技のセレモニーで、秘めたる思いを自分らしく表現する、そんな成長した松山英樹の晴れ姿を見たいものである。
 2021.03.20 (土)  中くらいなり おらが春
 小林一茶に「めでたさも中くらいなり おらが春」という句がある。一茶の心情は「結婚して子供も生まれ、春(正月)を迎えてめでたいにはめでたいが、暮らし向きが劇的に好転したわけでもなく、相変わらず阿弥陀如来様にお縋りする日々だ。だから“中くらい”」ということのようだ。列島のあちこちから桜の開花だよりが聞こえてくる。プロ野球の開幕も近い。前年は秋に行われたゴルフの祭典マスターズは、恒例の4月開催に戻る。オリンピック東京大会も条件付き乍ら実施されるだろう。本来ならば目出度さ全開の春のはずが、気分は“中くらい”である。これはやはり「コロナ禍」のせいだろう。
 コロナ禍の日本で昨年の漢字は「密」だったが、我が家のそれは「改」だった。一昨年、サラリーマンを卒業し自立を決め込んだ息子が、「コロナで自宅では仕事ができない。物置と化している親父の家の洋間を自分が片づけるから事務所代わりに使わせてくれないか」という。本、CD、写真帳等乱雑極まる洋間をどうしたものかと思案していたものだから、渡りに船とばかりに任せることにした。6月のことである。一ケ月後、本もCDも新装のラックに収まり物置洋間は見事変身を遂げた。これはこれでよかったのだが、この後我が家には異変が相次ぐ。
 8月には、冷蔵庫が停止、キッチンのガスコンロの点火がおぼつかなくなり、9月にはトイレの水回りに不具合が生じ、10月には洗濯機がアウトとなった。かくなる上は、すべて新品と入れ替えて、同時に、古くなった和室の畳も破れていた網戸も換気扇も新調。住んで20年、最大級のリニューアルとなった。だからまさに、2020年、我が家の漢字はリニューアルの「改」なのである。

 リニューアル第一の効用は、CD1枚1枚の居場所が明白になったこと。以前なら「あれを聴きたい」と思っても、およその在処は判りつつも取り出すのが面倒で、まあいいか、と放っておいた。ところが今は聴きたいものを即手に取ることができる。息子の功績大である。
 3月11日、東日本大震災10年の特番を見ていたら、早くも広島で「開花宣言」、との報が聞こえてきた。ふと青江三奈の「港が見える丘」が聴きたくなる。お目当てのCDをかける。

 ♪あなたと二人で 来た丘は 港が見える丘 色あせた桜唯ひとつ 淋しく咲いていた

 青江のハスキーヴォイスがリビングに心地よく響きわたる。でもちょっと物足りない。なぜ? そうアナログ盤で聴きたかったのだ。入社当座の1968年、「ためいき路線」の二大アルバム森進一「影を慕いて」(SJX 1)と青江三奈「ブルースを唄う」(SJX 6)が売れまくっていた。岩田専太郎による和風モダンなジャケットも評判を呼んだ。自分としては、大ベストセラーの森よりも青江の方が好きで、試聴用LPを持って帰って下宿の安い装置でよく聴いたものである。収録10曲がすべて良かったが、特に「港が見える丘」に魅せられた。しばらくしてCD時代が到来。増えてゆくCDに居場所を追われたLP盤は母が建てた西軽井沢の別荘に移動したが、2010年、そこを引き払うときに(SJX-6を含め)大半を処分してしまった。今となっては悔やまれるが、残した僅かな盤を楽しむしかない。

 「港が見える丘」のオリジナル・シングルは1948年の発売。歌唱は平野愛子。ビクター・レコードの戦後初の大ヒットである。作詞作曲は東辰三(本名は山上松蔵1900-1950)。当時では珍しい二刀流である。後の名手・浜口庫之助に先立つこと一昔、まさに先駆者といっていい。
 港を見下ろす丘の桜、そして汽笛の響きが、チラリホロリ〜キラリチラリ〜ウツラトロリというオノマトペと相まって、生まれて散って思い出に変わる恋の変遷にシンクロする。なんという技の冴えと完成度の高さだろう。戦後間もない時期にこんなにモダンで格調高い歌が生まれていたとは、まさに奇跡としか言いようがない。
 私がビクター入社直後に配属されたのは新橋営業所だった。そのとき、机を並べた女性社員がいて名前は山上波子さんといった。あるとき、この方が東氏の長女と知った時には心底びっくりしたものである。さらにまた、翌年1969年、大ヒットした由紀さおり「夜明けのスキャット」の作詞者・山上路夫が東氏の長男で波子さんの兄と聞いて二度びっくりであった。山上作品に漂う格調の高さは父親譲りなのだろう。
 なぜか、波子さんの誕生日がフランス革命記念日(巴里祭)の7月14日というのを記憶している。私より少し年上のセンスある素敵な女性だった。元気にしていらっしゃるだろうか。

 「港が見える丘」でもう一つ思い出すのは浅丘ルリ子である。映画「男はつらいよ」第11作「寅次郎忘れな草」で、浅丘扮するドサ周り歌手のリリー松岡がこの歌を唄う。さびれた場末のキャバレーとうらぶれた歌唱がマッチしてどこかノスタルジックなムードを醸し出していた。
 寅次郎とリリーの出会いの場面も秀逸だった。渥美清の寅さんが網走の漁港でレコードのバイをしている。五木ひろしの「あなたの灯」が流れている。そこに通りかかったリリー「さっぱり売れないじゃないか」と声をかける。これを受けて寅さん「不景気だからな。お互い様じゃないか。何の商売してんだい」。「わたし 歌うたってんの。私もレコード出したことがあるんだけどね。ここにないかな。あるわけないね」とリリー。寝座不定のフーテン香具師とドサ周りの歌うたい。互いの中に同質の匂いを感じたのだろう、ぎこちなさが全くない台詞のキャッチボールが続く。漁に出かけるお父ちゃんを家族が見送る漁港の風景の中、二人共通の時が穏やかに流れてゆく。仕事の時間がきたリリーが「ではまた、どっかで会おう」と言うと「ああ、日本のどっかでな」と返す寅さん。別れ際、リリーは「兄さん、名前はなんていうんだい」と訊く。「俺は、葛飾柴又の車寅次郎っていうんだよ」と寅さん。「車寅次郎。じゃあ、寅さん。いい名前だね」と言い残して去ってゆくリリー・・・・・シリーズで合計4度の共演を果たす二人の、これが最初の出会いだった。

 「寅次郎忘れな草」には昭和歌謡とクラシック楽曲がふんだんに出てくる。「港が見える丘」の他にも「夜来香」、「越後獅子の唄」、シューベルト「野ばら」、リムスキー=コルサコフ「シェエラザード」、J.S.バッハの組曲 第3番「アリア」など。特に、北海道は道東の原野〜農場〜牧場に響く「シェエラザード〜若き王子と王女」の流麗なメロディーは、雄大な大自然の風景に溶け込んで素晴らしかった。
 映画「男はつらいよ」第1作の封切りは1969年8月。以後1995年まで合計48作が送り出され、国民的映画となった。当初は封切りも変則的。1年目は2本、2年目3本、3年目は3本という具合である。節目となったのは1971年12月29日公開の第8作「寅次郎恋歌」(マドンナ:池内淳子)だろうか。観客動員が初めて100万人を突破し翌年から年2本盆暮れ興行という不動のスタイルが定着した。定番となった「寅次郎・・・・・」というタイトルもここから始まる。因みに恒例となった「夢のプロローグ」は第9作からである。

 シリーズの重要なキャストおいちゃんはこの作品までが森川信(1912-1972)、第9作−第13作が松村達雄(1914-2005)、第14作−最終作までが下條正巳(1915-2004)である。其々に味があるが、やはり初代の森川信が抜群だった。なのに、第8作公開後数か月で鬼籍に入ってしまう。残念至極だった。あの「ばかだねえ」の台詞の“とぼけた中に寅さんへの憎み切れない情感が滲み出る”味わいは余人をもって代えがたしの感があった。

 クラシック音楽が初めて使われたのは第2作「続男はつらいよ」である。マドンナの夏子(佐藤オリエ)と医師の藤村(山崎努)がデートする喫茶店でハイドンの弦楽四重奏曲 第67番 ニ長調「ひばり」第1楽章がかかる。店の名前は「高級喫茶スカイラーク」で、このあたりの芸の細かさもなかなかである。以前、この場面はあまりに短くて見落としていたが、ブログ「りゅうちゃんの懐メロ人生」の中の「男はつらいよ 寅さんのマドンナ遍歴」で気づかされた。リュウちゃんはBMG時代の同僚で「寅さんファンクラブ」の会員(No005153)という正真正銘の寅さんファン。昨年から始まった「男はつらいよ 寅さんのマドンナ遍歴」はまだ2回掲載されただけだが、映画にも音楽にも造詣が深いリュウちゃん。続編を大いに期待したいものである。因みに、リュウちゃんはBMGビクター在籍時代に山田監督公認のCD「寅さんクラシック」(BVCF1518)を企画・発売している。

 シリーズ序盤の秋野太作(当時は津坂匡章)扮する登と寅さんの絡みも楽しかった。第10作、信州奈良井宿の旅籠で寅さんがしみじみ飲んでいると、隣の部屋から酌婦のおばちゃん相手にほろ酔い加減の若造の声がする「俺の故郷はな、東京は葛飾柴又というところよ。もう何年も帰ってねえ。おいちゃんやおばちゃんはどうしているかなあ」。コノヤロウと寅さんが襖を開けるとそこにいたのは登。「兄貴い」、「登う」。「どうしてたんだよ」、「相変わらず地道な暮らしよ」と再会にはしゃぐ二人。そんな兄貴と舎弟のやり取りは実に軽妙愉悦の風情で、役柄を超えた二人の絆を感じたものだ。しかしながらこの名コンビは第10作で終わりを告げてしまう。
 秋野は、2017年、「私が愛した渥美清」と題する本を書く。その中で・・
・・・山田監督が、第1作で、「もう一回」「もう一回」と前田吟に不可解なNGを36回も出したこと。山田組の撮影現場はいつもドンヨリと沈んでいたこと。撮影現場における渥美清と山田監督の意外な関係性。秋野が「男はつらいよ」を降板した経緯。1996年8月13日の渥美清の「お別れ会」では前代未聞の入念なリハーサルが行われたこと。小林信彦の著作「おかしな男 渥美清」への違和感。等々諸々が真実味ある筆致で描かれる。そして最後に、「渥美清といられたあの時間は、私にとっては至福の時だった。役者人生最高のー至福のー時だった」と結んでいる。ユニークな脇役の回顧録は国民的映画「男はつらいよ」のアナザー・ストーリーの感があって、なかなか興味深いものがあった。

 「男はつらいよ」は、私の中では、第1作から第17作までが傑作の森だ。BEST 10は1、2、5、6、8、10、11、14、15、17である。折角だから、最後に、「男はつらいよ」MY BEST 3をあげておこう・・・・・11「寅次郎忘れな草」(浅丘ルリ子)、17「寅次郎夕焼け小焼け」(太地喜和子)、10「寅次郎夢枕」(八千草薫)。以上、今回はこのへんでお開きに。

<参考資料>
DVD映画「男はつらいよ」全48作
CD「青江三奈ブルースを唄う」
CD「寅さんクラシック」(畑中隆一企画BMGビクター)
CD集「歌王」
「私が愛した渥美清」秋野太作著(光文社)
 2021.02.10 (水)  追悼〜なかにし礼さんへの私的レクイエム第二章
第二章:クラシック編〜なかにし礼さんとモーツァルト・コレクションを作る

 「大作詩家が選定して直木賞作家が書き下ろすモーツァルト・コレクション。これはいけますよ」という私のオファーに、なかにし氏は「いいね、ぜひやりたいね。でもね、自分で書くのは難しい。今、執筆のオファーが多くてとても時間が割けないんだ。だからどうだろう、対談なら可能だけど」と逆提案。直木賞を獲ったばかりの大作詩家に執筆依頼が殺到するのは当然だ。私は「わかりました。それでいきましょう」と即答していた。対談の相手は相談の末、BMG JAPANの先輩で数年前退職された黒川昌満氏にお願いした。黒川氏は会社時代一貫してクラシックに携わり、なかにし氏とは同じ昭和13年生まれということで、これは適役だった。
 選曲はなかにし氏の意向からCD全18枚に決定。演奏も氏の希望を取り入れて各社と交渉、スムーズにまとまった。タイトルは「なかにし礼 モーツァルト・コレクション」、発売日は2000年10月に設定した。

 選曲と演奏の選定にはなかにし氏のこだわりや思い入れが随所にうかがわれる。例えば・・・・・

 交響曲 第41番 ハ長調「ジュピター」K551のブルーノ・ワルターは、氏が上京したてのころ夢中になったマーラー:交響曲 第1番 「巨人」の指揮者であり敬愛する音楽家。ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K466、第24番ハ短調K491、弦楽五重奏曲 第4番 ト短調K516、ヴァイオリン・ソナタ ホ短調K304などの短調の曲は、逆境の氏に寄り添ってくれた格別な曲。特にK304は自作にメロディーを拝借したほど好きな曲。「ヴァイオリン協奏曲第4番」K218 のハイフェッツはモーツァルトとの出会いとなった映画の主演者にして最高峰のヴァイオリニスト。「フリーメイソンのための葬送行進曲」K477 は氏がモーツァルトの音楽を語るとき欠かせないフリーメイソン関連の名曲。「音楽の冗談」K522 は確執ある父の死に際して書いた奇なる曲(氏はもしかしてこれに兄の死を重ね合わせていたのかもしれない)。シュワルツコップとギーゼキングの「歌曲集」には自身の訳詩をつけるが、このまま歌えるのが特徴だ。

 さあ、残るは解説書である。対談のタイトルは「モーツァルトと私」とした。

 この企画はただのクラシック選集ではない。なかにし礼が選ぶモーツァルトのコレクションである。なぜなかにし礼なのか? なぜモーツァルトなのか? 解説書にはこの意図が明確に示される必要がある。しかもなかにし礼は直木賞を獲ったばかり。買い手は間違いなく彼の書き下ろし文を期待するはずだ。それが事情により対談に代わってしまったのだから書き下ろしに匹敵する中身でなければならない。気合で請け負ってしまって大丈夫だったのか? 期待と不安と気負いが交錯する中、いよいよ対談の日がきた。

 対談場所は、なかにし氏行きつけのホテル・オークラの一室。対談の音声をカセットに録音し文章起こしをしたものを私がチェック、それをなかにし氏に見てもらう という段取りにした。これを気心が知れた編集プロダクションの乗富氏(以下N氏)に依頼した。

 なかにし礼VS黒川昌満両氏のクラシック談義、モーツァルト談義は快調に進んでゆく。なかにし氏がクラシック音楽に目覚めたのは、小学5年生のとき学校の授業でベートーヴェンの交響曲第6番「田園」を聴いたとき。そこで牡丹江を想い出して涙した・・・・・こんな話から始まって、モーツァルトとの出会いはハイフェッツ主演の「彼らに音楽を」という映画だったこと、高校時代はレコードを買う金がなくて神保町のクラシック喫茶「らんぶる」に入りびたりだったこと、死ぬか生きるかというとき気がつけばモーツァルトを聴きまくっていた、そんな自分を救ってくれたのはモーツァルトの短調の音楽だった、モーツァルトの音楽は沈む、モーツァルトの音楽には光と闇がある、人間のあらゆる感情が織り込まれている、そしてあるときモーツァルトは我が友となった、モーツァルトの音楽はフリーメイソン抜きには語れない、世界人としての我々地球上の人間はモーツァルトを聴くしかないんじゃないか、等々、話が弾む。選曲や演奏へのこだわりが後付けで顕在化してくる。
 クラシック音楽との出会い、悲惨な戦争体験、作詩家になった劇的な経緯、売れっ子になってから待ち受けた悲劇、モーツァルトの音楽への覚醒、等々 なかにし礼の尋常ならざる人生体験と音楽への愛が眼前で展開されている。何という光景! 夢のような6時間だった。語り口は躍動し内容も実に興味深い。これならむしろ対談で正解だった と膝を打つ。帰り際、N氏に「大成功だったね。文字起こしが出来たらすぐに見せてください」と言って別れた。

 数日後、N氏から「途中ですがこんな感じです」と書き起こし原稿を受け取る。期待に胸が膨らむ・・・・・えっ、こんな! 読んで唖然とした。確かに数日前の話し言葉には違いないのだが、読み言葉ではない。活字にならない。現場では対話の流れのスムーズさに気にならなかっただけ? いやはや、これをそのままなかにし氏にお見せしても、すべてに手を入れてもらわなければならなくなる。これは書くよりも手間がかかる。かくなる上は、私が書き直して読み言葉に換えたものを氏にチェックいただく という手順に切り替えるしかない。そう覚悟を決めた。とまあ、そんなわけで、ここから苦難の日々が始まることとなった。

 A工程:対談の録音テープからの書き起こし(N氏)〜B工程:岡村リライト〜C工程:なかにし礼チェック訂正〜D工程:校正、脱稿・・・・・かくなる手順A〜C工程の実例を一つ記させていただく。Aの下線部をBでリライト、Bの下線部をCで訂正(変換部分は太字表記) という流れである。

<A>オリジナル
学校で一番最初に親友になったのは、やっぱりクラシック好きな人間で、もう亡くなっちゃったんだけど、そいつと二人で指揮のあて振りをやったり、スコア見ながら歌ったりなんかしてた。それで、一学年上の武田明倫と知り合ったら、彼は専門家みたいなもんだからさ、当時の高校生から見たら。「ふん、そんな音楽聴いてんのか」ということで、馬鹿にされて、それでまたもう一つ音楽を聴くことに目覚めたんだな。で、彼の影響でそのころから早くもマーラーとか聴き始めたわけよ。ワルターの「巨人」が出て、ギャーギャーいわれる前後。
 それでね「こういうの聴かなきゃだめよ」っていわれたのがバルトークだったりね。もうずいぶん指導していただきましたよ。それでガンガン聴いて、高校卒業するまでクラシック漬けだった。昼飯抜いて「らんぶる」行って、一杯のコーヒーでよくぎりぎりまで粘ったもんですよ。

<B>岡村リライト
学校で一番最初に親友になったのは、やはりクラシック好きな人間で、もう亡くなってしまったんですが、彼と二人で指揮のあて振りをやったり、スコアを見ながら、歌ったりしていました。その後、一学年上の武田明倫さんと知り合って、音楽を聴くことに目覚めたというわけです。彼は当時の高校生から見たら、音楽の専門家みたいな人でした。彼の影響で、私もそのころから早くもマーラーを聴き始めていたんです。ワルターの指揮する「巨人」が発売されて、マーラーが日本の音楽愛好家に浸透し始めたころでした。
 それから、「こういうの聴かなきゃだめだよ」っていわれたのがバルトークだったり。もうずいぶん指導してもらいました。それでガンガン聴いて、高校卒業するまでクラシック漬けでした。昼飯を抜いて「らんぶる」へ行って、一杯のコーヒーでよくぎりぎりまで粘ったものです。

<C>なかにしチェック訂正
学校で一番最初に親友になったのは、やはりクラシック好きな人間で、もう亡くなってしまったんですが、彼と二人で指揮のあて振りをやったり、スコアを見ながら、歌ったりしていました。その後、一学年上の武田明倫さんと知り合って、音楽を聴くことに目覚めたというわけです。彼は当時の高校生から見たら、音楽の専門家みたいな人でした。彼の影響で、私もそのころから早くもマーラーを聴き始めていたんです。ワルターの指揮する「巨人」が発売されて、マーラーが日本の音楽愛好家に浸透し始めたころでした。
 それから、「こういうの聴かなきゃだめだよ」っていわれたのがバルトークだったり、ストラヴィンスキーやメシアン。もうずいぶん指導してもらいました。暇さえあれば音楽を聴いて、高校卒業するまでクラシック漬けでした。昼飯代を節約して「らんぶる」へ行って、一杯のコーヒーでよくぎりぎりまで粘ったものです。

 なかにし氏の最終訂正はさすがというべきで、劇的に文章が締まる。これが文章の達人の証なのだろう。では、このような例をいくつか列記しておく。

パーっと広くて→広大無辺で、排斥→疎外、素晴らしい→自分にとって大事な作曲家だ、素晴らしい→突出した才能、偏見→似たような先入観、ドーンと音を立てて→ものの見事に、「そんなこと言うのはやめてくれ」という気持ちになる→モーツァルト像が一変してしまった

 とまあ、こんな具合である。総字数3万字。訂正部分は2000〜3000箇所くらいになっただろうか。悪戦苦闘は3か月余りに及んだ。締め切り間際には、なかにし氏の出張先のホテルにまでFAXを入れることもあった。結構な労力ではあったが苦痛ではなかった。こちらから言い出したことだから、当然ではあるが、むしろ楽しい作業だった。なかにし氏も、自身の音楽観が固定化されるのだから、きっと楽しんでやっていただけたのではないか と勝手に思っている。
 最初は氏の訂正も多く入ったが後半は概ね私のリライトどおりで大丈夫となった。なかにし氏とのやり取りで知らず知らずの内に文章表現のスキルが身に着いたのかもしれない。これまさに、直木賞作家の直接指導による綴り方教室で、3か月間、無料の特訓を受けたようなものだった。

 「なかにし礼 モーツァルト・コレクション」CD18枚組41,580円(税込)は予定どおり2000年秋に完成・発売の運びとなった。仕上がりは上々、氏も大変に喜ばれて、自ら数十セットを売買していただいた。
 この商品が評判を呼んだ結果、「モーツァルト音のサプリ〜なかにし礼 モーツァルト・コレクションより」(アーティストハウス刊)というミュージック・セラピー本を作ることになった。制作過程で編集者から、この本に掲載するための「なかにし礼のモーツァルト体験」的な文章の依頼があった。氏にお願いしたところ、「ひとまず岡村さん、コレクションからまとめてみてよ。あれだけあれこれやったんだから大丈夫だよ。書いたら僕に見せてくれればいいから」と言われた。その後多少のやり取りを経て「モーツァルトの光と闇」と題する文章が出来上がった。無論なかにし氏の文章には違いないのだが、気分的には合作という自負もある。最後にこの文の一部を章の総括として掲げたい。
モーツァルトの光と闇

 私がモーツァルトに初めて感動したのが、中学3年のときに観た映画「彼らに音楽を」の中で演奏された「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第3楽章でした。高校に入ると、毎日音楽喫茶に通いつめ、クラシック漬けの日々を過ごすのですが、そのころは、ベートーヴェンもマーラーもストラヴィンスキーもまんべんなく聴いていて、モーツァルトだけが特別な音楽という意識はまだありませんでした。
 その後、シャンソンの訳詩から歌謡曲の世界に入り、とりあえず売れっ子作詩家と言われるようになる。ところが「兄弟」という小説に書かずにいられなかったような兄との葛藤が生じました。金銭問題に苦しみ、生きていくのに疲れ、厭世観にとらわれていた日々の中、一番慰められたのは文学でも詩でも演劇でも映画でもなくモーツァルトの音楽だった。
 それまでモーツァルトやその音楽に対し、ギャラント、優雅、美しい、良い人、などと評されており、私自身も同じような先入観を持っていたのです。ところが、人生の不遇な時期に聴いたモーツァルトの音楽に、私は人間としての暗さや悲しみ、悩み、どうにもならない孤独感を感じ、逆にそれが私に生きる勇気を与えてくれたのです。
 モーツァルトは人間の内に秘めている暗く汚い面、悪魔的な部分をも、優しく明るい光で描き上げた史上初めての音楽家です。それは彼の愛情が命に対して優しいから成しえたと私は思う。モーツァルトの音楽は、無限の命を救え、命を蘇らせ、永遠の命を与えてくれます。こうしたモーツァルトの光と闇を知ったとき、モーツァルトは私にとって“我が友モーツァルト”となったのです。
 モーツァルトが生きた18世紀の後半は、ルソーから始まってヴォルテールらが自由・平等・博愛を謳い、人間が本来の姿に立ちかえる激動の時代でした。アメリカが独立し、フランス革命が起きた。大きく方向転換してゆく時代の啓蒙思想という船の軸先にモーツァルトは立っていたのです。ですからモーツァルトの音楽は、ドイツ音楽、オーストリア音楽、イタリア・オペラなどと限定されたものではありません。ボーダーレスで世界的なもの、まさに全人類的音楽なのです。
 このようにモーツァルトについてさまざま考えていたとき、私は「なかにし礼 モーツァルト・コレクション」の編纂を思いつきました。21世紀、人類の究極の目的ボーダーレス&平和に向かって進むべき世界人として、私たち地球上の人間が聴く音楽は、モーツァルトしかないと思っています。
 縁あって「なかにし礼大全集」と「なかにし礼 モーツァルト・コレクション」でお付き合いいただいたなかにし礼さん。昭和〜平成〜令和を溢れる知性と情熱をもって駆け抜けた礼さん。常に自由と平和の大切さを説いていた礼さん。作詩家、作家、クラシック音楽、評論、成し遂げられた業績は遍く不滅の光を放っています。歌謡曲の神髄を、モーツァルトの本質を、自由と平和の大切さを、そして文章を書くことの喜びを、教えてくださった礼さん。厳しいプロの顔と時に見せる優しい眼差しが印象的だった礼さん。憧れの大作詩家にして直木賞作家の礼さんと仕事をさせていただいた二年の月日は私にとって夢のような日々でした。本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れることはありません。そしてまたいつの日か、音楽のことなど大いに語り合いましょう。それまで、もっともっと勉強しておきます。どうぞ安らかにおやすみください。

 2021年 春

                          岡村 晃

<参考資料>
「なかにし礼大全集〜夢と喝采の日々」CD21枚組(BMG JAPAN)
「なかにし礼 モーツァルト・コレクション」CD18枚組(BMG JAPAN)
小説「兄弟」なかにし礼著(文芸春秋社)
「モーツァルト音のサプリ〜なかにし礼モーツァルト・コレクションより」(アーティストハウス)
 2021.01.15 (金)  追悼〜なかにし礼さんへの私的レクイエム第一章
 昨年のクリスマス・イブになかにし礼さんの訃報が飛び込んできた。モーツァルトの「レクイエム」を聴く。寂寥の極みである。なぜなら、この偉大な作家とは少なからず縁があったからである。

 あれは2000年春の昼下がり、お台場を見下ろすニッポン放送のスタジオだった。モニターからは特番のエンディング曲「石狩挽歌」が流れていた。「これで大全集のプロモーションが終わったね。おつかれさま」となかにし礼さん。「なにかこのままお別れするのは寂しい気がします。よろしければクラシックものを一緒にやりませんか。例えば『なかにし礼選曲のモーツァルト・コレクション』とか」。私の口からこんな言葉が咄嗟に出ていた。そしてこの提案から、氏との付き合いは歌謡曲からクラシックに広がることになった。

第一章:歌謡曲編〜作詩家・作家としてのなかにし礼さんと

 なかにし礼さんとのお付き合いは、「なかにし礼大全集〜夢と喝采の日々」CD21枚組52,500円(税込)という、なかにし作品417曲収録の通販商品から始まった。この大全集がBMG JAPANから発売されたのが1999年2月。この稀代の作詩家の作品は大小問わずほぼすべてのレコード会社に散在。制作を担当した川原浩明君は、なかにしさんの要求に応えるべくレコード各社との折衝を重ねること8年。超難産の末の完成だった。
 完成後は販売促進である。これを任されたのが私だった。まずは通販カタログの作成である。ここではなかにしさんと対談。「大全集」のセールス・ポイントを掘り下げた。以下印象的だったやり取りを思い起こしてみよう。
岡村   ところでなかにし先生にとって詩を書くことの魅力とは何でしょうか。
なかにし それは「無個性になることの喜び」なんですよ。自分の個性にこだわらずに、自分を無にしていって、多くの人と協調する原理のようなものをつかみとることかな。
岡村  「なかにし礼大全集」の収録楽曲をちょっとながめただけでも、一人の方がよくこれほど多種多様な作品を作り出せるものだと感心しますが、その多彩さも“無個性”と関連があるのかもしれませんね。
なかにし そうだと思います。僕の思いを歌うのではない。きっかけはそうであっても、それが世の中の人たちの思いに繋がらなければ意味がない。例えば「石狩挽歌」は、確かに自分の私小説みたいなものではあるけれど、これだけじゃだめだ、と思っていたときに「オンボロロ」というフレーズが天から降ってきた。これで繋がった、と思った。そこでヒットを確信したんです。
岡村   なるほど、「オンボロロ」がなかにしさんと聞き手との架け橋になったわけですね。また一方で、それまでずっと低迷していた歌手が先生の歌で蘇ったという例がたくさんありましたよね。
なかにし それまでの路線とは違う路線を敷いてあげたということもありますが、僕が詩を書くときは、歌手に歌わせることを前提に依頼を受けるわけで、そのときに思うことは、その歌手が一生その歌を歌いつづけずにはいられないようにという宿命を込めてつくるんですよ。
 「さすがプロ」という発言の数々だった。この他にも、「ご自身が好きな曲ベスト3は?」との質問には、「知りたくないの」「石狩挽歌」「時には娼婦のように」を挙げられた(因みに私は、「石狩挽歌」「五月のバラ」「グッド・バイ・マイ・ラブ」といったところか)。さらに、作詩と小説の違いや自身の今後の方向性についてはこんな風に語っておられた。「作詩というのは4×100mリレーの第一走者。小説はマラソン、完全に個の世界。でも僕の中で両者は対等。決して小説家に転向したわけじゃない。たまたま今は小説の方が面白いというだけのこと。だからこの全集が良いくぎりとなったのは確かです」。
 対談後の別れ際に、「岡村さん、『兄弟』まだ読んでなければ、次 会った時に差し上げますよ」と言われた。数日後にいただいた「兄弟」(文芸春秋社)には「大全集おつかれさまでした!岡村晃様 なかにし礼」とのサインが添えられていた。

 前年に発売されたなかにし礼の小説デビュー作「兄弟」は、1999年3月、テレビ朝日でドラマ化される。なかにし礼の兄にビートたけし、なかにし礼に豊川悦司、女性陣は桃井かおり、麻生祐未、余貴美子など豪華な顔ぶれで脚本は竹山洋である。この情報をキャッチして、即、テレ朝と交渉。ドラマ内での「大全集」告知を実現、想定以上の売り上げを果たした。
 これらを始めとして、テレビ&ラジオ番組へのブッキング、新聞・雑誌への記事工作、レコード店での販売等メディアミックス・プロモーションを展開。ほぼ満足のゆく実績を上げることができた。これは無論なかにし礼の知名度に拠るものだが、小説「兄弟」の扉頁に記された「おつかれさま!」のサインに、あの大作家が当方の努力に対しいくばくかの感謝の意を表してくれたことを感じて、えらくうれしかったことが今更のように思い出される。
 「兄弟」はなかにし礼半生の自叙伝的小説である。氏は満州の牡丹江で生まれ、8歳で終戦を迎え、翌年母と姉と3人で命がけの逃避行の末に故郷の小樽に引き揚げてくる。特攻隊の生き残りだった兄正一(小説では政之)は、2年遅れで家族と合流。普通ならここから平穏な生活が始まるはずだったが、氏の場合は、余人が及ばぬ波乱万丈の人生を送ることになる。そしてそれは例えようもなく特異な存在だった兄との関係性のなせる業だった。小説の冒頭もエンディングも「兄貴、死んでくれて本当にありがとう」なのだからその異様さが解ろうというものだ。

 シャンソンの訳詩を生業としていたころ、石原裕次郎との運命的な出会があって歌謡曲の作詩を手掛けるようになる。1965年、菅原洋一のために訳詩した「知りたくないの」が大ヒット。開花した才能は堰を切った奔流の如く流れ出し歌謡界を席巻した。

恋のハレルヤ(黛ジュン)、恋のフーガ(ザ・ピーナッツ)、エメラルドの伝説(ザ・テンプターズ)、「花の首飾り」(ザ・タイガース)、愛のさざなみ(島倉千代子)、天使の誘惑(黛ジュン)、人形の家(弘田三枝子)、夜と朝のあいだに(ピーター)、港町ブルース(森進一)、恋の奴隷(奥村チヨ)、ドリフのズンドコ節(ザ・ドリフターズ)、君は心の妻だから(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)、今日でお別れ(菅原洋一)、手紙(由紀さおり)、あなたならどうする(いしだあゆみ)、雨がやんだら(朝丘雪路)、グッド・バイ・マイ・ラブ(アン・ルイス)、心のこり(細川たかし)、石狩挽歌(北原ミレイ)、時には娼婦のように(黒沢年男)、北酒場(細川たかし)、まつり(北島三郎)、わが人生に悔いなし(石原裕次郎)、風の盆恋歌(石川さゆり)、AMBITIOUS JAPAN!(TOKIO)等の大ヒット曲を始め、書いた詩は4000曲。「天使の誘惑」、「今日でお別れ」、「北酒場」の3曲は日本レコード大賞に輝いている。

 曲に纏わるエピソードの数々は、氏から仕事の合間に、会社のアーティスト・ルームやホテルの喫茶室などで聞くことができた。「『過去』という言葉はこの歌の肝だから、絶対に引かなかったよ」(知りたくないの)、「アメリカの貨物船が見えたとき、助かった これで日本に帰れる、思わず“ハレルヤ!”って快哉を叫んでいたね」(恋のハレルヤ)。「双子の掛け合い、これってフーガ。依頼を受けたとき、これしかないと思ったね」(恋のフーガ)、「オンボロロ オンボロボロロが天から降りてきた」(石狩挽歌)。「夜は女性名詞、朝は男性名詞。これ、ピーターのジェンダーに重なるんだよ」(夜と朝のあいだに)・・・・・ これらの話はテレビ等でも語られているが、氏の口から直接聞くことができたのは貴重な体験だった。特に、学生時代に好んで聴いていた「恋のハレルヤ」が、その根底に作者の戦争体験が潜んでいようとは夢にも思っていなかっただけに、マジックの種明かしにも似た衝撃と感動を覚えた。
 なかにし氏はまた、あるとき、こんなことも言っていた。「歌というのはね、作ってしまったら完全に作者の手を離れちゃう。ヴェルディの歌劇『ナブッコ』の『翔べ、黄金の翼にのって』じゃないけれど、わが想いを翼に託すしかないんだな。自由にはばたけ、みんなに届けってね。ヒットは聴いた人が決めるものだから」、そして常に口にされていたのは「自由と平和」への願いだった。

 なかにし氏は「作詩の魅力は無個性になることの喜び」というが、それは詩作という行為のことであって詩そのものが無個性ということではない。むしろ氏の創造する詩世界は個性の塊である。しかもそこには上質な芸術の香りが漂う。例えば・・・・・「恋のハレルヤ」からは昭和という時代の光と影、「恋のフーガ」からはバッハのポリフォニー、「花の首飾り」はバレエ「白鳥の湖」、「愛のさざなみ」からはレルシュタープの「湖に小舟」の詩、「夕月」からは平安朝文学の香り、「エメラルドの伝説」からはノイシュヴァンシュタイン城の湖と若き皇帝、「夜と朝のあいだに」では「フィガロの結婚」のケルビーノ、「五月のバラ」はフランス・オペラの一場面、「時には娼婦のように」からは「タンホイザー」のヴェーヌスの妖艶さ。その他シャンソンの歌世界はいうに及ばずだ。

 なかにし礼の作品からはこのような様々なイメージが万華鏡のように膨らんでくる。舞台も洋の東西・今昔を問わず実に多彩である。すべてを詩化するなかにし礼の感性である。これほどまでの多様性、芸術性は他の作詞家からは決して見いだせない。 しからば、これらの作品はどのようにして生まれてくるのか? おそらくそれは、悲惨な戦争体験、愛憎半ばする昭和への思い、自由と平和への渇望、消えることなきデラシネの感覚、限りない好奇心、芸術への理解と共感、深い造詣と教養、確かな審美眼、天性のセンスとレトリック。これらが渾然一体となって化学反応を起こした結果だろう。これこそが天才なかにし礼の稀有なる詩世界なのである。

 なかにし礼はまた、当然ではあるが、詩だけがヒットの要素ではないことは百も承知している。例えば屈指の名曲「石狩挽歌」は、自身の人生を投影する渾身の詩、浜圭介のソーラン節をイメージしたうねりのメロディー、馬飼野俊一の北の大地に轟くような雄大なアレンジ、北原ミレイのさりげなくも芯のある一世一代の歌唱、これらが一体となってヒット曲に生まれ変わったことをよく理解している。ヒットはチームワークの産物であり、作詩家はリレーの第一走者に過ぎないことを自覚している。独尊と協調の好バランス。たくさんのヒット曲が生まれた理由の一つがここにある。

 なかにし礼の基本理念は「歌は売れてなんぼ」である。これは昨年先立った筒美京平氏と同じだ。殊に1970年には年間レコード売り上げ1500万枚を記録。これは一人の作家が成し遂げた前人未到の数字であり現在も破られていない不滅の金字塔だという。ところが、得られた莫大な印税すべてを兄が根こそぎかっさらってしまったのだから尋常ではない。「死んでくれてありがとう」は正直な気持ちだっただろう。だがしかし、これほどまでの仕打ちを受けながらも、「むかし世話になったし、たった一人の兄なのだから・・・・・」と兄弟の情はいつもどこかに持ち続けていたようだ。これが兄弟というものかもしれないし、やはり、なかにし礼の心情の優しさなのかもしれない。

 なかにし氏は2000年1月、「兄弟」の次作「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受賞した。これは作詩の手を一時休めて小説に向かったことの一区切り。そんな感覚だったろうか。「これで小説家としての箔が付いたということかな」と照れながらもうれしそうに語っておられたのが印象的だった。そんな氏の大切な節目の時期に多少なりとも関わりを持てたことは、わが人生の中で、大いに意義深いことだった。そして、冒頭の提案「モーツァルトを作りませんか」に繋がるのである。

<参考資料>
「なかにし礼大全集〜夢と喝采の日々」CD21枚組(BMG JAPAN)
小説「兄弟」なかにし礼著(文芸春秋社)
なかにし礼自選集CD「翔べ!わが想いよ」(株式会社日音)
 2020.12.05 (土)  チャーリー・パーカー伝記「バード」を読んで
久々に出会ったジャズの快著である。ジョン・コルトレーンはチャーリー・パーカーを称して「ジャズのモーツァルト」と形容した。両者が夭折した天才という点でこの言葉は真実である。だが天才が形成された過程においては随分と異なる。モーツァルトは5歳で作曲した生来の天才だった。方やチャーリーは15歳で参加したジャム・セッションでベイシー・バンドのドラマーにシンバルを投げつけられるほど演奏が稚拙だった。「みんなが俺を笑ったが、今に見ていろ」と技術の習得に励んだ。チャーリーの天才は不屈の精神と努力の賜物だったのだ〜こんなことが解る本なのである。訳も日本語として平易で的確。300頁超えの長編も一気に読み通せる。しかも「訳注」、例えば「フラッテッド・フィフス」(半音下げられた5度の音)とか「アンクル・トム」(白人に迎合して卑屈な態度をとる黒人のこと)などの説明も実に適切。ジャズやアメリカ社会に疎くても解読できる。これは音楽とアメリカ社会に精通した訳者の教養だろう。その他、エピソードは満載。「バード」という呼称の由来。「ビバップ」というジャズ用語が生み出された過程。「自分をまねるな」という弱い人間のせめてもの忠告。等々、数え上げればきりがなく、すべてが興味深いものばかりだ。一人の天才ミュージシャンの生き方を通して、芸術と人間性との関連性を考えさせられる興味尽きない訳本である。ジャズ・ファンのみならず、あらゆる音楽ファンにお薦めしたい。
 これは盟友川嶋文丸訳(チャック・ヘディックス著)「バード〜チャーリー・パーカーの人生と音楽」に私が寄せたレヴューである。川嶋氏から「脱稿〜発売」のアナウンスがあり、即購入、第5章まで読み終えたところで、わけあってAmazonに投稿したものである。その後全7章を完読したので、全編に則ったレヴューを書きたくなった。パーカーの尋常ならざる人生と比類なき音楽との関連性が探れればと思う。

(1)カンザスシティという町

 カンザスシティがカンザス州とミズーリ州に分割されているのは、1820年に奴隷州として合衆国に加盟したミズーリ州と、1861年に自由州として加入したカンザス州の州境をカンザス川とミズーリ川が合流するカウ・ヴァリーに設定したからだという。ちょっと奇異だと思ったがそんな歴史の産物だと分かり納得した。
 チャーリー・パーカーは1920年8月29日カンザス州カンザスシティで生まれ、1927年の夏、ミズーリ州カンザスシティに引っ越した。アルトサックスに出会ったのは子供のころ母親に買ってもらった時だが、本格的にやりだしたのはハイスクールのバンドに入ってから。練習を、毎日11〜15時間、それを3〜4年間続けたという。
 チャーリーはそのころから若輩バンドに入りナイトクラブ等で演奏し始めた。当時のカンザスシティには何百ものクラブがあって、営業は24時間、音楽が鳴り止むことはなく、酒と同時に、売春、賭博、麻薬も提供していたという。まさに清濁ごった煮的活気溢れる街だった。そんな刺激に満ちた環境の中、チャーリーは音楽と合わせマリファナにも馴染むようになる。サックスは初めからうまいわけではなかったようだ。「彼の音は痩せて甘ったるく、ひどい代物だった。会うたびに多少の上達はしたが、平凡以上のミュージシャンになりそうな兆しはほとんどなかった」と音楽仲間は語っている。そんなチャーリーだったが、1935年の12月、音楽で身を立てる決心をしてハイスクールを退学した。
 1936年の晩春、彼の音楽人生を決定づける事件が起こる。自信満々ジャム・セッションに臨んだチャーリーが、たどたどしいソロを展開中、足元にシンバルが飛んできたのである。投げたのはカウント・ベイシー楽団のドラマー、ジョー・ジョーンズ。「もういい 引き取れ」の意思表示だった。チャーリーは嘲笑する会場を背に立ち去るしかなかった。「みんなが俺を笑ったけれど、今に見ておれ」の気持ちを胸に刻んで。そして翌年の夏、ミズーリ州南部のリゾート地オザーク高原での猛特訓により音楽の極意をつかむ。市中のクラブに復帰したチャーリーの劇的進化に、ミュージシャン仲間は「信じられないほど変わっていた」と驚嘆したという。
 1936年感謝祭の日、オザークに向かうチャーリーの車が水たまりでスリップし横転事故を起こす。チャーリーは肋骨を3本折る大怪我を負った。医者は治療にモルヒネを使用。これがチャーリーの人生に暗い影を落とすことになる麻薬依存の原因となった。

 カンザスシティはチャーリー・パーカーという稀代の音楽家を生んだ必然の町である。町を出ても何かあれば舞い戻った。彼が死んだとき、母アディはここに埋葬した。彼の人生を彩った光と影、音楽と麻薬を覚えた町。愛してやまない故郷にして今も眠る安住の地。それがチャーリー・パーカーのカンザスシティなのである。

(2)チャーリー・パーカーにおける悪人正機のかたち

 チャーリー・パーカーはとんでもない男である。絶対に友達にしたくない、絶対に一緒に仕事をしたくない、と思う。それはそうだろう。彼の人間としてのだらしなさは常軌を逸しているからだ。
 チャーリーは自身のバンドを持つ前にいくつかのバンドを渡り歩いた。ジョージ・E・リー、トミー・ダグラス、バスター・スミス、ジェイ・マクシャン、ハーラン・レナード、アール・ハインズ等々。
 彼の行状は関わったすべてのバンドリーダーを手こずらせた。それは、アール・ハインズの「チャーリーは俺がこれまでの人生で出会ったなかで最悪の男だ」とのコメントに集約される。彼は誰も真似できない圧倒的なパフォーマンスをする一方で、想像を絶する素行の悪さを露呈した。彼は生涯麻薬を断ち切ることができなかった。持ち金のほとんどが麻薬に消えた。金がなければバンド仲間から借りる。借りた金を返してもらったものは一人もいない。バンドからあてがわれたサックスを質に入れて金に換える。仕事場にはそのまま手ぶらで現れる。クスリを手に入れるためにはどんな遠くへも足を延ばす。だから遅刻の常習犯である。バンドにとってこれほど迷惑な人間はいない。そう、彼の頭の中には麻薬と音楽しかなかったのだ。ハインズが言った“最悪の男”という言葉には、「余人をもって代えがたいプレイをするから手放したくないが手放さざるを得ない厄介な男」というチャーリー・パーカーへの曰く言い難い思いが込められている。

 だが一方でチャーリーは無類に優しい一面を持った人間だった。盲目のピアニスト、レニー・トリスターはこう述懐する。
私のグループがチャーリーのクインテットと対バンで出演していたときのこと。私のセットが終わったあと、いっしょに演奏していたメンバーは私を残してステージから去った。彼らはわたしがひとりでも大丈夫なことを知っていたが、それを知らなかったバードは私がステージで困っていると思った。彼はステージに駆け寄り、演奏が素晴らしかったと告げ、それとなく私に付き添ってステージから下りた。彼はこの業界の誰よりも私に親切だった。
 ピアニストのハンプトン・ホーズはこうも言う。
バードは私に温かく接してくれた。まるで兄貴のようだった。彼は私に、「自分の音楽を純粋に保て、自分自身に忠実になれ、麻薬におぼれるな」と忠告してくれた。そして、「俺の言うことをやれ、俺のやることはやるな」と言った。
 なんという親切な人間だろう。なんという心の優しい人間だろう。悪徳と美徳を併せ持つ。悪魔と天使が同居する。複雑極まりなきチャーリーの気質である。どちらが真実のチャーリーなのか。どちらも真実のチャーリーである。

 親鸞は“悪人正機”の教えを説いた。「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」。この意味は?・・・・・人間は悪をなすものだ。悪人とは煩悩や悪を自覚している人間である。善人はそれを自覚せず自分は善人だと思い込んでいる人間である。往生が自覚から生ずるものであるならば、人間なら必ず持つはずの悪というものを自覚する悪人の方が往生への道は開けている・・・・・と いうことになるのではないか。
 「俺の言うことをやれ、俺のやることはやるな Do as I say, not as I do」。このチャーリー・パーカーの言葉は、「自己の悪を自覚した人間のまっとうな道の教示」である。親鸞の「悪人正機」とはこういうことではないかと思えてくるのである。

(3)チャーリー・パーカーの音楽

 チャーリー・パーカーが初めてディジー・ガレスピーに会ったのは1940年6月末だった。その時ガレスピーはこう言った。「その男がやっていることにびっくり仰天した。彼のような音の組み立て方は、一度も聴いたことがなかった。身震いするほど感動した」。翌年二人はニューヨークで再会、共演を重ねながらジャズの革命「ビバップ」を生み出す。「ビバップ」はガレスピーが作った言葉だが、これを機にジャズはダンスの伴奏音楽から観賞音楽へと脱皮し、モダン・ジャズへの道筋をつける。

 チャーリー・パーカーに“バード”という呼称が初めて用いられたのは1945年11月のダウンビート誌上だった。元になったのは次のような一件から。チャーリーの居たバンド(ジェイ・マクシャン楽団)の車がツアー中にヤードバード(ニワトリ)を轢いてしまうが、チャーリーは民泊する家の女主人にこれを持ち寄り「このヤードバードを料理してくれないか」と頼んだという。以来、バンド仲間は彼のことを“バード”と呼ぶようになった。因みにガレスピーは“ヤード”と呼んだという。

 初対面でバードの音楽に驚嘆したガレスピーは、5年後、「チャーリー・パーカーは音の明確さが際立っている。彼のひとつの音から次の音へと移るときのスムーズな流れは、私には真似できなかった」と別角度からの評価を加える。
 評論家レナード・フェザーの言。「パーカーはとほうもなく驚異的で並外れたアルト・マンだ。彼のソロ・ワークは傑出している。もし1分間に500の音符を演奏しなければいけないとしたら、彼はそのあらゆる音符になんらかの意味を持たせながら演奏することができる」。
 これらの賛辞をよそにバード本人はこう話す。「それはただの音楽だ・・・・・私はきれいに吹こうとしているし、美しい音を求めているだけなんだ」。なんという邪念のなさだろう。彼の音楽からにじみ出るそこはかとない気品は、もしかしてこのあたりに起因するのかもしれない。

 ジョン・コルトレーンはこんな言葉を残している。
パーカーはジャズのモーツァルトだ。モーツァルトは35歳の生涯で音楽のすべてをなし遂げ、パーカーは34歳でジャズのすべてをなし遂げた。
 訳者川嶋氏のあとがきには「パーカーが実質的な意味でジャズ界を牽引し、神がかり的な力を及ぼしていたのは1948年ころまでだったとされている」とある。これに倣って、バードのこの時期のパフォーマンスを「The Savoy Recordings」(1944-1948録音)から探ってみよう。因みにこのCD-Copyは川嶋氏から譲り受けたものである。

●バードの音の粒立ちの良さと連鎖の滑らかさは収録された30曲すべてで感知される。まさにバードの飛翔。まるでモーツァルト「フィガロの結婚」序曲の冒頭のようである。この部分、たった5秒の間に2度で繋がる39の音符が連なっているのだが、バードが奏でる鳥が自由に空を飛びまわる飛行線のような音型はこれと同相である。また「バード」本文中に、「彼は写真のような記憶力を持っていた」とあるが、これはモーツァルトが9声部からなるバチカン門外不出の秘曲「ミゼレーレ」を一度で完全暗記したエピソードを連想させるものだ。

●「Koko」(1945)における力感溢れる推進力と野性的リズムはストラヴィンスキーの「春の祭典」の原始土俗性に繋がる。「バード」の本文に、「パーカーはストラヴィンスキーが大好きだった」という記述があるもの頷ける。

●「Chasin' the Bird」(1947)における対位法的メロディーラインは、絡み合う声部がくっきりと浮き立ち、「春の祭典」の緩徐部分、例えば第2部「おとめたちの神秘なつどい」などを連想させる。バードとストラヴィンスキーの音楽には、「不協和音的響きの中に各々の楽器が濁りなく溶け合う無比の清澄感」という共通項があるように思われる。バードが編み出したメロディー・コード置換の技法はストラヴィンスキーの和声法に通じているのかもしれない。

●「Perhaps」(1948)におけるマイルスのソロは一音一音が自信に満ち存在感が際立ってきている。これは、その3年前「Koko」のソロをガレスピーに委ねざるを得なかったマイルスの音楽的成長の証であり、不在がちなリーダーに代わりバンドをまとめてきた彼のリーダーシップの覚醒でもあるだろう。

 チャーリー・パーカーはジャズに革命をもたらした。彼の音楽は革新性と品格を漂わせた。彼の下で音楽とリーダーシップの基礎を学習したマイルス・デイヴィスは、その後、弛まなくジャズを変革し王道を歩み続けた。バードはジャズの進むべき道筋を示したのだ。
 2020年、クラシックの世界はベートーヴェン生誕250年のメモリアルで喧しい。バードは生誕100年。ジャズの世界はさほどざわついてはいない。そんな年に、「バード〜チャーリー・パーカーの人生と音楽」を読むことができ、チャーリー・パーカーという興味尽きない音楽人の奇怪な人生と至高の音楽を辿り体験できたことは、私にとって無上の喜びだった。このような機会を与えてくれた訳者川嶋文丸氏に最大級の賛辞と感謝を申し上げる。

<参考資料>

「バード〜チャーリー・パーカーの人生と音楽」
              (チャック・ヘディックス著 川嶋文丸訳 シンコーミュージック刊)
CD「CHARLIE PARKER〜THE SAVOY RECORDINGS(MASTER TAKES)」Vol.1,2
CD「ストラヴィンスキー:春の祭典」 ショルティ指揮:シカゴ交響楽団(1974録音)
CD「モーツァルト:歌劇序曲集」 スウィトナー指揮:シュターツカペレ・ベルリン(1976録音)
モーツァルト作曲:歌劇「フィガロの結婚」楽譜(ベーレンライター社「新モーツァルト全集」)
 2020.11.12 (木)  2020米大統領選挙クラ未知的総括
(1)大統領選はバイデン氏の勝利

 11月7日、選挙から4日目、バイデン氏が遂に声明を出した。「アメリカ大統領選としては過去最多の7400万票で当選させてもらった。この国の人たちがもたらした明白な勝利だ。分断ではなく結束を目指す大統領になることを約束する。相手を敵視することなく互いの意見を尊重し前進しよう。赤い州も青い州もない。われわれはみなアメリカ人だ」。融和と協調を約す勝利の宣言だった。態勢が決した後、まず敗者が勝者へ祝福の意を告げ、それを受けて勝者が勝利の宣言をする。これが通常の慣わしだが、トランプ氏は敗北宣言をせずゴルフに興じていた。

 史上まれにみる激戦となった2020アメリカ大統領選挙はこうして民主党ジョー・バイデン候補が勝利した。ケネディに次ぐ二人目のカトリック教徒にして就任時78歳、史上最高齢の大統領の誕生である。2008年、民主党オバマ氏に敗れた共和党マケイン氏は「オバマ氏に祝福を送るだけでなく、この国の繁栄のために善意を送ろう。どんな違いがあろうとも私たちはみなアメリカ人なのだ」と支持者に呼びかけ勝者を称えた。これぞノーサイド、フェアプレーの精神である。ところが、残念ながらトランプ氏はこの精神を持ち合わせていないようだ。逆に、「数多くの疑惑がある。多くの証拠も持っている。最終的に連邦最高裁に行くことになる。勝負はまだ終わっていない。提訴に向かい月曜日から動き始める」と反撃の宣戦布告である。だが、具体的な証拠の提示はなくただの言いがかり。ここまでくるともはや狂気の沙汰としか言いようがない。

 勝敗は明らかなはずなのになぜこんな理不尽をやるのか? 愚かにもまだ活路があると思っているからだ。何が何でも法廷闘争に持ち込む。首尾よく何かが引っ掛かって審議が長引けば、12月8日の各州選挙人の選出に間に合わず、14日の選挙人投票で過半数に達する候補者が出ない可能性が出てくる。僅差ならば不誠実な選挙人に賭けるという手もなくはない。ここで決着がつかなければ、年が明けた1月6日の下院の投票に持ち込まれる。これは各州1票だから現有過半数の26票を持つ共和党が有利となる。勝つ可能性がある・・・・・トランプ側はこんなシナリオを描いているのだ。
 では、客観的に、この可能性はあるのだろうか。トランプ側は「不正がある」と言うだけで具体的な証拠は一切示していない。なので、ほぼ州乃至連邦地方裁判所の段階で棄却となるだろう。ただ心配な点が二つある。一つは、州によって僅差の場合数え直し請求が認められていること。これは正当な権利だから、時間稼ぎにはなる。二つ目は、郵便投票の着荷期日の問題である。今年は新型コロナの影響もあり郵便投票の有効着荷日が州によってマチマチとなった。ペンシルベニア州を例にとれば、11月3日までの消印があれば6日の到着まで有効としている。これについて連邦最高裁は違憲判決を行う可能性がある と指摘する向きもある。もし「投票日を超えた郵便投票は無効」という判決が出て、数え直しなど手続きに時間がかかれば、上記悪夢のシナリオが現実のものになりかねない。
 そうなるとトランプ奇跡の大逆転!? いやこんなことは考えたくもない。盟友の前ニュージャージー知事クリス・クリスティ氏は「証拠があるなら見せてほしい。なければ法廷闘争の意味はない」と言い、共和党の重鎮ロムニー上院議員は「主張は間違っている」と発言。身内からも引導を渡された格好だ。

 トランプ氏がギブアップするにはもう少し時間がかかりそうである。悪あがきを注視するのもしんどい話だ。ならばここで少し息抜きをしよう。この機会にアメリカのオーケストラを聴いてみるのはどうだろう。とはいえニューヨーク・フィルやボストン響あたりでは能がない。ならばこの際、激戦州のオケに絞るのも一興か。

(2)激戦州Swing Stateのオーケストラ

 バイデン氏の勝利を決定づけたのはペンシルベニア州である。11月3日、開票当座はトランプ氏が5ポイントの大差でリード。このあたりで、別の激戦州フロリダでトランプ氏の勝利が確定。ミシガン、ウィスコンシンでもリードして、もしや4年前の再現か!と思われた。アメリカ政治に明るいとされる評論家諸氏、例えば国際ジャーナリスト堀田佳男氏あたりは「80%トランプが勝つ」などと言い出す。別のところでは前回トランプ勝利を予想して男を上げた(?)木村太郎氏が「もうトランプの勝ち」と嬉々として語っていたと聞く。当のトランプ氏は、4日未明、「はっきり言って我々はこの選挙に勝った」とまだ開票途中にもかかわらず勝利を宣言してしまう。ところが一夜明けると様相は一変。ミシガン、ウィスコンシン、ペンシルベニアのラストベルト地域が、見る見るうちに赤が青に変色し始める。巷間いわれた「赤い蜃気楼」Red Mirageである。トランプ氏の発言も「(ペンシルベニアの)70万票のリードが魔法のように消えていった。こんな不思議なことはない。正当な票を集計すれば私の楽勝のはずだ」と疑心暗鬼&弱気に転じる。ペンシルベニアはバイデン氏の生まれ故郷でもあり本来ならば氏の圧勝でもおかしくなかったはずだが、接戦を強いられた原因は、最後のTV討論会で「温室効果ガスを排出するフラッキング方式によるシェール・オイル採掘は地球環境の観点から将来的に縮小するつもりだ」と話したバイデン氏の不用意発言だったかもしれない。この州には数十万人もの石油産業従事者がいるからだ。とはいえ最終的には、11月7日、ペンシルベニアの20をバイデン氏が獲得。アリゾナ、ノースカロライナ、ジョージア、アラスカを残しながら合計279で過半数を奪取。勝利が決まった。

 州都フィラデルフィアには名門フィラデルフィア管弦楽団がある。創立は1900年。歴代指揮者には、レオポルド・ストコフスキー、ユージン・オーマンディ、リッカルド・ムーティ、シャルル・デュトワなど名指揮者が名を連ねる。

 フィラデルフィア管で印象に残る最初の思い出は、小学生のころに見たディズニー映画「ファンタジア」(1940)である。指揮者はストコフスキーで、その格好いい指揮姿に魅了されたものだ。同じころクラシック音楽に興味を持ちはじめ、最初に買ったLPがオーマンディ指揮:フィラデルフィア管弦楽団のベートーヴェン:交響曲第5番「運命」だった。レコード番号はZL26。コロムビア・ダイアモンド・シリーズという当時流行った25cm 1000円盤である。これを1年間ほぼ毎日聴いた。当時の小遣といえば、1年間日記を書き続けた褒美におばあちゃんからもらう1000円がすべて。だから、やっと手にした1枚を1年間聴き続けるのが常 というわけだ。この状況はその後2年間続く。2枚目はオイストラッフ(Vn)とオーマンディ:フィラデルフィア管弦楽団のメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ZL39)で、3枚目はベーム指揮:ウィーン・フィルのシューベルトの交響曲第8番(当時)「未完成」(キングMP盤1000円)だった。中学生になるともう少し小遣いが増えてコレクションのペースも上がっていった。
 現在所有するフィィラデルフィア管のマイ・ベストはなんといってもオーマンディ指揮のリムスキー・コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」(1972録音)である。敬愛する五味康佑氏の影響から人生最後のスピーカーはタンノイと決めており、2004年、Tannoy Stirlingの店頭試聴のために持参したのがこのCDだった。そのとき響いてきた第3楽章「若き王子と王女」の弦のなんと美しかったことか! まさにフィラデルフィア管を形容する「ビロードの弦」そのものだった。Tannoy Stirlingを即購入したのは言うまでもない。そして、現在もその豊かで美しい響きは健在である。とまあ、ユージン・オーマンディ(1899-1985)&フィラデルフィア管弦楽団のコンビとは浅からぬ因縁があるわけである。

 次は、「ここを獲ったものが大統領選を制す」と云われたオハイオ州である。1964年以来オハイオを落として大統領になった者はいないという。バイデン氏は今回ここを落として大統領になったのだから長年のジンクスを破ったことになる。しかもこれはケネディ大統領以来というから、JFKとはよくよく縁があるというべきか。

 オハイオ州第2の都市クリーヴランドには名門クリーヴランド管弦楽団がある。創立は1918年。歴代指揮者では、エーリッヒ・ラインスドルフ、ジョージ・セル、ロリン・マゼール等が有名、現在はウィーン出身のフランツ・ウェルザー=メストが務めるが、なんといっても特筆すべきはジョージ・セル(1897-1970)であろう。セルは1946年から1970年までの長きにわたり首席指揮者に君臨、楽団員の入れ替え、厳しいトレーニングなどによって精緻なアンサンブルを実現。このオーケストラを超一流に育て上げた。現在、前記フィラデルフィア管弦楽団とともにアメリカ5大オーケストラに数えられている(他はニューヨーク・フィル、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団)。
 セル:クリーヴランド管の名演は夥しい数が残されているが、その中のマイ・ベストCDは、モーツァルト:交響曲 第40番 ト短調 K550 (1967年録音)である。セルが鍛え上げた精緻なアンサンブルが楽曲の透徹たる美しさにマッチして最高のパフォーマンスを示す。個人的にこの曲最上の演奏と確信している。

 最後は、Black Lives Matter運動が拡大するきっかけとなったミネソタ州である。今年5月25日、ミネソタ州最大の都市ミネアポリスにおいて、黒人男性ジョージ・フロイドさんは白人警官の不適切な拘束により非業の死を遂げた。これに対する抗議がBlack Lives Matterの大きなうねりとなって大統領選にも大きな影響を及ぼした。例年低かった黒人の投票率がアップ、その80%以上がバイデン氏に投じられ新大統領誕生の一翼を担った。

 ミネアポリスにはミネアポリス交響楽団がある。創立は1903年。現在はミネソタ管弦楽団と名称が変わっている。歴代指揮者には、ユージン・オーマンディ、ディミトリ・ミトロプーロス、アンタル・ドラティ、スタニスワフ・スクロヴァチェフスキら、いずれ劣らぬ強者曲者が名を連ねる。中でも出色はアンタル・ドラティ(1906-88)だろう。ドラティの明快で力強い音楽づくりは、ミネアポリス管の歯切れのよい響きと実によくマッチしている。マーキュリーに遺された幾多の録音の中では、レスピーギ:交響詩「ローマの松」(1960年録音)がこのコンビの特色をよく表した好演である。
 余談だが、ドラティといえば、なんといってもドヴォルザークの交響曲 第9番 「新世界より」(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団1959年録音)が凄い。実はこれを知ったのは盟友川嶋文丸氏の教示から。彼の「新世界より」のベスト演奏というので是非聴いてみたくなり、知人で所蔵2万枚のコレクター氏など、あちこち当たるも手掛かりなく、最終的に川嶋氏本人から貸与を受けたという代物である。とにかく聴いてびっくりの名演奏だった。明快なティンパニーの打音、強くて潤いのある弦の響き、自在なアゴーギク。殊に終楽章コーダの空前絶後のアッチェランドと最終音の11秒に及ぶ(クーベリックは7秒、カラヤンは9秒)フェルマータの対比には度肝を抜かれた。望郷の念がこのロングトーンに凝縮している。これほどの名演奏は滅多にお目にかかれるものではない。現在所有するのは川嶋氏のCDコピーだが、彼には感謝しつつ、いずれ本チャンで持ちたいもの と念じている。

 アメリカ大統領選はバイデン氏の勝利と出たが、トランプ氏の悪あがきは当分収まりそうもなく、情勢はまだまだ予断を許さない。トランプ氏が7200万票という大量票を獲った事実も重く、分断は上下&左右に複層化して益々深まる様相を呈している。両院の捻じれが生じる可能性も高く、新大統領は難しい政権運営を強いられることになりそうだ。混沌が鎮まる様子はない。平穏な世界はいつ訪れるのだろうか。
 2020.10.05 (土)  大統領選挙から不思議の国アメリカを探る
Prologue〜大坂なおみの全米オープンがもたらした波紋 

 大坂なおみの全米オープン優勝は別の意味で話題を呼んだ。大会期間中、白人警察官暴力の犠牲になった黒人の名前を記したマスクを日替わりで装着して登場。8月31日の初戦から9月13日決勝まで7名の犠牲者の名前が世界に示された。人種差別へのスマートな抗議。これを全米女子プロテニス協会は容認した。思い出されるのは1968年メキシコ五輪である。陸上200mで金メダルを獲得したアメリカの黒人選手トミー・スミスが銅メダルのジョン・カーロスと共に表彰台で拳を突き上げて人種差別に抗議の意思を示した。同年4月に凶弾に倒れた公民権運動の指導者キング牧師への追悼の意味も込めた意思表示だった。IOCは憲章に反するとして二人を処分。「スポーツに政治を持ち込まない」、これが当時の習いだったわけである。あれから半世紀。時代は変わったものである。そして、大坂なおみの“マスクに黒人犠牲者の名前”は「コロナ禍」と「黒人問題」という2020大統領選の争点を期せずして炙り出した。

(1) 第1回テレビ討論会

 9月29日、アメリカ大統領選挙の重要なイベントである第1回のテレビ討論会が行われた。共和党現職のトランプVS民主党のバイデン候補との対決である。内容的には全くの不毛。アメリカの分断を象徴する討論会だった。政策論争は微塵もなく悪口の言い合いに終始。まさに子供のケンカ。トランプという人がまともでないのだから予想はしていたが余りの低俗さに情けなくなった。バイデン氏はトランプ氏を見ずに専ら視聴者に語り掛けるスタイルを貫いたが、これは相手のペースに乗らないためにとった作戦だっただろう。
 勝負はバイデン氏の勝ち というのが海外メディアの大方の見方のようだ。これを受けた日本のメディアも政策云々よりもどちらがアピールしたかに終始した。こちらも概ねバイデン氏有利と出る。支持率でリードするバイデン氏がTV討論でも勝ったというのだから、現状、「バイデン有利」とみるのが自然の読みだろう。

(2) コロナ禍に対するトランプ政権の対応

 新型コロナウィルスについて、トランプ大統領は当初、「感染しても99%は無害」「理論上暖かくなる4月には奇跡のようになくなる」「消毒液を1分で一撃、これでOKだ」など非科学的根拠なしの発言を連発。マスクはしない。集会は強行する。そんなコロナを舐め切った対応は全米を世界最大の感染国に陥れ現在も進行中だ。確かに「死亡率5%」は国家行政から見たら大した数字ではないかもしれないが、21万人超という死者数は見過ごせないはず。そしてあろうことか10月2日、本人の感染が判明。しかもホワイトハウス内で20名超のクラスター発生のオマケ付き。シャレにならない事態となった。コロナに対する不誠実な対応の報いというべきか。
 対応の不手際と自身の感染。日本なら間違いなくアウトだろうが、トランプには致命傷にならないどころかプラスに作用する という向きもある。事実10月6日には退院。病気に負けない強い大統領を演じる。ツイッターに「コロナは恐れるにたらない。みんなもコロナごときに生活を支配されないように。わがトランプ政権で開発した本当に良い薬や知見がある。いま私は20年前よりはるかにいい気分だ。15日の討論会?もちろんやるつもりさ」と書き込むなど相変わらずのトランプ節だ。とはいえ、10月1日には、感染の疑いがある中、マスクも着けずに選挙集会を敢行するなど、この非常識感はどう見てもプラスに作用するとは思えない。

(3)BLACK LIVES MATTERのうねり

 大坂なおみが全米オープン準々決勝で表示したのは、今年5月、白人警察官暴力の犠牲となった黒人George Floydさんの名前だった。彼の死をきっかけに全米で高まったのが「BLACK LIVES MATTER」の運動である。デモに連動して暴徒が出現。トランプ大統領はこれを抑えるどころかむしろ挑発し運動を煽る。保守派の民間自警団「ミリシア」の横暴には眼をつぶり、「法と秩序」Law & Orderを唱えて連邦軍の出動を示唆する。鎮静ではなく分断を助長する。「愚かな大衆を操るには憎悪を煽ることが唯一有効な手段だ」というヒトラーの手法か。狙いはむろん「暴動を抑えられる強い大統領」を印象づけるためだ。

 トランプ大統領はまたオバマ政権で決定していた$20紙幣の「ハリエット・タブマン」肖像採用を撤回している。タブマン女史は19世紀黒人の自由のために働いた活動家。$20紙幣は現行アンドリュー・ジャクソン第7代大統領で、トランプ大統領がホワイトハウス執務室に肖像画を飾るほど尊敬する人物だ。オバマ政権時代の政策すべてを否定するのがトランプ政治の肝だから、これは当然の措置と考えるしかない。オバマケア、イラン核合意、銃規制、COP21パリ協定等への対応も然りだ。

 アメリカにおける黒人差別の歴史は、1619年、オランダの軍船が連れてきた20人のアフリカ人奴隷が始まりとされる。それは南部のタバコ農場への労働力補給の必要性からだった。18世紀に入ると主流はタバコから綿花栽培に移り規模も拡大。黒人奴隷の数は飛躍的に増大。これに伴って黒人社会に階層化が生じる。農場労働者と農場主の家で働くハウス労働者の分化などである。18世紀半ばにイギリスで起こった産業革命はアメリカにも波及。北部に工業発展を促した。そこで必要となったのが安い労働力である。北部の新興勢力が目を付けたのが南部の黒人奴隷だった。「南部の奴隷を開放して安い労働力を回せ」。リンカーンの北軍が勝利した南北戦争(1861−1865)はこんな思惑を内包していたのである。
 一口に黒人問題といっても実相は複雑なものがある。白人たちは、元々奴隷だった黒人の人権をなかなか認めたがらない。州による寛容度もまちまちだ。黒人社会にも少なからず階層がある。公民権運動の歴史を見ても、正統的穏健派のキング牧師に対して、急進的武闘派のマルコムX がいたりもした。事程左様にとても一筋縄では括れない。
 これまで大統領選における黒人の投票率は低いとされてきた。反黒人保守派の集団が投票妨害を企てていて、裏ではトランプが糸を引いている などという物騒な話も流れてくる。こんな情勢の中、人口比12%の黒人票がどう動くか。重要なカギの一つである。映画「グローリー」に描かれたセルマ大行進。そんな先人の不屈の努力で勝ち取った貴重な投票権をどうか有効に活用してもらいたいものである。

(4) 白人の立場からアメリカ人気質を探る

 公民権運動の対極にある白人至上主義も見ておこう。先駆者「KKK」、ナチスの流れをくむ「アメリカ・ナチ党」「ナショナル・アライアンス」、人種差別を前面に出さず白人の優位性を守ろうとする知性派「アメリカン・ルネサンス」、さらには「プラウド・ボーイズ」などの極右過激派、「オルト・ライト」といわれる新たな保守主義者まで、実に多種多様である。これら集団は総じて、白人優位を標榜し、白人人口の減少を憂慮し、移民には反対の立場をとり、他人種の市民権に異議を唱える。主義的には保守だから概ね親トランプということになる。

 アメリカ在住の国際政治学者で屈指の論客・伊藤貫氏はかつてこんな話をしていた。
アメリカ合衆国の建国。それは、17世紀初頭イギリスから渡ってきたピルグリムファーザーズに端を発しています。彼らは、スチュワート王朝の英国国教会と対立して弾き飛ばされたピューリタン(プロテスタントの教徒)で、political & religious fanatic即ち政治的宗教的狂信の徒なんですね。本質的に「自分たちだけが正しい、だからお前たちも倣え」とする精神構造の持ち主でもある。そんな彼らがニューイングランド・コロニーを作り100年後に独立を成し遂げた。私の大好きなフランスの歴史学者トクヴィル(1805−1859)は、アメリカ人を「頑強で幼稚な人間robust & puerile」と呼びました。それは今日でも変わっていないんです。
 これは2015年にテレビ放映された「西部邁ゼミナール」からの引用だが、当時これを見て、伊藤氏の博識と見識に感服したものである。そんな伊藤氏の談に一つ付け加えておきたいことがある。「入植したピューリタンたちはその倫理性から生存に必要な勤労と節約という資本主義の精神を育んだ。これがアメリカにおける資本主義の発展につながってゆく」と考えたマックス・ウェーバーの見解である(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」より)。このような土壌から、ロックフェラー、カーネギー、フォードなどアメリカ資本主義の怪物が生まれてくるのである。
 伊藤氏の話の中で最も興味深いのは、「アメリカの建国者は『頑強で幼稚な人間』であり『自分たちだけが正しい』とする精神構造の持ち主」という部分だろうか。まるで、「アメリカ・ファースト」を標榜し子供っぽさ丸出しのトランプ氏を見るようではないか。

 アメリカ人の精神構造が覗えるもう一つの事例を提示しておこう。それは、第2次世界大戦中の連合国軍によるシシリー上陸作戦に際して、アメリカ人司令官ジョージ・パットン将軍が全軍の将兵に向かって行った訓示である。
われわれはこれから上陸してイタリア及びドイツの軍隊と戦闘を交える。諸君の中には、イタリアあるいはドイツの血をひくものもいるだろう。しかし、一つだけ覚えておけ。諸君の父祖たちは自由を愛するがゆえに、みずからの国に見切りをつけて大西洋を渡った人たちなのである。我々がこれから戦う相手の父祖たちは、諸君の父祖たちのような、苦難に耐える勇気を欠いていた人間たちであり、奴隷であることに甘んじていた人間たちだったのだ。(加藤秀俊著「アメリカ人」より)
 これは、アメリカ人の宿命的特質を捉えた上でそこに誇りと自信を植え付ける見事な訓示である。上記二つの事例から、アメリカ白人の心の奥底に潜む真情が見えてきそうである。即ち、「アメリカ人すべては移民でありその歴史は浅い。自分たちの父祖は隷属的で安穏とした生活を捨て自由を求め故国を後にした勇敢な人たちだ。彼らの起こした行動は正統で誇るべきものだ。移民だろうが歴史が浅かろうが、世界のだれよりも正しい人々なのだ。そして、彼らの精神は我々の中に確実に息づいている」ということだ。

 彼らの理念の根底には、WASP(アングロサクソン系プロテスタント教徒の白人)に象徴される偉大な先人を賛美する精神がある。彼らこそが勇敢にも未開の地アメリカに入植し本国イギリスの圧政に対し銃を携え民兵として戦い独立を勝ち取った敬愛すべき祖先なのである。米国憲法修正第2条に「人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを犯してはならない」と明記されているのは、銃持て戦った建国の歴史があるからだ。
 愛国心、自由、独立心、勇気、開拓者精神、武器保有の権利。これらは、保守リベラル問わず、一般的アメリカ白人のいくばくかが(もしかして多くが)少なからず抱いている性向(DNA) と見做しても的外れではないような気がする。“隠れトランプ”という存在もこのあたりに起因するのではないかと思えるのである。

Epilogue〜2020大統領選挙今後の展開は?

 コロナに罹ったトランプ大統領は、わずか3日間の入院で無謀ともいえる退院を試みた。自らの強さをアピールしたかったのだろうが支持率はトランプ41% VSバイデン50%とさらに広がった。作戦は凶と出たと言わざるを得ない。情勢は益々トランプ氏不利の様相を呈してきた。ではこの後、戦況はどう推移するのだろうか。岩盤層は何があっても変わらない。問題は貧困層含む浮動層の動向である。メディアには是非この観点から報道してほしいと思う。「トランプ氏の発言は岩盤支持層にはアピールしたはずです」などという無意味なコメントは不要である。では浮動層の心中はいかばかりなのか。

 バイデン候補からは「これがバイデンだ」という顔が見えてこない。「私の政治はこうだ」という強烈な主張も然りだ。見えるのは「あのトランプにあと4年間も政治をやらせていいのか」という“アンチ・トランプ”の顔だけだ。自分たちの生活を改善してくれるのか?中国に対抗できるのか? バイデン支持には不安がつきまとう。
 トランプ氏からは、良くも悪くも、「トランプの顔」が見える。あの中国に覇権をとられてたまるものか。アメリカは一番でなければならない。これをトランプならやってくれる。強いアメリカを実現してくれる。トランプは自分たちの中にあるアメリカ人のDNAを共有している。

 トランプVSバイデン。歴史上これほどまでに分断が際立った選挙戦があっただろうか。残された2度のTV討論会ではどちらに風が吹くのか。浮動層がどちらに転ぶのか。黒人たちは投票に行くのか。前回トランプに投票したRust Beltの貧困層は相変わらずトランプを支持するのか。激戦州Swing stateはどちらに振れるのか。3割を占めるといわれる郵便投票はどう影響するのか。いつになく重要視されている副大統領候補の存在がどう左右するのか・・・・・現状有利とされるバイデン氏が逃げ切るか。アメリカ人本来のDNAを覚醒させてトランプ氏が逆転するか。11月3日の投票結果を待つしかないだろう。もしや僅差と集計の遅れから年越しして最高裁に裁定が持ち込まれる可能性もある。そこで、RBGギンズバーグ判事の死が何かをもたらすのか。人種も信仰も価値観も多種多様なアメリカという国がこの選挙でどんな裁定を下すのか。混沌の2020大統領選挙である。

<参考資料>

「ジャズの歴史」相倉久人著(新潮新書)
「アメリカ人」加藤秀俊著(講談社現代新書)
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
        マックス・ウェーバー著、大塚久雄訳(岩波文庫)
「白人ナショナリズム」渡辺靖著(中公新書) 映画「グローリー」(2015米)DVD
MX-TV「西部邁ゼミナール」2015.2.22 OA
 2020.09.05 (土)  安倍政権の7年8カ月を総括する with Rayちゃん
<プロローグ>

 Rayちゃん、こんにちは。もう小学一年生なんだね。せっかくの小学校生活もコロナのお陰で変則的になっちゃったけれど、明るく賢いRayちゃんのことだから、きっと元気にやってることとジージは思うよ。
 ところで、Rayちゃん、8月28日、安倍晋三首相が辞任した。任期を1年残しての辞任は意外だった。でも持病再発ならしょうがないか。この病気、ストレスが一番まずいと聞いている。総理大臣の仕事は激務だし、殊に安倍首相の場合は固有の相当なストレスを抱えていたはずだ。まずは長い間ご苦労様でしたとその労をねぎらおう。そうしないと橋下徹さんに怒られちゃうから(笑)。
 総理大臣在任日数は桂太郎を、連続日数は佐藤栄作を抜いて、それぞれ歴代1位となった。権力は長期化すると腐敗する というけれど、安倍首相の場合はどうだったのかな。巷じゃ「ポスト安倍」で持ちきりだけど、そんなことよりRayちゃん、ここは安倍政権の7年8ケ月を振り返ることの方が先決だと思う。なんてったって史上最長政権だったのだからこれは総括するしかないでしょう。付き合ってくれるかな。

 安倍晋三氏は2006年、小泉純一郎首相から総理大臣の座を受け継いだ。その時52歳。史上最年少戦後生まれ初の総理大臣となったよ。「戦後レジームからの脱却」「美しい日本の創造」などのスローガンを掲げて勇ましく船出したが、持病の潰瘍性大腸炎が悪化してわずか1年ちょっとで辞めてしまう。病気とはいえ政権を投げ出したと批判されたね。
 そのあと、政権与党の自民党は福田康夫首相〜麻生太郎首相とつないだが、失言やら閣僚の不祥事やらで勢いは下降の一途。2009年、遂に、民主党に政権の座を明け渡した。
 「政権交代」が流行語となり「政治主導」を掲げて華々しいスタートを切った民主党政権だったが、最初の鳩山由紀夫首相の「最低でも県外」を掲げた普天間基地移設が空中分解、2011年東日本大震災では菅直人首相の福島第一原発事故対応の不手際など、「実務能力・実行力無し」を露呈。3人目の野田佳彦首相の時にはもはや死に体になっていた。民主党政権の3年3ケ月は「決められない政治」と評されたね。
 2012年12月の総選挙は自民党が圧勝の倍返し。6年前、無念の辞任に涙した安倍晋三が捲土重来を期して総理の座に返り咲いた。辛酸を舐めた在野の3年間、政治と宰相学を勉強し直したのだろう、安倍氏は見違えるほどたくましく生まれ変わっていたね。包括的スローガンは「決められる政治」。ではRayちゃん、政策別に安倍政治の足跡をたどってみよう。

(1)アベノミクス〜三本の矢

 安倍首相が真っ先に取り組んだのがアベノミクスだったね。@大胆な金融緩和A民間投資を喚起する成長戦略B機動的な財政政策を三本の矢として。これを実現するために日銀総裁に黒田東彦氏を起用した。以降黒田氏は安倍首相の在任期間中臆することなくジャブジャブとお金を市場に流し続けアベノミクスを支えたね。
 異次元といわれた大胆な金融緩和で、株価は上がり失業率は下がり雇用は改善した。為替は円安に転じ国際収支の黒字化に貢献した。15年間のデフレ沈滞は脱却したかに見えた。確かに一定の成果は認められる。だが、実質成長率は年平均1.1%と微増に止まり、実質賃金は0.5%のマイナス、物価上昇率2年で2%の目標も未達のまま、庶民の中に好景気感は生まれなかった。政策が富裕層向けで低所得層には恩恵なし。格差はますます広がった。プライマリー・バランスも一向に改善されず、国の借金は増すばかり。結果、日銀の国債保有率は4割超の異常値。MMT現代貨幣理論は大丈夫なのかな? アベノミクスは見せかけだけで実体無し、成功とは言い難い、との評価が妥当かも知れないね。でも、民主党時代よりマシなことは明らかだ。

 この間、消費税は8%、10%と上げた。この決める力は評価できる。消費税引き上げは何のため? 少子高齢化が進み毎年1兆円ずつ増え続ける社会保障費に充てるためだね。でも上げたことで消費が落ち込めば税収は減る。だから、そうならないように経済成長を図るのが「アベノミクス」だったということだね。だが実際は消費活性化は図れなかった。これは経済政策云々よりも政権が未来の「生活安心デザイン」を描けなかったからじゃないかな。コロナによるGDPダウン→税収ダウンはまあ別の話だからオミットする。

(2)地球儀を俯瞰する外交

 安倍首相は地球儀を俯瞰する外交を掲げ世界各国を飛び回ったね。訪問国数はおそらく史上最大だろう。この行動力は評価できる。目的はインフラを含めた輸出の拡大を図ること。日本のトップ・セールスマンとしてね。でも火力発電はいただけない。「パリ協定」(2015年)に逆行するものだ。原発事故を起こした国が原発を売るのも節操ない。新幹線架設もインドネシアでは中国に負けちゃったし、唯一残ったインド新幹線も土地買収が進まなくて頓挫しているようだ。安倍さんは一人で頑張るよりも、例えばユニセフと共同でアフリカの飲料水などのインフラ整備を進めるとか、少し工夫が必要だったんじゃないかな。資本力じゃ中国に敵わないんだから一味違うところを打ち出すべきだった とジージは思う。

(3)日米同盟と安全保障

 2016年12月、トランプ大統領を世界に先駆けて真っ先に訪問したのは評価できる。これで彼の信頼を勝ち取ったね。おかしな大統領だから馬が合ったのかもしれないが、日本が日米同盟を基軸としている以上、アメリカ大統領と気心が通じていることの意義は小さくないよ。でも、どちらかといえばトランプ氏に利用された感が強かったね。「武器を買え」「カジノ作れ」に対して無条件に「ハイわかりました」はいかがなものか。欠陥輸送機「オスプレイ」とポンコツ戦闘機F35の大量購入は合計ほぼ1兆円。これはムダ金でしょう。大急ぎで「IR法案」を可決してトランプ大統領の身内カジノ屋の日本進出を手助けするなんざ何をかいわんや、まったくもって相手の言いなりだ。元米大統領補佐官ボルトンの「回顧録」にも「安倍首相はまるで太鼓持ちのような発言でトランプ大統領のご機嫌取りばかりしていた」と暴露される。本人が懸命に対等をアピールしたって「やっぱりね」とネタバレしちゃう。長州出身なんだから高杉晋作の爪の垢でも煎じて飲んだらどうなのかな。「なんでもYes」じゃない日本の誇りを持った日米関係を築いてほしかった とジージは思うよ。

 2015年の安保法制(安全保障関連法)で日本は安全保障における未知の領域に踏み込んだね。安倍政権は「積極的平和」政策なんて謳っているが、なんのことはない「集団的自衛権」の行使容認だ。「日本国憲法」第9条には専守防衛の概念しかなく集団的自衛権の行使は認められていない。安倍政権は、この難題を憲法第13条「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」や第25条「生存権」などを持ち出して、解釈による行使可能を目論んだ。即ちこれらの権利が損なわれる場合は集団的自衛権の行使が許される と解釈した。

 「集団的自衛権」の行使容認は戦後安全保障における最大の転換だ。この大転換を憲法改正ではなく解釈によって行うのは安易に過ぎるし、憲法に対しても失礼だ とジージは考える。これほどの大事は絶対に憲法改正という正攻法でやるべきなんだ。
 法案審議特別委員会では「国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危機」なる文言が頻繁に飛び交ったね。憲法学者、有識者からは「憲法違反」の猛反発を受ける。さらにこれは「戦争法案」だとして一般市民のデモに発展した。ジージは「戦争法案」などと短絡的に決めつけるこれらの人たちに「安全保障をどう考えるの?」と訊いてみたいけど、ここはまあ置いておこう。
 時を戻そう。与野党間の審議は全くかみ合わない。自衛隊の任務は増えるに決まっているのに「増えない」と政権は言い張る。本質の説明を全くせずにノラリクラリとはぐらかすばかりだ。「集団的自衛権が加わるのだから自衛隊の役割は間違いなく増える。その代わりアメリカからは必ず見返りをもらう。だから理解してほしい」と正攻法で話せば議論は進むはずなのに やらない。はぐらかしは安倍政治の専売特許とあきらめるしかないのかね。かくして、政権は強行採決を断行。「安全保障関連法案」は可決された。
 安倍首相は「これで日米同盟がより強固になった」と自賛した。でもこれ自賛するほどの中身なの? ただトランプ大統領の言うことをおとなしく聞いただけのことじゃないの。日本の義務は増したけど見返りはあるの? 尖閣への中国の脅威にアメリカが盾になってくれる約束を取り付けたの。日米地位協定の改善を要求したの。普天間移設の打開策を相談したの。なにもやってないじゃないか。こんなことでは「対等な日米関係」とはお世辞身も言えない。口ばかりだ。せっかく憲法解釈というウラ技を使ってまで頑張ったのだから、しっかりと日本のメリットをぶんどってよ。アメリカに言うべきことは言おう。ご機嫌取りに終始するばかりでは舐められるだけ、とジージは思うのだ。

 日本は世界唯一の被爆国だ。その日本が核兵器廃絶のリーダーシップをとれないことも歯がゆい限りだ。それどころか国連の「核兵器禁止条約」の締結はおろか協議にも参加しないのはどういうわけだ。「核拡散防止条約」(1976年)に批准しているからいいってもんじゃない。核の傘の下に居させてもらっているからアメリカには逆らえない だ? 核の傘は傘として、ここは日本の矜持を示すべきではないのかな。でまた「防衛装備移転三原則」とかいって、実質武器輸出を容認しちゃう。どう考えても日本が本来取るべきスタンスじゃない。これはRayちゃん、ゆゆしき問題だとジージは思う。
 「日米安全保障条約」は、1951年「サンフランシスコ講和条約」締結時に、吉田茂が独断で(自らの責任をもって)締結した日本の安全保障の根幹をなす条約だ。吉田の意図は、やっと独立を果たした日本が軍事はアメリカに委ね経済発展に専念できるため、というものだった。日本は本来軍事につぎ込むべきお金を経済発展に回すことができた。Rayちゃん、これによって日本の戦後復興が実現、世界第2位の経済大国になったんだ。吉田には立派な理念があったということだね。吉田はまた「アメリカは日本の番犬」と公言した。このふてぶてしさ! こんな気概を安倍さんも持ってほしかったなあ。

(4)オリンピック招致について

 東京2020オリンピック招致は功績の一つかもしれないね。でもねRayちゃん、その時の演説で「福島はアンダー・コントロール」なんて大見得切っちゃったけど大丈夫だったのかなあ。根拠は「福島近海の調査から汚染度はWHO水質基準の500分の1」ということらしいけれど、この数字だけから制御できている と言い切るのは乱暴すぎないか。安倍首相は自説に都合のいい数字だけを当てはめる癖があるから用心しないとね。問題はむしろ、日に日にたまる汚染水の処理方法が未解決のまま、ということだ。六ヶ所村の核廃棄物もたまる一方で、処理の道筋が見えていない。フィンランドは10万年間保管するオンカロという貯蔵庫を作ってしまった。難問を解決した国もある。日本は、そういう国に学べばいいじゃないか。今回のコロナ対策も然り。いいものは素直に学ぶべし。残ったフレーズが「アベノマスク」と「ゴートー・キャンペーン」じゃお寒すぎないかい。

(5)北方領土問題

 安倍首相は、任期中にやり残したこととして、拉致問題と北方領土問題を挙げている。痛恨の極みとも言ったね。拉致問題は相手が相手だからだれがやっても難しい。だからこれは置いておくとして、問題は北方領土交渉だ。「私の世代で終止符を打つ」と意気込んだものの残念ながら失敗だった。どこがといえば、一つは「二島でよし」(1965年日ソ共同宣言を基準とする)と自らハードルを下げてしまったこと。もう一つは「とりあえず経済協力を進めてしまった」ことだ。外交は「まず、ふっかけて交渉して落としどころを探る」のが常道。だから「二島でも止むなし」と腹を括った上で「四島」からスタートするべきなのだ。これじゃ二島だって返ってこない。経済協力に関しては、うやむやのままスタートしたから、ロシアの法制下での運営になった。自ずとロシアの実効支配を認める結果になっちゃったね。これだけは避けるべきだったのにね。ロシアだって決して経済がいいというわけじゃない。泣きついてくる時が必ず来る。だからその機を捉えてこう切り出すのさ。「天然ガスを買ってやるから島返せ」って。これくらいのしたたかさがなけりゃ、あの国が言うことを聞くわけないよ。太平洋戦争末期、日ソ不可侵条約があるにもかかわらず、最後の最後に攻め入ってきて四島をかすめ取った国ですよ。しかも老獪プーチンを相手に、こんな対応で通用するわけがない。「ウラディミール」なんか呼びかけて気心知れた風を装っても、相手はしたたか、せせら笑っていますよ。ここは安倍首相、やらない方がマシだった。交渉のイロハも知らないお坊ちゃん宰相の功名心が焦りを誘って裏目に出たということかな。「痛恨の極み」とは、27回も会いながら何一つ決められなかった自分自身の情けなさ といったところだろう。目標に掲げた「戦後外交の総決算」は無残な結末に終わってしまったね。

(6)モリ〜カケ〜サクラ問題

 森友問題は、2016年、籠池泰典氏が創設を計画していた森友学園「瑞穂の国記念小学院」への国有地払い下げにおいて、約8億円の値引きなど異例な対応が明るみで出たことに端を発する。籠池氏と安倍首相は互いに「日本会議」の同志。思想的に志を同じくする間柄だ。破格の払い下げは首相のキモイリあってのことと考えるのは自然の理。ところが、2017年2月の国会で「私や妻が関係していたことになれば、これはもう、首相も国会議員も辞める」とぶっちゃった。この間、野党の調査などから、安倍昭恵夫人の明白な関与や安倍首相からの100万円の寄付などが明るみに出てきた(本人は否定)。そこで首相はどうしたか。保身のためにかつての同志を切り捨てた。一時は「日本をよくするために頑張ろう。そのためには子供たちの教育が肝心だ」と意気投合した同志を「しつこい人」と言い放ってね。籠池氏の無念はいかばかりだったかと察するよ。安倍首相の対応はいかにも情がなさ過ぎるとジージは思うのだが、それはさておき、事態はさらに邪悪な方向に進展する。
 なんと、首相の発言と矛盾する決裁文書を辻褄が合うように改ざんしたのである。舞台は払い下げを実行した財務省近畿財務局。命じたのは新たに財務省理財局長に起用された佐川宣寿氏。この方まさに政権のなんでもかんでもイエスマンだったよ。このあたりで忖度という言葉が飛び交ったわけだが、安倍首相があずかり知らぬわけはないと国民だれしも考えた。証人喚問に応じた佐川氏は「記憶にない」「刑事訴追の恐れがあり答えられない」の一点張り。こうして切り抜けた佐川氏はこの功績(?)によってか国税庁長官に大出世。ありえない理不尽さだ。一方では、改ざんを強要されたノンキャリア官僚の自殺という悲劇を生んでしまった。
 権力側は保身のために公文書を改ざんさせる。改ざんの実務を担当させられた公務員は良心の呵責に耐えかねて自らの命を絶つ。まさに不祥事。前代未聞。忖度だろうが何だろうが、こんな理不尽は許されるはずがない。安倍首相は民主主義の根幹を揺るがす大不祥事に関わったのだから、もしやその元凶だったのだから、良心ある政治家ならここで身を引くべきだっただろう。

 同時進行で明るみに出たのが加計学園問題だった。首相の刎頚の友といわれる加計幸太郎氏が新たに作る大学の「獣医学部新設」に安倍首相が特別な配慮を施した というものだ。岩盤規制を打ち砕くとして、2013年、政府が立ち上げた「国家戦略特区」構想。その一環としての獣医学部新設は、狂牛病の研究などその意義は大きく、それ自体問題はない。ところが認可において、公正ならざる経緯が見られたのだ。愛媛県今治市に新設する加計学園岡山理科大学獣医学部と京都産業大学の間で競合となったが、申請論文の出来栄え等京産大が勝っているのが誰の目にも明らかなのに、結果は「加計学園」認可という決着となった。はじめから「加計学園ありき」で進めたのではないかと追及された安倍首相は、2017年7月、「加計学園からの申請の事実を知ったのは今年の1月20日」と答弁。愛媛県からは「2年前にはご存じだったはず」との証言も。親しげにゴルフに興じる両者の映像も公開される。どう考えても不自然な答弁に、国民は、これは後ろめたさを隠すための方便だ と直感したものだ。退任した前文科省事務次官前川喜平氏が国会の証人喚問で疑惑を公言しても、政権側は別件で前川氏を中傷するなど、安倍首相を守ることに腐心するのみだった、これぞ権力の私物化以外の何物でもない。ところがこの年の11月、加計学園獣医学部は“めでたく”開校する。こんな理不尽さに国民の憤りは募る一方だったね。

 自民党は毎年桜を見る会なる国費で開催する懇親会を催している。歴史は古く始まったのは1952年だ。ここで問題になったのは、安倍政権になってからの経費の増大と野放図な招待だった。2019年の「桜を見る会」には悪徳商法会社「ジャパンライフ」代表の招待が発覚。選挙区から招いた支援者への過剰なサービスと公費の補填なども取り沙汰された。これらについて安倍首相は、招待者名簿は廃棄したとか、招待客は会費をホテルに直で支払ったとか、ホテルは個別案件の詳細は出さないとか、例によって不可解な言い訳をしまくった。それにしても文書廃棄が好きな政権だよ。そういえば、「募集したのではなく募っただけ」の答弁には笑えたね。これはまあ、歴代与党が程度の差こそあれ営々と続けてきたものだから、安倍首相だけの責任に帰すことはないのだが、筋の通った説明責任は果たすべきだったね。できなかったのはやはり後ろめたさがあったということだろう。

(7)悲願の憲法改正

 憲法改正である。憲法改正は安倍首相の悲願だが、それは祖父岸信介の遺志を継ぐものでもあった。「憲法の自主的改正」は自民党の党是でもある。本丸はもちろん「第9条」。「戦力不保持」の条文と自衛隊の存在との矛盾を改正によって解消するのが目的だ。専守防衛のために存在する自衛隊を憲法違反とする憲法学者は少なくない。が、これはあってはならないと安倍首相は考える。首相が一貫してこの持論を押し通したのならジージは評価する。当初はこの考えで進めたかったのかもしれないが、いつしか「改正」そのものが目的となってしまった とジージには映った。改正の手続きを記した「第96条」の改定、憲法第9条の条文をそのままにして「自衛隊の存在を明記する」なる変則案、「緊急事態宣言」の新規作成等々、あちこちと揺れ動く。お手軽に“とにかく改正すればよし”としか思えなくなっていく。改正の本丸が「第9条」ならばこれ一本に絞って、国民と国会議員にその意義を粘り強く説明し議論を尽くす。そんな努力を地道に貫きとおすべきではなかったか。彼には難題に立ち向かう覚悟と情熱に欠けていた と言わざるを得ない。祖父岸信介の日米の不平等さの是正を目論んだ「安保条約」への対応に比して、孫安倍晋三の「日本国憲法」へのそれは気概において天と地ほどの開きがあった。「憲法改正をした最初の総理大臣」の称号が欲しかったのかもしれないが、しょせん小手先で為しうるほど軽い作業ではなかったということだ。Rayちゃん、西郷隆盛も「政治は正道を以て行うべし」(南洲翁遺訓)と言っているよ。

(8)末尾を飾る(?)二つの不祥事

   政権末期に至っての河井法相夫妻の公職選挙法違反疑惑はなんともおぞましい事件だったね。昨夏の参院選。問題の広島選挙区の定員は2名。自民党の現職は5選を果たしている溝手顕正議員だった。政権はここに河井克行議員の妻案里氏を擁立。議席を自民で独占は聞こえはいいが明らかに溝手つぶしだ。安倍首相はかつて溝手氏に「敗因は首相の責任」(2007年参院選直後)とか「もう過去の人」(2012年)などの苦言を呈され、怨念を持ち続けていた というのが衆目の一致するところだ。そこで政権はあからさまな対応に出る。選挙資金の供出を、河井陣営には1億5000万円、溝手陣営には1500万円という前代未聞の差をつける。しかも安倍首相は、スタッフ数人を選挙事務所に常駐させ自らも現地入りして異常に熱の入った応援演説等、なりふり構わぬ支援を展開。ここまでされたら河井夫妻は何が何でも勝つしかないと考えるよね。だから金をバラマキまくった。資金は山ほどあるし、むしろ残して負けることが怖かったんだろう。結果案里氏は当選、溝手氏落選。安倍首相は見事私恨を晴らしたことになる。河井克行氏は直後の内閣改造で法務大臣の椅子を与えられ念願の初入閣を果たした。権力者の私恨のために法を犯してまで頑張ったその“ご褒美”というわけだ。こんな人間が、こともあろうに国の法を司る法務大臣になったんですよ。容疑が明るみに出たあと辞任(事実上の更迭)、安倍首相は「私の任命責任です」と釈明したが、これで済む問題じゃない。本当の悪は誰なんじゃい!

 不祥事続出安倍政権最後の止めは、2020年5月の黒川弘務東京高等検察庁検事長の検事総長就任問題だったね。様々な不祥事を覆い隠したかったのだろうか、検事総長に政権に近い黒川氏を就かせるため、人事権を持つ安倍政権が異例の公務員規定を当てはめて定年延長を図るなどその画策に走った。ところがこの思惑は、当の黒川氏が「賭けマージャン」を行っていたことが発覚してあっけなくジ・エンドのお粗末。もし黒川氏が賭けマージャンをしていなければそのまま検事総長になって、河井夫妻は助かっていたかもしれない。なんともコワい権力の闇だ。

<エピローグ>

 安倍首相辞任後、政局は直ちに「ポスト安倍」に向かって動き出す。結果を見るまでもなく菅義偉官房長官で決まりだろう。幕開け前から終わってる。改めて旧態依然たる派閥談合体質を見る感じがしたね。それはそうと、ジージが気になったのは安倍首相の対応だ。首相の意中の人は一貫して岸田文雄政調会長だったはず。これは自他ともに認める周知の事実だ。ところが首相は、8月31日、訪ねてきた岸田氏に「あなたを推す」と明言しなかったそうだ。首相は最大派閥98人を擁する実質細田派のリーダーだ。なのに細田派は菅氏の支持に回った。巷間、岸田氏は「化けない」からと首相から見切りをつけられた とも聞く。ジージは岸田氏のことが好きなわけじゃないけれど、この仕打ちはあんまりだ。人間味も一貫性も自主性もなさすぎる。まあ、いつものことではあるけれど。

 Rayちゃん、安倍政権は功罪こもごも。でも「罪」の方が圧倒的に大きかったと言えるよね。「功」はといえば、長期政権のおかげで世界の首脳会議などで堂々と中央に位置しえたこと。これは国民にとって誇らしいことではあったよ。6度の国政選挙すべてに圧勝したのも特筆ものかも知れない。でもこれは野党のだらしなさに助けられただけ。選挙に勝てばいいってもんじゃない。問題はどんな政治をやるかだよ。

 「罪」の第一は内閣人事院の設置かな。「安倍一強」の源泉だ。人事権を握った政権はその意向を強力に推し進めることができる。「人事権掌握〜官邸主導」の政治手法は手法としては間違いじゃない。上に立つ人間がまともならばね。でも実際そうはならなかった。上に立つ人間がまともじゃなかったからだ。人事権を握られた官僚は不公正と感じつつも政権の意向に沿った仕事をせざるをえなかった。所謂「忖度」ってやつだね。でもこれを非難はできない。普通の人間が生きていくためにはこうするより仕方がないところはある。やはり上に立つ人間は大事だよ。
 国民に目線を向けることよりも、権力の保持と自らの保身を優先しちゃったことも罪の一つだ。「政治は国民のもの」という自民党の党是はどこに行っちゃったのかな。国民に安全と安心を保証するのが政治の重要な役割ならば、残念ながら安倍政治にはこの基本が欠落していたね。
 閣僚の任命も適材適所とは名ばかりで、任命責任を問われる事例が続出した。前述の河井法務大臣、いつかの防衛大臣、経産大臣、五輪担当大臣、IT担当大臣、沖縄北方対策担当大臣etcと枚挙にいとまなしだ。
 懸案の少子高齢化対策、地方創生、女性活躍社会については全く成果が上がらなかった、というか、ほとんどやる気がなかったね。次に期待するしかないな。

 民主主義の重要な基本の一つ情報開示は常に閉鎖的だった。あるものをないと言い、提出してきた文書は大部分が黒塗りで覆われた。いつも上っ面の言い訳ばかりで説明責任を果たさなかった。政策の正当化と自己防衛のためには平気で嘘をついた。将来に遺すべき情報を平気で改ざんした。民主政治に必要な政権運営の透明性はことごとく損なわれた。まさに隠ぺい体質そのものだった。これらは民主政治の根幹を平然と打ち砕くまさに民主主義への裏切り行為に他ならない。これだけで功罪の「功」すべてが打ち消されると言ってもいい大きな「罪」だったね。
 「安倍一強」といわれた権力の一極集中はまた、自民党議員の意識の沈滞を招いたね。小選挙区制もこれに輪をかけた。上の言うとおりにしなければわが身が危ない。だから、言いたいことも言えない。議論も起きない。空気は濁る。風通しは悪くなる。自浄作用が働くはずもない。このままじゃ本当に日本は危ういぞ。出でよ、気概ある若手! 風穴を開けるのは君たちしかいない!!

 Rayちゃん、安倍政権の7年8ケ月は確かに憲政史上最長だったけれど、歴史は「ただ長かっただけの政権」としか評価しないかもしれないよ。確かに「決められない政治から決める政治」に転換はしたけれど、決めた中身が問題だった。そして、長かったことによって引き起こされた政治腐敗と民主主義への冒涜は、安倍政権の消し去ることのできない「負の遺産」として永久に記憶されることになるだろうね。ジージは願う 「Rayちゃんの時代には今より少しでもましな政治が行われますように」ってね。今日はどうも あ・り・が・と・う。

*最後の最後にもう一言

 朝日新聞が9月2日と3日に実施した世論調査によると「安倍長期政権」の実績評価は「大いに」と「ある程度」を合わせて「評価する」が71%だったそうだ。ジージはこれを見て愕然とした。なんとこれが民意なんだと。日本はすぐにはよくならない。だからせめて、未来に希望を託して生きるしかないだろう。この国を諦めるわけにはいかないのだから。
 2020.08.16 (日)  八月、父のことからワーグナーと万葉集に想いを馳せる
 7月末、世田谷区長がテレビで「だれでもいつでも何度でも」PCR検査が可能な体制づくりを区独自にやる と話していた。これは、国が動かないから業を煮やした末の発言だろう。なぜ国はやらないのか?やる気がないのか? つらつら考えていたら、核心的なあることに気がついた。政府の心根を下記。
新型コロナは大したシロモノではない。確かに感染者数は増え続けているが、死者数は諸外国に比べても極小。1000人程度で死亡率は2.6%。100年前のスペイン風邪の死者39万人に較べたら月とスッポンだ。お人好しの国民には適当に注意を促しておけばいい。そのうち治療薬もワクチンも出てくるからそれでジ・エンド。オリンピック?やれたらやる。できなきゃやらない。それだけよ。
 そう、確信犯的“何もしない”を決め込んだのだ。諦めたということではなく 「やったフリして時を待つ」という魂胆だろう。こう考えると、対策分科会の助言を無視してのGoToキャンペーン、官房長官の「ワーケーション」なる能天気発言、都知事との責任のなすり合いバトル、数字を出さない4段階指標、注意を促すだけの対策本部長、会見をしない総理大臣、閉会したままの国会、すべてに合点がゆく。
 これぞまさに放置国家。いい加減なもんだ。感染が増えるのは当たり前。馬鹿馬鹿しいから、もう日々の数字に一喜一憂は止めた。でもせめて、医療崩壊だけは避けてほしかったのだが、いくらもあった準備期間に無為無策。もはや崩壊状態なのに「まだ逼迫していない」の政府発言。これじゃ医師会ブチ切れる。検査は増えないウガンダ以下、ベッドは足らない、増えるは感染者数と検査難民そして自宅療養者ばかり也。何から何まで体たらく。役立たたずのアベノマスクに数百億円もつぎ込むくらいなら、国産全自動PCR検査機器「エリートインジーニアス」(単価1250万円)を各都道府県に1台ずつ無償で送付したほうがよっぽどマシ。経費は〆て6億円。10台ずつでも60億。でもそんな知恵もやる気もないだろう。嗚呼こんな国家に誰がした。嘆いたところではじまらない。そこで結論、罹ったらアウトの我ら後期高齢者は意地でも罹るわけにはまいりません。以上。

 さて、8月は先祖を偲ぶ月。殊に盆の送り日16日は祖父(1990年)と母(2018年)のW命日である。浄土宗の法要の行程に拠れば、今年は母の三回忌にあたる。だがこの状況。東京から出向いてコロナを運ぶと思わせてはいけない。そう考えて、長野の菩提寺に「法要見送り」の書状を送った。寺側の返答は「了解」だった。もしや“ほっとした”が本音だろうか。

 母が亡くなって悔やむことは多々あるが、父の情報をもっと聞いておけばよかった、というのもその一つだ。父と母は1944年10月5日に結婚(届け出)、翌1945年5月20日に私が生まれ、8月15日終戦、1947年4月23日に父が亡くなった。私は2歳未満、父との思い出があろうはずもない。そんな私に母が話してくれた父との思い出は2エピソードのみである。 一つは、「休みの日は自室にこもってレコードを聴いてばかり。ある日『これはなんという曲ですか』と尋ねると『トリスタンとイゾルデ』とボソっと一言呟いた」という話。もう一つは、「『万葉集』が好きでよく読んでいた」ということ。いやはや暗い。こんなんで楽しかったのかなあ。まあ、時代も時代。いいも悪いもただ生きるしかなかった ということだろう。

(1)父が聴いていたワーグナー「トリスタンとイゾルデ」

 父が聴いていたのはどんなレコードだったのか。当時は無論SPだ。手掛かりは「トリスタンとイゾルデ」という呟きと1944年〜1947年という期間。ここはもう、あらえびす著「名曲決定盤」を頼るしかない。因みにあらえびすとは作家野村胡堂のもう一つの筆名で音楽評論時に用いたもの。「名曲決定盤」に目を通すと、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」は一点だけあった。演奏はウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(英EMI)。そこに書かれているあらえびすの文章を抜き書きしてみよう。
ウィーンのフィルハーモニーが昔日の威容を失い、伯林のフィルハーモニーが欧羅巴における最高の地位を誇っているのは、ナチス政府の保護のせいもあろうけれども、フルトヴェングラーの統率と吸引力の致すところが大きい。ゴールドベルクが猶太人の関係でドイツを逐われることになった時、職を賭して政治当路者と争ったのはフルトヴェングラーであり、ヒンデミットが国外に放逐されることになった時、これが引き留めに奔走したのもやはりフルトヴェングラーであった。この楽団を最もよく統率して、最もよくその力を発揮させるのはフルトヴェングラーである。フルトヴェングラーあることによって伯林フィルハーモニーは最大の能力を発揮し、豪宕塊麗な音楽をきかせる。それは他のいかなる優秀な楽員を擁する各国のオーケストラといえども及ばぬところである。フルトヴェングラーの指揮した管弦楽のレコードはほとんどことごとく良いと言っていい。・・・・・中略・・・・・ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「前奏曲」と「愛の死」、この辺りを挙げておくべきであろう。
 古色蒼然、だが含蓄ある筆法である。どんな本かは忘れたが、中学校の図書館で読んだ「フルトヴェングラーはナチスの協力者だからアメリカでの演奏は許さない」と言ったトスカニーニの言葉に感化されて、当時気分は親トスカニーニ/反フルトヴェングラー になっていたものだ。もっと早くにこの文章を読んでおけばよかったのにと思う。
 文中のゴールドベルクとは当時ベルリン・フィルのコンサートマスターを務めていたシモン・ゴールドベルク(1909-1993)のことである。ユダヤ人であるがゆえにナチス統制下のベルリン・フィルを追われイギリス〜アメリカに亡命。ソロ・ヴァイオリニスト・指揮者として活躍。晩年は日本に居を移し演奏活動を展開、1988年にはピアニスト山根美代子と結婚するなど我が国ともなじみが深い。ゴールドベルクの録音は決して多くはないが、モーツァルトのソナタはリリー・クラウスとラドゥ・ルプーのピアノによる新旧二種の選集がある。私が所有する20数曲は、いずれも微かに異なる曲相の襞を自然に表出する絶妙の名人芸。加えて彼の愛器グァルネリ・デル・ジェス “バロン・ヴィッタ”はバランス良い美音を響かせて心地よい。強いて一曲ベスト・パフォーマンスを選ぶなら表現の多様さが光るルプーとのK454か。

 それはさておき、書中のフルトヴェングラー「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲」と「愛の死」の音源は4年前に手に入れた。「フルトヴェングラー/ワーグナー管弦楽集第2集」という復刻CD(WARNER CLASSICS)である。データを見ると1938年2月11日録音とある。父が聴いていた音はこれで間違いないと思った。「名曲決定盤」のあとがきに、荻昌弘氏が「(この本は)SPレコードという音楽文化の可聴全域を俯瞰しきれていた」と書いているのもこれを裏付ける。早速聴いてみる。古い録音だが音は意外とクリアーである。地にどっかりと根を張った揺るぎない土台の上にワーグナーの情念がうねりやがて浄化される。フルヴェンのワーグナー世界が確実に迫ってきた。父がこれを聴いていた と思うと感慨もひとしおである。

(2)万葉集から思うこと〜持統天皇はなぜあのような歌を詠んだのだろうか

 父の遺品は3葉の写真と1冊のノートだけである。写真は本人の肖像2枚と父母と私3人の家族写真が1枚。スナップなどは皆無だ。1冊のノートは西村眞次著「文化移動論」の父の筆写である。コピー無き時代の産物である。A5サイズのノート150頁にぎっしりと書かれている。ペンで書いたものだろう、字形は細やかで美しい。几帳面な性格が窺われる。自分とは違うなあと思う。末尾に書籍400冊ほどの目録が付いている。そこには、古事記、万葉集などの古書、西洋文学、日本文学、戯曲、歴史、科学、医学、文化、宗教、思想など多岐にわたるジャンルの書物のタイトルが記されている。まるで、図書館の分類棚を見るようだ。自身で所蔵していたものだろうか。それとも借りて読んだものだろうか。今となっては不明である。
 父の目録には、「万葉集」関係の書籍として、「万葉集古義」「万葉集辞典」「万葉伝説歌考」等合計14冊が並んでいる。母が話していた「万葉集好き」のこれが証左か。

 元号「令和」の発案者は国文学者の文学博士・中西進氏といわれている。出典が「万葉集」ということからその権威である氏に推量が及んだのだろう。天皇から名もなき民に至る幅広い詠み人が 恋愛・家族の情愛・自然への畏敬・旅情・人生の哀歓・離別の悲哀など様々な情感を詠う全4516首からなる「万葉集」。中西博士は、日本人の感性の原点ともいうべきこの歌集の面白さを広めるために多くのセミナーを開催している。元号が「令和」に改まった昨年春、一躍脚光を浴びた氏のTVドキュメントを見ていて印象に残るシーンがあった。それは以下のような内容だった。
みなさん、万葉集は面白いですよ。ここに持統天皇が詠んだ有名な歌があります。
 春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山
これ、現代語に訳すとこうなる。
 春が過ぎて夏がやって来るらしい 白い布の衣が干してある あの天の香具山に
これおかしいと思いませんか。白い布が干してあるというのは雪が山肌を白く覆っているということなんです。なぜなら香具山は神様が宿る神聖な山ですから、衣なんかを干すわけがない。となると、今度は季節が合わない。夏間近な時期に雪があるはずがないんです。いやはや天皇が詠んだ歌がこんな矛盾を抱えている。これも万葉集の面白いところなんですね。
 このエピソードが即座に響いたのは母のお陰である。母は百人一首の名手で、生前「これくらいは読んでおきなさい」と言って「小倉百人一首」の小冊子を渡してくれていた。その中に持統天皇のこの歌が(多少の語句変更ありで)載っていて、それが頭の片隅に入っていたのである。
 ウーン、夏なのに雪か。確かに矛盾だ。天皇の歌がこんな矛盾を抱えているものだろうか。例によって私の心にクラ未知的「なぜだろう」が生まれた。そしてある日、ハッと閃いた。以下は解明の経緯である。

 7世紀末、壬申の乱に勝利した天武天皇と皇后讚良は協力して新都藤原京造りを進めていた。ところが志半ばの686年天皇は崩御。傷心の中、讚良は思案した。「天皇が世継ぎに指名した息子・草壁皇子はまだ若い。それに、新都造成は夫と私の悲願。ならば私がやり遂げねばならない。ここは自分が即位して都を完成させたのち草壁に譲位するのが筋ではないか」と。ところがこの青写真は脆くも崩れ去る。689年5月7日、草壁皇子が28歳の若さで亡くなってしまったのである。690年、悲しみと決意を胸に讚良は即位。持統天皇となった。藤原京は694年に完成。大和三山に囲まれた新都は唐の都・長安にも劣らない立派な威容を誇った。持統天皇はここで新たな国づくりに邁進する。697年、草壁の長子15歳の軽皇子に譲位、文武天皇として即位させ、自らは太上天皇として、孫の後見役となる。国の行く末に一定の目途がついた702年に崩御。享年57歳だった。

 持統天皇は上記中いずれかの時期に「春過ぎて」の歌を詠んだものと思われる。まずは歌の中身を検証する。
春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山
(現代語訳:春が過ぎて夏がやって来るらしい 白い布の衣が干してある あの天の香具山に)
<検証1>「白妙の衣干したり」とはどういう状況か
 天の香具山は藤原京の東南に位置する“神が天降る山”とされる極めて神聖な山である。持統天皇も日々藤原京から崇め眺めていたことだろう。そんな神聖な山肌に白い布衣を干すだろうか。いや絶対にありえない。ならば「白妙の衣干したり」の「白妙の衣」とは白い衣ではなく「雪」でなければならない。因みにこれについては、前述中西博士セミナーにおける見解以外は、どの現代語訳をみても「雪」と解釈しているものはない。

<検証2>「春過ぎて夏来るらし」の時期はどうなのか
 これは文字通り「春から夏にかけて」ということ。動かしようがない。

<検証結果>
 検証1(白妙の衣とは雪)と検証2(時期は春から夏にかけて)から 、「天の香具山は春から夏にかけて雪に覆われていた」ということになる。出羽三山ならいざ知らず、飛鳥の地の標高153mの小山が春から夏にかけて雪に覆われることは絶対にありえない。これは明らかな矛盾である。ならばこの矛盾をどう解くか? いよいよ核心に迫る。

<岡村版新解釈>

 持統天皇はいつどのような心境で「春過ぎて」の歌を詠んだのだろうか。これを推測する。

 持統天皇の人生の中で最も無念な出来事。それは草壁皇子を失ったことではなかったか。彼こそが正統な皇位継承者にして最愛の息子だった。彼を失くした689年5月7日から間もない春から夏にかけての或る日、持統天皇(当時は皇后讚良)は造成中の藤原京に立っていた。いつものように天の香具山を見やるとそこは木々の緑がまぶしく映えている。だが皇子はもういない。香具山が雪に覆われていた冬のころ 彼はまだ元気に生きていた。できることなら「白い衣のような雪で覆われたあのころに戻って欲しい」・・・・・こうした思いで詠んだのがこの歌だった。
春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山
 私が注目したのは「衣干したり」の「干したり」の部分である。原典は万葉がなで書かれている。万葉がなは漢字の当て字。表音文字で表意文字ではない。ならば「干したり」は「欲したり」でもよくはないか。即ち、「干す」と「欲す」の掛詞。こう解釈すればすべて辻褄が合うのである。
春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり(欲したり) 天の香具山

<岡村解釈訳>
春が過ぎて夏がやって来るらしい 白い布衣を干したように
真っ白な雪があの天の香具山を覆っていて欲しいものだ
  春から夏の季節、持統天皇は神の山に白い衣のように懸かる雪を見たのである。見えないはずのもの見るなんてことがあるのか?と訝る向きには一つの万葉集の歌を例に出す。
大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は煙立ち立つ 海原はかまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は
 この歌の作者は舒明天皇、持統天皇の祖父である。これも何かの因縁か。舒明天皇は天の香具山に登って国見をする。そこから地上に立ち上る煙と共に海上にかもめが飛び立つのを見るのである。奈良に位置する天の香具山からは決して見えるはずのない海を心に映している。ならば、持統天皇に見えないはずの雪が見えても何ら不思議はないではないか。祖父は神宿る山の上から海を、孫娘は山の下から雪を、各々見えるはずのない幻想を心に映す。なんというロマンだろう。
 持統天皇の心中には「雪のある季節に戻ってほしい」との願いが宿る。正統な皇位継承者を失った統治者の無念と最愛の我が子を亡くした母の慈しみが混在しているはずである。もしも「衣干したり」で解釈が止まるならば、それは初夏の単なる情景でしかない。あの持統天皇がそんな平板な歌を詠むはずがないと思うのである。持統天皇の父は天智、祖父は舒明、祖母は皇極、夫は天武、兄は弘文、妹は元明、孫は文武と元正、曾孫は聖武の各天皇。こんな女性はどこにもいない。空前絶後高貴No.1の女性なのだ。

 「干したり」と「欲したり」が掛詞となってはじめて、「春過ぎて」の歌に持統天皇の真情が籠る。
 「春過ぎて」の歌がいつ詠まれたものであるか? これについてはまだ自身特定できてはいない。だが、もしもこの歌が草壁皇子の死後に読まれたものだったとしたならば、私の解釈が肯定されてもいいのでは と思うのである。父さんどうですか。

<参考資料>
「名曲決定盤 下」あらえびす著(中公文庫)
ワーグナー:管弦楽曲集第2集CD(WARNER CLASSICS)
  ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ集CD(DECCA)
  シモン・ゴールドベルク(Vn) ラドゥ・ルプー(P)
HNK-BS「歴史館:壬申の乱」2013.2.14 O.A.
NHK-BS「100分で名著:万葉集」2014.4.2〜23 O.A.
NHK-BS「歴史秘話ヒストリア:持統天皇の都」2015.6.10 O.A.
 2020.07.13 (月)  7月雑感
          〜なぜかノルウェー、そしてエリントンからベートーヴェン経由ラヴェルまで
 7月5日、都知事選挙に行ってきた。前回は迷うことなく小池百合子に入れたが、今回は迷いに迷った。小池百合子のコロナ対応が酷すぎるからだ。「東京アラート」「ロード・マップ」「ウィズ・コロナ」「モニタリング指標」etc横文字をこれでもかと並べ立てる。中身が伴えば横文字でもかまわないのだが、それがまったくもって中身がない。一貫性もない。言葉をもてあそんでいるだけだ。片や大阪の吉村府知事。「出口戦略」「解除基準」「再要請基準」とすべて日本語、その上どうなればこうするという基準を数字で示している。断然わかりやすい。生活の安心感を担保するのが政治の大切な役割なのだから、どちらがいいかは言うまでもない。「あの人いいワ。あの人の言うことなら聞いてやろうって気になるし」という大阪のおばちゃんの言葉がこれを裏付ける。
 コロナ対策で大幅に遅れをとった東京は都民の理解より大阪との差別化を優先した。しかもとり澄ました横文字の羅列で。見栄と女の意地しか見えてこない小池百合子はNG。ならば山本太郎?この人日本版バーニー・サンダース。理念はわかるが実現へのプロセスが危う過ぎる。維新の小野泰輔は吉村人気に乗じた衆院選への顔見世興行だろう。宇都宮健児は見込みがないのに3度目の出馬。都知事選が趣味としか思えない。立花何某は問題外。あとは泡沫候補。ただ、わが息子に「どうする?」と訊いたら「“コロナなんてただの風邪”と公言する平塚正幸にでも入れようか」というので「フザケルナ!」と一喝しておいた。いやはや誰もいない。ここはもう「後藤新平」と書くしかないか(笑)。
 結果は、即日開票後瞬時に小池百合子の再選という圧勝劇。私が誰に入れたかって?それは秘密にしておきましょう。

 さて先日、池上彰が都知事選絡みの番組の中で「東京って凄いところなんですよ。なにせ年間予算が15兆円。これはノルウェーの国家予算とほぼ同じ、スウェーデンより大きいんですから」と解説していた。私は「おや」っと思いました。ノルウェーはスウェーデンより大きいのかってね。早速両国の国勢をしらべてみる。まずはノルウェー、人口は530万人、GDPは40兆円。片やスウェーデン、1022万人と55兆円。ほーら、やっぱりスウェーデンの方が数字はでかい。なのに国家予算はノルウェーが上なんだ。これは大きい政府、即ち国民の面倒見がいい政府ということか。背景には原油・天然ガス等エネルギー資源の差もあるようだ。世界幸福度ランキングが5位とスウェーデン7位の上にいるのもこの証か。きっと住みよい国なんだな と思う。因みに日本は62位。アメリカが18位でブラジルが32位でフィリピンが52位。何が基準か知らないが日本、低すぎないか?まあ「そんなの関係ねエ」。

 ともあれ、せっかくノルウェーが出てきたのだから、ここからは退屈しのぎに友達の輪をやってみよう。ノルウェー→グリーグ→エリントン→ベートーヴェン→ラヴェル。はてさてうまくつながりますか!?

(1)エリントンのペール・ギュント、そして宗教音楽

 ノルウェーの代表的作曲家といえばエドヴァルト・ハーゲループ・グリーグ(1843-1907)だろう。代表作は「ペール・ギュント」。祖国の文豪イプセンの戯曲の付帯音楽である。なんとデューク・エリントンがこれをやっていて素晴らしい。ジャズ/クラの融合といえば、どちらの側からもほっといてよ、といったものが多い。ところがエリントンは別格。クラシックはあくまで素材。自分の音楽として完全に落とし込む。それはもう紛れもないエリントン・ミュージックだ。
 「朝」が特に圧巻。この原曲、実はモロッコが舞台なのだが、出だしの清澄なフルートの響きから、聴く者ほとんどがノルウェーのフィヨルド辺りの風景を連想する。では、エリントン版はどうか。フルートに始まる主メロを終始一貫カーネイのバリトンサックスに置き換える。リズムは3拍子。バックには打楽器が薄くリズムを刻む。よく聞くとこちらは2拍子系。これがなんとも絶妙なのだ。映画「モロッコ」(1930)の外人部隊の足音が聞こえる。マレーネ・ディートリッヒがゲーリー・クーパーを追って裸足でサハラ砂漠に一歩を踏み出すラストシーンが浮かんでくる。
 余談だが、クーパーがディートリッヒの幸せを願い別れを告げるシーンがある。彼女がいない間に鏡に口紅で「I changed my mind, Good luck !」と書いて立ち去るのだが、これまさにユーミン「ルージュの伝言」。ユーミンはディートリッヒの大ファンだからこれがヒントなのは間違いない。

 エリントンには「コンサート・イン・ザ・チャーチ CONCERT OF SACRED MUSIC」(1965)という異色盤がある。文字通りエリントンの宗教音楽である。ライブ会場はプレスビテリアン(長老派)教会。カルヴァン派の教会である。またエリントンは子どものころ母親に連れられてパプテスト教会に通っていたという。これらから推測すると、エリントンの宗派はカルヴァン派パプテスト=パティキュラー・パプテストと考えられる。でもまあ、これはどうでもいい。エリントンが博愛的キリスト教徒であることに変わりはないのだから。
 宗教音楽といえば、会社時代、角松敏生が私にこんなことを言ったことがある。「音楽には宗教音楽とダンス音楽しかない」って。大学で哲学を専攻していた彼らしい発言だと思って記憶に残っている。1981年夏、業界の重鎮を多数招き、葉山のレストラン「ラ・マーレ」でそれは贅沢なデビュー・イヴェントを行ったものだ。でもセールスには結び付かない。地道にライブを重ねてゆきたいという彼は、翌年1月、目黒のライブ・ハウスから再スタートを切った。駆け付けた我々は目を疑う。なんと客が10人もいない! でもそこから武道館を満杯にするまでにのし上がっていくのだから角松は大したものだ。無論これは彼の実力と負けん気のなせる業だが、一方で、自らの音楽志向とは異なりながらも常に愛情を注ぎサポートし続けた私の部下・吉村仁の功績も見逃せない。因みに彼は名匠吉村公三郎監督の三男で、ラ・マーレの社主とは幼馴染である。

 話を本題に戻そう。エリントン「CONCERT OF SACRED MUSIC」は「ダビデ 神の御前にて全力をもて踊れり」という曲で締めくくる。讃美歌とタップダンスで構成されるこの曲は、まさに宗教とダンスの一体化である。「COME SUNDAY」と同一主題のコラール部分は1コーラス24小節の繰り替えし。敬虔な響きである。これを聴いていてふとある楽曲が浮かんできた。ベートーヴェンの「第九」終楽章「歓喜の歌」である。

 「第九」の「歓喜の歌」は「歓喜のいただき踏みしめたとき我らは兄弟世界は一つ」(なかにし礼訳)と歌う。エリントン「ダビデ 神の御前にて全力をもて踊れり」は「神の御前で全力で踊るダビデは歓びを皆に届ける」と歌う。「第九」のFreudeと「ダビデ」のJoyは同じ「歓び」である。4拍子イン・テンポの悠然たるメロディーも1コーラス24小節という尺も共通する。エリントンはこれを作るとき「第九」を頭に描いていた可能性がある。

(2)ベートーヴェンからラヴェルへ

 今年はベートーヴェン生誕250年のメモリアル・イヤー。本来なら年末はいつにも増して「第九」ラッシュになるはず。なのに恐らくコロナが水を差す。なんともやる瀬無い事態である。
 さて「第九」である。確かに音楽史上最大級に画期的な交響曲である。その最たるものは声楽を初めて取り入れたことなのだが、特異なことはもう一つある。ベートーヴェンは終楽章(第4楽章)に“異質な”声楽を入れるためある工夫を施した。それは「歓喜の歌」の主題を導き出すために、1〜3楽章を形成した主題すべてを打ち消すのである。一つ出して「これは違う」、もう一つ出して「これじゃない」、そして最後に「これもダメ」という具合に。我が師・石井宏先生は「ベートーヴェンは何を考えてるんだ。さんざん長いこと聞かせておいて、これまでのは要らないなんてお客さんに失礼だよね」と言う。確かに先生のおっしゃることもわかる。でも今か今かと待つからこその感動というのもあるのでは とも思う。

 私が注目するのは、打ち消し後に「歓喜の歌」の主題がお待たせしましたとばかりにオーケストラで提示される部分、第4楽章の第93小節〜第188小節である。最初の1コーラス(24小節)はチェロだけで、2コーラス目にヴィオラとファゴットが加わり、3コーラス目にヴァイオリンが加わり、4コーラス目で管楽器も加わった全奏となる。この間、同じメロディーが同じテンポで転調も変奏もなく繰り返される。コーラスごとに楽器が加わるから自然にクレッシェンドがかかる。そして全奏のフォルティシモで締めくくる。4コーラス96小節。こんな主題の提示は音楽史上にない。おや、この形、何かに似てないか?・・・・・そうだラヴェルの「ボレロ」だ!

 「ボレロ」は16小節が1コーラスの主題Aと主題Bが転調も変奏もされずに終始同じリズム同じテンポで繰り返される。変化するのは楽器の組み合わせと音のダイナミクスのみ。フルートの最弱音に始まりクラリネット〜ファゴット〜小クラリネット〜オーボエ・ダモーレ〜ミュート付き小トランペット〜テナーサックス〜ソプラノサックス〜ホルン〜オーボエ〜トロンボーンなどに受け継がれクレッシェンドされて最後にはオーケストラ全奏のフォルティシモで終わる。この他にもハープ、ピッコロ、イングリシュホルン、チェレスタ等、それはもう色彩の大洪水である。一方、構成を示せば[AABB]×4+ABコーダ と実にシンプル。ここはまさしく前述「第九」と同形式だ。

 ラヴェル(1875-1937)は、スペイン風の舞曲を所望する個性派の舞踏家イダ・ルビンシテインから、アルベニスのピアノ曲「イベリア」の管弦楽編曲の依頼を受ける。ところがこの編曲は既にアルボスが行っていたことが判明。そこで新たにオリジナルを作曲することになる。体調がすぐれずアイディアも浮かばないラヴェルにアメリカ行きが迫っていた。彼は作曲を中断したまま、1928年1月〜4月、アメリカ演奏旅行を敢行する。ニューヨーク、ボストン、シカゴ、クリーヴランド、サンフランシスコ、ロサンジェルス、デトロイトなどを訪問したラヴェルは各地で大喝采を受ける。体調もいつしか好転。演奏旅行は大成功裡に終わった。
 ラヴェルは帰国後直ちに、ルビンシテイン女史の依頼に取り掛かる。その夏のある日、彼はサン=ジャン=ド=リュズの家でピアノを弾きながら友人にこう語ったという。「この主題には何かしら執拗なものがあるとは思わないかい。僕はこいつを全然展開させずに、オーケストラを少しずつ大きくしてゆくだけで、なんども繰りかえしてみようと思うんだ」。これぞ「ボレロ」の形。「第九」と同じ形式である。
 その後オーケストレーションが施され完成をみた「ボレロ」は、1928年11月22日、パリ・オペラ座で、イダ・ルビンシテインのバレエ団によって初演された。斬新な曲想で衝撃を与えた「ボレロ」は、バレエ音楽の枠を超え、オーケストラ・ピースとしてもラヴェル随一のヒット作となった。

 日本の評論家諸氏は「ボレロ」という楽曲をどう評価しているのか。所有するCDから代表的なライナーノーツを拾ってみる。
340小節にわたって一貫して刻まれるボレロのリズムにのって、スペイン風の2つの主題が姿を変えずにくり返されるという全く独創的な形式がとられている。(ミュンシュ盤、岡本稔)

これほどまでにユニークな発想に基づく音楽は、音楽史上でも稀といってよいだろう。 (ブーレーズ盤、柴田龍一)

曲の初めから終わりまで、たったひとつのクレッシェンドでできている。実に大胆かつ奇抜な作曲技法である。(アバド盤、志鳥栄八郎)
 「全く独創的」「ユニークな発想」「大胆かつ奇抜」「音楽史上 稀」など、総じて曲の斬新さを強調している。他のライナーノーツも概ねこんな感じではあるが、「第九」との関連性に言及した記述にはお目にかかったことがない。「ボレロ」が「音楽史上稀な斬新さ」と云われる由縁は、管弦楽の魔術師と呼ばれるラヴェルのオーケストレーションの見事さもあるだろうが、かなりの部分はその形式に起因していると思う。

 アメリカ演奏旅行をはさんで完成を見た「ボレロ」。そこに潜む「第九」との関連性を鑑みると、もしやラヴェルはアメリカ旅行中に、「第九」→「ボレロ」の発想の何らかのヒントを得たのではないか。そんな気がしてくるのである。作曲家は決してタネ明かしはしないもの。だからこのことが証明される日は永久にこないだろう。でも私は信じたい。ラヴェルの傑作「ボレロ」、実はそのフォルムは「第九」から発想したものだ ということを。

<参考資料>
デューク・エリントン「ペール・ギュント」CD(1960録音)
デューク・エリントン「CONCERT OF SACRED MUSIC」CD(1965)
映画「モロッコ」DVD(1930)
ラヴェル作曲:「ボレロ」楽譜(音楽之友社)
ラヴェル作曲:「ボレロ」CD
 ミュンシュ指揮:ボストン交響楽団(1956)
 ブーレーズ指揮:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1993)
 アバド指揮:ロンドン交響楽団(1985)
ベートーヴェン作曲:交響曲 第9番 ニ短調 作品125 楽譜(DOVER PUBLICATION,INC.)
ベートーヴェン作曲:交響曲 第9番 ニ短調 作品125 CD
 クレンペラー指揮:フィルハーモニア管弦楽団&合唱団(1957)
 堤俊作指揮:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団(1990 なかにし礼訳)
 2020.06.26 (金)  626に纏わるブラウニーとアマデウス10
          〜PORTRAIT OF SIDNEY BECHETにおけるエリントンの選択
 今回のテーマは、「エリントンはなぜ『PORTRAIT OF SIDNEY BECHET』のソロをラッセル・プロコープssではなくポール・ゴンザルヴェスtsに託したか」である。
 エリントンは、ニューオリンズ出身の偉大なミュージシャン、シドニー・ベシェへのオマージュとして「NEWORLEANS SUITE」の中に「PORTRAIT OF SIDNEY BECHET」を書いた。ベシェはジャズの世界にソプラノサックスを持ち込んだ先駆者にして名手である。それゆえレコーディングでは、ベシェの弟子ジョニー・ホッジスに30年ぶりにソプラノサックスを吹かせるつもりだった。ところが・・・・・そのあたりの状況を「エリントン自伝」から再度引用させていただく。
1970年5月11日、わたしは彼にもう一度ソプラノサキソフォンを手にさせ、「NEWORLEANS SUITE」の「PORTRAIT OF SIDNEY BECHET」を演奏させるにはどうしたものかと思いを巡らせていた。すると電話が鳴り、彼が掛り付けの歯医者の診断室で死んだことを知らされたのだ。
・・・・・彼ほど生き生きとしたショーマンも偉大なステージの個性もいなかった。そればかりでなく彼の出す音は非常に美しく、よく聴く者に涙させたものだ。彼という偉大な存在を失い、私のバンドは、将来、二度と同じような音を出せないだろう。わたしは、夜ごと夜ごと40年間ものあいだ、ジョニー・ホッジスを出演させる特権を持ったことをうれしく思うとともに、感謝している。たぶん、わたしはうらやましがられたと思うが、今は神に感謝を・・・・・。神よ、独自性を貫いた、このすばらしい巨人に祝福を。神よ、ジョニー・ホッジスに祝福を。
 エリントンはこうして、かけがえのないメンバーを失った。だがその二日後の5月13日には「NEWORLEANS SUITE」の残りのレコーディングが控えている。そこで彼は「PORTRAIT OF SIDNEY BECHET」でジョニー・ホッジスに30年ぶりにソプラノサックスを吹かせるつもりだった。そこに彼の突然の死。ショックでないはずがない。だが、感傷に浸ってばかりはいられない。ソロを誰に託せばいいのか。エリントンに喫緊の選択が迫られていた。
 選択肢は二つ。(1)ラッセル・プロコープにソプラノサックスを吹かせる。(2)ポール・ゴンザルヴェスのテナーサックスに代替えする。エリントンの胸の内に分け入ってみよう。

(1)ラッセル・プロコープの場合

 ラッセル・プロコープは1946年にエリントン楽団に加入、以来エリントンが亡くなるまでの28年間、とぎれることなく在団した。このような例はハリー・カーネイを置いて他にはいない。因みにカーネイは、1926年に加入、以来48年間常にエリントニアンであり続けた。そして、エリントンが亡くなった5か月後の1974年10月、師のあとを追うように旅立って行ったのである。
 カーネイは在団中一貫してバリトンサックスを手に楽団の屋台骨を支え続けた。が、一方プロコープの場合は、傍らには同じアルトサックス(as)の天才ジョニー・ホッジスがいた。asにおいては二番手に甘んじざるを得なかったのである。ところがホッジスは、1951年3月から1955年8月までの4年余、楽団を離れてしまう(理由はこの際置いておこう)。ここぞ、楽団のエースasの座を射止めるチャンスではなかったか。ところが、エリントンはその任を、ウィリー・スミス、ヒルトン・ジェファーソン、リック・ヘンダーソンらスタープレイヤーの引き抜きによってカバーしたのである。その上エースの席をホッジスのために空けておいたともいわれている。このあたりのプロコープの状況やいかに。当時のアルバムから、ゴンザルヴェスとの比較も交えつつ、探ってみよう。

「MASTERPIECES BY ELLINGTON」(Columbia)1950年12月19日録音
LP時代の到来を受けて、エリントンが時間に縛られず思い切ったアレンジで4曲を録音した画期的なアルバムである。「MOOD INDIGO」では3ヶ月後に楽団を去るジョニー・ホッジスが抑えの利いた美しいasを聞かせ、加入後間もないゴンザルヴェスはオブリガート風の短いソロをとる。が、プロコープにはasのソロらしいソロは見当たらない。

「ELLINGTON UPTOWN」(Columbia)1951年12月〜1952年7月録音
ホッジス不在。ここには、「クラ未知」エリントン・テーマの発端となった「BEFORE MY TIME」のソプラノサックス・ソロがある。これは瀬川先生の回答もあってプロコープと判明した。「エリントン自伝」には「プロコープはアルバート・システム・クラリネットのニューオリンズ・スタイルの名手である」との件がある。これは、瀬川先生見解の「ディキシー系の古いスタイルの演奏にはプロコープの方が向いているとエリントンは考えたのではないか」とも合致する。二人の貴重な証言といえる。事実、プロコープは1973年「イーストバーン・コンサート」の「タイガー・ラグ」で、ニューオリンズ・スタイルの見事なクラリネット・プレイを披露している。

「DUKE ELLINGTON LET’S DANCE SERIES」(Capitol)1953〜1954年録音
ホッジス不在。プロコープのasは「黒と茶の幻想」でテーマを提示する。その他では、「昔は良かったね」やゴンザルヴェスのテナーサックス(ts)と共に前衛的な奏法で聞かせる「ハッピー・ゴー・ラッキー・ローカル」もインパクト大だ。「捧ぐるは愛のみ」のクラリネットもなかなかいいが、サックス・ソロとしては、「Cジャム・ブルース」、「カクテルズ・フォー・トゥ」、「マイ・オールド・フレーム」等におけるゴンザルヴェスの力強く流麗なtsの方に一日の長を感じる。

「ELLINGTON 55」(Capitol)1953年〜1955年録音
ホッジス不在。プロコープは、「LET’S DANCE SERIES」と同傾向のアレンジで「黒と茶の幻想」を演奏。その他では、特殊奏法でやる「イン・ザ・ムード」がユニーク。一方ゴンザルヴェスは、「ボディ・アンド・ソウル」で、ウェブスターにもホーキンスにもないユニークなソロを聞かせる。

「DUKE ELLINGTON PRESENTS・・・」(Bethlehem)1956年録音
プロコープasの「インディアン・サマー」は端正なトーンの中に仄かな郷愁が漂う秀演。彼のベスト・パフォーマンスか。一緒に収録されているホッジスの「デイ・ドリーム」も自己ベストともいえる屈指の名演奏。二人の音色の違いが楽しめる。片やゴンザルヴェスは「ローラ」と「コットン・テイル」で緩急の対比を聞かせて見事である。

 上記アルバム群を通して言えることは、プロコープは、ホッジスの在不在に拘わらず、それほど目立ったサックス・ソロはとっていない ということだ。ホッジスが太陽ならプロコープは月。プロコープはやはり、“偉大なバイプレイヤー”だったのだ。

 エリントンは「自伝」の中で、プロコープのことをこう評している・・・・・「一種の神童だったラッセル・プロコープは数々のバンドを渡り歩き、1946年、わたしたちのバンドに参加、以来ずうっと一緒に演奏している。この経験を通して、彼は清潔で紳士的な風貌の、威厳と優雅さを持った人間に成長したのだ。その上、いつも信頼される誠実でオールラウンドのミュージシャンになったのである」。

 片や、プロコープはエリントンのことをどう思っていたのだろうか。市販ビデオ「不滅のデューク・エリントン」に彼のインタビューが遺されている。そこからは、不世出のリーダー デューク・エリントンと共に長く音楽をやれた一人の音楽家の幸福感がひしひしと伝わってくる・・・・・「デュークはまさに巨匠。ジャズの最高峰だ。彼と音楽をやると世界が輝きだすのさ。そんなデュークと28年も一緒にやれた。これは特権以外のないものでもない。だって、肌の黒いやつも白いやつもみんなデュークとやりたがっていたんだから」。

(2)ポール・ゴンザルヴェスの場合

 ポール・ゴンザルヴェスは、テナーサックスの主砲ベン・ウェブスターの後釜として、1950年、エリントン楽団に加入した。「エリントン自伝」には、「ポールは加入した時ウェブスターの出す音をすべて把握していた」とある。片時もジャック・ダニエルズを離すことがなかった呑んだくれのナイスガイは研究熱心な努力家でもあったのだ。「ほっつき歩くヴァイオリンStrolling violin」と仇名して可愛がったエリントンも、実は真面目なゴンザルヴェスの本質を見抜いていたに違いない。それゆえか、ゴンザルヴェスは加入直後からソロ・プレイヤーとしての頭角を(特にライブにおいて)現してゆく。以下ライブ・パフォーマンスの経緯を辿ってみよう。
 1951年1月21日メトロポリタン・オペラハウス・コンサートでは早くも、「A列車で行こう」で長尺の堂々たるソロを披露している。1952年3月には「チェルシー・ブリッジ」、4月30日マケロイズ・ボールルームでは「ウォーム・バレイ」、11月14日カーネギーホール・コンサートでは「バードランドの子守歌」、1954年4月13日エンバシー・オーディトリウムでは再度「A列車で行こう」で、其々存在感あるソロを展開。注目すべきは、1953年3月30日パサディナ・オーディトリウムにおける「ディミヌエンド・アンド・クレッシェンド・イン・ブルー」の快演で、ここには来るべき大ブレイクの原形がある。これらの経緯を見ると、ポール・ゴンザルヴェスは、入団3〜4年にして既にバンドの中心的存在になりつつあったことがわかる。そして、あの伝説の「ニューポート27コーラス」に繋がるのである。

 1956年7月8日深夜のニューポート・ジャズ・フェスティバル。トリを務めるデューク・エリントン・オーケストラの演奏がスタートする。日付変わって演目は「ディミヌエンド・アンド・クレッシェンド・イン・ブルー」に。エリントンが軽快なピアノで先導。ブラスとリードの全奏〜掛け合いを経て再度ピアノ・ソロに戻ったエリントンは煽るような掛け声を発する。促されるようにゴンザルヴェスが颯爽とテナーサックス・ソロをスタートさせる。演奏は徐々にヒートアップしメンバーの手拍子も大きくなる。力強く情感豊かなゴンザルヴェスのプレイに観客はざわめき嬌声が飛び交う。踊りだすものまで現れて場内は騒然。ソロが始まって6分余り、会場は興奮の坩堝と化し、圧巻の27コーラスが完結する。

 この日、15曲90分に及ぶエリントン・オーケストラのステージの中で、前年復帰したホッジスのプレイも期待に違わず光るものがあったが、「ディミヌエンド・アンド・クレッシェンド・イン・ブルー」で見せたゴンザルヴェスのパフォーマンスこそが「ニューポート56」の伝説となった。それは同時に、エリントン楽団が待ち望んだベン・ウェブスターの後継者にして至宝ジョニー・ホッジスに比肩しうるサックスのスターが誕生した瞬間だったのである。

 ポール・ゴンザルヴェスをスターの座に押し上げた「ディミヌエンド・アンド・クレッシェンド・イン・ブルー」は、ニューポート56以降、ライブのクライマックスを飾る呼び物となった。ゴンザルヴェスのサックス・プレイは尺こそ短くなるも訴求力はさらに増してゆく。中でも「All Star Road Band, Carrolltown 1957)は、その躍動感&高揚感において、ニューポートを凌ぐ圧巻のパフォーマンスとなっている。

(3)デューク・エリントンの選択〜「PORTRAIT OF SIDNEY BECHET」のソロを誰に託すのか

 まずはラッセル・プロコープだ。「PORTRAIT OF SIDNEY BECHET」はベシェへの捧げものである。二日前まではジョニー・ホッジスにソプラノサックスを吹かせるつもりだった。ならば、ここはプロコープのソプラノが適切な選択ではなかろうか。プロコープは優秀で器用なプレイヤーだ。「CONTROVERSIAL SUITE」の「BEFORE MY TIME」で確かなソプラノ・ソロを聞かせてくれた彼ならば今回も立派にやり遂げてくれるに違いない。

 だが、待てよ。ホッジスのソプラノが不可能になったからといって、それをそのままプロコープに託すのは果たして妥当だろうか。ホッジスが吹くソプラノだからこそ意義がある。しかも、私の胸は今、失ったばかりのジョニー・ホッジスへの想いに駆られている。ならば、ソプラノサックスよりもホッジスに拘るのが筋ではないか。ベシェへのオマージュよりもホッジスへの追悼を優先する。これが私の偽らざる気持ちだ。ならばホッジスの追悼に相応しい形とは?・・・
・・そうだ、ここはポール・ゴンザルヴェスのテナーサックスだ。ホッジスは紛れもない我がオーケストラの至宝だった。彼に並ぶものなど誰もいはしなかったが、僅かにポールだけがサックスの一方の雄としてホッジスに比肩しえた。サックスの両輪といっても間違いではなかった。ここはゴンザルヴェスしかいない。
 エリントンはこうしてポール・ゴンザルヴェスの起用を決めた。シドニー・ベシェへのオマージュよりもジョニー・ホッジスへのレクイエムを選択したのである。

 果たしてこの選択はどうであったか。アルバム「NEWORLEANS SUITE」の第7曲「PORTRAIT OF SIDNEY BECHET」におけるスタンリー・ダンスと野口先生のライナーノーツを引用する。
ポール・ゴンザルヴェスのプレイは偉大なものだった。セッションにおいて、ミュージシャンたちが抱いていた大きな喪失感は、表面的には慎ましく覆い隠されていた。だが、その感情はテナーサックス・ソロのやさしい悲しさに見事に描き出されている。その一方で、ベシェも忘れ去られてはいない。かつてジョニー・ホッジスが自分なりのやり方でやったように、ゴンザルヴェスはこの名匠の滑らかな音の流れを巧みに表現している。(スタンリー・ダンス 川嶋文丸氏訳)

呑んだくれで、いつもデュークを手こずらせているポール(だがデュークはポールのミュージシャンとしての実力を誰よりも買っている)はそのプレイにいつも観衆を失望させることはなかった。このポールはまさに絶品といえる。ベシェに捧げるはずのこの曲が、ポールによってホッジスへの鎮魂曲となった。ポールのテナーは2日前に亡き人となったグレイト・ジャズマンを想ってすすり泣いている。そこには温かい大家庭のようなエリントン一家のあるじデューク・エリントンの人間的な偉大さがにじみ出ている。(野口久光先生のライナーノーツ)
 ここは、日米二人のオーソリティによる記述だけで十分だろう。エリントンの選択は間違っていなかったのである。だが一つ、最後にチョッピリ本音を言わせていただければ、ジョニー・ホッジスのソプラノサックスを聴いてみたかった!

 野口久光、瀬川昌久両先生による記述の違いから始まったエリントン探求の旅は今回で終わることにする。未知の領域での様々な遭遇と研究は実に興味深く有意義だった。それよりもなによりも、万華鏡のようなエリントンの音楽世界を満喫できたことこそが貴重な体験だった。至福の時間だった。これはひとえに、ジャズに疎かった私に、真摯に応えてくださった瀬川先生、そして、多大な助力と助言を供与してくれた中野氏と川嶋氏と関口氏のご厚意によるものです。ここに謹んで感謝申し上げます。

 <参考資料>

 「A列車で行こう〜デューク・エリントン自伝」(中上哲夫訳 晶文社)
 「デューク・エリントン」(柴田浩一著 愛育社)
 LP「NEWORLEANS SUITE」解説書(スタンリー・ダンス、野口久光著)
 VIDEO「不滅のデューク・エリントン」(にっかつビデオフィルムズ)
 2020.05.20 (水)  626に纏わるブラウニーとアマデウス9〜再度、瀬川先生とのやり取り、検証
 コロナ禍の中、外交評論家の岡本行夫氏が亡くなった。74歳、大学の同期でもある。総理補佐官時代の活躍はいうに及ばず、テレビに出演するようになってからも、その的確にして品格すら感じさせる表現において、数多のコメンテイターの中でも、出色の存在だった。真の意味でのレトリックというものを身に付けていたのだと思う。謹んで冥福をお祈りする。

 さて、本題に入ろう。ここ数か月、「クラ未知」では、エリントンの「BEFORE MY TIME」の“TIGER RAG”部分におけるソプラノサックスは誰か? というテーマについてあれこれ考えてきた。それが、瀬川昌久先生の誠意ある回答によってほぼ納得のゆく結論が得られた。根拠は、アメリカ盤CD「ELLINGTON UPTOWN」におけるスタンリー・ダンスの解説にProcope (on both clarinet and soprano saxophone)と明記されていること。もう一つは、ラッセル・プロコープが、「CORNELL UNIVERSITY CONCERT 1948.12.10」においてソプラノサックスを吹いている事実があることの2点だった。

(1)瀬川先生に更なる質問を

 古い資料を引っ張り出してまで、お答えいただいた瀬川先生には感謝の気持ちをお伝えした。その際、せっかくなので新たな質問をさせていただく。無論当面のテーマに関する案件である。そして、またまた丁寧な回答をいただいた。以下はそのやり取りである。

<質問>4月10日

 お手紙ありがとうございます。前回頂いたご回答だけで満足しておりましたが、この度、資料をお探しいただいてまでご返事くださったこと、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。そこで、今回、誠に恐縮ですが、もう一つ質問をお許しいただきたく、何卒よろしくお願い申し上げます。

 私の手許に「デューク・エリントン1951〜アット・メトロポリタン・オペラ・ハウス」というライブLPがあります。この日「CONTROVERSIAL SUITE」の初演が行われたようでこの演奏も収録されています。
 このライナーノーツは野口先生ですが、それによりますと例の「BEFORE MY TIME」のソプラノサックス・ソロはプロコープと書かれています。ところがこの日、1951年1月21日にはまだジョニー・ホッジスが在団しています。普通に考えると、エリントンなら、このディキシーランド風のソプラノサックスをベシェの弟子ホッジスに吹かせると思うのです。
 瀬川先生は、ホッジスかプロコープ、どちらとお考えでしょうか。やはり、ライナーノーツどおりプロコープでしょうか。
 毎度、めんどうな質問ばかりで申し訳ございません。新型コロナにより不穏な情勢でございます。先生のご健康を心から祈り申し上げます。

<回答>4月15日

 エリントンのメトロポリタン・オペラ・ハウスのコンサートにおける「BFORE MY TIME」における興味深いご質問ですが・・・・・。
 「BEFORE MY TIME」 と「LATER」 2曲から成る「CONTROVERSIAL SUITE」 は、エリントンは、1951年1月21日のメトロポリタンと1951年12月11日N.Y.における録音の計2回しか演奏してないようです。
 エリントンは1950年頃ビバップやプログレッシヴ・ジャズのよび声が非常に盛んになったジャズ界の状況の中で、「自分より以前の時代」と「これから以降の時代」というタイトルで初期のディキシーや当時のモダン・ジャズ的サウンドを表現したのだと思います。
 「BEFORE MY TIME」の“TIGER RAG”の演奏については、ディキシー系の古いスタイルの演奏にはホッジスやウィリー・スミスより、プロコープの方が向いていると考えたのではないでしょうか。ホッジスにはもっと彼らしいオリジナルなプレイを期待していたので、又そんなに長いプレイでもないので、ディキシー調にも慣れているプロコープを選んだのではないでしょうか。
 シドニー・ベシェのプレイももともとニューオリンズの古いディキシースタイルとは少し異なると私は思っており、“TIGER RAG” をホッジスに吹かせる意味(それも長いソロならともかく7つのテーマの一つという短さ)をエリントンが感じたとは思えません。
 唯私は今手許に1月21日のメトロポリタンのCDが見当たらないので、12月11日の録音時と両者のプロコープのソロを比較することができません。その点は今度関口さんたちとの会合で是非両方のソロをきき比べてみて下さい。尚エリントン・ディスコグラフィーによると野口先生のライナーにあるtpのファッツ・フォードというという名は記載されていません。しかし、vocalistとしてBETTY ROCHE とLEO WATSON の名がのっています。以上御参考に供します。

 実に懇切丁寧な回答であり当該のテーマについても”興味深い“と評してくださった。感謝の念は深まるばかりである。いただいた回答を箇条書きで整理してみる。

@ 「CONTROVERSIAL SUITE」はたった二回しか演奏されていない

 生涯で3000曲以上も書いたといわれるエリントンだから、このような例はいくらもあるのだろうが、それにしても、実演1回、レコーディング1回とは予想外の少なさだった。逆に多いのはどのくらいあるのか?例えば、大好きな「SOPHISTICATED LADY」はどうかと思い、手持ちの音源を当ってみた。初録音と思われる1933年2月15日録音のColumbia盤から1969年4月29日「70歳バースデイ・コンサート」まで、30数年にわたって16種のtakeが確認できた。これら同曲異演を聴き比べるのは実に楽しく、クラシックよりも遥かに面白い。クラシックの場合、作品は楽譜によって固定化されているが、エリントンの場合は作品そのものが変貌する。演奏し音化されたものが作品だからだ。作品はキャリアの中で様々に変容し増殖する。自家薬籠中の不易流行である。クラシックとは異次元の世界。エリントンの偉大さであり面白さである。

A エリントンは「BEFORE MY TIME」の“TIGER RAG”の演奏において、ディキー系の古いスタイルの演奏にはホッジスやウィリー・スミスより、プロコープの方が向いていると考えたのではないか。シドニー・ベシェのプレイももともとニューオリンズの古いディキシースタイルとは少し異なっていて、“TIGER RAG” をホッジスに吹かせる意味(それも長いソロならともかく7つのテーマの一つという短さ)をエリントンが感じたとは思えない。

 「BEFORE MY TIME」の”TIGER RAG”部分はラッセル・プロコープの方が向いており、わざわざジョニー・ホッジスを起用する必要はない。そうエリントンは考えたのではないか、と先生はおっしゃるのである。浅学な私はディキシー系のスタイルもベシェのスタイルも、ましてや“TIGER RAG”におけるプロコープとホッジスの適合性を判定するスキルもないが、博識洽聞な瀬川先生のご意見は尊重すべきであろう。
 ホッジスはまた、「CONTROVERSIAL SUITE」が初演された1951年1月21日の2ケ月後には、エリントン楽団を去っている。当時の二人の関係性を推察する術もないが、エリントンは、楽団の至宝ともいうべきホッジスを失うことの痛手を感じていたことは間違いないと思う。そんな折、1940年以降ソプラノを手にしていないホッジスに僅か10数小節の短いパートを吹かせる必要性をエリントンが感じなかったことは想像に難くない。しかも、1940年にホッジスがソプラノサックスを置いた理由は、「アルトとソプラノの二刀流をやるならギャラを二倍くれ」とエリントンに申し出たが却下されたため という話もあるくらいだ。等々、これらの状況を踏まえると、エリントンが優秀なユーティリティ・プレイヤーであるプロコープを起用したのは頷ける話である。

(2)ホッジスとプロコープのソプラノサックス比較

 瀬川先生はまた、最初のお手紙の中で、「CORNELL UNIVERSITY CONCERT」(1948年12月10日)の「REMINISCING IN TENPO」で、プロコープはソプラノサックスを演奏している と教えてくださった。実はこの音源はCD化されており、中野氏がcopyを送ってくれた(彼はまたこのCD copyを瀬川先生にお贈りして大いに喜ばれている)。さらに驚くべきは、同じ「REMINISCING IN TEMPO」のスタジオ録音盤(1935.9.12)ではジョニー・ホッジスがソプラノサックスを吹いているのである。おそらく両者がソプラノサックスで同じ曲を演奏しているケースは他にないだろう。これを比較試聴しない手はない。

 ホッジスのスタジオ録音盤では、曲の冒頭20秒あたりから50秒程度聴くことができる。 プロコープの「CORNELL UNIVERSITY CONCERT」ライブ盤では、1分03秒あたりから同程度聴かれる。タイムの違いはエリントンのMCが入るからで、演奏箇所も尺もほぼ同じである。 前半はオブリガートでソロというには物足りないが、頑張ってトライしてみよう。

 ホッジスは甘く濃厚でヴィブラートは多め。対してプロコープはスッキリ爽やかでヴィブラートは少なめである。デフォルメして対峙の図式に置き換えると、妖艶ホッジスVS清澄プロコープとなろうか。この差異は、アルバム「DUKE ELLINGTON PRESENTS・・・」(BETHLEHEM 56)で、より明確に識別できる。ホッジス「DAY DREAM」VSプロコープ「INDIAN SUMMER」。双方主力のアルトによる本格的なソロは対比際立つの感がある。

 では、この特徴を二つの「BEFORE MY TIME」“TIGER RAG”に投影・照合してみよう。

*「デューク・エリントン1951〜アット・メトロポリタン・オペラ・ハウス」1951年1月21日の録音
 ソプラノサックス・ソロは、16分音符が16小節にわたって頻出する高速スタイルの曲想。
 演奏は、練習不足なのか音の粒立ちが粗く流れもスムーズさに欠ける。音色はやや乾いた感じがする。

*「ELLINGTON UPTOWN」1951年12月11日のスタジオ録音
 ソロの音型は同様だが尺が32小節と倍の長さになっている。
 演奏は、連鎖する音の粒立ちが鮮明で流れも淀みがない。実に見事なパフォーマンスである。音色は硬質で乾いた感じが強い。

 判定は中々に難しい。しかも私は音色に弱いときている。楽器に限らず声の判別も苦手なのだ。ならばこれはもう、科学的に分析鑑定するしかないと考え、「日本音響研究所」に問い合わせた。「当方は声紋鑑定が主であり、そのような鑑定はしたことがない。ご期待に沿えないだろうし料金も10万は下らないと思う」との返答だった。即決で止める。

 さあ、あとは自分の耳を頼るしかない。何度も何度も聞き返す・・・・・結果、やっと、どちらかと言えば、ヴィブラート少なめ清澄系に聞こえてきた。やはりこれはラッセル・プロコープ という結論に達した。
 エリントンは「BEFORE MY TIME」“TIGER RAG”のソプラノサックス・ソロにラッセル・プロコープを起用した。1951年1月21日メトロポリタンでの初演時は準備不足でおぼつかなかったが、練習を積んだ12月11日のスタジオ録音では自信に満ちたパフォーマンスを実現した、という流れだろうか。

 前回は客観情勢から、今回は音そのものの検証が加わって、一定の結論を出すことができた。長期間あれこれ考えてきたテーマに一応の決着がついた。テーマは些細なことである。結論は平凡である。だから無意味だ、と云えば決してそうではない。この過程の中で、エリントンの音楽そのものに深く食い込むことができたような気がした。お陰で、クラシック主軸の音楽人生に更なる幅が生じたと思う。これは意義深く大きな収穫である。

 さて、次なる課題は、「PORTRAIT OF SIDNEY BECHET」のソロがプロコープssではなくなぜポール・ゴンザルヴェスtsになったのか、である。これについては再度次回に先送りしたい。

<参考資料>

LP「デューク・エリントン1951〜アット・メトロポリタン・オペラ・ハウス」(RJL2638)
CD「DUKE ELLIGTON CORNELL CONCERT 1948.12.10」(01612-65114-2)
CD「DUKE ELLINGTON REMINISCING IN TEMPO」(CK48654)
CD「ELLINGTON UPTOWN」(CK40836)
CD「DUKE ELLINGTON PRESENTS・・・」(CDSOL45508)
 2020.04.25 (日)  626に纏わるブラウニーとアマデウス8
          〜やはりプロコープ、そして瀬川昌久先生
 新型コロナ騒動の中、志村けんが亡くなった。海外メディアは「日本の喜劇王」と形容したが、これは決して誇張ではないと思った。初代喜劇王エノケン〜渥美清〜志村けんに至る流れこそ、日本の喜劇の歴史において、ある意味主流にして王道と考えられるからだ。
 4月1日の朝日新聞に、西条昇氏の追悼文が掲載された。「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」(TBS)の構成作家でもあった氏は、志村のコントは笑いへの厳しい姿勢の賜物だったと記す。そして、それは、すさまじい勉強量によるとてつもない知識に裏打ちされたものだったとも。私は志村の「東村山音頭」も「カラスの勝手でしょう」も好きだが、それ以上にドリフを卒業した後のNHK-TV「となりのシムラ」が大好きである。演じるのは、まるで冴えないがどこか憎めない普通のおじさん。ここまでのキャラはいくらでもあるのだが、志村の場合は+哀愁と知性がそこかしこに滲み出るのだ。そんな複層的なキャラクターが、ジャック・レモンにも似て、何ともいえず魅力的だった。2014.12.16 O.A.の「となりのシムラ」は全編傑作揃い。エンディング・ロールには二村定一の歌う「青空」が流れる。二村はエノケンとのコンビで浅草レヴュー全盛期を席捲したスター。このあたりの件は、瀬川昌久著「ジャズで踊って」に詳しい。

 瀬川昌久氏といえば、今の「クラ未知」のテーマであるエリントン「BEFORE MY TIME」のソプラノサックス・ソロは誰か? の発端となった日本盤CD「HI-FI ELLINGTON UPTOWN+1」のライナーノーツ執筆者である。1924年生まれで、三島由紀夫とは学習院高等科〜東大法学部の同級生にして親交も深かったそうだ。そんな瀬川氏に、実は私、大いにお世話になっているのである。だからここからは瀬川先生と呼ばせていただく。
 平成初期、RCAレコードを一時離れた創美企画時代、少人数のレコード会社だったため、制作・宣伝・営業何でもやらねばならず、私がジャズを受け持った時期がある。その中で編成制作に携わったのが「SWINGTIME VIDEO」というビッグ・バンド・ジャズの映像モノで、その時お世話になったのが瀬川先生だった。先生は、ジャズ素人の私にいろいろ懇切丁寧に教えてくださった。真にこころ優しい紳士だった。顧問をなさっていた富士銀行で待ち合わせての打ち合わせや六本木のライブハウスにご一緒したことなどが懐かしく思い出される。先生は現在御年96歳でご健在である。ならばということで、RCAレコードの後輩で現在ソニー・ミュージックの洋楽編成に携わる関口茂君に先生の住所を確かめて、当面の疑問を問い合わさせていただいた。以下はその経緯である。

(1) 瀬川先生への質問状と回答

 3月末、日本盤CD「HI-FI ELLINGTON UPTOWN+1」のライナーノーツ執筆者瀬川昌久先生に「CONTROVERSIAL SUITE」の「BEFORE MY TIME」のソプラノサックスに関して質問状を送らせていただく。同封した回答書が郵送されてきたのは4月3日であった。
岡村様 お手紙ありがとう存じました。当時の記憶が十分にないので以下のことしか御返事できません。宜しくお願いします。
                                    瀬川昌久

<問1>
先生が「HI-FI ELLINGTON UPTOWN+1」中の「BEFORE MY TIME」のソプラノサックス・ソロをプロコープとお書きになった理由をお聞かせください。因みに野口久光先生は、1964年発売のコロムビア盤LPのライナーノーツで、この部分を「ヒルトン・ジェファーソン(?)」と書いておられます。

<回答>
はっきり記憶しておりませんが、恐らくアメリカ盤の最新の解説に書いてあったのを引用したのではないでしょうか。因みにエリントンのソリストを全部記載している「DUKE ELLINTON'S STORY ON RECORDS COMPILED by Luciano Massogli, Leheni Pusateni,Giovanni M.Volonte」という本がありまして、私の手許には今“1951-1955”の部分がないので検証できませんが、当時誰かの所有するその本から引用したのかもしれません。それとも、冒頭で記したように、アメリカ盤の解説を引用したのかもしれません。私がわざわざプロコープの名を出したのは、何かの記載を参照しているはずです。

<問2>
私の経験では、この先生の記述以外に「プロコープがソプラノサックスを吹いた」という記述乃至事実は確認できておりません。もしその実例があればご教示ください。

<回答>
上記の書籍によるとProcopeは1948年12月10日Cornell大学のコンサートで、「Reminiscing in tempo」でSSを吹いています。その他には1959年まで見当たりません。以降は未調査です。

<問3>
この録音時、1951年12月11日にはホッジスはエリントン楽団を退団していますが、もし在籍していたならエリントンはこの部分をホッジスに託した可能性がある、とお考えでしょうか。

<回答>
エリントンがこの部分をSSソロにしたいと考えていたとすれば、当然ホッジスに吹かせたと思います。

<問4>
1970年5月13日録音の「ニューオリンズ組曲」の「シドニー・ベシエの肖像」において、エリントンはサックス・ソロを、プロコープのソプラノではなくゴンザルヴェスのテナーに託したのはなぜだとお考えでしょうか。私は、プロコープがソプラノを吹くのであれば、エリントンはここをプロコープに託したはずだと考えるものです。

<回答>
エリントンは、ソリストとしては、ゴンザルヴェスをずっと高く評価していたからではないでしょうか。
 なんというスピード、とても 96歳とは思えない。それにもまして、昔と変わらぬ律義さに有難い気持ちでいっぱいになった。もちろん即礼状を出す。ところがさらに驚くことに、4月7日に続編が届いたのである。

(2) 瀬川先生からの追伸
ご丁重なお便りを有難う存じました。先般は取り敢えず私の記憶しているところを御返事したのですが、その後下記のエリントンCD2枚のアメリカ盤解説を探し出して見たところ、次のようにStanley DanceとPatlicia Willardの解説があって、何れもプロコープのソプラノサックスと書いてあります。私の書いたソニー邦盤は、1997年発売なので、Willardの2004年より前ですから、恐らく「ELLINGTON UPTOWN」(Columbia CK40836)のスタンリー・ダンスの解説を参考にしたと思います。

「ELLINGTON UPTOWN」のStanley Danceの英文解説は次のようにあります。

The two-part “CONTROVERSIAL SUITE” premiered at Carnegie Hall is unlike any other Ellington composition in that it looks askance at contemporary Jazz Movement “BEFORE MY TIME” is amused and even contemptous reference to the prevalence of Dixieland at that time. Shorty Baker, Russell Procope (on both clarinet and soprano saxophone) and Quentin Jackson ・・・・・・
 先生のお手紙は、このあとにPatlicia Willardの解説が続くがこれは要略してもいいだろう。とにかく先生は“記憶をたどるだけでは飽き足らず”、昔の英文解説を引っ張り出して回答してくださったのである。これはさらなる感激だった。本件の言い出しっぺである中野氏に手紙のコピーを送ると「先生の音楽に対する愛情と情熱そして真摯な対応に涙がこぼれる思い・・・・」と返信をくれた。

 スタンリー・ダンスの解説には確かに「ラッセル・プロコープ(クラリネットとソプラノサックス)」と書かれている。ダンスといえば、アルバム「THE ELLINGTON ERA 1927〜1940」のライナーノーツで、1964年度グラミー賞をレナード・フェザーと共に受賞したエリントン評論のオーソリティである。なので、「BEFORE MY TIME」のソプラノサックス・ソロはラッセル・プロコープで間違いないということになる。さらに先生の回答には、「Procopeは1948年12月10日、Cornell大学コンサートにおいて、『Reminiscing in tempo』の中でSSを吹いている」とあるからして、“プロコープはこのほかにソプラノサックスを吹いていない説”も払拭された。

 だがしかし、抱き続けてきた疑問が100%解決したわけではない。謂わば半落ち状態である。なぜなら、「1970年5月13日録音の『NEWORLINS SUITE』の『PORTRAIT OF SIDNEY BECHET』のソロを、エリントンがプロコープのソプラノサックスではなくポール・ゴンザルヴェスのテナーサックスに託した」ことの説明がついていないからだ。これについては次回に回したいと思う。

<参考資料>

瀬川昌久著「ジャズで踊って」(清流出版)
NHK-TV「となりのシムラ」(2014.12.16O.A.)
 2020.03.25 (水)  626に纏わるブラウニーとアマデウス7〜あれはジョニー・ホッジス
(1)「シドニー・ベシェの肖像」におけるジョニー・ホッジスの運命

 「ニューオリンズ組曲」という曲がある。1970年、デューク・エリントンがニューオリンズ市の委嘱を受けて、ニューオリンズ・ジャズ&ヘリテイジ・フェスティヴァルのために書き下ろした9曲から成る組曲である。5曲がジャズ発祥の地ニューオリンズの歴史・風土を描いた音の画的なもの、他は、この地所縁のジャズ・プレイヤー、ルイ・アームストロング、ウェルマン・ブロード、シドニー・ベシェ、マヘリア・ジャクソンをリスペクトした音によるポートレートの4曲。風土を描く印象派的手法と先達に寄せる敬愛の情緒が見事にバランスしたエリントン後期の傑作である。
 初演は、1970年4月25日、前述のジャズ・フェスティヴァル。音の絵5曲による部分初演となった。これら5曲は4月27日に、ポートレートの4曲は5月13日に、ニューヨークで録音され、「ニューオリンズ組曲」全9曲のレコーディングが完了した。ところがこの間に、エリントン楽団にとってとんでもない出来事が起こってしまう。このあたりの件は、このフェスティヴァルを現地で体験された野口久光先生のライナーノーツに明らかである。
このレコードをきいていると、その夜のコンサートの感激がきのうのことのように甦ってくるが、その夜の演奏がいまは亡きアルトの大御所ジョニー・ホッジス最後のステージ演奏となったことも感慨無量である。ホッジスはこのコンサートの翌々日ニューヨークでこのLPの吹込セッション第一日目に参加したが、そのセッションがホッジス最後のセッションになってしまったのである。2度に分けられたこのセッション、2度目の吹込は5月13日に行われているが、ホッジスはその2日前の11日に急逝したのだった。ということはこのLPがホッジスの死の直前直後にまたがって吹込まれたわけで、エリントンにとってもまさに感慨深いレコードとなってしまったのである。
 先生はコンサート後に、エリントンから「私のレコーディングを見に来ないか」と誘われたが、せっかく来たニューオリンズの観光を楽しむため、断ってしまったという。「今考えると、デュークの一行とミューヨークに行っていたらと思わずにいられない。全く残念なことをしたものだ。」と悔やまれている。同行していたらホッジス最後のセッションに立ち会えたのに、ということだろう。

 上記状況を時系列で整理しておこう。1970年春の出来事である。

4月25日「ニューオリンズ組曲」の5曲が現地で初演。ホッジス参加。
  27日「ニューオリンズ組曲」の5曲をレコーディング。ホッジス参加。
  この間、エリントンは「ポートレート」4曲を完成するための作編曲作業を行う。
5月11日 ホッジス急死。
  13日 「ニューオリンズ組曲」の「ポートレート」4曲をレコーディング。ホッジス参加できず。

 「エリントン自伝」にこのあたりの手記が載っている。
1970年5月11日、わたしはジョニー・ホッジスにもう一度ソプラノサックスを手にさせ、「ニューオリンズ組曲」の「シドニー・ベシェの肖像」を演奏させるにはどうしたものかと思いを巡らせていた。すると電話が鳴り、彼が掛かり付けの歯医者の診断室で死んだことを知らされたのだ。
 エリントンは、「シドニー・ベシェの肖像」でホッジスに“ソプラノサックス”を吹かせるつもりだった。ホッジスは、ベシェがソプラノサックスのすべての技法を叩きこんだ唯一の弟子だから、これは当然のことだろう。それがレコーディングの二日前の訃報。なんという運命。エリントンは「『シドニー・ベシェの肖像』のホッジスを想定して書いたソプラノサックス・パートを誰に吹かせるか」という選択に迫られる・・・・・彼の選択はポール・ゴンザルヴェスのテナーサックスだった。
 そこで素朴な疑問が生じる。それは、なぜラッセル・プロコープにソプラノサックスを吹かせなかったか?ということだ。ベシェというソプラノサックスの巨人をリスペクトする曲なら、ソプラノサックスで演奏すべきではないのか。「ルイ・アームストロングの肖像」ではクーティ・ウィリアムスのトランペットを、「ウェルマン・ブロードの肖像」ではジョー・ベンジャミンのベースを夫々フィーチャーしているのだから。

 プロコープは、アルバム「Hi-Fi ELLINGTON UPTOWN」の「CONTROVERSIAL SUITE」の「BERORE MY TIME」で立派なソプラノサックス・プレイを展開している(ことになっている)。もし、プロコープがこれほどのソプラノが吹けるのなら、エリントンはなぜ「シドニー・ベシェの肖像」で彼を起用しなかったのか? そうしなかったのは、「プロコープはソプラノを吹かない、もしくは吹けない」ということにならないか。ならば、「『BEFORE MY TIME』のソプラノ・ソロはプロコープではない」ということになりはしないか。 前回2月25日の「クラ未知」では中野氏の「シドニー・ベシェ説」を取り上げた。今回はジョニー・ホッジスの場合を考えてみたい。

(2)もしや、ジョニー・ホッジスでは?

 前章「エリントン自伝」の続きはこうだ。
彼ほど生き生きとしたショーマンも偉大なステージの個性もいなかった。そればかりでなく、彼の出す音は非常に美しく、よく聴く者に涙させたものだ。――それがジョニー・ホッジスだった。これがジョニー・ホッジスである。彼という偉大な存在を失い、わたしたちのバンドは、将来、二度と同じような音を出せないだろう。ジョニー・ホッジスは、ときには美しい音を出し、ときにはロマンチックな音を出し、時には聴くひとが感覚的と言った音を出した。わたしは、女性たちが彼の音を称して「とってもひとを惹きつけずにはおかない音だ」と言っているのを耳にしたことがある。「ジープス・ブルース」「昔はよかったね」「アイ・レット・ア・ソング・ゴー・アウト・オブ・マイ・ハート」「オール・オブ・ミー」「明るい表通りで」「パッション・フラワー」「デイ・ドリーム」その他たくさんの曲を演奏した。わたしは、夜ごと夜ごと、40年間もの長いあいだ、ジョニー・ホッジスを出演させる特権を持ったことをうれしく思うとともに、感謝している。いまは神に感謝を・・・・・。神よ、ジョニー・ホッジスに祝福を。
 愛情あふれる追悼文である。「エリントン自伝」には90人を超えるミュージシャンの横顔や思い出話が登場するが、ジョニー・ホッジス(1907−70)のように具体的に7曲もの楽曲を挙げて述懐しているミュージシャンはいない。これはホッジスが、エリントンにとって、いかに特別な存在だったかを物語る。これらはすべて素晴らしいが、私が特に気に入っているのは、春風のように艶めかしい「デイ・ドリーム」と秋空のように爽やかな「オール・オブ・ミー」である。ホッジスはエリントンにとって真の宝物だったのだ。

 ところがである。ホッジスはエリントンと袂を分かった時期がある。1951年3月〜1955年8月の期間である(ローレンス・ブラウン(tb)とソニー・グリア(ds)も一緒に辞めている)。この出来事は巷間、「ホッジスの乱」などといわれているが、乱というよりむしろ、純粋な音楽的自由への意思、即ち、尊敬する親分への恩義に対して自由に音楽をやりたいというが願望が打ち克った結果だった、と思う。これはまあ、彼ほどの才能なら当たり前の話ではある。とはいえ、エリントンにはショックだったはず。楽団の中で、ホッジスほど余人にとって代え難い存在はいないと思えるからだ。だが、エリントンはおそらく、心中の動揺を顕わにせずに静かに笑って送り出したに違いない。クーティ・ウィリアムスの場合がそうであったように。だから、ホッジスは帰ってきた。自分の居場所はここしかないと悟って。それは彼の彼我の演奏を比べてみればよくわかる。独立後夥しい数のレコーディングを行っているが、エリントン楽団のものの方が格段にいいのだ。例えば十八番「デイ・ドリーム」一つをとってみても、独立時代のアルバム「In a mellow tones」(1954録音)収録のものより、出戻ってからの「Duke Ellington Presents・・・」(1956)や「and his mother called him Bill(ビリー・ストレイホーンに捧ぐ)」(1967)の方が圧倒的にいい。気合も乗りも音の艶も違う。エリントンの存在がいい意味での緊張感を生み、オーケストラ固有のサウンドがソロと絶妙な色彩的融和を果たすのだろう。結局ホッジスはエリントンの掌の内で彷徨っていたに過ぎない。孫悟空と三蔵法師の関係のように。

 エリントン・オーケストラが「CONTROVERSIAL SUITE」を初演したのは1951年1月21日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場だった(この音はRCAの国内盤LPで聴くことができる。解説は野口久光先生)。この時はまだホッジスが在団していた。もう一人のアルトサックス奏者はラッセル・プロコープである。では、この「BEFORE MY TIME」初演ライブのソプラノサックスは誰が吹いたのか? エリントンがシドニー・ベシェを範として書いた(と思われる)この部分は、常識的に考えればホッジスに吹かせるはずである。ところが、野口久光先生の解説文には“プロコープ”とあるではないか。何度も何度も聴き比べる。ホッジスか、プロコープか。野口先生が仰るプロコープにはどんな根拠があるのか。

 第1章で検証したように、ラッセル・プロコープがソプラノサックスを吹けるのなら、1970年5月13日、「シドニー・ベシェの肖像」のスタジオ・レコーディングでエリントンは彼を起用したはずだ。そうしなかったのは、プロコープはソプラノを吹かないからだ。ならば、1951年1月21日、メトリポリタン歌劇場での「CONTROVERSIAL SUITE」の初演における「BEFORE MY TIME」のソプラノサックス・ソロはジョニー・ホッジス以外ありえない。 そして、1951年12月11日、「CONTROVERSIAL SUITE」はスタジオ録音された。この時在団するアルトサックス奏者はプロコープとウィリー・スミスである。だが、二人ともソプラノサックスは吹かない。ならば「BEFORE MY TIME」の水際立ったソプラノサックス・ソロは一体誰なんだ? たまたまニューヨークに居合わせた(可能性がある)シドニー・ベシェなのか。それとも、その時退団しているジョニー・ホッジスを呼び出して吹かせたのか?エリントンならいずれも可能だろう。それとも、やはり、ラッセル・プロコープが生涯にただ一度ソプラノサックスを手に取って一世一代の名演奏をなし遂げたのか。謎は謎を呼ぶ。真実はいったいどこにあるのだろうか。

<参考資料>

「A列車で行こう〜デューク・エリントン自伝」(中上哲夫訳、晶文社)
LP「デューク・エリントン:ニューオリンズ組曲」(野口久光解説)
LP「デューク・エリントン1951〜アット・メトロポリタン・オペラハウス」(野口久光解説)
 2020.02.25 (土)  626に纏わるブラウニーとアマデウス6〜あれはシドニー・ベシェ
1951年12月11日。 DUKEは朝からNEW YORK 30番街のCOLUMBIAのスタジオで、その日に初めてレコーディングする「CONTROVERSIAL SUITE」のPART1「BEFORE MY TIME」のリハーサルをしていた。 リハが一段落してスタジオから出て来たDUKEの前に、ソファに腰かけてウィスキーを舐めているBECHETがいた。

「Hi!来てくれたか。」とDUKE、「Good morning,DUKE」 BECHETが返す。
D「今リハーサルをやっていたんだよ。聞いてたかい?」
B「ああ、聞いてたよ。なかなか良いじゃないか。アタマのBLUESもイカしてるし、続くNew Orleans Styleのところもカッコ良いな。」
D「そうか、ありがとう。でもな、その後がチョット気に入らないんだよ。」
B「あのサックスのソロのところか?」
D「そうなんだ。あそこはステージでの初演ではJOHNNYがソプラノで吹いたんだよ。それはhotだったよ。」
B「小僧は出て行っちまったからなぁ〜。」
D「うん、そうなんだよ。 まぁ、その内飽きたら戻って来ると思ってるんだが・・・。そうだ! どうだろう。お前、チョロっとあそこんところ吹いてくんないかなぁ〜?」
B「No way! 言ったろう? 俺は今回Blue Noteでレコーディングするために、奴らからギャラと旅費を貰って来たんだから、他所でレコーディングなんかしたことがバレたら金を返さなけりゃならなくなっちまうよ!」
D「Mmmm.そうか〜。お前がやってくれると最高にキマルんだがなぁ〜。 なぁ、今日レコーディングしてもお前がOKするまではリリースしないし、リリースする時もお前の名前は絶対出さないから何とかやってくれないかなぁ〜。」
B「ん〜...。まぁ、お前にそこまで言われちゃうとなぁ。やらないわけにはいかないなぁ〜。」
D「そうか! それはありがたい! じゃあ、早速頼むよ。」

BECHETは愛用のソプラノサックスを取り出し、頭を振って「何かハメられたみたいだな。」とつぶやき、それでも気を取り直し、ウォーミングアップをしてスタジオに入って行った。レコーディングは、勿論、一発で OKだった。
 これは今年、年明け早々に中野氏から送られてきた「初夢譚」の一部である。物語は1951年12月、Blue Noteのレコーディングのためニューヨークに滞在しているシドニー・ベシェからデューク・エリントンへの電話で始まる。カズオ・イシグロ張りの音楽短編の体でなかなかに楽しめた。前回から問題にしている、例の「CONTROVERSIL SUITE」の第1曲「BEFORE MY TIME」ラストのソプラノサックス・ソロはシドニー・ベシェである、というお話である。「なんと突拍子もない」と訝る私に「これはただの当てずっぽうではない」と言うではないか。そいつは、どう転んでも面白い。今回はこの中野説を検証してみよう。

 当方のシドニー・ベシェ(1897−1959)初体験は1枚のレコードである。数年前、いつもの飲み会の席上、「これ、CDにダビングしてくれないか」と石井先生から渡されたのがSidney Bechet 「Concert At The Brussels Fair,1958」の10吋LPだった。意外に思って、「先生はジャズもお聴きになるのですか」と訊くと「いいものはいいからね」と言われた。ベシェに関する知識は、ザ・ピーナッツの「可愛い花Petite Fleur」の作者、くらいしかなかったが、ダビングしながら聴くとそれは素晴らしいものだった。中でも、ベシェの緩急自在なソプラノサックスの妙技が光る「スワニー・リバー」から、ヴィック・ディッケンソンの洒脱かつメロウなトロンボーンによる「イン・ア・センチメンタル・ムード」を経て、バック・クレイトンの爽快なトランペットがゴキゲンな「オール・オブ・ミー」に至る流れは格段に心地よく、まあ、これほど楽しく心が和むアルバムも滅多にない、と感じたものだ。

 そんなシドニー・ベシェを思い出させてくれたのが中野氏の「初夢譚」である。確かに「BEFORE MY TIME」のソプラノサックス・ソロは、前回でも記した通り、16分音符が連なる超速弾き圧巻のソロである。だがしかし、パーソネルにはベシェのクレジットはない。それでも彼は、「これがベシェというのは当てずっぽうではなく自分の脳内では必然なのです」と熱い。果たしてそのココロは?

 瀬川氏によればラッセル・プロコープ。野口氏によれば(?)付でヒルトン・ジェファーソン。この違いは録音日によるものだから、確定されれば一方が消える。ソニーからの回答が未だないので決めるわけにはいかないが、諸々の状況から瀬川説「1951年12月11日録音」の信憑性が高いと思われるため、ここはひとまず瀬川説を残そう。
 サックスをたしなむソニーミュージックの関口氏は、サックスを吹く人間ならソプラノはたやすい、だからプロコープでもおかしくない、と言う。中野氏は、このソプラノサックスは桁外れに上手く、どう考えてもソプラノ未経験者ではありえない。プロコープがソプラノを吹いたという記録は他に見当らないのだから、プロコープ説には承服しかねる、と言う。

 そんな折、1月中旬のある日、中野氏から追加のメールが届く。
今、デスクワークをしながら「JAZZ FROM NEW ORLEANS Vol.4」聴いていました。 お暇な時に Tr.13の「I KNOW THAT YOU KNOW」を聴いてみてください。 後半です。 以前は気にしていませんでしたが、今日、私は「ドキッ」としました。
 なにが「ドキッ」なのか? 早速確かめることにする。「JAZZ FROM NEW ORLEANS Vol.4」は古巣RCAレコード発売のCDで、少し前中野氏から音だけ送ってもらっている。解説がなかったので川嶋氏から借りる。
 「I KNOW THAT YOU KNOW」はシドニー・ベシェ・アンド・ヒズ・ニューオリンズ・フィートウォーマーズという七重奏団の演奏である。ディキシーランド風の合奏から、テールゲート・スタイルのtb〜ストライド風ピアノを経て、倍テンポに変わったエンディングをベシェがソプラノサックスで颯爽と駆け抜ける。その間32小節43秒。「BEFORE MY TIME」のソプラノサックス・ソロは32小節48秒。タイムも奏法もよく似ている。楽曲構成も楽想の展開も楽器の使い方やスタイルもかなり似通っている。なるほど、これが「ドキッ」の正体か、と合点する。

 エリントンは「BEFORE MY TIME」を書くにあたって、この「I KNOW THAT YOU KNOW」を意識した可能性は大いにある、と思えてくる(因みにこのレコーディングは1941年で、「BEFORE MY TIME」に先立つこと10年前である)。エリントンは、これを知っていた可能性はあると思うし、ならば、「BEFORE MY TIME」のソロをベシェにやってほしい、と願っていてもおかしくはない?
 両者を聴き比べるほどに、「『BEFORE MY TIME』において、これほどのソプラノサックスを吹けるのはシドニー・ベシェか弟子のジョニー・ホッジスしか考えられない」とする中野説が真実味を帯びてくる。

 アルバム「JAZZ FROM NEWORLEANS Vol.4」のライナーノーツには、こんな記述がある。著者はジャズ評論の一方の権威・大和明氏である。
今日のジャズ・シーンでこそ、ソプラノサックスはごく当たり前に用いられているが、1920代初頭から50年代半ばまではたった一人のプレイヤーのためのジャズの楽器に過ぎなかった。その人こそ、ジャズ界最初の天衣無縫のインプロヴァイザーと称してもよい巨匠シドニー・ベシェである。・・・・・中略・・・・・ベシェによってジャズ楽器となったソプラノサックスは50年代初めまで彼の独り舞台といってよかった(一時ジョニー・ホッジスがベシェに影響されてソプラノサックスを吹いていたこともあった)。
 ここで読み取るべきは、「BEFORE MY TIME」録音時の1951年あたり、ジャズ界でソプラノサックスをまともに演奏しているのはシドニー・ベシェ唯一人であり、敢えてもう一人というなら彼に教えを受けたジョニー・ホッジスまで、ということである。これは見逃せない記述である。では、エリントン〜ベシェ〜ホッジスの関係性を「デューク・エリントン自伝」から引用してみよう。
シドニー・ベシェは、真に偉大なオリジナリティを持ったミュージシャンの一人だった。1921年ころ彼の演奏を初めて聴いたが、それは私には全く新しいサウンドでありコンセプトだった。彼とは1926年の夏期、私たちと一緒にやるようになった。ベシェはとても社交的なんていえた人間ではなかったが、それでもジョニー・ホッジスを手元に置いて彼にすべてを教えた。ジョニーのサキソフォンへのアプローチはベシェと同じ方向だったから敬愛し偶像視していた彼から吸収することは難しいことではなかった。
 そう、ベシェはその昔エリントンのオーケストラに在籍し、後に楽団の至宝となるジョニー・ホッジスにソプラノサックスの手ほどきをしていたのである。
 エリントンが「BEFORE MY TIME」を録音した1951年12月11日のニューヨーク。果たしてここにシドニー・ベシェが参加した可能性はあるのだろうか?

 ベシェ、この時期の住いはパリ。用事があれば大西洋を渡ってアメリカにやってくる。この年の秋、ベシェはニューヨークにいた。1951年11月5日、ブルーノートに9曲のレコーディングを行っているのである(これらはアルバム「THE FABULOUS SIDNEY BECHET」に収録されている)。そこには相変わらず冴えたソプラノサックスを聞かせるベシェがいる。とはいえ、12月11日までニューヨークにいた保証はない。だが、久しぶりのニューヨーク、滞在を1ケ月ほど伸ばしたとしてもおかしくはない。

 さらにもう一つ。1951年12月11日に録音された「CONTROVERSIAL SUITE」は長きにわたりお蔵状態にあり、日の目を見たのは、1956年発売のアルバム「Hi-Fi UPTOWN」(米コロムビアCL830)だったこと。この事実は、勘ぐり過ぎと思いつつ、ベシェの客演を巡るレコード会社間の法務手続きに時間がかかったから、と考えられなくもない。

 中野氏の「初夢譚」ベシェ説の根拠は聴感と状況証拠によるものだ。だから、例えばエリントニアンの証言等、余程の証拠が出てこない限り証明することは不可能だろう。「BEFORE MY TIME」のパーソネルにはラッセル・プロコープとウィリー・スミスの名はあっても、シドニー・ベシェの名はない。普通に考えればありえないのである。だがしかし、ベシェとエリントンとの関係性、ベシェが録音時にニューヨークにいた些少の可能性、この頃ジャズ界でソプラノを吹いていたのはベシェ唯一人という権威の見解、「CONTROVERSIAL SUITE」の発売に5年の長きを要したこと、そして何よりもその圧巻のソプラノ・プレイ、などを考え合わせると、このソプラノサックス・ソロが絶対にベシェではない、とは言い切れない!?・・・・・そんな突拍子もないストーリーに夢を馳せるのも楽しからずや、と思えてくるのである。

<参考資料>

「A列車で行こう〜デューク・エリントン自伝」(中上哲夫訳、晶文社)
「JAZZ FROM NEW ORLEANS Vol.4」CD(ライナーノーツ:大和明)
 2020.01.25 (土)  626に纏わるブラウニーとアマデウス5
          〜駆け出し愛好家の「ELLINGTON UPTOWN」研究
 デューク・エリントン(1899-1974)のことは、ほとんど何も知らなかった。626という数字に勝手に因果を感じて、このシリーズを始めるまでは・・・・・。「ジャズ/クラ関連性の探求」などという大それた演題を冠してどう展開したものか?と思案していた私に救いの手を差し伸べてくれたのは、我がJAZZの師Brownie 川嶋氏だった。彼が送ってくれたリストB’s Listにデューク・エリントンの「くるみ割り人形組曲」があって、これにすっかり嵌まった(クラ未知2019.8.16)。それからというもの、我が音楽生活はモーツァルトの領域にエリントンが忍び込んだ。
 同じころ、盛夏のある日、会社(ビクターRCA)時代の飲み会があって、そこでエリントン話で盛り上がったのが中野氏。そして、この時初めて知ったのだが、彼はこの会社を選んだのはエリントンがいるから、と言ってはばからないエリントン大好き人間だった。
 以来、JAZZに関して、オールマイティのBrownie川嶋氏とエリントン・マニアの中野氏という強い味方が付いたのである。

 川嶋氏が訳してくれたアルバム「Hi-Fi ELLINGTON UPTOWN+1」の英文解説に、エリントンとクラシック音楽のつながりに関する興味深い記述がある。
 エリントン・オーケストラは想像力に富んだポピュラー音楽のアイディアをクラシック音楽の伝統でまとめ上げるという、ほとんど孤立無援の地平線に立って演奏している。エリントンのアレンジの進化において、その組立がいかにエキサイティングなものであろうと、そこには常にクラシック音楽の実例があった。
 ポピュラー音楽のおよそすべての革新は、近代クラシックの作曲家の影響下でなされているといっても過言ではない。とはいえ、今日の若い革新主義者たちの刷新運動はけっして新しくも独創的でもない。なぜなら、それはデューク・エリントンがはるか以前から実践していることだからだ。彼は好きな作曲家として、ガーシュイン、ストラヴィンスキー、ドビュッシー、レスピーギらの名前を挙げている。エリントンの作品には、これらの作曲家の影響が如実に見て取れるのである。
 あの斬新で独創的なエリントン・サウンドがクラシックの影響抜きには考えられない、というこの文章は実に興味深い。クラシック人間を自負する私が、エリントンの音楽に魅せられたのは決して偶然ではなかった!? ならば、彼の音楽の中にクラシックの技法を突き止めてやろう、と一旦は意気込んでみたが・・・・・やめた。エリントンの音楽は広大にして深遠。ビギナーの手におえる代物ではない。今日のところは、クラシック音楽との関連をランダムに感知するあたりのレベルで甘んじよう・・・・・それでも、感知できたのはたったの一件、「HI-FI ELLINGTON UPTOWN+1」の中の一曲だけ。ならばビギナーらしく、今回は、このアルバム一点に絞り、雑文をしたためよう。

(1)「パーディド」に認められるクラシックの痕跡

 「HI-FI ELLINGTON UPTOWN」に「パーディド」PERDIDOという曲がある。作曲はエリントン楽団のトロンボーン奏者のファン・ティゾール。「キャラヴァン」の作曲者としても有名だ。8分28秒の楽曲中、クラーク・テリーのトランペット・ソロ部分に、3つのクラシックのメロディーが顔を出す。

1:59でドビュッシーの「夢」
2:04でボロディンの「ダッタン人の踊り」
7:17でガーシュインの「パリのアメリカ人」

 ドビュッシーとボロディンのメロディーは断片なので、「たまたま」と思ったが、同じ曲を同じ奏者が演奏した、同年1952年3月25日のシアトル・ライブでも、同じメロディーがむしろ鮮明に確認できる。とにかく、冒頭のライナーノーツ(著者不明)に記された4人の作曲家の内2人の痕跡が聞き取れたのである。これはクラーク・テリーのソロ部分なので彼の嗜好とも考えられるが、エリントンには「私の楽器はオーケストラだ」なる名言があるのだから、エリントンの嗜好でもあるわけだ。無論これは、エリントン音楽のクラシックとの本質的関連とはほど遠いものだが、その一端でも感知できたのは些少のエビデンスにはなるだろう。

(2)「BEFORE MY TIME」における大御所二人の食い違い

 「HI-FI ELLINGTON UPTOWN」に「THE CONTROVERSIAL SUITE」という曲がある。第1曲「BEFORE MY TIME」、第2曲「LATER」から成る組曲。因みにcontroversialとは「論争的な」という意味である。題意は別にして、第1曲は前時代のジャズへのオマージュとしてディキシーランド・ジャズのスタイルで、第2曲はコンテンポラリーなテイストで作られている。

 「BEFORE MY TIME」にソプラノ・サックスのソロがある。それは曲の終盤4分56秒から32小節にわたって奏される16分音符が連なる超速弾き圧巻のソロで、私が所有するCD「HI-FI ELLINGTON UPTOWN+1」(Sony Music)の瀬川昌久先生の解説には、奏者はラッセル・プロコープとある。ところが、中野氏所有のLP「エリントンの神髄(2)〜ELLINGTON UPTOWN」(日本コロムビア)野口久光先生の解説では、(?)付とはいえヒルトン・ジェファーソンとなっている。なんと、同一音源で大御所二人の食い違い! 一体これはどういうこと? 例え些細なことでも納得するまで追求するのが「クラ未知」精神である。

 エリントンの音楽は、比類なき響きの海を個々のソリストが自在に泳ぎ回る相乗の産物である。エリントン・オーケストラが醸し出す唯一無二の色彩感は、彼の全体と個を絶妙なバランスで統制する卓越した技量に負う。エリントンが「私の楽器はオーケストラだ」と言うのはこういうことだろう。だから、ソロの在り方は大事なのである。増してや、かつてお世話になった大御所お二方の「ソロに関する見解の相違」である。ワクワクしない理由がない。では、お二方のライナーノーツから検証をスタートしよう。

*瀬川昌久ラッセル・プロコープ説

「この曲は、第1部『ビフォア・マイ・タイム』と第2部『レイター』から成るデュークの野心作である。1部は、タイトル通り、デュークが今日の音楽を形成するまでの過去の歴史の諸々のサウンドを綴っている。・・・・・中略・・・・・ラッセル・プロコープがssで、アップ・テンポに乗った2ビートの上をソロし、簡素な全合奏のスウィングで、しめくくる。」
録音日:1951.12.11
リードのパーソネル:ジミー・ハミルトン(cl,ts)、ウィリー・スミス(as)、ラッセル・プロコープ(as,cl)、ポール・ゴンザルヴェス(ts)、ハリー・カーネイ(bs)

瀬川先生は、上記パーソネルからプロコープとした。ss(ソプラノ・サックス)のクレジットがあれば決まりなのだろうが、ないため先生の経験値からプロコープと割り出したのだろう。

*野口久光ヒルトン・ジェファーソン説

「『コントラヴァーシャル組曲』は、このレコーディングの年、1952年のエリントンの作で、オリジナル盤の時の“Tone Parallel to Harlem”に代わって入れられている新作の小組曲であるが第意は「論争家の組曲」とでもいうべきか。原盤のライナーノートがないのでこの曲に関して何の解説も見ていないが、きいてみると前半は初期のジャズの形式、メロディー、ハーモニーに対する考え方を題材としたもの、後半は後の時代(現在)のジャズということであろう。・・・・・中略・・・・・テイルゲイト・スタイルのtbも出てくるしクイック・テンポのソプラノ・サックス・ソロ(ジェファーソン?)が楽しい。
録音日:1952.8.10
リードのパーソネル:ジミー・ハミルトン(cl)、ヒルトン・ジェファーソン(as)、ラッセル・プロコープ(as)、ポール・ゴンザルヴェス(ts)、ハリー・カーネイ(bs)

 野口先生は、上記パーソネルからヒルトン・ジェファーソン?とした。注目すべきは、原盤のライナーノートがないこと、と[?]を付けたことだ。

 お二方の見解が違ったのは、レコード会社が提示した原資料にソロ奏者の表示がなかったからだろう。日本のエリントン・ファンは「ソロが誰か」を重視するから、ない場合は全パーソネルの中から、書き手が当りを付けるしかない。
 二つの説で決定的に違うのは録音日である。瀬川説の1951.12.11には、パーソネルにジェファーソンの名がない。野口説の1952.8.10には、ジェファーソンがある。これはヒルトン・ジェファーソンがウィリー・スミスの後釜として1952年3月以降に加入したからだ。双方に共通するのはラッセル・プロコープである。他のリード奏者はお二方共考慮に入れていないので、私もこれに従う。あと、野口先生の“1952年のエリントンの作”は1951年の間違いである。

 まず特定すべきは録音日である。これはその他の添付資料の精度から見ても瀬川説1951.12.11が正しそうである。Brownie川嶋氏も「検証力においては瀬川先生の方が信頼できると思う」と言う。だが、これは正確を期すため、現在、会社の後輩でSony Musicのクラ&ジャズ・セクションにいる関口氏に調査を依頼している。

 次に注目すべきは、野口先生が、パーソネルにプロコープの名があるのにジェファーソン(?)としたことだ。川嶋氏は「野口先生は論理的に曖昧な部分はあるものの感性は尊重すべきだ」と言う。先生は感覚的にプロコープとは思えなかった、ということだろう。

 感性はときに論理を覆す。クラシックにもそんな例がある。モーツァルトのホルン協奏曲第3番はかつて1783年(27歳)の作曲とされてきた。これをフランスの学者ド・サン=フォアは「出来栄えからいって、そんな若いころの作品ではない」と確信して1788年以後の作品であると唱えた。後年これは立証されるのだが、芸術探求において感性=感覚は大切なのである。

 ということで、私は野口先生の感性=感覚を軽視できない。プロコープとしなかったことがどうしても引っかかる。もし先生がご存命だったら「なぜ、プロコープとは思えなかったのか」を確かめることができたのに、と真に残念に思うのである。一方、瀬川先生は御年96歳でご存命であるからして、この件についてお尋ねしたいと思っている。論旨はもちろん「BEFORE MY LIFEのソプラノ・サックス・ソロをラッセル・プロコープとした根拠は何か」である。

 大御所二人の食い違いに関する、「録音日の特定」と「瀬川先生見解」が判明するのは、関口氏によると、2月以降とのことである。本件はそこで改めて俎上に載せるつもりだが、最後に、中野氏と意見交換した内容について少し触れておきたい。

 中野氏の見解はユニークで、「件のソプラノ・サックス・ソロはシドニー・ベシエかジョニー・ホッジス以外に考えられない」というのである。ソプラノ・サックスの先駆的存在にして名手のベシエは、ホッジスを可愛がって自分の技法すべてをホッジスに伝授したといわれている。このソロがベシエというのは突拍子がなさすぎるが、ホッジスの可能性はあるのだろうか。次回は、この興味深い問題に対して一定の見解を示せればと思う。

<参考資料>

CD「HI-FI ELLINGTON UPTOWN+1」(Sony Music)瀬川昌久解説
LP「エリントンの神髄(2)〜ELLINGTON UPTOWN」(日本コロムビア)野口久光解説
「A列車で行こう〜デューク・エリントン自伝」(中上哲夫訳、晶文社)
「帝王から音楽マフィアまで」(石井宏著、学研M文庫)
 2019.12.15 (日)  626に纏わるブラウニーとアマデウス4
          〜ガーシュイン「ラプソディ・イン・ブルー」の構造
 12月1日、渋谷伝承ホール、Mondaynight Jazz Orchesutra(略してMJO)第46回定期公演に行ってきた。MJOは1974年創設のアマチュア・ジャズ・バンド。自称「日本一愛想のいいバンド」。メンバーの一人がかつての会社の僚友・小林正家氏というご縁から2004年以来毎年欠かさず通っている。小林さんは創設者の一人で現在バンド・リーダー兼トロンボーン奏者として活躍中である。年ごとに相応しいテーマを設けていて、例えば、2011年は、東日本大震災からの復興を願って「世界は日の出を待っている」。今年は2020東京オリンピックに因んで「Five Colors in Jazz」。五輪カラー絡みの曲を集めた構成だった。
 今回、一番の注目は小林さんのトロンボーン・ソロ。10数年前大きな手術を行って以来ソロをとっていなかったから、私にとっては初モノとなる。演目は1948年のスマッシュ・ヒット♪ブルー・レディに紅いバラ。ローレンス・ブラウンがソロをとるデューク・エリントン楽団版での演奏だ。トロンボーンのソロは曲頭から。小林さんは実に見事に吹き切った。メロウなことブラウン顔負けである。ところがサックス・ソロを挟んだエンディングの2小節をブっ飛ばしてしまう。なんとここはトーンレス・ブラウンになってしまった(笑)。でもこれはご愛敬。まずは、完全復活オメデトウ!!
 MJOの楽しみの一つは毎回のプロのゲスト。今回はヴィブラフォン奏者の宅間善之さん。穏やかでスマートな名手だ。日本に一台という真っ赤な鍵盤から放たれる響きに会場は夢幻のムード。特にコンボによるマンシーニの名曲♪ひまわり は飛び切りの美しさだった。アンコールは♪ホワイト・クリスマス。渋谷の夜、イルミネーションの中をクリスマス・ムードに浸りつつ家路につく。我が家の年に一度の生ジャズ体験はこうして終わった。

<ザ・サード・ストリーム・ミュージック>

 ヴィブラフォンといえばミルト・ジャクソン。最初に彼のプレイに出会ったのは「MJQと交響的作品」というLPレコード。購入が1961年9月17日だから、高校一年生。我が人生初のジャズ・レコードがこれだった。当時の友人が、コルトレーン「ラッシュ・ライフ」やアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに夢中になっていたことを考えれば、これはかなりユニークだったと思う。まあ、私の嗜好がクラシックだったからこんな中間的レコードに手が伸びたということか。
 このレコードは1960年代に台頭した「ザ・サード・ストリーム・ミュージック」ムーヴメントの一環。野口久光先生のライナーノーツには、「MJQの主宰者ジョン・ルイスがMJQとオーケストラの共演による野心的なLPを作った」とある。曲タイトルには「ディヴェルティメント」、「パッサカリア」、「コンチェルト」、「キャロル」などクラシック的様式名が並ぶ。サクっと言えば、クラシックの様式の中にジャズの要素と現代音楽のテイストを融合させた新潮流の音楽といったところか。
 現代音楽風といってもそれほど尖った感じはなくマイルスにおけるギル・エヴァンスの響きに似ている。そんなオーケストラの響きの中をミルト・ジャクソンのヴァイブがスインギーに突き進む。確かにこの爽快感は心地よい。だが、聴後はミルト・ジャクソンのヴァイブしか印象に残らない。あのオーケストラ要るのかなあ?というのが正直な感想だった。
 次にミルト・ジャクソンを聴いたのは、MJQ「恋のカルテット」というLPレコード。愛のスタンダード曲を集めたコンピレーションで、購入日は1966年5月。この中の♪朝日のごとくさわやかに に魅せられる。このスイング感、爽快感は極上の心地よさ。やはり、「MJQと交響的作品」におけるオケは不要、と改めて感じたものである。

 レナード・バーンスタインは、彼のTV番組「ヤング・ピープルズ・コンサート」の中で、クラシック古典派の音楽を“緻密な”exact音楽と形容した。ジャズは、アメリカの黒人(アフロ・アメリカン)の歌い奏でる労働歌やブルース等と西洋音楽が出会って生まれたものだから、もともとクラシックの要素はなくもない。しかるにジャズの本質は「自由」。これは、緻密で楽譜のあるクラシック音楽とは相容れ難い要素だ。また、相倉久人氏は(注釈付きではあるが)「ジャズにあってクラシックにないもの。それは“スイング感”と“アドリブ”だ」と言う。デューク・エリントンには♪スイングしなけりゃ意味がない なる楽曲もある。ことほどさように、ジャズとクラシックは馴染みにくい音楽なのだ。これを理屈で合体させようとすれば、互いの特質を削り取ってアジャストさせるしかない。これが「サード・ストリーム・ミュージック」の本質ならばおのずと限界が見える。そんな中で、ジャズ/クラ融合の最良形を探ってゆくと、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」に行き着くのである。

<ガーシュイン「ラプソディ・イン・ブルー」は凄い曲>

 「ラプソディ・イン・ブルー」の「ラプソディ」は狂詩曲と訳されるクラシック音楽の一形式。いくつかのメロディーを制約なく自由に繋いだ楽曲形式で、「ブルー」は“ブルース調”とか“憂鬱な気分”などジャズのイメージだ。タイトルからジャズ/クラ融合の姿が想起される。

 発表されたのは1924年2月12日、ポール・ホワイトマンが主催する「近代音楽の実験」An Experiment in Modernという音楽会だった。ラフマニノフやストラヴィンスキーが臨席したというからクラシック界からも注目された催しだったのだろう。ホワイトマンが目指したのは、ダンスの伴奏ではない観賞用のジャズSymphonic Jazzだった。プログラムにはハーバートやフリムル、カーンやバーリンなどクラシック/ポップス界の大御所が名を連ね、順次意欲作が発表されるが、受けない。会場に倦怠感すら漂う中、ラス前に登場したのがジョージ・ガーシュイン(1898−1937)だった。クラリネット・ソロが始まると、観客は椅子に座り直し、身体を揺らし、最後には総立ちの拍手喝采となった。「ラプソディ・イン・ブルー」は一夜にして聴衆の心を掴んだのである。翌日の新聞は「アメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人のための音楽が誕生した」と称賛した。演奏会がリンカーンの誕生日だったことに因んでのコメントである。このあたりの様子は、映画「アメリカ交響楽」(1945米)に描かれている。

 ところが、アメリカを代表する音楽家レナード・バーンスタインは、この曲に対して、曲想の豊かさを肯定しつつもこんな評価を下している。「『ラプソディ・イン・ブルー』はメリケン粉と水を合わせた薄い糊でバラバラの文節をつなげたにすぎない。これを作品ということはできない。作曲とは、単に旋律を書くこととは違うのだ」と。これはかなり辛辣である。文面から彼が引っかかっているのは構造面と見て取れるが、「ハイその通りです」とは納得できない。ならば究明するのが「クラ未知」のミッションというもの。では、「ラプソディ・イン・ブルー」の構造はどうなっているのか。バーンスタインが言うような、そんなに脆弱なものなのか。これを分析・検証しようと思う。素材は、張本人バーンスタインのピアノと指揮:コロムビア交響楽団、グローフェ編曲の管弦楽版による演奏(1959年録音、演奏時間16分26秒)とする。

 冒頭、魅惑的なクラリネットのグリッサンドに続きそのまま第1の主題が現れる。次にせき立てるような第2の主題が出ると、ほどなくピアノが第3の主題を奏でつつオケの全奏をはさんで、最初の“カデンツァ風ピアノ・ソロ”(以下KPS)に入る。ここまでの3つの主題は、リズムはシンコペ、コードはブルースで、否応なしにジャズの世界に放り込まれる。KPSが終わって、オケの全奏からハ長調の第4の主題が出ると音楽にドライブがかかり、第2主題を軸としてスイング感たっぷりにオケとピアノが邁進する。管のワウワウ・ミュートに導かれて2番目のKPSに入ると、その後半でト長調の第5の主題が現れ変化しながら大きく展開。ピアノ・ソロが途切れると、弦でホ長調の第6の主題が明るく雄大に姿を現すAndantino moderato con espressione。まるで天空に一条の光が差しこむようなスケール感ある転換。ポール・ホワイトマン楽団のテーマだ。このあと3番目のKPSを経て、オケとピアノが第6主題を軸に盛り上がり、1―3の主題を呼び起こしつつコーダを形成して終わる。

 主題の楽譜を見ながらCDを聴く作業を何度も繰り返し、ようやく楽曲分析が終わる。ホッと一息ついた瞬間、曲の構造の秘密が閃いた。まさに一条の光である。で、解ったこと。それは、「ラプソディ・イン・ブルー」の構造はシンメトリーである ということだった。

@ 第1−3主題−KPS1―第4主題―KPS2(第5主題)―第6主題―KPS3―第1−第3主題

A 軸であるKPS2は4分30秒。これを2等分した前後を比べると、前半8分、後半8分。全体16分の楽曲
  をちょうど2等分している。

B 主題の調性は、第1−3主題はブルース・コード、第4主題と第6主題はメジャー・コードで対称とな
  る。

 KPS2を中心軸として@は形状的対称、Aは時間的対称、Bは調性的対称を成す。この3要素すべてにわたる対称性はまさに鉄壁のシンメトリーといえる。加うるに、曲の終盤において、ほとんどの主題を回帰させコンパクトに絡ませながらコーダを形成するあたりの流れは絶妙で、これにより曲全体に程よい統一感が与えられている。これに比べると、例えば、同じラプソディで名曲とされるリストの「ハンガリー狂詩曲第2番」の方がよほどバラバラでまとまりがない。何を以て「ラプソディ・イン・ブルー」を「作品とはいえない」と断じるのか、バーンスタインの言う意味が解らない。

 さらにもう一つ重要なポイントがある。「ラプソディ・イン・ブルー」の胆ともいえる第6主題Andantino moderato con espressioneの時間的位置である。出る前10分、その後6分、これはほぼ「黄金比率」。ガーシュインは最高の主題を最上の位置に置いたのである。これはもう、対称性と併せ完璧な構造といえるのではないか。バーンスタイン何を言うか である。

ガーシュインは「ラプソディ・イン・ブルー」についてこう語っている。
私にはこの音楽が一種のアメリカの万華鏡として聞こえる
われらが巨大な人種のるつぼの
われらがブルースの
われらが都会的狂騒の音楽的万華鏡として
 本人だから当たり前とはいえ、「ラプソディ・イン・ブルー」を評してこれほど的確なコメントはないだろう。ニューヨークという大都会の多様性と狂騒がアメリカの音楽的万華鏡を作らせたのだ。
 ガーシュインにとってアメリカは生まれ育ったニューヨークとイコールだった。彼の体内にはニューヨークが醸し出す喧騒やゴッタ煮的感覚が浸みついていた。そこにはジャズもブルースもあった。だからブルース・コードで曲を書くのは自然なことだった。それは、彼の歌曲♪Somebody loves meや♪The man I love等を聞けば自明である。クラシック・ピアノの素養もあった。だから、ガーシュインの中にはジャズとクラシックは自然な形で共存していた。

 ポール・ホワイトマンから「シンフォニック・ジャズ」作曲の依頼を受けたガーシュインは、興の趣くままに、僅か3週間で一つの作品を書き上げた。ファーディ・グローフェは、当時まだ管弦楽法を身に付けていなかったガーシュインに代わってオーケストレーションを施した。完成した作品をガーシュインは「アメリカン・ラプソディー」と名付けたが、その後、兄アイラの助言を容れて「ラプソディ・イン・ブルー」に改めた。そこには、ジャズとクラシックのテイストが自然に溶け込んでいた。そこからは、ニューヨークの狂騒が鮮やかに浮かび上がった。しかもそれは、神の加護といってもいいほどの、形式的にも完璧な形態を有した。他の作曲家が、理屈をこねて無理やり融合を図ってもただのツギハギにしかならなかったものが、ガーシュインだったからこそジャズ/クラ渾然一体のアメリカを代表する名曲が生まれたのだ。

 次回は、ジャズの神様デューク・エリントンの中にクラシックを探ってみよう。

<参考資料>
「ジャズの黄金時代」(野口久光著、ヤマハミュージックエンタテインメントHDS出版部)
「ジャズの歴史」(相倉久人著、新潮新書)
「ラプソディ・イン・ブルー」(奥田恵二著)〜最新名曲解説全集第7巻(音楽之友社)より
映画「アメリカ交響楽」DVD(1945年米)
レナード・バーンスタイン「ヤング・ピープルズ・コンサート」LDガイドブック
     (株式会社日本アート・センター編)
ガーシュイン作曲:「ラプソディ・イン・ブルー」CD
     レナード・バーンスタインのピアノと指揮:コロムビア交響楽団(1959年録音)
 2019.11.05 (火)  追悼 八千草薫さん
 10月24日、八千草薫さんが亡くなった。88歳だった。直近のTVドラマで共演した石坂浩二は泣きじゃくりながら追悼していた。その中で「あの方の声が聞かれなくなるのがとても淋しい」と話していたのが印象的だった。そう、私も八千草さんの声に魅せられた者の一人だ。無論、美しさと気品は言うに及ばずで、これについては倉本聰の「心の奇麗さがあの人の美しさとして出てくる。他の人には真似のできない精神の美しさを常に感じていた」という話に集約される。

(1)きりんのなみだ

 「八千草さんの声」と言ったのは、BMG時代の2003年、彼女の朗読CDの制作に少なからず携わったからである(Executive Producerに名を連ねている)。CDの売り上が90年代終盤から右肩下がりに転じ、会社が打った一手がシニア向け商品の開発で、私の部が大任を引き受けた。そんな中、女性プロデューサーC.O嬢が発案したのが「八千草薫朗読CD」だった。さすが女性の感性で、探し出してきたのが戦後まもなく刊行された小学生の母を思う詩集「きりん」だった。音楽をバックに八千草さんに朗読してもらおうというわけだ。
 出演交渉に始まって、内容の検討、レコーディング、ジャケット写真撮り、プロモーションの打ち合わせなど、C.O.嬢が軸となって私も度々加わった。天王洲アイル、大阪松竹座、レコーディング・スタジオ、写真スタジオ等々、そこかしこで八千草さんにお会いする機会があった。

 八千草さんとの仕事は特別な時間だった。どんなときにも、例えば撮影が延びたときにも、いやな顔一つ見せなかった。そこには常に穏やかで優しい空間があった。たおやかな時間が流れた。それは勿論八千草さんの人となりに拠るものだが、事務所「柊企画」の山本道子(当時社長)、原田純一(現社長)両氏のアーティスト・ファーストの細やかなマネジメントに負うところも小さくはない。

 完成したCD「きりんのなみだ」(BVC4-34001)は実に素敵な作品となった。ビートルズ&カーペンターズの楽曲を森俊之氏のピアノ&シンセサイザー、古川昌義氏のギターで新録し、それをバックに八千草さんに朗読していただいた全11編である。
親しみやすく洒落たビートルズ&カーペンターズの楽曲を薄く透明にアレンジした音楽に、 優しく温かい、でもどこか凛とした八千草さんの声が美しく重なる。C.O.嬢が作ったコピーはこうである。
Healing Voice+Music この声で褒められたい。この声で叱られたい。あの笑顔、あの頃の涙。すべての思い出との再会がここにある。心洗われる詩&心に刻まれた音楽との、愛しくも懐かしいコラボレーション。今、詩集「きりん」が八千草薫の至上の声で甦る。ビートルズ&カーペンターズの佳曲の主旋律と共に奏でられるすべての人々の美しい母の記録。
 発売数日後の9月9日には銀座山野楽器の店頭でサイン即売会を行った。多くの宣伝媒体を仕込んだが、その中のスポーツ紙の記者が「岡村さん、CDを買っているところを撮りますよ」と言うので、私が客に扮して購入・握手。栄誉ある八千草さんとのツー・ショット写真の実現だったが、その時の「あら、どうして」とちょっとびっくりした八千草さんの声が今でも耳に残っている。あくまで私個人用に撮ってくれたもの、と思っていたら、その写真が翌日のスポーツ新聞を飾ってしまう。なんとカメラ目線!「こりゃ、即売会の写真じゃないワイ」と顰蹙を買ったものである。

 CD「きりんのなみだ」を、いま、改めて聴いてみる。純真な子供の言葉が八千草さんの優しい声で甦ってくる。「おかあさんがとうみをガラガラまわしている」「うす暗くなっても畑からかあさんがあがってこない」、「高熱を出した私に、もうすこしのしんぼうやでとおかあちゃんがいうてくれた」「土曜日の朝とうとうにいさんは内地へ出発した」「おふろだいはようちえんが30円でいちねんせいが70円」「プロレスよりお父ちゃんの顔を見ていたほうがおもしろいとおかあさんはいう」・・・
・・方言を伴った子供の日常の言葉が家族の心の交流や当時の世相を映し出す。作為のない無垢な思いが八千草さんの優しい声で更に膨らむ。温かい包容力である。聞いていると心が自然になごむ。最近ちょっと怒りやすくなってきた。これからもあるだろう。そんな時はこのCDを聴こうと思った。Amazonを見たら「再入荷の見込みなし」とある。なんとか復活してもらいたいものである。

(2)八千草薫さんの叙勲を祝う会

 2004年2月4日、「八千草さんの叙勲を祝う会」が行われた。1997年の紫綬褒章に引き続いて、前年の秋、旭日小綬章を受章したお祝いの会である。
 発起人には、海老沢勝二NHK会長、氏家齋一郎日本テレビ会長、日枝久フジテレビ会長、石井ふく子、大山勝美、久世光彦などのプロデューサー、脚本作家の倉本聰、山田太一など錚々たる名士が名を連ねた。私の会社(当時BMGファンハウス)も、前年八千草さんのCDを発売しているご縁で運営をお手伝いした。

 まず、大御所・森繁久彌氏が乾杯の発声をする。90歳だけに足元はおぼつかない、が、元気は元気「実はね、私はね、この人と結婚したかった、ウン」なんてことを言いだす始末。
 ここから重鎮各氏の挨拶に入る。石井ふく子さんは「舞台とテレビでご一緒させていただきましたが、いつも、真っすぐでキラキラしている姿しか浮かびません。そしてきちっと家庭を持って女優を続けていらっしゃる。女性としてすごく尊敬しています」。小林桂樹氏は「八千草さんが私の後をゆっくり歩くだけ、というラブシーンを演じられたことがとても幸せでした」。杉田成道氏は「新珠三千代さんが、宝塚の歴史の中で八千草さんほどかわいい人はいない、と言っていました.」。山田太一氏は「八千草さんは私の中では未だ40代、とてもおばあさん役の台本は書けない」。〆は植木等さん。なぜかやけに愚痴っぽい。「色々聞いてきたが、みんな話が長すぎる。この人に今頃勲章なんて遅すぎる」などと延々数分。本人が一番長かった。さすが無責任男である。

 ここからは俳優仲間やお友達に移る。毒蝮三太夫氏は「私は家庭における八千草さんの素顔を知ってます。旦那様の谷口千吉監督のことを『先生、先生』と呼んで、それはそれはかいがいしくお世話している。女優としても天皇陛下から勲章をもらうくらい立派なんですが、奥さんとしても大変立派な人なんです」。淡島千景さんは「あなたの小さな体から出るファイトが凄いといつも感心しています」。樹木希林さんは「勲章がどの程度のものか判りませんが、八千草さんは芸能界において稀有な人柄の持ち主。芯が強くて迎合しない」。長山藍子さん「年を重ねてもいつも美しい憧れの存在です」。波野久里子さんは「小さいころ『蝶々夫人』を見て、なんてきれいな人と感嘆しましたが、今日そこにいらっしゃる八千草さんは全然変わっていない」。田中健氏は「僕の俳優デビューでご一緒したのが八千草さんでした。それが私の誇りで大切な宝物です」。みなさん温かい言葉で祝ってくれた。

 多士済々の方々の祝辞を受けて、最後に八千草さんのご挨拶である。「なまけもので呑気な私がここまでやってこられたのも、みなさまが手を差し伸べて支えになってくださったお陰です。ありがとうございました」。そして、そのあと「詩を読ませていただきます。とっても可愛い詩なんです」と前置きして、CD「きりんのなみだ」から「おかあちゃんのよめいりしゃしん」を♪“Oh my love”をバックに朗読した。温かい雰囲気のお祝いの会に相応しいエンディングだった。

 八千草さんは、会の中で、「谷口は2月19日で92歳になります。ここにきて挨拶をしたかったのですが、なにせ高齢のため叶いませんでした。皆様のご厚意はかならず伝えます」と話していた。会の様子はあらかたビデオで収めていたので、すぐに編集、エンディングはショット映像を繋げて「きりんのなみだ」の♪The Long and Winding Roadを被せ、73分にまとめた。
 後日、「監督の誕生日に間に合うように作りました。是非八千草さんにお渡しください」と完成したVHSを事務所に届けると、「私どもは何も撮っていなかったので、助かります」と喜んでくれた。監督はきっと八千草さんと一緒に見てくれたと思う。

(3)「蝶々夫人」と「男はつらいよ」

 八千草薫のオペラ映画「蝶々夫人」は凄い。とにもかくにも美しい。世の中にこんな美しい女性がいるのかと思わせる風情である。脇役の芸者を演じるのが、淀かほる、寿美花代、鳳八千代という大スターなのもその証明だろう。撮影は、1954年、ローマ郊外チネチッタ撮影所。前年「ローマの休日」を撮ったところである。オペラ映画だからオペラ歌手の歌に合わせて演技をする。アフレコならぬアフフリである。これが実に見事に嵌まっている。歌と寸分の狂いもない。さらに加えて、その表情の変化である。状況によって歌詞に連れて目まぐるしくも自然に変化する。例えば、第2幕、シャープレスがピンカートンからの手紙を蝶々さんに読み聞かせる場面。明るい表情が一瞬曇る、瞬時にまた戻る。この鋭敏な反応に鋭い感性を感じるのだが、同時にそれが、実に自然なのである。仲代達也が、10月31日朝日新聞の追悼文の中で「高峰秀子さんは技で表現する。八千草さんは気持ちで表現する」と述べているのは、こういうことだろう。これはもう、天性のものとしか思えなかった。しかし、八千草さんは1999年の手記でこう書いている。
撮影前の支度には3時間もかかったりと大変でしたが、何よりも難関は、歌と、歌う口元をぴったり合わせなければならないことでした。本職のオペラ歌手(オリエッタ・モスクッチ)の声に合わせて、正確に発音をし、私自身が本当に歌っているように、一体にならなければ、成立しないわけです。オペラにもなじみがなく、イタリア語もわからない私にとっては、不安などというなまやさしいものではありませんでした。撮影が始まるまで、毎日毎日、明けても暮れても、寝ても覚めても、蝶々さんのオペラにがんじがらめの生活でした。それでも地獄のようなある時期が過ぎると、音楽が気持ちよく体の中を流れるように入ってきて、イタリア語にも少しづつ慣れてきました。(世界文化社刊「優しい時間」より)
 なんと“地獄のような”苦しみを味わっていたのだ。万人が称賛する八千草薫の自然体の演技は、単に天性のものではなく、その裏には目指す対象に向かって一途に集中する多大な努力があったのである。

 八千草さんは「男はつらいよ」シリーズに一度出演している。1972年、年末封切りの第10作「寅次郎夢枕」のマドンナ千代の役である。「男はつらいよ」は第8作「寅次郎恋歌」(マドンナは池内淳子)で初めて動員100万人を突破。ここからきっちり年2回盆暮れ興行となり、文字通り国民的映画となってゆく。「寅次郎夢枕」は第9作吉永小百合と第11作浅丘ルリ子に挟まれたまさに全盛期の作品である。クラシック音楽がふんだんに使われているのも楽しみの一つ。ヴィヴァルディ:「四季」、ワーグナー:「ワルキューレの騎行」、ベートーヴェン:「スプリング・ソナタ」などが効果的に挿入されている。
 八千草さんのお千代さんは、渥美清・寅次郎の幼馴染という役柄。前作品まで、寅さんは決まってマドンナに振られていたのだが、この「夢枕」はなんとマドンナの方が好意を持つという画期的な設定となった。白眉は亀戸天神での二人のやり取りである。話しを勘違いしたお千代さんが「寅ちゃんと一緒にいると、なんだか気持ちがホっとするの。寅ちゃんと話していると、ああ私は生きているんだなァって、そんな楽しい気持ちになるの。寅ちゃんとなら一緒に暮らしてもいいと思ったの」と語る台詞に、寅さんは動転、へたへたとその場に座り込む。観客も「あり得ない」と驚く。このシリーズ屈指の名場面で見せたマドンナ八千草薫の穏やかさと真剣味が交錯する表情は、バーチャルとリアルを行き交って素晴らしい。

 八千草薫さんは逝ってしまった。鋭い感性と温かい包容力を併せ持ち、芯にしなやかな靭さを秘めた稀有な女優だった。その演技は、優しく美しい凛とした佇まいの中、明暗や悲喜が自然に自在に交錯した。この陰影ある美しい透明感はまるでモーツァルトの音楽そのものだ。一番ふさわしいのは「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だろうか。K618を聴きながら謹んでご冥福をお祈りする。
 2019.10.25 (金)  626に纏わるブラウニーとアマデウス3
          〜アンドレ・プレヴィン、オンリーワン
 アンドレ・プレヴィン(1929−2019)は特異な音楽家である。若いころはジャズ・ピアニスト、その後はクラシックの世界に転じ名指揮者となった。クラシックの世界では指揮者とピアノの二刀流は珍しくない。ワルター、フルトヴェングラー、バーンスタイン、バレンボイム、アシュケナージ等枚挙にいとまがない。プレヴィンも指揮者とピアニストの二刀流だが、他と一線を画すのは、ジャズ・ピアニストからの転身であることだ。アンドレ・プレヴィンこそ、クラシックの歴史300年、ジャズの歴史100年のなかでオンリーワン唯一無二の存在なのである。

 ベルリンの裕福なロシア系ユダヤ人の家庭に生まれたプレヴィンが音楽に目覚めたのは、1935年、6歳のとき父親に連れられて行ったフルトヴェングラー指揮:ベルリン・フィルの演奏会だったという。演目はブラームスの交響曲第3番と第4番。このころのドイツはヒトラーのナチスが政権を握り第二次世界大戦に向かう途上である。フルトヴェングラーといえば、前年、ナチスに背いた若手作曲家のヒンデミットを擁護したため(所謂ヒンデミット事件)、当局からベルリン・フィルを始めとするすべての要職を解任されていた。翌年、和解が成立して楽壇に復帰したが、プレヴィン少年が遭遇したのはそんな時期のコンサートだった。ユダヤ人迫害が始まっていた不穏な情勢の中、6歳の少年の胸にフルトヴェングラーの音楽は強烈に突き刺さった。その時の心情を後に「これは私にとって大事件だった。熱が出るほど感動した。将来は絶対に指揮者になってやると決心した」と述懐している。
 その後、プレヴィン一家はナチスの迫害を逃れてアメリカに渡る。亡命ユダヤ人のため父は失職、プレヴィン少年はジャズ・ピアニストとして一家を支えることになった。胸中に指揮者への夢を抱えながら。

 戦後、プレヴィンはまずジャズ・ピアニストとして頭角を現し、1956年録音の「マイ・フェア・レディ」でその地位を揺るぎのないものにする。シェリー・マン(ds)、リロイ・ビネガー(b)とのピアノ・トリオの演奏は、上品でスイング感抜群のパフォーマンスを示す。野口久光先生はCDのライナー・ノーツに、「プレヴィンのピアノはときにファンキーに、ときにセンシティヴに、ときに喜び一杯に表現する。こんな楽しいセッションは3人にとっても忘れられないものとなったであろう」と書いている。その評のとおり、このアルバムは発売と同時に大ヒット。以後2年間もチャートの上位に留まるという、ジャズ・レコードとして空前のヒット&ロングセラーを記録したのである。
 プレヴィンはまた、映画音楽における作・編曲者として才能を発揮。「マイ・フェア・レディ」(1964年)をはじめ、「貴方だけ今晩は」(1963年)などアカデミー編曲賞等を4回受賞。グラミー賞受賞も数多い。ジャズ&ポップスの世界で多大の名声を手にしたプレヴィンは、1960年代に入りついに念願のクラシックの指揮者への道を歩み始める。  師はフランスの名匠ピエール・モントゥー。バーンスタインの紹介だった。キャリアのスタートは、本人曰く「地図にないような小さな町」だったという。その後研鑽を重ね経験を積み、1968年にはイギリスの名門、ロンドン交響楽団の音楽監督になる。
 レコード会社はRCA。私のプレヴィンとの出会いはロンドン交響楽団を指揮したヴォーン・ウィリアムス:「南極交響曲」のLPだった。当時のクラシック界はカラヤン&ベームの全盛期。そのようなドイツ正統派録音が些少なRCAレーベルは、別ラインの商品で戦うしかなかった。いわゆる“企画モノ”である。キャッチ・コピーは“崇高壮大!!南極の美と神秘を見事に描いた傑作!”。当時銀座担当の新米セールスマンだった私は、お店を口説き派手な看板を飾ってもらい拡売に努めたものである。セールスはソコソコだったが、良い思い出として残っている。
 改めてCDで聴くと懐かしさが甦る。でも何というか、演奏は立派だが、曲としてはそれほど面白いものではない。商品としては、やはり企画モノの域を出ない、というところか。

 プレヴィンがRCAに遺した数々の録音の中で、出色はロイヤル・フィルとのベートーヴェン「田園」(1987年録音)だと思う。自然なテンポ感と優しい響きが心地よい。キャリアの初期に巨匠ブルーノ・ワルターの薫陶を受けたということだが、この「田園」、なんとなくワルターのテイストが感じられる。試みに、第1楽章のタイムを測ると、プレヴィンは(提示部の繰り返しを除くと)10:00。カラヤンは8:50、ベームは9:33、ワルターは9:49で、ワルターに最も近い。無論タイムだけで演奏の質は測れないが、一つの目安にはなる。それよりも何よりも、テンポ感としなやかな響きの中に、心なしかワルターの影が見て取れるのである。これは隠れた名演である。

 プレヴィンはRCAの後、EMI、Philips、Telarc、DG等にも多くの録音を遺した。私の手持ちはそれらの内のほんの一部でしかないが、同じ曲を二度録音しているものが3つある。この機会にそれらを比較検証するもの一興だろう。

 最初に取り上げるのはラフマニノフ作曲「交響曲 第2番」である。オケは同じロンドン交響楽団で、RCA盤が1966年、EMI盤が1973年の録音。
 比較試聴は当然第3楽章。この綿々たるロマンチック度は半端なく、本家チャイコフスキーも敵わない!?

 RCA盤は、木管のソロがくっきりと聞こえる。クラリネット協奏曲の緩徐楽章の趣だ。表現全体としては、プレヴィン特有の温厚でベトつかない抒情感が爽やかである。それに対し、EMI盤は、木管のソロと弦がバランスよく溶け合い、音そのものも、特に弦が柔らかく美しい。テンポも解釈もほとんど変わらないが、RCA盤より響きに厚みがあり芳醇である。ジャズでいえば、コンボとバンド・サウンドの違いだろうか。曲のロマンチックな性格からいって、ここはEMI盤に軍配が上がる。

 次は、リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」の第3楽章「若き王子と王女」を比較しよう。RCA盤はロンドン交響楽団で、1968年。RHILIPS盤はウィーン・フィルで、1981年の録音である。

 まずRCA盤である。流麗さを絵に描いたような表現。フレージングも品がいい。オケの音色もロンドン響らしい透明感があり美しい。聡明なシェエラザードを彷彿とさせるスマートな音作りである。
 PHILIPS盤におけるプレヴィンの解釈は基本的にはRCA盤と変わらない。タイムも2秒違うだけだ。違いはオケのサウンドである。ウィーン・フィルは、オーソドックスなロンドン響に比べると、独特の艶やかさを持つ。そこでプレヴィンは、テヌートの度合いをやや強め少しだけ濃厚な表現を試みる。これがウィーン・フィルの音色と相まって独特の色香を醸し出す。こうすることで、聡明なシェエラザードに妖艶さが加わる。ここに、二つのオーケストラの特質を生かし切ったプレヴィンのしなやかな感性とテクニックの冴えが見て取れる。どちらを選ぶかはお好み次第である。

 最後は、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」である。この曲はジャズとクラシックが融合したアメリカ音楽の代表的傑作であり、そこには若きガーシュインの情熱と天才が噴きこぼれんばかりに詰まっている。ジャズ・ピアニストにして指揮者であるアンドレ・プレヴィンこそまさに「ラプソディ・イン・ブルー」の申し子といえるだろう。プレヴィンが、1998年、ガーシュイン生誕100年に、ピアノとベースというシンプルな編成の「ガーシュイン・ソングブック」という追悼的名盤を遺したのもガーシュインへの敬愛の表れといえる。
 三つの録音があるがここでは新しい方の二つを比較する。EMI盤はロンドン交響楽団で1971年の録音。PHILIPS盤はピッツバーグ交響楽団で1984年の録音だ。

 EMI盤、プレヴィンのピアノは切れが良くスイング感に満ちている。オケとの掛け合いも熱気があり迫力十分。冒頭のクラリネットは名手ド・ペイエで文句なし、Andantino moderatoの主題(ポール・ホワイトマン楽団のテーマ)後に出るトロンボーン・ソロも実に音楽的。ジャズ的スピリットに溢れた輝かしい名演である。
 Philips盤はアメリカのオケに代わっているからよりジャズ的かと思えばそうでもない。ピアノのタッチは、鋭さよりも響きを重視、オケの表情もソフトで優しい。これはこれで美しいのだが、若きガーシュインの情熱はEMI盤の方に色濃く脈打つ。プレヴィンの代表作を1枚と問われたら、私はためらいなく「ラプソディ・イン・ブルー」EMI盤を推す。

 ジャズとクラシックを共有するプレヴィンは協奏の達人でもある。ジャズ・ピアニスト時代には、ポップスの名花ダイナ・ショアとの「ダイナ・シングス、プレヴィン・プレイズ」(1959年録音Capitol)や「ケ・セラ・セラ」でお馴染みドリス・デイとの「デュエット」(1961 CBS)などがあり、クラシック時代には人気の歌姫キリ・テ・カナワとの「KIRI SIDETRACKS」(1991 PHILIPS)などがある。歌手の個性を引き立てつつ程よく自己を主張するプレヴィンが実にスマートである。そんな見事なパフォーマンスを、上記アルバム42曲の中から敢えて一曲選ぶとすれば、「KIRI SIDETRACKS」収録の「キュート」か。“ジャズ心と茶目っ気”、そんなテ・カナワの意外な一面が、スイング感あふれるプレヴィンのピアノと絡み合い、インパクトあるコラボレーションが現出した。なかなかの聴きものである。

 プレヴィンは、2009年から、NHK交響楽団の首席客演指揮者を務めた。そのお陰で、テレビを通じて晩年の至芸を堪能することが出来たのは幸運だった。録画できたものを記すと・・・・・モーツァルト:交響曲 第36番「リンツ」、ガーシュイン:ピアノ協奏曲 ヘ調、武満徹「グリーン」、プロコフィエフ:交響曲第5番、ブラームス:ドイツ・レクイエム、メシアン:トゥランガリラ交響曲、マーラー:交響曲第9番、そしてブラームスの交響曲「第3番」と「第4番」などである。

 ブラームスの第3と第4は、冒頭で書いた通り、プレヴィンが指揮者を目指すきっかけになった所縁の曲であるが、とりわけ第3番には思い入れが深いようだ。それは彼のこんな言葉から窺える。「ブラームスの4つの交響曲は美しく内面に訴えてくるものがある。第1番は劇的。第2番は田園的。第3番は秋のように思索的でうっとりするほど美しい。第4番は壮大なドラマ」。第3へのコメントがひときわ情感的で他と一線を画す趣がある。
 2010年11月6日、NHK音楽祭での「第3交響曲」の演奏は素晴らしかった。淀みのない自然な流れの中に、慈しむように音を響かせ、美と哀歓がブレンドされた高貴なまでの音空間を作り出していた。タクトを置いた瞬間の穏やかな笑顔がとてもチャーミングだった。そこには少年のような無邪気さがあった。もしかしたら、少年期、フルトヴェングラーから受けた感動を蘇らせていたのかもしれない。

 2019年2月28日、アンドレ・プレヴィンは還らぬ人となった。少年時代の夢を忘れず独自の音楽を探求し続けた見事な人生だった。
 2019.09.22 (日)  626に纏わるブラウニーとアマデウス2
          〜ジャズの名手 モーツァルトを演奏する の巻
<ベニー・グッドマンの場合>

 “スイング王”ベニー・グッドマン(1909−1986)とクラシック音楽との繋がりは深い。まず、楽団のテーマ曲「レッツ・ダンス」はウェーバーの「舞踏への勧誘」が原曲。その他にも、ラヴェルの「ボレロ」、パガニーニの「カプリース第24番」、メンデルスゾーンの「春の歌」、プロコフィエフの「ピーターと狼」など、クラシックの名曲をアレンジ、自己のレパートリーとしている。ここまでなら、前回の「クラ未知」で書いたクラシックのジャズ化と何ら変わりはないのだが、彼は一味違う面を持つ。クラシックの楽曲をそのままシリアスに演奏するのである。そこには“スイング王”グッドマンの姿はない。ただクラシックの一クラリネット奏者がいるだけだ。

 グッドマンとクラシックの結びつきは少年期に遡る。貧しいユダヤ系移民の子として生まれたグッドマンに音楽への扉を開いたのはユダヤ教会(シナゴーグ)で、これが10歳のとき。翌年にはハル・ハウスというセツルメントの少年バンドに入団。めきめきと頭角をあわわした少年に、フランツ・シェップという元シカゴ音楽大学の教師がクラシックの基礎を叩きこむ。グッドマンは、プロ奏者として活動を始めた12歳のときには既にクラシックの奏法を身に付けていたのである。

 1932年、自己の楽団を結成。1935年にはパロマー・ボールルームの成功をきっかけに人気が爆発。「スイングの王様」としてジャズ界を席巻するようになる。バンド結成に関わっていたのがジョン・ハモンド(1910−1987)。彼は、グッドマンはじめビリー・ホリデイ、カウント・ベイシー、ボブ・ディランらを発掘、米音楽界における大プロデューサーとして勇名を馳せることになる。因みに彼の妹アリスはグッドマンの妻である。
 ハモンドはまた自らがビオラを弾くほどのクラシック通で、プロ級のピアノの腕を持つ母親らと共にニューヨークの自宅でよくリサイタル・パーティーを催していた。1935年の秋、これに参加したグッドマンはハモンドのカルテットと共にモーツァルトの「クラリネット五重奏曲」を演奏した。そこでハモンドはグッドマンにこう囁く。「なあベニー、君のクラリネットの腕は本物だ。歴史の浅いアメリカでは、クラシックはシリアス(本格的、高尚)、ジャズ等ポピュラー音楽はライト(軽い、低俗)という偏見がまだまだ根深い。君が両方の音楽をやることによって、この壁を突き破る礎になれば嬉しいんだが」。その後、グッドマンのジャズとクラシックの二刀流は本格化する。本業のジャズでは、1938年、かの「カーネギーホール・コンサート」でキャリアの絶頂を築き、一方、クラシック分野での活動も際立ってくる。

 当時アメリカに移住していた巨匠バルトークは、「ヴァイオリン、クラリネットとピアノのためのコントラスツ」(1938年)を作曲、グッドマンと名ヴァイオリニスト ヨーゼフ・シゲティに献呈している。この作品は、彼ら3人によるレコーディングがあるがCD化はされていない。ヒンデミットのクラリネット協奏曲はグッドマンの委嘱作品。そして、クラリネットの絶対的名曲モーツァルトの「クラリネット協奏曲」と「クラリネット五重奏曲」はRCAに録音があり現在でも聴くことができる。その他放送等で演奏した作品としては、ウェーバーの「クラリネット協奏曲第1番&第2番」、クラリネット小協奏曲、ブラームスのクラリネット五重奏曲、ソナタ第1番、第2番、ドビュッシーの「狂詩曲第1番、ニールセンの「クラリネット協奏曲」、ストラヴィンスキーの「エボニー・コンチェルト」、ミヨーの「ヴァイオリン、クラリネットとピアノのための組曲」、コープランドの「クラリネット協奏曲」、バーンスタインの「プレリュード、フーガとリフ」など、枚挙にいとまがない。

 これらの事実は、グッドマンがいかにクラシック音楽に精通し情熱を傾けていたかを物語る。そう、グッドマンにおけるクラシック音楽は、功成り名を遂げたジャズ・マンの片手間な作業でも、コマーシャリズムに踊らされたキワモノなどでは決してなく、一音楽家としての真摯な行為そのものなのである。

モーツァルト作曲:クラリネット協奏曲 イ長調 K622
  ベニー・グッドマン(クラリネット) シャルル・ミュンシュ指揮:ボストン交響楽団
  1956年7月9日、タングルウッド バークシャー音楽祭コンサートホールでの録音


 このCDは現役として現在聴くことができる。今回、改めて聴いてみたが素晴らしい演奏である。流麗かつ端正な佇まいの中に力強さと節度ある歌心が絶妙に同居した表現は真に説得力がある。ミュンシュ:ボストン響のやや武骨な表情が気にはなるが、とはいえ、純度の高い二人の共演はモーツァルト最晩年の境地の一面を的確に表出する。
 この曲は名曲につき名演も多い。ウィーン風典雅な香りのプリンツ、的確なテクニックから堅実な表現を見せるライスター、節度あってロマンティックなシフリン、等々。これらの中で、グッドマンの演奏は、技術と表現力において、まったく遜色はない。あるのはフレーバーの違いだけ。これはもう好みの問題である。我が師・石井宏先生は「クラリネットの名人は数多いが、モーツァルトの協奏曲で素晴らしいのは、古くはレジナルド・ケル、レオポルト・ウラッハ、ベニー・グッドマン。現役ではリチャード・ストルツマンだ」と著書「モーツァルト・ベスト101」の中で述べておられる。信頼する石井先生が、プリンツもライスターも差し置いて、グッドマンの名を挙げているのは注目に値する。彼のクラシックがホンモノの証である。

 ところがこの演奏の評判は、発売時、それほど芳しいものではなかった。当時のレコード評があるので、抜粋して転載する。
私の友人が「何しろグッドマンという奴はジャズのプレーヤーだろ。だからモーツァルトなんて良いわけないさ」と言った。うなづかせるところはある。グッドマンはリズムがくずれることを警戒し、慎重にそして入念に演奏している。従って、いや味はないが、一本調子。とはいえ、ミュンシュががっちりひきしめているためか、思いのほか良かった。片面は「クラリネット五重奏曲」で、日本でこの二曲の組み合わせは出ていないから、別にあっても有害じゃないだろう。
 これは「レコード芸術」1957年7月号、木村重雄氏のレコード評である。予想通りの低評価である。「ジャズ・プレーヤーがモーツァルトなんておこがましい」とするクラシック側の上から目線がアリアリと窺える。これはまさに当時の我が国批評界の一般的風潮だったのだろう。「なんとか聴けるのはミュンシュのおかげ」というニュアンスもその表れだ。でも、本当にそうだろうか? 私は、この演奏の成功の因はミュンシュではなくグッドマンにある と思っている。

 「ベニイ・グッドマン物語」という映画がある。「グレン・ミラー物語」のヒットの翌年1955年に制作されたアメリカ映画である。題名どおり、「スイング王」ベニー・グッドマンの生い立ちからカーネギーホール・コンサートまでのおよそ30年間の物語だ。ジーン・クルーパ、テディ・ウィルソン、ライオネル・ハンプトン、ハリー・ジェームスらの名手たち本人が登場、演奏場面がふんだんにあるのがとにかく楽しい。だが、私の注目点は別のところにある。グッドマンのモーツァルトとの関連である。これを以下箇条書きで。

@ 少年時代の師フランツ・シェップの台詞「すばらしいよ、ベニー。40年吹いてきたわしを6年で追い越すとは。もう練習曲はいい。来週からはモーツァルトだ」。
A グッドマンがジョン・ハモンド邸でプロのオケをバックに演奏するのがモーツァルトの「クラリネット協奏曲 第3楽章 ロンド」。実際は「クラリネット五重奏曲」の方だったが、映画では効果を考えてこちらに差し替えている。この水際立ったベニーの快演を目の当たりにした未来の妻アリスは「とても感動したわ」と心の内を明かす。これに対してベニーは「モーツァルトの力さ」と返す。
B ホームパーティーでグッドマンが「メモリーズ・オブ・ユー」を吹いたあとのアリスの台詞「モーツァルトみたいに美しかったわ」。

 ジャズ・マンの成功譚に「モーツァルト」という台詞が3回も出てくる。グッドマンとモーツァルトの絆の表れだ。

 一方、ミュンシュの場合はどうだろうか。1950年〜60年代、RCAの看板指揮者だったミュンシュは膨大な録音を残している。得意のフランスものは当然のことながら、ドイツ物においても、バッハ、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ワーグナー、ブラームスなど多くのレコーディングがある。ところがモーツァルトだけは、私の知る限り、このグッドマンとの協奏曲と「フィガロの結婚」序曲だけと極端に少ない。ミュンシュほどの大物なら、望めばいくらでも録音できたはず。それがないということは? 彼はそれほどモーツァルトが好みではなかったか、不得手だった!? コンサートでの記録はあるのだから迂闊なことは言えないけれど・・・・・・。

 話をCDに戻そう。グッドマンのつくりは実に丁寧で流れがスムーズ。片や、ミュンシュの表情はどこか素っ気なく武骨ですらある。グッドマンの方が遥かにモーツァルト的なのだ。これは両者のモーツァルトとの距離感と符合する!? 重鎮木村重雄氏とは真逆の見解となった。

<チック・コリアの場合>

 チック・コリア(1941−)はクラシック音楽が嫌いだったという。モーツァルトにも興味がなかったとも。理由は保守的で形式的に過ぎるから。ジャズの本質の一つにアドリブがあるわけだから、これは当然の感覚である。ところが彼のクラシック観を一変させる出来事が起こる。それは、1981年ドイツで聴いたフリードリヒ・グルダのモーツァルトのピアノ協奏曲のコンサートだった。「あのときは身の毛がよだつほどゾクゾクした。モーツァルトがあんなに神秘的に聞こえたことはなかった。僕はグルダが弾くモーツァルトに魅了されたんだ。コンサートの後、このことをグルダに伝えたら、ならば今度一緒にモーツァルトをやろうと持ち掛けられた」と述懐する。グルダのモーツァルトが他と何が違ったのかは不明だが、ともかく、彼らの思いはこのあとモーツァルトの「2台のピアノのための協奏曲K365」の共演で結実。アーノンクール:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のオケ伴でレコーディング(1983年)も実現している。

 アーノンクール&アムステルダム・コンセルトヘボウ管の弾むような楽想に乗って、思い切りのよいチック・コリアと安心サポートを施すグルダのコンビはモーツァルトが姉ナンネルとのために作った青春の記念碑的作品を溌溂と表現する。アンダンテ楽章の抒情味もなかなかだ。微温湯的なギレリス父娘やオケがやや粗いペライア+ルプー盤を凌ぐ。アンサンブルも格段にいい(ただし、アルゲリッチ+ラビノヴィチの緩急自在の名人芸は別格)。残念なのは、カデンツァが旧来通りだったこと。グルダのモーツァルト演奏に感銘を受けたチック・コリアなら、他の部分はまだしも、カデンツアくらいは独自のものでやってほしかった。

 そして、極めつけは十数年後にやってくる。

モーツァルト作曲「ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K466、第23番 イ長調 K488」
  チック・コリア(ピアノ)
  ボビー・マクファーリン指揮とヴォーカル:セント・ポール室内管弦楽団
  1996年2月、5月、セント・ポールで録音


 チック・コリアがモーツァルト中期のピアノ協奏曲の傑作に取り組んだCDの意欲作である。共演はボビー・マクファーリン(1950−)。チックより9歳年下のヴォーカリストで、1988年には「Don't Worry, Be Happy」で全米No.1とグラミー賞3冠を獲得。クラシック界でも着実にキャリアを積み、1994年からセントポール室内管弦楽団の常任指揮者に就いている。異色の二人が名曲に挑む。

 本プロジェクトについてチック・コリアはこう述べる。「ボビーも僕もクラシックの音楽家でも作曲家でもない。基本的にはジャズ・ミュージシャンだ。共通点は二人ともクラシックが大好きだということ。だから僕たちはクラシックの音楽家たちとは違った見方でクラシックを捉えようと考えた。モーツァルトを演奏するときはジャズと同じように自由な気持ちになれる。ここが他の作曲家とは違う。モーツァルトのメロディはジャズと同じで、その時の気分でどのようにも演奏できるんだ」。

 では、メインの第20番K466の演奏について考察してみよう。冒頭にはボビーのヴォーカルが置かれる。楽器的発声による無調のアカペラで悪くない。引き続きチックのピアノ・ソロ。間断なくオケの前奏へと繋がる。オケの表情は柔らかくて美しい。本チャンのピアノ・ソロ登場までに時々ピアノが割り込むが、これはイントロからピアノ・ソロに入る一瞬の緊張感を台無しにするので買えない。カレーライスの前にカレーパンは食べない方がいい。第1楽章と第3楽章のカデンツアは独自なものに置き換えている。スパニッシュ風(本人談)テイストが斬新だ。第2楽章は装飾音のオン・パレード。等々、楽曲全体がジャズ的自由さに満ちている。

 当時の演奏会は声楽曲がなければ成り立たなかった。1783年3月23日、モーツァルトの自作演奏会のプログラムが遺されているが、10曲中4曲が声楽曲である。ボビーのヴォーカルはこれを想起させる。
 モーツァルトが当時自作のコンチェルトを弾くときは気分によって演奏を変えていたといわれている。特にカデンツアにおいては。そう、モーツァルトはアドリブの名手だったのだ。チックのピアノはこれに則っている。
 このプロジェクトは一見伝統を破壊するように見えるが、実はモーツァルトの精神を蘇らせる試みなのだ。このように、アイディアは素晴らしい。だが、この演奏からは感動が伝わってこない。何故? 原因は本丸におけるチックのピアノの技量に関わってくる。

 タッチが甘い。エッジが立たない。粒立ちが悪い。強弱のメリハリがない。音に輝きがない。アゴーギクが不自然。写真を見るとスタインウェイのようだが出てくる音はフォルテ・ピアノだ。とにもかくにも基本である曲そのものの演奏が心もとないのである。K365ではグルダのサポートと楽曲の難易度によって隠されていた真の実力が、残念ながら今回露呈してしまったのである。
 両曲には名盤が多い。K466にはカーゾン&ブリテン、K488にはカーゾン&セル。これら超ド級の名演には比すべきもなく、中程度の水準にも遠く及ばない。

 チック・コリアとボビー・マクファーリンのモーツァルト・プロジェクト。アイディアは素晴らしかったが、表現力がおぼつかなかった。「体裁整えるも中身無し」である。モーツァルトだったらどう弾いたか?どんなコンサートを構成したか? 彼らの投げかけた問はまっとうである。いつの日かアイディアと表現が合致した完成度の高いパフォーマンスの実現を見たいものである。

 今回取り上げた二つのモーツァルト。グッドマンのクラリネット協奏曲とチック・コリアのピアノ協奏曲。グッドマンは第一級の二刀流で貫録を示したが、コリアは問題提起に止まった。「スイング王」の称号は伊達じゃなかったのである。
<参考資料>

ベニー・グッドマンのモーツァルトK622 CDのライナーノーツ(坂口紀三和著)
チック・コリアのモーツアルトK466&K488 CDのライナーノーツ
        (トニー・シャーマン著、近藤直洋訳)
モーツァルト・ベスト101(石井宏編、新書館)
映画「ベニイ・グッドマン物語」DVD
 2019.08.16 (土)  626に纏わるブラウニーとアマデウス1
          〜ジャズの名手はクラシックの名曲をどう料理したか?
 1956年6月26日、天才トランペッター クリフォード・ブラウン(1930−1956)が交通事故で命を落とした。25歳、若すぎる死だった。私にとって626という数字は特別な意味がある。我が音楽研究のライフ・ワークであるモーツァルト「レクイエム」の作品番号がケッヘル626だからである。

 「ケッヘル」(中山可穂著)という小説がある。タイトルどおり、モーツァルトの作品番号ケッヘルを軸に展開される音楽推理サスペンスで、上下巻900頁余の長編である。
 物語の冒頭、北フランスはカレーの海岸でドーバー海峡に向かって指揮をする男が出てくる。それを見ている女がいる。男はイギリスから日本へ帰るため、海路海峡を渡るが、飛行機の番号が626だとして、乗らずにまたカレーに引き返してくる。そこで男と女は再会。「とても626という番号の飛行機には乗れない」と話す男を女は「変わった人」と思う。偶然出会った二人だったが互いの過去の中で微妙かつ濃厚につながっていた。二人が二度目に会うのは物語のラストになるのだが、そこに至るまでに再三の殺人事件が女の行く先々で起こる。そこには必ずケッヘル番号が関与していた・・・・・とまあ、こんな流れの小説である。
 何かといえばケッヘル番号が出てくる。その数70余。舞台はモーツァルト所縁のウィーン、ザルツブルク、プラハ、マンハイム、ベルリン、パリ。また、アマデウス旅行社、ジュスマイヤー先生、鎌倉のアロイジア、ドンナ・アンナ(安藤アンナ)、仔猫フィガロ、ナンネル等モーツァルトに纏わる名前が頻繁に登場。登場人物にはフリーメイソンの会員もいる。これらは、筆者の並々ならぬモーツァルト愛の証だろう。麻薬、レスビアンの描写等濃厚な側面もあるけれど、モーツァルト好きにはケッヘル絡みだけで十分に楽しめる。
 「ケッヘル番号には世界の謎を解く鍵が隠されている。モーツァルトの音楽は神が音符に姿を変えて我々人類に発信されたメッセージだ」。これは小説中にある表現だが、物語の流れから、なんとなくそんな感じがしてくる。「素数の謎が解けるとき宇宙の森羅万象が解明される」とする「万物の理論」にも通じるように思えてくるから不思議である。

 「クラ未知」今回は、クリフォード・ブラウンの命日である626と「モツレク」K626に勝手に因縁を感じつつ、ジャズとクラシックの関連性について考えてみよう。自分の力量からして、欲張っても仕方がないから深入りせずに気楽に取り組もう、などと考えていた矢先、当サイトの主宰者・川嶋文丸氏から興味深いリストが送られてきた!

 氏は私のジャズの師匠である。そしてクリフォード・ブラウンの大ファンである。だからメールでの彼への呼びかけは“Brownie川嶋”氏である。ジャズに関する疑問が生じたらすぐに彼に訊く。100%適切な返答がくる。これは個人的に凄いと思う。氏はまた、その卓抜な英語力&文章力でジャズの名著を多数翻訳、「マイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』創作術」(DU BOOKS)、クリフォード・ブラウン「天才トランペッターの生涯」(音楽之友社)等があり、これらはミュージック・ペンクラブ賞最優秀出版物賞受賞やAmazon音楽部門ベストセラーの第1位に輝くなど、まさに斯界の権威である。これは公的に凄い。

 送られてきたリスト(B's Listと名付ける)には、ジャズ・プレイヤーが録音したクラシク曲35点が記載され、収録アルバムが併記されている。単行本の企画のために作成したものだとか。これは実にありがたかった。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズ、デューク・エリントンなどビッグ・ネームが目白押し。彼らがクラシック曲をどう料理しているか?リストを見ているだけでワクワクする。今回、これを利用しないという選択肢はない!

 まずは、B's Listの中から面白そうなものを聴く。イケそうなものを選ぶ。これを「ジャズの名手はクラシック名曲をどう料理したか?」として括り、パターンAとする。次に、リストを離れ、「ジャズの名手クラシック名曲を演奏」と題し、ジャズ・プレイヤーのクラシック名曲ソノママ演奏を評論。これをパターンBとする。最後は「ジャズ/クラ融合の試み」と題して、ジャズとクラシック音楽融合の試みを作品作りの観点から考察。これをパターンCとする・・・・・こんな計画が即座に出来上がる。Brownie効果に大感謝である。

 626という数字でつながったブラウニーとアマデウス。前者をジャズ、後者をクラシックの象徴として捉え、両者の関連性を探る旅に出よう。今回は上記3つのうちパターンAについて論じてみたい。

<パターンA>ジャズの名手はクラシック名曲をどう料理したか?

  B's Listで最初に目を引いたのはジョン・コルトレーン「ヴィリア」である。「ヴィリア」はレハールの喜歌劇「メリー・ウィドウ」第2幕冒頭で、陽気な未亡人ハンナが歌う架空の故国ポンテヴェドロ伝承のラブ・ソング。ロマンティックで魅力的なアリアである。

 これは、昨年発売されたコルトレーンの未発表アルバム、その名も「ザ・ロスト・アルバム」に収録されている。パーソネルは、コルトレーン(ts)、マッコイ・タイナー(p)、ジミー・ギャリソン(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)。“黄金のカルテット”である。録音は1963年3月6日。「ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン」のレコーディングの前日である。
 ジョン・コルトレーン(1926−1967)は、1960年、マイルスのグループを離れ独自の道を歩み始める。「マイ・フェイヴァリット・シングス」(1960年10月録音)では、ソプラノ・サックスを手に代名詞“シーツ・オブ・サウンド”で独自の世界を推し進め、アヴァン・ギャルド色濃い意欲作「インプレッションズ」(1961/62年録音)、さらにはヒット作「バラード」(1961/62年録音)、そして、上記、異色のヴォーカルの名盤「ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン」等、個性溢れる名盤を次々に生み出してゆく。そんな只中に録音されたのが「ザ・ロスト・アルバム」収録の曲たちである。レハールの「ヴィリア」、ナット・キング・コールのヒット曲「ネイチャー・ボーイ」、無題のオリジナルが2曲、「インプレッション」の短縮版、等々、断章的で全体的統一感に欠ける。これを創造的双方向のバランス(Both Directions at Once) と捉える向きもあるが、それほどたいそうなものにも思えない。一枚のアルバムとしてまとまった録音ではなかった、と考えるのが妥当ではなかろうか。50数年もの間「オクラ」となっていたのはこのためだろう。
 これらの中では、やはり「ヴィリア」が出色である。同趣向の曲が並ぶアルバム「バラード」の精緻極まる美しさとは趣を異にするリラックス感がたまらなくいい。あのストイックなコルトレーンがこんな長閑さを持ち併せていたのか、と思う。緊張感に満ちたアルバム群の谷間に咲いた一輪の花の趣だ。
 コルトレーンの「ヴィリア」初体験は、13歳のころラジオで聴いたアーティ・ショウ楽団の演奏だったそうだ(これに先立ってポール・ホワイトマンが取り上げている)。演奏に郷愁を感じるのはこのためかも。「メリー・ウィドウ」の初演は1905年。そこから、レハール〜ポール・ホワイトマン〜アーティ・ショウと流れ、1963年にコルトレーンが録音。今、心地よく聴くことができる。この音霊のリレーこそクラ/ジャズ・ファン冥利に尽きるというものだ。

 次は、コルトレーンと双璧の巨人ソニー・ロリンズ(1930−)である。来年卒寿の彼が未だ現役というのが凄い。B’sリストにはなんとチャイコフスキー:交響曲 第6番 「悲愴」 第1楽章 第2主題がある。早速YouTubeで聴いてみる。パーソネルは、ロリンズ(ts)、ジミー・クリーヴランド(tb)、ギル・コギンス(p)、ウェンデル・マーシャル(b)、ケニー・デニス(ds) 。収録アルバムは「ソニー・ロリンズ・プレイズ」で1957年の録音。1957年はロリンズの全盛期にあたり、歌心溢れるヴィヴィッドなプレイは素晴らしい。日本語タイトルの「悲愴」から連想するメランコリックではなく、“pathetique”本来の意味である“感動的な”パフォーマンスが聴かれる。ロリンズはまた、クラシック音楽への興趣浅からぬものがあり、1986年にはジャズ/クラを融合した「テナー・サックスとオーケストラのための協奏曲」を作曲・演奏している。
 ロリンズは、クリフォード・ブラウンとの録音も少なからずあるが、「モア・スタディ・イン・ブラウン」(1956年録音)に含まれる3つのパフォーマンスがいい。エモーショナルなブラウンのトランペットと豪快なロリンズのテナー・サックスがマッチして素晴らしい。
 ロリンズとブラウンは同い年で、かつ626つながりでも浅からぬ因縁がある。ブラウンがフィラデルフィアの自宅からシカゴに向かう途中、交通事故で命を落としたのが1956年6月26日であるが、この数日前まで同じステージ(ヴァージニア州ノーフォークのコンチネンタル・レストラン)に立っていたのが名ドラマー マックス・ローチだった。ローチはロリンズとのレコーディングのため一足先にニューヨークに向かっている。そして、6月22日、合流した二人は、トミー・フラナガン(p)、ダグ・ワトキンス(b)と共に、名作「サキソフォン・コロッサス」を録音した。6月22日に歴史的名盤を遺したロリンズとローチ、一方、6月26日に命を落としたブラウン。K622は「クラリネット協奏曲」、K626は「レクイエム」。これまた皮肉な取り合わせである。

 チャイコフスキー「悲愴」つながりでもう一つ。「悲愴」の第2楽章は5/4拍子で、交響曲ではなかなか見られない珍しい拍子。ジャズでも然りだが、この拍子を使った大ヒット・ナンバーに、デイヴ・ブルーベック・カルテットの「テイク・ファイブ」(1959年録音)がある。作ったのはポール・デスモンド(as)で、彼のリーダー・アルバム「グラッド・トゥ・ビー・アンハッピー」(1964年録音)収録の「プアー・バタフライ」は、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」をイメージした曲。歌モノではサラ・ヴォーンの名唱がある(アルバム「アット・ミスター・ケリーズ」1957年録音に収録)。サラ・ヴォーンといえば、「ラヴァーズ・コンチェルト」があまりにも有名。これは以前、J.S.バッハのメヌエットト長調の編曲版といわれてきたが、近年クリスティアン・ペツォールトの作品と判明した。ペツォールトはバッハと同時代の作曲家で、バッハが愛妻アンナ・マグダレーナのために作ってやった「練習帖」の中に拝借掲載していたため永年そう思われてきたもの。ともあれ、これを4ビートに変換・ポップスに仕立ててジャズ・シンガーのサラ・ヴォーンに歌わせたのはプロデューサーの慧眼。素晴らしい作品である。

 次は帝王マイルス・デイヴィスの「スケッチ・オブ・スペイン」(1960年録音)だ。これは編曲者ギル・エヴァンスと協同でスペインの印象を綴った5曲から成るアルバム。その冒頭の曲がロドリーゴの「アランフェス協奏曲」第2楽章アダージョをモチーフにした「Concierto De Aranjuez」である。Hエオリア旋法を嵌めこみ18世紀スペインを見透したロドリーゴに対し、前年のアルバム「カインド・オブ・ブルー」でモード手法を極めたマイルスは、これに加え、ドリア、フリギア、イオニア等の旋法にブラジリアン・モードまでも引っ張り出して、思いを遠く中世にまで馳せたのである。

 川嶋文丸訳「カインド・オブ・ブルー創作術」によれば・・・・・マイルスは「スケッチ・オブ・スペイン」のレコーディングが終わったあと、「おれの中は空っぽだった。あのとんでもないセッションを終えたおれは、すべての感情が干上がり、音楽を聴く気も起らなかった」と述懐し、その後一年間、スタジオに入らなかった、という。さらに、「このアルバムは、生きのいい新鮮なバックグラウンド・ミュージックを求める人々を喜ばせた。そして、それはまた最良のジャズメンだけが提供できる最強の音楽的、美学的感動を味わいたいと思う人々をも満足させた」とマーティン・ウィリアムスは指摘する・・・・・あまりの過酷なレコーディングに精も魂も尽き果てたマイルスだったが、その音楽的成果は絶大だったのである。

 フランスのジャズ・ピアニスト ジャック・ルーシェ(1934−)は、1959年、J.S.バッハ専門のピアノ・トリオ「プレイ・バッハ・トリオ」を結成。直ちに“プレイ・バッハ”の第一人者となった。学生時代、国立のジャズ喫茶でよく聞いたものである。以来、メンバーの入れ替えわりはあるものの、今日まで一貫して“プレイ・バッハ”を貫いてきた。確かに一時代を画したスタイルであり、特有の抒情美は健在だが、ジャズの醍醐味であるスリルは希薄といわざるを得ない。原曲の姿を留めてい過ぎだからだろうか。これなら、オスカーピーターソン・トリオが、アルバム「プリーズ・リクエスト」(1964年録音)の「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ」のエンディングでみせた、J.S.バッハ「主よ、人の望みの喜びよ」の一節挿入の方が遥かにジャズらしくて粋である。

 さてどん尻に控えしは、デューク・エリントン楽団のチャイコフスキー作曲「くるみ割り人形」組曲(1960年録音)である。今回B’s List中、最高に食指を動かされたのはこれ。デューク・エリントン(1899-1974)とチャイコフスキーの組み合わせなんて、想像もしてなかったものだから。
 「くるみ割り人形」は、チャイコフスキー晩年のバレエ音楽の傑作。熟練の技による多彩で華麗な響きに美メロを乗せた音楽は、子どもたちを夢幻の世界へと誘う。この完成度の高いオーケストレーションにエリントンはどう対応したのだろうか?

 「こんぺい糖の踊り」は、原曲のファンタスティックな夢世界からブルージーなスロー・スイングの世界へ転換している。これは「黒と茶の幻想」的テイストか。因みにタイトルは“Dance Of The Sugar-Plum Fairy”で、仏語の原題は“Danse ole la Fee-Dragee”。欧州では「ドラジェ」、アメリカでは「あめ玉」、日本では「こんぺい糖」。国別に全く違う別個の菓子名が振り当てられているのが面白い。
 「花のワルツ」は、原曲では華麗な終曲として末尾に置かれているが、エリントンはラス前に移し軽快なダンス・ミュージックに仕立てている。まるで「A列車で行こう」のスイング感。王宮の舞踏会から都会のダンス・ホールへの妙なる変換である。
 代わって最後に置いたのが「アラビアの踊り」。エリントン特有のハーモニーと多様な楽器を駆使してエキゾチックな世界を描き出す。連想するのはズバリ「キャラバン」。

 チャイコフスキーが当時発明されたばかりのチェレスタを使うなどして作り上げた多彩で華麗で斬新な響きを、エリントンは独自の“エリントン・サウンド”に落とし込み全く別個の音世界を現出することに成功した。全9曲は、原曲の姿をほとんど留めていない、まさに、エリントン・ワールドそのものだ。CDのクレジットにはないが、アレンジにはビリー・ストレイホーンが関わっているはずだ。クラシックという素材を生かしてジャズという絶品料理を創造した二人の共同作業に天晴れである。

 <パターンA>を通して感じたこと。それは、クラシック音楽の原型を留めているものほどつまらなく、プレイヤー固有の音楽になり切っているものほど面白い、ということだ。ジャズはやっぱりジャズでなければ意味がない。

<参考文献>
「ケッヘル」上下(中山可穂著 文春文庫)
「カインド・オブ・ブルー創作術」(アシュリー・カーン著、川嶋文丸訳 DU BOOKS)
ジョン・コルトレーン「ザ・ロスト・アルバム」CDライナーノーツ
   (アシュリー・カーン著、寺井珠重訳)
 2019.07.13 (土)  憲法第9条自民党改正案をぶっ潰せ
 参院選である。7月21日、いったい誰に投票しようか? 東京都民としていつになく迷う選挙である。争点はいくつかあるが、今日は「憲法改正 是か非か」を取り上げよう。どうやら自民党=安倍総理は、突かれるとボロが出る「年金問題」よりも、コッチに目を向けさせた方が得策と考えているようだ。「未来に向かって憲法をしっかり議論する候補者を選ぶのか。国会議員の責務を放棄して全く議論すらしないのかを選ぶ選挙だ」と声高に叫ぶ。随分と自信ありげである。ならば、議論に加わらせていただこうではないか。

 憲法改正最大のポイントは「第9条」であることはいうまでもない。自民党の改正案が出ているのでこれを検証する。その前にまずは現行の条文を確認しておこう。

<憲法第9条>

1 日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国威の発揚たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

 第1項のポイントは、「国際紛争を解決する手段としては」の文言である。これを読み込めば、それ以外の手段=専守防衛は肯定している、との解釈は可能だ。
 第2項のポイントは、芦田均の11文字といわれる「前項の目的を達するため」の文言である。これがまさに絶妙。「前項の目的」とは「国際紛争を解決する手段としての武力行使を放棄する」ことだから、「専守防衛」のための戦力の保持はその限りではない、と解釈することはギリギリ可能だ。即ち、自衛隊は「専守防衛」のために存在する限り合憲ということであり、吉田茂が自衛隊を作った根拠もここにある。

 自民党憲法改正推進本部のHPがある。これを軸に、彼らの「第9条改正」の思惑を考察する〜憲法学者の過半数が「自衛隊は違憲だ」と考えている、と切り出した上で、憲法第13条を持ち出す。ここには「生命、自由及び幸福追求の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあるからして、何者かによってこの権利が侵害されたら国はこれを排除する権利も義務も生じる。所謂「自衛の措置」である。このための組織としての自衛隊は合憲であり、憲法に明記しなければならない〜とこうなる。

 この論理は余りにも迂回が過ぎるが、問題はそのことよりも、「第9条そのものから説き起こさないほうが都合がいい」との魂胆が見え隠れすることだ。前述のとおり、憲法第9条は、解釈により、専守防衛のための軍隊は保持可能と読むことができる。これだとココ止まり。即ち、個別的自衛権更には集団的自衛権にまで論理が及ばない。だから、第13条を持ち出したと私は考える。

 これらの観点から、自民党改正案を検証してみよう。

<憲法第9条自民党のたたき台素案>

1項2項はそのままで9条の1とし、9条の2を加える。

第9条2
1 前条の規定は我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として法律の定めるところにより内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。

2 自衛隊の行動は法律の定めるところにより国会の承認その他の統制に服する。
 この案は、連立与党・公明党の「加憲論」に配慮しているのはいうまでもないが、ポイントは「必要な自衛の措置」という文言にある。これは主観が入りやすく、反面、具体性に乏しい表現で、これこそが自民党案の狙いなのである。
 必要かどうかを決めるのは時の権力である。国民目線で「おかしい」と思っても権力が必要と見做せば措置がとれる。言い換えれば、無制限に種類を問わず自衛の措置がとれる、ということである。これは危険極まりないし、「専守防衛」のみを肯定する現行第9条を明白に逸脱する。

 現行第9条は、前述のとおり、「専守防衛のための自衛隊」は是認していると解釈できる。では「専守防衛」とは何か。防衛省のHPにその規定が掲載されている。

「専守防衛」とは
相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものにかぎるなど憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢をいう。
 ここに示されている「専守防衛」とは、相手から攻撃を受けてはじめて可能となる防衛力の行使のことであり、先制攻撃を認める「個別的自衛権」とも区別しなければならない。なおかつ、「必要最小限」という文言にあるとおり、防衛力=武力の行使や保持は必要最小限にとどめるものである。そして、これらは憲法の精神にのっとったものと結んでいる。即ち、自衛隊を管轄する防衛省が「専守防衛ならば憲法の精神にのっとっている」と認識していることになる。

 しかるに、「自民党改正案」には「必要最小限」の文字もなければ「専守防衛」の概念もない。現行憲法との整合性を欠くことは明らかだ。だがこれは当然意図したこと。では、「自民党改正案」の本意は何なのか?

<改正案に潜む政権の本意>

 重要ポイントは、変化した「自衛」の概念であり、「必要な自衛の措置」という文言である。

 自衛権には個別的自衛権と集団的自衛権がある。日本は戦後、集団的自衛権に関して、その権利の保有は認識しつつも、憲法上行使できないという前提で安全保障を考えてきた。日本国憲法の制定に関わった幣原喜重郎は、「平和憲法」下での国の進むべき道を示し、後を引き継いだ吉田茂は、サンフランシスコ平和条約と日米安保条約を締結して日本の独立を図り、経済発展による復興の礎を築き発展させた。専守防衛たる「平和憲法」の標榜こそ、戦後日本の復興において、考えうる最も有効な手段であり、ある意味確信犯的したたかな戦略だったのである。
 それが近年、とみに変わりつつある。実に危うい状況なのである。賢い先人の意図を感知できずに、近視眼的視野しか持たない凡庸な指導者が権勢をふるう弊害が露呈している。これは国家の危機に他ならない。

 決定打は、2015年に制定された安保法制(「平和安全法制整備法」と「国際平和支援法」)である。これにより、集団的自衛権の行使が容認され、自衛隊の活動が著しく拡大されることになった。政権は「国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合に限る、との足枷を設けているから、自衛隊の活動が際限なく拡大することはない、と宣った。しかるに、「国家の存立が脅かされるか否か」も「国民の幸福追求の権利が覆されるか否か」も、その判断は政権が下すもの。ならば、政権の意向によって集団的自衛権の範囲が際限なく拡大される危険性は大いにあるということになる。
 もうおわかりだろう。「自民党改正案」は現行憲法との整合性を犯してでも、集団的自衛権を容認する「安保法制」を正当化する狙いがあるのだ。

 「自民党改正案」は、辛うじて専守防衛まで認める第9条に、個別的自衛権を通り越して集団的自衛権までをも容認する条文を併存させようという、矛盾そのもののとんでもない案件であり、国家権力の行き過ぎを縛る立憲主義の原則にも反するものだ。最高法規たる憲法にかくなる非常識は許されるはずもなく、国際社会に対しても恥ずかしいことこの上ない代物なのである。

 安倍総理は今年5月3日憲法記念日の声明で「自衛隊が違憲と言われるのは心苦しい。すべての自衛隊員が誇りを持って任務を全うできる環境を整備したい」と述べた。その存在を憲法に明記することによって、彼らの尊い行為に報いたい、ということなのだが、それはあくまでも建前に過ぎない。なぜなら、国のために命を賭して働く公務員はたくさんいるわけで、警察官も消防士もしかりである。ならば彼らの存在も憲法に明記するのか?
 自衛隊を明記するのは、彼らの誇りを尊重するためというよりも、その裏には、自衛権を集団的自衛権にまで拡大することを憲法によって裏付けたい、という企みが隠されている。それにより、「安保法制」も正当化される。表面きれいごとを並べて真実を隠す。これはマヤカシ欺瞞の安倍政権の常套手段だ。騙されてはいけない。

 小選挙区制という仕組みと野党の不甲斐なさだけで長期政権を継続する安倍政権。このままいけば、11月には、桂太郎の在任期間記録2886日を抜いて史上第1位となる。更に、改憲勢力が国会議員の三分の二を維持できれば、悲願の憲法改正の発議が可能となり、国民投票実施にこぎつけることができる。一連のモリカケ問題だけをとってみても、まともな神経の持ち主ならとっくに身を引いて然るべき状況なのに、恥ずかしげもなく居続ける。そんな首長を代えることもできないもどかしさ、情けなさ、だらしなさ。 憤懣やるかたなしとは、まさにこのことだ。
 自浄能力なき自民党と無能力堅持の野党では、彼はこのまま連綿と政権の座に居座り続けるだろう。こんなことを許していいのか? なんとか一泡吹かせてやりたいと思うのは私だけではないはずだ。ならばどうする?

<打倒安倍政権へ 逆転の秘策>

 今回の選挙で野党に投票してもどうせ自民党の勝利に終わり、何も変わらないのは目に見えている。ならばどうする。私の秘策は、清き一票を敢えて改憲勢力に投じる、という逆転の発想である。自民・公明・維新の改憲勢力が憲法改正の発議ができる三分の二を維持してやる。即ち、参議院の改憲勢力議席164を確保してやるのである。選挙後、与党はいつものように、勝てばすべてを信任されたとして、数の力に物を言わせゴリ押し政治を展開するだろう。そこが付け目だ。軽率なる総理は2020年の通常国会で悲願の「改憲発議案」を提出する。ここで肝心なのは、野党が本質を踏まえた議論を真摯に信念をもって仕掛けることだ。「ただ反対」ではなく、具体的に改正の対案を示して相対することだ。そして、野党共闘を組み「統一改正案」を提示する。文体は「自民党改正案」に倣えばいい。例えばこんな風に・・・・・

<憲法第9条野党統一改正案>

1項2項はそのままで9条の1とし、9条の2を加える。

第9条2
1 前項の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために専守防衛の概念に基づき、必要最小限の自衛の措置をとることを妨げないものである。そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。

2 自衛隊の行動は法律の定めるところにより国会の承認その他の統制に服する。
 「野党統一改正案」には、このように、「我が国における自衛の措置とは“専守防衛”であること。そのための“実行部隊が自衛隊”であること」を明記する。憲法第9条から導き出したこの論理は正当で揺るぎないものだ。しかも、安倍総理が主張する自衛隊の明記も実現している。そして、第9条とは整合性のない「自民党案」と真っ向勝負の論陣を張るのである。

 この勝負は、どこから見ても「野党統一改正案」に分がある。安倍総理がどんなに声高に叫んでも、この正当性を覆すことはできない。「野党統一改正案」は間違いなく勝つ!
 そこで、改憲勢力が引き下がればそれでよし。もし、数の力で強行し発議したらそれはなおよし。国民投票に突入すればいい。飛んで火にいる夏の虫とはこのことだ。時期は2020年後半となるだろう。選挙期間中、野党連合は徹底的に「自民党改正案」を叩きまくる。いつもながらの“絶対反対”を叫べばいい。「野党統一改正案」を掲げて、「みなさん、二つの案を見比べてください。どちらがまともかは一目瞭然でしょう。自衛という名の際限なく戦争に突き進むことを容認する『自民党改正案』が果たして国民に幸福をもたらすでしょうか」とキャンペーンを打てばいい。きっと「改正反対」の一大ムーヴメントが巻き起きるはずだ。そうなれば、「自民党改正案」は国民投票で間違いなく否決されるだろう。そして、これはまた、常日頃から総理が力説する“憲法問題に終止符を打つ”ことにもなる。結果、安倍内閣は総辞職しか道はなく、「安保法制」も必然的に効力を失う。まさに、一石二鳥!逆転の秘策!!我々国民は、最後の最後で、あの厚顔無恥な安倍晋三という総理大臣に一泡吹かせてやることができるのだ。

 だから、私は今のところ、7月21日の投票日には改憲勢力に投票するつもりである。もし、この選挙で改憲勢力が三分の二を下回れば、信念のない安倍総理は「憲法改正」を取り下げてしまうだろうから。あと一週間、何がベターかを真剣に考える。冒頭で今回ほど迷う選挙はない、と言ったのはこういう理由なのである。
 2019.06.25 (火)  復興支援のモツレク、そして、新しい岡村版の提唱
【復興支援のモーツァルト「レクイエム」】

 6月8日、青学ガウチャー記念礼拝堂に行った。東日本大震災復興支援コンサートに参加するためである。実行委員会は青山学院大学同窓会の有志で構成。実行委員の一人、大河平容子さんのお誘いで、2014年から毎年欠かさず参加させていただいている。因みに、大河平さんは、「クラ未知」にも何度か登場している(株)アダストリア・ホールディングス会長福田三千男氏のお姉さまである。

 復興支援コンサートの第1回は2012年。以降毎年行われ今年で8回を数える。収益金と寄付金を、岩手、宮城、福島各県の被災遺児孤児基金に贈っている。大震災から8年、政府高官の心無い失言や尻すぼみの支援活動も多い中、地道に毎年欠かさず支援を積み重ねているのは、立派という他はない。

 毎年演奏に先立って礼拝が行われる。以下式次第
司式 大学宗教部長 塩谷直也氏
奏楽 大学オルガニスト 越川伊豆美氏

前奏
招詞
讃美歌斉唱 「丘の上の主の十字架」第1-2節
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第3章23-24節
説教 「罪を赦してくださる方」
讃美歌斉唱 「丘の上の主の十字架」第3-4節
祝祷
 青山学院大学はプロテスタント・メソジスト派のミッションスクールが原点。会場のガウチャー記念礼拝堂には立派なパイプオルガンが設置されている。式はオルガンの響きに乗せて敬虔裡に進行する。招詞を受け、その日選ばれた賛美歌を歌い、聖書朗読と説教を聞く。神を拝み被災地に祈りを捧げ支援の継続を誓い願う。

 今年のコンサートは、斎藤真知亜(1stVn)、降旗貴雄(2ndVn)、坂口弦太郎(Vla)、宮坂拡志(VC)各氏から成るマティアス・ストリングス演奏によるモーツァルト「レクイエム」K626だった。実は、マティアス・ストリングスの「モツレク」は昨年の復興支援コンサートで予定されていた。ところが、演奏会当日会場入り後、リーダー第1ヴァイオリンの齋藤氏が突然の発作で倒れ、急遽代役を頼んでしのいだ、という経緯がある。メインの「モツレク」は彼無くしては不可能のため、曲目変更を余儀なくされてのコンサートだった。
 そんなわけで、今年の「モツレク」は捲土重来・悲願のパフォーマンスだったのである。楽譜は、ジュスマイヤー版を基にペーター・リヒテンタール(1780-1851)が主要声部を弦楽四重奏に置き換えたものに齋藤氏が改訂を加えた、謂わばリヒテンタール&齋藤真知亜版である。

 齋藤氏自身の手になる曲目解説は、作品への洞察、作曲者への敬愛、被災地への祈りが込められた素晴らしいものだ。その一部をかいつまんでみる・・・・・「『怒りの日』はモーツァルトの楽曲中でもっともドラマティックかもしれない」、「救いを願う希望が穏やかに歌われる」(レコルダーレ)、「陰影に富んだ半音階的な転調は、最後は、安らぎに満ち祈る様に落ち着く」(呪われた者)、「ジュスマイヤーの補筆部分でも極めて完成度が高く、モーツァルト自身が遺した素材の関与も大きいと思われる」(神の子羊)、「第1〜2曲の転用はモーツァルトの指示によるものと考えられており、音楽的な統一感を感じさせる」(聖体拝領唱)etc・・・・・・これらは、補筆や音楽分析に感性上の表現をも含み、実に示唆に富み含蓄が深い。筆者の音楽的センスと洞察力の深さ、そして、感性の豊かさを感じさせる。知情のバランスの見事さがある。

 礼拝堂に弦のハーモニーが敬虔にときに幽玄に響く。精緻な美しさである。奏者の真摯な思いが空間に舞い秘かな情熱が迸る。楽器のみの響きだからか、想像力が尚更にかき立てられ、脳裏に、災害時の状況や、震災遺児孤児からの支援への感謝文が想起させられる。礼拝堂に会した一同の思いが、ときに涙(Lacrimosa)となり、最後には永遠の光(Lux aeterna)となって、被災地に向けて飛び放たれる・・・・・そんな思いを喚起してくれた入魂の演奏だった。このような感動の場を与えてくれた齋藤真知亜氏とマティアス・ストリングス、そして支援コンサート実行委員の皆さまにただただ感謝あるのみだ。

 しかるに残念ながら、今回もジュスマイヤーのミスは是正されていなかった。この「ジュスマイヤーが犯した最大の誤り」については、2015年3月〜10月のクラ未知「モツレクに斬り込む」に書いている。今回はいい機会なので、この総括を試みたい。

【モツレク岡村B版の提唱】

 2015年10月15日クラ未知〜モツレクに斬り込む「レヴィン版の欠点と岡村版の提唱」では、ジュスマイヤーが犯した最大の誤りの是正法を提案した。最大の誤りとは「サンクトゥス」の「ホザンナ」と「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」の調性が違うことである。「『サンクトゥス』と『ベネディクトゥス』における『ホザンナ』は同じ調性で同じものでなければならない」・・
・・・これはカトリックのミサ曲における決め事であり、古来例外は一曲たりとも存在しない。これを是正したのがレヴィン版で、現状唯一の正しい版といえる。但しこれとて完全ではない。レヴィン版は、ジュスマイヤーが設定した調性をそのまま踏襲した上での同一化だった。これは、変ロ長調からニ長調への転調で、♭2個から♯2個という複雑なもの。そのため、3小節のブリッジを設けて実現せざるを得なかった。結果、経過句全体が「ホザンナ」本体よりも(時間的に)長くなる、という不自然さを生じてしまった。しかもモーツァルトの意向に完全には即していない。ではどうするか?
 これは、「モーツァルトならこうしたはず」という原点に立ち帰ればたちどころに解決する〜即ち、「ベネディクトゥス」の変ロ長調という調性をト長調(♯1個)に変えてしまうのである。こうすれば、あるべき「ホザンナ」の調性のニ長調(♯2個)に戻すには♯1個を加えるだけで済む。これなら3小節ものブリッジは不要、2音もあれば事足りる。しかも「サンクトゥス」から「ベネディクトゥス」への下属調への移行はモーツァルトの常套。これが私の提案だった。これを「岡村A版」としよう。

 本日新たに提唱するのは進化した岡村版、名付けて「岡村B版」である。

 A版が「サンクトゥス」の調性をそのままにして「ベネディクトゥス」の調性を変える、というものだったが、B版は逆に「ベネディクトゥス」の調性をそのままにして「サンクトゥス」の調性を変える、というアイディアだ。これは「A版を更にモーツァルト寄り」にしたものである。
 モーツァルトのミサ曲には、構成する数曲の中で、一曲でも別系統の調性(♭系の場合は♯系、またはその逆)が混じったもの、即ちジュスマイヤー版の「レクイエム」のように♭系の楽曲の中に「サンクトゥス」のような♯系の曲が混じる類のものは稀である(私が知る限り、このような例はJ.S.バッハ「ミサ曲ロ短調」にあるくらいである)。従ってA版はまだモーツァルトの意向には遠いのだ。

 そこでB版である。「サンクトゥス」の調性を変ホ長調(♭3個)にする」のである。こうすれば、「モツレク」すべての曲がフラット系となりよりモーツァルト的になる。
 こう設定した上で、「サンクトゥス」の「ホザンナ」を転調せずにそのまま変ホ長調(♭3個)で締めれば、「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」(変ロ長調♭2個)を元の調性に戻すには、♭1個加えるだけで済む。逆に、「サンクトゥス」のホザンナを♭1個外した変ロ長調に変換しておけば、「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」はソノママ、即ち現行のジュスマイヤー版のままでよい。ジュスマイヤー版の尊重という観点なら、こちらだろうか。でも、音楽の流れからは前者かもしれない。
 問題は調性を変えることによる「サンクトゥス」の音域の変化だが、現行ニ長調→B案変ホ長調への変換は僅か半音上がるだけ、まず問題ないだろう。新たに楽譜を書くほどの事もない。導音込みで2音も加えれば十分。実にシンプルである。

 いかがだろうか?岡村A版をさらに上回るB版の提唱である。現行最も優れた改訂版とされるレヴィン版に比べ、「モーツァルトならこうしたはず」という観点から、これはモーツァルトの意思に更に近くなったと思う。
 モーツァルト最後の作品が、その最大の誤りが適正な形で是正されないまま、長い年月が流れた。レヴィン版は、宗教音楽の伝統には則ったが、モーツァルトの意思からは遠かった。とはいえ、これがジュスマイヤー最大の誤りについて唯一是正した例であり、他の版は全く試みていない。例えば、珍しく日本人として取り組んだ鈴木優人版は、宗教音楽に造詣深い音楽家らしからぬ、枝葉末節な改訂に止まっている。

 「モツレク」をモーツァルトの意思に最も近い形で訂正する、というのは私の生涯のテーマである。この度、マティアス・ストリングスのコンサートをきっかけに、その最大のポイントについて、ほぼ理想に近い形で結論が導き出されたことに大いに喜びを感じている。「レクイエム」が生まれて200年余の間に何人のモーツァルティアンがいて、何人がこれを試みたのかは知らないが、「岡村B版」は、彼らの誰もが気づかなかった方法である。今のところ、最適にして随一の方法と自負している。そして、天国のモーツァルトが必ずや喜んでくれるものと確信する。「いいね!私もきっとこうしたさ」なる声が聞こえてきそうだ(笑)。世の「モツレク」演奏が一日も早くこうなることを、切に願うものである。
 2019.05.25 (土)  随想〜風薫る5月に
(1)世界の王さんのこと

 風薫る5月というが、季節外れの集中豪雨に真夏日到来。爽やかムードはどこへやら。2100年には東京の気温が44度になるというし。私しゃもういないけど、RayちゃんYou君の時代は大変だね。
 それはさておき、5月は私の生まれ月。生年月日は昭和20年(1945年)5月20日だが、これすべての数字が5の倍数。ある時、世界のホームラン王・王貞治氏が同相だと気づいてハッとした。王さんは、昭和15年(1940年)5月20日生まれ。ホームラン868本の世界記録もさることながら、凄いのは記録よりも人柄だ。かつて、弱小球団ダイエーホークスを率いていた1996年5月のこと。連日の不甲斐ない試合ぶりに、試合後ファンが王監督に生卵をぶつけたのである。生涯最大級の屈辱に王さんは無言のままじっと耐えた。あるテレビ番組で、「あの時、『このヤロウ、そんなもの投げやがって』と思いませんでしたか」とのインタビュアーの問いかけに、王さんはこう答えた。「まったく思いませんでした。投げられてもしようがないような不甲斐ない試合をしていたんです。毎日毎日よく見に来てくれたと思いますよ。あのとき卵をぶつけてくれた人が一番悔しがってくれたんです。その人こそが本当のファンなんです」。なんという大きさ! 悠然たる態度と並外れた人間力に感服するしかなかった。そんな及びもつかない偉大な人物と生年月日が酷似している。「関係ないだろう」と言われても、秘かに喜んでいるのである。屈辱が降りかかっても、王さんのように受け止められるようになりたいものである。因みに、王・ダイエーホークスは事件の3年後日本一に輝く。ダイエーホークスは今日の最強軍団ソフトバンクホークスに連なる。思えば、王監督生卵事件は後のホークス隆盛の起点だったのかも知れない。

(2)急上昇の広島カープ

 5月といえば鯉。鯉といえば広島カープ。今年は特に思い入れがある。単純な話で、仲間とのプロ野球リーグ優勝当てコンテストでセリーグを広島に投票しているだけのこと。賞金は微々たるものだが、たったこれだけのことでシーズンを通してより野球が楽しめる。
 今季、広島の出足は最悪だった。十数試合消化した4月16日の時点では借金8の最下位。それが5月に入ると人が変わったような快進撃。遂には首位に躍り出た。まさに鯉と見まごう急上昇! 原因は、投手陣の安定もさることながら、なんといっても主砲・鈴木誠也(24)の覚醒だろう。鈴木は今シーズンから王さんと同じ背番号1を背負った。丸が移籍して弱くなったといわれたくない。そんな意地が闘志に火をつけて、現在打撃三部門のトップを独占する勢い。見据えるのは勿論リーグ4連覇。更に3連覇しながら実現できていない日本一だろう。戦後プロ野球史をひも解いても、リーグ3連覇を果たしながら日本一を獲れなかったチームはセリーグでは一つもない。今年はどのチームも弱点を孕んで混戦模様。是非とも広島カープに抜け出してほしいものである。

 パリーグはソフトバンクに賭けているが、面白いのは楽天イーグルスである。昨年最下位のチームが、則本、岸の二枚看板を欠きながら、上位で頑張っている。とにかくチームに活気がある。選手が活き活きと躍動している。見ていて気持ちがいいから自然に応援したくなる。これは平石洋介新監督の手腕に他ならない。彼は松坂世代の39歳、最年少監督だ。高校はかつての名門PL学園。補欠でキャプテンを務めたという変わり種。当時の監督が彼の統率力と明晰な頭脳を買ったのだという。
 彼の能力を示す伝説のゲームがある。1998年8月20日、夏の甲子園大会準々決勝PL対横浜戦である。延長17回9−7で横浜が勝利したのだが、怪物松坂大輔が大量7点を奪われたのは高校時代では後にも先にもこのゲームだけだ。松坂はこのあとの決勝戦でノーヒットノーランを達成、チームを優勝に導いている。

 さて、その試合でPLの3塁コーチを務めたのがキャプテン平石だった。彼は横浜のキャッチャーの動作から球種を読み取り、直球の時は「行け」変化球の時は「狙え」と大声を発し打者に伝えていたという。打者にとって来るボールの球種が判ればヒットの確率は格段に上がる。当時の松坂の実績を鑑みると、このエピソードの信憑性は高い。
 平石は卒業後、同志社大〜トヨタ自動車を経て、2007年ドラフト7位で楽天に入団するも目立った活躍は出来ず、2011年戦力外通告を受ける。引退後、楽天の育成コーチ〜二軍監督〜一軍ヘッドコーチを経て2019年から一軍監督に就任。プロ野球史上、通算37安打という実績で一軍監督に上り詰めたのは平石だけ。頭脳と人間力で頂点を極めたのだ。異色監督率いる楽天イーグルスから目が離せない。

(3)修復なったMDレコーダー

 5月には、カセットデッキに続いてMDレコーダーの修理が済んで届けられた。生まれ変わったように鳴ってくれる。大満足の復活である。型番はソニーMDS-S1。購入したのは1996年8月。前年にはWindows95が発売されるなど、ちょうど時代の変換期だった。それゆえかMDの寿命は短かった。修理に随分時間がかかったが、横濱オーディオ倶楽部の鈴木氏によれば、部品の調達が大変だったとのこと。いまや完全に過去の遺物になり果てたのだから仕方がない。そんなものを、なぜ修理したかといえば、それはそれなりに貴重なソフトがあるからだ。

 一つは二代目木村友衛の歌う「浪花節だよ人生は」(藤田まさと作詞、四方章人作曲)である。この音源は1981年発売のオリジナルでカセットからMDにダビングしたもの。現在では最早お目にかかれないレア音源。ではその歌詞を。
飲めと言われて 素直に飲んだ
肩を抱かれて その気になった
馬鹿な出会いが 利口に化けて
よせばいいのに めくら惚れ
浪花節だよ 女の 女の人生は
 4行目「めくら惚れ」の「めくら」は放送禁止用語につき現行ではすべての音源が「一目惚れ」となっている。それは当然なのだが、「一目惚れ」では矛盾が生じる。馬鹿な出会いなら、「一目惚れ」はおかしいのである。馬鹿な出会いだったが、つき合ううちに徐々に気持ちが傾いて遂には盲目的に惚れちゃったのである。この時間経緯の機微が歌詞の妙なのに「一目ぼれ」では消えてしまう。木村友衛盤は、最初は「めくら」だったが、放送倫理規定に引っ掛かって、「一目」に変えた。大御所藤田まさとにとってこれは切歯扼腕モノだったことだろう。

 二つ目は、ブラームスのヴァイオリン協奏曲 第一楽章のカデンツァばかり16種を集めたMDである。音楽友達K氏からいただいた。ヴァイオリンはイタリアの名手ルッジェーロ・リッチ(1918−2012)。まず「ブゾーニ」のカデンツァを含む全曲の演奏(ノーマン・デル・マー指揮:シンフォニア・オブ・ロンドン共演)。引き続き、初演者ヨアヒムを筆頭にリッチ自身のものまで合計16のカデンツァが収録されている。

 このMDを参考に、手持ちのCD約20Wのカデンツァを検証してみた。

*ヨーゼフ・ヨアヒム
 ティボー、ヌヴー、オイストラッフ、フランチェスカッティ、シェリング、グリュミオー、ムター、
 ハーン、ヤンセンなど14点

*フリッツ・クライスラー
 クライスラー、メニューイン、フェラスの3点

*ヤッシャ・ハイフェッツ
 ハイフェッツ、レーピンの2点

*ナタン・ミルシテイン
 ミルシテイン

*マックス・レーガーとジョルジュ・エネスコ
 ギドン・クレーメル

 ヨーゼフ・ヨアヒム(1831−1907)が圧倒的第1位。初演者の威光とはいえ想定外の偏りだった。一昔前には、クライスラー、ハイフェッツ、ミルシテインがある。ヴァデム・レーピンが敬愛するハイフェッツを使っているのがユニークだ。
 カデンツァは、オーケストラを止めてソリストの技量を誇示するための枠だから、各人各様で然るべきなのだが、演奏者が独自に作るという流れがハイフェッツ、ミルシテインあたりで途切れてしまっているのはチト寂しい。
 現代のヴァイオリニストのほとんどがヨアヒムを使用する中、ギドン・クレーメル(1947−)が一人我が道を往く。カラヤンとの初録音こそヨアヒムだったが、バーンスタイン指揮:ウィーン・フィルハーモニー盤(1982年録音)ではマックス・レーガーを、アーノンクール指揮:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団盤(1996年録音)ではジョルジュ・エネスコを使用している。この特異性こそが彼の持ち味である。また、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲では、クライスラー版が主流の中、クレーメルには、アルフレート・シュニトケ(1980年)と自身版(1993年)の2種の録音があって、特に後者はベートーヴェンのピアノ用編曲版に手を入れた珍品。奇異に聞こえるがカデンツァの本質を突いている。そういえば来年はベートーヴェンの生誕250年。その昔、メモリアル・イヤーの目玉商品として発売、現在廃盤中のピーター・ゼルキン弾く「ヴァイオリン協奏曲ピアノ版」の復活を望みたい。

(4)全米プロと松山英樹

 5月19日、今年のメジャー第2戦・全米プロゴルフ選手権が閉幕した。戦前、4月のマスターズで復活優勝を遂げたタイガー・ウッズ(43)のメジャー連覇とわが松山英樹(27)のメジャー初制覇を期待して盛り上がったが、タイガーは予選落ち、松山は16位という期待外れの結果に終わった。勝ったのはブルックス・ケプカ(29)。この優勝で世界ランキング第1位となった。飛ぶし上手いし動じない。ケプカ時代は当分続くだろう。
 松山の悲願は日本人初のメジャー制覇である。潜在能力を見ても史上最もメジャーに近い日本人選手であることは間違いない。「いつ獲ってもおかしくない存在」と言われて久しい。だが、このままでは無理だ。コーチをつけない意固地さもさることながら、最大の懸念は「ゴルフに対する考え方」である。
 この試合も「優勝しかない」と意欲むき出しで臨んだ。試合後のインタビューでは「5番ホールでWボギーを打ってしまった時、トップとの差を考えて戦意が萎えた」と語った。我々も史上初の日本人メジャー覇者を見たいのだから本人はなおさらだろう。なので気持ちは解る。二位じゃダメなのである。確かに、ゴルフは難しい。自分が最上のプレーをしても、自分より良いプレーをした者がいれば負ける。自分は自分だけのプレーに集中するしかない。やるだけやって負けたらしようがない。青木功「しゃーんめい」の境地である。
 この試合、松山は相手を意識しすぎて自分を見失った。90年ほど前、ボビー・ジョーンズ(1902−71)は「“オールドマン・パー”を相手にせよ」と言った。1930年、28歳でアマチュアとして年間グランドスラムを達成、そのまま引退してマスターズ・トーナメントを創始。球聖と呼ばれた伝説のゴルファーである(最近レジェンドという枕詞をよく耳にするが、レジェンドとはこういう人のこと、軽々しく使わないでほしいものだ)。当時はマッチ・プレーの時代である。目の前の相手を倒せば勝ちという時代に、ボビー・ジョーンズは敢えて言ったのである。対戦者を相手にするな、パーを相手にゲームを行えと。松山はこの箴言を肝に銘ずることだ。そうすれば道は拓けるかもしれない。
 2019.04.25 (木)  私のオーディオ史
 先日、カセット・デッキが修理されて我が家に届いた。届けてくれたのはBMG時代の仕事仲間Iさんのご亭主S氏。横濱オーディオクラブという高級オーディオの修理工房に所属している。技術者は二人いて、私のカセット・デッキSony TC-K 333ESGを担当したのはドイツ人技師だそうである。「この人凄いです。ドイツ人はやることが徹底しています。流石ベンツを作った国ですよ」とS氏。故障は駆動系だったが電気系まで手を入れてくれたようで、まさに完璧なオーバーホールである。古いカセット・テープが瑞々しく鳴る。嬉しくなって昔のソフトを聴きまくる。CDも確かに過去を呼び起こすが、カセットは自録している分度合いはでかい。収納ケースの奥に眠っていたテープの自作自演コントには笑えた。題して「囲む仲間たち〜会社篇、芸能人篇」。会社篇は昭和末期に移籍した会社のW代表とE制作部長と契約ディレクターI氏とジャズ評論家の瀬川昌久氏の4人で麻雀。そこに印刷会社社長のY氏が絡むというストーリー。芸能人篇は、俳優の加藤嘉、加藤武、渥美清、金子信雄。進行役は丹波哲郎。パクリ元は確か松鶴家千とせだった。
 S氏とコーヒーを飲みながら、しばしオーディオ談義に花を咲かせる。私のLINNSONDEKのターン・テーブルを見て「やはりモーターはベルト・ドライブに限りますね」と興味を示してくれたのは嬉しかった。これは、80年代、CD時代の到来で消滅してしまう!と本気で懸念し急遽購入した英国製ターン・テーブル(結果そんなことはなかったが)。33回転のみでかつ速度微調整無しという超シンプル形。これを中心に、アームSME 3010R、カートリッジOrtofon MC20Wの組み合わせが今のアナログ・プレーヤーである。S氏のお陰でオーディオの記憶が甦ってきた。これを機会に、我がオーディオ歴を振り返ってみよう。

(1) 事始め 1950年代〜学生時代1960年代

 始まりはビクターの免税プレーヤー。1950年代、小学4年生のころ母に買ってもらった。33、45、78回転の可変式でアナログ・レコードすべてに対応する。針はサファイア乃至ダイヤモンドのロネット型。5球スーパー・ラジオに繋いで聴いた。最初に買ってもらったソフトは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」とショパンの「幻想即興曲」の2枚組SPで、奏者はイグナツィ・ヤン・パデレフスキ、ポーランドの首相でもある。このSP、「月光」はCD化されているが「幻想即興曲」は見たことがない。当時、どちらかといえばこちらの方をよく聴いていたから、できることなら聞いてみたいものだ。ソフトは順次、フィードラー:ボストン・ポップス管弦楽団の「ペルシャの市場&ドナウ川の漣」、ハイフェッツの「ツィゴイネルワイゼン」、ルービンシュタインの「ショパン:英雄ポロネーズ」等のシングル盤から、オーマンディの「運命」、オイストラッフの「メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲」、ベームの「未完成」等の10吋1000円盤、トスカニーニの「第九」「ブラ3」、フルトヴェングラーの「英雄」「ブラ4」、メニューインとのブラームス:Vn協奏曲、ワルターのモーツァルト3大交響曲、ベイヌムの「ブラ1」など、当時はまだすべてモノラル盤。ステレオ盤が加わるのは1958年以降である。これらは小遣いを貯めて買ったのだが、財源は週末の夕暮れ時、我が家で催す有料レコードコンサートだった。中学生の私が選曲、解説、クイズを出題。例えば、ベートーヴェンの交響曲「英雄」の第1楽章をかけて「これを聴いて何を連想するか?」と三択出題する。正解は「アルプス山中を行軍するナポレオン軍」。見事正解した祖母から賞金を貰うという算段。逆だろうに!(笑)

 システムが劇的に変わったのは大学に入る直前である。1964年の大学入試。慶応に失敗して、落胆しきっている母にこう持ち掛けた。「もし一橋大に受かったら、慶応の入学金分をご褒美にください」。私学に落ちて国立なんてありえない、でも、入学引当金は止む無く手つかずになっているのだから、悪い取引ではない、と思ったのだろう、母は即断でOKしてくれた。私は、自分の学力傾向が、傑出した科目はないが総花的にソコソコ、それゆえ、国立の方に勝算ありと考えていた。賞金15万円を獲得できれば高級オーディオが組める! さあ、ここが勝負と、一橋の試験までの2週間は死に物狂いの詰め込み大会。結果、合格とオーディオを同時ゲット。幸運の極みである。
 その時の15万円は今の100万円以上に相当するだろう。当時、ラーメンは30円。学食のカレーは70円。4畳半の家賃月額4500円。国電(JR)一区間10円だったから。15万円という分不相応な大金を大好きなオーディオに投入できる! あれこれと機器を選択しながら、出てくる音を想像する。楽しくないわけがない。まさに至福のひと時だった。考えてみるとこの時が我が人生の絶頂期!?あとは落ち目の三度笠(笑)・・・・・そして、手にした装置は

  レコード・プレーヤー
   カートリッジ:オーディオ・テクニカAT5
   アーム:オーディオ・テクニカのスタティック・バランス型
   ターン・テーブル:東京電子機器TEICのベルト・ドライブ式

  アンプ
   LUXのトライ・イン・ワン・アンプ(プリメインとAM-FMチューナーの3点一体型)

  スピーカー
   Goodman Triaxiom 10

 オーディオ・テクニカは当時新興のオーディオ・メーカーで今も健在。東京電子機器TEICは現在ティアックTIAC、LUXはラックスマンに社名が変わっている。Goodman社は英国有数のスピーカー・メーカーだ。卒業後入社することになるビクターの機器は選定外。コンポーネント・タイプに良品を出すのはこの10年後あたりとなる。
 発注先は秋葉原の「月光社」というオーディオ店。着荷は機器別にバラバラで、最初に到着したのがLUXのアンプだった。待ちきれずに既存の装置に繋げて聴いてみる。ソフトはワーグナーの「ローエングリン第3幕への前奏曲」(クレンペラー指揮:フィルハーモニア管弦楽団)のステレオ盤である。針を落とす。いきなり飛び出してきたオケの強奏。「なんだ、これは!」。これまでの音とは別格の感。その圧倒的迫力にただただ驚嘆するのみだった。その後、これ以上の衝撃を体験したことがない。不思議なことである。装置は長野の実家に置いたから、帰省すると、一目散にオーディオ・ルームに駆け込んだものだ。
 当時の愛聴盤は、前出クレンペラーのワーグナー管弦楽曲集第2集、ワルターのブラームス交響曲全集、アンセルメの「展覧会の絵」「シェエラザード」、ゼルキン&バーンスタインのベートーヴェン「皇帝」、リヒテルのラフマニノフ ピアノ協奏曲2番、ランパルのJ.S.バッハ:トリオ・ソナタ集、マイルス・デイヴィス「トランペット・ブルー」、ハリー・ベラフォンテ「カーネギー・ホール・コンサート」等、ステレオ盤が多くなった。

(2) 会社員時代 1970年代〜今日まで

 1975年、結婚を機に新居に移り、一新したライン・アップは下記のとおり。

  レコード・プレーヤー:
   カートリッジ:ERAC STS455E、ターン・テーブル&アーム:ビクターJLB 51
  アンプ:DENON PMA500
  スピーカー:ビクターSX3U

 親会社のビクター製品が組み込まれた。選択の理由は、音質の好みによるものだが、愛社精神もあったのだろう。アナログ・レコードも飛躍的に増え2000枚を超えた。

 以下ライン・アップの変遷を時系列で記しておこう。( )内は購入年。

  カートリッジ:
   Ortofon MC10U(1981) フィデリティ・リサーチ(FR) FR7(1981)
   Ortofon SPU-GE(1982) オーディオ・テクニカ AT33E(1982)
   Ortofon MC20U(1984) B&O MMC1(1984) DENON DL103LCU(1985)
   Ortofon MC20W (2004)

  アーム:フィデリティ・リサーチFR64S(1980) SME 3010R (1982)

  ターン・テーブル:マイクロ精機 BL77(1981) LINN SONDEK LP12 (1982)

  CDプレーヤー:トリオ DP1100(1984) SONY CDP555ESD(1987)
          アキュフェーズ DP 57 (2005)

  アンプ:ビクターAX7D(1980) アキュフェーズ C200L+C300L (1986)
      アキュフェーズE 350 (2010)

  スピーカー:RODGERS PM410(1981) VISONIC DAVID6000(1985)
        HARBETH HL Monitor Compact(1988)
        TANNOY Stirlig-HE (2004) ALRJORDAN Entry S (2004)

 上記の他に、FMチューナー、カセット・デッキ、MDプレーヤー、CDレコーダーからLDプレーヤーなどの映像系、昇圧トランス、ターンテーブル・シートなどのアクセサリーまで入れると、購入した機器・パーツは優に100点を超す。その中で、現役を太字で記したが、恐らくこれが終のライン・アップとなるだろう。CDプレーヤーとアンプが日本製、他はヨーロッパ製である。機器の変遷を見ると大きな節目は二つあることに気づく。1982年と2004年である。

 1982年、CD発売。デジタル時代の到来である。オーディオ・ファンとしては否が応でも対応せざるを得ない。CDの宣伝文句は“音がよくて取り扱い簡便”である。音がいい悪いはあくまで個人の感覚だから、よい音は好きな音と言い換えよう。取り扱いが簡便は有難いけれど、趣味には「面倒ゆえに面白い」という側面もある。そう、オーディオは真に個人的な世界なのだ。だから、自己の好みを、デジタルとアナログに適正に反映させたいと思った。そこでまず手を打ったのがアナログ・プレーヤーである。CDの時代に欲しい機器が消えてしまう、と本気で考えたからである。結果、LINN-SME-Ortofonの組み合わせとなった。デジタルの方は、進歩を睨みながら進めることにして、ひとまずトリオのCDプレーヤーDP1100を購入した。1986年にはアンプをアキュフェーズのセパレート・タイプC200L+P300Lに替えた。この新製品はAUX端子を大幅に増やすなど、デジタル&映像〜多機能対応型で、謂わば、時代に応じたグレード・アップだった。

 2004年は私の定年前年。これ極めて個人マターなのだが、我がオーディオ史においてはルネサンスともいうべき画期的な年となった。大蔵大臣に退職金の前倒しを申請、許可を得て、遂に憧れのスピーカーを手に入れた。英国製TANNOYである。最高峰のAUTOGRAPHは高嶺の花。昔欲しかったBerkeleyは最早旧タイプ。ならばと選んだのがStirlingだった。ところが思い通りに鳴ってくれない。音が硬くて“感動”とはほど遠い。原因はアンプと見て、正規のオーバーホールに出すがあまりよくならない。これは経年疲弊? でも18年は早すぎないか、など疑心暗鬼の末、2010年に同社のプリメイン一体型アンプ E350に替えた。やっと「弦が弦らしく」鳴るようになった。ピアノもまずまずである。2005年にCDプレーヤーをアキュフェーズDP 57に替えていたが、このくせのない機器はスピーカーの特質を素直に引き出した。遂にTANNOYが自分の音になったと思った。今はとても満足している。このように、あくまでTANNOYに拘ったのは作家・五味康祐の影響である。これについては次章で述べたい。

 ソフトの数は、いつしかCDがLPを逆転。今では4000枚を超えた。しかるに、大半はアナログ録音のCD化、所謂ADDである。録音時期は1960−70年代。好みはどうしてもここらあたりとなる。ではここで、我が究極の愛聴盤を挙げておこう。無人島に持ってゆきたいLPとCDを2点づつ。

<LP>

奥様お手をどうぞ/ヴンダーリッヒ愛唱集
フリッツ・ヴンダーリッヒ(テノール)
ハンス・カルステ指揮:グラウンケ交響楽団

1965−66年録音 ポリドール株式会社 MGW5269

  35歳という若さで悲運の死を遂げた不世出の名テノール ヴンダー
  リッヒの名歌唱。
  声質はとにかく美声、清澄にして甘美。芸風は高貴にして情熱的。
  「カロ・ミオ・ベン」はパヴァロッティに、「グラナダ」はドミンゴ
  に勝る。
  録音もよく、そのサウンドは豊かで芳醇、CDは遠く及ばない。

マーラー作曲:交響曲 第9番 ニ長調
ジョン・バルビローリ指揮:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1964年録音 東芝EMI EAC85035-36

  第4楽章アダージョの弦。これほどまでに心揺さぶられる音はない。
  タンノイが咽び泣き、マーラーが慟哭する。
  これまた、CDとは比べものにならない。

<CD>

モーツァルト作曲:ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K488
クリフォード・カーゾン(ピアノ)
ジョージ・セル指揮:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

1964年録音 ユニバーサル・ミュージック UCCD3429 ADDタイプ

  抒情と気品が漂うカーゾンのピアノに、凛として馥郁たるセルの
  ウィーン・フィルが絡む極上のモーツァルト。第2楽章シチリアーノ
  の透徹した美しさはたとえようがない。

モーツァルト作曲:セレナード&ディヴェルティメント集
シャーンドル・ヴェーグ指揮:ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

1986-90録音 CAPRICCIOレーベル 10CD DDDタイプ

  ヴェーグの精緻な考証に裏打ちされたモーツァルトの音世界。それは、生きる歓びと躍動感に
  満ち、モーツァルトの青春の息吹そのものである。

(3) 五味康祐と「西方の音」

 人は五味康祐(1921−80)のことを“オーディオの求道者”と呼ぶ。一途に音と向き合う姿は真摯そのもの。一方で、気に食わぬと入手したばかりの機器を叩き毀す。これはまさに“狂気”の域。オーディオ人・五味康祐の魅力は真摯と狂気の共存に他ならない。「喪神」で芥川賞を獲ったのも、当時無性に欲しかったスピーカーを手に入れるためだったとか。さらには、小説を書くのはいい音でいい音楽を聴くため、と公言する。中でも、タンノイに対する愛着は深い。彼の名著「西方の音」は私の学生時代からの愛読書で、現装置のメイン・スピーカーがタンノイに落ち着いたのは、間違いなくこの本の影響である。併せて、オーディオ装置に“弦が弦らしく”響くことを求めたのも五味氏の感化によるものだ。AUTOGRAPHとStirlingでは大人と子供ではあるけれど。以下、「西方の音」からタンノイに関する部分を抜粋して、五味康祐の「タンノイ愛」を探ってみたい。
1964年7月25日、はるばる海を越えてついにタンノイGuy R.Fountain Autographは私の家に届けられた。私は涙がこぼれた。・・・・・なんといういい音だろう。なんとのびやかな低音だろう。こんなにみずみずしく、高貴で、冷たすぎるほど高貴に透きとおった高音を私は聞いたことがない。しかもなんという低音部のひろがりと、そのバランスのよさ。ピアノの美しさはたとえようもない。

私は新築の家に移転した。レコードを聴く部屋は30畳。天井は高いし以前のリスニング・ルーム以上に素晴らしい音で鳴ってくれるだろうと期待した。これが案に相違して、エコーのひどい、きくに耐えぬ音だった。低音はこもり、風のようにさわやかに抜けてくれない。カートリッジやアンプを替えてみたが駄目だった。悪いのは装置ではなく今度の部屋だ。こうなれば、私は、防音装置の試聴室を新たに建てねばならない。私には借金こそあれ一文のたくわえもない。しかし建てねばなるまい。何年かかるか、タンノイをかんぺきに鳴らすために、高質な婦人をいはば迎えるにふさわしい部屋を私は用意せねばならないだろう。それが愛情の責任というものだろう。

オリジナルのfolded hornに収められたタンノイは、高音部は微風のように吹き抜けて鳴るのである。その音のひろがりと美しさには声をのむ。真綿の弦を絹で撫でるように柔らかく聞こえる。そして、低音は、底知れぬ深淵に落下するように果てしなく延びてゆく。

優秀ならざる再生装置では、ショルティの「ジークフリート」において、出演者の一人一人がマイクの前にあらわれて歌う。つまりスピーカー一杯に出番になった男や女が現れ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。高名なオーディオ評論家先生が推奨してくれたコンクリート・ホーンなる代物もまさにこれ。声はすれども姿は見えず
・・・・・幽霊である。幽霊の歌うフィガロなど真っ平だ。コンクリート・ホーンを叩き毀したのはこの理由だ。わがタンノイでは絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌う。どれほど肺活量の大きい声でも彼女や彼の足はステージに立っている。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。

同じピアノでもベヒシュタインとベーゼンドルファーでは違う。ピアノという楽器の音でも、この違いはそれを選択する者の、生き方の違いにつながる場合だってある。こわい話だ。そういう生き方につながる意味でも、わたしくしはタンノイを選んだ。
 「西方の音」には五味氏の「タンノイ愛」が詰まっている。着荷して涙を流し、音が悪くなったと試聴室を新築してしまう。すさまじいとしか言いようがない。タンノイが醸し出す音を形容する表現はたいそう美しい〜「冷たすぎるほど高貴」「微風のように吹き抜ける」「真綿の弦を絹で撫でるように柔らかく」「底知れぬ深淵に落下する」等々。さすが作家は違う。更に「スピーカーを選ぶことは生き方の違いにつながる」とまで言及する。当方はそれらを曖昧にしか感知できず、理解は遠く及ばない。だから、私は、自らの無能を嘆き先人を崇拝するだけだ。だが、近づくことをあきらめてはいない。その意味で、五味康祐は、私にとって、登頂至難の高峰であり、「西方の音」は永遠の道標なのである。

  <参考文献>

  「西方の音」五味康祐著(新潮社)
  「天の聲―西方の音」五味康祐著(新潮社)
  「五味康祐 オーディオ遍歴」(新潮文庫)
 2019.03.31 (日)  野口久光先生の思い出
 最近遂に高血圧の判定を下され、同時に狭心症から心筋梗塞の危険もあると医師から脅されて、検査が終わるまでは外出自粛を強いられている。そんな或る日の日中、横須賀美術館「野口久光シネマ・グラフィックス展」に行ってきた。冷え込む夜間より暖か陽気の昼間なら比較的可と言われているためである。
 横須賀は鎌倉の遥か先、直通が少なく僻地感満々。美術館もまた駅からタクシーで数十分の遠隔地。京急観音崎ホテルの向いに建つ。昔このホテルには録音スタジオがあって、昨年亡くなった小田裕一郎さんのレコーディングに立ち会ったことを懐かしく思い出した。

 この美術展に行こうと決めたのはかつての会社の御大T氏のお誘いだったが、即断したキッカケは数年前母と見たTV「なんでも鑑定団」だった。ご存知、個人が所有する真贋不明のアンティークに価値判定を下す番組である。鑑定品は野口久光(1909−1994)氏の筆になる銀幕のスターの肖像デッサン画だった。
 1994年初頭、野口氏に、翌年の映画発明100年を記念して「100人のハリウッドスターを描く」なる依頼が舞い込んだ。人生の総決算として体調不良の中取り掛かった野口氏だったが志半ばにして力尽き、帰らぬ人となってしまう。「鑑定団」に登場したのはこの遺作ともいうべき26枚のデッサン画と雑誌「映画の友」特集号の表紙用チャップリンの「独裁者」の油絵原画だった。依頼人・根本隆一郎氏の希望価格は300万円。私も、野口氏の様々な業績を知ってはいたものの専門の画家ではないのだから、こんなところが妥当だろうと思って見ていた。ところが鑑定結果はなんと1300万円!!驚愕の鑑定だったが、先生を知る者としては実に誇らしい結果だった。番組ではまた、横尾忠則の「野口氏の格調高い絵には文学作品に匹敵する“美”がある」とする賛辞や、「遺族の方から預かった先生の遺品を今後展覧会等の形で紹介していきたい」という依頼人の覚悟が紹介されていた。

 「野口久光シネマ・グラフィックス展」には、「鑑定団」に登場した遺作26点を含む先生が生涯で残した作品366点が展示されていた。それらはまさに、20世紀エンタテインメント王道の歴史そのもの。監修は根本氏である。

 「鑑定団」に登場した銀幕のスターのデッサンは、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリヒ、イングリッド・バーグマン、ジュリエッタ・マシーナ、フランソワーズ・アルヌール、ブリジット・バルドー、オードリー・ヘプバーン、カトリーヌ・ドヌーヴ、リリアン・ギッシュ等の女優陣、ジャン・ギャバン、ハンフリー・ボガート、ジェラール・フィリップ、フランク・シナトラ、ポール・ニューマン、エルヴィス・プレスリー等の男優陣で合計30枚。中でもオードリー・ヘプバーンは3枚あるから先生のお気に入り女優だったのだろう。2枚はマレーネ・ディートリヒとリリアン・ギッシュ。特にリリアン・ギッシュ(1893−1993)については、「リリアン・ギッシュに会えた」と題する野口氏の直筆原稿と記念写真も展示されていた。彼女は、1987年、94歳で映画「八月の鯨」にベティ・デイヴィスと老姉妹役で出演、絶賛を博したが、2年後の1989年、野口氏が出会って記したこれは感動の手記なのだ。私にとってリリアン・ギッシュは、オードリー・ヘプバーン&バート・ランカスター主演の西部劇「許されざる者」で、モーツァルトの「幻想曲 ニ短調 K397」を弾くシーンが印象に残っている。

 映画宣伝用のポスターは130点余。「望郷」「未完成交響楽」「自由を我らに」「肉体の悪魔」「逢びき」「天井桟敷の人々」「第三の男」「禁じられた遊び」「居酒屋」「フレンチ・カンカン」「汚れなき悪戯」「お嬢さん、お手やわらかに」「黒いオルフェ」「野ばら」「いとこ同志」「大人は判ってくれない」「旅情」など名作が綺羅星のごとくに並ぶ。親切にも撮影許諾エリアがあったので、私は「禁じられた遊び」、同行のT氏は「モンパルナスの灯」、A氏は「お嬢さん、お手やわらかに」と、各々お気に入り映画の前で記念写真を撮り合った。

 ポスター以外で目を引いたもの。それは、フランソワーズ・サガンの小説「さよならをもう一度」(新潮文庫)の表紙絵である。翻訳本は1961年5月に第1版が刊行(朝吹登水子訳)。同年6月、イングリッド・バーグマン、アンソニー・パーキンス、イヴ・モンタンの豪華キャストで映画化され、10月には日本でも公開された。当時田舎の高校生だった私は、原題の「ブラームスはお好き」に惹かれて、読み観たものである。その時購入した本が野口氏デザインのもので、巻末のクレジットには昭和37年(1962年)1月25日 第4版 定価70円とある。この版は現在絶版の貴重品。私の宝物の一つである。野口氏描くところの表紙絵は、イングリッド・バーグマンの美貌と背後にオール・ブラームス・プログラムのコンサート・ポスターがあしらわれている。写実的ではあるが優しいタッチの肖像。ポスターには日付、会場、曲目等の情報が正確にさりげなく描かれる。淡緑を基調とした色合いは、儚げな物語のムードに見事にマッチしている。

 ジャズにも精通されていた野口氏は、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、チャーリー・パーカー、ビリー・ホリデイ、ナット・キング・コール等、レコード・ジャケットや、デッサンも数多く手がけている。その他、アーティストの来日時の写真や数々の評論も展示されていた。

 私と野口先生との出会いは今から30年ほど前、そう、平成元年頃だったと思う。そのころRCAレコードから創美企画に移籍。少人数でのスタートだったため、専門外のジャズの編成もやらなければならなかった。CHOICEという米国のジャズ・レーベルと契約して100WほどのCDを制作した。その中のいくつかの解説を野口先生にお願いした。先生の直筆原稿が2部手許に残っている。今と違い、通称ペラという200字詰め原稿用紙に万年筆で縦書きで書かれている。

 その内のひとつ、アイリーン・クラール「ジェントル・レイン」SHCJ1012のライナーノーツはこう始まる〜「アイリーン・クラールはエラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンのような大ヴェテランのスーパースターほどのビッグ・ネイムではないが、ジャズ・ヴォーカルに関心の深いファンの方からは別格的に高い評価をうけてきた実力派 屈指の名歌手ともいうべきひとなのだが、1987年(8月15日)惜しくも46歳の若さで帰らぬ人となった」。このあと、彼女のキャリア〜芸風〜来日時の様子〜当該CDの特徴〜曲目解説と続く。表記に特徴があって、小文字には〇が打たれ、二桁以上の算用数字にはアンダーラインが引かれる。表現は明快で簡潔。作品の特徴を的確に捉える。「万人にわかりやすく」を旨とした先生の筆致そのものだ。行間には音楽とアーティストへの愛情が漂い、黄金律ともいえる知情のバランスは常に絶妙。確固たるそのスタイルはいつも揺るぎなかった。

 そんな先生との一番の思い出は「原稿の受け取り」である。締め切りが近づくとどちらからともなく電話をかけ合う。先生はいつも会社に原稿を持ってきてくださった。「おう」と軽く右手を挙げて現れる。お洒落なジャケットを着こなす80歳の先生がそこにいた。その折、「はいこれ、ジョアンのパン」と欠かさず手土産を持参していただいた。「いつもどうも申し訳ありません」と言うと「なーに、通り道だし天気もいいから気持ちがいいよ」と仰る。ご自宅の洗足から銀座三越に立ち寄られ、B1の「ジョアン」で「チョコレートパン」を買い、半蔵門の弊社まで来てくださっていたのだ。会社や近くの喫茶店で先生からいろいろお話を聞いた。でも、映画やジャズに疎い私はせっかくの機会を浪費していたことになる。もっと知識があれば、アート&エンタテインメントの生き字引たる先生から様々な情報をいただくことができただろう。残念だが仕方がない。当時、ボーっと生きていた自分は先生の偉大さを認識できず、貴重な時間を有効に費やす能力がなかったということだ。そんな人間に、先生は真に優しく接してくださった。有り余る知識と経験を持ちながら、それらをひけらかすことなく決して偉ぶらない。ダンディーで温厚。「本当のカッコよさとは何か」を教えてくださった。野口先生と共有できた時間はかけがえのない宝物である。これからも映画やジャズに接するたびに思い出すことだろう。チョコレートパンの香りと共に。

  <参考資料>
  横須賀美術館「野口久光シネマ・グラフィックス展」出展目録
  野口久光:ジャズの黄金時代(株式会社ヤマハH出版部)
  アイリーン・クラール「ジェントル・レイン」CD
  「なんでも鑑定団」TV東京 2011.11.3 OA
 2019.02.25 (月)  NHK大河ドラマ「西郷どん」が終わって〜クラ未知的西郷隆盛論 後編
第三章:安倍政権と西郷隆盛を対比させる

 RECTUSとINVERSUSはバッハ「鏡像フーガ」において対をなす。表裏一体 絶対矛盾的自己同一といってもいい。第一章における西郷も第二章における西郷も西郷である。問題は、眼差しの先に西郷は何を見ていたか、ということである。探るにあたって、彼の遺した言葉、例えば「南洲翁遺訓」あたりを読み解くのもいいが、これだけでは面白くないので、今の日本の政治と照らし合わせてみるのも一興かと考える。巷間、安倍一強といわれているのであるから、ここはシンプルに安倍政権と西郷の思想を対比・考察してみたい。

(1) 米国に追随するだけの安倍外交

 2016年11月、大統領就任を待ちきれず、世界でいの一番にトランプ大統領の元にすっ飛んでいった安倍首相。これはまあ、日米同盟の重要さを考えるとさして非難するには当たらない。むしろ素早さは評価できる(「ドナルド」という呼びかけはやめて欲しいが)。だが、つい最近のニュースはいただけない。耳を疑うとはまさにこのこと。なんと、安倍首相が「トランプ大統領をノーベル平和賞に推薦した」というのである。理由は、北朝鮮の脅威を払拭したからとか。確かに、日本の上空から北朝鮮のミサイルが消えるのは喜ばしい状況ではある。だが、トランプ大統領の平和を脅かす数々の行為・・・・・イスラエル大使館のエルサレムへの移転。ロシアとのINF全廃条約の破棄。イランの核開発に関する国際合意からの離脱などは周知の事実。これらを知った上で推薦するなんぞはいい度胸?というべきか。 思慮ナシ、非常識、国際感覚欠如の誹りは免れない。どう考えてもみっともない話である。

 2017年7月、国連の核兵器禁止条約の採決に日本は不参加を決め込んだ。これまさに米国追従。いかにアメリカの核の傘下にあるとはいえ、唯一の被爆国がとるべき態度ではない。日本の国家としての矜持が問われるべき事柄である。広島も長崎も運動家もガッカリしている。

 北朝鮮に対しては「徹底制裁」とこれまたアメリカに倣って叫ぶのみ。2月末の米朝首脳会談を前に、トランプ大統領が「非核化を急がない」とテンションを下げると、「あらゆるレベルで一致。日米で緊密な連携を保つことを確認した」と具体性に乏しい内容でお茶を濁す。相変わらずの上っ面。拉致問題も任せきり。自主性のカケラもない。これじゃ、金正恩に馬鹿にされてもしょうがない。安倍首相はこう進言すべきだ。「トランプさん、アメリカが自国の核をそのままにして北朝鮮に廃棄を求めるのはスジが通らない。まずは貴国が核を縮小する姿勢を見せるべき。そうすれば北朝鮮の核廃棄もスムーズに進むのでは」。これなら金正恩もコッチを向くはず。拉致問題解決の糸口が掴めるかもしれない。でもまあ無理でしょうね。あの方には。

 南洲翁は言う
 国のために正しくて道理のあることを実践して、あとは国と共に倒れてもよいと思うほどの精神がなかったら、外国との交際(外交)はうまく運ばない。その国が強大であることに恐れをなし縮こまってしまって、ことが起こらないようにと摩擦を避けて、その国の言いなりになるなら、軽蔑や侮りを受け、好ましい交際はかえって破談してしまい、終いにはその国の干渉を受けることになってしまうものなのだ。(南洲翁遺訓第17章より)
 安倍政権の自主性なき対米盲従外交が北朝鮮にも軽蔑される状況を如実に言い当てている。

(2) 稚拙極まる北方領土返還交渉

 安倍首相は交渉の術を知らない。北方領土問題がまさにこれ。プーチン大統領との会談は二十数回に及んでいるようだが、回数を重ねりゃいいってもんじゃない。「まず両国の信頼関係を築いて、それを糸口に解決の方向を探る。そのために経済協力を先行させる」・・・・・これが安倍首相の戦略らしいが100%間違っている。終戦時、日ソ中立条約がありながらそれを無視して我が国固有の領土を不法占拠した非道な国ロシア。KGB出身で目的のためには手段を選ばない百戦錬磨のプーチン。こんな国、こんな大統領を相手に信頼が築けると思うこと自体が間違いなのだ。こういう相手に対する有効な手段は唯一弱みに付け込むことしかない。大国ロシアといえども、(特に経済において)日本の協力が欲しい時が必ず来る。それを待てばいい。何年でも辛抱することだ。

 さらにまずいのは、相手のペースで物事が進んでしまっていること。まず平和条約、しかる後に領土問題を〜1956日ソ共同宣言には主権の規定がない〜共同経済活動はロシアの法の下で〜敗戦という歴史を踏まえろ、等言われっぱなしの体たらく。不当に占拠したのは先方なのだから「ふざけるな」と敢然と言い放つべきなのにへらへら笑ってるから相手のペースに嵌まっちゃう。外交は間髪入れずに言うべきを言うことが肝要。尖閣もこれで失敗している。「四島一括」「領土問題解決後に平和条約」「主権が日本は当然」「ロシアの法の下では行わない」「歴史を踏まえないのはどっちだ」と常に主張し続けなければいけない。
 「二島でも可」は腹案として持つべき事柄。確かに、1945年2月のヤルタ会談で、米英がロシアの日本への参戦を促し、その見返りに南樺太と千島列島の引き渡しを是認したのも事実。しかしながら、千島列島に北方四島が含まれるか否かは未合意事項。ならば、「四島は千島に含まれない。不法占拠は認めない」からスタートすべきなのだ。これは、相手の主張する「歴史を踏まえる」ことにもなる。交渉事は、両者の言い分の中間ラインで決着するのが道理。だから高い目線でスタートを切る。これは交渉のイロハだ。安倍首相はこんな簡単な理屈も解っていない。「日本固有の領土」という当たり前の言い分も最近影を潜めてきた。ハードルを下げることを国民になし崩し的に認めさせようという魂胆なのか。なぜ正攻法で説明しようとしないのか。誠実に問いかけてくれないのか。この方はいつもこうだ。こんな弱腰で不誠実で交渉下手なお方に大事な領土問題を任せてはおけない。

 安倍首相は「プーチン大統領と友好的な自分の任期中に問題を解決するのが使命」というが、友好的と思っているのは自分だけ。「ウラディミール」なんか呼びかけても相手は知らんぷりではないか。使命というのは隠れ蓑。彼はただ「難題の北方領土問題を解決した最初の総理大臣」という栄誉が欲しいだけなのだ。内容はどうあれ、ただただ成果を歴史に刻み付けたいだけなのだ。あなたの我欲を満たすために大切な領土を切り売りすることは断じてできません。今あなたがなすべきは、「任期中に解決」などという私的な野望をキッパリと捨てること。そして、日本の正当性を堂々と主張して、即刻交渉の席を立つこと。これしかない。でも無理でしょうね。

 南洲翁は言う
 国が辱めを受けようとしているときは、その身はたおれることを覚悟で、正道を実践し、道義を尽くさなければならない。それこそ、政府の本来の仕事である。政府がそういう本来の使命を果たさないなら、政府は「商法支配所」といった、商いだけを専門にする役所のようなものになって、もはや政府ではなくなってしまうだろう。
 真の機会というのは、道理に適い、そのときの勢いを細部まであきらかにした上で、行動する機会ということでなければならない。(南洲翁遺訓第18、38章より)
 安倍首相は今、北方領土問題に於いて、相手から言いたい放題言われて何ら反論せず、ただ経済協力推進を図ろうとしている。物事には真の機会というものがある。大事を行うにはその機会が来るまで待つべきだ、と南洲翁は説く。

(3) 憲法に対する無礼

 安倍首相は憲法改正が悲願だという。主眼は、第9条に「自衛隊の存在」を明記すること。理由は国のために命を賭して働く自衛隊員を公的に認知するため。そうしなければ「自衛隊員がかわいそう」なる情緒論を説く。ここまではまあ許そう。問題は彼の唱える方法論だ。曰く、「条文をそのままにして、『自衛隊』という言葉を明記する」。これは公明党意識が見え見えだが、それはさておき、こんなことができるのか?憲法第9条第1項は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武器の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」、第2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」である。陸海空軍とは自衛隊のことである。憲法第9条は「これを保持しない」と謳っているが、「前項の目的を達するため」なのだから、“国際紛争を解決する手段”としては保持しないということ。即ち、そうでない範疇=専守防衛においてはこの限りではない。言い換えれば、専守防衛のための自衛隊保持は違憲ではないということ。改正無用論はこれが根拠だ。
 ところが「自衛隊」という文言を明記すれば、その意味合いを説明する必要が生じることになる。しかも、2016年制定の安保法制で自衛隊の役割は専守防衛を飛び越して集団的自衛権にまで及んでいる。その表現方法を考えると、とても「条文をそのままに、付け加える」だけでは済まされない。ここは、抜本的に条文を改訂して、「自衛隊の役割を明記」することが必要だし、そうすべき重要案件なのだ。

 安倍首相流改正案は付け刃的で実に安直。第3項を設けて「前項において自衛隊の存在を排除しないものとする」あたりでお茶を濁そうとするのか!? 国の最高法規たる憲法に対してこれは失礼極まる発想である。ここにも内容よりも形、「憲法を改正した最初の総理大臣」の栄誉を欲する安倍首相の我欲が窺える。最近は、「自衛官募集に地方自治体が非協力的なのは、憲法に自衛隊が明記されていないから」と的外れの戯言を言い出す始末。一体何の関係がある? この人の矮小さ姑息さにはあきれるばかりである。必要なのは、益々危険を増す任務に身を投じる自衛隊員に、確固たる意義と名誉を与えるための条文を、議論を重ねて国民に提示し裁定を委ねることだ。でも、自らの栄誉を優先する安倍首相は、7月の参院選で改憲勢力が三分の二を割りこめば即断念するはず。やり通すまでの信念はないだろう。まあ、日本のためにはこの方が望ましいけれど。

 南洲翁は言う
 どのようなことでも、道理にかなった正道を歩み、真の心を貫き、人を騙すような手は使ってはならない。正道を歩めば、目には遠く見えても、先に行けばかえって早く成就するものだ。急がば回れということである。(南洲翁遺訓第7章より)
 安倍首相が安直な方法で憲法改正を行おうとしている。南洲翁は、ごまかしではなく真心を持ち道理にかなった正道に徹せよ。それが早道だ と説く。もって瞑すべしだ。

(4) モリカケ問題における不正、嘘、隠蔽、権力の私物化

 安倍首相は2017年、森友問題が発覚した時の国会で「私も妻も関わっていたなら、総理大臣も国会議員も辞める」と公言した。

 小学校設立を目論む森友学園に財務省理財局は最終的に、相場10億円越えの国有地を1億3400万円で斡旋した。しかも特例の貸付や代金分割等異例の配慮をして。この流れは、元学園理事長・籠池泰典氏によれば、2014年4月安倍首相夫人・昭恵氏が学園を訪れてから劇的に変わったという。学園側はこの時の写真を大きな小道具として使い交渉をスムーズに進めてきたのである。夫人と財務省を繋ぐ夫人付政府職員の存在も明らかになった。これだけで、首相夫人の関与は明らか。財務省の公文書改ざんも発覚した。首相は公言通り辞めなければいけないはず。しかるに、これを追及されると「あれは贈収賄には関わっていないという意味で申し上げた」と醜い言い訳をする始末。もはや何をかいわんやである。
 日本会議を通して親密だった籠池氏に対しては、事件が発覚すると「かかわりなし」の連発、「しつこい人」とまで言って逃げを打つ。同志と思っていた人間がこの手のひら返し。籠池氏は失望よりも呆れたことだろう。

 加計学園問題も同じ構図。安倍首相は国会で、「加計学園が国家戦略特区として獣医学部の建設を申請していることは、2017年1月21日まで知らなかった」と公言。友人への便宜を否定した。幾多の状況から、これを信じろという方が無理。嘘は明らかで、紛れもなく虚偽答弁に値する。一連の騒動の中、忖度なる不愉快な流行語が生まれた。なぜ不愉快かといえば、忖度される人間が忖度に値しないからである。権力は公共のために使うもの。しかるにモリカケ問題(最近は賃金データ不正も取り沙汰)から見えるのは、公共性とは裏腹の嘘と不正と隠蔽に覆われた安倍政権の権力の私物化である。

南洲翁は言う
 万民の上に立つ政治家は、己を慎み、品行を正しくし、驕り高ぶることを戒め、無駄遣いをしないように気を遣い、自らの職務に精励して国民の手本となり、国民の勤労をご苦労と思うことがなければ、政治は行われにくい。
 節操を守り、義理を重んじ、恥を知る心を持つこと。このような姿勢を持たないなら、国は維持できない。(南洲翁遺訓第4、16章より)
 上記は南洲翁が、新政府の維新直後の堕落を嘆いたもの。これがものの見事に安倍政権に当てはまる。己を慎むことなく品行も不正。友人の便宜は図るが目は国民を向いていない。都合が悪くなると人を切り捨て、嘘をつき、隠ぺいを図る。図星を突かれれば高飛車に出て驕り昂る。無駄遣いから空前の借金を生んでも、危機感を持って根本的是正を図ろうとしない。恥を知る心もなければ節操もない。国民の手本とは程遠い権力の私物化がそこにある。西郷さんはそんなことでは政治は行われにくく国は維持できないと説く。安倍首相は即刻「南洲翁遺訓」を読むべきである。最早手遅れ、つけるクスリはないかも知れないが・・・・・。

<参考文献>
南洲翁遺訓(西郷隆盛著)角川ソフィア文庫
 2019.02.01 (金)  クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」リポート
 映画「ボヘミアン・ラプソディ」が話題である。観客動員700万人、興行収入100億円を突破。アカデミー賞の作品賞、主演男優賞など5部門にノミネートされた。クイーン・ファンでもロック・ファンでもない私も観てしまった。素晴らしかった。我が人生で感動した映画ベスト5に入る。その理由の一つはフレディ・マーキュリーの壮絶な生きざま。もう一つは圧倒的な音楽の力。特にタイトル楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」の凄さである。今回は、名曲「ボヘミアン・ラプソディ」に焦点を当て、その底知れぬ魅力に迫ってみたい。

(1) 「ボヘミアン・ラプソディ」概要

 ♪ボヘミアン・ラプソディBOHEMIAN RHAPSODYは、クイーンQUEEN4枚目のアルバム「オペラ座の夜」の先行シングルとして、1975年9月に世に出た。作詞・作曲はフレディ・マーキュリー(1946−1991)。クイーンはイギリスのロック・バンド。メンバーは4人。フレディ(vo,key)はイーリング美術大学でデザインを、ブライアン・メイ(g)はインペリアル大学で天文学を、ロジャー・テイラー(ds)はロンドン医科大学で歯学を、ジョン・ディーコン(bs)はロンドン大学で電子工学を、夫々学んだかなりのインテリ集団である。

 当初、5分57秒もの長尺シングルはラジオ局がOAしないとして、周囲は大反対。だが、メンバーは押し切る。当時、イギリスのラジオ局は2局のみだったが、そのうちの一つキャピトル・ラジオのDJケニー・エベレット(映画にも一瞬登場)がこの曲を気に入り熱心にOAすると徐々に火がつき、11月には全英第1位を獲得、そのまま9週連続第1位の大ヒットとなった。ヒットの背景にはイギリスの世相も反映しているという。当時のイギリスはサッチャー前夜。オイルショックの影響で週に3日は停電、失業率も高く「イギリス病」といわれる暗い時代だった。そんな世相から、発売されるシングルの大半が軽く明るいノリの曲ばかり。本物志向のイギリスの音楽ファンはウンザリしていた。そこに重厚長大の♪ボヘミアン・ラプソディが登場して大ヒットとなった。史上初といわれるプロモーション・ビデオの効用もヒットの一因とされる。とはいえ、最大の要因は楽曲のパワーであることに異論はあるまい。序奏とコーダに挟まれたバラード、オペラ、ロックの三部構成。バラード・パートは、フレディの類まれな歌唱力が美的抒情世界をつくりだす。オペラ・パートは、奇抜なアイディアと180回重ねたという多重録音の効果によりユニークかつ精緻な仕上がりをみせる。ロック・パートは、エモーショナルなハードロック・サウンドで大団円を築く。序奏とコーダは哲学的意味深長な言葉で全体を括る。ブライアンのギター・ワークはときに情熱的にときに高貴に各パートを繋ぐ。♪ボヘミアン・ラプソディは、美しくて多彩、煌びやかで神秘的、まるで万華鏡のような作品なのだ。

(2) ボヘミアン

 ♪ボヘミアン・ラプソディのボヘミアンとはボヘミアに住む人の意味。さらに、流浪の民・ジプシーの別称で、そこから派生して、自己の主義主張を変えずに自由気ままに暮らす人々の象徴名でもある。フランス語は「ボエーム」で、プッチーニの同名のオペラは、パリに住むボヘミアンの若者たちの物語だ。ラプソディは狂詩曲と訳され、すこぶる感情的で自由な曲想の作品をいう。もう一つ「叙事詩」という意味もある。映画で、フレディが「これは叙事詩だ」と言う場面があるが、これを踏まえてのものだろう。確かに内なる心情を強烈に吐露しつつも全体は一編の叙事詩の趣がある。
 フレディは、1946年、アフリカの英領ザンジバル(現在のタンザニア)で生まれた。幼少期はインドで過ごし、その後再び生地に戻るが、1964年に革命が勃発したため、イングランドのミドルセックス州に移住する。これぞ流浪、まさにボヘミアンである。ザンジバルといえばホモ・サピエンス発祥の地。我々の祖先はここを基点に世界各地に放浪していった。人類そのものがボヘミアンだとすればフレディこそ正真正銘の本家ボヘミアンなのだ。

(3) アウトサイダー&マイノリティ

 フレディの両親はペルシャ系インド人。宗教はゾロアスター教である。イギリス社会においてこれは厳然たる少数派である。映画によると、幼少期から“パキスタン野郎”と揶揄されていたようだ。フレディのもう一つの側面、性的指向について、映画の中でこんな場面がある。生涯の友人メアリー・オースティンに「僕はバイセクシュアルなんだ」と告白すると、彼女は「あなたはゲイ 気づいていたわ」と返す。どちらにしても性的マイノリティLGBTには違いない。当時は今ほど寛大ではない。フレディは差別の人生を歩んできたのだ。
 ♪ボヘミアン・ラプソディのオペラ・パートには様々な人間が登場する。ガリレオ、フィガロ、スカラムーシュ等々。ガリレオ・ガリレイ(1564−1642)は、当時の絶対的権威である教会に対し「それでも地球は回っている」と信念を曲げなかった。フィガロはカロン・ド・ボーマルシェ(1732−1799)の戯曲「フィガロの結婚」の主人公。その第5幕で、主人の領主に対し「あんたは、貴族、財産、身分、階級すべてを持ってふんぞり返る。そういう財宝を手に入れるためになにをした?生まれてきた、ただそれだけのことじゃないか。それに引きかえこのおれなんぞは、どこかの馬の骨の一人。あんたに対抗するには権謀術策を弄し全知全能を傾けるしかない」と反発。これまさにアウトサイダーの反骨精神。スカラムーシュはイタリア劇の道化で主役の引き立て役。彼ら三人はそろってアウトサイダー&マイノリティ。フレディは自分と同じ匂いのする人物を歴史から選び出したのだ。

(4) シェイクスピアとギリシャ劇

 映画の中で、「これはギリシャ悲劇とシェイクスピアの機知に裏打ちされている」というフレディの台詞がある。この台詞と楽曲との関連性を検証する。
 ギリシャ悲劇の様式は三部作。アイスキュロスの「オレステイア」三部作はその代表的作品。ワーグナーの「指環」もこの様式を踏む。♪ボヘミアン・ラプソディの三部形式もこれを踏襲している。フレディの言葉は、内容ではなく器のことを指していると思う。
 では、シェイクスピアとの関連は? 冒頭の詞は「これは現実?それともただの幻?」だが、これはハムレットの有名な台詞「生きるべきか 死すべきか それが問題だ」に符合する。オペラ・パートにある「雷鳴と稲妻」の文言は「マクベス」第3幕にそのまま出てくる。また、あるイギリスの識者は「序奏とコーダの『たいしたことじゃないnothing really matters』はマクベスの『人生は影に過ぎない 人間は哀れな役者』に通じる」と指摘した上で、「♪ボヘミアン・ラプソディにはシェイクスピアのエッセンスが詰まっている」と説く。本人もイギリスの識者も言うのだからこれは間違いないだろう。ギリシャ悲劇とシェイクスピアが潜むのだから♪ボヘミアン・ラプソディの深さは計り知れないものがある。

(5) クラシック音楽

 フレディはクラシック音楽、特にオペラが好きである。「永遠の誓い」という曲には、レオンカヴァルロの歌劇「道化師」の一節が使われている。映画には3つのオペラ・アリアが登場する。一曲目のプッチーニ:「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」は、メアリーと一緒の場面で流れる。次のビゼー:「カルメン」から「恋は野の鳥(ハバネラ)」は、♪ボヘミアン・ラプソディがシングルに相応しくないとするプロデューサーにフレディが反論する場面で流れる。三曲目のプッチーニ:「トゥーランドット」からリュウのアリア「お聞きください、王子様」は、近くに住むようになったメアリーと電灯の光で交信する場面で流れる。
 「カルメン」が♪ボヘミアン・ラプソディ話のバックで流れるのは、ボヘミアン繋がりとして自然に結びつく。プッチーニの二曲がメアリーとの場面で使われたのは、彼女の献身的愛情が、オペラの二人のヒロインとリンクすることを認知したスタッフの意図だろう。さらには、蝶々さんは日本人、カルメンはジプシー(ロマ)、リュウはタタール(韃靼)人で、三者とも異邦人にして薄幸の身の上だから、これはフレディ自身と重なることを見据えてのことだろう。

 オペラ・パートはそのものズバリのクラシック。例えば「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」の終曲の趣である。オペラ的大合唱を表出するためメンバーがオーバー・ダビングを180回も施したのは有名な話。当時流行りのシンセサイザーを用いなかったのは、クイーンならではのクラシック的職人気質の表れだろう。ライヴでは、このオリジナル音源を挿入している(映画のエンディングである「ライヴ・エイド ウェンブリー・スタジアム1985.7.13」では、時間の制約からバラード・パートのみのパフォーマンスとなっている)。

 フレディの楽曲で特筆すべきは転調の妙である。「伝説のチャンピオン」では、サビWe are the championsに入るとき、Cマイナー→Fに転調、曲調の転換を強調する。これに反して、♪ボヘミアン・ラプソディのバラード・パートは、B♭でスタートした調性が9小節目からCマイナー→E♭→E♭マイナーと変化する。この流れは、あまりにもスムーズで、転調を感じさせない。この精緻な自然さはまさに天才の技。モーツァルト的である。例えば「アヴェ・ヴェルム・コルプス」のような。そういえば、映画で、フレディがピアノをそっくり返って弾く場面があるが、映画「アマデウス」でも同様な場面があった。鍵盤の黒白が逆なのもこれを示唆している?

 前章で言及した三部構成というスタイルはバロック音楽の定番形でありソナタ形式につながる。また、序奏における締め文句「どっちにしたって風は吹くのさ 僕にはたいしたことじゃない」は、コーダの締めで回帰する。この手法は、J.S.バッハの「ゴールドベルク変奏曲」やフランクの循環形式に呼応するもので、複雑な楽曲に統一感を与える効果がある。♪ボヘミアン・ラプソディはクラシック音楽の要素満載、何度聴いても飽きることがない。

(6) フレディは誰を殺したのか

 ♪ボヘミアン・ラプソディのバラード・パートの冒頭「ママ、たった今人を殺してきたMama,just killed a man」は強烈だ。耳にこびりついて離れない。聴き手は、曲の間中、一体だれを殺したのか?なる疑問を引きずり続ける。だがしかし、これを論理的に解明するのは不可能だろう。なぜなら、この詞は個人的象徴詩だから。冒頭でも「これは現実なのか、それともただの幻か」と釘を刺してもいる。解釈は理屈ではなく直観に頼るしかない。
 私は、バラード・パートの2コーラス目にある「真実と向き合うface the truth」という言葉がクサイと直感した。真実と向き合うとはどういうことか? それはフレディがゲイを隠さずに正面から向き合うということではないのか。ならば、フレディは誰を殺したのか? 答えは自ずと「自分自身」と導き出される。これまでの自分を殺し新しい自分に生まれ変わる。即ち、過去に決別し未来に生きる決意をしたということ・・・・・この観点から全体を見わたすとすべて読み解けたように思えた。過去と未来が交錯する一見難解な詩もスルスルと解明されたような気がした。♪ボヘミアン・ラプソディはフレディ・マーキュリーが新たな第一歩を踏み出す決意の私小説なのである。
 映画のラスト20分のライブ・シーンでは、エイズに立ち向かうフレディ決意のパフォーマンスが繰り広げられる。我々が、「ボヘミアン・ラプソディ」という楽曲&映画に感動するのは、「真実と向き合う」+「決意」という共通のキイ・ワードによる。そんな見方もできるのではなかろうか。

 こんな風に解釈を試みたが、独善にすぎないことは承知している。「芸術家は美の創造者である。ある芸術作品に関する意見がまちまちであることは、その作品が斬新かつ複雑な生命力にあふれている証拠である」というオスカー・ワイルドの言葉がある。ならば、芸術作品である♪ボヘミアン・ラプソディは、“聴く人によって意見がまちまちなのは必然”ということになる。ここはまあ、ロック初心者かつ俄かクイーン・ファンの私が、映画をきっかけにして、曲がりなりにも一つの意見が導き出せたことを素直に喜べばいいのかな、と思うのである。

 2月25日はアカデミー賞授賞式。果たして「ボヘミアン・ラプソディ」は作品賞に輝くのか。ラミ・マレックは主演男優賞を獲れるのか。いつになく楽しみなことである。

<参考資料>

映画「ボヘミアン・ラプソディ」(米20世紀FOX 2018年)
世紀を刻んだ歌「ボヘミアン・ラプソディ殺人事件」NHK-BS 2002年OA
「プレミアム・ライヴ QUEEN」NHK-BS 2014年 OA
Live at Wembley Stadium DVD
QUEEN ROCK Montreal&Live-Aid DVD
クイーン・グレイテスト・ヒッツ 1,2,3 CD
クイーン「オペラ座の夜」CD
ボーマルシェ著、石井宏訳「フィガロの結婚」(新書館)
 2019.01.20 (日)  年末年始雑感・音楽篇〜ウィーンフィル・ニューイヤーと純烈
(1) ニューイヤーコンサートのティーレマンは想定外の素晴らしさ

 年の瀬も押し迫った12月27日、FMえどがわのディレクターNoririn松尾嬢から電話あり。「急ですが、1月4日に出演できませんか?」ときた。毎週金曜の「おかえりなさい」という番組の新春一発目を「クラシックで幕開け」的な中身にしたいという。植木等じゃないが、「待ってましたと出かけよう」と即決。

 構成はイノシシ〜平成回顧〜新年とした。まず一曲目。干支のイノシシに直接因んだ音楽を調べたが、ない。そこで最も「猪突猛進なクラシックは何?」に切り替えると、「天国と地獄」と出た。♪3時のおやつは文明堂〜現役最古のCMソングの原曲でお馴染み。スタートはこれに決まる。次は「平成回顧」。昨年の漢字が「災」だったように、平成はまさに災害の時代だった。最大のものは2011年の東日本大震災だ。震災一ケ月後の4月10に印象的な演奏会があった。「プラシド・ドミンゴ・コンサート・イン・ジャパン2011」である。このころ、原発の影響で、数多の海外アーティストがドタキャンする中、ドミンゴは「大好きな日本の皆さまの少しでも力になれば」との思いで、やってきてくれた。コンサートの終盤、観客と一緒に「ふるさと」を流暢な日本語で歌う。実に心温まる場面だった。思えば1996年7月7日、母と叔母とで行った「3大テノール」日本公演でも、日本語で「川の流れのように」を歌ったが、ドミンゴが他の二人をリードしていた。アンコールは十八番「グラナダ」。そこで、2曲目は1994年ドジャースタジアム・ライブのテイクを選曲した。因みにドミンゴは、昨年ベルリン国立歌劇場で、ヴェルディの「マクベス」のタイトル・ロールを演じている。77歳の歌唱はまだまだ健在である。
 どん尻はなんといってもウィーンフィル・ニューイヤーコンサートである。クラシック・ファンにとっては新年恒例のイヴェント。これを聴かずして年は明けない。始まったのは1939年12月31日、指揮者はクレメンス・クラウス(1893−1954)。当時はナチスの統制下。市民のガス抜きが目的だったといわれている。第2回は1941年1月1日。以後毎年元日に行われるようになる。因みに、NHK紅白は1951年第1回が元日で4回目から大晦日となって今日に至るが、これは1954年の元日が新春公演のため会場の空きがなかったから、というのがその理由。今日、東西の年末年始の大音楽イヴェントが、真逆の形で今のスタイルを成しているのも面白い。初代指揮者のクレメンス・クラウスは、終戦後の1946〜47年は、ナチスの協力者と見做されて、ヨーゼフ・クリップスにその座を譲るが、1948年から復帰、通算12回を数えた。1955〜79年はコンサートマスターのウィリー・ボスコフスキーが25回を務める。ヴァイオリンを弾きながらのスタイルは、ワルツ王ヨハン・シュトラウスを彷彿とさせるもの。1980〜86年はロリン・マゼールで7回。1987年は帝王カラヤンが最初で最後の登場。ここから連続登壇がなくなる。従って、ボスコフスキーの連続25回の記録は今後まず破られることはないだろう。選定基準は明らかではないが、人気と実力を兼ね備えた一流指揮者であることは間違いない。私の中のベスト・パフォーマンスは、カルロス・クライバー(89、92)とジョルジュ・プレートル(08、10)。前者は絶妙なる統制感、後者は至上なる愉悦感とでも言おうか。素晴らしきこと甲乙つけがたしである。日本人指揮者は小澤征爾(02)のみ。はたして次はいつだれが?

 さて、79回目の今年はクリスティアン・ティーレマンである。1959年生まれ59歳ドイツの指揮者。現在ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の首席。得意はワーグナー。特に聖地バイロイト音楽祭での活躍は目覚ましく、総監督を務めるワーグナーの曾孫姉妹の覚えもよく、近々、バイロイト音楽祭・音楽顧問の座に就くことが確実視されている。そんな、今まさに旬な指揮者ティーレマンが振るニューイヤーが楽しみでないわけがない。そこにFMのネタ探しが絡まるのだから、いつも以上に耳目を凝らした。とはいえ心配もある。なぜって、ティーレマンは巨漢で強面。レパートリーの中心は重厚なドイツ本流。粋でお洒落なウィンナ・ワルツとは水と油、との先入観があった。ところが、始まって、そんな杞憂はすぐに吹き飛んだ。構えは大きく気持ちは繊細、音楽は活き活きと躍動する。しかも聴衆に向ける笑顔は強面とは裏腹に実にチャーミング。最終楽曲の「ラデツキー行進曲」が終わると、会場は自然とスタンディング・オベーションとなった。これは結構珍しいことで、ここ十年では、巨匠ムーティにもバレンボイムにもメータにもなかった。聴衆がいかに満足したかの証。ニューイヤーのティーレマンは想定外の素晴らしさだった。

 では、何を選曲しようか? 終演間際にやった「突進ポルカ」? 今年は日墺修好150年だから、干支のイノシシを意識したのか? でも音がない。この一つ前がヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「天体の音楽」。ティーレマンのスケール感が曲の壮大さにドンピシャと嵌まった今演奏会屈指の名演だった。この曲は、医学生が開催する舞踏会の発足を記念して書かれ、初演が1868年だから明治元年。元号が慶応から明治へと変わった年。これは平成から新元号に変わる今年に相応しいではないか。音は、ウィリー・ボスコフスキー指揮:ウィーン・フィル(73年録音)がある。3曲目はこれに決定。そして、締めは定番「ラデツキー行進曲」。小澤征爾2002年ニューイヤーコンサートのライブ・テイクを選んだ。

 1月4日夕方6時からの生本番は、パーソナリティの横山剛氏が「ニューイヤーコンサート」を見ておいてくれたお陰もあり、30分間、終始和やかに推移、まずは成功裡に終わった。何かあればまたお呼びくだされ。

(2) NHK紅白初出場の「純烈」には浅からぬ縁がありまして

 大晦日、NHK紅白歌合戦では、初出場を果たした歌謡コーラスグループ「純烈」を応援した。なぜって、メンバーの一人が知り合いだからである。その名は後上翔太32歳、メンバー最年少。他のメンバーが芸能界からの転身組なのに対し彼だけが大学中退で加入したという変わり種。ではその経緯を。

 話は私の大学時代に遡る。1964年東京五輪の年に大学生となって上京した私、初年度は吉祥寺に居を構えた。4畳半一間、友人との同居生活につき家賃は月2,250円と格安。そんないわば仮住まいだったため、二年目からは国分寺に転居した。その下宿の大家さんが鈴木さんといって、国立癌センターの部長さん宅だった。
 鈴木先生は大のクラシック好き。そのせいもあって、偉い先生なのにフレンドリーに接していただいた。リビングには英国製ワーフェデールのスピーカーが鎮座し格調高い音を醸し出していた。その音を聴きたくて母屋に毎日のように入りびたったものである。そこで聴いたクリスティアン・フェラスのヴァイオリンの美音が今でもはっきりと耳奥に残っている。奥様も明るく気さくな方で、遂には家族同士のお付き合いに発展。夏休みには一家で私の長野の実家に来ていただくほどに。その折、同行した同じ下宿の住人松村君と二人で先生をたきつけ、連れ立って善光寺裏の城山公園に行き、植木等の映画「ニッポン無責任シリーズ」を真似て、粉石鹸を仕込み公園の噴水からシャボン玉を噴き上げる実験(悪戯)を行った。結果は見事失敗に終わったが、そんなバカげた学生の提案にも付き合ってくださる気さくな先生だった。
 先生には二人のお嬢さんがいて、当時、姉が涼子ちゃん小学校高学年、妹が理枝子ちゃんで小学一年生だった。理枝子ちゃんの愛称はリンリコ。利発で可憐な女の子で、♪「鉄腕アトム」主題歌を歌う凛々たる歌声が印象的だった。月日は流れ、私の結婚に際し、仲人を鈴木先生ご夫妻にお願いしようということになり、鈴木家を訪問した。そこで再会したリンリコは中学生になっていて、私らの前でピアノの弾き語りを披露してくれた。ユーミン、かぐや姫、チューリップ、なんでもござれ。ピアノもうまく美声も健在。そこで披露宴での余興を依頼することに。曲は、その日聴いた中で一番嵌まっていたユーミン(当時荒井由実)の「ひこうき雲」に決定。本番も素晴らしい歌唱で会場の喝采を浴びた。1975年6月7日のことである。だがしかし、数年後、この歌は、ユーミンが知り合いの子供が亡くなったことをモティーフに書いた曲、ということに気づく。こいつは結婚式に相応しくナカッタ! ジックリ歌詞を読めば判るはずなのに、当時いかに詞を理解していなかったかと我が身の間抜けさに恥じいった次第である。

 それはさておき、リンリコはその後、後上さんという銀行員と結婚。男の子を出産。これが翔太くんである。中学生のころ我が家に来て、息子の直紀と一日中バスケット・ボールに興じていたのを思い出す。彼はその後、東京理科大学に進学、科学者を目指すが、そんなある日、リンリコから電話がくる。「翔太が大学を中退して歌謡コーラスグループに参加するって言うの」。「おいおい、やめときな。そんなもん売れるわけないって。せっかくおじいちゃんと同じ道を歩んでいるんだから、もったいないよ」と言ったものの、もう決めちゃったの体。ならば応援するしかないと、即、激励文を添えて通販商品「ムード歌謡大全集」を贈った。この翔太くんが加入した歌謡コーラスグループこそ「純烈」である。「純烈」は“夢は紅白!親孝行!”なるスローガンを掲げ、未開の地スーパー銭湯をフランチャイズに苦節10年、昨年大晦日、遂にNHK紅白出場の夢を叶えたのである。おめでとう翔太。年が明けて困った問題が起きちゃったけど、4人一致団結して頑張ろうぜ。いやはや人生いろいろである。

<付録>

 昨年12月30日、TVで見た日本レコード大賞授賞式で一つ感じたことがある。レコ大は例年、10曲の優秀作品賞の中から大賞が選ばれるという仕組みである。大賞は、日本作曲家協会が主催なので、日本人作曲家の作品しかその資格はないはず。1979年、我がRCAレコードの西城秀樹は、「ヤングマンYMCA」で特大ヒットを飛ばしたにも拘わらず、外国曲だったことで、無念の涙を呑み、我々応援部隊も悔しい思いをしたものである(受賞はジュディ・オング「魅せられて」)。ところが昨年末のレコ大、優秀作品賞10曲の中に外国曲が含まれていた。DA PUMPの「USA」である。司会のTBS安住アナは、「この10曲の中から栄誉ある大賞が選ばれます」と何度もアナウンス。結局、「USA」の受賞はなかったのだが、もしや外国曲もOKと規約が変わったのか、それとも「大賞は不可」を承知で入れ込んだのか。DA PUMP「USA」は才人・ライジングプロ平哲夫社長とドン周防郁雄氏の最強タッグのバックアップにつき、もしや!?
 とはいえ、大賞受賞の乃木坂46「シンクロニシティ」と「USA」を純粋に比べれば、「USA」の方が受賞に相応しいのは明白である。楽曲のインパクト、ヒットの度合い、大衆へのアピール度、支持層の幅広さ、いずれも勝っている。お茶の間も「えっなぜ?」と感じたに違いない。まあ、レコ大ではよくあることだが。グローバル時代に、そろそろ「外国曲不可」の制約を外したらどうだろう。でも、この業界、体質は新しそうで意外と古い。はてさて、今後の進化やいかに? いろいろ考えさせられたレコード大賞でした。
 2018.12.25 (火)  NHK大河ドラマ「西郷どん」が終わって〜クラ未知的西郷隆盛論 前編
 12月16日(日)、NHK大河ドラマ「西郷どん」が終わった。原作:林真理子、脚本:中園ミホ、音楽:富貴晴美という女性トリオによる制作陣。中でも富貴のテーマ音楽が光った。勇壮なオーケストラに挟まれて、里アンナがエキゾチックなメロディーを妖艶に歌う。両端部は維新を牽引した英傑のパワーを、中間部は南国の孤島に流された辛苦を表し、それはまた、西郷の人生を覆う数奇な運命と不可解な二面性をも象徴する。なかなか見事な音楽だった。ドラマの出来はまあ普通だろうか。それよりも、NHK大河ドラマはその年の歴史番組の流れを主導するから、それが楽しかった。
 テレビは歴史ものが好きで、よく見るし気に入ったものはDVDに残している。2018年度で残した番組は優に100本を超す。その中で幕末・維新モノは30%近い。この比率は例年より高い。やはり大河の影響だろう。日本史では、戦国、江戸、幕末・維新、第二次大戦前後あたりの時代がとりわけ面白いので、この流れは歓迎だった。
 2018年最後の「クラ未知」は、この一年で見た番組、読んだ本を礎に、維新の巨人・西郷隆盛に迫りたい。彼の二面性を、J.S.バッハ「フーガの技法」鏡像フーガに擬えて、RECTUS(正置形)とINVERSUS(転回形)の二章で対比、西郷隆盛の光と影を考察したいと思う。

第一章:RECTUS〜西郷隆盛の光

 内村鑑三(1861−1930)の名著「代表的日本人」は、日本を代表する5人の傑出した人物を取り上げている。西郷隆盛(1827−1877)は、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮らに伍して巻頭を飾る。著者の西郷への信愛度が解ろうというものだ。初版の刊行は1894年。タイトルは「Japan and the Japanese」、英語で書かれている。改訂版が1908年で、タイトルを「Representative men of Japan」に変えた。これは世界の偉人6人を描いたエマソンの「Representative men」(1850刊行)に倣ったもの。
 内村は改訂版の前書きに「青年期に抱いていた、わが国に対する愛着はまったくさめているものの、わが国民の持つ多くの美点に、私は目を閉ざしていることはできません」と記している。
 鹿鳴館に代表されるような西欧の物真似である文明開化を標榜し、富国強兵・殖産興業を掲げ日清・日ロの戦いに勝利する。「代表的日本人」が書かれたのは、明治維新から約40年を経た、まさにそんな時期である。前書きは、そんな日本に嫌気がさした内村の心情を如実に表している。「日本には西洋かぶれの勇ましい人間ばかりじゃない、国と人と平和を愛する真の偉人がいたのだよ」との思いを込めてこの書を世界に発信したである。

 内村は明治維新に果たした西郷の役割をこう記す。
明治維新という革命が、西郷なくして可能であったでしょうか。木戸や三条(実美)を欠いたとしても、革命は、それほど上首尾ではないにせよ、たぶん実現をみたでありましょう。必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、「天」の全能の法にもとづき運動の方向を定める精神でありました。
 革命を始動させた原動力が西郷であり、さらに突っ込んで「1868年の日本の維新革命は西郷の革命だった」と断言したあと、内村は彼の生い立ちから精神形成〜人格へと話を進める。

 西郷は、語るに値するほどの名門ではなく、薩摩の大藩にあっては、“中等以下”に位置する家に生まれた。「動作ののろい、おとなしい少年で、仲間の間では、まぬけ」で通っていたという。成長すると大きな目と広い肩を特徴とする太った大男になった。若いころから陽明学に親しみ、禅の思想も探求した。書をよくし漢詩を詠んだ。他に類をみないほど生活上の欲望がなかった。身の回りのことにも財産にも無関心。下男を叱るのを見かけたことがない。争いごとが嫌いで、人の平穏な暮らしを、決してかき乱そうとはしなかった・・・・・内村は、そんな西郷の性格を表すエピソードを二つ挙げている。
一つ目。西郷が宮中の宴会に平服で参加した後、早めに退出した。入り口で脱いだ下駄が見つからなかったので、小雨の中を一人裸足で歩きだす。城門にさしかかると、門番に呼び止められ、怪しいものと思われ身分を訪ねられる。「西郷大将」と答えるが、門番は信用せず門を通過させない。そこで、西郷は自分を証明してくれる誰かが来るまで、雨の中に立ち尽くした。しばらくして、岩倉具視の馬車が通りかかり、ようやく出ることができた。

二つ目。人の家を訪問しても、中の方へ声をかけようとせず、その入り口に立ったままで、誰かが偶然出てきて、自分を見つけてくれるまで待っていた。
 これらのエピソードは、西郷の本質は「待つ」であることを語る。但し西郷はこうも云う。「機会には二種ある。求めずに訪れる機会と我々の作る機会とである。世間でふつうにいう機会は前者である。しかし真の機会は、時勢に応じ理にかなって我々の行動するときに訪れるものである。大事なときには、機会は我々が作り出さなければならない」。
 将軍徳川慶喜は、1867年10月、「大政奉還」申し出という延命策に打ってでた。このままでは体裁だけの改革に終わり、真の新しい時代は来ない。これを実現するために、西郷はあくまで武力による討幕に拘った。そして、「王政復古」〜「戊辰戦争」という逆転の流れを作ったのである。これなくして明治維新はなかった。これぞ西郷の云う「作り出した機会」である。

 そして、これらを読むうちに、ふと、西郷隆盛という人物像は何かに酷似していると思い当たった。
雨ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイウモノニ ワタシハナリタイ
 知らぬ者なき宮沢賢治「雨ニモマケズ」の一部である。内村は言及していないが、大男の西郷は間違いなく大飯ぐらいだっただろう。“一日ニ玄米四合”というのは、あまりに大食漢であり、病弱な賢治のイメージと合わないと常々思っていた。賢治が描く理想像だからそれでもいいのだが、違和感は拭えなかった。それが、西郷と結びついたとき、きれいに払拭された。病の床で手帳の切れ端に「雨ニモマケズ」を記したとき、宮沢賢治の頭の中には西郷隆盛があった。「丈夫な体」「慾がない」「怒らない」「静かに笑う」「自分を勘定に入れずに他人のために尽くす」「困っている人間を放っておけない」「よく勉学し習得する」「デクノボー」「褒められることを望まない」「自らを主張しない」等々、これらはことごとく西郷の性格性向に合致する。西郷の農本主義の傾向は農学校に学んだ賢治と共通する。見事な符号である。巷間、モデルは同じ花巻出身のキリスト者・斎藤宗次郎(1877−1968)と云われているが、斎藤は内村の最も忠実な弟子だったという。これも、「雨ニモマケズ」に西郷の精神が投影されていることの裏付けとなりはしないか。私は確信する。宮沢賢治「雨ニモマケズ」の人物像は間違いなく西郷隆盛であると。むしろこれまで、文学者も歴史学者も、このことにだれ一人言及しなかったことが不思議である。

 章の最後に、宗教家としての内村が確信した西郷の霊的体験に触れておきたい。
ところでわが主人公が、日夜、好んで山中を歩き回っているとき、輝く天から声が直接下ることがあったのではないでしょうか。静寂な杉林の中で、「静かなる細き声 still small voice」が、自国と世界のために豊かな結果をもたらす使命を帯びて西郷の地上に遣わせられたことを、しきりと囁くことがあったのであります。そのような「天」の声の訪れがなかったなら、どうして西郷の文章や会話の中で、あれほど頻りに「天」のことが語られたのでありましょうか。
 「静かなる細き声」とは預言者が天=神から聞く声のこと。天啓である。天の啓示に従い「敬天愛人」を訓とし自らの使命に邁進した西郷は、最後、自身の信条を貫き通して命を絶った。まさに殉教である。内村は、西郷隆盛という気高きラストサムライの中にイエス・キリストを重ね合わせていたのかもしれない。

第二章:INVERSUS〜西郷隆盛の影

 本章では西郷の影=負の側面に言及してみよう。ここに二つの史実がある。

 まずは、赤松小三郎(1831−1867)の一件である。赤松は信州上田藩の藩士。江戸に出て英式兵法を習得し、京都に私塾を開く。門下生に薩摩藩士がいたことから、藩の兵学教授として招聘され、京都の薩摩藩邸で藩士800名に英国式兵法を教える。薩摩の軍隊を蘭式から英式に切り替える指導的役割を果たした。
 一方で、新時代にふさわしい政府と政治の在り方を立案した。立法は普通選挙で選出された二院制議会で、行政は議員からなる内閣即ち議院内閣制によって行う。誰でも分け隔てなく受けられる教育制度の確立。果ては、兵士の体格向上を図るための肉食奨励に至るまで、実に先進的な内容で、かの坂本龍馬の「船中八策」に先立つ。イギリス公使館の通訳アーネスト・サトウは、日記に「西郷は、幕府の代わりに国民議会を設立するという先進的思想の持ち主だった」と記しているが、これはおそらく赤松の受け売りだろう。

 赤松は、兵法・政治体制等持てる知識をことごとく薩摩に伝授して帰藩する直前、1867年9月、薩摩の刺客・中村半次郎に刺殺された。赤松が薩摩の軍事機密を知り過ぎてしまったことが原因とされる。黒幕は不明のままだが、西郷が関与していたことは想像に難くない。中村半次郎(1839−1877)は明治維新を機に桐野利秋と改名、西郷を師と仰ぎ、岡田以蔵らと共に幕末の四大刺客の一人に数えられる剣の達人である。大河ドラマの最終回を見るまでもなく、西南戦争において最後の最後まで西郷の傍らにいて運命を共にした一人だ。常人には御しがたい個性の持ち主だが、西郷の命令でなら何でも動く。逆に西郷が命じなければ動かない人間なのである。
 薩摩の軍事改革の恩人を、自らの大義(都合)のために切り捨てる。やられたほうはたまったものではない。西郷の非情な一面である。

 もう一つは相楽総三(1839-1868)と赤報隊のケースである。彼も西郷命の人間である。明治維新革命においては様々な節目があるが、薩長・維新勢力における最大の正念場は、大政奉還(1867.10.
14)〜王政復古の大号令(同年12.8)あたりの将軍徳川慶喜の粘り腰だったろう。討幕の密勅を偽造してまで慶喜の排斥を図ったのだが、怜悧な慶喜は失脚の口実を作らせない。もはや武力討幕しか道はない。そこで動いたのが西郷だった。腹心の相楽に命じ、赤報隊に騒乱を起こさせ、見かねた幕府が薩摩屋敷を襲うように仕向ける。赤報隊は、江戸の町で毎夜のように、放火・略奪・強姦・強殺を繰り返す。そして決まって三田の薩摩藩邸に逃げ込む。江戸ではこのテロ集団を「薩摩御用盗」といって恐れた。止めは、江戸市中取締の庄内藩屯所の襲撃だった。遂に切れた幕府は薩摩藩邸の砲撃を決行。1867年12月25日のことである。この知らせを聞いた西郷は「これで戦の口実が出来た」とほくそ笑んだという。
 武力討幕の大義を得た新政府軍は鳥羽伏見の戦いを開戦。そして、江戸城無血開城、戊辰戦争の勝利を経て維新革命を達成する。一連の流れの中、西郷の働きは際立っており、まさに西郷なかりせば維新は成らず、であった。さて、問題はこの後である。

 江戸で手柄を立てた相楽総三・赤報隊の開戦後の役割は、一揆・打ちこわしが頻発する不穏な世情の中、新政府軍をスムーズに進軍させること。「新政府は年貢を半減する」と触れ回りながら先兵として東進したのである。これが西郷の指示であることはいうまでもない。戦いは新政府軍の勝利で幕を閉じる。新政府スタート。しかしながら、即、財政難が露見。「年貢半減」など履行できるはずもない。そこで西郷は信じられない仕打ちを行う。「年貢半減」は政府の方針ではない。そんな偽約束を触れ回った赤報隊は「偽官軍」であるとして、相楽以下隊員を処刑してしまうのである。指示を忠実に実行した人間を処刑する。何たる非道! 目的のためには手段を択ばない非情の革命家・西郷隆盛の、もう一つの顔である。

 二章にわたり西郷隆盛の光と影を見てきた。物には裏表がある。人間は二面性を持つ。自分の胸に手を当てるまでもなく、そんなことは明白である。だが、寛容と残忍〜西郷の二面性は不可解にして強烈。常人の比ではない。一枚の写真も残っておらずゆえに風貌も捉え難い。あるときは英雄あるときは逆賊。評価は天と地。人生は明と暗。このとてつもない振幅。広漠たるスケール。そして謎。この混然一体感こそが西郷の魅力なのだろう。次回は、そんな西郷隆盛の思想に踏み込んでみたい。
<参考資料>

「代表的日本人」 内村鑑三著(岩波文庫)
100分de名著「代表的日本人」NHK-TV
大河ドラマ「西郷どん」NHK-TV
ザ・プロファイラー「西郷隆盛」NHK-BS
英雄たちの選択「決戦!西南戦争」NHK-BS 他
 2018.11.25 (日)  ジネット・ヌヴー賛〜稀代の天才ヴァイオリニストを偲ぶ
(1) 近年聴いたブラームスのヴァイオリン協奏曲

 先日、福島社長から「急用でコンサートに行かれなくなったので、よかったら是非」と連絡をいただいた。東京都交響楽団サントリーホール公演、指揮は小泉和裕、ヴァイオリン・ソロはレイ・チェンで、曲目はブラームスの「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77」と「交響曲 第4番 ホ短調 作品98」の二曲。小泉は2008年GWラ・フォル・ジュルネ東京でシューベルトの「グレート」を聴いて以来だし、ヴァイオリニストのレイ・チェンは注目の若手。二つ返事でお言葉に甘えることにした。

 福島社長とはこのところ、ブラームスのヴァイオリン協奏曲でご縁がある。しかもすべてがサントリーホール。まずは、撮り逃した2016年5月8日のジャニーヌ・ヤンセン(Vn)とヤルヴィ:N響のライブ録画をBD−Rで補填いただいたこと。次は、昨年10月2日、オケ同期の指揮者・宮城敬雄と17歳の若手パウロ・クロプフィッチュ(Vn)によるコンサートをご一緒したこと。そして今回と、謂わばブラームスVn協奏曲atサントリーホール三部作(?)である。

 小泉のブラ4は手堅い好演。悪くはないが、もう一つガツンとくるものがない。私のブラ4初体験はフルトヴェングラー:ベルリン・フィル1948のLPである。当時中学生だった私は、大人から「何か欲しいものあるかい?」と問われたら、決まってノートに書き留めている「購入予定レコード・リスト」から「じゃ、これいいですか」と図々しく甘えたものだ。このLPは大阪の小倉のおじさんからいただいたもの。問われた私は「ワルターのブラ4」をお願いしたのだが、「ワグナーのがなかったのでこれにした。店の人はこれもいいって言ってたよ」なる文章が添えてあった。「ワグナーじゃねえよ」と呟いたかどうかは別として、聴いてビックリの名演奏! 最初の音Hが永久に伸びてゆくのでは、そんな悠久さを感じさせ、引き続き湧き出るロマンの奔流に胸が抉られた。とまあ、こんな体験があるので、ブラ4は余程の演奏でないと胸に刺さらないのだ。

 さて、レイ・チェンの協奏曲である。1989年台湾生まれの29歳。カーチス音楽院でアーロン・ロザンドに師事。2009年、エリザベート王妃国際音楽コンクールで最年少優勝した逸材である。
 この日のブラームスは、素直な音楽性とよく通る美音がマッチして音楽が活き活きと息づいていた。因みに、楽器はストラディヴァリウス・ヨアヒム1715(これは以前庄司紗矢香の楽器だったはず。貸与元は日本音楽財団である)で、カデンツァもヨアヒムのもの。まさにヨアヒム尽くしの好演だった。
 レイ・チェンもヤンセンもクロプフィッチュも素晴らしい。技術に破綻はなく楽譜に記した作曲者の意図にも忠実(と感じられ)、奏者の個性もそれなりに感知される。しかし何かが足りない。フルヴェンの4番じゃないが、心をワシ掴みにするような強烈さが。
 そんな時、私はジネット・ヌヴーを聴く。ここにはヴァイオリン本来の魔力がある。ヴァイオリンのことをフィドルfiddleと呼ぶが、語源はラテン語で“人を誑かす”という意味がある(石井宏著「誰がヴァイオリンを殺したか」より)。聴く者を何かに駆り立てるような、狂気ともいえる魔力である。

(2) ジネット・ヌヴー、そのあまりにも強烈な音楽と人生

 ジネット・ヌヴー(1919−1949)のブラームスのヴァイオリン協奏曲は4つの録音が遺されているが、ヌヴー28歳、1948年5月3日ハンブルクでのライブ録音が演奏録音共に群を抜いている。共演はハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮:北西ドイツ放送交響楽団。

 導入のオケでホルンが音を外すなどただならぬ緊張感が漂う。長い前奏のあと満を持して登場したソロ・ヴァイオリンの何という迫力。食いつかんばかりに挑戦的。何かにとり憑かれたような異様さ。冒頭で心を鷲掴みにされた聴き手は生贄の子羊のごとく祭祀に身を委ねるだけだ。
 ブラームスのヴァイオリン協奏曲の第1楽章は尋常ではない。何がって、その旋律の多様さである。普通ソナタ形式においては、第1主題と第2主題の他には一つかせいぜい二つの副次的主題があるだけだ。ところがこの曲にはなんと6つもの副次主題がある。ブラームスはこれら多様な素材を熟練の技で精緻な逸品に変える。稀代の名工と云われる由縁である。
 ヌヴーはこれら8つの主題の各々の特質を見事なまでに弾っ張り出す。描き切る。第1主題の気高さと第2主題の哀感の対比。その間に点在する旋律は、時に激しく時に鋭く時に情熱的に時に切なく時につつましく時に威厳を宿し時に憧憬を湛えて羽ばたく。その多彩な表現力はブラームスの本質を余すところなく表出する。まるで万華鏡の景観である。
 ハイフェッツ、オイストラフ、ミルシテイン、シェリング、グリュミオー、シゲティ、フランチェスカッティ等々、錚々たる名手たちと丹念に聴き比べて確信した・・・・・数多のヴァイオリニストの誰もがヌヴーの下では色褪せる。これはまさに奇跡の名演である。もしや、会場が作曲者の生誕地というのも一役買っているかもしれないが。

 切れがよく粒立ちのいい音。くっきりと浮かび上がる旋律線。曖昧さを排除する解釈。一方で、表情には滾るような情熱と澄み切った気品が宿る。時折顔を出す節度あるポルタメントも魅力的。冷徹たる解釈と楽器を自在に操る最高度の技術と多彩な表現力を併せ持つ、こんな音楽家がどのようにして生まれてきたのだろうか。

 1919年8月11日、パリで5人兄弟の末っ子としてこの世に生を受けたジネット・ヌヴー。大伯父はフランスの作曲家シャルル=マリー・ヴィドール。彼は、私が知る限り、93歳というクラシック音楽史上没年最高齢の作曲家である。それに引き換えジネットのなんたる薄命! が、これは後述する。
 幼少期にヴァイオリニストとしての教育を母から受ける。その後11歳でパリ音楽院に入学。ここで出会ったヴァイオリン教師がジュール・ブーシュリ(1877−1962)である。彼について、画家エドゥアール・マネの姪ジュリー・マネは「サラサーテは正確さと純粋さにかけては見事な才能の持ち主だが、雄大さに欠ける。その点ジュールのヴァイオリンは独特の風格と気品が漂う」と評している。かの「ツィゴイネルワイゼン」の作曲者にして大ヴァイオリニストのサラサーテを凌ぐというのだ。論点の「雄大さ」と「気品」は後のジネットに通ずるものを感じる。
 ジュール・ブーシュリの教えを受けたヌヴー以外の音楽家をヴァイオリニスト中心に列記すると・・・・・ヘンリク・シェリング、クリスティアン・フェラス、ローラ・ボベスコ、イヴリー・ギトリス、ミシェル・オークレール、ミシェル・シュヴァルヴェ、クララ・ハスキル、ジャン・マルティノン、など錚々たる名手が並ぶ。

 そんな偉大なヴァイオリニスト・教師の薫陶を受けたジネットは、15歳で第1回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに臨み見事優勝する。180人の候補者の中には当時24歳のダヴィッド・オイストラフがいた。あまりに圧倒的なジネットの演奏を聞いたオイストラフは故郷の妻に宛てこう書き送っている。「わずか15歳のヌヴー嬢が、ヴィエニャフスキの嬰ヘ短調(第1番)の協奏曲を弾いたとき、僕はまるで悪魔のように素晴らしいと思うしかなかった。彼女が第1位で当然さ」。9歳年下の少女に打ちのめされ2位に甘んじたオイストラフはその後世界的大ヴァイオリニストになる。そして数々の名曲を録音する。その中にはヌヴーと共通の曲、例えば、ブラームス、シベリウスの協奏曲、ショーソンの「詩曲」などがあるのだが、現在、両者の演奏を聴き比べても、ヌヴーの圧倒的優位は変わらない。コンクールでの得点差は26点という大差だったというが、この差は永遠に埋まらなかったことになる。これだけでもヌヴーの天才性がわかろうというものだ。

 ヌヴーの師はもう一人いる。パリ音楽院の女性教授ナディア・ブーランジェ(1887−1979)である。10歳でパリ音楽院に入学。この早熟ぶりはヌヴーとも共通し、しかも作曲を学んだヴィドール教授はヌヴーの大伯父という因縁もある。作曲家としては、ローマ大賞の次点に甘んじるが、指導した妹のリリ(1893−1918)は1913年に受賞。姉の仇を妹が討った形となった。彼女の作品「深き淵より」は劇的緊張感に満ち、「ピエ・イエス」は敬虔と清澄を醸し出す。感情の対称が見事な二作品である。因みにオケ時代の楽友フルートの辻本泰久の師・林リリ子の名はリリ・ブーランジェからとったものだという。
 ナディアは指揮法も学び、25歳で指揮者としての活動を開始、その後幾度か欧米名門オーケストラを振っている。現在では珍しくなくなった女流指揮者の先駆だ。
 教育者としての分野は、和声法、対位法、楽曲分析、ソルフェージュと多岐にわたる。門人も多士済々・・・・・作曲家はアストル・ピアソラ、アーロン・コープランド、ヴァージル・トムソン、指揮者はレナード・バーンスタイン、イーゴリ・マルケヴィッチ、スタニスラス・スクロヴァチェフスキ、ピアニストではディヌ・リパッティ、クリフォード・カーゾン、ダニエル・バレンボイム、ジャズ界のクインシー・ジョーンズ、キース・ジャレット、ドナルド・バード、ミシェル・ルグランなど。まさに綺羅星のごとくである。
 ヌヴーはこの偉大な教師から、作曲法と楽曲の読みを学んだ。権威あるコンクールに於いて、15歳という若さで、後に巨匠ロストロポーヴィチをして「神のような存在」と言わしめたオイストラフを寄せ付けずに優勝した天才性こそ、持って生まれた資質の上に、技術をジュール・プーシュリ、音楽性をナディア・ブーランジェから授けられ培われたものだったのである。

 ヴィエニャフスキ・コンクール後、ジネットは洋々たる演奏活動を展開する。1935年11月、オイゲン・ヨッフム指揮のベルリン・フィルとの共演に始まり、1936年にはウィレム・メンゲルベルク、1943年にはヘルマン・アーベントロート、1945年ヘルマン・シェルヘン、1946年ヘルベルト・フォン・カラヤン等との共演でヨーロッパを席捲、1947年にはシャルル・ミュンシュ指揮のニューヨーク・フィルハーモニック、セルゲイ・クーセヴィツキーのボストン響との共演等でアメリカ上陸を果たす。
 そのアメリカ公演での反響は殊の外すさまじく、「この演奏にブラームスはジネット・ヌヴーの虜になったに違いない」(ヘラルドトリビューン)、「音楽の知性と詩情とエネルギー、強烈な個性と感性から創られたパリジェンヌ。舞台上で黒髪と長身が印象的な少女は、威厳のあるステージマナーで聴衆を魅了した」(ワールド・テレグラム)、「その激しくほとばしるような演奏には真摯さと強い個性が凝縮されていると同時に気高いまでの節度を保っている。このようなブラームスのVn協奏曲をこの街で聴いたのは何シーズンぶりだろうか。若さがみなぎる情熱と巨匠の威厳と抑制とがともに寄り添うような演奏を」(ザ・タイムズ)etc 絶賛の嵐とはこのことだろう。特に、ブラームスのヴァイオリン協奏曲への高い評価が目立つ。

 しかし、そんなキャリアの絶頂にいたジネットに運命の日がやってくる。

 1949年10月28日、エール・フランス パリ発ニューヨーク行きのロッキード・コンステレーション機は、3度目のアメリカ・ツアーに向かうジネットらを乗せてオルリー空港を飛び立った。そして数時間後・・・・・大西洋上に浮かぶポルトガル領アゾレス諸島のサンミゲル島に墜落。乗客乗員48名全員が死亡。ジネット・ヌヴーは、兄のピアニスト ジャンと共に、帰らぬ人となった。そしてまた、偶然にも、同機にはボクシング世界ミドル級王者のマルセル・セルダンがニューヨークで待つ恋人エディット・ピアフとの逢瀬を胸に乗り込んでいた(搭乗前談笑するジネットとセルダンの写真が遺されている)。ピアフの名曲「愛の讃歌」が生まれたのはこのすぐあとのことである。

 栄光の未来を約束された天才ヴァイオリニストは、こうして僅か30年の生涯に幕を降ろした。聞けば、フランクのヴァイオリン・ソナタやチャイコフスキーの協奏曲のレコーディング計画があったという。どんなパフォーマンスを示してくれただろう。実に実に何としてでも聴きたかった! でも、見果てぬ夢。遺された録音を聴くしかない。私は毎年10月28日には、ジネット・ヌヴーのブラームスの協奏曲と兄ジャンとの第3番ソナタを聴く。エピローグにショパンの嬰ハ短調ノクターンを聴く。ジネット・ヌヴーは永遠に私の心の内に生き続ける。

<参考資料>

ジネット・ヌヴー・ザ・コレクション 7枚組CD
リリ・ブーランジェ:「深き淵より」CD
ヴァイオリンの奥義〜ジュール・ブーシュリ回想録
     マルク・ソリアノ著 桑原威夫訳(音楽之友社)
誰がヴァイオリンを殺したか:石井宏著(新潮社)
 2018.10.27 (日)  ストラディヴァリウス考察〜奇跡、その真相
(1) ストラディヴァリウス展に行く

 先日、ヴァイオリンの銘器ストラディヴァリウス展に出かけた。場所は六本木・森アートギャラリー。題して「ストラディヴァリウス300年目のキセキ展」。世界に現存する600挺ほどのストラドのうち21挺が集結しているという。これは見逃すわけにはいかない。
 会場に着いたら、ちょうど実演が始まるところだった。楽器はストラディヴァリウス グレヴィル、アダムス、クライスラー Stradivarius Greville, Adams, Kreisler 1726。文字通りこれはかつて世紀の名手フリッツ・クライスラーの手にあったもの。今日の奏者は川久保賜紀。まず三浦理恵子のピアノ伴奏でエルガー「愛の挨拶」を演奏。温かく包み込むような音色はエルガーの愛の表現にピッタリだった。次は大作、J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番から「シャコンヌ」。熱演ではあったが輪郭が甘く感じられたのは、楽器の性向か、はたまた奏者乃至曲との相性か。そういえば、クライスラーが弾くJ.S.バッハは聴いたことがない。

 観賞中のご婦人が貧血で倒れるというハプニングのあと、別のストラドとの聴き比べが行われる。楽器は「ダ・ヴィンチ」Da Vinci 1714。おもむろに同じ曲が奏される。なんと音が全然違う! 光が飛び散るような燦然とした響きだった。クライスラーのしっとり感とダ・ヴィンチの輝き。両極併せ持つストラディヴァリウスの凄さを感じた。

 いよいよ展示室へ。一部屋に銘器21挺がひしめく。なんとも壮観である。案内によると、ストラディヴァリウスは作られた時期により、初期、挑戦期、黄金期、晩年期の4つに分かれるそうだ。全展示品の半数以上11挺が黄金期(1700−1726)のモノだった。
 最も気になったのは、実演で聴いた「ダ・ヴィンチ」である。他の銘器と比べた場合、正面の顔は、違いは分かっても見分けがつかない。ところが背面なら判る(撮影OKだったので撮った写真を掲載する)。北イタリアの冷気の中で長い年月を重ねた木目が幾重にも連なって見事な紋様を刻んでいる。その美しさは 展示品中随一だった。しかも一枚板である。調べてみたら、黄金期11艇の内、一枚板は5挺、二枚板は6挺だった。
 背面の素材はメープルである。きわめて硬い。硬さを優先するなら一枚板がいいはず。なのに二枚板もある。このあたりが、ストラディヴァリの感性であり面白さなのだろう。試行錯誤する天才!

 「ダ・ヴィンチ」と命名したのはアントニオ・ストラディヴァリ(1644-1737)自身だという。自己の最高傑作を自認して自国最高峰の芸術家の名を冠したとも。ならばもう少しジックリとその音に浸ってみたい。家に帰って、「ダ・ヴィンチ」が聴けるコンテンツを探したら、一つのCDに遭遇した。中澤きみ子のソロによる「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集」(フィリップ・アントルモン指揮:ウィーン室内管弦楽団 の共演)である。クレジットによるとプロデューサーは中澤宗幸。我が国ヴァイオリン製造・修復の権威で、かのTSUNAMI VIOLINの製作者だ。演奏者が奥様で、ご子息は「ストラディヴァリウス展」の実行委員長の中澤創太氏。しかも中澤きみ子氏は盟友H教授が教鞭をとる尚美大学の客員教授をしていたようだ。これも何かの縁か。

 使用楽器は、第1番〜第3番はストラディヴァリウス「ロマノフ」1731、第4番と第5番「トルコ風」は「ダ・ヴィンチ」である。数ある同曲全集のCDの中でも二艇のストラドを弾き分けているのはこれしかない。流石ヴァイオリンをよく知る中澤氏のプロデュースであり、これはまた、発売元カメラータ・トウキョウ代表・井坂紘氏の“レコードにはできる限りの付加価値を”の精神が反映している。

 全曲中、第5番「トルコ風」が群を抜いていた。ヴァイオリンの響きは煌びやかで美しく、青空に吹き抜けるような爽快感がある、と感じた。流石に「ダ・ヴィンチ」は期待通りの音を聞かせてくれた、と思った。だが、これは「ダ・ヴィンチ」と分かっていたからそのように感じた、ということかもしれない。もし先入観なしに利き音したら、ストラドと指摘できただろうか? ストラドがいい音と感知できるのではなく、ストラドと認識しているからいい音に感じるのである。これぞストラドだけが持つ偉大なる先入観。ブランド力なのだ。では、なぜストラドだけがかくなるブランド力を有するようになったのか。

(2) 誰がヴァイオリンを殺したか

 「誰がヴァイオリンを殺したか」(石井宏著 新潮社)。実に物騒なタイトルだが、これぞヴァイオリン音楽に関する名著である。タイトルから、現代のヴァイオリンはその本来の響きを失っている、という著者の嘆きが伝わってくるが、伝説のヴァイオリニスト ウジェーヌ・イザイ(1858−1931)が弾く「ユモレスク」から始まる物語は、ヴァイオリンという楽器の魔力を論理的考証によって的確に解き明かしてくれる。記述からストラディヴァリウスの神秘を読み取って、その不可思議な魅力と真実に迫ってみようと思う。

 いま、5億円のストラディヴァリウスと200万円の現代ヴァイオリンを、幕の向こうで一人の演奏家に交代で弾いてもらったとき、果たしてどれくらいの人がいい当てられるだろうか? おそらく、こんな実験は恐ろしくて試みることができないような実験であるに違いない。正直な話、ヴァイオリンのプロたちとても正確にはいい当てられず、間違える人が続出するかもしれない。クレモナの銘器(ストラディヴァリウスなど)とて、5億円と200万円のような極めて歴然とした音質の差があるわけではない、と著者は説く。現に、数年前アメリカで行われた「ストラディヴァリウスVS現代ヴァイオリンの聴き比べ」なる催しで、集まったその道のプロたちの正解率は2〜5割だったとか。かくなる私も、前月、テレ朝「芸能人格付けチェック」で、20億円のストラドと200万円のヴァイオリンを見事取り違えてしまった(耳が悪いんじゃ)。
 さらに著者は、日本人は「このヴァイオリンは“音がいい”」という表現をするが、西洋人はsonorityとかresponseというワードを使う。楽器が敏感に反応するか、よく鳴り響くか、という表現だ、と語る。個体としてのヴァイオリンは「鳴り」の差しかなく、音色は演奏者が作るモノという視点なのである。
 2013年にNHKで行われた実験によれば、ストラドと現代ヴァイオリンの差は指向性と出た。斜め上方への音の出方が突出しているのだ。これが、ストラドの音がホールの最後列まで届く秘密と結論していた。但しこれも音の強さの事。音色とは別物である。

 それではクレモナのヴァイオリンの値段とは一体なんの値段なのか。それは、ヴァイオリンの古い銘器たちは楽器ではなく「骨董品」、その値段なのだ、と著者は云う。

 骨董の価値を高めるには伝説が必要である・・・・・アントニオ・ストラディヴァリはその生涯で仕上げの決め手となるニスの調合を変えている。黄金期のそれは遅乾性のニス。乾燥が遅いため、塗っては乾かし塗っては乾かしの作業に長い日時を要した。この工程が黄金期の音を決めた大きな要因だ、という。ところがストラドの評判が上がり注文が増え始めると、迅速に仕上げる必要が生じ、速乾性のニスに変えざるを得なくなった。そこで、ストラディヴァリは古いニスの処方を廃棄してしまった。だから、もう黄金期と同じものは永久に作ることはできない。これが、ストラディヴァリウスの音の神秘を語る伝説の一つだ。

 これらの伝説を信仰にまで高めた者たち、それが英国人楽器商ヒル一族である。彼らは18世紀から20世紀にかけて、5代にわたり、ストラディヴァリウスを蒐集し修復し個々の特徴を的確に把握する。さらには、楽器個々の変遷の歴史を丹念に調べ、時には話を盛って、伝説として巧妙に嵌め込んでゆく。こうして、骨董としての効能書きcaptionを完璧に作り上げた。そして、ついには、クレモナの銘器に関する鑑定・修理・評価(値づけ)の世界最高にして唯一の権威となった。ストラディヴァリウス神話・信仰の完成である。そして今日に至るまでヒル一族の下した鑑定評価は絶対的なものとしてまかり通っている。

 ストラディヴァリウスの価値とはなんだろう? 黄金期に限って考えれば・・・・・まずは、史上最高のヴァイオリン製作者ストラディヴァリが、遅乾性ニスで仕上げをした銘器だということ。そしてそれが数百挺しか現存してないということ。これらは厳然たる事実であり、その稀少性は動かしがたい。これに付随するのが再現性である。材料もフォルムも決して真似ることは出来ず、特にニスについてはその処方が失われて再生は全く不可能である、と。

 では、本当に再現は不可能なのだろうか。まずはストラド独特の深紅色の遅乾性ニス。一滴の血液から特定部位のがん細胞が見つかる時代である。今の科学の力なら、ニスの成分分析など、いとも簡単にできるのではなかろうか。現に、2010年、ヨーロッパの研究チームによって、ストラドのニスは“当時使われていた一般的なニスだった”ことが判明している。次は材質。表面のスプルース&背面のメープルと同強度同硬度同材質の木材を選び出すのは確かに難しいかもしれない。ストラディヴァリが調達していたパナヴェッジョの森から切り出したとしても当時のモノではない。だが、現代の技術をもってすれば“同質に加工すること”はそれほど難しいこととは思えない。そして、CTスキャンでなら、真のストラドと寸分違わぬフォームを再現するのも困難ではないだろう。現に、世界中でストラド再現の試みがなされている。

 しかも、一方で、クレモナの楽器の中には衰えてきて響きの弱くなっているものも多いはず、と著者は云う。木材の材質疲労である。音が出ている間じゅうあの木製の胴は振動し続ける。たとえば、持ち主がプロ奏者ならば、一日数時間も音を出す。作られてから300年間余、銘器の胴は振動し続けているのである。木材には寿命がある。どんなに硬くて強い木でも振動に対する耐性が限界に近づく(越えている)と想像がつくのである。だから、もしかしたら、現代科学の力を駆使して再現したストラドの方が本物のストラドよりも“よく鳴る”可能性があるのでは?

 だがしかし、こんな素人の妄想をあざ笑うかのように、ストラディヴァリウスは高騰を続ける。それは、ストラドだけが別格だからだ。300年ほど前、刺激と活気の街クレモナで、ストラディヴァリという類まれなる天才職人が、試行錯誤を重ね精魂傾けて作り上げた品々は、比肩するものなき絶対の存在として現代に君臨している。今日の試みは、再現であって超越ではない。取り組む者たちの心中には、「追い越したい」ではなく「追いつきたい」との願望しかない。盗むのではなく真似るに止まっている。だから、いつまでたってもホンモノを超えられない。ホンモノには敵わない。この事実こそが「ストラディヴァリウスの奇跡」なのではないだろうか。

 2002年初版の「誰がヴァイオリンを殺したか」に記されたストラドの値段は5億円だった。現在は15−20億円が相場のようだ。十数年でなんと3〜4倍。ストラディヴァリウス・バブルはいつまで続くのだろうか。

<参考資料>

「誰がヴァイオリンを殺したか」石井宏著 (新潮社)
「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集」CD(CAMERATA)
    中澤きみ子(Vn)フィリップ・アントルモン指揮:ウィーン室内管弦楽団
「至高のヴァイオリン〜ストラディヴァリウスの謎」NHK-BS 2013年1月OA
 2018.09.30 (日)  さらばFMえどがわ
 9月20日、約2年間やらせていただいたFMえどがわ「りんりんクラシック」を終えた。自分としては甚だ残念だが、「明日へ・・・笑顔りんりん」なる番組が終わるのだから仕方がない。
 FMえどがわはコミュニティFMである。9月23日付朝日新聞によると、最近はコミュニティFMの開局が増えているそうだ。2011年の大震災以来、情報発信源として自治体が開局を促す意向が強まったからとも。そんな中にあって、FMえどがわは開局21年の老舗なのだ。

 私の友人にかのランキング誌の草分け「オリコン」創業時のメンバーN氏がいて、彼の友人にFMえどがわのI氏がいた。元放送制作会社のI氏がEMえどがわに転職したのが一昨年2月。「なにかいい企画はないかしら?」とN氏に相談があり、クラシック番組はどうかと、私にお鉢が回ってきたのである。
 それからあれこれ詰めて、「身近な題材からクラシック音楽につなげる」をコンセプトに、「明日へ・・・笑顔りんりん」という3時間の生番組の一コーナーとして、「りんりんクラシック」が始まった。放送は毎月第3木曜日の夕方5時からの30分間。相方はパーソナリティーの奈良禎子さん。私の通称はなんとなく“下町のクラシックおじさん”に決まる。

 第1回OAは2016年9月15日。演題は「男はつらいよ」クラシック。寅さんの舞台葛飾柴又は江戸川区の隣にして放送エリア内。主演の渥美清が亡くなったのが1996年8月4日で没後20年。山田洋次監督はクラシックに造詣が深く、映画の中にはクラシック音楽がふんだんに出てくる。地元のレジェンドにして全国区の寅さん「男はつらいよ」をクラシック音楽に繋げる構成は「りんクラ」コンセプトに大合致。スタートはこれしかなかった。

 48作の中から選んだのは第11作「寅次郎忘れな草」(1973年8月4日公開)。マドンナは浅丘ルリ子扮するドサ周り歌手のリリー松岡。懐かしい昭和のヒット曲がふんだんに登場する。美空ひばり「越後獅子の唄」1951、平野愛子「港が見える丘」1947、山口淑子「夜来香」1950。これら3曲は、リリーが口ずさんだり安キャバレーで歌う曲目だ。二人の出会いは北海道網走。「私たちの生活ってあぶくみたいなもんだわね」と言うリリーに「うん、あぶくだよ。それも上等なもんじゃねえよな・・・・・」と応える寅次郎。互いの中に同質性を見出した二人はまるで恋人ムード。これ、他のマドンナとはない空気感。共演回数が最多の4回というのも頷ける。ただ、マイ・ベストは第17作太地喜和子マドンナの「寅次郎夕焼け小焼け」(1976年7月24日公開)。宇野重吉と寅さんのやり取りが絶妙で、ショパンの「華麗なる大円舞曲」が使われている。これは母も好きだったが、また別の話だ。
 「忘れな草」に挿入のクラシックは、北海道の原野を逍遥する寅さんのBGMとして流れるリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」第3楽章「若き王子と王女」と妹・さくらが農場で倒れた寅さんを迎えに行く列車がサロマ湖付近を走るあたりで被さるJ.S.バッハ「G線上のアリア」の二曲。特に「シェエラザード」の優美でロマンチックなメロディーは夏の北海道の大自然によく似合う。

 11月24日はオペラの日。そこでオペラに因んだ題材を探していたら、ピコ太郎の「PPAP」にぶち当たった。“ペンパイナップルアポーペン”の胆はパ行の音のつながり。結び付いたのはモーツァルトの歌劇「魔笛」の「パ、パ、パ」の二重唱。これは、鳥刺しパパゲーノと恋人パパゲーナのデュエット・ソングで、歌の前段全てが「パ」だけで出来ている。1791年の秋に初演された「魔笛」を見たウィーンの観客は、こぞって「パ、パ、パ」と歌いまくったそうな。ピコ太郎の元祖はモーツァルトか!? この他にもパ行ヒット曲は「踊るポンポコリン」、「うちの女房にゃ髭がある」などがある。でもこれ、アイディア倒れで受けなかった。

 2017年2月16日は、音楽コンクールを題材にして直木賞と本屋大賞をW受賞した恩田陸「蜜蜂と遠雷」を取り上げた。決勝まで残った4人のコンペティター、風間塵、栄伝亜夜、高島明石、マサル・アナトールが夫々弾いた曲を掛けながら小説の全容を30分でまとめた。これはまさに直球の題材。放送のタイミングは、直木賞受賞の直後にして本屋大賞受賞前と絶好だった。

 12月21日は「りんクラ的X’masクラシック」。レオナルド・ダ・ヴィンチの「サルバトール・ムンディ」からヘンデルのオラトリオ「メサイア」の「ハレルヤ・コーラス」に繋げる。「サルバトール・ムンディ」がダ・ヴィンチの真作ということが確定して、史上最高価508億円が付いたとのニュースが流れたのは11月中旬。ややあって、落札者はUAEのルーヴル・アブダビと判明したが。
 この絵画と「ハレルヤ・コーラス」は容易に直結。サルバトール・ムンディSalvator Mundiはイタリア語で“世界の救世主”の意味。メサイアMessiahはラテン語で“救世主”のこと。ヘンデルの「メサイア」の中では合唱曲「ハレルヤ・コーラス」が群を抜いて有名だ。508億円が高いかどうか? 絵画素人の私は分らないが。

 2018年のスタートは1月18日。戌年繋がりで「子犬のワルツ」を、初夢からドビュッシー「夢」を、新年の風物詩ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートから「ラデツキー行進曲」を選曲。明るく爽やかにスタートを切った。番組のオープニングはドリーブ「スワニルダのワルツ」にしているが、この後は変則オープニングを多用した。この方が一曲余計に掛けられるからだ。

 2月15日はボロディン「ダッタン人の踊り」でのオープニング。この曲、前回の冬季五輪ソチ大会の開会式で使われており、ここから今年の平昌五輪へと繋げる。ワルトトイフェルの「スケータズ・ワルツ」は女子スピードスケート500mの小平奈緒、プッチーニ「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」は男子フィギュアの羽生結弦と宇野昌磨への応援曲として選曲。結果、翌16日には小平が金、17日には羽生が金、宇野が銀メダルを獲得。効果は抜群だった!?

 5月は尾崎紀世彦「五月のバラ」がオープニング。バラに因んでヨハン・シュトラウスUのワルツ「南国のばら」、五月に因んでメンデルスゾーンの無言歌集から「五月のそよ風」を選曲。「南国のばら」はシューリヒト&ウィーン・フィル(1963年録音)の演奏を選んだが、ウィーン・フィルの音色にシューリヒトが絶妙の味付けをしているまさに名人芸。録音現場に居合わせた指揮者岩城宏之の「神だ!」の叫びもエピソードとして紹介した。

 演奏にもそれなりに拘った。前述シューリヒトの「南国のばら」を始め、ベルリオーズ「幻想交響曲」第4楽章「断頭台への行進」はバーンスタイン&ニューヨーク・フィルハーモニック(1963年録音)、ヴィヴァルディの「四季」はアーヨ&イ・ムジチ合奏団(1959)、ドヴォルザークの「新世界より」はクーベリック&ベルリン・フィル(1972)、スメタナ「モルダウ」はクーベリック&チェコ・フィル サントリーホール・ライブ(1991)、ホルスト「惑星」はボールト&ニュー・フィルハーモニア管(1966)、シューベルトの「野ばら」はバーバラ・ボニーのソプラノ(1994)等々。

 6月21日はグリンカ「ルスランとリュドミラ」序曲でオープン。このムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの演奏(1965ライブ)は凄いの一語。人類が到達した最高度のアンサンブルである。この回は、開催中のロシア・ワールドカップに因んでロシア音楽特集とした。プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」から「モンタギュー家とキャプレット家」、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、ショスタコーヴィチの「ジャズ・ワルツ第2番」など、ユニークな名曲で固めた。無論西野ジャパンへの応援も忘れずに行う。予選リーグ突破は天晴れだった!

 7月は「ウルトラマンの歌」で意表を突くスタートを切る。こころは“変身”クラシック。クラシックと変身楽曲との対比を楽しんでいただいた。ベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」第2楽章→ビリー・ジョエル「今宵はフォーエバー」、ペツォールトのメヌエット→サラ・ヴォーンの「ラバーズ・コンチェルト」、ホルストの組曲「惑星」から「木星」→平原綾香「ジュピター」の3曲。これは内輪ウケした企画だった。

 とまあ、そんなこんなで積み重ねた回数が34回。使用楽曲は96曲。作曲家別ベストを集計したら、第1位はモーツァルト(8曲)、第2位がベートーヴェン、ヨハン・シュトラウス、チャイコフスキー(各5曲)、第5位がショパン(4曲)だった。やっぱり私のナンバー1はモーツァルトなんだと改めて認識した次第。

 2年間の「りんクラ」は実に勉強になった。多数でなくても不特定な方々へ発信するために、あやふやな知識はあれこれ調べてキチっと修正した。使いたい音源を所持してないときは躊躇せずに購入した。なので、出演料かつかつは毎度のこと。帰りに両国あたりで一杯引っかけた日には持ち出しは必至となった。だが、そんなことはお構いなし。天から何かが舞い降りて、身近な事象と音楽がうまく結び付いたときの高揚感は何物にも代えがたかった。そして、8月16日のバーンスタイン生誕100年の回が、母が亡くなった日と重なったことを付け加えておく。母は「あんた薄情ね!」とは言わないだろう。「りんクラ」に携わることをことのほか喜んでいたのだから。

 最後に、私をこの番組に導いてくれたN氏とI氏、喋りド素人の私を優しくリードしてくれた奈良禎子さん、ディレクターのO君と彼から引き継いで台本のグレードアップを図ってくれたNoririn、レアな音源を快く貸してくれたH教授、いつも熱心に聞いてくださったF社長、そして静かに応援してくれた亡き母に、心から感謝を申し上げます。 
 2018.08.31 (金)  わが母を偲んで
 2018年8月16日、母が旅立った。享年97歳。不思議なことに、この日は母の父・私の祖父である岡村助太郎じいさんの命日だった。祖父は、お盆でコチラに戻ってきていたわけだから、送り盆のこの日「芳子行くぞ!」と言いながら連れ去ってしまったのだろう。
 1947年4月、私の父・早石が亡くなってすぐ、祖父は私たち母子が住む新潟に出向き、「芳子行くぞ!」と自らが住む長野に連れ帰った。71年後歴史が繰り返されたのか!?

 6月15日早朝、母が嘔吐したので念のため近所の掛かりつけの病院に行く。前日まで、天丼やら私の作ったカレーやらを食べていたから、食当たりか胸やけだろうと軽く考えていたが、なんと即入院、余命数か月の宣告を受けた。
 昨年秋、妹の久子おばさんが亡くなってから急に元気がなくなったのは事実だが、それでも身の回りのことはすべて自分で行う生活ペースが変わることなく続いており、2月21日の誕生日の折など「まずは100歳を目指そうね」と祝ったものだから、それを聞いたときのショックは計り知れないものがあった。

 お医者さまに、「岡村さんなら大丈夫」と云われて4時間の手術に耐えた。強い気持ちで必死に生きようとした。だがしかし、思いのほか病の進行が早く、入院から二か月で帰らぬ人となった。本当にあっという間の時間であった。人間の最期というのは人それぞれだろうが、母の場合は、痛みも苦しみもそれほど訴えることなく、周りに世話をかけずに、まるで一陣の風が吹き去るように、スマートに旅立って行った。

 母は自分の事より人様が喜ぶことを優先する人だった。亡くなる間際まで興じた親族恒例サッカー・ワールドカップ優勝国当てくじへの賞金付加とか、年末年始のじゃんけん大会、あみだくじ、UNO大会などへの賞金提供など、みんなが喜ぶ顔をいつも楽しんでいた。
 一昨年、永六輔さんが亡くなった時、彼の言葉を聞いて私にこう言った。「あっちゃん、人間は二度死ぬんだってね。一度は肉体が死んだとき、二度目はみんなに忘れられたとき。私は忘れられないでいられるかな」と。私は「たっちゃんはみんなにいい思い出をたくさん残してるのだから、いつまでも忘れられることはないさ」と返した。まるで昨日のことのように思い起こされる。

 「たっちゃん」というのは、従妹の真理子が幼児のころに付けた母の愛称だ。地方企業で経理を任されていた母が、家に帰っても算盤片手に夜なべをしているのを見た従妹が、「いつもひとっちゅふたっちゅやってるね」と言ったことからついたもの。60年ほど昔の話である。以来親族はみんな母を「たっちゃん」と呼ぶようになる。母はこの愛称が大のお気に入りで、最近は曾孫がそう呼ぶのを聞いて、「RayちゃんもYouくんも“たっちゃん”だね。この歳まで、だれも私を“おばあちゃん”と呼ばなかったよ」とご満悦だった。

 小学4年生になった時、「なにか習い事をしなさい。お習字とピアノ、どっちがいいの?」と訊かれた私は、即座に「習字」と答えた。当時ピアノは女の子の専売特許と思っていたからだ。「そうなの」と一旦受けた母だったが、数日後、「やっぱりピアノにしなさい。先生決めちゃったから」。なら、なんで訊いたのよ なのだが、従うしかない。当時から私は素直だったのだ。同時に、ベートーヴェン「月光」ソナタとショパン「幻想即興曲」の2枚組SPを買い与えられた。ピアノはイグナツィ・ヤン・パデレフスキー(1860−1941)。「この人、ポーランドの首相だったんだよ」と母に教えられた。この2曲、戦時中から家にあった蓄音器で盤が擦り切れるほど聴いたものである。
 その後、時代はLP〜ステレオと移行するが、それに伴い私のハードも免税プレーヤー〜ステレオ装置へと進展。ここでも母の財力の世話になった。もし、あのとき「ピアノ」を押し付けてくれなかったら、私のクラシック音楽への興味は喚起されなかったかもしれない。これは母への最大級の感謝である。

 今夏、母の入院中によく聴いた曲がある。ブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調」である。特に第2楽章のAdagio。なんともいえず優しい曲想なのだ。それでいて品格がある。プレッシャーのきつい毎日、鼓舞される音楽よりも癒される音楽が欲しかったのだろう。
 お気に入り曲にはMy Best演奏を選び出すのが我が常套。ハイフェッツ/カペル、シゲティ/ホルショフスキー、シェリング/ルービンシュタイン、ヌヴー兄妹、スーク/パネンカ、グリュミオー/シェベック、フェラス/バルビゼ、チョン/フランキ、モルドコヴィチ/オピッツ、ムローヴァ/アンデルシェフスキーなど十数枚の手持ちCDの中からMy Bestに選定したのは、ナタン・ミルシテインのヴァイオリンとウラディミール・ホロヴィッツのピアノによる1950年録音のモノラル盤だ。
 主要主題の品位ある優しさはいうまでもないが、特筆すべきは22小節目。他の奏者が総じて強奏する中、ミルシテイン&ホロヴィッツのコンビは抑制された優雅さを醸し出す。優しさの底に精神の靭さが潜む。

 ナタン・ミルシテイン、1903年現ウクライナのオデッサ生まれ。ウラディミール・ホロヴィッツ、1903年ウクライナのキエフ生まれ。ミルシテインはホロヴィッツのことを「彼とは70年来の友人で、自分は他の誰よりも彼のことを知っているはずだ」と著書「ロシアから西欧へ」で述べている。一方、ホロヴィッツは著作「ホロヴィッツの夕べ」の中で「1921年末にミルスタインと会った。彼とは生涯の友人になり一緒にデュオのリサイタルを開く貴重な仲間となった」と述べている。その後、1925年、二人は連れ立ってアメリカに亡命する。まさに戦友である。二人は生涯にわたり夥しい数のライブを共演している。なのに、レコードはこのブラームスの「ソナタ 第3番」のみ。実に不思議で残念な話である。80年代にミルシテインが「ヴォロージャ(ホロヴィッツの愛称)、もう僕らは若くない。だからもう少し内容のある提示をしようよ」と、フランクと「クロイツェル」のレコーディングを提案したという。が、結局調整がつかずこの企画は幻に終わったそうだ。
 ミルシテインはまた、「ロシアから西欧へ」の中で、「ブラームスの室内楽は好きではないが、ヴァイオリン・ソナタは全くの例外だ。そして特に第1番ト長調の第1楽章が好きだ」と述べている。が、私はこれを言い換えたい。「ミルシテインさん、大好きな第1番ではなく、第3番をレコーディングしてくれてありがとう。これほど素晴らしい第2楽章は他にありません。まさに神がかり的な名演です」と。

 母の入院中に癒された曲がもう一つある。ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110」である。この曲はフーガを取り入れた第3楽章が特に有名だが、何といっても凄いのは第1楽章だ。冒頭の第1主題の高貴なる優しさ。この主題を転調を伴いながら8回繰り返すだけのシンプルな展開部の様相。これぞ、ソナタ形式を極限まで追い詰めた“形式の革命児”ベートーヴェン天才の証である。
 My Bestはポリーニ(1977年録音)。究極の形式の中に高貴な優しさを湛えたピアニズムの極致!である。このころのポリーニは本当に素晴らしい。

 “たっちゃん”芳子母は人に優しく強く前向きに生きた。上記二曲に通じる人生だったと思う。

   <参考文献>

   「ロシアから西欧へ ミルスタイン回想録」
      ナタン・ミルスタイン、ソロモン・ヴォルコフ共著、青村茂&上田京訳(春秋社)
   「ホロヴィッツの夕べ」デヴィッド・デュバル著、小藤隆志訳(青土社)
 2018.05.25 (金)  エジソンを凌駕した知られざる偉人2〜エミール・ベルリナー
 トーマス・エジソン(1847−1931)が、音を記録・再生する“フォノグラフ”を完成したのは1877年12月5日。ここからオーディオの歴史が始まった・・・・・とまあ、我々の常識はこうである。ところが、彼に先んじた人間がいたようだ。フランスの詩人で発明家のシャルル・クロス(1842−1888)である。クロスは考案した機器の仕様書類を厳封して、1877年4月30日にフランスの科学アカデミーに預ける。12月5日、エジソンの発表を聞いたアカデミーが開封すると、驚くなかれ、そこにはエジソン以上に本格的な蓄音機の仕様書が眠っていたのである。エジソンに先んずること7か月。しかしながら、クロスには実験の資金がなく試作品もできなかったために着想に止まらざるを得なかったというわけだ。フランスは彼の功績を評価し、1948年制定のACCディスク大賞にその名を留めた。ACCとはAcademie Charle Crosの頭文字である。

 エジソンの“フォノグラフ”は、錫箔を塗った円筒に録音する所謂シリンダー方式。機器を前にしたエジソンは「メリーさんの羊 Mary has a little lamb」を吹き込む。これが世界初の録音とされる。発明王エジソンは同時に有能な実業家でもあった。“フォノグラフ”を直ちに特許申請し、商品化を行う会社「エジソン・スピーキング・フォノグラフ」を設立する。こうして世に出た“フォノグラフ”だったが、エジソンの意に反してサッパリ売れなかった。録音・再生における針と音溝との接触が完全でないと十分な音量が得られない。音が全く出ないケースも生じるほど。要するに商品としての完成度が未熟だったのだ。

 電話を発明したアレキサンダー・グラハム・ベルのヴォルタ研究所の技師チチェスター・ベルとチャールズ・ティンターはフォノグラフの改良に着手。改良点は、錫箔シリンダーをワックス・コーティングに、ハンドクランク駆動をゼンマイ乃至モーターに変換し、振動膜と針との固定にルーズ・カップリングを導入したこと。これにより針の追随性が向上し録音・再生ムラが大幅に改善された。ベル=ティンターは、1885年、これを“グラフォフォン”と名付け、エジソンに事業提携を持ちかけるも決裂。以後、両者は蓄音器の覇権を巡るライバルとなった。本家の意地があるエジソンは、シリンダーをソリッド・ワックスに変換するなど改良に励む。1890年代には、ジャンニ・ベッティーニが登場。針にスバイダー方式を導入するなど音質を画期的に向上させる。これら一連の流れの中、シリンダー式蓄音器の性能は飛躍的に向上し、業界はシリンダー全盛時代を迎えることになる。

 シリンダー方式でなされた録音には、エジソンの声をはじめ、ブラームスの「ハンガリー舞曲 第1番」の自作自演、大ピアニスト ヨーゼフ・ホフマン少年時代のピアノ演奏、フローレンス・ナイチンゲールの声、イヴェット・ギルベールのシャンソン、名ソプラノ ネリー・メルバの歌などがある。

 さて、いよいよベルリナーの登場である。彼こそが、エジソンのシリンダー式蓄音器をコペルニクス的転換で覆し、レコードの未来を切り拓いた改革者・功労者である。

 エミール・ベルリナー(1851−1929)は、1851年、ドイツはハノーヴァーに住むユダヤ系商人で学者の家庭に生を受けた。学校教育は14歳まで、その後は家の商売を手伝うが、1870年、普仏戦争が勃発すると、一家はアメリカに移住した。エレクトロニクスに興味を持ったベルリナーは、ニューヨークの私大クーパー・ユニオンで物理学と電気工学を学ぶ。彼の努力はベルの電話器の改良案の特許取得という形で実を結ぶ。ベルはこれを買い取るとともにベルリナーをヴォルタ研究所に採用した。時期的に、先輩であるベル=ティンターの蓄音器改良に携わったはず。ならば、既にこの時点でエジソンとの対決の萌芽があったことになり、これも奇しき因縁である。

 ベルリナーが、水平回転ディスク方式“グラモフォン”を構想したきっかけは、1883年、 スミソニアン博物館で見た“フォノートグラフ”だった。1857年、フランス人技師レオン・スコットが考案した機器。樽状の箱で受けた音を、ススを添付した紙を引き裂いて音の波形を記録するというもの。後に紙は回転するドラム状の筒に巻かれ、更に水平なガラス上に記録するようになった。回転ドラムはエジソンの“フォノグラフ”の先駆となり、水平ガラスはベルリナーの“グラモフォン”の発想につながった。同じ対象から正反対の機器が生まれる。科学の面白さか。
 “フォノートグラフ”は当時音を可視化はしたが、音そのものの再生は出来なかった。それが、2008年、近年の技術により音として再生された。これが人類最古の録音とされる。

 “フォノートグラフ”からヒントを得たベルリナーは、水平回転方式による蓄音器開発に没頭、1884年、ベル社を去り独立を果たす。そして、1887年、遂に完成(特許申請は9月26日)。水平回転ディスク方式“グラモフォン”の誕生である。ベルリナーは、記念すべき第一声として、「きらきら星 Twinkle, twinkle little star」を朗読した。この肉声も現在試聴可能である。

 エジソンの“フォノグラフ”とベルリナーの“グラモフォン”との差異は、原理・形態面では、垂直型と水平型であるが、機能面では複製の量産の可否ということになる。“フォノグラフ”の円筒が困難なのに対し、“グラモフォン”のディスクは容易。これが、“グラモフォン”が勝利した最大の要因である。
 現代のレコード製造工程は・・・・・音を刻んだ円盤である「ラッカー盤」凹→銀・ニッケルメッキを施した「メタル・マスター」凸→銅メッキを施した「マザー」凹→ニッケル・クロームメッキを施した「スタンパー」凸。スタンパーで塩化ビニールのディスクをプレス、ディスク凹の完成。スタンパーの音溝が摩耗したらマザーに戻る。場合によってはメタル・マスターにまで。保存も量産も容易。ベルリナーの“グラモフォン”は当初からこの機能を備えていたのである。

 ベルリナーは、1895年、フィラデルフィアに「ベルリナー・グラモフォン社」を設立。蓄音器業界はまだエジソン・シリンダー方式の時代。後発の“グラモフォン”は苦戦の船出だったが、徐々に改良を加え、エジソンの牙城に迫ってゆく。そして遂には覇者となるのだが、これはベルリナー一人の力によるものではない。レコード黎明期に大きな足跡を残した二人の同士を忘れるわけにはいかない。

 一人目はエルドリッジ・ジョンソン(1867−1945)である。ジョンソンはニュージャージー州キャムデン出身の機械技師。彼の作るゼンマイが高性能だったため、ベルリナーは“グラモフォン”に採用した。1900年までの5年間で納入したゼンマイは25.000個に達した。しかし、このころ、ベルリナー・グラモフォン社にとんでもない問題が持ち上がる。営業を担当していたシーマンという男が、サウンドボックス部の特許に関し、訴訟を起こしたのである。これを受けて立ったのがジョンソンだった。結果は勝訴、但し“グラモフォン”という名前は使用しないという条件がつく。これら一連の流れの中、ジョンソンはベルリナーの共同経営者となり、故郷のキャムデンに本社・工場を移し「ビクター・トーキングマシン社」を発足させた。1901年のことである。

 二人目はフレッド・ガイスバーグ(1873−1951)である。ガイスバーグはドイツ系アメリカ人。ベルリナーとは1891年に出会い録音技師を務めた。1897年、ベルリナーが英国グラモフォン社を設立すると、即、ロンドンに赴任。目的はレコーディング。根っからの音楽人間だったガイスバーグは水を得た魚。ヨーロッパ中を駆け巡り、録音活動に邁進する。 1898年8月2日、宿泊ホテルの近くのパブで働くアマチュア女性歌手からスタートしたガイスバーグの録音。この一滴がやがて大河となり膨大な音楽の記録が遺される。そんなアーティストの一端を列記しておこう。

<鍵盤楽器奏者>
エドゥアルド・グリーグ、セルゲイ・ラフマニノフ、アルバート・シュヴァイツァー、ウラディミール・ド・パハマン、ヨーゼフ・ホフマン、イグナッツ・ヤン・パデレフスキー、アルトゥール・シュナーベル、ウィルヘルム・バックハウス、アルフレッド・コルトー、アウトゥール・ルービンシュタイン、マルグリット・ロン、ウラディミール・ホロヴィッツ、ワンダ・ランドフスカ

<弦楽器奏者>
パブロ・デ・サラサーテ、ヨーゼフ・ヨアヒム、フリッツ・クライスラー、ヤン・クーベリック、ミッシャ・エルマン、ヤッシャ・ハイフェッツ、ヨーゼフ・シゲティ、ジャック・ティボー、パブロ・カザルス

<歌手>
エンリコ・カルーソー、ティト・スキーパ、ベニャミーノ・ジーリ、ヒョードル・シャリアピン、ゲルハルト・ヒュッシュ、シュルル・パンゼラ、ネリー・メルバ、ジェラルディン・ファーラー、ロッテ・レーマン、エリザベート・シューマン

<指揮者>
アルトゥーロ・トスカニーニ、ウィルヘルム・フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、 ウィレム・メンゲルベルク、フェリックス・ワインガルトナー、レオポルド・ストコフスキー

 20世紀の演奏史を飾る錚々たる演奏家たちである。これらの音は赤盤として健在、大半は復刻CDで聴くことができる。レコーディング・プロデューサーのパイオニア フレッド・ガイスバーグの足跡は、後輩のウォルター・レッグ(EMI)に受け継がれ、カタログは充実の一途を辿った。

 1897年創立の英グラモフォン社は、1931年、英コロンビア社と合併しEMIに、1901年創立のビクター・トーキングマシン社は、1929年、ラジオ局RCAに買収されRCAビクターに。 シリンダー型蓄音器の販売会社米コロムビア社は1888年、コロムビア・フォノグラフを設立。1906年、コロムビア・グラフォフォン社。1938年、CBSコロムビアとなる。
 1898年設立のハノーヴァーのベルリナー・グラモフォン社の本社&工場は、クラシック専門レーベル、ドイツ・グラモフォン社となる。

 蓄音器のフォーマット競争に勝利したベルリナーは、レコード音楽産業の礎を築いた。エジソンの残り香は辛うじてコロムビア・レコードに母体として残るのみだ。果たしてこの差は何だったのか?
 無論、最大の差はフォーマットである。だが、見逃してならない観点は、二人の音楽への思い入れの差ではなかろうか。確かに、エジソンの“フォノグラフ”にも、ブラームスやホフマンなど、偉大な音楽の録音がある。だがこれは、アーティストからの強い要望によるものだ。それに対し、ベルリナーは、会社設立の二年後には音楽先進国に支社を設立し、有能な部下を派遣し自主的・積極的に本場の音楽を録音させる体制をとった。これぞ、ハードとソフトの両輪により、レコーディング音楽を世に広めることを企図していた証ではないか。複製の大量生産を可能にする水平ディスク方式は、ベルリナーの理念と固く結びついていたのである。

 ベルリナーの“グラモフォン”は、誕生時のSPレコード〜1948年LPレコード〜1958年ステレオ・レコードと進化、1982年主役をCDに譲るまで、音溝が刻まれたディスクを水平に回しカートリッジで音を拾うという基本機能を変えないまま、レコードの主流であり続けた。エジソンを凌駕したエミール・ベルリナーの知名度はもっともっと上がってしかるべきである。

 かくなる私は、レコード音楽産業に従事し約半世紀の間サラリーマン生活を送ってきた。そして、今もまだ音楽を随一の趣味として、まあ、充実した人生を送っている。ベルリナーのお陰である。携わったレーベルRCAビクターは、CBSコロムビアと米国を二分する大レーベル。その二つのレーベルは、今や、ソニーBMGとして合一されている。いやはや、時代は変わる!
<参考文献>

 レコードの世界史 岡俊雄著(音楽之友社)
 赤盤伝説CDセット(BMGジャパンファミリークラブ制作)
 音でたどるオーディオの世紀(社団法人日本オーディオ協会刊)
 2018.04.25 (水)  エジソンを凌駕した知られざる偉人1〜ニコラ・テスラ
 生物学者・福岡伸一氏が朝日新聞に連載中の「動的平衡」は無類の面白さである。生物学を基点にして、絵画、哲学、数学、スポーツ、映画、歴史etcと話は多岐に広がる。
 最高に興味を惹かれたものの一つに、2016年8月4日のアルド・マヌーツィオに関する記載があった。ルネサンス3大発明の一つ活版印刷の祖グーテンベルクは有名だが、アルドは、印刷文化の始祖だとか。小型化と各種フォントの開発、レイアウトの標準化を図り誰もが持ち歩ける本を実現した。これぞ書物史における革命。彼なくしては今日の書籍文化は語れない。しかるに、グーテンベルクは誰もが知っているが、アルド・マヌーツィオを知る人は少ない。かくいう私も初めて聞く名前だった。歴史上、有名な人物の陰に隠れているが、その人と同じ、否むしろその人以上の偉業を成し遂げた人間は確かに存在する。
 今回は、知らぬ者なき発明王エジソン(1847−1943)を凌駕した知られざる偉人の一人、ニコラ・テスラにスポットを当てる。

 ニコラ・テスラ(1856−1943)はクロアチア生まれのセルビア人。幼少期から青年期にかけて後にエジソンを超える元となった原体験が二つある。一つは4歳のとき自作して近くの小川で回した水車。「いつかアメリカに行って、ナイアガラ瀑布を利用して力を作る」という夢を育む。もう一つはグラーツ工科大学で観察した直流電気機械の整流子から発する大きな火花。整流子不要を直観し、これを介さない「二層交流モーター」を発明。テスラ生涯の夢「交流システム実用化」の萌芽となった。

 1884年、28歳の夏、テスラはこの夢を引っ提げて新天地アメリカに渡る。エジソンへの紹介状を手に。テスラとエジソン。発明史に輝く二人はこうして運命の出会いを果たした。
 このころのエジソンは生涯の絶頂期。蓄音機、炭素顆粒送話器、白熱電球を次々に発明。電源供給のための電力事業にも乗り出していた。電力方式は直流。エジソンが直流を選んだのは、当時、交流による火災や関電事故が多発していたから。技術が未熟だったのだ。

 そんな折、エジソンの門を叩いたテスラは直ちに採用される。直流方式を推進するエジソンに、テスラは交流の優位を説く。耳を貸さないエジソン。決裂は時間の問題か?
 とはいえ、確信する「交流システム」ではあったが、一人で実現できるはずがない。ならば、ここに腰を落ち着け、時間をかけてエジソンを説得するしかないと考えた。エジソンは最新の蒸気船に装備された直流発電機が故障すると、テスラに修理を命じる。テスラは迅速に原因を突き止め、徹夜で作業に当たり、一日で修理を完成させた。テスラのスキルを認めたエジソンは、様々な機械の設計を彼に任せるようになる。やりがいを感じたテスラは仕事に没頭、大きな成果を上げた。
 ある時、開発中の直流発電機の問題点に気づいたテスラは、改良策を提案。エジソンは受け入れ、完成したら5万ドルのボーナスを約束する。数か月後、テスラ完成、約束通りのボーナスを要求。ところがエジソンの反応は想定外。「なんと真に受けたのか。君はアメリカ流のユーモアというものがわからないのかね」。テスラキレる。辞職。

 二人の決別には、「直流」「交流」というフォーマットの違いもあるが、その他の要因も見逃せない。エジソンの師は母。正規の教育は受けていない。テスラは工科大学で数学や物理学の基礎を叩きこんでいる。基盤の差は歴然。エジソンの礎は「努力」。「天才は99%の汗と1%のインスピレーション」に代表されるように、地道に実験・経験を積み重ねて結論を導くタイプ。テスラは、直観を重んじ、具体的な作業に入る前には頭の中に未来予想図が描かれているタイプ。エジソンを皮肉った「天才とは99%の努力を無にする1%の閃きのことである」は有名な台詞。性格的にも実務家肌のリアリストVS夢想家肌のロマンティスト。テスラはこうも云う。「エジソンが干し草の山の中から針を見つけようとしたら、蜂の勤勉さをもって藁を一本一本調べ針を見つけるまでやり続けるだろう。わたしは、理論と計算でその労力を90%節約できるはずだとわかっている悲しい目撃者である」。基礎能力もタイプも性格も違う。テスラがエジソンと袂を分かったのは必然である。

 エジソンのもとを去ったテスラに資本の手を差し伸べたのはウェスティング電気会社だった。社が既に採用していた単相交流システムとテスラの多層システムが結び付き飛躍的な進化を遂げる。これにより、大規模発電と高電圧送電が可能となって、電力供給の効率化が図られた。一方、直流方式は、送電ロスが著しく、送電距離はせいぜい2〜3Km。このため安定した電力供給を行うには、夥しい数の発電所が必要という構造的弱点を抱えたままであった。

 あくまで直流システムに拘るエジソンのGE社に引導を渡したのは、1893年、シカゴで開催された万国博覧会だった。
 数々の交流機械、高周波装置、放電照明等の発明品の展示、そして、極めつけはスペクタクルな放電実験だった。エジソンはフォノグラフ(蓄音機)キネトスコープ(映画)などで対抗するが、劣勢は否めなかった。まさにこの博覧会こそ交流電気の勝利を世界に告げる一大イヴェントとなったのである。

 博覧会後、テスラは高周波高電圧の変圧器を考案。代名詞となった共振変圧器「テスラコイル」である。これによる照明装置は、エジソンの白熱電球を凌駕して、現代のネオンサインや蛍光灯の先駆けとなった。

 同年、ナイアガラ開発会社が、滝による水力発電実用化への入札を図ると、応募したのは2社。テスラのウェスティング社とエジソンのGEだったが、驚くことにガチガチの直流派だったGEが交流に鞍替えしていた。結果、発電はウェスティング、送電はGEを選定。テスラの交流システムの勝利となった。「ナイアガラ瀑布に交流電力システムを構築する」というテスラ少年時代の夢が遂に実現したのである。

 ここで、日本の電力事業を見ておこう。起点は1883年発足の東京電力の前身・東京電灯会社。当初はエジソンの直流方式を進めていた。キーマンは二人、岩垂邦彦と藤岡市助。岩垂は交流の優位を見抜いて藤岡に進言するも、藤岡はあくまで直流に拘り、結果、岩垂退社。関西に出向き大阪電灯会社を設立。テスラの交流システムを推進した。これが60Hz方式。一方、藤岡の東京電灯会社は、遅ればせながら交流の優位を認知、選んだのはドイツAEG社のシステムで、これが50Hz。かくして日本には50/60併存が生じたのである。境目は長野県。長野が60で東京は50。長野県出身の私は、高校時代までは60のレコード・プレーヤーを、大学からは50を使った。まあ、別段不便はなかったけれど。

 電力フォーマット戦争に勝利したテスラは、「世界システム」の構築に向かう。1901年「センチュリー」誌に掲載された論文こそ、20世紀の幕開けを告げる記念碑的論文となった。そこには、無線による電力の送電と情報伝達のシステム、すなわち、無線電信、ラジオ放送、写真電送、ファクシミリなどの技術が説かれていた。さらに石炭の枯渇を見越して再生可能な自然エネルギーにまで言及している。「世界システム」は、時代を先取りしすぎた構想ゆえか、壮大過ぎる戦略ゆえか、途中頓挫してしまうが、ここに盛り込まれたテスラの先進的アイディアは、トランジスタ・ラジオ、ラジコン、ケイタイ電話〜スマフォ、電気自動車、ロボット技術、太陽熱や風力発電にまでつながってゆく。

 クリストファー・ノーラン監督の映画「プレステージ」(2006年米)では、デヴィッド・ボウイがニコラ・テスラを演じている。スティーブ・ジョブズを超える男とも云われるイーロン・マスクのテスラモーターズはアメリカ最新鋭の自動車会社。社名はもちろんニコラ・テスラに由来する。高級電気自動車に特化し、主力車ロードスターは圧倒的人気を博す。搭載の誘導モーターや無線給電システムはテスラ技術の発展形だ。史上最大のオタクと呼ばれ、マッドサイエンティストにも名を連ねた“エジソンを震え上がらせた大天才”ニコラ・テスラは間違いなく現代に生き続けている。
 2018.03.05 (月)  平昌五輪 二人の長野県人メダリストの明と暗
 私は長野県出身である。だから、平昌五輪に出場した二人の長野県人アスリートの動向を大きな関心を持って追った。スピードスケートの小平奈緒とノルディック複合の渡部暁斗である。金メダルの最有力候補として平昌に乗り込んだ二人だったが、片や金、片や銀と明暗を分けた。金メダルという同じ目標を胸に挑んだ二人を分けたものは何だったのか?

(1)金メダルを一切口にしなかった小平奈緒の場合

 小平奈緒は、1986年5月26日、長野県茅野市で生まれた。茅野市と聞いて即座に頭に浮かんだのは、長野市立山王小学校5年と6年のときの私の担任・田村和郎先生のことだった。田村先生は私たち生徒を決して子ども扱いしなかった。子供だからこの程度で、という感覚はなく、常に一人前の人間として扱ってくれた。ある意味変わり種の先生である。ジュニアとシニアを区別しない、ロシア女子フィギュアのエテリ・トゥトベリーゼ コーチを彷彿とさせる。だから、先生の言動には理解しがたいことも多々あった。私が映画「戦場に架ける橋」の感想文を書いた時のこと。なにやら分からないまま「とても感動した」と安易に結んだ文章に対し、「君は一体何に感動したのか。戦争の悲惨さにか。それともその中でうごめく人間の無力さにか。何に対してどう感じたかを書かないと、君の文章は進歩しない」なる赤ペンをいただいた。当時は理解できなかったが不思議に記憶に残っている。お陰で徐々に、物事を記すときは具体的事例に基づいて論理的に書く、という習慣が身についたと思っている。
 卒業記念文集「だるま」の後書きも印象的だった。「爛々たるだるまの目と真一文字に結んだ口は不屈の闘志だ。苦難を睨み据えてその中に飛び込んでゆく勇気と実行力だ。肩の丸みは、不正を憎み、臆病や卑怯をのりこえて一足一足誠実で真剣な生活を続けるものの激しい気迫を密かに湛えている」など、先生の表現は哲学的ですらあった。

 小平奈緒の言葉にも哲学的な匂いを感じる。茅野市繋がり? 田村先生と重なる。

「ただひたすら究極の滑りを磨く」

「そこに一秒でも速い自分がいればいい」

(相手が)「いてもいなくても一緒」

「氷と対話をする」

「学びと経験を積み重ねた者が強い」

「他から与えられるものは有限 自ら求めるものは無限」

 これらの言葉は、メダルを狙いにいった2014ソチ五輪で5位に甘んじた屈辱の後、死に物狂いで挌闘した過程で生まれたものだ。邪念を打ち払い自己を極限まで追い込む無限の努力。スケートに一途に打ち込むまるで求道者だ。「一番高いところからの景色を見渡したい」と間接的表現ながら金メダルを口にしたソチの時とは違い、「金メダル」という言葉を一切口にしていない。金メダルが欲しくないはずがないのに。

 2014年、小平奈緒は単身オランダに渡った。ソチでスピードスケート全メダルの7割を獲ったオランダに、自らの足りない部分を探す旅だった。師事したコーチは、1998長野と2006トリノで3つの金メダルに輝いたマリアンヌ・ティメル。14歳から競技スケートを始めたという遅咲き。トリノの500mではスターターとの呼吸が合わずにフライング失格。2002ソルトレークはメダルなし。彼女も挫折を知るアスリートだった。彼女の体験すべてが、27歳という決して若くなくして武者修行の旅に出た小平の糧になったと考えても間違いではないだろう。
 ティメルが小平に伝授したのが「怒った猫」BOZE KATのフォーム。ところが、風圧を避けるための低い姿勢に慣れていたため、上体を起こすこの姿勢に感覚的に馴染めない。オランダ滞在中に自己記録を更新することはできなかった。でも小平は貫いた。「失敗しようが成功しようが自分の選んだ道。だから信じて進む」との信念で。

 2016年4月、2年間のオランダ修行を終えて帰国。信頼するコーチ信州大学教授・結城匡啓氏と二人三脚でフォーム固めに臨む。オランダの物真似ではない小平奈緒独自のフォームの習得である。「22か月計画」のスタートだった。
 試行錯誤の末、辿り着いたのが最新スポーツ科学「ヒップロック」理論。一枚の骨盤を左右別々に動作させる感覚。そのために骨盤周辺の筋肉を片方ずつ意識して鍛える。骨盤に特化したトレーニングは10種類を超えた。これにより骨盤の傾きがなくなり体幹が安定し足裏で氷を強く押すことができるようになった。氷のコントロール=氷との対話の進化である。特にカーブでの効果が著しかった。
 和の精神を取り入れたのも小平の独自性の一つ。結城コーチの後輩高橋佳三教授から古武術のノウハウと精神を習得する。一枚歯の下駄によるトレーニングや前述「相手がいてもいなくても一緒」の精神は高橋氏から伝授されたものである。
 オランダ直伝のBOZE KATと最新スポーツ理論と和の技法の融合。自ら求めるものは無限という小平の貪欲さが遂に揺るぎないフォームを完成させた。

 2016/17シーズンから始まった小平の快進撃は止まるところを知らず、殊に“自分の距離”500mはワールドカップ15連勝、内外の公式戦24連勝という無類の強さを発揮したまま平昌五輪に突入した。

 2018年2月18日、スピードスケート女子500m。36秒94。五輪新での優勝。日本女子スピードスケート史上初の金メダルだった。次に滑るライバル・李相花への気遣いから、快記録に沸く観客を制することも忘れない。フェアに戦いたいとの思いが読み取れた。

 金メダルが確定してまず駆け寄ったのはライバル・李相花のもと。「たくさんのプレッシャーの中よくやったね。チャレッソ!あなたのことをリスペクトしている」と声をかけた。

 妨害の意図が明らかな韓国人スターターの号砲にスタートでやや動揺しながらも究極の滑りを実現した小平と絶好のスタートからあわや逆転も感じさせるスムーズな滑りを見せた李相花との差。それは最後のコーナリングだった。出過ぎたスピードを制御できずにややバランスを崩した李に対し、小平はその足裏で強くしっかりと氷を押すことができた。苦難の道のりの中で磨かれた究極の滑りが土壇場で栄光へと導いてくれたのだ。

 追い続けた金メダルを得たとき、小平の脳裏に浮かんだもの。それは支えてくれた多くの人たちへの感謝の気持ちだっただろう。究極の滑りを習得するために関わってくれた人たち。大学を出た後所属先が見つからないときに手を差し伸べてくれた相沢病院相沢孝夫理事長。笑顔と食事で心と栄養をケアしてくれたかつてのチームメイト石澤志穂さん。夏場の自転車トレーニングをサポートしてくれた幸壬申学氏。平昌開幕直前に亡くなった親友・住吉都さんのことなど・・・・・。

 試合後のインタビューを小平奈緒はこう結んだ。

「いい時も悪い時も私を認めてくださるみなさんが周りにいてくれた。そんなみなさんに報いることができたこと。一緒にうれしい気持ちを共有できたこと。それが一番うれしい」

 究極の滑りで一つの頂点を極めた小平は「五輪のゴールの先にまだ見るべきものがある」と言った。それは世界記録への挑戦。小平奈緒は3月に行われる高地カルガリーでの国際大会で世界新記録36秒36に挑む。

(2)金メダルに拘りまくった渡部暁斗の場合

 渡部暁斗は、1988年5月26日、長野県北安曇郡白馬村で生まれた。白馬村は1998長野五輪のジャンプ競技会場。渡部はこれを見てノルディック競技に目覚め、金メダルを夢見るようになった。
 あれから20年。ノルディック複合のエースに成長した渡部暁斗に付けられた仇名は「シルバーコレクター」。2014ソチでの銀メダル以降、ワールドカップ2014/15シーズンで総合2位、2015/16では世界選手権銀メダル。なるほど「シルバーコレクターに」に相応しい(?)戦績である。これに一念発起した渡部は2017/18のオリンピック・シーズンで見事な変身を果たす。オリンピック直前の故郷白馬大会まで4連勝、ワールドカップ総合ランキング1位を引っ提げ、金メダル最有力候補として平昌に乗り込んだ。この時の言葉。

「もう、銀メダルは要らない」
「金メダルを獲るなら、獲って当たり前と思われる状況を作って、獲る。」

 なるほど、彼の戦歴を見みれば「銀メダルは要らない」の台詞は痛いほど解かる。1998長野五輪の金メダリスト清水宏保は、「金は歓喜、銀は口惜、銅は安堵」なる名言を吐いた。渡部はもう銀の口惜しさを味わいたくないのだ。だが私は、後者の言葉「獲って当たり前の状況で獲る」には引っかかった。獲ったこともないのに獲り方まで考える。ちょっと不遜過ぎはしないかと思った。危うい考えだと思った。ノルディック複合の前半はジャンプ。これほど自然に左右される競技はない。ポイント補正があるとはいえ風の状況で結果は大きく変わる。それは自力ではどうすることもできないものなのに。「金メダルへの執着心」と「獲り方にまでの言及」。この発言が渡部を縛った。

 2月14日、ノルディック複合ノーマルヒル。前半のジャンプの結果、渡部は三番目、ライバル エリック・フレンツェルは五番目スタート。その差僅かに8秒。後半のクロスカントリーは、まるでソチのリプレイを見るかのような、二人の一騎打ちとなった。勝負どころの4周目の登り坂で、猛然とスパートしたフレンツェルと懸命に追いすがる渡部とは、力感においてその差は歴然だった。フレンツェル金、渡部銀。ソチと同じ結果となった。

 2月20日、ラージヒルに雪辱を期す。ジャンプは首位。後半のクロスカントリーはトップ・スタート。24〜34秒後にドイツ人選手3人が集団で控える。解説の1992アルベールビル、1994リレハンメル団体金メダリスト荻原健司は理想的スタートと言い切った。渡部はノーマルヒルの反省からハイペースで積極的に逃げ込みを図る。だがスキーが走らない。ワックスのミスか? ドイツ3人衆が一塊でヒタヒタと押し寄せてくる。なんという無気味さ、と思う間もなく3周目で飲み込まれ、あえなく5着。ドイツ勢がメダルを独占した。
 敗因に、ワックスの選択ミスもあっただろうが、最大のものは、ライバルのドイツ人選手3人が背後に固まったことだろう。日本が金メダルを獲った女子パシュートやマススタートを見るまでもなく、集団が交代で風避けを務めれば個々のスタミナ温存が図れるからだ。

「頂上は見えているが上り方が分からない。またいろいろ考えなくてはいけない」

 ノーマルヒルの誤算は、不振と侮ったフレンツェルが本番にしっかりと合わせてきたこと。その読み違い。ラージヒル最大の敗因は、前述のように、ライバルのドイツ勢3人の集団協力体制が偶然整ってしまったこと。まさに人知を超えた状況形成だった。

 オリンピックで金メダルを獲るのは至難の業だ。これまで、勝って当然といわれたアスリートのいったい何人が獲れずに散っていったことだろう。自分が完璧なパフォーマンスをしても、ライバルが上回れば負ける。想定外の状況がベスト・パフォーマンスを許さないことも度々ある。それが勝負というものだ。

 競技の翌日、全日本スキー連盟は「渡部の肋骨が、オリンピック前に、骨折していた」ことを明らかにした。ならば、クロスカントリーの滑走が力強さに欠けたのも頷ける。怪我を押しての頑張りもそれまでの労苦も称賛に値することは確かだ。

 でも、私は敢えて言いたい。渡部の敗因は心構えにあったと。金メダルが欲しいのはアスリートなら当然だ。だがそれは相対的なものだ。いくら頑張っても人知の及ばないことがある。同じ長野県人にして、奇しくも同じ誕生日の小平奈緒と渡部暁斗を分けたもの。それは、試練の末に「いてもいなくても一緒。ただひたすら究極のパフォーマンスをするだけ」という境地に達したか否かの差ではなかっただろうか。
 2018.02.15 (木)  贋作昨今〜曜変天目からモーツァルト「アデライード協奏曲」を考察する
 昨年12月20日に放映されたTV東京「なんでも鑑定団」。番組の名物鑑定士・中島誠之助氏の鑑定が話題となっている。
 徳島のラーメン店の店主が持ち込んだ茶碗に対して、例の歯切れのよい口調でこう断定。「なんでも鑑定団 始まって以来最大の発見。12−3世紀中国南宋時代に福建省建陽で焼かれた曜変天目に間違いございません。日本にある曜変はたったの3点。すべて国宝です。今日は、これで4点目が確認されたということです」・・・・・結果、付けも付けたり鑑定額2500万円!
 ところがこれに異を唱える人物が現れた。中国福建省の陶芸家・李欣紅さんである。「この茶碗は私が作った土産品さ。市場じゃ1400円くらいで売てる。建陽の人ならみな知てるよ。だから曜変天目であるはずないよ」。

 はてさて、どちらが正しいか? 2500万円VS1400円。鑑定士VS現地のおばさん陶芸家。これは面白い図式と様子を見ているが、未だ結論は出ていないようだ。陶芸の専門家から「科学的な分析を」と促されるもTV東京側はダンマリの一手。自信があればやるはずだから、どうやらおばさんが正しいか? 中島誠之助 世紀の大誤審!?

 クラシック音楽の世界にも贋作話は様々ある。そんな中から、本日は、モーツァルト世紀の贋作事件「アデライード協奏曲」をとり上げてみたい。

 モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は第1番K207から第5番K219までの5つが真作。第6番、第7番は偽作とされている。
 第6番 変ロ長調 は当初K268という番号だったが、ケッヘル第6版ではAnh.C14.04という番号に変更される。Anhはドイツ語のanhangの略で補遺という意味。Cは「偽作、または疑義ある作品」の印。第7番ニ長調はK271iという番号のままであるが、限りなく疑わしい作品に選別されている。そのため両者とも「新モーツァルト全集」には入っていない。

 ここでざっとケッヘル番号について記しておきたい。モーツァルトは35歳の生涯の中で膨大な数の作品を残した。彼は1784年の2月から自筆の「作品目録」を書いていて、これ以降の作品は“比較的”作曲年代が特定できるが、それ以前の作品は、まとまった記録がないため整理は困難を極める。その上、出版社が楽譜を売る目的でモーツァルトの作品と偽るケースも少なからず存在した。こんな云わば魑魅魍魎のモーツァルト作品群に、完成順に番号(追番)を与えたのがルートヴィヒ・フォン・ケッヘル(1800−1877)である。ケッヘルは600曲余りのモーツァルト作品を、「自筆目録」を軸に、楽譜上の記述、手紙、その他諸々の資料を読み解いて、なんとか作品ごとに追番を付け終えた。K1―K626。1862年。「モーツァルト作品目録」の誕生である。
 とはいえ、これで完璧であろうはずがなく、その後改定は8版を数える。特にアルフレート・アインシュタインによる第3版(1937年)、フランツ・ギーグリングらによる第6版(1964年)の改定は大幅なものとなった。
 ケッヘル番号の基本は完成順に並べることであるから、年代変更があった作品は番号を変える必要が生じる。このため改定作品はケッヘルのオリジナル番号と改定番号を併記する。
 例えば、優雅なメヌエットでお馴染みの「ディヴェルティメント 第17番 ニ長調」のオリジナル番号はK334。改定番号はK320bである。これは検証の結果、「ディヴェルティメント第17番ニ長調」は、確定している作品「セレナード第9番ニ長調『ポストホルン』」K320のすぐあと2番目に完成(1番目は2つの行進曲320a)が判明、ということで与えられた番号である(因みにK320bの直後に完成が判明すれば、その作品は320b Aと表記される)。
 書物などではK320b(334)などと表記する場合もあるが、CD等はオリジナル番号のK334のみの表記が一般的だ。完成年代順という目録のコンセプトは分かるが、オリジナル番号の浸透度の高さが尊重されているのだろう。
 Anhが補遺。C番号付きは「偽作、または疑義ある作品」というのは前述のとおりである。

 さて、「アデライード協奏曲」である。1933年、新たにモーツァルトのヴァイオリン協奏曲というピアノ・スコアが出版された。校訂者は、フランスのヴァイオリニストで作曲家のマリウス・カサドシュ(1892−1981)。甥は名ピアニスト ロベール・カサドシュ。曰く「10歳のモーツァルトの自筆譜から校訂した。譜面上には『アデライード王女に献呈』という書き込みがある」という触れ込みだった。モーツァルト10歳の自筆譜、そのピアノ校訂版、アデライード王女に献呈なる書き込み。いかにも胡散臭い話ではないか。
 アデライード王女とはフランス国王ルイ15世と王妃マリー・レグザンスカの間に生まれた四女マリー・アデライード・ド・フランス(1732−1800)のことで、フランス革命で断頭台の露と消えたルイ16世の叔母にあたる。父の愛妾ポンパドール夫人との確執、王女マリー・アントワネットとの関係性、フランス革命による運命の暗転等、その波乱の人生はなかなかキャッチーなものがある。

   カサドシュがこの話を持ち込んだ相手の一人にドイツの高名な音楽学者フリードリヒ・ブルーメ(1893−1975)がいた。ブルーメはナチスの御用学者でJ.S.バッハの研究者としても著名。名著「バッハ伝承の謎を追う」にはそんなバッハ研究者としての見解が見て取れる。それは「バッハはその晩年において教会音楽への心からの関係を持たなかった」というもの。バッハを神聖化するドイツ音楽史において、この見解はある意味画期的だった。ところが、後の発見、例えば所持したカーロフ聖書の欄外の記述やカンタータ上演の頻度などから、晩年のバッハが教会音楽に背を向けたとするブルーメの見解は説得力を欠くことになった。このあたりに、彼の進取の気性と検証の甘さという表裏両面が垣間見える。

 ブルーメは、カサドシュが持ち込んだ「アデライード協奏曲」に飛びついた。カサドシュが根拠としたというモーツァルトの“自筆譜”も検証せずに、これを真作と認めてしまった。そして、「アデライード協奏曲」は目出度く(?)「モーツァルト作品目録」第3版でK.Anh.294aなる番号が与えられ、補遺作品に認定された。
 翌年1934年、名ヴァイオリニスト ユーディ・メニューインがこの曲をレコーディングする。この録音はCD化されていて、曲目表記は「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 K.Anh.294a『アデライード』」となっている。試聴してみたが、10歳の自筆譜からの作品(との触れ込み)とはいえ、およそモーツァルトらしからぬ内容である。メロディーラインのなんという陳腐さ!「森の水車」か? よくもまあ、こんな曲を認定したものだ、が正直な感想だ。

 「アデライード協奏曲」の末路はどうであったか。学者の疑義が相次ぎ、カサドシュは、1977年、ついに自分がでっち上げた贋作であることを認めた。発表から44年目のことだった。そして、K.Anh294a という補遺番号はK.Anh.C14.5という「偽作、または疑義ある作品」に選別された。カサドシュにしてみれば、44年間も騙し通し、レコーディングまで実現、「偽作」の括りとはいえ「モーツァルト作品目録」にタイトルが残ったのだから、以て瞑すべしかもしれない。
 贋作騒動はなぜ後を絶たないのか? 数年前の佐村河内守事件のように、一つはお金もあるだろう。あとは、あらぬ名誉欲? 人を騙す快感? 人は外観で簡単に騙される。

外観というものは一番ひどい偽りであるかもしれない
世間というものはいつも虚飾にあざむかれる
               〜ウィリアム・シェイクスピア「ベニスの商人」より
 なお、「アデライード」ネタは、数年前福島輝男氏から、音源は桧山教授から提供いただいた。切に感謝申し上げる次第です。
<参考資料>

小宮正安著:モーツァルトを作った男(講談社現代新書)
小林義武著:バッハ伝承の謎を追う(春秋社)
モーツァルト作曲:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 K.Anh294a「アデライード」CD
 2018.01.15 (月)  2018年始雑感〜アルゲリッチ、ABC予想など
(1)アルゲリッチさん初共演なぜ

 昨年12月25日付けの朝日新聞に「アルゲリッチさん初共演なぜ」という見出しがあった。記事は、当代屈指の名ピアニスト マルタ・アルゲリッチ(1941−)が、長年拒否し続けてきたウィーン・フィルハーモニーと遂に共演したというものである。演目はリスト:ピアノ協奏曲第1番。指揮はダニエル・バレンボイム。理由は、女性演奏家を拒否してきたウィーン・フィルがやっと門戸を開放したからとのこと。そんな目で年明けのウィーン・フィル ニューイヤーコンサートを見たら、確かに数人の女性団員が確認できた。
 ではいつごろからかと思い、手持ちの映像を調べてみた。2010年には女性がいる。余談だが、この年の指揮者はジョルジュ・プレートル(1924−2017)で、わたしの中では最高のニューイヤーコンサートの一つ。特に冒頭の喜歌劇「こうもり」序曲のニュアンス豊かな表現には舌を巻いたものだ。
 これ以前の手持ち映像は1992年、カルロス・クライバー(1930−2004)まで遡るが、ここには女性団員の姿はない。このクライバーも凄いの一語で、オケとの一致一体これに勝るものなしの名演である。私にとってのウィーン・フィル ニューイヤーコンサートのベスト・パフォーマンスは、これら、1992年クライバーと2010年プレートルということになる。それはさておき、要するに、ウィーン・フィルに女性団員が初めて登場したのは1992年から2009年の間ということが判明した。あとはネット検索である。その結果、楽友協会(ウィーン・フィルの統括組織)が女性の入団を許可したのは1997年、ということが確認できた。

 ここで朝日新聞の記事に戻ろう。書いたのはヨーロッパ支局長の石合力氏。
彼女とウィーン・フィルを隔てていたものは何だったのか。楽屋を訪ね、本人に直接、聞いてみた。「これまで演奏しなかったのは、女性がひとりもいないオケだったからです」権威におもねらず、やりたくないことを拒んできた彼女なりのこだわりだった。
1842年に設立されたウィーン・フィルは常任の指揮者を置かない任意団体で、国立歌劇場から選ばれるメンバーは長年、男性だけだった。女性の入団を認めたのは1990年代後半から。現在は148人の奏者のうち1割が女性だ。
 なーんだ。1990年代後半と書いてあるではないか。ちゃんと読みなはれ。でもまあ、見落として調べたお陰で名パフォーマンスに再会、再認識できたのだからよしとしよう。

 この記事にケチをつける積りはサラサラないが、やはり「クラ未知」精神から見ると物足りない。女性団員がひとりもいないことがネックだったのなら、1997年から数年の時点で出演していたっておかしくはない。20年はいかにも長すぎる。だからアルゲリッチの「女性がひとりもいないオケだったから」というのは理由説明として十分ではない。有能な記者なら本当の理由を引き出そうと切り込んだだろう。しかも、見出しを「初共演なぜ」と大上段に振りかぶったのだから、この内容ではいかにも中途半端だ。楽屋を訪ね、本人に直接聞いたのに、もったいない話である。ならば、その理由を私なりに探ってみよう。

 私はかねがねアルゲリッチに対し不満を持っている。無論演奏上のことであろうはずはなく、現役では最も好きなピアニストの一人だ。ならば、それは何かといえば、レパートリーの偏りである。人気曲をやりたがらない傾向が目立つのだ。
 煩雑になるから、コンチェルトのCDに絞ると、やっているのは、モーツァルトでは、第18番、第19番、第20番、第21番、第25番。ベートーヴェンでは第1番&第2番。チャイコフスキーの第1番、ショパンの第1番&第2番、リストの第1番、ラフマニノフの第3番、プロコフィエフの第3番やラヴェルなど。ないのは、モーツァルトの第23番と第27番、ベートーヴェンの第4番、第5番「皇帝」、グリーグやブラームス第1番&第2番、ラフマニノフの第2番など、プロのピアニストならこぞって弾きたがる人気曲が結構抜けている。ショパン・コンクールで彼女の一つ前の優勝者マウリツィオ・ポリーニ(1942−)と比べてもその差は歴然だ。

 でもまあ、これはさほど珍しいことではないのかもしれない。ユニーク過ぎる名手ベネディッティ=ミケランジェリはさておき、20世紀きっての巨匠ウラディミール・ホロヴィッツにしても、ラフマニノフの第2番やグリーグは弾いていない。レパートリーは、大家の場合、演奏者の好みそのものだから、理由は「弾きたくないから」で済みの話だろう。ウィーン・フィル初出演でも、既存のレパートリーを弾けばいいだけだ。20年のタイム・ラグの説明にはならない。

 では別角度から。「アルゲリッチは暗譜が苦手」という噂がある。だから暗譜が必要な協奏曲の大曲のレパートリーが増えない。昨今、室内楽にシフトしているのはそのためだとも。とはいえ、昨年5月12日、水戸芸術劇場で聴いた、小澤征爾指揮:水戸室内管弦楽団とのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番は暗譜だった。ウィーン・フィルとの初共演曲のリスト:ピアノ協奏曲第1番も昔から馴染みの楽曲。無論暗譜で弾いただろう。これも又タイム・ラグの説明にはならない。

 人気曲のレパートリーの少なさも、暗譜の不得手も、タイム・ラグの積極的な理由と結びつかなかった。残念だがペンディングにするしかない。「私なりに探ってみよう」などと大見栄を切ったにしては情けない話である。このモヤモヤ感は、彼女に精進を促すことで晴らそうか!?「アルゲリッチさん、やっとウィーン・フィルと共演してくれたのだから、今後少しずつでいいからレパートリーを増やしていってくださいな。水戸芸術劇場のアンコールで弾いたシューマン「献呈」が天国的美しさだっただけに、せめてモーツァルト第23番K488の第2楽章「シチリアーノ」だけでも聴かせていただきたく存じます」。オシマイ。

(2)数学の超難問 ABC予想「証明」〜京大望月教授論文掲載へ

 これは朝日新聞昨年12月17日の見出しである。私は数学が大の苦手で、高校〜大学を通して極端に成績が悪かった。ところが近年急に数学が好きになった。これは何も難しい問題が解けるようになったわけではない。興味が湧いてきたのだ。面白いと感じるようになったのだ。キッカケは「博士の愛した数式」。小川洋子の小説も寺尾聡主演の映画も。「江夏の背番号24は4の階乗」「220と284は友愛数」「オイラーの等式eiπ + 1 = 0 なんと美しいこの形」などの台詞が実に新鮮に響いたのである。

 それからというもの、数学関連の報道や映画やTV特集番組など解からぬまま興味本位で漁ってきた。映画「グッド・ウィル・ハンティング」(1997米)の中に「難解な定理は交響曲のようにエロティックだ」なんて台詞を発見すると、俄然うれしくなってしまう。ちょっとキザだけど悪くない。エロティックというならマーラーあたりか。もし形容詞がノーブルならモーツァルトでファンタスティックならベルリオーズかな、などと勝手に想像して楽しんでいる。

 「ポアンカレ予想」は1904年にフランスの数学者アンリ・ポアンカレ(1854−1912)が唱えた「単連結の3次元閉多様体は3次元球面と同相だ」というもの。「単連結の3次元閉多様体」という宇宙を紐で括って引っ張れば球面と同じようにどこにも引っかからずに手元に戻ってくる。これが証明されれば宇宙の形が解明される。そんな、とてつもなく壮大な予想である。これを、2006年、ロシアの数学者グレゴリー・ペレルマン(1966−)が証明した。彼は、証明後、賞金もフィールズ賞も拒否したまま姿を消してしまった。

 ポアンカレ予想は証明に100年を要したが、300年を費やしたのは「フェルマーの最終定理」である。これは、フランスの数学者ピエール・ド・フェルマー(1607−1665)が唱えた「3以上の自然数n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない」という定理。イギリスの数学者アンドリュー・ワイルズ(1953−)が、谷山・志村理論を手掛かりに証明に成功。10歳の時に抱いた夢を実現した。1995年のことだった。

 そんな中で、飛びぬけて興味をそそられたのは「リーマン予想」である。きっかけは2011年に放映されたNHK-BS「素数の魔力に囚われた人たち〜リーマン予想を解くのは?」だった。
 「リーマン予想」は、ドイツの数学者ベルンハルト・リーマン(1826−1866)が1859年に唱えた“素数の並び”に関する予想で「ゼータ関数の非自明の0点はすべて一直線上にあるはずだ」というモノ。
 素数とは1と自身の数以外に約数を持たず 2、3、5、7、11、13、17、19、23・・・・・と延々と続く正の整数。ある時は一つ置いて出現したかと思えば次はなかなか出てこない、など、神出鬼没、全く脈絡がない。「ゼータ関数」は素数情報で成り立つ関数だから、これが作るグラフがある一定の法則性を示すなら、一見何の脈絡もない素数の並びに法則性が見出せることになる。これが「リーマン予想」の解である。

 リーマン予想の証明に、数学者の挌闘は脈々と続いてきたが、150年間証明されないまま今日に至っている。例えば、映画「イミテーション・ゲーム」(2014年米)で描かれたイギリスの数学者アラン・チューリング(1912−1954)は、ナチスの暗号機エニグマの解読には成功したものの、リーマン予想には失敗、自殺した。その他、ジョン・ナッシュ、ゴッドフレイ・ハーディーとジョン・リトルウッドなど、天才と呼ばれた数多の数学者たちがこれに立ち向かい、精神異常をきたすなど、ことごとく敗れ去ってきた。史上最大の難問といわれる由縁である。

 “リーマン予想に立ち向かうのは自殺行為”といわれた20世紀を経て、近年、他の分野との関連から新たな動きが生じてきた。ヒュー・モンゴメリー博士とフリーマン・ダイソン博士の出会による量子物理学との連動。アラン・コンヌ博士による非可換幾何学からのアプローチ。などなど、これらの流れから「非可換幾何学を使って素数の暗号が解けるとき森羅万象を説明する“万物の理論Theory of Everything”も完成する」との結論が導かれてもいる。「リーマン予想」の証明が万物の謎を解明する〜なんてファンタスティックな話だろう! 果たしてこんな日がやって来るのか? もし生きている間に出会えたら、それは最高にエキサイティングな瞬間になるだろう。

 話を元に戻そう。昨年12月朝日新聞の記事は
長年にわたって世界中の研究者を悩ませてきた数学の超難問「ABC予想」を証明したとする論文が、国際的な数学の専門誌に掲載される見通しになった。執筆者は京都大学数理解析研究所の望月新一教授(48歳)。今世紀の数学史上、最大の業績とされ、論文が掲載されることで、その内容の正しさが正式に認められることになる。
 これはザクっといえば
1以外に同じ約数を持たない正の整数A、BでA+B=Cの時、ABCの素因数の積の自乗は必ずCよりも大きくなる
 というもので、これは元式が解らなくても、この簡略化された説明は一応理解できる。そうなるともう嬉しくなって解ったような気になる。また、望月教授という日本人が解いたというのも身近に感じる。ただし、彼は48歳。数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞は“資格は40歳以下”という年齢制限があって、受賞できないそうだ。

 などなど、「博士の愛した数式」をきっかけに、数学をテーマにした様々な物語に出会えた。深く理解はできなくとも、数式の美しさ、格闘する人間の執念などにロマンを感じることはできる。これが楽しい。映画「博士の愛した数式」のラスト・シーンに「てのひらに無限を乗せ ひと時のうちに永遠を感じる」というウィリアム・ブレイクの詩が現れるが、まさにこれこそが人間というものの特質でありロマンなのではあるまいか。AIがいくら発達してもこの感覚は人間にしか得られないものだと思っている。
 2017.12.10 (日)  一橋大学オーケストラ47年ぶりの同期会
 「如水会々報」12月号「同好会だより」に、私が書いた「一橋大学管弦楽団43卒同期会」なるレポートが掲載された。メンバーの冠婚葬祭の際にランダムに会ってはいたものの、「同期会」の形で一堂に会するのは1970年以来となる。成り行き上「お前が書け」と仰せつかったのだが、規定で止むなしとはいえ字数制限がきつく、元原稿からはほど遠い単なるレポートに甘んじざるを得なかった。これではやや欲求不満につき、詳細を書きたくなった。まずはその元原稿から。

一橋大学管弦楽団43卒 同期会

 大阪EXPO70 ブラームス「ドイツ・レクイエム」演奏会での同期会以来47年ぶり、同期生・宮城敬雄君の指揮によるサントリーホール「ブラームスの夕べ」を有志で鑑賞した翌10月3日、「東天紅」高輪店に9名が顔をそろえた。
 「マエストロ、指の表情が絶妙だったよ」「ソロ・ヴァイオリンのパウロ君は凄い才能だ」など、ひとしきり前日のコンサート談義をしたあとは、メンバー持参の当時のアルバムやプログラムを見ながらの回顧と近況に話が行き交う。「写真、さすがにみんな若いワ」「尾原ジイサン(常任指揮者の愛称)に『ブラ1』やりたいと申し出たが、なかなかOKくれなかったよな」「その音、CD化して聴いたが、やっぱりヒドかった」「お前の下宿はまるで雀荘」「学園祭でチケットを買ってくれたのが今の家内」「指が痛くてもう吹いとらん」「妻とコンサート三昧の日々」「『蜜蜂と遠雷』は読むべし」などなど、追懐悦楽のひと時だった。
 これを機に、今回止む無く欠席の野村誠君と松岡滋君を加えた11名で、そして、旅立ってしまった羽賀仁君と鈴木礼史君と山田広君の追悼を胸に、これからは隔年くらいに集まろう、との思いも新たに散会した。(参加者)黒田卓治、田中隆英、辻本泰久、馬場信三、藤田周三、丸山弘昭、宮岡五百里、宮城敬雄、岡村晃(文責)

 以上が元原稿である。これならまあまあ場の雰囲気も掴めようが、本チャンの字数はこの6割程度だったから無味なるものとなってしまったわけだ。では、気分も新たに更なる味付けを試みたい。

(1) 宮城敬雄 指揮者デビュー20周年記念コンサート“ブラームスの夕べ”

 指揮者・宮城敬雄。一橋大オケ時代はオーボエ奏者。得意技は急(Allegro)よりも緩(Adagio)。1966年3年生の定期演奏会のベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」第2楽章「葬送行進曲」は、深みのある美音から哀愁が湧き出る絶品のパフォーマンスだった。当時から高い音楽性が滲み出ていた。
 そんな彼が、1995年、五十路を迎えて一念発起。プロ指揮者への道を歩み始める。そして、早くも2年後の1997年、第1回の演奏会を開く。その後、ロイヤル・フィル、サンクトペテルブルク響、スロバキア・フィル、東京フィルなど一流オケを指揮、ウィーン学友協会大ホールやサントリーホール、ドヴォルザーク・ホールなど世界の檜舞台で演奏、錚々たるキャリアを積んだ。そして、本年10月2日、サントリーホールで、デビュー20周年記念コンサート“ブラームスの夕べ”を開催。オケは東京ニューシティ管弦楽団。これに合わせて、我らがオケの同期会開催の運びとなったわけである。

 颯爽溌溂たる「大学祝典序曲」が終わると、パウロ・クロプフィッチユ君が登場。彼は宮城君が審査委員を務める「ブラームス国際コンクール」ヴァイオリン部門2017年の優勝者。ウィーン出身の弱冠17歳。名曲中の名曲「ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」をこんな若者が大丈夫かいな・・・・・との不安は、ソロが始まって即、杞憂に終わった。どちらかといえば鋭い細めの音ながら、なんというか音楽の構えそのものがとてつもなく大きいのだ。ブラームス特有の情熱を奥底に秘めたロマンティシズムの表出! 大好きなクリスチャン・フェラス(1933−1982)を彷彿とさせた。同伴の福島輝男氏(日本アート・センター社長)も「もはや名手の域!」と新たな才能との出会いに感嘆しきり。帰りのビールが美味かった。
 翌日、宮城君に聞いたところ、二人とも、手ごたえ十分の演奏に夜中の2時まで盛り上がり、次はベートーヴェンかシベリウスか? まで話が広がったとか。実現したら是非聴いてみたい。どちらかなら、フェラスの名演があるシベリウスのほうかな?
 “ブラームスの夕べ”の最後を飾ったのは「交響曲第1番」。プログラムの中で、宮城君は「ブラームスは私の一番好きな作曲家」と言い切っている。勇壮で情熱的。見事な演奏だった。この曲はまた、1967年、我々オケ最後の定期演奏会のメイン演目でもあった。部長の田中隆英君がオファーしたところ、常任指揮者・尾原勝吉ジイサンに「お前らにはまだ早い。無理だ」と、なかなかOKを貰えなかったとか。この一件、今回の同期会で初めて知ったが、はてさて、この日の宮城君の演奏を天国のジイサンはなんと評するだろうか。

(2) 常任指揮者尾原“ジイサン”勝吉さんのこと

 一橋大オケの常任指揮者は尾原勝吉先生(1899−1981)。愛称“ジイサン”。N響の前身新交響楽団の創立メンバーの一人で、パートは第2ヴァイオリン。「宮沢賢治が聴いたクラシック」というCDブックの中に、賢治がチェロを習いに新響を訪れる件があるが、そのメンバー表には確かに尾原勝吉の名前がある。黒柳徹子の父・守綱氏や小澤征爾の師匠・斉藤秀雄の名も見える。ジイサンはなかなか大した音楽人だったのだ。

 「一響」という一橋大学管弦楽団の同人誌があるが、その2017年7月号に、2年先輩の高塩満氏寄稿の「尾原ジイサンの新交響楽団『関西』演奏旅行記」なるルポが掲載された。旅行期間は1938年4月1日−5日。旅行記は新響の機関紙「フィルハーモニー」に掲載され、3日と4日が尾原先生の担当だった。これを一部抜粋する。

 昭和13年4月3日、目の覚めたときには「未だ早いなア」と思ったが、腕時計は最早6時を少し回って居る。此処は名古屋市舞鶴公園附近の或る旅館だ。何しろ午前8時名古屋発の汽車に乗り込まなければ午後2時大阪に於ける練習に間に合わぬと云うのだから、うっかり寝坊もして居られん。今日は今度の旅行中の最強行軍の日で、我々としては殆ど例のない6時と云う早起きをし、8時から12時近くまで約4時間汽車に揺られ、午後2時から約2時間の練習をし、7時から演奏会をやろうと云う。しかも最早旅行3日目で皆大分グロッキーになっている上だから相当なものだ。
 今晩のプログラムは、大体、静岡・名古屋でやった物でベートーヴェンの第8交響曲が加わる丈なので、練習は案外あっさり終わる目算で居たら、何しろ名古屋の演奏成績があまり芳しくなかったので、ローゼンシュトック先生に相当根よく油を絞られた。
 従前の旅行には大体関西に於いては京都に一夜、大阪に二夜となってゐたが、今度初めて京都の演奏を取り止めて、大阪に三晩開催する事にしたので、果たして三晩朝日会館大ホールを、ファンで埋め尽くし得るか、と云ふ少なからぬ疑念が我々当事者の間に持たれてゐた。然るに、いざ幕を開けて見るとどうだ、我々の懸念は、結構、単なる杞憂に過ぎなかった事が解かり、溢れんばかりの大観衆が熱狂的歓呼?を以て我が新響を迎えてくれた時、私は思わず目頭の熱くなるのを覚えた。ロッシィニの序曲「セヴィラの理髪師」に始まり、最後のベートーヴェンの「第8交響曲」に至るまで息詰る緊張裡に素晴らしい出来栄えで演奏を終わった。果ては、アンコールのブラームスのハンガリアンダンス」第5番までも。
 きつい日程の中、上々の首尾で終わった大阪第1夜演奏会。オケマンの喜びが伝わってくる。今も昔も変わらないなあと思う。だがしかし、時は戦時真っ只中。演奏旅行の初日4月1日には、かの国家総動員法が公布されている。そんな時代のルポは実に貴重な記録である。演奏曲目を見
ると、大阪第3夜に「ブラ1」がある。これも何かの因縁か。

 オケ時代、練習で音を外すたびにジイサンから睨まれたものだ。無言の睨み。コワッ! でもそんな緊張感、悪くなかった。人生ダラーっとしてたらつまらない。
 こうしてジイサンの足跡を回顧するにつけ、凄い人の薫陶を受けていたんだなあと、今更ながら思う。かの伝説の名指揮者・ヨーゼフ・ローゼンシュトック(1895−1985)の下で演奏していたなんて! そんなジイサンだからこそ、ピアノの安川加寿子(1922−1996)、ヴァイオリンの辻久子(1926−)など、本来学生オケでは考えられないような重鎮が共演してくれたのだ。尾原ジイサン 素敵な思い出をありがとう!

(3) Orchestra's 11

 10月3日、「東天紅」高輪店。47年振りのオケ同期会である。野村誠(ティンパニー)と松岡滋(トランペット)が仕事等の都合で欠席。集まったのは9名。メンバーが持ち寄ったアルバムとプログラムなどを見ながらの昔話から現況まで、話は尽きなかった。

 部長の田中隆英(ビオラ)は現在故郷の宇部に住む。2013年に、家の蔵からオケ時代のオープンリール・テープが見つかりCD化。これをネタに私が「如水会々報」(2014年1月号)と「クラ未知」(2013年9月15日)に経緯と思い出話を書いた。この一連の流れを今度は田中が「一響」(2014年4月号)に書いている。前日のコンサートではP席に陣取り、宮城の指揮ぶりを真正面から入念に見ていた。「指の表情が絶妙だったよ」は彼の発言。尾原ジイサンと演目を協議するのも彼と副部長の仕事だった。
 副部長は馬場信三(ホルン)。1年生のとき、定期演奏会のチケットを売りに国立音大の学園祭に出かけた。なかなか売れない中、唯一買ってくれた音大生がいた。これが彼の奥様である。生真面目な馬場ならではのエピソードだ。現在闘病リハビリ中も頑張って出てきてくれた。帰路が同じで、なんとなく名残惜しかったものだから、東京駅で飲みなおして昔話の続きをした。
 宮城敬雄の指揮活動をもう一つ。伊藤忠太設計の一橋大学兼松講堂において、国立シンフォニカ―を率いての定期演奏会を毎年開催している。2010年以来13回を数え、大学と地域住民の皆様との交流に一役買っている。
 辻本泰久(フルート)はオケ随一の名手。名フルーティスト林リリ子(1926−1974)の弟子。2年生とき、津田塾大学アンサンブル・フィオリータとの合同演奏会で、彼のソロでJ.S.バッハの「管弦楽組曲 第2番」を演奏したことがある。それはもうプロ級のパフォーマンスだった。私の結婚式(1975年)では、その中から「ポロネーズ」と日本歌曲「宵待ち草」を披露してくれた。この日、そのことを話したら、曲目は忘れていた。彼ほどの名手は演奏の場が多々あっただろうから、これはまあ止むをえまい。黒田卓治(トロンボーン)は学者肌。物事を深く静かに思索するタイプだ。国分寺恋ヶ窪の私と同じ下宿の住人だった。そこはいつしかオケの連中のたまり場となって、多々なる麻雀と少々の試験勉強に精を出したものだ。そこによく来た丸山弘昭(チェロ)は、私の祖母が作ったおにぎりが忘れられない、勉強ならともかく、麻雀なのに差し入れとはありがたい限りだったと語る。彼の結婚式で、松岡と私で♪「我が良き友よ」を歌ったのも懐かしい思い出だ。藤田周三(トランペット)は柔和な紳士。最近、奥様とコンサートによく出かけるという。オケの同期がプロの指揮者になっていることを信じない奥様への証明のため、前日来られなかった彼に、その日のプログラムを渡した。宮岡五百里(フルート)は今回の世話人。本来なら、4年前、田中と話をした私がやらねばいけなかったのだが・・・・・。コンクールの審査員でもある宮城に「『蜜蜂と遠雷』を読むべし」と勧めたのはこの男。私にも、「如水会々報」への掲載に関して様々アドヴァイスをくれた。因みに彼の兄の宮岡千里氏は、ソニーの創始者・井深大氏の秘蔵っ子。かのトリニトロンの実質的発明者だ。チェロを嗜み、学生時代はN響就任前の岩城宏之の指揮の下で活動、社会人になってからは、我らが2年先輩の徳永正剛氏(ホルン)と共に藤沢交響楽団で活躍されたそうだ。そして、私岡村晃(トランペット)は、譜面台に競馬新聞を置く不謹慎なオケマンだった。そんな私にクラシック音楽の面白さを教えてくれたのは同期の連中である。♪君たちがいて僕がいた。二年後にまた会いましょう。
 2017.11.16 (木)  カズオ・イシグロからFMえどがわ20周年、そして、おめでとう奈良さん!
 FMえどがわ「りんりんクラシック」で心がけていること。それは音楽の外側から発想する、ということ。リスナーは、クラシック音楽が好きな人も嫌いな人も、関心ある人もない人も、様々だ。だから音楽側から入ると間口が狭まってしまう。
 直近の10月は、読書&スポーツの秋から発想し、村上春樹&ヤナーチェク「シンフォニエッタ」に結びつけた。「シンフォニエッタ」がスポーツ祭のために書かれた音楽で、村上の小説「1Q84」に重要な小道具として登場するからである。そう決めていた矢先の10月5日夜、ノーベル文学賞はカズオ・イシグロに、との報道が飛び込んできた。「偉大な感情の力をもつ小説で、われわれの世界とのつながりの感覚が、不確かなものでしかないという底知れない淵を明らかにした」が授賞理由。なぜ村上ではなくイシグロだったのか? これについては確固たる持論があるが、またの機会に。

 カズオ・イシグロの作品を調べてみたら、「夜想曲集」というのがあった。タイトルから「りんクラ」と結び付きそうだ。ならばコッチに切り替えるか。ホットな話題がいいに決まっている。今年の2月は直木賞受賞作「蜜蜂と遠雷」をやって好評だったりもしたし。早速「夜想曲集」を求めて書店に走るが在庫は最早カラ。しからばとAmazonに発注するも、届いたときは放送日を過ぎていた。300頁ほどの文庫本に5つの短編だから長さも手ごろ。タイトル通り全篇音楽関連の話。放送には間に合わなかったけれど、面白く読むことができた。

第1篇:老歌手
 舞台はヴェネチア。離婚を決めている年老いた名ジャズ・シンガーが、カフェ回りのポーランド人ギタリストに伴奏を依頼。運河に浮かぶゴンドラから妻がいるホテルの窓に向かい最後のメッセージを歌う。窓辺に現れなかった妻の微かなすすり泣きが聞こえるラストは感動もの。夫婦の状況を示唆する絶妙な語り口。結末に向かう見事なテンポ感。老歌手の人生からさりげなく滲み出る奥義。受け入れるしかない運命の儚さ。様々な感情の襞が、深く静かに華やかに、ヴェネチアの運河の流れに溶け込んでゆく。5篇中の最高作だ。
♪「恋はフェニックス」「惚れっぽい私」「ワン・フォー・マイ・ベイビー」etc

第2篇:降っても晴れても
 学生時代共通の友人だった男女が結婚。その夫から現在の夫婦生活の危機を救ってくれと依頼された男と彼の妻との間に起こる奇妙なお話。舞台はロンドン。「ラバーマン」はビリー・ホリデイとサラ・ヴォーンのどちらがいい?などの問いかけや、ラストで踊るサラ・ヴォーン&クリフォード・ブラウンの「パリの四月」を8分間続く、とする勘違い(実際は6分19秒)など、興味深し。
♪「ラバーマン」「パリの四月」「ビギン・ザ・ビギン」etc

第3篇:モールバンヒルズ
 イギリス人ソングライターが、夏の間歌作りのため訪れている姉夫婦のカフェで、仕事にも夫婦生活にも行き詰っているスイス人の中年ミュージシャン夫婦と出会う。モールバンの美しい自然に囲まれて、互いの音楽が、人生が、響き合う。設定された舞台がエルガーの生誕地に近く、なかなかに楽しめた。
♪「ダンシング・クイーン」、エルガー、ヴォーン・ウイリアムズ、ヤナーチェクetc

第4篇:夜想曲
 面相の悪さから整形手術を敢行、術後のリハビリでホテルに滞在することになった腕達者のジャズ・サックス吹きと同じ境遇で隣部屋の住人となっているセレブ有名人(第1篇「老歌手」の妻と同一人物)という、顔が包帯ぐるぐる巻きの二人が、ハリウッドの高級ホテルを舞台に繰り広げるちょっと無気味なコメディー。部屋にBang
&Olufsen(デンマークのお洒落なコンポ)が設置されているとはなんとセレブなホテル!
♪「ニアネス・オブ・ユー」、ビル・エヴァンス、チェット・ベイカー、ウェイン・ショーターetc

第5篇:チェリスト
 舞台は、アドリア海に面したあるイタリアの都市。7年前、ハンガリー人ドサ周りチェロ青年と一回りほど年上のチェロを弾けないが才能を見抜く目と教えることに長けた女性との交流が始まる。彼女の特訓で青年は見る見る上達、明日のスターと期待されるも、女性は意に沿わない男と結婚することに。青年は今もまだ、ドサ周りに甘んじている。
♪ブリテン:チェロ・ソナタ、ラフマニノフ:チェロ・ソナタ

 共通する状況設定は夫婦の危機なのだが、読後感が、なんとなくホンワカとしている。なぜかと思ったら、物語の締め方だった。〜ぼくに何がわかる? はたして彼女は正しいのだろうか? 何もわからない・・・・・など、おしなべてフワっとしたエンディングなのである。「自分が小説を書く上で大切にしていること。それは心情を伝えること。私はこう感じる、君たちはどう感じるだろうか。人間は経済活動だけでは不十分、人間としての感情を分かち合うことが重要だ」。先日見たTV「カズオ・イシグロの白熱教室」での発言だ。彼は投げかけるだけ。決して押し付けない。どう感じるかは読む人の自由。共感してくれればうれしい。でもしてくれなくても構わない。感情を分かち合えることが重要なのだから。ホンワカしているのはそれが理由だろう。

 12月10日はノーベル賞の授賞式。カズオ・イシグロの受賞の弁が楽しみである。

 11月の「りんクラ」で「夜想曲集」を取り上げようかと一度は考えた。クラシック曲もそこそこ出てくるし、副題が「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」で、「夕暮れ」は「枕草子」の「秋は夕暮れ」にも繋がる。でもちょっと弱い。そんな折、ディレクターのNoririnから「FMえどがわ」特大号なる番組冊子を渡される。読むと「11月30日は開局20周年」との文言が飛び込んできた。これだ! 開局20周年に引っ掛けて「20」をキイワードに選曲しよう。

 まずは“第20番”と名の付く曲の代表として、モーツァルト作曲:ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K466 を選曲する。特徴はニ短調という調性。両端楽章は陰鬱ながら黒水晶のような美しさがある。これらに挟まれる第2楽章は変ロ長調。対照的に明るく安らぎに満ちた曲想だ。20周年に相応しい第2楽章をお届けする。
 演奏はマルタ・アルゲリッチのピアノとクラウディオ・アバト指揮:モーツァルト管弦楽団。アルゲリッチは、今年の5月、水戸芸術館で小澤征爾:水戸室内管弦楽団でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を聴いた。これも素晴らしい演奏だったが、アンコールに弾いたシューマンの「献呈」が圧巻だった。音楽が天空を駆けまわっていた。

 2曲目は、大作曲家20歳のときの作品をお届けする。20歳までにちゃんとした作品を書いている人は、神童/天才と呼ばれた人たちに限られる。天才モーツァルトは、オペラや交響曲、ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲など、既にたくさんの名曲を書いている。彼に負けず劣らず凄いのはシューベルト。「歌曲王」と呼ばれ生涯に600曲以上の歌曲を作ったシューベルトだが、20歳までになんと半数の300曲以上を作っている。

 今日は、シューベルト20歳、1817年の作品、歌曲「ます」をお聴きいただく。20歳のときに作った歌曲は、この他に「死と乙女」「音楽に寄せて」などがあり、有名な「魔王」や「野ばら」はそれ以前10代の作品。彼の早熟ぶりがうかがえる。
 詩は、クリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルト(1739−1791)。文豪ゲーテやベートーヴェンの「第九」の作詩者・シラーの、先輩格にあたるドイツの詩人だ。

 では、シューベルト作曲:歌曲「ます」をエリー・アメリンクのソプラノ、ルドルフ・ヤンセンのピアノでお贈りする。エリー・アメリンク(1933−)は20世紀を代表するオランダの名ソプラノ。透明な歌声と躍動感あふれる歌唱で、清流を泳ぐ「ます」の活き活きした姿を見事に表現している。

 最後の一曲はハプニング選曲を。 実は11月25日は「りんクラ」パーソナリティー奈良禎子さんの誕生日なのだ。ここは渾身の曲プレゼントで締めようではないか。選んだのはワーグナー作曲:ジークフリート牧歌である。これぞ、クラシックの歴史において、究極・最高のバースデー・プレゼントだと思うのである。

 ワーグナーは作曲家リストの娘・コジマと結婚。56歳のとき待望の男の子が誕生。そのとき作曲中の楽劇「ジークフリート」にあやかって、ジークフリートと命名した。楽劇の中で「ジークフリートは世界の宝」という台詞があるが、授かった男の子はまさに“ワーグナーの宝”だった。そんな、宝物を授けてくれた奥さんへの感謝の気持ちを込めて作ったのが「ジークフリート牧歌」である。
 1870年12月25日、コジマの誕生日の朝、コジマがまだ2階の寝室で寝ている時間に、階段に15人の楽師を配置。静かに始まった音楽は徐々に音量を増してゆく。コジマ、夢うつつの中、音楽を聞く。寝ぼけ眼でドアを開けると、階下に通じる階段で夫ワーグナーが指揮する小オーケストラが自分の誕生祝いの曲を奏でている。この時のコジマの感激やいかに!流石音楽史上の巨人のプレゼント、超ど級のスケールではないか。

 曲は、作曲中の楽劇「ジークフリート」などから、幾つかの動機を使って構成されている。
 「愛の平和」の動機とか「世界の宝」の動機など、ワーグナーが選んだ動機は、優しく愛情に満ちたものばかり。彼のジークフリートへの愛情とコジマへの感謝の念がよく表れている。ということで、本日最後はワーグナー「ジークフリート牧歌」を、奈良さんへのお誕生日プレゼントとしてお届けする。演奏は、ブルーノ・ワルター指揮:コロンビア交響楽団。

 ブルーノ・ワルター(1876−1962)は19世紀から20世紀にかけて活躍。トスカニーニ、フルトヴェングラーと共に3大指揮者と呼ばれた巨匠。「ジークフリート牧歌」の慈愛に満ちたスケールの大きな表現は、同曲中随一の名演奏である。

 奈良さん,お誕生日おめでとう。そして、FMえどがわ20周年おめでとう。ひとまず、次なる10年に向けて頑張ってゆきましょう。
 2017.10.25 (水)  小池百合子の失敗〜希望から絶望へ
 10月23日の朝刊に踊る 総選挙 自民圧勝、希望惨敗の文字。前回「クラ未知」では、「橋下を擁立すれば小池・希望は勝てる」と提言したが、表現を変えれば、「橋下擁立がなければ小池・希望は負ける」ということだから、これは当然の結果だった。総選挙を総括する。

 総理大臣・安倍晋三。森友・加計問題に見る権力の私的濫用。文書隠しという不都合の隠蔽。一片の誇りもない米ロへの追従。誠意の欠片もない国会運営。聞くも恥ずかしい見え見えの嘘。弱者への傲慢な態度。なりふり構わぬ延命工作。こんな諸悪の見本市みたいな男に日本の政治を任せておくわけにはいかない。そんな折、臨時国会冒頭に伝家の宝刀を抜いた。解散総選挙である。狙いは「勝ってすべてをリセットする」、目論見は「今なら勝てる」。まさに自己都合だけの職権行使。こんな卑劣な政治行為を絶対に許すわけにはいかない。だが選挙は相対的選択行為。受け皿がなければ巨悪に勝てない。そこに現れたのが小池・希望の党だった。

 小池百合子は、昨年、裸一貫捨て身で臨んだ都知事選を制し、今年、都議選にも大勝利。安倍政権を倒す力は備えつつあった。解散総選挙を想定し、2月には「希望の党」の商標登録を済ませてもいた。とはいえこの時期、虚を突かれたのは事実。準備不足は否めない。だが、安倍政権への批判がここまで高まる好機はもう来ない。打って出るのは今しかない!

 9月下旬、「希望の党」は結党した。対立軸は安倍政権。スローガンは「寛容な改革保守」と「しがらみのない政治」。敢えて使った「保守」というワードに小池らしさを見たものの、解りにくさは否めなかった。「しがらみのない政治」も迫力に欠けた。安倍政権を対立軸に戦うのなら「邪悪政治の撲滅」とか、きつければ、「清廉で誇りある政治」とかが妥当だったのではなかろうか。急仕上げの隙が垣間見える。

 小池百合子は、この選挙を「政権選択選挙」と位置づけ、一気に政権奪取を目論んだ。まさに大勝負!天下分け目の戦いである。「政権選択」ならば、過半数233の議席獲得が必要で、そのためにはそれ以上の擁立が不可欠。さらに、政権奪取した際の首班の顔が見えていなければならない。総理大臣は国会議員に限られる。小池は東京都知事。辞して自ら出馬するか留まってそれなりの人間を立てるか。二者択一しかなかった。

 結党の理念とスローガン、選挙の大義と戦略は構築した。あとは候補者擁立である。民進党党首・前原誠司は、古い名前のままでは戦えないとして、丸ごと「希望の党」への併入を試みた。希望の党の側から見ると、民進党現職衆議院議員の数は魅力的。候補者擁立の大きな核となりうる。喉から手が出るこの状況。しかし、小池は筋を通す。「全員を受け入れる考えはさらさらない」。政治理念を異にする者の排除だった。民進党=旧民主党の失敗は理念の異なる者の寄せ集め政党だったこと。この轍を踏むまいとした小池の決意は正解のはずだった。

 公認のため候補者は10か条の「政策協定書」へのサインを求められた。この手順にも間違いはなかった。政党における理念の一致は一定程度不可欠なのだから。問題は言葉遣いだった。記者からの誘発だったにせよ「排除する」は強烈過ぎた。この言葉が流れを変えた。

 「排除」という言葉が生まれてしまった理由の一つは選別の主軸に「安全保障」を置いたことではなかったか。小池の政治理念から鑑みてどうしても受け入れられない概念。それは「安全保障」における甘えの体質だ。「憲法死守イコール平和」とする短絡的甘えの構造。小池にとって「安全保障」とは戦って勝ち取るもの。この基本を異にする者は受け入れられない。だから「排除」という強い言葉が出てしまったのだ。

 国政において、「安全保障」ほど微妙な問題はない。戦争放棄と戦力不保持を標榜する「憲法第9条」の下、自衛隊という明らかな軍隊を持つ構造的矛盾。専守防衛を標榜しながらも集団的自衛権行使を可能ならしめる安保法制を整備した現実対応に孕む矛盾。日米同盟に守られて経済発展を遂げてきた戦後日本の歴史。唯一の核被爆国でありながら核兵器廃絶を主張し得ないジレンマ。基地の大半を沖縄に置く不公平。理不尽な地位協定。非核三原則の死守云々や核保有の是非論まで。理念も実務も歴史背景も憲法解釈においても、諸々の矛盾を抱えパラドックスに満ちた超難題なのである。国民の考え方も多岐多様。米国の傘をアリモノと見做し現行憲法を守ることだけで平和が達成されると考える平和ボケの人たち。日米同盟への過信から米に盲従する人々。隣国の脅威を必要以上に煽る軍事志向者。経済負担を考えずに自主防衛を唱える無鉄砲な勇者、などなど。国を守るということは愛国心と密接に関わってくる。愛国心は理性よりも感情に左右され勝ちだ。だから割り切れない。是非を決められない。押し付けられない。ことほど左様に、安全保障は一筋縄では済まされない。政治家にとって、これほど厄介な問題はないのだ。

 小池百合子は、「安保法制」を選別の最前列に持ち出した。これがさらなる傷を深めた。「安全保障」に無関心な有権者にも、一昨年、安倍政権が先導した、紋切り型答弁に終始し議論不足のまま力づく採決によって押し切った「安保法制」一連の流れは、少なからず記憶に残っている。国会外で沸き上がった「阻止」コールの映像もリアルに記憶しているはずだ。「安保法制」は、今日に繋がる安倍邪悪政治の発端でもあった。
 だからして、「安保法制」が「踏み絵」となった瞬間、有権者は驚嘆した。「なんだ、安倍政権と同じじゃないか」。小池百合子と安倍晋三の同一視。抱いていた小池百合子像が崩れ落ちる。安倍邪悪政権を糾弾する正義の騎士ではなくなったのである。「排除する」のフレーズがさらに拍車をかけた。側近・若狭勝の発言も悪影響を与える。「政権奪取は次の次」は覚悟と一貫性のなさを、「候補者過半数を擁立できなければ、小池氏は出ない」は、利己と保身を露呈した。偶像は加速度的に転げ落ちていった。小池百合子は、人生のもっとも大事な時期に、禁断のテーマを選択し禁句を発してしまった。油断と傲慢の産物? 小池百合子の致命的なミステイクだった。

 政治には表と裏がある。選別において、裏で安全保障を問うのはいい。表では別のテーマ、もっと単純で当り障りのないもので問うべきだった。例えば、「日本国憲法」死守か否か?程度の。まずは「死守する」を排除して、裏で「安保法制」を問う。そこで選別をすればいい。表は優しく裏で厳しく。世間は表しか見ていないのだから。
 選挙は「どう見せるか」に成功したものが勝つ。それを一番知っていたのは小池百合子だったはずである。近年の彼女の勝利は「巨悪に立ち向かう健気な弱者」を演じたことではなかったか。それが、公認候補者選び以降、「排除する強面女」「邪悪な権力者を凌ぐ強権者」に映ってしまった。世間は引く。マスコミは煽る「一緒に写真が3万円」「都民ファースト都議離党」「希望の党は民進党の金目当て」などなど、昨日礼賛、今日誹謗。あまりに無節操! でもこれはいつもの話。「ブレない真面目な弱者」枝野幸男の「立憲民主党」に注目が移る。今回のテーマであるはずの「安倍邪悪政権の糾弾」が「小池百合子の失態追及」にすり替わる。小池に逆風、安倍に順風。完全に潮目が変わってしまった。たった数日間の出来事。公示日が迫る。

 「希望の党」はなんとか過半数以上を擁立した。残るは自身の出馬か存在感ある「ミスターX」の擁立。ミスターXの名は橋下徹。これが私が提言した「希望の党」逆転の発想だった。
 「小池さん、出ても出なくても無責任」とは自民のホープ小泉進次郎の演説だったが、この揶揄を払拭する唯一の方法が橋下を共同代表として国政に送り込むことだった。小池は都政に専念し、橋下は国政に手腕を発揮する。これぞ必殺の一手だったはず。(巷では、「小池が国政に出た後の都知事に橋下を」は流布したが、「橋下擁立」の着想はほとんど聞かれなかった)。

 ところが、見ての通り、10月の公示日、「希望の党」の候補者リストに橋下徹の名はなかった。小池にこのアイディアがなかったのか? 口説いたのに断られたのか? 諦めてトライすらしなかったのか? 永久にわからないだろう。いずれにしても、この時点で勝負はついた。橋下擁立という必殺技を繰り出せず、消化試合さながらの選挙戦は、自民党圧勝、希望の党惨敗という結末を迎えた。言葉の怖さを思い知らされた選挙だった。

 「希望の党」の出現で安倍邪悪政権打倒を期待した総選挙は見ての通りの結果に終わった。安倍晋三は、懸案はすべてリセットされたと陰でほくそ笑む。森友・加計学園問題は未解明のまま封印され、米国への盲従はさらに強まり、対ロ外交も自主性なしの追従に終始する。核兵器禁止の意思表示の糸口も見出せず、尊重を置き去りにした小手先の憲法改正論議が始まる。邪悪政治がますます幅を利かせだす。この虚しさ、遣る瀬無さ。

 小池百合子は負けた。希望が絶望に変わった。マスメディアは一斉に不手際を叩く。でも待ってほしい。たった一月前、世間は彼女に「打倒安倍政権」を託したのではなかったか。彼女に巨悪の糾弾を託したのではなかったか。「排除」という一言はそれほど悪辣な言葉なのか。政党が理念の違うものを排除することがそれほど悪いことなのか。そんなことで真の巨悪をのさばらせてしまっていいのか。有能な政治家を潰してしまっていいのか。日本国民は今こそ本質をしっかりと見つめなければいけない。
 2017.10.04 (水)  小池百合子必勝のサプライズ〜最後の一手はミスターXの出馬だ
 めまぐるしく変わる政局の中、小池百合子は10月3日こう断言した。「100%私は出ません。都政に専念します」「希望の党は過半数233人以上の候補者を擁立して政権奪取を狙います」。マスメディアはこの矛盾を突く。出馬せずに過半数がとれるはずはない・・・・・もっともである。だが、あの賢明な小池百合子が、意図なくこんな矛盾発言をするだろうか? 必ず裏があるはずだ!と私は読む。

 10月2日、リベラル派・枝野幸男が新党「立憲民主党」設立を表明した。総選挙政局は日々刻刻目まぐるしく変わる。正に猫の目だ。これで民進党の解体は形の上でも確定した。とっくに役割が終わっている寄せ集め政党の解体は実に喜ばしい。

 「希望の党」は現在、民進党との合流問題でゴタゴタの様相を呈している、と世間には映る。でもこんなこと、小池氏にとっては想定内。マスメディアは合流というが、小池氏は最初から合流とは考えていない。選別である。だから、一部で顰蹙を買う「全員を受け入れるつもりはサラサラない」発言は既定方針を貫いたまで。小池&前原会談でこの基本は確認しているはず。なのに、前原氏が「全員受け入れ」と言ったのは勘違いか二枚舌か確信犯か。どちらにしても揉めるのは当たり前。利にさとい政権与党がこの虚を見逃すはずがない。

 安倍首相は「政策・理念を捨てて野合する政党でいいのか?」〜と牽制するが、これは的外れ。2009年小沢・民社の話。「希望」は政策・理念を一致させたいから選別しているのだ。
 菅官房長官は「政策なし、選挙目当ての数合わせ」〜これは違う。政策があるから「リベラルを排除」するのだ。
 山口公明党委員長は「政権を獲れない人たちが名前を変えただけで獲れるはずがない」〜だからどうなの。党首は根幹の一致を図って動いているのだから見守ってくださいな。
 共産党小池書記局長は「希望の党は自民党の補完勢力だ」〜これはその通り。何が悪いのって胸を張ればいい。
 人気者・小泉進次郎は「希望の党は民進党のコスプレ。小池さんは出ても出なくても無責任。今まさにこのジレンマに陥っている」〜流石進次郎、説得力がある。「出ても出なくても無責任」。さて、小池百合子「希望の党」これにどう対応するか?が今回のテーマだ。

 これらの批判が功を奏したのだろう、「希望の党」の勢いは減速気味。最新の世論調査(10月1日付)では、「比例でどの党に投票する?」に対し、「自民」24.1、「希望」14。「まだ決めてない」が42.8。マスメディアは希望の14を不振と見る。確かにこのままでは勝てない。が、こんな数字は一夜にして変わる。ポイントは42.8の無党派層だ。もし、42.8の内27が希望に流れれば、残り15.8が全部自民にいっても、41対39.9で勝てる。これは投票日までに実現すればいいこと。焦ることはない。2週間強、まだ時間はタップリある。

 10月3日、「希望の党」第1次公認候補192名が発表された。過半数の233まで41名。これ以上の数字を公示日までに間に合わせなければならない。実質10月6日だ。これは結構忙しい。でもやるといったからには出してくるだろう。
 この間僅かだが、「希望の党」に関連する話題を絶やさないことが肝心だ。「三都物語」もいい。他からの批判も大歓迎。枝野さんの新党結成、どうぞおやりください。側近・若狭勝の失言「小池氏は233人候補者を立てられなければ出ない」と「政権奪取は次の次でいい」は「オイオイオイ」だが・・・・・小池氏は口封じを命じたそうだがもっともだ。党首が「出ない。ここで政権奪取」と言っているのだから。まさに真逆。本来なら首ですよYou’re fired。まあ、無能ぶりが露呈しちゃったのだから、いずれは?
 あと、注意すべきは「理念・政策」でぶれないこと。数がほしいからといって、例えば、「リベラル排除」を撤回したりしないこと。あくまで「改革保守」「改憲」を貫くこと。無論「しがらみのない政治」は訴え続ける。

 小池氏が「安保法制反対者」を受け入れないのなら、昨年の安保法制国会で反対した民社党議員はだれも入れないはず、という意見に対してはこう反論すればいい・・・・・民主党議員の中には「安保法制」そのものに反対の人もいればそうでない人もいる。そのものに反対する人にはご遠慮願う。そうではない、あの時の政権運営とマヤカシ推進に反対した人たち、この人たちは受け入れる。「反対」には二種類ある。一面的に見ないでほしい。これでOK。

 戦術の核は「安倍政権の邪悪さ」を徹底的に突きまくること。しがらみのない政治の「希望の党」は体質的にそんな安倍政権とは明白に違うことを一貫して主張し続けることだ。今は、結党のゴタゴタで論点がズレ始め、「安倍政権の邪悪さ」「大義なき解散」が隠れつつある。これは自民の思うつぼ。先述若狭氏の失言「負けるなら出ない」は小池氏の我欲ととられる。これは出さないこと。あくまで国民ファーストを貫くことだ。

 10月6日までは、自民21.1、希望14のままでいい。いきなりサプライズを出すのだ。世論調査で、「小池氏が知事を辞めて出馬するのは良いと思うか」に対し、「思わない」が72%。この数字は大きいし変わらないだろう。ならば小池氏は出るべきではない。尤も本人は出る気はないはず。ならば、どうする?

 出馬しなければ政権は取れない。でも出ない。この矛盾を一気に解決する方法。それは、小池氏はそのままに、政治理念が同じで人気があって華がある「希望の党」の看板になりうるミスターXを出馬させる。これしかない。ミスターXは小池氏と共同代表となり、選挙戦を二枚看板で戦う。キャッチフレーズは、「都政は小池 国政はミスターX」。二人で安倍政治の邪悪さを突きまくる。主要テーマは加計問題と第9条改憲案が適当か。リベラルに対しては、得意の安全保障で攻めまくる。「あなた方はどうやって日本を守るつもりなのか」。これでいい。

 勝った暁には総理大臣指名選挙でミスターXの名前を書く。安倍晋三退陣。このシナリオが成立する!? そんなミスターXが存在するのか? 日本にたった一人いるのである!

 ミスターXの名は橋下徹。彼は現在フリーの身。先日TVのレギュラー番組「橋下徹と羽鳥慎一」も終了させた。政界から引退したと云うが、かつて「20,000%ない」と言って出た人である。あってもおかしくはないではないか。出馬元は「希望」か「維新」か。「小池&橋下」の二枚看板さえ掲げられれば、どちらでも構わない。希望の場合は共同代表、維新のままなら共闘で。10月6日、「希望の党」か「日本維新の会」のどちらかのリストに橋下徹の名前を入れる。これぞ小池百合子最後の一手。超ド級のサプライズだ。

 橋下氏は2011年、当時海のものとも山のものともつかない松井一郎とタッグを組んで、大阪都知事大阪市長W選を圧勝した実績がある。今度の相方は小池百合子。まさに最強タッグではないか。
 二人が選挙カーの壇上から「邪悪安倍政権を倒そう!チャンスは今だ!」と拳を振りかざす。これは迫力ありますよ。一気に風が吹く。山が動く。安倍自民は壊滅的敗北。これが、私が考える「希望の党」必勝のシナリオである。

 保守二大政党を不安視する向きもあるだろう。でもよく考えてほしい。これまで、1955年以降60数年(この間10年弱を除き)は、保守(自民党)内での政権交代の繰り返しではなかったか。ならば同じこと。党が別なら緊張感も増す。リベラルは、立憲民主党と共産党にお任せする。小沢氏には引っ込んでもらう。保守とリベラルのすみ分けがはっきりした。民進党の解体でいい形になった。

 問題は橋下氏に出馬の意志があるかということ。小池氏が「橋下さん、あなたが一緒に戦ってくれれば、間違いなく勝てます。邪悪な安倍政権を倒しましょう。今がチャンス。一緒につかもうではありませんか。私は東京五輪が終わるまでは都知事に専念します。その後は国政の場であなたと力を合わせて頑張るつもり。橋下さん、このチャンスを活かさない手はないじゃありませんこと。ご決断を!」と口説けば、橋下氏は承諾するはずである。男児たるものこの千載一遇のチャンスに賭けない手はないではないか。

 三都物語なぞは東西大連立の伏線に過ぎなかった。小池百合子&橋下徹の最強タッグで、邪悪安倍政権をぶっ潰してほしい。これが私の夢である。単なる空想で終わるかもしれないが、誰よりも先んじてこのようなストーリーを描けただけでも満足の巻だ。
 2017.09.29 (金)  政変は8年周期でやってくる!?〜小池百合子は「この戦は勝てる!」と踏んだ
 安倍内閣総理大臣は、9月28日、衆議院解散を断行した。「国難突破」解散だそうだ。解散理由は、「2019年に増税する消費税の使い道の変更と北朝鮮の脅威への対応」に対して国民の信を問うこと。これは建前。本音は「今なら勝てる」。
 こんな後付け解散を許していいのか!でも受け皿がない。どうしたものかこの閉塞感、と悩んでいたら、なにやら情勢が変わってきた。小池百合子が新党「希望の党」を立ち上げたのである。党名は今年2月に商標登録済みというから抜け目がない。それにしてもこの情勢激変のスピード感。何とか捉えて、結果予想までいってみよう。キイワードは「閉塞感」と「8年周期」だ。

(1) 安倍さん、あなたには飽き飽きだ

 今回の解散は大義なしの後付け、安倍首相の本音は「今なら勝てる。勝ってしまえばすべてはリセットだ」と大多数の国民は感じている。そして昨今の言動から、この方には信頼がおけないとの思いが定着している。口先ばかりで約束を守らない。敢えて言えば嘘つきだ。嘘つきに国政を任せてはいけない。「丁寧に説明責任を果たす」と言いながら国会を閉会。閉会中審査にも外遊を理由に欠席。出てきたと思ったら「加計氏と獣医学部設立の話はしたことがなく、今治市への申請を知ったのは今年の1月20日」だって。一体、誰が信じるの! 国家戦略特区まで立ち上げて、“腹心の友”の便宜を図る。これを権力の私的濫用という。民主国家にとって最もあるまじき行為だ。この一点だけで辞任は当然。なのに、延命工作に余念がない。解散もその一環。「民主党はゴタゴタ、小池新党は準備不足、競争相手がいない今なら勝てる。勝ってしまえばコッチのもの。すべてリセット、シャンシャンシャン。念願の憲法改正、東京五輪は開催国の首長、在任記録の更新など、政治家として描いた夢が実現する。ここは何が何でも解散だ。大義などありゃしない。後付けで十分だ」とほくそ笑む。なんとも姑息。こんな人間に国家の長を任せられるわけがない。政権交代しかないではないか。でも受け皿がない。山尾問題がなくても民進党は終わっている。維新は旬が過ぎた。いまさら共産党でもないでしょう。この閉塞感。あきらめるしかないのか!? そこに忽然と現れたのが小池「希望の党」だ。

(2)「希望の党」の出現で状況は一変した

 9月25日、安倍総理の解散〜10月22日総選挙の表明に先立って、小池都知事は「希望の党」設立を宣言した。27日には結党表明。政治をリセットする。ここまでの結党への過程もリセットし自ら党首となった。綱領の二本柱は、「寛容な改革保守政党」と「しがらみのない政治」。自民党と同じ保守としながら、改革を標榜する。小泉改革、細川国民新党の流れ。これは斬新だ。二大政党実現の予感がする。選挙スローガンは @しがらみのない政治 A消費税の一時的凍結 B脱原発などである。民進党に対しては、党同士の連携はないと釘を刺す。これ、民進党の解体狙い。事態は進み、民進党は解体合流の方向だ。新党の陣容は現在14名。最終的には3桁の候補者を擁立するようだ。都知事との二足の草鞋への不安に対しては、「前々任者の石原知事が週1日の登庁で回せたのだから、毎日登庁している私にできないわけがないでしょ」と一蹴。質問者はグーの音も出ない。それよりもなによりも、都知事辞職〜出馬もあり との憶測も。でも、これはやりすぎ。調子に乗り過ぎない方がいい。と思うけど、桁外れの天才はやっちゃうかもしれない・・・・・小池VS安倍という対立軸も明白に作り上げた。では、選挙戦をどう戦う?

 小池氏は選挙演説で安倍自民を徹底的に叩く。願望を込めてその内容を下記
有権者の皆様、果たして政治が今のままでいいのでしょうか。疑惑を隠し説明責任を果たさない。仕事人内閣と言いながら、仕事もせずにいきなり解散? 一体誰のため。どこを向いて仕事をしているの。どう考えても国民のための政治とはいえません。私たちは国民ファースト「しがらみのない政治」を目指します。

消費増税分の使途を、幼児教育の無償化や高等教育の負担軽減に変更ですか。結構でしょう。でもこの信を問うことが解散理由になるのでしょうか。むしろ、財政健全化への道筋を説明することが先決なのではないですか。日本の借金は1000兆円を超えています。この重要課題を先送りするなら、それは未来を背負う子供たちに付けを回すことになるのです。

安倍さん、あなたがお披露目した憲法第9条の改正案。あれはいったい何ですか? 第1項第2項の条文をそのままに、自衛隊の存在を明記するって、そんなことが本当に可能だとお考えなのですか? 第2項には「戦力は保持しない」「国の交戦権は認めない」とはっきり書かれています。軍隊である自衛隊の存在をどう明記するとおっしゃるのですか? 第3項を設けて、「第1項及び第2項においては、自衛隊の存在を排除しない」とでもするおつもりですか。これをまやかしというのです。安保法制であれだけ無理なお願いをした憲法に、まだ負担をかけるつもりなのですか。これでは憲法が可哀そう。これは憲法に対する冒涜です。私たちも改憲論者です。でもこんな小手先のご都合主義の改憲は考えておりません。「希望の党」は国民のための改憲を目指します。

福島はまだ復興途上。廃炉の道筋もまだ見えず、核廃棄物処理も未解決。こんな状況で、もうインドに原発のセールスですか?無節操でしかありません。私たちは原発0の工程を作成します。日本が唯一の被爆国ということをお忘れなんですか。国連の核兵器禁止条約決議を棄権しましたね。北朝鮮の核問題ではアメリカに追従するばかり。本来、核廃絶を世界に訴えてから北朝鮮に停止を促すべきなんです。日本ならそれができるはず。北方領土問題も、プーチン大統領のペースに嵌まってしまった。領土問題を棚上げして、経済協力に同意? これで、どうして領土が返ってくるんですか。私たちは、保守は保守でも国益に叶う政治を行います。

小池さんの脇を、小泉、細川両元総理が固める。脱原発を熱く訴える。二人とも人気はまだまだ健在。この光景は魅力的。相手攻撃と自己政策に少々矛盾があっても構わない。選挙なんて相対論。悪いやつを潰すには多少の齟齬には目をつぶろう。
(3)「希望の党」圧勝のシナリオ

 ここで、「クラ未知的」大胆予測を・・・・・「希望の党」大躍進。自民党壊滅的敗北。もしや政権交代も!? 「勝てる」と踏んだ安倍首相は解散を撤回したい心境では?

 安倍総理は、「目標は?」の質問に対し、「政権与党は引き続き政権を担うのが目的。公明党と合わせて過半数の233が目標だ」と表明。現有287議席と圧倒的過半数を誇る第一党党首がこの弱気発言。「希望の党」の台頭に恐れ慄いている証拠。ハードルを下げてギリギリ延命を図る目論見か。解散宣言後の記者会見もオミットの弱腰。ならば小池さん、ここは思い切って引導を渡してやろう。直近の世論調査では自民党支持率は30%台に急降下している。

 定数465の内訳は小選挙区289、比例代表176。過半数は233。衆院の現有勢力は、自民287、公明35、民進87、共産21、維新15、自由2、社民2、無所属23、欠員3 。この数字、10月22日にはどうなっているだろうか?

 希望の党(吸収した民進党を含む)170。維新そのまま15。共産現状維持で20。公明も現状維持で35。無所属等20。引き算すると自民は205。大幅に単独過半数を下回り、連立与党としても240と過半数ギリギリ。これは壊滅的大敗。安倍首相、引責辞任は必至の体だ。

 以上が私の大胆予測だが、条件が満たされれば決して不可能ではない。民主党が圧勝した2009年の政権交代選挙。多くの無党派層が投票所に足を運んで、投票率は69%。候補者330人の擁立で308議席を獲得した。
 これに倣えば、投票率が同等で「希望の党」が200人近い候補者を立てられれば、170議席は見えてくる。そして、もう一つのもしや?を。

 もしここで、公明党が寝返って「希望」他と連立を組んだらどうなるか? 自民205VS連立235(希望170公明35維新15革新系無所属等15)となり政権交代が実現する。では、公明党がそうする可能性はあるのか? 公明党は1993年細川政権では連立与党だった。そのわずか6年後、自自公連立へと寝返っている。あってもおかしくない話ではないか。小池氏が、「総裁選はだれに投票?」なる質問に、「公明党の山口代表かな」とサラリ言ったのは、もしや、なにかのシグナルかもしれないぞ!?

 なんとなく政権交代が見えてきた? 民意が一気に動くとき、奇跡が生まれる。政治が変わる。1993年細川連立政権の誕生。2001年小泉純一郎の抵抗勢力への挑戦。2009年民主党の政権交代。すべて起爆剤は「閉塞感」。そして、2017年小池百合子の逆襲。政変は8年周期でやってくる!?

 それにしても5年前の自民党総裁選で負け組に乗り、冷や飯を食い、活路を求めた都知事選も、蓮舫氏の出方を見ながらの出馬だった小池百合子が、今まさに天下取りにまっしぐら。なんとも壮観である。時宜を感知する確かな目、したたかな計算、即断即決と実行力、人心掌握の力、類まれな度胸。政治家としての資質をマルチに備えた小池百合子こそ閉塞感を打破する救世主ではなかろうか。

 もしかしたら8年ぶりの政権交代が起こるかもしれない。そうでなくても安倍体制の崩壊は必至と見る。10月10日公示〜22日投開票。日々刻々と変わる総選挙の情勢を的確に見守っていきたいと思う。
 2017.09.20 (水)  旧Cafe ELGAR店主からのメールを読んで〜後編「誤認を訂正する」
 では旧Cafe ELGAR店主(以下E氏)からのメールの続き。「相棒〜消えた死体」第14景台本の全容である。

14 名曲喫茶『ライオン』
『愛の挨拶』が流れている。
多治見と向かい合わせに座っている右京。静かにはなし込んでいる。
多治見 「そうですか。エルガーお好きですか」
右京  「すきですねぇ」
多治見 「特に『エルガーのミニチュアール』は素晴らしい」
右京  「ノーマン・デル・マーの名盤ですね」
多治見 「ええ、彼が指揮するエルガーは絶品です」
右京  「その中でも『愛の挨拶』が特にいいですねぇ」
多治見 「(宙を指し)コレですね」
右京  「ええ、その盤はアレンジが他と違っているんですよ」
多治見 「ええ、知っています。
     ここに『エルガーのミニチュアール』があれば素晴らしいんですがね」
多治見 「いやー、素敵な方とお知り合いになりました」
右京  「私も、この店で初めて他の方と話し込んでしまいました」
多治見 「わたしはねぇ・・・・・」
右京  「はい?」
多治見 「友達がいないんですよ・・・・・(言って笑い)
     まして音楽のお話できる方など会えるとは思っていなかった」
右京  「それは恐縮です・・・・・またお目にかかれるといいんですが」
多治見、右京の物腰に興味を示す
 太線部分多治見の台詞は、私の聞き取りでは「ここに『エルガーのミニチュアール』があるのが素晴らしい」だった。実際の台本は「あれば素晴らしい」だから、ないことを示唆している。
 ドラマの音声を再度聞き直したら、台本通りに間違いはなかった。私の聞き違えである。まだ耳に衰えはないと自負している私が聞き違えた原因は、私の「思い込み」と「役者の不明瞭な発音」である。
 二人の蘊蓄があまりにも説得力があったから、そこで鳴る演奏はデル・マー「ミニチュアール」の「愛の挨拶」に違いないと思い込んでしまった。この時点で私は「ミニチュアール」を聞いていないのだから識別できるはずもない。しかも多治見役の若松武史の発音がかなり不明瞭。ムムムと口ごもるような発音。台本を見ながら聞けば確かに「あれば素晴らしい」なのだが、思い込みから「あるのが素晴らしい」と聞こえてもおかしくはない。とはいえ、「相棒」スタッフに、少なくとも悪意はなかった。前回「クラ未知」での「スタッフの良識を疑う」とする私の発言は慎んで撤回させていただく。

 さて、せっかくE氏から貴重な資料をいただいたのだから、「相棒〜消えた死体」第14景が確定するまでの経緯を、私の観点から総括しておこう。推量5割はお許し願いたい。
2003年某日、東映TVの助監督らしき人からE氏に電話が入る。「『エルガーのミニチュアール』(ノーマン・デル・マー指揮)のアナログ・レコードを探しているが、どこかで手に入る方法はないか。水谷豊主演の『相棒』の小道具として使いたい」

E氏「CD時代なので中古品を探すしか方法がないと思うが、よかったら私所有のLP盤をお貸ししましょう」と応え、LP「ミニチュアール」のジャケットを貸し出す。

「相棒」スタッフは、小道具としてジャケットが使えることを確認。脚本の櫻井武晴氏は脚本作りに着手。第14景を渋谷の名曲喫茶ライオンに設定。水谷豊演ずる杉下右京と若松武史の多治見が隣り合わせで会話。会話のテーマを、“デル・マーの「愛の挨拶」(「ミニチュアール」収録)”に設定。Cafe ELGARのウェブサイト等を参考に「デル・マーの『愛の挨拶』は他とはアレンジが違う」などと蘊蓄を盛り込む。

ライオンで流すのは当然デル・マーの「愛の挨拶」が望ましく、スタッフは音源取得に走るが、期日までに見つからない。取得できたのはアンドリュー・デイヴィス指揮:BBC交響楽団のCD。やむなくこれを使うことにする。

使用する音はアンドリュー・デイヴィス盤、二人の蘊蓄はデル・マー盤。これをどうする?櫻井氏は多治見の台詞を「ここに『エルガーのミニチュアール』があれば素晴らしいんですがね」とした。これで、なんとか辻褄を合わせたのである。 ラストで、実は事件の黒幕だった多治見が、留置場で、右京差し入れのLP「ミニチュアール」を受け取る。これぞE氏提供の現物。感慨深げにジャケットを見つめる多治見。心の中で「ライオンでは聴けなかったデル・マーの『愛の挨拶』を出所後の楽しみにして、しっかりお勤めを果たしなさい、というメッセージか。杉下右京、粋なことをする人だ」とつぶやいたに違いない。
 以上が「相棒」〜「消えた死体」第14景にまつわる一連の流れである。この放映を見た私が誤認。今年5月の「クラ未知」で「会話内容と演奏が違う」と指摘。これに眼を止められたE氏が連絡を寄せてくれた・・・・・以上が今回の顛末である。

 思い込みによる誤認とともに反省すべきは、「その盤は、アレンジが他と違っているんですよ」の検証を怠ったこと。「アレンジが違う」ならどう違うのかを検証すべきだったのに・・・・・。そのため、先日、東京文化会館4Fの「音楽資料室」で、「愛の挨拶」エルガーのオリジナルのオーケストラ譜を確認複写。コピーして持ち帰り、照合。この結果を下記。

@ 楽器編成は、フルート、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、弦楽5部
A 主旋律を奏でるヴァイオリンに「ソロで」という指示はない 
B その代わり sul A.=A線で弾け という指示がある

エルガーの自作自演盤(1929録音)は、主旋律をヴァイオリンのソロで弾いており、これが作曲者の意図と考えてもいいだろう。

「相棒」で使われたアンドリュー・デイヴィス盤は、主旋律が弦楽合奏。他はほぼオリジナル楽譜通り。

デル・マー盤は、主旋律をソロで弾いており全体に作曲者演奏を規範としているように思う(E氏は「デル・マーは作曲者盤を聞いている可能性が高い」とおっしゃっている)。ただし、各楽器の歌わせ方には大きな差があり、デル・マー盤の方がより近代的な響きをしている。

一部で人気の高いカーメン・ドラゴン盤は、ユニークで素晴らしいが、独自のアレンジで全く別物の感がある。

 結論としては、杉下右京の台詞「デル・マーのは、アレンジが他と違っているんですよ」は的確ではない。「デル・マーの演奏は作曲者・エルガーの意図に沿ったもの。他とは違った趣があります」あたりが適切だろう。でも、これでは、一瞬で通り過ぎるドラマの台詞としては、わかりにくいかもしれない。

 ともあれ私の誤認のせいで、E氏と諸々のやり取りができたのは楽しい体験であった。怪我の功名というやつである。E氏は、学生のころからイギリス音楽に興味を持ち、1980年代、「レコード芸術」の「レコード相談室」なるコーナーに、エルガーの「愛の挨拶」のおススメ盤を尋ねている。そこで回答者の出谷啓氏から、デル・マーのLP「SOLILOQUY」(RCAの輸入盤で、「ミニチュアール」の前身)を紹介してもらっている。もう30年以上も昔の話。年季が違う。その後、エルガーに関わる店を持ちたいと願うようになり、2002年、遂に Cafe ERGAR を出店。いやはや、すさまじき ELGAR 愛!

 エルガーの生誕地には3度も行かれたという。Cafe ELGAR の建物は、生誕地ウスターの隣町グレート・モールヴァン(エルガーはここにも住んでいた)の銀行がモデルだとか。お話を聞けば聞くほど、Cafe ELGAR に行ってみたかった、そして、店主からエルガー話を聞きたかった、との思いは募る。が、今はもう叶わない。Cafe ELGAR は今年の9月に閉店してしまった。

 最後に、E氏からお聞きした興味深い話を。「愛の挨拶」の英語の原題は Love's Greeting。アポストロフィSの所有格は原則「人」。日本語訳「愛の挨拶」は Greeting of Love ならば妥当。そこで Love を調べると男性から見た“女性の恋人”という意味がある。エルガーがその意味で Love's Greeting としたのなら、日本語訳は「恋人の挨拶」とするのが相応しい、というもの。

 なるほど、と思った瞬間一つのタイトルが頭に浮かんだ。A Midsummer Night's Dream である。この所有格も「人」ではない。通常なら A Dream of Midsummer Night のはず。果たしてシェイクスピアの意図やいかに?

 何気なく調べていたら、エルガーの生誕地ウスター(北緯52度12分 西経2度13分)とシェイクスピアの生誕地ストラトフォード=アポン=エイヴォン(北緯52度19分 西経1度71分)は、同じウェストミッドランズ州、距離にして約30qは東京―八王子くらいとかなり近いことに気が付いた。これも面白い符号である。
 2017.09.05 (火)  旧Cafe ELGAR店主からのメールを読んで〜前編「クラ未知」記述は不正確
 先日、当サイトの主催者K氏から、旧Cafe ELGARの店主という方からのメールが転送されてきた。5月15日付け「クラ未知」〜「エルガー『愛の挨拶』とドラマ『相棒』に纏わる面白話」を読んでいただいてのものだった。当サイトはツイート受付スタイルを採っていないためメールを受けるのは稀。それだけに興味津々・・・・・読んでみると、期待に違わず濃い内容のものだった。

 まずは、私の文章を要約しておこう。
2013年11月6日の午後、何気なくドラマ「相棒」の再放映を見ていたら、そこにエルガー「愛の挨拶」が登場した。シリーズ2第7話「消えた死体」である。舞台は名曲喫茶・渋谷ライオンと見受けられた。水谷豊演ずる杉下右京と若松武史演ずる多治見治とのそこでの会話。

多治見 そうですか エルガーお好きですか
右京   好きですねえ
多治見 特にこの「ミニアチュア」は素晴らしい
右京   ノーマン・デル・マーの名盤ですね
多治見 彼の指揮するエルガーはもう絶品ですよ
右京   その中でも「愛の挨拶」が特にいいですね
多治見 これですね(と上方を指さす)
右京   その盤だけ他のとアレンジが違っているんですよ
多治見 知ってます ここにエルガーの「ミニアチュア」があるのが素晴らしい
      いや、素敵な方とお知り合いになれた

名曲喫茶で隣席となった杉下右京と多治見治は意気投合。二人はそこで鳴っている「愛の挨拶」の蘊蓄を語り合う。英国通の右京は、キッパリと「ノーマン・デル・マー(1919−1994 イギリスの音楽学者&指揮者)の『愛の挨拶』は他の版とはアレンジが違う」と言う。

私は、そこで初めて「ミニアチュア」Miniaturesの存在を知ることになり、早速復刻CDを購入。「愛の挨拶」に聴き入った。それは素晴らしいアレンジ&演奏で、杉下右京の台詞に間違いはなかった。

エルガーの手になるオケ版では、主旋律が弦楽合奏でスタートするが、デル・マー版はソロ・ヴァイオリンで密やかに始まる。そこに木管楽器が絡みながら、徐々にストリングスの厚みが増してゆきクライマックスを形成、最後はホルンが加わり絶妙な響きの中静かに終わる。エルガー版に比すとより室内楽的だ。エルガーがオケ版を作った際に意図したのは、オリジナルのデュオとは違う雄大なオーケストラ的響きだっただろうし、デル・マーは逆にデュオを志向したアレンジを試みたのだろう。このあたりの両者の思惑の違いが面白い。

「相棒」放映の4年後、今年4月のFMえどがわ「りんりんクラシック」で「愛の挨拶」を採り上げた。そこで改めてドラマの録画を見、そこで流れる「愛の挨拶」をしっかり聴いてみた。「オヤ!」と感じたのである。これは、デル・マー盤の音ではない!・・・・・調べたら、アンドリュー・デイヴィス指揮:BBC交響楽団の作曲者アレンジ版と判明した。これは台詞に偽りありである。一体なぜこのようなことが起こったのだろうか?

ドラマに登場するコンテンツはLPレコードである。右京が多治見にプレゼントする件でしっかりとジャケットが映っている。これは紛れもないデル・マーの「ミニアチュア」。この音を使えば何ら問題はなかったはず。なのにそうしなかったのは、それなりの事情があったのだろう。そこで、やむなくアンドリュー・デイヴィス盤を使った。「台詞とは食い違うが、どうせ判りはしない」とプロデューサー氏が高をくくったか否かは不明だが、ともあれ、安易な選択をしてしまったのは間違いない。「ノーマン・デル・マーのは他の版とはアレンジが違うんです」と杉下右京に蘊蓄を語らせるのなら、ここは何が何でもその音を探し出して使うのがモノを作る人間の良識というものではなかろうか。「相棒」スタッフの猛省を促したい。
 とまあ、「相棒」スタッフへの反省喚起で締めている。以下はこれに対する旧Cafe ELGAR店主からのメールである。
「クラシック未知との遭遇」を面白く拝読いたしました。「消えた死体」が放映されたのは2003年11月のことです。そのころ私は京都でCafe ELGARなるカフェを営んでおりました(すでに閉店しております)。

正確な月日は憶えておりませんが、東映のたしか助監督さんからだったと思うのですが、店に電話がかかってきました。
「エルガーのミニチュアールのレコードを探しているのだけれど、どこかで手に入れる方法がないか」という問い合わせでした。もとよりウチは飲食店であって、レコード店などではありません。が、音盤マニアを自負する手前、むげに切るのにも抵抗がありました。そこで「中古盤を探すしか方法はありませんし、マニアックなレコードだけに(CD時代の今では)雲をつかむような話です」と申し上げると落胆されたようで、なんでもドラマで水谷豊さんが主演なのだが、小道具で使いたいので探していると事情を話されました。気の毒に感じたのと、おのれのお人好しから「よかったらお貸ししましょうか。LP盤を持っていますし・・・・・」とお伝えした次第です。後日再度電話があって「やはりお貸しください。着払いでお送りくだされば結構ですので」との申し出があり、ジャケットだけですが、お貸ししたといういきさつがあります。

「消えた死体」は櫻井武晴という方の脚本です。氏はCafe ELGARのウェブサイト(閉店とともに削除)を参照して脚本を書かれたふしがあり、そのサイトではデル・マーの「ミニチュアール」を名盤として紹介していました(わたくしの記述)。「アレンジが異なる」と書いたのも「ミニチュアール」が名盤と紹介したのも実は私なんですね。エルガー研究で名高い盟友・水越健一さんもこのアルバムに関しては大きく採り上げていません。

わたくしも「消えた死体」を見て音源に落胆をしました。ただ、台本(ジャケットの返礼に東映からいただきました)を見ると、お言葉ですが、「クラシック未知との遭遇」の記述は正確ではありません。
 なんと、番組にデル・マーの「愛の挨拶」を教え、かつあのLPジャケットを貸し出された当該者からのメールだったのである。それにより、「消えた死体」のオリジナル放映日が2003年11月であったこと、制作は東映テレビであること、脚本は櫻井武晴さんであること、などが判明。中でも注目は、貸し出されたのはジャケットのみであったこと。ならば、この音源は採り出せない。疑問が一つ払拭できた。LP盤の中味を貸し出さないのは、CDやネット配信時代の今の若い方々には想像できないことかもしれないが、我々古い世代の人間にとっては当然の行為。盤面に傷がついたら取り返しがつかないから、盤ごと貸し出すのは本当に信用のおける身近な人に限っていたものだ。

 さらに、ありがたいのは、ドラマの台本の全容を添付してくださったこと。そして、その旧Cafe ELGAR店主の方は、当然、そこで掛かった音源が違うことも認識していらっしゃる。その上で、私の記述が正確ではないとおっしゃる。いったいどこが? 続きは次回で。

 最後に余談だが、この旧Cafe ELGAR店主という方は、私が創美企画時代に制作・リリースしたLD「ダニー・ケイとニューヨークフィルの夕べ」の愛好者だったとも。このLD、名優ダニー・ケイがニューヨーク・フィルハーモニックを相手にクラシックの名曲をネタに演じる腹絶倒第一級のエンタテインメント・ライブ・パフォーマンス作品なのだ。東京と大阪でセールス・コンベンションを開催したのも懐かしい思い出。その時大阪の講師をお願いした出谷啓氏と旧Cafe ELGAR店主はお知り合いだという。これも何かのご縁か。

 巻頭の写真は旧Cafe ELGARである。京都にあったこの店をいつか訪ねてみたいと思っていたが、メールにもあるように、残念ながら閉店したという。
 2017.08.15 (火)  真夏の夜の夢〜シェイクスピア あれこれ
 暑い!とにかく暑い。寝苦しくって夢も見てられん。そういえば「真夏の夜の夢」ってありましたね。ということで、今日は「真夏の夜の夢」〜シェイクスピアに分け入ってみよう。

 私にとって「真夏の夜の夢」とくれば、メンデルスゾーン作曲の劇音楽がまず頭に浮かぶ。全10数曲の中では、「結婚行進曲」がダントツの知名度だが、「スケルツオ」「夜想曲」「道化者たちの踊り」など、幻想的で楽しい佳曲が一杯だ。
 メンデルスゾーン(1809−1847)は17歳のときにこの戯曲を観て感動。すぐに序曲を書き上げる。それから17年後、プロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム4世の命により全曲を完成した。8月24日の「りんクラ」では、「夜想曲」あたりを掛けようかな。

 戯曲は、ウイリアム・シェイクスピア(1564−1616)の作で、1596年ころの作品。タイトルは「A Midsummer Night's Dream」である。あらすじは、「ところはギリシャ アテネ近郊の森。そこにはいざこざを抱えた王と王女、妖精が住む。二組の男女がいて、愛し合っていながら父親に結婚を反対されているなど、こちらも問題を抱えており、森に迷い込む。森の中であれこれあった後、妖精の計らいによって、二組の男女はめでたく結婚する」というもの。

 いろいろ調べていくうちに、ちょっと不思議な事実に気がついた。それは日本語タイトル。音楽の場合は「真夏の夜の夢」一本だが、戯曲には「真夏の夜の夢」と「夏の夜の夢」の二通りある。これはどういうこと?どちらが正解なの?「クラ未知」的探求心が湧いてきた。

(1)「真夏の夜の夢」か「夏の夜の夢」か

 最初の訳は、日本近代文学の先駆者・坪内逍遥(1859−1935)。そのタイトルは「真夏の夜の夢」だ。これはMidsummer を文字通り「真夏の」と訳して何ら違和感はない。
 これに異を唱えたのが土井光知(1886−1979)。第4幕第1場、シーシュースの台詞に「きっと、五月祭の花を摘もうとして」とあるから、5月1日前夜の出来事と分かる。日本では春。夏至といえども英国の夜は暑からず寒からず、まことに快適。したがって「真夏」はおかしい。せめて「夏の夜の夢」とすべし。1940年のこと。
 1960年、福田恒存(1912−1994)も、ニュアンスは異なるが、これに続く。以後「夏の夜の夢」派が大勢を占め、小田島雄志も松岡和子もこれに倣う。が、果たしていいのかこの傾向。我が「クラ未知」的見解を下記。

 まず「五月祭」の件。「五月祭」という文言は第4幕第1場、シーシュースの台詞として2度出てくる。「これで五月祭の行事は無事に終わった」と「きっと五月祭の花を摘もうと早起きしてこの森にきたのだろう」。一度ならず二度までもなら「五月祭」は弾みで書いたものではないだろう。シェイクスピアはこの出来事を「五月祭」に設定しているのは明らかだ。ならば時期は4月末〜5月初頭。

 次に、タイトル「A Midsummer Night's Dream」を検証する。Midsummer Night は Midsummer Day の前夜のこと。Midsummer Day とは聖ヨハネの祝日のことで6月24日。聖ヨハネは別名洗礼者ヨハネといい、イエス・キリストに洗礼を授けた聖者。生まれたのがキリストの半年前ということから、6月24日を誕生日としてその日を祝日と定めた。一方で、夏至祭というのがあって、これは文字通り夏至の日に太陽を祝う祭のこと。6月21日あたり。発生は全く別だが、ほぼ同時期にあるため、いつしか慣例的に同一視されるようになった。Midsummer Day といえば、「聖ヨハネの祝日」であり「夏至祭」であるというように。

 「夏の夜の夢」派福田恒存の言い分は、「Midsummer Day は聖ヨハネの祝日で6月24日。Midsummer Night はその前夜。だから“真夏の”ではなく“夏の”である。しかも、夏至の頃だから『夏至前夜の夢』との直訳も可。『夏の夜の夢』が妥当である」というもの。  福田説は、タイトルだけから時期を割り出し、「6月は、日本では真夏じゃない」とする。劇中の「五月祭」への言及はナシ。出来事が5月であるのにタイトルが Midsummer Night という矛盾。これをどう考える? 以下は私の見解である。

 英和辞典を引いてみる。midsummer の形容詞には「真夏の」の他に「真夏のような」という意味・用法がある。用例として midsummer madness = 大狂乱 との併記もある。この midsummer は「真夏のようなハチャメチャな」というニュアンスになるだろう。ならば A Midsummer Night's Dream は「真夏のようなハチャメチャな夜の夢」である。これなら5月でも6月でもいいし、物語の内容にもピッタリだ。結論=日本語訳として相応しいのは「真夏の夜の夢」である。

 杓子定規的解釈はシェイクスピアの精神にそぐわない。シェイクスピアは人間を決して杓子定規で捉えない。人間同士の関係性の中で、柔軟に捉えるのである。これも人間、あれも人間。善行も悪行も、示すこそすれ、善悪の決め付けはしない。「これでいいのだ」であり「これが人間なのだ」である。この辺りは、小田島雄志「シェイクスピアの人間学」で明らか。これは素晴らしい本だが、それだけに、小田島訳が「夏の夜の夢」なのは残念だ。
 だいたい、「夏の夜の夢」じゃ、タイトルとしてキャッチーじゃない。松任谷由実のが「夏の夜の夢」で、サザンのが「夏の果実」じゃ売れませんよ。やはり「真夏の夜の夢」であり「真夏の果実」じゃないとね。

(2)シェイクスピア別人説をちょっとだけ

 シェイクスピアは誰某だった とする別人説は数多い。この手の話は歴史好きにはたまらない。実はこうだった、諸説ありの類、例えば、坂本龍馬殺しの黒幕は西郷隆盛? ジンギスカンは義経である? 秀頼は秀吉の実子ではない? 聖徳太子不在説、芭蕉忍者説、等々眉唾モノを含めて、枚挙にいとまなし。とはいえ、シェイクスピア別人説の多さは、作品の魅力と謎多き人生のなせる業だろう。

 ここで、シェイクスピア別人説すべてを検証することは不可能。10や20じゃきかないようだ。二つ三つを論じても中途半端。ならば、私が最も信憑性が高いと考える説を一つだけ取り上げよう。それは「ヘンリー・ネヴィル説」である。

 小田島雄志氏によると、シェイクスピアの人間観は幼少年期における家運の浮き沈みに影響されているという。父ジョンは商売に成功し、シェイクスピアが生まれた翌年には町会議員に、4歳の時には町長にまでなった町の名士。ところが10歳を過ぎたころから経済的に没落(他人に騙され投資に失敗したとも)。誰からもチヤホヤされた幼年期から、一転、周囲のすべてがよそよそしくなる少年期へ。世間の実相を知ることになる。
 小田島氏はまた、シェイクスピアが経済的理由から大学に行けなかったことが、作風に好影響を与えていると言う。当時はルネサンス期。大学に行けばローマ劇が手本となる。即ち、均整美を専らとする古典主義。ここから出発したら、愛と自由を旨とするシェイクスピア流ロマン主義が生まれたかどうか?

 彼の若年期の人生が、シェイクスピア演劇の色合いを決めたわけだが、一つ説明できないことがある。彼の作品にしばしば登場する外国の地・・・・・「ヴェニスの商人」と「オセロ」はヴェネチア、「ロメオとジュリエット」はヴェローナ、「ハムレット」はデンマーク、「真夏の夜の夢」はアテネ、「じゃじゃ馬ならし」はパドヴァなど。これらに必要な外国の知識をいつ習得したのか? ところが、シェイクスピアはイギリス国外に出た形跡はない。外国語や外国宮廷の知識を持ち得る可能性が薄いのである。そこで、一人の人物にスポットが当たった。その人の名はヘンリー・ネヴィル。

 ヘンリー・ネヴィル=シェイクスピア説は、意外と新しく、2005年、ウェールズ大学ルビンシュタイン教授らが発表した。ヘンリー・ネヴィル(1562−1615)は、オックスフォード大学を出て外交官となった人物。シェイクスピアとは親戚同士であり、生存年代はほぼ同じ。シェイクスピアのパトロンであるサウサンプトン公とも親しかったようだ。残されている文体もシェイクスピア作品と近いとか。最大のポイントは外交官だったこと。シェイクスピアでは知りえないはずの海外宮廷のしきたりや事情、外国語の知識などを熟知しうるキャリアを持っていたことだ。シェイクスピアに海外渡航の形跡がないことを考え合わせると、このネヴィル=シェイクスピア説には頷けるものがある。

 ただ、ネヴィルがイコール シェイクスピアだった、とは思えない。近しい間柄だったから、相談相手・助言者だった可能性は大きい。シェイクスピア作品をほんの僅かしかかじってない私ごときが、その道一筋に追及している研究者の説に「ああだこうだ」言える資格もないが、そんな素人考えを敢えて言わせてもらえるなら、「ヘンリー・ネヴィルはシェイクスピア作品に少なからず関与している」、と考えられるのである。
<参考文献>

「夏の夜の夢」小田島雄志訳(白水Uブックス)
「ハムレット」    〃
「シェイクスピアの人間学」小田島雄志著(新日本出版社)
 2017.07.25 (火)  夏のクラシック音楽〜「りんりんクラシック」から
 毎月第3木曜日に出演中のFMえどがわ「りんりんクラシック」。今夏、諸々をリニューアル。新ディレクターNoririn松尾嬢は、パーソナリティー奈良禎子さんとの息もピッタリ。スタジオはりんりんムード一杯に変化。私、クラシックおじさんも乗って来た!? そんな雰囲気が微妙に伝わるのか、「今回も楽しく聞きました」等々「りんクラ」への投書も徐々に増えてきました。うれしい限りです。7月は夏に因んだ選曲で。

(1) ヴィヴァルディの「四季」から「夏」第3楽章

 まずは名刺代わりのヴィヴァルディ合奏協奏曲「四季」から「夏」第3楽章をイ・ムジチ合奏団(アーヨ2度目の録音)の演奏で。私がビクターの社員だった1960−70年代はバロック音楽の大ブーム。先鞭をつけたのが「イ・ムジチの四季」でした。
 「イ・ムジチの四季」は6Wの録音があり、合計累計300万枚の売り上げ。最初は初代リーダー フェリックス・アーヨのヴァイオリン独奏盤(1955年モノラル録音)で、これが「四季」の世界初録音。2つ目は同じアーヨのステレオ盤(1959年録音)。3つ目がロベルト・ミケルッチのソロ(1969年録音)。これがクラシック界唯一のミリオンといわれる超特大ヒット作となりました。でもまあ、これはアーヨ盤の油敷きの賜物。「四季」は実質ヴァイオリン協奏曲なので、ソロ・ヴァイオリンが大きな比重を占めますが、アーヨが断然。技量が違います。因みにアーヨは、我が敬愛する石井先生のお嬢様である牧さんの師。彼女は現在サンフランシスコ歌劇場オーケストラのヴァイオリン奏者として活躍中です。

(2) 3大テノール 1994年ロサンジェルス・ドジャースタジアム公演

 夏は野外イヴェントのシーズン。そこでお次は、1994年の「3大テノール・ドジャースタジアム公演」をとり上げます。
 3大テノール、実は私、1996年6月29日の日本公演に行ってまして。母と叔母と共に。アンコールに「川の流れのように」を訥々とした日本語と朗々たる美声で歌ったのがとりわけ印象的でした。

 3大テノールの企画は、ホセ・カレラスの白血病全快祝いにとプラシド・ドミンゴとルチアーノ・パヴァロッティが発案、折しもサッカー・ワールドカップ・イタリア大会開催間近。3人とも大のサッカーファンということもあって、話はトントン拍子に進み、決勝の前夜祭として行われたのが第1回。1990年7月7日、ローマはカラカラ大浴場跡での開催でした。
 その後、サッカー・ワールドカップ決勝戦前夜開催は、2002年日韓大会の横浜アリーナ公演まで全4回を数え、それ以外では、1996年日本公演を皮切りとした世界10か所公演など、2003年まで続きますが、2007年、パヴァロッティの死によって終わりを告げるのです。

 これら20回ほどの公演の中で、3人が最高のパフォーマンスを示したのが、1994年7月16日、ワールドカップ・アメリカ大会決勝の前夜祭として、ロサンジェルス・ドジャースタジアムで行われた公演でしょう。

 ホセ・カレラス47歳、プラシド・ドミンゴ53歳、ルチアーノ・パヴァロッティ58歳。まさに絶頂期の3人。各人が自己を強烈にアピールするオペラ・アリアの競演。逆に、3人が協力し合って一曲を仕上げる和気あいあいのコラボ。この対比が絶妙でした。そんな中で、私が選んだのは3人が「マイウェイ」を歌うパフォーマンス。

 「マイウェイ」はフランク・シナトラ(1915−1998)の代表曲。元々はシャンソン。これを聞いたポール・アンカが“シナトラのために”英語詞を作り曲を手直ししたもの。1969年に発売されるとロング・セラーを記録。シナトラの歌手人生のシンボル・ソングとなりました。

 まず、カレラスが格調高く歌い出し、ドミンゴが情熱的に繋げ、パヴァロッティが王者の風格で盛り上げて、三重唱でエンディング。3人の圧巻の歌唱に、前列に陣取ったシナトラがスタンディングで応える。心なしか潤む瞳、「ブラボー」の呟き。そんな光景が映像を通して伝わってくる、実に感動的なシーンでした。シナトラとパヴァロッティは、翌1995年、「マイウェイ」のデュエット録音を仕上げ、完成したテイクは互いのメモリアルバムにキッチリと収められました。シナトラは「マイウェイ〜フランク・シナトラ80thアニバーサリー」、パヴァロッティは「パヴァロッティ〜ザ・グレイテスト・ヒッツ50」です。

 公演翌日に行われたワールドカップ決勝は、ブラジルがイタリアを破って優勝しました。一つ忘れてならないのは、このアメリカ・ワールドカップは、かのドーハの悲劇がなければ日本が初出場を果たしていた大会でした。サッカー日本代表は次回フランス大会で念願の初出場を果たし、以後5大会連続出場しています。現在、日本代表は2018年ロシア・ワールドカップに向けてアジア最終予選の正念場を迎えています。首位に立ってはいますが、2位オーストラリアと3位サウジアラビアとは勝ち点差1。どちらかに勝てば決定も、両方引き分けでは危うい。何としてでも8月31日、ホームのオーストラリア戦に勝ってスカッと決めたいもの。さあ、みんなで応援しよう!

(3) サン・サーンス作曲:組曲「動物の謝肉祭」から「水族館」

 3大テノールというメイン・ディッシュのあとは、爽やかなデザートと参りましょう。

 7月には「海の日」があります。海関連の名曲は数々ありまして。例えばドビュッシーの交響詩「海」。これは、楽譜の表紙に北斎の「神奈川沖浪裏」が貼り付けてあるので我々には馴染みが深い。ブリテンの「四つの海の間奏曲」は歌劇「ピーター・グライムス」からの管弦楽曲。イングランド東部・北海の荒涼たる海岸風景が目に浮かびます。ヴォ―ン・ウィリアムズに「海の交響曲」というのがありますが、これと「南極交響曲」は企画ものクラシックの走り? 私が入社したての1970年前後の日本ビクターのクラシックは、フィリップスとRCAの覇権争い真っ只中。「イ・ムジチの四季」で大ヒットを飛ばすフィリップスに、ライバル心むき出しのRCA事業部が打って出た勝負作が、アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団 ヴォ―ン・ウィリアムズ作曲の「南極交響曲」と「海の交響曲」でした。「四季」には及ぶべくもありませんが、クラシックとしてはなかなかのセールスを記録したと記憶しています。指揮のアンドレ・プレヴィン(1928−)はジャズ・ピアニストからの転向者。現在巨匠として健在の彼もデビューは企画ものの指揮者だったのです。

 とまあ、「海」関連曲は色々ありますが、曲自体、もう一つキャッチ―じゃない。「りんクラ」にはショート&インパクトが最適なのだ。そこで閃いたのが「水族館」でした。海〜魚〜水族館の連想はやや苦しいがご勘弁願いましょう。抜群の適合度に免じて。

 「水族館」はフランスの大作曲家サン・サーンス(1835−1922)の組曲「動物の謝肉祭」の7曲目。演奏時間2分半程ながら、一度聴いたら忘れられない印象。幻想感・神秘感・清涼感のトリプル・センス。水族館の水槽が眼前に浮かびます。この音化の技は、さすが史上初の映画音楽の作曲家サン・サーンスの天才性!
 秘密はサウンド。醸し出す楽器はグラスハーモニカ。この楽器、なんとかの「雷は電気である」ことを証明したベンジャミン・フランクリン(1706−1790)の発明なのです。水で音程を調整したワイングラスを指で擦って音を出すのがグラスハープ。これを楽器として完成させたのがグラスハーモニカで、彼自身「アルモニカ」と命名しました。1761年の発明後、大ヒットとなり、なんとモーツァルトがこの楽器のために「グラスハーモニカのためのアダージョハ長調 617a」なる曲を書いています。

 ところがです。ここまでグラスハーモニカのお話をしてきたのに、お聞かせしたCD シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団盤は、グラスハーモニカではなくチェレスタを使用しているのです。これでも曲の雰囲気は伝わるのですが、クラシックおじさんとしては、何とかオリジナルのグラスハーモニカ版でお聞かせしたかった。力至らず残念至極! 誠に申し訳ありません。今後、グラスハーモニカ版「水族館」を入手すべく頑張ります。ゲットした暁には、必ず「りんクラ」でお聴かせすることをお約束します。

 まだまだ猛暑が続きます。「りんクラ」次回は8月24日。枕草子「夏は夜・・・・・」あたりを引っ張り出して、夜とか夢をテーマに考えています。Noririnへ、「台本化をヨロシク」。奈良さん、「また楽しくおしゃべりしましょう」。では来月また。
 2017.07.15 (土)  ドキュメント〜シャーンドル・ヴェーグのK137を解明する
 先日、業界の盟友、出版プロデュース会社を営むF氏から「ウッカリ1枚余分に買ってしまったが、よかったら是非」と第1863回N響定期演奏会のお誘いを受けた。無論「喜んで」ということになり、6月30日、NHKホールに出かけた。シューマンの歌劇「ゲノヴェーヴァ」序曲〜チェロ協奏曲 イ短調〜シューベルトの交響曲 第8番「グレート」という曲目。このプログラム、実に筋が通っていて、オペラを当てたいと念じつつ叶わなかったシューマンとシューベルトの作品で構成。シューベルトの傑作「グレート」の発見者はシューマン。チェロ協奏曲のソリスト、ターニャ・テツラフのアンコール曲はJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲 第1番のプレリュードで、バッハは「グレート」の初演者メンデルスゾーンが蘇生させた作曲家。などなど、そんな関連性を感じつつのコンサートは、パーヴォ・ヤルヴィの明快な音作りが心地よく、至福の時間を過ごすことができた。F氏に大感謝である。

 早速、F氏に御礼メールをしたところ、お返しメールの中に興味深い一文が・・・・・。
そういえば、お話しそびれていましたが、あれからすぐ、シャーンドル・ヴェーグのモーツァルトを無事購入、聴き始めています。頂戴した石井先生の評論も、ピシッとボックスに収めました。まだ、有名どころを聴いただけですが、「なぜもっと早く、入手しなかったのか?」の思いに駆られます。素晴らしい!
ヴェーグの研究、考察からでしょうか、例えばディヴェルティメント K137。第1楽章と第2楽章の順序を入れ替えて演奏しています。これだと急−緩−急になりますので、たしかにこのほうが自然に、らしく感じられます。
 「おやっ!」と思ったのは最後の段落、「ディヴェルティメント 変ロ長調 K137の第1楽章と第2楽章の順序を入れ替えて演奏している」という部分。これは最近、私がお勧めしたシャーンドル・ヴェーグの「モーツァルト セレナード&ディヴェルティメント集」CDを購入・試聴したF氏が気づかれた一件で、当方は不覚にも、全く認知してなかった件。早速、手持ちのCDを当たることに。K137の手持ちは、イ・ムジチ合奏団(1972年録音)、バウムガルトナー指揮:ルツェルン弦楽合奏団(1976)、パイヤール室内管弦楽団(1977)、ボスコフスキー指揮:ウィーン・フィルハーモニー(1978)、ターリヒ四重奏団(1993)、そしてシャーンドル・ヴェーグ指揮:ザルツブルク・カメラータ・アカデミカ(1986)である。

 F氏ご指摘の通り、ヴェーグ盤のみ第1楽章 Allegro di molt 〜 第2楽章 Andante で、他の5点は第1楽章 Andante 〜第2楽章 Allegro di molt の順序。F氏の記述に従えば、ヴェーグ盤は急−緩−急、他はすべて緩−急−急の並びだ。
 ならば楽譜はどうなっているか? 早速、「新モーツァルト全集」を調べると、第1楽章が Andante で第2楽章が Allegro di molt だった。「新モーツァルト全集」は、ドイツの大手出版社ベーレンライターが、常時加筆修正を加えているモーツァルト楽譜のスタンダード。ほとんどの演奏がこれに準拠するのは自然の成り行きだ。が、K137において、ヴェーグだけが(第1楽章と第2楽章の)順序を入れ替えている。なぜこんなことを? 演奏家としても音楽学者としても超一流のヴェーグが、意図なくしてスタンダードを逸脱するはずがない。

 シャーンドル・ヴェーグ(1912−1997)に関する私の知識は? まず、ハンガリーの名ヴァイオリニストであること。次に、主宰するヴェーグ弦楽四重奏団の「バルトーク 弦楽四重奏曲全集」(1954年録音)が高い評価を得ていたこと、くらいのものか。彼のモーツァルト演奏の素晴らしさを教えてくれたのは、我が国モーツァルト研究の第一人者・石井宏先生である。
 それは、シャーンドル・ヴェーグ指揮:ザルツブルク・カメラータ・アカデミカの「モーツァルト セレナード&ディヴェルティメント集」CD全10枚のセットの推薦文。以下抜粋してご紹介する。
1940年代から50年代にかけて人気のトップをゆくヴェーグ四重奏団を率いていたシャーンドル・ヴェーグは、引退後教鞭をとったザルツブルクのモーツァルテウム音楽院の教師たちで組織したカメラータ・アカデミカを率いて、モーツァルトのセレナードやディヴェルティメントの録音を、1980年代後半に行った。それらは全部で10枚のCDに収められ、人類の遺産ともいうべき地位を占めている。もし、モーツァルトのセレナードやディヴェルティメントが欲しいという人があるとすれば、私はためらうことなくこのセットを推すものである。ことこのジャンルに関しては右顧左眄する必要は全くない。迷わずこのセットを買えばよいのである。彼の音楽の湧き出ずる源泉は比類ない情熱と愛である。そしてそれに並行する技術上の精密さ。どちらが欠けても音楽は二級品になるが、それを満たしている数少ない音楽家がヴェーグなのである。
 これは、先生監修の「モーツァルト・ベスト101」(新書館)のコーナー石井宏の<この1枚を聴け!>のもの。私がこの文章に出っくわしたのは2006年あたりだったか。それまで、このような「四の五の言わずにこれを聴けばいいのだ」的タイプの推薦文にお目にかかったことがなかった。ここまでキッパリと断言する評論家に出会ったことがなかった。それは実に強烈な印象だった。ヴェーグの他にも、先生の推薦盤を順次入手したが、聴く度に鮮烈な感動が沸き起こる。ベンジャミン・ブリテン指揮:イギリス室内管弦楽団の「交響曲第25番K183、38番K504、40番K550」、クリフォード・カーゾン(P)&ブリテンの「ピアノ協奏曲 第20番K466、第27番K595」、シュティッヒ・ランダル(S)のリート集、フランチェスカッティ(Vn)&ブルーノ・ワルターの「ヴァイオリン協奏曲 第3番K216」、ジュリード弦楽四重奏団の「ハイドン・セット」、ギーゼキング(P)のピアノ・ソナタ、「ロンドK511」、ホルショフスキー(P)の「幻想曲K397」等々、まさに綺羅星の如くの名演群だ。一つ一つ書いていたらきりがないので、敢えて一言で括ってしまえば、「美しき生命力」とでも言おうか。響きが美しく音楽が躍動している。聴いて安らぎ明日への活力が湧いてくる、そんな演奏ばかりなのだ。中でも、シャーンドル・ヴェーグの「セレナード&ディヴェルティメント集」は圧巻で、常に座右に置いて聴いてきた。「無人島へこの一枚」というなら、迷わずこれという私の宝物である。

 では、なぜヴェーグはK137の第1と第2楽章を入れ替えたのだろうか? 石井先生とは毎月「EBIS会」なる飲み会でご一緒させていただいている。会場は恵比寿ガーデン・プレイス内のビア・ホール「銀座ライオン」。7月は12日。ならば、ここでお尋ねしようということになり、F氏をお誘いしお会いした。

 石井先生とは、2006年、モーツァルト生誕250年に企画した「THAT’S MOZART〜これだけ聴けばモーツァルトがわかる」(BMG JAPAN)の解説をお願いして以来のお付き合いだが、その博学多才振りにはいつも感服している。で、その解説書の中に、「『ディヴェルティメント変ロ長調K137』は、前後のK136と138と3曲セットで作曲された。従来これらは、第2次イタリア旅行から帰った翌年1772年の作品とされてきた。その根拠は、モーツァルトの自筆の楽譜を綴じたカバー・ページに、1772年という“他人の筆跡による書き込み”があったから」という記述がある。今回は、これをキッカケに質問させていただいた。先生の見解を下記。
モーツァルトが作品目録を自ら書き始めたのは、K449「ピアノ協奏曲 第14番 変ホ長調」からで、1784年のこと。それ以前に、ちゃんとした目録はない。K137は解説書にも書いた通り、他人(多分出版社)が綴じて表紙に作曲年を書き入れている。楽章の順序を、第1楽章を Andante、第2楽章を Allegro di molt、第3楽章を Allegro assai として。だから、この順序がスタンダードとなっているのだが、これについては、「Andante で始まるディヴェルティメントは不自然」として、以前から議論があったんですよ。

ドイツ人は杓子定規的判断をする。フランス人は感性を重んじる。例えば、「ホルン協奏曲第3番 変ホ長調」ですがね。ドイツ人ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル(1800−1877)は、モーツァルトの自筆作品目録に載っていないのだから、それ以前の作品と判定してK447という番号を与えた。一方、ジョルジュ・ド・サン=フォア(1874−1959)というフランスの音楽史家は、出来映えからしてそんな若いころの作品ではなく、少なくとも1788年以降の作品だと推論した。この見解を、ケッヘル・カタログ第6版の編集に携わるドイツの学者たちは「このようなちゃんとした作品を、モーツァルトが自筆目録に書き漏らすはずがない」として受け入れなかったんですな。ところが後年、アラン・タイソンの画期的方法による検証で、この作品は1787−89年の作品と判定された。フランス人の感性が正しかったことになりますね。

モーツァルトにも書き漏らしがあるってこと。ましてや、他人が綴じたK137の楽章の順序が入れ替わってしまっていても何ら不思議はないと思いますよ。私はヴェーグの順序に賛同します。
 なるほど、モーツァルトだって書き漏らしもあればミスもする。ましてや他人の作業においておやだ。F氏もヴェーグの急−緩−急が「らしい」とおっしゃり、私も同感。三人の意見が合致した。

 改めて、二つの楽章、特に Andante 楽章を精聴してみた。3拍子系で、かつ、主題に半音が2つ含まれるのは、冒頭楽章としてかなりの違和感がある。序奏ならいざ知らず、こんな出だしはあまり例がない。やはり、Andante は第2楽章に置くべきだ。しかも、急−緩−急はバロック以来の定石だ。作ったモーツァルトが15歳だったのだから、定石を踏まえる方が自然ではないか。それよりも何よりも、感覚的に、この方が圧倒的に座りがいい。更に、手持ちCD十数曲のディヴェルティメントを全検証したら、K137以外で、緩徐楽章で始まる曲は皆無だった。もうこれで十分ではないか。感性と知性を併せ持つモーツァルト演奏の使徒シャーンドル・ヴェーグが、K137で行った第1と第2楽章の順序変更は、モーツァルトの意図に沿うものと確信する。

 別れ際に、石井先生がポツンとおっしゃった。「私のような変わったことを言うものは、なかなか受け入てもらえなくてね」。いやいや先生。世の中は是々非々。真実は最後には分かりますよ。

 余談をひとつ  シャーンドル・ヴェーグの「モーツァルト セレナード&ディヴェルティメント集」の解説書、K137部分はこうなっている(原文は独語だが併記されている英訳で)。

The Divertimento K137, on the other hand, introduced by an Andante movement, which is followed by a brief movement in sonata form (Allegro di molt).
[和訳] ディヴェルティメントK137は、これに反し(註:K136と違って)、アンダンテ楽章で始まり、ソナタ形式で書かれた短いアレグロ・ディ・モルト楽章に引き継がれる。
 おやおや、この解説、実際の演奏と真逆の内容。わざわざ楽章を入れ替えたヴェーグの意図が吹っ飛んじゃってる。書いた主はゲルハルト・ヴァルタースキルヘンというザルツブルク大学の教授。なにやら高名な方らしい。まさか、演奏を聞かずして書いちゃった? そんなことでは、その昔「新潮45」に「たいこもち批評家『座右の銘』」を書いた加茂川洗耳先生に、「演奏を聴かずに月評を書く」評論家リストに入れられちゃいますよ!
<参考文献&CD>

モーツァルト・ベスト101 石井宏監修(新書館)
帝王から音楽マフィアまで 石井宏著(学研文庫)
シャーンドル・ヴェーグ/モーツァルト セレナード&ディヴェルティメント集 (CAPRICCIO)
THAT'S MOZART〜これだけ聴けばモーツァルトがわかる(BMG JAPAN)
 2017.06.26 (月)  モナリザ500年目の真実 後編〜4人目のモナリザは誰?
 フランスの光学技師パスカル・コットは、特殊カメラを用いて、名画「モナリザ」を透視。現行のモナリザの下に3人のモナリザが隠れていることを発見した。その結果、ヴァザーリ説のモデル「リザ・ジョコンド夫人」は3人目のモナリザであることが判明した。まさに世紀の大発見!2015年12月のこと。現行のモナリザは、3人目の上に重ね描きした「4人目のモナリザ」なのである。果たして、このモデルは誰なのか?

<ロベルト・ザッペリの直感>

 ロベルト・ザッペリは1932年生まれのイタリアの歴史家。ザッペリは、定説「モナリザのモデルはジョコンド夫人」に納得できなかった。理由は「フィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザのような平凡な人物が、果たしてあのような深い情緒を持った肖像画となる霊感を画家に与えることができるだろうか?」という疑問だった。無論、彼はジョコンド夫人の素顔を知る由もない。ただ、平凡なフィレンツェの豪商の妻が、美しく優しく慈愛に満ちしかも神秘的ですらある「モナリザ」のモデルであるとは到底思えなかったのだ。この直感はパスカル・コットの透視によって証明されるのだが、ザッペリはそれ以前から独自にモナリザ探しを続けていた。そしてその成果は「さらば、モナリザ」という1冊の本にまとめられた。脱稿したのは2011年。今回はこの書に沿って「4人目のモナリザ」に迫る。

<4人目のモナリザ>

 ダ・ヴィンチは1513年、メディチ家出身の教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチ(1479−1516)の誘いを受け、ローマに居を移す。ジュリアーノは、画家、彫刻家、錬金術師、鉱山技師など、独創性のある芸術家や技術者を集めることを好んだ。ダ・ヴィンチは彼の庇護のもと、バチカンに住居とアトリエを構えることができた。そこにはフィレンツェから携えてきた「モナリザ」があった。ジョコンダの未完の肖像が描かれたままの。ダ・ヴィンチはそのキャンバスにどうやって4人目のモナリザを重ねたのだろうか?

 ここに一つの手掛かりがある。枢機卿アラゴンの秘書が1517年に残した日記である。アラゴン卿と秘書が、フランスに住む65歳のダ・ヴィンチのアトリエに行った時のものである。
当代きってのフィレンツェ出身の画家レオナルド・ダ・ヴィンチは、我々に3枚の絵を見せてくれた。そのうちの2枚は「洗礼者ヨハネ」と「聖アンナと聖母子」、もう1枚はある女性を自然のままに描いた絵で、発注者はジュリアーノ・デ・メディチである。
 この記述における注目点は二つ。第一は、1503年、ダ・ヴィンチが、フィレンツェでリザ・ジョコンド夫人を書き始め、完成せず依頼主にも渡らずに、共に転々とした「モナリザ」が、1517年、死を2年後に控えたダ・ヴィンチのフランスのアトリエに存在していたこと。第二は、ジュリアーノ・デ・メディチという名のキイ・パーソンが登場したことだ。
 ダ・ヴィンチは、「ジュリアーノ・デ・メディチの発注を受けて、3人目のモナリザの上に、4人目のモナリザを重ね描きした」のである。

 ジュリアーノ・デ・メディチとはどんな人物で、ダ・ヴィンチは彼から誰を描くよう依頼されたのか?

<ジュリアーノ・デ・メディチという男>

 ジュリアーノ・デ・メディチは、1479年3月12日、メディチ家の末っ子としてこの世に生を受けた。少年時代、「バラの花のようにはつらつとし、鏡のように汚れなく、活き活きと考え深げな目をしていた」と称されたジュリアーノは、容姿端麗で文学的素養もあり、生まれながらにドン・ファンの資質を備えていた。父ロレンツォの死後、メディチ家に幾多の災難が降りかかり、各地を転々とするも、その間様々な芸術に触れ、その資質はさらに磨きがかかってゆく。
 1505年からは、かなりの期間、イタリア中部の町ウルビーノに滞在した。当時この地は、イタリア全土から、文学者や芸術家が集う文化の中心地。イタリアで最も美しいといわれたドゥカーレ宮殿では、愉しい会話と品のよい冗談が飛び交い、集うものは皆心地よい時間を過ごしていた。公邸はまさに歓喜の場。そんな社交の場において、ジュリアーノは芸術や文学における学識のゆえに際立った存在で、彼との交際を望むご婦人は後を絶たない。そんな状況の中、彼は運命の女性と出会う。パチフィカ・ブランダーニである。

 ジュリアーノとパチフィカの交際を示す記録は残っていない。しかしながら、その関係性は、ウルビーノのサンタ・キアーラ教会の記録等から辿ることができる。
1511年4月19日の聖土曜日、サンタ・キアーラ教会に男の乳飲み子が捨てられていた・・・・・赤ん坊は窮地を脱した。ジュリアーノ・デ・メディチが自分の養子として受け入れた・・・・・ジュリアーノとパチフィカの非嫡出子として認知された。
<ジュリアーノとパチフィカ>

 1511年4月19日、サンタ・キアーラ教会に乳飲み子が捨てられていた。この男の子は、発見後直ちにウルビーノの捨て子養育院に引き渡され、パスクワリーノと名付けられる。さらに3日後には、バルトロメオという男の家庭に引き取られてゆく。そこには授乳可能な妻がおり、報酬目当てに乳飲み子を預かることは、当時珍しいことではなかったようだ。そして数か月後、ジュリアーノ・デ・メディチが現れ、この子を自分の庶子と認知し、イッポーリトと命名する。これは余談だが、イッポーリトは、ギリシャ神話に登場するヒッポリュトスのこと。彼と継母フェードラとの禁断の愛の物語は1962年の映画「死んでもいい」(ジュールス・ダッシン監督 メリナ・メルクーリ主演)に描かれている。庶子に正統的な名を付けないのはメディチ家の伝統だが、ギリシャ神話からの引用はジュリアーノのセンスだろう。

 イッポーリトの母親の記録は、捨て子養育院の受け入れ簿に明記されている。「母親の名はパチフィカ。ジョヴァンニ・アントニオ・ブランダーニの娘」と。ブランダーニ家はウルビーノでは屈指の一族で、ジョヴァンニ・アントニオは、都市参事会長、行政長官を務めた名士だった。これらの境遇から、パチフィカは教養があり、宮廷にも出入りしていただろうことは容易に想像がつく。そこで、社交界の花形ジュリアーノに出会い恋仲となり子を産んだことも、想像上想定内といえるだろう。ところが、パチフィカは出産後間もなく亡くなってしまう。ジュリアーノがイッポーリトを引き取りに来たときには、彼女は既にこの世にいなかったのである。

<ジュリアーノとイッポーリト>

 ジュリアーノは、イッポーリトを認知した後もしばらくウルビーノに留まったが、そのころ、ローマ教皇軍はフランスとの戦闘の最中だった。枢機卿の兄ジョヴァンニ(1475−1521)と共にジュリアーノも戦地に赴き、1512年には奪還したフィレンツェに居を構えた。1513年、ジョヴァンニはローマ教皇レオ10世となった。それに伴いジュリアーノもローマへ。そして、友人ダ・ヴィンチをバチカンに迎えたのである。
 ジュリアーノは正妻フィリベルタとの間に子はなかった。イッポーリトはジュリアーノの最初にして唯一の子だったのだ。ジュリアーノはバチカンでイッポーリトを手厚く養育した。ところが1516年、ジュリアーノは結核のためにこの世を去る。残されたイッポーリトは5歳。この後は伯父の教皇レオ10世によって育てられ、枢機卿にまで上り詰めるのである。

 ここまでは史実に基づく。以降は想像の世界である。

<4人目のモナリザは誰?>

 1513年以降、バチカン宮殿では、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチと息子イッポーリト、そして、レオナルド・ダ・ヴィンチが何不自由のない生活を送っていた。「さらば、モナ・リザ」の著者ロベルト・ザッペリは、NHK-BS「4人のモナリザ」の中でこう述べている。
イッポーリトは僅か3歳です。いつも周りに「ママは何処?」と尋ねていました。想像するに、ジュリアーノはダ・ヴィンチにこう注文したのだと思います。「あなたの想像力で、息子の母親を描いてほしい」とね。母親の姿を息子に残すために「モナリザ」は 描かれたのです。
 私は、サッペリのインタビューを聞き著書を読んで、4人目のモナリザは「イッポーリトの母パチフィカ」と思えてきた。というか、確信するに至った。パチフィカはジュリアーノにとって特別な女性だった。数多浮名を流すもパチフィカ以外の女性とは子供を作っていない。イッポーリトこそジュリアーノの唯一掛け替えのない宝物だった。「ママは何処?」とせがむ3歳の愛児のために母親の肖像を用意してやりたい! しかも傍らにはフィレンツェから呼び寄せた名手レオナルド・ダ・ヴィンチがいる。ジュリアーノがダ・ヴィンチに依頼するのは自然の流れではないか。

 かくして、ダ・ヴィンチは、持ち合わせた「3人目のモナリザ」の上に「4人目のモナリザ」を描き始める。ジュリアーノからパチフィカの容貌を聞きつつ筆を進める。子供が見るという目的に合わせ、視線を正面に向かせる。パチフィカの運命を思い死を暗示する喪服を着せた? もしや自分の母カテリーナの面影も加わってきた? こうして「4人目のモナリザ」は現行のモナリザに近づいてゆく。

 しかしながら、1516年3月17日、ジュリアーノは不帰の人となってしまう。またしても「モナリザ」は依頼主に渡らなかったのだ。ジュリアーノの死後、ダ・ヴィンチは、フランソワ1世の誘いに応じアンポワーズ城近くのクルーの館に移る。新たな環境の中、ダ・ヴィンチはモナリザの完成を目指した。もはや依頼主はいない。締め切りもない。モデルに固執する必要もない。ダ・ヴィンチは真に自由な発想でモナリザと対峙した。この作業は死ぬまで続く。描き進むうちに「モナリザ」は、徐々に現実を離れ、ダ・ヴィンチが想像する理想の母親像→女性像に変容していったのではないだろうか。
 1519年5月2日、レオナルド・ダ・ヴィンチは永遠の眠りについた。傍らには最後まで筆を入れ続けた「モナリザ」がいた。優しく慈愛に満ちしかも神秘的な笑みを湛えて。

<後記>

 「モナリザ」は、世界でもっとも知られた、もっとも書かれた、もっとも歌われた、もっともパロディが作られた美術作品といわれています。だから、「モナリザ」のモデルは誰か? という問いが、世間の興味を惹くのは当然です。これまで、いったい何人の学者・好事家が推理を働かせてきたでしょうか。以下はその産物の一部です。
リザ・ジョコンド夫人、ミラノ公妃イザベラ・ダラゴナ、ミラノ公の愛妾チェチーリア・ガッレラーニ、フランカヴィラ侯爵夫人コンスタンツァ・ダヴァロス、マントヴァ侯妃イザベラ・デステ、パチフィカ・ブランダーニ、イザベラ・グアランダ、カテリーナ・スフォルツァ、レオナルドの母カテリーナ、弟子のサライ、レオナルド本人(Wikipediaより引用)
 この夥しい数こそモナリザの魅力の証明に他なりません。但し、これらのほとんどはパスカル・コットによる“モナリザ透視”以前の推理。私としては、ジョコンド夫人は3人目のモナリザであり、パチフィカ・ブランダーニこそ4人目=真のモナリザのモデルである、と確信するものです。だが、パチフィカの姿をダ・ヴィンチは見ていない。最初から想像で描くしかなかった。しかも、ダ・ヴィンチは、その絵を依頼人に渡すことなく、死ぬまで筆を入れ続けた。描けば描くほど「モナリザ」は、現実のモデルを越え、想像上の肖像となってゆく。母の面影も混ざったかもしれない。人生で出会った多くの人々の印象が加わったかもしれない・・・・・だから、あのような慈愛と神秘と普遍が宿ったのです。人生の最期に着地した「モナリザ」こそが、ダ・ヴィンチが追い求めた理想の女性像だったのではないでしょうか。
<参考資料>

「さらば、モナ・リザ」ロベルト・ザッペリ著 星野純子訳(鳥影社)
「4人のモナリザ」〜“謎の微笑”モデルの真実 NHK-BSプレミアム 2017.5.17 OA
 2017.06.20 (火)  モナリザ500年目の真実 前編〜隠れていたジョコンダ
<4人のモナリザ>

 世界で一番有名な絵画「モナリザ」Mona Lisaは、海外では、一般に「ジョコンダ」La Giocondaと呼ばれている。モデルがジョコンド夫人というのがその理由。しかしながら、その正体は、侯爵夫人、ナポリ公妃、マントヴァ公妃イザベラ・デステ、愛人、母親、中国人家政婦、弟子のサライ、果ては本人説まで数多の憶測・推測がなされ、決定打がないまま今日に至っている。果たして「モナリザ」のモデルは誰?これぞ美術史上最大のミステリー&ロマン!?

 ジョコンダ説は、ルネサンスの画家・美術史研究家ジョルジョ・ヴァザーリ(1511−1574)の著書「芸術家列伝」中の記述、「レオナルドはフランチェスコ・ジョコンドのために彼の妻リザの肖像製作を引き受けた」による。福岡伸一氏によれば、ヴァザーリは、画家としては大したことはないらしい。彼の絵は、大作ではあるが平板で訴求力に乏しいという。反面、絶対に納期をはずさないという才能があり、納期を守れぬダ・ヴィンチなど、及びもつかない売れっ子画家だったようだ。杜撰な天才ダ・ヴィンチと几帳面な秀才ヴァザーリ。面白い対比である。
 几帳面さこそは研究者として持つべき大事な資質なわけで、この几帳面な美術史研究家の記述が、長い間、それなりの権威を持ち続けてきたのは事実である。

 パスカル・コットというフランス人光学技士がいる。数年前、ルーヴル美術館から「モナリザ」の当時の色彩の復元を依頼されたのを機に、この名画に嵌る。独自に考案したマルチ・スペクトル・カメラを使い2億4000万画素の超高精細画像により、「モナリザ」という絵画を丸裸にすることに成功。ダ・ヴィンチがどういう経路で最後の画に至ったのかが明るみに出た。そこには、なんと4人の「モナリザ」がいたのである。つまり、ダ・ヴィンチは3人を重ね描きして今の「モナリザ」に辿り着いたのだ。

 1人目のモナリザはデッサン。2人目は聖母マリア。3人目は? 4人目は世界が見てきた現行のモナリザ、ヨーロッパで「ジョコンダ」と呼ばれている肖像である。モナリザの真実究明とは、3人目と4人目のモデルを特定することに他ならない。

<3人目がジョコンダ>

 パスカル・コットによって現行「モナリザ」の下からもう一人のモナリザが出てきた。3人目のモナリザである。二つを見比べると、3人目は、口が小さく、顔が細く、目が(向かって)左方向を向いている。服装については、@袖の上部に蝶結びのリボンがある A肩掛けヴェールが透き通ったシルク B胸元から中着が僅かにはみ出す。などなど、現行モナリザとはずいぶん違う。

 エリザベッタ・ニンネラ女史という服飾史家がいる。服飾史家は、モデルの服装から絵画が描かれた時代と地域を特定する。「世界各地の古代及び現代の服装」という当時の図鑑がある。様々な階級・職種別、時代別、地域別に人々の服装をまとめたもの。これに当てはめて、モデルが描かれた時代や地域を特定する。音楽でいえば、赤外線で五線紙を透視しモーツァルト作品の作曲年代を特定したアラン・タイソン方式に似ている。

 女史は、3人目のモナリザの服装を照合・考察する。@袖の付け替えを可能にするための蝶結びのリボンとAシルクの肩掛けヴェールは、1400年代末−1500年代初頭のフィレンツェで流行ったスタイルと特定。さらにB胸元の中着が僅かにはみ出す着方は、1500−1505年の流行と限定。以上から、3人目のモナリザは「1500年代初頭にフィレンツェ在住の女性を描いたもの」と結論付けた。実に論理的! ならば、この女性は誰か?

 近年、ハイデルベルク大学で決定的な証拠が発見された。ダ・ヴィンチと付き合いのあったフィレンツェの役人A.ヴェスプッチの蔵書の余白に「レオナルド・ダ・ヴィンチはさまざまな絵に取り掛かった。例えばリザ・デル・ジョコンドの頭部だ。1503年10月」との書き込みがあったのだ。

 レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年、フィレンツェの北西40kmのヴィンチ村に生まれた。ヴィンチ村のレオナルドくんである。これ、「フィガロの結婚」の原作者、カロン・ド・ボーマルシェと同相。こちらはフランス人だが。
 父セル・ピエーロ(1424−1504)は公証人。レオナルドが母カテリーナのお腹の中にいるにも拘わらず、フィレンツェの金持ちの娘と結婚してしまう。レオナルドが私生児扱いになったのはこのため。妻を捨て将来を買う。打算そのもの。残されたレオナルドは母の愛情を一身に受けて育つ。ところが父の新家庭に子供ができなかったためレオナルドは父に引き取られフィレンツェへ。何と勝手な! 最愛の母との別れ。この後、彼の心の内から母の面影が消えることはなかったという。

 フィレンツェで才能を開花させたダ・ヴィンチは、1482年、ミラノ公ドヴィーコに招かれミラノ公国へ。ここで傑作「最後の晩餐」を描くが、1499年フランス軍が侵攻したためヴェネツィアへ脱出。翌1500年、フィレンツェに舞い戻った。76歳になっていた父セル・ピエーロは公証人として未だ健在。顧客に豪商フランチェスコ・デル・ジョコンドがいた。さらに、彼の妻リザの実家の隣人という間柄。大金持ちの奥様の肖像画製作の口を暇な息子に世話してやっても不思議はない。そこには罪滅ぼしの気持ちもあったのかもしれない。

 これらの状況及び歴史的証拠から、ダ・ヴィンチは、1503年、フランチェスコ・デル・ジョコンド夫人リザの肖像画を描き始めた、というのは疑いのない事実と考えられる。ヴァザーリの記述も間違いではなかった。まさかその肖像が隠れてしまうとは夢にも思わなかっただろうが。「ジョコンダ」は現行の「モナリザ」ではなく、その背後にひっそりと隠れていた3人目のモナリザだったのである。これぞ、500年という年月を経て到達した衝撃の結論。イギリスの美術史家A.グレアムディクソンは、これを「歴史を変える驚くべき発見」と評している。

 ダ・ヴィンチは、1516年、ローマに旅立つ。モナリザを携えて。ということは、1503年に書き始めたジョコンド夫人の肖像画は依頼主に渡らなかったことになる。完成しなかったからだ。理由は不明だが、納期を守らぬ杜撰な天才ダ・ヴィンチならありうること。何ら不思議はない。「東方三博士の礼拝」「荒野の聖ヒエロニムス」などなど、未完の作品は数多。ヴァザーリは「晩年のレオナルドはただの一作も完成させることはできなかった」とまで述べている。

 ローマに渡ったダ・ヴィンチは携帯した未完のジョコンダ夫人の肖像の上に4人目のモナリザを重ね描きした。現行の「モナリザ」である。ならば、このモデルは誰なのか? これは次回のお楽しみ。
<参考資料>

「4人のモナリザ」〜“謎の微笑”モデルの真実 NHK-BSプレミアム 2017.5.17 OA
「福岡伸一の動的平衡」〜効率の価値見せた画家 朝日新聞2016.7.28掲載
「帝王から音楽マフィアまで」石井宏著 新潮社刊
 2017.05.25 (木)  安倍とトランプ、辞めるのはどっち?
 海の向こうでは、トランプ大統領が、大ピンチの体。ロシア疑惑一連の流れが、1972年ウォーターゲート事件に酷似していることから「ロシアゲート」と呼ばれている。
 我が日本では、森友問題で逃げ切った安倍首相に、今度は加計学園問題が発生した。お互い「相性がいい」と認め合う日米の長が迎えた正念場。二人の行く末はいかに?

(1) トランプ大統領の場合

 昨年の大統領選終盤、ロシアのサイバー攻撃にトランプ陣営が関与した疑惑がある中、当時民間人の大統領補佐官フリン氏が駐米ロシア大使と接触した疑いが浮上。トランプ大統領は2月、フリン補佐官を解任、収束を図る。その翌日、FBI長官ジェームズ・コミー氏に言った台詞が「彼はいい人だから、この件は放っておいてくれ」。なんじゃコリャ!真相究明が任務のFBI長官に「いい人だから大目に見ろ」だと! この非常識。幼稚すぎる。
 しかるに、コミー長官は、ロシア疑惑追及を止めるはずもない。5月には捜査費用の増額を要請し加速を図る。

 5月10日、発覚を恐れたトランプ大統領は、コミー長官を解任した。理由は「いい仕事をしなかった」。これも理由になってない。いい仕事をしなかったって、自分にとってでしょ。
 翌11日、トランプ氏は、ロシアのラブロフ外相との会談で、イスラエルから得た「ISに関する最高レベルの機密」を漏らしたとの疑いが浮上。これホントにホント? トランプ氏、ツイッターで「テロと航空の安全に関する事実をロシアと共有したかった」と言ってるんだからホントなんだ。エライことをしてしまったという自覚もない。最高レベルの機密とは同盟国だからこそ共有できるもの。これを第3国に迂闊に喋って憚らない。こんなプリンシプルのない大統領がかつていただろうか。あまりの酷さにアメリカ国民は今猛省の真っ最中「なんでこんな人間を大統領に選んじゃったのか」。それが支持率38%。

 5月17日、これはまずいと司法省が動く。政権から独立して捜査起訴ができる特別検察官にロバート・モラー氏を任命した。モラー氏は厳正で有能、人望も厚い。アメリカ最強の検察官といわれている。これについてトランプ氏は「我々の国をひどく傷つける。国のまとまりを齟齬するネガティブな事象だ」と宣った。何をおっしゃいますか、みんなあなたのせいでしょうに。

 現在、トランプ大統領は中東歴訪中。心中はいかばかりだろうか? 帰国後には、コミー氏が証言することになるだろう上院公聴会がある。
 これによって、トランプ氏のロシアとの関係と司法への介入が究明されることになる。捜査・公聴会の結果、トランプ氏の不正不当が明るみに出れば、次なる段階は、大統領の弾劾である。下院の50%で弾劾勧告成立、上院の3分の2で可決される。

 「ロシアゲート」と呼ばれるのは、ニクソン大統領が辞任した「ウォーターゲート事件」に酷似しているからだ。1972年再選を果たしたニクソン。陣営が選挙期間中競争相手の民主党本部に盗聴器を仕掛けたという疑惑。証拠資料としての録音テープの存在が発覚。特別検察官アーチボルド・コックスはその提出を迫る。拒むニクソンはコックスを解任。ここで、議会は弾劾を目指す。下院で訴追が可決。ニクソン観念。辞任を決意する。1974年のことだった。

 疑惑発覚→捜査中止要請→高官の解任→特別検察官就任。一連のトランプ・ケースの流れは「ウォ−ターゲート事件」に酷似する。「あれから40年!」強だ。

 アメリカ史上、任期中に辞任した大統領はリチャード・ニクソンただ一人。弾劾に掛かった大統領は、アンドルー・ジョンソンとビル・クリントンの二人だが、弾劾は不成立。果たして、トランプはどうなるか? 信頼できる数少ないコメンテーターの一人岡本行夫氏は「下院で弾劾訴追が成立しても、上院3分の2というハードルは高い。弾劾成立は難しい」と読む。が、私はそうは思わない。
 厚顔無恥なトランプに、辞任の選択肢はないだろう。ならば弾劾。過去の事例を検証してみよう。まずは、1867年、アンドルー・ジョンソンの場合。罪状は陸軍大臣の解任。政策上の違いに端を発して、政府高官の罷免不可というThe Tenure Lawを破ったこと。次に、1999年、ビル・クリントンの場合。実習生との“不適切な関係”が露呈したスキャンダル。いわば道徳的問題。これらに較べると、トランプ大統領の「高官の解任と最高レベルの機密漏洩と敵国との結託」という3つの罪状は、質量ともにはるかに重い。大統領の資質そのものに関わる問題でもある。
 解任は行政内、案件は国内マターに止まったジョンソン・ケースにおいて、上院の採決は僅か1票差(の否決)だった。トランプ・ケースは、解任は司法に近い領域かつ、案件は他国の関与にも及ぶ。この差は甚大。ジョンソン・ケースが1票差の否決なら、トランプ・ケースが可決されても何ら不思議はない。私は、トランプ氏の弾劾成立の可能性はかなり高いと見る。ウォーターゲート事件は2年。今回もそれなりの時間はかかるだろうが、我々は、アメリカ大統領初の罷免という前代未聞のシーンに、いずれ遭遇することになるかもしれない。

 例え弾劾が成立しなくても、私は、アメリカが羨ましい。三権分立と民主主義がそれなりに機能し言論の自由がまだまだ健在であるから。それに引き換え、我が日本はどうなのか!?

(2) 安倍首相の場合

 さて、今度は日本、安倍首相である。森友問題をどうやら逃げ切ったと思われた矢先に、「加計学園問題」が噴出した。モリのあとはカケ。蕎麦屋じゃないっつーの!
 加計学園理事長の加計幸太郎氏は安倍首相の“腹心”の友だそうだ。知り合ったのはアメリカ留学時代というから、かれこれ40年。ゴルフも食事もよくし、家族ぐるみの付き合いだという。
 加計学園岡山理科大学は7年前から獣医学部新設を目指すも、15回にわたる申請はことごとく却下されてきた。ところが、アベノミクス国家戦略特区構想が出来て急進展。文科省から認可が下り、来春、愛媛県今治市に、開学の運びとなった。ここに安倍首相の特別な力が働いたのではないか?これが「加計学園疑惑」である。以下はその経緯。
2015年6月 国家戦略特区メニューに、4つの条件明示の上で、
        獣医学部新設条項が追加される
2016年3月 京都産業大学が獣医学部新設に名乗りを上げる
2016年6月 前川喜一氏文科省事務次官に就任
2016年8月 地方創生担当大臣が石破茂氏から山本幸三氏に交代
2016年9−10月 文科省が「総理のご意向」などと記された文書を作成
           前川氏も受け取り、省内共有の案件となる
2016年11月 「獣医学部がない地域に限る」との方針が発表される
         近隣に獣医学部がある京都産業大学断念
2017年8月 加計学園に認可の見通し
2018年4月 今治市に岡山理科大学獣医学部開学の予定
 5月17日、朝日新聞朝刊に「新学部『総理の意向』」との見出しが躍る。「〇〇内閣府審議官との打ち合わせ概要(獣医医学部新設)」との題名の2016年9月26日付の内閣府の意向を受けた文科省職員が作成した文書が出てきたというもの。そこには、「2018年4月開学を大前提に、逆算して最短のスケジュールを作成し、共有いただきたい」「これは官邸の最高レベルが言っていること」と書かれている。

 同じ日の衆院文科委員会。事の真偽を質した社民党福島議員に対し、安倍首相は「この文書が偽物だったら、あなた責任が取れるのか」と恫喝。明らかに感情が高ぶっていた。身に覚えがないのなら、冷静に潔白を証明すればいいだけの話なのに。
 本件は、権力者が、その権力を濫用し個人的な利益供用を図るという、民主政治にあるまじき事案を問うもの。野党が政権側にその真偽を問うのは当然の行為であって、それを言下に否定恫喝する首相の態度はあってはならないものだ。

 菅官房長官は「怪文書」と決めつけ、文科省は「文科省7人の幹部に聞き取りを行い、省内の共有フォルダを調査したが、該当する文書の存在は確認できなかった」とするズサンな結果報告。首相に纏わる負の要素をやっきになって隠滅し、逃げ切りを図るいつもの手口。森友問題と同じ様相を呈してきた。

 ところが5月24日 事態は一変。前文科省事務次官・前川喜平氏の独占告白が「週刊文春」に掲載され、同日、記者会見が開かれた。以下それを要約する。

 国家戦略特区における今治市加計学園岡山理科大学獣医学部の新設について、私は文科省側の事務方トップとして関わっていた。今、問題となっている8枚の文書は、私が在職中に実際に共有していたわけで、確実に存在していたのは間違いのない事実だ。あったものをなかったとは言えない。「2018年4月の開学を前提とし、それを逆算して最短のスケジュールを作成共有していただきたい。これは官邸の最高レベルが言っていること」なるレク(説明用のメモ文書)は、文科省の専門教育課の職員が、内閣府の藤原審議官のもとを訪れて書いたもので、受け取ったのは9月28日である。追って10月17日には、「文科大臣ご確認事項に対する内閣府の回答」と題するレクを受け取った。ここには「党の議論は不要、2018年4月開学は決定事項で大前提。これは総理の意向である」とあり、内閣府からの最終通告に等しいものだった。
 本案件は、加計学園の固有名詞こそ出る機会は少なかったが、関係者の間では「暗黙の共通理解」として進んでいた。そんな中で、許可を出す当事者としては、4つの条件をクリアしてほしいと常に訴えてきたが、納得する説明がないまま押し切られた。極めて脆弱な根拠のもとに規制緩和が行われ、公正公平であるべき行政のあり方が歪められたといわざるを得ない。

 よくぞここまで言う官僚が現れたものだ。実に画期的。現在退任しているとはいえ直近の前任者で事務方のトップが、意を決しきっぱりと論理的かつ具体的に述べているのだから、まず真正なものと考えるのが自然だろう。国民感情もしかりと思う。だが、これを受けた菅官房長官の言は「文書について、文科省の調査結果では存在が確認できず、内閣府によれば、『官邸の最高レベル』とか『総理のご意向』とか言った事実はないとの報告を受けている。行政が歪められたとの指摘はまったく当たらない」との紋切り型見解を繰り返すのみ。さらに「ご自身が責任者の時にそういう事実があったのなら、そこで堂々と言うべきじゃなかったか」とまで言う。現役の事務方トップが、そんなこと言えるわけないだろうに! そんなことは官房長官が一番分かってるはずでしょう。白々しい! さらに「前川氏は、天下り問題が発生した時、自ら辞める意向を示さずに地位にしがみつき、世論の厳しい批判を浴びてやっと辞任した人」と個人攻撃をブチあげる。読売新聞がスクープしたとされる「前川氏出会い系バーに通う」の唐突さもきなくさい。「証人喚問には出る」との前川氏の言を踏まえた野党の要請にも、自民党国対委員長は「受けられない」と突っぱねる。理由は言う必要がないらしい。なぜなら「面白い話だが政治の本質とかけ離れている」からだそうだ。何をおっしゃいますか、民主主義の根幹に関わるこれほど本質的な話がありますか!? こういう俗物につける薬はない。真実解明のためには断じて証人喚問をやるべきだ。政権与党議員の理屈なきNOの一斉放射も病的である。マスメディアの対応も生ぬるい。勇気ある元官僚VS国家権力という構図がはっきりと見えたのだから、まずは前川氏提言の真偽を公平に検証すべきなのに、「立証は難しい」、「証拠が希薄」など、評論家、コメンテーターの類の大半が否定論調。殊に首相が購読を奨励(?)する読売系が甚だしい。真実報道の気概が感じられず、政権に媚を売る姿勢ばかりが目立つ。まるで首相防衛網の体。

 こんなぬるま湯に浸かる安倍首相、5月3日には憲法改正私案なるものを持ち出してきた。2020年を目途に「憲法第9条に自衛隊の存在を明文表記する。第1,2項はそのままで」+「高等教育の無償化」というもの。「戦力不保持」を唱える第2項をそのままにしての「自衛隊の明文表記」。いったいどうやって?どうせ得意の小手先作業。公明党への配慮も垣間見える。憲法改正が悲願というなら、なぜ正攻法でやらないのか。抜本案を提示して是非を問うべき。それが憲法に向かう姿勢というもの。今回の表明は憲法に対して失礼だ!
 急に持ち出してきた「高等教育の無償化」も実に不自然。本当にこれが最優先されるべき事案なのですか? これなら改正のハードルは低いから。維新への配慮? バカ言っちゃいけない。一体あなたの狙いは何? 中味より形。とにかく変えりゃいい。史上初めて憲法改正した総理大臣なる名を遺すこと。違いますか? 優先すべきは国民よりも自己の名誉。「命もいらず、名もいらず、地位も金もいらぬ人は始末に困る。だが、こういう人でなければ国家の大業はなしえない」〜西郷隆盛の言葉だが、安倍首相はまさに逆。矮小劣悪なトップを戴くこの不幸!

 ロシアゲートと加計学園問題。果たして今後の展開は? 加計学園マターは、総理大臣が、腹心の友の便宜を図るため、国家戦略にその要素を盛り込み、競争相手を排除し、その実現を図った。完全なる政治の私物化。かつてない悪質な権利の濫用。ロシアゲートに匹敵する罪状である。
 コミー前長官、モラー特別検察官。追及するマスメディア。アメリカにはまだ正義が存在する。トランプ辞任の可能性は高い。
 対する日本。傲慢政治家、保身に走るお役人。迎合するマスメディア。日本には意地の欠片もない。万一、これが、真実の解明なきまま幕引きが為されたら、日本に未来はない。「シラを切ればみな通る」そんな情けない国家に成り下がる。なんとかちゃんとした国であってほしい。日本を信じたいのだが・・・・・。
 2017.05.15 (月)  エルガー「愛の挨拶」とドラマ「相棒」に纏わる面白話
 NHK-Eテレに「らららクラシック」という番組がある。4月改編でパーソナリティが代わったが、それまでの加羽沢美濃&石田依良コンビは抜群だった。石田氏は「池袋ウエトゲートパーク」シリーズ等で人気の中堅作家。クラシックにも造詣が深く作品中にも名曲が顔を出す。あまり通ぶらず、ほんわかムードで場を包み、好感度大。美濃さんは女流作曲家。優しい雰囲気のお姉さんだがえもいわれぬ色香がある。同好の士F氏も美濃さんの大ファンだが、それはさておき、彼女のピアノを弾きながらの解説は、音符に隠された曲想の秘密を抉り出し、曲の本質を浮き彫りにして見事。しかも実に分かりやすい。5年間で200回を重ねたこのコンビこそ永久鉄壁の布陣と思っていたが、4月改編で揃って交代してしまった。残念至極!
 代わって登場したのは、俳優の高橋克典氏。新シリーズは、楽曲分析よりもエピソードが重点。私にとってはどちらも興味があるが、強いて言えば旧シリーズの方がよかったかな。でも、新シリーズは「りんりんクラシック」に多くのネタを提供してくれそうでそれはそれで楽しみだ。第1回は「エルガー 愛の挨拶」だった。今回は、この曲のクラ未知的視点による面白話をご披露したい。

 「愛の挨拶」は原題「Salut D’amour」。作曲者エドワート・エルガ―(1857−1934)が未来の妻アリスに婚約記念として贈った曲。ロマンティックで美しい情感溢れる名小品である。
 タイトルは当初エルガーが英語で「Love’s greeting」としたが、ドイツ語勉強中の婚約者の要望で「Liebesgruss」に変える。それを出版社が“フランス語の方がキャッチー”と言ったかどうかは不明だが、最終的にフランス語に落ち着いたという経緯を持つ。オリジナルの楽器編成はヴァイオリンとピアノのデュオ。アリスはエルガーのピアノの弟子だったから、彼女がピアノ、エルガーがヴァイオリンを弾くという実践に即したものだった。出版は1886年、エルガー29歳。後に自身オーケストラに編曲する。

 このころのエルガーは、まだ、故郷ウスター(あのウスター・ソースの発祥地)の音楽教師。アリスの家族は結婚に大反対。それもそのはず、彼女の父ヘンリー・ロバーツは後に陸軍少佐となってサーの称号を与えられる優秀な軍人。一方のエルガーときたら海のものとも山のものともつかない一介の音楽教師。しかもロバーツ家がイギリス国教、エルガーはカトリックと宗教も違う。そしてついに、「何が何でもエルガーと結婚します」という娘を父は勘当してしまうのである。そんな状況下で二人は婚約。「愛の挨拶」の誕生。中間部、ホ長調→ト長調への転調部分に現れる仄かな憂いの表情は、この苦難の経緯を暗示する?

 結婚後のエルガーは、人が変わったように精進。行進曲「威風堂々」全5曲、「エニグマ変奏曲」、チェロ協奏曲ホ短調、ピアノ五重奏曲イ短調、など数々の傑作を作曲。イギリスを代表する偉大な作曲家となった。アリスこそ彼のミューズだったのである。後に彼は「私の作品を愛するのなら、まず妻に感謝すべきだ」と言っている。「自分の成功は妻のおかげ」、エルガーはそのことを誰よりも分っていたのである。

 さて、ここからが本題である。私は2013年11月6日の午後、何気なくドラマ「相棒」を見ていた。普段ほとんどこのドラマは見ないから、この日は余程暇だったのだろう。ところが、この「相棒」シリーズ2第7話「消えた死体」に、エルガー「愛の挨拶」が登場したのである。
 舞台はとある名曲喫茶。渋谷のライオンとお見受けしたがどうだろう。水谷豊演ずる杉下右京(S)と若松武史演ずる多治見治(T)とのそこでの会話を下記。
T そうですか エルガーお好きですか
S 好きですねえ
T 特にこの「ミニアチュア」は素晴らしい
S ノーマン・デル・マーの名盤ですね
T 彼の指揮するエルガーはもう絶品ですよ
S その中でも「愛の挨拶」は特にいいですね
T これですね(と音の出てくる方向を見やる)
S その盤だけ他のとアレンジが違っているんですよ
T 知ってます ここにエルガーの「ミニアチュア」があるのが素晴らしい
  いや、素敵な方とお知り合いになれた
 名曲喫茶で隣席となった杉下右京と多治見治は意気投合。二人はそこで鳴っている「愛の挨拶」の蘊蓄を語り合う。英国通の右京は、キッパリと「ノーマン・デル・マー(1919−1994 イギリスの音楽学者&指揮者)の『愛の挨拶』は他の盤とはアレンジが違う」と言うのである。

 実は私、これを見るまで、デル・マーによる「愛の挨拶」を聞いたこともなければ、収録アルバム「ミニアチュア」の存在も知らなかった。指揮者としてのデル・マーなら、湧々堂サイトの「チャイ5」(チャイコフスキー交響曲第5番)コーナーで知り、その演奏の素晴らしさは熟知していた。自然な流れにおける曲想の自在な変化が絶妙で、私の「チャイ5」コレクションの中でも最上位に位するお気に入り演奏の一つだ。そこに、この放映である。何が何でも聞きたくなって、即刻、ノーマン・デル・マー指揮:ボーンマス・シンフォニエッタの演奏する「ミニアチュア」の復刻CDを購入。「愛の挨拶」に聞き入った。杉下右京の言うとおり、それは素晴らしいアレンジ&演奏だった。

 エルガーの手になるオケ版では、主旋律が弦楽合奏でスタートするが、デル・マー版はソロ・ヴァイオリンで密やかに始まる。そこに木管楽器が絡みながら、徐々にストリングスの厚みが増してゆきクライマックスを形成、最後はホルンが加わり絶妙な響きの中静かに終わる。エルガー版に比すとより室内楽的だ。エルガーがオケ版を作った際に意図したのは、オリジナルのデュオとは違う雄大なオーケストラ的響きだっただろうし、デル・マーは逆にデュオを志向したアレンジを試みたのだろう。このあたりの両者の思惑の違いが面白い。

 「相棒」放映の4年後、今年4月の「りんクラ」で「愛の挨拶」を取り上げた。そこで改めてドラマの録画を見、デル・マー版「愛の挨拶」をしっかり聴いてみた。そこで、「オヤ!」と感じたのである。同じでなくてはならない両者の音が全く違うのである。デル・マー版の主旋律がソロ・ヴァイオリンなのに対し、ドラマの音はなんと弦楽合奏ではないか。 4年前気づかなかったのは不覚だが、まさかとチェックなどしていなかったのだから仕方がない。ついでに、ドラマの音源を特定すべく精査した結果、アンドリュー・デイヴィス指揮:BBC交響楽団の作曲者アレンジ版と判明した。これは看板に、というか、台詞に偽りありである。一体なぜこのようなことが起こったのだろうか?

 ドラマに登場するコンテンツはLPレコードである。右京が多治見にプレゼントする件でしっかりとジャケットが映っている。これは紛れもないデル・マーの「ミニアチュア」。この音を使えば何ら問題はなかったはず。なのにそうしなかったのは、それなりの事情があったのだろう。もしや、致命的なキズがあったのかも知れない。 ならば1998年には復刻されているCDを使えばよかったのだが、当時何らかの事情で手に入らなかった? それとも、ロケ地の渋谷「ライオン」所有のアンドリュー・デイヴィス指揮:BBC響盤を使い同録してしまった? 「台詞の中味とは食い違うが、どうせ判りはしない」とプロデューサー氏が高をくくったか否かは不明だが、ともあれ、安易な選択をしてしまったのは事実である。「ノーマン・デル・マーのは他の盤とはアレンジが違うんです」と杉下右京に蘊蓄を語らせるのなら、ここは何が何でもその音を探し出して使うのがモノを作る人間の良識というものだろう。「相棒」スタッフの猛省を促したい。

 そんなこんなで、またまた名曲に纏わる面白話をご披露してしまいました。これからも、しつこくて細やかな「クラ未知」的視点に、ますます磨きをかけてゆきたいものであります。
 2017.03.25 (土)  「死なばモリトモ」問題 私感
 最近、「断腸の思い」という台詞を二度聴いた。広辞苑によると断腸の思いとは「腸がちぎれるほどの苦しみ」だとか。大変なものだ。一つはサッカー日本代表のキャプテン長谷部誠選手。2018サッカー・ワールドカップ・アジア最終予選の大一番 UAE戦を前に怪我で離脱。その折に発した言葉である。結果は2−0 今後に弾みをつける快勝だった。長谷部の代役・今野泰幸がゴールを挙げるなど、彼の「断腸の思い」は吉と出た。

 もう一つは、話題の森友学園理事長・籠池泰典氏の長男佳茂氏の台詞「父は断腸の思いでしょう」である。証人喚問に向かう父の気持ちを推察したものだ。
 籠池氏積年の夢「小学校開設」にあれほど賛同していた人たちが、2月8日、この件が明るみに出たとたんによそよそしくなっていった。殊に、敬愛してやまない安倍首相から「しつこい人」(2月23日予算委員会)と言われたのは、思いを一にする同志と思っていただけにショックだった。やがて、大阪府は認可を取りやめ、開校は絶望的となった。もう失うものは何もない。自分が知ることはすべてぶちまける。「死なばモリトモ」・・・・・佳茂氏がいう父の「断腸の思い」とはこのことだった。

 3月23日の国会証人喚問に登場した籠池氏は「真に日本国のためになる子供を育てたいという教育者の立場から、今年の4月に『瑞穂の国記念小学院』を開校できるよう、これまで頑張ってまいりました」と切り出した。注目すべき陳述は次の2点である。

   @ 安倍昭恵内閣総理大臣夫人は、籠池氏の思想に共鳴し森友学園塚本幼稚園を度々訪問。2015年9月
     5日には講演を行い小学校の名誉校長に就任した。同日、籠池理事長は100万円の寄付を昭恵夫人か
     ら受け取った。「安倍晋三から」として。場所は理事長室。二人きりの状況にて。
   A 昭恵夫人へ留守電にて依頼した一件につき、夫人付き政府職員・谷査恵子氏から、2015年11月15日、
     籠池氏にFAXが届いた。「財務省本省に問い合わせ、国有財産審理室長から回答を得た。現状ではご
     希望に沿えないが、引き続き当方としても見守ってゆきたい。何かあれば再度ご教示を。これは昭恵夫
     人にも報告してある」という主旨のものだった。

 安倍総理は、2月17日、衆院予算委員会で「認可にも国有地の払い下げにも一切かかわりはない。私や妻が関係していたということになれば、総理大臣も国会議員も辞めるということを、はっきりと申し上げておく」と述べた。さあ、大変!今となれば「なんで“妻が”とまで言ってしまったのか」と後悔しきりだろが、言ったものはしょうがない。
 @が事実なら、総理は森友学園に深く関わっていたことになる。Aが事実なら、昭恵夫人は一連の件に関与していたことになる。どちらか一方でも証明されれば、安倍総理は職を辞さねばならない。武士に二言はないのだから。

 3月24日の参院予算委員会において、昭恵夫人と籠池夫人の間で交わされた夥しい数のメールや谷氏FAXについての質疑応答があった。メールに関しては、内容的に問題ないといえばそうかもしれないが、それよりも何よりも、二人がそれほどまでに親密な間柄だったこと自体が問題なのだ。
 さらに、例の谷氏のFAXに昭恵夫人が関わっていたか否かの議論が喧しかったが、そんなものは議論以前の問題である。「谷氏が一個人として財務省に照会した」とする官房長官の弁や、「当局は一般からの問い合わせには常に誠意をもってお応えしている」とした佐川宣寿・財務省理財局長の発言など笑止千万。あの誇り高き財務省が一職員の請願で動くわけがないではないか。総理大臣夫人の依頼だからこそ動いたのである。これは忖度のレベルを超えた関与以外の何物でもない。こんな理屈は幼稚園児にも分かる。
 そして、この2015年秋あたりから籠池氏がいう“神風”が吹き始め、幾多の異例が連続して認可に至るわけで、それでも関与なしと言い張る総理筋は、常識に疎い世間知らずといわねばならない。

 政権側が、常識を捻じ曲げてでも、非常識と謗られても、なりふり構わずトップを守ろうとするのは、当然とはいえ、人間の行為として情けない限り。醜悪ですらある。
 野党の「昭恵夫人、松井大阪府知事ら8人の証人喚問」要望を拒否する竹下旦・自民党国会対策委員長の支離滅裂的詭弁もしかり。松井知事などは「喜んで行く」とまで言ってるのだ。行きたいという人をなぜ拒絶する? 籠池氏は呼んでも昭恵夫人は呼ばない。どこに整合性があるのか。籠池氏喚問は「総理を侮辱した」から? 一体どこを向いて政治やってるのか。竹下さん、菅さん、佐川さん、この方たち、本当に自分の人生が恥ずかしくないのだろうか。彼らは自分の子らに胸を張って自らの姿勢を語れるのか? 今の政治家や公務員の一体どこに正義がある!?

 マスコミや評論家・コメンテーターもお粗末! 皆さん、おしなべて政権寄り。代表格はテリー伊藤と田崎史郎あたりかな。どうにもならないチョウチン野郎。籠池発言を嘘と決めつけ、安倍夫妻の称賛擁護に終始する。骨のある者どこにいる? あきれたのは「100万円授受」に関する空想的発言。「籠池氏が昭恵夫人に100万円差し出したが受け取らなかったのでそれを寄付としたのでは」なんてね。メディアが想像でものを言うんじゃないって。与党議員の噂話をまんま喋るんじゃないって。我々が求めてるのはFACTだけなんだから。これじゃ「報道の自由度ランキング」が世界第72位なのも頷けちゃう。オイオイ、韓国よりも下なんだぜ!

 籠池氏が開校を予定していた小学校の姿とはどんなものなのだろうか? これは現在運営中の塚本幼稚園を見れば一目瞭然。まだ物事の判断もおぼつかない幼子に教育勅語を唱和させる。安保法制を制定した安倍首相を称賛し「ガンバレ」エールの連呼。差別的発言の横行。とんでもないものだ。
 教育勅語は人間の本質を謳う部分もあり一概に否定できないところも確かにある。しかしながら、国民を臣民と呼称し「国家のための自己犠牲」を徳とする。これは、基本的人権を保障する「日本国憲法」とは相入れない前近代的なもの。1948年、国会でその失効が決議された代物なのだ。そんなものを金科玉条のごとく崇拝し幼子に暗唱させるなど時代錯誤も甚だしい。憲法違反に問われてもおかしくない教育方針なのだ。

 そんな小学校の開設にあたり、政府はあらん限りの協力を施した。前例なき緩和のオンパレード。官を挙げての協力体制。その頂点には内閣総理大臣がいる。一体これはどういうこと? 謎を解くカギは「日本会議」にある。

 「日本会議」とは「美しい日本の再建と誇りある国づくりのために、政策提言と国民運動を推進する」民間団体である(日本会議HPより)。では、そのスローガンは?

   @ 皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有するという歴史認識を持つ
   A 占領軍により押し付けられた現憲法に代わり自らの手で誇りある新憲法を創造する
   B 国の名誉と国民の命を守る真正保守の政治の実現
   C 日本人が古来から持つ公共的精神をはぐくむ教育の創造
   D 戦没者追悼の念を忘れずに平和と安全のため自力で国を守るという世論を喚起する
   E 共存共栄の心で世界との友好をむすぶ

 我々は日本人である。日本民族である。日本古来の文化伝統を守り世界平和に貢献するという理念は悪かろうはずもない。但し行き過ぎると危険が生じる。幼子への教育勅語の強制、個人より国家を重んずる憲法制定、排他主義etc これらは時代を逆行するものだ。森友学園の教育はこの恐れを多分に内包する。因みに、籠池泰典氏は日本会議の運営委員に名を連ねている。

 「日本会議」には「日本会議国会議員懇談会」なる組織がある。温度差はあるも「日本会議」の理念に賛同する国会議員の集まりである。会員数は281名。全国会議員の39%を占める。さらに、現行第3次安倍内閣の閣僚を見ると、安倍総理・麻生副総理はじめ19名中14名が名を連ねる。何という占拠率! 安倍内閣が「日本会議内閣」といわれる由縁である。因みに、証人喚問等で名前が出た柳本卓治、東徹、鴻池祥肇各議員も会員である。

 当初、籠池氏が「安倍首相の考えに賛同し尊敬申し上げる」と言ったのにはこんな背景があったのだ。安倍総理も間違いなく籠池氏の教育方針に共鳴していた。お互い志を一にする同志だった。だから、梯子を外し保身に走る総理を見て「なぜ?」と訝り「裏切り」と感じ「死なばモリトモ」となったのである。
 政権側は、「籠池氏のデタラメさ」を説くことで、彼の主張を否定し、総理を守ろうとしている。でもよく考えてほしい。籠池氏を誹謗することは、彼と理念を同じくする総理を貶めることになるのである。

 確かに、籠池泰典氏は、その信条や教育理念において受け入れ難いものがある。運営におけるうさん臭さも拭えない。だがしかし、そんな籠池氏に、内閣総理大臣安倍晋三氏は共鳴賛同していたのである。この証拠の一つとして、2012年9月11日付の「幼稚園保護者宛て訪問欠席詫び状」がある。「自民党総裁選出馬による公務が入り、以前から約束の貴園訪問ができなくなりました。誠に申し訳ありません。後日必ず訪問ご挨拶させていただきます」というものだ。ここまで共鳴していたのである。賛同していたのである。ならばそれを通せばいいではないか。それがいきなり手のひら返しの誹謗中傷、関与否定、逃げの一手。すべては保身のため。籠池氏はその卑劣さに落胆した。人間性に疑問を持った。決して褒められない籠池泰典という男に内閣総理大臣安倍晋三は愛想をつかされたのである。我々はこのようなトップを戴くことに羞恥の念を禁じ得ない。やりきれない。安倍さんには、日本国総理大臣としての誇りをなんとか取り戻していただきたいものである。
 2017.03.15 (水)  3月の「りんクラ」は「唱歌VSクラシック」の春対決
 昨年10月に始めたFMえどがわ「りんりんクラシック」も早半年が過ぎた。試行錯誤の連続だったが、先月の「直木賞受賞作『蜜蜂と遠雷』を読み解く」は好評だった。テーマがタイムリーだったことと短いピアノ曲を選曲したことがヨカッタか。放送は、電波に乗ってすぐに消えていってしまう。だから、重厚長大より軽薄短小がいいのだろう。詰め込み過ぎずキャッチ―に。なんとなくコツがつかめた気がした。

 3月は16日が放送日。テーマを「春」に設定した。クラシックにおける春の名曲は多々ある。ベートーヴェンの「スプリング・ソナタ」、シューマンの交響曲第1番「春」、メンデルスゾーンの「春の歌」、ヴィヴァルディの「四季」から「春」などなど。これらをただ選曲・解説してもつまらない。一味違う味付けをする。これぞクラ未知精神というものだ。
 そんな折、飲み友達のNちゃんが「日本の歌とクラシックを並べてみたら」と提案してくれた。彼は番組の貴重なリスナーで時に厳しいダメ出しをする御仁。それいただき。「春」を歌う日本の唱歌とクラシックを対比させてみよう。まずは、「春」の唱歌といえば何? と周りに訊いてみる。上位は「春が来た」「春よ来い」「春の小川」「花」とまずは予想通り。これらの歌と共通する世界観のクラシックは何だろう? フムフム、面白くなってきた!

童謡「春よ来い」 VS モーツァルトの歌曲「春への憧れ」

  「春よ来い」(相馬御風作詩)

  春よ来い 早く来い あるきはじめた みいちゃんが
  赤い鼻緒の じょじょはいて おんもへ出たいと 待っている

  「春への憧れ」(クリスティアン・オーヴァーベック作詩、石井不二夫訳)

  来てちょうだい 気持ちのいい5月よ そして 木々をまた緑にしてね
  そして 小川の川べりには 小さなすみれの花を咲かせてよね!

 さて、これら二つの歌は春の何を歌っているのか? それは“春が待ちどおしい子供の気持ち”である。でもちょっと待てよ 「春よ来い」はいいとして、「春への憧れ」はなぜ5月なの? 日本では、5月といえば春というより初夏でしょう。これを解くカギはビールのCMソングにあった!

 その昔、1950−60年代ボニー・ジャックスが歌ったサッポロ・ビールのCMソングで“ミュンヘン〜札幌〜ミルウォーキー”というのがありました。この歌の心は「世界のビールの名産地は北緯45度前後にある」だ。調べてみると、ミュンヘンは北緯48度8分、札幌は43度3分44秒、ミルウォーキーは43度3分8秒と、確かにほぼ同じ緯度。「春への憧れ」の作詩者クリスティアン・オーヴァーベック(1755−1821)はハノーヴァー出身。ハノーヴァーはミュンヘンよりさらに北で北緯52度。だから春が遅い。春は5月、というのも頷けるのだ。

 歌曲「春への憧れ」はモーツァルト最晩年1791年の作品。このメロディーは最後のピアノ協奏曲「第27番 変ロ長調 K595」の第3楽章のテーマにも使われている。

 「春よ来い」の作詞者相馬御風(1883−1950)は、新潟県は糸魚川の出身。北国の人は春を待つ気持ちが人一倍強い!?

 余談だが、♪春は名のみの風の寒さや、でお馴染みの「早春賦」(吉丸一昌作詩、中田章作曲)は、巷間「春への憧れ」に似ていると囁かれ、森繁久彌の「知床旅情」は専ら「早春賦」のパクリといわれる。でもまあ、こんな例はキリがない。

唱歌「花」 VS チャイコフスキー「花のワルツ」

 ♪春のうららの隅田川・・・・・で始まる唱歌「花」は、「荒城の月」の作曲家瀧廉太郎(1879−1903)の代表作の一つ。童謡「お正月」も彼の作品。瀧は我が国の西洋音楽黎明期を支えた作曲家の一人だ。作詩の武島羽衣(1872−1967)は東京生まれの国文学者で詩人。他に♪大波小波とうとうと、で知られる「美しき天然」がある。なお、1956年、隅田公園言問橋脇に、作者直筆「花」の歌碑が建てられた。

 対比させる花に因んだクラシック曲は? モーツァルト「すみれ」、ビゼーの歌劇「カルメン」から「花の歌」、シューマンの歌曲集「ミルテの花」、シューベルト、ウェルナーの「野ばら」、マクダウェルの「野ばらに寄す」、フォーレ「イスファハンの薔薇」、R.シュトラウス歌劇「ばらの騎士」などなど。意外と少ない!?

 ここは、チャイコフスキーの「花のワルツ」を選ぼう。三大バレエ最後の作品「くるみ割り人形」からのナンバー。王子とクララが「お菓子の国の魔法の城」での舞踏会に出かける。スペイン〜アラビア〜中国〜ロシア〜フランスなど各国の踊りのあと、花輪を持って踊る群舞となる。これが「花のワルツ」だ。華麗でロマンティック。春到来に相応しい圧倒的ワクワク感! えっ、「くるみ割り人形」はクリスマスの物語だからそぐわない? いえいえ、気分が春ならそれでよし。作曲年は1892年。チャイコフスキーが亡くなる前年の作品だ。

唱歌「春が来た」 VS ヨハン・シュトラウスUのワルツ「春の声」

 ♪春が来た 春が来た どこに来た 山に来た 里に来た 野にも来た・・・・高野辰之作詩、岡野貞一作曲。かの「故郷」のコンビ。因みに「春の小川」もそうだ。これは Spring has come だから春到来真っ盛りの歌。さて、クラシックは?

 選んだのはヨハン・シュトラウスUのワルツ「春の声」。数ある春の曲からこれを選んだ理由の一つは「男はつらいよ」である。FMえどがわの電波は寅さんの故郷葛飾柴又にも届くのだ。
 「春の声」が、映画「男はつらいよ」で初めて使われたのは、第8作「寅次郎恋歌」(1971年12月29日封切り)である。マドンナは池内淳子扮する未亡人貴子さん。帝釈天脇に喫茶店「ローク」を開く。一目ぼれした寅さんは日参。そんなある日、貴子さんの一人息子が帝釈天の境内で仲間に入れずにいる姿を見かねた寅さんは、一計を案じ、寺からまんじゅうを盗み出し子供たちみんなと江戸川に出て戯れる。江戸川の土手ではしゃぐ寅さんと子供たち。そこに流れるのが「春の声」なのだ。愉悦感溢れるシーンに躍動感一杯のワルツ。ドンピシャのシンクロ。そして、貴子さんの息子は友達の輪に入れた。寅さんの優しさに心打たれる名シーンだ。

 「寅次郎恋歌」は、シリーズの中で“節目”となった画期的作品でもある。一つは、観客動員が初めて100万人の大台を超えたこと。最高のおいちゃん役・森川信はこの作品が最後だったこと。さらに、この作品以降、年末とお盆の年2作ローテーションが確立されたこと。そして、タイトルの“寅次郎”という文言はこの作品を機に34作品に付けられることになる。

 「春の声」は、この後「男はつらいよ」第9作「柴又慕情」、第30作「花も嵐も寅次郎」、第41作「寅次郎心の旅路」にも使われた。全4回。私の記憶では、同じクラシック曲がこれほど使われた例は他にない。山田監督はよほどこの曲がお気に入りなのだろう。

 ワルツ「春の声」は1883年の作品。シュトラウスが滞在中のブダペストでとあるパーティーに出席。そこで旧知の友人リストと出会う。リストはその家の女主人と即興で連弾。シュトラウスはそれを基にその場でワルツを作曲。出来たのが「春の声」だった。57歳のシュトラウスと71歳のリスト。老人とは思えない若々しさに溢れたワルツ。二大モテ作曲家ならではのエピソードだ。

 で、「FMえどがわ」だが、当初3月までの予定だったが、好評につき?4月以降も続けることになった。やるからには頑張っていこう。より深く より広く より面白く!!
<音資料>

モーツァルト作曲:歌曲「春への憧れ」
  エディット・マティス(ソプラノ)
  ベルンハルト・クレー(ピアノ) 1972年録音

チャイコフスキー作曲:バレエ「くるみ割り人形」より「花のワルツ」
  ジェイムズ・レヴァイン指揮:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1992年録音

ヨハン・シュトラウスU作曲:ワルツ「春の声」
  ウィリー・ボスコフスキー指揮:ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団 1984年録音
 2017.02.25 (土)  追悼 船村徹〜歌は心でうたうもの
(1)作曲人生のスタートと高野公男

 船村徹。本名福田博郎。1932年6月12日 栃木県塩谷郡船生村出身 2017年2月16日逝去。古賀政男(1904−1978)、服部良一(1907−1993)、浜口庫之助(1917−1990)、吉田正(1921−1998)、遠藤実(1932−2008)、市川昭介(1933−2006)らと共に昭和の歌謡曲黄金時代を築いた、最後の大作曲家だった。
 盟友・津村公によれば、船村さんは常に「歌謡曲は詞が大事。いい詞があって初めていい歌が生まれる」と言っていたそうだ。彼の作品はほとんどが詞先。だから、相棒=作詞家が絶対必要となる。最初それは高野公男(1930−1956)だった。出会いは東洋音楽学校(現東京音楽大学)。方言にコンプレックスを持つ船村はお隣茨城県生まれの高野とは気兼ねなく話しができた。「俺は茨城弁で詞を書く、お前は栃木弁で曲を作れ」が高野の言。二人は寸暇を惜しんで歌を作り続けた。作品を携えて日々レコード会社を回る。

 レコーディングされた最初の曲は、春日八郎「泣き虫人生」(1955年8月 キングレコード)だった。そしてその年の11月10日発売、コンビ第4作 春日八郎「別れの一本杉」が大ヒットする。ヒットの要因の一つに、船村のクラシックの素養があった。この作品は編曲も行っているが、リズムはなんとカルメンの「ハバネラ」である。このルーツは少年時代に聞いた兄のハーモニカによる「ドリゴのセレナード」にある。
 ついに、高野・船村コンビの名は日本全国に知れわたった。しかし運命は意地悪だ。高野は翌年肺結核でこの世を去ってしまう。さあこれからという時の掛け替えのない相棒の死! 船村の無念はいかばかりだっただろうか。二人の遺作となった「男の友情」(青木光一)は涙なしには聴けない。「俺はお前の分まで生きる」、以後、船村は、高野の命日の9月8日には、彼の故郷笠間市で毎年欠かさず音楽供養を続けた。とはいえ相棒を探さなければならない・・・・・。

 「別れの一本杉」を歌った春日は、「私が求めていた演歌はこれだ。このスタイルこそこれからの自分だ」と確信したという。この時期の春日は、1954年に「お富さん」の爆発的ヒットによって国民的大スターとなっていた。いついかなるときもファンは「お富さん」を求める。このまま音頭もの歌いで終わってしまうのか? と危機感を募らせていた。そこに「別れの一本杉」である。郷愁と格調。まさに自己の進むべき道。「別れの一本杉」は歌手春日八郎の救世主となったのである。それは、「心で作り心でうたう」船村が目指した作家と歌手の理想の結実だった。その後、船村作品は歌手の行く手を照らす探照灯となってゆくのである。

(2)村田英雄「王将」〜戦後初のミリオン誕生

 昭和演歌の雄・村田英雄をスターダムに押し上げたのは「王将」(西條八十作詩、船村徹作編曲)である。浪曲で既に一家を成していた村田は、1958年、大御所・古賀政男に見いだされて「無法松の一生」で華々しく歌謡界にデビューを果たすも不発。鳴かず飛ばずの時代が続く。原因は、題材もサウンドも唱法も、浪曲の域を出なかったこと。これを改革したのが船村だった。洋楽的アレンジを取り入れ、脱浪曲唱法を提言。そこで出来上がったのが、浪花の棋士・坂田三吉が主人公の詞+ボレロを彷彿とさせる3拍子の曲「王将」だった。まさに古賀・浪曲路線の対極。古賀が許すはずもないが、村田の事務所(現 新栄プロダクション)の社長・西川幸雄は覚悟を決めて談判。歌謡浪曲LPの挿入曲として先行発売、そこからのシングル・カットという奇策(?)に出て、1961年11月に発売するや大ヒット。戦後初のミリオンを記録。村田はこれで押しも押されもせぬ大スターとなった。売れてもなお、いや、売れたからこそ、古賀の怒りは当分収まらなかったという。「王将」なくして村田英雄なし。ここでも船村は歌手の運命を変えたのである。

(3)「矢切の渡し」を存続させた歌の力

 私がゴルフに嵌っていた1970年代、休日に通い詰めたのが「柴又ゴルフ場」である。帝釈天の裏っ手の江戸川河川敷にあった。かの寅さんが「男はつらいよ」の導入部で、イン・プレイのボールを拾ってしまったり、日曜画家のキャンバスに悪戯したりしてトラブルを巻き起こすあのゴルフ場である。4ホール構成で、1、3番がパー3、2、4番がパー4。2番ティーの脇から「矢切の渡し」が発着する。仲間は、金町の風来坊・近藤正さんと会社の友人I氏。みんな独身、600円で日が暮れるまでプレイしたあとは、料亭「川甚」で風呂を浴び、焼き鳥屋で締める。
 いまだに不思議でならないのは「川甚」での風呂の一件である。川甚といえば夏目漱石や谷崎潤一郎などが贔屓にした名門料亭。その風呂にゴルフを終えた我々が毎回無料で浸かってゆくのである。近藤さんは「川甚はゴルフ上りの人たちに開放しているんだ」といいながら先頭を切って立派な庭園を堂々と闊歩してゆく。後ろめたげに続く二人。よれよれのゴルフ・キャップに汗だくのポロシャツ。料亭のお客が座敷から怪訝そうに見ている。格調ある風呂はいつも3人、他にゴルファーらしき人を一度たりとも見かけたことがない。今にして思えば実に不思議な体験。これ、近藤マジック!? 「俺はフルーツパーラーをやるのが夢なんだ」と浅草の果物店に勤めたがすぐに店主と喧嘩して辞めてしまった近藤さん。いまごろどうしているのだろうか?

 そんなある日、葛飾区議会議員から、「ゴルフ場の利用状況」につき現地で口頭アンケートを受けたことがある。「柴又ゴルフ場」と「矢切の渡し」の存廃を検討中だという。アンケートに我々は「ここは我ら庶民のゴルフ場。絶対に続けてほしい」と答えたが、ゴルフ場は数年後に廃止、矢切の渡しは残った。「矢切の渡し」が残ったのは一に船村の発案で作られた演歌「矢切の渡し」のおかげである。
 「矢切の渡し」(石本美由紀作詞、船村徹作編曲)は、1976年10月、ちあきなおみ「酒場川」のB面でひっそりとリリース。いつしか忘れられていった。ところが大衆演劇の梅沢富美雄がこの曲をバックに妖艶な踊りを披露すると徐々に世間に浸透。1983年には多くの歌手による競作となり、抜け出した細川たかしが年末のレコード大賞を獲得する大ヒットとなった。朗々と歌い上げる細川も悪くはないが、ちあきの艶っぽさと語り口のうまさの方が船村の意図に断然合致している。船村は「ちあきの歌は手漕ぎ舟。細川のはモーター付き船」と評した。
 この歌は、アイドルとしてデビューし「喝采」でレコード大賞を獲ったちあきなおみの新境地を開拓した。船村の作る演歌はちあきの歌唱に更なる磨きをかけた。のみならず、このヒットで、存続の危機にあった「矢切の渡し」に観光客が殺到、現在も葛飾柴又〜松戸矢切間を元気に行き来している。船村は下町の風物詩をも救ったのである。

(4)「みだれ髪」の奇跡

 高野公男という掛け替えのない相棒を失った船村にとって、その穴を埋める存在は星野哲郎(1925−2010)だっただろう。既にプロ・デビューしていた船村と作詞家への道を模索していた星野との出会いは、横浜開港100周年記念の作詩コンクールだった。審査員を務めていた船村が一番に押した星野の詞「浜っ子マドロス」は見事1位に輝く。「浜っ子マドロス」は船村が曲を付け美空ひばりの歌で、1957年5月、コロンビアからリリースされた。船村の口利きで待望のコロンビア専属となった星野は、ひばりの歌を数曲書くがヒットには至らなかった。
 星野&船村コンビは、北島三郎の第2作「なみだ船」で開花、名作「風雪ながれ旅」へとつながる。このスケール感も星野&船村コンビにしか出せない世界である。
 船村は、1960年、石本美由紀とのコンビで、歌い出しが最高音という難曲「哀愁波止場」を美空ひばりに(母喜美枝氏の反対を押し切って)歌わせ、レコード大賞歌唱賞を勝ちとる。船村念願の「ひばりの名曲」誕生だった。
 一方星野は、1964年、クラウンに移籍。ひばりとの接点が失われる。「ひばりに名曲を」は星野の作家人生の忘れ物となったまま歳月は流れていった。

 チャンスは1987年にやってきた。福岡公演中に体調を崩しそのまま入院療養していたひばりの再起第一作に星野&船村コンビが起用されたのである。ディレクターの提言で、星野は福島県塩谷岬に飛ぶ。詞がなかなか浮かんでこない。数日間滞在の後、星野は夜の海に出てみた。荒涼として涯てない海を照らす灯台に目が留まった。星野はその姿にひばりを重ねる〜胸に哀しみを抱えながら歌という光を民衆に投げかける孤高の姿。これだ! 情景が浮かべばあとは言葉の抽出である・・・・・投げて届かぬ思いの糸〜祈る女の性かなし〜春は二重に巻いた帯 三重に巻いても余る秋〜見えぬ心を照らしておくれ、などなど、星野の人生から紡ぎ出されたフレーズがひばりの姿に投影する。難産の末「みだれ髪」の詞は産声を上げた。星野哲郎渾身の一作だった。詞が完成して星野は確信した。絶対にいい歌が誕生すると。詞が良ければ船村は必ずいい曲を書く、星野はそのことを誰よりもよく知っていたのだ。

 詞を受け取った船村は、病み上がりのひばりを「気遣うか否か」で迷っていた。ひばりの返事は「容赦しないで」だった。船村は、最高音にひばり23歳の「哀愁波止場」より半音高いDを持ってきた。これは即ち調性をイ短調に設定したということ。この調は変化記号が全くなく、昔から「透明で品位ある嘆き」の調といわれている(マッテゾン著「新管弦楽法」より)。ひばりの晩年の佇まいにピッタリではないか。
 船村が迷っていたことはもう一つあった。4行目「投げて届かぬ」の「かぬ」部分を、短三度か完全五度か、即ち、D-FにするかD-Aにするか? 迷った末、船村は完全五度のD-Aを選んで譜面にした。ところが、ひばりは本番で短三度D-Fで歌ったのだ。聞くとこの方がいい。船村は最後の最後に至ってなおひばりの凄さを感じたという。
 この部分をCDで検証してみると、面白いことに気がついた。2コーラス目のこの部分、歌詞では「沖の瀬をゆく」の「ゆく」の部分、「く」のFの音程がひばりにしては珍しく甘いのだ。ひばりの音程の正確さは世界の常識で、もしかしたら、これほどの不安定さは、ここだけかもしれないと思われるほど。船村の迷いが影を落とした?それともひばり無意識の気遣い?

 レコーディングは10月9日、コロムビア・スタジオ。例によって一発同時録音。見事なひばりの歌唱だった。こうして名曲「みだれ髪」が誕生。12月リリース。ひばり演歌晩年の傑作となった。ひばりが他界するのはこの2年後である。
 船村は不世出の大歌手美空ひばりの晩年に至上の贈り物をした。同時にそれは、高野公男亡き後無二のコンビとなった星野哲郎との「二人で女王美空ひばりの名曲を作ろう」という暗黙の約束事の実現でもあった。口にこそ出さぬもひばりのヒット曲を渇望していただろう盟友星野への掛け替えのないプレゼントになった。「みだれ髪」こそ、ラスト・チャンスに賭けた三者による奇跡のコラボレーションだったのである。

 船村の信条は「歌は心でうたうもの」。彼は歌を心で作った。その歌で歌手の作詞家の人生を変えた。その歌で聞く者を癒し励ました。そしてこれからも彼の作った歌は永遠に生き続けるだろう。昭和歌謡の巨星 船村徹よ 安らかに。
<参考資料>

船村徹著「歌は心でうたうもの」(日本経済新聞社)
昭和は輝いていた〜作曲家船村徹の世界(BS-TX 2015.4.8 OA)
                〜孤高の歌姫 ちあきなおみの世界(BS-TX 2015.10.7 OA)
昭和歌謡黄金時代〜作詞家星野哲郎(NHK-BS 2013.9.6 OA)
 2017.02.15 (水)  第156回直木賞受賞作「蜜蜂と遠雷」はなかなかの傑作だ
 1月19日に第156回芥川賞・直木賞の発表があった。直木賞受賞作・恩田陸著「蜜蜂と遠雷」がピアノコンクールの話と聞いたので俄然興味が湧いた。早速近くの書店に行くが品切れ。Amazonを見ると25日にはお届けとあったので即注文。手にした現物は500ページ余の大作でズシリと重い。ヤレヤレ長いのは苦手、と読み始めるが、どっこいグングン引き込まれてゆく。自分としては珍しく超スピードで読み切ってしまった。

 「蜜蜂と遠雷」は傑作である。小説の面白さをすべて備えている。私なりの面白小説の定義とは、(1)物語の構成がしっかりしていること(2)登場人物が魅力的であること(3)表現力が確かなこと、である。では、これら3つのポイントを順次検証してゆこう。

(1) 堅固な構成

 「蜜蜂と遠雷」はピアノコンクールを舞台にした2週間の物語。著者のインタビューによると、本作は構想12年、きっかけは、浜松国際ピアノコンクールで、オーディションで勝ち上がってきた挑戦者(コンテスタント)が最高位を獲り、その勢いを駆ってかのショパン・コンクールを制したセンセーショナルな一件だったとか。ショパン国際ピアノコンクールは5年に一度開催される世界最高峰のピアノコンクール。歴代優勝者には、ポリーニ、アルゲリッチ、ツィメルマンなど錚々たる名手が名を連ねる。
 さて、その一件の主はポーランド出身のピアニスト、ラファウ・ブレハッチ(1985−)。2003年の浜松国際で1位なしの2位となり、2005年第15回ショパン国際ピアノコンクールで優勝を勝ち取ってしまったのである。
 小説の舞台となる芳ヶ江国際ピアノコンクールは浜松国際ピアノコンクールがモデルで、S国際ピアノコンクールはショパン国際ピアノコンクールのこと。ブレハッチは一部登場人物に投影されている。

 芳ヶ江国際ピアノコンクールは、第1次予選で90名、第2次で24名、第3次で12名、本選は6名で争われる。この間2週間。予選ごとに通過者の発表があり、その都度人数が絞られてゆく。そして最後に一人の優勝者が決まるのだから、読者はいやおうなしにその劇的展開に引き込まれてゆく。果たして優勝は誰!? そう、舞台をコンクールに設定した時点で既に堅固な構成力を持つ。見事な縦糸が形成されているのである。

(2)魅力的な4人の登場人物

風間塵 16歳

自宅にピアノを持たない養蜂家の息子。
少し前に他界した弟子を取らないことで有名な世界的ピアニスト、ユウジ・フォン・ホフマンからの“ギフト”という設定。
音楽性:自然児〜破天荒。自由奔放な劇薬と評される
   「音楽の神様に愛されている」(栄伝亜夜の台詞)

栄伝亜夜 20歳

天才少女としてデビューしながらも13歳で突然音楽界から姿を消した。
原因は最愛の母の死。「消えた天才少女」はこのコンクールに再起をかける。
音楽性:ナチュラルでナイーブ
   「伸びやかで豊か、でも、ぞっとするような洞察力がある」(恩師の娘・浜崎奏の台詞)

高島明石 28歳

音大出身、妻子持ちのサラリーマン。
フツーのお父さんが国際ピアノコンクールに出る。
音楽性:堅実タイプ
   「音楽は天才だけのものじゃない。普通の生活者の音楽があってもいいだろう」(本人の弁)

マサル・カルロス・レヴィ・アナトール 19歳

名門ジュリアード音楽院の現役学生。
母はペルーの日系三世、父はフランスの物理学者。
音楽性:野性的なのに優美、都会的なのにナチュラル。完成された逸材。
   「マサルはスター。華がある。オーラもある。持って生まれた素晴らしい音楽性がある。しかも強靭で寛容な
   精神力もある」(師ナサニエル・シルヴァーバーグの台詞)

 作者の設定として見事なのは、4人のコンテスタント(挑戦者)の音楽性の有りようである。四者四様。鮮やかな色分けがある。世界の名ピアニストはおしなべてこの4人のタイプに集約される、とさえ思わせる実に巧妙なサンプリングだ。作者の手慣れた一面が覗える。

 4人は各々運命を背負って生きてきた。そして、それらは過去のある時期、互いに繋がりを持っている。例えば、高島明石は天才少女栄伝亜夜のファンだった。亜夜とマサルは幼馴染だったが、マサルの父のフランス行きで幼少の頃別れたままになっていた。マサルの師・シルヴァーバーグは塵の師ユウジ・フォン・ホフマンの弟子だった。そんな状況下、2週間のコンテストの間、マサルには亜夜に対する淡い恋心が芽生え、亜夜は塵の奔放さに心惹かれる。などなど、コンテスタントとしてのライバル心と人間としての情愛が交錯する。絶妙な横糸が物語に彩を添える。

(3)卓越した表現力

 縦糸と横糸がしっかり絡んでも文章力が未熟では魅力半減である。物語にリアリティを与え命を吹き込むのは表現力である。
 音楽を伝えることは難しい。なぜなら、音楽には形がなく、色もなく、時間と共に消えて去ってしまうものだから。それを感知するには、演奏者のテクニックの巧拙、感情移入の度合い、楽曲解釈の適正度など、掴みどころのない様々な要素を自己の物差しで測り認識することが必要となる。しかる後に文章化。ここでは、豊富な形容詞、的確な比喩、知識の裏付けが必要とされる。感知力と伝達力の並存である。

 恩田陸(1964−)の表現力は非凡である。「音楽を文章で表す」という至難の技を高度に実現しているのだ。その卓越した表現力で、音楽の特質を、他の芸術、例えば文学や活け花との比較において解析し、数学との親和性から宇宙論にまで拡げる。更には、演奏行為の本質に迫り、生きることの意味を説く。一瞬と永遠! 表現の翼は哲学の域にまで飛翔する。これは恐らく、彼女が、SFあり、ホラーあり、推理ありのマルチ作家であることと無関係ではないだろう。
 ピアノを習いオーケストラの経験もあるが、決して音楽の専門家ではない。そのため、作品の構想後、3年ごとに開催される浜松国際ピアノコンクールに足しげく通い聴きまくったという。元々あった音楽的素養が、様々な演奏を集中試聴することで成熟し、類まれな音楽感知力を身に着けたと思われる。後天的音楽感知力と先天的文章力が融合し卓越した表現力となって稀有な傑作を生んだのである。

<卓越した表現力の実例>
まさにモーツァツトの、すこんと突き抜けた至上のメロディ。泥の中から純白の蕾を開いた大輪の蓮の花のごとく、なんのためらいも、疑いもない。降り注ぐ光を当然のごとく両手いっぱいに受け止めるのみ〜風間塵 第1次予選「モーツァルト:ピアノ・ソナタK332」の演奏を評して。

見える・・・本当に、鬼火が・・・冷たい、暗闇に揺れる炎。湿っぽい、リンの匂いが漂ってきそうだ。めまぐるしく動き回るたくさんの青い炎。浮かんでは消え、消えては現れ、ゆらゆらと上下し、時に大きく、時にしぼんで小さくなる〜栄伝亜夜 第2次予選「リスト:超絶技巧練習曲「鬼火」

ここは思い切り華やかな導入だ。ぱっきりと鐘の音のように華やかに、硬質な音を響かせよう。なんだか周りに色が見える。これはペトルーシュカの色。明るく、モダンな、エスプリに満ちた、しゃれた色彩だ。桑畑からイギリス海岸、そしてヨーロッパへと旅をしているみたいだ〜高島明石 第2次予選「ストラヴィンスキー:ペトルーシュカからの三楽章」

バルトークの音は、加工していない丸太のよう〜マサル・カルロス・レヴィ・アナトール 第3次予選「バルトーク:ピアノ・ソナタ」
 無論これらはほんの一部に過ぎない。見事なまでの語り口は物語の随所に見受けられる。忘れてならないのは、その根底に人間と音楽への愛情が一貫して流れていることだろう。「音楽ってなんてすばらしい!」のフレーズが何度現れることか。読んでいて気持ちが穏やかになるのはそのためだ。読み終わって心が優しくなれるのはそのためだ。「蜜蜂と遠雷」こそ、音楽を愛する者への至上のギフトである。

 最後に一つ。タイトルの「蜜蜂と遠雷」とは何を意味するのだろうか? “蜜蜂”については作品の冒頭「テーマ」の項に「世界を祝福する音符」との形容がある。“遠雷”が鳴るのは第三次予選二日目のホールの外。それを風間塵が「胸の奥で泡立つ何か」として聞く。
 作者の意図はそれとして、私なりの勝手な解釈をお許しいただくと・・・・・“蜜蜂”は軽やかさと味わい深さの象徴。ピアニシモ。“遠雷”は力強さと迫力の象徴。フォルテシモ。即ち音楽のはてしない大きさ広がりを表している? 別角度から考察すれば、“蜜蜂”は地上の声、“遠雷”は天上の声〜演奏行為には両者の声が欠かせない?

 ところで、2月16日のFMえどがわ「りんりんクラシック」では、この「蜜蜂と遠雷」を取り上げるつもりだ。時間枠は15分なので、欲張りは禁物。私の悪い癖は盛り過ぎること。エッセンスをいかに抽出できるかがポイントになる。トッチラかりませんように・・・・・。
 2017.01.25 (水)  2017年頭雑感「スポーツ」編〜with Rayちゃん
 Rayちゃん、今回はスポーツ編といこう。まずは大相撲、稀勢の里の優勝からだね。大関稀勢の里 本名萩原寛30歳 茨城県牛久市出身 田子の浦部屋。今場所14勝1敗で初優勝。第72代横綱が誕生した。大関在位31場所での昇進は史上最遅。四股名「稀勢の里」には“稀なる勢いで駆け上がる”という意味を託したそうだが、稀なる遅さで駆け上がった。日本人横綱は19年振り。「待ってました 文句なし!」などの文言がスポーツ紙等を飾っている。かのデイリースポーツが阪神ネタを外したし、テレビも「文句なし」の連呼。
 でも、Rayちゃん、Jiijiは大いに文句アリだ。何がってマスコミのはしゃぎ振り。いいかい、冷静に考えてほしい。横綱審議会の内規に、横綱は「大関で二場所連続優勝か、それに準ずる成績を挙げた力士」とある。稀勢の里の前場所は12勝3敗の2差準優勝。これは、貴乃花以来8人の横綱中、最甘昇進なんだ。前年の最多勝力士だしJiijiもいちゃもんをつける気はサラサラない。待望の日本人横綱誕生に相撲協会がハシャグのは許す。けれど、マスコミの「文句なし」のユニゾンには違和感しか覚えない。苦言の一つくらいあってもいいと思うけどなあ。ベテラン評論家の杉山邦博氏までが「横綱昇進問題なし。当たり前。来場所も優勝だ」などと浮かれてる。一緒になって喜んでちゃダメでしょう、評論家たるものが。こういう甘ちゃん体質が相撲界を貶める。去年の今頃、「待望の日本人優勝 横綱誕生か」などともてはやされた琴奨菊なんか、今場所5勝10敗で大関陥落だぜ。持ち上げるだけ持ち上げてあとは知らん顔。マスコミは世事の冷静なウォッチャーたるべきなんだが、これじゃただのミーハーだ。どうせ“横綱”稀勢の里がモタモタしたら、手のひら返しで叩くんでしょう、いつものように。稀勢ちゃん負けるな。頑張っていこう!

 Jiijiが稀勢の里を応援する最大の理由は、彼が「ガチンコ」(無気力相撲せず)だということ。我が盟友津村公によれば「相撲界は助け合い村。星の貸し借りは日常茶飯事。最近はモンゴル互助会が幅を利かせる。その中で、稀勢の里は俺の知る限り唯一のガチンコ力士だ」。だからこれまで肝心なところで負けてきたのかも。そう、稀勢の里は愛すべきほぼ唯一のクリーンな力士なのだ。

 稀勢の里を角界に引き入れたのは亡き鳴門親方(元横綱隆の里1952−2011)だ。千秋楽、稀勢の里が白鵬に追い詰められ絶体絶命の場面。「踏ん張れ」という親方の声が聞こえたような気がしたという。彼の師匠は、今でも、6年前に亡くなった鳴門親方なのだ。
 鳴門親方は自身が横綱に昇進したとき30歳を超えていた。糖尿病という持病を抱えてもいた。それを乗り越えて立派な成績を収めることができたのは、人並み外れた努力によるものだ。VHSビデオ・レコーダーを数か月で潰すほど研究熱心だったという。そこでJiijは稀勢の里に進言する。「師匠に倣え」と。小学生のときの作文に「努力で天才を越えてやる」と書いていたしね。

 稀勢の里はここに来て確かに強くはなった。だから優勝した。でも、よく考えてほしい。今場所の取り口は果たして横綱に相応しいものだったのか!?
 終盤戦を振り返る。11日目遠藤と12日目勢には格下相手にやっとの勝利。13日目は不戦勝。14日目逸ノ城戦は落ち着いた取り口で勝利。千秋楽は神がかり的逆転勝ち。左四つ右上手という自分の型になれば強い。だが、そこに持ってゆく道筋に問題がある。一貫した手順を踏めていない。必然的に相撲が不安定になる。しからばどうするか?

 体勢を低くして素早く右で相手の前ミツを取ることだ。こうすれば相手の体が浮き左上手も取りやすい。この手順を覚えれば得意の型に持ってゆく確率が増し対応力も身につくはず。これが横綱としての安定感に繋がるのだ。
 稀勢の里の最大の利点は頑丈な体だろう。初土俵以来休場がたった一日だけというのは驚異的。欠点は出稽古をしたがらないこととか。でもこれからは、そういってばかりじゃいられない。横綱なのだから。白鵬以下3横綱の力が下降線とはいえ、御嶽海、貴の岩など生きのいい若手が力をつけてきている。スピード勝負の曲者も増えてきた。横綱として受けて立つには、これまでのような行き当たりばったりの体力頼みでは駄目。理詰めの攻めが肝心となる。具体的には「低い体勢&右前ミツから左四つ」を確立することだ。そのためには、相手の取り口を研究しどうすれば得意の型に持ってゆけるか、その手順を習得するしかない。出稽古も積極的に行うべし。鳴門親方に倣ってビデオも活用しよう。今のレコーダーはデジタルだからほとんど壊れない(笑)。頑張れ稀勢の里!“横綱の名に恥じぬ”ように。

 Rayちゃん、お次は錦織圭(27)くん。Jiijiの子供の頃、1950―60年代、日本のテニス界では、加茂公成(1932−2017)と宮城淳(1931−)がエース。当時最大の大会はデビス・カップ。インドにはクリシュナン、クマール。オーストラリアにはローズウォール、ホードという名手がいて世界大会出場すら厳しい時代だった。
 加茂&宮城の金字塔は1955年全米オープンでの男子ダブルス優勝だろう。この4大大会日本人同士でのダブルス優勝は史上初にして唯一という大快挙である。
 Jiijiが生まれるもっと前、1920年代には熊谷一弥(1890−1968)と清水善造(1891−1977)という名選手がいて、熊谷はアントワープ五輪で銀メダルを獲得(これが日本初の五輪メダル)、清水はウィンブルドンでベスト4に進出した。
 あと目立った出来事は、1995年、松岡修造のウィンブルドンのベスト8くらいか。だから、今の錦織の活躍はテニス・ファンにとっては夢のようなオハナシ、描く夢は個人として初の4大大会制覇なのだ。

 今年の全豪オープンでそのチャンスはやって来た。錦織のランキングは第5位。ランキング1位のマレーと2位のジョコビッチが4回戦を前に姿を消すという波乱が起きる。錦織のメジャー初制覇がこれまで以上に現実味を帯びてきた。4回戦の相手は、世界ランク17位ながら過去メジャー大会史上最多17回の優勝を誇るロジャー・フェデラー(35)。ランク17位はケガによる長期離脱が原因。パンとすればベスト4には入る実力者だ。錦織にはここを突破すれば もしや?の期待がかかる大事な試合。
 出足は抜群だった。サーブ、ストローク全てでフェデラーを圧倒。ゲーム・カウント4−0とリード。このセットはおろかこのままストレートで勝ち切りそうな勢い。ところが、流石フェデラー。ファースト・サービスの確立が上がるにつれ、威力随一といわれる強烈なフォア、正確な片手打ちのバック・ストロークが冴え、サーブ&ボレーを混ぜる緩急自在の攻撃に錦織は徐々に押されやがて防戦一方に。そして、フルセットの末フェデラーが勝利した。

 Rayちゃん、どこで流れが変わったか? 素人のJiijiにはよく解らないが、敗因は? と問われれば、「肉体&精神両方のタフさの欠如」と答えることができる。肉体面でいえば、フェデラー戦で錦織は二度のドクター・ケアを受けている。直前のブリスベン国際で痛めた左臀部の肉離れが再発? 一方のフェデラーは異常なし。最終セットを左右した要因の一つにこの差があったはず。
 精神面でいえば一流ではあるが未だ超一流とはいえない。「いける」と思った時いかに平常心を保てるか。2014年の全米オープン。準決勝でジョコビッチに勝ち、決勝はフェデラーが出てくると思いきや、格下のチリッチが相手となった。持ってる人間はこういうチャンスを必ずモノにするもの。スワ、チャンス到来とばかり臨んだ錦織はストレートの完敗。そして今回の状況での4回戦敗退。無我夢中で向かう時はいいが、「いける」と思った時の心の揺れ!? これをどう取り除くかが課題だ。

 ここ数年、フェデラー〜ジョコビッチという絶対王者が君臨。この牙城は当分崩せそうもないと思われてきた男子テニス界に変化が生じてきた。彼らとて絶対的存在ではなくなった。群雄割拠の時代へ突入? 錦織のメジャー制覇の環境が整ってきた。夢が現実味を帯びてきた。なんとか実現してほしい。そして歴史に名前を刻んでほしい。そのためには「肉体&精神のタフさ」を身に着けることだ。たゆまぬ精進を。「往く道は精進にして 忍びて終わり 悔いなし」(大無量寿経)の精神で。

 Rayちゃん、もう一人、世界4大大会を狙う選手がいるよ。ゴルフの松山英樹(23)だ。現在世界ランク6位。米ツアー賞金ランキング2位。FedExランキング2位。圧巻は、昨年から今年度にまたがる米ツアーと日本ツアーにおける5戦4勝の戦績。中でも、特筆すべきはWGC−HSBCチャンピオンズ(2016.10.27−30)の優勝だろう。WGC(世界ゴルフ選手権)シリーズは準メジャーの格付け。出場選手もメジャーと変わらない。とにかく松山の勝ちっぷりがすさまじかった。通算23アンダー、2位のローリー・マキロイ(27)に7打差の圧勝劇はWGC史上最多ストローク差のオマケ付き。世界が度肝を抜かれたのだ。マキロイは「ヒデキは今週のフィールドで誰よりも凄まじいゴルフを展開した。彼がチャンピオンになるのは当然だ」とコメント。マキロイは世界ランク2位、メジャー3勝の名手なのだ。ジョーダン・スピース(23)も松山を「これから間違いなく何度もメジャーを獲る選手」と称えた。スピースは世界ランク5位、メジャー2勝の若手のホープ。

 抜群の飛距離。安定感あるアイアン・ショット。多彩な小技。磨きがかかるパッティング。メジャー・ホルダーにして世界ランク上位者が、一様に松山英樹の存在を称え恐れている。この状況こそ、この男が錦織以上にメジャーに近いことの証だろう。素人のJiijiがとやかくいうことはないが、一言だけ言わせてほしい。ゴルフ選手に好不調の波は付き物。好調のうちはいい。問題は調子が狂った時。素早く原因を見抜くのは専任コーチしかいない。松山は未だ専任コーチを持たない。専任コーチを持たない超一流ゴルファーは、Jiijiの知る限り皆無だ。懸念はそれだけである。
 米ツアー3勝は日本人最多タイ。残すはメジャーのみ。日本人のメジャー制覇は、Rayちゃん、かつてゴルフに浸ったJiijiの夢でもあるんだ。 願わくばマスターズかな。リトル・コーノ河野高明、ジャンボ尾崎将司、世界のエオーキ青木功、天才中島常幸らが臨んで果たせなかった夢を、松山ならきっとやってくれるはず。今年の松山から目が離せない。
 2017.01.15 (日)  2017年頭雑感「内外情勢」編〜with Rayちゃん
 Rayちゃん、新年おめでとう。4月には進級、ペンギン組だね。またJiijiと公園で遊ぼうね。そういえば、もうトランプの顔を憶えたんだね。テレビに映るたびに「トランプ!トランプ!」の連呼。でもねえ、Rayちゃん。あいつは困ったやつなんだぜ。11日には初の記者会見があったけど、あのやりとりは何だい!嫌いなメディアの質問を力ずくで封じ込めた。発言に対して罵倒するのはまだ許せるけど、質問すらさせないってことは真に由々しき問題なのだ。だって、民主主義の国なんでしょう。国民には知る権利があるし、メディアは突っ込んで当たり前。次期大統領は世界有数の公人なんだから。説明責任あるでしょうに。その人が強権発動して質問を封じ込めるなんざ、あってはならない暴挙。自国の在り方を否定してるって事に気がつかないのかなあ。しかもあの子供じみた応酬。情けなくなるワ。
 そりゃまあ、クレムリンのハニー・トラップ話がバレたら困るだろうけど、Jiijiはむしろバレた方がいいんじゃないかと思う。もし、事実無根なら毅然として証明すればいいだけの話だし。ネタ握られてゆすられるよりは、明るみに出た方がアメリカのためかも。このままプーチンに首根っこ押さえられて言いなりになるより、よっぽどマシじゃないかなあ。
 利益相反を指摘されて出した答えが「息子に譲る」? オイオイ、これで世間が納得するって本気で思っているのかね。幼稚っぽくて話にならん。

 昨年秋の来日で、安倍さんは「ウラジミール」と呼びかけてしかとされてたけど、プーチンと渡り合うにはお人よし丸出しじゃ無理。彼はスターリン以来の冷血漢なんだ。覇権のためにはなんだってやる。過去を見れば判るでしょ。そんな相手に、なんで経済協力を単独で合意しちゃうのさ。3000億の供出だって? やらずぼったくりに決まってるでしょう。「領土問題なくして経済協力なし」くらいの事、言えないのかねえ。相手は経済で困ってるんだから、待てばいい。必ず言ってくる。そこで初めて、「協力しましょう。その代り帰属の話をつけましょうか」。これでイニシャティブが取れる。有利に物事を運ぶことができる。もしや、米ロ接近で必要ナシになるかもしれないけれど、ならば仕掛けないのが正解。待てば海路の日和ありだ。安倍さんは「自分の手で領土問題を解決する」とおっしゃいますが、大事なのは“あなたの手で”解決することではなく“いい形で”解決すること。歴史に名前を残したいのは解るけど、それが国益に反したんじゃ本末転倒でしょうに。ここは「待つ」しかなかったのに間違えた。既に勝負はついちゃった。もう取り返しがつかない大失態!! あまりの甘ちゃん振りにプーチンも拍子抜けしてるんじゃないかなあ。これじゃ今後ますます舐められちゃうよ。不思議なのはこれを叩かないマスコミ。オイオイ、君たちも毒気を抜かれちゃったのかい!?

 安倍さんもそうだが麻生副総理の発言もナンダコリャーだ。地元飯塚市の市長が公務中に賭けマージャンをやってて出られなくなった成人式でこうの賜った。「20歳になったら何が違うか? 婦女暴行、殺人、恐喝、薬。これまではパクられても少年Aで済んだが、20歳からは必ず名前が出る。前科者ということが一生ついて回る。これが違い。是非この自覚をもって頑張ってください」オーイオイオイ、これが一国の副総理の新成人へのはなむけの言かいな? コメントする気にもならない。これまた、トランプ・レベル。世界も日本も劣化甚だしい!
 それにしても、トランプさん、このままじゃ、早晩、アメリカ国民の失望の声が聞こえてきそうだ。「こんな奴、大統領にするんじゃなかった」ってね。

 Rayちゃん、政治ネタをもう一つ。2019年1月1日から元号が変わるそうだよ。陛下の生前退位のご意向から、いま、有識者の話し合いの真っ最中。流れとしては、陛下のご意向を尊重する。皇室典範を変えずに一代限りの特別法で対処する、のようだね。またまたお得意の小手先対応だ。Jiijiはこの応急措置に反対だ。現行の法の下での対処が可能だからだ。それは簡単明瞭、摂政を置くこと。
 憲法第5条にはこうある。「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは摂政は天皇の名でその国事に関する行為を行い、この場合には前条第1項の規定を準用する」(前条第1項の規定とは「天皇は国事を行うが国政に関する権能を有しない」という規定の事)。
 皇室典範第16条には、「天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」とある。また第17条には「摂政は成年に達した皇族が就任する。その順序は皇位継承の順序に準拠する」とあるんだ。

 だからRayちゃん、今回の事態は、摂政を置けばすべて解決がつく話。現皇太子を摂政にする。それでおしまい。そうしておいて、必要ならば憲法・法律を変える。時間はいくらでもあるのだから。じゃ、なぜそうしない? それは、今上天皇が「昭和天皇が大正天皇の摂政だった時の不自然さ(ギクシャク感)を知るからして、設置は好ましくない」とのお考えがある、ということらしい。でも当時と今とでは時代が違う。大日本帝国憲法下では、天皇は「神聖にして侵すべからず」であり「国の元首にして統治権を総攬する」現人神なのだ。現憲法下では国政の権能を有しない象徴だ。立ち位置が全く違う。重みが全然違う。お気になさることはないはず。政府も有識者もなぜこのことを進言しないのか。説得しようとしないのか。「摂政設置の条件」が引っかかる? 法解釈自在の安倍政権が何をおっしゃいますか。それでも引っかかるというのなら“それに準ずる”などの文言を加えればいいだけの話でしょうに。

 Rayちゃん、戦後天皇制はもともと危うい制度ではあるんだよ。民主主義との矛盾を内包しているんだ。日本国憲法の第1条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。第2条は「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」だ。
 即ち、皇位は「世襲のものでありながら、国会の議決した皇室典範の定めにより継承する」わけだね。日本という国は、2677年間、天皇を頂く国家という概念を制度的にも精神的にも継続してきた。国民の大多数が天皇制の継続を既成概念として捉えている。継続を願っている。しかるにその地位は、皇室典範という法律に即している。通常の法律と同様、国会で改正できる。つまり、天皇の地位やその在り方は、国民の意思に委ねられているってこと。国民の意思により天皇制という制度そのものを廃止することだって可能なのだ。皇位を世襲するという歴史的継続性の概念と国民主権を標榜する民主主義の理念が並存している。矛盾を内包し曖昧に整合している。

 だからどうだっていうの!?これが日本なんだろう。戦争放棄と武力の不所持を謳いながら自衛隊という“軍隊”を持つ安全保障の形態もこれ。八百万の神と仏教が併存するのもそう。清濁併せ呑む。色即是空。矛盾を容認し甘受する。これが日本のいいところ。いい加減なところ。

 Rayちゃん、いいかい。まずは、これが日本だ、と認識する。その矛盾を頭に叩き込む。しかる後に、じゃあどうする、を考える。Jiijiたちに知恵はない。聡明なRayちゃんたちの世代に期待するよ。

 テロも後を絶たない。IS本体の衰退?で地域的にはむしろ拡大している。昨年夏のニースと年末ベルリンでのトラック突っ込み。テロリストは市民に紛れ日常の中で事を惹き起こす。テロはまた新たなステージに移った。世界はさらに内向きになる。排除の論理。右傾化が進む。トランプ大統領の誕生も英国のEU離脱もこの現れ。フランスでは反EU・反移民・極右ル・ペンの「国民戦線」の勢いが増す。ドイツでもメルケル「キリスト教民主同盟」CDUの求心力が落ち、反移民を掲げる「ドイツのための選択肢」AfDが台頭してきた。もし4月のフランス大統領選でル・ペンが勝ってしまったら。もし8月―10月ドイツの連邦議会選挙で政権与党が大幅に後退してしまったら。これはもうEUは崩壊するしかないだろう。トランプ大統領が誕生する世の中だ。ありえないことではない。

 Rayちゃん、AIの進化も驚きだね。新聞によると、AIは、東のMARCHや西の関関同立なる難関私立大学を突破できる実力を既に備えているらしい。将棋も囲碁も人間を超える日が刻々と近づいているようだ。2045年には労働の1割は賄えるとも。なんという世の中! でもね、AIの人間を越えられない能力は「想像力」imaginationだって。Jiijiはなるほどと思う。だって、Jiijiが編み出した「モツレク」調性の是正や「冬の旅」の謎解きあたりは、AIには解明不可能な領域だと自負しているよ。これからも「想像力」をしっかりと磨いてゆきたいね。これがJiijiの生きる道さ。じゃっRayちゃん、またお話しよう。
 2016.12.25 (日)  ボブ・ディランより中島みゆき
 先日、中島みゆき「夜会〜橋の下のアルカディア」at 赤坂ACTシアターに行ってきた。年末、みゆきさんに会うのは2002年からの恒例行事。同伴も決まってNちゃん。会社時代からの友人であり、私のみゆき鑑賞の師でもある。彼女のみゆき初体験は1981年、ドラマ「金八先生」の一場面で流れた「世情」だったという。何と中学1年生! そこで即レコードを買い、既発売のアルバムを購入。その後、中島みゆきの全コンテンツを収集、全ライブ、全読み物、全放送を体験してきたのである。「海よ」「時代」「ホームにて」「化粧」「タクシードライバー」「うらみ・ます」「蕎麦屋」「エレーン」「異国」「あなたが海を見ているうちに」「夜曲」「歌姫」「夏土産」「誰のせいでもない雨が」「ファイト!」etc 初期10アルバム珠玉の名曲群を中学生で聴いている。今回の「夜会」で「身体の中を流れる涙」という強烈な歌があるが、彼女の身体の中には中島みゆきのDNAが間違いなく流れている。

 さて、「橋の下のアルカディア」である。相変わらず難解感は否めない。でもまあ、今回は2年振りの再演ゆえ、少しは掴めた。プログラムに「稽古ルポ」(前田祥文氏著)という攻略文が付いていて、そのおかげもある。一番はNちゃんの解説だが。
 主要登場人物は3人。占い女・橋元人見(中島みゆき)、バーの代理ママ・豊洲天音(中村中)、ガードマンの高橋九曜(石田匠)。場所は封鎖が決まっている地下壕。女二人はそこの住人、男はそこを管理する管理会社のガードマン。ところがこの三人、江戸時代は天明年間からの生まれ変わり。九曜(公羊)と人見(人身)は夫婦。天音は飼い猫すあま。天明2年、飢饉と一緒に大洪水がやってくる。橋を守るために人見は人柱になる。ついてゆこうとするすあま。人身はそれを振り払い公羊に託す。人身が人柱になったのを見届けて公羊は川に身を投げる。
 そして現代に戻る。地下壕は災害時の放水路になる運命だったのだ。ついにその日が来る。女二人は脱出を図るが出口が塞がれている。押し寄せる大水。そこに九曜が操る零戦がやってくる。「私は体が大きいから乗れない。二人で行って」と鉄籠に入る天音。ならば私も残ると人見。九曜の零戦は二人が入る鉄籠にロープを掛けて脱出。大空へと飛び立つ。バックには♪India Gooseが流れる。感動的なラストだった。

 中島が云いたかったこと? 人間VS自然、個人VS世間、輪廻転生。橋の下だって心の持ち様でアルカディア(桃源郷)にもなる。大切なのは人が人を思う心だ。例によって中島は語らない。説明しない。みんなに任せるよ、である。だから私らは勝手に解釈する。

 中島は、今秋、「前途」と題するベスト・アルバムを出した。タイトル「前途」について彼女はこう云う。「前途。前途洋々とか、前途多難とかいうふうに使われますが、地球環境やら、世界経済やら、民族問題やらを考えると、人類はなかなかの前途多難とも見えますし、とはいえ、それらの問題にも打つ手が何にもないわけではないと考えると、人類はなかなかの前途洋々とも見えるではございませんか。どちらにしても過ぎたときに戻れないことだけはみんなに平等なんですよね。で、余談ですけど、私は何をやってもトロいたちでして、あれもしようこれもしようと思いながら、毎日間に合わなかった用事が残るんですね。これが日を追うごとにうず高く積もっていきまして、先へと進めば進むほどなぜか忙しくなっていく。つまり私の人生は、云ってみれば前途多忙、とこういうことになっとるわけでございます」。中島らしくテレまくっているが、世の核心を突く。

 2011.3.11東日本大震災について、中島は「世の例に漏れず私の作品においても、当時発表を控えたり、表現を変更せざるを得ない事態が、いくつか起きた」と告白する。様々なアーティストが「自分にできること」と言って歌い演じたりしたが、中島は何も言葉は発しなかった。ただ一つ、翌2012年秋のアルバム「常夜灯」に「倒木の敗者復活戦」という楽曲を入れた。その詩はこうだ。「踏み倒されたら 踏みにじられたら 答えはそこ止まりだろうか 望みの糸は切れても 救いの糸は切れない」。あの未曾有の大震災はあらゆる望みを打ち砕いた。そんなとき希望を持てなんて言えない。でも救いの糸は切れてはいない。それを信じようと。

 格差が拡大している。貧困が社会を覆っている。働く当てなくその日暮らしの落ちこぼれよりキイを叩くだけの大金持ちの方が偉いのか? 生きるために難民になるしかない人々より難民を締め出す政治家の方が偉いのか? みんな同じ人間じゃないか!?中島みゆきはそう歌う(♪永久欠番)。

 ボブ・ディランがノーベル文学賞をとった。「アメリカの音楽の伝統に新しい詩的な表現を創造した」が授賞理由である。
 前段「アメリカ音楽の伝統」とは彼の曲作りのことだろう。カントリー、フォーク、ブルース、ロック、ゴスペルなど、アメリカの伝統音楽を消化して音作りをするのがディランの常だ。後段「新しい詩的な表現」は文字通り彼の詩の世界。文学賞だからアカデミーはここに賞を与えたことになる。そこで私は考える。ボブ・ディランの音楽って何だろう。何が魅力なのかって。

 NHK-BSで「Master of Change〜ボブ・ディランは変わる」という番組があった。ディランの代表作をライブ映像で綴るというもの。この全17曲を中心に、彼の音楽を検証してみた。

 結論はすぐに出た。ディランの音楽は「ワン・パターンの芸術」だということ。様式の様々な器に盛られているけれど。

 1乃至2つのメロディーで「物語」を語り、「決め台詞」で締める。そして、これを何回か繰り返す。「決め台詞」がない場合も少なくない。極めてシンプル。「風に吹かれて」1963、「くよくよするなよ」1963、「マイ・バック・ページズ」1964、「時代は変わる」1964、「自由の鐘」1964、「ライク・ア・ローリングストーン」1965、「雨の日の女」1966、「アイ・シャル・ビー・リリースト」1967、「天国の扉」1973、「ブルーにこんがらがって」1975、「ハリケーン」1976、「レニー・ブルース」1981、「ライセンス・トゥ・キル」1983など、ほぼ同じ構成のワン・パターン。他からの借り物もあって、例えば「風に吹かれて」はスピリチュアル・ソングの No more auction block が下敷きになっているのは有名な話。でもまあ、これは責めるにあたらない。よくあることだから。

 曲的側面から考察すれば、前メロがなくコーダもない。半音ほぼナシ。転調もない。リズムはほとんどが4拍子系。音形はシンプル。イン・テンポ。メロはぶつ切り。連鎖は稀。
 詩的側面から眺めると、「物語」部分の表現は即物性と象徴性のミックス。かなり難解。「決め台詞」は比喩的具象的。比較的理解容易。「物語」では、言葉を感覚的に放り込んで煙に巻き「決め台詞」で安堵の着地を図る。根底には自由な感性。象徴詩やロバート・ジョンソンから得たスキルか。唯心より唯物、ウェットよりドライ、同化より反発の芸風。イン・テンポの呪文。反復の陶酔。現実逃避のトリップ感覚。メッセージ性はあるものの、どちらかといえば、頭でよりも体で感じる芸術である。

 私が考える最高傑作「ライク・ア・ローリング・ストーン」 Like A Rolling Stone を例にとる。
<A>
Once upon a time you dressed so fine
You threw the bums a dime in your prime, didn't you?
People'd call, say, "Beware doll, you're bound to fall"
You thought they were all kiddin' you

<B>
You used to laugh about
Everybody that was hangin' out
Now you don't talk so loud
Now you don't seem so proud
About having to be scrounging for your next meal.

<C>
How does it feel
How does it feel
To be without a home
Like a complete unknown
Like a rolling stone?
 AとBは「物語」でCは「決め台詞」。メロは一切変化なし。詩は、「物語」では変化させつつ、「決め台詞」の核 How does it feel と Like a complete unknown Like a rolling stone は固定し他の1行を少しだけ変えて、4回繰り返す。

 中島みゆきはどうだろう。「曲」はメロディアス。半音も効果的に使う。転調の妙も鮮やか。前メロもある。音楽が心地よく流れる。「詩」は、人の心を、自然を、人間社会を、的確に描写する。そこには、生きる知恵がある。即ち哲学。ボブ・ディランとは正反対の曲作り。だが「ばいばいどくおぶざべい」の中に“らいかろうりんすとうん”なる文言が発見できる。Nちゃんによれば、みゆきさんはディランが好きなのだそうだ。

 私が考える最高傑作「時代」を例にとる。
<A>
今はこんなに悲しくて 涙もかれ果てて
もう二度と笑顔には なれそうもないけど

<B>
そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ
あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう

<C>
まわるまわるよ 時代はまわる 喜び悲しみ繰り返し
今日は別れた恋人たちも 生まれ変わってめぐりあうよ

旅を続ける人々は いつか故郷に出会う日を
たとえ今夜は倒れても きっと信じてドアを出る
たとえ今日は果てしもなく 冷たい雨が降っていても
めぐるめぐるよ 時代はめぐる 別れと出会いを繰り返し
今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ

まわるまわるよ 時代はまわる 別れと出会いを繰り返し
今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ
今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ
 Aは前メロ。これディランにはない。なれそうもないけどの「い」は属音の#。この手法もディランにはない。メロディー・ラインはよどみなく音楽的に流れる。この要素もディランにはない。詩的側面から見ると、Aで今の心情を歌い、Bで未来の好転を示唆し、Cで世の摂理を説く。詩が論理的に流れる。この形もディランにはない。

 前向きの無常を説く「時代」1975、とにかく、いい人はいいと歌う「タクシードライバー」1979と「蕎麦屋」1980、弱者を励ます「ファイト!」1983、真の連帯感とは?を提示する「二隻の舟」1989、究極の平等を描く「永久欠番」1991、人生に無駄な月日なんてない「誕生」1992、赤い糸の不思議な力「糸」1992、強烈なる慈愛「空と君の間に」1994、突っ張りの美学「永遠の嘘をついてくれ」1995、名もなき者へのエール「地上の星」2000、宿命への優しい眼差し「ヘッドライト・テールライト」2000、超現実的スケール感「銀の龍の背に乗って」2003、突き進む者への的確な助言「宙船」2006、人間の行き過ぎを諫める「天鏡」2009。

 多種多様多彩。だが、根底には教訓や警告や哲学が潜む。“真面目に生きる者へのエール”があり、“弱者への励まし”がある。人が人を思う“優しさ”“美しさ”そして“強さ”がある。詩は感情の陰影が多層に重なり合い、歌唱表現においては、曲調に合わせ、声質、発声、声色までもが様々に表情を変える。変幻自在まさに万華鏡。モノトーンのボブ・ディランとは全く異質の世界を形成している。どちらがいいとは言えない。全く別の世界観なのだから。でも好き嫌いなら言える。私はボブ・ディランも好きだが中島みゆきの方が遙かに好きである。
<参考資料>

中島みゆき「夜会 橋の下のアルカディア」公演プログラム
「Master Of Change〜ボブ・ディランは変わる」NHK-BSプレミアム
「ボブ・ディラン30周年記念コンサート」NHK-BSプレミアム
「SONGS中島みゆき〜21世紀の歌姫」NHK-TV
 2016.12.10 (土)  丸山泰弘さん追悼演奏会
 私のオーケストラ活動は大学卒業を以て終わりを告げたが、身近に、高校〜大学〜社会人と、今なおオケ活動を続ける人間がいる。加藤壮くん35歳。従妹の長男だ。楽器はチェロ。これは、私と同じ長野高校に入学、オーケストラ入部にあたりヴァイオリンかチェロかで迷う彼に、学生オケの先輩として私が助言した結果だ。「チェロにしてよかったよ」と少なからず感謝されている。長野高校では、ヴァイオリンを弾く未来の奥様と出会い、慶応大学ワグネルソサイエティーでは、ウィーンに演奏旅行を敢行、三井住友海上では定期演奏会等コンスタントにオケ活動を続けている。

 そんな彼が尽力して開催にこぎつけたコンサートが、11月19日、板橋区立文化会館で行われた。題して「丸山泰弘 追悼演奏会」。丸山さんは、長野高校オケで壮くんの2年後輩。パートは同じチェロ。面識はないが私の後輩でもあるわけだ。長野高校〜中央大学〜キリン・ビールと一貫してオーケストラ活動を続けてきた。ところが不運にも病魔に襲われ、昨年10月17日、その短い生涯を閉じてしまう。
 そこで、壮くんたちが丸山さんの追悼演奏会を企画。高校・大学・会社と全国に散らばる彼のオケ仲間に呼びかけ、60余名の大オーケストラ、マルヤマ・フィルハーモニー管弦楽団を結成。一年間の練習を経て、コンサート開催の運びとなったのである。
 壮くんは運営メンバーとしてチェロ奏者として、奥様のはる香さんはヴァイオリンで参加。母親のめぐみ、弟の俊、高校の先輩として私も参列した。

 普通のコンサートとは違い、ステージには丸山さんの遺影と愛器のチェロが置かれ、壮くんが開会の辞を述べた。丸山さんとの出会いに始まり、音楽を愛し、練習熱心な、周囲を明るくする彼の素晴らしい人柄に触れ、無念の死から追悼演奏会を企画実現するまでを、静かに切々と語った。“音楽で丸山さんを追悼しよう”そんな仲間の気持ちを代弁して、壮くん、見事なスピーチだったよ!

 最初の曲は、J.S.バッハ「G線上のアリア」。平穏な祈りの調べである。曲終わりで黙祷。会場に集う全員が丸山さん追悼の念で一つになる。本日の指揮は、丸山さんのキリン・フィル時代のトレーナー&客演指揮者の大島正嗣氏である。

 2曲目は、モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。「聖母マリア様から生まれし、主イエス・キリストのまことの御体よ」と歌う。モーツァルト、死の年、お世話になった温泉地バーデンのシュトール合唱長との約束を果たすべく書いた曲。元は合唱曲だがこの日はオーケストラ版での演奏だ。編曲者は長野高校オケ顧問の先生とのこと。丸山さんもよく演奏したそうだ。「長野高校版アヴェ・ヴェルム・コルプス」は初めて聴いたが、清澄にして純朴な響き。なぜか、母校・長野高校のグラウンドが脳裡に浮かんだ。

 3曲目はドヴォルザークの「チェロ協奏曲 ロ短調」。ソリストは神奈川フィルハーモニーの首席チェロ奏者・山本裕康氏。丸山さんの先生である。山本氏の公式サイトには、丸山さんへの愛情あふれる文章が綴られている。弟子というより友達の関係に近い。ズケズケ率直にものを言う丸山さんが可愛くてたまらない。そんな心情と彼を失った無念さがひしひしと伝わってくる。ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、10年前、丸山さんの中大オケ時代、山本氏がソロで客演した楽曲だとか。彼がいたら、「先生も10年前からそんなに成長してないみたいですけど、大丈夫ですか?」と評するだろうとも。
 演奏はまさに入魂。第2楽章は祈りそのもの。殊に中間部、歌曲「一人にして」転用の旋律を奏でる切々たる情感は感動の極みだった。「何が“一人にして”だ。コノヤロウ!」、そんな山本氏の叫び声が聞こえてくるようだった。

 プログラムのラストはブラームスの「交響曲 第1番」。丸山さん一番のお気に入り曲だという。2度の手術の際にこの曲の第4楽章を聴いて臨んだそうだ。ブラームスが21年の歳月をかけたこの名作には、苦悩、思索、情熱、憧憬、祈り、歓喜、勝利など人間の思いが色濃く詰まっている。この日はオケ全員が丸山さんのことを想い心を一つにして謳い上げた。

 アンコールはエルガー「エニグマ変奏曲」から第9変奏「ニムロッド」。指揮の大島氏が、生前の丸山さんと、自分たちがやる「理想のコンサート」談義に花が咲いたときのこと。アンコールは何にしよう?に二人が一致したのが「ニムロッド」だったという。
 エルガーの友人アウグスト・イエーガーのイエーガーは狩人という意味。旧約聖書に登場するノアの孫ニムロッドは狩りの名手。そんな繋がりで命名したこの変奏部は、高貴にして情感あふれる名曲。エルガーの友人への敬愛が偲ばれる。図らずも約束を果たすことになった大島氏の棒によるオケ一丸の熱演は、エルガーを介して、丸山さんを「ニムロッド」になぞらえた。実に感動的なエンディングだった。

 「G線上のアリア」には鎮魂が、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」には郷愁が、ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」には絆が、ブラームス「交響曲 第1番」には祈念が、「ニムロッド」には約束が、それぞれに宿り、丸山さんとオケ仲間そして聴衆との間を行き交った。すべてが意味深い選曲だった。私は、これまで、これほどまでに意義のある選曲に出会ったことがない。演奏会が終わって、会ったこともない丸山さんが旧知の間柄に思えた。音楽の力なのか、実に不思議な感覚だった。彼はもうこの世には戻ってこない。でも彼は幸せ者だよ。こんな凄いコンサートをやってもらえたんだから。そして、この日のことは、集まったみんなの心の中にいつまでもずっと生き続けるだろうから。

 壮くん、マルヤマ・フィルの皆さん、大島正嗣さん、山本裕康先生。お疲れ様でした。皆さまの温かい思いはきっと天国の丸山さんに届いたことでしょう。私たちもこの追悼演奏会に参列できて本当によかった。ありがとうございました。
 2016.12.05 (月)  杉並公会堂のことなど〜with Rayちゃん
 Rayちゃん久しぶり! 今月初めには富岡八幡宮で七五三のお祝いをしたね。赤いおべべがよく似合ってたよ。もう、3歳か。弟Youくんの面倒もよく見るし、みんなと楽しくお話しできるし、ダンスも上手になった。Rayちゃんの成長を見守るのがJiijiの楽しみだ。これからもよろしくね。今日のお話は、杉並公会堂。Jiijiの思い出の場所なんだよ。

 11月21日、ババちゃんのお誕生日に、杉並公会堂に行きました。カメラータ・ザルツブルクwith堀米ゆず子(ヴァイオリン)、指揮はハンスイェルク・シェレンベルガーで、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲の全曲演奏会。チケットはM氏からのプレゼント。先日ウィーン国立歌劇場公演にお誘いいただいたF氏と同年配のクラシック・ファンで、東大→三菱商事→フィナンシャル・コンサルタント会社の社長という御仁。日頃から仲良くお付き合いさせていただいている大切な友人の一人だが、経済に関するご高説はJiijiサッパリわからずなのだ。
 モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は全部で5曲。すべて1775年、モーツァルト19歳の作品だ。この年モーツァルトは、ザルツブルク宮廷オケのコンサートマスターの職を巡り大司教との仲が険悪化。以後ヴァイオリン協奏曲は一曲も書いていない。
 カメラータ・ザルツブルクは素晴らしかった。シャンドール・ヴェーグとの稀有な名盤「ディヴェルティメント&セレナード集」10枚組CDでその見事なアンサンブルは熟知していたが、こうして生で聞くと、明快な美音に潤いが付加する。堀米さんのヴァイオリンも伸びやかで美しい。その緩急自在の表現は、モーツァルトの動と静、明と暗の対比をバランスよく引き出して妙だった。休憩時間、偶然、旧友のH氏に出会う。11月は13連荘、今日はその4日目だという。相変わらずのコンサートの鬼、健在である。彼の判定は、オケ>ソロと、堀米さんには辛口だった。

 さて、話は51年前に遡る。1965年の春、一橋大学管弦楽団 春の演奏会の会場がこの杉並公会堂だった。Jiiji19歳の本格的オーケストラ・デビュー。パートはトランペット。一年間の練習の成果を試す時が来たのである。そんなJiijiの晴れ舞台に、たっちゃん(母のニックネーム)が長野から上京し下宿の大家さん鈴木家も全員で来場という過熱ぶり。ところが・・・・・・。

 Jiijiの音楽との馴れ初めはたっちゃんが勧めてくれたピアノ。小学校4年生。先生の名は斉藤直子先生。結婚して奥村姓に変わる。娘さんは美佳さんといい長野じゃ有名なピアノ奏者になっているとか。さて、私は才能開花!? とんとん拍子にバイエルを卒業。ソナチネとツェルニー30番に入る。この頃が絶頂期。ところが以降低迷期に突入。ツェルニーが終わらないまま無念の打ち切りとなった。潜在能力にも努力する能力にも欠けていたというわけだ。
 中学2年生のときオーケストラ部ができたので、ヴァイオリンを始めた。先生は、鈴木メソッドの三塚先生。紹介いただいたのは花岡ドレスメーカー女学院の花岡芳江院長。半年くらいでなんとか合奏に加われるようになった。レパートリーは、シューベルトの「軍隊行進曲」、ケテルビー「ペルシャの市場」など。「ギーギー」と変音を発するたびにコンサートマスターから睨まれたっけ。コンマスの名は八木条太郎くん。彼も今は亡い。そんなオケ活も、跳び箱で左手首を骨折して断念。才能にも運にも見放された演奏歴だった。
 高校時代は音楽からやや遠ざかり受験勉強に集中。「大学に行ったらオケをやる」がモチベーションに。よって、オーケストラ部ありが志望大学の条件にもなった。入学して即オケ入部を果たす。オリエンテーションで、先輩の「経験は?」に、ヴァイオリンは弾けないに等しいので「ありません」と私。「なら、トランペットはどう。今ウチには誰もいないから」と先輩。私、「ならばそれで」。実にイージーなもの。そして、紹介された国立音大の学生・粟野広一郎先生について週一レッスンをみっちり一年間。2年生の春、兼松講堂での入学式演奏のプレ・デビューを経て、この日を迎えたのでありました。

 メイン演目が終わりアンコールとなった。アンコール曲は、モーツァルト作曲3つのドイツ舞曲集から「そり遊び」K605-3。子供がそり遊びをしてラッパの音と共に去ってゆく様を描いた可憐な楽曲。だが、意外や1791年、モーツァルト亡くなる年の作品なのだ。
 楽譜を渡されたのは本番の前日だった。全員初見で合奏。平易な曲ゆえ皆さん問題なしの体。ところが私だけ悪戦苦闘。ラッパを模したトランペットは、C−CとF−Fのオクターブの連発。しかも曲終わりは遠ざかるラッパゆえピアニッシモのハイトーン。トランペットで一番難しいのがこれ、一年修行の未熟者には所詮無理難題テクニックなのだ。無理と思いつつも周りから「大丈夫。アマチュアは本番に強いのが定説」などと無責任におだてられて、当たって砕けろの度胸を据えた。
 さて、いよいよ本番のアンコール。前半の難所はフォルテなので何とか乗り切る。そしてエンディング。遠ざかるラッパの音はピアニッシモ。タタータタータター ペッ。場内爆笑の渦。やるべくしてやっちまった大外し!! なんともほろ苦いデビューとなったのであります。難曲は度胸だけでは乗り切れない。 Rayちゃん、Jiijiはね、杉並公会堂といえばこのことを思い出すんだよ。

 この後はオケ活動も順調に推移し、名曲の数々を演奏することができた。ベートーヴェンの交響曲「英雄」「運命」「田園」「8番」。ピアノ協奏曲第4番。ヴァイオリン協奏曲。シューベルト「未完成交響曲」。ブラームスの交響曲第1番。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。モーツァルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」などなど。
 ソリストには、ヴァイオリンの辻久子、海野義雄。ピアニストに安川加寿子など、身に余る高名な奏者と共演できた。これは一にじいさんこと我らが指揮者・尾原勝吉先生の威光の賜物。先生は、我が国オーケストラの祖「新交響楽協会」の創設メンバー。黒柳守綱(黒柳徹子の父)、斎藤秀雄(小澤征爾の師)らと共に演奏、宮澤賢治が見学に訪れたこともある。そんな、我が国オーケストラ活動のパイオニアの一人なのだから、「下手な学生オケだけど、頼むよ」と言えたのだ。クラシック音楽と佳き仲間たちとの4年間は、まさにバラ色の大学生活だった。

 Rayちゃん、それほど楽しんだオーケストラ活動だったけど、Jiijiは就職と共に離れちゃったよ。オーケストラが身近になかったからかな。トランペットは音が大きいから安下宿ではなかなか練習ができなかったからかな。レコード会社に入って、クラシックだけが音楽じゃないと認識を改めたからかな。理由は定かじゃないけれど、とにかくオケは卒業してしまったのだ。でもクラシック音楽はいつもそばにいる。Rayちゃんとも、いつか音楽の話をしようね。
 2016.11.15 (火)  至福のワーグナー体験
 「この寒さ、今年は秋がないわいな」、なんてつらつら思っていた矢先に友人F氏からメールが入った。「11月6日、東京文化会館の『ワルキューレ』行かれますか?良い席です」。彼は年間かなりの数のコンサート・チケットを二枚づつまとめて抑えている。私と同年だが、一部上場会社の現役会長ゆえ、緊急の用事が入ることも度々。そんなときは暇をかこっている小生がおこぼれを頂戴することになる。メールに胸騒ぎを感じて調べると、なんとウィーン国立歌劇場のワーグナー「ワルキューレ」ではないか!?おこぼれなんていうもんじゃない。こいつは超ド級のプラチナ・ペーパー。67,000円だあ!! 日曜日、これに行けなくなるとはお偉いさんはつらいなあ、と彼の境遇に同情しつつ、二つ返事で恩恵に浴することにした。 同伴者に、会社時代からお世話になっている出版プロデュース会社を経営するF社長をお誘いした。趣味も共通、いつも楽しくお付き合いさせていただいている業界の先輩である。滅多にない機会ゆえ、会場入口の掲示板をバックに記念撮影をし合った。

 第1幕冒頭、仄暗くうねるような旋律が響く。幕が上がる。疲れ果てたジークムント(クリストファー・ヴェントリス)がよろよろと登場。フンディング(アイン・アンガー)の館にたどり着く。そこにフンディング夫人ジークリンデ(ペトラ・ラング)が現れる。「水をくれ、水を」と言うジークムントに、「新鮮な水をお持ちします」と外に出て水を汲んで戻ってくる。「お望みのようにあなたの渇き切った咽喉を潤す水を持ってきました」とジークリンデ。この場面に流れる「ジークリンデの動機」のえも言われぬ美しさ! 甘く軽やか、まるで羽毛のような弦の響き!これぞまさしくウィーンの音。体がとろけそうになる。早々に至福の瞬間がやってきた。

 二人は、実は幼いころ離れ離れになった双子の兄妹。「冬の嵐は過ぎ去り愛と春が結びつく」と歌うジークムントに「あなたこそが春です」と応じるジークリンデ。ここらはまるでイタリア・オペラの流麗さ。ジークムントは、これまで誰も抜き得なかった剣をトネリコの幹から抜き取り「今こそ私はジークムントと名乗る」と宣言。ホール一杯に響き渡る「剣の動機」。ここは最大の見せ場、ワーグナーの真骨頂だ。二人の激情が一気に燃え上がり女は子を宿す。これぞワーグナー・ワールドの不可思議さ。だが不自然さを感じさせない音楽の力。それはさておき、不貞を許さない父神ヴォータン(トマス・コニエチュニー)は、我が娘にして女兵士軍団ワルキューレのリーダー・ブリュンヒルデ(ニーナ・シュテンメ)に、ジークリンデに罰を与えるよう命ずるが、状況を理解したブリュンヒルデは彼女を逃がす(この愛こそがブリュンヒルデの本質で、大団円の「ブリュンヒルデの自己犠牲」に繋がる)。恐れ多くも父なる神に背いたブリュンヒルデは岩山で眠りにつかされ、周りに火を放たれる。「炎の動機」から、越える者を示唆する「ジークフリートの動機」を経て、「まどろみの動機」が静かに奏でられる中、全三幕の幕が下りる。

 指揮者のアダム・フィッシャーは1949年ブダペスト生まれ。ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、メトロポリタン歌劇場など、世界中の著名なオペラ・ハウスを指揮している。バイロイトでは2001年、急死したシノーポリの代役として「指環」を指揮。センセーショナルなデビューを飾った。
 演出のべヒトルフは1957年タルムシュタットの生まれ。ザルツブルク・モーツァルテウムで学び、当初は俳優として活躍。1994年から演出を手掛け、2014年にはザルツブルク音楽祭の総合芸術監督に就任している。本公演の「ワルキューレ」は、ウィーン国立歌劇場の出し物として10年来の定評ある演目である。

 右手に白ワイン、左手にガイドブック。ワインはプラチナ・ペーパーのオプションで第2と第3の幕間に賞味。ガイドブックは同伴のF社長制作「魅惑のオペラ」(小学館刊)のポータブル解説書。これが実に使い勝手がいい。いやまあ、夢のような5時間だった。
 終演後即F会長にメールを打つ。「素晴らしいの一語。特にオケの音色は筆舌に尽くしがたし。歌手も夫々ハイレベルでしたが、とりわけジークリンデ役ペトラ・ラングの上品で透明かつ情感あふれる美声に感動。全体的に磨き抜かれた美しいワルキューレという印象。至福のワーグナー体験でした。切に感謝申し上げます」。
 F社長とは、軽く一杯といきたかったのだが、日曜日の夜ゆえ後日のお楽しみということで、JR上野駅公園口にてお別れした。

 楽劇「ワルキューレ」はワーグナー畢生の大作「ニーベルングの指環」第1夜の演目。序夜「ラインの黄金」第2夜「ジークフリート」第3夜「神々の黄昏」とともに膨大な物語を形成する。
 リヒャルト・ワーグナー(1813−1883)が「指環」の構想を始めたのは1848年。最初に書いた台本のタイトルは「ジークフリートの死」で、以下「若きジークフリート」、「ジークムントとジークリンデ」、「ラインの黄金の掠奪」と、台本は物語を遡り、1852年に完成。作曲は進行通りに書かれ、途中長い中断があったが、1874年、全曲が完成。構想開始から実に26年の年月が流れていた。

 ワーグナーは、「指環」の題材を欧州の神話や伝説から採用しているが、その原典を考察しておこう。
@ 「ニーベルンゲンの歌」
12−3世紀頃成立したゲルマンの英雄叙事詩で、主人公ジークフリートの生涯や指環伝説など、「指環」の中核を成す骨組みが採用されている。ジークフリートのパートナーとして、自己犠牲により人間世界を新たな秩序へと先導するブリュンヒルデの原型もここにある。
A 「エッダ」
13世紀に編纂された北欧神話で、地底―地上―天上という世界の構造や、神々、巨人族、大蛇など、「ニーベルングの指環」の骨組みや脇役がここから採られている。主神オーディンは大神ヴォータンに変わる等々。またここに記されている「ラグナロク」という神々の終焉の件は、第3夜「神々の黄昏」と同一概念である。
B 「オレステイア」三部作
ギリシャの悲劇詩人アイスキュロス(BC525―456)の三部作。この世代をまたぐ物語の骨子と上演形式が「指環」の構成に影響を与えたと考えられる。ワーグナーが4夜とせずに「序夜に続く3夜の劇」としたのは、アイスキュロスへのオマージュもあるか。
 楽劇「ニーベルングの指環」全4作は、1876年8月13日、第1回バイロイト音楽祭で初演された。会場はワーグナーが自作品上演のためだけに作ったバイロイト祝祭劇場。建設に協力を惜しまなかったのは時のバイエルン国王ルードヴィヒ2世(1845−1886)である。彼は少年時代にワーグナーの歌劇「ローエングリン」に魅了され、自己の居城の内装を「ローエングリン」一色に飾るほど入れ込んだ。理想を追求するワーグナーの構想は肥大化の一途をたどるが、心酔者ルートヴィヒ2世に支援停止の思いは微塵も起こらなかった。その建設費用は国家財政を破綻させるほど甚大化したという。これについて日本のある有名ヴァイオリニストは、たまにTVのクラシック講座とかに出てきて、「ワーグナーは時の国王をたぶらかして自分の劇場を作らせた」とトンチンカンことをどや顔で宣うが、何もたぶらかしたのではない。国王の方が入れ込んだのだ。国王は1886年6月13日の朝、湖で変死体となって発見される。死因は謎、つけられた仇名は「狂王」だった。彼の居城ノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ屈指の観光名所として連日観光客で賑わっている。

 ワーグナーが、自らの夢の到達点としてバイロイト祝祭劇場を作り、それがワグネリアンの聖地として今日これまで発展し続けている陰には、二人の女性の存在がある。

 まずは妻コジマ(1837−1930)。大作曲家リストとマリー・ダグー伯爵夫人との間にできた不倫の娘。指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830−1894)夫人だったがワーグナーに走る。そして、ワーグナーが59歳の時、待ちに待った男児を生む。ワーグナー、狂喜乱舞。迸る愛情を注いで「ジークフリート牧歌」を作曲した。これがあの野心の塊ワーグナーの楽曲か?と訝るほどの優しさに溢れている。

 野心家と強き女との間に生まれたジークフリート・ワーグナー(1869−1930)は、どんな強者かと思いきや、これがなんと心優しき両性愛者というから世の中は分からない。結婚に興味のないジークフリートに、なんとか花嫁をとコジマが選んだのがイギリス女性ヴィニフレッド(1897−1980)。二人がお見合いしたのは1914年のバイロイト音楽祭だった。ジークフリート44歳、ヴィニフレッド17歳。めでたく結婚、ヴィーラント(1917−1966)とウォルフガング(1919−)の二児を儲ける。コジマとヴィニフレッド。二人の女性はワーグナーの血脈を守った。ブリュンヒルデが世界に秩序をもたらしたように。

 1930年4月にコジマ逝去。同年8月、後を追うようにジークフリートが亡くなる。二人の遺児はまだ10代。ここで頭角を現したのが未亡人ヴィニフレッドだった。悪化の一途をたどっていたバイロイトの財政立て直しを一手に引き受ける。直ちに実行したのがヒトラーとのジョイントだった。二人のゲルマン・ファーストの思想が合致。ヒトラーの隆盛にバイロイトの命運が呼応した。彼女は「ヒトラーとの出会いは運命だった」と述懐している。
 やがて成長したヴィーラントとウォルフガングは、演出家として押しも押されもせぬ地位を築き、戦後バイロイトの黄金時代を築き上げる。現在のバイロイトを統率する二人の女性エファとカタリーナはウォルフガングの娘だ。カタリーナが演出した2015年バイロイトの「トリスタンとイゾルデ」は、媚薬という小道具を排除するなど、画期的なプロダクトとして評判を呼んだ。

 「トリスタンとイゾルデ」は私にとって特別な曲である。なぜなら、この曲こそ私と父親との数少ない接点の一つだから。

 父は私が2歳に満たないころに亡くなった。だから何も憶えていない。父親像形成の拠り所は母の記憶しかない。父と母が結婚したのは1944年3月5日。私が生まれたのは1945年5月20日。父が亡くなったのは1947年4月23日。母は私を連れて直ちに実家に戻ることになった。僅か3年の結婚生活で。

 あれから70年。母は現在95歳。私と100m以内の距離に住む。頭脳明晰至って健康。炊事、洗濯、掃除、入浴、すべて自分でやる。メールは自在。写メールも。ビデオのタイマー録画もOK。楽しみは、クイズ番組で私と競うこと。長野の妹と長電話をすること。孫と曾孫にお駄賃をやること。親族知人に物を送ること等々。
 そんな母に父との思い出はと尋ねる。「ほとんどないのよ」と答える。微かに蘇る記憶といえば、父は休日、部屋に閉じこもって一心にレコードを聴いていたこと、くらいだと。あるとき「なんという曲?」と問うと、ぼそっと「トリスタンとイゾルデ」なる返答があったとか。ウーン、なんとも切ない物語ではないか。

 父の聴いていた「トリスタンとイゾルデ」のレコードは何なのか? 調べてみた。思いつく手掛かりは、あらえびす著「名曲決定盤」上下巻だけ。あらえびすは「銭形平次捕り物控」の小説家・野村胡堂(1882−1963)の音楽ジャーナリストとしてのペンネーム。上下巻を通して「トリスタンとイゾルデ」に関する記述は一箇所。
もう一つ、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲」と「愛の死」(60196−7)を挙ぐべきだろう。フルトヴェングラーのワーグナーというものは、非常に見事なものだが、まれに演奏するのは「トリスタンとイゾルデ」だけで、本国でもあまり聴かれないという。
 そうか。フルトヴェングラーしかなかったのか。無論SP盤のはず。商品ナンバーらしきものが記されているが調べようがない。ならば、「フルトヴェングラー完全ディスコグラフィー」を捲ってみる。78回転SP盤は2点あった。

     1930年録音 ベルリン・フィル「第1幕への前奏曲と愛の死」(独グラモフォン)
     1938年2月11日録音 ベルリン・フィル「第1幕への前奏曲と愛の死」(英HMV)

 私が所有するフルヴェンの「トリスタン」は、1952年録音 フィルハーモニア管弦楽団との「全曲盤」だけ。このフラグスタートのイゾルデとの共演こそ、空前絶後の名演で、録音から60余年を経てこれを越えるものがない。それはさておき、父の聴いていた「トリスタン」は、結婚期間から見ても、恐らく上記2枚のどちらかだろう。いずれ探し当てて聴いてみたいものである。

<参考資料>

あらえびす著「名曲決定盤」上下巻(中公文庫)
魅惑のオペラ特別版2「ワルキューレ全曲」(小学館)
フルトヴェングラー完全ディスコグラフィー(ディスク・ユニオン編)
神々の黄昏〜バイロイト諸相(2013年NHK-BS放映)
 2016.10.25 (火)  ボブ・ディランのノーベル賞受賞を抉る
 10月13日、スウェーデン・アカデミーはボブ・ディラン(1941−)にノーベル文学賞を授与すると発表した。ところが、15日付朝日新聞紙上には「アカデミーは夜通し電話を掛け続けたが連絡は取れない。13日のラスベガスでのコンサートでも、ディランはノーベル賞について一言も触れなかった」なる報道が。12月10日の授与式に出席するのかしないのか。コメントを発するのかどうなのか。ディランだけに答えは「風の中」!?

 ディランの元恋人スージー・ロトロ(第2作アルバム「フリーホイーリン」Freewheelin’のジャケットに一緒に写っている女性)は、「ボブは、何をしたいかが明白で、要領がよく、必要な人を嗅ぎあてる勘が鋭かった」と述懐している。「したたかで駆け引き上手、機に乗じるのがうまかった」とは友人のミュージシャン ジョン・コーエンのディラン評だ。要するに「したたかで頭が良くて、今何をすべきかがわかっている人間」ということだろう。彼は今その鋭敏な頭脳で何を考えているのだろうか。

 一方で、ボブ・ディランは「悪魔に魂を売った男」ともいわれている。そんな馬鹿なとおっしゃるなかれ、本人がそう述べている映像がYou Tubeにあるのだから間違いない。「自分は遠い昔、魂を売った。誰にって?司令長官さ。どこの?地上か見えない世界か。なんのためにかって? 現在の地位を得るためさ。そのあとは作品のバーゲンセールだよ」。インタビュアーはヴィジラント・クリスティアン。これがいつ頃ものかは特定できないが、風貌からいって映画「ノー・ディレクション・ホーム」(マーティン・スコセッシ監督2005年)の頃だろうと思われる。

 このインタビューを検証してみよう。まず、遠い昔とはいつのことか? その鍵はアルバム「追憶のハイウェイ61」に隠されている。原題はHighway61 Revisited。直訳すれば「国道61号線再訪」である。
 まず、Revisitedである。これはイーヴリン・ウォー(1903−1966)1945年の小説「ブライズヘッド再訪」Brideshead Revisitedからの引用に違いない。ディランはこの手の文学は間違いなく読んでいるはずだから。アルバム第1曲は「ライク・ア・ローリング・ストーン」Like a rolling stoneである。この1コーラス目のシチュエーションこそ貴族の没落を描いた「ブライズヘッド再訪」のストーリーそのものではないか。でも、これは、中村とうよう氏のCD解説にもないから、私の独りよがりかもしれないが・・・・・。
 次に、Highway61である。国道61号線と49号線の交差点は「クロスロード伝説」といって、ボブ・ディランが敬愛するブルースのギタリスト&シンガー ロバート・ジョンソン(1911−1938)が「悪魔に魂を売ってテクニックを手に入れた」とされる伝説の場所。伝承を重んじるディランならではの符合である。

 これらから、「ハイウェイ61への再訪は、悪魔と取引するためだった」との結論が導き出されはしないか。さらに、タイトル曲「追憶のハイウェイ61」の歌詞には、アブラハムが神から「わたしのためにお前の息子を殺せ。ハイウェイ61で」と旧約聖書に倣った描写がある。因みにアブラハムはディランの父親の名前でもある。ディランはハイウェイ61で魂を売った。ランボーがいう「私は他者」になった。「追憶のハイウェイ61」は1965年8月30日発売。ボブ・ディラン24歳、6枚目のアルバムである。

 次なる検証は、魂を売った相手は誰か?である。ディランが「司令長官」と呼んだ実体は果たして何なのか? それは「イルミナティ」。イルミナティはショウ・ビジネスの世界を操るユダヤ系の裏組織。18世紀末にロスチャイルド家がフリーメイソンと合体させて作った秘密結社である。ディランのロゴにはイルミナティのシンボル・マーク「全能の眼」がデザインされ、イルミナティのメンバー・リストには彼の名前が認められる。イルミナティのリストには、他に、マドンナ、ビヨンセ、デヴィッド・ボウイ、レディー・ガガ、アンジェリーナ・ジョリーらが名を連ねる。

 確かに、1965年を機に彼の状況は一変した。サウンドはロックに転換、詩は多層的かつ刺激的になった。音楽における、これほどの劇的変化は、モーツァルトのフリーメイソン入会に匹敵する。「追憶のハイウェイ61」のリード・シングル「ライク・ア・ローリング・ストーン」Like a rolling stoneは初のベスト10入りを果たし、全米及びヨーロッパ各地80箇所の大規模コンサート・ツアーを敢行する。
 そして、51年後の2016年、ボブ・ディランはノーベル文学賞を授与される。ノーベル財団とロスチャイルドの親密関係は歴史的事実。ここに、ボブ・ディラン〜ユダヤ〜イルミナティ〜ノーベル賞 のラインがくっきりと浮かび上がる。

 スウェーデン・アカデミーが発表した、ボブ・ディランの授賞理由は「アメリカの音楽の伝統に新しい詩的な表現を創造した」である。これはまさにその通りである。

 ボブ・ディランの本名はロバート・アレン・ツィンマーマン。ロシア系ユダヤ人である。ボブ少年、最初の音楽体験は10歳の時、引っ越した家に残っていたビル・モンローのSPレコードだった。これをキッカケに、AMラジオで、ハンク・ウイリアムズやジョニー・レイのカントリー、マディー・ウォーターズのブルース、ジョージ・ヴィンセントのロックンロール、オデッタ、ウディ・ガスリーのフォーク・ソングなど、アメリカ音楽の本流に親しんだ。そしてこれらがDNAとして彼の体内に蓄積された。
 中でも、最も触発されたのはウディ・ガスリーの音楽だった。「彼は、独特なサウンドで大切なことを言っていた。僕には特別に聞こえた。フォークは僕が人生に感じていることを伝えている」自分の進むべき道はフォークと悟ったのだ。

 1961年1月、19歳のボブは、故郷ミネソタを後にニューヨークはグリニッチ・ヴィレッジにやってくる。詩人アレン・ギンズバーグ(1926−1997)はここを“20世紀のボヘミア”と呼んだ。どんな様子か知りたければ、オー・ヘンリーの「最後の一葉」を読めばいい。
 ボブは、ライブ・スポットで歌い、知り合った仲間の家に寝泊まりし、そこにある本をむさぼり読んだ。その中には、ウェールズの詩人ディラン・トマスの詩もあっただろう。ランボーの詩にも触れただろう。ボブ・ディランと名乗るようになったのはこのころからだ。不安な時代。キューバ危機は核の恐怖を煽り、差別、偏見、暴力の嵐が吹き荒れていた。夜を徹して議論もした。ボブは外の世界と関わらずに生きてはいけなかった(スージー・ロトロ)。そして名曲「風に吹かれて」Blowin’ in the windが誕生する。1962年のことである。
人はいくつの道を歩めば 人として認められるだろうか
白い鳩はいくつの海を渡れば 砂浜に羽を休められるのか
いくつの砲弾が飛び交えば 殺戮は永久になくなるのか
答えは 友よ 風に吹かれている 風に吹かれている
 「風に吹かれて」は時流に乗った。公民権運動のシンボル・ソングとなった。ディランは一躍時代の寵児となった。ヴィレッジのフォークロアセンター主宰者イジー・ヤングはディランの音楽を「現代の考えをトラディショナルな曲に乗せる。だから今作られたのに200年前の響きを持つ」と評した。古い皮袋に新しい酒を盛る。不易流行、歌枕の思考だ。

 だが、ディランはここに止まりたくなかった。彼は告白する「あの歌はよいか悪いかわからないけど、時代に合った。歌を作って歌う人間が社会の問題に対する答えを持っている、とマスコミは思い込んでいる。そんな連中に何を言えばいいんだ。ばかばかしい。いつかバカどもが僕の歌について書くだろう。何を歌っているか僕にもよくわからないのに」。レッテルを貼りたがるマスコミと自由に音楽をやりたいディランの間にはいつしか深い溝ができていた。そのころ恋人関係にあったジョーン・バエズ(1941−)はこう言った「世間はボブを運動というトンネルに閉じ込めようとした。他の事は見えないように。でも彼はいろんな景色を見たかったのよ」。ディランは自由を欲した。古い皮袋を新しい器に変えたくなった。そこにさらなる新しい酒を盛ろうと試みた。その答えが「追憶のハイウェイ61」、とりわけ「ライク・ア・ローリング・ストーン」ではなかったか。たとえ悪魔に魂を売ったにしても。

 「ボブ・ディランにノーベル賞」のニュースは、晩秋の日本を駆け巡った。実感、圧巻、トンチンカン、様々なコメントが溢れた。

 吉田拓郎(1946−)は「ディランがいなかったら、と考える。ボブ・ディランがいたから今日があるような気がする。多くのことがそこから始まったと僕は思うのだ」とコメントした。ファジーな言い方だが、はっきり言ってしまえば「自分が今日あるのはディランのおかげだ」ということだろう。ストレートに言わないのは拓郎のプライドか。

 1970年11月、吉田拓郎はファースト・アルバム「青春の詩」をリリースした。このアルバムはディランの影響なくして語れない。「今日までそして明日から」は、「くよくよするなよ」Don’t think twice, It’s all rightに酷似している。「男の子・女の娘」での中沢厚子とのデュエットは、1963ニューポート・フォーク・フェスティバルでのディランとジョーン・バエズを気取ったものだろう。
 一方で、「雪」における抒情性や「俺」に内包する青春の甘酸っぱさなどは、たくろう独自の感性だ。似ていると指摘した「今日までそして明日から」にしても、それはメロディーラインのことで、歌詞においては拓郎の個性が光っている。そこには、醒めながらの前向きさがある。控えめながら「私には私の生き方がある」と主張しているではないか。「イメージの歌」にはシニカルなエスプリともいうべき世の中を洞察する独自の視点がある。

 1972年にはアルバム「元気です」をCBSソニーからリリース。1曲目「春だったね」から度肝を抜かれる。ギターをエレキに持ち替え、シンセサイザーを加えたエレキサウンド。ディランが「追憶のハイウェイ61」でやった変革と同じだ。しかもこの「春だったね」はディランの次作「ブロンド・オン・ブロンド」の第6曲「メンフィス・ブルース・アゲイン」を丸写しの様相だ。パクリといわれても仕方がないレベルである。無論パクリはメロディー&サウンド面のみ。詩はパクリ様がない。これをもって拓郎と決別したというファンもいたらしい。でも、パクリを気にしていたらJ−POPは聞けません。静かに笑ってしまうのが一番。他にいいものをたくさん持っているのだから。

 吉田拓郎は、「青春の詩」1970では「フリーホイーリン」1962から、「元気です」1972では「追憶のハイウェイ61」1965と「ブロンド・オン・ブロンド」1966から、甚大な影響を受けて作った。彼は5歳年上のディランの影を追いかけていた。

 ディランのノーベル賞受賞の報を受けて、湯川れい子さんは圧巻のコメントを出した。「デビュー当時から一貫して伝承歌を歌ってきた人。米国という、歴史が古くない国で伝統を作った人だからこそ、評価されたのではないかしら」。実に的確、アカデミーの真意をも補足している。

 毎年受賞を心待ちしているハルキストの一人は「村上さんはディランが好き。喜んでいるはずです。いろんな音楽が村上作品には出てくるが、ディランは別格だから」。ウーン、喜んでいるかなあ。けっこう複雑なのではないかしら。でもまあ、こういう当たり障りのない言い方が正解なのかも。これからも、この時期盛り上がるんでしょうしね。

 SONY-BMG勤務の友人S氏は「CDのオーダーが通常の200倍と殺到しています。ノーベル賞の影響の大きさを実感しています」と話してくれた。さらに「ディランはこれまで数々の賞をもらっていますが、受賞の場に来なかったことはなかったし、コメントを発することもなかった」とも。ならば、ノーベル賞に対しても授賞式には出るが沈黙を守る、というスタイルを貫くのか!? 唯我独尊男ボブ・ディランから目が離せない。

<参考資料>

映画「ノー・ディレクション・ホーム」DVD
ボブ・ディランCD
   「フリーホーリン」
   「追憶のハイウェイ61」
   「ブロンド・オン・ブロンド」
吉田拓郎CD
   「青春の歌」
   「元気です」
 2016.10.15 (土)   FMえどがわ「りんりんクラシック」
 昭和の名横綱・栃錦の銅像が出迎えてくれるJR総武線小岩駅。雲竜型の開いた右手が指す方向に出るとフラワーロードという商店街があり、そこを進むと中ほどに「FMえどがわ」のスタジオがある。周波数84.3MHz。可聴エリアは、江戸川区全域、江東区、墨田区、葛飾区、市川市、浦安市の一部。開局は1997年11月30日、来年20周年の節目を迎えるコミュニティFM放送局である。
 さて、私、今月からこのFMえどがわで、「りんりんクラシック」という番組をやらせてもらっている。毎週木曜日の夕方5時あたりからの7分間。“あたり”というのは3時間の生番組の一コーナーなのでキッチリとは始まらないからだ。これは、「明日へ 笑顔りんりん」と題する月―金の帯、午後3時から6時までのDJ番組。木曜日のパーソナリティーは奈良禎子さんだ。

 キッカケはレコード会社時代の友人N氏。彼とは20数年来の付き合いで、よくゴルフを共にした。全盛は2000年前後、タイガー・ウッズの全盛期と合致する(それがどうした)。ホーム・コースは栃木県のジェイ・セレモCC(現ケントスGC)で、月二回はプレイしたものだ。
 N氏の友人にI氏という放送ディレクターがいて、今年転職したばかりのFMえどがわで企画を立ち上げたい。ついてはクラシックを考えているが、誰か適当な人がいないだろうかとN氏に相談があり、私にお鉢が回ってきたという次第。今年亡くなった鳩山邦夫が「友人の友人はアルカイダ」と言ったが、私の場合「友人の友人は放送制作者」だった。

 相談を受けて、即コンセプトを構築。生活から引っ張り出すクラシックはいかが? その心は、「クラシック音楽は、CM、映画、ドラマ、小説、スポーツなどエンターテインメントの世界の中に夥しく存在するのに、みなさん、なかなか親しめないでいる。そこをうまく繋いでやればもっと身近に感じられるのではなかろうか」。カレンダー・クラシックなんかどうだろう? 例えば、その日が誰某の誕生日ならその人に因んだ選曲をする。「敬老の日」だったら最長寿作曲家シベリウスの楽曲を選んでトークする等々。もう一つ忘れてならないのは地域のテイスト。例えば江戸川区出身の有名人とクラシックとか。身近な事象とクラシック音楽を結びつける、謂わば“生活リンクのクラシック”は私の得意技!? 面白くなってきたぞ。
 I氏曰く「企画はナイスです。私が話すより、岡村さんが直接社長に話す方が早い」とFMえどがわ池田社長との懇談の場を設けてくれた。6月のことだった。お互い元レコード会社という経歴もあって話も弾み、「では、午後の帯番組あたりで音楽歳時記的なコーナーをやってみましょうか」と方向性が出る。細部はI氏と詰めて、ということになった。あとは中身次第か。

 企画をさらに具体化すべく、週一月曜日の想定で、8月の仮想台本を書いてみた。この方が現場で検討しやすいだろうと思って。
 8月1日は、リオ五輪に出場する地元出身スイマー池江璃花子の話題から、ダリユス・ミヨー作曲「ブラジルの女」に繋げる。8日は「山の日」に因み「アルプス交響曲」を。15日は旧盆につき、故郷を偲んでドヴォルザークの「家路」を地元出身の尺八の貴公子藤原道山の演奏で。22日は、1969年8月に始まった「男はつらいよ」から最初に使われたクラシック曲、ハイドンの弦楽四重奏曲「ひばり」。

 I氏が局内にプレゼン。即、反応が出る。「明日へ 笑顔りんりん」木曜日担当パーソナリティーの女性アナが興味を示してくれたとのこと。早速お会いして協議。その方は奈良禎子さん。開局以来のパーソナリティーで20年のベテラン。ファンも多い。音楽全般、近茶流懐石、歌舞伎など多趣多芸のひと。私の企画案を事前に精読してくれていて、即、やりましょう、ということに。コーナー・タイトルは「りんりんクラシック」。私の呼称は「下町のクラシックおじさん」。まっ、いいか。というわけで、改編の10月から7分間のコーナーをスタートする運びとなった。

 これに先立ち、9月15日には、生放送のゲストとして出演、コーナー誕生の告知をやらせていただいた。挨拶代わりに「寅さんクラシック」をやる。映画の舞台が放送エリアに合致していること。寅さん渥美清が今年没後20年ということ。彼の命日が8月4日で、1973年の同じ日に封切られた第11作「寅次郎忘れな草」にはクラシックがふんだんに使われていること。などなど、番組テーマの“生活リンクのクラシック”にドンピシャリ。リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」、J.S.バッハ「G線上のアリア」、シューベルトの「野ばら」を流し、場面と絡めてトークした。奈良さんは流石ベテラン。うまくリードしてくれたが、私めは、上がりっぱなしの空回り状態。生は無理と自覚した。内容は良かったのになあ。このヘタクソめが!

 自覚が通り、10月からの本番で生はナシ、「対話型録音方式」にしていただく。ディレクターは平成5年生まれのO氏。私の息子より一まわりも若い! クラシックには全く馴染みがないとのことだが、真面目で熱心だから何ら問題はない。ローテーションは、隔週木曜日の二週分収録。今日現在、10月6日はOA済。13日は収録済み。20日と27日分は13日に収録。そんなスケジュールとなっている。

 それでは、「奈良禎子のりんりんクラシック」10月のラインアップを、紙上公開させていただきます。

<10月6日>江戸川区出身作家・石田衣良とクラシック(放送済み)
石田衣良は江戸川区出身。デビュー作「池袋ウエストゲート・パーク」が大ベストセラーとなる。この小説には数々のクラシック音楽が登場する。彼の造詣の深さゆえのことだろう。今日は、主人公が初めてクラシックCDを買う場面を選び出し、そこで購入したチャイコフスキー作曲「弦楽セレナード」から第2楽章「ワルツ」をお聞きいただく。
<10月13日>イヴ・モンタンと「ブラームスはお好き」(収録済み)
イヴ・モンタンは1921年10月13日生まれ。1946年「枯葉」を歌い一躍スターダムに上り、「世界の恋人」と呼ばれた。本業はシャンソン歌手だが、映画にも数多く出演している。今日は、彼出演1961年の映画「さよならをもう一度」(原作はサガンの小説「ブラームスはお好き」)から、挿入曲として有名になったブラームス作曲「 交響曲第3番 ヘ長調」の第3楽章をお送りする。
<10月20日>世界初のコンサート広告はモーツァルトの演奏会
毎年10月20日は「新聞広告の日」。ところで世界で初めてのコンサート広告は何? これが何とモーツァルトの演奏会の新聞広告。ときは1764年6月5日。ところはロンドン。「モーツァルト名人は天与の神童ですが、この機会に、その偉大な神童ぶりを、皆様にお目にかけるものであります・・・・・」というもの。広告仕掛け人はモーツァルトの父レオポルト。ロンドン滞在中に大小のホールや料理店で精力的にコンサート活動を行った。今日はロンドン滞在中に書いた「交響曲第1番」と、最後の交響曲 第41番「ジュピター」の終楽章を聞き較べていただく。
<10月27日>ニコロ・パガニーニの音楽
ヴァイオリンの名手にして作曲家のパガニーニは、1782年10月27日、イタリアのジェノヴァで生まれた。その人並み外れた演奏テクニックから、「悪魔に魂を売った男」とも称された。かのナポレオンの妹から寵愛を受けるなど、私生活も破天荒。彼の凄さは桁外れの収入にも表れていて、一説にはシューベルトの一生分を8日間で稼ぎだしたとも。今日は、ヴァイオリン協奏曲第2番「ラ・カンパネラ」から第3楽章を。このメロディーは後にリストがピアノに編曲して大ヒットとなった。
 とまあ、こんな感じであります。記念日のない「日」はなく、クラシック曲にも限りがないのだから、ネタが尽きることはないだろう。「どうにかなるさ」と気軽にやってゆきたい。
 2016.09.26 (月)   奇跡の夜〜トム・ハンクスと遭遇の顛末
 2016年9月16日(金)。何とも不思議な宵でありました。「軽く一杯やろうか」と昔の仲間4人で申し合わせて集まったのが神田の「まつや」。ここは「やぶ」と並ぶ蕎麦の名店。明治17年(1884年)の創業で、「やぶ」に比し庶民的と評判の店。
 4人とは、Tくん(69)、Aくん(65)、Hくん(64)と私(71)。Hくんは某演歌歌手のマネージャーで現役。他の三人はサラリーマン卒業組。全員時間に都合がつく身分。集合したのは夕方5時だった。

 とりあえずビールで始めて、板わさ、てんぷらなどをつつきながら、時事ネタ、スポーツネタ、芸能ネタ等やや喧しく過ごしていた6時ころ、空いていた隣のテーブルに4人の外人様ご一行が着席した。その瞬間、対面のTくんが「トトトトトム・ハンクスだあ」と小声でわめきだす。泡でも吹いてんのかという慌てよう。右側に目をやると、まさしくトム・ハンクスだった。最新作「ハドソン川の奇跡」の公開に合わせ来日プロモーション中なのは知っていた。 右隣のAくんは「へえ、凄い偶然。でも、こういう時は騒ぎ立てずにそっとしておくのが礼儀です」と、さすが現役時代洋楽担当だっただけにわきまえている。落ち着かないのがTくん。「俺、大ファンなんだ。ちょっと行ってくる」と当人の前にしゃしゃり出た。何やらカタコトで喋っている。当のハンクス氏はニコニコ応対してくれている。Tくん、しばしあって席に戻るや、興奮の極み。「俺、彼の映画で『グリーンマイル』が一番好きだから、そう言った。なんて返ってきたかは分からん」。よかったじゃないかお話しできて。「いい人ですね。気安い、親しみやすい、なんだっけこういうとき」とHくん。「気さくだろ」と私。「そうそうそれそれ。気さくな人」。何だい、もう酔っぱらってるんかいな。

 ご一行は、トム・ハンクス、スタイリストらしき(違うかな)女性、俳優の卵的(これも違うか)青年、SP風(これまた違うか)スキンヘッドの強面おじさんの4名。30分程さりげなく飲んだでしょうか。なんとなく互いを見やるようになって、まあ、酒も入って気分も上がって。そんな折、ハンクス氏が我々に「どこの会社?」と訊くから、「BMG前身はRCA」とただ単語で答える。こんなとき仲間のKくんがいたらスムーズなのにと悔やんでみても、彼はこの日所用で別行動。ハンクス氏は「何その会社っ?」ってな感じだったので、「エルヴィス・プレスリーの会社だ」とハッキリ言ったところ、「Oh Elvis!Nice!」ときた。そして、いきなり「Love me tender love me true ・・・・・」と歌い出すじゃありませんか。おやおや、実に気さくで乗りがいい! なんだか盛り上がってきたぞ。

 ハンクス氏に同行の青年が大仰なカメラでパチパチやっている。なかなかの男前。なんとなく声を掛けたくなって、私「Your camera is LEICA?」とやってみた。青年「No, This is Nikon」。判ってますよ。で、さらに私、「No No It’s LEICA」とやったあと、「Like a bridge over troubled water I will lay me down」と「明日に架ける橋」のサビを歌っちゃいましてね。青年はキョトン。ところがハンクス氏、ここで「When you’re weary feeling small・・・・・」と頭から歌い始めるじゃありませんか! サビしか知らない我々は、ハンクス氏に合わせなぞりつつ、サビにきたら「ライカ ブリッジ オーバー トラブルドウォーター・・・・・」と大合唱(でも小音量)。場は一気に盛り上がり、日米親善の輪はいきなり最高潮に達したのであります。

 こうなると、気さくなハンクス氏はさらにヒート・アップ。「スキヤキを歌おう」ということに。手持ちのスマホにローマ字の歌詞を出して、クルーにかざしながら「ウエヲ ムウイテ アールコオオオ」と歌い出す。この国民的歌謡曲なら歌詞大丈夫な我々は自然に唱和、再度大合唱に(やはり小音量)。歌い終わって「この歌が全米第1位に輝いたのは1963年でした」と私。Tくんも負けずに「この歌のメロディーはベートーヴェンのピアノ・コンチェルト『皇帝』とソックリなんですよ」と一蘊蓄。ハンクス氏はただニコニコ笑っている。本当にいい人だ。今度はSP氏、Hくんを指さして「あなたは『タクシードライバー』の俳優みたいだ」。えっ、「タクシードライバー」といえばロバート・デ・ニーロでしょ。本当かなあ? 何かの勘違いにしても、悪い気はしないHくんでした。
 そんな流れの中、ハンクス氏、やおらスマホを取り出し自撮りを。「後ろの人たち内に寄って」ハイ、ポーズ。まさかこの写真が数日後にエライことになろうとは!

 交歓会も終盤、蕎麦湯の段取りが分からないらしいハンクス氏ご一行に、A君が「これはこうしてこう混ぜて・・・・」と教授。「Smell good !」とハンクス氏。そして、いよいよご一行退席の時間。なんと我々に手を振ってくれました。我々も立ち上がって別れのご挨拶。
 なんという1時間半。あのアカデミー主演男優賞を2度まで獲った超々大物スターが「まつや」で隣の席に。こんな偶然ってあるのかなあ。あっていいのかい。中秋の名月と満月の間に起きたまさに不思議の宵、奇跡の夜でした。

*後日

 奇跡の夜から三日目の朝、Aくんから電話。「岡村さん、エライことになってます。トム・ハンクスが我々との自撮り写真を自身のツイッターに上げて、すごい反響!」。 なにあの時の写真が!? SNSに疎い私が即パソコンを開いてみると、なんじゃコリャー! ハンクス氏と我々の写真があちこちに出回っているではありませんか。タイトルも「Rocking Tokyo with my crew. HANX」。もしや、my crewって俺たちのことも含んでる?ありがたいこっちゃ。それにしてもこの拡散振り。これがSNSの威力というものか。
トム・ハンクスの自撮りに写り込んで全世界に拡散される
ジャパニーズヨッパライがサイコー

1214万超のトム・ハンクスのフォロワーはもちろん
全世界にジャパニーズヨッパライが拡散されて胸熱

トム・ハンクスめっちゃ楽しそう
俺もトム・ハンクスと飲みたい

この隣の日本人のおじさんたち羨ましいなあ

周りは映画関係のお偉いさん そりゃそうか

居合わせた一般人なわけないだろうけど、
ものすごく新橋の居酒屋にいるサラリーマン風のおっさんどもだな
 などなど、こんな書き込みのオン・パレード。概ね楽しい雰囲気を受け止めてるようだが、複雑な心理状況もチラリ。その心は、「どう見てもフツーのサラリーマン。トム・ハンクスのようなVIPと偶然居合わせるはずがない。やはり映画関係のおエライさんと見るのが妥当だろう。でももしや偶然居合わせたフツーのおっさんたちだったとしたら、なんと羨ましいことだろう。俺もあやかりたいよ」てなところか。中には、「あれは角川歴彦に違いない」とか「正面はNHKの会長では?」なる具体的憶測ツイートも。SNSの書き込み手は、あれやこれや想像力を働かせて書くんだなあ、と感心した次第である。

 一方、この写真、テレビでもオンエアされる始末。9月21日の朝、檜山教授から電話アリ「岡村さん、あの写真『とくダネ!』に映りますよ」。早速フジテレビに切り替えると、出ました。「ハンクス氏自撮り写真」。この後、TBS「あさチャン!」「王様のブランチ」にも登場しました。
 旧友からの反響も喧しく、メールや電話の類は40件超。最初、身内から「それ、そっくりさんじゃないの? ハム・トンクスとか」と疑いの目を向けられた一件は、全世界に拡散する驚きの大事件と相成ったのであります。

 ひょんなことで居合わせたトム・ハンクス氏。至近で接して、その気さくな人柄にすっかり魅了されました。今後の活躍と映画「ハドソン川の奇跡」の大ヒットを心からお祈りいたします。もちろん私も見に行きますよーーー!!
 2016.09.25 (日)   リオ五輪を歴史で斬る 4 〜ボルト 短距離侍4 マラカナンの歓喜
(1)ボルト不滅の金字塔

 オリンピックの華が陸上競技であることは衆目の一致するところだろう。中でも100mは華中の華だ。過去、100mのスターとして印象的なのは、1936ベルリンのジェシー・オーエンス、1964東京のボブ・ヘイズ、1984アトランタのカール・ルイスらだ。水泳に目を転じると、1964東京のドン・ショランダー、1972ミュンヘンのマーク・スピッツ、そしてここ近年のマイケル・フェルプスがいる。だが、迫力において陸上には敵わない。それは、水泳は顔が見えないが陸上は顔が見えるし、何といっても最速の決着が魅力だ。そんなオリンピックの華・陸上競技短距離界史上最大のスターといえば、ウサイン・ボルト(30歳 ジャマイカ)をおいて他にない。
 ボルト以前、陸上男子100mで連覇を果たしたのは、1984ロサンゼルスと1988ソウルのカール・ルイスだけ。200mは皆無。同一大会での100m、200m、400mリレーのトリプル金メダリストは、1936ベルリンのジェシー・オーエンス、1956メルボルンのボビー・モロー、1984ロサンゼルスのカール・ルイスのアメリカ3選手だけである(内、オーエンスとルイスは走り幅跳びのおまけつきで4冠)。

 ウサイン・ボルトは今回のリオで100m、200m、400mリレーで金。これで、なんと、3大会連続のトリプル金、通算9個を獲得するという大記録を打ち立てた。これまで連覇は一人、単年トリプル金は三人という歴史の中で、なんと一人でトリプル金を3連続という、驚異としか言いようのない記録を達成してしまったのである。しかも、2008北京、2012ロンドン、2016リオの3大会にわたり出場した競技は金ばかり。これほど美しい記録があるだろうか!? まさに、前代未聞、空前絶後の金字塔である。
 ボルトの歩みを、100mの記録面から眺めてみよう。2008北京では9.69。2009世界選手権は9.58の世界新記録(これは現役)。2011大邱世界選手権はフライングで失格。2013ロンドンは9.63。そして2016リオは9.81。以上の流れから、彼のピークは2009−2012にあったと考えられる。ならば、2011の世界選手権失格は、ギリギリのスタートで世界記録更新を目論んだ結果のミスだったのではなかろうか? ボルトにとって想定内!? この後は記録を捨て、危険を冒さず勝ちを優先した。私はそう推測している。この一連の流れを見ていると、ウサイン・ボルトという不世出のアスリートが、いかに自己を知りその時々の 成すべきパフォーマンスを冷静に演じたかが見えてくる。2020東京を彼は目指さないという。100mは群雄割拠の新時代に突入した。

 今後まず現れることがないと思われる陸上競技の記録がもう一つある。それは、エミール・ザトペック(1922−2000チェコ)が1952ヘルシンキで打ち立てた、同一大会5000m、10000m、マラソンの陸上長距離トリプル金メダルである。5000mと10000mのダブル金は今大会でモハメド・ファラー(英)が2連覇のおまけつきで達成しているが、マラソンは出場すらしていない。近年は、10000mとマラソンのW出場はまずありえず、今後余程のことがない限り、このザトペックの記録と並ぶことはないだろう。
 ザトペックはそのあまりの強さに、人間機関車との異名をとった。彼が陸上競技を志したきっかけは、我が村社講平(1905−1998)の1936ベルリンでの走りだったという。大記録の陰に日本人あり。誇らしい限りだ。

 ここで、さらなる余談を一つ。ボルト以前に、陸上競技で3大会連続ダブル金(うち2大会はトリプル)を獲った選手がいる。その人の名はレイ・ユーリー(1873−1937米)。種目はなんと立ち幅跳びと立ち高跳びと立ち三段跳び。1900パリと1904セントルイスで、立ち幅と立ち高と立ち三段のトリプル、1908ロンドンでは立ち三段跳びが中止となったためダブル。合計8個の金メダルを獲得した。さらに、ギリシャ国王ゲオルギオス1世の提唱により一回だけ行われた1906アテネ中間大会でも、金2個を獲得。合計10個は、マイケル・フェルプスに破られるまで、オリンピック最多金メダルとしてギネスで認定されていたようだ。因みに、1906中間大会は、現在、オリンピックの公式記録から抹消。立ち幅跳びと立ち高跳びは1912ストックホルム以降廃止となった。世の中には面白い記録があるものだ。

(2)短距離サムライ4 銀メダルの快挙

 リオ・オリンピック後のランダムな飲み会で、「最も感動した瞬間は?」という話になったとき、体操団体、内村航平の個人総合、タカマツ・ペア、萩野公介、ベイカー茉秋などなど金のケースが続々出てきたが、そんな中、誰しもが口にしたのは陸上男子400mリレーの銀メダルだった。日本は2008北京で銅メダルを獲得しているが、このときは予選で強豪アメリカとイギリスの失格があってのものだっただけに今回の銀は数倍価値が高い。

 陸上トラックでの銀メダルは、1928アムステルダム人見絹江(1907−1931)の女子800m以来88年ぶり。だが面白いことに、この銀メダル、人見にとって初体験のぶっつけ本番だったという。得意の100mで予選落ちしたため、未経験の800mに急遽エントリーしたもの。手ぶらじゃ帰れないの執念か。いずれにしても現代では起こり得ない奇跡だ。
 人見はまた、女子陸上界において、世界的な貢献をしている。近代オリンピックの祖クーベルタンは、「スポーツは騎士道精神さえ求められる男性の行為だ。そこから女性や子供など弱いものを遠ざけねばならない」と主張、オリンピックに女子陸上競技を組み入れることを拒絶していた。これが、かのクーベルタンの言葉とは信じられない事実だが、1920年代はまだ女性蔑視の時代だったのだ。そんな折、1926イエーテボリ“女子オリンピック大会”に東洋からただ一人出場した人見は、100mで3位、走り幅跳びでは優勝するなど、見事総合優勝を飾る。IOCは、この人見のセンセーショナルな活躍を見て、1928アムステルダムで女子陸上を容認したのである。

 日本陸上界において、オリンピックのトラック競技での金メダルはまだない。銀メダルは人見絹江だけ、男子は無かった。短距離サムライ4が成し遂げた男子400mリレーの銀メダルは、だから、とてつもなく価値がある。さらに、37秒60というタイムは、過去10大会の優勝タイムと比べてみても、5番目に位置する立派なものだ。

  第1走者山県亮太(24)は抜群のスタートダッシュ、第2走者飯塚翔太(25)はトップ・スピード持続の能力、第3走者桐生祥秀(20)は巧みなコーナリング、最終走者ケンブリッジ飛鳥(23)は順位を落とさぬしぶとさ、各々の持ち味を十二分に発揮してチームに貢献。抜群のチームワークを発揮した(北京 銅のアンカー朝原宣治氏談)。彼らの中に、誰一人9秒台はいない。シーズン・ベストで見ると、金のジャマイカは全員9秒台、銅のカナダも9秒台二人、3着ながら失格したアメリカも全員9秒台。走力では圧倒的に劣る日本が、掛け値なしの2着に食い込んだのだ。
 4人のシーズン・ベストの単純合計タイムは40秒57だから、バトンパスにより2秒97も短縮した計算になる。この日本の短縮幅と短縮率はジャマイカ、カナダ、アメリカを圧倒している。これは、合宿で培った技術の鍛錬、レース直前まで詰めた緻密な計算、そして、限界に挑戦する果敢な勇気。三位一体の産物だった。2020東京にボルトはいない。その時4サムライの平均年齢は27歳、短距離走ランナーとして最も脂の乗り切る年齢に達する。個々の走力を上げバトンパスにさらに磨きをかければ、夢の金メダルが見えてくる!?

(3)マラカナンの歓喜〜ブラジルが一番沸いた日

 リオ五輪開催国ブラジルは謂わずと知れたサッカー王国である。ワールドカップ優勝5回は世界最多。押しも押されもせぬ世界No1王国なのだが、ブラジル国民には忘れ物がある。自国開催世界大会での優勝だ。
 1950年7月16日、第4回サッカー・ワールドカップ 決勝リーグ最終戦ブラジル対ウルグアイ。自国開催のブラジルは勝てばワールドカップ初優勝という大一番。会場はこの日のために新規造成したエスタジオ・マラカナンだった。結果は1−2の逆転負け。これを見た観衆は落胆し自殺者まで出る大騒動となった。以来、この出来事は「マラカナンの悲劇」としてブラジル国民のトラウマとなった。
 2014年、そのトラウマを晴らすチャンスが訪れる。第20回FIFAワールドカップ ブラジル大会である。ところが、7月8日の準決勝でドイツに1−7という屈辱的大敗を喫してしまう。マラカナンの悲劇に続くミネイロンの悲劇。敗因は色々取りざたされたが、最大の因はネイマールの負傷欠場だった。

 2016年8月21日 リオ五輪男子サッカー決勝。ブラジルの相手は因縁のドイツ。会場も因縁のマラカナンだった。延長120分を過ぎても1−1のまま決着がつかず、勝負はPK戦に持ち込まれる。先攻はドイツ。双方4人目までゴール。ドイツの5人目は途中出場のペーダーゼン。これをブラジルのキーパー ウェベルトンが阻止。ブラジルの5人目は今大会キャプテンを担ったネイマールだった。蹴った。入った。ブラジルの金が決まった。マラカナンは歓喜の渦。ネイマールは号泣。胸中には様々な思いが去来したことだろう。ブラジルは66年間のトラウマを晴らした。おめでとうネイマール!おめでとうブラジル!! リオ五輪を通して、ブラジルが一番沸いた瞬間だった。
 PK戦を見ながら何か引っかかるものがあった。いったい何だろうと思った瞬間閃きが走った。そうだ、このPK戦も“5連続ポイント”じゃないか! 日本に奇跡を呼び起こした5連続が、ブラジル国民の悲願を乗せて、最後の最後、マラカナンに現れたのだ。これぞ両国の絆の証!?

 17日間の祭典は終わった。政情不安、準備不足、治安の不備、テロの脅威、疫病の懸念、ドーピング問題等、様々に取りざたされたリオ五輪だったが、なんとか無事にフィナーレを迎えることができた。日本はメダル41個(内金メダル12)と過去最高を記録した。そこには不断の努力と不屈の精神があった。笑顔も悔し涙もあった。今、それらが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。選手諸君 感動をありがとう! オリンピックが終わって世界はまた日常に戻る。4年後東京五輪の2020年が、今より少しでもよい世界であってほしいと願う。
 2016.09.07 (水)   リオ五輪を歴史で斬る 3 〜柔道と競泳 お家芸復活!?
(1) 柔道男子全階級メダルの快挙

 柔道は日本のお家芸である。それは日本で始まったスポーツであり、オリンピックの正式競技に採用されたのが1964東京だから当然だろう。さらに歴史を見れば、柔道とオリンピックとの深いつながりがわかってくる。

 柔道の開祖は嘉納治五郎(1860−1938)。学生時代、優秀な成績を収めるも、体格貧弱のため他の生徒からたびたび暴行を受けた。今で言ういじめである。強くなって彼らを見返してやる、との思いで戸を叩いたのが柔術の道場だった。持ち前の研究心でめきめきと上達、体も頑強になってくる。これはまあ、想定内だったが、彼を驚かせたのは、癇癪持ちの性格が次第に落ち着き、自制心が強くなってきたことだった。修行によって、思いがけず精神の安定が得られた。文武両道! 柔術には人を高める力がある、と悟ったのである。
 教師になった治五郎は生徒たちに柔術を教えようと試みた。ところがまともな指南書がない。本来柔術は実践的護身術だから、技を他人に知られたくない、閉鎖的なもの。指南書がないのは当然だった。そこで治五郎は自ら作ることにした。一つ一つの技を分析、理論的に組み立てる。こうして誰でも習得可能なマニュアルを作り上げた。閉鎖性・名技性から公開性・合理性への移行。いわば近代的改革である。ここに、教える側にも教えられる側にも開かれた柔術=「柔道」が誕生した。普及のための本拠地「講道館」の設立が1882年。このとき9名だった受講者は1926年には37,000人に膨れ上がった。そして、現在、世界の柔道人口は150万人を超え、リオ五輪に参加した国は138ヶ国を数えるほどになった。
 1909年のある日、嘉納のもとに、近代オリンピックの創始者クーベルタンから連絡が入る。IOC国際オリンピック委員就任の要請だった。当時、オリンピックには未だアジアからの参加はなかった。クーベルタンはスポーツ指導者にして教育者の嘉納にその任を託したのである。嘉納は即快諾、翌1911年には大日本体育協会を設立。そして、1912ストックホルム五輪参加を実現した。そこには、“勝つことよりも大切なものがある”としたクーベルタンと嘉納のスポーツに対する理念の合致があった。嘉納治五郎が柔道の父であり日本体育の父と言われる由縁がそこにある。

 リオ五輪で日本柔道は男子が全7階級メダル(内金2個)獲得を実現した。これは1964東京以来52年ぶりの快挙である。とはいえ東京は4階級だったから今回の価値は大きい。功労者は第一に選手だが、監督・井上康生の力もそれに勝るとも劣らないものがある。
 篠原信一体制下で特別コーチの役割を担った井上は、指導体制に少なからず疑問を持っていた。目的意識の薄い合宿、精神論重視の指導、曖昧な担当制などである。井上は、2012ロンドンで男子金メダル0という史上初の屈辱の責任を取って辞任した篠原の後を受け、34歳という若さで監督に就任。かねてから懸案の育成体制の改革に踏み切った。担当コーチ制の導入による選手個々の特性に合わせたコーチング。強化内容を明確化した合宿の実施。いたずらな金メダル至上主義からの脱皮。データ分析による数字的要素の裏付け。などなど、精神偏重主義から合理主義への移行を行う。かといって、精神性をなおざりにしたわけではなく、代表の誇りを持つことを訴え続けたりもした。

 73s級で金メダルに輝いた大野将平は、圧倒的快進撃で決勝に進む。決勝でも、小内巻き込みによる一本勝ちという圧巻の強さを見せつけた。井上が常日頃から「大野は金メダルに最も近い男」と言い続けていた通りとなった。「プレッシャーになりませんか?」という記者団の質問に、井上は「彼はそれをエネルギーにするタイプ。だから敢えてそうした」と答えた。選手の特性を見抜いた対応。試合後「よく耐えたな」とフォローも忘れていない。
 90s級金メダルのベイカー茉秋の決勝戦は対照的だった。2分17秒で有効を奪うと、ここから攻めを控え逃げ切りを図る。2度の指導を受けるが得点差を保って勝利。90s級初の金メダルという快挙を成し遂げた。

 金メダルを決めた二人の決勝の戦いぶりは対照的だった。圧勝の一本と僅差の逃げ切り。それでも同じ金は金だ。この柔軟性こそ、井上康生体制の象徴ではないか。
 銅メダルの4人、60s級高藤直寿、66s級海老沼匡、81s級永瀬貴規、100s級羽賀龍之介は、揃ってメダルが獲れたことの喜びを口にした。金を目指す中、止む無く3位決定戦に回った時の切り替えを、みんなやってのけたのだ。100s超級原沢久喜の銀メダルも、逃げ切りを図る世界王者に敢然と立ち向かった悔しくも立派なメダルだった。
 試合中ポーカーフェイスを貫き通した井上だが、すべてが終わった後、感極まってこう言った「最後まであきらめずに戦い抜き、みんなでバトンをつなげてくれた。メダリスト7人は歴史に名を刻んだ。誇りに思う」と。
 井上は、2000シドニー100s級でオール一本勝ちで金メダルを獲得するも、2004アテネではメダルなしの苦汁を舐めた。天国と地獄を味わった男の改革だった。それは、かつて、嘉納治五郎が柔術を柔道へと変革した精神と相通ずるものがある。そんな思いを抱かせてくれたお家芸柔道の復活だった。

(2) 競泳日本の復活は?

 日本水泳連盟のオリンピック代表選手の選考基準は、「派遣標準記録を突破した選考会の上位2名を選出する」となっており、明確性・公平性においてかなり納得ゆくものがある。これは2001年、前年のシドニー五輪選考を巡って起こった千葉すず問題を踏まえ、抜本的改革を行った結果だ。選手強化策に関しても、総監督と個別コーチ、水連と関連団体との連携が円滑に機能するようになった。柔道に先んじること15年、成果はメダル獲得数に歴然と現れている。改革以前の3大会(シドニー、アトランタ、バルセロナ)が6個(内金1)なのに対し、以後の3大会(アテネ、北京、ロンドン)では24個(内金5)と、大幅に増えているのだ。
 リオ五輪のメダル第1号は萩野公介の競泳男子400m個人メドレーの金。しかも瀬戸大也(銅)とのW表彰台だった。競泳のW表彰台は、1956メルボルン以来60年ぶりというおまけ付きだった。
 メルボルンのW表彰台は200m平泳ぎ。金が古川勝、銀が吉村昌弘だった。メルボルン1956こそ我がオリンピック元年で、当時小学生だった私は遙か南半球から送られてくるラジオの実況放送に聞き入ったものだ。最も興奮したのは17歳の高校生山中毅の活躍だった。競泳男子400mと1500m自由形。オーストラリアのマレー・ローズとの一騎打ち。結果は両種目とも銀だったが、そのデッドヒートに感動したものだ。オリンピック後早稲田大学に進学した山中は、200mと400mで世界新記録を樹立、1960ローマでは400mと800mリレーで銀メダルを獲得。1964東京オリンピックにも出場している。最も得意としたのは200mだが、惜しまれるのは、当時オリンピック種目になかったこと。復活したのは1968メキシコシティからである。

 リオ五輪もう一つの競泳金メダルは、女子200m平泳ぎの金藤理絵。新聞の見出しは「金藤 コーチ信じ金」だった。コーチの名は加藤健志。二人で切磋琢磨した10年間が実を結んだのである。五輪初出場は2008北京で7位。ところが2012ロンドンは出場を逃してしまう。金藤は、有名スイミング・クラブの出身でもなく、国際大会での優勝経験もゼロ。そんな雑草のような選手の才能に惚れ込んだコーチが頂点を目指して引っ張る。金藤の心中に強気と弱気が交錯し疑心暗鬼が頭をもたげる。「もうダメなんじゃないか」。コーチはそれを鼓舞。10年はそんな葛藤の連続だったことだろう。そんな師弟にオリンピックの神様が最後にほほ笑んだのである。信じ続けることの大切さを教えてくれた金メダルだった。

 女子平泳ぎ200mの金メダルは日本史上3個目。一つ前は1992バルセロナの岩崎恭子。「今まで生きてきた中で一番幸せです」が歴史的コメントとして残る。その前は1936ベルリンの前畑秀子。こちらは、NHKアナウンサー河西三省(1898−1970)の「前畑ガンバレ」のアナウンスが歴史に残る。ただただ選手の名前とガンバレの連呼。このシンプルさが人口に膾炙した。だがしかし、オリンピック実況の最高峰は、2004アテネ体操男子団体でのNHK刈屋富士雄アナウンサーを置いて他にない。

 悲願の男子団体金メダルまであと一人、冨田洋之の鉄棒の演技を残すのみ。冨田が普段通りの演技をすれば日本に28年ぶりの金メダルがもたらされるという状況で、このアナウンスは生まれた。
 「冨田が冨田であることを証明すれば日本は勝ちます・・・・・中略・・・・・伸身の新月面が描く放物線は 栄光への架け橋だ!!」。刈屋の終止は冨田の着地に寸分の狂いもなく合致した。前振りで、これから始まる演技の意味合いと日本チームが置かれている状況を簡潔に表現。淀みのない冨田の演技が優勝を確信させる流れの中、ゆずの五輪テーマ・ソング『栄光の架橋』をリンクさせてピタリと決めた。刈屋富士雄、一世一代の名調子だった。

 日本水泳チームがリオ五輪で獲得したメダルは7個(内金2)。因みにアメリカは33個(内金16)。この大差を逆転するのは夢物語であり、どう贔屓目に見てもお家芸と呼ぶには気が引ける。しかしその昔、1930年代に、お家芸といわれた時代があった。1932ロサンゼルスは金メダル5、銀5、銅2の合計12個で第1位。このとき2位のアメリカは10個(金は5個)。続く1936ベルリン大会も金4、銀2、銅5の合計11でトップ。2位のオランダは5個(金は4)。競泳日本の黄金時代である。そして、1940年第12回大会は東京が開催地と決まる。そんな中、日本は戦争への道をまっしぐらに進んでいた。1939年、ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦の幕が切って落とされる。世界情勢の悪化に、オリンピック東京大会は中止を余儀なくされた。世界の若者がスポーツで競い合うはずだった国立競技場は、学徒出陣壮行会の会場に取って代わられてしまう。1943年10月21日のことだった。

 競泳 お家芸復活へ。鍵は萩野公介か。彼にはマイケル・フェルプスという凄い見本がいる。2000シドニーから2016リオまで5大会に出場。23個の金メダルを獲得した空前絶後のスーパー・スイマーである。この途方もない記録は余人の及ぶところではないが、少しでも近づく努力はすべきだろう。フェルプスは、初出場のシドニーでは、メダルなしに終わっている。萩野の最初のオリンピックは銅メダル獲得だった。頑張れば、なんとかなる!?
 女子は池江璃花子だろう。リオ五輪では7種目に出場。メダルこそ取れなかったが、得意の100mバタフライでは日本新記録で5位入賞を果たした。まだ16歳。今後の成長に期待したい。

 見事お家芸復活を果たした柔道とまだまだ途上の競泳。果たして、2020東京では、どんなパフォーマンスを見せてくれるのだろうか。今から4年後が楽しみでならない。
 2016.08.31 (水)   リオ五輪を歴史で斬る 2 〜ラケット球技 奇跡の5連続ポイント
 8月21日の朝日新聞に「タカマツの5点」という見出しがあった。バドミントン女子ダブルスで高橋&松友ペアが金メダルを決めた「5連続ポイント」のことだ。これを見て、「5点か。他にもあったような・・・・・」そう直感して調べてみた。今回は「5点」をテーマにラケット球技を回想してみたい。

(1) 錦織圭の場合:96年ぶりの銅メダル

 世界ランク7位で臨んだテニス錦織圭の銅メダル獲得は見事だった。3位決定戦もよかったが、私は準々決勝のガエル・モンフィース(仏11位)戦の方により強い感動を覚えた。
 セット・カウント1−1、決着の第3セットはタイブレークへともつれ込む。3−4から相手に二本のサービス・エースを決められて3−6とマッチポイントを許す。1ポイント取られた瞬間ロンドンと同じベスト8止まり、メダルの可能性は0。まさに絶体絶命の崖っぷちである。ところが錦織はここから持ち前の粘り強さを発揮する。それまで不安定だったファースト・サービスが2本立て続けに入り5−6。直後相手にWフォールトが出て、ついに6−6で並ぶ。こうなると流れは錦織だ。固くなった相手から2ポイントを連取、8−6と逆転、激闘を制した。まさに執念の5連続ポイントだった。戦い終えたコート・サイドで普段滅多に泣かない錦織が泣いていた。いかに苦しかったかの証である。因みに、フルセットに縺れたときの勝率78%は、かのジョコビッチをも凌ぐ歴代第1位である。

 準決勝でランク2位のマレーに敗れた錦織は銅メダルを懸けた3位決定戦に臨む。相手は元世界ランク1位にして2008北京五輪の金メダリスト ラファエル・ナダル(スペイン 5位)。対戦成績は過去1勝9敗。難敵に錦織は堂々と立ち向かった。セット・カウント1−1、最終第3セット直前にちょっとしたハプニングが。互いのトイレット・ブレークで、錦織がなんとナダルを7分間も待たせたのである。もしや、嫌な流れで第2セットを失った気分転換? だとすれば宮本武蔵の戦法? 後で判ったことだが、引率者が超遠方のトイレに案内したという単純ミスだったようだ。このためなのかどうなのか、第3セットは終始錦織ペースで進み、勝利。念願のメダルを獲得した。日本テニス界96年ぶりのメダルだった。「日本を背負って勝つのは心地よかった」。錦織試合後のコメントである。世界のニシコリも国を背負って頑張っていたのだ。

 96年前、1920アントワープ五輪で、日本の熊谷一弥(1890−1968)はテニス・男子シングルスとダブルス(柏尾誠一郎とペア)で銀メダルを獲得している。これこそが我が国オリンピックのメダル第1号である。この後テニス競技は、1924パリのあと60年以上もの間オリンピックから姿を消すことになる。理由は、早期にプロ/アマのオープン化を進めた国際テニス連盟と「アマチュア憲章」を堅持し続けたIOCとの折り合いだった。復活したのは1988ソウル。第7代IOC会長サマランチが決断した「アマチュア憲章」放棄の結果だ。
 これはまた、別の話だが、アントワープ五輪 陸上男子1500mの銀メダリスト フィリップ・ノエル=ベーカー(英1889−1982)は、1959年、ノーベル平和賞を受賞した。オリンピックのメダリストでノーベル賞を受賞した者は後にも先にも彼だけである。

(2)水谷隼と石川佳純の場合:卓球 王座に向けて

 卓球の活躍も目覚ましかった。男子は、団体で銀、シングルスで水谷隼が銅。女子は団体で銅。連日の熱い戦いに列島は沸いたが、中でも、特筆すべきは世界ランク6位水谷の活躍だろう。
 個人シングルス準決勝の相手は世界ランク1位の中国馬龍、水谷12戦全敗中の世界王者である。馬龍が3ゲームを連取するが、水谷も2ゲームを連取。流れが水谷に傾きつつある勝負の第6ゲーム。1−2と水谷ビハインド後のポイント、馬龍サーブの場面。なんとここで27ラリーの死闘が繰り広げられたのである。取ったのは馬龍。あの冷静沈着な世界王者が思いっきりの雄叫びを上げた。いかに大事なポイントだったかの証である。ここを潮目に馬龍が終始リードを保ちこのゲームをものにする。ゲーム・カウント4−2 の惜敗。試合後水谷は「初めて勝てるかもしれないと思った」と語った。相手には「もしや負けるかもしれない」と思わせたことだろう。水谷は確実に世界王者を追い詰めた。彼はこのあと3位決定戦に臨み、ドイツのサムソノフを破って銅メダルを獲得。日本卓球史上初のオリンピック個人メダリストとなった。

 団体戦は女子の仇ドイツを破って決勝に進出。相手は無論王者中国。試合前、水谷は「僕が全部勝てば金メダルが獲れる」と語っていた。今大会の充実ぶりが覗える台詞である。
 第1試合を落とし、負ければ王手がかけられる第2試合に登場。相手は元世界ランク1位現3位の許マ。こちらも12戦全敗中の強豪だった。
 団体戦は3ゲーム先取方式。ゲーム・カウント2−2の最終第5ゲーム。水谷は7−10とマッチポイントを握られてしまう。格上相手に3ポイント差。絶体絶命のピンチ。しかし水谷、今回は違っていた。なんとここから強気に打ちまくり5連続ポイントをあげる。12−10と大逆転。勝利を収めた。これで、団体戦を1−1のタイに持ち込んだが、この後、ダブルス、シングルスと落とし、王者中国の牙城は崩せなかった。銀メダル。これも輝く男子史上初である。
 水谷は世界ランク3位に勝ち、1位を追い詰めた。今大会の充実ぶりは凄いの一語である。大会を振り返り「卓球人生で一番の充実期。リオはその途上だ」と述懐した。まだまだ伸びる!何とも頼もしい発言ではないか。

 余談だが、巷間水谷の羽田陽区似が話題になった。あの羽田陽区じゃ「オイオイオイ」となっても不思議はないところ。でも彼はマスコミの問いかけにも平然と対応する。大物である。また彼は「ブースター問題」を告発する。ブースターとは、ラケットのラバーに貼るとスピン量が増し威力が増大する補助剤のこと。国際卓球連盟が禁止する違法薬剤だが、検査体制が不備のため、野放し状態となっている。水谷は勇気をもってこの現状を訴え続けている。卓球界の健全な発展のために。彼の卓球に対する真摯な姿勢を称賛したい。

 女子は団体戦で銅メダル。準決勝ドイツ戦で勝てる試合を落とし消え入りそうになっていた三人娘がよく頑張った。負けて臨む3位決定戦は難しい。短時間での気持ちの切り替えが問われるのだ。今大会は、全競技を通し日本の3位決定戦の勝率が相当高いと感じるがどうだろう。その昔、本番に弱いと言われ続けた日本選手。今の若者は実に頼もしい。

 女子団体3位決定戦の相手はシンガポール。トップ・バッター福原愛(世界ランク8位)が接戦の末敗れるという悪い流れの中、二番手に登場したのはエース石川佳純(6位)だった。石川は、今大会初戦となるシングルス1回戦で敗退という、最悪のスタートを切ってしまっていた。しかし、団体戦では見事に立ち直り、ここまで無敗とその責任を十分に果たしている。相手のフェン・ティアンウェイ(4位)はシンガポールのエース。2012ロンドン大会で石川の銅メダルを阻んだ因縁の相手だ。
 試合開始、石川の出足は最悪。相手の揺さぶりに全く対応できず、忽ち3−7とリードされる。その後やや持ち直すも、ついに7−10とゲーム・ポイントを握られてしまう。ここで彼女は開き直った。思い切りのよいショットが蘇り、徐々に劣勢を挽回。なんと5連続ポイントで12−10と大逆転。第1ゲームをものにした。以後も強打が陰ることなく相手を圧倒。大事な試合をものにしてタイに戻した。ロンドンのリベンジを果たしたのである。
 続くダブルスでは福原&伊藤の年の差コンビが快勝。次のシングルスは、伊藤美誠(9位)がストレートで勝ち、日本は銅メダルを獲得した。「先輩たちを手ぶらで返せない」と笑わせた頼もしい15歳の言行一致だった。

 伊藤の活躍もさることながら、団体戦銅メダルの立役者は石川だろう。出場全試合で白星。3位決定戦も福原が初戦を落とす嫌な流れを断ち切った。不思議なことに、そこにも5連続ポイントがあったのである。試合後キャプテン格の福原は「足を引っ張ってばかりでした。みんなに感謝しています。苦しい苦しいオリンピックでした」と泣きじゃくりながら話した。
 気持ちの優しい愛ちゃんらしいコメントだが、恥じることはない。石川のシングルス初戦負けという沈んだ流れを払拭したのは、あなたのシングルス ベスト4進出の頑張りだった。足を引っ張ったんじゃなくチームをここまで引っ張ってくれたのだから。メダルがあるとないでは大違い。二日間でよく立ち直ってくれた。卓球三人娘に天晴れである。

 卓球がオリンピックの正式競技となったのは1988ソウルからで、男女シングルスとダブルスの4種目。2008北京から男女団体が加わった。比較的最近のことである。これまで金メダルはほぼ中国が独占。日本の目標が、打倒中国であることは言うまでもない。鍵は、男子は水谷、女子は伊藤だろう。水谷は今大会で世界ランク3位を倒し1位を追い詰めた。あと一歩である。団体戦を制するには水谷級がもう一人ほしい。伊藤はまだ15歳。今後ますます強くなる。彼女の技術とメンタルの強さは今現在すでに一級品である。同期には平野美宇始め有望な若手が多いと聞く。女子もこれらが順調に育てば、打倒中国も夢ではない。4年後の東京オリンピックが楽しみである。

(3)タカマツ・ペアの場合:栄光の金メダルへ

 バドミントン女子ダブルス日本代表は、高橋礼華と松友美佐紀のタカマツ・ペア。コンビを組んで10年、前回ロンドン五輪ではフジカキ・ペアに代表を譲るも、今大会は世界ランク1位、堂々の金メダル候補としてリオに乗り込んだ。順調に勝ち進み決勝戦に臨む。相手はペデルセン&リターユヒルのデンマーク・ペア(6位)。準決勝では優勝候補の一角唐&干の中国ペア(2位)を破っている。通算対戦成績はタカマツ・ペアの7勝4敗。数字的優位はあるものの、身長が高く(二人とも180cm前後)かつ一人はサウスポー、ランク2位を破った勢いなど、難敵には違いない。さらに、タカマツ・ペアは中国ペアを想定していたようで、この想定外というのは上位選手にとって少なからず不安があるものなのだ。レスリング吉田の敗因にもこれがあっただろう。

 試合が始まる。不安は的中した。レシーブ力が思いのほか向上していたデンマーク・ペアに戸惑ったか、サーブ・コントロールが乱れる。甘い球が多発する。本来のペースを掴み切れないまま第1ゲームを落とした。リオに来てから初めてのケースだった。第2ゲームは地力を発揮して奪取。タイに持ち込むも、不気味なのは、相手ペアが、点差が開いた後半、次ゲームに備えスタミナ温存を図っているように見えたことである。

 最終ゲーム。取った方が金メダル。眠ったふりデンマーク・ペアの逆襲に、タカマツはもう一つ調子が出ない。嫌なムードのままゲームは終盤へ。気が付くと16−19、あと1点でマッチポイントという窮地に立たされていた。「こういう場面になったら私たちの方が強いと信じた」試合後の高橋のコメント通り、ここで二人は蘇る。
 松友が右手前にカットして17−19。高橋が相手の裏をかくクロス・ボレーを決め18−19。松友強気の強打で19−19。高橋の狙いすましたボレーで20−19逆王手。高橋のコントロール・ボレーを相手がネットに引っ掛け21−19。勝った! 究極の5連続ポイント。高橋の強打と緩急、松友の閃きと思い切り、二人の絶妙なコンビネーションが花開いた3分間だった。そして、日本バドミントン界が待ちに待った金メダル。翌日の新聞には「タカマツの5点」という見出しが躍った。

 錦織、水谷、石川、タカマツ。彼らのリオ五輪には、土壇場での「5連続ポイント」があった。相手も時間も場所も違う彼らのゲームの中に、共通する5ポイントがあった。錦織の歴史を呼び起こした5ポイント。水谷の王者の一角を崩した5ポイント。石川のチームを救った5ポイント。タカマツの栄光に連なる5ポイント。すべては、1点もやれない絶体絶命の場面で出現した。そこには、自分を信じる決してあきらめない気持ちがあった。偶然の一致と言えばそれまでだが、ここまで揃うと何かを感じずにはいられない。何らかの符合。それはもしや、オリンピックの神様が、こういう場面のためにたゆまぬ精進を積み重ねてきたアスリートたちに贈った、奇跡のプレゼントだったのではないだろうか。
 2016.08.25 (木)   リオ五輪を歴史で斬る 1 〜吉田と伊調そして内村とベルニャエフ
 8月22日、17日間にわたって繰り広げられたリオ五輪が閉幕した。今回は第31回で近代五輪開始から120年。ところが古代オリンピックはなんと1200年の歴史があるそうだ。これは凄い。あの戦乱の世の中で4年に一度のオリンピックが継続していた! 理念は平和。ポリス間の戦闘を休戦するための措置でもあった。平和の概念は近代五輪の基本理念として脈々と引き継がれている。

 日本が獲得したメダル41個は史上最多。ゴルフ復活は112年ぶり。等々、今回も“史上初”“何年ぶり”のフレーズが数多飛び交った。やはりオリンピックは歴史。この視点でリオ五輪を回顧しておこう。

(1) 吉田と伊調の明暗

 女子レスリング58k級伊調馨の4連覇は女子初の快挙。同じく4連覇を狙った吉田沙保里は銀。明暗を分けた。120年の歴史の中、同時に二人のレジェンド誕生をオリンピックの神様は許さなかったのかもしれない。では、二人の差は何だったのか? 部外者が迂闊なことは言えないが、敢えて邪推させていただければ、レスリングのスタイルと背負う重さの差ではなかったか?
 伊調の決勝戦は最後4秒での逆転勝利だった。これまで、ほぼ危なげなく勝ってきた大舞台の勝負で、この僅差。力の衰えがあったことは否めない。それでもギリギリのところで凌げたのは、守りから作り上げた安定感ある彼女のレスリング・スタイル、即ち、“負けないスタイル”によるものだったと思う。
 吉田のスタイルは、亡父から手ほどきを受けたタックル重視の攻撃型。スピードとキレを身上とする。33歳、さすがの吉田もこの2要素が劣化していた。そして、これは想像でしかないのだが、彼女の体はもはやボロボロだったのではないか?また、競技だけに集中でき得なかった超スター選手としての宿命もあった。これまで、吉田の五輪での戦いぶりは、圧倒的攻撃力によって相手の戦意を喪失させる、というスタイル。相手を飲み込むオーラが体中から発散していた。ところが、今回はそれがなかった。体力の衰えと体調不良!? 実戦を踏まずに、ぶっつけ本番で臨んだのはその証拠ではなかったか。加えて並大抵でないプレッシャーがあった。勝って当然視されるコンスタントな重圧。亡き父のためにどうしても負けられないという新たな重圧。断ることもできたはずの選手団主将を敢えて引き受けてしまった責任感。前日の試合で妹分二人が金を獲ったことの逆圧。大がかりな4連覇達成宣言壮行会をやった負担感。などなど、数々の重荷と絶対王者として「勝たねばならない」というプレッシャーに、さしもの最強女王も押しつぶされてしまった!?
 既に金3つを持つ彼女にとって、銀メダルは意味がないかもしれない。でも、恥じることはない。あなたがいなかったら、今大会6階級で金メダル4個という大きな収穫はなかった。ここまで女子レスリングを牽引してきた功績は決して色褪せるものではない。

 オリンピック連覇の記録は男子も4。過去3人しかいない。円盤投げのアル・オーター(1956メルボルン−1968メキシコ)、走り幅跳びのカール・ルイス(1984ロサンゼルス−1996アトランタ)、そして、今大会で達成した水泳200m個人メドレーのマイケル・フェルプスである。フェルプスはこれに加えて400mメドレーリレーでも米国チームの一員として4連覇を達成。獲得した金メダル総数23。次位がカール・ルイス、ヌルミらの9個だからこの数はとてつもない。今後まず破られることはないだろう。それに引き換え、かつてのライバルにして僚友ライアン・ロクテの狂言逮捕は情けなさの限り。

(2) 内村とベルニャエフの絆

 体操男子のエース内村航平が見せたパフォーマンスは見事の一語に尽きる。2012ロンドン大会で中国の後塵を拝したその日から、「団体で金」を合言葉に、キャプテンとしてチームを引っ張ってきた。ロンドンのメンバー一人一人が成長を遂げ、床と跳馬のスペシャリスト白井健三を加えた史上最強チームとして臨んだ。予選の不振はロンドンの二の舞か?と危惧されたが、決勝では各人が持ち味を十分に出し切った。山室光史はあん馬で落下するも得意のつり輪で挽回、田中佑典は予選の不振から見事に立ち直りチームに勢いをつけた。
 白井健三は跳馬と床で圧巻の演技を披露、加藤凌平は安定度抜群の演技で貢献、そして、内村航平はただ一人6種目フル出場しエースの重責を果たした。結果2位ロシアに2.641の差をつけて金メダルを獲得。団体の金は2004アテネ以来3大会ぶりだった。

 内村航平の個人総合は、団体以上に固いと思われた。ロンドン大会では、最後の二種目を残してほぼ安全圏。鉄棒では離れ技コールマンを回避し逃げ切りを図る楽勝の展開。結果2位に2.659の大差をつける圧勝だったから。
 ところが今回はとんでもない選手が現れた。オレグ・ベルニャエフ22歳。これまではプレッシャーに弱く肝心なところで必ず崩れていたこのウクライナの新鋭が、別人の演技を継続、3ローテーション以降終始内村をリードする。「こんなはずでは?」内村初体験の展開となった。最終ローテーションの鉄棒を残してその差は0.91と広がっていた。鉄棒のDスコアは内村7.Iでベルニャエフ6.5。その差+0.6。内村が完ぺきな演技をしても、ベルニャエフにミスがなければ負ける。専門家はほぼ逆転不可能の大差と考えていたようだ。
 先に演技したのはリードされている内村。得意とする鉄棒だが、リオへ来てからというもの、団体予選で落下、決勝では連続技の流れが止まり−0.6の大ミスを犯すなど、どうも思わしくない。団体戦予選・決勝の12演技+個人総合5演技を経ての18回目の演技は恐らく全選手中最多。疲労は極限に達していた。そんな不安を抱えていたはずの内村だが、「点差は敢えて計算しない。勝ち負けよりもベストの演技をすることだけに集中しよう」と決めた。「こんなはずではない」から「ベストを尽くせばいい」への転換。平常心が蘇っていた。結果、ノーミス&完璧着地。15.800。まさにパーフェクトなパフォーマンスだった。なんたる技量!なんたる精神力!!内村航平は土壇場で奇跡としか言いようのない演技を成し遂げたのである。
 最終演技者ベルニャエフは、E難度2つあとはD難度以下という、内村と比べてかなり平易なプログラムを無難にこなす。そして着地。一歩前に踏み出し体がぐらついた。14.800。0.099差の大逆転。内村の個人総合2連覇が決まった。1点差以内での勝利は2009年世界選手権で王者となって以来初の出来事。未曾有の激闘だったことを物語る。体操競技史上に残る名勝負だった。

 戦い終えた内村は「個人総合で今回ほど負けるんじゃないか、と思った試合はなかった。(鉄棒では)これで負けても悔いはないという演技ができた。もう何も出ないくらい出し切った。自分の限界が見えた気がする。次に(ベルニャエフと)やったら勝てないかもしれない」と述懐した。世界大会8連覇中の絶対王者にしてこの台詞。精根尽き果てた死闘だったことが覗える。そして、そこには自己を知り相手を認める成長した内村がいた。
 試合後の記者会見で、内村に穿った質問が飛んだ。「大差を逆転できたのは、あなたが審判に好かれているからではないか?」。「それはありえない。審判は公平だ」と言う内村の傍らからベルニャエフが斬り込んだ。「スコアは神聖でフェアなもの。内村はキャリアの中で常に高い点を出してきている。それは無駄な質問だ」と質問者をバッサリ。さらに「私は世界一クールな彼のあとを追いかけてきた。彼と一緒の舞台に立てるのは素晴らしい経験なのだ」と王者へのリスペクトを表明。実に爽やかだった。二人は固い絆で結ばれていた。

 内村の個人総合2連覇は、1972年ミュンヘン加藤沢男(1946−)以来44年ぶりの快挙である。この加藤という選手はとてつもない。出場した1968メキシコ、1972ミュンヘン、1976モントリオールの3大会で、獲得した金メダルは団体総合の3個を含め8個。これは日本人個人獲得金メダル数の記録である。

 日本の体操男子団体は1960ローマ、1964東京でも金。従って1960−1976オリンピック5連覇を果たしている。お家芸といわれた由縁である。
 同一国連覇の記録はしかし、上には上があるもので、男子400mリレーのアメリカ・チームは8連覇(1920アントワープ−1956メルボルン)。男子棒高跳びのやはりアメリカがなんと16連覇している(1896アテネ−1968メキシコ)。

 日本チーム最年少の白井健三は「内村さんの後継者になりたい」と語った。そのためには6種目高平均の力をつけることだ。内村のように。彼がオールラウンドの実力を身に着け、 団体戦で内村の出番が3種目までに絞れたら、体操ニッポンの未来は明るい。2020東京五輪を大いに期待したいものである。

 吉田沙保里、伊調馨、内村航平。この日本が生んだ類まれなアスリートたちは、それぞれの形でオリンピックを締めくくった。そのパフォーマンスは感動以外の何物でもなかったが、一方で、勝つことを宿命づけられた人間の過酷さを我々に改めて教えてくれた。
 2016.08.10 (水)   スコッチ・ウイスキーにまつわるエトセトラ
 東京都知事選は小池百合子候補が圧勝した。石原慎太郎が息子援護にやってきて逆噴射「厚化粧」と揶揄すると、翌日柴又で「薄化粧で来ました。女はつらいよ」と言ってのける。スタートで「議会を解散します」と発破をかけて、緩急自在、「ゆりこグリーン」の輪を広げてゆく。「三つのよし」の売国奴(これ石原氏のセリフ)や「都政の停滞に終止符」しか言えないお役人風候補では所詮勝負にならなかった。まずはメデタシメデタシ。小池さん、「組織委員会は東京都の下請けじゃない」などとアホなこと言う(下請け以外の何物でもないでしょうに)森喜朗会長や、みっともないくらい大人げない自民党都議連を相手に大変でしょうが、頑張ってくださいな!

 リオ五輪。今日8月9日で、日本の金は、萩野公介(水泳男子400m個人メドレー)、大野将平(柔道男子73キロ級)、体操男子団体の3つを数えた。これらは勝って当然視されていたものだけにプレッシャーも大変だったと思う。よくヤッテクレマシタ!!私の予想は大会通算金11。とはいえ、あとは吉田沙保里が獲ってくれたらそれでいい。

 「クラ未知」はウイスキー話第2弾といきましょう。毎週の楽しみドラマ「レモン・ハート」の1篇に、「黒と白」とかいうタイトルの、“違う個性のウイスキーが、実は同じ敷地内にある蒸留所のモノだった”というテーマの話があった。黒は「バルヴェニー」。白は「グレンフィディック」。
 グレンフィディック・シングルモルトは、1887年12月25日、スコットランドのウイリアム・グラントがスペイサイド地方のダフタウンに創設したグレンフィディック蒸留所で産み出された。フルーティーで飲みやすく春の香りがすると形容される。

 バルヴェニー・シングルモルトは1892年、グラントが同じ敷地内に開設した第2号蒸留所の製品。兄貴分グレンフィディックとは対照的に、シンが強く主張する個性が感じられる。グレンフィディックの春に対し秋の味とも。
 私が関心を持ったのは、同一敷地内同一原料同じ水から全く違う個性が生み出される、スコッチ・ウイスキーの奥深さであるが、それ以上に面白かったのは創業年の符合である。

<1887年はディスク元年>

 トーマス・エジソン(1847−1931)が、錫箔円筒型フォノグラフを発明したのが1877年。円筒形の錫箔に音波を刻む方式で、初の録音は自身の声での「メリーさんの羊」。さらに、後年ブラームスがピアノを録音している。ただ、フォノグラフは、量産が利かず、広く普及するには至らなかった。
 これを抜本的に改良したのがハノーヴァー出身の技師エミール・ベルリナー(1851−1929)である。ベルリナーは、垂直回転円筒形のフォノグラフを、180度転換、水平回転円盤方式によるグラモフォンを完成、実用化に成功。初録音は自身の朗読による「キラキラ星」。見事、フォノグラフにとって代わった。このスタイルこそ現在まで続くディスク方式の原型。知名度はエジソンに遙かに劣るベルリナーだが、オーディオの発展には同等いやそれ以上の貢献をしている。

 話がやや横道にそれるが、8月4日の朝日新聞に、福岡伸一氏が、連載「動的平衡」の中で、興味深いことを書いている。ルネサンス3大発明の一つ活版印刷術はグーテンベルク(1398?−1468)の発明で、これは周知の事実だが、イタリア人アルド・マヌーツィオ(1450?−1515)の存在を忘れてはならないと。彼こそは、グーテンベルクの印刷方式を小型化し、ページ数を入れ、各種フォント(活字方式)を開発し、レイアウトを整えた。これにより書籍は小型化し持ち運びが可能となった。現代に繋がる本の原型が作られたのである。まさに、ベルリナーのグラモフォンではないか。我々は、グーテンベルクやエジソンの名前は知っているが、マヌーツィオやベルリナーにはやや疎い。歴史を知ることは重要である。

 ベルリナーがグラモフォンを完成したのは1887年。グレンフィディック・シングルモルト誕生と同じ年である。その後、1895年、フィラデルフィアにベルリナー・グラモフォン社を設立。1897年には、部下のバリー・オーウェンとフレッド・ガイスバーグをロンドンに派遣し、英国グラモフォン社を設立。ガイスバーグはイタリア、ロシアなどヨーロッパを駆け巡り、カルーソーなど名歌手のレコーディングを次々に行った。これが名演の宝庫赤盤の起源である。
 フィラデルフィアのベルリナー・グラモフォン社は後にRCAビクターになる。英グラモフォン社は後のEMI。ベルリナーが、1898年、故郷ハノーヴァーに設立した英グラモフォン社の子会社は後のドイツ・グラモフォン。現行の世界メジャー・レーベルのかなりの部分はベルリナーを端緒とするのである。

<1892年はわが祖父誕生の年>

 私の母方の祖父は岡村助太郎という。バルヴェニー蒸留所ができた1892年(明治25年)に生まれ、1990年(平成2年)98歳で没した。明治〜大正〜昭和〜平成と4代を生き抜いた。私が生まれたときは53歳だったから45年間お付き合いしたことになる。我が愛孫Ray&Youとは、これから20数年が精一杯だろうから、これは長い。

 長いだけに、思い出は多々ある。はたまた奇行(?)も多い。ランダムに記しておこう。小学生のころ、よくスキーに連れて行ってもらった。ゲレンデの食堂では持参したおにぎりにスキー汁(豚汁)が定番。「お子さんですか?」と訊かれると俄然機嫌がよくなり、帰ってお祖母さんに嬉しそうに吹聴していた。映画にもよくお供した。専ら東映の時代劇で、「笛吹童子」「紅孔雀」等に胸躍らせたものだった。歩いていて、ふと見たら、浴衣に革靴を履いていたことも度々。ある日、顔が赤く腫れあがってきたので、調べたら、毎日ヘアクリームを顔に塗っていたことが判った。屋根に登って雪落としをしていたら、滑って庭に落ち、石燈籠の隣に着地した。ズレたら大怪我は免れなかったところだが、発した台詞は「頭のいい奴は落ち処が違う」だった。釜揚げうどんが大好物で、食べるたび「こんなうまいものはない」が口癖だった。私は子供心に大いに違和感を覚えたものだ。お祖母さんが隣の家で油を売っていると、その家に向かって仏壇の鐘を「チーン」と目一杯打ち鳴らすのが常だった。毎日二時間の昼寝が日課で、その間は誰が来ても起きなかった。晩酌は一回にキッチリ日本酒熱燗1合。それ以下も以上もなかった。困っている人には気前よく金を貸してやったがほとんど返ってこなかったらしい。一回詐欺に遭遇、当時の金で30万円(今の500万円?)をだまし取られた。野球が大好きで、年に一度市営球場でやる巨人VS国鉄戦を何度か一緒した。生の川上哲治、与那嶺要を見られたのもお祖父さんのおかげである。相撲も好きで、おかしな決まり手に笑い転げていた。好きな歌手は市丸と奈良光枝、歌より顔を優先した。国鉄長野支部のドンと呼ばれた。好んだ銘は「克己心」だった。

 最大の思い出は1964年、私の大学入試の時。私立2つと国立1つにエントリーするも、私立はあえなく不合格。後がなくなった国立の1次試験に通ったら、祖父さん、舞い上がり、受験大学の先輩・地元の大物代議士小坂善太郎氏のところにスっ飛んで行ってしまった。オイオイじいちゃん、いくら小坂さんでも口利きは無理だよ。でも、そんなお祖父さんの愛情がうれしかった。無論、合格したときは大いに喜んでくれました。

 数多作った和歌の中での最高傑作(?)は、現天皇陛下誕生の時に詠んだ歌

    日の御子の 生まれを知らす サイレンの 音に合わせて でかい屁をひる
                                        1933年12月23日

 このときお生まれになった昭仁現天皇陛下は、2016年8月8日、「生前退位」に纏わるお気持ちを表明された。時代は巡る。感無量である。

<参考資料>

「レコードの世界史」岡俊雄著(音楽之友社)
「音でたどるオーディオの世紀」(社団法人 日本オーディオ協会50周年記念)
 2016.07.25 (月)   閑話窮題〜都知事選、鳥越候補のトはトンチンカンのト
 都知事選は、7月31日の投票日に向けて、史上最多21名の候補者による熾烈な選挙戦の真最中。このうち18名は泡沫だから実質は3名。届け出順に、元防衛大臣・小池百合子(64歳)、元総務大臣&岩手県知事・増田寛也(64歳)、ジャーナリスト・鳥越俊太郎(76歳)。  注目は、究極の後出し野党統一候補・鳥越俊太郎サン。スローガンが「ガン検診100%」。オットドッコイ鳥越サン。どうなっちゃったのよ。そう、この人昔からトンチンカン居士なのです。

 2015年、NHK-TV放映の「ニッポンの平和を考える〜集団的自衛権行使容認は?」と題する討論会で、鳥越サン、「どうやって国を守るのですか?」と問われ、「どこの国が攻めてくるというのですか。そんなもの虚構/妄想ですよ」ときた。完全なる平和ボケ楽天老人。周りは穏やかに話しているのに一人興奮してわめき立てる。座が白けて議論が進まなくなってしまった。鳥越サン、確か今回の街頭演説で、「私の美点は聞く耳を持っていることです」なんかおっしゃっていましたが、私にはとてもそうとは思えない。

 数年前、「死出の音楽を探す」みたいなTVドキュメンタリー番組がありまして。死出の音楽、即ち自分のお葬式に流す音楽ですね、これを鳥越サンが世界各地を訪ね歩いて自分の死出の音楽を探し出す、という内容。こういう音楽は探し出すものじゃなくて、人生の中で決まってくるものだから、企画自体がトンチンカンではあるのですが、出てる方は輪をかけてトンチンカンでした。どう展開するか見ていたら、鳥越サン、あちこち回りながら、行く先々で「私、今回、自分の葬式で流す音楽を探す旅をしているのです。なにかいい曲ありませんか」と聞きまくる。ニューオリンズのジャズ・ピアニストなんか、ビックリして目が点になっていました。オイオイ、そんなもの、自分で決めろよってね。これが貴方のおっしゃる「聞く耳」ですかい。

 鳥越サン、参院選の結果に危機感を感じて、都知事選に出る決意をしたとか。なんで都知事選なの? ならば国政でしょうに。あえなく惨敗した「日本怒りの声」の小林節氏の方が、まだスジだけは通ってる。ここでもまさにトンチンカン。

 小池さんに「この人なら勝てそうだからといって、政策も何もない病み上がりの人を担ぎ出せばいいというものではない」と揶揄されて、「ガン患者に対する差別だ」とキレてました。小池さん、「病み上がり」はチトまずかったけど、「政策ない」は当たってる。それが証拠に当のご本人、これには言及しなかった。本当はこっちをすべきなのに。まあ、自ら認めているということでしょう。

 お年寄りの聖地・巣鴨にて。「みなさん、私の友人が応援に駆けつけてくれました」と森進一を紹介。森が喋り終わると、ハイさようなら。いくらなんでもこれはない。じいさんばあさんも「もうちょっとなんか一言喋ってほしかった」とガックリ。お年寄りを前に、老人医療や介護問題など、持論を話すのが候補者の使命でしょうに。そうか、持論がないのか。
 最大の争点の一つ「待機児童問題」についても、最も具体性がないのが鳥越サン。増田氏は「1か月以内に解消プログラムを作る。区長と詰める」、小池さんは「保育と高齢者をハイブリッドした施設を作る。空き家を利用する。規制を緩和する」など、具体性もアイディアもある。鳥越サンだけ「ちゃんと施設を作る。保育士の給与を改善する」と、フツーのお母さん止まりの観念論。

 回ってきた「選挙公報」を見ると、小池さんの欄には、「テロ等セキュリティ対策を本格化」とある。増田氏は、HPで、オリンピック対策として「テロとサイバー攻撃への万全の備え」を掲げている。が、鳥越さんのマニュフェストにはテロのテの字もない。セキュリティのセの字もない。そりゃそうでしょう。「中国、北朝鮮の攻撃は妄想」と平気でおっしゃる人だから、日本でテロなど起こり得ない、と本気で考えているのでしょう。
 ニースでの新手のテロ、ダッカのレストラン人質テロ、トルコの空港自爆テロ、ミュンヘンのショッピング・モール銃乱射などなど、テロは新たな段階に入り、かつては安全だった日本、日本人もターゲットと化した。この情勢を、鳥越サン、なんと心得る? 東京都の安全対策をどうする? この能天気な楽天家が警視庁と連動してやっていけるのかしら。ご当人、自己アピールをと促され、「自分は終戦の翌年に小学校に入学した。戦後の日本をつぶさに見てきた。だから、歴史を見る目があるんです」、なんか言ってましたが、どうでしょう。「歴史を見る目」って、いつを生きたかの問題ではなく、どう生きたかの問題でしょう。もし見る目があるのなら、おのずとセキュリティ対策には目がゆくはずですが。
 で、「終戦翌年小学校入学」と言った舌の根も乾かないうちに、「私、終戦の時20歳でして」とおっしゃる。ボケも入ってきた!?

 街頭演説で、「鳥越はなんだ、国政ばかり言って、都政のこと言わないじゃないかと。でもね、私もバカじゃないから勉強しますよ。それなりにね」だってさ。大学入試じゃないんだから、これから勉強しますじゃ困るんですよ。さらに問題は、“それなりに”という修飾語をあっけらかんと使っちゃうこと。私が信用できないのはこの能天気感。“それなりに”勉強して東京都知事が務まると思ってるんですか? あなた、有権者をバカにし過ぎじゃないですか? マニュフェストには「都民の不安を解消します」とありますが、あなたが都知事であることが一番の不安なんですよ。

 文春の女性スキャンダル問題については、「事実無根」を連呼するだけ。「女性を知っているのか」等の記者団の質問には、「弁護士に一任している」の一点張り。自分の口で語ろうとしない。常日頃から「政治家は説明責任を果たすべし」と主張しているジャーナリストがこの有様。
 「何か大きな力が働いている」とも。中野駅前で報道陣から、「それは政治的な力ということか」と問われ、「そ、そ、それはただの感想です。事実を確認したわけではないから、控えます」とトーン・ダウン。「大きな力が働いたと思われた理由は」と訊かれると、「理由はありません。僕の勘です。私はジャーナリストになって51年間、直感を大切に仕事をしてきましたから」だってさ。都政も直感でやられちゃたまらない。

 こういう人間を知名度だけで担ぎ出す野党も野党だ。特に民進党都連代表・松原仁が演じたドタバタ劇は見ちゃおれんかった。「小池百合子もありうる」と言った後、石田純一に色気を示したと思ったら、古賀茂明氏と固い握手。その翌日には、党代表の言うこと聞いて鳥越擁立。何だこりゃ! この節操のなさ。バカ丸出し。

 都民の皆さん、聞く耳持たずすぐキレる、危機意識皆無の平和ボケリベラリスト・鳥越サンだけはやめましょう。
 選挙戦が進むほどに、彼の中身のなさは自ずと露呈されてくるはずですが、怖いのは見る目のないおばさんたち。この手に弱いんですよね。ステキーとか言っちゃってね。故筑紫哲也、五木寛之などが同類項。ロマンス・グレーで一見インテリ風。なぜかみんな九州出身。これは関係ないか。たのむよおばさん、しっかりと目を見開いてくださいな。

 選挙もソロソロ後半戦。これまでの動きを見ても、鳥越サンは一日2〜3ケ所がせいぜい。しかも演説は女性議員と森進一に任せきり。本人極少。小池さんと増田氏は10ケ所前後と精力的。鳥越サンには熱意も誠意も見られない。都民に主張を分かってもらいたいという熱意も、できるだけたくさんの都民と触れ合おうという誠意も感じられない。これ、化けの皮が剥がれないための自己防衛策?
 鳥越知事さえ阻止できれば、あとは二人のうちのどちらでも可? ♪肩で風切る王将よりも 俺は持ちたい歩のこころ〜 私は、どちらかといえば、巨大与党の威を借る増田氏よりも、女一匹真実一路の勝負師小池さんを採る。
 2016.07.05 (火)   ブッシュミルズから「ダニー・ボーイ」が聞こえる
 先日、友人と出かけた神保町。食事も済んだ夜8時ころ。「まだ少し早い。一杯いくか」などと話しながら歩いていると、通りの向い側、中二階ほどの所にこじゃれた感じのバーがあった。「ジェイ・ティップル」。よし入ろうということになる。バーにフラっと入ることなど滅多にない私がなぜ? 最近ハマっているドラマ「BARレモン・ハート」の影響なのである。

 「BARレモン・ハート」は古谷三敏のマンガをTVドラマ化したもの。中村梅雀がマスターの、港町にひっそりと佇むバーが舞台。そこに出入りする人々の様々な人間模様が描かれる。1回に2エピソード。話には必ず酒が絡み、「今夜登場したお酒をあらためてご紹介いたします」なるマスターの決め台詞〜酒の解説で締める。主役は人ではなく酒である。

 6月20日放映の主役はアイリッシュ・ウイスキーの「ブッシュミルズ・シングルモルト」。梅雀マスターの締め解説は「1608年、北アイルランドで誕生した世界最古のウイスキー蒸留所・ブッシュミルズ蒸留所で作られるアイリッシュ・ウイスキーです。大麦麦芽のみを使い、3回蒸留させるというアイリッシュ伝統の製法により、まろやかでやさしい口当たりに仕上がっています。どこか懐かしい麦の風味と口中に広がるフルーティーな味わいを是非お楽しみください」だった。また、劇中では「ブッシュミルズ・シングルモルトは、飲まれたお客さんが必ず少年時代のお話をするという、不思議なお酒なんです」との台詞もあった。

 「何になさいますか?」というジェイ・ティップルのミストレスに、思い切って「ブッシュミルズ・シングルモルトをストレートで」と言ってみた。スタッフが女性ばかりのせいか、雰囲気がソフトで心地よい。しばらくたって琥珀色の液体が出てくる。なぜか胸がときめく。ゆっくりと口に含む。「なるほど。これか!」思わず心の中で叫んでいた。実に穏やかで上品な香りと味。なんとなく懐かしさがこみあげてくる。梅雀マスターの台詞に偽りなしだ。と思った瞬間、フーっと頭の中に♪ダニー・ボーイ のメロディーが浮かんできた。

 もしやこれが“ブッシュミルズ→少年時代の思い出”の方程式ってやつなのか?・・・・・ 私にとっての「ダニー・ボーイ」初体験は、ハリー・ベラフォンテ(1927−)のカーネギーホール・ライブ1959で、中学〜高校あたりだったろう。たちまちそのハスキーにして何かを訴えるような歌唱に魅せらて、文字通り盤が擦り切れるほど聴いたものである。
 ライブの後半、「ママ・ルック・ア・ブーブー」から「ダニー・ボーイ」「ク・ク・ル・ク・ク・パローマ」を経てラストの「マティルダ」に至る盛り上がりは、これぞライブ・パフォーマンスの極致と感じた。以後これ以上のものに出会ってはいない。巷ではクライマックスの「マティルダ」にスポットが当たったが、私はしみじみとした「ダニー・ボーイ」が好きだった。一緒に聴いてすっかりベラフォンテ・ファンと化した母と、1974年、中野サンプラザでの来日公演に出かけたのも、懐かしい思い出である。因みに現在、ベラフォンテも6つ年上の我が母も健在。喜ばしい限りだ。

 BS−TBSに「SONG TO SOUL」という番組があって、名曲に纏わる誕生秘話などが語られる。前に録画した「ダニー・ボーイ」編BD-Rを取り出してみた。

 その昔アイルランドにローリー・ダール・オキャハンという領主がいた。17世紀初頭、英国王ジェームズ1世(番組テロップはジョージ1世となっているが誤り)が、アイルランドに乗り込んで、彼の領地を奪ってしまう。ハープ弾きでもあったオキャハンは悲しみの気持ちをハープに乗せて紡いだ。これが「ダニー・ボーイ」の原型といわれている。
 時は流れ、音楽教師ジェーン・ロス(1810−1879)は北アイルランドのデリー県にほど近いリマバディという小さな町の路地裏で、ジミー・マッカリーという盲目の旅芸人の弾くヴァイオリンの調べに心奪われる。感動したジェーンはこれを採譜して、ダブリンのジョージ・ペトリという友人に送る。民謡の採集家でもあったペトリは、これに「ロンドンデリーの歌The Londonderry Air」というタイトルをつけ出版する。1851年のことである。
 半世紀ほど後、アメリカはコロラド州に、マーガレット・ウェザリという女性がいた。彼女はアイルランド移民が弾く「ロンドンデリーの歌」に惹かれ、イギリスに住む兄、フレデリック・ウェザリに楽譜を送る。フレデリックは弁護士だが作詞の心得があった。楽譜を見た彼は「ダニー・ボーイ」という2年ほど前に書いた詞を当てはめてみる。するとドンぴしゃり、見事にハマった。名曲「ダニー・ボーイ」の誕生。1912年のことである。その詞には、「別れ、死、愛、祈り」など、人が人を思う真情が、熱く息づいている。「ダニー・ボーイ」は、やがて始まる第1次世界大戦の中、戦場に出向く兵士への思いを重ねながら、広く静かに浸透していくのである。

 1912年といえば、かのタイタニック号沈没事故の年。このとき、ニューヨークにいたデイビッド・サーノフという一介の無線技士が、偶然タイタニック号から打電された無線信号を捉えた。即、一大事と悟った彼は三日三晩、不眠不休でタイタニック号からの無線を受信し救助のキイを叩き続けた。彼の献身的な行為は800人の命を救ったといわれている。事件後、無線の重要性を知ったアメリカはRCAを設立。サーノフは経営陣に名を連ねのちに社長にまで上りつめる。ハリー・ベラフォンテはRCAレーベルのアーティスト。彼の「ダニー・ボーイ」には1912年という接点があったのである。

 さて、今度は「ブッシュミルズ」である。社史を紐解いてみる。北アイルランド・アントリウム州ブッシュミルズの領主トーマス・フィリップス卿は、1608年、時の英国王、ジェームズ1世から蒸溜免許を与えられた。それが「ブッシュミルズ蒸留所Bushmills Distillery」の起源である。
 ジェームズ1世は、1608年、右手でブッシュミルズに蒸留免許を渡し、左手でオキャハンの領地を奪い取った。その結果、アイリッシュ・ウイスキーの名品とアイルランドの名歌「ダニー・ボーイ」が誕生したのである。
 「ダニー・ボーイ」に一体どれだけのヴァージョンがあるかは見当がつかないが、今回これを機会に手持ちのCDを引っ張り出し、購入もし、You-Tubeで検索したりもして、できる限り聞いてみた。ハリー・ベラフォンテ(ライブV、スタジオ録音、台詞入りV)、エルヴィス・プレスリー(「メンフィスより愛をこめて」より)、ビング・クロスビー、アンディ・ウィリアムス、ディアナ・ダービン、マハリア・ジャクソン、キングス・シンガーズ、ケルティック・ウーマン、美空ひばり(水島哲 訳詞)、フリッツ・クライスラー(Vnソロ)、ジェームズ・ゴールウェイ(フルート・ソロ)、グレン・ミラー、ビル・エヴァンス、キース・ジャレット、シル・オースティン、サム・テイラーetc。
 「ダニー・ボーイ」我がリファレンスはハリー・ベラフォンテのライブVだが、今回聴いた中で特筆すべきはプレスリーとクライスラーだった。エルヴィス・プレスリー(1937−1977)のは1974年録音。亡くなる数年前ということを考えると、彼の歌う一節一節が胸に沁みる。フリッツ・クライスラー(1875−1962)は、1コーラスごとにオクターブ上げ、最後の二小節を始めのキイで回顧する。シンプルな曲にはシンプルな技法で対応しちゃんと聴かせる。まさに名人芸である。
 「BARレモン・ハート」でウイスキーにハマって、ホーム・バーのためのマイ・ボトルを漁り始めた。手始めに「ブッシュミルズ シングルモルト10年」を購入。ショット・グラスも、デパート4軒をはしごして、気に入ったものを買ってきた。このあとは、番組で知った「グレンフィディック12年」と「マッカラン12年ファインオーク」あたりを試してみよう。バックに、その日の気分に合った「ダニー・ボーイ」などを流しながら。
 2016.06.19 (日)   閑話窮題〜「マスゾエはフォークだ」内田裕也
 マスゾエ問題は6月15日、辞職をもって一応の決着を見ました。クラ未知的には正面切って取り上げるほどのものではないので、思い出すまま、印象に残ったフレーズをランダムに箇条書きして終わりにしましょう。あとは気の向くまま、雑感を。

 「マスゾエはロックじゃない。フォークだ。Rock’n Roll!」(内田裕也)
 「精査します」
 「第三者の厳しい目」
 「中国服は滑りがよく書きやすいという説明は具体的で説得力がある。違法性はなく適切だ」「関係者とは関係者。あなたは、事実認定ということをご存知ないのか」(マムシの善三)
 「政治の機微に関わる問題なのでお話しできない」
 「リオ五輪を前にしたこの時期、選挙をしたら東京は混乱し笑いものになる。私は知事として東京都の名誉を守りたい」
 「打ち首より切腹。引き際は尊敬すべきだ」(自民党都議幹部)
 「自民党が一番苦しい時に出て行った人を推薦することに大義はない。私は応援しない」(小泉進次郎、2014年都知事選においてのコメント)

 中でももっとも滑稽だったのは、東京が笑いものになっている、その張本人が自分であるくせに、イケシャーシャーと「東京の名誉を守りたい」と言ったことかな。唯一マスゾエの功績は、「政治資金規正法」が天下のザル法であることを世間に知らしめたこと。マスゾエ問題は氷山の一角。政治家は多かれ少なかれ同じようなことをやっているはず、ということを教えてくれた。性善説前提の法律は無意味。早急に改定すべきである。

 東京都民にアンケートを取ったら、次期都知事に望む資質の第1位は87%で「お金にクリーン」だったそうな。この短絡観。金にクリーンならだれでもいいのですか? これじゃ東京の将来は心配だ。首長に望むことは「1にヴィジョン、2に実行力、3にリーダーシップ」じゃないのかなあ。マスゾエにはこれらすべてが欠落していて、もっぱら公私混同・私腹を肥やしていた、ということですね。

 ポスト・マスゾエ、私の希望は(夢と承知で)小泉進次郎。彼の毅然たる正論と一貫性は傑出している。都知事じゃ勿体ないという意見も解るけど、アメリカ大統領には州知事経験者が少なからずいるわけで、日本だっていいじゃないか。彼は今、TPPの抵抗勢力・農協と懸命に戦っている。仕事熱心な若武者。都知事をやって実務を学んで総理大臣。新しい王道。いいんじゃないかなあ。頑張れ進次郎!

 先日K氏からいただいた放送録音CD「大瀧詠一のひばり島珍道中」(NHK-FM1989年12月O.A.)は楽しめました。日本の流行歌史をすべて知り尽くした大瀧さんのウンチクには本当にシビレましたね。「悲しい酒」のオリジナルである北見沢惇の歌唱が聞けたのが最大の収穫。ひばりのリメイク版とは全くの別物。淡白な紋切り型。ひばり版を先に聞いている我々には、なんとも物足りない歌唱。古賀政男は当代版「酒は涙か溜息か」を作りたかったのでしょう。
 付録として面白かったのは断然村田英雄の「太陽に祈ろう」(作詞:赤城慧 作曲:山本丈晴1968)。♪燃える太陽は男の生命 故郷の山や川 母ひとりただ一人 俺の帰りを待っている 太陽に祈ろう母の幸せを・・・・・村田先生、母への想いをGSサウンドに乗せて颯爽とこぶしを利かせる。演歌のGS版は美空ひばり「真赤な太陽」しか知らなかった私にとって実に新鮮でした。
 1980年代初頭、私が前川清さんのソロ・シングル「雪列車」のプロモーションをしていた時のこと。作詞が糸井重里、作曲が坂本龍一だったものだから、村田先生に「そういう公私混同は許さん」と怒られたことがありました。演歌は演歌の村の中でやるべし、ということなんでしょう。でも、なんのことはない、先生はそのふた昔も前にGSやってたんですね。まっ、いいか! とにかく、村田英雄の「太陽に祈ろう」はブッチギリの傑作なのです。

 先日「私が嫉妬する人物」なるTV番組を見ました。その中で、さだまさしが「それは中島みゆき」と告白。あのさだが「到底戦えない。別の宇宙を見る気がする」と発言すると、ゲストの賑やかし芸人たちがビックリすることしきり。曲は確か「時代」と「悪女」をあげてましたね。「彼女の女性としての視点・物の捉え方・考え方、これは男が生半に想像して書けるものではない」なるいい方をしていましたが、チョット違うかも。女性特有としたのは彼の意地? 「悪女」はいいとして、「時代」は、女性という枠に入るわけもないスケール感。男女の差ではなく格の違い。さだの歌は教訓、みゆきさんは哲学、と私は勝手に考えている。まあ、同業者として認めたくない気持ちは分かりますが。

 音楽評論家の田家秀樹が著書「ラヴ・ソングス〜ユ−ミンとみゆきの愛のかたち」(角川文庫)の中で、こんなことを書いている。
中島みゆきの「時代」を聞いたとき、これは男の歌なのではないだろうか、と思った。「時代」というタイトルといい、女性のシンガー・ソングライターの曲としては“社会派”だったからだ。60年代から70年代にかけて、男のシンガー・ソングライターたちは、一様に“時代”を歌った。岡林信康にしても吉田拓郎にしても、時代に対して、どう立ち向かえるかがテーマだったといっていい。女のシンガー・ソングライターが時代を歌う時代が来た。
 男が歌う「時代」は戦う相手である。岡林の「友よ」が一つの象徴。♪友よ 夜明け前の闇の中で 友よ 戦いの炎を燃やせ・・・・・。ボブ・ディランの「時代は変わるTimes They Are a-Changin’」の「時代」も基本的には同じ。メッセージ・ソングである。だから、男のシンガー・ソングライターが歌う「時代」への田家氏の考察は正しい。だが、中島みゆきの「時代」に対する彼の考察は間違っている。“社会派”ですか。浅いなあ。 みゆきさんが歌う「時代」は流れゆく「時」だ。芭蕉の「月日は百代の過客にして 行き交う年もまた旅人なり」の月日&年。時代の意味が本質的に違うのです。それが証拠には、ディランの「時代」が“変わる”に対して、みゆきさんのそれは“回る”と“巡る”。みゆきさんの「時代」は特定の時代を対象としていない。だから彼女の「時代」は普遍なのです。さらに言えば、男のシンガー・ソングライターは時代を敵視する。中島みゆきは時代と同化する。中島みゆきは男が歌う時代という概念を別の視点で捉えた。だから中島みゆきは凄いのです。

 私は落ち込むといつもみゆきさんの「時代」を聞く。
そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ
あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ
だから 今日は くよくよしないで 今日の風に 吹かれましょう
 「時代」には3つのヴァージョンがある。1975シングルVはオケ伴、1976アルバム「私の声が聞こえますか」Vはシンプルなギター伴、1993アルバム「時代〜Time goes around」Vは厚いオケ版。その時の気分に合わせて聞く。一番よく聞くのはシングルVかな。余談だが、1993Vは1975年ヤマハ世界歌謡祭で中島を呼び出す故坂本九のナレーションが聞かれる。「エントリー・ナンバー30。日本。作詞作曲中島みゆき。曲『時代』。唄中島みゆき」。

 みゆきさん、今年の年末〜年始は「夜会〜橋の下のアルカディア」の再演だとか。我がみゆき音楽の師匠Nちゃんからそう連絡があった。年中行事、今から楽しみである。
 2016.05.30 (月)   葉加瀬太郎 “再度”違いだらけの音楽講座
 「林先生が驚く初耳学!」というTV番組があります。人気予備校講師・林修が様々な問いに「知ってる」か「初耳」かを答えるというもの。こんなもん、ヤラセに決まってるのですが、今回見てしまったのは、“11億円のストラディバリウスが登場する”との予告があったから。ではその問題です。

[問題]
ヴァイオリンの名器ストラディバリウスの材料になる木(スプルースとメイプル)は新月の夜に切り出したものを使う。なぜか?

[解答]
新月に切り出した木は水分とでんぷんの含有量が少ないから、乾いていて腐りにくい。乾いていると響きがいいから。

 この解答で林先生は「お見事!」といわれていましたが、説明不足は否めませんでした。それは、「なぜ新月の夜に切り出した木は乾燥の度合いが高いのか」と「どうせ原木は乾きに乾かすのだから、最初の段階での含有量はさほど関係ないのではないか」という二点。でもまあ、私も説明できませんから、偉そうなことは言えませんが。「新月伐採」という言葉があるように、蓄積された永年の知恵なのでしょう。

 さて、今回の呼び物はヴァイオリンの聴き較べ。ヴァイオリニスト宮本笑里が11億円ストラディバリウスと30万円ヴァイオリンを弾いて、林先生に当てさせるというもの。私も一緒にやってみました。曲目は「タイスの瞑想曲」冒頭の30秒ほど。Aはなんかキンキンと痩せた音。Bはやや潤いのある音。私の解答はB・・・・・見事に外れました。私の耳もたいしたことないなあ!?でもまあ、TVの粗末なスピーカーなら間違えてもしょうがない? ヴァイオリン奏者の技量が悪くて差が出ない? おっと失礼いたしました。
>
 林先生も私と同じBで外れ。さて、売れっ子林先生にはこの他にもレギュラー番組がいくつかありまして、その一つが「今でしょ講座」。5月3日は「葉加瀬太郎先生の音楽って素晴らしい講座」〜「有名曲に隠された意外な真実」でした。林&葉加瀬コンビの「音楽講座」は今度で4回目。1回目は不見。2回目については2014年8月5日の「クラ未知」で取上げていますから、興味のある方はご覧ください。そこでの間違いは10個強。はっきり言っていい加減。実は私、テレ朝には「どうせやるなら正確に」と文書で助言しておきました。
 3回目は少し減りましたが基本変わっておりません。でも、人の非をあげつらうのも大人気ないし時間の無駄、もう書くのはよそうと思っていました。ところが今回・・・・・余りの酷さに私の正義感が黙っていられない!というわけで再度取上げさせていただきます。

<「運命」の演奏の仕方は日本と海外とでは違う?>

 葉加瀬先生は、「ベートーヴェンの名曲 交響曲第5番ハ短調『運命』は、日本と海外では演奏の仕方が異なる。『運命』という呼称は日本だけのものであり、それを意識する日本人指揮者による演奏はいかにもそれらしく深刻な演奏になり、意識のない海外の演奏は軽い響きとなる」とおっしゃいます。

 引き合いに出した日本の映像は、長野県松本深志高校音楽部志音会音楽部オーケストラ。これ現役高校生とOBOGによるアマチュア・オーケストラ。指揮者も無名。この演奏を聴いて、皆さん「ウーン、なるほど運命に苦悩する感じが伝わってくる」だって。アホらしくて聞いちゃおれん! 何も演奏のことをとやかく言ってるんじゃないですよ。日本には33ものプロのオーケストラがあるのだから、一つぐらいは「運命」の映像があるでしょうに。テレビ局なんだからそれくらい用意してくださいな。こういう手抜きがこの番組の安っぽさなんですよ。

 海外の演奏として引き合いに出したのはニコラウス・アーノンクール(1929−2016)の指揮によるもの。この方はピリオド楽器(古楽器)演奏の大家で、芸風は実にユニーク。軽い響きと云うよりブツ切りボキボキ。モダン楽器を聞き慣れた耳にはかなり特殊に聞こえるんです。
 したがって、葉加瀬先生のように『運命』演奏の差異は“日本と海外”の差、というよりは“モダン楽器とピリオド楽器”の差、と言い換えるべきでしょう。

 この二つの演奏を較べて葉加瀬先生曰く、「日本の演奏は苦悩する感じが伝わってくるでしょう。日本での『運命』の演奏方法ってのは実はあるんですよ。こう眉間にしわ寄せて演歌っぽく」。軽薄過ぎて具合悪くなる。

 例に出した冒頭「ダダダダーン」×2 のタイムは日本7.8秒、海外5.7秒。確かに、例に限っては「日本は重々しく海外は軽い」がこのタイム差からも窺える。ではそのほかの海外の演奏はどうなのか?

 帝王カラヤン(1962ベルリン・フィル盤)は6.5秒。名演と定評あるカルロス・クライバー(1974ウィーン・フィル盤)は8.5秒。歴史的名盤といわれるフルトヴェングラー(1947ベルリン・フィル盤)は12秒。殊にフルトヴェングラーなどは、先生の表現を借りれば、“苦悩が果てしなく続く”ような演奏ですよ。
 ことほど左様に指揮者によってマチマチ。指揮者というのは、楽譜を精査し厳正な第三者の耳に耐えられるような演奏を目指すもの。決して、日本はこう海外はこう、などという単純な図式の中に収まるものではないのです。ある特殊な例を引き合いに出して、“それがすべてに共通する事象”とする短絡的論評は葉加瀬先生お得意の巻。悪い癖なんですね。

<「カルメン前奏曲」は運動会で使っちゃいけない>

 葉加瀬先生、お次は運動会の音楽です。「天国と地獄」「クシコス・ポスト」「カルメン前奏曲」を演奏して、こうおっしゃった。「この中で一つ運動会に適さない音楽があります。それは『カルメン前奏曲』。この音楽は殺しの場面の音楽なんですね」
 「殺しの場面の音楽」って、どうなのかなあ? 確かに例の“ジャンジャカジャカジャカ”のメロディーが、第4幕でもチョコっと顔を出すから、100%間違いじゃないけれど、なんてったって「前奏曲」は第1幕の幕開けの音楽です。それよりも、この曲、本当に運動会の定番曲なのかしら? 私の経験では運動会で聞いたことがない。出だしは8ビートで駆けっこにピッタリなのですが、「闘牛士のテーマ」の中間部は4ビート。急に歩くテンポに落ちる。これじゃ、疾走する生徒は止まっちゃうぞ。タイムも全2分30秒のうち、4ビート部分は52秒、全体の1/3もある。適さないと思うどなあ。でもまあ、運動会は駆けっこばかりじゃないからよしとしますか。重箱の隅ばかり突いていては、「文句言うな。なにも法律犯してるわけじゃない」って怒られそうだ。おっと、これどこかで聞いた台詞!?

 またまた細かいことで恐縮ですが二点。まずは「ショパンはピアニストとして最初にスターになった人」なんておしゃいましたが、これ違います。リストです。リストは1811年生まれ。10歳のときには神童としてコンサートは大入りの状況を呈している。ショパンは1810年の生まれ。ショパンが認知されたのはパリに出てきてから。パリに出たのは20歳なので、リストより10年近くあとのことですね。
 もう一つは、先生「『ハンガリー舞曲』はブラームスのデビュー作」と自信を持っておっしゃいましたがこれもアウト。作(編)曲したのは1858年、25歳のとき。3曲あるピアノ・ソナタは20歳の作品。これをシューマンに聴かせたのがキッカケで楽壇デビューを果たしたんです。これ音楽史の常識ですけど。
 ついでに、もう一言。葉加瀬先生の「ハンガリー舞曲」のお話はWikipediaそのまんま。あまりに安易。視聴者をバカにしてますヨ。猛省を促します。

<「ペール・ギュント」の「朝」は灼熱のサハラ砂漠がテーマ>

 最後は極め付き。先生曰く「『ペール・ギュント』の『朝』は灼熱の砂漠がテーマだった」。おっとっと、勘弁してくださいよ。あなた最初の講座で、「グリーグがノルウェーのフィヨルドをイメージして作った。だからこのような清涼感に満ちている」なんておっしゃってましたよね。もう忘れちゃったのかな。このとき私は「あれはモロッコの海岸が舞台」とテレ朝の広報に伝えました。これを読んだかどうか知りませんが、訂正したのはいいけれど、今度は“灼熱の砂漠”ですか! あなたは本当に面白い人ですよ。

 確かにモロッコはサハラ砂漠最西端の国ではありますが、台本にはこうあります。
モロッコの南西海岸。椰子林。日除けをした下に蓆を地面に敷いて饗宴の卓が準備されている。林の奧にハンモックが幾つか釣ってある。沖合に蒸氣ヨット一艘、ノルウェーとアメリカの国旗を翻したのが碇泊している。一艘の小型ボートが濱の上に引上げられている。日沒頃。 ペール・ギュント、立派な中年の紳士になって、洒落た旅行服、金縁の二重眼鏡をチョッキからぶら下げて、卓の端の主人席に立って挨拶をしている。コットン氏、バロン氏、フォンエーベルコップ氏及びトルームペーテル・ストローレ氏食卓に向ってちょうど食事を終った體である。(戯曲「ペール・ギュント」イプセン作 楠山正雄訳)
 ご覧のとおり、場所はモロッコの海岸。椰子の林にハンモック。饗宴の卓。どう見ても灼熱の砂漠じゃない。むしろ映画「カサブランカ」のモロッコに近い。先生曰く「グリークさんは、サハラ砂漠を見たことがないから、あのような爽やかな音楽になった」ってか。それじゃ、グリークさんに怒られまっせ。「砂漠をイメージして、こんな曲書くヤツ、いるわけないだろう。ヤキが回ってんのか、あんたは」ってね。
 では本日はこれまで。葉加瀬先生、頼むからもっと真摯にやってくださいな。講義の前にチョットだけ調べれば済むことなんですから。今後の精進に期待します。サヨナラ サヨナラ サヨナラ。
 2016.05.15 (日)   世の中 ヤキが回ってきたようで!? with Rayちゃん
 Rayちゃん、君も3歳になったんだね。もうJiijiとも普通にお話できるし、食べ物にも好き嫌いがない。トマト、にんじん、ブロッコリー、かぶ、レンコン、納豆、なんでもござれ、苦手なのは胡麻だけかな。弟Youくんの面倒もよくみるし、お利口なお姉チャンになってきたね。
 ところで、今の世の中、どこか変。ちゃんとwatchしないとね。君たちの未来は今の施政に懸かっているのだから。

 まずは東京都知事舛添(マスゾエ)さん。先だって、別荘行きに公用車を使用していたことがバレて大慌て。その前には法外な海外出張費。またしても「文春」のスクープだぁ。これらはまあ、本人曰く「ルールに則ってるから問題ない」でもいいけれど、お次の政治資金報告書虚偽記載はアウトだね。参議院議員時代の2013年と2014年のお正月三が日に家族と千葉の温泉ホテルに滞在した経費371,100円を「会議費」の名目で記載していたというもの。同時にまた、出るは出るは。「資料」の名目で絵画を購入するは、自宅近くのレストランや天麩羅店、別荘近くの回転寿司での家族との食費を公費に計上。自腹で職員に奢るのはマクドナルドだそうで、しかも都職員を自宅にクーポンを取りに行かせる始末。一連の“ゲスの極み騒動”に、遂に真打登場の図!

 そして、5/13の記者会見で驚きの釈明! 家族旅行を会議費として計上した件についてはこうのたまった。「確かに家族旅行だったが、緊急に必要が生じ、家族と宿泊した同じ部屋で会議を行った。緊急の必要とは選挙のことで、この日しかなかった。私は会議と心得ていたのでそう計上したが、やはりかくなる混同はまずいと思い、訂正削除して返金することにした」。
 記者の質問「誰と会議を行ったのか?人数だけでも教えていただきたい」に対しては「政治的な機微に関わるため、回答は差し控えたい」ときた。精査がこれ?「法に触れない答弁」を弁護士としめし合わせただけでしょう。急ごしらえのフィクションだから、答えられるはずもない。家族との慰安旅行の部屋で政治的機微に関わる重要な会議ですか? よくもまあいけシャーシャーとこんな嘘がつけるもの。失笑の極み! 寒い恥ずかしいみっともない。卑劣せこいみみっちい。こんな言い訳が通ると本気で思ってるのかしら。やはりこの方チューニングが狂ってる。本人は逃げ切れたつもりでいるかもしれないが、一夜で固めた嘘などすぐバレる。逆に付け込む材料をばら撒いちゃったのだ。
 それにしてもマスコミ記者の甘ちゃんなこと!「会議メンバーの名前は? 何が政治的機微ですか。会議の結果、めでたく都知事に当選したのだから、名前を言うことに何の支障があるの。だめなら、人数だけでもいい。 5人?10人? いまこの場でお答えいただかないと都民は納得しませんよ。で、そんなに大事な会議なら議事録があるはず。お見せ願いたい」。これくらいなこと言えないのかね。あなた方は国民の代弁者でしょう。我々の聞きたいことをちゃんと質問してくれないと困るなあ。

 辞任は時間の問題だろうね。嘘は必ず暴かれる。タカリ体質は増幅するものだから叩けばまだまだ埃が出るはず。文春にも第3の矢があるようだ。6月には都議会が始まる。紛糾は必死。法的に逃れられても不信感という都民からの重圧に耐えられるはずもない。あるスポーツ紙の調査によると辞任すべしが93%だったとか。仮に居座っても、次回2018年の都知事選では必ず落ちる。東京五輪の晴れ舞台も幻と化す。Rayちゃん、最近の口癖、お得意の一言をマスゾエさんに→「アウトだよね!」

 猪瀬さんの復帰はないかなあ。彼のケースは、石原時代からの慣例で受け取っちゃって、たしかにそれ自体まずいのですが、端緒の言い訳の仕方が間違ったためにアリ地獄に陥っただけ。「5000万円は政治資金。記載漏れでした。謹んで訂正します」と謝っちゃえばよかったんだヨ。彼の政治姿勢は潔いし。政治家の劣化が叫ばれる昨今、彼のようなタイプは貴重だとJiijiは思う。彼、実は高校の後輩なんだ。
 Rayちゃん、最後に一言。規制大甘の政治資金規正法の下では、“ルール適合モラル欠如”が蔓延しているはず。マスゾエ・ケースは氷山の一角だ。早急に改正すべきだね。

 海の向こうもえらいことになってるね。どうやらドナルド・トランプが共和党の候補になるのは間違いなさそう。民主党はクリントンで決まりだろうけど、5/10のウェスト・バージニアでは敗北、サンダースが食い下がっててまだ当確が出ない。この流れ、勢いの差。メール問題が致命傷になりかねないクリントン。トランプ大統領誕生の可能性が現実味を帯びてきた!?
 トランプ躍進の理由? アメリカ国民がアメリカの誤謬の歴史に気づいたこと。グローバル化、富裕層の優遇、誤った侵略、核不拡散の幻想。結果生まれたのは、膨大な格差と莫大な借金と世界の混乱。最大の罪人はISを生んだ子ブッシュか。オバマも期待を裏切った。彼が唱えたChangeに全米が歓呼をもって迎えたのは7年前。彼なら変えてくれるかもしれない。やってくれるかもしれない。でも何も変わらない。任期残り半年強の瀬戸際でレガシー作りにご執心。そんなん俺たちの生活を変えてからやってくれ!
 そこにトランプが現れた。アメリカ・ファースト。アメリカの名誉を取り戻す。外に構うな内だけを見ろ。軍事援助などやめちまえ。そんな余裕俺たちにはないはずだ。自分の国は自分で護らせろ。北朝鮮が持ったなら、日本も韓国も核を持てばいい。テロリストのイスラム教徒、雇用を脅かすメキシコ人を入国させない。俺たちが豊かならそれでいいってね。

 アメリカの作曲家チャールス・アイヴス(1874−1954)に「答えのない質問」というオーケストラ作品がある。トランペットの問いかけにミュートを付けた弦楽器が答える。答えが出ないまま静かに曲は終わる。
 トランプの演説はまさに「答えのない質問」である。答えの出ない質問と解答をセットにし勢いよく発するだけ。「アメリカ人の雇用を安い賃金のメキシコ人が奪っている。じゃあどうする?」が質問。「国境に長大な壁を築く。費用はメキシコ人に払わせる」が回答。荒唐無稽で話にならない。泡沫候補で終わるはず。それがである。大統領に最も近い男になっている。なぜか? 社会の不条理に正面から向き合っているがごとくの錯覚。答えはキテレツでも問題提起は現実的。アメリカの復権を説きナショナリズムを刺激する。過激な物言いが自信と映り信頼感を造成する。不安を煽り夢を売る。もしや、ヒトラーと同手法!? アメリカの病巣を見る。
 トランプ人気の本質は?「本音」「実行力」「我欲ナシ」を感じさせること。ひも付きでなく自己資金豊富につき「本音」を言える。「実行力」がありそうに映る。自腹を切って俺たちの生活を取り戻そうとしている。他国に嫌われようともアメリカの名誉を回復しようとしている。これは「我欲」じゃない。まやかしでも構わない。騙されてやろうじゃないか。

 Rayちゃん、田中角栄ブームだそうだね。石原慎太郎が書いた「天才」(幻冬舎)が70万部のベストセラーを記録しているとか。Jiijiは「太陽の季節」しか彼の作品を読んでなくて、そのとき感じた文章の稚拙さと愚劣な思想から、買ってまで読む気がしてなかったけど、よくしたもので、I先生が貸してくださった。Jiiji唯一の関心事は、尖閣問題の引き金になった1972年、日中交渉での角栄さんの軽口場面だったが、残念ながらなんの記述もなかったヨ。それが確認できたから後は読む必要がないのだ。
 幻冬舎・見城徹必殺仕掛け人と政界のスター石原慎太郎が組んで、ズッコケ政治家オンパレードの昨今の世相に、稀代の政治家・田中角栄をネタに揺さぶりを賭ければ大衆はイチコロですよ。これぞヒットの法則そのもの。

 巷間言われてきた“コンピューター付きブルドーザー”“人たらしの達人”なる角さん評は、まさに図星。著者石原慎太郎は「先見性に満ちた発想の正確性」(5/4朝日新聞)とまとめているが、キャッチーじゃないな。
 Rayちゃん、Jiijiはこう思う。角さんの最大のよさは、「我欲がなかったこと」じゃないかと。政治において数は力なりだから、同じ志を持つ者もそうでない者も自陣営に引き入れる=豪腕。そのためには相手の心を鷲掴みにする=人たらし。選挙に勝つため勝たせるために金を使う=金権政治。だがしかし、それはあくまでも手段。目的は日本を作り変えること。発展するダイナミックな国に育てること。遠い未来を見透して。そこに我欲はない。“国民の幸福のため”があるのみだ。ここがマスゾエとの違い。まあ、比べるのは失礼ですが。

 トランプもこれに近い。権力欲と名誉欲はあるけど金銭欲はない。権力欲とは大統領になること。彼の名誉とはアメリカの復権だ。金持ちだから金銭欲はない。とにかく、俺たちの利益に繋がるならそれでいい。少なくともこれまでのひも付き嘘つき大統領よりはやってくれそうな気がする。これが、アメリカの若年層・貧困層の本音なのだ。

 Rayちゃん、トランプが大統領になったら、日本は困るみたいだよ。Jiijiは平気だけどね。政府は「わが国が核を持つわけがない」「日米安保は絶対だ」と呪文のように唱えるばかり。石原慎太郎は核保有論者。お隣の金正恩は「北朝鮮は核保有国となったが、先制攻撃をするためではない。バランスを維持し平和を保つ」と党大会で宣言した。なんだ、これ保有先進国と同じ台詞ではないか。北朝鮮は理に適う。アメリカ大統領が「核のない世界を目指す」ときれいごと言ってノーベル賞をもらったが、地下では最新核兵器の開発をする。新たな核開発国を非難する。この矛盾!「言うなら廃棄してから言え」は真実だ。
 日本は核と、タブー視せずに、向き合うべきではなかろうか。アメリカの次期大統領最有力者が、「同盟国を助けない。自衛は自力でやれ」というなら、議論するしかないだろう。先進国で自衛を他国に任せているのは日本だけ。トランプの言い分は的外れじゃない。「9条死守」と言うだけじゃ、何の解決にもならない。まず、日本の安全保障はどうあるベきか?を真剣に考えることだ。第9条の議論はその次だ。政府も、困った ありえない ばかり言ってないで、トランプの台頭をこの好機と捉えることだ。

 アメリカ軍が撤退したらどうする? 現25万人の自衛隊員。あと何人必要なの? 武器はこのままでいいのか。核はどうする。徴兵制は。情報機関の充実は。そのために防衛費5兆円にいくら上積みが必要なの? 財源はどうする。目先の削減、消費税増税じゃ間に合わない。明治以来の悪弊・官僚体制の打破・改革。そう、特別会計200兆円の切り崩ししかないだろう。10%で20兆! 防衛費はいうに及ばずたいていの懸案事項は解決する。Rayちゃん、ここは、平和ボケから目を覚ますいい機会だ、とJiijiは思う。
 2016.04.25 (月)   パクリとオリジナルの間に7〜「瀬戸の花嫁」誕生㊙物語C
                             津村の詞がなかったら「瀬戸の花嫁」は誕生しなかった!?
 今回のテーマは「名曲『瀬戸の花嫁』誕生の裏には津村公の『瀬戸の恋風』があった」ことの証明である。そのためには、“作詞者・山上路夫は何らかの「外圧」がなければ「瀬戸の花嫁」なる詞を書くことができなかった”こと、その「外圧」こそが津村の「瀬戸の恋風」であること、を証明すればいい。

 山上路夫(1936−)は日本を代表する作詞家である。オリコン歴代作詞家別シングル・ヒット・ランキングは10位(ちなみに現在、1位は秋元康、2位阿久悠、3位松本隆)。 ヒット曲は思い浮かべるだけでも、世界は二人のために(相良直美1967)、廃墟の鳩(ザ・タイガース1968)、夜明けのスキャット(由紀さおり1969)、或る日突然(トワ・エ・モア1969)、翼をください(赤い鳥1971)、瀬戸の花嫁(小柳ルミ子1972)、学生街の喫茶店(GARO1972)、ひなげしの花(アグネス・チャン1972)、恋する夏の日(天地真理1973)、二人でお酒を(梓みちよ1974)、岬めぐり(山本コウタロー1974)、酒場にて(江利チエミ1974)、私鉄沿線(野口五郎1975)、ガンダーラ(ゴダイゴ1978)など枚挙に暇がない。
 ジャンルは、歌謡曲、演歌、GS、フォーク、アイドル、Jポップにわたり幅広い。作風は恋を謳うものが多くタッチは上品。清潔感あり格調高い。
 山上氏の初ヒットは「世界は二人のために」だが、デビュー曲は「炎」。この曲は松尾和子&大野喬のデュエット・ソングで、吉田正の作曲。夜の都会を舞台にした男女の熱い恋物語。同年の大ヒット曲、松尾和子&フランク永井の「東京ナイトクラブ」に繋がる路線である。

 では、“山上路夫は何らかの「外圧」がなければ「瀬戸の花嫁」なる詞を書くことができなかった”ことの証明に入る。

 「瀬戸の花嫁」の最大の特徴は地名入り。即ち「ご当地ソング」であるということ。ここで「ご当地ソング」の定義を論じても始まらないので、“地名の入った歌の呼称として便利なので使用する”という程度でご容赦願いたい。
 「外圧」がなかったら書けない、ということは「自発的には書き得ない」と言い換えられる。ならば、山上氏の作品に「瀬戸の花嫁」以外の「ご当地ソング」があるか否か、を検証すればいい。あれば、「瀬戸の花嫁」を自発的に書き得たことになるし、なければ「外圧」がなければ書けなかったことになる。

 では、山上氏には「瀬戸の花嫁」以外のご当地ソングは存在するのか、を探ってみよう。

 山上氏に「瀬戸の花嫁」以外のご当地ソングがあるだろうか? 結論から言おう。山上路夫の作品には「瀬戸の花嫁」以外の「ご当地ソング」は存在しない。彼の作品がいくつあるかは知らず、全部を検証したわけではないけれど、まずこれは間違いないものと確信する。

 ならば、「東京の女」(ザ・ピーナッツ1971)と「大阪ラプソディー」はどうなのか? との疑問が聞こえてきそうだ。これについてはこうお答えしたい。
 東京出身の山上氏にとって、「東京□□」なる詞を書いても何ら不思議はない。身近かつ都会の「東京□□」と疎遠かつ地方の「瀬戸の□□」では接点は希薄。別枠と考えていいだろう。
 では、「大阪ラプソディー」について。この歌はもともと山上氏の発想ではない。当時のビクターのディレクター・鶴田哲也氏が、戦前の大ヒット曲・藤山一郎の「東京ラプソディ」のパロディーとして発案したもの。女漫才コンビ海原千里万理に歌わせた、いわば企画モノである。山上氏は鶴田ディレクターの発注に従って書いただけ。対象から外していい。

 山上氏は東京生まれの東京育ち。幼少の頃から体が弱く普通の会社勤めが無理だったため作詞家を目指したという。そんな山上氏だから、地方への旅などほとんど経験がなかったはず。地方感覚というものを体質的に持っていなかった!? それは、彼の作品群からも一目瞭然である。
 山上路夫は自発的にご当地ソングを書く素養を持ち得ない。彼の自発的発想からは「瀬戸の花嫁」は生まれ得ない。「瀬戸の花嫁」は、何らかの「外圧」がなければ書くことができなかったのである。

<他の作詞家を検証する>

 だが、これではまだ不十分。検証を他の作詞家へも拡げる必要がある。山上氏と同傾向の作詞家はどうだったか? もし彼らの作品に「ご当地ソング」が存在しなければ、山上氏に特異性はないことになる。逆に彼らの作品に、「ご当地ソング」が普通に存在するのであれば、山上氏の“ご当地ソングなし”は、山上氏独自の性向と判断できるだろう。

 それでは、誰と較べるか。山上氏と同傾向の作詞家たち。キイ・ワードは、同世代、同時代、多ジャンル、ヒット曲量産、フリー作詞家。曰く、1930年代生まれ、GS〜歌謡曲黄金時代の1960―80年代を中心に活躍したフリー作詞家・ヒットメーカーということになるだろう。
 これらに該当する作詞家として、阿久悠(1937−2007)、なかにし礼(1938−)、橋本淳(1939−)を取上げたい。この3人なら文句はなかろう。まさに歌謡史を彩った名作詞家たちばかりである。

<阿久悠のケース>

津軽海峡・冬景色、北上川、能登半島、豊後水道、若狭の宿、女泣き砂日本海、本牧メルヘン、湘南哀歌、京都から博多まで、京都の女の子、鳥取砂丘風の人、みちゆき博多発 etc

 さすが阿久悠、実に多彩な「ご当地ソング」群である。阿久は山上氏の一歳下の同世代ヒットメーカー。多岐に渡るジャンルは共通だが、違いは演歌の比率。阿久悠のほうが圧倒的に高い。東京出身の山上氏と地方出身(兵庫県淡路島)の阿久との差か?

<なかにし礼のケース>

石狩挽歌、津軽へ、京のにわか雨、大阪ブルース、サヨナラ横浜、よこはま物語 etc

 なかにし礼は多彩な作家である。流行歌の作詩家になるまではシャンソンの訳詩を生業とした。クラシック音楽にも造詣が深い。平成に入ってからは作家に転進、2000年に直木賞を獲った。およそ「ご当地ソング」には縁のなさそうなタイプだが、それでも上記の作品がある。

<橋本淳のケース>

網走子守唄、津軽の海、雨の軽井沢、神戸で死ねたら、京都神戸銀座、大阪の女、おもいでの長崎、ブルーライト・ヨコハマ、雨のヨコハマ、ビューティフル・ヨコハマ etc

 橋本淳の作風は、GSのシンボル曲「ブルー・シャトウ」に代表されるように、洋楽志向が強い。実にバタ臭い。そんな作風なのにこれだけの「ご当地ソング」がある。

 いかがだろうか? ご覧のように、上記3人のヒット作詞家はかなりの数のご当地ソングを書いている。因みに一世代下の売れっ子・松本隆でも、「むさし野夫人」「ゆ・れ・て 湘南」「ヨコハマ・チーク」なる作品がある。

 なのに、山上路夫はご当地ソングを一切書いていない。唯一「瀬戸の花嫁」を除いては。この事実は、「瀬戸の花嫁」が山上路夫の作品群の中で極めて特異な存在であることを物語る。さらにこのことは、“「瀬戸の花嫁」が誕生するためには何らかの『外圧』あった”ことの証明なのである。

 そして、この「外圧」こそが、津村公の「瀬戸の恋風」だったのである。これは前章をお読みいただければ明らかだろう。津村の雑誌「平凡」への応募と「瀬戸の花嫁」リリースとの時系列的関連。巷間流布する「瀬戸の花嫁」誕生秘話との符合。歌詞の共通点 etc。
 自発的に「ご当地ソング」を書き得ない作詞家・山上路夫は津村公の「瀬戸の恋風」という雑誌公募作品に触発されて「瀬戸の花嫁」を書くことができたのである。換言すれば、昭和歌謡の名曲「瀬戸の花嫁」は津村公の「瀬戸の恋風」がなかったら、この世に生まれることはなかった。

 本論は告発文ではない。ましてや、盗作などというつもりは毛頭ない。時代に敏感であるべき作詞家は常に新しい何かを捜し求めている。本論山上氏のケースも作詞家として当たり前の行為だ。山上氏の「花嫁」と津村の「恋風」を較べれば、明らかに前者が勝っている。プロとアマの差である。万が一津村の「瀬戸の恋風」が同一スタッフ&キャストで世に出たとしても、「瀬戸の花嫁」の成功には及ぶべくもなかっただろう。

 ただ一言。津村の作品が「瀬戸の花嫁」という希代の名曲誕生に一役買っていた。そのことを書き留めておきたかっただけである。俺たちの青春のメモリアルとして。

[おまけ]

 山上路夫。作詞家。1936年生まれ。東京都出身。1959年「平凡」の「松尾和子のうたう歌 歌詞募集」へ応募。応募作品「炎」第1席入選。都会の男女の恋物語。吉田正の作曲で松尾和子&大野喬のデュエットでシングル盤発売。
 同年9月、作詞佐伯孝夫・作曲吉田正のコンビ、松尾和子&フランク永井のデュエットで「東京ナイトクラブ」発売。都会のナイトクラブに咲く恋物語。大ヒット。

 津村公。会社員。1945年生まれ。佐賀県出身。1972年「平凡」の「小柳ルミ子のうたう歌 歌詞募集」へ応募。応募作品「瀬戸の恋風」落選。瀬戸内海舞台 乙女の恋心。
 同年4月、作詞山上路夫・作曲平尾昌晃明のコンビ、小柳ルミ子の唄で「瀬戸の花嫁」発売。瀬戸内海舞台 花嫁の心情。大ヒット。
 2016.04.10 (日)   パクリとオリジナルの間に6〜「瀬戸の花嫁」誕生㊙物語B青春の置き土産
 前回まで、津村公の側から、「瀬戸の花嫁」リリースまでの経緯を見てきた。作詞家を志す津村が、もしや自分の作品が採用されたのではないか?と思っても不思議のない事象が相次いだ。1972年初 雑誌平凡へ「瀬戸の恋風」を応募〜2月末 日刊スポーツに「瀬戸が舞台」の予告記事〜3月24日 発表延期の報、という一連の流れ。だが、4月10日「瀬戸の花嫁」が山上路夫の作詞(作曲は平尾昌晃)でリリース、という結末に終わった。

 今回は、これを作詞家・山上路夫氏の側からも考察してみよう。本件は盗作などという物騒な案件ではないし言うつもりもない。もしやキッカケとなったかもしれない、という程度のものだ。それでも、名曲「瀬戸の花嫁」に親友・津村公のアイディアが多少なりとも関わっていることが解明できたら、それはそれで嬉しいではないか。これぞ青春の置き土産でありその解明への試行こそが俺たちの友情の証に他ならない、と思えるのである。

<瀬戸の「恋風」と「花嫁」の共通点、そして青春の置き土産>

 津村公の書いた「瀬戸の恋風」のシチュエーションは以下の通り

 私は瀬戸内海の小島に住む母親と二人暮らしの女の子。彼はまだ、友達以上恋人以前の存在に過ぎない。3ヶ月前に島を出て本土に就職した。母は19で嫁いできたから、同じ年頃になった私を気にかけている。でも、そんな母親に彼の名前はまだ言えない。彼から待望の手紙が来た。そこには「次の休みには帰る」と書いてある。期待に胸が膨らむ。私は、瀬戸の夕凪に「この恋を許して!」と祈る。

 山上路夫の「瀬戸の花嫁」は以下の通り

 私は瀬戸のとある島に住む女の子。別の島に住む彼のもとへ今日お嫁に行く。幼い弟は「行くな」と泣く。男だったら泣いたりせずに父さん母さんを大事にしてねと諭す。生まれた島に別れを告げ彼の住む島に向かう。あなたとこれから生きてゆくのだ。瀬戸の夕焼けは二人の門出を祝ってくれている。

 共通するワードを洗い出してみよう。前者が津村、後者が山上氏である。
「母」と「母さん」
「19」と「若い」
「嫁いだ」と「お嫁に行く」
「瀬戸の夕凪」と「瀬戸は夕焼け」
「あなた」「島」は同一語
 津村のケースは結婚心待ち、山上氏のは嫁ぎゆく花嫁という基本的な違いはあるが、舞台装置は驚くほど似通っている。二篇とも、瀬戸内海の島に住む嫁入り前の娘の心情を、家族への思いを込め美しい自然を背景に、一人称で詠いあげている。

<制作過程を分析する>

 まずは「瀬戸の花嫁」誕生に纏わる裏話をメディアから抜粋してみよう。
平尾は少し前に、ルミ子に「いつ、お嫁に行くの?」と聞いたことがある。宝塚音楽学校を首席で卒業したほど歌に賭けていたルミ子は、きっぱりと返す。「私は行きません。一生、歌手でいたいんです!」
この一言がきっかけで、平尾の心にひとつのアイディアが生まれた。間もなく20歳を迎えるルミ子を、せめて歌の中で「嫁入り」させてやろうと──。
作詞家の山上路夫は、その依頼にしかし、頭を抱えてしまう。「二つ書いたんです。嫁入りを歌った『峠の花嫁』と、瀬戸内をテーマにした『瀬戸の夕焼け』と。ところが、どうもピンと来ないので、ディレクターの塩崎喬さんと二人でソファーに引っくり返ってしまった」
と、その瞬間だった。それならば二つを合わせて「瀬戸の花嫁」にしてしまおうと。その提案に塩崎も「それだあ!」と声を荒らげ、そこから快進撃が始まった。
                                     (「アサヒ芸能」2013年12月5日号)
「瀬戸の花嫁」あれはもう奇跡ですね。お見合いなんです。普通は曲先か詞先か なんですね。平尾先生も山上先生もまったく別のところで作り始めて、フっとお見合いしたらピタリと合ったんです。それを聞いて私は鳥肌が立ちました。
               ( NHK−BS「昭和歌謡黄金時代:平尾昌晃の世界」
                            2014.9.14 OA 小柳ルミ子談)
 上記から注目点を要約する

@最初のコンセプトは“花嫁”だった。
A山上氏は「峠の花嫁」と「瀬戸の夕焼け」の二つを用意した。
B津村の「瀬戸の恋風」は少なくとも1月初めには完成しているが、山上氏の「瀬戸の花嫁」は紆余曲折を経て、完成したのは早くて一月末。津村が先で山上氏が後なのは明らかだ。

 上記裏話は、やや出来すぎの感がなくもないが少なくとも時系列的に間違いはないだろう。内容も概ね信憑性が高いと思われる。なぜなら嘘をつくメリットも必要性もないからだ。ただ一つひっかかる部分がありまして…
…。それは、「峠の花嫁」には明確な創作理由が示されているが「瀬戸の夕焼け」にはない、という一点だ。プロの作詞家なのだからどんな詞を作ろうが不思議はないはず、なぜそこにこだわるのか? との声が聞こえてきそうだ。尤もである。だがしかし、「山上氏は独自には『瀬戸の□□』なる詞は書きえない」とする明白な根拠がある。それは次回で示すことにするが、要するに“山上氏は何らかのキッカケがなければ「瀬戸の夕焼け」→「瀬戸の花嫁」を書くことはできない”と私は考えている。いや、そう確信している。そのキッカケこそが津村の「瀬戸の恋歌」だった、というのが私の結論である。では、そのストーリーをまとめてみよう。
小柳ルミ子の第4弾をどうするか? 渡辺プロ〜ワーナーパイオニア陣営にとってそれは 大きな問題だった。前年のデビュー作「私の城下町」がミリオンを記録した小柳だったが、それに続く「お祭りの夜」「雪あかりの町」はやや低迷。陣営にとって第4作は勝負作、失敗は許されない、まさに背水の陣だった。作曲は平尾昌晃、作詞は山上路夫に決定。ここから「瀬戸の花嫁」誕生の難産が始まったのである。

1971年12月24日 発売「平凡」2月号に「小柳ルミ子のうたう歌」募集が掲載される。締切りは1972年1月31日。当選発表は3月24日売りの5月号。宛先はワーナーパイオニア・レコード制作部。

1972年1月 「平凡」を見た津村公は、「瀬戸の恋風」を作詞、応募する。3月には山陽新幹線が岡山まで延びる。「雪あかり」から「瀬戸内」への転換は小柳に新境地をもたらすはず、と踏んでのものだった。

同じ頃 作曲の平尾昌晃、作詞の山上路夫、ハウス・ディレクターの塩崎喬が小柳ルミ子第4弾シングルのコンセプト会議を開く。平尾から「ルミ子を歌の中で花嫁に」の案が出る。山上は早速取り掛かり「峠の花嫁」を作詞する。

2月 山上が、「峠の花嫁」を塩崎に提出。塩崎納得せず。一方、1月末締め切りの平凡応募作はワーナーパイオニアの会議室に集まっていた。その数13万余。

塩崎、応募作品を吟味。この手の募集を新曲のヒントにするのは業界の常識だ。そしてある作品に目が留まる。タイトルは「瀬戸の恋風」。塩崎ピンとくるものがあり、即山上に連絡。「瀬戸内を舞台に詞を書いて欲しい」と依頼、同時に「瀬戸の恋風」の歌詞を渡す。山上、これを基に「瀬戸の夕焼け」を作詞、塩崎に持参。塩崎と山上 既に完成している「峠の花嫁」と並べて検討。そこで合体案が出て「瀬戸の花嫁」なるタイトルが決まった。

山上は、即、作業に取り掛かる。制作締め切りが近いため、塩崎は、並行して平尾に作曲を依頼。“舞台は瀬戸内。タイトルは「瀬戸の花嫁」”と確認の上で。こうして詞と曲は別々に同時進行で作られた。双方仕上がって付け合わすと詞曲がピタリと合致。「瀬戸の花嫁」奇跡の誕生となった。

2月28日 日刊スポーツに、コンサートの詳細を伝える記事が出る。同時に「ルミちゃん今度は花嫁さん」なる新曲告知も。津村は、これは自分の作品ではないか? と早合点する。

3月24日 「平凡」5月号に、「『小柳ルミ子のうたう歌』は現在審査中のため入選者発表は次号となる」旨掲載される。津村訝る。

4月10日 小柳ルミ子の第4弾シングル「瀬戸の花嫁」(作詞:山上路夫 作曲:平尾昌晃 編曲:森岡賢一郎 ワーナーパイオニア・レコード)が発売される。

4月24日 「平凡」6月号に、入選作が発表される。そこに津村の作品はなかった。
 以上が、私が構築した「瀬戸の花嫁」完成〜発売までの経緯である。時系列に間違いはなく、内容もほぼメディア露出に準じている。ただ、山上氏の「瀬戸の花嫁」作詞の過程に私的な推理が入っている。そこには自白も物証もない。だからこれは今のところ仮説の域を出ない。だが、私は「山上路夫は津村公の『瀬戸の恋風』を限りなく参考にして『瀬戸の花嫁』を作詞した」と断言できる。次回はその根拠を開示させていただく。
 2016.03.25 (金)   パクリとオリジナルの間に5〜「瀬戸の花嫁」誕生㊙物語A津村、喜んだのも束の間!
 1972年2月末のある日、純喫茶イースタンの一角で津村が私にこう言った。イースタンは新橋の駅近にあるレコード営業マンのたまり場である。「日刊スポーツに小柳のコンサート記事が出ていてさ。今度のシングルは瀬戸内海が舞台だというじゃないか。もしかして俺の『瀬戸恋』が当選したんじゃないかな」。声のトーンがかなり上ずっている。「それはあるかもしれないな」 聞いた私も興奮していた。津村が雑誌平凡に応募した「瀬戸の恋風」は、我々の間では「瀬戸恋」と云うようになっていた。誌上発表は3月24日発売の5月号。あと一ヶ月足らず。期待に胸がふくらんだ。そして、

 3月24日発売の平凡5月号にはこう書かれていた。

    [おわびとお知らせ]

    本号で「南沙織のうたう歌」と同時に入選発表の予定でしたが、
    「小柳ルミ子のうたう歌」は、現在、審査中のため、発表は次号
    平凡6月号(4月24日発売)誌上で行います。
    応募されたみなさまに、つつしんでおわび申し上げます。

 なんと、発表延期! 審査中? 気になるけれど、とにかく待つしかない。この間、我々がどんな会話を交わしていたのかは今となっては思い出せないが、楽しみに待っていたことだけは確かである。ところが!!

 4月10日、小柳ルミ子の新曲が鳴り物入りで発売された。タイトルは「瀬戸の花嫁」。作詞山上路夫 作曲平尾昌晃。誌上発表の2週間前の出来事だった。津村ではなかった。そういうことだ。早速買って聴いてみる。素晴らしい曲だった。一聴して売れるとわかる。事実、「瀬戸の花嫁」は、発売後すぐに火がつき、ヒット街道を驀進。日本歌謡大賞のグランプリに輝く1972年度の代表曲となったのである。

    瀬戸の花嫁

    瀬戸は日暮れて 夕波小波  あなたの島へ お嫁に行くの
    若いと誰もが 心配するけれど  愛があるから 大丈夫なの
    段々畑と さよならするのよ  幼い弟 行くなと泣いた
    男だったら 泣いたりせずに  父さん 母さん 大事にしてね

    岬まわるの 小さな船が  生まれた島が 遠くになるわ
    入り江の向こうで 見送る人たちに  別れ告げたら 涙が出たわ
    島から島へと 渡ってゆくのよ  あなたとこれから 生きてくわたし
    瀬戸は夕焼け 明日も晴れる  二人の門出 祝っているわ

 平凡6月号には予告どおり入選作が発表された。

    入選第1席「東京わらべ歌」(河口幸雄)
    入選第2席「さようならの星」(太田かほる)「さみしい電車」(土本信幸)

 津村公の「瀬戸の恋風」ではなかった。そりゃそうだろう。「瀬戸の花嫁」のあとに「瀬戸の恋風」はありえない。なお第1席「東京わらべ歌」は、4ヵ月後の8月10日、小柳ルミ子の第5弾シングル「京のにわか雨」のB面に収録された。

 津村は、しかし、このあとも詞を書き続け、山口洋子に認められるなどして、何曲かレコーディングされるようになる。会社では抜擢されて制作部へ異動となった。彼が携わった最大のヒット曲は「三年目の浮気」(1982年 ヒロシ&キーボー)である。

 モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」第3幕の冒頭で、アルマヴィーヴァ伯爵が、自分の周りに起こる不思議な出来事を訝る場面がある。♪「妙なことばかりだ。匿名の手紙、小間使いの行動と妻のうろたえ、男が窓から飛び降りると、別の男が自分だと名乗り出る・・・・・」
 この件に例えれば、40年前の出来事は・・・・・「実に妙だ。小柳ルミ子の作詞募集に津村が応募、スポーツ紙に思わせぶりな記事、誌上発表の延期、同じシチュエーションの新曲発売」とこうなる。

 1972年1月―4月の4ヶ月間に何が起こったのか?今となっては実証のしようがないが、推理を働かせることはできる。仮説を立てそれを検証・証明することはできる。
 私の仮説は「山上路夫は津村公の『瀬戸の恋風』を限りなく参考にして『瀬戸の花嫁』を作詞した」である。次回はこの仮説を証明する。
 2016.03.10 (木)   パクリとオリジナルの間に4〜「瀬戸の花嫁」誕生㊙物語@津村公という男
<津村公という男>

 津村公。レコード会社時代からの友人M.K.のペンネーム。梶山季之の小説から拝借したそうだ。1945年生まれの同い年。元々サラリーマンをやる気はなく、物書きを目指しており、野末陳平に弟子入りして修行していたが、やっぱり食わなきゃと、会社に入ってきた。志にブレがなく芯がある。情に脆く心優しい。テレ屋である。目標曖昧意志脆弱の私とは、性向相反するもなぜか馬が合って、仕事に遊びによく行動を共にした。テレ屋につき普段は無口だが、酒が入り好きな話題とぶつかるといきなり饒舌になる。相撲、競馬、野球などスポーツ全般、演歌歌謡曲、あとは政治、無法の世界など、その詳しいことといったらない。

 私も歴代総理大臣の名前くらいは出てくるが、彼の場合はケタ違い。ランダムに国会議員の名前を言えば、たちどころに所属派閥とその歴史的流れが返ってくる。例えば、元防衛大臣・小野寺五典は?と問うとする。すると、所属は岸田派。大きな流れは宏池会。現会長は岸田文雄外務大臣で、その前は古賀誠→加藤紘一→宮沢喜一→鈴木善幸→大平正芳→前尾繁三郎→池田勇人に遡る、という具合だ。国会議員すべてが頭に入っているようだ。あとは無法社会の系列とその流れ。広域暴力団の歴代幹部の名前がスラスラと出てくる。さらに、大相撲の理事10人の管轄部屋とその流れなど、これまたスラスラと出てくるのである。

 六本木に「ダーバン」というスナックがあって、会社が終わると津村と私は毎晩のように通った。その経緯はといえば・・・・・オーナー・マスターはU氏。「実は脱サラして開店したばかり。『ダーバン』は辞めた会社の名前を戴いたんです」と立ち寄った初日に告白される。まだ専門の弾き語りがいなくて彼が兼務している。お世辞にも巧いとはいえない。歌はまずまずだがギターがダメ。まるで打楽器の体。我々の方がいくらかマシだったので、「お二方、明日から毎晩来てよ」ということになる。労働条件?は@来店は随意A弾き語りは鋭意B報酬は飲み代と相殺。労働条件というよりタダ飲み契約である。
 私のレパートリーは、たくろう、かぐや姫、荒木一郎などフォーク調。津村は小林旭、渡哲也など演歌調。飲んで歌って喋って笑って、終われば銀座に繰り出して。帰りはほとんど午前様。稀に店泊も。仕事、大丈夫なの? 花の20代、いやはや、楽しい時代でした。

 津村がある日、私にこう言ってきた。「お前、曲を作れないか? いま、詞を書いているんだが、曲書きを探してるんだ」。私はといえば、楽譜こそ書けるものの、学生時代、下宿の仲間と何曲か書いたことがある程度。でもまあ、やってみるかということになる。
 津村が詞を書き、同時に想定歌手の指示がある。これは森進一、これは藤圭子というように。指示に従い曲を付け楽譜を起こす。出来上がるとギターで歌い共同で修正、という手順。津村の詞はプロ志望だけに高レベルで幅も広い。ぴんからトリオ風ど演歌から「襟裳岬」風フォーク演歌、いしだあゆみ「あなたならどうする」風ポップ歌謡まで、結構バラエティーに富んでいる。ほぼ曲負けも、一定のレベルと無理矢理納得させるしかしょうがない。

 半年も経つとストックが貯まる。折角だから売り込もうか。社内外の友人からディレクターにつないでもらう。何人かに会う。話は聞いてくれるが、YesもNoもない。津村はいざ知らず、私は自分に才能がないのは判っているから、売り込みにも迫力がない。「あの、これ、まあまあいいと思うのですが、アルバムの一曲にでも使ってもらえませんか」。志がまるで低い。

 ある日、T氏なるディレクターに売り込んだ際にこう言われた。「私が、歌手を想定して曲を依頼するとき、まず素人さんには頼まないよ。それはシングルでもアルバムでも同じこと。絶対にプロに頼む。なぜなら80%の完成度が保障されるからね。素人さんに期待するのは“だれそれ用の歌”なんかじゃない。その人が自分の気持ちをとことん込めて書いたもの。その人の魂が止むに止まれず噴出したもの。その人にしか表現できない個性的な作品。私たちが素人に期待するのはそういうものなんだ」。口調は穏やかだが毅然たる意思表示だった。T氏とは鶴田哲也さん。殿さまキングス「なみだの操」、松村和子「帰ってこいよ」、三善英史「雨」、海原千里万里「大阪ラプソディー」などなど、70年代に立て続けにヒットを飛ばしたビクターのエース・ディレクターだ。彼はほどなく40代の若さで亡くなってしまう。山口洋子著「演歌の虫」のモデルといわれている。
 そりゃ、もっともだ。親兄弟じゃあるまいし、無理に使う義理はない。ソコソコの曲ならいくらでも転がっているし、「よかったらアルバムにでも」じゃ、いかにも志が低すぎる。福岡営業所から叩きあげで上り詰めた鶴田氏から見たら、さしたる努力もせずに半端な功を希求する私なんぞは、甘ちゃんの極と映ったことだろう。私は急に気恥ずかしくなり、津村とのコンビを解消して本業に精を出すことにした。六本木通いは続けていたが。

 1972年の年明け早々、津村が私のところにやってきてこう言った。「平凡2月号に小柳ルミ子の新曲の歌詞募集があったので応募した。読んでみてくれ」。原稿用紙には「瀬戸の恋風」という一篇の詞があった。見慣れた角ばった字が躍っていた。
  瀬戸の恋風

  瀬戸の小島に吹く風は
  なにかいい事連れてくる
  島を出てからもう三月
  あなたの便りまだ来ない
  春も過ぎてくこの島に
  恋風吹くの いつのこと

  母も十九で嫁いだと
  夜なべ仕事で聞かされる
  お前まだかと聞かれても
  あなたの名前まだ言えぬ
  辛い気持ちで今日もまた
  島の灯りも 消えてゆく

  今度帰ると書いてある
  あなたの手紙胸に抱き
  心待ちして針仕事
  手にもつかないうれしさを
  隠せぬ私この恋を
  瀬戸の夕凪 許してね
 瀬戸内海の島を舞台に若い娘の切ない恋心が綴られている。「瀬戸の恋風」というタイトルもいい。「いいじゃないか」と言う私に津村はたたみかける。「ルミ子は、デビュー曲が『城下町』で第3弾が『雪あかり』。比較的おとなし目の背景で来ている。国鉄の『ディスカバー・ジャパン』は、今年はさらに盛り上がり、3月には山陽新幹線が岡山まで延びる。ならば瀬戸内海はどうだろうと思ったのさ。ウン、自分で言うのもなんだが、会心の出来だ」。この饒舌ぶりは手ごたえアリの証だ。応募要領には、5月号(3月24日発売)にて発表とある。私も一緒に待ち遠しい気持ちになっていた。
 2016.02.25 (木)   パクリとオリジナルの間に3〜浜口庫之助のリニューアル二題
 ♪惚れたと言ったら あの娘は泣いていた・・・・・これは守屋浩「東京へ戻っておいでよ」の冒頭である。この曲が、星野哲郎作詞&浜口庫之助作曲ということは後で判るのだが、発売当時中学生の私には知る由もなかった。とにもかくにもこの曲が好きでたまらず、レコードを買いこそしなかったが、当りをつけて田舎の民放ラジオで聞きまくったものだ。これは、「僕は泣いちっち」「有難や節」などのヒットをもつ守屋の楽曲の中では、比較的地味な部類に属する。

 地味ながら好きという楽曲は結構あるもので、他人様から見れば「何で?」なのだろうが、好き嫌いに理屈はない。例えば、三浦洸一「純愛」、フランク永井「風と二人で」などがそれ。「純愛」は東哲子作詞 渡久地政信作曲 1958年の作品。高原のサナトリウムで亡くなってしまった人との淡い恋物語。♪花束からあなたは私の愛を読みとると 頬染めて瞳をうるませて・・・・・胸キュンの隠れた名曲である。
 「風と二人で」は浜口庫之助の作詞作曲で1967年の作品。この曲のよさは私より母が先に気づいた。「あんた、フランク永井の今度の曲いいから、レコード買ってきてよ」。母は大正生まれだが、好みは邦より洋、フランク永井でいえば、「君恋し」系よりも「ラブ・レター」系を好む。爽やかなカントリー調の「風と二人で」は、まさに嵌り曲だった。あれから50年! 母は今年2月21日で満95歳になった。病気一つせず、三度の食事も自分で作る。認知症の気配など微塵もなく活舌も良好。メールもバンバンやり取りしている。趣味はクイズで、日々私と競い合う。憎まれ口を叩き合いながら。

 作詞作曲の二刀流は今では何も珍しくはないが、フリー作家が出現する1960年代以前、いわゆる専属作家時代にはあまりいない。パイオニアは東辰三(1900−1950)か? 「港が見える丘」「君待てども」が代表作。戦後間もない頃の歌だが、今聴いても古さを全く感じさせない。実にシャレている。東氏のセンスと品のよさは息子の作詞家・山上路夫に受け継がれている。妹の波子さんも素敵な人だった。あとは、遠藤実(1932−2008)がいるが、やはり、この分野では、浜口庫之助(1917−1990)が質量ともに最右翼だ。

 過日見たテレビ番組の中で、ハマクラ氏はこう言っていた。「曲は作るものではなくて、産むものなんです。心のうちに色々な引き出しがあって、その時々の気持ちに従って引き出してくるだけなんですよ。だから私は作曲家ではなく産曲家なんです」。いやはや、これはモーツァルト! 詞曲が同時に産み出されるのも納得がいく。
 作詞作曲のヒット曲は、「僕は泣いちっち」(守屋浩1959)、「涙くんさよなら」(坂本九他1965)、「バラが咲いた」(マイク真木1966)、「星のフラメンコ」(西郷輝彦1966)、「夕日が泣いている」(ザ・スパイダーズ1966)、「夜霧よ 今夜も有難う」(石原裕次郎1967)、「みんな夢の中」(高田恭子1969)など。作曲では「恍惚のブルース」(川内康範作詞 青江三奈1967)、「愛のさざなみ」(なかにし礼作詞 島倉千代子1968)、「人生いろいろ」(中山大三郎作詞 島倉千代子1987)など多数。歌謡曲、フォーク、グループ・サウンズと実に多彩。というか、ジャンルを超越したハマクラ・ワールドの観だ。今回は、天才・浜口庫之助のリニューアル・ヒットを二つ取上げる。

<人生いろいろ>

 島倉千代子の(おそらく)最大のヒット曲「人生いろいろ」は、始めはB面候補だった。1987年初頭、TBS系音楽出版会社・日音は、TBSドラマ「三どしま」の主題歌を企画。三人の五十路女が悪口を言い合いながらもかばいあい励ましあって生きてゆく物語。歌手に当時49歳の島倉を立て、作詞に中山大三郎、作曲に浜口庫之助を起用。上がってきた楽曲が「花ごよみ」。まあまあの出来。これで行くことになる。では、B面をどうする? そこでハマクラさん、「大ちゃん、昔作った曲があるからこれに詞を入れ替えてみて?」と中山に提示したのが「坂のある港町」だった。

「坂のある港町」

    坂のある町は 僕の好きな町
    どこかロマンの 香りがする
    坂を上がって 振り返ってみれば
    町は小さく 遠くなっている
    あの赤い屋根の小さな窓で 手を振ってくれたあの人
    思い出はどんなに遠くなっても 消えてしまいはしない
    思い出よこんにちは 僕は今日も坂の上
    振り返る小さな 思い出の町

 これが「人生いろいろ」に生まれ変わる。

「人生いろいろ」

    死んでしまおうなんて 悩んだりしたわ
    バラもコスモスたちも 枯れておしまいと
    髪をみじかくしたり つよく小指をかんだり
    自分ばかりを 責めて泣いてすごしたわ
    ねぇおかしいでしょ 若いころ ねぇ滑稽でしょ若いころ
    笑いばなしに涙がいっぱい 涙の中に若さがいっぱい
    人生いろいろ 男もいろいろ
    女だっていろいろ 咲き乱れるの

 実は、最初に上がったリライト詞は ♪酒でも飲んで笑い飛ばそう 的な内容だったとか。これではお酒の飲めない島倉に合わないとして再リニューアルしたのが現在の詞。この上がりを見て制作陣は「人生いろいろ」を急遽A面に抜擢したのである。

 4月21日発売後、曲はジワジワとヒットチャートを上昇。山田邦子やコロッケの物真似効果も追い風となり最終的に130万枚のセールスを記録。島倉、ハマクラの晩年を飾る大ヒットとなった。

   ご覧のように、リニューアル前と後では詞がまるっきり違う。「坂のある港町」はハマクラ氏の愛妻・渚まゆみのために思い出の地・函館を舞台に書いたもののようだ。でもまあ、このままでは美空ひばりが歌っても売れなかったに違いない。それが、B面という穴埋めになんとなく(?)引っ張り出してきて、別の人間が詞を当て嵌めたら未曾有の大ヒット曲に生まれ変わる。なんという化学反応! 曲作りの摩訶不思議ではないか!? “人生いろいろ”というフレーズも実にキャッチー。ヒットの大きな要因だろう。なにせ、17年後、時の総理大臣がこれを引用して国会答弁をしたのだから。

<涙くんさよなら>

 浜口庫之助作詞作曲、坂本九1965年のヒット曲「涙くんさよなら」は、元は「涙さんさようなら」だったという話。

    涙さんさようなら さよなら涙さん また会う日まで
    あなたは私のお友達 この世は悲しいことだらけ
    あなたなしではとても 生きていけそうもありません

 これが「涙くん」に変わる

    涙くんさよなら さよなら涙くん また逢う日まで
    君は僕の友達だ この世は悲しいことだらけ
    君なしではとても 生きていけそうもない

 内気な少年が初恋に目覚めて喜びを静かに歌いあげる。そんな青春の切なさが受けてスマッシュ・ヒットとなった。歌い手が坂本九だからこの変更は当然といえば当然だが、「さん」が「くん」へ変わったことで、語呂がよくなり歯切れが増した。ちょっとしたことで楽曲のイメージが変わる、これもリニューアル成功例である。
 2016.02.10 (水)   パクリとオリジナルの間に2〜「また逢う日まで」は阿久悠自身のパロディ
     柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

 正岡子規の、日本人なら知らぬものない有名な句は、1895年11月8日、海南新聞(現在の愛媛新聞)で発表された。

     鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺

 これは、その2ヶ月前の9月6日、同じ海南新聞に載った誰あろう夏目漱石の句である。

 当時、漱石は松山中学の教師として、子規は病気療養のため、松山にいた。しかも、1895年8月27日―10月17日の間、子規は漱石の下宿に居候している。二つの句はこの時期に相前後して産まれたのである。漱石は2年前鎌倉で参禅しており、その時の情景を思い浮かべてのものか。子規はズバリ漱石の句をベースにしたのだろう。かの子規の名句は漱石のパロディだったのである。後発の作品がベースを越えるのはよくある話。親友の二人なら問題は起きない。

<「また逢う日まで」は阿久悠自身のパロディ>

 パロディとは、「既存の作品を作り変え風刺滑稽化した作品」と定義されるのが普通だが、クラシックの世界では、必ずしも風刺滑稽に拘らない。小林義武氏の名著「バッハ伝承の謎を追う」には「『ミサ曲ロ短調』の最終楽章は、グロリアの中の楽章のパロディ、すなわち、同じ音楽に異なった歌詞をつけたものである」という記述がある。即ち、同一作家が自作の中でメロディーはソノママにして歌詞を変える作業をパロディと称している。1971年の大ヒット「また逢う日まで」がまさにこのパターン。作者が自らの作品を変更しているのだから、漱石〜子規以上に問題はない。

 「また逢う日まで」には原曲がある。ズー・ニー・ヴーの「ひとりの悲しみ」。作詞:阿久悠、作編曲:筒美京平。1970年発売のグループサウンズ楽曲。ヒットには至らなかった。まずは歌詞を見てみよう。

    ♪明日が見える 今日の終わりに
      背のびをしてみても 何も見えない
      なぜかさみしいだけ なぜかむなしいだけ
      こうして はじまる ひとりの悲しみが
      こころを寄せておいで あたためあっておいで
      その時ふたりは何かを 見るだろう

 では「また逢う日まで」を

    ♪また逢う日まで 逢える時まで
      別れのそのわけは 話したくない
      なぜかさみしいだけ なぜかむなしいだけ
      たがいに傷つき すべてをなくすから
      ふたりでドアをしめて ふたりで名前消して
      その時心は何かを 話すだろう

 「また逢う日まで」は1971年発売。メロディーはそのままに阿久悠が歌詞を大幅に変更。歌唱は尾崎紀世彦。同年のレコード大賞に輝く大ヒットとなった。

 共通(太字表記)思想は「さみしさの中から何かをみつける」であるが、両者の差は歴然だ。「ひとりの悲しみ」は、作者によると“安保闘争で挫折した青年の孤独”を詠んだもの(Wikipedia)のようだが、説明がないと状況が把握できないし、いかにも女々しい。そこへゆくと「また逢う日まで」は、別れゆく男女の情景がくっきりと浮かび、二人が合意だったこと、この後別々に力強く生きてゆくだろうことが明確に詠われ、またいつかどこかで逢える日がくるはず、そんな前向きな趣と余韻もある。見事なリメイクである。メロディーは全く変わらず、アレンジもメリハリはつくも基本は変わっていない。大ヒット化の要因は一に歌詞の変更にあった。

 無論、歌い手の違いも大きい。ズー・ニー・ヴーのリード・ヴォーカル町田義人(1946−)は伸びのある高音が持ち味の実力派。「白いサンゴ礁」のヒットがある。一方、尾崎紀世彦(1943−2012)は、歌謡界きっての正統派ヴォーカリスト。高音の伸び声のツヤ声量の豊かさは比肩する者なくその力強い歌唱は圧巻である。町田もなかなかの力量ではあるが相手が凄すぎる。

 「また逢う日まで」というタイトルは、今井正監督の1950年の映画と同じ。これは作詞家阿久悠(1937−2007)の常套手段。この他にも映画タイトル引用の例は多い。「さよならをもう一度」(尾崎紀世彦)、「勝手にしやがれ」「サムライ」(沢田研二)、「昨日 今日 明日」(井上順)、「ヘッドライト」(新沼謙治)、「黄色いリボン」(桜田淳子)、「いつも二人で」(石原裕次郎)、「渚にて」(いしだあゆみ)、「生きる」(鶴田浩二)、「東京物語」「さらば友よ」(森進一)、「彼岸花」(森昌子)、「暖流」(石川さゆり)など、和洋にまたがる。

 阿久悠は広告代理店の出身。まず、歌手の特質を踏まえ作品の方向性を打ち出しイメージを構築する。しかる後、そのイメージを過去の芸術作品にシンクロさせ独自のストーリーを形成。細部を点検言語化し再構築。タイトルはそのまま借用。4分間のドラマの完成! なんとも見事な職人技である。
 阿久悠の作詞家憲法第1条にはこうある。「美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか」。この“違う道”こそ阿久悠のオリジナル「4分間のドラマ」という作り方。まさに不易流行である。作った作品は5000余。レコード大賞5回、同作詞賞7回は作詞家として最多。生涯シングル売上6834万枚は歴代2位。因みに第1位は秋元康の1億枚強である。

<「宗右衛門町ブルース」の場合>

 歌詞を変えて原作以上にヒットした例は他にもある。平和勝次とダークホースの「宗右衛門町ブルース」がこのケース。

 「宗右衛門町」ブルースの原曲は「さよなら さよなら さようなら」。作詞:星野哲郎、作編曲:山路進一、北原健二の歌で1962年の発売。

    ♪赤いパラソル くるりと廻し
      あの娘しょんぼり こちらを向いた
      町のはずれの つんころ小橋
      さよなら さよなら さようなら
      雀チュンと啼いて 日が暮れる

 「風雪ながれ旅」「みだれ髪」など、本格演歌の巨匠星野哲郎初期の作品で、のどかなカントリー調の詞。北原謙二の中では、代表曲「若いふたり」「忘れないさ」に較べてマイナー・ヒットといったところか。

 10年後の1972年、ダークホースの平和勝次が舞台を盛り場に移し浪速演歌に仕立て直したのが「宗右衛門町ブルース」だ。

    ♪きっときてねと 泣いていた
      かわいあの娘は うぶなのか
      なぜに泣かすか 宗右衛門町よ
      さよなら さよなら 又来る日まで
      涙をふいて さようなら

 原曲と変わらないのは作曲の山路進一だけ。編曲は、山路進一から藤尾正重へ。ギターに始まるのどかな田舎の風景からトランペット嘶くコテコテの浪速演歌ムードに一変した。作詞は、大御所星野哲郎から一介のコメディアン・バンドリーダー平和勝次へ。田舎の淡い初恋物語から盛り場女の哀感へとスイッチ。この大胆な場面転換が曲想と化学反応、自主制作500枚スタートのレコードは200万枚越え、原作をはるかに凌ぐ特大ヒットと化した。まさに奇跡のリニューアルだった。
 当時は、宮史郎とぴんからトリオの「女のみち」に始まり殿さまキングス「なみだの操」など、お笑い系演歌の花盛り。この流れもヒットに拍車をかけた。
 2016.01.25 (月)   パクリとオリジナルの間に1〜美空ひばり「悲しい酒」は二番煎じ
 1月17日はYouくん誕生から数えてちょうど5ヶ月目。もうJiijiの呼びかけにも元気に反応するようになったね。このまま健やかに育ってほしいなあ。

 さて、たまたまこの日の朝日新聞に「パクリ経済」なる記事が出ていた。そこには“コピーは必ずしも創造性を萎縮させるものではなく、むしろイノベーションを刺激するケースが存在する”とある。パクリ肯定論? 昨年五輪エンブレム問題が持ち上がったように、世の中パクリに溢れている。パクリの対極は創造性=オリジナリティか。となれば、世の中の作品はすべてパクリとオリジナルの間に存在することになる。
 世阿弥は模倣の重要性を説く。芭蕉の不易流行は古典なくしては存在しない。コロッケの芸はパクリかオリジナルか? 線引きは難しいし不必要。面白ければそれでいい。
 そこで、今回のテーマである。難しいこと、例えば、パクリとはなんぞやなる定義づけはやらない。ベースがあってそれとは別物に変化した作品を取上げるだけ。変化形とベースとの関係性を考察してみよう。隠れたるベースに意外性アリやナシや? 変化の過程に興味アリやナシや。これはこれで面白そうだ。まずは流行歌から。

<美空ひばりの「悲しい酒」は二番煎じ>

 生涯1500曲ものレコーディングを行った美空ひばり(1937−1989)。これはとてつもない数量だ。そんな夥しい数の中からお気に入り楽曲を3曲挙げろと言われれば、私の場合、「川の流れのように」「お祭りマンボ」「港町十三番地」ということになる。好きは好き、議論にならないが、私的ヘッド・ラインを付けるなら、「川の流れのように」は究極の人生ソング。「お祭りマンボ」は躍動感ある物語性。「港町十三番地」はマドロス情緒のノスタルジー。ということにでもなろうか。翻って、“代表作”は何か?との問には、答えに窮する。客観性が求められるし1曲に限られるからである。でも、窮してばかりでは話が前に進まない。ならば敢えて言い切ってしまおう。美空ひばりの代表作は「悲しい酒」である。

   歌手の魅力を構成する要素とは? 歌唱力と人間力である。パフォーマンスはこの二つが一体となって現れるわけだから、一概に歌唱力といってもそこには必然的に人間力が混ざっている。歌唱力を論ずるときにこの視点は欠かせない。特に美空ひばりの場合には。

 歌手・美空ひばりの魅力はその際立った歌唱力にある、というのは異論のないところだろう。しからば、ひばりの歌唱力とは? @確かな発声メカニズム A豊かな表現力 B表現の多様さ あたりだろう。一つ注釈を加えさせていただければ、Aは1楽曲における表現の豊かさでありBは様々なタイプの楽曲を歌いこなす表現の多様さと考えていただきたい。

 流行歌の歴史100年の中で、歌の巧い歌手は数多いる。しかし彼らは得意な領域において特化したに過ぎない。競走馬に例えるなら、短距離は得意だが長距離は不得手というように。美空ひばりは、短距離も長距離も、芝もダートも、良馬場も重馬場も、ハイペースでもスローペースでも、連闘でも休養明けでも、東京でも京都でもロンシャンでも、例え足元に不安を抱えていても、満遍なく走る。いかなるレースにおいてもファンの期待を裏切らない。シンザン、シンボリルドルフ、オグリキャップ、ディープインパクト、などの能力を併せ持つ。美空ひばりという歌手は、歌手という存在を形成するすべての要素において余人の遠く及ばない技量を備えている、いわば別格なのである。

 ひばりに比肩しうる唯一の歌手はちあきなおみではなかろうか。彼女は、夫郷^治が亡くなった1992年9月21日以降、一切公に姿を見せなくなってしまった。もう一度聞きたいという願いは募るばかりだが、一方では、叶わぬ夢との諦めも強い。
 私は独断自選したちあきベスト・アルバムをよく取り出しては聴いている。全17曲、ほどよくコントロールされた感情表現がすばらしい。至福のひとときだ。一番好きな女性歌手は?と問われれば、私は躊躇なくちあきなおみと答えることができる。
 だがしかし、好き嫌いを度外視して歌唱力のみに照準を合わせれば、ちあきは、@では拮抗するもののAでは少々Bでは遠く、美空ひばりに及ばない。ではこれをバーチャルに検証してみよう。

 まず、ちあきの様々なタイプの持ち歌、例えば、「四つのお願い」「喝采」「かもめの街」などを歌う美空ひばりの歌唱を想像してみてほしい。頭の中に、ひばり節となって見事に聞こえてくるのが分かるだろう。これは、ちあきの持ち歌すべてにおいていえることだ。
 今度は、ひばりの持ち歌、例えば、「人生一路」を、想像の中で、ちあきに歌わせてみよう。ソツなく巧いが、華やかさ大らかさにおいてひばりには一歩譲ると感じるはずだ。たまたま一曲を想定したが、他の、例えば、「柔」「真っ赤な太陽」「港町十三番地」でも同じことがいえそうだ。
 ちあきなおみは表現力においては美空ひばりと比肩しうるが、表現の多様さにおいて及ばない。

 「悲しい酒」は、最初、美空ひばりの持ち歌ではなかった。1960年、コロムビアレコードの新人・北見沢惇に大御所古賀政男が書き下ろしたもの(作詞は石本美由起)。曲の力に自信を持っていた古賀だったが、期待に反して全く売れない。諦めきれない古賀は一時北島三郎に歌わせようと思った時期があったらしい。しかし、北島は1963年、新生クラウンレコードに移籍。このアイディアは霧消する。
 「悲しい酒」をひばりの歌でしか知らない私などは、古賀が当初男声で考えていたとは意外だった。もっとも、男声で女心を歌うのは珍しくないし、詞をよく読めば、男歌でもおかしくないことが解るが・・・・・。

 古賀政男が「悲しい酒」をいつごろから美空ひばりに歌わせたいと願うようになったかは定かではない。北見沢で売れなかった直後なのか、はたまた、ひばりのリリースの直前なのか。それはともかく、「悲しい酒」は、ビートルズ来日に沸く1966年6月、美空ひばりの新曲としてリリースされた。

 発売に当たって、古賀をはじめ関係者は、「悲しい酒」が他人の持ち歌だったことを完全極秘にしていたようだ。女王ひばりが二番煎じを許すはずはないとの危惧からである。ところで、オリジナル歌手・北見沢の消息やいかに? 信頼できそうなネット記事に、「1966年8月9日死亡、享年30歳」とある。ひばり盤発売日から3ヵ月後。名曲を巡る運命だろうか。

 「悲しい酒」といえばつきものの台詞であるが、最初の録音にはなかったとのこと。きっかけは、発売年の新宿コマ劇場6−7月公演のリハーサル時、1コーラス後の間奏が間延びすると感じたひばりのアイディアだった。公演でこれが評判を呼び、ファンからの要望で、「悲しい酒」台詞入りヴァージョンが録音、翌1967年3月、4曲入り33回転シングル盤(現在のミニ・アルバム?)で発売された。以後これが定番となり、台詞なしオリジナル・ヴァージョンを知る人は少ない。かくなる私も聞いたことがなく、是非とも聞いてみたい気がする。

 作曲家船村徹は言う「詞とメロディーで構成された歌という小宇宙の表現者が歌手だという言い方もできるが、その歌手が作家の意図を超えて歌う、つまり楽曲を作家の手から奪い取って自分のものにしてしまうことが極めて稀にだが存在する。美空ひばりという歌手がそうだった。私が知る唯一の例である」(船村徹著「歌は心でうたうもの」より)。
 ちあきなおみに稀代の名曲「矢切の渡し」を提供した演歌界の大御所船村の言葉だけに重い。彼の文意を読み解けば、美空ひばりという歌手は、すべての歌手・作家をも越えた唯一至高の存在だ、ということになる。

 わが敬愛する音楽評論家・小西良太郎氏は「『もう、ここまでの歌手は出て来ませんよね。そうでしょう?』美空ひばりの話になると、大ていの人がそう言う。その都度僕はうなずく。“不世出の天才”という言葉は、この世界では彼女専用だと思っている。その魅力に挑戦して、歌謡史に名を残す作詞、作曲家たちが、総がかりで作品を提供した。名作が多いはずである」と著書「女たちの流行歌」の中で述べている。一流の作家たちが、こぞって“美空ひばりのために”楽曲を提供したのである。

 「悲しい酒」という歌は、美空ひばりという稀代の天才歌手に巡り合うことによって、まったく新しい命が吹き込まれた。男と別れた女の淋しさと拭っても消えない未練を酒に託して切々と歌い上げるひばりの歌唱に聴き手は酔いしれ、いつしか「悲しい酒」はひばり演歌の代表作となっていったのである。面白いのは「悲しい酒」が最初は名もない新人歌手の持ち歌だった、ひばりのために作られた曲ではなかった、即ち、美空ひばりの「悲しい酒」は二番煎じだった、という事実である。
<参考文献>

船村徹著:私の履歴書「歌は心でうたうもの」(日本経済新聞社)
小西良太郎著:「女たちの流行歌」(扶桑社)
 2016.01.10 (日)  > 個性とセンスの完全主義者ブーレーズの死を悼む
 新年早々、中東や北朝鮮で不穏なニュースが流れる中、フランスの名指揮者・作曲家のピエール・ブーレーズの訃報が舞い込んできた。1月5日、ドイツのバーデンバーデン、享年90歳。
 ブーレーズは何を隠そう私の大好きな音楽家の一人である。とはいえ彼のキャリアを隈なく追いかけてきたわけではない。しかも作曲家という一面は露ほども知らない。だから、ブーレーズの全体像など描けるわけもない。以下は、折々に感じた指揮者としての印象を頼りに構築した断片的独断的ブーレーズ追悼文である。

 まずはレパートリーについて。フランス人だからベルリオーズ、ドビュッシー、ラヴェルなどのフランスもの、現代の作曲家だからストラヴィンスキー、バルトーク、シェーンベルク、ヴァレーズなどの近現代ものが多くを占めるのは当然。ドイツものは、ワーグナー、マーラーはあるが、ベートーヴェン、ブラームスは極小。ロシア・スラヴ系はほぼ皆無。実にユニークである。

 指揮者ブーレーズのキャッチ・コピーは?「個性とセンスの完全主義者」はどうだろう。その証は、バルトーク(1881−1945)のピアノ協奏曲全3曲の録音(2001年―2003年)に見ることができる。同曲の録音は他にいくつかあるが、ブーレーズのは際立っている。なにがといえば、1曲ごとにピアニストとオーケストラを変えていること。そして、この起用が各々の曲想にピシャリと嵌り比類なき完成度を示していることである。

  第1番 クリスティアン・ツィマーマン (P) シカゴ交響楽団
  第2番 レイフ・オヴェ・アンスネス (P) ベルリン・フィルハーモニー
  第3番 エレーヌ・グリモー (P) ロンドン交響楽団

 第1番は、強烈なリズムを前面に押し出し野蛮ともいえる情感を醸し出す。ピアノはまるで打楽器。甘美な感情を一切排除し乾いた抒情に終始する。ブーレーズが起用したのは、ツィマーマンとシカゴ響。当代随一のヴィルティオーゾ・ピアニストとオケ。ツィマーマンはケタ違いの強打で曲の暴力性を表出し、シカゴ響は磨き抜かれたテクニックで精緻に応じる。寸分の隙なき演奏である。
 第2番。ピアノは第1番と同じく打楽器的だがオケとの協調性はこちらの方が強い。よりアンサンブル重視で室内楽的といえる。ここでブーレーズが起用したピアニストはノルウェー出身(当時)若手のアンスネス。オケはベルリン・フィルである。アンスネスは、瑞々しい感性と室内楽的素養(リソル室内楽フェスティバルを主宰)を武器に曲の本質を突いて見事である。ベルリン・フィルとのアンサンブルも心地よい。
 第3番はバルトーク死の年の作品。最後の17小節を残して他界。友人作曲家ティボール・シェルイが完成した。作曲の経緯は息子への手紙から窺える。「お前の母さんのためにピアノ協奏曲を書く。何度か演奏すれば、いくばくかの足しにはなるはずだ」。死を予感したバルトークはピアニストの妻ディッタ・パーストリ=バルトークのために第3番を書いたのである。そのため、前2作より技巧的には易しく、曲調も抒情的である。ブーレーズはこれに人気女流ピアニスト、エレーヌ・グリモーを配した。女性独特の優しくナイーブな情感が漂う演奏。ロンドン響も柔軟に絡んで美しい。

 バルトークの3曲のピアノ協奏曲録音。ここにはブーレーズという指揮者のすべてが凝縮されている。楽曲の特質を見極め、演奏者の資質を見定め、合体させて高完成度の作品に仕上げる。完全主義者ブーレーズの真骨頂だ。世界のクロサワに「モノを作る人間で完全主義者じゃないやつがいるのかね?」という名言があるが、これはそっくりブーレーズに当てはまる。
 確かな大局観と細部に及ぶ分析力。高度に描いた設計図を完璧に具現化する表現力。産み出された音楽は美しく磨き抜かれ作為のあとは微塵も感じられない。これぞ類稀なるセンスと高度なスキルの賜物。まさに“個性とセンスの完全主義者”なのである。

 ブーレーズの特質を知るもう一つの録音がある。ベルリオーズの歌曲集「夏の夜」(2000年録音)である。ここでも彼は他に例を見ない演奏を提示する。

 「夏の夜」はフランスのロマン派詩人テオフィル・ゴーティエの詩にベルリオーズ(1803−1869)が曲をつけた6曲の歌曲集。伴奏は、最初はピアノ、後に管弦楽版を作った。“ばらの精”“青ざめた鳩”“屍衣の闇”“天使の翼”など幻想的で妖気漂う詩にロマンティックで美しいメロディーを乗せ、透明で色彩感溢れるオーケストラの響きの中に、夢幻の世界を現出している。

 「夏の夜」の録音のほとんどが女声のソロで歌われている中、ブーレーズは複数の歌手を起用した。第1, 6曲をソプラノ、2, 3曲をバス、4, 5曲をテノールという具合。バスによる第2曲「ばらの精」など、女声で聞きなれた耳にはかなりの違和感がある。なぜこんなことを、と思って調べると、なんとこれが管弦楽版のオリジナル形だった。彼には彼なりの意図があり信念があったのだ。ブーレーズの特異な個性が光る。

 7歳年上の指揮者レナード・バーンスタインは「クラシック音楽とは?」という難問に「緻密であること」と答えている。これぞまさにブーレーズの特質ではなかろうか。答えた本人よりも合致している? そんな二人の音楽はまさに対極に位置するといえるだろう。情熱的 emotional なバーンスタイン VS 知性的 intellectual なブーレーズの図式である。

 二人の表現者としての違いが最も際立つのはベルリオーズの「幻想交響曲」か。主人公の見た夢を情熱的幻想的に捉えるバーンスタイン(ニューヨーク・フィル1963録音)。知性的優雅に表現するブーレーズ(クリーヴランド管1996録音)。前者のベストは第4楽章「断頭台への行進」であり後者のそれは第2曲「舞踏会」だ。このブーレーズの節回しのなんとチャーミングなことか! 対極的な二つの「幻想交響曲」。これもクラシック鑑賞の醍醐味。どちらも感動的な名演である。

   このほかにもブーレーズは、マーラーの交響曲全集(ウィーン・フィル)、ストラヴィンスキー「春の祭典」「ペトルーシュカ」(クリーヴランド管)、ドビュッシー管弦楽曲集(クリーヴランド管)、ラヴェル管弦楽曲集(ベルリン・フィル)、モーツァルト&ベルク13、モーツァルト「戴冠式」ベートーヴェン「皇帝」(BBC響 C.カーゾンP)、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」DVD(バイロイト祝祭管)など数々の名演奏を残してくれた。個々に言及すると際限がないので割愛するが、すべてはかけがえのない遺産である。そこには、対象を射る怜悧な眼がある。空間を漂う優雅な響きがある。精神に呼応する清澄な品格がある。そして、これらは、聴き手の感性を測るリトマス試験紙でもある。これからもこれらを感じ取れる自分でいたいものである。個性とセンスの完全主義者ブーレーズ 安らかに!!
 2015.12.28 (月)  2015年末放談 with Rayちゃん
 おいおいRayちゃんいくつになった? そう2歳と8ヶ月ですか。Jiijiともだんだん会話ができるようになったね。ところで、8月パパに渡した「Jiiji戦後70年に思う」は読んでくれたかな。おっと、まだ読めるわけないか。大きくなったら是非読んでね。
 というわけで、思いつくまま、気の向くまま、順不同、独断、偏見、支離滅裂、で今年を振り返ってみましょう。

 今年の漢字は「安」だったね。安保法制、テロの不安、マンションの安全不備、などなど。これはこれで当たってるよね。はてさて、Jiijiの今年は何だったろう。9月には目眩で倒れて救急車→入院。10月にはオペラハウスで転倒。そうJiijiの今年は「倒」だな。

 来年はオリンピックイヤー。2020年は東京だ。そんな中、新国立競技場はもめてるね。組織委員会会長の森善朗元総理がここも絡む。「僕はB案がいいなあ。A案はASEANのお墓みたいだ」だってさ。
 大体、外観だけで判断するセンスが問題。競技場というのは一に選手の使い勝手、二に観客の見やすさ心地よさ。外観なんて二の次なのに。こういう人が組織委員会の会長じゃ周りの人はやってられない。豊田章男氏が副会長を降板したのも頷けるよ。
 翌日「オレは決める立場じゃないから、別に構わんじゃないか。記者に訊かれたから率直に答えたまでだ」なんて逆ギレしてやんの。みっともない。この人昔から無責任の極み。2001年、宇和島の水産高校生の船が訓練巡航中にアメリカの原子力潜水艦と衝突したハワイ沖事故のときも、やってたゴルフをそのまま続けちゃうし、ソチで浅田真央ちゃんがショートでダメだったときも「あの娘、肝心なときいつも転ぶ。どういうわけだ」などの軽口。組織委員長を引き受けたとき「2020年は82歳。なんとかそれまで老醜を晒さず頑張りたい」って言ったけど、もう十分に晒してまっせ。アト4年。いったいどこまで晒すんじゃい!?

 森さんの失言はさておき、12月22日、新国立競技場はA案で決まったね。決まればどちらでもいいや、間に合いさえすれば、とJiijiは思っていたけど、これなにやら波乱含みの様相。
 だいたい何だ、あの選定理由は。最大の理由は工期だって。実現可能性ってことらしい。A案もB案も2019年11月完成。専門家が出来るって言ってるんだから信用すればいいじゃないの。なんで素人が実現可能性を判断しなきゃならないの? 何度も言うけど、競技場は選手と観客への配慮が第一。それがB案が上回ってるならコッチでしょう。B案設計者の伊東豊雄氏が文句言うのはもっともだ。言外には「A案ありきで進んでいた。私の方はスケープゴート」。これが本当なら大問題だぞ。隈さんには責任ないけどね。
 危惧はもう一丁。あのザハ・ハディト氏が「A案の基本構造はウチのパクリ」と言うから、見たら、ほとんど同じじゃないの。これは揉めるぞ。あのおばさん、執念深そうだものなあ。

 エンブレム問題もみっともなかったね。先日外部有識者の検証結果が出たけど、第一次審査で不正があったとのこと。事前に8人に参加を要請していて、一次審査でそのうちの二人の点数が達しなかったので、委員長裁量で押し込んだとか。これ確かに不正。が、一番の問題は、「佐野氏の作品は最終審査まですべて最多得票だったから、出来レースとの批判はあたらない」とした検証報告だ。なんだこりゃ。7番8番に不正があっても1番には影響ないから問題なしだって。競馬の進路妨害じゃあるまいし。こんなアホ検証がまかり通り、マスコミも問題視しない。テレビのコメンテーターさんも無駄口叩いてないで、一人くらいは気がついてよ。橋下さんが「あいつらみんなアホ」というの解るなあ。

 不正といえばFIFAのブラッター会長に8年間の資格停止処分が下されたね。罪状が副会長プラティニ氏への1億7000万円の不正供与。実際はコンナモンじゃないはずだけど、実証が難しいんだろう。「俺は絶対戻ってくる」って言ったとか。マッカーサーじゃあるまいし。8年後は87歳。この方どこまで欲をかきたいの!?

 サッカーといえば、FIFAクラブ・ワールドカップのサンフレッチェ広島の戦いぶりは見事だった。準決勝で南米代表リバープレートに惜しくも敗れたけど、3位決定戦で、アジア王者・広州恒大に逆転勝ち。年間予算500億円、あの中国の成金軍団に10分の1にも満たない広島が勝つ。痛快この上なし!! 森保一監督のモットーは「美しさよりしぶとさ優先」。スタイルは堅守速攻。これぞJiijiが求める日本のサッカーだ。サッカー協会は、即刻、代表監督を森保氏に替えるべし。そうすればロシアは盛り上がるぞーー!

 スポーツついでにフィギュアの羽生結弦。グランプリ・ファイナルで叩き出したトータル330.43の得点は余人を以って越えがたしの高峰だね。彼はその時のインタビューで「プレッシャーは感じます。感じるものです。だから逃れようとは思わない。そういうものだと思って付き合うしかない」みたいな意味のことをしゃべっていた。いとも簡単に飛んでるように見えてもやはり人間。プレッシャーは感じているんだ。それを踏まえて対応する羽生くんは大したもんだよ。
 そこで思い起こしたのは体操のエース内村航平のロンドン五輪。彼は一日目で大失敗をやらかしてメダルの危機に陥ったときこう言った。「オリンピックには魔物がいるんですかねえ。いつもと違う雰囲気でした。だが断じてプレッシャーじゃない」と。いつもと違うということはプレッシャーなんですよ。これを認めようとしないのは彼の弱さだろうね。
 プレッシャーはあるという羽生とないという内村。世界最高クラスの高みにいる二人の差がコレ。Rayちゃん、どちらが強いかは判るよね。あるものはあるんだよ、内村君。君が「プレッシャーはある」と公言できた時、真の高みに到達するとJiijiは思う。

 12月24日に下された高浜原発再稼動の判決について。4月には、福井地裁の樋口英明裁判長が「新規制基準は緩やか過ぎて安全性が確保されない」としたが、今回、林潤裁判長は「新規制基準は最新の科学・技術的知識に基づく地震対策を定め、安全上重要な施設には特に高度な耐震性の確保も求めた内容には合理性がある」として差し止め仮処分を取り消した。新たな証拠も出てないのに、同じ案件を同じ裁判所で、別の裁判長が真逆の判決を下す。司法がこれでいいんですか? 司法の役割とは何だ?法の公正性を守ること、権力を法によってチェックすることだろう。裁判長の交代は異動だから仕方ないとして、この真逆の判決は公正さからはほど遠い。政権の黒い影が見え隠れする。

 来年3月で、テレ朝「報道ステーション」の古館伊知郎が降りるようだ。Jiijiはこの人嫌いだから大歓迎だが、巷ではキナクサイ噂が飛び交ってるね。TBSの「ニュース23」の岸井成格キャスターも降りるらしい。今年3月にはNHK「ニュースウォッチ9」の大越健介キャスターも降板している。この一連の降板劇こそ政権の圧力!? 本当だとしたら、とんでもない言論統制だし、屈するマスコミも情けない。

 12月28日、慰安婦問題前進の報が入ってきた。日韓双方の外相から“最終的かつ不可逆的に解決されたと確認した”との共同声明があった。要するに、韓国は今後この件に関してガタガタ言わないと約束したわけだ。像の撤去については玉虫色で残ったけど、Jiijiは単純にヨカッタと思う。次は北方領土だ。

 安保法制における一連のゴリ押しなど、今年は安倍政権の横暴が目に余ったね。自民党内に議論がなくなっている。党議員は幹部が組んだ政治日程を盲目的にこなすだけ。批判はご法度、対抗勢力の芽は摘まれる。9月の総裁選、無投票の安倍再選劇が典型だ。自民党の皆さん、これじゃたまらんでしょう。自分は数だけの存在か。人間じゃないのかってね。自民党も昔はこうじゃなかったけどなあ。保守本流に対しリベラルが存在感を持っていた。宏池会。今はどうだ。古賀誠、岸田文雄。安倍の言いなり。安倍一強の補完勢力に成り下がっている。主因は小選挙区制だろう。
 じゃ、野党に期待するか? 民主党は終わっているし、維新は分裂。まともなのは共産党だけ? これじゃ自民独裁・安倍一強は永久に続いちゃう。この閉塞感!
 Jiijiは政権交代可能な野党が欲しいよ。でもすぐには無理。ならば、個別はスカでも結集による数での対抗しかない。舞台は来年夏の参院選。秘訣は野党候補の一本化。

 そんな中、12月24日の朝日新聞に「共産党志位委員長小沢氏に接近」なる記事が出ていた。テーマは自民横暴に歯止めをかける“野党共闘”。そのために共産党は一選挙区一候補の選挙戦略を捨てるそうな。共産党アレルギーの民主党も“野党統一候補”で応じるようだ。ならば共産党は思い切って党名を変えて結集勢力の核になったらどうだろう。“日本リベラル党”とか。これならもしや? 微かな期待が湧いてくる。
 それにしても共産党と小沢一郎が手を組むとは隔世の感。JiijiにとってはRCAがCBSと合体した以上の衝撃だあ!!
 というわけでRayちゃん、2015年も暮れますね。今年は五郎丸ポーズや「シャイトウサンダジョ」「穿いてますヨ」などの決め文句も憶えたね。Jiijiとも色々お話できるようになった。来年はうさぎ組に進級だし弟のYou君がひよこ組に入ってくるね。お姉ちゃんの貫禄の見せ所だぞ。
 2016年申年。北海道新幹線開通、伊勢志摩サミット、リオ五輪、参院選、アメリカ大統領選挙などニュースは目白押し。引退宣言した橋下徹、憲法改正、沖縄基地問題、原発再稼動、東日本復興、中国の野望、日韓関係、領土問題、集団的自衛権と日米同盟、中東情勢、テロ対策、地球温暖化、異常気象、景気動向、電力自由化、などからも目が離せない。じゃ、今年はこれまで。来年こそいい年でありますように!!
 2015.12.10 (木)  テロはなくならないのか?
サルトルはなんと言うだろうか?

 今年ももうあと1ヶ月を切った。11月13日金曜日にはパリで同時多発テロが起きた。犠牲者130人。思えばシャルリー・エプド襲撃事件は正月気分も醒めやらぬ1月7日だった。そして、後藤健二さん殺害事件(2月)、チュニス博物館テロ事件(3月)、ロシア旅客機爆破事件(10月)、トルコによるロシア戦闘機撃墜(11月)等が起きた。12月初頭、米カルフォルニア州で起きた銃乱射事件もテロと断定された。テレビでフランス人が「今年はテロに始まりテロに終わった年だった」と語っている姿が印象的だった。テロが蔓延している。聞くところによると一年間に起きるテロ件数は1万回を越えるらしい。
 これらイスラム過激派関連のテロ事件が起きるたびに、「テロに屈しない」「断じて許さない」「日本も決して対岸の火事ではない」などの文言が飛び交う。確かにその通りだ。だが、こんな前代未聞の図式を作り出したのは誰だ?日本が標的になったのは誰のせいだ?
 今回、世界を震撼させたのは、テロリストの残忍非道な手口そのものは勿論だが、むしろそれよりも、フランスという文明国の中に、日頃生活を共にする隣人の中からテロリストが産まれ出たという現実ではないだろうか。

 黒澤明の映画「野良犬」の中で三船敏郎扮する村上刑事は「世の中に悪人はいない。悪い環境があるだけだ」と言う。また、「赤ひげ」の新出去定は「これまで政治が貧困と無知に対して何かしたことがあるか?」と政治に使命を問う。
 “無知”を“差別”と置き換えれば、「環境がテロリストを産む。貧困と差別。そこから生み出される憎悪。これを撲滅しない限りテロリストは産まれ続ける」ということになりはしないか。
 貧困と差別に苦しむ人間がみんなテロリストになるわけではない。二つの要因を撲滅すればすべてがなくなるわけでもない。漠然とした不満からテロに走る人間もいる。そして、彼らを取り込むネットワークがある。テロのインフラである。
 テロと戦うということは、特定の国を空爆すれば済む話ではない。政治は、貧困と差別に向き合い、テロのインフラを壊滅することに意を注がなければならない。

 国際連合は世界平和を目指して設立された。その国連が、特に安全保障において、機能しないのは国々が勝手気ままに振舞うからだ。国益という名のエゴを最優先するからだ。シリアへの対応には中ソが拒否権を発動する。反イスラエルの宣言にアメリカは賛同しない。シリアをめぐり、ロシアとトルコの対立が表面化する。トルコはロシアの戦闘機を撃墜、ロシアはトルコに報復する。軍事経済の両面で。そして誹謗中傷。まさに泥仕合。戦争状態。これを見てISはほくそ笑む。

 シリアの現状はどうだ。ラッカ、カンソフラ。ジャスミン革命以来、政権軍(アサド政権軍)と反体制軍(自由シリア軍)の争いが続く。そこにアルカイダ系のヌスラ戦線とISが絡む。政権軍はロシア、反体制軍はアメリカが支援する。ロシアは反体制軍を空爆する。反体制軍にはトルコ系戦闘員が多いからロシアとトルコは敵対する。ISに対しては米、仏、英、ソ、独が協調する。無分別な戦闘行為の中、住民の犠牲はあとを断たず難民も増大する。犠牲を強いられるのはいつも罪のない民間人だ。未だかつてこれほど複雑怪奇な状況があっただろうか!?

 今なにが大事なのか? みんなわかってる。わかっているくせにできない。NPTだって「俺たちは持ち続けるが、お前らは持つな」で通りますか!? 各国のエゴがまかり通り大国の拒否権がある限り国連の安全保障は機能しない。国連も、そろそろ戦勝国VS敗戦国の図式を描き変えたらどうだろう? どう考えても中韓の下に日独が置かれてるなんて変ですよ。言いたくないけどどっちがまともなの?どっちが優秀なの? ノーベル賞は106個対14個! COP21だって、自国の対応の不備を隠し見せかけの成果を強調する歪んだアピールの場に過ぎない。義務のない目標設定に何の意味があるというのか。地球温暖化とテロを結びつける向きもある。

 中東問題の起点は古く紀元前に遡らなければならないが、近代のそれは第一次世界大戦時のサイクス・ピコ協定であり第二次世界大戦時のイスラエル建国だろう。
 大国はその帝国主義的論理で中東を操ってきた。我欲を押し付けてきた。バカにしてきた。殊に近年のアメリカは「自由」「民主主義」という“アメリカの正義”なるものを標榜し我が物顔で介入している。美名の裏にエゴを隠して。「イラク戦争」が好例だ。
 テロリストの温床と決め付け核兵器開発の言いがかりをつける。そして介入。ところが、手に負えなくなると放棄する。その地を混乱のまま放置する。ISを産む土壌となった。アラブの人々は云う「自由も民主主義もいらん。ほっといてくれ Not Freedom, Not Democracy, It's Dignity」と。アメリカの正義なんてクソ食らえだってね。

 残忍非道な行為に怒りを覚えるのは当たり前。度重なる蛮行は決して許されるものではない。「テロと徹底的に戦う」との宣言も当然である。フランスはロシアと連携しイギリスも呼応する。ドイツもフランスの後方支援に名乗り出る。有志連合空爆相乗りの図である。一方で、アメリカ議会はシリア難民受け入れを拒否した。ドイツでも受け入れ拒否が加速し、先のフランス地域圏議会選挙では、移民排斥を掲げる極右政党FNが二大政党を圧する得票を集めた。これら一連の流れはテロリストとイスラム教徒の同一視につながる。こんなことで本当に問題が解決するのか? 差別の加速が憎悪の拡大を産むだけではないのか。

 日本の政治家は「対岸の火事ではない」と言う。その通りである。日本は集団的自衛権行使に踏み切った。アメリカとの連携を深めたのだから、向こう側からは同類と看做される。東京がパリにならない保障はどこにもない。だから、テロリストの流入を防がなければならない。国内でテロリストが産まれる芽を摘まなければならない。特に航空テロには最大限の注意を払わなければならない。これには与党も野党もないはずだ。今こそ一丸となっての対抗策が必要なときだ。なのに、臨時国会は開かれない。政治家の最大の使命はなんだ? 国民の命を、生活を、守ることだろう。絵に描いた餅の一億総活躍をいうより一億総安全を図るほうが先決ではないのか。
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 テロ事件が起きるたびに文明国側の首脳は言う。「いかなる理由があろうとも、このような行為を許すわけにはいかない」と。確かにその通りだ。だが、「いかなる理由」とはなんなのか? 今こそ、考えるべき時ではないか。
 組織によるテロ、個人によるテロ。多様化し蔓延するテロリズム。テロとの戦いは確かに新たな段階に入ったと思われる。世界は、日本は、この事態にどう対処すべきか? わからない。私ごときにわかるはずもない。 The answer is blowin’ in the wind だ。でもこれだけはいえる。「テロを憎むなら同時に自らの愚かさを認識すべきだ」と。

 J.P.サルトル(1905−1980)は死の少し前にこう言った。「『世界は、醜く不正で、希望がない』 これが死に逝く老人の静かな絶望だ。だが私は、まさしくこれに抵抗し希望の中で死んでゆく。ただ、この希望は作り出さねばならない」。彼が今生きていたら、なんと言うだろうか?
 2015.11.25 (水)  世界野球プレミア12 日韓戦の敗戦
 8回を終わって3−0。世界野球プレミア12準決勝。侍ジャパンはあと一回を2点以内に抑えれば勝利という状況で、9回韓国打線の猛攻を許し3−4で敗戦。優勝は夢と消えた。11月19日、東京ドームでの出来事だった。

 先発の大谷翔平は、7回まで1ヒット11奪三振の快投で韓国打線につけ入る隙を与えなかった。そして、8回、小久保裕紀監督は則本昂大にスイッチ。則本は8回を3人で片付け、残すは1イニング、8番からの攻撃を残すのみとなった。日本の勝利は目前だった。
 9回韓国の攻撃。則本は先頭左の代打にヒットを許す。次の代打にもヒット。打順は1番に戻り、3塁線を破る二塁打。1点を返され無死2、3塁。二番打者には内角球を当たりにいかれ死球。無死満塁2点差。急遽松井裕樹がマウンドに。3番打者に押し出しの四球。1点差。ピッチャー増井浩俊に交代。四番李大浩2点タイムリー二塁打。韓国4−3と逆転。万事休した。こんな悪夢のような展開が未だかつてあっただろうか?

 世界大会、韓国との準決勝 とくれば思い起こされるのは北京オリンピックである。2008年8月22日、日本代表(この時は未だ侍ジャパンの名称はない)は同じ韓国相手の準決勝に6−2で破れたのだった。当然のごとく批判が沸き起こる。曰く「大事な場面での“情”の采配」「仲良しグループの首脳陣」「有力選手の相次ぐ離脱」などなど。監督星野仙一は「自分の弱さが出た」と言いながらも弁明を繰り返した。
 だが、この敗戦。誰がどう悪かろうが、結果は6−2の完敗。9回を残して4点ビハインドという展開は、日本の野球ファンのほとんどが勝利を諦めていたはずである。

 私が言いたいことは、今回のケースは北京五輪とは全く違うということだ。この大会は、9回1回を残して3−0でリード、この状況で負けたことなのである。負けがありえない状況で負けてしまったことなのである。日本中の野球ファンは「これで週末楽しく決勝戦を見られるワイ」と心躍らせた。そんな野球ファンの楽しみを一瞬のうちに奪い去ってしまったことなのである。

 敗因を語るときよく使われる言葉に「それは結果論だ」というのがある。結果論なら誰でも言えると。その通りだ。でも今回だけは、結果論を持ち出してでも批判されてしかるべき結末なのだ。「人間が想像できることは人間が必ず実現できる」。ジュール・ヴェルヌの言葉である。これを借りるならば、このゲームは、「事後にこうすべきだったと想像できるのなら、そのとき実現すべきだった」ゲームなのである。
 また、「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」という箴言もある。負け試合には必ず理由が潜んでいる。負けた理由を洗い出しておくことこそが明日の勝利に繋がるのである。
 敗戦のあと、マスメディアでは敗因究明が喧しい。「なぜ大谷を7回までで降板させた?」「キャッチャー島のリード・ミス」「7, 8回のチャンスに追加点が取れなかった」など個別的敗因。一方で、これらを包括する大局的敗戦論として、「勝利の方程式がなかった」「中継ぎを選出しなかったチーム編成のミス」なども。そして、これらすべてに関わる責任は監督に帰されるべきものである。

 私が尊敬する野球人・野村克也氏は、リーダーは「危機管理能力」を持つべしと言う。即ち、「常に最悪を想定して最善の対策を打つべし」と。

 小久保監督は、大会前、「今回はクローザーを決めていない。やりながら決めこみたい」とコメントしていた。
 現在、日本プロ野球界のクローザーには外国人投手が君臨している。セリーグ優勝のヤクルトはバーネット。日本一パリーグのソフトバンクはサファテである。日本人クローザーは全員彼らよりも劣る。かつての大魔神佐々木主浩、レジェンド江夏豊はもとより高津臣吾、岩瀬仁紀クラスもいないどんぐりの背比べ。小久保監督の大会前のコメントには止むを得ない事情がある。

 大会が始まった11月8日から準々決勝16日まで、6試合における4人のクローザーの働きはどうだったか? 澤村はメキシコ戦で同点タイムリーを、松井はベネズエラ戦で逆転タイムリーを打たれ抑えに失敗。負けずに済んだのは打線のお陰。増井はプエルトリコ戦で3ランホーマーを浴びる。唯一無難に投げた山崎は新人で経験も浅く大事な場面で使えるほどの信頼感はまだない。結局信頼できるクローザーは一人も現れなかった。

 そんな中、一際光っていたのが先発から中継ぎに回った則本だった。3試合5イニングを零封していた。「韓国戦は彼をクローザーに」、小久保監督はこう決断したのだろう。事実、試合後のインタビューで「大谷のあとは則本と決めていた」と語っている。 ここまでは止むを得ない。与えられた戦力でなんとかやりくりするのも監督の重要な責務だから。私も韓国戦はそう予想していた。
 ただ、則本には不安材料が三つあった。一つは、本大会中は中継ぎとしての成果であってクローザーとしてではなかったこと。二つ目はクローザーとしての経験が皆無に近かったこと。三つ目は、11月16日、準々決勝プエルトリコ戦で無駄な登板をさせられたこと。即ち、8回、7−0とリード“誰が投げても勝てる状況”で登板させられたことである。国際試合ではとてつもないプレッシャーがかかる。1回の登板は普段の試合の数倍のエネルギーを消費する。意味のない登板は避けてやるべきだった。この意味なくして害あるのみの起用が破綻を呼ぶ遠因となる。

 本番、予定通り則本は8回から登板。3人で片付ける。9回、先頭打者に5球目をヒット、次打者と3番手には2球目を痛打され、4番手には死球。一死も取れず満塁で松井にマウンドを譲る最悪の結果となった。このあとを語る必要はない。ここで勝負は決まったのだから。クローザー失格の烙印を押された投手たちが、後手後手の起用により、あたふたと崩れ去っていったのである。

 則本が8回を無難に収めたのに9回突如崩れた理由は何か? 真相は本人のみが知る事だろうが、私は二つあると思う。一つは目に見えない疲労の蓄積。元来先発投手の則本が本質も調整法も根本的に違う慣れない救援という任務をやり抜いてきたことからくる肉体的精神的疲労である。だから、プエルトリコ戦の起用はアホなのだ。もう一つは、クローザーとしての経験不足とプレッシャー。日本を代表するクローザー大魔神・佐々木は言う「9回1イニングを抑えきるプレッシャーは並大抵ではない」と。
 3点リード、絶対に負けられない日韓戦の9回1イニング。佐々木の云う“並大抵じゃない”の数倍付けのプレッシャーがその日の則本に襲いかかったのである。しかも目に見えない疲労が肉体的にも精神的にも蓄積されていた。打たれたカウントから判るとおり、明らかに勝負を急いでいた。勝負を急ぐのは疲労による根気の欠落が主因である。

 さて、小久保監督である。「大谷のあとは則本で」は止むを得ない戦術だった。本職のクローザーたちが、それまでに、明らかな不安を露呈した以上、則本を選択したのは頷ける。最大の問題はゲームの推移の中で柔軟な対応が取れなかったこと。即ち、大谷を予定どおり降板させてしまったことである。
 大谷は7回まで韓国打線に付け入る隙を全く与えない。今シーズン随一の快投を演じた。しかも球数は85。余力は十分、明日の登板もない。今シーズン最後、全力を出し切ってぶっ倒れてもOKという状況だった。
 それよりもなによりも、この日の大谷なら2回を2点以内に抑えるのは容易の業。おそらく完封しただろう。ここにおいて勝つための最善策は、救援に不安を抱える則本へのスイッチではなく、大谷を最後までいかせることだった。相手の嫌がることをする。それが勝利の鉄則でもあるのだから。
 韓国チームは大谷交代に「やってくれたぜ。もしやこいつはいけるかも」と勝利への期待が芽生えたに違いない。小久保監督も現役時代、苦手ピッチャーが交代したとき同じ感覚を味わったことがあるでしょう。ヨーシ、ここから打てると。彼は一番大事な場面でこのことを忘れていた。打者としての経験も生かせなかった。

 日韓戦最大の敗因は監督が大谷を続投させなかったことに尽きる。ゲームは生き物である。予測不能な事態は必ず起こる。増してや今回はよい方に転じた事態だった。臨機応変の対応こそが指揮官の責務であるならば、小久保監督にはその勇気と決断力が欠けていた。野村イズムに従えば、危機管理能力に欠けていた。「最悪を想定し最善の対策を講じる」能力に欠けていた。「最悪を想定」とは俄かクローザー則本の乱れ。「最善の対策」は大谷の続投である。

 試合後の監督談話はこうである。「大谷のあとは則本と決めていた。9回の継投が失敗だった。同点で終われなかったのは私の責任だ」。なんじゃいこのコメントは! クローザー失格者たちによる継投を敗因にするセンスのなさ。そこにしか責任を見出せない能天気感! 敗因はそれ以前にあるんじゃないですか!? 何をかいわんやのトンチンカンである。

 コメントから察するに、小久保監督は、則本へのスイッチは間違いではなかったと考えているようだ。予定通りを貫いたまでだと。どこか開き直りにも見える。精神が硬直している。
 さらに察するに、彼は則本に潜む不安を感知できていなかったのでは? 大谷のあと今大会の則本なら2イニングを無難に抑えてくれるだろう、と楽観視していたのではなかろうか。大谷→則本→松井、増井のリレーは能力の右肩下がり。相手打線にとってはいらっしゃいませの流れ。これにも気づいていなかった? 洞察力の欠如と根拠なき楽観論。指揮官として最も忌避すべきことである。

 指揮官としての疑問符はまだある。それは彼が戦略と戦術の違いを理解していないことである。戦略とは大極的視野で物事を捉え相手を打ち負かすために採る方法のこと。戦術はそれを実現するための具体的個別的戦闘のやり方。韓国戦での戦略は「相手打線をあらゆる手段を講じて抑え込み、少ないチャンスを着実にものにしてゲームの主導権を握ること」であり、戦術は「前回完璧な投球をした大谷を先発。救援には本大会実績NO1の則本を起用すること等」であったはず。即ち、戦術は戦略を推進するパーツであるから元々臨機応変に変えてしかるべきものなのだ。勝つためには「則本のリリーフ」という戦術に縛られる必要はさらさらないのである。

 小久保監督は、大会を通じて、選出した4人の救援投手ほとんどにクローザー失格の烙印を押したが、烙印を押されるべきは当の本人だったのではあるまいか。

 私は断言する。小久保裕紀氏が監督である限り侍ジャパンはまともな戦いはできない。選手は素晴らしい。このメンバーなら世界を制して当然の戦力といえる。
 私は提言する。監督を変えるべしと。それができないのなら、彼を、3ヶ月間、野村克也氏の元に通わせることだ。通って監督学を学ばせることだ。野村イズムを叩き込んでもらうことだ。野村氏は日本の野球のレベル向上と球界の発展を心から願う真摯な野球人だ。小久保監督が門を叩けば快く迎え入れてくれるはずである。

    参考資料:「人生で最も大切な101のこと」野村克也著 海竜社
 2015.11.10 (火)  バーンスタイン&NYP 2つの幻想交響曲の秘密 後編
(1)「幻想交響曲」は特殊ケース

 レナード・バーンスタイン&ニューヨーク・フィルハーモニック(以下NYP)による「幻想交響曲」(以下「幻想」)の録音は二つある。

  第1回 1963年5月27日録音 マンハッタン・センター
  第2回 1968年3月5日録音 フィルハーモニック・ホール

 福永陽一郎氏によると、バーンスタイン&NYPは、“当時絶対に再録音はしなかった”らしい。従って「幻想」は例外中の例外であると。これを鵜呑みにしていたら、「前編」を読んでくれたH教授から、「再録は、『幻想』の他にも、チャイコフスキーの『交響曲第4番』とベートーヴェンの『交響曲第7番』がありますよ」との指摘があった。同時に、バーンスタインのweb-site「Leonard Bernstein」も紹介してくれた。ここには、バーンスタインのディスコグラフィー&演奏会のデータすべてが載っている。実にありがたい。早速覗いてみると、確かにご指摘通りだった。まずはこの2つのケースを検証しよう。

*チャイコフスキー「交響曲第4番」

  第1回 1958年9月30日録音 セント・ジョージ・ホテル
  第2回 1975年4月28日録音 マンハッタン・センター

 バーンスタインのニューヨーク・フィル常任指揮者としての在任期間は1958年から1969年まで。この間における録音会場を調べると。

 1958年から1960年2月までは、セント・ジョージ・ホテルが中心。1960年2月から1969年は、マンハッタン・センターとフィルハーモニック・ホールの併用。セント・ジョージ・ホテルの名前はプッツリと消える。ホテル側の事情か、音響面、機能面等より条件の整った会場に移したということか。無論、NYPが、1962年から、本拠地をカーネギー・ホールからフィルハーモニック・ホール(リンカーン・センター内エイブリー・フィッシャー・ホール)に移したことも一因だろう。マンハッタン・センターとフィルハーモニック・ホールは比較的均等に使われており、年代的にも曲目的にも際立った偏りは感じられない。

 二つのチャイコフスキーの「交響曲第4番」。録音技術に関しては、第1回目はステレオ初期で2回目は成熟期。録音会場も2回目の方が条件良好。ならば、再録音は頷ける。  このカテゴリーに入るのが、アイヴスの「交響曲第2番」(1951年と1988年)、コープランドの「交響曲第3番」(1964年と1985年)だ。前者はモノラルとステレオ、後者はレコード会社の違い。より明白な理由がある。

*ベートーヴェン「交響曲第7番」

  第1回 1958年10月6日録音 セント・ジョージ・ホテル
  第2回 1964年5月4日&26日録音 マンハッタン・センター

 ベートーヴェンの「交響曲第7番」(以下「ベト7」)が二つある理由? それは、録音会場の違い以上に、交響曲としての立ち位置に起因するのではないかと推測した。立ち位置なんて変な言葉を使ったのは、他に適切な表現が見当たらなかったからで、要するに、「ベト7」は、ベートーヴェンが作った全9曲の交響曲の中の1曲である、という単純な事実のことである。即ち、第2回録音はベートーヴェン交響曲全集の一環ではなかろうか? そう推測してディスコグラフィーを当たってみた。
 バーンスタインは、1961年9月25日に第5番「運命」を録音、1964年5月18日の「第九」まで、2年8ヶ月の間にベートーヴェンの交響曲全9曲を録音していた。会場はすべてマンハッタン・センター、まさに全集を目論んでの録音だったのである。全集ならば「ベト7」を入れるのは当然。再録音はなんら不思議ではない。

 これで、教授ご指摘の再録音の理由は解明された。残るは「幻想」のみである。

 バーンスタイン&NYPは、なぜ“「幻想」だけ”を再録音したのだろうか? 第1回が1963年マンハッタン・センター。第2回が1968年フィルハーモニック・ホール。パッと見気づくのはホールの違い。フランチャイズでの音を残したかった? ならば、再録は他の楽曲にも及んでいるはずで、理由とはならない。また、既述の通り、レコーディングにおけるこれら二つの会場の使用頻度には偏りがなく、どちらか一方を使用する積極的理由は見出せない。なぜ「幻想」だけが・・・・・の答えにはならない。
 あとは、単純に、“第1回目になんらかの不満がある”という理由。でも、この第1回目はかなりの名演奏。再録を遥かに凌駕している。録音差もない。ならばなぜ敢えて? 謎は深まるばかりである。

(2)1968年3月5日 フィルハーモニック・ホール

 バーンスタイン&NYPによる第2回目の「幻想」は1968年3月5日 フィルハーモニック・ホールで録音された。前回使った輸入盤(SMK60968)には、第1回目の「幻想」と“Berlioz Takes A Trip”(ベルリオーズのサイケデリックな旅行)なるバーンスタインのナレーションによる「幻想」の解説が収録されている。このナレーション収録日が1968年3月5日なのである。さらにweb-siteを調べると同じ日に「運命の誕生」というナレーションも収録していることが判明した。これらは75DC395-7なる規格番号で3枚組CDとして日本盤で発売されている(発売日は不明)が、オリジナルはLPだろう。ではこの内容を記しておこう。( )内日付は録音日。

  1 ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」(1964.1.27)>
  2 英雄の誕生(1965.12.20)
  3 ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」(1961.9.25)
  4 運命の誕生(1968.3.5)
  5 ベルリオーズ:幻想交響曲(1968.3.5)
  6 ベルリオーズのサイケデリックな旅行(1968.3.5)

 [演奏+解説ナレーション]を3組収録した名曲解説アルバムである。バーンスタインはその頃、「ヤング・ピープルズ・コンサート」Young People’s Concert(以下YPC)という少年少女のためのコンサートを行っていた。軽妙なトークで音楽の本質に迫る楽しくてためになるコンサート。CBS−TVのネットワークを通じて全米の家庭に放映され、大の人気番組となっていた。回数は、1958年から1970年まで、53回を数えている。この期間はNYP常任指揮者在任期間を超えており、この事実をもってしても、バーンスタインの力の入れようが分かろうというイヴェントである。彼が、これほどまでに、YPCに拘った理由は何か? それは彼が誰よりも音楽の効用を信じていたからだ。子供時代の音楽体験が、いかに人生に彩を与えるか、ということを知っていたからだ。

 バーンスタインは、対談集の中で、こんなことを語っている。
少し前は、生気のない少年だったのに、音楽のおかげで、私はそれ以降、生きることを渇望するようになり、そして音楽が私にとって生命にも等しいものになったのです。
                (L.バーンスタイン/E.カスティリオーネ「音楽を生きる」青土社刊より)
 彼はまた、いま自分がそれを与える立場になったことの使命と喜びを感じていたのだろう。そんなバーンスタインの理念&特技を放っておくことはない!! そこで立ち上げられたアルバム企画がこれだった。以下は私の想像である。

 時は1968年2月ころ。CBSレコードのプロデューサー、ジョン・マクルーアはバーンスタインにこう提案した。「レニー、相談があるんだ。君がYPCを始めてもう10年になる。相変わらず凄い人気だ。だが、全米には届くが、世界には届かない。だから、レコード版YPCをやりたいんだよ」。バースタイン「面白いね。で、どんな曲をやるんだい?」。M「誰でも知ってる有名どころがいいだろう。1枚じゃ物足りないから3枚くらいは作りたいね」。B「『運命』とか『英雄』あたり?演奏はアリモノでいいんだろう」。M「ウン、でもなあ、何か一つインパクトが欲しい。セールス・ポイントがね。ところで次の定期はなんだったっけ?」。B「『幻想』だけど」。M「ドンピシャだ。公演終了後にレコーディングできないかな」。  もしや、多分、恐らく・・・・・。それとも見当はずれ? 確信は持てませんが、二人の間にこんな会話が交わされたではないかと思うのであります。

 かくして、バーンスタイン&NYPは、1968年2月29日、3月1,2,4日の「幻想」をメインとした定期公演の直後、3月5日 フィルハーモニック・ホールで、企画アルバムのために、「幻想」全曲、ナレーション2本の収録を行った。4日間の力演のあとのレコーディングは鮮度、集中力に問題あり?いやいや、これはバーンスタイン&NYPの常套。1960年のマーラー第4番、1961年のマーラー第3番、1965年のマーラー第7番などがこのスタイル。心配には及ばない。

 絶対に再録音をしないバーンスタインが、「幻想」だけは例外だった理由? それは2回目の録音の目的が、世界の少年少女に音楽の素晴らしさを届けたいバーンスタインの理念に合致したものだったこと。そして、「幻想」こそがバーンスタイン最大のお気に入り曲だったことではないだろうか。

 「幻想」がバーンスタインのお気に入り曲だった証拠がある。YPCでは1放映で一人の作曲家だけを取上げるのは珍しくない。53回の中で、ベートーヴェン、ストラヴィンスキー、シベリウス、コープランドなど10人に及ぶ。だが、丸々一曲だけというのは「幻想」とベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」しかない。バーンスタインが最も敬愛するオペラが「フィデリオ」というのは周知の事実。1989年ベルリン自由の讃歌「第九」演奏会でのコメントは有名だ。ならば「幻想」は最大のお気に入りオケ曲といえるだろう。

 確かに二つの「幻想」を較べると、格段に1回目のほうが優れている。第2回目は、もしや2つのナレーション収録が重荷になった?
 「運命の誕生」も「ベルリオーズのサイケデリックな旅行」も聞けば15分ほどの尺である。その中で、バーンスタインはピアノを弾き、完成に至るまでのヴァージョンを幾通りも再現するなど、実に懇切丁寧に事を進める。たかだか15分のナレーションだが、収録にはその何倍もの時間を費やしたに違いないと思われる。

 1968年3月5日 フィルハーモニック・ホール。バーンスタインはこの日ここで、二つのナレーションと「幻想」全曲を収録した。実に過酷な時間割である。だが、バーンスタインはそれを承知で臨んだのである。世界の少年少女に音楽の素晴らしさを贈り届けたい。その一心で。もしや、そのことで演奏の完成度を損なったかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。われわれは彼の信念こそを感じとるべきなのだ。バーンスタインの例外は彼の音楽への思いの証だったのである。
 2015.10.25 (日)  バーンスタイン&NYP 2つの幻想交響曲の秘密 前編
 「出勤前の車で聴く“元気が出るクラシック”作ってよ」と山形単身赴任中の息子が言ってきた。スポーツ一辺倒がどういう風の吹き回しかと尋ねてみると、なにやら「ある気鋭のマーケターが出社前にクラシック音楽を聴いて気合を入れる」場面をTVで観て、あやかろうと思ったのだそうだ。因みにその曲はチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」で選曲を義務付けられる。「任せときっ!」てなわけで早速選曲に入る。タイトルは「俺のクラシック」とした。
 指定された「チャイコン」を軸に、「タンホイザー序曲」「フィンランディア」「威風堂々」などなど。そんな中に、ベルリオーズ「幻想交響曲」から「断頭台への行進」を入れた。この曲、最後はギロチンがバッサリ落ちるのだが、そこへたどり着くまでの行進が実に元気で迫力に満ちているのである。ラストも聞きようによっては堂々のゴールと感じられなくもない。

 どうせなら“一番元気の出る”演奏をと考え、手持ちCD20数枚の中から選んだのがレナード・バーンスタイン(1918−1990)指揮:NYP(ニューヨーク・フィルハーモニック)のものだった。推進力、高揚感がハンパなく心にグイグイ迫ってくる。このはち切れんばかりの生命力は名盤の誉高いミュンシュもカラヤンも遠く及ばない。流石レニー! これしかない。息子もまさか断頭台へ向かう音楽とは思わないだろう。インレイには“ROYAL EDITION”仕様1968年3月5日、ニューヨークのリンカーン・センターでの録音という英文のクレジット。以下「R盤」とする。
 送ってすぐ「親父、最高だよ」と息子から連絡が来た。メデタシメデタシ。普通話はこれで終わるのだが、本題はこれから。しばしお付き合い願いたい。

 実はこれ、尚美大学H教授からお借りしてコピーしたCD-Rだった。教授のCDコレクションは2万枚!!名盤珍盤貴重盤各種お取り揃え。当方が欲するものはほぼある。万一なくともコンテンツの現状と入手の見通しを的確に教えてくれる、まさに蒐集家の生き字引である。
 バーンスタインの「幻想」は、コピーしたままろくに聞かずに数年間、息子のリクエストでやっと日の目を見たというわけだ。そうなるとコレクターの端くれ。本盤で持っていたくなるものだ。獲得に走る。
 早速、Amazonを調べる。ない。あるのはフランス国立管(1976年録音)のみ。これは所有している。R盤はチャールズ王子の写真を表4に使ったイギリス王室御用達の記念盤だけに廃盤はしかたがないか。ただ、これほどの演奏。復刻されていてもおかしくないはず。

 かくなる上は中古品を漁ろう。というわけで、渋谷のレコファンを覗いてみた。お目当てのR盤はなかったが、「クラシック名曲集第4巻」というバーンスタインのニューヨーク・フィル盤「幻想交響曲」があった(以下「名曲集盤」とする)。クレジットは1968年3月5日ニューヨーク録音だから探し物で間違いない。しかも価格は350円 ラッキー!即買い求めて聴いてみた。その結果は・・・・・。

 なんか音がスカスカしている。潤いがまったくない。変だなあと思い、R盤と聴き比べる。演奏が全然違うではないか?これは一体どういうことだ! 同じニューヨーク・フィル同じ録音日で違う演奏!!さて、どうしよう。フト思いつき昔の本を引っ張り出す。「名演奏家レコード・コレクション2001」(レコード芸術別冊1979年刊)である。書き手は指揮者の福永陽一郎(1926−1990)。バーンスタインの信奉者だ。この本の巻頭には、「転換期を迎えた演奏界」と題する福永氏と音楽評論家・黒田恭一氏の対談が載っていて、これが面白い。何が面白かって、まるで大人と子供のディスカッション。やはり指揮者は格が違う! 余談はさておき。

 では、そのバーンスタインの項の一部を抜き書きさせていただく。
これがその曲のベスト・レコードだと思うレコードも、バーンスタインのものには数多くあるが、ここでは、バーンスタインの芸術を知る上で非常に興味深い例のひとつとしてベルリオーズの「幻想交響曲」を挙げておこう。彼としては極めて異例のことだが、バーンスタインはこの曲を3度、録音している。第1回目が1963年の録音でニューヨーク・フィル、2回目が1968年でニューヨーク・フィル、そして3回目がフランス国立管とのもので1976年の録音である。ごくおおざっぱな目安としてテンポを比較すると――テンポだけが音楽を左右するものでないことは云うまでもないが――1回目が遅めで2回目が全体で4分近く速く、3回目が結局一番遅いテンポでとっている。当時絶対に再録音をしなかったバーンスタインが比較的短時日の間にやりなおしたこと、さらにそれでも満足せず“本場”のオーケストラと再々録音したことは、60歳のこの指揮者のやる気満々の証明であろうか。
 やはり、バーンスタイン&ニューヨーク・フィルの「幻想」は二種類あったのだ。録音年は1963年と1968年。私が持つ2枚のCDのクレジットが双方1968年録音ということは、どちらかが書き間違えていることになる。
 R盤は51分18秒。名曲集盤は47分45秒。名曲集盤が4分近く速い。福永氏の記述“1回目が遅めで2回目が全体で4分近く速く”を当てはめると、R盤が1回目。名曲集盤が2回目。即ちR盤が1963年、名曲集盤が1968年録音と推定できる。これを確定するために、1963年録音とクレジットが入った輸入盤CDを入手した。録音日はしっかりと May 27, 1963, at Manhattan Center, New York City とある。演奏時間もピタリ一致。聞き比べるとR盤と全く同じ。よって、R盤は1963年の第1回録音と確定できた。必然的に名曲集盤は1968年の第2回録音ということになる。R盤の録音日クレジットはアメリカの編成担当者の“ウッカリ・ミス”だったのだろう。これはあってはならないことだが、ありうること。まずは一件落着。

 残る疑問は、バーンスタインは異例といわれる再録音をなぜ行ったかということである。3回目のフランス国立管(1976年録音)は、福永氏の言を借りれば“本場のオケ”の音が欲しかったということだから、ここはこれに従い、対象から外させていただく。

 では、問題をニューヨーク・フィルとの1963年と1968年2つの録音に絞ろう。福永氏記述には「当時絶対に再録音をしなかったバーンスタインが比較的短時日の間にやりなおした」とある。“当時絶対に再録音しなかった”バーンスタインなのだから、僅か5年でしかも同じオケでの再録は異例中の異例ということだ。福永氏はこの理由について詳細な言及はしていない。バーンスタインの権威にしてはチト物足りない。が、行間から、“1回目の録音に満足できなかったから”と読み取れなくもない。

 ならば、2回目の演奏が僅かでもよくなっていなければならない。ところがこれが真逆なのだ。前述したように1回目は迫力輝きすべてにわたって最高。2回目は潤いも覇気もないカサカサの演奏なのだ。簡単な比較として、終楽章の鐘の音の違いを聞いてほしい。1回目のは明るく深くよく通る素晴らしい音。2回目のは暗くて軽く安っぽい。誰が聞いても一聴瞭然。点数を付ければ1回目100点、2回目40点。これ、完全なる改悪だあ!!こんなこと当のバーンスタインが判らぬはずがない。福永氏行間の「満足できなくて再録音」は、全くの見当外れということになる。
 ならばこれはなんなのか? 二種類の「幻想」にはどんな意味があるのか?この解明こそ“クラ未知的”ではありませんか。答えは次回で。
 2015.10.15 (木)  モツレクに斬り込む 最終回〜「レヴィン版」の欠点と岡村版の提唱
(1)レヴィン版の欠点

 ロバート・レヴィン版は、ジュスマイヤーが犯した最大の欠陥=「ホザンナ」の調性違い を是正した画期的な「モツレク」改訂版である。
 教会音楽では、対となる「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」における「ホザンナ」が同じでなければならない という決め事が存在する。ジュスマイヤーはこれに従わなかった。というより、これを知らずに補筆してしまった、という方が正しいだろう(詳細は「クラ未知」6.25)。
 11「サンクトゥス」は二長調(♯2個)、これに続く「ホザンナ」も二長調。ここまではいい。問題はその次だ。12「ベネディクトゥス」を変ロ長調(♭2個)、「ホザンナ」をソノママ変ロ長調で繋げてしまった。二長調に転調しなければならないのに。

 これは教会音楽の伝統に反する。「モツレク」以外の教会音楽でこの決め事を守ってない作品は古今東西唯の一つも存在しない。「モツレク」最大のミスといわれるのはそのためである。ところが誕生から200年もの間、なぜか訂正されずにきた。これにトライしたのがレヴィン版である。
@「サンクトゥス」は二長調 「ホザンナ」も二長調
A「ベネディクトゥス」は変ロ長調
B 7小節の経過句
C「ホザンナ」を二長調(従来は変ロ長調)
 レヴィンは、@Aはジュスマイヤー版を踏襲(オーケストレーションは別)。B7小節の経過句を挿入し、C「ベネディクトゥス」における「ホザンナ」を「サンクトゥス」と同じニ長調に戻した。これで教会音楽の伝統に適ったのである。
 経過句は、変ロ長調B♭から二長調Dに繋げるため、B♭−Dm−Am5−Dmなどの転調を7小節(元は4小節)にわたって重ねてゆく。実に論理的な作業である。これは変ロ長調の♭2つ→二長調の♯2つに移行するからして、実は大変な作業なのだ。だから+3小節もの経過句が必要となったのである。だが、私はこれを問題視する。

 レヴィン版における経過句とホザンナの長さを(マッケラス盤で)検証すると、7小節の経過句は35秒、ホザンナは31秒なので、主部より経過句が長いというアンバランスが生じている。落語でいえば、本題よりもマクラが長いという現象だ。3小節を付け足さざるを得なかったのは、ひとえに変ロ長調→二長調という無茶な転調にその因がある。これを是正できないか?3小節を付け加えずに転調できれば、曲の流れがスムーズとなりバランスも改善される。そんな画期的な解決策があるのだろうか?

(2)「モツレク」岡村版はコロンブスの卵だ

 私が注目したのはジュスマイヤーの設定した「ベネディクトゥス」の変ロ長調という調性である。レヴィンはこれをそのままにした。果たしてこれは絶対的なものなのか?「サンクトゥス」が二長調で「ベネディクトゥス」が変ロ長調。このような形の設定をモーツァルトはしているのだろうか。他の作品で検証する。
@ 孤児院ミサ K133
   「サンクトゥス」ハ長調 「ベネディクトゥス」ヘ長調
A クレド・ミサ K257
   「サンクトゥス」ハ長調 「ベネディクトゥス」ヘ長調
B 三位一体主日のミサ K167
   「サンクトゥス」ハ長調 「ベネディクトゥス」ヘ長調
C ミサ・ブレヴィス K140
   「サンクトゥス」ト長調 「ベネディクトゥス」ハ長調
D 大ミサ曲 K427
   「サンクトゥス」ハ長調 「ベネディクトゥス」イ短調
 「ベネディクトゥス」での「ホザンナ」は、「サンクトゥス」と同じ調性に戻さなければならないから、モーツァルトは相互の調性を転調し易いもの同士に設定している。
 Dの「サンクトゥス」ハ長調、「ベネディクトゥス」イ短調の関係は、平行調。調性記号はソノママなので転調は至極スムーズ。@−Bの「サンクトゥス」ハ長調、「ベネディクトゥス」ヘ長調は下属調の関係。♭一つから0への転調となるから、直前に♭を外すだけ。これもスムーズな移行が可能である。Cも下属調の関係で、♯一つ加えるだけ。
 ジュスマイヤー版における「♭二つから♯二つへの転調」などいうめんどうな例は皆無だ。ジュスマイヤーが「モツレク」で犯したミスは、「ホザンナ」の調性を同じにしなかったという以前に、「ベネディクトゥス」の調性を「サンクトゥス」とは無関連の調性に設定してしまったことにある。そしてこれは、モーツァルトなら絶対にありえない設定なのだ。

 ジュスマイヤーは「サンクトゥス」を二長調に設定した。主調がニ短調だから同主調の設定である。この事例は、他の宗教作品にも数多く見られ、なんら問題はない。したがって「サンクトゥス」の二長調は固定する。
 あとは「ベネディクトゥス」の調性設定である。モーツァルトの事例からしても、ここは下属調に設定するのがベストだろう。二長調の下属調はト長調。そう、岡村版は「ベネディクトゥス」の調性をト長調に設定する。ただそれだけである。ト長調は♯一つ。「ホザンナ」において、正しい調性である二長調(♯二つ)に転調するには、♯一つ加えるだけ。これなら経過句の追加は不要。直前、Cの音に♯を付けるだけで済む。
 「レヴィン版」のように3小節の経過句を加え、難しい和声法を駆使しての転調は不要。「ホザンナ」とのタイム・バランス悪化も防げる一石二鳥の方策ではないか!!

 懸念はジュスマイヤー版から一音半下がってしまうことだが、この程度は危惧するに及ばないだろう。バスの最下音は18小節目のD2となるが、これはギリギリ標準声域内に収まる。他の声部は問題ない。

 その他の部分に関しては拘らない。ジュスマイヤー版でもバイヤー版でもいい。ただし、アーメン・フーガは採らない。モーツァルトの真の意図かどうか不明だからだ(クラ未知8.10)。

 ジュスマイヤーの補筆完成から200年余。教会音楽の伝統を犯したジュスマイヤーのミスは、やっと「レヴィン版」によって是正された。ところがこれは、ジュスマイヤーが誤って設定した「ベネディクトゥス」の調性を不可侵としたために、正しい形にするには難しい音楽技法と小節の追加を必要とした。絶対視する必要のないものを変えなかったがために、労苦を余儀なくされたわけだ。それを可能ならしめたのは、レヴィンの作曲家としての技量に他ならないが。

 私には技はない。だから根本を訂正した。こうすれば正しい形へシンプルに移行できる。しかもレヴィン版以上にモーツァルトの意向に合致している。一石二鳥。200年もの間誰一人気づかなかった単純な方法。岡村版こそコロンブスの卵。ジュスマイヤー版の最善の是正法。もしや、歴史的快挙では!? 皆様のご意見をお寄せください。それでは、これを提言して、長きにわたった「モツレク」を終わりにしたいと思います。
<参考資料>

モーツァルト「レクイエム 二短調 レヴィン版」K626 CD+解説書
   マッケラス指揮:スコットランド室内管弦楽団

モーツァルト「レクイエム ニ短調」K626 楽譜
   レヴィン版(シュトゥットガルト・モーツァルト出版刊)
   ジュスマイヤー補完版(ベーレンライター社刊)
 2015.09.25 (金)  モツレクに斬り込む11〜「レヴィン版」を含む3つの版を考察する
 遂にレヴィン版にたどり着いた。これまで、バイヤー版、ランドン版、モーンダー版と見てきたが、極論すれば私には“どうでもいい”版であった。何度も指摘しているとおり、ジュスマイヤー版最大の欠陥は、11「サンクトゥス」と12「ベネディクトス」のホザンナが異なること、である。前3版はこの最大のミスを放置しているから“どうでもいい”のである。「レヴィン版」はそこにメスを入れた。私の探求もここからやっと本格化するのである。今回はまず「レヴィン版」を考察し他の2つの版にも触れておきたい。これで現行の「モツレク」ほぼすべてのエディションを考察することになる。

(1)レヴィン版

 ロバート・D・レヴィン(1947−)は、アメリカのピアニスト、作曲家、音楽学者。1987年、ヘルムート・リリングが主宰する国際バッハ・アカデミーから「モツレク」改定の依頼を受ける。レヴィンはリリングとの二人三脚で完成、モーツァルト没後200年の1991年8月、リリングの指揮で初演された。

 レヴィン版の特徴をマッケラス盤の解説書から引用しておこう。輸入盤のため翻訳が必要だったが、これについては盟友Brownie川嶋氏にご協力いただいた。私の判らない部分をいとも簡単に訳してしまう、まさにプロの技である。
作品を完成するにあたって、ジュスマイヤーはモーツァルトの死の直後にヨーゼフ・アイブラーが手がけた半完成のシークエンスを役立てることができた。彼はもっと重要な資料――「みいつの大王」のための対位法の研究や「涙の日」を締めくくるアーメン・フーガの冒頭が記されたスケッチ――を活用することもできたであろう。ところが、彼はこのフーガを作らずに「涙の日」を二つの和音で締めくくってしまった。

「サンクトゥス」の後半は、ジュスマイヤー版の音色の矛盾を改訂し、「ホザンナ」部分は「ミサ曲 ハ短調」をモデルにしてモーツァルトの教会音楽のスタイルを実現した。「ベネディクトゥス」における「ホザンナ」は、オリジナルである二長調でなければならないため、そこにスムーズにつながるための新たな経過句を作った。
 上記からわかるとおり、レヴィン版の核心は二つ。「アーメン・フーガの新たな作曲」 と「ホザンナの調性合わせ」である。

 「アーメン・フーガの新たな作曲」は モーンダー版に次いで二つ目である。モーツァルト直筆の「アーメン・フーガ」のスケッチが遺されているということは、モーツァルト自身一度は目論んだわけであるから、トライする価値は十分にあるだろう。
 レヴィンは、アーメン・フーガに至る「涙の日」の道程の中で、ジュスマイヤー版との若干の変更を実行している。一つは第21小節のカット。もう一つは第23小節(ジュスマイヤー版の24小節目)の合唱で、バスをカットしテノールの音型を変えている。
 そして「アーメン・フーガ」に入る。これは88小節という長大なもの。モーンダー版より10小節ほど長い。長さだけではなく、4つの声部の連携の緻密さや音型の組合わせの妙等、レヴィン版に一日の長を感じる。

 だが、やはり「レヴィン版」の最大の功績は「ホザンナの調性合わせ」であろう。この教会音楽の伝統から逸脱したジュスマイヤーのミスが、200年の年月を経て「レヴィン版」でやっと是正されたのである。これは、教会音楽に精通したバッハ演奏の権威ヘルムート・リリング(1933−)に負うところが大きいのではないか。彼との協同作業の中、レヴィンは、転調のための経過句を加えて、オリジナルの「ホザンナ」(二長調)につなげたのである。この詳細については次回に回そう。

(2)鈴木優人版

 鈴木優人(1981−)版は、鈴木雅明指揮:バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏(2013年録音)のCDがある。聴いてみた結果、解説書に記されている改訂コンセプトと収録された演奏との間に差異が存在することが判明した。それは次の2点。
@セクエンツィア(3「怒りの日」−7「呪われし者」)はアイブラーを採用するといいながら、5「みいつの大王」第2拍目に金管のブワーが入る。これは紛れもないジュスマイヤー版である。

A基本的にジュスマイヤー版を尊重するが、技法的に改善すべき点や特記すべき理由があるときに限っては変更した、といいながら、絶対に改善すべき「ホザンナ」の調性を放置している。
 @は大した問題ではないが、Aはバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏だけに残念だ。指揮者の鈴木雅明氏は2012年ライプツィヒ市からバッハ・メダルを授与されている世界が認めるバッハの権威なのだから、これを見過ごしてはならないと思うのである。

 鈴木版の最大の特徴は「涙の日」の扱いだろう。ジュスマイヤーの書いた二音のAmenをRequiemと置き換え、そのあとに新たに作曲した「アーメン・フーガ」をつなげている。確かにこれは史上初の試み。これはこれでアイディアだとは思うが、ただそれだけ。残念ながら、積極的な意味を見出せない。フーガは39小節とかなり小規模。スケール感の乏しさは否めない。

 もう一つ注目は「妙なるラッパ」異版の添付。トロンボーン・ソロの第5小節以降をファゴットに置き換えている。鈴木氏は、根拠として、初出版の楽譜(1800年ブライトコップ社)にその指示があること。1796年、コンスタンツェ列席の演奏の際にもこの形だったこと。ファゴットに置き換えることによる教義的意味合い。などを挙げている。「モツレク」の不可思議さ更に深まるエピソードではある。

 最後に一言。このCDにはクリストフ・ヴォルフという人の楽曲解説(栗山陽子訳)が付いているが、その中にこんな記述がある。
モーツァルトが1971年7月作曲のモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」

モーツァルトのために1971年12月10日に追悼ミサがとり行われた。
 1791年を1971年としたウッカリ・ミス。レコード会社の校正マンは努々注意を怠るべからず、である。

(3)ドルース版

 ダンカン・ドルース(1939−)はイギリスの作曲家。彼は、1991年録音「ドルース版」CDの解説書の中でこう述べている。
ヨークシャー・バッハ合唱団より1984年に委嘱を受けた私の「新版レクイエム」では、できる限り確信を持てる方法で原案をふくらませようとした。つまり、モーツァルトの足形に自分をはめこむとしても、その書法に共鳴し、その作曲法にかなり精通している18世紀の才能ある一作曲家に対してするようにはあまりしたくなかった、ということだ。
 残念ながらこの文章、私の読解力では理解できない(訳が悪いのかも知れないが、検証する気は起きない)。同じように「ドルース版」そのものもなかなかの代物だった。

 最大の特徴は「涙の日」。モーツァルトが筆を止めた8小節目までは(当然ながら)手を加えずに、それ以降はジュスマイヤー完全無視の創作。「アーメン・フーガ」は120小節を越える長大さを誇る(?)も平板。
 「サンクトゥス」では、「ホザンナ」がジュスマイヤー版の2倍以上の長さとなっている。この改訂は悪くない(ジュスマイヤーのは貧弱との評もある)。さらに、「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」はしっかりと二長調に合わせている。これはなかなか! と思ったのも束の間、なぜか長さが20小節ほど短い。折角転調して調性を合わせたのに尺を変えてしまっている。これではなんの意味もないではないか。
 「神の子羊」は比較的ジュスマイヤー版を尊重しているが、「ベネディクトゥス」の中盤は見る影もない。執拗なまでのクラリネットのオブリガートは(敢えてこれを排してバセット・ホルンを使った)モーツァルトの意図を踏みにじるものだし、モーツァルト直筆の「聖体拝領唱」のイントロに大幅な手を加えているのもいただけない。 「ホザンナ」の調性合わせ等見るべき部分もあるが、総じて、ゲテモノとは云わないまでも、かなりユニークな代物であることは確かである。
<参考資料>

モーツァルト「レクイエム 二短調」K626 CD+解説書
   「レヴィン版」マッケラス指揮:スコットランド室内管弦楽団
   「鈴木優人版」鈴木雅明指揮:バッハ・コレギウム・ジャパン
   「ドルース版」ノリントン指揮:ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ

モーツァルト「レクイエム ニ短調」K626 楽譜
   レヴィン版(シュトゥットガルト・モーツァルト出版刊)
   ジュスマイヤー補完版(ベーレンライター社刊)
 2015.09.10 (火)  戦後70年に寄せて(後編)〜戦後復興、そしてJiijiの提言
 Rayちゃん、前回のテーマは日本の敗因だったね。Jiijiの着眼はどうだったかな? そこで指摘した軍部の体質的な欠陥は現代にも確かに流れているよ。トップはお飾り、組織はセクショナリズムで無責任体質。貧乏くじはいつも庶民。世間で喧しいオリンピック問題も相似の体だ。新国立競技場もエンブレムも白紙撤回というテイタラクな結末なのに誰も責任を取らない。本来なら、下村文科相と森組織委員会会長は何らかの責任は取るべきだと思うけど、いかがかな?

 もう一つ大事な問題は、一般大衆に責任はなかったか? ということ。Jiijiのママは終戦時は24歳。訊くと「日本が負けるなんて考えもしなかったヨ。妹が18歳で死んだけどお国のために立派に働いたんだから、悲しいけれど、よく頑張ったと言ってやった」などと話す。また、今じゃ「東條が憎い」なんて言うが、当時は大本営発表に「万歳!!」を叫んでいたんだ。恐らく日本国民の大多数はこんな感じだったんじゃないかな。これ彼女たちの責任か? いやいやこれはマス・コミュニケーションの問題だろう。Rayちゃん、今回はここらから話を進めていこう。

(5)日本人は戦争の推移をどう見守っていたの?

 平均的日本国民は、戦時中、NHKのラジオ、新聞、ニュース映画などから情報を得ていた。これら報道機関はすべて政府の統制下にあったから、情報操作は国の思いのままだった。プロパガンダってやつだ。不利を優位。連敗を連戦連勝。侵略を欧米の圧制からの開放。植民地政策ではなく大東亜共栄圏の確立と、飽くことなくわめき続ける。国民の戦意高揚、戦争の正当化が目的だね。
 そんな報道ばかり聞かされるとどうなる? 国民は軍の進攻を支持し勝利を喜ぶ。根が真面目な日本国民は、“お国のために”を優先し個人の犠牲は当たり前と考える。赤紙(徴兵通知)が来た若者を、「お国のために立派に死んで来い」と言って送り出す。国家総動員、一億総玉砕だ。

 民衆は暗示に弱い。反復されると嘘も真実と思い込む。マス・メディアによる意思の統制。報道の怖さがそこにある。これは程度の差こそあれ現代にも通じる話だよ。

(6)日本は、戦後、どうやって復興したの?

 1945年、敗戦と同時に、自由主義、個人主義、民主主義の波が押し寄せる。日本は一気にこの流れに飲み込まれてゆく。昨日の敵・鬼畜米英は「ギブ・ミー・チョコレート」を叶えてくれる憧れの進駐軍となる。反米から親米。日本人がいきなり変わった。“進歩的知識人”なる文化人も出現した。もしやこの変わり身の早さ、節操のなさも日本人の特質なのかもしれない。この流れに我慢できなかったのは三島由紀夫だが、これはまた別の機会に。

 連合国軍総司令官はダグラス・マッカーサー(1880−1964)。1945年8月30日、厚木に颯爽と降り立った。GHQ本部は皇居お堀の前 第一生命ビルに置かれた。日本は彼の指揮の下占領時代に入る。ここで、「ポツダム宣言」受理の顛末を書いておこう。「国体護持」の条件付きを要望した日本政府だったが、連合国軍の返答は「日本国の体制は連合国軍の下に置かれる」。要は、連合国軍の意のまま。完全な無条件降伏の通達だった。調印は1945年9月2日、東京湾上ミズーリ号船上。日本の代表は時の外務大臣・重光葵だった。

 マッカーサーの最初の命題は国体護持への対処。天皇の処遇だった。欧米の常識からすれば、天皇は戦争の最高責任者、処刑されてもおかしくない。事実アメリカの世論は「天皇に何らかの責任追及を」が大半だったようだ。結果は「天皇制維持」。国体護持は叶った訳だ。これは、マッカーサーの、天皇に対する好印象(初対面時に受けた高潔さ)と自らのミッション達成のためには不可欠という見解。情と功利が相まった結果だった。そして、天皇は、1946年1月1日、人間宣言を行い神の座から降り、新憲法下で「象徴」となった。

 次なる業務は軍部の解体と戦争犯罪人の裁判。日本に二度と再び戦争を起こさせないことが狙いだ。1946年極東国際軍事裁判(東京裁判)で、東条英機、広田弘毅ら7名がA級戦犯の判決を受け処刑された。

 まずは戦後処理の第一歩が終わった。天皇制維持と軍部の解体。マッカーサーの措置は正しかったのか? 日本にとってこれはよかったのか?一筋縄では測れない。ただ、現代日本が引きずる様々な問題や混迷がこの戦後体制を起点としていることは間違いない。だから、現代の解明に戦後措置の検証は不可欠なんだ。

 次は憲法の制定。原案をGHQが作り日本側が多少の手を加えた。第9条における芦田修正(“前項の目的を達するため”の添加)は特に有名だよ。Jiijiは何度読んでも有無の意味合いがわからないが、これは置いておこう。発布は1946年11月3日(文化の日)、施行は1947年5月3日(憲法記念日)だった。
 Rayちゃん、日本国憲法の三本柱は「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」だね。このうち、「国民主権」と「基本的人権の尊重」は文句なしに維持すべきだろう。問題は「平和主義」(憲法第9条)だ。刻々と変化する国際情勢にどう対応させるべきか。これについては議論が膨らむから別の機会に回すよ。あとは「前文」。これは日本国憲法の精神が凝縮されている重要部分だが、この中には絶対に是正すべき文言が存在する、とJiijiは考えてる。どこかって?自分で探しなさい。
 最後に一言。安倍総理は「今の憲法はアメリカの押し付けだから、改正すべし」が口癖。だが、自民党の改正案はスカだ。立憲主義が解ってないし文章にも品格がない。これも、J iijiはもう少し検証するよ。

 Rayちゃん、次は日本の独立。占領からの解放だ。これはサンフランシスコ講和条約で実現したんだ。条約締結は1951年、施行は翌1952年だった。日本の責任者は総理大臣・吉田茂。当時は東西冷戦が始まったばかり。そんな時期、日本が全方位で平和条約を結ぶなんぞは不可能な話。日本はアメリカの西側との講和を優先した。だから未だにソ連とは平和条約を結べていない。北方領土問題も未解決のまま。またこのとき同時に締結した「日米安全保障条約」は日本の安全保障の骨格となって今日に至っている。

 さあ、晴れて独立を果たした日本は、驚くべきスピードで復興を遂げる。吉田茂の経済優先政策と民間の活力の相乗効果。Jiiji、ここは民間の活力に注目したい。「日本人は優秀なんだ!」という自信。「俺たちならできる!」という勇気。戦後初期にそんな庶民のやる気を引き出したレジェンドが4人いた。古橋広之進、湯川秀樹、黒澤明、白井義男だ。

 古橋広之進(1928−2009)は“フジヤマのトビウオ”と謳われた水泳選手。終戦直後に現れて次々に世界記録を更新していったんだ。まずは1948年の日本選手権。
 日本は敗戦国、1948年ロンドン・オリンピックには参加を許されなかった。そこでオリンピックと同じ日に日本選手権を開催する。古橋は400mと1500m自由形に出場。見事優勝するが、そのタイムはロンドン五輪の金メダル選手の記録を遥かに凌いだ。殊に1500mのタイム18分37秒フラットはロンドン五輪の記録より41秒も速い圧倒的なものだった。翌1949年、晴れて世界水泳連盟に復帰を許された日本は全米選手権に出場。エース古橋は400m、800m、1500mをすべて世界新記録で圧勝、世界にその名を轟かせた。「フジヤマのトビウオ」The Flying Fish of Fujiyamaはこのときアメリカの新聞が敬意を払って付けた愛称。この快挙が、まだ食糧事情もままならない日本人に、どれだけ勇気を与えたかは想像にかたくないヨ。

 湯川秀樹(1907−1981)は日本人初のノーベル賞受賞者だ。1934年に発表した「中間子」の存在が確認され、1949年ノーベル物理学賞を受賞した。ノーベル賞の創設は1901年。半世紀を経ての快挙は戦後の日本人に知の自信を植え付けた。戦争には負けたけど俺たち日本人は優秀なんだという自信。彼を第1号として、現在までに通算22人が受賞。これはアジアではダントツの数字だ。因みにこの年の2月には第3次吉田内閣が成立。現代に繋がる吉田路線の基点となった年でもあるよ。

 黒澤明(1910−1998)が「羅生門」で「ヴェネティア映画祭」金獅子賞を受賞したのは1951年。その後の「世界のクロサワ」の活躍はご存知の通りだが、こんな早い時期に世界三大映画祭のグランプリを獲得していたとは!!これも快挙だ。芸術・芸能ジャンルでの自信。これに続くのは1958年小澤征爾のブザンソン国際指揮者コンクール優勝かな。
 日本映画界の隆盛に黒澤が果たした役割は大きい。観客動員は50年代にピークを迎え、1958年には年間11億人を突破する。因みに2014年は1億6千万人だ。

 白井義男(1923−2003)は、1952年5月19日、世界フライ級選手権試合でダド・マリノに勝ち日本人初の世界チャンピオンになった。この日本人初も特筆に価する。戦後7年、日本人にどれだけ勇気を与えたか!余談だが、1955年5月30日、パスカル・ペレスとのリターンマッチ(5回KO負け)で示した視聴率96.1%は、テレビ界の記録として未だに破られていない(どうやって測ったのかなあ!?)。

 戦後僅か7年足らずの間に、スポーツ、自然科学、芸能の各分野において、かくも世界的快挙を成し遂げた上記4人こそ、敗戦の痛手を負った日本人に生きる勇気を与え自信を植え付けた功労者にして日本復興の影の牽引車だ。今ならトップクラスの国民栄誉賞だろう。

(7)独立後の日本の歩み、そして、Jiijiからの提言

 吉田茂―鳩山一郎―岸信介―池田勇人―佐藤栄作―田中角栄・・・・・1947年日本国憲法施行、1950年朝鮮戦争、1951年サンフランシスコ講和条約締結、1952年施行、1964年東京オリンピック、1965年日韓基本条約締結、1968年GNP世界第2位、1970年大阪万博、1972年沖縄返還、日中国交回復など、一連の流れの中、日本は見事な経済復興を果たす。1980年代には黄金期を迎え「ジャパン・アズNO1」なる流行語も生まれた。これは安全保障をアメリカに依存し、軍備に掛かるはずの予算を経済政策につぎ込んだ吉田茂の基本政策が実を結んだ結果だろう。だが、この裏に幾多の問題を孕み、それらが未解決のまま放置され、増殖してきた事実も見逃せない。これらは、無責任事なかれ体質や外交力の欠落等日本的特質に起因するものだと思う。安全保障しかり、憲法問題しかり、北方領土、尖閣諸島、竹島などの領土問題、靖国問題、沖縄問題、従軍慰安婦問題、原発、などなど、現代日本には問題が山積している。
 果たして吉田茂の政策は正しかったのか? 彼の理念は日本のためになったのだろうか? Rayちゃん、この問題意識も忘れちゃいけない、とJiijiは考える。

 戦後の歴史はアメリカ依存の歴史でもある。今後も日本はアメリカの存在を無視することはできないだろう。だが、果たしてこのままでいいのか。依存が迎合に陥ってはいないか。日本人の誇りを忘れてはいないか!? アメリカ依存と日本人の誇り。そのバランスをどう取るか!?

 Rayちゃん、日本に生まれた私たちは幸運だ。世界を見渡せば解るよね。だから、私たちは、この素晴らしい国日本をもっともっといい国にしていかなければいけない。やがて来る君たちの時代には、真に輝ける誇るべき国であって欲しい、とJiijiは思う。
 賢明な君たちにお願いしたい。人間一人ひとりの力は微々たるものだ。だが、民主主義はその微々たる力を結集して大きな力とする、最も進んだシステムのはずだ。個の力は家族の力、家族の力は国の力だ。まずは個の力を上げる。個の力の源泉は歴史を見る目だ。なぜなら、歴史は現代に繋がっているからだ。歴史を抜きにして現代の情勢は語れないからだ。「歴史は繰り返す」とも「歴史は現在と過去との対話」とも云われるのはそのためだ。歴史を見る目を磨く。まずはこの努力を惜しまないで欲しい。これがJiijiからの提言だ。
 2015.08.25 (火)  戦後70年に寄せて(前編)〜日本はなぜ負けたのか?
 Rayちゃん、今年は戦後70年という節目の年。終戦記念日の前日8月14日には「安倍談話」がでたね。別に出すことないのにね。四方八方に配慮した毒にもクソにもならない内容だった。格調あるワイツゼッカー演説とは月とスッポン! まあ、国情も時代も違うから比べちゃ酷とは思うけど・・・・・。
 17日には弟くんが生まれた。Youくん。これから二人仲良くしっかりと生きていって欲しい。そこで、君たちに話しておきたいことがある。70年前、日本が関わった戦争のことだ。君たちには勿論のこと、パパ&ママ世代にも実感はないはずだ。Jiijiは1945年5月20日生まれ。戦争が終わったのはその年の8月15日だから、0歳3ヶ月で終戦を迎えたことになる。
 0歳だから戦争の記憶はあるはずもないけれど、JiijiのJiijiやBabaちゃん、それからママから、少しは話を聞いているから、若い人よりは戦争を身近に感じている部分はあるかな。だから君たちにはJiijiが話すしかない。

 どんな風に話そうか? 時系列で経緯を話す? あまり面白くないなあ。じゃっ、Rayちゃんが「なぜ?」と思う質問を想定して進める、というのはどうだろう。この方が興味が湧くかも知れないね。これから君たちは、学校や社会に出て戦争のことを見聞きする機会があるだろう。そんなときJiijiの話が基準になれば嬉しいな。

 基本は太平洋戦争(1941年12月8日〜1945年8月15日)に置こう。何事も軸があるほうがわかりやすいからね。日本は、なぜ大国アメリカと戦い敗れたのか? Rayちゃん、今回はこれがテーマだ。

(1)日本はなぜアメリカと闘う羽目になったの?

 この大戦が始まる前まで、日本は海外に多くの権益を持っていた。富国強兵を掲げた明治維新(1868年)以来、戦争に負けたことがなかったから、多くの戦利品をいただいていたってわけだ。日清戦争(1895年)では台湾、日露戦争(1905年)では中国・関東州、樺太の南半分、第一次世界大戦では中国・山東省など。1910年には韓国を併合した。
 ここで止めときゃよかったのに、日本はさらなる領土拡大を目指した。これは1929年世界大恐慌による世界的不況などが背景にはあった。人口増もあって、日本国内だけでは食料、資源の確保が難しくなった。これ即ち帝国主義=植民地政策の発想なんだ。

 日本は活路を中国の大地に求めた。1931年、満州事変を起こす。自作自演でね。そして満州に乗り込み住民から土地を奪い、財産を略奪した。そこに、「満州国」なるものを建設した。清国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(1906−1967)を担ぎ出して。“ラストエンペラー”だ。政府は「北の楽園」とかいって国民を煽る。多くの日本人が夢を求めて満州に渡った。
 さらに日本は1937年盧溝橋事件をきっかけに中国との戦いを拡大してゆく。日中戦争だ。日本人の中には、「この戦争は侵略戦争ではない」なんて言う人がいるが、それは大きな間違いだ。武力を使って他国の領地に踏み込み人命や財産を略奪し支配する・・・・・これはどう見ても「侵略」であり「植民地支配」だ。日本人は、まず、ハッキリとこの認識を持つべきだ、とJiijiは思う。安倍首相はなんでこれを認めたがらないのだろう? 「ポツダム宣言」も知らないみたいだし、歴史の勉強が足りないよ。

 この動きに「待った」をかけたのが、アメリカだった。「これ以上調子こいて進撃すれば、資源を止める」。経済制裁だな。当時の戦争遂行に絶対必要な資源、それは石油と鉄。資源の乏しい日本は、航空機用ガソリンと屑鉄の大半をアメリカからの輸入に頼っていた。これらを止められることは、戦争を止めろと云われるに等しい。でももう、どうにも止まらない。じゃどうする? アメリカ以外から得ればいい。それは東南アジア。マレー半島、フィリピン、インドネシア。ここらを略奪すれば大丈夫。こう判断して、日本はアメリカの提言「即刻中国から撤退すべし」を蹴った。こうして、日本は、長く辛い戦いを始めることになった。

(2)日本は大国アメリカに勝てると思っていたのだろうか?

 日本人には「連戦連勝の意識」があった。俺たちは絶対に負けないんだという楽観論だね。バックにあったのは、神風が吹いたといわれる元寇(1274&1281年)や日露戦争であの大国ロシアに勝ったという思い込み。でも、冷静に判断すれば、日露の勝因は切り上げのタイミングのなせる業。アメリカの仲裁で巧い具合に“講和に持ち込んだ”だけの話。日本海海戦でバルチック艦隊を破ったといっても、敵地に出向いて勝ったわけじゃない。相手の進路を阻んだだけ。大国に勝てる力が本当にあったのか、と問うべきだったのだ。

 そんな中、“アメリカと戦ったら負ける”と考えていた軍部中枢の男がいた。連合艦隊司令長官・山本五十六(1884−1943)だ。彼は若い時のアメリカ留学でかの国の底力を知りすぎるほど知っていた。だから対米戦争には反対だった。そんな彼が日米開戦を告げる真珠湾攻撃の指揮官となる運命の皮肉! ここには、国と個人との関係、理念と職務のせめぎ合い、など、普遍的なテーマが潜んでいるよ。

 負けると思っていた山本が出した結論はこうだ。「長期戦になれば日本は必ず負ける。だから、冒頭で壊滅的打撃を与えて優位のまま短期で講和に持ち込む。日本のとるべき道はこれしかない」。彼のこの考えは、日露戦争の経緯を念頭に置いてのものだったろう。1941年12月8日、真珠湾攻撃敢行。太平洋戦争の勃発だった。

 だが、アメリカはそれほど甘くはなかった。ミスが重なり「宣戦布告」通達が遅れ、結果、攻撃は宣戦布告なき不意打ちと化す。卑怯者日本を徹底的に叩き潰せ!大統領ルーズベルトの議会演説は国民感情を煽る。アメリカの闘争心に火が点いた。山本の誤算だった。かくして、日本は奈落への第一歩を踏み出した。

(3)日本はなぜ負けたの?

 そりゃ、国力が低かった。資源もない。工業力も及ばない。元々長期戦は考えていなかった。などなど。でも、敗因はそれだけじゃない。気質、組織の面から、Jiijiの思いつくままに箇条書きにしてみよう。
@不敗神話の弊害
日本は強い、最後は必ず勝つ、という錯覚を持ち続けた。この根拠なき驕りが慢心〜油断となってダラダラと戦局を長引かせる結果となった。これによる被害は甚大! 犠牲者310万人のうち200万人はもはや勝てるはずもない最後の一年で生じたもの。だから早めに止めておけばよかったのだ。でも、これは結果論。

A精神論重視と非科学性
日本兵士の士気は高い。日本は神に守られている。だから負けない、など、非科学的な精神論が幅を利かせ、冷静な読み、科学的な対処を排除した。それは、レイテ海戦に於ける司令長官の檄「天佑神助を信じ全軍突撃せよ」や沖縄戦での浮沈戦艦大和の見殺しなどに典型的に表れている。神頼みじゃ戦争に勝てないよね。

B命令系統の不具合
米英では戦争遂行の最高責任者がはっきりしていた。ルーズベルト大統領とチャーチル首相だ。日本の場合、形式的には天皇だが、責任を取らない象徴的存在に過ぎず、実質的な最高責任者がいなかった。これが、グランド・デザインの欠如をもたらし、そのため、戦争に不可欠な作戦の有機的連動を阻害した。さらには、戦争終結のタイミングを失った。

C組織の硬直化
「上官の命令は絶対」「一兵卒が何を申すか」など、上からの命令は絶対的。建設的意見も頭から否定される。こんな精神風土が組織の硬直化を生み柔軟な対応を阻んだ。

D国優先の理念と長期的展望のなさ
ゼロ戦の設計理念は性能重視で個人の安全は二の次。結果、熟練操縦士の命が危険に晒され徐々に減少。長期的展望がないから操縦士育成のシステムが不備。補充が利かない。結果、戦争末期には熟練操縦士がいなくなる。ならば技術不要の体当たり。これが特攻作戦誕生の一因にも。

E情報戦の不備
アメリカ軍は暗号を解読しミッドウェー海戦に勝利する。山本元帥の死(1943年4月18日)も暗号解読により搭乗機を待ち伏せされたため。ナチス・ドイツが破れた一因は、解読不可能といわれた暗号器“エニグマ”の解読。連合国の勝利は情報戦の勝利でもあった。
 日本が優勢だったのは、真珠湾攻撃から半年ほどに過ぎなかった。あとは敗戦への道を転がり落ちてゆく。この3年8ヶ月を時系列で記しておこう。
1941年12月8日  真珠湾攻撃
1942年 6月    ミッドウェー海戦
1943年 2月    ガダルカナル撤退
1944年12月    レイテ海戦
1945年 3月    硫黄島陥落
     3月10日 東京大空襲
     6月    沖縄戦
     7月26日 ポツダム宣言通達
     8月 6日 広島原爆投下
        9日 長崎原爆投下
           ソ連参戦
       15日 玉音放送 終戦
(4)なぜもっと早く終わらせることができなかったの?

 戦争を終わらせるのは始めることより難しい、とよく言われる。そうだろう、スポーツの世界でも「諦めない精神」が美徳なんだからね。戦争末期、もはや勝ち目はなくいつ白旗を掲げてもおかしくない状況のときにも、軍部の意見は強硬で、特に陸軍においては「徹底抗戦〜本土決戦論」が根強かった。彼らに「一億総玉砕」とか声高に叫ばれれば黙っちゃう。人間、威勢のよさには弱いのだ。
 一方、海軍の意見は「敵に有効な一撃を与えて少しでも有利な状況を作って講和に持ち込む」所謂「一撃講和論」だ。天皇はこれを支持していたともいわれている。
 どちらにしても、即降伏という考えはない。戦争を終わらせた内閣総理大臣・鈴木貫太郎(1868−1948)が悩んだのは、こんな軍部とのせめぎ合いだった。

 1945年7月26日、「ポツダム宣言」が発せられた。連合国の米(トルーマン大統領)、英(チャーチル首相)、中(蒋介石総督)が日本に対して“無条件降伏”を促す宣言だ。これを受けた鈴木首相はすぐさま閣議を開き閣僚の意見を聞く。外務大臣の意見は「国体護持」だけの条件付受諾。陸軍大臣は「国体護持は当たり前。占領は小規模短期間。軍解体は日本の手で。戦争犯罪人裁判も日本で行う」の条件を譲らない。常識的に考えて、陸軍大臣案は連合国側が呑むはずもない。でも、会議というのは強硬論に押されちゃうもの。鈴木は止む無く「断固拒否」を打ち出さざるを得なかった。因みに「国体護持」とは天皇中心の日本国の形態を護る、ということだ。

 結果、アメリカは完成したばかりの原爆投下の大義名分を得た。そして、実行した。もし、時の政府が7月26日の時点で「ポツダム宣言」を受諾していれば原爆投下はなかったはず、これをなしえなかった鈴木は首席宰相としていかがなものか、などという歴史観があるが、無意味だ。後付はだれでもできる。当時の日本では、まず不可能だった、とJiijiは思う。それができるのは神様しかいない!

 鈴木はその後も「ポツダム宣言」受諾実現に懸命に立ち向かい、遂に8月15日の玉音放送〜終戦にこぎつけた。6日に広島、9日に長崎への原爆投下、ソ連の参戦、のあとだった。天皇は「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ出来たのだ」と鈴木首相を讃えたんだ。
 閣議で反対を唱えた陸軍大臣・阿南惟幾は軍の意を通せなかったとして自決している。また、各地に散らばっていた300万の軍隊の中には、“一億総玉砕”を叫んで天皇の意思に従わない兵士も少なからずいた。ことほど左様に戦争を終わらせるのは難しいんだよ。

 Rayちゃん、これで前編を終わります。次回は後編「戦後日本の復興」についてお話しよう。
 2015.08.10 (月)  モツレクに斬り込む10〜モーンダー版は問題あり!
 モーンダー版はイギリスの音楽学者リチャード・モーンダーが作った「モツレク」改訂版の一つ。彼の意図は非モーツァルト的部分の徹底削除である。この版を使った最初の録音は、改訂者自身の監修により1983年9月に行われた。演奏はホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団。国内盤CDには、石井宏氏の構成による解説が付いている。そこには、レクイエム作曲の経緯、ジュスマイヤー版の問題点、モーンダー版の特徴、モーンダー自身のコンセプト文、石井氏の見解と演奏評など、盛りだくさんで充実した内容となっている。  ではこのCDと解説書にしたがって、モーンダー版を読み解いてゆきたい。

 まずはモーンダーの改訂コンセプトから。石井宏氏の文章である。
ホグウッドは日本に来たときの講演(1984年2月)で、自分の行っている作業を絵画の汚れおとしにたとえていた。レンブラントの有名な絵画「夜警」は、暗い夜の絵だとばかり信じられてきたが、時代の汚れを洗ってみたら明るい真昼の絵だったという、笑えない笑い話をしていたが、今回彼がリチャード・モーンダーの革命的な“純粋にモーツァルトの要素だけに基づいた”「レクイエム」を取上げたのも、同じ線上の思考に基づいてのことであろう。従来誤って信じられてきたモーツァルト像を正し、純粋な姿に戻す、その偉大な作業がこれである。少なくとも今回の録音には、補筆したジュスマイヤーの恣意やミスの部分は、ほとんど除かれているといって良いだろう。実証的な研究が生んだ偉大な成果である。
 これは指揮者ホグウッドの話だが、「同じ線上」との表現があるので、モーンダーのコンセプトと置きかえてもいいだろう。また、一読して石井氏もモーンダー版の賛同者と判る。
 冒頭の逸話は「レンブラントの『夜警』は長い間夜を描いた絵画と考えられていた。ところが20世紀に入り、洗浄したところ、表面のニスの劣化による黒ずみが取れ、昼を描いた絵画と判明した」という有名なもの。この例えは酷い!「夜警」真実の姿はモーツァルト、劣化したニスの黒ずみはジュスマイヤーということになる。ジュスマイヤーは劣化をきたす有害者で自分は真実を喚起する正義の味方? これじゃジュスマイヤーが可哀想! ならば私がモーンダーの嘘を暴いてやる。

 モーンダー版の特徴は二つ。「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」をバッサリと斬り捨てたこと。「涙の日」にアーメンフーガを添付したこと。では順を追って中身を見てみよう。

(1)「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」をカット

 モーンダーの作業は「レクイエム伝説」の排除から始まる。
その伝説のよく知られた部分は、すでに死の病に冒されたモーツァルトが、ワルゼック伯爵の使いをあの世からの使者と思い込み、夢中になって仕事にかかり、自分のためのレクイエムを書こうとし、忠実な弟子のジュスマイヤーに、途中で自分が死んだ場合の残りの仕上げ方について、詳細な指示を与えた、などと語ってくれる。が、ジュスマイヤーの仕事には、モーツァルトの意図が反映していないとしたら、それでも旧来の版を認めなければならないのか。
 モーンダーは明らかに、“ジュスマイヤーの仕事にはモーツァルトの意図が反映していない”と考えている。彼はその根拠を、1791年10月8−9日、モーツァルトがバーデンで療養中のコンスタンツェに宛てた手紙を引用してこう言う。
以上の手紙は、どう見ても、死の影に取りつかれて脅えている人間のものではない。また、どう解釈してみても、このときジュスマイヤーはウィーンにはおらず、バーデンにいたのは明らかである。となると、レクイエムの相談などはできないことになる。実際に1791年の手紙を見てゆくと、ジュスマイヤーは何回かにわたってウィーンを留守にしており、そうなるとモーツァルトはこの弟子に、1回か2回かしかレッスンをしなかったのではなかろうかと疑いたくなる。
 このモーンダーの見解はいかがなものか。まずは、モーツァルトの性格を把握していない。モーツァルトが“自分の状況と裏腹な手紙を書く”ことは、よくあること。例えば、1778年7月3日パリから父に宛てた手紙。実際には亡くなっている母のことを重病として伝え、『話題を変えます』として、自作シンフォニー(第31番「パリ交響曲」K297)への大喝采を嬉々として書いているのである。
 さらに、この期間、ジュスマイヤーがウィーンにいなかったからといって、1日2日しかレッスン時間が取れなかったとは、余りに短絡的解釈ではあるまいか。
 たとえそうであったにしても、モーツァルトの天才をもってすれば、伝授は1日もあれば事足りる。ジュスマイヤーはこのあと、(コンスタンツェと共に)ウィーンに戻っているのであるから、時間は十分すぎるほどあったはずである。

 モーンダーは、彼独自の見解により、「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」の二つの楽章をカットした。ところが同じ条件下の「神の子羊」は残した。これは矛盾では? 彼の言い分はこうである。
ところが「神の子羊」は、それほど確信をもって除外してしまうことができない。バスを含めての四声部は、1775年に書かれたハ長調のミサK220「雀のミサ」のグローリアの部分にかなり符合するところがある。またあとのほうにも同じグローリアから取ったような部分が出てくる。これらの現象は一体どういう意味を持つのだろうか。ジュスマイヤーがモーツァルトの作品を部分的に切り抜いて貼り合わせ“合成モーツァルト”を作ろうとしたのだろうか。それとも、コンスタンツェが見つけて、ジュスマイヤーに渡したという書き散らしの紙の内容が、ここで見つかったのだろうか。
 この部分は「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」を「真正のモーツァルトの痕跡はなく、従って完全にジュスマイヤーのものであることは、私にとっては全く疑う余地のないものである」と断じたあとの文章である。“痕跡なし”と断定しているが、「ベネディクトゥス」の主旋律が「バルバラ・プロイラーのための練習帖」K453bからの引用であることは認めている。なんたる矛盾!
 「神の子羊」にもパロディー現象を認めているのだから、唯一「サンクトゥス」だけ引用なしと考える方が不自然。私はこれを「孤児院ミサ」からの引用と考えているが(クラ未知5.15)。

 モーンダーが、「サンクトゥス」「ベネディクトゥス」「神の子羊」のうち、前二者をカットして「神の子羊」だけ残す理由が曖昧である。モーツァルトの痕跡云々と言うなら、「ベネディクトゥス」をカットする理由がない。オーケストレーションの問題なら直せばいい。二者をカットし一つを残す。そこに論理の一貫性がない。どんな形であれ200年も存在してきた作品を現代の人間が切り捨てるには、明白な根拠と確信が不可欠である。彼の作業にはそれがない。創作者への冒涜、は言いすぎかもしれないが、かくなる非論理的な版を私は認めることはできない。

(2)アーメン・フーガ

 モーンダー版のもう一つの特徴は、アーメン・フーガである。これは1962年、ベルリン国立図書館で発見されたモーツァルト直筆16小節のフーガのスケッチが発端である。これが「涙の日」を締めくくるフーガのスケッチと特定されたのは、同じ五線紙に「レクイエム」の「みいつの大王」の断章が書かれていたことなどによる。
 モーンダー版が世に出たのは1980年代。スケッチ発見から20余年。私の知る限り、これが「モツレク」最初のアーメン・フーガ挿入版である。
 モーンダーが、「涙の日」において、ジュスマイヤーが書いた第9小節目からを全面カットし、全く新しく作り直した上にアーメン・フーガをつなげたのは、彼のコンセプトに適ったもので、この措置には一貫性がある。ただし問題は中身である。

 彼はその書き直し部分に「入祭唱」の旋律を引用しているが、ここにおいて冒頭を回顧する意味がどこにあるのか?百歩譲っても、終曲での再度の引用をどう説明するのか?彼は終曲「聖体拝領唱」をそのまま残しているのである。

 モーンダーの「アーメン・フーガ」は、80小節に及ばんとする長大なもの。セクエンツィアをフーガで締める例はなくはない(ミヒャエル・ハイドンの2つの「レクイエム」など)が、当時の宗教音楽の伝統である、とまではいえない。モーツァルトがこのようなスケッチを残したということは、アーメン・フーガで締めることを一旦は目論んだ、それは確かだろう。だがmustならば、スケッチをジュスマイヤーに渡したはずだ。ジュスマイヤーは、結果、フーガにしなかったのだから、スケッチを破棄したはずだ。師の指示を守らなかったと思われたくないからである。スケッチが残っていたということは、モーツァルトがジュスマイヤーに渡さなかったことになる。渡さなかったのだからmustではなかった。もしくは、途中でモーツァルトの気が変わった。フーガでなくともよい!? ということにならないか。

 まあ、これは推測に過ぎない。だが、私は確信している。アーメン・フーガはモーツァルトのmustではなかった、と。なぜなら、私は、この部分にフーガを置くことに、感覚的に馴染まないからだ。ジュスマイヤー版におけるフーガ楽章は、2「キリエ」9「主イエスよ」10「聖なる生贄」14「聖体拝領唱」と並ぶ。ここに「アーメン・フーガ」を入れると、8−9−10とフーガが3つ続くことになる。フーガの印象は強烈である。食傷気味が否めない。だから、私はジュスマイヤーの二音のAmen終止を支持する。このシンプルな感動!これぞジュスマイヤーの閃き、もしやモーツァルトの意図?

 では、このCD、発売当時の評判はどうだったのか? 「レコード芸術」1984年12月号では、二人の選評子のうち一人が推薦しているから、評価はまずまずということになろうか。その演奏評に興味はないが、同じ号に大変興味深い記事が載っていた。大御所・吉田秀和先生(1913−2012)の連載「今月の一枚」である。殊に最後の締めが強烈だった。前段に演奏評などが語られているが、割愛させていただく。

(付録)吉田秀和先生の評論
全曲の結びのフーガは、ジュスマイヤーのものとされて来たが、モーンダーは「もし本当なら、このぼんくらも急に腕を上げたものだ!」といわんばかりの書き方をしている。彼には、ここにモーツァルトの筆が一切入ってないとは信じきれないのだろう。ここだけは割愛せず、残してしまった。
 嗚呼、なんたること! 皆さん、もうお気づきでしょう。先生が仰る“全曲の結びのフーガ”とは終曲「聖体拝領唱」のフーガのこと。これは2「キリエ」をそのまま繰り返したものだからモーツァルトの真筆部分。ジュスマイヤーのものではない。“モーツァルトの筆が一切入ってないとは信じきれない”云々じゃなく、まさにモーツァルト本人の手になる絶対的真正部分なのです。さらに“割愛せず、残してしまった”ですって! 誰が本人の真筆を割愛しますか。
 こんな超常識を日本最高峰評論家といわれる大御所がご存じなかった!!信じられますか!? これはもう、呆れるを通り越して、笑うしかないのであります。

 で、モーンダー版ですか? 問題ありすぎです。
<参考資料>

モーツァルト「レクイエム 二短調」K626
   ホグウッド指揮:エンシェント室内管弦楽団CD +解説書
モーツァルト「レクイエム ニ短調」K626 楽譜(ベーレンライター社刊)
   モーツァルト直筆版 アイブラー補筆版 ジュスマイヤー補完版
 2015.07.25 (土)  モツレクに斬り込む9〜厚化粧を是正したバイヤー版
 「モツレク」にはジュスマイヤー版以外に様々な版が存在する。それらはすべてジュスマイヤー版の欠陥(?)を改定することを目的としている。ここからは、それらの版がジュスマイヤー版とどう違うかの検証に入りたい。比較する観点は二つ。オーケストレーション面と構造面。オーケストレーションについては、鳴き合せをしながら楽譜を比較すればいいだけ。これは既に誰かがやっていることであり、ことさら難しくもない。所謂“クラ未知”的ではないから、軽く流して、構造面を重視する。
 取り上げる版は4つ。バイヤー版、ランドン版、モーンダー版、レヴィン版。ザクっと云って、前二者はほぼオーケストレーション面に限られ、後二者は構造面重視型である。今回は前二者を取り上げる。

<バイヤー版>

 フランツ・バイヤーはミュンヘン音楽大学ビオラ科の主任教授。コレギウム・アウレウム合奏団のメンバーでもある。改訂は1971年。当合奏団による「バイヤー版」の録音は1974年に行われた。

 バイヤーの意図はこのCD解説書の彼自身の著述に明快に記されている。
 モーツァルトの実質を純粋に取り出そうとする努力(この新版はそれ以外のことは意図していない)のために、F.X.ジュスマイヤーの功績を低く見積もるようなことがあってはならない。彼はこの作品を後世のために演奏可能なものとしたのであって、このことはつねに変わることなくこの救護者に感謝されねばならない。しかしながら彼の補完の欠陥を、永久に不可変なものとしてがまんしていくべきではない。
 ジュスマイヤーの功績はちゃんと評価したうえで、補完の欠陥は正すべきとしている。実にまともである。補完の欠陥は“非モーツァルト的”部分と言い換えられる。その範囲は、ほぼオーケストレーションに限られており、アーメン・フーガを付加したり、ホザンナの調性を正したりはしていない。

 では、バイヤー版の改定点をジュスマイヤー版と比較しながらランダムに辿ってみよう。「バイヤー版」参考CDは、ネヴィル・マリナー指揮:アカデミー室内管弦楽団盤(1977年録音)とした。

*2「キリエ」

 終いから2小節目へのアウフ・タクトに、ティンパニーとトランペットによる二音を加える。これは、数小節前から木管と同一リズムを刻んできたティンパニー&トランペットが、他のすべての楽器が同一リズムで鳴っているのに、ここだけ欠落していることの不自然さを補完したものだろう。ジュスマイヤーのウッカリ・ミスと読んだか!?

*5「みいつの大王」

 冒頭2拍目、「管楽器による“ブワー”という合いの手」をカット。ここはジュスマイヤー版随一の印象的部分。ならば、このカットはバイヤー版の目玉!? 過剰的効果の是正。変り種はバーンスタイン盤(1988録音)で、ここにオルガンの強奏を入れる。が、これはいかにも唐突! 過剰を是正する人あれば、増幅させる人もいる。世の中色々である。 ネヴィル・マリナーの「モツレク」正規録音はバイヤー版である。彼は、また、映画「アマデウス」(1984年制作)では、音楽監督と演奏を担当している。この映画の中で「みいつの大王」が掛かるが、それは管楽器の合いの手入り。なんとジュスマイヤー版!! 正規録音ではバイヤー版を採用しているマリナーが、映画ではジュスマイヤー版を選択している。映画には濃厚なジュスマイヤー版が合うと判断したのだろうか。興味深い事実である。

*7「呪われし者」

 冒頭からの5小節、1、3拍目「ティンパニーとトランペットの合いの手」をカット。全体的にトロンボーンの饒舌さを縮小する。過剰味付けの是正である。

 ここも映画「アマデウス」と対比すると面白い。病床のモーツァルトが、サリエリに事細かに口伝えで楽譜を書かせる場面の音楽は「呪われし者」。声楽、ファゴットとトロンボーン、ティンパニーとトランペット、弦楽器など、ここでも、実に正確にジュスマイヤー版をなぞっているのである。「呪われし者」でモーツァルトが書いたのは、声楽と木管、低弦と第1ヴァイオリンまでなので、映画の描写は史実的には間違いだし、無論サリエリに書き取らせるのも映画ならではのフィクションだ。演奏するは無論マリナー&アカデミー室内管。前項と同じパラドクスがここにある。こんな角度から映画と音楽を対比して見るのも一興である。

*8「ラクリモサ」の合唱パートの改定

 第24小節3拍目と4拍目、テノールの上昇音形をカット。主メロのソプラノとバスが下降音形なので(アルトは休止)、“テノールだけ上昇”にバイヤーは違和感を覚えたのかも。他人には些細なことも本人にとっては見逃せない重大事? 昔私の友人ディレクターにもこんなタイプがいたような。

*11「ホザンナ」末尾の繰り返し

 終結部で“in excelsis”を繰り返すことにより4小節を追加している。ホザンナの規模の貧弱さを少しでも是正したい意図か。モーツァルトの他の楽曲でもよくある事例とのこと。これは、シンプルで適切な措置といえる。ただし、この形を採ったのはバイヤー第2版からである。

 以上が、比較的聴感上の差異が認知しやすい部分である。その他については首記の理由により割愛させていただく。

 コレギウム・アウレウム盤CDの解説書に、ちょっと気になる部分がある。やや横道に逸れるが触れておきたい。文章は佐藤巌氏とある。
「涙の日」を締めくくるアーメンによる終結が従来やや感傷的にピアノで終わったのに対して、バイヤー版ではフォルテで祝祭的に終わるのであって、この方が別項で触れたようなこの曲の精神にふさわしいことは一目瞭然である。
 こう断言されると検証したくなるのが“クラ未知”精神。“従来”を“ジュスマイヤー版”と置き換えられるから、早速ジュスマイヤー版の定番演奏で“アーメン”の部分を聴いてみた。結果は、ワルター、リヒター、カラヤン、ベームがフォルテ。ガーディナー、コルボ、ジュリーニはメゾ・フォルテ。どこにも“感傷的なピアノ”は存在しなかった。思うにこれは版の問題ではなく、解釈の問題ではなかろうか。佐藤氏は別項で“続唱(第3曲−第8曲)は最後の審判に対する畏敬と救いを求める祈願を歌うもの”と述べているから“フォルテで祝祭的に終わる”のが相応しいと解釈したのだろう。力強く終わるか、感傷的に終わるか、優しく終わるか。解釈は各人各様。なお、ジュスマイヤー版の楽譜にはピアノ表記はない。

 話を本題に戻そう。バイヤーは解説書の中で、「この版はあからさまな誤謬からこの作品を洗い清め、モーツァルトの後期作品の音響世界をいかようにか可能な限りオーケストラパートの中へ持ちこんで、モーツァルトの総譜の<原像>を、その厚塗りから解放することを狙いとしている」とも述べている。

 バイヤーはまさしくこの目的のためにオーケストレーションを改定した。「クラ未知5.15」でも指摘したとおり、ジュスマイヤーは自己顕示欲が強い。だから彼独特の味が出る。バイヤーは、このジュスマイヤー特有の厚化粧を削ぎ落として、モーツァルト本来の様式に近づけようとしたのである。
 確かに「バイヤー版」は、聴感的には、(ジュスマイヤー版に比べ)スッキリと聞こえる。これがモーツァルト本来の響きといわれればそうかもしれないと思う。だが、ジュスマイヤー版の劇的濃厚さも捨てがたい。“映画にはこれが合っている”と踏んだから、音楽監督もコチラを選んだのだろう。音楽に求められるのは感動である。心にどう響くかである。理屈は理屈として踏まえた上で、気持ちで聴けばいいのである。

<ランドン版>

 高名な音楽学者H.C.ロビンズ・ランドンが1989年に編纂した。コンセプトは「補筆作業はモーツァルトと同時代の人たちの方が適していると信じる」というもの。即ち1「入祭唱」はモーツァルト、2「キリエ」はモーツァルトとフライシュテットラーとジュスマイヤー。3「怒りの日」から7「呪われし者」はアイブラー、8「涙の日」から最後まではジュスマイヤーという当時の寄せ集めスタイルである。

 あまり検証に値しないが、ジュスマイヤー版との目立った差異を軽く記しておこう。「ランドン版」参考CDは、ヴァイル指揮:ターフェルムジーク・バロック管弦楽団盤とした。

*3「怒りの日」
 第2小節目のトランペットのリズム。ティンパニーと別リズムのせいか切れ味に乏しい感じがする。

*5「みいつの大王」
 第2小節木管の「ブワー」がないのは当然だろう。

*7「呪われし者」
 冒頭の5小節「ティンパニーとトランペットの合いの手」が2、4拍目にある。ジュスマイヤー版の1、3拍目とは間逆である。

 一口に言えば、ランドン版とは“最後までやり遂げたジュスマイヤーに途中で投げ出したアイブラーを機械的に差し挟んだ”だけのもの。聴感的にいえば、関東風濃厚味に関西風薄味が秩序なく混在している形とでも言おうか。とても、名著「モーツァルト最後の年」(中央公論社)を書いた人の仕業とは思えない。一体どこに編者としての意志があるのか。どこに意味があるのか。唯一あるとすれば、ヨーゼフ・アイブラーの仕事が日の目を見たということくらいだろうか。
<参考資料>

モーツァルト「レクイエム ニ短調」K626 楽譜(ベーレンライター社刊)
  モーツァルト直筆版 アイブラー補筆版 ジュスマイヤー補完版

モーツァルト「レクイエム 二短調」K626
  シュミット=ガーデン指揮:コレギウム・アウレウム管弦楽団CD +解説書
  マリナー指揮:アカデミー室内管弦楽団CD
  ヴァイル指揮:ターフェルムジーク・バロック管弦楽団CD
 2015.07.10 (金)  モツレクに斬り込む8〜すべてはモーツァルトの指示
 「モツレク」におけるジュスマイヤーの補筆作業の検証は、前章までで、第12曲「ベネディクトゥス」までが完了した。その中で、ジュスマイヤー最大の失敗は11「サンクトゥス」と12「ベネディクトゥス」の中に存在していること、日本の評論界にはこの認識が希薄なこと等を指摘した。あとは二章を残すのみ。13「神の子羊」と14「聖体拝領唱」である。

 確かに、音楽界には、ジュスマイヤーの補筆作業を“モーツァルトの意思に反している”などの理由で是認しない向きがある。ならば「そこにはモーツァルトの意思がある。指示がある」ことを(証明とまではいかなくても)示唆することができれば、ジュスマイヤー版への中傷は和らぐはずだ、との思いを持ってやってきた。私はジュスマイヤーの功績を肯定したいのである。クラシック村の、探求心なき形式主義とそれを翳す権威とやらに一石を投じたいのである。

 先日テレビで作詞家・松本隆が、自身のシューベルト「冬の旅」和訳に関するクラシック界の反応について、こんなことを述べていた。「クラシックの偉い先生で、『冬の旅』は60歳過ぎなければ歌えないと言う人がいるけど、それはおかしいよね。作った人が31歳で、恋に破れて死出の旅をするという内容でしょ。むしろ60過ぎたら歌えないよね」。一理アリ! ことほど左様に、別世界の人たちは柔軟に物事を考えるし、クラシック界はなにが偉いか知らないが、トンチンカンな権威がまかり通っているのである。

 とはいえ、今回は、独自の発見は何もなかった。ただ、モーツァルト指示の痕跡をある程度探し当てることが出来た。本章ではそれらを文献から引用提示するに止めたい。

<13「神の子羊」>

 第13曲は「神の子羊」Agnus deiである。“世の罪を除きたもう神の子羊 彼らに安息を与えたまえ”と歌う。ジュスマイヤーの冒頭のメロディについて、安田和信氏はヴァイル盤CDのライナーノーツの中でこう述べている。
冒頭主題が1775年作曲のミサ曲ハ長調K220の「グローリア」における同一歌詞の楽節に酷似しているのは偶然であろうか。
 「ミサ曲 ハ長調 K220」は、モーツァルト20歳前後の作品で、通称「雀のミサ」といわれている。早速その部分を聞き比べてみると、確かに酷似している。ただし、対応部分が若干ずれていて、「雀のミサ」の方の歌詞部分は qui tollis peccata peccata mundiであるのに対し「レクイエム」ではAgnus dei,qui tollis peccata mundiとなっている。「偶然であろうか」との安田所感については、「この酷似ぶりは偶然ではなくモーツァルトの指示と考える方が自然である」と結論したい。

 デッカのプロデューサー、エリック・スミスは、ガーディナー盤のライナーノーツで、こんな風に述べている。
「オーストリア音楽時報」の1987年1月号には、「サンクトゥス」「ベネディクトゥス」「神の子羊」の3つの章において、アウトラインだけとはいえ、モーツァルトの作曲の可能性を示唆するハルムート・クローネスの文章を掲載している。それによるとゴセックの「レクイエム」(まちがいなくモーツァルトはその曲を知っていたと思われる)は、いくつかの点でモーツァルトの「レクイエム」に似ており、さらにそれが「神の子羊」に似ているのである(明らかにジュスマイヤーはこの困難な仕事を果たす上で、ゴセックの作品を参考にしたと考えられる)。
 早速ゴセック「レクイエム」のCDを入手。ゴセック(1734−1829)といえば、私たちが小学生のとき音楽の時間で教材となったあの「ガヴォット」の作者である。大そう懐かしい名前が舞い込んできたものである。さて、試聴の結果は?

 残念ながら、このハルムート・クローネスの文章を引用したエリック・スミス説は、まったくの見当外れといわざるを得ない。“いくつかの点で似ており”というが、どこが似ているのだろうか? 大体ゴセックの「レクイエム」には「サンクトゥス」はあるが「ベネディクトゥス」はなく、「ホザンナ」も存在しない。「神の子羊」は1分ソコソコのかなり小規模な楽章で、主題は似ても似つかない。もしかしてゴセックには複数の「レクイエム」があるのか?と思い「クラシック音楽作品辞典」(三省堂)を当たるも不明。結論は謎、追求は不要とさせていただく。

 ここはひとまず、「雀のミサ」K220との関連性が見出せたことでよしとしよう。

<14「聖体拝領唱」>

 これはもう説明を要しない。1「入祭唱」第19小節目、弦の前奏から「神を賛美するにふさわしきはシオンなり」Te decret hymnus Deus in Sion とソプラノ・ソロが入る部分から最後までの30小節。2「キリエ」の全52小節。合計82小節の音楽をそのまま14「聖体拝領唱」に当てはめた。
 コンスタンツェは「死を悟ったモーツァルトは、ジュスマイヤーを傍らに呼び、もしこの作品を完成する前に自分が死んだら、冒頭に書いたフーガを繰り返すこと。また他の部分に関して、すでにスケッチしたものを、どこにどのように当てるべきか、を指示した」と述懐している。この中の“冒頭に書いたフーガを繰り返すこと”とは、“14『聖体拝領唱』では2「キリエ」のフーガを繰り返すべし”というモーツァルトの指示に他ならない。

 死を間近にしたモーツァルトが、最後にこのような指示を下したのは実に興味深い。ミサ曲の最終楽章の音楽を同一曲内での既使用楽章をソノママ当て嵌めるというのは、当時の慣習としては珍しいことではないという。この手法を一般にパロディー(引用)と呼ぶが、身近な事例としてはJ.S.バッハ「ミサ曲 ロ短調」がある。この曲は、作者最後の作品という点で「モツレク」と共通する。バッハ研究の名著「バッハ伝承の謎を追う」(小林義武著 春秋社)にはこうある。
バッハが死を予感しつつ「ロ短調ミサ曲」を作曲していたことは、おおいに考えられることである・・・・・中略・・・・・このように、「ロ短調ミサ曲」の作曲中に死を予感していたであろうバッハの心理的状況は、「レクイエム」と取り組んだモーツァルトのそれと比較できよう。ただし、まだ若い、感情の起伏の激しいモーツァルトが死と劇的な対面をしたのに対し、老齢のバッハの場合は、死に対する覚悟がすでに出来ていたかもしれない。
 「ミサ曲 ロ短調」と「レクイエム」。二つの遺作に取り組んだ各々の大作曲家の感情の違いが読み取れて面白い。
 引き続き、この手法=パロディーについて、更なる考察を進めてみよう。参考書は同じく「バッハ伝承の謎を追う」である。

 「ミサ曲 ロ短調」の最終曲「われに平和を与えたまえ」Dona nobis pacemは「グローリア」の中の「われら 汝に感謝し奉る」Gratias agimus tibiのメロディを引用している。
 バッハ研究家フリードリヒ・スメント(1893−1980)は「『ミサ曲ロ短調』の最終楽章は、窮境から生まれた、まったく間に合わせの作品である」と主張する。注目すべきはこの根拠、両楽章の意味合いの差異。「われに平和を与えたまえ」と「われら 汝に感謝し奉る」にはその意味において整合性がないというのである。これは死期を悟ったバッハが完成を急ぐあまり間に合わせたもの、という見解である。
 さらに、「われに平和を与えたまえ」は「われを憐れみたまえ」に通じ、「憐れみたまえ」Kyrie eleisonの章とは整合性があり、これならば相応しい、と。  私はこれを読んでいてハタと手を打った。「レクイエム」におけるモーツァルトの指示はまさにKyrie eleisonの繰り返しではないか!「聖体拝領唱」には直接「憐れみたまえ」の文言はないが「たえざる光を彼らの上に照らしたまえ」Lux perpetua luseat eisなど、同様の意味が籠められている。スメント説に従えば、「キリエ」のパロディーには確固たる整合性があるということだ。故意か?偶然か? モーツァルトの指示は、「ミサ曲 ロ短調」における専門家のバッハへの非難?をも超越した究極の指示だったことになる。

 以上で、「モツレク」完成に向けてジュスマイヤーが行った補筆作業の考察を一応終わらせていただく。最後に、総括する意味で、それらのポイントを箇条書きで残しておきたい。ジュスマイヤーのこれらの作業は、こうしてまとめて眺めてみると、ゼロから作成した最後の4楽章においては、すべてモーツァルトの指示があった可能性が示唆される(ABDE)。これらは、モーツァルトのメモでも発見されない限り、永久に証明されることはないだろうが、私の中でこの可能性は今後益々確信に近づくことだろう。

 @ 8「ラクリモサ」において、モーツァルトが残した「アーメン・フーガ」のスケッチを使わずに、二つの和音でシン
   プルに締めた。これは当時の宗教音楽上の慣わしではないため見過ごせる措置といってもいいだろう。
 A 11「サンクトゥス」はモーツァルトの「孤児院ミサ曲 K139」から引用した。
 B 12「ベネディクトス」の主旋律はモーツァルトの「バルバラ・プロイラーの練習帖 K453b」から引用した。
 C 11「サンクトゥス」と12「ベネディクトゥス」に付随する二つの「ホザンナ」の調性を合わせなかったのは、ジュ
   スマイヤーが教会音楽の伝統を知らなかったからであり、これが「ジュスマイヤー版」最大のミスである。
 D 13「神の子羊」冒頭のメロディは、モーツァルト「雀のミサK220」の「グローリア」の同じ歌詞部分から引用し
   た。
 E 14「聖体拝領唱」の音楽部分は、1「入祭唱」の途中からと 2「キリエ」全楽章をソノママ繰り返した。
<参考資料>

モーツァルト「レクイエム 二短調」K626
  ヴァイル指揮:ターフェルムジーク・バロック管CD 解説書
  ガーディナー指揮:イギリス・バロック管CD 解説書
モーツァルト「雀のミサ」K220
  クーベリック指揮:バイエルン放響 CD
J.S.バッハ「ミサ曲 ロ短調」
  ジュリーニ指揮:バイエルン放響 CD
ゴセック「レクイエム」
  ドゥヴォ指揮:マーストリヒト音楽院室内管&合唱団CD
「バッハ伝承の謎を追う」(小林義武著 春秋社)
 2015.06.25 (木)  モツレクに斬り込む7〜ジュスマイヤーの失敗はなぜ起きてしまったのか?
 ジュスマイヤーは「サンクトゥス」をニ長調で書いている。「モツレク」の主調はニ短調だから、「サンクトゥス」で長調に転じたわけだ。主調が短調で「サンクトゥス」が長調。同じ形を採る他のミサ曲の例をいくつか挙げてみよう。
J.S.バッハ「ミサ曲 ロ短調」 ロ短調→ニ長調
モーツァルト「ハ短調ミサ曲」K427 ハ短調→ハ長調
モーツァルト「孤児院ミサ」K139 ハ短調→ハ長調
ハイドン「ネルソン・ミサ曲」 ニ短調→ニ長調
 短調のミサ曲において、神の神聖を讃える「サンクトゥス」で長調に転じるケースは珍しくない。J.S.バッハの場合は平行調(♯が二つ同士)、他はすべて同主調(主音が同一)への移行である。したがって、ジュスマイヤーが「モツレク」補筆において、「サンクトゥス」を同主調であるニ長調に転じたこと、それ自体はなんら問題はない(付属する「ホザンナ」も同じニ長調)。問題は、次章「ベネディクトゥス」の調性を変ロ長調に設定し、「ホザンナ」を、(ニ長調に戻さずに)変ロ長調のまま終わらせてしまった、ことにある。これが「ジュスマイヤーが犯した最大の失敗」であることは前回指摘したとおりである。

 問題は「ホザンナ」の調性なのであるが、その前に、ジュスマイヤーが「ベネディクトゥス」を変ロ長調に設定した理由を探ってみたい。

<「ベネディクトゥス」を変ロ長調にした経緯を推理する>

 第12曲「ベネディクトゥス」Benedictusは、「祝せられたまえ」といい、“神の御名において来るものに祝福あれ”と詠われる抒情的な楽章である。前述のとおりジュスマイヤーはこれを変ロ長調に設定した。私はこれを奇異に感じる。「サンクトゥス」ニ長調→「ベネディクトゥス」変ロ長調!!

 ジュスマイヤーは「サンクトゥス」をニ長調で仕上げたあと、「ベネディクトゥス」に取り掛かる。参考にしたのは、モーツァルトの「バルバラ・プロイヤーのための練習帖」K453bの一節。これは「最新名曲解説全集」第22巻に楽譜付きで解説されているが、まさにその通り、疑う余地のない相似形であり、モーツァルトの指示に違いないと確信させられる。

   余談となるが、この「最新名曲解説全集」第22巻「モーツァルト『レクイエム』」(音楽之友社刊 小林緑著)の解説に一言。著者・小林緑氏には前回も触れたが、ここでもまた「ホザンナの調性」をスルーしている。ではその「ベネディクトゥス」の解説全文をご紹介しよう。
第一ヴァイオリンに先導されてアルト独唱が改めて「主の御名によりて来給う者」と祝福する。長6度上行を特徴とするこの旋律は、モーツァルトが1784年当時、自分の女性の弟子に与えた「バルバラ・プロイヤーのための練習帖」として知られる作曲の手引き(K453b)の冒頭に見出されるものとそっくりの姿をしているため、ジュスマイヤーが独力で仕上げたとされる楽章においても、師の楽想案出に大きく依存していたことを裏付けている。独唱四部がこの旋律を十分に歌い上げて、最後はドルチェで静かに収束すると、前曲結尾の「ホザンナ」のフガートが回帰、定石どおりのしめくくりとなる。
 前段は問題なし。のみならず、「ベネディクトゥス」の出典が明らかにされて、大いに参考になった。いただけないのは最後の文章。殊に“定石どおりの”という文言には呆れる。“定石どおりでない”ことを、私は問題にしているのである。

 音楽之友社といえば、わが国クラシック出版界の最大手にしてメッカといえる権威ある存在。その単行本の核である「名曲解説全集」は楽曲解説の聖書とも目される。CD解説を書く者は、これを参考にすることが少なくないのである。CD解説書のほとんどが「ホザンナの調性」をスルーしていたのはこれに起因する!? 権威を鵜呑み!右に倣え! なんともお寒い状況である。横道に逸れてしまった。本題に戻ろう。

 ジュスマイヤーは、メロディ・ラインを四重唱で歌わせることとし、まず、「サンクトゥス」と同一のニ長調で仮仕上げをした。
 このケース、ソプラノ・ソロの最高音はC♯となる。「モツレク」のソプラノ・ソロの最高音は「レコルダーレ」におけるA。モーツァルトの他の宗教曲を見ても「戴冠式ミサ曲」K317はG、「ミサ曲 ハ短調」K427はAである。最高音はA〜Gあたりが妥当。C♯はあまりにも高い!!そこでジュスマイヤーは3度下げた。そうすれば最高音はAとなる。これで一件落着。
 こうしてジュスマイヤーは、「ベネディクトゥス」の調性を機械的に変ロ長調に設定してしまった。以上が私の推理である。

<ジュスマイヤーには「ホザンナ」調性合わせの観念がなかった>

 果たして、「サンクトゥス」から「ベネディクトクス」への調性の移行[ニ長調→変ロ長調]は妥当か否か? モーツァルトの他の例を見てみよう。
「戴冠式ミサ曲」K317 ハ長調→ハ長調
「孤児院ミサ」K139 ハ長調→ヘ長調
「三位一体のミサ」K167 ハ長調→へ長調
「ミサ・ブレヴィス」K140 ト長調→ハ長調
「クレド・ミサ」K257 ハ長調→ヘ長調
 お気づきだろうか。「戴冠式ミサ」を除き、他は全て5度下=下属調への移行である。これは一に、モーツァルトが、「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」を「サンクトゥス」の「ホザンナ」と調性を合わせる、その転調の作業を念頭に置いていたからである。下属調から主調に転調するには♭を一つ減らす(もしくは♯を一つ増やす)だけ。転調はスムーズに行われるのである。

 ジュスマイヤーが行った「ベネディクトゥス」変ロ長調の設定。この場合「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」を原調のニ長調に戻すのは至難の業となる。なぜなら♭二個から♯2個への移行となるからである。転調を念頭に置いてない証拠である。

 ジュスマイヤーの頭の中には、「『サンクトゥス』における『ホザンナ』と『ベネディクトゥス』におけるそれが、調性含め同じでなければならない」という宗教音楽の不文律が存在していなかった。そして、モーツァルトにおいては、弟子がまさかそんな基本中の基本を把握していないとは思いもせずに、敢えて口にすることはなかった。余りにも単純な結論だが、私にはそうとしか考えられないのである。

 かくして、「モツレク」は、「サンクトゥス」の「ホザンナ」と「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」が違う調であるという、音楽史上例を見ない奇形に仕上がってしまった。そして、「ジュスマイヤー版」は、現在もこの形のまま演奏され続けている。これを是正するために出てきたのが「レヴィン版」である。が、この版については版の比較の項で詳しく取り上げたい。
<参考資料>

「最新名曲解説全集」第22巻 声楽曲U(音楽之友社)
 2015.06.15 (月)  モツレクに斬り込む6〜ジュスマイヤー最大の失敗
 モーツァルトの「レクイエム」。モーツァルト作品中屈指の人気曲にして、レクイエム史上随一の傑作との評価も高いこの名曲が、実は、音楽史上、唯一無二の規則違反をしている。換言すれば、「モツレク」は、宗教音楽の伝統に反する事柄を内包した特異にして唯一の楽曲なのである。名曲には様々な秘密が隠されているというのはよく聞く話だが、これは中でも超弩級の不可思議さである。今回はこれをテーマに述べさせていただく。

 「モツレク」におけるジュスマイヤーの補筆作業については、歴史的に様々な非難がある。これらは「モツレクに斬り込む1」(3月10日)で書いたとおりである。師モーツァルトとのオーケストレーションの違い。師が書き残した「アーメン・フーガ」を無視したことなど。だが、私に言わせれば、この二つは、取るに足らないとは言えないまでも、大した問題ではない。なぜなら、敢えて言うなら、オーケストレーションはあくまでも味付けであり、衣装のようなもの、中身が変わるわけではない。また“アーメン・フーガ”は、「モツレクに斬り込む4」(4月29日)で指摘したとおり、「レクイエム」の伝統ではないからだ。

 私がジュスマイヤーの補筆で唯一見過ごせないもの・・・・・それは「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」の「ホザンナ」の調性が同一でないことである。これぞ、ジュスマイヤーが犯した最大の失敗といわなければならない。

<「ホザンナ」における決め事>

 「ホザンナ」はイエス・キリストがエルサレム入城の際、群集が発した歓呼の声“Hosanna in excelsis”(いと高き天にホザンナ)のことである。ミサ曲において、「ホザンナ」は、「サンクトゥス」Sanctus(聖なるかな)と「ベネディクトゥス」Benedictus(祝せられたまえ)両曲の末尾に付属する。この二つの「ホザンナ」は調性含め全く同一でなければならない・・・・・これが「ミサ曲」の決め事=伝統であり、唯一の例外も存在しない。

 以下、モーツァルト前後の時代の代表的なミサ曲における「サンクトゥス」、「ベネディクトゥス」、「ホザンナ」の調性を列記しておこう。
J.S.バッハ「ミサ曲 ロ短調」 サンクトゥス(以下S) ニ長調
                  ベネディクトゥス(以下B) ロ短調
                  ホザンナ(以下H) 二長調
ハイドン「ネルソン・ミサ」 S=二長調 B=ニ短調 H=二長調
ミヒャエル・ハイドン「レクイエム ハ短調」 S=ハ短調 B=変ホ長調 H=変ホ長調
モーツァルト「戴冠式ミサ」K317  S=ハ長調 B=ハ長調 H=ハ長調
モーツァルト「ミサ曲 ハ短調」K427  S=ハ長調 B=イ短調 H=ハ長調
ベートーヴェン「荘厳ミサ曲」 S=ニ長調 B=ト長調 H=二長調
シューベルト「ミサ曲 第6番」 S=変ホ長調 B=変イ長調 H=変ロ長調
 ご覧の通り、「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」は対を成し、各々に付属する「ホザンナ」は調性含め全く同一である。後々、例えばフォーレの「レクイエム」のように、「ベネディクトゥス」の省略など、変則的な形式のものも出てくるが、「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」が対を成す楽曲においては、二つの「ホザンナ」は例外なく調性含め同一である。これは近代の作品、ブリテンの「戦争レクイエム」においても然りである。

 では、「モツレク」においてジュスマイヤーが補筆した三者の関係やいかに?
サンクトゥス=二長調 ホザンナ=二長調
ベネディクトゥス=変ロ長調 ホザンナ=変ロ長調
 なんと、同一であるべき二つの「ホザンナ」の調性が異なっている!「サンクトゥス」の「ホザンナ」は二長調、「ベネディクトゥス」のそれは変ロ長調。繰り返すがこのような例は数多のミサ曲の中に全く存在しない。ジュスマイヤー補筆の「モツレク」だけが唯一の例外なのである。これぞジュスマイヤー最大の失敗といっても過言ではない。師の言う「とんまのジュスマイヤー」が肝心なところで出てしまった!!のである。

<わが国評論界の意識度を調査する>

 私は現在「モツレク」のCDを26枚所有している。ワルター、シューリヒト、ベーム、カラヤン、リヒターら、ドイツ系巨匠たち。ショルティ、デイヴィス、アバド、ムーティ、バレンボイム、アーノンクールなど、それに続く名指揮者たち。ヨッフム、ラインスドルフらミサの典礼の中で行われたもの。中には「ラクリモサ」の第8小節で中断、突然ロック音楽に様変わりするキワモノまである。ほとんどがジュスマイヤー版だが、バイヤー版、モーンダー版、ランドン版、レヴィン版も一応そろっている。

 これはなにもコレクションを吹聴したくて記したのではなく(無論それほどのモノでもありませんが)、ジュスマイヤーが犯した最大のミスが、わが日本の評論家諸先生においてどれほどの認識があるかを知りたかったからである。では、その検証に入ろう。

 26点のCDのうち、解説書付きは20点。その中で、「二つのホザンナの調性が違うこと」に触れている解説はどれくらいあるのか?
 「モツレク」を語るとき、ジュスマイヤーの補筆を外すわけにはいかないだろう。ならば、その中で彼の犯した最大級のミスについては、かなりの確率で言及されているはずである。そう予想して臨んだ検証であったが、結果、大きく外れた。その数はなんと一つであった。これは私にとって驚き以外の何物でもない。一体わが国の評論家諸氏は何を考えているのか!?
 確かに私の所有する「レクイエム」のCDは一部に過ぎないだろう。だがしかし、名盤と定評あるものや各版の代表的なコンテンツはほぼ網羅しており、格別偏っているとは思えない。一事が万事とは言えないまでも、概要くらいは掴めるコレクションとの自負はある。では、「ホザンナ」の調性に言及した唯一の解説文をご紹介する。

安田和信氏の解説文(ブルーノ・ヴァイル指揮 1999年録音CD)
モーツァルト、ひいては18世紀における「ベネディクトゥス」における“Hosanna in excelsis”のフガートは、この楽章と「サンクトゥス」の調が異なる場合は「サンクトゥス」の調に戻すことが例外のないやり方だったのに対し、ジュスマイヤーは変ロ長調のままフガートを展開してしまった(この誤りはドゥルース版とレヴィン版では訂正されている)。これはジュスマイヤーが犯した誤りの中でも最大級の誤りに数えられる。
 これが「ジュスマイヤーのミス」に触れた唯一の文章である。因みにこのCDは「ランドン版」である。引き続き、無頓着な解説文もいくつか紹介しておこう。これらは全て「ジュスマイヤー版」である。

黒田恭一氏(カール・ベーム指揮1971年録音)
「サンクトゥス」・・・・・後半はアレグロ、4分の3拍子に転じる。合唱がバス、テノール、アルト、ソプラノの順で加わり大らかな響きのフーガを形づくっていく。
「ベネディクトゥス」・・・・・アレグロ、4分の3拍子の後半に入って、合唱によるフーガがくりひろげられる。
 ホザンナ部分を“大らかな響き”のフーガと表現されているが、「ホザンナ」という文言もなく、無論、調性にも触れておられない。洞察そのものが実に大らかな文章である。

海老澤敏氏(ヨッフム指揮1955年録音)
「サンクトゥス」・・・・・以下の部分はジュスマイヤーが作り上げた部分である。まずアダージョ、二長調、4分の4拍子(以下省略)。
「ベネディクトゥス」・・・・・アンダンテ、変ロ長調、4分の4拍子・・・・・中略・・・・・テンポはアレグロ4分の3拍子となり、前曲にみられた「いと高き天にホザンナ」のみじかいフーガが続いている。
 両曲の調性が明記されているということは「ホザンナ」の調性の違いを認識しておられるはず。“違う”「ホザンナ」なのに“前曲にみられた”の文言。これは矛盾。無神経。海老澤先生といえば、日本人唯一のモーツァルテウム名誉財団員にしてわが国モーツァルト研究の第一人者といわれている大御所である。大御所ならば、「前曲は二長調、ここは変ロ長調。これぞジュスマイヤー最大のミスである」くらいの表現が欲しかった。

 以下、平均的無頓着型を3点まとめて略記させていただく。

佐藤章氏(リヒター指揮1961年録音)
「サンクトゥス」・・・・・後半には短いが堂々たる“Hosannna”のフーガがつづく。
「ベネディクトゥス」・・・・・最後にサンクトゥスと同じ“Hosanna”のフーガがくり返される。
茂木一衛氏(カラヤン指揮1975年録音)
「サンクトゥス」では主の栄光を高らかに歌い、後半はフガートに移行する。「ベネディクトゥス」はモーツァルトによる旋律が主題として用いられ、重唱により抒情的に展開される。後半は前章のそれと同様のフガート。
小林緑氏(コープマン指揮1989年録音)
「サンクトゥス」・・・・・レコルダーレを想起させる旋律に基づく簡略なフガートが続く。
「ベネディクトゥス」・・・・・<Hosanna>のフガートが回帰して締めくくられる。
 これらは、一様に「“同じホザンナ”がくり返される」と記述されている。浅薄極まりない話である。とはいえこれらは、まだ、「ホザンナ」という文言があるだけましかもしれない。中には、各曲の調性と拍子の列記に止まっているものすらある。寒いぞ!日本の評論家諸氏!!である。

 なお「レヴィン版」を収録したマッケラス盤(2002年録音)は、輸入盤につき、拙い英語力を駆使して訳してみたが、そこには「ジュスマイヤーのミス」が明記されていた。「レヴィン版」は、これを是正することを最大の目的の一つとしたわけだから当然といえば当然ではあるけれど。これについては「版の比較」の項で言及したい。

 次回は「ジュスマイヤー最大の失敗」はなぜ起きてしまったのか?そのミステリーに挑戦する。
 2015.05.25 (月)  これでいいのか 日本!!with Rayちゃん
 Rayちゃんコンニチワ。このところ君が風邪気味なので、Jiijiは心配してる。早く治して、アンパンマン・ゲームに行こうね!

 さてと、5月20日の国会で、共産党・志位委員長の質問に、安倍総理がしどろもどろだったそうな。なにやら「ポツダム宣言」を知らなかったとか。たしかに、Voiceでの発言を見ても無知蒙昧の極み。「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を2発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかりにたたきつけたものだ」だってさ。コレ間逆! 宣言が出されたのは1945年7月26日。原爆投下が8月6日と9日だからね。これを当時の鈴木貫太郎内閣が、即呑めば、原爆投下は避けられた!? ところが、内閣はこれを受けて「黙殺し断固戦争完遂に邁進する」なる声明を出したんだ。これで米国に投下の大義を与えわけ。日本は戦争終結の機会をいったい何度誤ったのだろう。
 志位委員長は第6&8項を問題視しているようだが、Jiijiはむしろ第12項に注目したい。「ポツダム宣言」第12項にはこうある。大意は「平和的傾向の責任ある政府が樹立されたら、占領軍は撤退する」。なのに米軍は未だに日本に駐留しとる。ビンラディンはこれが許せなくて同時多発テロをやったんだぜ。安倍さんにテロもて戦えとは言わないけれど、揺さぶりぐらいはかけてほしい。
 「ポーツマス条約」は知らなくてもまあ許されるが、「ポツダム宣言」を知らなきゃ総理大臣は務まらないぜ。ましてや、「戦後レジームからの脱却」はあなたの決め台詞でしょう。“戦後レジーム”なるものは、「ポツダム宣言」から始まってるんだからさ。

 先月末、おべっかタラタラ演説でアメリカから「いい子いい子」されて喜んでたみたいだけど、みっともないったらありゃしない。誇りも何もあったもんじゃない。Jiiji、実に不愉快だったよ。あれじゃ「恋の奴隷」“♪右といわれりゃ右向いて とても幸せ だからいつもそばにおいてね 邪魔しないから あなた好みのあなた好みの女になりたい”だぜ。そりゃ、アメリカは拍手喝采するでしょうよ。馬鹿にしながら。

 5月20日はまた、安倍晋三総理大臣の在任日数が1242日となって、祖父・岸信介氏を越えたことが話題になったね。本人曰く「在職日数ではなく、何を成し遂げたかが問題だ」と、相変わらず仰ることはごもっとも。「安倍の中には岸が住む」などとほざく岸研究学者もいる。でもRayちゃん、よーく考えてみよう。祖父は、サンフランシスコ条約締結時に止む無く付加された安保条約の不平等性を、多少なりとも是正するために頑張った。一方、孫は、憲法解釈を変えてまで「集団的自衛権」を容認するという相手への過剰サービスを図りながらも、同胞の痛みには耳を貸さない冷酷対応。いったいどっちを向いて仕事してるんだって言いたくなる。祖父の精神基盤は愛国で反米。孫は国(沖縄)を見放し米に擦り寄る。祖父と孫、まるで間逆じゃないか。

 安倍総理にお願い。歴史を学んだ上でアメリカにこう主張してほしい。「『ポツダム宣言』には“日本が民主国家になったら占領軍は撤退する”とい書いてある。“だから出ていけ”とは言わない。互の事情があるので。ならば、せめて徐々に日本の地位向上を図ってほしい。沖縄の負担軽減にも協力してほしい。日本が攻められたら必ず守ると約束してほしい」って。これくらいのことを言ってもバチは当たらないと思うけどね。

 1980年代、時の官房長官・後藤田正晴は、レーガンから中曽根総理への「機雷掃海に自衛隊の海外派遣を」なる要請に、頑として首を縦に振らなかったという。「そんなことをすれば必ず戦になる。今の日本にその覚悟があるのか」と総理に迫ったのだ。私はこれをそのまま安倍さんにぶつけたい。当時はイラン・イラク戦争。現代は中国の脅威。時代も地理も違うので、安倍総理の云う「集団的自衛権行使」に100%反対はしない。「武力行使三要件」にまともに該当するなら、(国際平和支援で)後方支援に徹することができるのなら、ギリギリ憲法の精神に反しないと解釈してやる。日米同盟の強化は、少なからず横暴中国への抑止力になりうるだろう。

 だがしかし、判断する人間が危うい情けない。総理は、民主党・岡田克也代表の質問に、「機雷除去は例外として認められる」と答弁している。例外ってなんだ? その一方で「存立危機事態」に該当するともおっしゃる。国際法上、「機雷掃海」は武力行使に相当するらしいから、「三要件」に照合したということですか? 想定はホルムズ海峡だろうが、でもこれが、「日本の存立が脅かされ、国民の幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」なのですか? 「集団的自衛権」の憲法解釈で詭弁を弄した高村副総裁が、先日、「中東からの原油が止まれば北海道で凍死者続出。これまさに存立危機事態」なんて、また懲りもせずに見当外れを説いている。原油獲得の手段は他にいくらでもありますよ。こんなこと、小学生でも判ります。こんな子供ダマシが本気で通ると思ってるのかなあ。政府首脳は国民を舐めとるのかね!?「存立危機事態に経済問題を持ち出すべきではない」という公明党がまともに見えてくる。存在自体が憲法違反の公明党がマトモとは! Jiiji、ホントに情けなくなるワ。

 危機管理体制の現状も危うさの極み。IS人質事件で露呈したお寒い限りの情報網。これを「対応に誤りはなかった」と総括する事なかれ主義。実に無責任。事もあろうに、総理大臣官邸にドローンが落下したら二日間も放置されちゃった。こんな危機管理の甘い国がありますか。国の中枢ですよ。世界はきっと笑ってるぜ。
 Jiijiが危惧するのは、脆弱極まりない足場の上に「積極的平和主義」なるものを構築しようとする危うさ。安保法制を国会提出前に対米確約してしまう軽率さ。そんな上滑りかつ前のめりの危険性だ。
 まずは、危機管理体制を確立すること。自前の情報網を整備すること。国を守る自覚と覚悟を持つこと。日本人の誇りを持つこと。安倍総理初め国のトップにこれらの意識が高まらない限り、Jiijiは「集団的自衛権行使」を認めるわけにはいかないのだ。

 お次はRayちゃん、橋下徹氏の敗北について。5月17日に行われた大阪都構想の住民投票は、賛成69万4844票 対 反対70万5585票と僅差で反対が上回った。Jiijiは賛成だった。大阪府と大阪市が互いのコミュニケーションもなく無駄な二重行政を垂れ流しているとしたら、是も非もなく変えるべきだと思ったからだ。年齢別に見ると70代以上は60%が反対。20−30代は60%が賛成。未来のない年寄りは保守、未来に生きる若者は改革を望んだ。政治は誰のものだ。みんなのもの。それはいい。でも、どちらかといえば未来を見据えるべきじゃないか。若者の意向を汲むべきじゃないか。この選挙に限っては未来係数制を適用してほしかったな(そんなもんあったっけ?)。年寄り票は1割減、若者票は1割増、とかね。Rayちゃん、Jiijiはいつも君たちの時代を考える。いい時代でありますようにってね。

 橋下氏の敗戦の弁は「負けたが、政治家冥利に尽きる」と実に潔かった。表情も爽やかだった。でも「辞めたら維新の党の顧問弁護士にでも雇ってもらいますよ」はまずかったな。冗談にせよ。負けたら政治家引退とした背水の陣の直後、自分の進路を語っちゃいかんよ。「あれ?不退転の決意じゃなかったの」って疑念が生じる。このへんが甘いんだよな。

 江田憲司氏は「橋下徹という稀有な政治家を支えきれなかった」として党代表辞任を表明したね。稀有! Jiijiもそう思う。今の政治の閉塞感を突き破るのは彼しかいない、とまで思っていたよ。2008年に政治家デビュー。2012年まではよかった。躓きは石原慎太郎と組んで国政に打って出たこと。時期尚早。まずは大阪でやり切るべきだったんだ。組んだ相手も悪かった。石原は「橋下と組めば、もしや繋ぎで総理の目があるかも」と目論んだ。謂わば我欲。2013年には慰安婦発言が飛び出す。「慰安婦なんてあの時代どこの国もやっていた。必要な制度だった。そんなことは誰でもわかってる」とぶってしまった。これが第2の躓き。正論でも言ってはいけないことがある。これ以降橋下人気は急降下。特に女性に。今回の敗因の一つは女性票の離反だから、これは響いたな。

 彼の不幸は参謀がいなかったこと。求めなかったこと。人間は不完全。だから、大事を行うには補佐する人間が絶対に必要なんだ。劉備玄徳の諸葛孔明、豊臣秀吉の黒田勘兵衛、川上哲治の牧野茂、ナポレオン三世のオスマン等々。
 「政治は決断するもの。だが決断が独断であってはならない」ある著名な政治家の言葉だ。橋下徹の総論は正しかった。だが、各論が独断に堕した。独断を補正するのが参謀だ。名参謀とまではいかなくとも有能な片腕がいたら、彼は必ずや成功していただろう。Rayちゃん、Jiijiはここがとっても残念だ。

 民主党は、橋下引退で維新の一部が取り込める、と張り切っているそうな。年末あたり機が熟すのを待つ。「熟柿作戦」だとか。野党再編の盟主を気取っているのかねえ。どこまで能天気なんだこの政党は。寄せ集めればいいってもんじゃない。そんなことより、ちゃんとした政党理念を構築するのが先決でしょうに。でまた、岡田代表は、安倍政権の「改憲」議論には参加しないと明言した。それで野党の責任が果たせるの? 反対なら「対案」を出して堂々と議論するのが野党でしょ。国会議員でしょ。もはや、民主党に付けるクスリなし。

 Rayちゃん、憲法改正、Jiijiは賛成だ。68年間改正ゼロ。こんな国は日本だけ。とはいえ、よければそのままでいいんだよ。でも、やはり実情に合わない部分はある。Jiijiが絶対に変えるべきだと思うのは前文だ。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の部分。中国は公正かね。ISは平和を愛する国ですか。こんなお人好しの理念を掲げているんじゃ舐められて当たり前。護憲派は何を考えてるんだろう。
 だからといって自民党の改正案はいかがなものかなあ。自衛隊を「国防軍」と呼ぶのはまあいい。第9条「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」という自衛権の強調も許せる。Jiijiが絶対に容認出来ないのは前文なのだ。「日本国民は・・・・・中略・・・・・和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」なる部分。「家族が互いに助け合う」だって? 大きなお世話だよ。個人の領域に入り込みすぎ。いない人はどうするの。助け合いたくない人だっていますよ。道徳の教科書じゃないんだから。国家が国民を規制しちゃいかん。国民が国家の暴走を縛る、これが立憲主義。こんな基本を踏まえない草案は全面的に信用できないな。文章にも格調がない。Jiijiは、憲法、特に前文だけは、格調が必要だと思う。
 じゃ、誰に頼もうか。「今の国会議員には教養がない」と常々仰ってる作家の石原慎太郎大先生にでもお願いしましょうか。いや、止めとこう。「太陽の季節」精神で書かれた日には、「日本卑怯国憲法」になっちゃうからね。

 さて、Rayちゃん。東京オリンピックは5年後だ。Rayちゃんは小学二年生。一緒に見に行こうね。そのメイン会場となる国立競技場計画が難航しているそうな。下村博文文部科学大臣がSOS発信だ。「屋根をつけると間に合わないしお金もかかる。オリンピックは屋根なしでいきたい。建設費も膨らんじゃって大変。500億ほど都が出してくれないか」。こりゃ、都知事サイドは了承できませんよね。設計図やら建設予算やら、変更に次ぐ変更。いったい間に合うのかなあ。500億円は安くないけど、オスプレイ購入を2−3機減らせば即捻出できまっせ。あの事故常習の欠陥飛行機は、日本にバンバン配備されて、挙句の果ては自衛隊が買わされるんでしょう。17機で3600億円だって。もういい加減にしてよ。担当は中谷元防衛相か。この方、「今回の安保法制で自衛隊のリスクは高まらない」なんて平気で言う。いったいなに考えてるんだろう。「高まらない」なんて誰も思ってないし、「高まらない」ならアメリカは喜ばない。総理の意図にも反するってことですよ。まあ、“シビリアン・コントロール”も解ってない人だから、しょうがないかもね。でも、こういう非常識な人間が日本の安全保障の長では、心配するなってほうが無理だよね。公私混同のNHK籾井勝人会長といい、ジャブジャブ緩和専門の黒田東彦日銀総裁といい、安倍さんの取り巻きは、危なっかしくてたまらんよ。こんな自民党の天下を続けさせていいの? 野党のみなさん、頑張ってよ! とエールを送って、じゃっ、Rayちゃん、今日はこれまで。
 2015.05.15 (金)  モツレクに斬り込む5〜「サンクトゥス」Sanctusは「孤児院ミサ」の引用
 ジュスマイヤーの補筆作業は、いよいよ白紙状態からの創作に入る。10「聖なる生贄」Hostiasまでは、(8「涙の日」を除いて)モーツァルトが作った骨組みが残されていた。謂わば半製品。彼はほぼオーケストレーションに集中すればよかった。だが11「サンクトゥス」からは何もない。少なくとも楽譜による指示は今日まで確認されてはいない。とはいえ、とにもかくにも、ジュスマイヤーは作り上げた。これは音楽史上に残る大偉業である。
 彼は、「『サンクトゥス』『ベネディクトゥス』『神の子羊』はまったく新しく私が書きました」という手紙を残している。だが、どう考えても“まったく”モーツァルトの指示なくしてあれだけの補筆が出来るわけはない。これは私の直感と確信である。ここからは、その証拠探しの旅に出る。

<サンクトゥスSanctusは「孤児院ミサ」からの引用である>

 まずは結論から申し上げたい。「モツレク」第11曲「サンクトゥス」Sanctusは、モーツァルト「孤児院ミサ」の引用によって作られた。冒頭3小節Sanctus Sanctus Sanctusの旋律は「孤児院ミサ」の同箇所と全く同じである。ジュスマイヤーはこの部分を固定したあと、全体をまとめ上げたと思われる。
 冒頭3小節について、両者を聞き比べるなり楽譜を見比べるなりしていただきたい。調性の違いはあれど、全く同じ旋律であることが判るだろう。この一致がモーツァルトの指示なくして起こるだろうか。偶然と考える方が不自然ではなかろうか。これまで私は、このことを指摘している記述に遭遇したことがない。これも不可思議。ジュスマイヤーが、モーツァルトの指示により、「サンクトゥス」冒頭の旋律を「孤児院ミサ」から引用したのは間違いないと確信するのである。

 「孤児院ミサ」は「ミサ・ソレムニス ハ短調」K139の通称。1768年、ウィーンで新装された孤児院教会の献堂式のために作曲、作者自身の指揮によって初演された。モーツァルト12歳、死から23年も前のことである。
 モーツァルトは我々凡人の理解を遥かに超えた天才である。システィーナ礼拝堂の門外不出曲9声の「ミゼレーレ」を一発暗記したこと。交響曲第36番「リンツ」をたった4日間で書き上げたこと。など、その天才振りを示す逸話は枚挙に暇がない。32歳の作品である交響曲第41番『ジュピター』の終楽章「ド・レ・ファ・ミ」の音型は少年時代に起源があるし、「モツレク」1「入祭唱」のテーマは15歳の作品「救われたベトゥーリア」の終曲のテーマと同じである。おそらく、彼の前頭葉には、過去の作品が100%寸分の狂いもなく貯蔵されているのだろう。12歳のときの旋律が死を目前にして甦ってもなんら不思議はないのである。

 モーツァルトは11「サンクトゥス」に取り掛かろうしたときには、もう生への余力が残っていなかった。いよいよ人生の最期を悟り、切羽詰ったとき、弟子に補筆を託すに当たり、彼は、自分の過去の作品からの引用を指示したのである。それは、手っ取り早さと適切さにおいて、最上の方法だった。伝達手段が“作品を指示して”なのか“音符を書いて”なのかは不明であるが。学者の中には、「メモはあったと思われるが、ジュスマイヤーは自力補筆をアピールしたいたいがめにそれらを廃棄した」と唱えるものもいる。

 「サンクトゥス」は、万軍の神・主イエス・キリストへの賛辞を表す曲で、末尾を「ホザンナ」Osanna in excelsis(いと高き天にホザンナ)の連呼で結ぶ。これはミサ曲の伝統の形式である。「ホザンナ」とは、キリストがエルサレム入城の際に、民衆が発した歓呼の叫びのこと。そして、さらに次曲「ベネディクトゥス」の末尾で同一の「ホザンナ」がくり返される。これもミサ曲の決め事となっている。

 「モツレク」における「サンクトゥス」(「ホザンナ」を含む)の規模は小さい。全38小節。演奏時間にして2分足らず。J.S.バッハ「ミサ曲 ロ短調」のそれは「ホザンナ」だけで3分を要する。格段の差である。

 ジュスマイヤーが「サンクトゥス」をこのようなコンパクトな形にまとめ上げたのは正解だろう。それは、当時最も大規模なレクイエムと云われたミヒャエル・ハイドンの「レクイエム ハ短調」の構成にも適っているからだ。M.ハイドンの「サンクトゥス」は、全演奏時間34分に対して1分30秒。ジュスマイヤーのそれは51分に対して2分。両者ほぼ同じ比率である(演奏時間は末尾のCDを参考にした)。前章で記したとおり、モーツァルトが「レクイエム」作曲に当たり最も参考にしたのはミヒャエル・ハイドンだったわけだから、ジュスマイヤーにも間違いなく伝達しているはずである。

 ジュスマイヤーは「主題を与えられてコンパクトにまとめ上げる」能力には長けていた。それは、モーツァルトもう一つの遺言曲「ホルン協奏曲 第1番 ニ長調」にも見てとれる。これについて、多少脱線の嫌いはあるが、「モーツァルト その知られざる遺言」(石井宏著「帝王から音楽マフィアまで」に収録)をテキストに述べてみたい。

 モーツァルトは生涯に4つのホルン協奏曲を書いた。その中の「第1番 ニ長調」K412/514が、実はモーツァルトの死後に完成されたことが判明した。20世紀後半のことである。
 この楽曲を「第1番」と確定したのはルートヴィヒ・ケッヘル(1800−1877)である。彼は、モーツァルトの600曲以上に及ぶ膨大な楽曲を整理し作曲年代順に通し番号を打った人。作品に付けられているKはケッヘルの頭文字である。彼こそ、モーツァルト研究史上最大の功労者の一人だ。

 ケッヘルは「ホルン協奏曲 ニ長調」の完成日確定に着手する。二楽章制のこの楽曲。第1楽章には1782年の作という出版社の書き込みがあり、第2楽章の完成楽譜には「1797年4月6日 聖金曜日」という奇妙な記述があった。彼はこれを「第1楽章完成後何らかの事情で中断した後、第2楽章を書き上げ全曲を完成した」と考え、作曲年の特定にとりかかる。
 第1楽章の完成年は書き込みに従い1782年とした(後の研究により実際は1791年と訂正された)。これをK412とする。問題は第2楽章の記述である。1797年にはモーツァルトはこの世にいない。これをどう解釈する? ケッヘルは“1797年の10年前、1787年”と強引に決めてしまった。これをK514とする。モーツァルトには年代をふざけて記す癖があったからである。だがこれは明らかに安易だ。
 案の定、矛盾が生じた。カトリックの聖週間は、「春分の日の次の満月の直後の日曜日を最終日とする週」と決められている。これに当てはめると、1787年の4月6日は聖金曜日ではない。1797年もしかりである。これは一体? これらの疑問を解決し、明快な結論を引き出したのはアラン・タイソン(1926−2000)というイギリスの学者である。彼は1975年から約10年の歳月をかけて、完成日付不明のモーツァルトの作品を、片っ端から確定した。その方法は使用五線紙の鑑定によるもので、詳細は省略するが、斬新にして科学的、まさに画期的な鑑定方法だった。

 結論だけを記そう。第2楽章の完成日付は1792年4月6日の聖金曜日。完成したのはかのジュスマイヤーだった。タイソンは使用五線紙の割り出しと筆跡の鑑定からこの結論を導き出した。モーツァルト未完の遺作は二つあったのである。

 第2楽章には、ホルンのソロ・パートとスケッチが記された別の未完の楽譜が残されていた。タイソンによると、これはモーツァルトの真筆である。ジュスマイヤーは、これを元にオーケストレーションを施し曲を完成させたことになる。ところが二つの楽譜を比べると奇妙な点が浮き彫りとなる。箇条書きにしてみよう。モーツァルトの書いた原譜をA、ジュスマイヤーが補筆完成した楽譜をBとする。
@第1楽章にはオーボエとファゴットという2種類の管楽器が含まれるが、Bにはファゴットが欠落
  している
AAは135小節だがBは141小節である
 @のケースは、モーツァルトの他の楽曲では絶対にありえない。ジュスマイヤーのウッカリ・ミスか故意かどちらかである。私はジュスマイヤーらしいウッカリ・ミスと考えるが、それはさておき、問題はAである。
 Aに関してはジュスマイヤーが“何かした”のは明らかである。実は6小節増加の原因は、67小節目からのホルンのソロ・パートに「新たな旋律を加えた」ことによるものなのである。本書によれば、これは“預言者エレミアの哀歌”の1節とのこと。この歌が聖週間に歌われるものであることから、この所業はジュスマイヤーのモーツァルトへの哀悼の意、と著者は説明している。が、果たして?

 ジュスマイヤーが書き込んだ「1792年4月6日聖金曜日」という日付は、コンスタンツェ(=モーツァルト)が「レクイエム」補筆に指名したアイブラーが投げ出した直後である。彼の中には、「ざまあ見やがれ」という気持ちと「『レクイエム』を完成させるのはこの私ししかいない」という自負心がフツフツと湧いてきたと思われる。“エレミアの哀歌”挿入のココロ。それは、モーツァルトへの哀悼の意というよりも、自己の実力を過小評価した師へのささやかな当て付けではなかったろうか!? 彼はこれにより気分をリセットし、「レクイエム」補筆完成と云う大業に向かって歩み出したのである。

 私は、この“エレミアの哀歌”の旋律を聞いて「おやっ?」と思った。どこかで聞いたことがある。それは今回「モツレク」解明にあたり聞き込んだ、ミヒャエル・ハイドンの「レクイエム ハ短調」第1曲のTe decet hymnus,Deus,in Sionの部分だった。この旋律は「モツレク」同一箇所のそれとは三度違いの相似フレーズ。これが「エレミアの哀歌」の1節であるかどうかは未検証だが、それはさておき、このモーツァルト−ジュスマイヤー−ミヒャエル・ハイドンの結びつきに不思議を覚えるのは確かである。

 さて、ここで私が言いたいこと。それは、「ジュスマイヤーは未完の素材にスパイスを注入するなどして全体をまとめ上げる才がある」ということだ。「ホルン協奏曲第1番」も、“エレミアの哀歌”のフレーズを注入することによってメランコリックな色彩が加わり、さらなる魅力が付加されている。大先生方はどう思われようが、私にはそう感じる。是非聞いてみていただきたい。聞けば、67小節目からのフレーズにハッとさせられることだろう。

 彼はまっさらだった「サンクトゥス」を、師からの指示を頼りにそれなりに作り上げた。モーツァルトの指示とは?「第11曲『サンクトゥス』Sanctusは、『孤児院ミサ』を引用せよ」だった。これが私の推測であり確信である。
 そして、ジュスマイヤーは次なるターゲット12「ベネディクトゥス」へと進む。ところが彼はここでとんでもないミスを犯すのである。
<参考資料>

モーツァルト「ミサ・ソレムニス ハ短調K139 孤児院ミサ」CD
   クレオベリー指揮:ケンブリッジ・キングズカレッジ聖歌隊
モーツァルト「レクイエム ニ短調 K626」CD
   リヒター指揮:ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団
ミヒャエル・ハイドン「レクイエム ハ短調」CD
   ボルトン指揮:ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
J.S.バッハ「ミサ曲 ロ短調 BWV232」CD
   リヒター指揮:ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団
モーツァルト「ホルン協奏曲集」CD
   タックウェル ホルンと指揮:イギリス室内管弦楽団
「帝王から音楽マフィアまで」石井宏著(学研M文庫)
 2015.04.29 (水)  モツレクに斬り込む4〜「涙の日」Lacrimosaにおけるモーツァルトの指示
 「レクイエム」に関するジュスマイヤーのこんな証言が残っている。ライプツィヒの大手音楽出版社ブライトコップ・ウント・ヘルテルへ宛てた手紙である。
モーツァルト自身の生存中に「入祭文」「キリエ」「怒りの日」「主イエスよ」などを、一緒に演奏したり歌ったりしました。また、この曲の仕上げについて彼がしばしば私に話したことや、オーケストレーションの方法等について私に教えてくれたことは衆知の事実です。私はこの曲を聴く専門的な人たちに、彼の教示の跡がこの中にあることをときどき発見してもらえるように書ければ成功だと思ってやりました。「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」と「神の子羊」はまったく新しく私が作曲しました。
 次はコンスタンツェである。
主人の死の近いことを知った時、ジュスマイヤーと話をしており、もしこの作品が完成する前にほんとうに死んでしまったら、慣例にしたがって最初のフーガを最後の曲でくりかえしてくれるように頼んでいました。
 上記二つの証言は正誤が共存している。ジュスマイヤーの前半「モーツァルトの教示があったことを認めている」部分は真実。後半部分は“まったく”という形容動詞が引っ掛る。“モーツァルトの指示がなかった”と取れるからである。私は、完成に当たっては「すべてにわたりモーツァルトの指示があった」と考えるものである。そうでなければ辻褄が合わないからだ。
 この手紙の狙い。それはジュスマイヤーの自己PRだろう。このとき26歳。若き作曲家にとって有力出版社へのアピールは大きな意味を持つ。「3曲については、モーツァルトの力を借りずすべて自力で作曲した」と誇示したい気持ちはよく解る。
 コンスタンツェの証言は正しいと考えるのが妥当ではなかろうか。「終曲『聖体拝領唱』を『キリエ』のフーガで締めるという技はジュスマイヤーでは思いつかない」と思えるからだ。但し“慣例にしたがって”の件は不可解である。慣例というほどの事例が他に見当たらないから。

1 入祭唱 Introitus  2 キリエ Kyrie  3 怒りの日 Dies irae 4  妙なるラッパ Tuba mirum  5 みいつの大 王Rex tremendae  6 レコルダーレ Recordare  7 呪われし者 Confutatis  8 涙の日 Lacrimosa  9 主イエス よDomine,Jesu  10 聖なる生贄 Hostias  11 サンクトゥス Sanctus  12 ベネディクトゥ スBenedictus  13 神の子羊 Agnus Dei  14 聖体拝領唱 Communio

 ここで改めて、ジュスマイヤーの為し遂げた「レクイエム」完成形を確認しておきたい。私が目指すのはモーツァルトのジュスマイヤーへの指示を明らかにすること。即ち、「レクイエム」の完成形から帰納的に辿り、“この形に落ち着くためにはモーツァルトからどのような指示がなければならなかったか”を解明することである。
 第1曲と第2曲はモーツァルトの手により完成済み(第2曲はフライシュテットラーの補筆が若干アリ)なので除外。対象となるのは、第3曲−第14曲。このうち第3曲−第7曲、第9曲、第10曲はオーケストレーションの問題なのであまり食指が動かない。後回し。第8、11−14曲は作曲を伴う部分ゆえ実に興味深い。それでは、第8曲「涙の日」から順を追って斬り込んでゆこう。

(1)第8曲「涙の日」Lacrimosa

 モーツァルトは8「涙の日」の8小節までを書いて亡くなった、これが絶筆である・・・・・というのが定説である。が、近年、10「聖なる生贄」の末尾Quam olim da capoの指示が絶筆ではないか、との指摘がでてきた。だが、これを判定するのは困難にして、本編の主旨からズレる。死を目前にしたモーツァルトのペンは完成への意志と体調のギャップで譜面のあちこちを彷徨っただろうし、絶筆がどこだろうが「モーツァルトの指示を解明する」こととは関係がないからである。

 「涙の日」における最大のポイントは、モーツァルトはこの楽曲を“フーガで締めくくる”と決めたことにある。その証拠は、ウォルフガング・プラートによってもたらされた。1962年、彼はベルリン国立図書館の草稿の中から、モーツァルトの手になる16小節のフーガのスケッチを発見したのである。
 これについて、音楽評論家・礒山雅氏は「『涙の日』の最後で『セクエンツィア』全体を締めくくる『アーメン』は、フーガとして作曲するのが伝統であり、モーツァルトもおそらくそのつもりだった」(ショルティ指揮ウィーン・フィル1991録音CDのライナーノーツ)と述べている。
 そこで早速、「最新名曲解説全集」(音楽之友社)から、モーツァルト以前の「レクイエム」を調べてみた。オネゲム(1425?−1497)、ピエール・ド・ラ・リュー(1460?−1518)、ラッスス(1532?−1598)、ビクトリア(1584?−1611)の4曲が対象となるも、「セクエンツィア」の存在そのものがなかった。因みに「セクエンツィア」Sequentiaとは「続唱」と訳され、モーツァルトの「レクイエム」でいえば、第3曲−第8曲の総称のことである。
 次に、「レクイエム」CD集から、モーツァルト以後の「レクイエム」で「セクエンツィア」の最後を「アーメン」Amenで締めくくる楽曲を聴いてみた。該当するのはシューマン、ヴェルディ、サン・サーンス、ドヴォルザークだが、そこにはフーガの欠片もなかった。これでは「『アーメン』はフーガとして作曲するのが伝統」とはとても言えない。ならば、モーツァルトがここを「フーガで締めたい」と考えたのは、教会音楽の伝統からではなく、別の理由=動機がなければならない。

 私が知る限り「アーメン・フーガ」を採用している「レクイエム」は、ミヒャエル・ハイドンの「ハ短調」と「変ロ長調」だけである。「ハ短調」は1771年、「変ロ長調」は1806年の作品。私は、モーツァルト「レクイエム」のモデルはミヒャエル・ハイドン「レクイエム ハ短調」にあり、「アーメン・フーガ」の採用もここから、と見る(「変ロ長調」はモーツァルト死後の作品)。

 「レクイエム 変ロ長調」は、モーツァルト「レクイエム」との間に奇妙な符合が存在する。この遺作同士の「レクイエム」には、入祭唱Te decet hymnus,Deus,in Sionの部分に、全く同じ旋律が使われているのだ(因みに「ハ短調」の同じ箇所にも三度違い同相の旋律が用いられている)。これは教会旋法「トーヌス・ペリグリーヌス」であるが、実はハイドンはこの旋法を1770年初演の宗教劇「キリスト者の忠誠」(「ティトス・ウコンドノ」)ですでに用い、モーツァルトは1771年作曲の宗教劇「救われたベトゥーリア」にこれを拝借している(この件は「クラ未知」2012.12.25に詳しい)。が、以上はあくまで余談。

 ミヒャエル・ハイドン(1737−1806)は、交響曲の父ヨーゼフ・ハイドンの弟、1763年からザルツブルク宮廷に仕え、そこで骨を埋めた作曲家である。モーツァルトとの親密なつきあいも有名である。例えば楽曲の貸借。ピンチのときに曲を書き合っている。ザルツブルク時代、ミヒャエル・ハイドンは、二曲の「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲」が期限内に間に合わなくなりモーツァルトに泣きついた。ウィーン時代は、逆にモーツァルトが、急遽コンサートで交響曲が必要になり、ミヒャエル・ハイドンの交響曲を拝借した(交響曲第37番)。前述「トーヌス・ペリグリーヌス」の件も然りである。

 「レクイエム ハ短調」は、ミヒャエル・ハイドンが仕える大司教シギスムントの死を悼んで書き上げられた。この楽曲を用いて、1771年12月31日、ザルツブルク大聖堂で大司教追悼のミサが行われたが、モーツァルト父子がここに臨席した記録が残っている。
 この「レクイエム」は教会音楽の伝統に独自の個性を注入して見事である。当時としては規模も大きく、熟練のオーケストレーションは深く美しい響きを実現している。当時15歳、まだ大規模なミサ曲を書いたことのないモーツァルトが大きな感銘を受けただろうことは想像に難くない。そして、20年後、彼が「レクイエム」を作るにあたって、まず頭に浮かび大いに参考としたのは、この「レクイエム ハ短調」だったと確信する。

 では、その証拠となる両者の共通点を二つ指摘しておこう。一つは「涙の日」のアーメン・フーガ。もう一つは「聖なる生贄」におけるQuam olim da capoの指示である。
 ミヒャエル・ハイドンの「レクイエム ハ短調」の「涙の日」は立派なフーガで締めくくられている。一方、モーツァルトは「涙の日」をアーメン・フーガで締めくくるつもりだった。しかもこのような形は他の作曲家の「レクイエム」には見当たらない。これが第一点。
 モーツァルトは、10「聖なる生贄」の末尾にQuam olim capo(Quam olimに戻る)と記し、9「主イエスよ」のフーガを繰り返すことを指示した。一方、ミヒャエル・ハイドンの「レクイエム ハ短調」にも、全く同じ処理が施されている。これが第二点である。
 ならば、この形は教会音楽の通例なのか? この問題について、「アーメン・フーガ」のときと同じ4つの楽曲で検証してみる・・・・・シューマンは否、ヴェルディも否、サン・サーンスは構成違い、ドヴォルサークだけが同じだった。したがってこの形は教会音楽の通例とまではいえない。モーツァルトは通例に従ったのではなく、ミヒャエル・ハイドンを手本にしたということができる。とはいえ、ミヒャエル・ハイドン−モーツァルト−ドヴォルザークという時代を隔てた3つのレクイエムに、一つの隠れた共通点があったとは興味深々の符合であった。

 本章の総括。モーツァルトの「涙の日」におけるジュスマイヤーへの指示は「アーメン・フーガで締めよ」であった。

 ジュスマイヤーは、モーツァルトが「アーメン・フーガ」16小節のスケッチを遺したにも拘わらず、9小節目からの補筆のあとをAmenに二音をあてがいシンプルに締めるに止めた。 なぜジュスマイヤーはモーツァルトの指示に背いたのか? 「フーガ」は荷が重かった。書けないものは書けない! ここは単純にそう考えるしかないだろう。モーツァルトが最初の指名をジュスマイヤーにしなかったのもこの辺りに原因の一端があるのかもしれない。
 とはいえ、第9小節からラスト第30小節までの補筆は立派なものだ。第8小節から第9小節へ、モーツァルトからジュスマイヤーへのバトン・タッチなど、何の違和感もない。二音のAmenもなかなか感動的である。
 「セクエンツィアをフーガで締めること」が教会音楽の伝統ならいざ知らず、(私が検証した限り)そうではないのであるから、ジュスマイヤーのこの措置はあながち不当とは言い切れないと思う。

 アーメン・フーガのスケッチが発見された1962年以降、これを基にフーガを作曲した新版「レクイエム」がいくつか出現した(モーンダー版、レヴィン版など)。「フーガで締める」はモーツァルトの意図なのだから、この試みそのものはあって然るべきものだ。ただ、見過ごせないのは、これを正当化したいがためのジュスマイヤー版への不当な評価の論調である。これについては後段、「版の比較検討」の項で行いたい。

 「涙の日」を単にAmenの二音で締めたジュスマイヤーの所業は、ここをフーガで締めたかったモーツァルトの意思に反する、とはよく聞かれる論評で、確かにその通りである。だが、ジュスマイヤー非難の論調は慎むべきだろう。モーツァルトのスケッチがあるにも拘わらず、己の未熟なテクニックを使うことを潔しとせず、自己責任の範囲内で別の形でまとめ上げた彼の創造行為は、むしろ賞賛されてしかるべきではなかろうか。私はそう思う。ジュスマイヤー Good job!である。
<参考資料>
「モーツァルト最後の年」H.C.ロビンス・ランドン著 海老澤敏訳(中央公論新社)
「フリーメイスンとモーツァルト」茅田俊一著(講談社現代新書)
ミヒャエル・ハイドン「レクイエム ハ短調」CD
   ボルトン指揮:ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
   G.Kraus著ライナーノーツ
モーツァルト「レクイエム ニ短調 K626」CD
   ショルティ指揮:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
   礒山雅著ライナーノーツ
 2015.04.12 (日)  モツレクに斬り込む3〜コンスタンツェ その見事な裁量
<コンスタンツェの奮闘>

 モーツァルトが亡くなって未亡人となったコンスタンツェ(1762−1842)。これから、7歳と0歳二人の子供を抱えて生きていかなくてはならない。夫は、財産どころか、相当額(3,000グルデンとも)の借金を残してくれた。当面のテーマが金策となったのは至極当然のことだ。

 コンスタンツェは、夫の死後一週間も経たない12月11日、皇帝に年金の支給と夫の借金返済のためのコンサート開催の許可を申請、許諾を得る。これは、モーツァルトが4年間宮廷作曲家として働いた実績によるものだろう。さらに、ウィーン議会は「モーツァルトの未亡人と遺児がウィーンで困窮することを許してはならぬ」と決議する。モーツァルトの七光り。コンスタンツェに追い風が吹き始めた。あるジャーナリストは「子供と夫の莫大な借金を抱え、藁の袋の上でため息をつく未亡人」と形容する。コンスタンツェは、“モーツァルトの困窮した未亡人”という同情的世論を背景に、精力的に行動した。免税館劇場「魔笛」公演の収益の一部を得る。リンツ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンなどの各都市でオペラの公演を打つ。楽譜を売る。などして、ついには夫の借金を全額返済した。なかなかのやり手である。
 その後コンスタンツェはデンマークの外交官ゲオルク・ニコラウス・ニッセン(1762−1826)と再婚。ニッセンは妻の話を元にモーツァルトの伝記を書く(「モーツァルト伝」1829刊行)。コンスタンツェは80歳の長寿を全う、27,000グルデン(6,500万円)もの財産を残した。

 モーツァルトの死後、比較的早い段階で生活費の目途はついたものの、コンスタンツェにとって、「レクイエム」完成の報酬50ドゥカーテン(60万円)は安くはない。出来れば早目に仕上げたい。彼女は、お上への申請と平行して、こちらにも意を注ぐ。
 コンスタンツェが、まず依頼したのはヨーゼフ・レオポルト・アイブラー(1765−1846)だった。アイブラー快諾。締め切りを翌1792年3月と指定した。ところが、期日に持ってきた楽譜には、第3曲から第7曲までの補筆と第8曲「ラクリモサ」のモーツァルトがペンを止めた箇所から僅か2小節を加えただけ、第9曲―第14曲には全く手を染めていなかったのである。
 これは、コンスタンツェの想定内?それとも想定外? それはともかく、彼女が最初に依頼したのが、なぜジュスマイヤーではなくアイブラーだったのか? については議論の余地が残る。なぜなら、コンスタンツェは「死を間近に控えたモーツァルトが、『レクイエム』の完成手順を伝授したのはジュスマイヤーである」ことを誰よりも知っていたからである。

 以下、後年書かれた「モーツァルト、『レクイエム』をジュスマイヤーへ伝授」の証を3件列記したい。
モーツァルトは「レクイエム」をたいへんな熱意を持って作曲しました。しかし疲れてくると、ジュスマイヤーが、私や彼(モーツァルト)と一緒に、彼が書いたものを歌わなくてはなりませんでした。こうしてジュスマイヤーはモーツァルトから本物のレッスンを受けたのです。モーツァルトがジュスマイヤーによくこう言っていたのが聞こえてくるようです。「おいおい、雷雨の中で突っ立てるアヒルみたいじゃないか。いつまで経ってもわかんやつだ」、そう言うと、羽ペンを取り、ジュスマイヤーには無理な重要な部分を書きつけていました」(1827年5月31日付けコンスタンツェからマクシミリアン・シュタードラー師への手紙より)

今はモーツァルトの最後の日々についてお話しなければなりません。・・・・・中略・・・・・ジュスマイヤーがモーツァルトのベッドの傍らにいました。「レクイエム」の譜がふとんの上に置いてあり、モーツァルトが、自分が死んだあとどうやって仕上げるか、という意図を説明していました。
・・・・・モーツァルトが最後にしていたことは「レクイエム」のティンパニーのパッセージを、口で歌おうとすることでした。今でもまだそれが聞こえてくるようです。(モーツァルトの死の前日、1791年12月4日の様子を伝えるコンスタンツェの妹ゾフィーの手紙。義兄ニッセンに宛てたもの)

亡くなる少し前に、モーツァルトは夫人とジュスマイヤーと共に「レクイエム」を歌ったが、いくつかの楽章は涙を流すほど彼を憂鬱にした。そして「もし僕が死んだら、これが最も重要なところだ」と言いながら、まず「レコルダーレ」(第6曲)と主要なパートを書いた。それが終わると、ジュスマイヤーを傍らに呼び、もしこの作品を完成する前に自分が死んだら、冒頭に書いたフーガを繰り返すこと。また他の部分に関して、すでにスケッチしたものを、どこにどのように当てるべきか、を指示した。(イギリスの作曲家ヴィンセント・ノヴェロ夫妻がコンスタンツェとの会話をもとに1829年に書いた手記、出版は1955年)
 これらの事例から、モーツァルトが指示した相手はジュスマイヤーであることが明白だ。ところが、その情報源がコンスタンツェと妹であることから、これらが「コンスタンツェの作り話」であるという説も根強くあるのも事実だ。石井宏先生などは「これは、“ジュスマイヤーの補筆完成は、モーツァルトの直伝であるからして、正当である”としたいがためのコンスタンツェの作り話であり、嘘であることは明白である」とまで断言している。が、果たして?

<ジュスマイヤー やはりあんたしかいないよ>

 モーツァルト/コンスタンツェ/ジュスマイヤー が奇妙な関係であったことは前回述べたとおりである。

 コンスタンツェは、1791年6月初旬―7月中旬までバーデンに滞在しているが、後半からはジュスマイヤーが加わってくる。ウィーンに戻り7月26日四男を出産。クサヴァーと命名。このことから、この子はモーツァルト公認の“クサヴァー”・ジュスマイヤーの子ではないかとの臆測が生まれる。9月、モーツァルト夫妻プラハに行きオペラを初演。ジュスマイヤー同行。10月7日コンスタンツェとジュスマイヤー、再度バーデンに。10月14日、ウィーンのモーツァルトからバーデンのコンスタンツェへの手紙には「某とは好きなようにしたまえ」とある。某は無論ジュスマイヤーのこと。これぞ公認の証?
 これら1791年の一連の動きから、「コンスタンツェが、『レクイエム』の完成の依頼を、最初からジュスマイヤーにしなかったのは、わからぬわけではない。“三人世帯”の二人の男のうちのひとりが書き残した作品の尻ぬぐいを、もうひとりにさせるというのも、はばかられることにちがいない」(「モーツァルト、その知られざる遺言」石井宏著)なる見方も出てくる。

 そんな側面も確かにあっただろうが、コンスタンツェが「レクイエム」の完成をアイブラーに依頼したのは、モーツァルトの意思によるものだろう。モーツァルトはジュスマイヤーを“とんま、大きなロバ(バカ)”と云って憚らなかったのに対し、アイブラーの実力は高く評価していた。ここに彼が書いたアイブラーの証明書への推薦文がある。
下に署名する私は、これを有するヨーゼフ・アイブラー氏が、かの名高き大家アルブレヒツベルガーの高弟であり、しっかりした基礎のある作曲家であり、室内楽にも教会音楽の様式にも等しく通じ、芸術歌曲の分野にも熟練しており、そのうえ洗練されたオルガン奏者やクラヴィーア奏者であることを認めます。手短に言えば、これほどの新進作曲家に、惜しむらくは、並び立つ相手がいないということです。(Wikipedia)
 まさに絶賛である。これらの流れから、「レクイエム」完成へのモーツァルトの意思を解析するとこうなる。「ジュスマイヤーではなくアイブラーに依頼すべし。彼のほうが優れているのだから。ただし、細かな指示はすべてジュスマイヤーにしている。傍らにいたのはヤツだったから。ベストは二人に協力させることだ」。コンスタンツェがこの指示を受けていたことはまず間違いないだろう。

 コンスタンツェにしても、「モーツァルトが指示したのはジュスマイヤー」なることは十分承知している。言われるまでもなく。だから、大いに戸惑う。「なぜジュスマイヤーじゃないの?二人の実力差なんて私には判らない」。だがしかし、ここで遵守すべきは夫の指示である。

 コンスタンツェは、モーツァルトの意向を汲みジュスマイヤーに通達。「アイブラーに頼むことにしたよ。あの人がそう言ったんだからしょうがないじゃないか。だからここは彼に協力してやっておくれよ」。ジュスマイヤーむくれる。「なぜだよ。モーツァルト師から教えを仰いだのはこの俺だぜ。やれるものならやってみな」。未亡人とわけアリの男に痴話喧嘩?が生じる。

 そんな二人の状況を裏付けるコンスタンツェの供述が残っている。前出、「コンスタンツェからマクシミリアン・シュタードラー師への手紙」の後半部分である。
私がこの曲を完成するようにとアイブラーに渡したのは、当時(どうしてだったかは思い出せないのですが)ジュスマイヤーにいらいらしていたからです。それにモーツァルト自身もアイブラーを高く買っていました。
 聡明なコンスタンツェが「思い出せない」はずはないのだが、それはともかく、彼女はジュスマイヤーの協力が得られないまま、アイブラーに単独依頼。1791年12月、4ヶ月の期限を切って。期限が来てアイブラー「ここまでが精一杯。ご勘弁を」。さあどうするコンスタンツェ。ジュスマイヤーはむくれたままだ。そこで、他の作曲家に当たるが断られる。最早ジュスマイヤーしかいない。けんかをしている場合じゃない。「ジュスマイヤー、機嫌直しておくれよ。あんたしかいないんだ」。身内だけに、ざっくばらん、成果報酬もそれなりに取り決めたことだろう。海千山千のコンスタンツェにしてみれば、これはたやすいことだった? ジュスマイヤー、「しょうがねえなあ。やってやるか」上辺仕方なく、内心ザマーミロで受諾。モーツァルト直伝の指示に従い1792年12月、大胆にもこの大仕事にケリをつけた。こうしてモーツァルトが遺した未完の大作「レクイエム」は見事完成を見たのである。

 このあたりのコンスタンツェの裁量は見事というほかはない。まずは亡夫の意向に沿って動く。叶わぬと見たら柔軟に対応。実現にこぎつける。筋を通す論理性。実現への強い意志。柔軟な対応力。逞しい実行力。人たらしの能力。彼女なら、どんな時代でも成功しただろう。悪妻説などくそ食らえ!?

 片やジュスマイヤー。彼は確かに作曲家としては凡庸だったかもしれない。作曲家には創造力が要求される。閃きと言い換えてもいい。ジュスマイヤーにはそれが乏しかった。だが「与えられたものをまとめあげる能力」には長けていた。そして、デリカシーには乏しい反面、屈託のない大胆さを持ち合わせていた。師モーツァルトが「とんま、大きなロバ」と評したのはまさにこの気質を指してのことだろう。皮肉なことに、これが完成への大きなパワーとなったのである。

 確かに、コンスタンツェの回想は、「ジュスマイヤーの手になる『レクイエム』はモーツァルト直伝である」ことを裏づけたいがための後付かもしれない。そこにおいて、作り話の可能性は否定できない。だがしかし、ジュスマイヤーが「レクイエム」を補筆完成させたことは紛れもない事実であり、彼にその種の才能があったことも確かだ。少なくともアイブラーよりは。ただ、モーツァルトはそれに気づかなかった。もし気づいていたら、最初からジュスマイヤーを薦めたはずである・・・・・灯台下暗し 隣の芝生は青い。流石の天才モーツァルトも、ジュスマイヤーの“まとめあげる能力”は感知できなかったのである。
<参考文献>
「モーツァルト最後の年」H.C.ロビンス・ランドン著 海老澤敏訳(中央公論新社)
「モーツァルト」メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
「モーツァルトの手紙」高橋英郎編(小学館)
「帝王から音楽マフィアまで」石井宏著(学研M文庫)
「素顔のモーツァルト」石井宏著(中公文庫)
 2015.04.01 (水)  ちょっと変だぜ世の中が with Ray ちゃん
 おーいRayちゃん。元気で保育園に通ってるかい。ひよこ組からりす組に進級だってね。オメデトウ! それに、夏にはお姉ちゃんになるんだよね。これからも明るく元気で頑張ろう!!

 さてと、今年に入ってニュースが変だ。不穏が一杯。 四半期が終わったところで、振り返っておこうか。思いつくままにね。

 2月、シリアで二人の日本人がISに処刑された。イスラム過激派の暴走は止まるところを知らない。3月18日にはチュニジアの博物館でテロが発生。観光客が狙われ日本人3人を含む21人が殺害された。一瞬「なんで危険地帯に行くの?」なんて思ったんだけど、これはイタリア発のオプショナル・ツアー。旅行客に人気の地中海クルーズの途中だったのだ。これじゃまあしょうがない。今後気をつけるしかないよね。犯人はチュニジアのイスラム過激派「アンサール・シャリーア」とか。ISに忠誠を誓うグループだそうだ。
 2010年に始まったアラブの春は、ここチュニジアのジャスミン革命が発端だった。波及したアルジェリア、エジプト、リビア、シリア。おしなべてうまくいっていない。中途半端、不安定、混乱増大。唯一成功したのがチュニジアといわれていたんだ。ところがどっこい。失業率はむしろ上がっている。俺たちの生活はちっともよくならないじゃないか! ISに投じる若者の数は世界最大とか。この事件、堕落の象徴・西欧化した国家への制裁!? 彼らの歪んだ論理がそこにある。

 イエメンの内乱にサウジアラビアが介入したね。2012年、ここもアラブの春でサレハ独裁政権が崩壊。副大統領ハディ暫定政権が誕生した。治安悪化に伴ってシーア派の過激派組織フーシ派が台頭(これはイラク&シリアにおけるISと相似)。フーシ派をイランが支援。同じシーア派だからね。そこでスンニ派のサウジアラビアがハディ政権支持に回ったというわけだ。で、この後ろにはアメリカがいる。ただし、アメリカは、対ISではイランに協調するという二重構造。
 かつてイエメンは南北に分かれており、北イエメンはアメリカ、南イエメンはロシアがバックだった。元々火種は内包してた。現在、南には「アラビア半島のアルカイダ」と名乗るスンニ派の過激派がいて、これは1月、パリでシャルリー・エブド社を襲撃している。

 いやはや、なんて複雑。 政権派、反体制派、スンニ派、シーア派、アルカイダ、IS、サウジアラビア、イラン、アメリカ 入り乱れ絡み合う。実に複雑怪奇。中東混乱の縮図だね。で、このような状況は果てしなく広がり限りなく続くだろう。テロのグローバル化!? Rayちゃん、Jiijiの頭ん中は混乱の極みだ。

 混乱といえば、3月25日、ドイツのLCCジャーマン・ウィングスの墜落事故。日本人2人を含む搭乗員150人が絶望視されているよ。
 当局は、副操縦士のアンドレアス・ルビッツという男が意図的に墜落を図ったと断定した。機長がコックピットを出たあと内側から施錠、事に及んだという。Jiijiは思った。「外から開けられないのかなあ」って。実はこれ、2001.9.11同時多発テロ以来、テロリストの侵入を防ぐためにそうしてるんだってさ。いやはや、ここにもテロの影。参っちゃうね。外敵に気をとられてたら内部からやられちゃった。まさに想定外! 聞けば、この副操縦士、技量も乏しく、その上医師から「勤務不可」の診断を下されていたというじゃない。うつ病とか網膜剥離とか。病人に操縦させちゃいけないよ。早急な対策が必要だ。操縦士の精神チェックを義務付けるとかね。世界中で一日に飛ぶ飛行機は数十万機ともいわれている。安かろう危なかろうじゃ、恐ろしくて乗れないぜ!!

 大塚家具騒動は、3月27日の株主総会で、娘の久美子社長の勝利で決着。経緯は分らんが、このところの親父さん会長の悪あがきはみっともなかったね。お母上もひどいシャバダバで。まあ、気持ちは解りますよ。「任せたはいいが見ちゃおれんようになった」ということでしょ。会員制高級品路線の会長VSカジュアル路線社長。保守VS改革。どちらの主調が正解かは専門家に任せるとして、Rayちゃん、実はJiijiのうちも家具は大塚なんだよ。食卓がさ、まだ10年ソコソコなのに、板がめくれてきちゃってる。コレで高級品か? 会長派の印象悪いんだよなあ。
 かくなる上は、久美子社長に頑張ってもらうしかないね。そこでJiijiの提案・・・・・家具を買う客の気分は超ハッピー。だから、気分で買わせよう。イメージ戦略だ。社名、ロゴ、キャッチコピーなどトータルで佐藤可士和に一任する。心機一転、先頭に立つは平成のジャンヌ・ダルクよろしく久美子社長。「ノーサイドでリスタートよ」 爽やか気合で猛ダッシュ。これで決まりさ!?

 お次は、Rayちゃん、沖縄基地問題。翁長沖縄知事は「普天間基地県外移設」を公約に当選したのだから、辺野古埋め立て工事差し止めに出るのは当然の行動。国は「これは数年前からの日米合意事項だから粛々と進めるだけ」と相手にしない。でもって、上京した知事に会おうともしない。ここは、大塚家具じゃないんだから、話し合いなさいよ。同じ日本の国と県でしょ。仲間を無視してアメリカの顔色ばかり窺っていると、中韓あたりに足元見られちゃうぞ。安倍政権は一体どこ向いて政治やってんだい!?
 この事態の発端は鳩山由紀夫。「日米の合意事項」だった辺野古移設を「最低でも県外」とぶち上げて、沖縄の歓心を買った。成算もないのにね。安倍政権にしてみれば、ヤツが余計なことをしてくれたお陰でこんな事態になっちゃった、と恨んでるだろうが、逆に見れば、彼の“友愛の精神”が安全保障の正道を喚起したといえないこともない。とはいえ、先だってはロシア〜クリミアに乗り込んで「ロシアの正当性」を語っちゃってる。これ祖父さんの流れ? もうなにもしないで、早く火星に帰ってほしいワナ。宇宙人なんでしょ。

 高村副総裁らが、「安保法制」の報告のためアメリカを訪問して、「いい子いい子」されて帰ってきたね。「評価をいただいた」だってさ。当たり前だろ。アーミテージ・ナイ・リポートをひたすら遵守してるんだから。もういい加減アメリカに“Everything OK”はやめようよ。肝心なのは、このタイミングを利用して、沖縄の基地負担軽減と地位協定改善を提案することなんだ。こっちの負担を増やすのだから少しくらい相手に要求したってバチが当たらないだろうに。
 安倍総理は、改憲じゃ、「日本国憲法は素人(GHQ)が1週間で作ったもの。だからわれわれで作り直す」などとやけに威勢がいいけど、肝心なところではアメリカべったりなんだよな。これも祖父さんの流れ? 頼むから国民の方を向いてよ。当分自民独裁が続くんだろうからさ。

 中国が主導するAIIB(アジアインフラ投資銀行)。イギリスの参入でガラっと流れが変わったね。ドイツ、フランス、イタリアなどEU諸国、ブラジル、ロシア、オーストラリアも表明、参加は47カ国にも及んだ。日米完全に蚊帳の外。麻生財務大臣のコメントもアメリカ追随に終始するだけ。なんの自主性もない。
 この問題は大きいぞ。アジアのインフラ建設の経済規模は甚大。1000兆円とも。ここはアメリカ追従、反中国を言ってる場合じゃ、ほんとはないんだよなあ。こういうときこそ大局観のある政治家がほしい。安倍=麻生じゃどうにもならん。

 ここで、尖閣問題について。昨年11月5日に、安倍首相は日中首脳会談の事前合意書なるものを交わした。そこには「尖閣諸島において双方に異なる見解があることを認識する云々」とあった。このときからJiijiは気になっていた。中国にやられるぞって。 案の定、3月23日の朝日新聞に、「中国は、見解をpositionと訳して、『日本が歴史上初めてそこに領土問題が存在すると認めた』ことをアメリカで触れ回っている」との記事が出たよ。
 あの仏頂面した習近平と立ち話をしたいがために、こんな国益損失をしでかしちゃうんだから、何をかいわんやだ。いまさら慌てて「positionじゃない viewだ」なんか言ったってもう遅いって。日本てほんと外交オンチですよ。
 尖閣問題はこれで勝負アリだな。1972年、田中角栄の不用意発言に始まって、1978年、ケ小平「われわれには知恵がない 次世代に委ねよう」に福田赳夫が無反応だったこと。この流れは中国が意図的に仕掛けたものなのに誰も気づかない。「尖閣に領土問題は存在しないのだから、次世代に委ねるもなにもないもんだ」くらいなこと即言っとかなきゃダメだったんだよ。「無反応はYESと同じ」なるイロハも知らない。そして、今回、安倍総理の能天気感覚。もう見ちゃおれん。
 こんなもの、昔の中国の教科書が「尖閣諸島は日本の領土」と認めているのだから、悠然と対応すればよかったんですよ。こちらからは何も言い出さない。なにか云われたら、「そりゃおかしい」と即意思表示しておく。でも、ここまで来たら遅かりしだ。 ならもう、先を見据えるしかないよね。それにはちゃんと論理的に「歴史問題」として話し合うことだ。そうすれば活路を見出せるかも。だって向こうが日本のものと認めていたんだからね。これは理屈だよ。

 アホくさくなってきたところで、Rayちゃん、ちょっとだけスポーツいって終わりにしよう。

 プロ野球が開幕したね。なんてったって黒田博樹の広島カープ復帰が話題。キャッチフレーズは「男気」。早くも1勝だ。MLBでしっかりと先発ローテーションを守った人だから、まだまだやれるね。野球に取り組む姿勢がとにかく真摯だ。強みは体の強靭さと投球の丁寧さかなあ。体力といえば、ダルビッシュもマー君も大谷も心配はここ。黒田頑張れ BZのテーマに乗って颯爽と! 優勝の行方?どこでもいいよ。

 最後にサッカー。すったもんだあって、全日本の監督にハリルホジッチ氏が就任したね。ワールドカップの実績がベスト16止まりじゃ物足りないし、正直、この時期に浮いてるんじゃ大したもんじゃないワイ、と思ってた。でもこの人なかなかです。初采配で見えました。「絶対勝つぞ」の強い意志。選手の目を見て語る熱っぽさ。大量召集全員テストによる競争意識の喚起。これらはザッケローニ時代にはなかったもの。私の持論「守備重視」の意識もありそうだ。二試合やって、チームに一体感と躍動感が生まれてた。無論、日本代表がちゃんとするには時間がかかる。世界と対等に戦えるのは30年先だろう。でも、この人のサッカーはイイ。見ていて楽しい。これは掘り出し物。オシムさんが太鼓判押したのはダテじゃなかった!!

 じゃ、Rayちゃん、今日はこれでBye Byeだ。Jiijiはいつでもお出迎えにいくから、またいつもの笑顔で迎えてね。
 2015.03.25 (水)  モツレクに斬り込む2〜奇妙な三角関係
<死の年1791年>

 1791年12月5日、モーツァルトは死んだ。聖シュテファン寺院の死亡登録書には「急性粟流疹熱」とある。所謂リューマチ熱。症状は湿疹と高熱。モーツァルトは少年時代に最初の発作に襲われ、以後3−4回の再発を数えていたという。この病は一回ごとに酷くなりやがて死に至るとされているので、おそらく、この見立ては正しいのだろう。が、世にも稀なる天才の夭折だけに、死因をめぐり諸説が乱れ飛んできた。

 映画「アマデウス」(1988公開)には、主人公のサリエリが「自分が毒を盛った、理由はやつの才能に対する嫉妬だ」と独白する場面がある。松本清張は、短篇「モーツァルトの伯楽」の中で、「モーツァルトは梅毒だった。治療を買ってでたのがヴァン・スヴィーテン男爵というウィーン時代の恩人(彼をきっかけとして、バッハとヘンデルを学んでいる)。医者だった父親を見倣うも、素人療法の悲しさで、水銀の量を誤って投与したため死んだ」と書いている。その他、フリーメイソンによる毒殺説、コンスタンツェ犯人説、瀉血過多説などなど。だがこれらはすべて想像上の仮説。聖マルクス墓地に埋葬された遺体が未だ行方不明では、証明のしようもない。

 ではここで、「レクイエム」の発注を受けてから死に至るまでの半年間を、ざっと振り返ってみよう。1791年7月、モーツァルトは「レクイエム」の注文を受ける。このときは歌劇「魔笛」の作曲中で、まだ着手できない。その上、新たなオペラ、「皇帝ティートの慈悲」を依頼され、9月、プラハに行き上演。作曲期間50数日の離れ業。ウィーンに戻り、9月30日、「魔笛」の初日を迎える。大ヒット。10月半ば「クラリネット協奏曲」を作曲。「レクイエム」に本格的着手。「『レクイエム』は自分のために書いている。私は毒を盛られた」と妻に話したのはこのころ。11月18日、フリーメイソンのためのカンタータ「我らが喜びを高らかに告げよ」を自らの指揮で演奏。これが公の最後の場となる。11月20日に寝込み、「レクイエム」の作曲に専念するも、12月5日に死亡。「レクイエム」未完のまま遺る。
 体調不良に陥るのは10月半ば。11月半ばには寝たきりになり、一ヶ月足らずで死に至った。実にあっけない。このあっけなさが様々な臆測を生んだのであろう。がしかし、人間の死というものは、傍から見れば、おしなべてあっけないものなのかもしれない。本人の苦しみは本人しかわからないのだから。

 とはいえ、ここは死因究明の場ではない。モーツァルトの突然の死によって、妻コンスタンツェはどう動いたのか。「レクイエム」完成の経緯は? これらに的を絞ってゆこう。まずは、モーツァルト/コンスタンツェ/ジュスマイヤーの関係を考察する。

<奇妙な三角関係>

 コンスタンツェ(1762−1842)は悪妻の誉(?)が高い。ソクラテスの妻クサンティッペ、トルストイの妻ソフィアと並んで、世界三大悪妻とも呼ばれている。他の二人はともかく、コンスタンツェにおいては濡れ衣の様相が濃い。モーツァルト神話形成の犠牲者? 曰く、「モーツァルトは清廉なる天才。コンスタンツェは浪費家で浮気性の悪妻」「旦那がウィーンで作曲に励んでいるとき、妻は温泉で贅沢三昧だった」など、晩年の貧乏生活を妻のせいにし天才を擁護する。発端は、父レオポルトの執拗なまでの結婚反対。対するコンスタンツェ母の精力的な結婚大作戦、あたりにあるようだ。

 1777年、21歳のモーツァルトは母アンナ・マリーアを伴って旅に出た。目的は宮廷への就職。滞在したマンハイムでは脈アリと踏んだが、最終的には断られる。父レオポルトは次の目的地パリに旅立たせようとするが、モーツァルトはなかなか腰を上げない。原因はマンハイム宮廷付き歌手アロイジア・ウェーバー(1760−1830))への入れ込み。実力と美貌を兼ね備えた逸材。当時は一介のコーラス・ガールに過ぎなかった彼女の才能を見抜いたモーツァルトは、二人三脚イタリア大飛躍の夢を見る。家族も猛烈にバックアップ。だがこれは息子を一家の看板にして成り上がろうとするレオポルトの意思に反した。息子をウェーバー家に盗られてなるものか、というわけだ。モーツァルトは渋々父の意に従いパリへ旅立った。
 パリでの就職活動も不調、その上、病で最愛の母までも亡くしてしまう。パリこそモーツァルトにとって最悪の都市だった。傷心の帰路、マンハイムでウェーバー家に立ち寄るも、その態度は一年前とは打って変わってつれない。モーツァルトに発掘されたアロイジアの才能はこの間に見事花開き、マンハイム宮廷劇場の花形に出世していた。ウェーバー家は金の卵を得た。かくなる上は玉の輿に乗せる。身分不定のモーツァルトなんか目じゃなかったのである。

 時は流れて1781年、生まれ故郷ザルツブルクと決別したモーツァルトは、ウィーンで自立した音楽家としての第一歩を踏み出した。そこで身を寄せたのがウェーバー家。一家は、アロイジアの出世(ウィーン宮廷付き俳優ヨーゼフ・ランゲと結婚)に伴いウィーンに移り住んでいた。そこにいたのが将来の妻コンスタンツェ(1762−1842)。アロイジアの妹だった。レオポルト当然反対。だが、今回のモーツァルトは折れず、翌年めでたく結婚する。所謂下宿屋の娘との結婚。尽力したのはやり手の母親という図式。彼は父への手紙にこう書いた「ランゲと結婚した娘(アロイジアのこと)は嘘つきで意地悪でコケットです。コンスタンツェは、けっして美人ではありませんが醜くはありません。才能はありませんが、妻として、母として義務が果たせるだけの十分な常識があります」。

 モーツァルトが、アロイジアのことをキッパリと諦めて、心底コンスタンツェを愛して結婚したかどうかは定かではない。アロイジアに対し、少なからず未練を持っていただろうことは、その後彼女と関係を持ったことでも証明される。人生いろいろ、結婚もいろいろ。増してや天才モーツァルト。その心情は計り知れない!?

 モーツァルトの人生には数多の女性が登場する。モーツァルト学者高橋英郎氏が挙げている女性を列記してみると・・・・・アロイジア・ウェーバー、マリア・アンナ・テークラ、ナンシー・ストーレス、カテリーナ・ポンディーニ、カタリーナ・カヴァリエリ、ジェノーム、ヨゼーファ・アウエルンハンマー、レギーナ・ストリナザッキ、ドーリス・シュトック、テレージア・フォン・トラットナー夫人、ヨゼーファ・ドゥーシェク夫人などなど。歌手、ピアニスト、ヴァイオリニスト、貴族の夫人、生徒など顔ぶれも多彩である。  コンスタンツェ悪妻説の根拠の一つは浮気性。ところが、旦那の方が数倍も上手だったということだ。

   結婚したモーツァルト夫妻には9年間に6人の子供が生まれた(成人したのは二男と四男の二人だけであるが)。いずれにせよ、コンスタンツェの結婚生活は、妊娠と子育ての明け暮れだったことになる。そのため彼女は脚痛という持病を持ってしまう。ウィーン近郊にバーデンという温泉地がある。温泉は硫黄を含み保養地としての歴史も古い。コンスタンツェは湯治のためこの地に長逗留することが度々だった。そこに、モーツァルトが、同伴者として指名したのが弟子のフランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー(1766−1803)だった。果たしてモーツァルトの意図やいかに?

 1791年の三人はどうだったか。 モーツァルト35歳、コンスタンツェ29歳、ジュスマイヤー25歳。夫はウィーンでオペラ書き。妻は近郊で保養。そこに付き添う若き助手。10月までは元気だったモーツァルト。「魔笛」を作りながら出演歌手たちとの派手な交流があった? 7月、コンスタンツェは四男を産む。モーツァルトはなんとこの子にフランツ・クサヴァーと命名。ジュスマイヤーの名前そのまま。これは何を意味する? もしやジュスマイヤーの子? モーツァルト公認? ウーン、天才の心情は計り知れない!
 9月、モーツァルトのプラハへの旅にはコンスタンツェとジュスマイヤーが同行。ウィーンに戻って「魔笛」の初日を迎える。10月、モーツァルトは居残り、コンスタンツェとジュスマイヤーはバーデンへ。そこで、モーツァルトからコンスタンツェへの手紙である。日付は10月8日。
ぼくがこの手紙を書いている今、きみは気分よくいい湯につかっているんだろうね。きみがいないととてもさびしいよ。もし仕事がなければ、すぐにでも発って、一週間きみと一緒に過ごしたい。でもそうなると、仕事にはまったく不都合になるなあ。・・・・・にはぼくの名において、平手打ちを数ペアあげてくれ。神の名において不足することのないよう。やつの鼻をザリガニで鋏んでやるのもいいし、やつの目ん玉を殴り飛ばすか、傷つけるかしてやるがいい。
 ・・・・・部分は、コンスタンツェの二番目の夫ニッセンが消しているが、当然ジュスマイヤーの名前が入る。この部分等を以って、モーツァルトはジュスマイヤーをバカにしているとか実力を買っていないとか言う先生方もいる。がしかし、モーツァルトが相手をボロクソに言うのは、常に親愛の情なのだ。これは彼の他の手紙と相手との関係を見れば一目瞭然。ジュスマイヤーのほかには、クラリネットの名手シュタードラーしかり、ホルンの名人ロイトゲプしかりである。
 モーツァルトがジュスマイヤーの実力を買っていたか否かは別として、彼がモーツァルト一家にとって、相当に身近であり、かつ奇妙な存在だったことは間違いのない事実である。
 「モーツァルトは優しくコンスタンツェを愛していた。しかし、それはそれとして、ほかの女に気が向くのに変わりはなかったし、彼の浮気の根は深くて一向に止まらなかった」(メイナード・ソロモン著「モーツァルト」より)

 生来の浮気性のモーツァツト。その夫が送り込んだ美男の助手ジュスマイヤー。間で揺れる妻のコンスタンツェ。この奇妙な三角関係が、「レクイエム」完成の道程に微妙に関わってくるのである。
<参考文献>

「モーツァルト」メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
「モーツァルトの手紙」高橋英郎編(小学館)
「素顔のモーツァルト」石井宏著(中公文庫)
「モーツァルト辞典」(冬樹社)
「草の径」松本清張著(文春文庫)
「モーツァルトとの旅」属啓成著(音楽の友社)
 2015.03.10 (火)  モツレクに斬り込む1〜可哀想なジュスマイヤー
<モツレクに斬り込み宣言>

 モーツァルトの「レクイエム」は私の最愛の曲の一つだ。親しい知人の死に際しては必ず聴く。そんな特別な機会でなくても、日常よく聴く曲でもある。要するに好きなのである。なぜだろう?と考える。動と静、濁と清、穢と美、恐と安。相反する人間の感情がこれほどまでに混在し調和する曲はない。心が振るえ、揺さぶられ、そして安堵する。音楽の本質がそこにある。
 モーツァルトは、1791年12月5日、帰らぬ人となった。未完の「レクイエム」を遺して。未完であるから、完成には他人の手を必要とする。そこに至るまでに紆余曲折がある。出来たら出来たで、ああだこうだの論争が絶えない。なんとも厄介な代物である。それだけに、クラ未知的に、面白い。だからといって、楽譜もろくに読めない私に、専門的解析は土台無理。ならば、素人なりに、この魑魅魍魎にして飛び切り魅力的な名曲に少しでも近づければいい。そう思って斬り込んでゆく。

<可哀想なジュスマイヤー>

 フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー(1766−1803)は、モーツァルトの遺作となった「レクイエム」K626を完成させた人間として、音楽史に燦然とその名を残している。あの未完の傑作を、今日われわれが聴くことができるのは、ひとえに彼の功績によるものだ。これは大いなる偉業といわねばならない。ところが、この若きモーツァルトの弟子の評判は、あまり芳しいものではないのである。それどころか、後の学者は彼を「無能」呼ばわりして憚らない。

 まずは「レクイエム」の構成を見ておこう。今後の進行上これは必須だから。区分は様々あるが、煩雑さを避けるため、オーソドックスなCDのtrackに倣いたい。最小単位を1曲とすればすべてに応用が利くからだ。
1 入祭唱 Introitus  2 キリエ Kyrie  3 怒りの日 Dies irae  4 妙なるラッパ Tuba mirum  5 みいつの大王 Rex tremendae   6 レコルダーレ Recordare   7 呪われし者 Confutatis  8 涙の日 Lacrimosa  9 主イエスよ Domine,Jesu  10 聖なる生贄 Hostias  11 サンクトゥス Sanctus  12 ベネディクトゥス Benedictus  13 神の子羊 Agnus Dei   14 聖体拝領唱 Communio
 モーツァルトが完全な形で残したのは、第1曲だけ。第2曲はほぼ完成。3−10曲は部分完成。11−14曲は空白だった。ジュスマイヤーは、少なくとも全14曲中12曲を補筆完成しているのである。これは立派な業績であるからして、私は、ジュスマイヤー無能説には反対である。
 しかしながら、お偉い先生方は、ジュスマイヤーの補筆にはモーツァルトの意にそぐわぬ部分が多々あると指摘する。それを正すために幾多の版が出回った。バイヤー版(1971)、モーンダー版(1981)、ランドン版(1990)、レヴィン版(1991)などである。括弧内の出版年代を見てもこれらはそれほど遠い昔の話ではない。改訂者は自らの正当性を主張するために、ジュスマイヤー版を貶める。代表的なのは、モーンダー版の作成者リチャード・モーンダーである。彼は、満を持して送り出した自版CDの解説文で以下のように述べている。
 モーツァルトの「レクイエム伝説」は、「モーツァルトは忠実な弟子のジュスマイヤーに途中で自分が死んだ場合の残りの仕上げ方について詳細な指示を与えた」などと語ってくれる。ジュスマイヤーの版には困惑するような質の悪さがあると思うのは正しいのか、あるいは、そんなことを考えるのは冒涜なのか。もし、ジュスマイヤーが本当にモーツァルトの指示通りに仕上げたのなら、彼の版はモーツァルトの真筆の次に位するものであり、むしろわれわれが余計な口出しをすると、モーツァルトの意図を曲げることになるであろう。しかし、それと裏腹に、もしこの伝説が嘘であり、ジュスマイヤーの仕事には、モーツァルトの意図が反映していないとしたら、それでも旧来の版を認めねばならないのだろうか?
 表現こそ穏やかだが、ここには、ジュスマイヤーへの不信がありありと見て取れる。更に彼は、“モーツァルトのジュスマイヤーへの伝授”そのものにもメスを入れる。
今度の日曜に行くよ。一緒にカジノに行って、月曜には一緒に帰ってこよう。P.S.挨拶の代わりに、ジュスマイヤーにはハナにパンチをくらわせ、頭をゴツンとやってくれ・・・・・これは、1791年10月7日、モーツァルトからバーデンで療養中の妻コンスタンツェへの手紙である。このときのジュスマイヤーはウィーンにはおらず、バーデンにいるのは明らかである。となるとレクイエムの相談などはできないことになる。実際に1791年のモーツァルトの手紙を見てゆくと、ジュスマイヤーは何回かにわたってウィーンを留守にしており、そうなるとモーツァルトはこの弟子に、1回や2回しかレッスンをしなかったのではなかろうかと疑いたくなる。(この年以前にジュスマイヤーがモーツァルトと知り合っている記録はない)。
 さらに、モーンダーの追及は“ジュスマイヤーの能力”に及ぶ。
 死の数時間前の様子を、ゾフィー(コンスタンツェの妹)の言葉から引用してみよう。「ジュスマイヤーがモーツァルトのベッドの横にいました。有名な『レクイエム』の譜が掛け布団の上に置いてあり、モーツァルトは自分が死んだときの仕上げ方を教えていました」 どうやらこの辺りが、伝説の発祥地である。とすればゾフィーだけがモーツァルトのこの最後の言葉について記録しているのだろうか? 幸いなことにコンスタンツェの回想もある。「夫が死を予感したとき、ジュスマイヤーに向かって、もし自分が未完のまま死んだら、最初のフーガを最後の章に使うように言いました」(コンスタンツェからブライトコップ宛の手紙1799.3.27) しかしモーツァルトがジュスマイヤーの能力を低く評価していたことから考えると、もっと有能な音楽家に委嘱せずに、こうした重要な指示をジュスマイヤーに与えたことは腑に落ちないところがある。モーツァルトの死後、コンスタンツェ未亡人は、すぐにはジュスマイヤーに頼もうとはしなかったことが判っている。彼女はまずヨーゼフ・アイブラーに頼んだ。アイブラーもモーツァルトの死の床を何回か見舞っており、モーツァルトは数年前から彼を高く評価していた。
 モーンダーは、「モーツァルトのジュスマイヤーへの伝授」に疑問を持つ。加うるに「モーツァルトはジュスマイヤーの能力を評価していなかった」と決め付ける。その証を「コンスタンツェが最初にジュスマイヤーに依頼しなかったこと」に置く。これがモーンダーの三段論法である。
 ならば、モーンダーは「ジュスマイヤー版」にどんな手を施したのか?これについては、後ほど、各版の比較の章で行いたい。

 デッカのプロデューサーのエリック・スミスはこう云っている。「ジュスマイヤーはモーツァルトの晩年の弟子であり、便利屋であり、いたずらのカモであり、時間のないときにはレチタティーヴォを書く役であり、モーツァルト不在の時の奥さんのお守りだった。モーツァルトは、かわいそうなことに、ジュスマイヤーをまともに扱ったことがないもののようである。そうでなければ、このジュスマイヤーが『レクイエム』の作曲のあいだ中モーツァルトにずっとついていたのに、コンスタンツェがアイブラーに仕上げを委託する理由がないではないか」

 どうやら、ジュスマイヤー無能説最大の根拠は、「コンスタンツェがモーツァルトの死後『レクイエム』完成を託したのが、ジュスマイヤーではなく、もう一人の弟子アイブラーだった」ことにあるようだ。最初に依頼したアイブラーは有能で後回しにしたジュスマイヤーは無能という図式である。果たしてそんな単純な解釈でいいのだろうか?

 結果を先に記そう。ヨーゼフ・レオポルト・アイブラー(1765−1846)は、約束の期日まで4ヶ月も掛けたものの、モーツァルトの半完成品8曲のうち5曲に書き足しただけで、投げ出してしまったのである。彼を「有能」とする評論家先生は、これを「モーツァルトの作品に手を加えるなどはおこがましいという敬意の表れ」などとのたまう。冗談もほどほどにしてほしい。これぞ無能の証ではないか。

 では、ジュスマイヤーはどうだったのか? 彼は頑張った。モーツァルトのために。コンスタンツェのために。1792年3月、投げ出したアイブラーから楽譜を受け取り、恐らく年内には完成させている(1793年1月2日に非公式の初演記録がある)。コンスタンツェは、灰色の服の男にこの楽譜を渡し、約束どおり残金50ドゥカーテン(60万円)を受け取った。この金額は生前の夫の年棒の6割強に相当する大金だった。

 次回は、ジュスマイヤーの「レクイエム」完成の経緯とコンスタンツェが彼を後回しにした理由を探ってみたい。
<参考文献>

モーツァルト「レクイエム」CD
  〜ジュスマイヤー版 ケルテス指揮:ウィーン・フィル 解説書
  〜モーンダー版 ホグウッド指揮:エンシェント室内管 解説書
 2015.02.25 (水)  アメリカが「モツレク」で犯した罪
 1964年1月19日、ボストンの聖十字架大聖堂で、前年11月凶弾に倒れた故ケネディ大統領の追悼式典が行われた。ジョン・F・ケネディ(1917−1963)はアメリカ史上唯一のカトリック教徒の大統領だったため、カトリックの典礼に基づき、ミサがとりおこなわれたのである。選ばれた音楽はモーツァルトの「レクイエム」K626。書いたモーツァルトと送られるケネディ。若くして無念の最期を遂げたもの同士に因む、なんとこれは相応しい選曲だったろう。
 依頼によって書き始めたものの、死の予感から、“自分のために書く”という観念に囚われていったモーツァルト。そこには自らの運命を嘆く慟哭がある。それは、突然の凶弾によって洋々たる前途を奪われた若き大統領の無念に呼応する。

 エーリッヒ・ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団と複数の合唱団、そして4人のソリストたち。彼らは冒頭から感情のエンジンを一杯に蒸す。その歌声は慟哭し、天上の大統領に届けとばかりに響きわたる。本来「レクイエム」の役割は死者を安らかに天に送るためのものだ。ところがこれは全く違う。大統領と一緒になって泣き、嘆き、悲しむ。感情が迸る。これほどまでに感動的な「モツレク」は他にない。送られる者と作者と演奏者が三位一体となった、これは異常な名演奏なのである。

 私はこの実況録音を2006年発売の復刻版CD(BMG JAPAN)で聴いた。このような「モツレク」が聴けて本当によかったと思った。そのとき、かつて愛読した文章を想起した。否定的な文面のそれは、五味康祐著「西方の音」(新潮社)から「死と音楽」という章である。
 ケネディが死んだとき、葬儀がモーツァルトの「レクイエム」で終始したのは知られた話だが、このときの実況レコードがビクターから出ている。ラインスドルフの指揮でオケはボストン交響楽団だった、といった解説がこれほど無意味なレコードも珍しい。・・・・・中略・・・・・
 こんど、私がレクイエムをもとめねばならぬ立場になって、さとったことは、右の実況録音のレコードは妻ジャクリーヌのためだけのものであり、これを商品化し、売り出すことの冒涜についてである。確かに、売り出すことで葬儀に参列せぬ大勢の人は、たとえば私のように彼女の胸中をおもい、同情し、ケネディの冥福を祈りはするだろう。しかしそれがケネディ自身にとって一体なんなのか。彼女の身にとっても。死者を弔う最も大事なことをアメリカ人は間違っている。私の立場でこれは言える。レクイエムを盛大にするのは当然なことだ。録音して永く記念するのもいい。しかし何も世界に向かって売り出すことはない。死者を弔うとは、のこされた妻のかなしみに同情の涙を流すことであるわけはないが、その業績を褒め称えることが、未亡人へのいたわりになるなら、飼い猫に死なれた人にあれは可愛い猫でしたと褒めるよそよそしさと、どれだけ違うか。しかも死者に対し、その遺族への思いやりを示す以外の弔い方など本当はあるわけはないのである。葬儀の実況レコードを売って、その利益で家族を補助しようというなら話は別である。世の中はもう少し辛辣にできている。そういう補助の必要ない大統領のレコードだから、売れる。けっきょく、アメリカ人はケネディを暗殺したことで間違い、未亡人をいたわることでもさらに大きな誤りを犯した。アメリカという国は、モーツァルトのこの「レクイエム」1枚をとってみても誤謬の上を突っ走っている国だとわかる。
 長い引用になってしまった。ここには五味氏の誤謬と慧眼が同居している、と私は思う。誤謬は「レコードを世界に向かって売り出したことはアメリカの冒涜」と切り捨てたこと。慧眼は「アメリカは誤謬の上を突っ走っている」という見解だ。

 誤謬についての理由を言えば、「RCAがレコードを世界に向かって売り出してくれたお陰で私は世にも稀なるモツレクの名演を聴けた」ということに尽きる。個人的見解というなかれ。五味氏の見解も同じであるからだ。

 慧眼は、現在まさにその通りの結果が出ているということだ。間違いなくアメリカという国は誤謬の上を突っ走ってきたのである。

 戦後70年。自由と民主主義の美名の下、世界に自らの帝国主義をゴリ押ししてきたアメリカ。ベトナム戦争(1960−75)、湾岸戦争(1991)、アフガニスタン統治(2001)、イラク戦争(2003)はじめ、イスラエル建国への加担(1947)、イラン=イラク戦争におけるイラク支援(1979−90)、その他、コンゴ、インドネシア、カンボジア、ラオス、チリへの介入など、その身勝手で矛盾極まる傲慢は止まるところを知らない。大いなるおせっかいである。結果、世界に夥しい数の犠牲者を生み出すに至った。殊にイラク戦争への大義なき介入と中途半端な撤退は、世界のリーダーたる正義も責任感もない愚挙にして、ISという空恐ろしい怪物を生み出す源ともなった。

 フランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィル(1805−1859)は、著書「アメリカの民主主義」の中で、17世紀にイギリスからアメリカに渡り合衆国を建国した人々の性向には「政治的宗教的狂信性 Political & Religious Fanatic」があり、彼らは「自分たちだけが正しくてその考えを他に押し付ける傾向がある」と説いている。これは今日のアメリカ帝国主義を予見しているが、皮肉なことにこの性向はイスラム原理主義者と同質である。

 五味康祐が「西方の音」を書いたのは1960年代である。彼が「モツレク」から見透したアメリカへの危惧は、40年以上を経た今、その正鵠さが証明されたことになる。それは、トクヴィルの見解に勝るとも劣らない慧眼だったといえはしないだろうか。
<参考メディア>
「西方の音」五味康祐著(新潮社)
モーツァルト「レクイエム」(ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団他) CD
TV西部邁ゼミナール 2/22 O.A.(MX-TV)
 2015.02.10 (火)  中東にレクイエムを
 ISILによる日本人人質処刑のニュースは、私の中に、これまで体験したことのない感覚を惹き起こした。テロリストの行為そのものは「残忍・非道・卑劣」などの形容で表現しうる。ところが「被殺害者は日本人」という要素が加わると一気に感覚は混乱する。私にとっての「感覚の混乱」は、事件を「論理的に総括できない」ということに他ならない。

 後藤さんを危険地帯に駆り立てたものはなんだったのか? 安倍総理はなぜ敢えてあのような演説をしたのか?

 後藤さんの心中には、やむにやまれぬ何かがあったのだろう。「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」。加えて積年の経験から「至誠にして動かざるは 未だ之あらざるなり」の心境だったと思われる。吉田松陰はペリーへの直談判に失敗するも、意気に感じたペリーの進言により、極刑には至らなかった。しかしISILには情の欠片もなかった。

 「ISILと闘う周辺諸国に対し人道支援のために2億ドルを供出する」「わが国はテロには決して屈しない」「彼らに罪を償わせる」
 ここまで勇ましく不用意に大胆に発言する日本のリーダーはいなかった。いや、ここで、安倍総理の文言を勘案するのは止めよう。私にはその是非を総括できない。ただ言えること。それは「日本が、日本人が、テロに晒される危険がかつてないほどに高まった」そして「日本は人命より国際秩序を優先する国に変貌した」ということだ。

 これをどう自浄する? 死者をどう思い遣る? ここはもう、モーツァルトの「レクイエム」を聴くしかない!!

<「モツレク」は慟哭の歌だ>

 世紀末2000年。レコード会社ストラティジック部門に所属していた私は、「レクイエム」10曲を収録したCDセットを制作した。モーツァルト、ベルリオーズ、ブラームス、ヴェルディ、フォーレ、ブリテンなど古今の名曲ばかり。世紀末に「レクイエム」、これぞ格好の企画と思ったのは私だけ? 売り上げは惨敗! 若くもない若気の至り、実に苦い体験だった。が、「レクイエム」の代表的名曲の数々を丹念に聞き込めた、という収穫は残った。
 ヴェルディの華やかさ、フォーレの清澄さなど「レクイエム」には各々の香りがある。様々な形がある。そんな中、孤高なまでに屹立する高峰はモーツァルトであった。

 1791年7月のある夜、灰色の服を着た見知らぬ男がモーツァルトを尋ねてきた。「レクイエムを作曲してほしい。前金は50ドゥカーテン。完成したら、もう50。但し依頼主を明かさぬこと」。男はそう言い残すと名前も告げずに立ち去った(この件は、コンスタンツェの後添えであるゲオルク・ニコラウス・ニッセン(1762−1826)が書いたモーツァルト最古の伝記「モーツァルト伝」が出典である)。

 モーツァルトは引き受けることにする。ところが、彼はそのころかなりの依頼を抱えていて、直ぐには着手できなかった。中でも大物は歌劇「魔笛」。このオペラ、大部分が7月には出来上がっていたが、ライバル劇場の動向を見ての修正やら、出演者の日替わりの要望やらで、何かと忙しい。そんな中、更なる大作の依頼が舞い込む。レオポルト2世のボヘミア王としての戴冠式のための祝賀オペラ「皇帝ティトゥスの慈悲」である。こちらの初演は9月6日。場所はプラハ。往きの馬車の中でも作曲するなど、モーツァルトならでの離れ業を以ってなんとか間に合わせる。なんという天才ぶり。
 ウィーンに戻ると「魔笛」の仕上げに没頭。やっと9月30日に初日を迎えることができた。「魔笛」は、スタートから大好評、評判が評判を呼ぶ大ヒットとなった。その後、悪友シュタードラーのために「クラリネット協奏曲 イ長調」を書き上げたのが10月7日。このあたりからやっと落ち着いて、「レクイエム」に取りかかれたと思われる。

 ところが病魔は静かにモーツァルトの肉体を蝕みだしていた。体調は日に日に悪化する。忍び寄る死の影に怯えながら、モーツァルトは「レクイエム」の筆を進める。そんなある日、モーツァルトは妻コンスタンツェにこう云った。「この『レクイエム』は私自身のために書いているような気がする。僕はもう長く生きていられないだろうという確かな予感がしている。僕が毒を盛られたことは確かだ。ぼくはこの考えを頭から追い払うことが出来ない」。体調の悪さに妄想が交錯する。「レクイエム」はこんな状況下で作曲されたのである。死まであと2ヶ月足らず。

 モーツァルトが「ラクリモサ」の第8小節まで書き上げたとき、神は彼にこれ以上の生を許さなかった。1791年12月5日のことであった。

 モーツァルトは天才である。音楽史上比肩するものなき天才である。5歳で作曲をし、6歳で女王陛下に謁見し、8歳でシンフォニーを書き、14歳でオペラを書く。門外不出9声の合唱曲を一発暗記し、4日間でシンフォニーを書き上げる。感情コントロールも自在。母の死に臨んでは、明快なシンフォニーを書き、父の死の報を聞いて「冗談音楽」と「優雅なセレナード」を同時に書き上げる。

 そんなモーツァルトが人生の最後の最後で自分をさらけ出しだした音楽。それが「レクイエム」だった。「レクイエム」は、モーツァルトの最高傑作かどうかは別にして、唯一無二の傑作であることは間違いない。
最後の諦めの瞬間に、彼は音楽に涙することを許されたのである(アンリ・ゲオン)

確実に彼の手になる最初の部分を聴いた人には、音楽が音楽に決別する異様な辛い音を聞き分けるであろう。そして、それが壊滅して行くモオツァルトの肉体を模倣している様をまざまざと見るであろう(小林秀雄)

感情が生のまま音楽の外に溢れてくる作品をモーツァルトが書いたことがあるとすれば、この「レクイエム」をおいてほかにはない(石井 宏)
 「レクイエム」の最初の部分「入祭文」「キリエ」から「怒りの日」。そして「呪われし者」「ラクリモサ」。こんな音楽はモーツァルトの他のどこにもありはしない。激しい慟哭。激情の奔流。無論「鎮魂曲」としての安息の要素はあるものの、同時に異様な興奮を惹き起す何かがある。天才作曲家を越えた生身の人間としての叫び。直接的な慟哭の声。そして、それは生を拒絶された人間の悲痛さでもある。

 これは、中東の空に散った人道的な一人の日本人と同じではないか。だから、今、モーツァルトの「レクイエム」を聴く。神よ、安息を与えたまえ!
<参考文献>
「モーツァルトとの散歩」アンリ・ゲオン著 高橋英郎訳(白水社)
「モオツァルト」小林秀雄著(新潮文庫)
「素顔のモーツァルト」石井 宏著(中公文庫)
「モーツァルト」メイナード・ソロモン著 石井 宏訳(新書館)
 2015.01.25 (日)  映画「バンクーバーの朝日」と沢村栄治
<バンクーバーの朝日>

 先日、映画「バンクーバーの朝日」を観た。「和飲会」昼の部で。「和飲会」は会社OBの同窓会で8名前後の集い。前後というのは、メンバー固定せず、出席強要せずのため。年齢は50−70代。男女比率6:2。開催は基本月一。昼の部「映画鑑賞」、夜の部「飲み会」の時間割。合議で映画を選び、観て、美味いものを食べ飲み語る。話題は、見たばかりの映画から、音楽、芸能、スポーツ、本、政治、家族、友人、仕事、昔話と多岐に渡る。実に楽しい。つくづく人生金じゃないと思う瞬間である。
 「お金は確かに大事。大抵のことは解決してくれるから。でも、一番大事なことは解決してくれないワ」はジャズ・ピアニスト秋吉敏子さんの言葉。一番大事なことを解決してくれないなら、お金はほどほどにあればいいわけで、これは最大級の名言だと思う。曽野綾子の“清貧のススメ”より遥かに説得力がある。私にとって。“一番”を“真に”と置き換えれば、「和飲会」は真に大事なものの一つである。

 「バンクーバーの朝日」の「朝日」って何かと思ったら野球チームの名前だった。さしずめ「バンクーバー朝日軍」といったところか。アニマルズ60年代のヒットでお馴染みのフォークソングに「The House Of The Rising Sun」という唄がある。日本語訳は「朝日のあたる家」。これだと「朝日が当たる家がある 爽やかなり」的な情景を連想するが、実は「The Rising Sun」という屋号の売春宿のお話。「朝日楼」あたりが正解訳か。因みに、ちあきあおみはこのタイトルで歌っている。歌い出しは ♪私が着いたのはニューオリンズの「朝日楼」という名の女郎屋だった(詞:浅川マキ) 「バンクーバーの朝日」も同型!?

 時代は盧溝橋事件から真珠湾攻撃あたりまで。舞台はバンクーバーの日本人街。そこには、日本人移民二世を中心とした「バンクーバー朝日」という野球チームがあった。カナダのリーグに所属するも、体力技術に劣るチームは万年最下位の弱小チーム。そんなお荷物球団が、結成20年あたりのある日、新キャプテンのアイディアにより突如目覚める。バント盗塁を駆使した機動力野球=ブレイン・ベースボールだ。勝つ喜びを知ったチームは、見る見る強さを増し、遂には優勝するまでに。異国で働く日本人移民の夢の牽引車となったのである。が、戦争の足音は彼らに暗い影を落とし始める。そして、真珠湾攻撃を以って「バンクーバー朝日」の歴史は終わるのである。

 監督は石井裕也。2014年度日本アカデミー作品賞と監督賞を「舟を編む」で受賞。32歳の俊英だ。妻夫木聡、亀梨和也、高畑充希ら、若手はなかなかの好演。各人のセリフ回しが極度に自然なのは、監督の意向か好感が持てる。佐藤浩市、鶴見辰吾、大杉漣らもきっちりと脇を固める。特に佐藤のうまさは圧巻。頑固で無骨で見栄っ張り、そのくせ家族思いの優しさを持つ、古き日本の父親像を巧みに表現していた。
 足利市に組んだセットがまたいい。戦時中のカナダ日本人街の質感が実にリアル。重厚な高級感がある。石井ブランドの上質さが伝わってくる。

 カナダに夢を馳せ海を渡るもかけ離れた現実に戸惑う日本人移民。だが真面目さと勤勉さを失わず懸命に生きた。そこに彼らに夢を運ぶ野球チームがあった。やがてしのび寄る戦争の影。日米開戦。余儀なくされた解散。そんな時代背景とそこで暮らす人々の機微が見事に描かれた第一級の娯楽作品だった。

<沢村栄治>

 同じころ、日本ではプロ野球チームが誕生(1934年)。それに先立ち本場アメリカからチームを呼んだ。ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックらを擁するオールスター・チームである。対する日本選抜のエースは京都商業を中退して合流した沢村栄治(1917−1944)だった。
 1934年11月20日、草薙球場。沢村の脚を高々と上げ真っ向から投げ込むストレートは唸りを上げ、ベーブ・ルースを始めとする大リーガーから9つの三振を奪い、失点は7回ルー・ゲーリックに打たれた本塁打の1点のみ。試合は0−1の惜敗だったが、その快投は伝説と化した。
 このシリーズ、日本チームは16戦全敗。沢村は通算0勝4敗。草薙球場以外ではメッタ打ちに遭っている。

 この年12月沢村は第一号プロ・チーム「大日本東京野球倶楽部」(現・読売巨人軍)に入団。1936年には日本職業野球連盟が発足、沢村の野球人生は洋々のはず・・・・・。ところが、影を落としたのは、やはり戦争だった。年代順に彼の野球人生と戦争との関連を書き記してみよう。
1936年 日本職業野球連盟結成。プロ野球リーグ戦スタート
     13勝2敗 ノーヒット・ノーラン達成
1937年 24勝4敗1分 MVP獲得 ノーヒット・ノーラン達成
1938年 1度目の出征 日中戦争に従軍
1940年 除隊帰国
      7勝1敗 ノーヒット・ノーラン達成
1941年 9勝5敗1分
1942年 2度目の出征 太平洋戦争に従軍
1943年 除隊帰国
      0勝3敗 戦力外通告受ける
1944年 3度目の出征 戦死
 戦地では手榴弾を投げさせられる。現役プロ野球投手の手榴弾は敵陣に向かい並外れて飛んだという。手榴弾の重さは野球ボールの3倍超。沢村の肩はいつしか壊れていった。1940年除隊帰国した沢村はもう本格派オーバースロー投球は出来なかった。サイド・スロー技巧派に転向した数字が7勝1敗 ノーヒット・ノーラン1回という成績。なんと非凡!ただの速球投手でない証拠だ。
 2度目の出征後は肩も限界。アンダー・スローに変えるも0勝3敗に終わる。つれない戦力外通告。そして3度目の出征で戦死。弱冠27歳。まさに戦争に翻弄され尽くされた野球人生だった。

   通算成績53勝15敗2分。これだけ見れば大した数字ではない。だがしかし、戦争という避けられない運命と戦いながら、逃げることなく自らの職務を全うしひたすら野球に打ち込んだ沢村栄治という野球人の生涯は、数字を越えて我々の胸に迫るものがある。彼の功績を称えて戦後まもなく「沢村栄治賞」が制定された。

 杉下茂 別所毅彦 金田正一 村山実 江夏豊 桑田真澄 野茂英雄 ダルビッシュ有 田中将大etc錚々たる先発完投型が受賞に名を連ねる。なお神様・仏様・稲尾様の稲尾和久の名前がないのは、当時対象がセリーグに限られたから。因みにパリーグ第1号は野茂(1990年)で、以後セパ両リーグが対象となる。投手五冠を達成した江川卓ではなく西本聖に与えられた1981年も話題となった。受賞者は一様に「なによりも欲しかった賞」と言う。これこそが沢村栄治の偉大さの証明だろう。

 外国の地で人知れず野球に打ち込む日本人がいた。戦争に翻弄されながらも与えられた野球人生を精一杯生き抜いた天才投手がいた。戦時下のカナダと日本。太平洋を挟んで野球に情熱を傾けた日本人たち。二者を対比させ歴史を顧みる面白さ。今年は終戦70年。歴史を呼び覚ましながら、自分にとって意義ある節目としたいものである。
 2015.01.13 (火)  新年に寄せて with Rayちゃん
 おーいRayちゃん! 2015年も幕を開けたね。今年は戦後70年の節目とか。Jiijiは終戦の年の生まれだから、同じ70歳。しかも5月生まれだからレッキとした戦中派だあ!?凄いだろう(どこが?笑い)。天皇陛下が、年初のお言葉で、具体的に歴史認識に言及されたけど、その影響もあるのかなあ。「戦後70年の節目」、マスコミの前のめりが目立つのは気のせいか。それとも安倍総理の勢いがマスコミをあおっちゃってるのかなあ。

 総理は、この戦後70年の節目に、なにやら「安倍談話」なるものを出すらしい。戦後50年に「村山談話」、60年に「小泉談話」が出たのだから、出すこと事体をとやかく言うつもりはないけれど、Rayちゃん、問題は内容だな。特に、安全保障に関しての。

 特定秘密保護法(これは、監視機関体制が不十分のまま施行されちゃった)、武器輸出三原則の撤廃(日本が武器の商人か、情けない)、そして(閣議決定というあってはならない手法による)集団的自衛権の行使容認。この方向、基本的にJiijiは反対だ。でも、合法的に選ばれた為政者が合法的に国の方向を決めるのは当然なのだから、俺たち国民は従うしかないよな。だが、羊のようにおとなしくしていればいいってもんじゃない。国民一人ひとりがしっかりした考えを持って言うべきことは言う。是々非々をちゃんと表す。これが肝腎なんだ。

 権力はおしなべて「民衆はバカだ」を根底に持つ。ヒトラーがいい例だ。彼は武力でドイツを征服したわけじゃない。群集心理を利用し、選挙、議会を通して合法的に事を進めたんだ。
 当時のドイツは、第一次世界大戦〜世界大恐慌のあおりを受けて、極度に疲弊していた。仕事がない。インフレ。生活苦。国家への不信感増大。民族の誇りなど論じる暇もない。 ヒトラーはここにつけ込んだ。反ユダヤ主義を掲げアーリア民族の優位性を説き、ドイツ国民の愛国心と自尊心に火をつける。生存権希求を掲げて侵略戦争を起こし経済振興を図った。雇用拡大のために戦争を正当化したともいえるね。
 そして天性の演説力で民衆を煽る。群集心理の利用。まさに煽動の天才。フランスの思想家ギュスターヴ・ル・ボン(1841−1931)は、群集心理の特徴を、「群集は暗示に弱い」「群集は反復断言に弱い」と述べているよ。

 安倍総理は「強い日本を取り戻す」「経済最優先」と云う。「強い日本」は「アーリア民族の優位」、「金融緩和によって好景気を演出する実態のない経済政策」は「戦争特需を当てこんだ経済振興策」と符合しないか? アベノミクスの連呼はヒトラー・レトリックと呼応する。これ、安倍政治はヒトラーに通ずの図式かな?

 新年早々、ショッキングなニュースが舞い込んできた。1月7日白昼、3人のフランス人イスラム教徒がパリの新聞社を襲撃。記者ら12人が撃たれて死亡した。犯行後逃走した主犯格の二人は印刷工所に立てこもり、最後は射殺されるも、他所で囚われた人質4名が死亡。そして警官1名、死者は合計17名に達した。イスラム国への関心が高まる昨今だが、犯人はイエメンのアルカイダからの指令により犯行に及んだと声明していたそうだ。

 犯行動機、過激派組織の多様化、欧米諸国におけるイスラム教勢力の拡大、過激派に投じる若者の増大、イスラム教への本質的な理解等、論ずるべきは多々ある。が、Jiiji最大の懸念にして命題は、「集団的自衛権行使により日本へのテロの脅威が大幅に増大するのではないか」「安倍総理にこの心積もりが出来ているのかどうか」ということだ。
 欧米諸国におけるテロ対応の理念は、「屈服しない姿勢を人命尊重より優先すること」だ。結果、人質を見殺しにする。そのことで世間も騒がない。果たして、テロに免疫性のない日本はどう対処するつもりなのか?

 昨年末シドニーで起きた過激派による人質事件。オーストラリアが「同盟国イギリスのイスラム国空爆参加に支持」を表明したのが原因、といわれているね。怖いのは、この他にも、ベルギー、カナダなど、これまでイスラム過激派の標的たりえない所で起こっていること。だから、集団的自衛権を行使すれば、日本がイスラム過激派の標的になりうるということなんだ。
 テロリストとの戦争はこれまでとは全く違う様相を呈しているのは自明だよね。かつての戦争は国同士の利権の争いだった。互いに国境を挟んで対峙する。兵士がやろうがボタンでやろうが、基本は変わらない。だから見えやすいし戦い方にも仁義がある。だが、テロ戦争に国境はない。仁義なくいきなり平穏な日常に入り込む。巻き込まれるのは庶民だ。

 無論、我々はテロには屈しない。彼らがどんな原理を掲げようが、それが彼らにとっていかに正義であろうが、方法が間違っているのだから、徹底的に戦うしかない。日本が同盟国と一緒にテロと戦うことを、国がそう決めたなら従いますよ(本当は、アメリカに言いたいことがあるけれど、トッチラカルからやめておこう)。だが、ここで心配なのは我らがリーダーの洞察度合いと覚悟なのだ。

 安倍総理は、集団的自衛権行使の怖さをちゃんと認識しているのだろうか? Jiijiは、彼の上っ面の言動を見ていると、とてもそうとは思えない。能天気が前のめりで走ってる。実に怖いんだ。
 政権は、集団的自衛権行使における「存立事態」の概念形成に必死の体だが、これは既成概念を前提としたものだ。テロとの戦争形態はもはや異次元に移行している(前述したようにこれは世界の常識だ)。集団的自衛権の行使によって、東京のど真ん中でイスラム過激派による人質事件や自爆テロが起きないと、誰が断言できますか?
 起きてから慌てても遅いんです。安倍さん、ちゃんと想定していますか? その覚悟ができていますか? そのとき、あなたはどう対処するつもりですか? 人質を見殺しにして犯人射殺を優先する欧米型を採る? それとも、相変わらず「人の命は地球よりも重い」などと云って裏取引をする? 対応を決めてないのなら、悪と対決する覚悟ができていないのなら、集団的自衛権行使を前のめりで進めるべきじゃない。議論を尽くし国民のコンセンサスを得てからやるべし、です。絶対に。

 総理はまた、先日、新年のメッセージをこう結んだ。「日本を、再び、世界の中心で輝く国としてゆきたい」と。異論はない。だが、彼が目指す「輝く日本」って何?
 Jiijiは願う。今年出されるであろう「安倍談話」なるものが、我欲にあらず私たち国民が望む「輝く日本」であってほしいと。予想はNOですがね。残念ながら。

 私たちは群集だ。暗示に弱いし反復断言にも弱い。権力はそこにつけ込む。だが、騙されてはいけない。一人ひとりが賢くならなければいけない。嘘を見抜け。真実を捉えよ。世の中に眼を光らせよ。本質を見極めよ。向上心を忘れるな。常に考えよ。

 なあ、Rayちゃん、Jiijiはこれからも考え続ける。世界も日本も自分も、本当にこれでいいのかって。あなたの時代がよりよい世界であるよう祈りながらね。
 2014.12.25 (木)  2014ランダム回顧 with Rayちゃん
 おーいRayちゃん!今年もいよいよ終わりだね。漢字は「税」だって。味気ないね。でも、Jiijiは楽しかったよ。Rayちゃんのお陰で保育園のサンタクロースになったんだからね。羽生くんが、衝突事故→GファイナルVの道程のことを、「これは誰にも出来る経験じゃないから、ワクワクしました」なんか言ってたけど、Jiijiのサンタクロース体験も同じ気持ちだったよ。えっ!? ほんとうにありがとう。

 ではRayちゃん、ランダムだから順不同思いのまま行くぜ。

 まずは、STAP細胞騒動。12月19日、理研の検証実験結果が出たね。「STAP細胞は作製できなかった」。「なかった」と言わないところが官僚的だね。科学的なのかな。
 はてさて、こいつはいったいなんだったんだろうなあ。小保方晴子さん「STAP細胞はありまーす。200回作りました」って言ったんだよね。これは虚言だよ。どう考えてもね。彼女には、HPD=演技性パーソナリティ障害(自己に過剰に注目を引こうとする行動様式をとる精神障害)の傾向があるんじゃないかな。そうじゃないと、Jiijiとしては説明がつかん。
 注目は、「再現実験の過程で、確かに(STAP細胞を示唆する)緑色の蛍光が出た。でもSTAPではなかった」という発表内容。小保方さんは「緑色の蛍光」を万能細胞と勘違いしたんだろう。後は、亡くなった笹井芳樹副センター長と二人三脚でNature論文をまとめ上げた。そして、その過程で捏造が入った。Rayちゃん、真相はこんなところかなあ。

 笹井氏サイドから辿れば・・・・・初々しい女性科学者が“万能細胞らしきもの”を作り出した。笹井氏は、「緑色の蛍光」はSTAP現象の可能性がある、と踏んだ。可能性があるのなら早い者勝ち。論文をまとめ上げて認知させ、特許を取る。その後、理研内外で再現実験に成功すれば、言いだしっぺの手柄となる。こんなのは科学の世界では日常のことだから。
 そして、彼が主導し論文を完成させた。ここでのスキル発揮は笹井氏の得意技だったはず。そして、Natureに載った。「夢の万能細胞」の誕生だった。
 論文作成過程において、「Nature掲載」が金科玉条となった。それが科学者のあるべき姿勢を駆逐した。本末転倒。目的のためには手段を選ばず。それが捏造だった。 Rayちゃん、この経緯は4月16日の笹井氏会見を思い起こすとピタリ符合するよ。それを下記。
 STAP現象を前提としなければ容易に説明できないデータがある。しかし、論文全体の信頼性が過誤や不備により大きく損なわれた以上、STAP現象の真偽の判断には理研内外の予断のない再現検証が必要だ。一旦検証することをよしと決めた以上、理論的に、STAP現象は検証すべき仮説になったと考える必要があります。
 笹井氏の誤算は(勿論、第一はSTAP細胞がなかったことだが)ネット社会とマスコミの“コワさ”を過小評価したことだろう。

 それにしても、会見後の理研の実験検証チーム・リーダー相澤慎一氏のコメントは酷かったな。「今回のように、モニターを置いた、研究者を犯罪者扱いにしたような検証方法はあってはならない。科学とはそういうものじゃない」だって。開き直っちゃってさ。科学は実証がすべてじゃないのかね。奢りだな。

 同じ理研の高橋政代さんが、Nature誌「今年の10人」に選ばれたのはいいニュースだった。iPS細胞を使った世界初の移植手術の成功。網膜を再生して「加齢黄斑変性」の患者を救った。理研の光と影だったね。

 Rayちゃん、お次は佐村河内騒動だ。Jiijiの読みはね、背後にはフィクサーXがいるってこと。米TIME誌への掲載だって彼一人で出来るはずがないだろう。一番クサイのはプロモーターだったんだけど、今回「6000万円の損害賠償」訴訟を起こしちゃったね(11月25日)。Jiijiの読みは外れたか? NOだ。
 フィクサーXが一番恐れるのは、「佐村河内が全聾じゃなかった」ことを知っていた、知っていながら一緒に動いた、即ち“グルだった”ことがバレること。グルなら訴訟は成立しないし非難も浴びる。恐らくフィクサーXは、「佐村河内は『最初から聞こえていた』と言うはずがない」と確信したんだろうな。「知らなかったからコンサートを組んだ。騙された」で通せると踏んだんだろう。
 私の期待。佐村河内氏が「あなたたちは最初から(私が聞こえることを)知っていた。グルだったくせに。いまさら何だよ!」と法廷で開き直ること。ガンバレ佐村河内!

 腹の立つのはクラシック関係者。ゴーストライター発覚前は提灯持って、バレた後は非難に回る。特に酷かったのは長木誠司という評論家。「嘘をついて物語を肥大化する必要はなかった」なんてもっともらしいこと言ったけど、CDのライナーなんか書いて持ち上げた張本人なんだからね。厚顔無恥も甚だしい。なあRayちゃん、これじゃクラシック界もよくならないよ。みんなもっと謙虚になればいいのにな。もともとが大したことやってないんだから。

 Rayちゃん、でもって総選挙。年末はみんな忙しいんだから、自分の都合でやらないでほしいぜ。これを安倍の傲慢自己都合解散っていうんだ。これについては、朝日新聞で小林よしのりという漫画家が総括していたけど、ほかの誰よりも的を射ていたな。「ワシが今回の選挙で腹の立つことが4つある。@小選挙区制A国民B安倍晋三Cマスコミ」。いやー、実に的確。天晴れ! もともとこの人まっとうな改憲論者でJiijiは前からお気に入りだったんだ。以下、テーマだけ拝借させてもらって、Jiijiの見解を披露しよう。

@ 小選挙区制は少数派の民意を反映しないから、即、中選挙区制に戻すべしだ。このままだと自民独裁が果てしなく続く。だから、奴らは絶対変えないな。小選挙区制というのは二大政党下で機能するものだから、野党が育たないと困るのよ。じゃ、民主党? ここは政権担当能力ナシの烙印押され済み。野党再編?これもバカの集まりはやはりバカだから意味がない。なら、カリスマ政治家の出現を待つしかないじゃないか。これじゃ、神頼み。いっその事、20年我慢して小泉進次郎に賭けるか? Jiiji死んじゃうなあ。

A 国民の大半は「どうせ変わらないんだから」って諦めてる。考えることを止めちゃってる。だから権力のなすがまま。これは情けない。いつか必ずいいときが来ると信じようぜ。考えることを止めないで行こうぜ。それが人間というものだろ。中島みゆきも歌っているじゃないか。「望みの糸は切れても、救いの糸は切れない」って(「倒木の敗者復活戦」)。

B 安倍政治は危険だ。彼の政治行動は国民のほうを向いていない。家訓を背負って我欲を満たしているだけだ。まずは、集団的自衛権行使容認だな。手法は許しがたいが、Jiijiは集団的自衛権そのものに反対はしない。国のリーダーにちゃんとした理念と覚悟があればね。ところがどうだろう?
 集団的自衛権を行使して喜ぶのはアメリカだよね。なぜ喜ぶことを無条件で提供しちゃうの?「やってやるから沖縄の基地負担を軽減せよ」くらい言えないのかい。ここのところは石破のほうがなんぼかマシだよ。
 でもって、これを使うとテロ標的の可能性が増すってこと。オーストラリアがいい例だ。安倍さんにこの覚悟が出来てるのかな?かつて福田首相が「一人の命は地球より重い」なんか言ってたように、テロ対策において、日本は欧米とは根本的に考え方が違うんだ。また、イスラム過激派がなぜあれほどまでの行動に走るのか。このあたり安倍さん理解できてるのかな。あの能天気口先男が解ってるとは思えないけどね。

 それから、憲法改正は誰のためですか?国民のためでしょう。あなたの目的は、祖父さんの悲願の実現、そして自分の名前を歴史に刻むこと? 立憲主義の真逆をいく自民党改正案を読めば、そうとしか思えないぜ、なあRayちゃん!
 日中首脳会談事前覚書も問題だった。仏頂面の習近平に会いたいがために領土を売るのかね。「尖閣諸島及び東シナ海々域で緊張状態が生じていることについては、両国で異なる見解を有していることを認識する」だとさ。これまでの主張は「尖閣諸島に領土問題は存在しない」だったんじゃなかったの? これじゃ、「尖閣諸島は日本固有の領土」なんて言えなくなる。これを突破口に中国がどう出るか。アンタはそんなことも読めないのかね。

C 今のマスコミは腰抜けだ。今回の選挙で、自民党から「批判的な報道ばかり流さないように」なる通達が来たんだって? これは「報道管制」でしょ。なぜもっと騒がないの?怒らないの? 自由な報道こそ民主主義の根幹じゃないのかね。

 Rayちゃん、最後にオマケ。スポーツ界回顧。駆け足でね。まずは、テニスの錦織圭。これは驚異だった。ランクは17位→5位。全米オープン準優勝。ツアー・ファイナルはベスト4。テニス界でパワーのない日本人の台頭は無理と思っていたが、見事に覆してくれたよ。来年こそメジャーVだ。ゴルフとサッカー、しっかりせいよ。レスリング吉田沙保里の世界大会15連覇はとてつもない記録。親父を亡くした年なのに偉いの一語。体操内村航平の世界選手権個人総合5連覇も凄い。レジェンド・葛西紀明42歳7度目のオリンピックで銀とワールドカップでVは文字通りレジェンドだなあ。フィギュア羽生結弦のオリンピック金とGPファイナル優勝は見事。中国大会のアクシデントを「好機」と捉える超ポジティブ志向に天晴れだ。忘れちゃいけないのはソフトボールの上野由岐子。世界選手権で2連覇達成。ソフトボールは2020東京五輪で復活らしいから、38歳、そこで金なら彼女もレジェンド。きっとやれるぜ、彼女なら。最後に最新ホットニュースを。年度頂点を決めるバドミントン・スーパーファイナルで、高橋礼華&松友美佐紀ペアが女子ダブルスで優勝、世界一に。ロンドン五輪王者の中国ペアを破っただけに価値は大だ。

 Rayちゃん、Jiijiは来年も好奇の眼と思索する心を忘れずに頑張るよ。よろしくね。では皆様、2015年が良き年でありますように!!
 2014.12.10 (水)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究11〜
                                 バッハ第3の不易流行「バッハはユーミンの先導師」
 ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685−1750)はよく数学者に准えられる。確かに、「フーガの技法」における幾何学的姿形を見ればむべなるかなと思う。でも、それだけが取り柄ならばそこ止まり。そこに、「音楽の生命」が宿っているところが、バッハのバッハたる由縁だろう。
 しからば、音楽の生命とは? 音楽の証明とは? 我々が音楽を聴いて得るもの、音楽に求めるものとは? それは、「感動」と「癒し」。かつて、ロック・アーティストの角松敏生が「音楽にはダンスミュージックと宗教音楽しかない」と私に語ったことがあるが、同相か?

 バッハの音楽は、「感動」(揺さぶり)と「癒し」(安らぎ)に満ちている。音楽の生命が漲っている。だから、後に続く作曲家を触発する。多くの機会に使われる。永遠に生き続ける。
 今回は、そんなバッハの音楽が、現代、それもJ-POPの中に、どう息づいているか? を探ってみたい。これも不易流行である。

<松任谷由実の場合>
運命の瞬間でした。J.S.バッハの「トッカータとフーガ ニ短調」を初めて耳にしたときのこと。言葉にできない。電流に打たれたようなショック!! それまで、音楽は普通に聴いて楽しむものだったのに、そこで初めて「何かしたい」という衝動に駆られたのです (「デビュー40年 見はてない夢」2012年NHK特集より)。
 ユーミン12歳、立教女学院中学に入学したてのころの言である。そして、翌年、プロコル・ハルムの「青い影」に出会う。
オルガンをフィーチャーしたこの曲を聴いて、自分にもできるかもしれない。ギターではなくキイボードのロック。ロックと教会音楽を橋渡しするような音楽が。
 「青い影」はバッハ「G線上のアリア」が原曲。「トッカータとフーガ ニ短調」に触発され「G線上のアリア」で自ら進むべき道を確信したユーミン。J.S.バッハこそ、ユーミンに音楽への道を開示した先導師だった。

 ユーミンのファースト・アルバム「ひこうき雲」は、1973年、ユーミン19歳の作品。タイトル曲「ひこうき雲」を静かに聴く。キイボードとオルガンの響き。悠遙たるテンポ。「ひこうき雲」の向こうに「青い影」が見える。彼方にJ.S.バッハがいる。

 もし、中学校の教会で「トッカータとフーガ」に出会わなかったら、もしプロコル・ハルムが「青い影」を作らなかったら、ユーミンは普通のおばさんになっていたかもしれない。もしJ.S.バッハなかりせば、スーパースター・ユーミンは誕生していなかった!?

<中島みゆきの場合>

 バッハに「主よ 人の望みの喜びよ」という楽曲がある。カンタータ第147番「心と口と行いと生活で」の中のコラール(賛美歌)。メロディーは、段落感なく音が連なり延々として終わりがない。所謂バロック的無限旋律である。
 ♪キリストこそ我が喜び と主イエス・キリストを得ることができた聖母マリアの心情を詠う。敬虔さと喜びに満ちた名旋律だ。

 中島みゆきに「世情」という曲がある。1978年のアルバム「愛していると云ってくれ」に入っている楽曲だが、脚光を浴びたのは1981年TBSドラマ「金八先生」に挿入されたとき。
シュプレヒコールの波通り過ぎてゆく 変わらない夢を流れに求めて
時の流れを止めて変わらないものを 見たがる者たちと戦うため
 この8小節部分を、ヴォーカルが3回合唱が4回繰り返しフェード・アウトで終わる。これもまさしく無限旋律。バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」と同じ構造である。

 シュプレヒコールは訴求の唱和。変革を拒絶する壁への挑戦だ。壁の向こうにある希望を目指し、シュプレヒコールは永遠に続く。聖母マリアの喜びの先にも希望がある。中島みゆきもバッハも無限旋律の彼方に希望を見ている。

<山下達郎の場合>

 ここでは、「クリスマス・イブ」を取り上げよう。この曲は、山下達郎が独立レーベル「ムーン」を立ち上げての第1作アルバム「Melodies」に挿入された。1983年のことである。
 1988年、JR東海がクリスマス・キャンペーンのテーマソングとして使いだすと、これが見事に嵌り大ヒット。クリスマス・ソングのNo.1定番曲として定着した。

 「クリスマス・イブ」の間奏には達郎のスキャットが印象的に入る。これは「パッヘルベルのカノン」が原型。では、どこでバッハと繋がるのか?

 「カノン」の作者ヨハン・パッヘルベル(1653−1706)は、ドイツ・バロックの作曲家で、音楽史的には、フーガやコラール前奏曲の発展に貢献している(Wikipediaより)。 ヨハン・セバスティアン・バッハの父アンプロジウス(1645−1695)は、音楽家といってもアイゼナハのしがないラッパ吹き。主な仕事は町の高台から時刻を告げるラッパを吹くことだった。そんな父親が一家の音楽教師として白羽の矢を立てたのが、親交のあったパッヘルベル。このときヨハン・セバスティアンはまだ生まれていない。
 教わったのはヨハン・クリストフ(1671−1721)。ヨハン・セバスティアンの14歳年上の長兄である。パッヘルベルは熱心な教育者で、ヨハン・クリストフを住み込ませ、3年間みっちり教育を施した。対位法を中心に作曲技法全般にわたったという。

 1695年、父アンプロジウスが他界。まだ10歳のヨハン・セバスティアンは、オールドルフに住む長兄ヨハン・クリストフの元に身を寄せることになる。弟がリューネブルクに移り住むまでの5年間、兄は徹底的に音楽の基礎を叩き込む。それこそがパッヘルベル直伝の作曲技法。音楽の父の父はパッヘルベルだったのである。

 ここに、パッヘルベル→ヨハン・クリストフ・バッハ→ヨハン・セバスティアン・バッハという一本の線が形成された。パッヘルベルを基点として、山下達郎とJ.S.バッハが繋がったのである。グレゴリオ聖歌を基点としてマイルスとJ.S.バッハが繋がったように(11月10日「クラ未知」)。ちょっと、無理ありか? でもまあ、街はクリスマス・ムード一色。季節柄お許しいただきたく Merry Christmas!
 2014.11.25 (火)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究10〜バッハ第2の不易流行「平均律」
 ショパンに「前奏曲」作品28という作品がある。全ての調(キイ)を使った24の曲集。配列は、無印のハ長調とその平行調・イ短調を皮切りに、♯系の長調・短調を♯の数の少ない順に並べて12曲、次に♭系の長短を♭の多い順に並べて12曲。ハ長調に始まりニ短調で終わる全24曲集である。
 「大田胃酸 いーい薬です」のCMでお馴染みの第7番イ長調、「雨だれ」のニックネームがついた第15番変ニ長調が特に有名。この2曲は確かに素晴らしいが、他の22曲は?あまり馴染めず、自分の中では名曲とは言い難い曲集であります。

 ショパン(1810−1849)がこの曲を完成したのは1839年のマジョルカ島。同行したのは恋人ジョルジュ・サンド一家。持参した楽譜は唯一、J.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」だったそうだ。
 この一件から、ショパンが「前奏曲」を作るにあたって最も参考にしたのはバッハの「平均律」だったことが読み取れる。それもそのはず、「平均律」は、「前奏曲」とまったく同じ調で書かれた一組の曲集なのである(2巻で48曲あるが構成は全く同じ。以後、煩雑さを避けるため第1巻24曲を対象として述べさせていただきます)。

 今回は、ショパンが手本にしたバッハ「平均律クラヴィーア曲集」(第1巻BWV846−869)の中に、不易流行を探ってみたい。

<バッハ第2の不易流行:平均律クラヴィーア曲集>

 注目は曲集の表書き。そこにはこうある。
Das wohltemperirte Clavier、あるいは、すべての全音と半音(白鍵音と黒鍵音)を長3度(つまりドレミに関しても)短3度(つまりレミファに関しても)用いて作られた前奏曲とフーガ。
 wohltemperierte は英語に置き換えるとwell-tempered。「適度に調整された」という意味。クラヴィーアは鍵盤楽器の総称。これを「平均律クラヴィーア曲集」と訳した。しからば平均律とは何ぞや?

 現行の音階(ドレミファソラシ)が形成される過程をざっと眺めてみると・・・・・。まずは「歌ありき」。これは「グレゴリオ聖歌」で9−10世紀。その後、ビザンティン(東ローマ帝国)において、音階は「教会旋法」の名のもとに整理される。8つあるので八調Octoechosと呼ばれた。その後エオリア旋法、ロクリア旋法、イオニア旋法が追加され全部で11調となる。
 この中から、イオニア旋法が長音階(ドレミファソラシ)、エオリア旋法が短音階(ラシドレミファソ)に成長、現行の音階につながってゆく。

 「平均律」とは、長音階と短音階における音の高低幅を均等化した調律法。1オクターブの音幅を12等分した12平均律が最も一般的。現行の音列である。これは、現代のピアノを見れば一目瞭然。1オクターブ違いのドとド゙の間には、白鍵・黒鍵合わせて12ある。隣同士の鍵の周波数差はオクターブの周波数の1/12に等分されている。“オクターブ12等分調律法”とでもいえようか。「平均律」とはうまい訳を当てたものだ。

 「平均律」が提唱され始めたのは1700年ころ。バッハは15歳。それまでは、11の教会旋法が各々独立して用いられ、相互乗り入れは不可能だった。主音も音幅(隣の音同士の高低差)もバラバラだからである。「平均律」は音幅が一定のため、12音全てが主音になりうる。したがって、12の長音階、12の短音階、そして、11教会旋法も(なんとか)カバーできる? すべての楽器の合奏が可能となる。まさに万能調律法。

 ところが、現代では当たり前の「平均律」は、即座に浸透したわけではなかった。是非をめぐる議論がいつまでも続いたのである。伝統に抗する新しい力は、いつだって産みの苦しみを持つ。

 バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は、こんな状況下で完成した。1722年のことである。バッハは「平均律」の可能性・将来性を確信したのだろう。そして、持ち前の探究心、数学者的分析能力を駆使して「平均律」の概念を完璧に具現化したのである。

 「平均律クラヴィーア曲集」は、前奏曲PraeludiumとフーガFugeを一組として平均律の12長音階と12短音階を一回づつ使った24の曲集。
 ハ長調とハ短調、次は半音高い嬰ハ長調・嬰ハ短調と順次上がり、最後はロ長調・ロ短調で締める。全24曲である。

 ちょっと一言。長調/短調の組み合わせに関していえば、バッハは同主調(ハ長調とハ短調)をセットにしているが、ショパンは平行調(ハ長調とイ短調)をセットとしている。
 同一調性の呼称に関し、相違するものが一つある。バッハが嬰ハ長調といっているものをショパンは変ニ長調と称している。「平均律」において、調性は24通りしかないが、呼称は(理論的には)42通りあるのだから、これは不思議でもなんでもなく、むしろ相違点些少と考えたほうがいいのかもしれない。

 更に一言。アンドレ・ジイド(1869−1951)は、「ショパンの『前奏曲』作品28は曲種名に全く新たな意味が与えられている。『前奏曲』といえば、19世紀初めは主に、当時行われていた即興演奏の『前奏』の習慣と結びつけて考えられていた。ショパンの作品28は、そうした結びつきをきっぱりと断つべく考え出されたのだといえよう」(「ショパン 孤高の創造者」ジム・サムスン著 大久保賢訳 春秋社刊)と述べている。
 が、私のはちょっと違う。バッハの「平均律クラヴィーア曲集」のタイトルには「前奏曲とフーガ」とある。ショパンの「前奏曲」作品28は明らかにフーガではないから、「前奏曲」という文言をバッハから拝借した。理屈は後から付けばいい。これぞバッハへのオマージュ? 単純にこう考えたい。

 ショパン「前奏曲」出現後、「前奏曲」と題するピアノ曲は数々登場してくる。ドビュッシー(1862−1918)は第1巻12曲、第2巻12曲、全24曲の「前奏曲」を作った。ラフマニノフ(1873−1943)は生涯で27曲の「前奏曲」を作った。そのうち24曲は全ての調性で書かれている。バッハ−ショパン−ドビュッシー−ラフマニノフと連なる200年のリレー。これも不易流行の形である。

 「平均律クラヴィーア曲集」を、19世紀の高名な音楽家ハンス・フォン・ビューロー(1830−1894)はピアノ曲の「旧約聖書」と呼んだ。それは、「平均律クラヴィーア曲集」がその後のピアノ音楽いや全ての音楽の指針となったことを意味する(因みに「新約聖書」はベートーヴェンのピアノソナタ32曲)。

 シューマン(1810−1856)は「バッハの『平均律クラヴィーア曲集』を毎日糧とすること。そうすれば、間違いなく、立派な音楽家になれる」(「音楽家の名言」檜山乃武編・著 ヤマハミュージックメディア刊)と云っている。「平均律クラヴィーア曲集」は音楽を志す者にとってのバイブルであるということだ。

 バッハは「平均律」の理論を構築したわけではないが、実践する道具を完璧な形で作り上げた。実用化への貢献。青色LEDのノーベル物理学賞受賞者・中村修二教授の功績と同相?
 バッハ以後の音楽家は押しなべて、「平均律クラヴィーア曲集」を音楽作りの礎とした。「平均律クラヴィーア曲集」が生まれなかったら、「平均律」の浸透はもっともっと遅れたに違いない。近代音楽発展への果てしない貢献。バッハにおける不易流行の形である。
<参考文献>

バッハから広がる世界(樋口隆一著 春秋社)
ショパン孤高の創造者(ジム・サムスン著 春秋社)
音楽家の名言(檜山乃武編・著 ヤマハ ミュージック メディア)
「平均律 クラヴィーア曲集 全曲 スビャトスラフ・リヒテル(ピアノ)」
   CDライナーノーツ(東川清一著)
 2014.11.10 (月)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究9〜バッハ不易流行その1「対位法」
 わが盟友、当サイトの主宰者 Brownie K氏が訳した『マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」創作術』(DU BOOKS刊)が発刊されたので、直ちに求めて読んでみた。JAZZ史上に燦然と輝く傑作アルバム誕生の経緯が数々の証言を交え劇的に展開する。証言はミュージシャンに止まらず、プロデューサー、評論家、レコード会社、マスコミにまで及ぶから、JAZZを取り巻く音楽業界の状況が克明に浮かび上がる。名盤誕生のドラマとレコード音楽史の共存。エンタテインメントとドキュメントが両立した第一級の読み物となっている。K氏の訳も素晴らしい。逐語訳的学術性と意訳的わかりやすさを兼ね備えてまさに完璧。この書の価値をさらに高めている。

 アルバム「カインド・オブ・ブルー」(1959録音)のキイワードはモード(旋法)。コードを軸にしたそれまでのJAZZの常識を打ち破った画期的なアルバムである。
 音楽の様式はポリフォニー(多声音楽)とモノフォニー(和声音楽)に大別できるとすれば、J.S.バッハ(1685−1750)の活動中から時代はモノフォニーだった。バッハが極めた対位法(ポリフォニーを形成する音楽技法)は彼の死を以って埋没する。一方、マイルス・デイヴィス(1926−1991)のモード手法はグレゴリオ聖歌(教会旋法)に行きつく。本書の中には、ミクソリディアン、フリジアン、イオニアンなどの教会旋法名が飛び交う。バッハの対位法はこの発展形だから、マイルスはバッハを飛び越えて“古きを訪ねた”わけだ。

 バッハとマイルスの接点を、 ミクソリディアン(教会旋法第7:基音をソとする7音音階)を軸に検証してみる。「カインド・オブ・ブルー」の第5曲「フラメンコ・スケッチ」は全5曲中最もモーダルな楽曲とされるが、そこにはミクソリディアンが頻出する。片や、バッハ「ミサ曲 ロ短調」の「クレド」第1曲「我は信ず唯一なる神を」はミクソリディアンのみから成る。
 『「カインド・オブ・ブルー」創作術』には、ビル・エヴァンスが「マイルスとわたしはピアノで音を探りながら、レコーディングで演奏した5つのスケールにたどり着いた」と言うくだりがある。「5つのスケール」は、残念ながら私の耳では識別できないが、その内の一つがミクソディリアンであることは判る。
 バッハの「ミサ曲 ロ短調」とマイルスの「カインド・オブ・ブルー」からは、共通するミクソリディアンが聞き取れる。マイルスもバッハも時空を越えて遥か中世へ連なっている。音楽の不可思議さ!面白さ! これも不易流行に他ならない。

 「カインド・オブ・ブルー」に時を同じくして出現したオーネット・コールマンのフリー・ジャズは、当時「カインド・オブ・ブルー」以上の衝撃をジャズ・シーンに与えた。が、今はさほどの評価は残っていない。何故か?不易を踏まえていないからだ。「なにもかもぶち壊す」は芸術たりえない。
 『「カインド・オブ・ブルー」創作術』によると、「マイルスの音楽は、けっしてメロディとリズムから完全には決別しなかった。特有のトーン、フレージング、リズムを常に保持していた」とある。彼の音楽は、“余人を以って代え難い個性”と“奇をてらうに止まらない完成度の高さ”を有していたのだ。彼はまたこうも言っている「やりすぎてはダメなんだ。そのバランスが難しい」。バランスの重要性も自覚する。そう、マイルスは不易流行を踏まえていたのである。

 マイルスはコードの束縛を離れ発想の自由をモードに求めた。バッハもまたモードとコードの狭間に生き、結果、芸術家としての使命を全うした。その基盤には不易流行がある。

<バッハ不易流行その1:対位法>

 先述したとおり、音楽の様式はポリフォニーとモノフォニーに大別される。西洋音楽の起源とされるグレゴリオ聖歌は、単一声部からなるユニゾンの合唱曲で、9−10世紀にその誕生をみる。それが徐々に声部を増やしポリフォニー(多声部)音楽を形成する。中世―ルネサンスはポリフォニーの最盛期となる。16−17世紀にオペラが誕生すると、一本の旋律に和音の伴奏をつける音楽、即ちモノフォニーが頭をもたげる。17世紀末から18世紀は、オペラの発達に伴いモノフォニーが主流となり、ポリフォニーは時代遅れの音楽となりさがった。ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685−1750)が活動したのは丁度そんな時期である。そんな時代に、バッハは、ポリフォニーの作曲技法である対位法に打ち込む。まさにそれは時代遅れの行為だった。

 バッハが極めた対位法は「フーガの技法」BWV1080に最も顕著に現れている。「基本」は4小節のテーマ。この音列を「反転」「拡大」「縮小」「反行」させ、これらを様々に組み合わせ展開させたユニット19個の集合体が「フーガの技法」である。
 19曲中の白眉は第7曲(Contrapunctus7)だろう。「変形基本形の縮小」「変形反転形」「変形反転形の縮小」「変形反転形の拡大」でスタートした4つの声部は、変幻自在に形を変え絶妙に絡み合いながら粛々と進む。そこにあるのは幾何学的静謐美だ。

 1750年夏、J.S.バッハは「フーガの技法」の完成を待たずに世を去った。配列の指示も楽器の指定もないままに(このため未だに全体像の確定がない)。遺された妻子らは自筆譜を頼りに、2年後なんとか出版にこぎつけた。売れたのは僅か30部。今では対位法作品の最高峰とされる「フーガの技法」が、当時はいかに時代遅れの産物だったかの、これは証である。

 バッハは、対位法を時代遅れの技法と認知しつつ、これを極める作品を書いた。生涯の最後に。バッハに「なぜこんな割の合わない仕事をしたのか?」と訊いても「書きたいから書いた ただそれだけ」としか答えないだろう。だが、彼の胸の内を覗いてみれば、様々な思いが見えてくる。消えゆくものへの憧憬?後世への使命感?愚直なまでの職人根性?芸術家魂? 全てが当てはまるような気がする。

 「対位法」は、例えばフーガという形で、バッハの作品には多数存在する。有名な「トッカータとフーガニ短調」をはじめとする多くのオルガン曲。「平均律クラヴィーア曲集」全48曲などのクラヴィーア(鍵盤楽器)曲。対位法は、彼の生涯を通した大きな命題だった。「フーガの技法」は死の間際に唐突に生まれたわけではなく、作曲家バッハの集大成でもあった。
 「フーガの技法」において、全ての音符は一点の狂いもなく嵌め込まれて揺るぎない。その姿形は幾何学的精緻さの極みであり、音楽は静謐美と崇高な精神に彩られる。

 バッハが極めた「対位法」は彼の死を以って消滅したかに見えた。確かに、時代はモノフォニーまっしぐら。だがしかし、それは音楽史の中に粛々と受け継がれ生き続ける。

 モーツァルト最後の交響曲 第41番「ジュピター」は壮大なフーガで曲を締めくくる。たった4音を素材として大伽藍を組み上げた天才モーツァルト。彼の背後にはバッハがいる。ベートーヴェンは、弦楽四重奏のための「大フーガ」作品133を書き、「荘厳ミサ曲」の「グローリア」と「クレド」にはフーガを大規模に取り入れた。フランクの名作「ヴァイオリン・ソナタ イ長調」の終楽章はカノン。ベルリオーズの「幻想交響曲」第5楽章やレスピーギの交響詩「ローマの松」の「ボルゲーゼ荘の松」にもフーガの破片が感じられる。近代では、ショスタコーヴィチが「交響曲第2番」で、なんと27声部ものポリフォニーを導入している。すべてバッハが完成した対位法の影響である。

 しかし、なんといっても興味深いのはアーノルト・シェーンベルク(1874−1951)のケースだろう。彼は1932年「バッハと12音」というメモの中で、バッハを「最初の12音音楽家」と称した。
バッハはネーデルランドの対位法の秘術を有していた。すなわち、「7つの音を互いに、その動きの中で起きるあらゆる響きがひとつの協和音のように把握されるような位置にもたらす技術」である。この秘術を彼は「12音に拡大」した。バッハは(逆説的に表現すれば)「最初の12音音楽家」なのである。
 これはシェーンベルクのバッハへの尊崇の念に他ならない。自らの代名詞である12音音楽の礎をもたらしたのはバッハであるというのだから。20世紀最大の革命者といわれるシェーンベルクが最も賞賛する作曲家がバッハだった。シェーンベルクが音楽史の全てを飛び越えてバッハと繋がる。この事実こそバッハの偉大さの証明ではなかろうか。12音音楽の是非はさておいて。

 グレゴリオ聖歌から脈々と流れきたポリフォニーという古い様式。バッハは、その音楽技法である「対位法」を極限まで追求した。それは、過去を総括し未来へ繋げる行為だった。それゆえ、近代西洋音楽はバッハを起点とする。「音楽の父」といわれる由縁。まさに「不易流行」そのものである。
<参考文献>

マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」創作術
  (アシュリー・カーン著 川嶋文丸訳 DU BOOKS)
バッハから広がる世界(樋口隆一著 春秋社)
バッハ 伝承の謎を追う(小林義武著 春秋社)
 2014.10.25 (土)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究8〜「旅に病んで」の深意
<字余りの怪>

旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる

 この句が詠まれたのは元禄7(1694)年10月9日。亡くなったのが12日。この間、芭蕉は以前詠んだ句の訂正をしているだけだから、「枯野」の句は実質最後の句である。最後の句なら「辞世の句」か、といえばそうではないらしい。なぜなら、芭蕉はこの句に「病中吟」と銘打ったからだ。その上、芭蕉は常々「古池や」の句以降はすべてが辞世の句である、と門人に語っていたそうな。そんな背景から、「辞世の句か否か」の議論も喧しい。だが、ここは、敢えて「病中吟」とした芭蕉の深意を探るべきだろう。

 一方「傑作か駄作か」なる議論もある。以下は「駄作論」の代表例。
「枯野」の句は、一句としてみてもあまり出来はよくはあるまい。少なくとも芭蕉は、生涯に遺した1千句ばかりの発句の中に、こんな切れ字の動きのない、散文のきれはしのような句を作ってはいまい。・・・・・いうなれば、「枯野」の句は、誇り高き俳諧師が、最後に誇りを捨てたのではないか、と思わせかねない異体の句である(安東次男)
 作品の評価は人様々。だから放っておけばいい。私の関心事はただ一つ。なぜ「旅に病んで」なのかということだ。「旅に病み」ではいけないのか。「旅に病んで」は6文字、字余り。「旅に病み」なら、同じ意味で5文字に収まるのに。

 今回は、「不易流行」やらバッハとの共通性などを一時離れて、なぜ、死を前にした芭蕉は、敢えて字余りの「旅に病んで」に拘ったのか? を考えてみたい。

<妄執のかなたに>

 人は必ず死ぬ、だが、その時期は誰も知らない。これが人の死に対する共通認識だ。だが、なぜ人は平気なのか?必ず死ぬと分かっていながら平気でいられるのはなぜなのか? それは、単純に、死は遠い先のことと考えているからだろう。
 しからば、死を目前にした人はどうなのか? まだ、その認識のない私には分からない。ならば他人の言を引用するしかない。以下は、モーツァルトの場合である。

モーツァルトは決してこのような裸の叫び声を伝えるような作品を書いたことはなかった。しかし、彼が死を予感し、しかも死者のための音楽である「レクイエム」を書かねばならなかったとき、死は単なる予感ではなく、一つの実態のように、彼の上にとりついたであろう。そうして死に直面したとき、−ガン宣告を受けた患者のように−彼は悟ったような顔をして死ねるほどの虚脱者でもなければ、ペテン師でもなかった。死にたくはなかった故に、生きながら煉獄の苦しみに会ったのであった。人間の魂が「肉体に別れを告げる」時の「異様なつらい別れ」の歌、慟哭の歌、執着の歌、呪いの歌、叫びの歌、そして自身への挽歌ができあがったのだった。
 これは、石井宏著「素顔のモーツァルト」(中公文庫)の一節である。死を予感して死に臨んだ人間の心境である。そして最後の作品の様相である。そこにあるのは、慟哭であり、執着、呪い、叫び。「レクイエム」は自身への挽歌だ。

 しからば、芭蕉の場合はどうか?
芭蕉は生死のはざまにいた。「こうして死にそうになって発句でもあるまいが、自分は此の道に心を籠めて年も50歳をすぎてしまった。こうやって寝ていても、思いは朝雲暮烟のあいだをさまよい目ざめれば山水野鳥の声におどろく。こういうことを仏は妄執といっていましめられた。かくなるうえは俳諧を忘れて死にたい」と言った。さらに芭蕉は、「これは辞世の句ではない。ただ病中の句である。このような句を作るのは妄執である」と続けた。
 これは嵐山光三郎著「悪党芭蕉」(新潮文庫)から「夢は枯野をかけめぐる」の一節である(著者引用の原文は支考の「笈日記」)。「死を前にして、妄執を捨て去りたいのだが、このような句を作ってしまった。これぞ妄執である」との芭蕉の言は、モーツァルトのケースに驚くほど酷似する。「枯野の句」は自身への挽歌である。

 死に臨んで天才は(天才でも)なおもて妄執を捨て去りがたいものなのか。いわんや凡人においておや?

<「も」を隠した芭蕉>

 「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」の解釈について、嵐山光三郎は「悪党芭蕉」の中で、「旅に病み、夢うつつの中で彼は枯野をさまよい歩いているのを見た(山本健吉訳)と訳されるのが一般的である」と述べている。ウーン、実に平板! 前出安東次男の「散文のきれはしのような句」にも通じる、これは訳?

 だがしかし、ほんとうにこの句は、「切れ字の動きのない、散文のきれはしのような句」なのだろうか。断じて違う、と私は考える。

 「旅に病んでしまっても、俳諧の夢は枯野の中をかけめぐっている」。これがわたしの訳である。ポイントは「も」。死を前にしながら、どうしても悟りの境地には達しえない。まだまだ死に切れない。夢とは俳諧の夢。生きて俳諧を極めること。仏の道に従うなら、俳諧を忘れて死ぬべきなのだが、そうはいかない。これが「妄執」と芭蕉は認知している。だから「も」なのである。

 要するに、芭蕉は「旅にやんで」のあとに「も」を隠したのである。だから「旅に病み」ではいけない。「旅に病んで(も)」なのである。芭蕉の心境になりこころ澄ませば「も」が見えてくる。
 わたしは旅に病んでしまった。死が迫りくることも承知している。本来ならば心安らかにそれを受け入れなければいけない。「だがしかし」、「でも」、「なおかつ」、夢は枯野をかけめぐっている。俳諧の夢をまだ消したくはないのだ・・・・・これがわたしの解釈である。

 「枯野の句=駄作」論者には「も」は見えていない。「も」を隠した「枯野の句」は、その伏字で余韻を醸す。切れ字効果の上をゆく。喪、蛻、妄執。「も」こそ「枯野の句」のキイワード。
 芭蕉は常々「言い尽くさない」をよしとしてきた。彼は最後に、究極の「言い尽くさない句」を詠んで旅立って行ったのである。

<エピローグ〜蕉翁 1694年10月9日を回想する>

 わたしはあのとき、お迎えがすぐそこに来ていることを知っていました。ならば辞世の句でも詠もうか。いや、ここ数年、「わたしが詠む一句一句が辞世」と門人たちに説いてきたからには「辞世」と言ってはいけない。しかも「辞世」は死を受け入れたものが詠むもの。残念ながらわたしは死を受け入れられない。受け入れたくない。旅において、みちのくのあとは長崎と決めてもいた。病気を治して長崎に行きたい。人はこれを妄執といいます。確かにわたしは妄執に囚われていました。これからもまだ、俳諧の道を歩みたいという妄執に。

旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる

 そんなとき、突如こんな句が浮かびました。一旦は、上を「旅に病んでも」と考えましたが、すぐにやめました。それではいかにもベタ。わたしの妄執がモロにでている。説明しきっている。7文字も辛い。ならば、若いころよくした上六で「旅に病んで」としよう。これならば「も」が隠れて心地よい。呑み込むことでリズムが生まれる。余韻が生まれる。常々門人たちに説いてきた「言い尽くさず」にも適う。これでよし。わたしは句頭に「病中吟」と書き入れました。

 すぐさま支考を呼びました。「もが隠れていること」「妄執が潜んでいること」に気づくかどうか試したかったからです。上六はそのままに「なほかけ廻る夢心」ではどうか?と問いました。支考はしばらく考えて「いずれでもよいです」と答えました。賢明な支考のことですから、「なほかけ廻る夢心」に季語がないことくらいはすぐに判るはず。考えていたのは「翁はなぜこのような問いかけをしたのだろうか?」ということだったでしょう。

 わたしは「も隠し」のヒントを彼に言ってやりました。「こうして死にそうになって発句でもあるまいが、自分は此の道に心を籠めて年も50歳をすぎてしまった。こうやって寝ていても、思いは朝雲暮烟のあいだをさまよい目ざめれば山水野鳥の声におどろく。こういうことを仏は妄執といっていましめられた。かくなるうえは俳諧を忘れて死にたい」。さらに「これは辞世の句ではない。ただ病中の句である。このような句を作るのは妄執である」と。

 彼がわたしの深意に気づいたかどうか。それはわかりません。だが、こうしておけば、いつか誰かが「枯野」の句の真意を読み解いてくれる。わたしはそう信じて、今日も、天上で見守っているのです。
<参考文献>
悪党芭蕉(嵐山光三郎著 新潮文庫)
芭蕉の世界(山下一海著 角川選書)
俳句の宇宙(長谷川櫂著 中公文庫)
素顔のモーツァルト(石井宏著 中公文庫)
 2014.10.10 (金)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究7〜果てしなき不易流行
<不易流行の句>

 芭蕉が奥州平泉に着いたのは元禄2年(1689年)5月13日。ここで、7日間という長い沈黙を破って名句が生まれる。
夏草や 兵どもが 夢の跡 (高館)
 (いま、夏草深く生い茂るここ高館は、昔、武士たちが雄々しくもはかない栄光を夢見た戦場の跡である)
 悲運の武将義経と藤原三代の栄枯盛衰。芭蕉は持ち続けた思いを鎮魂歌としてここ平泉に焼き付けた。眼前に広がる夏草。その生命力旺盛な姿に、心は儚くも脆い古の夢へと馳せる。
 この前文には、「『国破れて山河あり 城春にして草青みたり』と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ」とある。引用した詩はいうまでもなく中国の詩聖・杜甫のもの。
 国は破れても生き続ける山河の風情と今は亡き兵士の夢がそぞろ漂う一面の夏草。杜甫の詩と芭蕉の句。この対比こそ不易流行の佇まい。芭蕉は極意を掴んだのである。

 「おくのほそ道」において、3句を詠んだ平泉を軸として前後の句の数を検証すると、前段7章で0、後段7章で9。この著しい差異こそ芭蕉が「不易流行」に目覚めた証だろう。平泉は行程のほぼ半分。「おくのほそ道」、ここからは、まさに“傑作の森”。その自由さ意味深さ、スケール感は、前半の比ではない。
 これら傑作を前にして、もはや理屈は要らないだろう。極意を掴んだ作者の“不易流行の気配”と“解き放たれた精神”を感じ取ればそれでいい。まずは、平泉でのもう一句。

五月雨の 降り残してや 光堂 (平泉)
 (すべてを朽ちさせるように、毎年降り続ける五月雨も、この光堂だけは遠慮して降り残したのだろうか。永い歴史を伝えるように、光堂は今もなお燦然と輝いている)
 ここでは数字の妙を指摘しておこう。まず、前文のたたみ込み。「二堂開帳」「三将の像」「三代の棺」「三尊の仏」「七宝散り失せ」「四面新たに」「千歳の記念」など、短い文章の中、これだけの数字がちりばめられる。そして、句には「五月雨」である。五には藤原氏が滅びてからの五百年の歳月がかぶる。数字が呼び起こすリズムと迫力。長い年月を隔てる不易流行の概念。芭蕉円熟の技である。

蚤虱 馬の尿する 枕もと (尿前の関)
 (この宿は母屋に馬を飼っているので、蚤・虱にせめられるうえ、枕元に馬の小便する音が聞こえてくる)
 ここに、まったく異質な句を配する芭蕉の天才に注目だ。この前後の句「光堂」と「紅の花」が倍加して輝くのである。

眉掃きを 俤にして 紅の花 (尾花沢)
 (化粧用の紅をとる紅花が一面に咲いている。それを見ていると、どうしても、女性がおしろいをつけた後に眉を払う、小さな刷毛を連想してしまう)
 眼前の紅花から化粧姿の女性に思いがめぐる。しなやかな想像力を味わいたい。

閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声 (立石寺)
 (立石寺は全山、夕暮れの中に静まりかえっている。その静寂のなかで、蝉の声だけが、岩にしみとおるように聞こえてくる)
 蝉の声を“閑か”と感じとるしなやかなこころ。これぞ、「古池や」で開眼した蕉風の極。こころで詠む極地。芭蕉のこころは静かなる宇宙に通じているのだろうか。


五月雨を あつめて早し 最上川 (大石田)
 (もともと急流の最上川が、折からの五月雨を集めて増水し、すさまじい勢いで流れ下っている)
 初案は「あつめて涼し」だった。これは傍観者の目である。改定した「早し」には当事者の突っ込みがある。自然への畏怖がある。

雲の峰 いくつ崩れて 月の山 (月山)
 (夏空に高くそびえる雲の峰、その入道雲が、夕べとともに、いくつも次々に崩れていって、やがて三日月の光のなかに、羽黒三山の最高峰、月山が姿を現した)
 「あらたふと 青葉若葉の 日の光」(日光)と対置をなす句。17文字に篭る驚くべき壮大さ。

荒海や 佐渡に横たふ 天の河 (越後路)
 (日本海の夜の荒海のかなたに佐渡が島がある。その孤島へかけて、夜空に天の川が大きく横たわっている)
 眼前に佐渡島が見えようが見えまいが、お構いなし。その精神の自由さ。なんというスケール感!



一つ屋に 遊女も寝たり 萩と月 (市振)
 (同じ宿に、世捨て人の私と、悲しい身の上の遊女が泊まり合わせた。奇縁だと思いながら庭を見ると、咲きこぼれる萩に、澄んだ秋月の光が降り注いでいる)
 「天の河」直後の句で、周知のフィクション。天空から人間界へ。その場面転換の見事さ、鮮やかさ。創造者芭蕉の真骨頂だ。

蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ (大垣)
 (蛤のふたと身が別れるように、私は見送る人々と別れて、二見が浦に出かけようとしている。ちょうど晩秋の季節がら、離別の寂しさがひとしお身にしみる)
 出発の句「行く春や 鳥啼き魚の 目は涙」と対置。蛤は二見が浦の名産。二枚貝。親しい人々との別れと行く秋の寂しさ。いくつもの意味を重ねる精妙な設計。実に高い完成度である。「おくのほそ道」150日を経て到達したこの至高の境地こそ、成熟と「不易流行」確立の証明だ。

  <不易流行は普遍の原理>

 芭蕉の句に「不易流行」を探ってきたが、不易流行はなにも俳句に限った概念ではない。それどころか、むしろ幾多の営みに宿る基本理念であり、世の中の事象を解き明かす根本原則でもある。そこに芭蕉の普遍性がある。

 例えば? よく謂われる「大和魂」という言葉を考えてみよう。これは、文字通り日本人が持つこころの有り様であり、特有かつ根源的精神の象徴である。
 私のこの言葉との出会いは、藤猛によってもたらされた。日系3世のボクサー藤猛は、1967年、忽然と現れて世界チャンピオンになる。圧巻の強さ。まさにシンデレラ・ボーイだった。その試合後のリング上で、彼は、「ボク、ヤマトダマシイで勝った」と叫んだのである。日本語がおぼつかない日本人ボクサーが発した「ヤマトダマシイ」という言葉の衝撃は、真に強烈だった。
 もう一つは、吉田松陰だろう。「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」はあまりにも有名だ。

 朝日新聞9月14日付「天声人語」は「大和魂」がテーマ。そこには、「『大和魂』が文献史上初めて登場するのは『源氏物語』の『少女の巻』で、光源氏が息子の教育方針を語るくだりに、中国の学問が基礎にあってこその大和魂である」という記述がある。
 さらに続けて、「小林秀雄は、大和魂はおそらく女の言葉だったろうと述べている。平安のころ、漢学は男のものだった。そのかたくなな知識とは反対の、柔軟な生きた知恵が大和魂であり、『人間性の機微』に通じた優しい正直な心を指しているのだ、と」とある。

 即ち、大和魂は「中国の学問=漢学を基に作り上げた日本独自のしなやかな精神」だというのである。換言すれば、「中国という不易に日本という流行を重ねた創造物」。これぞ、芭蕉「不易流行」そのものではないか。

 不変の真理に流行という叡智を盛る。これが「不易流行」。この概念こそ、科学、芸術、芸能、哲学、宗教、スポーツ、政治、経済etc その及ぶところは果てしない。「不易流行」はまさに普遍の原理なのである。
 2014.09.25 (木)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究6〜「おくのほそ道」に「不易流行」を探る
<「不易流行」という 概念はいつ胚胎したのか?>

 芭蕉が「おくのほそ道」の旅を終えたのが、元禄2年(1689年)9月のこと。その後、彼は、亡くなる1694年まで、5年の長きにわたって推敲を重ねる(これはシューベルトの「冬の旅」のケースに酷似している)。詠んだ句や前文を総点検し手直しをする。対置を考慮し構成を固める。「不易流行」は、そのような作業の中で、概念として、確かなものになっていったのだろう。去来ら弟子に説いたのは、旅を終えてからその年の暮れあたりまで、とものの本には書いてある。
 去来が、芭蕉の遺志を継いで「おくのほそ道」を出版したのが1702年。「去来抄」に「不易流行の概念」を記したのも同じころとされる。

 以上を総括すれば、「不易流行」の概念は「おくのほそ道」の旅の中で胚胎していたことになる。ならば、それはどのあたりなのか?
 芸術家は概念形成のために作品を生み出すわけではない。生み出された作品に概念が宿るのである。だから、作品の中に「不易流行」性を探ればいい。

<歌枕という不易>

 もともと「おくのほそ道」は歌枕を尋ねる旅である。歌枕とは古人が歌を詠んだ縁の地。謂わば不易の場所。これを踏まえて流行を乗せる創作行為が俳諧。これぞ、「おくのほそ道」の目的である。

 4月20日、芭蕉は蘆野の里に行く。ここは敬愛する西行が「清水流るる柳かげ」と詠んだ場所。その柳は今も田んぼのあぜ道に残っていた。人は敬愛する古人(私にとってはモーツァルトのような)縁の地に立てば感慨もひとしお。こればかりは偉人も凡人も関係ない。芭蕉の感慨はいかばかりだったろうか。そこで一句 田一枚 植えて立ち去る 柳かな (その昔、西行法師が立ち寄った柳の下で、しばし感慨にふけっているうちに、自分も早乙女たちにまじって田一枚を植える奉仕をした。それは、西行や亡き戸部殿に対する鎮魂の意味をこめた幻想だった。やがて、我に返って、感無量の思いで柳のもとを立ち去ることにした)。

 4月21日、白河の関。芭蕉は「心もとなき日数重ねるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と書く。白河の関を越えて、やっと、みちのくの旅の志が固まったというのである。これは序文に「春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず・・・・・」とあるから、芭蕉にとって、白河の関越えこそがみちのくの旅への入り口だった。深川を立って1ヶ月弱、芭蕉は「いよいよみちのくだ!」と気合が入ったことだろう。
 芭蕉は「白河は古歌の名所」と記している。平兼盛、能因法師、源頼政、藤原清輔の故事を引用して昔を懐かしむ。だが、芭蕉はここで句を詠んでいない。「不易」にまだ「流行」を乗せていないのである。
 5月1日、浅香山では、古歌にある沼を尋ね藤原実方の伝説に則って「かつみ」を探す。奥州に流された実方は、5月端午の節句に菖蒲がないので、この土地の植物「かつみ」を代用して軒にさした、という伝説である。この故事を村人に問うも「かつみ」を知るものはいない。芭蕉の胸に今昔の思いが湧きあがる。

 5月2日、信夫の里。ここでは、有名な古歌「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れそめにし われならなくに」(源 融)に因んだ石を尋ねるも、無残にも山上から落とされて道端に半分埋まっていた。姿形が変わってしまった歌枕に、芭蕉は「さもあるべきことにや」(こんなこともあるんだなあ)と苦笑する。そこで一句 早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り(今、稲の苗取りをしている娘たちの手つきをみていると、昔衣にしのぶ摺りをしたときの手つきがしのばれて、なんともなつかしい)

 同日、飯塚の里では、義経の忠臣佐藤一族の旧跡を尋ね 笈も太刀も 五月に飾れ 紙幟 (5月、端午の節句も間近いので、あちこちに紙製の鯉幟が泳いでいる。この義経の太刀や弁慶の笈も、いっしょに飾ってほしいものだ)と詠む。これは、佐藤氏の菩提寺・瑠璃光山医王寺で、義経の太刀と弁慶の笈を見て詠んだもの。悲運の武将義経へのオマージュである。この思いは平泉で完結する。

 5月4日、笠島。浅香山で肩透かしを食った芭蕉が、藤原実方の墓に参ろうとしたが、おりからの五月雨がきつくて行き着けなかった。笠島は いづこ五月の ぬかり道(笠島はどのへんかな。この五月雨のどろんこ道じゃ行くにも行けない)。実方の歌枕に、二度までもありつけなかった遣る瀬無さが感じられる。

 同日、岩沼。能因法師が「武隈の 松はこのたび 跡もなし 千歳を経てや 我は来つらむ」と詠んだ歌枕・武隈の松で一句 桜より 松は二木を 三月越し(遅桜のころから、見る日を待ちこがれていた武隈の松。その二木の松に3ヶ月たって、ようやく会うことができましたよ)。この句は弟子の挙白が餞別に贈った「武隈の 松見せ申せ 遅桜」への返礼として詠んだもの。旅立ったころ江戸は桜の見ごろだった。3ヶ月たった今、代わりに松を見ている。そして、その松は、法師の時代にはなかったもの。名木の復元に感慨もひとしおの芭蕉。歳月の経緯に旅情が交錯する。

 5月5日、仙台では、画家で俳諧の心得ある加右衛門から歌枕の手製の絵図をもらう。それをたよりに芭蕉は、玉田・横野では藤原俊頼、木の下は古今和歌集の東歌、十符の菅菰では浮木和歌抄の歌を、其々偲ぶ。この絵図には「奥の細道」という旧七北田川沿いの道が書かれている。タイトル「おくのほそ道」は、ここから執ったものだろう。
 加右衛門に感謝をこめて一句 あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒(今日は端午の節句だが、あやめ草(菖蒲)を連想させるような、すっきりした紺の染め緒を結べば、あやめ草のように邪気を払い、旅の健脚を守ってくれるだろう。染め緒の草鞋の贈り物、ありがとうございます)。

 芭蕉は、このあと絵図を頼りに歌枕を尋ねて回る。5月8日は、野田の玉川(能因法師)、沖の石(二条院讃岐)、末の松山(「古今和歌集」東歌)、籬が島(「古今和歌集」東歌)、塩竃の浦(「古今和歌集」東歌)の5箇所に及んだ。ところが、芭蕉は、多くの歌枕を前にして、自身では句を詠んでいない。

 5月9日、松島に着船。旅立ち前の冒頭文に「松島の月まづ心にかかりて」とあるくらいだから芭蕉にとって格別な場所。そう、歌枕の宝庫みちのくの中でも随一の歌枕が松島なのだ。ところが、ここでも芭蕉は句を詠まなかった・・・・・正確には、一句詠むも本文に掲載しなかったのである。
 5月12日、松島を出発、石巻経由で翌日平泉に着いた。この間にも歌枕6箇所を通過している。そしてまた、ここでも芭蕉は句を詠んでいない。歌枕に流行を乗せていないのである。

<空白の7章>

 私が注目したのは芭蕉の沈黙である。芭蕉は俳諧師だから沈黙とは「句を詠まない」ことである。前章に書いたとおり、芭蕉は、5月5日仙台で「あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒」と読んだ。平泉で「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠むのが5月13日だから、中7日間もの長きにわたり、何も詠んでいない。松島では一句詠んでいるから、正確には、「詠んでいないことにしている」のである。
 完成した「おくのほそ道」に即して云えば、「壷の碑」「末の松山・塩竃の浦」「塩竃神社」「松島―造化の天工」「松島―雄島が磯」「松島―瑞巌寺」「石巻」の7章(「おくのほそ道」角川書店編参照)にわたり、芭蕉の句が不在なのだ。しかもその間、歌枕訪問は10箇所余りに及んでいる。芭蕉が「おくのほそ道」に据えた沈黙の7章。これほどの空白は、ここをおいて他にない。

 しからば、この空白は何を意味するのだろうか? 芭蕉が、旅の目的を封印してまで訴えたかったこととはいったい何だったのか?

 「おくのほそ道」は純粋な紀行文ではない。旅を終えた芭蕉が、亡くなるまでの5年間、推敲しつくした文学作品である。松島では一句詠んでいるにも拘らず掲載しなかった。曾良の句のあと「曾良はこんな句ができたが、私のほうは松島の絶景に感動したあまり、句を作ることができない」と言い訳を入れる。
 「島々や 千々にくだきて 夏の海」 松島で詠んだこの句、芭蕉にしては、確かに平凡である。景色そのまんまである。だから外したのは理解できる。だが、名人芭蕉なら、推敲の5年間で、名句でなくとも、それなりの句は作れたはずだ。俳諧の師匠が、憧れの地で、弟子が詠めて師が詠めなかったことを屈辱と感じないはずはない。だが、芭蕉はそうしなかった。敢えてしなかった。

 長谷川櫂は「おくのほそ道をよむ」(ちくま新書)の中で、松島の句を敢えて入れなかったのは、芭蕉の「焦点はずし」だったと云う。前文でその絶景を賞賛しつくし、そこに一句を入れれば、話ができすぎおもしろくない。そこで敢えて入れなかった。結果、松島という究極の歌枕が手つかずのまま残され、「おくのほそ道」の世界は紙幅を超えて果てしなく広がることになったと。

 これはこれで、理解できる。だが、私は、それ以上の意図を感じるのである。

 芭蕉は、「平泉」直前の7章を空白にすることで、創造の難産、即ち、「不易」に乗せて「流行」を作り出すことの難しさを示したかったのではないだろうか。ここに「不易流行」の胚胎があることを暗示したのではあるまいか。確かに「おくのほそ道」は、「平泉」から名句が堰を切ったように噴出するのである。

 空白の7章は、芭蕉が埋め込んだ暗号である。そう、「芭蕉コード」。「芭蕉コード」は、ここに「不易流行」の胚胎が存在することと、平泉から始まる名作の量産を我々に示唆している。そんな気がするのである。
[参考文献]
  「おくのほそ道」(角川書店編)
  「芭蕉おくのほそ道」付曾良旅日記(萩原恭男校注 岩波文庫)
  「おくのほそ道」をよむ(長谷川櫂著 ちくま新書)
 2014.09.05 (金)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究5〜芭蕉における「不易流行」の概念
<「不易流行」の出自>

 「不易流行」が、芭蕉が到達した究極の芸術的境地の一つであることは周知の事実だ。では、彼は、いつどこでこの概念を開示したのだろうか・・・・・ 紀行文?手紙?それとも日記?
 クラ未知的探究心でいろいろ当たってみたが、「これだ」というものにはぶつからなかった。でもまあ、これはさほど不思議なことではない。古今の「名文句」にはこの手が結構あるからだ。
 たとえば、ベートーヴェンが言ったとされる「運命はかく戸を叩く」。例の交響曲第5番「運命」の仇名の由来となった台詞だが、これは弟子のシントラーが「師はこう言いました」と記しているだけで、真偽のほどは不明だ。
 何人かの評論家先生が「シューベルトは、グムンデン・ガシュタイン旅行の折に『ハ長調の大きな交響曲を書いた』と手紙に書いている」と記述しているので、シューベルトの手紙を可能な限り当たってみたが、そんな記述はどこにもなかった。正解は、彼の友人が別の友人に宛てた手紙の中にあった。
 ことほど左様に、出自というものはちゃんと調べなくては判らない。しからば芭蕉の「不易流行」の出自やいかに?

 それは、芭蕉の弟子・向井去来(1651−1704)の「去来抄」の中にあった。曰く「蕉門に、千載不易の句、一時流行の句といふあり。是を二つに分けて教へ給える、この元は一つなり」と。これは去来が書いたものだが、芭蕉の教えであることはいうまでもない。キリストの教えが弟子によって語られたように。まずは、これが「不易流行」という言葉の出自と考えていいだろう。

<「不易流行」という概念>

 では「不易流行」とはどのような概念なのだろうか?

 「不易」は「不変」「伝統」「慣習」、など昔から変わらないもの。「流行」は「革新」「現行」「当世」など、今新しいもの。すなわち、「不易」は時代を超えて永遠に変わらないもの。不変の真理。「流行」は時代に対応して流動変化するもの。
 一見対立するように見える「不易」と「流行」は、両者とも重んじるべき概念であり、根は一つ。このバランスの匙加減こそが俳諧の奥義、芭蕉芸術の根幹なのである。

 「去来抄」の別の部分には「和歌優美の上にさへかくまでかけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんは、手柄なかるべし」(優美をその本来の性格としている和歌でさえこのように工夫を働かせて効果が上がるように作っているのに、自由な表現を許されている俳諧において、ただ当たり前の様子を句に作るのでは、作者の手柄はないだろう)とある。これは去来の句を芭蕉が評した言葉であるが、これも「不易流行」という概念に示唆を与えるものである。
 和歌優美は、代々の和歌によって築かれてきた、いわば不易の世界。俳諧自由は、そこに溢れ出る流動の魅惑である(山下一海著「芭蕉百名言」富士見書房)。

 さらに、去来の「三冊子」にはこうある。「千変万化するものは自然の理なり。変化にうつらざれば、風あらたまず」(文学が変化することは自然の理であり、変化によって作品の芸術性が向上する)。即ち、変化こそが芸術の根幹。「不易」より「流行」を重んずる芭蕉の芸術観が窺われる。

 
古池や 蛙飛こむ 水の音


 日本人なら知らぬ者ないこの句は、「蕉風開眼の句」と呼ばれている。芭蕉の作風が定まった記念碑的な句というわけだ。

 ではこの句の何が画期的なのか? 芭蕉はまず「蛙飛こむ 水の音」と詠む。そこで弟子の其角が上五を「山吹や」とした。それを芭蕉が「古池や」と直し、この形となった。
 其角が「山吹や」としたのは、古今集にあるように、「蛙には山吹」という伝統を踏まえたもの。いわば決め事だ。芭蕉は「『蛙飛こむ』からして、“蛙は鳴くもの”という決め事を既に破っているのだから、そこに『山吹や』では革新の意味がない、面白味がない」と考えたのだろう。これを長谷川櫂氏は「因習にとらわれるのでもなく、因習を真っ向から批判するのでもない。そのどちらも超越した不思議な新しい空間に『古池や』という言葉はある」と述べている(「俳句の宇宙」中公文庫)。この句が成立したのは1686年の春。ここに「不易流行」と「流行」優先の芸術観の萌芽がある。

 「不易流行」という概念は芭蕉以前にもあった。世阿弥(1363?―1443?)の確立した「能」の様式である。それは、「源氏物語」や「伊勢物語」などの古典を舞台の上で視聴覚化し、大衆にわかりやすく表現したもの。世阿弥は、作劇の決め事、演者の役割、舞台装置等を固定し、それらを有機的に結びつけシステムとして確立した。「能」もまた「不易」なるものに「流行」を加えた新たな化合物なのである。

 世阿弥が能の極意を記した「風姿花伝」は、15世紀初頭の成立、これは世界最初の芸術論といってよく、しかも、時代に埋没しない普遍性をもつ。

 「風姿花伝」第五章「奥儀に云ふ」の中に、「不易流行」に通じる一文がある。「ことさら、この芸、その風を継ぐといへども、自力より出づるふるまひあれば、語にもおよびがたし。その風を得て、心より心に伝わる花なれば、風姿花伝と名附く」(特に申楽の芸は、先輩の残した型を受け継いでいくものではあるが、それに自分の力で発明したやり方が加わっていくならば、この上もないことだ。先輩の風を会得して、心から心に伝わる「花」であるから、この書物の名を「風姿花伝」とつけたのである)。

 これには、命名の由来が書かれているわけだから、「風姿花伝」の核心部分といってもいいだろう。世阿弥は、申楽(能)という芸は、基本、先輩から受け継ぐもの(別の章では「物真似」の重要さを説いている)であるが、独自のやり方が加われば最上である、と説く。これぞまさに「不易流行」の概念そのものではなかろうか。

 音楽評論家小西良太郎氏から、以前私が依頼した原稿の中に名言をいただいたことがある。それは「流行歌がヒットする秘密は、『独創性とインパクトの強さ』と『奇をてらうに止まらぬ完成度の高さ』にある」というものだ。
 「独創性とインパクトの強さ」は個性と鮮度であり「流行」。「奇をてらうに止まらぬ完成度の高さ」は、伝統に根ざした安定感であり「不易」。
 「たかが流行歌の世界じゃないか」と蔑むなかれ!古今東西、作品というものはすべてヒットを目論んで創られるといっても過言ではない。創作の動機がどうあれ、精神が崇高であれ下世話であれ、他人に認知されたいという願望なくして創造はありえないからだ。だからこれは、まさに「不易流行」の概念そのものといえるだろう。小西大先輩は、芭蕉も世阿弥も踏まえていたものと思われる。
[参考文献]
  「おくのほそ道」(角川文庫)
  「おくのほそ道をよむ」長谷川櫂著(ちくま新書)
  「俳句の宇宙」長谷川櫂著(中公文庫)
  「芭蕉百名言」山下一海著(角川ソフィア文庫)
  「芭蕉の世界」山下一海著(角川選書)
  「花伝書」(風姿花伝)世阿弥編 川瀬一馬訳(講談社文庫)
  「内山田博とクール・ファイブ ゴールデンBOX」解説書(小西良太郎著 BMG JAPAN)
 2014.08.05 (火)  Jiijiのつぶやき〜葉加瀬太郎 間違いだらけの音楽講座
 Rayちゃん、こんにちは。暑いねえ。誰だ、「今年はエルニーニョだから冷夏」なんて言った奴は! まあ、予報は難しい。しゃーないね。

 ところで、Jiiji、今回は、怒ってはいないんだが、言っておきたいことがある。それは7月29日テレビ朝日放映の「林修の今でしょ講座 クラシックから現代音楽までの流れを学ぶ 葉加瀬太郎の音楽って面白い講座」についてなんだ。これは、今売れっ子のカリスマ予備校教師・林修が世界的ヴァイオリニスト葉加瀬太郎を招いて音楽の講義をさせたもの。タイトルにあるようにクラシック音楽から現代のポップスまでの流れを分りやすく講義する内容。前回やって「絶賛の嵐」だったそうな。今回はその第2弾らしい。
 Jiijiの友人のA君やN君なんか「やるから見て」と当日メールをくれたほど。反響あるんだね。でもな、実はJiiji、あの葉加瀬氏、大丈夫かいな、と心配しながら見たんだよ。なにしろこの方、以前「クラ未知」2009.6.29で指摘したとおり、J.S.バッハの生地をライプツィヒと間違えちゃうような雑な人なんでね。

 見たらやっぱりだった。意図は悪くないんだ、やり方も。クラシックがジャズやロックにどうつながっているかを得意のヴァイオリンを弾きながら話してくれるわけだから、そりゃ学校の講義や四角四面のクラ評論家先生の話より面白いのは確かだ。でもね、間に挟むエピソード、小話、これがまずい。表題どおり「間違いだらけ」なんだな。
 Jiiji、ここで葉加瀬氏の間違いをあらいざらいあげつらって訂正することにした。上げ足取りを楽しもうなんて、そんな魂胆じゃない。間違いは放置できないだけの話だ。まあ、今後の先生のためにもなることだしね。じゃ、以下、順を追って間違部分を並べていこう。

<バッハはミサのための曲を書いていない>

 葉加瀬先生は、「J.S.バッハは教会のミサのために曲を書いた」と仰いましたが、これ、完全な間違い。バッハはプロテスタント教徒でね。プロテスタントにミサはない。ミサはカトリックの典礼。だからバッハはミサのための曲は書こうにも書けないんだ。
 ただし、一曲だけ例外がある。「ミサ曲 ロ短調」。これはバッハ最後の作品で2時間を越す超大作。誰に依頼されたかも不明。演奏された形跡もない。そう、プロテスタント教徒のバッハが、なぜ人生の最後に、カトリックの様式のミサ曲を書いたのか?これはまだ解明されていないクラシック史上の謎。葉加瀬先生!これはクラシックの常識だから押さえておいてくださいな。

<バッハは非社交的?>

 葉加瀬先生曰く「バッハは社交的なところはまるでなく、教会にこもりきりで曲を書いていた」。ウン、これもやや極端すぎる言い様だ。彼はライプツィヒで教会の音楽長をやっていた時代、「ツィンマーマンのコーヒーハウス」というカフェの常連だった。ここは先輩作曲家テレマンの経営でね。ただコーヒーを飲みに来ていただけじゃなく、そこで自作のカンタータなんか演奏して大いに盛り上がっていたんだ。名作「コーヒー・カンタータ」はそんな時期の作品。だから、葉加瀬先生、「教会にこもりきり」はちょっと言いすぎじゃないかしら。

<職人作曲家の括り>

 葉加瀬先生は、「ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト」の5作曲家を一括りにして、「職人の時代。作曲家は雇い主(王様か貴族)のためだけに曲を書いた」としているが、ここにモーツァルトを入れるのは間違いだ。彼は1781年5月にウィーンに移住し、宮廷に就職できなかったものだから、自作演奏会のチケット収入で生活していたよ。彼こそが自立音楽家の第一号なんだ。

<ハイドンは厳しくて地味?>

 葉加瀬先生は「ハイドンは大嫌い。厳しくて地味。音楽は四角くてガツガツしているから」と仰る。嫌いと言うのは自由。感性の問題だからね。だけど、このハイドン評はどうかなあ。ハイドンってウィットに富んだいいおじさんで「パパ ハイドン」と呼ばれみんなに親しまれていたんだ。作った曲も決して“四角くてガツガツ”じゃない。むしろ優雅で柔和。CMでよく流れた「交響曲第101番 時計」第2楽章や弦楽四重奏曲「ひばり」なんかいいメロですがね。弦楽四重奏曲「皇帝」の第2楽章のテーマは、現在のドイツ国歌になっている。W杯の決勝ではマラカナンにこの曲が高らかに流れたんだから、葉加瀬先生、こんな話でもすれば、よりタイムリーだったのにね。まあ、嫌いなんじゃしょうがないか。

<モーツァルト、初めて作曲したのは何歳?>

 葉加瀬先生曰く、「モーツァルトは8歳くらいから作曲していますが・・・・・」。これは「5歳」の間違いですね。単純ミス。8歳のときにはシンフォニーを書き始めたから、先生、それと勘違いしたのかも。

<モーツァルトは500曲くらい曲を作っている?>

 500曲ってどこから出てきたのかなあ。最後の作品は「レクイエム ニ短調」K626だから、600曲くらいが正解だと思うけど、もしかしたら、偽作を引いたのかなあ。偽作または疑いのあるのは40くらいだから、引くと約590曲。ほら、やっぱり600曲がいいよ。先生、あまり考えさせないでくださいよ。

<ヴァイオリンは発達していない>

 葉加瀬先生「楽器の発達と共に、これを使って売りにする作曲家&演奏家が出てきた。まずはパガニーニ」と仰って彼の話を得々となさいました。自身と同じヴァイオリニストの話だから熱も入るよね。ところがです・・・・・。
 パガニーニは「悪魔に魂を売った引き換えにテクニックをもらった」といわれた超絶技巧ヴァイオリニスト兼作曲家。彼は11挺のストラディヴァリウスを持っていたそうだ。先生もご存知のように、ストラディヴァリウスは17−18世紀に作られてソノママ。まったく手は加えられていない。だから、ヴァイオリンに関しては「楽器の発達」は当たらないんですよ。ピアノはそれでいいのですが。

<ワーグナーは王様をたぶらかして>

 葉加瀬先生ワーグナーはお嫌いなようで、こう言った。「ワーグナーは悪人です。男色系の王様がいて、この王様がワーグナーに惚れ込んだ。ワーグナーはこの王様をたぶらかして国の予算を全部つぎ込ませた」。これじゃワーグナーは色事師になっちゃう。誤解を産むよね。じゃ、ホントのところをお話しましょう。

 バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1864−1886)は少年時代からワーグナーに憧れていた。ノイシュヴァンシュタイン城内を「ローエングリン」の物語で全面装飾するほど。後に、理想の劇場建設に突き進むワーグナーに率先して資金を提供。そのお陰で、バイロイト祝祭劇場が完成した。が反面、国の財政を圧迫、国家破綻につながってしまった。とまあ、これが真相。男色でワーグナーに入れ込んだんじゃなく、純粋に彼の芸術を愛していたし、決してワーグナーが“たぶらかした”わけじゃないんだ。恩人の奥さんを寝取ったり、借金踏み倒したり、悪人には違いないけど、言い回しにはもっと神経を使ってほしいな。

<ヴェルディの作風>

 「ヴェルディは、いつも政治的なもの国のこと歴史をテーマにオペラを作った」と先生はおっしゃる。で、代表作として弾いたのが「椿姫」の「乾杯の歌」。これ違うでしょう。 「椿姫」はアレクサンドル・デュマ=フィス原作の悲恋もの。確かに、ヴェルディにおいて、歴史モノは主要なジャンルなので話に間違はないけれど、だったら「アイーダ 大行進曲」あたりを弾いてほしかったな。これなら歴史物といえる。辻褄が合う。細やかな神経がほしいですね。

<先生のオペラ実体験談>

 先生がオペラの本場で痛く感動したことの例として、アレーナ・ディ・ヴェローナでの体験談をお話しされた。「となりに座ったイタリアのおじさんがワインを飲んで出来上がって、私に話しかけてくるんです。始まっているのにですよ。でも、好きな歌手が歌いだすと黙って聴き入っている。終わるとまたしゃべりだす。実にオペラをエンジョイしてるんですね。エンターテインメントとして。素晴らしい体験でした」

 アレーナ・ディ・ヴェローナは、古代ローマの野外闘技場跡をオペラ場化したものだから、16,000人収容の大野外歌劇場なんだ。だから多少のおしゃべりは大丈夫なんです。でも、海外のほとんどのオペラ場は屋内。キャパ2000くらいかなあ。そこでワインとおしゃべりはまずいでしょう。こんな話を真に受けて、屋内のオペラハウスで同じことやったらツマミ出されちゃうぞ。テレビを見た皆様、くれぐれもご注意を。特殊なケースの話を一般論でしゃべらないでくださいな。

<グリーグの「朝」はフィヨルド?>

 「グリーグ作曲『ペールギュント』の『朝』いいですね。これはノルウェーのフィヨルドの北国の寒い朝の風景を音にしたんです」と先生はお話になりましたが、残念、違うんです。
 これは主人公ペールがモロッコの海岸で目を覚ましたときの情景を音楽にしたもの。まあ、「グリーグの頭の中のイメージがフィヨルドだった」可能性もないとはいえないから、完全に×とはいえませんがね。でも物語はそうなんですよ。

<マーラーの交響曲の作り方>

 先生はこう言いました「マーラーの交響曲は毎晩どこかで必ず演奏されている。なぜこれほどまでに人気があるのか?それは、彼がオーケストラのすべての技を駆使して、いかに楽しい音楽を作るかということに努力したからです」

 これもちょっと違うなあ。どこがって“楽しい”の文言。マーラーほど死と向き合った作曲家はいなかったんです。彼の作品は死と向き合うことで成り立っているといっても過言じゃない。どこがどうって話しだすと「クラ未知」数回分になってしまうので止めますが、そういうことです。確かに、楽しい曲もありますよ。交響曲第1番「巨人」とか少しはね。でも、彼の音楽の本質は「哀楽」のどちらかといえば「哀」である、とJiijiは確信を持って言える。少なくとも「いかに楽しい音楽を作るか」に腐心した作曲家ではありませんぞ。ハイ。

<ガーシュインとラヴェルのエピソード>

 葉加瀬先生は、「ガーシュインに教えを乞われたラヴェルはこう言いました。『二流のラヴェルが一流のガーシュインに教えることは何もない』と。ガーシュインはこうして作曲の勉強をしながら名曲『ラプソディー・イン・ブルー』を書いたのです」と説明した。残念!これ時系列が逆。

 ジョージ・ガーシュインは、1924年「ラプソディー・イン・ブルー」の成功で一躍クラシック作曲家の仲間入りを果たします。ところがこの曲のオーケストラ部分は、グローフェが書いた。ガーシュインはまだオーケストレーションに長けていなかったのです。そこで彼は一念発起して海を渡りフランスでラヴェルの門を叩いた。ラヴェルには断られますが、なんとかオーケストレーションをマスター。名曲「パリのアメリカ人」を書き上げた。これが真相。歴史は正しく掴みましょう。

<「ボレロ」でのWミステーク>

 先生はラヴェルの「ボレロ」をキイボードで弾きながら解説してくれました。「こうリズムを刻んで、これが延々と続くんです」と言いながら叩いてくれたリズム。これが違うんだなあ! 二小節目の第3拍が。そんなんじゃ客さん飽きちゃうよってか。

 さらに、先生、初演のことでミスの上塗り。「初演は大失敗。ブーイングの嵐」だって。オットこれはどういうことよ。実はね、先生、「ボレロ」という曲は最初から評判がよかった。観客熱狂とまではいかなくも、少なくとも「ブーイングの嵐」じゃなかった。バレエ音楽だから初演はバレエと一緒。で、その版権が切れた翌年からはフリーのオーケストラ曲として世界中で大ヒットしたんだよ。当のラヴェルが「なぜこんな曲が評判いいんだ。摩訶不思議」と訝ったほど。「ブーイングの嵐」って、一体誰から聞いたんじゃい! いい加減なこと抜かすんじゃねえ!!

 はてさて、世界的ヴァイオリニスト葉加瀬太郎大先生の大評判講義に長々と苦言を呈してまいりました。「なぜここまでしつこくやるの」と言われそうですが、Jiijiの真意は、「先生にはがんばっていただきたい」の一点。他意はないのであります。ホストの林先生は「学校では教えてくれないような面白い話のお陰で、クラシック音楽に興味を持ってくれた人が増えた。これは素晴らしい成果です」と番組冒頭で話されました。これはひとえに、葉加瀬先生の知名度と演奏者としての素養、そして巧みな話術の賜物です。私が指摘したのは、間に挟むエピソードの真偽についてだけ。訂正すればいいだけのこと。難しい話じゃないんです。

 葉加瀬先生は、「大人の休日CLUB」(JR発行)によると、9月に全国コンサート・ツアーをスタートさせる由。コンサート前には会場近くの商店街で地元の人々と触れ合いその映像をその日のコンサートで流す。終わったらメンバー&スタッフと必ず打ち上げをやるそうな。コミュニケーションこそコンサート作りの基本だから、それはそれで大切な行為。
 そんな忙しい合間を縫うのは大変とは思いますが、講義の前には、少しだけ確認作業をしてほしい。先入観を取り払って、史実を見つめなおしてほしいのです。下地があるのですから、そんなに時間はかからないと思います。これがJiijiからのお願いです。

 このままでは、せっかくの企画が勿体ない。クラシック音楽愛好者をもっともっと増やしてゆきたいですよね。先生の今後の精進とご活躍を切にお祈り申し上げます。
 2014.07.25 (金)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート 番外編〜出た!蓮實重彦のとんでもない論評
 Rayちゃん、こんにちは。1ヶ月間のW杯も終わって、このところやっとJiijiは落ち着いてきた。次回の「クラ未知」の構想なんぞを練りながらね。ところが7月19日付「朝日新聞」に蓮實重彦なる方のとんでもない「W杯論」(インタビュー形式の評論)が掲載されたんだ。題して「W杯の限界」。読み出すと、もう、腹が立ってしょうがない。血が逆流してきた。でもこんな下らないモノに係っていても始まらない。非論理的。非建設的。独善的。上から目線のトンチンカン論。だから無視するに限る・・・・・と思っていたが、どうしても気持ちが鎮まらない。2011年なでしこW杯優勝の時とまったく同じ状況だったのだ(「クラ未知」2011.7.31をご参照ください)。
 なので、最後に書かせていただきたい。なるべく、なでしこの時のように冷静に。でも、相手があまりにも非論理的だから、感情がむき出しになっちゃうかも?
 まず蓮實氏のご意見をそのまま記載し、次にそれに対するJiijiの反論を書く。そんな形で進めたい。[蓮實]は蓮實氏のご意見。[Jiiji]はJiijiの反論です。

[蓮實]
 前回2010年南アフリカW杯で、日本代表の岡田武史監督は大会直前、徹底的に防御を重視した「負けないサッカー」へ泥縄的に方針転換しました。確かにそれで1次リーグは突破できましたが、「1点でも奪おう」というサッカー本来の精神からは、ほど遠いコンセプトだった。

[Jiiji]
 あなたは、後段で、ブラジルに7−1で勝ったドイツを「7点も取ってしまって、あれはサッカーではない」と批判しています。でも、「1点でも奪おう」というのがサッカー本来の精神とおっしゃるのなら、あの試合のドイツこそ、貴方のコンセプトに最も合致した戦い方をしたのではないでしょうか。語るに落ちるとはこのことですね。

[蓮實]
 サッカーはどちらかが防御に徹するとゲーム自体が成立しなくなる。日本―ギリシャ戦はその典型です。運動の快さを放棄してまで、国が期待する勝利にこだわる。そんな「スポーツの死」には付き合いたくない。W杯はそろそろ限界だ、とつくづく思いました。

[Jiiji]
 なんですか、この悲観論は。日本−ギリシャ戦は「スポーツの死」であり「W杯の限界」だとおっしゃる。蓮實氏はなぜ「日本の苦戦にメスを入れ、今後のあり方を提言する」という方向にいかないのかしら。実に非建設的。

 ギリシャは日本戦の前半、FWのミトログルの負傷退場で交代カードを使い、(ある意味)攻守の要のカツラニスをレッドカード一発退場で失うという大ピンチに見舞われたのです。そこで取った作戦が、「守りきって引き分けに持ち込む」だった。どのチームでもこうするでしょう。これがどうして「運動の快さを放棄してまで、国が期待する勝利にこだわる」ことになるのか。「運動の快さ」ばかり求めていたら、ゲームになりませんよ。
 ギリシャは守備一辺倒のチームではなく「堅守速攻」型です。1次リーグ最終コートジボワール戦の勝利はその証。そして、国民の期待に応え見事に決勝トーナメント進出を果たした。これのどこが悪いのかなあ。Jiijiは理解に苦しみます。「ゲーム自体が成立しない」「W杯はそろそろ限界」「スポーツの死には付き合いたくない」ですって? 付き合いたくないのは私のほうですよ。あなたという独善的人間と。

[蓮實]
 国を背負うとどこか血生臭さも出てきます。その一例がコロンビアの選手がブラジルのネイマールの背中にひざを入れ。骨折させた場面です。故意かどうかという問題ではなく、国のために死にものぐるいでプレーするとああいうことが起きてしまう。

[Jiiji]
 「あのプレーは国を背負ったから起きた必然の出来事」とおっしゃりたいのですね。確かにコロンビアには血生臭い歴史があります。1994年エスコバルの悲劇です。選手は、「ヘマをすれば殺されちゃう」と思ってプレーしているかもしれません。ならば、あのようなプレーが起きてしまうのでしょうか? 終了間際のあの時間帯に極度なラフプレーが出てしまったことが、なぜ「国を背負った」結果なのか。論理に飛躍があり過ぎます。

[蓮實]
 「目標は優勝」という本田の発言の真意は分かりませんが、多分「そうでも言わなければやってられない」という思いがあったのではないか。―中略― 本田自身も、勝利へのこだわりが動きの柔軟さを奪っていたような気がします。

[Jiiji]
 本田圭祐の真意ですか。それは、彼のこれまでのサッカー人生を顧みれば明白なこと。才能のない自分が上に行くためには、どえらい目標を公言して、人の何倍もの努力をする。彼はそうやって自らを高めサッカー人生を歩んできた。そして遂に今年、小学生のときに描いた「セリエAで10番をつける」という夢を実現した。そういうことです。
 彼が今大会で本来の調子が出なかったのは、夢を実現した場所で結果が出ていない焦燥感、それに伴う実戦不足による勝負勘の欠如、病気による体調不良などが重なってのことです。決して「国を背負って勝利にこだわった」結果ではない。なぜなら、南アフリカ大会では、同じ気持ちでプレーしたのに勝ちあがっているじゃありませんか。ならば、あなたのおっしゃる「勝利へのこだわりが動きの柔軟さを奪っていた」ことにはなりません。これは、彼の不調をあなたのテーマに無理やりこじつけただけのこと。非論理的です。

[蓮實]
 サッカーの魅力は「嘘のように思いがけないことが、ピッチの上で起こる瞬間を目撃すること」ですが、今回それを味あわせてくれたのは、オランダ ファンペルシーのヘディングシュートだけでした。決勝戦でのゲッツェのシュートは確かに見事でしたが、ああいう場面で輝くのは真のスターでなくてはならず、まだ、スター予備軍のゲッツェが決めても、私たちを驚かせることができません。

[Jiiji]
 「ファンペルシーのヘディングシュートだけ」の“だけ”という文言に引っかかりますが、これは置いておきましょう。問題はゲッツェのほうです。
 要約すれば「シュートを決めたこと自体は見事でも、ゲッツェじゃあまり意味がない」ということですか。なにをかいわんやですね。ドイツならクローゼかミュラーならよかったのですか? もしや、彼らも真のスターじゃないとすれば、スーパースターのメッシが決めてアルゼンチンが勝てばよかったのですか。「思いがけないことが起こることがサッカーの魅力」とおっしゃるのなら、無名の新人が決めたほうがよっぽど「思いがけない」と思いますがね。そういう思いがけないニューフェイスを探すのもW杯の楽しみの一つなんだけどなあ。今回のハメス・ロドリゲスや2006年メッシ衝撃のデビューなど。
 Jiijiには、ゲッツェのゴールはドイツの強さの象徴として十分魅力あるものに映りました。バランスのよいチームの最年少にして軸となったバイエルン・ミュンヘンの選手。監督が得点を託して送り込んだ最後の切り札。そんなゲッツェを否定したんじゃ栄えある優勝監督を否定することになりますよ。ほんとこの方はおかしな人です。

[蓮實]
 1ヶ月も大会を続けていればその間に必ず愉快でおちゃめな選手が出てくるものですが、今回はそれも不在でした。唯一、ウルグアイのスアレスには一種のかわいげを感じましたが、おちゃめといえるかどうか。02年の日韓大会でブラジルのロナウドが前髪だけ三角形にそり残した奇抜な髪形でプレーし、優勝トロフィーをさらってしまった。そういう「変な人がおちゃめをしながら勝つ」という楽しさもなく、みんなが必要以上に本気になってしまった。

[Jiiji]
 「スアレスにかわいげ」ですか。あの噛み付きに「かわいげ」ねえ。ひどい感性。コメントする気もなくなるワイ。「ロナウドの髪型」がおちゃめで楽しいだって? じゃ、ロッベンに“ちょんまげ”でも付けさせれば気がすむのかね。真面目にやれーー、コノ!!

[蓮實]
 一方で「見たことを一刻も早く忘れたい」という瞬間が多すぎました。世界最高GKの一人、スペインのカシリャスはオランダ戦で5失点した。彼があんなよれよれで崩れてしまう、という場面は決して見たくはなかった。

[Jiiji]
 そっちに目がいきますか。これもJiijiとは違うなあ。カシリャスの惨めな姿は見たくないというのは分かるけど、Jiijiはそっちよりも、名手を慌てふためかせたファンペルシーとロッベンの方に目がいきます。二人のゴールは実にエキサイティングでした。この人ちょっと女々しいんじゃないかなあ。ポジティブじゃないですよ。

[蓮實]
 ブラジルが7失点した試合は、もうサッカーではない。ドイツが7点も取ってしまったことは果たして成功なのか。もちろん、勝利したという点では成功なのですが、「サッカーをサッカーではないものにしてしまった」という点においては、醜い失敗だったとしか思えません。誰かがドイツ代表の精神分析をやらなくてはいけない。どこまで点が取れるのか、面白いからやってみよう、というぐらいの気持ちになっていたと思うのですが、どう見ても7点も取ってはいけない。何かが壊れるし、人の道から外れているとしか思えない。

[Jiiji]
 ここもJiijiとは違う。蓮實氏は、ドイツの攻撃を、「もう止めてくれ」と懇願する無抵抗の相手にこれでもかと執拗に制裁を加えるリンチのような行為、と考えておられるようです。「人の道からは外れている」とおっしゃるのですから。だがこれは断じて違います!!
 ドイツがある時点まで攻撃の手を緩めなかったのは、サッカーの怖さを知っているから。ブラジルの怖さを知っているからなのです。3点差くらいじゃいつひっくり返されるか分からないと。あなたは「もう終わっているんだから手を緩めるべきである」とおっしゃりたいのでしょうが、そういう甘チャン発言は、選手の気持ちを知らない人のセリフです。スポーツをやるものにとって最大の屈辱は、叩きのめされることではなく、相手に手加減されることだからです。
 もう一つの理由があります。代表選手にとってW杯は、アピールのための最高の舞台でもあります。レギュラーぎりぎりの選手、本大会まだ見せ場のない選手、彼らは今後のために全力でプレーする。だから点を取りに行く。そこには選手としての死活問題がある。それを「人の道に外れている」と片付けちゃいかんのです。
 さらには、いったん手を抜くと、チームの調子自体が実際におかしくなっちゃう。取り返しがつかなくなる。それがゲームの常であることを、監督・選手はみな知っている。だからやたらに手は抜けない。
 とはいえ、前半終わって5点はセーフティ・リード。後半は明らかに手を緩めていました。点を取ったのは途中出場のシュルレだけでしたから。あなたにはこのあたりの事情を理解してほしかった。
 ドイツが真剣に攻撃を続けたのは相手を完膚なきまでに叩きのめしたいがためではなく、王者ブラジルへのリスペクトだった。ブラジルにとっては、手を抜かれることの方が真剣に攻撃を続けられることよりも屈辱だったのです。物事の本質が見えていませんね。

[蓮實]
 実は今回のW杯では、二十数年ぶりに心から応援するチームがありました。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表です。1914年に同国の首都サラエボで起きたオーストリア皇太子暗殺事件が、第1次世界大戦の引き金になった。それから100年、20年近く前まで殺しあっていた三つの民族が、オシムの尽力で一つのチームを作り、W杯に参加した。これはもう応援するしかない。−中略−イラン戦で初勝利したときはまさに「オシム流サッカー」という感じの躍動感にあふれた戦いぶりで、その華々しさにまたも涙しました。この歳になって真夜中になにをやっているのだろう、とも思いましたが。これは私個人ではなく、人類の問題なのです。サラエボ事件から100年ですよ!そこから来ている代表が民族対立を乗り越え、W杯で初勝利した。その奇跡を、日本と関係の深いオシムが実現させたことを、心から祝福すべきなのです。

[Jiiji]
 この段、Jiijiは全面的反対ではありません。20年来の紛争を乗り越えて三つの民族が一つになって代表を送り込みW杯に初勝利した。しかも日本に馴染み深いオシムの尽力によって。これはJiijiも素直に祝福します。しかし、蓮實氏のはいささか大袈裟に過ぎるのではないでしょうか。1914年のサラエボ事件が二度までも引用されていますが、果たしてこの事件、近年の民族紛争と直接のつながりがあるのかしら?
 ここは戦争・紛争を論じる場ではないので、思い切ってザクッと言ってしまいますが、「サラエボ事件をきっかけに起きた第1次世界大戦は、欧米列強の帝国主義的思惑が、錯綜拡大長期化していった大規模戦争。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、ソ連解体&共産主義退潮の流れの中で起きた旧ユーゴースラビア崩壊に伴う民族間の紛争」です。両者の間に直接的つながりはない。遠因があったにしても出来事の本質はまるで違う。それをあたかも、100年前の事件が近年の紛争に関連するがごときの表現は、いかにも曖昧。まやかし書法。事件100年というメモリアルに関連付けたいがための筆者の意図的曲解だとJiijiは判断しておりますが。
 とはいえ、ボスニア・ヘルツェゴビナ・チームの戦いに深夜涙するのは自由です。では、しかるに、コートジボワールの戦いぶりはどうなのか。彼らは、国内を二分した紛争を、W杯で頑張ることによって鎮めようとした。ドログバの訴えかけは世界中の人々が知っています。また、前述ギリシャ代表は、まだまだ高い失業率にあえぐ国民を、初戦敗戦という崖っぷちから這い上がり決勝Tに進出することで鼓舞しようとした。蓮實さん、遠くサラエボの地に思いを馳せるのなら、アフリカやギリシャにも思いを分けてくださいよ。

 このインタビューの副題には「国の期待背負うとゲームの魅力失う まじめすぎた日本」とあります。言い換えると「国の期待を背負わなければゲームの魅力が増大する 不真面目にやるべきだった日本」ということになりますか。Jiijiはいやだな。国を背負わないW杯なんて。国を背負って真面目にやるからW杯は面白いのだ。そのプレッシャーを背負って頑張るから、応援にも熱が入るんじゃないのかなあ。だから蓮實氏とは根本的に違うということです。

 門外漢がサッカーを語る場合、サッカーに対して深い愛情と謙虚さがあってしかるべきです。その上に専門的知識があれば申し分ないのですが、それがなくともスポーツの本質くらいは理解していてほしい。残念ながら蓮實重彦氏にはすべてがない。ならば、今後一切サッカーに対して語るべきではありません。
 なでしこの時もそうだったのですが、この方の言には、「俺は一般人とは違う視点を持っている。ありがたく拝聴すべし」という奢りのようなものが感じられます。ところがそれがすべてに的外れ、トンチンカンも甚だしい。これはもはや哀れを通り越して滑稽の域なのですが、本人、それにはまったく気づいていない。蓮實氏の悲劇ここにありですね。

 最後に朝日新聞にも一言。2011年なでしこジャパンのW杯優勝のときも、蓮實氏の評論を掲載していますね。一読すれば、彼の論評がいかに低次元の代物かが判るはず。大新聞の貴社ならば。その検証もなく、あっても感知せず、もしかしたらフリをして、よもや本当に判らないで、今回も堂々と掲載するとは、新聞社としての良識を疑わざるを得ません。言葉というものは、肩書きや経歴で判断されるべきではないのです。猛省を促したい。 最後に記事に掲載されている蓮實氏の略歴を記して、長文の締めとさせていただきます。ご精読ありがとうございました。

蓮實重彦:1936年生まれ。東京大学教授、教養学部長、総長を歴任。著書「ボヴァリー夫人論」「表層批評宣言」「スポーツ批評宣言」など多数。
 2014.07.20 (日)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート6 〜 ドイツ優勝と大会総括
 いやーRayちゃん、W杯もついに終わったね。Jiijiはここまでしっかり見たのは初めてだったから、一ケ月はあっという間だったよ。親戚でTOTOをやったのも興味を添えたね。ドイツ優勝を的中したのはKちゃん。彼はサッカー博士、Jiijiの師匠だ。なんとTOTOは1998フランス大会から五連覇というから凄い。こんな評論家は一人もおらんよ。快挙だ。Jiijiもいつかは当てたいけど、今回ポルトガルに賭けているようじゃ無理だ。次期大会に向け精々勉強しよう。では、総括といきましょう。

<ドイツ優勝、その強さの秘密>

 決勝戦は、ドイツが1−0でアルゼンチンを降し、24年ぶり4度目の優勝を飾った。と同時に、南米開催でヨーロッパは勝てないというジンクスをも初めて破った。
 全7試合、6勝0敗1分、得点18、失点4、無得点試合0、無失点試合4。さらに特筆すべきは、先制された試合が一つも無かったこと。追いかける展開がないから、マイペースで試合を運べる。そうかと思えば、ブラジルを7−1で粉砕する爆発力もある。安定感と爆発力を併せ持つ磐石にして圧倒的な強さを世界に示した。この強さは一体どこから来るのだろうか?

 決勝のアルゼンチン戦、決勝点のシーンを振り返ってみよう。延長後半8分。ボアテング(CB)から左サイドのクロ−ス(MF)へ。クロ−スはシュルレ(FW)に。シュルレはドリブルで進み相手ディフェンダーを引き付ける。右前方にスペースができる。そこで、並走していたゲッツェ(FW)がスルスルと斜めに走りこみゴール前に。そこにシュルレからのクロスがドンピシャのタイミングで入る。ゲッツェは胸でトラップすかさずシュート。ドイツ優勝を決めるゴールとなった。

 ボアテング−クロース−シュルレ−ゲッツェ。この名前を眺めていて「おや?」と思った。バイエルン・ミュンヘンの選手ばかりじゃないか(シュルレを除いて)。サッカー通なら即座に気づく事柄も、Jiijiときたらまともに見だしたのは本大会からという俄かファン。やっと感づいた嬉しさに、ドイツ代表全員の所属クラブを調べてみた。
 結果、ノイアー((GK) 、ボアテング(CB)、ラーム(SB)、シュバインシュタイガー(MF)、クロース(MF)、ミュラー(FW)、ゲッツェ(FW)、なんと7人がバイエルン・ミュンヘンの選手だった!!
 キーパーからフォワードまで、要所要所を同じクラブのメンバーが占めている。常備クラブメートとして戦っている人たち。しかもそのクラブは、UEFAチャンピオンズリーグ覇者(2012/13シーズン)という強豪。連携が高度で緻密なのもむべなるかなだ。

 W杯は寄せ集めチーム同士の戦いだ。選手は普段別々のクラブで活動している。代表としての練習や強化試合はその合間を縫って行われる。チームとして割かれる時間はとても少ない。だから、概ねどのチームも連携の不安を抱えている。
 サッカーはスペースとタイミングを操る連携のゲームだ。点を取るために、スペースにタイミングよくパスを送り出し、そこに飛び込んだ別の選手がフリーの状態でシュートする。そういう場面をいかに多く作りだせるかが勝負の分かれ目だ。連携のゲームたる由縁である。
 当然、同一クラブの選手が多いチームほど連携度は高い。それがドイツ。即ち、ドイツは、チームを編成した時点で、連携度において、既に他のナショナル・チームの上にいる。他チームが連携そのものに腐心しているとき、ドイツはそれに磨きをかけている。元々ある差がさらに大なものになる。ドイツ強さの秘密。その一端はここにある。

 レーヴ監督は、バイエルンの選手を軸にチームを作り上げた。軸が決まっているから作業はシンプル。強固な軸にスパイスを振り掛ければいい。結果、すべてにバランスのいいチームが出来上がった。
 決勝戦に出場した選手14名の年齢分布は、20代前半が5、後半が7、30代が2、平均年齢は26.4歳。因みに、最年長は本大会で歴代最高16得点をマークした36歳のクローゼ、最年少は決勝戦で優勝を決める得点をたたき出した22歳のゲッツェだ。

 ヨアヒム・レーヴが指揮を執るようになって10年。ドイツは国を挙げて強いチーム作りに邁進してきた。ブンデスリーガの充実、若手育成の改革、純血主義の排除など、強くなるための労をいとわなかった。今回の優勝はその賜物である。
 さらに、ドイツの凄いところは、これらを精神論に止めずに、義務化・制度化しシステムとして確立したことにある(例えば若手育成機関の付設をリーグ加盟の条件とするなど)。だから、この流れは一過性ではない。ドイツ・サッカーの優位は当分揺らぐことはないだろう。日本サッカー学ぶべしである。

<「チーム・メッシ」というチーム>

 アルゼンチンは「チーム・メッシ」という名のチーム作りをして臨んだ。戦いぶりは実に奇妙。メッシは、ボールが近くを通りすぎても追わずにスタスタ歩いている。チャンスでアクセルをかけるためのスタミナ温存策だ。ディフェンス陣は大童。でもメッシは点を獲るからそれでいい。グループリーグでは4点取っている。
 ところが、決勝トーナメントに入るや無得点。確かに相方ディマリアの欠場は痛かったが。我が師Kちゃんは「アルゼンチンが優勝するためには、メッシを外すか走らせるかしかない」と決勝戦を前に語っていた。なんと大胆な発言と思ったが、終わってみるとその意味がよく解ったよ。点を取れないのなら、ボールを追いかける選手を入れたほうがいいものね。アルゼンチンは準優勝。メッシはMVPに。「あれ?」と思ったのはJiijiだけかしら。やはり、アルゼンチンは奇形だった。オシムが「勝つのはドイツであるべきだ」と語った気持ちはよくわかる。
 最後に一言。準決勝オランダ戦後半46分、ロッベンの決定的シーンを阻止したマスケラーノのプレイに本大会のベスト・セイビング賞を。

<GKは大豊作>

 前にも書いたけど、この大会はゴールキーパーの大豊作。最高峰は「ベスト・ゴールキーパー」に輝いたドイツのノイアーで異論のないところだろうが、そのほかにも多士済々、印象に残ったGKは数多いた。
 ブラジル戦でファインセーブを連発しチームを決勝トーナメントに導いたメキシコのオチョワ。PK戦魂のセーブでチリとの死闘に終止符を打ったブラジルのジュリオ・セザール。コスタリカとのPK戦でピンチGKに起用され戦術家ファンハールの期待に応えたオランダのクルル。そのオランダとのPK戦で2セーブを果たし勝利を呼び込んだアルゼンチンのロメロ。明るすぎるもちゃんと仕事はするナイジェリアのエニュアマ。みんな個性派の仕事人だった。

<花のアンダー23トリオ>

 先述したとおり、ドイツの優勝ゴールを決めたのは22歳のマリオ・ゲッツェだった。これは大会171得点目のメモリアル・ゴール。1998フランス大会から「出場32チーム、全試合数64」という現行方式になったが、171得点はこのときのフランス大会とタイ記録だ。後半43分、レーヴ監督が「試合を決める働きのできる選手」として送り込んだドイツの22歳は、見事期待に応えてくれた。

 ネイマールは準々決勝で重傷を負い、彼のW杯はここで終わった。ネイマールを欠いたブラジル・チームは準決勝でドイツに歴史的大敗を喫した。開会前から優勝だけを求め頑張り続けた22歳の若者にとって、実に無念な結果となってしまった。でも、彼のワールドカップは始まったばかり。ロシア〜カタールで輝くことをJiijiは切に祈ります。

 本大会最も注目を浴びた20代は、コロンビアのハメス・ロドリゲス(23歳)だろう。6ゴールを挙げ見事単独の得点王に輝いた。ウルグアイ戦で見せたボレー・シュートは、これぞスーパーゴールという凄さ。確かな技術と瞬時の状況判断と思い切りのよさ! ファンペルシーのスペイン戦同点ゴールと共に本大会のベスト・ゴールとJiijiは認定する。

<戦いすんでも日は暮れない>

 今大会で株を上げたハメス・ロドリゲスは、トレードマネー112億円をもってレアル・マドリードに移籍する模様だ。クリスティアーノ&ハメスのレアル対メッシ&ネイマールのバルサとの王座争いは、今からワクワクするね。

 開幕戦の主審を務めた西村雄一氏も話題に。そこで下したPKジャッジは「厳しすぎる」とのコメントが敵陣からあった。批判を恐れたかその後のジャッジが緩くなる? 試合によるけど、ファウルの横行目に余る。なんとかならんか、特にコーナーキック時の引っ張り合い。見張れないなら機械の導入考えて。

 オランダ代表監督のファンハールは、イングランドのマンチェスター・ユナイティッドへの就任が決まっている。香川真司は使ってもらえるだろうか。

 セレッソ大阪の柿谷曜一郎は、新天地を求めてスイスに旅立った。大きくなって戻ってこれるかなあ。

 ザックが攻撃の切り札として登用した川崎フロンターレの大久保嘉人は、不覚にも決勝戦を見逃したそうだ。なにやっとるんじゃい!

 ブラジル優勝を予想した評論家の皆様方(ドイツ戦前日でも、まだ自信を持って唱えていた人多数)、セルジオ越後を筆頭に、ラモス、北澤、都並、松木、福田、福西、小倉、宮澤ミシェルの面々。一体いつ言い訳をしてくれるんじゃい。なに?Jiijiもだと。ワシは予想はしとらん、応援しただけじゃ。

 日本サッカー協会は、大会の総括もせずに新監督を決めちゃったみたいだ。おんどれ大丈夫かいな!

 悲喜こもごも、W杯ブラジル大会は終わった。参加国(と地域)は203。なんと国連加盟国193より多いのだ。好きだ嫌いだ、滑った転んだと言ったって、これはもはや止められない世界現象。Jiijiは、今回からまともに見るようになったので、これからますます楽しみになった。あと何回見られるかなあ。まずは、4年後ロシアで会いましょう。
 2014.07.13 (日)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート5 〜 最後に綻んだファンハール采配
 おっとRayちゃん、先ほど3位決定戦が終わったよ。3−0でオランダ勝利。やはりブラジルは蘇っていなかった。そりゃ酷だよな、あの歴史的大敗のあと中三日で立ち直れというのは。かくなる上は、新監督の下、ネイマール、オスカルら若手を中心にスッキリと再出発するしかないな。

 オランダのエース ロッベンは、試合後のインタビューで「今は空っぽ。やるだけやった。結果3位は誇りに思う」としながらも、言外に、決勝にいけなかった悔しさがにじみ出ていたよ。

 オランダはなぜ決勝に進めなかったか。なぜアルゼンチンに負けてしまったのか? 決着がPK戦だっただけに敗因を突きとめるのは難しい。でも、そこは素人的「クラ未知」精神で探ってみよう。鍵は延長前半両監督が切った3枚目のカードにある、とJiijiは見た。

<オランダ最後のカードはフンテラール>

 延長前半6分、オランダ ファンハール監督は最後のカードを切った。準々決勝対コスタリカ戦では、PK戦のためにGKを代えるというW杯史上類を見ない作戦に出て見事成功した彼だったから、同じ推移(0−0)のこの場面、Jiijiは当然この策に出るものと思っていた。
 ところが、ファンハールは別のカードを切ったんだ。ファンペルシーに代えてフンテラール投入だった。Jiijiは正直「おやっ」と思ったよ。それは前述したとおり、ゲームの推移がコスタリカ戦と酷似していたからだ。しかも、コスタリカ戦は、スナイデルの2本のシュートがちょっとだけ狂えばPK戦を待たずに勝っていたと思われる、そんなオランダ圧倒的優勢のゲーム。反面、目下のアルゼンチン戦は、マスケラーノに代表されるような、球際の強いアルゼンチンのディフェンスに手を焼き、それよりはるかにチャンスの少ないゲームだった。
 指揮官として、PK戦を想定するのはむしろアルゼンチン戦の方なのに。「おや?」と思った理由はそこにある。

 とはいえこれまで、相手を研究しゲームの流れを読み、的確そのものの手を打ってきたファンハール采配である。そんな彼の決断だから必ず根拠があるはずだとも思った。それは、「GK交代」をしないのだから、PK戦以前での決着を望んだということ。もっと端的に言えば「PK戦をやりたくなかった」からではないか。その目的のために、ファンペルシーよりフンテラールの方がベターと踏んで交代させた。ならば、戦い方を変えてくる。フンテラールの高さを生かしたパワープレイを多用するはずだと。Jiijiはそう読んで推移を見守った。ところが、ゲーム内容にはまったく変化が見られなかったのだ。

 PK戦を嫌ってフンテラールを投入したのなら、オランダは死に物狂いで点を取りにいかなくてはいけない。彼の高さを活かしたパワープレイを盛り込みながら。そうでなくては辻褄が合わない
 ところが、オランダはこれまでどおりのゲーム運びを続けた。それは、まるで、GK交代のカードを切ったコスタリカ戦のような、いやそれ以上に守備的な戦いぶりだった。 この矛盾はなんだ!これまで、打つ手すべてが理解できたファンハール采配が、初めて不可解に映った瞬間だった。

<アルゼンチン最後のカードはマキシ・ロドリゲス>

 アルゼンチンのサベーラ監督は、戦況を見ながらなんとなく違和感を感じていたに違いない。あの緻密なファンハール采配が、今日はどこかおかしい。いつもの筋が通っていない。もしや、なにかに迷っている? はっきりしているのはPK戦を嫌がっていること。ならばなにがなんでも持ち込んでやれ。
 延長前半11分、彼が切った最後のカードは、マキシ・ロドリゲスの投入だった。マキシ・ロドリゲス34歳。3度目のワールドカップ。予選では数少ない出場ながら3得点を挙げるなど信頼できるベテラン・アタッカーである。

 ゲームは静かに流れ、遂にPK戦に突入していった。

<運命のPK戦>

 先行はオランダ。ファンハール監督が1番手に指名したのはフラールだった。ファンペルシーが(交代で)いないからとはいえ、ここはフラールで本当によかったのか?フラールはディフェンダー、しかもコスタリカとのPK戦では蹴っていないんだ。コスタリカ戦のオーダーは、ファンペルシー〜ロッベン〜スナイデル〜カイト。すべてベテランで固めていた。
 PK戦の1番手はプレッシャーがかかる。ここはロッベンの繰上げが正解だったんじゃないかな。もし、先を考えオーダーをあまりいじりたくなかったのなら、フンテラールという手もあったはず。彼は大接戦のメキシコ戦で逆転のPKゴールを決めている。しかも、この日ファンハールが切った最後のカードの選手。采配にも適う。案の定(?)フラールは外した。

 アルゼンチンの1番手はキャプテンのメッシ。定石どおりの起用。見事成功。このあとオランダは3番手のスナイデルが外し、4表までアルゼンチン3−2とリード。4裏にアルゼンチンが決めれば勝ち抜けという展開となった。アルゼンチンの4番手はマキシ・ロドリゲス。サベーラ監督が最後に切ったカードの選手だった! ロドリゲスは落ち着いて決めた。ゲームはアルゼンチンの勝利で幕を閉じた。

<名采配はなぜ綻んだか>

 どこかおかしかったファンハール采配。選手交代とゲーム作りの矛盾。PK戦におけるキッカーの人選。それまで水も漏らさぬ緻密さで勝ち進んできた名将にいったい何が起こったのだろうか?

 勝つための戦術に徹してきたファンハール監督。だがその一方で、少なからず批判もあったようだ。たとえば、2−0で勝利したチリ戦後の会見で、「5人が最終ラインに入って守備を固める戦法はいかがなものか?」と問う記者に対し「逆に君に聞きたい。攻撃サッカーとはなんだ。私は勝つためにやっている」と声を荒げるシーンがあったと聞く。
 コスタリカ戦、名采配とされた「GK交代」では、GKクルルの挑発行為が問題とされたり、主戦GKシュレッセンの不満が伝えられたりもした。

 そんな外野席の喧しさに、さしもの「世界一の戦術家」(チームメートのカイトの言)も、無意識のうちに撹乱されていたのだろうか。「GK交代」という自身が編み出した最高の切り札を、絶対に使うべきところで封印してしまった事情。それは誰にも判らない。答はファンハールの胸のうちに眠っている。

 一方、アルゼンチン サベーラ監督はシンプルにオーソドックスに戦いを進めた。守るだけ守り、チャンスとなれば速攻を仕掛ける。当初の計画通りに。相手の迷いを見抜いてPK戦を挑んだ。そして、最後のカードを信頼できるベテランに切った。PK戦はそのマキシ・ロドリゲスが終止符を打った。冷静で安定感ある采配だった。

 積み上げてきた采配が、何らかの邪念によって、最後に綻んだオランダ。計画に沿ってブレることのない戦術を貫き最後に勝利を収めたアルゼンチン。采配の紙一重の綾が勝負の行方を決めた、実に興味深いゲームだった。

 オランダは初優勝の夢を断たれた。アルゼンチンは28年ぶり3度目の優勝に向かいドイツと対戦する。ワールドカップもいよいよ大詰めを迎えた。
 2014.07.11 (金)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート4 〜 戦犯はダビドルイス
 ねえ、Rayちゃん! Jiijiは今、愕然としている。ワールドカップでとんでもないことが起きちゃったからだ。準決勝で開催国ブラジルが1−7でドイツに大敗したんだ。国中が号泣し世界中が唖然とした。確かにドイツは強い。おそらくこのまま優勝するだろう。だが、ブラジルの負け方はあまりにも酷すぎた。まさにミネイロンの悪夢だった。

 野球界の知恵者・野村克也氏は常々「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」と言っている。不思議の勝ちは確かに存在する。日本サッカーでいえば、1996年、アトランタ五輪での通称「マイアミの奇跡」がそうだ。でも「不思議の負け」は存在しない。負けには必ず理由がある。自分は常にこの姿勢で野球をやってきたから今日がある、と野村さんは言うんだ。
 だから、ブラジル大敗には理由があるのだ。それをJiijiなりに考えてみようと思う。敗因を思いつくままあげつらうという方法もあるが、それは止めよう。アチコチで当たり前に囁かれる断片を寄せ集めったってつまらない。こういう大味な(?)ゲームこそシンプルに斬るに限る。そうだ、ここは敢えて戦犯を指名しよう。彼の心理を追いかけ、点と線の責任追及をする。これ、斬新かつ「クラ未知」的じゃないか?
 大敗の起点はドイツの先制。この責任者は? ダビドルイス。そう、ダビドルイスこそ歴史的大敗のA級戦犯なのだ。

<監督とゲームキャプテン>

 ブラジルは、準々決勝のコロンビア戦で、ネイマールが重傷を負い、チアゴシウバがカード累積と、ドイツ戦では二人の欠場を余儀なくされていた。ネイマールはそれまで4得点のブラジルの絶対的エース。チアゴシウバはキャプテンにして守備の要。ブラジルは、大エースと大黒柱、まさに飛車角落ちで戦うことになったのだ。
 だからといって言い訳はできない。64年ぶりに巡ってきた自国開催優勝のチャンスを逃してはならない。チームはそんな使命を背負っていた。ここにブラジルの悲劇があった。
 ドイツ戦を前に、監督のスコラリとチアゴシウバに代りゲームキャプテンを任じられたダビドルイスは、入念に打ち合わせをしたことだろう。

 スコラリ監督「ドイツは強い。ウチは攻撃と守備の要がいない。絶体絶命だ。だが、負けるわけにはいかない。自国開催を優勝で飾る、これが俺たちに課せられた使命だからだ。ダビド、キャプテンはお前に任せる。欠場する二人の分まで頑張ってくれ」
 ダビドルイス「わかりました。チアゴの代わりにキャプテンとしてみんなを引っ張ります。ディフェンスの要になります。ラインの制御も私がやります。ネイマールの代わりに攻撃も頑張ります。チリ戦でもコロンビア戦でもゴールをあげて、調子も上がっているので大丈夫。任せてください」
 スコラリ監督「ディフェンス、マーカー、攻撃、チームの統率。大変だが頑張ってくれ。お前しかいないんだからな。ミュラーのマークも頼んだぞ。やつを乗せたらいかん。俺たちは負けるわけにはいかないんだ。確かにドイツは強い。戦い方を知っている。先取点を許したら向こうのペースだ。絶対に許すな。やつらが調子を出す前に先制して主導権を握る。勝つ道はこれしかない」

 Jiijiはこんなやり取りがあったと想像するよ。ダビドルイスは真面目な男だ。責任を一身に背負ってピッチに立ったんだ。チーム・リーダーと守備の要。これだけならよかった。ところが、彼はネイマールの穴まで埋めようとした。確かに攻撃の調子はよかった。事実決勝トーナメントに入ってからは2得点をあげ、無得点のネイマールを凌駕していたのだ。だから、攻撃の主役まで請け負った。そこに落とし穴があった。

<起点は先制点>

 前半11分、ドイツ初のセットプレーは右サイドからのコーナーキックだった。ドイツは、今大会それまでの5試合で、セットプレーから4得点を挙げている。最も注意すべき瞬間だ。ダビドルイスがマークを託されたのは4得点のミュラー。乗せてはいけないもっとも危険なエースだった。
 キッカーが蹴る直前、ミュラーはスルスルとファーサイドに移動する。これを見て慌てたダビドルイスは、追うも、相手の選手に進路を塞がれ一瞬止まってしまう。この間隙を突いて、ボールはフリーのミュラーの足元に。そして、右足でゴールを決められてしまった。許してはいけない先制点だった。
 明らかにダビドルイスのマーク・ミス。何が何でも体を寄せなければいけない場面だった。おろそかになった理由は、マークへの不徹底。彼の頭の中には、リーダーシップと守備と攻撃の三要素が均等に詰まっていたからだ。

<奈落の底へ>

 「なんというミスだ。負けられないゲームで、相手に先制されてしまった。しかも一番乗せてはならない相手のエースに。早いうちにとり返さなくちゃいけない。やるのは誰だ。自分しかいない」。ますます前のめりになる。守備はますますおろそかになる。
 23分。ドイツに中央を突破され、クローゼに追加点を入れられる。ワールドカップ通算16ゴールの新記録だった。最終ラインの不揃いと棒立ちのディフェンス陣。ライン制御を怠り集中力を失ったこれまたダビドルイスの過失だった。
 2点のビハインド。チームの窮地。ゲームキャプテン ダビドルイスは、ここで存在感を示さなければいけなかった。仲間を鼓舞し、決してあきらめない戦いに導かねばならなかった。しかし彼にその気力は残っていなかった。生来の真面目な性格が災いしたのだろうか。「ミスをしたのは自分だ。しかも、大事な場面で絶対に犯してはならないミスを二つもだ。こんな間抜けな人間がどうしてみんなを統率できる」
 彼はここで切れた。チームも切れた。ブラジル守備陣は体も寄せずプレスもかけず。あとはドイツのなすがまま。チームは急坂を転がり落ちるように奈落の底に沈んでいった。

<不思議の負けじゃなかった>

 ブラジル歴史的大敗の原因は、ダビドルイスが重荷を背負いすぎたことにある。分かりやすく「A級戦犯はダビドルイス」と断定して話を進めさせていただいたが、負わせてしまったのはスコラリ監督だ。指揮官の責任が選手以上であるのはいうまでもない。現に監督は、試合後のインタビューで「今日はブラジルにとって史上最悪の日だ。選手の起用や戦術、試合の運び方を決めたのはこの私だ。責任はすべて私にある」と語っている。

 サッカー王国ブラジルの悲劇。発端はエースとキャプテンの離脱だ。根底には「開催国優勝を実現する」という至難のミッションがあった。勝つために監督は最も信頼する選手にその使命を託した。指名されたゲームキャプテンは、意気に感じ重荷を背負った。それが背負いきれないものと感じつつ、自身の調子のよさがそれを請け負わせた。
 プレッシャーというものは背負う重荷の質量に比例する。いくら屈強の選手でも人間だから限度というものがある。ゲームキャプテンが背負った重荷は個人の限界をはるかに超えたものだった。それを背負ってしまったダビドルイス。それを背負わせてしまったスコラリ監督。歴史的大敗最大の要因はここにある。

 ではどうすればよかったか? 重荷を一人に被せずに分散する。少なくともミュラーのマーカーはダンテにすべきだった。最終ラインの制御を含め守備を固めてじっくり勝機を待つ。相手に高い位置でプレスをかけて早めに攻撃の芽を摘む。「勝負なんだから負けたらしゃあんめえ」と開き直る。でもまあ、これは結果論。何を言っても後の祭りだ。

 ダビドルイスは試合後、泣きじゃくりながら「すべてのブラジルの人たちに謝りたい。今日は人生で一番悲しい日になった。いろいろなことも学べた」と語った。
 ダビドルイスよ、しばし、思いっきり泣くがいい。Jiijiは解る。痛いほど解るよ。でも、泣き止んだら、この大敗の「何故」を分析しよう。どんな負けにも「不思議の負け」は存在しないのだからね。「いろいろなことを学べた」のなら、きっと大丈夫。明日へのステップはそこから始まるのだから。
 そして、三位決定戦がやってくる。だが、ブラジルがここで立ち直るのは無理だ。静かに見守りたいと思う。
 2014.07.08 (火)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート3 〜 ベスト4出揃う
 なあ、Rayちゃん! ワールドカップ ブラジル大会も遂にベスト4が出揃った。決勝トーナメント1回戦と準々決勝は見ごたえがあったね。でも、Jiijiは反省した。というか、読みの甘さと未熟さを思い知らされたね。グループリーグは確かに派手な試合が多かった。ゴールも量産、48試合で136ゴールは史上最多だそうだ。世界の趨勢は「攻撃型」と思い込んだ。だから、前々回の「クラ未知」で「日本は敢えて守備型でいくべし」なんて提案しちゃった。
 ところがどっこい、決勝Tに入るやピタリと点が入らない。12試合の総得点が23。1点差が7試合、同点PK戦決着が3試合、2点差が2試合。すべて少得点の接戦ばかり。しかも最後の最後までどっちに転んでもおかしくない展開。いやー、緊張の連続。Jiiji疲れるの巻。でも、これぞサッカーと堪能したね。

 これは一体どういう理由だろう? それは簡単な話。ここまで上がってくるチームは押しなべて守備が固い。世界の強国は強固な守備力を土台にゲームを組み立てているということ。早い話が「自分たちのサッカーは攻撃型。2点取られたら3点取ればいい」なんて子供じみたことを言っていた日本は、二流のレベルでしかなかったということなのだ。 だから、Jiijiは言い直す。日本は「守備型でいくべし」じゃなく「守備を固めるのは当然のこと。すべてはそこから始まる。一から出直せ」と。では、出揃った強豪4チームをランダムに見ていこう。

ブラジル〜泣くなネイマール

 準々決勝コロンビア戦。ネイマールはなんと脊椎骨折全治4週間! Jiijiは恨む、コロンビアの18番を。大会の主役となるべきブラジルのエースを葬り去ったラフ・プレイを。
 1950年マラカナンの悲劇から遂に巡ってきたチャンス。神様ペレもなしえなかった自国開催での優勝。このミッションを一身に背負った22歳の若武者の夢は無残にも打ち砕かれた。かくなる上は、ブラジルよ。サッカー王国の底力を見せてくれ!

 見た?ダビド・ルイスのFKゴール。後半23分。右足インサイドから力強く蹴り出されたボールはバーの手前でストンと落ちた。甲ではなくインサイドだからバックスピン量が小さい。だから落ちる。パワーと技術のまさに究極の無回転ボール。落ちづらいといわれる今大会のボールでなしえたダビド・ルイス。彼はなんとDF。しかも彼は、「ブラジルは一丸だ。ネイマールだけに負担を掛けさせない」って宣言していたのだ。これぞ王国の底力じゃないか。

 ブラジルにとって、決勝T1回戦のチリ戦は事のほかきつかった。1−1のままPK戦へ。ここで立ちはだかったのが、守護神GKジュリオ・セザールだった。彼は2010南ア大会で戦犯の汚名を着せられていたんだ。大会終了後はやむなく二流のカナダ・リーグへ。黙々と練習に励むセザール。そんな彼を代表復帰させたのが監督スコラリだった。
 彼はチリのPKを3本止めた。それはもう神がかりとしか言いようがなかった。そして、ブラジルは勝った。長く苦しい戦いから開放されて、主将のチアゴシウバとネイマールは辺り憚らずに泣いた。これを地元マスコミは批判したという。なに言ってんだといいたいよ。「自国開催優勝」というプレッシャーがどんなに大変なものなのか!? 延長後半残り30秒、チリの9番ピニージャのシュートがもう5mm下だったら、ブラジルはここで負けていたんですよ。負けたら次のチャンスは数十年後。こんな修羅場をくぐってきた選手が、勝ってやっと開放されたんだ。泣いて何が悪い! 地元なら解ってやってくださいよ。

 ネイマールの欠場を受け止め固い結束で目標に突き進むスコラリ監督と選手たち。Rayちゃん、誰がなんと言おうと、Jiijiはブラジルを応援するよ。日本に比べてなんと贅沢な目標、確かにそうなんだけど、王国には王国の大変さがあるんだ。泣くなネイマール!最後に仲間と笑おうじゃないか!!

オランダ〜冴えわたるファンハール采配

 W杯、これまで南アメリカ大陸開催では、ヨーロッパの優勝はない。もしやこのジンクス突き破るのはオランダ? そんな気にさせるほど、今回のオランダは乗っている。

 サッカーってこんなに戦略的だったっけ?と思わせるファンハール監督の采配なのだ。箇条書きにしてみよう。
(1)グループリーグ初戦スペイン戦における堅守速攻

精緻なパス・サッカーのスペインを、鉄壁の5バックで守り切り、焦れて精度が低くなった相手のパス・ミスを突き、スピードあるカウンターで打ちのめした。

(2)決勝T第1回戦メキシコ戦での変幻自在のフォーメーション

前半は中盤を省略してDFからのロング・パスを重用。省エネで相手を疲れさせ、自らの体力を温存し、勝負を後半に持ち込む作戦を取る。後半失点し追いかける展開になるや、DFを削り、サイドのFWを増やす。得点ならずとみた30分、ファンペルシーに代えて長身のフンテラールを投入、パワープレーに切り替える。10回目のCK。フンテラールのマイナス・パスにスナイデルの右足一閃。見事に同点とした。このあとロッベンがPKを取り勝ち越し。状況に応じ3度のフォーメーション変更で勝ち取った見事な逆転勝利だった。

(3)準々決勝 対コスタリカ戦の交代カードの使い方

0−0のまま推移。オランダの交代は2枚だけ。終了間際、GKのシレッセンをクルルに代えた。クルルはPK戦に長けたGK。なんとこれが3枚目のカードだったのだ。PK戦。思惑通りクルルはコスタリカのPKを2本止め、オランダに勝利をもたらした。PK戦用に最後の一枚を切る。こんな作戦、果たしてW杯史上にあったのだろうか?
 オランダ主力三羽烏・スナイデル〜ロッベン〜ファンペルシーは共に30歳。今が旬。次開催はやや歳だ。きっと彼らは「ここしかない」と思っているはず。モチベーションは高いぞ。

 「今回のオランダ・サッカーは、相手の攻撃を利用したリアクションのサッカーに徹している」とファンハール。相手に呼応し攻撃の相乗性を呼び込むサッカー。だから、どんな相手にも変幻自在に対応できる。それを可能にしているのは監督の采配と選手の表現力だ。
 自分たちのサッカーを貫けば勝てると信じ込みそれができなかった日本。しかも自分たちのサッカーというのが間違いだったかも。月とスッポン。駿河の富士と一里塚。日本人として、この差に愕然。本田の「優勝する」はやはりおこがましかった? オランダ・サッカーは成熟の極に達している。

 一方、強豪オランダを崖淵まで追い詰めたコスタリカの戦いぶりも見事だった。ポイントはディフェンス。5バックのライン制御がなんとも見事で、引っ掛けたオフサイドは12本(グループリーグのイタリア戦では11本)。日本が学ぶべきはこのあたりでは。

 準決勝、ブラジルの相手はドイツ。4得点のミュラーは絶好調。局面打開の切り札シュルレも抜群の存在感。ラームの調子が上がってきたので攻守に幅が出るのも好材料。あとはマジシャン・エジルの復活待ちだ。忘れてならないのがGKノイアーの存在。「判断力、勇気、キックの正確性」すべてを兼ね備えた絶対的守護神だ。
 ノイアーの他にも、本大会は優秀なGKが目立つ。メキシコのオチョア、アルジェリアのエムボリ、コスタリカのナバス、ブラジルのセザール、等々。GK花盛りである。

 もう一つの準決勝、オランダに対するはアルゼンチン。ここまで、エース・メッシが4得点&ほぼすべての得点に絡む大活躍。スーパースターがやっとW杯の舞台で輝いている。イグアインが調子を上げるも、ディマリアの負傷欠場は痛い。アルゼンチンの優勝は、やはりメッシの出来次第。

 じゃRayちゃん、折角だからここでJiijiの大胆予想を。決勝はドイツ対オランダ。勝つのはオランダだ。だが、最初に書いたとおり、Jiijiが応援するのは断然ブラジル。頑張れブラジル 王国の威信にかけて。
 2014.06.30 (月)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート2 〜 グループリーグに異変
 おーい、Rayちゃん! ワールドカップ ブラジル大会もグループリーグが終わったよ。日本は敗退しちゃったけど、山場はこれからだ。実はJiiji 親族内「優勝当てToTo」をやっている。どこに賭けたかって? 恥ずかしいから言わない。でもまっいいか。小さい声で「ポルトガル」。専門家の胴元には「穴ずぎる!変えてもいいっすよ」なんて言われたけど、初志貫徹。やっぱり撃沈。残念!

 とまあ、個人的なことはさしおいて、グループリーグをランダムに総括しておこう。

 B組。なんともビックリしたのは、前回王者スペインのまさかの敗退だったね。第1戦のオランダ戦。PKで先制したものの、勢いはここまで。繰り出されたオランダ怒涛の反撃に、終わってみれば1−5の大敗。オランダは2010決勝戦の雪辱を果たしたことになる。いやはや、強烈すぎる逆襲だった!これ、ファン・ハール監督の研究勝ちか。5−3−2の布陣でスペインの特徴を見事に消した。オランダはこのあと、オーストラリア、チリにも勝って堂々の1位通過。今年のオランダは強い。一躍優勝候補に名乗り出た。
 スペインは、オランダ・ショック消えやらぬままチリにも敗れ、全32チーム中最速で姿を消すことに。なにやら波乱含みの幕開けだ。

 オランダ ファンペルシーの芸術的同点ゴールとロッベンの超絶スピードが特に印象的だったね。なにせ、ロッベンの走力、100mに換算すると10秒2だってさ。とてつもない。でも、もっと驚いたのは、あの風貌でまだ30歳だったってこと!

 F組アルゼンチン 第2戦はイラン戦。メッシの決勝ゴールは見事だった。こやつは2006ドイツW杯デビューは華々しかったけど、期待された2010南アフリカ大会は全然ダメ。バロンドール(年間最優秀選手賞)を4年連続で獲ってる超スーパースターも、母国アルゼンチンじゃ「メッシはバルセロナでは稼ぐけど、国のためには働かず」なんて言われちゃって、1986年優勝の立役者マラドーナに評価は遠く及ばない。
 この試合、守備を固めるイランの術中に嵌り0−0のまま引き分けかと思われたアディショナル・タイム。メッシの左足一閃!ミドル・シュートがネット左隅に突き刺さった。ディフェンダーがキーパーの視界を遮る一瞬のタイミングを衝き、ここしかない箇所にピンポイントで合わせる熟練のテクニック! チームを勝利に導く文字通りのスーパーゴールだったね。

 アルゼンチンは第3戦でナイジェリアを3−2で下し、全勝で決勝Tへ。メッシはこの試合でも2ゴールを挙げ、トータル4ゴールで只今得点王首位タイと大車輪の活躍。これでもう、アルゼンチン国民は、「メッシは国のためには働かない」なんて云わないはずだ。

 もう一人のスーパースター 直近のバロンドール受賞者クリスティアーノ・ロナルド率いるポルトガルが姿を消した。G組 初戦ドイツに0−4で大敗。第2戦アメリカ戦は、負ければグループリーグ敗退という背水の陣。残り1分を切って1−2の絶体絶命。ここで、C.ロナルド絶妙のクロスにバレラが飛び込みゴール!ポルトガル 首の皮一枚繋がるの巻。だが、第3戦ガーナに2−1で勝ったものの得失点差で敗退。ドイツ戦の大敗が痛かった。スペイン諸共イベリア半島壊滅!
 C.ロナルドは僅か1得点に終わったね。おそらく左足が完治してなかったんだろう。それともEUチャンピオンズ・リーグで燃え尽きた? 確かに、本来のスピードとキレがなかったな。ここまで彼のW杯はまだ2得点。メッシに次ぐ世界第2位の高給取りがこのまま終わるはずがない。次回ロシア大会が勝負だ。頑張れクリスティアーノ!!

 D組は死のグループ。それもそのはず、W杯優勝経験国3チームが犇く。4回優勝のイタリア、2回のウルグアイ、1回のイングランド、0回のコスタリカだ。戦前の予想は「経験国の三つ巴。コスタリカはご苦労さん」。ところがギッチョン、2巡目を終え最速で決勝T進出を決めたのは蚊帳の外のコスタリカ! イングランドが予選落ち。エース ルーニーW杯初ゴールも実らずだった。これぞ最大のミステリー?!だってコスタリカ。直前の強化試合では、日本が3−1で勝ってるんだぜ。まあ、練習試合じゃ測れないということだな。

 最後の一枠はイタリア対ウルグアイの直接対決決着。勝ち点で上回るイタリアは、後半エース バロテッリを下げ、明らかな引き分け狙いに出る。片や、勝たねばならないウルグアイは終盤執念のゴールで勝利。モティベーションの差が勝敗を決めたね。
 ウルグアイのエース スアレスが、イタリアの選手に噛みつき、退場&9試合の出場停止処分となったのも話題に。
 ヨーロッパの古豪が敗退、ランキング最下位のコスタリカと南米の雄ウルグアイが進出したD組は、ある意味本大会を象徴するグループだったとJiijiは思う。

 日本が散ったC組、全勝首位通過のコロンビアは強いぞ。大エース ファルカオを欠いても、22歳ハメス・ロドリゲスが補って余りある活躍。なにやらスター誕生の予感すらする。決勝Tで旋風を巻き起こすか。

 優勝候補A組ブラジルと強豪G組ドイツは評判どおりの強さではあったね。ブラジルは、エース ネイマールが4得点と絶好調。この選手、身体能力もテクニックも史上最高じゃないかしら。ただ、ブラジルの弱点は、ピンチのとき精神的支柱となる選手がいないこと。ネイマールにそこまで負わせるとパンクしちゃうぞ!
 ドイツは、フォワード若手三羽烏が健在。中でもミュラーは早くもハット・トリックを達成。ベテラン クローゼは通算15ゴールとしてロナウドのW杯最多得点記録に並んだ。新旧のバランスもよく、優勝候補の最右翼かな。

 得点王争いも熾烈。トップがネイマール、メッシ、ミュラーの4点。ロッベン、ファンペルシー、ロドリゲスら6人が3点で続いている。
 因みにJiijiが選ぶベスト・ゴールは? オランダ ファンペルシーの対スペイン戦での同点ゴールだ。後方からのロング・パスを追いかける中、GKカシージャスの動きを見て咄嗟にヘディングに変更した判断力と創造力の凄さ! ボールは前進したGKの頭上に美しい放物線を描きゴールネットに着弾した。チームはこの同点弾から一気に王者スペインを飲み込んでゆく。ゲームの流れを一発で変えたという意味でも、究極のベストゴールといえるね。

 次点は、前述メッシの対イラン戦決勝ゴール。国を背負う責任感が高度な技術を引き出したんだろう。これぞエースの証明だな。

 決勝T通過国を地域別に見ると・・・・・中南米・北米が8/10 ヨーロッパ6/13 アフリカ2/5 アジア0/4。やはり「南米開催のW杯は南米が強い」は生きていた。アジアは枠を減らされちゃうぞ。

 さあ、いよいよ決勝トーナメント。32が16に絞られ、負けたら終わりのサバイバル・ゲームが始まる。緊張の度合いも急上昇。一瞬たりとも目が離せない。 順当なら、ブラジル、ドイツ、オランダ、アルゼンチンの4強か? だが波乱の予感も十分。実際、上下の差が縮まってるから、強豪ウカウカ出来ずだ。台風の目はコロンビア、メキシコ、コスタリカあたり? 優勝予測困難のブラジル大会。敢えて云うならオランダか。

 それでもって、Rayちゃん。ポルトガルが消えちゃって、Jiijiはどこを応援しようかな。そうだ、ブラジルにしよう。93歳わが母上が賭けてるもんで。まだまだ楽しめるぞ!
 2014.06.26 (木)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート1 〜 日本終戦にJiijiの提言
 おーい、Rayちゃん! 君はもう一歳になったんだね。早いもんだな。歩けるようになって、大人と同じご飯を食べて、保育園で元気に過ごしてる。みんなにニコニコ。だからみんなもニコニコ。いいぞRayちゃん、その調子だ。じゃっJiijiも元気に提言だ。

 2014ワールドカップ ブラジル大会。サムライブルー・日本のキイワードは「決勝T進出の鍵は初戦」だった。これは「クラ未知」1月10日に書いたとおり。即ち、勝てば突破・負ければ絶望。ところがコートジボワールに逆転負け。Jiijiこの時点で諦めた。しかも、第2戦ギリシャとは引き分けのお粗末。これで第3戦は、勝目のないコロンビアに勝つ事が必須、かつ、ギリシャがコートジボワールに引き分け以上得失点差で上回る、しかなくなっちゃった。やってみなけりゃ判らんとはいえ、所詮これは無理難題。それでもマスコミは「信じよう」、選手は「可能性がある限り諦めない」の一点張り。まあ、こう言しかないのはわかるけど、Jiijiは正直虚しかったよ。こんな状況でそれが出来るんなら、なんで緒戦でやらなかったの。出来なかったの。なんで、選手のみなさん及び腰になっちゃったのよって思うわけ。遅いんだよな、もう既に。

 6月25日朝、グループリーグ第3戦。決勝T進出を決めているコロンビアは、余裕でメンバー8人も入れ替えてきた。いわば二軍だな。これならもしやと正直思った。前半を1−1で折り返す。同点弾はアディショナル・タイムの岡崎のヘッド。やはりこの男しかいない!この時点で別会場のギリシャは、なんと1−0でコートジボワールをリードしているではないか。ムム ギリシャにこのままいってもらって、日本が点を取って勝ち切れば、もしやまさかのまさかが! なんて、急に希望を持っちゃう自分が可笑しい!
 ところが、コロンビアは、後半頭からエース ロドリゲスを入れてきた。チームの動き一変。コートジボワール戦ドログバ投入と同じ現象。後半10分勝ち越しゴールを許す。勝つしかない日本はむやみに前ががりで仕掛け、食らったカウンター2発。結果は1−4の完敗。3試合トータル2敗1分。決勝Tへの道は閉ざされた。

 おやっ、この結果は?と考えたら、8年前とよく似ている。2006ドイツ大会。第1戦オーストラリアに1−3の逆転負け。第2戦クロアチアと0−0のドロー。第3戦ブラジルに1−4と完敗。なんじゃ、こりゃ。8年前とおんなじだ。全く進歩しとらん!

 コートジボワール戦では、狙い通り先取点を取ったにも関らず、逆に気持ちが引いちゃった。ギリシャ戦は、キャプテンの退場、ポイントゲッターの負傷交代で、エース抜き10人が相手という圧倒的有利な状況の中、無得点の体たらく。コロンビア戦は、二軍相手に完敗という情けなさ。そこにあるのは、自身のひ弱さと立ちはだかる世界の壁だった。

 勝ち上がりを左右したポイントを、ゲームの流れの中で捉えると、二つある。コートジボワール戦前半16分、「本田が先制点を挙げた後」とコロンビア戦、前半の土壇場、「岡崎の同点ゴールの後」だ。ここを勝ち切るかどうかが突破か否かの分かれ道。出来なかったのは力が足りなかったからだ。じゃ、どうすればいい? この検証が未来への道を拓く。

 確かにナショナル・チームの監督は大変である。結果がすべてだから。とはいえ、ザッケローニ監督には渇!だな。初戦に負けて舞い上がっちゃったのか、直後のギリシャ戦はやることがシャバダバだった。
 先発に香川を外して大久保。これはまあよしとして、岡崎を左に配したのは間違いだった。コートジボワール戦で日本の右サイドが崩壊して負けたから、守備の意識のある岡崎を、という意図は分かるけど。Jiijiファイルを紐解くと・・・・・彼のポジションは、直近の代表戦15試合中、左2回に対し右が13回と圧倒的に多い。彼は右利き。左じゃ持ち味が出ないのだ。データが証明してるのに、ザック血迷った? ギリシャ戦で、岡崎が右だったら間違いなく得点している場面があったとJiijiは見ている。 W杯を勝ち抜くには彼のゴールが絶対必要だったのに、なんとも残念!ザック采配最大のミスだ。
 シャバダバといえば、終盤のパワープレーもそう。メンバー選出時からこれは封印していたはずなのにね。まぐれで吉田が決めてでもいれば好采配と称えられたけど、今回、吉とは出なかった。
 もう一つ、交代枠一つ残したままゲームセットっていうのも納得できない。斉藤投入はここしかなかったのに、なんのために連れてってるのよ。平均身長三番目の相手にクロス22本っていうのも無策だな。勝つ気あるのかって言いたいよ。

 ザックさんも頑張ったんだろうけど、外人というのがいまいち歯がゆいね。真に気持が入ってないものな。「日本のサッカー」をやるなら日本人監督のほうがいいんじゃないのかな。
 ブラジルのスコラリ、ドイツのレーヴ、オランダのファンハール、イタリアのプランデッリ、スペインのデルボスケ、アルゼンチンのサベーラ、フランスのデシャン、ポルトガルのベント、もういいか。みんな自国監督だ。
 日本は途上国だから外人監督から学ぶ必要がある、というのも解るよ。でも、日本に一流は来ない。オシムくらいのものだった。トルシエ〜ジーコ〜ザッケローニ、悪いけど中東・アフリカが関の山。だったら日本人の方が何ぼかマシじゃないかなあ。

 中田英寿あたりはどうかしら。選手としての実績も十分、理論派だしね。人望に疑問符あるがカリスマ性でカバーすれば。でも、まだ「自分探しの旅」やってんならダメだろうけど。元代表の宮本恒靖が監督業の勉強してるらしいから、彼でもまあいいか。
 繋ぎなら再度岡田武史という手もある。でも彼、今回は甘ちゃん展望だったなあ。「コートジボワールは運動量が少ないし、フォワードに守備の意識が希薄。だから日本が上。ギリシャは先取点を取られると勝ったことがない。組し易し。コロンビアもファルカオがいなけりゃ大したことない」なんて全くトンチンカン! 開幕直前、ほんの短期間ヨーロッパに行ったくらいじゃ、世界は見えなかったということだな。
 ならば、本田圭祐はどうだろう。彼は考え方が立派だから監督にはピッタリじゃないかな。NHKプロフェッショナル。「本田さんにとってプロフェッショナルとは何?」という質問に対し「自分の仕事に真摯である人」と答えた。ナイスだ。惨敗だったけど「世界一」というスローガンを下ろすことはない。監督として目指せばいいじゃないか。無論何年も先の話だけどね。Jiijiはそれまで元気でいたいけど、無理かなあ。

 Jiijiは今、「日本代表にそれほど勝ちを求めていいのか」って思ってる。まあ、本田の言ってることと間逆だけどね。W杯制覇にはとてつもない年月が掛かるんだから、もっと長い目で見てやったらどうかって。あのスペインだって76年も掛かっているんだぜ。今はその過渡期だって。だから、コロンビア戦の前、キャプテン長谷部が言ったように「将来に繋がるような自分たちのサッカーを表現する」でいいよ。今決めてることをやりぬくってことでね。
 その意味では自分たちが標榜してきた「攻撃サッカー」がソコソコできたんじゃないか。二軍相手には。それよりも、「自分たちのサッカー」っていうのが「攻撃しまくるサッカー。相手に2点取られたら3点取るサッカー」で本当にいいのか?って事。これを見直す必要があるんじゃないかって思うのだ。

 というのは、今回のW杯は点取り合戦の様相。下克上、逆転勝ちも頻発。これまでのグループリーグの顔が変わってる。攻撃サッカー花盛りだ。全体にレベルの底上げがあって上下の差が縮まってる。確かに日本は進歩してるけど、世界はもっと進歩している。身体能力で劣る日本が、世界と同じ方向を向いても、勝ち目はないんじゃなかろうかって。

 Jiijiが提案したいのは「守りのサッカー」だ。敢えて世界の逆を行き、日本サッカーのアイデンティティーを確立する。野球でも言うでしょ「打線は水物」って。攻撃より守備の方が計算できる。アルゼンチンと互角に戦ったイランが好例だし、かつてイタリアはカテナチオという堅い守りでW杯を4度も制している。
 「どうやったら守れるか」は「どうすれば崩せるか」に繋がる。「守りのサッカー」の意識は攻撃にもいい影響を及ぼすはず。Jiijiはそう考える。

 もちろん守りだけじゃ勝てない。だから、頼れるストライカー=絶対的エースの育成が必要になる。大迫、大久保、柿谷、本田、香川、岡崎。彼らじゃ世界レベルにはほど遠い。スピード、ドリブル技術、シュート力、一瞬の判断力、アイディア、想像力、勇気、思い切り、執念。すべて足りない。まあ、岡崎がギリギリか。ネイマール、ロッベン、ファンペルシー、メッシ、C.ロナルドら超一流は無理にしても、スアレス、ロドリゲス、ドログバ、ミュラー、 ペラルタ クラスがいなけりゃ世界では戦えない。「こいつならなんとかしてくれる」「空気を一変させてくれる」ってやつが必要なんだよ。

 守り切って鋭く攻める。攻守のバランスをとりながら。いわゆる「堅守速攻」。このほうがきっと日本に合っている。Jiijiはそう確信する。
 戦い終わって内田が言った。「世界は広い」と。遠いでも厚いでも高いでもない。「広い」のだ。広いから、多種多様な相手と戦わなければならない。しかも彼らは日々変化している。進歩している。だからこそ揺るぎない日本独自のサッカーが必要なのだ。誰とも違うどことも違う日本だけのサッカー。それが時代に逆行した「守りのサッカー」だとJiijiは考える。

 作戦面、情報力、組織、個の強化等、やるべきことはきりがない。だから、Jiijiはシンプルに3つに絞りたい。

    Jiiji三つの提言

      @監督は日本人
      A守りのサッカーへの大転換
      B頼れるストライカーの育成

 協会の皆さんにお願いする。「日本のサッカー」って何? を真剣に考えてください。監督を決めるのはそのあとだ。ヨロシク!!
 2014.06.25 (水)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究4
           〜「おくのほそ道」に見る対置 Contraposition の妙
<日光と月山>

 元禄2年1689年旧暦3月、芭蕉はみちのくに向けて深川の庵を旅立った。千住までは舟、そこからは地上の旅となり、草加、栃木を経て日光山に詣でたのは4月1日だった。この地で詠んだ句。
                   あらたふと 青葉若葉の 日の光
ああ、なんとありがたいことか。この山の青葉若葉は、初夏の陽光ばかりか、日光山の威光に浴して、照り輝いている。
 芭蕉は前文に「昔はこの山を『二荒山』と書いたが、空海大師が新たに建てられたとき、『日光』と改名なされた。大師は千年後の未来の繁栄を予見されていたのだろうか・・・・・」と書いている。
 「あらたうと」には、青葉若葉の陽光と空海に対する敬愛の念がこめられているが、その背後に現在の平和をもたらした徳川家康を見ているのは自明だろう。事実、芭蕉は東照宮に参詣している。ところが、前文にも句にも、東照宮と家康への直接的言及はない。日光に赴けば、これらを表現して当然だが、芭蕉はそうしなかった。彼が「おくのほそ道」で記したのは、「遠くに空海の偉業を偲び、現在の繁栄を尊ぶ」ことだった。なんとお洒落で深い芸であろうか。しかも、日光山空海のイメージは対置する月山にスムーズに繋がる。両者とも修験道の地だからである。

 では、2ヵ月後の6月8日、月山で詠んだ句を。
                   雲の峰 いくつ崩れて 月の山
夏空に高くそびえる雲の峰。その入道雲が、夕べとともに、いくつも次々に崩れていって、やがて三日月の光の中に、出羽三山の最高峰月山が姿を現した。
 「月の山」が“月山”と“月に輝く山”の相懸かりであることは言うまでもない。山に登る間に夜になって月山が月明かりに照り輝きだした、という現実の風景の背後には、入道雲がいくつか崩れて山になったという天地創造の概念も孕む。舞台が霊験あらたかな修験道の地だけにリアリティも十分だ。

 さて、対置する二つの句である。「日」と「月」。「日光」を「日の光」、「月山」を「月の山」。同じ修験道の山同士。現実の「陽光」と「月光」。背後に見透す「歴史」と「天地創造」。ここまで揃うと、芭蕉は意図して二つの句を配したと考えるしかない。実に見事な対置 Contraposition である。

  <旅のはじめと終わり>

 「おくのほそ道」にはもう一組の対置がある。旅のはじめと終わりの番である。

旅のはじめ
                   行く春や 鳥啼き魚の 目は涙
過ぎゆく春を惜しんで、人間ならぬ鳥までも鳴き、魚の目は涙でうるむ。今、旅に出る私どもを囲み、みんなで別れを惜しんでくれた。
旅の終わり
                   蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ
蛤のふたと身とが別れるように、私は見送る人々と別れて、二見が浦に出かけようとしている。ちょうど晩秋の季節から、離別の寂しさがひとしお身にしみる。
 旅立ちの句は千住でのもの。1689年3月27日、深川から友人たちと舟に乗り、千住で降りて別れを惜しんで詠んだ。旅終わりの句は大垣。同年9月6日、ここで友人たちと別れ、ひとり舟で二見が浦に向かった。遷宮を控える伊勢神宮を目指して。
 春3月と秋9月。旅のはじめと終わり。千住と大垣。日本の東と西。背景には友人たちとの別れ、舟、川。共通な状況の中に表裏が重なる。心憎いばかりの対置の妙である。

 「行く春や」で旅を始め、「行く秋ぞ」で旅を終える。この始めと終わりの対置こそ、芭蕉が「おくのほそ道」に込めた構成への強い意識の表れである。

<芭蕉 対置の意識>

 「おくのほそ道」は、単なる紀行文ではない。むしろ「紀行文学」と呼ぶべき作品である。即ち、創作を含んでいるのである。それは、同行した曾良の「随行日記」に比すといくつかの食い違いがあることから裏付けられている定説だ。
 芭蕉は、句の取捨、エピソードの付加など、少なからず手を加えている。そして、旅が終わって亡くなるまで、5年の長きにわたり、推敲を重ねていった。
 それは、「おくのほそ道」を、自己の芸術の集大成として完璧なものに仕上げたいという強固な意思の表れだろう。ありのままの事実より芸術的完成度の優先。
 ならば、全体をより緻密に構成したいと考えるのは自然だ。句の取捨選択、位置取り、手直し等々。結果、作品に「対置」の要素が注入されたのである。バッハが「ミサ曲ロ短調」に「対称」を盛り込んだように。

 芭蕉の対置 Contraposition とバッハの対称 Symmetry。二人は、生涯を賭した作品の中に、意識して造形美を構築した。日本と西洋。俳句と音楽。国やジャンルの違いこそあれ、二人には共通の意識が働いていた。それは、真の芸術を希求する求道者としての真摯さそのものだった。
 2014.06.10 (火)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究3〜J.S.バッハ シンメトリーの意識
<バッハとシンメトリー>

 J.S.バッハの作品には、“シンメトリーの意識”が働いているものがある。これが、1,000を越えるバッハの作品群の中にどれほどあるかは不明だが、顕著な事例が少なからず存在することは確かである。

 例えば、「ゴールドベルク変奏曲」にもシンメトリー的構図が見て取れる。前回の「クラ未知」では、三層構造の解明など、視点を横割りに置いて考察したが、今回は縦割りに目を転じてみる。
 30の変奏を真っ二つに割ると、前半が1−15、後半が16−30と分けられる。この境目の15変奏と16変奏の造りにバッハの意志が現れているのだ。
 1−14は全てト長調で書かれているが、第15変奏ではト短調に変わる。それまでの軽快さが消え、いきなり憂いを帯びた静謐な世界が拡がるのである。これで前半に終止符を打つと、後半の第1曲=第16変奏は一転してギャラントなフランス風序曲となる。スローな短調から極度に活発な楽想への転換。そこにはクレパスのような断層が横たわる。このメリハリこそ15−15のシンメトリー意識に他ならない。
 前半1つだけの短調は、後半では第21変奏と第25変奏に同じト短調で現われる。バッハは、この3つの短調変奏にも細心の注意を払い前・後半のバランスを取っている。輪郭明瞭中庸テンポの第21変奏を軸に、曖昧模糊たる第15変奏とスローな第25変奏を配す。メランコリー度のバランスも絶妙。実に見事な匙加減で、ここにもバッハの“シンメトリーの意識”が読み取れるのである。

<ミサ曲 ロ短調「クレド」におけるシンメトリー構造>

 J.S.バッハのシンメトリーの意識は、最後の作品「ミサ曲 ロ短調」第二部「クレド」に顕著に現われている。これは、ドイツのバッハ研究者フリードリヒ・スメント(1893−1983)が唱えており、現在では定説となっている。余談だが、不肖私も「『ミサ曲 ロ短調』は『クレド』だけでなく全体もシンメトリー構造になっている」との研究論文を発表(「クラ未知 バッハコード」2009.3.21〜6.1)しているが、無論、学会筋からはなんの反応もない(笑い)。

 ミサ曲における「クレド」は「ニケア信条」とも呼ばれ、381年、第1コンスタンティノポリス公会議で採択された「ミサ通常文」をテキストとしている。カトリック教徒が「三位一体たる神、キリスト、聖霊並びに唯一普遍のカトリック教会を信じる」というミサの核心部をなし、現在に至る1600余年もの間、一言一句も変わらない不変の信条文である(この件については「クラ未知」2010.1.29に詳しいので、ご参照いただければ幸いである)。

 さてバッハはこれをどう構成したか。以下その構造を明記する
@ 合唱:われは信ず、唯一なる神を
A 合唱:われは信ず、唯一なる神を 全能の父を
B 二重唱:われは信ず、唯一の主、イエス・キリストを
C 合唱:聖霊によりて、処女マリアより御からだを受け
D 合唱:われらのためにポンティオ・ピラトのもとに十字架につけられ
E 合唱:われは信ず、聖書にありしごとく、三日目によみがえり
F アリア:われは信ず、主なる聖霊、生命の与え主たるものを
G 合唱:罪の赦しのためなる唯一の洗礼を認め
H 合唱:死者のよみがえりと来世の生命とを待ち望む
 ご覧のとおり、バッハは「ミサ通常文」を9つに分けて曲付けをした。このような「クレド」9楽章構成は、最古のミサ曲ギョーム・ド・マショー「ノートルダム・ミサ曲」(14世紀)以来、音楽史上に例はない。例えば、ベートーヴェン「荘厳ミサ曲」は5つ、シューベルト「ミサ曲第6番」は3つである。

 では、J.S.バッハ「ミサ曲 ロ短調」の「クレド」9楽章のシンメトリー構図を考察してみよう。上記構造表を見ながらお読みいただきたい。
 CDEはすべて合唱で中心軸。その外側B/Fがソロ。更に外の@A/GHが合唱曲という構造・・・・・これがバッハが意図したシンメトリーなのである。
 目的? それはバッハの形式に対する美意識だろう。シンメトリー構造がもたらす究極の安定感を全体の肝である「クレド」に植えつけたのは、殊の外形式(=楽曲の佇まい)を重んずるバッハにとって、むしろ当然の行為だったと思われる。

 しかも、CDEと合唱曲が3つ連続するのは、「ミサ曲 ロ短調」全27楽章中、この部分だけ。CDEは各々キリストの「生誕」「磔刑」「復活」のエピソードで、まさに「キリストの生涯」の核心部。これらを合唱曲の3連続で構成するインパクトの強さ! バッハのシンメトリーへの強烈な意識が読み取れる。

 さらに注目すべきは、プロテスタント教徒としてのバッハの意図である。それは即ち、中心軸の中心に「磔刑」を置いたことに他ならない。これについては、バッハ研究の名著「バッハ 伝承の謎を追う」(小林義武著 春秋社)に明らかなので、当該箇所を抜書きさせていただく。
第二部「クレド」において、「十字架につけられ」の楽章が中心的位置を占めることは、プロテスタントの精神と合致する。この楽章を中心に置くために、バッハは後になって、わざわざ、元来一つの楽章であった「御からだを受け」と「われは信ず、唯一の主」とを切り離し、二つの楽章に直しているほどである。この事実からスメントは、ルターの神学の神髄ともいうべき、磔刑者キリスト中心思想を演繹した。カトリックの教えに従えば、磔刑ではなく、イエスの復活が中心的位置を占める。それに相応して、受難の金曜日と、復活祭の礼拝は、カトリックの教会か、プロテスタントの教会かによって、異なった比重を有する。ルター派のバッハは、したがって受難の金曜日のために非常に手の込んだ受難曲を5曲創造したのに対し、復活祭のためには、唯一、小さなオラトリオを作曲したに過ぎない。
 「ミサ曲 ロ短調」は、プロテスタント教徒であるバッハが、生涯の最後に、堪うる限りの力を尽くして書きあげたカトリックの様式に則ったミサ曲である。なぜ、バッハがプロテスタントには存在しない「ミサ」という形式を以って書かねばならなかったのか? 等、創作上の謎もあり、数多のバッハ作品の中でも飛びぬけて興味深い作品である。

 私がこの曲に魅せられたのは2008年のこと。あれから6年。「バッハ 伝承の謎を追う」の著者・小林義武氏も昨年亡くなられた。先生に稚拙な質問状をお送りしお返事をいただいたのも、懐かしい想い出となってしまった。
 そんな「ミサ曲 ロ短調」が、今、私の中に蘇ってきた。感無量というべきである。魑魅魍魎にして魅力あふれるこの作品は、このあとも、芭蕉との接点を探る貴重な対象として、取り上げることになるだろう。

 次回は、芭蕉「おくのほそ道」におけるシンメトリーの構図を考察する。
 2014.05.25 (日)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究2〜「ゴールドベルク変奏曲」に見る宇宙観
 ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685−1750)の「ゴールドベルク変奏曲」が出版されたのが1742年。「おくのほそ道」が1702年だから、隔たること40年。ドイツと日本。遠く離れた二つの作品に何らかの共通項があるとすれば、それはそれで、なかなかのロマンではないか。

 楽曲の生い立ちついては、言い古されたエピソードがあるので、簡単に触れておきたい。バッハの愛弟子で鍵盤楽器奏者の ヨハン・テオフィール・ゴールドベルクが、「主人のカイザーリンク伯爵の不眠症解消のための音楽を作ってください。毎夜、私が弾いてさしあげたいので」とバッハに依頼したのが発端。バッハ快諾。このときゴールドベルクは14歳。「ゴールドベルク変奏曲」は技巧的にもかなりの難曲ゆえ、14歳じゃ?と、このエピソードの真偽を問う向きもあるが、ここは深入りする必要はないだろう。ゴールドベルクが神童だった可能性もあるのだから。確か、洗礼名“テオフィール”は、モーツァルトと同じだ。
 なお「ゴールドベルク変奏曲」は通称で、バッハ自身が付けた表題は「2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏」である。

 バッハのやや先輩の作曲家にディートリヒ・ブクステフーデ(1637−1707)がいて、彼のチェンバロ曲「ラ・カプリツィオーザ(創作アリアに基づく変奏曲)」という楽曲が「ゴールドベルク変奏曲」によく似ているといわれている。聴き比べると、32の曲数やト長調という調性等、構成上の共通点は確かにあるので、参考にした可能性は十分あるだろう。但し、バッハが楽曲に盛り込んだ深遠な概念は余人の及ぶものではない。

<基本構造>

 個=1変奏は、前半16小節×n+後半16小節×n(n=1or2)の二部形式。左手(2曲のみ右手)はアリアに現われた32の基音をベースに進行する。

 前後に主題としての「アリア」を配置、アリア−30の変奏曲−アリア という回帰的な全32曲の構成である。

 32基音が作る1変奏は16の倍数小節内に収まり、32の集合体を形成する。いかにも数学的な構造である。

<三層構造>

A列 1 4 7 10 13 16 19 22 25 28
B列 2 5 8 11 14 17 20 23 26 29
C列 3 6 9 12 15 18 21 24 27 30

 30の変奏は上記のような三層構造を持つ。縦列3変奏が1ユニットを形成、全体が10ユニット構成という幾何学的な構造である。横列ABCは各々明確な性格を帯びる。

 A列は多彩な様式のオンパレード。第4変奏はメヌエット、第7変奏はジーグ、第10変奏は荘重なバロック風フーガ、第13変奏は明快なイタリア風シンフォニア、第16変奏はギャラントなフランス風序曲、第22変奏はブーレ、そして第25変奏はサラバントの趣きだ。イタリア、フランス、イギリス。各国様々な様式に精通したバッハならではの列である。

 B列はテクニック追求の列といえる。ミディアム・テンポの第2変奏でスタート、第5変奏で早弾きに変化すると、ミディアムを挟みながら、第29変奏まで様々な難易度のテクニックを要求する。

 最注目はC列である。各変奏は3声のカノン(第27変奏は2声、第30変奏は4声)で、声部の音程差は第3変奏が1°、第6変奏が2°、以下1°づつ上昇。第27変奏を9°で締める。整然たる数列はいかにもバッハ的だ。

<クオドリベット>

 C列の最後第30変奏は、10°のカノンとせずに「クオドリベット」を採用。クオドリベットは当時の宴会などで流行った複数人で歌う戯れ歌のこと。「長いことご無沙汰だ、さあおいで、おいで」と「キャベツとカブが俺を追い出した、母さんが肉を料理すれば出てゆかずにすんだのに」が元歌の歌詞。鉄壁の造形の中、突如現われる諧謔性。見逃せないバッハの一面である。

<ゴールドベルク変奏曲の宇宙性>

 「ゴールドベルク変奏曲」で革命的演奏を成し遂げたグレン・グールドは、「主題は目的ではなく出発点であり、変奏群は円を描くのであって直線ではない。そして回帰するパッサカリアは、その軌道にとって同心円の中心となる」と言う。円を描く、即ち相似形。アリアを中心とする同心円。彼はそこにフラクタル性を見ている。

 「ゴールドベルク変奏曲」は緻密な規則性に基づいた人工構築物だ。32個の音符を核とする32(16の倍数)小節の変奏曲が32集まって一個の構築物を形作る。個と全体は相似形を成し円軌道を描く。地球に対する月の公転、太陽に対する地球の公転、銀河系に対する太陽系の公転。これらの円軌道の相似形の連鎖こそが、宇宙の摂理たるフラクタル性であり、「ゴールドベルク変奏曲」が宇宙にたとえられるのは、まさにこの部分なのである。

 「宇宙の設計者である創造主が作った設計図を数式で表したい」・・・・・これが現代理論物理学究極の命題。森羅万象を一つの数式で表すこと=万物の理論=神の数式への到達である。

 理論物理学の鬼才エドワード・ウィッテン(プリンストン高等研究所)は、「神の数式」に最も近いとされるM理論を唱え、その中で、「宇宙の根源を解く鍵となるブラックホールの底には10次元の世界が存在する」と説く。
 我々の常識は4次元まで。10次元など想像すらできないが、「ゴールドベルク変奏曲」の10ユニットはもしやこれに通じるのでは。でもまあ、これはちょっとコジツケに過ぎるか?

 2008年ノーベル物理学賞を受賞したわが国理論物理学の至宝南部陽一郎博士は、「完璧な美しさは崩れる運命にある」と予言し、ヒッグス粒子発見への道を拓いた。この「完璧に美しい数式の中にある危うさ」こそ「ゴールドベルク変奏曲」第30変奏「クオドリベット」だ。

 作家島田雅彦は「ゴールドベルク変奏曲」に人間の日常を読み取り、一ヶ月の日記で綴る「ゴールドベルク変奏日記」を書いた。楽曲に豊かな情感が織り込まれているからこそだろう。
 アリアで始まり、30日を経てアリアに回帰する。一ヶ月という時の流れ、その繰り返し。この永劫回帰の概念こそ、まさに「おくのほそ道」の序文「月日は百代の過客にして 行きかふ年もまた旅人なり」に通じる。

 「おくのほそ道」で宇宙を見た芭蕉。「ゴールドベルク変奏曲」に宇宙を盛り込んだバッハ。グールド2度目の録音を聞きながら、「おくのほそ道」を読む。頭の中で二人の描いた宇宙が交錯し、ウィリアム・ブレイクの詩の断片が真実となって響く。

                 てのひらに無限を乗せ 一時のうちに永遠を感じる
 2014.05.05 (月)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究1〜芭蕉の宇宙観
 4月21日、ノンフィクション作家神山典士氏から便りあり。そこには「これからフィクサーXを探して広島に行ってきます。今度是非、考えを訊かせてください」とありました。いよいよ神山氏、核心に斬り込むか?! 期待しましょう。佐村河内については前回までで書きつくしたので、神山氏からのアクションがあり次第、わきまえつつ書かせていただこうと思います。

 さて、今回からは、「芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究」と題して数回。タイトル、大上段に構えすぎ!大丈夫かな? でも、他に浮かばなかったもので。まあ、直感に何らかの理屈が付けばよしとしよう、と気楽にやりたいと思います。
 俳聖・松尾芭蕉(1644−1694)と音楽の父・ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685−1750)。方や日本、方やドイツ。約1万キロを隔ててほぼ同じ時代に生きた二人。 果たして彼らの作品にどんな共通性があるのか? これぞまさに格好なる「クラ未知テーマ」の予感。第1回は、「おくのほそ道」序文冒頭の検証から芭蕉の宇宙観に迫ります。

<「おくのほそ道」序文冒頭の構図>

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」・・・・・これは芭蕉「おくのほそ道」序文の書き出し、万人周知の件で、和歌俳句に疎い私でも昔から知っている名文である。だがしかし、私にはどうもシックリきていなかった。なぜ?

 この口語訳、手持ちのガイドブック(「おくのほそ道」角川書店編)にはこうある。「時は永遠の旅人である。すなわち、月も日もそして年も、始まりと終わりを繰り返しながら、歩み続けて止むことはない」。なるほど、解りやすい。文意も淀みなくつながっている。他のガイド本も大同小異だ。
 「でも、待てよ」と私はいつも思っていた。「、」を挟む前段と後段は同じことを言っている。過客と旅人。言葉は違えど同じ意味。月日と年。尺こそ違え同じ時間という概念。
 芭蕉は俳人である。最小の字数で無限の世界を表す最高峰の表現者である。俳句は無駄を極力排する。無駄をしている暇はないはず。
 芭蕉は、松島では、「おくのほそ道」に句を載せていない。だが、実際には作っている。「島々や 千々に くだきて夏の海」。これをなぜカットしたか? 作品の出来もあるだろうが、本文で、島々の様々な様子を書き尽くしているからだ、といわれている。かくもストイックに無駄を排す芭蕉。
 そんな芭蕉が、なぜ「同じこと」を二度も繰り返すのだろうか? 文形の配慮と文意の強調もあるだろう。がしかし、あの芭蕉が敢えて同じことを繰り返す。そこには理由があるはずだ。

 息子が今春から山形に転勤になったのにかこつけて、3月中旬、芭蕉縁の立石寺に行ってみた。北国の春はまだ遠く1000段余の石段にはまだ雪が残っている。頭の中では、ここで詠んだ名句 閑さや 岩にしみ入 蝉の声 は無論のこと、序文も響いていた。もう若くはない身には、雪残る急な石段は息切れしきり。一休みして、急坂の上方いかつい岩の遥方に雪雲を仰ぎ見た。そのときである。冒頭の構図が読めたのである。

<芭蕉の宇宙観>

 「月と日」は歩み続ける旅人である。その「月と日」は「年」の内にある。年もまた歩み続ける旅人である。内が動き外も動く。回る内とそれを内包して回る外。月と日は時であり同時に衛星と太陽を連想する。この構造こそ宇宙ではないか! 月が地球の周りを回り、地球は日の周りを回る。太陽系は銀河系に内包される・・・・・フラクタル性、連動する宇宙の構造。まさに芭蕉の宇宙観である。
 前述の口語訳は、美しくまとまってはいるが、芭蕉の真意を見落としている。月日と年を一緒くたにして時として括っている。これが安易。浅読みである。
 私は、「月日と年」に時と宇宙を感じ互いの連動性を強調したい。「月日は永遠の旅人。これを内包する年もまた同じ永遠の旅人である」と訳す。即ち、「月日は年の中で永遠に動き、その年もまた同じように動いている」と。一見平易な反復は単なる繰り返しではなかった!

 宇宙にフラクタル性を見るには、地動説が根底となる。コペルニクスが地動説を唱えたのは16世紀半ば、日本に入ってきたのは18世紀半ばといわれている。芭蕉には知る由もない。だがしかし、芭蕉は宇宙のフラクタル性を感知していたのではないだろうか。だからこそ、あのような書き出しとなった。宇宙への感知が俳句の基本を犯したかのような文章を書かせたのではないか。

 現代の俳人・長谷川櫂氏は「『閑さや 岩にしみ入 蝉の声』と詠んだ芭蕉は、しきりに啼く蝉の声を聞きながら広大な宇宙の閑さを感じ取っていたのではないか」と言う(「長谷川櫂著「奥の細道を読む」ちくま新書)。
 この句は、蕉風開眼の句「古池や 蛙飛びこむ 水の音」と同じ構造をしている。「水の音」と「蝉の声」は現実の音。「古池や」と「閑さや」は心の中の想像の世界だ。確かに鳴きしきる蝉の声は静かではない。だが、芭蕉はそこに「閑かさ」を感じていた。宇宙の静けさである。

 木々、岩々、山、雲、空・・・・・自然と一体となった山寺の佇まいの中、蝉の声が深々と鳴り響く。芭蕉が感じた空間に、季節こそ違え身をおくと、そこに宇宙への無限の広がりが感知できたような気がした。

 芭蕉はこのあと月山で、雲の峰 いくつ崩れて 月の山 と詠む。夏空と雲そして山。これぞ天地創造である。この前段、芭蕉は「月山にのぼる。雲霧山気の中に 氷雪を踏のぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こごえて、頂上にのぼれば、日没て月顕る」と書いた。「日月行道の雲関」は太陽と月が運行する入り口の意味。まさに宇宙に分け入ろうとする芭蕉がそこにいる。

 新潟で詠んだ 荒海や 佐渡に横たふ 天の河 は恐るべきスケールの句である。芭蕉の宇宙観が顕著なまでに現われている。

 芭蕉は、「おくのほそ道」で、いたるところに宇宙を見ている。冒頭の一文は既にそれを予見しているのである。
 2014.04.15 (火)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する7〜ある作曲家の論評
 ノンフィクション作家神山典士氏に手紙を書いて2週間余り、まだ反応がありません。それはいいとして、彼にはなんとか事件の核心に迫ってもらいたいものです。
 そんな折、制作編集プロを営む盟友(といっても大先輩)F氏から「読売新聞に佐村河内に関する評論が出ていましたが、読みますか? かなり古いものですが」と打診あり。古かろうが、佐村河内モノならなんでもの私は、早速送っていただいた。読んでみると、これがなかなか興味深い。なにやら現代音楽の不毛さ加減が見え隠れしているようで。

作曲家・細川俊夫氏の読売新聞評論(2月19日付)

 まずは評論内容を抜書きさせていただきます。
 そもそも西洋音楽は、長い歴史と伝統の上に成立したとても洗練された芸術様式の一つだ。そのエッセンスは「物語」ではなく「音」そのものを一つ一つ積み上げることによって音楽を語るところにある。エラボレーション(一人の芸術家が心血を注いで作品を仕上げること)こそが大事なのに、佐村河内氏の名前で発表された作品にはそれがない。
 音楽で用いられる言語は、過去1世紀の間に大きく変化した。20世紀初頭にシェーンベルクやストラヴィンスキーなどが、親しみやすいハーモニーに代わる新しい響きを生み出したのには理由がある。それを無視して、19世紀風のスタイルを折衷的に取り入れようとしたところに、音楽としての弱さがある。
 音楽に深く通じた人は音を通して現れてくるものが「本物」かどうかを直感的に見抜く力を持っている。今回非常に残念なのは、そうした目利きが佐村河内氏と一緒に仕事をしていた音楽関係者の中にいなかったということだ。
 ヨーロッパでは曲のタイトルに惑わされることなく「音」そのものを厳しく吟味し、批評する態度がある。だからこのような問題はヨーロッパでは起こりえなかったのではないか。日本の音楽界は、もっと直感を磨いてほしい。そうでないと、世界に誇るような本物の音楽は、いつまでたってもこの国からは生まれないだろう。
 この評論、一見正論に見えるが、実はトンチンカンな代物である。以下それを検証したい。ポイントを太字表示したので、対照しながらお読みいただければ幸いである。

 細川氏は「佐村河内の作品にはエラボレーションがない」という。いかなる根拠からかは不明だが、とにもかくにも「作者が心血を注いだか否か」が判るとは大したもの。さすが気鋭の作曲家である。私は、「新垣さんは“佐村河内の作品”を、心血を注いで書いた」と確信する。彼は、細川氏が言う「物語」を書いたのではなく、佐村河内の指示書に従って「音そのものを一つ一つ積み上げて」作ったとも思っている。細川氏に“そうではない”と言われる筋合いは新垣さんにはないはずだ。
 モーツァルトは、遺作となった「レクイエム」を、ワルゼック伯爵という貴族からの注文によって書いた。それは伯爵が「自分の作ったものとして発表するため」のものだった。彼にそういう趣味があったからである。発注時、伯爵の使いは、モーツァルトにその旨を伝え承知させている。
 佐村河内のケースはこれと酷似している。佐村河内が伯爵で新垣氏はモーツァルト。発注の動機と作品の完成度は比較すべくもないが、状況はまったく変わらない。確かに、レクイエムを作曲するモーツァルトの創造精神は、「死の味が私の舌の上にある」とするギリギリの状況の中、常人には量りえない至高の領域に到達していた。「現代典礼」を作曲する新垣氏の精神性が「レクイエム」を作曲するモーツァルトに比肩するはずもない。だがしかし、モーツァルトは心血を注いだが新垣氏はそうではなかったと、第三者が決め付けていいものだろうか?

 シェーンベルクとストラヴィンスキーが「調性音楽から脱し新しい響きを求めた」のには理由がある・・・・・とおっしゃるのなら、その理由を聞かせてほしい。まあ、それが判ったにせよ、「それを無視して、19世紀のスタイルを折衷的に取り入れようとした」ことが、なぜ「音楽的に弱い」ことになるのか? 作った新垣氏は非調性音楽を本業とする作曲家である。“佐村河内作品”は小遣い稼ぎに過ぎない。音楽的に弱かろうが強かろうが、発注者の意向どおりに作っただけである。これをマトモに受けて「弱い」と断じるなんざあ、失笑モノ。見当違いも甚だしい。

 「佐村河内氏の周りに目利きがいなかった」ことを残念がっておられるようだが、一体氏は何を期待したのだろう。目利きがいたら、これは「本物」じゃないから止めよう、ということにでもなったというのか。そんな目利きがいるとは思えないが、それはさておき、「周りの人間は、正体に気づいていたか、もしくはグルだった」可能性に、氏は考え及ばないのだろうか。

 「このような問題は(目利きがいる)ヨーロッパでは起こりえない」とおっしゃるが、クラシック音楽の本場で偽作・盗作・贋作の類が蔓延していることを氏はご存じないのだろうか。例をあげつらえば一冊の本になるほどだが、例えば、「クラ未知」2月26日付の「アデライーデ協奏曲」のケースを挙げれば十分だろう。このモーツァルトのものと偽って発表された作品は、真相が判明するまで44年もの年月を費やしている。その間にレコーディングまでされているにも拘らず。
 さらにもう一例。モーツァルトの交響曲第37番は、今日では、「第1楽章序奏部を除いたすべてがミヒャエル・ハイドンの作である」ことが判明しているが、100年余りもその真実が明るみに出なかった。ヨーロッパに目利きがいるのなら、偽作と判断されるまでこれほどの時間が掛かるはずがないではないか。
 ここは、「目利きがいるヨーロッパでは起こりえない」などとおっしゃってないで、人間に与えられる先入観の怖さを素直に認識すべきではなかろうか。

 そもそも、洋の東西を問わず、クラシック界における現代音楽の状況は惨憺たるものといわねばならない。統計的に検証したわけではないが、現行コンサートにおける現代音楽の占める比率は10%に満たないだろう。クラシックの世界は、17世紀半ばから20世紀半ばまでの高々300年間に生み出された作品で回っているのである。現代の作曲界の状況がいかにお寒いものであるかの証である。細川氏はそんな世界の中で作曲行為を営み続けている人なのだ。

 細川氏の経歴。1955年広島生まれ。ベルリン芸術大学卒。尾高賞、サントリー音楽賞、ラインガウ音楽賞、ARA-BMWムジカ・ヴィヴァ賞など内外の著名音楽賞を受賞、国際的評価も高い。2012年には紫綬褒章を授与されている(以上Wikipedia)。これは錚々たる経歴。わが国作曲界の俊英といえるだろう。ならば、物事の本質を見極める直感を磨いてほしい。氏は「日本の音楽界はもっと直感を磨いてほしい。そうでないと、世界に誇るような本物の音楽は、いつまでたってもこの国からは生まれないだろう」と結んだが、これをそのまま氏にお返ししたい。偽作でビッグ・ビジネスを達成してしまった音楽界の珍現象に対し的外れな論評をする暇があったら、真摯に自己の芸術活動に邁進していただきたいものだ。

 細川俊夫? どこかで聴いた名前だな、と思って近年のファイルを覗いてみたら、なんと、昨年7月8日、サントリーホールの水戸室内管弦楽団公演で彼の作品を聴いていた!「室内オーケストラのための<開花U>」日本初演である。印象は? いつもながらのヒュードロンパ現代音楽。感動は?そりゃ、佐村河内「交響曲第1番HIROSHIMA」には及ぶべくもないでしょう?!

 今回は、細川氏への反論に終始してしまった。結果、現代音楽への誹謗に止まり、未来図を描けなかった自分が情けない。とはいえ、音楽界の識者の発言が独善的で非建設的なのは事実だ。事件の不正さを高所から批判するに止まっている。特権的意識も垣間見える。まずはそこから正してほしいのだ。
 とにもかくにも、“佐村河内作品”は売れたのである。大衆の支持を得たのである。片や、現代音楽は多くの人に聴いてもらえていないのである。聴衆は“佐村河内作品”には酔いしれても無調性現代音楽には酔わないのである。関係者はこの事実にもっと真摯に向き合うべきだ。もっと謙虚であるべきだ。音楽は断じて一部識者のものではない。大衆のものだ。今こそベートーヴェンの箴言に耳を傾けるべきである・・・・・「音楽は新しい創造を醸し出す葡萄酒だ。そして私は、人類のために、甘美な酒をもたらすバッカスだ」(檜山乃武著「音楽家の名言2」より)。
 2014.04.01 (火)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する6〜拝啓 神山典士様
 このシリーズ、4回で終わる予定でしたが、そうもいかず、今回で第6回を数えてしまいました。やはり、魑魅魍魎複雑怪奇な事件の証ということでしょうか。
 先日、TV「ミヤネ屋」に、佐村河内守の正体を暴いたノンフィクション作家・神山典士氏が登場し、興味深い話をしました。曰く「この事件にはまだ解明できていない人物がいる。今後も取材を続けこの事件の全容を解明したい」。もしやフィクサーX?と色めきたった私は、早速神山氏に手紙を書きました。「是非ともフィクサーXの存在を突き止め、パーフェクトな解明を果たしてほしい」と。以下その手紙文を掲載します。果たしてこれは氏の調査に役立つか?

拝啓 神山典士様

 まずは、神山様昨今の佐村河内事件に関するご活動につき、心から敬意を表します。 私は、以前レコード会社に勤務していた一音楽ファンです。本日ペンを執ったきっかけは、3月19日、「ミヤネ屋」における神山様の発言です。「取材の中で、まだ解明できていない人物がいたり、新垣さんの前にもゴーストライターがいた可能性がある。ノンフィクション作家として、全貌を明らかにするために今後も取材を続けてゆきたい」なる主旨の話をされました。この「まだ解明できていない人物」という部分に興味を持ちました。と申しますのも、私も未だマスコミに登場していない重要人物がいるはずだと考えるからです。そして、なにやら得体の知れない闇のようなものに連なっているような気もしています。

 もしや、神山様が迫ろうとしている「解明できていない人物」と私が考えている陰の存在は同じかもしれない! マスコミの報道はどうしても興味本位になりがちです。それゆえ、私は、神山様のジャーナリスティックな視点と人道的な姿勢に共感・期待するものです。

 私は、この事件を、「佐村河内の後ろには仕掛け人が存在する」ことを抜きには語れない、と考えます。この解明なくして事件の全容は解りえない!
 佐村河内は操り人形。それを操る人形師がいる。これを「フィクサーX」といたします。Xは個人?団体?
 最初はXの指示通りに動いていた佐村河内が、いつしかXの手に負えないほどにその存在が肥大化していった・・・・・これが事件の実体ではないかと思っています。私は、神山さんにフィクサーXの解明を期待いたします。

 私がフィクサーXの存在を確信したのは、週刊文春2月13日号の年表を見たときでした。2001年9月、米「TIME」誌に「佐村河内は現代のベートーヴェン」なる記事が掲載された。これを仕込んだのは誰か? 佐村河内が単独で出来るはずがない、と直感しました。ならば、米国のマスコミに何らかのツテがある人間が仕込んだに違いない、と。レコード会社にいた人間としてそのあたりの事情はよくわかるのですが、何かを売り出したいときには必ずセールスポイントを引っ張り出します。なければ作り出す。でっち上げると言ってもいい。それがなければマスコミは相手にしてくれないからです。それがこの場合、「TIME」誌への露出だった。まさに超弩級の武器でした。フィクサーX一派はこれを武器に佐村河内ストーリーの拡大を図っていったのでしょう。

 このあとは、年表に従ってフィクサーXがどう仕掛け、佐村河内がどう動いたかを自分なりに追ってみました。するとすべての辻褄が合ってくるように感じられました。一つ一つ説明するのは釈迦に説法でしょうし、もはや神山様がメスを入れている部分もあるかと存じます。なので、もしかしたら未だノーマークかもしれない部分を含め、ポイントだけを記させていただきます。NHKの効力・役割は周知の事実につき、ここでは敢えて外させていただきます(一つ言えるのは、古賀氏はすべてを知っており、NHKも同様である、と感じてはおります)。
1996年 映画「秋桜」の音楽を担当。新垣氏を紹介される。
1999年 ゲーム音楽「鬼武者」担当
2001年 「TIME」に記事掲載
2007年 自伝本「交響曲第1番」発売と同時期に評論家許光俊氏HMVサイトに楽曲を絶賛する
      「推奨文」をUP。
2008年 秋葉忠利広島市長の肝入りで「交響曲第1番HIROSHIMA」を部分初演
2011年7月 日本コロムビアよりCD「HIROSHIMA」発売
2013年6月15日から 「HIROSHIMA」全国ツアースタート
 神山様には、太字の部分を軸にいくつかの検証を希望いたします。そうすれば、フィクサーXの姿が見えてくる。背後の闇も見えてくる。神山氏の目指す事件の全容解明に役立つものと確信いたします。では、下記ポイントを記させていただきます。

検証1: 佐村河内に新垣氏を紹介したのは音大の後輩ヴァイオリニストとなっているが、裏にフィクサーXの存在があるのではないか。

検証2: 「TIME」へ記事を売り込んだのは誰か?これがフィクサーXではないか。

検証3: 「鬼武者」の音楽をつないだのは誰か?音楽業界とゲーム(遊技全般)業界の接点にフィクサーXはいる? ここが闇の接点?

検証4: 音楽評論家・許光俊氏の「推奨文」を検証する。これは「自伝本」の推薦の形をとっているが、実体は「交響曲第1番」礼賛と上演の請願である。奇妙なのは、この時点で楽曲の音がないこと。ならば、許氏にピアノを弾くなりしてレクチャーした人物がいるはず。この裏にもフィクサーXの陰を感じる。レクチャーしたのは、もしや新垣さん? この推奨文を武器に上演実現に向けてフィクサーXの動きは加速してゆく。ここは佐村河内ストーリー形成上重要なポイントになるところだ。

検証5: 秋葉広島市長に売り込んだのは誰か?恐らく表立っては佐村河内本人だろうが、Xは裏で動いていたはずである。

検証6: コロムビアと佐村河内の間に交わされた契約書のチェックをすると何らかの部分が見えてくるのでは。 直接契約か?間接契約か? 間接ならば間に入っている人なり団体がフィクサーXの可能性が高い。佐村河内、コロムビア、フィクサーXの三者がどういう取り決めをしているかも重要だと思う。

検証7: 全国ツアーの主催者は? これについては「サンデー毎日2月23日号」に興味深い記事がある。主催者のサモン・プロモーションは「週刊文春2月13日号」が出る直前のコンサートで、知らぬふりをして佐村河内グッズを売りまくっていた様子が書かれている。サモンは本当に知らなかったのか?

検証8: 3月7日、佐村河内氏が置き忘れた記者会見のメモ原稿を書いたのは誰か? この記者会見は佐村河内が一人で仕切ったとされたが、果たしてそうか? 佐村河内が会見場に置き忘れたメモ(指示書)には、別人の書き込みがあったが、この人間がフィクサーXの一員である可能性?

 以上はあくまで仮説で、裏づける証拠はありません。が、推理としてそれほど的外れとも思ってはおりません。神山様が目指す「全容解明」に必ずや役に立つと確信いたします。もはやこれら検証は始めていらっしゃるかもしれませんが、もし必要ならばご連絡いただきたく存じます。神山様がパーフェクトな「全容解明」を成し遂げられることを心からお祈り申し上げます。

        2014年3月
                                                       清教寺 茜
 2014.03.20 (木)  Jiijiのつぶやき〜春なのに
 Rayちゃん! 最近、世の中は「奇妙がいっぱい」だ。去年の食品偽装に始まって、偽ベートーヴェン、STAP細胞疑惑などなど。春なのにちっとも気分が高まらん。そんな折、安倍総理が情けない発言をした。Jiijiこれは見逃せない。今まで黙っていたけれど、ここは言わせてもらわなきゃ、という気持なんだ。

 安倍総理は、3月15日の参議院予算委員会で「河野談話は見直さない」と明言した。昨年末は靖国神社を公式参拝しちゃったのに。真逆。まさにこれ、安倍コベだ。

 1993年・河野談話は見直すべきなんだ。だって、「旧日本軍の関与」を裏づける資料がどこにもない。元韓国慰安婦の話を鵜呑みにして作り上げちゃったんだ。時の政権が、相手国の言いなりになって、検証もせず、自国に不利なことを自ら発表しちゃった。普通ありえないよな、こんなこと。Jiijiには未だに謎だ。韓国はこれをてこにどれだけ日本につけ入ったか。これからどこまでつけ入ろうとしているのか。アメリカに建ててる「慰安婦像」がその象徴。なんか、「談話を発表してさえくれれば、今後一切この問題は不問にする」と韓国側に言われたとか聞くけれど。もしこれが本当なら、お人好しの大甘ちゃん。国益の損失を考えれば、官房長官・河野洋平とこれを容認した宮沢喜一首相は国宝級、じゃない、国賊級だっちゅー話。

 安倍さんは河野談話に批判的だったから、ここんとこだけは期待していたのに、残念至極!未熟な自己判断で「靖国参拝」を強行したのなら、せめてタカ派としての一貫性を保ってもらいたかったよ。3月末の核セキュリティ・サミット〜オバマ大統領の訪日・訪韓の流れの中で成果を出したいため? これじゃ、いかにも場当たり的。理念のかけらもない。益々韓国に足元見られちゃう。朴槿惠大統領あたりに「幸いに思う」なんか言われて悔しくないのかね。歴史はちゃんと検証するべきなんだ。この基本がなってない! それとも「靖国参拝」失敗の反動? これじゃ、真逆。「靖国参拝」こそ、しちゃいけなかったんだよ。

 総理は、靖国神社参拝で、「国のために戦った方々に尊崇の念を表す」と言う。これ、気持ちは解るが行為が問題。靖国にはA級戦犯が合祀されているんですよ。第二次大戦、始めたのはある意味仕方ないことだったかもしれない。だが、最後の悪あがきはあっちゃいけなかった。大戦における日本人犠牲者数は200万人といわれている。そのうちの半数以上は最後の一年でのもの。負けると判っていながらダラダラと引き延ばした軍部の罪は大きい。特攻という無謀かつ非人道的な作戦もあってはならないこと。やりたきゃ自分で突っ込め、他人にやらせるな! 彼らが戦局をちゃんと見極めてたら、特攻もなかった。沖縄戦も東京等大空襲も原爆投下もなかったかもしれない。
 戦争で命を落とした方々の遺族は、A級戦犯にも軍部にも手など合わせたくはないはずだ。合祀ってそういうことでしょ。

 1978年、松平永芳という宮司がA級戦犯を合祀したといわれているね。靖国神社は独立した宗教法人。神道の理念に照らして行った合祀を不適合とはいえない。だから、松平氏を批判するのは間違い。彼は宮司としての仕事をしたまでだ。

 問題は、国政の中枢がそこに「公式参拝」することなんだよ。憲法第20条には「政教分離の原則」が記されている。政治家が私的宗教法人に「公式参拝」する、これが憲法違反なのかどうなのか? Jiijiはこれ、完全な違憲だと思っている。だから反対している。これは、国会で審議すべき重大案件だよ。見解が定まるまで、どうしても行きたきゃ、個人として行きなさいよ。参拝帳に「内閣総理大臣」と書かないでさ。
 侵略の定義云々とか中国・韓国への影響がどうだとかいう前に、「靖国問題は国内問題である」という認識に立たねばいけないよ。

 1972年、周恩来は「日本軍国主義は日中人民共通の敵」という声明を出した。いわゆる「周恩来テーゼ」。時の首相・田中角栄はこれに異を唱えなかった。異を唱えなきゃ、国際的には了承したと看做される。あの尖閣問題に関わるケ小平の「我々には知恵がない・・・・・」声明もそう。この時も福田赳夫首相は何の反応も示さなかったんだ。
 話を戻そう。だから、日本国民は「旧軍国主義を敵と看做す国民である」ということになっているんですよ。国際世論では。だから中国は公式参拝を批判するわけ。安倍さんにはこの認識がない。「なんで他から言われなきゃいけないの」と未だ愚かにも思っている。

 参拝後の海外の反響、中でもアメリカまさかの「失望した」にビックリする始末。浅はかなんだよな。ツイッターで「総理いいね!」なんか言われてその気になってるからこういうことになる。内閣補佐官・衛藤晟一の「私たちの方が失望した」に至っては話にならない。こんな側近を置いているから暴走に歯止めが掛からない。益々裸の王様になっちゃう。

 今の安倍内閣を一言で言えば、「驕り&軽率内閣」ってとこかな。上っ面の経済成長イコール内閣全面支持、選挙に勝てばなんでもOKという勘違い。これまさに驕り。わが国防衛の根幹に関わる案件を、憲法改正なくして解釈で運用しようとしているね。イエスマンばかりの諮問委員会で揉む。閣議決定が先で国会での議論は後回し。さらに内閣法制局では「頭の体操」を始めてるって話。実に、安易で軽率。場当たり的。憲政の常道を逸脱しているのに、その認識がない。政治センスの欠如だよ。

 その他人事に至っては、例えば、HHK会長の籾井勝人、内閣法制局長官の小松一郎あたりはもう論外。一般常識が欠落した低レベル人間を国政の要所に配するなんざ、自らのレベルの低さを露呈してるってことだ。菅義偉・官房長官がまあまともなんで助かってはいるけれど。

 「戦後レジームからの脱却」とか言って色々やろうとしているが、これも問題ばかり。特定秘密保護法、NSC創設、集団的自衛権行使容認など、Jiiji、すべて危なっかしくて見ちゃおれん。武器輸出三原則の見直しも、原発輸出もね。国内の原発は当然のように動かそうとするだろうし。いいのかな、本当にこれで。

 だから、安倍総理。ちゃんとした未来図を示してよ。国の青写真を書いてくださいよ。100年後には5千万人になっちゃうんでしょ、日本の人口。だから移民の大幅受け入れですか。そういうことだから、安易で場当たり的だって言われるの。これじゃ、Rayちゃんの時代が心配でならない。日本をどこに引っ張ってゆきたいの? どういう国にしたいのか? 大局的に真面目に考えてよ! オシマイ!!
 2014.03.11 (火)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する5〜フィクサーXの存在
 Rayちゃん、佐村河内が出てきたね。Jiijiは前回で終わりにしようと思ったけど、相手が出てきたんじゃしょうがない。もう一回やるっきゃないよな。今回は、Jiijiのつぶやきでいこう。で、前にもチラっと言ったけど、この事件にはフィクサーがいる。そうでなきゃ辻褄が合わない。そう、フィクサーX。 無論Jiijiもそれが誰だかは判らないけどね。

 3月7日の記者会見。おもしろかったのは、仕切る人がいなかったこと。佐村河内さん、自分一人でやったって?ありえないよ。無論Xとは打ち合わせ済み。「とにかくお前だけが表に立て。今までどおりにな。なにを言っても構わんが、事が俺たちにだけは及ばぬように」なんていい含められてさ。
 普通、記者会見はレコード会社とプロダクションが共同でやるもんだ。Jiijiが現役のころ、ある歌手が暴行事件を起こしてさ、そのときだって、会社が仕切ってやったものさ。今回もビシッと仕切ればいいのにな。一緒になって儲けたんだから。それが仁義ってもんだろうに。

 佐村河内の狙いは、「全聾期間」を限定することだったね。今は聞えるようになりました。手帳も返しました。だけど音が歪むんで言葉がうまく聞き取れないんです。これ、感音性難聴といって内耳の蝸牛がイカレれてるんですよ。音は聞こえるが歪む。だから、補助的に手話通訳が必要なんですよ、か。うまいこと考えたもんだぜ。これで補聴器をつけないことも説明できちゃうし。で、今は聞こえていることを証明して、3年前までは聞えていなかったことにする。マスコミは今の矛盾しか突かないから、3年前マデは議論の対象外になる。専門家が「全聾者がここまで回復するのは疑問です」なんか言っても、100%の反証にはならないしね。「全聾」の時期は確かにあったんだ、ってことをなんとなく思わせる。ウーン、小さな真実で大きな嘘を隠す。ウマイねえ。
 ここで困るのは新垣さんの「最初から聞こえていたと思う」なので、「彼は嘘を言っている」と脅したわけだ。

 新垣氏が「もうやめよう」と“何度”も言ったことに対し、佐村河内は“一回だけ”と主張。こりゃ、どうでもいいや。回数の問題じゃないから。新垣氏が受け取ったのは“700万円”に対し、佐村河内は“一曲300万円を要求したこともあった”。これもいいんじゃないの。新垣さん、「トータルで700万円くらいだったと思います」って言ってるんだから矛盾はない。次、「新垣さんは『ピアノのためのレクイエム』はぼくの傑作ですって言ってるけど、あれだって私の設計図どおりに書いたもの。心外だ」。いいじゃないの。ふたりの共作だっていえば気が済むんでしょ。

 マスコミは本質が見えてないね。手話通訳見ないで返事をしたとか。補聴器付ければいいじゃないかとか。サングラスは必要だろうとか。どうでもいいぜ、そんなこと。耳鼻咽喉科の医師やら弁護士やら筆跡鑑定士ならわかるけど、どこかのTV局は「謝罪のプロ」まで動員だ。ったくTVも暇だよな。話がとっちらかればとっちらかるほどフィクサーXの思うツボなのに。

 それからテレビ局。テロップに「調整音楽」ってあったけど「調性音楽」だよ。現代音楽は無調音楽、ロマン派までは調性音楽。勉強しろ。でも、佐村河内の音楽は「調整」のほうが似合うかも(笑)。

 Jiijiが一番笑えたのは、「新垣さんを名誉毀損で訴えます」だな。名誉のない人間が「名誉毀損」で告訴ですか。やったらいいじゃないの。そうすれば、諸々明るみに出る。フィクサーXに迫れるかも。メーカーもプロダクションも慌てるぞ。“知ってたこと”がバレちゃう! だから言っとくけど、「告訴」は絶対にないよ。させるわけがない。

 Jiijiの注目。まずは、佐村河内が「私の自伝本の嘘のデッチ上げに新垣氏が加担していた」と言ったこと。「音楽大学にも行かないで作曲できた証に、少年時代の体験を織り込めばいい。それには私のことをソノママ書いたらどうですか」と新垣さんから提案があったって。これはありうるかもな。新垣さん、いかにも気が弱そうだし、あの佐村河内の迫力で押し捲られたら頷いちゃう。「新垣さん、じゃそれいただきます。よろしいですね」てな感じでさ。これを加担というのかどうか。でも、これをバラすのはルール違反だぜ。そこまで言うならフィクサーXのこともバラしてほしいよね。「筋書きを書いた人がいます。私は言われるままに演じただけです。私はただの操り人形です」ってね。

  Jiiji最大の注目は、佐村河内が会場に置き忘れていったメモ。この筆跡は彼のものではなかった。会場で彼が書いたサインと照合して証明されたんだな。じゃ誰が書いた? フィクサーX。そう、「フィクサーXメモ」。Jiiji興奮!遂にフィクサーXの影を見た。 フィクサーXは、前の晩、佐村河内にしっかりとレクチャーしたんだろうね。表向き一人でやらせて裏で操る。これぞまさにフィクサーXのやり口。マスコミも、ここで「おやっ」と思わなきゃ。とくダネの小倉智昭なんか、「誰が書いたって、そんなこと問題じゃないだろ」って、偉そうにレポーターを怒鳴りつけてたけど、分かってないなあ。シッカリしてよ。ここが一番大事なところなんだから。

 それじゃ、Jiijiが、佐村河内は単独犯じゃない、裏に「フィクサーがいる」って考えるようになった理由をお話しよう。それは米誌TIMEへのブッキングだ。2001年9月、「佐村河内守は現代のベートーヴェン!」とTIMEがぶち上げて、このムーヴメントはスタートした。これは、この後の展開にとって大きな布石となった。音楽業界ではね。何かでかいことをやるときには宣伝材料が欲しい。みんな懸命になってそれを探す。作る。デッチ上げる。それが、今回、TIMEの記事だったっちゅーわけ。TIMEのお墨付きなら超弩級だ。でもな、あの佐村河内にこんなことが出来るかねえ。英語もしゃべれそうにない。米メディアにツテがありそうもない。そんな佐村河内が一人で出来るわけがない。これが気づいたキッカケさ。

 さらにその前、1996年の「秋桜」の映画音楽担当。これも作曲家として何の実績もない佐村河内に映画音楽の話など舞い込むわけがないってね。

 だから、佐村河内にはフィクサーがいる。いなきゃ辻褄が合わん。それがフィクサーX。それは個人か集団か?

 では、最後に、Jiijiの考える佐村河内ムーヴメントを時系列にまとめておこう。背後にフィクサーXを感じながら読んでみてください。ただしこれは、物証はなく状況からの推論に過ぎないことをお断りしておくよ。
1990年代    佐村河内とフィクサーX知り合う。
1996年      フィクサーX、映画「秋桜」の音楽を佐村河内に斡旋。
          同時に新垣隆氏を紹介。以後交渉は二人に任せて、陰に回る。
1999年      フィクサーX ゲーム「鬼武者」の音楽斡旋。佐村河内この頃から「全聾」を装う。
2001年 1月   「交響曲ライジングサン」(鬼武者サントラ)発売。
      9月   Xの売り込みにより「TIME」誌に佐村河内の記事掲載。
2003年 3月    佐村河内が依頼した「交響曲第1番 現代典礼」新垣氏が完成。
2007年10月   佐村河内自伝「交響曲第1番」講談社から発売。
     11月   許光俊氏 「交響曲第1番」推奨文をHMV-HPに掲載。
2008年 9月 1日 「交響曲第1番HIROSHIMA」広島市で部分初演。
           この模様をTBS「NEWS23」で放映。
2011年 7月20日 日本コロムビアからCD「交響曲第1番HIROSHIMA」発売。
           累計18万枚の大ヒットを記録。
2013年 3月31日 NHKスペシャル「魂の旋律」放映。佐村河内ブーム決定的に。
2013年 6月15日 コンサート・ツアーがスタート。
2014年 2月 6日 新垣隆氏記者会見。
     3月 7日 佐村河内守氏記者会見。
 フィクサーX 残念ぇーん!コンサートこれからだっていうのに。グッズもあるのにヨー。残念至極のフィクサーX。でもまあ、ここまでやれれば御の字か。 3月10日の「ミヤネ屋」で、宮根が「本、CD、コンサート、これから損害賠償の話も出てくるでしょう。まだまだ目が離せません」なんか言って締めてたけど、やるわけないだろう。自分の首を絞めるようなことをさ。じゃ、お後がよろしいようで・・・・・。
 2014.03.01 (土)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する「最終回」〜長木誠司はとんでもない
 前回は、音楽評論家許光俊氏の事件への関わりについて記述した。彼からの直接コメントを聞いたわけではないが、なにやら、「楽曲に感動したのだから書き手が誰だろうが関係ないだろう」的な意向が人づてに伝わってくる。楽曲を聴かずに書いて、よくまあ、恥ずかしげもなく言えたものだと思う。
 クラシック音楽界にはこのような図々しい評論家は数多くいるようで、今回とり上げる長木誠司氏もこの類だ。まずは、氏のプロフィールをWikipediaから。
長木誠司:1958年福岡県生まれの音楽学者。東京大学文学部美術芸術学卒業。東京大学大学院総合文化研究所教授。1997年、博士論文「フェルッチョ・ブゾーニ〜オペラの未来」で吉田秀和賞受賞。
 はじめに、新垣氏会見の翌日、2月7日朝日新聞に掲載された長木氏のコメントをご紹介する。「佐村河内氏の楽曲がもてはやされたのはなぜか」という問いに答える形で示されている。
(それはなぜかといえば)今の聴衆のほとんどは、耳が聞こえない、被爆二世という「物語」なしに音楽だけを聴くことがないからだ。どんな人が作ったのかといった物語がもたらすインパクトは、クラシック音楽の垣根をなくした。がしかし、うそをついて物語を肥大化する必要はなかった。ただ、佐村河内さんと作曲家だけの責任ではない。売ることしか考えないレコード会社や、もてはやしたメディアも同罪だ。
 一見もっともな意見に聞える。これだけを読んだ方は「なるほど適切なご指摘」と思われるだろう。がしかし、長木氏が、佐村河内ムーヴメントの内側にいる人間だったとしたらどうだろか? 彼は18万枚ものセールスをあげたCD「交響曲第1番HIROSHIMA」のライナーノーツ(解説書)を書いているである。

 ライナーノーツは、二部構成になっており、第一部は「交響曲文化論」ともいうべき力作である。まずは、これを提示させていただく。が、かなり長大であるため、佐村河内という文言が頻繁に出る結びの部分を抽出する。

佐村河内守の交響曲《HIROSHIMA》
21世紀の日本に可能な交響曲の姿
 戦後30年経って、初めてヨーロッパ音楽の文脈への対等な参入が自他共に認められた日本の創作。その認知のプロセスのただなかに生まれた佐村河内守が立っているのは、すでに自らの非同時性を認知した西洋音楽の文脈である。かつてマーラーのような音楽を書くこと自体が、日本人にとってなんの意味も持たなかった。文脈が違いすぎたのである。また「ヒロシマ」を問題にすることは、逆に余りに政治性を帯びすぎて難しかった。しかしながら佐村河内はそうした問題設定とテーマ・素材の設定が、個人の苦悩として語れるようになった歴史的位置にいる。そこではもはや「交響曲の歴史が終わった」という歴史認識自体が歴史的なものとなっている。洋の東西を問わず、多くの作曲家たちがふたたび交響曲を書きはじめた時代。そうした「方法論」を踏襲しつつ、佐村河内はあえてヒロシマを問題にする。彼の苦悩はすべてそこからはじまっているからだ。
 佐村河内にとって「ヒロシマのあとで交響曲を書くこと」はごく自然な行為であった。いや、彼にとって交響曲は、まさにヒロシマのあとでしか書けなかったのである。ヒロシマのあとに書かれた交響曲第一番《HIROSHIMA》。それは、そのあまりに大きな歴史的時宜性の獲得と、そこに絶叫しすすり泣くように込められた痛々しいまでの個人的苦悩によって、21世紀に生きるわれわれにとってあまりにも生々しい。それは一聴してだれでもが心打たれる音楽であるが、しかし、もしわれわれがこの長大で、形式的には晦渋な交響曲を少しでも難解だと感じることがあるとすれば、それは21世紀のわれわれがあまりにもこの作品を深く「理解」し、その世界に「共感」してしまっているからにすぎない。
 実はこの前段で、長木は、マーラー〜ショスタコーヴィチを経て迎えた「交響曲の失われた30年」という論証を開示している。そこでは、アウシュヴィッツとヒロシマを引き合いに出し、西洋、中でも西側中心主義の崩壊を論じ、交響曲の主流が東と北とアメリカに移ってゆく過程を説明している。目的は、佐村河内の交響曲が西洋音楽の歴史の中で正統的位置を占めることを証明したいがため、である。なかなか大それた見解なのだ。
 長木氏は、「交響曲第1番」が佐村河内によって書かれた必然性を説き、最後にこう断言する−佐村河内がヒロシマを書くのは必然であり、その交響曲は一聴して「だれもが心打たれる音楽」であると。この文章は佐村河内が被爆二世であることを抜きには書けない。

 これは、音楽文化論の衣を借りた佐村河内礼賛論である。ある意味、許光俊の推奨文を越えるものだ。まあ、CDのライナーノーツだからこれはこれでいいだろう。私が許せないのは彼の能天気な変心振りにある。ここで冒頭の朝日新聞のコメントに立ち返っていただきたい。CDのライナーノーツが2011年7月。朝日のコメントが2014年2月。この間の豹変振りである。立場を忘れた(フリをする)あざとさである。

 朝日新聞のコメント。一般論としてはその通りかもしれない。結びの「売ることしか考えないレコード会社や、もてはやしたメディアも同罪だ」に、私も同感である。だが、問題は、長木氏も同じ側の人間だったということだ。レコード会社の注文を受けて解説文を書いたこと。もてはやした(とされる)メディアに同調した文になっていること。これは、売ることしか考えないレコード会社と嘘をついてまで物語を肥大化したメディアへの協力ではないのか。
 物事の勢いあるときには乗る。形勢危うしとなれば身を引く。これを卑怯というけれど、人間は弱いものだからそこまでならまだ許せる。許せないのは、無関係を装いながらの批判である。なにが「レコード会社もメディアも同罪」か。「自分も同罪だ」と言ってからにしてほしい。

 第二部は楽曲解説である。小難しい楽典は抜きにして、印象に残るフレーズを抜書きさせていただく。

交響曲第1番《HIROSHIMA》(2003) 楽曲解説
広島の被爆二世である作曲家の佐村河内。この間、作曲者は全聾となり身体・精神のともに厳しい環境の中で作曲は続けられた。そうした苦しみの中で完成した作品。こうした展開の背後に、「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」というベートーヴェン的意志が潜んでいる。その克服の道程は、常に過酷であるものの、同時に美しい。交響曲《HIROSHIMA》では、かくのごとく「運命が扉を叩く」。死の淵でやはり逡巡し彷徨いながら過去を走馬燈のように追想する。ブルックナー的な息の長い流れ。むしろマーラーの交響曲第3番の終楽章に匹敵する壮大な音楽。美しい希望の光がまぶしく降臨するようなホ長調で全曲は締めくくられる。
 一部と二部から読み取れること、それは、明らかに長木氏は「佐村河内物語」を踏まえて書いている、という事実である。佐村河内守は「被爆二世全聾の作曲家」である、という先入観を以って「交響曲第1番」を褒め称えている、とも言える。基本的に、このことを私はどうこう言うつもりはない。CDのライナーノーツを書く場合、メーカーから提示された資料を基に書くのは常道だからだ。
 だがしかし、「今の聴衆のほとんどは物語なしに音楽を聴くことがない」などと、上から目線・自分は別なる言い方はしてほしくない。「実は私もそうだったんです」と素直に言うべきではないのか。

 気になることがもう一つある。それは新聞コメントの冒頭の件「今の聴衆のほとんどは、耳が聞こえない、被爆二世という物語なしに音楽だけを聴くことがないからだ」の部分。“耳が聞こえない”の前後に読点「、」があることだ。これがあることで、“耳が聞こえない”という文節は「今の聴衆のほとんど」を主語とする述語となり、「被爆二世」にかかる修飾語となる。ならば長木氏は、今の聴衆を「聞く耳を持ち得ない」と見下していることになる。そうだとすれば許されざる高飛車人間。不遜さがたまらなくイヤだ。もしかして書いた記者のサインなのかもしれないが。

 “照れながら”なら可愛げがあるけれど、形勢不利の状況に、突っ込んでしまった足をすぐにも抜きたいのが本音なのに、イタチの最後なんとかさながらに、一般聴衆を愚弄し偉そうに音楽業界とマスコミを批判して逃げを打つ。逃げたいのなら静かに身を引きなさい。コメントするなら懺悔してからにしてください。これぞ図々しさの果て厚顔無恥の権化。こういう正義感の破片もないエセ評論家がのさばるから日本の音楽界はちっともよくならない!! ご粗末の一席でした。

 なお、今回を以って「佐村河内連載」は終了します。理由は、これ以上は推論になってしまうから。確かに書き足りないことはありますが、音楽史上の話ならいざ知らず、これは現在進行中の事件。警察でもないのに証拠もなく踏み込むわけにはいかないでしょう。 本件は、佐村河内守という表面上のペテン師が単独で行ったものではないと確信するものです。ある時点から背後にはフィクサーがいたに違いない。そうでなければ辻褄が合わない。フィクサーは大きな闇に繋がっていると思われます。となれば、佐村河内は哀れな操り人形かもしれないのです。恐らく、佐村河内事件は今後マスコミから徐々にフェードアウトしてゆくことになるでしょう。残念ではありますが。
 2014.02.25 (火)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する3〜許光俊の前代未聞の推奨文
 今、「交響曲第1番HIROSHIMA」を持ち上げた評論家たちに非難が集まっている。当初この風潮はどうかと思った。感動は個人の自由、放っておけばって。実は私も、「いいね」と思った口である。番組名は忘れたが、NHKの佐村河内番組を見て興味が湧き、「HIROSHIMA」のCDを買い求めて聴いてみた。重厚でなかなかいい曲じゃないか。ヒュードロンパの現代音楽よりよっぽどましだ。だが、最も非難を浴びている評論家の文章を読むと、これが衝撃とてつもない。放っておけなくなった。その評論の主は許光俊。クラシックの(特に若者オタクの)カリスマ的評論家である。

 まずは、許光俊氏への非難文から紹介する。
 慶応大学教授の許光俊ってホント何様なんでしょう。ゴーストライターを使って作曲していた詐欺師の嘘を見抜けない程度の人間なら今すぐ辞職するべきでは? 論評は上から目線のものばかり。これほどふんぞり返っているのならさぞ聞く耳があるのか、と思いきや、「作曲家であり聴覚障碍者」を装っていた佐村河内守の音楽を、嘘と見抜けず「苦悩に満ちた素晴らしいもの」と愚かにも大絶賛しています。やはり彼は自分の肩書に酔いしれているだけの、そして作曲家の肩書でしか音楽を判断できない無能なのでしょう。

 断罪されるべきは佐村河内、NHKですが、それに続いて、ちょうちん評論家も何等かの意味で責務を負うべきでしょう。その筆頭は許光俊ですね。彼の佐村河内論評は、噴飯物を通り越して、ある意味歴史的な椿事的論評とさえ言えそうです。
 では、許光俊の「佐村河内評論」とはいかなるものか? かなりの長文なので要約して引用させていただく(HMV-HP2007年掲載 許光俊の言いたい放題「世界で一番苦しみに満ちた交響曲」より)。
 もっとも悲劇的な苦渋に満ちた交響曲を書いた人は誰か?耳が聞こえず孤独に悩んだベートーヴェンだろうか。ペシミストだったチャイコフスキーか。それとも、妻のことで悩んだマーラーか。もちろん世界中に存在するすべての交響曲を聴いたわけではないが、知っている範囲でよいというなら、私の答は決まっている。佐村河内守の「交響曲第1番」である。

 いったい、こんなにも深刻な曲を書いた佐村河内とはどういう作曲家か。彼は1963年広島に生まれている。早くから作曲家を志したが、楽壇のややこしい人間関係などに巻き込まれることをよしとせず、独学の道を選んだ。

 実は、彼は非常に大きな肉体的なハンディキャップを抱えている。なんと、あるときから完全に耳が聞こえないのだ。それどころか、ひどい耳鳴りで死ぬような思いをしているのだ。しかし、彼はそれを人に言わないようにしてきた。知られるのも嫌がった。障害者手帳の給付も拒んできた。自分の音楽を同情抜きで聴いてもらいたいと考えていたからだ。

 彼のところにはテレビ番組を作らないかという話が何度も舞い込んだという。確かに、耳が聞こえない障害者が音楽に打ち込むなんて、いかにもテレビが好みそうな話だ。だが、佐村河内は障害を利用して有名になることを拒んだ。テレビ局からは「せっかく有名になるチャンスなのに、バカじゃないか」と言われたという。有名になる、ならないは問題ではない。それより、自分は作曲に打ち込みたいだけだというのが彼の言い分だ。マーラーは「いつか自分の時代がやって来る」と言ったが、佐村河内も生きている間に成功しようなどとは考えていない。こんなにも潔癖で頑固な人間は、世の中にほとんどいないだろう。

 その佐村河内が、自分の半生を綴った本を講談社から出した。その内容は、恐るべきものだ。生きているだけでも不思議なくらいの悲惨な状況に彼はいる。なのに、ものすごい執念で作曲を続けているのだ。本に記されたその様子を読んで鳥肌が立たない者はいないだろう。有名になってチャラチャラしている暇などない。生きているうちに、書けるうちに、書くべきものを書くしかないのだ。

 実は佐村河内の両親は広島で被爆している。それが彼の健康にも影響しているのか。明言はされていないが、可能性は高いだろう。彼は言う、音楽以外はどうでもいい、すべていらない、と。毎日が、それどころか一瞬一瞬が、死や発狂との戦いなのだ。これは人生というより地獄と呼ぶべきではないのか。佐村河内は地獄の中にいる。だから、交響曲が必要なのだ。クラシックが必要なのだ。演奏が困難な交響曲第1番。これはまさに命がけで書かれたのである。
 これは大絶賛・前代未聞の評論。完全な推奨文の類だ。私はこれまで数多くの推奨文を読んできたが、これほどまでのものに出会ったことはない。まさに“未知との遭遇”である。登場する作曲家は、ベートーヴェン、チャイコフスキー、マーラー、ショスタコーヴィチ、ブルックナーなど、交響曲の大作曲家の名前がズラリと並ぶ。佐村河内が音楽史上冠たる交響曲作家と同列にいるかのような印象を与える。

 文中のキイワードを羅列してみる。広島−完全に耳が聞こえない−耳鳴り−障害者手帳−テレビ番組−被爆−音楽以外はいらない−死や発狂−地獄−交響曲−クラシック・・・・・まるで本人の魂が乗り移ったかのよう。まさに本人に成り代わって、そう、許氏は佐村河内の分身そのものに思えてくる。そして、それらはすべて偽りの所産と判った今、もはやこの文章はお笑い種、「世界で最も悲劇的で苦渋に満ちた評論」ということになる。

 特徴的なのは、楽曲そのものへの言及は通り一遍で大半は偽作曲者にまつわるエピソードに終始していること。これは実に奇怪な音楽評論というべきだ。

 しかも、驚くべきことに、この評論が書かれた2007年11月6日時点では、佐村河内の「交響曲第1番」は演奏されてもいなければCDもない。彼は、なんとこの文を、「楽譜」と「自伝本」だけを頼りに書いたのである。音を聴かない推奨文!普通出来ませんよこんな芸当。メンデルスゾーンならいざ知らず。

 講談社自伝本「交響曲第1番」の発売は10月。評論掲載が11月6日付けだから、許氏がこの本に偶然出会ったとは思えない。このスピード感は、講談社からの働きかけを意味するものだ。結論・・・自伝本と評論はセットである。
 また、この時点では、「HIROSHIMA」というサブタイトルも付いていない。そして、省略した部分には、「演奏実現化への懇願」が切々と述べられている。檄文といってもいい。

 それにしても、佐村河内の大嘘を信じ切って、これだけの文章を書いてしまえる許光俊とは一体どういう人物なのだろうか。純粋さを通り越して阿呆の域にまで達してしまった超人? だが、氏の名著「このオペラを聴け!」(洋泉社MOOK)の明晰かつ的確なオペラ文化論を読むにつけ、彼があのようなペテン師にコロっと騙されるような能天気人間とは、とても思えないのである。ならば、出来レース?

 では、自伝本発売&許の評論から佐村河内ムーヴメントを時系列で追ってみよう。
2007年10月    講談社 佐村河内自伝「交響曲第1番」を発売
     11月 6日 許光俊 評論「世界で一番悲しみに満ちた交響曲」HPに掲載
2008年 9月 1日 「交響曲第1番HIROSHIMA」が広島で初演 広島市民賞を受ける
     9月15日 TBS筑紫哲也NEWS23で「広島コンサート」の模様を放映
2011年 7月20日 日本コロムビアからCD「交響曲第1番HIROSHIMA」発売
2013年 3月31日 NHKスペシャル「魂の旋律〜音を失った作曲家」放映
2013年 6月15日から 「交響曲第1番HIROSHIMA」全国ツアー開始
 スタートは2007年10月発売の佐村河内の自伝本だ。発刊元の講談社の担当者は宣伝企画部の山上昌弘という男である(古賀淳也著:「魂の旋律―佐村河内守」NHK出版刊より)。彼が許に本を紹介し、番組制作ディレクター古賀淳也に佐村河内情報を提供したと思われる。そう、すべては講談社と許光俊のタッグから始まった!?

 それ以前に目を転じると、注目すべき節目は3つある。
1996年 映画「秋桜」の音楽を佐村河内が担当
1996年 ある人物が、佐村河内に新垣隆を紹介
2001年 TIME紙に「現代のベートーヴェン」と紹介される
 ここには、まだ、講談社も古賀も許光俊もNHKもコロムビアも登場してこない。これらを佐村河内は一人でやってのけたのだろうか? 作曲能力0の佐村河内に映画音楽の依頼が舞い込むわけがない。アメリカ・メディアにパイプがあるとは思えない。ではいったい誰がこれらを仲介したのか? 恐らくそれは、佐村河内と新垣隆を結びつけた人物(もしくは集団)。フィクサーX!

 フィクサーXは、1996年ころから布石を打ちつつ、自伝本発刊、交響曲第1番初演、CD発売、NHKスペシャル、全国ツアーに連なる佐村河内ムーヴメントを、陰に日向に繰っていたと思われる。許光俊の推奨文は、この一連の流れの中、プロモーション・ツールとして十全の役割を果したはずである。

 許氏ばかりでなく、他の佐村河内賛美者(三枝成彰氏など)も、発覚後「曲そのものに感動したのだから・・・」と同じような物言いに終始している。あまりみっともイイものではないが、まあ、よしとしよう。だが、私がどうしても許せないのは、新垣氏記者会見の翌日の朝日新聞朝刊に、イケシャーシャーと批判文を書いている厚顔無恥の評論家のことである。これについては次回。
 2014.02.20 (木)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する2〜本当に知らなかったのか?
 佐村河内事件で、ゴーストライターという存在に関心が集まっている節があるが、それはたいした問題ではない。アイドル自叙伝を見るまでもなく、その存在そのものに不当性はない。だから、TBS-TVサンデーモーニング「風」コーナーで、事件と関連して「ゴーストライター」をテーマにしたのは見当はずれだ。
 この事件の核心は「偽装」である。少し前、話題になった言葉だ。ただその偽装は、“バナベイ”を“芝”と偽った程度、エビには違いのない些末なものだったが、こちらは大違い。0を100に見せる偽装。立ちの悪さは比較にならない。

 今回は、佐村河内守というペテン師の「偽装」(=全聾の作曲家)に関係者は本当に気づいていなかったのか?というテーマについて考察する。もし「最初から気づいていた」となれば、ペテン師とグルだったことになり、これは芸術・文化を標榜するレコードメーカー、公共放送局にとって壊滅的ダメージとなる。だから、関係者は、そうであっても口が裂けても言わないはず。したがって、実証は困難。結論は出せない。状況を示すのが精一杯となるだろう。

 レコードメーカー(日本コロムビア)現時点のHPにはこうある(要約)
 当社は佐村河内守氏に関する一連の報道および「ゴーストライター」とされる新垣隆氏の記者会見の内容を確認いたしました。佐村河内守氏作曲とされる当社発売商品については、その作曲者表示に誤りがあることが判明いたしましたことから、当社は既に該当商品の出荷および配信の停止を行い、さらに小売店に対しては、該当商品の販売中止をお願いしております。当社といたしましては、商品発売時点においては全く想定をしていなかった事態であり、佐村河内守氏に対しては強い憤りを感じております。
 また、佐村河内守氏の聴力は、3年ほど前からは「言葉が聞き取れる時もあるまでに」回復していたとのことであります。当社といたしましては、本人からは「全聾」であるとの説明を受けており、その説明が真実であると確信しておりましたので、今回の謝罪文書の内容については、極めて遺憾であります。
 レコード発売元のコロムビアは、「CD『HIROSHIMA』発売の2011年7月時点では、作品は佐村河内氏の真作であり本人は全聾であると認識していた。しかしながら、この度それらが事実ではないと判明した。これはきわめて遺憾であり憤りを感じるものである」という見解である。本当に知らなかったという必死の訴えがある。

 CD「交響曲 第1番 HIROSHIMA」のプロダクションノートにはこうある
 佐村河内さん自身はこの作品を闇の音楽と呼んでいます。原爆という絶対悪に象徴される「闇」。それを表現したこの音楽で「闇」の深さを感じて、逆に小さな「光」の尊さを知ることができる。80分の旅を経て、最後の天昇コーラスが響いたときの感動。それはまさに闇に降り注ぐ「希望の曙光」に感じられます。震災が起きた直後には、このような深刻な内容の作品を人々は求めているのだろうかという不安を感じたこともありましたが、逆に、今だからこそ、私たちはこの音楽を必要としているのだと感じています。
 同時代の優れた作品をレコードとして後世に残したい、その制作者の想いを託せる作品を生み出してくれた佐村河内さん、そして名演を実現させてくれた大友直人さんと東京交響楽団に、心から敬意と感謝を捧げたいと思います。
 この文章はCDのインレイ・カードに収まっている。無記名だが、恐らくコロムビアの佐村河内担当プロデューサー・岡野博之氏によって書かれたものであろう。作曲者への敬意、作品への感動、そして演奏者への感謝が熱く述べられている。制作者としての真摯な使命感も伝わってくる。これを読むと、この時点では、岡野氏は“佐村河内がペテン師である”なんてことは露ほどにも思っていないことが覗える。
 新垣氏記者会見後、告発したライター神山典士が岡野氏に質問したところ、「佐村河内さんの言葉を信じてあげようと思います」との返答があったそうだ。あの会見を聞いてなお「信じてあげたい」である。これをどう読む。「私のことも信じてください」か?

 本件をスクープした「週間文春」(2月20日号)によると
当時を知る「鬼武者」の販売元・カプコンの関係者はこう語った。「佐村河内が『全聾になった』と宣言した以降も、彼の耳が聞こえていることは、社内では皆が知っている暗黙の了解事項でした」
 詐欺師は世間を欺くとき、身内を抱きこむものだ。身内にまで嘘をつくのは疲れるが、味方にしてしまえば気を使う必要がなくなる。この天才的詐欺師にとって舌先三寸はお手のもの。社内では“皆が知る暗黙の了解事項”という環境が成立する。

 佐村河内氏のCDは、「交響曲第1番『HIROSHIMA』」が18万枚、「鎮魂のソナタ」が10万枚を売り上げているという。「ヴァイオリンのためのソナチネ」も、フィギュアの高橋選手が使うこともあり同程度のセールスを見込んでいただろう。1アーティストで40−50万枚。DVDもある。売上げ金額は10億円以上。これはもう超A級アーティストの扱い。社内表彰はもちろん、会社幹部との会食の場も設けられただろう。営業サイドも、この勢いのまま、新譜をどんどんリリースしてほしいと願う。超A級アーティストを会社中がチヤホヤする。 虚栄心で固まったイカサマ師がレコード会社内でどんな態度を取っていたかは想像に難くない。

 AERA2.17号の佐村河内記事「消えぬ違和感 嘘に騙されず」には、コロンビアの担当者が取材に立ち会っている様子が記されている。手話通訳も一緒に。レコード会社のアーティスト担当(ディレクターや宣伝担当が兼ねる場合もある)は、佐村河内のような大物の場合、どんな取材にも必ず立ち会う。売れるにしたがってその機会は増えるから、四六時中一緒ということもよくある。相性がよければ気心が知れる。そうでなくとも情は移る。佐村河内氏とこの担当者の関係はどうだったろうか。また、レコード会社においては、所属アーティストとの親密度は、制作担当の方が宣伝担当よりはるかに大きいのが常識である。

 レコード会社はさておき、本件の真の仕掛け人は、古賀淳也なる独立系の制作プロデューサーである。彼が佐村河内ネタをNHKに売り込んだ張本人だ。二人の親密度は自著「魂の旋律」(NHK出版)に詳しい。そこには、古賀氏が「友人として佐村河内氏のマンションを訪ね、被災地のことをあれこれ話し合った」とある。はたして、佐村河内は、“友人”の前でも「全聾の演技」をしていたのだろうか。

 2月12日、NHK会長から「視聴者の方には真実と違う内容を伝えてしまったことをお詫びするしかない。結果としてだまされた。気がつかなかった」とのコメントが発表された。「知らなかった」と「作ったのは外部」の強調だ。今回のケース、確かに制作は外部プロダクションであるが、NHKの窓口(番組プロデューサー)とは密接な関係があるのが常識。両者は持ちつ持たれつの関係である。

 スクープ誌「週刊文春」を中心に、佐村河内叩きは加速度を増しているように見える。落ち目になった対象にマスコミはいつも容赦ない。寄ってたかって痛めつける。今、関係者が最も恐れていること。それは、丸裸にされズタズタになった佐村河内の「それじゃ言わせてもらうけど、関係者は最初から・・・・・」というヤケクソの一撃ではないだろうか。

 レコード・プロデューサーと番組制作プロデューサー、レコード会社とNHKの「知らなかった」。皆さんはどう思われるだろうか。
 2014.02.16 (日)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する1〜空前絶後の事件
 CD不況のこの時代に、しかも、クラシックというニッチなジャンルで18万枚を売り上げたこと自体驚異な上に、作曲者が偽者だったという佐村河内事件。まさに前代未聞、空前絶後のおはなしである。永年音楽業界に身をおいたものとして、興味を禁じえないことは確かである。
 ゴーストライター氏の存在が明らかになった以上、今後、様々な事実や憶測が飛び出してくるだろう。興味本位の事、事件の本質から外れる事、などなど。 「クラ未知」では、これらの話には見向きもせず、うかれマスコミには出来ない独自の考察を試みたいと思う。

 この事件は本質的に詐欺事件である。佐村河内氏が全聾の作曲家になりすまし、嘘で固めた感動のストーリーを作り上げて、世間を欺いた。実にたちの悪い所業である。しかしながら世間を欺くなんてことは、レコード業界ではそれほど珍しいことではない。私も関わった一つの事例がある。藤圭子デビュー物語である。

 昨年、自ら命を絶った歌手・藤圭子。彼女のデビューに当たって、仕掛け人(レコード会社とプロダクション)は2つの嘘をついた。理由は「演歌の星を背負った宿命の少女」という「宣伝文句」に合わせるためである。
 このとき藤の実年齢は18歳。18歳は少女とはいえないから「宣伝文句」と合わない。ならば17歳にしよう。そこで、年齢を1つ詐称した。これが第1の嘘。宿命の少女の“宿命”を強調するためのストーリーを作ろう。全盲の母と一緒に幼い頃から流しをして生計を助けた。嘘は“全盲”の部分。実際は弱視程度で、これが第2の嘘。
 かくして藤圭子は1969年9月にデビューし瞬く間にスターの座を射止める。アルバム2作でチャート37週連続1位という記録は、未だ破られていない。彼女の歌唱とストーリーに作家五木寛之は「藤圭子の歌は『演歌』ではない『怨歌』である」という名文句で仕掛け人の意図を後押しした。五木氏は、偶然にも、佐村河内氏に対しても推奨文を寄せ、ムーヴメントをサポートしている。こんな具合に。
 ヒロシマは、過去の歴史ではない。二度と過ちをくり返さないと誓った私たちは、いま現在、ふたたびの悲劇をくり返している。佐村河内守さんの交響曲第一番《HIROSHIMA》は、戦後の最高の鎮魂曲であり、未来への予感をはらんだ交響曲である。これは日本の音楽界が世界に発信する魂の交響曲なのだ。
 五木寛之が同じように絶賛した藤圭子と佐村河内守。同じように嘘のストーリーで拡売を図った二人。が、決定的に違うのは本人の力量と嘘の度合いだ。藤圭子はかつてない個性を持った稀代の歌い手であり、佐村河内は何一つ音楽的スキルを持ち合わせないただのペテン師。藤の嘘は誹謗には当たらない些少なものだが、佐村河内の嘘は卑劣狡猾許しがたい類だ。数字で表せば、藤圭子の場合は90を100にする程度の嘘だが、佐村河内のケースは0を100にするたちの悪い大嘘だ。

 かたや、クラシックの世界ではどうか? 偽作・贋作・盗作、様々あるが一例としてモーツァルト贋作事件をご紹介する。フランス人ヴァイオリニストで作曲家のマリウス・カサドシュ(1892−1981)は、1933年、自分を校訂者として「モーツァルト作曲ヴァイオリン協奏曲第7番」を出版した。モーツァルトの自筆譜を発見したからだという。さらにこれには、モーツァルト10歳のときの作品で、ルイ15世の長女アデライード姫に献呈されたとの逸話が付いていた。
 大作曲家の新作発見に世間は色めきたった。フリードリヒ・ブレーメというモーツァルトの権威が真作と結論し、Konh.294aという認定番号が与えられた。レコード会社も身を乗り出し、EMIは、天才少年ユーディ・メニューインのヴァイオリンで、レコーディングを行った。この録音は未だ現役として残っている。
 ところが1977年になって、カサドシュは、これは自分が作った贋作だと認めることになる。当初からこの件に疑問を抱いていたアルフレート・アインシュタインの追及の結果だった。彼の「自筆譜を見せろ」との要求をカサドシュが執拗に拒んだことが発端となった(だから、佐村河内に「作曲しているところを見せろ」と厳しく追及すれば発覚したはずである)。
 カサドシュが贋作をした動機は 自作を世に送り出すため。カサドシュ作曲名義では誰も相手にしてくれないが、モーツァルトの作品ならレコードになる。そして「さすがモーツァルトの作品だ」との評価を得れば、当人陰でほくそ笑む。快感! という図式だ。

 カサドシュは、“カサドシュ作曲”では相手にされないから、自作をモーツァルトの作曲と偽った。曲を書いて演奏するというスキルがあるから出来たことだ。
佐村河内は、作曲の技術も演奏の技術もない上に、他人に書かせた作品を自作と偽った。 目的は名声と金。カサドシュとは決定的に違う。そして、過去のいかなる事例とも合致しない。まさに空前絶後の事件なのである。

 曲を書いたのは確かに新垣隆氏だが、指示を出したのは佐村河内守この俺だ。この仕組みを作ったのは俺だから、俺がいなければ彼の作品が世に出ることはなかった。だから彼が俺に絶対服従するのは当たり前。従順な彼は一生俺についてくる。佐村河内は高を括くっていた。

 佐村河内は、演技と売り込みの天才、そう、生来の詐欺師なのだ。そんな彼に天啓が降りる。「そうだ、全聾を装うことだ。そうすれば譜面が読めないことも誤魔化せる。全聾で作曲ができるとなれば、まさに現代のベートーヴェン。一石二鳥。名声は一気に上がる。レジェンドになれる」。嘘で固めたモンスターが暴走を始める。そんな彼の虚偽に踊らされてレコード・メーカー、音楽評論家、メディアが回りだす。
 普通の人間は嘘をつくほど良心の呵責に苛まされるものだが、佐村河内という人は、それが快感となって、やがてはホンモノと思い込む。そういうタイプの人間なのだろう。

 ゴーストライターの新垣さんは才能ある作曲家である。性格は真面目そのものにみえる。最初のうちはよかった。指示書どおりに作曲することは技術のスキル・アップに繋がるし、大学講師の数ケ月分の作曲料が入ってくる。こちらも一石二鳥だ。しかも、自分の作った楽曲が音になって世の中に流れる。素直に嬉しい。

 が、しばらくして、佐村河内の暴走があらぬ方向に向かいだす。被災地に出向き純粋な被災者を欺く。身障者を騙し、恩の押し売りをする。
 純粋な音楽人間が、虚偽に満ちたペテン師の行状に堪えられなくなる。このままの関係を続けることに恐怖を覚えるようになる。

 そして、遂に新垣氏は耐えられなくなり世間に公表した。「私は彼のゴーストライターでした。私は彼の共犯者です。彼は曲は作れません。譜面も書けません。すべての曲は私が作りました。彼のピアノは初心者の域を出ません。彼は耳が聞こえます。これ以上世の中を欺くことは出来ません」

 次回からは、「HIROSHIMA」の作品評価とモンスターを増長させた背景について言及したい。
 2014.02.10 (月)  Jiiijiのつぶやき〜春呼ぶクラシック
 おーい、Rayちゃん! 2月4日は立春。暦の上ではもう春だ。でもこの日、東京は雪が降って、まだまだそんな実感はなかったよね。そこでJiijiは閃いた。冬来たりなば春遠からじ。気候は冬でも気分は春へ。そう、クラシック音楽を聴いて春を先取りしよう。題して「春呼ぶクラシック」。では、選曲の始まり始まりーぃ!!

 まず、春といえば、メンデルスゾーン(1809−1847)の「春の歌」。これ定番。この曲はピアノ曲集「無言歌」の中に入っている。天才メンデルスゾーンが、姉のファニーの言葉から閃いて、歌のないピアノ曲を思いついたんだ。歌詞がなくても人が歌うようなピアノ曲。だから、この曲、ピアノが歌ってる。もう、冒頭“ターラララ”の上昇メロを聞いただけでわかるよね。春到来の喜びに満ちた曲。人気曲だけにオーケストラ始め多くの編曲がある。J-PopならYuming「春よこい」風?

 お次は、ワルツ「春の声」。ワルツ王ヨハン・シュトラウスU(1825−1899)が、ブダペスト滞在中、友人のフランツ・リストと一緒のパーティーで即興的に作ったといわれているよ。58歳、晩年の作品だが、作曲者3度目の結婚前のウキウキ感がイッパイ!文字通り春爛漫ってとこ。キャンディーズの「春一番」的?
 「春の声」は、山田洋次監督がお気に入りみたいで、「男はつらいよ」の第8作「寅次郎恋歌」と第9作「柴又慕情」で、立て続けに使っているよ。

 シューマン(1810−1856)の交響曲第1番「春」は、1841年の作品。前年、あのクララと結婚し、まさに幸福の絶頂のころだから、高揚感が曲に反映しているね。春を詠んだアドルフ・ベッカーの詩に触発されて書いたんだ。

 「春に寄す」はグリーク(1843−1907)のピアノ曲集「抒情小品集」の第5曲。冒頭、春がゆっくりしのび寄るような音列に、遅い春を心待ちする北欧人の気持ちが見えるようだね。「北国の春」に如くはチト安易かな?

 ヴィヴァルディ(1678−1741)のヴァイオリン協奏曲「四季」の「春」もよく知られている。音楽史上最初の標題音楽といってよく、3つの楽章には其々ソネット(詩)が付いている。第1楽章は“小鳥たちは楽しく歌い春に挨拶を送る”、第2楽章は“花が咲き乱れる牧場で羊飼いは居眠り。忠実な番犬がしっかり見張り”、第3楽章には“羊飼いもニンフも青空の下 春を祝って踊りだす”ってな具合にね。このソネットを描写するヴィヴァルディのデッサン力は並大抵じゃないね。

 イギリスの作曲家ディーリアス(1862−1934)の管弦楽曲「春 初めてのカッコウを聞いて」は、淡い色調の春だ。オケの編成も小さく、抑制が利いた美しさがある。よく聞くとカッコウの鳴き声が聞こえてくるよ。雰囲気は宮城道雄「春の海」かしら。

 ベートーヴェン(1770−1827)のヴァイオリン・ソナタ第5番は「春」というニックネームで呼ばれているよ。これは曲調から出版社がつけたもの。その名のとおり、春らしいロマンティックな愉悦感に満ちている。瀧廉太郎の「花」とメロディーが重なるぞ!
 ベートーヴェンには仇名つきの名曲が多いけど、本人が名づけたものとそうでないものに分けることができるんだ。前者は、交響曲第3番「英雄」、第6番「田園」、ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」など。後者は交響曲第5番「運命」、ピアノ・ソナタ第14番「月光」、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」などだ。こんなことも憶えておくと面白いよ。

 アメリカの作曲家 コープランド(1900−1990)のバレエ音楽「アパラチアの春」は1945年のピューリッツァー音楽賞受賞作。アパラチアはアメリカ東北部に位置するアパラチア山脈のこと。ただし、タイトルは後付だから、アパラチアを描写した音楽というわけじゃない。まあ、雰囲気モノってこと。組曲は全部で8曲から成るが、ここでは第7曲「シェーカー派の楽曲による変奏曲」を選ぼう。素材はコープランドお得意のアメリカンメロディー。3分足らずの中に5つの変奏を織り込む天才技が光ってる。カラッと澄み切ったアメリカの春。よしだたくろう「春だったね」の質感と相似。

 春の季語に“ひばり”がある。だから、最後に“ひばり”楽曲を3ついってみよう。チト強引かな? チャイコフスキー(1840−1893)の「ひばりの歌」は、ピアノ曲集「四季」の3月曲。ロシアの春にはどこか哀愁が漂うね。中島みゆき「春なのに」の哀感と通じる? ハイドン(1732−1809)の「ひばり」は、有名な弦楽四重奏曲の1曲。いかにもパパ・ハイドンらしいのどかな曲だよね。最後はイギリスの作曲家ヴォーン・ウィリアムズ(1872−1958)の「あげひばり」。“ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス”と副題が付いている。ひばりが大空に向かって舞い上がる情景を描いたヴァイオリンの隠れた名曲だ。

 じゃRayちゃん。これらを聴いて春を待ちましょう。皆様も、もし入用でしたらお申し出ください。但し、お貸しするだけですが。
                春呼ぶクラシック

       1 春の歌(メンデルスゾーン)
       2 春の声(ヨハン・シュトラウスU)
       3 交響曲 第1番「春」から 第1楽章(シューマン)
       4 抒情小品集より「春に寄す」(グリーグ)

         協奏曲「四季」より「春」(ヴィヴァルディ)
       5 第1楽章
       6 第2楽章
       7 第3楽章

       8 春 初めてのカッコウを聞いて(ディーリアス)
       9 ヴァイオリン・ソナタ 第5番「春」(ベートーヴェン)
      10 バレエ組曲「アパラチアの春」から
         「シェーカー派の楽曲による変奏曲」(コープランド)
      11 「四季」から3月「ひばりの歌」(チャイコフスキー)
      12 弦楽四重奏曲「ひばり」から第1楽章(ハイドン)
      13 あげひばり(ヴォーン・ウィリアムズ)
 2014.01.25 (土)  クラウディオ・アバド追悼
 1月20日、イタリアの名指揮者クラウディオ・アバドが亡くなった。1933年生まれだから、小澤征爾(1935生)、ズビン・メータ(1936生)らと同世代である。昨年秋の来日取り止めでいやな予感はあった。80歳はまだまだ若いのに、病魔には勝てなかった。近年の進化には目を見張るべきものがあったから、本当に残念である。

 音楽の色合いは、ディオニソスよりアポロ。フルトヴェングラーよりトスカニーニ。ドイツよりイタリア。濃厚より爽快。暗より明・・・・・美しい響きの中に旋律線がくっきりと浮かび上がる「アポロ的明晰さ」。ベルリン・フィルの団員も「カラヤン時代に比べると音が透明になった。上から下までスコアの音が聞こえる」と証言する。音楽性は、主観より客観。恣意より自然。不埒より真摯。といったところか。

 彼が指揮する上で心がけたこと。それは「“音の受け渡し”への気遣い」である。そのことはユース・オーケストラのリハーサル映像で感じた。オーケストラは音の受け渡しが重要である。自分のパートの弾き放しじゃいけない。自分の出した音を次の弾き手に心をこめて渡すのである。受けるほうも時間が来たから弾き始めるのではない。前の弾き手から気持ちをこめて受け取るのである。「互いに聞きあう能力。それはともに音楽するという文化」とアバドはいう。そんな彼の信条は、晩年になるほど強固となり徹底してゆく。

 私は「柳原キャンパス」なるサイトで、名曲の名演奏選びを行っている。まず楽曲を選び、名演と定評のある演奏は洩らさずにその他可能な限りの演奏を集める。多いもので50点、平均20点くらいになる。これらをすべて聞き、10点をノミネートする。さらにこれを、ブラインドで聞き分けられるまで聴き込んで、「究極のベスト」を一点選定する。選定の基準は独断で決め込んだ楽曲の理想的いでたちである。峻別のポイントは3つ、「テンポ」「サウンド」「節回し」。結果、定評ある名盤がスンナリ決まる場合もあれば、ノーマーク盤が選定されることもある。これが面白い。現在、50楽曲の選定が終了、小休止しているが、これまでで、アバド関連の「究極のベスト」は3つある。

 まずは、ブラームス「交響曲第2番ニ長調」(ベルリン・フィル1988)である。かのレナード・バーンスタインは、ブラームスの音楽を「その魅力は彼特有の二元性の中に潜んでいる。古典性とロマン性。重厚と清澄。厳格と激情 などなど。これはAなのかBなのかじゃない。まさに、この軋轢こそが、ブラームスをしてこのような見事な緊張ある音楽を創らせ、どこをとってもブラームスの声でささやきかける音楽を創り出させたのだ」と評した。まさに至言、これは哲学だ。ドイツ的二元論から西田哲学「矛盾的自己同一」へ。これぞ、般若心経「色即是空」、赤塚不二夫「これでいいのだ」。そう、ブラームスはブラームス。これでいいのだブラームス、なのだ。アバドの“ブラ2”はまさにバーンスタインの定義そのもの。巷間言われる“ブラームスの田園交響曲”なんてもんじゃないのであって、それはまさに天空からの声であり地上からの祈り、ブラームスの囁きそのものなのだ。
 「ブラ2」を「田園」になぞらえたのはドイツ人ジャーナリスト、ワルター・ニーマン(1876−1953)という人らしいが、日本の文献にはこのフレーズが氾濫している。因みに、私の手持ち国内盤ライナーノーツの7割がこのフレーズをまともに取り上げているが、この画一的没個性は閉口もの。クラシックの読み物がつまらないわけである。 アバドの「ブラ2」、色合いはトスカニーニ的だが、テンポはフルトヴェングラーに近い。ちなみに、演奏時間は、トスカニーニ37分17秒、フルトヴェングラー40分51秒、アバド40分47秒(第1楽章提示部繰り返しを除く)である。

 ブラームス「ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調」(ベルリン・フィル、ピアノ:アルフレッド・ブレンデル1991)も絶品である。
 この曲は、イタリア旅行の産物で、ブラームスのイタリアへの憧憬に溢れている。まるでアンデルセンにおける「即興詩人」? ブラームス的色調の中にイタリアの青空が溶け込む。いぶし銀と陽光、強靭さと軽やかさ、アバド&ブレンデル盤はこのバランスが最高なのだ。アバドには盟友ポリーニとの共演盤(ベルリン・フィル1995)もあるが、ブレンデル盤には遠く及ばない。殊にピアノにおける密度の差は歴然で、これぞ永遠に色あせない決定的名演だ。
 協奏曲では、ムローヴァとのブラームス「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」(ベルリン・フィル1993)、ゼルキンとのモーツァルト「ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 K414」(ロンドン交響楽団1982)なども素晴らしい。

 最後は、マーラー「交響曲 第2番 復活」(ルツェルン祝祭管弦楽団2003年8月収録ライブCD&DVD)である。この曲は、葬送に始まり、平安な人生の回想、生活の喧騒、神への回帰、そして復活で終わる。死と生と復活という人間の相反する根源的本質がそこにある。演奏者が心に死を意識していないとこの音楽は描けない。
 癌を患ったアバドは、死の淵から「復活」を見た。病を克服してオーケストラへの意思徹底がより強固になった。神への祈りもあっただろう。2003年8月19日、「今日、すべてが違って見えた」と彼は言った。音楽に新たな生命が吹き込まれたのである。
 「アポロ的明晰さ」の基調はそのままに、コミュニケーションが密になった結果、音楽に力が加わり、一つひとつの音に意志が篭る。すべての音が躍動し有機的に繋がる。団員の生き生きとした表情はどうだ。時に笑みさえ湛えている。音楽することの喜びに満ちあふれている。まさに音楽が生きている。病を契機に音楽が劇的に変わり、彼の芸術はここに完成した。アバド&ルツェルンは、指揮者とオーケストラという関係がかつてない領域に達した、奇跡のコンビとなった。

 「手術前に比べて体重が2Kも増えた。体調もすこぶるいい。音楽の探求には限界はない。これからも新しい音楽創造へたゆまぬ追求を続けたい」。そう話してから10年半、アバドは遂に帰らぬ人となってしまった。まだまだ幾多の素晴らしい音楽を創造してくれたはずなのに。本人、どんなにか無念だったろう。2002年、アバドがベルリン・フィルを去ったとき、ベルリンの人々は彼の不在を嘆いた。今、世界の音楽ファンは彼の不在を嘆く。

 「始まりはいつも何かに対する愛情。人に対する愛であり物事への愛だ」常日頃そう話していたアバドは、その言葉通り、東日本大震災後の2011年8月9日には、ルツェルンでマーラーの「交響曲第10番アダージョ」を演奏してくれた。「音楽を聴くことが、あらゆる面で皆様の支えになると思っています」というメッセージとともに。それはまさに祈りの音楽だった。2013年秋には、被災地を慰問する予定だったと聞く。クラウディオ・アバドは人間愛の芸術家だった。

 「音楽において沈黙はとても重要だ。音が沈黙の中に緩やかに消えてゆくものがある。そして、沈黙は永遠に続く」(ドキュメンタリー映像「沈黙を聴く」2003より)そう語ったアバド自身が、沈黙の中に消えて逝ってしまった。悲しい。寂しい。われわれは、これから、一体何を聴けばいいのだろうか?
 2014.01.20 (月)  Jiijiのつぶやき〜年末年始エンタメ編
 Rayちゃん、具合はどうだい。先だって、熱が40°も出ちゃうから、Jiijiは心配したよ。赤ちゃんの多くが患る突発性発疹だったから一安心したけどね。地球は未曾有の寒波のようで、アメリカ西海岸じゃ、みかんにつららだってさ。風邪など引かないようにね。

 2014年元旦、まずはウィーン・フィル ニューイヤーコンサート。これを聞かなきゃ一年は始まらない。今年ビックリしたのは、知ってる曲がたったの1曲だけだったこと。最後にみんなで「明けましておめでとう」と挨拶する「美しく青きドナウ」と会場全体が手拍子で盛り上がる「ラデツキー行進曲」の定番2曲を除くとね。
 指揮はダニエル・バレンボイム(1942−)。「エジプト行進曲」、ワルツ「もろ人 手をとり」、「平和の棕櫚」という選曲に彼のポリシーが表れる。中東―同胞―平和。バレンボイムはアルゼンチン生まれのロシア系ユダヤ人で、イスラエルとパレスチナの和平を願い、ちゃんと実践している指揮者なんだ。イスラエルとアラブ諸国の混成オーケストラ、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団の活動を、パレスチナ系アメリカ人学者サイードに共鳴して、推進している。「平和を叫ぶだけじゃなく、一人ひとりが互いの意思を通じる道を探し実践してゆくことが大切だ」という彼のメッセージを真摯に受け止めよう。これは我々の日中・日韓問題にも通じることだと思う。

 昨年の12月25日には、毎年恒例の小田和正「クリスマスの約束」(TBS)を見た。第1回は2001年だから、もう13回を数える。その第1回は、山下達郎とのやり取りが話題になった。番組冒頭で山下の手紙が紹介された。「長い時を経て小田さんに『クリスマスイブ』を歌ってもらえる時代になったとは感慨無量」ってね。これは、「アーティスト同士お互い尊敬しあえるパフォーマンスの場を作ろう」という小田の呼びかけに対してのもの。そう言いながらも、出演には至らなかった。これは山下にとっては当然のことで、テレビにはまず出ないんだから、しょうがない。むしろ、小田に対して真摯に返事を書いたことが、画期的だったと思う。二人は音楽性も違うし活動上も全く接点がなかったから、不仲説が流れたりもした。でも、同じ時代を音楽という共通の場の中でずっと走り続けてきた二人、5歳違いだけど根底には戦友意識みたいなものがあるんだろうね。
 2013年のゲストは吉田拓郎。こちらは1歳差。歳もキャリアも格もすべてたくろうが上。ところが、なんだいあの小田の態度は。ため口は一生しちゃいかんのだよ。たくろうは大人だからニコニコ笑って流してるけど、ファンからみたら「いかがなものか」だぜ。だって、たくろうはね、自分で曲作って、歌って、コンサートやって、レコード出して、ヒットする。そういうJ-POPアーティストの祖。すべての道はたくろうに通じる。別格のカリスマなのさ。中島みゆきも「たくろうさんは別格。尊敬するしかない人」って言ってるんだぜ。櫻井和寿、鈴木雅之、さだ、財津あたりにならまだ許せるけど、たくろうに対してはだけは絶対に許せん!!
 でもね、「落陽」のサビで小田が付けたコーラスにはゾクッときたぜ。たくろうのややハスキーがかった男っぽい声に、小田の澄み切ったハイトーンが乗っかって、なんとも絶妙なハーモニーを醸成するんだな、これが。態度は悪いけど、これだけのものを聞かせてくれるんだから許しちゃおうか。音楽と人間は別ってことかもね。

 法隆寺のリュウちゃんが、「百田尚樹は胡散くさい。生意気に『至高の音楽』(PHP研究所)なるクラシック本を書いたんだが、どんなものか、検証して」と言ってきた。彼はリベラリストだから、安倍晋三信者右寄り作家でNHK経営委員まで務める百田が嫌いなんだな。とはいえ、早速買って読んでみたら、これが結構面白い。取り上げた楽曲は26曲。楽曲解説と演奏評という構成。特に前半の楽曲解説部分がいい。小説と同じ徹底した検証スタイルで書かれているから、なかなか中身が濃い。薀蓄にあふれているのだ。

 例えば「展覧会の絵」の「ビドロ(牛車)」の件。「ムソルグスキー『展覧会の絵』は10曲からなる組曲で、親友の画家ハルトマンが遺した絵からインスピレーションを受けて作曲した標題音楽。第4曲“ビドロ”は、ポーランド語で牛車の意味だが、この曲の絵だけが特定されていない。(ムソルグスキーの手紙から)ポーランドで描かれたことは分かっているのだが、残っているのは、兵士と群集と教会とギロチンが描かれた1枚のデッサンだけ。調べてみると、“ビドロ”には『虐げられた人々』という意味があった」。即ち、第4曲は重い荷車を引く牛車ではなく圧制に虐げられた民衆を描いたものだった可能性が強い、というもの。斬新! Jiijiは、子供のころ、ラジオドラマ「真田十勇士」を聞いていたけど、そのテーマ曲がこの「ビドロ」だったんだ。なるほど、牛じゃなくて人だ。そんな特別に愛着がある「ビドロ」の薀蓄、面白かったよ。
 演奏評も悪くない。「ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番」では、今、誰も推さないクライバーンの演奏(私のベスト1)に触れているのもなかなかだし、「第九」ではフルヴェン最上の演奏が「ウィーン・フィル1952.2.3ライヴ」で一致した(バイロイトでは賛否が分かれたが)。リュウちゃんには「作品と人間は切り離して捉えるべし」と言ってやったよ。

 興味が湧いたので、映画「永遠の0」を見たが、これがまたいい! 泣けた。主人公の宮部久蔵は、あの時代に、国のために死ぬことよりも家族のために生き延びることを選んだ飛行気乗りだ。当時ではありえないはずの話なのに、納得させられる。このリアリティと説得力は凄いよ。あまりの良さに、帰り道、即、本を購入、現在原作を読んでいる。但し、困るのは、登場人物が全部映画のキャストと被っちゃう。でもまあ、これはしょうがないかな。

 ノーベル賞に関する秘密文書50年後解禁で、「1963年のノーベル文学賞選考で、セミファイナル6名枠に三島由紀夫が残っていた」ことが明らかにされたよ。日本文学研究家で三島と個人的に親交のあったドナルド・キ−ンさんは、「これで、三島に十分な資格があったことが証明された。5年後の1968年も最有力といわれながら、結果は川端康成が獲った。三島は、これで、向こう20年、日本人の受賞はないとして、華々しく散ることを選んだのではないか」と書いている(朝日新聞)。が、これは違うと思う。ノーベル賞受賞が三島の死生を左右するほどのものだったとは到底思えない。直感だけど。ただ、キーンさんがテレビの対談で「『ノーベル賞は川端にも三島にも死をもたらした』とする大岡昇平の意見には同感です」と言ったが、これは理解できる。受賞した川端は賞の重みに何も書けなくなってしまい死を選んだ。三島が受賞していたら、ますます素晴らしい作品を生み出して、あのような狂気に走ることはなかった? ノーベル文学賞は実に不可解。なぜ村上春樹は、毎年候補になりながら獲れないのか? Jiijiは「このままでは永遠に獲れない」と考える者ですが、まだ検証不足ゆえ、また、いずれ。
 2014.01.10 (金)  Jiijiのつぶやき〜年末年始スポーツ編
 たけしが「ビートたけしは振り子、だからぶれない」(朝日新聞)とか、「人生とはゴールの手前で振り返るもの」(サッポロ・ビールCM)なんか言って、随分偉そうになっちゃってね。でもまあいいか、この人にはテレがあるから。
 「クラ未知」もスタートして6年目、シリアスネタもそうそうあるわけじゃないし、何か新規なモノをやろうかと。そう、題して「Jiijiのつぶやき」。たけしが東スポでやってるコラムみたいな。なんでもアリ。自由気まま。ズバズバ斬ってテレで隠す。そんな気楽なのがあってもいいかなと。Jiijiというのは、私も昨年孫が生まれまして、みんなに「じいじ」と呼ばれるようになっちゃったから。でもって、テレるけど、孫は可愛い。本当に可愛いいんですよ、これが。呼びかけは“なあRayちゃん”でいこう。Rayってなに?光だよ光。光線。じゃっ、ソロソロ始めてみますか。

 なあRayちゃん、正月はなんてったって「箱根駅伝」だったね。東京―箱根間を5人で5時間台で行っちゃうんだから凄いもんだ。今年は東洋大の圧勝。3区でトップに躍り出て、あとは影も踏ませない。展開的にはつまらなかった。下馬評は駒沢だったけどね。監督の大八木さんはちょっとしゃべりすぎ。戦略は隠しといたほうがいいのにな。車で選手に飛ばすゲキも色々言いすぎ。あれじゃ選手の頭はパンパンだよ。そこへゆくと東洋大の酒井監督は実にシンプル、「攻めろ!一秒を削りだせ」。勝敗はこの差だな。
 面白かったは一号車解説の瀬古さん。「ストライド走法だから遅く見えるんですよ。なので、速いのかなあって勘違いしますけど、タイム見ると2分30秒台で来てますから、この足の負担は凄いと思いますよ」ナンノコッチャ! それにしても彼、選手時代は凄かった。惜しかった。1980年福岡国際。五輪2連覇のチェルピンスキーを圧倒して優勝。モスクワ不参加の鬱憤を晴らした。まるで1948年の古橋広之進。もしモスクワ五輪に参加できてたら、間違いなく金メダルだったろうね。マラソンの金はもう永久にないだろうから、モスクワ不参加はニッポン陸上界にとっても歴史的痛恨事だな。
 一つ言いたいこと。あの繰上げスタートっていうの止めてくれないかなあ。今回みたいに優勝争いがつまらないときは、10位以内に入るかどうかのシード権争いに興味が移る。というか、毎年こちらの方が面白いんだよ。ところが繰り上げちゃってるから、見た目の順位が本当の順位じゃない。面白いものを換算しながら見なきゃいけないなんて、視聴者を馬鹿にしてるよね。テレビはたすきが繋がったとか繋がらなかったとかいって煽っているけど、そんなのより、シード権争いの方が面白いよ。だから、見た目どおりの順位で、ヨ・ロ・シ・ク。

 今年のスポーツ、まずはソチ冬季五輪。もう、あと1ヶ月でやってくる。前回バンクーバーで獲れなかった金メダル、今回は期待したいね。まずは女子ジャンプの高梨沙羅ちゃん。テレマーク姿勢がまだまだだから、サラ・ヘンドリクソンが出てきたらコワいし、ワールドカップ第5戦で優勝のアブバクモアも地元だけに強敵だ。だけど、どうだろう、日本選手の中で金に一番近いのは彼女だろうね。17歳、頑張って!!
 浅田真央ちゃんは ?だな。残念だけど、このままではキムヨナに勝てない。テレ朝解説の佐野稔が「ミスをしなかった方が勝つでしょう」なんて、能天気言ってたけど、勝つ方法はただ一つ、トリプル・アクセルを封印すること。難易度極高なのに3回転+3回転より基礎点が低い。謂わばハイ・リスク&ロー・リターン。こりゃ割に合わない。だから止めてプログラムを見直す。完璧にやったらキムヨナの上に行くのを作っちゃう。でもまあ、その辺りはコーチに任せて、我々は応援するしかないよね。頼むぜ佐藤コーチ。頑張れ真央ちゃん!!!
 フィギュア高橋大輔の出場は連盟のヒットだね。まあ、規定を見れば当然だけど。彼はやると思うな。羽生くんとW表彰台を期待。 強敵チャンがいるけど、二人のどちらかに金を獲ってほしいぜ!フィギュアは男女とも最高に面白い。とにかく金一個なんとか。頼むぜニッポン。団体戦もあるでよ。
 面白いのはハーフパイプの平野歩夢。15歳の中学生。ワールドカップで金取ったからね。王者ショーン・ホワイトの牙城を揺るがすか?!

 冬季・日本が獲得した金メダルって意外と少ないのだ。これまでたったの9個。ジャンプ70m級の笠谷幸生(72札幌)、ノルディック男子団体2個(92アルベールビル&94リレハンメル)、スピード・スケート500mの清水宏保、ジャンプ・ラージヒルの船木和喜、ジャンプ男子団体、女子モーグル里谷多英、ショート・トラックの西谷岳文(以上98長野)、女子フィギュア荒川静香(06トリノ)。
 さて、ソチではこれに上積みできるかな?最最最高で5個(高梨、浅田、羽生or高橋、フィギュア団体、スケート500mの加藤)、最低ならゼロだ。頑張れニッポン!!!

 年末年始、上原浩治のテレビ出まくりは目立ってた。最高の年のオフだから当然だろうな。彼、ゴルフもうまいんだよ。とんねるずの「スポーツ王は俺だ!」。60ヤードアプローチ浮島キャッチで2回成功。練習ナシのティー・ショットはいきなりど真ん中280ヤード。イーグル・パットを見事に入れてプロ(石川&谷原)に勝利。ホール・イン・ワンもあと数センチ。いやはや持ってるワ。でも、一番よかったのは年末の「サンデー・モーニング」の発言。金やんと張さんへの「カツ!!」だね。この二人、ことあるごとにメジャー・リーグを批判する。大リーガーをばかにする。「あんなへぼバッターは落としておけば討ち取れる」とかね。上原の前でまた言ったものだから、「私は金田さんと張本さんにカツです。メジャー・リーグはそんな甘いもんやおまへんよ」って。脳が硬化しちゃっていつも同じことしか言わない偏屈大御所老人に辟易していたJiijiにとって、上原クンの「カツ!!」は大「アッパレ!!」だ。上原クン。今年も頑張って!!応援するよ。

 マー君の大リーグ行きが決まったのもよかったね。強欲三木谷も世論を敵には回せなかった? ある特番で、野村さんが出てきて、マー君が「野村監督こそが恩人です」と言ってたのは嬉しかったねえ。星野じゃないもんね。星野仙一。嫌いだ。理屈なし。マー君よ、どこに入っても最初は焦らずに行こうぜ。10勝前後でいいからね。人生は長い。野茂さんを見習ってな。

 6月にはサッカー・ワールドカップがある。予選ブロック、日本はC組。コロンビア(世界ランク4位)、ギリシャ(12位)、コートデュボワール(17位)。予選通過に期待するけど厳しいですよ。人はよくワールド・ランキングなんて関係ないというけど、あるよ。日本は47位だぜ。サッカー知らない人が見たらダメだと思うのが自然。2勝1敗もあるけど全敗もある。とにかく6月14日のコートデュボワール戦に勝つしかないな。負けたら終わり。競艇みたいで勝負は早い。予選で負けたらネイマールでも見て楽しもう、くらいな覚悟はしておいたほうがいいヨ。頑張れニッポン!!!

 本田圭佑は遂に念願のACミラン入り。ヨカッタね。ここまでは彼の思い描いたとおりのサッカー人生。だが、勝負はこれから。頂点に近づけば近づくほど道は険しくなる。ミランは今季リーグ13位と低迷中。打開を本田一人に求めてる。チームもファンも。きついぜこのプレッシャーは。勝てば超一流に、負ければ普通の選手に。頑張れ本田。世界の扉をコジ開けようぜ。そしてワールドカップで日本をベスト8に導いてヨ!!

 本田とは因縁の中村俊輔は可哀想だった。昨年末、Jリーグ、横浜Fマリノスは2試合を残して引き分け1でも優勝という状況。だが、なんと2連敗で大魚を逃してしまう。芝生にうずくまる俊輔の姿が忘れられないぜ。年明け天皇杯を獲ったのがせめてもの救いだった。

 香川と清武の55人抜きも見事だったね。「スポーツKYOKUGEN2014」でのこと。小学生のサッカー少年が55人で守ってる。そこを二人が切り裂いて得点挙げるのだ。いくら小学生でも55人ですよ。グラウンドが人で埋まってスペースがないんだから。遊びとはいえ見事だった。同じ番組の中で、メッシと柿谷曜一朗が40メートル先のゴミ箱に蹴り入れたのも見事。いやはや、プロの凄さを見せつけられました。そんなこんなで、サッカー・ワールドカップ、頼むぜニッポン!ベスト8だ!!

 最後に一つ。大晦日にやったボクシング、WBA世界ライトフライ級タイトルマッチ、チャンピオン井岡一翔VS第3位アルバラード(ニカラグア)戦は凄い試合だったネ。18戦全勝15KOという最強の挑戦者は一発狙いの接近戦を挑む。チャンピオンはこれを絶妙にかわしながら的確なパンチをヒットしまくる。井岡は強かった!挑戦者はタフだった。KOこそならなかったが最高に楽しめたよ。
 ボクシング界にはもう一人ゴッド・レフトの異名を持つWBC世界バンタム級王者山中慎介がいる。この人も強いぜ。とてつもないよ。亀田興毅に統一王者戦を呼びかけているが、応じないだろうな。やったら亀田は間違いなくマットに沈む。この二人どこまで勝ち続けるか。あの具志堅の防衛記録12回を破ってほしいぜ。じゃ、 今日はコレまで。次はエンタメ編といこう。乞うご期待!!
 2013.12.15 (日)  閑話窮題〜GlobalクリスマスSongs
 2000年前後、レコード業界にコンピレーション・ブームという現象が起きて、いわゆるコンピCDがよく売れました。様々なアーティストの曲が1枚に入っているので、昔はオムニバスと呼んでいました。編成に当たっては、「半分は自社音源で」という申し合わせ事項がありまして。あとは、切り売り不可能なアーティストがいて、たとえば山下達郎、竹内まりや、BZ、プレスリーなどはNG。中島みゆき、サザン・オールスターズは条件付OKで、松任谷由実はNGでも荒井由実はOKなど。作る側はこれらの制約を気にしつつ、企画に頭をひねったものでした。

 街は、クリスマス・ムード一色。アメリカじゃ、ブラック・フライデーが空前の売り上げで年末商戦が一気に盛り上がっているとか。ホワイト・ハウスのクリスマス・ツリーも点灯。そこで閃きました。My Christmas Compi-CDの企画。これならジャンルもアーティストも制約なし、洋楽・邦楽・クラシック、自由気ままに作れます。題して「Global クリスマスSongs」、編成の始まり始まりー!!

 まずは、われらが山下達郎の「クリスマス イブ」。これは文句なし。今やクリスマス・ソングのクラシックともいえる名曲です。間奏のア・カペラが「パッヘルベルのカノン」というのもスマート。文句があるとすれば、(個人的過ぎる理由ですが)RCA(私のいたレコード会社)から移籍、MOON RECORDS設立(1983年)直後の作品だったこと。もしこれがRCA在籍時代の作品だったら、どんなにヨカッタことでしょうってね。
 でも、達郎さんとの思い出は不滅です。1979年秋、彼の勝負作「MOONGLOW」に合わせ全国プロモーション行脚をしたのを懐かしく思い出します。各地で、会社の営業所、特約店、放送局、新聞社、タウン誌などを精力的に回ったものです。仕事が深夜に及び、一日の仕上げが屋台のラーメンだったり。プロデューサーのK氏と局の有力者を交えてジャン卓を囲んだり。まあ、よく働きました。
 「ビートルズは影響受けるに決まっているから聴かない」「タバコは声と関係ない」「大事なのはマスコミじゃない。僕のレコードを直接売ってくれているレコード店の皆さん」あたりが、彼との会話で特に印象に残っている台詞。ただし、タバコ今は止めているようです。
 「MOONGLOW」を勝負作と言ったのは、社内で達郎さんが立ち上げた「Air RECORDS」第一弾だったから。彼は、これを契機に、翌年の「ライド・オン・タイム」を経て(コマーシャル的にも)ビッグになってゆくのです。
 因みに“Air”のロゴは吉田美奈子さんが、達郎氏との会話中に口紅で走り書きしたものとか。まさに、当時、二人は音楽活動のパートナーでした。

 その吉田美奈子さんも思い出深い人です。知る人ぞ知るJ-POPの神様的存在。彼女の移籍先は決まって新規のレコード会社か既製のレコード会社の新部門。それは、彼女がハード(会社の規模)ではなくソフト(スタッフ)を優先したこと。レコード会社にとっては、「吉田美奈子がいる」ことが会社のグレード・アップにつながる。そんな双方の意向が合致した結果なのでしょう。SOHBIも、彼女をステイタスとして立ち上げたレコード会社の一つでした。私はここで彼女のプロモーションに携わりました。出会った時の私の(失礼な)言動によるマイナス・スタートが、徐々に上向き、最後にわかり合えた(と思っている)固い絆は、私の財産であり誇りでもあります。「ぼくは(と彼女は言う)夕方から夜にかけての一瞬の色。黒でも白でもない。そう、紫に近い色が好きなんです。Twilight zone」「マスターテープはハドソン川に捨ててきました」「お母さま、お元気ですか?」などなど、時に鋭く、時に優しく、緊張もし、心安らいだりの貴重な4年間でした。
 「クリスマス・ツリー」はクリスマス・ソングの隠れた名曲。自費制作盤「BELLS」(1986年リリース)に入っています。このCD、3000枚しかプレスしおらず、彼女から直接いただいた貴重な一枚。♪毎日が祈りときらめき だから心こめてクリスマス・ツリー飾るの・・・・・靭く気高い歌声、静かな説得力の素晴らしい名唱です。

 お次は洋楽。ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」は、定番中の定番なのでこれは外せない。でも、好みはペリー・コモなのでこちらも収録。その昔、パット・ブーンもよく聴きましたが、最近あまりかかりませんね。中間のハミング、結構よかったのですが。
 ホワイトに対してはブルー? エルヴィス・プレスリーの「ブルー・クリスマス」。彼には賛美歌のアルバムもあるので、そこから「アデステ・フィデレス」を引っ張ろう。マライヤは入れません。この曲、好きじゃないもんで。
 エルヴィスも思い出深いアーティストでした。1973年1月14日、ハワイからの衛星中継が一番の印象。柴崎の下宿で営業仲間と食い入るように見入ったあとは、このライブ盤の、2ヵ月後という当時としては超スピードの発売に、気合を入れて取り組んだものです。

 制約ナシだからクラシックも入れましょう。ここはベスト・セラー「カラヤン/アヴェ・マリア」から「きよしこの夜」と「アヴェ・マリア」(グノー/バッハ)を。RCAとデッカとの提携で実現したこの企画。ソプラノ独唱はレオンタイン・プライス。これはデッカの原盤ですが、RCAにはカラヤン&プライスの「カルメン」という超ベストセラーがあります。

 甲斐バンドの「安奈」も、歌詞からクリスマス・ソングといっていいでしょう。♪安奈 クリスマス・キャンドルの灯は 揺れているかい お前の愛の灯はまだ 燃えているかい・・・・・クリスマス、理由あって離れ離れになっている恋人を遠くから想う。実にロマンチック&センチメンタル。

 松任谷由実の二曲「ロッヂで待つクリスマス」と「恋人がサンタクロース」も必聴。彼女の歌はすべて映像が浮かんでくる。これらを聴くと、70年代、マイ・第二次・スキー・ブームの頃を思い出します。あのころ、みんな若かった!ニッポンも元気だった!!「恋人がサンタクロース」は「ママがサンタにキスをした」のJ-POP版でしょう。

 BZの「いつかのメリー・クリスマス」も大好きな曲。まるで5分間の短編小説。90年代わがカラオケ全盛期にはマイ・クリスマス・ソングの定番でした。ところが、今は息子が歌ってる、時代は巡る ですね。 ♪いつまでも手をつないでいられるような気がしていた 何もかもがきらめいて がむしゃらに夢を追いかけた 君がいなくなることをはじめて怖いと思った 人を愛するということに気がついたいつかのメリー・クリスマス・・・・・サビの詩すべてがいいんですよ。甘酸っぱいなあ。

 では、最後に曲目表を掲載して本章を閉じます。なお、このCompi-CDご希望の方はお気軽にお申し出ください。勿論、非売品ですのでお貸しするだけですが。
      GlobalクリスマスSongs

 1 きよしこの夜 (L.プライス&カラヤン)
 2 ホワイト・クリスマス (B.クロスビー)
 3 ブルー・クリスマス (E.プレスリー)
 4 クリスマス イブ (山下達郎)
 5 安奈 (甲斐バンド)
 6 恋人がサンタクロース (松任谷由実)
 7 クリスマス・ラブ (SAS)
 8 アヴェ・マリア (P.コモ)
 9 クリスマス・ツリー (吉田美奈子)
10 アデステ・フィデレス (E.プレスリー)
11 ロッヂで待つクリスマス (松任谷由実)
12 いつかのメリー・クリスマス (BZ)
13 ホワイト・クリスマス (P.コモ)
14 オー・ホーリイ・ナイト (J.デンバー)
15 アヴェ・マリア (L.プライス&カラヤン)
16 メリー・リトル・クリスマス (H.マンシーニ)
17 きよしこの夜 (C.アトキンス)
 2013.12.05 (木)  晩秋断章〜今年の秋は回帰がテーマ
[オードリー・ヘプバーン] 

 先日、友人がニューヨーク旅行から帰ってきた。あまりに寒くてAutumn in New YorkならぬCold in New Yorkの趣だったとか。秋のニューヨークといえば名曲「ニューヨークの秋」を思い出す。JAZZマイスターのK氏から譲り受けたデクスター・ゴードンのテナー・サックスによる演奏がいい。乾いた抒情を包みこむ寛恕の表情が魅力だ。が、なんといっても私にとってのニューヨークの秋は、映画「ティファニーで朝食を」である。オードリー・ヘプバーン(1929−1993)扮するホリー・ゴライトリーの夫が現われてジョージ・ペパード扮する作家の卵に「帰るように言ってくれ」と言うシーン。この場所がセントラル・パークで、枯葉舞う公園のベンチ群の風情がなんともニューヨークなのである。

 今年はオードリーが亡くなって20年。テレビは特集番組や名作のオンエア(NHK-FMで7本)やらで賑わいを見せる。出色は「BS歴史館:『ローマの休日』〜“赤狩り”の嵐の中で」(2010年OAの再放送)だった。1950年代、赤狩り真っ只中のハリウッドで、これに真っ向立ち向かった監督 ウィリアム・ワイラー(1902−1981)、クレジット表示に半世紀を費やさねばならなかった脚本の ダルトン・トランボ(1905−1976)らの苦闘が描かれる。なぜ、脚本家のクレジットがイアン・マクレラン・ハンターだったのか。なぜオール・ロケになったのか。なぜ白黒なのか。等々、様々な疑問が投げかけられ解明されてゆく。名作と時代背景との関連に興味は尽きない。
 因みに私のオードリー映画・ベスト3は、制作年代順に「ローマの休日」(1953)「昼下がりの情事」(1957)「ティファニーで朝食を」(1961)。順次一口キャッチを付けるとすれば、“芸術性と娯楽性が完璧に融合した傑作”“文句なしのラヴ・コメディー”“個性派胸キュン作品”といったところか。オードリーは永遠なり。

[エルガー]

 秋に聴くクラシックの名曲としては、エドワード・エルガー(1857−1934)晩年の傑作「チェロ協奏曲 ホ短調」に止めを刺す。すべての旋律が晩秋の色あい。イングランド東海岸を髣髴とさせる荒涼と寂寞と憂愁。内面には赤い炎が静かに燃え滾る。秋の風情は特に第3楽章アダージョで感じる。独奏チェロの物悲しい歌を支える伴奏は弦楽器とクラリネットとホルンだけ。楽器編成までもが晩秋そのものなのだ。冒頭主題が結尾で還る構成は輪廻の提示か。ジャクリーヌ・デュ・プレ(1945−1987)の歴史的名演(1965録音)で聴きたい。

[中島みゆき]

 11月25日は、年に一度の中島みゆき詣で。今年は題して「夜会工場VOL1」。東京公演が僅か4日間だったため、チケット取得に苦労したがなんとかもぐりこめた。
 今回は、1989年の第1回から17公演の総ざらい。「夜会」に定型はなく、なんでもありでなんでもなし、いわば“中島みゆき、気持ちの赴くままに作るの巻”なのだ。では、その総ざらいとは? まあ、それはさておき、「夜会」に行く人は、私も含め多かれ少なかれ中島教の教祖様の教えを拝聴しにゆくわけだから、「ありがたや」と受け入れればそれでいいのだ。そう、今回もただただありがたい。
 全22曲の中での一番楽曲は「命のリレー」。私が初めて見た「夜会〜24時着0時発」(2004年)のクライマックスで歌われている。♪この一生だけでは辿り着けないとしても 命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ・・・・・歳をとって孫もできると、このフレーズが身に浸みるようになってきた。この世に大したものは残せるはずもないけれど、子に孫に何かを引き継いでいければ いつかなにかの実を結ぶことがあるかも。世代を超えるダイナミックな気持ちにさせられる。

 ニュー・リリースのアルバム「十二単」には「時代」のDVDがオマケに付いている。2011年1月、国際フォーラムでのライブ映像だ。無論私も見ている。「時代」のテーマは「無常」。中島みゆき根幹のテーマだろう。こんな歌がデビュー時に生まれちゃっている。一つの奇跡だと思う。
 これで、「時代」の正規ヴァージョンは4つになった。シングル(1975) 、デビュー・アルバム「私の声が聞こえますか」(1976)、21枚目のアルバム「時代〜Time goes around」(1993)、そして今回の映像。どれもみな素晴らしい。

[松任谷由実]

 同じ日に松任谷由実のニューアルバム「Pop Classico」が発売されたが、こちらのオマケDVDは新たにシューティングした「ひこうき雲」である。「ひこうき雲」はデビュー・アルバム「ひこうき雲」のタイトル曲で、ある意味ユーミンの原点といえる曲。今年の夏、宮崎駿監督最後の長編「風立ちぬ」のエンディングに使われ見事な効果を発揮していた。
 DVDのクレジットにはYumi Arai×Yumi Matsutoyaとある。オリジナルの歌唱に本人のヴォーカルを付加し、ストリングス・アレンジを変えている(宮本光雄→松任谷正隆)。これによって、全体の響きが豊かになり曲に違う表情が加わった。いい試みだと思う。

[エピローグ]

 オードリーの回顧、エルガーの輪廻、中島みゆきと松任谷由実の原点回帰。今年の秋は回帰がテーマ?

 11月8日、島倉千代子さんが亡くなった。大好きだった彼女を偲んで全曲集を聴く。私のお千代さんベスト3は、「からたち日記」(1956)「星空に両手を」(1963)「人生いろいろ」(1987)か。特に「星空に両手を」の ♪宝石なんてなくっても心は夢のエメラルド の件がいい。守屋浩のしゃがれ声とお千代さんの澄み切った高音がなぜか合っている。絶妙なマッチングなのだ。
 彼女の魅力は、親しみやすさと品のよさの同居という感じがする。どこか田舎っぽくてどこか気高い。クラシックの世界ではビルギット・ニルソン? それにしてもラスト・レコーディングとなった「からたちの小径」は感動的だった。死の三日前、自宅での録音である。壮絶な辞世の歌。これは人の声じゃない。彼岸からの音霊だ。これを聴いては、みゆきもユーミンも吹っ飛んでしまう。お千代さん 安らかに。
 2013.11.20 (水)  上原浩治&ボストンの奇跡2〜「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」
[栄光の2013年]

 「チームの勝利に役立ちたい。その気持ちだけです。その結果チームが順調に勝ち進んでいく。こんな環境の中で投げられるなんて本当に幸せ。投げることが楽しくてしょうがない。もしかして、20代の頃よりガムシャラにやっているような気がするんです」と上原は言う。野球ができる喜びと充実感に満ち溢れている。
 そんな戦いの中でマークした37人連続アウトと27試合連続無失点は、MLB史上2番目の記録となった。
 そして、9月20日、チームは遂に地区優勝を決めた。上原は、レギュラー・シーズン通算73試合に登板、4勝1敗21セーブ、防御率1.09と文句の付けようのない成績でチームに貢献した。

 チームも上原もこの勢いのままポスト・シーズンに突入。前年王者タイガースを破り見事アメリカンリーグ・チャンピオンに輝く(10月19日)。上原はここでも大車輪の活躍を見せ、5試合に登板、1勝0敗3セーブ4安打9奪三振無四球無失点という圧倒的数字で、MVPに選ばれた。お立ち台でインタビュアーの「お父さんの姿をどんな気持ちで見ていた?」の質問に、息子の一真くんは“excited”と答え喝采を浴びた。

 さあ、ワールドシリーズだ。相手はナショナルリーグの覇者・セントルイス・カージナルス。ワールドシリーズ11回の優勝を誇る名門だ。2011年、テキサス・レンジャーズ時代、無念の選考漏れに泣いた上原にとって、まさにそれは夢の舞台となった。「ここまできたら、もう30チーム中2チームしかいないのだし、あと4−7試合しかないのだから、悔いのないようにやるだけです」。

[ウィー・アー・ザ・チャンピオン]

 10月26日、双方1勝1敗で迎えた敵地ブッシュ・スタジアムでのシリーズ第3戦は、世にも珍しい結末となった。
 なんと、三塁手の走塁妨害でレッドソックスのサヨナラ負け。ワールドシリーズ史上初という珍事での決着は、マウンドにいた上原にとって、大いに煮え切らなさを残した。

 試合後、上原はチームメートとビデオを見てこう言った。「何度見ても微妙な判定ですが、審判がそう判断したんだからしょうがないです」。
 しからば、微妙とは何に対してだったのか? もしや、上原は、三塁手が“故意”に妨害したか否かを問題にしたのではないか、と思った。映像では、走者が倒れこんだ三塁手に躓いて転びかける。その時三塁手が走者の足を故意に引っ掛けているように見えなくもないし、そうでないとも見える。確かに微妙である。
 ルールブックを紐解いてみる。そこには「故意である云々は関係ない」とある。故意であろうとなかろうと、倒れこんだ三塁手が走者の妨害となったと判定されたら、それは走塁妨害なのである。ならば、この場合はまごう事なき走塁妨害だ。
 まあ、煮え切らなさが何であれ、上原はそれを引きずることはない。切り替えのよさ“New day”である。

 10月27日、第4戦、1勝2敗のレッドソックスは、これを落とすと王手を掛けられる、絶対に負けられないゲームだった。
 カージナルスに先制を許した4回のベンチで、オルティーズはナインを集め檄を飛ばす。日本でいう円陣か。「何をやっているんだ。このチャンスをみすみす逃していいのか。今日は絶対に負けられないゲームなんだぞ。しっかりやろう」。過去二度の優勝をもたらした主砲の一喝に、チームは目を醒ます。5回、オルティーズ自らが突破口を拓き、ドリューの犠牲フライで同点。6回、2アウトランナーなしから、3番ペドロイアがヒット、4番オルティーズは貫禄の四球。ここで、5番ゴームスは乾坤一擲、渾身のスリーラン・ホームランを放った。4−1と逆転。この一打こそ、シリーズの流れを一気にボストンに引き寄せた価値ある一発だったが、これを産んだのはオルティーズの有形無形の存在感だった。

 上原は9回頭から登板。ヒット1本を許すも、最後のアウトを牽制刺殺で獲った。ファレル監督が言う「上原には第六感がある」の証? 上原のハイタッチがグラウンドに踊る。これは、第3戦の走塁妨害幕切れに続くシリーズ初。初物の二日連続は珍事以外の何物でもない。上原曰く「昨日も今日も変な終わり方。そういうシリーズなんじゃないですかね」。これで双方2勝2敗。まさに、本シリーズ、ターニングポイントのゲームだった。

 第4戦の逆転勝利で勢いづいたレッドソックスは、続く第5、6戦を獲って見事ワールド・チャンピオンに輝いた。ホームでの優勝決定は1918年以来95年ぶり。前年度最下位からの優勝はワールドシリーズ史上二度目である。10月30日、歓喜に沸くスタジアムに「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」が流れた。

 ワールドシリーズ、上原は5試合に登板し、2セーブ防御率0の大活躍。シリーズ制覇の大きな原動力となった。インタビューで上原は「まだ夢の中のようです。とにかく早く休みたい」と。息子の一真くんは、今日のお父さんは?の質問に「good」とキッパリ。その言葉通り、まさに“good job”、いや、これはもうとてつもない快挙だ。アメリカに来て4年目の今年2013年、38歳上原浩治はついに野球人生の頂点を極めたのである。

 主砲オルティーズは、16打数11安打、打率.686、6打点でシリーズMVPを獲得。文句なしだろう。ビッグ・パピの愛称で親しまれるチームの支柱は、その存在感とバットでしばしばチームの危機を救った。お立ち台で、彼は「わが街ボストン!このMVPをファンとテロ事件の被害者に捧げます」とスピーチした。
 “誰かのために”は大きな力を与えてくれる。「事件で落胆したわが街ボストンのために」・・・・・この思いがチームに団結を呼び込み優勝を実現した。そう言っても過言ではないだろう。

 もう一人忘れてならない選手。それはセットアッパーの田澤純一である。レギュラー・シーズンは71試合に登板28ホールドを挙げゲームの終盤を黙々と締めた。ワールドシリーズでは、5試合に登板して防御率0の活躍だった。
 私は彼の凄さを負け試合となった第3戦に見た。7回ノーアウト1塁2塁2−2同点の場面で登板。先頭打者に3塁打を打たれ2点を献上、2−4と勝ち越しを許す。リリーフ失敗。落胆(?)。なおもノーアウト3塁と追加点のピンチ。並みの投手ならガタガタと崩れるところ。が、このあと必死になって後続を断ち、2点差のまま自軍の攻撃に望みをつないだ。人間だから失敗もある。起きちゃったことはしょうがない。とにかく目の前のなすべきことを全力でやるだけだ。この場面に彼の強さを見た。そして、翌日の第4戦、前日打たれたホリデイを討ちとり、シッカリと借りを返した。見事なプロ根性だった。彼も、上原同様、右肘靭帯損傷から這い上がったどん底経験者なのである。

 4.15ボストンの悲劇を乗り越えてのワールドシリーズ制覇!! おめでとう!ボストン&レッドソックス。そして、上原、田澤。優勝決定の夜、ボストンの街は「Koji Koji」のコージ・コールに包まれた。日本人として実に誇らしい光景だった。
 すべてが終わって、上原はこう言った。「自分がワールドシリーズ制覇のマウンドにいるなんて、夢のまた夢、正直、思ってもみなかった。でも、これがゴールじゃない。まだ伸び白はあると思っている」。凄いぞ上原。まだまだ進化しそうな勢いだ。松井の餞にもあるように「体に気をつけて、1年でも長くプレーしてくれ!!」と願う。
 2013.11.10 (日)  上原浩治&ボストンの奇跡1〜それは「スイート・キャロライン」から始まった
 今季のMLBワールドシリーズは、ボストン・レッドソックス6シーズンぶり8度目の優勝で幕を閉じた。2013年10月30日フェンウェイ・パーク、その優勝決定のマウンドにいたのは我らが上原浩治だった。開幕時、いったい誰がこんな結末を予想しただろうか。

[スイート・キャロライン]

 開幕して間もない4月15日、ボストンで、5人の死者と299人の負傷者を出す大惨事が起きた。ボストンマラソン爆破事件である。
 この5日後の4月20日、レッドソックス対ロイヤルズの試合が行われているフェンウェイ・パークにニール・ダイアモンドが現われた。「スイート・キャロライン」を歌い犠牲者を悼むために。
 「スイート・キャロライン」は、ニール・ダイアモンド1969年のヒット曲。今年から駐日アメリカ大使に赴任する当時小学生のキャロライン・ケネディをイメージして作ったという。レッドソックスがこの歌をアンセムとしたのは、本拠地ボストンがケネディ家縁の土地だったから。2002年からレッドソックス8回裏の攻撃前に流されている。
Where it began I can’t begin to know when
But then I know It’s growin’ strong

Hands, Touchin’ hands
Reachin’ out Touchin’ me Touchin’ you

Sweet Caroline
Good times never seemed so good
・・・・・・・
 ニール・ダイアモンドの歌声とレッドソックス・ファンの大合唱がスタジアム一杯に響き渡った。天まで届けとばかりに。チームの主砲デビッド・オルティーズも「事件に負けずに頑張ろう。Stay strong! 」とボストン市民を鼓舞した。前年度アメリカンリーグ東地区最下位にして下馬評も最低のチームは、「B strong」を合言葉に戦いの途についた。「スイート・キャロライン」の歌声と共に。

[最強のクローザー]

 2013年、上原は、新天地レッドソックスの「中継ぎ」としてシーズンのスタートを切った。クローザー(抑え投手)は、パイレーツから移籍したジョエル・ハンラハンだったが、肘の故障で戦線を離脱。上原に白羽の矢が立てられた。6月21日のことである。開幕以来、昨シーズンの好調さ(レンジャーズ在籍、37試合に登板、防御率1.75)を維持していた上原だったが、クローザーになってからは一段と輝きを増し、それに伴いチームの勢いも加速していった。これは、今季から就任したジョン・ファレル監督が、ピッチャー出身だったため、上原のクローザーとしての資質を見抜いたからといわれている。彼はまた、レッドソックスのピッチングコーチ時代の2007年、ワールドシリーズ制覇の実績を持つ。

 上原のストレート・ボールは140キロ台前半。変化球は、ほぼスプリット(Split-finger fastball)オンリー。たった2種類のボールしか使っていない。しかもストレートは、MLBのクローザー中、最も遅い部類に属するだろう。では、なぜ上原はこんな貧弱な武器であれほどの成果をあげられるのか。

 彼は「そりゃ、スピードが出せるんだったら出したいですよ。出せないからどうしたら速く見せられるか工夫する。緩急をつけるのもその一つですが、フォームの緩急というのもあるんです」と言う。フォームの緩急! 初めて聞く言葉である。解明すべく、ビデオで彼の投球フォームを繰り返し見るが、全く解らない。確かなのは、スピード・ガン表示を遥かに超える球速を感じる、ということだ。配球とフォームによる二重の緩急。彼の専売特許である。

 スプリットは、挟む二本の指の間隔がフォーク・ボールに比べ狭くて浅い。したがって、フォーク以上のスピードでより手元で曲がる。上原のは、特にこの度合いが著しいようだ。松井秀喜は彼のスプリットを評してこう言う。「彼が凄いのは、フォークがまっすぐに見えること。だから空振りしちゃう。腕の振りとボールの軌道でそう感じさせるんでしょうね。そういうフォークを投げる投手はそうはいない」(11月3日TX「ソロモン流」より)。超極上のスプリット(松井が言うフォーク)なのだ。

 上原のこんな台詞も聞いた覚えがある。「昔はもっと多くの変化球を使っていました。それでなぜ打たれるのか? 球種ごとに完成度の差があるからなんです。自信度の差ですかね。配球をちゃんと組み立てても、決めにいったボール自体に力がなければ打たれてしまう。だったら決め球を、完成度が高い自信球に絞り込もう。打たれても『しゃあないワ』と納得がいくボール。それがぼくにはスプリットだったんです」。上原浩治のスプリットは、贅肉を削ぎ落とした末に残った最後のウィンニング・ショットだったのである。
 コントロールという武器も見逃せない。彼の投球を見ていると、ほとんどのボールが、キャッチャーが構えたままのミットに吸い込まれる。逆球は非常に少ない。

 クローザーとしての適性にも触れる必要がある。クローザーは、ほとんどの場合、ゲームの終盤僅差の場面で起用される。抑えればチームに勝利をもたらすが、失敗すれば負ける。勝敗に直結するポジションである。展開は生き物だから、「準備は毎日」が原則だ。このプレッシャーは想像を絶する。「吐きそうでした」は実感だろう。上原にはこれをはねのける資質が備わっている。

 まずは、並外れた闘争心。負けじ魂である。これは、彼が野球エリートでなかったことに起因するのだろう。
 東海大学付属仰星高校時代はエリート建山義紀の二番手ピッチャー。当然ドラフトにも掛からず、教師を目指しての大学受験にも失敗。浪人生活を余儀なくされる。一年間、道路工事などのアルバイトをしながら、なんとか大阪体育大学に入学。ここで素質が開花。巨人のエースとして活躍。2009MLBオリオールズ入団。3ヶ月目、右肘靭帯部分断裂。引退覚悟。どん底からの脱出。日米で背負う「背番号19」は、19歳浪人時代の一年間を忘れないためだ。

 加うるに、切り替えのよさという特技である。これも毎日登板の可能性があるクローザーにはピッタリだ。人間失敗は必ずある。それを一々引きずっていては務まらない。「New day!」といいながら常に前を向く生来の「Positive thinking」がある。

 磨き上げたスプリット・フィンガー・ファスト・ボール。工夫を凝らしたストレート。この二つの組み合わせによるシンプルな投球術。抜群の制球力。旺盛な闘争心。天性の切り替えのよさ。これらが化学反応を起こして、上原浩治という最強のクローザーを造り上げた。そして、いよいよ、彼は2013年栄光のゴールに向かって走り出した。
 2013.10.31 (木)  閑話窮題〜天野祐吉さん死す
 突然の死にはいつもビックリするのが常であるが、此度の天野祐吉さんの訃報ほど驚いたものはない。朝日新聞連載氏の「CM天気図」は、92歳の母ともども我が家の愛読コラムで、毎週水曜日はこれを巡って楽しい意見交換するのが日課だったのに・・・・・。

 最後となった「CM天気図」10月16日には、「ささやかなアンチ広告」というタイトルで、昨今のグローバリゼーションを実に小気味よく斬っていた。「たとえば、地球上の人たちが、みんなユニクロを着て、みんなビッグマックを食べながら、みんなトヨタのクルマに乗っている絵、頭の中に描いてみるだけで気持ちが悪い」と指摘する。なるほど、このままグローバリゼーションとやらが進めばありうるかも、で、そうなったら確かに気持ちがわるいよな、と共感する。

 こんな“天野氏健在”を思わせるコラム掲載の5日後に“天野祐吉さん死去 享年80歳”の報である。しかも20日(なんと訃報の前日!)の日曜版には、「ニュースの本棚〜1964年に売れた本」と題して、長大な記事が載っていた。あの東京オリンピックの年のベストセラーから4冊の本を選んで的確に論じたもの。だから、氏の訃報は驚き以外の何物でもなかった。

 天野祐吉という名前がわたしの脳裏に焼きついたのは比較的最近のこと。2008年ヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100年記念イヤーにおけるNHK教育TVの特番でだった。
 これは数回にわたり、天野さんがカラヤンの魅力について語るというもので、まあ、通り一遍、普通のファンの域を出ない長閑なお話といった体。特に感心するものではなかった、というより、門外漢芸術を語るは遠慮すべしとの印象で、まあ、負の評価だった。というのも、この頃、たとえば脳学者・茂木健一郎などが、知った風にクラシックを語り、それだけならまだ許せるが、ラ・フォル・ジュルネのアンバサダーをやり、それに止まっていればまだ許せるが、纏わり本まで出す始末。これがまた稚拙そのもの。それでもまだ、本業の脳科学なるものをちゃんとやってくれれば許せるが、これがなんともお粗末の極み。精神科臨床医の斉藤環氏から、未成熟な脳科学偏重の危険性を指摘され、公開ネット討論を要請されると、了解しながら2年間ナシのつぶて。早い話が敵前逃亡。斉藤氏は一度は抗議するがあとは大人の対応、追及せず。茂木氏からの返答を待つ形。この状態、未だ継続中の体たらく。
 そんな中での天野さんの門外漢ぶりだったから、決してよい印象ではなかった。その上、どうでもいいけど、ビートたけしからは「島森路子に振られた」などと揶揄される始末。

 ところが、天野さんは、本業においては、茂木氏とは月とスッポンだった。氏の主宰する「広告批評」は読んだことはないが、前述の「CM天気図」はいつしか愛読コラムとなっていった。ラス前10月9日「別品の国へ」は秀逸。その要約はこうである。
 7年後のオリンピックに向けて新しく巨大な競技場をつくるそうだ。そしてそこには、成長最優先の首相の掛け声。待てよ、この風景50年ほど前の東京の空気そっくりじゃないか。でもなあ、オリンピックはいいが、時代はあのころとすっかり変わっている。「成長は善? 私の子供たちが成長するのならいいが、この私がいま突然成長し始めようものならそれはもう悲劇である」と、経済学者のシューマッハさんも言っている。
 むかしの中国の品評会では、順位を1品2品と呼んだそうな。で、その審査のモノサシでははかれないが、すぐれて個性的なものを「別品」と呼んで評価したという。
 別品。いいねえ。世界で1位とか2位とか順位を競い合う野暮な国よりも、戦争も原発もない「別品」の国がいいし、この国にはそれだけの社会的・文化的資産もある。
 そうそう別品の国に8万人の競技場はいらない。え?いつ国の路線を切り替えるかって?そりゃあんた、いまでしょう。
 オリンピックに浮かれている今、しっかりと警鐘を鳴らす。本当に8万人収容の巨大競技場がいるの? あのときも成長、今も成長。老人でも成長しなきゃいけないの? 素朴な疑問を投げかける。「別品」という言葉があるじゃないの。日本が目指すはこれじゃないのかな。国の行く末に示唆を与えてくれる。

 30年以上コラムを続けてきた朝日新聞には、連日天野さん追悼の記事が載った。その中から印象的な断片を拾ってみる。
心がけたのは「少しだけだらしない、いい加減な文章」。「ぼく」がつぶやく親しみやすい文体で、世相や社会をバサリと斬った。社会の雰囲気に時折、もどかしさをにじませながらも、経済最優先でない新しい「豊かさ」に目を向けるよう、ユーモアあふれる文章で繰り返し読者に訴えた。(10月21日 山田佳奈)

論じる対象ではなかった広告というものを、初めて批評の対象としたのが天野さんだった。(10月22日 演出家・作家 川崎徹)

一本の芯とユーモアが人柄と文章を貫いていた。着流しの自在さで政治や社会を飄々と切った、偉ぶらない語り口に憂いを含みながら。水曜日の新聞が寂しくなる。(10月22日 天声人語)

天野さんから「CM天気図」の原稿が届くのは、毎週月曜日のお昼ごろ。メールにはいつもメッセージを添えてくれた。くすっと笑い、添付された原稿を開く、その瞬間が楽しみだった。こぶしを振り上げたような表現は届かない。専門家でない人が読んでどう感じるかが大事。偉ぶらず、教訓的にならないように、鋭い批評をユーモアでくるんだ。自身の都合では一度も休載しないまま、「CM天気図」は1132回で連載を終えた。(10月23日 『CM天気図」担当・田中陽子氏)
 時代を見る確かな目と真理を見据える洞察力。知識の蓄積による引用の妙。人を惹きつける軽妙洒脱な文章力と人柄。取り上げるテーマはいつも新鮮で切り口は常に斬新だった。そして、日本という国をこよなく愛し、常にその行く末を案じていた。天野さんの文章は「広告批評」の枠を超えて現代文明論そのものだった。安らかに!!
 2013.10.25 (金)  閑話窮題〜「ベートーヴェンとベートホーフェン」
<ベートホーフェン>

 石井宏先生が久々に大きな単行本を書いたので、早速読んでみた。「ベートーヴェンとベートホーフェン」(七つ森書館)である。モーツァルトのスペシャリストと思われがちな先生だが、とんでもない、このベートーヴェン論には極上の面白さがある。

 ベートホーフェン−本来の発音を忠実になぞるとこうなるという。日本ではベートーヴェンで定着している。そしてこの名には至高の代名詞「楽聖」が付けられる−楽聖ベートーヴェン。
 石井先生は、なにも、「表記を変えるべし」と言っているのではない。定着してしまったベートーヴェンのイメージを見直そうというのである。

 ベートーヴェンは、表紙写真の右半分(ヨーゼフ・カール・シュテーラー画、1820年)。昔からのおなじみの画で、これは売らんがために美化されたものだという。いわば虚像。昔は作曲家の肖像画が商売になったそうだ。現在のアイドル写真である。
 左半分は実物に近いとされる肖像画(ヴィリブロルト・ヨーゼフ・メーラー画、1815年)。こちらはベートホーフェン。そう、この本は虚像のベートーヴェンと対比させながら実像としてのベートホーフェンに迫る、斬新さこの上ないベートーヴェン論なのだ。今回は、その象徴たる第8章「栄冠」を取り上げてみたい。

<ウェリントンの勝利>〜第8章「栄冠」より

 今ではほとんど演奏されなくなったベートーヴェンの管弦楽曲に「ウェリントンの勝利」という曲がある。なぜ演奏されないのか? 答えは簡単、駄作だからである。ところがこの作品、生前のベートーヴェン最大のヒット曲だったというではないか!
 発注主はヨハン・ネポムク・メルツェル(1772−1838)。あのメトロノームの発明者だ。彼はそのころパンハルモニコンという自動楽器を発明、この機械仕掛けのオーケストラに演奏させる楽曲を物色していた。

 1813年6月、そんなメルツェルに、絶好のニュースが飛び込んできた。イギリス=ポルトガル連合軍がスペイン北部のヴィトーリアの地でフランス軍を打ち破ったのである。指揮を執ったのは、鉄の公爵と異名をとるウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(1769−1852)。ナポレオンを共通の敵とする連合国側は勝利に沸きかえった(ウェリントン将軍は二年後ワーテルローの戦いでナポレオンに止めを刺すことになる)。時宜を見るに敏なメルツェルは、好機到来とばかりにベートホーフェンに話を持ちかける。「ウェリントン将軍の勝利を称える戦争音楽を作っていだだけませんか。『ルール・ブリタニア』『ゴッド・セイブ・ザ・クイーン』のメロディーなどを効果的に挿入して。メロ譜も持参しましたので」と。さらに、「同時に、フル・オーケストラ・ヴァージョンも進めてください。ラッパや小太鼓をとり込んで、戦況を勇ましく勝利をド派手に描いていただきたいのです」と。普段は条件付作曲なぞ断固拒否する誇り高きベートーヴェンだが、このときは快諾する。やはりメルツェルは稀代の仕掛け人なのだろう。現代なら3大テノールをぶち上げるようなものか。

 メルツェルの狙いはズバリ的中した。世の情勢も彼の思惑に加担した。1813年10月、ライプツィヒにおいて連合軍が勝利すると、連合国は更なる戦勝ムードに沸きかえった。
 パンハルモニコンで手応えを得たメルツェルは、フル・オーケストラ演奏会で勝負に出る。12月8日、ウィーンで行われた「ウェリントンの勝利」初演は、5000人もの観客を動員して大成功を収める。演奏が終わると嵐のような熱狂が会場を埋め尽くしたという。ベートーヴェン空前の大喝采である。この成功で、12月12日、翌年1月2日、27日と立て続けに追加公演が実現。そして、極めつけはかのウィーン会議における記念音楽会。この模様を弟子のシンドラーはこう書いている。
この一年間にベートホーフェンが受けた数々の栄誉、いや彼の一生の間に受けたすべての栄誉にまさるものを得たのは1814年11月29日なのである。ヨーロッパのほとんどすべての王国の貴顕が一つの政治的事件のためにウィーンに集まっていたが、この人たちが一致協力して、この11月29日を、ベートホーフェンのような一介の芸術家が味わうことのできないような、最大の栄誉と賞賛に輝く日に仕立て上げたのであった。
 著者石井先生は、「ベートホーフェンが人生で最大にもてはやされたときは、『第九』の初演(1824年5月4日)でも『運命』『田園』のダブル演奏会(1808年12月22日)でもない。それは1814年11月29日ウィーン会議催事の一環『ウェリントンの勝利』演奏会だった」と提示してくれる。

 これを読んで、迷作「ウェリントンの勝利」(オーマンディ指揮:フィラデルフィア管弦楽団)を改めて聴いてみる。大英帝国を象徴するメロディーの引用、小太鼓に進軍ラッパ、鳴り響く大砲の音。空虚そのものの音楽である。これホントにベートーヴェン? と誰もが訝る作品である。しかも、これを書いた1813年の前年、彼は傑作「交響曲第7番」を書いている。未熟な初期の作品ではないのである。

 駄作と喝采―この対比を浮き彫りにし大作曲家の人生の皮肉を看破する。いわば実像ベートホーフェンの暴露である。だがしかし、この書は単なる暴露だけでは終わっていない。次章にこんな件がある。
1814年のベートホーフェンは、外見的には、確かに、成功に酔い痴れていた。急に態度が大きくなったのを多くの人が語っている。しかし、それは外見上のことで、彼の潜在意識のほうは、「ウェリントンの勝利」という愚劣な音楽の爆発的な成功によって深く傷ついて色蒼ざめていた。それは絶望的なできごとだった・・・・・。
 実像を実証的に暴き精緻に描く(かのメイナード・ソロモンでも本件に関しては遠く及ばない)。がしかし、その裏にある苦しみと違和感を決して見逃さない。そこにベートーヴェンへの愛情と尊敬が読み取れる。これぞ石井先生の本質である。だから、「ベートーヴェンとベートホーフェン」は素晴らしいのである。
 2013.10.10 (木)  私的「下山事件論」最終回〜時代に殺された下山定則
[11] 下山定則の狙い

 戦前、国鉄は「鉄道省」という独立した省だったが、戦後まもなく運輸省の一部に組み入れられ「運輸省鉄道総局」と変わった。それが、1949年6月、「日本国有鉄道」という公社になった。この初代総裁が下山定則である。当時の国鉄は、復員による人員増加が著しく、その数は35万人を数えていた。大量解雇はGHQの急務だった。
 そんな国鉄に乗り込む総裁の任務は“首切り”でありその職責は“貧乏籤”といえた。下山を選んだのは、国鉄の責任者であるGHQのCTS(交通管理部門)の長シャグノンといわれている。彼の条件は「総裁は政治的背景を持たないもの」であり、技術畑出身鉄道一筋実直型人間の下山はこれに合致していた。
 吉田政権の思惑は、“イエスマン”と“使いきり”である。下山は、これにも合致すると思われた。
 この辞令を受けた下山は悩み、政調会長の佐藤栄作に相談する。佐藤はもと鉄道総局長、下山の同僚だ。佐藤が、「下山よ、国鉄の合理化は政府の方針なんだから、過不足なくやればいい。終わったら、元国鉄総裁という肩書きをてこに政治家になれ、私のように。いくらでも応援するよ」と言ったかどうかは知らないが、下山の心にいつしか政治家志向が芽生えていたことは、様々な証言からも明らかだ。さらに、下山は、吉田政権を陰で操っていた黒幕・三浦義一にも相談し、最終的に総裁職を受理する。

 総裁に就いた下山はどう対処したか。主なポイントは3つ。これが、彼が消される原因となったのである。

 まずは大量解雇への反発である。政権はその数を10万人とはじき出した。そのリストに左派=アカを放り込むのも「反共ファミリー」としては当然の狙いだった。ところが、下山は、官房長官・増田甲子七からの「労組左派の幹部17人を解雇リストに入れるべし」との要請を拒否するなど、これに徹底的に反発する。官房長官の要請は内閣総理大臣の要請に等しい。下山は吉田茂の意向を拒んだことになる。下山の予期せぬ気骨に政権側は面食らった。
 下山はまた、政権の基本施策「鉄道電化」推進にも慎重で、計画のほとんどをストップした。これは、「電化に伴う費用が節約できれば解雇は5万人ですむ」という考えからであった。
 さらに、国鉄に蔓延る汚職体質にメスを入れる。「業者の癒着を切れば、経費は半分で済む」との認識からだった。

 これらは彼の正義感の現れだろう。「彼は良くも悪くも正義漢だ 融通が利かない」・・・・・下山という人間を表す定説である。これに私は、「人道」「公正」「気骨」という特質を付け加えたい。下山は人道的で公正な気骨ある正義漢だった。

 ウィロビーのG2は、大量解雇に便乗してアカの一掃を図りたかった。ジャパン・ロビー〜米国援助物資見返り資金の経済ラインは、電化推進による国鉄の利権吸いあげを目論んでいた。同時開発の電力利権も含めて。時の政権は、G2及びジャパン・ロビーの意向に従い下山を動かそうとした。そこには我欲と使命感が同居していた。
 彼らは、矢板玄の言う「反共という一つの目的で結ばれたファミリー」である。彼らの行く手に立ちはだかった下山は、もはや邪魔者以外の何者でもなかったのである。

[終章] 時代に殺された下山定則

 「反共ファミリー」が描いた日本の青写真と大義名分。それは、国を割ることなく独立させ、日本をアジアにおける反共の防壁とすることだった。下山宗則はその邪魔になった。彼らは下山を抹殺した。殺人という究極の手口で。その行為は絶対に許されるものではない。ただし、彼らの中には大義名分があった。即ち「日本がドイツになってもいいのか」ということである(無論これは言い訳に過ぎないのだが)。ソ連を含む全方位の平和条約締結を以って独立しようとすれば、日本は真っ二つに分断される。それでもいいのか? われわれ「反共ファミリー」はそれを避けるために頑張っているのだ・・・・・彼らの中には、そんな使命感が宿ってもいたのである。

 下山事件のあと、国鉄を舞台に「三鷹事件」(7月15日)「松川事件」(9月10日)が立て続けに起こる。これにより、労組左派勢力は著しく求心力を失い、大量解雇が加速されていった。
 国鉄は、二代目総裁加賀山之雄の下、電化推進が復活、電力開発とも絡みながら、近代化が図られてゆく。白洲次郎は東北電力会長に収まった。
 戦後息を潜めていた財閥は、占領政策の転換により息を吹き返し、再編へと舵を切る。 吉田内閣は、日本を反共の防壁とすべく、アメリカとの単独講和に向かって突き進む。事件の翌年1950年に勃発した朝鮮戦争は、彼らの大義を後押しし、再軍備たる警察予備隊(自衛隊の前身)の編成、「日米安保条約」の並存を是認する風潮を形作っていった。

 こうして、「サンフランシスコ平和条約」は、「日米安保条約」とセットで、1951年9月10日に調印され、翌1952年4月28日に発効された。戦後7年、日本にやっと独立がもたらされたのである。立役者は吉田茂と白洲次郎だ。
 「平和主義」・「戦争放棄」を標榜する「日本国憲法」(1947年発布)の下、相容れがたい自衛隊という軍隊を持ち、独立後もアメリカ軍が駐留する日本という国の形はこのとき形成され、今日まで60数年間続いてきたのである。

 時の政府は、「日本を割ってはならない」という錦の御旗の下に、政治を進めていった。確かに、民族二分割の悲劇は、朝鮮半島の例を見るまでもなく、よしとしない。だが一方で、ドイツは、当初悲劇を生んだものの、遂には強かな国家となった。時の熟成を経て、もはや、誰憚ることのない自力型国家をドイツは作り上げたのである。

 歴史上「何が正しかったか」を軽率に言うべきではない。同時に、「もしも」と後悔は意味がない。時は戻ってこないのだから。
 事実、我々はこの国に住んでいる。日本という世界に類を見ない奇形とも云うべき形の国で今を生きている。これが現実である。
 1945年―1952年。その間、日本が採った方向の是非を見極めるのは難しい。確かに日本は分割されずにすんだ。だが、その一方で様々な問題を残した。安全保障。沖縄の犠牲。領土問題・・・・・証明は時を待たねばならない。

 どんな国家も、例外なく、民衆の犠牲が積み重ねた歴史の上に成り立っている。犠牲はその場しのぎではなく、未来の希望につながるものでなければならない。そうでなければ庶民は浮かばれない。それを目指すのが政治であり、それが国家の良心というものだ。 しからば、現代のわれわれは何をすべきか? 理想ばかりじゃ意味がない。愚痴ってばかりじゃ進歩がない。歴史を正しく見据えることだ。正しく見る目を養うことだ。それこそが、日本という国をまっとうな方向に導く第一歩になる。そう信じる。下山総裁の死を無駄にしないためにも。

 去る9月19日、私は事故現場に行き下山総裁追憶碑に合掌してきた。近所の子供が寄ってきて「これなんなの?」と訊くから、「これはね、下山さんという人の碑なんだ。昔、この近くの線路で電車に轢かれて死んじゃったんだ。だけど、とってもいい人だったから、忘れないためにこの碑を造ったんだよ」と話してやった。日中は季節はずれの蒸し暑さだったが、夜は中秋の名月。えらく美しかった。
 2013.09.15 (日)  閑話窮題〜突然の贈りもの
 大貫妙子の知る人ぞ知る名曲に「突然の贈りもの」という曲がある。彼女の場合、それは別れた恋人からの6年目の花束だったが、私の場合は、半世紀前の懐かしい音だった。

 猛暑真っ只中の7月末、大学オケ同期の友人田中隆英君から暑中見舞いが届いた。故郷宇部市の家をたたむべく家財道具を整理していたら、当時のオーケストラ(一橋大学管弦楽団)の録音テープが出てきたという。「CD化作業中」とあったので、「是非聴きたい」と返事を書いた。話も忘れかけた9月に入ったある日、5枚のCDが送られてきたというわけである。

 音は、オープンリール・テープの中で40年以上も寝ていたので、再生が大変だったという。それもそのはず、レコード会社のように、温度と湿度を適正に保って保管していたわけではないので、テープ同士が貼り付いている。それを温め乾かして剥がす。いわゆる熱処理に時間と経費がかかる。当初業者からかなりの金額を提示されたようだが、粘り強く交渉しそこそこの線まで値切ったそうだ。さすが部長だっただけあってそのあたりの交渉力は未だ健在と見た。

 私は、1964年、東京オリンピックの年に、大学に入って上京。受験勉強に明け暮れたため(?)クラシックに飢えていたから、わき目も振らずにオーケストラ部に入部した。30名足らずの陣容だから、希望すれば100%入れた。それまで、ピアノ以外の楽器の経験はない。楽器選びは、オリエン当日、先輩(確かヴァイオリンの伊藤和彦先輩だったと思う)と面談で。「経験は?」「ありません」、「やりたい楽器は?」「特に」、「じゃ、ウチには今トランペットがいないから、どう。これなら上もつかえてないから、一年もレッスンすればステージに上がれるよ」「ではそうさせていただきます」。実にいい加減なものだ。
 だが、同じトランペット志望の松岡滋はもっとユニークだった。オリエンの帰り道、ふと「クラシックは何が好きなの?」と訊いてみると、「なにも知らんよ」と答える。「えっ! じゃ、なんでトランペットなの?」「格好いいからだよ」。まるで遠藤憲一ダイハツのCMである(チョット古いか)。彼はスキー部とのカケモチ。実に愉快で豪快なやつだった。趣味も気も合って、いつも私の下宿に入り浸り、何度も一緒にスキーに出かけた。彼は卒業後税理士の資格を取り、会計事務所を経営している。

 国立音大のトランペット専攻の学生・粟野広一郎さんに付いて、一年間の猛特訓の末、舞台を踏んだのが、1965年二年生のときだった。
 送られてきた5枚のCDには、一橋大学管弦楽団1964年から1967年までの演奏が収録されている。したがって、私は、そのうちの3枚(1965、1966、1967年の定期演奏会)の中で、輝かしくも煌びやかに(?)トランペットを吹き鳴らしているのである。中でも二年生1965と三年生1966は印象深い。

 まずは、二年生、1965年11月24日、共立講堂での第13回定期演奏会。曲目は、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とベートーヴェンの「田園」である。チャイコフスキーのソリストは、N響のコンサートマスターを経て独立したばかりの人気ヴァイオリニスト海野義雄さん(1936−)。なぜこんな大物が、と思われるかもしれないが、鍵は我々の常任指揮者・尾原勝吉先生(1899−1981)にある。皆からジイサンと呼ばれて慕われた先生は、N響の前身の民間交響楽団を山田耕筰、近衛秀麿らと結成したわが国交響楽運動の創始者の一人という重鎮なのである。なので、N響の後輩海野氏に「おい、ちょっとウチの学生オケと協演してやってくれ」と言えるのだ。
 ジイサンは、海野氏の他にも、ピアノの安川加寿子氏(演目はモーツァルト「戴冠式」)、ヴァイオリンの辻久子氏(ベートーヴェンの協奏曲)など、学生オケにとっては、雲の上の存在としか言いようのない超一流アーティストを呼んでくれた。今更ながら、ジイサンの実力に感嘆するばかりである。

 40数年ぶりに聴く、海野さんのヴァイオリンの、なんとチャーミングなことか。モノラルの貧しい音だけど、その素晴らしさはしっかりと伝わってくる。端正な佇まいの中、歌うべきところはしっかりと歌う。知情のバランスのよい、これは名演奏だ。手持ちのではパールマンの演奏に近いか? 私の聞かせどころ第1主題トゥッティ部分もまずまず無難に吹いていて安心した。素人の極みのオーケストラでも、名手に引っ張られて、今回の中では随一のパフォーマンスである。とはいえ、やはり人様には聞かせられない。恥ずかしい。

 次は、1966年12月12日、三年生のときの定期演奏会。我々がマネージメントをした思い出深い演奏会である。「会場を都心のホールで」を合言葉に、初めて虎ノ門ホールで開催した。会場費がいつになく高くついたが、埋め合わせるべく懸命にチケットを売った。先輩を訪ね広告を取りまくった。コネを使って印刷費を削減した。そして、なんとか黒字にこぎつけた。
 曲目は、シューベルト「ロザムンデ序曲」、ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第4番、交響曲 第3番「英雄」である。
 ピアノ・ソロは安部牧子さん。この方、腕もさることながら若くて大変な美人! ジイサンも隅に置けんワイと思いつつ、リハーサルから胸高鳴った。顔に見とれて出を誤る、張り切りすぎて音外す。「シッカリせんか、このほら吹きラッパ!」 でも本番はバッチリだった。
 メイン楽曲に選んだ「英雄」は、トランペットが比較的活躍するのだが、今聞いてみると、やはり恥ずかしい。下手くそである。とはいえ、何度も聴くうちに慣れてくるから不思議なものだ。 
 私はプログラム制作を担当したが、一部だけ奇跡的に手元に残っている。ページをめくると、同期一人ひとりの顔が懐かしく浮かんでくる。

 フルートの羽賀仁。「英雄」第4楽章第4変奏と「ブラ1」第4楽章アルペン・ホルン直後のソロが圧巻である。清澄で凛々しい彼の音が今聴けるとは夢にも思わなかった。胸が張り裂けんばかりに痛む!
 羽賀君の下宿は国立駅のすぐそばにあったから、毎日必ず寄った。週2日は練習。その他の日は、近くの「邪宗門」「ロージナ」でコーヒーを飲み、名曲喫茶「ジュピター」に入り浸り、マージャンをやる。まるで兄弟のように過ごしたものだ。音楽への造詣が深く、バッハの室内楽は彼から教わった。ワルターの「英雄」を「あれは凄いね」とポツリといった言葉が脳裏に焼きついている。語学も天才で、「ほとんどマスターしちゃったから、ラテン語でもやろうかな」なんて言っていたっけ。青森高校の出身で太宰治の後輩に当たる。美男で純粋な男だった。
 そんな彼が、互いに社会人になった1969年5月に帰らぬ人となってしまう。 高円寺の鉄橋から中央線に身を投げたのだ。死の報を聞いた前日、例によってマージャンで夜遅く帰った私に、下宿のおばさんが「羽賀さんという人から電話があったわよ」と教えてくれた。会社の連絡先しか聞いてなかった私は、「なんだろう?明日にでも電話してみようかしら」と気にも留めずに寝てしまった。そして、翌日・・・・・。「そんなばかな!いったいなぜ? あいつは最後の最後に・・・・・。俺がもっと早く下宿に戻っていたら!!」。青春の痛恨にして辛すぎる思い出である。翌1970年、同期のみんなで、万博で賑わう大阪はフェスティバルホールで、J.S.バッハ「ロ短調ミサ曲」(ロリン・マゼール指揮)を聴きながら、彼を追悼した。涙があふれて仕方がなかった。

 羽賀君追悼演奏会を仕切ったのはオーボエの宮城敬雄。緩徐楽章のフレージングは絶品だった。実によく歌うのである。「英雄」第2楽章「葬送行進曲」や「ブラ1」の第2楽章のソロが好例だ。彼は卒業後猛然と指揮の勉強をして、いまでは立派なプロ指揮者になっている。

 フルートの宮岡五百里は駄洒落の帝王。いったん就職しながら公認会計士になったチェロの丸山弘昭、彼の結婚式では、私と松岡で、「我が良き友よ」を歌ったな。国立音大の学園祭で運命の出会いをして結婚したホルンの馬場信三。経済企画庁に行ったジェントルマン、打楽器の野村誠。もう一人のトランペット・静かなる好漢藤田周三は銀行マンになった。朴訥な水戸っぽクラリネットの鈴木礼史は今は故人だ。あまりにうますぎてこのときには席を抜いていたフルートの辻本泰久は、如水会館で行った私の結婚披露宴で、「宵待ち草」と「バッハのポロネーズ」の名演奏を聞かせてくれたっけ・・・・・などなど、懐かしい同期の面々である。

 そして、なんといっても、田中隆英君である。楽器はビオラ。年間スケジュールの立案、夏季合宿の仕切り、演目の決定、会場探し、予算立て、指揮者との連携、先・後輩とのパイプ役など、いつも中心となって引っ張った。ゴリ押しせず穏やかに。だからみんな気持ちよく動いた。情熱と優しさを併せ持った名マネージャーだった。
 そして今回、突然の贈りものを届けてくれた。半世紀の時空を越え、青春のかけがえのない時代が戻ってきた。ありがとう、田中君。何万遍もの感謝を!!
 2013.09.02 (月)  閑話窮題〜「風立ちぬ」を観て
 宮崎駿(1941-)の最新作「風立ちぬ」を観た。零戦の設計者堀越二郎(1903-1982)の半生と堀辰雄(1904-1953)の小説「風立ちぬ」を合体させた物語だ。
 堀越は、太平洋戦争開戦前に、世界に冠たる性能を持つ戦闘機の設計を仕上げた。海軍の過酷な要請をクリアして完成されたこの戦闘機こそ「零戦」(零戦艦上戦闘機)である。速度、航行時間、格闘性能、操作性など、当時、世界にこれ以上のものはなく、1対1ならば無敵の戦闘機だった。「F4Fは上昇力、敏捷性、スピード、すべてにおいて零戦に劣っていた」。これはミッドウェー海戦でF4Fを繰って戦った米軍パイロットの証言である。アメリカは、物量作戦でこれに対抗した。1機の零戦に2機をあてがう。幕内力士二人なら白鵬にも勝てる理屈だ。そして、戦争末期、零戦は遂には特攻の飛行機として太平洋に散っていった。将来ある若者の貴重な命を道づれにして。

 堀越二郎はプロフェッショナルとしての仕事を全うした。なのに、その結果は無残なものとなった。彼の手になる戦闘機は、特攻という名の無謀な作戦の道具となり、多数の有能な若者を死に追いやったのだ。
 彼の無念さはまさにそこにあった。終戦の前年、「神風特攻隊」をたたえる短文の依頼を受けたときの彼の心情に、そのやるせなさが如実に表れている(堀越二郎著「零戦〜その誕生と栄光の記録」角川文庫より)。
多くの前途ある若者が、決して帰ることのない体当たり攻撃に出発してゆく。新聞によれば、彼らは口もとを強く引きしめ、頬には静かな微笑さえ浮かべて飛行機に乗りこんでいったという。その情景を想像しただけで、胸がいっぱいになって、私はなにも書けなくなってしまった。彼らが頬笑みながら乗り込んで行った飛行機が零戦だった。 ようやく気をとりなおし、この戦いで肉親を失った人々に代わってこの詞を書くのだと自分に言いきかせながらペンを執ったが、書きながら涙がこぼれてどうしようもなかった。 私に手ばなしで特攻隊をたたえる文など書けるはずがなかった。なぜ日本は勝つ望みのない戦争に飛び込み、なぜ零戦がこんな使われ方をされなければならないのか、いつもそのことが心に引っかかっていた
 スタジオジブリは官軍である。作ればマスコミはこぞって取り上げる。かの公共放送局NHKも例外ではない。どころか、公共放送がこんな見え見えの番宣をしちゃっていいのかと心配になるくらいのヨイショ大会だ。
 8月26日放映の「プロフェッショナル 宮崎駿1000日の記録〜新作誕生 知られざる舞台裏」は、文字通り1000日間にも及ぶ「風立ちぬ」の制作経緯を追った密着ドキュメントである。

 番組全般を通し、宮崎の、堀越二郎への敬愛と作品に込める思いが語られる。「堀越は美しい飛行機を作りたかった。だが、時代は彼に殺戮の兵器を作らせた」「堀越はじめその時代の人々は、堪る限りの力を尽くして生きた。『風立ちぬ』というのは激しい時代の風が吹いてくる、吹きすさんでいる、その中で生きようとしなければならない、という意味なのだ」「それが、現代という時代、震災が起きた今の時代の答えにならなくてはいけない」

 堀越二郎が「常に心に引っかかっていたこと」とは、「零戦が、なぜ特攻の飛行機として使われ多くの前途ある若者の命を奪っていってしまったのか」ということだった。作った本人の意思とは違う使われ方をされてしまった、その不可解さ、無念さである。だが、これが戦争の宿命でもある。そのことも彼は解っていた。だからこそ、悲しいのである。
 映画「風立ちぬ」には、残念ながら、この視点が希薄だった。堀越の悲しさ無念さが描かれなかった。「(堀越の仕事は)呪われた仕事だということが分かってないとつまらない」と宮崎は言ってはいたけれど。

 映画「風立ちぬ」は零戦が生まれるまでの物語だ。堀越の悲しみは、零戦が設計者の手を離れてからのもの。だから「堀越の苦悩が希薄でも仕方がない」とする向きもあろう。
 でも私は物足りない。彼の人生をどこで区切ろうとも、零戦の悲劇を知る日本人としては、そこに設計者の苦悩がもっと色濃く表れていてほしいと願う。堀越二郎へのオマージュはこの苦悩にこそ向けられるべきではないか、一生背負い続けたその十字架にこそ。 ラスト、夢の中、カプローニとの通り一遍の対話でまとめてしまう、これが宮崎美学なのかもしれないが、これでは不満なのである。

 堀越が同僚の技師とドイツの工場を視察した夜、窓辺からシューベルトの「冬の旅」第6曲「あふるる涙」が流れてくる場面がある。宮崎は堀越に「『冬の旅』か。ぼくたちの旅と一緒だね」という台詞をあてがった。零戦の行く末を暗示した場面とも取れるが、私なら第20曲「道しるべ」を選曲する。この歌はこんな一節で結ばれる ♪私は行かねばならない 誰も戻ってきたことのないこの道を。

 小説「風立ちぬ」とのドッキング。これはこれでいいだろう。原作は“耳障りのよいムードミュージック”の趣でしかないけれど。

 最後に一言。タイトル・ロールに流れる荒井由美「ひこうき雲」は凄かった。♪ あまりにも若すぎたと ただ思うだけ けれどしあわせ 何もおそれない そして舞い上がる 空に憧れて 空をかけてゆく あの子の命はひこうき雲 ・・・・・ユーミンの、ノンビブラートながらある種の情念を秘めた歌唱は、堀越二郎の苦悩を、若き特攻隊員の魂を爽やかに包み込み、物語を悲しみの抒情で染めあげた。まるで、この映画のために書き下ろしたかのような見事なマッチングにして、宮崎駿が描き切らなかった領分を、あたかも補うような、奇跡のドッキングだった。

 本日、9月2日、宮崎駿引退のニュースが流れてきた。そういえば、「オレもう七十二だぜ。持ち時間そのものが少ないんだよ」(NHK「プロフェッショナル」)という言葉が気になってはいた。今の時代、72歳は若い。それなのに「持ち時間が少ない」とは、どういうこと?
 ともかく、一時代を画した巨匠が引退する。時代の終焉はいつも淋しい。宮崎監督、長い間お疲れ様でした。
 2013.08.25 (日)  私的「下山事件論」5〜事件当時の情勢
[9] 当時の情勢と昭和電工事件

 矢板玄はこう言った。「あのころの世界情勢はどうだったのか。その中で日本はどのような立場に立たされていたのか。それさえわかれば、下山がなぜ殺されたのかもわかるだろう」と。本章ではそれを読み解いてみたい。

 戦後の日本をどうするか? マッカーサー率いるGHQの答えは日本の骨抜きだった。太平洋戦争の初期、“I shall return”の台詞を残してフィリピン撤退を余儀なくされた彼の頭の中には、戦時中の日本人の怖さ、得体の知れなさ、がこびりついていたと思われる。この民族は、思い込むととてつもないパワーで突き進む。二度と再び戦う気を起こさせてはならない。そのためには、軍部と財閥の解体を図り、戦意の芽を摘むことだ。共産主義者を利用してでも。
 ところが、世界情勢はアメリカの思惑とは別な方向に歩み始める。中国では、毛沢東・中国共産党の勢力が増し、蒋介石を台湾に追いやる。ドイツでは、東西分割を余儀なくされた。朝鮮半島も分割の危機に晒されだす。日々顕在化するソ連の力と共産主義拡大の脅威に、アメリカの危機感は極限に達した。日本をアジアの反共の防壁にする必要性が生じたのである。もはや骨抜きのままではいけない。共産主義者も排除せねばならない。強い経済力と強固なインフラそして軍隊が必要とされるに至ったのだ。占領政策の転換である。
 GHQ内も、従来の方針を貫きたいニューディール派ホイットニーのGS(民政局)と反共を掲げる保守派ウィロビーのG2(参謀第2部)の主導権争いが表面化してくる。これにケリを付けたのが1948年6月の「昭和電工事件」だった。保守派が、GS次長ケージス大佐の失脚を図るため、鳥尾子爵夫人との不倫スキャンダルを暴く。この過程で、「復興金融金庫」に絡む昭和電工と芦田内閣の贈収賄が明るみに出た。
 保守派とは、ケージスを追放したいウィロビー、芦田内閣を倒したい吉田茂、吉田の側近でGHQにオールマイティに顔が利く白洲次郎など。このグループこそが、矢板玄がいう反共という一つの目的で結ばれたファミリーだった。

 この件については、松本清張も著書「日本の黒い霧」(文春文庫)の中で言及している。
GHQ民生局の謀大佐は、当時局内でも飛ぶ鳥を落とすような権力を持ち、日本の占領政策立案の中心的存在だったが、その政策は非常に左翼的だというので或は共産主義者ではないかという批評があり、GHQのG2に友人を多く持っている吉田内閣の謀要人S氏がG2と一緒になってこの大佐を日本から去らしめようとする策略が計画され、そのために大佐の非行や日本を去らしめる材料の事実を掴む必要があるというので、久山氏がS氏から頼まれて警視庁に調査させていた。
 この文章は松本清張が引用した初代国警長官斉藤昇の回想記の一部。文中の謀大佐はケージスでS氏が白洲次郎、久山氏とは内務省の調査局長である。ここからも白洲次郎の暗躍振りが覗える。

 「昭和電工事件」は、ケージスをアメリカに追いやり、芦田内閣を潰した。1949年1月の解散総選挙では、吉田茂率いる民主自由党が圧勝し第3次吉田内閣が誕生。吉田は、この後、1954年12月まで通算2616日(歴代3位)という長期にわたって政権を掌握、戦後日本の礎を構築してゆく。一方、GHQでは、ケージスのGSは求心力を失い、ウィロビーのG2に主導権が移ってゆく。これが下山事件が起こる半年前、矢板の言う「あのころの情勢」である。 そして、ここがまさに占領政策の転換点であって、これ以降、反共という共通の理念で結ばれた吉田茂率いる日本政府とウィロビーが主導権を握ったGHQは、日本をアジアにおける反共の防壁とするための国づくりを進めてゆくことになる。

[10] ドッジ・ラインとジャパン・ロビー

 矢板はさらに言う。「ドッジ・ラインとはなんだったのか?ハリー・カーンはなにをやろうとしていたのか」。

 共産主義の脅威は、日々刻々と増大してゆく。アメリカとしては、何が何でも食い止めなければならない。そのために日本を反共の防壁にする必要が生じた。輸送の整備とアジアの工場化である。

 ジョセフ・ドッジにより、「経済安定9原則」(通称ドッジ・ライン)が提示されたのは、1949年2月のこと。1j=360円の単一為替レートの設定、人員整理による合理化などを骨子とした日本経済再生の指針である。経済再生というと聞こえはいいが、アメリカの目論見は日本経済を効率よく活性化し、利益を吸い上げることだった。1j=360円は、戦前の72倍という超円安レートである。早い話が、戦前の72分の1の投資で日本の資産が手に入るわけである。

 ジャパン・ロビー(アメリカ対日協議会American Council on Japan)は、アメリカ資本家の日本における投資利益確保を目的に作られた組織といえる。中心人物はハリー・カーン。彼らは、戦前の72分の1という超安価で日本の利権を買うことができ、来るべき占領解除で必然的に円が値上がりすれば、更に莫大な利益が転がり込む。アメリカが、占領政策の名の下に、敗戦国日本に仕込んだ経済の罠こそがドッジ・ラインだった。そんなアメリカ資本を日本に導入するための窓口の一つが「米国援助物資見返り資金」で、これを管理するのが日本開発銀行、頭取の小林中は、白洲次郎の人脈である。
 さらに驚くべきことに、「ジャパン・ロビー」の背後にはロックフェラー財団やJ.P.モーガン社などユダヤ系資本が張り付いている。アメリカは、ドッジ・ラインとジャパン・ロビーのセットを以って、日本経済を骨までしゃぶりつくす構図を作り上げたのである。

 政治には資金が必要である。時の政権の資金ルートがドッジライン〜ジャパン・ロビーの枠組みの中にあったとしたら!?・・・・・。

 1948年6月「昭和電工事件」〜1949年1月第3次吉田内閣の成立〜2月ドッジ・ラインの提示〜7月下山事件。この一連の流れの中にこそ、下山事件を解く鍵がある・・・・・矢板玄はこう言っているのである。
 2013.08.10 (土)  私的「下山事件論」4〜矢板玄の話 後編
[7] 矢板玄の話 後編〜下山事件について

 矢板玄の話はいよいよ下山事件にさしかかる。本書の山場である。ここからは聞き手の質問も併記する。聞き手は、勿論、著者・柴田哲孝氏である。柴田氏は、真摯に質問を重ねる一方で、故意に的外れな質問も交えながら、相手から本音トークを引き出していく。結果、このやり取りは事件の核心に迫った。
 最後まで、矢板の口から「黒幕」と「フィクサー」の具体名は出てこないが、ジグソーパズルのごとく、彼の言葉の断片をつなぎ合わせれば、事件の真相は見えてくる。それは、矢板玄の言葉が真実だからである。
 なお、時は1992年2月、場所は栃木県矢板市の矢板家の屋敷である。

―そういえば、あのころ国鉄に関連していくつか事件がありましたね。下山事件とか
「ああ、あったな」

―下山さんに面識はあったのですか?
「会ったことくらいはある」

―矢板さんなら、事件について何か知ってるんじゃありませんか
「もちろん知ってるさ」

―なぜ下山さんは殺されたんでしょうね?
「あのころの社会情勢を考えればわかるだろう」

―例の国鉄の大量解雇ですか。下山さんは労組左派に恨まれていた、という話はありますね。
「馬鹿なことを言うな。アカの腰抜けどもに何ができる。あんな大それたことをやれるわけがない」

―しかし、労組左派の犯行説を政府もGHQも宣伝しましたよね。その結果、共産党は求心力を失い国鉄の大量解雇は一気に加速されました。
「表面だけを見ればそうなる。しかしそれは“結果論”だ。もっと視野を広げてみろ。どこかの新聞記者の書いた戯言を信じるな。あのころの世界情勢はどうだったのか。その中で日本はどのような立場に立たされていたのか。それさえわかれば、下山がなぜ殺されたのかもわかるだろう」

―それならやはり、アメリカの謀略ですか?
「そうは言っていない。ウィロビーは事件を利用しただけだ。ドッジ・ラインとはなんだったのか。ハリー・カーンは何をやろうとしていたのか。それを考えるんだ。東西が対立する世界情勢の中で、日本は常にアメリカと同じ側に立っている。過去も、現在も、これからもだ。もしアメリカじゃなくてソ連に占領されていたら、どうなっていたと思う?日本は東ドイツみたいになっていたかもしれないんだぞ。それを食い止めたのがマッカーサーやおれたちなんだ。日米安保条約はなんのためにある?アメリカの不利になるようなことは言うべきじゃない」

[8] 矢板の話を検証する

 矢板玄の話はここまでである。これを読み解けば「下山事件」が見えてくる。まずは、太字で示したキイワードを凝視することだ。そこに矢板玄を置いて人間の繋がりを見据えることだ。そして彼らの意図を読み取ることだ。真実は自ずと明らかになるだろう。

おれの後見人は三浦義一
ダイヤモンドはほとんどウィロビー(GHQ参謀第2部長)が持っていった
吉田茂はうちの金を使って追放を逃れて首相になった
よく来てたのが白洲次郎
あとはハリー・カーン
確かに俺とキャノンは親友だった
紹介してくれたのは岩崎のお嬢さん(沢田美喜
おれたちは反共というひとつの目的で結ばれたファミリーだったんだ
事件のことはもちろん知ってるさ

あのころの世界情勢はどうだったのか。その中で日本はどのような立場に立たされていたのか。それさえわかれば、下山がなぜ殺されたのかもわかるだろう。
ウィロビーは事件を利用しただけだ。ドッジ・ラインとはなんだったのか。ハリー・カーンは何をやろうとしていたのか。それを考えるんだ。東西が対立する世界情勢の中で、日本は常にアメリカと同じ側に立っている。過去も、現在も、これからもだ。
もしアメリカじゃなくてソ連に占領されていたら、どうなっていたと思う?日本は東ドイツみたいになっていたかもしれないんだぞ。それを食い止めたのがマッカーサーやおれたちなんだ。


 これまでもジャーナリストの間では矢板玄の名前は何度も挙がっていた。しかし、インタビューに成功したものはいなかった。かの平塚柾緒(キャノン中佐のインタビューに成功した初めての日本人)ですら、後に、「矢板玄にはとても恐ろしくて会えなかった」と告白している。
 そんな大物でありキーマンでもあった矢板玄が、初めてインタビューに応じた。これは、事件を追い求めるものにとって、真に画期的な出来事であり、これほどの衝撃はない。このインタビューこそ、これまで下山事件の真実に迫ろうとしたすべての人々の最終目的地だったといっても過言ではないのである。
 あとは矢板の話の真偽であるが、これを論理的に実証することは困難だ。なぜなら、事件は、発生から数十年経った現在でも見解が統一されておらず、矢板の話を照合する確たる鏡がないからだ。かくなる上は嗅覚しかない。信じられるか否かという直感!?

 私が“矢板が本当のことを言っている”と確信するのは、このときの彼の言動こそ人間本来の姿だと思うからである。嘘をつけない状況にあったと思えるからである。
 矢板玄の前に、昔苦楽を共にした仲間(というより深い絆で結ばれた盟友といったほうがいいだろう)の孫が現れた。その男は、矢板が関わった大事について興味を持ち真摯に立ち向かおうとしている。人間というものは、自らの思いを誰かに託して死んでゆきたいと願うものだ。それが云うに云われぬものならなおさらであり、託すべき人間が真面目であればあるほど気持ちが前向きになる。

 夏目漱石の「こころ」はまさにそういう小説である。“自分の思いを託せる人間が現れたら死ねる”そんな人間の普遍の心情を描いているからこそ、この小説は永遠のベストセラーたりえている。

 矢板の前にそういう人間が現れたのである。こいつなら自分の思いを受け止めてくれる。真面目に掘り下げてくれる。俺のやったことの本当の意味を分かってくれる。まさに、「こころ」における“私”が現れたのである。矢板玄は柴田哲孝を信用した。そして、気分よく喋り、別れ際に「また遊びに来い。今日は楽しかった」と本音を言ったのである。矢板玄の話は真実である。矢板はこの直後に脳梗塞で倒れ程なくして亡くなった。

 矢板を始め事件に関わった人たちには、日本の統治に「ソ連が関わることの脅威と弊害を阻止した」という自負がある。矢板が言う「放っておいたら東ドイツみたいになってしまったかもしれない」は、即ち、「日本が二分されていたかもしれない」ということだ。だからこれは正義の行為であると。

 「下山は誰に殺されたか?」という疑問は、松本清張が「下山事件の命令者が誰であるかは永久に判らぬだろう」と言うように、難しく重い問題である。矢板も柴田に向かって「まずいな。今はまずい。まだ関係者も生きているんだ。あと10年、いや、おれが生きているうちはだめだ。約束しろ」と言っている。

 アメリカ国公立文書館の吉田茂ファイルには、CIAが今なお公開を拒否している秘密文書が13ページもあるという(春名幹男著「秘密のファイル下」新潮文庫)。公開はいつになるのだろうか。ここには衝撃の事実が隠されているはずだ。だがこれは、日本という国が現在の形態で進む限り、恐らく公開されることはないだろう。

 ならば、問題を、「下山総裁はなぜ殺されたか=殺されなければならなかったか」と置き換えたらどうだろう。矢板は、これならいい、と示唆しているように思う。「誰に殺されたか」は個人に斬り込むが、「なぜ殺されたか」は歴史を見ることになる。「あのころの世界情勢と日本の立ち位置、それさえわかれば“下山はなぜ殺されたか”が見えてくる」という矢板玄の言葉には、彼ならばこその思いが潜んでいる。
 2013.07.22 (月)  閑話窮題〜映画「25年目の弦楽四重奏」を見て
<前説>

 ベートーヴェン作曲:弦楽四重奏曲 第14番 嬰ハ短調 作品131・・・・・これは「第九」を書いたあと、ベートーヴェンの創作が弦楽四重奏曲のみに向かった最晩年の傑作です。「第九」で自らの理想を世界に向けて高らかに謳いあげたベートーヴェンは、そのあと、いかなる外向的メッセージも発することのない弦楽四重奏の世界に没入してゆきます。忍び寄る死の予感の中、ひたすら自己と向き合った。そこにはいかなる教訓も誇張も体裁もない。自己の内面から涌き出る情感を4つの弦楽器に託して吐露した。最晩年に到達した自己の心情の自然な投影。それがベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲なのです。
 中でも、第14番作品131は突出した作品です。前代未聞の器に盛られた怜悧なまでの美しさ。時折見せる寛恕の表情。シューベルトが死の5日前、友人に頼んで演奏させたのも頷けます。
 前代未聞の器とは7楽章構成と「休まず通して演奏する」の指示。果たしてベートーヴェンの意図は?

 この謎と向き合った映画に出会いました。ヤーロン・ジルバーマン監督の第2作「25年目の弦楽四重奏」A Late Quartetです。ジルバーマンはマサチューセッツ工科大学で物理学の博士号とオペレーションズリサーチの修士号を取得した変り種。理工学的思考がクラシック音楽の傑作にどんなアプローチを見せるか興味津々。おっと、これは“クラ未知的”アングル。映画を軸に考えれば、名曲に触発されて描かれた人間関係の歪、というところでしょうか。

 一緒に見たのはいつもの映画&飲み仲間4人組。まさにカルテット。ジョッキ片手の鑑賞後感想会で、「第1ヴァイオリンの男が第2ヴァイオリンとヴィオラ夫婦の娘に本気に恋するなんて不自然すぎる、だからこの映画は60点」と言った私に対して、K氏は「男女の関係に方程式はないし、競走馬房でのデートは雰囲気が盛り上がるもの」と一言。なるほど、言われてみれば、ヤナーチェクとカミラの不倫の恋は歳の差37歳だし、ワーグナー一族の組み合わせは異様なものがある。それに比べればこのケース、殊更不自然とはいえないか。ならば訂正、「25年目の弦楽四重奏」は秀作です。

<物語の流れ>

 チェロのピーター(クリストファー・ウォーケン)は25年も続く名門弦楽四重奏団「フーガ」の最年長者。その昔、別の四重奏団で、女性メンバーが亡くなったことで解散したことを、心から悔やんでいる。なんとその亡くなったメンバーの娘が現四重奏団のヴィオラ奏者ジュリエット(キャサリン・キーナー)である。
 第1ヴァイオリンのダニエル(マーク・イヴァニール)は、ソロでもやっていけるほどの実力者だが、自らの信条から室内楽に賭けている。ジュリエットとは以前恋仲だったようだ。
 第2ヴァイオリンのロバート(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、「フーガ」に参加し、ジュリエットに一目惚れして結婚。二人の間にはアレクサンドラ(イモージェン・プーツ)という一人娘がいる。

 25年間3000回もの公演をこなしてきた名カルテットに突如異変が起きることに。キッカケはチェロのピーターの引退問題。パーキンソン病の初期という診断が下ったのだ。彼は昔後悔した解散だけはしたくない。だから、新しいチェリストを探すと言う。

 ロバートは、これを機会に、日頃から燻っている考えをメンバーにぶつける。「この四重奏団はダニエルの言いなりだ。カチっと整いすぎて肩が凝る。暗譜でやるなどもっと即興性を生かすべきだ。躍動なくして何が音楽だ。そこで私と交代で第1をやるのはどうか」と。
 ロバートは妻であるヴィオラのジュリエットに意見を求めるが、同意を得られず、逆に「なぜこんなときにそんな問題を出すの」となじられる。ロバートは、「あいつより俺が劣るということなのか」と憤り、腹いせとあてつけで女友達と一夜を共にしてしまう。その場に楽器を忘れたことで妻にはバレ、最悪の事態に。
 自分の女房は、自分ではない別の男の才能を評価している。しかもそいつは昔の恋人だったかもしれない。この気持から衝動的に別の女に走る。これは自然なこと。設定のうまさである。

 ロバートとジュリエットの娘・アレクサンドラは才能豊かなヴァイオリニストで修行中の身。両親は飛躍のためにダニエルにレッスンを依頼する。が、これがとんでもないことに。
 歳の差恐らく30くらい。この二人が愛し合うようになる。最初に女が仕掛け、後に男が本気に。発覚して、母親ジュリエットは娘を非難。反対にアレクサンドラは母親にその資格を誹る。コンサートで旅ばかり。いつもほったらかしだったと。ロバートは父親としてダニエルにパンチ一発。二人は別れるが、平和だった家庭にしこりが残る。

 ピーターの引退宣言が引き起こした様々な軋み。各人各様の思いを胸にコンサートの当日がやってくる。曲はベートーヴェンの「弦楽四重奏曲 作品131」。果たして演奏は無事全うできるのだろうか。そして各人の人生の歪みに解決はあるのか?

<音楽を知り尽くした制作陣>

 スタッフは、「フーガ」という弦楽四重奏団を、実在する3つの団体からエピソードを拾って構築したようです。グァルネリ四重奏団からは、最年長者のチェリストの引退と解散を。イタリア弦楽四重奏団からは、女性1人と男性3人という構成を。エマーソン弦楽四重奏団からは、ヴァイオリニスト2人が第1と第2を交互に弾くスタイルを・・・・・この組み立ては見事の一語。スタッフの幅広い知識が物語にリアリティをもたらしました。

 「ソリストの才能があるのに、なぜカルテットをやるのか?」との問いにダニエルはこう答えています。「ソリストは旅から旅へ、その都度違う指揮者とオーケストラで演奏する。二度と会わない相手もいるだろう。これで音楽を深く追求できるだろうか。偉大な作曲家への忠誠が果たせるだろうか。弦楽四重奏団は毎日合奏し、何年も同じメンバーで演奏する。意見を言い合い修正しながら音楽を作り上げてゆく。私はこれが本当の音楽の姿だと思う」。演奏者サイドから見た室内楽の本質を見事に言い当てています。
 レッスン初日にアレクサンドリアに言った「まずはベートーヴェンの伝記を読め」もある意味解釈の本質を突いている。スタッフが音楽を解っている証です。

 ピーターは音楽院でチェロを教えています。生徒を前にこんな話をすることも・・・・・「私がパブロ・カザルス(1876−1973)の前で初めて弾いたときのこと。J.S.バッハの『無伴奏チェロ組曲第4番』の『プレリュード』を弾きなさいと言われて弾いたが、上がりまくって最悪の出来だった。次に「アルマンド」を弾いてと言われた。これがもっと酷い。ところが彼は私にこう言った。『なかなかよかったよ。頑張りなさい』って。私は馬鹿にされたような気分になって不愉快だった。それから、数年経って彼に出会った。私はいっぱしのチェリストになっていた。彼に『私のことを憶えていますか?』と訊くと『憶えているよ』と言って、いきなりチェロを弾きだした。あのときの私の演奏だといって。『君はこう弾いた。この部分、実にユニークでよかったよ』って。彼は私の演奏を憶えていてくれたんだ。それで、いいところだけを誉めてくれたのだ」
 この話は感動的でした。無論フィクションでしょうが、カザルスならこう言うだろうと納得させられます。これは、カザルスという芸術家の本質を捉えているからこそ可能なこと。記憶力は誠意に通じ、長所を誉めることは才能を伸ばす。人を育てる、これは鏡だと思います。
 因みにJ.S.バッハの「無伴奏」は、カザルスが13歳のとき、バルセロナの楽器店の片隅で(楽譜を)見つけたもの。この日を境に、「無伴奏」は練習曲から芸術作品へと変貌を遂げるのです。

 ピーターの亡夫人に名歌手アンネ=ゾフィー・フォン・オッターが扮し、イメージの中で歌うシーンも印象的でした。美しい小品でしたが、タイトルが分かりません? 誰か教えてください。

 「休まず通して演奏すべし」というベートーヴェンの指示がやがて“調弦の狂い”を引き起こすことから、これを団員同士と家庭内の軋みにイメージとして重ね物語の劇的展開を図っている。楽曲の特質をここまで緻密に作品に投影させたのは見事としか言いようがありません。
 また、ニューヨークという街の質感が、物語と絶妙にマッチして、画面に更なるリアリティを与えていたことも付け加えておきます。

<時という概念>

 映画冒頭に引用されたT.S.エリオットの詩“Four Quartets”も象徴的でした。
望みつつも実現しなかった過去
ともかく何かをなしえた過去
両方とも現在という時に帰結する
未来もまた同じこと 人間は時には抗えない
 四重奏団のメンバーも其々の過去を秘め現在を生き未来に向かっています。各人が背負う各々の時その集合体が「フーガ」という弦楽四重奏団の現在なのです。メンバーが変わって、「フーガ」の行く末は果たしてどうなるのか? メンバーの人生に解決はあるのか?それには時の帰結をすべて受け入れることから始めるしかないのかもしれません。

 映画「25年目の弦楽四重奏」に、ベートーヴェンの指示が見事に投影しているのは理解できても、「作品131」に込めたベートーヴェンの意図はまだ分かりません。いつか分かるときがくるのかどうか、これも分かりません。でも分かろうとする努力はしてゆきたいと思います。
 確かなことは、ただ一つ、「弦楽四重奏曲 第14番 嬰ハ短調 作品131」はベートーヴェンが印したその時の自分自身であるということでしょう。

 久しぶりに見ごたえのある映画に出会いました。余韻に浸る私たちカルテットを包み込みながら、銀座の夜は静かに流れゆっくりと時を追いやってゆきました。また行こうぜ!
 2013.07.20 (土)  閑話窮題〜サプライズ連発のコンサート
 私の友人にFさんという一部上場会社の会長兼社長さんがいます。彼は水戸市出身で、大のクラシック・ファン。会社も順調、現在水戸芸術館をサポートしています。
 去る7月8日、芸術館所属のオケ・水戸室内管弦楽団のサントリーホール公演にお誘いを受け行ってきました。
 この日は、会社の福利厚生の一環としての、社員クラシック音楽鑑賞Day。私もそこに潜り込ませていただいたという次第。開演前、同行した友人T君と共に、小ホールでのレセプションから参加させていただきました。

 冒頭、芸術館の理事の方からの挨拶が。「本日は、先ほど亡くなった当オケのヴァイオリニスト潮田益子さんの追悼として、プログラムに先立ってモーツァルトを演奏します」と。そこで初めて潮田さんの訃報に接して、絶句(あとで調べたら、5月28日、アメリカのご自宅で亡くなられたとのこと。享年71歳、白血病だったそうです)。あの温和で凛とした潮田さんがここにいないなんて! 昨年1月、同じサントリーホール、天皇皇后両陛下ご高覧の演奏会での颯爽たるコンサートミストレス振りが瞼に焼きついている
・・・・・。

 開演を待つ。薄暗い照明の中、静かにメンバーが入ってきます。潮田さん追悼の演奏です。舞台に光が微かに増した瞬間、スゥっと音楽がはじまる。なんというやさしい響き! モーツァルト、ディヴェルティメント K136 第2楽章。とそのとき、指揮者に気づきました。場内ざわつく。なんとそこに小澤征爾がいたのです。彼は、水戸芸術館初代館長・吉田秀和氏の逝去に伴い、二代目を受け継いだばかり。

 音楽は空間を漂い宙を舞い天空に向かう。各人の思いが小澤の動きと一体となって、まるで音に霊が乗り移ったかのよう。一音たりとも思いの篭らぬ音はなく、その響きは慈愛に満ち、悲しみは透明で美しい。考えられないほどのゆったりとしたテンポなのに、一切ダレることはない。こんなK136を聴くのは初めて。というか、こんな凄い音楽は初体験。
 この思い、この音は、天上の潮田さんに間違いなく届いている、そう確信。音楽に、ここまで心が込められるものなのか! と、感動でしばし我を忘れてしまいました。
 曲が終わって、小澤さんは何も言わず静かに袖に消えてゆく。永年の音楽仲間を悼む数分間のためだけに駆けつけたのでした。これはF氏も知らぬサプライズだったとか。私にはまさに稀有なる体験でした。潮田益子さん、安らかに!!

 このあとのプログラムは、準・メルクル指揮で細川俊夫作曲「室内オーケストラのための開花U」(世界初演)、小菅優のピアノが加わってのベートーヴェンの第3協奏曲、最後にシューベルトの交響曲第8番「グレイト」。楽しく聴きました。

 そしてもう一つ、今度は私的なサプライズが・・・・・元ソニーミュージックのH氏と小ホールで遭遇したのです。小ホールということは彼もF氏からの招待ということ。彼は年間100本以上のコンサートに足を運ぶクラシック大好き人間にして、鑑賞の達人。行った翌日には、もうコンサート評がアップしている。それも半端なものじゃなく、全体を掴むと同時に細部のパフォーマンスを綿密に描き出す。森と木が必ず並存する高度な内容。その質、量、スピード、まさに一級品の演奏評なのです。興味ある方は「ベイのコンサート日記」を覗いてみてください。

 さて、そんなH氏がなぜここに?H氏も“私こそなぜ?”と思ったそうですが。種明かし・・・・・H氏はF氏の大学の後輩で、同じ「クラシック音楽研究会」のメンバー、40年来の付き合いだったのです。H氏の質問“では、F氏と私の関係は”に対しF氏は、「話せば長くなるので又」。F氏を軸に大学の後輩と幼馴染。そんな友達の輪でした。

 もうひとり、BMG時代の後輩で現在ソニーの財団にいるA氏も来ていて、彼は同行のT君とは同じ営業の釜の飯を食った仲。これもサプライズ。終演後20年ぶりの二人と私で軽く一杯、のつもりが昔話に花が咲き、気がつけば終電間際。大急ぎで溜池山王に向かいました。数々のサプライズをプレゼントしてくれたFさんに感謝しながら。
 2013.07.17 (水)  閑話窮題〜ソムリエ検定奮闘記
 5月25日付当欄で予告させていただいたとおり、「クラシックソムリエ検定」なるものを、7月7日、会場・昭和女子大、で受けてきました。等級はエントリークラス、まあ、入門者コースです。制限時間60分、100問のスクエア(4択)方式です。ではしばし、6週間の奮闘記にお付き合いください。

 きっかけは、5月12日O.A.の「題名のない音楽会」〜「クラシックソムリエ選手権」。動機は面白そうだから。申し込んだのが5月23日。目標は、満点の1000ポイント。上位クラスであるシルバーコースの受験料が無料になるからです。このポイント、なにやらTOEICの偏差値(但しこちら満点は990点)に倣っているようですが、煩雑になるので以下満点を100点として記述します。
 早速、「公式テキスト」と「公式問題集」を買い込み、いざ! 詰め込み作業開始です。大学入試以来50年ぶりの「受験」にGo!

 まずは、素のままで、「公式問題集」から過去問をやってみる。結果は95問正解。所要時間は15分。これはなかなかの出来。100点も夢じゃないぞと気合が入る。もっとやろうと思ったが、「過去問」はこれだけ。そうか、去年始めて今年が2回目なのだ。大学受験の過去問は確か7年分シッカリあったのに、なーんて昔を思い出したり。

 「公式テキスト」には、「出題は、テキストから8割、あとの2割はこれ以外から」との指南あり。ならば当然、「公式テキスト」のマスターが基本となる。
 テキストは、「歴史編」「作曲家編」「作品編」に分かれており、「歴史編」は中世からバロック、古典派、ロマン派を経て現代まで。「作曲家編」は36人。でもこの人選、サティ、スクリャービンが入っていて、ベルリオーズ、フランク、グリーグ、シベリウスあたりが外れちゃってるのはいかがなセンス? でもまあいいか、郷に入っては郷に従えであります。「作品編」は95曲。これはこれでいいでしょう。J.S.バッハ1000曲、シューベルト900曲、モーツァルト600曲。そんな中から選ぶのだから、こちらの好みを言っても始まらない。

 目標が90点ならこのままでOKなのでしょうが、100点に置いたからには、テキスト以外の2割の対策が課題。範囲無限は恐ろしい。テキスト以外と一口に言うが、これは膨大。でもやるしかない。
 そこで作戦。これまで貯め込んだ映像ファイル「名曲探偵アマデウス」「題名のない音楽会」「NHKシンフォニーホール」「ららら♪クラシック」「名曲への道」「音楽の生まれた街」などなどを、総ざらい再チェックして必要事項(と思われるもの)を叩き込もう。その他、CDのライナーノーツや友人の檜山准教授が書いた「音楽家の名言」にも目を通そう。平行して「公式テキスト」を読みながらでアンダーラインを引きまくろう。これを丸々3週間。

 そして、このあと、自分で問題を作成し、繰り返し頭に入れる作業を2週間。参考までに私が作成した仮想問題から10問を下記(ここは4択にはせず)。
@リヒャルト・ワーグナーの息子・ジークフリートの妻で、亡夫の後を継いでバイロイト音楽祭の音楽監督を務めたのは?
Aパリ音楽院でラヴェルを教えたフランス人作曲家は誰?
BヴァイオリンのG線だけで弾く曲は「G線上のアリア」が有名ですが、同じくG線だけで弾く「ナポレオン・ソナタ」の作曲者は?
Cロッシーニが“シャンゼリゼのモーツァルト”と呼んだ作曲家は誰?
Dベートーヴェンがピアノ・ソナタ第26番を「告別」と命名したのは、ある貴族との別れのため。その貴族とは?
Eセルビア音楽学の基礎を築き、セルビアのバッハと呼ばれた音楽家は?
Fモーツァルトが、ウィーンのモーツァルトハウス(以前はフィガロハウス)に住んだ期間は、西暦何年から何年まで?
Gイタリア中部トスカーナ地方ルッカ生まれの作曲家を二人挙げよ
Hベートーヴェンは引越し魔。では、彼がウィーンで引っ越した回数は何回?
I次のヴェルディのオペラの中で、仲間はずれはどれ?――ナブッコ 椿姫 オテロ ファルスタッフ
 こんな問題を作っているうちに、なんと350問に膨れ上がってしまいました。ちょっとヤリ過ぎ! 結果的にはこれが仇になったのですが、しょうがない。この性分は変えられない。
 最後の1週間は総まとめのアローアンス期間。分かっているところとそうでないところをシッカリ仕分けして、100%理解に近づけたつもり。

 そして本番、結果は?・・・・・98点でした。残念! 正式通知はこれからですが、既に解答がHPにアップされているので答え合わせをした結果です。間違えた2問は次の通り。
・ ライプツィヒの「カフェ・ツィンマーマン」というコーヒーハウスの常連だったのは誰でしょう

・ 帝政ロシアの末期に生まれ9歳で最初のオペラを作曲。それを家族に披露したといわれる作曲家は誰でしょう
 前者の正解はJ.S.バッハなのにメンデルスゾーンに、後者はプロコフィエフなのにショスタコーヴィチにしてしまいました。やはり満点は難しかった。さらに悔しいのは、間違えた2問はなんと「公式テキスト」に掲載されていた! ということ。これはテキストをきちんと把握してなかった証拠。大学受験から50年。素直に受験スキルの劣化を認めざるを得ません。受験スキルとは嗅覚と集中力です。

 「テキスト」がおろそかになったのは、自らに課した至上命令「100点満点」の弊害でした。「テキスト以外から2割」という目に見えないプレッシャーでした。このプレッシャーが、私固有の際限なきエクスプローラー気質に、+αの拍車をかけちゃったということ。過去問を見ればこんな高難度の問題は出るわけがないのに、どうにも止まらない。わかっちゃいるけどやめられない。でもまあ、これが私の性分と諦める。そして、この350問はシルバークラスにきっと役立つと慰める。

 だがしかし、徹底的に詰め込んだこの6週間は、充実した実に楽しい期間でした。集中するため、恒例の月一飲み会を独断で本番以降にスライドしたら、仲間から「そのような自己都合は和を乱す。ケシカラン!」と顰蹙を買ってしまったり。でも、楽しかった。ホント、私、こういうの素直に好きなんですよ。かの2チャンネルあたりでは、例によって本検定を小馬鹿にする風潮が大ですが、私は楽しんじゃいました。こんなこと言うと、彼らはまた「こんなものを楽しむアホもいる」なんて、揶揄するのかな!?大きなお世話だって。
 さて、350問中、今現在も記憶しているのは7−8割くらいでしょうか。忘れたら憶えるまで繰り返せばいいさ。では、来年のシルバークラスに向かって Fight!!
[仮想問題解答]
@ヴィニフレート・ワーグナー Aフォーレ Bパガニーニ Cオッフェンバック Dルドルフ大公 Eシュテファン・モクラーニャッツ F1784−1787年 Gボッケリーニとプッチーニ H79回 I椿姫(「椿姫」だけがフェニーチェ劇場で初演。他はミラノスカラ座)
 2013.07.10 (水)  私的「下山事件論」3〜矢板玄の話 前編
[5] 司令塔を特定する

 「あの事件をやったのは、もしかしたら、兄さんかもしれない」。この衝撃の台詞が本書の肝である。発したのは飯島寿恵子、著者の大叔母、「兄さん」と言うのは「下山事件〜最後の証言」の著者の祖父 柴田宏(1901−1970)のことである。柴田は、戦時中は特務機関に所属、戦後は「亜細亜産業」という会社に勤めていた。亜細亜産業は室町三丁目のライカビルの3階にあった貿易会社で、社長は矢板玄(1915−1998)といった。事件のあった三越本店とは中央通を渡ってすぐ、地下出口からは数十メートルの至近距離にある。柴田宏は1901年生まれだから、下山事件当時は48歳である。

 「司令塔」ABとフィクサーは、事件の全容を知っている。下山を呼び出したCは、政治を陰で繰ることができる数少ない大物のひとり。本書では、「建国記念の日」を決める件(1966年)で、時の総理大臣と幹事長、即ち佐藤栄作と田中角栄を電話一本で操るCの姿が描かれている。

 本文の目的は、下山事件の背景にメスを入れることである。それは真犯人の特定に繋がるものだ。真犯人とは「黒幕」と「フィクサー」と「司令塔」である。

 著者柴田哲孝は、本書の中で「私の祖父らがある意味で下山事件の当事者であったことは間違いない」と断言する。ある意味とは、この事件の複雑さを言い表す。前述のとおり事件に関わる人間は100人を超すともいわれている。しかし、祖父・柴田宏が単なる100分の1でないことは読めば判る。それどころか事件の中核にいたことを彼は確信している。それは祖父本人との思い出、親族の言動などから生きた証拠として提出される。何度も言うように本書の特異性と価値はここにある。

 彼は、「司令塔」の一人を祖父・柴田宏と特定した。そしてもう一人を祖父の上司・亜細亜産業社長矢板玄とした。このあと、著者が矢板に行ったインタビューを掲載する。これを読めば、著者の推論に間違いないことが分かるだろう。 さて、「司令塔」ABは特定された。残るは「黒幕」と「フィクサー」である。これも矢板玄の発言から容易に推測されるはずだ。「誰がやったか?」は次章以下を読めば自ずと明らかになるだろう。

 著者は、矢板玄を“とてつもない人物”と形容する。出自は栃木県矢板市の名門矢板一族。矢板玄蕃の長子として、1915年に生まれた。生家は、現在、祖父の名を冠した「矢板武記念館」となっている。
 戦時中は電気技師として満州鉄道の開発に従事。日中戦争で功績を挙げる。特務機関員でスパイ行為もやっていたようである。そして、終戦後、亜細亜産業を立ち上げた。

 では、矢板玄へのインタビューである。1992年2月のことである。柴田氏の週刊誌記者を伴っての矢板行きは、市役所での問答、初対面の衝撃など、ドキュメンタリーとしてまさにサスペンスフルな面白味がある。が、やむなく割愛する。興味ある方は著書を読んでいただきたい。なお、インタビュー前半は、矢板玄の一人語りの形にリライトした。この方が解りやすいからである(後半はインタビュー形式で掲載する)。

[6] 矢板玄の話 前編〜下山事件まで

 おれはもともと学校を出てすぐ昭和電工に入ったんだよ。それで、入ってすぐに、社長(森矗昶)に頼んで大陸に行かせてもらった。最初はおとなしく満鉄なんかをやっていたが、退屈でね。それで軍属になって上海に「矢板機関」を作った。そのときに、ごっそり金を儲けてな。それで日本に帰ってきて、亜細亜産業を作った。
 「矢板機関」の後見人は児玉誉士夫? 冗談いうなよ。あの頃、児玉は、親父の仲間じゃ一番下っぱだったんだ。おれの後見人は三浦義一(1898−1971)。それに東条英機だ。

 亜細亜産業は一口で言えば軍需産業だ。満鉄の部品から大砲の弾、軍の記念アルバムやベルト靴底や帽子まで作っていた。ラワン材を輸入して家具も作った。工場は北千住、小菅、王子、十条、にあった。

 俺の親父(矢板玄蕃)と三浦義一が「日本金銀運営会」というのを作ってライカビルの4階に置いた。亜細亜産業の上の階だ。戦時中に国が国民から指輪やネックレスなんかの貴金属を出させただろう。それを潰して金の延べ棒にして、全部うちに集まってきたんだ。日本中の金の半分はうちにあったんじゃないかな。
 使い道? 戦時中は物資調達。金ならどこでも通用する。終戦後は政治に使った。吉田内閣の政治資金さ。吉田茂(1878−1967)はうちの金を使って追放を逃れて首相になった。つまり、吉田内閣を作ったのはうちの親父と三浦義一なんだ。その後、岸内閣までほとんどその金が使われたね。

 ダイヤモンドは、ほとんどウィロビー(GHQ参謀第2部長)が持っていった。M資金って知ってるだろう。MはなんのMか知ってるか? 巷じゃマーカット(GHQの経済科学局第2局長)のMということになってるらしいが、あれはウィロビーの裏金だからWをひっくり返したもの。即ちMだ。

 ライカビルの3階がウチでその上が三浦義一の事務所だった。都内の一等地だからみんな集まってきた。右翼はもちろんアカもいた。やつらが共産党の情報を、どんどん持ってきた。

 政治家もたくさん来た。よく来てたのが白洲次郎(1902−1985)だ。彼はまあ、厳密には政治家とはいえないが、動きは同じだ。あとは社会党の西尾末広。吉田や岸信介も来たことがあった。政治家ってのは現金なやつらでね。みんなウチの金が目当てに集まってくるんだ。

 岸信介を(刑務所から)出したのはおれじゃない。本当に岸を助けたのは白洲次郎と矢次一夫、あとはハリー・カーン(ジャパン・ロビー中核の一人)だ。私は長光と古荘は出してやった。ウィロビーに直談判してな。ウィロビーは三浦義一から紹介された。三浦さんというのはとてつもない大物でね。日本の影の大統領といってもいい。ウィロビーも吉田茂も財界の大物も、何か問題が持ち上がればすぐに三浦さんのところに相談に行ったんだよ。

 あのころGHQがGSとG2に割れていたのは知っているだろう。ウチはG2の側だった。それで反共工作とかね。まあ、アカ狩りだよ。

 確かに俺とキャノンは親友だった。紹介してくれたのは岩崎のお嬢さん(エリザベス・サンダースホームの沢田美喜)だった。ウィロビーのG2の下にキャノン機関てのを作った。本郷の岩崎邸に本部を置いたんで「本郷ブランチ」と言われた。構成員は14−5名。任務は極東地域における防共活動。まあ、アカ狩りだ。日本国民に対する逮捕権を持つものが何人かいた。「本郷ブランチ」は謂わば「超法規的実行部隊」だった。

 やってることとは裏腹に表向きの生活は派手だった。本郷ハウスでは夜毎パーティーが催され、まるで別世界の体だった。客人は、国警長官の斉藤昇、安井誠一郎都知事、田中栄一警視総監、白洲次郎など。女優の京マチ子、李香蘭が来て、歌を歌ってた。

 キャノンはいいやつだったよ。マスコミは鬼みたいに書くけどね。横浜の自宅にも遊びに行った。白洲次郎や斉藤昇も一緒だった。斉藤をキャノンに紹介したのは吉田茂か白洲だろう。キャノンは頭がいいやつでね。まず最初にウィスキーと賄賂で警察の親玉を手なづけるんだ。そして日本の警察手帳みたいなのをもらってさ、これさえあればどこでも撃ち合いが出来るって言ってた。おれも悪いことするときには時々借りていた。
 おれの「亜細亜産業」はG2の仕事をやっていたから、キャノン機関とは兄弟みたいなものだった。キャノンの仕事を受けたこともあったし出したこともあった。おれたちは反共というひとつの目的で結ばれたファミリーだったんだ

 荒っぽいこともやったよ。アカをさらってきて、口の中に拳銃を突っ込んだりな。キャノンはそいつの頭の上に、一発ぶち込むんだ。髪の毛が焦げるくらいにさ。それで訊くんだ「弾丸と金とどっちがいい?」。たいがいそれで、二重スパイになる。伊藤律なんかその口だ。

 GS(民生局)の奴ら、ホイットニーとかケージスにも会った。しかしあいつらはアカの味方だった。ケージスと鳥尾夫人のことは知ってるかい? 世にいう昭電疑獄事件だ。あれを仕組んだのはおれたちだ。あれは三者の利害関係が完全に一致した。吉田茂は芦田内閣を潰したかった。ウィロビーはケージスを追放したかった。俺たちは昭電の森さんに恩があった。最初に計画を練ったのはウィロビーと吉田茂と白洲次郎だよ。それでおれや斉藤昇が動いた。キャノンは直接は絡んでいない。あいつは頭を使うのはあまり得意じゃなかった。荒っぽいことが専門だった。
 柴田さんも咬んでいた。ケージスが新聞社や警察に圧力をかけてきたから、ハリー・カーンのつてを使ってアメリカの新聞に情報を流したのは柴田さんだった。
 2013.06.25 (火)  私的「下山事件論」2〜犯人の行動を追う
[3] これは他殺である

 早速、警視庁は捜査を開始。連日の報道に、「自殺?」「いや、他殺」など、列島は騒然となった。警視庁内でも意見が分かれ、一課は自殺、二課は他殺で動いていた。ところがしばらくして「自殺」「他殺」の結論付けもないまま捜査は打ち切られた。そして1950年2月、「文藝春秋」と「改造」に、捜査の流れと終焉について書かれた「下山白書」なるものが掲載された。これは一課の意向を汲んでおり、暗に自殺をほのめかすものだった。
 だが、これはどう見ても他殺である。ではその理由を書く。

@ 検死の結果、生活反応がない。これは死後轢断である。
A 轢断現場の北千住寄り、即ち進行方向と反対位置に血痕が落ちていた。自殺なら血痕は進行方向にしか付かない。
B 根っからの鉄道人間が、マグロといって忌み嫌う轢死体に自らがなって神聖な線路を汚すはずがない。

 さらに、替え玉による見え見えの偽装工作を考慮すれば、他殺以外に考えられない。下山総裁は拉致され殺害され線路に遺棄されたのである。迷わず「他殺」と断定し、これを前提に話を進める。

[4] 犯人の行動を追う

 下山総裁はどのように拉致され殺害され遺棄されたか? 事件当日の実行犯の側から「仮説」としてこれを追ってみたい。これだけの事件だからして、場面によって諸説あるが、自分として最も相応しいと思うものを「えいや」でチョイスしてしまおう。間違っても構わない。なぜなら、本論の重点は、事件の実証にあるのではなく、動機と社会情勢の考察にあるからである。

 「黒幕」から「フィクサー」を通じて依頼を受けた「司令塔」AとBは、フィクサーと共に実行計画を立てる。その青写真にしたがって「実行部隊」を配置、役割を指示する。司令塔AとBは下山と顔見知りでもあるため拉致そのものも行う、いわばプレイングマネジャーである。一方で、超大物Cに下山総裁の呼び出しを依頼する。Cは「7月5日9:30の開店直後に三越本店に入り店内謀売り場に来い」と下山に連絡。下山はCの言うことには忠実である。Cとはそういう間柄だった。Cから重要情報をもらう段取りだったかもしれない。だから、時刻を守るため運転手に様々に命じて時間合わせをしているのだ。下山はCとはそれまでにも度々会っている。運転手にも知られたくないためか、Cの事務所からやや遠方で待たせるのが常だった。
 事件当日の下山の不可解な行動(運転手への命令の脈絡のなさ)は、Cの指令を忠実に守るための時間合わせであり、運転手にもカムフラージュした結果である。

 下山は指定された売り場に行く(「下山白書」によると「複数の店員に目撃されている」)。指定の売り場にCはいない。その代わり、AとBがいた。彼らは「下山さん、Cさんは来られなくなりました。私たちが彼の待つ場所に案内しましょう」と言って、下山を促し地下道に出る。ここで下山は知り合いの小野寺健治という男に目撃される。  AとBは下山を車に乗せ、次なる現場に向かう。そこにもCはいない。代わりに強面の日本人や日系二世らがいた。場所はなにかの工場のようだ。そこが殺人現場。「実行部隊」Dは下山総裁を暴行し血を抜き拷問の末、殺害した。
 深夜、「実行部隊」Eは死体を運び出し、国鉄常磐線北千住綾瀬間のレール上に置いた。

「実行部隊」には別動隊があった。自殺偽装グループである。下山総裁監禁後衣服を脱がせあらかじめ決めておいた下山の替え玉に着せる。「替え玉」をFとする。Fの足取りを「下山白書」の目撃証言に沿って追ってみる。

 Fは、7月5日渋谷発11:23の浅草行地下鉄に、三越前駅から乗り込み、一人の男の足を踏む。目撃者づくりのためだ。浅草で降りる。地下鉄浅草駅西口では靴磨きに目撃されている。
 東武線に乗り換え五反野駅で下車。13:43。改札員に「この辺に旅館はないですか」と訊く。改札員は末広旅館を教える。
 Fは末広旅館に行く。そこの女将・長島フクに「しばらく休ませてほしい」と告げて、2階の四畳半の部屋に案内される。「宿帳を」と言われたので「それは勘弁してくれ」と断る。替え玉だから筆跡は残せないはずである。しばらく部屋にいて、時間をつぶす。17:30、宿賃200円を払い旅館を出る。
 五反野駅線路付近、トンネルやガード下などをぶらぶらと歩く。玉蜀黍畑に分け入ったりもする。立ち止まり考え事をしている風を装う。このあたりの目撃証言アリ。

 偽装工作はここまで。Fは、日沈後闇にまぎれて姿を消した(Fは李という朝鮮人で、替え玉が露見しそうになった1955年秋に消された、という証言がある)。

 7月6日未明、0:24常磐線北千住駅を出発した上野発松戸行の終電2401Mが、綾瀬駅との中間地点付近にさしかかったとき、運転士が轢死体らしきものを発見した。通報を受けた駅員が確認、それが国鉄総裁下山定則の変わり果てた姿だった。
 2013.06.10 (月)  私的「下山事件論」1〜事件の本質とあらまし
[前説]

 私の会社時代の友人に桑島雅直君という男がいる。彼の父は桑島直樹博士。下山事件で被害者下山定則初代国鉄総裁の検死を担当した執刀医である。共通の友人に田畑圭一郎君がいるが、彼はそんな関係で、昔から「下山事件」には殊のほか関心が深い。田畑氏から、つい最近「面白いから読んでみたら」と「下山事件〜最後の証言」という文庫本を借り受けた。
 私はこれまで、「下山事件」について、“終戦後起きた未だ全容が解明されていない国鉄関連の事件の一つで、GHQが何らかの形で関与している”程度の認識しかなかった。最初に目を通した「あとがき」には、櫻井よしこ氏が「どの下山事件関連の本よりも興奮を覚えた書であった」とある。彼女の言なら信用できる、と読み出したら、やはり間違いはなかった。すぐに、頭の中は下山事件で一杯に。たまらず、日本橋は実行犯のアジト(だったと思しき場所)に行って見るなど、まさにマイ・ブームと化してしまった。写真は実行犯がいたとされるアジト(現在は別の建物)で、そのときに撮ったものだ。

 本書の最大の売りは、ジャーナリストである著者・柴田哲孝氏が、「私の祖父が事件に関与していた可能性がある」として切り込んでいく、そのスタイルである。自殺か他殺か警察をも二分し、GHQや共産主義者の介入が取りざたされるも、遂には時効となり、60年以上経った現在も未だ真相が掴めない謎多き事件に対して、これは画期的な構図である。

 松本清張は、事件11年後に、この下山事件を含むノンフィクション集を発表した。「日本の黒い霧」である。その中で、「下山事件の命令者が誰であるかは永久に判らぬだろう」と書いている。著者はこれをどういう気持ちで書いたのだろうか? 私の直感では、「永久に口に出来ないだろう」のニュアンスに近いものを感じる。「判っても言えない」ということだ。
 これは「クラシックの謎を解く」とは訳が違うコテコテの刑事事件であり、高名な政府要人の命が奪われた当時世間を震撼させた大事件である。事件に関わった人間は、間接まで加えると、100人を超すとも。しかも、たかだか60数年前に起きた事件だからして、実際に関与した人の何人かはまだ生きている可能性があり、次々世代までなら存命者は相当数に上るだろう(著者の柴田氏もそのうちの一人だ)。さらに、事件は日本という国家の根幹に関わるものと考えられるから、その真相は戦慄を覚えるだろう、との予感がある。
 そんな“大事件”を私ごときど素人が興味本位で語り結論付けるなんぞはおこがましさの極致だ。だから私も同じく、「永久に判らないだろう」と結ぶしかない、そんな予感はぬぐえない。だがしかし、そうは言いつつ追究したくなるのが「クラ未知」精神? かくなるうえは、「下山事件〜最後の証言」をテキストにして、事件を読み解いてゆきたい。これは、私的「下山事件論」である。

[1] 下山事件の本質

 どんな事件にも必ず動機がある。そして犯人がいる。犯人には単独犯と複数犯がある。動機のある人間が直接手を下す場合と依頼する場合がある。下山事件はこれらが錯綜する複雑な事件である。この構図を仮説を立てて頭に入れておかないと、読んでいてトッチラかる。特にこの「下山事件〜最後の証言」という本がそうだ。世間一般の目に触れていることいないこと。昔のこと今のこと。他人の考えと自身の考え。表と裏。それらが時系列に従わずに出没する。著者の知っていることと知らないこと、知っているのに言えないこと、これらも間断なく行き交う。普通に読んでいるとこんがらがるから、ページを引き返し確認して又戻るを繰り返す。実に効率が悪い。
 だから、仮説を立てこれに沿って事件の構図を頭に入れておく必要がある。間違っていてもやっておくのである。効率のために。間違いに気づいたらその時点で修正すればいい。さらに、その仮説にしたがって事件の本質を自分なりに理解しておかねばならない。

 「下山事件」には「黒幕」がいる。黒幕が依頼した「司令塔」がいる。黒幕と「司令塔」を仲介する「フィクサー」がいる。「司令塔」は「実行部隊」を編成する。「実行部隊」にはいくつもの役割がある。彼らには役割だけしか説明されない。だから実行部隊は全体像を知らない。黒幕の後ろには巨大な「渦」がある。これは時代という巨大でどす黒いパワーである・・・・・これが仮説
 「下山事件」は単なる殺人事件ではない。戦後という、日本がかつて体験したことのない混沌の中で、各人がうごめき欲望と大義が渾然一体となって産みだされた怪事件である。そしてこの魑魅魍魎が決めた国の行く末は、侵しがたい現実となって今に続いている。世界にも類例のない日本という国の形・有様は、間違いなく「下山事件」の時代に方向付けされたものだ。だからまさに、「下山事件」を読み解くことが、現代そして将来の日本を見通す事に繋がるのである・・・・・これが本質である。

[2] 事件のあらまし

 まずは、表面に見える事件のあらましを整理しておく。

 1949年 昭和24年7月5日、国鉄初代総裁下山定則(1901−1949)は、いつもどおり朝8時20分、大西政雄の運転する社用車に乗って大田区池上の自宅を出て国鉄本庁に向かった。車が御成門にさしかかったとき、下山は「佐藤さんのところに寄るのだった」と呟いた。「佐藤さん」が民主自由党の政調会長・佐藤栄作を指すものなのか検事総長の佐藤藤佐なのかは、現在も不明のままだ。「佐藤さん」へは引き返さずに、車が国鉄本庁にさしかかるのを前にして「買い物がしたいから三越へ寄ってくれ」と下山は大西運転手に命じる。東京駅北側ガードでは「白木屋でもよいから、まっすぐ行ってくれ」。白木屋前で「まだ開店していませんね」と大西。車を三越(日本橋本店)へ寄せる。ここもまだ開店前、入り口には《9時半開店》の札が掛かっていた。「役所へ帰りますか」に「うん」。直後、「神田駅へ回ってくれ」と反対方向を指示。神田駅に行く。「お寄りになりますか」には「いや」と首を振る。大西はこれを本庁に行くものと解釈し左折しようとしたところ、下山は「右へ曲がってくれ」と指示。右折して中央通りに出ると右折、室町3丁目交差点で「三菱(銀行)本店へ行ってくれ」。国鉄本庁前を通り抜けるあたりで苛立つように「もう少し早く行け」。車は三菱銀行(当時千代田銀行)に到着。このとき9:05、下山は中に入り20分後に出てくる。下山は私金庫からいくらかの金を持ち出した。9:25「今から行けばちょうどよいだろう」と下山。車は三越南口の駐車場に入る。下山の「まだ、開いてないんじゃないか」に大西が「もう人が入っていますよ」。下山は車を出て入り口に向かったが、戻ってきて大西に「5分くらいだから待っていてくれ」と言い残し店内に消えた。このとき9:37。これが大西の見た下山の生きた最後の姿だった。

 そして、7月6日未明、常磐線の北千住と綾瀬の中間五反野の線路上で、下山総裁は轢死体となって発見された。

 以上が「下山事件」が起きた1949年7月5日朝から6日未明までの下山総裁の“足取り”である。
 2013.05.25 (日)  閑話窮題〜風薫る季節に
 先日、三浦雄一郎さんが、80才でエヴェレスト登頂に成功、最高齢者の記録を打ち立てました。三浦さんがプロ・スキーヤーとして始動したのは私の学生時代の頃。スキー三昧の時期だったので実に憧れの存在でした。「キロメーター・ランセ」という直滑降でスキーのスピードを競い合う競技があって、そこで世界記録を樹立するなど、世界を股にかけて活躍していたのを思い出します。私もこの影響を受けて、ホーム・ゲレンデの志賀高原「熊の湯」や「横手山」では、チョッカリ専門のスピード狂をやっていました。  彼の元気の秘訣は「目標を持つ」ことだそうです。目標があればそれが生き甲斐になる。人生も充実するということですね。

<「カルテット! 人生のオペラハウス」を観る>

 久々に見た映画、「カルテット! 人生のオペラハウス」も、テーマの一つは老年期の生き甲斐。ダスティン・ホフマン初監督作品です。
 今年生誕200年を迎えるジュゼッペ・ヴェルディ(1813−1901)は28作のオペラを作曲しましたが、本人は、「私の最高傑作はこの中にはない。それは『音楽家憩いの家』Casa di Riposoだ」と言いました。これは通称「ヴェルディ・ハウス」と呼ばれるリタイアした音楽家の老後のために作られた憩いの家のこと。音楽家の老人ホームです。映画「カルテット」の物語は、「ヴェルディ・ハウス」から「ビーチャム・ハウス」、イタリアからイギリスに舞台を変えて展開します。

 「カルテット」とはビーチャム・ハウス4人の住人のこと。扮するは、マギー・スミス、トム・コートネイ、ビリー・コノリー、ポーリーン・コリンズの名優たち。マギー・スミスは往年の名プリマ・ドンナでトム・コートネイとは結婚の経験がある。女の出来心のせいで二人は別れるが、男は愛憎半ばの気持ちを引きずっている。4人はかつてヴェルディの歌劇「リゴレット」で共演した歌手仲間たちだ。このあたりの設定と配役と演技は秀逸で、老境の心境、その変化、個々人の性格が手に取るように分かって見事。まさに、カルテットが綾なす醍醐味そのものです。ハウスや周りの風情景観も落ち着きがあって格調高い。時々出現する往年の名手の演奏場面もハッとしてナイス。ハウスの住人がテレビ画面に見入る場面では、私の最高に嫌いなテノール、ジョン・ヴィッカースが皆の賞賛を浴びていて、ウーン、これだけはいただけませんでした。

 「カルテット」にはもう一つ、「リゴレット」の四重唱という意味合いがあって、経営難のビーチャム・ハウスを救うためのガラ・コンサートで4人が歌う演目を指しています。
 物語の終盤には、マギー・スミスとトム・コートネイの間のわだかまりが消えて、二人は結婚を誓うのですが、これも年の功。見ているわれわれは「これでいいのだ」と安堵することになります。そして感動のラストシーン。歌劇「リゴレット」第3幕からの四重唱「美しい恋の乙女よ」が始まる・・・・・とその瞬間、いきなり画面はタイトル・ロールに移行し、吹き替えの音声が流れ出します。

 演者は声楽家じゃないので吹き替えは当然なのですが、画面が実写でなくなったのは、正直拍子抜けの感がありました。でも、よく考えると、この方法しかなかったとも思えてきます。
 実はこの四重唱、なんとも悲惨な場面で歌われるのですね。ジルダ(マギー・スミス)が思いを寄せる公爵(トム・コートネイ)が、フシダラ女(ポーリーン・コリンズ)を口説いている。せむしの父親・リゴレット(ビリー・コノリー)は、娘のジルダに、公爵を諦めさせようとしてこの場面を物陰から見せている。主役のジルダの歌は「不実な人」とか「私にもあんな風に囁いたんだわ」とかの短いフレーズばかり。なんたってこれはテノール主導型の四重唱。もし実写だったら、さしものマギー・スミスの存在感も薄れてしまったに違いないバランスなのです。
 だが、このテノールのメロディーはとりわけ素晴らしい。甘美にして情熱的。場面云々を別にすれば、これほど物語にフィットする旋律はないのでは、と思えちゃう。ここに、音楽の魔力があります。ヴェルディの凄さがあります。劇中ではインストゥルメンタル・ヴァージョンが何度も何度も現れて、物語のムード作りに一役買っていました。

 その他、クラシック楽曲は満載。選曲も洒落ていて、たとえば、シューベルトの歌曲「シルヴィアに」は、シェイクスピアの詩。ハイドンの交響曲第100番「軍隊」の第3楽章「メヌエット」は、ロンドンの興行師ザロモンからの注文によって書かれたもの。同じく弦楽四重奏曲 第78番「日の出」はハイドンがイギリス旅行から帰った直後に作られたもの。コミカルな合唱曲はイギリスのオペレッタ作家アーサー・サリヴァンの「ミカド」から・・・・・という具合に、イギリス関連の楽曲をうまく盛り込んでいました。

 帰りのエレベーター(映画館は6階)ではちょっとしたハプニングが。映画を一緒した4人(これもカルテットだ)での会話中、「『トスカ』を歌ったグィネス・ジョーンズ(1936−)はイギリスが生んだ名ソプラノ。もう80歳近いけれど見事な歌声だったね」と私が一薀蓄。すると、同乗の山の手風奥様連あたりから「何云ってんのこの人、吹き替えに決まってるじゃない」的“ありえない感”が機内に充満してゆきました。トホホ! ジョーンズ女史の声の強さを知る私は、「トスカ」のレコーディングがないことと相まって、あれは彼女の「今の歌声」と推測したのですが、ウーン、果たして事実は? とはいえ、エレベーター内での会話はエチケット違反。反省。

   そして、ジイさんカルテットは夕暮れの渋谷の街に繰り出します。酒が入る夜の部は、新たに二人の仲間が加わってセクステットと化し、映画、音楽、時事、政治、スポーツ、昭和レトロなど、なんでもござれのテーマが飛び交います。その名も「和飲会」。この月イチの会こそが、私にとってかけがえなき至福のひと時なのであります。

<クラシックソムリエ検定>

 先日、TV「題名のない音楽会」を見ていたら、その日の演題は「クラシックソムリエ選手権」。大手CDショップのクラシックソムリエ4人が、クイズ形式でその知識を競い合うという内容でした。音楽知識早押し、ドレミファドン、形態模写曲当て、キャプション制作、録音順並べ替え、演奏者当てヒアリングなどなど、なかなかのハイ・レベル。岡目八目参加をした私は、優勝者(HMVの久保さん)には歯が立たなかったものの、第2位の山野楽器・須田さんとは好勝負ができました。
 そして、番組の最後には「クラシックソムリエ検定」の案内がありまして。難易度の順番に、エントリー、シルバー、ゴールド、プラチナの4つのクラスがあり、必ずエントリークラスから受験する必要があり、試験日は7月7日とのこと。なにげなく、やってみっかと心に決めて、申し込むことにしました。1000点満点を取れば、シルバー・クラスの受験料が免除とのこと。まずはこれを目標にやってみます。三浦さんや映画「カルテット」ほどではないけれど、これも老年の目標には違いない。さあ、大学入試以来の受験勉強の始まりです。こいつは結構楽しそう! 経過等は「クラ未知」で。
 2013.05.15 (水)  「魔笛」と高山右近12〜松本清張「モーツァルトの伯楽」を読んで
 「魔笛」を研究中に興味深い小説にぶつかった。タイトルは「モーツァルトの伯楽」、著者は松本清張。「草の径」という短編集の中の一作で、作者最晩年の作品である。まさか、清張にモーツァルト関連の小説があろうとは!しかも、モーツァルトの“伯楽”とはシカネーダーのことだというではないか。昭和の巨星がモーツァルトにどう迫るか? 興味津々で読んでみた。

 物語は、日本の物書きの男が、現地在住の女性通訳と共に、ウィーンはモーツァルト縁の地を巡るという形で進行する。

<聖マルクス墓地>

 男と女は、最初、モーツァルトが埋葬されている聖マルクス墓地に行く。モーツァルトの埋葬は最下級の扱いで行われ、埋葬場所は未だに判らない・・・・・という問題を取り上げる。
霊柩車からおろされたモーツァルトの遺骸は、この共同墓地に最低の料金で埋葬された。記録によると葬儀費を含めて8グルデン56クロイツァー(日本円で21,300円)、馬車の費用は3グルデン(7,500円)であったという。モーツァルトともあろう音楽家がどうしてこのような扱いをされたのか。彼の家に金がなかったというのが一つの理由だ。もう一つは、葬儀や埋葬の一切は、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵がとり仕切った。男爵の父はマリア・テレジアの侍医であった。息子の男爵自身は外交官、宮廷図書館司書、法律家、自然科学者、芸術通であり、モーツァルトの友人であった。その男爵がなぜにモーツァルトの遺体を貧困者並の埋葬処理にしたのか?・・・・・。
 こう問いかけた清張は、驚くべき結論を導き出す。
ここに一つの説がある。モーツァルトは梅毒に罹っていたというのだ。モーツァルトは危険な社交遊戯の場所に足を入れていた。彼は梅毒に罹ったと自覚すると、救いを友人のスヴィーテン男爵に求めた。スヴィーテンの父親はさきほどもふれたようにマリア・テレジアの侍医であって、梅毒の特効薬に水銀剤を開発した名医だ。水銀剤は有毒なために危険を避けて極度に薄められて処方されていた。父親はその処方を熟知していたが、息子のスヴィーテンは専門医でないためその分量を誤ってモーツァルトに与えていた。モーツァルトは水銀中毒に罹って患いつき、数ヵ月後に死んだ。モーツァルトの死亡登録簿にある「急性粟粒疹熱」であるが、その症状はまさに水銀中毒の症状そのものなのだ。遺骸の水銀は死後数十年経ても体内に痕跡が残る。男爵は自分の失敗を知っていた。モーツァルトの葬儀と埋葬を迅風のごとき速さで終了させ、遺骸からその証拠が出るのを防ぐため、埋葬場所をあやふやにしたのである。
 このほかに、モーツァルト死の直前の症状(被害妄想など)が「水銀中毒」のものであること、このことを知っていた妻コンスタンツェが、17年間も墓参りに行かず、行ったときにもその場所を墓堀り人に尋ねなかったこと、などをあげて、この説を裏付けている。コンスタンツェの件に説得力を欠くが、着眼は面白く、清張らしさは出ている。

<アン・デア・ウィーン劇場>

 次は、「魔笛」が初演された劇場である。清張は、通訳の女性と男にこう説明させる。
「フライハウスは昔のウィーン川の中洲にあります。今はウィーン川が道路の下を通っていて、ここからは見えません。18世紀のころこのへんはコンラーツヴェルトという地所で、職人の仕事場、水車小屋、教会、大庭園、それに225戸の民家があったそうです。この湿地を拓いた地主の功績のために政府は地税をぜんぶ免除したので、その免税に因んでフライという名ができたのです」

「ぼくはいま、ウィーン川の中洲だったといわれる免税地帯の大庭園に建てられた木造芝居小屋、かつてシカネーダーが経営していた旧フライハウス劇場、現在のアン・デア・ウィーン劇場の中にいます・・・・・」
 この部分、石井宏先生にお伺いしたら、「清張先生のは、ちょっと違っていますね」と言われた。「魔笛」が初演されたのはフライハウス内の「ヴィーデン劇場」で、現在の「アン・デア・ウィーン劇場」とは場所が違う。シカネーダーは、1791年、「ヴィーデン劇場」で「魔笛」を初演したあと、皇帝に別の土地での建設認可を申請、フランツ・イエーガーの設計により、1801年に完成したのが現在の「アン・デア・ウィーン劇場」である。松本清張の文章からは、フライハウスの跡地に今の劇場が建てられたように読めるがこれは違う、とのことであった。

<「日本の狩衣」に触れる>

 「魔笛」の“日本の狩衣問題”にも清張は言及している。
シカネーダーの台本には、タミーノは「日本の狩衣を着た」というト書きがある。それなのに初演に近いといわれる画にタミーノが日本の狩衣を着た衣装がない。これはどういうことだろうね」と男が言った。「『そのト書きを消すのを忘れた』という話を聞いたことがあります」女は興味なさそうに言った。「ぼくも聞いたことがある。苦し紛れにそうでも釈らないと、どうにもならないからね。それに触れているのはまだ良心的です。そこんとこをみんな逃げているのだからね。分からないことにはさわらぬが無難だと言うようにね」

「ハンガリーを旅興行しているときのシカネーダーはゾロアスター教だけではなく、もっと東方の民話も耳にしたろう。なにしろフビライの弟の治下にあった国だから。 日本のカリギヌという言葉も蒙古人の間に伝わっていたに違いない。スサノオとヤマタノオロチの神話が元の東部方面から西部方面へと伝えられて民話になったのをシカネーダーが聞き、オペラに脚色したのだろう」
 「タミーノはなぜ日本の狩衣を着ているのか」について清張がどう推論しているか? ここが一番興味深い部分だった。確かに“みんな逃げている”ところを、逃げずに踏み込んだのは立派である。だが、正直期待外れといわざるを得ない。なぜなら、これらはすべて推論の域を出ないからである。

<ペルシャ思想>

 このあと清張は、「魔笛」はフリーメイソンの影響は皆無、すべてペルシャ思想で成り立っている、という独自の解釈を披露する。ところが、これがかなりの暴論で、論理性をまったく欠いているのである。
「魔笛」とフリーメイソンの関係? そんなものは全然ない。それを結びつけるのはこじつけもいいところだ。フリーメイソンなんて大工棟梁の一家から発展したもの。独自の宗教は何もない。ペルシャのゾロアスター教は成立が古い。イスラエル人の宗教は旧約聖書になった。次がキリスト教。そして、イスラム教、仏教、道教。以上のどれにフリーメイソンの宗教は交渉を持っているのかね? フリーメイソンは薔薇十字軍から組織としての体裁だけを取り入れた。しかし、フリーメイソンの国際的な博愛主義は各国に多くの共鳴者を得て大きな勢力となった。おどろいたローマ法王庁は、フリーメイソンを敵として弾圧にとりかかる。あらゆる政治的、社会的陰謀をフリーメイソンのせいにするようになる。フランス革命も彼らの仕業だといううわさを広めた。「魔笛」の秘儀はフリーメイソンのモデルだといって、ねじまげて解釈する原因となっている。

シカネーダーは確かにフリーメイソンと関わりがあった。しかし、彼の台本になる「魔笛」はフリーメイソンとはなんの関連もない。
 この著述は、残念ながら、深く検証するに値しない。なぜなら、「なぜ『魔笛』がフリーメイソンと関連がないのか」という理由が何一つ示されていないからだ。しからば、ここは二つの誤りを指摘するにとどめたい。
 一つは、フリーメイソンは、「その思考原理を、旧来からの宗教ではなく、『啓蒙思想』におき、人間の理性を重んじた」ものであること、だから「宗教色がなくて当たり前」であり「宗教によって入会の是非を問わない」というメイソンの基本原理を敢えて無視していること。文中の“フリーメイソンの宗教”という文言も、この観点からナンセンスである。
 二つ目は「魔笛の台本はシカネーダーの手になる」ものだとして、“モーツァルトの介入”を見落としていること(もしくは敢えて無視していること)。モーツァルトが「シカネーダーと共同で物語を構成していった」ことは、シカネーダー学者コモルツィンスキーによって証明されている。清張は、男は「ぼくがシカネーダーについて云っているのは主としてコモルツュンスキーの『シカネーダー伝』(須永恒雄抄訳)に拠っている」と書いているにも関わらず。

 ならば、その思想的背景を清張は何と考えたのか? それはペルシャ思想であるとする。聖者ザラストロの名の由来は古代ペルシャの宗教ゾロアスター教であること。ゾロアスター教において、善神は7大天使で構成され、善悪は3期で循環する。天国に生まれるためには3つの修行を必要とするなど、3と7が重要数となっている・・・・・これらの理由により、「魔笛」はゾロアスター教を核とするペルシャ思想がその背景にあると主張する。
 これはこれでいいのだが、「フリーメイソンの影響は皆無」とか「コモルツュンスキーが『エジプト王ターモス』に拘ってエジプトの影響を捨てていないのはおかしい」など、ペルシャ思想以外をすべて排他的に押しやるのはどうかと思う。
 元々、「魔笛」に限らず当時のジングシュピールは、なんでもありのゴッタ煮的エンターテインメントだった。「フリーメイソン」も「ペルシャ」も「エジプト」もさらに言えば「日本」も、要は“なんでもあり”だったのである。
 清張も、この作品の中で、「民話や童話集などから材を取る。魔法が出る、妖精が出る、動物が出る」と書いているではないか。これ即ち、当時のジングシュピールは“なんでもあり”と本人が証言しているのである。清張の排他的ペルシャ思想論は、完全な自己矛盾をきたしている。

 また、「シカネーダーのペルシャ思想は彼の数度にわたるハンガリー旅興行で得た」としているが、これもいかにも説明不足で根拠脆弱。これなら「タミーノ高山右近説」の方がなんぼかましだと思うのは、自画自賛でしょうか。

 タイトル「モーツァルトの伯楽」に関し、“なぜシカネーダーがモーツァルトの伯楽なのか」を説明する件も、あまりに支離滅裂で滅入ってしまう。さしもの昭和の巨星も、大天才モーツァルトは荷が重かったということか。
 松本清張は、やはり昭和のドキュメンタリーの方がよく似合う。彼が名著「昭和の黒い霧」で取り上げた「下山事件」に関して、最近注目すべき本が現れた。次回はその本を取り上げ、以後しばらく事件について探求してゆきたい。 
[参考文献]
「草の径」松本清張著(文春文庫)
「シカネーダー」原研二著(平凡社)
「フリーメイソンとモーツァルト」茅田俊一著(講談社現代新書)
 2013.04.25 (木)  「魔笛」と高山右近11〜高山右近は「魔笛」の中に生きている
 モーツァルトが「魔笛」に高山右近を引っ張り出したのは、ミヒャエル・ハイドンの音楽劇「ティトス・ウコンドノ」からというのは前述したとおりである。モーツァルトは、「ウコンドノ」の中の旋律を自らの音楽劇「救われたベトゥーリア」(1771年作曲)の終曲に転用していたから、彼の脳裏には、15歳のときから高山右近が刻まれていたことになる。
 当初は、初体験となる音楽劇なるものを先輩作曲家ミヒャエル・ハイドンに手ほどきしてもらうのが目的だったろう。そのときハイドンが見本として提示したのが「ティトス・ウコンドノ」だった。その中に殊更モーツァルトの心に響いた旋律があった。それが「カンターテ・ドミノ」で、即自作に転用した。まさに一目ぼれの趣である。
 そして、この旋律はまた、モーツァルトの遺作となった名作「レクイエム」(1791年作曲未完)にも転用された。その箇所は入祭文 Introitusの♪シオンにて賛歌を主に捧ぐるはふさわし わが天主よTe decet hymnus ,Deus in Sionの部分。ソプラノ・ソロが実に敬虔な歌唱を聞かせるところである。作家の五味康祐はここを「およそソプラノの独唱で、この出だしほどに敬虔で美しい詠唱を他に私は知らない」と著書「西方の音」の中で書いている(絶賛するこの旋律が、氏は果たして“ミヒャエル・ハイドンの旋律”と知っていたかどうか? 興味深いところではある)。
 モーツァルトは、15歳のときに響いた旋律を死の床まで持ち続けたのである。こうまで思い入れある旋律だからこそ、「『魔笛』のときに蘇り高山右近を想起させた」とするのは決して無理な推論ではないと考える。皆さんはどう思われるだろうか。

 「カンターテ・ドミノ」の旋律は最後にはまた生みの親に戻っていった。ミヒャエル・ハイドンの「レクイエム 変ロ長調」(1806年作曲)である。位置は同じ入祭文。お互い遺作でしかも未完。何たる因縁だろうか。ミヒャエル・ハイドンは、モーツァルトの死から15年後の1806年8月10日、ザルツブルクで永遠の眠りについた。ザルツブルク生まれのモーツァルトが生涯のほとんどを別の地で過ごしたのに対し、別の地で生まれたハイドンはザルツブルクに来てから死ぬまでこの地を離れることはなかった。ザルツブルクをめぐり、実に対照的な人生を送った親友同志であった。

 「カンターテ・ドミノ」の旋律は、誕生してから36年もの間、二人の作曲家の間を転々とし、この間に「魔笛」に乗り移った。なんという壮大なストーリーだろう。高山右近は「魔笛」の中に生きている。タミーノと高潔なる勇気で繋がっている。日本人モーツァルティアンにとってまさに極上の喜びではないか。では、まとめてその流れを書き留めておきたい。

 ミヒャエル・ハイドン音楽劇「ティトス・ウコンドノ」1770 ― モーツァルト音楽劇「救われたベトゥーリア」1771 ― (モーツァルト歌劇「魔笛」1791) ― モーツァルト「レクイエム」1791 ― ミヒャエル・ハイドン「レクイエム 変ロ長調」1806

 最後にお断りしておきたいことがある。「魔笛」に関して、1791年9月30日、初演時のコスチュームが配役ごとに残っている。もちろんタミーノも。それをここに掲げるが、この衣装どう見ても「日本の狩衣」とは思えない。座長のシカネーダーがト書きにまで記したのになぜ? という疑問が残る。これについてはこう推理したい。
 シカネーダーは、決めたからには日本の衣装を探しに奔走したことだろう。だが、ぎりぎりだったため、見付からないまま初日を迎えてしまう。「ひとまず幕は開けて、見付かったら着せればいい」。ところが、「魔笛」は初日から大盛況、予想外の大ヒットとなった。当たってしまえばこっちのもの。「タミーノ日本の狩衣」はいつしか彼の頭の中から消えていったのである。

 私は、「魔笛」の主人公タミーノが「日本の狩衣を着た王子」と設定されたのは、モーツァルトが高山右近を投影させたためと結論付けることができた。これは世界初の見解と自負している。なぜならそれは、これまで、この問題に触れているのすらあまり見た事がないからだ。私の知る限りそれは以下の二つである。
「きらびやかな日本の狩衣(台本にこう指示されているが、実際には古代エジプトであるから無意味である)を着たタミーノが・・・・・」(音楽之友社「名曲解説全集」海老澤敏著より)

オペラ「魔笛」の冒頭に王子タミーノが日本の「着物」を着て登場する。この日本の痕跡をどう見るか。当時、ベストセラーとなったのがアンセルム・フォン・ツィーグラー・ウント・クリップハウゼンの小説「アジアのバニーゼ姫」である。タイで活躍した山田長政を主人公にした小説である。フォン・ツィーグラーの小説は旅回りの一座によく取り入れられた人気演目になっていた。これがモーツァルトのオペラ「魔笛」に大きな影響を与えたと考えられる。王子タミーノのモデルの一人は山田長政だったのである。(楽天BLOG「UFOアガルタのシャンバラ」2011.9.7より)
 無情にも“無意味”とおっしゃる海老澤氏のは論外として、楽天BLOGの山田長政説は面白い。より掘り下げていただければ嬉しい。

   私は、つい最近、ある超大物作家が「タミーノ日本の狩衣問題」に触れているのを知った。昭和の巨星・松本清張である。タイトルも「モーツァルトの伯楽」。次回はこの興味深い短編小説を取り上げたい。
 2013.04.15 (月)  閑話窮題〜今年のマスターズは二日目15番タイガーの第3打で終わった
 4月14日、マスターズが閉幕した。優勝はアダム・スコット。マスターズ二勝目を狙うアンヘル・カブレラとのプレーオフを制した堂々たる勝利だった。オーストラリアは初優勝。グレッグ・ノーマンの見果てぬ夢が遂に実現したのである。
 これには万遍の拍手を惜しむものではないが、私にとって今年のマスターズは、二日目、優勝候補本命のタイガー・ウッズの15番第3打で終わっていた。なぜなら、この顛末ほど興味深い事象はなかったからだ。

 2013年4月12日、15番にさしかかったタイガー・ウッズは揺るぎないプレーで首位を守っていた。そして、問題の第3打。残り距離85ヤード。ユッタリとしたテンポでやや鋭く打ち出されたボールは一直線にピンに向かう。誰の目にもナイス・ショットと映った直後、ボールは直接ピンに当たり、勢いよくほぼ直角左方向に向きを変え、あっと言う間にグリーン左横部分から池に落ちてしまったのである。解説の中島常幸プロは「ピンに当たっていなければ、バーディー確実の地点に止まっていた」と断言したが、ナイス・ショットも結果は池。タイガーは打ち直すことになった。この処置で問題が起きたのである。

 このケースでは、4通りの方法がある(ゴルフ規則26−1より)。

 @ 池の中のボールをそのまま打つ(無罰)
 A 池に落ちた箇所から1クラブレングス以内でピンに近づかない位置にドロップ1打罰にて打つ
 B 池に落ちた箇所とピンを結ぶ後方線上にドロップし1打罰で打つ
 C 前打した箇所の限りなく近くにドロップし1打罰で打つ

 タイガーは、池まで行って状況を確認、第3打を打ったところに戻り、前のボールの位置後方2ヤード付近にドロップし1打罰を加え第5打として打った。ボールは見事にピンそばに寄り、これを難なく1パットで沈め、このホールを6でホールアウトした。

 さてこの処置の何が問題だったのか? 池から引き返した段階で@とAは不採用。もし、Bを選んだのならば、ボールが池に落ちた点とピンを結ぶライン後方どの位置からでも構わなかった。ところがタイガーは前打した場所に戻ったのだからCを選んだことになる。ならば前打ボール位置の“限りなく近く”にドロップしなければならない。それを2ヤードほど後方にドロップして打った。これは“限りなく近く”とは看做されない。したがってこれは「誤所からのプレー」であり2打罰。このホールの正しい打数は「8」となる。タイガーはこれを「6」と書いてスコア提出したのだから紛れもなく過少申告。明らかに失格なのである。

   タイガーの意識がどうだったのかを推測してみる。打ち直しにおいて、タイガーはBとCを混同した。即ち、前打箇所からの打ち直しなのだから、Cを選んでいるはずなのに、「後方ならどこまで下がってもいい」Bと混同してしまった。だから、その日の競技終了後の記者会見で、「2ヤード後方から打った」と(まだミスに気づかずに)明言している。テレビには前打のティボット跡がはっきりと映っていた。これを見た視聴者から「誤所からのプレーでは?」との意見が多々届いたという。中島プロも生中継中には気づいていない。翌日やや煮え切らない解説をしていたが。

 では、「マスターズ委員会」はどういう処置を取ったか・・・・・当日は「問題ない」としてスコアをそのまま認める発言をした。ところが翌日、「誤所からのプレーに該当するため、15番ホールのスコアは2打罰を加え8とする」と前言を翻した。ならば、「(過少申告による)失格ではないか?」との疑問に対しては、「今回はスコア提出前に委員会が当該プレーについて『正当』と認定しておりその後委員会の裁定が変更になったものであるから、スコア誤記には当たらない。これは『ゴルフ規則33−7:委員会が正当な措置と判断した場合は競技失格の罰を免除したり軽減することが出来る』に則って裁定したものである」と説明した。ゴルフ規則33−7は、2011年に制定された比較的新しいもので、ハリントン裁定と呼ぶそうだ。

 これは一見理に適っているようだが断じて違う。私が問題にしたいのは、「スコア提出前に正当と認定した」という委員会の言い分である。世界最高舞台を司る競技委員が、誰が見ても「誤所からのプレー」をそうでないと看做すことは絶対にありえない。それでも敢えてそうしたいのなら、前日に「正当」としたことが翌日に「不当」と変わったことへのはっきりとした説明がなくてはならない。

 私が推理した「真相」はこうだ・・・・・タイガーは「誤所からのプレーとは微塵も思わずに15番ホールのスコアを6としてスコアカードを提出した」。このとき「委員会」は何も気づいていない。ところがその日視聴者から疑問の声が届いた。「委員会」は早速確認する。明らかに「誤所からのプレー」と判明、2打罰で8である。タイガーは6としてスコアカードを提出済みなのだから、スコア過少申告で失格である。大変!さあどうする!?
 そこで取った措置が、「前日は委員会が正当としたのだから選手に罪はない」というストーリー作りだった。これが虚偽なのは明らかである。繰り返すが、あの場面を検証して「誤所からのプレー」でないとする競技委員は「マスターズ委員会」の中には一人もいないはずだからだ。「委員会」は自らの不手際にしてタイガーを救ったのである。なぜそんなことをって? それは言わずもがなだ。この裁定に対し選手の中に疑問の声が上がったというが、当然だろう。本人だって“委員会裁定は不当”とすぐに認識したはずである。そんな気持ちを抱いたままの2日間は、逆に辛かったに違いない。このような思惑見え見えの事なかれ裁定は、ひいては選手をスポイルし自らの首を絞めることを、委員会は以って銘ずべしである。
 「マスターズ委員会」はまた、もうひとつのミスを犯していた。それは、何一つ出場資格を満たしていない石川遼を招待したことである。マスターズは招待競技であるからして、主催者が決めたのだからいいじゃないかとする意見も聞く。だが私は納得できない。これまた思惑見え見えだし最終的に選手をダメにする。石川も、これを辞退するくらいの気概がないと今後の大成は望めないだろう。

 IOCのレスリング外し、WBCアメリカ横暴の運営、大相撲理事長の復帰、日本柔道連盟の居直り、などなど、昨今のスポーツ界はどこかおかしい。政治や経済が不当不透明理不尽で動いていても、スポーツぐらいは公正でありたいではないか。マスターズもオリンピックも、あまりふざけていると、そのうちそっぽを向かれちゃいますよ。
 2013.04.10 (水)  「魔笛」と高山右近10〜モーツァルトに高山右近が降臨!
<ライバル劇場の動向>

 「おい、アマデウス、大変だよ。今日はマリネルリの劇場が新作をやるっていうから行ってきたんだがね。その『ファゴット吹きカスパー、または魔法のツィター』は、『魔笛』と同じ『ジンニスタン』がネタなんだ。先を越されたってわけだ。でもまあ、こんなことはお互い様、別にどうってことはないんだが、せっかく君とやる最初の仕事にケチが付いちゃかなわんからね」
 そう言いながら、シカネーダーが「魔笛」作曲中のモーツァルトの仕事場に飛び込んできたのは、1791年6月8日、真夜中のことだった。
 マルネルリはレオポルト町劇場のボスで、アン・デア・ヴィーデン劇場を張るシカネーダーとはウィーンの大衆演劇を二分するライバルである。一年前に亡くなった皇帝ヨーゼフ2世(1741−1790)は、ドイツ語による大衆オペラ=ジングシュピールの振興に助力を惜しまなかった。そのおかげもあって、二つの劇場は思う存分興行を取り行うことができたのである。

 シカネーダーからこの話を聞いたモーツァルトは、6月11日、レオポルト町劇場に足を運んだ。観劇後、バーデンで療養中の妻コンスタンツェに手紙を書く。「なんとか元気を出そうと、新しいオペラ『ファゴット吹き』を見に劇場に出かけたが、こいつは騒々しいばかりで、たいしたものじゃない」・・・・・そりゃそうだろう、天才が自身作曲中の傑作と比べているのである。たいしたものであるはずがない。
 とはいえ、劇場の関心事は作品の芸術的価値ではない。当たるか否かである。それは好スタートからの口コミがキイだ。そのためには出来るだけの手は打っておいたほうがいい。隙を見せたら相手に付け入られる。

 6月12日の魔笛小屋。二人は作劇について協議。「アマデウス、われらが『魔笛』は、『ファゴット吹き』とネタは同じでも、フリーメイソンの要素をかなり詰め込んだりしたから、まあ、そこそこ差別化はできている。でも、念のためもう一味欲しい気がするよ。それが見つかれば大当たりは間違いなしだ」とシカネーダー。「そうだね、僕の昔の作品『エジプト王ターモス』からイシス&オシリス信仰を取り入れてるし、君のハンガリー土産のペルシャ思想もうまいこと混じっているからね。シカネーダー、この上君が欲しいのは強烈なインパクトっちゅうやつかな。一目で分かる差別化ね。でも、そいつがなかなかの難題だ」モーツァルト、当てるためにはいつも真剣である。これまでも、「イドメネオ」では脚本を何度も書き換えさせたし、「フィガロの結婚」は実現のため様々な画策を用いている。
 ポイントは「決め手」である。そこで、シカネーダー、「OK、アマデウス、物語にはもう少しだけ手を入れる。あとは、決め手。これは君が考えてくれ。強烈なやつをね」、そう言って、モーツァルトの肩をたたいた。

<主役を日本の王子に>

 1791年7月、モーツァルトは、序曲と第2幕冒頭を除いて「魔笛」のほとんどを書き上げていた。そんなモーツァルトに別のオペラの注文が入る。「皇帝ティトスの慈悲」である。これは、メタスタージオの台本になるオペラ・セリアで、前年即位したオーストリア皇帝レオポルト2世(1747−1792)が統治を兼ねるボヘミアの首都プラハでの戴冠式に臨む際の祝い劇として依頼されたもの。モーツァルトは「魔笛」を中断してこれに取りかかる。8月25日、彼は、妻コンスタンツェと弟子のジュスマイヤーを伴って、プラハに向けて出発、歌劇「皇帝ティトスの慈悲」は、9月6日、国民劇場で無事初演された。このオペラ、完成には実質僅か18日しかかかっていない。ジュスマイヤーにレチタティーヴォを書かせたとはいえ、これは驚異的なスピードである。ここにもモーツァルトの並外れた天才振りが覗える。
 物語は紀元1世紀のローマ。実在の皇帝ティトス(79−81在位)の妃選びを巡る愛憎劇。運命の悪戯からティトスは信頼する部下から命を狙われるが、寛大な慈悲でこの謀反を許す。折から起こったヴェスビアス火山の大噴火に伴う国家の一大事にも適切な処置をとるなど、その手腕は名君の名に恥じないものだった。
 作品の評判は、数年前当地で大当たりを取った「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」には比すべくもなかったが、“ティトスの慈悲”はモーツァルトの脳裏に強く刻まれることになった。

 プラハでの仕事を終えたモーツァルトは、9月の半ば、ウィーンへの帰路につく。さあ、あとは「魔笛」。問題はあの宿題である。モーツァルトは、シカネーダーから託された「強烈な決め手」を忘れたことはなかった。そしてついにそれが閃いたのだ。
「皇帝ティトスの慈悲」はよく書けた。当たらなかったが、これは悪い作品じゃない。いつかきっと評価される日が来るだろう。なんといってもティトスの人格の素晴らしさ。流石、メタスタージオだ。物語の劇的展開の中、ティトスの高潔な精神が滲み出る。実に見事な手腕だ。・・・・・待てよ! メタスタージオといえば、「救われたベトゥーリア」が彼の台本だったな。あのときは、ミヒャエル・ハイドンに相談したっけ。彼は作ったばかりの宗教劇を見せてくれた。おう、それは「ティトス・ウコンドノ」といった。ティトスとティトスか。偶然だ。おやっ?ティトス、ウコンドノ。ウコンドノって、確か日本の殿様だったな。高山右近、日本人か・・・・・これは斬新だ。パミーノを日本人にしたらどうだろう。これはいいアイディアだ」(このときまだタミーノはパミーノだった!)
 モーツァルトの頭の中で、「魔笛」と「ティトス・ウコンドノ」が結びついた。モーツァルトに高山右近が降臨し、主役の王子に姿を変えたのである。彼は早速シカネーダーに話す。これを聞いたシカネーダー、「アマデウス、そいつはグッド・アイディアだ。よく閃いたね。ウコンドノだかなんだか知らないが、日本人ならインパクト十分じゃないか。目新しいし神秘的だ。レオポルト町劇場じゃ、思いもつかんだろう。ついでにどうだ。パミーノをタミーノに変えたら。イシスに仕える従者はパミーノだけど、ここはタミーノにしよう。ティトスとティトスだから頭文字はTがいい。タミーノの方が語呂もいいしね。必然的にタミーナはパミーナだな。うん、こいつは強烈だ。大ヒット間違いなしだ」、こうして王子がタミーノで王女がパミーナ。タミーノは「日本の狩衣を着た王子」と決められたのである。

 そして、シカネーダーは「魔笛」冒頭のト書きにこう書き込んだ。
TAMINO kommt in einem prachtigen javonischen Jagdkleide rechts von einem Felsen herunter, mit einem Bogen,aber ohne Pfeil;eine Schlange verfolgt ihn.
(タミーノはきらびやかな日本の狩衣に身を包み岩の後ろから姿を現す。手には弓を持って
いるが矢はない。そして、後ろから蛇が追いかけてくる)
時は9月下旬、初演には数日を残すだけだった。
<参考文献>
「モーツァルト」メイナード・ソロモン著、石井宏訳(新書館)
「モーツァルトとの散歩」アンリ・ゲオン著、高橋英郎訳(白水社)
「魔笛〜秘教オペラ」ジャック・シャイエ著、高橋英郎 藤井康生訳(白水社)
「シカネーダー」原研二著(平凡社)
「モーツァルトの手紙」高橋英郎(小学館)
「モーツァルトの伯楽」松本清張著(文春文庫)
 2013.03.25 (月)  「魔笛」と高山右近9〜ウィーンでの再会と「魔笛」への着手
[ウィーンでの再会]

 モーツァルトが、ザルツブルクでシカネーダーと別れた1780年11月5日以降、二人がいつ再会したかは定かではない。

 モーツァルトは1781年5月、ウィーンに定住するが、翌1782年7月、ジングシュピール「後宮からの誘拐」を上演。年内12回もの上演を重ねるヒットとなった。この評判を聞きつけたシカネーダーは、1784年11月、ケルンテン門劇場でこれを取り上げた。4年前、再会を誓い合った二人なら、この時点で会っていた可能性は大きいと思う。

 シカネーダーは1789年6月、ウィーンのフライハウス劇場(現アン・デア・ウィーン劇場)に舞い戻った。そこで座長を張っていた前妻エレオノーレが亭主を亡くしたため、何食わぬ顔で乗り込んでよりを戻した格好である。一説にはエレオノーレが呼び戻したとも。いずれにしても、念願のフランチャイズを手に入れたシカネーダーは、エネルギッシュに活動する。数々の芝居に混じって、「妖精の王オベロン」「賢者の石、または魔法の島」などのメルヘン・オペラを上演した。これらが、来るべき「魔笛」に繋がってゆく。シカネーダー、このとき38歳。才人が人生最大の充実期を迎えたのである。

 一方のモーツァルト、この頃は経済的に最悪期である。とにかくお金がない。収入は相当あるのだが、なぜか借金でピーピーしている(松本清張著「モーツァルトの伯楽」には「1790年1月から10月までのモーツァルトの借金は総額1425グルデンにも達した」とある)。因みに1789年の年収は(メイナード・ソロモンの試算によると)1483−2158グルデンで、日本円に換算すると297万円―432万円である。これは一家が普通に生活してゆくには十分すぎる金額である。なのになぜ、かくなる多額の借金をせねばならなかったか?

 音楽学者は苦しまぎれに妻コンスタンツェの浪費のせいにした。“コンスタンツェ悪妻説”である。でも、これは半分しか当たっていない。それは、モーツァルトの死後における彼女の生活手腕の見事さから言えるのである。未完の作品を弟子(一説には情夫)に命じて完成させ、楽譜を売り、宮廷と交渉して遺族年金を得る・・・・・などして借金を返済し蓄財する。それを元手に下宿屋を開業、下宿人(デンマーク人の外交官・ゲオルク・ニコラウス・フォン・ニッセン)と再婚してモーツァルトの伝記を書かせる。これがモーツァルト初の本格的伝記となった。なかなかどうして、やりくり上手でしたたか女将の風情。これは間違いなく親の血だ。コンスタンツェの母マリア・チェツィーリア・ウェーバーは、下宿屋の女将で娘をモーツァルトに嫁がせた張本人だからである。
 コンスタンツェ悪妻説の根拠は金銭感覚のなさと浮気である。前者は的外れ後者はお互い様といったところだろう。モーツァルト一家にお金がかかったのは、“互いの自由奔放さを容認しあったこと”といえなくもない。一方で、モーツァルト「賭け事大好き説」があるが、これはまた別の機会に。

  モーツァルトはウィーンに定住していた。シカネーダーはウィーンを中心に活動しやがて本拠地とした。しかも二人はフリーメイソンであり、兼ねてから意気投合したもの同士である。お互い「魔笛」に着手するまでに、劇場やメイソンのロッジで出会うチャンスはいくらでもあったはずである。ただその記録がないだけである。

[魔笛に着手]

 さて旧交を温めたシカネーダーは、長年の夢モーツァルトとの共同作業に着手する。1791年3月、満を持してモーツァルトに「魔笛」の作曲を依頼した。モーツァルトは即快諾。金銭面・芸術面からこれは当然の成り行きである。台本は無論シカネーダーが書いた。やり方はといえば、これぞまさに共同作業だった。二人はお互いの持分に容赦なく口出ししながら、とはいえ、和やかなムードで仕事を進めていった。そんな仕事ぶりを示す文章を原研二著「シカネーダー」から引用する。
シカネーダー学者コモルツィンスキーによれば、ふたりのやりとりを明かすたった1枚のメモが残されている由。
「ウォルフガングへ おっつけ君のパ・パ・パを送り返す。私にピッタリの曲だよ。何も問題はないだろう。今晩例の――で会おう シカネーダー」

これは、モーツァルトがプラハに旅立つ直前、9月のことだった。ふたりは場面ごとに共同して構成していったのであって、音楽がほとんど最後までいっていただとか、芝居の展開がすっかり考え抜かれていたというわけではない。つまりこの作り方の眼目は、場面場面がいかに見栄えするか、であって、全体の思想ではない。
 例の――とは、シカネーダーがモーツァルトのためにフライハウス劇場の敷地内に用意した仕事場のことだろう。現在はザルツブルクに移転されている通称「魔笛小屋」である。妻コンスタンツェは、このころ足の湯治のためオーストリアの温泉地バーデンで静養中だった。シカネーダーは一人残されたモーツァルトが仕事に集中できるように木作りの小屋をあてがったのである。シカネーダーの気合の入れ方が分かろうというものだ。アンリ・ゲオンはその著書「モーツァルトとの散歩」Promenades Avec Mozartの中で、「魔笛小屋」を「その乾いた木の香の奥に森の香りさえ吸い込んでいただろう。思うに彼は『魔笛』という作品にその香りをこめていたにちがいない」と述べている。

[魔笛の元本]

 シカネーダーが土台にしたのは、1789年に上演した「妖精の王オベロン」である。これは当時の著名な詩人ヴィーラント(1733−1813)が編纂した「ジンニスタン」という物語集の中にあった。オベロンが持つ魔法の角笛は「魔笛」に繋がる。「ジンニスタン」に収められていたもう一つの物語、リーベスキント作の「ルル、あるいは魔笛」も重要である。シカネーダーはこの物語の中の、囚われの美女を主人公が救出するシチュエーションを「魔笛」に適用した。
 一方モーツァルトはどうか。見てきたように、彼も脚本作りには大いに関心を持っていた。彼の頭に浮かんだのは1773年に作り1789年に改定をした「エジプト王ターモス」である。ここからはエジプトという舞台とフリーメイソン色が繋がってゆく。

 ある程度台本ができると、モーツァルトは早速曲作りに取り掛かった。ところが6月、台本変更を余儀なくさせる事態が発生する。さて、モーツァルトとシカネーダーはこれにどう対応したのか。
<参考文献>
「モーツァルト」メイナード・ソロモン著、石井宏訳(新書館)
「モーツァルトとの散歩」アンリ・ゲオン著、高橋英郎訳(白水社)
「魔笛〜秘教オペラ」ジャック・シャイエ著、高橋英郎 藤井康生訳(白水社)
「シカネーダー」原研二著(平凡社)
「モーツァルトの伯楽」(短編集「草の径」より)松本清張著(文春文庫)
 2013.03.10 (日)  「魔笛」と高山右近8〜フリーメイソンへの入会
 モーツァルトもシカネーダーもフリーメイソンである。元々意気投合した二人であるが、お互いフリーメイソンになったことが結びつきをより強固なものにしたのは間違いないだろう。「魔笛」もまさにフリーメイソン・オペラなのだから、「フリーメイソン」は重要なキイワードということになる。

[フリーメイソンってなに?]

 一般にフリーメイソンFreemasonといえば会員のことであり、その組織はフリーメイソンリーFreemasonryというが、以下考察するに当たり概念的呼称についても「フリーメイソン」とさせていただく。
 フリーメイソンが組織的にしっかりとした形になったのは18世紀のイギリスである。1717年6月24日、聖ヨハネ祝日の日に、ロンドンの4つのロッジの統一組織としてロンドン・グランドロッジが設立された。これが近代フリーメイソンの誕生となった。
 「近代フリーメイソン」成立に繋がると考えられる歴史的事象は、実証性に程度の差はあれ、かなり多岐にわたる。それらを一々検証するのは主旨から外れるので、ここでは簡潔に羅列するにとどめたい。
 古代エジプト、ギリシャ、ペルシャの秘教的集団からは儀式のスタイルが、中世の「聖堂騎士団」からは騎士道精神が、15世紀に起こった「バラ十字団」からは秘教的性格が、中世イギリスの石工(実務的メイソン)組合からは、メイソンやロッジという呼称や行動の規範が、近代フリーメイソンに繋がったと考えられる。
 近代フリーメイソンというものを一言で表せば、「至高の存在と人間の魂の不滅を信じ、友愛と倫理と学問を重んじて、その理念あるいは教理を儀式とシンボルで伝える団体」ということになろう。
 フリーメイソンの思想的バックボーンは、当時ヨーロッパを席巻していた「啓蒙主義」である。啓蒙主義は英語でenlightenment「暗闇に光を当てる」という意味。日本語訳「啓蒙主義」には「無知蒙昧な状態を啓く」という注釈がついている。「暗闇」も「無知蒙昧」も旧体制のこと。したがって、「啓蒙」とは旧体制(カトリックの教義を柱とする中世以来の伝統的な絶対主義体制)からの脱却に他ならない。理性の力を信じ、因習、迷信、偏見から開放された真に自由な人間中心主義を目指すものだ。とはいえ、フリーメイソンには宗教を排除する考え方はない。掲げる精神は「自由 平等 博愛」である。(茅田俊一著「フリーメイスンとモーツァルト」講談社現代新書参照)。

[モーツァルト入会]

 モーツァルトがフリーメイソンに入会したのは1784年12月14日、ウィーンに定住してから3年目の年末のこと。ロッジ名は「慈善」である。しからば、それは突発的な出来事だったかといえばそうではない。彼が入会するまでの道程を辿ると、そこには必然という糸がはっきりと見えてくる。

   1772年、16歳のモーツァルトは「おお、聖なる絆よ」K148という小アリアを作曲している。「起てメイソンよ そして歌え 今日こそ地球の隅まで聞かせるのだ」と始まる、これは「聖ヨハネ」ロッジの祝祭のための頌歌である。翌1773年には、トビーアス・フォン・ゲープラー台本の「エジプト王ターモス」を書くが、これも紛れもないメイソン劇だ(「クラ未知」1月31日参照)。

 「エジプト王ターモス」の台本作者ゲープラー男爵はフリーメイソンであるが、モーツァルトが出会ったフリーメイソンはそのほかにもたくさんいる。11歳、旅先で罹った天然痘の治療をしてくれたオルミュッツ(現チェコ)のヴォルフ医師。マンハイム・オーケストラの指揮者クリスチャン・カンナビヒ。プファルツ選帝侯の侍従長オットー・フォン・ゲミンゲン男爵。ウィーン定住直後から世話になったファン・スヴィーテン男爵、クラリネット奏者のシュタードラーなどである。
 わけても、ウィーン宮廷図書館長・ゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵(1733−1803)はウィーン時代のモーツァルト最大の恩人である。1782年4月10日の手紙に「僕は毎日曜日スヴィーテン男爵家に行きますが、ここではバッハとヘンデル以外は演奏されません。私は今、バッハのフーガの楽譜を集めています」とあるとおり、モーツァルトは毎日曜日、スヴィーテン家のサロンに入り浸った。男爵は元外交官で、仕事柄ドイツ各地に立ち寄った際に、バロックの楽譜を相当数蒐集していた。モーツァルトはサロンで楽譜を読み聴き演奏することにより、バッハへの造詣を深め、対位法に磨きをかけることができた。その影響が色濃く現れた名曲の一例として「幻想曲ニ短調」K397がある。静謐という器の中に高貴さと軽妙さが程よく融合したピアノ曲の傑作である。また、晩年の名作に現れるポリフォニーの見事さもこのサロンで学んだことの賜物だろう(「魔笛」序曲、「ジュピター交響曲」の最終楽章、「レクイエム」の「キリエ」など)。
 男爵はまた、モーツァルトの予約演奏会のよき理解者にして支援者だった。彼の予約演奏会は全盛時の1784年のシーズンには会員数が173名を数えたが、1788年にはなんと1名になってしまう。父の杞憂が現実となってしまったわけであるが、最後の1名こそ他ならぬスヴィーテン男爵その人だった。さらに、彼は、1791年12月5日、モーツァルトの死にあたり葬儀の手配を行い聖マルクス墓地での埋葬に立ち会った。
 アントン・シュタードラー(1753−1812)は親友(=悪友)である。天才的なクラリネット奏者にしてギャンブラー。ビリヤードやケーゲルシュタット(九柱戯)など賭け事でモーツァルトをカモにしていたという。カモにされながらもモーツァルトは彼との交友をやめなかった。それどころか、飛び切りの名曲を彼のために書いている。クラリネット五重奏曲K581や協奏曲K622などである。

 ウィーンで自立したモーツァルトは自由を満喫し希望に燃えていた。時の皇帝ヨーゼフ二世はフリーメイソンに寛容な政策をとった。友人にもフリーメイソンがたくさんいる。少年時代から世界を見て育ち、自らの才能を信じ、自由な精神を謳歌するモーツァルトがウィーンでフリーメイソンに入会したのは自然な成り行きだったろう。しかも入会したロッジ「慈善」のマスターは、かつてマンハイムで世話になったオットー・フォン・ゲミンゲン男爵だった。ロビンス・ランドンは「おそらくモーツァルトを最初にフリーメイソンに誘ったのはこの男爵だったのではないか」(中公新書「モーツァルト」石井宏訳)と述べている。
 モーツァルトは熱心な会員だった。それは彼が、ロッジ内でスピード昇進を果たしたことでも裏付けられる。「徒弟」位階をスタートに3ヶ月足らずで「職人」位階に到達、その1ヵ月後には「親方」位階にまで上り詰めた。さらに、1785年初頭にハイドンを3月には父レオポオルを入会させている。そして、フリーメイソンのために数多くの楽曲を作った。まさに模範的な会員だったといえる。

 [フリーメイソンとしてのシカネーダー]

 かたやシカネーダーはどんなフリーメイソンだったのか?これについては、ジャック・シャイエ著「魔笛〜秘教オペラ」(高橋英郎・藤井康生訳、白水社)をそのまま転用する。
モーツァルトとシカネーダーがロッジの同志であったというのは通説になっているが、これは半分しか正確でない。シカネーダーは、たしかにフリーメイソンであったが、放蕩のかどで「職人」位階以上に昇進することもなく、レーゲンスブルクの彼のロッジ「三つ鍵カール」から1789年5月4日に破門されていた。これには意見を異にするさまざまな反論があるにもかかわらず、最近の歴史学者は、彼がウィーンのいかなるロッジにもふたたび受け入れられることはなかったと考える傾向にある。
 これによると、シカネーダーは、フリーメイソンとしては、モーツァルトと違い、かなりの劣等生だったことが判る。とはいえ、フリーメイソンという二人の共通項が「魔笛」という化け物的傑作を世に送り出すための最も重要な要素だったことは間違いないだろう。
 2013.02.25 (月)  「魔笛」と高山右近7〜人生最大の転機
 人には時として人生を変えてしまうほどの転機がくる。天才にも凡才にもそれは分け隔てない。モーツァルトの場合、それは1781年、25歳のウィーンだった。
 3月16日、モーツァルトはウィーンに到着した。直接のきっかけは、ウィーン来訪中の大司教ヒエロニムス・コロレド(1732−1812)の呼び出しだが、モーツァルトには、この機会にウィーンで就活を叶えようという目論見があった。
 コロレドの魂胆は、自ら抱える音楽家の優秀さを皇帝はじめウィーンの貴族に見せ付けたいというもの。二人の思惑の違いは来るべき決裂の火種を孕んでいた。

 モーツァルトは、到着したその日から、いきなり大司教主催のコンサートに出演させられる。翌日は貴族の私邸でも。3月にはそんな演奏会が4回を数えた。ひとまず、大司教の顔を立てたのだが、それは有力貴族に顔を売ることで就職への道が開けると踏んだためである。
 やがて、モーツァルトには、貴族から直接お声がかかるようになる。まあ、彼の才能を持ってすれば当然のこと。ところが大司教が邪魔に入る。直取引の演奏会には許可を出さない。自分に来たオファーはもみ消す。許可するのは本人主催のコンサートだけ。要するにモーツァルトの自由を許さず、使用人としての枠に止めおこうとしたのである。
 大司教にしてみれば、モーツァルトは一介のお抱え音楽家に過ぎず、しかもお情けで雇用してやっているのだから、これは当然の措置だろう。ところが、モーツァルトは今度こそは強気だった。ミュンヘンで「イドメネオ」を成功させたばかりだし、天下のウィーンは、4度目の来訪になるが、いつだって大歓迎されている。特に今回、コンサートは大盛況。コロレドさえいなければもっともっと回数も増えお金も入るはず・・・・・そんな気持ちが表れた手紙がある。
すでにお知らせしたように大司教はここで僕にとって大きな邪魔者です。なぜかと言えば、ぼくが「劇場」での演奏会で確実に手に入れるはずだった100ドゥカーテンを彼はフイにしてくれました。ぼくはケルンテン門劇場で芸術家(未亡人)協会のコンサートに出演しました。拍手が鳴り止まず始めから再度弾き直さなくてはなりませんでした。聴衆が僕を知った以上、自分で演奏会を主催したらどんなにか儲かることでしょうね? それなのに、あの大司教のバカがそれを許可しないのです。自分の雇い人が儲けることを望まず、損をさせたいのです。 (1781年4月4日、ウィーンから父へ)
 100ドゥカーテンは、現在に換算すると120万円。大金である。自分が本気でやればもっともっと稼げるはずと息巻くモーツァルト。「使用人なら俺の言うことを聞くのが当然だろう。親父が泣きついたから雇ってやっているんだ。もう忘れているのかこの若僧が」と蔑む大司教。決裂は時間の問題だった。そして、ついにその日がやってくる。

 モーツァルトは、最初は大司教の言うことを聞いた。そうするうちに、「やはり自分のパフォーマンスは受ける。俺は凄いんだ」という確信を持つようになる。それはそうだろう、誰だってモーツァルトのような天才に出会ったことはないのだから。自信が出たモーツァルトは、大司教に「上米を撥ねられない自前のコンサート」の開催許可を申し出る。大司教は当然のごとく却下 「ふざけるな。お前は私の使用人だ。もうここでの仕事は終わりだ。2週間以内にザルツブルクに帰れ。交通費は前金で渡すから」。これに対してモーツァルト 「でも俺はやる。厭なら解雇すればいい。宮廷に雇われなくても、自分はここで自由に音楽活動して食べてゆける自信がある」。大司教には切れ、自立には確かな手ごたえを感じとったモーツァルトの手紙を下記。
僕はまだ腸わたが煮えくり返っています。僕の忍耐はあまりにながいこと試練にかけられていましたが、ついにはがまんしきれなくなりました。僕はもうザルツブルクに仕える不幸な身ではなくなりました。今日は僕にとって幸福な日でした。僕が、奴のところに入ってゆくと、いきなり「ところで、お若いの、いつ発つのだ?」「今晩のつもりでしたが、座席がもう一杯でした」。すると、奴は一気にまくし立てました。「お前みたいなだらしのない若僧は見たことがない、おまえのような務めがおろそかな奴はいないぞ」・・・奴は、ぼくが500フローリン(150万円)の給料をもらっていると面と向かって嘘をつき、ぼくのことを「ろくでなし」、「がき」と呼び「馬鹿」呼ばわりしました。・・・ついに僕は血が煮えくり返ってきて言ってやりました 「では貴方は私にご不満なのですね」。「なんだ貴様は!わしを脅す気か?馬鹿もん!ドアはあそこだ。わかるか、こんな哀れな小僧っ子にもう用はない」「僕ももう貴方に用はありません」「さあ、出てゆけ」・・・そこで僕は部屋を出ながら「これが最後です、明日(辞表を)文書で届けます」。最愛のお父さん、教えてください。僕がこれを言ったのは、早すぎるというより、遅すぎたのではありませんか?・・・僕の幸運は今やっと始まります。 (1781.5.9 レオポルトへ)
 これに対して、レオポルトは、大慌てで手紙を書いたのだろうが、残念ながら現在は残っていない。おそらく、気分を害したモーツァルトが破り捨てたのだろう。レオポルトの手紙はモーツァルトの返事から容易に推測できるので、なり代わって書かせていただく。
息子よ、なんてことをしてくれたのだ。もう「辞表」を出しちゃったというのか。ならば、即座に撤回しなさい。いいか、ウォルフガング、フリーになって食べてゆくのは大変なことだ。最初はちやほやされるだろうが、ウィーンのお客はすぐ飽きる。お前の生きる道は宮廷勤めしかないんだ。私がお前の職場復帰を大司教にお願いしてから、まだ3年も経っておらんのだぞ。平身低頭で許可してもらったんじゃないか。そんな恩ある大司教に楯をつくとは何事か。すぐ謝って撤回しなさい。これが一番いい方法だ。わしは、ここザルツブルクでやっていくしかないのだよ。私の立場も少しは察してくれ。今は、頭に血が上って平静じゃおれんだろうが、後になればきっと分かる。悪いことは言わない。お父さんの言うとおりにしなさい。 (1781.5.14ころ? レオポルトからモーツァルトへ)
 モーツァルトはがっかりした。あの父親ならきっと応援してくれると思ったのに、なんたる体たらく! これまで時に厳しくときに優しく、音楽の道に導いてくれたあの父親が、まさか・・・下記は有名な手紙である。
正直なところ、あなたの手紙には、ただの一行もぼくの父親を見出せません。自分と子供の名誉を気遣う、最上の愛情に溢れた父親ではありません。一言で言えば、ぼくのお父さんではありません。僕が辞表を撤回したら、世にも卑劣な奴になり下がるのがわかりませんか。大司教を名君と言えとでもおっしゃるのですか。 (1781.5.19 モーツァルトからレオポルトへ)
 かくして、モーツァルトは、ザルツブルクと父とに決別し、新天地ウィーンで自立した音楽家としての道を歩むことになる。恩義ある父親に対し、こうまできっぱりと強気に自分の気持ちを表したのは生まれて初めてのことだった。この宣言の裏には、上演したばかりの「イドメネオ」のイメージが胸の内にしっかりと刻み込まれていた? そんな気がしてならないのである。我が子への愛情ゆえ課せられた運命に悩み立ち向かうクレタの王イドメネオの高潔な姿。それに引き替え自分の父親ときたら、なんという卑屈な・・・モーツァルトは、クレタの王・イドメネオと我が父・レオポルトを見比べていたのではなかろうか。
 これまで、音楽家は例外なく宮廷のお抱えであった。モーツァルトは、歴史上、初めて自力で生計を立てることができた音楽家である。1781年5月9日こそ、その後の音楽史を大きく塗り替える契機となった画期的な日だったのである。
 2013.02.10 (日)  「魔笛」と高山右近6〜ミュンヘンからウィーンへ
[イドメネオ]

 1780年11月5日、故郷ザルツブルクをあとにしたモーツァルトの行く先はミュンヘンだった。バイエルン選帝侯カール・テオドール(1724−1799)から、オペラ「イドメネオ」の作曲依頼があったためである。
 モーツァルトは、2年前就活旅行の際、マンハイムで、プファルツ選帝侯時代のカール・テオドールに会っている。そこには彼が創設した宮廷オーケストラがあり、その実力はヨーロッパ髄一といわれていた。楽団員からは暖かく迎えられ、モーツァルトはマンハイムで楽しくも充実した5ヶ月を過ごす(結果、“オケに空席がない”という理由で就職は叶わなかったが)。宮廷歌手アロイジア・ウェーバー(後に結婚するコンスタンツツェの姉)との恋も、充実感に拍車をかけた。父親にこんな手紙を書いている。
ぼくは貴族のような金銭結婚をしたくはありません。ぼくの妻を幸福にしたいとは思いますが、彼女の財産で幸福になろうとは思いません。ぼくらの財産は頭の中にあるのですから。そして、ぼくらの頭をちょんぎらないかぎり、誰もそれを奪うわけにはいきません。 (1778.2.7マンハイムより父へ)
   これに対する父からの手紙
愛する息子よ、どうかこの手紙を熟読してくれ! 私たちがザルツブルクで辛い思いをしているのは、よく知っているね。おまえが平々凡々たる音楽家として世間から忘れられてしまうか、それとも有名な楽長として、後世の人たちにまで書物の中で読んでもらえるようになるか・・・女にうつつを抜かして、子供をいっぱいかかえて貧乏し、小部屋の藁ぶとんでひっそりと落ちぶれているか、それともキリスト教徒として喜びや名誉名声に溢れた生活を送ったあと、お前の家族のために万事を整え、世間からは尊敬を受けて死んでゆくかは、ひたすらお前の理性と生き方にかかっているのです。(1778.2.12ザルツブルクから子へ)
 モーツァルト22歳。アロイジア16歳。モーツァルトは、このとき、この才能溢れる美貌の歌姫の卵を勝手知ったる本場イタリアでデビューさせたいと本気で考えていた。無論、幸福な結婚をも。それを知ったレオポルト、「今、女にうつつを抜かしているときか、コノ。そったらこった、一生を棒に振るぞ」と世間並みの父親の忠告である。結果、モーツァルトは、父の意を受け入れ、職を求めて渋々パリへと向かうのだが、そんな父親を、生まれてはじめて疎ましく思うようになった、2年前のマンハイムであった。

 モーツァルトは1780年11月8日、バイエルンの首都・ミュンヘンに到着した。そこには自分を応援してくれるカール・テオドールがバイエルン選帝侯として君臨している。前選帝侯マクシミリアン3世の死去に伴い、プファルツとの兼任となったのである。そして、ヨーロッパ随一のマンハイム・オーケストラがそのままここに移っているから、楽団員はみな旧知の間柄だ。そんなこの上もない環境で、オペラが書けるのである。ザルツブルクでは書きたくても書けなかった夢のオペラが・・・・・モーツァルトの高揚ぶりはいかばかりだったろうか。

 ミュンヘンでの目的はもう一つあった。それは、3年前からの懸案事項である就職である。日々選帝侯が示す好意や楽団員との楽しい交流は、生来の楽天家モーツァルトに確かな手ごたえを感じさせたに違いない・・・・・もうあのいやな大司教の元に帰らなくていい!

 気分よく曲作りは進む。台本作家はザルツブルク宮廷司祭のジャン・バティスタ・ヴァレースコ(1736−1805)。モーツァルトは何度も何度もやりとりし訂正した。ミュンヘンとザルツブルク。仲介はレオポルトが執った。「このオペラを成功させてここで暮らす。失敗は許されない!」気合が入るのも当然である。天才が気合を入れれば傑作が生まれる。稽古の評判も上々だ。リハーサルでのカール・テオドールの一言は、モーツァルトを大きく勇気付ける・・・・・「このオペラは見事だ。君の名を高めるに違いない」。

 こうして、歌劇「イドメネオ」は完成。1781年1月29日、レジデンツ劇場で無事初演された。
 「イドメネオ」は、父親の心の葛藤を描いたドラマだ。クレタの王イドメネオは、トロイとの戦いに勝ったあと海難に遭遇するが、海神ネプチューンの救済を受け九死に一生を得る。その交換条件が(結果的に)息子を生贄に差し出すというものだった。父は神との約束と息子との狭間で悩みに悩む。最終的に神の信託が下って、メデタシメデタシになるのだが、この父親の姿が、モーツァルトの心に残る。オペラ成功の甘美な喜びとともに、苦難に立ち向かう真摯な父親の姿が脳裏にしっかりと刻み込まれるのである。

 そして、3月12日、モーツァルトはミュンヘンを立って生涯の住処となるウィーンへ向かう。ということは、ミュンヘンでのもうひとつの大きな目的、就職が叶わなかったことを意味する。音楽では最大限の共感を示してくれた選帝侯カール・テオドールだが、雇用においては二度までもモーツァルトを拒否したのである。個別にはさまざまな理由があるだろうが、一言で言えば時代の綾、これがアンシャン・レジームの壁というものだろう。

[それからのシカネーダー]

 シカネーダーが、いかにモーツァルトに愛情を持っていたかは、レオポルトの手紙からも窺える。「おまえが立ったとき、なんとあの人は、おまえにさようならを言おうと、郵便馬車のあとを走って追いかけていったのだ」。まるで、「北の国から」の蛍、「家政婦のミタ」のきいちゃんである。
 モーツァルトと別れたあとのシカネーダーは、ザルツブルクに翌年1781年2月まで滞在、通算93回の公演を行った。その最後の演目「アグネス・ベルナウアリン」は、4回上演されたが、毎回200人もの観客が場外に溢れるほどの大ヒットとなった。モーツァルトは、シカネーダーを「イドメネオ」の初演に誘うが、その1月29日は「ベルナウアリン」の第3回目の公演日にあたり、二人の再会はならなかった。
 ザルツブルクを旅立ったシカネーダーは、ライバッハ、グラーツを経てハンガリーのプレスブルクに辿りつく。その地では、ヨハン・フリーデル(1751−1789)という啓蒙派の文学青年が一座に合流する。フリーデルは一座で男優の他に台本も担当した。>
 1783年春、シカネーダーはウィーンのケルンテン門劇場で「ハムレット」を公演、大評判をとる。このときの配役は、ハムレットがシカネーダー、クローディアス王がフリーデル、オフィーリアはシカネーダーの妻・エレオノーレだった。また、このケルンテン門劇場は、1824年5月、ベートーヴェンの「第九」が初演されたことでも有名だ。
 シカネーダーは1784年11月5日、再度ケルンテン門劇場に登場する。出し物はモーツァルトの「後宮からの誘拐」だった。ウィーン新聞は、「この一座は、個々の私人よりなる興行としては、ケルンテン門劇場にてここ何年もの間われわれが観劇したものの中で最上である」と賞賛した。

 さて、この後のシカネーダーはファンキーである。というか、彼は元々そうであり、まさに蕩児なのだ。一座の女優はもとより、ウィーンの女も手当たり次第の体。そんな亭主に堪忍袋の緒が切れた妻エレオノーレ。それに同情する(もとはといえば彼女目当てに加わった)フリーデル。見え見えの三角関係の結末は、シカネーダーの一座からの追放だった。

 主が代わった一座の出し物は自ずと違った趣のものとなる。シカネーダー演劇が、動物を登場させ気球まで飛ばして大衆受けを狙う一大スペクタクル・タイプなら、フリーデルのはひたすら人間モラルを追求する真面目路線だった。
 1788年、地道な活動の結果、一座は遂にウィーン・ヴィーデン区の免税館に設置された劇場(フライハウス劇場)を手に入れる。ここで、3年後に「魔笛」が初演されるのである。
 フリーデル一座の芸風は、彼の柿落としの口上からも見て取れる。「私どものお目にかけまするは、ほんの雑草の花に過ぎませぬ。然りとは申せども、御ひいきに甲斐なしとお思いになりませぬよう、平にお願い申し上げるしだいにござります」。1788年3月24日、復活祭の月曜日だった。
 ところが、その1年後の1789年3月31日、フリーデルは持病の結核を悪化させこの世を去ってしまうのである。享年38歳の短い生涯だった。遺言により一座と劇場を引き継いだエレオノーレだが、もとよりそんな才覚はない。そこに登場したのは? 言わずもがなのシカネーダー。いつの間にかウィーンに舞い戻った彼は、何食わぬ顔で一座の長に収まってフライハウス劇場を手に入れた。かつての妻エレオノーラと寄りを戻したのはいうまでもない。海千山千の男にとって、これは朝飯前の小手先事だった。

参考文献:原研二著「シカネーダー」(平凡社)
       メイナード・ソロモン著、石井宏訳「モーツァルト」(新書館)
 2013.01.31 (木)  「魔笛」と高山右近5〜シカネーダーという男
 エマヌエル・シカネーダー(1751−1812)という男がいた。18世紀後半―19世紀初頭にかけて、ドイツ=オーストリアに生きた旅回り一座の座長である。彼が今日までその名が残っているのは、モーツァルトの「魔笛」の台本作家としてである。ここからは、モーツァルトがシカネーダーと出会って「魔笛」が完成されるまでの過程を辿ってゆく。

[シカネーダー、ザルツブルクに現る]

 シカネーダーが、ザルツブルクに現れたのは1780年9月、29歳の時である。彼の一座は、ザルツブルク舞踊場(現・州立劇場、700名収容)を根城に翌年の2月まで滞在した。モーツァルト一家とシカネーダーはこの間、親戚同然の付き合いをする。一家は、シカネーダーから与えられた3枚のフリーパスで毎日のように劇場に通い、シカネーダーはモーツァルト家に入り浸った。
 そのときモーツァルトは24歳。ザルツブルク宮廷のオルガン弾きとして、まるで不本意な生活を送っていた。3年前、大司教コロレドから理不尽な仕打ちを受け、楯をつき、マンハイム〜パリへ就活旅行に行くが叶わず、その上同行した母を亡くして帰郷、父レオポルトが大司教に頭を下げて、やっとオルガン弾きの職をあてがわれていたのである。仕事といえば日曜日の礼拝用に短いミサ曲を作り演奏することくらい。オペラを書きたくてたまらない彼にとっては、砂を噛むような毎日だった。

 当時のモーツァルトの心境を表した手紙がある。
僕の名誉にかけて誓って言いますが、僕はザルツブルクとその住民たちにもう我慢ができません。彼らの語り口〜生活ぶりが、まったく耐えがたいのです。(1779.1.8)

僕はお父さんを愛するがゆえにのみ、ザルツブルクにいるのです。僕は名誉にかけて言いますが、あの大司教が日ごとに耐えがたくなっているからです。(1780.12.16)
 別の手紙では、「オペラを書きたくても、ここにはまともな劇場もない」と嘆いている。大司教コロレドに対してならいざ知らず、とばっちりはザルツブルクの町そのものに及んでいる。こんなところでは自分の才能も枯渇してしまう・・・・・ モーツァルトは本気で危機感を持った!? そんなモーツァルトだから、目の前に現れたシカネーダーと意気投合したのは自然の成り行きだった。一方、シカネーダーも、一座の長として、常に受ける演目を探していたわけで、天才!モーツァルトとの交流は望むところだったろう。

 シカネーダー一座は、ザルツブルク滞在中の5ヶ月間に数々の演目を上演した。ベンダ作曲の「アリアドネ」、ボーマルシェの「セヴィリアの理髪師」(「フィガロの結婚」の前段話で、後年ロッシーニの代表作になる)、シカネーダーのオリジナル「楽しい悲惨」「レーゲンスブルクの船」、ヴァイセ/ヒラーの「楽しい靴屋」やシェイクスピアの「ハムレット」「リヤ王」など、ジングシュピールあり芝居あり、喜劇も悲劇も、時には猿や熊(縫いぐるみだが)まで登場させる、大サービスの演芸ショーなのである。

 モーツァルトは、エネルギッシュに舞台を作り演じるシカネーダーに憧れを抱いただろう。シカネーダーは、モーツァルト家での体験から、彼の音楽的才能に驚嘆したことだろう。二人はいつしか夢を語り、一緒に舞台劇を作ろうじゃないいかという話になる。これも自然の流れである。

 モーツァルトは1773年、ウィーンに行った際、音楽劇の作曲を依頼された。トビーアス・フォン・ゲーブラー台本の「エジプト王ターモス」である。舞台はエジプト。主人公ターモスは、神オシリスを崇拝する有徳の王として描かれている。エジプト〜オシリス〜王、と来れば、「魔笛」につながると考えるのは自然だ。台本のゲーブラーがフリーメイソンなのも納得がいく。この音楽劇は、1774年4月ウィーンで初演された(K173d)。モーツァルトはこれを、シカネーダーの前に滞在していたベーム一座のために、1779年に手を加えている(K345)。シカネーダー一座がこれを上演した記録はないが、二人の間で話題になった可能性は十分ある。「魔笛」の萌芽と考えてもいいのではなかろうか。

 モーツァルトとシカネーダーにおける、より密接な作品がある。未完のオペラ「ツァイーデ」K344である。
 ザルツブルク宮廷トランペット奏者・アンドレアス・シャハトナーの台本に、モーツァルトが曲を付けた。トルコ太守の侍女ツァイーデが、囚われの身であるキリスト教徒ゴーマッツと恋に落ち、二人で後宮から逃走するお話である。結末は未完のため判らない。15のナンバーが断片的に残されている。
 作曲は1780年に行われている。「ツァイーデ」がベーム一座を想定したものか、シカネーダー一座を対象としたかは諸説あるが、ベームが去りシカネーダーが来たのが9月だから、「当初はベームを想定していて途中からシカネーダーに切り替えた」と考えるのが自然だろう。劇団員の技量は一人ひとり違うのだから、この切り替えはモーツァルトといえども厄介だったはずである。しかも、夏の終わりには「イドメネオ」の作曲依頼が舞い込んできたから、モーツァルトの気持は専らそちらに傾いた。心そこにあらずである。「ツァイーデ」が未完に終わったのは、これらの事情によるものだろう。とはいえ、筋書からいっても、1782年ウィーン初演のジングシュピール「後宮からの誘拐」K384につながる作品であることはいうまでもない。

 1780年11月5日、モーツァルトは、意気投合したシカネーダーと別れ、ミュンヘンへと旅立った。オペラで大ヒットを飛ばすという夢に向かって。別れ際二人は、いつかきっと一緒にジングシュピールを作ろうと誓い合ったに違いない。
 この日が、モーツァルトにとって、生まれ故郷ザルツブルクとの永遠の決別となった。二人のステージは、数年後のウィーンに移される。いよいよ、「魔笛」完成へのカウントダウンが始まるのである。
 2013.01.25 (金)  「魔笛」と高山右近4〜モーツァルトとウコンドノの接点
 年が明けて2013年。「今年こそいい年でありますように」と願いながら、16日、毎年恒例、「中島みゆきツアー2012−13」(国際フォーラム)に出かけました。やはり、中島みゆき、さすが、中島みゆきでした。
 「時代」−「倒木の敗者復活戦」−「世情」の流れの中に、彼女の真情が垣間見えました。無常と不条理を救済で繋ぐ!
 18日の朝日新聞に「希望の灯り」の記事があって、この主宰者の俳優・堀内正美氏が「寄りそう」ことの重要さを説いていました。私が常々中島みゆきの歌に感じていたのも正にこれでして、今回のツアーでは特にそう感じました。最強の寄り添い歌「泣きたい夜」を入れていたのも、彼女の思いの表れでしょう。

では本題に。今回は、「モーツァルト、『ティトス・ウコンドノ』と遭遇」の巻です。

[モーツァルトと「ティトス・ウコンドノ」]

 現在取り組み中のテーマは、「歌劇『魔笛』の冒頭に“日本の狩衣を着た王子”というト書きがあるが、なぜわざわざ日本なのか?」ということである。私のこの疑問について、日本の評論家先生たちは、「日本だろうが中国だろうがアフリカだろうが、そんなものどこだっていい。深い意味などないのだから」と考えておられるのだろう。この件に言及した記述に、これまでただの一度も出会ったことがないのだから。
 私も、まあ、これが中国とかアフリカだったら、見過ごしただろう。しかるに、なんといっても「日本」なのである。“わざわざ「日本」とするには何らかの理由があるはずだ”と考えるのは、日本人モーツァルト愛好家にとって至極当たり前の発想と普通に思うのである。わが国に本格的に西洋音楽が入ってきて140年。この間、むしろなにもなかったことのほうが不思議なのである。

 こんな思いのときにぶち当たったのが茅田俊一著「フリーメイスンとモーツァルト」(講談社現代新書)の後書きだった。
モーツァルト自身は果たして日本や日本人を知っていたかどうかとなると、これは心許ない。しかしながら、ここで一つだけ、私のささやかな経験を披露させていただきたい。1984年、私はザルツブルクでザルツブルク大学音楽学部のゲアハルト・クロル教授から、ミヒャエル・ハイドンの宗教劇「キリスト者の忠誠」のコーラス「カンターテ・ドミノ」が、そのままモーツァルトのオラトリオ「救われたベトゥーリア」K118の終曲に転用されていることを聞かされた。「キリスト者の忠誠」は、日本のキリシタン大名高山右近を主人公にした宗教劇で、劇中には、ティトス・ウコンドノ(ローマの賢帝ティトスの名を冠している)、ショウグンサマなどが登場する。この宗教劇は1770年8月31日、ザルツブルクで初演されたが、このときモーツァルトは第1次イタリア旅行の途上で、ザルツブルクにはいなかった。「救われたベトゥーリア」は1年後の1771年夏、モーツァルトがザルツブルクで書いたものである。
 文中の「キリスト者の忠誠」の通称が「ティトス・ウコンドノ」である。このほうがテーマに相応しいので、以後も呼称は「ティトス・ウコンドノ」に統一する。

 この記述によると、“モーツァルトは、音楽劇「救われたベトゥーリア」に「ティトゥス・ウコンドノ」の合唱曲のメロディーを転用した”ということだ。そこで私は検証に入る。
 シャウベッカー氏から送られた「ティトス・ウコンドノ」日本公演ライブDVDと「救われたベトゥーリア」の市販DVD(クリストフ・ポッペン指揮、2006年ザルツブルクでの公演ライブDG盤)を照合した結果、記載事項に間違いないことが確認できた。まさに、ここで、モーツァルトと高山右近が結びついたのである。
 「救われたベトゥーリア」のDVDは、ユニテル・クラシカM22の一つ。M22は、生誕250年に因み、モーツァルトの歌劇・音楽劇全22作品をすべて上演したプロジェクトの名称。「救われたベトゥーリア」はその中で最も上演頻度が少ない演目で、こんな機会がなかったらなかなかお目にかかれない代物だ。
 「ティトス・ウコンドノ」は、これに輪をかけたニッチな作品で、1770年の初演以来の上演記録も聞いたことがない。無論レコーディングも皆無。シャウベッカー氏の日本語上演が最初の再演だった可能性もある。
 そんな極々希少な2作品の映像を検証できたのである。これはもう奇跡としか言いようがない!
 二つは似ても似つかない作品である。片や、旧約聖書に基づく16曲から成る音楽劇で、片や、日本のキリシタン大名を題材とした数曲のシンフォニアと2曲の合唱曲のほかは台詞ばかりの宗教劇である。ところが互いに同じメロディーの楽曲が一つ厳然として存在している。その接点の不可思議さと面白さ。「未知との遭遇」の楽しみここに極まれりである。

  [「救われたベトゥーリア」作曲の経過を推察する]

 「ティトス・ウコンドノ」が初演された1770年8月、14歳のモーツァルトは第1回イタリア旅行の最中だった。この旅行は、少年モーツァルトにとって、大きな収穫があった。というより、彼の人生の絶頂期だったといっても過言ではない。7月にはローマ教皇より「黄金拍車勲章」を授かり、12月には最初のオペラ・セリア「ポントの王ミトリダーテ」をミラノで上演、成功を収め、1771年1月にはヴェローナのアカデミア・フィラルモニカから名誉楽長の称号を与えられている。
 そして、帰国途中のパドヴァで、モーツァルトは、アラゴーナ大公・ジュゼッペ・ヒメネスから舞台音楽の作曲依頼を受ける。ザルツブルクに帰ったのは3月末のことであった。

 1771年の夏、モーツァルトは「救われたベトゥーリア」の作曲に取り掛かる。台本はウィーンの宮廷詩人、イタリア人のピエトロ・メタスタージオ(1698−1782)である。このとき、メタスタージオは73歳、事実上引退している。したがってこの台本はアリモノである。モーツァルト父子は、イタリア旅行の際に、イタリア語の台本や詩を多数携帯していた。咄嗟の注文に応じたり、モーツァルトが即興で曲をつけてアピールするための素材としてである(このあたりの件は、メイナード・ソロモン著、石井宏訳「モーツァルト」に詳しい)。「救われたベトゥーリア」の台本が、モーツァルト父子の手中にあったことは想像に難くない。アラゴーナ大公から依頼を受けたとき、構想は直ぐに浮かんだはずである。

 「さて、この台本をどう料理するか」モーツァルトは考えた。オペラ・セリアの形を採るか、音楽劇のスタイルにするか? 15歳のモーツァルトは、当然父レオポルトに相談しただろう。それを聞いた姉ナンネルが「去年、ミヒャエル・ハイドンの宗教劇を大学で見たわ」と「ティトス・ウコンドノ」の初演の話をしたかもしれない。いずれにしても、彼は、同じ職場の(ザルツブルク宮廷楽長)ミヒャエル・ハイドンに相談を持ちかけた。

 「ここに、去年ベネディクト修道院大学の卒業記念に上演した『ティトス・ウコンドノ』の楽譜がある。参考になれば幸いだ。私が思うに、『ベトゥーリア』は題材からいっても『ウコンドノ』のような音楽劇がいいと思うよ」・・・・・これがハイドンの答えだった。
 楽譜を目にしたモーツァルトは、一つの楽曲に注目する。合唱曲「カンターテ・ドミノ」である。「この教会旋法は実に敬虔で美しい」と考えたモーツァルトは、ミヒェル・ハイドンへのオマージュも含め、「救われたベトゥーリア」の終曲に転用した。そしてハイドンの忠告どおり、この演題を「音楽劇」の形で書き上げた。

 1771年8月、モーツァルトは第2回イタリア旅行に出かける。そして、約束どおり、パドヴァで音楽劇「救われたベトゥーリア」をアラゴーナ大公に献呈した。ところが当時この作品の上演記録はない。いったい何故?という疑問は残るが、 まあ、これについては深入りしないことにしよう。主旨がボケるので。

 以上の“過程”は推測の域を出ないが、モーツァルトが、自身の音楽劇「救われたベトゥーリア」にミヒャエル・ハイドンの宗教劇「ティトス・ウコンドノ」の1曲を転用したのは紛れもない事実である。と同時に「ティトス・ウコンドノ」という宗教劇、そして、その主人公・高山右近を何らかの形で記憶に留めた事も想像に難くないのである。
 2012.12.25 (火)  「魔笛」と高山右近3〜「ティトス・ウコンドノ」という宗教劇
 南丹市在住のドイツ人学者デトレフ・シャウベッカー氏に、「ティトス・ウコンドノ」について電話で質問させていただいた。奥様の有香さんの橋渡しである。氏には実に丁寧にお答えいただき、その上、日本上演の際の台本とライブDVDを送ってくださった。お蔭様で、ほとんど雲を掴むようだった作品が、くっきりと輪郭を現してくれた。
 「クラ未知」を始めて4年半、これほどまでに親切に応対してくれた方はいなかった。切に切に感謝である。以下の文章は、すべてシャウベッカー氏のご厚意の賜物である。

<232年ぶりの上演>

 2002年12月1日、京都府船井郡(現南丹市)日吉町の「府民の森ひよし」で、ライヒスシーゲル台本 ミヒャエル・ハイドン音楽の宗教劇「ティトス・ウコンドノ」が日本語で上演された。プロデュースはデトレフ・シャウベッカー、有香夫妻。ザルツブルク初演が1770年8月31日だから232年を経ての上演かつ日本初演である。上演時間は全5幕で2時間。オリジナルの4時間を短縮しての上演だった。
 南丹市は、京都府丹波地方の南部にあり、2006年にいくつかの町村が合併して市となった。人口約35,000人。地図を見ると、丹波国は高山右近が治めた摂津国と隣接している。そんな所縁の地で右近が蘇った。しかもドイツ人ご夫妻の手で。なんと、趣深いことではないか。

<あらすじ>

 舞台は戦国時代の日本。登場人物はウコンドノ(高山右近)とその家族。彼が仕えるショウグンサマ(帝)と側近など十数名。物語のほとんどは台詞によって進行し、管弦楽による序奏と後奏、複数の合唱曲から成る宗教音楽劇である。

 高山右近は帝への謀反を起こした弟を征伐する。この武勲により帝から多大の賛辞を受ける。「そなたは私の最高の友だ。家来にあらず。ならばそなたのわしに向ける忠義にも、慈しみにも、しかと報いたいと思う」と。
 これに対し右近は「武勲は私の仕事として当たり前のこと。得られた勝利はひとえに偉大な神から賜ったもの。私の願いはキリシタンとして天主に仕えその教えを全うすることだ」と自らの信条を述べる。
 これを受けた帝は、「新しき教え(キリスト教)はわが神祖を廃するということ。正しき諌めを容れよりよき願いを申すべし」と、キリスト教を容認できないことを伝える。

 キリスト教に対し、帝サイドの宗教は日本古来の神道であり仏教で、異教という呼び方をしている。
 異教の僧侶が右近に「帝は貴殿の神祖への不敬は決して見逃さないぞ」と警告するが、右近は「たとえ帝が私に罰を下されても私の帝への忠誠は不変であり、喜んで血を流す。だが、天主のためにはさらに喜んで流すことができる」と、あくまで、キリスト教の天主=神が最高のものとの意思を示す。

 この後も右近は事あるごとにキリスト教への忠誠を表現する。「千代ろずの神などいない。おわせられるのは唯一の神・天主様だけ。釈迦や阿弥陀仏も虚しきもの。大和の国がこの世の全てではない、世界を扶持するは天主のみぞ」
 このままでは帝の怒りを買うと案じた義兄は「家族のためにも心を偽り、大和人の信仰こそわが信心と言え」と促すが、右近は聞き入れない。

 右近の信心の固さを危険視した側近は「あのものを咎めるべき」と帝に迫る。帝は遂に「もし、私が口添えしても改宗しないのなら、奴を罰するしかない」と一歩踏み込む。
 ところが右近は「改宗せねば死と仰せられるのなら、喜んで受け入れましょう。もとよりそれは天主様もお望みのこと」と、また家族も「天主様のために喜んで殉教の道を選びます」と、キリシタンとして右近と変わらぬ覚悟があることを告白する。

 帝の側近らが謀反を企てた。またもや討伐を命じられた右近は、見事に謀反を鎮めた。帝は「二度にわたる右近の勇敢な行動と忠義は、まさしくキリシタンの教えと天主への信心の賜物である」と理解し、信教を認め右近を赦すのであった。

<作品の背景>

 現実の高山右近(1552−1615)は、度重なる為政者の圧制にも屈せず信心を曲げなかったが、そのため、遂には国外追放を命ぜられ、フィリピンで亡くなった。宗教劇「ティトス・ウコンドノ」の右近は、最後に帝から“信教を許される”ところが違っている(帝のモデルは、豊臣秀吉と徳川家康だろう)。
 これはやはり、カトリック教会サイドで作られた物語だからだろうか。「不屈の信心は最後には勝利する」というストーリー仕立は、布教の目的に沿ったものだろう。

 シャウベッカー氏は、「この作品は、ベネディクト修道院大学Benediktiner Universitaet(現ザルツブルク大学)の卒業記念に上演されたものです」と教えてくれた。
 初演は、大学の玄関と廊下を使って行われた。そこでは、毎年、学生たちが、卒業時にカトリックに纏わる宗教劇を上演する慣わしになっていたのである。

 大学のレトリック(修辞学)教師フローリアン・ライヒスシーゲルは、1770年の卒業演目に高山右近を取り上げようと思い立つ。右近のことは「イエズス会日本布教史」のドイツ語訳(バザルト著、17世紀 出版)で知っていた。彼は、「遥か彼方東の果てに高山右近という敬虔なキリスト教徒がいた。彼は為政者の度重なる圧制にも屈せず信教を貫き通した。実にインパクトある話ではないか。これは、必ずや、キリスト者としての学生の精神に勇気と希望を与えるものだ」と直感した。
 彼は修道院で数々の資料に当たる。場合によっては宮廷まで出向いたかもしれない。調べるにつれ物語が形作られてゆく。実際の右近は、流刑に処されるが、自分の作品では帝に赦される勝利者にしよう。そのほうが学生たちのためになる。当初の直感は確信に変わっていった。
 音楽は、宮廷楽団長のミヒャエル・ハイドン(1737−1806)に依頼した。宮廷で宗教音楽に慣れていたハイドンは、短期間で見事な音楽をつけた。こうして、ライヒスシーゲル台本&M.ハイドン音楽の宗教劇「ティトス・ウコンドノ」Titus Ukondonusは、1770年8月31日、ザルツブルクのベネディクト修道院大学で初演された。このときモーツァルトはイタリア旅行の最中で、ザルツブルクにはいない。彼の目に触れるのは翌年1771年である。

 シャウベッカー氏が、日本上演のために資料を探した結果、台本はザルツブルク大学、楽譜は聖ペーター僧院(ベネディクト修道院)にあった。なんと別々に保管されていたのである。
 シャウベッカー氏はこう語っている。
台本に関しては、あらすじ入りのプログラムとオリジナル直筆台本が数ページあっただけでしたが、印刷された台本が完全な形で残っていました。これは当時としたら大変珍しいことで、実に幸運でした。楽譜は、合唱曲とシンフォニア(管弦楽曲)がそれぞれ2曲づつありました。もう1曲、劇中バレエ用のシンフォニアがハンガリーにあることが判明しましたが、上演には間に合いませんでした。これは、バレエ担当の教師がハンガリー人だったため、故郷に持ち帰ったものと思われます。
 これだけの資料を集め、日本語台本(訳:嶋田宏司氏)を作り音楽とともに再現上演したシャウベッカーご夫妻の情熱と努力に乾杯である。

 宗教劇「ティトス・ウコンドノ」の楽譜は、聖ペーター僧院の資料室にあった。これは、恐らく、ミヒャエル・ハイドンがモーツァルトに見せた後ここに保管したものだろう。なぜなら彼はここ聖ペーター僧院教会に眠っているからである。
 なお、この楽譜をモーツァルトが見た証拠は次回の「クラ未知」で。
 2012.12.10 (月)  「魔笛」と高山右近2〜モーツァルトとミヒャエル・ハイドン
<前説>

 追い詰められた野田総理の崖っぷち解散で、世間は選挙モードに突入してしまいました。12もの政党がひしめく、前代未聞の事態。一体どこに入れたらいいのやら、マスコミも毎日対応に大童です。
 政権与党の民主党のCMで野田総理は「一年余総理大臣をやって分ったことが一つあります。結局大事なことは決めることでした。日本のことも人生のことも動かすのは決断です」と能天気に訴えています。大事なのは何を決めたかということではないですか。財務省の筋書きどおりに「消費増税法案」を通し、このままでは野田下ろしに遭って自分の存在が危うくなるから解散した。たかがそれだけのことを「決断」なんて威張って欲しくないし、「人生」だなんて、それこそ大きなお世話です。
 勝ったつもりの自民党は「日本を取り戻す」の連呼。取り戻すって、2009年政権交代以前にですか? 敵の自爆で風が吹いているだけなのに、自らは何の反省もせず内部改革もしないこんな政党に、誰が清き一票を入れますかいな。
 つらつら見渡すに、頼りになるのはやはり橋下徹でしょう。大阪の二重構造の矛盾解消のため府知事になった。市と掛け合うが埒が明かないので、腹心を知事にして自分は市長になって改革を進めている。一体これだけの有言実行の政治家がどこにいるでしょうか? ただ、我欲の塊の石原慎太郎と組んだのは大失敗だった?
 はてさて、この未曾有の乱戦は果たしてどうなりますか? あと一週間で結果が出ますが、それはさておき、本題に戻りましょう。

<モーツァルトとミヒャエル・ハイドン>

 1756年、ザルツブルクに生まれたモーツァルト(1756−1791)は、わが子を天才と見抜いた父・レオポルト(1719−1787)によって英才教育を施され、その才能に磨きを掛けてゆく。13歳のときには、無給ながらザルツブルク宮廷楽団のコンサートマスターになる。そのとき父は副楽長で、楽長はミヒャエル・ハイドン(1737−1806)だった。
 ミヒャエル・ハイドンは、ヨーゼフ・ハイドンの実弟。26歳でザルツブルク宮廷楽長になり、以後亡くなるまでそこに逗留した。したがって、モーツァルトとミヒャエル・ハイドンは、1763年から1781年までの18年間、同じ職場の音楽家同士という間柄であった。
 しかも、二人の関係は実に良好だったようだ。ケッヘルが444番を打ったモーツァルトの交響曲第37番ト長調は、近年の研究により、モーツァルトが作曲したのは第1楽章の序奏部だけで、あとはミヒャエル・ハイドンのもの、と判明した。作曲時期も1783年リンツから1784年ウィーンと訂正されている。恐らく、ウィーンでの予約演奏会か何かで急遽シンフォニーが必要になり、ハイドンに工面してもらったのだろう。これは1783年、ミヒャエル・ハイドンが、ザルツブルク宮廷でピンチのときに、モーツァルトが二重協奏曲を書いて穴埋めしてやったお返しともいわれている。友好の証である。

<ティトス・ウコンドノ>

 ザルツブルクには、モーツァルトの尺度によれば、「少なくとも劇場と呼べる」規模のものはなかった(1781.5.26の「手紙」より)。しかし、ジングシュピールを上演する程度の小屋はあったから、ハイドンも劇場用にいくつかの作品を書いている。その中の一つに「ティトス・ウコンドノ」があった。

 ミヒャエル・ハイドン作曲の「ティトス・ウコンドノ」は、その名のとおりキリシタン大名・高山右近を主人公とした宗教劇で、原作・台本はフローリアン・ライヒスシーゲル。初演は、1770年8月31日、ザルツブルクで行われた・・・・・とまあ、知りうることはこれくらい。実に情報量が少ないし、無論CDもDVDもない。

 ところがつい最近、PCを捲っていたら、「高山右近とぴっくす」(情報提供:久保田典彦氏)なるSiteにぶつかった。そこには、なんと、「ティトス・ウコンドノ」が日本で上演されたとの情報が掲載されていた。
 2002年12月1日、京都府「府民の森ひよし」において、井尻有香&シャウベッカー夫妻の企画で「ティトス右近殿」の日本初演が行われたという。これは望外の情報である。企画者に聞けば詳細がつかめるかもしれない。
 12月8日、早速井尻有香さんにメール・・・・・「ティトス・ウコンドノ」の1あらすじ、2登場人物、3構成、4上演時間、5、台本作家ライヒスシーゲルのことなどを教えてほしいと。すると、早速翌日、返信が届いた。
「ティトス・ウコンドノ」は、私の夫シャウベッカーがザルツブルクのイエズス会の資料を探すうちに出てきたものです。2002年の日本初演は、夫が監修しました。原書はラテン語で、のちにドイツ語訳されましたが、そこから日本語訳して上演したのです。フル上演には4,5時間かかるようですが、私共は2時間程度に短縮して上演しました。
劇中の合唱曲をモーツァルトは遺作「レクイエム」に引用しています。また、モーツァルトが「ティトス・ウコンドノ」を聴いていたと何かで読んだことがあります。いずれにしても、この件は夫の方が詳しいので、できるだけ近いうちにまた連絡します。
 実にありがたいご対応だ。HPによると、井尻有香さんは声楽家であり京都は丹波に「みとき屋」というドイツ・カフェを経営、コンサート、百人一首の会、陶芸教室などさまざまな活動を企画推進していらっしゃる。ご主人のデトレフ・シャウベッカー氏はドイツ人日本歴史学者。お二人は、都の近く由緒ある地で、日独文化に根ざした有意義な活動を真摯に続けておられるのだ。
 今回のテーマで、最大の難関は、情報量の少ない「ティトス・ウコンドノ」そのものであった。それがなんと、日本で上演した方とメール交換が出来たのである。なんという僥倖だろうか。見ず知らずの一音楽ファンの発信に対し誠意を持ってお応えいただいた井尻有香さんに、心から感謝申し上げたい。
 2012.11.25 (日)  「魔笛」と高山右近1〜タミーノは高山右近か?
 「クラシック未知との遭遇」は、このところしばらく、本来のクラシック・ネタから遠ざかっています。「未知との遭遇」と銘打った以上、「未知」なるものの探求でなければならないからして月並みなクラシック論では看板倒れになる、と常日頃から考えています。だからネタ切れは仕方がない!?
 今回は「『魔笛』には高山右近が絡んでいる? 」です。モーツァルトの傑作オペラとキリシタン大名がどこでどう結びつくか。 はたしてそこにも、「クラ未知」精神はありやなしや?

<「魔笛」の冒頭>

 「魔笛」K620はモーツァルト(1756−1791)最晩年のジングシュピール。ジングシュピールは大衆娯楽音楽劇のことで、日本語では一律に歌劇としているが、歌劇とはかなり趣を異にする。レチタティーヴォの代わりに台詞が使われ、題材も軽めで、むしろミュージカルに近い。これがモーツァルトの手に掛かると、娯楽性をはらんだまま芸術作品となる。
 「魔笛」は、エマヌエル・シカネーダー(1751−1812)という男からの依頼で書かれた。彼は大衆劇団の主宰者兼俳優。日本でいえば、大宮デン助や梅沢富美雄か。初演は、1791年9月30日、ウィーンのアウフ・デア・ヴィーデン劇場で行われた。この新作ジングシュピールは大ヒット、もし印税契約をしていたら、モーツァルトの元にはかなりの大金が転がり込んでいたはずであるが・・・。
 主人公の男女はタミーノ(テノール)とパミーナ(ソプラノ)。タミーノはパミーナに一目ぼれするが、見たのは姿絵。つまりは似顔絵で、普通ありえない話。でもこの「姿絵のアリア」の美しさは飛び切りで、そんなことはどうでもよくなる。モーツァルトの音楽にはありえない話をも呑み込んでしまう魔力があるのだ。「魔笛」にはそんなモーツァルト・マジックが充満している。
 パミーナには夜の女王なる母親がいて、彼女がタミーノに「わが娘パミーナはザラストロという極悪人に囚われている。娘に惚れたなら救出してくれ」と懇願。“義を見てせざるは勇なきなり”と、タミーノはザラストロの館に向かう。ところが着いたらビックリ仰天。ザラストロは聖者で、邪悪なのは夜の女王と判明。このいきなりの逆転劇が成立上の議論を呼ぶ。
 ザラストロは、純真なパミーナを邪悪な母親から隔離していたのである。そして二人は、ザラストロが見守る中、試練のステップを駆け上り、高みに達するのである。メデタシメデタシという結末。
 台本は劇団主宰者のシカネーダー。モーツァルトとはザルツブルク時代からの知り合いで同じフリーメイソンの仲間である。因みに、高みに上るとはメイソンの高位に上るという意味合いだ。このオペラが如何にフリーメイソンと関っているかについては、ジャック・シャイエ著「魔笛〜秘教オペラ」(白水社)に詳しい。

 さて私が問題としたのはメイソンに関してではない。実に単純なところ。「なぜ主人公タミーノは日本の狩衣を着ているのか」という点である。
 序曲が終わると、即タミーノが登場する。この部分、オリジナル台本には「きらびやかな日本の狩衣を着た王子」という指示がある。
 なぜ、わざわざ「日本の」なのか。それにはなんらかの理由があるはずである。ところがこの部分に言及した記述に私はお目にかかったことがない。一例をあげれば、「台本にはこう指示されているが、実際には(舞台は)古代エジプトであるから無意味である」(音楽之友社刊「名曲解説全集」)というのがある。無意味と言うのはいいけれど、ならば、“何故日本なの?”という疑問が沸かないのだろうか、と私なんかは思うのである。

<高山右近>

 高山右近(1552−1615)は摂津の国のキリシタン大名。父親がキリシタンだったため12歳のときに洗礼を受けた。洗礼名はユスト(正義の人)。
 気高くも敬虔なキリスト教徒で、布教への情熱も強く、領内の寺社を教会に変えて信者を増やした。スペイン人宣教師が、摂津一帯のキリスト教徒の多さにビックリした、という記述が残っているほどだ。1587秀吉のバテレン追放令にも1614家康のキリシタン国外追放令にも屈せず改宗を拒んだため、土地財産全てを失いマニラに流され、そこで亡くなった。
 高山右近は、一生涯を敬虔なキリスト教徒として全うした。その厚い信仰心は、天下人もこれを妨げることは出来なかった。更に、彼は、我々が考える以上にキリスト教社会からの信任が厚かった。というかむしろ畏敬の念を持って崇められたといっても過言ではない。大友宗麟、小西行長、大村純忠、有馬晴信など、キリシタン大名は数々あれど、右近ほど西欧キリスト教社会にその名がとどろいていた者はいない。以下にその例を記す。

 加賀乙彦著「高山右近」(講談社)には、こんな一節がある。「・・・・・ところで、総長からの返事の代わりにローマから来たのは、教皇シクトゥス5世(1585−1590在位)のラテン語の書簡で、武将としての経歴を捨て信仰を守った右近に対する、いささか身に余る賛辞を書き連ねたものだった。右近はその書簡に値しないとおのれを思いつつ、ローマにおいて、おのれが多少は名を知られた信者であるのを、肩身が広くも思った」。
 東の果ての島国の一介の大名に、カトリック総本山の最高権威から賛辞の書簡が届いたのである。右近の存在は教皇庁も認めるところだったのだ。

 浅田晃彦著「茶将高山右近」(春陽文庫)には、右近がフィリピン・マニラに到着したときの現地総督の言葉がある。「ウコンドノ、貴下の英雄的な行動はヨーロッパまで知れわたっており、満腔の敬意を捧げます。かかる偉人をマニラに迎えることになったのはこの上ない光栄です。イスパニヤ国王の名において待遇いたします」。当時フィリピンはスペイン領。ならば総督は本国での右近の認知度を熟知していたわけである。
 歓待された右近だったが、マニラ到着の40日後に死亡した。そのとき、マニラ中の鐘が打ち鳴らされ、追悼のミサは9日間も続いたという。

 もう一つ、見落としてはならない事実がある。ところはスペイン、バルセロナ近郊マンレーサ洞窟内の聖イグナシオ聖堂に、高山右近のモザイク画が掲げられているという。キリスト教の普及に尽くした50人の聖職者の一人として。なおこの画は、イエズス会士マルティ・コロネスにより、20世紀初頭に描かれたものである。

 しからば、高山右近は「魔笛」とどこでどう結びつくのか? 続きは次回の「クラ未知」で。
 2012.11.05 (月)  大滝秀治最後の台詞に健さんが涙したわけ
 映画を見る前、「あなたへ」関連のテレビ番組は隈なく見た。健さん6年ぶりの映画に気分が高揚したからだ。中でも健さんが初めて密着取材を許可したというNHK「プロフェッショナル」は、二日間にわたる力作で、これはもう「あなたへ」封切り直前大宣伝メイキング特番の様相だった。その中の「薄香の人たちは、町ぐるみである犯罪を隠している」というナレーションが引っかかった。がしかし、映画を観たあともその意味がよく掴めなかった。前回「自覚症状のない忘れ物」と言ったのはこのことだった。

<大滝秀治入魂の一言>

 「久しぶりにきれいな海ば見た」 映画の終盤、大滝秀治扮する大浦吾郎が健さんの倉島英二にこう言う。倉島の希望を汲んで船を出し、無事散骨を終えて下船した直後の台詞である。
 本番後、健さんは大滝さんの演技に涙してこう言った。「参ったね。『久しぶりに見た』ということは、海はいつもきれいだったり穏やかとかじゃないということ。もっと厳しかったり恐ろしかったりする。一見平穏に見える薄香という小さな漁村が、実は厳しい環境にあるという現実。そこで暮らす人々の気持ち。そんな事柄全部があの台詞に篭っている。大滝さんはそれをものの見事に表現した。凄いねえ。役者ってあんなことができる商売なんだ。負けたくないね。これからあの境地に行けるかどうか判らないけど、頑張りたいね」と。

 大滝さんの役作りは半端なく徹底しているという。台詞を言う前にその役に成りきる。倉本 聰は「大滝さんは、ドラマ『うちのホンカン』のとき、撮影前の数日間札幌の街角で警察官の仕事を実際にやって役作りをした」と言っていた。まずは役に同化する。そのものになる。あとは自然に台詞を言えばいい。なにも作る必要はない。そういう役者だった。

 「あなたへ」でもこの短い台詞を言うために、降旗監督と徹底して詰める映像が残っている(8月25日放映テレビ朝日「大切なあなたへ−高倉健」)。「みんな口には出さないけど、ある点では一致してるんですね」と大滝。「そう、良いことをするためには悪いこともしなくちゃいけないということです」と監督。納得して本番に臨んだ大滝さんの台詞に健さんが涙した・・・・・そういう流れだった。
 監督は無論このシーンの背景は掴んでいる。原作を読んでいるからだ。ところが、やりとりから大滝さんは読んでいない感じがする。だから監督が“原作を踏まえた解説”を試みたのである。
 ということは、原作を読んでない観客は、この場面の意味合いがよく分からない。やはりこれは問題だ。

<大浦吾郎と南原慎一の関係>

 原作にあって映画でカットされた大きなシチュエーションの一つは、大浦吾郎と南原慎一(佐藤浩市)の関係である。南原は大浦吾郎の電話番号を書いたメモを倉島に渡すとき、吾郎には晋也という息子がいることを話す。薄香に着いたあと倉島は「晋也は南原の親友で、7年前に夫婦共々海で遭難した」ことを知る。吾郎は息子夫婦を海で失くしているのである。「久しぶりにきれいな海ば見た」は、そのことも踏まえた台詞だったのだ。吾郎の中で息子の死が吹っ切れたのである。

 倉島の散骨の申し出を、吾郎は一度は断る。「散骨すれば奥さんは貴方の家の墓には入れない。あんたは空っぽの墓をお参りすることになる。それでもいいのか。今晩ゆっくり考えなさい」が、その理由だ。翌日決心がついた倉島に対し吾郎は喜んで船を出す。この過程も踏まえた吾郎の台詞だった。「きれいな海ば見た」の裏には「あんたのお陰で」があるのだ。この経緯も映画にはない。観客は、吾郎が一旦断った本当の理由が判らない。原作にある“心根のやさしさ”ではなく、映画では“頑固さ”しか感じられない。だから、大滝の台詞のより深い意味が掴めない。

<南原慎一5万円送金のくだり>

 原作にしかない、即ち、映画がカットした重要なシチュエーションはもう一つある。それは、南原慎一が4年前から毎月欠かさず5万円を送金しているくだりだ。どこへかは最後まで書かれない。だが、南原が濱崎多恵子(余貴美子)の死んだはずの夫と判明したとき、読み手は、送り先は多恵子のところ以外にありえないと気づく。そう、烏賊めし売りという定職についたときから、南原は多恵子のもとに送金し続けているのである。
 だから、多恵子は南原が生きていることは判っている。毎月決まって送金してくるのだから、生活もそこそこ成り立っていると認識している。
 南原(当時は濱崎)と多恵子は、一人娘(綾瀬はるか)と3人で、穏やかな生活を送っていた。が、南原は平穏な生活に飽きたらなかったのか、勧められた投資話に乗って失敗、大きな借金を抱えてしまう。そんな7年前のある台風の日に船を出した南原は、遭難し帰らぬ人となった。生きながら、自らの意思で家族の前から姿を消し、故郷を捨てたのである(それは親友の晋也夫婦が遭難する少し前のことだった)。海難で行方不明になった船乗りは、3年経つと自動的に死亡が確定される。多恵子は夫の生命保険を元手に食堂を開業し、娘と二人で自立しささやかに暮らし始めた。
 まもなく5万円が振り込まれてくる。多恵子は驚く。毎月欠かさずくる。死んだはずの夫に違いないと確信する。生きていることを封印し、その“死”によって作った食堂でこのままの生活を営むか、本当のことを公表して夫の行方を捜すか。多恵子の心は揺れ動いたに違いない。大浦吾郎にも相談しただろう。小さな漁村だからそんな噂が広まっている可能性は十分にある。「5万円送金」のくだりは、「町ぐるみで犯罪を隠している」ことを説明する重要なキイなのである。
 薄香に数日滞在してそのことを察知した倉島は、多恵子の「あの人に見せるために、この写真を海に投げてください」との願いを黙って受け止め、近々結婚することになった娘と親友の息子の衣装合わせの写真を、南原に届ける。司法行政に携わる人間が罪を看過ごすことに決めたのである。薄香の人々が共有する罪を腹に収め、「鳩を飛ばした」のである。
 倉島は、過去に決別し、自らの進むべき道を見出した。これこそが妻が望んだことでもあったのだ。局留めの遺言には、映画では「さようなら」だけだが、原作にはこうあった。
  あの海に散骨してもらえたら、いよいよあなたとお別れです。どうか、あなたは、あなたのこれからの人生を、自由に心行くまで生きてください。今回の旅は、わたしが強引に誘い出しましたが、これからのあなたには、あなただけの「一歩」があると思うのです。その一歩を踏み出して、どんどん素敵な人生を歩んでいってください。
 映画は、妻の遺言どおり新たな第一歩を踏み出す健さんの姿で終わる。メイキングのナレーション「町ぐるみで、ある犯罪を隠している」、大滝秀治の確認「みんな口には出さないけどある点で一致している」、降旗監督の「よいことをするためには、悪いこともしなくちゃいけない」は、ラストに繋がる薄香という町の真実を物語っていたのである。

 無論原作を読み背景を知り尽くしているだろう健さんが、とことん監督と詰めて100%役になりきれた大滝の台詞「久しぶりにきれいな海ば見た」に感極まったのは、理解できるのである。健さんには、大滝の台詞が、吾郎自身の身の上も、薄香という小さな漁村の持つ悲しさ、健気さも、罪を隠す人々の善意も、この物語の核心的要素すべてを語りつくしていると聞こえたのである。“新たな一歩を後押しする力”までも感じさせてくれたのである。
 私も、原作を読んで、始めてそう感じることができた。「町ぐるみで犯罪を隠している」という意味が理解できた。しかし、映画だけでは気づかなかった。
 映画を見て原作を読まない人のほうが、読む人よりもはるかに少ないはずだ。映画は映画で完結していなければ映画としての完成度は低いといわざるを得ない。その意味で、映画「あなたへ」は、「映画作りとは何ぞや?」という興味深い問題を投げかけてくれた。

 10月2日、大浦吾郎役の大滝秀治さんが亡くなった。享年87歳。「久しぶりにきれいな海ば見た」が最後の台詞となった。健さんは、死の直前まで大滝さんと手紙のやり取りをしていたという。ご冥福をお祈りします。
 2012.10.25 (木)  リアリズムよりリリシズム〜「あなたへ」を観て読んで
 先日、高倉健6年ぶりの映画「あなたへ」(降旗康男監督)を観た。妻を亡くした男が、遺書に従い散骨のため彼女の生まれ故郷へ向かう。行く先々で各人各様の人生を背負う人たちに出会いながら・・・・・そんなロードムービーだ。
 共演のビートたけしが「我々普通の俳優はなんやかやとやらないといけないが、健さんはいるだけでいい人」と言っていたが、あのたけしにこう言わせる健さんは、本当のスターなのだろう。「あなたへ」は、そこに健さんがいればいい! そういう映画だった。が、正直見たあと、自覚症状のない忘れ物をしたような妙な落ち着きのなさが残ったままだった。
 そんなある日、久々に「リュウちゃん」ブログを覗いたら、「あなたへ」を取り上げている。私は今年まだこれ一本だが、彼はこのほかに「天地明察」「夢を売るふたり」「ALWAYS三丁目の夕’64」「祝の島」など、結構見ている。ロマン派風含薀蓄文章は健在! 読んで即メールのやり取りをする。いつものパターン。彼の「原作を読んだ人は、不満ありみたいです」に注目。原作があるのなら読んでみようか。私の中のモヤモヤが吹っ切れるかも知れない。
 今回は、「あなたへ」における原作と映画作りの関連を考証する。

(1) もうひとつの遺言

 映画の中で、最も疑問に感じたのは「局留めの遺書の内容」だった。倉島英二(高倉健)は囚人に木工を教える富山刑務所の指導技官。15年間連れ添った妻の洋子(田中裕子)を癌で亡くすが、彼女の遺言は2通あった。遺言サポーターとやらから受け取った1通には「私の遺骨は故郷の海に撒いてください」と書いてあり、もう1通は薄香郵便局留という指定だ。薄香は彼女の生まれ故郷、長崎県平戸の小さな漁村である。ところが、富山―長崎の長旅の末、受け取った遺書には「さようなら」の文字があるだけだった。
 かなり手の込んだ仕掛けの末がたった一言では「どうして?」である。この部分、健さん自身も「いまだになぜかよくわからない」とNHKスペシャルの中で語っている。 健さんの疑問は、薄香の食堂の女主人濱崎多恵子(余貴美子)の「夫婦なんてそんなものですよ。それで十分じゃないですか」という言葉でケリをつけられている。倉島はこの台詞で納得するが、私はできない。原作は以下のとおり。
原作「あなたへ」(森沢明夫の小説、幻冬舎文庫)の遺書

人生のおしまいに、こんないたずらを仕掛けてしまってごめんなさい。でもせっかくわたしのために作ってくれたキャンピングカーですから、せめて一度くらいは、あなたと「一緒に」旅をしてみたかったのです。私の中では新婚旅行のつもりなんですよ。
 こんな書き出しで始まる長文の遺言は「あなたと出会えたことは、私の人生における最良の奇跡でした。出会ってくれて、本当にありがとう。心から」で結ばれる。「さようなら」一言とはえらい違いだ。これなら遺骨と一緒に長丁場を走った意味がある。散骨と結びつく。納得できる。なのに、なぜ映画ではこんな肝心要の部分を簡略化してしまったのか? ここにこの映画作りの鍵がありそうだ。

(2) 杉野輝夫の場合

 倉島が旅の最初で出会うのが杉野輝夫(ビートたけし)。元高校教師で前科一犯の車上荒らしの男である。
 杉野が高校を首になったのは教え子にしたわいせつ行為だが、実はこれが罠だったという設定。このくだり、小説では詳細な記述があるが映画には欠片もない。
 倉島と杉野、実は顔見知り。倉島が、青森刑務所時代、木工を教えた囚人の一人が杉野だった。これも映画ではカット。
 杉野は金魚の糞とか言いながら、下関まで倉島に付きっ切りだ。田宮佑司(草g剛)と合流して烏賊めし売りの手伝いまでするし(映画では倉島だけ)、倉島の思い出の地、竹田城址にも同行している。映画ではすべてカット。竹田城址のくだりは、倉島の夢という形で描かれる。

(3) 南原慎一の場合

 南原慎一(佐藤浩市)は田宮の部下。わけありの中年男で、家を捨ててから7年経つという。南原は、倉島から「薄香で散骨する」と聞いて、「船のことなら、この人を訪ねてみたら」と電話番号と「大浦吾郎」という名前を書いたメモを渡す。原作には、メモの字は“癖が強い”とあるが、映画ではごく普通。さらに、南原の顔には若いころ喧嘩で付けた傷跡があり、小説ではこれが終盤生きるのだが、映画の佐藤浩市の顔には傷がない。 原作では、南原は毎月5万円を欠かさず送金している。送金先は当然残してきた家族だろうと想像がつく。このくだり、映画にはないが、実はこの部分が原作と映画の関連を最も考えさせてくれることになる。原作にはさらに、南原と大浦吾郎の深い関係がある。

(4) 洋子との出会いと夫婦愛

 倉島は15年前、岡山刑務所勤務の時代に洋子に出会う。洋子は刑務所慰問の歌手。倉島は一目ぼれするが声をかけられない。3度目の来所のとき向こうから声を掛けられ、ややあって、プロポーズした・・・・・これが原作。比較的地味。
 片や映画では、かなり手の込んだ設定をしている。初めて言葉を交わした日、洋子は意外なことを口にする。「私はみなさんのために歌ってはいない。中のたった一人の人間のために歌っている。みなさんに嘘をついているのはしのびないので、止めにする」と。その後、一人の囚人が亡くなって、その男が洋子の意中の人だったことが分かる。
 夫婦愛はこの物語の中核を成すテーマ。映画ではかなり克明に描かれる。原作よりも印象が強いくらいだ(遺言の文言を除けば)。

<降旗組の制作意図を考証する>

 以上見てきた映画と原作との差異から、映画制作者の意図を探ってみよう。

(1) 局留めの遺書を「さようなら」の一言だけにすり替えたのは、スター健さんへ強力にフォーカスするためか。 原作での饒舌は邪魔、妻の存在を必要以上に目立たせまい・・・・・とする意図か。説明不足を承知の上で、あくまで高倉健という類稀なスターの佇まいを優先したということだろう。
  しかし、これはこの映画最大の問題点。スターのスターたる由縁を際立たせる目的で、重要なプロットを敢えて変更することの是非を、考えさせられる事例となった。

(2) ビートたけしの出番を少なくしたのは、「健さんの映画」を強調するためで、これはむしろ当然の措置だろう。メイキングで健さんが発した「ずっとついてこられちゃこっちが霞んじゃうよ」は揶揄だが本音も少々? 俳優・ビートたけしの存在感も凄いのである。
 杉野に木工を教えた青森刑務所と洋子と出逢った岡山刑務所は描かずに、刑務所は富山で統一。これも正解だ。
 杉野が心酔する種田山頭火の句がこの物語に深みを与えている。因みに、彼の愛読書で別れ際に倉島に渡すのは、原作では「山頭火句集」という文庫本だが、映画では「草木塔」に変えていた。この方が深みがある。

(3) 南原と薄香の接点がこの物語の重要な肝。その意味で、倉島と濱崎多恵子が共有するお互い「南原の過去と現在」を察知するための小道具は、原作のまま残したほうがよかったのでは? 南原のメモの字を“癖の強い”字にする。顔の傷をそのまま生かす。このほうが、プロットがスムーズに辿れて、観客には親切だったと思う。

 なお、南原5万円毎月送金のくだりと大浦吾郎との関係については次回に回したい。

(4) 映画において、二人の馴れ初めをあそこまで煩雑にする必要があったかどうか。 洋子のほうから声を掛けた必然性を強調するためだろうが、やらずもがなでは?

 原作では、洋子は南原の同級生という設定になっている。これは洋子と薄香の繋がりの痕跡として終盤に描かれるが、映画では、健さんが古びた写真館で洋子の幼いころの写真を見つける場面に置き換えている。ここは映画最大の見せ場で、健さん渾身の「ありがとう」が共感と感動を呼ぶ。洋子と故郷のつながり、倉島の妻への想いと薄香への感謝、想い出、時の流れ、景色まで、こみ上げるすべてを「ありがとう」のたった一言に込めた。実に秀逸な場面であり俳優・高倉健の真骨頂だ。

 映画「あなたへ」は、隅々まで「健さんの映画」だった。降旗組はその目的のために贅肉?をすべて剥ぎ取った。それゆえ出会った人物の人生を描き切れなかったり、物語の辻褄を犠牲にもした。リアリズムよりリリシズム
・・・・・これぞ健さん&降旗組確信犯的映画作りであり、それに満足する観客がいる。私もその内の一人だ。高倉健81歳、スターの証である。
 2012.10.20 (土)  村上春樹と尖閣問題とノーベル賞と そして、山中教授
<村上春樹の場合>

 今年もノーベル文学賞を逸した村上春樹は、それに先立つ9月28日、朝日新聞に尖閣問題に関して寄稿した。タイトルは「魂の往き来する道筋」、要旨は以下のとおりだ。
尖閣問題が過熱化する中、中国の書店から日本の書籍が消えた。この20年ばかりの、東アジア地域におけるもっとも喜ばしい達成の一つはそこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。この「東アジア文化圏」のマーケットは着実に成熟し、あらゆるメディアが基本的には自由に等価に交換され、多くの人々の手に取られ、楽しまれている。実に素晴らしいことだ。このような好ましい状況を出現させるために、長い年月にわたり多くの人々が心血を注いできた。今回の尖閣問題がそのような地道な達成を大きく破壊してしまうことを自分は恐れる。 国境線が存在する以上領土問題は避けて通れないイシューだ。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考える。領土問題が実務的課題を超えて「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは危険な状況を出現させる。それは安酒の酔いに似ている。安酒は回りが早く頭に血を上らせ行動を粗暴にさせる。 中国側の行動に対して報復的行動をとらないでいただきたい。安酒の酔いで、多くの人々が長い年月をかけて血のにじむような努力を重ねてきた魂が往き来する道筋を、塞いでしまってはならない。
 「領土問題は実務的に処理し、中国の取った行動に感情的になることなく、せっかく作り上げた東アジア文化圏を何があろうと維持し続けよう」という呼びかけである。世界のムラカミが言うことだから説得力があるのだろうか、マスコミではこの寄稿を絶賛する風潮が強い。中国のネット上でも賞賛の書き込みが溢れていると聞く。
 早速、10月1日、中国の作家エンレンカ氏が、激賞の文章を、アメリカの「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」紙に寄せている(日本では「AERA」10月15日号に翻訳が掲載)。

 私は、しかし、村上氏の考え方には賛同しかねる。美辞麗句が並ぶが中身がない。観念的で具体性に乏しい。実務的に解決すべきと言うだけで、その方策が示されていない。領土問題を「国民感情」の領域に踏み込ませるべきでないというが、領土問題と国民感情は果たして切り離せるものなのか。「国民感情」を安酒の酔いに例えるのも不愉快である。そこには、他人行儀な提言があっても大衆を思いやる愛情がない。自らに纏わる案件には腐心しても、物事の本質を突き詰める気迫に欠ける。

 石原慎太郎都知事が「東京都は尖閣諸島を買います」と言ったとき、14億円もの寄付金が集まったことを彼はどう考えただろうか。この国民感情を、村上氏は無視するのか。文学とはこういう感情を汲み取ることから始まるものではないのか。事の是非はともかくとして。
 領土問題は実務課題として処理すべしと言うが、それが可能ならこの問題はとっくに解決しているはずだ。可能でないから苦労しているのだ。なぜなら、それは国民感情とは切り離せない案件だからだ。彼はこの本質が分かっていないのではなかろうか。
 領土問題を解決するためには、「国民感情」なるものと正面から向き合うべきである。踏み込むべきである。なにも三島の真似をしろと言っているのではない。「国民感情」の適切なあり方を提示すべしと言っているのだ。それが国民目線の文化人の役割ではないか。
 「国民感情」は「愛国心」と置き換えられると思う。彼はそれを「安酒の酔い」に例えるが、そんな安っぽいものと蔑んでいいのだろうか。せめて、「せめておまえの歌を 安酒で飲みほせば 遠ざかる船のデッキに立つ自分が見える」(中島みゆき「歌姫」)くらい書いてくれないか。

 私はこう思う。「日本は領土問題を歴史問題と認識すること。しかる後に歴史の真実を直視すること。次にそこから導き出した歴史観を相手にぶつけること。相手が無視したら、国際世論に問うこと。そして最終的に棚上げの形を形成すること」だ。歴史の真実(正も負も含め)の認識は、「国民感情」の領域に理性的判断を導入してくれるはずだ。日本人は馬鹿じゃないのだから。

 村上氏の寄稿文には歴史観と民族意識が欠落している。それは彼の作品にも表れている。彼は今年もノーベル賞を逃した。選考基準が明らかにされていない以上、落選の理由は不明である。だが、敢えて言わせていただければ、それは彼の文学における歴史観と民族意識の稀薄さに起因していると思う。
 断っておくが、私はノーベル文学賞というものに価値を見出してはいないし、村上氏の文学を否定するつもりもない。ある意味、彼の作品を評価するものだ。語り口が並外れてうまいし、人物同士のやり取りが秀逸で、コント作家も及ばない面白さが随所にある。小道具のちりばめ方も知的で洒落ている。売れる要素満載の小説である。反面、(無論彼の全作品を読んだわけではないが)主人公の生き方には共感できる部分が少ない。哲学が噛み合わない(そんなものが存在すればの話だが)。面白くはあるが、心は打たれない。

 今年の受賞者・莫言氏の受賞理由は「幻覚を伴ったリアリズムによって、民話、歴史、現代を融合させた。西欧かぶれしていないユニークな作家。アジアの重要性が高まっていることの表れともいえる」(10月12日朝日新聞より)である。
 要約すれば、「民族と歴史に立脚した独自性」ということになろうか。「西洋かぶれしていない」とも。おや? これは村上文学の対極ではないか。もしこれがスウェーデン・アカデミーの選定コンセプトならば、村上氏の受賞は永遠にないことになる。作風を変えない限り。そうでないことを祈りつつ、来年に注目したい。

 マスコミの対応もアホらしくて見ちゃおれない。発表直前まで取ったように盛り上がる。そこに登場する有識者の弁も馬鹿馬鹿しいものばかり。「今年は間違いない。川端康成も騒がれ始めて7年目で獲ったから」「朝日新聞へ寄稿した効果は大きい」「優れた翻訳が多い」などなど。状況論ばかりで内容への言及が皆無だ。逃した後に「なぜ村上春樹は今年も取れなかったのか?」くらいの検証をしたらどうか。どうせろくな意見は出てこないとは思うけれど。

<山中伸弥教授の場合> 

 ノーベル賞ウィーク最大のビッグニュースは山中伸弥教授の医学・生理学賞受賞だった。受賞理由は、iPS細胞(Induced Pluripotent Stem Cell)の作成に世界で初めて成功したこと。考えも及ばなかった成熟細胞の初期化である。人体の再生を可能にするまさに夢の細胞なのである。これまでの医学が患部を切り取ることにより治癒を促すものだとすれば、創り出して再生するのだからコペルニクス的転換である。これぞ医学の革命だが、生命のあり方を変えるのだから哲学も変えてしまうだろう。

 受賞記者会見で山中教授は「真理は何枚ものヴェールで覆われている。到達するにはそのヴェールを一枚一枚はがしてゆく作業が必要だ。私はたまたまその最後のヴェールをはがしただけ。最初の一枚を剥がしてくれたのはジョン・ガードン氏だが、彼と一緒に受賞できたことは実に喜ばしい」と語っていたのが印象的だった。多くの人々の積み重ねが進歩を生むのである。

 ここに辿りつくには地道な実験の繰り返しがあったとも。細胞に注入する遺伝子候補が24個あったそうで、初期化に必要な遺伝子の組み合わせを特定するには、実験を辛抱強く重ねるしかない。組み合わせは天文学的数に及ぶ。そこで助手が「全部入れて一本ずつ抜いていきましょう」と閃いた。これがコロンブスの卵だった。発案したのは高橋和利講師。山中組チームワークの勝利だった。

 実用化にはさらに多くの時間と労力が要る。それには研究員の身分保障が欠かせない。国は無駄な金を使わずに、「iPS細胞研究所」に十分な予算を投入すべきだ。表敬訪問の際、野田総理は「3年前から寄付をしています」と山中氏に話していた。ここでも愚鈍。総理大臣の仕事は個人的な寄付をするより国家予算を取ることだろう。

 夢が膨らむiPS細胞に関連して、早くもおかしな輩が現れた。医師免許を持たない自称ハーバード大学講師・森口尚史という人が「今年2月にiPS細胞を使った移植手術に成功した」と読売新聞が伝えたのだ。これは明らかな嘘。なぜこんなすぐバレる嘘をつくのか。虚言癖?不可解。そして、裏も取らずに書いてしまった読売新聞にも喝!だ。
 こんな輩は話にもならないが、iPS細胞の取り扱いには慎重であって欲しいのである。山中教授が何よりも素晴らしいのは動機が純粋なことだ。病気に苦しむ人を助けたいという一心だ。iPS細胞は両刃の剣であることは容易に想像がつく。これを利用する人はどうか倫理観を以って対処して欲しい。性悪説に立たねばならないのなら、日本は率先して法整備のリーダーたるべしだ。彼の精神をどうか踏みにじらないで欲しい。

 山中教授は臨床からの転向組である。医師としては手先が不器用で、手術ではお荷物だったそうだ。ついた仇名が「ジャマ中」とか。もし彼が臨床医師として成功していたらiPS細胞の誕生はなかった。不適格が幸運を運んだのである。このエピソードはチャイコフスキーを連想させる。チャイコフスキーは最初ピアニストを目指すも、生来の上がり症からステージではミスの連続、演奏にならない。ヘボチャイ? 止むなく作曲家に転向。そのお陰で、今私たちは彼の数々の傑作によって癒されている。逆転の人生というのも我々に大きな希望を与えてくれる。
 2012.10.05 (金)  尖閣問題の真相〜それは田中角栄の不用意な発言から始まった
 第3次野田内閣が発足した。目玉は田中真紀子文部科学大臣だそうだ。なにやら、総理自らのミスジャッジで招いた中国との関係悪化を少しでも好転させたい思惑もあるそうな。
 我々世代では、田中真紀子といえば父親・角栄を想い起すのは自然な流れだ。田中の名前は日中国交回復の功労者ということで定着している。が、しかし、現在の両国の関係は最悪の状態にある。なぜこんなことになってしまったのか? 「その原点は田中角栄本人にある」というのが、今回の問題提起だ。田中真紀子は改造内閣の両刃の剣といわれているが、父親はよりでかい両刃だったのである。

<日本固有の領土に決まっている>

 「尖閣列島は日本固有の領土で、領土問題は存在しない」というのが日本政府の常套句だ。確かに歴史を紐解けば、この説はもっともである。異論を挟めない確たるものだ。
 明治政府は1895年、「尖閣諸島は、清国をはじめほかのどの国も領有していない」ことを確認して、沖縄県に組み入れた。その後ここには数百人の日本人が暮らし、鰹節工場も建設。数十年間人が住み産業も根付き他国の侵略もないれっきとした日本の領土だった。編入の経緯も何ら問題はなく、1940年以降無人島と化しても実効支配は続いている。誰が何と言おうと「日本固有の領土」であることは紛れもない事実である。
 1968年、国連アジア極東経済委員会から、「海洋調査の結果、東シナ海の大陸棚には石油資源が埋蔵されている可能性がある」との発表がなされた。それに色気づいた中国が領土問題を吹っかけてきた。それが1972年の「日中共同声明」や1978年の「日中平和友好条約」締結時には棚上げされて今日に至っている。
 以上が、私が、「尖閣諸島問題」歴史考証の結果である。マスコミの事実認識もほぼこんなところだろう。
 私は、つい最近まで、「昨今の排日デモは常軌を逸している。中国はそういう野蛮な国なのだから、海底資源に目がくらみ、日本が正当に行った領有化を、戦争のドサクサに紛れて強奪したとの歴史問題にすり替えて、問題化している。これはヤクザの言いがかりみたいなもので、あの国ならやりかねない」と考えていた。
 しかしどうも納得がいかない。日本の有識者はよく「中国は民主的に未成熟な国家だ。成熟した民主主義国家である日本は、大人の対応をすべきである」なることを言う。はたしてそうだろうか? 中国がいくら未成熟だからといって、理不尽をゴリ押しするほど理不尽な国家なのだろうか? 日本にはなんの否もないのだろうか? そんな漠然とした疑問が頭から離れなかった。

<なぜ中国はあれほどまでに>

 尖閣諸島は日本固有の領土である。これは揺るぎのない事実だ。でもなぜ中国はあれほどまでに主張するのだろうか?主張できるのだろうか? 9月28日、国連での中国外相と国連大使の発言のすさまじさはどうだ。曰く「日本は1895年の甲午戦争(日清戦争)の終わりごろ、釣魚島と周辺の島(尖閣諸島)を盗み取りこれらの島を全て日本のものとした」。これに対する日本の児玉国連大使の「盗み取ったというのは言いがかりで何の論理性もない」は当然の反論だ。
 問題は、この至極当たり前の事象が、相手から「盗み取った」と言われてしまう現実にある。こうなるまでには経緯があるはずだ。過去のどこかになんらかのきっかけがあるはずだ。「海底の石油」は中国の動機だが、ここで私が問題としたいのは、つけ入られた「きっかけ」である。なぜなら、1970年あたりまで、中国は尖閣を「日本の領土」と認めている証拠があるからだ。それは1970年版中国の国定教科書にある。ここには尖閣諸島がはっきり日本の領土として掲載され、しかも“尖閣”という日本語表記がなされているのである。
 自らが「他国の領土」と認めている土地を、いくら欲しくなったからといって、いきなり「俺のものだ」とは言えないはず。どんなに不埒な国だとしても「きっかけ」がなければこうなるはずがないと思うのである。

<きっかけは田中角栄>

 「きっかけは何?」に結論を与えてくれたのは、9月30日放映のNHKスペシャル「日中外交はこうして始まった」だった。以下これを検証する。

   田中角栄(1918−1993)は、1971年アメリカの中国急接近=ニクソン・ショックを睨み、日中国交正常化が急務と考えていた。翌年、総理大臣になると、即その考えを実行に移す。
 外務大臣大平正芳(1910−1980)は、下交渉で、中国から「賠償権の放棄と尖閣問題を持ち出さないこと」を確認、田中と共に不退転の決意で交渉に臨む。
 そして、1972年歴史的な9月の5日間(25日―29日)を迎える。晩餐会での田中発言の波紋(“ご迷惑”の解釈をめぐっての)、戦争状態終結の時期、台湾問題などの懸案を乗り越えて、遂に「日中共同宣言」が実現した。9月29日のことであった。
 これを実現した田中角栄は、日中国交正常化における功労者として両国から賞賛を受けるようになる。無論私もこれを否定するものではない。戦後最悪の日中関係といわれる今のこの時期、北京で行われた建国63周年記念パーティーに田中真紀子が招待されたのも、中国側の角栄に対するオマージュからだろう。
 ところが田中は成果とは裏腹に、とんでもないミスを犯していたのだ

 交渉も佳境に差しかかった9月27日、田中は周恩来に向かってこう切り出した。「尖閣諸島についてどう思うか? 私のところに、いろいろ言ってくる人がいる」。これを受けて周恩来は「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。石油が出るからこれが問題になった。石油が出なければ、台湾もアメリカも問題にしない」と返した(最近公開された外務省の外交文書より)。

 田中は軽い問いかけのつもりだったろう。一見このやり取りは「問題ナシ」と映る。周恩来も、「台湾もアメリカも問題にしている」とは言っても、「中国が問題にしている」とは一言も言っていない。確かにこの時点で中国は、殊に周恩来個人は尖閣を問題視していない。それは彼と日本との信頼関係からも十分推察できる。ところが、このやりとりこそ、この時点では誰も気づいていない「尖閣問題」という未来の化け物を生成する火種だったのである。
 それはこの証言からも窺える・・・「問題がないんだから出さなければいい。出てきたからにはなにかあると、私だって思う。一体、田中総理がなぜ切り出したのか、そのときも今も判らない」(当時の外務省中国課課長・橋本恕氏)。ここからあとは私の推測である。
 「共同宣言」のあと、中国共産党内では「『尖閣』で日本につけ入る隙がある」と認識するようになる。彼らはこう考えた。「尖閣諸島は日本固有の領土だと思っていた。どこにもつけ入る隙がないのだから。ところが、なぜか田中がこの問題を切り出してくれた。相手がまさかの問題提起をしてくれたのだ。しかもこれ以上ない公の場で。周首相の返答には、“問題を棚上げしよう”というニュアンスを含んでいる。これを見逃す手はない。『棚上げ』を両国間の共通確認としてしまえば、あとは相手を徐々にペースに巻き込んでいけばいい」。田中の一言は中国に格好の突破口を与えてしまったのである。

 「棚上げ」は、6年後の1978年、「日中平和友好条約」締結時、日本記者クラブにおける中国代表・ケ小平の「我々には知恵がない。尖閣問題は次世代の英知に委ねよう」の“名台詞”で決定的となった。これも日本人記者の問わずもがなの質問がきっかけだった。
 棚上げの必要ないことが棚上げされてしまった。これで勝負がついたのである。日本は「尖閣問題」を無視し続ければよかった。100%「日本の領土」なのだから。いくら中国でも、そんな日本に言いがかりを付けられるはずがないからだ。口は災いの元、沈黙は金だ。・・・・・そして、遂には「釣魚島は中国のもの」へと変貌してゆく。
 尖閣問題は、歴史的偉業を成し遂げた日本の総理大臣の一言を目敏く捉えた中国が、巧妙な手口で顕在化していった、日本にとって実に不本意な政治問題である。それは、日本外交の甘さと中国外交のしたたかさを如実に物語る案件なのである。

 私には、「棚上げはない」とする玄葉外相の発言がアホに映る。野田総理の「わが国固有の領土」の連呼は虚しく映る。「問題を顕在化したのはそちらじゃないか。問題がないのならなんで切り出したんだ」と敵は考えているのである。出ちゃったものは戻らない。ならば今何が得策かを考えるしかないのだ。
 日本政府は、「『棚上げ』のきっかけを作ったのは日本」なることを認識し、「解決を図るために歴史を検証しよう」と相手に呼びかけることだ。そうすれば、論理的に日本の正しさが立証され心地よい結論を導き出せるはずである。乗ってこなければ国際世論に訴えればいい。中国が一番恐れているのは検証によって明らかにされる歴史の真実なのだ。
 マスコミも、「棚上げが今の混乱を引き起こした。あのときちゃんと対応していれば」とか「今は昔に較べて中国とのパイプがないのが問題だ」などと能天気なことを言ってないで、本質を見通す眼を養ったほうがいい。櫻井よし子を見習え!だ。

 9月27日の国連総会で、野田総理は「領土領海をめぐる紛争は国際法に従い平和的に解決すべき。国際司法裁判所(ICJ)に注目すべきだ」と演説した。これは一見美しく聞こえるが、裏を返せば他人任せの軟弱論。彼特有のいつもどおりの紋切り型発言である。ICJに訴えたところで相手は出てきやしない。自ら撒いた種は自らが刈り取るしかないのだ。今、日本の指導者に必要なのは、事実を直視する勇気と自主性と気概だ。敵にとって、そんな精神の微塵もない首相が居座り続けてくれることが、一番の好都合なのである。
 2012.09.05 (水)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックE
[おまけ]

 前回で、私の「オリンピック・レポート」は終わる予定でしたが、8月15日付朝日新聞に看過できない記事が掲載されたので、これを取り上げて締めたいと思います。それは、西村欣也編集委員による「記者有論」です。では、まず、その内容を抜粋させていただきます。
「日本と五輪 メダル数にこだわりすぎだ」 西村欣也

 ロンドン五輪を現地で取材して、この五輪は成功したのかどうか、をまず考えようと思う。何をもって成功とするのか。それは市民と選手が楽しめたかどうかだが、その意味でこの五輪は成功だった。ロンドン市民は五輪をエンジョイしながら普段の生活を送っていた。もちろん、競技場に詰めかけた観衆は、選手にパワーを与える熱気を送っていたが、それは決して熱狂的ではなかった。自国への応援は「TGB(チーム・グレート・ブリテン)」。直接「国」を声高に叫ばずチームと選手を応援していた。これは「五輪は国と国との戦いではなく、チームとチーム、個人と個人の戦い」と記されている五輪憲章を成熟した都市が理解していたからだと思う
 さてこのことが、2020年の五輪招致を目指す東京に、有利に働くだろうか? 私の答えはノーだ。日本という国は五輪憲章すら理解していないのではないだろうか。文部科学省はスポーツ基本計画として、「世界5位」の金メダル獲得を目標に、15前後を目指した。金メダルが7個にとどまったことが問題だ、と言っているのではない。メダル総数38個は史上最多で、選手は本当に勇気をくれた。特にマイナー競技といわれる選手たちの活躍には胸を打たれた。しかし、国が「金メダル目標」を掲げること自体がナンセンスなのだ。東京という都市や日本が成熟していない証ではないだろうか
 皆様は、この論説をどう思われるでしょうか? 私は、一点たりとも賛同するところがありませんでした。以下その理由を述べさせていただきます。

(1)ロンドン市民の応援は熱狂的ではなかったのか

 西村委員は、8月4日、オリンピック・スタジアムの熱狂振りを体感しなかったのでしょうか。彼は、冒頭で書いているように、現地で取材していたそうですが、一体どこで何を取材していたのでしょうか?
 この日はまず、女子7種競技で、イギリスの星ジェシカ・スミスが、6955点という高得点を叩き出して金メダルを獲得しました。最後の競技800m走も、堂々の1位。スタジアムは沸きに沸きました。
 ほどなくして、男子10,000mがスタート。五輪3連覇を目指すK.ベケレを擁するエチオピア勢、強力ケニア勢中心のレース予想の中、今季好調イギリスのモハメド・ファラーが淡々と走っていました。
 レースが2000mに差しかかろうとする時、突如フィールドに大歓声が沸き起こります。男子走り幅跳びで、イギリスのグレグ・ラザフォードが、この種目48年ぶりの金メダルを英国にもたらしたのです。イギリス陸上陣、この日2つ目の金メダルでした。
 10,000mは後半に入ります。先頭集団15人がめまぐるしく入れ替わる。エチオピア、ケニア、エリトリアのアフリカ勢が国単位で揺さぶりを掛け合う展開。そんな中、モハメド・ファラーは10―6―3番手と着実に位置取りを上げていく。そして、残り一周、遂に先頭に立つ。地鳴りのような歓声。地元の大声援に後押しされたファラーのスピードは全く衰えず、そのまま押し切って堂々たる勝利を飾りました。スタジアムはこの日3つ目の金メダルに大熱狂。観客の興奮はピークに達しました。実にこの数時間のスタジアムは凄かった。地元イギリス立て続けの3連続金メダルに、文字通り興奮の坩堝と化したのです。この興奮はスタジアムにとどまることなく、イギリス全土を覆いつくし、この日を“スーパー・チューズデー”と呼ぶに至ったのです。
 これを、「決して熱狂的ではなかった」とする西村論説は木仏空仏石仏の類です。でもまあ、これは主観の問題なので、これ以上の追及はやめておきます。問題はこれからです。

(2)ロンドン市民は「オリンピック憲章」を理解していて、東京都民はそうではないのか?

 西村委員は、「ロンドンの観客は、『TGB』とう文言をもって自国の選手を応援している。これは成熟した都市が『オリンピック憲章』を理解しているからだ」とおっしゃっています。はっきり申し上げて“そんなの関係ない”と私は考えます。
 「TGB」(チーム・グレート・ブリテン)は、「イギリス・オリンピック協会」British Olympic AssociationのHPによると、英国オリンピック代表選手の公式名称として一般的に使われているものです。いつからそうなったかは定かでないものの、協会の設立が1905年ですから、イギリス人にとって古くからの常套句だったことは容易に想像できます。  加うるに、イギリス・サッカー協会は、今年、ロンドン五輪に代表チームを送り出すにあたり、そのチーム名を「TGB」としました。「TGB」は、サッカー・チームとしては、これまでアマチュア・チームしか名乗ったことのない、画期的な呼称でした。
 これらから、「TGB」は、今回のオリンピックにおいて、ロンドン市民の特別なフレーズとなった、と考えられます。だから、応援時に「TGB」が叫ばれたのはごく自然の成り行きだった、と私は思います。委員がおっしゃる“「TGB」=「オリンピック憲章」理解の証”なる論法は、いささか飛躍的に過ぎます。実証性のない独りよがりの思い込みではないでしょうか。

 さらに看過できないのは、委員が「応援で『チーム・ニッポン』といわない日本は、成熟度が低く、『オリンピック憲章』を理解していない」、と自国を蔑むような論調に及んだことです。
 曰く、「イギリスは世界の最たる先進国。だからロンドン市民は成熟しており、『オリンピック憲章』を理解している。片や、成熟度の足りない東京はそれを理解していない」。これぞまさに、固定概念にとらわれた短絡的推論です。
 イギリス人が「TGB」と叫ぼうと叫ぶまいと、日本人が「ニッポン」を連呼しようとしまいと、そこに「オリンピック憲章」の意識の有無はなく、目の前の選手の頑張りを讃える純粋な応援の気持ちがあるだけです。それがスポーツを楽しむということです。
 大新聞の編集委員の方が、応援という純粋な行為におかしなこじつけを加えて、スポーツ応援の基本精神をわきまえず、未だ誤った欧米偏重主義に漬かっていると思うと、情けなくも不安になります。その上、一旦思いついた中身のない論理の筋道を根拠の薄い事象で証拠付け、不利な事実は意識的に無視し(それとも無知)、強引に予見どおりの結論を引き出すこの手法、最近の検察の不祥事を見るようで、空恐ろしくもなります。

(3)金メダル数を目標とすることは本当にナンセンスなのか?

 西村委員はさらに、「日本が、『金メダル目標』を掲げること自体、ナンセンス」と断定しています。
 オリンピックで好成績を収めるためには、技術・精神力の向上と情報収集・分析が欠かせません。そのためには人モノ含めた環境作りと体制作りが必須です。それにはお金が掛かる。トレーニング施設の充実や優秀なコーチの配置が必要だからです。お金は個人では負担しきれないから国の援助が要る。国が予算を立てるときには目標値が必要となる。「二番じゃいけないのですか」のあの話です。この目標値を「金メダル数」に置いただけ。ナンセンス云々の次元じゃなく、世の中の常識です。それとも、委員の会社は、目標(目的)なしの予算がまかり通る居心地の良い会社なのでしょうか?
 JOCが「ロンドン五輪の金メダル目標を15」と掲げただけで、「メダル数にこだわりすぎ」と言う。それを日本の、イギリスに比しての、未成熟の証とまで言い切る。これぞ、物事の道理をわきまえない浅はかで短絡的な言い様です。
 国が予算をつける。そこには「目標値」がある。これを受けて、選手は、夫々のスタイルで自己をオリンピックという大河に投入してゆくのです。金メダルが当たり前と思う選手もいるでしょう。銅で御の字と喜ぶ選手もいるでしょう。大樹の幹があって、枝葉がある。それでいいのです。
 しからば、委員が否定する「金メダル目標」を、イギリスは掲げていないのでしょうか? その答えは、「イギリス・オリンピック協会」の公式HPにあります。
Medal and Performance target

UK Sport revealed a target of finishing in the top four of the medal table and winning at least 48 medals across at least 12 sports based on an aggregate medal range 40−70
 ここには、「メダル獲得数を世界第4位」に、そのために「最低48個を目標とする」、と明記されています。現在、オリンピックのメダル・ランク付けは金メダル優先にしていますから、これを「世界4位を目指すため、より多くの金メダルを含む、最低でも48個のメダル獲得を目標とする」と言い換えることができます。日本の「世界5位、15個の金」となんら変わるところがない。それどころか、むしろ、メダルの総数を明示している点で、日本の目標よりも細かいといえます。
 いかがでしょうか、西村委員。貴方が敬愛する成熟したイギリスも、金メダル獲得の目安や「メダル目標数」を明示しているのです。  委員は、朝日新聞記者として現地でロンドン五輪を取材した。日本の読者に現地の状況を正確に伝える役割を担って。ならば、「イギリス・オリンピック協会」のHPくらいは覗いてほしかった。そうすれば、もっとちゃんとした記事が書けたのにと残念です。それとも、知っていながら伏せたのかしら。「程度の低い読者に分かるものか」なんて。だったら、もっと許せない!

 新聞はなかなか替えられません。字体やレイアウトなど、視覚的な部分が体に馴染んでいるからです。なので当分、私が「朝日新聞」から乗り換えることはないでしょう。
 そんな殊勝な読者がいるのですから、せめて社説・論説くらいは、出来るだけ公正かつ実証的に書いてほしいと願うばかりです。
 今回のように、安易に「オリンピック憲章」なるものを引っぱり出して、その精神をさも理解しているような物言いで、たまたまぶつかった事象から浅薄な推論を行い、自国を蔑むような短絡的な結論を平気で導き出す、実証性のかけらもない実に粗忽でいい加減な類の記事は、極力避けていただきたい。今夏は特に、天候が天候なだけに、体力が消耗してしまいますゆえ。
 2012.08.25 (日)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックD
 先日、「Number」のオリンピック特集号を読んだところ、吉田沙保里に関する興味深い記事がありました。前回の「クラ未知」で、彼女の“オリンピック対策”はフェイントなどタックル導入への改善と書きましたが、これはテレビ中継の解説者・吉村祥子氏(女子日本代表チーム・コーチ)のコメントから抽出したもの。「Number」にあったのは「吉田は、片足タックルを優先した」というものでした。吉田はこれまで両足タックルだった。これは成功すれば相手に大きなダメージを与えるが、返し技でやられる危険性もある。片足にすれば、「動作も素早く上体の高さが保てるので、カウンターを受けにくい利点がある」とありました。そこで、全試合のビデオをチェックしたら、ポイントなった6回のタックルのうち5回が片足でした。なるほど、彼女の対策はむしろこの方だったんだと認識した次第です。流石専門誌、それなりのことはあります。では、今回は総括といきましょう。

[終わりよければすべてよし]

 前回のレポートで、ボクシング男子ミドル級村田諒太の44年ぶりのメダル獲得を書きましたが、なんと、そのあと2つ勝ち、見事金メダルを獲得してしまいました。これは凄いこと。1964年東京オリンピック、バンタム級・桜井孝雄以来48年ぶりの快挙です。しかも、日本人には無理といわれていた中重量級でのもの。天晴れです。
 村田選手のボクシングは、接近戦から打たれても打ち返す、いわゆる「肉を切らせて骨を断つ」スタイル。金メダルは、自らのスタイルを頑なに貫いた結果でした。一方、桜井孝雄のは、華麗なフットワークを駆使したアウト・ボクシングで、半世紀を隔てた2つの金メダルは、そのスタイルにおいても、実に対照的なものでした。なお、桜井氏は今年1月10日、70歳でこの世を去っています。

 最終日の8月12日、男子レスリング・フリースタイル66k級で、米満達弘が金メダルで締めくくってくれました。金は金でもこれは素晴らしい内容で、特に決勝は圧巻でした。両足タックルから、相手を天高く抱え上げ突き落とす豪快な3ポイント。今大会問題となった誤審も“challenge”もクソ食らえ、有無を言わせない完勝でした。「わが国は誤審にやられたが、日本には味方した」などと呟く品のないどこかの国をあざ笑うかのような痛快な勝利でした。
 この鮮やかな金メダルは、レスリング男子24年ぶりの金にして、ロンドン五輪38個目のメダルとなりました。これは、アテネ大会の37個を超える史上最多の記録。入江陵介の今大会屈指の名言に倣えば、「日本選手団293人のリレーの結果」ということになります。さらにこのメダルは、1920年アントワープ大会テニスで熊谷一弥が第1号を獲得してから夏冬通算400個目のもの。まさに「歴史回顧」の大会に相応しい幕切れでした。

[世界新記録]

 今大会は16の世界新記録が誕生しました。陸上競技で4、競泳で7、重量挙げで4、射撃で1という内訳です。この数が多いか少ないかは、適当な資料がないのでなんともいえませんが・・・・・。ではこの中から、印象的だったものをいくつか取り上げたいと思います。

 なんといっても、圧巻は、陸上「男子4×100mリレー」のジャマイカ・チーム(カーター〜フラーター〜ブレイク〜ボルト)でした。36秒84と、従来の記録を0.20上回り、初の36秒台突入というビッグなもの。一人平均9秒21、アンカーのボルトは8秒台で走り抜けていたでしょう。トラック競技の最終種目で、ボルトは最高のパフォーマンスを見せてくれたのです。それは、個人競技では示すことがなかったような真に本気の走りでした。特に、持てるパワーの最後の一滴まで振り絞ったようなゴールの瞬間は、鳥肌モノの感動でした。ボルトの野生と想いが姿形となって現れていました。彼はこれで、100m、200mと合わせ3冠、しかもオリンピック陸上3種目2連覇という前人未踏の偉業を達成。「伝説になる」の完結でした。

 「女子4×100mリレー」金メダルのアメリカ・チームも世界新記録でした。40秒82。こちらも、従来の記録(1985年、東ドイツ・チーム)41秒37を破り、40秒台突入という快記録。アメリカ・チームのメンバーは、マディソン〜フェリックス〜ナイト〜ジーター。アンカー、ジーターの走りは確かに圧巻でしたが、魅せられたのは第2走アリソン・フェリックス。スレンダーな肢体から繰り出すフットワークは、短距離選手特有のいかつさがなく優雅そのもの。そして何よりも、姿かたちが美しさの極み。私にとって、史上最高のチャーミングなランナーです。彼女は200mでも念願の金メダルを獲り、素晴らしい大会になりました。ところで、元祖美人アスリート・フローレンス・ジョイナーの持つ100mと200mの世界記録はいつ破られるのでしょうか。

 競泳の世界新記録では、「女子400m個人メドレー」の葉詩文(中国)が最大の話題に。記録は4分28秒43でしたが、フリースタイルの最後の50mが28秒93で、男子優勝のライアン・ロクテのそれを0秒17上回ったというもの。この速さ、もしや、ドーピング?なんて噂が出たほどでした。

 男子平泳ぎは、100mでキャメロン・ファンデンバーグ(南アフリカ)が、200mでダニエル・ジュルタ(ハンガリー)が世界新記録で金。これでは北島康介が自己ベストを出しても届かなかったことになります。泳法違反の疑惑があるとはいえ、泳ぎを突き詰めた結果であることは間違いないところ。また、1992年、バルセロナであっと驚く金メダルを獲得した岩崎恭子は、期間中に自己記録を5秒も縮めるなど、想定外が起こるのもオリンピックです。これからのメダル取りには、情報収集―分析―対策の精緻さと厳しさが、より以上に求められることになるでしょう。大変なことです。

[史上初のパレード]

 8月20日には、銀座でメダリストのパレードが行われ、沿道にはなんと50万人が集まったとか。たった20分間の顔見世興業でしたが、猛暑に私たちを大いに楽しませてくれた71人のメダリストたちに乾杯です。
 2020年のオリンピックに東京が立候補していますが、これで国民支持率もぐっと上がることでしょう。私は東京オリンピックを経験していますが、そうでない世代はやっぱり日本でオリンピックが見たいのでは。イスタンブールとの一騎打ちになるでしょうが、支持率が70%を越せば好勝負になりそうです(現在公式支持率47%)。ロンドン五輪、17日間ありがとう、そしてオリンピックよ永遠に!
 2012.08.15 (水)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックC
[最強の撫子]

 女子レスリングがオリンピック種目となったのは、2004年アテネ大会からです。55k級の吉田沙保里と63k級の伊調馨は、初代チャンピオンにしてオリンピック2連覇中。ロンドン大会で揃って3連覇を狙いました。一口に3連覇といってもこれは大変なことで、日本人では柔道60k級の野村忠宏だけ、レスリングでは霊長類最強といわれたアレクサンドル・カレリンだけという希少さ。ところがこの二人は、圧倒的な強さでオリンピック3連覇の偉業を達成してしまいました。

 吉田沙保里は勝利の瞬間、父・栄勝コーチを肩車し、「最高の親孝行が出来て幸せです」と話していましたが、栄監督が涙でグショグショだったのが印象的でした。  吉田は、5月の女子ワールドカップ団体戦で久々の敗戦を喫しました。敗因はタックルをかわされてのカウンター。世界中が吉田の高速タックルを研究し、その封じ込めを図っていました。五輪までの3ヶ月、吉田と栄監督は、父・栄勝氏を交えてその対策を練りました。それは、“単調に飛び込まず、フェイントを使うなど相手の意識を逸らせておいて、確実にタックルに移行する”戦術でした。

 8月9日、本番の吉田は強かった。“対策が実を結び、圧倒的な強さで、事もなげに獲得した金メダル”と見えました。
 ところが、彼女は、戦い後のインタビューでこう言ったのです。「負けるかもしれないという不安で、前の晩は眠れませんでした」と。正直、このコメントにはびっくりしました。あの圧倒的な強さの裏にこんな不安が隠されていたとは! まさに意外性の発言でした。

 12年間でたった2敗しかしていない最強の女王にしてこのプレッシャー。ここで想起したのは、体操の内村航平が「オリンピックには魔物がいる」とは言っても、「プレッシャーを感じた」とは断じて言わなかったことでした。絶好調で臨んだ(本人の弁)はずの団体予選で最低の演技をしてしまったのは、オリンピックには普段の力を出させない魔物がいて、体が意のままに動かなかったからに他ならない。これを“プレッシャー”というのです。なぜ、彼は素直に“プレッシャー”という言葉を使わないのか? 最強の女王が「負けるかもしれない不安に眠れなかった」と言っているのです。航平クン、もっと素直になりなさい。そうすれば貴方はもっともっと強くなります。

 彼女はさらに、「負けを知って、さらに強くなれたと思う」と話しました。彼女に「弱さを隠さない強さ」を感じました。人は“負ける怖さを知って本当の強さを身につける”ことを、吉田沙保里は教えてくれました。
 これでオリンピック3連覇と同時に、世界選手権と合わせて12連覇を達成。これもカレリンと並ぶ大記録ですが、順調に行けば9月の世界選手権で超えることになるでしょう。

 伊調馨の強さは、吉田とは一見異質に見えます。受けが磐石で相手を寄せつけない。絶対に負けない形を作っておいて、じっくり料理する。そんな安定感を感じます。攻めの吉田に対して守りの伊調。剛の吉田に柔の伊調。吉田が柏戸なら伊調は大鵬。
 とはいえ、比較は単なる印象上のこと。ここにきて、吉田が本来の鋭い攻めに守りの要素を付加、伊調は本来の守りに攻めの要素を付加して、レスリングが互いに進化している、というほうが正しい言い方のように思えます。
 伊調の成績を調べると、アテネ五輪前から、負けが付いたのは不戦敗だけの実質153連勝中。世界大会10回制覇が、吉田の12回に及ばないのは、北京五輪終了後、姉の千春の引退に伴い2年間休養していたから。実質的には8年間負け知らずという強さで、むしろ、吉田より安定感は上回っていると考えられます。

 吉田と伊調。まさに最強撫子の二人。この二人が、女子では前人未到のオリンピック4連覇という偉業を達成する確率は相当高いと思えます。4年後のリオが楽しみですね。因みに、オリンピック4連覇は、走り幅跳びのカール・ルイス(ロサンゼルス-ソウル-バルセロナ-アトランタ)と円盤投げのアル・オーター(メルボルン-ローマ-東京-メキシコ)が達成しているだけです。

 女子レスリングでは、もう一人、金メダリストが誕生しています。48k級の小原日登美31歳。オリンピック初出場での快挙でした。世界選手権51k級では6回制覇の強者がなぜ? オリンピックには51k級がないため、出場するには48k級か55k級に鞍替えする必要があった。48k級には妹(坂本真喜子)がいたため、55k級を選ぶも、最強女王吉田に阻まれた。2009年、妹の寿引退で48k級に鞍替え、世界選手権を2連覇してロンドンに臨み、見事一発金奪取を果たしたのです。彼女の金こそ最大のドラマかもしれません。

[江戸の仇をロンドンで]

 8月10日、韓国の李明博大統領が不意に竹島に足を踏み入れました。男子サッカー日韓戦に先駆けて。その銅メダルを賭けた戦いは韓国の完勝に終わり、実にやり切れない厭な気分になりました。トップが人気取りのためにこういう理不尽な行為に出るのは、百歩譲って理解しますが、ゲーム終了後韓国選手が「独島(竹島)は韓国の領土」と書いたプラカードを掲げたのには失望しました。スポーツマンシップを冒涜する行為だからです。 もう、この国とはまともに付き合えないと思いました。
 そんな不快感の中、8月11日、女子バレーボール3位決定・日韓戦が行われました。日本が、準々決勝でこれまで五輪で一度も勝てなかった中国に勝ってこの場にいるように、韓国も強豪イタリアに勝ってきている。日本が勝てば28年ぶりの銅メダルなら、韓国は36年ぶりと、どちらも似たような状況でした。
 こんな両チームにとって、最後に勝敗を決めるのは気持ちの強さでしょうが、日本は、5月、東京で行われたロンドン五輪最終予選で、韓国のエース金軟景の強打になすすべなく敗れていたため、今回は気持がどうあれ、「勝てないだろう」と見ていました。ところが・・・・・・。

 ロンドン五輪を集大成と位置づけていた真鍋政義監督は、巡ってきたメダルのチャンスをどうしてもモノにしたかった。5月の東京の轍は踏めない。そのため彼は、韓国戦に弱い江畑を外し迫田を先発に起用。サーブで切り崩し、金軟景に楽に打たせない作戦に出ました。2008年の就任以来掲げてきた「IDバレー」の集大成として。
 お馴染みとなったiPad片手の真鍋采配が見事に的中、金軟景のスパイクはいつになくミスが目立ち、迫田は全選手を通じ最多の23得点を上げ、真鍋ジャパンは3−0のストレートで韓国に勝利しました。結果はストレートでしたが、いつ流れが逆転してもおかしくない、実に緊迫した内容のゲームでした。そんな展開の中、勝利の決め手となったのは、落とせば負けにつながる瀬戸際のポイントを落とさなかったこと。即ち、土壇場=球際の強さでした。これは、長い苦難の道程を経て培われた強い結束力と諦めない不屈の精神力の賜物でした。サッカーの男子とはそこが違っていました。
 勝った瞬間、選手、スタッフ、監督がコートに倒れ込み喜びを爆発させました。15年間、精神的支柱となってチームを引っ張ってきた竹下の涙が特に印象的でした。あのいつも沈着冷静な竹下が、人目を憚らず泣きじゃくっている。チームの歓喜を象徴していました。
 真鍋ジャパン、江戸の仇をロンドンで、男子の仇を女子で晴らしてくれて、ありがとう!
 2012.08.13 (月)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックB
[すべてはスペイン戦から始まった]

 開会式を翌日に控えた7月26日、ものすごいニュースが飛び込んできました。男子サッカー1次リーグD組予選で、わが関塚ジャパンは優勝候補筆頭の無敵艦隊スペインを1−0で下したのです。新聞には「グラスゴーの奇跡」なる見出しが躍りましたが、なんのなんの、1996年、アトランタ五輪での「マイアミの奇跡」とは全く趣を異にしていました。マイアミは、幸運な得点をなんとか守りきった文字通り奇跡的な勝利でしたが、今回は終始相手を圧倒し実力で押し切った堂々たる勝利でした。オーバーエイジ・吉田&徳永の磐石なバックを背負い、前線で敵の攻撃の芽を摘む執拗なまでの守備は相手を苛立たせ、彼らに彼らのサッカーをさせませんでした。「全員攻撃、全員守備」という関塚イズムが見事に浸透し躍動しました。そして何よりも、絶対に勝つという気迫に満ち溢れていました。私が掲げた今大会のテーマ「意外性」は、この試合から始まったのです。

 2勝1分で、グループを1位通過。日本に負けたスペインは、気落ちして予選リーグ敗退。王者スペインに引導を渡した関塚ジャパンは、歴史に名をとどめるに値します。
 決勝トーナメント・準々決勝の相手はアラブの雄・エジプト。先制点は持ち前のスピードを生かした永井によって生まれました。しかし、ここで負傷して退場。このあと2点を入れ、日本は3−0で快勝しますが、あとから考えると、この永井の負傷が日本の行く末を暗示していたように思います。

 ベスト4進出は、銅メダルを獲った1968年、メキシコシティ大会以来44年ぶり、次勝てば史上初の銀メダル以上が確定します。相手は直前の練習マッチで勝っているメキシコ。奇しくも日本が、その44年前、銅メダルを決めたときの相手。新聞にも「谷間の世代歴史を刻む」「聖地ウェンブリーで栄光を」などの活字が躍り、列島は沸きかえりました。
 そんな浮かれムードの中で、一人中田英寿だけが警告を発していました。「どんなときにも、自分たちのスタイルを貫けるかどうか。ここからはそれがポイントだ」と。

 彼の警告は、準決勝のメキシコ戦で、即、現実のものとなりました。前半11分、今大会絶好調・大津の国際級のミドル・シュートで日本が先制。絶好のスタートとなりましたが、メキシコは30分、セットプレーからのヘディングで同点。これはまあ、へディングのかすり球が後ろの選手にドンピシャに入った偶然性の高いゴール。大津の先制点に比すべくもない内容なので、下を向くことはないのに、なぜか元気がない、動きが悪い。これは危ないと思って見ていたら、案の定、後半19分、ゴールキーパー権田の繋ぎのスローを受けた扇原が緩慢なドリブルをしてボールを奪われ、そばにいた3人のディフェンダーも呆然と見守る中、敵にフリーの体勢から強烈なミドル・シュートを打たれて逆転を許しました。これぞ集中力の欠如、実に内容の悪い失点でした。これでは勝負ありです。
 打ったのはメキシコのオーバーエイジ枠ぺラルタ。彼はこの後、決勝のブラジル戦でも2得点を挙げる大車輪の活躍。優勝に大いに貢献しました。強い相手に勝つときには、こういうヒーローが必ず現れるものですね。
 勝つつもりだった日本の落胆は大きかった。試合後のインタビューでは、「とにかく一日考えて切り替えます」(大津)というのが精一杯でした。
 日本の敗因は、気持ちが、「勝つんだ」から「勝てるんだ」に切り替わってしまったことではないでしょうか。驕り&油断とまでは言いませんが、勢いが過信を生み、「自分たちのサッカーをやりとおす」というひたむきさに欠けてしまった。中田の杞憂が現実となったのです。

 韓国との3位決定戦は0−2の完敗。選手にメダルへの執念はあったでしょうが、Jリーグを知り尽くしたホン・ミョンボ監督の周到な研究によるカウンター2本にやられてしまいました。無論、それを見事に実践した韓国イレブンの力量は素直に認めざるを得ませんが。
 決勝進出を阻まれた落胆から十分な切り替えができなかったこと、慣れないカーディフの軟らかなピッチに戸惑ったこと(韓国は2度目)、唯一6つの会場を渡り歩いた歴戦の疲れが敵以上に蓄積していたことなど、敗因はいろいろ挙げられます。でも負けは負け。言い訳はやめましょう。スポーツに国のエゴを持ち込むような野卑な輩に負けたのは確かに悔しいけれど、我々は今後もフェアプレーの精神を貫こうではありませんか。それが日本のサッカーですから。

 関塚ジャパン、メダルは獲れなかったけれど、ベスト4進出は立派です。あの中田たちゴールデン・エイジも到達できなかった高いステージに駆け上った谷間のイレブンに、心から天晴れです。スペイン戦の勝利は、日本選手団に、「全力で立ち向かえば、強い相手にも勝てるんだ」という勇気と自信を与えました。彼らこそ、本大会、日本躍進の原動力になったのです。だから、胸を張って帰ってきてほしい。そしてこれから、「自分たちのスタイル」を貫く術を、じっくり考えようではありませんか。

[なでしこ 日本の誇り]

 なでしこの銀メダルは賞賛に値します。金メダルを賭けたアメリカ戦を1−2で落としたあと、あの知的で冷静なキャプテン宮間が、10分もの間、人目も憚らず泣きじゃくる姿に、「金獲り」が本気だったことを改めて思い知らされて、びっくりしたと同時に感動しました。

 彼女ほど純粋にサッカーを好きな人はいない。そう思ったのは、昨年ワールドカップで世界一になって、帰国後、東京には滞在せず、すぐに所属クラブの本拠地岡山に帰ったときでした。彼女の中には「テレビで広報活動するよりも、大きな大会で優勝することのほうが、女子サッカー発展のためになる」という信念があったのです。そして、沢から引き継いだキャプテンとしての使命を、「ロンドンで金を獲ること」に置いたと思う。彼女の「金メダルしか考えていません」は、本当の本気だったのです。

 そして、彼女は見事にチームを作り上げまとめ上げた。選手としての力量も文句なし、大局観に裏打ちされた抜群のゲーム掌握力と読み、選手を思いやり奮い立たせる人柄など、リーダーとしての素養をすべて出し切って。彼女は、また、自主的に何度も行ったという選手間ミーティングにおいて、戦術面精神面で抜群のリーダーシップを取ったことでしょう。まさにキャプテンに相応しい言動だったと思います。恐らくこのことは、佐々木監督始め沢を含めたなでしこ全員が認めているはずです。でも「金」しか言わない無神経なマスコミや世間にこのことを証明するには、ロンドンでアメリカに勝って金メダルを獲り、ワールドカップ〜五輪連覇という史上初の偉業を達成することしかない、そう考えていたのでしょう。アメリカの実力が日本を上回っていることを知った上で。

 金メダルを賭けたアメリカとの決勝戦。なでしこは見事にそのらしさを出して戦い抜いた。それは、「絶対に諦めない」という自分たちのスタイルを貫きとおした見事な戦いぶりでした。
 もし、前半26分、日本のペナルティ・エリア内でのアメリカ選手のハンドを審判が見逃さなかったなら、もし、前半33分、宮間のミドル・シュートが、クロスバーのほんの僅か下に入っていたら、など、思うところはありますが、サッカーの神様は、今回はアメリカ・チームに微笑んだ。ワールドカップのリベンジに燃え、打倒日本を掲げて最強チームと化しながら、自国のリーグが休止中という逆境のアメリカに微笑んだ。ただそれだけのこと。「なでしこさん、歴史を作るのは少しばかり早いかも」とでも言いながら。
 宮間の涙は、勝っていてもおかしくないゲームにサッカーの神様が微笑んでくれなかったことへの悔しさと、やりきった安堵感、仲間やスタッフ、応援者への感謝、このチームと別れることへの淋しさなどがない交ぜになった、複雑なものだったのでしょう。

 アメリカ戦の前、沢は「最高の舞台で最高の仲間と最高の相手と戦える幸せ」という名言を吐きました。すべてのゲームを通じ、彼女の姿は素晴らしかった。髪をなびかせてピッチに躍動する姿はまるでサラブレットのような美しさ。敵の攻撃の芽を摘み、機を見て攻撃に参加する縦横無尽の動きは、フォア・ザ・チームそのもの。One for all の見本でした。決勝戦での唯一の得点は、彼女の献身のなせる業です。
 彼女の言動の中に、全日本を退くことを示唆する向きも感じますが、何をおっしゃる穂希さん。まだまだやって欲しいし、まだまだやれる。なによりも、貴方の存在はなでしこに必要なのだから。

 泣きじゃくっていたなでしこが、表彰式では打って変わって笑顔で登場しました。泣いてたってはじまらない。泣いていたんじゃ相手に失礼だ。表彰台でおどけるなでしこに、清々しさを見ました。「ここにいる仲間とバックアップメンバー、スタッフに感謝したいし、誇りに思います」は宮間の言葉。素晴らしい銀メダル。無論、日本サッカー史上初の快挙。正直、私はここまでの善戦を予想していませんでした。なでしこは日本の誇りです。
 2012.08.10 (金)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックA
[泣き虫娘に春]

 8月5日、準決勝でシンガポールを破って決勝進出、福原愛、石川佳純、平野早矢香の三人娘は、遂にオリンピック悲願のメダルを獲得しました。
 この試合に関しての殊勲者は、福原でしょう。第1試合の相手は、シングルス個人戦で石川佳純のメダルへの夢を奪ったフォン・ティエンウェイ。福原はこの選手に圧勝。妹分のリベンジを果たすと同時にチームに流れを呼び込みました。この勢いに乗って日本はストレート勝ち。あの泣き虫娘が、メダル獲得の大黒柱に成長した。積み重ねた努力は並大抵のものではなかったはずです。決勝戦は中国チームに完敗、メダルの色は銀でしたが、夢をかなえた3人娘に乾杯です!
 オリンピック卓球の歴史は比較的浅く、1988年ソウルから正式種目に。今回、三人娘は男女通じて初のメダルを獲得したわけです。今回は、「史上初」というフレーズを実によく聞きます。ランダムに取り上げてみましょう。

[フジカキ]

 バドミントン・女子ダブルスといえば、かつては「オグシオ」、2008北京は「スエマエ」、そして今回は「フジカキ」でした。
 8月3日、バドミントン・女子ダブルス、藤井瑞希&垣岩令佳の銀メダルも立派の一語。「なあに、無気力試合のせいさ」という向きもありましょう。なにせ、準決勝を前に、世界ランク1位を含む4ペアが失格したのですから。
 だがしかし、世界ランク2位・中国ペアとの決勝戦での善戦は、彼女たちの銀メダルがなんら恥ずべきものではないことを物語っています。あの第2セット14点目の垣岩のスマッシュ3連発と15ポイント目・藤井渾身の決定打はその証です。 史上初のメダル、おめでとう!

[孤高の剣士に団体の銀]

 8月5日、フェンシング・フルーレ団体。太田雄貴は、前回の北京は個人で銀。今回は団体で獲りました。団体として史上初メダル。圧巻は、準決勝ドイツ戦最終ピリオド。残り2秒で1点のビハインド。このままなら敗戦という絶体絶命の状況下、果敢に飛び込んで同点。延長に持ち込んで勝った。たったの2秒! この場面は何度見ても鳥肌モノ。鬼気迫るとはまさにこのこと。勝利への執念の見本です。今大会の太田は、ここまで決して本調子ではなく、むしろ後輩に助けられていたようです。「ここでやらなきゃいつやるの」・・・仲間への想いが奇跡を呼んだのでしょう。このあたりが団体戦のよさ、面白さだと思います。日本でマイナーな競技を、ここまで引き上げた太田君には天晴れです。

[テニスとボクシング]

 テニス世界ランク16位の錦織圭は、男子シングルスでベスト4を目指すも、ランク9位アルゼンチンのデルポトロにストレート負け。勝っていれば、92年ぶりの準決勝進出でした。因みにこの1920年アントワープ大会は、熊谷一弥がシングルスとダブルス(with柏尾誠一郎)で銀。これが日本のオリンピック初メダルでした。
 決勝戦では、地元イギリスのアンディー・マレーがランキング1位のフェデラーを破り金メダル獲得、ウィンブルドンの雪辱を果たしました。イギリスが勝ったのは、なんと、1908年ロンドン・オリンピック以来、104年ぶり。翌朝ロンドンの新聞は一面マレーでした。

 ボクシング、バンタム級の清水聡は準決勝に進出、銅メダル以上を確定。2回戦でなんともアホらしい八百長審判の判定で一旦は敗戦となりましたが、当然のように覆り、ここまで駒を進めました。因みにこの審判はオリンピックから追放となりました。それはそうでしょう、相手選手が3回もダウンしたのに一つもカウントせず、挙句の果てには判定勝ちを与えたのですから。どうしてかって? 賄賂としか考えられませんね。 ミドル級でも村田諒太が準々決勝を突破、メダルを決めました。中重量級では日本人初の快挙です。
 ボクシングのメダルは1968年、メキシコ大会のバンタム級・森岡英治以来44年ぶり。金だと東京オリンピックのバンタム級・桜井孝雄以来48年ぶり。同一大会で二人のメダル獲得は史上初になります。

[さらば、お家芸]

 柔道は、7月30日、女子57k級・松本薫の獲った金が、男女を通じて唯一の金メダルでした。彼女の闘争心むき出しの戦いぶりは、実に感動的でした。さらに、素顔がまるで正反対のキャラにも大いに好感が持てました。薫ちゃん、高感度大!
 柔道が正式種目となった1964年東京オリンピック以来、男子の金メダル0は史上初の屈辱となりました。篠原信一監督には、「稽古量と精神論だけの古臭い指導は?」なる批判が集まっているようです。
 近年の柔道は、細分化されたポイントに対応して、ちょこまかとポイントを稼ぎ逃げ回る、柔道ならぬJUDOの様相を呈しています。
 柔道の創始者にして講道館の開設者の嘉納治五郎が唱えた精神は「柔よく剛を制す」です。体格的に劣っていても、相手の力を利用して最後には逆転で投げ飛ばす、これこそが日本柔道の極意なのです。
 篠原監督は、現役時代の2000年シドニー五輪・100k超級決勝で、完全に一本と思ったのも束の間、後に世紀の大誤審といわれるミスジャッジに見舞われて金メダルを逸しています。彼は試合後、「自分が弱かっただけ」と一切言い訳をしませんでした。
 これは私の推測ですが、そんな経験を踏まえた彼の目指す柔道とは、誤審を寄せつけないしっかりと一本を獲る柔道、即ち日本伝統の精神に則った柔道だと思うのです。
 柔道創始の精神を以ってオリンピックのJUDOを制する・・・これが全日本監督・篠原の理念なのではないでしょうか。
 しかるに柔道とJUDOは根本的に相容れないもの。じっくりと一本を狙うより、不意にポイントを奪って逃げ切るのが今のJUDOなのでは? 「勝つと思うな思えば負けよ」(美空ひばり「柔」)とか「花と咲くより踏まれて生きる 草の心が俺は好き」(村田英雄「姿三四郎」)など柔道演歌の歌詞のように、耐えて忍んでいたら負けてしまうのが、今のJUDOなのです。
 グローバル化したJUDOというスポーツは、発祥国の制御を超えてこれからも変貌し続けるでしょう。篠原信一こそ、柔道とJUDOのギャップにあえぐ、彷徨える求道者なのかもしれません。
 オリンピックで金を取ることが日本柔道の復権というのなら、これはもうJUDOに合わせるしかない。柔道を捨てるしかない。“柔道とJUDOとは別モノである”という認識に立つことが、復権への第一歩なのではないでしょうか。素人の独断とは思いつつ、そう考えざるを得ないのです。
 2012.08.07 (火)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピック@
 ロンドン五輪が始まりました。ロンドンは、今回で3回目のオリンピック。最初は第4回、1908年。次は第14回、1948年ですが、日本は敗戦国だったので不参加。日本のオリンピック初参加は1912年のストックホルム大会なので、ロンドンは今回が初めての参加となります。
 開催国元首のエリザベス女王は、今年で即位60年。そんなこんなで、なにやら歴史の匂いを感じていたら、出るは出るは「何年ぶり」というフレーズ。まさに「歴史回顧」。何を隠そう“オリンピック大好き人間”の私、今まさに夢のひと時真っ只中にいます。 もう一つのキイワードは「意外性」。大本命内村航平の序盤の乱調。ウサイン・ボルトの調整不安。出足の悪いマイケル・フェルプスなどなど。
 さて第30回五輪ロンドン大会はどう展開するのか? オリンピック期間中は「クラ未知」本筋研究は差し置いて、この観点から、気楽にロンドン・オリンピックを追ってみましょう。

[よくぞカムバック! 内村航平]

 イギリスのブックメーカーの金メダル掛け率は、わが内村航平が、オリンピック参加選手中のNO1だったとか。それほど固いと思われた「体操男子個人総合」に向かって、7月28日に行われた「団体予選」には腰を抜かしてしまいました。なんと最初の「鉄棒」、離れ技のコールマンでまさかの落下をしちゃったのです。これが尾を引いてか、この日は散々の出来。個人総合の順位は意外性の極致の9位。予選を兼ねていた「種目別」は、「ゆか」で出場権を獲得しただけでした。この日の得点は本番には引き継がないとはいえ、出来の悪さは半端じゃない。尾を引かないわけがないと思いました。

 7月30日、さあ、いよいよ内村が最も欲しいという「男子団体」。最終種目「あん馬」を残して、5種目での得点は2番手。1位の中国は遥か彼方なので、「残念ながらの2位狙い」と思って見ていたら、内村君、なんと着地で大失敗。「13.466、日本メダルを逃した!」というアナウンサーの絶叫を聞いたときの暗澹たる気分は今も忘れられません。コーチ陣抗議、審判団は検討に。待つこと15分。着地前半の倒立が認められて+0.6。なんとか銀メダルに滑り込んだのです。これが認められなければ、日本男子団体は第4位だった。「いったい今までなにをやってきたのだろう」は彼のこの日のショックと苦悩を物語っていました。もしも、そのままだったと思うとぞっとします。さしもの内村君も、“メダルなし”では切り替えるのに大変だったに違いないからです。
 因みに第3位はイギリス。これはストックホルム大会以来100年ぶりのメダルでした。

 8月2日の「個人総合」は、屈辱的な9位発進のため「あん馬」からスタート。これが幸運でした。最初になんとかクリアしてしまえば、あとは流れに乗れると彼は読んだ。目論見どおり通過15.066。「つり輪」はもともと得意じゃないけど失敗が少ない競技、これも無事通過15.333。圧巻は次の「跳馬」でした。G難度シューフェルトをピタリと決め、なんと16.266。これでダントツのトップ。次の平行棒も危なげなく15.325。あとは「鉄棒」で落ちなければOKというところまで漕ぎつけた。その「鉄棒」は、落下の危険があるG難度コールマンを回避、無難にまとめ15.600。魅せるより勝ちにいった内村でした。得意の「ゆか」はさらに慎重にまとめ、15.100。トータル92.690は2位に2.659の大差。 おめでとう内村。あの悪夢のスタートから短期間でよく立ち直ってくれました。悪夢も意外でしたが、これほどまでの見事な立ち直りもいい意味で意外でした。歴史を紐解けば、個人総合の金は、1984年、ロサンゼルス大会の具志堅幸司以来28年ぶりでした。

 8月5日、種目別唯一出場の「ゆか」は中国を越えられず銀。G難度「リ・ジョンソン」を封印したのは不可解でしたが、翌日の新聞を見たら、「演技順が1番で、体を温める時間がなかったから」と判明して納得しました。
 体操の真の強者は、スペシャリストではなくオールラウンド・プレイヤーです。個人総合の内村の種目別ランクはすべて一桁。点数はすべて15点以上。こんな選手は彼以外にいません。このムラのなさこそ、内村が世界ナンバーワンであることの証明なのです。
 さあ、次回2016年リオは27歳。今度こそ「団体」&「個人総合」のW金をお願いします。田中弟や加藤凌平ら若手も育つから、今度は内村頼みが軽減するはず。期待大です。

[やはり怪物だったマイケル・フェルプス]

 マイケル・フェルプスのこれまでに獲得した金メダルは14、総数17個。怪物以外の何者でもありません。ところが、最初の個人種目「400m個人メドレー」では、日本の高校生・萩野公介(銅獲得)の後塵を拝す意外性の4着。
 “今回のフェルプスは怖くない”と思ったとたん、徐々に調子を上げてきて、結果、「800mリレー」「100mバタフライ」「200m個人メドレー」「400mメドレー・リレー」で金、「200mバタフライ」で銀を獲得。通算金18、総数22個というとんでもない記録を樹立したのです。さらに、北島康介が狙っていた同一種目3連覇を「100バタ」と「200個人メドレー」でW達成。スタートの意外性が、終わってみれば見事な立ち直り。全競技終了後、彼は引退を声明しましたが、これほどまでの大選手は二度と再び現れることはないでしょう。

 北島康介の個人種目メダルなしは、意外中の意外でした。オリンピック選考会で自己ベストを出し、本番へのピーク合わせも名人級な彼だから、私の予想はW金でした。原因? 私なりに思うところはあるのですが・・・・・詮索はやめておきます。
 8月5日、競泳競技最後のメドレー・リレーには感動しました。このレースこそ国のレベルの証。まず、女子が日本新記録で銅。続く男子は、それまでメダルなしの北島を「手ぶらでは帰せない」と皆ががんばり、自身も見事な泳ぎで銀。素晴らしいチームワークで有終の美。入江陵介が言った「メドレー・リレーは“27人全員のリレー”。アンカーがゴールするまでチームのリレーは終わらない」は名言でした。
 日本競泳陣は大健闘。メダル11個は戦後最大。金が0だったのは残念でしたが・・・。因みに歴史を辿ると、1932年ロサンゼルス大会では12個(内金5個)のメダルを獲得しています。

[ボルトよ、あんたは強かった]

 オリンピック前のジャマイカ大会100mで、ウサイン・ボルトは僚友ヨハン・ブレークの後塵を拝しました。得意の200mも精彩なくゴール前で失速。最後の調整レースに予定していたルツェルン大会も回避。ここでの私の予想は、“ボルト本番は危うし”でした。昨年のテグ世界陸上でも、フライング失格と、不安だらけのボルトだったからです。  だがしかし、8月5日、ボルトの100m決勝は、9秒64のオリンピック・レコードでの金メダル。私にとっては意外性の圧勝でした。スーパースターがスーパースターであることを証明した瞬間でした。100mの二連覇は、1988年、ソウルのカール・ルイス以来。このあとの200mと400mリレーを楽しみにいたしましょう。
 2012.07.25 (水)  私の中の中島みゆき5−中島みゆきは“演歌”である4
 オリンピックが近い。注目はなんといってもウサイン・ボルトの100mと200m。先日ジャマイカ大会での失速は、なにが原因なのか? 本番前・調整途上での弛緩であることは間違いない。パンとすれば一番強いに決まっている。だがもしも、この緩みに一寸でも「慢心」が入っていたとしたら? 私の予測は、ズバリ、「危うし!ボルトの金」だ。
 北島の3連覇は? これは達成できたら凄いこと、男子競泳ではオリンピック史上初の快挙となる(女子では100m自由形のドン・フレーザーがいる)。しかも100、200のWなら、これはもう不滅の金字塔だ。彼ならきっとやるだろう。
 体操男子・内村航平の目標は金5つ。団体、男子総合、床、跳馬、鉄棒だ。彼の空中感覚は人智を超えているという。普段の力が出れば軽くクリアーできるはずだ。あとは、吉田沙保里(何を隠そう、私、大ファン)の3連覇を祈る。
 では本題に入りましょう。今回は中島みゆき最終回。田家秀樹著「33回転の愛のかたち」において、まだある著者との見解の相違について述べさせていただきます。

(1)「時代」の捉え方について

 田家さんは、中島みゆきの「時代」について、「それまでもっぱら男がターゲットとしてきた“時代”というテーマを女が歌うようになった、これは日本にもやっと社会との関連で作り歌う女性が出てきたということで画期的なことだ」と仰っています。さらにみゆきの「時代」の中に出てくる倒れた旅人とは60年代のソングライターたちのことではないか、とまで仰っています。
 ここには、みゆきさんが歌う時代とそれまでの男性ソングライターたちの捉えた時代との同一視がありますが、これは見当違い。いわば時代錯誤?
 中島みゆきが「時代」の中で歌う“時代”は60年代フォークのソングライターたちが標的とした“外的な”時代ではなく、自己の内にある“内的な”時代です。戦う相手であり自分に拘わりなく変わってゆく時代ではなく、自分のあり方によって変わって見えてくる“時代”なのです。“今日は倒れた旅人たちも 生まれ変って歩きだす”結果として“時代は回る 喜び哀しみくり返し”と帰結する。自分が変わるから時代が変わって見えるのです。2コーラス目にある“出会いと別れをくり返し”も個人帰属事項。みゆきさんは、まずは自分で頑張る、自分を変えて物事を打破しようとする。それまでの“時代を変えてやる”もしくは“時代が悪い”と、「時代」を標的にする歌とは決定的に違うのです。
 だから中島みゆきの「時代」は、今でも新鮮なのです。問題が自己のありかたにあるのだから、時代に左右されない普遍性を持つ。もしも、標的としての時代がテーマだったら、この歌はとっくに色あせていたはずです。
 みゆきさんの「時代」が凄いのは、“時代”という社会的なテーマを“初めて女性”が捉えたからではなく、中島みゆきというシンガー・ソングライターが「60年代のソングライターたちとは全く違う視点で“時代”というものを捉えた」ことにあるのです。

(2)中島みゆきはジャンヌ・ダルクだろうか?

 田家さんは、「33回転の愛のかたち」の中で、ユーミンをクレオパトラに中島みゆきをジャンヌ・ダルクに例えています。私は、ユーミンはさておき、みゆきさんに関しては、ジャンヌ・ダルクではないと思います。
 ジャンヌ・ダルクは、10代のある日、神の声を聞き、その信託を受けて、祖国フランスのために戦った。そして彼女は勝利する。当時のフランスは確かに彼女を必要としました。
 中島みゆきも、神の声を聞いてわれわれにメッセージを送っている、そんな気がします。そして、現代のわれわれもまた、彼女を必要としている。二人には確かに大きな共通点があります。
 しかしながら、決定的に違う点があります。それは、目線の高さです。ジャンヌ・ダルクはカリスマ性を以って軍を率いた。それは紛れもなくトップ・ダウン的統率です。それに対してみゆきさんは、目線を常に我々と同じ高さに設定している。そしてそこから(命令ではなく)優しい励ましが発せられるのです。中島みゆきとジャンヌ・ダルクは、導き方に決定的な違いがあると私は思います。
 ものの本によると平安〜鎌倉期に「白拍子」という女性芸能者がいました。義経の恋人の静御前が有名ですが、彼女たちは、一般の人々、特に気持ちの沈んだ人々に歌を歌い舞を舞って一時の慰めを与えていたといわれています。私はみゆきさんにそんな「白拍子」を感じます。「MEGAMI」「シュガー」などがいい例です。
 そしてもう一つ、同じ頃「説経師」といわれる僧がいた。名前のとおりお経を説く、すなわち、人々を仏門に入れる目的で大道で仏の道を説いて回った僧侶のこと。言葉に抑揚をつけ、時には楽器を使って説いて回りました。話を効果的に進めるために、話の前半ではいかにこの世の中が酷いかを話し、後段で、仏の道に入り念仏を唱えれば極楽浄土に行けると説くのです。このギャップが効果を発揮して、民衆はスムーズに仏門に入ってゆく・・・・。ここには“語り口のうまさ”と民衆と同じ高さの“目線”があります。だから私はみゆきさんに「説経師」も感じます。これは「永久欠番」の構成や語り口のテクニックに通ずるものだと思います。
 結論=中島みゆきはジャンヌ・ダルクではない。現代の「白拍子」であり「説経師」である。

(3)「ホームにて」の駅は北海道ですか?

 田家さんは「ホームにて」のホームは北海道の駅しか浮かんでこないと言われました。これも私は断じて違うと思います。ここでのホームが北海道ではこの歌の意味がわからなくなる。この歌は“望郷”の念を強く持ちながら帰ることができない自分の心の中の迷いを歌った歌でしょう。帰りたい気持ちなんか捨ててここで生きてゆきたい。でも帰りたい。でも帰るわけにはいかない。だから、やさしい駅長の声(これは実際の声ではなくて、みゆきの心の中に聞こえる故郷の駅長の声だと思います)に引かれて、“飾り荷物”を持って、とりあえずはホームに来たのでしょう。でも帰れないのは分っている=乗るわけにはいかないことが分っている、だから汽車を行かせてしまうのでしょう。
 “ふるさとは 走り続けたホームの果て”であり、“ネオンライトでは 燃やせない ふるさと行きの乗車券”がたまってしまうのです。これがどうして北海道の駅なのでしょうか。ここは“ネオンライトがある”ところで、“ホームの果てにふるさとが見える”ところ=東京、もしくは都会でなければならないのです。

 今回で、「私の中の中島みゆき」を終わらせていただきます。標的にした田家秀樹著「33回転の愛のかたち」は、1984年に出版されたもの。中島みゆきがこのときまでに出したアルバムは11タイトル。私が拙文を書いたのが2003年。その間、20枚のアルバムを上積みし、「夜会」をスタートさせ、「地上の星」でNHK紅白に出演するなど、みゆきさんの変化躍進にはすさまじいものがありました。だから、「それは不公平だ」と言われるかもしれません。しかしながら、その後の19年がなくとも、アーティストの本質は捉えられるはず。私が言及したのは、“その時点で捉えて然るべき本質的部分”に限られていると思っています。
 最後に田家さんはこう結んでいます。「ユーミンがひばりを越える日が来るのだろう。みゆきは越路吹雪のようなシンガー・ソングライターになるのかもしれない」と。これは冗談や軽口でなく本気の記述。ウーンちょっとどうかな? かなりトンチンカン! もう止めましょう。これからは、もっとまともなものに向き合ってゆきたいと思います。
 2012.07.10 (火)  私の中の中島みゆき4−中島みゆきは"演歌"である3
 前回までで、生半可な理解で演歌を小馬鹿にした著者への反論を述べさせていただきましたが、今回は、出来うる限り実例を挙げて「中島みゆきは演歌である」を実証したいと思います。
 それに先立って、みゆきさんの歌の特徴をあげておきましょう。この実証のためには欠かせないと思うので。
@ 人生肯定、前向き、どんなつらい失恋をしても決してへこたれない。
「時代」の"今日は倒れた旅人たちも生まれ変わって歩きだすよ"
「誕生」の"待っても待っても戻らぬ恋でも 無駄な月日なんてないと言ってよ"
「肩に降る雨」の"肩に振る雨の冷たさは生きろと叫ぶ誰かの声"

A 優しきおせっかい=放っておけない気持ち=愛
「泣きたい夜に」の"泣きたい夜に一人はいけない あたしのそばにおいで"
「誕生」の"思い出せないなら 私あなたに言う"
「空と君のあいだに」の"君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる"

B 普通の人々の味方=一人一人の存在をかけがえのないものとして位置付ける
「永久欠番」の"宇宙の掌の中で 人は永久欠番"
「地上の星」に流れるテーマ。

C お説教ではなく、共有するフィールドの中で、同じ目線で、励ましてくれる= 「こうしろ」ではなく、「私もそうさ だから一緒に頑張ってみようよ」と一緒に考え励ましてくれる。これは彼女の基本姿勢で、すべての歌から自然に感じとれるもの。

D 望郷の念=ふるさとを思う気持ちの強さ
「ホームにて」の"ネオンライトでは燃やせない故郷行きの乗車券"
「海よ」の"海よ あたしを 愛するならば 今宵故郷へ 舟を運べよ"など
 では上記特徴を頭に入れた上で、具体的な楽曲ごとに"みゆきVS演歌"の共通項を検証いたします。対比させる2曲のうち左側に中島みゆきの曲(作詞・作曲は全て中島みゆき)、右側に演歌の曲名と作詞・作曲家名と歌手名を記し、次に2つの曲の共通項を簡単に記述させていただきます。
@「ホームにて」 VS 「帰ろかな」(永六輔−中村八大、北島三郎)
"ネオンライトでは 燃やせない ふるさと行きの乗車券" VS "帰ろかな 帰るのよそうかな"

都会で頑張ろうと決めたのだから故郷へなんか帰らない。だけど帰りたくなる。そんな望郷の念と自己の心の葛藤は両者に共通のものだ。

A「霧に走る」 VS 「雨の慕情」(阿久悠−浜圭介、八代亜紀)
"いっそこんな車 こわれてしまえばいいのに" VS "雨々ふれふれ もっとふれ 私のいい人 つれて来い"

"車がこわれてしまえばこの人ともっと一緒にいられる"という「霧に走る」の女性の気持ちと、「雨の慕情」の"雨がふれば、いい人がやってくる"という女の気持ちは同じ。伝統的な「八百屋お七」パターン

B「時代」 VS 「川の流れのように」(秋元康−見岳章、美空ひばり)
"今日は倒れた 旅人たちも 生まれ変って 歩きだすよ" VS "雨に降られて ぬかるんだ道でも いつかは また 晴れる日が来るから"

今は厳しくても晴れる日は必ずやってくる。「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」、方丈記の無常観にも通じている。

C「海よ」 VS 「北国の春」(いではく−遠藤実、千昌夫)
"海よ あたしを愛するならば 今宵 故郷へ 舟を運べよ" VS "あの故郷へ 帰ろかな 帰ろかな"

"故郷"の意味は各人夫々違っていても共通する絶ちがたい望郷の念。

D「あした」 VS 「天城越え」(吉岡治−弦哲也、石川さゆり)
"ナイフなら あなたを傷つけながら 折れてしまいたい ガラスなら あなたの中で壊れたい" VS "誰かに 盗られるくらいなら あなたを殺していいですか 口を開けば別れると 刺さったまんまの割れガラス"

怖い怖い女の情念。阿部定の世界?

E「最後の女神」 VS 「岸壁の母」(藤田まさと−平川浪竜、菊池章子)
"ああ あれは最後の女神 まぎれもなく 君を待ってる たとえ最後のロケットが きみを残し 地球を捨てても" VS "たとえ皆があきらめても 母は最後まで待ちつづける"

他人はどうあれ、自分だけは絶対に見捨てない。女神の愛も母の愛も同じ。

F「泣きたい夜に」 VS 「道頓堀人情」(若山かほる−山田年秋、天童よしみ)
"泣きたい夜に 一人はいけない わたしのそばにおいで" VS "ふられたぐらいで泣くのはあほや 負けたらあかん"

落ち込んでいる人を放っておけない優しさ。

G「狼になりたい」 VS 「浪花恋しぐれ」(たかたかし−岡千秋、都はるみ&岡千秋)
"ビールはまだか" VS "酒や酒や酒こうてこい"

飲んでも飲んでもまだ飲み足らない朝方の吉野家の客と浪花の春団治師匠は同じ酒のみ。

H「with」 VS 「東京砂漠」(吉田旺−内山田洋、内山田洋とクール・ファイブ)
"あなたがいるから 淋しさと虚しさと疑いが 忘れられる" VS "あなたがいれば つらくはないわ この東京砂漠"

みゆきさんが、前川清のポニー・キャニオン移籍第1弾シングル「涙」を書いたのが1988年。恐らく、そのとき参考に聞いただろうクール・ファイブのヒット曲集の中に「東京砂漠」があったに違いない。この両曲には、"砂漠"をキイワードに生きる支えとしての相手に想いを寄せるという共通点がある。「with」は「東京砂漠」を下敷きにして作られた、というのが私の確信。「with」の入ったアルバム「夜を往け」が1990年発売というのもこの証明?

I「二隻の舟」 VS 「おんな船頭唄」(藤間哲郎−山口俊郎、三橋美智也)
"わたしたちは 二隻の舟 ひとつづつの そしてひとつの" VS "かわいそうなは みなし子同士 今日も おまえと つなぐ舟"

「二隻の舟」における"敢えなくわたしが波に砕ける日には どこかでおまえの舟がかすかにきしむだろう"は、舟に乗るもの同士の運命的なつながりを表す。「おんな船頭唄」の"みなし子同士"という月との関係も同じシチュエーション。

J「彼女によろしく」 VS 「さざんかの宿」(吉岡治−市川昭介、大川栄策)
"明日が見えなくてよかったわ だからあなたを信じられたもの" VS "くもりガラスを手で拭いて あなた 明日が みえますか"

"明日"が見えなくてよかったと、見えなくてつらいと、心情はちがうが形は同じかなわぬ恋。

 以上のように、共通するテーマは結構多い。だから、「みゆきさんの歌も演歌も同じ日本の大衆音楽として分け隔てなく聴こうじゃありませんか」というのが私の本意であり結論です。
 そして、改めて思い知らされたのは作家・中島みゆきの凄さです。ここで比較対照した演歌は、最も古い「岸壁の母」が1954年で、最も新しい「川の流れのように」が1989年、なんと35年の隔たりがある。そんな長いスパンの作品群に、僅か一人のソングライターが伍している。これこそが中島みゆきの非凡さの証明ではないでしょうか。演歌とか演歌じゃないとかいう前に、この事実をしっかりと認識する必要があると思います。
 2012.06.27 (水)  閑話窮題〜波動スピーカーなど
 巨人の原監督がご難です。女性問題で恐喝されて、言いなりになんと1億円を支払ったとか。爽やか若大将のイメージ堅持に1億円とは"有名人はつらいよ"ですね。
 同じ1億円でも、サッカー全日本の柱・長谷部誠選手の被災地支援は立派の一語。ミリオンセラーを記録した彼の著書「心をととのえる」の印税全額を、ポンと幼稚園の再建に寄付したそうです。偉い! 同じ1億円をめぐるこの明暗、サッカーと野球の勢いの象徴のよう。
 終戦の年に生まれた私の場合、子供のころから楽しみはなんといっても野球でした。そんな私でも最近の野球はつまらない。なぜ? ズバリ、個性あるスターの不在。
 本日、プロ野球オールスターゲームのファン投票選出選手が決定しましたが、なんとも小粒。私の夢中だった時代はですね、球界のスーパースターONは言うに及ばず、投手では、元祖フォーク杉下茂、鉄腕稲尾和久、400勝金田正一、悲運のエース村山実、精密機械小山正明、奇跡の26球江夏豊、サブマリン山田久志、マサカリ村田兆治、怪童尾崎行雄、野手では、打撃の神様川上哲治、青バット大下弘、シュート打ちの芸術家山内一弘、牛若丸吉田義男、元祖怪物中西太、ノムさんベーブ野村克也、怪盗福本豊、鉄人衣笠祥雄etc、数え上げたらきりがない、個性派スターが綺羅星のごとくに輝く時代。較べちゃ可哀相でしょうか。
 そんなこんなで、最近はサッカーばかり見ています。男子ワールドカップ最終予選の日本代表は実に頼もしかったし、ユーロ選手権も今がたけなわ。なでしこのロンドンも楽しみです。テレビで張本さんが、先日の練習試合でなでしこがアメリカに惨敗したら、「バラエティに出すぎ。なっとらん。これじゃ危ないよ」風なコメントを出していたけど、ばかなこと言わないでよ! 苦節十数年、やっと脚光を浴びたのですよ。なにやったって、いいじゃないですか。ワールドカップで、あれだけの感動をくれたのですよ。どうなったって許そうじゃないですか。私は、たとえ五輪でメダルが取れなくても、なでしこは責めません。それが日本人の礼儀です。でも、ガンバレなでしこ!!
 オリンピックでもう一つの話題といえば、北島康介の3連覇。競泳男子で同一種目の3連覇は前人未到とか(女子ではドン・フレーザーの100m自由形があります)。しかも2種目だったら、これはもう不滅の金字塔でしょう。亡くなったダーレオーエン選手の分までガンバレ北島!! では前置きはこのくらいにして本題へ。

(1)波動スピーカー

 ご覧のようにこのスピーカー、円筒形の実にユニークな形をしています。一個の楽器のような無指向性タイプで、部屋のどこに置いてもどこで聞いてもステレオ感一杯に鳴り響く、というのが売り文句。このスピーカー、実は昔から注目していたのですが、買う気になったのはつい最近。偶然、吉祥寺は「音楽の部屋」の会場の近くに販売元の試聴室があって、打ち合わせの帰りに立ち寄って試聴し、即決したというわけです。決め手は、気楽なナガラ聞きにピッタリだったことです。
 そして、先週、設置完了。MS-801というタイプに、オンキョーのFR-N9NXというCDプレイヤー+FM/AMチューナー一体型アンプを組み合わせました。
 アコースティックな響きは長時間聞いても疲れません。バッハの無伴奏ヴァイオリンなどは、あたかもそこに奏者がいるようで、柔らかな心地よい響きが拡がります。電気系楽器はダメですね。意外とよかったのがモノラル。トスカニーニの「第九」は少年時代からの愛聴盤で(1952年録音)、現在は超高音質のXRCDで持っているのですが、やはりモノラルはモノラル、これまでのスピーカーでは硬すぎて聞き苦しい。ところが波動だと実に柔軟な音に変身する。凝った肩が揉み解されたような気分なのです。合うんですね、モノラルに。今後モノラルの名盤はすべてこっちで聴くつもり。ジャズも1950年代モノラルが好きなので、こちらも楽しみです。
 これからは、音楽と向き合うときにはタンノイで、書きモノなどしナガラは波動スピーカーで、ということになります。オーディオ・ライフの幅が広がるのは嬉しいことです。

(2)「音楽の部屋」第2回

 ご好評をいただいた第1回「モーツァルトの生涯」に続いて、6月23日に行った第2回は「大作曲家の恋愛模様」と題して、ワーグナー、ショパン、エルガー、ヤナーチェク、ベルリオーズ、ベートーヴェンの恋愛事情を取り上げました。
 ワーグナー編のサブタイトルは「みんなは悪い人だと言うが、私にゃいつもいい人だった」と、松尾和子「再会」の歌詞をもじりました。五味康祐の「西方の音」に「ワーグナーは色事師でペテン師だった」という記述があるように、ワーグナー悪人説は音楽史上の定説。そんな、みんなが悪い人と言うワーグナーも、妻コジマにとっては、いい人だった。なんたって、コジマが男の子を生んだ翌年の誕生日の朝、寝室の外、階段沿いに15人編成のオーケストラを待機させ、彼女の寝覚めを見計らってオリジナル曲の生演奏でお祝いしてやったのですから、これぞ究極のバースデー・プレゼント。「私にゃいい人」に決まってます。この曲が「ジークフリート牧歌」で、1870年12月25日のことでした。
 ショパンとジョルジュ・サンドも有名です。この関係について、最近読んだジム・サムスン著「ショパン孤高の創造者」(春秋社)には、「それは本質的にはプラトニックな性格を帯びていた」とありました。私はショパンには疎いので、この説が定説か新説かは分かりませんが、意外な感じを持ったのは事実です。
 エルガーの年上の女房は彼の才能を開花させた人生の恩人。ベルリオーズのストーカー風恋愛やヤナーチェクの老いらくの恋も強烈なものがあります。そういえばヤナーチェクは、村上春樹「1Q84」で「シンフォニエッタ」が有名になりました。主人公が買ったのがジョージ・セルのソニー盤で、このCDが飛ぶように売れたのも記憶に新しい。
 だが、何と言っても面白いのはベートーヴェン「不滅の恋人」探しです。ベートーヴェンの遺品の中から、本当に真剣な3通のラブレターが出てきた。そこには、宛名も場所も年代の記載もなかった。手がかりは「7月6日の月曜日」、「湯治場」、「郵便馬車はここからKに向かう」という記述。1827年から、この恋人探しが始まり、ロマン・ロラン始め幾多の学者が迫るのですが、100年以上も未解決のままでした。そんな興味深い難問を解明したのは、何と一人の日本人女性だったのです。彼女の名は青木やよひ。N響の機関紙「フィルハーモニー」1959年8月号に掲載された「伝説の恋人」という論文でした。そこには、それまで先人がまったく注目してない人の名前があったのです。その名は"アントーニア・ブレンターノ夫人"。この説はその後アメリカの著名な音楽学者メイナード・ソロモンによって裏付けられました。青木氏は2009年故人となられましたが、その生涯はまさに「不滅の恋人」と共にありました。著書も多数出ています。この誇るべき日本の偉業は、もっと注目されていいと思います。

 そんなこんなの恋愛模様がこの日のテーマ。参加の皆様からは「面白かった。楽しく聞けた。得した気分になった」などのお言葉をいただきました。ありがとうございます。またの機会に是非! 終わって、夕暮れの吉祥寺をそぞろ歩きながら昔を偲びました。一見して町並みが変わって見えるのは当然ですが、それでもここには不変の井の頭公園があり、路地裏には昔ながらの商店郡がそのまま残っていたりして、往時の面影が蘇る。まさに"ジョウジはオン・マイ・マインド"であります。
 東京オリンピックの年に一年間住んだ吉祥寺。あれからオリンピックは、メキシコ・シティ、ミュンヘン、モントリオール、モスクワ、ロスアンゼルス、ソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、北京を経てもうすぐロンドンが始まります。はてさて、あと何回オリンピックが見られるのやら? なんてことを考えるような歳になってまいりました。健康に気をつけて人生大いに楽しみたいものです。
 2012.05.31 (木)  閑話窮題〜風薫る季節の中で
(1)音楽の部屋

 吉祥寺は、私が上京して初めて住んだ町である。故郷を離れ大学生となった1964年、東京オリンピックの年だから、もう48年前になる。下宿は、北口から商店街を通り抜け、五日市街道を渡ってすぐのところにあった。高校の友人と、四畳半一間に二人で住んだ。彼の兄さんがそこの大家だったから、一ヶ月の家賃を相場よりやや安い4500円で仕切ってもらって。一人分なんと2250円!今は昔である。因みに国電(今のJR)の最底料金は10円、学食のラーメン30円、カレーライスが70円の時代だった。
 そんな懐かしの吉祥寺で、私は、去る5月26日「音楽の部屋」なるお話会を持った。場所は南口から井の頭公園途中にあるgallery遊。数年前からゴルフをご一緒させてもらっているN氏のお姉さんの根城である。「ジョウジ」は今や東京で住みたい町のNO1。その心は、都会過ぎず田舎すぎず〜"ほどのよさ"なのだそうだ。

 この話、実は、昨年、蓼科のN氏別荘でご姉弟との会食の折、話がクラシックに転じたときにフッと沸いたもの。「今、お話していて思ったのですが、galleryに集まる人たちは、音楽好きの方が多いので、きっとそんなクラシックのお話を喜ぶと思うのです。講演形式で年に数回やっていただけませんか」とお姉さん。「とんでもない、名もない私が、そんなめっそうもない」と無論最初はお断り。ところが、ぐつぐつ煮える信玄鍋と焼酎の酔いの心地よさに、最後は「私ごときでよろしければ」と言ってしまったのである。

 当日のお客様は17名。これでgalleryは満杯なのだ。演目は「アイネ・クライネに隠された謎とモーツァルトの生涯」である。
 大学の教壇に立った経験が多少あるとはいうものの、お客さんのこんなに間近で話すのは初めてなので、かなり戸惑った。「私は専門家ではございません。でも、一般の人より、音楽における経験を少しだけ持っています。そんな立ち位置でざっくばらんにお話させていただきますので、どうかお気軽にお聞きください。そして、この会のあと、理解が深まって音楽がこれまでと違って聞こえたりしたら、こんなに嬉しいことはありません」との前口上でスタートした。
 講演は2時間。やはり、モーツァルトの人生を時間内に収めるのは難しく、「フリーメイソン」「死の年1791年の傑作群」「アイネ・クライネの謎」あたりが手薄になってしまったのは残念だった。だが、皆様の反応がとても良くて優しくて、素人の私は大変勇気づけられ、熱く喋らせていただいた。「珍しい曲も数多く聞けたし、話も新鮮で楽しめました」との評に、ほっと胸をなでおろした次第である。
 皆さんに楽しんでいただけたのは何よりだったが、よーく考えたら、一番楽しんだのはこの私ではないかと気がついた。こういう期限付きの催しがあると、いやおうなしに期日までにまとめなくてはいけない。一つのテーマを集中してやるとそれまで断片的だった事柄が系統的にまとまってくる。モーツァルトの音楽と人となりが、自分の中で一本筋が通ってきた。これは予期せぬ、だが、大きな収穫だった。来てくれた皆様、N氏ご姉弟、こういう場をご提供いただき、本当にありがとうございました。
 次回は、6月23日、「『ジークフリート牧歌』に見るワーグナーの愛の形と恋愛模様」と題して、ワーグナーの善人悪人判定から作曲家の恋愛事情を考察する予定だ。

(2)訃報三題

 このところ、クラシック界の大御所の訃報が相次いだ。5月18日、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウが、ミュンヘン近郊の自宅で、奥さんの元歌手ユリア・ヴァラディに看取られて亡くなった。86歳だった。そういえば、フィッシャー=ディースカウは、映画「朝な夕なに」の女優ルート・ロイヴェリックとかつて結婚していた時期があったと記憶している。意外な組み合わせである。
 彼が、ドイツ歌曲における20世紀最大のバリトン歌手であることに異を唱える人はいないだろう。私としては、シューベルト歌曲に目覚めたここ2−3年、特によく彼の歌唱を聴いたが、まさに世評どおりの大歌手だった。これほどドイツ歌曲を、オーソドックスに、自在に感情をコントロールして、美しく歌い上げる歌手は他にはいない。
 歌曲における人類最大の遺産はシューベルトの「冬の旅」だと思っているが、彼は「冬の旅」のスタジオ録音を7つ残している。これは、すべての歌手の最多であり、彼のレパートリーの最多でもある。フィッシャー=ディースカウは「冬の旅」の申し子なのである。だから他の歌手のは要らない。彼がポリーニとやった1978年8月23日、ザルツブルク音楽祭でのライヴは未CD化のままだが、相当の凄演と聞く。海賊盤ででもいいから、是非一度聴いてみたいものだ。
 これら「冬の旅」の最高の名唱は、第1回録音・1955年ジェラルド・ムーアとのEMI盤だ。これは自信を持って断言できる。さすらう若者の寂寞感をこれほどまでに見事に表出した歌唱は他にない(ただし、第11曲「春の夢」だけは、ブレンデルとやった1985年録音 PHILIPS盤がベストだ)。
 この録音は、彼が29歳のときのもの。この時点で「冬の旅」を極めちゃっているのだから凄い。ただし、この盤はモノラルだし、迫真の表現に肩が凝るのも事実だ。たまには気を緩めて聴きたいときもある。そんなときは、1971年ジェラルド・ムーアとのDGステレオ盤がいい。1955年盤より表情が軽めでモノクロームな美しさがある。

 去る5月25日、NHK-FMで、フィッシャー=ディースカウの追悼番組で掛かったのもこの1971年盤だった。このとき、アナウンサーが「畑中良輔さんからの追悼の言葉をお聞きください」と言ったのには驚いた。前の日に畑中さんの訃報を聞いていたからである。「フィッシャー=ディースカウはドイツ歌曲における偉大な山脈でした。彼の影響を受けなかった若い歌手はいないでしょう。喉への神経の使い方は尋常ではなかったし、ドイツ語に対する感受性は特別なものがありました。これほど深い境地に達した歌手はいませんでした。冥福をお祈りいたします」と喋られた。最後にアナウンサーは「これは5月22日に収録したものです。畑中さんは、その二日後の5月24日に90歳でお亡くなりになりました」と付け加えた。
 畑中さんの想い出はあまりないが、唯一つ、私の最も好きなソプラノ、フェリシティ・ロットの「シューベルト歌曲集」のレコ評が印象に残っている。「蒸留水のような清潔なシューベルトだが、シュワルツコップとは格が違う」と評された。後半の部分に反発を覚えたのは事実である。

 もっとびっくりしたのは、5月28日の朝日新聞で、吉田秀和翁の逝去を知らされたことだった。なぜなら、私は「クラ未知1月25日付」で書いたとおり、1月22日のサントリー・ホールで御姿を見ているのだ。御歳98歳で、鎌倉から音楽を聴きに出てこられている。実にお元気だ、この分なら当分ご健在だろうと思ったのに、あれから4ヶ月で帰らぬ人になってしまうとは、人の命は実に儚い。
 私は、数年前から書き続けているように、氏の評論スタイルには違和感を覚える者だ。婉曲的言い回しにどうしても馴染めないのである。唯一、1983年、「ひび割れた骨董品」と評したホロヴィッツ来日公演の朝日新聞「音楽展望」を除いて。「音楽展望」といえば、氏最後のそれは、昨年6月28日の「フェリシティ・ロットの歌声」だった。英国人ロットの芸術的土壌を、英国のオーディオ理念を通して解析していて、ユニークだった。
 3月10日、「小澤さんと音楽を語った日」というドキュメンタリーが放映された。これは、注目の新進チェリスト宮田大が、水戸室内管弦楽団との協演を通じて世界のオザワと触れ合った日々の記録だ。それには私が聴いたサントリー・ホールも含まれるが、印象的だったのはそれに先立つ1月20日、水戸芸術館での出来事だった。
 このプログラムは、1月19日と20日が水戸、22日が東京というスケジュール。小澤は19日のコンサート後、極度に体調を崩し、20日の出演をキャンセルした。水戸芸術館はすでに満員の観客で埋まり、そのほとんどが世界のオザワを目当てにしていた。「小澤征爾さんは昨日の演奏後体調を崩したため、出演はキャンセルさせていただきます。したがって本日の演奏は指揮者なしで行います」と主催者側のやや紋切り型のアナウンスに、聴衆はいきり立ち「そんな失礼な話はない」などと怒声が飛び交う。場内は異様な空気に包まれた。
 とそのとき、ここの館長・吉田秀和氏が立ち上がった。氏は静かに、しかし毅然とした口調で話し始めた。「小澤さんは『くたびれて立ち上がることができない。こんなことは初めてだ。申し訳ないけれど今日の演奏会はキャンセルさせてくれないか』と。それで、僕は演奏家の皆さんにそのことを言って、『あなた方どうしますか。キャンセルするならキャンセルするが』と訊いたところ、彼らは『小澤がこれだけ一生懸命やってきたのだから、この練習の成果を以って演奏したい』と全員がそう言いました。小澤でなくて残念だけど、演奏家たちがやると言うなら聴いてやろう、そうお考えの方はどうぞお残りください」と話し終えた瞬間、会場が嵐のような拍手に包まれたのだ。席を立つ人は一人もいなかった。
 そこには、音楽を愛し仲間を信じる一人の人間がいた。なにも隠さず誤魔化さずありのままを伝えて来場者に決を委ねる凛とした老人がいた。今や、この国から消え失せてしまった武士の矜持を見る思いがした。吉田秀和さん、安らかに!
 2012.05.20 (日)  私の中の中島みゆき3−中島みゆきは"演歌"である2
 ではもう少し田家さんの文章に沿って私の考えを述べさせていただきます。"もういいかげんに"と思われるでしょうが、私性格ちょっとしつこいもので・・・もう少しお付き合いください。田家さんが「演歌が好きな赤ちょうちんのおっさんは・・・・」なんて言うからいけないんですよ。

 「化粧」(アルバム「愛してくれと言ってくれ」に収録)の解釈で、女が手紙を取り返しに行くのは"自分自身"を奪還しに行くことだ、というのは私も同感です。でも片方で、みゆきさんにはまるで違う顔の失恋ソングもあることを認識する必要があります。
 前出「ひとり」の女は、失恋したあと逆に"手紙"を出そうとしています。"いつか遠い国から長い手紙を書いたら 封は切らずにかくしておいてよ 歳をとる日まで"と。きっといい思い出にしたい良い付き合いだったのでしょう。"手紙を取り返しに行く"と"新たに書いて出す"という、同じみゆきの中に正反対の対応があるのですから、その片一方を取り上げて演歌と比べるのは片手落ちだと思うのですがいかがでしょうか。
 次に、「化粧」の中の歌詞"バカだね"について一言。田家さんはこれと藤圭子の「新宿の女」の"バカだな"は全く違う意味合いだと仰っています。いわく、「化粧」の"バカだね"はただ自嘲しているだけの"バカだね"ではない、何故ならこの女は自分を振った男のところに出向いて自分の出した手紙を奪還しようとしているのだから。一方「新宿の女」の"バカだな"は後悔とあきらめ、嘆きとかなしみ、不幸と絶望にドップリ漬かっているだけの自嘲的"バカだな"だから。・・・・・これは私もほぼ同感です。が、一つだけ指摘しておきたいことがあります。
 それは藤圭子の"バカだな"は演歌の世界のしたたかな計算の産物であるということです。「新宿の女」の作者石坂まさをは、同時に藤圭子のマネージャーであり売り出しの仕掛け人でした。新人の藤を売り出すためにその薄幸さを強調するため母親を目の不自由な旅芸人に仕立て、藤を「演歌の星を背負った宿命の少女」として売り出したのです。だから歌の主人公を目一杯不幸に見せなくてはいけなかった。従って絶望にドップリ漬かっていると看破した田家さんは全く正しい読みをしたと思います。が、一方で石坂まさをの術中にはまってしまったことも事実なのです。もちろん私もこういうだけの女性は魅力を感じませんけれど。
 とはいえ藤圭子には、あとになって「ネオン街の女」という"女ってダメだが 生きてゆこうよ ネオンの街で"という前向きの歌もあります。「ダメな女だけど自分にはここしかないんだから、ネオン街で一生懸命に生きてゆこう」と歌うこの曲の中の女には、みゆきさんと同じ前向きの姿勢が感じられます。

 「うらみ・ます」(アルバム「生きていてもいいですか」に収録)はかなりこわいですね、男にとって。でも、こんなことした男なら恨まれて当然でしょうが。それはさておき、ここで田家さんは、"みゆきの女主人公は失恋しても相手の男を忘れようとはしない。そんな男を好きになった自分を忘れようとする。問題なのはアタシの方だ"と仰っていますが、この曲に関してはこれは違うと思います。問題なのはアタシということは、悪いのはアタシということになります。自分を悪いと思っている女が男をウラムかなあ。"アタシが落ちるかどうか友達と賭けをして近づいてきた、しかも女はフラれたあとがいちばん落ちやすいとか嘯いて"・・・・だから恨んだんですよね。田家さんの仰る"忘れたいのは自分、問題はアタシ"というのは反対で、"忘れてやりたいのは相手の男、悪いのは男"というのが正解だと思うのですが違いますか?
 それはさておき、私がこの歌の好きな部分は、後半の"ドアに爪でかいてゆくわ やさしくされて唯うれしかったと"の個所です。このフレーズに表れているみゆきさんの基本姿勢に胸を打たれるからです。こんな状況にあってなお、あれだけ憎い相手にある意味感謝している。この思想は後の「誕生」の"むなしい恋なんて ある筈がないと言ってよ 無駄な月日なんて ないと言ってよ"というフレーズでよりいっそう明確になります。すなわち、どんな恋だろうが、どんな結果になろうが、自分が経験したことに無駄なことなんてない、自分は自分を大切にして他人には思いやりを持ってやってきてきたのだから結果が悪くたって仕方がない、ただ一生懸命生きてきたことに意味があるのだから、というみゆきさんの姿勢がはっきりと示されるのです。

 さて、ここまで田家さんへの文句ばかり申し上げてきましたが、田家さんの標的であった「みゆきは演歌だ」と言っている方たちにも言っておきたいことがあります。
 彼らがそういう時に引き合いに出すみゆきさんの曲は、決まって「うらみ・ます」であり「化粧」であり、「元気ですか」であり、「わかれうた」であり、「ひとり上手」であったりします。この他にもいろいろあるのでしょうが、それでもみゆきさんの広範なレパートリーのほんの一部を対象としているにすぎないといわざるをえません。この辺だけを聴いて"中島みゆきは演歌だ"なんて断言して欲しくない。田家さんに申し上げたと全く同じように、中島みゆきを語るのならもっと中島みゆきを知ってからにして下さいと申し上げたい。それでも敢えて仰りたいのなら"中島のこの歌は演歌パターンに嵌る"くらいの言い方にしておいていただきたいものです。

 次回は、具体的な事例を挙げて、「演歌」と「みゆき歌」の共通性を検証したいと思います。
 2012.05.10 (木)  私の中の中島みゆき2−中島みゆきは"演歌"である1
 2003年は明けても暮れても中島みゆきだった。そんな折に読んだ「33回転の愛のかたち あなたはユーミン?それともみゆき?」(田家秀樹著、角川)という本が興味深かった。どこがといえば、演歌を馬鹿にしているところである。コノヤローだ! 一番カチンときた部分の章タイトルが「みゆきの歌が演歌なんて誰がいったのだろう」だったので、私の小論のタイトルを「中島みゆきは"演歌"である」と敢えてした。文体を、著者田家氏に対する手紙文にしているが、原文どおりで掲載させていただく。したがって「田家さん」という呼びかけが多いが、そこはまあ、適当にはしょってお読みいただければ幸いである。脱稿は2003年9月19日である。

中島みゆきは"演歌"である1

拝啓 田家秀樹様

 初めてお便りいたします。この便りを書くことになりましたのは、あなたが1984年に書かれました「33回転の愛のかたち あなたはユーミン?それともみゆき?」を、つい最近読んだからであります。
 この本の中で、松任谷由実と中島みゆきを様々な角度から絶妙に比較しながら書いておられ、全体的には楽しく読ませていただきました。まずは、感心した部分を箇条書きさせていただきます。
@ 詞の内容を「セリフ」でドラマの台本のように書き換えて述べておられるのは流石放送作家としての素養。大変分かりやすかった。
A 「恋人をなんと呼びますか?」の目の付け所と、ユーミンには"おまえ"という呼び方は一度も出てこないなどの検証は、実に的を射ていて感心した。
B 「『はじめまして』を聴いて」も、鋭い考察。「異国」から「はじめまして」の中の「僕たちの将来へ」のみゆき変遷の把握が見事。
 以上のように合点できることも少なくなかったのですが、どうしても納得できない部分がありました。それは「みゆきの歌が演歌だなんて誰がいったのだろう」の章です。

 そこでの田家さんの仰りたいことを要約すると「演歌に登場する女性は失恋すると自嘲と後悔とあきらめの中にどっぷりとつかってしまう。決して相手の男を責めない。こうなったのは、男が悪いのではなく、バカな自分が悪いと静かに身を引く。またこういう女は常に可愛い女と思われていたい。そして、演歌が好きな池袋の赤ちょうちんあたりで女房の愚痴など言いながら飲んでいるおやじたちは、きっとそういう女が好きなのだ。それに比べみゆきの歌に出てくる女は違う。みゆきの歌は演歌だなんて断じて違う。そんなこと一体誰が言ったのだ。僕は演歌は嫌いだ。」と、まあこんな主旨になろうかと思います。

 私が一番カチンときたのは「池袋あたりの赤ちょうちんで飲むおっさんは、きっとそんな女が好きなのだ」の件です。この言い方の中には、そんな演歌好きな普通の人間を、蔑んでいる趣があります。ここは「見逃すわけにはいかない」のです。
 みゆきの歌は演歌ではない→なぜなら演歌に登場する失恋女はあきらめにどっぷりつかってしまっているから→そんな、みゆきの歌と違う世界の女を好む演歌好きの男はくだらない存在だ・・・という三段論法が見えるからです(それにしても、これじゃ池袋の人怒りますよ)。

 まあ昔から演歌/歌謡曲は、藤山一郎さん淡谷のり子さんらクラシックの教育を受けた音大出の歌手の方々から、あからさまに見下されていた時期があったようです。今回も演歌が、今度は後発のニューミューッジク畑の方々から見下されている、これも歴史は繰り返すということなのかなあ、なんて思ったりしております。
 私を含めて演歌が好きな男たちは、そこに登場する女性が、"従順"だったり"迷惑掛けない女"だったり""可愛く思われたいといつも思っている"ことで演歌が好きなのではありません。演歌の持っている広大な世界が好きなのです。そこには女心の一途さ、未練、淡い恋心、薄幸の悲哀、ある種の情念、男の心意気、根性、孤独、哀感、などが描かれ、また、それらが絡み合っての恋、失恋、肉親の情、友情、望郷の念、都会への憧れ、青春の喜び等々の様々な精神世界が現出するからです。舞台も、故郷、都会、異国、山々、海、港、祭、盛り場、酒場、風物、行事、文学、歴史などなど、実に多彩です。
 まあもっと端的に言ってしまえば、私自身、演歌を聴いて「いいなあ」と感じる気持ちと、中島みゆきを聴いてそう感じる気持ちは全く同一ということです。私はこの感覚を信じます。決して田家さんの仰るような「"演歌の女"が好きだから演歌が好きなわけではない」ことをここで申し上げておきます。

 さて「池袋の赤ちょうちんのおっさん」の話に戻ります。田家さんの文章からは、「このような人たちは"演歌の女"が好きなのだからみゆきの歌など分るはずはない」とも聞こえます。そして、"こういう態度はよくないなあ"と私は思います。
 みゆきさんは、地位のある人も赤ちょうちんのおっさんのようなフツーの人も分け隔てなく見守ってくれている人なのではないですか。"あんたも頑張ってよ"って応援してくれる人なのではないですか。そんな公平さは、「永久欠番」(アルバム「歌でしか言えない」に収録)の「宇宙の掌の中 人は永久欠番」という詞に究極的に表れていると思いますが・・・。
 それから、池袋で安酒をかっくらっているおっさんは、「狼になりたい」で"ビールはまだか"と叫んでいる兄ぃさんとどこが違うのですか? 池袋のおっさんのことはバカにして、「狼になりたい」のお兄ぃさんには共感するというわけですか?田家さんだって「『タクシー・ドライバー』や『狼になりたい』が胸を打つのは、フツーの人たちが登場するからだ」と仰ってるではありませんか。池袋のおっさんこそそんなフツーな人の典型なはずです。

 もう一点問題にしたいのは、「『演歌の女』と『みゆきの女』は違う」という部分です。ケースによってそういう図式があることは認めますが、問題はその決め付けです。「『演歌の女』=『新宿の女』乃至『心のこり』の女である」という決め付けです。
 演歌に登場する女性はもっといろいろなタイプがいるし、登場するのは女性ばかりではないし、物語も失恋だけではないし、先ほども申し上げたようにもっともっと広範なテーマを持っています。みゆきさんに多種多様なテーマがあるようにです。
 「僕は演歌は嫌いだ」と仰られるのは自由です。でも「みゆきの歌はそんな"大嫌いな演歌"とは違うんだ」と仰るのなら、もっと演歌全体を見て欲しいと思うのです。あなたの捉える矮小な演歌の世界を基準に中島みゆきの歌と比較されては、俎上に上げられた演歌が可哀想です。公正さを欠きます。だから私は、演歌にはもっともっといろいろな歌があるし、そのような歌の中には「みゆきさんの歌と共通するものがたくさんある」ということを教示させていただこうと思うのです。

 田家さんは、演歌の失恋女には一つのパターンがあると仰っています。「男に振られる→振られた私がバカ→もっと尽くせばよかった→それでも、あなたが好き」という。 ここで申し上げたいのは、最後の「それでもあなたが好き」というあなたの嫌いな演歌女パターンとみゆきさん「夏土産」(アルバム「予感」に収録)の「知らないふりしてきたのは 私 まだあなたが好きだから」の女性はどこが違うか、ということです。振られちゃった女とふられ途上の女、という失恋深度の違いはありますが、本質的には同じです。
 もうひとつ田家さんは「演歌の女は一様に"常にかわいい女と思われたい"と思っている」と仰っていますが、この世の中で好きな男の前で"かわいいと思われたくない"女性っているのでしょうか。現にみゆきさんだって「ひとり」の中で"出会いの言葉を忘れないでね だれかにほめてもらったことなど あれきりのことだもの"と歌っているではないですか。こういう可愛い表現にも気づいていただきたい。これに気づかずにみゆきさんのカリスマ性ばかり見ていると、みゆきさんを見誤ってしまうし、彼女返って恐縮してしまうんじゃないですかねえ。「田家さん、私だって可愛い女と思われたいんだけどサ・・・」なんてね。
 2012.04.20 (金)  私の中の中島みゆき1〜私的一元的中島みゆき論
 会社時代からの旧友M嬢からメールがあった。中島みゆきのCDが欲しいという。彼女のスウェーデン留学時代からの友人がご所望なのだそうだ。M嬢は留学後日本に帰ったが、友人はそのままスウェーデンに残り、現在もヨーテボリに在住、ニット作家として活躍しているとのことだ。

 留学時代、ボロースというスウェーデンの田舎町で、M嬢と友人は、もう一人の友人が日本から持ち込んだ中島みゆきのカセットを、テープが擦り切れるまで聴きまくったという。「時代」の「今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ」という詩に、随分と勇気付けられたとも。中島みゆきの歌は、彼女たちにとって、まさに望郷の歌であり青春そのものだった。
 ところが、そのカセットテープの主は、39歳の時、くも膜下出血で亡くなってしまう。生涯の友を亡くしたM嬢は、以来中島みゆきを封印していた。それが今回のことで、「解禁しよう」という気になった。月日は流れたのだ。
 私は、M嬢に中島みゆきのCD-Rを二組送った。スウェーデンと日本に分かれた友人同士が、数千キロを隔てて、中島みゆきを聴いている。亡き友への鎮魂歌として。

 私はずっと中島みゆきのファンである。1975年、デビュー・シングル「アザミ嬢のララバイ」で注目した直後、「時代」を引っさげ、世界歌謡祭でグランプリを獲った。その後はちょくちょくアルバムを買うようになるが、特に1979年リリースの「親愛なる者へ」は気に入り、中でも「タクシードライバー」には心底しびれた・・・・・強がっているけど本当は脆い女のいじらしさと、そして、そんな女にさりげなく応対するタクシードライバーのやさしさにジーンときた。"中島みゆきは俺たち庶民の味方だ"と確信したものだ。
 その後、世間には様々な「中島みゆき論」が登場する。1977年、「わかれうた」がシングル・ヒットするなど、そのころ彼女はもはやメジャーな存在になっていた。しかるに、「みゆき論」は、おしなべて女の「情念」「恐さ」にスポットを当てており、世間では中島の歌は「暗い」という印象に終始していたように思う。私の友人に中島の話をすると、決まって「暗い」という答えが返ってきたものだ。

 時は流れて「地上の星」が大ブレーク。2002年のNHK紅白歌合戦では、黒四ダムからの中継が注目を集めた。そのころが私の「中島みゆきルネサンス」だった。全オリジナル・アルバムを入手して聞きまくる。聞くと気に入った曲とそうでもない曲に仕分けられる。自分のベストを作りたくなる。いつものパターンである。
 そこで出来たのが「M'S BALLADS」。M嬢に送った1枚がこれである。BALLADと名づけたのは、選んだ曲のほとんどが slow & mellow だったからで、ここでも「究極のシューベルト歌曲集」の傾向が出ていた?! 曲目は以下のとおり。
1海よ 2渚便り 3ホームにて 4強がりはよせヨ 5誰のせいでもない雨が 6夏土産 7それ以上言わないで 8あなたが海を見ているうちに 9時は流れて 10泣きたい夜に 11永久欠番 12誕生 13肩に降る雨 14歌姫
 これをCD-Rにコピーして聞きまくった。仲のいい友人にも配ったりもした。聞くと書きたくなる。そこで書いたのが「私的一元的中島みゆき論」。今回は、それを発表させていただく。書いたのは2003年8月である。

M'S BALLADSと私的一面的中島みゆき論

 中島みゆきは、デビュー以来28年間休むことなく第一線で活躍しつづけているが、ここにきて、昨年末NHK紅白歌合戦に出場するなど大ブレーク。そのとき歌った「地上の星」は、"中高年の応援歌"などといわれ社会現象にまでなった。
 こんな時期だからこそ、中島みゆきの本質を自分なりに探ってみたくなった。そのために「中島みゆき〜マイ・フェバリット」を作ろうと思い立ち、1976年のファースト・アルバム「私の声が聞こえますか」から2002年の「おとぎばなし」まで、30枚のオリジナル・アルバムの中から"いいなあこの歌"と単純に響いた作品を選んだら、14曲となった。
 失恋、別離、望郷、人生、愛、などのテーマを中島みゆきは彼女にしかない感性で見事に作り歌い上げている。まるで万華鏡。煌くばかりの世界だ。
 選んだほとんどの作品が、たまたまスロー&ミディアム・テンポの曲ばかりだったので、タイトルを「M'S BALLADS」とした。
 上記のように、テーマは多岐に渡っているが、その底に流れる共通した精神とはなんなのか? アーティストとしての特性は? それらを探ってみたい。

 タイトルを"私的一面的"としたのは、この拙文が彼女の多種多様膨大なレパートリー全てを対象にしているわけではなく、自分がいいと感じた14曲に絞って書いた小論であること。また詩人としての中島みゆきは論じているが、作曲家とシンガーの部分には言及していないことによる。要するに私的で一面的で独断的な中島みゆき論であり、単に"だから自分は中島みゆきが好きなのだ"という告白文でしかない。

 中島みゆきの歌の根底に流れる一貫した思想は、最初期の「時代」にあるように「生きることへの肯定」=プラス志向だ。"今日は倒れた旅人たちも 生まれ変って歩き出すよ"という無常で前向きの精神がこのあとも一貫して流れており、人生を歌った歌はもちろん、つらい失恋の歌でも「もういやだ、死んでしまおう」とはならず最後のところでは絶対にへこたれない。
 この中では最もつらい失恋の歌である「時は流れて」でも、"明日などないと 酒をあおれば なお褪めて 今日もまだ生きていた 人生はそんなもの"とあるし、「肩に降る雨」で"あの人なしでは1秒も生きてはゆけないと思ってた"のに、冷たい雨の中を歩きつづけたあと"肩に降る雨の冷たさは生きろと叫ぶ誰かの声、生きたいと迷う自分の声"となる。
 さらに「誕生」の"泣きながら生まれる子供のように もう一度生きるため泣いてきたのね"、"Remember 生まれたこと 出逢ったこと 一緒に生きてたこと"はまさに人生肯定の典型だし"ひとりでも私は生きられるけど でもだれかとならば 人生ははるかに違う"にはプラス志向が顕著に表れている。

 それでは彼女の作品作りの姿勢=アーティストとしての特質はなんなのだろう。一聴して感じ取れるのは「語り口のうまさ」、「ドラマチックな構成力」、「ハッとさせる仕掛け」など"音楽創りの名工"としての中島みゆきの才能だ。
 たとえば「永久欠番」。前半は、"人間の存在などちっぽけなものでどんな人間でも必ず忘れ去られてしまう"と言っておいて、最後に、"宇宙はひとりひとりに「永久欠番」というかけがえのない価値を与える"と歌う。前半で絶望的な気持ちになった聴き手は最後で"よかった"と救われる。このギャップが大きな感動を呼ぶことになる。
 また「夏土産」では、前段で「嘘」というキイワードを示しておいて、中盤でその根拠を提出し聴き手をハっとさせ、終盤ではそんな嘘をついた男に対して"知らないふりしてきたのは 私 まだあなたが好きだから"と切ない女心を歌う。この物語構成の見事さ。
 「あなたが海を見ているうちに」の心理描写と情景描写もとてつもない。"風は夕風 心を抜けて 背中を抜けて あなたへ帰る""だれか 車で待ってるみたいな 少し気取った 甘い足どりは せめて最後の 私のお芝居"など心理状態と情景がこれほどくっきり浮かんでくる歌は希だ。そして、"こんな海辺に するんじゃなかった いいかげんな 街ならよかった"の転調を伴って放つ鮮烈極まりない響き。正に比類のない芸術品だ。
 さらに、特筆すべきは、それらを語る目線が"常にわれわれ庶民と同じ高さに設定されている"ということだ。そして彼女のその目線から、われわれに"放っておけない気持ち"(=やさしきおせっかい)が発せられるのである。
 例えば前出「誕生」の"思い出せないなら わたし いつでもあなたに言う"や「泣きたい夜」の"一人はいけない あたしのそばにおいで"がそうだ。また前出「永久欠番」の"100億の人々が 忘れても 見捨てても 宇宙の掌の中 人は永久欠番"というのもそうだ。
 また表現手段として、高いところから見たい時には別のものに託すという手法をとっているところが興味深い。「地上の星」のように空の上から見たい時にはツバメに託す。歌うことで人々を導いてやりたいという「歌姫」では自分が高いところから語ることをせず聞き手に「歌姫」への願望として語らせている。常に歌う主体の目線は聞き手である我々と同じなのだ。

 ちょっと意外だったのが「海」に関連する歌が結構多かったことだ。この中にも7曲に海が出てくる。「渚便り」の"風に吹かれて渚にいれば みんなきれいに見えてくる"や「海よ」の"おまえが泣いてる夜に 遠い故郷の歌を歌おう"などに海への愛着が顕著に表れている。
 あと、前出の「あなたが海を見ているうちに」や「夏土産」も海を舞台にした名品である。
 「歌姫」も"スカートの裾を 潮風になげて"や"遠ざかる船のデッキに立つ自分が見える"など、海絡みの描写での表現力が光る。中島みゆきには海絡みの名曲が多い。

 中島みゆきは初心を忘れることなく持ちつづけ、人生を投げやりに送ったり揶揄したりすることなく、どんなにつらくともどんなに小さくともそれはかけがえのないものなのだからやっぱり大切に生きて行こうよと呼びかけてくれる。それもお説教ではなく、同じ目線で一緒に悩み考えてみてくれる。ひたむきに生きつづける人生の旅人である人間・中島みゆきが、自らに備わった類まれなる芸術的表現力を駆使して作り出す数々の作品が、優しく暖かくわれわれの心に響く理由は正にここにあると思う。だから彼女の歌はまさしく「僕らの人生の応援歌」なのだ。
 2012.04.05 (木)  痛快!芥川賞作家田中慎弥D 記者会見発言の真相
 「クラ未知」芥川賞シリーズは今回で7回を数える。文学賞なるものにほとんど興味を持ったことのない私がここまでのめり込んだのは、一に田中慎弥氏の記者会見にあった。あの不機嫌な態度は確かに衝撃的だったが、私が興味を持ったのはその矛先が真っ向石原慎太郎に向けられていることだった。今回はこのあたりを中心に、改めて記者会見を振り返り、その裏にある田中氏の心理の真相を探って、シリーズを終えたいと思う。
「確かシャーリー・マクレーンだったと思いますが、アカデミー賞に何度も候補になったあと受賞したときに、『私がもらって当然だ』と言ったそうですが、だいたいそんな感じです」
 この台詞は、田中氏の受賞記者会見での第一声で、「今のお気持ちは?」というお決まりの質問に答えたものだ。
 シャーリー・マクレーン(1934−)の名前が出たのは正直嬉しかった。何を隠そう私の大のご贔屓女優である。「アパートの鍵貸します」(1960)と「あなただけ今晩は」(1963)は二つともビリー・ワイルダー(1906−2002)の監督作品で、甲乙つけ難い面白さ。2作ともアカデミー主演女優賞ノミネート作品だ。
 「アパートの鍵貸します」は、相手役のジャック・レモン(1925−2001)も主演男優賞にノミネートされていた。彼が扮する大会社の平サラリーマンは、自分のアパートの部屋を複数の上役の情事のために貸している。その中の一組に同じ会社のエレベーター嬢のマクレーンがいる。レモンが思いを寄せる女の子だ。愛する彼女の不倫の場が自分のアパート、でも、上司には逆らえない。「サラリーマンはつらいよ」である。可笑しさと情けなさと純朴さが織り成す男の哀感。その風情がたまらなくいい。これはジャック・レモンの映画だと思う。
 「あなただけ今晩は」では、シャーリー・マクレーンはパリの下町で商売するイルマという名の娼婦を演じる。キュートで天真爛漫、でもどこかに影と知性がある。これぞマクレーン一流のキャラだ。相手役はやはりジャック・レモンだが、こちらはどちらかといえばシャーリー・マクレーンの映画か。とはいえ、これらは全て名匠ワイルダー凄腕の産物。でも、これはまた別の話だ。
 レモンは一途にイルマに惚れる警官役。取り締まるはずがヒモになり、稼がせるはずが、変装して夜も彼女の相手をするようになる。客を取らせないために。それほどイルマのことが好きなのである。夜支払った金は朝自分に戻る。これじゃ経済が回らないから、深夜から朝まで市場で労働。「これじゃ体にいいわけないヨ」である。毎日朝帰りのレモンにイルマは浮気と勘違い。言い訳しないレモンに愛想をつかしたイルマは、変装イギリス紳士と駆け落ちの約束。そいつは俺だよ! どうするジャック・レモン。この顛末が実に見事な完成度。そして、艶っぽくもいじらしいマクレーンの演技はまさに主演女優賞ものだった。

 シャーリー・マクレーンは、この前にも「走り来る人々」(1958)でノミネートされており、この後「愛と喝采の日々」(1977)を経て「愛と追憶の日々」(1983)で、念願の主演女優賞に輝いた。5度目の正直だった。そのときの受賞スピーチは「私の芸暦はこの賞と同じくらい長いの。オスカーへの夢を26年間も見続けさせてくれて、ありがとう」だった。田中氏が言った「私がもらって当然」はややニュアンスが違うが、彼女のウィットの裏にある真意を彼なりに解釈したのだろう。
 田中氏も「共喰い」での芥川賞受賞は同じ5回目だった。最初のノミネートから5年目は、 シャーリー・マクレーンの26年に比べれば全然短い。ただし、芥川賞の場合、"5年以上経ったら新人とみなされないので受賞権利を失効する"という暗黙の了解がある(といわれている)から、彼としては背水の陣だったかもしれない。
 ヘンリー・フォンダは、主演男優賞の最初のノミネートが1940年「怒りの葡萄」で、獲ったのは1981年の「黄昏」だったからその間なんと41年、これは気の遠くなるような年月。因みに同じ映画で主演女優賞を獲得したキャサリーン・ヘプバーンは4度目の受賞で、これはオスカーの最多受賞記録である。
「1回目で受賞というのが一番いいけれど、5回目というのは間抜けです」
 これは私の勝手な解釈だが、「間抜け」というのは審査員にも向けられているような気がする。田中氏5つのノミネート作品のうち、読んだのは「神様のいない日本シリーズ」と「第三紀層の魚」と「共喰い」だけなので断言はできないが、完成度といい面白さといい「神様のいない日本シリーズ」が断トツの出来だと思う。独断かなあ? そのときの受賞作は、津村記久子の「ポトスライムの舟」であるが、この作品のことは3月1日付に書いたとおり、「私にとってはただのスカ」である。しかるに、「神様のいない日本シリーズ」に及ぶべくもないこの作品に、選考委員は賞を与えた。田中氏が「なんて間抜けな人たちだ」と思っても不思議はない?
 また、このときのみならず、選考委員のコメントにはどうかと思うものが多々ある。これも2月15日付で書いたが、今回のもうひとりの受賞者円城塔氏に関するものはその最たるものだった。確かに難解な小説だが、在野には分かっている人はたくさんいるのだから、そういう方たちに訊くなりして理解する努力をすべきなのに、「解らないけど何かありそう」とか「解らないから他の委員に乗ることにした」などとのたまう。こんなのは選考委員として失格もいいところ。まあ、50年以上も前に、かの「太陽の季節」を選んじゃうような集団だから、「間抜け」は何も今に始まったことではないが。
「もし断ったって聞いて気の小さい選考委員が倒れたりなんかしたら都政が混乱しますので、都知事閣下と東京都民各位のためにもらっといてやる」
「どうせなら×がよかった。石原さんに褒められるほどヤキは回ってないと思いますよ、私は」
「まあ、理解はし合えない人」
「石原さんを好きな人ってそんなにいないと思うし、嫌われるのがあの人の仕事じゃないですか」
 これらはすべて石原慎太郎に向けたものである。無論会見前日の「ばかみたいな作品ばっかりだよ」なる慎太郎発言を踏まえてのものだが、田中氏の反応はいかにも過激である。ここからは、彼の石原慎太郎に対する敵意にも似た感情が読み取れる。
 田中氏は、高校卒業後働く気は全くなく、家にこもって作家を目指した。作家として世に出るまでに「源氏物語」を5回も読んだというから、その読書量は相当なもの。芥川賞作家の作品などは、ほぼ読破していたはずだ。当然あの「太陽の季節」も。
 彼は、「こんなものが芥川賞か。時代とはいえ、ひどい小説だ」と思ったに違いない。「こんなものが獲れるなら、自分の方がまだましだ」とも。もしやこれが、5回もトライできた一つの原動力になった?
 田中氏の描く男たちは、「神様のいない日本シリーズ」の祖父のように無頼な男、父の様な無骨な男、「第三紀層の魚」の祖父のような一途な男、「共喰い」の父のような変人など、一筋縄では行かない男たちがひしめいている。「でも」と田中氏は言うだろう「石原慎太郎の書いた竜哉のような卑怯な男は、私にはよう書けん」。「理解し合えない人」と言ったのはそういうことだろう。
 また、「ばかみたいな作品ばかりだ。自分の人生を反映したリアリティがない。つまり、心身性が感じられない」の発言にも正直あきれたことだろう。「他人の人生など分かるはずもないのに、どうして"人生を反映"云々が言えるのか? それに、作品に人生が反映する必要なんて、どこにある!?」と。
 私がレコード会社の宣伝部にいた1980年ころ、音楽誌の取材で発した山下達郎の言葉が忘れられない。「音楽って生き様が表れるものですが、あなたの生き様は?」という質問に対し、「生き様って何ですか? 音楽が人生を反映する必要があるのですか」と彼は言った。田中氏の場合と同じく、ややムっとして。確かに彼の音楽に人生は感じられない。田中氏も石原慎太郎に同じことを言いたかったのではないか。音楽も小説もいろいろな形があっていいのだから。
 さらに、田中氏は「石原さんの場合は小説に人生が反映している訳だから、竜哉の卑怯さは彼の人生の反映のはずだ」と解釈したことだろう。だから「石原さんに褒められるほどヤキは回っていない」と言ったのである。
 ただし、これはあくまで小説家・石原慎太郎に向けた言葉。政治家・石原慎太郎はどうぞご勝手にだ。それが「おじいちゃん新党にいそしんでくれればいい」発言になった。

 田中氏は、「太陽の季節」の主人公の「卑怯」を知っていた。それが受賞前日の「ばかみたいな作品ばかり、人生を反映したリアリティがない」という石原発言に、「あんたには言われたくない」とカチンときた。これが不機嫌記者会見の真相である。痛快なるかな田中慎弥さん! 「芥川賞」に注目させてくれてありがとう!!
 2012.03.20 (火)  痛快!芥川賞作家田中慎弥C 作家としての石原慎太郎
 田中慎弥氏に「おじいちゃん新党結成にいそしんでいただければ」と言われた石原慎太郎が世に出たのは、1956年「太陽の季節」の芥川賞受賞だった。彼のキャリアの原点である。
 石原は今回限りで芥川賞選考委員辞任宣言をしたが、その言い分は「ばかみたいな作品ばかりだ。自分の人生を反映したリアリティがない。つまり、心身性が感じられないということだ。いつか若い人が出てきて、足をすくわれるという戦慄を期待したが、全然刺激にならなかった」であった。相も変らぬ身勝手な言い様だが、それはさておき、この言から「小説は自己の反映であるべきだ」が彼の持論と読み取れる。しからば、石原慎太郎の原点にして自己の反映である「太陽の季節」を検証してみたい。

「太陽の季節」という小説

 主人公は津川竜哉、拳闘クラブに所属する大学生である。ヨットを持つ金持ち中産階級のお坊ちゃんで、住まいは湘南・逗子。そんな坊やが仲間としでかす悪事の数々を描いた小説が「太陽の季節」である。
 彼と彼の仲間は何をやったか? 文中からそのまんま書き写す。「女、取引き、喧嘩、恐喝と彼らの悪徳が追求される題材は限りがない」。
 では、なぜそんな悪事を行うのか? 「人々が彼らを非難する土台となす大人達のモラルこそ、実は彼らが激しく嫌悪し、無意識に壊そうとしているものなのだ。大人達が拡げたと思った世界は、実際には逆にせばめられているのだ。彼等はもっと開けっ拡げた生々しい世界を要求する」。
そんな薄っぺらな気持ちで、竜哉という大学生は、銀座で女をナンパし、兄弟に売り、孕ませ、堕胎した彼女を死なせ、葬式で遺影にモノを投げつけ、「馬鹿野郎っ!」と叫ぶ。
 お金持ちのお坊ちゃんが「大人なんかになにがわかる」とか言いながら、粋がって無軌道な行動をするだけの破廉恥な三文小説だ。

 主人公の行為を差し置いても、ヘドが出そうな台詞や表現も少なくない。
「確かに、時と場合によっては、女は彼等にとって欠くことの出来ぬ装身具であった」
「ヨットと較べりゃ車で引っかかるなんて程度の低い女に決まってらあ」
「できた子をいちいち生ませる馬鹿が何処にいる」など。実に低品位。

 表現なら気持ち悪がればそれで済むが、内容的にどうしても見逃せない箇所が二つある。一つは、竜哉が「出来た子供を産ませるか堕ろすかで揺れるが結局は堕ろすことに決める」シチュエ−ションである。
「別に生めとは言わないよ。好きなようにしろよ。子供が出来ても悪くないって言っただけだ」 曖昧な答えに英子がいらいらするのを見て彼は面白がった。元々、子供が欲しいと思う彼の心は、通りすがりのウィンドに覗いたネクタイが急に欲しくなる気まぐれのようなものなのだ。

こんな風にして、彼は一月の間英子を引っぱっておいた。がある新聞で、家庭で子供を抱いたチャンピオンの写真を見て彼は顔を顰めると思い立った。丹前をはだけたその選手は、だらしない顔をして笑っている。竜哉は子供を始末することに決心した。 赤ん坊は、スポーツマンとしての彼の妙な気取りのために殺されたのだ。
 生むも堕ろすもすべては「気まぐれ」。貴い命をネクタイに見立て、「始末する」という野卑な言葉で形容する。堕ろすと決めたきっかけはただの新聞の写真。気まぐれで女を死に至らしめたのに、逆に相手の苛立ちを面白がり、挙句は葬儀の場で「バカヤロー」だ。"スポーツマンとしての妙な気取り"とする表現に至っては、最早救いようのない下劣さ。スポーツマンに失礼の無節操非人道の極みである。
 もう一つはさらに酷い。これぞ石原慎太郎の正体である。

正体見たり慎太郎

 竜哉が仲間とキャバレーで遊んでいるとき、いつか英子と連れ立っていた男に出っくわす。バンドのトランペット吹きだという。なにやら面白くない竜哉は、腹いせに、ダンスをするその男の足を踏みつけてやろうとフロアに女と踏み込むが、はずみで逆にその男に足を踏まれてしまう。男は無視、竜哉は更に頭に血が上る。「あいつを痛めつけてやれ」と竜哉がとった行動が下記である。
女給に地回りは入っていないか部屋中を見るように命じてから、その心配がないと知るやみんなを集めて手筈を決めたのだ。一番小柄でひょうきんな田宮が、派手な台詞で男を呼んでいる。指を怪我せぬように西村のバンドを抜くと竜哉は掌にきっちり巻きつけた。田宮一人と見て男が釣られて席を立ち階段の上まで来た時、機を見て田宮が言った。「手前のどこが頭に来たか教えてやろうか。聞きてえか」「ああ」「そうかい、それじゃ、後ろの人に聞いてみな」言われて思わず振り向きざまを、トランペット吹きの唇と鼻の辺りに狙いをつけて力一杯竜哉が殴りつけた。男は足を浮かし飛ぶようにして下の踊り場まで落っこちたのだ。
 このあと、竜哉は無抵抗の相手にアッパーカットを見舞い、「明日から当分、ペットの代わりにテンポの合わねえマラカスでも振ってろ」と罵る。そしてエピソードをこう締めくくる。「彼にとって大切なことは、自分が一番したいことを、したいように行ったかと言うことだった。自分が満足したか否か、その他の感情は取るに足らない」。

 これには正直慄然とした。これぞ正に卑怯の極みである。まず、警察がいないかどうか確かめさせる。見られてさえいなければよしとするさもしい根性だ。自分だけは掌にバンドを巻き怪我をしない体勢をとる。これも薄汚い了見。あとは、一人の標的に二人掛りで対応。一人におびき寄せさせて、振り向きざまを一発見舞う。不意を衝かれた相手はひとたまりもない。さらに弱って無抵抗な敵にダメ押しの一発。そこで「ザマーみやがれ」と悪態をつく。そして、自分は「したいことをしただけだ」と嘯く。
 一人を多勢で痛めつけることを卑怯と言う。用意のない相手に不意を食らわすことを禁じ手と言う。見られてなければなにをやってもいいは卑屈と言う。したいことをすることを身勝手と言う。
 ボクシングの心得があるのだから、素人相手には、普通にやっても間違いなく勝てるものを、自分だけ準備し、人数を掛け、不意を食らわす。こんな不公平な話がどこにある。これ以上卑怯な行為が一体どこにあるというのか!
 若者が世の中に不満を持ち無軌道な行動に走る小説や映画は多々ある。が、しかし、そこには理解できる部分が多少なりとも存在するものだ。ただし、小説「太陽の季節」には断じてそれがない。甘ったれお坊ちゃんの卑怯な言動があるだけだ。
 石原慎太郎は冒頭で書いたように「小説は書いた人間の心身性の反映でなければならない」という言い方をしている。ならばこの竜哉の言動は、作者の心であり作者の分身ということになる。彼は、半世紀を隔てて、自らを卑怯者と認めたのである。

 「太陽の季節」は唾棄すべき小説である。そんな作品に芥川賞が与えられたのである。正にこれは日本文学史上の痛恨事だろう。だが一方で、「太陽の季節」は、それまで世間一般にはほとんど注目されることのなかった芥川賞という文学賞を、一気にメジャーに押し上げたという評価がある。だがそれは、小説そのもののせいではなく、そこから派生した「太陽族」ブームという社会現象がもたらした"功績"に過ぎない。
 映画作りのプロたちは、原作の卑しさを、「これならまだ許せる」ギリギリのところまで脚色し切って世に送り出した。それは上記"卑怯のシーン"を見れば一目瞭然。それは、彼らに良識が働いてプロの技を繰り出した成果である。映画は大ヒット。当時映画は娯楽の王様。観客動員数は年間11億人と現在の約10倍、注目度は月とスッポンである。
 原作者が現役の大学生で芥川賞の最年少受賞者(当時)というインパクトもブームに拍車をかけたことだろう。さらにその弟が、この作品を踏み台にして昭和のスーパースターへのし上ってゆくのである。こんな劇的な話があるだろうか。石原はそれを自らの才能と勘違いした。石原のデビュー以来一貫して続く不遜極まりない言動が、それを基点としているのは明白である。彼の自信は勘違いの産物なのである。

 「太陽の季節」はさまざまな偶然が幾重にも重なって生まれた奇跡的なブームだった。その基点が小説だったことは確かだが、だからといってそれが優れた作品では断じてない。それどころかこれほど低俗な小説も珍しい。それは、読んだ者なら誰もが判る簡単な理屈である。
 2012.03.10 (土)  痛快!芥川賞作家田中慎弥B「共喰い」を読んで
 第146回芥川賞受賞作「共喰い」は、チョイ読みまるで気持ちの悪い作品である。ある識者は「これは中上健次の世界だ」と言うが、読んだことがないし読もうとも思わない。まあ、私にとって、この手の作品に免疫がないというのは確かにある。

あらすじ

 時は昭和63年7月、ところは川辺という河口近くの田舎町。主人公は17才の高校生・篠垣遠馬。彼は、父親・円(50歳前)と父の女で港で飲み屋をやっている琴子(35歳)との3人暮らし。琴子は円の子供を身ごもっている。実の母親は、近くで魚屋をやっている60歳手前の仁子。彼女は右手首から先は義手、女は上がっている。遠馬には一歳年上の女子高生・会田千種という女友達がいて、年柄二人は性行為に耽っている。
 町中を流れる川には汚物や廃棄物が流れ込み岸辺にはヘドロ、悪臭も強い。そんな川の姿形を高台の神社から見下ろして、父が「割れ目」と形容した。その神社には鳥居があって、「生理中の女は潜ってはならない」という村の言い伝えがある。
 遠馬は、ある日の性交時に相手の首を絞めてから、千種とは疎遠になってしまう。父にはそのとき殴るという性癖があることを知る遠馬は、自分にも同じ血が流れている嫌悪感を打ち消すことができなかった。
 盆の祭りの二日前、二人が神社で出っくわしたとき、千種が背中越しに「あさってここで待ってる」と言った声が遠馬の耳に残った。
 その日は、川が氾濫するほどのひどい大雨だった。琴子は子供に危害がおよばないようにと家出してしまう。それを知った父は、彼女を追って狂ったように家を飛び出していった。遠馬はこんな雨じゃ千種は来ないと出かけようとはしなかった。
 琴子を探して神社に行った父は、雨中にたたずむ千種に出会い、欲望を押さえきれずに犯してしまう。これを知った母・仁子は父の腹に義手をぶち込み殺す。翌日、神社にいた仁子を警察が連行したとき、彼女は鳥居を潜らなかった。
 9月、面会が許された遠馬は拘置所で母に会った。しばし話をしたあと、別れ際に遠馬が「差し入れするもん、ない?」と訊くが、母は「なあんもない」と答える。生理用品は拘置所が出してくれるのだろう、と遠馬は思った。

 以上があらすじである。とにかくドロドロなのである。町の景色も川の姿も臭いも父とその女たちの関わりも主人公の頭の中も。冒頭で「気持ちの悪い」と言ったのはこういうことだ。ところが、読後感がなぜか爽やかなのだ。これは一体どこから来るのか?

魅力的な女たち

 変な性癖を持つならず者の父とその血を引くことに悩む息子がいる。実に薄気味悪い男たちだ。ところが、二人を取り巻く女性たちの立ち居振る舞いに一本の筋が通っている。これがこの小説に凛とした佇まいを与えているのだ。
 まずは、琴子さん。彼女は親父の悪口を言う遠馬に「どれだけいやなことがあろうが、自分の親のこと、ばかって言うの、よくないよ」と諭す。人の道を説いている。
 次に千種。雨なのに神社に行ったことを咎める遠馬に「うち、待っちょるって言うたやろ」と毅然として言うあたりが、ブレてない。決めたことはなにがあっても守るのである。そして、「殺す」と言って出てゆく仁子のあとを追おうとした遠馬に「殺してくれるなら誰でもええやんけ」と言い放つ。これにはキッパリとした凄みがある。
 圧巻は母・仁子さんである。近所で夫が別の女と暮らしていても「私が女じゃなくなったんだから」と許している。その御本人とも仲良く近所づきあいをしている。父と子が鰻釣りで立ち寄れば丼を作ってやる。信心深く毎日神社にお参りする。まるでヘドロに咲いた観音様だ。
 そんな仁子さんが、息子の恋人を犯した夫を殺すのである。道を外したものに死という制裁を与えたのである。母として女として。普段は優しいが、不正は断じて許さない。この姿勢が作品の精神性を気高いものにしている。「第三紀層の魚」でもそうだが、田中氏の作品にはいつも母へのオマージュがある。
 仁子さんは、殺した翌日も日課どおり神社にお参りし、そこで警察に捕まる。そして、彼女は鳥居を潜らずに連行されていった。

鳥居を潜らなかった女

 上がっているはずの仁子さんが「鳥居を潜らなかった」。このエピソードが秀逸だ。そしてこれを礎としたラストシーンの余韻に趣がある。
 選考委員の山田詠美氏はこれについて、「でも、最後の一行はどうなんだろう。息子のお前になんぞ生理用品の心配をされる筋合いはねえ!(獄中のお母さんを代弁してみました)」と評している。なんと浅読みにして下品な言い様だろう。
 仁子さんが鳥居を潜らなかったのは、「男を殺したのは"女としての"粛清だった」という意思表示なのである。物語前段で「あの男は、相手がちゃんとした女じゃったらやるんよ」という台詞がある。だから、仁子さんは、殺したときには「ちゃんとした女」でなければならなかったのだ。
 そのとき月のものが本当に来ていたかもしれないし、来ていなかったかもしれない。それは判らない。私は来ていなかったと考える。婦人科的知識がないので判然としないが、一旦止まったものが復活するってよくあることなのだろうか? まあ、それは置いておくとして、大事なことは、「仁子さんは鳥居を潜らない自分でありたかった。あの男を殺した自分は女でなければならなかった。そして同時に、他人にもそれを示したかった」ということである。
 それを見た村人が「すごい仁子さん、やまっちょったもんが、また始まったんじゃ」と思うのも、それを聞きつけた遠馬が「生理用品を差し入れてやろう」と思うのも自然の流れだ。だが仁子さんは、実際「なあんもない」のではなかろうか。
 この本人と息子と村人各々違う心理のありようが、最終局面を交錯した余韻で満たすのである。この仕掛けこそ、田中慎弥の真骨頂であり、猥雑な物語を芸術に昇華させていると私は見る。

 山田詠美氏はここのところが解っていないと思う。では、他の審査委員はどんなコメントを出しているのか。

 黒井千次氏 「歴代受賞作と比べても高い位置を占める小説である」
 小川洋子氏 「ありふれた尚、新鮮な力で読み手を引っ張るのは、父親ではなく、彼女たちの生命力あふれる手と、失われた手と、義手なのだ」
 島田雅彦氏 「男の暴力性に向き合う女性登場人物たちが魅力的だった」
 宮本輝氏 「17才の少年の何者かへの鬱屈した怒りのマグマの依って来る根をもっと具体的にしなければ、肝心なところから腰が引けていることになるのではないのか」

 最後は問題の石原慎太郎である。
 「片方で政治をやる者として、その成就のためにも文学の刺激を私なりに活用してきたつもりだが、それ故芥川賞という新人の登竜門に関わる仕事に期待し、この私が足をすくわれるような新しい文学の現出のもたらす戦慄に期待し続けてきた。そしてその期待はさながら打率の低いバッターへの期待のごとくほとんど報いられることはなかった。そして残念ながら今回の選考も凡打の羅列の域を出ない。かろうじての過半で当選とはなった田中慎弥氏の「共喰い」も、戦後間もなく場末の盛り場で流行った『お化け屋敷』のショーのように次から次安手でえげつない出し物が続く作品だ。読み物としては読みやすかったが」(「文藝春秋」2012年3月号より)

 これだけのことを言ってのける石原慎太郎とは果たしてどんな作家なのか。次回、そのあたりを彼の芥川賞受賞作「太陽の季節」から探ってみたい。
 2012.03.01 (木)  痛快!芥川賞作家田中慎弥A
            「ポトスライムの舟」VS「神様のいない日本シリーズ」
 過日、第146回芥川賞の贈呈式があった。注目の田中慎弥氏の挨拶は、たった一言「どうもありがとうございました」だった。5度目にしての受賞〜衝撃の会見〜マスコミ加熱〜予約殺到〜現在20万部のヒットという状況が、たった1ヶ月の間に起こった訳である。これまで幾つかの賞は獲ってはいても、注目度は月とスッポン。賞金は100万円で、20万部の印税は2000万円だ。心配かけたお母さんに「ありがとう」、騒いでくれたマスコミに「ありがとう」、買ってくれた読者に「ありがとう」である。
 私は田中氏に「ありがとう」だ。お陰さまで、この1ヶ月で、「神様のいない日本シリーズ」、「第三紀層の魚」、「共喰い」、津村記久子「ポトスライムの舟」、朝吹真理子「きことわ」、円城塔「道化師の蝶」、石原慎太郎「太陽の季節」を読み上げた。元々読書家ではないから、これでも中々の快挙なのだ。読んだ理由? やはり田中氏の会見である。あの石原慎太郎に対するむき出しの敵意。一体そこにはなにがあるのかを「クラ未知」的に解明したいと思ったからである。

 そこで、今回は「ポトスライムの舟」である。この作品は2008年下半期第140回芥川賞受賞作。この時の候補作品の一つが「神様のいない日本シリーズ」、田中氏3度目の挑戦だった。果たして、結果は順当だったのか、それとも? 今回は津村記久子「ポトスライムの舟」を読み込み、検証済みの「神様のいない日本シリーズ」と対照させてみたい。

 「ポトスライムの舟」の主人公は、一つは契約社員、あとは二つのアルバイトの掛持ちで生計を立てる29歳の女性。ある日メインの職場の掲示板に「163万円で世界一周クルージング」というポスターを見て、決心する・・・「ちょうどここの一年分の給料と一緒。他の二つのアルバイトで生計を立て、ここの給料はすべて貯金。空にした通帳が163万円に達したら、世界一周の旅に出よう」と。そして、その一年間の彼女の生活と思いが描かれる。作為もなく実に淡々と。まあ、これだけの話。いったい何が面白いのか解らない。しかるに、結果は芥川賞だ。かの「神様のいない日本シリーズ」を差し置いて。以下、選考委員の評に沿って「神様・・・」とも対比しながらこの快挙を考証してみよう。

 まずは宮本輝氏。津村記久子「ポトスライムの舟」については、「大仕掛けではない小説だけに、機微のうねりを活写する手腕の裏には、まだ三十歳の作者が内蔵する世界の豊かさを感じざるをえない。春秋に富む才能だと思う」とベタ褒めである。一方、田中慎弥「神様のいない日本シリーズ」を「私には、この小説における『神様』なるものの存在をどこにも見出すことができなかった。作品の中にはたくさんの材料を用意したが、それらは別々のものとしてばら撒かれただけで、融合して化学反応を起こさないまま終わってしまったという印象である」と評している。
 「神様」が見当たらないとはどこに目をつけていらっしゃるのか! 日本シリーズで「神様」といえば稲尾和久、これ日本の常識。その「神様」がいた年といなくても同じ奇跡が起きた年に起こった「わが家の歴史」を対比して息子に語って聞かせる設定の面白さを、わかっていただけなかったということだろう。 小説家としての宮本氏には、かつて「ドナウの旅人」で感動したものだが、残念である。「ポトスライム・・・」についてはまとめて後ほど。

 小川洋子氏は、「『神様のいない日本シリーズ』につきまとうアンバランスな気持ちの悪さが、最後まで気になった」と言いながら「・・・・・これらが、錆びた部品のように一個一個組み合わさってゆく過程を、圧倒される思いで読んだ」と最終的には肯定している。そして、「津村さんはこれからどんどん書いてゆくだろう。それは間違いないことであるし、一番大事なことである」と、津村氏に対しては、素っ気ないが含蓄もある。この方は選考委員の中で常に一番マトモだと思う。

 山田詠美氏は「神様・・・」に対して、「ドラマティックな仕掛けが過ぎて大失敗している。しかし、ドアの向こうに実は息子がいなかったとしたら大成功だったような気もする」と、独りよがりを言って悦に入る。いつものパターンだ。「ドアの向こうにいない息子に話す」というシチュエーションがなぜ大成功なのか、凡人の私にはサッパリ解らない。この方「共喰い」でもおかしなことを言っている。が、これについては次回で。

 川上弘美氏。「神様・・・」で、「死んだ兎を、作中の人達は食べなかった。ただ捨ててしまった。私はここで、作者の魔術から、はずれてしまいました」と。はずれるのは勝手ですが、豚を勘違して兎はないですよ。人間普通兎は食べませんから。なぜ、(死んだ)豚を食べなかったのか? あれは野球の神様に対する生贄の儀式だったんですよ。田中さん、こういう人ばかりで疲れるでしょう。あきらめずに、よく頑張ってくれました。
 この方「ポトスライム・・・」に対しては、「どんなことを書こうという時も、ごまかさず最後まで詰めて考え、書き表している」と評価している。これも、全くものが見えていないと言わざるをえない。私は、逆に、津村氏は物事を曖昧なまま放置して平気な人だと思った。ではその証拠を。

 友人の店でバイトしての帰り道、自転車に乗るがブレーキが利かずに命からがら大転倒するシーンがある。このことで「海外クルージング」へのスイッチが入るというかなり重要な場面なのだが、そこの描写・・・・・「なにこれ。なんなんこれ。妙に息が荒くなっていた。ガレージで車輪の様子を見ると、ブレーキをかけた時にタイヤの内側に摩擦させることによってその動きを制御する、パッドのような部品がなくなっていることがわかった。おおかた、ヨシカの店にいる間に、誰かがいたずらで盗ったのだろう」。ここには2つの問題点が存在する。
 [問題1] 自転車で、パッドでブレーキを掛けるのは前輪だけ。これが盗まれても、後輪に何らかの細工が為されない限りブレーキは絶対に効く。
 [問題2] この場合、効かなかったのだから後輪にも細工が為されたはず。ここまでやるのはよほどのこと、恨みとか何かの。ならば、この件はあとにも引きずるはずと頭の片隅に入れておくが、なにも起きやしないし、説明もない。じゃ、やっぱりただのいたずらだった。とすれば[問題1]と矛盾する。実に曖昧。これで「ごまかさず、最後まで詰めて考えている」って言えるでしょうか?

 池澤夏樹氏は、「ポトスライム・・」を「巧緻な作品」と評したが果たしてそうだろうか。確かにこの手の起伏に乏しい淡々とした物語は"巧緻"でなくては成り立たない。ほかに訴える要素が少ないから。音楽でいえば起承転結で押すベートーヴェンではなく、絵画的なラヴェルの作品に近いと思う。そこで使われる部品は精緻に組み合わされていなければならない。一点の曖昧さもなく。ところがこの作品は甘い。細部でタガが緩んでいる。前段が正にそれだが、その他にも散見されるので、最後にまとめて通し番号で記す。

 [問題3] 居候している友人の娘を見ての描写。「黙々と紅茶を飲んでいる恵奈を見ていると、だんだんどうでもよくなってくる。おいしいともまずいとも言わないので、おいしくもまずくもないのだろう」。
 どうでもよくなってくるのはこっちですよ。この年頃の子はそんなことはめんどうくさくて言わないだけのこと。それか、まだ主人公と馴染んでいないから口数が少ないだけ。まあ、どうでもいいか。
 [問題4] 会社帰り、同僚と一緒のバスの中で咳き込み意識を失う。気がついたら家にいた。「岡田さんに負担してもらったタクシー代はどうなるのだ。返さなければ。そんな余計なお金ないけど。もうこれで世界一周は無理だろう。再来月ぐらいには貯まるかもしれないけど、それはそれで負けたみたいだ。1年で貯めると決めていたのに」。 一大決心して頑張ってることがこんな些細なことで諦めちゃうんですか。タクシー代っていくらなの。2ヶ月遅れで貯まるんなら、出発を遅らせて行けばいいじゃないですか。私、こういうの好きじゃない。
 [問題5] このあと会社を9日間休むのだが、熱もそれほどなく咳がきついだけ。要するにただの風邪。これで9日間も休みますかねえ。持病再発みたいな話なら分かるけど、ただの風邪なら頑張って出勤するでしょう、あれほど「世界一周」に夢中だったのだから。それでも、結果、会社の業績が良くてボーナスが出て、「一年で163万円」は貯まるのですが・・・。もうその気がなくなっちゃてるから行かないという結末。
 夢中でも一生懸命でもなかったのか。 最初からただなんとなくだったのか。そんないい加減な気持ちで引っ張らないでくださいよ、暇じゃないんだから。

 申し訳ないけど、この小説、私にとってはただのスカだ。小説における私の評価基準は、登場人物の魅力、筋書きの面白さ、表現の旨さの3つである。小川氏が「津村氏は間違いなくどんどん書いてゆくだろう」と指摘したとおり、既に多くの作品が生み出されているようだが、私は読まない。「ポトスライムの舟」が、私のツボに、3ポイント中一つもヒットしなかったからである。第144回受賞作「きことわ」は、彼女より一回りも若い朝吹真理子氏の作品だが、こちらは素晴らしかった。「時」というものを、科学性を随所に散りばめつつ感性豊かに捉えた秀作である。文章もうまく組み立ても自然。これならわかるのだが、宮本氏が「春秋に富む才能」と評したのは全くもって理解に苦しむ。選考委員の皆様、ただウダウダと流れに任せて暮らすだけのこの主人公のどこに共感できるのですか?この曖昧でいい加減な少女小説まがいの代物のどこが受賞に値するのですか?「神様のいない日本シリーズ」が負けるなんて考えられない許せない。田中さんもきっとガックリきたでしょうね。「なんでこんなものに」って。でもあんたはエライ!このあと男は黙ってトライ、二度までも。 次回は遂に受賞した「共喰い」について。
 2012.02.20 (月)  慎んで「懺悔の記」
 前回採りあげた「道化師の蝶」の解釈で、大変な間違いに気づきました。1月17日の田中さんの記者会見を再チェックしようとネットを見ていたら、You-Tubeの「第146回芥川賞受賞者記者会見生中継」(ニコニコ動画)というのにぶつかりました。時間にしてなんと3時間半。まあ、暇つぶしもいいかと思って見ていると、解説の栗原裕一郎さんという方が、受賞予想の中で「道化師の蝶」の解説を延々とやっているわけです。この方の本命だったのですね。「コイツは面白い。私の読みと一致するかな」なんて暢気に構えて見ていた私の顔は、みるみる青ざめてゆきました。「待てよ、もしかしたら、私のは? こっちの方が全然座りがいい!」・・・・・私の解釈ミスと認めるまでそう時間は掛かりませんでした。ポイントにした2点、「わたし」という語り手の特定とA.A.エイブラムスが男・女で現れることについてです。
 今回は、素直に私の間違いを認め、解釈を訂正させていただきます。

[間違った解釈を訂正する]

(1)「わたし」という語り手の特定

  [最初の解釈]
    [T]友幸友幸
    [U]男の「わたし」(翻訳者)
    [V]女の「わたし」
    [W][U]と同一
    [X][V]と同一

[正しい解釈]
    [T]友幸友幸
    [U]男の「わたし」(翻訳者)
    [V]友幸友幸>
    [W][U]と同一
    [X]友幸友幸

 私のミスの原因は友幸友幸を男と決めてしまったことです。よく読めば[V]で、フェズに現れる女は「正則アラビア語では、フランス語では、スペイン語では、タシュリヒート語では、タスースィッツ語では、タアリフィート語では、アラビア語・モロッコ方言では・・・・・」などと言っているのだから、これは言語学者以外の何者でもないと気づかねばならない。友幸友幸は女であると閃けば一発解決だったのに! 頭が固かった!

(2)A.A.エイブラムスの[男・女]性について

 [T]で、友幸友幸は、東京−シアトル間の飛行機の中で、隣り合わせた・A.A.エイブラムスがフィリグリーの虫取り網で着想を捕まえるのを見る。
 [V]で、「わたし」は、シアトル−東京間の飛行機の中で、二人の女性のうちの一人が幸運を捕まえるといって取り出したフィリグリーの虫採り網を目撃する。

[最初の解釈]
騙されたのはこの部分の描写でした。同じことをしているのに[T]では男・A.A.エイブラムスであり[V]では女である。[V]の女をA.A.エイブラムスとは言っていないが、[U]で「A.A.エイブラムスは子宮癌を患っている」とあるから、そう示唆している。いずれにしても男で女? おかしいなとは思いつつ、東京−シアトルが逆になっていることに気づいた嬉しさに、同じA.A.エイブラムスが時に男、時に女にかわる人間と勝手に思い込んでしまった。よく考えればそんな人間なんているはずがないのに。

[正しい解釈]
友幸友幸は[V]で実体験した状況を踏まえ、[T]の中に同じシチュエーションを導入し、小説「猫の下で読むに限る」を書いた。

 [V]の「わたし」が友幸友幸と特定できれば、「そこで実際に出会った女をモデルにし、男性化して小説を書いた」という流れが無理なくできるのです。[T]は小説なのだから、時間の流れは[V]→[T]であるはず、この当たり前のことに気がついていれば。 悔しい!

[懺悔の記]

私は、友幸友幸は男であるという先入観念から抜け出せず、もう一歩のところで「正解」をつかめませんでした。また、作者の撒いた巧妙な罠(例えば[T]と[V]における時系列や飛行機の上下線や男と女)に嵌って「修正」のチャンスも逸してしまいました。
 これはまさに文学に対する私の未熟さ以外の何物でもありません。専門外をなめたらアカン!
 「道化師の蝶」を、この程度の理解を元に「完成度が低いつまらない作品」と断じたことは私の不徳の致すところであり、作者円城塔氏に深くお詫び申し上げます。とはいえ、正解がつかめたからといって、基本的な評価に大きな差異が生じたわけではありません。「完成度が低い」と「つまらない」は謹んで撤回し、代わりに「好きな作品ではない」と言い換えさせていただき、お詫びとさせていただきます。

 次に、選考委員の皆様へ。特に川上弘美氏への「[T]の「わたし」を[U][W]の『わたし』と混同している。こんなもの2回通読すれば簡単に解明できるのに、選考委員の先生ともあろう方々がなぜできないのでしょう」との不遜な言いようにつきましては、ひれ伏して撤回させていただきます。川上氏の「中の3人ほどは同じ『わたし』にも見える」という読みのほうが、まだ正解に近かったのですから。とはいえ、あとの方々に対しては特に際立って訂正する必要はないと思っています。したがって、「難解を有難がって、正体も掴めないまま賞を上げちゃった選考委員」という私の感想は変わりません。

 それにしても、在野には凄い人がいるものです。栗原裕一郎氏もそうですが、ネットを見れば、「道化師の蝶・攻略ガイド」なるものまである。それらを見れば、この作品はロシアの昆虫研究家ウラジーミル・ナボコフ(1899−1977)を土台としていることが明らかになります。道化師の「蝶」のモデル写真まで載っている。このガイドを書いた人とか、ナボコフの翻訳者沼野充義氏とか、彼らはこの小説のカラクリはすべてお見通しなわけです。この方たちが、もしも前回の「クラ未知」を読んだとしたら、一発でペケ、問題外、おととい来やがれ、であります。今回は、生半可で決め付けることの怖さ浅はかさを深く思い知らされた一幕でした。
 2012.02.15 (水)  緊急臨発!もう一つの芥川賞作品を考証する
 今回は田中慎弥氏の受賞作「共喰い」を取り上げる予定でしたが、2/10入手した「文藝春秋」3月号に掲載のもう一つの受賞作・円城塔「道化師の蝶」を読んだら、結構面白かったし、選考委員の戸惑いが更に面白かったので、急遽これをカット・インすることにしました。
 選考委員の一人黒井千次氏は、「円城作品を評価された点をもう少し詳しく」と問われ、「それを説明すること事体が難しい」と答えていますが、これでは困るわけです。石原慎太郎なんかは、「バカみたいな作品ばっかりだよ」と言下に否定しています。「私の足元を掬うような作品には、お目にかかれなかった」とも。都知事閣下殿、「あなたの作家としての足元って、掬うほどのものなのでしょうか」。「理由」が分からぬまま選ばれた「道化師の蝶」は、果たして傑作か?まがい物か?

「道化師の蝶」を見透す

 最初、サラっと読んだところでは、なにか迷宮へ入り込んだというか、掴みどころのなさを覚えた。確かに私の知らない単語が多くて戸惑う。例えば、「ミスタス」という名の場所。何の説明もないので調べると、「ゲーム上の架空世界イルシェナーの無人都市」だそうだ。判ればそれでいい。また、「『無活用ラテン語』は、数学者ペアノが提唱した原語だ」という件がある。これも何やら判らないので調べると、ジュゼッペ・ペアノ(1858−1932)、数学者、自然数の公理系の考案者、人造言語「無活用ラテン語」を考案、などということが判る。インターネットは実に便利だ。このあたりは理解できないにしてもどんなものかが掴めればそれでいい。問題はその先である。

 「道化師の蝶」は5つの章からなる物語。主な登場人物は「わたし」と「A.A.エイブラムス」と「友幸友幸」と「鱗シ目研究者」である。各人の説明はそこそこあるから、どんな人間なのかは比較的簡単に掴める。確かに奇妙な連中ばかりだが、ムカつくほどのことはない。ところが罠を二つ仕掛けている。これが理解の足枷になっているようだ。

 一つは、「A.A.エイブラムス」は二人いるということ。しかも男と女。なぜなら、[T]でハッキリと「男である」と書いているのに、[U]では子宮癌を患っている。[X]では、「さてこの男の名は、そう、エイブラムス氏」とハッキリ書いている。こうくると、もしかしたら、その時々で男か女のどちらかになる生き物と考えるほうが自然だという気もしてくる。
 二つ目は「わたし」という語り手が各章ごとに変わること。いきなり変わり最後まで説明がない。だから、自分で解明するしかない。[1]で、東京−シアトル間の飛行機の中で、隣り合わせた男・エイブラムスが銀色の捕虫網で「着想」という蝶を採るのを目撃する「わたし」。これは、友幸友幸の無活用ラテン語小説「猫の下で読むに限る」の全訳という説明があるから、この「わたし」は友幸友幸のことで間違いない。ただ、友幸友幸が「わたし」と言いつつ別人を、もしかしたら翻訳者の「わたし」を語り手にして書いている可能性もなくはない。小説なのだから。[U]の「わたし」は、「猫の下で読むに限る」の翻訳者。[V]は、フェズ(モロッコの迷宮都市)でフェズ刺繍を習得しようと滞在し、そのあと、シアトル−東京間の飛行機の中で、二人の女性のうちの一人が幸運を捕まえるといって取り出したフィグリーの虫採り網を目撃する「わたし」。[W]では、「A.A.エイブラムス私設記念館」へ「友幸友幸に関するレポート」を持参した「わたし」。[X]で、レポートを男から受け取った「A.A.エイブラムス私設記念館」に勤務する女の「わたし」である。
 さらに読み込むと5人の「わたし」のうち2人が同一人と判る。したがって「わたし」は3人。[T]の友幸友幸、[U]&[W]の男の「わたし」と[V]&[X]の女の「わたし」だ。穿ってみれば友幸友幸と男の「わたし」が同一人物という可能性もないではないが。でも、ここは[X]で、女の「わたし」が言う「昼間の男が残した原稿を机の前に広げている。友幸友幸ではないあの人物の」という記述を素直に受け取ろう。
 こうして、二つの罠を見極めれば見透すのはそれほど難しくはない。

考「道化師の蝶」

 「小説」における前衛とは実に難しい工程だろうと思う。例えば「音楽」における「前衛」の古典「4分33秒」をジョン・ケージ(1912−1992)が作ったのは1952年、60年前の出来事だ。ピアニストがステージに出てきてピアノの前に座る。4分33秒間そこにいてステージを降りる。ただそれだけの作品(?)。こんなものどう考えても芸術といえる代物ではないのだが、前代未聞・画期的な作品として音楽史上に残っている。もし、これを文学でやろうとしたら、白紙が433ページ続く「本」だろうか。タイトルはソノママ「433頁」。そんなもん誰が買う? ことほど左様に「文学」における「前衛」=様式の破壊は難しい。
 円城塔氏が目指したのは正に「前衛」的小説だったろう。中身を白紙にするわけにはいかないから、言葉を使って読者がかつて体験したことのない世界を作り出すことを意図したのだろう。自分にしかできないものとして。
 そこで仕掛けた罠が、同一固有名詞の登場人物の中に男と女を並存させたことだった。「新しい何か」を作り出すために。更に「わたし」という語り手を章ごとに変えて設定することだった。これ自体、特に目新しい手法ではなさそうだ。珍しいのは説明なしに変えること。これは今まであまり例がないのでは、と思う。でも、彼は敢えてそうした。「新しい何か」を創造するために。
 しかるに、これらの完成度は残念ながら高くはない。矛盾を孕ませたまま放置しているだけだ。百歩譲って、それによって「様式」の破壊に成功したとしても、その先には何もない。何を描きたいのか私には解らない。作者から「そんなものなくたっていいじゃないですか。求めたのは、器と部品そのものの面白さ目新しさなのだから」と反駁されるかもしれない。でも、そんなものは私にとって何の意味もない。現実とゲーム空間の行き来、もしかしたら時空のタイムカプセル的往来、それらの中で、事象の見え方は一様ではないこと、既成概念を外すことの重要さは確かにあること、そんなことを表現したかったのだろうか。つまらん!
 ところがこの作品は、第146回芥川賞を獲った。こんなつまらない作品が何故? 答えは、8人(村上龍氏が欠席のため)の選考委員が円城氏の仕掛けた罠にまんまと嵌ったからである。そう高級とも思えない罠を解明する手間を厭い、また、能力というのもおこがましいほどの能力すら持ちあわせないことを露呈して。次章はその証である。

「文藝春秋」3月号の「芥川賞選評」を全検証する

   まず、今年限りで選考委員を降りる黒井千次氏はこう言う。「作品の中に入って行くのが誠に難しい作品だった。しかし、このわからなさの先に何かがあるのではないか、と考えさせる風が、終始吹き寄せてくるのは間違いがない。したがって支持するのは困難だが、全否定するのは更に難しい、といった状況に立たされる」。これは完全にお手上げの体。わからないなら評価しなければいいのに、わからないながら評価しなければいけないと思っていらっしゃる。選考委員降板は賢明な決断でしょう。

 川上弘美氏は、「量子力学」で受けた授業を引き合いに出して評価している。曰く「箱の中の猫は生きていると同時に死んでもいる。二つの状態が重なり合った猫がいる、これがつまり量子力学的確率解釈」。そして、「世界には、日常の言葉では説明しきれない現象が存在する」のであるから、こういう作品があってもいいと肯定する。これ自体私は否定しない。ただ、引っ張り出した事例が「作品」のどの部分に呼応するかという説明があればより説得力が増したと思う。例えば、「エイブラムスの二面性って、こういうことでは」的記述。
 さらにこんな言及が。「『道化師の蝶』には何人もの『わたし』という語り手が登場します。それらの『わたし』は異なる人物です。中の3人ほどは同じ『わたし』にも見える」。これは惜しかった。「3人は同じ」はちょっと違う。[T]の「わたし」を[U][W]の「わたし」と混同している。こんなもの2回通読すれば簡単に解明できるのに、選考委員の先生ともあろう方々がなぜできないのでしょう。でもこの方はまだマシなほう。他の委員はこの重要ポイントに触れてもいない。これじゃ、難解を有難がって、正体も掴めないまま賞を上げちゃっても不思議はないか。

 高樹のぶ子氏は「得心できるより、得心できないものに快を感じる読者もいるだろうが、それは私ではない。にも拘らず最後に一票を投じたのは、この候補作を支持する委員を、とりあえず信じたからだ」とおっしゃる。これはもう論外。「自分は得心できなかったが、他の委員が支持するから、一票を投じた」ですか。 こういうお方は即刻降りていただきたい。

 山田詠美氏は「この小説の向こうに知的好奇心を刺激する興味深い世界が広がっているのがはっきりと解る。それなのにこの文章にブロックされてしまい、それは容易に公開されない。<着想を捕える網>をもっと読者に安売りして欲しい」と言っている。「安売りして欲しい」なんておっしゃらないで、ブチ破る努力を少しでもしていただきたかった。そうすれば、向こうに「興味深い世界なんか広がってない」ことが解りますから。

 小川洋子氏の「縫い上がったパッチワークを粘り強く見ていると、その裏側に何かが隠されているような気分になってくる」は、その前段で「小片がつなぎ合わされ、一枚のパッチワークが縫いあがり、さてどんな模様が浮き出してきたかと楽しみに見つめてみれば、そこには模様など何も現れていなかった」とあるから、出来上がったものを粘り強く見ることなどせずに縫いあがる前に屹立する罠の解明に邁進していただきたかった。そうすれば、この方なら見えたのではないか。一度は「模様など何も現れていなかった」と核心に迫ったのだから。流石「博士の愛した数式」の作者ではある。

 次は島田雅彦氏。「この作品そのものが言語論である」と言っているがどうだろうか。確かに「友幸友幸の書くものは、100に迫る原語を駆使している」とか「無活用ラテン語は数学者が考案したものだから、数学的要素があるかも知れない」という言語論的記述はあるにはあるが、言語論小説かといえばそうではないと思う。なぜなら「言語論的記述」に突き詰めた深みも具体性もないからだ。例えば、日本語的視点とかの。でもまあ、これは大した問題ではない。
 問題はむしろ、「こういう『やり過ぎ』を歓迎する度量がなければ、日本文学には、身辺雑記とエンタメしか残らない」という島田氏の円城氏擁護論だろう。日本文学の種類は、ホントに「身辺雑記」と「エンタメ」だけしかないのでしょうか。この決め付けは「題材」のみを対象とし「書法」即ち「日本文学が持つ表現の独自性」を忘れていると思うのですが、いかがでしょうか。

 宮本輝氏。「最近の若い作家の眼の低さを思えば、たとえ手は低くても、その冒険や試みは買わなければならないと思い、私は受賞に賛成する側に回った」。宮本氏は、手が低い=未熟としつつも、「冒険や試み」に一票を投じた。これは「冒険」と見せかけた円城氏の勝利だろうが、私なんかは、「『冒険』なんかで芥川賞って獲れちゃうの」と不思議に思う。

 石原慎太郎氏は「こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに付き合わされる読者は気の毒というよりない。こんな一人よがりの作品がどれほどの読者に小説なる読み物としてまかり通るかははなはだ疑わしい」と斬り捨てる。そして、「こんな奴らとは付き合っておれん」と吐き棄てて、選考委員を降りてゆく。

 ではここで選考過程を振り返ってみよう。最初の投票で「共喰い」が過半数を獲得し決定。その後幾度かの議論の末「道化師の蝶」も入選ということになったようだ。選評から推察するに、最初から賛成したのは、川上弘美、島田雅彦、宮本輝の3氏。そこに黒井千次氏と高樹のぶ子氏が加わり過半数に達したのだろう。最初の3氏も本質を掴んでいるとはいえず、加わった2氏は付和雷同。受賞者の円城氏にしてみればしてやったりである。彼の本音を推測してみる。

 「いやはや、ラッキーでした。上々の首尾です。だって、選考委員は誰一人としてわかっていなかったんですから。二つの要因をボカし、バーチャルな単語を使い、言語学的表現で味付けしたら、プライドの高い選考委員各位が、この私だってわかっていない小説に見事に引っかかってくれたのです。メデタシ、メデタシです」
 恐らくこれ、図星だと思う。なぜなら「道化師の蝶」本文にこんな記述があるからである。「筋道がよくわからないって? まあ、そうだろう。わかるようにできていないのだから当然だ。わたしにだってよくわからない。わたしにわからない以上、地上にわかる者はいないと思うよ」・・・・・こう不敵にも言い放っているのだ。こんな確信犯の輩に権威ある賞を渡しちゃいけませんよ、選考委員の皆様! でもまあ、受賞インタビューで「自分の作品は、多くの人に読まれる芥川賞には足りないと思う」と謙虚に語っているから、そこは許すことにしましょうか。でも待てよ、これもまた曲者の証なのかなあ?
 2012.02.10 (金)  痛快!芥川賞作家田中慎弥@「神様のいない日本シリーズ」の面白さ
 なかにし礼さんが直木賞を取ったとき以外、文学賞なるものに関心を示したことはなかったが、今回の芥川賞受賞者には大いに興味をそそられた。

 1月17日、衝撃の受賞会見。「4回も落っことされたあとですから、ここで断わってやるのが礼儀といえば礼儀ですが、私は礼儀を知らないので・・・。もし断わったって聞いて気の小さい選考委員が倒れたりなんかしたら都政が混乱しますので、都知事閣下と東京都民各位のために、もらっといてやる」。痛快なるかな田中慎弥さん、あの石原慎太郎に真っ向斬りつけた不機嫌そうな39才に喝采を!
 翌日、サンケイスポーツの名物コラム「甘口辛口」に「こんな会見を見てしまうと、人はどうあれ筆者は受賞作を読む気は起きない。表現をセールスするのが作家で、書くときはそれこそ一語一語に心血を注ぐのだろうが、しゃべる方も、もっと神経を使わないと損をするのではと老婆心ながら思う」なるコメントが載った。書いたのは今村忠という記者である。これには開いた口が塞がらなかった。「老婆心ながら思う」の忠告はマヌケだがまあよしとしよう。感想は個人の自由だから。見過ごせないのは「受賞作を読む気は起きない」の件である。会見を見ようが見まいが、作品を読まないとは、新聞記者としてどういう感覚なのかと訝る。小説を読まずして小説家をどう評価しようというのだろう。言ってる事が「ジャーナリストとしての恥晒し」と気づいてないのだろうか。「もっと神経を使わないと損をする」のはアンタだよ! サンスポといえば一流のスポーツ紙。昔は渡辺芳子さんという立派な記者がいましたけれどね(彼女は新聞社を辞めて「北欧映画完全ガイド」なる名著を残している)。
 そこで、私は、田中氏の作品を読むことにした。「あんな会見をする人がどんな小説を書くのか」、ジャーナリストならずとも興味が湧いたからである。

 早速、Amazonで検索する。第146回芥川賞受賞作品「共喰い」は1月27日発売につき予約受付中とある。即予約したあと、何気なく彼のその他の作品タイトルを眺めていたら、「神様のいない日本シリーズ」というのに目が止まった。日本シリーズで神様といえば、稲尾和久しかいない。1958年、あの西鉄ライオンズ奇跡の大逆転優勝の立役者である。この長嶋茂雄入団の年のシリーズは、そのスーパー・ルーキーの活躍もあって巨人が西鉄にいきなり3連勝した。「この二年、西鉄に苦杯を舐めさせられてきた巨人が遂にシリーズを制するのだ!」、コテコテの巨人ファンだった中学1年生の私はもう有頂天になっていた。ところがである。第4戦西鉄の勝ち、まだ余裕。だが、第5戦、学校帰り電気店の店頭で見た、延長10回稲尾が放ったサヨナラ・ホームランの衝撃! これで巨人の3勝2敗、暗雲が立ち込める。もしや、まさか、と感じた瞬間だった。いやな予感は的中した。そのあと西鉄は一方的に2勝を上積みし、日本シリーズ史上初の3連敗4連勝という大逆転優勝を成し遂げたのである。MVPは、4つの勝ち星を一人で稼いだ稲尾が当然の受賞。この時生まれたのが「神様・仏様・稲尾様」。当時流行語大賞があったなら間違いなしのグランプリだったろう。
 「神様のいない日本シリーズ」は、そんな私にとって忘れようにも忘れられない日本シリーズが題材となっているに違いない。あのスポーツとは縁遠い感じの人が書いたというのも興味深いし。即購入即読破・・・・・期待にたがわぬ面白さだった。
 調べてみると、この作品は2008年下半期「芥川賞」の落選作だった。ならば、受賞作の「共喰い」はもっと面白いはず? 否が応でも期待が高まる。石原慎太郎の「ばかみたいな作品ばっかりだよ」を検証するもの楽しみだ。その前に、「神様のいない日本シリーズ」を概観しておこう。

  「神様のいない日本シリーズ」概要

 「もう、野球なんか止める」と言って部屋に引きこもった香折という名前の小学4年生の息子を、ドアの外から父親が語りかけるところから物語は始まる。「止める」と言い出した理由は、6年生のいじめ。「お前は豚殺しの祖父さんの血を引いている」と「香折なんて女の子みたいな名前だ」という誹謗だった。この意味について、父が子に一家三代の血脈と因果を話して聞かせる物語である。野球への畏敬の念と共に。

 「神様のいない日本シリーズ」とは、1986年のシリーズのことだ。その年、「私」=「父さん」は中学3年生。お前の「母さん」と文化祭の演劇を企画推進していた。演目は「母さん」が選んだサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」。台本も「母さん」のオリジナル。出演者は3人。ゴドー(神)を待つ二人の罪人に「母さん」と「父さん」が、ゴドーの使者に「香折」という名前の中1の女の子が扮した。
 二人は待つ。ただひたすらゴドーを待つ。果たしてゴドーは現れるのか? 演劇の稽古の流れと「日本シリーズ」が平行して進んでゆく。

 話はその28年前、1958年に遡る。無論「父さん」はまだ生まれていないから、これは「父さん」の母親「寿万さん」から聞いた話だ。その年、お前の祖父さん、つまり父さんの父親は中学生。(「寿万さん」が「あの男」としか言わなかったから「父さん」もそう呼ぶが)「あの男」は家が貧乏だったから高校進学を諦めた。進学の断念は好きな野球との決別を意味する。もう野球では使うことのない愛用のバットで「あの男」は豚を殺した。「野球で使えんバットは、こんなことにしか役に立たん」という気持ちだったのか。西鉄ライオンズが読売ジャイアンツに3連敗のあと4連勝した奇跡の日本シリーズの年の出来事だった。そう、"神様のいた"日本シリーズの。
 その後「あの男」は「寿万さん」と結婚。二人は男の子が生まれても野球はやらせないと約束していた。そして、「父さん」が生まれた。だから、「父さん」にとって野球はやるものではなく見るものだった。ただ、「あの男」から一度だけバットの握り方を教わった記憶はあるけれど。その後、「あの男」は悪い男たちと付き合うようになり、野球賭博に手を出して家を出ていってしまった。バットを軒下に置いたまま。

 「父さん」は、中学に入る少し前、「寿万さん」から「あの男」からというゴツイ字で書かれた葉書を渡される。「野球はやってないのか あのバットはまだあるか 中学では野球部に入れ」という文面だったが、「不幸の元凶の野球なんか絶対にやるもんか」という気持ちは変わらなかった。同じような文面の葉書は適度な間隔で届いたが、「最後の機会だ お願いだ 野球をやってくれ 諦めずに頑張れば何かがやってくる」という願望度合いが急に強くなった葉書が最後となった。
 しばらくたったある日、家のごみバケツの底に、書きかけの「葉書」を見つけた。「なんで野球をやろうとしないんだ お願いだ野球を」という最後のほうが優しい自分の字体になっている葉書。見間違えようのない一番身近な人の筆跡・・・・・これまでの葉書はすべて「寿万さん」が(筆跡を変えて)書いたものだったのだ。あれほど忌み嫌っていた野球を「寿万さん」は私にやらせたかった。こんなにまでして、何故? 「あの男」との約束を破って「あの男」に復讐したかったのだろうか。それとも純粋に「父さん」のためにそうしたかったからなのか。

 1986年の日本シリーズは、引分けのあと3連敗した西武ライオンズが、そのあと猛烈な勢いで盛り返し、1958年の奇跡を再現しようとしていた。「父さん」は、奇跡が起こったら、きっと「ゴドー」は来る、そして、1958年に豚を殺した「あの男」が現れるかもしれない、と思った。"神様のいない"日本シリーズの結果は?
 その何年か後、「父さん」と「母さん」は結婚して男の子が生まれた。生まれた子供が男でも女でも、「香折」という名前をつけると決めていた。二人を結び付けてくれたあの文化祭の演劇で「ゴドー」の使者に扮した女の子の名前。それがお前だ。そうしていま、お前に話しをしている。お前が揶揄された「祖父さんの豚殺し」の件と「香折という女の子のような名前」の由来を。
 祖父さんはあれほど好きだった野球を止めなければならなかった。「父さん」は野球の渦に巻き込まれて、やることができなかった。お前はいま野球をやっている。野球は、簡単に「止める」なんて言えるほど生易しいもんじゃない。だからお前は野球を続けろ。野球って凄いものなんだ。

考「神様のいない日本シリーズ」

 これは大変な作品だ。親子三代という構成は、日本古来の「三代記」の伝統やアイスキュロスの「オレステイア三部作」をも踏まえ、その三層構造はJ.S.バッハの「ゴールトベルク変奏曲」の緻密さを髣髴とさせる。各世代に共通する野球というキイワードは、其々の人生を映し出し、奇跡といわれた二つの日本シリーズにリンクする。さらに、1958年の川上哲治の引退と長嶋茂雄のデビュー、1986年の山本浩二と清原和博のそれを対比させ、リンク度を強化してもいる。
 祖父が撲殺した豚を引きずり川に捨てれば、28年後、父はそのバットを同じ道を引きずり同じ川に捨てる。奇跡のシリーズに「ゴドーを待ちながら」を絡ませる重層構造は、名工ブラームスの作曲技法を偲ばせる。
 「ゴドー」の作者ベケットには息子の大好きなレッドソックスのジョシュ・ベケットから繋げ、1985年阪神タイガース日本一の立役者を父が(掛布、バースではなく)平田と言ったことが、遠い存在だった母との接点の萌芽になるなど、野球に対する広く深い知識が物語のプロットに絶妙に絡んでいる。祖父の失踪原因とした野球賭博には、恐らく、「プロ野球黒い霧事件」(1969−71)を意識的にリンクさせているはずだ。山本浩二とデレク・ジーターの右打ちの違いも、鋭い洞察力なくしては書けない。落合の神主打法、八重樫の構え、杉浦のダウン・スイング、クロマティの出ッ尻スタイル、サブマリン山田、マサカリ投法村田など、野球ファンにはたまらない個性豊かな選手がチラリホラリと現れる。野球を愛する気持ちが全篇に溢れている。
 奇跡の再現成れば、ゴドーは来る、「あの男」が戻ってくる 果たして? という終盤のクライマックスを、日本シリーズの推移に自分たちが携わる演劇の形成度合いをシンクロさせて、緊迫感を造成する見事さ。葉書を書いていたのは母親だったと気づく場面でのサスペンス的スパイスも老練の技。この人、伊達に長いこと書いちゃいない。

 時の流れを数学的緻密さで構築する理性と野球&家族に向ける愛という情緒。構成というスタティックな器と物語の推移という現在進行形のダイナミズム。「神様のいない日本シリーズ」は、これら多様な要素を熟練の技で融合し独特の色彩を放たせるに至った、近年稀な傑作小説である・・・・・なーんて言えるほど本を読んでいるわけではないが、私の感性を直球で射抜いた飛びっ切り面白い小説だったことだけは確かである。
 2012.02.05 (日)  FM放送
 昨年来、無性にFMが聞きたくなりまして、「面倒でもアンテナを立てようか」などと少しばかりの覚悟をして、秋葉原でFMアンテナを物色したりしたものです。そんな折、マンションの地デジ波利得(ゲイン)の検診が実施されました。ケーブル中のTV電波が十分なレベルにあるかどうかの戸別検査です。そのとき検査員の人に、「まさかTVケーブルにFM波は入っていませんよね」と訊いたら、「FM波は、NHK―FMはじめ東京近郊の8局すべて混入しています。変換してますので、この表をご覧ください」と、聴取可能なFM放送の周波数一覧表をくれた。理由は分からないが、確かに周波数が違っている。82.5MHzのNHK―FMが84.4MHzというように。「まさか」と言ったのは、2000年、今のマンションに引っ越したときに、ケーブルにFM波が入っていないことが判明、FMを断念、泣く泣くチューナーを廃棄した事実があったからです。1981年から使っていたトリオKT900というダイヤル式チューナー。色もデザインもお気に入りだったのですが。
 したがって私、21世紀に入ってからというものFM放送を聞いていないのです。それでも聞きたいCDがいっぱいあったため、必要性を感じなかったということでしょう。
 ところがここ数ヶ月、CDを手に取る頻度が極端に減ってきました。理由はなに? 「クラ未知」テーマをなぞってみれば、「フィガロの結婚」「カラヤン」「ロ短調ミサ曲」「シューベルト」など、その都度常に集中するテーマがありました。それが、異常にのめりこんだ「シューベルト」が一段落して、なにか心に穴が開いたような状態になった。
 音楽は聞きたい。でも何を聞きたいのか自分でもよく分からない。馴染みのCDは掛ける前に出てくる音が分かっちゃっててスリルなし。聞きたい新譜もほとんどなし。そんなときふと思ったのです。自動的に掛けてくれるものがいい。そうだFMだ。これだったら自然に音楽が流れてきてくれる・・・・・無性にFMが聞きたくなったというわけです。

 電波はケーブルから取れることが分かった。恐らく地デジ切り替え工事の際、FM波も入れたのでしょう。さあ、あとはチューナー。出来ればダイヤル式がいい。そこで参考までに「価格ドットコム」を覗いてみました。するとどうでしょう。FMチューナーは僅か5種類しか載っていません。しかもすべてがデジタル方式。我が愛するダイヤル式は影も形も見当たらず、予想通りとはいえ寂しい結果でした。
 そこで、ハタと閃いた。友人T氏はオーディオの鬼、今はカメラに凝っていて、チューナーの一つや二つ遊んでいるかもしれない。電話急げだ、訊いてみよう。「もしもし、Tちゃん、チューナー余ってない?」「ダイヤル式でよければ転がってるのがありますよ。ただし放っておいたから鳴るかどうか」「結構結構。そのダイヤル式が欲しかったのです。鳴らなかったらソレマデよということで。お代は?」「新橋でイッパイで十分です」ヤッタ!これで商談成立です。

 いただいたチューナーは、パイオニアSTEREO TURNER P-2030というダイヤル式。デザインも完全なアナログ風味で言うことなしです。期待に胸膨らませ、TVアンテナ線から分波してチューナーのアンテナ入力に接続、ダイヤルを回す。84.4MHzのところでNHK-FMに同調、なんとヴィヴァルディの「四季」から「春」が流れてきました。リビング一杯に拡がる爽やかな調べ! いやはや、なんとも嬉しい初春のひととき、快哉の瞬間でした。Tちゃんありがとう! そこで一句 初春や 久しきエフエム ヴィヴァルディ [写真はカセット・デッキに乗るパイオニアP-2030]

 さて、それからというものFM三昧の毎日。こりゃ、楽でいい。84.4に固定しておけば、あてがい扶持の音楽が自動的に流れてくる。朝6:00−「古楽の楽しみ」、7:20−「きままにクラシック」etc、午後2:00−「クラシック・カフェ」etc、よる7:30−「ベスト・オブ・クラシック」などなど。おっと、忘れちゃいけない 土曜日よる9:00−「吉田秀和の名曲の楽しみ」も。我が宿敵吉田翁は、朝日新聞ではご無沙汰ですが、FMでは毎週元気な御声を聞かせてくれています。
 放送スタイルも、正調名曲番組からDJ、リクエスト、実況中継まで色とりどり。クラシックは基本、全曲オン・エアが多いけれど、DJ〜リクエスト・スタイルの番組では一楽章オン・エア型で、これまた気軽でいいのです。また、「きままにクラシック」では「キマクラ・ドン」なるコーナーがあって、これは昔テレビで流行ったイントロ・クイズのクラシック版。これもなかなか楽しい。

 そんなこんなで、今年は春から"楽しき哉FM生活"が始まりました。では締めはFM豆知識と行きましょう。FMとはFrequency Modulationの略で日本語訳は周波数変調。難しいことは分かりませんが、音がいいのです。因みにAMはAmplitude Modulationで振幅変調のことだそうで。NHK-FM放送の開局が1957年。翌年にはFM東海が実験局という形で開局、その後1970年、民放初のFM局として認可されFM東京となりました(さらに東京FMと改称)。私のオーディオ人生もこのあたりから始まったことになります。本日は、懐かしのダイヤル式チューナー入手の巻でした。
 2012.01.25 (水)  小澤征爾 日本の宝
 2012年通常国会・・・不退転の決意なるものが無益しかもたらさないことに微塵も気づいていない凡庸な宰相が、持ってもいないリーダーシップを発揮したつもりになって迷走するだろう茶番劇の始まりである。恒例どおり、天皇陛下が開会を宣言された。実は私、陛下にはその前日お目にかかっている。お目にかかるといっても遠くから拝顔しただけであるが。場所はサントリーホール。水戸室内管弦楽団の東京公演の場である。

 「水戸室内管弦楽団のコンサートがあるのですが、いかがですか? 1月22日のサントリーホールです」と幼馴染の友人F氏から電話があった。彼はクラシック音楽好きの温和な紳士にして、現在、一部上場年商1000億の会社の会長兼社長をしている。水戸市出身の彼は、水戸室内管のスポンサードも行い、故郷の音楽文化発展に貢献してもいる。只今自適暇人の私は、ありがたくお誘いをお受けした。
 送られてきた案内には、小澤征爾指揮、宮田大のチェロ、モーツァルト「ディヴェルティメントニ長調K136」、ハイドン「チェロ協奏曲第1番」、モーツァルト「ハフナー交響曲」とあった。小澤とは2009年、サイトウ・キネン・フェスティバル松本以来、宮田大は「題名のない音楽会」で見て印象的だった若手チェリスト。とても楽しみだ。

 当日、ホール入り口でプログラムをもらうと、一枚のプリントが付いていた。「本日の公演に先立って行われた1月19日の水戸芸術館でのコンサートで、公演は無事行われましたが、終演後、指揮者の小澤征爾氏はかつて経験したことのないほどの大きな疲労を感じ、翌日になっても指揮ができるまでの体力が回復しませんでした。その後、本日に向けて静養を続けましたが、予定されたすべての演目を指揮するまでの体力を取り戻すまでには至っておりません。そこで本日の公演を下記のように変更させていただきます」として、「モーツァルトの2曲を指揮者なしで行い、最後にハイドンのコンチェルトのみ小澤氏が指揮する」というものだった。うーん、一昨年の手術は成功だったのに、まだまだ十分に体力が回復してないのだ。あのときも復活のはずのサイトウ・キネン松本で、7分間しか指揮台に立てなかった。しかしながら、僅か7分のチャイコフスキー「弦楽セレナード」第1楽章の見事だったこと! 音がうねりをもってビュンビュン響いてきたっけ。それにしても、「かつて経験したことのない大きな疲労感」とは・・・、実に心配。
 会場には重鎮・吉田秀和翁がお見えになっていた。このオケの創設者である。朝日新聞「音楽展望」が随分長いことご無沙汰なので心配していたが、お元気そうで何よりだった。演奏会のために鎌倉のご自宅から東京へ出かけられるなんて、とても御歳98歳とは思えない。ともあれ、相手にとって不足なしの宿敵(?笑)なのだから、いつまでもお元気で書き続けていただきたいと願う。

 指揮者なしの前半でオーケストラがいかにも柔和な表情の音楽を聞かせてくれたあと、30分間の休憩を挟んで小澤の登場を待つ。と、そのとき俄かに拍手が湧き起こった。「何事か?」と驚いてその方向を見やると、二階席を天皇皇后両陛下がにこやかに歩いて来られるのが見えた。なんと、今夜は天覧公演だったのか! それは、小澤久しぶりの東京だから? それとも、陛下が宮田大のファン? ともあれ、仲睦まじい両陛下のお姿は、私たち日本国民にとって、いかなる時も大きな安らぎとなる。
 小澤が宮田と一緒にステージに現れる。オケのメンバーに何やら話しかけながら、いつものスタイルでの登場だ。やがて、ノンタクトの右手が一閃する。温和だが規律正しいハイドンの第1主題が湧き出でる。羽毛のような軽やかさ。しかも適度に締まっている。明らかに前半とは音が違う。体調不十分がカリスマ性を証明した? 彼が、2010年8月1日、復帰の記者会見で、「変るかもしれませんね。わかんないけど。もしうまく変わってくれたら、(音楽が)深くなってもらいたいですね」と11秒もの長い沈黙の末放った言葉が思い出された。闘病でなにかが変わったのだろう。精神的ななにかを掴んだのだろう。残された時間の貴さと生きる歓びの実感によって、自らの音楽が変わると確信したのではないか。今日のハイドンも前述2010.9.5のチャイコフスキー同様、確かに深い。凄みが潜むとでもいおうか。
 宮田のチェロは瑞々しかった。もっと朗々とした力強い音を想像していたが、違っていた。ロストロポーヴィチ・コンクールの優勝者(2009年)とのことだが、テイストはピエール・フルニエに近い。宮田25歳、小澤76歳。正確無比な音程とテクニックで自在に駆け巡る宮田を、まるで祖父の慈愛で優しくしっかりと包み込む小澤。素晴らしいコラボレーションだった。終わると嵐のような拍手。最前列からスタンディングオベーションの波。ふと二階席に目をやると、なんと両陛下もスタンディングである。これは座っちゃおれないと、倣った。
 鳴り止まぬ拍手に、演奏者は何度も何度も出入りを繰り返す。小澤はその都度、二階席の両陛下に右手を敬礼風にかざして会釈する。この人懐っこさも世界を制した一因なのだろう。

 小澤征爾は、24歳のときスクーターでヨーロッパ一人旅に出て、そこでエントリーしたブザンソン指揮者コンクールで見事優勝、世界に羽ばたいていった。当時中学生だった私は、その件の手記「ボクの音楽武者修行」(新潮社)を、胸躍らせて読んだものである。その後の活躍は周知の通りである。しかしながら、肝腎の彼の音楽には馴染めなかった。何故って、夥しいレコーディングの(全部を聞いたわけではないが)なにを聴いても感動しなかったのだから仕方がない。
 しかるに、小澤は、日本人として世界で最も成功した音楽家なのである。あの時代、「日本人に何が出来る」的な蔑みの中で人知れぬ屈辱をイヤというほど味わされたに違いなく、そんな中で、とにもかくにも世界への道を切り拓いてきた先駆者なのである。有望な若手はすべて彼の背中を見て育ったといっても過言ではないのだ。私ごときが「小澤の音楽はどうも?」などと呟いたところで、彼は常に「世界のオザワ」であり続けてきたのである。
 そして、あのとき以来彼の音楽はガラっと変った。2010年癌の手術からの帰還である。前述の通り、復帰後最初のチャイコフスキー「弦楽セレナード」は凄まじい衝撃だった。小澤の音楽に初めて胸突き上げられた気がした。ただし、大曲ではまだ未知数。2010.12.14、カーネギー・ホールでの「ブラ1」は決して快演とはいえなかったからだ。
 小澤は今、確かに変ろうとしている。あの同じような境遇からマーラー「復活」を引っさげて見事に甦ったクラウディオ・アバドのように。とにかく、できる限り長くやって欲しい。病魔に負けずに! なんてったって小澤征爾は日本の宝であり、これから音楽がもっともっと本物になる、そんな予感がするからである。
 2012.01.10 (火)  閑話窮題〜2012新年雑感
 野田総理年頭記者会見の「ネバー・ネバー・ネバー・・・ギブアップ」には、いきなり呆れとウンザリの二重奏をかまされましたが、橋下大阪市長の精力的動きには、大いなる希望を感じます。復興に向け自主的に活動する被災地の胎動と合わせ、日本もまだまだ捨てたもんじゃないと感じるこの新年、皆様いかがお迎えでしょうか。
 「クラ未知」2012年度第1回は、年末年始のテレビ・リポートと行きましょう。まずは、年末恒例の二つの「第九」演奏会から始めたいと思います。

 読売日響は正指揮者下野竜也(1969−)のタクト。下野は一昨年のサイトウキネン・フェスティバル松本で、小澤征爾のピンチヒッターとして「幻想交響曲」を振って 注目を集めた若手実力派です。ビロードのような滑らかな肌触りで、音楽の流れも自然で好感度大なのですが、いかにも優等生的でスリルがない。
 それに対しN響は御歳88歳のスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(1923−)の指揮。短い指揮棒で動作も小さいのですが、噴出する音には力が漲っている。魂が直に揺さぶられるような感覚なのです。実に対照的な「第九」でしたが、私は断然スクロヴァチェフスキに軍配を上げます。2010年、読売日響を指揮したブルックナーの「第九」も同傾向の名演でした。

  恒例2012ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートは、2006年に続き二度目のマリス・ヤンソンス(1943−)の指揮でした。今年はロンドン・オリンピック開催ということで、「アルビオン・ポルカ」という珍しい曲を採りあげています。アルビオンはイギリスの古称、ヨハン・シュトラウスUがヴィクトリア女王の夫君に献呈した曲だそうです。ヤンソンス、前回はモーツァルト生誕250年に因んで「フィガロの結婚」序曲を演奏しており、なかなかサービス精神旺盛な人。楽しいことこの上ないのですが、これまた優等生過ぎて物足りない。2010年のジョルジュ・プレートル爺さんのような強烈な個性が私は好きなのです。幕開けの「こうもり」序曲は超名演でした。世界は違いますが、昨年末亡くなった落語の立川談志は、本人が言うほど大した芸とは思えませんが、何故か惹きつけられてしまう。我々普通人は"常人とは違う"何かに惹かれる傾向が確かにあるのです。ところが親友の毒蝮三太夫に言わせると、「あいつは健康オタクだった」とのこと。ということは、あの言動も生き様も演出だったことになる。どこかイカサマ的な匂いが拭えなかったのはこのあたりだったのかも。でもまあ、それはそれで面白い。

 1月3日は、これも恒例NHKオペラコンサートがありました。昨年はいたって地味だったのですが、今年は見せ場が多く大いに楽しめました。福井敬(テノール)の「誰も寝てはならぬ」は定番的安定感があったし、望月哲也(テノール)の「冷たき手」(「ボエーム」から)も声がよく伸びていてよかったのですが、この世界でもなでしこ現象、女性上位は否めずでした。

 まずは森麻季(ソプラノ)。歌うはコロラトゥーラの定番「椿姫」の「ああ、そはかの人か〜花から花へ」。このアリアは、大詰めの最高音Esがポイント。別のサイトでこのアリアのベスト歌唱を選定したとき、10人のソプラノを聴き比べたのですが、この音を出しえたのは6人で、そのうちEsに至る過程を楽譜どおりちゃんと辿っていたのは2人だけ。これをAクラスとしましょう。他の4人は前段で一息入れてやっと出しており、これをB。あとはEsが出ていないCクラス。因みにAクラスは、イレアナ・コトルバスとステファニア・ボンファデッリ。Bクラスは、マリア・カラス、アンナ・モッフォ、エディタ・グルベローヴァ、パトリツィア・チョーフィ。Cクラスは、大御所テバルディ、名歌手フレーニ、今をときめくネトレプコが名を連ねる。ことほど左様にヴェルディの意図した名人芸を完璧に表現するは難しいのです。わが森麻季はクラスBだったのでまずまずでした。かくなる上は、精進してAクラス入りを果たして欲しいもの。これは、フィギュアでいえば、フリーの最後の最後でトリプル・アクセルを跳ぶようなもので、声のスタミナが肝心なのです。因みにベスト歌唱はコトルバスでした。

 プッチーニ「ラ・ボエーム」から「私が街を歩けば」を歌った中島彰子(ソプラノ)は素晴らしかった。舞台はクリスマスイブのパリ、裕福さを求めて金持ちの愛人に走ったムゼッタが、心を残す元恋人の前で強がって歌うワルツテンポのアリア。私所有の「ボエーム」DVD7タイトルの中でも、マリリン・チャウ(1982年コヴェントガーデン)とダナータ・ダヌンツィオ(2007年プッチーニ音楽祭)あたりがやっと及第で、名歌手レナータ・スコット(1982年メトロポリタン)もイマイチという難役です。中島は、妖艶かつ品よく、世界の誰にも引けを取らない見事なパフォーマンスを披露しました。彼女はまた昨秋、プレヴィン指揮のN響定期で、ブラームス「ドイツ・レクイエム」を歌っており、芸の幅も広い。そんなに若くはなさそうですが、今後のさらなる躍進が期待できます。

 最後に年始の華、箱根駅伝の雑感を少々。優勝した東洋大は本当に強かった。総合タイム10時間51分36秒は、今後数年間破られることはないでしょう。この4年間で、優勝3回準優勝1回という成績は正に東洋黄金時代の様相でした。立役者は勿論4年生の山の神・柏原竜二。4年間全て区間記録、内3つが区間新という実績は不滅の金字塔。間違いなく箱根駅伝史上最大の名ランナーといえます。彼は福島県いわき市の出身。不幸を背負った故郷に大きな勇気を与えたと思います。
 東洋大優勝翌日の朝日新聞に「駅伝とマラソン 微妙な関係」という興味深い記事が載りました。「駅伝の隆盛がマラソン選手育成の弊害となっている」というもの。私も、日本マラソンが昔に比べて世界との距離が遠くなっているのは何故だろう、公務員ランナーの川内優輝の活躍も実に不思議な現象だ、などとかねがね思っていました。箱根駅伝―実業団というエリートコース自体に問題が内包しているとするこの記事は、科学的根拠は不確かでも、実に面白い指摘でした。
 中継の日本テレビに苦言を一つ。箱根駅伝でここ近年上位に食い込み古豪復活を感じさせる明治大学、今年の目標は「早稲田より上位へ」でした。これは中継の中でもアナウンサーが何度も言っていたこと。最終10区では、首位東洋大、2位駒大という形勢が決まった後、興味は早稲田と明治の3位争いに絞られました(例年盛り上がるシード権争いは、繰上げスタート校の異常な多さで見た目の面白さは半減していました)。
 10区中継地の鶴見で1分13秒あった二校の差は、明治のアンカー鎧坂の追い上げで、蒲田で1分6秒、新八ツ山橋では僅か17秒、いつ逆転なってもおかしくない状況でした。ところがこの事態が映し出されたのはほんの一瞬、しかも実況アナと解説の瀬古さんは、のん気に東洋大のアンカー斉藤のエピソードを話しています。言語道断!この類の話は競技状況起伏なしの時間帯でやって欲しかった。やがて東洋大がゴール。9分2秒差で2位駒大がゴール。この9分の間にも3位争いの映像は一切映りません。早稲田より上位へ・・・母校の悲願を背負い坐骨神経痛を抱えながらも懸命に走る明治のアンカーが、前年三冠という大学駅伝の頂点を極めた早稲田を抜くという、映像的にはこの日最大の見せ場となったはずの瞬間を逃がしてしまっていたのです。そして、駒大ゴールのあと最初に映し出された映像は、なんと、ヨレヨレになって走るすでに抜かれた早稲田のアンカー市川の姿でした。アナウンサーは「4位の早稲田です。明治に抜かれました」と気の抜けたアナウンス。3位をひた走る明大・鎧坂を捉えたのは遥かそのあと。まるで締まらない、これぞ失態の極み!このセンスの欠落こそ衰退読売の象徴かも。最後にそんなことを感じた駅伝中継でした。

 2012オペラ・コンサートの締めくくりは、バーンスタインのオペラ「キャンディード」から「大地に足をつけて」(Make our garden grow)でした。いつもなら「乾杯の歌」あたりになるのですが、今年は違いました。
♪僕らは純粋とは言えないし偉くもなくいい人でもないけれど
  知りたいんだ人生の意味を
  精一杯できるだけのことをしよう
  家を建てまきを割り畑を耕そう
 この歌の意味を感じつつ、地に足をつけ、物事を見、考え、行動してゆきたいと思います。
 2011.12.25 (日)  閑話窮題〜2011今年も暮れ行く
 今年の流行語大賞は「なでしこジャパン」、世相一文字は「絆」に決まり、テレビも「今年の十大ニュース」で大賑わい。こちらは、思いつくまま、気の向くまま、節操&脈絡なしの本年度「クラ未知」最終回です。

 シューベルトが一区切りついて、現在やや虚脱状態。シューベルトに限らず、クラシック音楽を聴く気になれない。将棋の世界ではスランプになると「駒から離れよ」なる格言あり。スランプとはチト違うのですが、一心不乱に集中した後は、気分転換したくなるものです。現在のマイ・ブームはポピュラー・ミュージック。曰く「究極のポピュラー名曲ベスト」CD作りです。即ち、洋楽の有名曲、ヒット曲、スタンダード曲から自分の好きな曲を選んで2枚組CDを作ろうというもの。曲数は「究極のシューベルト」に合わせて40曲としました。タイトルは「Great Songs 40」
 丁度忘年会シーズンだったので、会う人毎に「あなたの好きな洋楽ヒット曲何でもいいから5曲教えて」とか「プレスリーで一曲選ぶとすれば何?」「ビートルズは?」など、聞きまくりました。とはいえ最終決定は私の好き嫌い。迷った末、J.D.サウザー「ユア・オンリー・ロンリー」とギルバート・オサリバン「アローン・アゲイン」は外しました。Iceblue君勘弁! そしてTちゃん、「この世の果てまで」をありがとう。
 選定の基本は、1アーティスト1曲、最大2曲に限定。結果、2曲選んだのはサイモン&ガーファンクルとビートルズの2組だけでした。因みに前者は「サウンド・オブ・サイレンス」と「明日に架ける橋」で、これはスンナリ。後者は大変でしたが、朋友Yさんと一発合致した「アンド・アイ・ラヴ・ハー」と「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」に落ち着きました。
 一発屋(失礼!)、例えばプロコル・ハルムの「青い影」、スコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」、ピーター&ゴードンの「愛なき世界」などは問題なしですが、大物は迷います。例えば、エルヴィス・プレスリーとローリング・ストーンズ。結果「好きにならずにいられない」と「ルビー・チューズデイ」にしましたが、これはもう好みでしかないですね。
 ニ者択一型もありまして、レイ・チャールスでは「愛さずにはいられない」と「わが心のジョージア」、ディーン・マーティンの「誰かが誰かを愛してる」と「ライフルと愛馬」。前者は「わが心のジョージア」になりましたが、これは盟友Brownie氏の影響。後者はなんとなく「誰愛」に決定。
 では、持ち歌豊富なビッグ・アーティストは? サッチモは「この素晴らしき世界」、ナット・キング・コールは「トゥー・ヤング」、ジョン・レノンは「イマジン」、ボブ・ディランは「風に吹かれて」、ビージーズは「マサチューセッツ」、カーペンターズは「イエスタデイ・ワンスモア」、ABBAは「ダンシング・クイーン」、PPMは「500マイルも離れて」で、このあたりは意外とスンナリ、ちょっと迷ってシナトラは「マイ・ウェイ」という具合。
 その他、独断的Favorite tuneの数々を列記しておきます・・・・・「カルフォルニアの青い空」(アルバート・ハモンド)、「雨にぬれても」(B.J.トーマス)、「ドック・オブ・ザ・ベイ」(オーティス・レディング)、「男が女を愛するとき」(パーシー・スレッジ)、「テネシー・ワルツ」(パティ・ペイジ)、「アンド・アイ・ラヴ・ユー・ソー」(ペリー・コモ)、「追憶」(バーブラ・ストライザンド)、「ムーン・リバー」(アンディ・ウィリアムズ)、「霧のサンフランシスコ」(トニー・ベネット)、「アンチェインド・メロディ」(ライチャス・ブラザーズ)、「夢見る想い」(ジリオラ・チンクェッティ)、「悲しき片想い」(ヘレン・シャピロ)、「悲しき雨音」(カスケーズ)、「この胸のときめきを」(ダスティ・スプリングフィールド)etc。
 こうして、選んだ楽曲をつらつら眺めてみると、やはりソフト&メロウ系が多く、「究極シューベルト」と同じ傾向が出ました。クラもポップも自分の好みは変らないと改めて認識した次第です。
 20曲づつ2枚に振り分けるとき、CD1と2を対抗型にしました。ビートルズVSストーンズ、プレスリーVSサッチモ、シナトラVSジョン・レノンなどという具合に。そしてCD1をRECTA、CD2をINVERSAとネーミング。これは正と反というドイツ語で、J.S.バッハの「鏡像フーガ」の用語として使われているもの。
 そんなわけで、なかなか魅力的なコンピレーションが完成したと自負しています。ご要望の方は遠慮なくお申し付けください。

 12月18日は恒例、年に一度の中島みゆき詣でに行ってきました。小屋は赤坂ACTシアター、演目は「夜会/2分の2」。相変わらずのみゆきワールド全開。今年は3.11大震災を彼女がどう捉えているかが気になったのですが、発言ではなく、作品でものを言っていたように思います。例えば「Give and Take」。「施しを受けるものの気持」を安心させるような優しい歌詞「施しを受けてくれたこと、その事だけでお返しは貰っている」などが印象的でした。いつになく表現もシンプルでストレート。歌声も時に優しくときに力強く、まさに感動のひと時でした。

 それに引きかえ、政府=野田総理大臣の対応の不透明さったらありません。一番いけないのは向き合わないこと。そして、理念と自主性と一貫性がないことでしょうか。

 12月17日の「原発冷温停止状態宣言」も、実情を直視せず情勢優先で出してしまった。核燃料を浸している水の温度が391.6度(東電の発表)なのに、100度以下が条件の「冷温停止」に"状態"という文言をつけてファジー化した。だから、「内部にも入れないのになんで宣言できるのか」と言われちゃう。ドイツからは「この状態でそう言うのはウソと紙一重」とまで批判されてしまう。まやかしの安全提示は、逆に不安を煽ることが分らないのでしょうか。先だっては「原発輸出」の法案も通してしまった。この期に及んでも財界優先ですか。常識人の私にはまるで信じられない政府の行動。「発送電分離」など夢のまた夢。こんなことじゃ菅直人のほうがマシだったと言いたくもなる。頼むからそう思わせないでくださいよ、野田総理!

 12月18日、日韓首脳会談で出た「慰安婦問題」にもちゃんと向き合っていない。無論、李明博大統領のパフォーマンス色が濃かったのだけれど、1965年日韓基本条約に「慰安婦問題」が盛り込まれていなかったのは歴史上の事実として判明しているのだから、「法的には決着済み」といたずらに連呼しても、なんの解決にもならないのです。事実としっかり向き合って、日本の人道的対応の実績もアピールしつつ二国間の未来を志向する、これが真摯な外交姿勢というものじゃないでしょうか。相手が北じゃなく韓国なのだから。北といえば、19日「金正日総書記死亡」のニュースが流れました。これを機に、普通の国に生まれ変わって欲しいものですが、またまた世襲じゃ無理でしょうかね?

 野田総理は、二言目には「消費税率アップ」を言う。口当たりよく「税と社会保障の一体化改革」などと言い替えていますが、財務省の思惑で動いているのは見え見えです。不退転の決意だって? そういう大事な決め文句は別のところで使ってもらいたいもの。日本の消費税率5%は先進国レベルから見て低すぎるのは先刻承知。だから、上げるのはいいんですよ。その前にやることがあるでしょうってこと。野田総理も就任当座「痛みを強いる前に、自らも身を切る」と言っていたじゃないですか。「議員定数是正と公務員給与の削減」。本当はもっとダイナミックな改革を望みたいのですがね。政権交代時には、「政治主導」とかいって期待持たせてくれましたからね。でももうアンタたちに多くは望まない。ヤル気も能力もないんだから、土台無理な話です。だから、野田さん、その言ったことくらいはやってくださいよ。とりあえずそれが見えたら賛成しますから。こんなにハードル下げちゃうのも悲しいですがね。ギリシャにはなりたくないですから。本当は景気対策とセットにしてもらいたいんですが、無策の泥鰌宰相には望むだけ無駄でしょう。 それにしても、「この法案が国会を通って、実施前の段階で民意を問う。そこで解散総選挙を行いたい」だって。 民意を問うなら通す前にやるのがスジってもんじゃないですか。この方どこまで半端なの?!

   普天間対応もヒドイ話。田中とかいう沖縄防衛局長が政府の本音をオフレコとかで喋っちゃう。品のない表現で。これに対する一川大臣の対応もシャバダバなら、総理も無策。党内力学から罷免もできないそうで。まだ、小澤が怖いのか? 小澤さんは先だっての不信任決議敵前逃亡の時点で完全に終わってる人でしょう? 一体、総理はどこ向いて仕事してるんですか。ちゃんと向き合え。この問題、元はといえば鳩山由紀夫が首相のときに格好つけて「最低でも県外」なんか言っちゃって、言ったらちゃんとやればいいのに、オバマ大統領に恐る恐る切り出して「ノー」と言われたら、今度は掌返しの「トラスト・ミー」。あとはご存知ドタバタ劇場。しかも最近になって、「辺野古以外の選択肢も考える必要がある」だって。開いた口が塞がらない。お母上から億単位でお小遣い貰っても気がつかないようなお坊ちゃまはもう表舞台に出てこないでよ。以前「もう引退する」って言ったじゃないの。こんなことくらい守れ、コノ。目障り!
 それにしても、なんで日本の総理大臣はアメリカ大統領を前にすると、いつも即「イエス」って言っちゃうのでしょうか。日米同盟は分るけど、もっと主権国家の誇りみたいなものがあってもいいと思う。アメリカだってちゃんと向き合う人を望んでいるんじゃないでしょうかね。終戦直後 、日本の主権を守るために身を賭した重光葵さんのエピソードをご存じないのかな。21世紀では最高評価の小泉さんだって、「イラク戦争に協力してよ」ってブッシュに言われたら、即座に「エブリシング」って言っちゃった。最近、最低の歴史評価が下されたイラク戦争に盲目的に加担しちゃったわけだ。これなら、最低支持率総理・森喜朗が初対面のクリントン大統領に向かって放った「フー・アー・ユー」のほうが、バカだけど意図せぬ毒ありで骨があった?
 ブータン国王ご夫妻が来日して、俄かに湧き起こった幸福度意識。政府は「日本の幸福度測定の物差し作り」に取り掛かるんだそうで。アホか。幸福の要因をみんなつぶしておきながら、物差し作りだと。そんなことしてる場合ですか。ったく危機感のない政府。呆れるばかり。そこで、My2011年度流行語大賞は「ちゃんとやれ!」に決めた。ご存知アホ復興大臣の台詞だったが、向ける方向を県知事さんじゃなく民主党にして。

 この国政の閉塞感。打破できるのは橋下徹しかいないのかも。大阪W選で、彼と同士が圧勝したことは、既成勢力に対する大阪市府民の「No」の証なのですが、この思い、最早全国区。いろいろ批判もあるようですが、彼の目標達成に対する信念と迫力と行動力とスピード感は、今のボンクラ国会議員には何一つないもの。元官僚の星・古賀さんを呼ぶなど、目の付け所も際立ってる。ただ気になるのは小澤信望と教育論。前者は、彼流の計算の内ならいいけれど・・・。後者はまた別の機会に。ともあれ、日本の将来は橋下徹に託すしかない?! 不安含みながらこう結論して、新しい年2012年を迎えたいと思います。では皆様、良いお年を!
 2011.12.05 (月)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション31−40
 11月29日付け朝日新聞に「音楽評論、原点見つめ直す」と題して、過去〜現在の音楽評論の流れと今後の行く末についての記事が載った(吉田純子記者執筆)。私も曲がりなりにも評論はするわけで、大いに興味を持って読んだ。戦時中の音楽評論は「敵対国の音楽とどう向き合うべきか」という難問との戦いだったという。戦時下で西洋音楽を嗜むという事がいかに大変だったかを考えさせられる。
 兼常清佐の「ピアニスト無用論」から、「パデレウスキーが叩いても、猫が上を歩いても、同じ鍵盤からは同じ音しか出ない」なる一文が引用されている。前後を読まないと、著者の真意は掴めないが、こういうキャッチーで威勢のいいことを言う評論家が戦時中にいたと思うだけでも楽しい。亡くなった立川談志みたいなキャラだったのかしら。
 現代音楽評論界の雄・片山杜秀氏の"現代の音楽評論のあり方"的見解も紹介されている。曰く、インターネット上で誰もが批評を自由に発信できるようになった今だから、音楽評論も「このワインが最高、と断じるのではなく、この地方のこのワインもおいしいよ、というグルメ評にも似た『提案型』にならざるを得ない」と。だが、私はこの見解には組みし得ない。かつてわが国の教育委員会が打ち出した"ゆとり教育"や"一等賞を決めない運動会"に見られるヤワな気質と同質なものを感じるからだ。"あれもこれも"からは何にも生まれない。こういう時代だからこそ、逆に、間違いを恐れない「俺はこれが一番だ」風断定的評論が必要なのだ。それらが個々にぶつかり合ってこそ初めて新しい何かが生まれ、クラシック界の閉塞感も打破できる、と私は信じる。政治において「決め込み邁進型」橋下流が支持を得たのも、これでなきゃ世界は変わらないという市民感情の発露に違いないのである。私はこれからも自分なりのこれしかない「究極」を求めて進んでゆきたい。
 では、最後の「究極」キャプションにして、シューベルトの完全最終回です。2010年8月17日付「シューベルトはソナタが苦手?@」から始まって以来1年4ヶ月、なんと56回を数えました。われながらよく続いたものだと思います。というか、これはシューベルトという稀有な天才の測り知れない魅力の成せる業なのです。とにかく、長い間ありがとうございました。次回からは、また新たな「クラ未知」がお届けできればいいなと思っています。乞うご期待!

31 あふるる涙 D911-6 1827
「冬の旅」第6曲。ミュラーの原詩では第7曲で、以下最終曲「辻音楽師」の前まではお互いすべて違う順番となる。♪私の熱い悲しみが雪を溶かし水流となって小川に流れ込み、あの人の家に行き着くだろう と歌う。白髪三千丈的誇大表現の詩に、敢えてシンプルな有節歌曲を当て嵌めるシューベルトの職人芸が聞きもの。演奏はフィッシャー=ディースカウ&ジェラルド・ムーア71DG盤で。

32 春の夢 D911-11 ミュラー 1827
「冬の旅」第11曲。「 私は夢見た、いろとりどりの花、緑の野、たのしそうな小鳥のさえずりを」という夢部分と、「鶏が鳴いて目覚める現実」との対比の妙。それをつなぐ優しいピアノの調べが胸を打つ。抒情性と劇性が同居する傑作。「冬の旅」では、この曲のみフィッシャー=ディースカウ&ブレンデル86を採る。他の曲は、ほぼムーアのリアリスティック基調のピアノで問題ないのだが、事この曲はそれだけでは足りない。ピアノにノスタルジックとハートフルさが必要不可欠なのだ。主題を奏でるピアノから優しさが滲み出て、聴くものの胸にジーンと迫らないと「春の夢」ではないのである。その点、ブレンデルは完璧である。

33 最後の希望 D911-16 ミュラー 1827
「冬の旅」第16曲。ゆらゆら揺れ落ちる落ち葉を模す無調風なピアノの響きが印象的な導入部から、コラール風宗教的なエンディングに達する一葉のドラマこそ、シューベルトの天才の技だ。演奏はフィッシャー=ディースカウ&ムーア71DG盤が最上だ(以下34、35も同じ)。

34 道しるべ D911-20 ミュラー 1827
「冬の旅」第20曲。♪旅人たちの行く道Wegeを避けて私が行く道StraBenは、誰ひとり帰ってきたもののない道だ。道しるべが示す宿命の道を私は行くしかないのだ〜ここまできても未だ社会との疎外感を認識するしかない若者の遣る瀬無い心情がたまらない。リュウちゃん曰く"「冬の旅」随一の傑作"。

35 辻音楽師 D911-24 ミュラー 1827
「冬の旅」第24曲。物語の最後で若者は旅を共にできる人間と出会う。それは同じ境遇の世捨て人ライアー弾きだ。シューベルトが生涯求め続けた「歌」を介してその老人と心が通じ合う。「歌」ある限りどこまでも魂は旅を続けてゆくのである。ライアーを模すフレーズがあくまで無機的に連なったあと、最後の最後で「歌」と合体する天才的な構成。シューベルト芸術究極の到達点だ。

36 D939 ライトナー 1828
D.F.フィッシャー=ディースカウ
♪なんと星が明るく夜空に輝いていることか 星はじっと様々の慰めの義務を果たしてくれる おまえたちの光を私たちの祝福にしておくれ〜星への感謝と願いを静かに歌う単純な有節歌曲で、法隆寺のリュウちゃんの推薦曲。全集からフィッシャー=ディ−スカウで。

37 セレナーデ D957-4 レルシュタープ 1828
D.F.ディースカウ、H.ホッター、P.シュライアー
「白鳥の歌」第4曲。レルシュタープのシンプルな恋の詩に官能のスパイスをふりかけたシューベルトの天才が、深くて親しみやすいセレナードを創りあげた。「白鳥の歌」(37−39)は、フィッシャー=ディースカウ&ムーア72DG盤がベストだ。飛び抜けた美声と完璧なまでにコントロールされた表現は、シューベルト最晩年の歌世界を理想的に構築している。

38 海辺にて D957-12 ハイネ 1828
「白鳥の歌」第12曲。人生の最終局面で出遭ったハイネの詩とのコラボレーション6曲はすべて意味深い作品で、1曲を選ぶのは難しいが、好みを含めこの曲にしたい。ハイネらしい毒のある詩をシンプルな抒情性と適度な劇性で包み込むシューベルトのこれも天才の技といえる。

39 鳩の使い D957-14 ザイドル 1828
「白鳥の歌」第14曲。「我が友シューベルトへ」なる追悼詩を書くほど親しかったザイドルとの合作は、シューベルト最後の作品となった。「冬の旅」で若者の疎外感を極限まで追い込んだシューベルトが、最後に作ったのが軽快なビーダーマイヤー調のこの歌だったのは、どこか救われた気持ちになる。苦しみぬいた人生だったが、安らかに召されて行ったと思いたい。

40 岩の上の羊飼い D965 ミュラー/フォン・シェジ 1828
E.マティス、B.ヘンドリクス、K.バトル、B.ボニー
哀感漂うクラリネットの音色。温かい郷愁を誘うメロディー。遠くに住む恋人へのあこがれが空を舞い、想いは熱くやがて安らかに浮遊して、ついには魂が春の中を軽やかに駆けめぐる。「白鳥の歌」の終曲「鳩の使い」とともにシューベルト最後の作品といわれている。説得力のバーバラ・ボニーと透明感のキャスリーン・バトルは甲乙付けがたいが、ここは清澄なバトルの歌声こそ安らかに天国に飛び立つシューベルトに相応しい。レヴァインのピアノもライスターのクラリネットも同一のテイストでバトルを支えている。


 2011.11.25 (金)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション21−30
 我が国では日本シリーズとナベツネ問題に沸いた11月中旬でしたが、このサイトの家主であり朋友のK氏がトルコに行ってきました。昔からなにかと親日的な国と思っていましたが、それが何に起因しているのか?・・・・・ 彼の「トルコ・リポート」を「ジャズとミステリーの日々」最新版(11月19日付け)でご覧ください。では、「究極」キャプション第3弾です。

21 涙の雨 (「美しき水車小屋の娘」より) D795-10 ミュラー 1823
F.ヴンダーリヒ、P.シュライアー、D.F=ディースカウ
歌曲集「美しき水車小屋の娘」は、粉職人の若者が、美しい水車小屋の娘に恋をするが、狩人に奪われ、絶望して命を絶つという物語。第10曲「涙の雨」は――若者が恋する娘と木陰で並んで小川を見下ろしている。自然の中で小川と対話する若者は幸福感に包まれて、思わず涙する。溢れた涙を見た娘は「あら、雨だわ。さよなら。家に帰る」と言って立ち去ってしまう――うまく運んでいたかに見えた恋の流れに不吉な暗雲が立ち込めた一瞬である。この最終節におけるシューベルトの転調の妙は比類なく、後奏のピアノの翳りある響きは第14曲「狩人」の出現以降の暗転を暗示する。シューベルト絶妙のテクニックである。多感な若者の心情をとびきりの美声で歌うフリッツ・ヴンダーリヒ(テノール)の名唱で。

22 夕映えの中で D799 ラッペ 1824/25
E.シューマン、B.ボニー、C.ルートヴィヒ、A.S.V.オッター、D.F=ディースカウ、H.ホッター
神が造りたもうたこの世の美しさを、静かに敬虔に謳いあげる。起伏の少ない淡々とした曲調は、感情移入が難しく、歌手の真の意味での実力が問われる難曲だ。人生の陰影を深く刻み込んだようなクルスタ・ルートヴィヒ(メッゾ・ソプラノ)の感情表現は、この曲の特質を最高度に発揮している。1994年4月、ウィーン告別演奏会でのライブ録音(RCA)が、1973年のスタジオ録音(DG)に勝る。両者の差異は、状況によって違った形で生み出される表現というものの本質を覗わせてくれる。

23 夜と夢 D827 マテーウス・フォン・コリーン 1823
E.シューマン、T.S=ランダル、K.バトル、B.ボニー B.ヘンドリクス、F.ロット、P.シュライアー
夜の静けさとそれが与える夢の神秘を、畏敬の念を込めて歌う。単純な2節歌曲だが、第2節の転調の妙が曲に深い陰影を与えている。主調HがGに変わって入った第2節は、途中Hにもどり、F♯を経て再度Hにもどって最終行「またあらわれておくれ、やさしい夢よと」Holde Traume, kehret wieder!に連なり繰り返される。この繰り返し部分が第一節最終行と同じ旋律となって回帰している。この流れの神々しさは筆舌に尽くしがたく、2009.10.17付「クラ未知」で指摘した「交響曲第8番グレート」第2楽章の A1−B1移行部を彷彿とさせるものがある。清らかに淡々と歌うシュティッヒ=ランダルの神々しさも、感情を動かすテクニックが実に自然なキャスリーン・バトルも捨てがたいが、ここも、フェリシティ・ロットに止めをさす。出だしのピアニッシモの美しさはまるで天上の声。比肩するものがない。ていねいな詩の解釈と慈しみの歌唱は、シューベルトの本質であるやさしさを作為なく伝えて、実に感動的である。ピアノのグラハム・ジョンソンも、的確なテンポ設定と穏やかな表現で好サポート。シューベルト・リートの理想像がここにある。

24 若い尼僧 D828 クライガー・デ・ヤケルッタ 1825
E.シュワルツコップ、E.アメリンク、G.ヤノヴィッツ、L.ポップ、K.バトル、B.ヘンドリクス
世俗に揺れる心が、最後には神への帰依を決心する――そんな心の動きが、嵐や鐘の音を擬したピアノの音の上に歌われる。歌い手には、密接に呼応しあう詩と旋律を忠実に再現する技量が要求される。錚々たる名歌手たちに伍して、エリー・アメリンクは清純派のイメージを覆すようなドラマティックな歌唱をみせる。神聖と世俗に潔さが加わった一世一代の名唱である。

25 アヴェ・マリア D839 スコット/シュトルク 1825
T.S=ランダル、E.アメリンク、グンドゥラ・ヤノヴィッツ、B.ヘンドリクス、B.ボニー、A.S.V.オッター
イギリスの歴史小説家・ウォルター・スコットの叙事詩「湖上の美人」を、シュトルクが訳したドイツ語詩7篇に書いた歌の一曲がこの「アヴェ・マリア」。♪やさしきマリア様 乙女の願いをお聞きください 父のために切なる祈りを捧げるこの子のために〜罪を背負った父の許しを、聖母マリアに乞う娘エレンの切なる祈りの歌である。バーバラ・ヘンドリクスの歌唱は、敬虔さに凛としたスパイスが利く。この味こそが詩の内容と合致して、この曲のベスト・パフォーマンスを示している。

26 ただ憧れを知るものだけが D877-4 ゲーテ 1826
E.マティス、F.ロット、B.ボニー
詩はゲーテ。「ウィルヘルム・マイスターの修行時代」から、薄幸の少女ミニヨンがウィルヘルムへの憧れを歌う一連の「ミニヨンの歌」からの一曲で、曲は「静かな国へ」D403からの転用である。シューベルトが、この時期、転用してまでゲーテの詩に曲をつけた意図は? シューベルトの歌曲の中で、ゲーテの詩に書いたものは約70曲。そのほとんどは1823年以前の作品だ。それ以降はこの「ミニヨンの歌」が、1826年に数曲作られているだけだ。この極端な作曲年代のギャップに、なにか意味はあるのだろうか? ミニヨンの焦がれるような胸のうちを作為なく歌うエディット・マティス(ソプラノ)の歌唱が、逆に切々と胸に迫る。

27 春に D882 シュルツェ 1826
E.シュワルツコップ、E.アメリンク、B.ヘンドリクス、F.ロット、A.S.V.オッター、D.F=ディースカウ、H.ホッター
♪咲く花も緑の野も すべてはあの時のまま うつろうのは ただ ひとのこころ〜めぐり来る季節に、ひとのこころのうつろいを歌う。ハンス・ホッター(バス)の格調高く誠実な歌唱は、この漢詩にも通じる哲学的歌世界を表現して見事だ。淡々としながらも彼の人生が投影されているような名唱である。

28 男ってみんなやくざなもの D886-3 ザイドル1826
K.バトル、B.ヘンドリクス
3つの節を、♪男ってみんなやくざなものよ という共通の語句で締めくくる有節歌曲。母親にそう言われて、"私の彼に限ってそんなことはない"と思っていた娘が、やっぱり母さんの言ったとおりだった、と悟るコミカル・タッチの歌。"やくざ"の部分には、mechantというフランス語が嵌っているのが面白い。フランス語に精通した従妹によると、「・・・やくざなもの」はいただけない、mechantには"聞き分けのない"というニュアンスの訳が妥当である、と言う。フランスでは、子供がいたずらをしたときなど、親は"聞き分けのないことしてはダメ!Ne sois pas mechant!"と言って叱るそうだ。確かに、この歌は、男の習性にあきらめつつもあきれちゃっている女の気持ちを歌ったもの。ならば、悪戯息子を叱責する親の気持ちと変わりない。そこで、私的邦題の提案――「男ってみんな懲りないもの」はいかがでしょうか。この3つのmechantを、それぞれにニュアンスを変えて表現するバーバラ・ヘンドリクスの歌唱力に脱帽!ラドゥ・ルプーの躍動感溢 れるピアノも素晴らしい。

29 シルヴィアに D891 シェイクスピア/バウエルンフェルト 1826
E.シュワルツコップ、L.ポップ、B.ヘンドリクス、A.S.V.オッター、P.シュライアー、D.F=ディースカウ
天がやさしさと美しさを与えた娘・シルヴィアへの賛歌。感情を丁寧に込めつつ品よく歌いこむアンネ・ゾフィー・フォン・オッター(メッゾ・ソプラノ)が、この歌の魅力を余すところなく伝えてくれる。

30 菩提樹 D911-5 ミュラー 1827
「冬の旅」第5曲。失恋した主人公が、今、通り過ぎて行くその傍らにはかつて心を癒してくれた菩提樹が立っている。深い暗闇、帽子が吹き飛ぶほどの強い風、そんな厳しい現実でも、安らいのあの場所からは絶え間なくやさしい囁きが聞こえてくる。厳しい冬の旅での一時の安らぎである。我が国では「泉に添いて 茂る菩提樹」の歌詞で教科書に載り、長い間親しまれてきた。「冬の旅」の演奏は概ね、ソフトな歌声の中にロマンの香りと青春のほろ苦さを秘めたフィッシャー=ディースカウ&ムーアのDG盤71がベスト。

<追加CD>

歌曲集「冬の旅」
 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
  クラウス・ビリング(ピアノ) 1948録音
  ジェラルド・ムーア 1955
  ジェラルド・ムーア 1962
  イエルク・デムス 1965
  ジェラルド・ムーア 1971
  ダニエル・バレンボイム 1979
  アルフレッド・ブレンデル 1986
  マレイ・ペライア 1990
 ゲルハルト・ヒュッシュ(バリトン)、ハンス・ウド・ミュラー(ピアノ) 1933
 ピーター・ピアース(テノール)、ベンジャミン・ブリテン(ピアノ) 1963
 ハンス・ホッター(バス)、ハンス・ドコウビル(ピアノ) 1969
 ヘルマン・プライ(バリトン)、フィリップ・ビアンコーニ(ピアノ) 1984
 ローベルト・ホル(バリトン)、オレグ・マイセンベルグ(ピアノ) 1987
 クリストフ・プレガルディエン(テノール)、アンドレアス・シュタイアー(ピアノ) 1996
 マティアス・ゲルネ(バリトン)、アルフレッド・ブレンデル(ピアノ) 2003


 2011.11.15 (火)  閑話窮題〜リュウちゃんのシューベルト超天才論
 今回は、前回予告させていただいたように、法隆寺のリュウちゃんのシューベルト論を掲載します。これは「究極」完成の感想文の一部として送られてきたもので、シューベルトの天才性を偉大な二人の先人モーツァルトとベートーヴェンと比較しながら論じた実にユニークで完成度の高い論文となっています。
 このクラシック史上に輝く3人の偉大な作曲家を、人は一般的にそれぞれ、「天才モーツァルト」「楽聖ベートーヴェン」「歌曲王シューベルト」などと呼びます。これに対しリュウちゃんは、「前二者の呼称に異論はないが、シューベルトのはいかにも軽すぎる。彼は二人の下にいる存在じゃない。むしろ二人を超えた超天才なのだ」と言っているように、私には聞こえます。そこには、シューベルトをこよなく愛する彼の心情が溢れています。
 それでは、リュウちゃんの「シューベルト超天才論」をどうぞ。尚、カット写真はリュウちゃんが散歩の折に撮った「法起寺を望むコスモス」です。

<リュウちゃんの「シューベルト超天才の証」>

 「究極のシューベルト歌曲集」の曲目を眺めると、シューベルトの驚くべき早熟の天才ぶりに、改めて感動します。「糸を紡ぐグレートヒェン」が作曲されたのが1814年、シューベルト17歳のとき。あの糸車を描写したピアノ伴奏が、グレートヒェンの想いに伴って様々に変化する、そして、クライマックスの「Und ach, Sein Kuss! 」(おお!彼の口づけ!)のところで糸車はピタリと止まってしまいますが、また、高まった感情は平静に戻り、糸車は何事もなかったように回り始める・・・・・歌声とピアノの自在で有機的な絡み合い、ゲーテの詩を歌にする神のような手さばき! モーツァルトもベートーヴェンも成し得なかったと思われる高い境地に、僅か17歳で到達した傑作だと思われてなりません。翌年には「魔王」、「野ばら」が誕生。シューベルトは、既にこの頃から、後世にまで愛聴される「傑作の森」の時代に入っていたように思われます。

 因みにモーツァルト17歳の頃の作品といえば、ケッへル番号で220番あたり、交響曲は第28番、ピアノ協奏曲では第5番、歌劇は10作目の「羊飼いの王様」の時代、ベートーヴェンに至っては、交響曲第1番が30歳の作品だから、まだ修行時代だったのですね。以上、偉大な先人ニ人と比較しても、いかにシューベルトが早熟かつ、最初から完成度の高い作品を残していた作曲家であったかが、立証されると思います。

 歌曲集「美しき水車小屋の娘」が1823年、26歳、歌曲集「冬の旅」が1827年、30歳(死の前年)、死後にまとめられた「白鳥の歌」が1828年(31歳、死の年)、「冬の旅」の詩に巡り合ったのが、ベートーヴェンが死ぬ1ヶ月前(1827年2月)。30歳の時のモーツァルトの主な作品を挙げますと、交響曲第38番「プラハ」K504、ピアノ協奏曲第23〜25番、歌劇「フィガロの結婚」K492あたりで、ようやく後世まで残る「傑作の森」の入り口段階。ベートーヴェンの30歳は、やっと交響曲第1番Op-21、ピアノ・ソナタ第14番「月光」Op-27-2あたり、まだ初期作品に分類される時代です。つまり、シューベルト30歳は「晩年の傑作の森」の時代、モーツァルトは「中期の傑作の森の入り口」に入った時代、ベートーヴェンは「初期の時代」と云えると思います。
 モーツァルト、ベートーヴェンは、作曲家として出発した時は先人の作風を踏襲する事から始めたように思われますが、シューベルトは、いきなり、それまで全くなかった革新的な音楽語法を、初期の歌曲で会得してしまいました。これは、まさに革命的といえる出来事で、これまでのバロック〜古典派音楽への緩やかな変遷から、いきなりシューベルトという超絶した天才によって、ロマン派〜近代音楽の幕が切って落とされたということです。

 そして「1828年の奇跡」!! シューベルト31歳、死の年1828年の作品は、まさに奇跡としか言いようのない傑作の群れ。歌曲だけ取り上げても、歌曲集「白鳥の歌」D957に代表されるように、まさに「神曲」ともいえる傑作が目白押しです。「白鳥の歌」の最後の「鳩の使い」と、ドイッチュ番号の最後の作品である「岩の上の羊飼い」D965は、モーツァルトの「レクイエム」にも比すべき作品だと思っています。しかも、両作品とも、遥か離れた恋人への憧れを歌った曲で、「シューベルトの全作品が"彼方への憧れ"である」ことを象徴しているように思います。「岩の上の羊飼い」はクラリネットのオブリガートが付いています。このクラリネットは、まるで歌詞にある深い谷からの木霊のように歌唱と絶妙に絡み合います。それとも、草原を渡る風なのでしょうか?


 ・・・・・というわけで、リュウちゃんのシューベルト論を紹介させていただきました。リュウちゃんは、現在、ブログ「リュウちゃんの懐メロ人生」で「脱原発」を訴えています。ここには、飽きっぽく懲りない日本人への警告が詰っています。ブログメイトとの交流の輪も広がりつつあるようです。皆さんも是非覗いてみてください。


 2011.10.31 (火)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション11−20
 法隆寺のリュウちゃんからの「感想メール第一弾」が届いた。「『予備リスト』の36曲を提示されたのが昨年6月初め、『究極のシューベルト歌曲』を選定されたのが今年の9月末、その間、何と1年4ヶ月に渡る貴兄のシューベルト歌曲に対する傾倒ぶりの凄まじさに、いつもの事ながら、深甚な敬意を表させていただきます」というお褒めの言葉で始まっている。辛口の彼からこの様な賛辞をいただくのは光栄の至りというもの。もし彼の存在がなかったら、シューベルトの歌曲の森にこれほどまでに深入りすることはなかっただろう。彼は続けて、「究極」の最初のリストと最終リストを比較し、「自分ならこうする」という独自案を展開してくれた。
 以下、リュウちゃんが「かならずしも『究極』に入れなくてもよい」と思う楽曲とそれに代わって「入れたい」楽曲に関しての件を転載させていただく。

<「究極」から外してもよい楽曲>

「憩のない愛」:デモーニッシュな初期の傑作ですが、「グレートヒェン」、「魔王」が選定されているので、敢えてチェイスする必要はなかったのではないか?ポピュラリティの点でも問題あり。
「至福」:いい曲ですが、やや軽すぎる感じがします。
「さすらい人」:「さすらい」は、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」、「冬の旅」のテーマであり、また、シューベルトの人生が「さすらい」とも思え、またピアノ曲「さすらい人幻想曲」にこの歌曲の主題を使用したことから、タイトルは有名ですが、小生は、シューベルト歌曲の中では、さほど傑作だという感じが致しません。
「死と乙女」:これも「さすらい人」と同じような感を持っています。
「若い尼僧」:この歌、好きなのですが、「憩のない愛」と同様、ポピュラリティの面で問題があると思います。

<「究極」に入れたい楽曲>

羊飼いの嘆きの歌 D121b、泉のほとりの若者 D300、ウルフルーの魚釣り D525b、千変万化の恋人 D558、アテュス D585、エルラフ湖 D586、こび とD771、ロザムンデのロマンス D797-3b、ブルックにて D853、聞け、聞け、ひばりを D889、欺かれた裏切り者 D902-2、アリンデ D904、狩人の愛の歌 D909、舟人の別れの歌 D910、草原の歌 D917、漁夫の恋の幸せ D933

「三大歌曲集」は、殆ど好きな曲ばかりなのですが、中でも特に好きでポピュラリティの高いと思われる曲を挙げます。
「美しき水車小屋の娘」:第2曲「いづこへ?」、第7曲「苛立ち」、第9曲「水車小屋の花」(この曲、多分、一番ポピュラリティがありそうです)、第19曲「若者と小川」(この曲、泣けます!)、
「冬の旅」:第1曲「おやすみ」、第9曲「鬼火」、第13曲「郵便馬車」、第15曲「からす」、第19曲「まぼろし」、
「白鳥の歌」:第1曲「愛の使い」、第2曲「兵士の予感」、第7曲「別れ」、第9曲「彼女の絵姿」、第11曲「街」
・・・・・うーん、これじゃ三大歌曲集だけで40曲が埋まってしまいそうです(笑)

 とまあ、こんな具合である。<外してもよい楽曲>5曲に対し<入れたい楽曲>は30曲に上る。+25曲はCDがもう一枚必要になる。やはり好みは人それぞれである。これらのほとんどは選定時にリュウちゃんから推薦を受け、試聴・判断しているが、「聞け、聞け、ひばりを」と「街」は収録時間の関係でやむなく外したものだ。
 逆に、リュウちゃん推薦で選定した曲目も多い。ざっと挙げてみると、「アルプスの狩人」D524b、「タルタルスの群れ」D583、「涙の雨」D795-10、「ただ憧れを知るものだけが」D877-4、「男ってみんなやくざなもの」D886-3、「道しるべ」D911-20、「星」D939、「海辺にて」D957-12などである。実にありがたいアドヴァイスだった。
 以上がリュウちゃんの「『究極』選曲に関する意見」であるが、凄いのはむしろこのあと、「死の年1828年」を軸に論じるシューベルト天才論で、これはユニークかつグローバルな実に見事なシューベルト論となっている。これは次回で取り上げさせていただきたい。乞う、ご期待である。では、キャプション11−20を。

11 ガニュメート D544 ゲーテ 1817
E.シュワルツコップ、E.アメリンク、B.ボニー、B.ヘンドリクス、F.ロット、J.ノーマン、P.シュライアー、D.F=ディースカウ
トロイ王トロスの子ガニュメートが、大神ゼウスに天上へ連れ去られる気持ちを歌う。 天上へ向かうがごとく、清らかに美しく歌い上げるバーバラ・ボニーの歌唱が、ギリシャ神話の美少年を髣髴とさせて素晴らしい。

12 音楽に寄す D547 フランツ・フォン・ショーバー 1817
E.シューマン、E.シュワルツコップ、T.S=ランダル、E.アメリンク、F.ロット、F.ヴンダーリヒ、P.シュライアー、D.F=ディースカウ、H.ホッター
音楽への想いと感謝。作曲家・シューベルトの心情を投影したような親友の詩に、親しみやすいメロディーが乗る。あくまでオーソドックスに真摯に格調高く歌い上げるペーター・シュライアーと高潔な気品を持つフェリシティ・ロットが甲乙つけがたい名唱だ。シューベルトの気持ちを代弁するという意味から、ここでは男声を採る。

13 ます D550 シューバルト 1817
E.シューマン、T.S=ランダル、E.アメリンク、L.ポップ、B.ヘンドリクス、F.ロット B.ボニー、P.シュライアー、D.F=ディースカウ
ますが気持ちよく泳ぎまわる前半と、漁師に捕獲される後半というストーリー構成だが、基本的には前半ムード優先がいいだろう。サラッと清らかに歌うアメリンクがいい。

14 タルタルスの群れ D583 シラー 1817
D.F=ディースカウ
シューベルト歌曲の中で、シラーの20数曲というのは、ゲーテ、マイアーホーファーに次ぐ数。ドイツ古典主義の代表的な詩人で、英雄主義、理想主義に裏うちされた男性的な詩が多い。タルタルスは、ギリシャ神話に出てくる冥界の一番底にある、神々に背いた大罪人が落とされるところ。♪そこでは神の力も及ばず恐怖と苦行はいつ果てるとも知れない〜曲想は常に不気味でおどろおどろしい。フィシャー=ディースカウで。

15 春の想い D686 ルートヴィヒ・ウーラント 1820
E.シューマン、T.S=ランダル、E.アメリンク、F.ヴンダーリヒ、P.シュライアー、D.F=ディースカウ
♪あわれなこの胸も悩みを忘れるがいい 今こそなにもかもが移り行くとき〜素朴に情感豊かに春へのよろこびを歌う。そしてそこには多感という名のスパイスが利く。春への喜びと多感な胸の痛みをバランスよく歌うテレサ・シュティッヒ=ランダル(ソプラノ)でどうぞ。

16 ズライカT D720 1821
E.アメリンク、J.ノーマン、B.ヘンドリクス、B.ボニー、A.S.V.オッター
ゲーテの愛人マリアンネ・ヴィルレーマーの詩。東風に託して、恋人へのことづてが歌われる。官能性とエキゾティシズムが混在するシューベルトとしては異色のテイストである。ブラームスはこの曲を「かつて作られた最も美しいリート」と評した。この味を最高度に発揮しているのはバーバラ・ヘンドリクス(ソプラノ)だ。

17 私の挨拶を D741 リュッケルト
F.ロット、D.F=ディースカウ
♪私と私の挨拶から引き離された人よ 私はあなたのもとに あなたは私にもとにいるのです 私の挨拶を 私の接吻を〜引き離された恋人に送る変わらぬ愛情を歌う。この旋律は、ピアノとヴァイオリンのための「幻想曲」D934の第3部変奏曲の主題として使われている。複雑な心境を大きく包み込むようなフェリシティ・ロットの歌唱が、テクニックを駆使してドラマティックな味付けをするフィッシャー=ディースカウに勝る。

18 ミューズの子 D764 ゲーテ 1822
E.シューマン、E.シュワルトコップ、E.アメリンク、J.ノーマン、B.ヘンドリクス、F.ロット、P.シュライアー、D.F=ディースカウ
音楽の精が飛び回るような躍動感が心地よい。したがって、歯切れのよさと軽快さがポイントとなる。エリー・アメリンクとルドルフ・ヤンセン(ピアノ)のコンビがベスト・パフォーマンスを示す。

19 水の上で歌う D774 シュトルベルク1823
E.シューマン、E.シュワルツコップ、E.アメリンク、L.ポップ、F.ロット、B.ボニー D.F=ディースカウ
高貴にして美しい旋律と光りきらめくさざなみを表す描写性豊かなピアノのマッチングが見事。詩は、美しい自然と時の流れの中に人生の陰影を投影する。1988年の日本映画「華の乱」では、E.アメリンクの歌唱が使われて話題となった。積み重ねた人生が自然とにじみ出るようなシュワルツコップの名唱も、フェリシティ・ロットには敵わない。高貴にして懐深く、移ろう時の陰影を映しだすその歌唱は、「ばらの騎士」のマルシャリンの名舞台を想起させる。

20 君こそは憩い D776 リュッケルト 1823
T.S=ランダル、B.ヘンドリクス、B.ボニー、P.シュライアー、D.F=ディースカウ
♪君はわがやすらい 甘き平安 あこがれにして、またそれを鎮めるもの〜強い気持ちで愛の気高さを歌いあげる。バーバラ・ヘンドリクスの凛とした歌唱は感動の極み。殊に終盤、「光り輝け」Allein erhelltにおける感情移入は、鳥肌が立つほど。まさに名唱である。抒情性豊かなラドゥ・ルプーのピアノも好サポート。

<前回リストへの追加CD>

アヴェ・マリア〜シューベルト歌曲集 DG 1996録音
  アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(メッゾ・ソプラノ) BENGT FORSBERG(ピアノ)
野ばら〜シューベルト歌曲集
  ペーター・シュライアー(テノール) ワルター・オルベルツ(ピアノ) VICTOR 1995
ドイツ歌曲集
  ハンス・ホッター(バス) ジェラルド・ムーア(ピアノ) EMI 1957


 2011.10.25 (火)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション1−10
 「究極のシューベルト歌曲集」には、その都度書き止めておいたキャプションのストックが40曲分ある。内容は、詩の大意や楽曲構成など曲そのものに関すること、及び、私が考え得るその曲のベスト歌唱などである。前者は「名曲解説全集」(音楽之友社刊)などに書かれていてなんら目新しいものではないが、後者は「クラ未知」ならではの内容と自負している。但し、キャリア浅き俄かリート・ファンの手になるものゆえ、完成度に自信がないのも正直なところだ。でもまあ、私の知る限り、シューベルト歌曲一曲ごとの聴き比べによるベスト・パフォーマンス選定ガイドなるものは世間に存在しないのだから、何らかの価値はあるだろう。
 では、巷にあるガイドブックとはいかなるものか? 例えば、CD蒐集の定番「21世紀の名曲名盤」(音楽之友社)では、「シューベルト歌曲集」として一括して扱われているだけである。因みにそこでのベスト3は以下のとおり。全22枚組のディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)歌唱の「シューベルト歌曲大全集」が第1位。エリザベート・シュワルツコップ(ソプラノ)とエドウィン・フィッシャー(ピアノ)によるシューベルト「歌曲集」が第2位。ヘルマン・プライ(バリトン)による「シラー歌曲集」が第3位である。第1位がCD22枚組"男声によるシューベルトの歌曲全曲"という歴史的快挙なる超大作、第2位は名女声歌手によるスタンダードな定盤、第3位はシラーの詩による曲だけを集めた非一般的CDだ。こんなに違う性格のコンテンツを、評論家先生はどうやって一律に比較できたのだろう? この種のガイドブックで一曲ごとの比較が無理なのは解るが、せめて男声と女声、通常系と企画系に分けるなどの工夫があってもよかったのではないか。これでは、「CD選びの力強い参考書」という謳い文句が泣くというものだ。
 ともあれ私の場合は、40曲全てにわたり可能な限り異種演奏を比較試聴して、曲ごとのベストを選定するという地道な作業を行った。選定において最も重要視した基準は、楽曲の持つ「固有の姿」の表現度合である。姿には外見と内面があるから、これを「曲相」と呼びたい。「曲相」は元来楽曲に備わっているはずのものだが、それを探り出すのは自分である。例えば、「糸を紡ぐグレートヒェン」における「曲相」とは、「うぶな街娘の秘められた情欲と気高くも一途な精神」という具合。即ち、一曲ごとに自分で「曲相」を設定し、演奏ごとにその表現度合いを測るのである。それ以外には、音楽の流れ、声の美しさ、表現の深さ、音の良さ(基本SP復刻などモノラルは除外)などを考慮した。ここにおいて有識者等他人の意見は一切無視。すべて未熟な私の独断で行った。

 では以後4回にわたり、「究極のシューベルト歌曲集」キャプションを10曲ずつ掲載させていただく。皆様の名曲名演選びの少しでもお役に立てれば幸いである。
 なお、楽曲クレジットの下段に、聴き比べた演奏者名と末尾には全ての試聴CDを列記した。「ここに含まれない名唱」をご存知の方、「私のベストは違う」とおっしゃる方など、是非ご意見を頂戴したいと思います。

1 糸を紡ぐグレートヒェン D118 ゲーテ 1814
E.シューマン、E.シュワルツコップ、R.シュトライヒ、E.アメリンク、G.ヤノヴィッツ、L.ポップ、J.ノーマン、B.ヘンドリクス、F.ロットB.ボニー、R.フレミング、C.ルートヴィヒ
ファウストの気持ちが離れたことを感じたグレートヒェンの不安な心情と、まだ残る思慕の情を歌う。kuss(kiss)での情感の高まりが強烈!そして、その直後のピアノの乱れが心の乱れを表すなど、シューベルトの抒情性と劇性が見事に結実した記念碑的作品で、この曲が完成したとされる1814年10月19日を、ドイツ・リート誕生の日という向きもある。フェリシティ・ロット(ソプラノ)&グラハム・ジョンソン(ピアノ)が素晴らしい。ファウストのことを回顧する ♪あのかたの気高い歩み、立派なお姿・・・・・の件で、テンポを落として表情を一変させるところや、最後の言葉schwer(息苦しい)におけるニュアンスに富んだ表情は特筆もの。その「気品漂う色香」はゲーテとシューベルトが創造したグレートヒェン像を余すところなく表現している。グラハム・ジョンソンのピアノもニュアンスに富みテンポ設定も素晴らしい。文句なしのサポートだ。

2 憩のない愛 D138 ゲーテ 1815
K.バトル、J.ノーマン、T.S=ランダル、D.F=ディースカウ
♪愛は苦しい憩いのない喜びだ〜と激情的に歌う。ピアノの音型は心の不安を表すかのようだ。キャスリーン・バトル(ソプラノ)は、2分に満たない短い時間の中に、「密度濃く表現を凝縮」した。心の乱れが強烈に伝わってくる歌唱だ。

3 野ばら D257 ゲーテ 1815
E.シューマン、T.S=ランダル、B.ボニー、B.ヘンドリクス、F.ロット、F.ヴンダーリヒ、P.シュライアー、D.F=ディースカウ
♪童は見たり 野中のばら〜 誰でも知っている親しみやすく素朴なメロディーだが、詩の内容は少年にあえなく折られてしまうばらのことが描かれている。これは若き日のゲーテの実体験が背景にあるといわれている。基本的に軽やかで美しいが、ドラマティックな味付け一番のバーバラ・ボニー(ソプラノ)の歌唱が面白い。ちょっとやりすぎの感もあるが、この歌が「愛らしいだけの歌ではない」ことをわれわれに教えてくれる。

4 魔王 D328 ゲーテ 1815
Marta Fuchs、J.ノーマン、G.スゼー、D.F=ディースカウ
ピアノは疾走する馬を模し、多様な旋律は、少年、父親、魔王のそれぞれの性格描写を行う。まるで「物語の一場面を見るような緊迫感」が見事な作品。三者の違ったキャラクターを的確に表現できるのは、フィッシャー=ディースカウ(バリトン)を置いて他にはいない。小学生の頃、トスカニーニが「100年に一度の声」と賞賛した黒人アルト歌手マリアン・アンダーソンのSPでよく聴いたものだが、現在CD復刻されてはいないようだ。フィッシャー=ディースカウは、彼にしては荒削りなEMI盤か、完成度高いDG盤か? お好みでどうぞ。

5 万霊節の連祷 D343 ヤコピ 1816
F.ロット、D.フィッシャー=ディースカウ
♪やすらかに憩え すべての霊よ 苦しみ味わうものも夢を見終わったものも 涙の数を数えられぬ少女も 神を目の当たりに見たものも すべてこの世から去ったもの すべての霊はやすらかに憩え〜すべての霊に祈りを捧げる日、万霊節における連祷(司祭と会衆との交互の祈り)の歌。シンプルな有節歌曲にシューベルトの純粋さとやさしさが込められている。この愛すべき歌は、評論家KH氏からいただいた「フェリシティ・ロット シューベルトを歌う」で初めて知った。この他では、フィッシャー=ディースカウの大全集に含まれているものだけしか知らない。もっとたくさんレコーディングがあってもいいのにと思う。フェリシティ・ロットの淡々とした自然な歌唱には、「清らかな敬虔さ」が宿っている。

6 至福 D433 ヘルティー 1816
R.シュトライヒ、E.アメリンク、L.ポップ、 K.バトル、F.ロット、P.シュライアー、D.F=ディースカウ
♪天国に行って永遠の喜びに浸るのもいいが、私は彼女の微笑みに包まれていつまでもここにいたい〜本来は男歌だが、曲調から女声がいい。「幸福感」をストレートに出すエリー・アメリンク(ソプラノ)の明るく伸びやかな歌唱が似合う。

7 さすらい人 D489 リューベック 1816
ペーター・シュライアー、D.F=ディースカウ
♪わたしはどこへ行ってもよそ者だ。わたしの愛する国はどこにあるのだろうか。「どこに?」と問えば「幸せはおまえのいないところにあるのだ」と、こだまとなって返ってくる―― シューベルトは、この旋律をピアノ曲「さすらい人幻想曲」D547の第2楽章・変奏曲の主題に使っている。「出口のない絶望感」を実直に歌うペーター・シュライアー(テノール)がベストだ。

8 子守歌 D498 作者不詳 1816
R.シュトライヒ、P.シュライアー
♪眠れ眠れ母の胸に 眠れ眠れ母の手に〜で始まる、モーツァルト、ブラームスと共に知らぬ人なき子守歌の名曲。シューベルトの子守歌は、この他にマイアーホーファーの詩によるD527、テオドール・ケルナーD304、ザイドルD867がある。アメリンクの清らかさに「母性の温かさ」をプラスしたようなリタ・シュトライヒ(ソプラノ)でどうぞ。

9 アルプスの狩人 D524b マイアーホーファー 1817
D.F=ディースカウ
マイアーホーファーはシューベルティアーデの一員。シューベルトの歌曲の中で、50曲余に彼の詩が用いられているが、これはゲーテに次ぐ数である。上部オーストリア出身だけに、アルプスやエルラフ湖など、雄大な自然を背景にした詩も多い。最初は(今もそうだが)曲調も好みじゃないので外す予定だったが、「シューベルトの友人の中では、最も提供詩の数が多いし、上部オーストリアの自然を歌ったものも入れるべし」というリュウちゃんの助言により選定。♪緑なす高い山の背で 国中を眺め下ろすのがアルプスの狩人の楽しみ、静寂の中 目の前にかわいいあの娘の姿が浮かんでくる 〜「ヨーロッパ版山男の歌」をフィッシャー=ディースカウが溌剌と歌う。

10 死と乙女 D531 クラウディウス 1817
J.ノーマン、P.シュライアー、D.F=ディースカウ
第1節が少女で第2節が死神の台詞という設定。したがって、「二者の性格描写」がポイント。弦楽四重奏曲D810「死と乙女」の第2楽章は、この旋律を主題とする変奏曲である。ジェシー・ノーマン(ソプラノ)の凄みある説得力が、フィッシャー=ディースカウの並外れた技量を凌駕している。

<試聴CD>
エリザベート・シューマンの芸術第1集/E.シューマン(S)G.ムーア(P)1936年録音*
シューベルト歌曲集/エリザベート・シュワルツコップ(S)E.フィッシャー(P)1952*
シューベルト歌曲集/エリー・アメリンク(S)ダルトン・ボールドウィン(P)ルドルフ・ジャンセン(P)1972−1984
シューベルトを歌う/ルチア・ポップ(S)アーウィン・ゲイジ(P)1983
Schubert Lieder/ジェシー・ノーマン(S)フィリップ・モル(P)1984
シューベルト歌曲集/バーバラ・ボニー(S)ジェフリー・パーソンズ(P)1994
Schubert Lieder/バーバラ・ヘンドリクス(S)ラドゥ・ルプー(P)1985&1992
ベスト・オブ・シューベルト/ルネ・フレミング(S)クリストフ・エッシェンバッハ(P)1996
シューベルト歌曲集/エディット・マティス(S)カール・エンゲル(P)1988
シューベルトを歌う/フェリシティ・ロット(S)グラハム・ジョンソン(P)1988
シューベルト歌曲大全集<女声版>グンドゥラ・ヤノヴィッツ(S)クリスタ・ルートヴィヒ(MS)アーウィン・ゲイジ(P)
シューベルト歌曲大全集/ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(B)G.ムーア(P)
愛の歌〜シューベルト歌曲集/キャスリーン・バトル(S)ジェイムズ・レヴァイン(P)1986
シュティッヒ=ランダルの芸術/テレサ・シュティッヒ=ランダル(S)J.ボノ(P)録音年不詳
シューベルト名歌曲集/リタ・シュトライヒ(S)エリック・ヴェルバ(P)他
シューベルト歌曲集/ペーター・シュライアー(T)ワルター・オルベルツ(P)1995
ザ・ベスト・オブ・シューベルト/ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)G.ムーア(ピアノ)EMI

  S=ソプラノ MS=メッゾ・ソプラノ T=テノール B=バリトン P=ピアノ *モノラル


 2011.10.13 (木)  「究極」ついに完成
 苦節一年余、ついに「究極のシューベルト歌曲集」が完成した。PU-CDとして形に残したかったので、CD2枚160分までの収録を念頭に置いて進行した。その結果、40曲収録に落ち着いた。PUとはprivate brand→PBに対するprivate useのつもりである。個人使用といっても、ご希望の方には差し上げるので、どうか遠慮なくお申し付けください。
それにしても最近、CDショップのドイツ・リート(歌曲)の在庫は悲しいほど少ない。10年ほど前、コンピレーション全盛のころ、オムニバスのクラシックCD、例えば「クラシック・ベスト100」6枚組3000円也のお徳用盤あたりが良く売れたものだが、恐らくこれを買ってクラシックに親しんだユーザーが、そのままヘビー・ユーザーになったわけではなかった。増してや難渋な"ドイツ・リート"たるものにまで踏み込んでくるファンはほとんど皆無だったに違いない。新たなファンが生まれないから、ドイツ・リートのコーナーはスカスカなのだ。こればかりは「いいから聞いてください」とは言えない。シューベルト好きを自認していた私でさえ、専ら聴いていたのは交響曲やピアノ曲などの器楽曲で、深遠な歌曲の森に分け入ったのは「歌曲を知らずしてシューベルト好きといえるか!」という天の声を聞いてからなので、まだ2年も経っていない。
 それからは、シューベルトの歌曲600余曲は人類の宝であると思えるようになった。決して無愛想な曲たちではない。構えているからこっちを向いてくれないだけだ。無心に懐に飛び込めば、そこには無限の宇宙が広がっている。幾多の名曲が温かく微笑んでくれる。それでも、「やはりとっつきにくいヨ」と言われる方には、「ならばこの『究極のシューベルト歌曲集』を聞いてください。ここには誰もが親しめる名曲40曲が詰っています。美しい歌。楽しい歌。弾む歌。力強い歌。静かな歌。清らかな歌。安らかな歌。悲しい歌。虚無的な歌。幻想的な歌。敬虔な歌など、人間の様々な感情が詰まっています。あなたの、その時々の気分に合わせて聞いてみてください。きっと素晴らしい精神世界が広がるでしょう」と申し上げたい。
 それではここで、「究極のシューベルト歌曲集」の制作コンセプトを振り返っておきましょう。

 <制作コンセプト>
 @ シューベルトの全歌曲から鋭意選んだ2枚組CDとする。
 A 曲数は40曲前後とする。
 B 曲順は作曲年代順に並べる。
 C 有名曲は優先的にセレクトする。
 D 自分が好きな曲は可能な限り選曲する。
 E 選曲において、他人の意見は尊重するが、最終的には自分の好き嫌いで判断する。
 F 手に入る限りの音源からベスト演奏をセレクトする。ここにおいては他人の意見は無視する。
 G 人様が聞いて楽しめるように、曲ごとにキャプションを書く。

 選曲においては、"他人の意見を尊重する"ので、ドイツ・リートの申し子"法隆寺のリュウちゃん"に白羽の矢を立てさせてもらった。そして、丁々発止楽しいやり取りをしつつ進行した。彼の助言でフィッシャー=ディースカウ著「シューベルトの歌曲をたどって」を購入、参考にした。また、彼の助言「600余りの歌曲の中から40曲に絞るなんて、もともと無謀な行為。それでもやるのなら、ゆめゆめ性急にならぬように」も印象的だった。これについては、結果的に一年以上掛かったのだからよしとしていただこう。また「究極」というおこがましいタイトルも、長期の制作期間に免じて許していただきたい。これらの模様は2010年7月7日付「法隆寺のリュウちゃん1」から7回にわたって「クラ未知」に書いているのでご参照ください。彼には今、完成した「究極」CDを聴いてもらっているので最終意見が楽しみである。これも近々「クラ未知」で紹介するつもりです。
 ここで、D自分が好きな曲 の基準を、感じ方を基点にやや分析的に述べさせていただく。私の好みの座標軸は、ワイルドよりもメロウ、アップよりもスロウ、ビートよりもマイルド寄りにある。私が音楽から感じとりたいもの、それは、美しさや懐かしさからの胸キュン、清らかさからの敬虔さ、神々しさからの荘厳感、優しさ穏やかさからの安らぎといったところが優先する。なので、「究極」は、必然的に、速いテンポの男性的な曲よりも穏やかな女性的な曲が多くなっている。女声:男声の比率は23:17(3大歌曲集を除けば23:7)だ。一言で言ってこの曲集は女性色が強い。

 手に入る可能な限りのCDを比較試聴して演奏の選定をした。グラモフォンの「シューベルト歌曲大全集」を中心に、「冬の旅」はディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(8種)、ハンス・ホッター(2種)、ヘルマン・プライ、ゲルハルト・ヒュッシュ、マティアス・ゲルネ、ピーター・ピアース、ルネ・コロ、クリストフ・プレガルディエンなど約20種、「美しき水車小屋の娘」「白鳥の歌」は少々、歌曲集女声では、エリザベート・シューマン、エリザベート・シュワルツコップ、テレサ・シュティッヒ=ランダル、エリー・アメリンク、ジェシー・ノーマン、エディット・マティス、キャスリーン・バトル、バーバラ・ヘンドリクス、フェリシティ・ロット、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター、バーバラ・ボニー、クリスタ・ルートヴィヒ、男声ではフリッツ・ヴンダーリヒ、ペーター・シュライアーなど、合計80枚ほど。これらのうち、中核を占める「シューベルト歌曲大全集」CD30枚組は、例によって檜山准教授にお借りした。これまた感謝の極み! その他のほとんどは、このために新しく買い入れたものだが、評論家の長谷川氏から頂戴した「フェリシティ・ロット シューベルトを歌う」は何にも代えがたい珠玉の逸品だった。「究極」のベスト演奏選定に拍車が掛かったのはこのCDのお陰である。この様子は、2010年8月9日付「クラ未知」に書かせていただいている。
 「ベスト演奏」選定の経緯は、楽曲解説とともに書き留めておいた。これについては次回から順次掲載させていただくつもりである。今回は、最終決定した40曲のリストを演奏録音データともに掲載して、閉じたいと思う。なお、曲名のあとに、作品番号、詩人、作曲年を、演奏者のあとにレーベルと録音年を記した。


               「究極のシューベルト歌曲集」演奏データ最終版

CD1
1 糸を紡ぐグレートヒェン
D118 ゲーテ 1814
  フェリシティ・ロット(ソプラノ) グラハム・ジョンソン(ピアノ)
  IMP/FUNHOUSE 1988
2 憩のない愛 D138 ゲーテ 1815
  キャスリーン・バトル(ソプラノ) ジェイムズ・レヴァイン(ピアノ)
  DG 1985
3 野ばら D257 ゲーテ 1815
  バーバラ・ボニー(ソプラノ) ジェフリー・パーソンズ(ピアノ)
  TELDEC 1994
4 魔王 D328 ゲーテ 1815
  ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)ジェラルド・ムーア(ピアノ)
  DG 1969
5 万霊節の連祷 D343 ヤコピ 1816
  フェリシティ・ロット(ソプラノ) グラハム・ジョンソン(ピアノ)
  IMP/FUNHOUSE 1988
6 至福 D433 ヘルティー 1816
  エリー・アメリンク(ソプラノ) ダルトン・ボールドウィン(ピアノ)
  PHILIPS 1973
7 さすらい人 D489 リューベック 1816
  ペーター・シュライアー(テノール) ワルター・オルベルツ(ピアノ)
  VICTOR 1995
8 子守歌 D498 作者不詳 1816
  リタ・シュトライヒ(ソプラノ) エリック・ヴェルバ(ピアノ)
  DG 1959
9 アルプスの狩人 D524b マイアーホーファー 1817
  ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ)
  DG 歌曲大全集より
10 死と乙女 D531 クラウディウス 1817
   ジェシー・ノーマン(ソプラノ) フィリップ・モル(ピアノ)
   PHILIPS 1984
11 ガニュメート D544 ゲーテ 1817
   バーバラ・ボニー(ソプラノ) ジェフリー・パーソンズ(ピアノ)
   TELDEC 1994
12 音楽に寄す D547 フランツ・フォン・ショーバー 1817
   ペーター・シュライアー(テノール) ワルター・オルベルツ(ピアノ)
   VICTOR 1995
13 ます D550 シューバルト 1817
   エリー・アメリンク(ソプラノ) ルドルフ・ヤンセン(ピアノ)
   PHILIPS 1984
14 タルタルスの群れ D583 シラー 1817
   ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ)
   DG 歌曲大全集より
15 春の想い D686 ルートヴィヒ・ウーラント 1820
   テレサ・シュティッヒ=ランダル(ソプラノ) ジャクリーヌ・ボノ(ピアノ)
   ACCORD 録音年不詳
16 ズライカTD720 ヴィルレーマー 1821
   バーバラ・ヘンドリクス(ソプラノ) ラドゥ・ルプー(ピアノ)
   EMI 1985
17 私の挨拶を D741 リュッケルト 1822
   フェリシティ・ロット(ソプラノ) グラハム・ジョンソン(ピアノ)
   IMP/FUNHOUSE 1988
18 ミューズの子 D764 ゲーテ 1822
   エリー・アメリンク(ソプラノ) ルドルフ・ヤンセン(ピアノ)
   PHILIPS 1984
19 水の上で歌う D774 シュトルベルク 1823
   フェリシティ・ロット(ソプラノ) グラハム・ジョンソン(ピアノ)
   IMP/FUNHOUSE 1988
20 君こそは憩い D776 リュッケルト 1823
   バーバラ・ヘンドリクス(ソプラノ) ラドゥ・ルプー(ピアノ)
   EMI 1985
21 涙の雨(「美しき水車小屋の娘」より)D795-10 ミュラー 1823
   フリッツ・ヴンダーリヒ(テノール) フーベルト・ギーゼン(ピアノ)
   DG 1966
22 夕映えの中で D799 ラッペ 1824/25
   クリスタ・ルートヴィヒ(メッゾ・ソプラノ) チャールズ・スペンサー(ピアノ)
   RCA 1994(ライブ)

CD2
1 夜と夢
D827 マテーウス・フォン・コリーン 1823
  フェリシティ・ロット(ソプラノ) グラハム・ジョンソン(ピアノ)
  1MP/FUNHOUSE 1988
2 若い尼僧 D828 クライガー・デ・ヤケルッタ 1825
  エリー・アメリンク(ソプラノ) ルドルフ・ヤンセン(ピアノ)
  PHILIPS 1975
3 アヴェ・マリア D839 スコット/シュトルク 1825
  バーバラ・ヘンドリクス(ソプラノ) ラドゥ・ルプー(ピアノ)
  EMI 1992
4 ただ憧れを知るものだけが D877-4 ゲーテ 1826
  エディット・マティス(ソプラノ) カール・エンゲル(ピアノ)
  NOVARIS 1988
5 春に D882 シュルツェ 1826
  ハンス・ホッター(バス) ジェラルド・ムーア(ピアノ)
  EMI 1957
6 男ってみんなやくざなもの D886-3  ザイドル 1826
  バーバラ・ヘンドリクス(ソプラノ) ラドゥ・ルプー(ピアノ)
  EMI 1992
7 シルヴィアに D891 シェイクスピア/バウエルンフェルト 1826
  アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(メッゾ・ソプラノ) ベン・フォルスバーグ(ピアノ)
  DG 1996
8 菩提樹 D911-5 ミュラー 1827
  ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ)
  DG 1971
9 あふるる涙 D911-6 ミュラー 1827
  同上
10 春の夢 D911-11 ミュラー 1827
   ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン) アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
   PHILIPS 1986
11 最後の希望 D911-16 ミュラー 1827
   ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ)
   DG 1971
12 道しるべ D911-20 ミュラー 1827
   同上
13 辻音楽師 D911-24 ミュラー 1827
   同上
14 星 D939 ライトナー 1828
   ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ)
   DG 歌曲大全集より
15 セレナーデ D957-4 レルシュタープ 1828
   ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ)
   DG 1972
16 海辺にて D957-12 ハイネ 1828
   同上
17 鳩の使い D957-14 ザイドル 1828
   同上
18 岩の上の羊飼い D965 ミュラー/フォン・シェジ 1828
   キャスリーン・バトル(ソプラノ) ジェイムズ・レヴァイン(ピアノ) カール・ライスター(クラリネット)
   DG 1987

 2011.09.30 (金)  「ローレライ」は「春の夢」から生まれた
 前回、「ローレライ」は「春の夢」を基に作られた? と軽く問いかけたら、徐々にこれが確信に近いものになってきました。そこで今回は、急遽このテーマをカットインさせていただきます。では、早速検証へ。

(1)ジルヒャー〜ハイネ〜シューベルトの輪

 「ローレライ」は、ハインリヒ・ハイネ(1797−1860)の詩に、フリードリヒ・ジルヒャー(1789−1860)が曲を付けた歌曲。我が国では、♪なじかは知らねど こころわびて という近藤朔風の訳詞で文部省唱歌として古くから親しまれてきました。作曲者のジルヒャーは、ドイツの名門テュービンゲン大学で音楽指導者として最高の地位にあり、オリジナルの作曲やドイツ民謡の編曲など、主に合唱曲の分野で功績を残しています。
 「ローレライ」の原詩は、ハイネの詩集「歌の本」(1827年刊行)の「帰郷」という節に、第2番目の詩として収録されています。ジルヒャーは、どこかでこの詩に遭遇したのでしょう。曲が付けられたのは1838年のことでした。それから遡ること10年前、シューベルトはこの「帰郷」の中から6篇を選び出して作曲しています。これらは歌曲集「白鳥の歌」に収められ、1829年に出版されました。選んだ6篇は其々、第8番、16番、19番、23番、26番、27番だったので、第2番「ローレライ」をシューベルトは通り越したことになります。詩の内容がシューベルトの好みに合わなかったのかもしれません。二人はお互い出会ったことはなかったでしょうが、ハイネの詩集を通してしっかりと繋がっていたわけで、これが歴史を紐解く楽しみのひとつでもあります。すなわち、ジルヒャーは、シューベルトが素通りした「ローレライ」を心に留めて、名曲を作り出したというわけです。

  (2)検証:「ローレライ」と「春の夢」の類似点

 では、二つの楽曲の類似点を検証します。比較箇所は、「ローレライ」は最終行の4小節で、「冬の旅」第11曲「春の夢」は4小節から成るピアノのイントロ部分とします。比較しやすいように、二つのパートをハ長調に移調して比べてみました。
@冒頭の[タンタンタタン]というリズムが基本となって、
  全体を支配している
A拍子は8分の6拍子で同じ
B冒頭の音程が[ソソラソ]で同じ
C終いの4音も[シラシド]で同じ
D最低音はソで同じ。
E最高音はミで、その手前の音はソとこれまた同じ
F歌詞の歌い出しがIchで同じ
 以上、類似ポイントはなんと7項目にも及びました。@Aの要素は決定的類似点といえるでしょう。テンポが違うため気づきにくいのですが、合わせれば即座に相似形の曲同士ということが判ります。BCもこれに劣らず大きな類似点で、@−Cは即ち、リズムとメロディー両面からの類似の証明です。これだけでも十分なのに、さらにDEからは音域、Fからは歌詞までも加わるのです。私の経験でもこれほどまでの似たもの同士は稀です。
 ここでちょっと面白い実験をしてみましょう。「ローレライ」はラルゲット(ややゆるやかに)の速度指定であり、「春の夢」のbewegtはモデラート(中庸の速さで)のことなので、テンポを合わせてつなげてみます。即ち、「ローレライ」の当該4小節のテンポをモデラートに上げてそれを前奏として、「春の夢」を歌い出してみてください。どうですか? 全く違和感なくつながったでしょう。
 以上の比較検証から、「『ローレライ』全16小節は『春の夢』ピアノ前奏を素材としている」と言い切れる。これに比べたら、かのレディー・ガガの盗作疑惑なんて可愛いものではないでしょうか。

(3)結論:「ローレライ」は「春の夢」を基に作られた

 ここからは私の推論です・・・・・ジルヒャーは1838年のある日、ハイネの「歌の本」をめくっていました。そこにドイツの伝説「ローレライ」を素材にした詩を見つけます。ドイツの民謡や民話を収集研究していた彼は、即座にこの詩に興味を持ちました。そして早速、曲作りに取り組むことになります。同時に、この「歌の本」から曲を書いたシューベルトのことが頭の片隅に入ります。ドイツの名門大学の音楽最高指導者を張ってる人ですから、シューベルトに関して深い知識を持っているのは当然でしょう。
 ジルヒャーは、Ich weiss nicht was soll es bedeuten(なじかは知らねど こころわびて)という「ローレライ」の詩の冒頭を読みながら、ふと閃いた。思考と感覚が記憶と相まって、ハイネ→歌の本→白鳥の歌→シューベルト→冬の旅 と巡って「春の夢」Ich traumte von bounten Blumen (私は夢見た いろとりどりの花を)に行着いた。
 ジルヒャーには並行して別の回路もあったと思われます。ローレライ→舟人→舟唄→8分の6拍子という左脳ラインとローレライ→伝説→民謡調→郷愁→という右脳ラインです。これらが合流して、「春の夢」に連なり、そこから派生して「ローレライ」の一節が形成された。「ローレライ」という詩が「春の夢」という歌曲に辿り着きメロディーという衣を着たのです。そして、全体をA−A'−B−A''という構成でまとめたのです。

 無論これは私の推測です。手記等の物証は何もないし今後もまず出てくることはありえないので、この仮説が証明される日は永遠に来ないでしょう。また、ジルヒャーがパクったのか無意識だったのかも同様です。とはいえ、質量共にここまでの状況証拠があるのですから、少なくとも、ジルヒャーが故意か否かは別にして、「ローレライ」は「春の夢」から生まれた と規定してもバチは当たらないと思うのですが、いかがでしょうか。まあ、「だからなんなのよ」という程度の瑣末なテーマではありますが、とにかく私としてはその考証過程を大いに楽しませていただいた、ということであります。最後に、それだけのために「ローレライ」の楽譜を手配してくれた尚美学園大学檜山准教授には心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
 2011.09.20 (火)  「白鳥の歌」から
<ローレライとハイネ>
なじかは知らねど こころわびて
昔の伝説は そぞろ身にしむ
さびしく暮れゆく ラインの流れ
入日に山々 あかく映ゆる

麗し少女の 巖頭に立ちて
黄金の櫛とり 髪のみだれを
梳きつつ 口ずさむ歌の声の
くすしき魔力に 魂もまよう

漕ぎゆく舟びと 歌に憧れ
岩根も見やらず 仰げばやがて
浪間に沈むる ひとも舟も
くすしき魔歌 謡うローレライ

       (訳詩:近藤朔風)
 ドイツの民謡だとばかり思っていたこの歌、実はハインリヒ・ハイネ(1797−1856)の詩だった。「ローレライ」は、ライン川の岩場を通る舟人がどこからともなく聞こえてくる妙なる歌声に耳を奪われているうち、やがて波間に沈んでしまうという所謂ローレライ伝説を基にしたもの。他にハイネはギリシャ神話をまくらにこんな詩も書いている。
波の泡から生まれた女神のように 美しくかがやく僕の恋人
それもそのはず 彼女は他の男を選んだ花嫁なのだから
耐えに耐えたつらい心よ その裏切りも恨むまい
世間知らずの馬鹿娘のすること 耐えに耐えてゆるしてあげなよ
 "波の泡から生まれた女神のように"がその部分だが、どこかで聞いたことのあるフレーズだと思ったら、"波の泡のひとつから生まれた娘さ"〜"Oh美しいビーナス"。そう、加山雄三1970年のヒット曲「美しいビーナス」だった。作詩の岩谷時子も「アフロディテ(ビーナス)は波の泡から生まれてきた」とのギリシャ神話に倣ったのだろう(もしかしたらこのハイネの詩からかも知れないが)。こんなつながりを探し出すのも楽しい。
 さて、二篇の詩に共通する概念は「美しい魔性の女」。これは果たしてどこから来たものなのか?

 デュッセルドルフのユダヤ人家庭に生まれたハイネは、商人を目指しハンブルクで銀行を営む叔父の世話になるが、そこで得たものは商人としての経験ではなく、激しい恋と苦い失恋の味だった。相手は叔父の長女アマーリエという女性で、ハイネは彼女のことを「何不自由ない金持ちの令嬢で、妖しい美しさと非情な冷たさを合わせ持つ」と書き残している。上記二つの詩からは確かにアマーリエと相通じるものが見出せる。そして彼女の魅力と失恋の痛手は、生涯にわたってハイネの作品に影を落とすことになる。
 1827年、ハイネは詩集「歌の本」を発表。これがヒット作品となった。「ローレライ」は、この中の全100篇ほどから成る「帰郷」という節に収められている。さらに「帰郷」は、シューベルトと遭遇する。1828年1月のある日友人宅から「歌の本」を持ち帰ったシューベルトは、「帰郷」の中から6篇を選び出し曲を付けた。あとにも先にもこれが彼ら二人のコラボの全てである。そして、この6曲が後に「白鳥の歌」に収められる。「帰郷」の2番目には「ローレライ」があるが、シューベルトの琴線には触れなかったのだろう、これを素通りして、8番、16番、19番、23番、26番、27番を選んだのである。もし、ここでシューベルトが「ローレライ」を選んでいたら、我々の知るフリードリヒ・ジルヒャー作曲の唱歌(1838年作)は果たして誕生していただろうか? なぜこんな疑問を呈したかといえば、この「ローレライ」の冒頭の4つの音(移動調で ソソラソ)は、シューベルトの「冬の旅」第11曲「春の夢」のそれと同じだからである。歌詞の始まりも Ich で同じ。これは単なる偶然だろうか。もしや、ジルヒャーは「ローレライ」を「春の夢」を基にして作ったのでは? 結論付けるには更なる検証が必要だろうが、これも楽しい想像ではある。なおハイネの詩にはタイトルが付いておらず、曲タイトルはシューベルトがつけたものだ。

 「白鳥の歌」D957は、第1曲―第7曲がレルシュタープ、第8曲―第13曲がハイネ、最終第14曲がザイドルの詩という構成。第8曲「アトラス」の主人公が背負う理不尽な重荷は叶わぬ恋に通じる? 第9曲「彼女の肖像」は失った恋への未練、第10曲「漁師の娘」は輝かしい恋への憧憬、第11曲「都会」は無機的な都市風景と恋人の面影との対比、第12曲「海辺にて」の愛の涙をすすったらそれは毒だったという怖さ、第13曲「影法師」の見果てぬ夢を追い求める影法師は自分自身だったという図式・・・・・などなど様々なシチェエーションの中、共通するキイワードは恋の姿と失恋の影である。
 第12曲「海辺にて」で、シューベルトは、ハイネの描く重い恋の影を、不気味さを孕みながらも全体的には抒情というオブラートで優しく包みこむ。幸せの只中ですすった愛の涙が私の身を削ってゆく。この涙に毒を盛ったのは彼女自身なのかそれとも? どちらにしてもそこにはアマーリエの影が見え隠れする。いかにもハイネらしい詩とシューベルト技法の見事な融合。「究極のシューベルト歌曲集」への選曲は「海辺にて」で決まりである。

<ベートーヴェンとレルシュタープ>

 ルートヴィヒ・レルシュタープ(1799−1860)は、批評家、小説家、戯曲作家、詩人というマルチ人間だった。性格的にはかなり攻撃的で、当時の人気オペラ作曲家ガスパーレ・スポンティーニ(1774−1857)への批判で名を上げた。ハイネが草食系ならレルシュタープは肉食系。ところが詩に関しては真逆の様相。レルシュタープの作品は、ハイネ的前衛性の欠片もなく穏やかな抒情性が特徴だ。芸は身の反映というがこの二人には当て嵌まらない。
 レルシュタープは20台半ばでウィーンに出てくる。当時のウィーンには「ルドラムスの巣窟」という文化人サロンがあって、ベートーヴェン、ウェーバー、サリエリなど著名音楽家、グリルパルツァー、リュッケルトなどの詩人が出入りしていた。行動派のレルシュタープはそこに入会。相前後してシューベルトも友人バウエルンフェルトとともに入ってきた。ところがこの「ルドラムスの巣窟」は、当時危険思想家摘発に精を出す警察の誤解によって1826年に閉鎖されてしまった。
 大物食いのレルシュタープの標的はいうまでもなく重鎮ベートーヴェンで、彼に7篇の詩を託すも、1827年3月26日、ベートーヴェンは曲を付けることなく他界してしまう。彼の死後、この7篇は弟子のシンドラーからシューベルトの手に渡り曲が付けられたとされているが、真偽の程は不明である。確かなことは、シューベルトがこの7篇を含めレルシュタープの詩から9つの歌曲を作ったことである(フィッシャー=ディースカウ著「シューベルトの歌曲をたどって」では10曲となっているが、これは多分彼の勘違いだろう)。
 このうち「生きる力」は未完に終わり、「秋」D945は1828年4月に作曲され音楽教師であるハインリヒ・パノフカに捧げられた。残りの7曲は8月に作曲され、シューベルトの死後、音楽出版者ハスリンガーが、ハイネの6曲とザイドルの1曲を合わせ、全14曲の歌曲集として、1829年5月に出版した。これが「白鳥の歌」である。

 レルシュタープは、「白鳥の歌」の中に自らの詩を発見したとき、なんと思っただろうか。もしや「なんでベートーヴェンじゃなくてシューベルトなんだ。なんという不運」と嘆いたかもしれない。いや、レルシュタープさん、あなたの詩がシューベルトに辿りついたのはなんたる幸運!ですよ。そのお陰であなたの名は音楽史上に永遠に残ることになったのだから。
 「究極のシューベルト歌曲集」へのセレクトは、第4曲「セレナード」で決まりだろう。抒情的な恋の詩に官能というスパイスをふりかけたシューベルトの魔法が、恋唄の傑作を産みだしたのだ。

 最後のセレクトは、第14曲、シューベルト最後の作品といわれる「鳩の使い」(1828年10月作曲)である。詩はヨハン・ガブリエル・ザイドル(1804−1875)。彼は、シューベルトの埋葬の前日に、「我が友フランツ・シューベルトに!」と題する追悼詩を書くほど故人とは親しかった。しかも後年、シューベルトの姪と結婚している。そんなザイドルの詩によるビーダーマイヤー調の歌が、シューベルトの遺作となったのは、なにか救われた気分になる。小林秀雄はその著書「モオツァルト」で「モーツァルトの悲しみは疾走する 涙は追いつけない」と書いたが、私は「『鳩の使い』の音霊は軽やかに飛翔する 嘆きは溜まらない」と形容したい。シューベルトは安らかに天上へ飛び立っていったと信じたいのである。
 2011.09.11 (日)  「冬の旅」から
 ついに9月。猛暑もやっと峠を越えた。芸術の秋、音楽の秋、湧々する季節の到来だ! 先日、久々にピアニストの海老原みほさんにお会いした。10月10日のリサイタルの打ち合わせを兼ねての会食である。この夏、フランスはボジョレーのシャトーでコンサートを持たれたそうで、イギリス人カルテットとのエルガーの「ピアノ五重奏曲」は実に楽しいセッションだったとのこと。彼女の薦めで初めてCDで聴いてみたが、格調高い美しさに溢れた名曲だった。欧米ではポピュラーな人気を誇るとお聞きしたが、日本でももっと聴かれていいと思う。
 秋のリサイタルは「愛の七変化」というサブタイトルがついている。モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、リストが描く様々な愛の形をどのように表現されるか、今から楽しみである。詳細は海老原さんの公式HP (http://mihoebihara.com/ja/information/index.html) をご覧ください。

 さて「クラ未知」は、大震災でシューベルトが中断したまま放置されている。「なんてったって冬の旅」は、「辻音楽師」の調性の謎をなんとか解いて一応終止符を打てたが、ここはやりかけの「究極のシューベルト歌曲集」にケリをつけねばならぬ。
 昨年の今頃、法隆寺のリュウちゃんと6回のやり取りを経て、一般曲31曲(「美しき水車小屋の娘」を含む)は確定させた。リュウちゃんは独特の美学(特にドイツ・リートには)を持っており、私の"誰もが楽しめる"というコンセプトとは両極ゆえ、そのギャップが面白かった。彼の助言で選んだ曲も多数あって、ラインアップに厚みが出たのは事実。しつこい私にお付き合いいただき感謝しています。さて、残るは晩年の二大傑作「冬の旅」と「白鳥の歌」からのセレクトだ。「究極のシューベルト歌曲集」へ、まずは「冬の旅」から入ろう。

 シューベルトの"最後の歌曲集"は「白鳥の歌」ということになっているが、死の直前まで手を加えていたのは「冬の旅」だった。これは彼の友人の証言からも明らかである。もしシューベルトに「あなたの900あまりの作品の中で、一番好きな楽曲は?」と問えば、即座に「冬の旅」という答えが返ってくるだろう。それだけ「冬の旅」はシューベルトにとって真に愛着あるもの、まさに分身と言ってもいい作品だと思う。
 だから、「クラ未知」でも「なんてったって冬の旅」は14回もの多きを数えた。私の「冬の旅」への想いは全てここに封入されているので、セレクトはここから入ろう。

<最後の希望>

 「クラ未知」2010.12.25は、「『最後の一葉』は『最後の希望』がベース?」というタイトルだった。「最後の一葉」はオー・ヘンリーの名作短編。不治の病に冒された女主人公が窓外に見える木の葉が散ってゆくのを見て「あの葉が全部落ちたとき私は死ぬ」と思い込むが、最後に残った一葉はいつまでも残っていた。その後病状は奇跡的に回復。実は「最後の一葉」は階下に住む偏屈老人が壁に描いたものだった・・・・・というストーリーが、「冬の旅」第16曲「最後の希望」と符合したのである。
 そこで「オー・ヘンリーは『冬の旅』をベースにして短編を書いた」という仮説を立て追い込んでゆく。一体彼はいつどうやって「冬の旅」に出会ったのか? 小説が発表されたのが1905年だから、まだレコードでは聞けない。ならばミュラーの原詩はどうか? オー・ヘンリーの人生で、これに触れる可能性はありやなしや? 調べてゆくと、1902年にミュラーの「ソネット」が1903年には彼の「日記」や「手紙」が英語訳で初めて刊行され、ニューヨークを中心にミュラー・ブームが起こっていたことが確認できた。オー・ヘンリーは1902年からニューヨークに移り住んでいたから、ここでミュラーの作品に触れた可能性は大いにありうる。また、彼が読書に明け暮れた少年時代を過ごしたテキサス州オースティンの住民の多くは、音楽や文学を愛好するドイツ系アメリカ人だった・・・・・などが判ってくる。状況証拠アリ! こうして仮説を史実で追い込み独善的に立証する。これが「クラ未知」的音楽の楽しみ方なのであります。
 当初「最後の希望」は選定外だったが、ここまで楽しませてくれた楽曲を外すわけにはいかない。セレクト!

<辻音楽師>

 「冬の旅」の最終24曲目。ミュラーの原詩でも最後に置かれている。詩は「不思議なご老人 僕の歌に合わせてライアーを回してくださいますか」で結ばれるが、ここに凝縮されているように、「辻音楽師」のキイワードは、老人 alter、ライアー leier、歌 liedernの三つである。
 「老人」は裸足で氷の上をフラフラ歩きライアーを弾くが誰も耳を傾けない。托鉢皿はいつも空。誰からも相手にされない世捨て人である。ところが「冬の旅」に出てくる唯一の人間でもある。それ以前、少女とその母(第1曲「おやすみ」他)、明るく楽しげな人々(第12曲「孤独」)、村人(第17曲「村にて」)などが登場するが、それらは想い出の中の人々であり、現実にいても関わりのない人たちだ。「辻音楽師」の老人こそ、「冬の旅」の中で唯一主人公が現在進行形で関わった人間なのである。
 「ライアー」は、@竪琴 A手回しオルガン Bハーディ・ガーディ(ドレーライアー)の総称である。歌詞から"回して弾く伴奏可能な楽器"であることが判る。@は回さずAはオルゴールと同じ原理だから伴奏は出来ない。従って、「辻音楽師」の楽器はハーディ・ガーディということになる。右手で回す2本のドローン弦は終始通奏低音を奏で続ける。シューベルトは、これをピアノの左手で空虚5度の和音で表した。右手は旋律弦を模す。
 「歌」という言葉も、ここで初めて登場する。生涯追求し続けた「歌」という文言を「冬の旅」の最後の最後で見つけたときのシューベルトの感慨はいかばかりだったろうか。恋に破れ世間から疎外された主人公の若者に、唯一残った希望が「歌」だったと私は思う。第23曲(ミュラーの原詩では第20篇)「幻の太陽」で唯一残った太陽とは、聖パウロが説く「信仰、希望、愛」のいずれかである、などという議論もあるが、私は、それを"シューベルトは「歌」と読んだ"と勝手に思い込んでいる。だから「幻の太陽」は「勇気」のあとに置いたのだ。
 それまで交わることのなかったピアノの右手と歌は、「僕の歌に合わせてライアーを回してくださいますか」の件でしっかりと合体する。世間から疎外された若者とハーディ・ガーディ弾きの老人は、歌を通して心が通い合い、連れ立って歩いてゆくのである。どこを取ってみても「辻音楽師」は絶対に外せない。

<あふるる涙>

 いつもの音楽&ゴルフ仲間で飲んでいた昨年のある晩、中原教之氏(以下N氏)が「高校時代のある日のこと、水泳部の先輩がプールに水が溢れているのを見て、唐突に『冬の旅第7番、あふるる涙』と言ったんですよ」と話された。仲間などと言うのは失礼にあたる大先輩の面々で、60半ばの私が最年少の集いである。N氏は名門日比谷高校の水泳部員で、当時自由形で鳴らした名選手(今はゴルフ名人の紳士であるが)。「それを卒業後のOB会で話したら、今度は別のやつが、『あふるる涙』は6番目じゃないか、と言いましてね」と続ける。そこで仲間?の石井先生が「『あふるる涙』は第6曲だよ」とおっしゃる、そんなやり取りがあった。聞いている私はまだ、「あふるる涙」が「冬の旅」の何番目の曲なのかも頭に入っていなかった頃である。
 調べてみると、「あふるる涙」はシューベルトの「冬の旅」では第6番目だが、ミュラーの原詩集では7番目であることが判った。ならば、N氏の先輩はミュラーの順番を、後輩はシューベルトの曲順を言ったのか。「流石天下の名門高校、話の内容が高度だ」と宴で盛り上がったものである。
 では、一体どうしてこのようなことが起きたのだろう?シューベルトはミュラーの順番どおりに作らなかったことになる、何故?・・・・・これが、私が「冬の旅」研究に打ち込むきっかけとなった。そして、「なんてったって冬の旅」は14回を数えたのである。それまでは未踏の高峰だった「冬の旅」が、その成り立ちや仕組みが明確に把握できるようになった。シューベルトがいかに惚れ込んでいた作品かも理解できた。未知なるものを好きになり、作品を通して作者のこともより身近に感じられるようになった。自分なりの推理を以って、前人未達の解釈をまがりなりにも構築することが出来た。「冬の旅」の探求こそ、私にとってまさに至福の体験だったのである。
 このきっかけを与えてくださったのはN氏である。感謝しきれないほどの有り難さである。献呈というのもなんであるが、クラ未知「なんてったって『冬の旅』14編」は謹んでN氏に捧げたい。日頃のお付き合い含め、本当にお世話になっています。今後ともよろしくお願い申し上げます。「あふるる涙」、当然セレクト。

 では、「究極のシューベルト歌曲集」「冬の旅」の部には、上記3曲と、教科書にも載る一番の有名曲「菩提樹」、憧憬の心情が胸に沁みる「春の夢」、リュウちゃんが最高傑作と言い切る「道しるべ」の3曲を加え、全6曲をセレクトする。次回は「白鳥の歌」。
 2011.08.31 (水)  「さよならドビュッシー」を読んで〜不協和音の巻2
<アイネ・クライネ・ナハトムジーク>
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。これもまたモーツァルトのセレナードでは最も知られている一曲だろう。今日のプログラムでは、弦楽四重奏にコントラバスを加えた五重奏で構成されている。本来は四重奏の室内楽曲なのだけれど、これを40人編成で演奏しようというのだ。
 これは岬が出演したチャリティ音楽会における記述である。「アイネ・クライネ」は、本来は弦楽四重奏の曲だが、ここではコントラバスを加えた五重奏でなおかつ40人という大編成での演奏だ。それだけにビオラの音が埋没してしまい曲本来のよさが出ていない・・・・・などなど、大編成ゆえの弊害を切々として説いている。
 が、これは致命的なミス・ジャッジ。この音楽知識には辛いものがある。

 「本来は四重奏」は完全な誤りである。なぜなら、この曲は元々第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスという弦楽五部の形で書かれているのだから。
 では、1パート一人の室内楽の形で演奏すべきなのか、それとも複数の弦楽合奏がいいのか? これについてのモーツァルトの指示はないが、室内楽の編成という観点から見ると、コントラバス入りの弦楽五重奏という形はあり得ない。モーツァルトに限らず、この編成での室内楽はこの時代一つも存在しないからである。次に、楽曲タイトルからも、室内楽による演奏は整合性を欠く。なぜなら、「セレナード」は野外用の機会音楽で、オーケストラで演奏されるのが通例だからだ。したがって、「アイネ・クライネ」は、これら二つの理由から、五部による弦楽合奏で演奏するのが妥当なのであり、中山氏のいう「本来は四重奏の室内楽曲」は二重のミスを犯していることになる。

 中山氏のような初歩的な勘違いは別にしても、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K525は実に謎多き名曲なのである。モーツァルトのセレナードは、ほとんどが若き日のザルツブルク時代に集中しており、機会音楽だから、例えばだれそれの結婚式のためとか何々家の息子の入学祝パーティーBGMとか、作曲の目的がハッキリしている。ところが、ウィーンで書かれたK525にはまったくそれがない。今もって発注者も目的も特定されていないのだ。もう一つの謎は楽章数である。現存する自筆譜は全4楽章だが、モーツァルトの作品目録(これも本人の自筆)には、5楽章構成と明記されている。第2楽章に置いていたメヌエット&トリオが消失しているのである。これは、モーツァルト本人がカットしたものなのか?単純に紛失したのか? いまだ未解決、音楽史上の謎の一つなのである。
 謎に向かって突き進むのが「クラ未知精神」ならば、横道に反れるが、ここもトライしてみようではないか!

 「ぼくらの最愛のお父さんの突然の死を告げる悲しい知らせが、ぼくにとってどんなに辛かったか、容易に想像してもらえるでしょう。失ったものは、ぼくら二人にとって同じものですから」・・・・・これは、父親の訃報を知ったモーツァルトが、1787年6月2日、姉のナンネルに宛てて書いた手紙である。その時のモーツァルトの状況は、ウィーンで大作オペラ「ドン・ジョヴァンニ」を作曲中であった。ところがその筆を一旦止めて、彼は「音楽の冗談」K522という小品を書く。完成日付は6月14日。これが、父レオポルトの死後に書いた最初の曲である。副題に「村の楽士の六重奏」とあるように、弦楽四重奏+ホルン二本の編成で全4楽章構成。田舎者の作曲家と演奏家を揶揄している作品だ。聴けばお分かりの通り、ホルンは強烈に音を外し、ヴァイオリンは陳腐なメロディーを飽きもせずに弾き続け、最後はものすごい不協和音で終わるという、突拍子もない楽曲なのである。では、モーツァルトはこの時期になぜこんな曲を作ったのだろうか? モーツァルトに造詣の深い作家なかにし礼は「これはモーツァルトの父親に対する伝言だ。父親をあざ笑っているのだ」と言う(なかにし礼「モーツァルト・コレクション」より)。
 私もこの説に賛成である。父の訃報を聞いた直後、大作の作曲の手を止めてまでこんな特異な楽曲を書いたのである。天才はなにをしでかすか分からないとはいえ、わざわざこんな曲を書くのは父親の死と無関係であるはずがない。彼は父親を尊敬していた。今の自分があるのも、(動機がどうあれ)父が幼い頃から施してくれた訓練の賜物だということは自覚・理解していた。しかし、その後その想いに翳りが生じる。モーツァルトが上司であるザルツブルク大司教ヒエロムニス・コロレドの理不尽な命令に盾突き、ウィーンで独立したいと言いだしたとき、父レオポルトは庇ってはくれなかった。それどころか、非を詫びて辞意を撤回しろと手紙に書いてきたのである。それに対し、彼は1781年5月19日、父への手紙でこう書いている。「正直のところ、あなたの手紙には一行も僕の父親を見出せないのです。自分と子供の名誉を気遣う、最上の愛情に溢れた父親ではありません。ひと言で言えば、僕のお父さんではありません」(「モーツァルトの手紙」高橋英郎訳編、小学館)。こんなに強い調子で父親を非難するセリフを、彼はそれまで吐いたことがなかった。自立を応援してくれると思った父が、自らの保身しか考えていない(レオポルトもコロレドの部下なのだ)と知り憤慨したのである。このとき以来、彼の父親への思いに負の要素が加わったのである。「音楽の冗談」はモーツァルトの父親に対する負のオマージュなのだ。
 アメリカの著名な音楽学者メイナード・ソロモンは、「どのような事情で書かれたかわからない音楽、たとえば、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』K525や『音楽の冗談』K522などは、ジャカン家のサークルのために書かれたと見てもいいのではないか」(「モーツァルト」石井宏訳、新書館刊)と書いている。ジャカン家のゴットフリート・フォン・ジャカン(1767−1792)とモーツァルトはお互い認め合う最愛の友人同士だった。1787年6月のある日、モーツァルトは出来上がったばかりの「音楽の冗談」をジャカン家に持ち込み演奏した。あまりのおふざけムードに、ジャカンは「君が父親を恨んでいたのは分かるが、悪ふざけが過ぎる。一方で父親への感謝の気持ちもあるのだから、そんな曲も書いたらどうか」とモーツァルトに助言する。これを受けてモーツァルトは、「確かにこれじゃ片手落ちかも。じゃ、今度は別次元の追悼曲を書かなければ」と考えた。
 それからしばらく経った1787年8月10日、「ドン・ジョヴァンニ」が一段落したモーツァルトは、ジャカンの言葉を思い出し作曲に取り掛かる。「親父とのよき思い出が残るザルツブルク時代を象徴するのはセレナードだ」として、第1楽章アレグロ、第2楽章メヌエット&トリオ、第3楽章ロマンツェ、第4楽章メヌエット&トリオ、第5楽章ロンドからなるセレナードを作曲した。名曲「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の誕生である。即刻ジャカン家に持ち込んで披露する。「誰からも親しまれるメロディーに玄人をも唸らせる隠し味を加えよ」が、父が息子に教えた音楽の極意だった。まさにその通りに仕上がった「セレナード」の新作に、居合わせた人たちは大いに満足したことだろう。
 モーツァルトは、亡き父への思いを込めて二つの相反する楽曲を作った。「音楽の冗談」は保守的な父に対する反オマージュとして、「アイネ・クライネ」は音楽の基礎を叩き込んでくれた有能な父への正のオマージュとして。完成した二つを並べたモーツァツトは、ふと思った。この二対の曲は双子の兄弟だ。ならば「アイネ・クライネ」を4楽章に変更しよう。4楽章制のセレナードというのも斬新だし、そうすれば、お互い同じ楽章数の文字通り表裏一体の関係になる。モーツァルトは「アイネ・クライネ」の二番目に置いたメヌエット&トリオの楽譜を外した。モーツァルトが外したメヌエット&トリオは未だ行方がわからない幻の楽章となった。もしもいつか発見されたら大騒ぎになること必定である。ジャカン家の末裔が持っていたりして?
 結論は私の想像である。しかし、状況については史実に忠実に書いた。二曲とも作られた理由に確固たる定説がない以上、「これもアリでは」と考えるのもなかなか楽しい。

<レルシュタープ>

 最後に些細なことだが、一言付け加えさせていただく。文中、中山氏は「レルシュタープという音楽批評家は・・・・・」という書き方をされているが、このルートヴィヒ・レルシュタープ(1799−1860)はクラシック愛好家にとっては、シューベルトの歌曲集「白鳥の歌」の詩人としてのほうが馴染み深い。かの名曲「セレナード」の作詩者なのである。また、ベートーヴェンの名曲、ピアノ・ソナタ第14番「月光」の第1楽章を「ルツェルン湖に映える月光に漂う小舟のよう」と形容したことでも有名だ。音楽批評家と言って間違いではないのだが、我々にはむしろ、詩人としての存在のほうが大きい。出来れば彼をもっと幅広く捉える表現が欲しかった。「という音楽批評家は」という記述では、センスとしていかがなものかと思ってしまうのである。
 2011.08.25 (木)  「さよならドビュッシー」を読んで〜不協和音の巻1
 中山七里著「さよならドビュッシー」は、猛暑日連鎖の中一服の清涼剤にはなった。音楽表現に興味深いものがあったからである。興味深さには肯定と反論がある。今回から「不協和音の巻」として、その反論部分を書かせていただきたい。

<ホロヴィッツ>

 ピアノ教師の岬がホロヴィッツに関して語るくだりがある。
ホロヴィッツという名ピアニストがいるんだが、この人の晩年の演奏はそれはもう痛々しいほどで弾く音の3分の1がミスタッチだった。しかし、そのミスだらけの演奏はコンクール上がりの若手ピアニストの演奏よりも遥かに正しく聴こえた。それは彼が作曲家の意図を充分に理解し、テクニックの衰えを演出で補っていたからなんだ。
 ウラディミール・ホロヴィッツ(1903−1989)は万人が認める20世紀最大のピアニストのひとりだ。桁外れのテクニックから導きだされるフレーズは歌心に溢れ楽想は自由奔放に天空を駆ける。一粒一粒の音は輝きに満ちその色彩は自在に変化する。聴き手は一時夢幻世界を旅する。20世紀が生んだ名ピアニストたちは、バックハウス、ルービンシュタイン、リヒテル、ギレリス、ブレンデル、アシュケナアージ、ポリーニ、アルゲリッチなど数多いるが、誰一人としてホロヴィッツに比肩する輝かしさはない。好き嫌いは別にして、ホロヴィッツほどのスター・ピアニストは他に存在しないのである。そんなホロヴィッツについての中山氏の記述は完全な誤解といえる。

 まず、3分の1がミスタッチというが、ホロヴィッツの晩年にそんな演奏は存在しない。この記述に最も近いのは、1983年6月11日、初来日公演の演奏だが、ミスが3分の1なんてもんじゃない。音がすべて虚ろに宙を舞うだけ、とても音楽なんていう代物じゃないのである。ミスタッチ云々の次元じゃなく、ピアノの生徒が自信なくオドオドと稽古をつけてもらっているの図といえばお分かりいただけるだろうか。演目は、ベートーヴェンのソナタ第28番、シューマンの「謝肉祭」、ショパンの「幻想ポロネーズ」練習曲作品10−8、25−10、25−7、「英雄ポロネーズ」で、評論家吉田秀和が「ひびの入った骨董品」と的確にも評した演奏会だった。
 実は、ホロヴィッツはこの時、なんらかの理由で薬中毒だったといわれている。確かにそうでもなければ考えられない演奏なので、これは恐らく事実だろう。アメリカの関係者は判っていただろうから日本もなめられたものである。このあと完治して再来日したのが86年で、ここでは本来の姿にもどっていたという。このときの演奏を私は聴いていないが、前後に録音されたCDを聴けば立ち直っているのがよく分かる。1986年2月、1988年12月録音の「ホロヴィッツ・アット・ホーム」、1986年4月の「ライブ・イン・モスクワ」、1987年3月の「プレイズ・モーツァルト」、1989年10月の「ラスト・レコーディング」などである。これらの演奏は、全盛時には遠く及ばないものの、83年来日時の耳に栓をしたくなるような演奏に比べれば格段に良化しており、断じて「3分の1がミスタッチ」ではない。そこで結論である。
 中山氏が述べた「ホロヴィッツ晩年の演奏は3分の1がミスタッチ」は、恐らく1983年の初来日コンサートを根拠としたものと思われるが、それは完全な誤解である。あのような情けない演奏は、ホロヴィッツのピアニスト人生の中で唯一これだけなのだから。引き続き書かれている「そのミスだらけの演奏はコンクール上がりの若手ピアニストの演奏よりも遥かに正しく聴こえた」も絶対にありえない。演奏の3分の1がミスタッチでは、"正しく"聴こえるはずがないからである。しかも"正しく"聴こえるとはどういうことなのだろうか?私には皆目見当がつかない。
 結局氏は、「晩年の演奏は3分の1がミスタッチ」と「そのミスだらけの演奏は若手ピアニストの演奏よりも正しく聴こえた」という二重のミスを犯しているのである。恐らく、氏はかの演奏をお聴きになっていないのだろう。
 さらに一言付け加えさせていただく。中山氏は「テクニックの衰えを演出で補う」というが、ホロヴィッツは「演出」するタイプのピアニストではない。感覚で弾けばそれで芸術になってしまう、真の天才ピアニストなのだ。来日時には、ホテルにパイオニアからレーザーディスクを取り寄せて一日中西部劇を見ていたというし、「ラスト・ロマンティック」というテレビ番組では、「シューベルトは凄い!」と言って「セレナード」を口ずさみながら「『アヴェ・マリア』、こんな音楽はベートーヴェンは一音だって書けやしない」と息巻くホロヴィッツが映っている。彼は長嶋さん的超感覚派の天才なのである。

<比喩>
岬さんから聞いたハードウェアとソフトウェアの話を思い出す。楽譜はCD、演奏者はCDプレーヤー。同じCDでも再生するプレーヤーの性能で出てくる音には雲泥の差が生じる。それと同様に、同じ楽譜を読んでも演奏者の力量の違いで紡ぎ出される音は千差万別となる。高級オーディオとラジカセの違い――残酷なようだが、これはそういうことだろう。
 中山氏のこの比喩は一口で言うと浅い。同じCDが装置によって違う音がするのは確かであり、それこそがオーディオの楽しみでもあるのだが、その差は音響的側面に限られる。演奏そのものが違ってでてくるわけではない。一方、同じ楽譜から演奏者によって千差万別のパフォーマンスが生まれるのは当然のこと。音色、テンポ、間、ルバート、アゴーギクなど可聴的要素は、テクニック、解釈(楽譜の読み)など演奏者の力量によって変る。力量は人間性の反映だから、演奏を聴くことは即ち演奏者の人生を聞くことだ、と私は常々思っている。
 私がオーディオ装置を追い込むのは、演奏者の人生をよりよく聞き出したいがためだ。そこには無論作曲者の人生も投影される。解釈という力量には作曲者の意図を感知する能力も含まれるからだ。エンジニアの役割は、生まれ出た演奏を忠実に封じ込めるために最善の策を講じることだ。そうして生み出されたCDにはそんな幾多の人々の技術や思いや人生までもが密に詰められているのである。
 私がオーディオに凝っていた頃の愛読書は、五味康祐の「オーディオ遍歴」(新潮文庫)だった。オーディオに立ち向かう五味はまるで求道者。そのストイックな姿勢に大きな感動を覚えたものである。私のスピーカーがタンノイなのも彼の影響によるものだ。 ディスクに詰っている何ものかを聴きだすために、五味は人生のすべてを賭けた。小説家としてものを書く目的は、オーディオ装置をギリギリまで追い詰めるためであった。彼のオーディオに賭ける凄まじさを示す文章を引用する・・・・・「以前、高城さんを神のごとく尊敬し、そのお説に従って我が家に巨大なコンクリート・ホーンを造った。それがどんな音で鳴っているか私は知っている。その後テレフンケンS8型を購入し、音質を聴き比べて、コンクリート・ホーンをハンマーで敲きこわした」。よりよい音を求めて人を信じ稼いだ金をつぎ込むが、幻滅した瞬間敲きこわしてしまう。とても常人では考えられない次元である。「オーディオ装置が生み出す音の魅力は確かに無辺際だが、それ以上にかぎりなく尽くせぬ魅力と美と思索力と、叡智と、宗教的荘厳感を蔵しているのは音楽そのものである」が彼の理念である。音楽を愛する気持ちがオーディオ追究に優先している。これこそ、まともな音楽愛好家のプライオリティだと思う。
 CDは楽譜も演奏者も同梱している。CDプレーヤーはオーディオ装置の一パーツに過ぎない。だから「楽譜がCDで演奏者がCDプレーヤー」という中山氏の比喩は元々成り立たないのである。

 中山氏への不協和音は他にもまだある。「移調と転調」の混同や「ソロ・ピアノとカデンツァ」の曖昧な理解がそれである。「移調」は曲をそのまま別の調に移すことをいい、「転調」は楽曲中の連続する流れにおける調性の変換をいう。ピアノ協奏曲において、ピアニストが弾く部分はすべてピアノ・ソロであり、その中でピアニストの技量を誇示するために特別に設けられたパートがカデンツアである。これらは楽典における初歩的な知識なので、音楽関連小説を書こうという作家には最低限抑えておいていただきたいところである。
 2011.08.15 (月)  「さよならドビュッシー」を読んで〜協和音の巻
 立原正秋(1926−1980)は好きな作家である。精神も文体も強くてしなやかだ。つよいを「靭い」とよく書く。「強」ではないしなやかさがそこにある。姿勢が凛として背筋が伸びている。今、ブレまくりの世の中だからこそ、この人の毅然たる佇まいが清々しい。
 そんな彼の随筆集「夢幻のなか」の巻末に、「著者への27の質問」という項目がある。その質問の一つ「好きな音楽家は?」に対する立原の答えが、「春はバッハ、夏はドビュッシー、秋はモーツァルト、冬はベルリオーズ」というものだ。夏の部分を換言すれば「夏にはドビュッシーの音楽が最適だ」ということになろうか。うーん、なるほど、よくわかる。ドビュッシーの音楽は涼を呼んでくれるのだ。猛暑が記録的に続く今日此頃、私の愛聴曲はドビュッシー「海〜3つの交響的素描」である。ジュリーニ指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏が最高だ。その躍動する清涼感はクーラーにも勝る、とやせ我慢し節電に励む。
 そんな折、中山七里著「さよならドビュッシー」という探偵小説を読んだ。数ヶ月前、このサイトの主幹、ジャズ&ミステリーのK氏に勧められていたのだが、買ったきりになっていたものだ。大震災後の政治の迷走と容赦ない猛暑の連鎖に、何とかならんかしら、と憤っていたら、頭には立原正秋が浮かび、手には「さよならドビュッシー」を取っていたというわけである。

 「さよならドビュッシー」は、第8回「このミステリーがすごい!大賞」受賞作。だが正直、探偵小説としてはどうかと思った。最後にどんでん返しとなるのだが、犯人設定が斬新?過ぎて私にはどうも・・・・・。これって前例ありですか?邪道じゃないでしょうか? 週末K氏に会うので、訊いてみよう。だがしかし、音楽描写には興味深いものがある。今回は、彼の音楽感性について、賛同できる部分を述べてみたいと思う。

<「感性」には共感>

 中山氏はドッビュッシーとラヴェルの違いをこう書いている。
ドビュッシーの曲は(聴くよりも)弾いてみると一層快楽をもたらすようにできている。鍵盤を叩いていると、思い切り身体が開放されるような快感に襲われる。そして弾き終えた瞬間、やはり快感を伴った脱力感が全身を包む。同じく映像を重視したラヴェルは弾いてみると奇妙に窮屈で、まるで身体を細い糸で締め付けられる感覚があり、その違いは歴然としている。
 ドビュッシーは「開放感」、ラヴェルは「窮屈」。同感である。私もかねがねドビュッシーとラヴェルは似て非なるもの、「ドビュッシーの音鎖には潤いがあるがラヴェルは乾いている」と感じていた。これは好き嫌いの問題ではあるが、私もドビュッシーのほうが(断然)好きであり、中山氏を支持する。

 中山氏はピアノ演奏の描写がうまい。例えばリストの「マゼッパ」を弾く先生の描写・・・・・第1小節から荒々しい旋律が疾走を始めた。躍動するというよりも暴れ回っている調子だ。弦が千切れそうな打鍵。打つというよりは叩き付けている。両手は鍵盤の上を目まぐるしく移動し、指先の動きは残像を残すだけで目にも留まらない。幾度も交差する腕、駆け巡る指と指。旋律は繰り返し駆け上がり、低く旋回する・・・・・いやはや、なかなかの描写力。ピアニストの迫力が伝わってくる。
 また、別のところで、生のコンサートについての記述があるが、これもなかなかユニークで合点がいく。「(生演奏は)部屋でCDを聴くのとは次元が違う。コンサートは音を聴くのではなく浴びに来る場所なんだなと思った」・・・・・"音を浴びる"は感じがでている。

<月の光>

 コンクールを目指す主人公の女子高生の課題曲がドビュッシーの名曲「月の光」で、「ベルガマスク組曲」の第3曲。この小説の核心曲である。この曲に関する中山氏の描写、特に締めくくりの表現は演奏の本質を突いていて素晴らしい。
先ずその和音の美しさに驚いた。美しい一音はそのまま一条の光だ。音が光となって心の中に射し込む。思わず目を閉じているとすぐに情景が浮かんでくる。ドビュッシーは音と映像の関係を重視したということだが、その通りだった。湖面に月の光が静かに降り注いでいる・・・弾いて、あたしが見たものを聴いている人にも見せてあげたい。
 「ベルガマスク組曲」は4曲から成るピアノ独奏曲。「ベルガマスク」とは「ベルガモの」という意味で、ベルガモは北イタリアの地方の名前である。
 クロード・ドビュッシー(1862−1918)は、フランスの作曲家の登竜門「ローマ大賞」を獲得したため、1885年から2年間、スポンサーであるメディチ家のお膝元・ローマに滞在した。しかしこの間、ドビュッシーはホームシックでパリに帰るなど、その留学生活は心から馴染めなかったようだ。「月の光」を含む4曲からなるピアノ組曲が完成したのは、イタリアから戻ってからの1890年ころ。タイトルの「ベルガマスク」は、ヴェルレーヌの詩「月の光」の一節 "Que vont charmant masques et bergamasques"(現われたる艶やかな仮面喜劇者たちとベルガモの踊り子たち)から引用したともいわれているが、彼が実際に体験したベルガモも関与していると考えるのが自然だろう。以下は私の仮説である。
 2年間のローマでの生活は、ドビュッシーにとって決して心地よいものではなかったと述べたが、彼は休暇を取っては北イタリアのベルガモ地方に出かけていったという。ひとときをこの土地で過ごすことによって、煩雑な都会生活からの気分転換を図っていたのだろう。北イタリアの人々は温かい。しかも、ここはベルガモットの産地。ベルガモットはフレーバーティー・アールグレイの素。効能は鬱病の快癒。そう、ベルガモは彼にとって心地よい癒しの地だったのだ。素朴な人々に囲まれて農家の軒先あたりで寛ぎながらアールグレイを嗜むドビュッシーの姿を想像すると、ほんのりと心が和む。
 フランスに帰り、ピアノ組曲が完成し、タイトル付けを考えたとき、彼の記憶にあったヴェルレーヌの詩と思い出の土地が結びついた。肌が合わなかった2年間の留学生活で、唯一心を癒してくれたのはベルガモの地だった。瞼を閉じれば、穏やかな田園風景と素朴な人々の笑顔が浮かんでくる。そして、心癒されるベルガモットの香り。そう、会心作にベルガモへの感謝をこめよう・・・・・かくしてこの初期の傑作は「ベルガマスク組曲 Suite bergamasqe」と命名された。ベルガモへのオマージュを込めて。彼自身「深い意味はない。ただなんとなく」と言ってはいるけれど。

 今回はこれまで。次回は一転、中山氏の「考証」の甘さについて言及したい。
 2011.07.31 (日)  閑話窮題〜とんでもないサッカー論
 「クラ未知」は、クラシック音楽を素材としています。だから「なでしこジャパン」ものは、前回だけの特例にしたかったのですが、今回まで続けざるを得なくなりました。それはとんでもないサッカー記事を目にしたからです。

 7月26日、朝日新聞オピニオン欄に、蓮實重彦氏が語る「美しいゴール 聡明さに興奮」と題された「サッカー論」が載りました。俎上に乗せたのは今が旬の「なでしこジャパン世界一」です。
 評論には様々な視点があってしかるべきです。一つの事象を色々な角度から観ることは、物事の本質を捉える上で欠かせない行為です。蓮實教授も過熱気味の「なでしこブーム」に別視点から一石を投じたかったのでしょうが、残念ながら、その論旨は見当はずれと言わざるを得ませんでした。読み進むにつれてだんだん腹が立ってくる"とんでもない"代物でした。この事が私がサッカーものを続けて書くことになった理由ですが、もう一つは、語り手が東大名誉教授にして元総長という大物だったことです。言わば、我が国最高峰の頭脳の持ち主。まさに、相手にとって不足なし! では、その論評に沿って、私の感想などを述べさせていただきたいと存じます。

<ラピノー〜モーガンのゴールこそが美しい>
決勝戦で私がひきつけられたのは、米国のミッドフィールダー、ラピノーの動きでした。彼女が自陣から前戦に上げた長い縦パスにモーガンが素早く反応し、熊谷をかわして先制点を決めた。この意表をついたボールの動きに、「そうか。こんなゴールが見たかったのだ!」と思わず興奮しました。あのボールの美しさをどうか思い出していただきたい。あれこそがサッカーの爽快さです。
 蓮實氏は、アメリカの先制点となったラピノー〜モーガンのゴールに興奮し、そこにサッカーの爽快さを見ています。私にはこのゴールは、いかにもアメリカらしい力技のゴールとしか映りませんでした。しかもカウンターでのゴール。どう見ても爽やかとは感じられない。でもまあこれは感じ方の問題だから、これまでにいたしましょう。

<日本のゴールは美しくない>
それに比べると日本の得点は美しくなかった。1点目は宮間がここしかないという場所に走り込み、敵の混乱を突いてボールを冷静に流し込みました。「この選手はただ者ではない」と驚嘆したが、爽快さは感じられませんでした。
 教授は、宮間を「ただ者ではない」と認めているにもかかわらず、「爽快さは感じられなかった」ようです。彼はまた(この後で)「私がサッカーを見るのは、選手たちの思いがけない動きに驚き、爽快感を覚えたいからです」と仰っているように、サッカーにひたすら「爽快感」を求めているようです。私はこの宮間のゴールに大変感動を覚えました。米ゴール前で永里が丸山にクロスを送ろうとしたとき、宮間は50m後方にいた。その時点で、彼女は頭の中にあらゆることを想定しながら、その距離を一気に駆け上っていった。ボールに近づきながらアメリカ選手のクリアの方向を予知し、例の位置(教授の言うここしかないという場所)に走り込み、キーパーの動きを冷静に見極めてシュートを成就させたのです。選手が、次なる場面を想定して最良の位置取りを行うことは、サッカーの重要で本質的な部分だろうと思います。高さとパワーで劣る日本は、これを極めなければアメリカには勝てなかった。言い換えれば、彼ら以上に頭を使わなければ絶対に勝てなかったのです。だから宮間のゴールは実に日本らしい痛快なゴールでした。私はそこに「爽快感」を覚えます。教授の場合は、残念ながら、ラピノー〜モーガンの力技のほうに爽快感を覚えられるようです。

<澤のゴールはどさくさ紛れの一発>
澤の2点目も、流れるような動きの中でのゴールではなかった。何度も練習した宮間とのサインプレーでしょうが、それを決勝戦で決めた澤はさすがというほかはありません。しかし、言葉は悪いかもしれませんが、どさくさ紛れの1点みたいな感じで、二度と起きない奇跡でしょう。
 これは失礼です。と同時に見識がなさ過ぎると思います。「流れるような動きの中でのゴールではなかった」といいますが、セット・プレーなのだから当然でしょう。"サインプレー"といわれますが、あのときは、敵のゴールキーパーのアクシデントによって、十分な打ち合わせができた、とことん確認しつくした末のショットでした。また「何度も練習した」といいますが、実戦でも何度か成功しています(例えば北京オリンピックのニュージーランド戦)。こんな甘ちゃんな考察を土台にして、よくも「どさくさ紛れの」なんて思い切った形容が使えますな!
 「美しくない」と「爽快さが感じられない」は、ここでも言及されていますが、この感性も理解し難いものです。宮間の放ったピンポイントの位置に、澤が素早く駆け込んで四次元のたった一点に合わせる。それは計算と直感と集中力と気力すべての要素が機能して初めて成功する高難度の技で、芸術的と言ってもいい。私はそこに美しさを見ます。また、4つの要素をしっかりと結びつけるのは経験に他ならず、私はそこに澤のサッカー人生を見ます。これだけのゴールを"どさくさ紛れ"として片付けてしまう神経を、私は疑わざるを得ません。
 もう一つ、敢えて言わせていただくと、教授はサッカーのプレーを点でしか見られないようです。「あのゴールは爽快だ」「このゴールは美しくない」など、それは点でしかない。ワンバックのゴールのあと、点を取りにいくしかなかった日本は、丸山と川澄のポジションを入れ替え、川澄の運動量を生かして高い位置からボールを取りに行く作戦を取った。これが功を奏して澤の同点ゴールにつながった。サッカーで重要なことは、ゲームをいかに組み立てるかということ。だから、線で捉えることが大切なのです。ゴールはその産物だということを、是非認識していただきたいものです。うわべの派手さだけに捉われないで。

<アメリカが4−2で勝っていた試合>
私は4対2ぐらいで米国が勝てた試合だったと思います。≪中略≫ 当初はそれが機能して、日本は何度も攻め込まれましたが、米国のシュートはバーやポストにはじかれた。序盤で試合を決めようと焦ったことで、かえってリズムをくずしてしまったのです。
 これはもう話になりません。「ああしていれば、ああやっていれば勝っていた」はあらゆるスポーツ、あらゆるゲームに当てはまり、これを言ったら地球上から負けはなくなります。だから、スポーツにおいて「タラレバ」は禁句なのです。一体教授は何を言いたいのでしょうか?「もし前半のハーフで、米国のシュートがバーやポストにはじかれていなかったら、日本は負けていた。だから日本の勝ちはただのラッキーなのだ」とでも。天下の東大を指導する立場にあった方ですから、「日本人よ、この勝利に驕るなかれ。ゲームの中味を検証せよ」と親身になって警鐘を鳴らしてくれたのかも。でも教授、どうかご心配なく。日本のサッカー・ファンはみんな分かっています。これは「フランクフルトの奇跡」だということを。ただし、奇跡は彼女たちが起こしたものであり、サッカーの神様が健気に頑張ったなでしこたちに贈った最高のプレゼントだったってこともです。どうか、「タラレバ」で彼女たちのサッカー人生と成果を貶さないでいただきたい。

<PK戦での勝敗はアクシデント>
PK戦での勝敗はアクシデントのようなもの。日本が勝ったというより、米国が自滅した試合でした。
 確かに、PK戦はアクシデントとはよく言われること。それをそのまんま引用じゃ、ちょっと淋しすぎますよ。アメリカは、延長で2−1とリードしたとき勝利を確信したはずです(これは、7月25日放映のNHKスペシャル「なでしこジャパン世界一への道」の中で、アメリカのワンバックが証言しています)。それが終了3分前に奇跡的なゴールで同点にされた。それはもう戦意喪失に近かった。そして、PKの一本目、キーパー海堀のスーパーセーブが出て、落胆も焦りも倍加した。それが2本目、3本目のミスの連鎖に繋がった。とまあ、なんとなくですが、流れが説明できるのです。無論、必然の勝利とは言いませんが、日本が勝利の流れに乗っていたことは間違いないと思うのです。最高峰の頭脳なら、このくらいのことは認知してくださいよ。

<あの舞台で実現させた丸山の動きの聡明さには驚いた>
私がサッカーを見るのは、選手たちの思いがけない動きに驚き、爽快感を覚えたいからです。準々決勝のドイツ戦での丸山のゴールにはしびれました。澤の浮かせたパスを追ってあの勢いで走り込み、難しい角度から右足でゴール左すみに蹴りこむ。誰もが「ああいう形で点を取りたい」と夢見ていながら男子でも失敗するプレーを、あの舞台で実現させた丸山の動きの聡明さには驚きました。
 ここはタイトルにもなっている「聡明さ」の部分。どう感じようと個人の自由ですが、私には「丸山の動きの聡明さ」とは映らない。見所はむしろ澤のパスであり、これこそ「聡明な」ショットだと感じます。岩淵のトラップ・ミスのこぼれ球を、ワン・タッチで、相手ディフェンダーの裏、丸山の頭越しに、(彼女が追いつくように)スピンの利いたやや早いボールを、送った。この5つの要素を一瞬のうちに正確に合体させる・・・・・これぞ「聡明な」ショット以外の何物でもないと私は思います。丸山はこのボールを本能のまま追いかけて、ゴールラインぎりぎりから思い切って蹴り込んだ。これはむしろ動物的ゴール、平たくいえば山勘ショットの色彩が強い。どうも、教授とは感性が違うようで。

<岩清水のレッドカードに悲壮感がなかったわけ>
一方、日本代表は今大会のどこかで「負ける気がしない」とう思い込みを共有したのではないでしょうか。それはまぎれもなく澤と宮間の力です。本来なら悲壮感が漂うはずの岩清水のレッドカード一発退場が、妙に明るくチームを落ち着かせたのもそのためでしょう。ただ、日本代表が突出した強さを持っていたわけではなく、優勝は出来すぎだと思います。
 この論旨もおかしい。岩清水のレッドカード一発退場が妙に明るくチームを落ち着かせたのは「負ける気がしない」という思い込みの共有からではない。岩清水のパフォーマンスがあの場面では、日本にとって"この上なく適切な行為"だったからです。「負ける気がしない」という気持ちの共有が功を奏するのは、劣勢の場面においてです。だから、このコメントは、リードされた2度の場面でなら相応しい。やはり、ちょっとトンチンカンな感性と思わざるを得ません。そして、またまたオマケに「優勝は出来すぎだ」なんてほざいていらっしゃる。どうぞご自由に、であります。

 以上、長々と書いてきたわけは、私は、蓮實名誉教授のような"考えが浅いくせに偉そうな語り口をする"人が大嫌いだからなのです。もっと、素直に日本の勝利に感動できないものか、と思うのです。肩書きで人を判断するのはいやなのですが、この東大名誉教授にして元総長というキャリアが、本論評のありようについて、なるほどと頷かせるものがあるように思えるのです。以下、なぜ氏の論評がこんな風なのかについて、「お前、それは極論だ」と言われることを覚悟の上で、考察してみましょう。
 東京大学は、旧帝国大学として、維新以来、国策推進のための官僚を育てることを目的に設立維持されてきました。富国強兵&殖産興業は、その時代、ハードとして(物理的に)は間違ってはいなかったでしょうが、そこにソフトとしての精神が置き去りにされてしまった。組織は大局を欠き硬直化した。人は井の中での権益を守り我欲だけを追求するようになった。でも彼らは国を担うという自負心だけは保持し続けた。貧しい精神にプライドというコーティング。東大はそういう人間を輩出する教育機関として存在してきたのです。
 蓮實教授の論調には、「お前らとはちょっと違うんだ。物事にはいろんな見方があるんだよ」と、そんな上から目線の驕りが見えます。ところが氏の見方には見るべきものがなにもない。独りよがりで、悦に入っているだけ。だったら、もっと、素直に喜ぶべきは喜べばいいのに、と私なんかは思ってしまう。
 この「サッカー論」が、東京大学の最高責任者だった方の手になるものと考えると、紙背に近代日本の歴史が読み取れる、私にはそんな風に見えるのですが、これは、まあ、ちょっと強引だったですかね。
 2011.07.25 (月)  閑話窮題〜「なでしこジャパン」クラ未知的総括
 2011年7月18日早朝、宮間あやのコーナーキックから放たれたボールは、宙を飛んだ澤穂希の右足の外蹴りによって、アメリカ・ゴールに突き刺さった。この間僅か2秒、日本全土が歓喜に揺れた。澤から理想の亭主像といわれた関根勤は、このゴールを「ほまれシュート」と命名。これじゃ、そのまんま、ちょっとイージー? 私はこれを澤の「ミラクル・ビーム」と呼びたい。これぞ、なでしこジャパンを絶体絶命の崖っぷちから救い出した奇跡の閃光なのだ。
 サッカーは素人の私だが、今回のなでしこジャパンには文句なしに感動させてもらった。「クラ未知」も「大震災断章」がひとまず区切りがつき、さてソロソロ本題に戻ろうかと思っていた矢先のこの衝撃。これを総括せずには先に進めないと、またまた思ってしまった。ホントに今年は考えられない事件がかくも現出する。
 なでしこたちが凱旋帰国した7月19日、フジテレビのスーパーニュースで、コメンテーターの木村太郎が、「アメリカは、『日本はなにかに後押しされていた。アメリカはそんな目に見えない敵にやられた』的なことを言っていますが、そんなことはない。勝ったのは皆さんの実力です」と、出演中のなでしこを賞賛した。確かにその場にいる選手に対する賛辞としては適切だと思うが、一方で、アメリカの気持ちもよく分かるのだ。何故日本に負けてしまったのか。ありえない!この展開で。日本に一体なにが起こっていたのか? どうしても納得できない。
 今回は、アメリカ側からの視点も交え、FIFA女子ワールドカップ・ドイツ大会決勝戦における「なでしこジャパン」の軌跡を振り返ってみたい。

<ワンバックとモーガン>

 アメリカ・チームのエースは言うまでもなくアビー・ワンバック、身長181センチの強力フォワードである。準決勝を終えての大会通算3得点は、澤には一歩及ばないものの、内容的に決してヒケを取るものではない。準々決勝ブラジル戦では、延長のロス・タイムで値千金の同点ゴールを、準決勝のフランス戦では決勝ゴールをあげるなど、欲しいところで点が取れるまさに頼れるエースである。
 もう一人のキーマン、アレックス・モーガンは22歳気鋭のフォワード。勝負どころで投入される貴重な戦力だ。準決勝ではダメ押しの3点目をあげている。
 アメリカ・チームは、ワールドカップで2回、オリンピックで3回優勝。現在FIFAランキング第1位。日本との対戦成績も21勝3分と過去1回も負けていない。勝負は水物と知りつつも、心の片隅に「日本に負けるはずがない」という気持ちがあっても不思議はなかった。

 そんな背景で始まった決勝戦は、開始早々からアメリカが押しまくった。圧倒的なパワーとスピードで日本ゴールに襲いかかる。少なくとも前半に3度は決定的な得点チャンスがあった。特に28分、ワンバックが放った左サイドからの強烈なミドル・シュートは、一直線に枠に向かうも僅かにクロスバーに弾かれた。得点されなかったのは神の加護としかいいようのない日本にとっては実にラッキーなショットだった。前半はスコアレス・ドロー。チャンスらしいチャンスを作れなかった日本にとって、この経過は上々だった。
 後半、アメリカは勝負に出た。先発チェイニーに代えてモーガンを投入する。そして24分、ゴール前からの長いパスを強烈なスピードで追ったモーガンが、そのまま得意の左足でシュート、先制点をあげた。監督采配ズバリ的中の巻である。日本はその12分後宮間が同点ゴールをあげて1−1。90分では決着が付かずゲームは延長戦へ。
 延長前半の14分、遂にワンバックが得点を入れる。この日はワンバック付のディフェンダー熊谷紗希の好守に再三チャンスを阻まれていたが、遂に背後に引いたフリーな位置から、ヘディングで見事に決めたのである。アシストはモーガン。キーマンによるアシストを大エースがぶち込んだ終盤での得点に、アメリカは勝利を確信したことだろう。テレビの前の私も、最早これまでと観念した。絵に描いたような「アメリカの勝ちパターン」と映ったからである。

  <宮間と澤と岩清水>

 後半35分での宮間の同点ゴールも見事だった。ゴール前、フォワードの丸山桂里奈が根性で切り込むも二人のディフェンダーに阻まれる。左側のディフェンダーが右後方にクリアーしたその位置に、背後からスルスルと上がってきた宮間がいた。まるで九の一、実に見事な読み。右足でトラップし左足アウトで確実に蹴りこむ。高度な技を易しく見せる宮間真骨頂のテクニックだった。

 日本が1−2とリードされ敗色濃厚の延長後半、残り時間3分の時点で奇跡は起きた。この1分40秒前、澤からのロングパスを近賀ゆかりが絶妙なループシュート、惜しくもゴールは成らなかったが、その場面で、アメリカのゴールキーパー、ホープ・ソロが味方選手と交錯、左足を負傷した。その治療が、コーナーキックまでの時間をくれた。なでしこは、この天が与えた1分という時間を無駄にしなかった。左コーナーに向かう宮間の頭の中には、「澤のニアにボールを送る」という確固たる合意が構築されていたのである。コーナーキック、宮間の右足から放たれたボールは注文どおりの弧を描く。ディフェンダーの背後から牝豹のように飛び出した澤は、敵が差し出した左足先に自らの右足をのばし、アウトに一振。直後、ボールは閃光と化してゴールに突き刺さった。打った澤は頭からひっくり返っていた。周到な打ち合わせと精緻な技術そして極度の集中力が生んだ奇跡のゴールにして、崖っぷちの日本を救った文字通り起死回生の一弾、キャプテン澤のサッカー人生集大成の一撃だった。2−2の同点。二人の共同作業による今大会3度目のゴールは、澤の5点目となって得点王を決定づけた。

 勝利を確信していたアメリカにとってまさかの展開。でもさすがに王者。疲れた体を鼓舞して執拗にゴールに迫る。そこに立ちはだかったのが岩清水梓だった。
 会心のゴールをライバル澤に帳消しにされたワンバックは、14分、右サイドからの絶好のクロスにジャスト・タイミングで右足を合わせた。ムムッ!ゴールか? と思われた瞬間、岩清水の右足が見事にボールを弾いていた。それまでのワンバック番・熊谷から、直前に代わっていたものと思われる。
 ロスタイムに入った15分2秒、今度は突破したモーガンがペナルティ・エリアに向かいボールを運んでいた。前にはキーパーしかいない。危ない!その瞬間、再度岩清水が突っ込んで進撃を阻んだ。審判は、モーガンに押しつぶされた岩清水に対しレッドカードを高々と掲げた。人生初の一発退場。ファウル地点はペナルティ・エリアの直前。アメリカのフリーキックとなるが、最悪のペナルティ・キックは避けられた。岩清水は、試合後「あの場面、あのまま行かせたらゴールの可能性はかなり高いと判断した。なにせモーガンだったから。だから無我夢中で体を張った」と振り返った。
 入れられたら負けという時間帯で、アメリカのキーマン二人の攻撃を、身を挺して阻んだ岩清水の献身的プレイは、澤や宮間にも匹敵する価値あるパフォーマンスだった。
 フリーキックからのアメリカの攻撃をなんとか封じたなでしこは、遂に勝負をPK戦に持ち込む。

 PK戦はゴールキーパー海堀あゆみに尽きる。アメリカの一本目を止めた右足は、左への飛びすぎを感知して咄嗟に出したものだという。この一本に動揺したアメリカは立て続けに3本のミス。なでしこ2番手永里のミスのあと登場した3番手の阪口夢穂は、ネット左隅にキックした。キーパーは読みどおりに飛んでボールに触れるもゴールを許す。飛ぶために地面を蹴った左足は数分前に痛めたほうの足だった。もしやこの傷がギリギリのところで阻止できなかった原因かもしれない。アメリカの4番手ワンバックは成功。最後はなでしこの4番手熊谷がゴール左上に決め、長く厳しいゲームに終止符を打った。大詰めの修羅場を後輩に託した澤の願いが通じ、サッカーの神様がなでしこ30年の歴史に微笑んだ瞬間だった。

<断片的総括>

 宮間は試合後、「優勝決定の瞬間の気持ちは?」という問いに「自分はアメリカ代表の選手にも友人が多いので、喜びとともに彼らに敬意を表すべきところもあり、結構落ち着いていました。また、昔から頑張ってこられた先輩たちにお礼を言いたいです」と静かな口調で答えた。実際、彼女は試合後のピッチでアメリカ選手の労をねぎらっていた。この気遣いこそ、彼女があげた2得点好アシストとともに記憶されるべきだろう。帰国後も「私たちは、ピッチで結果を出すことが一番大切なこと」と言い残し、即チームのある岡山に向かっていった。この人には大局観と歴史観があり、地に足が着いている。ポスト澤は安泰である。

 宮間も澤もアメリカで修行している。震災でチームがなくなった鮫島彩もボストンに移籍して頑張った。こうして選手は其々海外で修行しているのである。石川遼は今年の全英オープンでボロボロのスコアで予選落ちして、ジャンボ尾崎に助言を求めたという。ジャンボは有名な内弁慶で海外では打ち解けず馴染まず大した成績を残せなかった人。そんな人間に相談する暇があったら即海外に出かけて修行すべきだ。日本に拠点を置きながら、そのときだけ出かけて行って獲れるほどメジャーは甘くない。今日(7月25日)フランスから、宮里藍の米ツアー今季初勝利が伝えられた。こちらもなでしこ!石川の動向を見守りたい。

 菅首相は、国会答弁の中で「先行されても追いつくそのあきらめない姿勢で、私もやるべきことがある限り頑張ってゆきたい」と答弁した。えー、あなたには頑張ってもらわなくてもいいんですが。

 石原都知事は、都庁を訪問した佐々木則夫監督と二人のなでしこを前にしてこう吼えた。「国もバカ、政府もバカ、東京都もバカだ。なんで銀座だけでもパレードやんねぇんだよ。こんなボケナスの国はないよ。こんなもんじゃオリンピック勝てないぞ。頭使え頭を」って。これは傍らの都職員に対して叫んだのだろうが、相変わらず場をわきまえない男である。なんぞ、先ごろ辞任した松本復興担当大臣の「ちゃんとやれ。知恵を出さないやつには何もしてやらないぞ」を想起させる。ホント、この方不躾なガキ大将。佐々木監督の成熟度を見習うべしだ。

 ワンバックの「日本はお互いを信頼し最後まであきらめることはなかった。今夜はいつもとは違う何かが彼女たちの後押しをしていたように感じる」という言葉に、アメリカ・チームの本音が見え隠れした。今まで、この展開で負けたことは絶対になかった。しかし今夜の日本は何かが違っていた。実力以外のその何かによってアメリカは負けたのだと。その一方で、かつてのチームメート澤には、「澤選手がチームを引っ張っていた。日本は本当に強かった」と称え、試合終了直後、駆け寄って祝福することを忘れなかった。私は、そこにスポーツマンシップを見た。そして、フェアプレーの精神がゲームの感動を倍加させてくれるのを感じた。2006男子ワールドカップ決勝でのジダンの頭突き騒動は言うに及ばず、ラフプレーが横行する男子サッカーとは違う爽やかさを見せてくれた。

 アメリカでは、女子サッカーはかなりのメジャー・スポーツで、サッカー人口は200万人とも言われている。対する日本は4万人。なでしこジャパンの中でプロ選手は5人だけ。9チームから成る「なでしこリーグ」の選手231人のほとんどが、仕事との2足のわらじだという。平均観客動員数900人はJリーグの20分の1。とても世界を狙える環境ではない。そんな劣悪な条件下で、彼女たちは世界一になったのである。もう驚きでしかないのである。この事実からも、今回の快挙は奇跡と呼ぶ゙しかないのだ。「好きこそ物の上手なれ」「之を楽しむ者に如かず」というが、彼女たちを支えているものは正にこの「サッカー大好き」という一点だろう。これがあるからどんな苦労にも耐えられ、相手を打ち負かす知恵を見出すことができた。なでしこは、スピードとテクニックで作り上げたパス・サッカーを土台に、チームワークとあきらめない精神を注入して、王者アメリカの高さとパワーを粉砕したのだ。小が大を、柔が剛を、貧が富を、弱が強を制すの図は、真に痛快だった。

 宮間の「澤さんのMVPは当然ですが、全員がMVPだと思います」も至言である。準決勝スウェーデン戦初先発で2得点をあげた川澄奈穂美、準々決勝ドイツ戦の土壇場で値千金のゴールを決めた丸山の活躍は言うに及ばず、常に前への安藤梢、澤の片腕となってサポートした阪口、協同して海堀に作戦を授けた先輩キーパー山郷のぞみ福元美穂、切れ味鋭い大野忍、大会初得点の永里優季、軽快なサイドバック鮫島らも立派に役割を果たした。監督、コーチ、控え選手を含めた全員サッカーの勝利だった。

 岩清水が掲げた日の丸には「東北の皆さん。忘れたことはありません。いつも自分にできることを考えています。今回『良い結果を届ける』その一心でした。メダルを持ってみなさんのところへ会いに行きます。待っていてください。応援ありがとうございました」というメッセージが書かれていた。そして世界には「To Our Friends Around The World Thank You For Your Support」と発信していた。東北への思いや世界の友人たちへの感謝が、なでしこを後押ししたのは確かだろう。

 澤はこの決勝戦を「神様がくれたチャンス」と表現した。自身のサッカー人生を育んでくれたアメリカへの恩返しのチャンスと捉えた。勝ったことのない相手にもなぜか負ける気がしなかったという。そして自らがチームを引っ張って思い描いた結果を引き出した。件のゴールは空前絶後の凄さだった。武蔵の読みと小次郎の切れ味が合体したような見事な技。決めた澤はまるで剣豪の風情だ。彼女こそがサムライ・ジャパン(ブルー)ではないか。優勝と得点王とMVPとフェアプレー賞。オリンピック女子マラソン金メダルの高橋尚子が国民栄誉賞なら、澤穂希は永世名誉国民大賞である。帰国後「人間欲が出るもので、今度はオリンピックの金メダルを狙いたい」と抱負を語った。実に頼もしいコメントである。
 でも、もうこれで十分だ、と私は思ってしまう。これだけの感動のあと、一体何を彼女たちに求めるのかと。ロンドンで金なんか望まない。普通にやってくれればそれでいい。だって、こんな試合、二度と出来るわけがないのだから。残り15分でリードされたあと、相手の負傷で生まれた時間を有効に使い、キャプテンが人生を賭けたシュートを決め、同点後未体験のレッドカードで失点を防ぎ、PK戦では神がかり的セーブを連発と、運と奇跡のオンパレードである。こんなゲームをどうやって再現しろというのか! 無論、この結果を呼び込んだのは、なでしこたちが培った不断の努力の賜物であることは誰も否定できないけれど、それでも敢えて言う。こんな試合は二度とあるわけがない。一生涯もう絶対にお目にかかれないだろう。だから、なでしこジャパンの皆さん、ロンドンでは大いに楽しんでください。たとえ予選落ちでも私は許す。あとは「なでしこリーグ」を盛り上げようじゃありませんか。ありがとうなでしこジャパン! 夢を叶えた大和撫子に乾杯!!
 2011.07.10 (日)  閑話窮題〜「シェエラザード」にまつわるエトセトラ
 今年の夏は暑い!全国的に6月における猛暑日数は、観測史上の記録だったそうだ。このあとどれだけ暑くなるのだろうか? 世の中は、極悪卑劣史上最低総理大臣による非道の権化たる言動の数々や、目下一番の重要ポストであるはずの復興担当相の大バカ放言辞任など、一向に良くならないどころか益々地盤沈下してゆく。「ちゃんとやれ」はコッチのセリフだコノー!喝! 猛暑と情けなさで不快指数も上がりっぱなしだが、こんなときには「夏向きクラシック」でも探ってみよう。少しは涼しくなるかもしれない。

 夏物音楽といえば、ポピュラーの世界には「ハワイアン」があり、J-POPには夏バンド「チューブ」がいる。しからばクラシックは?と考えてみるに、定番的夏物があるわけじゃない。我々が一般的に夏に抱くイメージは、海、山、青空に積乱雲、夏休み、祭、花火、お盆、帰省あたりだろうか。クラシックの場合、そんなキイワードに引っかかる音楽をセレクトするしかないような。
 1970年代、私がレコード会社の営業担当だったころ、夏場にクラシックは売れないという定説がありました。分かるかな? でも、手をこまねいてるばかりじゃ能がない。そこで、涼しげな曲のレコードを集め、「涼を呼ぶクラシック」と銘打って、夏のセールを展開してみたりしたものです。目玉商品は、ヴォーン・ウイリアムズの「南極交響曲」「海の交響曲」、ダンディ「フランス山人の歌による交響曲」、ドビュッシーの交響詩「海」、リヒャルト・シュトラウス「アルプス交響曲」あたりのレコード。あまり売れなかったけれど、お店の人と「やらないよりはよかったよね」などと、ささやかに盛り上がったものであります。今となっては懐かしい思い出、のどかで佳き時代でした。そういえば、アンドレ・ジョリヴェの「赤道協奏曲」なんてのもありましたが、今ではとんとお目にかかりません。

 しからば、交響組曲「シェエラザード」は夏物だろうか? この屈指の人気管弦楽曲のベースはアラビアの説話集「千夜一夜物語」で、シェエラザードは、王様に夜な夜な話を聞かせる聡明な王妃の名。作曲者ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844−1908)は、軍人貴族の家庭に生まれ、海軍兵学校からロシア海軍に入隊、艦隊で海外遠征の体験を持つ作曲家。だから海の描写はお手のもの。4つの楽章には、「海とシンドバットの船」とか「バクダッドの祭 − 海 − 船の青銅の騎士の岩での難破」など、夏ムード十分な標題が付く。テキストの「千夜一夜物語」の異国情緒と幻想性も夏的といえそうだ。だかしかし、これじゃまだ決め手に乏しい。誰かのお墨付きが欲しい!

 かつて、法隆寺のリュウちゃんが制作したCD「寅さんクラシック」(BMGビクター1994年発売)の解説書に、山田洋次監督が「男はつらいよ」シリーズで使ったクラシック楽曲はのべ50曲にも及ぶとある。確かに、48作で50曲という頻度は半端じゃない。この山田監督のセンスと教養が、「男はつらいよ」に懐の深さを与えているとリュウちゃんは指摘する。一見寅さんとクラシックはミス・マッチに思えるが、どっこい見事な嵌まり具合なのだ。
 例えば、第9作「柴又慕情」(1972年公開)で使われたJ.シュトラウスのワルツ「春の声」。吉永小百合演じるマドンナ歌子が、旅先で寅次郎に出会って友達と一緒にはしゃぐ場面で流れたが、曲の躍動感と寅さんの出現で一気に盛り上がった若い女性たちの湧々感が見事にシンクロしていた。山田監督は、この曲がお気に入りとみえて、第8作「寅次郎恋歌」(池内淳子)、第30作「花も嵐も寅次郎」(田中裕子)でも使っている。
 第14作「寅次郎子守唄」(1974年公開)では、マドンナ京子(十朱幸代)とさくら、そして寅さんが喫茶店で話し合う場面で、モーツァルトの「幻想曲ニ短調K397」が流れていた。二人が通う合唱団に寅が迷惑を掛けたことを気に病むさくらの気持ちと曲想の変化が、これまた見事にマッチしていた。オードリー・ヘップバーンの西部劇「許されざる者」で、彼女の兄バート・ランカスターが土産に買ってきたピアノを母親が弾く場面があるが、その曲が同じ「幻想曲K397」だった。私にとって邦洋映画界最大のアイドル同士である寅さんとオードリーの間に、大好きなモーツァルトの名曲K397が介在している。実に奇妙にして嬉しいつながりである。

 「シェエラザード」は、第11作「寅次郎忘れな草」(1973年公開)の中で第3楽章「若き王子と王女」が使われた。
 寅さんは、真夏の網走でレコードのバイをしている時、ドサ回りの歌手リリー(浅丘ルリ子)と出会う。テキやと旅回りの歌手。同質の生活感が二人を自然に結びつける。彼女が発した「私たちの存在はあぶくみたいなもの」に共感するが反省もする。そこでとった行動が地道な職探し。すぐにその気になるいつものパターンである。結果、網走の農場で労働することに。音楽は、寅さんが網走郊外の原野や農場をそぞろ歩くシーンで流れる。広大でやや荒涼としたさいはての地・北海道網走の自然に、美しく自然な流れのメロディーが妙に馴染んでいた。クラシック通の山田監督が夏の北海道に合わせたのだから、「シェエラザード」は間違いなく夏物クラシックである。
 このあと、東京に戻ったリリーが柴又を訪ねて寅と再会。あとは fall in love → broken heart というお決まりの筋書きになるが、旅回りという同類項で繋がる二人の関係は、それまでの10人のマドンナにはない新鮮なパターンだった。
 検証したわけではないが、「男はつらいよ」の中で、この第11作ほど多種多様な音楽が使われた作品はないのではなかろうか。クラシックでは、「シェエラザード」の他に、J.S.バッハの「組曲第3番アリア」が、歌謡曲では、五木ひろしの「あなたの灯」、リリーがキャバレーで歌う「港が見える丘」「夜来香」と普段口ずさむ「越後獅子の唄」、たこ社長のところの工員が歌う「幸せなら手をたたこう」、江戸川の土手に流れるハーモニカは「故郷の空」で寅さんがゴキゲンで歌うのはシューベルトの「野ばら」といった具合である。
 余談だが、「港が見える丘」は昭和22年のリリース。時代を感じさせない実にモダンで洒落た作品だが、この時期に作詞作曲で作られたというのが珍しい。作ったのは東辰三。当時ビクターの社員だったそうだが、ご子息は作詞家山上路夫である。

 私が初めて「シェエラザード」を知ったのは中学生のころだった。ステレオ・レコードが発売されたのが1958年。当時、レコード会社はその効果をデモるため、全国各地でレコード・コンサートを催した。無論まだステレオ装置を持たない私は、ステレオなる音が聞きたくて会場の市立図書館の集会所に足を運んだものである。そこで聴いたのが、ビーチャム指揮:ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の「シェエラザード」(1957年録音)だった。レコード・コンサートでは、まずステレオ効果用レコードを掛ける。ピンポン玉が二つのスピーカーの間を左右に行き交う。左から右に列車が横切ると、お次は右から左に飛行機が飛び去る。幼い私は、もうそれだけで「スゲエや」と感動したものだ。そして、最後に真打「シェエラザード」の登場と相成るのである。即ち、「シェエラザード」とは、ステレオのデモ・レコードとして出会ったことになる。
 レコード・コンサートでステレオの素晴らしさを体験したとはいえ、我が家にステレオ装置が入ったのは高校生になってからのこと。CECのモ−ターにグレースのダイナミック・バランス型のアームを取り付け、リオンのクリスタル・カートリッジを合わせたレコード・プレーヤーと、安物無印ステレオ・アンプに、スピーカーはコーラルの同軸型8吋というラインアッップだった。この後のグレード・アップの歴史は、また別の機会に。 最初に買ったステレオ・レコードは、やはり「シェエラザード」だった。ただし、レコ・コンで聴いたビーチャム盤ではなく、キングレコード発売のアンセルメ指揮:スイス・ロマンド管弦楽団(1960年録音)のレコードである。演奏の何たるかも分からなかった私は、専ら「レコード芸術」の演奏・録音評を参考にしていたから、そこで、圧倒的に評判の良かったアンセルメ盤を迷わず買ったというわけだ。確か1枚3200円だったと記憶している。

 二つのレコードは今も現役CDとして健在である。好きな曲は同曲異演を惜しみなく買い求める癖のある私は、これら含め「シェエラザード」を現在22枚所有している。別のサイトに「究極のベスト演奏」というコラムを月1回書いているが、7月度は「シェエラザード」を取り上げた。全22枚のCDを改めて聴きなおした結果、「究極のベスト」は、なんとビーチャム盤になった。
 サー・トーマス・ビーチャム(1879−1961)はイギリスの巨匠。年代的には、ブルーノ・ワルター(1876−1962)と同じで、フルトヴェングラーやクレンペラーの先輩格に当たる。カラヤン、バーンスタインはガキ扱いといったところだろう。イギリス紳士であり、洒脱な大物指揮者だった。生き様は常に若々しく、音楽は最後まで溌剌としていた。 50年以上も昔に長野市の図書館で出会った演奏が、最終的に私のベスト・パフォーマンスとなったのは大きな驚きだった。この演奏、当時の私には全く理解できなかったが、今聴くと、音楽が自然で溌剌と流れしかも洒落っけたっぷり、どこを切っても絶妙の節回しが聞こえてくる。何度聴いても飽きがこない究極の名人芸なのだ。録音も、分離・定位が確かで、響きも今となっては多少の硬さがあるものの総体的には十分に美しい。まさに奇跡の名盤だ。

 ではしばし、「シェエラザード」第3楽章「若き王子と王女」をビーチャム盤で聴いてみよう。ひととき、世の憂さを少しでも忘れるために。
 2011.06.30 (木)  大震災断章[9] 圧巻の長渕 剛
 大震災後、多くのアーティストがその思いを胸に被災地に出向いた。心底から演じるパフォーマンスは、被災者の皆さんにとってなによりの贈り物だったに違いない。そんな中、圧倒的だったのは、長渕剛だったと思う。

 私がアーティスト長渕 剛に初めて注目したのは、寅さん映画第37作「男はつらいよ 幸福の青い鳥」(1986年公開)だった。長渕は画家志望の看板描きで、マドンナ志穂美悦子と恋人同士という役柄。例によって寅さんは志穂美に惚れるが、二人の様子を見てエールを送ることになる という設定である。実生活でも二人は結婚、スクリーンを実践したわけだ。劇中、志穂美に「女の気持ちが分からん人は嫌い」と言われ「じゃ、おしまいか。どうせ俺なんかクズ、才能のひとかけらもありゃしないんだ」などと、拗ねて弱気なセリフを吐くなど、後の逞しさはまだなく、むしろ傷つきやすくナイーブな青年という役どころだった。
 このあとの長渕は、1988年にシングル「乾杯」で大ヒットを飛ばし、続くTVドラマ「とんぼ」は平均18%の視聴率をあげ、俳優としての地位も築いた。1990年の大晦日には、伝説のNHK紅白ベルリンの壁中継があり、そして、1991年のTVドラマ「しゃぼん玉」で、彼のアーティストとしての個性が確立されたと思う。まさに破竹の快進撃だった。この一連の流れを見ると、彼の出世のきっかけを作ったのは「男はつらいよ」だったと思えてくる。やはり、"寅さん"の影響力はあちらこちらで大なのだ。

 「しゃぼん玉」の舞台は再開発真っ盛りの西新宿。長渕は元やくざの医者・矢島鉄平を演じた。貧しい患者からは診察料を取らない、まるで新宿の赤ひげである。権力は再開発の名の下に、土地建物を買い占めてゆく。目的のためには手段を選ばず相手に有無を言わせない。反社会的勢力を手先に使い、弱者からすべてを奪い取る。矢島はそんな不条理な闇パワーに対し正義を貫き体を張る。これぞ無頼の極致。そのくせ、弱者には優しく、何よりも仲間を大事にする。悪がうごめき争いごとが絶えずいつ殺られるか分からない危険地帯新宿でも、離れる気などサラサラない。かけがえのない仲間がいるそんな新宿が大好きなのである。やがて、悪の魔手は矢島の身辺で増幅し、恩人や友人や好敵手らが次々に消されていく。あまりに理不尽! ラスト・シーン、矢島のいたたまれない気持ちは、黒幕への怒りとなり、傍観者への憤りとなり、マスコミへの警告となって爆発する。

 なんでこうも日本人同士、いがみあわなきゃいけねえんだ。足を引っ張り合うだけの日本人をどうしてあんたは作ってきてしまったんだ。何が復興だ。何が繁栄だ。貴様らの手でどれだけ多くの人の命が絶たれたことか。見せかけの繁栄には崩壊しか待っていないってこと、あんたには分からないのか。
 それから、機動隊の向こうでヤジってるあんたたち日本国民よ。そうやっていつも高みの見物かよ。何かあったときだけ、国が悪いだの税金が高いだの言ってるくせに、新宿に都庁がぶったちゃ、そいつをバックに間抜けな面してカメラの前でVサインかよ。それが日本国民か!
 マスコミの皆さんよ。最初はあんたらも真実を報道しようと正義感に駆られていたはずだ。それが、時を経て慣らされて、ゆがんだ正義感の上にあぐらをかいている。こんな嫉妬深い足をひっぱるだけの日本国民に仕立て上げたのは、てめえらマスコミのウジ虫どもだってこと、気がついちゃいねえのか。

 理不尽なことには、相手がどんなに強かろうが立ち向かう。仲間のピンチにはどんな危険をも顧みずに飛び込んでゆく。そんな矢島の並外れた正義感と優しさと無鉄砲さは、長渕 剛そのものと同化して、主題歌「しゃぼん玉」のメロディーととともに胸に迫った。あのころの私は、長渕をオーバーラップさせ自分なりの無頼を気取り、バブル崩壊前後の新宿で、夜な夜な仲間と飲んだくれ、「しゃぼん玉」を歌いまくっていたものだ。もう40代の半ば、いい歳こいて似合っちゃいないのに・・・・・。「ロンリー・チャップリン」でデュエットしてくれた久美ちゃんはどうしているかなあ。俺たちのアジトだったクラブ「ジョッキー」のひろみさんは元気だろうか。そこのマスターは逝ってしまった。酔うと直ぐ寝ちゃう客のまっちゃんも、いつも明け方に寄ったラーメン屋の大将も今はもういない。思えば20年も昔の話である。懐かしい!

 2011年4月16日、宮城県松島基地に現れた長渕は、自衛隊員1500人の前に立ってこう切り出した。「会いたくて会いたくてたまらなかった。この有様を見て日本はもうだめかと思った。そんな時皆さんの勇姿を見た。そこに日本があった。皆さんは日本の誇りです。僕の大事な誇りです」。そして持ち歌6曲を歌う。特に「乾杯」では、全員と大合唱となった。長渕は「この絆を忘れないで欲しい。俺は絶対に忘れない」と締めた。
 そこには矢島鉄平と変らぬ長渕がいた。新宿が大好きを日本が大好きに置き換えた熱くてパワフルで優しい一人の人間がいた。時間を共有した自衛隊員には、一人の例外もなく、溢れるばかりの満足感と感動の表情が浮かんでいた。「最高でした。涙が出ました。元気が出ました」「最初からヤバかった。もう泣きそうです」「心が震えました。明日からもまた頑張ろうと、心の底から思いました」「自分ができる極限が伸ばせました」・・・・・一堂に会した彼らの掛け値なしの言葉である。歌が確実に彼らに力を与えた瞬間だった。アーティストと聞き手の心が通い、絶対的な絆が結ばれていた。
 こうして自衛隊員に力を与えた長渕も、被災者への対応には悩んだようだ。震災直後から被災地支援のラジオ番組を立ち上げて被災者との対話を行ってきた。その中で、歌は必要なのかと問いかけてもきた。そのひとまずの答えが、6月26日石巻市日和山公園での1000人の大合唱イヴェントだったという。7月にはその模様がオンエアされるようだ(NHK「SONGS」)。謹んで拝見したいと思う。

 長渕は、1991年リリースのアルバム「JAPAN」のタイトル曲でこう歌っている。
Japan! Where are you going?
俺たち この先どこへ 流れてゆくんだろう
だけど俺たちは この国で生まれ育ってきた
貫き通す意地の 壊れたこの街で
俺たちは まるで どす黒い油にまみれた
ペルシャ湾の水鳥みたいに
息絶えだえ それでも 必死に 天高く
飛び立とうとしてるのは
富の向こうに 何かを見つけたいから
 何百年に一度の天災だった。直後日本人に向けられた賞賛の声に、もしかしたら変われるかもしれないと思った。でも、一時の夢だった。政治がすべてをぶち壊した。日本はどこへ行ってしまうのか?どこへ流れていって行ってしまうのか? もうダメだ。この国はもうダメだ。でも、我々日本人はここを離れない。日本をあきらめるわけにはいかない。生まれ育ったこの国が大好きだから。20年前のペルシャ湾の水鳥みたいでも、混沌の向こうに何かを見つけたいのだ。
 2011.06.20 (月)  大震災断章[8]届け!音楽の力〜海外アーティスト編
 大震災から3ヶ月が経過した。警察庁の発表によると、1ヶ月後の避難者数は146,253人で6月11日は88,361人だった(16日以降は内閣府の発表となり、仮設住宅等を含めた数字と変る)。未だこれだけの人々が避難所生活を強いられているのである。だからといって、そこを出た人たちが幸せかといえば決してそうではないだろう。ほとんどの人が、味気のない仮設住宅生活か親戚知人を頼っての居候暮らしが精々で、元の場所でもとの暮らしをしている人はほんの一握りに過ぎないだろう。人間の辛抱は先に希望が見えることで可能になる。いつ帰れるのか、いつになったらもとの生活に戻れるのか、この光を与えるのが政治の力なのだが・・・・・。
 音楽には確かに人を鼓舞するものがある。気持ちを和らげ心を癒す力がある。震災後に行われた音楽行為や芸能人の活動を、ここで総括しておきたい。

<ズービン・メータ>

 インド出身の名指揮者ズービン・メータは、3月11日、フィレンツェ歌劇場公演のため日本にいたが、突如として起こった大震災に離日を余儀なくされた。そのことを気に掛けていたメータは、4月10日、震災被害者支援チャリティー・コンサートを指揮するため、東京文化会館に戻ってきた。
 コンサートはメータの挨拶から始まった。「桜が満開の今日、避難所でいまだ闘っている被災地の方々が、一年後、そしてそれ以降も毎年桜を楽しめるようになっていることを祈るばかりです。私たちは今、被災された方々やご家族ペットたちに思いを寄せ祈りを捧げます」。一分間の黙祷の後、J.S.バッハの「組曲第三番よりアリア」が、引き続きベートーヴェンの「第九」が演奏された。桜が満開の上野の杜に、メータ指揮NHK交響楽団による「第九」が被災地に届けと響きわたった。
 「第九」は平和と友愛の曲である。平和を愛するスペインの巨匠パブロ・カザルス(1876−1973)はフランコ独裁政権を嫌い国を捨てた。彼の生涯の夢は「民主化なった祖国で『第九』を演奏すること」だった。夢は、生存中には叶わなかったが、1992年バルセロナ・オリンピックの開会式で、彼の遺志を継いだ音楽家たちによって実現したのである。また、ベルリンの壁が崩壊した1989年12月には、平和の象徴として「第九」が、東西ドイツ合同オーケストラにより演奏された(指揮はレナード・バーンスタイン)。
 今回のチャリティーに「第九」が選ばれたのは、平和の到来を希求してのものだったろう。メータは、こんなメッセージを残して、日本を去っていった。「地震、津波、原発という三重の苦しみ。こんなひどいことがあっていいのか! その国難に対し日本人は勇敢に立ち向かっています。ツアーでヨーロッパ、ロシア、インドなどを回りましたが、誰もが日本人の行動を尊敬していました。日本を愛する私としても、とても誇りに思いました。困っているとき、つらいとき、音楽は気持ちを明るくし、心に安らぎを与えてくれるものと信じます」・・・・・メータが言ってくれたように、大震災当初の日本人の行動は海外から大いに賞賛された。これをぶち壊してしまったのは政治家である。頼むから、被災地と被災者のみなさんに目を向けて欲しい。気持ちを入れ替えて。そう願うばかりである。

<プラシド・ドミンゴ>

 プラシド・ドミンゴは三大テノールの一人として有名だが、紛れもなく20世紀最大の歌手の一人。「大震災後、愛してやまない日本に心を寄せてきた。一時でもつらさを考えずにすむ時間を持っていただけたらと願っています」として、4月11日、初来日で立ったNHKホールの舞台でコンサートに臨んだ。オケは日本フィルハーモニー、パートナーはヴァージニア・トーラ、ドミンゴとは娘ほど歳の違うソプラノである。
 コンサートは、レハールの喜歌劇「ほほえみの国」から「君はわが心のすべて」で始まり、「メリー・ウィドウ」の超人気デュエット・ナンバー「唇は黙して」に続く。甘く心浮き立つ歌は、二人の息もピッタリ合って、幸せ気分に浸らせてくれる。歌劇「トスカ」の「星も光りぬ」はテノールの定番曲。未だ衰えぬ声量と声の艶は、70歳とは到底思えない。続く「アンドレア・シェニエ」のアリア「国を裏切るもの」はバリトンの持ち歌。革命により高い地位に着いたシェニエの友人ジェラールが、かつてひたむきに理想を追い求めていたころを思い浮かべ、堕落した今の自分に自戒を込め、民衆のために生きようと改心するアリアだ。「自分にもかつて輝かしい日々があった。純粋で、無心で、力強かった日々が。今、自分は夢と未来への信仰を失ってしまった。こんなことでいいはずがない。私は変らなければならない。あのころの自分に。これからは、虐げられた人々の涙を集め、世界を神殿に変えよう。接吻と抱擁で、すべての人々を愛するのだ」ドミンゴが、わざわざバリトンのアリアを選んでまで言いたかったこと、それは日本のトップに対する警告か? うがちすぎとは思いつつ、ちょっとそんな気がした。昔、「アンドレア・シェニエ、最高」かなんか言ってはしゃぐ小泉首相を見て、「この人、分かってないな」と思った記憶がありますもので。
 このあと、「サウンド・オブ・ミュージック」の「私のお気に入り」、「マイ・フェア・レディ」から「君住む街で」、「ウエスト・サイド物語」から「トゥナイト」などミュージカル・ナンバーが続く。公約どおりの肩のこらない選曲だ。
 ドミンゴの故郷スペインの歌サルスエラから3曲歌ったあと、彼はこう切り出した。「日本のみなさんのつらい日々は知っています。人類全体が痛ましい気持ちでいます。みなさんとのつながりを持ちたくてこのコンサートを行いました。幸い私たちは今みなさんの心と魂に届け物ができます。それは日本の歌をお届けすることです。みなさんと一緒に歌いましょう。『ふるさと』」・・・・・ものすごい声の力だった。今まで聞いたことのない「ふるさと」だった。日本語は確かにたどたどしかったが、気持ちが伝わってきた。一生懸命言葉をなぞる姿に誰もが感動した。口だけじゃない誠意と優しさに、会場のみんなが涙して一緒に歌っている。最後は自然にスタンディング・オベーションになった。感動の渦がホールいっぱいに広がった。
 このあと「グラナダ」で幕となったが、やはり「ふるさと」が一番ジンと来た。自分は日本人なんだな と改めて思った。日本のみんなの「ふるさと」に二度と再びあんな災難が振りかからないように、そして被災地が一日も早く復興するように、ただただ祈るばかりである。ありがとう、ドミンゴさん!

<シンディ・ローパー>

 80年代を代表するアメリカ人歌手で、大の親日家である。震災の起きた3月11日は、コンサートのために来日していた。なんと14回目の来日だという。海外アーティストのコンサートが次々にキャンセルされる中、彼女は予定通りのスケジュールをすべてやり遂げた。
 来日期間中に収録したNHK「SONGS」を見る。「私の心はみなさんと共にあります。世界中がみなさんの無事を祈っています」と語った。合わせて、歌った2曲の歌詞が印象に残った。味のある歌声と共に。
 True Colors「あなたの本当の色はとても美しい。だから、自分をさらけ出すことを恐れないで」 Time After Time「あなたが倒れそうになったら、私が受け止めてあげる」・・・・・歌は時に"何事にも勝るメッセージ"になる、と痛感した。

<たくさんのメッセージ>

 このほかにも、海外の錚々たるアーティストから数多くのメッセージが届けられた。全部記録しておきたいけれど、そのままコピーしても芸がない。日本との関わり度合いの違いや内容は様々でも、思いは同じである。それは、概ね、被害への心の痛み、被災者への鼓舞、日本人の精神への尊敬、連帯感と祈りに集約される。これらを「クラ未知的激励文」としてまとめ、寄せられたアーティスト名を列記して、今回を閉じたい。
 私たちは、日本に起きた大災害を目の当たりにして、心はひどく痛んでいます。でも、私たちは困難に立ち向かう皆さんの力を知っています。その強さと勇気は、必ずやこの状況に打ち克ってくれるものと信じています。
 私たちは皆さんのトモダチです。世界中が支援しています。私たちの心は常に皆さんと共にあります。この大変な状況が一刻も早く終わることをいつも祈っています。
 ガンバッテ! 強くあれ! そして、神のご加護を!
ジェフ・ベック  エリック・クラプトン  ポール・マッカートニー  ザ・ローリングストーンズ  ジョン・ボン・ジョヴィ  ポール・サイモン  ビリー・ジョエル  オリビア・ミュートン・ジョン  サラ・ブライトマン  レディー・ガガ  クイーン他 (4月2日放映NHK「デジタル・プレニアム・ライブ」より)
 2011.06.05 (日)  大震災断章[7]赤子の特権で踊り捧げる
 先日、NHK-BSを見ていたら、かのYMOの細野晴臣が、「3.11大震災後、しばらくはなにもする気が起こらなかった。毎日、地図を広げて原発の位置を確認したりしてね」などと語っていた。細野といえば、1960年代から日本のポップ・ミュージック・シーンを牽引してきた先駆者にしてリーダー的存在。その芒洋とした風格は悟りの境地すら感じさせる。そんな彼にして、この心境。
 4月10日、細野は大震災以来初めてとなるライブを行った。節電のため楽器はほとんどアコースティック。照明は蝋燭。歌ったのは「Love me」と「Smile」の二曲だけ。あとは終始震災に纏わるトークだった。ライブの形としては異常。「あれ以来、音楽家としてのスタンスが確実に変った」と言うとおりの中味だった。すなわち「被災地があんな状況なのに、俺はこんなことをやっていていいのか」という音楽家の自問である。かく言う私も、同じことを自問自答する毎日だった。たかが私なんですがね。細野も私も、プロとアマ、創造と研究の差こそあれ、「こんなこと」とは音楽である。大震災は「音楽ってなんだ」という根源的なテーマをいきなり投げつけてくれたのだ。

 かつて私が勤務していたレコード会社では、商売の糧であるレコードを「生存必需品」という言葉で表現していた。レコード(=音楽)がなくても生きてはいける。その意味で、音楽は生活必需品ではない。「生存」、即ち人間らしく存在することにおいて音楽は必需品なのである、という概念である。逆に言えば、それなりの生活水準が保たれて初めて音楽というものが意味のある存在になる、ということだ。寒空に着の身着のまま、住居が流され、食もなく、肉親を失った被災者に、音楽なんてなんの役にも立ちはしない。おにぎりと温かい味噌汁と風呂が欲しい。音楽なんて二の次だ。音楽家の感じたショックはそういうことだったのではないか。音楽の無力さの実感。「自分が今までやってきたこと」への疑問。「一体自分はなんだったのか。はたして自分という存在に意味があったのだろうか、そしてこれからも」を、自問せざるをえなかった。
 もう一つは自然の恐ろしさを目の当たりにしたこと。音楽と自然は密接につながっているはずだった。仲のよい友達だと思っていた。ベートーヴェンの「田園」、マーラーの交響曲、ブルックナーの交響曲、ワーグナーの楽劇「ジークフリート」、R.シュトラウスの「アルプス交響曲」、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」、グロフェの「グランド・キャニオン」などが、自然との対話から生まれ出た作品であることは言うまでもなかろう。特にマーラーなどは「私は自然の音を音楽にしている」とまではっきり言う。そのときの自然はまぎれもなくやさしい自然である。例え嵐がきても直ぐに止んで平安を取りもどす。ちっぽけな人間を大きく優しく包んでくれる山や川や海や森、抜けるような青い空、美しい草花、無邪気な鳥たちのささやき、のどかな田園風景、だった。それがこの震災である。M9が放った津波は人を家を田畑を港を一瞬のうちに飲み込んでしまった。まるで悪魔の仕打ち。あれほど仲良しだった自然が掌を返すように牙を剥いたのだ。音楽する者にとってこのことも本当にショックだった。音楽体験において自然賛美などできなくなった。

   やがて、音楽家や芸人が動き出した。歌手の場合、「今自分になにができるかを考えたら、歌うことしかできません。だから歌います。聞いてください」。概ねこんな前説からパフォーマンスが始まった。どうなんだろうか、私はちょっとはすに構えて見ていた。心打つパフォーマンスもあったけれど。

 ちょうどそんな折、4月23日の朝日新聞に「赤子の特権で踊り捧げる」と題した舞踊家麿赤兒の文章が載った。以下要約して転載する。
 こういうことを目の前にすると、人間、ぼけっとするしかないもんだなあと思う。いつかこういう地震が来るとは思っていた。でも、いざ来てしまうと、現実のほうが想像をはるか超えてしまっていた。
 死や自然災害など、どうしようもないものに対する恐怖と折り合いをつけるために、宗教や芸術というものがある。自然に対する人間の漠然たるセンサーが感知したものを、言葉に変換することなく、そのまま出すのが踊りや音楽。踊り手は皮膚感覚で世界とダイレクトにつながっている。死ぬまで赤子でいられることが俺たちの特権なんだ。その特権と引き換えに、生贄となり、目に見えぬ何かに踊りを献上する。大げさに言えばそれも星の営みの一部なんだと思う。
 つまりは純粋な鎮魂の気持ちを、自粛って方向で、ひょいって簡単に解決されちゃうのが面白くねえんだ。なぜ東北の人たちがあんなに死んでオレが生き残ったんだ、何をすればいい、わからない、っていう迷いを持ち続け、ひとりひとりが己なりのやり方を探すのが「悼む」ってことじゃないのかな。
 原発を見ていると、太陽に向かって、蝋の翼で飛んでいくイカロスを思い出す。手にしてしまった便利さを手放せず、もっともっと、と破滅に至るまで欲望を肥大化させてゆく。これもまた、人間の業なのだろうか。
 震災は被災地の遠くにいる人たちの胸にも深く矢を突き刺した。日本人みんなで十字架を背負ったんだ。だからこそ、心を癒す花が求められる。
 オレたちは淡々と踊り続けるよ。死や自然を畏れて祈り、祈るために踊るしかないんだ。
 見事な文章、そして、見事な心の構えである。舞踊にまるで疎い私は、この人が何者かを全く知らなかった。90歳でまだ元気な母に「有名な舞踊家で、大森南朋の父親よ。龍馬伝で武市半平太をやった俳優の」と教えられた。
 自粛?とんでもない。日本人みんなで十字架を背負ったんだ。自分のやり方を探すのが「追悼」ってことだ。淡々と踊り続けるよ・・・・・なんという迫力!自己への揺るぎない確信。芸術の本質に迫る深い洞察と表現行為への鋭い言及。慧眼は原発にまで及ぶ。これが真の芸術家というものなのか。「吹っ切れた」と感じた。自分の中の非日常が終わった。
 2011.05.25 (水)  大震災断章[6]自民党よ、あんたに言われる筋合いはない
 5月20日、東京電力の清水正孝社長が退任し、西沢俊夫常務が内部昇格した。ケジメをつける意味では必要な交代なのだろうが、真のドンである勝俣恒久会長は留任である。清水社長は、過日、福島県の避難所で原発被災者から「清水、土下座しろ」と罵られ、床に伏して謝った。私はこの光景を見て実に複雑な思いを持った。
 確かに原発被災者にとって東電は許せないだろう。事故がここまで巨大化した原因は、津波というよりはむしろ東電の杜撰な危機管理体制にあったのだから。「我々の惨めな生活の元凶は東電だ。住み慣れた我が家にいつ帰れるかの保証もない」と考える被災者の前に、清水社長が社員を引き連れて現れた。「なんだ、こいつらうわべだけで謝って、ひとまずこれで済まそうというのか。コチトラ苛酷な環境の中死ぬ思いで暮らしてるんだ、なのにお前たちは高級マンションでぬくぬくと・・・・・ふざけんじゃネエ!」 そんな気持ちが「土下座しろ」発言になったのだろう。政府も"責任は一義的には東電にある"と連呼している。被災者の皆さんの思考回路が「元凶は東電、悪いのはコイツラだ」となるのも無理からぬところだ。
 だがちょっと待って欲しい。原発を推進してきたのは国なのである。安全責任も電力会社と同等(以上)にあるはずだ。原発を国策として掲げ、莫大な予算を注ぎ込み、電力会社や学者を取り込み、地方自治体を誘い込み、反対者を排斥して、ガムシャラに推進してきたのである。国策ならば電力会社が抗えるはずもない。絶対安全を保証されれば、立地自治体は多額な助成金に目がくらむ。その意味で東京電力も地方自治体も、利益の享受者であると同時に被害者でもあるのだ。だから、「土下座しろ」の真の矛先は国であり、当該政党である自由民主党でなければならない。政府が繰り返す「責任は一義的には東電にある」は、「国にある」と換言すべきなのだ(「自民党に」と言わないのは社会人としての仁義である)。
 現時点における政治の低迷は、一に菅直人という総理大臣の欠落した人格とリーダーシップの欠如に起因しているのは間違いないことであるが、旧弊を形作ってきた自民党のツケの大きさによる部分も決して小さくはない。今回の原発事故の責任追及がとてもはがゆいのは、追及されてしかるべき自民党が外野席にいることだ。このご時勢では目立たぬようにするのが彼らの処し方だろうが、原発関連の政治家たちが最近ポツポツとものを言い始めた。

 加納時男元自民党参議院議員が5月5日と20日、朝日新聞で持論を述べている。
福島の現状は、東電出身、元国会議員として二重の責任を感じている。インターネット上で『お前は絞首刑だ』『A級戦犯だ』と書かれてつらいが、原子力を選択したことは間違っていなかった。地元の強い要望で原発ができ、地域の雇用や所得が上がったのも事実だ。低線量の放射線は『むしろ体にいい』と主張する研究者もいる。津波の想定などリスク管理が甘かったといわれる。忸怩たる思いだが、東電や原子力業界だけで勝手に想定を決めたのではなく、民主的な議論を経て国が安全基準をつくり、それにしたがって原発を建設、運転してきたのだ。事故は国と東電、業界全体の共同責任だと思う。
 東電出身者ということで、世間の東電だけに責任を押し付けるという風潮には反対の立場で、これは間違いじゃない。原発は国策として原発ムラが共同で進めてきたのだから。問題の一つは、国策ゆえお金が無尽蔵に投入されたことにある。お金という魔物が、関わる人間の良心を侵食し麻痺させ、善良な市民を洗脳してきたのだ。地元の強い要望? 冗談じゃない。国が「絶対安全」を保証して札束で納得させただけである。斑目春樹原子力安全委員会委員長が「2倍でダメなら5倍10倍出せばいい。最後はかならず折れる」と公言して憚らないではないか(安全を司るべき組織の長がこの腐りよう。この方はまた、3月12日"海水注入55分間の空白"の元凶とも言われており、まさに国賊もの)。想定も民主的な議論の上になされたというが、国に取り込まれた専門家の意見に科学に疎い国会議員が反論できるわけがない。これらは、原発推進は国のゴリ押しではなく民主的に遂行されたことにしたい原発ムラの作られた論理なのである。「放射線が体にいい」はもはや錯乱の域である。百歩譲って適量の放射線が体にいいとして、一体だれがその量を調節してくれるというのか。いやはや、とんでもない政治家がいたものである。お金という魔物は人をこうまで貶めるのであろうか。
 同じ日の朝日新聞には、「自民原発推進派はや始動」という見出しで、「原子力を守る」政策会議 が発足したとあった。委員長は甘利明、委員長代理に細田博之、副委員長には西村康稔各氏が名を連ねる。守るのは原子力? 国民の生命じゃないですか? この3人、マークする必要がありそうだ。

 5月20日、閣僚からとんでもない発言が飛び出した。与謝野馨経済財政政策担当大臣である。
福島の事故は誰が起こしたかといえば、神様の仕業としか説明できない。人間の智恵としては最高の智恵を働かせた。
   此度の大震災では数々の失言があった。例えば、石原都知事の「大震災は天罰」発言、菅総理大臣の「福島には10年、20年住めない」など。その中でもこれは超弩級の凄みがある。
 周知の通り、この方は天才女流歌人与謝野晶子の孫である。なぜか政界一の政策通ともいわれている(ホント何故だろうネ)。2010年4月、「打倒民主党」を掲げ、自民党を離党して、平沼赳夫(今の政治家の中で最も真摯で筋が通っているのはこの人である)らと共に「たちあがれ日本」を結成した。ところが2011年1月、第二次菅改造内閣の経済財政政策担当大臣へと誘われたら、ホイホイと入閣してしまう。反民主を掲げて一年もたたないうちに、民主党内閣への参加である。これでは、あの非常識男ナベツネにまで「こんな無節操は許されん」といわれる訳だ。無節操人間非見識発言をするの巻である。
 この発言の裏には、自民党時代、彼が中曽根康弘の門下生として一貫して原発推進の立場を取ってきたキャリアがある。彼の論理は「原発推進は正しい。日本の発展のためにこれ以外の選択肢があっただろうか。我々は電力会社も含め安全対策には万全を期してきた。最高の智恵を働かせて。今回の事故でもそれは変らなかった。だから、こんなことになったのは神様の仕業と考えるしかないのだ」である。あれが最高の智恵を働かせた結果だというのだろうか。現在最大の不幸をもたらしている事故原因には目をつぶり、神の仕業として片付ける。これがまっとうな政治家の発言だろうか。というより、人間としてどうかと思う。政治理念のブレ、政治責任の回避、こういう政治家は売国政治家として即刻追放すべきだ。
 おばあさんの与謝野晶子は、リベラルなロマン主義詩人で、女性における精神解放を一貫して希求した誇り高き人間である。彼女の処女作「みだれ髪」を代表する歌がある。「やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。今、彼女が生きていたら孫に向かってこう詠むだろう。「原発の事故原因にふれも見で神の仕業とするぞさびしき」。
 今日も国会では震災特別委員会が行われている。菅政権の不備を突く自民党の攻撃は厳しいものがある。当然だろう。でも一方で、「あんたに言われる筋合いなない」とも言えるのである。自民党は、積年の原発行政の不正不首尾を一度全員で謝罪するのがスジではないだろうか。攻撃はそれからである。

 加納氏も与謝野大臣も現役の自民党議員も、まあ末端である。巨悪は原発を導入し巨大化させた故正力松太郎中曽根康弘の二人なのである。だがしかし彼らを検証するにはもう少し時間が欲しいし、これをやっていたら「クラ未知」ではなくなるので、ひとまずは離れたいと思う。次回は音楽の力について考えてみたい。
 2011.05.20 (金)  大震災断章[5]菅直人を戴く不幸
 菅総理大臣は5月16日、東日本大震災復興策を盛り込む第二次補正予算案の編成を8月以降に先送りする考えを示唆したという。一体何を考えているのか!集まった義捐金だってまだ一円も支払われていないし(阪神淡路の時には、2週間後には初回分の配分があったというのに)、3度開いた復興構想会議から出てくる話は「復興税」のことばかり・・・・・こんな状況下で補正予算を先送りですか? 6月22日まで会期があるのだから、やるべきことをドンドン進めてくださいよ。こういうときに率先垂範するのがリーダーのはずなのに、やってることはまるで逆。狙いは延命だけなのか?

 あれは去年の11月13日。横浜APEC時、中国胡錦濤主席との会談に臨んだわが菅直人首相の姿はひどかった。前かがみで目も合わせずに手に持ったメモを読み上げるだけ。 会議ならまだしも、一対一の会談ですよ。2ヶ月前にはあの尖閣諸島問題があったのだから、抗議すべきはこちらでしょうが。それなのに、そこに見たのは、我が国最高責任者の最高に惨めな姿。ましてやこの映像は即日全世界に発信されたのです。あな恥ずかしや! 日本はこんなみっともない人間をトップに戴いていると世界に公表したことになる。わが国益を損なう他国の行為に抗議もできず、哀れな姿を世界に晒したそんな恥ずかしい総理大臣を私たちは必要としない。
 もともとこの方、持ち合わせは上昇志向だけで、政治家としてのビジョンがないといわれていた。上に行きたい、ただそれだけ。どういう政治をしたいも、どんな国家にしたいでもないって。市川房江さんの下で市民運動をしたことを売りにしているみたいだけれど、生前市川さんはさして買っていなかったそうな。むべなるかなと思いますよ。
 そういえば、「私は支持率が1%になっても辞めない」とか「復興を実現し財政を立て直すこと、それが私の政治家としての本懐」なんておっしゃってたなあ。信念信条もないそんなお方に本懐を遂げられても、迷惑なだけなんですけど。

 大震災が起きた3月11日の朝日新聞で、菅氏が韓国籍の知人から104万円の献金を受けていたことが報道された。少し前、前原外相焼き肉屋の韓国人おばちゃんから5万円の献金受け取り辞任事件があったばかり。そこに未曾有の大震災が起きる。菅氏は、事故が起きた福島原発に向かうヘリコプターから、もみ消しの電話を入れたそうだ「過去も現在も未来も知らないことにしてくれ。そして直ぐに逃げろ」だって、渡辺真知子の「迷い道」じゃないっつーの。こりゃ、一国の総理大臣が憂国より保身を優先の図。もし大震災がなかったら辞任必至の大事と思ったのでしょう、氏は側近に「これであと2年、続けられる」と洩らしたという。なんとまあ、卑劣な発言! それから「 私がこの大震災のときに国の責任者でいるのは運命です」なんてよく言うよね。私たちはその運命を呪います。
 4月13日、原発事故が長引く福島の避難対象区域に対し「あそこにはあと10年20年住めないね」と言ったそうだ。総理と会談後の松本内閣官房参与の話。なんとまあ、現地の人の神経を逆なでする暴言だって思ったとたん、当の松本氏が取り消しちゃった。菅氏が言いくるめたに決まってますよ。日本中誰だって分かってんじゃないかな、こんな事。ああ、卑劣、こうまでして自分を守りたいのでしょうか。

 5月6日、菅総理大臣は記者会見を開き「国民の安全を考え、浜岡原発の運転停止を中部電力に要請しました。」と堂々のメッセージ。浜岡が30年以内に87%の確立で起こるとされている東海地震の予想震源域のど真ん中にあるから、という理由である。記者の「他の原発は?」の質問には「止めるつもりはない」。「いつまで?」の質問には「防潮堤が出来る2年後まで」と答えた。そこには、不足する電力と失われる雇用への配慮もなければ、エネルギー政策全般への指針もない。ただ"一番危険といわれている原発だから止める"という二段論法があるだけ。思考程度が小学生並みなのだ。浜岡が危険なのは、津波よりもむしろ耐震性そのものなのに、それも履き違えている。すなわち、@立地岩盤が極めて脆弱であるA核燃料集合体の固有振動数が想定地震の周波数に近いため地震発生時に共振が起こりやすいからで、「防潮堤が完成したら再稼動」はまるで見当違い。そりゃ、あるに越したことはないけれど、津波が来る前に原子炉がひっくり返っちゃってますよ。万一来ても福島の教訓を生かして外部電源の措置さえ講じておけば大丈夫なのだ。だから、ここは「浜岡は元々建てるべき場所ではなかったのだから永久に停止する。そして、エネルギー政策を抜本的に考えなおす」が正解なの。菅氏のは場当たり的で中途半端、まさに人気取り、延命パフォーマンスと言われてもしょうがない。
 菅氏はこのあと、「30年後に原発依存度を50%にするというエネルギー基本政策を白紙に戻す」と表明した。これは一見評価できそうだが、騙されてはいけません。「白紙撤回」なんか誰だって言える。大切なのはどうするかを打ち出すこと。だって依存度を仮に40%にすれば、撤回した事にはなるのだから、これは逃げ道のある実にいい加減、というかむしろ巧妙な言い様。実に菅直人らしい声明なのだ。「原発は徐々に廃炉とし、依存度を下げてゆく。それによる電力不足は再生可能エネルギーで補い、将来的には原発をすべてなくす。地域独占的電力供給の形態を改め、発送分離による発電の自由競争を促すことによって、健全なエネルギー供給を図ってゆく。未来にツケを回さないために」とでも言ってくれれば私は評価するけど、無理でしょうね。だってこの方、嘘つきでやる気がないから。懸命になるのは延命だけ。

 民主党政権発足時の最大命題は「政治主導」だったはず。「政治主導」の参謀本部は「国家戦略室」で、その初代室長は菅直人だった。彼は就任に当たって「政治主導による脱官僚」を声高らかに宣言した。我々は、よし、これで旧態依然たる官僚支配からやっと脱却できる、と期待したものである。ところがドッコイ彼は何も出来なかった。いや何もしなかったといったほうが当たっている。目に見えたのは"仕分け"の蓮舫議員の勇姿だけだった。次に彼は財務大臣になった。今度はそこで改革どころか官僚に取り込まれた。だから今、消費税率引き上げ論者に成り下がってしまったのだ。
 菅氏の総理大臣就任時のスローガンは「一に雇用、二に雇用、三に雇用」だった。そして「有言実行内閣」とも。ならば「浜岡止めてあぶれる数千人の雇用」への配慮はどうなのか。消費税率を上げてどうして雇用が守れるの?上げたら景気が落ち込む、そしたら、雇用が悪化する。こんな簡単なこと小学生でも分かる。有言実行?チャンチャラおかしい。だからあんたは嘘つきだ。一貫性もない。スジが通ってない。
 一貫性のなさは小沢一郎への対応にも。2009年のお正月、菅氏は小沢氏主催の新年会に例のニタニタ顔で詣でていました。それが代表戦で勝ったあとは一転してオザワ切りに。機を見るに敏、顔色覗いの天才。このところの仙石氏との距離感も同事象。役に立つと思えば一度切り捨てた人を呼び込むシタタカさは持っているんですね。「浜岡」も彼の助言だそうで。まあ、このカメレオン的性向、社会人なら誰でも多少は持ち合わせていると言えなくもないのですが、でも彼の場合はあまりに露骨で魂胆見え見え。何か一つでもビシっとしたものを持っていれば、大目に見られるのですが、浅はかとしか映らない。
 今流行りのドラッカーが提唱する指導者が持つべき資質は「真摯」「創造性」「情熱」。菅直人持ち合わせの資質は「姑息」「思いつき」「無気力」。
 「千思万考」が評判の黒鉄ヒロシ氏は、古き偉大な為政者には「覚悟」「信念」「滅私」があったと言う。菅直人は代わりに「保身」「厚顔」「我欲」を持つ。

 5月13日の参院予算委員会で菅氏は、浜岡停止要請について「評価は歴史の判断に委ねたい」とか言ったそうな。勝手に歴史的英断と勘違いしている。なんともお目出度い限り! 歴史の評価だ? こんなもん、国民の歓心を買っての延命狙いちゅうことでシャンシャンですよ。馬鹿馬鹿しい! マトモに付き合ってたらコッチの頭がおかしくなるんでもう止めます。
 菅さん、あなた「最小不幸社会の実現」とか言いましたよね。いま我々日本国民は、菅直人という宰相を戴く最大不幸社会に惑わされ続けているのです。即刻消えていただきたく謹んでお願い申し上げます。

<追伸>
 5月19日の朝刊に「首相、発送電分離を検討」という見出しが躍った。一歩前進はひとまず評価したい。でも、これまでの流れから、残念ながらどうせ検討だけに終わりそうとの危惧は拭えない。正しいことを、一つでもいいから実行してもらいたいものである。
 2011.05.12 (木)  大震災断章[番外編] 東北に捧げるアダージョ
 映画「マーラー 君に捧げるアダージョ」を観た。「バグダッド・カフェ」のパーシー・アドロンと息子フェリックス・アドロンの共同監督2010年の作品である。
 音楽の力で東北を元気にという言葉をよく聞く。確かに音楽には人の心を癒し元気づける何かがある。この映画を見て、「回想録」を読み直し、マーラーの音楽を聴くと、心が休まる。今の自分に、もしかしたら今の日本に最も相応しい音楽だという気がした。

 この映画は「起きたことは史実だが、どう起きたかはフィクションである」という一種のことわり書きで始まる。これは伝記をドラマ化するときのある意味常套手段なので、ちょっとビックリした。わざわざことわりを入れたのは、フィクションの度合いが強いということか?
 マーラーの妻アルマは結婚にあたって作曲を禁じられるが、この鬱積と娘の死が絡んで若い建築家グロビウスに走る。それを知ったマーラーが悩み、精神分析医フロイトの診察を受ける。物語はこのやり取りの中に過去の事象をフラッシュバックさせながら進む。時間の流れどおりではなく、一つの基点から放射状に前後を無視して飛びまた戻る。スタイルは舞台劇風。マーラー役のヨハネス・ジルバーシュナイダーはピッタリの風貌と雰囲気だ。アルマ役のバーバラ・ロマーナーは19歳年下で社交界のミューズというイメージからは遠かった。スタッフは、男勝りの芸術家肌という面を強調したかったのかもしれない。 映画は「あの素晴らしい愛をもう一度と願いつつ君の隣で休んでもいいか。愛しい人よおやすみ」というマーラーの言伝で終わる。どこかできいたようなセリフだなと思ったら和製ポップスの名曲つながり。「あの素晴らしい愛をもう一度」(北山修&加藤和彦)−「シンシア」(吉田拓郎&かまやつひろし)−「愛しい人よGood Night」(BZ)だった。まあ、全く関係ないでしょうが。

 アルマはマーラーの死後「回想録」を書いているが、その中から二人に関する興味深いエピソードを少々抜書きしておきたい(「グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想」石井宏訳、中公文庫)。
 アルマはマーラーと出会った頃「マーラーの音楽はほとんど聞いたことがありません。聞いたものはみな嫌いです」と語っていた。
 マーラーの取り巻きは、アルマと結婚させたくなかったので、芸術論を吹っかけて屈服させれば去ってゆくだろうと考え実行するが、去っていったのは取り巻きのほうだった。
 新婚旅行はペテルスブルグでの演奏会に便乗して行われた。「トリスタン」を指揮する夫を舞台の袖で見たアルマは「『愛の死』の音楽と指揮するマーラーの姿のなんと神々しかったことか。私は、これからこの人の行く手を遮る石を取り除きこの人のためだけに生きようと思った」と述べている。ところが、結婚2年後には「彼がいると座が暗くなる。まるでテーブルの下に死体がいるみたい」と変わる。
 マーラーは死の直前「今までの私の人生はただの紙切れ」と言った。
 マーラーとアルマの結婚生活は形容しがたい不可思議さに満ちている。それは、我々凡人には計り知れない、世紀末を跨いで君臨した大天才音楽家と天から二物以上を与えられたミューズの申し子が奏でる異様なハーモニーとでもいえようか。天才の世界!

映画では、交響曲第10番のアダージョを軸に、「第5番」「第4番」あたりが流れていたが、私が最も好きなのは「交響曲第3番 ニ短調」である。全曲初演は1902年6月。結婚3ヵ月後のことである。先の「回想録」によると、アルマは「第3番」の初演を聞いて「初めて彼の作品の偉大さが理解できた」という。同時に、結婚して初めて真の幸せを感じたとも。
 全6楽章を演奏形態別に俯瞰すると、第1楽章と第2楽章はオーケストラのみ、第3楽章ではステージ遠方からのポストホルンが活躍。第4楽章ではアルト独唱、第5楽章は児童合唱と女声合唱が加わり、第6楽章は最初に戻ってオーケストラのみとなる。実に多彩な枠組みだ。
 圧巻は第6楽章である。変化しつつ繰り返されるロンド主題部のなんともいえない静けさと安らぎ。それはフォーレの清澄さではなく、バッハの崇高さとも違う。哀感、苦悩、郷愁、憧憬など人間の持つ種々な感情を内包しつつ安らぎへと浄化される、いかにもマーラー的祈りの音楽なのだ。祈りはやがて勝利の響きと化して高みへと歩を進める。第1楽章の主題をない混ぜながら進むそのフォルムは冒頭への回帰を物語る。永遠回帰。ここにおいてマーラーはニーチェと調和する、と感じる。でも現実は、マーラーはニーチェを嫌っていた。私にはまだこれは謎である。
 アルマはここにマーラーの愛を聞いた。私たちは東北への祈りを聞く。
 魂を揺さぶりながら鎮めてくれるバーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏が究極のベスト盤だ。音楽は苦悩を包み込み復興の調べを響かせる。バーンスタインが祈祷師となってマーラーを呼び出し東北に入魂のアダージョを捧げるのである。なお、比較試聴したCDは以下の通りである。

クーベリック:バイエルン放送響67
バルビローリ:ベルリン・フィル69
ショルティ:シカゴ響70
レヴァイン:シカゴ響75
テンシュテット:ロンドン・フィル79
アバド:ウィーン・フィル80
レーグナー:ドレンデン・フィル84
インバル:フランクフルト放送響85
バーンスタイン:ニューヨーク・フィル87
ブーレーズ:ウィーン・フィル01
 2011.05.09 (月)  大震災断章[4] エネルギー政策の正しいあり方
 電気事業連合会発行の原子力エネルギー図面集を見ると、40年前に比べ日本の一般家庭の電力消費量は3倍になっている(一世帯あたり1970年は119kwhで2009年は284kwh)。自分の生活を振り返ってみると、40年前には既に電気冷蔵庫も洗濯機もテレビもステレオもあった。クーラーと電子レンジはなかったが、現在クーラーはほとんど使っていないし電子レンジは一瞬のもの。DVDレコーダーやパソコンもなかったけれど消費電力は小さいはず。どうも3倍の実感が湧かない。そこで、我が家の4月分の領収書を見てみると267kwh。これは現在の一世帯あたりの平均値に近い。なるほど、感覚以上に使っているわけだ。塵も積もれば山とあらためて感じた次第である。

 原発推進の大義名分は、(1)電力消費拡大への対応、(2)日本にはエネルギー資源がない、(3)発電コストが安い、(4)二酸化炭素の排出量が少ない、などである。これらを掲げ安全神話を作りつつ、国は国策として原子力発電を推進してきたのである。
 (1)(2)(4)は事実であるが(3)は事故対応を勘案すると高くつくことが今回実証されてしまった。4月16、17日朝日新聞実施の世論調査によると、原発を増やすべきが5%、現状維持51%、減らすべきが30%、廃止すべき11%という結果。2007年の調査に比べて廃止&減らすべきの比率が上がったとはいえ、増設&現状維持が依然として50%以上もある。今の有様を目の前にして、この数字は高すぎやしないか。危機意識の欠如と他人事感覚の結果か? それとも、人災だからという認識か。人災ならば直せるはずだという期待感なのか。でも果たして?

 1954年3月、中曽根康弘ら4人の国会議員が原子力研究開発予算書を国会に提出して、我が国の原子力発電の歴史が始まった。1955年12月、「原子力基本法」が成立、これに基づき1956年1月「原子力委員会」が発足、初代委員長は読売新聞社主の正力松太郎だった。正力は自社紙面を活用しながら原発の有効性を唱え世論を形作ってゆく。原発安全神話の形成である。正力は原発の父と呼ばれている。
 一方、日本政府は、原発立地自治体に大量の札束をバラ撒く。立地地域交付金と固定資産税の設定である。これにより原発立地自治体には20年間で約900億円もの歳入が実現する。過疎で衰退してゆく地方自治体にとってこれは大きい。一度禁断の果実を手にした自治体は、止められないどころかこれを維持するために原子炉の増設を受け入れる。原発は麻薬といわれる由縁である。
 国策となった原発政策は利権となる。国と地方自治体に電力会社、製造メーカー、建設会社、幾多の下請け、学者などが群がり原発ムラが形成されていった。実行部隊である電力会社に安全を指導・監督するのが「原子力安全・保安院」であるが、これが資源エネルギー庁(経済産業省)の傘下に作られる。推進母体の中にチェック機関があるのだから、最初から機能させないと明言しているようなものだ。しかも歴代委員長5人のうち4人が文系事務官出身、全くの素人なのである(因みに、現院長の寺坂信昭氏の前職は経産省商務流通審議官で、専門は百貨店の商流審査である)。こんな機関にどうして人命に関わるチェック機能が果たせようか。
 同じく酷いのは「原子力安全委員会」だ。ここは「原子力安全・保安院」を監督指導する立場にあるのだが、現委員長斑目春樹氏の言動は、本当にこの方原子力社会工学を研究してきたの?と疑いたくなるものばかり。「福島第一で、水素爆発は絶対に起きない」「原発?あんな不気味なもの安心できるわけがないでしょ」「少しづつの危険性を組み合わせていったら原発なんて作れませんよ。どこかで割り切るしかない」「廃棄物処理の部分は、結局はお金でしょ。2倍でダメなら、5倍10倍で解決する」(「週刊文春」4月7日号より抜書き)・・・いやはや、開いた口が塞がらない。専門家としてどうかというよりも、人間として変だ。こういう方が"安全"を司っているのです。あな恐ろしや!

 チェック機関がこんな風だから、ムラの中では野放図な利権食いが延々と行われてきた。半世紀以上にもわたって。これらは検証するまでもなく、役所から電力会社への天下り、甘い基準設定、各種データの偽造、御用学者たちの迎合など表象を考察するだけで十分である。原発を司るほとんどの者は易きに流されてきた。無論、中には良心を持つ学者や倫理感ある従事者もいただろうが、彼らはムラ社会から弾き飛ばされてしまった。安定した生活を継続するためには口をつぐむのが得策だったのである。因みに原子力安全委員の報酬は年額1000万円以上とか。これだけ頂いて、拘束は週一時間弱の緩い会議だけなのだから、居座りたくもなるだろう。こうして残されたのは、正義感を喪失した人々が寄り合う馴れ合いと欺瞞に覆われたムラ社会だった。
 今回の福島第一原発事故は、そんな原発ムラへの警鐘である。事故が収束表どおりに運んだとしても、地元住民には取り返しのつかない傷を負わせてしまったのだから、当事者は禊ぎを成すしかない。ではどうするか? まずは機構の改編=人災からの脱却である。

  (1) 「原子力安全・保安院」の解体
  (2) 「原子力安全委員会」の抹消。出来ればこれまでの高額報酬の返納
  (3) 上記二つに取って代わる専門家集団による完全独立チェック機関の新設
  (4) 「クリーンエネルギー推進室」の設置
  (5) 「原発総点検隊」の設置と早期活動開始

 未来に向かうエネルギー政策のあるべき姿を見据え、これらの枠組みをフル稼働させて、有害を廃し有用を生み出してゆくことが肝心となる。

 斑目委員長の「廃棄物処理は金で解決」発言は、国が未だに廃棄物処理の方策を見出し得ないことの証である。国は国策として原発を推進してきたのに、廃棄物処理という重要問題には蓋をしたままだった。何度も言うように、福島第一原発事故が10年余後収束したとしても、廃棄物はひとまず六ヶ所村に捨て置くだけで、その後の方策は一切未定のままなのだ。これはとりもなおさず将来に莫大なツケを回すことになり、現在を生きる我々の責任として絶対に避けなければならない事柄なのだ。だから、原発は漸次縮小に向かうべきなのだ。

  (1) 将来的に原発への依存度を軽減し、徐々に代替エネルギーへの移行を図る
  (2) 現有の原子炉を早期に点検し、直ちに安全対策を実行する
  (3) 発・送分離など電力会社の抜本的改革を図る。

 代替エネルギーの一つに太陽光、風力などのクリーンエネルギーがある。太陽光も風力も、エネルギー源はクリーンで無限だが広い土地が必要となる。原発御用学者は口をそろえて「クリーンエネルギーなどというが、例えば原発一基を太陽光発電で賄おうとしたら東京ドームの何倍もの土地がいる。だから効率が悪いしコストもかかる」と言う。既得権を守りたいがために。
 これを解決する一つの手段が(3)発・送分離、即ち、電力会社の機能を、発電と送電に分離することである。既存の発電設備と送電システムは既成の電力会社が継承すればいい。新たな発電については、市場を開放し、民間の新規参入を積極的に促進する。市場競争は新規エネルギーによる発電量増大を必ずや実現してくれるはずである。日本人の優秀さと勤勉さをもってすればそれは決して難しいことではない。そしてこれは雇用の増大にもつながるから経済効果も大きい。まさに一石二鳥である。やれば出来る・・・シャープがテレビ画面のオール液晶化を決断したとき、「なんで高コスト低性能にシフトするのか」と内外の非難は小さくなかったという。それが今、ほとんどのテレビが液晶ではないか。目的が理に適い信念と情熱があれば必ず達成されるという、これは好例である。送電会社はまた、個人や企業の作る自家発電電力も積極的に買い集める。この量も決して小さくないはずだ。
 面積が世界の60位程度でしかない日本の海域は、世界第6位の広さを誇る。海底には未来のエネルギー資源・メタンハイドレードが大量に眠っており、その資源価値は100兆円ともいわれている。これを生かさない手はない。推進すべきは経産省・資源エネルギー庁あたりだろうが、「実用までに時間が掛かる」とか言って低関心を装う。これも原発ムラの利権を守りたいがためだ。だったら別の機関で進めればいい。こういうイニシアティブを取るのが国のリーダーなのだけれど、あの方に期待しても無理でしょうね。

 将来に負の遺産を引き継がせる原発は、今後新設しない。老朽化した原子炉は順次廃炉化する。これと平行して、国はクリーンエネルギー利用を標榜・推進し、縮小させた原子力発電の穴埋めを順次図ってゆく。発送分離した発電会社と新規参入企業は市場競争の中でクリーンエネルギーを積極的に産出する。送電会社はこれら含め民間が作り出す大小の自家発電電力を買い上げる。歓楽街、商店街、駅構内、車両、ホール、スポーツ観戦施設、一般企業なども過度な電力消費を慎む。一方、我々国民はできる限りの節電に努める。これこそが、日本が進むべき道である。そして、ここに至って始めて、福島第一原発事故の警告が生かされたといえるのである。
 2011.04.30 (土)  大震災断章[3] 原発をどうする
<浜岡原発の危険度はハンパじゃなさそうだ>

 静岡県御前崎にある中部電力浜岡原発は、今最も危険な原発といわれている。理由その一、現時点で最も起こる確率が高い大地震といわれる東海地震の予想震源域の真上に立っていること。理由その二、耐震性が極めて脆弱であること、である。ここに、谷口雅春氏の告発文がある。谷口氏は、1972年当時、東芝の子会社「日本原子力事業」の技術者として浜岡原発第2号機の設計に携わった人である。そこには驚くべき事実が・・・・・
1972年5月ごろ、驚くべき事態が起こりました。部門ごとの設計者が集まった会議で、計算担当者が「いろいろと計算したが無理だった。この数値では地震がくると浜岡原発はもたない」と発言したのです。原因の第一は、建設地の岩盤が弱いこと。第二は、核燃料集合体の固有振動数が想定地震の周波数に近いため、地震発生時に共振が起こりやすいことです。
 なんと、立地条件と原発自体のダブル危険という指摘である。ならば改善すればいいではないか・・・と思うのが一般人の発想。ところが原発ムラはそうならない。谷口氏は続ける。
会議ではさらに驚くべきことに、計算担当者が「地震に耐えうるようにデータを偽造する」と述べました。即ち、(1)岩盤は強かったとする (2)核燃料搭載部分の周波数は技術提携先の推奨値と入れ替える (3)建物の建築材料の粘性をより大きな値に変えてしまう というものです。私はこれを聞いて「やばいな」と思い、しばらく悩んだ末に辞表を出しました。
 谷口氏は、技術者としての良心の呵責に耐え切れなくなって辞めたのである。このとき作られた1号機と2号機は、幸いなことに2009年1月に運転を終了している。但し、終了後の原子炉本体と核燃料は数年間冷却し続けなければならない事実を、我々は今回の福島原発事故で学んでいる。
 3−5号機はどうだろう。もしこれも同じ考え方で作られているとしたら、より問題は大きい。こちらは運転中だからである。東海地震が起きて、福島の二の舞となったらどうだ。地元はもとより、首都圏や名古屋への影響はより甚大である。福島―東京間は250kmだが、浜岡―東京は180km、浜岡―名古屋は120kmなのである。

 それよりも何よりも我々が憂うべきは、原発作りに携わる人たちのモラルの低さである。いや、むしろそれはモラルのなさと言い換えるべきかも知れない。そこには原発という悪魔に魂を売ってしまった人間の悲しさ恐ろしさがある。それは背筋が寒くなるような得体の知れない不気味さである。データが地震に耐えられないことを示したら、本体を改良・改造するのが技術者の良心であり常識のはずだ。改ざんして欺くことを、我々は偽装という。それもただの偽装ではない。人命を葬り国益を貶める甚大なる偽装行為なのだ。原発を推進しているのが日本という国であるならば、この状況は、国が国民を抹殺し国自身を貶めているという図式なのである。げに由々しきことといわなければならない。

 浜岡と同じように耐震性に問題のある原発は全国に多数あるといわれている。地震は予知できない。明日くるかもしれないのだ。ならば、これは討論する問題じゃない。すぐさま手を打つべき緊急事態なのである。政府は今回の大震災に対処するために十数個もの対策本部を作った。野党もマスコミも有識者も異口同音に会議は躍ると揶揄し簡略化を唱える。確かにその通りだが、私は逆に増設を提案する。「原発総点検隊」の設置である。 編成は、[官房長官、電力会社技術部長クラスと技術担当者、原子炉製造会社の技術スタッフ、建屋等建設会社のスタッフ、地震学者、地質学者、その他必要な学者]。口先だけの総理大臣と煮え切らない電力会社のトップ、そして、御用機関と成り下がった原子力安全委員会と原子力安全・保安院は要らない。官房長官は、行政の要としていないと困るから。忙しいなんていわないで、記者会見は副長官にでも任せるべし、どっちが大事かって事。で、このチームが所轄自治体の首長と現地電力会社社員と合流しつつ、危険度高の原発から順番に回って、状況を隈なく洗い出し、安全対策案を作成し即実行する。これこそが、今の政府が最優先でやるべき事案だと思うがいかがだろうか。
 菅総理よ、震災復興会議あたりで「復旧ではなく復興を目指してほしい」なんて、聞いたような観念論をぶち上げている暇があったら、「原発総点検隊」を早急に作って、迅速に回していただきたいものである。

<核廃棄物処理の恐るべき実態>

 平井憲夫氏の告発文「原発がどんなものか知ってほしい」は身の毛がよだつような内容に満ちている。平井氏のことは朋友・法隆寺のリュウちゃんから聞いて知った。彼のブログ「リュウちゃんの懐メロ人生」には独自の「原発反対メッセージ」が展開され、賛同のコメントも数多く寄せられている。どうか覗いてみてください。
 平井氏の告発文は原発の現場で20年間働いていたという人の手になるものだけに、内容が際立ってリアルである。だからこそ、その一方で「信憑性に乏しい」「80%が嘘」などという批判も存在しているのだろう。でもちょっと待ってほしい。80%が嘘ならば20%は真実だということになる。これほどの大問題の告発文の20%が真実ならば、それでもう十分ではないか。我々はその20%を探り当てればいいのだから。そんな彼の文章を引用する。
 低レベル放射性廃棄物は、青森の六ケ所村へ持って行っています。全部で300万本のドラム缶をこれから300年間管理すると言っていますが、一体、300年ももつドラム缶があるのか、廃棄物業者が300年間も続くのかどうか。
 もう一つの高レベル廃棄物、これは使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出した後に残った放射性廃棄物です。日本はイギリスとフランスの会社に再処理を頼んでいます。どろどろの高レベル廃棄物をガラスと一緒に固めて、金属容器に入れるのです。この容器の側に二分間いると死んでしまうほどの放射線を出すそうですが、これを一時的に六ケ所村に置いて、30年から50年間くらい冷やし続け、その後、どこか他の場所に持って行って、地中深く埋める予定だといいます。しかし未だ予定地は決まっていないのです。
 原子炉自体についても、国は止めてから5年か10年間、密閉管理してから、粉々にくだいてドラム缶に入れて、原発の敷地内に埋めるなどとのんきなことを言っていますが、それでも一基で数万トンくらいの放射能まみれの廃材が出るんですよ。生活のゴミでさえ捨てる所がないのに、一体どうしようというんでしょうか。とにかく日本中が核のゴミだらけになる事は目に見えています。早くなんとかしないといけないんじゃないでしょうか。
 平井氏は、「放射性廃棄物には、低レベル廃棄物と高レベル廃棄物、さらに原子炉自体という3つの種類がある。前二者は六ヶ所村に仮投棄されているが、永久的に埋め込む場所はまだ決まっていない。廃炉化させた原子炉の処理方法も未解決のままだ。こんな状況下で原発のゴミは日に日に出続け溜まってゆく。このままだと日本は放射性廃棄物で埋まってしまう」と警告しているのだ。排出量など数量的なものを別にすれば、「放射性廃棄物が日々出続けること」と「廃棄場所含め処理方法が未確定のまま」という記述内容は20%の真実に含まれるものと私は思う。
 福島第一原発の収束プログラムが計画通りに進んで10数年後に廃炉として安定したとしても、投棄という問題は未解決のまま残されるのである。これこそが原発最大の問題点であると私は考える。そして、これはこと福島に限ったことではないのだ。この一点だけを見ても、原発は日本という国土にとって、決して歓迎すべき存在ではないことが分かるだろう。原発は、おとなしく稼働している限りにおいては優秀な働き者であるが、一旦歯車が狂えば凶暴な殺人鬼と化し、死んでも自らの身の振り方が儘ならない、始末に終えない怪物なのである。
 それでも私たちはこんな怪物と付き合っていかなければいけないのだろうか?
 2011.04.25 (月)  大震災断章[2] 原発事故は人災
 4月18日、東電からやっと福島第一原発収束プログラムが発表された。ステップ1<安定冷却>に3ヶ月、ステップ2<冷温停止>に3〜6ヶ月というものである。まずは一歩前進、計画どおりの収束を切に願いたい。日本の威信がかかっているのだから。一方、これに肉付けするのが政府の仕事で、周辺避難地区・復旧計画案が早急に必要になってくる。中部大学教授で前原子力安全委員の武田邦彦氏は、「やっと東電から収束工程プログラムが出てきたのだから、国は直ぐ動くべし。第一にやるべきは、地域の除染作業だ。入梅前にやれば、土の上部を剥ぎ取るだけで十分農耕地として再生できる」と指摘する。果たして国はどう動くのか。しっかりと見守りたい。

 とはいえ、震災後の 菅政権の動きは実に心もとなく期待薄といわざるを得ない。いい例が復興構想会議である。設置責任者の菅直人曰く「6月一杯までには構想案を出したい」。何を悠長なことを言ってるのだろうこの人は。 全く被災者の気持ちが分かっていない。だから、せっかく被災地を訪問しても、「もう帰っちゃうのですか」と抗議の怒声を浴びるのだ。行動に誠意がなく態度が事務的だからだ。そしてまた、五百旗頭真議長の発した「震災の被害を国民全体で背負うべき復興税を考えたい」の第一声もおかしい。確かに、財源確保に税金の検討は必要だろうが、「復興に一番大切なことは、一 デザイン」のはず。東進ハイスクールの今井宏先生に怒られまっせ。さらにこの方、最初の会議で非常識極まる発言をしたようだ。「瓦礫で慰霊碑を造りたい」だって。被災地の皆さんにとって一刻も早く忘れたいはずの忌まわしい災害の痕跡を盛って、一体どうしようというのだろう。記憶の風化を避けるという目論みなのかも知れないが、広島原爆ドームとは訳が違うと知るべしだ。こんなデリカシーのない無神経居士に会議をリードさせたら大変なことになる。副議長の安藤忠雄氏は立派な人物だし、被災3県の知事が入っているのだから、彼ら中心に事を進めてもらうのが得策だ。二人の脳天気ヘッドには即刻退陣していただきたいものだ。

 政府は、福島第一原発の危険度を示す国際評価尺度を、遂に最高値である「レベル7」に引き上げた。1986年のチェルノブイリと同等である。チェルノブイリの放射性物質放出量は、10日間で520京ベクレル。福島は40日間62京ベクレルで日々弱まりつつある。東大公共政策大学院諸葛特任教授の試算によると、ここにプルトニウム放出量を組みこむと前者は実質3210京ベクレルに達し、福島はやや増える程度だという。こうまで歴然とした差があるのに、国際的には"チェルノブイリと同レベル"と評価されてしまうのだ。7という数字だけが一人歩きして。現場死者28人と甲状腺癌や白血病患者を多数出し、ウクライナの緑野に死の灰を撒き散らし、33万人が移住を余儀なくされた、あのチェルノブイリと同等という評価が世界を駆け巡ることになるのだ。ホント数字はコワイのです。 発表したのは原子力安全・保安院だが、なんとかならなかったのかしら。これまでつかみどころのない説明に終始していた部署が初めてハッキリ物申したかと思ったら、この始末。自国の不利益をこうもアッサリと公言してしまっていいものだろうか。中国や北朝鮮があれだけ見え透いた嘘を言っても、国際社会は相手をしているではないか。ひとまず6にしておいて反応を見るくらいのしたたかさがあってもいいのでは。これまた、菅政権の外交センス欠如の証明だと思うがどうだろう。

 危険度がレベル7に達してしまった元凶は、津波によって原子炉の冷却装置が機能しなくなったことに尽きる。これを政府も東京電力も原子力安全・保安院も原子力安全委員会も口を合わせて「想定外」と言う。東電福島第一原発としては、高さ5m級の津波を想定して安全対策を施していたということだが、3月11日、14mを越す津波に見舞われ、それによって1−5号機の交流電源すべてが喪失、非常用ディーゼル発電機は6号機の一台を残しすべて止まってしまった。その結果1−5号機の冷却装置が機能しなくなり、炉心の温度や使用済み核燃料の温度が上昇し、爆発・溶融をきたした。と、これがまあ現在に至る長期戦の端緒である。だから「想定外」というのだろうが、果たしてこれは想定外の事故だったのだろうか。否、間違いなくこれは人災なのである。

 冷却装置が機能しなかったのは、電源喪失時のバックアップ体制が不備だったためである。地震直後に全原子炉が自動停止したのだから、ひとまずチェルノブイリは避けられた。津波によって主電源と非常用電源が喪失したものの、ディーゼル発電機が作動しさえすれば、原子炉内部と使用済み核燃料を直ちに冷却できた可能性は高い。それができなかったのは、電源車の配備や非常用ディーゼル発電機の設置状況等が不備だったからである。これは決して難しいことではない。人命に関わる企業として当然の措置であり、普通にヤル気があれば簡単なこと。なのに不備のまま推移してきたのは、東電という会社の緩みきった体質のこれは証明である。というかむしろ、国の責任のほうが大きい?
 2006年から、共産党の吉井英勝議員が、国会経産委員会等で再三にわたって原発の安全性を正していた。吉井議員の質問は的確かつ具体的なもので、まさに今日の危機を予知しており、その意味では実に見事なものだ。ところが、これに対する原子力安全委員会と安全・保安院の回答は、ザックリまとめて言えば、「指摘はもっともであり、安全体制に問題はないと認識しているが、さらに電力会社への周知徹底を図りたい」という、まるで危機感のない無責任で具体性のない内容だった。ところで彼らの対応は? この時点でシッカリと会社側に指示徹底していれば今回の惨事は未然に防げたはずなのに、そうはならなかった。これぞ原発安全を司る役所の機能不全。ディーゼルが作動しない以前に役所が故障していたのだ。しかもこれほどの大惨事を引き起こしておきながら、誰一人責任を取ろうとしない。安全委員会の斑目春樹委員長と安全・保安院の寺坂信昭院長は即刻クビで然るべきなのに、辞職もせずクビにもできない。この国はやはりおかしい。こんな役立たずの厚顔無恥な連中に高額な報酬を払っていては財政破綻も当たり前と思われる。
 確かに10mを超える津波は想定外だったかもしれない。しかし、それに備えてやるべきことをやっておけば、惨事はここまで拡がらなかったはずである。それが叶わなかったのは関係者の心に真摯さがなかったからだ。真摯さの代わりに驕りと油断と馴れ合いがあったからだ。「想定外」の大合唱は、関係者自らの責任逃れの言い訳である。恥と知るべきだ。

 4月16日付の朝日新聞に「原発大半、安全策に難点」という見出しで、全国17箇所54基の原発の安全状況の記事が出た。各電力会社は鋭意対策を進めているようで、これはこれで当然のこと。だが、なんとなく心もとない。なぜだろうと考えてみたが、そこに国家の顔が見えてこないからだと気がついた。
 ドイツのアンゲラ・メルケル首相は3月15日、国内すべての原子炉の稼働延長を3ヶ月間凍結すると発表した。2010年、前政権の脱原発路線を修正、原発の稼働年数延長方針を公表していたにも拘らずだ。世論の影響があったとはいえ、日本の原発問題が起きて一週間未満での軌道修正は実に鮮やかに映る。まさに勇気ある転換である。かつて「支持率が1%になっても辞める気はない」と嘯いた日本のKY総理大臣となんと違うことか。これに引き続き、メルケル首相は4月15日に将来を見据えたエネルギー政策会議を行い、「原発の早期廃止とクリーンエネルギーへの移行」を表明した。このキレの良さと迅速対応。菅直人の専心保身とヤル気のなさとは正反対。ドイツが羨ましい!!

 ドイツは国家主導でエネルギー政策を推進している。その意味では、日本も国家主導で原発を推進してきたのである。1956年、「原子力委員会」の設置。1978年、原子力の安全運用向上のため「原子力安全委員会」が「原子力委員会」から分離して発足。2001年、経済産業省資源エネルギー庁傘下に「原子力安全・保安院」が設置され、現在に至っている。これらの流れの中で、日本の原子力発電は国策として推進され、その結果、現在では総電力需要の30%を担うことになったのである。
 前出・武田教授は、「かつて、私が所長時代、原子力安全・保安院に原子炉内の配管ミスを指摘したことがあったが、受け入れてもらえなかった。国が認めたものだから変更するわけにはいかないという理由で」と話す。また元陸上自衛隊第二師団長・志方俊之氏は「北海道泊原発完成直後、緊急事態を想定した避難訓練を自治体に申し出たら、『とんでもない』と断わられました。絶対安全を謳っているのに、なぜそんなことをやらねばならないのか。それじゃ、安全が嘘だと言うことになってしまうではないか、そう言われましたよ」とテレビで話していた。
 ここで見えてくるのは、原発安全神話形成維持の筋書きだ。即ち、国・電力会社・学者が一体となって、原発の有用性を御旗に掲げ、不都合に目をつぶり、反対勢力を封じ込めながら推進してきたということだ。武田教授は「原発推進ムラに携わっていて感じたのは、安全のための提言は受け入れられないムードがあったこと。なにも文句を言わず、原発ありきで進めるしかない気分にさせられる」と嘆く。教授自身もこの論理の中で弾かれた一人とお見受けする。恐らく、まともな意見を進言した良識ある人たちの多くが、このムラ社会から弾き出されてきたに違いない。
 次回は、今問題の浜岡原発の設計者谷口雅春氏、賛否両論ある告発文の書き手・平井憲夫氏らの主張を検証しながら、ノーマルな一国民(ですよ私は)として、原発のあり方を考えてみたい。
 2011.04.20 (水)  大震災断章[1] 想定外は恥
 3月11日、日本に異変が起こった。経験したことのない災害だった。私は、もう1ヶ月以上たった今もまだ日常を取り戻せないでいる。仲間と酒を飲みながら馬鹿話をする。毎日好きな音楽を聴きながら、興味湧くテーマにぶつかれば書き留める・・・そんな日常がどこかに去ってしまった。桜が咲こうが散ろうが心が動かない。去年までとは明らかに違う。変わり果てた東北と北関東の地、自然の恐怖、原発事故という最悪の事態、翻弄される人々、右往左往する関係者、無能を露呈する国のリーダー・・・毎日、テレビや新聞、週刊誌から流れてくるこれらのニュースを、見聞きすればするほどに気持が沈んでゆく。心中に、被災地の人たちへの気遣いがあるのかもしれない――連帯鬱、そう、鬱にしてなきゃいけないみたいな。「自分に何が出来る?」と問うてみても、自分は政治家じゃない。仕事だって隠居の身だ。何んにもできやしない。せいぜい、「ドラえもん募金」なんかして乗り遅れまい意識を持つくらいのものだ。滅入ってたって誰も褒めてはくれないぜ。わかってる。そんなことはわかっているさ。でも虚しいものはしょうがない。気分が晴れないのは事実なのだ。
 一番つらいのは好きな音楽に集中できないこと。あれほどしょっちゅう聴いていた「冬の旅」を災害以来1度も聴いてない。たまに聞いてもジャズばかり。何とかしなくては。「迷ったときこそ前に踏み出せ」と言ったのは徳川家康だったか。今前へ踏み出すことって何だ? それは、この震災を自分の中で自分なりに総括することじゃなかろうか。それで日常が戻ってくる保証はない。でもこれをやらずには先に進めないことも確かなのだ、と今直感している。
 1000年に一度といわれるこの大災害を系統的に総括できるはずもない。だから、私流に書き綴るだけだ。すなはち、流れてくるニュ−スを見聞きして引っかかったキイワードに沿って断章風に書いてみること。私にはこれしかできない。

*想定外は恥

 M9という世界史上4番目の大地震が春の日本列島を襲ったあと、直ちに聞こえてきたのは「想定外」という大合唱だった。「三陸沖ではM7程度、複数の震源地で連動してもM8程度にしかならないはず。だからM9は想定外」。この地震調査委員会(阿部勝征委員長)のコメントもその中の一つだ。この見解に対し、東大理学部のロバート・ゲラー教授は厳しく批判する(4月14日付朝日新聞)。「過去100年以内に起きたM9級の地震、チリやアラスカなどは、日本と同じ環太平洋海域で起きている。世界の地震に目を向ければ、時期は予測できなくても、規模は想定できたはずだ」と。
 さらに、歴史を見てみよう。時は平安時代、869年、東北地方に多数の犠牲者を出した「貞観の大津波」の記録がある。江戸時代には、慶長三陸地震(1611年)が起き、数千人の犠牲者を出した。近年では、明治三陸津波(1896年)と昭和三陸津波(1933年)の記録がある。ことに前者では、高さは38.2m、犠牲者は20,000人超を数えたという。これほどハッキリした地理的・歴史的事実があるのだから想定できないはずはない。こんなもの小学生だって分かる。「想定外」は専門家として恥と言わねばならない。というか、逆に「なぜM8程度までしか想定できなかったのですか?」とお訊きしたいものだ。なにも巨大隕石衝突の6500万年前までを想定しろとは言いません。たかが1000年、いや、たったの100数年をなぜ鑑みられないのか。

   この体たらくな「地震調査委員会」なるものは1995年、阪神淡路大震災後定められた「地震防災対策特別措置法」に基づいて設置された12人の専門家による政府の公的機関だ。委員の任命権は総理大臣が持つ。
 「地震防災対策特別措置法」第一条[目的]の条文は以下のとおり。
この法律は、地震による災害から国民の生命、身体及び財産を保護するため、地震防災緊急事業五箇年計画の作成及びこれに基づく事業に係る国の財政上の特別措置について定めるとともに、地震に関する調査研究の推進のための体制の整備等について定めることにより、地震防災対策の強化を図り、もって社会の秩序の維持と公共の福祉の確保に資することを目的とする。
 この目的を遂行するための調査機関として設定されたのが「地震調査委員会」なのだ。要するに、地震による災害から国民の生命、身体及び財産を保護するために調査研究を行い評価し、関係各所に報告・提言することをミッションとする機関なのである。結果はどうだ。地理的にも歴史的にも浅い掘り下げから想定を誤り、起こった現実に対して平然と「想定外」とのたまう。やるだけやった結果の想定外ならまだしも、掘り下げ不足=怠慢による想定外が起きたのである。ここは職務怠慢を素直に認め土下座するしかないだろう。安くない手当てを貰っているのだろうから。
 ゲラー教授によれば、「地震調査委員会」はまた、規模のみならず、発生地域の推定においても的を外したという。阪神淡路以降、最大規模となった新潟県中越(2004年)と岩手・宮城内陸(2008年)は、委員会発行の予測地図中、比較的確率の低いとされる地域で起きていたのである。規模も地域も外すって、一体真面目にやっているのですか!?能力がないなら解散すべしだ。
 組織的にみると、「地震調査委員会」は文部科学大臣を本部長とする「地震調査研究推進本部」の傘下にある。これらの任命権はすべて総理大臣にある。内閣総理大臣菅直人は、東電に乗り込んで声を荒げる前に、傍らに高木義明文部科学大臣と阿部勝征地震調査委員長を侍らせて、「大震災を職務怠慢により予測できず誠に申し訳ありませんでした」と陳謝すべきではないか。
 「地震調査委員会」の他に「判定会」「地震予知連絡会」という地震関連の機関が並存しているのも不可解だ。「判定会」は気象庁長官の私的諮問機関として1979年に発足した6人構成の組織で、会長は阿部氏の兼任である。「地震予知研究会」は1969年に設立された30人からなる機関。「地震調査委員会」は12人だから、地震対策ムラは合計48人のメンバーで構成されていることになる。果たしてこの人数は本当に必要なのか? 有能ならば何人いたって構わないが、亀井静香が言ったような「バカ+バカ+バカ=バカ」では困るのだ。似たような三つの組織が並存しているのは、新たな組織が出来ても既成の組織を消滅させないために、巧妙な作文で各々の目的を観念的に分散させてきた官僚の常套手段による産物なのだろうが、常識的に考えて目的は一つ「地震の被害から国民の生命財産を守る」に尽きるはず。ならば統合による組織の省力化・効率化は図れるはずである。ここにもまた、既得権をあくまで保持しようとする官僚の狡猾さとそれを放置する政府与党の覚悟のなさと無能さが垣間見えるのだ。

 宮古市田老地区には万里の長城という仇名の大防潮堤がある。その名のとおり、高さ10mの堤防が2433mにわたって立ちはだかっている。明治&昭和三陸地震の教訓を踏まえて作り上げたものだった。ところが、3.11巨大津波に対しては無力だった。しからばこれは想定外の結果なのか? 建設した地方自治体は、明治三陸で高さ38mの巨大津波が発生したことを知っていたはずである。想定はしていたのだ。しかし100年に一度のモノを想定して30m級の防潮堤を2kmにわたって作るわけにはいかない、経済的にも景観上も。これが行政というものだ。肝心なのは作った上で最悪を想定することで、これが人智というものだ。中には「あれだけの巨大な津波の前には万里の長城も役に立たなかったではないか」と言う向きもあるが、それは違う。あれが無かったら被害はもっと広がっていたと考えるべきなのだ。
 最悪の事態を想定して可能な限りの備えをする。備えのキャパシティを厳密に測って最悪の事態とのギャップをしっかりと把握し、ギャップを埋めるための訓練を普段から実践して事態に備える。"敵を知り己を知らば百戦危うからず"で、これが危機管理というものだ。
 その意味で、国の巨大地震対策は万全だったのか? 否である。宮古市田老地区では、やるだけやって最期に人智を越えられてしまった。無念極まりなかっただろう。国の地震対策ムラの見解は初めから越されていた。恥と知るべきだ。無念面して「想定外」などと言ってほしくない。それは責任逃れの何物でもないからだ。
 このところ「東京大震災のXデイは?」なる見出しがポツポツと出始めた。「想定外」を連発する国はちょっと頼りにならないから、自分のことは自分で守るしかないのかも。「国家が何をしてくれるかではなく、自分に何ができるか」を真剣に考えようかと思う。
 原発ムラにも「想定外」が氾濫した。こちらはまた別の機会に。


 2011.03.23 (水)  シューベルト歌曲の森へ21 なんてったって「冬の旅」14
                 <「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる 最終回>
(8)<シューベルト最後の80日と「冬の旅」>

 1828年9月1日、シューベルトはウィーン郊外ノイエ・ヴィーデン694番地にある兄フェルディナントの家に引っ越した。死の80日前のことである。これは主治医エルンスト・リンナ・フォン・ザーレンバッハが、病状の悪化を見て転地が望ましいと判断したためである。持病特有の頭痛は末期的激しさで彼を苦しめた。
 そんな病状の中、彼は曲作りに励む。ピアノ・ソナタ第19番ハ短調D958、第20番イ長調D959、第21番変ロ長調D960の3曲を一気に書き上げる。完成したのは9月26日であった。最後の器楽曲「ピアノ・ソナタ第21番」は、部分的に偏頭痛的重苦しさは潜んでいるものの全体は死を優しく抱擁する。この佇まいは形容しがたい凄みを孕む。

   9月25日のシューベルトの日記には、「『冬の旅』第二部は、もうすでにハスリンガーに渡した」とある。第二部は印刷に回すための原稿即ち清書稿しか残っていない。初稿は清書稿が出来たあと破棄したのだろう。清書稿は、ハスリンガーに"渡した"とあるから、住まいを訪ねたハスリンガーに直接手渡したものと思われる。前章にも書いたように、シューベルトが晩年最も信頼していた出版人はハスリンガーであった。それは、10月2日の「4曲の即興曲等はハスリンガーを経由して発送した・・・」という、別の出版社に宛てた手紙からも読み取れる。
 一方、一番の親友ヨーゼフ・フォン・シュパウン(1877−1865)は、「11月11日に彼は床に就かざるをえなくなった。危険な病状になっていたにもかかわらず、彼は苦痛を感じることはなく、ただ虚弱感のみを訴えていた。絶えず彼は歌を口ずさんでいたが、時折うわごとを言う状態になることもあった。明るいわずかの時間を使って、彼はまだ『冬の旅』第二部の校正をしていた」と書いている。
 11月17日に二人の友人がシューベルトを見舞う。エードゥアルト・フォン・バウエルンフェルト(1802−1890)とフランツ・ラッハナー(1803−1890)である。このときの模様をラッハナーは「友人は、チフスを患って床に就き、危険な状態にいた。『僕はひどく重たいんだ。ベッドを抜けて落ちそうな気がする』という言葉が忘れられない」と書いている。一方のバウエルンフェルトは「彼は苦しそうに寝ていて、体力がない、頭に熱がある、と訴えた。しかし午後には完全にしっかりして、うわごとの兆候もなかったが、友人の重苦しい気分が私の心を悪い予感で満たした。その晩にはもう病人は激しくうわごとを言うようになり、それきり意識は戻らなかった」と述べている。彼ら二人が最後の訪問者となった。

 シューベルトは9月25日には「冬の旅」第二部の清書稿を一旦出版社のハスリンガーに渡したが、その後どこかの時点で手許に戻り、11月17日の夜意識を失うまで校正をしていた。そして遂に19日には息を引き取った。印刷直前の原稿である清書稿と死を向かえるギリギリまで対峙していたのである。そこには一体どんな事情が隠されていたのであろうか?

(9)<そして、真相>

 1828年9月25日、シューベルトから「冬の旅」第二部の清書稿を受け取ったハスリンガーは、早速活版を組み始める。年内に出版するためには急がなくてはならない。シューベルトが16「最後の希望」、17「村にて」、20「道しるべ」で行ったミュラーの原詩の訂正などを確認しながら作業を進める。これらに全く問題はない。そして工程も終盤にさしかかった11月中旬、22「勇気」の終結部にA5の音符があるのに気がついた。これは、大御所フォーグルにも、今売り出し中のカルル・フォン・シェーンシュタイン(1794−1859)にもキツイ高さだ。しかもこの音には、決め文句ともいうべき「私たち自身が神になろう」の中の「自身が」selberという重い語句が乗っている。即ちこの歌の決め部分である。ここは一音下げるべき箇所だ。現に、作曲者には、少し前、ニ短調の12「孤独」にあるA5をロ短調に移調して5Fisに下げてもらっている。これまでも私の独断で変えたことなど一度だってない。シューベルトとの信頼関係もそんな私の真摯さで保たれていると自負している。だから、早速出向いて意見を言うことにしよう・・・・・ハスリンガーはこの結論を持ってシューベルト宅に出向いた。1828年11月16日(?)のことである。

 「こんにちは、シューベルト、お加減はどう。先日預かった即興曲の楽譜は、確かにマインツの芸術商社ショットに送っておきましたよ。さて、今日の話は『冬の旅』のこと。いま、懸命になって活版を組んでいます。どうしても年内中に出版したいのでね。24曲まとめた形で出そうと思っています。今回第一部もかなり手を入れてもらっているから、そのほうがいいでしょう。値段も張りますしね。
 そこで相談です。22「勇気」の終盤selberに付いた5Aは高すぎます。フォーグルは歳で、もうこの音は無理。いまやあなたの歌曲最高の歌い手であるシェーンシュタイン男爵も、若いとはいえ地声がフォーグルより低いのだから、上はGがやっとです。プロでもきついのですからアマチュアならなおさらのこと。ここは一音下げてト短調でどうでしょうか。この方が楽譜もなんぼか売れるでしょうし」とハスリンガー。これを受けてシューベルトは、「ハスリンガーさんありがとう。もう22曲目まで行ったのですか。出版が楽しみです。わかりました、『勇気』のト短調への移調はOKです。それはそうと僕はね、最近10日間以上、何も食わず、何も飲まず、疲れきってフラフラしながらソファーからベッドへ行ったり来たりしているんですよ。たとえ何かを食べたとしても、また直ぐに吐き出してしまう。でも『冬の旅』だけは気がかりなんです。このほかにも、まだ、ちょっと気になるところがあるので、この楽譜一旦置いていってくれませんか。直ぐに返しますので」と言って、清書稿を預かった。
 シューベルトの気がかりは24「辻音楽師」の中に二つ存在していた。一つはハーディガーディを模すピアノ左手の最初の2音につけた装飾音符である。シューベルトは、ここに付けたE♯-Gの装飾音符はH-Fis・空虚5度の和音に連なるものとして不自然ではないかと考えていた。
 ハーディガーディには旋律弦と固定弦(ドローン)がある。固定弦は二本あり、通常はC-Gの5度に調弦されている。これを右手でハンドルを回して演奏中常に音を出し続けるのであるが、シューベルトはこの音をピアノの左手で模すことにした。2つの装飾音は最初の2小節だけ――即ち始動における定まらない音程を表したかったのだ。ところがこれだと、2つ目の装飾音から下降して本和音につながってしまう。これはハーディガーディの構造上不自然である。シューベルトは、E♯から直接本和音につながるように、装飾音符のGを外すことに決めた。

 もう一つの気がかりは、「辻音楽師」の調性であった。「冬の旅」最後に位置するこの曲は、ロ短調に設定してある。これは第一部最終曲「孤独」をニ短調からロ短調に下げたときに、互いの部を締めくくるという意味で合わせたに過ぎない。本当にこれでいいのだろうか。前半と後半を統一して締めることに意味があるのだろか。そもそも、ミュラーの原詩は完成版として24曲を一括して出版しており、私の順番とは大きく異なってしまっている。というか、私が曲順をミュラーの完成版に合わせなかったのだ。私の「冬の旅」全24曲は前半も後半もない、一連の流れの中にあるものなのだ。だったら、第12曲と24曲の調性を合わせることに意味はない。
 「辻音楽師」を全24曲の締め楽曲として見た場合、これは断じてロ短調ではない。私は「辻音楽師」に救済を見ている。このミュラーが最後に登場させた唯一の人間こそ、若者の意思を受け止める最後の砦なのだ。すべてから疎外され、すべてを否定してたどり着いたオアシスなのだ。すべてをなくした自分に唯一歌だけが残って、その自分の歌にライアーの調べを合わせてもらい、一緒に歩いてゆくのだ。この先に何が待っているかは分からない。とにもかくにも行くのである。何も求めず、何にも期待せず、失うものとて何もない。そう、心は無。すべては無なのだ。ならば調(号)も無にしよう。ロ短調からイ短調に。私のすべてが大好きなイ短調の響きで終わる。そうだ、「辻音楽師」は絶対にイ短調でなければならないのだ。
 激しい頭痛とけだるさの中で、彼はこう悟った。心のもやもやは吹っ切れて、だが朦朧たる意識のまま清書譜を取り出して書こうとしたが、もはや彼の体は自分の意思を聞きいれてはくれなかった。彼はすぐさまフェルディナントを呼んだ、「兄さん、お願い。『辻音楽師』を・・・このGを取っちゃって。調はイ短調に変えて。そしてハスリンガーに・・・」と言いながら彼の意識は戻らなくなった。11月17日、夜のことである。
 彼の最後の作品は、「岩の上の羊飼い」D965とも「鳩の使い」D957-14ともいわれているが、実はそうではなく、それは「冬の旅」であり、その最終曲「辻音楽師」こそが彼の真の遺作だったのである。

 19日、シューベルトは帰らぬ人となった。フェルディナントは、やがて訪ねてきたハスリンガーにシューベルトの意思を伝えた。「そうですか。私も同じ思いです。イ短調のほうがみんな歌いやすくて、喜びますよ」 ハスリンガーは、亡くなった偉大な作曲家を悼みながらも、にっこりと笑って「辻音楽師」の清書譜の上に書き込んだ in a-mol と。

 こうして「辻音楽師」は清書譜のロ短調からイ短調に変えて出版された。シューベルトの意思で。清書稿上の「イ短調で」in a-mol の文字は、シューベルトの意を受けたハスリンガーが書いたものだった・・・・・私は、筆跡がハスリンガーのものだからイ短調への移調はハスリンガーの意思で行われたという短絡的解釈によるこれまでの定説は、このように訂正されるべきであると考える。確かにこれには物的証拠は何もない。ハスリンガーがフェルディナントの家に行った記録もなければ、そこでシューベルトと意見を交わしたという証拠もない。しかし、同時にそうでなかったとする証拠もないのである。関わりうるすべての人々の自然な感情や行動を素直に解釈して導き出したこの推論のほうが、これまでの定説よりも、より自然で適正なものと私は確信する。皆様はどう思われるだろうか?


 2011.03.10 (木)  シューベルト歌曲の森へS なんてったって「冬の旅」13
                  <「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その4>
(7)「第三の男」

 キャロル・リード監督の映画「第三の男」は、第二次世界大戦直後のウィーンが舞台である。売れないアメリカ人作家ホリー・マーチンス(ジョセフ・コットン)が、旧友ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)の招きでウィーンにやってくるところから物語は始まる。ところが到着したその日に、招き人の葬儀が行われていた――死因は事故死。これは旧友の友人二人の証言だ。ところが事故現場にはもう一人男がいたという目撃証言が。そのもう一人、即ち「第三の男」こそが、死んだはずの旧友だった。・・・・・白黒画面で描かれる終戦直後のウィーンは、荒涼たる風情で音楽の都の華やかさは微塵もない。そこに、死んだはずの男は生きている? じゃいつ現れる、なら死んだのは誰だ? ハラハラドキドキのシーンが連続する。一方、ホリーはハリーの恋人アンナ(アリダ・ヴァリ)に徐々に心惹かれてゆく。こうして、物語は緊迫した高揚感にビターな恋のスパイスを加えつつ、あの伝説的なラストシーンに流れ込んでゆくのである。アントン・カラスのツィターの響きも印象的な、サスペンス映画屈指の名作である。

 さて、今度は1828年のウィーンである。ここを舞台の「辻音楽師」ロ短調→イ短調、移調の犯人は一体だれなのだろうか? 前二回で、第一号容疑者ハスリンガーと第二の父親フォーグルには動機がないことを証明した。では一体誰が? 私は「第三の男」、即ちフランツ・ペーター・シューベルトこそが真犯人だと考える。これは消去法で結論できる。なぜなら、移調は本来作曲家が成すべき行為だからである。  これで一件落着してもいいのだが、それではつまらない。やはりシューベルトの動機を探るのが筋だろう。私はこれまで、シューベルト犯人論も仮説すらも聞いたことはない。巷にあるのは、"犯人はハスリンガーである"という定説だけだ。私はシューベルト犯人説を掲げこれを証明してみたい。まさに「クラ未知」的所業ではないか。

<シューベルトはイ短調が好き?>

 シューベルトが完成した短調のピアノ・ソナタは全部で5曲あるが、なんとその内の3曲がイ短調である。音楽学者平野昭氏は、「イ短調はシューベルトの最も好んだ調性である」(名曲解説全集、音楽之友社刊)と断言している。シューベルトのイ短調楽曲にはこの他にも、弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」D804、アルペジオーネ・ソナタD821などの名作が名を連ねる。一方、ロ短調楽曲は、ピアノ・ソナタと弦楽四重奏曲には一曲もなく、著名な楽曲としては交響曲第7番「未完成」があるのみだ。これらは、シューベルトは「イ短調を最も好んでいた」という平野説の一応の根拠になりうると同時に、少なくとも「ロ短調」よりは好きな調性だったと規定しても異論はないと思われる。
 シューベルトのイ短調の曲を聴いてみる。ピアノ・ソナタ第4番D537の第1楽章、第14番D784の第1、3楽章、第16番D845の第1楽章に共通して言えるのは、悲しみの表情が決してドロドロせず透明な抒情感があることだ。浄化された悲しみと言ってもいい。その特質は、「アルペジオーネ・ソナタ」第1楽章第1主題に、より顕著に現れている。ロ短調の名曲「未完成」第1楽章の情念ともいえる暗さとは明らかに異質である。

 また、ロ短調は、J.S.バッハの「ミサ曲ロ短調」以降、「一途な宗教心」という色合いを持っているといわれてきた。だが、楽曲分析をしてみると必ずしもそうとは言いきれないことが分かる。「ミサ曲ロ短調」は27曲から成るが、主調のロ短調は5曲しかなく、ニ長調が12曲を占める。「一途な宗教心」という色合いは、むしろ平行長調であるニ長調のキャラクターだろう。また、ベートーヴェンがロ短調を「黒い調」と呼んだのも有名な話だ。
 今度は、これを演歌に置き換えてみよう――美空ひばりの「みだれ髪」はイ短調で石川さゆりの「天城越え」はロ短調である。前者は儚さの中に清澄な抒情感が宿り、後者はメラメラと悲しい情念が渦巻く。演歌の世界も共通の対比を成していて面白い。また、モーツァルト・イ短調の名曲「ピアノ・ソナタK310」には高品位の悲しみが聞き取れる。

  <調には色がある?>

 18世紀ドイツの音楽学者シューバルト(1739−1791)の「音楽美学の理念」は、調性の持つ性格を初めて特徴付けた書といわれている。そこに、こんな内容の文章がある。
調は色彩があるものか色彩のないものかのどちらかである。純真さと簡潔さは色彩のない調で表現される。
 この前提には、「調号の多い調は色彩が濃く、少ない調は薄い」というベースがある。これに照合すると、後段の文章は「純真さと簡潔さは調号ゼロの調で最高度に表現される」と言い替えることができる。調号ゼロの短調はイ短調であるから、「悲しみを最も混じりけなく表現できる調性はイ短調である」と結論できる。
 これより以前、調性の性格付けをした音楽家が二人いる。一人はフランスのマルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(1643−1704)で、ロ短調を孤独でメランコリック、イ短調を優しさや悲しさを表す調と規定している。もう一人はドイツのヨハン・マッテゾン(1681−1764)で、ロ短調を奇異で不快でメランコリック、イ短調を嘆くような品位ある落ち着いた性格の調と規定している。

  <シューベルトは調性に敏感だった?>

 これら17−8世紀の調性理論が、後の作曲家にどんな影響を与えたかは判らない。調性の色合いに敏感な作曲家もそうでない人もいただろう。ただ、このような研究が存在しているということは、個々に感じる色合いは別にして、調性というものが作曲家の表現にとって少なからぬ意味合いを持っていたことだけは確かだろう。
 シューベルトに、ピアノ・ソナタ第7番変ホ長調」D568という曲がある。これは、D567変ニ長調ソナタに楽章を一つ加え、調性変えを行ったものである。その差はたったの一音。歌曲じゃないから歌い手の音域は関係ない。シューベルトの感性がそうさせたのだ。彼が調性に敏感だったという、これは一つの証ではないだろうか。
 「4つの即興曲」D899の第3番は変ト長調で、♭が6つもある。出版者のハスリンガーが「広く一般の人に弾いてもらいたいので、殊更難しくしないように」と注文したにも拘らずだ。結果的には、ハスリンガーの意を汲んで半音高い♯一つのト長調に移調して出版したのだが、この事例からもシューベルトの調性へのこだわりが見て取れる。シューベルトは、調性にはことのほか敏感な作曲家だったと思われる。


 2011.02.25 (金)  シューベルト歌曲の森へR なんてったって「冬の旅」12
                  <「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その3>
(6)ヨハン・ミヒャエル・フォーグルという男

 では、ここでヨハン・ミヒャエル・フォーグル(1768−1840)に登場してもらおう。1794年から1822年まで、ウィーン宮廷歌劇場第一線の名歌手として君臨、オペラの世界から引退したあとは、最晩年までコンサート歌手として活躍を続けた。声質はハイ・バリトン。シューベルトとは1817年に知り合い、即座にその才能を認め作品の紹介に尽力し、個人的にも極めて親密な付き合いをした。フォーグルは、シューベルトにとって、生涯を通じてのよき理解者であり第二の父親ともいうべき存在だった。
 では、フォーグルとシューベルトとの関係を、例によって「シューベルト 友人たちの回想」からたどってみよう。

<出会い、そして良きパートナーに>

 自作のリートをいつも自分で歌わなければならなかったシューベルトは、しばしば彼のリートのための歌手を見出したいという大きな欲求を表明し、宮廷オペラ歌手フォーグルと知り合いたいという彼の昔からの願望はますます激しいものとなった。――そこで我々のグループではなんとかシューベルトの希望に沿うよう行動しようということになった。フォーグルがとても人付き合いの悪い人だったので、この課題は困難なものであったが、宮廷劇場と幾分かの伝手があったショーバーを軸に動き、二人の対面が実現した。
 その日、フォーグルは遅れてやってきて、どぎまぎしながら挨拶したシューベルトに対し、明らかに不遜な態度をとった。ところが楽譜を渡され歌ってみた彼は、即座に態度を変える。これらのリートが彼に与えた印象は圧倒的なもので、今度は促されずに彼のほうから我々のグループに近づき、シューベルトを自宅に呼んで一緒にリートを研究するようになった。
 彼の歌唱が我々とシューベルト自身と聴衆のあらゆる人々に与えた厖大な圧倒的な感動を目にして、彼自身これらのリートに非常に感激し、彼自身シューベルトの最も熱烈な崇拝者になった。
 この若い音楽家に好意を持ち様々な形で支援するようになったフォーグルに随いて、シューベルトは、シュタイヤー、リンツ、ザンクト・フローリアン、グムンデン、ガシュタインなどへ行き、それらの場所ですばらしいリートが演奏された。(ヨーゼフ・フォン・シュパウン)
 二人の出会いは、1817年、シューベルト20歳フォーグル49歳のときであった。片や宮廷劇場の大歌手で、片や駆け出しの作曲家。初対面でフォーグルが上から目線だったのは仕方のないところだろう。ところがシューベルトの並外れた才能を即座に感知したフォーグルは、数週間後には「魔王」「さすらい人」など数曲を公の場で歌うようになっていた。それからは、上部オーストリアなど多くの発表の場を設けながら、シューベルトの最大の理解者にして熱烈な崇拝者となっていったのである。

<第二の父親>

フォーグルは一種の宗教的な畏れの念をもって、シューベルトの中の調和の精神、言葉に対する深い感覚、音楽の力を感知していました。シューベルトのこのすばらしい素質が決して壊されなかったこと、自然の最も密やかな動きを告げるすべての音楽を秘めた水面がどんな軽はずみな風によっても動かされず、つまらない動揺を起こさなかったこと――これはおそらく本質的にシューベルトのフォーグルとの交友の結果であり、それ故シューベルトについて何らかの記述が成される場合、フォーグルに重要な位置が与えられて当然なのです。フォーグルはシューベルトの父のような友人でした。(アントーン・シュタインビューヒェル)

1819年だったと思うが、シューベルトはさらに一層自由で快適な生活が出来るようになった。そのために大きな貢献を果たしたフォーゲルは彼の第二の父親といっていいであろう。彼は経済的にシューベルトの面倒を見たばかりでなく、精神的芸術的にも実際彼を進歩させたのである。(ヨーハン・マイアーホーファー)
 フォーグルは、声楽家として優秀であったばかりでなく、古代ギリシャやローマの古典や法律など広範にわたる知識を身につけた教養人だった。そんな偉大な人間がシューベルトのよき理解者となり、音楽面の相談相手となり、教養面と経済面をも支えてくれたのである。シューベルトはどんなにか心強かったことだろう。まさに第二の父親に相応しい存在だった。

  <二人の音楽的関係>

1821年3月7日、宮廷劇場でフォーグルによって「魔王」が歌われ大喝采を博しましたが、数日前のリハーサルでのこと。シューベルトはフォーグルの要求に従ってところどころピアノ伴奏に数小節挿入し、歌手が休息をとる機会を余計に持てるようにしました。(アンゼルム・ヒェッテンブレンナー)

シューベルトの歌曲作品は、ほとんどフォーグル先生に目を通してもらっており、忠告ならばすぐにとても喜んで受け入れたものです。(カルル・フォン・シェーンシュタイン男爵)
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「さすらい人」「駆者クロノスに」・・・などは、音楽的傑作の小品であり、フォーグルが歌うために作られたかのようであった。この熟達した、効果を心得た歌手があえて行った小さな変更や装飾は部分的には作曲者の同意を獲得したが、親しい論争の種となることも珍しくはなかった。(エードゥアルト・バウエルンフェルト)
 以上の記述から、シューベルトは、歌曲の創作において、フォーグルの意見を嫌がらずに受け入れていたことが判る。そのやり取りについて、フォーグルの弟子は"喜んで受け入れた"といい、友人は"親しい論争"という、各々の温度差が面白い。また、男声用歌曲の作曲において、フォーグルの音域を想定していただろうことも容易に想像できる。
シューベルトがある日の朝、何曲かのリートを持って、検閲してもらいに、フォーグルを訪れました。そのときフォーグルはとても忙しかったため、シューベルトは楽譜を預けて帰りました。その半月ほどあと、シューベルトは再度フォーグル宅を訪れました。そのとき、預けた中の一曲が、フォーグルが自分の声域に合うように低い調に移調させたため、写譜者の筆跡で書き写されていました。これはフォーグル自身が私に語ってくれたことです。(カルル・フォン・シェーンシュタイン男爵)
 このシェーンシュタイン男爵の記述は注目に値する。ここからは、シューベルトの歌曲をフォーグルが自分の声域に合うように移調し、写譜屋に書かせていた事実が浮かび上がってくる。

 そんな二人の関係は、シュパウンの証言にもあるとおり、シューベルトの死が二人を分かつまで続いたのである。
二人の音楽家の結び付きは、死がそれを分けるまでますます密接になるばかりであったが、それは彼らが絶えず一緒に会っていた結果であった。(ヨーゼフ・フォン・シュパウン)
<「冬の旅」とフォーグル>

 シューベルトの親友シュパウンは、1827年の春、完成したばかりの「冬の旅」第一部を、友人たちと共にシューベルト自身の唄で聴いたが、余りの暗さに当惑してしまう。あっけにとられている彼ら向かってシューベルトは言った。「僕はこのリート集がどれにもまして気に入っている。いずれきみたちにも気に入ってもらえるだろう」と。これに対してシュパウンは、「彼は正しかった。たちまち我々は、フォーグルが見事に歌うこの陰惨なリート集の印象に夢中になってしまったのである――これ以上すばらしいドイツ語リートはおそらくないことであろう。そしてこれこそ彼の"白鳥の歌"だったのである」と述べている。
 シュパウンは別の著作でこうも述べている。「死の一年前にもこの高貴な老人は、宮中顧問官エンデレス邸での集まりで、ある晩連作歌曲集「冬の旅」全曲をまだ快く歌い、声は極めて弱まっていたが、一同全員が深い感動に襲われたのであった。これが彼の最後の歌であった」・・・・・フォーグルは、「冬の旅」を初演し、以来、亡くなる直前まで歌い続けていたことになる。このときフォーグルは71歳。"声が弱まっていた"のは当然のこと。マレイ・ペライアと共演したフィッシャー=ディースカウ最後の「冬の旅」は65歳のときの録音だが、このことと比較しても、フォーグル71歳の歌唱が聴衆に感動を与えたのは驚異的な出来事といわなければならない。そしてこれが彼の人生最後の歌となった。フォーグルこそ「冬の旅」の最初にして最高の伝道者だったのである。
 フォーグルは、その翌年1840年11月19日、その輝かしい生涯を閉じた。この日は奇しくもシューベルトの命日であった。

<フォーグルと「辻音楽師」の移調>

 現在、"「辻音楽師」を移調したのはハスリンガーの意思である"というのが定説となっているが、物証は"ハスリンガーの筆跡による「イ短調へ」"という清書譜上の文字だけである。ところが何度も検証してきたように、ハスリンガーにはその動機がないのである。では、フォーグルはどうなのだろうか?
 シューベルトが歌曲の創作においてフォーグルの忠告を受け入れていた事実、フォーグルの「冬の旅」への並外れた思い入れ、晩年の声の衰えによる音域の縮小化(シューベルトの友人たちによる証言も多々ある)、シューベルト作品を自ら写譜屋に移調させていた事実、シューベルトの死まで続いた親密な関係・・・・・これらの事実を鑑みれば、フォーグルが「辻音楽師」の移調に関わっていると考えても、あながち不自然ではないだろう。がしかし、ここでもハスリンガーの場合と同じ理由で動機が希薄なのだ。
 歌手が作曲者の書いた調性を下げたいことの理由は"高い音がきつい"ということに尽きる。確かに「辻音楽師」ロ短調時の最高音G5は60歳のバリトン歌手にはきついだろう。ところが、G5とそれ以上の高音は「冬の旅」には数多く存在する。「風見の旗」「氷結」「川の上で」「かえりみて」「鬼火」「休息」「郵便馬車」「最後の希望」「道しるべ」など、これは決して小さい数字ではない。特に「郵便馬車」のラストでは、G5より半音高いA♭5の音が2拍半も続く。これらを差し置いて、「辻音楽師」のG5だけを下げるのはどう考えても腑に落ちない。やはり、フォーグルにも「辻音楽師」を移調する動機はないと言わざるを得ないのである。
 フォーグルに関する記述は、シューベルトの友人たちによってかなりの量が残されているが、本人の手になるものは皆無に等しい。もし彼自身の文章が残されていたならば、「辻音楽師」移調の謎に関して、より核心的な事実が浮かび上がったかもしれない。それを思うと非常に残念である。


 2011.02.15 (火)  シューベルト歌曲の森へQ なんてったって「冬の旅」11
                  <「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その2>
(5)シューベルトとハスリンガー

 「冬の旅」の最終曲「辻音楽師」の調性がロ短調になったのは、第一部の最終曲「孤独」がニ短調からロ短調に変わり、それに合わせたためといわれている。変えたのはシューベルト自身なのだが、ひとまずは「孤独」の調性変更の理由を探っておこう。なぜ下げるかといえば、高すぎて歌いづらいからに尽きる。「孤独」のニ短調時での最高音A5は、確かにバリトンには高すぎる(なぜバリトンかといえば、シューベルトが想定したのはバリトンに違いないと思われるからだが、この件は次回以降に)。その他の楽曲でA5が使われているのは、第7曲「川の上で」の一音符のみ。では、なぜ「孤独」が下げられて「川の上で」はソノママだったのか?「孤独」では、二度繰り返されるelend(惨めな)という重要度高の言葉にA5の8分音符が嵌まっている。それに対し、「川の上で」では、soのo部分に16分音符で乗っているだけ。これなら多少高くても歌い飛ばせるだろう。明らかに「孤独」のA5のほうが意味は重い。したがって、シューベルトは「孤独」のA5音に配慮して移調したものと思われる。(A5というのは五線紙上の上第一線の音。この2音上がC6で、言うところのハイCである)

 さて、問題は「辻音楽師」のロ短調からの移調である。ロ短調での最高音はG5である。この程度の高音は「冬の旅」の中にはいくらもあるのだから、(イ短調に)下げるべき理由はないはずである。ハスリンガーが変えた理由は、"歌いやすくして楽譜をより多く売るため"という説をどこかで聞いた覚えがあるが、それには当らないことがわかるだろう。しかも、これ以外にハスリンガーが変えなければならない理由を聞いたことがないし、私自身も全く考えつかない。私が「ハスリンガーに動機はない」とするのはこのためである。 以上、改めて「ハスリンガーがロ短調からイ短調に移調させる理由がない」と規定できたが、このあとは、ハスリンガーとシューベルトの関係を辿ってみたい。裏づけが取れるかどうか、自信はないけれど。

 トビーアス・ハスリンガー(1778−1842)は、リンツに生まれ、1810年にウィーンに出て、ジークムント・アントン・シュタイナーの経営する楽譜出版会社である化学出版社(後にS.A.シュタイナー社と改名)に就職した。その後、1826年、シュタイナー引退後、社名を「ハスリンガー社」に変更し、すべての業務を引き継いだ。 ここで、シューベルトとハスリンガーに関する記述を、時代を追って抜書きしながら考察したい。文献は、オットー・エーリヒ・ドイッチュ編纂の「シューベルト 友人たちの回想」(石井不二雄訳 白水社)が中心である。

<「魔王」の出版を巡って>
私は「魔王」をトビーアス・ハスリンガーとアントーン・ディアベッリに見せましたが、二人とも作曲家が無名でありピアノ伴奏が難しいので十分な成功が期待できないとして、出版を(印税なしということでさえ)拒否しました。この拒絶に傷つけられて、私たちはシューベルト自身の費用負担という形で出版を行う決心をしたのです。(レーオポルト・フォン・ゾンライトナーの手紙より)

「魔王」は、まず1821年4月2日付の「ウィーン新聞」に、カッピ・ウント・ディアベッリ社から出版された旨広告が出ています。広告は私が執筆したものです。また、「ザムラー」誌の推薦広告文も私が書きました。シューベルトによってリートにおける第二のモーツァルトが誕生したという考えを述べたことで、私は激しい攻撃を浴び、ハスリンガーとシュタイナーからは馬鹿だと決め付けられました。(ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの手紙より)

1822年にはシューベルトのリートのよりよい理解のために立派な喜ばしい最初の批評が出た。これはシュタイナー出版社から発行されている「一般音楽新聞」の第6号のことである。(編者・ドイッチュの註)
 上記2通は1821―1822年のもので、恐らくこれらがハスリンガーに纏わる最初の記録だろう。この時代のハスリンガーは、シュタイナーの下で10数年のキャリアを積んでいた頃である。対象楽曲は「魔王」。シューベルトの友人たちが、この大傑作をなんとか普通に売り込もうとしたにも拘らず、出版業者たちは、作品の価値が理解できず(あるいはできない振りをして)、失礼極まりない仕打ちをしたことがよくわかる。結果、「魔王」は、(他の11曲と共に)作曲者の経費負担というとんでもない形で出版されたのである。出版社はカッピ・ウント・ディアベッリ社で、ハスリンガーのS.A.シュタイナー社は自社発行の新聞に批評を載せたという関係に止まっている。しかも、ハスリンガーはヒュッテンブレンナーを馬鹿呼ばわりするなど、シューベルト陣営とは少なくとも良好な関係とはいえなかったようだ。

<ハスリンガーの一本立ち>
シューベルトは1827年になって、シュタイナーの協力者で後継者のトビーアス・ハスリンガーと親しく接触するようになった。(シンドラーの手紙への編者註)

ヘンデルのオラトリオの総譜というのは、明らかにサミュエル・アーノルドが1790年頃ロンドンで編纂出版した版で、これをベートーヴェンが死の直前に一揃い譲り受け入手している。後にジャーコモ・マイアーベーアの所有に帰した揃いをトビーアス・ハスリンガーがシューベルトに貸していたということも考えられる。(同上)
 ハスリンガーは、1826年、シュタイナーの引退に伴いすべての業務を引き継いだ。そして、代表として徐々に力量を発揮してゆく。シューベルトとの関係も深まって、扱い楽曲も増えていった。ハスリンガーは大切な楽譜をシューベルトに貸し、シューベルトは自筆譜をハスリンガーに貸与している。「魔王」の頃のギクシャクとした関係が、確実に好転した様子が窺える。こうなったのは、シューベルトとは元々"個人的には"悪くない間柄だったからかもしれないが、そうでなくても、楽譜商としてここまでのし上がってきたシタタカ男にとって、世間知らずのお人好し作曲家に取り入ることなどは赤子の手を捻るようなものだったと考えても、別段無理な推量ではないだろう。
 ハスリンガー社にとってのシューベルトの初出版器楽曲は、1827年の「高雅なワルツ」D969で、楽譜は結構売れたらしい。次は「ピアノ・ソナタ第18番ト長調」D894で、これには「幻想」という副題が付いているが、これはハスリンガーがシューベルトに交渉してつけたもの。先の"高雅な"の形容といい、仇名をつけて楽譜を売る、どうして中々の商売人である(因みに「冬の旅」に続く「白鳥の歌」も、彼が編纂・命名したものである)。  さらに、シューベルトは「4つの即興曲」D899の出版をハスリンガーに依頼する。持ち込まれた楽譜を見たハスリンガーは、「形式を単純に、技巧的にもっと易しく、もっと作り込んで」などと、曲ごとにかなり突っ込んだ注文をつける。無論、売らんがために。そして、シューベルトはこの指示に従って書き直し、結果、人気ピアノ曲が誕生したといわれている(高本秀行氏のWeb-Siteより)。二人の間に親密な連帯感と厚い信頼関係が築かれたことが窺えるエピソードだ。ここで特筆すべきは、第3番変ト長調がト長調に移調されて出版された事実である。この一件が、「辻音楽師」の移調はハスリンガーが行ったとされる根拠の一つだとも思うが、果たしてどうなのか? 否である。♭6つの変ト長調はハスリンガーの顧客にとって難しすぎるのは明らかで、半音違い♯一つのト長調への移調は、楽譜の売上増に少なからず貢献することは間違いないだろう。この変更は即ち、第3番が♯系に変わることなので、♭系である他の3曲から調性的に遊離することになり、シューベルトにとっては不本意だったろうが、彼が容認する気持ちも十分理解できるのである。「4つの即興曲」の移調には動機があるが、「辻音楽師」にはないのである。

<「冬の旅」とハスリンガー>
当時(1828年)シューベルトといつも一緒にいた仲間のフランツ・ラッハナー氏が筆者に語ったところによると、彼は歌曲集「冬の旅」の中の6曲をハスリンガーのところへ持って行き、6グルテン持ち帰った――当時1グルテンは1フランの価値があった。この心酔者たちに取り巻かれた彼に会うと、初対面の人でも彼の友人たち同様魅惑されてしまうのであった。(サー・ジョージ・グロウヴの手紙より)

トビーアス・ハスリンガーが「冬の旅」の各リートに1グルテンずつしか支払わなかったということは、信じがたい。彼は同じ年にフェルディナント(シューベルトの兄)に、いわゆる「白鳥の歌」の13曲の遺作リートの対価として210フローリン支払っている。(上記に対する編者註)

(シューベルトは)1828年11月11日には床につかざるをえなくなった。危険な病状になっていたにもかかわらず、彼は苦痛を感じることはなく、ただ虚脱感のみを訴えていた。絶えず彼は歌を口ずさんでいたが、時折うわごとをいう状態になることもあった。明るいわずかな時間を使って、彼はまだ「冬の旅」第二部の校正をしていた。(ヨーゼフ・フォン・シュパウンの手紙より)
 サー・ジョージ・グロウヴが、手紙の中で、ハスリンガーをシューベルトの心酔者の一人としているのは特筆される。シューベルトを取り巻く出版社は、おしなべて逆風的勢力として扱われているが、そんな中にあって、これは実に興味深い記述である。また、友人のラッハナーがシューベルトの意向を受けて「冬の旅」の楽曲を切り売りしたことに対し、編者のドイッチュが、「そんな安い金額とは信じがたい」といっているのも興味深い。ドイッチュはハスリンガーを、"シューベルトの作品に適切な対価を支払うまともな出版者"と見做しているのである。
 そして、何といってもシュパウンの手紙である。シューベルトを最後まで見守り続けた真の友人である彼の証言には大いに真実味がある。
 シューベルト死の年、1828年には、交響曲第8番ハ長調D944(加筆完成)、3つのピアノ曲D946、弦楽五重奏曲ハ長調D956、ミサ曲第6番変ホ長調D950、ピアノ・ソナタ第19番ハ短調D958、第20番イ長調D959、第21番変ロ長調D960、歌曲集「白鳥の歌」D957など夥しい数の傑作が書かれている。そんな中で、最後の最後まで手を入れていたのが「冬の旅」だったのである。シューベルトが「冬の旅」第二部の清書稿をハスリンガーに渡したのは9月25日だった。渡したあとも亡くなる11月19日ぎりぎりまで、彼は最後の精力をその校正に費やしていたのである。まるで、愛するわが子に遺言を残すように。


 2011.02.05 (土)  シューベルト歌曲の森へP なんてったって「冬の旅」10
                  <「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その1>
(1)「辻音楽師」の調性における定説

 「冬の旅」第24曲「辻音楽師」 Der Leiermann は、異様なまでに深く、不思議な魅力を湛えた楽曲である。「冬の旅」の最後に位置したこの曲の中で、主人公の若者は初めて生身の人間に出会う。"音楽師"などというが、なんのことはない乞食手回しライアー(ハーディガーディ)弾きである。氷の上を裸足でよろめくように歩いている。ライアーの音は鳴り止むことはないが、小さな盆は空のままだ。寄りつくものは野良犬だけ。若者は、彼に向かって話しかける、「不思議な御老人 僕の歌に合わせてライアーを回してくださいますか」と。この台詞こそ、絶望的な「冬の旅」の最後に若者が発した言葉であり、みすぼらしい辻音楽師こそ、旅を通して関わった唯一の人間なのである。

 渡辺美奈子著「ヴィルヘルム・ミュラーの詩作と生涯」の中に、「辻音楽師」の調性に関するこんな記述がある。
(「辻音楽師」を)シュ−ベルトは、このようにロ短調で作曲し、前奏に複前打音を使用していた。だが清書譜の右上の方に、出版者ハスリンガーの手書きで、大きく「イ短調に」in a-molと書かれており、出版譜はイ短調に移調された。前打音は各最初の1つだけが記されている。・・・中略・・・「辻音楽師」は、ハスリンガーによりイ短調への移調が決定されたのである。
 これは「辻音楽師」の調性に関する核心的な記述である。引用した「ヴィルヘルム・ミュラーの詩作と生涯」は渡辺氏の博士論文で、そのストイックなまでに高度な実証性と鋭い洞察力は、格調ある文章と相まって、本書を比肩するものなき高みに押し上げている。この部分、他の著者の記述も、内容的には、大同小異だ。具体例として、梅津時比古著「冬の旅〜24の象徴の森へ」も引用しておこう。
先に見たようにエルマー・ブッデの研究によって、手稿譜から初版への変更がシューベルト自身の手によるものか、出版者のハスリンガーの手になるものか、厳密に分けられている。「辻音楽師」をイ短調に変更したのはハスリンガーであり、シューベルトの意思ではない。
 二人の記述の中に、楽譜に関して、"清書譜""出版譜""手稿譜""初版"など、様々な呼び方があるので、ひとまず整理しておきたい。
 「冬の旅」には幾つかの楽譜が存在する。まず、シューベルト自身が書いた楽譜でこれを自筆譜と呼ぶ。自筆譜には初稿と清書稿がある。初稿は、文字通り最初の原稿でこれには多くの書き込みがなされている。清書稿は出版社に渡すために本人が清書した原稿である。初稿で残っているものは、1「おやすみ」、8「かえりみて」、12「孤独」を除く第一部楽曲9曲のみで、第二部12曲は清書稿しか残っていない。あとは実際に出版された出版譜があり、第一部は1828年1月に、第二部は同年12月末、第一部と合わせた形で出版されているが、第一部二つの出版譜には、調性含め若干の違いがある。・・・以後、この呼称に統一して述べてゆきたい。(「ヴィルヘルム・ミュラーの詩作と生涯」を参照)

 以上の考察から「辻音楽師」の調性についての定説を、次のようにまとめることができる。

シューベルトが「ロ短調」に決めた「辻音楽師」の調性は、出版者のハスリンガーによって「イ短調」に変えられた

 この説の根拠は、"清書稿に「イ短調に」と書き込んだ筆跡はハスリンガーのものである"ということだけである。不思議なことに、"ハスリンガーの動機"については、納得ゆくものを見聞きしたことがない。にもかかわらず、とにもかくにも、これが定説となっているのである。

(2)「クラ未知」的考察

   私がこの説に全面的に賛同できないのは、ハスリンガーに動機が見当たらないからである。清書稿にはシューベルト自身の書き込みとハスリンガーのものが混在している。両者の識別は筆跡鑑定から容易に可能だろうが、問題は、検証がここで止まっていることだ。シューベルトの手書きによるものは彼の意思だが、ハスリンガーの手によるものはシューベルトの意思ではない、という結論を出して。
 確かなことは唯一つ、in a-mol(イ短調へ)の筆跡はハスリンガーのもの、ということだけである。これだけのことで、"ハスリンガーの意思"と決め付けるのは、短絡的過ぎはしないか? ハスリンガーに確固とした動機が見当たらない以上、変更はハスリンガーの意思ではない可能性がある、と私は考える。では誰の意思なのか?シューベルトか、それとも・・・。しばし、動機探りの旅にお付き合いいただきたい。

(3)シューベルトが、「辻音楽師」を、まずはロ短調に決定した経緯

 シューベルトは、1828年9月25日、友人ヨハン・バプティスト・イェンガーに宛てた手紙の中で「『冬の旅』の第二部は、もうすでにハスリンガーに渡した・・・」と書いている。死の2ヶ月ほど前のことだ。第一部の清書稿は1827年10月に完成しているが、この頃には第二部の作曲は終わっていたようだ。したがって「第二部」清書稿の完成には10ヶ月以上も費やしたことになる。「辻音楽師」の調性はこの過程の中で決定していったのである。

 調性の変更という観点から、第一部で問題となるのは、10「休息」と12「孤独」である。これらは自筆譜では両方ともニ短調で書かれていた。渡辺美奈子氏は、調性を1「おやすみ」(ニ短調)と同一にすることで、「冬の夜の旅立ち」「炭焼き人の家での休息」「街中での疎外と孤独」という叙事的詩句内容に強い結びつきを与えるため、との(この時点における)見解を示している。ところがシューベルトは最終的に、10「休息」をハ短調に、12「孤独」をロ短調に変えた。これについては、渡辺氏は、「第一部の出版を前にした頃には、既に第二部の作曲が終わっていた可能性がある。24『辻音楽師』をロ短調にしたため、シューベルトは『孤独』を音域の問題からロ短調に下げてもよいと判断したか、あるいは『孤独』がロ短調になったため、『辻音楽師』をロ短調に合わせたのかもしれない」と、第二部との関連によるものと推測している(「ヴィルヘルム・ミュラーの詩作と生涯」より)。即ち、シューベルトは、前後半最終曲を同じ調性にすることで、「冬の旅」の歌曲集としての統一を図りたかった、と考えられる。

(4)シューベルトを取り巻く出版界の状況

 楽譜出版社と作曲家との関係には、共栄と相反が入り混じっている。お互い売れるに越したことはないが、出版社は少しでも安く買い入れ、作曲家は少しでも高く売りたいのは、時代が変っても道理は同じである。ことにシューベルトの場合は、他の作曲家のように演奏会で稼いだり、貴族のお抱えになって給料をもらうなどということがなかったから、収入のほとんどは楽譜の売り上げに頼らざるを得なかった。モーツァルトやベートーヴェンは客の呼べる演奏家だったし、バッハやハイドンは教会の音楽長や貴族のお抱え音楽師として安定した収入の保証があった。彼らに比べると、シューベルトの楽譜出版社への依存度は、比較にならないくらい高かったのである。そんなシューベルトと楽譜出版社の関係を示す有名な手紙があるので、要約して掲載してみよう。
貴簡を拝受して実に驚いております。私はたしかに、以前のいきさつから、貴社のかならずしも正直でない意図に気づいてはおりましたが、やはりこのたびのことはさもありなんというほかはありません。貴殿は、この度、オペラの総譜のコピー代として150フローリン請求してこられましたが、先日、貴殿は口頭で100フローリンにしかならないとおっしゃっています。しかし、百歩譲って記載の通りだとしても、これまでの私の作品のあのように極めて安い値踏みと、直近の「幻想曲」の50フローリンという値段を考え合わせれば、これは、私に課せられている不当な負債を補ってあまりあるもの、といわざるを得ません。私は、貴殿がこのように余りにも人間的な心をお持ち合わせでないのではと、大変に疑うものであり・・・最後にお願いです。貴殿が預かっておられる私の全作品の草稿を、印刷されたものもされないものも、すべて返送してください。敬具。
 これは大手出版社カッピ&ディアベリ社へ、1823年4月10日に送った手紙である。「幻想曲」とは名曲「さすらい人幻想曲」のこと。生活のため耐えに耐えてきた出版社への怒りが、遂に爆発したのである。この一件から、出版社が、シューベルトからただ同然で名曲を買い叩き、清書の費用まで請求している事実が浮かび上がってくる。しかも最初は委託販売だったことも判明している。このあたりの事情について、アルフレート・アインシュタインは「シューベルト音楽的肖像」(浅井真男訳 白水社)の中でこう述べている。
憤慨しても仕方がない。われわれはただ悲しむだけである。天才を認めることはむずかしいし、シューベルトの天才は、出版者を見いだすにはむしろじゃまになったのである。出版者たちが彼から欲したものは、商売になる売れ行きのよい商品だったのである。しかし、彼の死の年に出版された「変ホ長調 ピアノ三重奏曲」D929を例外とすれば、彼の重要な器楽作品の大曲が一つも印刷されなかったということは、彼のすべての作品の"市場価値"の判断に影響したのであって、それをよいことにして出版者たちは、シューベルトをいつまでも有望な新人のまま扱って、報酬を低く抑えていたのである。
 当時の作曲家のステイタスは、出版業者にとっては、楽譜が売れる器楽曲が書けるかどうかにかかっていた。シューベルトの器楽曲は彼らのお眼がねには叶わなかったため、彼は死ぬまで"有望な"新人扱いだったのである。これが彼を取り巻く出版界の実情だった。アインシュタインが、「われわれはただ悲しむだけである」と書いた気持ちがよく判る。次回は、シューベルトとハスリンガーとの関係にフォーカスしてゆきたい。
 2011.01.20 (木)  閑話窮題――地デジ化の効用
 昨年秋、我が家もやっとテレビ回りのデジタル化を果たした。それまで、「VHSで過不足なくやっているのに、なんて面倒な」と政府方針には不満と不信の塊だった私であるが、使い始めたらすぐにデジタルの便利さに目覚めてしまった。今となっては、「こんな便利なものをなぜもっと早く・・・」と悔やむ始末、現金なものだ。
 そんなわけで、デジタル化元年の年末年始はブルーレイ・レコーダーで様々な番組を撮りまくって楽しんだ。「ウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサート」「2009メトロポリタン4題」「N響の第九」「東急ジルベスター・コンサート」NHK「ニューイヤー・オペラ・コンサート」「バーンスタイン没後20年特番」などなど。

 「ウィーン・フィル・ニューイヤー」は、曲目が規格外だった。アンコールは例によって「美しく青きドナウ」〜「ラデツキー行進曲」という定番の流れだが、本割で知ってる曲は皆無。凄まじいばかりの渋さだった。でも、私はこれには大賛成。ウィンナ・ワルツはどうせ耳障りはいいのだから、「えっこれ何?」みたいな初めて聞く曲の連続のほうが刺激があっていい。指揮のウェルザー=メストは、昨年ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任した中堅のホープ。無駄のない動きとオケの自発性を優先する音楽作りは高感度大だが、前年のプレートル爺さんに比べると流石に面白みはなく、貫禄の違いは歴然だ。余談だが、案内役のNHK中條誠子アナは凛として品がいい。
 「東急ジルベスター」の呼び物は、年越しの名曲カウントダウン。今年はマーラーの「復活」だった。生誕150年から没後100年への架け橋は、コバケンさんの指揮で見事にジャスト・ランディングを果たした。前年は井上道義指揮の「ラプソディー・イン・ブルー」だったが、確かコチラはチョイズレだったと記憶している。裏では恒例ジャニーズ・カウントダウンが盛況裡に行われておりました。もう一度余談だが、進行のTX大江麻理子アナは知的で面白い。現在マイ好感度ナンバー1女子アナだ。
 「ニューイヤー・オペラ」の収穫はソプラノの砂川涼子くらいか。声がよく伸びて安定感ありだ。あとは、ピアニスト、アリス・紗良・オットが、リスト生誕200年に因んだ演目「リゴレット・パラフレーズ」を弾き、喝采を浴びていた。初めて聞くこの曲、「女心の歌」を今か今かと待ちわびていたら、何のことはない、そのまま終わってしまった。拍子抜け。アリスは1988年生まれだからまだ22歳。美人で可憐、腕も確かなピアニストとくれば人気が出て当たり前、2011独グラモフォン・クラシック・カレンダーの正月は彼女である。若くて美しいピアニストといえば、2010ショパン・コンクールの優勝者ユリアンナ・アヴデーエワも1985生まれなので25歳。マルタ・アルゲリッチ以来の女性優勝者だそうだ。N響とのショパン「ピアノ協奏曲第1番」を聴いたが、歌心あって瑞々しい。これまた好感度大。またまた余談だが、この番組進行役の女優板谷由夏も清潔感ある知的美人、なかなか good でした。

 昨年はショパン生誕200年に因んだ様々な番組が見られたが、「ショパンに挑戦」なる、ピアノ素人芸能人が猛特訓でショパンを弾くという趣向の特番がNHKで二つほどあった。一つは人気漫才チュートリアルの徳井義実でもう一つは俳優の長谷川初範。ちなみに「初範」はショパンをもじっているほど、長谷川はショパン大好き人間なのだそうだ。両者の先生は、偶然(?)我が国 No.1 人気女流ピアニスト仲道郁代さん。二人とも数週間で(甘く見れば)なんとか様になるパフォーマンスに仕上がっていた。そこで私も発奮、 彼らに出来てこの私に出来ないわけはない!なんてったってピアノは昔とった篠塚だ。"ピアノを買ってショパンを弾こう"と決めました。ピアノといっても電子ピアノ、ショパンといっても「ノクターン変ホ長調作品9−2」で、時期はといえば5年後に。なぜ5年後かって? 今は「クラ未知」探求が面白すぎて手が回らないからであります。

 1月13日は、恒例・年に一度の中島みゆき詣での日。会場はフォーラムAホール。ここ数年「夜会」と「ツアー」のテレコだが、今年はツアーの番だった。「時代」は別格として、私のみゆきフェヴァリット・ソングBest3は「誕生」「歌姫」「二隻の舟」であります。「誕生」は2007年に、「歌姫」は2005年のツアーで演っているので、今回は「二隻の舟」が聴きたいと思っていたら、やってくれました。

    ♪あえなく私が 波に砕ける日には
      どこかでおまえの舟が かすかにきしむだろう
      それだけのことで わたしは海をゆけるよ

 これ、「二隻の舟」の一節だが、3行目「それだけのことで」がたまらなくいいのだ。似たようなことをジャズ・ピアニストの秋吉敏子さんが言っていた。「お金というのは一番大切なことは解決してくれないけれど、たいていのことは解決してくれる」と。一番大切なことというのが「それだけのこと」じゃないかと思う。これを知人に言ったら「いや、金はすべてを解決してくれるよ」と切り返された。そうかなあ。人それぞれ!
 みゆきさんの素晴らしい歌詞はそれこそ数多ありすぎて、いちいち書いてはいられないが、"さりげなくいい"タイプのもう一つの極めつけは、「蕎麦屋」の一節 ♪あのね、わからない奴もいるさって・・・であります。主人公(みゆきさん本人)になにか面白くないことが起こると、いつも同じ男友達から計ったように連絡が来て、二人で蕎麦屋に行く、「だれが何した」と言ってもいないのに、いつもサラっと言ってくれるこの台詞。なぐさめるでもなく、押し付けもせず、説教がましくもない、二人の間にはなんともいえない安らかな空気が流れていて、実にいい感じなのです。
 中島は、ステージで「小林さん(バンマス)のラインが私より客席寄りに出てるのはネ、私って時々歌い出しを忘れちゃう。バカだから。だもんで、そんなとき横目でチラッと合図が見られるようにそうしているの。皆さんに気づかれないようにネ」なんて企業秘密を平気で喋る。でも彼女のことをバカだと思っている人は、少なくともフォーラム5000人の聴衆の中には一人もいませんヨ。「今回のツアーから、途中に休憩を入れましたが、これは高齢のお客さんのトイレ・タイムのためデスよ」とか「ディナーショウはやりません。お客さんが食べてるのに、私だけ歌ってるって、なにか割が合わないし、もし食べながら歌ったらシッチャカメッチャカよね」なんて、まるで自然な日常会話。衣装は、尻尾なんかつけたアイドル真っ青のド派手なドレス。それが歌い始めたら人の心釘付けの歌を歌いきる。このギャップが凄くて面白い。だから彼女はいつも女神なのだ。もうあと少しで御歳59歳なのに、声が出ること出ること。ボイ・トレの成果か、若い頃よりも高いほうが出ているそうだ。かのフィッシャー=ディースカウだって、今の中島と同い年で録音した「冬の旅」(ブレンデルがピアノ)なんか、若い頃のに比べると(24曲中)6曲で音を下げて歌っているのに。さらに、彼女は、これだけアーティストとしても人間としても女性としても魅力的なのに、噂が皆無。これもある種不可解。

 不可解といえば、昨年末に見た NHK-BS「リーマン予想 天才たちの150年の闘い〜素数の魔力に囚われた人々」は、難解だったがファンタスティックだった。基本テーマは「素数」(Prime Numbers)の並び方。この1と自数でしか割り切れない整数は、2、3、5、7、11、13、17・・・と果てしなく並ぶ。そしてこの並びには脈絡がない。続けて出ることもあれば、長いこと出なかったりもする。例えば 31397 の次の素数は 31469 で、その空白は 72 にも及ぶ。だがしかし、この"一見なんの脈絡もない素数の並びには、ある法則があるはずだ"と唱える数学者が出てきた。
 一人目はスイスの天才数学者レオンハルト・オイラー(1707−1783)だ。彼の創造したオイラーの等式 eiπ + 1 = 0 は、人類の至宝といわれる数式だ。自然対数の底 e と円周率 π と虚数 i 、三者の連動に最小の整数 1 を加えて 0 になるというこの式は、意味は解らないまでも、その並外れた佇まいの美しさは実感できる。e も π も定数だが、小数点以下無限に数字が並ぶ。i は自乗すると −1 になるという実体感希薄な数字。そんな掴みどころのない3つの数字が重なり合って最小の整数1を生み出している。なんという不可思議さ、美しさ。ワケは理解できずともその姿形は実にファンタスティックだ。
 オイラーは、素数で作ったある積の形を、πを使って数式化することに成功した。史上初めて素数の背後にある神秘に触れたのである。
 次はドイツ人カール・フリードリヒ・ガウス(1777−1855)だ。彼は、素数の並びを、オイラーが π を使って解明しようとしたのに対し、自然対数によって関連付けようとした。円周率は小学校で習うし、自然対数も、螺旋の起点からの距離と長さの比だから、二人の試案はとりあえず理解可能な範疇にあるが、問題はベルンハルト・リーマン(1826−1866)である。

    ゼータ関数の非自明な0点はすべて一直線上にあるはずだ

 これが数学史上最大の難題といわれるリーマン予想 The Riemann Hypothesis で、1859年リーマンによってなされた。ゼータ関数は、素数を使った積数の式。素数 p と連続する整数 n で表される。リーマンはこの式から導かれる図表のすべての 0 点は一直線上に並ぶと予想したのだ。これが証明されれば、一見不規則に見える素数の並びにはある種の規則性が認められるのである。予想から 150 年余り、幾多の数学者が挑戦するもすべて撥ねつけられている史上最大の難題なのである。ところが近年、原子核エネルギーの間隔とゼータ関数の 0 点の間隔が同じ式で表されたことから、俄かに量子物理学と素数との関連が注目されるようになってきた。その流れから、「非可換幾何学」によって素数の間隔を解明する新たな動きも出てきている。あくなき探究の暁に、いつの日かリーマン予想が正しいと証明されたならば、"ミクロの世界から宇宙にいたる自然法則の基本は素数の何がしかによって成り立っている"という壮大な概念が形成されることになるかもしれないのだ。そんな森羅万象の神秘に迫りうるリーマン予想とは、なんてエキサイティングな事象なのだろう。

 いやはや、こんな風に書いてはきたものの、これらは肌で感じるだけで、理解度は極めて低いといわざるを得ない。自分が理解するためにあれこれ書いてはきたものの、内容誤認から見当はずれの筋立になっている危険性もありうる。そのあたり、気づいた方は遠慮なくご指摘ください。でもまあ、これまでよりは多少でも感じ方に実が入ってきたような気もしている。理解度些少でも、面白さの実感が増してきたことだけは間違いない。これも地デジ化の効用? まあ、ひとまずはこれでよしとしよう。
 「冬の旅」の枕にと思って書き始めた今回の「クラ未知」ですが、膨らみすぎて枕が本文になってしまいました。では、リフレッシュしたところで、次回から本題に戻ろうかと思います。

 2011.01.10 (月)  シューベルト歌曲の森へO なんてったって「冬の旅」9
                                        <いかがなものかこの本は!>
 2010年はシューベルトに終始した一年だった。ピアノ・ソナタ、交響曲第8番「グレート」、ミサ通常文の謎、歌曲の森と、数々の未知なるものに遭遇できて、実に有意義な一年だったと思う。特に最後、オー・ヘンリー「最後の一葉」が「冬の旅」の「最後の希望」と関連付けられたのは、まさに「クラ未知」的で嬉しかった。ただ、これはまだ状況証拠からの推論に過ぎず、もう一歩の突込みが不足している。今後の課題として残しておく。
 とはいえ、「一葉」&「希望」の解明過程で、石井宏先生の訳文と甲斐貴也さんのWeb-Siteに遭遇できたのは大きな収穫だった。一方、面白い本にも遭遇した。今回はその本について書かせていただくが、これは清教寺の十八番ジャンル"いい加減な輩タタキ"に属するものだ。では早速、四方田千尋著『シューベルト 歌曲の森』(嬰風舎)を検証してゆこう。タイトルの「シューベルト 歌曲の森」は、私「クラ未知」現在のサブタイトルと同じだが、これは無論、全くの偶然である。
この異様な変ホ短調の作品と、O.ヘンリーの短編『最期の一葉』とが、趣向も題名も似通っているのは偶然なのか?『春の夢』での'ガラス窓に描かれた木の葉'とセットで考え出されたようにも思えるが、今は、かの小説にある"悲しきヒューマニズム"を語っている余裕はない。(125頁)
 おっと、いきなり「変ホ短調」だが、これは「変ホ長調」の間違いである。歌唱パート最初の音がハ♭で、2小節目のラ♭を ♮ にして♭と戻し、3小節目で初めて主調の変ホ長調が出てくる・・・という無調風の旋律なので、聴感上「短調」と感じても無理からぬことかも知れないが、これは紛れもない長調曲。最後の和音[ミ♭-ソ-シ♭]は「変ホ長調」の主和音、ゆめゆめお間違えのないように! でもまあ、これはケアレス・ミス、大目に見よう。まあ、訂正だけは入れておいてください。それはさておき、オー・ヘンリー「最後の一葉」を"悲しきヒューマニズム"などという安っぽい文言で片付けた挙句に、「語る余裕はない」などと放置するのは、いかがなものか。私、肩透かしを食らわせた上に、偉そうな物言いいをするこういうタイプの文体にムカつくものであります。がしかし、このテーマ、そう簡単に解明できるわけもなく、ここもまあ、勘弁しておきましょう。但し、次はまずい。質・量共に見逃せない。ここは「冬の旅」の演奏評の部分で、少々長いけれども引用させていただきます。
この歌集では高次元の深い洞察に基づいた歌の陰影が求められる。その点、ハンス・ホッター盤が最適[DG]と言われ続けてきたが、低音用に転調した箇所も多く、終止、読経を聞く感じもする。その上テンポも異常に遅い。第1曲「お休み」では、ヒュッシュ盤[EMI]が4分強であるのに対し、6分半近くを要しており、ましてや変な所で息継ぎも聞かされては、たまったものではない。声が低いのと深みのあるのとは別の次元のはなしであり、混同めさるな!また、主人公はうらぶれているとは言え、まだ青年であることを忘れては困る。それゆえ半狂乱に陥るわけであり、悟り切った様子で歌われるのは、何やら抹香臭くていけない。(133頁)
 可哀相に!ハンス・ホッターさん、ボロクソである。私もホッターの「冬の旅」はそれほど好きではないので、著者の気持ちは分らぬではないが、この文章、余りにも酷すぎる。これではホッター側から「アンタには言われたくない!」と抗議の大合唱必至だろう。  まず、「低音用に転調した箇所が多い」は大間違い。転調とは、曲の流れの中で調性を変えることで、この場合は"原調のままでは歌えないので、調を移行した"ことゆえ、これは「移調」と言うのです。こんな楽典の初歩の初歩の用語をゆめゆめお間違えなされるな。また「箇所」とはどういう理解なのだろうか?まさか、"曲中のある箇所で調性を変更する"なんてことをお考えになったわけではないでしょうね。移調なので「箇所」ではなく「曲ごと」なのです。それに続く「終止、読経を聞く感じ」って何のこと? 曲終わりが読経になるってこと? いや、ここは「終始」ですよね。ただの誤植。そして、第1曲は「お休み」じゃなくて「おやすみ」です。有給休暇取得を推進する労務課員じゃあるまいし、「Good Night」のことですから「おやすみ」でしょう。私、第1曲をこう表記する人に初めて出会いました。それから、「若さゆえに半狂乱に陥る」という言い様はどうでしょうか。何か、当事者能力なしと言われているようで、主人公が可哀相。私には、この若者は絶望しながらも何かしら微かな光みたいなものを求めていると思えるし、また、そんな若者を秘かに応援したくもなるのですが、これはまあ、感じ方の問題ゆえこれまでにいたしましょう。さあ、極め付けはこのあとです。

 著者は、「ヒュッシュの歌唱が4分強なのに対して、ホッターのは6分半近くも掛かっている。・・・中略・・・たまったもんじゃない」と述べておられる。これのどこがおかしいのか?それでは説明させていただきます。
 ゲルハルト・ヒュッシュがこの「冬の旅」を録音したのは1933年、SPレコードの時代。SPレコードの片面には4分15秒くらいまでしか収録できない。第1曲「おやすみ」は、フル・コーラスを歌うと、どう頑張っても5分半ほど掛かってしまう。両面にまたがってフル・コーラスという選択肢もあっただろうが、最終的に、第2節をカットして一つの面に収めることにしたのである。流れを大事にしたかったのだろう。その上さらに全体のテンポを上げて4分ソコソコで仕上げたのだ。もう、お分かりでしょう。著者は、フル・コーラスを歌うホッターと第2節を省略したヒュッシュという全く別条件の演奏を、それを考慮に入れずにソノママ演奏時間を比較するという、とんでもない過ちを犯してしまったのです。
 LPレコードの登場が1948年。国内盤は1951年、ワルターの「第九」(WL5001/2コロムビア盤)でした。SPレコードは、LP登場からしばらくの間併売されていたから、少なくとも1950年代あたりまでは現役として存在していた。著者の経歴欄には、1941年生まれとありますから、SPを知らないはずはない。また、垂れ流さずに聴けば、ヒュッシュが第2節を省略しているのは簡単に分かるはず。しかも、私の所有するEMI国内盤の対訳には、第2節の歌詞がそのまま書かれていて、親切にも「ここは省略されています」との注意書きが添えられている。だから、普通は間違えようがないですよね。一体どこでどう勘違いされてしまったのでしょうか。常識で考えても、この程度の長さの曲で、片方がいくらテンポが遅いからといって、2分以上も違うことに、何の疑問も持たなかったのですかね。私にはまるで信じられません。まあ、百歩譲って、単に間違えただけならまだ許せるのですが、これをベースに「声が低いのと深みがあるのとは別次元のはなし」とか「悟りきって歌われるのは抹香臭くていけない」とか「主人公が青年であることを忘れては困る」など、例によって偉そう表現のオン・パレード。挙句の果ては「混同めさるな!」ですって。混乱してるのはあなたのほうじゃないですか!

 オマケをもう一つ。
「だが、シューベルトは本来テノールの音域で作曲しており、人生の何たるかを知悉する前、無残にも『死に至る病』ならぬ『死に見放された狂気』に堕ちていると解するのがふさわしかろう。その点では、ロホロヴィッツ(T)とフェンダーによる命がけの編曲盤[BMG]も聴いてほしい」(133頁)
 文意も流れも変だが、それはさておき、この「本来テノールの音域で作曲」という部分が正確には正しくない。実は、当時の標準ピッチ(concert pitch)は今よりもかなり低かったのだ。現在のようにAのピッチが442Hzに統一されたのは1930年のロンドン会議でのこと。それ以前は1859年のパリ会議で決められた435Hz。さらにそれ以前は各国マチマチで、ドイツは415、イタリアは465、フランスは392だったという。(何故このような変遷を辿ったかについては未研究につき今後の課題としたいが、この事実は学者の研究によって証明されている)。したがってシューベルトの時代のウィーンのピッチは、現在よりも(442―415=)27Hz低かったのである。この数値は音程的にどれくらいのものかといえば、1オクターブが220Hzなので、半音は(220÷12=)18.3Hzとなり、したがって当時のピッチは現在よりも半音以上低かったことになる。しかもシューベルティアーデで演奏する場合など、そう頻繁にピアノの調律はできなかっただろうから、もっと低かった可能性が強い。「冬の旅」の初演者は作曲者の親友ヨハン・ミヒャエル・フォーグル(1768−1840)で、彼は美しいハイ・バリトンだったという。シューベルトは「冬の旅」を、彼の音域を想定して作ったわけだから、そのキイを現在にスライドさせると、テノールのキイになってしまうのである。
 私は、バリトン歌手が「冬の旅」を、シューベルトが作った原調で歌えないのはなぜだろう? 何といってもフィッシャー=ディースカウが最高なのに・・・と、かねがね、疑問を抱いてきた。そのご本人も、その著書の中でこう書いていた。
初演者フォーグル以来この曲集はバリトンのためのものとされてきたが、近年、ピーター・ピアースらテノールが「原調」で歌うのは歓迎すべきことである。「シューベルトの歌曲をたどって」原田茂生訳 白水社刊)
 彼こそが、「冬の旅」の深遠さを最高に表現していると思われるのに、「原調」で歌えるのはテノールだと述べている。恐らく、標準ピッチが当時より上昇していることに気づいていないのだろう。「原調」=シューベルトが想定したキイこそ、実は彼の音域にピッタリなことを本人自身が自覚していないのである。
 シューベルトが定めたキイは、標準ピッチの上昇により、当時はバリトンを想定していたものが、(そのままスライドさせると)現在ではテノールしか歌えないようになってしまっている。このことから、「冬の旅」はテノールで歌われるのが相応しいと考えている識者も未だに多いようだ。彼らは、感性よりも理屈を優先させてしまっているのではないかしら。
 当時の「原調」に合わせるには、現代のキイを半音強〜一音程度下げなければならないことはもうお分かりだろう。シューベルトが想定したキイは、やはりバリトンのためのものだったのである。だから、フィッシャー=ディースカウの「冬の旅」が最高なのは、理屈に合っているのである。四方田氏が「本来テノールの音域」と言っているのは間違いで、「本来バリトン」、谷亮子流に言えば「昔もバリトン、今でもバリトン」なのである。(以上、「冬の旅」のキイについての基礎知識は、いくつもの顔を持つバリトン歌手・キャラバリ田辺とおる氏からご教授いただいたものだ。)

 四方田氏には、ピッチの変化にまではいいとして、少なくとも、ヒュッシュの「おやすみ」に於ける節の省略と、初歩的な音楽用語の使い方くらいは把握していて欲しかった。 彼は、「冬の旅」の章をこんなオリジナルな句で結んでいる。
「冬の旅」垂れ流し聴く罰あたり
 "垂れ流し聴く罰当たり"はどなたなのでしょうか? そんな方には、アントン・ルービンシュタインのこんな言葉をお贈りしたい。
あなたの指が鍵に触れる前に、その曲をどう弾くか、心のなかで考えておかなければいけない。(「音楽家の名言」檜山乃武編・著 ヤマハ・ミュージック・メディア刊より)
 私は、これを「ものを書く前に、その著述をどうするのか、シッカリ資料を検証し考えておかなければいけません」と換言して贈らせていただく。檜山氏が書かれたこの本には、このほかにも、古今東西の大作曲家・名演奏家の格言・箴言が多数解説付きで収録されている。プロ・アマ問わず、およそ音楽に携わる人には、実に有益な著作である。四方田氏には、この本をジックリと読んでいただき音楽の基本をシッカリと身につけていただきたい・・・と切に希望するものである。


 2010.12.25 (土)  シューベルト歌曲の森へN なんてったって「冬の旅」8
                          <「最後の一葉」は「最後の希望」がべース の根拠>
 オー・ヘンリーの名作「最後の一葉」で、病気の女主人公が窓外の木の葉に命の希望を託す というシチュエーションは、シューベルト「冬の旅」の第16曲「最後の希望」に酷似している。これは、「最後の希望」の和訳が二通りあることに気づいたのがキッカケだった。思えば、この「クラ未知」のスタートも「フィガロの結婚」二通りの歌詞(rispettoとdispetto)の発見だった。歴史は繰り返す。
 本年度最終回は、オー・ヘンリーはもしや「冬の旅」に触発されて書いたのか?という、いささかセンセーショナルなテーマに迫ってみたい。アメリカ文学の鬼才の最高の人気作品が、ドイツ・リートの最高峰とつながっている・・・なんと湧々するテーマではないか!

(1)作品の類似点

@ テーマの酷似

 「最後の一葉」の病気の女主人公ジョーンジーは、窓外を見ながら「あの葉っぱの最後の一枚が落ちるときに私は死ぬの」と同居している女友達スウに話す。「最後の希望」の主人公は「ああ、葉が大地に落ちたら 共に希望も潰えるのだ」と詠う。その前段には「僕はその一枚の葉を見つめ、それに僕の希望をかける」とあるから、シチュエーション的には全く同一ということになる。(下記「掲載詩」参照)

A 始動の相似

 「最後の一葉」における"葉っぱ"の最初の状況に関する文章はこうなっている。
壁には枯れたような蔦が一本、中ほどまで這い上がっている。・・・中略・・・ジョーンジーは「だんだん落ち方が早くなってきたわ。三日前には100枚もついていたから、数えるのに骨が折れたのに。」と言ったが、その声はほとんど聞きとれないくらいに小さかった。(石井宏訳)
 これに対して「最後の希望」の冒頭は、「あちこちの木立の枝に何枚もの色づいた葉」となっている。表現は、片や「100枚」、片や「何枚もの」であるが、最初はたくさんの葉が付いていたことに変わりはない。
 ところで、これについては、「希望」側に面白い現象がある。この部分、シューベルトはミュラーの詩を変更していたのである。参考のため「最後の希望」全訳を再度掲げる。
あちこちの木立の枝に 何枚もの色づいた葉が見えている
僕はその木立の前で 時折思い沈み立ちつくす

僕はその一枚の葉を見つめ それに僕の希望をかける
風が僕の葉にたわむれれば 僕は震えられる限り震える

ああ、そしてその葉が地に落ちると それと一緒に希望も絶える
僕も地面にくずれおれて 僕の希望の墓に泣き伏す
                            (石井不二雄訳)
 冒頭の「何枚もの色づいた葉」 Manches bunte Blattは、ミュラーの原詩では「未だ残る一枚の葉」 Noch ein buntes Blattだったのだ。
 この詩のストーリーを追うと、「あちこちの木に付いている何枚かの色づいた葉の中から、一枚だけを選び出し、その一葉に(落ちないでくれと)願いを懸ける。その葉が落ちてしまえば僕の希望も潰えるのだ」ということになる。
 一方オー・ヘンリーの「一葉」では、「100枚ほどあった葉が、徐々にその数が減って、遂には最後の一枚になってしまう。この葉が落ちたときに私は死ぬの」と女主人公は発想するのである。100枚が12枚、5枚と段々に減ってくるという状況が、死に向かう微かな緊迫感を生んでもいる。もし、ミュラーが書いたままに最初から1枚だけだったなら、この展開はない。無論、ヘンリーは、この「ミュラー→シューベルトの変更」までは知る由もなかっただろうが。また、シューベルトがなぜこの変更をしたかについても、定説はないようだ。

B ベアマンとライアーマン

 渡辺美奈子さんのウェブ・サイト「『冬の旅』覚え書き」Noten zur Winterreise 2008の「最後の希望」にこんな文章がある・・・「『角笛吹き II』で、この詩はちょうど前半の最後に置かれており、生と死の境にあって震えている葉は、最後に氷の上を裸足でよろめいている『辻音楽師』Der Leiermannに通ずるものを感じます」
 これは、(ミュラーの原詩では)前半最後におかれている第12篇の"揺れる葉"と後半最後・第24篇の"よろめく人間"とは相通ずるものがある、と述べているのだ。実に鋭くも示唆に富んだ指摘である。では「最後の一葉」を考察してみよう。

 オー・ヘンリー「最後の一葉」にはベアマンという老人が登場する。女性二人の階下に住み、画家を目指すも挫折し、いつか傑作を書くといいながらもう何年も絵筆を握っていない惨めな老人である。年齢は60歳くらいだ。彼のセリフを英語の原文から拾ってみよう。「ジョーンジーが、庭の蔦の葉っぱの最後の一枚が落ちたら、死ぬって言っているの」と、スウから告げられたときに、ベアマン老人が発するセリフの一部分である。
"Vass!"he cried."Is dere people in de world mit der foolishness to die because leafs dey drop off from a confounded vine? I haf not heard of such a thing.・・・"

「何たと。この世の中に、枯れた蔦の葉っばが落つたくらいて死んじまう人間かいるか。そんなの聞いたことねえぞ・・・」(石井宏訳)
 一見してお分かりの通り、ベアマン老人の英語はなにか変である。太字で示したVはW 、dはth、fはveが英語として正解なのである。この他にも、pとb、dとtも入れ替わっている。石井宏先生によると、これはドイツ訛の証だという。ベアマンの"――マン"も、ドイツ人としては一般的な姓のようだ。そこで、結論・・・ベアマンはドイツ系移民の一世として描かれている。そして、推論・・・オー・ヘンリーは、画家崩れの落伍者ベアマン老人にドイツ訛を喋らせることにより、シューベルト「冬の旅」最終章に出てくる世捨て人音楽師「ライアーマン」に擬えたのではないか?
 「最後の一葉」のベアマンBehrmanは、自らの命と引きかえに人生最後の傑作を描き、病気の女性を救う。「冬の旅」の「ライアー回し」Der Leiermannは、はぐれ者の「わたしの唄にライアーの調べを合わせてくれないか」という最後の願いを聞き入れてやる。双方とも"人生の落伍者による人助け"という共通項。すべて状況証拠ではあるが、"この符合やいかに"である。
 なお、英語の原文は石井宏先生からお貸しいただいたものだ。そのとき一緒に先生の全編和訳も添えられてきた。これが実に見事なもので、市販の訳とは次元の違う逸品なのである。そこには、原作者の人間を見つめる優しい目線、登場人物の生活感と其々の心のつながりが的確に表現されていて、読むものを当時のニューヨーク下町へと誘ってくれるのである。

(2)オー・ヘンリーの人生から「冬の旅」との接点を推量する

 オー・ヘンリーは、1862年9月11日、医者の息子として、アメリカはノースカロライナ州グリーンズボロで生まれた。教育者の叔母の影響で、本大好きの所謂文学少年だったという。彼は、「私は13歳から19歳の間に、これ以後のいかなる時期よりも多くの書物を読んだ」と語っている。医者の父親が発明に凝って医療を顧みなくなったため、息子は薬剤師になり家業を助けた。
 その後、1882年、父の代わりにグリーンズボロに赴任したホール医師の勧めにより、一家はテキサス州の州都オースティンに移住した。オー・ヘンリーの空咳が悪化したためである。身を寄せたのはホール医師の長男リーが経営する牧場だった。
 斎藤昇著「『最後の一葉』はこうして生まれた」(角川学芸ブックス)には、「テキサスには、かつて大量のドイツ移民が流入した経緯があるので、オースティンの住民の多くは音楽や文学を愛好するドイツ系アメリカ人だった」という重要な記述がある。さらには、リーの弟ディックはドイツ語の心得もあり、牧場では何人かのドイツ人が働いていたそうである。ここに現れた"音楽・文学・ドイツ"というキイ・ワードにこそ、 オー・ヘンリーと「冬の旅」の接点の大いなる可能性ではないだろうか。
 その後、ヘンリーは、1896年、オハイオ銀行勤務時代に公金横領の罪で逮捕される。動機は、掛持ちしていた風刺週刊誌出版会社の赤字の穴埋めとされた。
 1898年から3年間の服役生活を送るが、その間は模範囚として、刑務所内外での取材や執筆も許可されていた。1901年、釈放。1902年からは単身ニューヨークに移り住み、本格的に作家活動を開始する。主な発表の場は「ニューヨーク・ワールド」紙だった。
 そして遂に、1905年10月15日、「最後の一葉」が「ニューヨーク・ワールド」日曜版に掲載された。オー・ヘンリー自身が書いた副題には、「オールド・ニューヨークに住む二人の若い女性画家と、生涯の終わりに美しくわが身を犠牲にした老いた落伍者の物語」とあった。
 ここで、注目すべき事実がある。1902年、ウィルヘルム・ミュラーの「ソネット」が、1903年には「日記、手紙」が、ハットフィールド社から出版され、ニューヨークを中心にミュラー研究熱が高まったといわれている。好奇心が強く探求に貪欲な彼が、ミュラーに興味を持ち、代表作品「冬の旅」に辿り着いた可能性は十分あると思う。

(3)エピローグ

 オー・ヘンリーと「冬の旅」の接点を探る旅もそろそろ終わりに近づいた。「最後の希望」をフィッシャー=ディースカウ&ムーアのモノラル盤で聴く・・・ピアノの前奏が、無調風にひらひらと舞い落ちる枯葉を表現する。淡々と歌うバリトンの声が、最後には崇高な祈りとなって突き刺さる。「ライアー回し」を聴く・・・真ん中の音が抜けた不安定な和音が虚無的に響く中、世を捨てたライアー弾きがふらふらと氷上を歩く。そんな年老いた世捨て人に、世の中から疎外された他所者は最後に自分の唄の伴奏を依頼する。ミュラーの原詩集では12番目と24番目のこの二曲を聴いていると、オー・ヘンリーは「冬の旅」を知っていたとしか思えなくなる。病気の女主人公を冬のさすらい人に、画家崩れの老いた落伍者をライアー回しの老人に、擬えたとしか思えないのである。

   究明中に奇妙な符合に気がついた。「最後の一葉」で、女性主人公は、少なくなった葉っぱを、実際に数え始める。
ジョーンジーは大きな目をあけていた。窓の外を見ながら何かを数えている。その数え方はふつうの逆だった。「12」と言ってからしばらくすると、「11」と言った。
 なんと、12から数えている。ミュラーが決めた「最後の希望」の通し番号12から!これは単なる偶然だろうか?恐らく偶然だろう。しかし、「12、11・・・」と普通にカウント・ダウンせずに、「12と言ってからしばらくすると」・・・と、12を特別な数字でもあるかのように括っているのである。もしや、彼はこれに暗号を込めたのではないか―― オー・ヘンリー・コード?
 そんな楽しい想像をしていたら、もう一つ、嬉しい符合が見つかった。オー・ヘンリーの生まれた日は9月11日。なんと911は、「冬の旅」の作品番号D(ドイッチュ)911と符合したのである。オットー・エーリヒ・ドイッチュ(1883−1967)が「シューベルト年代順作品表題目録」を完成したのは1951年。タイトルにあるようにドイッチュ番号Dは作品の完成順だから、これこそ単なる偶然である。がしかし、この符合は、真相解明に懸命になってトライした私への神様からのクリスマス・プレゼントのような気がして、なんとなく嬉しくなった。

 では、皆様、佳いお年を!年初もまたシューベルトでお会いいたしましょう。


 2010.12.10 (金)  シューベルト歌曲の森へM
                      なんてったって「冬の旅」7 <シューベルトとオー・ヘンリー>
 「冬の旅」に魅せられてから、それに関するCDや本などを結構購入しており、現在そのライブラリーは「冬の旅」のCDが20種、シューベルト関連本が6冊ほどになっている。そんな折、第16曲「最後の希望」の日本語訳が二通りあることに気がついた。
[A]
あちこちの木立の枝に 何枚もの色づいた葉が見えている
僕はその木立の前で 時折思い沈み立ちつくす

僕はその一枚の葉を見つめ それに僕の希望をかける
風が僕の葉にたわむれれば 僕は震えられる限り震える

ああ、そしてその葉が地に落ちると それと一緒に希望も絶える
僕も地面にくずれおれて 僕の希望の墓に泣き伏す
               (石井不二雄訳 F.ディースカウCD対訳より)

[B]
ちらほらと木々に 色づいている葉も見える
そんな木下に立ち止まり よく物思いにふける

一枚の葉を見つめ 希みを託す
風が僕の葉をもてあそぶから 体の震えがとまらない

ああ、その葉が地に落ちた 希みも消えた
僕もくずれおれ 希みの墓に泣き伏す
                 (梅津時比古訳「冬の旅24の象徴」より)
 [A]ではまだ葉は落ちてはいないが、[B]では落ちてしまっている。ライブラリーをすべて検証したら、石井不二雄、西野茂雄、甲斐貴也各氏はA、梅津時比古、喜多尾道冬両氏はBという仕分けになった。
 前回までに書いたとおり、ミュラーは希望を捨ててはいない。シューベルトだって生きたい気持ちに変わりはない。それが[B]では完全に希望がついえてしまっている。私は、まだ微かに希望が残る[A]であって欲しいと思った。辞書片手に解読を試みるも、ドイツ語にまるで弱い私には判別がつかない。そこで、困ったときの石井宏先生である。早速「先生、一体どちらが正しいのでしょうか?」と便りを書く。その間、インターネットで「冬の旅」と「最後の希望」を当たっているうちにもの凄いサイトと執筆者に遭遇した。

 「梅丘歌曲会館」というWeb-Siteがあって、そこに「この詩、わたしは風に翻弄された枯葉が地面に落ちる場面の描写と思い込んでいたのですが、ミュラーとシューベルトの研究者渡辺美奈子さんによる"文法的に見て明らかに葉はまだ落ちていない"という見解に眼を見開かれたところです」という文章があった。これを書いたのは甲斐貴也さん。「梅丘歌曲会館」の主宰者で超弩級の歌曲通だ。文中にある渡辺美奈子さんには「ヴィルヘルム・ミュラーの詩作と生涯」という博士論文があって、これは甲斐さんの会社「銀杏堂」で直販していた。渡辺さんも自身のHPを持っており、その中に「『冬の旅』覚え書き」Noten zur Winterreise2008というコーナーがある。双方を読んでいたら、このお二人はもの凄い方々だということが分かってきた。とにもかくにも深いのである。調査可能な資料にはくまなく当たっているから、その実証性は桁外れに高い。詩の読みの深さといい、曲への切り込みの鋭さといい、文脈の精緻さといい、わたしが持っている「冬の旅」本すべてを凌駕する高みに達している。これしかないと手拍子で渡辺美奈子著「ヴィルヘルム・ミュラーの詩作と生涯」を購入してしまった。大枚1万円! でも全然高くない。ミュラーの側から見た「冬の旅」成立史として、これは世界でも類を見ない秀逸な文献だと思う。甲斐さんへ、着荷の連絡とともにこの事をメールしたら、「間違いなくそうでしょう」との返信をいただいた。中味が濃すぎて読破するのに時間は掛かるが、今後「クラ未知」の中で折にふれてとり上げてゆきたいと思っている。

 甲斐さんの文章はこう続いている。「さて、ミュラーの原詩では残された最後の一枚の葉でしたが、それが落ちる場面がないことも含め、ますますオー・ヘンリー『最後の一葉』に酷似することになるのが興味深いところです。年代から見てヘンリーが『冬の旅』を知っていたことは十分考えられますし、かつては名声の高かったミュラーの詩集を目にした可能性もゼロではないと思います」
 へえ、短編の名手オー・ヘンリー(1862−1919)の名作は「冬の旅」の「最後の希望」をヒントにした可能性があるのだ。これぞまさに「クラ未知」的! そこで、甲斐さんには、ミュラー詩集とオー・ヘンリーとの関連について、渡辺美奈子さんのHPも踏まえて、質問メールを打った。分からないことは達人に聞くに限る。

 そうこうしているうちに、石井先生から返事が届いた。先生はメールをなさらないので郵便である。
 「ここは『もし、あの葉が落ちたら、そのとき私の希望も失せてしまうのだ』の意味。『落ちた』なら過去形で書かれていなければならないが、これは現在形なので、もし(wenn)が省略されているのです。ドイツ語ではよくある表現です。故人ですが石井氏は東大独文科の助教授。片や梅津さんは毎日新聞の記者。やはり石井氏のほうが正しく訳していますね。ところでオー・ヘンリーという小説家に『最後の一葉』という素晴らしい短編がある。読んでごらんなさい」
 わが意を得たり、そして、またもやオー・ヘンリー、何たる遭遇! ならばもう「最後の一葉」を読むしかない。即、角川文庫「オー・ヘンリー傑作集@」(飯島淳秀訳)を入手即読。あらすじは以下の通り。

 ニューヨークはグリニッチ・ヴィレッジの画家村と呼ばれる一角に、スウとジョーンジーという画家志望の二人の女性が住んでいた。仲良しの二人は三階の部屋で共同生活をしている。ところが、そのうちの一人ジョーンジーが、当時猛威を振るっていた肺炎に罹ってしまう。医者はスウに「相当悪い。気分が滅入ったら、助かる見込みはない。」と宣告する。医者の言を知ってか知らずか、ジョーンジーは、窓の外を見やり「今見えてる葉が全部落ちたときに私は死ぬの。この強風じゃもうすぐね。たくさんあった葉がもう12枚・・・・」などと、友達を困らせる弱気な発言。 彼女たちの階下には、常々「いつか傑作を書いてやる」と言いながら未だ何の成果もあげていないベアマンという画家崩れの老人が住んでいる。彼もこの流行病に掛かっていた。スウからこの話を聞いたベアマンは、「あんないい人が、『葉っぱが全部おちたら死んじゃう』なんてつまらんこと言ってるんか、ばかも休み休み言えってんだ」と憤る。その晩ジョーンジーが、遂に最後の一枚になった葉を見て、「今夜は落ちるわ。私は死ぬの」と言って眠りについた。その夜はすごい嵐になった。翌朝、起きたジョーンジーに「ブラインドを上げて」と促されたスウが、恐る恐るカーテンを開けると、なんとまだ葉っぱ残っているではないか。それを見とめたジョーンジーは、俄然元気が出たのだろう、「ナポリ湾を描きに行きたいわ」と持ち続けている夢を語り出したりもした。明らかに気持ちが上向いている。往診に来た医者は「これで助かる望みは五分五分になった。あとはあんたの看病次第じゃ」とスウに耳打ちした。「だが、階下の住人の方は見込みがない。今日入院させる」とも。翌日、医者はジョーンジーを診て「危機は脱した。あんたが勝ったよ」と嬉しい報告をしてくれた。その日の午後、病院でベアマンが息を引き取ったことを聞いたスウは、ジョーンジーに向かってこう言った。「今日ベアマンさんが肺炎で亡くなったの。入院してたったの二日でね。入院した日の朝方、大家さんが、ずぶ濡れになって廊下にうずくまっていたベアマンさんを発見したんですって。あんなひどい嵐の晩に一体どこに行っていたのか?・・・誰にも分からなかったんだけど、私には分かったの。梯子はいつものところから外してあって、部屋には、まだ火のついたランタンと黄色と緑の混ざった絵の具の付いたパレットがあったっていうから。あなた、よく見てごらんなさい。あの葉っぱ、さっきから風が吹いてもちっとも揺れていないでしょ。あれはね、ベアマンさんが書いた絵なの。あなたを励ますために書いた彼の最後の傑作なのよ」

 世間からはぐれてしまった頑固な老人が、自分の命と引きかえに書き残した最後の作品で、若い女性の命を救う。なんとも感動的な物語である。反芻すればするほど「最後の希望」のシチュエーションと重なってくる。オー・ヘンリーは「最後の希望」をベースに「最後の一葉」を書いた、と確信的に思えてくるのだ。
 2010.11.29 (月)  シューベルト歌曲の森へL
                          なんてったって「冬の旅」6 <「冬の旅」は僕の分身>
シューベルトの手紙その四「遂に完成したよ」(1827年10月31日)

 親愛なるシュパウン君、「冬の旅」が遂に完成した。思えば今年の1月にミュラーのテキストに出会って以来、早10ヶ月が経過したんだね。「第一部」(前編)12曲は僕の唄で君にも聴いてもらっているよね。そのときはみんなポカーンとしていたが、そのあとフォーグルに歌ってもらったりしているうちに、だんだんにこの曲集が好きになってきてくれたよね。ところが今月に入って、僕は「第二部」(後編)を見つけた。これが24篇の「完成版」として発表されていて大いに困惑したことは、前にも書いたとおりだ。そんな中、やっと僕の中で整理がついて、曲作りに集中できるようになったのは君への便りを書いた頃だった。こうなればしめたもの。「第二部」12曲を完成するのに、さしたる時間は掛からなかったよ。もう出来ちゃったのだから、今度のティアーデあたりで聴いてもらえばいいのだけれど、君には、どうしてもいま話しておきたいんだ。しばし付き合ってくれないか、手短に書くから。

 「第二部」は「郵便馬車」から始まる。これはミュラーのテキストでは6番目の詩だ。まず、調性はメイソン調性の定番♭3つの変ホ長調にした。リズムも3拍子系の6/8拍子。これで「第二部」の開始は乗りのよい明るい曲調になった。無論これはフリーメイソン、ミュラーへのオマージュでもある。だから、このあとのメイソン番号の詩には特に意識して曲を付けた。それにしても、彼がこの詩を「菩提樹」と「あふれる涙」の間に入れているのを見たときは、えらく戸惑ったよ。つい先日のことなのになにか大昔のような気もする。
 次なるメイソン番号曲はテキスト12の「最後の希望」(僕の16)。"希望"を託した最後の一葉は、まだ首の皮一枚でつながっている。「落ちたら泣こう」とは言っているが、葉が落ちてないのだからまだ泣いてはいない。第一部では「凍った涙」や「あふれる涙」」なんかで泣きまくっているのにね・・・。調性は再度メイソン調性の変ホ長調にしたけれど、無調風に危うい感じを出してみた。枯葉が落ちるようにね。もしかして「最後の希望もついえた」と勘違いする人も出てくるかもしれないが、締めの和音を聞けばそうでないことが分かると思う。拍子は3/4拍子で作った。
 15「まぼろし」は、「郵便馬車」と同じく、最終段階でミュラーがメイソン順番に割り込ませた詩だ。"躍る光に敢えて惑わされてみよう"なんて感覚は、まさにメイソンを感じさせるよね。僕のでは19番目のこの曲は、6/8拍子のゆったりと流れるようなリズムに乗せて優雅で美しいメロディを付けてみた。聞く人が美を感じるか妖気を感じるかは自由だ。耽美的という人もいるかもしれないね。調性はイ長調、これは♯が3つ。
 ミュラーが「幻の太陽」を「春の夢」の前に割り込ませたために「春の夢」は21のメイソン番号になった。この流れに於ける意味合いは前回の手紙に書いたけど、旧作であるこの曲は♯3つのイ長調と6/8拍子で書いていたんだ。もちろん無意識だったけど、なにか運命的なものを感じる。もう一つ僕が指摘しておきたいのは、13「村にて」でミュラーは「わたしはすべての夢を見果てた」と書いていること。だから、そのあとに「春の夢」を持ってくることは、明らかに矛盾することになる。言葉に敏感な彼がこんなことに気づかぬわけがない。それでも敢えてやったとしたならば、彼にはどうしてもこの「幻の太陽」―「春の夢」から終末までに向かう流れが欲しかったという、これは確かな証拠だと僕は思う。前回書いた「宿」→「鬼火」の不自然さと共にね。
 「幻の太陽」はテキストの20だからメイソン番号ではないけれど、"3つの太陽"が沈むというテーマだ。ミュラーが直接3というメイソン数字を使っているんだから、僕も応えないわけにはいかない。そこで、調性は♯3つのイ長調で拍子は3/4にした。 因みに、テキスト9「かえりみ」と18「鬼火」は「第一部」の曲だが、其々3/4と3/8と三拍子系なんだ。これで、6、9、12、15、18、21、24はすべて三拍子系になったよ。もちろんこれは偶然だけど、なんとも不思議な符合だと思う。
 一番気になった「勇気」は、最もメイソン的な詩なんだが、テキストでは23番目。僕の曲集では22曲目だ。だから、数字には拘らずに曲調で押しまくったよ。あたかもフリーメイソンへの入会の歓びを歌うような力強い行進曲風にした。バカチョンにならないように短調にはしたけどね。こういうのは考えすぎないでストレート勝負がいいんだ。これもまあ、「幻の太陽」と入れ替えたから出来たことだけど。

 ここで、一つ書き落としていたことを話しておこう。ミュラーは4「氷結」の詩を書き換えていた。

    あの人が私の腕にすがって 緑の野を歩き回った跡を
                  ↓
    一緒に野を通り 私たちがしばしば散策した ここ

 ミュラーはなぜか少し醒めた表現に変えている。この曲のポイントは、このあとに続く節の後半「私の熱い涙で 雪と氷を溶かしつくそう」にあってね。僕は、この部分高いA♭を一点使いして熱い気持ちを込めた。書き直した詩ではこの思いが生きてこない。だから僕は改訂前のままにした。これをことわっておきたかったという訳だ。

   さあ、いよいよ24「ライアー回し」だ。これはミュラーのテキストも僕の曲集も同じ最後に置く文字通りの終曲。6曲目以降双方で同じ番号を持つのはこれだけだ。僕はこの詩が、「冬の旅」という未曾有の連作歌曲集の最後を飾るものであって、本当によかったと思っている。この詩の中に、歌 Liedern という言葉が最初で最後に出てくるからだ。この言葉を見つけたときの僕の気持ちをなんといって表現したらいいのだろう。「幻の太陽」で唯一残った太陽とは「歌」だったんだと確信した僕の心の震えを、シュパウン、君ならきっと分かってくれるはずだ。この言葉を見つけた瞬間、曲付けは終わったも同然だったよ。調性は開放調短調のイ短調にした。♯も♭もない無の世界を作りたかったからだ。聴いてくれれば分かるけど、ピアノの左手は常に空虚五度[ラ・ミ]の和音を打ち続けて最後まで止まることをしない。ピアノの右手と歌は大詰めまで決して交わることなく進む。56小節目の"私の歌に"meinen Liedernのところで初めてライアーと歌が交わるんだ。ピアノの右手はラとド、歌はミでね。そう、この曲の主和音ラドミがそこで初めて形成される。不安でしかなかった空虚五度の和音が最後の最後で解決を迎えるのだ。

    Willst zu meinen Liedern Deine Leier dreh'n?
    私の歌に お前のライアーのしらべをあわせてくれるだろうか?

 これで僕の話は終わりだ。「冬の旅」を完成させて、その勢いで君に手紙を書いた。「第一部」は来年早々出版が決まったが、「第二部」はいつになるだろう。まだまだ細かいところを修正する必要がありそうだしね。
 いずれにしても、この曲集は僕が書いた今までのどの作品よりも気に入っている。詩の内容にも真に共感した。テキストとも奇妙な出会い方をして、そのお陰でこれほど盛る器の形を考えさせられたことはなかった。そして、身も心も自分のありったけを注入して作ったよ。難産だったからこそ愛着も深い。そう、「冬の旅」は僕の分身だ。君を含め、ティアーデの仲間にはすぐにも聴いてもらいたい。きっと僕が言っている意味が分かってくれると思う。そして、君たち以外の人たちへも、広く大きく伝わっていくことを確信している。

                                          君の親密な友人 フランツ・シューベルト


 2010.11.19 (金)  シューベルト歌曲の森へK
                         なんてったって「冬の旅」5 <これですべてが読めた!>
シューベルトの手紙その三 「『勇気』の位置を替えよう」(1827年10月25日)

 シュパウン君、元気ですか。そういえば、今年のいつぞやに、みんなでショーバーの家に行き、君たち仲間に「冬の旅」前編を僕の唄で聴いてもらったことがあったよね。歌い終わったらみんな押し黙っちゃって、しばらくしてショーバーが「『菩提樹』だけは気に入った・・・」と一言やっと呟いた。それを受けて僕が「この曲集はどの曲にも増して気に入っている。君たちもいずれは気に入ってくれるだろう」と言ったこと、憶えているよね。今「後編」を作るに当たって、この気持ちは少しも変わってない。
 さて、「勇気」の意味がフリーメイソンをキイにして解くことができたのは、前回お話ししたとおりだ。ミュラーがフリーメイソンだったのは事実だし、この観点から「完成版」を更に見直してみたいので、もうしばらくお付き合い願いたい。

 「完成版」が発刊される少し前、ミュラーは10篇で続編を発表していたらしい。そこに2曲を追加して、全24曲の「完成版」ができたわけだが、その2曲とは「郵便馬車」と「まぼろし」だったというんだ。僕はこの事実から、ミュラーがフリーメイソンとして12+12、すなわち3の倍数であるメイソン数字に拘ったことを確信したよ。そう思って、テキストの順番を改めて眺めてみた。「郵便馬車」と「まぼろし」は6番目と15番目に置かれている。まさにメイソン番号だ。内容も明るくメイソン的ではないか。さらにその他のメイソン番号に嵌まっている新作を見てみると・・・12は「最後の希望」で、"希望"はメイソンの基本理念に通じる。内容は確かに絶望的だが、首の皮一枚で止まっている。希望は死んではいないんだ。24「ライアー回し」には、初めて登場する"人間"に問いかけるという詩集唯一のシチュエーションがある。このように、メイソン番号6、12、15、24に嵌まっている新作は、何気にフリーメイソン的ではないか。21の「春の夢」は旧作だが、その前にわざわざ新作の「幻の太陽」を入れたのは、数字的な意味合いのほかに、もっと大きな理由があるのかもしれない? あれやこれやと考えていたとき、急に僕の中に閃くものがあった。そうだ、ミュラーは「冬の旅」という暗くやるせないよそ者の悲劇を、僅かな希望を見出しながらなんとか踏みとどまって生きようとする前向きな流れに変えたかったのではないか。続編を作っている最中に、彼に何らかの変化が生じ、心中に強烈なメイソン的衝動が走ったのではないだろうかってね。ちょっと読みすぎかもしれないけれど。

 「前編」では、ひたすら死をみつめるよそ者の疎外感しか感じなかった僕だが、「完成版」ではなにかしら希望を帯びた前向きな姿勢を感じるのだ。そのポイントは、20「幻の太陽」から終末に向かう流れにあると僕は見た。
 「幻の太陽」は"(三つある太陽のうち)一番いい二つはもう沈んでしまった。あの三つ目の奴も沈んでさえくれれば! 闇の中にいる方が私はよっぽど快いだろう"と結ばれる。三つある太陽が全部沈むのを願ってはいるが、一つは残っているんだね。厳然として残っている。これらについては、あとになっていろいろ言う輩が出てきそうだなあ。ウーン、例えば、三つとはキリスト教精神に則れば「信仰」「愛」「希望」だとか、残っているのは何なのかとかね。僕はこういう議論はあまり意味がないと思う。それは読んだ(聞いた)人が其々感じとればいいんじゃないかなあ。では僕はどう解釈するか?残っている太陽とは何かといえば、それはあとに続く21「春の夢」の「夢」だったり、22「孤独」の「風」や「嵐」、23「勇気」の「勇気」だと単純に考える。 だから、「幻の太陽」を20に置くことで生きることへ向かう前向きな姿勢がつくられるのさ。ミュラーはこの流れを作りたかったんじゃないだろうか。
 僕が決めた「後編」の順番では、終盤は22「幻の太陽」23「勇気」24「ライアー回し」となる。これだと「幻の太陽」で残った一つの太陽には「勇気」も含まれることになる。これは僕にはたまらないんだ。僕だって勇気を持って生き続けたい。だけど、それは100%不可能なんだ。君も知っての通りね。シュパウン、もう一度「勇気」という詩を読んでくれたまえ。この異端児のような詩をラス前に置いて、「ライアー回し」に繋げられるだろうか? 24「ライアー回し」の最後で、主人公は物乞い音楽師に"私の歌に お前のライアーのしらべをあわせてくれるだろうか?"と問いかける。「歌」という言葉が初めて出てくるんだ。僕がひたすら歌を追求してきたことは、みんなも知るとおりだ。最後に残った太陽は「歌」でありたい。「勇気」はいらない。意味合いからも音楽的流れからも、僕はどうしても「幻の太陽」と「ライアー回し」を直接繋げたいんだ。それには「幻の太陽」と「勇気」の位置を入れ替える必要がある。22「勇気」23「幻の太陽」24「ライアー回し」という順番に変えることだ。
 この流れなら僕の気持ちにピッタリと合致する。ミュラーが作ったフリーメイソン的前向きな流れが、歌を残してこの世に別れを告げる(なければならない)僕の流れに変わる。しかも、「前編」と「後編」其々の順番は、テキストのと変えずにすむ。「幻の太陽」と「勇気」を入れ替えるだけで。

 もうひとつ話しておきたいことがある。僕は「道しるべ」の中の言葉を一つ変えさせてもらった。「道しるべ」にはstraBe(道)という単語が2回出てくる。こういう形で・・・
Was vermeid ich denn die StraBe
なぜ、わたしは他の旅人たちの行く道を避けて・・・(第一節第一行)

Eine StraBe muss ich gehen
一つの道を私は行かねばならない(最終節最後から一行前)
 ミュラーにとって、最初にでてくる道は他人の道で、最後の道は自分の道だ。僕はこの二行を眺めていてふと思った。反対に僕のほうから見れば、他の旅人というのはミュラーで、最終節のは自分じゃないかってね。すると最初の道がミュラーの行く道で、最後のは自分の行く道ということになる。straBeは普通の道、wegには小道というほかに人生の道という意味がある。ミュラーの道は彼が切り開く人生の道だからweg。私のは宿命として決められた道だからstraBeのままでいい。しかもその道は「だれ一人帰ってきたことのない道」なんだ。だから第一節のほうだけをこう変えた。
Was vermeid ich denn die Wege
 こうすることによって、ミュラーの道wegは、「道しるべ」を基点に「宿」−「幻の太陽」−「春の夢」−「孤独」−「勇気」−「ライアー回し」へと連なってゆくことになる。生きるという意志を持って。一方、私は宿命という決められた道straBeを歩まねばならない。いや、歩むしかない、「幻の太陽」−「ライアー回し」という流れの中を。第一節のstraBeからwegへの書き換えは、僕の歌曲集にミュラーの意志を乗せることになるし、「道しるべ」からのミュラーの流れと僕の流れとは決定的に違うんだということを、僕のほうから意思表示することにもなるんだ。
 続く「宿」は「道しるべ」とは切っても切れない関係にある。「道しるべ」にしたがって行き着いたところが墓場という「宿」だったんだからね。宿の主に宿泊を拒否された主人公はこう言う「それならば、さらに旅を続けることにしよう」とね。彼が、この台詞をいやいや言うか、前向きに言うか?どちらを採るかは読む人の自由だけれど、ミュラーの意図は後者だったんじゃないだろうか。ここにも第一部とは違う彼の姿勢が現れていると思う。だから、僕は、この部分は、心もち行く手に希望が見えるようなエンディングにするかもしれない。彼の意思を尊重して。シュパウン、これで僕なりにすべてが読めた! さあ、あとは曲作りに邁進だ。

                                           君の忠実な友人 フランツ・シューベルト


 2010.11.10 (水)  シューベルト歌曲の森へJなんてったって「冬の旅」4 <シュ−ベルト戸惑う>
 ミュラーは、「冬の旅」前編12篇を1823年1月に発表したあと、後編10篇を経て1824年3月に完成版24篇を発表した。私が興味を持ったのは、「完成版」が前篇から僅か1年3ヶ月後に発刊されたという事実である。シューベルトが前編を知ったのは1827年初頭、完成版発刊から3年も経っているのであるから、彼がいきなり「完成版」に出っくわしたとしても全然不思議はないのである。もしシューベルトが最初に完成版に出会っていたならば、その順番で曲作りをしたに決まっている。それは、今とはかなり違う形の「冬の旅」になっていたことだろう。ところがミューズの神の悪戯はそうはさせなかった。そのお陰で、連作歌曲集「冬の旅」は今の曲順に収まり今の曲が付けられた。私たちは、この神の采配にただただ感謝するしかない!!
 前回は、ミュラー完成版の仕上がり過程を検証した。今回はそれに出会ったシューベルトがどのようにして後編を完成させたかをたどってみよう。ここは普通に書くより、彼に語ってもらうほうが面白そうだ。そこで、ウィーンの寄宿学校=コンヴィクト時代からの親友で、リンツ出身の官吏ヨーゼフ・フォン・シュパウン(1788−1865)に手紙を書く、という形で展開してみたい。彼は当時ウィーンにいたので、実際にシューベルトが手紙を書くことはなかったから、枠組みはフィクションである。が、中身は史実を外さずに書くのは当然である。
 ではまず、それに先立ち、ミュラー/シューベルトの対照表を掲載しておこう。
  
シューベルトミュラー
  1 おやすみ  1 おやすみ
  2 風見の旗  2 風見の旗
  3 凍った涙  3 凍った涙
  4 氷結  4 氷結
  5 菩提樹  5 菩提樹
  6 あふれる涙  6 郵便馬車
  7 川の上で  7 あふれる涙
  8 かえりみて  8 川の上で
  9 鬼火  9 かえりみて
10 休息10 霜おく髪
11 春の夢11 からす
12 孤独12 最後の希望
13 郵便馬車13 村にて
14 霜おく髪14 嵐の朝
15 からす15 まぼろし
16 最後の希望16 道しるべ
17 村にて17 宿
18 嵐の朝18 鬼火
19 まぼろし19 休息
20 道しるべ20 幻の太陽
21 宿21 春の夢
22 勇気22 孤独
23 幻の太陽23 勇気
24 ライアー回し24 ライアー回し

シューベルトの手紙その一「ほんとうにびっくりしたよ」(1827年10月10日)

 親愛なるシュパウン君。元気ですか。僕は正直あまり体調はよくない。でもそんなことが吹っ飛ぶくらいの出来事に遭遇した。ショーバーからミュラーの「冬の旅」を紹介されたのは今年の1月だった。僕は読んだとたんに虜になり一気に曲を書き上げた。楽譜の最後に「終り」ENDEという文字を入れたくらいだから、この詩集に続きがあるなんてその時は夢にも思わなかったよ。ところがつい最近、僕は彼の「旅する角笛吹きの遺稿詩集」の中に、「冬の旅」完成版なるものを発見したのだ。それは新たに12篇が加えられた全24篇からなるもので、しかもその順番は新しく替えられている。あの「冬の旅」に続編が・・・という驚きと歓び、24編まとめて順番が変わっているという戸惑いが、僕の頭をひどく混乱させてくれたよ。
 それにしても、この詩集との因縁はいったいなんなのだろうね。聞けば、最初の12篇に出会った年初の頃には、完成版24篇は既に出版されていたというではないか。最初からこちらに出会っていれば、こんな苦労をしなくてもすむのにね。でもまあ、これが運命というものだろう。
 さて、どうしたものか?僕はまず、順番を眺めてみた。そうしたら気づいたんだ。一見バラバラのようでいて、この順番にはちゃんとした筋が通っているってね。いいかい、貼付した表を見てくれたまえ。ミュラーは前編(もう曲付けが済んでいる12篇をこう呼ぼう)の順番は一切変えていない。そして、そこに新たに作った12篇を差し込んでいったんだよ。
 これなら、前編の曲はそのままにして、この順番どおりに後編の曲作りをやるのはそれほど難しいことじゃない。これがもし完全にバラバラなら作り終えている楽曲すべての調性を見直さざるをえないけど、この形なら4箇所だけを検討すればいいからだ・・・一旦はこう考えた。でもすぐに断念したよ。それは、5菩提樹―6郵便馬車―7あふれる涙の3曲の流れが、決定的にネックだと分かったからだ。ここはね、僕の調性は、5菩提樹・ホ長調―6あふれる涙・ホ短調と並べている。昔を懐かしむ「菩提樹」はホ長調で、苦渋を描く「あふれる涙」はホ短調、即ちホの同主調で繋げてるんだ。それが、ミュラーは、なんとこの間に「郵便馬車」を入れたんだぜ。もっとも、彼は僕の曲を聴いてるわけじゃないのだから、仕方がないことだけど・・・。その上「郵便馬車」は"街道から郵便馬車のラッパが聞こえてくる。彼女の住む町から来たのだ"という内容で、「菩提樹」とは同傾向の明るめの詩だ。「菩提樹」ホ長調―「郵便馬車」?−「あふれる涙」ホ短調と並ぶのだ。「郵便馬車」をどう作る?・・・これには策が見当たらないよ。それにしてもミュラーはなんだってこんなところに「郵便馬車」みたいな詩を入れ込んだんだろう?
 17「宿」と18「鬼火」の繋がりもちょっと理解できない。「宿」で墓場に行き着いて断られたものが、直後の「鬼火」で、「いずれは墓場にたどりつくのだ」なんて言っている。これ自体矛盾はないかもしれないが、直後はないよ。あの繊細なミュラーが、こんな不自然な順番に置き換えるんだから、よほどのことだ。ここまでしてミュラーが示したかったものとはいったいなんだったのか?
 「春の夢」が、新しい詩に押し出されて21番目に行っちゃってるのもネックだった。この詩は、"楽しかった時代を夢に見る"という内容だ。だから明るいイ長調を主調にして曲を書いた。はたして、この曲が終盤に移って馴染むのかしら? それと、この曲の前にもまた「幻の太陽」という新しい詩を置いている。僕が前編12曲の中で長調で書いたのは、「菩提樹」と「春の夢」の2曲だけ。それだけに、これらの前後のつながりには特に気を使って調性を決めたんだ。それがミュラーの完成版では、その2曲の前後に新作が配置されちゃった。よりにもよってたった2曲しかない長調の曲の前後にだぜ。ともあれ、まあ、これは大変なことには違いない。完成版の順序に従うとすれば、ほとんど一から書き直すことになってしまうのだからね。
 そこでもう一度並びを眺めてみた。さっきも書いたように、前編の並びそのものは変わっていない。ならばひとまず、そのまま取り出してしまおう。そしてそこに残った後編をくっつけたらどうだろう。問題は筋立てだが、それは心配には及ばない。この曲集は同じミュラーとの前作「美しき水車小屋の娘」と違い、ストーリー性が希薄だから、この並びにしてもおかしなところは何一つないんだ。というより、むしろミュラーのオリジナルのほうに矛盾があって、僕の順番のほうに整合性があるくらいなんだ。無論これは偶然の為せる業だけど。よし、これだ。これでいこう!
 シュパウン、こう考えたら僕はずいぶん気分が楽になったよ。君も知っての通り、僕の体調は頗る悪い。最近も突然頭痛や吐き気が襲ってくることがあってね。「冬の旅」のようなシリアスな作品に携わっていると、確かに体力も消耗する。正直僕はもうそう長くはないと思う。だから、とにかく全部を書き直さずにすみそうでほっとしている。あとは、後編の曲作りに集中するよ。その前に、前編のテキストの中味を検証するけどね。では、また。

                                                      君の友人シューベルト

シューベルトの手紙その二「『勇気』・・・なんだいこの詩は!」(1827年10月20日)

 シュパウン君、君の故郷リンツは今、どんな様子でしょうか。シュロスベルクでは相変わらずおいしいワインが飲めるのかな? 一昨年、君がいるはずのリンツを訪れたとき、その不在に落胆し、神を呪ったことを今更ながら思い出すよ。先日は、アンナ・ホェーニヒ嬢のお供をしてパーティに出る予定だったのですが、急な体調不良に襲われて断念せざるを得なかった。そんな体調ですが、「冬の旅」は着々と進めている。僕がこれほどまでに入れ込んだ作品は他にはないと今更ながらそう思う。
 前の手紙に書いたとおり、前編12篇を当たってみたよ。結果、変更は数箇所あったので、箇条書きにして僕の対応も書き添えておく。

@ 1「おやすみ」の最終節
通りすがりに、家の門に「おやすみ」と書いてゆく
       ↓
出て行くとき、家の門に「おやすみ」とだけ書いてゆく
A 4「氷結」第1連最後の2行
あのひとが私の胸に抱かれて
緑の野をさまよい歩いたその跡を
       ↓
一緒に野を通り
私たちがしばしば散策した、ここ
B 9「鬼火」第2連2行目 irre Gehen→irregehen

C 12「孤独」第1連3行目 wann→wenn

 @は、彼女の家を通り過ぎるか出て行くかで大きな違いはあるが、変更しない。僕にとって、このシチュエーションの違いはどうでもいいからだ。Aは、意味は同じといえば同じだけれど、ニュアンスが変わってしまう。僕は恋愛の甘さを宿した最初の詩を重んじたい。即ち変更せずだ。BとCはミュラーの変更に従っても大した差異はないからそうしようと思う。
 前編に関しては以上で手直しは終わりにするつもり。「出版は来年1月」とハスリンガーが言ってきたからまだ少し時間に余裕がありそうなので、ほかにも気づいたことがあれば直すつもりだ。

   さあ、あとは後編の曲作りだ。改めて並べてみて、僕は一つの詩に目が行った。「勇気」という最後から2番目の詩だ。君にも読んでもらいたいから書いておこう。
雪が私の顔に吹きつけるなら
私はそれを払い落としてやろう
胸の中で心が何かを告げるときは
明るく陽気に歌を歌ってやろう

心の語りかける声は聞くまい
私は耳なしになってしまおう
心の嘆く声に胸痛めまい
嘆きは愚かな者のすること

勇んで世の中に入っていってやろう
嵐と風に真っ向から向かって!
この地上に神がいまさぬなら
私たちこそ神になろうじゃないか
 どうかね、シュパウン君。なんとも毛色の変わった詩だろう。他の詩では、荒涼とした冬景色とひたすら死を見つめる若者の心中ばかりを描いているのに、この攻撃的な特異性はなんなんだろう。しかもラス前に置いて・・・。僕はいつぞや、ミュラーはフリーメイソンだという話を聞いたことがある。ならばこの詩は納得がいく。彼らは、神の存在を決して否定はしないが、神を奉る今のカトリックのクソ坊主どもとは相容れないだろうしね。僕だってあいつらには尊敬の欠片もないのだからよく分かるよ。
 「嘆きは愚か者のすること」なんて、他の詩とは真向から対立するフレーズだ。「冬の旅」の若者は嘆いてばかりいるんだから。「勇んで世の中に入っていってやろう」も、自らの殻に閉じこもる主人公とは正反対の外交性だよ。極めつけは「私たちこそ神になろう」の件だね。天に神はいる。地上にはいない。ならば俺たちが・・・これぞフリーメイソンでなくてなんだろう。
 正直この詩には、どうしたものかと困っている。だから、しばらく考えてみるよ。そうそう時間もないから、集中してね。彼がこの詩を書きこの位置に入れた込んだ理由が解明できれば、僕はすぐに曲作りに取り掛かるつもりだ。鍵はフリーメイソン。では、また近々。

                                                 君の誠実な友人 シューベルト


 2010.10.28 (木)  シューベルト歌曲の森へI
            なんてったって「冬の旅」3 <ミュラー順番決定の真相>
 前回、「未読が気がかり」と書いたジャック・シャイエ著「『冬の旅』とシューベルトの謎」を読むことができた。それは、「音楽の手帖 シューベルト編」(青土社刊)の中の一論文として、上野は東京文化会館4階の音楽資料室にあった。ここは音楽関係の資料も豊富で、周りも静か。「クラ未知」探求には格好の環境にある。集中しすぎて疲れたら、外は上野の杜・・・西洋美術館、旧岩崎邸、寛永寺、野球場、不忍池あたりを散歩すると、気分もリフレッシュ。そこかしこを、行ったことのないウィーンの森に重ね合わせ、モーツァルトやシューベルト、ベートーヴェン、マーラーに想いを馳せながらそぞろ歩く。私が今、最も至福を感じるひとときである。
 前回の「クラ未知」で、「次回は『勇気』に対するシューベルトの対応へと話を進めよう」と予告したが、シャイエの文章が見つかったので、寄り道してこれを取りあげたい。

 「『冬の旅』とシューベルトの謎」については、梅津時比古著「冬の旅〜24の象徴の森へ」の中に「後半の12曲をフリーメイソンの奥義と結び付けている」という記述がある。シャイエの著作では「魔笛―秘教オペラ」(高橋英郎&藤井康生訳、白水社)が有名で、モーツァルト好きの愛読者も多い。モーツァルトがフリーメイソンで、歌劇「魔笛」はメイソン教義に則ったオペラであることは衆目の一致するとこであるから、これは既成事実の解析本ということで興味深く読めるが、「クラ未知」的スリルはない。これが"「冬の旅」とメイソンとの関連やいかに?"がテーマとなればスリル満点・興味津々である。メイソン関連付け名人シャイエがシューベルトにどう迫るか、期待満々で読んでみた。
 結果は残念ながらスカだった。実証的記述はまるでなく、抽象論に終始し、曖昧な推論から"シューベルトはメイソン会員だった可能性がある"ことを示唆して結んでいる。なるほど、梅津氏が「この説はあまり重要視されていない」としたのも頷ける。
 ところが、収穫は大アリだった。ミュラーの詩の発表の実情が詳細に記されていたからである。これはミュラー「完成版」順番決定の真相につながる! 「敵は本能寺」、♪むなしい恋なんてあるはずがない(中島みゆき「誕生」)だ。

 ミュラーは、1823年1月、「ウラーニア」に「冬の旅」前編12篇を発表したあと、翌1824年3月に、続編の10篇を雑誌「ドイツ 詩・文学・美術・演劇誌」の別冊に発表した。そして2篇を書き加え、後編12篇全24篇とし、新たな順番で並べ替え「完成版」として間をおかずに発表した・・・というのである。因みに10篇の順番は、霜おく髪−最後の希望−からす−村にて−嵐の朝−幻の太陽−道しるべ−宿−勇気−ライアー回し で、後から書いた2篇とは「郵便馬車」と「まぼろし」だった。ミュラーはなんと『冬の旅』を3回に分けて発表したのである。この初めて聞く衝撃の事実を、箇条書きでまとめておこう。

   @ 1823年1月  前編12篇を「ウラーニア」に発表
   A 1824年3月  続編10篇を「ドイツ詩・文学・美術・演劇誌」分冊に発表
   B Aの直後 完成版24篇を「旅する角笛吹きの遺稿詩集」に発表

(1) なぜ一旦は10篇だったのか?

 ミュラーは、最終的には12篇とした「冬の旅」を一旦は10篇で発表していた。この事実は何を物語るのだろうか? 出版社の都合?締め切りに間に合わなかったから?・・・歴史の真実は"ロマンじゃなく卑近"ということが往々にしてあるからして、これもありだろう。でもチョット夢がない。ここは少し大上段に構えてみよう。「ミュラーは、一旦は10篇で発表したものを、即12篇に変えたのはなぜか?」を推理する。

 ミュラーは「冬の旅」の後編を書きはじめたときには、12篇にしようという確固たる意図はなかった。後編を12篇でまとめようと最初から考えていたならば、一旦10篇で発表するはずがないからだ。では、なぜ彼は"10篇を発表した後、間をおかずに新たに2篇を書き足して12篇とし、今度は24篇の完成版として発表する"という奇妙なやりかたをしたのだろうか? それは、数字的に12篇即ち前後編で24篇でなければならない事情が生じたからである。
 1821年、ギリシャはトルコに対して独立戦争を起こす。数百年もの間トルコの支配下にあったギリシャのこの動きをヨーロッパ諸国は積極的に支持した。共鳴する文化人も多く、フランスの作家ヴィクトル・ユゴー、ロシアの詩人プーシキン、イギリスの詩人バイロンなどが、次々にギリシャ支持に名乗りを上げていった。ミュラーも直ちにこれに共鳴、翌1822年には「ギリシャ人の歌」を出版するなどして支援活動を積極的に行うようになる。学生時代プロイセン解放運動に身を投じたように、元々政治色が強い活動人間だったミュラーは、一連の政治活動の中で、フリーメイソン思想に共感するようになっていく。究極の政治活動ともいえるフランス革命やアメリカ独立戦争とメイソンとの関わりなどに彼が興味を持っただろうことは容易に想像がつくからだ。梅津氏の著書「冬の旅〜24の象徴の森へ」には「ミュラーは1820年4月にライプツィヒのフリーメイソン支部に入会の申し込みを行い、同年7月には集会に参加した」との記述がある。ミュラーはフリーメイソンだったのである。
 1823年1月、「冬の旅」前編12篇を完成・発表したミュラーは後編の創作に入ってゆく。フリーメイソン思想の浸透によって彼の作風は徐々にメイソン色を強め、前編とはやや異質な詩を生み出すようになる。その最たるものは「勇気」であるが、「最後の希望」も危ういけれど踏みとどまる、「霜おく髪」も死に近づきたいと言いながらそうならず、「道しるべ」はむしろわが道を行くという決意すら感じられ、「幻の太陽」も最後の太陽は沈まずにギリギリの線で踏みとどまっており、「ライアー回し」では、初めて人間が登場、主人公は彼に歌の伴奏を頼んでもいる。前編の恋を失いよき時代を回想するという女々しさは姿を消し、荒涼たる冬景色や闇の不気味さ不吉さが前面に押し出されてきつつも、死の直前ギリギリのところで踏みとどまっているのである。確かにここには自殺を是としないキリスト教的精神の裏づけもあるだろう。死と向き合ってはいるものの、抜け出したいというギリギリの感情=意思を読み取ることができるのである。行きつく先は墓場を想定しているが、それは人間の宿命、万人共通のこと。しかも、「冬の旅」の主人公にとって、そこは♪まだなんと遠い(「霜おく髪」)、拒絶される(「道しるべ」)ものなのだ。ミュラーはこうして後編10篇を書き上げ「ドイツ詩・文学・美術・演劇誌」別冊に発表した。
 そして、このあとミュラーの身にメイソン的なある劇的な変化が起こったのではないか。それがなんであるかは分からない。メイソンの組織は、3を基数とする位階により成り立っている。会員は修練を積むことによって位階を昇進してゆく。「魔笛」におけるタミーノがそうであるように。もしかしたらミュラーの変化とは、より高い位階への入門だったかもしれない。ならばその位階に相応しいより深いメイソンへの理解が生じた可能性は高い。
 彼は前編12+後編10で完結・発表している「冬の旅」を見直す。そして即座に、後編が10篇のままではいけないことを察知した。そして2篇の追加を決める。10ではだめ、メイソン数字3の倍数12でなければならなかったのだ。これで全体の数も、24というメイソン数字に整ったのである。
 「冬の旅」後編が一旦は10編で発表されながら、即座に2篇が追加され12篇となったのは、その間にフリーメイソン生活における何らかの劇的な変化が起こっていた・・・これが私の推測である。前作「美しき水車小屋の娘」が全20篇なのは、これを作ったときの20歳のミュラーにはまだメイソン数字への拘りがなかったからである。

   ミュラーの生涯に関する文献は非常に少なく、本論のツボである「10篇→12篇の間にメイソンの位階が上がった」とする部分を実証できる材料は残念ながら見あたらない。ここは確かに私の想像であるが、それ以外の部分はすべて歴史的事実を踏まえている。大切なのはその過程ではない、結果12篇となった、そのこと自体である。

(2)手直しから完成までの経緯

@ 新たに2曲を書く

 後編を12篇にするために、新たに2篇の詩作をする必要がある。どうせならメイソン色の強い詩にしよう。とはいえこの時期のドイツではフリーメイソンは容認されてはいない(ドイツ=オーストリアで容認されたのは、18世紀終盤ヨーゼフ2世在位の時代だけである。モーツァルトの入会は丁度この時期に当てはまる)。だからストレートな表現は「勇気」だけに止めておこう。・・・書き上げたのは「郵便馬車」と「まぼろし」の2篇だった。「郵便馬車」は♪通りから郵便ラッパが響いてくる。なぜそんなに躍り立つのだ。私の心よ・・・で始まる。実に明るい色調である。「まぼろし」は♪ひとすじの光が親しげに私の前で踊る・・・で始まる。「光」「親しげ」「躍る」、これもトーンは明るい。

  A 24篇を一塊として順番を決める

 次なる作業は詩の順番決めである。はじめに心がけたこと、それは詩の流れを生へと向かう前向きな形で再構築することだった。このためミュラーは、ラス前に最もメイソン色の強い超前向きな詩「勇気」を置き、最終曲「ライアー回し」につなげた。「ライアー回し」には、世間から完全に隔絶された存在の物乞い音楽師を登場させる。「冬の旅」の中で、現在進行形で登場する人間は彼だけである。それまで、恋人、その母親、その土地の人々などが登場するが、すべて過去の思い出の中。あとは犬とカラス、人間はいない。たとえ世捨て人とはいえ現在進行形で登場させ、「私の歌にライアーの調べを合わせてくれるか?」と主人公がコミュニケーションをとるのである。まさか「冬の旅」を"一緒に手を取り合って力強く生きてゆこう"的に締めるわけにはいかないだろう。いくらミュラーの中にメイソン的気分の昂揚があったにせよだ。異物のような「勇気」のあとで、よそ者の悲哀に終始したこの歌集を締めるにはこのくらいが適当だった。このラス前から最終篇への流れこそ、ミュラーのメイソン風前向き志向ギリギリの表現だったのである。
 このあと、順番決定の過程を追うために、ここでミュラー完成形の曲目リストを再度掲載する。

      1 おやすみ
      2 風見の旗
      3 凍った涙
      4 氷結
      5 菩提樹
      6 郵便馬車
      7 あふれる涙
      8 川の上で
      9 かえりみて
    10 霜おく髪
   11 からす
   12 最後の希望
   13 村にて
   14 嵐の朝
   15 まぼろし
   16 道しるべ
   17 宿

   18 鬼火
   19 休息
   20 幻の太陽
   21 春の夢
   22 孤独
   23 勇気
   24 ライアー回し

                    (太字は続編として書いた詩)

 ここからは、完成形を見ながら帰納的に辿っていこう。まず、23「勇気」と24「ライアー回し」は決まった。1「おやすみ」はここしかない。2「風見の旗」も恋人と別れた状況説明だから、これもここだろう。3−22は特に順番に拘る必要はない。なぜなら、ここで表現したものは主人公の心象風景と冬景色と回想で、「水車小屋」のようなストーリー性はほとんどないからである。ならば単純に12篇の前編をそのままにして、そのあとに新たに作った12篇をつなげてもよかった。しかし、彼はそうしなかった。なぜ? 見破られないためのカムフラージュなのか、単なる遊び心なのか、真相は闇の中。分からないものはしょうがない、ここでは事実を追ってゆく。
 ミュラーは、前編12篇の順番はそのままにして、そこに後編12篇を差し挟んでいったのである。これまでの定説では、ミュラーは前後編を一緒にしシャッフルして順番を決めた・・・といったニュアンスのものがほとんどだった。したがって「前編自体の順番はなにも変わっていない」とするこの私の認識は、おそらくまだ誰もしていないのではなかろうか? 完成版を丁寧に見つめれば分かるシンプルな事柄なのだが・・・。  後編を差し挟むときもミュラーの頭からメイソン数字3は離れなかったのだろう。1−5までは詩作の流れを重視したが、3の倍数6からはメイソン感覚で挟んでゆく。6には明るい最新作「郵便馬車」、12には捨てきれない希望を歌った「最後の希望」、15には光が親しげに躍る「まぼろし」という後編の中でも明るいタッチの3つの詩を節目の位置に挿入した。
 10−17には連続して後編からの詩を挟む。これにより前編の「春の夢」が終盤に移る。あとは後編の「幻の太陽」の位置によって、終盤の色合いが決まってくる。これを20に入れることで、21「春の夢」から24「ライアー回し」までの流れが、生きることに向かう前向きの様相を呈するのである。
 ミュラー「冬の旅」完成版は、一見はずれ者の行き詰まり的詩集に見えて、実はフリーメイソ的精神支柱がしっかりと通っている。それはフリーメイソンとしてのミュラーが埋め込んだ隠し紋様なのである。

 2010.10.18 (月)  シューベルト歌曲の森へH
            なんてったって「冬の旅」2 <「勇気」におけるミュラーの事情>
 前回「冬の旅」の曲順決定について、シューベルトは既に完成している12曲には手をつけずにそのまま前編として据え置き、新たに遭遇した12篇については完成版の順番どおりに抜き出しその順番で曲作りを行い後編としたと結論付けた。が、正確にはこれは正しくない。"一曲を除いて"という注釈を入れなければならないのである。その一曲とはなにか?

 まずは、前回掲載したシューベルト/ミュラーの対照表を再度ご覧いただきたい。
  
シューベルトミュラー
  1 おやすみ  1 おやすみ
  2 風見の旗  2 風見の旗
  3 凍った涙  3 凍った涙
  4 氷結  4 氷結
  5 菩提樹  5 菩提樹
  6 あふれる涙  6 郵便馬車
  7 川の上で  7 あふれる涙
  8 かえりみて  8 川の上で
  9 鬼火  9 かえりみて
10 休息10 霜おく髪
11 春の夢11 からす
12 孤独12 最後の希望
13 郵便馬車13 村にて
14 霜おく髪14 嵐の朝
15 からす15 まぼろし
16 最後の希望16 道しるべ
17 村にて17 宿
18 嵐の朝18 鬼火
19 まぼろし19 休息
20 道しるべ20 幻の太陽
21 宿21 春の夢
22 勇気22 孤独
23 幻の太陽23 勇気
24 ライアー回し24 ライアー回し

 一曲ずつ対照するとお分かりのように、「幻の太陽」と「勇気」の位置が逆転している。シューベルトは即ち、ミュラー完成版では23番目にあった「勇気」を第22番に置き替えているのである。例外の一曲とは「勇気」なのである。種々文献を調べてみたが、この理由についての確固たる結論はないようだ。それはそうだろう、議論が終わっているはずの曲順についても様々な記述が未だに存在しているくらいであるから、こんな枝葉末節的な部分がなおざりになっていても何ら不思議はない。でもそれはそれ、ここは「クラ未知精神」で迫ってみたい。テーマは「シューベルトはなぜ『勇気』の位置を変えたのか?」である。
♪勇んで世の中に入っていってやろう
風と嵐に真向から向かって!
この地上に神がいまさぬなら
私たちこそ神になろうじゃないか
 これは、ミュラー完成版第23篇「勇気」の第3節である。一読してお分かりのように、「冬の旅」の中で実にこれは異色の詩である。注釈などいらない、読んでのとおりだ。他の詩が、ひたすら死を見据える青年の暗い心情を歌っているのに、これはどうだろう、「勇んで世の中に入っていってやろう」「真向から向かって」挙句の果てには「神になってやろう」である。実に積極的で前向き、不遜ですらある。まるで革命の闘士ではないか。このような「〜してやろう」的な明確な意思表示は「勇気」では全部で5回出てくるが、他の23篇ではほとんど見当たらない。わずかに、第1篇「おやすみ」の「けものの足跡をたどっていこう」、第4篇「氷結」の「雪と氷を溶かしつくそう」、第8篇「川の上で」の「とがった石で刻みつけよう」、第12篇「最後の希望」の「希望の墓場で泣こう」の4回だけである。しかも4つとも後ろ向きの意思表示に過ぎない。「勇気」の場合はすべてが前向きなのである。どう考えてもこれは異常だ!一体これはなぜ? シューベルトが順番を替えたことを考察する前に、ミュラーはなぜ「冬の旅」にこんなとてつもない詩を挿入したのか?を考えてみる必要がある。

 ウィルヘルム・ミュラー(1794−1827)はドイツ、デッサウ出身の詩人である。父親は仕立屋の職人だったが、教育熱心な上に相当裕福だったようで、そのためミュラーは十分な教育を受けられた。ベルリン大学在学中は、対フランス解放戦争が起こると進んでこの流れに身を投じてゆく。その後ヨーロッパでは、文化人を中心に、ギリシャの対トルコ独立運動支援の風潮が高まるが、ミュラーはこれにも共鳴、積極的に支援の詩作活動を行った。かなり政治色の強い生き方である。また、特筆すべきは、フリーメイソンへの入会である。"裕福""政治性""フリーメイソン"・・・これらがミュラーという詩人のキイワードである。生涯貧乏で政治活動とはほとんど無縁だったシューベルトとは、明らかに違う人生の色合いがある。ほぼ同時代を生きた二人なのに。
 梅津時比古著「冬の旅〜24の象徴の森へ」(東京書籍刊)によると、ミュラーがフリーメイソンに入会したのは、ライプツィヒで「冬の旅」を執筆中のころだったという。モーツァルトはフリーメイソンに入会後、メイソン関連の曲を多数書いている。「フリーメイソンのための葬送音楽」K477が特に有名だがこのほかにも、歌曲、合唱曲、カンタータなど少なくとも10数曲が残っている。作家なかにし礼は「モーツァルトの音楽は、フリーメイソンに入会後、劇的に変わった」とその影響力の大きさを指摘している。したがって、ミュラーがメイソン入会後その思想を反映した詩を書くのはごく然な成り行きだっただろう。「勇気」の核心部分「この地上に神がいまさぬなら 私たちこそ神になろうじゃないか」の件は、まさにフリーメイソンの基本理念に通じるものだ。さらに、「神になろうじゃないか」の主語が"私"ではなく"私たち"となっているのも、"我々同志"というメイソン常套句に符合する。まさにメイソン思想の表出なのである。
 「勇気」第2節は「心の語りかける声は聞くまい。心の歎く声に胸いためまい。歎きは愚か者のすること」という強烈な言葉で埋まっている。あらためて考えてみるまでもなく、「冬の旅」は全編"心の歎き"の表出である。なんと「勇気」の文言とかけ離れていることだろう。これも「勇気」の特異性の証明のひとつである。

 創作中のテーマは"社会からはみ出したよそ者の心象風景の描写"、メイソン思想は"自ら神にもなろうとする積極的前向き姿勢"。ミュラーは詩人として、フリーメイソン人として、その狭間で揺れたことだろう。詩人ミュラーとしては「冬の旅」の中に「勇気」のような詩を入れるには違和感が伴う。あまりにも異質だからだ。では、書かずにまとめてしまおうか。いや自分はメイソンの会員だ。書かなければならない。挿入しなくてはならない。これはもう理屈じゃない「えいやっ」である。ミュラーは詩人としてではなくフリーメイソン会員として「勇気」を書き、「冬の旅」の第23番目に挿入した。

 以上が「勇気」における私の見解だが、では、権威ある書物ではどうなっているのだろうか? 調査の結果、「勇気」についての記述はまことに少なかった。私もそれほど多くの著作を読んだわけではないが、それでもアルフレート・アインシュタイン、フィッシャー=ディースカウ、喜多尾道冬、梅津時比古など権威あるシューベルトもの、「冬の旅」関連ものは拝読している。アインシュタインの「シューベルト音楽的肖像」では、第1節の詩を引用して、「しかしこの陽気さは麻痺的であって、ただ≪ハンガリア風の≫仮面をつけているのである」という記述があるだけだ。文章も短いが、内容も楽曲についての記述であり、ミュラーの詩への言及ではない。梅津氏の「『冬の旅』〜24の象徴の森へ」は曲ごとに詩&曲の象徴するものを軸に展開するスタイルのため、第22曲「勇気」における記述は他を圧して長い。「風」が象徴するもの、「神」が複数形であることの意味、出版社の移調の問題など、内容的にも実に豊富だ。事実、今回最も参考にした文献であるが、"「勇気」の突出した違和感"という根本的な部分への言及はない。フィッシャー=ディースカウ「シューベルトの歌曲をたどって」と喜多尾氏の「シューベルト」には、「勇気」についての記述の破片もない。シャイエ著「『冬の旅』とシュ−ベルトの謎」は、「冬の旅」後編をフリーメイソン思想と結びつけた内容とのことだが、現在ではあまり重要視されていないそうだ。「勇気」だけならいざ知らず、12篇を関連付けるのには無理があるのだろうと推測できる。とはいえ、未読につき機会があれば読んでみたいと思う。
 繰り返すが「勇気」は「冬の旅」の中で極端なまでに異色の詩である。他の詩はすべて「社会から疎外されたよそ者の後ろ向きの心象を描いている」のに対し「勇気」だけが積極的前向きな決意の歌なのだ。まさに「冬の旅」の「よそ者」である。これを尋常でないと感じるのは至極自然な感性ではなかろうか。それが、有識者の感覚がかくの如しだったのには、少なからず面食らった。
 これらの方々は、生業の違いこそあれシューベルトの専門家である。だからこそ、本能的に「冬の旅」を丸抱えしてしまっている。「勇気」という詩の異常さに疑問を挟まない。"確かに尋常ではないが、意図は理解できる"などと無意識のうちに正当化しているのだろう。もしかしたらこの感覚が真実を遠ざけている、そんな気もする。 次回は「勇気」に対するシューベルトの対応へと話を進めよう。
 2010.10.07 (木)  シューベルト歌曲の森へGなんてったって「冬の旅」1<曲順の謎>
「ミュラーはこの『旅する角笛吹きの遺稿詩集』では、以前の12篇と新しい12篇との順序を並べ替え、ひとつにまとめた。シューベルトはすでに作曲済みの12曲を『第一部』としてそのまま据え置き、残りの12曲は『第二部』として、自分なりの考えに従って原詩集とは異なる順序に並べ替えた
 これはシューベルトの名著とされる喜多尾道冬氏著「シューベルト」(朝日選書)の中の一節。ヨハン・ルートヴィヒ・ウィルヘルム・ミュラー(1794−1827)の「旅するホルン吹きの遺稿詩集」には、「冬の旅」Winterreise全24篇の完成形が含まれている。独創的で魅力あるシューベルト論を展開する喜多尾氏であるが、この"「冬の旅」の第二部は自分なりの考えに従って原詩集とは異なる順序に並べ替えた"という件は、完全な間違いとは言えないまでも、ニュアンス的にかなり真実とは違う肌合いである。また、生涯で8回も「冬の旅」を録音している20世紀最大のバリトン歌手、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの著書「シューベルトの歌曲をたどって」(白水社刊)には・・・・前半の12曲が完成されたあと、シューベルトは詩集の第二部としての「旅する角笛吹きの遺稿詩集」のなかに、ミュラーのこのチクルスの完全なテキストを見つけ出した。もっとも、まだ作曲されていなかった残りの12の詩は、続きとして順序づけられてはおらず、方々に散らばっていたものを新しく並べ変えたものである。シューベルトはこれらの詩を入手した通りに作曲し、それをすでにできていたものにつけ加えたので、彼が意図してミュラーの詩の順序に変更を加えたのではないかという憶測を生んだが、それはせいぜい個々のリートのテキストについていえることである。・・・・とある。この文章は喜多尾氏のよりは適切な記述であるが、いかんせん分かりにくい。では、シューベルトは「冬の旅」全24篇の曲順をどのようにして決めたのかをたどってみよう。

 ミュラーが書いた「冬の旅」の前編12篇はライプツィヒで刊行された「ウラーニア」という年鑑に掲載された。1823年のことである。シューベルトがこの曲付けを完了したのは死の前年1827年の2月であった。この間のどの時期に彼が「冬の旅」に遭遇したかは定かではないが、いずれにせよ、死にいたる病を背負ってしまったシューベルトが、この詩に衝撃を受け主人公に自己を投影したことは間違いないだろう。さすらいの旅に出るきっかけが失恋だったにせよ、動き始めた新しい社会秩序からはぐれ、社会的にも精神的にも行き場を失い、眼前に死しか見据えていない若者の心情が、この時期のシューベルトには痛いほど理解できたのだろう。「冬の旅」の主人公は、眼前に死しか見ていないのである。このあたりのことをフィッシャー=ディースカウは「作曲家シューベルトがこの仕事にとりかかったときの感激の様子を見ると、これらの詩がそのときの彼の創作意欲にどれほどぴったりであったかがうかがえる」と述べているが、出典は明らかにされていない。私の検証では、シューベルトの日記や手紙、友人たちの記録の中にこれらの状況を記したものはない。したがってこの件、もしかしたら彼の推測なのかもしれない。
 前編完成後の1827年晩夏、シューベルトは、ミュラーの「旅する角笛吹きの遺稿詩集」という編纂本の中に「冬の旅」の完成版と称する24篇の詩集を発見する。すなわちミュラーは12篇の「冬の旅」前半の完成後、時期を経てさらに12篇の後半の部分を書いたのである。問題はその発表の仕方である。前半は前半で発表したあと、後半は後半だけで発表しなかったのだ。前後半を合体させ新しく順番を並び替え、全24篇の完成版として発表したのである。一方シューベルトの側から見ると、「冬の旅」前半12曲を完成させた直後に、全24篇の完成形を見る、そして直ちに全編の完成に向かい曲作りを始めた、ということになる。ここで心すべき大切なポイントは二つ。一つは、ミュラーの完成版を見たとき、シューベルトは既に前半の12曲の曲作りを完了していたこと、もう一つはミュラーの完成版は新たに順番が変えられていたという点だ。
 音楽史上これほどまでに奇妙な過程を経て出来上がった歌曲集は他にないだろう。そして、この流れが連作曲集「冬の旅」のある種性格を決定付けたのである。「冬の旅」がミステリアスで魅力的で、様々な解釈や憶測や誤解を生じる要因は正にこの奇妙な過程に端を発しているのである。

   シューベルトは、この完成形を見て、恐らく愕然としたと思われる。なぜなら、前述したように、この完成版は前編のあとに新たに作った12篇の詩を単純に加えたものではなく、完成した全24篇を新しく並び替えたものだったからである。シューベルトは、一度はこの完成版の順番どおりに曲作りを行おうと考えたことだろう。しかし、既に作曲が完了している前編(作ったときには後編があろうとは思いもよらなかったろうが)12曲は、詩の流れに沿って各曲の調性がキッチリと連携し合っている。これをバラすことは不可能であり、もし、完成版の順番どおりに作ろうとすれば、全体を新たに作り直すに等しい作業をすることになる。それはあり得ない。芸術家にとって精魂込めて作り上げた作品を反故にすること、そして、そのときのシューベルトの悪化する病状はそれを赦せるはずもなかっただろうから。
 ユニークな「冬の旅」の解析書、梅津時比古氏著「冬の旅〜24の象徴の森へ」(東京書籍刊)によれば、「だがもしシューベルトがその気になれば、前半の途中に新たに『郵便馬車』を挿入して音楽的に何の不自然もなくつなげることなど、彼の天才を持ってすればできないことではないだろう」との見解を示すが、これはあまりに一面的な見方だ。変更点がこの一点だけならいざしらず、新たに作った詩の3篇を連続して前半に入れ(10―12)、はみ出した4篇の既存の詩を後半に、こちらは続けずに間に新たな詩を挟んで入れる(18,19,21,22)、しかもかなり終盤近くに・・・という手の込んだ形でミュラーはシャッフルしているのである。この並びで全体を完成させるのは、シューベルの天才を持ってしても並みの労力ではないと私は思うのだ。

 さて、シューベルトはどうしたか・・・既に完成している12曲は手をつけずにそのまま前編として置き、新たに遭遇した12篇については完成版の順番どおりに抜き出しその順番で曲作りを行い後編としたのである。同じミュラー作の「美しき水車小屋の娘」D795は、複数のはっきりとした登場人物がいて、出会い−恋愛−失恋−自殺という具体的な出来事によってストーリーが展開する。謂わばアナログ的なつながりである。これに対し「冬の旅」は一人称の詩で、現在進行形の登場人物はほぼその主人公一人だけ。かつての恋人やその母親、その土地の人々などは回想の中に出てくるに過ぎず、他の登場者としてはみすぼらしい街角のオルガン弾きくらいで、あとは犬や鴉がせいぜいだ。湧き出る言葉は心に映る風景と自分への問いかけばかり。「死へ向かう心」に断続的に「過去への憧れ」がフラッシュ・バックする"0と1"の二進法。そう、まるでデジタルの世界さながらなのである。だから曲順には「水車小屋」ほどの必然性はない。シューベルトがミュラー完成版の順序に敢えて曲順を合わせる必要がなかったのはこのためである。

 こうしてシューベルトは曲順を決めた。ある意図を持って原詩の順番を替えたのではなく、むしろ機械的に決めたのである。これが「冬の旅」曲順決定の真相である。実に単純な話で"謎"でもなんでもなく、タイトル負けは否めないが・・・。がしかし、世間に流布している「冬の旅」の曲順に関する曖昧な概念を是正するという点においては、役に立ったのではないかと思う。

   最後に「冬の旅」におけるシューベルトの曲順とミュラーのオリジナルの順番を対比させておく。ミュラーの表から、シューベルトが第二部に入れ込んだ詩(太字表記した)の移動を追えば、シューベルト曲順決定の実体がよく分かると思う。
  
シューベルトミュラー
  1 おやすみ  1 おやすみ
  2 風見の旗  2 風見の旗
  3 凍った涙  3 凍った涙
  4 氷結  4 氷結
  5 菩提樹  5 菩提樹
  6 あふれる涙  6 郵便馬車
  7 川の上で  7 あふれる涙
  8 かえりみて  8 川の上で
  9 鬼火  9 かえりみて
10 休息10 霜おく髪
11 春の夢11 からす
12 孤独12 最後の希望
13 郵便馬車13 村にて
14 霜おく髪14 嵐の朝
15 からす15 まぼろし
16 最後の希望16 道しるべ
17 村にて17 宿
18 嵐の朝18 鬼火
19 まぼろし19 休息
20 道しるべ20 幻の太陽
21 宿21 春の夢
22 勇気22 孤独
23 幻の太陽23 勇気
24 ライアー回し24 ライアー回し


 2010.09.22 (水)  シューベルト歌曲の森へF
            法隆寺のリュウちゃん6「すぐに権威にならないで!」
(1)リュウちゃんメール6.22「すぐに権威にならないで!」

 貴兄の「究極のシューベルト歌曲集」改訂版のリストを拝見しまして、改めて感じたことを以下に書いてみます。

@「さすらい人」「死と乙女」 この2曲は、後でピアノ曲や弦楽四重奏曲に転用されてタイトルが有名になったものですが、小生はオリジナルの歌曲はそんなに傑作だという感じがありません。従いまして、小生が「究極のシューベルト」を選ぶとすれば、これらの曲は入れないだろうと思います。
A「至福」「湖上にて」は、どんな曲だったか、全く記憶にありません、聴けば、「ああ、これがこの曲だったのか」と思い出すのかも知れませんが、これまで小生の心の中に留まらなかった曲です。
B「私の挨拶を」「夜と夢」は、いい歌だとは思いますが、"究極"に入れるには、少し役不足のような気がします。「子守歌」も、いい歌に違いないですが、やはり、少し"軽い"感じ。小生だったら、これらの歌に替えて、「アルプスの狩人」、「小(矮)人」、「アチュス」などを入れます。「アチュス」は、「いい曲だな」という印象が残っているのみで、現在、小生の頭の中には、具体的な旋律は浮かばないのですが、若し小生が"究極の"をセレクトする際には、真っ先に再検証してみたい歌です。「小人」は、多分、貴兄からは「俗っぽい曲」といわれそうですが、小生、俗人ですので、この曲は"好みの曲"なのです。
Cデモーニッシュな曲というよりも、内田光子さんのいうように、"魔にとり憑かれたような曲"という言い方のほうが、シューベルトには合いますね。そのような曲を代表するのが、小生としては「舟人の別れの詩」です。もっとも、「星」「鳩の使い」なども、悪魔ならぬ、"天使にとり憑かれたような曲"ですね、晩年の"魔にとり憑かれたような曲"も1曲は入れたい感じがします。

 この「究極のシューベルト歌曲」、当然、貴兄の「クラ未知」で発表されるかとおもいますが、このことに関して、少し意見を述べます。

D選定された曲目を見ると、7割が「クラ既知」、あとの3割が「クラ未知」という感じがします。もう少し「クラ未知」の部分を増やし、シューベルト通をも唸らせるようなサプライズが欲しいような気がします。
E飛び入り原稿の「究極のショパン」と違い、シューベルトは、今年前半に貴兄がずっと追求されてきた大テーマですので、もう少し時間をかけて、数回にわたる論考の末に曲目を決定されたほうが良いような気がします。
F具体的にいいますと、畑中良輔などの専門家を唸らせるような切り口が欲しい感じ、 「すぐ権威になってしまう」ことは、ことシューベルトの歌曲に関しては、禁物ではないかと危惧します。

 でも、貴兄ののめり込みの深さと速さには、小生、「驚嘆!」の一語、脱帽です。

(2)清教寺メール6.22「いよいよ『冬の旅』へ」

 「シューベルト・リートの森」は初体験だったので、実に面白かった。特にリュウちゃんとのやり取りは、大変面白くてためになりました。謹んでお礼申し上げます。

 では、以下貴君の助言につき感じたことなど述べさせていただきます。(→以下が私のコメントです)

@「さすらい人」「死と乙女」この2曲は後でピアノ曲や弦楽四重奏曲に転用されてタイトルが有名になったものですが、小生はオリジナルの歌曲はそんなに傑作だという感じがありません。従いまして、小生が「究極のシューベルト」を選ぶとすれば、これらの曲は入れないだろうと思います。

→おっしゃることはよく分かります。ただし、私は、後にシューベルトが器楽曲に転用した歌曲は、「彼の思い入れが強くよく知られている曲」=「親しみやすい傑作」と単純に考えました。これぞまさに私の"究極"であり、貴君と違うコンセプトなのです。

A「至福」「湖上にて」は、どんな曲だったか、全く記憶にありません、聴けば、「ああ、これがこの曲だったのか」と、思い出すのかも知れませんが、これまで小生の心の中に留まらなかった曲です。

→「湖上にて」はともかく(もうリストから外してますし)、「至福」が記憶にないとはちょっと信じられません。流石マニアックの鬼・リュウちゃん! 好き嫌いは別にして、「至福」は超ポピュラーな曲ですよ。宇野功芳氏なんかは、著書「人生の100枚」の中で、「僕はシューベルトの『至福』が大好きで・・・『至福』だけのためにこの盤を挙げたようなものだ」と「キャスリーン・バトル シューベルト歌曲集」を推薦しているのです。勿論、私も文句なしに好きな曲、明るく躍動感に溢れていて実にチャーミングな曲じゃないですか。バトルのシューベルトは貴君の推薦盤でもあるので是非確認してみてくださいな、5曲目に入っていますから。

B「私の挨拶を」、「夜と夢」は、いい歌だとは思いますが、"究極"に入れるには、少し役不足のような気がします。

→「私の挨拶を」はいい曲ですよ。(貴君の選定基準にはない)器楽曲への転用モノでもありますし・・・「ピアノとヴァイオリンのための幻想曲」D934の第3楽章です。是非これも聞いてみてください。甘酸っぱい青春の思い出が甦るようで胸がジーンとなります。「夜と夢」のシンプルな美しさも是非分かってほしい。フェリシティ・ロットが歌う冒頭、天国的なピアニッシモの美しさを聞いてくださいよ。虜になること請け合いです。

「子守歌」も、いい歌に違いないですが、やはり、少し"軽い"感じ。

→これは入門用としては外せません。

小生だったら、これらの歌に替えて、「アルプスの狩人」、「小(矮)人」、「アチュス」などを入れます。「アチュス」は、「いい曲だな」という印象が残っているのみで、現在、小生の頭の中には、具体的な旋律は浮かばないのですが、若し小生が「究極の、」をセレクトする際には、真っ先に再検証して見たい歌です。「小人」は、多分、貴兄からは「俗っぽい曲」といわれそうですが、小生、俗人ですので、この曲は"好みの曲"なのです。

→今の40曲から抜いてこれらを入れる気はサラサラありません。ちなみに、「小人」を入れないのは、何も"俗っぽい"からではなくて、王妃と小人のやり取りが、私にはどうもグロテスクとしか感じられないからなのです。でも詩人ってすごいですね。作詩のコリーンは、あの世にも清らかな「夜と夢」の作者でもあるのですから。

Cデモーニッシュな曲というよりも、内田光子さんのいうように、"魔にとり憑かれたような曲"という言い方のほうが、シューベルトには合いますね。そのような曲を代表するのが、小生としては「舟人の別れの詩」です。もっとも、「星」、「鳩の使い」なども、悪魔ならぬ"天使にとり憑かれたような曲"ですね、晩年の"魔にとり憑かれたような曲"も1曲は入れたい感じがします。

→やはり「美しく聴きやすくまとめたい」というのがありまして、"魔にとり憑かれ型"は別の機会に聴きたいと思います。また、魔を死に置き換えれば、"死にとり憑かれた音楽"ということになり、これぞまさに「冬の旅」なわけで、これについては、このあとじっくりと取り組むつもりでいます。

D選定された曲目を見ると、7割が「クラ既知」、あとの3割が「クラ未知」という感じがします。もう少し「クラ未知」の部分を増やし、シューベルト通をも唸らせるようなサプライズが欲しいような気がします。

→何度も言うように、"入門的側面"も大きいので、貴君のいうこの比率を見て、逆に大成功と確信させていただきました。

E飛び入り原稿の「究極のショパン」と違い、シューベルトは、今年前半に貴兄がずっと追及されてきた大テーマですので、もう少し時間をかけて、数回にわたる論考の末に曲目を決定されたほうが良いような気がします。

→3大歌曲集以外については、ほぼこの31曲で決めるつもりです。

F具体的にいいますと、畑中良輔などの専門家を唸らせるような切り口が欲しい感じ、「すぐ権威になってしまう」ことは、ことシューベルトの歌曲に関しては、禁物ではないかと危惧します。

→「畑中良輔さんを唸らせる」ですか、ウーン、そうですねえ・・・・彼は、レコ芸1989年4月号で、フェリシティ・ロットのシューベルトを、「シュワルツコップとは格が違うし、リートというものへの向き合う姿勢がまるで違う」と言って、貶しているんですよ。そんな御仁を唸らせてもあまり意味がないような気がするのですが、いかがなものでしょうか。また、そういう方を唸らせるために無理に凝った曲を選ぶというのも、私のやり方じゃありませんし。ご意見はありがたいのですが、今回はこのまま私のコンセプトを貫かせていただきます。

 このあとは、いよいよ、やり残しておいた「冬の旅」の検証に入ろうと思います。現在選んでいるのは「菩提樹」「春の夢」「道しるべ」の3曲ですが、本当にこれでいいのか?深遠な「シューベルト歌曲の森」の中でも、飛び抜けた傑作であるこの歌曲集は、ある意味深い謎に包まれた作品でもあります。これを極めてこそ私のシューベルト「究極」の歌曲集が完成するものと思っています。これからも、辛口のご指摘等なにかとよろしくお願いいたします。リュウちゃんのご意見はいつでもなんでも大歓迎ですから。
              「究極のシューベルト歌曲集」候補リスト改訂版1

1 糸を紡ぐグレートヒェン D118
2 憩のない愛 D138
3 野ばら D257
4 魔王 D328
5 万霊節の連祷 D343
6 至福 D433
7 さすらい人 D489
8 子守歌 D498
9 死と乙女 D531
10 湖上にて D543
11 ガニュメート D544
12 音楽に寄す D547
13 ます D550
14 タルタルスの群れ D583
15 春の想い D686
16 ズライカT D720
17 私の挨拶を D741
18 ミューズの子 D764
19 水の上で歌う D774
20 君こそは憩い D776
21 涙の雨 D795-10
22 夕映えの中で D799
23 夜と夢 D827
24 若い尼僧 D828
25 アヴェ・マリアD839
26 ただ憧れを知るものだけが D877-4
27 春に D882
28 男ってみんなやくざなもの D886-3
29 きけきけ、ひばり D889
30 シルヴィアに D891
31 菩提樹 D911-5
32 春の夢 D911-11
33 道しるべ D911-20
34 星 D939
35 セレナーデ D957-4
36 別れ D957-7
37 都会 D957-11
38 海辺にて D957-12
39 鳩の使い D957-14
40 岩の上の羊飼い D965

 2010.09.03 (金)  シューベルト歌曲の森へE法隆寺のリュウちゃん5「拙速は禁物」
(1)リュウちゃんメール6.20 「拙速は禁物」

 シラーの詩による歌曲を1曲入れるとすれば、「タルタルスの群れ」D583でしょうか。「アルプスの狩人」というタイトルの曲は、シラーのものをはじめ何曲かありますが、D588はマイアーホーファーの詩だったかな?オーストリア・アルプスが近いこともあって、このような「山」テーマの曲も1曲は入れたい気がします。「エルラフ湖」、「リーゼンコッペの頂きにて」という曲も「アルプス」テーマの曲のはずです。
 シューベルトの伝記などは、全く読んだことがないので、彼の交友関係などもよく判りませんが、シューベルトを取り巻くサロン「シューベルティアーデ」から生まれた歌をきちんと検証する必要はありそうです。友人の歌手フォーグルは、どんな歌を好んでいたのか?マイアーホーファーの他の詩人は、どんな人がいて、どんな歌に結実したのか?マイアーホーファー歌曲は、1曲は入れたい感じがします。
 「狩人の愛の歌」「舟人の別れの歌」「欺かれた裏切り者」は、例のフィッシャー=ディースカウの「大全集」の最後のディスクに収録されていた曲で、この「大全集」により初めて聴き、「晩年のシューベルトは凄い!」と感じた曲です。「狩人の愛の歌」は、シューベルティアーデのサロン風のなだらかな曲調の有節歌曲ですが、「鳩の使い」に通じるシューベルトならではの高い境地に達した歌だと思っています。「舟人の別れの歌」は、(詩の内容はよく知りませんが)壮絶でドラマティックな曲想が、"梅毒の作用で、彼の音楽能が異常に高揚したのかな?"と、聴いた当時、感じました。同じ感じを「森にて」という歌に感じたのですが、この前、ディースカウの「大全集」で曲目を拾っていた時には、見つけることができませんでしたが、見落としかも知れません。
 「漁師の愛の幸福」は、エリザベート・シューマンのLPの中で、一番気に入った曲の一つ、「泉のほとりの若者」、「緑の中の歌」も同様です。
 「男ってみんなやくざなもの」D886-3は、キャスリーン・バトルのCDの中で一番のお気に入りの曲。この曲は、バトル以外では聴いたことがありません。ライトナーの「星」D939も、本当にシューベルトらしい"いい歌"で、小生的には「鳩の使い」と並ぶ名曲です。
 締め切り間近とのことですが、「究極のシューベルト」の選定は大変な作業なので、拙速は禁物、老婆心ながら、「もう少し慎重に」と助言させて頂きます。

(2)清教寺メール6.20「+13曲−9曲 合計40曲」

 真剣に検討していただきありがとうございます。興味深く拝見させていただきました。

 シラーでは「タルタルスの群れ」D583にしたいと思います。シラーという詩人は、構えが大きすぎてあまり好きじゃないし、シューベルトに似合うとは思えないのですが、大詩人には違いなく、一つは入れておいてもいいかなと。代わりに同傾向の「駆者クロノス」D369 (ゲーテ)を外します。ゲーテはたくさんあるので。「"山モノ"をとのご提言ですがどうしましょうか。「アルプスの狩人」では、D588はシラーですが、短編小説風なつくりであまり面白くない。これなら、むしろ、マイアーホーファーの同名曲D524bのほうが「山男の歌」風で好感が持てます。でも入れません、40曲前後という制限がありますしね。
 次に、貴君推薦の晩年の歌について検討しました。「狩人の愛の歌」D909と「舟人の別れの歌」D910は同じショーバーの詩ですね。前者はあまりに単純すぎてコクがないし、後者は大仰過ぎて私の好みとは違う。残念ながら落選です。ショーバーは大傑作「音楽に寄す」があるので、これに代表させましょう。「欺かれた裏切り者」は、数少ないイタリア語ということでは貴重ですが、あまりにユニーク過ぎて、究極のベストに入れる曲じゃないと思う。「森にて」は2つあって、リュウちゃんが言うのは、シェルツェの詩で1825年の作品D834のほうでしょうね(もう一つは1820年の作なので)。確かに、内田光子が言うような"魔に憑かれたシューベルト"という面は見えるけど、取り上げるほどの曲じゃない。ライトナーの「星」D939は、リュウちゃんのおっしゃるとおりいい曲。これは入れさせていただきます。「男ってみんなやくざなもの」D886-3も、洒落ていてインパクトも大。これも当選。歌唱は誰にしましょうかね。貴君はキャスリーン・バトルとおっしゃいますが、私はちょっと違います。バトルもいいけど、バーバラ・ヘンドリックスのほうが表情が濃くて面白い。3回出てくるDie Manner sind mechant! の表情が全部違うのですよ。洒落た軽いタッチのバトルもいいけれど、こっちのほうが素人には分かりやすい。そこで、早速キャプションを書きました。決め文句のmechantがフランス語なので、フランス語に堪能な従妹に意味合いを聞いたりして、まとめてみました。
男ってみんなやくざなものD886-3 ザイドル 1826
3つの節を、♪Die Manner sind machant!(男ってみんなやくざなものよ!)という共通の語句で締めくくる有節歌曲。母親にそう言われて、"私の彼に限ってそんなことはない"と思っていた娘が、やっぱり母さんの言ったとおりだった、と悟るコミカル・タッチの歌。"やくざ"の部分には、mechantというフランス語が嵌っているのが面白い。フランス語に精通した従妹によると、「・・・やくざなもの」はどうもいただけない、mechantには"聞き分けのない"というニュアンスの訳が妥当であるという。フランスでは、子供がいたずらをしたときなど、親は"聞き分けのないことしてはダメ!Ne sois pas mechant!"と言って叱るそうだ。確かに、この歌は、男の習性にあきれながらもあきらめちゃってる女の気持ちを歌ったもの。ならば、悪戯息子を叱責する母親の気持ちと変わりない。そこで、私的邦題の提案――「男ってみんな懲りないもの」はいかがでしょうか・・・。この3つのmechantを、それぞれにニュアンスを変えて表現するバーバラ・ヘンドリックスの歌唱力に脱帽!ラドゥ・ルプーの躍動感溢れるピアノも素晴らしい。
 ひとまず、リュウちゃん助言で入れさせてもらった曲は、前回決定分と合わせると、「タルタルスの群れ」「私のあいさつを」「涙の雨」「ただ憧れを知るものだけが」「男ってみんなやくざなもの」「きけきけ、ひばり」「道しるべ」「星」「別れ」「海辺にて」の10曲。パスさせてもらった曲は、「アルプスの狩人」「エルラフ湖」「リーゼンコッペの頂きにて」「狩人の愛の歌」、「舟人の別れの歌」、「欺かれた裏切り者」など・・・・。
 あと、私独自の判断で、あまりにポピュラーすぎてつい入れ忘れていた「子守歌」D498、フェリシティ・ロットの歌唱でその美しさに気づいた「万霊節の連祷」D343、乾いた質感が魅力の「都会」D957-11の3曲を加えました。
 ここで、新たに13曲を入れたので、「嘆きの歌」「月に寄せて」「駆者クロノス」など9曲を除外し、合計40曲としました。この新しい「曲目表」を添付するので、最終チェックをお願いします。最後に、「拙速は禁物」とのアドヴァイスありがとう。もしかして、「締め切る、締め切る」と貴君を急かしすぎたかな。でも、こういう作業って、巻きでいくぐらいがちょうどいいんですよ。悪しからず。いずれにしても、リュウちゃんには遠慮なくズバズバ言って欲しいと思います。このあともヨロシク。

*最後に、リュウちゃんに送付した新しい「曲目表」を掲載して、今回の「クラ未知」を締めましょう。結構中味も詰ってきたなという実感が湧いてきます。
   「究極のシューベルト歌曲集」候補リスト改訂版1

 1 糸を紡ぐグレートヒェン D118
 2 憩のない愛 D138
 3 野ばら D257
 4 魔王 D328
 5 万霊節の連祷 D343
 6 至福 D433
 7 さすらい人 D489
 8 子守歌 D498
 9 死と乙女 D531
10 湖上にて D543
11 ガニュメート D544
12 音楽に寄す D547
13 ます D550
14 タルタルスの群れ D583
15 春の想い D686
16 ズライカT D720
17 私の挨拶を D741
18 ミューズの子 D764
19 水の上で歌う D774
20 君こそは憩い D776
21 涙の雨 D795-10
22 夕映えの中で D799
23 夜と夢 D827
24 若い尼僧 D828
25 アヴェ・マリア D839
26 ただ憧れを知るものだけが D877-4
27 春に D882
28 男ってみんなやくざなもの D886-3
29 きけきけ、ひばり D889
30 シルヴィアに D891
31 菩提樹 D911-5
32 春の夢 D911-11
33 道しるべ D911-20
34 星 D939
35 セレナーデD957-4
36 別れ D957-7
37 都会 D957-11
38 海辺にて D957-12
39 鳩の使い D957-14
40 岩の上の羊飼い D965

 2010.08.23 (月)  シューベルト歌曲の森へD法隆寺のリュウちゃん4「野ばら」は鈍感?
(1)リュウちゃんメール6.17 「初期の歌曲」

 フィッシャー=ディースカウの「シューベルト歌曲大全集」は、20代の頃、ヤマハ横浜店を担当していた時に、清勝也さんからLP25枚組のサンプル盤を借り、7インチオープンリールテープに録音し、よく聴いていました。但し、「三大歌曲集」のように、すべての曲を口づさめる迄、聴き込んだ訳ではありません。全曲を通して聴いたのは2回くらいでしょうか、その後、BMG本社1F勤務の時に、後半部分のみ輸入版で購入、現在も、前半部分は持っていませんが、何故か、LPの歌詞の入ったライナーノートだけは持っています。
 前回挙げた曲で、「ハガールの嘆き」は、シューベルトの最初の歌曲という意味で挙げたので、小生、キチンと聴いていません。初期の作品で好きなのは、ゲーテの詩による「羊飼いの嘆きの歌」です。小生が「究極のシューベルトの歌」を選ぶとすれば、この曲が最初の一曲目になります。
 シラーの詩による長大なバラード「潜水者」(これ、20分くらい要するシューベルト最長の曲、長さだけでみれば、マーラーの「大地の歌」最後の「告別」に近いもので、昔、3回くらい聴いただけで、現在、具体的な歌の記憶はほとんどありませんが、「究極のシューベルト歌曲」に選定しないにしても、言及しておく必要はあると思います。
 ゲーテの詩による「野ばら」は、シューベルトの最も有名な曲ですが、この詩は彼が二十歳の頃、遊びに行った旅先の牧師の娘と恋に落ち、その娘の純潔を「手折ってしまう」、娘は結婚を希望したが、無情に彼女を振ってしまった、という歌で、3節から成る詩は、その経緯が反映されていますが、シューベルトの音楽は典型的な有節歌曲で、詩の変化に対し、音楽は全く鈍感なような感じがします。同じ頃の「糸を紡ぐグレートヒェン」があんなに詩の変化に敏感なのに、「野ばら」の鈍感さは、どう考えればいいのでしょうか?

 「究極のシューベルト」を選定するには、上記フィッシャー=ディースカウの「大全集」と、同じく彼がこのCDをDGGに録音と時を同じくして書いた「シューベルトの歌曲をたどって」を読む必要があると思われますが、如何なものでしょう? では、続編は近々。

(2)清教寺メール6.18 「続編がたのしみ」

 「野ばら」は詩を読んだだけで、可憐なだけの歌じゃないことは感じていましたが、ゲーテのそういう背景があったんですか。納得しました。童謡「シャボン玉」の背景に野口雨情の個人的な状況があるといわれていることに近い事柄ですね。とはいえ、だからといって、シューベルトが鈍感だとする貴君の説は当たらないと思います。ゲーテの事情は知らなかったにせよ、この詩を読んで、ただの可憐な歌と解釈するほど彼は鈍感じゃないと思う。"シンプルだからこその哀感"というのは古今東西あるわけで、彼は敢えてこれを選んだと私は思うのですが。だから、歌い手は様々な表現が出来る。中でも、貴君推薦のバーバラ・ボニーは実にドラマティック。様々な人が歌っていますが、この人のが確かに一番面白い。そこで貴君の教示を参考に書いた「野ばら」のキャプションを。
野ばら D257 ゲーテ 1815
♪童は見たり 野中のばら〜 誰でも知っている親しみやすく素朴なメロディーだが、詩の内容は、少年にあえなく折られてしまうばらのことが描かれている。これは若き日のゲーテの実体験が背景にあるといわれている。基本的に軽やかで美しいが、ドラマティックな味付け一番のバーバラ・ボニー(ソプラノ)の歌唱が面白い。ちょっとやりすぎの感もあるが、この歌が愛らしいだけの歌ではないことをわれわれに教えてくれる。
 「ディースカウのシューベルト本」ですか。暇があれば読んでみたいとは思うけど、彼のキッチリした歌唱から想像するに、内容的に面白いのかなあ? そこんとこ、どうですか。  「リュウちゃんのシューベルト講座」、続編期待しています。あまり、ブログ友達やりとりばかりしないで、ビシバシ書いてきてくださいな。もう、ソロソロ選曲締め切りたい今日この頃であります。

*メールには書かなかったが、「羊飼いの嘆きの歌」は「究極の・・・」にはそぐわず選定しなかった。リュウちゃんが好きなのは分かるが、今回は一般人が対象。有名曲、キャッチーな曲、何かに縁のある曲というのが選曲基準のプライオリティなのだ。
 「潜水者」には正直ビックリした。シラーの詩の内容もえらく強烈だが、なんといっても24分という曲の長さに。勿論、選定外だが、存在を教えてくれたリュウちゃんには感謝。
 フィッシャー=ディースカウ「シューベルトの歌曲をたどって」は、メールにはああ書いたが、即、アマゾンで購入した。今後、何度か引用することになるだろう。
 なお、リュウちゃんメールに登場した清勝也さんは、ヤマハ横浜店勤務のあと、ドイツ・シャルプラッテン・レーベルと契約した徳間音工に移籍、現在はキング・レコードで活躍中。担当したレーベルの関係で、特に旧東ドイツ系の音楽事情に詳しいクラシック界の有能な制作マンの一人だ。
 それにしても、リュウちゃん、「三大歌曲集」すべてを口ずさめるとは、その年季只者ではない!! 
 2010.08.09 (月)  シューベルト歌曲の森へC〜フェリシティ・ロット
 フェリシティ・ロット――1947年5月8日、イギリス、チェルトナム生まれのソプラノ歌手。ロンドン大学在学中の1968年には、教育課程の一環として、フランス、グルノーブルの音楽院で歌のレッスンを受けている。卒業後は順調にキャリアを積み、地元のグラインドボーン音楽祭、コヴェントガーデン王立歌劇場をはじめ、ウィーン、ミラノ、パリ、ニューヨーク、ドレスデン、ミュンヘンなど世界第一級のオペラハウスに出演。特にR.シュトラウス「ばらの騎士」のマルシャリン(元帥夫人)役は、究極の十八番といってもいい。リサイタル活動も充実しており、大学時代から続くグラハム・ジョンソン(ピアノ)とのコンビは、技術的にも音楽的にも理想的なコラボレーションを実現、その証は、「昼と夜の愛の歌」と題するパリ・シャトレ座でのライブDVD(2002年)で見ることができる。また、映画「アマデウス」(1983年)への、声の出演もある。

 私が、フェリシティ・ロットの素晴らしさを知ったのも、1994年のウィーン国立歌劇場公演「ばらの騎士」のDVDだった。指揮はカルロス・クライバー、彼女のマルシャリンに、若き愛人オクタヴィアンにはアンネ・ゾフィー・フォン・オッター(メッゾ・ソプラノ)、若い娘ゾフィーにバーバラ・ボニー(ソプラノ)という文句なしの布陣。舞台は18世紀のウィーン、元帥夫人は34歳、若い愛人がいる。彼女が彼に言いつけた用事が、近々彼女の親戚筋の男と結婚することになっている花嫁への伝令役で、これがばらの騎士だ。ところが、彼はその花嫁に心惹かれてしまう。それを察知した夫人は、逡巡する愛人の背中を押し二人を結びつけ、自らは身を引いてゆく、というストーリー。寄る年波に儚さを感じ、時の移ろいに虚しさを抱き、凛として身を引く貴婦人の気品と威厳・・・・なんてオペラのパンフレットなどには書かれているが、なんのことはない、生活に困らない貴族の奥さんが、若いツバメに相応の相手が現れたんで火遊びをやめる、というだけの話だ。だから「だいたい、いくら昔といったってまだ34歳、アラフォー手前でしょ、まだまだ女ざかりじゃないの。なにが寄る年波よ!、時の移ろいに儚さを感じるですって? そんなに深刻ぶらないでよ」・・・などと、負け組OLあたりから、文句タラタラ出まくりそうなシチュエーションなのである。ところが、フェリシティ・ロットが演じると、「スミマセン、あなたのおっしゃるとおりです」と素直に思わされちゃうから摩訶不思議、これぞ芸の力。第3幕で女声三人が歌う夢のように美しい三重唱がある。マルシャリンは、♪彼の愛情がほかの女性に移っても 私は広い心で彼を愛してゆこうと誓った でもそのときがこんなに早くこようとは 〜と歌い出すのだが、ここが、いろいろな意味で最大の見せ場なのだ。即ち、「なにが広い心よ、さんざん楽しんだくせに よく言うわよ」とか「若い娘のほうがいいにきまってるジャン、男が迷うほうがおかしいぜ」というような、見る側が普通に持つ感情を封じ込めるに足る全人格的存在感なるものが、演者にあるか否かが勝負の分かれ目となるのである。フェリシティ・ロットの場合には、オクタヴィアンが迷うのも当然と思わせる女としての魅力と、広い心で若い二人を包み込む気高さと包容力が、自然に備わっているのである。まさに天下一品、当代髄一、いや、史上最高のマルシャリンといっていいのではないか。なぜなら、名演の誉れ高い1960年カラヤン指揮のザルツブルク音楽祭公演のエリザベート・シュワルツコップも敵わないからだ。シュワルツコップは、ロットが貴族なら、彼女はむしろ学校の先生という感じ。そう、1957年のドイツ映画「朝な夕なに」のルート・ロイヴェリック演じる女教師の雰囲気なのである。

 冒頭に掲げたプロフィールから、気づいたことがある。1968年にグルノーブルで勉強中だったということは、その年の冬季オリンピック会場の地に彼女はいたことになる。彼女より2歳ほど年上の私はといえば、スキー三昧の大学4年生。志賀高原国鉄山の家でアルバイトをしながら、ジャン=クロード・キリーのアルペン三冠王を願い、遠くグルノーブルの空に向かって声援を送っていたのだ。古きよき時代、なんたる奇遇、実に懐かしい!(大したことじゃないか?) 三冠王といえば、遡ること12年前、1956年コルティナ・ダンペッツォで行われた冬季五輪で、初代アルペン三冠に輝いたのが、オーストリアのトニー・ザイラーだった(回転競技の銀メダルは日本の猪谷千春)。彼はその後映画界入りし、「白銀は招くよ」(1959年)で、銀幕でもスターになった。彼の歌う同名の主題歌も大ヒット。その ♪なんだか今日は いいことがありそうな気がするよ のところのメロディーが、シューベルトの遺作「鳩の使い」の副メロと一瞬オーバーラップする。これぞ、シューベルトが最終便でよこした鳩の使いかも?
 「アマデウス」は、レコード会社で奮闘中の頃、大きな衝撃を受けた映画だった。この中の「フィガロの結婚」伯爵夫人の歌声が彼女の声だったとは知らなかった。あらためて確かめたら、出番は極僅か、これでは注目を集めるには足りなかっただろう。

 さて、フェリシティ・ロットの「シューベルト歌曲集」である。とにかく絶品なのだ。これは、音楽評論家のK.H氏にいただいたもので、その件は前回の「クラ未知」に書いたとおりである。発売は1989年2月25日、ファンハウス・クラシックスから。現在は廃盤で、巷では手に入らない貴重品である。ちなみに当時のCD評はどうだったのか?「レコード芸術」1989年4月号の一部を引用する。
ここに収められた17曲のシューベルトは、いずれもスタンダードな名曲ぞろい。フェリシティ・ロットはクセのないまっすぐな声で、クリスタルなシューベルトを届けてくれる。総じて淡彩な表現の中にシューベルトのナイーブな面は浮かび上がって来ようというものだ。ただ、このあと、シュワルツコップの「カーネギー・ホール・リサイタル」を聴いたのだが、さすが≪リートの女王≫の歌とは、「歌の格が違うな」と思わざるを得なかった。リートというものへの姿勢がまるきし異なるといおうか、歌の中から掴み出して来るものが、あまりに違いすぎるのだ。その意味でロットの歌は、蒸留水のような清潔さの中にあるシューベルトだ。
 月評子は、大御所・畑中良輔氏である。一口で言うと、先生は"爽やかだけど味がない"とおっしゃっている。それも、ごていねいに同じ月の"女王"エリザベート・シュワルツコップの新譜を引き合いに出して。まあ、これが、先生の感性なのだからなにをか謂わんやだが、ちょっと淋しい気がする。当時、ドイツ・リートにおいて、男はフィッシャー=ディースカウ、女はシュワルツコップが最高、という風潮があった。二人ともそれだけの実力と実績があるのだから、そのことについて文句はないのだが、彼らの陰で、本当に素晴らしい演奏が不当に評価され廃盤の憂き目をみるのは、見るにしのびないものがあった。この盤は、イギリスのIMPというレーベルの音源で、当時日本の新興メーカーであるファンハウスが、国内販売のライセンスを獲得して発売したものだ。ファンハウスは、その後、BMG JAPANと合併、BMG JAPANは昨年ソニーミュージックに吸収された。今は昔の話である。だからこの名盤は廃盤どころか発売した会社も消滅しちゃっている。原盤元のIMPは通販商品やライトなクラシックを出してはいるが、クラシック専門レーベルではないため、この名盤が現役盤として流通している可能性もほとんどないだろう。したがって、国内盤も輸入盤も入手は絶望的なのである。だから、法隆寺のリュウちゃんに、「ご要望あればコピーを差し上げましょうか」と言っているのに、返事がない。まあ、今、彼は相撲界改革案作りで忙しいのだろう。頑張って、いい案作ってくださいな!

 制作中のPB-CD「究極のシューベルト歌曲集」には、この中から5曲を入れるつもりだ。このCDには38曲前後の収録を予定しており、現在、リュウちゃんと意見を戦わせながら選曲中なのは、皆様ご存知の通りである。選曲と並行してベスト歌唱も鳴き合わせをしながら行っていて、決まると直ちにキャプションを書いている。その過程の中で、フェリシティ・ロットを5曲選んだというわけだ。だから、選んだ5曲は、それこそ絶品中の絶品なのである。それでは、どこがどう絶品なのか?最後に、そのキャプションを掲載して、今回を締めたいと思う。

糸を紡ぐグレートヒェン D118 ゲーテ 1814
 ファウストの気持ちが離れたことを感じたグレートヒェンの不安な心情と、まだ残る思慕の情を歌う。kuss(kiss)での情感の高まりが強烈!そして、その直後のピアノの乱れが、心の乱れを表すなど、シューベルトの抒情性と劇性が見事に結実した記念碑的作品で、この曲が完成したとされる1814年10月19日を、ドイツ・リート誕生の日という人もいる。フェリシティ・ロット(ソプラノ)&グラハム・ジョンソン(ピアノ)が素晴らしい。ファウストのことを回顧する ♪あのかたの気高い歩み、立派なお姿・・・〜の件で、テンポを落として表情を一変させるところや、最後の言葉schwer(息苦しい)におけるニュアンスに富んだ表情は特筆もの。その完璧で気品漂う表現は見事というほかはない。

万霊節の連祷 D343 ヤコピ 1816
 ♪やすらかに憩え すべての霊よ 苦しみ味わうものも 夢を見終わったものも 涙の数を数えられぬ少女も 神を目の当たりに見たものも すべてこの世から去ったもの すべての霊はやすらかに憩え〜すべての霊に祈りを捧げる日、万霊節における連祷(司祭と会衆との交互の祈り)の歌。なんという美しいメロディー。シンプルな有節歌曲にシューベルトの純粋さとやさしさが込められている。この愛すべき歌は、「フェリシティ・ロット シューベルトを歌う」で初めて知った。この他では、フィッシャー=ディースカウの「シューベルト歌曲大全集」に含まれているものだけしか知らない。もっとたくさんのレコーディングがあってもいいのにと思う。フェリシティ・ロットの淡々とした自然な歌唱には、それだけで清らかな敬虔さが宿っている。

私の挨拶を D741 リュッケルト 1822
 ♪私と私の挨拶から引き離された人よ 私はあなたのもとに あなたは私にもとにいるのです 私の挨拶を 私の接吻を〜引き離された恋人に送る変わらぬ愛情を歌う。この旋律は、ピアノとヴァイオリンのための「幻想曲」D934の第3部変奏曲の主題として使われている。複雑な心境を大きく包み込むようなフェリシティ・ロットの歌唱が、テクニックを駆使してドラマティックな味付けをするフィッシャー=ディースカウに勝る。

水の上で歌う D774 シュトルベルク 1823
 高貴にして美しい旋律と光りきらめくさざなみを表す描写性豊かなピアノのマッチングが見事。詩は、美しい自然と時の流れの中に人生の陰影を投影している。積み重ねた人生が自然とにじみ出るようなシュワルツコップの名唱も、フェリシティ・ロットには敵わない。高貴にして懐深く、時の移ろいを感じさせるその歌唱は、「ばらの騎士」のマルシャリンの名舞台を想起させる。

夜と夢 D827 マテーウス・フォン・コリーン 1823
 夜の静けさとそれが与える夢の神秘を、畏敬の念を込めて歌う。単純な2節歌曲だが、第2節の転調の妙が曲に深い陰影を与えている。主調HがGに変わって入った第2節は、途中Hにもどり、F♯を経て再度Hにもどって最終行「またあらわれておくれ、やさしい夢よと」Holde Traume, kehret wieder!に連なり繰り返される。この繰り返し部分が第一節最終行と同じ旋律となって回帰している。この流れの神々しさは筆舌に尽くしがたく、2009.10.17付「クラ未知」で指摘した「交響曲第8番グレート」第2楽章の A1−B1移行部を彷彿とさせるものがある。清らかに淡々と歌うシュティッヒ=ランダルの神々しさも、感情を動かすテクニックが実に自然なキャスリーン・バトルも捨てがたいが、ここも、フェリシティ・ロットに止めをさす。出だしのピアニッシモの美しさはまるで天上の声。比肩するものがない。ていねいな詩の解釈と慈しみの歌唱は、シューベルトの本質であるやさしさを作為なく伝えて、実に感動的である。ピアノのグラハム・ジョンソンも、的確なテンポ設定と穏やかな表現で好サポート。シューベルト・リートの理想像がここにある。
 2010.07.26 (月)  シューベルト歌曲の森へB〜法隆寺のリュウちゃん3「ひとまず 3大歌曲集以外へ」
(1) リュウちゃんメール6.10 「3大歌曲集以外の曲」

 「3大歌曲集」の論争は、しばらく横に置きまして、それ以外の歌曲で気にかかる歌をザっと挙げてみました。

 ハガールの嘆き D.5、弔いの幻想 D.7、潜水者 D.77、羊飼いの嘆きの歌D.121、歓喜に寄せて D.189、海の静寂 D.216、最初の喪失 D.226、泉のほとりの若者 D.300、万霊節の連祷 D.343、竪琴弾き 第一 D.478、ウルフルーの魚釣り D.525、ドーナウ川の上で D.553、タルタルスの群れ D.583、アテュス D.585、アルプスの狩人 D.588、みずから沈み行く D.700、秘めごと D.719、私の挨拶を D.741、小人 D.771、ブルックにて D.853、ただ憧れを知るものだけが D.877-4、男ってみんなやくざなもの D886-3、きけきけひばり D889、アリンデ D.904、狩人の愛の歌 D.909、舟人の別れの歌 D.910、欺かれた裏切り者 D.902-2 、緑の中での歌 D.917、漁師の恋の幸福 D.933、星(ライトナー)D.939

 赤色にした曲は、小生が「究極のシューベルト」に是非とも入れたい曲ですが、かなり多過ぎますね。曲目はフィッシャー=ディースカウ22枚組の「大全集」と、何人かの女性歌手のCDの収録曲を参考にしました。本日は曲目のみにします。次回以降に、また色々書きたいと思います。

(2) 武器をそろえよう

 そうきましたか、リュウちゃん。前回私のメールは「『冬の旅』第20曲『道しるべ』が傑作である理由をお聞かせ願いたい」で結んだのですが、ひとまず置いておこうですね。よろしい。「冬の旅」の森は相当深そうだし、ここらで一般曲に入るのも悪くはないでしょう。
 それにしても、知らない曲ばかりが並んでいる。どれ一つとして聞いたことがない。自分が持っているシューベルト歌曲集のCDは、男声では、フィッシャー=ディースカウ「シューベルトを歌う」「ゲーテ歌曲集」、ハンス・ホッター「ドイツ歌曲集」、女声では、シュワルツコップ、シュティッヒ=ランダル、エリー・アメリンク、バーバラ・ボニー、キャスリーン・バトル、バーバラ・ヘンドリクス、ジェシー・ノーマンあたり。だから、リュウちゃん推薦で手許にあるのは、「海の静寂」D216、「竪琴弾き第一」D478、「秘めごと」D719、「小人」D771、「ただ憧れを知るものだけが」D877-4、「男はみんなやくざなもの」D886-3、「きけきけひばり」D889、「緑の中での歌」D917 くらいのもの。あとの20数曲をどうしよう・・・。
 前回書いたように、私のコンセプトは"ポピュラーな名曲に名演を当てはめる"というものだ。一方、リュウちゃんは、そんなわたしの思惑とはお構いなしに自らの信念で迫ってくる。簡便には、20数曲の中からポピュラーな名曲を選んでしまうという方法もあるが、それでは、折角推薦してくれたリュウちゃんに申し訳が立たないし、「クラ未知」精神にも反する。そこで20数曲すべてを聞くことにした。
 こうなると頼みは、N.H准教授だ。早速、連絡をとる。「『シューベルト究極の歌曲集』選曲にあたり、全曲が必要になったのですが、もしやF=ディースカウの大全集はお持ちでしょうか」・・・・結果、22枚組の「大全集」と8枚組の「女声と重唱のための歌曲集」をお借りできることとなった。やはり盤鬼だ、頼りになる。
 人様に借りるだけじゃ申し訳ない。自力でも、目ぼしい「シューベルト歌曲集」を集めようと思い立ち、2−3日CDショップや中古店を漁る。結果、男声では、ペーター・シュライアー、ジェラール・スゼー、女声ではアンネ・ゾフィー・フォン・オッター、エディット・マティス、DGのオムニバス、往年の名歌手の選集、などを購入した。これで、歌曲集のCDは23枚、19アーティストになった。これでなんとか武器は揃った。では、順次リュウちゃん推薦曲を赤字中心に検証してゆこう。>

 「私の挨拶を」D741は、晩年の名曲「ピアノとヴァイオリンのための幻想曲D934」の第3部変奏曲の主題にも使われていて、温か味のある佳曲。「ただ憧れを知るものだけが」D877-4は、ゲーテの詩で、チャイコフスキーにも名作がある。「きけきけひばり」D889は、シェークスピアの詩でポピュラリティあり。ライトナーの「星」D939は、星への感謝が穏やかに歌われて爽やか・・・以上4曲は選曲決定。ギリシャ神話もので物々しい「アテュス」、オペラのアリアみたいな「欺かれた裏切り者」、長くて単調な「緑の中での歌」、20数分もある「潜水者」、など10数曲は外し、「タルタルスの群れ」など4曲を引き続き検討することにする。

 平行して、歌う評論家K.H氏にも、わが選曲へのご意見を仰いでいたが、彼はリュウちゃんと違い、わたしのコンセプトを理解した上での意見をくれていた。曰く「選曲はほぼいいんじゃないか。ただ、数曲検討してみては?」として、「ナイチンゲールに寄せて」D497と「さすらい人の月に寄せる歌」D870を推薦してくれた。これらは検討するとして、久々に会おうということになり、そのやり取りの中で「お会いするとき、フェリシティ・ロットのシューベルト歌曲集をお持ちしましょうか」と言う。フェリシティ・ロットはわたしが最も好きな女性歌手のひとり。1994年ウィーン国立歌劇場での「ばらの騎士」の元帥夫人役は、高い気品と抱擁力が絶品で、名演の誉れ高いシュワルツコップの上をゆく。彼女に「シューベルト歌曲集」なるアルバムがあるなんて夢にも思わなかった。「是非、ヨロシク」とお願いして、6月15日、いつもの新宿の焼き鳥屋でお会いした。いただいたCDは「アヴェ・マリア/フェリシティ・ロット シューベルトを歌う」というタイトルの1988年録音の国内盤だった。この解説をK.H氏が書いた関係で、1枚余分に所有してい(てくれて)たのだ。シューベルトを中心に音楽談義に花が咲き、家に帰り、いい気分の酩酊状態持続の中で、そのCDを聞いた。もう、感動で震えがきた。予想どおり、いや、それ以上の素晴らしさ!!
 そんな興奮も手伝って、翌日、一週間ぶりにリュウちゃんにメールを打つ。

(3) 清教寺メール6.16

 ついに梅雨入り。花紀行にも大変な季節になりましたね(彼は自分のブログに「リュウちゃんの花紀行」と題する花めぐりエッセイを連載中なのだ)。お元気ですか。「究極のシューベルト歌曲集」、独断と偏見で着々とやっています。
 貴君の一般曲アドヴァイスも参考にさせてもらい、その中からは、「私の挨拶を」「星」(ライトナー)「ただ憧れを知るもののみ」「きけきけひばりを」を選定させてもらいます。その他では、「タルタルスの群れ」「狩人の愛の歌」「舟人の別れの歌」「漁師の恋の幸福」が検討中というところ。
 ところで、三大歌曲集論争?ですが、「涙の雨」は貴君のほうが正しいと、感覚的にそんな気になってきました。いろいろドイツ・ロマン派の詩を読むと(といってもシューベルトの歌詞だけでですが)、なんというか、不合理でもソノママにしておくほうが面白いっていうか、理詰めで解いてもつまらんということが、段々分かってきましてね。まあ、詩とは本来そういうものだと、はじめから分かっているつもりだったのですがね。要するに私の馬鹿なところは、理屈が過ぎるところなのです。実際雨が降るか否かを問題にしたことよりも、「本当の雨が降ってもいないのに『あら、雨だわ』というのはおかしい」とする私の感覚が"詩的"じゃなかったのですよ。そんな自分に気づくと、貴君の芸術に対する感覚が中々のものだということが分かってくる。いやあ、大したもんです!
 曲目選定後は、ベスト歌唱を当てはめるのだけれど、これも面白くなるでしょう。そんな中、貴君もご存知の評論家K.H氏から「フェリシティ・ロット シューベルトを歌う」というファンハウスのCDをいただきました。これは凄い!さっき通して聴いたけど、「夜と夢」「音楽に寄す」「私の挨拶を」「水の上で歌う」あたりは絶品中の絶品だと感じました。このCD、リュウちゃんはお持ちでしょうか?

 2010.07.15 (木)  シューベルト歌曲の森へA〜法隆寺のリュウちゃん2「涙の雨」
(1) リュウちゃんメール6.6「涙の雨」

 「美しき水車小屋の娘」の第1曲は単純な有節歌曲。小生、「水車小屋」を聴くときは、この曲を外して第2曲目から聴き始めることが多いのであります。
 昨日のメールで挙げた曲では、第10曲の「涙の雨」が、しみじみとしたいい曲です。初めて彼女と二人きりでデイトした感激のあまり、思わず感涙した私を見て、彼女は「雨だわ さよなら 家に帰る」という、まあ素朴な有節歌曲ですが、最後の彼女の「雨だわ さよなら 家に帰る」の部分のみ、少しメロディーを変えるのが実に効果的、そして後奏、最初は歌の部分を引きついだ長調ですが、すぐに短調に転調する、ここがこの曲の聴き所、静かに満ち足りた幸せの絶頂の中にも一抹の不安が過ぎる、その幸せ絶頂感は、次の第11曲「僕のものだ!」で喜びの爆発になるのですが、一抹の不安は、第14曲「狩人」の出現で悲しい現実になるのです。そんな示唆に富む「涙の雨」を全20曲中の前半の最後に配置したこと、そして、歓喜が躍動する後半最初の第11曲が、旅立ちの希望をストレートに表現した第1曲「さすらい」と似た趣があること、そんな構成の妙も中々のものです。

 さすが、リュウちゃん、「涙の雨」を推薦しつつ、「水車小屋」の構成の妙にまで話が及んで見事である。そこで、改めて「涙の雨」を聴いてみる。フリッツ・ヴンダーリヒ(テノール)&フーベルト・ギーゼン(ピアノ)による演奏である。「涙の雨」のオリジナルの調性はイ長調で、テノールのヴンダーリヒはこれに倣っている。ちなみに、フィッシャー=ディースカウはバリトンなので一音低いト長調に移調して歌っている。たったの一音なら原曲どおりに歌えばいいじゃないかと素人の私なんかは考えるのだが、恐らくこの"一音差"はとてつもなく大きいのだろう。シューベルトは、男声用の歌曲を作るときは、音楽仲間の歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグル(1768−1840)を想定して書いただろうから、彼は今のテノール音域の歌い手だったのだろう、物の本にはハイ・バリトンとある。ちなみに、「冬の旅」も、私の先入観として、バリトン用の楽曲と思っていたのだが、現在、オリジナルの調性で歌っているのはテノール歌手だけだ。このあたりは、「冬の旅」のところでジックリとやりたいと思う。
 フリッツ・ヴンダーリヒ(1930−1966)の声は、とてつもなく甘く美しい。しかも、凛とした清涼感がある。清潔感、格調といってもいい。華があるけど品がある、まるで、王室御用達のスイーツといった雰囲気だ。思い起こせば、私が彼の歌を初めて聞いたのは30年以上前のこと。「奥様お手をどうぞ」とタイトルされたアナログ盤で、教えてくれたのは大手レコード店コタニ渋谷店の店長T.Kさんだった。店頭で針を落とした瞬間の、このタイトル曲が流れてきたときの衝撃は未だに忘れられない。なんという美声、なんという甘さ、なんという品のよさ!! その場で買い求めたそのアルバムには、そのほかに、「君はわが世界」「夜のように静かに」「エストレリータ」「グラナダ」など、ポピュラーな名曲が満載、間寛平さんじゃないが"もう病みつきですワ"であった。現在この中の数曲ならCDで手に入るが、昔の人間は、あのときのままの形が欲しいのだ。国内盤だけA面1曲目に「奥様・・・」がくる当時のままの形が・・・でも、これは叶わぬ夢というものだろう。そんなヴンダーリヒだが、1966年9月17日に、痛ましい事故により亡くなってしまった。36歳の誕生日を目の前にして。だから、私が彼の存在を知ったときには既に、彼はこの世の人ではなかったのである。その年の7月に録音された「美しき水車小屋の娘」が、彼の遺作となった。これは、ヴンダーリヒの持ち味が楽曲の特性と最高度に合致した素晴らしい名唱である。その他の三大歌曲、「冬の旅」も「白鳥の歌」も、本来テノールの音域で書かれたものだから尚更、彼の歌で聴いてみたかった。特に「冬の旅」のあの荒涼とした心風景が彼によってどう表現されるのか? でも、もう、これこそ叶わぬ夢なのだ。

 「涙の雨」を聴いた私は、リュウちゃんの言う「『雨だわ さよなら・・・』の部分のみ少しメロディーを変えるのが実に効果的」という部分に引っかかった。7節からなるこの曲の最終節が違うメロディーになっているのは事実だ。だがしかし、リュウちゃんが言うように"「雨だわ、さよなら」の部分のみメロが変わっている"わけではない。節の頭で転調しているのだ。細かいことをいうようだが、「クラ未知」精神からゆくと見過ごせないところなのである。そこで、私は次なる返信をした。

(2)清教寺メール6.6「なかなかいい解説、だが・・・」

 貴君のガイドを読みながら、「涙の雨」を聞きましたが、淡々としてシットリとした愛すべき曲ですね。確かに、仰るとおりピアノの後奏は白眉。この不穏な和音が"第14曲以降を暗示している"という貴君の説明にも納得です。さすが、シューベルトの凄さですね。だが、貴君の解説の中で

    ――「雨だわ さよなら」の部分のみ、少しメロディーを変える部分が実に効果的――

とありますが、これはチト違うと思います・・・分析するとこうなります。
 16小節を一まとめとして表すと、AB−AB−AB−C という形となり、ABを一括りにした3節の有節歌曲に16小節のコーダが付いた曲構成ということになりますね。
 だから、「雨だわ さよなら」の部分のみメロディーを変える・・・というのは当たっていない。"32小節の1コーラスが3回繰り返される有節歌曲にA部分と似て非なる絶妙な16小節のコーダをつけた・・・という構成が見事である"と言うべきでしょう。確かに、このC部分凄いです。

 ところで、もう一つ疑問が湧いてきました。

    ――思わず感涙した私を見て、彼女は「雨だわ さよなら 家に帰る」――

このところですが、前段階で「水鏡には波が立った」とあるから、実際に雨が降りだしたとも考えられませんか? (男が)水鏡に波が立った(ように見えた)のは、涙のせい・・・というのはありうるけれど、女が相手の涙を雨と見まごうて「雨だわ さよなら」というのは、どうしても合点がいきかねるのですよ。私の解釈は、「涙も出たが、実際雨も降り出した」です。涙と雨は連動している、と考えると、この場面、合理的なのですがね。貴君のご意見を聞かせてください。

(3)リュウちゃんメール6.8 R:「なかなかいい解説、だが・・・」

 貴兄の「だが」その@については、小生の言葉足らず、Cの冒頭から確かに短調に転調していますね、しかし、「さようなら、私、お家に帰るわ」の部分はまた長調になっている。
 こういうところも、詩の変化に敏感なシューベルトならではの音楽造形力だと思います。

 「だが」そのAは、貴兄の説のとおりかも知れないし、自然現象としての「雨」は降らなかったのかも知れない、小生の意見は、依然、後者です。
 その根拠は、@曲の原題が「Tränenregen」、もろ「涙の雨」である事。ミュラーの詩には、これと似た現実には考えにくい誇張された表現が他にもあること、「冬の旅」の第14曲「霜おく頭」、歌詞の内容は、「霜が自分の頭にかかり、頭が白くなる。老人になり死が近くなったようだと喜ぶ」というものですが、どうも現実離れした歌詞のように思います。この詩と「涙の雨」の現実離れした情景描写は(うまく云えませんが)同工異曲のような感じがしています。
 忘れていました。「霜おく頭」に続く「からす」も名曲中の名曲、このあたりの曲は、皆、凄い!ですね。

(4)清教寺メール6.8「俺のとはちがうなあ!」

 「霜おく頭」は、何も現実離れした話じゃないと思います。生きていくのが辛くて早く死にたいと思っている主人公が、頭に降りかかった霜に、「白髪になった。歳をとったのだ。もう死ねる。嬉しい!」と喜ぶ話ですよね。本人が死にたい願望を持っているのだから、心理的には、実に論理的なストーリーだと思うのですが・・・。これを、"現実離れ"というのはチト的外れではないでしょうか。だから、リュウちゃんの、"この詩を根拠に「涙の雨」で実際雨は降らなかった"とする論考は整合性がないと思うがいかがでしょう? とはいえ、いずれにしても、お蔭様で、今まで深く読んだことなどなかった歌詞を掘り下げることができて、感謝しています。
 「だが」その@についてですが、「雨だわ さよなら」のところで長調に転換するなんてことは、私は最初から気づいていましたよ。貴君が、"『雨だわ ・・・』の部分のみメロを変える"というから、変わるのはソコじゃなくて、C部分全体だって言ったまで。要するに"部分のみ"に引っかかっただけなのです。細かくてすみません。こればっかりは性格なもんで、勘弁してくださいな。これについても、お蔭様で、シューベルトの凄腕に気づかせてくれたことに、感謝しています。
 では、ここで、現在の「究極のシューベルト歌曲集」の選定過程について中間報告・・・
 貴君アドヴァイスの「『水車小屋』が入ってない」については、この「涙の雨」を入れることにします。そこで、ちょっと質問。第19曲「若者と小川」が大傑作という根拠は? 私は、どうもこの主メロ、シューベルトにしては作為的なものを感じて、あまり好きになれないのです。
 「冬の旅」は、現行案どおり、「菩提樹」と「春の夢」でいきたいと思いますが、気になるのは貴君が曲集随一の傑作と言う「道しるべ」です。その大傑作という由縁をお聞きかせ願いたい。では、諸々、よろしくお願いいたします。

 2010.07.07 (水)  シューベルト歌曲の森へ@〜法隆寺のリュウちゃん1「三大歌曲集」
(1) リュウちゃんメール6.5

 前回掲載した私からリュウちゃん宛てのメール――「究極のシューベルト歌曲」リストについて、貴君のご意見をいただきたい――に返ってきた、6月5日付リュウちゃんからのメールを紹介します。
貴兄のリストにはいささかの異論があります。なにしろシューベルトの歌曲は、全部で600余もありますので、そこから約1/20に絞るのは、いささか無理があると思います。美空ひばりや中島みゆきの曲を1/20に絞るのと同じで、かなり無謀な作業ではないでしょうか。それはそれとして、「三大歌曲集」から、具体的に指摘させていただきます。

(1)三大歌曲集の内、「美しき水車小屋の娘」D795の曲が入っていない
小生の考える「水車小屋」の名曲→第2曲「どこへ?」、第5曲「仕事を終えて」、第6曲「知りたきは」、第7曲「焦燥」、第9曲「水車屋の花」、第10曲「涙の雨」、第18曲「しぼめる花」、第19曲「若者と小川」、この中から1曲選ぶとすれば、うーん、難しい。小生としては第19曲が大傑作だと考えますが、一般的には第9曲の「水車屋の花」かな?

(2)「冬の旅」D911の「リスト」以外の名曲
第1曲「おやすみ」→高校の音楽の教科書に載っていて、歌唱テストで歌ったことがある。
第6曲「あふれる涙」→昔、「NHKのど自慢」でよく歌われた。
第13曲「郵便馬車」→「菩提樹」「春の夢」と並ぶ有名曲。
第20曲「道しるべ」→恐らく、曲集中の随一の傑作、これは「究極のベスト曲」に是非入れたい。

(3)「白鳥の歌」D957の名曲
第2曲「兵士の予感」→この「兵士」とは、シューベルト自身の事か?
第5曲「わが宿」→これも昔「のど自慢」でよく歌われた(小生は、曲集中では凡作だと思っています)
第7曲「別れ」→シューベルト最晩年の全く自由で明るいが、人生の到達点の高みを示したような大傑作。

ハイネの詩による歌曲も一曲は入れたいですね、
第8曲「アトラス」→小生の独断では、ヴォルフの「プロメテウス」に大きな影響を与えたのではないか?シューベルトの「プロメテウス」は(きちんと聴いていませんが)、まだ劇的表出力に於いて中途半端なような気がします。
第12曲「海辺にて」→地味な旋律ですが、荒涼たる海辺の描写と、恋人達の絶望感の対比が見事に表出された傑作だと思います。

「三大歌曲集」以外は近々メールします。(ゲーテとならんで多くの詩に付曲したシラーも入れたいし・・・)

貴兄がセレクトされた曲目で、文句なく賛同出来る曲は。「糸を紡ぐグレートヒェン」「魔王」「ます」「春の想い」「ズライカT」「君こそは憩い」「ミューズの子」「夕映えの中で」「水の上で歌う」でしょうか。「水の上で歌う」は、本当に素敵な曲で、かのD946-2に相通じる曲だと考えています。
(2)リュウちゃんメール6.5への考察と返信

 さすが法隆寺のリュウちゃん、実に示唆深い返信をくれた。シューベルト歌曲に対する深い造詣もにじみでている。彼からは、その昔、「ドイツ・リートを聴くべし」と言われ、なんとフーゴー・ヴォルフの楽譜とセレクトCD-Rをいただいたことがある。無論大切にとってあるが、聞いたことは一度もない。なお、文中、私・清教寺を"貴兄"と言ってくれているのは、彼が昭和21年、わたしが昭和20年生まれと、僅かながら私が年上だからである。
 さて、シューベルトだが、彼のようなリート好きで一家言を持った男にとって、私のような、やっと一週間ほど前にクラシック歴史本を読んだだけで選んだようなド素人のリストは穴だらけで、言いたいことがたくさんあるだろうことは想像に難くない。いきなり「無謀だ」と言われちゃったぜ、ガクっ! 彼の異論を読んで、まず感じたのは、私との立脚点の違いである。私のほうは、「CHOPIN SUPREME」的な、ポリュラーな名曲・名演集を作ろうというもの。急仕立ての勉強では、そのあたりがちょうどいいところだろうから。一方、彼は、シューベルトの真の名曲を真摯にセレクトしようとする、知名度には関係なく。今の段階でこちらの意図をしっかりと説明しきって、企画に合わせたアドヴァイスをもらう手もあるが、ここは敢えてこのままにしておこう。その方が、彼の持っているものをより多く引き出せるし、勉強にもなるし、そのギャップがかえって面白いと思うから。

では、リュウちゃんメール6.5を整理しておこう 

@「美しき水車小屋の娘」が一曲も入っていない。入れるべし。最高傑作は第19曲「若者と小川」。一般的には第9曲「水車屋の花」。その他では、第2曲「どこへ?」、第5曲「仕事を終えて」、第6曲「知りたきは」、第7曲「焦燥」、第10曲「涙の雨」、第18曲「しぼめる花」

A「冬の旅」は「郵便馬車」「道しるべ」両曲を検討すべし

B「白鳥の歌」中、レルシュタープでは「別れ」が欲しい。ハイネも一曲は入れるべし。第8曲「アトラス」はどうか。候補リストの「プロメテウス」は同傾向の曲だが、中途半端なので外すべし。第12曲「海辺にて」も傑作。

 そこで、私「3大歌曲集」から、リュウちゃんの推薦曲を聴き直してみた。胸に響いたのは「美しき水車小屋の娘」第10曲「涙の雨」と「白鳥の歌」第12曲「海辺にて」だった。私の嗜好はいつも圧倒的にバラード系に傾く。たとえば、中島みゆきなら、好きな曲は「歌姫」、「ホームにて」、「あなたが海を見ているうちに」、「肩に降る雨」、「二艘の舟」などスローなものが多い。リュウちゃんとも昔、同じ会社のN.Yさんを間に、よく中島みゆき論を戦わしたものだ。彼のブログ「リュウちゃんの懐メロ人生」によると、つい最近、粟津温泉で、美女三人に囲まれて、中島みゆきをカラオケしたようだ。そっちのほうも健在で何より!
 「三大歌曲集」以外で賛同してくれたのは「糸を紡ぐグレートヒェン」「魔王」など僅か9曲だけ、「プロメテウス」はNGとなかなか手厳しい。文中にある「水の上で歌う」からつながる名曲として挙げているD946-2とは、「3つのピアノ曲D946の第2」のこと。これは、シューベルト死の年の傑作で、彼の心の底に潜む魔と人に対する優しさが同居したとびきりの曲だ。実はこれもリュウちゃんから教わったものだ。
 さて、話が少々横道にそれたが、このメールに対する私の返信を載せて、今回の「クラ未知」を閉じようと思う。次回はリュウちゃんメール第2信からスタートしたい。

清教寺メール6.6

確かに三大歌曲集のひとつ「美しき水車小屋の娘」が、なにも入っていないのはまずいですね。気に入ったのは「涙の雨」。静かで美しいメロディー。こういうの好きですね。「白鳥の歌」では「別れ」は入れましょう。貴君が言うほど"大傑作"とは、正直まだ思えませんが・・・。ハイネでは、どうしても「アトラス」は好きになれないなあ。文句なしにいいのは「海辺にて」です。オチの"あの忌まわしい女が彼女の涙に毒を注いだんだ"が本当に恐ろしい。これは恋人たちの絶望なんて生易しいもんじゃない、凄い歌です。あと「都会」の乾いたモダニズムも捨てがたいけど、どうですか。今回は、「冬の旅」まで回りません。こちらは、また、あらためてやりたいと思います。

 2010.06.24 (木)  シューベルト歌曲の森へ〜プロローグ
(1)「クラシック音楽史大系」

 昨年、海老原みほさんのピアノ・リサイタルのお手伝いをしたとき、そのプログラムにシューベルト「4つの即興曲D899」があったことから、シューベルトに興味を持ち、「クラ未知」ではもうシューベルト・テーマが一年近く続いている。いままであまり、同じ作曲家とか演奏者に凝った経験がなかった私にとって、これは実に珍しい現象だった。曲を聴き、彼と彼の友人が書いた手紙や日記、彼に関する研究書を読み、音楽とその人生の関わりや垣間見える人柄などに接しているうちに、シューベルトの虜になっていたのだ。 世間一般に、シューベルトのキャッチ・フレーズは「歌曲王」。全作品の7割が歌曲というその量も、駄作ナシといわれるその質も、まさにその名に相応しいものがある。実は私はドイツ・リート(歌曲)なるものが苦手で、いままでシューベルトのリートは、歌曲集「冬の旅」や「魔王」「アヴェ・マリア」などの超有名曲くらいしかマトモに聴いたことはない。言葉が分からないことが最大のネックなのだが、それだけではなくて、地味でどちらかといえば暗い印象が、馴染めなかった理由だと思う。しかし、昨年来心の友となったシューベルトは"歌曲王"なのである。歌曲のメロディーを再使用して多くの器楽曲を書いてもいる。彼の作曲の軸が歌曲なのだから、歌の理解なくしてシューベルトは語れないはずだ。なんとか彼の歌曲に馴染みたい。でも、どうやって? そんな折、石井宏先生が、「倉庫の中を整理していたら、こんなものが出てきたよ。要るかい」と「クラシック音楽史大系」なるシリーズを下さった。執筆者は海外の著名な音楽学者や評論家。写真もふんだんに使われた、全11巻、手にずっしりと重い豪華クラシック音楽史である。真っ先に覗いた「シューベルトのリート」という項目は、歌曲・歌曲集を作曲年代順に順次解説していて、学術的というよりも、名曲目録としての意味合いを勝手に感じてしまった。だから、掲載されている歌曲をひとまず全部聴いてやろうと思いたったのである。習うより慣れろ、理屈はあとから付ければいい。

(2)制作開始!「究極のシューベルト歌曲集」

 馴染みのないジャンルに、興味を持って分け入るはどうしたらよいか?最近の流れの中で思い当たったのは、独断と偏見による「CHOPIN SUPREME」。これは、5月10日「クラ未知」に書いたとおり、知人の女性からの「ショパンのオススメ・ピアニストは?」という質問が発端で作ったプライヴェートCDコンピレーション。これぞショパンという究極の名曲を選曲し、自分の耳で選んだ最高の演奏を当てはめて1枚のCDを作成するというものだ。選曲も演奏も他人の意見は一応聞くけれど、最終決定は自分が下す。だから最後は"独断と偏見による"となる――企画は大成功。CDの申し込みが殺到しました(もちろん非売品としてのプライヴェート使用です)。
 これに倣って、"シューベルト歌曲の究極のコンピレーション・アルバム"を作成しようというわけである。原本「クラシック音楽史大系」には、3大歌曲集で58曲、その他の歌曲が60曲ほど掲載されている。曲には各々短いキャプションが付いている。例えば――「糸を紡ぐグレートヘン」D118は、感動の強さは圧倒的なもので、17歳の少年の作としては驚くべきものがある――彼の最も清らかな作品の「君こそは憩い」D776と最も輝かしいもののひとつ「水の上で歌う」D774――シューベルトのすべての歌曲の中で最も静かな美しさを持つ「夜と夢」D827――などなど、魅力ある一言解説が満載である。ヨーシ、これをジックリ読みながら、約120曲を聴いて選曲だ!
 さて、その選曲だが、ショパンのときは166曲から18曲だった。今回は600曲以上からなので2枚組にしよう。1曲4分として、2枚組ならほぼ40曲。では、120曲から40曲をメドに選曲に入る・・・そこで閃いた!ドイツ・リート素人の私ひとりでやるよりも、誰かに相談しながらやろうじゃないか。他人の意見を聞きつつ最後は自分で決定する。よし、これがいい。ところで、そんな友達いるかしら。いたいたいました。一人は「クラ未知」でも紹介させていただいた法隆寺のリュウちゃん。彼は高校時代からドイツ・リートを聴きまくっていたという歌曲通だ。もう一人は、元会社の後輩で音楽大学准教授NH氏。彼は所有CDが優に1万枚を超える盤鬼。最後は、奥様がピアニストで自身もドイツ・リートを歌う評論家KT氏。お三方にはさっそくメールを打つ。その中から、リュウちゃんへの6月2日のメールを紹介しておきます。

 石井宏先生から、昔作った本だといって「クラシック音楽史大系」なる豪華本シリーズをいただいた。シューベルトを真っ先に読んだら、歌曲が系統的に書かれている。そこで、「CHOPIN SUPREME」に引き続き「究極のシューベルト歌曲集」を作ってみようと思い立った。曰く、究極の選曲と究極の演奏によるシューベルト歌曲のコンピレーションだ。2枚組を考えているので、曲数は40曲ほど。ドイツ・リートの権威である貴君のご意見を拝聴しながら選曲したいと思います。とりあえず、私が粗よりした曲目表を貼付します。「クラシック音楽史大系」に掲載された曲で、私の手持ちCDにあるものを選んだら、36曲ほどになりました。曲数的にはまだ余裕があります。忌憚のないご意見を、ヨロシク。
はてさて、これからどのように展開するのでしょうか?リュウちゃんとのやり取りを中心に「シューベルト歌曲の森へ」分け入ってゆこうと思います。最後に、メールに貼付した曲目表を掲載します。今後、この表を軸に話は展開してゆきます。
「究極のシューベルト歌曲集」候補リスト

 1 嘆きの歌 D23 F.ロボリッツ 1812
 2 糸を紡ぐグレートヘン D118 ゲーテ 1814
 3 憩のない愛 D138 ゲーテ 1815
 4 野ばら D257 ゲーテ 1815
 5 月に寄せて D296 ゲーテ 1815
 6 魔王 D328 ゲーテ 1815
 7 駆者クロノス D369 ゲーテ 1816
 8 至福 D433 ヘルティー 1816
 9 さすらい人 D493 リューベック 1816
10 死と乙女 D531 クラウディウス 1817
11 湖上にて D543 ゲーテ 1817
12 ます D550 シューバルト 1817
13 ガニュメート D544 ゲーテ 1817
14 音楽に寄す D547 フランツ・フォン・ショーバー 1817
15 プロメテウス D674 ゲーテ 1819
16 春の想い D686 ルートヴィヒ・ウーラント 1820
17 人間の限界 D716 ゲーテ 1821
18 ひめごと D719 ゲーテ 1821
19 ズライカT D720 ヴィルレーマー 1821
20 ミューズの子 D764 ゲーテ 1822
21 水の上で歌う D774 シュトルベルク 1823
22 君こそわが憩 D776 リュッケルト 1823
23 夕映えの中で D799 ラッペ 1824/25
24 孤独な男 D800 ラッペ 1824/25
25 夜と夢 D827 マテーウス・フォン・コリーン 1823
26 若い尼僧 D828 クライガー・デ・ヤケルッタ 1825
27 アヴェ・マリア D839 スコット/シュトルク 1825
28 猟夫の歌 D881 シュレヒタ 1826
29 春に D882 シュルツェ 1826
30 シルヴィアに D891 シェークスピア/バウエルンフェルト 1826
31 菩提樹 D911-5 ミュラー 1827
32 春の夢 D911-11 ミュラー 1827
33 川の上で D943 レルシュタープ 1828
34 セレナーデ D957-4 レルシュターブ 1828
35 岩の上の羊飼い D965 ミュラー/フォン・シェジ 1828
36 鳩の使い D957-14 ザイドル 1828
 2010.06.07 (月)  シューベルト1828年の奇跡19〜キルケゴールとシューベルトA
(2)シューベルトの場合

 シューベルトは、死の恐怖に慄きながらも、キルケゴールのように閉鎖の殻に閉じこもることなく、顔で笑って友人たちとの時間を大切にした。楽譜が売れずどんなに貧乏しても、キルケゴールのように神に生活の保障を請うことをせず、ただただ、身を削って一心に音楽を書き続けた。キルケゴールの言う「死にいたる病」は宗教劇「ラザロ」D689でシューベルトとつながっている。

宗教劇「ラザロ」はフラグメント

 「ラザロ」は1820年の作品。ヨハネ福音書第11章「ラザロの死と復活」を音楽化したもので、規模や劇性、キリスト登場の有無などに違いはあるけれど、J.S.バッハ「マタイ受難曲」と同じスタイルの音楽である。正式な標題に「三幕の宗教劇」とあるように、シューベルトは全三幕を想定して曲作りに取りかった。しかし、結果は第2幕途中で終わっている。シューベルトによくある未完成、fragmentのまま・・・。

 第1幕は、二人の妹マルタとマリアとの対話を通して、死に逝くラザロの心境が描かれる。そんなラザロの心の内が最もよく現れているアリアの歌詞の一部を紹介する。
かつて、この棕櫚の木陰に横たわっているとき、死という目に見えない恐怖が、体中を震えさせたものだった。
しかし、今、心は安らぎに満ちている。永遠を憧れる熱い渇きに満ちている。別れの接吻のときが、これほど安らかなものだとは、思ってもみなかった。私は祝福しよう、近づいてくる死の使者を。
私は死んでゆく。真っ暗闇の道を往く準備ができている。主イエスよ、私をお導きください。
 重い病に罹り、死への恐怖におののくラザロが、キリストの使者の伝言によって心が穏やかになり、遂には安らかな気持ちで死を迎える様子がよく分かる。音楽は、全体に、穏やかに進むが、死への恐怖を歌う部分などは、かなりドラマティックな曲想に変わる。

 第2幕。合唱が、ラザロの埋葬を清らかに歌い、「彼は、神の御許に復活する」と確信を持って力強く結ぶ。そして、マルタのレチタティーボが続く。彼女は、ラザロの死体を埋葬した墓穴の前で、「兄さん、私は死んであなたについてゆきたい」と激しく絶叫する。曲は唐突に途切れ、シューベルトがここで曲作りを止めたことを物語る。

 聖書によると、このあと、マルタとマリアの姉妹がイエスに、「あなたがここにいてくださったなら、兄は死なずにすんだのに」と言うと、こころ激したイエスが、「ラザロよ、出てきなさい」と叫んで、ラザロを復活させるのである。シューベルトは最も肝心な「ラザロ復活」のシーンを書かずに終わったことになる。
 未完はシューベルトの専売特許で、最も有名なのは「交響曲 第7番 ロ短調 D759『未完成』」だろう。だが、この曲は残された二つの楽章だけで完成品だ。このあとに、例えばスケルツォの第3楽章(冒頭から20小節までの総譜が残されている)〜プレストの終楽章などと続いても、別に聴きたいとは思わない。憂愁と耽美。寄り添い対峙し合う二つの楽章の、佇まいの美しさを邪魔する何物も要らないと思うからである。未完の交響曲には,このほかに、ドイッチュが「シューベルト年代別作品表題目録」(1951年刊行)で、D番号を与え"交響曲第7番"とした「ホ長調 D729」がある。これは、残されているピアノ・スケッチから、フェリックス・ワインガルトナーとブライアン・ニューボールドが其々オーケストレーションを施して、CD化もされている。但し、この「交響曲 第7番 ホ長調 D729」は、その後完成作品とは見做されず、"第7番"という交響曲番号を外されたため、「未完成交響曲D759」と「グレートD944」が繰り上がって、各々第7番と第8番となった経緯がある。交響曲ではこの他にも、D615、708a、936aなどが未完である。弦楽四重奏曲では、15曲中3曲が、ピアノ・ソナタでは23曲中8曲が未完成であり、これらの数字はやはり多いというべきだろう。「ラザロ」の復活の場面に関しては、聖書からかなり劇的なシーンが想像されるだけに、完成品を聞いてみたかったと思う。
 アルフレート・アインシュタインは「シューベルト 音楽的肖像」の中で、「『ラザロ』は詩作品としては決して傑作ではない」と言いながら、別のところでは「歴史的に見ると、オペラから音楽劇への発展という意味においては、このシューベルトのフラグメントは音楽的に『タンホイザー』と『ローエングリン』をはるかに凌駕している」と述べている。傑作ではないと言いながら、ワーグナーの傑作オペラを凌駕していると言う。一見矛盾した論考のようだが、彼は、「ラザロ」におけるレチタティーボとアリアの混和が、ワーグナーの二作品よりも見事になされていることを指摘しているのである。ならば、「ラザロ」は「リング」の先達ともいえるのではないか。

「死にいたる病」の向こうに

 キルケゴールが「死にいたる病」という文言を引用した「ラザロ」を、宗教劇として書いた2年後、なんとシューベルトは「死にいたる病」に感染してしまう。梅毒である。これからさらに2年後、罹病の自覚症状がでてきたころの悲痛な手紙を紹介する。これまでも何度か引用している1824年3月31日、友人クーペルウィザーにあてた手紙の前半部分である。
一言で言うと、僕は、自分がこの世の中で最も惨めな人間だ、と感じているのだ。健康がもう二度と回復しそうもないし、そのことに絶望するあまり、物事を良くしようとするかわりに、ますます悪くしていく人間のことを考えてみてくれ。いわば、最も輝かしい希望が無に帰してしまい、愛と友情の幸福が、せいぜい苦痛のタネにしかならず、(せめて心を鼓舞する)美に対する感動すら消え去ろうとしている人間のことを。それはみじめで不幸な人間だとは思わないかね?――「私のやすらぎは去った。私の心は重い。私はそれを二度と、もう二度と見出すことはないだろう」、僕は今、それこそ毎日こう歌いたいくらいだ。なぜなら、毎夜、床に就くたびに、僕はもう二度と目が覚めないことを願い、毎朝目が覚めるたびに、昨日の恨みばかりを告げられるからだ。
 初期の傑作リート「糸を紡ぐグレートヘン」D118(ゲーテ詩)を引用して、苦悩を綴るシューベルトの心境はいかばかりだったろうか。そんな状況下での音楽が、思いっきり悲痛なものであってもなんの不思議もない。確かに、シューベルトの音楽にはそういう側面もある。しかし、ほとんどの場合、彼の音楽は、むしろ癒しに満ちている。確かに、悲痛と平穏という相反する感情は、シューベルトの音楽の中で共存している。それは、時期的に、曲ごとに、違った度合い・割合で交じり合う。穏やかに流れる曲想が急に暗闇に包まれたり、悲痛に満ちた気分の中にパッと一筋の光明が差し込んだりする。光と影が変幻自在に出没するのである。そんなスリルもシューベルトの魅力の一つだけれど、本質はやはり、優しさと穏やかさではないだろうか。彼の音楽を聴いてわれわれの心は慰められ平安を得る。その秘密を解くべき彼の文章が残っている。それは、先の手紙に先立つ1824年3月27日の日記である。
他人の苦しみを、また他人のよろこびをわかるものはだれもいない!だれもがともに歩んでいると思っていても、それはいつもただ並んで歩んでいるにすぎない。ああ、それを知るものの苦しみ! ぼくの創造物は音楽への理解とぼくの苦しみから生まれたものなのだ。苦しみだけから生まれたものは、この世をよろこばせることなどないと思われる
 「自分は苦しみの中から音楽を作っている。それは事実だ。けれども、苦しみだけから音楽を生み出したりはしない。そんなものは世の中の人々を決してよろこばせない。苦しみだけではなく、音楽への理解から音楽を作る」と、シューベルトは言う。だから、人々に安らぎを与えることができるのだ。しからば、シューベルトのいう音楽への理解とはなんだろう?その答えは、彼の歌曲「音楽に寄す」D547の歌詞そのものにある、と私は考える。詩は彼の友人フランツ・フォン・ショーバー(1796−1882)である。
♪心やさしい音楽よ、この世のおぞましい日常が私を覆い包んだあの数知れぬ灰色の時間に、お前は私の心を温かい愛に燃えあがらせ、よりよい世界に誘ってくれたのだった!
しばしばお前の竪琴から流れ出る吐息が、甘い浄らかな和音を響かせながら、この世ならぬ世界を私の頭上にひらいた――心優しい音楽よ、わたしはそのことをおまえに感謝する!
 シューベルトの歌曲を聞けば、彼が詩をいかに理解しつくして書いたか、ということが直ちに理解できるだろう。言い換えれば、詩への共感なくして歌は書かなかったに違いない。だから彼の歌曲の歌詞は彼の気持ちと同じ。ましてや「音楽に寄す」は友人の詩である。これが彼の気持ちそのものと言っても何の誤りがあろうか。「音楽」というものが、どんなに暗い日常をも温かく包み込んでくれるという信念と、そういう音楽に対する感謝の気持ちを、彼は持っていたのである。だから、自分自身がどんなに辛く苦しくとも、他人には安らかな音楽を届けたかったのだ――そう、シューベルトは、他人にやさしくすることの意味をわれわれに教えてくれる。私は、そんなシューベルトが大好きだし、感謝し畏敬する。そして、自分も、気持ちだけでも、そうありたいと願う。音楽は書けないのだから。

 2010.05.30 (日)  シューベルト1828年の奇跡18〜キルケゴールとシューベルト@
 セーレン・キルケゴール(1813−1855)の書「死にいたる病」のタイトルは、ヨハネ福音書第11章―4から採られている。そこにはキリストが愛したラザロの死と復活のことが書かれており、キリストが、「ラザロが死にそうだ」との報を受けたときに発した言葉が「この病は死にいたらず」だった。キルケゴールはこの言葉を「死にいたる病」と逆説的に用いて、自己の思想の頂点を築いた著書のタイトルにした。シューベルトは同じ題材を使って、1820年に、宗教劇「ラザロ」を書いた。彼はその2年後に、「死にいたる病」に感染してしまう。梅毒である。「ラザロ」と「死にいたる病」を介して、天才作曲家と、元祖実存主義哲学者が一本の線で結ばれたことになる。

(1)キルケゴールの場合

 「死にいたる病」(ちくま学芸文庫、桝田啓三郎訳)の中で、キルケゴールは、ラザロの死と復活、そして、それに関わるイエス・キリストのことをどのように捉えているのだろうか? 墓を塞ぐ石を取り除かせてキリストは叫んだ、「ラザロよ、出で来たれ」と。すると死んで4日も経って腐乱したラザロが、蘇って歩き出した。しかし、本来は、"復活せし生命"であるイエス・キリストが、その言葉を口にせず、墓に歩み寄るだけでよかったのではないか?とキルケゴールは言う。――言葉を口にしたのは、キリストの力を弟子たちに分かりやすく示すためであり、その意味では、ラザロの病を「死にいたらず」と規定し、「ラザロは眠ってしまった」と敢えて言うことにより、弟子たちから「眠ったのなら、助かるでしょう」との言を引き出して、「彼は死んだのだ」と結んだのもこのためだった。だから、キリストがその場にいるということで、この病は死にいたる病ではない。否、キリストが存在するということだけで、死そのものでさえ死ではないのである。聖書(ヨハネ福音書第11章−26)でも、キリストは「私が復活であり命なのだ。私を信ずるものは、死んでも生きる」と仰っている。人間的な意味では、死は一切のものの最後であるが、キリスト教的な意味では、死は永遠なる生命の内部におけるひとつの小さな出来事に過ぎない――キルケゴールはそう考える。私の知り合いのカトリック教徒もこう言っている。「死とは、復活してイエス・キリスト=神と対面できること。だから、死は決して怖いものではなく、むしろ祝福されるべきものなのです」と。
 しからば、キルケゴールは「死にいたる病」をどう規定しているのだろうか?彼は「死にいたる病」を、一言で絶望であるとする。精神の死である。真摯なキリスト者として人生に相対したキルケゴールの結論は、当然、病は肉体的なものではなかった。人間は"精神"だと彼は言い切るのである。

 「死にいたる病」とは「絶望」。「絶望」には3つの"場合"があるとキルケゴールは規定する。
≪絶望3つの場合≫
@ 絶望して、自己を持っていることを自覚していない場合
A 絶望して、自己自身であろうと欲しない場合
B 絶望して、自己自身であろうと欲する場合
                                 (原文のまま)
 人間は精神である――このあと彼はこう続ける。「しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである」。いやはや、こうくるともう完全に私の理解を超える。だから私は勝手に解釈しちゃう――自己とは自身の内なる精神。自分というものの証。自我とか個性とかを含む精神の総合体である。とはいえ、自分だけで形成されるものではない。自己は外的関係において変化し、ただし、取り込む意思はその時点での自己であり、取り込んだ後に変化したのもまた自己である。こうして自己は変化しつつ形成されてゆく――と。では、自己の形成度合いを判断するのは誰だ? 自分か他人かで、同じものが違って見える。ならば、神か。・・・こうなると、非キリスト者である私はもう解らない。解らないから放置して先に進む。では、絶望3つの場合を、絶望3つの"種類"に書き換えてしまおう。
≪絶望3つの種類≫
@ 自己を自覚していない絶望
A 自己を否定したくなる絶望
B 自己を貫きたいが、できないことへの絶望
 このほうが分かりやすくなったと思うがどうだろう。そして、この3つの絶望の"種類"は、一個人の成長に見立てると、3つの成長過程で起こる絶望の"段階"に置き換えられるのではないか。
≪絶望3つの段階≫
@ 自己を自覚してない段階での絶望。可視的表層的状況しか見えずに、単に他者と自分とを対比して絶望する。これはまだ、自己の中にそれなりの価値観が形成されていない段階。今の日本の政治はこのレベルか。このまま成長が止まってしまえば人生はつまらない。
A 自己確立途上での絶望。これは、自己が次第に形成されつつある時期に起こる絶望。ほとんどの人間は、若い時期にこの試練を味わうはずだ。
B 自己確立後の絶望。自己が確立されたという自覚を持っている段階で起こる絶望である。どうにかしたいと思っても今の力ではどうにもならない。このままでも生きてゆくことはできるけれど、さらに自分を高める意欲を持てるかどうかが鍵となる。
 以上が、「死にいたる病」第一編≪死にいたる病とは絶望のことである≫の私的解釈であるが、キルケゴールは、第二編で≪絶望は罪である≫と規定する。そして、この書の続編として「根本的な治療」を書いた。「死にいたる病」で解析した絶望=病を、続編で治療する。治療とは即ち、キリスト教的修練=贖罪であると結論するのである。この一連の流れを考察すると、そこには――「死にいたる病」とは絶望である。絶望は罪である。罪はキリスト教的修練で贖わなければならない――という三段論法的方法論が見える。そして、神への畏敬と服従が。
 ワーグナーの歌劇「タンホイザー」で、主人公のタンホイザーが、官能の地ヴェーヌスベルクに入り浸り色欲三昧の生活を送るという罪を犯したため、ローマへの巡礼を行い神に許しを請うのだが、これなんかが、キルケゴールの言う"キリスト教的修練"なのだろう。(ちなみに、ワーグナーのケースは、"女性の犠牲の上に成り立つ救済"という側面もあるけれど、これはまた別の機会に)。このあたりが、どうも非キリスト者の私には分かりにくいところなのだ。というか、ヴェーヌスベルクへの入り浸りが罪であるかどうかは別にして、神に許しを請えば罪は赦されちゃうのか・・・・ということ。そう、キリスト者においては、犯した罪を神に告白して罪を贖うことは、普遍的かつ日常的行為なのである。

 キルケゴール哲学の根底には"個の重視"という基本概念がある。これが、実存主義の先駆とされる由縁でもあるのだが、キルケゴールのその精神は、別のところで、こんな形で現れる。――「わたしがいま神に期待することは、著作者としてのわたしの活動を何らかの方法で助けてくださるということである。あるいは、また別の方法で私の暮らしを助けて、わたしを著作者であり続けさせてくださるということである」――これを読んで、私は、こんなことまで神にお願いするのか!ちょっと、甘えすぎではないのかと、不思議な気持ちになった。ちなみに、シューベルトに、こんな甘えはサラサラない。どんなに貧乏しても、こんなヤワな言葉を、彼は発しはしなかった。キルケゴールは、さらにまた、「確かに、わたしは神の赦しを信じている。しかし、私は、従来と同じように、いっそう深い意味で他の人々と交わりを結ぶどころか、いつまでもこの閉鎖性の痛ましいとりこになっているという罪を、一生涯、になっていなければならぬことを知っている」と言って自閉の殻に閉じこもる。この点に関しても、シューベルトは全然違う。彼のほうこそ、もっと自己の殻に閉じこもりたかったはずなのに、そしてまた、心の中では、後悔、絶望、恐怖、無念etc ありとあらゆる負の感情が渦巻いていたはずなのに、彼は、顔で笑って心で泣いて、たくさんの友人たちに囲まれて人生を過ごしたのだ。
 精神の死と肉体の死、精神の苦痛と肉体の苦しみ、シューベルトとキルケゴール――どちらがどうと、私なんかに言えるはずもない。ただ一言"シューベルトは凄い" これだけは言える。確信を持って。
 次回は、「死にいたる病」と「ラザロ」をテーマに、シューベルトの生き様とその音楽哲学に踏み込んでみたい。

 2010.05.10 (月)  ショパン生誕200年 独断と偏見による究極のコンピレーション
 先日、映画会社に勤める知り合いの女性T.Hさんからメールをいただいた。「横山幸雄さんのショパン全166曲コンサートに行ってきました。改めてショパンはいいなあと思いました」・・・・という内容である。横山さんといえば、近年、ヴァン・クライバーン・コンクールの優勝者辻井伸行さんの先生としても脚光を浴びているピアニスト。それにしても166曲一気演奏とは、ショパン生誕200年ならではの思い切った企画だ。聞けば、ギネスに申請中とか。5月4日の朝9時から深夜1時まで、なんと16時間のマラソン・コンサート。やった方も聞いた方もお疲れ様でした。私、ショパンは嫌いじゃないけれど、一気に166曲・16時間はチョットきつい。そこで、ハタと閃いた・・・そちらが、一人で166曲なら、こちらは、厳選した名曲を極めつけの名演奏でまとめてみよう、勿論独断と偏見で。曲数は、そう、十八番に因んで18曲でどうだろう。

 フレデリック・フランソワ・ショパンは、1810年2月22日、フランス人の父とポーランド人の母との間に、ワルシャワで生を受けた。1829年ウィーンで行った演奏会が大成功。翌1830年、再度ウィーンを訪れるが、今度はうまくいかなかった。ポーランド/オーストリア間の政情が悪化したためである。そこでショパンはパリを目指すことになるが、これが彼の運命を変えた。パリ社交界への華々しいデビューと成功、そしてジョルジュ・サンドとの出会いは、彼の作風に決定的な影響を与えたのである。
 故国ポーランドの象徴たるポロネーズ、マズルカに代表される力強く素朴な郷土愛的精神。ワルツ、夜想曲などに宿る優雅で洗練されたパリの香り。ショパンの音楽にはこの二つの要素が混在している。また、彼の天才は、親しみやすいサロン音楽の中に芸術性を自然に内包させている。吉本隆明が言う"自己表出と指示表出"の巧まざる調和といえようか。これら様々な要素が、絶妙に絡み合い溶け合って、魅力溢れるショパン・サウンドを形成しているのである。
 したがって演奏者は、ポーランドとフランス、素朴と洗練、力強さと優雅さ、ロマンと知性など、ショパンの音楽が持つ相反する二面性をしっかりと捉えた上で、親しみやすさと芸術性のバランスの上に、自分の音楽を作りあげなければならない。即ち、ポイントは匙加減。とはいえ勝手気ままに演じればそのままサマになる人もいるわけで、これが真の天才だったりする。だから、ショパンの音楽は演奏者によって多種多様な顔を持つ。これが聞き手にとって、ショパンを聞く最大の楽しみとなるのだ。

 昔からショパンを得意とする名手は多い。学生時代、SP復刻盤から流れるパハマンの練習曲「黒鍵」の、鍵盤上を滑るような軽妙な演奏に感動した覚えがある。パデレフスキーの「幻想即興曲」における悠揚とした風格やヨーゼフ・ホフマンの「ノクターン」での端正な佇まいに感銘を受け、コルトーの「小犬のワルツ」における自由自在な表現に、ロマンティシズムの極致を見たような気になったものである。確かにこの時代、1930−40年代あたりの名手の演奏には、現代にはない個性の煌きがある。百花繚乱、十人十色、確かに、その多種多様な個性の輝きは半端なく魅力的で、何人にも代えがたい魅力を持っている。とはいえ、そんな昔を懐かしんでばかりいたんじゃ老人の回想録になってしまうし、SP復刻盤の音はいかにも貧弱だ。ショパンのピアノ曲を現代のいい音で聞く楽しさも忘れてはならないだろう。そこで、音源はステレオに限ることにする。 では手持ちのCDを聞きながら、ショパン"独断"コンピレーション・アルバムの選定にとり掛かろう。

 まずは、ホロヴィッツ(1903−1989)から。自由な精神から発する自在な楽想が極限のピアニズムと合体し、ニュアンスに富んだ音世界を創造する。まさに魅せる天才、現代のリスト? 「英雄ポロネーズ」の、勇壮さの中に垣間見える遊び心がたまらない。陰影深い「マズルカ第23番、38番」も絶品。
 サンソン・フランソワ(1924−1970)は、古き佳き時代を伝えてくれる貴重なピアニスト。そのファンタスティックで詩的な表現はコルトーにつながっているかのよう。名人芸の極致たるワルツ3点を選定する。
 アルトゥール・ルービンシュタイン(1887−1982)は、レパートリーも芸風も実に幅が広いピアニストだが、選定した「小犬のワルツ」「幻想即興曲」「子守歌」は、健康的な穏健さが特徴だ。技巧も確かだから曲想に安定感がある。
 マルタ・アルゲリッチ(1941−)の華麗で情熱的な表現は、いつも聞くものを湧々させてくれる。「舟歌」も「雨だれ」「イ長調」前奏曲も、華やかな色彩感が独特で、時間が経つのを忘れさせる魔力を持っている。
 反対に、マウリツィオ・ポリーニ(1942−)は、高度なテクニックでショパンの世界を端正に描き出す。難技巧で知られる練習曲「革命」「黒鍵」は、歯切れよく怜悧な表現が魅力。また、「別れの曲」の爽やかな抒情性も好感度大だ。
 ミエチスラフ・ホルショフスキー(1892−1993)は、100歳近くまで現役を続けた奇跡のピアニスト。その作り出す音楽は純粋無垢、まるで天上の音楽。「夜想曲」の名品2点を選定するが、これほどまでに清らかなノクターンは、かつて存在しなかっただろう。
 ジャン=マルク・ルイサダ(1958−)は、コルトー〜フランソワの流れを汲むフランスの逸材。「夜想曲 遺作」を抒情味豊かに描き出して見事だ。

 以上は、誰でもきっとどこかで聞いたことがある名曲ぞろい。CMタイアップや映画・TVドラマへの挿入なども数多いが、それらを列記してみよう。
 「夜想曲 変ホ長調 作品9−2」は、映画「愛情物語」(1955年)の主題曲「トゥ・ラヴ・アゲイン」として、カーメン・キャバレロの演奏によって大ヒットした。
 「子守歌」は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の遺作「イノセント」(1975年)の中で、印象的に使われている。
 「別れの曲」は、巨匠イングマール・ベルイマン監督の映画「叫びとささやき」(1972年)の挿入曲として、また、女優富田靖子のアイドル時代のデビュー曲「さびしんぼう」(1985年発売)は、この曲に売野雅勇が詞を付けたもの。
 「雨だれ前奏曲」は、黒澤明監督晩年のヒット作品「夢」(1990年)やピアニストのデイヴィッド・ヘルフゴットをモデルにしたオーストラリア映画「シャイン」で効果的に使われている。
 「前奏曲 第7番 イ長調」は50秒足らずの短い曲だが印象度は抜群で、"太田胃酸 いーい薬です"のバックに流れるバリバリの現役CM曲である。
 また、「夜想曲 嬰ハ短調 遺作」が、名優・緒形拳にとっても遺作となってしまったTVドラマ「風のガーデン」(2008年、倉本聰作品)で、テーマ曲として見事に使われていたのは記憶に新しい。

 さて、これで、タイアップ曲6曲を含む名ピアニストの十八番演奏による独断的ショパン・コンピレーション全18演目が決定した。折角だからPB-CDを作りましょう。タイトルは、究極のショパンということで、「Chopin Supreme」はどうだろう。そういえば、ジョン・コルトレーンの名盤に「A Love Supreme」というのがありましたっけ・・・。では最後に全18曲を掲げて、ショパン・メモリアルイヤーへのトリビュートとさせていただきます。


                     Chopin Supreme

       @ ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53「英雄」
       A マズルカ 第23番 ニ長調 作品33−2
       B マズルカ 第38番 嬰ヘ短調 作品59−3
       C ワルツ 第1番 変ホ長調 作品18「華麗なる大円舞曲」
       D ワルツ 第7番 嬰ハ短調 作品64−2
       E ワルツ 第9番 変イ長調 作品69−1「別れのワルツ」
       F ワルツ 第6番 変ニ長調 作品64−1「小犬のワルツ」
       G 幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66
       H 子守歌 変ニ長調 作品57
       I 舟歌 嬰ヘ長調 作品60
       J 前奏曲 第 7番 イ長調 作品28−7
       K 前奏曲 第15番 変ニ長調 作品28−15「雨だれ」
       L 練習曲 第12番 ハ短調 作品10−12「革命」
       M 練習曲 第 5番 変ト長調 作品10−5「黒鍵」
       N 練習曲 第 3番 ホ長調 作品10−3「別れの曲」
       O 夜想曲 変ホ長調 作品9−2
       P 夜想曲 変ロ短調 作品9−1
       Q 夜想曲 嬰ハ短調 ≪遺作≫

         ピアノ:
         @−Bウラディミール・ホロヴィッツ C−Eサンソン・フランソワ
         F−Hアルトゥール・ルービンシュタイン I−Kマルタ・アルゲリッチ
         L−Nマウリツィオ・ポリーニ OPミエチスラフ・ホルショフスキー
         Qジャン=マルク・ルイサダ



 2010.04.22 (木)  シューベルト1828年の奇跡17〜ブレンデルとポリーニ3
(4)ブレンデルとポリーニ番外編

 アルフレッド・ブレンデルのCD「フェアウェル・コンサート」には、モーツァルトのピアノ協奏曲 第9番 K271「ジュノーム」、ピアノ・ソナタ 第18番 K533/494、ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第13番 作品27−1、シューベルト ピアノ・ソナタ 第21番 D960、などの曲目が並んでいる。これらドイツ/オーストリア系の演目は、彼のレパートリーの中軸で、これ以外にはシェーンベルク、ウェーベルンなど近・現代にまで及んでいて、ポリーニともかなりの部分重複する。
 マウリツィオ・ポリーニは1942年ミラノの生まれ。18歳でショパン国際コンクール優勝という華々しいキャリアを誇る。ただし、この直後から約10年間、表舞台から姿を消した。充電が目的だったといわれている。ブレンデルは1931年チェコの生まれ。18歳で出場したブゾーニ国際コンクールは第4位だった(Wikipediaやその他の記録ページではこうだが、自身のインタビューによると優勝となっている。果たしてどちらが正しいのだろうか?)。コンクール暦はこれだけで、その後のキャリアも、1970年39歳でフィリップスと契約してから頭角を現すという晩成型。風貌も自ら「ウッディ・アレンに似ている」と認め、黒縁眼鏡で眉間にシワを寄せ背中を丸めて歩き、弾く。典型的な学者肌のピアニストのイメージで、天才ピアニストの代名詞のようなポリーニとは対照的な存在である。そんなわけだから、人気はポリーニのほうが断然高い。ピアニストとしての形容も、ポリーニには、磨きぬかれた技巧、明るい明確なタッチ、客観的アプローチ、明晰な解釈、などの文言が並ぶが、ブレンデルには、真面目、几帳面、学究的、晩成などということになる。結果、ポリーニ=現代的な天才ピアニスト VS ブレンデル=伝統的学究肌のピアニストという対抗軸ができあがる。音楽ファンの大多数は、そんな先入観を持って彼らの演奏を聴くことになる。だが、果たしてそれは真実なのだろうか。私はそのような先入観をすべて取っ払って、音楽だけを聞くように努めている。そうすると徐々に真実が見えてくる・・・。
 では、彼らに共通のレパートリーの中から、モーツァルトとブラームスの協奏曲を聴き比べてみよう。

[モーツァルト:ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 K414]

 ピアノ協奏曲K414は、モーツァルトがウィーンに出てきて2年目、1782年の作品。結婚して、予約演奏会も軌道に乗り出した、彼の人生の中で最も順調な時期の楽曲である。同じ年、クリスティアン・バッハが亡くなった。クリスティアン・バッハは、大バッハの末子で、モーツァルトが、少年時代、ロンドンで始めてのシンフォニーを書いたときに教えを受けた恩師。モーツァルトは、この師へのオマージュを込めて、この曲の第2楽章に彼の旋律を埋め込んでいる。
 第2楽章Andanteにおけるブレンデルとマッケラス指揮:スコットランド室内管弦楽団(2004年録音)の演奏は、敬虔な祈りに満ちている。ABA'の三部形式、そのBへ移行する際の絶妙な間とA'への移行部分における考え抜かれた丁寧な表現は、ブレンデルの几帳面さの現れだ。几帳面、即ち丁寧さこそ、作品と作者への敬愛の念そのものである。ポリーニの2007年録音はウィーン・フィルとの弾き振りである。ピアノとオケの融合した響きは確かに美しいが、音楽が平穏に流れるだけで、ブレンデルの陰影に富んだ深い表現に較べるとコクに乏しい。
 終楽章は軽快なロンド。オリヴィエ・メシアン(1908−1992)は「モーツァルトの旋律線は、上昇・下降の形態とバランスが絶妙で、そのフォルムの美しさは比類がない」という意味のことを言っているが、このロンド主題こそまさにその典型。少し上昇、倍下降、オクターブ上昇、3度上に着地、なんとシンプルで美しい形! ブレンデルはこのモーツァルトの特質そのもののような主題を、実に軽妙に柔らかくしかもクッキリと描き出す。音の意味を感知しつつ抑揚も十分だ。一方、ポリーニの音は、軽く柔らかいのはいいのだが、芯がない。読みが音に込められていないから、輪郭がぼやけ音楽がダラダラと流れてしまう。しかるに、このディスクは、レコード芸術2008年度「リーダース・チョイス」で第6位となっている。前作のモーツァルト(K453&467)は2006年度の堂々の第1位だ。やはりポリーニの人気は抜群なのである。人気だけではなく、専門家の評価もすこぶる良く、当然の特選盤である。こんなに高い評価の演奏を、ここまで貶してしまっていいのかしら?彼らが読んだら石をぶつけられるかも・・・。

[ブラームス:ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83]

 ブラームスのピアノ協奏曲第2番のキーワードはイタリアである。1878年最初のイタリア旅行のあとから書き始め、中断、1881年再度イタリアに行き、帰ってから一気に書き上げられた。重厚で渋いブラームスの作品の中にあって、この曲は異彩を放っている。特に終楽章ロンドは、イタリアの澄み切った青空のように明るい(とはいっても、ブラームスだから、メンデルスゾーン交響曲第4番「イタリア」的であるわけもないが)。舞曲風の主要主題は軽快で、中間部主題には眩さとセンチメンタルさが溶け合ったような陽光が煌く。荘重な第1楽章も、重厚で情熱的な第2楽章も、抒情的な第3楽章も、それぞれに魅力的な音楽だが、なんといってもポイントは終楽章だ。ここには、ブラームスがイタリアに見た切ないばかりの憧憬がある。
 ブレンデルは、この曲を1974年ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ、1991年にはアバド指揮ベルリン・フィルと、ポリーニは、1976年アバド指揮ウィーン・フィル、1995年同じくアバド指揮でベルリン・フィルと録音している。この曲のキーワード"イタリア"には、アバドとベルリン・フィルが最高度にマッチングしている。イタリア人指揮者クラウディオ・アバド(1933−)と近代的オーケストラの最高峰ベルリン・フィルのコンビは、旋律線を明快に描き出し抒情が粘らない、まさに、イタリア風なのだ。したがって二人共、ベストはアバド:ベルリン・フィルの方になる。では、ブレンデル&アバド:ベルリン・フィル盤91ポリーニ&アバド:ベルリン・フィル盤95の勝負やいかに・・・・。

 まずはブレンデル。終楽章が始まってオーケストラが主題を提示した直後のピアノ・ソロ(第17小節〜)のテンポの落とし加減と微妙なタッチが素晴らしい。一歩間違えれば嫌味になりかねないところのコントロール性が絶妙である(因みに74年盤はテンポの変動はない)。対照的に、45小節目からのタッチの強靭さはどうだ。ここは、同曲異演と較べても恐らく随一の力強さだろう。この部分、ポリーニのタッチも確かに強靭だが、やや明るく軽い。ポリーニのは胸に響くが、ブレンデルはずっしりと腹に響く。81小節目からは大きく伸びやかに歌い、97小節からイタリア風中間部主題に入ってゆく。この中間主題のブレンデルの弾き様も見事なもの。煌びやかで爽やか、そこにセンチメンタルなスパイスが効いた極上のテイストである。まさにブラームスが感じたイタリアそのものという気がする。これぞこの曲随一の名演、というか、今後これを凌ぐ演奏は出てこないのではないか ? と思えるほどの、嵌りに嵌った究極の名演奏だ。一方ポリーニはどうか。以上3つのチェック・ポイントすべてにわたり、ブレンデルに及ばない。オーケストラも反応が全然違う。ブレンデル盤のアバド:ベルリン・フィルは、表情の抑揚が大きく奥行きが深い。まるで、ブレンデルの相似形だ。それに較べると、ポリーニ盤のオケは平面的。三次元と二次元の違いがある。同じコンビのオケでも、ソリストによって違う音楽になるという、これは好例である。

[付記]

 ブレンデルの「フェアウェル・コンサート」を聴いた。2008年12月の引退記念コンサートである。注目は、プログラムの最後に置いているシューベルト「ソナタ第21番」だが、これは通算4度目の録音となる。心の趣くままの実に自然体の演奏だった。「最後なのだから思ったとおりに弾く。もう、造形とか知情のバランスとかは関係ない。私は、専ら心の趣くまま、ただひたすらその美しい旋律を歌うだけだ」とでも言うように。聞こえてくる音楽は、なんの気負いもない、すっかり角の取れた慈しみの音楽で、空間に美しい響きだけが漂っている。そういう意味では、前3作とはまるで趣を異にしている。20数年前に、100歳近くのホルショフスキーが残したレコーディングを想起させる。心が芯から安らぎ優しい気持ちにしてくれる音楽である。また、第1楽章提示部の繰り返しは、ここでも行っていなかった。これについては、前回「ブレンデルとポリーニ2」で述べたように「疑問だが、ブレンデルのやることだから、必ずなんらかの理由があるはずだ」と思っていた。
 対話録「さすらい人」ブレンデル(マルティン・マイヤー編、岡本和子訳、音楽之友社刊)なる本が手に入ったので読んでみたら、その理由が語られていたので、その部分を引用する。
(提示部の繰り返しにつながる9小節のブリッジは)素材を破壊するだけではなく、特別に一貫性のあるこの楽章の雰囲気そのものを、あえていえばソナタ全体を破壊してしまう危険があります。あの数小節は作品のどの部分とも関連性が見つかりません。動機的に、あるいは精神的に何かを示唆しているのであれば、これはほかでもあることですが、私も尊重するでしょう。しかし、そうではないので、私は繰り返しを弾きません。
 私が所有する10数種のD960の内、繰り返しを行っていないのは、ブレンデルとクララ・ハスキル(1951年録音)だけであった。繰り返しを行わないと、シューベルトが書いた9小節のブリッジをとばすことになる。これはイコール、シューベルトの指示に逆らうということなのだ。"なんら関連がないから"とか"曲を壊してしまうから"という理由でこの指示を無視するとは、いかにもブレンデル、これぞ彼の美意識と頑固さの証明というべきだろう。しかも長い演奏家人生の最終ステージのラストに置くほど愛してやまないシューベルトの楽曲においてだから、なおさらである。
 とはいえ、私はこの件に関しては賛同しかねる。というより、どうしちゃったのブレンデルと言いたくなる。繰り返すが、あの9小節はシューベルトの指示なのである。シューベルトの気持ち、感情なのである。それが全体を壊すからとして繰り返しをしないのは、演奏者の思い上がりである。シューベルトは関連性のないものを"敢えて入れた"のかもしれないではないか。ブレンデルが言う"関連性のない9小節"こそ、2ヵ月後には死んでしまうギリギリの状況の中で発したシューベルトの心の叫びなのかもしれないのである。私にはそう聞こえる。
 2010.04.14 (水)  映画「ドン・ジョヴァンニ」〜天才劇作家とモーツァルトの出会い を観て
 カルロス・サウラ監督のイタリア=スペイン合作映画。副題にある天才劇作家とは、「ドン・ジョヴァンニ」の台本を書いたウィーン宮廷詩人 ロレンツォ・ダ・ポンテ(1749−1838)のことである。ダ・ポンテとモーツァルト(1756−1791)とのコンビ作品には、「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」があり、これらは、モーツァルトのダ・ポンテ三部作として今でも頻繁に上演されるオペラの傑作人気作品である。

 音楽と台本はオペラの両輪。その意味では、ダ・ポンテなくして三部作は存在しなかったのは当たり前だが、彼の役割は単なる台本書きだけに止まらなかった。第一作「フィガロの結婚」(1786年初演)はフランスの劇作家ピエール・オギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェ(1732−1799)の戯曲が原作。これに目をつけたモーツァルトはダ・ポンテにオペラ化を相談する。当時のモーツァルトはウィーンに出てきて5年目。貴族の子女のレッスンと自作の予約演奏会の収入でなんとか生活は成り立っていたが、作曲家として自らが満足するような成果はあげていなかった。当時、一流作曲家の証はオペラを当てること。「オペラをヒットさせて、自他共に認める一流作曲家の仲間入りをしたい」・・・これぞまさに、かの天才作曲家モーツァルトの嘘偽らざる悲願だったのである。そんな彼の嗅覚に掛かったのが「フィガロの結婚」だった。"この題材で自分が音楽を書けば絶対に当たる"と彼は固く信じた。そこで宮廷詩人ダ・ポンテに相談したのである。
 これを受けたダ・ポンテは「面白い、やろう」ということになる。だが待てよ。これを果たして宮廷は許可するだろうか。なぜなら、この作品、庶民が貴族を愚弄するという支配者側から見れば甚だ赦しがたい内容。革命前夜で庶民の台頭が著しいフランスですら、作者の投獄事件まで起こったこの危険な戯曲は、ハプスブルク家の権勢未だ衰えないウィーンでの上演は極めて難しい状況にあったのである。彼は、(勿論、モーツァルトと協議しながら)原作の過激な部分を削除しセリフを変えるなどして角を取った。こうして、ダ・ポンテは、"原作の持つエスプリを失くすことなく、宮廷の許可が得られるギリギリの線で作る"という絶妙なバランスを見事に実現させた。これぞまさに天才の技である。ところがこれでも、サリエリを長とする宮廷委員会はこの作品の制作を却下した。そこでダ・ポンテは頂上作戦に打って出る。モーツァルトに理解の深い皇帝ヨーゼフ2世を直接説得して許可を得たのである。こうしてオペラ史上の大傑作「フィガロの結婚」は世に出ることになった。1786年5月1日、ウィーン、ブルク劇場での初演は奇妙なものだったらしい。皇帝に直談判されて面目丸つぶれのサリエリ一派は、腹いせにブーイングを浴びせる。他方、作品の面白さ音楽の素晴らしさに歓喜した観衆は大喝采、いくつかのアリアは何度もアンコールされたという。まさに、劇場を二分する珍現象が起きたのである。
 その後、「フィガロの結婚」はプラハで上演され、空前の大ヒットとなった。プラハ劇場の支配人ポンディーニは、地元にモーツァルトを招く。1787年1月、プラハに着き「フィガロ」の大ヒットを目の当たりにしたモーツァルトは、手紙にこう書いている。「ここでは、人々は『フィガロ』のことしか話さない。『フィガロ』以外は何も演奏しないし、歌いもしないし口笛も吹かない。ここではすべて『フィガロ』。『フィガロ』以外のなにもない」(1787年1月15日)。遂に念願の大ヒット・オペラを手中にした彼の興奮振りが伝わってくる。そう、モーツァルトが生涯最高の気分を味わったのはこの時だったといわれている。
 ポンディーニが、劇場支配人としてモーツァルトに次回作を依頼したのは当然のこと。台本も無論ダ・ポンテだ。そこで誕生したのが三部作の第2弾「ドン・ジョヴァンニ」だった。こうして、「ドン・ジョヴァンニ」は1787年10月29日プラハ劇場で初演。フィガロに続き、大ヒットを飛ばす。その後、若干の改訂があって、1788年5月7日にウィーン初演が行われた。

 以上が、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」誕生までの経緯である。映画は、ダ・ポンテの少年時代から歌劇「ドン・ジョヴァンニ」誕生までが描かれる。
 ユダヤ人として、ヴェネツィアに生を受けたロレンツォ・ダ・ポンテ(ロレンツォ・バルドゥック)は、少年時代、一家がキリスト教に改宗するが、素直に受け入れられない。そこで神父は彼にダンテ(1265−1312)の「神曲」を読むことを勧める。そのときに指南役となった少女がアンネッタ(エミリア・ヴェルジネッリ)だった。彼は、彼女と「神曲」を読むことによって、キリスト教を理解し改宗を受け入れる。このアンネッタが、ダンテの永遠の淑女にして、「神曲」においては、地獄に迷い込んだ主人公ダンテを指南し天国に導く聖なる少女として登場するベアトリーチェを模しているだろうことは想像に難くない。つい最近放映されたフジテレビ開局50周年記念ドラマ三谷幸喜作品「わが家の歴史」(これは稀に見るテレビ・ドラマの傑作でした)の中で、西田敏行扮する一家の主の愛唱歌が、エノケンの十八番「ベアトリねえちゃん」だった。この歌は、浅草オペラの人気演目・喜歌劇「ボッカチオ」(スッペ作曲)の劇中歌。ベアトリねえちゃんの本名はベアトリーチェで、オペラでは、浮気女で床屋の女房という設定である。だが、元をたどれば、ダンテの永遠の淑女につながるのである。ボッカチオ(1313−1375)はダンテの熱烈な崇拝者だったからだ。ドラマ「わが家の歴史」の劇中、父親はヘマばかりしていつも家族に迷惑をかけている。そんな父親の代わりに、文句も言わず家族を引っ張ってゆくのはシッカリ者の長女(柴咲コウ)である。地獄に迷いこんだ愚かな父親を指南する気高い長女という図式は、ダンテの「神曲」に重なり合う。三谷作品の奥の深さが窺える。
 話が横道に逸れたが、改宗したダ・ポンテは、僧職につくが生来の性格から放蕩を尽くして破門され、諸国放浪のあと、1781年にウィーンにやってくる。そこには同じ年、父親から独立、ザルツブルクからにウィーンに出てきたばかりのモーツァルト(リノ・グワンチャーレ)がいた。彼らは出会い意気投合、「フィガロの結婚」を作り、第2弾「ドン・ジョヴァンニ」にとりかかる。そこで、ダ・ポンテは、たまたまモーツァルトの弟子となっていたアンネッタに再会(これは映画の創作だろう)。オペラ制作の過程にこの恋が絡む。
 宮廷歌手の主導権争いも面白い。主役を外されたソプラノ歌手がダ・ポンテをなじると、同格の登場人物を新たに作りあげてしまう。これがドンナ・エルヴィーラという役。このエピソードがそのまま事実かどうかは不明だが、こんなことは18世紀のヨーロッパでは日常茶飯事だったらしい。当時はオペラが唯一娯楽の時代。なんといっても観客のお目当ては歌手とその唄だった。指揮者、作曲家よりも、歌手の意向が最優先されていたのである。演奏会も歌がメインで、シンフォニーやコンチェルト、器楽演奏などは、入退場や歌の合間のBGM的扱いだったようである。現在のように、オーケストラや器楽だけでコンサートが本格的に成り立つようになるにはリスト(1811−1886)の出現を待たねばならなかったのだ。
 この映画には稀代の色事師カサノヴァ(1725−1798)も登場する。ダ・ポンテは、放蕩生活の間に知り合い親友となっていたカサノヴァにアドヴァイスを請う。「カタログの歌」を聞かせて。これはドン・ジョヴァンニがモノにした女のリストを読む従者レポレッロが、その放蕩ぶりをあきれ嘆く歌。そのリストに記録されている女の数は、"イタリアで300数人、ドイツで231人、フランス100人、トルコ91人、スペインは600数人"だった。これを聞いたカサノヴァは、「俺たちの祖国イタリアで300人は少なすぎる。これじゃイタリア女に魅力がないってことになる。こりゃ失礼千万だ。ここは二倍の640人にしよう。こうなると、スペインを増やさなきゃいけないな。あそこには敵わないから1003人でどうだ」などと助言。合計2065人という現在の形になったのは、カサノヴァのアドヴァイスの賜物というわけである。これもそのまま事実とは思えないが、面白い発想で、買いだ。
 映画の舞台はウィーンなので、初演もこの地で行われたという形になっている。でも、ウィーンで大半を作り、残りと序曲はプラハで仕上げて初演、というのが史実。ウィーン上演は半年後だった。ここのところが曖昧なのはやや物足りないが、史実に忠実にプラハを出せばトッチラかるし、映画作りとしてはこの端折りは正解なのかもしれない。ただ、気になったのは、核心部分への突っ込み不足である。それは、ダ・ポンテが"いかにしてウィーン宮廷へ入り込んだか"という経緯と"モーツァルトとの出会い"の件、そして、"オペラ上演のための宮廷への働きかけ"のシチュエーションだ。ユダヤ人一家に生まれた時代の放蕩児ダ・ポンテが、故郷の先輩サリエリに取り入って宮廷詩人として登用され、モーツァルトの才能に出会い意気投合、宮廷を敵に回してまでも、二人の作品の上演に邁進したあたりの、世渡りの才と芸術家としての情熱と信念が、もう少し密度濃く描けていたらと思うがどうだろう。確かに、モーツァルトに出会って宮廷に捻じ込んだ作品は、前作の「フィガロの結婚」ではあったが、そこはうまく折衷して台本が書けたはずである。プラハを端折ってウィーンに統一したように。
 2010.04.09 (金)  シューベルト1828年の奇跡16〜ブレンデルとポリーニ2
(3)シューベルト「ソナタ第21番」におけるブレンデルとポリーニ

 シューベルト最後のピアノ・ソナタ「第21番 変ロ長調 D960」は、名曲中の名曲である。シューベルトしか作ることができない歌をいかに歌いきり、それを盛る器の姿かたちをどう提示するか?シューベルトの心情をどう表現するか?最晩年の情感をどう込めるのか? 古今のピアノ・ソナタの最高峰ともいえるこの曲には、名手の挑戦欲をそそる何ものかが秘められているのだろう、そのレコーディングはかなりの量に上る。そんな中から、今回はブレンデルとポリーニを取り上げてみたい。
 アルフレッド・ブレンデルは、「第21番D960」を、1971年、1988年、1997年の3回、フィリップス・レーベルに録音している。それ以前、VOXかVANGUARDにもあるかもしれないが、未試聴である。マウリツィオ・ポリーニは、ドイツ・グラモフォンに、1987年の録音がある。「21世紀の名曲名盤」(「レコード芸術」編)によると、第1位はリヒテルで21得点。第2位がポリーニで10点。ブレンデルは、第3位に1988年盤(8点)、以下1997年(5点)、1971年(1点)と続いている。リヒテルについては、前回述べたが、ダントツの第1位には大いに疑問が残る。一言で言うと、これはシューベルトではない。奇跡の年1828年の音楽に宿る、悲しみを抱擁する慈しみの情感がない。私はシューベルトの音楽にはそんな優しさを聞きたい。リヒテルの「第21番」を良しとする人は、私とは違う"別の何か"をそこに求めているのだろう、それは自由である。ただ私はこの人のシューベルトには違和感を覚えるし、これを好きな人とは音楽的には合わないという、それだけのことだ。ただし、リヒテルは、これ以外、例えばラフマニノフの第2番やリストの2つの協奏曲の演奏などは素晴らしいものがある。演奏家には得手不得手があるのである。だから私は「どの演奏家が好きか?」という質問には答えられず、"この曲においてはこの演奏家が好き"という言い方しか出来ないということだ。それが私の聴き方なのです。

 3つのブレンデル盤の中では、「21世紀の名曲名演」で最下位ランクの1971年録音が最もよい。彼の特質が最高度に発揮されているからだ。しかもこの演奏は、「ソナタ第21番」における内田光子と双璧の名演奏となっている。しからば、アルフレッド・ブレンデルの特質なるものを、彼のシューベルト「ソナタ第21番」1971年盤とポリーニ1987年盤との比較試聴によって探っていこうと思う。
 第1楽章、ブレンデルの、例の内田の慈しみのアルペジオ(第113小節)は、明るく軽快だが、リヒテルのように無神経ではない。楽章全体にわたって、音楽が五月の風のように爽やかに流れてゆく。音の粒立ちがクリアだから旋律線がくっきりと浮かび上がり、構成もしっかりと見通せる。しかも、クリアでありながら芯があるから、表現に説得力があるし陰影も深い。反面、ポリーニのアルペジオはブレンデルよりも優しいが、あまりここに意味を感じていないような弾きぶりである。抑揚の幅も少なく音の輪郭もそれほどハッキリしないので、2つの主題も際立たない。したがって、全体に靄がかかったようで、構成が明確に見えてこない。吉田秀和氏は、2008年ウィーンで聞いたポリーニについて、「音がきれいだ」としきりに仰っていたが、このCD同士を比べたら、ブレンデルのほうが圧倒的に"きれいだ"と、私は感じる。まさしく、"キレがあるのに美しい"である。ただし、ブレンデルが、"提示部を繰り返していない"のは何故だろう。繰り返しに至る9小節のブリッジは、全体的に平穏に流れる第1楽章の中で、適度な緊張感を生み出しており、私は必要だと思うのだが・・・・。因みに1988盤も1997盤も、一貫して繰り返しは行っておらず、これはなにか考えるところがあるのだろう。いつか、確かめてみたいものである。
 第2楽章、ブレンデルの音楽の流れにはまったく淀みがない。中間部の副メロへの移行部分で落としたテンポが、2度目にはインテンポで入ってくる。このあたりのコントロール性は聞き手を唸らせるものがあるが、ポリーニには、こんな細心な感覚はまるでない。表情は優しいのだが、ブレンデルに比べ、平坦感は否めない。陰影十分のブレンデル、乏しいポリーニ。
 第3楽章。ブレンデルの音は生き生きと踊っている。軽妙で生命力に溢れている。中間部では、表情がやや思索するように変わる。この対比も鮮やかだ。ポリーニは平板。
 終楽章。"シューベルトは、ソナタのフィナーレ楽章の構成に苦悩し続けた課題を、最後まで残したまま終わっている"という声がある。こういう方たちの言い分は「ソナタ形式かロンド形式かハッキリせず、明確な展開部がないから」ということのようだ。まあ、こういう難しい問題は、彼ら専門家に任せておけばいい。音楽は形式で聞くものではないから、そんなことはどうでもいいのだが、逆にこの形は素晴らしい、と私は思う。同じブロックをはさんで第1主題が何度も出てくるのは、確かにロンド風だが、そこに第2主題が絡むのはソナタ形式的でもある。展開部といえるようなハッキリした中間部は確かにないが、その分、コーダ(終結部)は、主題を呼び出し自在に処理するなどして、かなり大規模である。展開部がここにまたがっていると考えればいいのではないか。むしろ、シューベルトの想像力が生んだ斬新な形式と捉えられないだろか。彼は1824年3月29日の日記にこう書いている「おお、幻想よ!汝は人類最高の宝、汝は尽きることのない泉であって、そこから芸術家も学者も同じようにノドをうるおす水を飲むのだ!」と。この終楽章こそ、彼が芸術家の最大の宝と信じる幻想=想像力の産物なのではないか・・・私にはそう思える。
 ブレンデルは、第1主題を、ときにスタカートでときにレガートで、時折テンポをずらして弾く。第2主題は、反対に、大きな表情でむしろ朗々と歌う。表情が豊かで、それが第1主題との対比も生む。そして、短い展開部には情熱が走る。ここで現れる、ややシンコペイティッドされた第1主題の表情付けも実にスマートで、リヒテルのロシアの農民風無骨さとは大違いで、ウィーン風の品のよさがたまらなくいい。その上、音がクリアなのは第1楽章でも述べたとおり。だから、このやや複雑な形式もキッチリ明確に見通せる。素晴らしい表現である。これに比して、ポリーニは、主題内でも主題同士でもメリハリがないから、旋律線がぼやけ、結果フォルムが見えてこない。各部をつなぐブロックでやけに張り切るから、そこが一番目立ってしまい、肝心な部分の印象がぼける。ブレンデルとは大違いだ。

 以上のとおり、ブレンデルとポリーニでは、年季の違い格の違いは歴然である。ブレンデルは、2008年12月に惜しくも引退してしまったが、その最後のコンサートは、「フェアウェル・コンサート」と題し、2枚組CDで発売されている。その中で、「第21番D960」はリサイタルのメイン演目となっているのである。長いキャリアの最後にこの曲を選んだということは、ブレンデル最大のお気に入り楽曲の証だ。まだ試聴してないが、第1楽章の繰り返しの有無を含めて、どんなパフォーマンスなのか本当に楽しみである。
 2010.03.31 (水)  シューベルト1828年の奇跡15〜ブレンデルとポリーニ1
(1)ブレンデルと内田光子の言葉から

 「大作におけるシューベルトは、さすらい人である。まるで崖縁を歩いているようだが、その足取りには夢遊病者のように迷いがない」――これは名ピアニスト、アルフレッド・ブレンデル(1931−)の言葉である。「シューベルトの音楽は死を抱擁する」と言った内田光子(1948−)といい、一流のアーティストの言葉はいつも含蓄が深いし面白い。これは私が常日頃感じてきたことではあるが、対談という場において、音楽評論家はいついかなるときにも彼ら演奏家には敵わない。例えば、過去の「レコード芸術」紙上等での、内田光子と前田昭雄氏、福永陽一郎と故黒田恭一氏など、しかりである。評論家諸氏がいくらがんばってもレベルの差は歴然としている。演奏家は作曲者の意向を探求し楽譜を読み、技術を磨き音楽を創造する。その才能と努力は凡人とはかけ離れたものがあるのだから、レベルが違って当たり前である。まず、音楽評論家なるものは、自らを凡人と認識することから始めるべしだ(そう認めたくないから分かったフリをする、だから面白くないのだ)。しかる後、アーティストと対等に渡り合えるための訓練・努力をすべしだ。アーティストとは別次元での努力を。その一つは、楽曲の成立過程を探求し作曲家が求める音楽の理想形を自分なりに作り上げること(同時に楽曲の構造を把握することはいうまでもないが)。次なるステップは、形成した理想形をリファレンスとして、可能な限り多くの演奏を聴きこんで仕分けをすること。ランダムに音が鳴っても誰某の演奏と判別できるくらいに。そう、これだけは彼らには絶対に出来ないことなのだ。楽譜と対峙し作曲者の意図を究明し、それを表現するために技術を磨き人間力を高めることがアーティストの仕事なのだから、同じ曲の別演奏を10も20も暗記するほど聴きこむ時間も興味もあろうはずがないからだ。
 音楽は楽譜を見て楽しむものではない。アーティストの演奏行為によって産み出される音を聞いて初めて楽しむことができる。アーティストは楽譜を読み作者の意図を汲み自らの技術を用いて演奏する。言い換えれば、解釈とテクニックを用いて、静なる楽譜に命を吹き込むのだ。解釈には知識と洞察力が、テクニックには不断の研鑽が不可欠。だから、演奏行為には全人格が反映されるのだ。演奏者によって音楽が違うのはこのためだ。言い換えれば、演奏によって作曲家像が違って見えてくるのだ。だから、ちゃんとした演奏からは、作曲者の人間像が明確に伝わってくるのである。これがクラシック音楽の本質であり、演奏の違いを聞き取ること、すなわち、演奏の中にアーティストの人間力を感じ取ること、そして同時に作曲家の人間像を見ること、これがクラシックを聴くことの大きな楽しみの一つなのである。「音楽の中に人間を見る」だ。
 アーティストが日々血のにじむような努力をして作り上げた演奏をいくつも並べたてて、これはこう、それはそう、これはいい、あれはダメ・・・などと勝手にほざいている我々聴き手は、なんて贅沢で失礼極まる人間なのだろう。実にいい身分なのである。だからこそ、努力して真摯に事に当たらないといけないのではないだろうか。
 日本の評論家諸氏には、自分なりの理念を持ち、能力を磨き真摯に音楽に対峙している方もたくさんいらっしゃる。山崎浩太郎氏の「巨匠の時代」への深い造詣や「カルショーの手記」における翻訳のうまさ、喜多尾道冬氏「シューベルト」での多角的視点からの見事な考察、片山杜秀氏の鋭い演奏評、許光俊氏の迫力ある文体、宇野功芳氏の独自の美学から感知する名演評、石井宏氏の柔軟で鋭い洞察力から生みだされる懐の深いモーツァルト論と演奏論、小林義武氏のバッハ考証におけるストイックなまでの実証性、玉川大・野本由紀夫准教授の専門的知識を平易に語ってくれる能力、故五味康祐と西条卓夫に共通な格調高い頑固さ・・・・などなど、皆さん凄くて素晴らしい方々である。反面そうでない方々も少なからずいらっしゃる。問題は、そうでない方々が「名曲名演ガイド」なるものに携わるケースが多々あることだ。これらはクラシック愛好者の大部分が盲目的にアテにするものであるから、評者・選者の方々が気を抜いた情報を提供すると、実に罪作りなこととなるのである。だから、楽曲探求と演奏聴き較べの労を惜しまずに、真摯に取り組んでいただきたいのだ。そして、"この視点からのメッセージ"をわれわれにたくさん届けていただきたい。そうすれば、音楽記事や名盤選定会談やアーティスト・インタビュー等がもっともっと面白くなると思う。まあ、そうならなくても、私としては、凡人なりに、これらを日々追究してゆくことに変わりありませんが。

   そこで、今回は、前回の「シューベルト ソナタ第21番」で取り上げられなかったブレンデルとポリーニ(1942−)について書かせていただきたい。理由は、「21世紀の名曲名演」の「第21番」において、第2位がポリーニ、第3位がブレンデル(第1位は前回取り上げたリヒテル)であること。さらに、二人が録音している共通の楽曲が相当数あるため演奏比較がかなり楽しめそうだからである。

(2)吉田秀和氏の朝日新聞「音楽展望」にいついて一言

 ブレンデルは2008年に引退した。わが国音楽評論界会の重鎮・吉田秀和氏は、2008.7.23付朝日新聞「音楽展望」で、ブレンデルの引退について書いているが、この中でポリーニのことにも触れているので、今回のテーマに符合する。まずは、このコラムから入りたい。

 ウィーンにいた吉田氏は、滞在しているホテルを、引退演奏旅行中のブレンデルが通り抜け、その晩演奏会を行う楽友協会ホールのほうに歩いていったことを伝え聞く。「きっと、眉間にシワを寄せ、気難しい顔をして楽譜を入れた大きなカバンを抱え、少し猫背の長身をかがめて歩いていったにちがいない」という描写があり、ブレンデルは聴けなかったが、その翌々日ポリーニを聴いたとある。「多分彼専用の楽器らしきピアノの音のきれいだったこと。前半はショパンの名曲を幾つか。後半はドビュッシー≪前奏曲集≫第1巻全部。どれもこれもただもうきれいな音のいっぱい詰った見事な演奏ばかり。アンコールの何曲かも一糸乱れぬ名演の連続」 どんな演奏だったか知りたい私にとっては、"見事な演奏""名演の連続"という抽象的表現と"音がきれい"と誰でも感じ誰でも書ける聴感上のことが書いてあるだけで、物足りないこと夥しい。
 そして、日本に帰ってきたら、ブレンデルの引退記念8枚組のサンプルCDが届いていたとのこと。ここで、ウィーンで聴いてきたばかりのポリーニと聞き較べて、両者の音の比較論を展開している。聞いてきたばかりのポリーニには"磨き立てた石畳みたいに艶光のする美しさ"と少々の比喩的修辞が付いた。ブレンデルは、8枚の中から「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番」を取り上げて、「陰影の深み、薄墨色のパースペクティブの中での形態美を伝えるものがある。ベートーヴェンの懐の深さ、奥行きをたどるうちに仄かに見えてくる明暗の幾層にも重なった音の味わい。これはもう響きを超えた音楽なのだ。音響は音楽なのではなく、音楽は音響に始まり音響に終わるものではない」と書いている。これは一体どういうことなのか。 まず、第一に、ブレンデルの「第4番」は、幾種類か録音があるがそのうちのどれなのかが書いてない。同じ演奏者でも、演奏は其々がみな違う、というCD鑑賞では当たり前の基本くらい押さえておいてほしいものだ。"陰影の深み・・・が形態美を伝える"ってどういうこと?"懐の深さ・・・をたどるうちに見えてくる明暗の幾層にも重なった音の味わいが、響きを超えた音楽"ってどういう意味? サッパリ分からない。結論は、音が美しいだけのポリーニより音響を超えた音楽を作るブレンデルが素晴らしいということですか? ならば私も同じ意見なので嬉しいのですが・・・。
 そして、最後にはこう結んでいる。「ブレンデルのは行儀が良いだけではなく、彼でなければならないものが鳴っていた。私は、やっと、今になって気がついたところ」 今になって気づいていただくのは結構ですが、"彼でなければならないもの"ってなんなのでしょうか? 残念ながら、その説明がなされないまま終わっている。この方はいつも言い切ってはくれない。自らの心情をストレートに話さない。私たちは、そういうことを知りたいのですが・・・。
 2010.03.21 (日)  シューベルト1828年の奇跡14〜内田光子の凄いシューベルト2
(3)死を抱擁する音楽

 前回は、内田光子の弾くピアノ・ソナタ第19番と20番の中に、魔に憑かれたシューベルトを見た。今回は「第21番」の中に"死を抱擁する音楽"を探りたい。
 「ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960」はシューベルト最後のピアノ・ソナタで、19番、20番と共に、死の年1928年9月に一気に作曲された。各々性格の違う大作を立て続けに3つも書き上げてしまう天才は、1788年8月、3大交響曲(第39番―41番)を一気に書き上げたモーツァルトにしか見出せない。内田は「モーツァルトには天性のバランス感覚があるが、シューベルトは壊れている」と言うが、これは二人の共通点を認識した上での話だ。多作、スピード、芸術性、天性のメロディスト、夭折などなど、彼ら二人に共通点は多い。天才は天才を知るということだろう、シューベルトが19歳のときに書いた最初の日記にはこんな文章が踊っている。
明るく晴れた、この美しい日は、僕の人生の最後の日までこのまま残るだろう。はるか遠くからかすかに、まるで残響のように、モーツァルトの音楽のあの魔法のような音色が、まだ、耳の中に鳴り響いている。これらの美しい印象の断片は、僕らの魂の中にいつまでも残り、時が経ち境遇が変わっても、決して拭い去られることなく、僕らの日々の生活に限りない恩恵を与え続けるだろう。それはこの人生という暗黒のただ中にあって、僕たちに、僕たちが確実に希い求めている一つのかすかな、明るい、美しい遥か遠くを指し示してくれるものだ。おおモーツァルトよ、不滅のモーツァルトよ、おお何と多くの、おお何と無限に多くの、このように仄かなより良い生の恵深い模写を、あなたは僕たちの魂の奥深くに刻みつけてきたことだろう。
 これは、モーツァルトの「弦楽五重奏曲 第4番 ト短調 K516」を聴いた1816年6月14日の日記だ。「モーツァルトの音楽は、魂の奥深くに刻み込まれて、時が経っても拭い去られることはない。この人生という暗黒の中で、遥か遠くの美しい希望を指し示してくれる」と言っているのだ。彼は19歳で、モーツァルトの光と共に、すでにこの世に暗黒を見ていたのか! また、この曲、チャイコフスキーも聴いて涙したことが伝えられているし、小林秀雄が引用したアンリ・ゲオンの「疾走する悲しみ」tristesse allanteもこの曲を聴いてのものだ。K516は人に強烈な印象を与える曲なのだろう。

 では本題に戻って、内田光子の弾く「第21番D960」を聴いてみよう。冒頭、穏やかな第1主題の直後、超低音が不気味に響く。これもシューベルトの魔なのか? 内田の醸し出す響きには余人とは違う深淵さがある。しかし、内田はもうここ以外に魔は引きずらない。このあとは提示部へのブリッジを経ての繰り返しと再現部で現れるだけだ。やがて殊更対比の意識のない優美な第2主題が続く。もはやそこにはシューベルトだけの平穏で美しい歌世界があるだけだ。ことに4:53−55アルペジオ(分散和音)の優しいタッチはどうだ。この丁寧に繰り出される一音一音こそまさに死を包み込む慈しみのフレーズである。展開部も音量は増すが、そこにはもはやD959第2楽章中間部に見られるような魔に憑かれたシューベルトはいない。第2楽章Adagioもしかり。ABA'の三部形式だが、この楽章、これまでだと中間部Bに激情が走ることが多いが、ここにはない。壊れそうに危ういけれど流れは決して濁らない。清らかな涙といえようか。そして、A'では一条の光が差し込む。嬰ハ短調から同名長調へ移行する78小節目である。内田のこの部分は、微かだが確かな光が差し込むのである。神々しいばかりの美しさだ。内田光子は人一倍考え抜いて、シューベルトの最後にして最大の傑作ソナタに向かっている。作曲者に対する愛情と畏敬が、旺盛な探究心と不断の努力を通して、高い境地の表現を実現している。だが、おそらく、彼女はまだ、自らの表現に満足していないだろう。というより、表現者というのは常に満足することのない探求者であり、それが表現者としての宿命であることを知覚しているに違いない。だから、将来、彼女が弾く新しい「第21番」が聴けるかもしれない。実に楽しみである。我々は暢気にそのときを待てばいい。気楽なものだ。でも、今より少しは成長していたいと願う。それが、高邁な演奏行為を実現すべく、凡人の考え及ばない途方もない努力をし続けている真の芸術家に対する、せめてもの礼儀ではないかと思うのだ。
 では、この楽曲、他のピアニストはどんな演奏をしているのだろうか。第2楽章を中心に考察してみる。

 まず、名盤ガイドのスタンダード・「21世紀の名曲名盤」(レコード芸術編)で第1位に輝くリヒテル(1915―1997)を聴いてみよう。録音は1972年。私はこの演奏はNGだ。第2楽章65小節からのA'部分、ここから左手は、後打ちでスタカートによる3連音を打ち出すが、リヒテルはこの音形を無造作に打ち続ける。実に物々しい響きだ。内田が言う"死を抱擁する"どころか、むしろ神経に障る気がする。だからこれに続く78小節目の一条の光も靄の中だ。これ以上に酷いのは第1楽章例のアルペジオである。リヒテルはこの9音を猛烈な勢いで弾き飛ばす。音に輝きも力もあるけれど、シューベルトには粗野に過ぎる。内田の創造する繊細な音世界とは対極にある音楽といわねばなるまい。"これが私の表現だ。文句があるか!"と言われればそれまでだが、私は、これはシューベルトじゃないと言い切りたい。この演奏が権威ある名曲ガイドで堂々の第1位とは全く理解に苦しむ。音楽の感じ方は人それぞれだからとやかく言う気はないけれど、それにしても、リヒテルに票を投じた8人の評論家諸氏は、一体どういう聴き方をしているのだろうか、甚だ疑問である。クラ未知「永ちゃんとリヒテル」にも書いたが、日本の音楽評論家諸氏は、ちゃんと聴いてから演奏評を書いているのだろうか。こんなロシアの野人が力任せに弾いている風な演奏のどこがいいというのだろうか・・・。断っておくが、私は何も、リヒテルの全ての演奏を否定しているのではない。リストやラフマニノフのコンチェルトなど、それは素晴らしい名演である。ただ、彼のシューベルト「第21番」は容認できないのである。
 グレン・グールドが、1957年にソ連でリヒテルの「第21番」を聴いて、こう言ったそうだ。「催眠術によるトランス状態としか例えられないような境地に私は連れ去られたのです」(Wikipediaより)と、まあ、感動あるのみという状態である。このときの演奏とそれから15年を経たCDとを聴き比べるのはもはや不可能だが、解釈にそれほど大きな違いがあるとは思えない。だから、このエピソードは私にとって、音楽の不思議、人間というものの不可解さを感じさせてくれる事例ではある。
 レオン・フライシャー(1928−)というアメリカ人ピアニストがいる。若くして名声を博すが、ジストニアを患い右手が利かなくなってしまう。以後、左手だけの演奏を続けていたが、近年ボトックス療法によって右手が回復、2004年「TWO HANDS」というアルバムでカムバックした。このアルバムのメイン楽曲が「ソナタ 第21番D960」なのである。この演奏は素晴らしい。音の一粒一粒が活き活きとして、しかも端々に優しさが宿っている。音楽する喜びが曲全体に満ち溢れている。彼は1956年にもこの曲をレコーディングしているが、それに較べると、音楽が抑揚を増し格段に深化している。半世紀を隔てた、その人生が投影されている。ただし、この表現形が「ソナタ第21番」にジャスト・フィットしているかというと、必ずしもそうとは思えない。音色は全体的にやや明るすぎるし、第1楽章のアルペジオは、内田の包み込むような優しさと繊細さには及ぶべくもないからだ。
 ホロヴィッツ(1903−1989)1986年3月の録音を聴いてみる。初来日して吉田秀和氏に「皹の入った骨董品」と評された3年後の演奏である。来日時に比べると、著しく立ち直り、自在でピアニスティックに音楽を聞かせているのは流石ホロヴィッツという感じだが、フレージングの輪郭の甘さはいかんともし難く、様式美(=格調)に欠けるのは否めない。これもこの曲には相応しくない。彼のシューベルトのソナタの録音は大変少ないが、「第21番」は、このほかにも、1953年カーネギー・ホールでのライブ録音が残されているので、お気に入りの曲だったのだろう。彼はまた、作曲家シューベルトについても絶賛している。「ラスト・ロマンティック」と題された1985年のアメリカのテレビ番組の中で「シューベルトの音楽は天使の音楽だ。ベートーヴェンなんか一音だって書けやしない」と言っているのだ。ただしその中で、「セレナード」を歌いながら「『アヴェ・マリア』はまさに天使の歌だ」とか、「グレート」の第2楽章メイン主題を口ずさみながら、「『未完成』もすごい」などと言っているのは、流石天才ホロヴィッツならではのご愛嬌だ。

   内田光子は、シューベルトの音楽が魔に憑かれながらも遂には死を抱擁するに至ったことを感知した。そして、そのことの凄さがわかっている。だから彼女のシューベルトには慈愛と畏敬が自然と滲みでているのだ。死の年の隠れた名作「3つのピアノ曲 D946」にも、そんな内田が感じたままのシューベルトの音楽が自然にたおやかに流れている。「第2曲 変ホ長調」、そこには帰り来ぬ若き日に憧れを抱いて静かに佇む31歳のシューベルトがいる。

 2010.03.11 (木)  シューベルト1828年の奇跡13〜内田光子の凄いシューベルト1
(1)内田光子シューベルトを語る

 「結局、魔に憑かれちゃっていますから、あの人は!最初から最後まで、そうよ!」。これはレコード芸術1997年12月号、≪シューベルトと音楽を語る≫と題した対談で、ピアニスト内田光子が発した言葉である。あの人とはシューベルトのこと。1997年といえば、シューベルト生誕200年だ。聞き手は評論家の前田昭雄氏である。
 この言葉が出てくる前段階の二人のやりとりを辿ると・・・・内田「シューベルトとベートーヴェンは仕事として同時進行できるが、モーツァルトとは出来ない。モーツァルトという人は、どんな場合にも完璧なバランス感覚をもっていた」。それに対し前田氏は「シューベルトも地にバランス感覚を持っていた。ベートーヴェン的ダイナミクスで『頑張った』末、後期にはやはり一種のバランスに帰ってゆく」。これに対し、内田は「でもそれ、バランスじゃないんだと思う。完全に破れちゃっていますから、あの人」と言う。そして冒頭の言葉を経て、次に続く。

 「ベートーヴェンは、落ち込んでいる人を助けてくれる。モーツァルトの場合はね、彼は心がとっても優しくて、そして彼は罪人なの。自分が罪人で、許されなければならない立場に何度も立ったことのある人だから、『ふふん!ほう!』で許してくれる。で、シューベルトはというと、本当に不思議なほど透明な心を持った人だと思う。若いときから彼には、魔の世界というか、死の世界――天国じゃなくて。これがそこかしこあるんです。それが、ある時、想像力の世界じゃなくて、現実のものになってしまう、それが起こって。それが起こってからのシューベルトが、変わるのね。ただ、その苦しみで終わらない。恨みで終わらないこと。その中に憧れを育てる。美しい夢を見ること――そして最後の最後に彼が何をするかというと――どの作品でということは言いませんけどね――。ずっと、恐れ、認めるのを拒んでいた死を、事実として認めて、その音楽が死を抱擁するようになるの。それがわたくし、シューベルトの大したことで、ほんとうに心に訴える理由の、一番大事なものじゃないかと思う」

 本当に凄い言葉だ。内田光子は「シューベルトこそが特別な作曲家」と公言してはばからないが、ここにも、(シューベルトを語る場とはいえ)それがにじみ出ている。シューベルトは勿論、3人の楽聖の本質を突いてここまで見事に描き分けた言葉を他に私は知らない。
 内田は「それが起こって、シューベルトの音楽が変わった」という。「それ」とは、梅毒への罹病のこと。その感染時期はシューベルト25歳、1822年の年末あたりといわれている。そして、自覚症状が出た後、1823年5月8日、彼はこんな詩を書く。「見よ、滅ぼされて塵の中に、未曾有の苦難の獲物となって、わが人生の犠牲の道は、永遠の没落へと近づいてゆく。命を断て、そして私自身を滅ぼせ、すべてを忘却の河へ突き落とせ、そうして一つの清く力強い存在が、おお偉大なるものよ、永遠に栄えるときがくるから」と。そして、翌1824年3月27日には、「僕の創り出した作品は、音楽に対する理解力と、そして僕の苦しみによって存在している。苦しみだけが創り出したものは、世の中を喜ばせることが最もわずかだと思われる」と日記に書く。
 ここには、死に至る病を自覚したシューベルトがいる。そんな自分を滅ぼして、力強く偉大なものを創造しようとするシューベルトがいる。こうなったからには、苦しみから音楽を創り出すしかないのだけれど、それだけでは人に喜んでもらえないことを知っているシューベルトがいる。これが、内田が「魔に憑かれちゃっているシューベルトが、最後の最後に、死というものを現実として認め、音楽が死を抱擁するようになる」ということなのではないか。彼女は、「どの音楽かは言わない」と言う。そうだろう、絶対教えてはくれないだろうな。訊いても、「それはあなたが見つけることよ」ってね。魔に憑かれちゃっている音楽とは?死を抱擁する音楽とは? 内田光子の弾く1828年の3つのソナタ D958、959、960からそれらを探れるか・・・(レコーディングは1997年、上記対談の少し前である)。

(2)魔に憑かれちゃっている音楽

 まず、私が感じたのは、「ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D958」第2楽章 Adagio。この曲と次の D959 は、よくベートーヴェン的(ベートヴェニアーナ)な作品といわれる。第2楽章は変イ長調で、主調ハ短調からの変化は「運命」のそれと同じだ。敬虔な祈りのような音楽の流れが、やや不気味に変化し一旦元にゆり戻された直後に「タタタ」という異様な和音の強打が出現する。2:34と2:40の二箇所。送り手の心底から吹きあがるような、聞き手を突きあげるような重く強靭な内田の和音。この部分他の人はどんな弾き方をしているのだろう。ブレンデルで聞いてみる。ポリーニで聞いてみる。普通の強打だ。内田のは全然違う。重みが違う。魂がこもっている。この和音には強弱記号としてフォルテ&スフォルツァンド ffz が付いている。この3連音「タタタ」は「運命」の象徴で、このあたりをベートーヴェンへのオマージュと見るのだろうが、内田は確かにここに他人と違うものを見ている。彼女はここにシューベルトのを見ている。オマージュの向こうにベートーヴェンとの決別を見ている。

 次は「ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D959」第2楽章 Andantino である。感傷的な主題がゆったりとした歩調で進んでゆく。どこかベートーヴェンの第7交響曲の第2楽章 Allegretto を想起させる。シューベルトは Moderato をはさんで速すぎずの Allegretto と対をなす遅すぎずの Andantino を選んだのか。
 中間部に入るとゆったりとした歩みが、徐々に上昇下降の激しい音形に変わってゆく。この激流の中には確かに魔にとり憑かれたシューベルトがいる。そして激しさが頂点に達した直後の静かさの中、4:52、5:04、5:10に再度魔物が現れる。強弱記号はまたもや ffz だ。必死に耐えてきた心の痛みが、一気に噴出しつくしてしまったかのようだ。この中間部、ブレンデルからは悲痛さが伝わってこない。ポリーニもそれなりに激しいが、内田の表現には及ばない。内田には涙があるが、ポリーニにはないからだ。主部の歌わせ方も墨絵のような内田のカンタービレに及ばない。

 日本人の内田がヨーロッパのピアニストよりシューベルトの心の痛みが分かっている。この人ならシューベルトのことを"あの人"と言ってもいい。これはまさに日本人の誇りだ。そんなふうに思う。
 2010.02.24 (水)  シューベルト1828年の奇跡12〜アインシュタイン、その引用の謎C
[アインシュタイン「inあり」引用の顛末]

 このところ長期にわたり取り上げてきた Credo 問題は、アルフレート・アインシュタイン「inあり」の間違った引用が発端でした。ベートーヴェン「荘厳ミサ曲」を唯一の例外として、古今のミサ曲の Credo はすべて、「教会」に対しては「inナシ」でした。その発端は「ニケアコンスタンチノープル信条」にあるとの見解をなんとか指摘することができました。即ち、「第1コンスタンチノープル公会議」開催の目的から、採択された「ニケコン」は「教会」を聖三者と同列に扱うことを良しとしなかった。そしてこの「ニケコン」が「ミサ通常文」の Credo という形で収まった・・・というのが私の出した結論です。では、何故アインシュタインは、これまで一度も使われることのなかった"「教会」に対する in"を引用で使ってしまったのでしょうか。これは、正直言って分かりません。彼はユダヤ人なので、カトリックの「ミサ通常文」には馴染みがなかったからかも知れません。また、ラテン語にも堪能だったことでしょうから、以前考察したように、文法上「in あり」が適正であることを知っていて、無意識に"文法的に正しい形"で記してしまったのかもしれません。
 そんな折、何気なく小林義武氏の著になる「バッハ伝承の謎を追う」(春秋社)を読み返していたら、あっと驚く文節にブチ当たりました。それは278ページにありました。
バッハは・・・・Et in unam sanctam catholicam et apostolicam ecclesiam という歌詞を省略せず、むしろ音楽的に強調している。
 なんと、アインシュタインと全く同じ「in あり」の引用がなされているではありませんか。しかもこれは、J.S.バッハの「ミサ曲ロ短調」に関する記述なのですから完全な間違いといえる。なぜなら、「ミサ曲ロ短調」は「in ナシ」で書かれているからです。小林氏とは、以前、バッハに関する疑問点をやり取りしたことがあるので、今回も書面で質問してみました。質問状は以下のとおりです。
小林義武様

気候の変動が激しい今日この頃、如何お過ごしでしょうか。私は、2年ほど前、J.S.バッハの「ミサ曲ロ短調」と「フーガの技法」につきまして、問い合わせさせていただいたものです。その節は、丁寧なるお返事をいただき、誠に有難うございました。
この度も、先生の著になる「バッハ伝承の謎を追う」に関する質問が生じました。お手数とは存じますが何卒よろしくお願い申し上げます。

≪質問≫

先生の著作である「バッハ伝承の謎を追う」278ページに

(三)バッハは・・・・Et in unam sanctam catholicam et apostolicam ecclesiam という歌詞を省略せず、むしろ音楽的に強調している。

というご記述があります。
この引用されたラテン語の部分ですが、「ミサ曲ロ短調」におきましては Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam となっており、in という語がありません。これは聞き合わせからも楽譜上からも間違いございません。
これを機にこの部分を検証した結果、

・「Credo」の元である「ミサ通常文」も「in ナシ」であった
・アルフレート・アインシュタイン著、浅井真男訳(白水社刊)「シューベルト音楽的肖像」の85ページに、「in あり」の引用がなされている。

このように世の中には「in あり」と「in ナシ」の両方の記述が存在していることが分かりました。私は結論としては「in ナシ」が正解だと思っておりますが、古典とされるアインシュタインとバッハの名著である先生の著書の引用が、共に「in あり」なのは何か根拠があるはずだと考えております。先生が引用されたこの部分の出典をお教えいただければ幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

2010年1月23日
                                                 岡村 晃
これに対して、小林氏から待望の回答が送られてきました。2月5日のことでした。
ご質問の件ですが、クレドの歌詞は最初のクレド(=われは信ず)に続くところが多く、そのために最初にある credo in・・・の in につながることになり、意味の上では in はあってもなくても同じということです。一文を抜き出して引用するときには、in を補ったほうが文法的に分かりやすくなるという配慮から in を付けることがあります。

2010年2月5日
                                                 小林義武
 小林氏からの返信封筒を見たときは、"返事なしの可能性が強い"と思っていただけに、気分が沸き立ちました。「アインシュタインの引用の謎も、遂にこれで解決か」と。でも回答は正直言って拍子抜けの内容でした。日本人である小林氏は、"一文抜き出しの引用"において、原典の意味内容よりも文法的正当性(分かりやすさ)を優先したということなのでしょう。でも、この中の「意味の上では、in はあってもなくても同じこと」とする部分は断じて納得はできません。「ミサ曲ロ短調」は明らかに「in ナシ」なのですから、その事実を踏まえた上での回答であって欲しかったし、私は、"意味の上で同じではない"ことを立証しようとして、長い時間をかけてきたのですから。

 さて、そんな訳で、アインシュタインや小林義武氏が、正しくないと思われる「in あり」の引用をしている理由はついに分からずじまいでした。性格的にはかなりしつこい私ですが、この件に関しては、もうこれ以上追求しないつもりです。なぜなら、理由が分かったところで、音楽の本質とはなんら関係がないからです。その理由が、「文法上の適正さ」によるものでも、「引用した原典がそうなっていた」からでも、なんでもいいのです。それよりも、アインシュタインが"たった2文字が入った引用"をしてくれたおかげで、音楽の枠を飛び越えて、カトリック教会の歴史という世界史の未知なる領域へと足を踏み入れることができたことが、なんといっても有意義でしたし、楽しめました。仮にその理由が前述の想像どおりだったとしたならば、アインシュタインがカトリック教徒でなかったこととラテン語に精通していたことに心の底から感謝して、「Credo の in」に対する考察は今回でおしまいにしたいと思います。

[追記]

この度、「荘厳ミサ曲」を検証するにあたり7種類の国内盤CDを参考にしました。それらは以下のとおりです。

@トスカニーニ指揮: NBC交響楽団53年録音(BMGジャパン)
Aクレンペラー指揮: ニュー・フィルハーモニア管弦楽団65(EMI MUSIC)
Bベーム指揮: ウィーン・フィルハーモニー74(ユニバーサルミュージック)
C朝比奈隆指揮: 大阪フィルハーモニー77(ビクター)
Dショルティ指揮: シカゴ交響楽団78(ユニバーサルミュージック)
Eバーンスタイン指揮: アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団78(〃)
Fコリン・デイヴィス指揮: バイエルン放送交響楽団92(BMGジャパン)

なぜ、こんなリストを書き出したかといいますと、それは日本のレコード会社の制作姿勢がいささか杜撰にすぎることを書いておきたかったからです。申し上げてきたとおり、「荘厳ミサ曲」は「ミサ通常文」とは異なった歌詞を用いています。それを前提に検証してみましょう。

@CDFは正しい歌詞が掲載されています。ただし@の訳文は、神とイエスを取り違えるなど適正さを欠いています。Cは「『クレド』は『ニケコン』をそのまま用いている」という小石忠雄氏の解説が間違い。Fは catholicam を「カトリック教徒の」と訳した大宮真琴氏の訳は甚だ不適切。Aの対訳ナシは論外。Bは「ミサ通常文」と堂々と書いて掲載するという無神経さ。Eも「ミサ通常文」を掲載していますが、奇妙なことに「教会」の部分は「in あり」とアインシュタインの間違い引用と同じ。

7W の内、正しい対訳を掲載しているのは4つありますが、解説も日本語訳もちゃんとしていたのはDの 1W だけというちょっと信じられない結果になりました。対訳ナシは論外だし、付いていても「ミサ通常文」どおりではいかにも無神経。その上「ミサ通常文」なる題目まで入れてしまっては、この曲を理解してないことを告白しているようなもの。楽譜どおりの歌詞に正しい対訳をつけるという基本中の基本なのですから、難しい話ではありません。レコード会社の担当者の皆様、普通にきっちりやって欲しいと思います。

 2010.02.15 (月)  シューベルト1828年の奇跡11〜アインシュタイン、その引用の謎B
[「荘厳ミサ曲」における変則性の意味]

 「ミサ曲」Credoにおける、「神」「キリスト」「聖霊」「教会」に対する"信じる"の形は、順番に、Credo in、Et in、Et in、Et という並びであることは前回で明らかにしたとおりです。「神」「キリスト」「聖霊」の聖三者をハッキリと括ることによって三位一体を明確なものとし、「教会」を別の形で示すことにより、さりげなくその権威付けを行うというのが意図でした。この形は、最古のミサ曲といわれるギョーム・ド・マショーからJ.S.バッハ、モーツァルトまで例外はありません。ところがこれらと全く違う形態を持った「ミサ曲」があります。それはベートーヴェンの「荘厳ミサ曲 ニ長調 作品123」。並びはこうなっています。

Credo in 神
Credo in キリスト
Credo in 聖霊
Credo in 教会

 すべて均等に Credo in が付き4つの目的語を同列に扱っています(ベートーヴェンにはもう1曲「ミサ曲 ハ長調 作品86」という中期の作品がありますが、この歌詞は「ミサ通常文」どおりとなっています)。ベートーヴェンは、「荘厳ミサ曲」において、何故このような変則的な形をとったのか? 今回はこの謎に迫ってみたいと思います。

(1)ベートーヴェンの宗教心

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770−1828)は、カトリックの家庭に生まれましたが、熱心なキリスト教徒とはいえなかったようです。祖父はボンの宮廷楽長で、一家はこの立派な祖父によって支えられていました。ところがこの大黒柱はベートーヴェンが2歳のときに亡くなってしまいます。あとは父親が頑張らなくてはいけないのですが、この人が酷かった。一応宮廷歌手ではありましたが、勤労意欲のないただの大酒飲み。その親父があてにしたのが、こともあろうに幼い頃から音楽の才能を発揮したわが子ベートーヴェンだった。どうにかしてこの子を一人前の音楽家に育てあげて、自分は楽をしようと企んだのです。その特訓は過酷を極め、体罰による傷は絶えることがなかったとのこと。それ以外のときには酒ばかり飲んで母親に暴力を振るう、どうしようもない父親でした。しかしベートーヴェンは耐えた。結果、持ち前の才能が開花したのです。動機はどうあれ、この自己中親父のスパルタ教育が功を奏したことになります。幼年期をこんな家庭環境で育ったベートーヴェン。キリスト教徒の父親、あの人は一体何なんだ。キリスト教ってなんなんじゃい。信じられるものは自己の力だけではないか・・・・。彼のキリスト不信と汎神論的神への尊厳はこの幼年期に芽生えたに違いありません。やがてボン大学に進み、そこで自由と正義の気風に触れる。時はまさに疾風怒濤の時代。思索の対象がカトリックの教義ではなく、哲学や自然科学に向かったのは自然の成り行きでした。特に傾倒したのは、ギリシャ哲学であり、カントでありシュイクスピアだった。プラトンのイデア論やカントの「純粋理性批判」にみられる理性重要視の哲学こそが彼の思考基盤になっていったのです。もしかしたら、シェイクスピアの世界から反ユダヤの意識を嗅ぎ取ったのかも知れません。これらが渾然一体となって「キリストなどただの磔にされたユダヤ人に過ぎない」という後年の過激な発言に集約されたのでしょう。
 それにしても、無宗教の私なんぞは、宗教上の諸々の事象の中には理解できないものが結構ありまして・・・・「尼僧物語」というオードリー・ヘプバーンの映画がありますが、その中で、アフリカで奉仕活動をする尼僧を現地人がいきなり撲殺するという実に衝撃的なシチュエイションがあります。理由はまじない師に「尼僧を殺せば悪霊を払せる」といわれたというのですが、そのときヘプバーン扮する同僚の尼僧が取った態度が「私たちは殺人者を赦します」なのです。キリスト教ではどんな罪人をも赦すというのです。そんなこと普通の人間にできるのでしょうか。秋葉原や荒川沖駅無差別殺人犯を無条件に赦せるものでしょうか。宗教の不可解さ。どうも釈然としない。だからというわけではないのですが、ベートーヴェンの気持ちは分かるような気がするのです。

(2)「荘厳ミサ曲」 Credoの意味合い

 「荘厳ミサ曲 ニ長調 作品123」は、ルドルフ大公の大司教就任の報を受けて書き始められました。ルドルフ大公は、ベートーヴェンが最も信頼するパトロンにして音楽友達。大司教といえばカトリック教会において教皇直下の高位職。最大の庇護者が最高の地位に着くのですから、いくら敬虔なカトリック教徒でないベートーヴェンでも、作曲家としての威信を懸けて"ミサ曲作り"に没頭したことは想像に難くありません。作るなら最高の作品をという意気込みは、公の即位式には間に合わないという事態を生んでしまいます。これは、ベートーヴェンが、期日までに間に合わせることよりも、音楽として納得いくものを産み出そうとしたためでしょう。ようやく完成して大公の許に渡ったのは即位式の3年後、1823年3月のことでした。
 Credo は「わたくしは、神、キリスト、聖霊を信じます。そして教会も」という信仰宣言の章ですから、古今のミサ曲の曲想は、概ね敬虔さと確信の色合いが濃厚。無論「荘厳ミサ曲」もこの例に漏れませんが、曲想はより力強く意志の力に満ちています。他のどんなミサ曲よりもその醸し出すパトスは強烈です。冒頭の「Credo」に付けられた B♭-G-C-F の音型は曲全体を貫いて、まるでワーグナーのライトモチーフ(示導動機)のような働きをしています。さしずめ"信仰宣言の動機"とでもいえましょうか。ワーグナーのライトモチーフの元祖はベルリオーズ「幻想交響曲」の「固定観念」というのが音楽史上の定説ですが、私はこのベートーヴェン「Credoの動機」こそが先駆けであると確信するにいたりました。その証は、ワーグナー芸術の集大成である「ニーベルングの指環」の中に見ることができます。「ニーベルングの指環」には優に100を超えるライトモチーフが存在するといわれていますが、中でも「指環」のモチーフは最重要モチーフの一つ。このやや不吉な影を帯びた音型が光輝と威厳に満ちたモチーフに変形したのが「ワルハラのモチーフ」です。このモチーフが「Credo の動機」と非常に似通っているのですね。その音型は"ソミードラードドレミー"(ハ長調に移調して読んでいます)。ベートーヴェン「Credoの動機」は同じ形に直すと、"ドーラ レーソ"ですから、ワルハラのモチーフは「Credo の動機」の音を全部使ってミを加えたアナグラムといえないこともない。これは、かなりのコジツケとは感じつつも、ワーグナーが「『荘厳ミサ』こそ最も神聖なベートーヴェン的精神を持つ純粋な交響的作品」と絶賛していることから、私としては、"ワーグナーはベートーヴェンへのオマージュとしてそう試みた"と思いたいのです。

   ロマン・ロランもパウル・ベッカーもこの偉大なミサ曲に対し、独自の賛辞・見解を発していますが、興味深いのはやはりワーグナーの見解で、前述のコメントに続く部分にはこうあります。
 ・・・歌詞は、たまたまこれらの偉大な教会音楽作品においては、概念的意味にしたがって解釈されるものではなく、音楽的芸術作品の意味においてひたすら歌唱用の素材としての役目を果たすものであり・・・
 このリヒャルト・ワーグナーの見解は、"ベートーヴェンは「ミサ通常文」の歌詞を素材として考えていた"ということですから、"音楽に従属する形で変えた"という私の見解と合致しているのではと思えて、実に嬉しい気分になります。

 ベートーヴェンは「荘厳ミサ曲」を宗教者としてではなく作曲家として懸命に書いた。その結果、ミサ曲の中心部分である Credo を、一つの主題を軸に展開する交響曲の一楽章のような形に作り上げることになった。それには、決めた主題を曲中の節目で効果的に使うことが必要で、そのためには、その4箇所すべての歌詞が「Credo in」でなければならなかった。これが「ミサ通常文」の歌詞が変わった理由なのです。
 プロテスタント教徒のJ.S.バッハは「ロ短調ミサ曲」において、カトリックの規範である通常の形をいくつか変えてはいますが、この三位一体の象徴ともいえる"Credoの並び"を変えることはしませんでした。また、シューベルトは、当時のカトリック教会への不信から、彼の作ったすべてのミサ曲から、「教会」に関するその一文を削除した。そして、ベートーヴェンは、それまでだれも変えることのなかった「ミサ通常文」の歌詞を変えて、作曲家としての信念を貫いた。不変であるべき「ミサ通常文」の歌詞を"歌唱用の素材"と見做して。

 こうして完成した Credo は、強烈で確信的な「Credo の動機」が、交響曲のように全体を貫き、堅固な様式美を形成しました。そこには敬虔なキリスト教徒ではない大作曲家ベートーヴェンの音楽優先の姿勢がはっきりと見て取れます。また、彼が「キリエ」の楽譜上に書き込んだ「心より出で−そして再び−心にかえらん」とは、"自分の魂は、一旦天上の神に行きついても、再びまた自分の許にもどってほしい"という願いなのだと思います。そこにも、信じたいものは自己の力であり理性である、という彼の哲学が読み取れるし、それも即ち、"三位一体を旨とするカトリックの教義"とは相容れない思想なのです。
 しかしながら、彼が、侵すべからざる「ミサ通常文」の歌詞を変えてまで作り上げた Credo の章は、結果、聖三者と教会を同列に位置づけるという形態を造り出してしまった。あの温厚なシューベルトが、当時の教会に対し「教会の坊主ときた日には、老いぼれた駄馬みたいな偽善者で、ロバの親方みたいにバカで、水牛みたいにガサツな連中ばかりだ」と言っているのですから、ベートーヴェンだったらどう形容するか想像もつきません。そんな彼の音楽優先の姿勢が、軽んじるべき教会と「ただのユダヤ人」と蔑んだキリストを神と同格として扱う、三位一体ならぬ四位一体の形態を形作ってしまったのは、なんとも皮肉な結果というしかありません。
 2010.01.29 (金)  シューベルト1828年の奇跡10〜アインシュタイン、その引用の謎A
 前回の検証により、アインシュタインが引用した「in あり」は、「ミサ通常文」と照合した結果、不正解との結論を出させていただきました。ミサ通常文のその部分=Credo は「ニケア・コンスタンチノープル信条」(略称ニケコン)に行きつきます。今回は、この「ニケコン」を徹底検証して、なぜ「in ナシ」が正解なのか、その謎に迫りたいと思います。

(1)「ニケコン」採択まで

 キリスト教最初の公会議は325年、ニケアで開催されました。これが第1ニケア公会議です。テーマは教義の統一で、論点は"キリストの神性"。即ち、キリストは神と同一か否かという問題でした。これが当時のキリスト教徒の間で一つの大きな論争となって、様々な問題を引き起こしていました。そこで、時のローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、これら諸問題を解決するために会議を開いたのです。彼は313年に「ミラノ勅令」を公布、それまで迫害していたキリスト教徒に信教の自由を与えた。これは、猛烈な勢いで広まってゆくキリスト教を、押さえるよりは取り込むほうが、統治上得策と考えたから。そのためには、キリスト教徒は一枚岩であることが望ましかった。教義の統一が不可欠だったわけです。会議の結果採択された「ニケア信条」は"キリストは神と同質ではないと唱えるものを呪う"という文言で結ばれています。このとき、排斥されたのがアリウス派という一派でした。
 ところが、アリウス派の勢力は公会議後も長い間衰えずに推移した。この事態を重くみた皇帝テオドシウス1世は、381年にコンスタンチノープルで公会議を開きました。これが2回目の公会議「第1コンスタンチノープル公会議」です。会議の大きな目的は、アリウス派の完全排斥でした。そのためには、「ニケア信条」を抜本的に変えなければならない。即ち「キリストの神性」と「三位一体」をより強固に打ち出す必要があったのです。そして、採択されたのが「ニケア・コンスタンチノープル信条」、通称「ニケコン」で、「ニケア信条」といえば通常こちらのこと。325年採択のほうは「原ニケア信条」として区別するのが一般的です。

(2)「ニケコン」を検証する。

 「原ニケア信条」はギリシャ語で書かれていますが、「ニケコン」にはラテン語訳も付加されました。そのラテン語の全文を掲載します。
Credo in unum Deum, Patrem omnipotentem, factorem caeli et terrae, visibilium omnium et invisibilium.

Et in unum Dominum Jesum Christum, Filium Dei unigenitum, et ex Patre natum ante omnia saecula. Deum de Deo, Lumen de Lumine, Deum verum de Deo vero, genitum non factum, consubstantialem Patri; per quem omnia facta sunt. Qui propter nos homines et propter nostram salutem descendit de caelis. Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria Virgine, et homo factus est. Crucifixus etiam pro nobis sub Pontio Pilato, passus et sepultus est, et resurrexit tertia die, secundum Scripturas, et ascendit in caelum, sedet ad dexteram Patris. Et iterum venturus est cum gloria, iudicare vivos et mortuos, cuius regni non erit finis.

Et in Spiritum Sanctum, Dominum et vivificantem, qui ex Patre(Filioque) procedit. Qui cum Patre et Filio simul adoratur et conglorificatur: qui locutus est per prophetas. Et unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam. Confiteor unum baptisma in remissionem peccatorum. Et expecto resurrectionem mortuorum, et vitam venturi saeculi. Amen.

わたしは信じます。唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。

わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。

わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。アーメン。(日本司教団刊行公認口語訳)
 全体は3段に分かれており、「神」「キリスト」「聖霊」の実体と特性を詳しく記述しています。特に「キリスト」に関する記述は圧倒的に多い。これこそ、"キリストの神性の確立"が会議の大きな目的であった証です。即ち、「キリスト」は「神」と同一実体であることを定義し、「三位一体」を強く打ち出したのです。
 さらに注目すべきは"教会"に関する記述のし方です。前回の「原ニケア信条」の「"神の子は異なる本質より成るもの"と宣べる者らを、公同なる使徒教会は、呪うべし」としていた部分を「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じる」に変えています。単に異端の一派を排斥するという矮小否定型記述から、正統的唯一の教会を信じるべしという大局的肯定型記述に変わっています。それも実に絶妙な形態で。

(3)起草者が仕組んだ絶妙な形態

[ニケコンの形態]

Credo in unum Deum わたしは信じます 唯一の神を
Et in unum Dominum Jesum Christum わたしは信じます 唯一の主イエス・キリストを
Et in Spiritum Sanctum わたしは信じます 聖霊を
Et unam sanctam catholicamu et apostolicam Ecclesiam わたしは信じます 唯一の教会を

これが「ニケコン」の骨子です。信じるものは4つ。三位一体なる「神」「キリスト」「聖霊」そして「教会」です。公認日本語訳は4つに対しすべて"わたしは信じます"という同じ語句が並んでいます。ところがラテン語の原文は夫々が違う形で並んでいます。解りやすいように頭の部分を抜書きして並べてみましょう(目的語は日本語で記述)。

@Credo in 神
AEt in キリスト
BEt in 聖霊
CEt 教会

すべてに主語が省略されていますが、これは「信仰宣言」なので「私」が主語となります。@Credoは「信じる」という自動詞、inは「〜を」という目的語に対する前置詞ですから、「私は神を信じる」です。Aetは英語の and ですから「また」、そのあとは credo が省略されています。したがって「また、私はキリストを信じる」です。Bも同じ形で「また、私は聖霊を信じる」です。ところがCの形態とニュアンスは大きく違っています。

公認の日本語訳はC「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的唯一の教会を信じます」ですから、これをそのまま、ラテン語に戻すと Et in unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam で、ABと同じ形になるはずです。ところが原文は違う。「in ナシ」、すなわち Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam なのです。たった一語の in の有無。これには一体どんな秘密が隠されているのでしょうか。

[in ありのケース] もし、そこに in があったらどうなるか?

@Credo in
AEt in
BEt in
CEt in

まず、「ニケコン」起草者はこの形で考えたと思われます(この前段階では、すべてが「Credo in」になっていた可能性もあります。「荘厳ミサ曲」のように)。でも、彼は考えます。これだと、CはABと同じ形、即ち@からの並列的並びだから、「神、イエス・キリスト、聖霊、教会を信じる」という、4つの目的語が並列的格付けのニュアンスになる。「ニケコン」最大の目的は"三位一体の明確化"だ。これはまずい。教会が、一体なる「聖三者(Saint Trinity)」と同格というわけにはいかない。ならばどうする!

[in ナシへの転換]

おそらく起草者は、この文面を前に長考したことでしょう。三位一体なる「聖三者」については、各々の特性をしっかりと規定した。特にキリストの神性を揺るぎないものとするために「キリストは神の子、即ち、神と同一実体であること。世のすべてのものをお造りになったこと。聖霊によって生を受け、ピラトによって磔刑に処せられ、そして復活して今は神の右座にあられること」など、その生涯にいたるまで詳細に明記した。あとは、"正統な教会は唯一「カトリック教会」である"ことを謳う必要がある。異端を排除するためにも。だからといって「聖三者」と同格に並べることはできない。そこで閃いた、「そうだ、in ナシでいこう」。

    Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam

これならば、文体的に「聖三者」とは同格にはならない。確かに曖昧な表現ではあるが、返ってこれでいいのではないか。同格でないということは、「聖三者」の下位に置かれるとも、それらを司る処とも取れる。「カトリック教会こそ唯一正統な教会である」という意味の文言がありさえすればいいのだから。ニュアンスはこうだ・・・「また、唯一の聖なる普遍のそして使徒継承の教会なのだ」・・・・と。もっと噛み砕いていえば「教会もあるでよ」なのだ。まさに、かの南利明の「ハヤシもあるでョー」であり、世界の王さんの「森の詩もよろしく」であり、最近では加藤清史郎君の「補助金も!」なのだ。要するに、主格の「聖三者」は「カレー」であり「ナボナ」であり「減税」であって、教会は「ハヤシ」であり「森の詩」であり「補助金」なのだ。主格と同列に置かない実に巧妙な表現を編み出したのです。これが「in ナシ」となった真相。このわずか一語の綾こそ、起草者が盛った絶妙な技だった。こうして「ニケア・コンスタンチノープル信条」は採択され、以後ローマ教皇を頂点とするカトリックの巨大なヒエラルキーが形成されてゆくのです。・・・これが私の見解ですがいかがでしょうか。毎度ながらの懲りない独断との自覚はありますけれど・・・。

では最後に、この文節の日本語訳をランダムに拾い出してみましょう

わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます
                    (2004年教皇庁公認日本司教団公文書)
われは、一・聖・公・使徒継承の会を信じ
                    (1967年版「公会議による主日のミサ典礼書」)
信ず、一つの聖なる公なる使徒の教会を
                    (日本正ハリストス教会)
われは―― 聖・公・使徒継承の教会を信じ
                    (美山良夫、パレストリーナ「教皇マルチェルスのミサ」CD)
また、唯一聖公 使徒継承なる協会を信ず
                    (宮崎晴代、 シャルパンティエ「真夜中のミサ」CD)
また私は、唯一、聖、公、使徒伝来の教会を信じる
                    (佐藤章、モーツァルト「戴冠式ミサ曲」CD)
また、私は、唯一、聖、公、使徒伝来の教会を信じる
                    (海老澤敏、モーツァルト「戴冠式ミサ曲」CD)
また、唯一の聖にして公なる使徒の教会なり
                    (高野紀子、J.S.バッハ「ミサ曲ロ短調」CD)
8つのうち7つに「信じる」という文言が入っていますが、最後の高野紀子さんの訳にだけ「信じる」がない。だからこの訳の場合、教会は聖三者と同格でない。これこそ「ニケコン」真の姿を読み取った訳文であるといえます。これを参考に、私が考える極めつけ日本語訳(?)を最後に記して、この章を終わりたいと思います。

     Et unam sannctam catolicam et apostolicam Eccresiam
    また、唯一の、聖なる、普遍にして使徒継承の教会なのです


 2010.01.20 (水)  シューベルト1828年の奇跡9〜アインシュタイン、その引用の謎@
シューベルトの「ミサ曲第6番」で未知との遭遇をしました。アルフレート・アインシュタイン著「シューベルト音楽的肖像」は、オットー・エーリヒ・ドイッチュ編纂の「シューベルトの手紙」「シューベルト友人たちの回想」と並ぶシューベルト研究の定番的名著といわれています。私も座右においていつも参考にしています。勿論、浅井真男訳(白水社刊)の翻訳ものですが。さて、その中に、シューベルトはミサ曲の「Credo」のある一節を削除しているという件があります。これは前回のテーマでしたが、問題は彼の引用にありました。アインシュタインは、シューベルトが削除した一節をこのように引用しています(訳は訳者の添付)。

   Et in unam sanctam catholicam et apostolicam ecclesiam
   (マタ唯一ノ聖、公、使徒伝来ノ教会ヲ)

そして、後段で「しかし、大ミサ曲の中で、あの8語は・・・・」と"8語"とハッキリと書いています。

果たしてこの何が「未知との遭遇」なのか?これらを検証する前に基本的知識として、一般的な「ミサ曲」の構成について触れておきましょう。通常以下の5部から成り立っており、全篇ラテン語で書かれています。なお「ミサ」はカトリックの典礼なので、「ミサ曲」といえばカトリックの典礼音楽ということになり、プロテスタントに「ミサ曲」はありません。

第1部  キリエKyrie 憐みたまえ
第2部  グローリアGloria 栄光あれ
第3部  クレドCredo われは信ず
第4部  サンクトゥスSanctus 聖なるかな
     ベネディクトゥスBenedictus 祝福あれ
第5部  神の小羊Agnus dei 罪を除きたもう神の小羊よ

(1)Credoのinの有無

Credoはラテン語で「われは信ず」という意味で「信仰宣言」の章。三位一体なる「神」「イエス・キリスト」「聖霊」、そして「教会」を信じるという内容です。

問題の箇所は、Credoの後段で「教会を信じる」という部分。冒頭Credo in unum Deum 「われ唯一の神を信ず」で始まり、Et in unum Dominum Jesum Christum「また、われは唯一の主イエス・キリストを(信ず)」ときて、Et in Spiritum Sanctum「また、われは聖霊を(信ず)」と続く。ここまでは所謂「三位一体」論に則っています。そのあとに、Et in unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam 「また、われは唯一の聖にして公なる使徒継承の教会を(信ず)」という一節がくるのです。

この部分を削除しているのは、アインシュタインが指摘しているとおり、確かにシューベルトの6つのミサ曲だけでした。では、シューベルトが削除した一節がどうなっているのか?他のミサ曲で、その部分を聞いてみました。曲はJ.S.バッハの「ミサ曲ロ短調」。「Credo」のその部分は重厚なバスのソロ。歌詞カードを見ながら聞いていて「おや?」と思いました。その一節の歌詞カードはこうなっていました。

   Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam

なんと、アインシュタインの引用にあった in が抜けています。したがって、アインシュタインが引用した8語ではない、7語なのです。もしや、歌詞カードの誤植かと思い、再度、気合を入れて聞き合わせをしてみましたが、間違いなくinを歌ってはいません。ならば、これは単純な記載ミスではなく、楽曲そのものが「inナシ」なのです。"シューベルトが削除したものを聞いてみたら、あると思っていた語句が削除されていた"というなんとも奇妙な現実にぶつかったのでした。また、やや些細なことですが、教会ecclesiamの頭小文字が大文字になっています。こうなると可能な限り検証したくなるのが私の常でありまして、友人の評論家氏からもCDをお借りして「Credo」入りミサ曲その一節の検証に入りました。その前にミサ(ミサ曲)とはなんぞや?ということをざっと把握しておきましょう。

ミサ(mass)は聖体祭儀といって、カトリック教徒が教会に集まって行う重要な典礼儀式の一つ。それを司る司祭が、終わるときに「mass(これにてお開き)」と言ったことから、典礼そのものの名称に転じたものとされています。聖書の「マタイ福音書」等には、イエス・キリストが、「あなたこそが神の子です」と告白した弟子ペトロに向かい「この岩(ペトロ)の上に私の教会を建てる」と宣言したことが書かれています。これが教会の発祥で、以後、ローマ教皇を頂点とする巨大なローマ・カトリックのヒエラルキーが形成されてゆくのです。キリストに信託され「天の国の鍵」を授かったペトロ。そのペトロを初代教皇とするローマ・カトリック教会こそが、キリストの教えを直に伝える唯一正統な存在であるというわけです。なおカトリック(catholicam)とはラテン語で"普遍の"という意味の形容詞。

ミサ曲は「ミサ通常文」に曲をつけたもの。「ミサ通常文」とはカトリック教会において行われるミサのための式文のことで、原文はラテン語で書かれています。普段のミサでは、聖日(日曜日)に信者が教会に集まって、教会暦に基づく司祭の説教を聞き、最後に「信仰宣言」を行います。その信仰宣言が「ミサ通常文」の中の「Credo」なのです。したがって、「Credo」こそ、ミサ曲の中核をなす章といえます。

それでは、「ミサ曲」から Credo"件の一節の in の有無"を検証します。対象としたミサ曲は以下のとおり。素材はCDとその歌詞カード及び楽譜です。

[検証したミサ曲]
@ ギョーム・ド・マショー(1300−1377)「ノートルダム・ミサ曲」
A ギョーム・デュファイ1397−1474)「パドヴァの聖アントニウスのためのミサ曲」
B シャルパンティエ(1643−1704)「真夜中のミサ」
C J.S.バッハ(1785−1750)「ロ短調ミサ曲」
D モーツァルト(1756−1791)「戴冠式ミサ曲」
E ベートーヴェン(1770−1827)の「荘厳ミサ曲」

@は典礼文全体を一人の作曲家で賄った最古のミサ曲といわれている Aは15世紀最大の作曲家で、中世からルネッサンスにかけて重要な役割を果たしたギョーム・デュファイの作曲 Bはイエズス会の楽長シャルパンティエが書いたミサ曲で、ノエル(聖歌)を間に挟む形をとったクリスマス用のミサ曲 Cはプロテスタント教徒J.S.バッハが人生の最後に書いた普遍的(カトリック)なミサ曲 Dはモーツァルトのザルツブルク(当時はローマ教皇の直轄地)時代の作品 Eはベートーヴェンが晩年に作ったミサ曲

[検証結果]
@ギョーム・ド・マショーの「ノートルダムミサ曲」からモーツァルト「戴冠式ミサ曲」までは、同じテキストが使われており、すべてが「inナシ」であった。 Aベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」は、歌詞(典礼文)が違っており、Etを使わずにCredo inとしている。

(2)文法的考察

では、文法的見地から、Credo全体の流れを追いながら、この一節を検証してみましょう。Credoはラテン語で"信じる"という意味の動詞の一人称単数形ですから「われは信じる」となります。まず、冒頭はCredo in unum Deumですから、「われは唯一の神を信じる」です。次はEt in unum Dominum Jesum Christumなので、「また、われは唯一の主イエス・キリストを(信じる)」です。次はEt in Spiritum Sanctumで「また、われは聖霊を(信じる)」です。ここまでが「三位一体」の各々を信じるという部分。見てのとおり、EtのあとにCredoが省略されています。だから、この後に続く問題の一節も当然Et in unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam「また、われは唯一の聖にして公なる使徒継承の教会を(信じる)」でなければなりません。Credoは自動詞ですから目的語をつけるときは、in を入れなくてはいけない。したがって文法的にも文の流れからも「inあり」が正解と考えるのが自然でしょう。

(3)公式の「ミサ通常文」はどうなっているのか

   Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam
   わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます

上の文章は、日本カトリック司教団典礼委員会発行「ミサ通常文」の「Credo」から当該部分をコピーしたものです。日本カトリック司教団はローマ教皇庁から連なる正統な機関なので、この典礼文は公式のもの。訳は2004年に教皇庁から認可された最新口語訳を併記しました。ご覧のとおり、前掲「ロ短調ミサ曲」の"歌詞カードと同一"で、ここにもinがありません。文法的にも文章の流れからも「inあり」が正しいとされたのに、「inナシ」となっている。一体この事実をどう解釈したらいいのでしょうか。そのためには「Credo」の成立にまで遡る必要があります。

(4)「Credo」(信仰宣言)の成立

ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(272−337)は、313年、ミラノ勅令を発布。これによりキリスト教徒に対する信教の自由が保障されました。安定した統治のためには勢力を増しつつあったキリスト教徒をスムーズかつ効率よく取り込む必要があった。そのためにはキリスト教徒が一枚岩になっていなければならなかった。ところが教徒内での教義はきっちりと統一されておらず、特に"神とキリストは同一実体ではない"と「反・三位一体」の立場をとるアリウス派の台頭はキリスト教徒分裂の危機をも孕んでいたのです。そこで皇帝は325年、第1ニケア公会議を開催します。会議は、神とイエス・キリストと聖霊は同一実体であるという「三位一体」を教義として公認、「ニケア信条」を採択します。全文はギリシャ語で書かれ、最後には「"神の子は異なる本質より成るもの"と宣べる者らを、公同なる使徒教会は、呪うべし」という言葉で結んでいます。ここにアリウス派は排斥され、異端排斥を目的とする公会議の原形は、ここに形成されたのです。

テオドシウス1世(347−395)は、381年に、コンスタンチノープル公会議を開催します。この会議では、前公会議で採択された「ニケア信条」をもとに、信仰というものをより深く掘り下げ、「三位一体」をより明確に打ち出し、異端排斥文の代わりに、「(ローマ・カトリック教会が)"唯一の聖にして公なる使徒継承の教会"である」との文言を入れた信仰宣言文を採択しました。この最後の部分こそ、本章のテーマである Et unam sanctam cathoricam et apostolicam Eecclesiam で、ここで正式に採択された「信仰宣言」が「ニケア・コンスタンチノープル信条」でした。これはギリシャ語とラテン語で書かれていますが、ラテン語文を日本カトリック司教団典礼委員会発行の「ミサ通常文」の「Credo」と照合すると、ピタリと合致します。したがって、「ニケア・コンスタンチノープル信条」は、採択以来1600年以上もの間、変わることなく現代まで継承され、そのままの形で「ミサ通常文」の「Credo」として現存している。 ということになります。

現在、「ニケア信条」といえば、一般的に「ニケア・コンスタンチノープル信条」のことを指します。現に、J.S.バッハ「ミサ曲ロ短調」第2部の表紙には、「No.U SYMBOLUM NICENUM」と書かれており、これは「ニケア信条」というラテン語。この内容が「ニケア・コンスタンチノープル信条」なのは照合すれば一目瞭然。そのため、ギリシャ語で書かれたオリジナル325年採択の「ニケア信条」を「原ニケア信条」として区別しています。

やっと"シューベルトが削除した一節"の発祥に行き着きました。「ニケア・コンスタンチノープル信条」の採択は西暦381年。「ミサ曲」は最古のものでも14世紀の作品。ということは、すべてのミサ曲の「Credo」その一節は「inナシ」でなければならない? 現在日常の「ミサ」における「信仰宣言」(Credo)は国ごとの言葉で唱えるという方向になっていると聞きます。事実日本でも、2004年に採択された公式口語訳による「信仰宣言」を奨励しています。また、西方と東方の分立による「信仰宣言」そのものの違いもあるようです。したがって、「信仰宣言」は、実際上様々な形で存在するので、「ミサ曲」の歌詞内容については軽々しく断定できない、という事情があります。とはいえ、「信仰宣言」(「ミサ通常文」のCredo)が「ニケア・コンスタンチノープル信条」であるという事実は動かしがたく、したがって、アインシュタインが書いたように、ミサ曲の中で「inあり」になった事実はありえないと私は考えます。次回は、なぜ「inナシ」なのか? 「ニケア・コンスタンチノープル信条」(通称:ニケコン)決定の謎に迫ります。

 2010.01.11 (月)  永ちゃんとリヒテル
 昨年大晦日に行われた第60回NHK紅白歌合戦に、われらが永ちゃんこと矢沢永吉がサプライズ・ゲストとして登場しました。さすが大物の紅白初出場は、当代随一の人気グループ嵐の歌唱後トークの最中に、NHKホールの楽屋口から会場へまかり通る道中すべてをカメラが追うというVIPスタイル。歌うは最大のヒット曲「時間よ止まれ」。ところが歌の出だしで、"罪なやつさ Ah PACIFIC まぶた閉じよう"とやってしまった。オイオイいきなりまぶた閉じちゃうのかよ。"まぶた閉じよう"はワン・コーラス最終行の歌詞。正解の"碧く燃える海"をスっ飛ばしてしまったのです。聞いてる私は頭に血が上り脈拍早打ちの本人さながらの舞い上がり。続くフレーズの"どうやら おれの負けだぜ"は無事通過、"まぶた閉じよう"を繰り返す形で締めて一応事なきを得たかに見えました。ところが、永ちゃん、動揺は収まっていなかった、2コーラス目の同じ箇所"冷えたジンより"を"ただの男さ"と、さっきとまったく同じ間違いをしでかしてしまった。さあ、こうなったらもうシャバダバ。NHKは慌ててテロップを消して対応するも、"光る肌の香りが"がどうトチ狂ったか"肌の手に香りが おれを酔わせる"じゃわけがわからない。最後"時間よ止まれ 命の目眩の中で"となんとか着地しましたが、やってくれちゃった永ちゃん、目眩をしたのはこっちのほうでした。
 テロップが消えた紅白といえば、2003年の中島みゆきさん。この年NHK「プロジェクトX」の主題歌「地上の星」が大ヒット、紅白初登場の大物にNHKが用意したステージは、黒四ダムの地下トンネルでした。2コーラス目の第2節"名だたるものを追って 輝くものを追って"がまったく出ずにムムムーー。ここで歌詞テロップが消えました。

 永ちゃんの大トチリでもう一つ思い出したのは、ピアノの巨匠スヴァトスラフ・リヒテル(1915−1997)が1965年6月16日オールドバラ音楽祭で行ったライブ録音です。この音楽祭は、作曲家・ピアニスト・指揮者であるイギリスの至宝・ベンジャミン・ブリテン(1913−1976)が主宰する由緒あるイヴェント。ブリテンは、作曲家としては、歌劇「ピーター・グライムズ」や「戦争レクイエム」などで有名ですが、指揮者としても、特にモーツァルトを得意としており、中でも、交響曲第40番K550、第38番K504「プラハ」やクリフォード・カーゾン(ピアノ)をソリストに迎えてのピアノ協奏曲第20番K466、第27番K595(いずれもオケはイギリス室内管弦楽団)などは名演の誉れ高いもの。さて、その1965年のオールドバラ音楽祭で、リヒテルはブリテン指揮イギリス室内管弦楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲第27番変ロ長調K595を共演しました。ところが、これがとてつもない代物なのです。

 第1楽章冒頭、オーケストラの序奏が2分30秒続いたあと、ピアノ・ソロが第一主題を4小節弾いて、管楽器の合いの手が♪タータッタタータと入る。そのあとに"次なる合いの手あとのフレーズ"を弾いてしまった。要するに最初に弾くべきフレーズをスっ飛ばしてしまったのです。ビックリしたオケは慌てて合いの手を入れる。ピアノは弾いたばかりのフレーズを反復する。長い序奏の間何か考え事でもしていたのでしょうか?大晦日の永ちゃんのパターンと全く同じ事態が発生しちゃったのです。
 この曲はモーツァルト最後のピアノ協奏曲で、死の年1791年の作品。その年に共通の浄化された清澄さを持ち、一つとして無駄な音のない精緻さ極まる名曲中の名曲。そんな水晶の塊りのような純粋な曲のド頭で、正しいフレーズをスっ飛ばし同一フレーズを繰り返さざるを得なくなるという演奏行為は、取り返しのつかない大失態パフォーマンスというしかありません。出鼻をくじかれた指揮者ブリテンは、その女性のような繊細な神経をズタズタに引き裂かれ、その後のピアノ・ソロとの掛け合いも心そこにあらずの空虚さ。まさにシャバダバの演奏となってしまったのでした。
 だから、永ちゃん、紅白のミスなんか気にすることはありません。世界の巨匠がこんな失態を演じているのですから。しかも永ちゃんは、つぎの曲「コバルトの空」では、かっこよく完璧に歌いきったじゃないですか。リヒテルが演奏全体を台無しにしたことを思えば立派なものです。今、世界で一番落ち込んでいるのはタイガー・ウッズというのが定説なら、もしや、永ちゃんは二番目かもと一時は心配しましたが、どうということはありませんよ。これを読んで多少でも気分を和らげていただければ幸いです。

 この演奏はCDとして世に出ているので、興味のある方はお聞きになってみてください。先日、カトリックのミサ曲のことを調べに、上野の音楽資料室に行ったとき、ひょっとしてこのCDの演奏評はどうだったのかなと、軽い気持ちで「レコード芸術」のバックナンバーを閲覧してみました。2000年2月新譜のこのCDは、「レコ芸」同年3月号の協奏曲欄で取りあげられていました。それを見て私は目を疑ったのです。なんと、この珍盤が「特選盤」になっているではありませんか!!「レコード芸術」のレコ評は、一つのCDを二人の月評子が評価し、二人揃って「推薦盤」にしたものが「特選盤」として、その月の新譜の最高評価CDとなるのです。このときの評者は歌崎和彦、金子建志の両氏。まずは彼らの評を抜粋します。
[歌崎氏評]
ブリテンが主宰したオールドバラ音楽祭の録音集で、注目されるのは、やはりリヒテルをソリストに迎えたモーツァルトの≪ピアノ協奏曲第27番≫だろう。50歳となって間もないリヒテルは、この巨匠ならではの磨きぬかれた強靭な音を柔らかく繊細に生かして、美しく味わい深い演奏をつくっている。第1楽章は少し抑えぎみかなと思われるが、次第に感興を加えてゆく演奏は、柔らかく澄んだ美しさとともに、作品への深い共感に裏打ちされた親密さをそなえており、滋味豊かである。ブリテンとイギリス室内管弦楽団も、共感豊かな表現によって、そうしたリヒテルのソロを硬軟巧みにサポートしている。

[金子氏評]
BBC放送の音源による一連のシリーズとして、演奏家としてのブリテンがモーツァルトを演奏した際のライヴを集めた一枚が登場した。指揮者としてのブリテンは、いかにも作曲家らしい緻密な譜読みで、癖のない正攻法の音楽作りを特徴としている。また、常に、演奏の現場に関わっていたこともあって、理性至上主義の独りよがりなアンバランスとは無縁だ。そのブリテンの棒がゆったりめに敷きつめた絨毯の上で、リヒテルはフレーズ単位の自在な伸縮を適度に織り交ぜながら、持ち前の密度の高い音楽を繰り広げる。質量感のあるタッチと、言語的な語り口によるモーツァルト解釈の見本のような秀演だ。
 とまあ、お二方ともベタ褒め大推薦であります。彼らがそう感じたのですから、どうぞご自由にで済まそうと思ったのですが、少しだけ言わせてもらいたくなりました。ご両人とも、"リヒテル件のスっ飛ばし行為"には全く触れておられません。誰が聞いても即座に判るミスプレイなのにです。これはどういうことでしょうか。答えは"全く気づかなかった"か"気づいても書かなかった"のどちらかしかありません。前者の場合は、ありえない事としか言いようがないのですが、もし本当にそうなら、お二方には大変失礼ながら、栄えあるレコ芸月評子どころか評論家として失格だったといわざるを得ませんね。後者の場合は、そんなミスは大したこっちゃないと思われたのか、それとも、巨匠が醸し出すオーラがそれを補って余りあると感じられたのか、どちらかなのでしょう。これも私には理解不能。前述したとおり、この冒頭のミスプレイは、精緻きわまりないK595という作品においては致命傷であり、これを察知した演奏者は茫然自失、そのあと、オケはピアノとの受け渡しに緻密さを欠き、ホルンは二度のミスブロウをし、ピアノは度々指の呂律が回らなくなる。殊に気になったのは第3楽章のロンド主題のフレージングで、この根底に悲しみを湛えた流れるようなメロディーを、変に癖のある歌いまわしでブチ壊している。そんな無骨な表現はいたるところで散見され、曲の本質と遊離すること甚だしい演奏なのです。
 同じ曲を、クリフォード・カーゾン(ピアノ)が同じブリテン指揮イギリス室内管弦楽団と共演した1970年の録音があります。これは精緻にして活き活きとした素晴らしい名演です。これと比べれば、(共演者が同じでも)いかにリヒテル盤が酷いかが一聴瞭然で分かるのに、お二方は、評論時、そんな基本的な聴き比べもしてなかったのでしょうか。だとすればこれは怠慢。あまりの我が国クラシック評論の質の低さに呆れるばかりです。いずれにしても、かくなるCDを絶賛してしまうような理解不能な耳を持つ音楽評論家お二人と、彼らを音友月評子という日本のクラシック愛好家の指針たるべきポジションに据えていた音楽之友社は、10年前のこととはいえ、猛省すべきではないでしょうか。その後お二方のレコ評がどう変わったのかは存じ上げませんし検証する気もありませんが、現在金子氏は「管弦楽部門」の月評に回り、歌崎氏は月評子こそ降りたものの、「レコードアカデミー賞」選定委員としてご活躍中です。

 大晦日、NHKホールで矢沢永ちゃんが舞い上がってくれたおかげで、新年初頭から面白い発見をしたものです。こいつは春から縁起がいい?今年も「クラ未知」に、どうぞご期待ください。
 2009.12.25 (金)  シューベルト1828年の奇跡8〜ミサ曲第6番
先日、中島みゆきの「夜会VOL.16」を観ました。これは近年の大切な年中行事。演題は「本家・今晩屋」。素材は「安寿と厨子王」伝説。一生は終わってしまえばリセットされて、次の、まっさらなところからやり直せるというふうに、いつのころからか、この国では誤解されているかもしれない。除夜の鐘しかり。ゲームもしかり。だがこれでいいのだろうか。本当は、過ちも悲しみもすべて来世に引き継いでゆくものと考えるべきではないだろうか。生まれた子供の掌には前世が刻まれているべきではないのか。苦しみと戦い、耐えながら生きぬくことこそが、来世への免罪符になるのではないか。なんでもかんでも簡単にリセットしてしまって本当にいいのだろうか?これが彼女の疑問。

奇跡の年の作品に「ミサ曲 第6番 変ホ長調D950」があります。この曲はシューベルト最後の宗教音楽で、1828年の夏に完成しています。

(1)神の小羊

「ミサ曲第6番」を聴いて、最も心に浸みる部分は、私にとっては「神の小羊Agnus Dei」です。「神の小羊」は、すべての罪を背負って十字架に架けられたイエス・キリストを崇め、憐れみを乞うくだり。通常のミサ曲では、崇める気持ちを敬虔で清澄な曲想に乗せ、憐れみを乞うところで劇的要素を加味するものもあります。J.S.バッハ「ミサ曲 ロ短調」のそれは清澄の極み。フォーレの「レクイエム」は透明な美しさの中に劇性が顔を出します。ヴェルディの「レクイエム」は、出だしをアカペラにして、主への敬虔な気持ちを強調しています。ところが、ミサ曲第6番の「神の小羊」では(「われらを憐れみたまえ」で一瞬敬虔さが顔を出すものの)終始一貫悲痛な響きが充満しています。まるでシューベルトの慟哭のような。こんな「神の小羊」は聞いたことがありません。

シューベルトは6つのミサ曲を書いていますが、一連の流れの中で「神の小羊」を検証してみます。歌詞は以下の通りです。

    Agnus Dei,qui tollis peccata mundi miserere nobis!
    神の小羊 世の罪を除きたもう主よ われらを憐れみたまえ

第1番へ長調D105(1814年の作品)の「神の小羊」には清潔で清澄な響きがあります。第2番ト長調D167(1815年)では、アルフレート・アインシュタイン(1880−1952)によれば、"「神の小羊」は最も繊細で最も興奮した感情がこもっている楽曲"(白水社刊「シューベルト音楽的肖像」より)ということになります。第3番変ロ長調D324(1815年)と第4番ハ長調D452(1816年)は、抒情的で美しい曲想の前半が、金管と打楽器が加わってキリスト讃歌の趣を出す後半に取って代わるという、共通した特徴があります。第5番変イ長調D678(1819年)は、落ち着いた曲調の中に敬虔な祈りの気持ちを表出しています。

このように第1番から第5番までの「神の小羊」には、各々の特徴はありますが、第6番にみられるような悲痛な響きはない。あえて第6番の情感に近いものを他の作曲家の作品に求めると、モーツァルト未完の大作「ハ短調ミサ曲」になるでしょう。この作品は、未来の妻コンスタンツェとの結婚を願うモーツァルトが、彼女にソロ・パートを歌わせて家族に紹介することを目論んで作ることを思い立ったといわれています。実際の作曲は結婚の翌年に行われましたが、彼女を同行したザルツブルクへの旅には間に合わず、遂に完成をみることはありませんでした。したがってこの曲に「神の小羊」は存在しません。しかしカトリックのミサ曲の「主に栄光あれGloria」の中には、上記Agnus Dei以下のqui tollisからの文節が含まれています。モーツァルトのこの部分を聞くと、結婚の証に作ったという目論みとは裏腹に、実に物悲しい響きに満ちています(モーツァルトがなぜこんな曲想を選んだのかという考証はこの際置いておきます)。とはいえ、これは悲愴感ともいうべき情感で、シューベルトの悲痛さとは微妙に違う。シューベルトの「ミサ曲第6番」における「神の小羊」とグローリア「世の罪を除きたるもの・・・」に潜む悲痛な響きは、それこそ異様というべきです。私はここにシューベルトの影を見ます。

(2)典礼には使えないミサ曲

シューベルトのミサ曲は典礼には使えないとされています。それはミサ曲の「われは信ずCredo」に通常含まれる一行が削除されているからです。通常のミサ曲はこうなっています。

    われは信ず、主なる精霊、生命の与え主たるものを
    そは、父と子よりいで、父と子とともに拝され、あがめられ
    預言者によりて語りたまいしもの。
    *また、唯一の聖にして公なる使徒の教会なり。
    (Et in unam sanctam catholicam et apostolicam ecclesiam)

シューベルトは、この最後の行 *「また、唯一の聖にして公なる使徒の協会なり」を省いています。これは「第6番」に限らず彼の全てのミサ曲に共通している現象です。では、なぜ彼はこの文節を省いたのでしょうか?これについては、シューベルトの信仰に関わる問題として、昔から諸説がありますが、アルフレート・アインシュタインは「シューベルト音楽的肖像」の中で「ミサ曲とシューベルトの信仰」という項目を設け、こう書いています。

「シューベルトの特異性をどう説明したらよいであろうか?シューベルトは自分のやり方であの権力にひそかに抗議したのか? 『僧侶階級の消滅した権力』とか『おお気高いキリストよ、なんと多くの悪行に御身はその姿を貸し与え給わねばならなかったか』とかいう言いまわし(1825年9月12日―21日フェルディナントあての手紙)は、決して教会に対する敬意を表してはいない。それにもかかわらず、シューベルトの意図、抗議を構成してみるのは間違いであろう。もしあの省略が後年のミサ曲だけにあるならそれもできようが、17歳か18歳の少年の場合にはそれはできない。最も単純で最もありきたりの説明は、彼がミサのテクストの写しを作って、うっかりあの8語を抜かし、ミサ作曲のときにはいつもその同じ写しを使ったということだろう」

シューベルトが1818年10月29日、兄妹に書いた手紙の中にこんな件があります。
「坊主という種族に対する妥協を知らない憎悪は兄さんの名誉だ。でも、そんな兄さんにも想像もつかないだろうな、ここの坊主ときた日には、老いぼれた駄馬みたいな偽善者で、ロバの親方みたいにバカで、水牛みたいにガサツな連中ばかりなのだ。お説教を聞いていると、あの悪徳に骨まで染まったネポムツェーネ神父でもまったく顔色というくらいヒドイものだ」
これはおそらく、アインシュタインが引用した「僧侶階級の消滅した権力」という部分に相当するものと思われます。この手紙を書いたのが21歳ですから、彼が言う「17、8歳の少年にはそれはできない」はおかしいと思います。彼のような天才の18歳と21歳に、その基本的思考基盤の差異など、はたしてあるのでしょうか。また、彼は日記の中で「信仰心は、分別とか知識なんかより、はるかに早くから具わるものだ」とも言っているのです。私は、素直に、これこそ、人生の早い時期から芽生えていたシューベルトの僧侶=教会への不信の証と見ます。したがって、文節の削除は、アインシュタインが言う「テキストの写し違い」とは思えません。例えそのキッカケが写し違いだったとしても、教会が「唯一の聖にして公なる使徒」とは思えるはずもなかったでしょう。私はこれを外したのはシューベルトの意思に違いないと確信します。

(3)シューベルトの信仰心

そんな、教会不信を持つシューベルトの信仰心とはどんなものだったのでしょうか。前項でも一部取りあげた彼の日記の全文と手紙を引用します。
「信仰とともに、人間は世の中への第一歩を踏み出す。信仰は、分別とか知識とか、そういうものよりも、はるかに早くから具わるものだ。なぜなら、何かを理解するためには、私はその前に、何かを信じていなければならないからだ。信仰はより高い地盤であって、その上に、弱々しい知性がその最初の証明の杭を打ちこむのだ。知性とは、一つの分析された信仰以外の何ものでもない」(1824年3月28日の日記)

「人々が驚いたのは、また、ぼくが聖処女への一つの讃歌において表現した僕の信心深さに対してでありました。この曲はきっとすべての人のこころを捉えて、敬虔な気持ちにさせることでしょう。ぼくは思うのですが、それは、ぼくが一度も自分を無理強いして敬虔になろうとしたことがなく、いやおうなしに敬虔さに圧倒される以外は、決してこのような聖母讃歌や祈りの歌を作曲することがないということからきています。でも、普通はこれこそ正しい真実な敬虔さなのです」(1825年7月25日、父親と継母に宛てた手紙)
ここで明らかなように、シューベルトの信仰心には揺るぎないものがあります。はっきりと、信仰こそ知性に優先するものと位置づけています。聖処女への讃歌とはご存知「アヴェ・マリア」のことですが、ここでは、敬虔さというものが、自分にとっては理屈じゃなく、"いやおうなしに圧倒されるもの"であって、これこそが真実の形であると断言しています。これは彼の確固たる信仰心の表れです。使徒としての教会は信用していなかったけれど、唯一絶対の神のことは信じていた。

だからこそ、ミサのテキストから「また、唯一の聖にして公なる使徒の教会なり」を削除して、唯一絶対の神を直接信じた。世の罪を背負って磔刑に処せられたイエスの御心に直に触れた。そして、「神の小羊」に自分を投影した。不治の病に侵された苦しみをイエスの苦しみに重ねたのです。彼は、キリストに対し、1824年9月21日の手紙の中で「あなた自身がまさに、人間というものの罪の深さを証しする最も惨ましい記念碑だった・・・」とも述べている。これほどイエス・キリストの苦しみを理解した音楽家がいたでしょうか。「神の小羊」の悲痛さはシューベルトのイエス・キリストとの同化に他ならないのです。

シューベルトが不治の病に侵されたのは、1822年の終わりごろといわれています。第1番から第5番までのミサ曲は、1819年までに書かれています。そのあと罹病。最後の第6番は死の年1828年の作。やはり、この作品には病の影が見てとれます。いつ訪れるかもしれない死の影に怯えない人間なんかいないでしょう。シューベルトだって例外ではなかったはずです。何もやる気がなくなったって不思議じゃない。でも彼はへこたれなかった。作り続けた。シューベルトは最も特別な作曲家といって憚らない内田光子はこう言います。「シューベルトには若いときから、魔の世界というか、死の世界が、そこかしこあるんです。それがある時、想像力の世界じゃなくて、現実のものになってしまう、それが起こって。それが起こってからのシューベルトが、変わるのね。ただその苦しみで終わらない。恨みで終わらない」(レコード芸術1997年10月号の対談より)・・・"それが起こって"というのは勿論梅毒への罹病のこと。彼女は、それが起こってからシューベルトの音楽が変わった、即ち、「苦しみで終わらずに、音楽を深化させた」というのです。これには私も同感です。不運も罪も現実として受けとめ、それを背負って頑張りぬく。かつて犯した過ちは悔恨の念を呼び起こし、その苦しみは日々消えることはなかったでしょう。リセット願望も湧き起ったはずです。でも彼はリセットしない人生を生き抜いた。しかも、悲運という枷を深化という重石に変えて深遠な創造物を産み出したのです。その究極が、奇跡の年1828年の傑作群なのです。「ミサ曲第6番」の「神の小羊」に宿る響きはその一つの証ではないでしょうか。

それにしても、シューベルトのどこにそんな力があったのでしょうか? なぜ、彼はそんな大そうなことをやってのけられたのでしょうか? 難しい問題ですし大変な課題なので、私ごときに分かろうはずはないと感じながらも、解明に向かってなんとか頑張ってゆきたいと思う今日この頃であります。
 2009.12.09 (水)  シューベルト1828年の奇跡7〜駒からはなれよ
シューベルトの病気と音楽との関連性を考えていたら、頭の中がトッチラかってしまって、考えも文章も全然まとまりません。掲げたテーマは「シューベルトは不治の病に罹ったにも拘らず、なぜあんなにも素晴らしい作品を書き続けることができたのか?」というまさに「クラ未知」に相応しいものなのですが・・・。将棋の世界に、迷い込んだら「駒からはなれよ」という格言があるので、そうしてみよう・・・離れてみたら、ふと昔を思い出しました。

私が初めて故郷長野を離れ上京したのは1964年東京オリンピックの年。もう45年も昔のことです。同じ高校の同級生の友人と、吉祥寺の四畳半を共同で借りて、花の東京生活をスタートさせました。家賃は一畳1,000円時代なので、一部屋4,500円は一人当たり月々2,250円の出費で、現在とは隔世の感ありです。一人2.25畳しかないバカ狭い空間でも、未来に馳せた夢はフワフワと確かに漂っていました。その頃、毎晩のように相棒から聞かされた曲が、ジュリー・ロンドンが歌う「この世の果てまで」"The End of The World"でした。バラ色の未来と"The End of The World"の取り合わせは妙ですが、いいものはいい でした。この曲、オリジナルはスキーター・デイヴィスのC&Wのヒット・ナンバーですが、当時シングル・ヒットしていたのはブレンダ・リー。彼女がパンチを効かせて歌うのに対し、ジュリー・ロンドンはしっとりと落ち着いて大人の歌を聞かせていました。私もスッカリ彼女に魅せられて、ベスト・アルバム「All about Julie」を買い込み、貪るように聴いたものです。「この世の果てまで」のほかには、「ラヴ・レターズ」「想い出のサンフランシスコ」「あなたと夜と音楽と」「ヴァイヤ・コンディオス」などがそのLPに入っていました。概ねミディアムやスローの楽曲がよかったのですが、最高に気に入ったのはアップ・テンポの「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」でした。普通は、例えばフランク・シナトラなんかも、スローかミディアムで歌っていますが、ジュリーはボサノヴァ調のアップ・テンポでの歌唱。弦のピツィカートが抜群にゴキゲンで、要所で入るピアノも洒落ています。そんな躍動するリズムの上を、ジュリーの気だるいハスキー・ヴォイスがスムーズに乗ってゆく。そのミスマッチ感が妙に爽やかで心地よい。演奏時間も2分半と短くて濃密。

昔を想い出して、このごろ、そんなジュリー・ロンドンのCDを聴いていたら、テレビCMからサラ・ヴォーンの「ラヴァーズ・コンチェルト」が流れてきました。何のCMかは確認できませんでしたが、これも60年代の懐かしいヒット・ナンバー。原曲はJ.S.バッハ「アンナ・マグダレーナの音楽帖」に収録されているト長調のメヌエットで、これは同時代の作曲家クリスティアン・ペツォールト(1677−1733)の作品をバッハが編入したもの。ジュリー・ロンドンの歌は、ほとんどがストリングス入りで、それが実にいいのですが、サラ・ヴォーンの「ラヴァーズ・コンチェルト」もそう。最初と最後を弦で包み、中味はジュリーとは対照的にやや太めの男っぽい声で嫌味なくサラっと歌っています。サラ・ヴォーンは、エラ・フィッツジェラルド、カーメン・マクレエなどと共に、女性黒人ジャズ・ヴォーカリストの最高峰。録音のほとんどはシリアスなジャズ・アルバムですが、私が持っている「ラヴァーズ・コンチェルト」入りのCDは、ポピュラーなヒット曲やスタンダード・ナンバーを、軽めのアレンジで20曲収録したポップス系ベスト・アルバム。そのうちストリングス入りの楽曲は約半数で、あとはビッグ・バンドとコンボ演奏がバックです。通して聞いてみると、伴奏のサウンドが曲ごとに違うので、その都度なにか違和感が残る。中に、ジュリー・ロンドンとの共通曲が2〜3曲あって、自然と聞き比べてみたりもして。例えば、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」はコンボ伴奏でスロー、これはストリングス入りでアップ・テンポのジュリーのほうが断然いい。「ミスティ」はジャジーなフィーリングが絶妙のサラのほうに一日の長あり、ストリングス入りでもあるし・・・などなど。

もともと私は、ストリングス入りのジャズが大好きで、古くは、チャーリー・パーカー「ウィズ・ストリングス」、クリフォード・ブラウン「ウィズ・ストリングス」から60年代のMJQ「サード・ストリーム・ミュージック」、ウェス・モンゴメリー「FUSION!」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」、K&JJ「イスラエル」あたりまで、それぞれが、芯から気分が休まる上質な癒し系音楽です。

そうこうしているうちに閃いたのが、ジュリー・ロンドンとサラ・ヴォーンのストリングス入りプライヴェート・コンピレーションでした。よし、大人の女性歌手二人の歌唱を交互に並べて、世界でonly oneのアルバムを作ってみよう!

決定した「ジュリー&サラ」のいいとこ取り・プライヴェートCDの制作コンセプトは以下の通り。@必ずストリングス入りであることA選曲はスローとミディアムを重点とすることB暑苦しいアレンジとしつこい唱法は排除することC二人の比率はジュリー・ロンドン2に対しサラ・ヴォーン1にすること。そこで出来上がったのがプライヴェートCD「ジュリー&サラ LOVE SONGS」。ジャケットはクリムトの「接吻」。曲目は以下。
「ジュリー&サラ LOVE SONGS」

@ 想い出のサンフランシスコJ
A フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンJ
B ラヴァーズ・コンチェルトS
C ラヴ・レターズJ
D 酒とバラの日々J
E イエスタデイS
F ラウンド・ミッドナイトJ
G 魅惑のワルツJ
H シャドウ・オブ・ユア・スマイルS
I ドリームJ
J 恋に落ちたときJ
K マイ・ファニー・ヴァレンタインS
L 時のすぎゆくままJ
M ミスティS
N この世の果てまでJ

      [J=ジュリー・ロンドン、S=サラ・ヴォーン歌唱]
「接吻」のジャケットを見ながらこのCDを聴きます。ジュリー・ロンドンを聴いているとサラ・ヴォーンが聴きたくなる。サラが流れるとジュリーが懐かしくなる。一聴して声は違うしジャズ的フィーリングも崩し方も違う二人なのに、なぜか不思議なブレンド感がそこにあります。各々が際立っているのに溶け合っている。そんな絶妙なプライヴェート・コンピができあがりました(モチ我田引水手前味噌なことは承知しております)。似て非なるもの、非で似たるものなのでしょうか。なにかこれ、シューベルトとモーツァルトの関係に似ているかも なんてことを思い巡らせながら、楽しく聴いています。そんな、ちょっと駒からはなれた今日この頃ですが、メインストリームで何かが閃くでしょうか? いや、是非そうあって欲しいものです。
 2009.11.26 (木)  シューベルト1828年の奇跡6〜「グレート、この偉大な交響曲」E
(11)「グレート」真実の姿

これまで5回にわたって、「グレート」の魅力や成立に纏わるエピソードについて、やや断片的に綴ってまいりましたが、まだ未解決の部分が残っています。その原因の一つは資料不足でした。物事を歴史的に解明するには信頼に足る資料が不可欠です。シューベルト解明のリファレンス文献は「シューベルトの手紙」と「友人たちの回想」(二つとも1914年初刊)で、これらはオットー・エーリヒ・ドイッチュが編纂したもの。私はこれまで「シューベルトの手紙」だけを頼りにやってきましたが、巷間言われていることが"本人の手紙にない"ということが多々ありました。最大の関心事「グムンデン・ガシュタインで交響曲を書いた」という歴史上の定説も例外ではありませんでした。実はこれ、「友人たちの回想」に書かれているのです。最近これをやっと手に入れたので道具は揃いました。今回は、置き忘れた未解決事項を実証し多少の推理を加え、自分なりに「グレート」真実の姿を描き、総括したいと思います。

[未解決その1] シューベルトはグムンデン・ガシュタイン地方で大きな交響曲を作った

これについては歴史的事実として定着しているにも係わらず、私は、「1825年の『シューベルトの手紙』は9通あるが、その中には"交響曲を書いている"という文言はただの一行も出てこない」と書かざるをえませんでした(クラ未知「グレート、この偉大な交響曲@」)。このときは、「友人たちの回想」をシッカリ読んでいなかったので、"こんなに大切なことを、シューベルトが手紙に書かないわけはない"と思ったのですね。実際、世の中には「シューベルトはグムンデン・ガシュタイン地方で交響曲を作ったと"手紙に書いている"」という間違った記述も結構存在しています。

「シューベルト 友人たちの回想」(オットー・エーリヒ・ドイッチュ編、石井不二雄訳 白水社刊)には、彼の死を悼んで友人たちが書いた追悼文が多数載っています。その中の一人で、リンツ出身の役人、ヨーゼフ・フォン・シュパウン(1788−1865)の追悼文の中に、それはありました。「1825年夏に、シューベルトはガシュタインで一曲の大交響曲を書き上げたが、彼はこの曲に全く特別の愛着を寄せていた」と。

喜劇作家にして役人のエドゥアルト・フォン・バウエルンフェルト(1813−1890)は「ウィーンの芸術、文学、演劇、流行のための雑誌」1829年6月号にこう書いています。「晩年の大作の中には、1825年にガシュタインで書かれ、その作者が特別気に入っていた交響曲と、彼の最後の作品である1828年のミサ曲も数えられる」と。これも「友人たちの回想」に掲載されています。

「グムンデン・ガシュタインで交響曲を書いた」という記述は「友人たちの回想」の中のこの二つだけしかありません。したがって「1825年にグムンデン・ガシュタイン地方で交響曲を書いた」という歴史上の証言は、"シューベルト自身の手紙にはなく、彼の二人の友人の記述によるものがすべてである"ということです。そして、憶えておくべきは"シューベルトはこの曲に特別な愛情を寄せていた"という点です。

[未解決その2] シューベルトは「グレート」を二度協会へ提出した

1826年10月、楽友協会事務局に宛てた「シューベルトの手紙」にはこうあります。
「オーストリア音楽協会の、芸術を目指すどのような努力も支援するという高貴な意図を確信しつつ、祖国の芸術家の一人として、私は思い切ってこの私のシンフォニーを、貴協会に献呈して、ご支援をかたじけなくするべく、同封してご推奨を仰ぐことといたします。あらゆる尊敬の念をこめて、フランツ・シューベルト敬白」
ここで"思い切って"献呈したシンフォニーは「グムンデン・ガシュタイン交響曲」で間違いありません。これはドイッチュ編纂の「シューベルト 友人たちの回想」の注釈でも明らかです。そこには、「『大交響曲』というのは、1826年に謝礼がシューベルトに支払われているから、紛失した『グムンデン・ガシュタイン交響曲』のことであったにちがいない。ウィーン楽友協会(オーストリア音楽協会)に残っているハ長調の大交響曲は1828年の作である」とあるからです。また、この記述からは、この時期にはまだ"「グムンデン・ガシュタイン交響曲」は「グレート」と同一である"という図式にはなっていないことも分かります。

シューベルト研究に欠かせないもう一つの書は、アルフレート・アインシュタインの「シューベルト 音楽的肖像」(1948年刊行)です。その中にはこんな記述があります。「シューベルト自身は、この『ハ長調の大シンフォニー』の完成後まもなく、それをウィーン楽友協会に提出したのだが、協会がそれを"あまりにながく、あまりにむずかしい"として拒否したときに、その代わりに前作のハ長調シンフォニー(第6番D589)を提供した。」

この「完成後まもなく」というのは1828年のことなので、"「グムンデン・ガシュタイン交響曲」は「グレート」と同一である"という事実によって、次なる結論が導き出されます(これらが同一楽曲であることは、前掲クラ未知「グレート、この偉大な交響曲@」で実証済みです)。

シューベルトは「グレート」を1826年と1828年の二度にわたって楽友協会に提出したが、いずれも演奏を拒否されていた。

以上の結論を加味しながら、名作「グレート」の生成過程を、私流にまとめてみたいと思います。

[こうして「グレート」は誕生した]

1824年5月7日、ベートーヴェン畢竟の大作「交響曲第9番ニ短調『合唱』」がウィーンのケルントネル門劇場で初演され、同月23日にはレドゥーテンザールで再演された。シューベルトはこのニュースをいち早く察知し、1824年3月31日友人宛の手紙に「ウィーンの一番新しいニュースはベートーヴェンがコンサートを開いて、新しい交響曲を披露するという事実だ」と書いている。同じ手紙の中に「歌曲はあまり作らなかったが、その代わり、器楽の作品をたくさん試作してみたよ。こういう風にして、ともかく、僕は、大きなシンフォニーへの道を切り開いてゆこうと思っている」とも。これらの内容から、「第九」初演のニュースを知ったシューベルトに"大きなシンフォニー"創作への意欲がむくむくと湧いてきたことがハッキリと窺える。彼は恐らくベートーヴェンの「第九」の演奏を5月7日と23日の両日とも聴きにいったのではないだろうか。彼が、ハンガリーの貴族エステルハージ家令嬢の音楽教師という好条件の就職に向かい旅立ったのが5月25日で、再演の2日後である。この事実と、あれだけ心待ちにしていた演奏会の初演に行かないはずはないと思えることから、"両日とも聴きにいった"と推測してもあながち的外れとはいえないだろう。シューベルトは、どんな曲でも一回聴いただけで覚えてしまったそうであるが、そんなシューベルトが「第九」に二度も足を運んだとすれば、それは、この最新作から受けた衝撃が並外れて大きかったことと、その規模の大きさが再チェックを必要としたからだろう。こうしてシューベルトは「第九」をシッカリと胸に刻み込んだのである。

1825年5月から10月の間、シューベルトは上部(北部)オーストリアへの旅をしている。中でも、グムンデンとガシュタイン地方には長期にわたり滞在したが、ここはハプスブルク家愛用の風光明媚な温泉地である。旅の目的はシューベルトの転地療養と、同行した歌手フォークルとの現地におけるコンサート開催であった。シューベルトは1822年の終わり頃に当時不治の病だった梅毒に罹病し体調に異変をきたしていた。得体の知れない病への恐怖と体調不良に悩む都会での生活は、グムンデン・ガシュタインの大自然によって、束の間の平安を与えられたのだろう。家族や友人に送った手紙には、自然と接する喜びに満ち溢れている。曰く「ガシュタインは、この地方でもっとも有名な温泉地の一つで・・・・この旅行を僕はことのほか楽しみにしています。だって、国中でも最も美しい地方をたずねることが出来るのですから」「神々しい山や川を眺めてみたら、きっとこのちっぽけな人間の一生などというものを、それほど必至でしがみつく価値のある対象とは思わなくなるでしょうに」「この峡谷の愛らしい美しさをコトバで説明するのはほとんど至難の業だ。直径が何マイルもある庭に、無数の城や農園が木々を透かしてまなざしを向けている姿。千変万化しながらのたうち流れる川、美しい無数の色のじゅうたんを敷きつめたような野原や畑、巨大な樹木に囲まれた並木道、これらすべてが、端まではとても見渡すことができないような高い高い山の列にぐるりと取り囲まれて、まるで、天国の谷の番兵に見張られている感じ」「見えるかぎりで一番高い山は、キラキラときらめきながら閃光を放ち、周りの山々を従えて、太陽と並んで堂々とそびえている。前の手紙で書いた谷を、まるで天国を通り抜けるみたいに進んだ。こんな快適な思いはアダムとイブにはとうてい味わえなかっただろう」などなど。

そんな中で、彼は一つの交響曲を書きあげたのである。幼い頃から「ベートーヴェンのあとでいったい何ができるというのか」と思い続け、「第九」を聴いて触発された大交響曲への想いが、グムンデン・ガシュタインの大自然の中で増殖し、ペンをとらせ一気呵成に完成へと向かったのだ。

大自然に抱かれた壮大で心地よい気分に満ちたこの交響曲を、シューベルトは殊の外気に入っていた。真の会心作だったに違いない。そして、翌1826年秋ごろ、手を加えて完成し、自信を持ってウィーン楽友協会に献呈した。ところが案に相違して、僅かな謝礼を貰ったものの演奏はされなかった。ならばと、ひとまず楽譜は引き取ったのだろう。少し手を入れようとして。しかしシューベルトはこの作業をしばらくの間そのままにしておいた。未完の作品を放置することが珍しくなかったシューベルトであるから、ほとんど完成した作品をとりあえずそのままにしておくことは十分に考えられるし、またこの時期は、連作歌曲集「冬の旅」にも取りかからねばならなかったはずである。

そして1828年がやってくる。シューベルトはこの年の11月に亡くなるのであるが、直接の原因は腸チフスであっても、不治の病を患っていたのであるから、何らかの死の予感はあったに違いない。そんな中、彼は心から気に入っている「グレート」の楽譜を取り出して、手直しを始めた。そしてついに完全な形で書き終えたシューベルトは楽譜の最後に「1828年3月」と書き込んだ。シューベルトは常に、楽曲の完成年月を書き込んでいたからである。かくして、1825年にはほとんど書き上げられていた「ハ長調交響曲グレート」は、1828年3月をもってすべての手直しを終わり、真の完成を遂げたのである。この自筆譜は、1825年に使われた五線紙の上に、書き直しの痕跡を残して現存している。

シューベルトは直ちにこれを再度楽友協会に持ち込んだが、「長すぎて難しい」との理由で演奏されなかった。彼としては、会心の自信作を二度までも拒否されたのである。仕方なくこれを机上に放置したシューベルトは、11月19日には帰らぬ人となってしまう。一緒に住んでいた兄のフェルディナントはこれを保管したまま10年が経つ。

1839年1月1日、前年秋からウィーンに移り住んでいたローベルト・シューマンがフェルディナントを訪ねた。彼はシューベルト兄弟に対する敬愛の念を、常日頃から音楽雑誌等に掲載していたから、フェルディナントが歓迎してくれたのは自然の成り行きだっただろう。話が弾み、穏やかなときが流れ、そろそろ暇乞いをしようかと思っていたとき、フェルディナントは言った「ここにある未出版の作品を見てやってください」。そこにはうず高く積まれた楽譜の山があった。シューマンは食い入るように見つめ貪るように読みふけった。それはまさに宝の山だった。中でもそこで屹立として聳えていたのが「ハ長調大交響曲」だったのである。この作品の素晴らしさを即座に感知したシューマンの感動はいかばかりだっただろうか。彼は、その場でフェルディナントの許可を取り、親友のメンデルスゾーンにつなぎ、初演の実現に邁進する。かくして1839年3月21日、「グレート」はメンデルスゾーン指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラにより歴史的な初演が行われたのである。

以上が、「グレート」がこの世に生まれ出た私流経緯です。手に入る可能な限りの情報を駆使して総括してみました。自分的にはかなり精度は高いと思っています。「グレート」が、その後「7番」→「9番」→「8番」と、交響曲連番が変わったいきさつについては、これも10月7日付クラ未知「グレート、この偉大な交響曲@」をご参照ください。
<参考文献>
「シューベルトの手紙」ドイッチュ編、實吉晴夫訳・解説(メタモル出版)
「シューベルト 友人たちの回想」ドイッチュ編、石井不二雄訳(白水社)
「シューベルト 音楽的肖像」アルフレート・アインシュタイン著、浅井真男訳(白水社)
「音楽と音楽家」シューマン著、吉田秀和訳(岩波新書)
「シューベルト」喜多尾道冬著(朝日選書)
「クラシック名曲名演論」田村和紀夫著(アルファベータ社)
 2009.11.16 (月)  シューベルト1828年の奇跡5〜「グレート、この偉大な交響曲」D
(10)「グレート」辻氏解説のさらなる問題点

前回の「クラ未知」で、権威ある解説本「最新名曲解説全集」における「グレート」の間違い記述についてお話させていただきました。それらは、初演年度や手紙が書かれた年代の取り違えなどで、史実と照合すれば分かる、謂わば単純ミスです。ところがこの辻氏の文章は、これだけではない、内容的に見過ごせない問題を内包しているのです。語句の使用も含めて。勿論、これは主観の問題なので、一つのご意見としてひとまず尊重しようかと思ったのですが、読めば読むほどおかしいと思わざるをえず、ここで言及しておいたほうがベターと考えました。しばしお付き合いください。

[不可解その1] シューベルトはがらに合わぬことをした

辻先生は、「最新名曲解説全集」の中で、「しかし、気の短い現代人に対しては、たしかにこの曲は長きにすぎることは事実である」と述べておられます。そうでしょうか。シューマンが「グレート」を"天国的な長さ"と評したことは歴史上の事実ですが、それは"心地よい爽やかさがあるからいつまでも終わってほしくない"という好意的意味合いだったことは、前章で述べたとおりです。「グレート」以降のブルックナーやマーラーの交響曲には、はるかに長い楽曲がたくさんあります。したがって、気が短いかどうかは別にして、長い曲は現代の我々のほうが聴きなれていることは確かです。先生の"長きにすぎる"という表現には、シューマンとは違い、否定的なニュアンスが色濃く感じられます。それは、この後段でこう述べておられることからも明らかです。
「この曲は、第1楽章が主題のたくみな交錯によって完全なまとまりをみせ、第4楽章もそれにつぐまとまりをみせるが、そのまとまりかたは『未完成』の第1楽章にくらべると緊密さを欠いている。シューベルトはいわば自身のがらに合わぬことを試みたからである。」
ここでの問題点は二つあります。一つは、「グレート」二つの楽章を「未完成」の緊密さに劣ると評されたことです。私のような素人には緊密が何たるかが分からない。音楽を聴いていて「この曲は緊密だ。あの曲は緊密でない」なんて感じたことも考えたこともありませんので。二つ目は、緊密さにおいて劣る第4楽章は、それでも"二番目にまとまりがよい"とおっしゃっている点です。ならば、第2楽章と第3楽章はもっとまとまりが悪いということになります。

私は、第2楽章Andante con motoこそ、実にシューベルトらしい素晴らしい音楽だと感じています。主要部Aと副部Bが交互に現れる複合的三部形式ですが、二つの部分は少しずつ変化しながら進展し、それらの繋ぎの部分も一つとして同じものはありません。その変貌は予期せぬスリルに富み、多様多彩な表情は夢幻的趣を湛え飽きることがありません。しかもそこには一本の筋が通り全体に歌心が溢れています。ロマン性と古典性の見事なバランスがそこにあります。

辻先生は、この第2楽章を"第1楽章に次ぐまとまりの第4楽章以下"なのだから、本文では触れていらっしゃいません。おっしゃるポイントはまとまりばかり。まとまりがそんなに大事なのでしょうか?私はまとまりなんかどうでもいい。そんなものは、音楽を聴くときに意識したことがありません。理解を深めるために形式を確認することはありますが。

音楽を聴くことの意味。それは、聴いて"心が動かされるのか安らぐのか"に尽きるのではないでしょうか。辻先生の「最新名曲解説全集」には、こういう要素の文言は皆無です。出てくる語句は、「てがたい」「まとまり」「緊密さ」のような無機的な風袋のことばかり。内包するパトスを示唆する文言は一切ありません。聴いてどう感じるかという情緒的側面には全く言及していないのです。なのに、これでとやかく言うのは間違っています。世界の人々が愛するシューベルトを「がらに合わない」なんて不埒な言葉で決め付けるのなら、ちゃんとした論拠を示してしてほしい。そんな大層なことを言い切るには、自らの英知と感性を総動員して取りかかるべきであり、シューベルトの感情の発露や形式との格闘を全て把握した上で発するべきだと思うのです。それを自分の貧しい風袋的物差しだけで断定するなんぞは、シューベルトに対して失礼千万な話。料理に例えるなら、盛った皿だけ語って肝心の料理を語らずといった風情。それとも、先生は、まとまりを測る物差だけがあって、感情を読み取るセンサーをお持ちではないのでしょうか。また、それとも、アインシュタイン「シューベルト音楽的肖像」の威を借りて、"「グレート」は「未完成」に劣る"と結論されたのでしょうか。アインシュタインはこう書いています。
「人々がシューマンからあんなにしばしば引用して、ハ長調《大》シンフォニーに向けた『天国的長さ』という非難を、『未完成』シンフォニーの二楽章に向けるものはひとりもいなかった。シューベルトは、極度の緊張を持つ、立派に組み立てられたソナタ形式の楽章を書いたが、集中度の点でこれに比較しうるのは、ベートーヴェンの第五シンフォニーの第1楽章だけであろう」(白水社刊、浅井真男訳) ・・・皆様はどう思われますか。
[不可解その2] 「未完成」の世界をほり下げるべきであった

辻先生は、さらにこの中で、シューベルトの作曲家としての方向性について、大胆で勇気ある発言をしていらっしゃいます。最初にその部分を転記いたします。
「彼はベートーヴェンの壮大な交響曲をしたうこときわめて強く、なんとかしてその遺風をつぐものを作りだしたいと思っていたに相違ない。しかし、この望みは、彼の生まれつきの性質には不似合いなものである。むしろ、彼は7年前の『未完成交響曲』の世界をほり下げるべきであった。この意味において、この曲はシューベルトのありのままのすがたをあらわす曲ではない。」
まずは冒頭のベートーヴェンに関する部分です。シューベルトは、20歳前後の頃、「ベートーヴェンのあとで、いったい何ができるのか」と悩んでいたのは事実です。ベートーヴェンは、このときすでに40代後半。交響曲では「英雄」「運命」「田園」、ピアノ協奏曲「皇帝」、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ・ソナタ「月光」「熱情」などなど、後世に残る名曲の数々を生み出しており、押しも押されぬ大家として君臨していました。そんなベートーヴェンの絶大な名声を、同じウィーンに住むシューベルトは、至極身近で日常的な出来事として感知していたことでしょう。したがって、彼が"作曲家としてのあり方"において、ベートーヴェンに憧れを抱いていただろうことは想像に難くありません。でもそれは、"作風に憧れていた"ということではないと思います。なぜなら私は、シューベルトが、そのような意味のことを、言っているのも書いているのも見たことがないからです。その意味では、むしろ、モーツァルトの音楽に惹かれていたふしがあります。1816年6月14日付けの日記にはこうあります。「おおモーツァルトよ、不滅のモーツァルトよ、おお何と多くの、おおなんと無限に多くの、このような仄かなより良い生の恵み深い模写を、あなたは僕たちの魂の奥深くに刻み付けてきたことだろう・・・・」と。これは、モーツァルトの「弦楽五重奏曲ト短調K516」を聴いての感激を綴ったもので、そこにはモーツァルト礼賛の言葉が踊っています。

だからこの「ベートーヴェンの壮大な交響曲をしたうこときわめて強く」という、先生の"曲をしたう"という意味合いには、賛同できかねます。同じ理由で、「シューベルトはベートーヴェンの遺風をつぐものを作り出したいと思っていたに相違いない」との先生の見解にも異議を唱えさせていただきます。そのあとに続く「この望みは」については、彼は望んじゃいないはずだと思いますが、次にくる「彼の生まれつきの性質には不似合い」は、まあ、当たっているかなと。でも、私だったらここを、「シューベルトの嗜好はベートーヴェン的な壮大さを志向してはいなかった」とさせていただきますけれど。

さて、むしろ問題はこのあとです。先生はこう続けておられます「彼は、7年前の『未完成交響曲』の世界をほり下げるべきであった」・・・いったいこの言い切り方は何なのでしょう。この提言をどう解釈すればいいのでしょうか。「グレート」なんていうがらにもないものを作らずに「未完成」のような暗い情念の世界に専念すべしとおっしゃりたいのでしょうか。こういうのを大きなお世話というのです。確かに、「未完成」における自己告白的情念の世界もシューベルトのものには違いないでしょう。「『未完成』交響曲はシューベルトの性的衝動の表現である」という人もいるくらいですから。しかし、一方では自然を愛するシューベルトがいます。彼の親しい友人の一人ヨーゼフ・フォン・シュパウンは、1829年の追悼文の中でこう書いています。
「自然の美しさに対して彼は非常に感じやすく、彼が何年か続けて夏の数ヶ月間フォーグルと一緒に訪れていた上部オーストリアやザルツブルクのすばらしい地方のことを思い出すのが大好きだったのも、この意味においてだった」(オットー・エーリヒ・ドイッチュ編、石井不二雄訳「シューベルト 友人たちの回想」白水社 より)
上部オーストリアとはグムンデン・ガシュタイン地方のことで、まさに「グレート」誕生の地。自然をこよなく愛するシューベルトが、大好きな自然に囲まれて作った「グレート」が、何故"シューベルトのありのままの姿をあらわす曲ではない"のでしょうか。何故「未完成」はがらに合うけど「グレート」は合わないのでしょうか。辻先生のお考えは、あまりにも一面的で、全く以って是認することは出来ません。皆様はどう思われるでしょうか。

(付) やはりスベってしまった茂木健一郎先生

つい先日、脳学者・茂木健一郎氏の所得申告漏れのニュースが飛び込んでまいりました。茂木氏は、本年6月の「クラ未知」で3回にわたって叩かせていただいた縁ある方につき、最後にちょっとだけこの問題に触れさせていただきます。氏は多忙すぎて、ついつい3年間にもわたり申告漏れという過ちを犯してしまったそうです。あの頭脳明晰な脳学者がお忘れになられたのですから、そのご多忙ぶりは尋常ではなかったのでしょうね。だから、言わんこっちゃない!あのとき、私は「テレビやラジオで専門外の音楽を語ったり、ラ・フォル・ジュルネのアンバサダーなんかをやっている暇があったら、真摯に本業に打ち込んでください。そうしないと先生のためになりません」とアドヴァイス申しあげたはずです。

そんな折、シューベルトに関するものは何でも気になっている私の視界に、氏の「すべては音楽から生まれる」(PHP新書)なる本が飛び込んできました。副題が"脳とシューベルト"なので、シューベルトの音楽の魅力がどんなにかたくさん語られているかと楽しみに読ませていただきました。ところが、登場する楽曲は「未完成」と「魔王」と「旅人の夜の歌」と「冬の旅」の4曲だけ。ましてや彼の心の痛みや優しさにはまったく言及されていませんでした。ガッカリ!これは氏がいかにシューベルトに馴染みがないかの証です。「未完成」の件では、シノーポリ指揮のウィーン・フィルのコンサート体験が語られていて、「『解釈の波』とでも呼ぶべきものがコンサート・ホール全体に流れていた」なんてトンチンカンなことが書いてあります。どんな解釈だったという演奏の中味に関する記述は一切なく、「その出来がすばらしかったのだ。『心が震えた』などと言ってしまうと、凡庸かもしれない。だが、『旋律』と『戦慄』は同じ音であるのは偶然だろうか」・・・こんな表面的でつまらない語呂合わせの字句が並んでいるだけ。この程度の感じ方しかできない素人に"解釈"なんて軽々しく言ってほしくない。解釈云々は、異なるタイプの演奏を聴きまくり違いを理解した上ではじめて言えるものなのですから。ほんと、解釈を感知するのは大変なんですよ。しかもホール全体に「解釈の波」が流れるってどういうことでしょう? 指揮者の解釈を、その場に居合わせた聴衆全員が理解し共有していたということなのでしょうか。そんな音楽的に高度な聞き手ばかりがいるコンサートなんて絶対にありえませんけれど・・・。このあとにはバッハにも話が及びます。「神への視線が『マタイ受難曲』に、市井へのまなざしが『コーヒー・カンタータ』となった」などとおっしゃっていますが、これも表層的仕分けに過ぎません。「マタイ受難曲」第71曲の「エリ、エリ、ラマ、アサブタニ」(神よ、なんぞ我を見捨て給いし)という人間キリストの悲痛な叫びをご存知ないのでしょうか。その瞬間、神性の象徴としての弦楽がピタリと止まる恐ろしさを・・・曲の本質も知らずして神への視線なんて軽々しく言ってほしくない。むしろ「マタイ」は人間ドラマなのですから。このように先生の文章は、一貫して的外れで薄っぺらな表現に終始しています。

そして、最後に、なんとラ・フォル・ジュルネの主催者との対談が延々40数ページにわたって掲載されていました。これで納得。この本は「2008ラ・フォル・ジュルネ」のヨイショ本ということが解った次第。まあ、アンバサダーなのですから、音楽祭の広報行為を行うのは当然でしょうね。でもどうでしょうか、主催者側は、大切な広報活動を、内容のないただの人気者に任せないで、もっとマシな人にお願いしたほうがいいのではないでしょうか。今後の音楽祭の発展のためにも。

茂木先生は本書の中でこう述べておられます。「・・・ずっと変わることのない人間の原点というべきものがある。しかし、めまぐるしく動き続ける世界にあって、そうした当たり前のことは、つい忘れがちになり、盲点となる。この忘れられてしまった大切なものこそが、シューベルトの音楽が奏でているものなのだ。これまでの私にとって、シューベルトは盲点だったのだ」。きっとお忙しい毎日の中で所得の申告も盲点となってしまわれたのでしょう。
 2009.11.06 (金)  シューベルト1828年の奇跡4〜「グレート、この偉大な交響曲」C
(9)「グレート」解説文 集団ミス発生の真犯人はだれだ?

前回の「クラ未知」で、「グレート」国内盤CDの解説文を検証した結果、共通のミス記述が相当数散見されたことから、"なにかあるな"という違和感、すなわち、どこかに必ず犯人がいるはずだという漠然とした確信が湧いてきました。今回は、ちょっと寄り道して、この犯人探しをしてみようと思います。

[ステップ1] 手持ちCD国内盤の共通ミス記述を確認する

ケース@
「グレート」の初演年は、1839年であるのに、1838年となっているもの

渡辺護氏 (カール・ベーム指揮:ベルリン・フィル、発売元UM)のCD解説
大宮真琴氏 (ハインツ・レーグナー指揮:ベルリン響、コロンビア)
宇野功芳氏 (カール・シューリヒト指揮:南ドイツ放送響、コロンビア)
平林直哉氏 (フランツ・コンヴィチュニー指揮:チェコ・フィル、コロンビア)
堀内修氏 (ヘルマン・アーベントロート指揮:ライプツィヒ放送響、徳間)
柴田龍一氏 (カール・ベーム指揮:ウィーン・フィル75東京ライブ、UM)

ケースA
シューベルトが「とにかく僕は大きなシンフォニーへの道を切り拓いてゆこうと思っている」としたのは、1824年3月31日、クーペルウィザー宛ての手紙に書いたものなのに、"1828年"もしくは、"友人に語った"となっているもの。

平林直哉氏
「彼が交響曲を強く意識したのは1828年、死の年であった。その時、彼は友人に宛ててこう書いている。『もう歌曲はやめだ。これからは交響曲を書きたい』」

宇野功芳氏
「<第9>の作曲年代は1828年、すなわち、シューベルトの死の年であるが、当時の彼はますますベートーヴェンに心酔し、『歌はもうやめた。今後はオペラとシンフォニーだけを書く』と言って・・・・」

大宮真琴氏
「この交響曲が作曲されたのは、シューベルトの死の年である。そのころ彼は、『私は大きな交響曲を書きたい。歌は、もうやめだ』と友人に洩らしている。」

竹上誠治氏 (ルドルフ・ケンペ指揮:ミュンヘン・フィル、Sony)
「シューベルトが友人にもらしたと伝えられる『歌はもうやめた。これからはオペラと交響曲だけにする』という固い意志は・・・」

以上が、私の所有する「グレート」国内盤CD26タイトルを検証した結果です。ケース@のミスは6タイトル、ケースAのミスは4タイトル、記述評論家は7名。これはかなりの集団発生といえるでしょう。

[ステップ2] 犯人の目星をつける

共通のミスが集団的に発生したときには、必ず一つの元凶がいます。しかもミス記述を犯した7人の面々は、長老から中堅におよぶ錚々たる方々ばかり。したがってその元凶は、クラシック界において、スタンダードとして認知された権威あるものでなければなりません。果たして、真犯人の目星は・・・簡単につきました。それは音楽之友社刊行「最新名曲解説全集」しかありません。私の経験でも、レコード会社在籍時代、楽曲解説の依頼を受けたときには、まず、クラシック部の図書ケースに整然と並んでいる「最新名曲解説全集」を借り出してきて使ったものです。

「最新名曲解説全集」は、1959年刊行の「名曲解説全集」旧版を改定した由緒ある解説本。古今の名曲を、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽、器楽曲、声楽曲、歌劇のジャンルに分け、音楽学者・評論家・作曲家の先生方が得意分野を分担して執筆した20数冊からなるもので、執筆者には、入野義朗氏(以下敬称略)、礒山雅、海老澤敏、大木正興、大宮真琴、柴田南雄、角倉一朗、高崎保夫、武川寛海、門馬直美、諸井誠、皆川達夫、渡辺護など、我が国クラシック界の錚々たる重鎮が名を連ねています。出版は音楽之友社で、これまた我が国音楽界の権威ある情報発信源。1979年の刊行です。

[ステップ3] 目星をつけた犯人と照合する

ここで、[ステップ1]で確認した7氏の解説文の内容と、ミスの元凶として目星をつけた「最新名曲解説全集第1巻交響曲T」(338頁−343頁)の辻荘一氏著になるシューベルト「交響曲第9番ハ長調 グレート(大)」D944の項を、照合します。

まずは犯人目星本「最新名曲解説全集」から、辻氏の原文を転記いたします。

ケース@
「作曲からちょうど10年ののち、"1838年3月21日"にメンデルスゾーンの指揮で短縮した形で、ライプツィヒのゲヴァントハウス演奏会で初演された」

ケースA
「1828年3月−これは彼の死の9ヶ月前である−彼は大きな抱負を持って、たいした下書きも作らないで、この大交響曲を書き下ろした。"友人にむかって『歌はもうやめた。オペラと交響曲だけにする』と言った"とつたえられるほど、この曲に夢中になっていた」

これは、[ステップ1]で確認したCD解説文とほぼ完全に合致します。これで"解説文執筆者は「最新名曲解説全集」を参考にした"というかなり確かな予測が成り立ちます。

[ステップ4] 「最新名曲解説全集」の内容が間違いであることを証明する

ここでは、犯人目星本「最新名曲解説全集」の内容の間違いを検証・証明いたします。これが証明されれば、目星本は真犯人であると断定できるでしょう。なぜなら、共通のミスが集団的に発生したときは、同一対象を模倣しているものと相場は決まっているからです。

これまで「クラ未知」を読まれた皆様には、即座に、これら辻荘一氏の文章のミスに気がつくはずです。ケース@ 初演の1838年は間違いで、正解は1839年。この部分はシューマンの手記もしくはアインシュタインの「シューベルト音楽的肖像」からの引用でしょうが、「シューマンが、1838年10月にウィーンに移り住み、翌年1839年1月1日にシューベルトの兄フェルディナントを訪ね、そこで『グレート』の手稿を発見、その素晴らしさに驚嘆し、メンデルスゾーンに計って、結果、その年1839年3月21日ライプツィヒで初演された」というのが史実です。ここには1838年の10月から1839年の3月までの時系列があるため、辻氏の捕らえ方に混乱があったのでしょう。その証拠に、後段で、「シューマンはこの『大交響曲』の楽譜を、1839年1月1日、故人の弟の家で見つけ出して、メンデルスゾーンにすすめて演奏させたことは前述の通りである」という記述があるからです。1839年に見つけたものを1838年に演奏することは出来ません。自家中でも矛盾をきたしている上に、ご丁寧にも、兄を弟と取り違えています。まさにシャバダバ状態ですね。

ケースAはやや複雑なので、以下文脈を追って説明いたします。文章前半の1828年作曲説は止むを得ざるところもあるので、ここでは置いておきましょう。これに続く"たいした下書きも作らずに書き下ろした"も、主観的にすぎてかなりの問題部分ではありますが、煩雑になるので、同じく追及はいたしません。ここで最も問題にすべきは、「『歌はもうやめた。オペラと交響曲だけにする』と(1828年3月ころに)友人にむかって言った」という後半の部分です。辻氏はこれをどこから引っぱりだしてきたのでしょうか?1828年にシューベルトは、このようなことを、友人に話したことも、手紙に書いたことも一切ありません。本人の手紙にも、友人の著述にも、ドイッチュやアインシュタインの著作にも、そんな記録は見当たらず、これに類する記録は、唯一つ、"1824年3月31日"にクーペルウィザーに宛てた本人の手紙だけなのです。内容は以下のとおりです。
「・・・こんな風だから、僕はまたしても、オペラを二つ無駄に作曲してしまったことになる。リートのほうでは、あまり新しいものは作らなかったが、その代わり、器楽の作品をたくさん試作してみたよ。ヴァイオリン、ビオラ、チェロのための四重奏曲を二曲、八重奏曲を一曲、それに四重奏をもう一曲作ろうと思っている。こういう風にして、ともかく僕は、大きなシンフォニーへの道を切り拓いていこうと思っている」(實吉晴夫訳・解説「シューベルトの手紙」白水社刊より)
辻氏のケースAの文章は、この手紙を元に書いたとしか考えられません。なぜなら、前述のように、同じような内容の記録が他には一切ないからです。ならば、これはあまりの浅読みといわなければなりません。中でも、1824年を1828年としてしまったのは最大のミスで、これはもう取り返しのつかない致命傷です。「これからは交響曲だけにする」と言ったって、その交響曲は1825−6年には完成されちゃっているのですから。「手紙に書いた」という事実を「友人に語った」としたのも、大勢に影響なしとはいえ、ミスには違いありません。さらに氏の事実内容の読み取り方がミスの上塗りをしています。「シンフォニーへの道を切り拓こう」と「交響曲だけにする」の部分だけは、(年代を取り違えたことを別にすれば)辛くも原文と符合していますが、「リートのほうでは、新しいものは作らなかった。オペラを二つ無駄にした」という原文が、「歌はもうやめた。オペラ(と交響曲)だけにする」になってしまったのは、あまりに酷い曲解というべきで、もはや救いようがありません。大体、常識的に考えてみても、1828年という時期に「歌はもうやめた」なんてシューベルトが言うわけがありません。この死の年に、シューベルトは、歌曲集「白鳥の歌」(全14曲)をはじめ、20数曲ものリートを作っているのです(反対に1824年には僅か6曲までしか作っておらず、手紙の信憑性を裏付けています)。しかも、これらの歌曲は、彼の到達した最高の境地を示す傑作ぞろい。「歌はもうやめた」と言った人が、舌の根も乾かないその後の数ヶ月間で、質量共にこれだけの歌曲を作るでしょうか。ならば、シューベルトという人は大嘘つきということになってしまう。あの野暮で善良でお人よしのシューベルトがです。本当に、この先生は、シューベルトのことをご存知なのでしょうか。こんな当たり前なことに何の疑問も抱かなかったのでしょうか。

以上が「最新名曲解説全集」辻氏記述の「グレート」誤りの証明ですが、これを引用した評論家諸氏にも一言申し上げます。皆様は辻氏の文章を"ほぼそっくりそのまま"引用されていますが、その安易さについては大いに反省していただきたいということです。間違い事項を引用したということは、自分で検証していない証拠です。"引用は自らの実証を伴うべし"という著作の基本を忘れないでいただきたいものです。

[ステップ5] 真犯人の素性を明らかにする

ところで、この辻荘一氏とはどんな方なのでしょう。1895年岐阜県に生まれ、東京帝国大学を卒業、立教大学、国立音楽大学名誉教授を歴任し、日本音楽学会第二代会長を務め、1987年、91歳で亡くなられています。日本音楽学会とは、我が国音楽評論の総本山的存在で1952年に設立、初代会長は加藤成之氏。辻氏のあとは、服部公三、海老澤敏、角倉一朗ら各氏が名を連ね、現会長は礒山雅氏です。権威ある学会の設立に尽力され会長を務められた辻荘一氏は、まさに、音楽評論界の最長老にして大御所的存在だったのです。

したがって、「グレート」の解説においては、音楽之友社発刊「最新名曲解説全集」の中の、重鎮・辻荘一先生の著になる楽曲解説こそ、本家本流最高権威の著作ということになります。だから、原稿を依頼された書き手は、真っ先にこれを見るのです。まさかこれに間違いなどあろうはずはないとして。そこに決定的なミスが存在するのですから、この影響力は甚大で罪は莫大です。しかも、駆け出しのライターならいざ知らず、音楽評論界の権威や優秀な中堅といわれる方々が丸写しにしているのですから、その影響の大きさが窺い知れます。私が検証したのはたまたま手許にあった26点のCD解説だけでしたが、世の中にはまだまだ多くの「グレート」の解説が存在しているし、間違いなく今後も新たに書き続けられるだろうからして、「最新名曲解説全集」がこのままであるならば、ミス記述はさらに増えてゆく可能性があります。私は、ミスをあげつらうことを是とする者ではありませんので、さらなる検証などいたしませんが、この時点において、警告を発する必要はあろうかと思っております。

[ラスト・ステップ]提言〜開かれたクラシック業界のために

音楽之友社が、このような"間違いだらけの名曲解説"を作ってしまったことは、伝統ある我が国クラシック音楽情報発信の中枢として、誠に恥ずべきことであり、さらに、その影響力を考えると、事態は相当深刻であるといわざるを得ません。かくなる上は、「シューベルト作曲 交響曲 第9番『グレート』」の項の早急なる訂正を、まずは希望いたします。そして、さらに私は提言したい。これは私がたまたま気づいたことであるからして、「最新名曲解説全集」には、他にもいくばくかの訂正必要箇所があるのではと危惧するものです。史実的にも内容的にも。また、発刊当時は定説であったものが、年月を経て覆るケースも多少はあるはずです。今年で発刊30年。音楽之友社が、これを機会に、権威ある「最新名曲解説全集」の総点検を行うことを切にお願いするものであります。

そして、最後に一言。権威ある一つの間違いが、いくつもの誤った解説文を産み出した状況がこれでお分かりいただけたと思います。勿論問題の大半は書かれた方々にあるのですが、著作物というものは編集者の手を経て世に出るものなので、彼らがこれらのミスに気がつけば、その段階で訂正することも出来るわけです。出版社の編集やレコード会社の編成に携わる皆さんには、このようなミスを未然に防げるよう、自己研鑽し真剣に業務に取り組んでいただくことを強く希望いたします。クラシック業界では、"権威ある執筆者の著述は、たとえ間違いと解っても指摘しにくい風潮がある"という話を聞いたことがありますが、こんな馬鹿な話はありません。間違いは間違いです。指摘・訂正するのが当たり前ではありませんか。このような風潮が、わが国のクラシック界を閉鎖的権威主義的にしているのではないでしょうか。この業界に身をおく若い人たちには、勇気と信念を持って仕事に当たり、こんな土壌を改革していってもらいたい。そして、日本のクラシック界が真に自由で開かれた世界になるよう願いたいものです。
 2009.10.26 (月)  シューベルト1828年の奇跡3〜「グレート、この偉大な交響曲」B
(7)アルフレート・アインシュタインもしやの予見?
シューベルトより楽友協会へ「オーストリア楽友協会の、芸術を目指すどのような努力も支援するという高貴な意図を確信しつつ、祖国の芸術家の一人として、私は思い切ってこの私のシンフォニーを、貴協会に献呈して、ご支援かたじけなくするべく、同封して御推賞を仰ぐことと致します。あらゆる尊敬の念をこめて。 フランツ・シューベルト敬白」(メタモル出版刊 實吉晴夫訳・解説)
この手紙は、シューベルトがウィーン楽友協会に送った1826年10月に書いた手紙です。訳者・實吉氏は、本文中で、この手紙について「私のシンフォニーとは、これまで"幻のシンフォニー"といわれてきた『グムンデン・ガシュタイン』シンフォニーを指す、とされるが、この曲は先の長文の旅行記に描かれる上部オーストリアの保養地グムンデン及びガシュタイン地方で完成されたらしい(1825年7月〜8月)」と解説しています。

これは即ち「シューベルトは1825年7月〜8月にかけて滞在したグムンデン及びガシュタイン地方で一つのシンフォニーを書き上げ、それを、1826年10月ウィーン楽友協会に提出した」ということになります。

「死とはモーツァルトを聴かれなくなることだ」・・・これはかのアルベルト・アインシュタイン(1879−1955)の有名な言葉ですが、今回取りあげるアルフレート・アインシュタイン(1880−1952)は彼の従弟です。彼の著わした「シューベルト音楽的肖像」(白水社刊 浅井真男訳)は、シューベルト研究の古典といわれる名著。ところが先日、この中の「グレート」に関する項目を読んでいたら、「おや?」と思う箇所にぶつかりました。それはこの部分です。
「ハ長調シンフォニー(D944)についての話は周知のことである。1838年秋にローベルト・シューマンが、自分と自分の芸術のために故郷よりも実り豊かな土地を見出したいという素朴な希望を抱いてウィーンに移住したとき、彼はシューベルトの墓ばかりでなく、シューベルトの兄フェルディナントの家をも訪れて、1839年のはじめ――正確に言えば1月1日――に、手稿の"山積みした財宝"のなかからこのシンフォニーを発見したのである。・・・中略・・・シューベルト自身は、このシンフォニーの完成後まもなく、それをウィーン楽友協会に提出したが、協会がそれを"あまりに長く、あまりにむずかしい"として拒否したときに、その代わりに前作のハ長調シンフォニー(第6番D589)を提供した。・・・中略・・・メンデルスゾーンはこの作品を愛して、1839年3月21日の初演後にも、さらに二回演奏した」
前述した「シューベルトの手紙」には「『グムンデン・ガシュタイン交響曲』を1826年10月にウィーン楽友協会に提出した」とありますが、アインシュタインは「『グレート』完成後まもなく楽友協会に提出した」としています。アインシュタインが「シューベルト音楽的肖像」を書いたのは1948年なので、この頃にはまだ「グレート」が「グムンデン・ガシュタイン交響曲」と同一であるということは実証されていません。したがって「グレート」完成後まもなくというのは、アインシュタインの中では、1828年3月以降ということになります。

アインシュタインのこの記述が正しいとすると、(今となっては「グムンデン・ガシュタイン」は「グレート」と同一と実証されたのですから)シューベルトは一度拒否された同じ作品を2年後に再度協会に提出したことになります。シューベルトは本当にこんなことをしたのでしょうか?私としては、まず、常識的に考えられないのですが・・・。

1828年3月以降に「グレート」を協会に提出したという記録は、シューベルト自身の手紙には存在しません。ではアインシュタインは何を根拠にこう書いたのか?これは1826年10月の 勘違いではないのか? もしや彼の頭の中では、無意識のうちに、「グレート」=「グムンデン・ガシュタイン」という図式が構築されていたのではないか。これはアインシュタインの奇跡的な予見なのではないか? いや、"代わりに「第6番ハ長調」を提出し直した"という具体的記述があるのだから、きっと何らかの根拠があるに違いない。などなど、あれやこれやと、ついつい妄想を巡らせてしまった秋の夜長の暇つぶしでした。

(8)「グレート」のCD解説文を検証する
権威・アルフレート・アインシュタインの名著に、これほどまでに考えさせられる記述があるのですから、我が国の評論家先生があれこれと混乱しても無理からぬことかもしれません。ここでは手持ちの「グレート」CDの解説から、興味深い文章を抜書きして、ちょっと寸評を加えさせていただきます。思ったよりミス記述が多くて、結構楽しめました(失礼!)。では、「グレート」の正しい姿を箇条書きにして、いざスタート。皆様もこの6項目と照らし合わせてお楽しみください。

@ 「グレート」は"幻の交響曲"といわれていた「グムンデン・ガシュタイン交響曲」と同一作品で
   ある。
A 1825年7月〜8月に行ったグムンデン〜ガシュタイン地方旅行中に書き始められ、10月にはほ
   とんどの完成をみた。
B 1826年10月、シューベルトはこの作品を、ウィーン楽友協会に提出している。
C 1838年12月に、ウィーンでシューベルトの墓をお参りしたシューマンは、翌年1月1日にシュー
  ベルトの兄フェルディナントを訪ね、「グレート」の手稿楽譜を発見した。
D 直ちにこの作品の真価を認めたシューマンは、メンデルスゾーンに楽譜を送り演奏を促した。こ
  の結果1839年3月21日、メンデルスゾーンの指揮によりライプツィヒにて初演された。
E 「とにかく僕は、大きなシンフォニーへの道を切拓いていこうと思っている」という1824年3月31
  日クーペルウィザーに宛てた手紙が「グレート」作曲の出発点といわれている。
大宮真琴氏の解説(ハインツ・レーグナー指揮:ベルリン放送交響楽団のCD)
「この交響曲が作曲されたのは、シューベルトの死の年である。そのころ彼は"私は大きな交響曲を書きたい。歌はもうやめだ"と友人に洩らしている」
「グレート」=「グムンデン・ガシュタイン」であるという図式は、客観的に100%正しいと認知されたわけではないからして、評論家の皆様には各々の見解があってしかるべきでしょうし、増してや昔書かれた解説なら、1828年を作曲年とするのはやむをえないと思います。しかし、私はこの図式は正しいと信じるものなので、あえてこの見解を以って寸評させていただきます。

大宮氏は大御所ですが、作曲年代以外にも、2点の誤りがあります。"大きな交響曲を書きたい"としたのは、死の年ではなく1824年のこと。"友人に洩らした"のではなく、手紙に書いているのです。
宇野功芳氏(カール・シューリヒト指揮:南ドイツ放送交響楽団)
「それは1838年初頭のことである。ウィーンを訪れた大作曲家シューマンは・・・中略・・・そして同年3月21日にゲヴァントハウスのコンサートにおいて、メンデルスゾーンの指揮下に歴史的な初演が行われた。」
これは宇野先生らしからぬミス。シューマンがウィーンを訪ねたのは1838年の10月で、初頭というなら1839年が正解です。したがって初演年も1838年ではありません。しかし94年に書かれた「ジュリーニ指揮:バイエルン放送交響楽団」のCD解説では、全ての項目が正しく修正されています。流石巨匠・宇野先生です。
平林直哉氏(フランツ・コンヴィチュニー指揮:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団)
「彼が交響曲を強く意識していたのは1828年、死の年であった。その時、彼は友人に宛ててこう書いている。『もう歌曲はやめだ。これからは交響曲を書きたい』。こうした決意のもとに書かれたこのハ長調の交響曲は、約束どおりに楽友協会に送られた。」
これは盤鬼・平林氏らしからぬミス。作曲年と手紙の時期が間違い。この手紙が書かれたのはEにあるように、1824年のことです。2003年2月という著述日付がありますが、この時期なら前掲の「6項目」はもはや常識のはずです。
家里和夫氏(オットー・クレンペラー指揮:フィルハーモニア管弦楽団)
「シューベルトによる最後の交響曲であり、亡くなる8ヶ月前に作曲された。(作曲の)直接の動機は、彼が尊敬するベートーヴェンの死に接したことであり、この偉大なる先輩に匹敵する交響曲を書こうという強い決心が彼をこの交響曲に向かわせる。かくして、1828年3月に作曲に取りかかり、スケッチをとらずに直ちにスコアを書き下ろし、一気呵成に仕上げることになる。」
著作時期はかなり以前と思われるので、作曲されたのが1828年というのは大目に見ましょう。ただし、作曲動機を"ベートーヴェンの死に接したこと"と断定しているのは単なる憶測に過ぎないし、結果的には間違いです。"スケッチなしの直書きで一気に書き上げた"は、「グレート」が清書の譜面でしか残ってなかったことと、1828年3月という時期を考慮して引き出された定説なのでしょうが、引用するときは自分なりの考察を入れて欲しかったと思います。大前提が崩れたあとではすべてが虚しい結果になってしまうので。
堀内修氏(ヘルマン・アーベントロート指揮:ライプツィヒ放送交響楽団)
「シューベルトは1828年の3月、この大曲を完成させた。発見された交響曲は、1838年にライプツィヒで初演された。」
"1838年に初演された"は間違い。何故かこのミスは数多く散見されます。
柴田龍一氏(カール・ベーム指揮:ウィーン・フィルハーモニー75年東京ライブ)
「初演は、メンデルスゾーンの指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって1838年3月21日に行われている。」
"初演年1838年"は同上のミス。
松沢憲氏(エードリアン・ボールト指揮:ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)
「1828年3月、シューベルトは彼の最後の交響曲を完成させた。・・・中略・・・1838年の初頭、ウィーンを訪れたR.シューマンは・・・」
この著作日付2006年11月時点で「6項目」は常識。シューマンがウィーンを訪れたのは1838年の初頭ではなく10月です。
渡辺護氏(オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団、EMI決定盤1300)
「シューベルトが死んだ年、1828年に作曲された。彼はこの作品をウィーンの楽友協会に提出したが、協会はあまりに重苦しく長大であるとの理由でこれを返却したのである。」
このCDは2005年の発売ですが、"解説は1965年のものを転用した"とあります。大長老・渡辺氏がその時期に書いたものなら、"死の年1828年の作品"とするのは仕方がないでしょう。また、"これを楽友協会に提出したが返却された"の部分は、アルフレート・アインシュタインの記述をそのまま引用していると考えられます。それは、「シューベルト音楽的肖像」が1962年に日本語訳が出され、即座にシューベルト研究のバイブルとして定着したことからも推察されます。

それにしても、レコード・メーカーが、2005年の時点で1965年の解説をそのまま転用するのはいかがなものでしょうか。40年の間に新たな研究がなされ状況は大いに変わっているのですから、これは横着といわれても仕方がないと思います。
以上、重箱の隅ツツキばかりしてきましたので、懺悔の念を込めて、最後に最高に素晴らしい解説を挙げさせていただき、このコーナーを締めたいと思います。それは、平野昭氏の解説です(オトマール・スウィトナー指揮:ベルリン・シュターツ・カペレによる「シューベルト:交響曲全集」)。「グムンデン・ガシュタイン交響曲」の存在と「グレート」との関係を、残されている文書と信頼できる研究結果のみを根拠にして論じたもので、一点の曖昧さもない真に実証的な文章となっています。詳細については次回触れることになろうかと思います。
 2009.10.17 (土)  シューベルト1828年の奇跡2〜「グレート、この偉大な交響曲」A
(4)天国的な長さ
「グレート」が長い交響曲の代名詞になったのは、発掘者シューマンのコメントに由来しています。曰く「ジャン・パウルの四巻の大部の小説に劣らず、天国のように長い」と。ここで引き合いに出したジャン・パウル(1763−1825)はドイツ・ロマン派の小説家。マーラーの交響曲第1番のタイトル「巨人」は、ジャン・パウルの同名小説からの引用です。シューマンの真意は"長いけれど時間が経つのを忘れるほど面白い"にありました。

シューベルトは、作った翌年1826年10月に、この曲をウィーン楽友協会に提出しています。しかしこのころ「グレート」が演奏された形跡はありません。その後、シューマンが発見し1839年にライプツィヒで初演された後も、ロンドンやパリのオーケストラは、第1楽章だけの演奏で終わっています。「長くて難しい」という理由で。したがって、当時この曲を理解したのは、シューマンとメンデルスゾーンとライプツィヒの市民だけだったといえるかもしれません。

ギネスブックに載っている世界最長の交響曲は、ハヴァーガル・ブライアン(1876−1972)という人が書いた交響曲第1番「ゴシック」で、長さは110分とのこと(かの「サウンド・オブ・ミュージック」などのミュージカル作家リチャード・ロジャースが作った「The Symphony Victory At Sea」という13時間にも及ぶ交響曲もあるそうですが、これは枠外とするのが妥当なようです)。これに比べたら「グレート」の50分そこそこというのは、半分にも満たないし、「第九」は1824年には完成していて約70分、数年後の作品ベルリオーズの「幻想交響曲」は5楽章とはいえ「グレート」よりやや長い。でもまあ、当時の人々が言うのは理解できるとして、現在の曲解説が、それこそ馬鹿の一つ覚えのように「天国的な長さ」とばかり言い続けているのはいかがなものかと思います。シューマンが本当に言いたかったのは実はそこではなく、その前後の部分なのです。要約すると。
「率直にいって、この交響曲を知らない人はまだシューベルトをよく知らない。この交響曲にはただの美しい歌とか、今まで音楽が幾百回となく表してきたありふれた苦楽といったもの以上のものが秘められていて、聴く人を今まできいたことを思い出せないようなある国へ連れてゆく。このなかには、堂々たる音楽上の作曲技術以外に、多種多様多彩を極めた生命が最も微妙な段階に至るまで表れている上に、いたるところに深い意義があり、一音一音が鋭利を極めた表現をもち、そうして最後に全曲の上には今までのすべてのフランツ・シューベルトの曲によってなじみが深いロマン性がまきちらされている。

パウルの小説もこのハ長調の交響曲も、どちらも決して終わらないということについては、誠にもっともな理由があるので、二つとも読者(聞き手)に、その後を、それからそれへと心ゆくばかり考ええさすものだから、どうしても終わることができないのである。全曲にみなぎる豊かな感じも、どれほど人の心をさわやかにするだろう。ほかの曲ではいつもいま終わるかいま終わるかを心配していなければならない。またこの曲は、ベートーヴェンの交響曲に対して完全に独立しているという点も、その雄々しい作曲家の面目を遺憾なく表している」(岩波文庫シューマン著「音楽と音楽家」吉田秀和訳より)
訳文がちょっと解りにくいのですが、シューマンが言いたかったのは"まぎれもなくロマンティシズム溢れるシューベルトの曲だが、かつて聞いたことのないような群を抜いた作品である。いつ果てるとも知れないが、いつまでも身を委ねていたいほど、豊かで爽やかな曲である。ベートーヴェンの影響から脱しきり、作曲者の男性的側面が見事に発揮されている"ということなのです。早い話が、"長くて退屈"ではなく"いつまでも終わって欲しくないほど卓越している"といいたいのですね。もう絶賛・絶賛の嵐なのですが、私の気持ちもまったく同じ、寸分も狂いなしであります。

(5)「第九」を意識?
「グレート」はシューベルト自身"自信作、大好きな曲"と言っています。私も大好きなのでシューベルトの感性とまさに合致して、嬉しい限り。ところで彼は、この曲を作るにあたり、「第九」を意識していたのでしょうか?田村和紀夫さんの「クラシック名曲名演論」に又々興味深い考察があります。
「第4楽章、展開部に入り、弦のざわめきはやがて変ホ長調に落ち着く。するとクラリネットの二重奏が光のような旋律を導きいれるのである(第385小節以下)。これは何か?これはベートーヴェンの『第九』歓喜の主題そのものではないか」
この部分は(移動調で)、「ソーファミレファミレドーレミミーレレー」なので、「第九」の"歓喜の主題"「ミーファソソファミレドドレミミーレレー」に酷似しています。最初の4音は、片や「ソーファミレ」、片や「ミーファソソ」で、3度離れた第1音が、第2音で交差して、第3音で3度、第4音で4度離れるというシンメトリー音型。第5音からあとは全く同じです。田村さんは「これはシューベルトが意図したもので、ベートーヴェンへの、『第九』へのオマージュに他ならない」と言っていますが、私もこの説に賛同します。しかもシューベルトは実に巧妙な手法を使っている。この音型がフルに出るまで、「ソーファミレファミレ」という前半部分を何回か顔出しさせています。これはこれを聞き手に印象付けるのが目的で、ここだけでは全く"歓喜の主題"との相似性は認知できません。そして、満を持して全体を出す。そのとき聞き手は、印象付けられた前半部のあとに後半部「ドーレミミーレレー」が付加しているという形で聞く。別物と認知している前半に「ドーレミミーレレー」が付いても、"歓喜の主題"とは感知できない。その上、「第九」の4分の4拍子に対し「グレート」は4分の2拍子なので音譜上も認知しにくい効果があります(無論これはシューベルトが意図したことではないと思いますが、結果的にはカムフラージュの役目を果たしている)。田村さんは「音型探しに血眼になっている人たちがどうして気づかないのか理解できない」とおっしゃっていますが、彼らはこのシューベルトの巧妙な罠に掛かって感知できないのではないでしょうか。オマージュの埋め込みは感知されないようにするのがプロの技ですから。返ってここにシューベルトの意図が見える、と私は思います。そして、これに気づいた田村さんの感性は素晴らしい。結論。やはりシューベルトは「第九」に触発されて「グレート」を書いた!「ともかく、大きなシンフォニーへの道を切り拓いてゆこうと思っているんだ」という1824年3月31日の手紙が、「第九」のニュースを聞いてのものだったことに符合します。

ところがこれ、なんと驚くべきことに、9.16「クラ未知」の中でも引用した「僕はこの世で最も不幸で最も惨めな人間だ」で始まる、シューベルトの生涯の中でこれ以上ない絶望的な手紙の後段の部分なのです。出だしは"超絶望的"後段は"新たな挑戦"まさに絶望と希望が同居しています。私はこれだけ相反する感情が同衾する手紙を読んだことがありません。一見モーツァルトのパリからの手紙と相通じるような気もしますが、本質的には異なります。ここに、もしかしたらシューベルトの精神の秘密が隠されているのかも。このあたりはまた次回以降で。

(6)「グレート」最大の感動処
シューマンはこう言っています。「この曲の模様を少しでも知らせようと思ったら、交響曲全体の筋を小説でも書くように書かなければなるまい。ただ、あんな感動的な第2楽章については、ぜひ一言しなければ気がすまない。この中でホルンが遠くから呼ぶ声のように聞こえてくるところがある。これを聞くと、僕はこの世ならぬ声を聞くような気がする。そうして天の寛容の忍び足で通ってゆく音を、傾聴するかの如く全楽器ははたと止んで耳をすます。」

ここは、ホルンがト音を連続して数回静かに奏でるところで、シューマンが挙げるたったひとつの感動の具体例といえます。確かにそれはユニークで印象的な箇所ですが、私にとってのそれは同じ第2楽章の第1のつなぎから次の主題への流れの部分なのです。私もシューマンにならって、この一箇所だけを具体例として挙げさせていただきます。

第2楽章は、A1−B1−A2−B2−A1という規模の大きな三部形式で構成される穏徐楽章ですが、そのA1からB1へのつなぎの部分からB1の主旋律が出るまでの楽想の変化が私にとっての最大の感動処です。ハ長調から移行したイ長調がしばらく続いた後、主音イを軸にトランペットとファゴット付き低弦が弱音で奏で、どこか不気味な雰囲気を醸し出します (89小節から)。同じ音でクラリネットが加わるとやや薄い光が差し込む。まだ同じ音を軸に木管合奏に移るとさらに明るさを増し、ついには弦がまだまだ同じイ音を第一音とする優しく安らかな旋律をヘ長調で歌い出す。この表情のなんと神々しいことでしょう。この数小節間は、一貫してイを基音としており、そこに和声の変化が手伝って、多種多様多彩な表情を作り出す。しかも自然な流れの中で。これぞシューベルトの稀有なる才能のなせる技といえます。あたかも彼の心身を癒したガシュタインの大自然が眼前に現出したかのよう。そこにはシューベルトと我々の一体感があります。生きている歓びを実感する至福の瞬間があります。

なお今回のタイトル、「1828年の奇跡」は、我が友・法隆寺のリュウちゃんのメールから拝借したもの。彼の音楽に対する造詣は半端じゃありません。特にドイツ・リートとナツメロに関しては。今回シューベルトを書くにあたり、リートは勿論、ピアノ曲についてもいろいろご教授いただきました。感謝の念を込めて、彼が今年始めたブログ「リュウちゃんの懐メロ人生」を紹介します。Googleに「リュウちゃんのナツメロ」と入れると出ます。マニアックにして楽しい中味、お楽しみください。
 2009.10.07 (水)  シューベルト1828年の奇跡1〜「グレート、この偉大な交響曲」@
シューベルトは1828年11月19日、ウィーンでその生涯を閉じました。享年僅か31歳でした。この年には、3曲のピアノ・ソナタ、3つのピアノ曲、ピアノ三重奏曲第1番、交響曲第8番ハ長調「グレート」、ミサ曲第6番、弦楽五重奏曲、歌曲集「白鳥の歌」などが立て続けに誕生しています。しかも、全ての曲は、生き生きとして深遠、かつ浄化された美しさに満ちており、真の傑作ぞろい。質量共にまさに奇跡の年としか言いようがありません。音楽史上、これに比肩するのはモーツァルトのケースだけです。

今回から、シューベルト奇跡の年1828年に切り込んでゆきたいと思います。まずは、交響曲第8番「グレート」から。

[1]「グレート」、この偉大な交響曲

(1)「グレート」が"第8番"に落ちつくまで
「グレ−ト」が奇跡の年の作品といわれてきたのは、自筆譜に"1828.3"という書き込みがあったからです。そして、最近まで第9番、それ以前は第7番と呼ばれていましたが、現在では第8番に落ちつきました。まずはその経緯から。

シューベルトの作品番号には、頭にDが付いていますが、これはドイッチュ番号といって、オットー・エーリヒ・ドイッチュ(1883−1967)の頭文字。ドイッチュは、膨大な量のシューベルトの作品を、作曲順に整理編纂したオーストリアの音楽学者です。目録は1951年に完成しましたが、彼はその中で、交響曲を以下のように規定しています。

第1番から第6番までは完成作品として確定しているので問題はない。1821年のホ長調はスケッチとはいえ全楽章が完成しているので「第7番D729」とし、1822年のロ短調は2楽章までしかないが完成作品とみなし「第8番D759」とする(これが「未完成交響曲」)。楽譜に1828年3月のサインがあるハ長調は、最後の作品なので「第9番D944」とする(これが「グレート」)。発見者シューマンが第7番目の交響曲(当時「未完成交響曲」は未発見)と書いて以来第7番と呼ばれてきた「ハ長調」が、ここで第9番に変わることになったのです。その他の未完成作品や手紙だけに登場する「幻の交響曲」には、D番号のみ与えて順列番号は打たない。以上がドイッチュが行った交響曲の規定です。

ドイツの楽譜出版の大手ベーレンライター社が1978年に公刊した、国際シューベルト協会版「新シューベルト全集」によると、第7番D729は交響曲の連番から外されました。この曲は、ウィーンの名指揮者フェリックス・ワインガルトナーらによってオーケストレーションがなされ、レコーディングもありますが、ピアノ・スケッチしか残されていなかったのですから、この措置は当然でしょう。したがって、そのあとの2曲が繰り上がり、第7番が「未完成」、第8番が「グレート」となりました。識者の間では、長い間馴染んだ番号は変えるべきではないという人もいます。確かに、私なんかも、「未完成」といえば第8番というのが体に染みこんでいるので違和感は大きいのですが、このライン・アップは歴史的に立証された妥当なものなので、これに従うべきだと思います。10年もすれば定着するでしょうから。

(2)「幻の交響曲」
シューベルトは1824年3月31日の手紙で、「歌曲では新しいものはなく、その代わり、器楽をたくさん試作した。こういう風にして、ともかく大きなシンフォニーへの道を切り拓いていこうと思っているんだ。ウィーンの一番新しいニュースは、ベートーヴェンがコンサートを開いて、彼の新しいシンフォニー、新しいミサから3曲、それに新しい序曲を一つ披露するという事実だ」と書いています。このなかのシンフォニーとは、時期からいって「交響曲 第9番 ニ短調 作品125」(「第九」)で間違いないでしょう。「第九」は、1824年5月7日、ウィーン、ケルントネル門劇場で初演されています。なお、"新しいミサ"というのは「荘厳ミサ曲 作品123」のことです。シューベルトは「第九」に触発されて"大きなシンフォニー"を作る衝動に駆られたと考えても不自然ではないでしょう。

では、シューベルトは「第九」を実際に聞いたのでしょうか。田村和紀夫さんが書かれた「クラシック名曲名演論」(アルファベータ社)の「グレート」の項に興味深い考察があるので引用させていただきます。
「ベートーヴェンの2曲の初演が5月7日、再演が23日。同じ月の25日にシューベルトはハンガリーに向けウィーンを立っている」
これは、エステルハージ伯爵から、令嬢の音楽教師にと招かれた旅立ちでした。大切な仕事への旅立ちが「第九」再演の2日後。シューベルトは念願の演奏を聴き、心置きなくハンガリーに旅立ったのかもしれません。とはいえこの証拠はなく、小林秀雄の言う「歴史は元来告白を欠く」が実感されます。だから面白いのですが・・・・。

シューベルトは、その翌年1825年の夏、北オーストリアの保養地グムンデン、ガシュタイン地方に旅行に出かけます。ハプスブルク家が愛用したこの温泉つき保養地で、病身のシューベルトは束の間の平安を満喫したのでしょう。このときの手紙からは、そんな心の安らぎと体調のよさが感じられます。

その中で、「今新しい交響曲に取り組んでいる」という記述があることが、多くの文献に書かれています。たとえば、シューベルト研究の古典アルフレート・アインシュタインの「シューベルト音楽的肖像」(1948年刊)の中には、「6月の後半と7月の前半はグムンデンで"きわめて気持ちよく"過ごした。そしてここで、あの紛失したシンフォニーが書き始められたのである」と。また、インターネットにも「シューベルトの手紙に言及があるものの楽譜の存在がない・・・」(Wikipedia)とか「1825年の夏、グムンデン地方への旅行中の手紙の中で、交響曲を作曲中であると述べている」などの記載があります。要するに「新しい交響曲を書いている」というシューベルトの手紙があるということなのですね。私はこの出典を探したのですが、未だに見つかっていません。

シューベルトの最高権威といえばドイッチュをおいて他にいません。彼の1914年刊行の「ドキュメント−シューベルトの生涯」は、本人の手紙を中心にして、その生涯を綴ったもの。1825年には9通の手紙が掲載されていますが、そのうち、旅行先のグムンデン・ガシュタイン地方などからは、7/21シュパウン宛、7/25両親宛、9/12兄フェルディナント宛、9月半ばアムシュタイン宛、9/18もしくは19バウエルンフェルト宛、9/21兄フェルディナント宛の6通の手紙が取りあげられています。日本語訳で合計300行を超える膨大な量です。ところがこの中には「交響曲を書いている」などという文言はただの一行も出てきません。ドイッチュはこの後「シューベルト作品目録」を完成させて、そこで「グムンデン・ガシュタイン交響曲」にD番号を与えるのですから、そのことを記した手紙があるのなら、これを外すはずはありませんよね。一体、これはどういうことなのか。「手紙にある云々」と書いている皆さんは何を根拠にしているのか、訊いてみたいものです。この一件、謎として残りますが、ここは、今後の課題として収めておきます。

それはさておき、"シューベルトが手紙で書いていた"交響曲というのは、ドイッチュが1951年完成の作品目録でD849の番号を与えた「幻の交響曲」で、「グムンデン・ガシュタイン交響曲」と呼ばれていたものなのです。"手紙にあるのに、楽譜がない"、即ち、声はすれども姿は見えず状態がずっと続いていたわけですね(今現在の私にとっては、手紙の存在すらもつかめていない「幻の交響曲」なのですが)。名ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムは、"ピアノ・デュオ曲「グラン・デュオ」D812がこの交響曲の原曲である"との説に則って、オーケストレーションまで行っていますが、これは間違いです。では「グムンデン・ガシュタイン交響曲」はどこに行ってしまったのでしょうか?

20世紀後半、アラン・タイソン(1926−2001)というイギリスの学者が、画期的方法によって、それまで未確定だった数々のモーツァルト作品の成立時期を確定しました。何が画期的かというと、彼の方法は全くもって科学的だったからです。例えば成立時期不明のAという楽曲があるとします。Aが書かれた自筆譜にベータ放射線を当て、X線感光フィルムに紙の「すかし」(Watermark)を焼き付けます。五線紙には、メーカー別、製造時期別に、各々異なる"すかし"が入っているのです。一方、成立時期が確定している全モーツァルト作品の自筆譜を透視して、「すかし」別に五線紙の使用時期を分類した表を作ります。あとはAの「すかし」を表と照合すれば成立時期が確定する、というもの。もっとも、一人の作曲家が生涯全く同じタイプの五線紙を使い続けていたら、この方法は通用しないのですが、幸いなことに、モーツァルトやシューベルトは時期によって異なる紙を使っていました。タイソンの発見で有名なのは、1782年の作品と思われていたモーツァルトの「ホルン協奏曲第1番ニ長調」を、「レクイエムK626」と同じく未完の遺作で、完成は死後の1792年だったことを確定したこと、などがあります。この件は、石井宏著「帝王から音楽マフィアまで」(学研M文庫)に詳しいのですが、まるで、推理小説のような面白さです。

「交響曲 ハ長調 D944 グレート」の自筆譜には、1828年3月と書かれているそうですが、タイソン方式で分析した結果、1825年に使われていた五線紙に書かれていたことが判明しました。そこで、こう結論されました"「グレート」は1825年にはほぼ完成していたことから、これはこの年の手紙にある「グムンデン・ガシュタイン交響曲」のことである。その後出版も演奏機会もないまま、1839年まで机の中で眠り続けていた。"・・・そうです、幻の「グムンデン・ガシュタイン交響曲」こそが「グレート」だったのです。ならば、「グレート」は奇跡の年1828年の作品ではないことになりますが、ここまできてしまったのだから続けさせてください。もしかしたら、この年に加筆した可能性だってあるかもしれませんし。それにしても、シューベルトの手紙そのものが読みたいなあ・・・・。

(3)シューマンの計り知れない功績
「グレート」の眠りを覚ましたのはシューマンでした。彼は、1839年1月1日、ウィーンにシューベルトの兄フェルディナントを訪ねてこの曲を発見します。シューマンはそのときの感動をこう述べています。
「フェルディナント氏は、フランツ・シューベルトの作品のうちで、まだ彼の手許にあった宝を僕に見せてくれた。そこにうず高く積んであった作品を見て僕は喜びにふるえた。交響曲のスコアをいくつか見せてもらったけれども、その多くはまだ一度も演奏されたことのないもので、時々手をつける人もいたが、むずかしすぎるとか誇張がひどいとかいって捨てられたものだった。この交響曲にしても、もし僕が、ライプツィヒのゲヴァントハウスの指揮者に見てもらうよう取り計らわなかったならば、まだどれほど長い間埃にまみれたまま、片隅に放り出されていたかわからないのである。しかし今はその望みも実現した。ライプツィヒに送られた交響曲はさっそく上演されて、みんなに理解された。再演に当たっては、大変な歓迎を受け、ほとんど全市の賞賛を得た」(岩波文庫シューマン著「音楽と音楽家」吉田秀和訳より)
シューベルトの兄フェルディナントから、手許にある楽譜を見せてもらい、その中に放置されていた「ハ長調 交響曲『グレート』」を発見。この作品を世に出すために、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とその指揮者メンデルスゾーンに働きかけ、世界初演にこぎつけ、再演で確固たる評価を得たことが述べられています。初演は1839年3月21日でした。この交響曲を発掘し、真価を見極め、初演にこぎつけたシューマンの眼力と熱意と行動力は、いくら賞賛してもしきれるものではありません。なぜなら「グレート」はその後の音楽シーンに多大な影響を与えた真に偉大な作品だからです。

 2009.09.29 (火)  Romanceへの誘いG「ブラームスはワルツが好き?」
(1)ブラームスはお好き
「ブラームスはお好き」というフランソワーズ・サガンの小説があります。大人の恋にナイーブな若者が絡むパリが舞台のほろ苦いラブ・ストーリーで、1961年には映画化もされました。中年男女にイヴ・モンタンとイングリッド・バーグマン、若者役にアンソニー・パーキンスを配したアナトール・リトヴァク監督のアメリカ映画。アンソニー・パーキンス扮するアメリカ青年フィリップが、バーグマン扮する年上女性ポーラをコンサートへ誘うときの決め文句が「ブラームスはお好き」でした。年上女性への憧れは、まさにブラームスのクララ・シューマンへの恋心とオーバーラップ。こういう設定がベストセラー作家サガンの真骨頂なんでしょうね。映画タイトル"Goodbye Again"「さよならをもう一度」も絶妙です。全編に流れる音楽はブラームス「交響曲第3番」第3楽章。音楽担当はジョルジュ・オーリック。オネゲル、ミヨー、プーランクらと共にフランス6人組の一人で、れっきとしたクラシックの作曲家にして映画音楽の大家。「ローマの休日」の音楽も素敵でした。

(2)シューマンは恩人
ヨハネス・ブラームス(1833−1897)が世に出るきっかけを作ったのはローベルト・シューマンでした。ブラームスは仲良しのヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムの紹介でリストに会いますが、波長が合わなくて不発。ならばと今度はシューマンに紹介。初対面で弾いたピアノにシューマンは痛く感激します。いわば音楽家ブラームスに一目惚れしたわけです。ところがブラームスは一緒に聞いていたシューマンの妻クララに一目惚れ。世の中様々、人生いろいろですが、このあたりの件は上映中の映画「クララ・シューマン〜愛の協奏曲」でお確かめください。さて、感激したシューマンは、主宰する「音楽新報」に絶賛の紹介文を書きます。題して「新しき道」
「この十年、確かに新しい音楽のきざしが見られるようになってきた。有望な新人も大勢現れた。でも筆を執るまでにはいたらなかった。そして、私はいつもこう思っていた。作品がまだ世間に知られていなくても、段々に脱皮して大家になるというのではなく、すでに完成された、時代を担う使命を持った人が、忽然と出現するはずだと。また出現しなくてはならないと。すると、果たして、彼はきた。嬰児のときから優雅の女神と英雄に見守られてきた若者が。その人の名は、ヨハネス・ブラームス・・・中略・・・このハンブルク生まれの若者は、誠に立派な風貌を持っていて、みるからに、これこそ召された人だと肯かせる人だった。ピアノに坐ると、さっそく不思議な国の扉を開き始めたが、私たちはいでてますますふしぎな魔力の冴えに、すっかりひきずりこまれてしまった。彼の演奏ぶりは全く天才的で、悲しみと喜びの声を縦横に交錯させて、ピアノをオーケストラのようにひきこなした。彼の同時代人として、私たちは世界への門出に当たって彼に敬礼する」(岩波文庫シューマン著「音楽と音楽家」吉田秀和訳より)
彼はこの中で、ブラームスが弾いた自作のソナタの"作品としての素晴らしさ"も絶賛しており、演奏家と作曲家の両面からベタ褒めしたことになります。ブラームスはこのとき20歳。これをきっかけとして音楽界に雄々しく羽ばたいてゆきます。

(3)ブラームスとウィーン、そしてシューベルト
ブラームスがウィーンに移住したのは1862年のこと。彼は、その頃のことを、後年、シューベルトの交響曲全集の楽譜が出版された折り、こう述べています。「こんな若い頃の作品が印刷されるなんて、悔しいじゃないか。僕は20年前に全部写譜したんだよ。それがウィーンにきて最初の仕事だった。そんなことをしながら、いろんな作品を勉強したのさ」、すなわちウィーンにきて最初の仕事は、シューベルトの自筆譜を写譜することでありその作品を研究することだったのです。さらに同じ頃に、こんな手紙を書いています。
「私のシューベルトに対する愛情は非常に真面目な種類のものです。最も偉大な人間が皇位につかせられているのを見る大空に、あのような大胆さと確実さをもって飛翔する彼の天才のような天才が、ほかのどこにあるでしょうか。彼はジュピターの雷と遊び、ときには異常な仕方でそれを取り扱う神々の子供のように、私を印象づけます。しかも彼は他の人がどうしても達することの出来ない領域で、また高さにおいて、それを演じるのです」(1863年6月、友人アドルフ・シューブリングへの手紙)
"皇位につかせられている最も偉大な人間"とは無論ベートーヴェンのこと。確かに、彼は、ベートーヴェンのことは尊敬していたし、シューマンには恩を感じていたでしょう。でも彼が一番好きな作曲家はシューベルトだった、もちろんその天才に畏敬の念を抱いた上で・・・この手紙はそう語っています。そんな例を彼の作品からも感じとることができます。それは「ワルツ集 作品39」。

(4)ブラームスはワルツが好き?
ブラームスが、16曲からなる「ワルツ集」を書いたのは1865年、ウィーンに出てきてから3年目の冬のことでした。この曲を献呈された当時の有名な批評家ハンスリックはこう言いました。「真面目で無口なブラームス、北ドイツ風で、プロテスタントで、シューマンのような非世俗的な男がワルツを書いた」と。この批評は、"北ドイツの田舎物で真面目な男が、世界の大都会ウィーンで大流行しているワルツを書いた"というミスマッチの妙を言ったもの。当時ウィーンはワルツ天国。皇帝主催の宮廷舞踏会は華やかなウィンナ・ワルツ一色。この指揮者がかのヨハン・シュトラウスU(1825−1899)で、その一方、自らの楽団を率いてロシア、アメリカにも足を伸ばし、世界をまたに自作のワルツを演奏するという縦横無尽の活躍をしていた頃でした。

そのころ、あるパーティーで、ヨハン・シュトラウス夫人にサインを頼まれたブラームスは、差し出された扇子に、「美しく青きドナウ」の音符を書き、「残念ながらヨハネス・ブラームスの作にあらず」と書き添えたというエピソードが残っています。重厚な作風のブラームスが華麗なワルツに憧れていたことを物語っています。

とはいえ、ブラームスの「ワルツ集 作品39」は、華麗なウィンナ・ワルツというよりも、もっと土着的ともいうべき素朴なテイストを持っています。そのうえ、より多彩な趣があります。そうです、彼はこの曲集について「今度、シューベルトふうな形の無邪気な小さいワルツを作った」と述べているのです。「えっ、シューベルト風?シューベルトがワルツを?」そう思って調べてみると、意外なことが分かってきました。

(5)ブラームスとシューベルト、その魂のリレー
シューベルトはピアノ演奏用のワルツをなんと98曲も作っていました。シューベルトには多くの友達がいて、音楽を演奏したり、ダンスに興じたり、議論したりの楽しい集いがありました。これをシューベルティアーデと呼んでいますが、彼は、ここで行われる楽しいダンス・タイムのためにワルツを書いたのです。この目的は踊るためというのが定説のようですが、私はもっと広く、食事や歓談中のBGMとしても有効に使われたのではと思っています。ならば、聞いてよし踊ってよしのシューベルトのワルツは、サロンで聞かせるためのあのショパンの傑作ワルツ集にも、宮廷の大舞踏会で用いられる華麗なウィンナ・ワルツにも、共通して繋がる先駆的作品だった、といえるのではないでしょうか。

私はシューベルトの「12のワルツ集D145」というピアノ作品を聴いてみました。結果、一曲が1分ほどの枠組みの中で展開される多彩な表情に、正直驚いてしまいました。速いテンポの躍動感、堂々とした力強さ、穏やかさと優雅さ、流れるような清澄さ、物思いに耽るような哀感、素朴な民族性、小犬のような軽やかさ、乙女が流す清純な涙、華やかな王朝風ファンファーレ、などなど、実に多種多様な感情・情景がそこにありました。ウィーンに出てきたばかりのブラームスが、シューベルトの自筆譜を写譜したなかに、このようなワルツがたくさんあったことは想像に難くありません。同時にその豊かな音楽に触れて、彼はきっと欣喜雀躍したはずです。そしてその印象を彼はずっと暖めていた・・・そして、シューベルトのように様々な感情を注入して16曲のワルツを書いた。だからはっきりと「シューベルトふうな形で」と言ったのです。私はそう確信します。

海老原さんは、今秋のリサイタルでブラームスの「ワルツ集 作品39」をとりあげています。きっとシューベルトからブラームスへの魂のリレーが聞こえてくることでしょう。では最後に、ブラームス「ワルツ集」の曲毎コメントをプログラム・ノーツから引用して、永きにわたりました「Romanceへの誘い」を終わらせていただきます。

@明るく軽快な躍動感A穏やかな落ちつきB束の間の寂しさC憂いと華やかさのあるジプシー風D優美なゆったり感E無邪気で軽やかF甘美でセンチメンタルG典雅な風情H流れるような哀愁I素朴な趣きJリズミカルで悲しげなK歌心溢れるL華麗に跳躍するリズムM情熱的ジプシーダンスNロマンティックで可憐な子守歌O郷愁を誘う穏やかでゆったりとした終曲 これらはすべて切れ目なく演奏される。

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海老原みほ ピアノ・リサイタル〜Romanceへの誘い

                     とき: 2009年11月14日(土) 15:00開演
                     ところ: JTアートホール アフィニス

                   D.スカルラッティ  ソナタ ハ長調 K.159
                                ソナタ ニ短調 K.9
                   F.シューベルト   4つの即興曲 D.899 Op.90
                   J.ブラームス    ワルツOp.39
                   C.フランク      前奏曲、コラールとフーガ

お問い合わせ: memusicoffice@mihoebihara.com
海老原みほ公式サイト http://mihoebihara.com/ja/blog/index.html


 2009.09.21 (月)  Romanceへの誘いF「シューベルトはソナタが苦手?」その5
(7)最終章〜ソナタではない1827年のピアノ曲
シューベルトは決して"ソナタが苦手"ではなかったけれど、悪戦苦闘したことは事実。それに引きかえ、形式に捉われない「即興曲」「幻想曲」などは気楽に書けたのでしょう、とりあえずはリラックスして楽しむことができます。

「ピアノとヴァイオリンのための幻想曲」(D934)という曲があります。私は、この曲を、五味康祐著「音楽巡礼」(新潮社)で知りました。彼はその中で、音楽書にしては艶かしい描写を続けたあと、「シューベルトの『幻想曲』を聴くと、だが、それがたとえようもなく甘美で清らかな彼女への想い出に変わる。つづまるところきたない思い出は作品159の『幻想曲』で浄化されている。シューベルトは"やさしい"の一語につきる作曲家だと私は思っているが、やさしさの裏でどれほど惨めな懐いを耐えていたかをおもうと、『幻想曲』の華麗さは一そうつよく印象に残る」と書いています。シューベルトの音楽は美しさの奥に耐え難い悲しみを秘めている、だから聞いた私たちは浄化される。そういう五味さんのシューベルト感は理解できます。"きたない思い出が、シューベルトを聞くことによって浄化される身勝手さ"は多少感じはしますが。

私がこの曲に感じるのは"郷愁"です。回帰への"憧れ"といってもいい。「アヴェ・マリア」を想起させる祈りのような冒頭の旋律が「アンダンティーノ」をはさんで回帰してくる。曲は華麗に終わるのですが、心に残るのはなんといっても抒情的な「アンダンティーノ」の部分。少年時代の懐かしくも甘酸っぱい風景が回帰してきます。暗くなるまで野球に興じた工業高校のグラウンドや線路の向こうに広がる夕焼け空。魚をとった小川やチャンバラで走り回った裏山など。シューベルトもきっとこれを書きながら、楽しかったコンヴィクトでの寄宿生活などを思い遣っていたに違いない、などと勝手に自分で同化させちゃっています。

「幻想曲」と同じ1827年の作品に、ピアノによる「即興曲集」があります。「4つの即興曲」としてD899とD935が立て続けに作られました。D935について、シューマンはこう言っています。「自ら『即興曲』と名づけたとは信じがたい。第1番はソナタの第一楽章であり、完璧だ。第2番も調性や曲想から見て同じソナタの第二楽章だ。終わりの二つの楽章がどこへ行ってしまったかは、シューベルトの友人なら知っているだろう。第3番は別の曲で、第4番はもしかしたらソナタのフィナーレかもしれない」と。シューベルトの出版はハズリンガーというウィーンの楽譜出版屋が専ら行っていて、それまで、"ソナタ"という名前では売れないといって、ピアノ・ソナタD894を"幻想曲"と名づけたりしていたから、シューマンは「即興曲」もこの手だと思ったのでしょうね。だったらほぼ同時に作られたD899はどうなのでしょう。「D935の第3番は別物で、3,4楽章はどこかへ行っちゃった」じゃただの想像、なんと実証性に乏しいことでしょう。自分の気づいたことは無理やり信じこませ、当てはまらない部分は曖昧なるままに放置する。だからこの人は信用できない・・・なんていうとまたシューマン・ファンの方から怒られそうですが。

むしろ私の興味はハズリンガーという人にあります。「ソナタじゃ売れないから『幻想曲』だ、いや『即興曲』にしよう」というのは売らんがための作戦で、実に面白いし尤もです。かの有名な「グローヴ音楽辞典」を編纂した音楽学者ジョージ・グローヴが「これは商人の気まぐれ、けしからん」と言ったそうですが、つまらん男ですな、この人は。いい曲をより多くの人に聴いてもらえる工夫をすることが「商人の気まぐれ」ですか。"売らんがため"がなぜ悪い。だからシューベルトみたいな人が貧乏しちゃう。だからクラシックは広がらない。また、ハズリンガーは、シューベルトの最後の年の歌曲を14曲集め、「白鳥の歌」と名づけて出版した人でもあります。レルシュタープ(あのベートーヴェン「月光の曲」の名付け親)の詩で7曲、ハイネを6曲、そして最後にザイドル詩「鳩の使い」をくっつけた。この曲がシューベルト最後の歌といわれているのですが、このまとめ方と命名の上手さは特筆物です。もし彼が現代に生きていたら大音楽プロデューサーになっていたことでしょう。

海老原みほさんは、この秋のリサイタルで「4つ即興曲D899」を取りあげます。この曲については、書き上げたばかりのプログラム・ノーツをご覧ください。これをもって「シューベルトはソナタが苦手?」を終わらせていただきます。

[シューベルト作曲:4つの即興曲 D.899 op.90]

 フランツ・シューベルト(1797−1828)は、その31年という短い生涯の中で、800曲以上にものぼる作品を残している。「歌曲王」と呼ばれているように、その大半は歌曲であるが、ピアノ曲も重要なレパートリーとなっている。作品90の「4つの即興曲」(4 Impromptus)は、亡くなる前年1827年に作られたピアノ曲集で、この年には歌曲集の傑作「冬の旅」も生まれている。
 "impromptu"は"準備の出来ていない"という意味のラテン語に由来する言葉。「即興曲」という日本語訳にふさわしく、曲想はアドリブ的な自由さに満ちており、"形式に捉われない、気軽で自由な小品"と言うことができるだろう。
 ベートーヴェンのように、小さな素材を形式の中で緻密に展開してゆくことよりも、感興の趣くまま美しい旋律を紡ぎだすことを得意としたシューベルトにとって、この「即興曲」という形は、ソナタ以上に彼の音楽性に合っていたといえるだろう。4曲すべてが美しいメロディーに彩られており、珠玉の名曲として親しまれている。のみならず、この曲集は、シューマン、ショパン、ブラームスなどにつながる、ロマン派の性格小品(キャラクター・ピース)への先駆的作品として、音楽史的にも重要な意味を持っている。

第1番 アレグロ・モルト・モデラート ハ短調 四分の四拍子 自由な変奏曲形式

ハ短調で示される主題は甘美でメランコリック。時に流麗で優しく、時に力強く激しく、そして緊迫感も含んで躍動的に、5つの変奏は様々な表情を見せてくれる。コーダの最後はハ長調となって、静寂のうちに曲を閉じる。

第2番 アレグロ 変ホ長調 四分の三拍子 複合三部形式

主要テーマは、3連音符が上昇下降を繰り返すスピード感あるもの。その音の連鎖は滑らかで爽快感に満ちている。中間部は一転して、短調ながら舞曲風の力強い趣きに変わる。最後に舞曲風主題が変化しながら回想されるが、このあたりにも即興曲らしい自由さが感じられる。

第3番 アンダンテ 変ト短調 二分の二拍子 三部形式

清楚で抒情感漂う歌曲のような、いかにもシューベルトらしい楽曲。中間部は変ホ短調となって、この曲に少しばかりの翳りを与えている。いつまでも身を委ねていたくなるような穏やかで安らぎに満ちた音楽である。

第4番 アレグレット 変イ短調 四分の三拍子 三部形式

冒頭で速いテンポの短調主題が印象的に登場するが、何度か転調を重ねたあと、はっきりとした長調主題が左手に現れる。トリオ部分では、穏やかなムードが支配しつつ、時間の経過とともに、荘重感も加わってゆく。このあと第一部の短調主題が再び現れて力強く曲を閉じるが、副主題やトリオ部分が、ソナタ的なスケール感をこの曲に与えている。

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海老原みほ ピアノ・リサイタル〜Romanceへの誘い

                     とき: 2009年11月14日(土) 15:00開演
                     ところ: JTアートホール アフィニス

                   D.スカルラッティ  ソナタ ハ長調 K.159
                                ソナタ ニ短調 K.9
                   F.シューベルト   4つの即興曲 D.899 Op.90
                   J.ブラームス    ワルツOp.39
                   C.フランク      前奏曲、コラールとフーガ

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 2009.09.16 (水)  Romanceへの誘いE「シューベルトはソナタが苦手?」その4
(6)ピアノ・ソナタの名曲その2「遺作三ソナタ」考証
「ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D958」は、ベートーヴェン的な作品といわれています。シューベルトは、ピアノ・ソナタの作曲にあたり、常にベートーヴェンを意識せざるを得ない時代的かつ地理的環境にあったことは「その1」で述べたとおりです。死の数週間前、立て続けに3曲のソナタを作りましたが、その第一曲目が、ベートーヴェン的色合いの集大成であっても、なんら不思議はありません。事実それは、第1楽章を聞くだけで十分理解できるでしょう。短い音節からなる勇壮な第1主題と柔和な第2主題の対比などはまさにベートーヴェン的。逆に、ここからはシューベルト特有の流れるような歌心はあまり感知されません。シューマンが初期作品と見誤りそうになったのも十分に肯けます。D575あたりと同列に聞こえたのかもしれません。これは、ベートーヴェンのソナタを研究し尽くして自らの楽曲に取り入れてもいたシューマンだからこそ、的確に読み取れたのではないでしょうか。それはそうと、ある名曲解説に「この曲のハ短調という調性は、もともとベートーヴェンのものであった」という呆れた文言がありました。"ベートーヴェン的である"なら許せますが、"ベートーヴェンのものであった"はないと思います。調性が誰某の私物だなんてミューズの神は許してくれないのでは? シューベルトがハ短調で書いたのはベートーヴェンとは何の関係もなく、彼の音感覚が選んだ結果に違いありません。確かに「ハ短調はベートーヴェンの宿命の調性である」とは昔からよく言われていることですが、いったい誰が決めたのでしょうか? あとバッハの「ロ短調」とモーツァルトの「ト短調」でしたっけ。こういう根拠のない類型的な決め付け、私にはどうも馴染めません。

「第20番 イ長調 D959」になると、歌がより豊かに溢れ出してきます。第1楽章、第2主題とつなぎの部分に感じる限りない歌謡性。第2楽章はこれぞシューベルトの歌そのもの。その淡々としてやや哀感を帯びたメロディは、まるで儚くて切ない彼の人生のよう。ただし、いきなり現れる中間部の激情にはビックリしますが。第3楽章スケルツォの軽妙さも独特のセンス。第4楽章、何度も現れるロンド主題は、悠容として穏やか、まさにシューベルトの歌を奏でています。

さて、いよいよ最後のソナタ「第21番 変ロ長調 D960」に辿りつきました。完成は1828年9月26日です。

第1楽章冒頭からシューベルトの歌が郁々と流れ出します。なんと安らぎに満ちた旋律、と思った瞬間、不気味な低音のトレモロが鳴る。上澄み液のように浄化された旋律の底にうごめくどす黒い沈殿物。これこそシューベルトの慟哭。ふざけるなの思いに他ならないと私には聞こえます。このときシューベルトまだ31歳、しかし、死は僅か数週間後に迫っていたのです。死因は腸チフスでしたが、25歳の時には梅毒を発病していました。不治の病の中で、どんなに不安でやるせない日々を送っていたことでしょう。彼の心情がひしひしと伝わってくるこんな手紙があります。
「ひとことで言うと、僕はこの世でいちばん不幸で、いちばん哀れな人間のような気がします。考えてもみてください。もうけっして健康を取り戻すことが望めず、それに絶望するあまり、事態はよくなるどころか悪くなるばかりというそんな男のことを。考えてもみてください。輝かしい希望も消えうせ、苦悩以外なにももたらさず、美に対する霊感も、少なくとも心を動かすようなものは消え失せてしまったそんな男のことを。これが哀れで不幸な男でないというのでしょうか? 『私の心は重く、もはやけっして安らぎを見つけることはできない』 僕はいま、毎日こう歌っていたいのです。夜、眠りにつくときは、このまま目が覚めないことを望むけれど、朝起きるといつも、昨日の苦しみだけが思い出されるのです。」(1824年3月31日、友人クーペルヴィザー宛)
なんと悲痛な文面なのでしょうか。彼は背が低く風采も上がらない優しい口下手な男だったといいます。友人には恵まれたけれど女性との付き合いはまったくなかったとも。そんな人間に神様が与えたものは、並外れた音楽の才能と貧乏と31年の寿命でした。彼は、その貧しくも短い生涯の中で800曲以上もの楽曲を書き上げました。多岐なジャンルにわたり様々な性格の音楽を。そんな彼の音楽の本質は優しさにあります。他のだれにも真似のできない美しく優しい音楽がそこにあります。だから我々に癒しをもたらしてくれる。世界一不幸な人間が世界中の人々に安らぎを与えてくれている。こんな間尺に合わない話があるでしょうか。彼は常に死の世界と向き合って生きていた。片時も心から離れることのない死の恐怖に怯えながら、何故あんな優しさに満ちた音楽をかくもたくさん作ることができたのでしょうか?もし、自分に置き換えたら、いったい自分ならどう・・・止めましょう、凡人に置き換えてみたってしょうがない・・・。それは、彼の見えない芯の強さだったのか。馬鹿正直な優しさがすべてを超越した結果だったのか。神の加護ゆえなのか。ともあれ、確かにいえること、それは、私たちがシューベルトを聴くということは即ち、自らが真に優しくなることであり神に感謝するということ、なのです。黒い沈殿があってあたりまえ。心の底に蠢く苛立ちを一瞬控え目に表出したってよいではありませんか。そして、このあとはもう天上の響きのような優しい歌がとめどなく溢れ出してくる。シューマンが「あたかも次から次へと淀むことを知らぬごとく、さらさらと流れてゆく」と言ったように。ホロヴィッツが「シューベルトの音楽はすべてが歌。ベートーヴェンには一音だって書けやしない」と言ったように。あるときは青春の輝きを懐かしみ、またあるときは若き日の激情を喚起しながら。

第2楽章は、ガラス細工のように繊細な詩情と青春への郷愁が織りなすハーモニー。第3楽章はシューベルトならではの軽快なスケルツォ。

最終楽章。音楽の友社刊「名曲解説ライブラリー」の中で、著者平野昭氏は「540小節に及ぶフィナーレは、明確な展開部を欠き、最後までその構成に苦悩し続けたシューベルトの課題を残したまま終えている」としています。確かにこれをソナタ形式と捉えれば、展開部は明確ではないのでしょう。でもこの楽章を、ロンド風味の第1主題と穏やかで素早い2主題を主部として、激情的和音の強打をブリッジにしてのロンド形式(A−B−A'−C−A−B−A''コーダ)と捉えられなくもないだろうし、気分はむしろロンドです。シューベルトは課題を残して終えたのではなく、ソナタ形式でもロンド形式でもない独自の形式に到達して最後を飾ったのだ、といえないこともない。でも、そんな形式論はどうでもよろしい。ここは、ただ、シューベルトの歌を聞きましょう。胸底に果てしない苦しみを秘めながら、健気に生きた内気な男の優しい心の叫びを、私たちは素直な気持ちで聞けばいい。

「シューベルトはソナタが苦手」だったのでしょうか? 確かに、手がけた20以上の作品中完成したのは15曲であること。常にベートーヴェンを意識していたであろうこと。ソナタへの着手が交響曲より遅れたこと。五楽章制や全楽章ソナタ形式などの変則的な形式に挑戦したこと。自由な形式のピアノ曲のほうに、シューベルトらしさがより濃くでていること。などから、そんな定説ができあがったのだと思います。でも、そういう分析は専門家の方々に任せておきましょう。我々はただ心でシューベルトのソナタを聴けばいい。そこには常に歌があり、まぎれもないシューベルトその人がいる。「音楽は常にありのままの私の心です」というひとりの音楽家がいるのですから。ありがとう、シューベルト。
 2009.08.31 (月)  Romanceへの誘いD「シューベルトはソナタが苦手?」その3
(5)遺作三ソナタのシューマン評を考察する
シューベルトは、1828年9月に3つのピアノ・ソナタ(D958、D959、D960)を完成させています。亡くなる数週間前のことです。しかもすべてが大作。これは凄い創作力です。これら3曲は、彼の死後しばらく世に出ずにいましたが、1837年になって始めて出版されました。シューベルトの遺志によりフンメルに献呈されるはずでしたが、出版の直前に亡くなったため、(出版社の意向で)シューマンに捧げられています。シューマンは「音楽と音楽家」(岩波文庫 吉田秀和訳)の中でこう述べています。「今度のソナタは、この芸術家の初期の作品と取り違えかねなかった。シューベルトのように、あれほど多くの作品を書いた人は、終始向上し進歩してゆくというのは人間わざでは考えられないから、この3曲も、あるいは本当に最後の作品だったのかもしれない」と。この記述には実に興味深いものがあります。「死後出てきたからといっても最後の作品というわけじゃない。察するに、この出来からいって、もしや初期作品かもしれない」と、一度は疑ったのですね。でもよく聴いたら(読んだら、又は、弾いてみたら、かも知れませんが)やはり"最後の作品"と結論したというわけです。即ち、シューマンは、これら3曲を一旦は初期作品かもしれないと疑ったくらい、評価は低かったということになります。そしてこう続けます。「今度の曲は彼のほかのソナタにくらべて、発明の素朴さと、今まで彼があんなに高く要求していた目ざましい新しさを自発的にあきらめていること、今までならば楽段から楽段へと新しい糸で継いでいたのにある平凡な音楽的楽想を長々と敷衍(ふえん)している という三点で特に際立っているようだ。」と、斬新さがまったくない冗長な作品と決め付けています。さらにこう続けます。「あたかもいつまでも尽きることを知らぬごとく、あたかも次から次へと淀むことを知らぬごとく、いつも音楽的歌に富んでいるこの曲は、頁から頁へとさらさらと流れてゆく」と。ここは、"この曲"と単数(訳)になっているので、(特定されてはいませんが)D960のことを指していることは間違いなさそうです。訳者の方がこのあたりを説明してくれるとありがたかったのですが、それはさておき、この部分は「第21番D960」の特徴をある意味言い当てていると思います。

シューマンの文章を引用したついでに、そのまま話を脱線させて、もう少しだけシューマンに突っ込んでみましょう。今度の引用は五味康祐著「西方の音」(新潮社刊)から「音楽に在る死」の一部です。
「シューマンは"幻想曲"ハ長調(作品17)の第1楽章を、ベートーヴェンのソナタをなぞって書いた。そのシューマン自身のピアノ・ソナタ第1番嬰へ短調(作品11)は、いろいろソナタ形式の中で新鮮味を出そうとはしているが、情熱と幻想ばかりが先行し、"凝りすぎて混乱"し、お世辞にも傑作とは言い難いし、第3番へ短調(作品14)の中心となる主題は、かつてクララが書いたものの引用である。・・・中略・・・ヴァイオリン協奏曲はヨアヒムが演奏するメンデルスゾーンのそれを聞いて急に完成したくなったものである。いかにもベートーヴェン的な重厚さを持つ出来上がりで、シューマンは相当自信があったらしいが、これを贈られたヨアヒムは一顧だにくれず、握りつぶし、演奏会に採上げなかった。シューマンを私は貶しているわけではない。つまりはきわめて他からの影響に染まりやすい感性をもち、自らの意志ではなく、そんな感性の反応で行動してしまうそういう音楽家であったことを、言っているまでだ」
五味さんは"シューマンを貶しているわけではない"と述べていますが、同じ章にこんな記述もあります。

「大事なことを忘れるところだった。シューマンは、クララとの結婚を裁判によって勝ち取っている。父親ヴィークを相手どり、勝訴してはじめて彼女を妻にした。くり返すまでもないがヴィークはシューマンには先生である。父親としてではなく、師としてヴィークはこの結婚に反対したのでないと、誰に言えるのか。愛情では説明できず、音楽の天分ではましてそれをなし得ず、裁判という、第三者の容喙を待たねばクララを自分のものに出来なかったというこのことだけで、シューマンを私は信用しない」
私は、五味さんの意見に共感もすれば反発もするものですが、このシューマンに関しては同感です。最愛の人に出会って生涯を共にしようと思い、親の承諾を得ようとするならば、愛する気持ちそのものと自らの才能を以ってぶつかるべきなのに、結果的には裁判という第三者の手、言い換えれば、権威の傘によってしか達成できなかった。だから五味さんはシューマンを信用していないのです。シューマンの音楽を信用していないのです。こんな男が作る音楽が他人を感動させられるわけがないとまで仰います。私は、そこまでは言いません。作曲家がどんな人生を送ろうが基本的には知ったことじゃないし、人生は音楽に投影するものと相場が決まっているわけじゃない。"音楽そのもの"がこっちの心に響くかどうかだけの問題なのですから。でも五味さんの仰ることはよく分かります。

音楽が私たちに与えてくれるもの、それは感動と癒しです。言い換えれば、音楽を聞くという行為は感動することであり癒されることである、ともいえる。美しさ、暖かさ、清澄さ、純粋さ、切なさ、激しさ、力強さ、時には悲しさ、虚しさ、やるせなさなど、音楽が表現する様々な情感に心動かされたり、歌詞の内容や物語の面白さに共感すること。優しく穏やかなサウンドに心癒されることではないでしょうか。日常から非日常への飛翔といってもいいでしょう。

音楽は頭で聴くものではなく心で感じるものなので、私のシューマン嫌いに理由はありません。シューマンを聞いて、あまり心を動かされないし、安らぎも得られないという、ただそれだけのこと。しかし、こんな私が五味さんの文章を読んで合点がいったのも確かです。芸術における創造とは、本来、やむに止まれぬ心の衝動によってなされる神聖な行為のはずです。時々の必要に応じて自然に音楽が湧いてきた(といわれている)真の天才モーツァルトの場合でさえも、最終的に産み出された作品は心の衝動の直接の産物のはずです。だから作曲家は、心の底から突き上げる衝動を素直に表現すべきなのです。シューマンにはその素直さがない。自身の気持ちと作品との間になにか異物が挟まっている(ように私には聞こえる)。それは他への過剰意識と、権威(理屈)にすがる自信のなさに起因しているのではないか。だから、シューマンの音楽は、私の心に素直に響いてこないのではないか。五味さんの文章で私のシューマン嫌いが理論付けされたように感じています。

でも一曲だけ謎の楽曲があります。それは「トロイメライ」です。これだけは文句なしにいい曲です。なぜこんなに無垢で素直で美しい曲をシューマンは作れたのでしょうか?(この曲を含む「子供の情景」全体にもいえるのですが)。音楽は平均値ではないので、「トロイメライ」一曲だけでシューマンは素晴らしい作曲家なのです。これも私の考え方です。

今回は少しばかりシューマンに脱線しましたが、次回はシューベルトに戻したいと思います。
 2009.08.24 (月)  Romanceへの誘いC「シューベルトはソナタが苦手?」その2
(3)ピアノ・ソナタに纏わる作曲スタイルの比較
シューベルトがピアノ・ソナタを手がけたのは、1815年、18歳のとき。一方、交響曲に関しては、1813年16歳で「第1番ニ長調」を書いています。これは、シューベルトが11歳のときに奨学生として入学したコンヴィクト(寄宿制神学校)での生活と関連があります。ここはウィーン宮廷の直轄機関で、楽長はサリエリ。あの映画「アマデウス」の主人公の一人で、モーツァルトの敵役のお爺さん音楽家です。生徒はみな礼拝堂のコーラス隊員となりますが、これが現在のウィーン少年合唱団で、先輩にはハイドン、後輩にはブルックナーがいます。シューベルトは、1813年16歳までの5年間をここで過ごし、音楽の基礎を学び、ピアノ曲、歌曲、合唱聖歌、弦楽四重奏曲など数々の楽曲を作りました。ここには小さいながらも本格的な学生オーケストラがあり、勿論シューベルトもこの一員として、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンのシンフォニーを日常的に演奏していたようです。最初の交響曲は、卒業の年に、このオーケストラのために書いたものです。

これがベートーヴェンになると、「ピアノ・ソナタ第1番」は1793年23歳、「交響曲第1番」は1800年30歳で作曲、という逆の現象となります。ブラームスの場合は、もっと甚だしく、最後のピアノ・ソナタ「第3番」を書いたのが弱冠20歳で、最初の交響曲「第1番」が完成したのが最早壮年たる43歳のとき。この事例は、これら二人の作曲家としてのタイプを如実に物語っています。即ち、彼らにとって、交響曲こそ器楽曲の最高の形であり、そのためには周到な準備が必要だったということです。これには時代背景もありますが、二人の性格によるところが大きいでしょう。即ち、ベートーヴェンもブラームスも、計画性大で慎重かつ積み上げ型の性格だった。特にブラームスは"石橋を叩いても渡らない"ほどの慎重居士だったようです。尤も私の先輩には"石橋を叩きすぎて壊しちゃう"という人がいましたけれど。

モーツァルトの場合は、最初のピアノ・ソナタも交響曲も少年時代に作られています。現存する最初のピアノ・ソナタ(第1番K279)は18歳のときの作品ですが、それ以前、少年時代に、4組のソナタを作っています。これらのうち3組はヴァイオリンとチェロを伴うもの(K6―K9)、残る1組はソロですが楽譜は紛失して残っていません。最初の交響曲K16は、旅先のロンドンで、バッハの末息子クリスティアン・バッハの教えを受けながら書き上げ、演奏会にかけています。これが8歳のとき。モーツァルトは、少年時代に、ヨーロッパ中を演奏旅行で回っています。このときに自作の楽曲が必要でした。したがってこの時期のモーツァルトの楽曲はその時々の必要の産物でした。順応的閃き型といえるでしょう。シューベルトの作曲スタイルは、ベートーヴェン&ブラームス型ではなく、強いて言えばモーツァルト型に近いといえるかもしれません。

シューベルトは、こう言っています。「心の底では自分も、何らかの人物になれるかと期待はしているのですが、しかしベートーヴェンの後でまだいったい誰に、何らかの人物になれることができるでしょうか?」と。ここからは、ベート−ヴェンに対する畏敬の念と同時に、彼の謙虚な性格が見て取れます。実際彼の性格は、出たがり型ではなく引っ込み思案型だった。そして友達想いで優しい性格、でも不埒な輩には堂々と意見を言う正義感も持ち合わせた、一口で言えば、実にいいヤツだったのです。そんな彼が、25、6歳の頃、不治の病を背負い込んでしまうのですから、神様の悪戯ここに極まれり!

(4)ピアノ・ソナタの名曲 その1
「第13番 イ長調 D664」は1819年の作品。前章で触れたD575(1817年完成)のあとは、D613、625、655と3曲立て続けに未完に終わっており、この時期、ピアノ・ソナタにおけるシューベルトの悪戦苦闘ぶりが窺えます。したがってこれは久々の完成作品で、抒情的で美しいまとまりのよい佳曲に仕上がっています。

第13番D664のあと、次の作品第14番 イ短調 D784(1823年完成)までは、また丸3年間も空いています。したがって1817−1822年(シューベルト20−25歳)の5年間はピアノ・ソナタとの苦闘の時代といえるかもしれません。ところが、この間の1822年に、注目すべきピアノ曲が生まれています。「さすらい人幻想曲」です。この作品はシューベルトが19歳のときに書いた歌曲「さすらい人」のメロディをテーマにした4つの楽章からなる幻想曲で、ヴィルトゥオーゾ的ピアニズムを前面に押し出した演奏効果抜群の曲。とはいえ、当然のことながらシューベルト特有の抒情性や歌心に溢れており、屈指の人気曲となっています。ソナタという形式的縛りから開放された自由な精神の飛翔が、この曲にかけがえのない魅力を与えているのでしょう。もしかして、この作品で吹っ切れたのか、以後ソナタの名曲が目白押しに並びます。

「第16番 D845 イ短調」(1825年完成)は画期的な作品。ここに聞かれる郷愁性(nostalgia)と異国情緒(exoticism)はこれまでの作品にはなかった特性といえます。第1楽章の第1主題には儚ない郷愁が感じられ、同楽章展開部の入りに漂うエキゾチックなムードにはハッとさせられるものがあります。これらの感覚は、また、第3楽章スケルツォのトリオ部分にも感じられます。第2楽章が変奏曲で、第4楽章がロンド形式で作られているのもこの曲の特徴。これまで、ピアノ・ソナタを一曲も出版してなかったシューベルトですが、このD845は、完成後すぐに出版しています。これは彼のこの曲に対する自信の表われでしょう。

"幻想曲"と仇名がついた「第18番 ト長調 D894」(1826年完成)について、ロマン派の巨匠にして論客のシューマンは、1836年に「形式といい精神といい、シューベルトの作品の中でも完璧を極めたものである」(シューマン著「音楽と音楽家」岩波文庫より)と評しています。まさに最高級の賛辞です。このとき、遺作3大ソナタ(第19番―21番)は、まだシューベルトの引き出しの中で眠ったままでしたが、翌年出版された折、シューマンはこれらを評してこう言っています。「3曲のピアノ・ソナタはそれまでの作品と際立って違っている。すなわち、発明の素朴さと目覚しい新しさを諦め、楽段から楽段に繋がる新しい糸の繋ぎがなく、平凡な音楽的楽想で長々と敷衍している」と。こちらは実に否定的な見解です。要するに"シューマンが評価するシューベルトのソナタの最高傑作は『第18番D894』である"ということなのですね。それではこの賛辞を念頭に置いて、曲を聴いてみましょう。

第1楽章。祈りにも似た導入部分、どこかベートーヴェンの「ト長調 ピアノ協奏曲」の出だしに似ています。そして、このあと、歌うような息の長い旋律が繰り出されてゆきます。なるほど、出版社が「幻想曲」と名づけたのも頷ける曲想です。第2楽章、主部は転調による曲想の変化が絶妙で、中間部にはかつてない劇的な響きがあります。第3楽章のメヌエットのなんと力強く男性的なこと。終楽章はロンド形式。ロンド主題(A)と繋ぎの部分(B,C,D)の構成が基本型とは少し違っています。基本型をA−B−A−C−A−D−Aとすれば、この曲はA−B−A−C−AとD省略形となっていますが、その代わりCの部分を三部形式にスケールアップしています。そのC部分の中間部は、抒情性と幻想性を合わせ持った素晴らしい旋律美を宿し、さらに、激しく衝動的なフレーズと精妙な融合を示します。そして静かに穏やかに、最後は主要モチーフを回想して曲を閉じます。沸きあがるロマンを、自由に柔軟に変化させた形式の中で見事に醸成させた、精神と形式の絶妙なバランスがここにあります。これぞ天才の技。シューマンが「形式的にも精神的にも完璧を極めた作品」と言ったのは、まさにこのことだったのではないでしょうか。

シューマンの評論には独特の癖があるようです。あるとき、ショパンの曲「ドン・ジョヴァンニの二重唱のテーマによる変奏曲」を聞いて感動したシューマンは、「貴方は天才だ。これほどの意図を盛り込めるなんて!」として、作曲者になり代わって事細かに分析した曲解釈をショパン本人に送った。それを読んだショパンは友人にこう漏らしています。「僕の曲に感動したドイツ人が10ページにも及ぶ文章を数日前に送ってきたなんて、君に想像できるかい。この人は曲をほとんど一小節ごとに分析している。僕の作品がただの変奏曲ではなくて、幻想的な描写になっているというのだよ。この人の想像力は面白いけれど、人に頼んで『ルヴェ・ミュージカル』(フランスの音楽評論誌)に載るよう画策しているのは困ったものだ。」(石井宏著「反音楽史」新潮社刊より)と。このエピソードからは、自己の信じる基準に従って独自(勝手)に解釈するシューマンに対して、「別にそんなつもりで書いたんじゃないんだけれど」と、当惑するショパンの姿が見えてきます。音楽を純音楽として捉えるショパンとロマン的に解釈するシューマン。敢えて言えば、感性優先右脳派のショパン対理屈優先左脳派のシューマン、といった図式でしょうか。次回は、そんな思考傾向のシューマンが、あまり買っていなかったシューベルト「最後の3つのソナタ」に迫りたいと思います。
 2009.08.17 (月)  Romanceへの誘いB「シューベルトはソナタが苦手?」その1
前回のドメニコ・スカルラッティはソナタの職人。今回のシューベルトはソナタが苦手?

フランツ・ペーター・シューベルト(1797−1828)は、その短い生涯で、23曲ものピアノ・ソナタを手がけています。そのうち完成作品は15曲。その中で、構成面から見ると通常ならざるものが2曲あります。第3番ホ長調D459と第9番ロ長調D575です。さらに作曲過程からは、D567とD568の関係にも興味深いものを感じます。

(1)通常ならざる形など
シューベルトの「ピアノ・ソナタ 第3番 ホ長調 D459」は、5つの楽章から成り立っています。他の14曲は全て3乃至4楽章構成なのにです。その他の作曲家の例、たとえばモーツァルトのピアノ・ソナタは、18曲すべてが3楽章構成。ベートーヴェンは、32曲中、2楽章構成が6曲、3楽章と4楽章構成が各々13曲づつという内訳。これらから見ても5楽章構成というのはいかにも特異な感じがします。前回のドメニコ・スカルラッティの場合は、555曲すべてが単一楽章、これも凄いですが、時代が違うので比較の対象からは外しましょう。

この作品は、第1楽章から第5楽章まで、Allegro moderato−Scherzo−Adagio−Scherzo−Allegro pateticoという並びになっています。5楽章になっているのはScherzo(スケルツォ)が通常より一つ多いからです。二つを比べると、第2楽章は実に穏やかな曲調で、通常のスケルツォとは趣を異にしています。シューベルトは何故ここにこんなものを置いたのでしょうか? もしかしたら、Adagio(アダージョ)を挟むシンメトリーに構成してみたかったからかもしれません(意味ないか)。両端楽章はどちらもソナタ形式。第1楽章は、第1主題と第2主題がともに歌謡風メロディーで同じ曲調、展開部はかなり簡潔です。一方、第5楽章のほうは、第1主題が短いモチーフ系で、第2主題は対照的に流麗な旋律。この2つの主題の対比と、そのあとの展開はまさにベートーヴェン的。同じソナタ形式でも、両端楽章はかなり違う印象を我々に与えます。この作品は、1816年、シューベルト19歳のときに作られています。出版にあたって兄のフェルディナントが「5つのピアノ曲」と銘打ったことから、"ソナタではない"とする説もあるようですが、両端楽章がソナタ形式であること、アダージョはどうみても独立した曲とはいえないこと、調性も一個の楽曲としての並びになっていること、などから、一つのソナタとして扱うのが妥当でしょう。

「ピアノ・ソナタ第9番ロ長調D575」は、1817年の作品。全四楽章がすべてソナタ形式で書かれているといわれています。これも通常ならざる形といえるでしょう。第1楽章、冒頭提示される第1主題はシューベルトにしては短いモチーフ系のもの。この"タンタターン"のリズムが随所に現れて、楽章全体に適度な緊迫感を与えています。また、この主題はベートーヴェン「熱情ソナタ」第1楽章第1主題に酷似しています。あとから現れる第2主題は、これとは対照的に穏やかなもの。ここにもベートーヴェン的対比が見えます。第2楽章はAndante。三部形式とする説もありますが、中間部への転調しての移行や、第3部での左手のリズムが第1部と違う点などから、やはり[提示―展開―再現]を踏まえたソナタ形式とみるのが妥当でしょう。第3楽章Scherzoは面白い。ここの形は ABABA―C―ABAとなっています。ソナタ形式というなら再現部分に何らかの変化があって然るべきですが、ABというパーツは同じです。主題も明確に二つあるとはいえず、したがってこれは変則三部形式またはロンド形式とするのが妥当ではないかと思います。でも緩く見れば、Cという展開部を挟んで、提示部(ABABA)と縮小した再現部(ABA)からなるソナタ形式といえなくもありません。第4楽章は、男性的な第1主題とメランコリックで美しい第2主題が対比しています。展開部は小規模ですが確固としたソナタ形式の体裁をなしています。

作曲過程において興味深いのはD567とD568の関係です。1817年、シューベルトは、7番目のソナタを3楽章制で作りました。これがD567変ニ長調です。ところが直後にメヌエットを加え、一音移調して4楽章制に作り変えています。これがD568変ホ長調です。第1楽章は、輪郭のはっきりした第1主題と歌謡風の第2主題が対比、さらに第3の主題も登場するソナタ形式となっており、原曲(D567)からは提示部が大幅にスケール・アップされています。面白いのは第2楽章。原曲の第2楽章は嬰ハ短調で、主調(変ニ長調)とは同名異音調(エンハーモニック調)となっています。この流れからは嬰ニ短調とするのが自然ですが、実際はト短調に移調しています。ここにもシューベルトの試行錯誤のあとが見えます。第3楽章は、新たに加えた穏やかな曲調のメヌエット。第4楽章は、二つの主題がともに歌謡風の長調と短調、テンポがアレグロモデラート、リズムが流れのよい8分の6拍子と、シューベルトらしさが詰った音楽。展開部にも手を入れて充実させています。

シューベルトは、何らかの理由で、出来たばかりの曲を、全く新しい作品に作り変えてしまった。奏法の問題なのか、調性が持つ絶対的響きの問題なのか。その理由は、凡人には分からない天才の直感なのでしょう。ただ確かなことは、ここにもシューベルトのソナタに対する苦闘ぶりが窺えるということです。

(2)ソナタ形式って何?
ソナタ形式とは、イタリアの「ダ・カーポ」アリアから発展し、ドイツで完成された音楽の形式で、交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲、ソナタなどのどれかの楽章に用いられ、二つの主題を中心として[提示部―展開部―再現部]の三部から成る器楽曲の形式・・・・・ということになりますか。

ドイツの音楽学者パウル・ベッカーの「西洋音楽史」にはこうあります。「純粋に音楽史的な立場からいえば、即ち音楽形式の完成の過程から見れば、至高の音楽形式であるソナタ形式を作ったハイドンは、モーツァルトよりも重要な人物である」と。このようにドイツの音楽史観は、「ソナタ形式こそ最高の音楽形式であり、その創始者であるハイドンはモーツァルトよりも音楽史的には重要だ」ということになります。ハイドンが創始したというのも誤りなのですが、この歴史観の最大の欠陥は形式優先の思想です。いくら"音楽形式の完成の過程から見れば"という断り書きが付いているにせよ、「ハイドンがモーツァルトよりも重要だ」とする歴史観をそっくり是認するわけにはいきません。でもこれがドイツ音楽史観のバックボーンにあることは事実なのです。ハイドンからモーツァルトを経て育成発展した「ソナタ形式」はベートーヴェンで結実します。ですから、(ドイツ音楽史観からみての)史上最高の作曲家は、ソナタ形式を極めたベートーヴェン、ということになります。ベートーヴェンのソナタ形式の特徴のひとつに、二つの主題の性格の対比性があります。第1主題が勇壮なものなら第2主題は優美なものというように。これは、ヘーゲルの弁証法と結びつき確固たる歴史観となります。第1主題をテーゼ(主命題)に、第2主題をアンチテーゼ(対立命題)に准え、提示部で提示された二つの主題は、展開部で葛藤が行われ、再現部で解決され止揚されると。

シューベルトが、(1)で検証したソナタを書いた1817年頃までに、ベートーヴェンは第28番までのピアノ・ソナタを書き上げていました。その中には三大ソナタといわれる「悲愴」「月光」「熱情」をはじめ「テンペスト」ワルトシュタイン」「告別」などの名曲がすでに含まれているのです。ベートーヴェンは、1792年にウィーンに出てきて、亡くなる1827年まで住んでいたのですから、1797年ウィーンに生まれ、故郷を離れることなく1828年に亡くなったシューベルトは、生涯、楽聖ベートーヴェンと同じ空の下で暮らしたことになります。シューベルトは、生涯、史上最高の作曲家を意識せざるを得ない環境にあった。第3番D459の「5楽章構成」も第9番D575の「全楽章ソナタ形式」も、D567からD568への書き換えもシューベルトの試行錯誤の証です。それは即ち、ベートーヴェンとソナタ形式への挑戦だったのではないでしょうか。そうです、シューベルトにとって、ピアノ・ソナタを作曲するという行為は、偉大な先輩と形式という見えざる妖怪に対する闘争の歴史だったのかもしれません。

「Romanceへの誘い〜シューベルトはソナタが苦手?」はもうしばらく続けさせていただきます。次回その2は、更に名曲ソナタ(D845、894など)の魅力に踏み込んでみたいと思います。
 2009.08.03 (月)  Romanceへの誘いA「ドメニコ・スカルラッティとJ.S.バッハは同期の桜」
前回取り上げたフランクは、秋の海老原みほさんリサイタル・プログラムのエンディング曲。今回のドメニコ・スカルラッティはスタート曲。つながりはJ.S.バッハです。

フランクはJ.S.バッハを敬愛し、画期的なピアノ曲「前奏曲、コラールとフーガ」の冒頭主題にBACHのテーマを使っています。BACHのテーマこそ、大作「フーガの技法」の最終曲・未完の「四重フーガ」のモチーフ。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハはこの楽譜に「B−A−C−Hという名前が副主題として織り込まれる、このフーガの制作中に、その作曲者は亡くなった」と書いた。カール・フィリップはJ.S.バッハの二男で母はマリア・バルバラ。バッハの子沢山は有名で、このマリア・バルバラとの間には7人、二人目の妻アンナ・マグダレーナとの間には13人もの子供がいました。が、ドメニコ・スカルラッティも負けてはいない。最初の妻をなくした翌年、57歳で、若いスペイン娘と再婚、さらに5人もの子供を儲けている。なんとも精力的です。

ドメニコ・スカルラッティ(1685−1757)は、1685年10月26日、ナポリで生まれました。この年の3月21日にはJ.S.バッハ(1685−1750)も生まれており、二人は同期の桜ということになります。ドメニコの父はナポリ楽派の巨匠アレッサンドロ・スカルラッティです。

アレッサンドロ・スカルラッティ(1660−1725)はオペラの世界で大きな業績を残しています。彼が活躍した17世紀後半、イタリアにおいてオペラはすでに庶民の娯楽として根づき、ナポリでは4ヶ所ものオペラハウスがありました。発生当初はドラマの筋立て優先の形でしたが、徐々に歌唱力を競い合う傾向が強くなり、その頃には、一つの出し物の中に、なんと50曲ものアリアが入れ込まれるようになっていました。このハチャメチャな状況を整理して、後世に繋がるオペラ様式のスタンダードなモデルを作ったのが、アレッサンドロでした。改革の具体策は二つ。一つは筋を説明するレチタティーヴォと歌唱力を誇示するアリアの割合を規定すること。もう一つはアリアの形を、「ダ・カーポ・アリア」に統合することでした。"ダ・カーポ"とは頭からの意味。ABときて、Bの最後にD.C.と打つ、すると頭に戻ってAを繰り返して終わる。即ちABAという三部形式になる。これが後にドイツで完成した「ソナタ形式」の礎になるのです。ソナタ形式は[提示部―展開部−再現部]という3つの部分から成り立っていて、明らかにこの「ダ・カーポ・アリア」の形式を発展させたもの。しかしドイツ人は、"この誇るべき形式はイタリアに源があった"などとは、口が裂けても言わない。この辺の件は、わが敬愛する石井宏先生の「反音楽史」(新潮社)に詳しいので、よかったら読んでみてください。優秀で論理的ではあるが排他的なドイツ人の基本的な精神構造が見えてきます。反ユダヤ主義とゲルマン民族最優位を標榜して突っ走ったナチスの暴走も、このあたりに遠因があるのでは、という気にさせられます。

ドメニコは、父アレッサンドロから音楽の手ほどきを受け、徐々に実力を蓄えてゆきます。1701年、16歳のときには地元ナポリの王宮オルガン奏者・作曲家に抜擢され、職業音楽家として本格的なスタートを切りました。一方、J.S.バッハも1703年7月にはアルンシュタットの新教会のオルガニストに就任しています。これもまさにバッハのプロとしての出発点(これに因んで、この教会は「バッハ教会」と呼ばれています)。二人ともキャリアのスタートは教会のオルガン奏者だったのですね。

ドメニコは、この後1709年、元ポーランド王妃マリア・カシミーラの庇護を受けてローマで活動します。この時期彼は、ナポリ楽派の作曲家として、数々のオペラを上演しています。同じ頃(1708年)、J.S.バッハも、最初の長期赴任地ワイマールに移っています。故あってマリア・カシミーラがローマを去るとき、パトロンを引き継いだのが、ポルトガルのデ・フォンテス伯爵。ドメニコは、1719年、34歳のとき、フォンテス伯の引きでリスボンの大司教座教会の楽長に就任、同時にポルトガル王女マリア・バルバラの音楽教師となりました。このマリア・バルバラとの出会いこそ、ドメニコの以後の人生を決定付けた運命の出会いでした。マリア・バルバラといえば、J.S.バッハの最初の奥さんの名前。どこまでも縁のある同期の二人ですね。ドメニコは、1728年、やっと43歳で最初の妻マリア・カテリーナと結婚します。

1729年、王女マリア・バルバラがスペイン皇太子フェルナンドと結婚すると、アレッサンドロも同行してスペイン・マドリードに移住、終生この地で過ごしました。皇妃の音楽教師として。これは、皇妃が教師としてのドメニコを尊敬し、その音楽を愛した証でしょう。ナポリに生まれ、ローマ、リスボン、マドリードと3つの地に赴任したドメニコ・スカルラッティ。アイゼナハに生まれ、ワイマール、ケーテン、ライプツィヒとやはり3ヶ所を拠点に活動したJ.S.バッハ。イタリア人とドイツ人の違いこそあれ、同年生まれのふたりの生涯を辿ってみると、ここにも意外な共通点を見出すことが出来ます。

マドリードに移り住んでからのドメニコの人生は、マリア・バルバラの専任音楽教師としての色合いがより濃くなってゆきます。当時の宮廷音楽家は必ずオペラを書いたものですが、ドメニコが一作として書いていないのも、それを裏付けています。彼女にチェンバロを教え、ソナタを書くのが彼の生活のすべてでした。「ソナタ」(sonata)の語源はイタリア語の sonareで、これは"楽器で奏でる"という意味。したがってスカルラッティのソナタは、ドイツ古典派で言う大規模な形式による「ソナタ」ではなく、"楽器(チェンバロ)で奏でる音楽"という軽い意味合いなのです。因みに、反対語は「カンタータ」(cantata)。"歌う"という意味のcantareが語源です。

ドメニコは、かつて少年時代に、父に連れられてフィレンツェにメディチ家を訪問しています。メディチ家は、いわずと知れた、ルネサンスの中核となったイタリアの名門。目的はメディチ家への就職で、それは叶いませんでしたが、彼はそこで貴重な体験をしました。そこにはチェンバロ作りの名職人バルトロメーオ・クリストフォーリがいました。彼の作った最新のチェンバロは17歳のドメニコを魅了し、後のソナタの作曲に大きな影響を与えたのです。また、クリストフォーリはそれから数年後、チェンバロを改良して「ピアノ・フォルテ」を発明。これが今日のピアノの始祖となりました。

ドメニコは、生涯で555曲ものソナタを作っていますが、これらはすべてマリア・バルバラのために作曲したものといっても過言ではありません。彼女が弾くために、彼女に聞かせるために、彼女を喜ばすために、せっせとソナタを書いたのでした。生涯たった一人の女性のためだけに、自らの才能の全てをぶつけて、夥しい数のソナタを書き上げた、こんな事例は音楽史のどこにも見当たりません。これぞ職人の一徹さといわずして何と形容すればいいのでしょう。マリア・バルバラに出会った34歳以降は、その人のためにソナタを書くことが、何ものにも変えがたい喜びだった。そして、それ以上のことは全く求めずに、その境遇を楽しんだのです。

しがないラッパ吹きの子供に生まれ、常に環境と戦いながら、様々なジャンルにわたり幾多の名曲を世に送り出したJ.S.バッハ。ナポリ楽派の巨匠を父に持ち、マリア・バルバラと運命の出会いをしてからは、一生涯彼女に寄り添い、ソナタという唯一無二のジャンルに限定して、優雅に人生を送ったドメニコ・スカルラッティ。同い年の二人は、共通項もたくさんあるけれど、その人生の色合いは実に対照的です。

ドメニコ・スカルラッティのソナタは、全てが単一楽章の作品で、形式的にはほとんどが二部形式、演奏時間も一曲ほぼ2−5分程度と短いものです。そんな時間の中で、抒情的な旋律、煌びやかな和声、大胆な不協和音、転調の妙、激しいリズムなどが、それぞれ各楽曲に散りばめられ、豊かで多彩な作品群を形成しています。抒情的旋律はイタリアを、時に現れる激しいリズムはスペインを感じさせ、スカルラッティの生涯を投影しているかのようです。

海老原さんは、リサイタルのプログラムに、スカルラッティのソナタを2曲入れています。アップ・テンポのハ長調とスローなニ短調。対照的な2曲の内容を、プログラム・ノーツから引用してみましょう。
(1)ソナタ ハ長調 K.159
 構成は二部形式。冒頭に出る軽快で鮮明な主題が、変化しながら最後まで同じテンポで駆け抜けます。第2部に入ると、短調主題が登場しますが、また長調に転じ、曲を閉じます。煌びやかで速いテンポのパッセージに、転調による哀感が絶妙にブレンドされて、曲に独特の陰影を与えています。

(2)ソナタ ニ短調 K.9
 清新な短調主題が、まるで舟歌のように流れ、時にきびきびとした走句を交えながら、繰り返されます。後半は、長調で入りますが、めまぐるしく転調を重ね、静かな流れで曲を閉じます。「パストラール」の愛称があるように、穏やかな静けさが全体を包んでいます。
次回は、ソナタが苦手(?)なシューベルトが、晩年その枠をはずして書いた傑作「4つの即興曲作品90」にリレーします。

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海老原みほ ピアノ・リサイタル〜Romanceへの誘い

                     とき: 2009年11月14日(土) 15:00開演
                     ところ: JTアートホール アフィニス

                   D.スカルラッティ  ソナタ ハ長調 K.159
                                ソナタ ニ短調 K.9
                   F.シューベルト   4つの即興曲 D.899 Op.90
                   J.ブラームス    ワルツOp.39
                   C.フランク      前奏曲、コラールとフーガ

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海老原みほ公式サイト http://mihoebihara.com/ja/blog/index.html


 2009.07.20 (月)  Romanceへの誘い@「セザール・フランク二つの顔」
私が今回、フランクを取り上げたのは、旧知のピアニスト海老原みほさんが、今秋のリサイタルで、彼の作品「前奏曲、コラールとフーガ」を弾かれるからです。海老原さんはソロに室内楽に、国内のみならずアメリカ・イギリスなど、国際的に幅広く活動されています。奇をてらわず楽曲に真正面から取り組む真摯なピアニスト。強靭なタッチと磨き抜かれたテクニックで、スケールの大きい爽やかな音楽を作り出してゆきます。是非リサイタルをお楽しみに。詳細は巻末をご参照ください。

「大狂詩曲」「華麗なる変奏曲」「英国国歌にもとづく四手連弾曲」「エクス・ラ・シャペルの想い出」・・・これらはある作曲家の楽曲タイトルです。いかにも、派手なテクニックで演奏効果を狙った曲、と見受けられますが・・・。実はこれ、今回のテーマ、セザール・フランクが若かりし頃に作ったピアノ曲のタイトルなのです。

セザール・オーギュスト・ジャン・ギョーム・ユベール・フランクは、敬虔なカトリック教徒として、教会のオルガニストを勤めながら、人生の最後でその才能が開花し、名曲を残した作曲家。そのイメージは、地味、実直、内省的、禁欲的、宗教的、晩成型、努力型、などなど。これに対し、冒頭のタイトルからは、派手、外面的、超絶技巧、あたりのイメージが強く、これはリストを思わせるキャラ。そうです、フランクはまずリストのようなピアニストを目指した音楽家だったのです。

(1) ニコラ=ジョセフの野望
フランクの父ニコラ=ジョセフは、ベルギーはリュージュの貧しい一銀行員でした(ピアノの腕前はなかなかだったようです)。1822年に生まれたセザールが音楽的才能を示すと、コンサート・ピアニストに育てようとします、リストのような。リストは、1819年8歳の時には公開の演奏会を開き、フランクが生まれる前から既に神童と崇められていました。悪魔のヴァイオリン弾きと謂われたかのパガニーニが、ウィーンで一週間コンサートをやった時の稼ぎは、シューベルトが一生かかって得た収入も及ばなかったほどといわれています(誰がどう計算したかは知りませんが)。ことほど左様にヴィルトゥオーソ(超絶技巧演奏家)の稼ぎは作曲家とは比べ物にならないほどでかい。ましてやリストですから、その稼ぎはとてつもないものだったに違いありません。この様子を目の当たりにしていた貧乏銀行員の父親が、才能ある息子をリストのようなピアニストに育てて一儲けしたい、と企むのは無理からぬことでした。では、それに対して子供はどう反応したか?

モーツァルトは、5歳のときにはすでに、父親に連れられてヨーロッパ各地に出かけているので、それが当たり前の生活と思っていた。宮廷歌手の父が飲んだくれの無頼漢だったベートーヴェンは、反面教師として、10歳の頃にはもう一家の大黒柱として頑張っていた。先日急死したスーパースター、マイケル・ジャクソンの場合は、財産分与で父親を無視することで、幼年時代に受けた虐待の報復をした。人生いろいろ、息子も色々です。

セザールはとりあえずいい子だった。地味でおとなしい性格でしたが、父親の期待を一身に受けて頑張った。元々才能豊かだった少年は、1833年、11歳のときにはピアニストとして国内演奏旅行を行うまでになりました。34年地元の音楽院を卒業すると35年には一家を挙げてパリに移住(一家の期待の大きさが覗われます)、37年にはパリ音楽院に入学。38年のピアノ試験では名誉対象を受賞、40年にはフーガで第一等賞を獲得。これらの流れはすべて父親の采配によるもの。ところがこれが父の誤算を産むのです。

(2) 父との決別から傑作の晩年へ
花の都パリで音楽を学ぶうち、彼の興味はどんどん作曲に傾いてゆきます。目指すは「ローマ賞」。この賞は、1663年ルイ14世が創設した芸術家の卵に対する奨学制度で、音楽賞は1803年に追加され、廃止される1968年まで、フランス人作曲家の登竜門となっていた権威ある賞です(受賞者には、ベルリオーズ、ビゼー、ドビュッシーなど、錚々たる人たちがいますが、サン=サーンス、フォーレ、ラヴェルなど貰わずに大成した作曲家もいます)。さて、息子が「ローマ賞」を目指していると知った父親は大激怒。「一家で移住までしてお前をパリ音楽院に入れてやったのは何のためだと思っとるんじゃ。金にならん作曲などとっとと止めて、コンサート・ピアニストに専念せんかい」と言って、強引に学校を辞めさせ、ベルギーに連れ帰ってしまうのです。フランク20歳、1842年のことでした。父ジョセフはベルギー国内で自分のつてを頼りにコンサートを組み、無理やり息子をステージに立たせます。しばらくは活動を続けますが、元来内気で作曲家志望に変わっていたセザールのステージは、ピアノの申し子リストの魅力におよぶべくもなく、客は盛り上がらず父親の夢は徐々に萎んでゆきます。そして44年、セザールは音楽院に戻り、48年には結婚、ここで父親と正式に決別してしまうのです(結婚を機に父離れするのは、モーツァルトのケースによく似ています)。やはり、子供を親のエゴで押さえつけるのはよくないのですね。

その後セザールは、教会のオルガニストとして生計を立てながら、好きな作曲に集中します。あるときはオペラを書きますが、オペラハウスは取り上げてくれない。またあるときは妻の勧めで教会音楽を書きますが、成功とは言い難い出来。「ローマ賞」の資格上限年齢30歳も過ぎてゆきます。面白いのはピアノ作品。1845年の「3つのなぐさみごと」以来プッツリと書かなくなってしまうのです。恐らく無理強いした父親とのしがらみをキッパリと断ち切りたかったのでしょう。そして53年には過労のため作曲を中断してしまいます。

1858年、パリはサン・クロティルド教会の合唱長になって作曲を再開。「6つの小品」などのオルガン曲、「3声のミサ」、「天使の糧」、「来れ創り主」などの教会音楽、「バベルの塔」「8つの幸い」などのオラトリオなど、この時期は、職業を反映した作品が並んでいます。1866年、「6つの小品」のオルガン演奏を聞いたリストが「バッハ以外に並ぶのもない作品」と激賞したそうですが、これは当時の大きな誇りだったことでしょう。でもまだ後世に残る名作は誕生していません。

作曲で才能が開花したのは晩年のこと。「前奏曲、コラールとフーガ」(1884)、「交響的変奏曲」(1885)、「前奏曲、アリアと終曲」(1886)、「ヴァイオリン・ソナタ イ長調」(1886)、「交響曲 ニ短調」(1888)、「弦楽四重奏曲 ニ長調」(1890)、「3つのコラール」(1890)などの傑作は、すべて60歳を過ぎてからの作品です。中でも「ヴァイオリン・ソナタ」は、比類のない美しさと抒情性と気高さとが渾然一体となった、古今のヴァイオリン・ソナタ中の最高峰ですし、「交響曲 ニ短調」はドイツ的重厚さとフランス風色彩感が、生涯追求した循環形式の中で、最高の完成度を持って結実したフランク究極の作品です。しかし、私が注目したいのは「前奏曲、コラールとフーガ」です。この曲こそ1845年以来ほとんど書くことのなかったピアノ曲の大作なのです。

(3)「前奏曲、コラールとフーガ」と海老原みほプログラム
フランク久々の本格的ピアノ曲「前奏曲、コラールとフーガ」は、1884年、62歳のときに作られました。1845年以来ですからなんと約40年ぶりとなります。ピアノに対するトラウマがいかに強烈だったかの証でしょう。納得できないヴィルトゥオーソへの道にどこまでも固執した父親への憎悪が晴れるまで、この真面目で不器用な音楽家は、最晩年まで待たなければならなかったのかもしれません。また、不本意な曲しか書いていなかったピアノ曲をここで総括しておきたかったのかもしれません。いずれにしてもこの曲以降、フランクは傑作の森に分け入ってゆくことになるのです。

曲は3つの部分で構成されており、休みなく演奏されます。「前奏曲」では、アルペジオを伴って最初に現れる動機(J.S.バッハ「未完のフーガ」の"BACH"動機に酷似しています)を中心に、フーガ主題も交えて、転調しながら楽想が盛り上がり、クライマックスを迎えます。「コラール」では、敬虔なコラール旋律が短調で3度出てきますが、その間に導入句や挿入句が入る"コラール幻想曲"の様相を呈しています。続く「フーガ」はかなり長大なもの。清澄さと熱っぽさ、穏やかさと力強さ、めまぐるしさと落ちつきなど、相反する感情が自然な流れの中で息づいています。何度か呼び出されるコラール旋律は、最後には長調に転じ、堂々と曲を閉じます。その響きはオルガンに、その精神は敬愛するバッハへと繋がっているようです。また、「前奏曲」や「コラール」の中で「フーガ」の主題を暗示したり、「フーガ」において、コラール旋律が前奏曲のモチーフに絡んで現れるなど、フランク晩年の傑作に共通した「循環形式」の手法も見え隠れしています。

フランクには二つの顔がありました。一つは若いころヴィルトゥオーソを目指して慣れないコンサートに明け暮れていたときの不本意な顔。もう一つは、晩年、全てが吹っ切れて真の作曲家として傑作を残した本来の顔です。その境目となったのがピアノ曲の傑作「前奏曲、コラールとフーガ」なのです。フランスの名ピアニスト アルフレッド・コルトーは、「『前奏曲、コラールとフーガ』こそ、無人島に持ってゆきたい数少ない楽譜の一つ」と言っています。

海老原さんはこの曲をリサイタルの最後に置いています。リサイタルのサブ・タイトルは「Romanceへの誘い」。日本語で「ロマンス」と書くとやや通俗的な匂いがしますが、英語の「Romance」には憧憬という感覚が付加されて、プログラムにピッタリと嵌ります。D.スカルラッティに始まって、シューベルト、ブラームスを経てフランクで締めるというプログラムも実に魅力的です。なぜなら各々の楽曲が見えない糸でつながっているからです。例えば、フランクが敬愛し、「前奏曲、コラールとフーガ」の第1楽章でテーマに使ったJ.S.バッハはD.スカルラッティと同年生まれとか、などなど。今週から、見えない糸を手繰りながら、リレー方式で「海老原みほ Romanceへの誘い」シリーズを連載します。次回は、「ドメニコ・スカルラッティとJ.S.バッハは同期の桜」です。どうぞお楽しみに。

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海老原みほ ピアノ・リサイタル〜Romanceへの誘い

                     とき: 2009年11月14日(土) 15:00開演
                     ところ: JTアートホール アフィニス

                   D.スカルラッティ  ソナタ ハ長調 K.159
                                ソナタ ニ短調 K.9
                   F.シューベルト   4つの即興曲 D.899 Op.90
                   J.ブラームス    ワルツOp.39
                   C.フランク      前奏曲、コラールとフーガ

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 2009.06.29 (月)  茂木健一郎氏クオリア的冬の旅――3
もしかして、私、清教寺茜は揚げ足取りキャラなのか、過去ご好評いただいたものは「小林秀雄を斬る」「吉田秀和を斬る」など、圧倒的に"人斬りモノ"でした。現在連載中の「茂木健一郎氏クオリア的冬の旅」もこのジャンルに入るので概ね好評なのですが、反面、「ちょっと生ぬるいんじゃないの、もっと徹底的に斬ってよ」という声も少なからず頂いております。別に手を緩めているつもりはないのですが、彼は音楽的には素人なので、小林、吉田両先生に対するほど燃えてないのも事実です。とはいえ、茂木先生のこのところの出しゃばり様は、若干目に余るので、最終回の今回は多少辛口に転じてみましょうか・・・。

(5)聖トーマス教会
バッハは、1723年から亡くなる1750年までの間、ライプツィヒ聖トーマス教会第14代のカントルとして活躍しました。カントルは普通"合唱長"と訳されますが、事実上の市の音楽監督であり、毎週教会暦に従ってカンタータの作曲・演奏を行うなどその任務は多忙を極め、教会音楽を中心に幅広い音楽活動を行いました。バッハ礼賛者は、「バッハはその信仰心から晩年の赴任地をライプツィヒに定め、神の御心に従って宗教音楽の作曲に専念した」と美しくまとめようとしますが、実際の事情はかなり違うようです。その辺の件は今回の主旨から外れますので省かせていただきます。

さて、茂木先生は、旅も終わりに近づいたある日、聖トーマス教会の前に佇んで、こう述べておられます。
「聖堂の主要部の石造りの風合いは、教会というものが心にどのような刻印を残すかという私たちの観念にきれいに適合している。一方、塔を中心とした白い部分は、「謹厳」よりは「溶解」、「峻別」よりは「抱擁」を旨としているかのようで、若々しい女性的な印象を与えた。そのコントラスト。まるで石畳の都会を離れて緑あふれる郊外の丘に遊んでいるかのような、そんなうきうきとした心の動きが引き起こされる。バッハはさまざまな顔を持つ人だった。一方では『マタイ受難曲』や『ロ短調ミサ曲』のような構えの大きい宗教曲を作り、他方では『コーヒー・カンタータ』のような戯れに満ちた世俗曲を残したバッハ。その日々の仕事の場として、目の前に建つ聖トーマス教会はいかにもふさわしかった。」
先生が、聖トーマス教会の聖堂の石造りと塔のクリーム色のコントラストを感知して、"峻別"と"抱擁"という相反するものに思いを馳せたのは、まあ、解るような気がします(写真を見ただけですが)。しかし、それを、バッハ作品の多様さにリンクさせたのは、いかがなものでしょうか。これがバッハ特有のものだったら問題はありません。でも、これは、バッハに限らず古今の大作曲家なら誰でも持っている特徴なのではないでしょうか?例えば、「エリーゼのために」と「第九」のベートーヴェン、「スカトロジー・カノン」と「ドン・ジョヴァンニ」のモーツァルト、「子守歌」と「ドイツ・レクイエム」のブラームス、「ジークフリート牧歌」と「指環」のワーグナーなど、それぞれに対比際立つ好例が並びます。「コーヒー・カンタータ」と「マタイ受難曲」の対比に感嘆しているようでは、ちょっと音楽史の勉強が足らないのではと心配になります。

歴史といえば、マルティン・ルターが1539年5月25日、精霊降臨節(ペンテコステ)に、この聖トーマス教会で歴史的な演説をしたのを先生はご存知でしょうか。

ルターとライプツィヒの関係には深いものがあります。1521年、ヴォルムス帝国議会でルターが異端者とされたあと匿われるのは、ザクセン・ライプツィヒのヴァルトブルク城。その後もルターはザクセン選帝侯から強力な庇護を受け、改革を推し進めてゆきました。その真只中で行ったのが「トーマス教会の説教」です。改革に手応えを感じていたルターは、自らの信念に基づき、ローマ・カトリックへ警告を発し、プロテスタントの理念を力強く説きました。この演説によってライプツィヒはルターを勝利の英雄として熱狂的に迎え入れたのです。

「魂のリレー」がこの旅の主要テーマなら、このライプツィヒでのルターとバッハの決定的な繋がりを見落としてはいけないと思うのです。バッハ縁の教会に佇んで、音楽史的常識を殊更特別視して、"いかにもふさわしかった"なんて暢気な感慨に耽っている暇があったら、この史実をしっかりと把握していて欲しかった。せっかく現地に行って真実を見ようとされているのですから。

(6)「あとがき」も気になって
最後にもう一つ、気になる箇所が「あとがき」にありました。先生はこう述べられています。
「しかし、こんなことがあった。東京に戻ってしばらくしてから、バッハの『ゴールドベルク変奏曲』を聴いた。耳を傾ける中で、心の中での音楽の響き方が、今回のドイツの冬の旅の前とはすっかり異なっていることに目を啓かされたのである」
先生は、即ち"ドイツ旅行の後では「ゴールドベルク変奏曲」の響き方がすっかり異なっていた"と述べられています。この記述に私は「どう違って聞こえたか」が気になり、期待で胸は高鳴りました。ところが、先生の記述はこのままで終わってしまう。"違い"にはまったく触れずじまいで。これには心底がっかりしました。違って聞こえたなら、どう違っていたのかを話してくれて然るべきではないでしょうか。
心ある筆者だったら、ここまで書けば必ず"具体的には・・・"と続けて書いてくれるものです。なぜ書かないか?それは書けないからなのです。先生ほど物事の説明に長けておられる方ならば、感知したことは必ず説明してくれるはずですよね。それがないということは、"違って感じた"のは"ただなんとなく"でしかなかったのでしょう。だったら解ったふりをして「異なっていることに目を啓かされた」なんて偉そうに書いてほしくない。そんな態度は、真剣にバッハを、「ゴールドベルク」を愛し究明しようとしている真の音楽愛好家に対し失礼です。

「ゴールドベルク変奏曲」は不思議な魅力を秘めた曲です。成立の謎はさておいても、興味尽きることはありません。その構造は精緻を極め、その佇まいは宇宙を思わせる深淵な規則性に支配されています。アリアに挟まれた30の変奏。その、1・4・7・・・28、2・5・8・・・29、3・6・9・・・30の10曲づつの各列の姿。第1列は様式の変遷。第2列はテクニックの難易度。そして第3列は、2声のカノンの間隔が規則正しく1度づつ上昇する整然性。しかし9度まででピリオドを打ち、10曲目で当時のはやり歌様式の「クオドリベット」を挿入してアリアにつなげる妙味。頭の中を3曲区切りにしながら、列の意識も持って、注意深く聞かないと、バッハの意図が見えてこない。そうして、最後になり、宇宙を彷徨って疲れ果てた"脳"に、第30変奏が急に下世話で庶民的な旋律をもって流れ出す。この驚き、だが安堵感。なぜバッハはここにこんなものを?そしてアリアが、出だしと全く同じ形で現れ回帰し、真の安息がそこに生まれる。規則的に整然と変化しながら、なにか異物も混入して、彷徨った挙句また元に戻る永続性。私は、最近、おぼろげながら分かってきたような気がしています。

(7)あきれた対談
葉加瀬太郎というヴァイオリニストがいます。あまり興味のある存在ではありませんが、先日ネットを見ていたら、彼がレギュラーで出演しているJ−WAVEの番組で、なんと茂木健一郎先生と対談していました。凄いぞ先生。テレビだけじゃなくラジオにまで進出とは。
葉加瀬「バッハに対する造詣はいつごろからお持ちなのですか?」
茂木「中学くらいの時にホフスタッターの書いた『ゲーデル・エッシャー・バッハ』を読んで。ゲーデルは数学で『不完全性定義』を証明した人で、エッシャーは有名な『無限階段』のエッシャー。それをバッハのフーガとかを例に、これらは数学的に似た構造だと」
これなんか、こっちが知らないからと思って、いい加減で曖昧な表現に終始していますね。ちょっとムカつきます。ゲーデルのは「定義」じゃなくて「定理」です。まあ、そんなことより、私がおかしいと思ったのは、先生がこれを"中学時代に読んだ"という件。ホフスタッターの「ゲーデル・エッシャー・バッハ〜あるいは不思議の環」は1979年の刊行。先生は1962年生まれですから、17歳のときですよね。アメリカで刊行されて、どんなに早く取り寄せても、中学時代には間に合いませんけど。頭脳明晰な先生が、中学か高校かを、忘れるはずもないでしょうし。この見栄っ張りが! まあ、高校と訂正されてもいいのですが、それにしても原語で読まれたのでしょうね、流石先生、並じゃない! 一般の日本人がこの書に注目して秘かなブームとなったのは、和訳が白揚社から刊行された1985年以降のこと。先生はもはや大学院で研鑚中のころでしょうか。まっ、原語で読まれた先生に和訳は必要なかったでしょうが。

とはいえ、これは凄い本です。凡人の私には、ビックリするくらい難解で長大な本です。日本語訳を手にとってみましたが、B5サイズで700ページを越える超重量級。こんな本を、中学(高校)生のときに、しかも原語で、先生は本当に読まれたのですか?

こんな本を、中高生あたりの洟垂れ小僧が原語で読んで、果たして理解できるのでしょうか。著者ホフスタッターが「15歳の頭のいい連中に読んでもらいたい」と言っているのはほとんど洒落か、アインシュタインやホーキンス博士クラスの子供を対象にしているのだと思いますよ。しかもこの本は、バッハの入門書なんかじゃない。あくまでゲーデルの定理や計算機科学や人工知能あたりが軸であって、バッハの音楽は、これらを説明する手段(繋ぎ)としての扱いじゃないですか。確かに「音楽の捧げもの」のカノンが、「不完全性定理」や「無限階段」と同じ無限性の象徴として取りあげられてはいますが、中心ではない(しかも先生、「フーガ」ではなく「カノン」ですから、念のため)。そういう本からバッハへの興味を持ち始められたのですから、並じゃない。私なんざ、少年少女世界の伝記「音楽の父バッハ」からですものね。エリートはやっぱり違いますな。

対談はまだ続きます。
茂木「小泉首相と麻生首相の人気の差は、言葉の音楽性の差にあるのではないか。小泉さんの言葉は音楽として力があって、それで支持率に差が出るのであれば、もっとみんな音楽を学んだほうがいい」
なんじゃこりゃ。小泉が人気を取ったのは「断定的キャッチ・コピー話法で白黒ハッキリした話し方をして、馬鹿なマスコミがそれに乗り、バカな大衆がつられた」だけ。麻生の人気がないのは「バカなだけ」です。先生、洒落ならいいけど、マジだったらホント、頭ん中を疑いまっせ!

それから、葉加瀬さん、「ライプツィヒは僕行った事なくて。何しろバッハが生まれた所ですが、どんなところですか?」はないでしょう。バッハが生まれたのはライプツィヒじゃなくてアイゼナハですよ。世界的ヴァイオリニスト(?)が、バッハの生地と没地を取り違えては困ります。茂木先生も、行ってきたばかりなんだから、訂正くらいしなさいよ。ゲストもゲストだけれど聞き手も聞き手。もっと真面目にやれぇー。日本文化よ嗚呼情け無し。

このあとは、ワーグナーとブラームスの話が噛み合わず、茂木先生のコメントが全く内容なく続きますがもうこの辺で止めましょう。馬鹿馬鹿しいので。興味のある方は、J−WAVE「ANA WORLD AIR CURRENT」ホーム・ページをご覧ください。ウンザリすること請け合いです。

では、最後に一言。茂木先生、もういい加減、音楽の話は止めにしていただけませんでしょうか。テレビもラジオも本も。私が触れたもの何一つマトモなものはありませんでした。そこには実証精神の欠片もなく、その表現は曖昧でナルシスト的筆致で充満しています。小さい頃から、頭のよいお坊ちゃんとして、スクスクと育ってこられたのでしょう。そして、どこかで"まやかし型ハッタリ話法"を身につけられたのでしょう。「専門語を散りばめて勢いよく喋っていれば、他人様は"凄い"とか言って尊敬してくれるもの。例え中味が分かっていなくても」ってね。こんな調子で先生は、素人音楽ファンを啓蒙しているつもりかもしれませんが、このような軽い浅はかなコメントに終始されていては、芸術の本質をいたずらに見誤らせる結果を生じるだけ。私たち音楽愛好者の側から見れば、百害あって一利なしなのです。それよりも何よりも、こんな副業ばっかりやってらして、ご専門の「脳科学」研究の時間はあるのでしょうか。私はそちらのほうが心配になります。

ラ・フォル・ジュルネのアンバサダーをやるのも、冬のドイツに旅して音楽の本を書くのも、葉加瀬太郎とFMでお喋りするのも、「題名のない音楽会」で講釈述べるのも、「名曲探偵アマデウス」で薀蓄傾けるのも、百歩譲ってよしとしますか。ならばまず、本業をしっかりやってからにしていただきたい。手始めに、斎藤環先生に返信を送られてはいかがでしょうか。ちゃんとした医師と正面から意見を戦わせることによって、本業における自らの力量が測れることでしょう。すべてはそこから始まります。己を知ることから。今の無節操暴走状態は、先生の未来に対し決して光明をもたらすものではないことを、はっきりと申し上げておきます。真摯に本業に打ち込んでこそ、道は開かれるのです。先生のご健闘をお祈り申し上げます。

 2009.06.22 (月)  茂木健一郎氏クオリア的冬の旅――2
(3)茂木氏の「魂のリレー」の実証性
茂木健一郎先生の著書「音楽の捧げもの」によれば、「ルターからバッハへの魂のリレー」を感知したのは、アルンシュタットのバッハ教会だったようです。そこでバッハのオルガン曲に身を委ねているとき、「魂のリレー」に思い至ったとのこと。教会の空間を満たすバッハの荘厳な響きが、正義の改革者ルターのコラール(讃美歌)と重なり合ったのでしょう。実に羨ましい体験です。この場において先生の脳内は崇高なクオリアに満ち溢れていたことでしょう。先生の「魂のリレー」についての記述は以下の通りです。
「バッハ教会の中で、現代の名手によるパイプ・オルガンの演奏を聴く。魂を慰撫する極上の時間の流れの中で、音の響きに耳を傾けている時に一つのインスピレーションが訪れた。
人類の精神史の中に吹いた清新なる風のようなルター派の信仰。そのような時代の『後押し』があったからこそ、ヨハン・セバスティアン・バッハは、音楽を通して『神の栄光』に向き合うという精神運動に真剣に取り組むことができた。バッハの求道者的な勤勉は、歴史的な『一回性』の下でこそ成り立った。その音楽があれほどまでに遠くへと私たちの魂を運んでいく力を持つのは、その背景となる信仰心の純なるゆえである。
マルティン・ルターは、教会の儀式における音楽の役割を重視した人であった。ルター自身が、会衆によって歌われる『コラール』を作曲している。
ルターからバッハへ。その『魂のリレー』に、アルンシュタットのバッハ教会の中で思い至った。二人の天才の間をつなぐ虹の橋。奏でられる恵みに満ちた調べを、私たちは今日も聞いている」
"求道者的な勤勉""歴史的な「一回性」""信仰心の純なるゆえ""虹の橋"そして"魂のリレー"など、意味ありげで耳触りのいい文言がいっぱい並んでいます。サラっと読めば美しい文章なのかもしれませんが、いかんせん抽象的で実証性に乏しい。「魂のリレー」は、教会でパイプ・オルガンの響きを聞きながら閃いたようですが、これは単なる直感です(先生も"インスピレーション"と仰ってますしね)。何を以って「魂のリレー」というのかがサッパリ見えない。柳田國男によれば、根拠の裏づけのない想像を空想というそうですが、先生の「魂のリレー」もその空想に近いものがある。

私は直感とか勘とかの働きを否定するものではありません。人間に備わった有用な能力の一つだと思っています。しかるにこれらを働かせるときは、実証を重ねた最後の時点であるべきです。他人が物事に納得するか否かは実証の客観性にかかっています。言い換えれば根拠の有無です。先生の「魂のリレー」説ではこの部分が完全に欠落している。だから、先生大好きのファンにはいいかもしれないが、一般的にはいかにも説得力に乏しいといわざるを得ません。

「魂のリレー」はこの本の核心部分です。だからこそ、少なくともこの部分くらいには客観的根拠があって欲しかった。先生ほどの頭脳の持ち主なら、ちょっとその気になればできるはずなのに、残念です。お忙しすぎるのでしょう。せっかく、ルターが"「儀式」において音楽を重んじコラールを作っている"ところまで漕ぎ着けたのですから、もう一歩突っ込んでいただきたかったと思うのは私だけでしょうか。

(4)「魂のリレー」の私的考察
それではこの「魂のリレー」について、お忙しい茂木先生になり代わって、暇な私が検証させていただきます。キイ・ワードはルターのコラールとバッハのカンタータです。

教会カンタータはドイツのプロテスタント教会の礼拝時に演奏される音楽です。礼拝に集まった会衆は、牧師の説教とともにカンタータの演奏を聞きます。説教は教会暦に基づいて行われますから、カンタータもそれに則った内容のものとなります。例えば、降誕説(クリスマス)にはキリストの誕生を、復活節(イースター)ではキリストの復活を、という具合に。楽曲は、オーケストラ曲、レチタティーヴォ、アリア、それに合唱曲、コラール(プロテスタント教会の讃美歌)で構成されているのが一般的です。

バッハは教会カンタータを300曲以上作ったようですが、現在残っているのは200曲あまり。中でも生涯最後の赴任地ライプツィヒの聖トーマス教会カントル(合唱長)の時代には、週一曲のペースで書いていた時期もありました。

ルターの宗教改革における大きな目的の一つに、"カトリック教会の腐敗を正し民衆に真の宗教行為を取り戻す"ことがありました。それは贖宥状(免罪符)の廃止と礼拝の改革に現れます。"神のもとで人はみな平等"とする改革理念に基づく"万人祭祀"の考えは、会衆の礼拝での積極的参加を促し、声を合わせて讃美歌を歌うことを奨励します。ルターが音楽を重視しコラールを作曲したのはこのためです。

ルターは、会衆みんなが歌えるドイツ語によるコラールを36曲ほど作曲していますが、中でも「神はわが櫓」(Ein feste Burg)は最も有名な曲の一つ。「神はわが櫓、わが強き盾、苦しめるときの強き助け」と神の栄光を力強く謳いあげるこのコラールは、聖書の詩篇第46章の詩にルターが曲をつけたもの。その旋律はシンプルにして力強く、まさに正義の革命者ルターの精神を表象しています。バッハはこの「神はわが櫓」を基にしてカンタータ第80番「われらが神は堅き砦」を作曲しました。

カンタータ「われらが神は堅き砦」は8曲構成。コラール「神はわが櫓」はその第1曲、2曲、5曲、8曲に使われています。第1曲は合唱で大規模なコラール幻想曲の体。交錯するフーガの中にルターの旋律が自在な形をとりながら現出します。第2曲はソプラノとバスの二重唱。コラール旋律はソプラノ・ソロにはっきりした形で現れます。第5曲は「コラール」。合唱のユニゾンが「悪魔世に満ちて よしや脅すとも 我らは恐れじ 神は味方なり」とルター・コラール第3節を不屈の闘志を持って熱く歌いあげます。まさに旧弊に立ち向かう改革者ルター不屈の精神が漲っています。第8曲(終曲)はコラール第4節「神は御心と御恵とをもて 常にわれらに味方したもう」を高らかに歌って全曲を結びます。

バッハはカンタータ「われらが神は堅き砦」を10月31日改革記念日のために作曲しました。1517年10月31日、ルターはヴィッテンブルク城教会の壁に「95ヶ条の提言」を打ち付けて宗教改革の意思を顕示、これが全てのスタートとなったのです。バッハが、このプロテスタント教会最重要記念日のために作ったカンタータに、ルターのコラールを使ったのは必然であり敬意に他なりません。

ルター「95ヶ条の提言」関連のもう一つの例証として、カンタータ第79番「主なる神は日なり、盾なり」を取りあげたいと思います。この曲もやはり宗教改革記念日のために作られた作品で、1725年10月31日ライプツィヒで初演されています。

このカンタータは6曲構成。その第1曲は詩篇84の第11章「主なる神は日なり、盾なり 主は恵みと栄光を賜いて、正しく歩む者に良きものを拒みたもうことなし」を用いています。 輝かしくも荘重なオーケストラの全奏が始まると同時に、ティンパニーが8分音符を刻んでゆきます。この打音は第1曲全体にわたって鳴り続け、その数は300打を超えます。これこそルターがヴィッテンブルク城教会の壁に「95ヶ条の提言」を打ちつけた槌の音を擬しているといわれています。これは第3曲で再び現れたあと、終曲では4分音符となり、「提言」の掲示が確信へと変わって曲を閉じます。

カンタータ第79番と第80番。バッハは、ルターの神へのキリストへの民衆への純なる思いを喚起しながら、これらを書いたのでしょう。ルターへの敬愛と熱い想い。この2曲のカンタータを聴いているとそんなバッハの胸の内がひしひしと伝わってきます。200年の時空を超えて、ルターの精神がバッハに降臨した、これこそ「魂のリレー」の例証です。

さらにもう一つ、それは畢生の大作「ミサ曲ロ短調」との関連です。
これまでの人生を通して感じてきた様々な感情、神の栄光、イエス・キリストへの感謝、人間愛などを、習得した全ての技法を駆使して書ききった「ロ短調ミサ曲」こそ、バッハ音楽の集大成であり最高の傑作だと私は思っています。
その冒頭「主よ憐れみたまえ」のなんとも言いようのない響き。地の底から何かを訴えるような異様な響き。私たちはこの瞬間、即座に深遠なバッハの世界に引き込まれてゆくのですが、この旋律こそがルターの「ドイツ語ミサ」のコラール旋律に基づくものなのです。「ドイツ語ミサ」は、1526年、ルターが考える礼拝のあるべき姿を初めて形に示したもので、これによって彼の唱える礼拝改革の体裁が整いました。まさに「ドイツ語ミサ」こそ、ルターの典礼における精神基盤ともいうべきもの。バッハは、このルター精神の源泉ともいうべきコラール旋律を、人生最後の作品に引用したのです。

私たちは、これらの曲を聞いていると、ルターからバッハへ繋がる気高く強い一本の糸を実感します。ルターのコラールからバッハのカンタータへ、そして会衆へと。「元気を出せ 神はいつも味方だ」という声が聞こえてくるようです。これこそが「魂のリレー」の普遍の証なのではないでしょうか。茂木先生は"物事の本質は現場に行かないと見えない"とおっしゃっていますが、その前にもっと日本で基本を押さえる勉強をして欲しかった、もっときちんと音楽そのものを聴いてほしかった、そう私は思います。ラ・フォル・ジュルネ2009のアンバサダーなのですから。
 2009.06.15 (月)  茂木健一郎氏クオリア的冬の旅――1
昔、泉谷しげるで「おー脳」という曲がありました。梅毒にかかって脳にキタという物騒なものでしたが、現在「脳」といえば、なんといっても脳学者茂木健一郎先生です。その活躍振りは誠に目覚しいものがありますが、先般週刊文春に気になる記事が載っていました。「茂木健一郎さんの頭の中が心配です」とのタイトルで、斎藤環さんという精神科臨床医が書いたもの。では、その記事に私の考察を加えて、以下。

(1)茂木健一郎対斎藤環
茂木氏の「クオリア論」によれば"人間の認識と行動は、脳の働きによって支配される。そこには「クオリア」というものの存在がある"という。ところで「クオリア」って何?qualiaは「感覚質」と訳される。それは"脳が感知する質感"のことらしい。例えば、バッハの音楽を聞いたときに感じる「バッハのバッハらしさたるモノ」といえば分かりやすいでしょうか。それにしても感覚的だあ!

一方、斎藤氏の学問的立脚点はラカン的思想とか。ジャック・ラカンはフランスの精神分析学者で「人間は空虚な"es"(MR.CHILDRENのヒット曲にありましたね)の上に他人との関わりにおいて徐々に自己を確立してゆくもの」言い換えれば「欠如した主体の周りに構築された幻想の一種」という考え方の持ち主。即ち他者によって確立される自己。

茂木氏は「クオリアによって価値が決まる。クオリアは先験的に決定されている。」と言っているようです。即ち先験的自己愛型主体ありきの世界。

「人間の価値は、先験的に形成されたクオリアの純粋さに拠る」とする茂木氏の概念と、「人間とは欠如した主体の周りに構成された幻想」とする斉藤氏のそれは、真っ向から対立するものと見て取れます。

これらを踏まえて、斉藤氏は茂木氏にこう打ってでます。

「脳科学」も「精神分析」も未開の分野で、現段階では仮説と解釈の集積に過ぎず、この状況は今後50年は続くだろう。言い換えれば、現在の「脳科学」全てを動員してみても、人間の社会的行動を直接的に説明することは出来ないはずである。
ところが、昨今の茂木氏の活躍ぶりや断定的な物言いは、まだまだ未成熟なこの分野に過剰で誤った認識を与えかねない勢い。だから、精神科医の立場で脳学者茂木健一郎に問いたい「脳科学は人間の社会的行動を説明できるのか」と。対談形式では「結論先送りの穏やか着地」になりそうなので意味をなさない。純粋に学問的な議論にしたいから。また、この議論が、最終的にパラダイムの共役不可能性に直面したとしても、それはそれで意義があろう。しからばネット上での往復書簡の形はどうか・・・と斉藤氏が提案。そしたら即、茂木氏から「了解」との返事がきた。ならばと斉藤氏は「脳は心を記述できるのか」という題目でネットに掲載する。これが2007年6月1日だったが、未だに返答はない。そこで「一旦承知しながら2年間なしのつぶてとは、茂木さんの脳の中が心配です」となった次第なのです。

斎藤先生はこの文を「いつまでも、手紙の返事をお待ちしています。涙目で」と穏やかに締めていますが、本当は「一旦OKしておきながら、2年もの間音沙汰無しとはいかがなものか、売れっ子脳学者先生。これは無視でしょうか、それとも敵前逃亡?」と怒りと茫意をもってお訊きになりたい心境なのではないでしょうか。(この斎藤氏の書簡は「双風舎」HP双風亭日乗2007年6月1日付で掲載されています。企画自体は茂木氏の無視のため終わってしまったようなのですが)

たしかに現在の脳ブームは凄まじいものがあります。"右脳"だ"左脳"だ"クオリア"だ"ドーパミン"だ。これも茂木先生の功績? 極めつけはキムタクが脳学者に扮する新ドラマ「MR.BRAIN」。こんなドラマが出来たのも脳ブームのせいでしょう。でも第一回目の内容はちょっとお粗末でしたね。犯人の主張するアリバイを脳内検診だけで覆しちゃうのですから、これじゃ、刑事は現場へ行かなくなっちゃうぞ。

そんな折、奈良に住む音楽仲間のひとりから「茂木健一郎なる脳学者が『音楽の捧げもの〜ルターからバッハへ』という大層なタイトルの本を書いたみたいだ。最近門外漢が変なものを書いて不愉快極まりない。お前さんのしつこさと毒舌で是非叩いてくれないか」とメールがきました。売れっ子脳学者を叩くなんて、気の弱い私にできる訳もありませんが、あの方も音楽好きだったんだと、妙な近親感を覚え、しかもテーマがバッハなんで、さっそくその本を買って読んでみました。そうしたら・・・?

(2)茂木健一郎氏の最新著作「音楽の捧げもの」
この本のカバー裏にはこうあります〜大作曲家J.S.バッハの素顔を求めて、真冬のドイツへ。そこで見出したのは、音楽の父の知られざる姿。忘れかけていた若かりし情熱。そして宗教改革を成し遂げたルターから二百年の時を超えて受け継がれた「魂のリレー」だった。

バッハの知られざる素顔か、ウーン楽しみ。茂木先生の忘れかけていた若かりし情熱、これはどうでもいいや。ルターとバッハ「魂のリレー」、なんと美しい!実に興味津々。

この本にはドイツの地図が載っていて、5つの都市に印が付いています。これと本文を照合すると、茂木先生がこの冬、これらの都市を歴訪されたことが分かります。(多分)わずか一週間足らずで。アイゼナハ、ワイマール、ライプツィヒ、エアフルト、ヴェヒマール、アルンシュタット、すべてバッハ縁の地。さて先生はそこで何を感じられたのでしょうか。

一行はJ.S.バッハ生誕の地・アイゼナハへ。そこにはルターが滞在していたという「ルターハウス」や説教をした「ゲオルク教会」があります。「ゲオルク教会」はバッハが洗礼を受けたところでもあり、ドイツ精神史上類稀な二人の偉人が、200年のときを隔てて交錯した地点です。"物事の本質は現地へ行かなければ見えない"という先生の哲学が真実味を帯びてきます。

アイゼナハに生まれたバッハでしたが、10歳の頃両親に相次いで先立たれ、オールドルフに住む兄ヨハン・クリストフに引きとられます。バッハはここの高等学校でルター正統派の神学を学びました。少年バッハのナイーブな心に高邁なルターの精神が初めて投与されたのです。もしかしたら「魂のリレー」というテーマに最も相応しい都市はこのオールドルフかもしれません。できればここは外してほしくなかった! からちょっと足を伸ばせば行けるのにと、残念ではありますが、これはまあ、些細なことです。

私がこの本を読んで、これはマズイと感じたこと、それは"同行のドイツ人女性やディレクター氏などの記述はやたら多いのに、肝心要の音楽の話があまりに薄すぎる"ということでした。折角"私たちはバッハを見誤ってはならない"などと大上段に振りかぶっていらっしゃるのですから、音楽的側面からもっと突っ込んで欲しかった。

例えば、最晩年の傑作「ロ短調ミサ」は2−3箇所で触れられていますが、その内容たるやお寒いの一言といわざるを得ません。一つは第3章で、「『無伴奏チェロ組曲』や、『ブランデンブルク協奏曲』、『平均律クラヴィーア曲集』、『ゴールドベルク変奏曲』、『マタイ受難曲』『ロ短調ミサ曲』など数々の傑作を残したバッハ」という箇所。このあと「その創造性はまさに『奇跡』である。どうしてそのようなことが可能であったのか。どれほど考えてみても、その答えは容易に得られそうもない。」と、実に陳腐な感嘆文が続くだけ。もう一つは第4章、「バッハに関する資料を集めた『バッハ・アーカイヴ』で『ロ短調ミサ曲』に関するミステリーを聞いた」という部分。スワッ!遂に現地ならではの面白い話が聞けそうだ、と身構えましたが、記述はここまで。ヒドいよ先生、チラつかせておいて引っ込めちゃう。これじゃ読者は悲しいアテ馬。

その他のバッハの楽曲についてはどうでしょうか。

「マタイ受難曲」は、バッハ再評価の動きを決定づけた
突然、頭の中にバッハの「トッカータとフーガ」が流れ始めた
音楽大学の生徒三人が、弦楽用に編曲された「ゴールドベルク変奏曲」を弾く
バッハの傑作「コーヒー・カンタータ」のアリアが頭の中に浮かぶ
教会の中で、バッハが作曲したモテットやコラールを聴いた
一人泣くペドロの内面を描いた「マタイ受難曲」の中の美しいアリア
フォン・ケッセルさんの演奏で、バッハのプレリュードを聴いた

以上、これが"バッハの音楽に関する記述"の全てです。楽曲に関する一口記述か、ありきたりの感嘆コメントか、「聴いた」とか「頭の中に浮かぶ」とか「頭の中に流れ始めた」とかいう、ただの感覚と行為の羅列、だけ。そこには思考・検証の要素のかけらもない。"音楽の父の真の姿を求めた「冬の旅」"にしては実にお寒い限りです。最後の「プレリュードを聴いた」についてだけは、そのときの感動がかなり長いこと綴られてはいますが、これは音楽というよりも、大聖堂の雰囲気やパイプ・オルガンの響きそのものへの感動と読みとれます。

人間の頭脳には感じるだけでなく思考する能力もあるはず。前者が「右脳」後者が「左脳」でしたっけ、先生。ならば先生の「左脳」の働きをもっと見せて欲しかった。この本がJ.S.バッハの素顔を求める旅であるならば、その人が作った音楽にもっと言及して欲しかった。もう少しだけでいいから深く掘り下げて欲しかった。なんたってバッハは作曲家なのですから。これだったら音楽書なんて謳わずに、旅の写真集にでもしたほうがマシだったのでは? でもそれじゃマズイですよね、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンのアンバサダーとしては。

先月先生は、GW恒例の音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ2009〜バッハとヨーロッパ」のアンバサダーとして、八面六臂のご活躍だったとか。5月4日には鈴木雅明氏と対談までなさったようです。鈴木雅明氏といえば、現在バッハ演奏の第一人者といわれている、まさに音楽の父が時空を超えて日本に送り込んだ"バッハ音楽の誠実な使者"ともいえる国宝級の音楽家。ホント、茂木先生はいい度胸してますよ。感服するしかありません。まさか鈴木氏に向かって「バッハを見誤ってはならない」なんて仰らなかったでしょうね。

話はやや横道にそれてしまいましたが、茂木先生の本は、このように、おしなべて突込みが足りません。実証性もない。ただただキャッチーで心地よさげな語句が並んでいるだけ。バッハの素顔を訪ねる旅なら、ラ・フォル・ジュルネのアンバサダーなら、もっと真摯に音楽と向き合って欲しかったと思うのであります・・・とまあ、こんなことを申し上げると、先生怒りの一撃が私の脳天を直撃しそう「そこにはクオリア醸成に秀でた俺様がいるんじゃ。なんか文句あっか。」なんてね。話が物騒になってきたところで今回はこれまで。次回は、核心部分「魂のリレー」への言及を中心に、とめどなく書かせていただこうかと思っております。
 2009.06.01 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――最終回
第2部「ニケア信条」を9曲構成としてシンメトリーを達成したバッハは、「グローリア」にもシンメトリーが内包されていることに気づき、全体をシンメトリーに構成することを思い立つ。

22「サンクトゥス」は1724年の既製楽曲をあてはめ少し手を加える。それを第3部として括ったのは次に続く23「ホザンナ」をはっきりと分離するためであり、プロテスタントの規範にも合致する。この2つの合唱で4,5の合唱と対応した。次は1−3[合唱、ソロ、合唱]との対応だ。残る楽曲は24「ベネディクトゥス」と25「神の小羊」と26「終曲」である。

最も簡単な方法は「ベネディクトゥス」を合唱、「神の小羊」をソロ、「終曲」を合唱とすれば、1−3にピタリと一致する。ところがここで問題がおこる。そうすると22、23、24と「合唱」が3つ続くことになり、同じ第4部内の23と24を差し置いて部をまたぐ22と23の合唱を括ることは不自然である。22と23二つの合唱をひとまとめにするには24「ベネディクトゥス」をソロにしなければならない。次につづく「ホザンナ」は「合唱」なので第24曲は24aソロ、24b合唱ということになる。これに沿って24−26の形態をまとめると、[24aソロ、24b合唱、25ソロ、26合唱]となる。1−3[合唱、ソロ、合唱]と対応させるにはソロが一つ多い。ならば一つを消せばいい。入れながら消すにはどうしたらいいか。入っていても消えてる状態。どうやって? 

ここでジョーカーの発想が浮かぶ。数学者バッハの真骨頂である。24aはソロとして2つの合唱をくくる役割があり消せない。では25ソロ「神の小羊」を消そう。どうやって? ここに♭系の調性を当ててジョーカーとすれば曲は"存在していて存在していない"ことになる。♯系の嬰へ短調にすべきところを半音高いだけのト短調にしよう。そうすれば、その他の曲は全て♯系だから25ソロは立派なジョーカーとなる。そうなれば25ソロは消える。そして24−26は[ソロ、合唱、合唱]となり1−3に対応する。遂にここで見事に全体のシンメトリーが完成したのである。

あとはこの流れに従って実際に曲を当てはめてゆけばいい。24a「ベネディクトゥス」はテノール・ソロの敬虔な曲としよう。次に「ホザンナ」を繰り返しの形で置く。25「神の小羊」はジョーカーとするために、1735年のイ短調のカンタータを"♭系のト短調"に移調して作り直した。さていよいよ「終曲」である。

「終曲」の歌詞は心の平安と世界平和への願いを込めて「Dona nobis pacem」とした。さてこれにふさわしい曲をどうやって当てはめようか。死の影が忍び寄る中バッハは思索する。新曲を作る時間はない。ならばどこかから引用しなくてはならない。どうせどこからか引っぱってくるならば、この楽曲の中から引用すれば循環による統一感も達成できる。ではどの曲が相応しいか?シンメトリーを完成するためには形態は合唱曲でなければならない。歌詞の内容から、希望を持って終わる曲調が欲しい。循環の意味をもたせるためには曲は前半にある必要がある。こんな条件を満たす曲をバッハは検証する。循環形式での常套手段としての3は合唱という形態は満たすが、調性はロ短調で未来に向かう明るさが出ない。長調の合唱曲4と12も曲調が合わないし5はややせわしない。ここは第7曲「主の大いなる栄光のゆえにわれら主に感謝たてまつる」しかないではないか。これならば歌詞と音楽がぴったりと当てはまる。楽想は静かな願いからやがて何かを希求するように変わり、心の内なる平安が全世界の平和への祈願に昇華してゆく。こうして、バッハは終曲に第7曲の音楽を選び、この長大で普遍的なミサ曲を完結させた。そこには幾何学的シンメトリーに加え、神の御手により調性のシンメトリーも完成していた。時は1749年10月、死は翌年に迫っていた。

ヨハン・セバスティアン・バッハは、人生の最後で後世への一大音楽遺産たる「ロ短調ミサ」を完成させた。それはカトリックの枠組みの中にプロテスタントの精神を吹き込んだ全教会的な作品だった。また自己の技法の全てを投入して究極の音楽的高みに到達した傑作だった。カトリックとプロテスタントの枠を超え、全人類に向かって放った真に普遍的な作品だった。そして、その作品全体の幾何学的シンメトリーの形成を成し遂げることによって統一感をもたらすことに成功した。曲中に暗号=BCを埋め込んで・・・。さらに、そこには神の加護により調性のシンメトリーも形成されていた。「その時まで、この作品は"単なる寄せ集めの作品"という不名誉に甘んじなければならないかもしれない。しかし、この作品に埋め込んだ暗号に気づき私の意思を感じとったならば、きっとこの作品が全人類共通の真に普遍的な作品であることが理解されるだろう。その時はきっとくる。私はそれを信じている」・・・バッハはこの最後の作品の謎解きを後世に託し、1750年7月28日、その生涯を閉じたのである。
 2009.05.25 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――8
<エピローグ:回想のシンメトリー>その1

J.S.バッハはモーツァルトと違い手紙を残すこともなく、仕事や生活にまつわる文書もあまり残されていないため、彼の作曲の推移や心のうちを探ることは大変難しく推測の部分がどうしても多くなる。とはいえ最後に、可能な限り、「ロ短調ミサ」を作曲しシンメトリーを完成させた経緯を彼の人生をたどりながら回想しておきたい。

第3部「サンクトゥス」が作曲された1724年、バッハはドイツの自由都市ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(音楽監督)の職にあった。ライプツィヒはルター正統派プロテスタントの町。バッハは5つの教会、大学などの実質的音楽指導者となっていったが、各々の争いが絶えず、それに巻き込まれて気苦労の多い日々を過ごしていた。そんな状況を打破するため、バッハはライプツィヒに大きな影響を持つザクセンの宮廷と関係を持つことを願っていた。ロ短調の第1部に使った「キリエ」と「グローリア」が作曲されたのは1733年のこんな時期のことである。そしてこれらの曲はカトリックの信者ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に献呈され、1736年には念願かなって選帝侯付き宮廷音楽家の称号を与えられるのである。その効果はすぐに現れ上層部からの雑音は少なくなり、一時的にはバッハの目的は達成される。バッハはここにプロテスタント系のカントル、カトリック系の宮廷音楽家という二束の草鞋を履くことになった。おなじころから、ドイツ語のカンタータの発展性に疑問を感じ始めていたバッハは普遍的なラテン語による作品を多く書くようになってゆく。プロテスタント教徒のバッハの精神がカトリックに対し徐々に寛容になってゆくのである。それから年月は流れいつしか人生の終焉を予感したバッハは自己の集大成たる作品を残そうと思い立つ。それは後世に残す音楽遺産として真に普遍的で至高なものでありたい。そんな想いが漠然としかしやがて確実に形成されていったのである。その曲こそ「生涯で習得したあらゆる音楽技法を用いたカトリックの枠組みによるミサ曲」=「ロ短調ミサ曲」であった。

バッハは1748年8月、「キリエ」と「グローリア」をもとにして遂に完成に向けて着手した。そこで「キリエ」の冒頭が書き加えられる。あの一度聞いたら忘れられない地の淵から湧きあがってくるような悲しみの響きである。続いて第2部「ニケーア信経」が作られる。8曲を書き上げたバッハは、この第2部にプロテスタントの精神を吹き込むこととシンメトリー構成にすることを思い立った。3曲目の"われは信ず、唯一の主、イエス・キリストを。精霊によりて、処女マリアより御からだを受けたまいしものを"を切り離し、第3曲「われは信ず、唯一の主、イエス・キリストを」と第4曲「精霊によりて、処女マリアより御からだを受けたまいしものを」とした。このため「ニケーア信経」は全9曲となり、17「われらのためにポンティオ・ピラトのもとに十字架につけられ」が曲の中心にすえられる。これによって「ニケーア信経」全9曲のシンメトリー化と、「磔刑」を「復活」(18「われは信ず、三日目によみがえり」)より重んじるルター正統派の考え方の具現化が達成されたのである。

そこで、「グローリア」に目を転じたバッハはこの9曲にもシンメトリーが内包されていることに気づく。すなわち4合唱,5合唱を別にすればあとの7曲でシンメトリーを形成していることを。しからば、括られた2曲の合唱と1−3のキリエが、このあと作る「サンクトゥス」以降と対称すれば全体の大きなシンメトリーが完成する。これこそ全体統一の証、まさにこの曲にふさわしいシンメトリーの完成と考えたのである。
 2009.05.18 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――7
<第7章:バッハが作った精緻極まりない枠組み>

注目したのは"「ロ短調ミサ」の枠組みそのもの"だった。「ロ短調ミサ曲」バッハ直筆の楽譜をご覧いただきたい。キイは「ホザンナ」である。カトリックの規範では「サンクトゥス」に付随すべき「ホザンナ」が、第3部として完全に独立している。一方「ベネディクトゥス」の後に続く「ホザンナ」は第4部の表紙には書かれていない。すなわち表記上「サンクトゥス」では分離しているが「ベネディクトゥス」では内包している。「サンクトゥス」での分離はバッハの意図したものであったが、「ベネディクトゥス」での内包はそうではないだろう。これは単なる表記の問題なので、バッハの意図とするには無理があると思うからである。しかしこの意図せざる表記が神の御手につながってゆくのである。

バッハは結果的に「ホザンナ」の分け方に不統一感を持たせた。それを受けて神が私たちに「"場合によっては分離したもの、場合によっては内包したもの"と考えよ、目的は唯一シンメトリーの形成のためだ」と教えてくれているのではないか。 前述したようにシンメトリーには幾何学的シンメトリーと調性的シンメトリーがあって、<第3章>では幾何学的シンメトリーの存在が証明された。このとき「ホザンナ」は2つとも独立した楽曲とした。新たに証明したいのは調性のシンメトリーである。目に見える幾何学的形態では、「ホザンナ」は"分離したもの"としたならば、調性という目に見えないものに対しては、「ホザンナ」は"内包するもの"とせよと言っているのではないか。

ここで22「サンクトゥス」と23「ホザンナ」を調性面から検証すると、♯2つは同じニ長調であり内包することになんら違和感はない。さらに24a「ベネディクトゥス」と24b「ホザンナ」を検証すると、前者はロ短調で後者はニ長調、これはお互い長調と短調の平行調で、これも♯2つ同士で内包することに何の違和感もない。音楽的にはむしろこう括るほうが自然だと考えられる。ここで22+23を一曲と扱い♯の数は2個、24a+24bを一曲とし♯の数は2個となった。そしてこれを踏まえて、前章でやったように♯の数を検証してみよう。

前半部、第7曲から第19曲までの♯の数は、順番に2,1,2,2,2,2,3,2,1,2,1,2,3で合計25個。後半部第20曲から第6曲までは、3,2,2,2,2,2,2,3,2,2,3で25個。ここで前部後部の♯の数が遂に一致したのである。これはバッハが仕込んだものではないだろう。でも神の手が働いてバッハも意図してなかった調性のシンメトリーが完成してしまったのだ。ここに「ロ短調ミサ曲」は、幾何学的で調性的な二重のシンメトリーによる統一感を達成したのである。神の御手が働いて。

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バッハ:ミサ曲ロ短調の構成
                           数字は#の数
<第1部>
(キリエ)        (#)
 1 合唱   ロ短調   2 主よ憐れみたまえ
 2 二重唱  ニ長調   2 キリストよ、憐れみたまえ
 3 合唱  嬰へ短調   3 主よ、憐れみたまえ
(グローリア)
 4 合唱   ニ長調   2 いと高きところには神に栄光あらんことを
 5 合唱   ニ長調   2 地には善意の人々に平和あれ

 6 アリア  イ長調   3 われら主をほめ
 7 合唱   ニ長調   2 主のおおいなる栄光のゆえにわれら主に感謝たてまつる
 8 二重唱  ト長調   1 主なる神、天の王
 9 合唱   ロ短調   2 世の罪をのぞき給う者よ
10 アリア  ロ短調   2 父の右に座し給うものよ

11 アリア  ニ長調   2 汝のみ聖なり
12 合唱   ニ長調   2 聖霊とともに

<第2部>(ニケーア信経)
13 合唱   イ長調   3 われ信ず、唯一なる神を(ミクソリディアンだが実質イ長調)
14 合唱   ニ長調   2 われは信ず、唯一なる神を。全能の父

15 二重唱  ト長調   1 われは信ず、唯一の主、イエス・キリストを

16 合唱   ロ短調   2 聖霊によりて、処女マリアより御からだを受け
17 合唱   ホ短調   1 われらのためにポンティオ・ピラトのもとに十字架につけられ
18 合唱   ニ長調   2 われは信ず、聖書にありしごとく、三日目によみがえり

19 アリア  イ長調   3 われは信ず、主なる聖霊よ、生命の与え主たる者を

20 合唱  嬰へ短調  3 罪の赦しのためなる唯一の洗礼を認め
21 合唱   ニ長調   2 死者のよみがえりと来世の生命とを待ち望む

<第3部>(サンクトゥス)
22 合唱   ニ長調   2 聖なるかな

<第4部>
23 合唱   ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
24a アリア ロ短調    2  主の御名によりて来る者は幸いなり(ベネディクトゥス)
  b 合唱  ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
25 アリア  ト短調  ♭2  神の小羊
26 合唱   ニ長調   2  われに平安を与えたまえ

    *バッハのオリジナル楽譜第4部表紙には第24曲「ベネディクトゥス」のあとの「ホザンナ」の記載はない
    が,実際には楽譜内に「Osanna repetatur」とあるので、ここは「ベネディクトゥス」を 24a,「ホザンナ」を
    24bと表記する

 2009.05.11 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――6
<第5章:もうひとつのシンメトリー>

この章はこうあって欲しいと思う私の願いであって、バッハの意図したものではない。それはもう一つのシンメトリーの形成である。もしこれが実現されていれば、バッハの意図せざる"神の御手による"別のシンメトリーが形成されることになる。しばし、お付き合い願いたいと思います。

前章で確かに幾何学的なシンメトリーは証明されたが、ジョーカーを規定したものは調性だった。もしかしたら調性にもシンメトリーがあるのではないかと考えてみた。では調性のシンメトリーとはなんだろう?それは全26曲が調性的な均衡を持つことである。調性の均衡、それは"♯の数"の均衡ではないか。バッハが楽曲の形態よるシンメトリーと同時に調性のシンメトリーも達成していたらどうだろう、でもこれはバッハが意識的にしたこととは思えないけれど・・・そんな軽い気持ちで調べてみた。

まず第25曲はジョーカーなので消し、♯の数を曲の前半と後半で比べてみる(巻末の表を参照)。前半の1−13に含まれる♯は2,2,3,2,2,3,2,1,2,2,2,2,3で合計は28個、後半14−26は2,1,2,1,2,3,3,2,2,2,2,2,2で26個である。

ここで、13「われは信ず、唯一なる神を」の#の数を3個とした理由を説明しておきたい。これは教会旋法のひとつミクソリディアンで書かれており、楽譜上にある調性記号は♯2つである。しかし出だしからしばらくはト音に#がついており、中間はト音はナチュラルに戻るが、最後はイ長調の主和音で終わっている。このモードは中間がナチュラルト音なので、基本譜は#2つにしておいて必要な場合にト音に#をつけるという方法をとってはいるが実質はイ長調なのである。したがって"#の数"としては3個が妥当と考えられる(この件に関しては、「バッハ伝承の謎を追う」の著者小林義武先生に確認済みである)。

では本題に戻ろう。♯の数は前半26個後半28個。残念ながら同数ではない。ここで観点を変えてみる。幾何学的視覚的特性を持たない調性の均衡を考える場合、分割の起点が第1曲である必要はないのではないか。別のところに必然的な起点があればそれをもとに分ければよいのではないか。ならばどこかに起点を示すキイ・ワードが隠されてはいないだろうか? そこで注目したのが第26曲「われに平安を与えたまえ」である。バッハは生涯の集大成たる作品を結ぶ「終曲」になんと第7曲「主の大いなる栄光のゆえに、われら主に感謝たてまつる」を引用している。ミサ曲の「終曲」における引用は通常冒頭部分の「キリエ」からされるもの。それは循環という形によって全体の統一感を出すことが狙いなのだ。ならばなぜ「キリエ」ではなく第7曲なのか、次章で考えてみる。

<第6章:第7曲>

ミサ曲では「終曲」に冒頭の「キリエ」部分の音楽を持ってくることが珍しくない。モーツァルトのレクイエム(実際終曲はジュスマイヤーが完成させたものだが)も終曲「コムーニオ(聖体拝領)」は第1曲「レクイエム」の音楽をそのまま使っている。また当時のミサ曲にも、「終曲」に「キリエ」の第2部の音楽を繰り返し、循環的形態を作り出すことは稀ではなかった。バッハの「ロ短調」も、「終曲」へは第7曲よりも、「第2キリエ」の音楽を引用するほうが相応しいと主張する意見もある。スメンドは「隣り合う『神の小羊』と終曲『われに平安を与えたまえ』は内容的に密接な関係がある。このために音楽は第7曲より第2『キリエ』のほうが相応しい。その上循環的性格も強調される」と言っている。

しかるにバッハは終曲「われに平安を与えたまえ(Dona nobis pacem)」の音楽に第7曲「主の大いなる栄光のゆえに、われら主に感謝たてまつる」を引用した(第7曲はカンタータBWV29の第2楽章「神よ、われら汝に感謝す」のパロディーで、いわば「終曲」は二重のパロディーという構造になっている)。これを、シンメトリー分割の起点が第7曲にあることを示唆したものと解釈してみる。そしてここを起点にした調性のシンメトリーを検証してみる。では例によって巻末の構成図を見ながらお読みいただきたい。 第7曲を起点とすると前半部は7−19、後半部は20−6ということになる。さてこのときの♯の数はどうだろうか。前半部は25で後半部は29、同じではない。やはりこんなことは成立しないのか。でも導かれる何かがあるはずだ。それはなんだろう?この4差を消すものがどこかに潜んでいそうな気がする。

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バッハ:ミサ曲ロ短調の構成
                           数字は#の数
<第1部>
(キリエ)        (#)
 1 合唱   ロ短調   2 主よ憐れみたまえ
 2 二重唱  ニ長調   2 キリストよ、憐れみたまえ
 3 合唱  嬰へ短調   3 主よ、憐れみたまえ
(グローリア)
 4 合唱   ニ長調   2 いと高きところには神に栄光あらんことを
 5 合唱   ニ長調   2 地には善意の人々に平和あれ

 6 アリア  イ長調   3 われら主をほめ
 7 合唱   ニ長調   2 主のおおいなる栄光のゆえにわれら主に感謝たてまつる
 8 二重唱  ト長調   1 主なる神、天の王
 9 合唱   ロ短調   2 世の罪をのぞき給う者よ
10 アリア  ロ短調   2 父の右に座し給うものよ

11 アリア  ニ長調   2 汝のみ聖なり
12 合唱   ニ長調   2 聖霊とともに

<第2部>(ニケーア信経)
13 合唱   イ長調   3 われ信ず、唯一なる神を(ミクソリディアンだが実質イ長調)
14 合唱   ニ長調   2 われは信ず、唯一なる神を。全能の父

15 二重唱  ト長調   1 われは信ず、唯一の主、イエス・キリストを

16 合唱   ロ短調   2 聖霊によりて、処女マリアより御からだを受け
17 合唱   ホ短調   1 われらのためにポンティオ・ピラトのもとに十字架につけられ
18 合唱   ニ長調   2 われは信ず、聖書にありしごとく、三日目によみがえり

19 アリア  イ長調   3 われは信ず、主なる聖霊よ、生命の与え主たる者を

20 合唱  嬰へ短調  3 罪の赦しのためなる唯一の洗礼を認め
21 合唱   ニ長調   2 死者のよみがえりと来世の生命とを待ち望む

<第3部>(サンクトゥス)
22 合唱   ニ長調   2 聖なるかな

<第4部>
23 合唱   ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
24a アリア ロ短調    2  主の御名によりて来る者は幸いなり(ベネディクトゥス)
  b 合唱  ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
25 アリア  ト短調  ♭2  神の小羊
26 合唱   ニ長調   2  われに平安を与えたまえ

    *バッハのオリジナル楽譜第4部表紙には第24曲「ベネディクトゥス」のあとの「ホザンナ」の記載はない
    が,実際には楽譜内に「Osanna repetatur」とあるので、ここは「ベネディクトゥス」を 24a,「ホザンナ」を
    24bと表記する

 2009.04.27 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――5
<第4章:ジョーカー>

何気なく楽譜をめくっていたら、第25曲「神の小羊」(Agnnus Dei)の五線紙に♭が2つ並んでいるのに気が付いた。ト短調だった。「おやっ?」と思った。「ロ短調ミサ」の基調はロ短調なので、他の曲の楽譜の上には全て♯が並んでいる。全26曲の中で"第25曲のみが♭系の調性"なのである。たった一曲だけ、これは奇異である。なぜバッハはここに♭系の楽曲を置いたのだろうか。ト短調の近辺の調性としては半音しか違わない嬰へ短調がある。これなら♯系の短調として曲の流れにもマッチする。現に嬰へ短調は、第3曲「キリエ」、20曲「唯一の洗礼を認め」の調性として存在している。2度も使われているのはこちらの方が自然だからだ。ト短調はいくらなんでも唐突で不自然だ。なぜこんな不自然なことをバッハはしたのだろうか。彼が"通常ならざること"をするとき、そこには必ず何かの意図がある。彼の意志がある。バッハが置いた他の全てと違う一曲=「神の小羊」はジョーカーなのではないか?と私は閃いた。そう、第25曲「神の小羊」はバッハが切った第2のBCで、これはジョーカーだったのである。「神の小羊」とは"世の罪を背負って神に捧げられる生贄であり、十字架にかけられたイエス・キリスト"のことだ。すなわちシンメトリー形成のためにバッハが指名した生贄こそ25「神の小羊」だったのではないか。とはいえこのジョーカーの際立った美しさをいったいなんと形容したらいいのだろうか。通奏低音と弦楽によるシンプルな合奏の粛々たる歩みの中を、アルトが"世の罪を除きたもう神の小羊よ、われを憐れみたまえ"と静かに敬虔に歌いあげてゆく。これも"ト短調"のなせる業なのか。

「神の小羊」の原曲は1735年初演のカンタータ「その御国にて神を誉めたてまつれ」BWV11の第4曲「留まりたまえわが命」(調性はイ短調)だといわれている。「神の小羊」は元来、神の小羊=キリストが十字架にかけられたことに認められる神の卑下を象徴するため低い調性で書かれるのが慣わしとされている。これを踏まえて調性を決めるとき、イ短調の原曲をより低いト短調に移調するのは理解できる。しかし、「ロ短調ミサ」の主調はロ短調で、♯系の曲である。ならばト短調より更に半音低く♯系の嬰へ短調に移調するほうがより自然でもっと相応しいはず。それなのに、あえてそれよりも"半音高い♭系の調性"を選んだのは、"25「神の小羊」をジョーカーにしなければいけない"というバッハの必然があったからではないだろうか。

ここで、第3章へもどろう。24−26は[24aソロ、24b合唱、25ソロ、26合唱]としている。ジョーカーは白紙のカード、その存在は無・・・25「神の小羊」がジョーカーならば、25のソロが消える。するとここのブロックは[ソロ、合唱、合唱]となり、1−3[合唱、ソロ、合唱]と見事に対応合致するのである。遂に、ここにおいて「ロ短調ミサ」は全体で見事なシンメトリー伽藍を形成したのである!

シンメトリーを完成するためにジョーカーを用いるというのはいかにも不自然だという声が聞こえてきそうである。確かにそんなことをせずとも目的が達成されるならば、こんな面倒な手段を使う必要はない。ここでは、"ジョーカーを使わずに"シンメトリーを形成できる(24−26を[ソロ、合唱、合唱]とする)あらゆる可能性を抽出して、その形成の可否を検証してみる。考えられる方法は三つある。

第1の方法は、24「ベネディクトゥス」を「ホザンナ」を含めた一つの合唱曲にすることである。そうすれば、24−26は[合唱、ソロ、合唱]となって1−3にピタリ対応する。ジョーカーなど入れ込まなくても単純に形成される。しかし、そうすると22「サンクトゥス」から24まで合唱が3つ続くことになり、同じ第4部に入っている23と24を括らずに部をまたぐ22と23を括るのは不自然である。したがって23合唱の後にはソロがなくてはならないのだ。そのためこの方法は成立しない。 第2の方法は、「ベネディクトゥス」のあとの「ホザンナ」を割愛して25「神の小羊」を合唱曲とすることである。これならば24−26が[ソロ、合唱、合唱]となって1−3に対応する。しかし、バッハはこの方法をとらなかった。数学者バッハは「サンクトゥス」のあとに続けた「ホザンナ」を「ベネディクトゥス」で消すことの矛盾を許せなかったし、音楽家バッハは「神の小羊」を合唱曲とすることに妥協できなかったのだと思う。 第3の方法は、24a「ベネディクトゥス」と24b「ホザンナ」を一つの合唱曲とした上で、1−5と22−26の5曲づつを一塊に見る考え方である。こうすると22−26は[合唱、合唱、合唱、ソロ、合唱]となり1−5の[合唱、ソロ、合唱、合唱、合唱]とピタリ対応する。でもこれは音楽的にみてどうだろうか?やはり「ベネディクトゥス」はソロが相応しいし、「サンクトゥス」から分離して続けた「ホザンナ」は「ベネディクトゥス」でも同じ扱いをすべきだろう。シンメトリー形成のために音楽をこういう形にすることは本末転倒でありバッハはこれを許すわけにはいかなかったと思う。

これ以外に"ジョーカーを使わずに"24−26を[ソロ、合唱、合唱]とする方法はない。したがってジョーカーを使った方法が唯一であることが証明されたのである。

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バッハ:ミサ曲ロ短調の構成
                           数字は#の数
<第1部>
(キリエ)        (#)
 1 合唱   ロ短調   2 主よ憐れみたまえ
 2 二重唱  ニ長調   2 キリストよ、憐れみたまえ
 3 合唱  嬰へ短調   3 主よ、憐れみたまえ
(グローリア)
 4 合唱   ニ長調   2 いと高きところには神に栄光あらんことを
 5 合唱   ニ長調   2 地には善意の人々に平和あれ

 6 アリア  イ長調   3 われら主をほめ
 7 合唱   ニ長調   2 主のおおいなる栄光のゆえにわれら主に感謝たてまつる
 8 二重唱  ト長調   1 主なる神、天の王
 9 合唱   ロ短調   2 世の罪をのぞき給う者よ
10 アリア  ロ短調   2 父の右に座し給うものよ

11 アリア  ニ長調   2 汝のみ聖なり
12 合唱   ニ長調   2 聖霊とともに

<第2部>(ニケーア信経)
13 合唱   イ長調   3 われ信ず、唯一なる神を(ミクソリディアンだが実質イ長調)
14 合唱   ニ長調   2 われは信ず、唯一なる神を。全能の父

15 二重唱  ト長調   1 われは信ず、唯一の主、イエス・キリストを

16 合唱   ロ短調   2 聖霊によりて、処女マリアより御からだを受け
17 合唱   ホ短調   1 われらのためにポンティオ・ピラトのもとに十字架につけられ
18 合唱   ニ長調   2 われは信ず、聖書にありしごとく、三日目によみがえり

19 アリア  イ長調   3 われは信ず、主なる聖霊よ、生命の与え主たる者を

20 合唱  嬰へ短調  3 罪の赦しのためなる唯一の洗礼を認め
21 合唱   ニ長調   2 死者のよみがえりと来世の生命とを待ち望む

<第3部>(サンクトゥス)
22 合唱   ニ長調   2 聖なるかな

<第4部>
23 合唱   ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
24a アリア ロ短調    2  主の御名によりて来る者は幸いなり(ベネディクトゥス)
  b 合唱  ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
25 アリア  ト短調  ♭2  神の小羊
26 合唱   ニ長調   2  われに平安を与えたまえ

    *バッハのオリジナル楽譜第4部表紙には第24曲「ベネディクトゥス」のあとの「ホザンナ」の記載はない
    が,実際には楽譜内に「Osanna repetatur」とあるので、ここは「ベネディクトゥス」を 24a,「ホザンナ」を
    24bと表記する

 2009.04.13 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――4
<第3章:ホザンナ>

私が、「ロ短調」のシンメトリーに気づいたきっかけが「ホザンナ」だったことは第1章で述べたとおりである。「ホザンナ」はカトリックの規範によると通常「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」に付随する部分である。これは第1章に書いたようにその他のカトリック系ミサの検証によって明らかだ。ここにバッハはプロテスタント的要素を盛り込んで「サンクトゥス」と「ホザンナ」を切り離し、しかも「サンクトゥス」1曲に第3部という括りを与えた。演奏時間で見ても、第1部は約60分、第2部は約35分、第4部が約20分に対して、第3部「サンクトゥス」の6分弱というのはいかにもバランスが悪い。

「ロ短調」の総体的枠組みであるカトリックの規範にも、部分的に精神を注入したプロテスタントの規範にもこのような4部による仕分けは稀である。新作ありパロディーありの不統一な楽曲群、カトリック通常文に沿いながらもプロテスタントの規範も盛り込むなどの影響で、結果実にユニークな形の仕分けとなっているのである。バッハはこれをただ流れに任せて仕分けただけであろうか?いやそうではないはずだ。彼がこのような仕分けをしたのは何らかの意図があったはずである。真摯で几帳面で数学者的音楽家であったバッハの最後の曲だからこそ、そこには彼の意図がそれまで以上に込められていると考えることに何の不自然さがあろうか。バッハは「サンクトゥス」を第3部として括ることにより「ホザンナ」を独立した一つの楽曲として明確にさせたかったのではないだろうか。すなわち本来「サンクトゥス」に付随する「ホザンナ」を独立した一個の楽曲とみなした・・・これが彼の第1の暗号=バッハ・コード(BC)1なのである。ではこのコードに従いシンメトリーの構図を解き明かしてゆこう。いよいよこれから本編の核心に入ってゆく。(構成図を見ながらお読みいただきたい)

<第2章:シンメトリー>で明らかなとおり、シンメトリーが成立している第2部9曲(13−21)と第1部の7曲(6−12)が内側で対応しているとなると、各々の外側部分1−5と20−26が対応すれば全体のシンメトリーが成立するということはすでに述べたとおりである。すなわちこれまで放置されてきたグローリアの2曲の合唱4、5は、「ホザンナ」を分離したことによって、「サンクトゥス」の合唱(22)と「ホザンナ」の合唱(23)に対応する。これこそバッハが意図したことだったのだ。カトリックの様式どおり「ホザンナ」が「サンクトゥス」に付随したものとするとこの対応は不可能になるからである。

残るは1−3と24−26の対応である。1−3は[合唱、ソロ、合唱]、24−26は[ソロ、ソロ、合唱]である。これでは対応しているとは言えない。私の仮説もここまでか!待てよ、24「ベネディクトゥス」は1曲で括ってあるが、テノール・ソロが前半、「ホザンナ」が後半の実質2曲ではないか。しかも「ホザンナ」は第4部冒頭で独立している23「ホザンナ」と全く同一のものである。だったらこちらの「ホザンナ」も独立した合唱曲として切り離して考えなければならないはずだ。そこで24−26の部分を [24aソロ「ベネディクトゥス」、24b合唱「ホザンナ」、25ソロ「神の小羊」、26合唱「われに平安をあたえたまえ」]と4曲にする。しかしこれでは対応させたい1−3と曲数が合わない。またまた暗礁に乗り上げる。もはやこれまでかと思い、何気なく各曲ごとの調性を眺めていた時、天啓のような閃きが沸き起こった。この4曲の中にジョーカーがいたのである。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

バッハ:ミサ曲ロ短調の構成
                           数字は#の数
<第1部>
(キリエ)        (#)
 1 合唱   ロ短調   2 主よ憐れみたまえ
 2 二重唱  ニ長調   2 キリストよ、憐れみたまえ
 3 合唱  嬰へ短調   3 主よ、憐れみたまえ
(グローリア)
 4 合唱   ニ長調   2 いと高きところには神に栄光あらんことを
 5 合唱   ニ長調   2 地には善意の人々に平和あれ

 6 アリア  イ長調   3 われら主をほめ
 7 合唱   ニ長調   2 主のおおいなる栄光のゆえにわれら主に感謝たてまつる
 8 二重唱  ト長調   1 主なる神、天の王
 9 合唱   ロ短調   2 世の罪をのぞき給う者よ
10 アリア  ロ短調   2 父の右に座し給うものよ

11 アリア  ニ長調   2 汝のみ聖なり
12 合唱   ニ長調   2 聖霊とともに

<第2部>(ニケーア信経)
13 合唱   イ長調   3 われ信ず、唯一なる神を(ミクソリディアンだが実質イ長調)
14 合唱   ニ長調   2 われは信ず、唯一なる神を。全能の父

15 二重唱  ト長調   1 われは信ず、唯一の主、イエス・キリストを

16 合唱   ロ短調   2 聖霊によりて、処女マリアより御からだを受け
17 合唱   ホ短調   1 われらのためにポンティオ・ピラトのもとに十字架につけられ
18 合唱   ニ長調   2 われは信ず、聖書にありしごとく、三日目によみがえり

19 アリア  イ長調   3 われは信ず、主なる聖霊よ、生命の与え主たる者を

20 合唱  嬰へ短調  3 罪の赦しのためなる唯一の洗礼を認め
21 合唱   ニ長調   2 死者のよみがえりと来世の生命とを待ち望む

<第3部>(サンクトゥス)
22 合唱   ニ長調   2 聖なるかな

<第4部>
23 合唱   ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
24a アリア ロ短調    2  主の御名によりて来る者は幸いなり(ベネディクトゥス)
  b 合唱  ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
25 アリア  ト短調  ♭2  神の小羊
26 合唱   ニ長調   2  われに平安を与えたまえ

    *バッハのオリジナル楽譜第4部表紙には第24曲「ベネディクトゥス」のあとの「ホザンナ」の記載はない
    が,実際には楽譜内に「Osanna repetatur」とあるので、ここは「ベネディクトゥス」を 24a,「ホザンナ」を
    24bと表記する

 2009.04.06 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――3
<第2章:シンメトリー>

 ヴァルター・フェッターの言う"一個の統一した作品"とは何か?何を持って統一というのか?この偉大で多様で長大で型破りな大作を統一するためにバッハが企んだこととは一体何だったのか?答えは「シンメトリー」である。この最後の作品に音楽家としての総決算を目論んだバッハが、培ってきた音楽技法の全てを注ぎ込み、既成の作品を含め"寄せ集めた"ことは前章で示したとおりである。あとはこれを"一個の統一された楽曲"としてまとめあげること、すなわち統一した形を持たせること、これがバッハの課題であった。バッハはまた偉大なる数学者とも言われている。彼の作品作りの特徴の一つに、各曲の組み合わせや順番などがある法則性を持って整然と並んでいる、というのがある。その最たる形、全体を俯瞰して最も統一性が感じられる形、それが「シンメトリー」なのだ。人生の総決算的作品を残そうとするとき、彼が全体をシンメトリーに構成しようと考えることに不自然さはなにもない。"バッハは寄せ集めの「ロ短調ミサ」に統一性をもたせるために全体をシンメトリーで構成した"・・・・・これが私の仮説である。

   第2部「ニケア信条」がシンメトリーの形になっていることはよく知られている。巻末の「構成図」を参照しながらご確認いただきたいが、この9曲(第13曲から第21曲まで)が16−18の3つの合唱を軸にして、すぐ外側の15と19がソロ(以下、二重唱も合唱以外という括りで便宜的にソロと呼ぶ)楽曲として対称、その外側13+14と20+21が合唱として対称形を成しているのである。ここでバッハは3つの軸(16−18)を作るためにカトリック様式ではひとつの楽曲の[15&16]部分を後になって2つに分断、15をソロ曲16を合唱曲としている。そうすることによって元来8つの楽曲構成が9つになり3つの合唱という軸によるシンメトリーが形成されたのである。では、果たしてシンメトリーを形成するだけのために"元々一つのもの"を分断することが許されるだろうか。そこにはある必然がなくてはならない。几帳面なバッハが最後の最後でいい加減な手段を講ずるはずはない。ではバッハはどうしたか、どう考えたのか。彼はカトリックの様式にプロテスタントの様式・精神を注入することでそれを果たし、分断することの大義名分を果たしたのである。出来上がった3つの合唱軸の中心(全9曲の中心でもある)である5曲目には17「われらのためにピラトのもとに十字架につけられ」が座ることになる。カトリックの教義ではキリストの復活に重きを置くが、プロテスタントでは磔刑を重視するという。このルターの中心思想とも言うべき磔刑者イエス・キリストを歌う楽曲17を中心に据えることはプロテスタント教徒バッハの精神にも合致する。そこでは十字架の動機が奏でられるが、実はこの和音は「キリエ」冒頭の悲痛な叫びにもつながっているのだ。

  「ロ短調」にはこのようにバッハがプロテスタントの精神を盛り込んだ(カトリックの規範から逸脱する)箇所が他にも散見される。ここでこれらをまとめておこう。
@第8曲「主なる神、天の王」の歌詞中、Domine Fili Jesu Christeのあとに「,altissime」とい
 う語句を付加している。最も高きという意味のこの言葉はプロテスタントの地ライプツィヒでの慣
 例に従って付加したものである。
A第22曲「聖なるかな」の歌詞中、Pleni sunt coeli et terra glonia eiusの「eius」はカトリッ
 クの規範ではtuaとなっているが、バッハはルターの聖書独訳に従ってこう変えている。
B曲の4部構成、すなわち第1部「キリエ」「グローリア」、第2部「ニケア信条」、第3部「サンクトゥ
 ス」、第4部「ホザンナ」から「われに平安を与えたまえ」まで という構成はカトリックのミサでは
 通常ありえない。また「サンクトゥス」と「ホザンナ」が分離されているのは、プロテスタントの聖
 歌本「旧教会聖歌選集」にその例がある。私が"通常ならざるもの"と最初に感じたこのホザン
 ナの分離は、バッハの意図ではあったが勝手にそうしたものではなく、プロテスタントの規範に
 則ったものだったのである。
C「ニケア信条」において十字架の章を中心に置くために、元来一つの章を2つに分断した
 (前述)。
 これらの事柄から、「ロ短調」はカトリックとプロテスタントの規範を融合したエキュメニカル(全教会的)な作品として位置づけられることもある。そしてこれがこの作品の持つ普遍性の象徴でもあるのだ。正にバッハが意図した"人生の最後に全人類への普遍的音楽遺産を残す"ことになったのである。そしてその影にバッハがもう一つ意図したもの="シンメトリー"につながる事象が見え隠れするのだ。

 部分的シンメトリーの存在が第1部後半「グローリア」全9曲(4−12)の中にも見られるという説がある。これも巻末の「構成表」をご覧いただきたい。まず冒頭4,5の2曲の合唱を別括りとして除外する。[8ソロ,9合唱,10ソロ]を軸とすると、両サイド6+7と11+12が対称し7曲のシンメトリーが構成されるというものだ。では除外された4+5の合唱はどうなるのか?これを放置したままで従来の考察は止まっている。すなわち「ロ短調」におけるシンメトリーの構成は部分的指摘で終わっているのである。私はこれを発展させて全体的シンメトリーを証明したい。バッハが隠した暗号に従って丹念にほぐしてゆけばこれは必ず解き明かされるに違いないのだ。

 では、バッハがこの"シンメトリーで全体を構成する"ことを思い立ったのはいつ頃だったのだろうか。「ロ短調ミサ」を構想し、第2部「ニケア信条」の作曲に着手したのは1746年のこと。前述のようにいったん8曲が完成するが、バッハはここにプロテスタントの精神を注入することと第2部をシンメトリーで構成することを思い立つ。十字架を真ん中に位置させるため3番目の曲を2つに分け全9曲とすると、真ん中の3つの合唱を軸とするシンメトリーが完成した。このあとバッハはグローリアの9曲に目が移る。そこにもシンメトリーが内包されていた。但し冒頭2曲の合唱を除いて。この除外された2つの合唱と「キリエ」の3曲が第3部以降の楽曲と対応できれば全体のシンメトリーが完成するのではないか。これこそ一見アンバランスで寄せ集めに見えるこの曲に確固たる統一感を与えるものになりはしないか・・・彼が全体のシンメトリーを構想したのは正にこの瞬間だったのではないだろうか。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

バッハ:ミサ曲ロ短調の構成
                           数字は#の数
<第1部>
(キリエ)        (#)
 1 合唱   ロ短調   2 主よ憐れみたまえ
 2 二重唱  ニ長調   2 キリストよ、憐れみたまえ
 3 合唱  嬰へ短調   3 主よ、憐れみたまえ
(グローリア)
 4 合唱   ニ長調   2 いと高きところには神に栄光あらんことを
 5 合唱   ニ長調   2 地には善意の人々に平和あれ

 6 アリア  イ長調   3 われら主をほめ
 7 合唱   ニ長調   2 主のおおいなる栄光のゆえにわれら主に感謝たてまつる
 8 二重唱  ト長調   1 主なる神、天の王
 9 合唱   ロ短調   2 世の罪をのぞき給う者よ
10 アリア  ロ短調   2 父の右に座し給うものよ

11 アリア  ニ長調   2 汝のみ聖なり
12 合唱   ニ長調   2 聖霊とともに

<第2部>(ニケーア信経)
13 合唱   イ長調   3 われ信ず、唯一なる神を(ミクソリディアンだが実質イ長調)
14 合唱   ニ長調   2 われは信ず、唯一なる神を。全能の父

15 二重唱  ト長調   1 われは信ず、唯一の主、イエス・キリストを

16 合唱   ロ短調   2 聖霊によりて、処女マリアより御からだを受け
17 合唱   ホ短調   1 われらのためにポンティオ・ピラトのもとに十字架につけられ
18 合唱   ニ長調   2 われは信ず、聖書にありしごとく、三日目によみがえり>

19 アリア  イ長調   3 われは信ず、主なる聖霊よ、生命の与え主たる者を

20 合唱  嬰へ短調  3 罪の赦しのためなる唯一の洗礼を認め
21 合唱   ニ長調   2 死者のよみがえりと来世の生命とを待ち望む

<第3部>(サンクトゥス)
22 合唱   ニ長調   2 聖なるかな

<第4部>
23 合唱   ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
24a アリア ロ短調    2  主の御名によりて来る者は幸いなり(ベネディクトゥス)
  b 合唱  ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
25 アリア  ト短調  ♭2  神の小羊
26 合唱   ニ長調   2  われに平安を与えたまえ

    *バッハのオリジナル楽譜第4部表紙には第24曲「ベネディクトゥス」のあとの「ホザンナ」の記載はない
    が,実際には楽譜内に「Osanna repetatur」とあるので、ここは「ベネディクトゥス」を 24a,「ホザンナ」を
    24bと表記する

 2009.03.30 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――2
<第1章:通常ならざるもの>

私が、この曲が"他のミサ曲と違う"、と思った最初のきっかけは第23曲「ホザンナ」である。巻末の「構成図」をご覧いただきたい。そこで分かるように「ホザンナ」は一個の合唱曲として独立している。「ホザンナ」は(私のそれまでの知識では)「サンクトゥス」または「ベネディクトゥス」に付随した曲であり独立した楽曲として存在している例はない。しかもそれらは時間的にも短く、この「ロ短調」のように3分に及ばんとする大規模なものは皆無である。「サンクトゥス」は冒頭で「聖なるかなという意味のSanctus」が3回繰り返された後、「万軍の主なる神、主の栄光、天と地に満てり」で終わる。「ホザンナ」は「いと高きところにホザンナ」と間を空けずにそれに続く(因みに「ホザンナ」とは、イエス・キリストがイエルサレムに入城した際に群集が挙げた歓呼の叫びである)。

この「ホザンナ」を含む「サンクトゥス=Sanctus」の歌詞は以下のとおりである。"Sanctus,Sanctus,Sanctus Dominus Deus Sabaoth.Pleni Sunt Coeri et terra gloria ejus.Osanns in excelsis"。なお「サンクトゥス」の最後の語句 ejus は、カトリック通常文ではtuaであるがバッハはこの部分をプロテスタント風に置き代えている。これらの例は他にも多々あるのでまとめて後述したい。

第4部に置かれた第24曲「ベネディクトゥス」は一曲で括られているが、楽譜で確認してみると、テノール・ソロで歌われるロ短調の緩徐部分(24a)のあとに"「ホザンナ」repetatur"と書かれている。これは23「ホザンナ」をそのまま繰り返せ(24b)ということなので「ホザンナ」は第4部中には2曲含まれるわけだ。ところがバッハの自筆譜の第4部を括る表紙は、上から「Osanna」「Benedictus」「Agnus Dei」「Dona nobiis pacem」(実際の表記には「」はない)と書かれていて4曲しか表記されていない。実質5曲、表記4曲である。

すなわち「ロ短調ミサ」における「ホザンナ」は大規模で、「サンクトゥス」や「ベネディクトクス」から分離独立している。このような例は他のミサ曲にあるのだろうか? 検証してみる。

シャルパンティエ:真夜中のミサ サンクトゥス(以下S)+ホザンナ(以下H)
                    ベネディクトゥス(以下B)+H
ベートーヴェン:荘厳ミサ      SH,BH
シューベルト:ミサ曲第6番    SH,BH
ベルリオーズ:レクイエム     SH
シューマン:レクイエム       SH
ヴェルディ;レクイエム       SH,BH
ドヴォルザーク:レクイエム     SH,BH
フォーレ:レクイエム         SH

「ホザンナ」は例外なく「サンクトゥス」か「ベネディクトゥス」に付随するものとして使われており、「ロ短調」のように単独で一つの楽曲として扱われているのは皆無である。勿論「サンクトゥス」での分離と「ベネディクトゥス」での内包という違う表記が併存している例もまったくない。

以上、私が「ロ短調」の中で"通常ならざるもの"として最初に感じた「ホザンナ」の形であり、この形こそバッハが"曲を統一するという意志"を託した暗号=バッハ・コード(BC)なのではないかと直感したわけである。これをきっかけに推理と検証を重ねることにより、BCは全部で4つ存在することが分かった。そしてこの4つのBCにより今まで誰一人として気づかなかった、バッハがこの楽曲にこめた意志、すなわち死が迫る切迫した状況の中で「自らの音楽家としての集大成たる音楽遺産を"統一した一個の楽曲"として後世に残す」ことを、どうやって達成したのかという秘密が解明されるのである。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

バッハ:ミサ曲ロ短調の構成
                           数字は#の数
<第1部>
(キリエ)        (#)
 1 合唱   ロ短調   2 主よ憐れみたまえ
 2 二重唱  ニ長調   2 キリストよ、憐れみたまえ
 3 合唱  嬰へ短調   3 主よ、憐れみたまえ
(グローリア)
 4 合唱   ニ長調   2 いと高きところには神に栄光あらんことを
 5 合唱   ニ長調   2 地には善意の人々に平和あれ

 6 アリア  イ長調   3 われら主をほめ
 7 合唱   ニ長調   2 主のおおいなる栄光のゆえにわれら主に感謝たてまつる
 8 二重唱  ト長調   1 主なる神、天の王
 9 合唱   ロ短調   2 世の罪をのぞき給う者よ
10 アリア  ロ短調   2 父の右に座し給うものよ

11 アリア  ニ長調   2 汝のみ聖なり
12 合唱   ニ長調   2 聖霊とともに

<第2部>(ニケーア信経)
13 合唱   イ長調   3 われ信ず、唯一なる神を(ミクソリディアンだが実質イ長調)
14 合唱   ニ長調   2 われは信ず、唯一なる神を。全能の父

15 二重唱  ト長調   1 われは信ず、唯一の主、イエス・キリストを

16 合唱   ロ短調   2 聖霊によりて、処女マリアより御からだを受け
17 合唱   ホ短調   1 われらのためにポンティオ・ピラトのもとに十字架につけられ
18 合唱   ニ長調   2 われは信ず、聖書にありしごとく、三日目によみがえり>

19 アリア  イ長調   3 われは信ず、主なる聖霊よ、生命の与え主たる者を

20 合唱  嬰へ短調  3 罪の赦しのためなる唯一の洗礼を認め
21 合唱   ニ長調   2 死者のよみがえりと来世の生命とを待ち望む

<第3部>(サンクトゥス)
22 合唱   ニ長調   2 聖なるかな

<第4部>
23 合唱   ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
24a アリア ロ短調    2  主の御名によりて来る者は幸いなり(ベネディクトゥス)
  b 合唱  ニ長調   2  いと高きところにホザンナ(ホザンナ)
25 アリア  ト短調  ♭2  神の小羊
26 合唱   ニ長調   2  われに平安を与えたまえ

*バッハのオリジナル楽譜第4部表紙には第24曲「ベネディクトゥス」のあとの「ホザンナ」の記載はないが,実際には楽譜内に「Osanna repetatur」とあるので、ここは「ベネディクトゥス」を 24a,「ホザンナ」を 24bと表記する

 2009.03.21 (土)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――1
 私はバッハの「ロ短調ミサ」の楽譜をめくっていた。もう終わりに近い第25曲「神の小羊」の上で、突然私の目は釘付けとなった。そこには♭が二つ並んでいる〜ト短調。その他の25曲には全て#がついているのにこれは唯一フラット系の曲。なぜここに?なぜバッハは第25曲にこの調性を選んだのか?・・・これはきっと何かの暗号に違いない。そうバッハ・コード! 彼はわれわれにメッセージを送っている。私はそう確信した。

<序章>

 ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685−1750)の「ミサ曲ロ短調」は、プロテスタント教徒のバッハがカトリックのミサの枠組みの中に、音楽家としての全能を傾けて人生の最後に完成した作品である。その中には新たに作曲した曲もあれば、既成の楽曲を当てはめたパロディーもある。その規模は4部26曲からなり、演奏時間は2時間を越えるという超大作である。この長さ、規模の大きさは実際のミサに使えるはずもなく、またその記録もない。では、バッハはなぜ人生の最後の最後にこんな曲を完成させたのだろうか?プロテスタント教徒のバッハがなぜカトリック様式のミサを書いたのだろうか、などなど昔から音楽学者の間でさまざまな疑問や意見が飛び交う、音楽史上最大の問題作になってもいる。例えば、バッハ研究家として名高いフリードリヒ・スメンドは「一曲として統一された『ロ短調ミサ』というものは存在せず、互いに関連のない4つの部分が並存しているに過ぎない」と主張している。また、19世紀バッハ研究の創始者ともいえるフィリップ・シュピッタは「曲の後半は、大部分がパロディーであり労力が使われていない。バッハは作品を仕上げるために、急いだように思われる」と推測している。作曲家の最後の作品では、健康状態の悪いケースが多い。モーツァルトしかり、シューベルトしかり、バッハも例外ではなかったろう。迫りくる死を意識すれば、完成を急ぐ気持ちが強くなるのは当然である。そこにこんな意見が出てくる背景があるわけだ。

   ではここでこの曲の成り立ちと構造を掴んでおきたい。第3部「サンクトゥス」は1724年の作(この楽譜は当時ボヘミアのシェボルフ伯が所有していたが、現在はベルリン国立図書館所蔵)。第1部「キリエ」「グローリア」は1733年に作曲、カトリック様式によってラテン語で書かれており、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に献呈されている。「サンクトゥス」に続く「ホザンナ」は1734年の作になる世俗カンタータ「おのが幸を讃えよ」BWV215の冒頭から転用(パロディー化)している(この曲も消失したカンタータ『国父なる王よ、万歳』BWV.Anh11からの転用)。第2部「ニケア信条」は1747年から1748年にかけて、第4部の「ベネディクトゥス」「神の小羊」「われに平安を与えたまえ」は1748年から1749年にかけて作られた。その構造は、第1部が「キリエ」と「グローリア」(12曲)、第2部が「ニケア信条」(9曲)、第3部「サンクトゥス」(1曲)、第4部は「ホザンナ」「ベネディクトゥス」「神の子羊」「われに平安を与えたまえ」(4曲)の4部26曲からなる。

   第1部冒頭の「キリエ」。この人間の極限の苦悩を表出するような異様な響きに衝撃を受けない人はいない。この序奏に続く主部は五声のフーガが壮大に展開し、続く第2曲はソプラノとアルトの二重唱が「キリストよ憐れみ給え」と清澄に美しく歌い上げ、第3曲第2の「キリエ」では荘重な古い様式のフーガが奏でられる。全て短調で構成された「キリエ」のあと、「グローリア」は明るく力強い響きが神の栄光を協奏曲風に大らかに奏でて始まる。第9,10曲は短調ではあるが、「キリエ」における悲劇性はない。第2部「ニケア信条」は唯一絶対なる神、唯一なる主イエス・キリストに不変の信心を表すパートで「クレド」とも言う。ここでバッハはプロテスタントの精神を示すための裏技を用いているが、詳細は後ほど。第3部は「サンクトゥス」1曲のみ。「サンクトゥス」は聖なるかなという神への感謝の讃歌である。第4部は本来「サンクトゥス」に含まれる「ホザンナ」が切り離されて冒頭に置かれキリストへの歓呼を歌い上げる(バッハは通常のHosannaという表記をOsannaとしているが、ここでは通常通り「ホザンナ」と表記する)。「ベネディクトゥス」では神の御名より下り給うたキリストへの祝福がテノールにより歌われる。引き続き置かれた「ホザンナ」は冒頭と全く同じものだがここでは「ベネディクトゥス」に含まれる形をとっている(楽譜にはOsanna repetaturとある)。「神の小羊」は重厚で敬虔なアルトのアリア。終曲は合唱が「われらに平安を与えたまえ」と歌う。
 合唱、ソロ、二重唱などの形態。協奏曲、フーガ、カノンなどの様式。転調、楽器編成、調性や音型などの作曲技法。これらが多種多様に組み合わされ大伽藍が形成される。それまでに培ってきた音楽技法の全てを注入した音楽家バッハの正に集大成的作品なのである。

 しかるに先述したように「『ロ短調』は単なる寄せ集めの作品、特に第4部は迫り来る死を予感してアリモノで間に合わせて帳尻を合わせた」などという中傷的発言も存在する。はたしてそうだろうか。バッハがそんないい加減な作り方をするだろうか。自らの死を予感しつつも、自己の音楽家としての集大成として後世への偉大な音楽的遺産を残そうとしているあの大バッハが"単なる寄せ集め"のまま創作を止めてしまうだろうか。いやこの曲を集大成として残そうと思い立った時には、すでにこの作品を"一個の統一した作品として完成する"という明確な意志が絶対にあったはずである。それは「バッハはほとんどの大作において、対立するものをひとつにまとめ、しばしば極端な感覚的または志操的対照を"統一する"ことに成功している。この総合は、全体の創作において生涯、可能だったのである」というヴァルター・フェッターの説によっても裏づけされるだろう。この説の中で特に注目したいのは"生涯"という文言である。バッハの"統一する"という志向は生涯続いたということであり、それは生涯最後の作品となった「ロ短調ミサ」にも及んでいるということだ。
 では彼はどんな方法でこの"偉大で多様で長大で型破りな大作"に"統一性"をもたせようとしたのだろうか?これを解く鍵はあるのだろうか?・・・絶対にある。「バッハは自らの意志をいくつかの暗号に託してこの曲に埋め込んだ」というのが私の仮説である。このバッハ・コードこそ偉大なる超大作「ミサ曲ロ短調」に秘められた謎を解く鍵となるのである。スメンドもシュピッタもこの暗号に気づいていない。フェッターすらも自らの説の中で「ロ短調」の統一性を示す具体的な指摘はしていない。もし私のこの仮説が正しく証明されるならば、バッハがこの曲に託した全人類への思いが鮮明な形となって現れるはずである。

 2009.03.09 (月)  閑話窮題――チャイ5
少し前、チャイコフスキーの「交響曲 第5番 ホ短調 作品64」を生で立て続けに聞く機会がありました。勿論知らない曲ではなかったのですが、急に親しみが湧いてきて、この曲を極めてみたいという欲求に駆られました。「極めよう」と思っていつもお願いするのは、CD万単位の所有者柳原キャンパス仲間のH准教授。彼に頼むときは、まず自分の手持ちCDと聞きたい演奏者を提示し、「このほかに推薦盤があれば是非」と言ってお借りします。このとき私の「チャイ5」の手持ちは、モントゥー58、セル59、ムラヴィンスキー60&77、ルートヴィヒ60、ストコフスキー65、カラヤン84、バーンスタイン88、ロストロポーヴィチ91、ゲルギエフ98でした。彼から借りたのは、ケンペン51、シルヴェストリ57、クレンペラー63、モントゥー63、ムラヴィンスキー73&78、ベーム80、ムーティ81&91、朝比奈82&01 など。ムーティを2枚借りたのは、今回「チャイ5」を極めたいと思ったキッカケの一つが2008年9月14日ミューザ川崎でのムーティ&ウィーン・フィル演奏会だったからです。指揮者の統率の下オケ全体が精神的に完全に一体となっている様が、視覚的にも聴覚的にも感知できた素晴らしい体験でした。お借りした2枚のムーティのうち、81年のほうはザルツブルク音楽祭でのライブ。この終楽章の暴走があまりに異常でビックリしました。ケンペンは少年時代チャイ5の定番だったものを再度この機会にという思いで。これは当時としては音もよく演奏もしっかりしたもの。朝比奈01は彼のラスト・コンサートの名古屋のライブで非売品。ドイツ音楽の権化・朝比奈最後の曲が「チャイ5」だったのは意外でした。大阪フィルのメンバーが泣きながら演奏していたと伝えられていますが、確かにオケの響きには啜り泣きが宿っています。

ここまではいつものとおりでした。今回違ったのは、准教授が「湧々堂というサイトにチャイ5のコーナーがある。面白いですよ」と教えてくれたことでした。早速覗いてみました。なんと、そこには、信じられないようなチャイ5のディスコグラフィーがありました。1921年録音ストコフスキー指揮:フィラデルフィア管から始まって、ほぼすべてのディスクがとりあげられています。その数約370点。しかも主要なレコードにはご主人のコメントまで付いて。ご主人の名前は田中利治さん。そしてこのコメントたるや半端じゃない。この曲の"ツボ"に沿っての厳密な演奏分析が展開されている。そのツボの数たるや、なんと33箇所!

例えば「ツボ10」(第2楽章冒頭とホルン・ソロ)にはこうあります。
・ 冒頭低弦による導入部のニュアンスは? 
・ 9小節目からのホルン・ソロ【dolce con molto espress=きわめて柔らかく豊に】という指示がど
 う生かされているか?
・ ホルン・ソロの力量、センスは?
・ クラリネットとの絡み具合は?
・ その後、24小節からオーボエが吹く副次旋律【con moto=動きを持って】とのコントラストは?
といった具合。しかも楽譜入りで。ではこれに沿って田中さんがどんなコメントをしているか?この部分を私の大好きな「ショルティ指揮:パリ音楽院管弦楽団56」を例に下記。
冒頭の低弦は、それ自体がテーマであるかのように強力に主張。アーティキュレーションも明快。濃厚なヴィブラートが特徴的なテーヴェのホルンが絶品。感覚的に異質に聞こえるが、とろける美音と細やかなフレージングに恍惚!これが聴けるだけでもこのチャイ5の魅力は大きい。絡むクラリネットとオーボエも史上最高クラスの巧さ。
設定した「ツボ」を全て押さえた見事な文章です。私は安易に"史上最高"なぞと言われると反発したくなる性格ですが、この方には文句が言えません。なにせ、この調子で33箇所も続くのです。しかもすでに100点を超える演奏にこの作業を施しているのですから。こうして検証した演奏で彼のお眼鏡にかなったディスクには
"excellent"マークがつけられています。これがまた凄い。聞いたこともないような指揮者や日本の地方オケの演奏にこのマークが付いています。試しに買って聞いてみるとこれが見事に素晴らしいのです。すっかりチャイ5と田中さんの虜になった私は、excellentマークを頼りに買い続け、10枚しかなかったチャイ5CDが1ヶ月で50枚を越えてしまいました。まさに「チャイ5 未知との遭遇」でした。

チャイ5をキッカケにあまりに感激した私は、田中さんにメールを打ちました。「あなたのような方が中央に進出してきたら今の評論家は束になっても敵わないでしょう」と。この後何度かメールのやり取りをさせていただいています。因みに「吉田秀和を斬る7」でとりあげたオリバー・シュニーダーも田中さんから教わったものです。田中さんこれからもよろしくお願いいたします。皆さんも是非「湧々堂」サイトを覗いてみてください。素晴らしい世界が開けること請け合いです。

最後に「マイ・チャイ5ベスト5」を挙げさせていただき「閑話窮題」を閉じようと思います。@−Cは田中さんのexcellentマーク付(Dは評そのものがまだありません)。ここでのコメントは不肖私です。悪しからず。
@ ノーマン・デル・マー指揮:ロンドン・フィルハーモニー79
アーティキュレーション(楽想の変化づけ)をここまで存分にやりながら、これほど自然に聞かせる演奏も稀です。どう展開するか予測もつかないが、奇をてらうに止まらない完成度の高さを持つ。質の高いイギリス推理小説の魅力。

A ルドルフ・ケンペ指揮:ベルリン・フィルハーモニー59
ゆったりしたテンポで濃厚に謳いあげる一方、微妙なテンポの揺れも魅力。確信ある節回しには有無を言わせず感動させられます。いけないと分かっていても嵌ってしまう悪女の魅力といった雰囲気でしょうか。

B ルドルフ・アルベルト指揮:セント・ソリ管弦楽団59
透明な響きの中にキリっとした抒情感が漂う、格調高く美しい仕上がり。第2楽章のホルン・ソロのフランス的音色とユニークな節回しは妖しいまでに美しく絶品の趣があります。

C ジョルジュ・プレートル指揮:ニュー・フィルハーモニア管弦楽団64
音楽作りに小細工はなく歩みは悠然としています。響きが明確なので輪郭がくっきりと浮き出てテクスチュアがしっかりと見通せます。フレーズはべとつくことなく印象は流麗。知と情のバランス随一の名人芸。

D エフゲニ・スヴェトラーノフ指揮:ソヴィエト国立管弦楽団90
大きな構えと豊麗な響きはロシアの大地を髣髴とさせてくれます。とはいえそれはロシア的メランコリーの世界ではなく、むしろそこには明るく優しく包み込むような音楽の流れがあります。疲れているときなど、何も考えず何かに身を委ねたいときに最適です。
次回から、「『バッハ・コード』〜ミサ曲ロ短調に隠された謎」をお届けします。近年の研究で、J.S.バッハの最後の作品は「フーガの技法」ではなく「ミサ曲ロ短調」ということがはっきりしました。大作曲家の最後の作品には二つのタイプがあります。それは「最後ということを意識して書いたか否か」が分かれ目となるのですが、バッハの場合は間違いなく"最後の作品"を意識して書いています。そんな「ミサ曲ロ短調」に対して、「別の時期に出来た様々な楽曲を寄せ集めただけの作品なので、統一感が全くない」などという中傷的評価も確かに存在しています。私はかねがね、あの大バッハの「ミサ曲ロ短調」が単なる寄せ集めであるわけがない、最後の作品に相応しい統一感を形成するために、バッハは必ず何かを施しているはずだ、という確信を持っていました。そんな仮説に対し、ある日突然閃いたものがありました。物語はそこから始まります。

 2009.03.02 (月)  閑話窮題――「フィガロの結婚」真実の姿 後日談
「クラシック未知との遭遇」が始まったのが昨年5月。最初は「フィガロの結婚」怒涛の八連荘でした。長年温めてきた力作自信作?はじめてネットに載るのが嬉しくて、友人知人に知らせまくりましたが、反応はイマイチでした。残念ぇーーん。「マニアックすぎる」という評が多かったですね。「歌詞と曲順が二通りづつある、どっちが正しいか」という実に単純な話だと私は思っているのですが。

あるとき、友人の知人でプロのピアニストの方が感想を寄せてくださいました。「モーツァルトに限らず、オペラの曲順なぞ上演のたびに変わる例は多いのだから、あまり気にすることはないんじゃないの。歌詞が二つあるというけれど、どちらが音楽的に流れがよいかを検証しないと意味がないのでは」というもの。人馬鹿にしていると思いましたが、反論はやめておきました。この感想に対して思ったことは、"この方真剣に読んでくれてないな"ということでした。やはり、無名の素人は相手にされない・・・。でもいいんですよ。「クラ未知」は他人様に読んでいただくことより、自分の思いを書き溜めることに意義があるのですから。そんな中、最近、YAHOO検索に"カラヤンとアウラ"とか"ケネディと五味康祐"とか入れると「クラシック未知との遭遇」が示されます。他人様に知られてなくても検索ロボットには認知されている?

「フィガロ」連載が終わった昨年6月末のこと。"せっかく天国のモーツァルトのために彼の本意を実証したのですから、これからの「フィガロ」はこうあってほしい"という願いを込めて「国際モーツァルテウム財団」に働きかけました。会社の大先輩を通して、財団唯一の日本人理事であられる海老澤敏先生に文書をお送りしました。以下その手紙の全文を掲載します。
海老澤敏先生

 初めてお便りさせていただきます。私はモーツァルトに傾倒する一音楽愛好家です。最近、ふとした偶然から歌劇「フィガロの結婚」の興味深い局面にぶつかりました。一つは、第4幕第13場におけるフィガロのセリフが歌唱によって二通りあること。もう一つは第3幕「裁判の場」を軸にした楽曲順が二通りあることでした。後者はモウバリー&レイバーン説として結構知られている事柄ですが、前者の"dispetto"と"rispetto"の並存につきましてはあまり言及されていないようです。
 これらを私なりに追求したのが別紙添付させていただきました「『フィガロの結婚』真実の姿」という研究論文です。その結論は、「新モーツァツト全集」の「フィガロの結婚」はモーツァルトが意図した形になっていない、ということです。「新全集」を編纂したのは国際モーツァルテウム財団ですから(このことは先生の近著「モーツァルトの廻廊」で教えていただきました)「財団」に2箇所の訂正を提言したいということでございます。
 国際モーツァルテウム財団が半世紀もの年月をかけ、欧米の叡智を駆使して編纂した「新全集」に、東洋の一素人音楽愛好者が気づくような間違いが存在するなんて信じられないとお思いになるのは当然のことでしょう。私も「新全集」が間違いであるとの結論を出したときは正直びっくりいたしました。しかしこの結論には自信を持っております。ならば財団には訂正していただかなくてはならないと思っております。
 そこで先生にお願いでございます。ご面倒でもまず拙文をお読みいただき、もし同意いただけたなら、この旨を「国際モーツァルテウム財団」へ提言していただきたいのです。未来の「フィガロの結婚」の正しい上演のために、これを日本から発信することの意義は非常に大きいものであると信じております。なにとぞよろしくお願い申し上げます。

      2008年6月
                                                    岡村 晃

<同封書類>
1、 国際モーツァルテウム財団への要望書
2、 「フィガロの結婚」真実の姿
残念ながら、先生からもモーツァルテウム財団からも、これまで全く反応がありません。仲介してくれた先輩も何度か連絡を差し上げているようなのですが。無視、なのでしょうか?

手紙には「未来の『フィガロの結婚』の正しい上演のため・・・」などと大仰に書きましたが、私の真意はもっと軽いもの。財団主導の楽譜「新モーツァルト全集」に変更点があったのですから、なんらかの意味があるはずです。「旧全集」では「rispetto」だったものが、半世紀もの時間をかけて行った大プロジェクトの末に「dispetto」に変わってしまったのは、なぜか?と訊いているだけなのです。世界の叡智を集めて検証した末の結論なのか、それとも一文字のミスプリントに過ぎないのか? 私が知りたいのはただそれだけです。何とかならないでしょうか、先生。だめなら、別の方法を探ってみるしかないと思う今日この頃であります。

 2009.02.23 (月)  閑話窮題――もう一度吉田秀和を斬る
昨年末からカラヤンのCDばかり聴いてきたので、少々疲れました。次はJ.S.バッハをやるつもりですが、これも大作。しからば、ここらでちょいと一休み、「クラ未知」への反響など気軽に書いてみようかと思います。タイトルがなかなか思いつかなかったので、題に窮すで「閑話窮題」としました。

昨年9月17日から7回連載した「吉田秀和を斬る」は内々では結構反響がありました。大御所とか有名人には必ずアンチがいるものですが、吉田先生も例外ではなかったようです。「捉えどころがないと思っていた上げ足をよくぞ捉えてくれた」という喝采型から「こんなにやって大丈夫?」という心配型まで様々でした。私、ケチをつけるのは趣味ではありませんが、変は変というべきだと思うのです。しかも対象が大御所といわれる人で、私ごときの素人が何を言っても揺るがない人なら、いいんじゃなかろうかと思うわけです。

たとえば、2008年11月10日掲載「吉田秀和を斬る」に知り合いの音楽評論家の方から「<バックハウスとギーゼキング>を読ませていただきました。『こんな扱いしかできないのなら"熱愛する"なんて軽々しく言って欲しくない』まさにその通り。またまた溜飲を下げることができました」と、賛同のメールをいただきました。この方はいつも熱心に読んでくださっており、本当に励みになっています。

「クラ未知」には返信欄がないため、知り合い以外からはほとんど投書がきません。そんな中ある方から、掲載サイト「カプリネット・レコード」にこんな書き込みが届きました。「たまたま、ネットを検索していたら『吉田秀和の悪評』の記事にぶつかりました。私もこの人の文章には共感したことがないので同感ですが、いつまでも振り回されるのはよくありません。西条卓夫を読んだらいかがでしょうか」とご親切なアドバイスでした。ありがとうございました。でも決して振り回されているわけではありません。徹底的にやるのが性分なだけでして。そして今日もしつこく「吉田秀和を斬る」の続きをやります。

今回は、昨年9月29日掲載の、クラ未知「吉田秀和を斬る−3」の後日談といったものですが、まず、私が問題にした、レコード芸術2007年2月号吉田秀和「之を楽しむ者に如かず」を確認しておきます。
「この間、たしかプレトニョフだったと思う(でなくてもどうでもいいのだが)が、東京のどこかのオーケストラを指揮してベートーヴェンの『第九交響曲』をやった。その演奏評を片山杜秀さんが書いて『朝日新聞』に載っていた。どんな演奏だか読み手によく伝わってくる、はっきりした、読んでいて気持ちの良い、つまり『なるほど』と思える記事だった。片山さんのはいつだってそうで、私はほとんどいつも感心して読んでいる。で、この批評で言うと、プレトニョフの『第九』は出だしから強弱の対照が極めて強調されていて、その表情付けでも、ベートーヴェンというよりむしろショスタコーヴィチにふさわしいものだったらしいのである。私流に言いかえれば、要するにベートーヴェンよりもショスタコーヴィチを聴かされたようなものだというわけである。片山さんは、だから、どうだまでは書いてなかったように覚えているが、これを読めば、こういう代物をきかされて、彼が閉口して頭を横にふっているという様子が自ずから眼に浮かぶように書かれている批評だった。で、『なるほど』と私は思い、良い批評だ、私だって、そう感じたろうなと説得されるものだった。」
私が問題にしたのは、吉田先生はこの演奏会を実際に聞いてもいないのに「そう感じただろう」とおっしゃったことです。聞いてもいない演奏を、書き手の文章に感心したからといって、「私だってそう感じたろうな」と思うのでしょうか?これは絶対におかしい。ありえない。また、あらためて気になったのですが、"(でなくてもどうでもいいのだが)"は酷い。プレトニョフに対して失礼です。これが演奏家を愛する人のいう言葉でしょうか・・・。私にとって、クラ未知「吉田秀和を斬る−3」は切れ味よくまとまったと思ってはいましたが、唯一気がかりだったのは、片山氏の朝日新聞のコンサート評そのものを読んでなかったことです。本文後半でこう書いています。
「この文章を書くにあたって、私は片山氏の『朝日新聞』の評を読むべきだと思い、出来る限りの手を尽くしたが、叶わなかった。上野文化会館4階の「音楽資料室」で2006年−2007年にかけての全ての新聞切り抜き記事を調べたが見付からなかった。まだ方法があるのかもしれないが、読んだところで私の主旨も論調も変わるわけではないので、ひとまず置いておくことにしている。」
ところが過日ついに発見! 件のコンサートが、2006年12月17日サントリーホールで行われたミハイル・プレトニョフ指揮:東京フィルハーモニー交響楽団の「第九」であることを確定して、再度音楽資料室で調べた結果でした。以下、朝日新聞2006年12月28日掲載、片山杜秀氏のコンサート評、題して「プレトニョフ&東京フィルの『第九』〜歓喜に浸れぬ現代人に捧ぐ」(の一部)であります。
「ベートーヴェンの交響曲第9番は問題を孕む怪演。第1楽章の、ガス状星雲のうごめきのような序奏は、締まりなく遅い。ベートーヴェンらしい、さあ行くぞという緊張感がない。ところが、大仰な第1主題が出ると、途端にすさまじく張りきる。その勢いが保たれたかと思うと、随所で、貧血を起こして倒れるように脱力する。第2楽章のスケルツォは、輪転機回る単調な音に耳を傾けてイライラしてくる感じ。甘美に和めるはずの第3楽章のアダージョは、焦りまくって、たちまち終わる。そしてフィナーレ。序奏部は第1楽章と同じく妙にうつろだ。しかし『歓喜の歌』になると猪突猛進。独唱者たちはついてゆくのがやっとだ。つまり音楽が両極端に分裂している。鬱々とした部分と異様に張り切る部分の両極端で中間がない。ぐったりするかと思うと、唐突に絶叫、その繰り返しだ。  そういう音楽作品は、世の中が神経症的になりだす、20世紀以後に増える。たとえばショスタコーヴィチがそうだ。この日の『第九』は、まるでショスタコーヴィチ的な解釈だった。心底から平和や歓喜に浸れない現代人に捧げられた『第九』と思うと、大いに納得できる。年末に憂き世を忘れようと出かけたら、返り討ちにされた。そういう演奏会だった」
ではここで先生の文章と比較検証してみましょう。

吉田先生は「出だしから強弱の対照が極めて強調されていて、その表情付けでも、ベートーヴェンというよりむしろショスタコーヴィチにふさわしいものだったらしいのである。私流に言いかえれば、要するにベートーヴェンよりもショスタコーヴィチを聴かされたようなものだというわけである。」とおっしゃっていますが、片山氏は「鬱の部分と異様に張りきる部分の両極端で中間がない」と言っているのであって、強弱の対照などという表現もなければ音の強弱を意味する文言も一切ありません。"緊張感と脱力感の唐突なる変換"と言っているのであって、"音の強弱の対照の強調"などという安易で一元的な言葉に置き換えられたら、元の意味が伝わるはずもありません。また「ショスタコーヴィチを聴かされたようなもの」という言い換えも、"的な解釈"という片山氏の意味合いからはニュアンスの度合いが強調されすぎています。先生の換言は極度に適正さを欠くといわざるを得ません。さらに先生は「だから、どうだまでは書いてなかった」とおっしゃっていますが、片山氏は「現代人に捧げられた『第九』で、憂き世を忘れるために出かけたら、返り討ちにあった。そんな演奏会だった」と、ちゃんと"どんな演奏会だったか"が書いてあります。

これは、吉田先生が何かを聞いたり読んだりしてものを書かれる場合、記憶が曖昧になっても再度現物を確認する労をとらないことに原因があると思います。2008年10月号「之を楽しむ者に如かず」では、アルゲリッチのDVDを対象に論旨を進めておられますが、「私は忘れてしまった。もう一度改めて、DVDをかける気はしないので、間違っているかもしれないが」とか「さっきいったように、私はこのDVDをもう一度きいて確かめる気がしないので」などという文言が再三出てきます。平気で"再度見る気がしない"と書かれているのです。間違っているかもしれないのなら、またかけ直して確認すればいいだけじゃないですか。曖昧さを残したまま放置しておいて、よく平気でいられますね。私にはこの態度は到底理解できません。読み手を馬鹿にしています。こういうことだから、片山氏のコンサート評を曲解したまま書き切ってしまわれたのでしょう。

このたびの片山氏の「コンサート評」発見で、吉田先生の曖昧さが浮き彫りにされた形になりました。謹んで反省していただきたいと切に願うものであります。

 2009.02.09 (月)  生誕100年私的カラヤン考――最終章
 カラヤンに「音楽的アウラ」はないのか? 「カラヤンがクラシックを殺した」の著者・宮下誠氏は「カラヤンの音楽は時代にヒットして世界を席巻したが、代償としてアウラを失った」と言う。前回はケーゲルとの比較において、アウラの有無を検証した。成果はさておき、今回はさらに多くの指揮者を聴きながら考えてみたい。

(1) 「田園交響曲」の終楽章
 対象はベートーヴェン作曲交響曲第6番「田園」の第5楽章(終楽章)にしよう。前回この曲をとりあげたのは単なる偶然だったが、「アウラ」探求にはなんと相応しい音楽だったろう。ベートーヴェンは「田園交響曲」に自然=神への感謝を込めた。第1楽章「田舎に着いたときの愉しい気分のめざめ」から、様々な田園風景を経て、「牧人の歌。嵐のあとの喜びと感謝の気持ち」という最終楽章に辿りつく。数年前、遺書まで書いたハイリゲンシュタットの自然の中で、今度は癒されながらその田園風景を(心理的に)綴った。ベートーヴェンの自然への感謝は神への感謝につながって、最終楽章に集約されたのである。アウラを感じとるには正に最適な音楽ではなかろうか。
 楽章の終盤237小節目、pp sotto voce(声をひそめて)からの8小節に、私は神の(神への)声を聞く。そこでは、それまでの全奏は止み弦楽器だけになる。J.S.バッハが「マタイ受難曲」でイエス・キリスト神性の象徴として用いたあの弦楽合奏である。この曲は、初演のあとメンデルスゾーンが蘇演するまで、100年もの間演奏されなかったのだから、ベートーヴェンは知る由もなかっただろうが、この部分はそうとしか思えない。時空を超えてバッハが降りてきたとしか思えないのである。
 では、この部分(以下BBと呼ぶ)を中心に、「田園」終楽章を検証する。

(2) カラヤン以外の指揮者による「田園」終楽章を実感する
 試聴のポイントは、BB部分に込める気持ちと「アウラ」の実感である。

  @ クレンペラー:フィルハーモニア58
     7:40の金管の揺れにアウラ(以下A)を感じる
     BB 実に神々しい響き。自然の恵みと神への感謝が聞きとれる

  A ケーゲル:ドレスデン・フィル89
     出足のクラリネットとホルンの微妙なニュアンスにA
     1:44からのトランペットの響きにA
     BB 丁寧にたっぷりと神への感謝を歌う。
     これに続く245小節の ff も優しい

  B スウィトナー:ベルリン・シュターツカペレ80
     BB 丁寧で純粋で澄み切った響きが聞こえる

  C フルトヴェングラー:ウィーン・フィル52
     BB 意外とあっさりしているが気持ちはこもっている
     8:58 コーダ・弦の歌わせ方にA

  D ワルター:コロムビア響58
     2:12 弦がリタルランドしてクラリネット〜ホルンが入り第1主題へつながる絶妙な呼吸にA
     BB この上なく丁寧で優しく慈悲に満ちている

(3) カラヤンの「田園」にはアウラがあったか?
 試聴したのは前回と同じ2枚。オーケストラは両者ともベルリン・フィルハーモニーで、録音年代は其々63年と76年である。終楽章のタイムは、63年盤が8:46で76年盤が8:35で、あまり差はなく、聞こえ方もそれほど変化はない。強いていえば、前者がキビキビと若々しい演奏なのに対し、後者は低重心で響きが濃厚で流麗感が増しているといえようか。これも第1楽章の印象と大差ない。
BBにもあまり感情の入れ込みは感じられず、至極アッサリと流れる。特に76年盤にその傾向が顕著だ。

 即ち、アウラ有無のポイントとして探り当てたBBポイントにおいて、最も感情の襞なくスンナリと流れ去ってゆくのはカラヤンの演奏だった。しかも時を経てその傾向はさらに強まってきている。カラヤンの音楽の"感情の起伏を排し、音を美しく磨きあげることを主眼とする"傾向がここでも顕著に現れているといえる。
 アウラを感じるべき曲にアウラを感じさせないカラヤンの演奏。やはりカラヤンにはアウラがない?

 ここは、演奏比較の場ではないので大概にするが、クレンペラーとスウィトナーが双璧か。悠然たる足どりで淡々と運び、最後で神への感謝を敬虔に歌いあげるクレンペラー。自然な流れとしなやかな表現が聞き手に心地よさと安らぎを与えるスウィトナー。実に魅力あふれる二つの「田園」である。そしてワルター。私はこの盤で「田園」を知った。中学1年生のときである。久々にじっくり聴いたが、やはり素晴らしかった。寛容に満ちた優美な音楽は彼の優しく穏やかな人柄そのものだ。これは私にとって別格の「田園」である。

(4)結びに
 宮下氏が投げかけた「アウラ」の存在は、頑張って掴もうとしたが、無理だったのかもしれない。やはり"ないわけではなさそうな、いわく言い難い、神秘的な「何かあるもの」"なのか。
 それは「博士の愛した数式」(小川洋子著)にあるような、"永遠の真実は目に見えない。心で見るもの"なのかもしれない。博士が愛した「オイラーの等式」は、何たるかは解析できるわけもないが、美しさは感覚的になんとなく分かる。ネイピア数と円周率という無限定数が、虚数というバーチャルな存在と「1」という最小の個と相まって無に帰するという、計り知れない神秘は、至高の美しさを湛えている。創りだすことなどできるはずもないが、天才の創造物に美を感じとることなら、我々凡人にだってできる。
 音楽における「アウラ」も"決して言葉では語れない、ただ感じるもの"なのだろう。音楽を語るのは難しい。でも言葉にしなければ他人には伝わらない。感じ方は一人ひとり違うもの。表現の仕方もみな違う。そんな中で、音楽を語り伝え合うことは、難しいに決まっている。「アウラ」を捉え語るのは難しいが、その有無を感じとることならできるだろう。それでいいのだ。「オイラーの等式」に美を感じるように。

 年をまたいで連載したカラヤンをこれで終わりにします。わが音楽人生のきっかけを与えてくれたカラヤンを、生誕100年にあたり、様々に追求できたのは大変有意義でした。
 "50−60年代の覇気が、70−80年代に喪失し、最晩年で蘇る"という大まかな流れも、なんとなく捉えられたような気がしています。そして最終の土壇場で、なんとなくではない本物の名演奏(なりふり構わず音楽にぶつかった)「ブラ1ロンドン88」に出会うことができました。これは大変な収穫でした。凄いぞカラヤン。ありがとう。天晴れです!

 2009.02.02 (月)  生誕100年私的カラヤン考――7
前回は、ベンヤミンが写真において規定した「アウラ」の概念を「音楽的アウラ」に適用し、宮下氏が言う"カラヤンの音楽にはアウラがない"に関連付けてみた。即ち・・・
「音楽的アウラ」とは「時空の中で、自然な感情の動きによって起こされる音楽の揺らぎ」である。カラヤンの音楽は感情移入を排したものだ。したがってアウラのない音楽だ。何度演奏しても同じ音楽が生まれる。同時に時代はレコードという音楽の複製技術を発達させた。アウラのない同じ音楽が際限なく複製された・・・これが音楽におけるアウラ喪失の姿であり、カラヤンが犯した最大の罪のひとつである。
今回は、"カラヤンの音楽には「アウラ」がないのか?"について検証する。

(1)きっかけはケーゲル
宮下氏はカラヤンの対極にある指揮者としてクレンペラーとケーゲルをあげている。"カラヤンに「アウラ」がないのなら、ケーゲルにはあるということか?"などと考えているとき、ある中古CDショップでケーゲル/ドレスデン・フィルハーモニーのベートーヴェン交響曲第6番「田園」を見つけた。値段はなんと200円。早速買って聞いてみた。

この「田園」のテンポは速かった。でも平坦な感じはしなかった。第1楽章提示部のタイムは(繰返しなしで)2:17だった。吉田秀和先生が「高速道路をスポーツカーで走っているような」と形容したカラヤン/ベルリン・フィル63は2:22、ケーゲルのほうが5秒速い。これはとてつもなく速いといっていい。でも聴感上はカラヤンのほうが速く感じる。これは何故?ここに「アウラ」解明のヒントが゙隠されているのではないか?と思った。 何度か聴き比べて出た結論は「揺らぎ」の差だった。「揺らぎ」は変化によって引き起こされる。変化にはテンポとダイナミクス(音の強弱)の2種類がある。これらは単独に、時には重なって、楽想に変化をもたらす。これが音楽の流れ(時間)の中で自然に(感情の趣くままに)生じたとき、音楽的「揺らぎ」が生じる。これが即ち「アウラ」なのではないか。カラヤンの演奏が、物理的に速いケーゲルの演奏より速く感じるのは「アウラ」がないからなのではないか?

(2)ケーゲルとカラヤン
ヘルベルト・ケーゲル(1920−1990)はドレスデン生まれ旧東ドイツの指揮者。62年―77年はライプツィヒ放送響の音楽総監督として、77年から86年まではドレスデン・フィルハーモニーの主席指揮者として活躍、この間ほとんど旧東ドイツを出ていない。
89年ベルリンの壁が崩壊し、翌年ドイツは統一。旧東ドイツにも西側から多くの音楽家が流れた。勢いケーゲルの活躍の場はせばめられ、社会主義者でもあった彼は鬱状態が続き、ついには1990年11月20日ピストル自殺を図り還らぬ人となってしまう。
ケーゲルとカラヤン。東と西、陰と陽、月見草と向日葵。"知る人ぞ知る"と"知らぬものなき世界の帝王"。同じヘルベルトでこうも違うか、まさに対照極まる二人である。

私は「カラヤン考3」に書いたように「柳原キャンパス」でクラシック利き酒をやっている。したがって一音一音をこまめに聞き比べたがる習性がある。しかしながら"アウラの存在"の有無を聞き比べるのは至難の技だった。カラヤンは平坦に流れ、ケーゲルは揺らぎを内包しながら流れている、と感覚的にいうのが関の山だ。なんとなく感じるとしか言いようがないのだが、強いて一箇所だけ例を挙げてみる。
「田園交響曲」第1楽章98小節目と103小節目の主和音のトゥッティ(全奏)の部分。両方ともにf(強く)が付いている。カラヤン(1:39、1:46)は素っ気なく強く音を出す。「俺は作曲者の指示どおりやっている、文句あるか」みたいな。ケーゲル(1:35、1:42)は包み込むように音を出す。ファルテには違いないのだがどことなく優しい。なにか"音楽に揺れがある"ような。だからどうなのよと言われそうだが、私はここに「アウラ」の有無を感じとれるのではないかと思うのだ。カラヤン=平坦=素っ気なさ=感情のなさ=アウラなし。ケーゲル=抑揚=思い入れ=感情の発露=アウラ。

とはいえこれは実に曖昧。皆さんがここを聞いてなるほどと思うだろうか。思っていただけたところでこれは「アウラ」なるものなのか?これはむしろ解釈というものではないのか?答えは出そうもないけれど、なんとか手探りで進んでみよう。では次に両者の別時点での演奏を比較してみる。

まずはカラヤン。この13年後1976年に、同じベルリン・フィルとの再録音がある。「田園」第1楽章提示部のタイムは2:25なので63年盤より3秒遅いだけ。表現は、より重心が低くレガートが強く全体的によりソフトで耳ざわりが良くなっているが、根本的に音楽が変わってはいない。

次にケーゲル。1989年10月18日、サントリーホールにおけるドレスデン・フィルとの来日演奏会のライブ録音がある。タイムは2:44となんと27秒も遅い。表現も別物だ。
まずは、第3小節目の極端なリタルランド。これは楽譜にもない。第15小節目のpの表情がより濃厚。37小節第一主題の引きづり方、同じ形は42、47小節でも覗える。実に個性豊な音形作りをしている。だが果たしてこれが「アウラ」かといえば「?」だ。自然な感情の発露なのか意図的なつくりなのか? でも、確かにあまり感情の介入が感じられないカラヤンよりは「アウラ」アリといえるかもしれない。また一回性の観点から見ても、以前のスタジオ録音からまるで別人のごとくのライブ演奏をすること自体、「アウラ」的といえるかもしれない(他の楽章、特に終楽章などは変化の度合いがより顕著である)。

規定したまでは威勢がよかったが、実証するとなるとこの有様である。こんな程度である。やはり写真から生まれた概念を音楽に結びつけることは始めから無理なのだろうか? 音楽からそれを感じとることは難しいのか、それとも元々ないものなのか。音楽を文章で表すことの難しさも手伝って、これは至難の業という感じである。益々迷路に陥りそうな予感もする。でもまあ、ドン・キホーテで行こう。突撃あるのみ。失うものは何もない。次回はこの曖昧模糊とした「アウラ」なるものを、より多くの「田園交響曲」を聴きながら考えてみたい。

 2009.01.26 (月)  生誕100年私的カラヤン考――6
宮下誠氏の著書「カラヤンがクラシックを殺した」(光文社新書)は、文体には違和感があるが、引用と思考の一部には興味を覚えたと書いた。今回は、彼が引用した「音楽的アウラ」とカラヤンの音楽との関連について考察してみたい。

(1)「アウラ」を失ったカラヤン
宮下氏は本書第二章「流線型の美学」の「音楽的アウラ」の中でこう述べている。
「カラヤンの音楽は、なるほど歌に満ち、ときには暴力的ですらあったが、それらは多く自発的であるよりは計算づくであった。ヨーロッパは変わりたかった。いや、変わらなければならなかった。過去を清算し新しいヨーロッパ像を打ち立てる必要があったのだ。占領軍によってもたらされたアメリカの価値観の新しさ、自由な雰囲気、薄味の普遍性。それを保証する幾分脳天気で楽観的な「新世界」の世界観が旧弊なヨーロッパの世界観を粉砕した。そのような普遍的、汎世界的価値観にカラヤンの音楽は見事にヒットしたのだ。すなわち彼の音楽的才能とコスモポリタン的資質が、時代の要請とマッチする音楽を形作っていった」

「その代償としてカラヤンが失ったのは、かつてのヨーロッパ、特にドイツ語圏に遍在していた観念論的伝統とそれに対する敬意と畏怖であった。"目に見えない何かあるもの"への畏敬の念と言っても同じことだ。"あること"を証明することは到底不可能だが、決してないわけでは"なさそうな"、神秘的な"何かあるもの"であり、ベンヤミンが複製技術時代には失われることを予言した『アウラ(オーラ)』であった」
彼の言うカラヤンの音楽は、五味康祐が書いた「気軽に聞き流していれば、いかにも現代人好みなビートが利いた演奏だが、まともに聴き出せば、その浅薄なこと、厚化粧なこと、サービス過剰で、格調のないこと、まさにアメリカ人向けという気がする」にそのまま符合しそうだ。また「自発的であるより計算づくであった」は「カラヤン考――1」鼎談 "カラヤンはどんな振り方もできる。常に聴衆を意識している" につながる。

宮下氏はカラヤンの音楽が失ったものは「アウラ」であると言う。それは"あること"(存在)を証明できないとも言う。でもせっかく核心的な要素に行き着いたのだから、証明できないのは勿体ない。ならば私がこれにトライしてみよう。無理かな?

手がかりは3つ。ひとつはヴァルター・ベンヤミンの言う「アウラの概念」、二つ目は「アウラのないカラヤンの音楽」、三つ目は「アウラを持つ観念論的ドイツ伝統の音楽」である。

(2)ベンヤミンの規定する「アウラ」という概念を考察する
ヴァルター・ベンヤミン(1892−1940)はベルリンの裕福なユダヤ人美術商の家に生まれている。したがって彼の文化論は美術と写真に根ざすものだ。著者宮下氏は西洋美術史が専門なので即結びついたのだろうが、説明不足の感は否めない。もしかしたらカラヤンの音楽とベンヤミンの予言した「崩壊するアウラ」を結びつけることの難しさは先刻ご承知だったのではないか。それで「"あること"を証明することは到底不可能」と逃げてしまったのかも知れない。でもせっかく提示されたテーマなのだから大切にしよう。

「アウラの概念」はベンヤミンの著書「写真小史」と「複製技術時代の芸術作品」に書かれているが、これらを多木浩二著「ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』精読」(岩波新書)から引用してみる。
「そもそもアウラとはなにか。空間と時間の織りなす不可思議な織物である。すなわちどれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているものである。夏の真昼、静かに憩いながら、地平に連なる山なみを、あるいは眺めているものの上に影を投げかけている木の枝を、瞬間あるいは時間がそれらの現れ方にかかわってくるまで、目で追うこと――これがこの山々のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである。」(「写真小史」より)

「いったいアウラとは何か?時間と空間とが独特に縺れあってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。」(「複製技術時代の芸術作品」より)
ベンヤミンはアウラをこのように規定したあと、ネガ/ポジ方式の写真技術の発展の中、ウジェーヌ・アジェ(1854−1927)という天才写真家が「対象をアウラから開放した」と説いた。彼の撮った写真は感情移入を排したパリの街並みだった。それは時間による変化も空間による変化もない。対象はいついかなるときも一定である。しかも時代は写真の複製技術を発達させている。アウラのない同じオブジェが際限なく複製された・・・これがアウラ喪失の真の姿であり、近代写真流派による功績の中で、最大のものだとベンヤミンは規定した。

宮下氏は、これに倣って、カラヤンの音楽とレコード時代をこう規定する。カラヤンの音楽は感情移入を排したものだ。したがってアウラのない音楽だ。何度演奏しても同じ音楽が生まれる。同時に時代はレコードという音楽の複製技術を発達させた。アウラのない同じ音楽が際限なく複製された・・・これが音楽におけるアウラ喪失の姿であり、現代の指揮者・カラヤンが犯した最大の罪であると。

両者の最大の違いは、ベンヤミンはアウラの喪失を"功績"と言っているのに対し、宮下氏は"罪"といっている点だ。ならば、宮下氏の引用はいささか説明不足といわざるを得ないので、私が踏み込んでみよう。

アウラというのは我々が普通に言うオーラのことで、語源はラテン語のauraである。辞書によるとauraは「風」とか「天」という意味である。即ち「天」が時間と空間の中で司る、「風、光、空気」など、私たちを抱えている大いなるものを意味する。「自然」と置き換えてもいい。
したがって「アウラ」とは「時間と空間が織りなす自然の揺らぎ」のようなものと規定できる。これを更に音楽寄りに言い換えればどうなるだろうか。キイワードは、自然、時間、空間、一回性、感情である。

曰く「音楽的アウラ」とは「時空の中で、自然な感情の動きによって起こされる音楽の揺らぎ」ということができるだろう。

したがって、アウラは、対象を時間と空間の中から切り取る「写真」においては邪魔で、空間の中を時間とともに流れる「音楽」においては有用なのだ。逆に言えば"アウラの喪失"は「写真」では"功績"であり、「音楽」では"罪"なのだ。

次回は「カラヤンの音楽にはアウラがないのかどうか」を、実際にCDを聞きながら検証する。

 2009.01.19 (月)  生誕100年私的カラヤン考――5
(1)「ブラームス:交響曲第1番」におけるカラヤン その2
<「ブラ1」試聴6W>
@ ウィーン・フィル59(DECCA)
A ベルリン・フィル63(DG)
B ベルリン・フィル77(DG)
C ベルリン・フィル87(DG)
D ベルリン・フィル88.5.5サントリー・ホール・ライブ(DG)
E ベルリン・フィル88.10.5ロンドン・ライブ(TESTAMENT)
前回は「ブラ1」@−Cまでを試聴して、Bが最悪Cが最高という結果が出た。これを、「悲愴」「シベリウス第2番」「惑星」と合わせ、シンプルに分類してみる。
<良い演奏>
「シベリウス第2番」フィルハーモニア60
「惑星」ウィーン・フィル61
「悲愴」ウィーン・フィル84
「ブラームス第1番」ベルリン・フィル87
「悲愴」ベルリン・フィル88

<良くない演奏>
「ブラームス第1番」ベルリン・フィル77
「シベリウス第2番」ベルリン・フィル80
「惑星」ベルリン・フィル81
以上を総括すると
  @ 70後半―80前半のベルリン・フィルの演奏に良くないものが多い
  A 初期60年前後と晩年80年代後半に良いものが固まっている
という傾向が窺える。
即ち、"カラヤンは60年代までは良かったが、70年代後半から80年代前半までは悪く、晩年になって再び良くなった"ということだ。これはまた"カラヤンは70年代になって堕落した"との巷の風評にも当てはまる。とはいえ、たったこれだけのサンプルで、偉大なカラヤンの業績にケチをつけたり、演奏の良し悪しの変遷を傾向づけることは出来ないだろう。そのためには更に多くのサンプルが必要で、膨大な時間と何よりも興味の持続が欠かせないだろうが、これからも延々とカラヤンの演奏を聴き続けるのは"いささか苦痛"であり、素人の私ごときが検討するのは"おこがましい"ので、これに止めて次に進みたいと思う。

(2)驚異的名演奏の出現
昨年は、カラヤン生誕100年を記念して、注目すべきCDがいくつか初お目見えした。「コンサート・イン・ベルリン1957」(SONY、グレン・グールド共演)、「ラスト・コンサート1988」3W(DG、最後の日本公演、「悲愴」「ブラ1」「展覧会の絵」「ベートーヴェン4番」「モーツァルト29番、39番」など)など、これらはすべて興味深いCDばかりでカラヤン・ファンならずとも楽しめたが、最後にきて超弩級の名演奏が出現した。ベルリン・フィルとの「ブラームス:交響曲第1番」、88年ロンドン公演ライブ(TESTAMENT)である。

これは凄い。凄いなんていうもんじゃない。とてつもない演奏とはこのことだ。Cをも凌駕する驚異的な名演奏である。1988年10月5日、ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホールでのライブ。この日、死まであと9ヶ月。
第1楽章の出だしから既に鬼気迫る緊張感が漲る。ティンパニーの強打に込められたパワーも空恐ろしい。冒頭9小節目ティンパニーの最後の一打への"間"の絶妙なこと。ライブならではのアウラが発散している。同じことは、コーダ前の音の刻みにも言えて、これほどメリハリのある曲想は他に聞いたことがない(クナッパーツブッシュがやりそうな。でも彼は「ブラ1」はやらない)。楽章全体を通して、まるで音符を切れば鮮血が飛び散るような熱さだ。
一転、第2楽章はロマンティックな平安に包まれる。ただ安らかだけではない、大きなうねりのなかに漂う心の安らぎといえば当たっていようか。中島みゆき「二艘の舟」のような・・・。凛としたオーボエの響きも絶品だ。第3楽章は連鎖するレガートがクッキリとして抒情はベトつかない。飾り気のない簡素な美しさが際立つ。
そして、終楽章−ロンドンの秋の冷気を切り裂くような芯の強いベルリンの弦が、心の深部を揺さぶるような出足。朗々と鳴りわたるアルペン・ホルンの響きが、清澄なフルートから荘重な金管を経て、また戻ってくる管のリレーは、かつてないニュアンスを醸し出す。そしてヴァイオリンによる第1主題は、敬虔な祈りにも似た神々しさを湛えて比類ない。あとは、激流の中に平安を垣間見て、開放された歓びへと精神が解き放たれてゆく。オケ全体の響きは、雷鳴のように強烈で量感あるティンパニーとあたりを切り裂くような鋭い弦に支えられている。そう、ベルリン・フィルの強力な弦楽器群と天才オズヴァルト・フォーグナーのティンパニー。"指揮者/コンサートマスター/ティンパニーがオーケストラの根幹だ"とはよく言われる話だが、これぞ正にカラヤン&ベルリン・フィルが到達した究極の境地に他ならない。
堕落した?カラヤンが、人生の最晩年に至って成しえた、これは想像を絶する名演奏である。
この演奏は、楽器が間に合わなかったため開演時間を延ばして、リハーサルなしで臨んだ一発勝負だったという。この数ヵ月後カラヤンはベルリン・フィル主席指揮者のポストを追われるが、そんな指揮者とオケとの関係の下、これだけの名演奏が実現したのは奇跡としか言いようがない。もしこれが、この突発事故のせいだったとしたならば、我々はこの神の悪戯に感謝しなくてはならないだろう。

(3)「ブラ1」こそカラヤンのシンボル曲
カラヤンのキャリアを辿ってみると「ブラームスの第1番」は彼にとって特別な楽曲であることがわかる。節目では必ず演奏している思い入れナンバー・ワン楽曲だ。その意味では「悲愴」も敵わない。以下「ブラ1」が演奏された機会を列記してみる。
@ 1935年アーヘン歌劇場時代、歌劇場オーケストラでの初コンサート
A 1946年1月 ウィーン・フィルとの戦後初のコンサート
B 1954年 初来日NHK交響楽団との公演
C 1955年 ベルリン・フィルとの初のアメリカ・ツアー
D 1957年 ベルリン・フィルとの初来日コンサート・ツアー
E 1958年 ベルリン・フィルとの初のヨーロッパ・ツアー
F 1963年10月 ベルリン、フィルハーモニー・ザール落成記念公演
G 1988年5月 ベルリン・フィル最後の来日公演
H 1988年10月 ベルリン・フィル最後のイギリス公演
  @は、歌劇場指揮者時代の初コンサートで、アーヘン市民から熱狂的喝采を浴びたという
  Aは、ナチス党員だったため、戦後コンサート活動を禁止されていた後の解禁公演
  CDEは、終身主席指揮者としてベルリン・フィルを率いて行った初の外国ツァー
  Fは、新築なったフィルハーモニー・ザールでのお披露目公演(初日は「第九」)
  GHは、亡くなる前年、縁の地でのラスト・コンサート

カラヤンと「ブラ1」との関係。もはや多言を要しないだろう。次回は、カラヤンとアウラなるものについて考えてみたい。

 2009.01.12 (月)  生誕100年私的カラヤン考――4
(1)「カラヤン本」の新刊
2008年はカラヤン生誕100年とやらで、何冊かの「カラヤン本」が新規に発売された。読んだのは3冊。中川右介著「フルトヴェングラーとカラヤン」は、1955年、カラヤンがベルリン・フィルの終身主席指揮者になるまでのドキュメンタリー。川口マーン恵美著「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」は、両者を知るベルリン・フィルのメンバーへのインタビューもの。宮下誠著「カラヤンがクラシックを殺した」は、"現在のクラシック音楽界の混沌はカラヤンのせいだ"と断じる過激な音楽文化論。私は、この本には、違和感と興味を覚えた。違和感は彼の文体で興味は引用と思考の一部だ。

「カラヤンがクラシックを殺した」は、1988年5月5日のサントリー・ホールから話が始まる。この日はカラヤン最後の来日コンサートで、オーケストラはベルリン・フィル、プログラムは「モーツァルト交響曲第39番」と「ブラームス交響曲第1番」だった。この演奏は、昨年、初CD化され、発売されている。
著者はこの日の「ブラ1」の演奏について、「最初は感動したが、得体の知れない嫌なものに触れたような後味の悪さが残った」と言っている。このあたりにカラヤンの演奏の秘密が隠されていそうであるが、ひとまずこれは置いて、「ブラ1」演奏比較に入ろう。

(2)「ブラームス:交響曲第1番」におけるカラヤン その1
カラヤンの「ブラ1」は全部で8Wを数える(09年1月現在、正規盤のみ)。期間は、1943年のコンセルトヘボウ盤から、1988年10月5日ベルリン・フィル、ロンドン公演までの実に45年間、これは「悲愴」に匹敵するカラヤンお気に入り楽曲の証明だ。
<「ブラ1」試聴6W>
@ ウィーン・フィル59(DECCA)
A ベルリン・フィル63(DG)
B ベルリン・フィル77(DG)
C ベルリン・フィル87(DG)
D ベルリン・フィル88.5.5サントリー・ホール・ライブ(DG)
E ベルリン・フィル88.10.5ロンドン・ライブ(TESTAMENT)
これらを追うと、カラヤンのキャリア&ニュー・メディアとの関係がはっきりと見えてくる。3弾目となる@は、58年に実用化成ったステレオ・レコードのための録音。当時ウィーン・フィルはDECCA、ベルリン・フィルはDG、カラヤン自身はEMIの専属だったため、レコードはDECCAからの発売となった。このコンビでの録音は65年まで続く。Aは当時「カラヤンDG完全専属」と謳っての発売。ベルリン・フィルもカラヤンも晴れて同じDG専属となっての初録音。Bは、前録音から14年、ベルリンのフィルハーモニー・ザールを会場として(63年盤はイエス・キリスト教会)新技術による録音を残したかったのだろう(最後のアナログ録音)。Cはこの曲初のデジタル録音、映像と同時収録。Dは最後の日本公演のライブ録音。Eは最後のロンドン公演のライブ録音・・・・といった具合だ。

まずはレコード芸術78年12月号、大木正興氏の新譜月評からBベルリン・フィル77を見てみよう。「ところで演奏だが、これが仕事熱心と丹念さをレコードの上で誇るカラヤンにしては、どうも釘の一本抜けた感無きにしもあらずの半端なものである。付点音もスタッカートもすべてぼかした安楽椅子に座ったような気分に運び去られている」・・・これこそまさに、前回「惑星80ベルリン・フィル」で私が書いた"タガは緩み輪郭はぼけ、気合のないこと夥しい"に合致する。さらに氏はこう続けている「指揮者とオーケストラの楽員とは、最終的な仕事の場では対峙する別の領域を占めるものだ。ところがカラヤンは、今ではオーケストラ・サイドに引き込まれ、弾き吹く楽しみの開放のほうに妥協している」と。これも「シベリウス第2番81ベルリン・フィル」での"指揮者もオーケストラも馴れ合いの極致で、そこには音楽を創り出す歓びも緊迫感も何も感じられない"と述べたことと符合する。

確かに、この77年の録音は"長きにわたるオケとの付き合いが、馴れ合いによる緊迫感の欠如を生んで、生気の乏しい演奏となっている"と感じる。やはり、カラヤン70年代後半―80年代前半の"堕落"は本当なのか?

このBを軸に、まずそれに先立つ@Aを試聴・考証してみる。これら二つがBに比べ表現がキリっと締まっているのが聞き取れる。@ウィーン・フィル盤は、若々しい表現は魅力だが、表情がやや硬くオケの鳴りもイマイチだ。まだ指揮者の徹底度が弱いということになろうか。このときカラヤンは50歳。同じウィーン・フィルを没年43歳のときに振ったイシュトヴァン・ケルテスの「ブラ1」73は、内面的力強さと情熱に溢れ、オケの美質を生かしきり、その円熟度は遥かカラヤンの上をゆく(勿論、レコーディング技術の向上という側面も無視できないが)。もしもこの人が生きていたら、カラヤンの名声もあれほどまでには上がらなかったのではないかと思う。本当に惜しい人を亡くしたものだ。Aベルリン・フィル63は、美しく華麗にオーケストラが鳴り響き、カラヤンの颯爽たる勇姿が浮かんでくる快演だ。

いったん緩んだBのあと、Cベルリン・フィル87は信じられないような名演となっている。なんと言っても響きが充実している。キリっとした輪郭の中に豊かで華麗な響きが盛られている。そして何よりも音に気迫が篭っている。表現に生気が宿っている。第1楽章の荘重さ、第2楽章の優美さ、第3楽章の佇まいの美しさ、終楽章の勇壮さなど、それぞれの性格を、響きを率直に出し切ることで雄弁に物語る。語り上手といわれたカラヤンのひとつの究極のパフォーマンスがここにある。

70年代後半から80年代前半あたりまでのカラヤン&ベルリン・フィルには確かに凡演が散見されるが、ここで思い出されるのが有名なザビーネ・マイヤー事件だ。
腕もいいし顔もいい女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーを気に入ったカラヤンは、彼女をベルリン・フィルに入団させようとするが、団員の反対にあって拒否される(ベルリン・フィルは団員の投票によって民主的にメンバーを決める伝統があり、当時はまだ女性団員を認めていなかった)。1982年のことである。カラヤンはこれを無視して、彼女を無理やり入団させるが、団員の意志は固く、最終投票でも拒否。それでもまだ居座らせるが、結局1984年彼女自身が居づらくなって退団、事件はオケ側の勝ちということで一応の決着を見た。この事件で、カラヤンと団員との不仲は決定的となるが、確執の芽は既に70年代から芽生えていたという。それは、カラヤンの金と権力への執着がもたらすオーケストラの私物化志向だった。この時期におけるベルリン・フィルとの凡演はこの辺りにも原因があるのだろう。

一方、この時期の名演だってなくはない。ワーグナーの舞台祭典劇「パルシファル」(79年録音)はカラヤン初のデジタル録音で名演の誉れ高いものだが、面白いのは「マーラーの交響曲第9番」で、79年のアナログ最後の録音と82年のデジタル・ライブ・レコーディングの2種類がある。79年盤の録音期間は、11月から翌年の9月まで、なんと10ヶ月の長きに渡っている。これは、開始直前79年10月、レナード・バーンスタインのベルリン・フィル初お目見えを意識してのものに違いない。バーンスタインはここで「マーラーの第9番」を演奏。このライブ・レコーディングは一期一会の名演との評判をとった。ライバルに手兵を使われてこの有様、カラヤンは黙っていなかった。直後からの長期にわたる念入りなレコーディングは、この対抗意識の表れだろう。そして3年も空けずに新録音、しかもデジタル・ライブ・レコーディングである。ライブという同じ条件下で新技術での録音。こうしておけば"バーンスタインはもう自分には追いつけない"と考えたのだろうか。マーラーは苦手といわれるカラヤンが、2回も録音した曲はこれだけだ。すさまじい執念。強烈な対抗意識。ニュー・メディアも絡んで、これぞまさにカラヤン真骨頂のエピソードである。

因みに79年盤と82年盤のタイムは楽章ごとに各々、29:04−16:41−12:44−26:41と28:10−16:38−12:45−26:49で、ほとんど差異がない。片やスタジオ片やライブ、3年経ってもほぼ同じタイムで演奏している。タイムもさることながら、演奏自体もほとんど差異は感じられない。これもカラヤンらしい。いろいろな意味で興味深い2つの「マラ9」だが、残念ながら79年盤は廃盤のままだ。

アンサンブルの乱れをものともせず気持ちで突き進むエモーショナルなバーンスタイン。細部まで磨きぬき人工美の極致たる世界を作り上げたカラヤン。20世紀を代表する二人の巨匠が、ベルリン・フィルを駆って残したこの対照的な名演は、レコード音楽史上屈指の名勝負のひとつだ。どちらを採るかはリスナーの自由。私はマーラーの本質&作風への合致度からバーンスタインを採るけれど。

カラヤン84年「悲愴」の名演はウィーン・フィルとのもの。これは、事件真只中のベルリンを離れ、ウィーンで音楽だけに集中できた結果なのか。87年「ブラ1」ベルリン・フィルとの名演は、マイヤー事件から3年の時を経て両者の間に生じた、いい意味での緊張感の賜物か?

次回は、DE最晩年の「ブラ1」2作を考証する。
2008.12.29 (月)  生誕100年私的カラヤン考――3
(1)柳原キャンパスとカラヤン
3年ほど前から、クラシック同好の志が集まって「柳原キャンパス」なるゼミナールを催している。デザイナー柳原福良さんのアトリエに、音楽大学准教授、レコード会社編成マン、放送局クラシック番組制作スタッフなど"耳のよい"(?)メンバーが、月一回集まって、同曲違演10点の演奏者を目隠しして聞き当てるという、所謂"クラシック利き酒"の会である。

手順はこうである。
@ その月の課題楽曲を決め、私手持ちのCDをメンバーの"盤鬼"二人(各々1万枚、2万枚のコ
  レクター)に報告する。
A 追っかけ、彼ら所有のCDが私の手元に集まる(その数およそ10−30枚)。
B それらすべてを試聴して、10枚のノミネート盤を決める。
C 聞き所(4、5分の同一部分)を設定し、10の演奏が入ったCD−Rを作成する。
D ゼミナール当日、柳原さんが順不同でCD−Rをかけ、目隠ししたメンバーで演奏者を当て合
  う。メンバーの誰かが全点聞き当てるまで聞き込む。
E 最後にベスト演奏を決める。
という流れである。

これを始めた動機は、「演奏の違いを言うなら、目隠しして聞いて演奏者が分かるまで、聞き込みを極めるべきではないか。今の評論家先生方に"目隠しテスト"をして、だれが的確にその違いを言い当てることが出来るのか。ベスト演奏を決めるときなど、いったいいくつの演奏を聴き比べているのだろうか。演奏評も、結構先入観でなされているケースが多いのではなかろうか。なぜなら、そうとしか思えないような無責任なベスト盤選びが横行しているからだ。ならば我々が、多くの演奏を聞き比べ、目隠しで演奏者が識別できるまで聞き込んで、"真の名演"を決めようではないか」と思いたったからである。
ノミネートは、私の独断で、良いと思う演奏、特徴ある演奏を10点決めるわけであるが、そこには、世間で名盤といわれているものを(音楽之友社刊:「21世紀の名曲名盤」などを尺度として)必ず入れることにしている。これは、このゼミナールが、巷で定評ある名演奏を、低評価もしくは忘れ去られた演奏で覆し、"思いもよらぬ名演奏"を発掘することを醍醐味としているからである。30回もやっているとそんなケースはいくらでも出てきて実に楽しい。

たとえば、第25回「ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番」でベストに選定した<クライバーン/ライナー>盤。これは定評ある名盤<リヒテル/ヴィスロッキ>盤(「21世紀の名曲名盤」のダントツの第1位)より断然いいということになった。"タッチの強靭さは互角だが、瑞々しさでは上をゆく。ライナーの指揮がほかの誰よりも素晴らしい。これこそが作曲者の心情を最もよく表している演奏だ。"というのが選定理由だ(詳しくは「柳原デザイン室」のHPをご覧ください)。
ヴァン・クライバーンは、1958年、第1回チャイコフスキー国際コンクール・ピアノ部門で見事優勝を果たしたアメリカのピアニスト。当時冷戦のさ中、ソ連の威信を掛けた大会に、23歳、テキサス出身の若きアメリカ人が優勝を飾ったのである。アメリカの興奮はすさまじく、彼は一気に英雄に祭り上げられる。デビュー盤は、コンクールの課題曲「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番」(コンドラシン指揮)で、これはクラシック界異例のビッグ・ヒットとなった。ところがその後、華々しすぎたデビューの反動からか、低迷期に入る。リリースするアルバムも次第に売れなくなり、"ただのピアニスト"となってしまう。現在では、もはや完全に忘れられた存在だ・・・ここで"<クライバーンのラフマニノフの第2番(1964録音)>はリヒテル盤を越える名演だ"と唱えれば、実に大きなインパクトとなるわけだ。でも実際そうなのだから仕方がない。目隠しテストで聞けばこれは一聴瞭然なに、この盤が評論の俎上にも登らない(事実「21世紀の名曲名盤」ではノーマーク)のは、評論家センセイが"あのクライバーンの演奏だから"という先入観で聞いているからに違いない。そうでなければ、彼らが聞く耳を持っていないか、私の耳がおかしいか、どちらかだろう。

あと、「ブラームスのピアノ協奏曲第1番」における<カーゾン/セル>盤(<ブレンデル/アバド>盤に対して)、「幻想交響曲」の<ブーレーズ/クリーヴランド管>盤(<ミュンシュ/パリ管>盤に対して)などなど。但し、これは醍醐味だが、決して目的ではない。シンプルに聞き比べてベストを選定しているわけであるから、そこで定評ある名盤がベストということになれば、その結果は素直に受け入れ、無理やり覆すことはしない。

30回ほどやっているので、「柳原キャンパス」選定ベスト演奏は同じ数だけあるわけであるが、その中でカラヤンは、シベリウスの交響曲第2番(フィルハーモニア管弦楽団)とブラームスの交響曲第1番(ベルリン・フィル87)でベスト・ワンを獲得している。

(2)シベリウス:交響曲第2番とカラヤン
シベリウス第2番は、第23回開催の課題曲で、バルビローリ、ベルグルンド、ザンデルリンク、モントゥー等に混じって、カラヤンでは、フィルハーモニア管60とベルリン・フィル80の2点をノミネートした。聞き比べの結果、古いほうのフィルハーモニア管が圧倒的によかった。もう気合の入り方がぜんぜん違う。普通はスタカートで入る第1楽章の冒頭が、テヌート気味なのにはやや違和感があったが、全体的にきりっと締まった抒情とロマンの香りのバランスが見事な名演で、特に第4楽章の奔流のような情熱の表出はビュンビュンと胸に迫る。ここを聞けば、カラヤンに感情がないなんて、誰も思わないだろう。それに比べてベルリン・フィル80は、ただ流しているだけ、指揮者もオーケストラも馴れ合いの極致で、そこには音楽を創り出す歓びも緊迫感も何も感じられない。同じカラヤンでこんなにも違う、と感じたのはこの時が初めてだった。この意外な結果を形で残すため、ベスト1はカラヤン旧盤に決めた。

その昔、カラヤンの手抜きエピソードを2つばかり聞いたことがある。ひとつは、1974年、トランペットの名手モーリス・アンドレとバロックのコンチェルトをレコーディングしたときの話。レコーディング・スケジュール待ちのアンドレに届いたのは、なんとカラヤンとベルリン・フィル演奏のカラオケ・テープだった。やむなくアンドレは、無人のスタジオで、カラオケをバックに録音したという。ひどい話である。世界一のトランペットの名手の気持はどんなだったのだろう。
ふたつ目は、現代最高のヴァイオリン奏者キドン・クレーメルの話。ブラームスのヴァイオリン協奏曲をカラヤンのベルリン・フィルとレコーディングするということになった気鋭のヴァイオリニスト、クレーメルは、リハーサルに臨み、一通り弾き終えた。翌日本番をと意気込んで出かけたスタジオに、カラヤンの姿はなかった。なんとカラヤンは「リハーサルのテイクでOK」と言い残してスタジオを去ったあとだったという。これは1976年、クレーメル29歳のときのこと、以後彼はカラヤンとは仕事をしていない。

これらのエピソードからは、音楽に対する真剣さも畏敬の念もまるで伝わってこない。帝王となったカラヤンの、芸術に対する、いい加減で不遜な態度が見えてくるだけだ。そんな70年代半ばから80年代半ばくらいまでのカラヤンには、オケと馴れ合い感情のない凡演が、確かに散見される。

(3)ホルスト:組曲「惑星」とカラヤン
ホルスト作曲・組曲「惑星」を、カラヤンは2回レコーディングしている。最初は1961年ウィーン・フィル、次は1981年ベルリン・フィルである。ここでは、第4曲「ジュピター」から、冒頭部分と平原綾香で大ヒットした有名なコラール主題を聴いてみよう。精神が充実して引き締まり、力強く朗々と歌い上げる61ウィーン・フィル盤に対し、81ベルリン・フィル盤は、タガは緩み輪郭はぼやけ、気合のないこと夥しい。その差は一聴すれば歴然と解る。ところが「21世紀の名曲名盤」では、81年盤が10点獲得で第2位、61年盤が3点の第7位という摩訶不思議な現象が起こっている。10人連座の評論家の中でまともなのは、"61年盤のほうが断然いい"と公言する浅里公三先生と、第2位に入れている吉井亜彦先生だけだ。ところがこのお二方も別の楽曲ではミス・ジャッジを犯している。したがってこの連座の10人の先生は、「柳原キャンパス」的に見れば、残念ながら全員不合格と言わざるを得ない。このあたりはまた別企画で扱ってみたいと思う。

ちなみにこの曲は、「柳原キャンパス」では、第27回で取り上げていて、ベスト演奏はボールト指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団1966に輝き、カラヤン:ウィーン・フィル盤は次点だった。このカラヤン:ウィーン・フィル盤は、それまでマイナーだった「惑星」を一気に人気楽曲に押し上げたメモリアル盤としても名高い。この曲の初演者・イギリスの名指揮者エードリアン・ボールトは、カラヤン盤の出現に触発されたのか、この66年4度目の録音では、初演者の威信を懸けた渾身の名演奏を行っている。輝かしく引き締まった響きによって奏でられる隙がなく格調高い表現は、ホルストが想定した宇宙の神秘を見事に描きつくしている。演奏のテイストは正にイギリス風、この部分でカラヤン:ウィーン・フィル盤を上回っている。しかるに、この名演奏、現在は廃盤で手に入らない。レコード会社は、この12年後、病気療養中89歳のボールトを、無理やり引っ張り出して作った5度目の録音(オケは初演と同じロンドン・フィル)を、定盤としてカタログに残しているが、これぞまさに気の抜けたビール、新しければいいというもんじゃない、これは典型だ。66年ニュー・フィルハーモニア盤を「EMIクラシックス・ベスト100」に入れろとは言わないが、この名演を廃盤のままにしておく手はない。レコード会社に復活を強く望みたい。

ブラームスの交響曲第1番は、第8回「柳原キャンパス」課題曲。カラヤン:ベルリン・フィル87盤が、ベーム:ベルリン・フィル、バーンスタイン:ウィーン・フィル、ワルター:コロムビア響、ヴァント:北ドイツ響、ミュンシュ:パリ管などに伍し、堂々のベスト1を獲得している。
次回は、これを含むカラヤン4つのブラームス交響曲第1番を聞き比べる。

2008.12.22 (月)  生誕100年私的カラヤン考――2
<カラヤンの堕落>
今年、生誕100年を迎えたカラヤン。昔はよかったがある時期からダメになったとはよく聞く話だ。その一つの具体例として石井宏著「カラヤンはこうして堕落した」(学研M文庫「帝王から音楽マフィアまで」より)を引用してみる。
「60年代の初めに録音したブラームスやベートーヴェンの交響曲とそれから15年たって録音し直したものを聴き比べてみれば、権威への安住というものが人間をふやけさせる効果をはっきりと見ることが出来るだろう」

「カラヤンは、前世紀までには見られなかったタイプの音楽家であった。多くの偉大な同僚が音楽馬鹿として一筋の道を歩む中で、彼はいち早く、台頭してきたユダヤ興行資本と手を握り、芸術を実業に変え、音楽を金に換える錬金術を覚え、LPレコードを皮切りに、ステレオ、映画、テレビ、ビデオ、CDと次々と出てくるニュー・メディアを取り込んでマルチ人間ぶりを示した。音楽家にしておくのはもったいないほどの"利口者"であった」
ニュー・メディアの出現によって音楽需要が劇的に増大した機会は3度ある。1948年のLP、1958年のステレオ、1982年のCDの出現、である。これは、1908年生まれのカラヤンの40歳から74歳までにあたり、まさに彼の指揮者としての絶頂期と符合する。そうした中で、技術の進化、時代の変化にきわめて敏感な芸術家がカラヤンだった。ニュー・メディアは大量消費を生み、カラヤンの懐には莫大な金が転がり込んだ。これは別に悪いことではない。たとえ"金になるから音楽をやった"としても・・・。問題はそのために"音楽が堕落したかどうか"だけである。

とはいえ、素人の私に「カラヤンの音楽が堕落したかどうか」などというテーマは壮大にすぎる。でもまあ、なんとかトライしてみよう、欲をかかずに。カラヤンの同曲違演をランダムに聴き比べることによって、少しでも解明できればと期待しつつ。

<チャイコフスキー作曲:交響曲第6番「悲愴」の演奏比較>
まずはチャイコフスキーの「悲愴」がいいだろう。この曲は、1939年、カラヤンが最初にレコーディングした交響曲であり、1988年、最後の日本公演のメイン楽曲でもあった。今年になってそのライブCDも発売され正規録音が8点にもなった。まさにカラヤンの音楽人生とともに歩んだ縁の楽曲だった。その中から各年代を代表する4点を選び聴き比べてみる。

   @ベルリン・フィル64DG(ドイツ・グラモフォン)
   Aベルリン・フィル71EMI
   Bウィーン・フィル84DG
   Cベルリン・フィル88日本ライブDG

この曲の楽想はロマンティックとメランコリックが両輪だ。この2要素が如何に綿々と美しく醸し出されるがポイントとなる。

[ポイント1] 第1楽章2度目の第2主題→ロマンティック要素の検証
   @ベルリン・フィル64(7:26〜)
     キリっとしたほどよい抒情性を感じる
   Aベルリン・フィル71(7:01〜)
     ごく普通の歌わせ方。心に浸みるものが希薄?
   Bウィーン・フィル84(7:16〜)
     音色そのものが実に耽美的で魅力的。グラっと心を揺さぶる響きがある。
   Cベルリン・フィル88(7:22〜)
     Bとは違う音色で、太く豊かで感動的な響きを醸し出す。表情も濃い。

[ポイント2]第4楽章冒頭→メランコリック要素の検証
   @ベルリン・フィル64
     サラっとしすぎて悲しみが迫ってこない
   Aベルリン・フィル71
     人工的に美しく磨きこんでいるという印象
   Bウィーン・フィル84
     冒頭の弦が本当にすすり泣いている。悲しみが心に浸みこんでくる
   Cベルリン・フィル88
     Bにくらべ感情をぶつけるような表現。すすり泣きに対してこれは慟哭か。

「悲愴」はウィーン・フィル84とベルリン・フィル88が双璧の素晴らしさだ。88年盤は、最後の来日コンサート、1988年5月2日サントリーホールでの記録である。ライブ・レコーディングということもあって、表現に一期一会の趣があり、それが感動を呼ぶ。フレージングも噛みしめるように丹念で内なる思いを強く訴えかけてくる。第3楽章の金管の強奏やティンパニーの強打なども尋常ではない。この楽章はまた、テンポも遅く、行進曲としての軽快さより、荘重さを強調している。全体のバランスなどお構いなしの一発勝負だ。それに対し、84ウィーン・フィルは、音色もテンポもより軽く、来るべき最終楽章との対照が際立つ。第2楽章も、重いステップの88年盤に対しまるでウィンナワルツのような軽やかさだ。

カラヤンは"いかなる苦悩の表情も美しく表現してしまう芸術家"だと誰かが言っていた。言い換えればメランコリーを美に昇華させうる指揮者ということになる。ならば、これほど「悲愴」に適した指揮者もいないのではなかろうか。その意味でウィーン・フィル盤の方が、より「悲愴」の本質にマッチしているといえかもしれない。その独特の音色がロマンティックでメランコリックな楽想にピタリと合致して美に昇華している。

カラヤンが最初に録音した交響曲「悲愴」。この思い入れある曲の最後の2つは、彼と最も縁の深い2つのオーケストラによる対照的な名演奏となった。伝統の音色で、メランコリーを美にまで昇華させ、耽美の極みともいうべきウィーン・フィルの演奏。太く豊かな響きの中、迸る感情を隠そうともせず、思いを強く訴えかけるベルリン・フィルの演奏。美しさに涙するか、悲しみに涙するか。最後に到達したこの2枚の「悲愴」はカラヤンの歩みを象徴する貴重な遺産となった。ここに私は"堕落した響き"などを感じることはできない。その中に、彼の晩年の胸の内が見えてくるような気がする。

では、カラヤンの胸の内とはどのようなものだったのか?彼は晩年、名歌手クリスタ・ルートヴィヒに「もし私が死ぬようなことがあれば、世間でよく言われる『彼は長い苦悩の末に亡くなった』という言葉がぴったりだ」としみじみ語ったという。これは断ちがたい生への執着なのか、人生は苦しみばかりという告白なのか。指揮者のポストにおいては頂点を極め、音楽ビジネスでは未曾有の成功を収めた帝王カラヤンが、人生の最後にきてこう述懐しているのである。かのカラヤンにしてこう言わしめた人生とは、人間の幸せとはいったい何なのだろうか? なんとなくそんなことを考えさせられるエピソードではある。

オーソン・ウェルズの名作「市民ケーン」(1941年米)の冒頭、主人公チャールス・フォスター・ケーンが臨終の床で「ROSEBUD」(薔薇の蕾)という言葉を呟く。映画はこのあと、この言葉の謎を追って展開するが、誰ひとりこの意味が分からない。もはや分からぬまま終わるのかと思った最後の瞬間、それは"少年時代に遊んだ橇に記されていた言葉だった"ということが画面に示される。巨万の富を築き新聞王と称えられた男が最後に放った言葉、心の中に一生持ち続けたものがこれだった。人間が来世にまで持ってゆきたいもの、それは権力なんかじゃない、巨万の富でもない。心の中のたいせつなもの、人それぞれ違う何か。それが、新聞王ケーンにとっては「薔薇の蕾」だった。橇に乗って遊んだ少年時代の懐かしい思い出だった。帝王カラヤンにとって、それはなんだったのだろうか。

2008.12.15 (月)  生誕100年私的カラヤン考――1
 私にとってヘルベルト・フォン・カラヤン(1908−1989)は特別な音楽家である。1957年ベルリン・フィルハーモニーを率いて来日、「運命」「新世界」「ブラームス第1」など"本場"ヨーロッパのクラシック音楽を聞かせてくれた最初の指揮者だった。音楽云々など分からない小学6年生の私は、白黒テレビに映るカラヤンの格好いい指揮姿を、ただウットリと眺めていただけ。私のクラシック人生は、まさにカラヤンの絵姿でクレッシェンドがかかったといえるだろう。
 ところが、その後カラヤンのレコードに感銘を受けたという記憶がない。LPでは、ベルリン・フィルとのモーツァルトの後期シンフォニー(EMI)を聞いて、あまりのレガート奏法に"気持ち悪い"と感じたくらいのもので、私のカラヤン体験は、少年時代の姿かたちの格好良さに惹かれただけの実に中身のないものだった。だから私にカラヤンを語る資格はまったくない。とはいえ今年は生誕100年とやらで、レコード会社は30万円の大セットを売り出したり、埋もれていたライブ録音を発掘したり、1枚25万円もするガラスCDがカラヤンの演奏(62年の「第九」)だったり、聞けば来年は没後20年とやらでまたセールを展開するらしい。こんな時期をはずしたら、もう永久にカラヤンを考えることはないかもしれない。そう思ってカラヤンを取り上げることにした。そんな次第につき、恐らく断片的でまとまりのないものになりそうですが、ご勘弁いただきたいと思います。

<雑感的カラヤン断章>
 著者の名前は忘れたけれど、昔ある名曲ガイドで「演奏者を選ぶ必要はない。カラヤンがあれば迷わずカラヤンを選べばよい」というのがあった。四の五の言わずにまずカラヤン。とにかく立派なのはカラヤンということでした。先述した1957年のカラヤン来日コンサート評で、同じような語調なのがあった。「それで、ピアニッシモからフォルテまで非常に幅が広くてみんな立派でした。音楽の訴えかけてくる場所が、頭の先からつま先まで、つまり頭から胸から、もう少し下の腹まで、全部に聞こえてくる、立派なものだと思いました」。なんじゃこりゃ! 全身マッサージか? これは誰でしょう? もうお分かりですね。吉田秀和先生44歳時のコンサート談でした。

 五味康祐先生のモーツァルト「レクイエム」のカラヤン評――「カラヤンのドイツ・グラモフォンの『レクイエム』の演奏はひどい。『レクイエム』を純粋に音楽として鑑賞する人にはどうか知らぬが、私の耳には、腹立たしくらい穢い『レクイエム』だった」(「西方の音」より)とすさまじい酷評。同じ演奏について、作家のなかにし礼先生はこう述べている――「この演奏は最高です。世界から最高の才能を集めてカラヤンのパワーと練達の腕で提出している。ザルツブルクもイタリアもフランスもアメリカもなにもない、いわば世界の大レクイエムを創ろうとした。これこそ世界人モーツァルトに相応しい名演奏だ」(「なかにし礼モーツァルト・コレクション」BMG JAPANより)。片や酷評、片や絶賛。でも、両先生には同じように聞こえているような気がする。表現は正反対に出ても。それがカラヤンの凄さなのかもしれません。
 五味先生はまた、カラヤンは来日時の50年代まではいいが60年代に入ってからのグラモフォン盤はダメだとおっしゃっている。「気軽に聞き流していれば、いかにも現代人好みなビートが利いた演奏だが、まともに聴き出せば、その浅薄なこと、厚化粧なこと、サービス過剰で、格調のないこと、まさにアメリカ人向けという気がする」とボロクソである。

 1948年からベルリン・フィルに在籍、フルトヴェングラーとカラヤン二人の巨匠の元で演奏したティンパニー奏者テーリヒェンの証言。
「カラヤンは目を瞑って、ただ手を動かしていた。何も示さず、何も要求しなかった。だから、オーケストラはフルトヴェングラーの遺産を踏襲し、独自の能力で演奏してゆけた。室内楽的能力のある団員が揃っていたから、他の楽器の音に耳を澄ましながら演奏するなど、わけもなかったんだ。つまり、カラヤンにしてみれば、最小の労力で、最大の効果を上げたことになる。そして、これが"魔術師カラヤン"などと言われたんだが、何のことはない、カラヤンなどいなくても、我々は同じようにできたでしょうね。これが"魔術師カラヤン"の種明かし」
 そしてこうも続ける。
「カラヤンの指揮に欠けているものは、感情です。カラヤンが感情なしで指揮をすると、オーケストラも感情なしで演奏する。だいたい、最初から最後まで目を瞑って指揮をすれば、オーケストラとの交信はないも同然です。音楽において、一番大切なのは感情を表現することです。感情のない音楽は、音楽ではない。カラヤンの音楽では、感情は立ち止まったまま動かない」(新潮選書:川口マーン恵美著「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」より)
 極度に批判的な証言である。テーリヒェンは"最初から最後まで目を瞑って指揮をすればオーケストラに感情は伝わらない"と言っているが(またカラヤンが目を開けて指揮しだすのは80年代以降というのが定説だが)、1957年カラヤン来日演奏会のライブ映像(NHKエンタープライズ発行DVD)を見ると、"最初から最後まで"は間違いで、ポイントの瞬間には何度か目を見開いてオーケストラを見据えている。テーリヒェン自身もその映像にハッキリと写っているのだから、この証言(2007年11月)は、いささか妥当性を欠くといわざるを得ない。これについては、当時ベルリン・フィル内にはフルトヴェングラー信望者がかなりの数いたことの証、として捉えたほうがいいようだ。

 世界のオザワがこんなことを言っていた。「あるとき、私が指揮した演奏会にカラヤン先生がきてくれた。演奏が終わって、楽屋に来たカラヤンに恐る恐る『いかがでしたか』と聞いてみた。そうしたらカラヤンは、最初の音から、ここはどうだった、どこはどうだった、あそこはこうだったがこうしたほうがいい等々、延々最後まで、微にいり細にいり、的確な判断をくれた。終わったばかりの私の指揮・演奏をすべて記憶していた。なんという記憶力!なんという才能!」と驚嘆していた。なんだかんだ言っても並みの才能ではないのだ。

 「レコード芸術」1957年11月号に、カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニーの来日公演を聞いての、村田武雄、志鳥栄八郎、岩城宏之の鼎談がある。それを少々ピックアップしてみよう。
村田 「ウィーンにおいても、カラヤンをまるで神様のように考える人々と、そうではなくてカラヤンは政治力の人だと言う人に極端に分かれているということです」
志鳥 「カラヤンは、フルトヴェングラーのように一本筋を通してグイグイ押してくるようなやり方ではなくて、一つ一つの曲に自分を合わせてゆく」
岩城 「カラヤンという人はどのようなふり方もするらしいです。それはオーケストラの質に応じて使い分けたり、聴衆の質に応じて使いわけたりして。だから何か実態が分からない。実にすごい指揮者とも思うし、何もないんじゃないかと思ったりする」
志鳥 「掴みどころがない」
村田 「常に聴衆を意識して指揮している」
 フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルターなど当時の巨匠指揮者とは一線を画した、新時代の指揮者という捉え方だ。というより音楽だけを見つめて取り組む偉大なマエストロではなく、常に聴衆に目を向け、目的に応じて自分を合わせてゆく器用な職人的指揮者と、ある種の蔑みをもって見ている。なるほどこの鼎談のタイトルも「指揮台の魔術師カラヤンを語る」である。まだ何も自分では判断のつかない私のような初心な少年が、カラヤンのレコードを買わなかったのはこの辺に原因があったのだろう。テレビでその格好良さに感激しても、年間数千円という少ない小遣いゆえ、丹念にレコード雑誌を読み、それを鵜呑みにしてレコードを購入していたからである。フルトヴェングラーのベートーヴェン「英雄」「第7番」、トスカニーニの「新世界」「ベートーヴェン第九」、ワルターの「田園」モーツァルト「40番シンフォニー」などがそのころの愛聴盤で、リパッティ(ピアノ)との「シューマンのピアノ協奏曲」が当時持っていた唯一のカラヤン・コレクションだった。それにしても、後年「カラヤンは"音楽は金になる"と悟ってから堕落した」などの見解を聞くにつけ、確かにキャリアを積んでからの演奏には気合の入ってないものがあると気づいたりはしたものの、まさか、1957年、ベルリン・フィルとの来日の時点で、すでに芸術家というより職人的という印象を日本の音楽界に与えていたとは驚きだった。
2008.12.01 (月)  ケネディ追悼 モーツァルト「レクイエム」に纏わる石井宏と五味康祐
 1963年11月22日、アメリカ大統領ジョン・F.ケネディが暗殺された。世界が悲しみにくれた翌年、彼を追悼するミサが行われた。この場で演奏されたのがモーツァルトの「レクイエム」である。ケネディは、アメリカ史上初のカトリック教徒による大統領だった。この典礼に、カトリック様式の「レクイエム」が演奏されたのには、そんな必然性があったわけである。
 今回は、このレコーディングをめぐる石井宏、五味康祐の見解を軸に話を進めてみたい。

(1) 石井宏の「この一枚を聴け!」
 石井先生の「ミサ曲」についての考え方は"典礼の中できくのがよい"と一貫している。「石井宏のこの一枚を聴け!」(新書館:「モーツァルト ベスト101」より)の「レクイエム」の項にはこうある。
「名曲だけに、新旧スタイルが入り乱れて(版も入り乱れて)さまざまな演奏がある。しかし『戴冠ミサ』の項でも言ったように、教会の典礼の音楽は典礼の中で聞くべきである。その昔、ケネディ大統領の葬儀のライヴ録音があり、その音楽がこの曲だった。そのレコードが活写する典礼の模様は、その異様な音楽とともに胸を打つものがあったが、今では手に入らない」
 ここで取り上げられたレコードは、1964年1月19日、ボストン聖十字架大聖堂におけるアメリカ大統領ジョン・F・ケネディの追悼ミサの模様を収録したライヴ盤である。演奏はエーリヒ・ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団、他。このレコードは「モーツァルト ベスト101」が発刊された2004年の時点では廃盤中だったが、モーツァルト・イヤーの2006年になってCD化された。

 この演奏は、最初から異様なまでの熱気に包まれ、終始一貫、最後までその緊張感が途切れることはない。凶弾に倒れた偉大な大統領の死を悼む、アメリカ国民の、世界の人々の、悲しみが乗り移ったかのような強烈な感情の発露がそこにはある。入祭唱「レクイエム」の、敬虔なソプラノ・ソロ直後の合唱「exaudi orationem meam」(わが祈りを聞きたまえ)が、これほど切実に響くものは他にない。「キリエ」「みついの大王」「呪われしもの」のあたり憚らぬむき出しの感情はどうだ。死者の魂を天上へ安らかに送るのが「レクイエム」かもしれないが、地上に残された人間の慟哭ばかりが聞こえるレクイエムがあったっていい。それほどこの「レクイエム」は、悲嘆という激しい感情に満ちている。

 ところが、このレコーディングを憤る人がいた。故五味康祐である。

(2) 五味康祐のアメリカ批判
 五味康祐(1921−1980)の「西方の音」(新潮社1969刊)は、音楽とオーディオに対する、作者の尋常ならざる思いを吐露した、ユニークな体験的エッセイである。対象への憧憬にも似た熱い思いは、読む者をいやおうなく作者の世界へ引きずり込んでゆく。私は、そのほとんどに共感するものだが、その中で一つだけ納得できない章がある。題して「死と音楽」。ここで、五味氏は、件のケネディ追悼のためのモーツァルト「レクイエム」についてこう述べている。
「ケネディが死んだとき、葬儀がモーツァルトの『レクイエム』で終始したのは知られた話だが、このときの実況レコードがビクターから出ている。ケネディが暗殺されたことの暗さは、このミサの荘厳感の中で、おのずと洗われていた。しかし夫を喪った妻ジャクリーヌの慟哭と嘆きは、儀式のどんな荘厳感にも洗われ去ることはない。当日の葬儀には数千人の参拝者が集まったそうだが、深い悲しみで葬儀に列し、儀式一切を取り仕切っていたのはジャクリーヌという女性ただ一人だ。これは、ケネディのためのレクイエムではなく、彼女のための鎮魂曲だった。
 こんど、私がレクイエムをもとめねばならぬ立場になって悟ったことは、この実況録音のレコードは妻ジャクリーヌのためだけのものであり、これを商品化し、売り出すことの冒涜についてである。レクイエムを盛大に行い録音して長く記念するのはいい。しかし、なにも世界に向かって売り出すことはない。死者を弔うとは、のこされた妻のかなしみに同情の涙を流すことなどであるわけはないが、その業績を褒め称えることが、未亡人へのいたわりになるのなら、飼い猫に死なれたひとに、あれはかわいい猫でしたと褒めるようなよそよそしさと、どれだけ違うか。しかも、その遺族への思いやりを示す以外の弔い方など本当はあるわけはないのである。
 けっきょく、アメリカ人はケネディを暗殺したことで間違い、未亡人をいたわることでもさらに大きな誤りを犯した。アメリカという国は、モーツァルトのこの『レクイエム』一枚をとってみても誤謬の上を突っ走っていることがわかる」
 五味康祐は人二人を轢き殺してしまった経験を持つ。その時期は、殺してしまった人間と遺族に対する懺悔と自責の念に駆られ、モーツァルトの「レクイエム」を貪り聞くしか術がなかったという。だからケネディのレコードのことがそのまま自分に降りかかってくるのだ。「レクイエム」を聞いて騒ぎ立つものを鎮めるしかなかった日々の自分を、否が応でも投影してしまうのだ。本当の苦しみは当事者にしか分からないと。それを思うと、彼の思考が遺族であるジャクリーヌ未亡人に(だけ)向かうのは理解できる。彼女が悲しむのは当然だし、これが彼女のためのミサには違いないだろう。しかるに、ケネディは公人である。しかも、アメリカ国民はもとより世界中から愛されたアメリカ大統領なのである。だからこれは"彼女のためだけ"のミサではないのだ。

 五味先生はまた、「故人の業績を褒め称えることは、飼い猫をなくしたひとに、猫はかわいかったという、よそよそしさと違わない」と言うが、これも間違っている。故人を惜しんで「彼は立派な業績を残した」とか、また、亡くなった猫を「なんてかわいい猫だったのでしょう」と懐かしむことの、果たしてどこがよそよそしいのだろうか。ここには故人を称え懐かしむ純粋な気持ちがあるだけであり、ましてやケネディではないか。
 キング牧師を救い、キューバ危機を回避し、軍縮を図り、平和を希求したリベラリスト大統領が突然正体不明の凶弾に倒れたのである。アメリカ国民が、世界の人々が悲しむのは当然ではないか。その人を弔うミサのレコードに涙して何が悪いのか。ジャクリーヌだけにしか涙は許されないというのか。彼の死を悼む、ハーレムの黒人と彼女の悲しみとの間に、どれほどの差があるというのか。断じてこのレコードはジャクリーヌだけのものではない。
 五味先生は自分の流儀でこのレクイエムを聞いた。アメリカ人はアメリカ人の聞き方でこれを聞いた。私は私でこのレクイエムを聞く。それでいいではないか。こういう機会を与えてくれたのは、アメリカがこの演奏を世界に向けて発売してくれたからだ。これのどこが悪いというのか。これを冒涜というのは、遮眼帯をつけた競走馬のごとく、自己中で直視的な見方でしかない。但し、アメリカが誤謬の路上を突っ走ってきたことだけは間違いないことだが。
2008.11.17 (月)  石井宏のこの一枚を聴け!
 石井宏(1930−)の「この一枚を聴け!」(新書館「モーツァルト ベスト101」より)は名盤の宝庫だ。このガイドが凄いのは、世間一般に流布している"名盤"と称するものがほとんど登場しないことだ。それは、他からはなにも左右されない先生独自の選定であることの証であり、そしてそれが私にとって素晴らしい音楽ばかりなのは、奇をてらった独りよがりの選定でない証明だろう。これらの中からとっておきのモーツァルトをご紹介したい。吉田先生へのアンチ・テーゼという意味も込めて。そしてこれを、「吉田秀和を斬る」の最終章に代えたいと思う。

@シャンドール・ヴェーグ指揮ザルツブルク・カメラータ・アカデミカ 「セレナード、ディヴェルティメント集」(10枚組CD、Capriccio)
「もし、モーツァルトのセレナードやディヴェルティメントが欲しいという人があるとすれば、私はためらうことなくこのセットを押すものである。ことこのジャンルに関しては右顧左眄する必要はまったくない。迷わずこのセットを買えばよいのである」
 2年ほど前、私はディヴェルティメント ニ長調 K136の良いCDを探していた。アナログ時代のバウムガルトナー(オイロディスク盤)以来、気に入った演奏に出会っていなかったからだ。そこで、音楽之友社「21世紀の名曲名盤」を読んで、第1位のトン・コープマン指揮アムステルダム・バロック・オーケストラを買ってみたが、ピリオド楽器特有のギスギスした演奏で、全然気に入らなかった。
 先生の「この一枚を聴け!」を読んだのは、ちょうどそんな頃である。なんという明快率直なガイドだろう。しかも信念が漲っている。私は直ちにこのセットを買い求めた。K136第1楽章冒頭、第1主題が流れ出した瞬間、体が震えた。血液が体中を駆けめぐった。きっと頬は紅潮していたに違いない。なんという活き活きとした音楽なのだろう。一つ一つの音符に生命が吹き込まれ、生き物となって自由に動き回っている。イタリア旅行から帰ったばかりの少年モーツァルトの喜びと興奮がじかに伝わってくる。迷わず買って本当に良かった! 収録されているその他の楽曲、K137、138、251「ナンネル」、334「メヌエットつき」、525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、そこには、どれひとつとして感動のない音楽はなかった。

Aクリフォード・カーゾン(ピアノ)、ベンジャミン・ブリテン指揮イギリス室内管弦楽団 「ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K595」(DECCA)
「モーツァルトの最後のピアノ協奏曲は異常な曲である。ほとんど息を止めたような静謐な空間のみがあって時間がないような・・・。その世界をものの見事に弾き出しているのが、クリフォード・カーゾンの死後、追悼盤として発売されたこのディスクである。死の予感がある音楽。そして死の予感のある演奏。オーケストラの指揮はベンジャミン・ブリテン、この上なく素晴らしい」
 この曲の初演は1791年3月14日。モーツァルト公開の席での最後の演奏だった。迫りくる死の予感の中で彼はどんな気持ちでこの曲を演奏したのだろうか。そんなことを考えながらカーゾン/ブリテン盤を聴くと、なんともいえない気分になってくる。胸は痛むが、悲しいわけじゃない。切ないけれど、泣きたいわけじゃない。そこには水晶のように純粋な音楽が鳴っているだけだ。澄み切ったモーツァルトの魂が漂っているだけだ。

 バックハウスとベーム指揮ウィーン・フィルハーモニーの演奏は、違った意味で素晴らしい。無骨なバックハウスの、終楽章の終盤で一瞬入れる装飾音に、彼の洒落っ気が垣間見える。純粋無垢なモーツァルトの音楽に、人間バックハウスというスパイスがほどよくかかった、そのさじ加減が絶妙なのだ。

 吉田先生が、この曲のカサドシュの演奏についてこう書いている(中公文庫「レコードのモーツァルト」)。
「あの手段の簡潔と真情の純潔とが相よった結果が、絶対の孤独を表現してしまった奇跡的な作品については、カサドシュでは、あまりに客観的に眺めすぎ、内部の世界に入ることを警戒しすぎる気味があって、ものたりない。というのが、私のこれまでの考えだった。だが、このごろになって、聞いている最中、ここでは、絶対の孤独、まるで透明だが、出口のない結晶の中にとじこめられてしまった天才の姿が、いっそ厳密に客観的にひかれていればこそ、かえって、きびしい形で浮き上がってきているのではないかと思える瞬間があるようになってきた。といっても、一方では、緊張度がやや乏しいような気がして、カサドシュの限界があったのかなという考えが浮かぶのも事実である。私の思いすごしかどうか、この先は、ひとつ読者諸氏に判断していただこう」
 私はこういう評論を認めることはできない。というより私とはまったく違う感性だと思うだけだ。カサドシュが厳密に弾いていようがいまいがどうでもいい。カサドシュに限界があろうがなかろうがどうだっていい。私が知りたいのは、先生はこの演奏を聴いて「感動したのかどうか」「いい音楽だと思ったのかどうか」ということだけだ。それを語らずして「読者諸氏に判断していただこう」ですか。先生の、思いすごしかどうかの判断を、素人のわれわれに丸投げですか。評論家が読者に判断を委ねようというのなら、"あれかこれか"ではなくて"私はどっちだと思う"くらいの意思表示はしてくれてもいいのではないでしょうか。クイズの出題者じゃあるまいし。先生は確か「たとえて言えば、『あの店のとんかつはおいしい』と、はっきり言うのが本当の批評」とおっしゃっていましたね。これではまるで、言行不一致そのものです。石井先生の、明快で男らしい評論とは、比べるべくもありません。

 では、引き続き「この一枚を聴け!」から絶品の5枚を紹介して、本稿を締めたいと思う。先生の一発コメント付で。これらもまさに思いもよらない選定ばかりである。

Bテレサ・シュティッヒ=ランダル(ソプラノ)&ジャクリーヌ・ボノ(ピアノ) 「モーツァルト&シューベルト歌曲集」(「夕べの想い」「クローエに」「春への憧れ」「すみれ」他 Accord)
「モーツァルトの歌曲というと、『エリーザベト・シュワルツコップ』なんてお考えになるのはどなたですか。そう、確かにピアノのギーゼキングはすばらしいですね。でも、あの厚塗りのメイク術のような歌い方がほんとにそれほど宣しいものですか。騙されたと思ってシュティッヒ=ランダルと聴き比べてみてください」
Cジノ・フランチェスカッティ(ヴァイオリン)、ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団 「ヴァイオリン協奏曲 第3番 ト長調 K216」(Sony)
「"塩もしその味を失えば、何を以てこれに塩せん"とイエスは言った。ヴァイオリンがその官能的な美音を失ったら、何を以てこれに代え得ようか。ヴァイオリンの巨匠時代は終わり、馬の尻尾の音しかしなくなったが、その最後の一人がフランチェスカッティだった。ブルーノ・ワルターとのこの協奏曲の録音。まさに美味」
Dジュリアード弦楽四重奏団 「弦楽四重奏曲 第14番 ト長調 K387」(Sony)
「四重奏団というものは、四人が均衡を取るものであり、一人のリーダーと三人の随員によるべきではないという説がまことしやかに囁かれた時期があった。実際にやってみればわかるが、民主的なアンサンブルなどというのは空想の産物であり、すぐれたチームはすぐれたリーダーから生まれるものなのである。たとえば、このロバート・マンのように」
Eデヴィッド・オッペンハイム(クラリネット)&ブダペスト弦楽四重奏団 「クラリネット五重奏曲 K581」(Sony)
「当代随一のクラリネットの名手はリチャード・ストルツマン。その彼が私淑するのがオッペンハイムで、彼は今も師の作ったマウスピースを使っている。彼はニューヨークに出てきて初めてオッペンハイムを聴いたときの感動は忘れられないという。これは、ブダペスト四重奏団というこの上ないパートナーを得た文字どおりの歴史的な名盤である」
Fミエチスラフ・ホルショフスキー(ピアノ) 「幻想曲 ニ短調 K397」(Nonesuch)
「ホルショフスキーは95歳のとき、ただ一度日本を訪れ、カザルス・ホールでリサイタルをしてくれた。バッハ、モーツァルト、ショパン、シューマンそしてヴィラ=ロボスなどを弾き分けてみせたのだが、いずれもそれらの音楽から自然に発するような音色になっており、ピアノをただの一色でしか弾くことしかできないピアニストたちにとっては夢幻のできごとだった。そのホルショフスキーの最晩年の美しいモーツァルトがこれ」
 以上はたったの101分の7。
2008.11.10 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――7=エピローグ
[バックハウスとギーゼキング]

吉田秀和先生の著書「世界のピアニスト」バックハウスの項にこんな記述がある。
「私はもうこれ以上、ここに収められた曲についてはふれない。特に最後の『イ短調ロンド』(K511)は、私の熱愛する曲であり、バックハウスの演奏は、この曲の最上のもののひとつだと考えるけれども」
これはバックハウスの「モーツァルト・リサイタル」というアルバムのことについて語られた最後の部分である。このアルバムはタイトルどおり、K331(トルコ行進曲つき)やK332など4つのソナタと、珠玉の小品「ロンド イ短調 K511」が収録されているオール・モーツァルト・プログラムのアルバムである。この前段でK332などについては詳細に論じられているのに、"熱愛する曲"に対しては最後に申し訳程度に触れているだけだ。本当に熱愛するのなら、この曲の素晴らしさを、また、最上の演奏がバックハウスなら、なにが最上なのかを論じるのが筋ではないか。新聞じゃないのだからいくらでも紙面はあるはずだ。こういう中途半端さが私には我慢ならない。K511をこんな扱いしかできないのなら、"熱愛する"なんて軽々しく言ってほしくない。

石井宏先生が責任編集した「モーツァルト ベスト101」(新書館)という本がある。これは先生が、モーツァルトの全楽曲の中からベストと思われる101曲を選んで解説し、そのベスト演奏を「石井宏の『この1枚を聴け!』」という項目の中で選定したモーツァルトの名曲・名演ガイドである。名曲・名演ガイドは数々あるが、私はこれほどまでに個性的かつ正統的なガイドを知らない。

"私のモーツァルト"はモーツァルト愛好者の数だけある。もしこれを"客観的に"やろうとしたら千年待っても水澄まずといった結果になるだろう。だから私は、えこひいきによる主観的選択を行って101曲を選んでみた。曲数制限の中で、あえて有名曲を外して、いくつかの"無名の"曲を加えたのには、モーツァルトの全体像を明らかにしようという狙いもあった・・・・先生はこの本の「まえがき」でこう述べられている。えこひいきしながら全体像をつかむ、すなわち主観的で客観的な、見事なバランスで書かれているのである。

では、その中の「ロンド イ短調 K511」の項を見てみよう。
<曲紹介>
ピアノの小品からは、この「ロンド イ短調 K511」を取り上げたが、いわゆる"小品"ながら白眉の美しさを持っている(凡庸の弾き手を寄せつけない)。19世紀になると、ピアノ曲は小品ばかりで、ソナタの数は少なくなる。リストやショパンを先頭に、ピアニストはサロンの女性を喜ばせるために、ノクターン、ワルツ、マズルカなどの小品をせっせと書いた。モーツァルトのころはちょうどその過渡期にあり、上流の女性たちが弾いたり聞いたりする曲は「ソナタ」(器楽曲)という無愛想なタイトルがついていた。モーツァツトが書いた小品の多くはソナタを分解してできたひとつの楽章と同じで、アレグロとか、アンダンテ、あるいはこの曲のようにロンドといった題がついている。この「ロンド イ短調 K511」は、1787年3月11日に完成してすぐに出版されたことから、最初から換金が目的で書かれたのは明らかであるが、半音階の主題からして、上流の奥様向きのお易しい音楽とは言い兼ねる様に作られている。

<石井宏の「この1枚を聴け!」>
この曲の持つ限りない典雅な趣き、そして醸し出される憂愁の影、それらがピアニストたちに、演奏してみたいという欲望を起こさせる。しかし、たいていはこの曲の術中にはまってしまい、ぐだらぐだらとわけの分からない演奏になってしまう。ローレライのような作品なのだ。名手バックハウスにしても成功しているとは言い難い。
唯一この曲を見とおすことができ、再生することができたのは、作曲者の再来ギーゼキングだ。
「ロンド イ短調 K511」を、ピアノ曲流行の変遷の中で捉え、曲の性格から演奏の難しさに及んでベスト演奏を決め挙げる見事なストーリー展開である。石井先生の場合はいつもそうだ。しかも文章は格調ある上に分かりやすい。だから納得して直ちにその演奏を聴きたくなる。気取った語句を並べ立て、曖昧な表現に終始し、好きだといいながら中途半端でお終いにして平然としている、どこかの大先生とは大違いなのである。

ウィルヘルム・バックハウス(1884−1969)はライプツィヒ生まれドイツのピアニスト。ドイツ古典派、ロマン派の巨匠として君臨、「鍵盤の獅子王」と呼ばれた。
ワルター・ギーゼキング(1895−1956)はフランスのリヨン生まれドイツのピアニスト。天才肌で、数回楽譜を読んだだけでいきなり暗譜で弾きこなしたといわれている。レパートリーはモーツァルト、ベートーヴェンなどドイツ古典派からドビュッシー、ラヴェルなどフランス音楽まで幅広い。

吉田先生が推すも石井先生は成功とはいい難いと言う巨匠バックハウス。石井先生が唯一成功したという天才ギーゼキング。この二人の「ロンド イ短調 K511」を聴き比べてみよう。

ギーゼキングは、楽譜という素材をあまりいじらずに淡々と弾く。素材そのものが素晴らしいのだから、なにもあくせく小細工することはないといわんばかりに。だからといってなにもしてないわけじゃない。キッチリと作られたロンド形式(A−B−A−C−A)という形を浮き彫りにすることに腐心する。造形美(佇まいの美しさ)のアピールである。それは、3回現れる主要主題部分Aをクッキリと浮き立たせていることからも窺える。すなわち、ギーゼキングは、3回とも同じテンポ・同じ曲想でAを弾く。さらに、BC部分のテンポを自然な感じで速め、音量の起伏をつけてAにつなげている。Aを際立たせるために。そのほかではいたずらにテンポを動かすようなことはしない。まさに絶妙なさじ加減でこの曲の精緻な美しさを引き出しているのである。石井先生が言う、作曲者の再来=天才の技とは、こういうことではないか。

ギーゼキングに比べると、バックハウスの演奏は、テンポを動かす箇所がより多い。ことさら形式感を強調するようなこともしない。ペダルも多用して、まるで全体をロマン派の幻想曲のように聞かせる。これもひとつの表現だろうが、ギーゼキングが示す精緻で美しいこの曲の佇まいは見えてこない。バックハウスが、ベートーヴェンのソナタで見せる、いつもの造形美が見えてこない。石井先生が"曲の術中にはまる"と言ったのはこういうことだったのではないか。

これは、ギーゼキングとバックハウスの技量の差かもしれないし、そうでないかもしれない。たまたま私は、K511において、二人の音楽を曲の佇まいに照らし合わせて見ただけのことである。

最近、スイスの若手オリバー・シュナイダーというピアニストのK511を聴いたが、これは素晴らしかった。天使の羽毛のように滑らかでかつ粒立ちのよいタッチが精妙自在な音楽を奏で、解き放たれた自由な精神が聞き手を幸福感で包み込む。自在に表現していながら、この曲の憂愁を含んだ精緻な佇まいが見透せる。醸し出される瑞々しい抒情感がたまらなくいい。そんな演奏だ。これは湧々堂の田中氏から教えていただいた(この方は凄い人です!)。このピアノを両先生がどう評価するかも興味深い。

ともあれ、今回もまた、吉田先生よりも石井先生を支持することになった。これは別に先入観でそうしているのではなく、素直に演奏を聞くとそう感じるのだから仕方がない。私の場合、音楽が吉田先生とは違って聞こえ、石井先生とは同じに聞こえるのだろう。

次回は、吉田秀和先生へのアンチ・テーゼとして、石井宏先生「この一枚を聴け!」からさらに何曲か紹介させていただきながら、長きに渡ったこの連載を締めたいと思う。

2008.10.27 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――6
(1)五味康祐とランドフスカ
 五味康祐の名著「西方の音」(新潮社刊)の中に、ワンダ・ランドフスカがピアノで弾いたモーツァルトの「ロンド イ短調K511」のことが書いてある。五味氏の自宅に据え付けた巨大なコンクリート・ホーンの音を改善しようと、その後部に作った特別部屋の空間を、トラック1台分の書籍で埋め尽くすという凄まじいことをして、音出しをしたときの件である。このコンクリート・ホーンは縦横2メートル、当時のオーディオ界の重鎮、高城重窮氏設計のスピーカーで、後部部屋を書籍で埋めるというのも氏のアドバイスによるものだった。
 「しかし、オケはいいが、ヴァイオリン・ソナタや弦楽四重奏曲はもう一つよろしくない。カークパトリックのバッハのパルティータがS氏邸のタンノイの足もとにも及ばない。ランドフスカのピアノによるモーツァルトの『ロンド』――あの神品とも称すべき名演奏――がよろしくない」・・・結局五味氏は高城氏に失望してこのコンクリート・ホーンを叩き割るのである。
 私は、五味康祐の豪快で断定的な文体(吉田秀和先生の模糊として柔和な文体とは対極の)と音楽&オーディオにかける狂気ともいえる情熱に、有無を言わせず圧倒され信奉してきた。私のスピーカーがタンノイなのも五味先生の影響である。"Stirling"という、シリーズ最小のものだから、先生のオリジナル・オートグラフには比肩すべくもないだろうが、結構いい音で鳴っており十分満足している。 さて、この中の"神品とも称すべき名演奏"という言葉が気になって、常々聴いてみたいと思っていたランドフスカのK511だったが、2006年モーツァルト・イヤーに世界初CD化されている。あらためて聴いてみたが、実に不思議な演奏だった。

 この曲は、シシリー風アンダンテのテンポに乗って奏でられるロンド形式によるピアノの小品である。主要主題部分をAとすると、A−B−A−C−Aという正調ロンド形式で成り立っている。そしてこの主要主題は、まことにユニークなメロディー・ラインを持っているのである。全8小節中に、装飾音符を入れると(記号化された装飾音"ターン"も含め)53個の音符があるが、なんとそのうちの18個に半音記号(♯or♭)とナチュラル記号が付くという実にクロマティック(半音階的)な主題なのだ。メジャーとマイナーが不意に現れては消え、しかも流れには全くよどみがない。装飾音も第1小節と第5小節にキッチリと振り分けられ、全体の音符並びは完璧に収まり、その完成度は一音の出し入れも許されないほどの厳密さだ。ところがこの確固たる音列から醸し出される音楽は、未だかつて聞いたこともないような、哀感と甘美さのバランスがとれた、至高のリリシズムに満ちている。まさに絶品のピアノ小品だ。モーツァルトの音楽は、順調な流れの中に不意に不安が顔を出したり、悲しみの中から急に光が差し込んだりする。しかもそれらはごく自然に交錯し音楽の流れをせき止めることは決してない。とはいえこれらの変化は流れる楽想の中で行われるのが普通だ。ところがK511の主題は、たった8小節の主題内でこれら変化の交錯が行われているのである。なんという不思議な主題だろう。

 ランドフスカは、この曲を演奏するにあたっての心構えについて、こう語っている。「モーツァルト自身は緩徐楽――それらは早い楽章よりも多くの装飾音を必要とする――を、いつもスケッチだけにとどめていたわけではない。細やかな注意で趣味のよい装飾を施すことも少なからずあった。この最も顕著な例はK511である。だから演奏者は、K333終楽章のカデンツァでは自由に即興演奏を施してよいのだが、「ロンド イ短調」はこのうえなく従順な熱い献身を持って演奏しなくてはならない」(「久本祐子ウェブサイト」より引用)・・・ すなわち一音もゆるがせに出来ない完成度を持つK511に対しては、とにかくモーツァルトが楽譜に書き記したとおり忠実に弾くべしと言っているのである。

 はたしてランドフスカのK511はどうなのだろうか。彼女は3小節目と7小節目でかなりはっきりとテンポを落とすなど、この演奏は本人が言っているほど従順で献身的とは思えない。でもそのアゴーギクは実に自然に音楽に乗って演奏者の呼吸を素直に反映している。あまりいじってはいけない曲をいじってもサマになる・・・これを五味先生は神品と称したのではないか。でも私が驚いたのはむしろ引き合いに出されたK333のほうであった。

 ランドフスカは同じCDの中で、「ソナタ 変ロ長調K333」も弾いている。ためしに聴いてみたら、これが凄い。最初から度肝を抜かれる。第1楽章は爽やかな第1主題から始まるが、いきなりその第5音と6音の間に大きな間を置く。あっけにとられた聞き手は、直後にくる繰り返される冒頭主題の異様なまでの意味づけに、さらに驚かされる。そこには開放された精神の自由があり、それがサマになっている凄さを感じる。もっと凄いのは第3楽章のカデンツァだ。ほとんどの奏者はモーツァルトが残したものをそのまま弾いていて、それはギーゼキングでも、リリー・クラウスでも、ピリス、グルダ、内田光子、宮沢明子、みな同じで、時間にして1分ソコソコのものだ。
 ランドフスカのカデンツァは全く違う。時間だけ比べても2分13秒と、ほかの誰よりも長いのだが、中味もぜんぜん違う。ランドフスカが自在に作り変えているのである。モシュコフスキに師事した作曲の腕が冴えている。イマジネーションに溢れ、豊かな感性から導かれた楽想は空間を自在に波打ち浮遊する。聞き手の心は自由な音楽精神を感知し喜びに満たされる。貴方には敵いませんとひれ伏すしかない。これこそが彼女自身が語るモーツァルト演奏における"自由に施してよい即興"の極致であろう。唯一対抗できるのは1分半を要するグールドであるが、これとても原形を大きく変えているわけではない。作曲家でもあるグールドでもここまでなのだから、ランドフスカの表現者としての自由奔放さは余人の及ぶところではない。もしも、グールド以前に彼女がピアノで「ゴールドベルク変奏曲」を弾いていたら・・・想像するだけでもワクワクする仮定だ。

(2)吉田秀和とグルダのK545&K333など
 ランドフスカが言う"モーツァルトの施してよい即興"は、フリードリヒ・グルダの弾く「ソナタ ハ長調K545」にも見てとれる。これについてはわが吉田秀和先生が、著書「世界のピアニスト」の中で(「モーツァルトに忠実」というサブタイトルをつけて)絶賛されておられるので、この部分を要約してみる。

 「グルダはこの曲にたくさんの装飾音をつけて弾いている。これをある月評子がけしからんといって怒っているのも読んだ。しかし、この演奏は実に音楽的で少しの無理もない。ここでは楽譜に記載されたとおりの繰り返しが行われているが、最初の主題に装飾音が加えられて、繰り返しでまた別の装飾に出会うと、再び驚きが与えられる。と同時に、これはもう驚きにとどまらず、快く流麗な音楽の持つあの自由な精神のはばたきにふれた喜びとなる。この演奏がモーツァルトに忠実でないのかどうか。これを解く鍵はモーツァルトの楽譜に対する考え方にある。モーツァルトは、音楽はそのすべてを楽譜に書き表せるものではなく、また、すべきでもないと考えていたのである」

 私もこの考え方には大賛成である。私は常々、"楽譜に忠実な演奏というのはナンセンスであり、作曲家に忠実というなら意味がある"と考えているものである。楽譜は演奏するために作曲者が書きとめた指標に過ぎず、作曲者の意図するすべての要素を盛り込むなんていうことは、始めから不可能なことなのだ。演奏行為とは、楽譜から作曲者の意図を読み取って、動くことなき音符という記号に生命を吹き込み、音楽という生き物に変える作業のことだと考えている。
 とまあ、考え方としては吉田先生に賛成なのだが、はたしてグルダのこの演奏が作曲者の描いた音楽になっているかというと、私はそう思わない。この演奏、どう聞いても心地よくない。もっと言ってしまえば、このアドリブはうるさいしあまり格好よくない。下手なジャズピアニストが類型的なアドリブを弾いているように私には聞こえる。ただし、第2楽章中間の短調部分だけは素晴らしく、これはもういやおうなしに魅せられる。なんと、やっかいなピアニストだろう。だから、アドリブはここだけにすればよかったのだ(バックハウスが、K595第3楽章で見せたように)。結局"過ぎたるは及ばざるが如し"だったということだ。これを先生が"流麗で心地よい"とおっしゃったって、これはもう感性の違いだし、それこそ音楽が違って聞こえるのだから何も言うことはない。皆さんはこの装飾部分をどう感じられるだろうか。
 この演奏は1965年グルダ34歳のときの録音である。同じCDにはK333が入っている。例の第3楽章カデンツァを聞いてみると、ここでは何もやっていない。モーツァルトが残した譜面に従って弾いているだけだ。ランドフスカ絶品のアドリブと比べてみたかったのに、実に残念である。

 「戴冠式」というK537のピアノ協奏曲がある。モーツァルトはこの曲の楽譜に左手のパートをほとんど書き込んでいない(特に第2楽章)。今の楽譜は後に他人が書き加えたものである。これこそ演奏者が作曲者の意図を読んで即興的演奏をやるべき部分なのだが、1983年録音のグルダ(アーノンクール指揮)の「戴冠式」も残念ながらほぼ楽譜どおりに弾いているだけだ。一方では、現代女流モーツァルト弾きの第一人者ピリス(アバド指揮)の、センスよい装飾音をいっぱいに振り撒いた見事な演奏があるのだが。
 野村あらえびす著「名曲決定盤」(中公文庫)のピアニスト・ランドフスカの項に「言うまでもなくクラブサンのランドフスカだが、ピアニストとしても知名で、ピアノ協奏曲『戴冠式』ニ長調(モーツァルト)<ビクターJD1076−9>は名演奏とされている」という記述がある。これはまだ未聴だが、おそらく第2楽章などでは、(ピリス以上に?)思い切り装飾音を入れて演奏しているのではないだろうか。手に入れてぜひとも確かめてみたいものである。
 あのジャズにも堪能なグルダだからこそ、K545のソナタより、ソナタK333や「戴冠式」のほうで、そのアドリブの妙を聞かせて欲しかった。それこそモーツァルトの音楽に忠実な演奏行為だろうと思う。賢明なグルダにこんなことが分からぬはずはないのだが・・・もしや若き日のK545の失敗がトラウマとなっているのだろうか?
2008.10.13 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――5
[グレン・グールドのバッハ]その2

グールドの「フーガの技法」は不可解な代物
 「ゴールドベルク変奏曲」の素晴らしさに反し、グールドの「フーガの技法」は実に不可解な代物だ。この曲は、20曲前後(曲数の定説もないため特定して書くことは出来ない)の曲が集まって構成されるJ.S.バッハ最晩年の名作だが、未完の上に彼自身が曲順も楽器指定もせずに亡くなってしまったため、未だに"作曲者の意図"が確定されていない謎多き作品である。したがって演奏するにあたっては、奏者は考証し想像力も働かせて自分なりの形を決めなければならない。

 「フーガの技法」は、バッハの死の翌年(1751年)に初版譜が出版された。構成は以下の通りであるが、演奏者はこれをもとに、曲を選択し曲順を決め楽器を選ぶことになる。

  @フーガがコントラプンクトゥス(Contrapunctus)(以下C)という呼称で11曲並ぶ。C1−C11
  A鏡像フーガ(互いに対称形をなすフーガ)が2組。C12,C13
  BC10の下書き(明らかな掲載ミスのため、普通は外す)
  Cカノンが4曲
  DC13を2台のクラヴィーア用に編曲したもの(省くことが多い)
  E未完のフーガ。C14

 近年の研究によると、@A(C1−C13)までは、大バッハの意向が反映されていると言われている(但しC12,13における鏡像[recta,inversa]の順番は未確定)。

 1962年録音のグールドのレコードでは、初版譜から9曲のフーガ(C1−C9)だけをオルガンで演奏している。上記構成表を見ても、フーガを11曲乃至13曲演奏するならまだしも、9曲だけというのはいかにも中途半端で、そこにはなんら意味を見出せない。しかもアメリカ初出盤のライナーノーツには、デイヴィッド・ジョンソンという人の当たり障りのない楽曲解説と、グールドがオルガンで弾くことの正当性を申し訳程度に書いた文章が載っているだけだ。その中のオルガンに関する一部分を紹介しよう。

 「この録音に使用されたオルガンは、トロント市キングズウェイのオールセインツ教会のもので、65系統のストップ、3900本のパイプを備え、ネオ・バロック的な素晴らしい特性を持っている。正にグールドのバッハ演奏にはうってつけのものである。 "この数十年の間に北米大陸に出現したもっとも素晴らしいピアニスト"と言われるグレン・グールドが、今度はオルガニストとして新たな栄冠を手にしようとしている。彼は子供時代からオルガンも学び、14歳の時には、権威あるオルガン・コンテストであるカサヴァン・シリーズに出演している。現在、演奏家グレン・グールドの主要楽器はピアノであるが、彼がオルガンの名手であることは、この『フーガの技法』からもはっきりと見てとれる」

 実に内容の乏しい文章である。しかも、あの自己顕示欲の強いグールドが、自身何一つ語っていないのである。これでは"グールド人気に便乗してお手軽に作った商売目当てのレコード"と言われてもしょうがないだろう。

 ひとまず最初はこんな形で発売されたグールドの「フーガの技法」だが、遂に最後まで統一した形になることはなかった。第9曲までで中断した理由は、後に「オルガンの練習を一切せずに本番に入ったことにより肩に障害を起こしてしまったため」と本人が語っている。これ以上続けたら本業のピアノへの影響が出るから止めたというわけである。この取り組み方はいかがなものかと思う。あれだけ綿密に研究、周到に準備した「ゴールドベルク変奏曲」のグールドはどこへいってしまったのだろうか。これは天才の気まぐれなのか?
 グールドはこのあと、1967年CBSのラジオ放送でC9、11、13(recta)を、1981年CBSテレビでC1、2、4とC14「未完のフーガ」を演奏し録音も残っている。今度はピアノを使って。1967年の3曲はラジオ用のモノラル音源なので、とても多様なグールドのピアニズムを捉えているとは言いがたく、これはボーナストラックとでも言うべきものだろう。その反面1981年の4曲の、陰影ある自在な曲想は、グールド本来の世界を提示してくれる。 グールドが「フーガの技法」で残した録音は、以上の、なんら脈絡のない合計16曲だけである。とはいえ、81年の4曲は実に素晴らしい。特にC14「未完のフーガ」に漂う独特の趣はなんと形容したらいいのだろう。一切の虚飾や色彩を排除したモノクロームの世界。そこにはただ、バッハがいて、グールドがいるだけだ。いや、バッハもグールドもいない。無垢な音が並んでいるだけ。静謐たる無限。なにかは解らぬがただとてつもなく美しい。それはまるで、宇宙を彷徨う魂のようで、この風景こそが「フーガの技法」の宿命を映している、とでもいわんばかりだ。これを聴くにつけ、なぜグールドが、ピアノで、まともに、まとめて、やってくれなかったのか、象に向かって調子っぱずれのマーラーを歌っている暇があったら、「フーガの技法」をちゃんとやって欲しかった! それを思うと残念でならない。

 「バッハ 伝承の謎を追う」(小林義武著、春秋社)というバッハ研究の本がある。これは、「ミサ曲ロ短調」や「フーガの技法」の成立や仕組みに関し、実に明快な回答を提示している素晴らしい本である。曖昧さを一切排除した実証性がバッハ音楽の真の姿を見事に解き明かしてくれる。今年の春、これを読んで感激した私は、著者の小林義武先生に手紙を書いた。その中で、グールドの「フーガの技法」に関連したこんな質問をしてみた。「『フーガの技法』の演奏を多数聞きましたが、先生が規定された形に沿っているものもあればそうでないものもある。実にマチマチです。特にグレン・グールド62年のオルガンによる『フーガの技法』は、フーガを9曲選んでそれでお終いというもので、そこにはいかなる意図も感じられず、バッハに対する冒涜とさえ思うが、先生はどう思われますか」と。これに対し先生は、「演奏家の方々は、必ずしも最新の学説を読んで研究しながら演奏しているわけではないので、それが反映されていないという状況はいたるところに見られます。グレン・グールドもその例外ではありません。そもそもグールドには作品のオーセンティシティを重視する態度は見られませんから、勝手気ままとしか言いようがありません。よく言えば芸術家の自由ということなのでしょうが」と実に粛々たるお返事を下さった。これこそが真摯な音楽学者の目から見たグールド観なのだろう。やはりグールドの「フーガの技法」はまともではない。あの「未完のフーガ」の美しさとは裏腹に。

 吉田先生のグールド「フーガの技法」の評論は読んだことはないので、是非とも先生のご意見もお聞きしてみたいものである。
2008.10.06 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――4
[グレン・グールドのバッハ]――その1

(1)グールド礼賛の先駆者
 吉田秀和先生は、わが国でいち早くグレン・グールド(1932−1982)を評価した評論家といわれている。先生の著書「世界のピアニスト」には、「1958年にヨーロッパでグールドを生で聞く2度のチャンスがあったが逃してしまった。大変残念だったが、それを聞いていた日本のピアニスト園田高弘と松浦豊明から"グールドを絶賛する話"は聞くことができた。ところが、帰国したら、日本の評論界の大勢はグールドに否定的だった。グールドの『ゴールドベルク変奏曲』や『パルティータ』を聞いて冷淡でいられるのは、私にはとうてい考えられないことだった。"しばらくして"、コロムビアから依頼されて、新装される『ゴールドベルク変奏曲』のジャケットに『グールド讃』という一文をしたためた」と書かれている。"しばらくして"がいつか調べてみたら、1963年3月のことだった。同じころ「芸術新潮」にも書かれている。このあたりが、どうやら、わが国でのグールド評価の先駆ということになったようだ。しかしである、デビューから7年以上も経ったこの頃には、海外でのグールド評価はもはや完全に定着しているし他のアーティストからも絶賛の声が聞こえてくる。グールドを評価することが冒険でもなんでもない時期なのである。

 ところが、そのはるか前、1956年レコード芸術10月号の「近く発売されるレコード」欄に、岡俊雄先生が「グレン・グールド演奏のゴールドベルク変奏曲」と題する文章を載せているので、その一部をご紹介する。
 「まだ24歳になったばかりのカナダのピアニスト、グレン・グールドの『ゴールドベルク変奏曲』が来月新譜で発売になる。ここでは、『ゴールドベルク変奏曲』は睡眠音楽どころか、睡気もどっかへふっとんでしまうような音楽となっている。グールドの演奏がバリバリとしてダイナミックだという意味ではない。そういう性格も確かにあるが、それ以上に明快で、たのしく、新鮮さをたたえている演奏なのだ。これはバッハの解釈としてはまことに異色である。そうかといって彼は決して自由奔放にバッハを弾きくずしているというのでもない。感性と知性のバランスのとれた演奏になっているのだ。・・・中略・・・ともあれ、グレン・グールドは近頃での傑物であり、『ゴールドベルク変奏曲』は、このおどろくべきピアニストのデビューを飾る名盤であることは疑いもない」
 この時期は、「グールドのゴールドベルク変奏曲」日本初発売の1ヶ月前である。岡先生はこれを発売前メーカーが作る試聴盤を聴いて書かれたという。本盤にはグールド本人が書いた詳細な演奏ノートが掲載されたが、試聴盤には付いていなかったそうだ。そんな真っサラな状況下で、「バッハの解釈としては異色だが、知情のバランスの取れた新鮮で楽しい演奏で、これが名盤であることは疑いもない」と的確に判断し絶賛の評価を下されているのである。これこそまさにわが国"グールド讃"の先駆ではないか。
 岡先生には、今から20年ほど前、幻の名LD「ダニー・ケイとニューヨーク・フィルの夕べ」の日本初リリースのとき、解説を書いていただいた経験がある。穏やかな人柄の素晴らしい方だった。今となっては懐かしい想い出である(私事でした)。

(2)ゴールドベルク変奏曲はなぜ凄いのか
 グレン・グールドが、J.S.バッハ晩年の作品「ゴールドベルク変奏曲」を録音したのは1955年弱冠22歳のときである。この曲をデビュー作に選んだのはグールド自身だが、これを聞いたCBSの上層部は「売れないからやめておけ。『ゴールドベルク』なんてものはランドフスカがあれば十分だ。しかもピアノでなんてありえない」と言ったそうだ。事実「ゴールドベルク変奏曲」は、1933年に名女流ワンダ・ランドフスカがチェンバロで録音したものが比類なき決定盤とされ、ピアノで演奏されたものはなきに等しかった。
 そんな逆風の中、この作品でデビューを果たしたのは、グールドの、徹底した楽曲研究に裏づけされた自己の表現への揺ぎない自信と、確固たる信念だったに違いない。バッハがこの曲を作ったときはチェンバロしかなかったのだから、チェンバロで演奏するのが正しいとするのは確かにまっとうな考え方だろうが、バッハの音楽は宇宙のように大きくて、もともとチェンバロの表現力に入りきるような音楽ではないのだ。
 「ゴールドベルク変奏曲」は、2つのアリアとそれに挟まれる30の変奏曲から成り立っている。しかもその30曲は、3曲づつ10のブロックに分けられ規律正しく並んでいる。関西のお笑い芸人がやっている3の倍数並び"1,2, , 4,5, ・・・"である(ちょっと、バッハに失礼か)。 縦横各々の並びの数学的規則性は宇宙をも連想させる壮大なフォルムを形成する。
 チェンバロは音の強弱をつけられないが、ピアノはできる。音を切ったり滑らかに弾いたりするのもピアノのほうが優れている。ペダルという武器もある。要するに表現力がチェンバロに較べて桁違いに大きいのだ。だからバッハの音楽はピアノで演奏すべき音楽なのだ。バッハ自身が想定すべくもなかったけれど、彼の音楽は、生まれつきチェンバロの機能を越えて、未来の楽器の王者たるピアノを志向していたのである。これは今だから簡単に言えることだが当時としては思いもよらぬ話で、それこそコロンブスの卵だったのだ。そんな半世紀も昔、20歳そこそこのグールドはそのことに気づき、そのために技術を磨き、自らの考える音楽を実現したのである。逆に言えば、深遠壮大なバッハの音楽がその真の姿を現すためには、グレン・グールドというピアニストの出現を待たなければならなかったのである。これは並の人間に出来ることではない。だから彼は先駆者であり天才なのである。
 デビュー作は爆発的な反響を巻き起こし、グールドは一躍スターダムにのし上がった。なぜこれが大ヒットしたのか?バッハをピアノでやったことの斬新さが世の中に強烈なインパクトを与えたからか。それはそれで間違いないことだ。だがそれだけではゲテモノで終わってしまう。グールドの「ゴールドベルク変奏曲」は、それに加え、奇をてらうに止まらない音楽としての完成度を持っていたからである。それが生きた音楽として息づいていたからなのだ。

 グールドは、その後バッハの作品を中心にモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、シェーンベルクなど数々のレコーディングを行い、亡くなって20数年がたった現在でもそれらはなおベスト&ロングセラーを続けている。最後の作品となったのは1981年の「ゴールドベルク変奏曲」の再録音だった。これは55年盤をはるかに凌駕する見事な演奏で、表情づけはより深く、変奏ごとの性格付けはより明確となり、信念に裏打ちされた自由な精神が活き活きと漲っている。まさにファンタスティックな演奏である。モノラルからステレオに変わった音の良化も大きい。バッハの作品にさらなる生命を吹き込んだといえる。彼はこの録音の1年後、帰らぬ人となった。
 私はこの81年版「ゴールドベルク」が大好きでよく聴く。55年版に較べ極端に遅いテンポで始まるアリアには仄かな哀感が漂う。第1変奏から第12変奏までは、レガートを押さえたチェンバロ的響きを優先し、ほぼインテンポで(テンポを守ったまま)音楽は進む。バッハの描くポリフォニックな音形が幾何学的な線となってくっきりと頭に焼きつく。第13,14変奏あたりから左手のラインの強調やレガートの要素が混じってくる。チェンバロにはできないピアノならではの表現である。後半への布石といえるかもしれない。静かな湖面を漂うような第15変奏で前半が終わる。第16変奏からの後半は、一転して、テンポは動き、ダイナミクスは強調され、レガートも多用される。インテンポとノン・レガートの基調にこれらが加わり表現の幅が大幅に広がる。ピアノによる多彩な表現は、活気と静寂、愉悦と感傷、優美と峻厳、壮麗と簡素など、対立する人間の様々な感情を表出する。曲ごとの対比と前後半での対比は二重の対照を形成してバッハの精神を見通し、深遠でロマンティックなグールドの世界が大伽藍となって現出する。これぞ正に人類に遺された宝物である。
2008.09.29 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――3
[聞いてもいない演奏への評論]
 レコード芸術2007年2月号の「之を楽しむ者に如かず」で、吉田先生は実に奇妙な演奏評を展開されている。別の評論家の演奏評を読んでの文章なのだが、先生は元になった演奏を聞かずしてその演奏の核心に及びそこから発展して見事なまでの自論を展開されるのである。私はこういう類の音楽評論に出会ったことがなかったので心底びっくりしてしまった。ではその文章を追いながら考察する。

(1)プレトニョフの「第九」はショスタコーヴィチ?
 「この間、たしかプレトニョフだったと思う(でなくてもどうでもいいのだが)が、東京のどこかのオーケストラを指揮してベートーヴェンの『第九交響曲』をやった。その演奏評を片山杜秀さんが書いて『朝日新聞』に載っていた。どんな演奏だか読み手によく伝わってくる、はっきりした、読んでいて気持ちの良い、つまり『なるほど』と思える記事だった。片山さんのはいつだってそうで、私はほとんどいつも感心して読んでいる。で、この批評で言うと、プレトニョフの『第九』は出だしから強弱の対照が極めて強調されていて、その表情付けでも、ベートーヴェンというよりむしろショスタコーヴィチにふさわしいものだったらしいのである。私流に言いかえれば、要するにベートーヴェンよりもショスタコーヴィチを聴かされたようなものだというわけである。片山さんは、だから、どうだまでは書いてなかったように覚えているが、これを読めば、こういう代物をきかされて、彼が閉口して頭を横にふっているという様子が自ずから眼に浮かぶように書かれている批評だった。で、『なるほど』と私は思い、良い批評だ、私だって、そう感じたろうなと説得されるものだった。以前だったらこれでお終いだったろう」

 皆さんはこれをお読みになってどう思われますか? "でなくてもどうでもいい"とか"東京のどこかのオーケストラ"という言葉使いも考えものだが、それはさておくとして・・・。他人の批評を評論するのはありうることだから、そのこと自体に文句を言うつもりはない。でもその場合、踏まえなければいけないことは、批評の対象(この場合ならプレトニョフ指揮の「第九」の演奏)を自分も体験していること、又は、そうでなかったら、評論がその対象そのものに及ばないこと、例えば、その人の文章のうまさなどに限ってのもの、でなくてはならないと、私は思う。
 先生はこの対象となった演奏は聞いておられない。それは文章の端々で(例えば"ベートーヴェンよりむしろショスタコーヴィチにふさわしいものだったらしい"の"らしい"という表現などで)歴然だ。聞いてもいないのに、どうして「なるほど」などと言えるのだろうか。しかも"私流に言いかえて"もいる。実にご丁寧な話である。しかもその"言いかえ"たるやあまりも的外れ。"表情がショスタコーヴィチ風"と"まるでショスタコーヴィチを聴かされたようなもの"とは意味が全然違う(ただ、私も片山氏の評論は読んでないのだから本当は比較などできないのだが)。これには片山氏もびっくりだったことだろう。さて、そこでさらに「私だって、そう感じただろう」である! ほんとこの方正気なのだろうか? 対象となっている演奏を聞いてもいないで、どうやって"そう感じる"のだろうか。
 先生はここまでを、「以前だったらこれでお終いだったろう」と、こういうケースは先生にとっては以前から珍しくないことであると認めていらっしゃる。ここまででもビックリ仰天なのに、先生の評論はこのあとさらに驚くべき深みへと入り込んでゆく。

(2)新聞はなぜクラシックにもっと紙面を割けないのか?
 「ところが、私は、そのあとで、プレトニョフはなぜそんなことをしたのだろう?と考えた。彼は、ベートーヴェンの毛皮を被ってショスタコーヴィチをお料理に出してみたかったか、あるいは現代の人間として自分の役目はベートーヴェンはショスタコーヴィチとつけあわせた形で提供するにあると考えたのか。彼の場合は信念とでも言うべきものがあってのことと考えるほうが自然である。しかしそんな信念(理由)があったとして、ソ連が崩壊して久しい今、それをやることにどんな一般性があるというのか? どんな客観的妥当性があるというのか? そういうことを考え論じるのが、実は評論なのだ」。またもや聞いてもいない演奏に対して「なぜそんなことをしたのだろうかと考えた」のである。もはやこの評論吉田丸は迷走の観を呈してきた。さらに現代という時代背景の中で、(聞いてもいない)その演奏の意味合いを論じるのが真の意味での評論なのだと断じていらっしゃる。そして先生は、最後に、実に驚くべき結論でこの論を締めくくられるのだ。

 「片山氏ならそれができたであろうと、私は予測し期待する。ところが、そうならなかった。なぜ? 日本の新聞にはそういうスペースがないからだ。なんとつまらないことだろう! だが、なぜ日本の新聞は音楽批評にスペースをあんまりさけないのか?」

 なんと驚くべき事に、"片山氏の論評が中途半端で終わったのは、新聞がクラシックという(高尚で文化的な)ジャンルに、それに相応しいスペースを与えてくれていないからだ"と結論するのである。
 片山氏が、これ以上論じたければ、まとめてどこかの音楽誌に書けばいいのである。吉田秀和賞を受賞したほどの方なのだから音楽誌に載せてもらうことなどたやすいだろうし、どうしても新聞紙上で書きたければ、続きを後日掲載してもらうことも不可能ではないだろう。先生は片山氏になりかわって新聞に抗議してくれている。片山氏も"私のためになんとおせっかいでありがたいこと"と恐縮されたに違いない。しかるに新聞は公共のスペースである。それは、政治、経済、スポーツ、芸能など、生活に密着したものからエンタテインメントにいたるまで幅広い分野におよぶ。音楽はその一部分に過ぎないし、しかもクラシックなんていうものは音楽全体の5%にも満たないのである。そんなマイナーなものに新聞は今以上のスペースを割くわけにはいかないのである。今のままでも、"高尚で文化的な"分野だからして、新聞のステイタスとして精一杯割いてくれているほうだと私なんかは思う。「なぜ日本の新聞はもっと割けないのか?」とおっしゃられても、いまのスペースのままで十分以上なのですよ、先生、と私は申し上げたい。それを「もっと」と言うのはクラシック村の驕りであり、空気を読めない"井の中の蛙"と言われてもしかたがないだろう。「なにを偉そうに、分をわきまえなさい」とお叱りが飛んでくるだろう。こういうクラシック・サークルの独善的かつ排他的体質がこの国のクラシック音楽を閉鎖的にしているのではないか。驕るなかれクラシックである。
 どうもクラシックの専門家といわれている人達には、偉そうにしている人が多い(勿論中には謙虚な実力者もいるけれど)。その態度、実に鼻持ちならない。"たかがクラシック、なんぼのもんじゃい"と言ってくれたほうが余程親しみがわくのにと思う。なにも私は卑下すればいいと言っているのではない。誇りを持つのは大切だ。でも、誇りと驕りは違う。誇りは持つが見下さない。何をするにもそれが大事なのである。そんな中、若手のアーティストの中に「たかが音楽じゃないですか。私たちにどれだけのことが出来るのでしょう」とか「ヴァイオリニストにとどまるなんてつまらない」などと発言する一流の人たちが出てきている。神尾真由子や五嶋龍らである。これは実に喜ばしい傾向だ。 だから、クラシック界の大御所たる吉田先生には是非このあたりをしっかりと認識していただき、"音楽の楽しさを万人に"という先生のモットーに則って業界をリードしていっていただきたいのである。"素人には分かりやすく、専門家をもくすぐる"筆致をもって。

(3)プレトニョフ「第九」のCD
 私が引用したのは先生の文章の一部分である。この回の先生のテーマは"メルト・ダウン"とのことで、以前は自分の中ではっきりと区別されていたものが、今はその境界が溶けだすように曖昧になってきており、なぜかそんな事例が多くなっている、というものだった。その一つの具体例として"プレトニョフの「第九」の演奏"をあげられておられるわけである。だから私が取り上げたのは核心部分ではないからして、何もそんなに力まなくても?なんて言われるかもしれない。でもこれは、核心部分だろうが周辺部分だろうが、「聞かずして評論」という、あってはならない行為につき、書かせていただいたまでだ。

 この文章を書くにあたって、私は片山氏の「朝日新聞」の評を読むべきだと思い、出来る限りの手を尽くしたが、叶わなかった。上野文化会館4階の「音楽資料室」で2006年−2007年にかけての全ての新聞切り抜き記事を調べたが見付からなかった。まだ方法があるのかもしれないが、読んだところで私の主旨も論調も変わるわけではないので、ひとまず置いておくことにしている。
 それ以上にプレトニョフの「第九」演奏会は聞いてみたかったと思った。「片山氏が"ショスタコーヴィチの表情"と言った」と吉田先生がおっしゃったその演奏を。 過ぎ去ったコンサートはオンエアがなければ体験することは出来ないが、調べてみたら幸いなことにCDが発売されていた。ミハイル・プレトニョフ指揮:ロシア・ナショナル管弦楽団の「ベートーヴェン交響曲全集」で、録音は2006年6−7月、モスクワとある。片山氏が聞かれた日本でのコンサートは、吉田先生の記事のタイミングからいって、恐らく2006年の年末あたりと推察できる。ということは、日本の演奏会の半年前のレコーディングである。したがってその演奏様式は基本的には同じに決まっている。ならばこのCDの演奏は件の演奏会と大差ないはずだ。私はすぐさまCDを手に入れ勇んで聞いてみた。先生は「出だしから強弱の対照が極めて強調されていて」と(片山氏が書かれていると)書かれているので、手持ちの「第九」32種を引っ張り出してプレトニョフのと聞き比べてみた。プレトニョフの「第九」は、超速めのテンポ(他32種のどれよりも早くフルトヴェングラー「バイロイト」とは全体で13分もの差があった)とピリオド楽器風なアクセントの付け方とポリフォニックな響かせ方に特徴があり、確かにこれまでの伝統的スタイルとは一線を画した演奏には違いなかった。そのあたりを片山氏は、"ショスタコーヴィチの表情付け"と評されたのかもしれないと思った。でも、少なくとも私には、吉田先生がリライトされたような"ショスタコーヴィチを聴かされたようなもの"とまでは感じられなかった。
 私がここまでやったのだから、先生には是非ともプレトニョフのCDを聴いていただいて、本当に"ショスタコーヴィチを聴かされたようなもの"と感じられるかどうかを含め、感想をお聞かせ願えれば幸いである。もしや「これはベートーヴェン的ではないが好きである」などとおっしゃられないでしょうね。
2008.09.22 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――2
 今回は吉田秀和著「レコードのモーツァルト」(中公新書)から、先生のモーツァルト演奏論に迫ってみたい。吾が敬愛する宇野功芳、石井宏両先生と対比して。

(1)カラヤンとセルのモーツァルト
 吉田秀和先生によるとカラヤンのモーツァルトはこういうことになる。
 「カラヤンの考えていることは歌の最優先である。レガートを重視していることが疑いもない明確さで伝わってくる。美麗を極めた旋律の線の持続体こそ音楽を追求すべき最高の価値を持つ姿であると、高らかに告げられているようだ」と、彼の演奏するシンフォニーの演奏に関して、相変わらずの吉田節で語られている。そして、「私はこのモーツァルトが好きだ。しかしこれがモーツァルトのすべてでないことは、これがひとつのすぐれたモーツァルト像だというのと同じくらいはっきりとしている。むしろミロのヴィーナス式の豊麗な美女のタイプは必ずしもモーツァルトの夢見た美とは少しちがうのではないかという気がする」と結ばれている。
 ちなみに私はこういうモーツァルトが嫌いである。これは好き嫌いの問題だから議論にならない。

 一方ジョージ・セルの「第40番ト短調シンフォニー」や「ポストホルン・セレナード」等に関しては、同じ本の中でこう述べられている。
 「『ポストホルン・セレナード』はモーツァルトでは少し退屈な曲だけに、それを綿密に正確に律儀にしかしおもしろくしようと企んだ小細工をほとんど施さずに演奏しているということが、かえっておもしろく思われてくる。曲が曲だけに何かちがう人の音楽を聴かされているような気がしてくる。あんまりモーツァルトらしくない演奏であり、――というより――少しもモーツァルトらしくやろうとしてない演奏だ。『ト短調のシンフォニー』の演奏を聴いても同じである。モーツァルトらしいかモーツァルトらしくないか。それよりも、もし、目の前の筋肉質の、素晴らしい活気に満ちた音楽があり、しかも、そこにはほかに類のない発明の新鮮さと気品が備わっているとしたら、それをあなたはよろこんできかないだろうか?」
 要はこれも先生は誉めていらっしゃる。ところで先生がおっしゃる"モーツァルトらしい"とはどういう演奏なのだろうか? 私には見えてこない。 蛇足ながら私自身このジョージ・セルの「40番シンフォニー」は、最もモーツァルトらしいというか、この曲に相応しい抜きんでた名演奏だと思っています。

   ザックリと言えば、先生は"カラヤンもセルもモーツァルトらしくはないが、両方とも好きだ"とおっしゃっている。片や豊満な美女タイプ、片や筋肉質で活き活きとした音楽。両方ともモーツァルト的ではない。でも両方ともに好きだ。ウーン、やはり不可解・不明瞭。そしてもう一度訊きたくなる、「先生がモーツァルト的というのはどういう演奏のことなのですか?」と。
 「第40番ト短調シンフォニー」について、宇野功芳先生はブルーノ・ワルター指揮:ウィーン・フィル(52年録音)盤を第一に推薦されておられるが、「初めてワルター:ニューヨーク・フィル盤に接したときは、もう体がどうにかなってしまうほどの幸福感に包まれた。ところがずっと後になって、ワルター:ウィーン・フィル盤に接したときはそれ以上だった。このLPは僕の恋人になり、演奏評はラブレターとなった」(音楽の友社刊「クラシック人生の100枚」)と書かれている。これは実に熱っぽくて分かりやすい。先生の熱い思いが手に取るように伝わってくる。これほどまでに先生を魅了したレコードを聴いてみたいという気になる。

   吉田先生は前出2006年12月25日の読売新聞の中で、「例えれば『あの店のトンカツはおいしい』と、自分の感情にしたがって、おいしいものをおいしいと書くのが本当の批評である」との持論を述べられておられる。ところがどうだろう、カラヤンとセルのモーツァルトに関して、先生の比喩にしたがってリライトすると、「あの店のトンカツとこの店のトンカツは味は全然ちがうが両方おいしい」ということになる。おいしいとおっしゃるのはいいのだが、どっちの店のトンカツを食べていいのか分からない。カラヤンとセルは味が全然違うのならば、少なくとも「自分はこっちのほうががおいしいと思う」くらいのことは言ってほしかったと思う。でもまあ、これこそが先生の真骨頂で、謂わば全方位的博愛主義というものなのかもしれないけれど。だがやはり、私としてはこのタイプはちょっと困る。"あれもいいがこれもなかなか"では、レコードを買う気になれないのだ。できればどちらが好きかくらいの事は言ってほしいと思う。

  (2)ハスキル&グリュミオーのソナタ
 さらに同じ本の中で、ヴァイオリン・ソナタの項がある。そのグリュミオー(ヴァイオリン)&ハスキル(ピアノ)盤に関する部分を要約してみよう。 「モーツァルトのヴァイオリン・ソナタのレコードでは、私たちは以前グリュミオーとハスキルの組み合わせによるものを持っていた。これは単に名演というだけでなく、本当に気持ちのよい協演と呼ぶほかないような、素晴らしいレコードであった。その中で、しかし、たった一つの欠点――というか、キズ、というか、ところどころでハスキルのピアノが大きく入りすぎていて、ヴァイオリンを必要以上に退けてしまう気味のあることだった」

 このレコードについてはわが敬愛する石井宏先生の演奏評を対抗としてあげてみたい。 「モールァルトのヴァイオリン・ソナタは、彼自身"ヴァイオリン伴奏付のピアノ・ソナタ"と呼んでいるとおり、これらのソナタはピアニストの注文で書かれたものであり、ピアノ主導の作品なのである。ところがレコード会社はヴァイオリン・ソナタと表記し、ヴァイオリンに重きをおいた録音をする。ハイフェッツ&スミスの演奏はその典型で、ただの伴奏音形を弾くヴァイオリンの音量が、ピアノが奏でる美しい主旋律をかき消してしまっている。無知が生んだ喜劇というべきだ。しかし、偶然にうまくいってしまったという一枚がある。それは晩年のクララ・ハスキル(63歳)が若きグリュミオー(37歳)と録音したものである。録音が多少グリュミオーを押し出そうが、ハスキルが持っている世界のほうが素晴らしく、ヴァイオリンの音の魅力を上回っているのである」。

 これは対照的な評論である。両者とも素晴らしい演奏としながらも、吉田先生は、ハスキルのピアノの音が大きく入りすぎているのが欠点とおっしゃり、石井先生は、ハスキルの素晴らしさがモーツァルトの演奏様式にピタリ合致していると言われている。物理的な"音の大きさ"に関しては、吉田先生はハスキルが大きいとおっしゃるのに対し、石井先生は"録音がグリュミオーの音を押し出そうが"と真っ向反対の感じ方なのが面白い。しかも、ハスキルの音楽性が、多少大きめなグリュミオーの音を超えて伝わってくるという感じ方が渋い。
 私は圧倒的大差で石井先生を支持する。モーツァルトがこれらのソナタを書いた目的から演奏様式のありうべき姿を説き、レコード会社の歴史認識の未熟さからハイフェッツのレコーディングにまで話が及び、ハスキル&グリュミオー・コンビの名盤は組み合わせの偶然による産物であると結論される。実証的で具体的な、実に見事なストーリーである。しかも私には、この演奏は石井先生のおっしゃるように聞こえる。ハスキルのピアノの音が大きすぎるようには聞こえないが、ハスキルが音楽的にも精神的にも一貫してグリュミオーをリードしているのは明らかに分かる。
 読売新聞インタビュー記事で吉田先生は「わざと人と違うことを書いているわけじゃない。音楽が人とは違って聴こえるんだ」とおっしゃっているが、まさに吉田先生と石井先生とは同じ演奏も違って聞こえているのであろう。

 私たち音楽ファンは毎月出てくる新譜CDを全て聞くわけにはいかない。少ない小遣いで自分に合ったレコードを効率よく集めたいと思っている。だから信用できる評論家を探す。私が長年かかって行き着いたのが、宇野、石井両先生である。
 宇野先生は自らの感受性だけを信じて断を下す。他人の評価は意に介さない。自分の「これはいい」という直観力だけを信じている。だから信用できる、私に合う合わないは別にして。その力は霊感的ですらあり我々に思いもよらない演奏を推薦してくれる。これが素晴らしい。先生の推薦で手に入れ共感したものを何点か挙げておく。
 フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのシューベルト:交響曲第8番「グレート」(42年録音)、フリッチャイ指揮ベルリン放送響のチャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」、クナッパーツブッシュ指揮ベルリン・フィルのブラームス:交響曲第3番(50年録音)、リリー・クラウスのモーツァルト・ピアノ音楽全集(EMI盤)、内田光子のモーツァルト:ピアノ協奏曲第15番K450などなど。これらは正に超弩級の名演奏というべきものだが、これらにはあまり他の評論家の先生方が挙げられていない演奏も含まれる。流石自己の直感だけを信じる宇野先生ならではの推薦である。先生の大好きな表現である正に"命を掛けた"推薦なのである。ところが、宇野先生に輪をかけて凄いのが石井宏先生だ。先生の推薦盤についてはまたいずれ。 
2008.09.15 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――1
(1)ひびの入った骨董品
 今、私の部屋にはホロヴィッツが弾くショパンの「練習曲 作品10−8 へ長調」が流れている。ホロヴィッツ初来日1983年6月11日NHKホールでの演奏である。指は動かず音は飛びリズムはギクシャク輪郭はぼやけ、およそ人様に聞かせられる演奏ではない。でも弾いているのは紛れもない20世紀最大のピアニストの一人ホロヴィッツなのである。このときホロヴィッツは79歳。伝説のピアニストのコンサートに大枚5万円を投じて集まった聴衆は歓呼のブラヴォーと惜しみない拍手を贈った。彼らだってこの演奏がひどい代物だったことは百も承知だったろう。でも弾いているのはまさしくホロヴィッツその人。聴衆はそこにホロヴィッツがいるだけで満足したのだろう。しかしこの演奏に敢然と正論を言い放った評論家がいた。「ホロヴィッツはひびが入った骨董品だった」と。彼の名は吉田秀和(1913〜)。これほど的を射た表現はなく、わが国音楽評論史上においてもこれほどまでにセンセーショナルな評論はなかったのではないか。6月17日付、朝日新聞音楽展望に寄せた先生のコンサート評も素晴らしいものだった。「来日は遅すぎたといわざるを得ない。目の前にいるホロヴィッツはもはや骨董品だ。骨董である以上、ある人は惜しげもなく万金を投じるが、ある人は一顧だにしない。それはそれでいい、だが残念ながら私はもう一つ付け加えなければならない。なるほど、この芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は――最も控え目にいっても――ひびが入っている。こんなことを書くのが、遠来の老大家に対し、どんなに非礼で情け知らずの仕打ちか、こころえてないわけではない。だが、大家に向かって、いまさら社交辞令でもないだろう・・・」。目の前で繰り広げられた演奏に対する的確な判断と見事な比喩。現象を見る客観的な視点。毅然として格調高い文体。その上遠来の大家に対するリスペクトも忘れていない。ここに音楽評論の理想の形があるといっても過言ではないほどの、これは史上に残る名評論だった。
 先生は一昨年、文化勲章も叙勲しているわが国音楽評論界の大御所である。御歳94歳ながら、朝日新聞の音楽時評、レコード芸術での連載エッセイなど、文字通り老いて益々盛んな活躍ぶりだ。著書も多数あり、独特の比喩や文学的表現から多くのファンを持っている。だが最近の先生の評論にはかつての冴えが見られない。いや昔のものもよく読むとピンとくるものが少ない。比喩とか引用に関しても、その裏にある真実の意味が分かっておられるのかどうか疑いたくなるような表現が散見される。美辞麗句を並べることを優先して、言葉の真の意味への洞察が足りない。いうなれば言葉をうっかりと使っている。あの「ひびの入った骨董品」は幻だったのか?それとも一夜限りの突然変異だったのか?前回小林秀雄を斬った刀で今回は重鎮吉田秀和に迫ってみたい。だがこれはよりアラ捜し&揚げ足取りの様相を呈することになりそうだ。失礼は温暖化異常気象のせいとお見逃しいただきたい。

(2)之を楽しむ者に如かず
 先生は「レコード芸術」で2006年4月号から「之を楽しむ者に如かず」と題するエッセイを始められた。これは「論語」の言葉だが、先生は余程お好きなのだろう、他の号でも「論語」を引用されている。「先進の禮楽におけるは野人也。後進の禮楽におけるは君子なり。若し之を用えば則ち吾は先進に従わん」(禮楽(政)をするのに昔の人は野人的で、今の人は君子的である。私は昔の人のやり方がいい)である。この教えを引用して先生はこう言っている。「あの聖人君子の鑑みたいな孔子――口を開けば礼とか徳とかの説教をしていたような印象を与えてる人が、『禮楽でどっちをとるかといえば、ぼくは野人的のほうだね』といっているのですよ」と、いかにも"孔子が形式より情緒を重んじるのが意外だ"という言い方をしている。これはしかし認識不足というものだろう。孔子は元々体制側の高貴な家柄に生まれたのではなく、滅亡国である殷の血筋を引く下級武士のしかも野合の子として生まれ、国家には受け入れられずに教育の道を歩んだ人間なのだ。教えの根本は「仁」即ち愛であり、先生が言われるような"聖人君子で礼とか徳とかの説教をしていた官僚的でお堅い為政者"というイメージの人ではない。儒教の基本理念といわれる五徳も「仁」「義」「礼」「知」「信」の順番で、これも即ち、規律よりも情が優先することの表れだろう。先進に従うのは意外でもなんでもなくて、むしろ当然なのである。"口を開けば礼とか徳とかの説教をしているお堅い孔子"というのは先生の先入観である。自分の先入観を一般論に置き換えないでいただきたい。
 レコ芸エッセイ開始号ではこんな記述もある。「昔はよく『モーツァルトは大人がひくにはやさしすぎ、子供がひくにはむずかしすぎる』なんて言われたものである」と。こんなあたりまえの話が諺になりますか?実際は"モーツァルトのピアノ・ソナタは技術的には簡単で子供にも容易に弾くことができるが、シンプルなだけに音楽として聴かせるには実に難しい"という意味で、「モーツァルトは子供がひくにはやさしいが、大人がひくにはむずかしい」が正しいのに、こうも堂々と真反対に間違ってしまわれるとこちらもどう対応してよいか分からなくなる。この号では、またバイロイトのシェロー演出の上演年代を間違われていて、次号で釈明されていたが、訂正するならこちらの方ではないですか? 今後諺などを引用される場合は重々注意してからにしていただきたいと思う。

(3)ナイアガラの滝
 ではここで先生の文章がなぜいつもピンとこないのかを検証してみたい。理由は文章が回りくどいからなのだが、例としては何でもいいのだけれど、冒頭との関連で、著書「世界のピアニスト」(新潮文庫)から「ホロヴィッツ」の項の一部分を引用させていただく(勿論これは「骨董品」評論のはるか以前に書かれたものです)。
 そこでは、「ホロヴィッツは"ホロヴィッツの響き"とも言うべき独特の響きを持っている・・・」という文章を受けてこう続けている。「こう考えてくると、ホロヴィッツが得意中の得意とする音楽、たとえばショパンとかリスト、あるいはシューマンとかスクリャービンらの作品をひく時の彼は、もう心と身体と楽器の三つが完全に一体となっていて、彼がピタッとピアノの前に坐ってひき出すと、最初の音、いや、音になる前の彼の呼吸、彼の肩と腕と指の動きから、最後の音にいたるまで、隅々まで完成され、鍛錬されきっていて、そこには、いまさら何一つ新しく工夫する必要もなければ、第一、そうしてもどこといって変わる余地もないほどだ・・・・・と、こうなっていても不思議はないような気がしてくる。 ところが、どうも、そうではないらしいのだ」。なんじゃコリャー! 文体自体も、「とか」「あるいは」「いや」「第一」などがそこになくてもいいのにという風情で散らばっており、句読点も多く簡潔さもまったくないのだが、それ以上にズッコケルのは文章の流れである。前半あまりに微細な描写をなさっているから実際ライブをご覧になっているのかと思いきやそうでもないらしく、「不思議はないような気がしてくる」とくる。そして結びは「そうではないらしいのだ」だ! これはガクッと来ますよ、先生。これは、例えば、男が女を前にして「貴女は、知的で美しく、気立てもいい、隅々まで完成されている理想の女性のような気がしてくる。ところがそうでもないんだなあ」と言ってるようなもので、まともに話を聞いていた人間はたまらない。見てきたこともないことを見てきたことのように描写して、それを断定せず、さらにまとめて軽い否定をする。これでは読んでるほうは何が言いたいのか分からない。吉田様式の典型的姿がここにある。
 こんな文章の連続だからこの「ホロヴィッツ」の項に(文庫本で)15ページも割けちゃうのですね。おっしゃりたいのは「ホロヴィッツは自分だけの響きを持った素晴らしいピアニストだが、上がり症なのか何度もコンサート活動を中断している。彼が偉大なのは他のピアニストにはない「憂鬱」を持っていることだ。勿論彼のテクニックは素晴らしいものだが「星条旗よ永遠なれ」だけはグロテスクでいただけない。そんな力の誇示も近年(70年代か)はそれを抑制し楽曲の内面をバランスよく捉えるようになってきた。私はこれを趣味と呼びたい」ということだと思うが、これだけのことに延々15ページも費やしている。私しゃ正直疲れます。「ミルシテイン回想録」にはこんな箇所がある・・・あるアメリカの批評家が私(ミルシテイン)にホロヴィッツに関するコメントを求めてきてこう言った、「ホロヴィッツは演奏会で時々大袈裟に弾くとは思いませんか? 彼の演奏にはそのようなことが多すぎるとは思いませんか?」。私はあら捜しの批評家にこう答えてやった、「そんなちっぽけな小言はやめなさい! ホロヴィッツはただの偉大なピアニストではなく、自然の生んだ驚異なのです。君は水が多すぎるからといって、ナイアガラの滝を批判できるかい?」と。私にはこの数行のほうが吉田先生の15ページよりもよっぽど的確で面白いと思います。

  (4)誇らしげに
 2006年12月25日読売新聞に、この年話題の文化人として、文化勲章を叙勲した吉田秀和先生が取り上げられている。そしてこの記事は「モーツァルトは父親あての手紙で『僕の音楽は素人でも専門家でも楽しめるものです』と誇らしげに書いた。『古今東西、音楽について書く者が一番心がけるべきは、そのことでしょう』と(吉田秀和氏は)ほほえんだ」と結ばれている。インタビューを受けている先生の満足気な顔が見えるようである。これはインタビューの締めなのだから、先生が一番言いたかったことなのだろう。「自分が一番心がけていることは素人にも専門家にも楽しめるものを書くこと」であると。だが待てよ、と私は思う。先生はこのモーツァルトの手紙の本当の意味合いを分かった上で引用されたのかどうか・・・私にはどうしても引っかかるのです。"誇らしげに"という言葉に。
 先生が引用されたこの手紙は、1782年12月28日、モーツァルト新作のピアノ協奏曲(K413,414,415)の完成報告のときのもので、「これらの曲はむつかしくもなく、やさしくもない中くらいのもので、耳あたりのよいとても派手なものです。――といって空虚なものではなく、自然です。――いたるところに専門家だけが満足するところがありますが、――それでも一方、初心者でもなんとなく満足するところがあると思います」と父親に書いたものに間違いないだろう。だとすると"誇らしげに書いた"は事実とは違うと私は思う。"誇らしげに"というと、ヴォルフガングが父レオポルトに「父さんは知らないでしょうが、僕が今度書いた曲はこれこれこうなのです・・・」と自慢げに書いているというニュアンスとなろうが、これはまったく違う。"素人でも専門家でも楽しめる音楽"は父レオポルトが、音楽家として高みに上るために苦しい修行時代に身に着けた作曲の極意であり、わが子ヴォルフガングに幼児期から徹底的に叩き込んだモーツァルト家の作曲における謂わば家訓のようなものなのだ。したがってここは父親に"誇らしげ"ではなく"おかげさまで父上にいつも言われていた通りの音楽が書けました"というむしろ感謝の報告なのである。"誇らしげ"と言われた吉田先生がこの事実を分かっていらしたのかどうか? 私が引っかかると書いたのはこういう意味だったのです。
 では、その根拠を提出して今回を締めたいと思います。石井宏著「天才の父レオポルト・モーツァルトの青春」(新潮社刊)131ページ。・・・「レオポルトが作曲において心がけたのは、自分の理想の"絶対音楽"ではなく、流行のスタイルのだれにもわかりやすい実用的で平明な音楽を書くことであった。さらには、そこになにか気の利いた仕掛けを、ほんの少しだけ、スパイスのように振りかける。平明簡便な音楽は抵抗なく一般に受け入れられ、仕掛けは耳のよい専門家をくすぐることができる。これが彼の作曲における哲学であった」・・・。そんな父親に対しモーツァルトは"誇らしげに"書けるわけはないのである。
2008.09.01 (月)  真夏の夜の支離滅裂――小林秀雄を斬る 2
 9月の声を聞いて大分しのぎやすくなってきました。そのため前回ほど頭はカッカしていないので、タッチは少々柔らかくなりそうですが、まあ、引き続いて小林秀雄を斬っていきましょう。

 小林秀雄の名著「モオツァルト」にはまだまだ許せない記述がある。「例えば、僕は、ハ長調クワルテット(K465)の第2楽章を聞いていて、モオツァルトの持っていた表現せんとする意志の驚くべき純粋さが現れてくる様を、一種の困惑を覚えながら眺めるのである。若し、これが真実な人間のカンタアビレなら、もうこの先何処に行く処があろうか。例えばチャイコフスキイのカンタアビレまで堕落する必要が何処にあったのだろう。」(第10章)・・・ここで私は音楽史を持ち出して反論するつもりはない。そんなことをしたら論文が一つ出来てしまう。それはそうと"堕落"はないと思う。チャイコフスキーって優しくて気が弱くて本当にいい人だったって皆言ってる。ピアノが死ぬほどうまかったのに人前で演奏する度胸がないんで作曲家になったっていうし。でもよかった、気が小さくて優しかったお陰でこんなたくさんの名曲が聴けるのだから。そんな気弱なチャイコフスキーなので、先生から"堕落"だなんか言われたら自殺しちゃうかも知れない。もっとも近年、死因は自殺ってことになってるようだけど。名ヴァイオリニスト、ナタン・ミルシテインの回想録にこんな記述がある。「チャイコフスキーが好人物であったことでは友人と意見が一致した。彼がどれだけモーツァルトを愛していたか? コンサートでト短調五重奏曲K515をどう聴いたか。かつてパトロンのマダム・フォン・メックにこう書き送っている――涙が頬を伝わり、人々に気づかれないように席を立たねばなりませんでした、と。彼はコンサートの残りを柱の影に隠れて聴いたのである。私はチャイコフスキーの音楽を"読んで"いて、かつてこれほど明確に知的にそして優雅に音楽を書いた作曲家はいないと思った」(春秋社刊「ロシアから西欧へ」〜ミルシテイン回想録、青村茂&上田京[訳]より)。小林秀雄が「かなしさは疾走する、涙は追いつけない」という名言を吐いたト短調五重奏曲で、チャイコフスキーは涙を流して、人に気づかれたくなくて、そっと席を立ち柱の影で泣きながら聴いていたのですよ。そしてこの儚い感受性を持った作曲家は"明確に知的に優雅に"音楽を書いたのです。モーツァルトが大好きでその作品を聞いて涙を流す大作曲家が書いたカンタービレのどこが"堕落"したものなのですか。これじゃチャイコフスキーが浮かばれません。ここは絶対に修正して欲しい。
 小林秀雄が最後に引用しているのがモーツァルト1787年4月4日の手紙。「二年来、死は人間達の最上の真実な友達という考えにすっかり慣れております。――僕はまだ若いが、恐らく明日はもうこの世にはいまいと考えずに床に這入った事はありませぬ。而も、僕を知っているものは、誰も、僕が付き合いの上で、陰気だとか悲し気だとか言えるものはない筈です。僕はこの幸福を神に感謝しております」(第11章)である。これは分かりやすい文章だ。ところがこの後に続く小林の文章のなんと難解なことか。例えば「ここで語っているのは、もはやモオツァルトという人間ではなく、寧ろ音楽という霊ではあるまいか。・・・彼はこの音楽に固有な時間のうちに、強く迅速に夢み、僕らの日常の時間が、これと逆に進行する様を眺める。・・・・・謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。自然は彼の膚に触れるほど近く、傍に在るが、何事も語りはしない。黙約はすでに成り立っている、自然は、自分の自在な夢の確実な揺籃たる事を止めない、と。・・・彼の音楽は、罪業の思想に浸されぬ一種の輪廻を告げている様に見える。僕らの人生は過ぎて行く。だが何に対して過ぎて行くと言うのか。過ぎて行く者に過ぎて行く物が見えようか。生は、果たして生を知るであろうか」等々難解極まる語句を並べた後、「モオツァルトの言うほうが正しい」と断言して、「やがて音楽の霊は彼を食い殺すであろう、明らかなことである」と自信を持って言い切っている。私が分かる部分は唯一つ「僕らの人生は過ぎて行く」だけだ、トホホ。
 他は何度読んでもよく分からないので諦めるけど、ひとつはっきりしているのは、小林が書いているのはヴォルフガングに関することだけだということだ。これでほんとにいいのですか?と私は問いたい。この手紙は、ヴォルフガングが"父レオポルトはもう長くはない"との報を受けて父親に宛てて書いた手紙なのである(小林秀雄は"これは「ドン・ジョヴァンニ」を構想する前に、父親に送った手紙の一節である"としか書いていない。故意か無知かは知らないが"父の容態"には触れてはいないのである)。音楽の手ほどきをしてくれた最愛の父が死のうとしている(実際父はこの一月半後5月28日に亡くなってしまう)、そんな時にヴォルフガングは自分のことしか書かないだろうか。絶対にありえないと私は思う。私だったら馬鹿なりになんとか相手を慰めようと思う。そんな状況を踏まえこれをリライトすると"私は二年来、死は人間にとって最上の友達と思えるようになってきました。だから明日はもうこの世にいないと思っていつも床に入っているのですが、決して暗くなってはいません。私はこんな心境になれたことを神に感謝しています。父さん、私にだってこう考えられるようになったのですから、あなたが同じように考えられないはずはありませんよね。一緒にメイソンで学んだのですから。"とこうなるだろう。彼はやがて死に逝く父の不安な心情を慮って慰めているのである。これは父への思いやりの手紙なのである。だからわざと死を恐れない振りをしているともいえるのである。そんな心優しいモーツァルトを私は大好きだ。この手紙からは、ヴォルフガングの父親思いの優しい真情を読み取ってやるべきではないか、と私は考える。
 だが、天才モーツァルトの性格を我々凡人が分かろうはずはないのも事実。手がかりは残された手紙しかないが、その内容たるや超真面目(風)なものから支離滅裂なものまで様々だ。1778年12月23日、従妹のベーズレに書いた手紙は支離滅裂の典型で、クソくらえ、お尻に封印だ、臀部小銃発射、前からも後ろからも、さよオナラ僕の天使等々、それこそ語呂合わせ、駄洒落、スカトロジーない交ぜ極彩色絵巻物である。また、パリから横に母親の遺体を置いて書いた2通の手紙も有名。父親へはショックを与えまいと未だ危篤状態と書く。もう一方で友人にはもう亡くなったという事実を話し、父親を慰めてくれと書く。父への手紙はそのあと「さて、話題を変えます。こんな悲しい考えはよして希望を持ちましょう」と切り替えて、自分の新作のシンフォニーが大喝采を浴びたことを誇らしげに書いている。この天衣無縫さはまるで彼の音楽における転調のようである。実はモーツアルト、パリでは就職活動など自分のことで手一杯で母アンナ・マリアを放ったらかしにしていたようなのだ。「一日中、ひとりきりで、暗い部屋の中に座っていますが、まるで牢屋にでも入れられているようです。一日中、あの子には会いません」という母から父への手紙が残っている。なんという侘しさ。なんという切なさ。母はこの3ヵ月後には死んでしまうのである。放ったらかしにしていた母が死んで「友よ、僕とともに悲しんでくれ、今日は僕の生涯で最も悲しい日だった」と平然と手紙を書く。そんなに悲しむのならもっと面倒見といてやれよと言いたくなるし、どこまで本気なのか分かったもんじゃない。これを変幻自在なモーツァルトの楽想になぞらえても不思議はなく、だから小林秀雄が危篤の父への手紙に「音楽という霊が語っている」と言っても、そのことに文句を言うつもりはありません。でも私はそんな中になんとかモーツァルトの真情を見たい。
 父親への思いには諸説あって、「幼児期からヨーロッパ中を引きずり回し、息子を利用して金儲けを企んだ父親」をモーツァルトは恨み蔑んでいた、と決め付ける識者もいる。だからモーツァルトは父が死んだ直後に「音楽の冗談」K522を書いた、侮蔑の念をこめて、などと。確かに少年モーツァルトの旅を辿ればそれもありかなとは思う。でも一方で「旅をしない人間は全く哀れな人間です。凡庸な人間は旅をしようとしまいと同じですが、優れた才能の人間は同じ場所にいると駄目になります」と手紙(1778.9.11)にも書いているとおり、ここには自分の才能を開花させてくれた旅、ひいては旅に連れ出してくれた父親への感謝の気持ちは絶対にあるはずだと私は思う。だって、5歳からわが子をヨーロッパ中引き回してくれた親父なんて音楽史上他に一人もいないのだから。小林にはそれが見えない。そりゃそうだろう、別の箇所で「モーツァルトのほとんど愚劣とも評したい生涯」なんていう極度に表面的な記述を無神経にしてしまう人であり、ということは即ち独断的に一つの角度からしか見られない人なのだ。彼はまたこうも書いている。「誰でも自分の眼を通してしか人生を見やしない。自分を一ぺんも疑ったり侮蔑したりした事のない人に、どうして人生を疑ったり侮蔑したりする事ができただろうか」(第9章)と。私はこれを彼にそのまま返してやりたい。「小林秀雄は自分の眼を通してしかモーツァルトの手紙を読んでいない。他人に対して一っぺんも思いやりをもったことのない人に、どうしてモーツァルトの思いやりが分かるだろうか」と。これはちょっと言いすぎか?だけどまあ、人はいくらもっともらしいことを言っても言葉の端々に本音は出ちゃうものなのです。だから青山二郎に「お前の批評は、お魚を釣るのではなく、釣る手付きを見せるだけ、だからお前さんには才能がない」と言われちゃう。天才には小林の"本質の見えなさ加減"が分かるのだ。思いやりに欠ける高飛車人間には物事の本質が見えていないことを彼はお見通しなのである。青山のことを小林は「僕たちは秀才だがあいつだけは天才だ」と評したというが、天才はその通りだから間違いないが、自分で自分のことを秀才って言うのはどうでしょうか。それは人様が言ってくれることなんじゃないですか。 小林秀雄の「モオツァルト」ってそんなに傑作なのですか?

 今我々はインターネットを見ればモーツァルトの全ての楽譜が閲覧でき、最新のメディアはモーツァルトが書いたほとんど全ての楽曲を高品質の音で映像で提供してくれる。コンサートは数知れず、海外にだってすぐ飛んで行ける。「モオツァルト」が書かれたのは昭和21年終戦直後のことだ。情報の質も量も現在とは雲泥の差があった。小林秀雄はモーツァルトの音楽をほとんど78回転SPレコードで聴くしかなかったし、情報はすべて洋書から得るしかなかったろう。そんな時代に彼はこれだけのものを書いたのである。これは間違いなく小林秀雄の才能の証明であり、当時の人々がこの難解で傲慢な文体による西洋の叡智を散りばめた作品に驚嘆したのは当然のことだった。「モオツァルト」はまさに奇跡の作品だったのである。だからと言って、分からないものは分からないし、違うと思うことを違うと言っていけないわけがない。先生が生きていたら是非訊いてみたいと思った。特に「流行歌が低劣」と「チャイコフスキーの堕落」の件については。感情が昂ぶっての非礼は夏の暑さのせいとお許しいただきたい。
2008.08.25 (月)  真夏の夜の支離滅裂――小林秀雄を斬る 1
 とにかく暑い。こう暑くっちゃ私の頭も沸騰しちゃってる。こんなときはなにも考えずに徒然なるままに書くしかない。ターゲットは権威。スタイルは支離滅裂書きっぱなし。暴走したら暑さのせいにしちゃいましょう。これできっと気分爽快。暑さもブッ飛ぶ。俺たち凡人、普段は気ィ遣いまくって生きてんだからたまにゃこういうのも許されるんじゃないかしら。さあ、タブーに挑戦だ。
 権威といえば評論の神様といわれた小林秀雄(1902−1983)。日本の夏はお盆だとか終戦記念日があるせいか昔を思い出したくなったりするもんで、久々に彼の名著といわれる「モオツァルト」ってのを読み返してみた。音楽評論の古典的傑作なんか言っちゃって誰もこの本の悪口言ってるの聞いたことないので私がやってやろうと思ってさ。読むたびに思うのはこんな難しい文章、皆ほんとに分かってんのかなって事。私は正直言ってよく分かりません。先生の言い回しが。例えば第9章にこんなところがある。「モオツァルトの孤独は、彼の深い無邪気さが、その上に坐るある充実した確かな物であった。彼は両親の留守に遊んでいる子供の様に孤独であった」。なんじゃこりゃ!よく分からんけれど馬鹿な頭ひねってリライトしてみると"モーツァルトの孤独の上には深い無邪気さが坐っている。だから充実した確かなものだ。しかもその孤独は両親が留守のときに遊んでいる子供のそれだからそれほど深刻なもんじゃない"ということになりますか。と言っても、"無邪気さが坐っている孤独"がどうして"確かな充実したもの"なのかということがサッパリ分からん、何百回読んでもね。こんな難解な文章ワザワザ書いといてなにが言いたいかってえと「モーツァルトの孤独」か?他人の孤独がなんたるかなんて分かるのですかね、実際のところ。
 この少し前ではこうも決め付けてる。「成る程、モオツァルトには、心の底を吐露するような友は一人もなかったのは確かだろうが、若し、心の底などというものが、そもそもモオツァルトになかったとしたら、どういうことになるか」。これは失礼な言い方だぜ。人に心の底はあるよ、他人には分からないだけで。別のところで「モオツァルトは人に心の奥底は決して覗かせなかった」とあるが、"奥底"って言ってるではありませんか。これは矛盾してます。しかもそんな友人はいなかったって?当たり前だろうが。心の奥底を吐露する友人なんていないほうが普通だって。"奥底"だよ、こんなもん自分だって分かりゃしないんだから。分りもしない単語を無神経に使うんじゃないって。でもかなり仲良しなのはいたと思う。その名はクラリネットの名手シュタードラー。モーツァルト晩年の貧乏は博打だったっていう説もあるが、カモにして一人で巻き上げてたのがシュタードラーだったって言われている。負けても負けてもまた出かけて行ってさ。失いたくなかったんだよ彼をきっと。孤独を癒すためだったかどうか私には分からないけれど淋しがりやには違いない。「モオツァルトの孤独は、彼の深い無邪気さが、その上に坐る・・・」なんて訳の分からんこと言ってないで"淋しがりやだった"って素直に書いてくれれば、俺たち凡人にもよく分かると思うけどな。それでもってこの悪友に名作「クラリネット協奏曲」を書いてやってる。借金のかただったのかもしれないけど、それでもいいじゃないですか。泣けてくるようなこの関係、悪友だけど親友だったと思う。これこそ私は"高級な友情"だと思うけどな。先生と青山二郎の間柄とはかなり違うけどね。
 あと「不器用さは隠すという事ではあるまい」もよく分からないフレーズだ。これは「モーツァルトが残した手紙が、心の底を吐露するような友人がいたとしても、その内容が変わることはない。彼は、手紙の中で、恐らく何一つ隠してはいまい」に続く部分なのだ。"彼は不器用だから心の内を隠すことが出来ない。これでいいのだ"(違うのかな?)みたいに書いてくれれば分かりやすいんだけどな。ここでもまたこの人モーツァルトの心の奥底が分かってるって言ってる、何一つ隠してないことが分かるんだから。ほんと、こういう偉い人には分かるのかなあ。でもまあいいか"恐らく"って形容詞付けてるんで。
 極めつけはこれ、「モオツァルトの音楽に夢中になっていたあの頃、僕には既に何もかも解っていなかったのか。若しそうでなければ、今でもまだ何一つ知らずにいるという事になる。どちらかである。」(第2章の終盤)これは禅問答か? これこそ私の頭では理解の限度を超えている。でも無理して解釈してみよう・・・"あの頃は若くてほとんど何も解ってはいなかったのだろうか。若し解っていたのなら、今でも何一つ解ってないということだ。どちらかだ"・・・やっぱり無理だ。なんとか辻褄が合うのは最初のセンテンスだけであとは全く意味不明。仮に「既に」が"未だ"で「そうでなければ」が"そうであれば"なら意味は通る・・・"あの頃は若くてほとんど何も解ってはいなかったのだろう(か)。もしそうであるならば、今でもまだ何一つ解っていない事になる。どちらかである。"・・・とまあこうなるので。でもこんな当たり前の文章を評論の神様が書くはずないよな。それより「どちらかである」がどうしても解りません。"どちらか"と言ってるのだからAとB二つの対象がなければいけないのだが、なにがAでなにがBなのか?ああ、私の頭は壊れそう。皆様解ったら教えてください。
 さらに先生の決め付けを一つ。妻の妹が「彼はいつも機嫌がよかった。仕事をしながら、全く他の事に気をとられているていで、刺すような目付きでじっと眼を据えていながら、どんな事にも彼の口はきちんと応答するのである。食卓につくと、ナプキンの端をつかみ、ギリギリ捻って、鼻の下を行ったり来たりさせるのだが、考え事をしているから、当人は何をしているか解ってない様子。そんな事をしながら、さも人を馬鹿にしたようなことを言う。」と述懐していることと、妻の姉の旦那ランゲの「彼はどう見ても大人物とは見えなかったが、特に大事な仕事に没頭しているときの言行はひどいものであった。あらゆる種類の冗談を言う。ふざけた無作法な態度をする。」という二つの話に、モオツァルトの伝記は要約されると思われる(第7章)・・・と先生は言っちゃってる。身内の言ってる話だから間違いないだろうし(ランゲには複雑な思いはあるけれど)、モーツァルトの性格や言行がうかがい知れるのは事実。これはいいとして、"伝記はこの二つに要約される"はあんまりじゃないですか。これじゃモーツァルトは"別のことをしながら作曲できちゃう天才だが、いつも落ち着かなくて馬鹿な冗談ばかり言っている無作法な小物"ということで終わっちゃう。先生は彼の義理堅さを見落としてるぜ。それは亡くなった年の作品を観察すればすぐ分かるのに。死期が迫るのを感じて「レクイエム」の完成を急いでいたのは誰でも知ってるし、金にもなるから妻のコンスタンツェも必死に書かせたろうからそれは置いといて・・・「アヴェ・ヴェルム・コルプス」はどうだ?これは妻がお世話になっている湯治場の合唱長に前から頼まれていたものだったし、「魔笛」なんかタダ同然インセンティブなしで旧知のしがねえ旅の一座からの依頼で書いたもの、あとは前出「クラリネット協奏曲」と、ほとんどお金にならない義理果たしのお仕事ばかり。極めつけは「ホルン協奏曲第1番」だ。モーツァルトにはもうひとりロイトゲプというホルン名人の親友がいた。24歳年上で人のいいオッサン。死ぬまで行き来していたことは手紙を読めば分かる(モーツァルトもこの人には"心の底"を打ち明けていたと思うけど、これは置いといて)。彼が何も催促しないから忘れちゃってたけれど、そういえば作りかけの「ホルン協奏曲」があったことをモーツァルトは思い出す。もう死期は迫っている。本当は一刻でも早く「レクイエム」を仕上げなきゃいけない時に、彼はロイトゲプに書いてやるのですな、一銭にもならないコンチェルトの続きを。ほんと彼は義理堅い。そんなモーツァルト私は大好きです。でも完成せずに死んでしまう。モーツァルトの遺作は「レクイエム」の他にもう一曲あったのですよ。でもどうして遺作が「第1番」なの?「ホルン協奏曲」は4曲あるのに、と思われるでしょうね。これはケッヘルのいい加減な考証の産物(この部分に関してはです。トータルでの彼の功績は計り知れないものがあります)。その後の研究から、彼がつけた番号を作曲年代順に並べると2,4,3,1となるのです。このあたりはまた別の機会に。
 「もう二十年も昔のことを、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていたとき、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」という超有名な描写がある。これはいいです別に、こんなことは誰にだってあることだから、鳴る曲が違うだけで。問題はその少しあと「注意して置きたいが、丁度その頃は、大阪の街は、ネオンサインとジャズとで充満し、低劣な流行小歌は、電波のように夜空を走り、放蕩児の若い肉体の弱点という弱点を刺戟して、僕は断腸の思いがしていたのである」という部分である。邪悪な音楽が流れている雑踏の中で、啓示のようにモーツァルトが鳴ったって言いたんでしょ。"注意してお置きたいが"だと、偉そうに。だがこれはまあ許しておこう。次、"ネオンサインとジャズとで充満し、放蕩児の若き肉体の弱点を刺戟して、僕は断腸の思いがしていた"これもどうぞご勝手にだ。だが、絶対に許せないのは"低劣な流行小唄"という文言だよ。当時の流行歌にはどんなものがあったのか、昭和の初めだとすると「出船の港」「君恋し」「波浮の港」あたりだろうか。曲はなんでもいいか。とにかく流行歌を見下してなんの心の痛みも感じずに平然と"低劣な"と決め付ける態度は断じて許すことは出来ないぜ。夜の巷でおじさんたちはこれらを聞いて安酒飲んで憂さ晴らして明日もがんばるかなんか言って精一杯生きていたんだよ。それをなんだ低劣とは!物事を形式的に見下すんじゃないって。先入観で決め付けるんじゃないって。そういうのを無神経って言うんだよ。あんたみたいな輩にモーツァルトが分かってたまるか。モーツァルトの悲しさが分かってたまるか。ふざけんなっちゅーの、この俗物オヤジが。ト短調だと?お高くとまってんじゃねえ。調子こいてんじゃねえっつーの。もう一度言う。あんたなんかにモーツァルトは分からない。分かったなんて言わせない。

 小林秀雄の名著「モオツァルト」はこのように難解で、たまに分かれば腹が立つ、私にはストレス一杯の迷著です。これだけではまだ晴れないので次回もう一回お付き合い下さい。
2008.08.11 (月)  二つのバイロイトの第九――そのエピローグ
(1)平林説への反論
 「レコード芸術」最新号(2008年8月号)新譜交響曲月評欄で、ORFEO国内盤「バイロイトの第九」に関し宇野功芳氏が「とにかく今のままでは、みなが奥歯にものがはさまったような気持を持ちつづけなければならない」と現況を憂うる発言をしているが、私が気になったのは「解説書執筆の平林君は、このバイエルン盤(センター盤)こそリハーサルではないかと書いている」という文言のほうだった。なんと私と同じ意見ではないか。早速ORFEO国内盤をキングレコードの友人に手配してもらい平林直哉氏の解説を読んでみた。「この件に関し、レコード芸術2007年9月号では4氏の意見が掲載されるという異常事態となったが、金子健志氏は『センター盤』リハーサル説、他の3氏は本番説である。私は金子氏を支持する」というものであった。全く同じ音源(楽章間の音の有無という違いはあるが)の二つのCDのうち、フルトヴェングラー・センター頒布CDの解説は一貫して「センター盤」本番説で、ORFEO盤は「EMI盤」本番説で書かれている。同じ音源に真っ向違う二つの解説。これももう一つの異常事態といえるのかもしれない。平林氏説の根拠はセンター盤の「不足する高揚感」であり、「なんとなく軽く流している」という印象だったという。平林氏の感覚は正しいと私も思う。しかし、この表現はどうみても情緒的に過ぎはしないか。これでは感動の手記を寄せている多くのセンター会員を納得させることはできないのではないか。彼らの投稿を会報から数点ピックアップしてみよう。

・「WFHC-013(センター盤のCD番号)試聴しました。聴き慣れたEMI録音とは確かに違うところは多いです。終楽章コーダの最後のところ、本番は全く乱れなくピシッと決まっており、やはり本番演奏のほうが一貫性があってよいです」
・「『第九』試聴しました。終楽章のクライマックスはちゃんとオケは音を決めているではないですか!宇野功芳氏評論で"あまりの加速にオーケストラはついてきていない"という主旨のくだりがありましたが、これも書き換えなければなりません」
・「本物の『バイロイト』聴いています。残念ながら第3楽章のホルン・ソロ前の木管は音程は同じでしたが(真夏のホルンは本当に大変)、楽章全体を通してみればこちらが断然優れている。4楽章の合唱の合いの手が遅れないのが本当に衝撃的!!ライブはやはり編集してはだめなのですね」
・「バイロイトの本物の第九の録音驚きました。3回続けて聴いたのですが、3回目には驚きから開放されて感動し涙が止まらなくなりました。この録音こそ音の世界遺産にふさわしいと思います」

 お読みになってお分かりのように会員の皆様の投稿はおしなべて、「センター盤」こそが本番音源で、聴きなれた「EMI盤」と較べると@終楽章のコーダの最後が乱れないA第3楽章も全体的にこちらのほうが優れているB第4楽章の合奏の合いの手が遅れていない・・・など、演奏的にもセンター盤が断然優れている、という論旨で貫かれている。現場に居合わせなかった彼らは、会報を読みセンター盤CD解説を読んで"「センター盤」本番説"に洗脳されているわけであるから、待ちに待った"本番演奏"の「センター盤」を聞けば、一聴して違う「EMI盤」への疑惑は深まるに決まっている。そんな「センター盤」を聞いて感動している会員の方々にとって、「なんとなく軽く流している」とは何事かということになろう。気分で判断しないでくれと言われるだろう。物事を決め付けるときは情緒的であってはならない。「私はそうは感じません」と言われたら議論はそこで終わってしまうからである。
 それよりも彼らの投稿を読んで改めて確認できたのは、前回私が示した「EMI盤」3つの破綻部分は"聞いた誰もが直ちに分かるほど大きな瑕疵部分なのだ"ということであった。1951年7月29日バイロイト祝祭劇場にいた人が「EMI盤」を聞いて、もし実体験したライブと違っていたならば、それはたちどころに感知されてしまうだろうということだ。逆に彼らが「センター盤」を聞けば「これは本番演奏とは違う」と即座に言い放つことになるだろう。

 平林氏はさらに続ける。「『センター盤』の解説では、"vor Gott"フェルマータ末尾のクレッシェンドはEMIの制作者がつけ加えたものとしているが、私はこれはあり得ないと思う。オーケストラ曲で長く伸ばして終わるときには、大なり小なり瞬間的にクレッシェンドして終わることが多いからだ。だから『センター盤』のリハーサルでは軽く流し本番の『EMI盤』ではクレッシェンドしたと考えても不自然ではない」としている。サウンド的な考証を全くせずに"ありえないと思う"とは、ここも情緒的に過ぎる。示された根拠と推論になんら客観性がなくそれこそありえない。平林氏はさらに「センター顧問桧山浩介氏が、フルトヴェングラーの他の《第九》録音にこのクレッシェンドの例が認められないことを"『EMI盤』の人為的操作"の根拠としているが、演奏の一回性を考慮すると、このクレッシェンドは操作ナシのものと考えてもおかしくないはずだ」と続けているが、わたしは"バイロイト以外ではやっていないから"とする桧山説のほうが"一回性のものだから"とおっしゃる平林説よりよっぽど科学的で説得力があると思うがいかがだろうか(この件に関しては)。

(2)平林林説への賛同
 「『EMI盤』がライブとリハーサルのミックス盤と指摘する声は多いのに、具体的にどの部分にハサミを入れたのかの記述が見あたらないのは疑問だ」とのご指摘には私も全く同感である。"ハサミを入れている"とおっしゃる皆さんには是非具体的な箇所を指摘して欲しい。桧山氏もレコーディング・プロデューサー井阪氏もしかりだ。とはいえ、ツギハギ箇所が判明したところで、耳の穴をかっぽじってって聞かなければ分からないような微小なものだったらそれがレコードにとって一体何だというのだろうか!犯罪行為とでも言うのだろうか。そもそもレコードなんてそんなものではないのか。「センター盤」にだって、第4楽章「歓喜の歌」のテーマ直前、例のフルヴェンの「間」部分に明らかな音量アップの痕跡があるではないか。「EMI盤」については、素人の私には今のところ第2楽章2分50秒部分がもしかしたらツナギかなと思える程度で、その他は全く認知できていない。アラ探しすべく真剣に聞けばまだ見つかるかもしれないが、意味がないのでやらないだけのはなしである。
 平林氏はこのあと「EMI初期LP」にまつわる英文解説のくだりへと進む。「アメリカ初出しLPの解説には、この演奏はハイファイ録音ではなかったのでこれまで発売されることはなかったと記されている。この文章では詳しい経緯は不明であるものの、当時、いかにも試験的に収録したような雰囲気が感じられる。つまりこのEMI音源は収録後に試聴し、すぐにNGになったのではなかろうか。そう考えると、この『EMI盤』こそ全くの手つかずのライブであるのかもしれない」。この実証性は素晴らしい。確かな物証から見事な推論を引き出している。ここは流石盤鬼平林である。
 彼が言うように、「センター盤」の音源はいかなる理由で収録保管されたものなのかなど不明な点はまだ多少残ってはいる。その他にも例えば、「センター盤」本番説の宇野先生が「リハーサルでは出遅れていた合唱の合いの手は、本番の「センター盤」では、指揮者の足踏み音らしき合図によってちゃんと出ている」というレコ芸最新号でのご指摘もきちんと検証する必要があるだろう(私は全く逆の見解であるが)。またネット上には、両盤の咳の有無を克明に照合しているレポートがあったりして、さすがマニアは凄いなと思う。これらの状況を見れば、「この問題はまだまだ始まったばかり」とか「議論はまだまだ続きそう」とする見解もむべなるかなと思わせる。しかしこれらの未解決事項は枝葉であって幹ではない。枝葉のことはマニアの方々にお任せしようと思う。また納得できずにどうしても真贋を確かめたいという人は、懸命になって当日会場にいた人を探し出せばいいのである。私がそうしないのは私の中ではすでに結論が出ているからだ。「EMI盤」こそ1951年7月29日「バイロイトの第九」本番のあまり厚化粧でない素顔の音源である。理由はこれまで述べてきたとおりである。

 以上で「バイロイトの第九」は終わりにします。最後に、様々な資料を提供してくださった尚美学園大学の檜山准教授、キングレコードの原口さん、この時期ちょうどバイロイトにいて有力な情報をくださった門多丈さん、音楽評論家の長谷川勝英さんには本当にお世話になりました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。
 さて今回はついでに「第九」に纏わる私の"思いつき"を一つ書かせていただきたいと思います。これはあるときふと閃いたもので、実証すべくそのあと色々トライしたのですが結局出来なかったものです。だから思いつきどまりなのですが、私の勘では絶対に間違いないと思っている事柄なのです。おそらくこれは世界初の見解でしょう。今まで誰も言っているのを聞いたことがありませんから。さて、皆さんはどう思われるでしょうか。真夏の夜の暇つぶしにしばしお付き合いください。

(3)ラヴェルは「第九」をヒントにして名作「ボレロ」を作曲した?
 フランス近代を代表する作曲家モーリス・ラヴェル(1875−1937)はバレエ音楽を5曲書いており、かの有名な「ボレロ」はその最後の作品です。ご存知のようにこの曲は、16小節づつの2つのメロディーが終始変奏も転調もされずに同じテンポで9回くりかえされ、変化するのは楽器の組み合わせと音のダイナミクスのみという音楽です。フルートのピアニッシモで始まりクラリネット、ファゴット、サキソフォーンなどに受け継がれ組み合わされクレッシェンドされて最後にはオーケストラ全奏のフォルテシモで終わるという構造です。
 1928年11月、パリ・オペラ座で初演されて以来、「ボレロ」は"その構造"によって史上類を見ない斬新で革命的な作品とされ、その色彩的なオーケストレーションの魅力とも相まって、ラヴェルの代表作として人々に親しまれています。
 だが待てよ!と私は思うのです。多くの人々に親しまれている名曲ということに異を唱えるつもりはありませんが、果たして本当に"史上類を見ない"曲なのでしょうか。「同じメロディーを、テンポもリズムも音形も変えず、数回反復する。変わるのは楽器の組み合わせと音量だけ。ピアニシモから始まってフォルテシモで終わる」、こんな曲どこかで聞いたことがありませんか?

 1928年のある日、舞踊家イダ・リュビンスタイン夫人が、自分が踊るバレエ曲として、アルベニスの「イベリア」の編曲をラヴェルに委嘱してきましたが、別の作曲家がすでに行っていることがわかり、オリジナルを作ることにしました。ところが構想の段階で、予定されていたアメリカ演奏旅行の時期がやってきてしまう。ラヴェルはそのままアメリカに行って演奏旅行を行い大成功を収めます。注文の曲は帰国した6月から10月にかけてやっと完成させました。「ボレロ」の誕生です。注文を受けてからアメリカ演奏旅行に行き帰国してからしばらくして完成したわけですが、この間なかなか手がかりがつかめなかったラヴェルはかなり悩み焦っていたはずです。
 ところが或る時フッと閃いた。それが「第九」だったのではないか・・・というのが私の考えです。ラヴェルはアメリカで実際に「第九」を聞いたのか、往き帰りの船の上で閃いたのか、それとも帰国して作曲に専念したサンジャンドリュツでだったのか・・・それは分かりませんが、思索するラヴェルに"「第九」の様式"という天啓が突然閃いたのは間違いないと思うのです。

 では「第九」のどの部分が閃いたのでしょうか。それは「第九」の終楽章、オーケストラが歓喜のテーマを奏で始める93小節目から188小節にかけての96小節です。この部分をおさらいしてみましょう。まず最初のワン・コーラスは低弦だけで演奏されます、つづく2コーラス目でヴィオラとファゴットが加わり、3コーラス目にはさらにヴァイオリンが加わって後半クレッシェンドをしながら4コーラス目につながり、最後はオーケストラの力強い全奏で終わります。1コーラスはきっちり24小節づつの合計96小節、この間リズムもテンポも全く変わらずに、音量がピアノからフォルテに増幅されて同じメロディーをくりかえす。「第九」は4回、「ボレロ」は9回と回数は違いますが手法は全く一緒ではありませんか。
 ラヴェルの手記等を読んでみても「ボレロ」は「第九」を参考にしたなどという記述はどこにも見当たりません。芸術家は種明かしはしたがらないものだし、ラヴェルの心の中で起こったことゆえこれは永遠に証明されることはないでしょう。でも私は確信を持って断言できます。"ラヴェルは「第九」をヒントにして「ボレロ」を作った"と。
 基本的には同じ構造の「ボレロ」と「第九」ですが二つの違いがあります。もしかして、その部分も「第九」に因んでいるのではないかと私は思っています。その1、「第九」は一つのテーマの繰り返しですが「ボレロ」は2つの旋律を持っています。これは「第九」の第3楽章と同じではないかと思うのです。第3楽章は変奏曲形式です。普通変奏曲のテーマは一つと相場は決まっていますが、ベートーヴェンは「第九」第3楽章に二つのテーマを用いました。ラヴェルが「ボレロ」を2メロディースタイルにしたのは第3楽章がヒントだったのではないか? その2、「第九」は曲途中ですが、「ボレロ」は単一楽曲なので終わらせなければなりません。そのため終結部が付いています。その終結部はまるで何かが爆発するように不協和音的に転調して終わるのですが、この響き、「第九」終楽章冒頭のザワザワした不協和音的響きとコーダの狂騒的アッチェランドに通じているように思えるのです。これほどまでに「ボレロ」と「第九」は似通っている。もしかしたら基本構造だけではなく様々なアイディアを「第九」から拝借して名曲「ボレロ」を創り出したのかもしれません。
 音楽は歴史とともに流れています。互いに関連しあいながら次の時代に引き継がれてゆきます。名曲は名曲を生み、名曲と名曲は見えない糸で繋がっているのです。そのような見えない糸を自分なりに探しだすのもクラシック音楽の楽しみのひとつなのではないでしょうか。「想像に過ぎないよ」と言われようとも。
2008.08.04 (月)  二つのバイロイトの第九――その2
(1)センター盤「バイロイトの第九」
 「フルトヴェングラー・センター」は世紀の大指揮者ウィルヘルム・フルトヴェングラーの芸術を愛する人たちで構成された日本におけるオフィシャルな会員組織である(フルトヴェングラー未亡人が名誉会長)。ここにその会長である中村政行氏がレコード芸術2007年9月号に寄せた手記がある。中村氏はその中で、「1951年7月29日『バイロイトの第九』を放送したバイエルン放送局に、本公演そのものを収録したテープが存在していた。これを確認した当センターは、幾多の交渉の末にこの音源のCD化許諾を受け会員内頒布を可能とした。演奏はこれまで唯一とされてきた『EMI盤』とは明らかに違っており、バイロイト音楽祭の記念碑的な再開にふさわしくフルトヴェングラーの第九演奏史の中でも最上のものである」と述べている。そして最後に「原テープの箱には"1951年バイロイト音楽祭再開公演の記録、録音日29.7.51"と明記されている。また、箱の別の箇所には"たとえ部分的にでも放送に使用することは禁止"という文言がある」と記述している。"放送使用禁止"の意味は謎としながら、最終的に、これこそ「バイロイトの第九」本公演の真正ライブ音源であると結論している。さらに「ありがたいことに、楽章間も一部録音されており、第3楽章開始前に歌手たちの入場する足音が聞こえる」という、これも「センター盤」が本番ライブ音源の証であるとする文言があるが、本文においてこれが真相解明のキイポイントとなるのでしっかりとご記憶願いたい。
 同じくレコード芸術9月号にはセンター顧問・桧山浩介氏の文章が掲載されている。これは中村氏の見解を前提として2つの盤の相違点がより細かく述べられており、「センター盤」こそ本番音源であると確信を持って言い切っている。「一聴して別演奏なのは明らかで、『EMI盤』にある第4楽章合唱の出の不揃いは『センター盤』にはない。『EMI盤』の、理解に苦しむダイナミックレンジの変動("vor Gott"部分)、歴然としたテープ編集の痕跡(筆者註:具体的には示されていない)、演奏後の拍手が英盤系と独盤系で違うこと、などから『EMI盤』は本公演とリハーサル・テープをない交ぜにしたハイブリット盤であると考えられる。バイロイト音楽祭の戦後復興の持つ意味、そして何よりもフルトヴェングラー自身がこの再開のステージで全霊をこめたであろう全世界に向けたメッセージ、これらの全てが最高度に凝縮されたのが『バイロイトの第九』であり、その真の姿を伝えるものが他ならぬ『センター盤』だといえる。今後『センター盤』が『バイロイトの第九』を指す、という点では大方の同意が得られるものと確信する次第だ」と述べている。
 さらに硬派のクラシック専門誌「クラシックジャーナル027号」に山崎浩太郎氏のCD評がある。ここには「『センター盤』は、第3楽章の第3小節目で出る第1ヴァイオリンが早く出てしまうが、『EMI盤』は正しく出ている。第4楽章の"vor Gott"の最後に『EMI盤』はクレッシェンドがかかるなどから、『EMI盤』は当日の本番そのままではなくリハーサルなど別音源を挿入編集した"お化粧盤"だと考えられる」とある。

 以上3つの文章は"「センター盤」こそ本番音源である"という前提で書かれている。「だからこれと明らかに違う『EMI盤』は噂どおりのハイブリッド盤だった。ほら聞いてごらん、この部分は同じだけどあの部分は明らかに違うでしょ」そんな「EMI盤」のあら捜し的様相を呈しているのである。悲しきかな「EMI盤」である。だが果たしてそうなのだろうか?
 センター側の論理は、「『センター盤』こそバイエルン放送が実際に放送に使った本番ライブの音源である。なぜなら発見されたテープには<1951年バイロイト音楽祭再開公演の記録、録音日7月29日>と明記されているからである」という固定観念から出発している。センター盤CDの解説書には、このテープの存在を突き止めたバイエルン州立管のチェリスト、バイエルン放送のアーカイブ担当者、フルトヴェングラー・センター会長3氏の文章が載っている。全て「センター盤」こそ本番ライブで「EMI盤」は噂どおりの"お化粧盤"という論理で一貫している。これらの文章を読んだ人は十中八九これこそ本番ライブ音源であると洗脳されてしまうだろう(実は私もそうでした)。ただしバイエルン放送アーカイブに眠っていた音源は、1951年7月29日の当日生中継された本番音源だという確証はどこにもないし、このお三方はその日バイロイト祝祭劇場の現場にいたわけではなく、そのラジオ中継を聞いたわけでもないのだ。
 彼らの根拠は、バイエルン放送が「バイロイトの第九」演奏を中継したという事実と「テープに記載された文言」の二つである。しかも同じ箱に書いてある"放送使用禁止"という文言は不問に付している。ここは、ラベルの文言の信びょう性を確かめるべくもっと突っ込むべきではなかったか。字面だけで既存の価値観を根底から変えようというのはいささか安易過ぎはしないか。これは歴史に対して失礼といわざるを得ない。ならば私がこの「センター盤こそ本番音源である」という彼らの主張を徹底的に覆してやろうと思うのである。以下はその証明であるが、これにはレコード芸術9月号金子健志氏の寄稿文「バイロイトの《第9》新発見が投げかけた新たな疑問」が大いに参考となったことをお断りしておきたい。

(2)どちらが「本番」なのか
 本番ライブ音源か否かを決定づける方法は一つしかない。それは、1951年7月29日午後8時から2時間ほどの間、ドイツ、バイエルン州バイロイトにあるバイロイト祝祭劇場で、ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮:バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団、エリーザベト・シュワルツコップ(ソプラノ)、エリーザベト・ヘンゲン(アルト)、ハンス・ホップ(テノール)、オットー・エーデルマン(バス)歌唱による、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲:交響曲第9番ニ短調「合唱」演奏の場に居合わせた人若しくは演奏者当人に、「EMI盤」と「センター盤」を聴いてもらい、どちらがその日のライブ演奏なのかを判定してもらうことである。二つの音源が似通っているならともかく、「EMI盤」には歴然たる破綻部分が少なくとも3箇所はあって、「センター盤」との識別がいたって容易であるため、一つくらいは確実に照合できるはずである。ここでその「EMI盤」の破綻部分を確認しておこう。

@ 第4楽章コーダの最後で、オーケストラが加速する指揮者のテンポについてゆけず、アンサンブルを乱しヨレヨレになって着地する
A 第3楽章83小節―98小節のホルンが素人みたいにメロメロに乱れている
B 第4楽章、バリトンに呼応して出る合唱の歌い出し"Freude"が完全に遅れをとっている

 当日その場に居合わせた人や演奏者当人を、直ちにこの場に引っ張り出すことは不可能なので、"彼らが「EMI盤」を聞いたらどう反応するか"を推測することで証明に代えたいと思う。
 「EMI盤」は1955年に全世界でレコード発売された。この記念碑的演奏会に参加したほとんどの演奏者や聴衆は間違いなくこのレコードに関心があるはずである。そのうちの大多数の人がこの「EMI盤」を聞いただろうことは疑問の余地がない。ライブからまだ4年しか経っていないのだから記憶が薄れることもないだろう。もし3箇所共破綻のない「センター盤」が本番ライブ音源だとしたならば、発売された「EMI盤」を聞いた参加者はどういう反応を示すだろうか。
 曰く、@終楽章最後のこのメチャクチャな乱れ方はなんだ!A第3楽章のホルンの外しかたはまるでど素人みたいだB合唱の歌い出し"Freude"の出遅れはどうしちゃったの・・・それが演奏者だったら「俺たちは本番でこんな風に演っちゃいない」、聴衆だったら「あの時の演奏はこんなひどいもんじゃなかった」と言うだろう。3箇所全部でなくとも、少なくとも1箇所くらいは間違いなく覚えているはずだ。バイロイト祝祭劇場のキャパは1925人である。ならばその時には間違いなく2000人を超える人々がいたのである。その上これはそんじょそこらのライブではない。なんといったって「EMI盤」は世界の音楽ファンが待ち望んだ記念碑的演奏会のレコーディングなのである。録音を遺さずに亡くなってしまったと思われていたフルヴェン・ファンが待ちに待った「第九」なのである。年月を経てもその評価は落ちるどころか止まることを知らない名盤なのである。いわばレコード史上に煌めく唯一無二の金字塔なのである。そんな誰もが知っている誰もが関心のある「EMI盤」が、もしも実際のライブ演奏と違っていたとしたならば、これまでに各方面から糾弾の声が挙がっていなければおかしいのである。「EMI盤」が瑕疵だらけのものだけに。

(3)怪物ウォルター・レッグは何をしたのか
 ウォルター・レッグはクラシック・レコード界に現れた真の意味で最初のレコーディング・プロデューサーである。それまでは単なる現場の立会人でしかなかったその地位を一変させた人物である。演奏は出来なくとも音楽の何たるかを分かっていた彼は、所属レコード会社EMIの中心的プロデューサーとして腕を振るった。音楽に対する鋭い洞察力と自信から生まれる押しの強さはかのトスカニーニの信頼を獲得するほどだった。彼がプロデュースしたシュナーベルのベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集、カザルスのJ.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全曲、E・フィッシャーのJ.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集全曲、ギーゼキングのモーツァルト・ピアノ音楽全集、フルトヴェングラーのベートーヴェン、ワーグナー、ブラームス、クレンペラー晩年のセッション、マリア・カラス、クライスラー、ディヌ・リパッティなどのレコーディングは、現在も不滅の名盤としてその価値を失ってはいない。特にカラヤンとの親交は厚く、ナチス党員だったカラヤンが戦後ヨーロッパ全土で演奏活動ができなかった時期に、自ら創設したフィルハーモニア管弦楽団をあてがって幾多のレコーディング機会を提供している。因みに名ソプラノ、エリーザベト・シュワルツコップは彼の奥さんである。
 そんなレッグ率いるEMIレコーディング・チームがこの「バイロイトの第九」をレコーディングし、その4年後にレコード発売したのである。この過程を制作者の心理面から考察してみる。つまりEMIレッグ・チームが複数の音源を持っており、つぎはぎして"お化粧盤"を作ると仮定する。そこに「本番音源」と「リハーサル音源」があるとする。ファースト・チョイスは"破綻のない本番音源"に決まっている。次は"破綻した本番音源"と"破綻のないリハーサル音源"が同列で、絶対にチョイスしないのは"破綻したリハーサル音源"ということになるだろう。では、実際の破綻部分@オーケストラがヨレヨレになって着地する第4楽章コーダの最後をつぎはぎするとしよう。もし破綻のない「センター音源」が本番音源で、ヨレヨレの「EMI音源」がリハーサルのものだとしたなら、プロデューサーはどちらを選ぶだろうか。"破綻のない本番音源"を選ぶに決まっている。実際に選んだのはヨレヨレの音源なのだから、破綻のない「センター音源」は本番音源ではないということになる。レッグは破綻していても本番音源を選んだのである。なぜ"破綻のないリハーサル音源"(「センター音源」)を選ばなかったのか。それはセンター音源を持っていなかったか、やる気がなかったか、技術的に不可能だったか、どんな瑕疵があろうが本番音源を優先すべきというポリシーを持っていたかのいずれかだろう(もしかしたら全部だったかもしれないが)。こんなことを推察してもあまり意味はないと思うが、私は「やる気がなかった説」をとる。
 理由は、レッグはこの演奏を買っていなかった節があるからである。「カラヤンとフルトヴェングラー」(中川右介著、幻冬舎新書)によると、コンサートが終わって楽屋を訪れたレッグはフルトヴェングラーに向かって「よい演奏でしたが、期待したほどではありませんでした」と言ったという。巨匠に向かって「期待したほどではなかった」とは、当時のレッグの勢いを物語っているが、本心でなければ出るはずもないセリフである。少なくともレッグはこの演奏を気に入ってはいなかった。しかも元々バイロイトはフルトヴェングラー&ウィーン・フィルで進行中だったスタジオ録音の交響曲全集のための試し録りくらいにしか考えていなかったともいわれている。ところが1954年11月指揮者の死によって全集は完成せずに終わってしまう(この時点で録音が終了していたのは1,3−7番の6曲だけである)。「バイロイトの第九」をレコード化しても交響曲全集は完成しないが、ファンの要望に応えてとりあえず出しておこうと考えたのだろう。だからレコーディングから4年、巨匠が亡くなってからは1年もたってやっとリリースされているのだ。発売後こんなに反響を呼ぶとは夢にも思わずに。
 一方カラヤンとの全集は1952年にスタートし順調に完成に向かって進んでいた。そして1955年7月には「第九」がレコーディングされた。演奏はEMIのエース・オケであるフィルハーモニア管弦楽団、独唱者はシュワルツコップ(ソプラノ)、ヘフゲン(アルト)、ヘフリガー(テノール)、エーデルマン(バス)という豪華ライン・アップである。指揮者が死んでしまった「バイロイトの第九」と次代の担い手カラヤン最新録音の「第九」、レッグがどちらの「第九」への思い入れが強かったかなど、言うまでもないことだ。フルトヴェングラーの後を受けてベルリン・フィルの音楽監督になったカラヤンのベルリン・フィルとのレコーディングはドイツ・グラモフォンの権利であるため、EMI専属最高の歌手陣を配して「第九」を含むベートーヴェンの交響曲全集の決定盤を残しておきたいという気持ちも強かったに違いない。いずれにしても心の中は"カラヤン最新録音の第九"で一杯だったろう。これらの状況から、お化粧すべきこの時期に、レッグは「バイロイトの第九」など眼中になかったのではないかと思われる。彼の回想録「レコードうら・おもて」には「バイロイトの第九」に関する記述がほとんどないのもこの裏づけとなろう。そうだとすれば、"「EMI盤」はつぎはぎしたお化粧盤"なぞと巷間いわれるような面倒な作業を彼は本当にしたのだろうか。仮にやったとしても、誰もが一聴して分かるこの破綻箇所@−Bをそのままにしておいて他の部分をお化粧するなどとはとても考えられないのである。これ以上の破綻部分が他にあるとはどうしても思えないのである。それほどこの破綻度合いは大きいのだ。だから私は"「EMI盤」お化粧盤説"にも同意しない。一箇所を除いて。
 その一箇所とは第4楽章330小節目" Gott"のフェルマータ最後尾の急激なクレッシェンドのことである。この部分、トランペットと合唱が同じステップで増幅されているように聞こえる。2つ以上の楽器(声)がクレッシェンドする場合、音量的に同じ度合いで増幅されるケースは稀なのではないか。人間がやることなのだから各々の度合いに微妙な差異がでるほうが自然というものだろう。ところが「EMI盤」のこの部分は、全ての音が同じ度合いで"機械的に"増幅されてゆくように聞こえる。何度聞いてもそう聞こえる。しかも20種類近くあるフルヴェンの「第九」において、この部分にクレッシェンドがかかる演奏例は「EMI盤」を除いて他にはない。したがって、ここはレッグが電気的に処理を施したと考えるのが順当だろう。9.09秒のフェルマータの最後の部分でボリュームつまみを回したとしか考えられないのである。
 「バイロイトの第九」を大して評価せず、つぎはぎ作業も面倒くさがっていた(と思われる)レッグがなぜこんな余計なことをしたのだろうか。謎としか言いようがない。しかもこのクレッシェンドは、事もあろうに発売後、感動的な名演奏の証として語り継がれることになるのである。大御所宇野功芳氏も「"vor Gott"のフェルマータでEMI盤は最後にクレッシェンドをかけるが、これも僕は好きだ」と述べておられるし、金子建志氏は高校生のときに聞いたこの部分を「"vor Gott"の永遠に続くとかとも思えるフェルマータは衝撃的だった」と忘れえぬ印象として語っている。罪作りなるかなレッグである。成長した金子健志氏はレコード芸術2007年10月号でこう書いている「『EMI盤』330小節フェルマータ部分をパソコン操作などでクレッシェンドの電気付加的成分を取り除いたとしても、トランペットの強靭な吹奏を軸とした光彩は全ての既出盤に劣るものではない」。あんな人為的なクレッシェンドがなくたって、いやないほうがなおさら、指揮者の意図を受けるトランペッターの強靭な踏ん張りが純な感動を呼び起こしたはずなのだと彼は言っているのである。レッグさん、あなたは一体何のためにボリュームつまみを回しちゃったのですか、後世の人たちにこんな面倒なことを考えさせないでくださいなと私は言いたい。

(4)さらにもう一つの「バイロイトの第九」
 そして最後にとっておきの証拠を一つ提出させていただきたい。先日、東京文化会館4階にある音楽資料室で昔の資料を当たっていたときのこと。レコード芸術1955年2月号に、海外音楽視察旅行から帰ったばかりの吉田秀和氏(当時41歳)と村田武雄氏との対談があった。その33〜35頁の一部を抜粋してみる。

村田 ではフルトヴェングラーの「第九」のお話をしてください
吉田 「第九」はバイロイトで聴きました
村田 ソロはだれがやりましたか
吉田 ええと、テナーはヴィントガッセン、バリトンはルードヴィヒ・ウェーバーという人で、ソプラノはグレ・ブルーウェンステインというオランダ人、アルトはイラ・マラニウクです
村田 それで楽章の置き方、切れ目は、日本と同じようにやるのですか
吉田 2楽章と3楽章の間は少し長かったですね。そのほかはそんなに長く休まない
村田 そうですか。すると独唱者も合唱も全部初めから出つ放しですね
吉田 そう、初めからです

 これは吉田氏の話から、1954年8月9日バイロイト祝祭劇場で行われた演奏会であると特定できる。すなわち問題の「バイロイトの第九」から3年後、同じバイロイト祝祭劇場で行われた「第九」なのである(この演奏はMUSIC&ARTSからCD発売されており、前日のリハーサル風景はフルトヴェングラー・センター会員頒布アイテムとしてCD化されている)。さらにもう一つの「バイロイトの第九」があったのである。もうお気づきだろう、この話から、このステ―ジでは独唱者も合唱も始めからステージに出っ放しなのである。3年前でソリストが違うとはいえ、最晩年のフルトヴェングラーが同じシチェーションにおいて、舞台構成上の重要事項を変更するとはまず考えられない。したがって1951年7月29日のバイロイトでも"独唱者と合唱は始めから出っ放しだった"と考えて間違いないだろう。ここで本文冒頭のフルトヴェングラー・センター会長中村政行氏の文章を思い出していただきたい。「ありがたいことに、楽章間も一部録音されており、第3楽章開始前に歌手たちの入場する足音が聞こえる」という内容の文章である。即ち「センター盤」では第3楽章開始前に、"歌手たちが入ってくる"のである。そんな「センター盤」は、初めから出っ放しであるはずの本番ではないことになる。途中から入ってきたのだからリハーサルもしくはゲネプロだということになる。会長みずからの言であるこの"ありがたいこと"が、皮肉にも"「センター盤」は本番にあらず"を証明してしまったのである。なお一般発売されたORFEO盤にはこの第3楽章前の「間」は削除されている。また「センター盤」には拍手が入っていない。恐らく原テープにも入っていないのだろう。本番ライブの放送音源なら普通拍手はカットせずに放送すると思われるがどうだろうか。

 結論を申し上げる。「センター盤」は「バイロイトの第九」本番音源ではない。ゲネプロかリハーサルの音源である。何かのときのために収録・保管しておいたバック・アップ音源なのだろう。テープ箱に書かれた"たとえ部分的にでも放送に使用することは禁止"の意味はそういうことだったのではないか。拍手がないのも不利な材料である。2007年9月発行の<フルトヴェングラー・センター会報第15号>に「EMI盤が本番でセンター盤はリハーサルと思われるという"珍説"まで飛び出してきていますが・・・」とあるが、これは珍説ではなくて"真説"だったのである。
 「EMI盤」が発売後数々の疑惑を呼んだのは、この歴史的ライブのレコーディングがレッグ率いるEMI録音チームのその時のプライオリティ業務ではなかったことと演奏には技術的な破綻部分が少なからずあったことなどから、レコーディング後4年以上も発売しなかったこと、第4楽章329−330小節の"vor Gott"になぜか電気的人為的なクレッシェンドを付加してしまったこと、臨場感を出さんがためか出せば売れる状況になってしまったためかはさておき、拍手や足音などのSE的サウンドを付加して拡売を図ったこと、などによるのだろう。「EMI盤」は、"お化粧盤"かもしれないが、ほとんどの部分を本番音源で作り上げた正規のレコードであることは間違いないのである。

 「二つのバイロイトの第九」はこれで終わる予定でしたが、次週もう一度やらせていただくことにいたします。理由はレコード芸術最新号に、「平林直哉氏は"ORFEO国内盤の解説"の中で、『センター盤』リハーサル説を唱えている」という情報があったからです。ORFEO盤は輸入盤しか持っておらず、国内盤の解説は読んでいなかったため、彼の論旨を知らずしてこのまま私の話を終わりにするわけにはいかないと思ったからであります。それでは来週、「二つのバイロイトの第九」エピローグと題し、平林説の検証を中心に書かせていただきます。では次回8月11日をどうぞお楽しみに。
2008.07.29 (火)  二つのバイロイトの第九――その1
(1)発見! もう一つの「バイロイトの第九」
 昨年夏、かの歴史的名盤EMIのフルトヴェングラー「バイロイトの第九」に対し"これこそが真正のライブ音源"という別テイク音源がドイツのバイエルン放送局で発見されたというニュースが流れた。ウィルヘルム・フルトヴェングラー(1886−1954)は20世紀を代表する名指揮者のひとり。特にベートーヴェン、ワーグナー、ブラームス、リヒャルト・シュトラウスなどドイツ本流の演奏にかけては右に出るものはいないといわれ、死後50年以上経った今日でも衰えなき人気を維持し続ける稀有なる大指揮者である。「バイロイトの第九」というのは、1951年7月29日にフルトヴェングラーがワーグナーの聖地バイロイトで指揮したベートーヴェン交響曲第9番の演奏の通称。このライブ・レコーディングは1955年11月、EMIからレコード発売されると爆発的人気を呼び、以来歴史的名演奏として名盤の名をほしいままにしている。したがって、この「バイロイトの第九」に対しこちらこそが本番という一聴して別テイクと分かる音源が発見されたというのだから、クラシック愛好家にとって衝撃的でないわけがない。この音源は最初フルトヴェングラー・センターの会員向けCDとして頒布されたが、今年になってORFEOからも一般発売され、誰でも入手できるようになった。この時点で世間には2つの「バイロイトの第九」が存在することになったのでこれを区別して呼ぶ必要性が生じた。巷間、従来の盤を「EMI盤」、新たに発掘された音源を「センター盤」と呼んでいるのでここでもそれに従おう。
 2007年7月26日、朝日新聞夕刊に「センター盤」の紹介記事が掲載されると、8月3日に日本経済新聞、その後レコード芸術9,10,11月号、クラシックジャーナル027号などでも続々と取り上げられ、やがてクラシック愛好家の間で大反響を巻き起こした。フルトヴェングラー・センターは「センター盤こそ真正のライブ」と言い、「いや、センター盤はリハーサルの音源」という反論もあったりして1年が経過、今日でもこの件に関しちゃんとした結論が出ていないようだ。現にレコード芸術最新号(2008年8月号)でも、新譜交響曲月評欄でORFEO国内盤「バイロイトの第九」に関し、小石忠男氏がまだ「いったい、どっちが本当なのか、発表と同時に真贋戦争が巻き起こったが、真相は未だに不明である」と言っているのである。
 今回は問題のライブが行われた7月29日に因み、これらに関わる様々な案件を整理して"どちらが本物のライブ音源なのか"を私なりに究明・判定したいと思う。2週連載の予定であるが、第1回目の今回は、誕生から今日まで、不動の名盤としての地位を一貫して保っている「EMI盤」の流れを追うことにする。

(2)バイロイト1951年7月29日
 リヒャルト・ワーグナー(1813−1883)は自らの芸術を理想的な形で上演することを目的とする専用劇場の建設を進めてきたが、遂に1876年に完成、8月13日、畢生の大作「ニーベルングの指環」の(通し上演としての)初演がその柿落としとなった。これがバイロイト音楽祭の始まりである。音楽祭は以後資金難等によるワーグナーの理想と現実とのギャップ、非民主的なナチス・ドイツの運営などに悩みながらもなんとか継続されるが、終戦の年1945年に中断すると、そのあとドイツは6年の長きにわたりこの音楽祭を開催できないでいた。その間祝祭劇場は駐留米軍のキャバレーと化すなど、ドイツは敗戦国の悲哀をいやというほど味合わされることになる。そして遂に1951年の夏、待ちに待った戦後初めてのバイロイト音楽祭が開催されたのである。その開幕を告げる演奏が、フルトヴェングラー指揮のバイロイト祝祭管弦楽団&合唱団によるベートーヴェンの交響曲第9番だった。何故「第九」なのか? それはもう」第九」しかないのである。ワーグナーにとって「第九」以上に意味のある樂曲は他にないからである。「第九」はワーグナーが15歳のときに聴いて感激、作曲家を志すようになったきっかけの曲であり、1872年5月22日、満59歳の誕生日に友人を集め、劇場建設への強い意志を示すため自らの指揮により演奏した曲でもあった。
 1951年7月29日、祝祭劇場へ繋がる道は夜8時の開演を待ちわびる多くの聴衆で埋め尽くされ、この日の演奏はラジオを通して世界の音楽ファンにも送り届けられた。フェスティヴァルの再開は世界中の音楽ファンが待ち望んだものであり、その復活を告げる「第九」の演奏は正に記念碑的意義を持つものだったのである。これにより戦後初の開幕が告げられた1951年のバイロイト音楽祭は、ハンス・クナッパーツブッシュとヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮によりワーグナーの楽劇が上演された。演目は「ニーベルングの指環」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「パルシファル」である。このうちクナッパーツブッシュの「神々の黄昏」「パルシファル」、カラヤンの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「ワルキューレ」は現在CD化されており当時の様子を窺い知ることができる。なおフルトヴェングラーはこの年もそのあともバイロイトではオペラを指揮していない。

(3)伝説の「バイロイトEMI盤」誕生
 ウォルター・レッグ率いるEMIレコーディング・チームは当時売り出し中のカラヤン(当時43歳)指揮のライブを収めることを主目的としていたが、7月29日のフルトヴェングラー(当時65歳)の「第九」も収録した。しかしEMIはなぜかこの録音をしばらく発売せずにいた。そうしているうちにフルトヴェングラーは1954年11月、68歳でこの世を去ってしまう。バイロイト・レコーディングの存在が噂でしかなかった世界の音楽界は、彼が「第九」の録音を残さずに亡くなってしまったことを心底悔やんだのである。そんな状況の中、1955年11月(日本では12月)、遂に「バイロイトの第九」が発売される。音楽界がいかに歓喜を持ってこれを迎えたかは想像に難くない。これぞ待ちに待ったフルヴェンの「第九」であり、歴史的事件を収録した記念碑的ライブであり、人類の永遠の遺産たるレコード史に輝く名演奏という伝説的レコーディングに祭りあげられるのである。
 こうして世に出たEMI盤は、以後様々な形で再発売されアナログからCDになってもメディアを超えて世に出まくっている。2007年ディスクユニオンの特典として刊行された[フルトヴェングラー完全ディスコグラフィー]によると、「フルヴェン・バイロイトの第九」のリリースはLP、CD各々80点以上を数え、内容的には"足音入り"や"拍手入り"などを混じえ、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカ、日本はもとよりイタリア、スペイン、オランダ、デンマーク、ギリシャ、南アフリカ、アルゼンチン、ウルグァイ、オーストラリア、中国、台湾、韓国など世界中で様々な形で出回っている。これは大変な数である。彼の歴史的名演とされる「シューマンの交響曲4番」(1953年録音のドイツ・グラフォン盤)のLP24点、CD45点、またフルトヴェングラー戦後ベルリン初登場として歓呼を持って迎えられた1947年5月27日のライブ盤「ベートーヴェン交響曲第5番」(同じくDG盤)のLP23点、CD28点という数字と比べてみてもその差は歴然だ。
 さらに名盤ガイドなるものをランダムに見てみよう。まず、[レコード芸術別冊名曲名盤コレクション2001](1978年刊)には「いまさらまた、と言われようが『フルヴェン、バイロイト』をあげないわけにはいかない。この演奏にはあとにつづくものがどうしても凌駕することができない一種の壁ともいえる威厳がある。戦後あらゆるものが飢えていた時代にこそ生まれた人間の強靭な執着のようなものを感じとることができる」という評とともに当然の第1位にランクされている。[レコード芸術編・名曲名盤300](1997)では浅里公三氏が「フルトヴェングラーの数種のライブ録音の中でもとりわけ『バイロイトでの演奏』が感動的なのは、作品に相応しい時と所、そして人を得たからにちがいない。」と評し22点を獲得、2位は7点というダントツの第1位。[レコード芸術編・21世紀の名曲名盤](2002)では、「『バイロイトの第九』は不動の1枚。これは別格、バイロイトというシチュエーションは特別」として、10人中9人が1位に挙げ獲得点数27点は他の全ての名盤を圧倒的に引き離している。[学研・クラシックCDエッセンシャル・ガイド150](2002)は平野昭氏が「『バイロイトの第九』は20世紀後半に数え切れないほどの賞賛文によって語りつくされてきた。歌手陣がすごい。演奏解釈の正否を超えた音楽美の真実の姿が時代を超えて現代の聴き手の琴線を響かせる」として第1位。[レコ芸・クラシック不滅の名盤1000](2007)では、岡本稔氏が「第九はヨーロッパでは特別の機会に演奏される別格の性格を持つ。戦後ようやく再開されたバイロイト音楽祭の開幕を告げる『フルヴェンの第九』はその端的な例。隅々まで異常ともいえる緊張感をはらみ劇的にしかし微塵も上滑りすることなく進行する。音楽が持つ力その極限の姿がここにある」と評し究極の名盤100選枠に入っている。などなどいわゆる「名曲名盤ガイド」の類は常に「バイロイトの第九」が究極のファースト・チョイスとなっているのである。
 これらの賛辞をよく読むと演奏内容よりも演奏されたシチュエーションに重きが置かれているのがよく分かる。敗戦国ドイツの音楽的象徴であるバイロイト音楽祭の復活であり、ワーグナー縁の「第九」であり、ドイツ音楽精神の権化たるフルトヴェングラーと当代きっての名歌手達の演奏と、当時これほど感動的なシチュエーションはなかったのである。いや今後も音楽界にこれに匹敵するような歴史的事態が起こることなど考えられないほどの極めて特別なシチュエーションだったのである。だから「バイロイトの第九」はレコード音楽史上の記念碑であり人類に遺された永遠の音楽遺産なのである。しかしである、記念碑的意義と名演奏は別問題でなければならない。ただしここは名演か否かを考証する場ではないので、個人的見解は差し控え演奏そのものをでき得る限り客観的なタッチで捉えておきたい。

 EMI盤は確かに感動的な演奏なのだろう。フルトヴェングラーが導き出す、うねるような弦の響き、張り裂けんばかりの金管の強奏、炸裂するティンパニーの強打、ソロ歌手陣の素晴らしい歌唱などは、1951年の貧弱なEMIの録音を通じて確かに伝わってきて、聴くものを感動させる力を持っている。フレーズの一つ一つに音楽をする喜びと新しい時代に向かって突き進む強い意志の力が漲っているかのようである。更に「バイロイトの第九」の名演の証として、第4楽章オーケストラが「歓喜の歌」を歌いだす直前の異様に長い休止や329−330小節の"vor Gott"(神の前に)と歌うフェルマータ末尾の急激なクレッシェンドは崇拝者の間では外せないポイントとなっているようである。
 一方、破綻部分も少なからず存在する。ここでは誰が聞いても直ちに分かる破綻部分を3つ指摘しておきたい。これらの部分は真贋考察の最重要ポイントにもなるので分かりやすく箇条書きで書き留めておく。

@第4楽章コーダの最後で、オーケストラが加速する指揮者のテンポについてゆけず、アンサンブルを乱しヨレヨレになって着地する
A第3楽章83小節―98小節のホルンが素人みたいにメロメロに乱れている
B第4楽章、バリトンに呼応して出る合唱の歌い出し"Freude"が完全に遅れをとっている

 「バイロイトの第九」EMI盤は、数々の破綻部分を含みながらも、大きな歴史的意義を持つ記念碑的名演奏として、今日まで変わることなくその不動の地位を保ち続けているのである。
 次回8月4日は話題の「センター盤」を取り上げて"どちらが真正か"の真実に迫りたいと思う。乞うご期待。
2008.07.14 (月)  続・ハイフェッツの再来
 神尾真由子サントリーホール・コンサートの2曲目はプーランクのヴァイオリン・ソナタである。モダンで洒落たリズム進行に時おり澄み切った抒情感やロシア的メランコリーが顔を出す第1楽章。しっとりとした情感の中に時代の不安感が垣間見える中間楽章。やや醒めた情熱でワイルドに突き進む終楽章。ジャズ・スパイスも効くこの魅力あるソナタは演奏者に多彩な表現力を要求するが、先立って大切なのは確かな技術と強い音である。この曲は1943年ジネット・ヌヴーによって初演された。ヌヴーといえば1935年、15歳でヴィエニャフスキ国際コンクールで未来の巨匠27歳のダヴィッド・オイストラッフを2位に退けて優勝した天才女流ヴァイオリニストである。その後国際舞台で大活躍するも1949年飛行機事故で惜しくも世を去った。彼女の音楽には男勝りの強い音と激しい感情移入から生まれる強烈な自己主張がある。死の前年1948年のライブ録音「ブラームスのヴァイオリン協奏曲」はその好例で、少々のミスをものともせずに邁進するヌヴーのパトスはロマンの奔流と化して聞くものを圧倒する。
 NHK特集「強く強く〜ヴァイオリニスト神尾真由子21歳」の中で少女期の師原田幸一郎は感嘆の面持ちで「彼女は強い音を生み出せる恵まれた体格を授かっている」と語っている。また画面にはロックを聞きながら夜道をジョギングする神尾の姿も映し出される。「ジョギングはなんのために?」との質問に、「体力づくりですかね。ショスタコーヴィチの協奏曲なんかは体力がないと弓を落としちゃうんですよ」。彼女は微笑みながらそう答えた。よい音楽を創造するために必要なのは高度な音楽性とテクニックであることは言うまでもないが、すでにかなりの高レベルで持ち合わせている彼女なのに日々研鑽を怠らない。それは体力の絶対値がテクニックの精度を決めることを彼女は知っているからだ。"まずは強く"こそが全ての表現の基礎となることを知っているからなのだ。これを土台に繰り出される"強い音力"はヌヴーに通じるものがある。

   休憩明けはシマノフスキの「神話」で始まった。これは「プリモ」にも収録されている。「ヴァイオリンとピアノのための3つの詩」との副題があるように3曲でセットの曲だが、まとまっての録音は意外に少ないという(第1曲「アレトゥーザの泉」が単独で演奏されることが多い)。そんな中、チャイコフスキー・コンクール優勝者の先輩諏訪内晶子がこの全3曲を2枚目のアルバムで取り上げている。
 「神話」は近代ポーランドの作曲家カロル・シマノフスキが1915年に書いたヴァイオリンの名品。この時期シマノフスキは古代ギリシャに憧れペルシャの神秘主義詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミーに傾倒していた。古代への憧れと神秘主義的テイストは楽曲全体を妖しく美しく覆う。
 諏訪内は実にロマンティックに語りかけてくる。まるで妖艶な白拍子が物語を語るように。一方、神尾のヴァイオリンは、太古の神が、自然が、そのまま語りかけるような厳しくも大らかな響きを醸す。終曲で効果的に使われるフラジオレットは微塵の濁りもなく怜悧な抒情を奏で、刃物のような鋭い音色は神秘のヴェールを切り裂く。この怜悧な鋭さはハイフェッツを髣髴とさせるものがある。名手イツァーク・パールマンはDVD「アート・オブ・ヴァイオリン」の中で「ハイフェッツの音の鋭さの秘密は並外れた運弓の速さにある」と指摘しているが、神尾の身体能力もこれに匹敵するのではないか。別の話だが、同じDVDの中で若手女流ヴァイオリニストの旗手ヒラリー・ハーンは、ハイフェッツについてこんなことを言っている。「よく聞くとハイフェッツは音を飛ばしていますが、完璧に聞こえます」と。同じ事を神尾は「ハイフェッツは音を飛ばしていてもあたかも全部こまかく弾いているように聞かせてしまう。このテクニックは感動ものです」と、より突っ込んだ言いかたをしている。前出のNHK特集「強く強く〜」の中で、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲第1楽章の楽譜に「少しとばす」という彼女自身の書き込みが映し出されていた。これはよりよい表現のために音をわざと飛ばして弾くということではないかと私は推察するがどうだろうか。他のヴァイオリニストがただ指摘するだけの事象を、表現のテクニックとして積極的に取り入れている。恐るべし神尾真由子である。
 ヒラリー・ハーンは28歳、現在最も注目されている若手ヴァイオリニストの一人である。現にレコード芸術7月号「現代名盤鑑定団」では、彼女の「シベリウスのヴァイオリン協奏曲」がフィーチャーCDとして取り上げられ絶賛を博している。私はこれを今年3月の発売時に聴いたがあまり印象に残っていなかった。改めて何度か聴きなおしてみても、知的ではあるが感情を刺激せず、冷静ではあるが心を掻き立てないあまりにも静的な演奏という印象は変わらなかった。ところがそこで鼎談をする評論家先生たちは様々な形容でこの演奏を激賞している。曰く「熱っぽく、それでいてクールな弾きぶり」、「今までの基本的な枠組みを取り払ったところでの徹底した表現。曲を見るパースペクティヴが大きく、その中で個々のフレーズが有機的に意味を持ってつながる」など、私にはなんのことやらサッパリ分からない表現が飛び交っている。それだけならまだしも、「ヌヴーを聞いたらハイフェッツよさらばでした」など、ばかもほどほどにとしか言いようのない発言を平気でしている。いくらヌヴーとはいえハイフェッツを差し置いてとは、ありえないっつーのだ。音楽から何を感じようが人それぞれだし、演奏の好き嫌いも個人差があって当然、他人がどう言おうが自由である。だから皆さんはおかしいとは言わない、私はそうは思いませんと言うだけである。さらに、そこには主要録音盤として51点ものレコーディングがリストアップされている。先生方はその中から各々の注目盤を俎上に乗せて語っているわけであるが、ついでにもう少し文句を言わせていただくと、素晴らしい独奏を聞かせるクリスティアン・フェラス/カラヤン盤がノーマークなのはいかがなものかと思う。フェラス盤は1965年の発売当時「これはカラヤンを聞くべきレコードで、フェラスはカラヤンの意図を忠実になぞっているに過ぎない」などとしたり顔でいう評論家がいたものだ。ところがよく聞いてみると全然そんなことはない。フェラスの力強い音と迸る情熱は、聞く人の心を熱く激しく揺さぶって素晴らしいものがある。こんなのは普通に聴けば直ちにわかる。鼎談の先生たちは先達の亡霊を未だに振りきれないでいるのだろうか。同じくノーマークの諏訪内/オラモ盤(02)だって悪くない。彼女が奏でるハイフェッツの愛器ドルフィンの響きは語り上手な説得力があり、聞く人に魅力ある歌心を届けてくれる。どちらも私にとってはハーンよりはずっと胸に迫る。
 ところがここに神尾真由子2007年10月21日のサントリーホールでのライブ演奏がある。協演は恩師原田幸一郎指揮日本フィルハーモニー。ここでの神尾のソロはすでにしてハーンも諏訪内もフェラスをも超えている。基本的に強い音を持っているから弱音が生きる。ボウイングが素早いから細身で鋭い音と太く豊かな音がはっきりと対比される。テクニック・レンジが並外れて広いのである。楽曲把握は森を見て枝葉を掴む、大局観と細やかさが同居する。どっしりとした安定感の中でひとつひとつのフレーズに細やかな感情が移入され、それを表現するテクニックの幅は並外れて広い。だから彼女の曲に込めた感情はわれわれの心にストレートに伝わる。激しさも優しさも厳しさも穏やかさも喜びも悲しみも。多彩で心打つ音楽が生まれるのである。ヒラリー・ハーンでは泣かないが神尾のヴァイオリンで人は泣く。正規録音でのシベリウスを早く聞いてみたいものだ。

 プログラムの最後はフランクのヴァイオリン・ソナタである。「フランクが、親友イザイの結婚のお祝いに作った曲ですから、あまり悲劇的にならないようにしています」と神尾は言う。しっかりと作曲された背景を把握している。ところが人によっては「曲作りの背景なんて関係ない。楽譜だけが唯一絶対の真実なのだから、それ以外の情報は音楽表現上むしろ邪魔になる。作曲家の心情が作品にいちいち反映されているとは限らないし」という考え方もある。モーツァルトは、俗な付き合いが続く悪友シュタードラーのために、天国的に美しいクラリネット協奏曲K622を書いた。また、「こんな馬鹿に会うのは久しぶりだ」と手紙にまで書いて憤ったロビニヒ家からの注文で作ったのが、かのギャラントで優雅な名作ディヴェルティメント第17番K334だったりする。背景と音楽が無関係である典型だ。ところが逆に、ソナタホ短調K304に宿る哀感はパリで受けた冷たい仕打ちと無関係だとは言い切れないし、「レクイエム」が内包する悲痛な叫びは忍び寄る死に慄くモーツァルトの魂の慟哭に他ならないだろう。ベートーヴェンの「田園」しかり、ブラームスのピアノ協奏曲第1番、チャイコフスキーの「悲愴」、ドヴォルザークの「新世界より」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番しかりである。これらの名曲に、作曲者の人生やそのときどきの状況が反映していないなどと誰が断じられようか。「それこそ血のにじむような苦労をして曲を作ってくれたのですから、なんとか作曲家の気持ちに近づきたいし、その人生に近づけたらいいなと思います。」これが神尾の真情である。だから彼女は積極的に情報を収集する。凡庸な人間なら情報過多が邪魔になることもあるだろうが、神尾は自分の中に濾過装置を持っている。これも類稀なる才能なのだ。現在の師匠ザハール・ブロンは言う「あるとき、私がレッスン中に指示したことを彼女はステージでそのとおりにはやりませんでした。自分の中で消化して新たな形で表現していたのです。そのとき私は彼女には驚くべき才能が備わっていると感じました」。だから彼女にとっては情報はあればあるほどいい。濾過し、必要なだけの情報を選択した上で、自らの表現を創りだすことができるからである。
 フランクのヴァイオリン・ソナタは彼女の比較的新しいレパートリーのようだ。チャイコフスキー優勝後に取り組んだということはまだ一年ほどしか経っていない。NHK「私だけの響き」の中で、スイスのリゾート地ヴェルビエで行われたフランクのコンサート映像があった。そのあとブロン先生がこの曲をレッスンしていた。「ヴェルビエでの彼女の演奏は命令口調になっていた」と先生は評した。力を抜いて曲そのものの美しさを引き出す、そんなテーマのレッスン風景が展開していた。
 第4楽章。神尾は気高さと美しさの極みともいうべきこの楽章を全体の白眉と位置づけてるという。第1楽章冒頭の主題から派生した格調高いテーマがピアノによって奏でられると、1小節遅れてヴァイオリンが追いかける、まさにカノンである。53小節目からは逆にヴァイオリンが先行しピアノが追いかける、このシンメトリーは「鏡像フーガ」をも連想させる。バッハを敬愛したフランクの心根が垣間見える。楽想が変化しながらそれまでの主題が徐々に顔を出してくる。フランク独自の循環形式が極まる。そして音楽は激しさの起伏を加えコーダへとつながってゆく。
 サントリーホールでの神尾はヴェルビエ・センターとは明らかに違うフランクを奏でていた。レッスンによって見事に修正されていたのである。挑戦的な姿勢から、力まずに自然に歌い上げる方向に音楽が変わっていた。ビロードのように柔らかい、しかも芯のある、気高く美しい彼女だけの響きが自然な音楽の流れに乗って空間を漂っていた。21歳神尾真由子の素晴らしい演奏だった。最後の21小節、poco animato(少し元気に)という指示のpoco(少し) が、ほんの僅かassai(きわめて)寄りになってしまったことを除いては。
 この演奏を彼女自身はどう考えているのだろうか。彼女は今現在の演奏理念を「21歳である今の自分が出来ることをやるまでだ。ベストを尽くして」と考えている。この観点からみればこの夜のフランクはかなり満足のゆく出来映えだったのではないかと思う。レッスンの成果も十分に出ていたし。だが一方では決して満足してない彼女がいる。もっといい音楽が創れるはずだと感じている彼女がいる。でも急ぐことはない。音楽は人間そのものを投影するものなのだから、経験の積み重ねによって自然に変わってゆけばいいのである。そのことも彼女はちゃんと分かっている。「音楽は経験によって成熟するものですから、歳をとるにつれて音楽がよい方向に向かっていければいいなと思っています。まだ21年しか生きていないんですから、私なんてまだまだですよ。今はまだ全然分かってないと思っています」・・・いったい10年、15年後、神尾真由子はどんな音楽家になっているのだろう。まだがやっとに変わったとき彼女はどんなフランクを聞かせてくれるのだろうか。神が遣わしたこの稀有なる天才はいったいどのような進化を遂げてゆくのだろうか。本当に興味は尽きない。
2008.07.07 (月)  ハイフェッツの再来
 先月サントリーホールで神尾真由子のリサイタルを聞いた。昨年度のチャイコフスキー国際コンクール、ヴァイオリン部門の優勝者である。チャイコフスキー・コンクールといえば、諏訪内晶子が史上最年少&日本人初というセンセーショナルな優勝を飾ったのが1990年なので、もうかれこれ20年近くも前になる。そのとき4歳だった神尾は今年6月にソニーBMGからCDデビューを飾った。デビューなのだから新人には違いないのだが、7年間のコンサート・キャリア(2001年にアメリカでコンサート・デビューを果たしている)、チャイコフスキー・コンクールの優勝、二度にわたるNHK特番などにより注目度は並みの新人の比ではない。
 今回のコンサート・ツアーは1ヶ月足らずの間に全国16箇所、プログラムは5種類14楽曲を数える。フランク、モーツァルトホ短調、プーランク、R.シュトラウスのソナタ、ショーソン「詩曲」、ラヴェル「ツィガーヌ」、サン=サーンス「序奏とロンド・カプリツィオーソ」、フォーティン「フォールン・ライト」(世界初演)その他、チャイコフスキー、ストラヴィンスキー、シマノフスキ、シューベルトと実に多彩な選曲である。特にフランクを中軸に据えているのが並みじゃない。
 フランクといえば古今のヴァイオリン・ソナタの中でも屈指の名作で、その美しさは比類なくその気高さは限りない。したがってヴァイオリニストの究極のレパートリーとして屹立孤高の作品なのである。名盤の誉れ高いティボー&コルトー盤のジャック・ティボーが49歳、ハイフェッツ&ルービンシュタインのハイフェッツが37歳、ムター32歳、フェラス32歳、チョン29歳など、概して年齢もキャリアも積んでからレコーディングするものと相場が決まっている。それはこの曲が演奏者の技量と人生を映し出す鏡のような作品だからだ。弱冠21歳の神尾が一体どんなフランクを聞かせてくれるのだろうか。
 ティボーとコルトーのフランクは古今の名盤として半ば伝説化している。この1929年録音のSP音源が未だにこの曲の最高の名演という評価を得ているのはちょっと不思議な気がする。レコード黎明期に大御所野村あらえびすが「フランク屈指の名作ソナタに、ティボーとコルトーは渾然天衣無縫的な至芸を見せた」と絶賛したが、これが定説となって今も生きているのではないか。この演奏にはティボー特有の典雅さと洒脱さがつまっているのは確かだが、聞こえてくる音楽はティボーであってフランクではない。至芸は聞こえるが曲の佇まいは見えてこない。フランクにはもっと怜悧な抒情性が欲しい。もっとひたむきな気高さが欲しい。
 ハイフェッツとルービンシュタインの1937年の録音がある。包み込むようなルービンシュタインのピアノを縫って、ストイックで純粋でまるで水晶のようなハイフェッツのヴァイオリンが漂い歌う。美しさと気高さが見事に融合しフランクと一元化する。これこそフランクのヴァイオリン・ソナタの真の名演ではないだろうか。
 CDデビューに先駆けてオンエアされたNHKハイビジョン特集「私だけの響き」の中で、目標にするヴァイオリニストは? という質問に対して神尾は、「いません、好きな人はいますけど」と答えている。一方デビューCD「プリモ(PRIMO)」のライナーノーツには、"自分の演奏は聞かないが、他のヴァイオリニストの演奏を聴くのは好きで、特にハイフェッツには魅せられている"とある。これを繋ぎ合わせると「目標にするヴァイオリニストはいないが、ハイフェッツは大好きだ」ということになる。"目標はハイフェッツ"と言わないところが神尾らしい。また同じ番組の中で、では目標にしていることはなに?という質問には、「個性あるヴァイオリニストになりたいです」と、では個性ってどんな?には、少し間をおいて「分かりません、その質問はパスです」と締めた(「それは私の演奏を聞いてもらえれば分かります」と言いたかったのだろうけど)。別のところではこうも言っている、「個性的な演奏をしたいと思っています。聞けば誰(私)と分かるような。でもそれは奇をてらうことではないんです。そうするのは好きじゃない」と。 以前、私の尊敬するある評論家の方が、依頼した原稿の中で、ヒットする楽曲はおしなべて「"独創性とインパクトの強さ"そして "奇をてらうに止まらない完成度の高さ"を併せ持っている」という文章があった。音楽芸術のありように関しジャンルを超えてこれほど的を得た見解はないと、以来これを私の評価の物差しにさせてもらっている(ご当人には断りをいれています)。これに照らして神尾の求めるもの(目標)を言い換えると「奇をてらうに止まらない高い完成度を持つ自分にしかできない個性あるパフォーマンス」ということになりはしないか。これを最高度に実現しているのがハイフェッツだと彼女は認識しているのだろう。目標はハイフェッツじゃなくてハイフェッツが到達した高い境地であり、好きなのは彼のテイストなのだと思う。それは「最近の愛読書は?」との質問に、カミユの「ペスト」を掲げながら「この美しく清涼感ある文体がとても好きです。あまりべとべとしたのは好きじゃない。」という言葉にも表れている。それはハイフェッツの芸風にも通じる。
 "ハイフェッツの再来"というレコード会社の宣伝文句がある。これもハイフェッツがヴァイオリニスト中のヴァイオリニストであることの証明だろう。昔マイケル・レビンというヴァイオリニストがいた。1936年アメリカ生まれ、父はニューヨーク・フィルハーモニックのヴァイオリニストで母はジュリアード音楽学校のピアノ教師というサラブレッド。9歳でコンサート・デビューを果たし、12歳で最初のレコーディングを行うという神童ぶりを示した。崇拝するのはハイフェッツ、周りもみなハイフェッツの再来と囃し立て、まずは順風満帆の音楽人生を歩みだす。ところが60年代になると"20歳過ぎればただの人"になってゆく。目標は雲の彼方に遠ざかり、止めるわけにはいかない演奏活動の継続がストレスを生んで、彼は薬に溺れるようになってしまう、そして遂に32歳の若さでこの世を去ったのである。このころからハイフェッツ・シンドロームなる言葉が生まれる。到達できるはずもない高みにハイフェッツはいる。彼を目指してもいずれ自分の力のなさを思い知らされるだけだ。ヴァイオリニストとして生きてゆくためには、彼の幻影を自分の中から追い出すしかない。・・・ほとんどのヴァイオリニストはそうだったのである。
 そんなハイフェッツというエヴェレストに対し神尾は「目標ではないが好きなヴァイオリニスト」と平然と言う。なんと大胆で恐れを知らない発言なのだろう。自信という裏づけがなければ出てくるはずもない。しかし、私たちは彼女の音を聞いた瞬間に、それはなんのてらいもない彼女の真情そのものであることを思い知らされるのである。ハイフェッツにも比肩しうる高い完成度と他と隔絶たる自分だけの響き、だからこそ彼女はまぎれもない"ハイフェッツの再来"なのである。

 プログラムはモーツァルトのソナタホ短調K304から始まった。第一主題、初めて聞く神尾の生音がホールに響いた瞬間、体が凍りついた。魂が奪い取られた。なんという美しさ。なんという清々しさ。アコースティックの極みともいうべき極上の響きだった。NHK「私だけの響き」の中で、レコーディング初日に初めて自分の録音した音がモニター・スピーカーから流れ出た瞬間の神尾の怪訝そうな表情と「私の音ってあんな感じなの?なんか鉄っぽい」と言った言葉が思い出された。「プリモ」を聞いていた私は、どうしてこのCDの音をそんな風に言うのかよく分からなかった。これはこれで十分に美しく十分にアコースティックではないか。私の装置はアキュフェーズ(DP57/C200+P300)〜タンノイ(Stirling)で、それこそ"鉄っぽくない音"を求めて構成したものだ。だから自分の装置で聞いていた「プリモ」の音は十分アコースティックで決して鉄っぽくはなかった。ところがサントリーホールで聞く神尾の音は確かにCDとはかけ離れた音だったのだ。それは絹のようにやわらかくビロードのようにあたたかい、それでいて芯のある、気高く美しい天上の響き・・・「私だけの響き」だった。
 「欧米のお客さんて結構よそよそしいんですが、コンサートが終わると感動して十年来の友人のように喜んでくれて中には涙を流してくれる人もいる。それを励みにやっています」と控えめな口調で話した言葉が実感として理解できた。そして、ニューヨーク・タイムズの"あたたかいビロードの音色"という表現も。
 第二楽章ホ長調の中間部では、黄金の羽毛が天空を舞っているような軽くしなやかな響きが夢幻の空間を形作った。彼女のヴァイオリンは音だけで人を感動させ魂を奪い取るパワーを持っている。これこそがまさにヴァイオリンが本来持っている魔力なのである。
 英語でヴァイオリンのことをフィドルというが、この語源はラテン語のvitulorで「祭りをする、よろこぶ」という意味を持ち非日常を象徴している。一方で「人をたぶらかす」という意味もあり、これはゲーテの「ファウスト」にならってニコラウス・レーナウが書いた劇詩「ファウスト」での、悪魔メフィストフェレスがヴァイオリンを弾いて人々を狂わせる場面に象徴される。またヴァイオリンの鬼神といわれたかのパガニーニは「悪魔に魂を売ってテクニックを手に入れた」と噂され教会は彼の埋葬を拒否したという逸話が残っている。それやこれやで、昔からヴァイオリンは、悪魔が乗り移るとか、魂を奪うとか、そんな怪しい香りが充満する魔法の楽器と相場が決まっているのである。「ところが現代のヴァイオリニストはこんな音を奏でない。ギスギスと鳴り、人の心に喜びや潤いを与えない。大会場で喝采を浴びているがそれはアスレッティックな妙技、軽業みたいなものだ」、これは我が敬愛する石井宏先生の名著「誰がヴァイオリンを殺したか」の一節である。先生には是非神尾を聞いてもらいたいものだ。聞く人の魂を奪う神尾のヴァイオリンを是非聴いていただきたいと思う。
 プログラムはこのあとプーランクのソナタに繋がるが、入れ込みすぎて紙面オーバーになってしまった。続きは次回で。
2008.06.30 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――最終回
<終章> 国際モーツァルテウム財団への要望書

拝啓 国際モーツァルテウム財団殿

   私はモーツァルトが大好きな日本の一音楽ファンです。今回お便りしたのは貴財団にお願いがあるからです。それは貴財団編纂「新モーツァルト全集」の歌劇「フィガロの結婚」の中にモーツァルトの意思に反した間違いが2つ含まれているため、それを検証して欲しい、そして、それを納得いただけたら直ちに訂正して欲しいということであります。なおこの2つの箇所につきましては貴財団のデジタル版「新モーツァルト全集」で確認することが出来ます。

(1)第4幕の台詞を rispetto に直して欲しい
   「新全集」555ページのフィガロの台詞が、Suppliscavi il "dispetto"となっていますが、正しくは"rispetto"です。何故ならボーマルシェの原作戯曲がこの部分 croyez que je respect となっているからです。「旧全集」では"rispetto"であるものが「新全集」で"dispetto"に変わったのはなぜなのでしょうか。単なる誤植でしょうか、それとも別の理由によるものなのでしょうか。ご説明いただきたいと存じます。

(2)第3幕の曲順を N20−N19−N21 に直して欲しい
   「新全集」375ページからの N19−N20−N21 という曲順は、初演時の止むをえない事情によって変更されたものであり、元々モーツァルトが意図した曲順は N20―N19―N21 であったことがモウバリーとレイバーンによって証明されています。確かに「新全集」現行の順番は、初演時紛れもなくモーツァルトがつけた順番であるわけですが、私はモウバリー/レイバーン説を支持するものあります。是非とも十分にご検討いただきたく切にお願い申し上げます。

   以上2箇所の根拠は別紙にて説明させていただきます。それをお読みいただければ、それらがモーツァルトの意思であることがお分かりいただけけるものと確信いたします。私たちはモーツァルトが意図した真実の形を求めています。それはモーツァルトの音楽をこよなく愛するからであります。貴財団も、日々モーツァルトの人と作品の真の姿を求めて活動されていることでしょう。お互い真実を求める気持ちは同じだと思います。どうかこの共通な精神で上記2箇所の検証をお願いいたします。そしてこの提案に納得された暁には、是非ともこの訂正を行っていただきたいと存じます。2箇所の間違いがある「新全集」がこのままでは、「フィガロの結婚」の正しい形での上演は永久に望めません。それは「新全集」が世界中で大きな権威を持ち信頼を得ているからであります。反対にその信頼ある「新全集」が誤りを訂正すれば、世界の「フィガロの結婚」は正しい形に変わります。そうなれば、天上のモーツァルトもどんなにか喜んでくれることでしょう。それが彼の意図なのですから。
   貴財団の決断と実行に大いに期待するものであります。

2008年6月                                       
日本の一音楽ファン

   現在、この要望書は「モーツァルテウム財団」に送るよう段取りしております。一体どんな反応が現れるのかとても楽しみです。私は、"財団主導の「新モーツァルト全集」には間違いが二つある"という極端な言い方で、このテーマを敢えてシンプルに展開してまいりました。しかし世の中単純に運ぶことのほうが珍しいわけで、しかも事もあろうに誰もが知っている大人気の名作オペラの権威ある楽譜に、ド素人が考えても分かるような単純なミスが何十年もの間そのまま放置されているなんて、そのほうがよっぽど不自然です。また本音を言わせていただければ、モーツァルト/ダ・ポンテには、くそ真面目な rispetto よりもサビの効いた dispetto のほうが似合うと感じております。だからこそ真相を知りたいのです。ただし今はまだ"それでも『新全集』は間違っている"と考えていることに変わりはありませんけれど。
   第6章にも書きましたとおり、1973年以前にも dispetto は"楽譜の上で"存在していました。そして過日、親しくお付き合いさせていただいている音楽評論家のお宅で、この件を肴に盛り上がっていたときのこと、やおら彼がとり出してきたコレクションの中に同じような事象を発見しました。それは1964年録音のオトマール・スイトナー指揮シュターツカペレ・ドレスデン、プライ、ギューデン、ローテンベルガーらによるドイツ語版「フィガロの結婚」です。くだんの語句、この盤は Rache となっており,これは"復讐"という意味ですから dispetto です。すなわち1973年以前に、"ドイツ語で" dispetto があったのです。となると「新モーツァルト全集」の dispetto への変更は、誤植ではなく何かから引き出されたもの、ちゃんとした根拠があるもの、と考えるべきかもしれません。
   とにかくこれを契機にすべてが明らかになって欲しい。われわれが知りたいのは真実でありモーツァルトが望んだこと、ただそれだけなのですから。

     2ヶ月間にわたり拙論「『フィガロの結婚』真実の姿」にお付き合いいただきありがとうございました。このあと7月中は、エッセイなどを2〜3題書かせていただきます。毎回"思いもよらない視点から"書くのは無理でも、なるべく掲げてしまった看板に偽りなきよう頑張りたいと思います。次回は7月7日、「ハイフェッツの再来」と題して、昨年チャイコフスキーコンクールに優勝し、今月CDデビューを果たした50年にひとりの逸材、ヴァイオリニスト神尾真由子の天才の秘密に迫ります。


2008.06.23 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――6
<第6章>国際モーツァルテウム財団

   「新モーツァルト全集」の編纂は1955年に始まりました。ザルツブルクの「国際モーツァルテウム財団」が中心となって、モーツァルトの全作品を見直すという膨大なプロジェクトでした。目的は、ブライトコップ社刊行の所謂「モーツァルト旧全集」(1905年に完結)を見直し修正してより真実の形に近づけることでした。そしてこの作業がとりあえず完了したのは1991年モーツァルト没後200年のこと。楽譜の刊行はドイツの出版社ベーレンライター社が受け持ち、「フィガロの結婚」は1973年に刊行されています。ひとまず編纂が完了した1991年後も見直しは随時行われ2007年には補完修正作業もほぼ完了したといわれています。
   国際モーツァルテウム財団の歴史は古く、その母体であるモーツァルテウムは1841年に発足し1880年、組織の一環として国際モーツァルテウム財団が設立されました。以後現在に至るまで、自筆楽譜、書簡などモーツァルト・コレクションの収集管理、ゲトライデガッセの生家及びマカルト広場の住居の維持管理、国際モーツァルト週間の開催など、モーツァルトにまつわる様々な研究活動を行ういわばモーツァルト研究の総本山的団体です。
   前章までは間違いの張本人はベーレンライター社と申し上げてきましたが、ここで明らかなようにその黒幕は「国際モーツァルテウム財団」ということになります。すなわち1955年以来「国際モーツァルテウム財団」は新しくモーツァルトの全作品の見直し編纂を行い、その意を受けたベーレンライター社が「新モーツァルト全集」を刊行してきたというわけです。いわば家元直伝の最新版がベーレンライター版「新モーツァルト全集」ということになり、したがって世界の音楽界がこれをスタンダードと見做すのは自明の理なのです。1973年以降dispettoが大勢を占めたのもむべなるかなといえましょう。その作業は現在ほぼすべてが完了し、全楽譜はデジタル化されて世界の誰もがインターネットを通じて見ることができるまでになりました。これは実に画期的で財団の大きな功績です。
   この国際モーツァルテウム財団が公開している"NMA-PUBLIKATIONEN"で「新モーツァルト新全集」の「フィガロの結婚」を見てみましょう。「フィガロの結婚」はSerieU劇場音楽第32曲として掲載されており、その555ページには"dispetto"が、375ページからは第3幕曲順が見て取れ、[2箇所間違い型]が確認できるでしょう。
   でも、どうしてこのような事象が未だに続いているのでしょうか? この2箇所に関しての誤りは明白なのになぜなのでしょうか? 「新モーツァルト全集」は歴史ある財団が半世紀以上もかけてその叡智の限りを尽くして作り上げてきた最も信頼にたるスタンダードなのです。そして現在も日々訂正補完されているのです。なのになぜこんな単純なことに気づかないのでしょうか? 原作に当たれば簡単に分かることをどうして誰もそうしようとしないのでしょうか? 遠く離れた東洋の片隅にいる一ど素人音楽ファンが気づくような単純なことに、なぜ世界は気づかないのでしょうか? 正直私は不安になってしまいます、私が間違っているのじゃないかと。
   最近、音楽業界の先輩の一人が「お前さんの拘っているdispetto/rispettoに関して面白い事例があるぞ」といって、1959年平凡社刊行の「対訳オペラ全集」なる本を見せてくれました。ここにはくだんの部分がなんとdispettoとなっているではありませんか。「新全集」刊行の14年も前にdispettoの事例があったのです。違うところで同じ誤植をする確率は小さいので、dispettoは根拠ある変更だったのかもしれません、その当否は別にして。ならばその出典が何かを知りたくなります。一つの手がかりとして「対訳オペラ全集」の原典を探ることですが、著者の宮沢縦一氏はもはや故人であり、出版に関わった方々を探すのも容易ではないでしょう。とはいえ例えその出典が明らかになったとしても、ボーマルシェの原作が"respect"であることに変わりはなく、私の説が覆るものではありませんが。
   大きな確信とちょっとした不安。かくなる上は、張本人の「モーツァルテウム財団」に直接確かめるしかありません。「世界中の『フィガロの結婚』の上演が正しい形で行われるために、現行2箇所の間違いを訂正して欲しい」と提案するしかありません。「財団」はモーツァルトの財産を守りモーツァルトに係わるすべての事柄が正しい形で運用されることを是としており、「新全集」の編纂もまさにこの目的のために行われたのでしょうから、きっと真摯な対応をしてくれるはずです。そして、私の提案が正しい(=モーツァルトが意図したもの)と認められたなら、直ちに訂正してくれるでしょう。もし正しくないとしたならば、その理由を示してくれることでしょう。もしその理由が納得できるものだったら、私はもうこれ以上の追及はやめにしようと思います。


2008.06.16 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――5
<第5章> ザルツブルク2006公演の問題点

   歌劇「フィガロの結婚」の代表的なソフト16点のうち、2箇所とも正しい演奏が二つしかなかったのは大きな驚きでした。しかもこれらが作られたのは1973年と1980年ですから、もうかれこれ30年近くも正しい形のプロダクションが存在していないことになります。もちろんこれは大変な問題なのですが、それ以上に重要なのはザルツブルク音楽祭2006公演が"2箇所間違い型"であることです。
   現在オペラ演出において読み替えなる新機軸が幅を利かせているようですが、「そんなことを考える暇があったら、作品の本質に直接関わる基本事項をちゃんと抑えてください」と言いたい。「ケルビーノの化身を創造している暇があったら、曲順や歌詞を正しく踏まえてからにしてくださいな」と言いたいのです。

(1)演出上の失敗
   "2箇所間違え型"のザルツブルク2006プロダクションには、失敗とも言える演出部分が二箇所ありますので、まずはそれを指摘したいと思います。本文の趣旨とは若干ずれますが、オペラ演出の根幹に関わる重要な問題ですので敢えて触れさせていただきます。巷ではこのプロダクションが、「新しい登場人物を創造し斬新な解釈を施した画期的な上演。ついにモーツァルト・オペラの真髄が見えた」などと騒いでいて、ちょっとどうかと思うのですが、それについてはあえて言及いたしません、ここは解釈を議論する場ではありませんので。しかし物事には絶対に踏み外してはいけない最低限の約束事というものがあって、グート演出はこの部分に関わっているので一言申し上げたいのです。

@第3幕冒頭、伯爵夫人とスザンナの密談からスザンナが伯爵を誘惑する場面での夫人の動き
   伯爵夫人はスザンナに「伯爵に逢引の約束を取りつけなさい。私の計画は貴方の腕にかかっているのよ」と言い含めて肩を押してやる。躊躇していたスザンナはこれで意を決して伯爵に向かって歩き出す。夫人はこれを見届けたらすぐにその場を立ち去るというのが通常のパターン。この場面、グート演出では、立ち去るべき夫人がそうせずに、階段の上から二人の様子を窺っているのです、しかも長時間にわたって・・・これは絶対に間違いといわなければなりません。なぜなら、夫人はこのあとのレチタティーヴォで「スザンナは遅いのね。あの子の申し出に伯爵はなんて答えたのかしら・・・」と首尾の成否を案じて独白する場面があるからです。そうです「レイバーン説」のポイントになった例のレチタティーヴォです。伯爵とスザンナの小二重唱最後の部分、伯爵の「うれしい、わたしは喜びでいっぱいだ」という言葉までしっかりと聞いている人が、「なんて答えたのかしら」はないでしょう。挨拶代わりや話のきっかけとして「ねえ、どうだった?」と訊くのではなく、独白なのですから。演出上、二人のやり取りを直接垣間見る夫人の心理状況(その表情のなんと不安げなこと)を抉り出したかったのかもしれませんが、これは失敗でした。物事には犯してはならない約束事があるのです。

A第4幕、スザンナのレチタティーヴォとアリア「憧れの人の腕の中で」〜「早くおいで、素晴らしい喜びよ」の場面でのスザンナの服装
   フィガロが監視にやってくると知ったスザンナが、わざと"伯爵との逢引を待ちわびている"振りをして、フィガロを煽る場面です。この場面のスザンナの服装には、スザンナの服装のままと夫人に変装済みという二つのパターンがあります。グート演出はスザンナ服装型です。ところがこの服装、このあと夫人に変装したときのと実に区別がつきにくい。色は同じ黒系統、違いは胸の開き具合だけなのですから気づかない人も結構多いのではないでしょうか。二人が入れ替わるというのが第4幕のキイ・ポイントなのだからもっと区別のつきやすい服装をして欲しかった。例えば、エプロンを着用させるだけでもよかったのにと思いますが、美意識がそれをさせなかったのでしょうか。それともこの部分、グートは「そんなに神経質になりなさんな」と思っていらっしゃるのでしょうか。そうだとしたら、私はちょっとこの方と友達にはなれません。
   この部分は古今の演出家の勝負どころの一つなのでしょう、これまで様々な趣向が施されています。例えば、ベーム76DVDでのポネルは、「すでに二人は変装しており、スザンナ服装の夫人をフィガロの見える位置に置き、見えないところでスザンナに歌わせる」という凝った演出をしていました。
   またメータ03でのジョナサン・ミラーは、金色と黒という識別しやすい色違いのマントを小道具に使って、一目でそれと分かる変装を施していました。
   もうひとつ、最近特筆すべき演出を見ました。ヤーコプス04シャンゼリゼ劇場、ジャン=ルイ・マルティノティ演出のライブDVDです。フィガロから見える位置に"スザンナに変装済みの"夫人を立たせて"口パク"をさせ、陰でスザンナが歌うというものでした。ポネル型をさらに進化させたスタイルです。衣装も舞台装置も色彩的で品があって、モノトーンのグート演出とは視覚的に対極にある、見ていて実に楽しい上演でした。これがrispettoだったらと残念でなりません。

(2)2箇所間違え型の責任と義務
   ザルツブルク2006プロダクションは、dispettoと[1]−[2]―[3]並びの[2箇所間違え型]なのです。これは重大な問題です。なぜなら、ザルツブルク音楽祭はモーツァルト・オペラ上演における世界のリーダーであり、世界はそれを規範とし基準と考えるという図式があるからです。リーダーたるものは、その影響の大きさを十分に認識していただかなくては困ります。リーダーがこれでは今後正しい形での上演はますます望めなくなってしまいます。ザルツブルク音楽祭のスタッフは、使用している台本を即刻検証していただきたい。そして間違いを認識したら直ちに世界に発信していただきたいと思います。「フィガロ」上演正常化のために。


2008.06.09 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――4
<第3章>2箇所とも正しい形の演奏は二つしかなかった

(1)2つの要素の照合
   いよいよこれから、全16タイトルのうち"正しい形"での演奏はどれか?の検証に入ります。

      <第1章>から当該箇所の歌詞はrispetto=[パターンB]を正しいとした
      <第2章>から第3幕の曲順は[2]−[1]―[3]=[パターンB]を正しいとした

   即ち2項目とも[パターンB]による演奏が"正しい形"ということになります。照合をしやすくするために[パターンB]による演奏だけを項目別に列記してみましょう。

[パターンB]による演奏
   <1> rispetto型
      @カラヤン50CD
      AE・クライバー55CD
      Bジュリーニ59CD
      Cベーム66ザルツブルク音楽祭DVD
      Dベーム68CD
      Eプリッチャード73グラインドボーン音楽祭DVD
      Fベーム80東京文化会館DVD
      Gデイヴィス90CD

   <2> [2]−[1]−[3]型
      @プリッチャード73グラインドボーン音楽祭DVD
      Aベーム76DVD
      Bカラヤン78CD
      Cベーム80東京文化会館DVD
      Dアバド91アン・デア・ウィーン劇場LD
      Eハイティンク94グラインドボーン音楽祭DVD
      Fメータ03フィレンツェ五月祭DVD
      Gヤーコプス04シャンゼリゼ劇場DVD

   <1><2>に共通な演奏は――

      ・プリッチャード指揮、ピーター・ホール演出、グラインドボーン1973DVD
      ・カール・ベーム指揮、ヘルゲ・トーマ演出、東京文化会館1980DVD

16タイトルのうちたった2タイトルという結果となりました。

   特筆すべきはプリッチャード/ピーター・ホール盤です。このDVDは現在廃盤、ブレイク寸前のキリ・テ・カナワ、フデレリカ・フォン・シュターデ、イレアナ・コトルバスが一同に顔をそろえた超貴重盤としても名高いのですが、今回"モーツァルトが意図した正しい形での演奏"という新たな勲章が加わったことになります。曲順に関しては、本来の正しい事柄とはいえ、それまで長年実行されてきた慣例を覆すには勇気と確信がなければできないこと。おそらくこれは、舞台版「アマデウス」の演出もやっているイギリス演劇界の重鎮ピーター・ホールの慧眼でしょう(私の手持ちのコレクションではこれが最初の[パターンB]ということになりますが、これ以前に[パターンB]採用のプロダクションが存在している可能性はありえます、レイバーン説から7年もたっているのですから。ご存知のかたは教えてください)。rispettoに関しては、ベーレンライター版の影響を受けずにすんだギリギリの時期だったのは幸運でした。

   ベーム/ヘルゲ・トーマ盤DVDは名演の誉れ高いもの。フィガロはヘルマン・プライ、スザンナはルチア・ポップ、伯爵夫人はグンドゥラ・ヤノヴィッツ、ケルビーノがアグネス・ヴァルツァという錚々たる歌手陣にベーム指揮:ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団というまさに本場の「フィガロ」究極のステージが日本で上演されたのです。スタッフ・クレジットには、名演出家ジャン・ピエール・ポネルが衣装担当、ヘルゲ・トーマが演出となっていますが、トーマは"このツァーだけの"演出担当でした。したがって、元々の枠組みはポネルのものと考えていいでしょう。流石ポネル、ベーム76DVDでも[パターンB]曲順を採用していました。これについて、音楽評論家浅里公三氏はネット上で「ポネルは、夫人のハ長調のアリアを六重唱(「裁判の場」)の前に置き、劇的効果を高めている」(池田博明氏のサイトより)と述べられていますが、劇的効果を高めているのはポネルではなくモーツァルトなのです。
   rispettoに関しては多少微妙な問題をはらんでいます。確かにフィガロのヘルマン・プライは"rispetto"と歌っていますが、日本語字幕は「侮辱を与えてやりましょう」ですし(伊語字幕はなし)、ベーム76DVDの伊語字幕もdispettoとなっています。これらから、このプロダクションの使用台本がdispetto型だった可能性は十分ありえます。

(2)照合結果を考察する 
@dispettoが問題だ。
   第3幕曲順に関して、最初に現れた73年以降を検証すると、[パターンB]の8作に対し[パターンA]は3作です。このことからレイバーン説はかなり浸透していることが分かります。
   問題は、くだんの語句に関してです。最初は正しいパターンrispettoしかなかったものが、楽譜出版のベーレンライター社がdispettoにしてしまったため、刊行された73年以降、rispettoとdispettoが並存するようになりました。しかも、rispettoの3作に対しdispettoは8作を数え、間違いパターンの方が多いという状況を現出しています。これはベーレンライターの影響力の大きさを感じます。
   2つの要素のうち、第3幕曲順はレイバーン説の浸透度は高く、正しい方向に向かっていて、これは大変喜ばしいことです。一方語句についてはdispetto使用の傾向が強く、これは悪しき方向といわざるを得ません。

A楽観は許されない
   ここで別角度から"正しい形"である2タイトルを考察してみましょう。すなわちこの2タイトルが"なぜ正しい形に収まったのか"ということを。
   プリッチャード73グラインドボーン盤は、「レイバーン説」を勇気と確信を持って取り上げたことが勝因です。使用語句に関しては、dispettoが流布されるぎりぎりの時期だったため、正しい語句であるrispettoが使用された。これは幸運でした。
   ベーム80東京文化会館盤は、演出のポネルは曲順については「レイバーン説」を採用したが、使用語句に関しては、dispettoにしていた、すなわちベーレンライターを使用していた可能性がある。それは日本語字幕がdispetto訳であること、76ポネル演出の伊語字幕がやはりdispettoであることからの推測です。そうであるならば、このプロダクションが正しい形に収まったのは、ヘルマン・プライが"経験上自主的に"正しい語句であるrispettoを歌ったことによる。これは制作者の意図ではない。
   したがってたった2つしかない"正しい形"のプロダクションも、ひとつは時期的な運によって、もうひとつは歌手の経験によって生み出された偶然の産物だったかもしれないのです。すなわち"正しい形を意図して"制作されたプロダクションは、もしかしたらまだ存在していないのかもしれません。となれば今後"正しい形"のプロダクションが生み出される可能性は極めて小さいといわざるをえません。現に1980年以降"正しい形"は皆無なのですから。

   以上の結論はあくまで私が検証できた16点の範囲内でのことです。「フィガロの結婚」の上演も商品化されているパッケージも夥しい数に上っているので、それを100%検証するのは不可能ですが、今後可能な限りしてゆこうと思っています。
   そんな中、池田博明氏の「フィガロの結婚視聴データ」という、「フィガロ」の映像コンテンツを集めた注目すべきサイトに出会うことができました。全部で33タイトルが紹介されており、私が扱った10タイトルの映像商品は全て含まれています。そこには各プロダクションのデータは言うに及ばず、演奏・演出の細部にまで言及、内外の識者の評論・コメントもニュートラルに取り入れたまことに素晴らしい内容です。演出解説の中で第3幕曲順にも触れられていますので、私がとり上げた10点以外の中から[パターンB]のものを抜書きさせていただきます。

      エスマン指揮、ドロットニングホルム1981
      ガーディナー指揮、シャトレ劇場1994
      アーノンクール指揮、チューリッヒ歌劇場2002
      パッパーノ指揮、コヴェントガーデン2006

   少なくともこの4点に関しては、rispettoかどうかを検証してみたいと思います。但し、仮にこの中にrispetto型があったとしても、ザルツブルク2006が変わるわけではないので、私の説が根本から覆ることはありません。このことは第5章で詳しく述べさせていただきます。

<第4章>日本語訳の混乱

ここで話はちょっと横道に反れますが、"日本語訳"の観点から若干考証してみたいと思います。訳者の任務は"歌手が歌っている歌詞"を忠実に訳すことにありますが、ベーレンライター「新モーツァルト全集」が刊行された73年以降において、日本語訳の混乱がいくつか見受けられます。

(1)歌手がdispettoと歌っているのにrispetto訳をしているケース
      ・アバド、アン・デア・ウィーン劇場91LD
            「尊敬がございます」(武石英夫訳)
      ・ハイティンク、グラインドボーン94
            「尊敬がございます」(武石英夫訳)

(2)歌手がrispettoと歌っているのにdispetto訳をしているケース
      ・ベーム、ザルツブルク66DVD
            「腹いせがその代わり」(訳者不明)
      ・ベーム、東京文化会館80DVD
            「侮辱を与えてやりましょう」(武石英夫訳)

   発音と日本語訳が合っていないものは以上です。武石英夫さんが多いようです。二つしかない"正しい形"での公演の一つベーム80DVDの日本語訳が間違っているのはちょっと残念です。超名盤の微かな汚点といえるかも知れません。
   ベーム・ザルツブルク66DVDがdispetto訳になっているのは国内盤(TDK)が2003年発売だったためです。66年の上演なので歌手は当然rispettoとしか歌えません。ところが字幕入れ作業は(2003年には存在している)ベーレンライター版を使ったのでしょう、そのためdispetto訳になってしまったという、これは混乱の象徴的事例です。


2008.06.02 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――3
(3)レイバーン説の概要
   1965年、オーストリアの音楽学者マイケル・レイバーンとロバート・モウバリーが「『フィガロの結婚』第3幕の構成」を発表しました。このレイバーン説の存在は石井宏先生に教えていただきました。レイバーン/モウバリー文献は日本ではほとんど出回っていないため、先生のお話を元に構築しています。余談ですがマイケルの兄クリストファーはデッカのプロデューサーとして活躍、数々の名盤を作っています。
   「フィガロの結婚」が1786年5月1日、ウィーンのブルク劇場で初演されたときの曲順は[パターンA]の[1]―[2]―[3]だった。これまでこの曲順で固定されてきたが、調性的にモーツァルトの通常の並びではない。そこでレイバーンは、モーツァルトが本来意図した形は[パターンB][2]―[1]―[3]だったのではないかとの仮説を立てます。以下、レイバーンの推理を追ってみましょう。

      <初演の配役>
      フィガロ:フランチェスコ・ベヌッチ
      スザンナ:ナンシー・ストーレス
      アルマヴィーヴァ伯爵:ステーファノ・マンディーニ
      伯爵夫人:ルイーザ・ラスキ
      ケルビーノ:ドロテーア・ブッサーニ
      バルトロ&アントーニオ:フランチェスコ・ブッサーニ
      マルチェリーナ:マリーア・マンディーニ
      バルバリーナ:アンナ・ゴットリープ
      バジリオ&ドン・クルツィオ:マイケル・ケリー

   さすがにウィーンの宮廷で行われた初演だけあって、当時の錚々たる顔ぶれが並んでいるようです。中でもスザンナ役のナンシー・ストーレスは皇帝ヨーゼフ2世のお気に入りでモーツァルトも思いを寄せていたチャーミングなソプラノ歌手。フィガロ公演が終わってイギリスに帰る彼女に贈った曲が、コンサート・アリアの傑作、シェーナ「どうしてあなたを忘れられよう」〜ロンド「恐れないで愛する人よ」K505で、送別演奏会ではピアノ・パートをモーツァルト自身が弾いて愛するナンシーとの別れを惜しんだのでした。ウィーン滞在中だった彼女の兄で作曲家のステファン・ストーレスとバジリオ&ドン・クルツィオ二役のマイケル・ケリーは,殊のほかモーツァルトと気が合って、故郷イギリスに招くことを本気で考えていたそうです。当時のロンドンは、中産階級の台頭によってオペラ興行もウィーンとは比較にならないほどの活況を呈していたようで、もしこの話が実現していたら、モーツァルトのオペラはもっともっと増えていたかもしれません。

   初演日が間近に迫り、序曲を書いて全曲を作り終えたモーツァルトの次なる作業は曲順番号付けでした。第18曲まで順調にきたモーツァルトの手が、「裁判の場」と「そよ風の二重唱」にさしかかったところで止まってしまいます。第3幕の「裁判の場」は、フィガロとの結婚を主張するマルチェリーナが実はフィガロの母親で、バルトロが父親だったことが分かる仰天場面。その「六重唱」のあとは、フィガロ、スザンナ、マルチェリーナ、"バルトロ"のレチタティーヴォとなり、いきなり親子と相成った4人は降って湧いた幸せに大いに盛り上がりつつ退場するのですが、この直後"アントーニオ"と伯爵の掛け合いのレチタティーヴォがあって「そよ風の二重唱」につながってゆきます。ところが、バルトロとアントーニオは一人二役、この並びのままでは着替えている時間がない。さてどうする? そこで考えついたのが、二つの場面の間に、「裁判の場」の前においていた伯爵夫人のレチタティーヴォとアリア「スザンナは来ない」「甘く楽しかった幸せな時は」を挿入するというアイディアでした。こうすることによって、着替える時間が生まれ一人二役が可能になったのです。そしてこの順番で番号が打たれました。第19曲「六重唱」、第20曲「伯爵夫人のレチタティーヴォとアリア」、第21曲「そよ風の二重唱」というふうに。これが[パターンA]で、初演時の台所事情による苦肉の措置だったわけです。以後この形がずっと続いてきてしまいました。誰も疑問を挟まないままに。そして遂に1960年代に、マイケル・レイバーンとロバート・モウバリーがこの事実に気づき、モーツァルトがもともと意図していたオリジナルの曲順は[パターンB]であったと確定したのです。なんと初演から180年が経過していました。

(4)調性面からの検証
   レイバーンがこのことに気づいたきっかけは調性の並びでした。彼が目をつけたのはどこだったのか、2つのパターンを検証してみましょう。
   まずは、3つのブロックの調性を明記してパターンごとに並べてみます。

[ブロック1]−@=C  (結論は出た・・・)
[ブリック1]−A=F  (第19曲「六重唱」)
[ブロック1]―B=B♭(ああ、愛しい人・・・バルトロ含む四重唱)

[ブロック2]−@=C  (おいで村の・・・)
[ブロック2]−A=C  (第20曲「伯爵夫人のレチタティーヴォとアリア」)

[ブロック3]−@=F  (殿様、ケルビーノはまだ・・・アントーニオと伯爵)

      <パターンA>のつながりは
                  [C−F−B♭]―C―F
      <パターンB>のつながりは
                  C−[C―F−B♭]―F

   ポイントは、[ブロック1]第19曲を挟む前後のレチタティーヴォです。@のCがA第19曲Fを経てBの結尾ではB♭に変わっています。このあと[パターンB]では属調のFにつながります。Cにつながる[パターンA]ではわざわざB♭に変えた意味合いが希薄です。即ち元々は[パターンB]だったことになる、レイバーンはこう考えたのです。

   流れをまとめてみましょう。

      <パターンA>は、B♭からCを経てFにつながる。
      <パターンB>は、CからCにつながり、同一ブロック内でFを経てB♭に変わってから属調のFにつながる。

   <パターンB>が自然なことは一聴瞭然です。

(5)動かぬ証拠
   これまでで[パターンB]が本来の形であるとの確証が得られたと思いますが、この項では更に物語の進行という視点から検証してみましょう。
   「裁判の場」の前半にはスザンナの姿は見えません。マルチェリーナがフィガロの母親だと分かった後、無論そんな状況はご存じないスザンナが財布を手にして法廷に登場してこう言います、「伯爵様、お待ち下さい。2000ギニー用意いたしました。フィガロに代わってお支払いいたします」と。そうです、スザンナはフィガロの借金を工面して持ってきたのです。一体どこの誰に用立ててもらったのか?それは伯爵夫人からでした。この部分オペラでは説明がありませんが、ボーマルシェの原作では、スザンナが「伯爵様、お待ち下さい。奥方様より頂戴しました私の持参金をお支払いいたします」とはっきりと言っています。この間スザンナは"伯爵夫人に会っていた"のです。
   ならば第20曲夫人のレチタティーヴォとアリア「スザンナはまだ来ない」は絶対に「裁判の場」の前、即ち[パターンB]でなくてはなりません。[パターンA]だとすると、少し前に会っちゃっている人間に対して、「まだ来ない」は矛盾します。これこそ[パターンB]が正しいことの動かぬ証拠ではありませんか。
   更に音楽面から見ても、「裁判の場」〜「ソプラノ・ソロ」〜「ソプラノ・デュエット」と並ぶ[パターンA]よりも、動的な「裁判の場」をはさむ形で、2曲の美しい女声楽曲が前後に配置されている[パターンB]のほうがより音楽的であり、モーツァルト的佇まいであるといえるのではないでしょうか。これもレイバーン説の正しさの証明です。

(6)楽譜の検証
      ・ブライトコップ版は[パターンA]
      ・ベーレンライター版「モーツァルト新全集」(73刊)も[パターンA]

   ブライトコップ版が[パターンA]なのは当然でしょう。時期的には十分チャンスがあったベーレンライターも[B]を採用しませんでした。天下のベーレンライターがこれを採用しなかったのには何か理由でもあるのでしょうか。理解に苦しみます。

(7)結論
@初演時、台所事情によって[パターンA]で上演、その形のまま20世紀後半まできてしまった。これに疑問を持ったモウバリー/レイバーンが、1965年に正しい形を掘り起こした。

Aレイバーンは、[パターンB]をモーツァルトが意図した正しい形であると規定した。  しかし、73年刊ベーレンライター「モーツァルト新全集」はこの説を採用せず、今日に至っている。

  *"[パターンB]が正しいのは分かるが、[パターンA]は初演の形なのだから、これを否定するのは行き過ぎではないか" との反論も聞こえてきそうである。確かにそれも一理あるだろう。だったら私はこう言いたい、[パターンA]を採用するならバルトロとアントーニオの一人二役にすべきだと。それなら初演の忠実な再現として理にかなっている。ところが残念ながら、このスタイルでのプロダクションは私の知る限り存在していない。世のオペラ関係者の皆様は、このスタイルを採用してみてはいかがだろうか?
   「『フィガロの結婚』初演スタイルでの公演」、なかなかインパクトある歌い文句ではないか。

   画期的なレイバーン説のおかげで、第3幕の順番が正しく規定されました。正しい形である[パターンB]は、1973年、プリッチャード指揮のグラインドボーン公演で初めて実現しています(私の手持ちソフトでは)。以後[パターンB]の採用は増加の傾向にあります。

   ・・・・・・・・・・・・・・・[結論2]モーツァルトが意図した正しい曲順は[パターンB]である・・・・・・・・・・・・・・・


2008.05.26 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――2
<第2章>第3幕の曲順

   以前あるテレビ通販チャンネルで、オペラDVD&CDを監修したことがあります。「フィガロの結婚」「椿姫」「カルメン」「トゥーランドット」を4枚組のセットにしたのですが、その「鑑賞の手引き」を作ったときのことでした。
   「フィガロの結婚」は、サー・コリン・デイヴィス指揮バイエルン放送響90年のハイライトCDを選びました。第3幕には、六重唱「この抱擁で母親と分かっておくれ」〜伯爵夫人のレチタティーヴォとアリア「スザンナは来ない」「甘く楽しかった幸せな時は」〜「そよ風の二重唱」がこの順番で収録されていました。これは"何か違う"と違和感を覚えました。今までの自分の記憶とは違うのです。急いでベーム76DVDと比べてみました。なんと、最初の曲と2番目の曲が入れ替わっています。この部分、世の中には二通りの曲順が存在していることに気づいた瞬間でした。

   では第3幕の曲順について検証いたします。「六重唱」「伯爵夫人のレチタティーヴォとアリア」「そよ風の二重唱」、楽曲ナンバーでいいますと、第19曲、第20曲、第21曲(このナンバリングはベーム76DVDに従っています。この版は第8曲「娘たちよ、喜びのうちに花をまけ」が第9曲にも繰り返されています。そうでない版はこの部分第18曲、第19曲、第20曲となっていたり、もっと若い番号のものもあります)の部分の曲順が二通り存在しているのです。ここでは、どうしてこういう現象が起こったのか? モーツァルトが本来意図したのはどっちだったのか? 検証します。

(1)ブロックで括る
   当該楽曲の前後にはレチタティーヴォが付帯していますが、これらは一つのブロックとして切り離すことはできません。したがって楽曲を移動させたりする場合は一個のまとまったブロックとして動かすことになります。まずはブロック別内容を表記します。

[ブロック1](裁判の場)
@レチタティーヴォ「結論は出た」(ドン・クルティオ、マルチェリーナ、フィガロ、伯爵)
A第19曲六重唱「この抱擁で母親と分かっておくれ」(マルチェリーナ、フィガロ、 バルトロ、ドン・クルティオ、伯爵、途中からスザンナ)
Bレチタティーヴォ「ああ、愛しい人」(マルチェリーナ、バルトロ、スザンナ、フィガロ)

[ブロック2](伯爵夫人のレチタティーヴォとアリア)
@レチタティーヴォ「おいで村の美しい娘が来ている」(バルバリーナ、ケルビーノ)
A第20曲レチタティーヴォとアリア「スザンナは来ない」「甘く楽しかった幸せな時は」(伯爵夫人)

[ブロック3](そよ風の二重唱)
@レチタティーヴォ「殿様、ケルビーノはまだ城にいます」(アントーニオ、伯爵)
Aレチタティーヴォ「話して、伯爵は何と言われた?」(伯爵夫人、スザンナ)
B第21曲小二重唱「そよ風に寄せる・・・」−「甘い西風が」(伯爵夫人、スザンナ)

(2)2つのパターンに分類する
   順番は二通り存在しています。[1]−[2]−[3] と [2]−[1]−[3]です。

[パターンA]=ブロック[1]−[2]−[3]の順
@カラヤン指揮50年CD
Aエーリヒ・クライバー指揮55年CD
Bジュリーニ指揮59年CD
Cベーム指揮ザルツブルク66年DVD、ギュンター・レンネルト演出
Dベーム指揮68年CD
Eショルティ指揮パリ・オペラ座80年DVD、ジョルジュ・ストレーレル演出
Fデイヴィス指揮90年CD
Gアーノンクール指揮ザルツブルク06年DVD、クラウス・グート演出

[パターンB]=ブロック[2]―[1]―[3]の順
@プリッチャード指揮グラインドボーン73年DVD、ピーター・ホール演出
Aベーム指揮76年DVD、ジャン・ピエール・ポネル演出
Bカラヤン指揮78年CD
Cベーム指揮 東京文化会館80年DVD、ヘルゲ・トーマ演出
Dアバド指揮アン・デア・ウィーン劇場91年DVD、ジョナサン・ミラー演出
Eハイティンク指揮グラインドボーン94年DVD、スティーヴン・メドカウ演出
Fメータ指揮フィレンツェ五月祭03年DVD、ジョナサン・ミラー演出
Gヤーコプス指揮、シャンゼリゼ劇場04年DVD、ジャン=ルイ・マルティノティ演出

   これも全16点のうち丁度半々づつという結果となりました。まずここで分かることは[パターンB]が初めて登場するのが1973年で、それ以前は全て[パターンA]であること。73年以降は[パターンB]が優勢である、ということです。二つの曲順、これは一体どういうことなのか、どちらが正しいのか?これは1965年に出されたマイケル・レイバーンの学説に起因しています。
   次回はレイバーン説についてお話しいたします。


2008.05.21 (水)  「フィガロの結婚」〜3人の風雲児が産んだ奇跡の傑作
<第1章>3人の風雲児
   モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」の原作は、フランス人ピエール=オギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェ(1732−1799)が書き、1784年に初演された戯曲「法外な一日、あるいはフィガロの結婚」です。ボーマルシェはパリのしがない時計職人の子供に生まれましたが、並外れた才能と天才的な世渡りの術で、ルイ15世〜ポンパドール夫人のお気に入りとなって貴族にまでなってしまいます。そんな彼が(フランス政府の意向で)アメリカ独立戦争に加担しながら書きあげた反貴族主義の戯曲がこの「フィガロの結婚」なのです。彼の思想が最もよく現れている、劇中フィガロがアルマヴィーヴァ伯爵に向かって言うセリフを引用してみましょう。「貴族、財産、身分、階級・・・そういった財宝を手に入れるために、あなたは何をなさいました?生まれてきた、ただそれだけのことじゃありませんか。それだけのことでそこまでのものを手にお入れになった・・・ところがこの俺なんぞは・・・ただ生きていくことだけのためにも、ありとあらゆる知恵、才覚を使わなきゃならなかったんですよ」(石井 宏訳)。このフィガロのセリフこそ階級社会への強烈な批判でありボーマルシェ自身のメッセージに他なりません。最近刊行されたアメリカの本に「ボーマルシェは子供のころ"fils caron"と呼ばれていた」とあるそうです。これは"カロンところの息子"という意味ですが、発音してみてください。"フィス・カロン"・・・そうです"フィガロ"なのです。彼はすでに子供のころから「フィガロ」だったわけです。このフィガロ=ボーマルシェの上記セリフは日本語訳本で6ページに及ぶ長大なもので、彼が「フィガロの結婚」に込めた思いの核心部分なのですが、一方これこそ当時の為政者=貴族階層にとって最も受け入れ難い思想だったのでしょう、オペラでは完全にカットされています。
   さて今度はモーツァルト(1756−1791)です。彼も田舎町ザルツブルクの宮廷楽士の家に生まれた庶民の子。上司とケンカして25歳でウィーンに出てきて独り立ちします。ピアノ教師と予約演奏会で売れっ子になりますが、彼の夢はオペラでヒットを飛ばすことでした。それもイタリア語の。そこでぶちあたったのがフランスで評判になっている「フィガロの結婚」でした。ところが数年後に革命を控えている(貴族の力が弱まっていた)フランスではなんとか上演が許されたものの、まだまだハプスブルク家の権勢が強いオーストリアでは上演禁止となっている作品です。(ハプスブルク家が崩壊するのは1918年です)。こんな危険思想いっぱいの問題作のオペラ化は、まともにいけばお上は許可しないに決まっています。でもモーツァルトはこの作品のオペラ化をどうしても実現したかった。この原作品に宿る活き活きとした時代の息吹みたいなものを感じとっていたのでしょう。そして数年後の1789年にフランス革命を控えた切迫した情勢を嗅ぎ取っていたのでしょう。革命が起きてしまったらこの"庶民が貴族を揶揄する物語"は意味がなくなってしまうからです。とにかく彼はこのタイミングを逃したくはなかった。モーツアルトがこのオペラ化を思い立ったのは1785年頃と言われていますのでそのチャンスは僅か4年間しかなかった訳です。この僅かなタイミングをつかんで傑作を残したモーツァルトのセンスと才能は一体なんと形容してよいのか分かりません。音楽を作るだけでなく時代を読む目も天才的だったのです。このおかげで私たちは人類の宝ともいうべき作品を今享受できるのですから。
   ではここで第3の男に登場してもらいましょう、彼の名はロレンツォ・ダ・ポンテ(1749−1838)、イタリア生まれのユダヤ人。彼こそモーツァルトの意を受け歌劇「フィガロの結婚」実現に一役も二役も買った大いなる立役者の一人なのです。彼の少年時代、一家はユダヤ教からキリスト教に改宗します。それを受けて彼はヴェネツィアで聖職者となりますが、生来の自由で自然児的気質からお堅い生活にはなじめずに放蕩生活を送るようになり、教会から追放されてしまいます。稀代の女たらしカサノヴァに出会ったのもこの頃です。流れ着いたウィーンで宮廷楽長のサリエリに能力を買われ、宮廷詩人として採用されました。モーツァルトにとって宮廷内に彼がいたことがどんなにありがたかったか知れません。モーツァルトから「フィガロ」の相談を受けた彼は台本作りを快諾。貴族を刺激する部分をカットしたり穏やかな表現に変えるなどして台本を完成、更に宮廷内のネゴシエーションも買って出ます。そして、作品審議会を通さずに直接皇帝ヨーゼフ2世を説得するというウルトラC級の業を使って、遂に上演許可を取り付けたのでした。
   こうして歌劇「フィガロの結婚」は、1786年5月1日、ウィーンのブルク劇場で初演されます。フランス革命に先立つわずか3年前のことでした。
   歌劇「フィガロの結婚」は、このように原作者ボーマルシェ、作曲者モーツァルト、脚色者ダ・ポンテという時代の風雲児の才能が一体となり正にこの時を外してはでき得なかったタイミングで生み出された空前絶後の傑作と言うことができるのです。私たちはこの3人をこの時期、この世の中に送り込んでくれた神様の裁量にいくら感謝しても感謝しきれるものではありません。
   ボーマルシェはフランス人、モーツァルトはオーストリア、ダ・ポンテはイタリア生まれ、舞台はスペインで言語はイタリア語・・・・などなど考えると「フィガロ」は真に国際的な作品だということも分かります。ヨーロッパの英知を結集し市民階級が主役に躍り出る時代の先駆けとなった奇跡の作品・・・と言い換えることもできるでしょう。

<第2章>物語の展開とその面白さ
   以上、「フィガロ」の思想的側面に絞ってお話してきましたが、演劇的にも実に良くできた面白い作品であることは言うまでもありません。モーツァルトがこの原作に接してオペラ化を思い立ったのは、その思想に共感したからというのは述べてきたとおりですが、一方その演劇としての面白さと完成度の高さに作曲家としての嗅覚が働いたことも見逃せないでしょう。イタリア語のオペラをウィーンでヒットさせるという生涯の夢を叶えるにはこの作品をおいてほかにない=この作品に自分が音楽を書けば大ヒット間違いなし、との強い確信を持ったのだと思います。むしろ"思想に共感"よりもこの"作曲家としての嗅覚"のほうが強かったのかもしれません。それではあらすじと見所を・・・・

     心躍る序曲が終わると、フィガロがどこにベッドを置くかと部屋の中で寸法を測っている。なにをしているのと聞くスザンナに「殿様が隣のこの部屋を下さった。便利だからな」。これを聞いたスザンナ「私はいや、だって殿様はあの"領主権"(領内の女性が結婚する前に初夜をいただく貴族の権利のこと)を復活させて結婚前の私をねらっているんですもの」・・・このスタートの会話から結婚を控えた二人の状況とこれから何が起ころうとしているのかが一発でわかります。すなわちフィガロはそんなことを目論む主人(伯爵)に対し策略をめぐらせてなんとか自分たちの結婚式を済ませてしまおうとするわけです。
   さてその作戦は・・・・・
@"伯爵夫人が逢引をする"という偽手紙を書きバジリオ(領内の音楽教師)を使って伯爵に届けて"嫉妬深い"伯爵を錯乱させる
Aスザンナに"好色な"伯爵を誘惑させ、スザンナに変装させたケルビーノという思春期真っ只中の小姓を待たせて伯爵を欺く
B村人を使って伯爵をほめ殺しにして権利復活をあきらめさせる
・・・・・その混乱の隙を突いて結婚式を挙げてしまうという筋書き。
   ところが、スザンナと伯爵夫人がケルビーノに女装させている時に不意に伯爵が現れてこの計画がバレて消滅。(この第2幕、小部屋を使った人の入れ替えによる騙し合いとスリルの面白さ!)
   ならば今度は・・・・・"スザンナが伯爵を誘惑し、スザンナと夫人が変装で入れ替わって伯爵を懲らしめる"・・・・・という新規計画を夫人が考案、スザンナに提案し実行に移す(女はコワイ!)。そう、夫人はかつてあれほどまでに誠意と情熱を持って自分を口説いてくれた(このあたりのお話は前段話ロッシーニ「セヴィリアの理髪師」でご覧下さい)伯爵がもう自分に飽きて浮気を企んでいるのを嘆きなんとか彼の目を自分に向けさせようとしているのです。ポイントは"この新規計画をフィガロは知らない"ということで、これが第4幕の面白さにつながります。
   一方フィガロもすねに傷があって、実は少し以前女中頭のマルチェリーナという年増女に金を借りて、その時「返さない場合は結婚する」という証文を書いてしまっている。金はまだ返してないし返せるあてもない。これを知った伯爵はほくそ笑みスザンナとの結婚は認めないと逆襲にでる。裁判。ところがびっくり仰天の結末。なんとマルチェリーナはフィガロのお母さんで、かつてフィガロに苦汁を舐めさせられて復讐を目論んでいた医師バルトロが父親だった。これで一転して祝福ムードに。これが第3幕。 第4幕は伯爵夫人の計画実行の場。暗闇の中でスザンナに変装した夫人を伯爵はそれと知らずに本気で口説く。この作戦を知らないフィガロが、スザンナが伯爵と逢引するという噂を聞いて現れ、現場を覗き見て嘆き悲しむ。ところが終盤このからくりを見破ったフィガロ、気づかぬ振りをして夫人に変装したスザンナを口説くと、今度はスザンナが怒り心頭・・・・等々シチュエーションがめまぐるしく変わる面白さ、見事さ。最後は伯爵も夫人に謝り夫人も伯爵を許し、フィガロとスザンナもめでたく結婚、そしてもう一組、バルトロとマルチェリーナも結ばれてメデタシメデタシで幕と相成ります。

<追伸> 次回は5月26日、本題に戻って「フィガロの結婚」真実の姿――2をお届けします。


2008.05.19 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――1
<第1章>dispettoとrispetto

   昨年末あたり、「そんなに面白ければ原作も読んでごらん」、歌劇「フィガロの結婚」について色々お聞きしていた時のこと、石井宏先生にそう言われて、ボーマルシェ作「法外な一日、またはフィガロの結婚」(新書館)を読んでみました。先生とはCD−BOX「なかにし礼モーツァルト・コレクション」(BMG JAPAN)の制作時、楽曲解説をお願いして以来親しくお付き合いさせていただいています。この本は先生の訳ですが、その本文もさることながら、解説が最高に面白い。パリのしがない時計屋の息子に生まれたボーマルシェが、自らの才覚だけを頼りに、貴族の称号を手に入れて時の権力の中枢に入って大活躍をする、そんな時代の風雲児の人生には興味尽きないものがあります。そして、モーツァルトと宮廷詩人ダ・ポンテがこの戯曲に出っくわして歌劇「フィガロの結婚」が誕生するわけなのですが、そのあたりのくだりは次回で。
   さて、ボーマルシェ版「フィガロの結婚」を読んではオペラDVDを見るという"相互鑑賞"をしていた或る日、"おやっ"というセリフにぶつかりました。原作本229ページの2行目、第4幕のフィガロのセリフ「奥方様の目には見えない所にも、ご尊敬申し上げる気持ちが潜んでいるとお考え下さい」が、同じ箇所、76年制作ベームのDVDでは、「侮辱の念をそれに代えて」という日本語字幕になっている。明らかに違う意味内容です。そこで手持ちのフィガロのDVDとCDで、その部分のイタリア語がどうなっているかを調べてみました。その結果驚くべき事実が判明したのです。この箇所を"dispetto"と歌っているものと"rispetto"と歌っているものが並存していたのです。これは一体どういうわけだろう? なぜこのような奇妙なことが起きたのだろうか? どちらかが正しくて、どちらかが間違いなのか? 以下がその追跡記録であります。

   歌劇「フィガロの結婚」第4幕13場フィナーレ、フィガロの「すべては静かで穏やかだ」から始まる部分、伯爵夫人に変装したスザンナをそれと見破ったフィガロが口説いてからかう場面があります。フィガロが「さきほど貴方のご主人が私の新妻とあずまやに姿を消しました」と告げると「仕返ししてやりたいわ」と(夫人に変装している)スザンナ。フィガロが「お忘れくださいませ、あんな裏切り者のことは」とジャブを打って「奥様に燃える心を捧げます」と畳み込む。そこでスザンナは「愛情もなしに?」と問いかけるが、これを受けてフィガロが言うセリフが、「Suppliscavi il dispetto」のものと「Suppliscavi il rispetto」の二通りあるのです。
   dとr、たった一文字の違いですが、dispettoは腹いせ、rispettoは尊敬という全く違う意味の単語になります。文全体の意味は、前者は"伯爵がスザンナに浮気している「腹いせ」に代えて私と浮気しましょう"で、後者は"愛情の代わりに奥様に対する「尊敬」がありますから是非私と"となります。対象を変えて解釈すれば意味は通ってしまうとはいっても、二つの形が存在しているのはなぜなのでしょう。

(1)2つのパターンに分類する
   まずは代表的な「フィガロの結婚」のDVD、CD16タイトルをどちらの言葉で歌っているか識別・分類します。方法は、当該部分のヒアリングによって行いました。dは鋭い語調/rは巻き舌のため、識別は比較的容易で、結果全16点のうち14点は完全に識別ができました。ベーム76DVDのヘルマン・プライとカラヤン78CDのジョセ・ヴァン・ダム、2点の判別がつきにくかったので、これらは付属の伊語字幕も参考にしました。

[パターンA]="dispetto"と歌っているもの
@ベーム指揮76年映画版DVD、ヘルマン・プライ(フィガロ)、ジャン・ピエール・ポネル演出
(どちらとも言えない微妙な発音も、伊語字幕はdispettoなのでこちらに分類)
Aカラヤン指揮78年CD、ジョゼ・ヴァン・ダム
(これもどちらともいえないので伊語対訳dispettoに従う)
Bショルティ指揮パリ・オペラ座80年DVD、ジョゼ・ヴァン・ダム、ジョルジュ・ストレーレル演出
Cアバド指揮アン・デア・ウィーン劇場91年LD、ルチオ・ガッロ、ジョナサン・ミラー演出 
Dハイティンク指揮グラインドボーン94年DVD、ジェラルド・フィンリー、スティーヴン・メドカフ演出
(伊語字幕もdispetto)
Eメータ指揮フィレンツェ五月祭03年DVD、ジョルジョ・スーリアン、ジョナサン・ミラー演出
Fヤーコプス指揮シャンゼリゼ劇場04年DVD、ルカ・ピサローン
(伊語字幕もdispetto)
Gアーノンクール指揮ザルツブルク音楽祭06年DVD、イルデプランド・ダルカンジェロ、クラウス・グート演出
(伊語字幕もdispetto)

[パターンB]="rispetto"と歌っているもの
@カラヤン指揮50年CD、エーリヒ・クンツ(フィガロ)
Aエーリヒ・クライバー指揮55年CD、チェーザレ・シェピ
Bジュリーニ指揮59年CD、ジェゼッペ・タディ
Cベーム指揮ザルツブルク音楽祭66年DVD、ワルター・ベリー、ギュンター・レンネルト演出
Dベーム指揮68年CD、ヘルマン・プライ
Eプリッチャード指揮、グラインドボーン音楽祭73年DVD、クヌート・スクラム、ピーター・ホール演出
Fベーム指揮 東京文化会館80年DVD、ヘルマン・プライ、ヘルゲ・トーマ演出
Gデイヴィス指揮90年CD、アラン・タイタス

   全16点のうち丁度半分づつで、rispettoは70年代以前に多く、dispettoは76年以降に限られています。したがって元々はrispettoだったものが70年代半ばあたりにdispettoが現れて、現在ではdispettoを使用することが多くなっている、というのがこの推移です。
   検証すべきは2点、モーツァルトのオリジナル台本はどちらだったか? オリジナルと違う語句に変えた犯人は誰か? ということです。

(2)楽譜の検証
   ・ブライトコップ版はrispetto
   ・ベーレンライター版・モーツァルト新全集(73刊)はdispetto

(3)原作の検証
   この部分、オペラの原作1784年上演のボーマルシェ作の戯曲の台本(フランス語)はこうなっている――
「croyez que je respect」(見えないところにも、ご尊敬申し上げる気持ちが潜んでいるとお考え下さい)

(4)結論
@原作本・ボーマルシェ作「法外な一日、またはフィガロの結婚」がrespect(フランス語)なので、モーツァルトのオリジナル台本はrispettoで間違いない。 モーツァルト/ダ・ポンテがオペラ化の際にこの部分を(故意であれ誤植であれ)dispettoとする可能性もないではないが、dispettoでの上演やレコーディングが1970年代以前には1点も存在していないという事実から、この可能性は皆無と断定できる。

A73年刊行のベーレンライター版「モーツァルト新全集」で、dispettoとした。 これ以前には全くなかったものが、これ以降俄然dispettoの使用が多くなってゆく。"権威ある"ベーレンライター版の影響の大きさを感じる。ただし、どうしてdispettoになったかは不明。根拠あってのことなのか単なる誤植なのか?これについては当事者に正すしかないが、現段階では不要。次のステップで自然と解明されるだろうから。

   以上から、オリジナル=正しい形はrispettoであると結論できました。そしてdispettoなるオリジナルと違う歌詞を採用してしまった犯人はベーレンライターだろうということです。なぜならそれ以前にdispettoなる楽譜もなければプロダクションも存在していないからです。
   これらの結論は石井先生のご意見もお聞きして確証を得たものです。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・[結論1] 正しい形はrispettoである・・・・・・・・・・・・・・・・

<追伸> 「『フィガロの結婚』真実の姿」は毎週月曜日に更新しています。これを読み始めていただいた方の中にはクラシックに関してよくご存知の方もそうでない方もいらっしゃると思います。後者でこの話に興味を持っていただいた方のために、"「フィガロの結婚」鑑賞の手引き"を今週水曜日5月21日に掲載いたします。劇的な時代の中で生まれた奇跡の産物という観点から、タイトルも「3人の風雲児が産んだ奇跡の傑作」としました。勿論オペラとしての見所もわかりやすく説明いたします。


2008.05.12 (月)  クラシック 未知との遭遇――プロローグ
    私は終戦の年1945年の生まれであります。1950年代は、長野の小学生でした。母に勧められて習い始めたピアノと音楽の授業で聞いた「運命」でクラシックに目覚めたころ、57年にはカラヤン/ベルリン・フィルの初来日、59年にはデル・モナコを擁するイタリア歌劇団の公演などにテレビで遭遇、クラシック音楽の魅力にとり憑かれてゆきました。小学生の小遣いは年1000円。これで当時流行り始めたコロムビア・ダイヤモンド・シリーズ25センチ1000円盤を買ったものです。装置はビクターの免税プレーヤー5980円。これを5球スーパーにつないで毎日毎日同じ盤を一年中聴いていました。オーマンディ:フィラデルフィア管の「運命」、オイストラッフのメンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」、カザルス/ゼルキンのベートーヴェン「チェロ・ソナタ第3番」など。中学生になると少しは小遣いも増えて30センチ盤が買えるようになりました。ワルター:ニューヨーク・フィルの「ジュピター」「40番」、フルトヴェングラーの「エロイカ」「7番」、トスカニーニの「第九」「ローマ3部作」、ミュンシュ:ボストン響の「幻想交響曲」、ムラヴィンスキーのチャイコフスキー「悲愴」、ライナー:シカゴ響の「新世界より」、ギレリスの「皇帝」、クライスラー(バルビローリ指揮)のベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」、ブリュショルリのチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」などなど、今でもその音や節回しはしっかりと脳裏に刻み込まれています。
    高校時代は受験勉強中心だったため、大学に入ったらオーケストラに入ろうと決めていました。1964年東京オリンピックの年、一橋大学に入って即オーケストラ部に入部、トランペットをやって4年間、楽しくも充実した大学生活を送ることができました。この間、安川加寿子さんとは「戴冠式」を、海野義雄さんとはチャイコフスキーを協演、身に余る貴重な体験でした。あとピアニストの安部牧子さんとベートーヴェンの4番を演りました。ものすごい美人ピアニストで、私は楽譜を見ずに顔ばかり眺めていました。今頃どうしていらっしゃるでしょうか。同期のオーボエに宮城敬雄がいて、今彼は50歳を過ぎてデビューした遅咲きの指揮者として大活躍中です。
    卒業して、これも当たり前のように日本ビクターに入社、営業、宣伝を経て現在はBMG JAPANダイレクト・マーケティング部で、様々なジャンルの制作に携わっています。

    好きなクラシックはさておき、レコード会社ではジャンルにこだわることなく、営業、宣伝、制作と様々な業務に携わってきました。やっと還暦を過ぎた3年くらい前から、やっぱり昔とった杵柄、クラシックに立ち返って楽しんでいます。集中していろいろな曲を改めて聴いてみると、面白いことにぶち当たるようになりました。たとえばモーツァルト「フィガロの結婚」第3幕の曲順が二通りあることに気がついたり、更にある時、第4幕のあるセリフがこれまた二通りあることに気がついたりしました。これはなぜ? いつ頃から? モーツァルトが意図したのはどっち? 今出ているソフトはどうなっている? その辺をトコトン追求してゆくと、今まで見えてなかったものが見えてくるのですね。そう、まさに「未知との遭遇」です。これらを解きほぐしてゆく過程はまるで推理小説の謎解きのようで、やっていてこんなに楽しいことはありません。もしかしたら世界で誰も気づいていないんじゃなかろうかなどと思ったりしながら・・・。モーツァルト「フィガロの結婚」の研究過程である高名な音楽学者にお話したところ、「私も知らなかった、よく気がついたね」と言われました。だから、私の着想まんざらではないなと自負しております。J.S.バッハの「フーガの技法」も謎が多く興味はつきません。この曲順についてもあることに気がつきました。また「ミサ曲ロ短調」にも奇妙な事象が多々あって、これもいずれこの場をお借りしてお話できればと思っております。そんな『クラシック 未知との遭遇』にしばしお付き合い下さい。

    まずは「フィガロの結婚」から始めさせていただきます。

「フィガロの結婚」真実の姿――はじめに
    先日の朝日新聞夕刊に、愛知県芸術劇場で行われた2006ザルツブルク音楽祭公演、クラウス・グート演出「フィガロの結婚」のステージ評が載っていました。岡田暁生さんという音楽学者の方の評でした。「登場人物の解釈は斬新かつ正しいが、くどくど注釈ばかりでたまらない。ここまで読み替えるなら、音楽も無調風にアレンジすればいい」という主旨でした。私もこの舞台、東京で見ましたが、先生と同じく概ね批判的です。但しその理由は違いますけど。逆に、先生評の"音楽を無調風に"の部分はあまりに強烈過ぎて腰が抜けてしまいました。
    私が申し上げたいのは、演出上のことではなく、「この最も"新しくて権威のある"ザルツブルクのプロダクションには、台本上の間違いが二つ含まれている、これが問題だ」ということです。
    言うまでもなく、「フィガロの結婚」は、天才モーツァルトの代表作であると同時に古今のオペラ作品の中でも群を抜いた傑作であり人気演目です。前述ザルツブルク2006クラウス・グート演出が話題になっていますが、これまでにも、ジャン・ピエール・ポネル、ジョナサン・ミラー、ピーター・ホールなど錚々たる演出家による夥しい数のプロダクションが存在しています。しかしながら、これらの中でモーツァルトが意図した「フィガロの結婚」の"真実の姿"を伝えているものが一体どのくらいあるのでしょうか。これを検証し、その結果を世界へ発信するのが私の目的です。おそらくこの指摘は世界で始めてのものになるでしょう。そして近い将来、「フィガロの結婚」の上演は、すべて私の指摘どおりの形になるはずです。なぜならそれはモーツァルト本人が意図したものであるからです。


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