クラシック 未知との遭遇
2024.12.16 (月) ワーグナー「ニーベルングの指環」総括
<プロローグ>
「ニーベルングの指環」総括 などという大仰なタイトルを掲げてしまいましたが、“総括”なんてこの私にできるはずがありません。なんといっても、「ニーベルングの指環」ほど巨大な作品は人類史上皆無なのですから。総時間16時間強という長大さもさることながら、物語の複雑さ、音楽の精緻さ、詩と音楽が一体となった完成度の高さ・・・・・どこを取ってもこれほど偉大な作品は他に見当たりません。まさに空前にして絶後の作品なのです。
なので、“総括”というのは作品の全容を解明する などという大仰なものではなく、素人の私が貧弱な知識とクラシック音楽ならどんなに長くても苦なく聞いていられるという持久力の賜物として、自分なりにまとめてみようかな といった程度のものであります。
リヒャルト・ワーグナー(1813−1884)は、人生においても作品においても実に破天荒。そんな特質からワーグナー(の作品)を語る文章は枚挙にいとまがありません。例えばこんなモノがあります。
「ワルキューレ」第1幕は兄妹によるエッチである。人妻の妹は欲求不満で流れ込んできた兄を誘うんですね。熱い視線で見つめながら、目線でダンナを殺す武器のありかを教える。挙句の果てに自分の過去の話に興奮して、自分から「腕に抱きたーい!」なんて、大胆。有名な二重唱(「冬の嵐は去りて」に次いで「あなたこそが春です」から始まる部分)に入ると、オケがムラムラとする二人の脈拍の響きを描写します。さらに抱き合いながら、ますます情欲が沸き上がり、見つめ合いながら、ついにお互い指でBまで始めちゃう情景が音楽で表現されます。どうです。ワーグナーってやはり凄いエロ作曲家でしょ。
〜ムック本「このオペラを聴け!」の「ワルキューレ」の項(吉澤ヴィルヘルム著)
なんとも下世話な表現ですが的を射てはいます。これはこれで理解はできる。どんなに下劣な表現だとしても、それを浄化してしまうワーグナーの音楽があるということ。これは凄いことなのです。
一方で、ほぼ同じシーンを述べたこんな文章もあります。引用してみましょう。
ジークムントにとっては、ジークリンデ自身が、この自然の水とアルコールの飲物に等しく、彼の惑わされた存在の「夜と暗黒」における「暖かさと日の光」である。彼女は、彼を剣が運命づけられている「友」と認め、彼が彼女の「恥と不名誉」の復讐をすることを願う。フンディング(ジークリンデの夫)が彼の異教徒的性質の境界内に留まるならば、ジークリンデも彼女自身の性質の境界内に留まったが、彼女は、この彼女自身の性質について、今や彼女の男性の片割れの中で意識し始めていた。「私はあなたをはっきり認めた。私の目があなたを見たとき、あなたは私のものでした。私が心に秘めているもの、私自身は、私に訪れた日のように輝かしい・・・・・。あなたは、凍る寒さの冬に私が望んでいた春です」
〜リン・スヌーク著、佐藤静子訳「『ワルキューレ』または『神々との決別』」
これは、1967年バイロイト音楽祭公演(カール・ベーム指揮)のライブLPの解説文の一部です。コレ、原語は不明ですが、なんともワカリニクイ。こんな文体で延々と続く文章は途中で放りだしたくなります(笑)。
上記二つは、「ワルキューレ」の男女二人の交情についての文章ですが、なんと異なる感触の文章でしょうか。どちらが下世話でどちらが格調が高いか などと選別しても意味はない。これまたワーグナー作品の懐の深さの表れといえるでしょう。
トーマス・マン(1875-1955)が、1937年11月16日、チューリヒ大学で行った「リヒャルト・ワーグナーと『ニーベルングの指環』」という講演があります。このあたり、ナチスが権力を振るい2年後には第2次世界大戦に突入する緊迫の時代。マンはこのときすでにドイツを去り亡命中の身でした。
そのような最中に行われたマンの講演は、数ある「指環」評論の中でも出色のスグレモノ。「指環」への惜しみない愛と真実の姿を抉る鋭い筆致に溢れています。今回は、これを基に、「ニーベルングの指環」という稀有なる作品の本質に迫ってみたいと思います。
(1) なぜ題材が神話でなければならなかったのか
ワーグナーは「ローエングリン」作曲中から、次の作品の主題を「赤髭王フリードリヒ」にするか「ジークフリートの死」にするか 迷っていました。前者は衰退しかかっていた帝権回復を目指して戦った神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世〜歴史上の人物です。後者はゲルマンの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」や北欧神話「エッダ」に登場する勇者〜神話の世界の英雄です。
ワーグナーが目指した未来に生きる芸術作品に相応しい題材はどちらか?この主題たりうるものは、あらゆる因襲から解放された非歴史的で純粋に人間的なものでなければならない。ならばそれは「ジークフリートの死」なのであります。ワーグナーはこの素材に入り込むうちに歴史的残滓を排除し、主題から一枚一枚と後世が着せた衣装をはぎ取って、この主題がこの上なく純粋な人間的な姿で生まれ変わる民族の詩作する心から生まれ出てきたそもそもの原点に辿りつきました。ワーグナーが理想とした未来に冠たる芸術作品の題材は、その普遍性から、神話でなければならなかった。そのため、その主題は、すでに現代的で、歪曲があり、歴史的な「ニーベルンゲンの歌」を通り越して、ドイツ以前のスカンディナヴィア的初期ゲルマン的な「エッダ」にまで遡る必要がありました。
こうして生まれた「ニーベルングの指環」は、ルネサンス以後支配的であった市民的な文化教養全体に対抗して、原初性と未来性との混合という本性から、階級なき民衆性というどこにも存在しない世界に向けて書かれた作品となったのです。
(2) なぜこれほどまでに長大な作品となったのか
ワーグナーはまず「ジークフリートの死」の詩作を完成させました。次なる作業は曲を付けること。ところが彼はまだ作ることができなかった。なぜなら、これが出来上がって上演されたとしても、観衆は理解できない。予備知識を必要とするからです。ワーグナーはこれを嫌いました。理解するために何かを知っていなければならない、などという要求は強いてはならぬこと。ワーグナーは真摯な芸術家なのです。
ならばどうするか・・・・・それはそれに先立つもう一つ別の物語を創る以外に方法はありません。「ジークフリートの死」(第3夜「神々の黄昏」)に先立って、ジークフリートの成長を描く「若きジークフリート」(第2夜「ジークフリート」)が、その前段には、彼の出生を紐解く「ワルキューレ」(第1夜「ワルキューレ」)が、冒頭には全体を俯瞰する序夜「ラインの黄金」が必要でした。これら詩作の完成を見て、初めて音楽づくりに着手したのです。
「ジークフリートの死」の詩作を始めたのが1848年、楽劇「ニーベルングの指環」全4部作が完成したのは1874年。そこには26年という長い年月が流れていました。
(3) 完成に時間がかかったもう一つの理由
「ニーベルングの指環」は200に余る示導動機(ライトモティーフ)からできています。示導動機は、作品に登場する様々な具体的抽象的事象を一定の音形で表したもの・・・・・自然、現象、建造物、神、人間、象徴、行為、情緒、気分、小道具etc。それらは各々的確な性格付けがなされ、一聴してそれが何かが判る。まさに示し導く音形。示導動機とは言い得て妙であります。
指導動機は、人(神)物を表象します。人物の過去を回想します。人物が何を考えているか誰を思い描いているかを暗示します。その場に迫って来る何者かを予感させます。したがって示導動機はすでに文学的要素を含んでいます。物語の流れを形作る旋律線は平面的にも時間的にも複層的に絡み合い、その旋律唱は、アリア(詠唱)的なものは極めて些少でほとんどがレチタティーヴォ(叙唱)の連続となります。全音階と半音階の巧みな融合による和声的旋律線が対位法的に組み合わされて、時には無限旋律の要素を含みつつ、音楽の流れを形成してゆくのです。
「ワーグナーという作曲家は、どのようなときに自分の仕事に満足できたかといえば、それはごく微細なディテールを何とか仕上げた時だった」とトーマス・マンは言います。微細なディテールの仕上げとは「詩と音楽を完全に融合させる音楽的作業」と言い換えることができるでしょう。この「言葉と音符を編み込んでゆく工程」は絨毯を編む作業に似ています。縦糸は文学、横糸は音楽。ワーグナーの作品は音楽と文学の一体化の産物。音楽は文学であり文学は音楽なのです。
ワーグナーの作曲という作業がこのようなディテールの積み重ねであったとするならば、途方もない時間がかかったことは容易に想像できるでしょう。
(4) ワーグナーが敬愛した芸術家
ワーグナーは「モーツァルトの優美な光と愛との神的創造力」を讃嘆しています。これは「モーツァルトに比べれば遥かに天上界から遠く、遥かに重苦しく、遥かに重い重荷を背負った彼自身の作品が完結して、精神が安定し観照的年齢に達した今、初めて敬意を表すことになった」とトーマス・マンは述べています。人間は、達成感と満足感から他人を敬愛する余裕ができる。これは一つの真理なのかもしれません。
老年の巨匠はまたフェリックス・メンデルスゾーンを讃嘆しています。彼はメンデルスゾーンを「思慮深く節度ある繊細な芸術的感覚の模範」と称しています。これまた客観的、非利己的な讃嘆といえます。
ワーグナーが最も敬愛した音楽家は紛れもなくベートーヴェンでした。「熱狂的な調子に陥ることなく彼を語ることはできない。ベートーヴェンは常に最高にして最大のものでした」と述べています。彼が最も讃嘆したのは「第九」だったでしょう。言葉によって「愛と連帯」、「神への賛辞」というメッセージを込めたベートーヴェンの傑作こそが彼が求めた芸術と相通ずるものがあったと思います。それが証拠に、自己の理想を実現するために建設するバイロイト祝祭劇場の定礎式(1872年)で演奏したのがこの「第九」でした。
「ワーグナーがベートーヴェンと並ぶものとすることができる人間。それは唯一シェイクスピアだけです」とトーマス・マンは述べています。ワーグナーは家族を前に「ハムレット」や「マクベス」を朗読し、時折中断して、「この男は何を見たのだろう。比類がない。奇跡としか理解できない!」と叫んだそうです。彼がシェイクスピアに見た比類なき奇跡とは「言葉だけによって世界や人間を形骸化しえた極致的作品づくり」である とトーマス・マンは言います。
<エピローグ>
5月以来、楽劇「ニーベルングの指環」の物語が何を礎として作られたのか、そして、それをどう取り込んだのか? を命題にこの作品に向き合ってきました。きっかけは映画「ニーベルンゲン」でしたが、考察は「エッダ」「サガ」にまで及び一応の完結を見ました。その7か月間は、私にとって有意義かつ至福の体験となりました。
ワーグナーという超天才がとほうもない時間をかけて完成した人類の宝ともいうべきこの作品を、今後、「掴んだ」とか「極めた」などということがあろうとは到底思えませんが、これから可能な限り、何度も何度も接してゆこうと思っています。そこにはきっと新しい発見があるはずです。その瞬間瞬間こそが、必ずや、我が人生の生きる歓び となるでしょう。
講演の終盤近く、トーマス・マンが分析して綴った「ジークフリートの葬送行進曲」の描写があります。示導動機の連鎖をこれほどまでに見事に辿った文章は稀です。最後にこれを掲げて、今後「指環」の多くのシーンがこんな風にリアリティをもって体感できることを念じつつ、長きにわたって携わってきたワーグナー「ニーベルングの指環」論考の終焉といたします。
これは「ジークフリートへの挽歌」です。それはきっと思考と想起との圧倒的な大祭典になるでしょう。少年ジークフリートの、母への憧れに満ちた問い。自由を持たぬ神が神ならぬ者の自由な行動のために自ら生んだ彼の一族の英雄のモティーフ。素晴らしく見事に浮かび上がってくる、兄妹でもある彼の両親の愛のモティーフ。力強く鞘から抜かれる剣。以前に告知として最初はワルキューレの口から聞かれた、彼自身の本性を示す大いなる定型のファンファーレ。巨大なリズムへと拡げられた彼の角笛の響き。かつて彼が眠りから目覚めさせた女性への愛を表わすやさしい音楽。奪われた黄金に対するラインの娘たちの古くからの嘆き。そしてアルベリヒの呪いを表わす陰鬱な音の刻印。こうしたすべての荘重にして重い感情を背負った運命の色濃い、想起を誘うものの数々が、大地の鳴動と雷鳴のもとで、高く掲げられた棺の遺骸と共に舞台を去って行くことになるのです。
<参考資料>
講演集「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」(トーマス・マン講演、青木順三訳 岩波文庫)
このオペラを聴け!〜楽劇「ワルキューレ」(吉澤ヴィルヘルム著 洋泉社MOOK)
ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」1967バイロイト音楽祭ライブLP解説文(リン・スヌーク著、佐藤静子訳)
ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」CD、DVD
クナッパーツブッシュ指揮(1951)、ショルティ指揮(1965)、ベーム指揮(1967)、
カラヤン指揮(1970)、ブーレーズ指揮(1980)、バレンボイム指揮(1992,2010)
2024.11.07 (木) MLB2024ワールドシリーズ「クラ未知」的リポート
10月「クラ未知」に今年いっぱいはワーグナー・テーマで と記しましたが、先日終わったワールドシリーズを、劣勢が予想されたドジャースが制覇、嬉しさ余って、これを書くことにしました。
とはいえ、このあと、メディアは大谷翔平くん中心の取り上げ方になるのは必定ゆえ、ここは「クラ未知」的に別視点から斬り込ませていただきます。
ドジャースは弱体といわれた先発投手陣が頑張って3連勝。この勢いはもしやスイープ!?とまで思わせた第4戦。ヤンキース強力打線が、ドジャース苦肉のブルペンデーを打ち崩し、一矢を報いました。不振を極めていたジャッジにタイムリーが出るなど明るい兆しが見え始めたヤンキース。ここからはコール/ロドンの2枚看板で巻き返せる とNYも盛り上がってきました。
10月30日(木)、ヤンキースタジアム。ワールドシリーズ第5戦が始まりました。
(1) ドジャース5回表の同点劇には伏線があった!?
先発ピッチャー、ヤンキースはコール、ドジャースはフレアティ、エース同士第1戦の再現です。
1回裏、ヤンキースの攻撃。フレアティ、2番ソトに逃げの四球を与えます。ここで思い浮かぶのはB’Zの「BLOWIN’」〜負けるのは怖くないちょっと逃げ腰になる日が来ることに怯えてるけど〜人間逃げに回るとやられます。
さあ、復調気配のジャッジ。初球を叩いて2ランホームラン! 続くチゾムJr. もホームランで3点。2回にはバデューゴのタイムリー、3回にはスタントンのホームランが出て5−0とリード。ヤンキースの猛攻にスタジアムは沸き返る。これはイケる。今日勝てば2勝3敗、ジャッジにも一発が出たし、いよいよ巻き返しだ とNYのファンは希望に胸を膨らませたことでしょう。
そして迎えた5回表ドジャースの攻撃。ここまで先発のコールはドジャース打線をノーヒットに抑えるという完璧なピッチングを続けています。
先頭打者は、ポストシーズン男Mr.オクトーバーの異名を持つキケ・ヘルナンデス。ライト前に初ヒットを放ち反撃の口火を切りました。
次打者はエドマン。リーグチャンピオンシップMVPのスイッチヒッター。左打席でセンターフライを打つ。なんのことはないイージーフライ。と思った瞬間、ジャッジまさかの落球! なぜか一塁ランナーに目をやったようで、魔が差したとしか言いようのないプレーです。ノーアウト1、2塁。
ウィル・スミス三遊間にゴロ。遊撃手ボルピー、ホースアウトを狙い3塁へ送球。これが指に引っかかったか悪送球に。ノーアウト満塁。このピンチにもコールは落ち着いて、ラックス、大谷を連続三振に切って取ります。さあ、ドラマはここから始まるのであります。
2アウト満塁で打者ベッツ。2球目を緩い当たりの1塁ゴロ。ああ、これでチャンスも終わったな とドジャース応援の私なんぞはガックリきたものです。
ところがここでとんでもないミスが・・・・・一塁手リゾは慎重に補球してベース上にトスしようとするが誰もいない。なんと!コールがベースカバーを怠ったのです。セーフで1点。
ではここでコール、リゾ両者の胸の内に分け入ってみましょう。
実は、ここで思い起こすべきは1回表のドジャースの攻撃なのです。打者ベッツ。3球目を打って緩い当たりの1塁ゴロ。リゾ難なくさばいて自らベースを踏みアウト という場面がありました。
5回表、全く同じシチュエーションが再現されます。まさにデジャブ! ベッツが打った緩いゴロが一塁手前に転がる。コール「ここもリゾが捕ってベースを踏んでくれるはず」と思い込みベースカバーに入らない。一方リゾは「打球に少しカーブがかかっている。ジャッジみたいなミスをしないよう、ここはまず慎重に捕球してからコールにトスするのがベター」と判断したのでしょう。捕球してトスしようとした時、ベース上には誰もおらず、ベッツが駆け抜けていました。そうです、この
ヤンキースの致命的なミスの裏には1回表の伏線があったのです。
ここは100%コールのミスです。このケース、いかなる状況でも投手はカバーに入らなくてはいけません。例え一塁手が自らベースを踏んでカバーが不要になろうともです。この初歩的ミスを犯したコールの頭には「なんてことをやらかしちゃったのか」という痛恨の思いが拡がりました。が、一方で、「リゾよ、1回表は自らベースを踏んでくれたのに今度はなぜそうしなかったのかい」の些少な疑念も湧く。他方、リゾには「自分が急いで駆け込んでいればアウトにできたかもしれない」の自責の念がある。
ジャッジ、ボルピーの時にはポーカーフェイスを崩さなかったコールですが、ここでは明らかに顔つきが変わっていました。
モヤモヤ感を抱えたまままのコール。絶好調のフリーマン、勝負強いテオスカー・ヘルナンデスに連打を浴び、この回5点を献上、大量リードをフイにしてしまいました。
(2) デーブ・ロバーツとアーロン・ブーン 両監督の差
ドジャースのロバーツ監督の軽率さ(?)は有名です。昨年12月、ストーブリーグ大谷争奪戦の最中、「彼とは話をしたよ いい感触だった」とペロっと口を滑らせる。でも、後日、これをネタに笑いを取る。この陽気さこそがロバーツ監督の真骨頂なのです。
メッツとのリーグチャンピオンシップ第5戦。1回表ドジャースの攻撃。ノーアウト2、3塁、3塁ランナー大谷の場面。打者テオスカー・ヘルナンデスはショートゴロ。大谷突っ込まず。結果この日は12対6の大敗でした。このあとロバーツ監督は「あそこは流れの分岐点だった。彼は突っ込まなくてはいけない。きっと思考停止していたのだろう」と珍しく大谷を非難しました。ですが、ここは大谷が正解でしょう。この場面ノーアウトなのだから、まだ1アウト満塁、チャンスは残る。あとはフリーマン〜エドマンと続く頼りになるバッターに任せればいい。危険を冒してまで突っ込むことはないのです。でもって、ロバーツさん、まだ始まったばかりなのに“流れの分岐点”はないでしょう(笑)。私「これは二人の間にワダカマリが生ずるぞ」と危惧したものです。でも心配ご無用、翌日二人は笑い合っていました。このあと腐れのなさもロバーツ監督の美点です。
ロバーツ監督はまた実に辛抱強い指揮官です。ビューラーは元々実力者。2021年には16勝4敗という素晴らしい成績を残しています。でも、トミージョン手術から復帰した今シーズン、なかなか調子が上がらない。成績も1勝6敗と散々。ロバーツ監督はそんなビューラーを打たれても打たれても使い続けた。「彼ならきっと復活してくれるはず」との信頼感があったに違いありません。それに応えたビューラー、徐々に調子を上げ、ポストシーズンに入るころには本来の姿を取り戻しました。ロバーツ監督には選手を信じる辛抱強さと優しさがあります。
一方、ヤンキースのブーン監督。退場王の異名を取るなどややキレ易い性格のようです。ベンチでガムを噛みながらの強面、コワイですね。でもまあ、名門ヤンキースの監督を7年間も勤めているのですから技量に問題があるはずはないでしょう。
陽のロバーツVS陰のブーン。シリーズの行方を決めた第5戦。この一戦こそ、両監督の性格が現れ、その差が明暗を分けた戦いでした。
第1のポイントは、勝敗の分岐点となった5回表ドジャースの攻撃です。ジャッジの落球もボルピーの悪送球も普通のエラー、大したことじゃない。最大の問題はコールの怠慢プレーです。「なぜこんな初歩的なミスを犯しちゃったのだ」という痛恨の念と「なんでベースを踏んでくれなかったんだ」という仲間への猜疑心。これらが入り混じってコールの心は複雑に揺れ動いていたはずです。テレビ中継の解説者田中賢介氏によると、「こんなとき内野手に声をかけマウンドに集めて投手を励ますのはベテラン リゾの役目だった」そうです。そのリゾが自責の念からかそれをためらった。マウンド上のコールに近寄る選手は誰もいませんでした。
ならば、そこで動くのは監督しかいない。ブーン監督は、コールの心中を察してマウンドに行き声掛けすべきでした。「大丈夫、1点を失っただけじゃないか。あとをしっかりと押さえればいい。さあ頑張っていこう」とかの。こうすれば、フリーマン、テオスカーの二連打は防げたかもしれません。しかし、
ブーン監督はベンチから動かなかったのです。
このあとゲームは6回裏スタントンの犠飛でヤンキースが勝ち越したあと、8回表ドジャースが再逆転し7−6となります。第2のポイントは、1点差を追いかけるヤンキース8回裏の攻撃です。
ドジャース、マウンド上はトライネン。6回裏のピンチに登板、そこを切り抜け、7回はパーフェクトに抑える。そのあとドジャースが逆転。自身ほとんど経験のない3イニング目に突入していました。心身ともに疲れはピークに達していたはずです。
強打者ソトが倒れて1アウト。次は劣勢挽回を図りたい責任感の強いジャッジ。粘った末に気迫の2塁打を放ちます。次打者、当たっているチゾムJr.。トライネン、弱気になったか?逃げて四球、逆転のランナーを許す。1アウト1、2塁。次打者はこの日2打点と絶好調のスタントン。一発出れば逆転の大ピンチです。とその時、
ロバーツ監督がベンチを出たのであります。「落ち着いて、落ち着いて」と言わんばかりに、掌を上下に動かしつつマウンドに歩み寄る。そしてトライネンの胸に指を立てながら「大丈夫だ。お前に任せたぞ。強気で行け」。こんな言葉をかけたのでしょう。
トライネン、1球でスタントンを右邪飛に仕留め2アウト。次打者リゾを三振に切ってとりピンチを凌ぎました。トライネン、拳を天に突き上げる。ロバーツ監督、ベンチでガッツポーズ。二人の意思が通じ合ったピンチ脱出の図でした。
9回裏、クローザー初体験のビューラーが抑えのマウンドに。レギュラーシーズンに見せたノーコンと弱気は影を潜め、力強いボールをストライクゾーンに投げ込みます。打つなら打ってみろの自信に溢れた投球。これぞビューラーの、悪くても使い続けてくれたロバーツ監督への恩返しの熱投でした。
ワールドシリーズ第5戦。ドジャースがもしこのゲームを落としていたら、流れは一気にヤンキースに傾いていたでしょう。シリーズの行方を左右するとてつもなく大きな分岐点でした。
自軍のピンチにマウンドに行かなかったブーン監督。同じ状況で即座に動いたロバーツ監督。両監督の差が勝敗を分けたのです。
ドジャースのワールドシリーズ制覇の因は数々あるでしょう。フリーマンの目覚ましいばかりの活躍、大谷翔平の存在感、山本由伸の健闘、先発&ブルペン陣の頑張り、Wヘルナンデス、エドマンらの貢献等々。しかし、ロバーツ監督の人間力こそがドジャースをワールドシリーズ制覇に導いた。そんなことを考えさせられた2024ワールドシリーズでした。
2024.10.31 (木) ワーグナー「神々の黄昏」原典との照合 (後編)
第3幕
<第1場>ラインの荒涼とした谷
前奏曲〜「角笛の動機」が響き渡る中、「ラインの乙女の動機」が重なって幕が開く。3人のラインの乙女たちが泳いでいると角笛が鳴ってジークフリートが現れる。乙女たちは彼の指に輝く指環を見てとると、「その指環には呪いがかけられています。それを持つ人には死が訪れるのです。だから指環をラインの河底に返しなさい。ラインの流れのみが呪いを清めてくれるのですから」とジークフリートに進言する。が、ジークフリートは言うことを聞かない。業を煮やした乙女たち「さあ、この男は放っておきましょう。指環の呪いにも、気高い宝(ブリュンヒルデ)の価値にも気づいていない愚か者なのですから」と嘆きながら立ち去る。残ったジークフリートの耳に、狩りをする角笛の響きが聞こえてくる。
<第2場>同上
ギービヒとジークフリートの「角笛の動機」が交錯するとハーゲンが家臣を引き連れて登場する。あとには家長のグンターが続く。ブリュンヒルデの不機嫌を気にかけてか塞ぎ込むグンターに、弟分を自認するジークフリートは自身の身の上話を話し始める・・・・・「ミーメに育てられ、名剣ノートゥングを再生し大蛇ハーフナーを倒した。その血を舐めると小鳥の話が解るようになり、小鳥は『ミーメは命を狙っている。大蛇が守っていた指環は世界を征服する力があり、隠れ兜は役に立つ』と歌った」と話す。話の途中でハーゲン、「まずはこの酒を飲みなさい。私が薬を加えてある。これによって遠い昔の記憶がさらにはっきりと蘇るはずだ」と勧める。これを飲んだジークフリートは話を先に進める。「小鳥はさらにこう歌った。『ブリュンヒルデという気高い女性が炎に囲まれた高い岩の上で眠っている。彼女を目覚めさせよ。そうすれば彼女はあなたの花嫁になる』と。私は小鳥の言葉に従いブリュンヒルデを目覚めさせた。そして熱い抱擁を交わしたのだ」。これを聞いていたグンター、「なんということだ!」と怒る。
ハーゲンは「お前は鴉の言葉も解るだろう。今、鴉がこう言ったぞ。『わしに復讐しろ』と」。そう叫びつつジークフリートの急所である背中に槍を突き刺す。ジークフリート、倒れる。これに気付いたグンターと家臣たちは「ハーゲン、何をしたのだ」と驚く。これに対してハーゲンは「偽りの誓いに復讐したのだ!」と言って立ち去る。グンターと家臣たちはジークフリートににじり寄る。
息も絶え絶えのジークフリート、「ブリュンヒルデ、神聖な花嫁よ。不安な眠りに縛り付けられたお前を私は目覚めさせる。あなたの喜びが微笑む! ああ、その吐息のかぐわしさ! 甘美な死よ、幸せな戦慄よ。ブリュンヒルデが私に挨拶する」と言い遺してこと切れる。家臣たちがジークフリートの遺骸を担ぎ上げ、葬列をなして運んでゆく。
間奏曲は「ジークフリートの葬送行進曲」。「ジークフリートの死の動機」を基調に、「ヴェルズングの英雄の動機」や「ジークリンデの動機」で父母を偲び、「剣の動機」から「ジークフリートの動機」を経て「ジークフリート英雄の動機」で頂点を築く。荘厳さの中に気高く勇壮な英雄を悼む感動的な音楽である。
<第3場>夕夜のギービヒ家の広間
ジークフリートの帰りが遅いのを心配するグートルーネの耳にハーゲンの声が聞こえる。「松明を燃やせ、狩りの獲物を運んで来たぞ」。現れたハーゲンはグートルーネに「これが狩りの獲物、お前の夫ジークフリートだ」と告げる。むなしく響く「ジークフリートの動機」。グートルーネ、ジークフリートの亡骸にしがみつく。
グンターは妹を慰めるが、意に介さないグートルーネは「ジークフリート殺したのはあなたたちなのね」と叱責する。これを受けてハーゲンは「そうとも彼を殺したのはこの私だ。わしの槍は偽りの誓いを許せなかったのだ」更には「彼の指環は私が受け取るのが正当だ」と開き直る。
これを聞いたグンターは「指環はグートルーネに渡るべきものだ」と反論。言い争いの末、ハーゲンはグンターを刺し殺し、ジークフリートの指から指環を引き抜こうとする。その時、ブリュンヒルデが現れてこう言う。「大声で嘆くのはやめてください。彼はあなた方皆に裏切られたのです。彼の妻が復讐のためにやってきました」と。
これを聞いたグートルーネは感情的になって、「あなたがわれわれに災いをもたらした。あなたがこの家に来たことを呪う」とブリュンヒルデを非難する。そこでブリュンヒルデ、「哀れな女よ、あなたは彼の妻では決してなかった。妻はこの私。あなたと知り合うずっと以前に彼は私に永遠の誓いを立てたのです」と諫める。これを聞いたグートルーネは、ハーゲンが忘れ薬を使ってジークフリートに背信行為を成さしめたのだ と悟り、絶望してその場を立ち去る。ブリュンヒルデはジークフリートの潔白を改めて認識する。
さて、ここからは、音楽史上最も長大で深遠なアリア「ブリュンヒルデの自己犠牲」となる。最愛の夫ジークフリートを失い悲しみに打ちひしがれながらも世界を真正な形に導くべき使命感に燃えた、これは、ブリュンヒルデ渾身の口上なのである。
大きな薪を積み上げてください 私のためにラインの岸辺に
気高い英雄の体を焼きつくすために 彼は私を裏切ったが最も清い
人でした
妻を欺きながらも友には忠節をつくし 誠実な妻と彼自身を剣で隔
てました
彼ほど純粋に誓いを守った人はなく 誠実に契約を守った人はいません
そして彼ほど純粋に人を愛した人はいないのです
しかしまた すべての誓い 契約 誠実な愛を 彼ほど欺いた人もいません
神聖な神々よ あなた方の眼差しを 私の限りない苦悩に向けてください
そしてあなた方の永遠の罪を悟ってください
あなた方の益のために為した彼の行為は あなた方が陥る呪いの中に没せられたのです
この最も清らかな男は 私を裏切らねばなりませんでした
神々よ 静かに休んでください
あなた方が怖れながら待っているこの知らせをカラスに託して送ります
呪われた指環よ 恐ろしい指環よ お前を手に取りすぐに手放しましょう
ラインの乙女たち あなたがたの正直な忠告に感謝します
あなた方が熱望するものを 私はあなた方に与えます
私を焼いた炎の中からそれを取り 自分たちのものにしてください
私を焼き尽くす火が指環の呪いを清めます
流れの中であなた方は指環を溶かし純粋な黄金として守ってください
かつて不幸にもあなた方から奪われた黄金を
飛んで帰れ からすたちよ お前たちの主人に伝えよ ここラインで聞いたことを
ブリュンヒルデの岩を通り まだ燃えていたなら ローゲに ヴァルハルへ行くよう指示しなさい
神々の最期は 今や始まっています こうして私はこの火を点ずる 壮麗なヴァルハルの城に
グラーネ 私の馬よ ようこそ お前はもう知っていますね どこへ私が連れてゆくか
火に囲まれて お前の主人はそこに横たわっている ジークフリート 私の幸せな英雄
グラーネ お前を彼のところへと 炎が笑いながら誘っているのね
私の胸もまた燃えているのを感じておくれ 明るい炎が 私の心を とらえている
彼を抱きしめ抱きしめられ 力強い愛の力で彼と結ばれようと
グラーネ お前の主人にあいさつを ジークフリート 見てください
喜びに満ちて あなたの妻が あいさつするのです
そして、ブリュンヒルデは炎に身を投じる。「ラインの乙女の動機」が、「指環」がラインの乙女に返されること、「ヴァルハルの動機」が、城が炎に焼け落ちることを示唆する。「ジークフリートの動機」が勇壮に、そして、ジークリンデ〜ブリュンヒルデに受け継がれてきた「愛の救済の動機」が至高の美をもって熱く心を揺さぶる。大作の最後を彩る感動的なオーケストラの響きである。
(天野晶吉氏の訳を参考/引用させていただきました)
6月から5か月間、ワーグナーの超大作楽劇「ニーベルングの指環」に取り組みなんとかその原典照合を終了することができました。「ニーベルングの指環」は名作大作ゆえに夥しい数の解説評論が存在します。が、ワーグナーが「原典のどの部分からどのように参照引用して物語を創り上げたか」という論考にはあまりお目にかかったことがありません。その意味でも、この視点から書き上げられたということは誇ってもいいのではないかと自負しております。が、それよりも何よりも、一番うれしく意義あることは、私自身のワーグナー観、「指環」観が劇的に深化したことです。また、このテーマを書くきっかけとなったのは紛れもなく映画「ニーベルンゲン」です。そのBDを快く貸してくれたBrownie川嶋氏には、この場を借りて、心からの感謝の意を表させていただきます。
このところ、午前中はMLBポストシーズンを観戦、午後はワーグナーを鑑賞するというワクワクする日々が続いてきました。MLBは11月初頭で終了しますが、そのあとは、年内いっぱいワーグナー三昧で過ごそうかと、そして、「クラ未知」はあと2か月、今年はワーグナーで締めようと思っています。
<参考資料>
ワーグナー「ニーベルングの指環」第3夜「神々の黄昏」DVD
マンフレート・ユング(ジークフリート)
グィネス・ジョーンズ(ブリュンヒルデ)
フランツ・マツーラ(グンター)
フリッツ・ヒューブナー(ハーゲン)
ヘルマン・ベヒト(アルベリヒ)
ジャニーヌ・アルトマイヤ(グートルーネ)
ピエール・ブーレーズ指揮:バイロイト祝祭管弦楽団 他
パトリス・シェロー(演出) 1980公演 (ユニバーサル・クラシックス)
最新名曲解説全集 歌劇編U(音楽之友社)
映画「ニーベルンゲン」第1部 第2部(フリッツ・ラング監督1924独)BD
「エッダとサガ〜北欧古典への案内」 谷口幸男著(新潮社)
2024.09.30 (月) ワーグナー「神々の黄昏」原典との照合(前編)
「神々の黄昏」で印象的だったこと。それは数年前のクイズ番組で東大のNO.1クイズの天才水上颯がNTV「頭脳王」に出ていた時のことでした。「ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』の最終話の題名は?」との問題に対し、水上が出した答えが「ラグナロク」。テレビで見ていた私は「えっつ、嘘」とビックリ。答えは「神々の黄昏」のはずなのに天才水上が間違えた! 一緒に見ていた母に「ついにやった。水上に勝ったよ」と驚喜乱舞。母は「やっぱり、クラシックはあんたが強いんだ」と満更でもなさそう。
ところが・・・・・この「ラグナロク」は、北欧神話の「エッダ」にある古ノルド語で Ragnarök(神々の運命)のこと。これを「新エッダ」の作者スノッリが Ragnarökkr(神々の終焉)と取り違えたためワーグナーが独語で Götterdämmerung として「神々の黄昏」という訳が固定してしまったもの。水上は一捻りして解答したまでのことでした。「あの水上に勝った」とヌカ喜びした私が浅はかだったという顛末。あれから医学の道に進んだ水上くん、きっと頑張っていることでしょう。
ということで、「ニーベルングの指環」第3夜「神々の黄昏」の登場者とあらすじを記しましょう。最初にワーグナー作品と原典での登場者名を対照併記します。そのあとあらすじを記しますが、最後に 【照合】欄を設けて ←で 原典との関連性を記します。関連する事柄は太字で明記します。( )内は原典名です。
<神々の黄昏> |
<原典> |
ジークフリート |
ジークフリート(ニーベルンゲンの歌) シグルス(エッダ) |
ブリュンヒルデ |
ブルンヒルト(ニーベルンゲンの歌) ブリュンヒルド(エッダ) |
グンター |
グンター王(ニーベルンゲンの歌) |
ハーゲン |
ハーゲン(ニーベルンゲンの歌) |
アルベリヒ |
アルベリヒ(ニーベルンゲンの歌) ファーヴニル(エッダ) |
グートルーネ |
クリームヒルト(ニーベルンゲンの歌) グズルーン(エッダ) |
序幕
やや陰鬱な雰囲気の序奏が終わるとそこには世界の運命を見据える3人のノルンがいる。彼女らは過去・現在を歌い未来を予告する・・・・・ヴォータンが神聖なトネリコから一枝を折って槍の柄としたため木が朽ち自然が衰退したこと。トネリコは薪となってヴァルハルの周りに積み上げられたこと。薪に火が点けられ神々は終焉を迎えるだろうということ。
ノルンらが母エルダの下に立ち去ると、「ジークフリート英雄の動機」が奏され「ブリュンヒルデの動機」が絡みどんどんと高揚する。再度「英雄の動機」が鳴り響くと、そこは
ジークフリートと
ブリュンヒルデが住む岩屋である。
「神々が私に教えた知恵はすべてあなたに授けました。知恵を失った私はただの女。でも心は希望にあふれ愛は豊かです」とブリュンヒルデ。「もしあなたの教えを学ばなかったとしても、ただ一つの知恵は絶対に守る。それは私にはブリュンヒルデがいて常に心に留め置く ということだ」とジークフリート。二人は互いに感謝し信頼し永遠の愛を誓いあう。が、一つ所に留まってはいられない生来の自由人ジークフリートはここを飛び出ることになる。ジークフリートはブリュンヒルデが与えてくれた神々の知恵のお礼にと指環を与える。ブリュンヒルデは餞に愛馬グラーネを与える。そして、ジークフリートはラインに向かって旅立ってゆく。
間奏曲(ジークフリートのラインの旅)
管弦楽が旅立つジークフリートの心中を表わすかのように「英雄の動機」を中心に奏する。しばらくすると「ラインの流れの主題」が現れ、そこがライン河畔であることを示す。「指環の動機」、「ジークフリートの角笛の動機」などが顔を出し、曲想は次第に暗さを帯びつつ幕が開く。
第1幕
<第1場>ライン河畔ギービヒ家の館
ギービヒ家はライン地方の名門。
グンターと
グートルーネという兄妹と異父弟の
ハーゲンが同居する。ハーゲンの父はニーベルング族の
アルベリヒだ。「ハーゲンの動機」「ギービヒの動機」が重なり合いながら3人の会話が進む。未婚の兄妹は夫々結婚を所望。ハーゲンは二人にこう言う。「私は世界で最も素晴らしい女性を知っている。その名はブリュンヒルデ。グンターよ、彼女こそあなたの妻に相応しい。そして、グートルーネ、あなたには世界で最も真正な英雄ジークフリートがいる」。固い絆で結ばれたジークフリートとブリュンヒルデをどうやって別れさせようというのか? そして彼の真の目的は? 角笛が響きジークフリートが館に近づいてくることが察せられる。
<第2場>同上
「ジークフリートの動機」と共にジークフリートが現れる。ハーゲンの入れ知恵によりブリュンヒルデへの気持ちが高揚しているグンターは「財産も国土も人もすべてはあなたのもの。兄弟の契りを結ぼう」と歓迎する。ハーゲンはジークフリートが「隠れ兜」を持ち、「指環」はブリュンヒルデが持っていることを聞き出す。そう、ハーゲンの目的は父アルベリヒ〜ヴォータン〜ファーフナー〜ジークフリート〜ブリュンヒルデと渡り廻った「指環」を奪還することにあるのだ。
グートルーネが「忘れ薬」が混ぜられた飲み物をジークフリートに与える。無論これはハーゲンが用意したもの。ジークフリート飲み干す。過去をすべて忘れたジージークフリートはグートルーネの美しさに魅せられて、兄のグンターに「グートルーネを娶りたい」と懇願する。これに対しグンターは「私には心に決めた女性がいるが、彼女は炎に囲まれた岩の上に住んでいる。私はとてもそれを越えられない。力を貸してくれないか」と持ちかける。ジークフリートは「私なら炎を超えることができる。そして隠れ兜であなたに化けて彼女に求婚する」と約束してしまう。二人は血を以て同盟を誓う。「契約の動機」が執拗に鳴り響く。
<第3場>岩山の頂上
ブリュンヒルデが「指環」に見入っている。「世界の宝の動機」「ブリュンヒルデの動機」が、ここが二人の愛の住み家であることを示す。とその時、「ワルキューレの動機」が鳴り、ブリュンヒルデはワルキューレの誰かが近づいてくることを察知する。妹ワルトラウテである。
ワルトラウテは、「ヴォータンは、槍を折られトネリコの木々も枯れ、意気消沈してこう言いました。『ラインの乙女たちに、ブリュンヒルデが指環を返してくれればいいのだが。そうすれば呪いの重荷から解放され神々と世界も救われる』と。ブリュンヒルデ、その指輪をラインの乙女たちに返してもらえませんか」と懇願する。ブリュンヒルデは「これはジークフリートとの愛のしるし。たとえ神々が滅びようとこの指輪を手放すことはありません」と「ジークフリートの愛の動機」に乗せて歌う。ワルトラウテは落胆してその場を立ち去る。
「炎の動機」が強まり「ジークフリートの動機」が重なって、隠れ兜でグンターに姿を変えたジークフリートが入ってくる。「私はギービヒ家のグンター。あなたを私の妻にするためにやってきた」とジークフリート。抵抗するブリュンヒルデから指環を奪い、力が萎えた彼女を強引に我がものとする。
第2幕 ギービヒ家の前の岸辺の庭
<第1場>
物語の不吉さを暗示するような前奏曲が終わると、そこはギービヒ家の前の岸辺の庭。アルベリヒとハーゲンの親子が話している。
「もともとわしのものだった指環は今ヴェルズングの若者が持っている。これがラインの乙女に返される前に必ずお前が奪うのだ。このことをわしに誓え、忠実に」と説く父アルベリヒに対しハーゲンは「あなたに言われるまでもなく私がやる」と毅然と言い放つ。
<第2場>
角笛と共にジークフリートが帰って来る。出迎えるハーゲンに「私は素早く帰ってきた。グンターとブリュンヒルデはあとから舟で来る」と告げ、グートルーネには「今日あなたを妻として得たのだから優しく陽気に迎えてください」と屈託なく言う。
<第3場>
ハーゲンは「武装して集まれ」とギービヒ家の家臣に号令する。「何のために」と訊く家臣に「雄牛を殺してヴォータンに、猪をフローに、山羊をドンナーに、羊をフリッカに捧げよ。幸せな結婚のために。これからグンターが花嫁を連れて帰って来る。結婚式を盛大にやるのだ」と説明する。
「グンターと花嫁に万歳!」と家臣たちが唱和する中、グンターが帰還する。頭を垂れ打ちひしがれたブリュンヒルデを伴って。
<第4場>
理想の花嫁を得たグンターは喜び勇んでこう謳い上げる。「ブリュンヒルデとグンター、グートルーネとジークフリート。二組の輝かしい夫婦をここに見るのはなんと喜ばしいことか」。
一方のブリュンヒルデ。グートルーネを伴って現れたジークフリートを見て大いに困惑。しかもグンターに奪われたはずの指環がジークフリートの指に嵌められているのを認めてさらに混乱・・・・・ようやく、自分を犯し指環を奪ったのは隠れ兜でグンターに化けたジークフリートであることを察知し絶望の極に。一方のジークフリートは、ハーゲンの「忘れ薬」が利いており、ブリュンヒルデがかつて自分の最愛の妻だったことを忘れてしまっている。
「神聖な神々、これほどの屈辱をお与えになるのならそれに対する復讐も教えてください。その人(ジークフリート)こそが私から無理やり愛と喜びを奪ったのです」と憤るブリュンヒルデに、ジークフリートは「私はノートゥングにかけて兄弟の血の誓いを守ったのだ」と正当さを主張する。ブリュンヒルデは「ノートゥングは私との愛の印として壁に掛けられていた。あなたはその信義を裏切ったのです」と反論。
これを聞いたグンターは「これは私への侮辱だ。ジークフリートよ、信義を破ってないと証明せよ」、グートルーネも「彼女の告発が不当だと実証しなさい」とジークフリートに詰め寄る。
ハーゲンは「ならばこの槍にかけて証言せよ」と信義の帰属を問う場を設ける。ジークフリートは「もしその女性の訴えが真実で私が兄弟の信義を裏切ったのならば、この槍の刃で死に至らしめてくれて構わない」と。ブリュンヒルデは憤慨して「この男は誓いをすべて破った。槍よ、お前の鋭い刃で彼を斬りつけよ」と言い放つ。ジークフリートは「グンター、あなたの妻は嘘をついている。時間と休息を与えれば怒りを鎮めるだろう」と言い残し、グートルーネと共に宴の場へと向かう。
<第5場>
ブリュンヒルデはこの展開に「いかなる悪魔の企みがここには隠されているのか」と訝るが、神々の知恵をジークフリートに渡してしまっているため考えが及ばない。心中には裏切ったジークフリートへの憎しみが存在するだけだ。ハーゲンはそこにつけこみ「あなたを裏切ったジークフリートに私が復讐する。どうすればあの最強の男を倒すことができるのか」とブリュンヒルデに問う。ブリュンヒルデは「彼と戦って勝てる男はいない。ただ彼は決して敵に後ろを見せないから、背中に弱点を持つ」と口にしてしまう。
一方、ジークフリートに偽りの信義を結ばされたグンターは「この恥辱!私は惨めな男。私の名誉を救ってくれ」とハーゲンに依願。薬が利いてきたとほくそ笑むハーゲンは「それはジークフリートの死あるのみ。彼の持つ指環を得て世界を征服するのだ」とグンターを唆す。
これを受けてブリュンヒルデは「ジークフリートはグンターを裏切った。そしてあなた方すべてを裏切った。もし私が正しければ世界のすべての血をもってしてもわたしのために償うことはできない。ただジークフリートの死のみがすべての命に相当する価値がある。ジークフリートよ、倒れよ。私自身とあなた方の罪を償うために」と結ぶ。
侮辱されたグンター、裏切られたブリュンヒルデ、奸計が功を奏しつつあるハーゲン、三人三様の思いが、「ブリュンヒルデの動機」、「誘惑の動機」、「殺人の動機」に乗って朗々と歌われ幕となる。
【照合】
ジークフリートはギービヒ家の
グンターと義兄弟の同盟を結ぶ。グンターの妹
グートルーネを所望すると、グンターはジークフリートの妻
ブリュンヒルデとの結婚を望む。ジークフリート×グートルーネとグンター×ブリュンヒルデの組み合わせを実現するためにジークフリートが動く。この流れはすべてグンターの異父弟
ハーゲンが仕組んだものだ。
←
ジークフリートはウォルムスの城主
グンター王にその妹
クリームヒルトとの結婚を申し出る。グンター王はアイスランド女王
ブルンヒルトとの結婚を望んでおりジークフリートに力を貸してくれと頼む。ジークフリートの力によって、ジークフリート×クリームヒルトとグンター王×ブルンヒルトの二組のカップルが誕生する。なお、グンター王には叔父の
ハーゲンという後見人がついている。(ニーベルンゲンの歌)
ジークフリートは、「隠れ兜」でグンターに変身、
ブリュンヒルデに求婚し、希望を叶えてやる。
←
ジークフリートは、「隠れ兜」で
グンター王に姿を変え、屈強の女王ブルンヒルトとの力比べに勝ち、希望を叶えてやる。(ニーベルンゲンの歌)
ジークフリートはハーゲンの策略により
グートルーネに「忘れ薬」を飲まされ、
ブリュンヒルデと夫婦だったことを忘れてしまう。
←
シグルスは
グズルーンの母に「忘れ薬」を飲まされ、
ブリュンヒルドとの婚約を忘れてしまう。(エッダ)
ワーグナーは、「ニーベルンゲンの歌」と「エッダ」から様々な登場人物や小道具を引っ張り出し、その関係性やシチュエーションを巧みに変換して、精緻でドラマティックな独自のストーリーを作り上げました。その作劇術は見事としか言いようがありません。
次回「神々の黄昏」(後編)は、この矛盾と波乱に満ちた物語がどう収束するのか? 最大のクライマックス「ブリュンヒルデの自己犠牲」は真の解答をもたらしてくれるのか? 興味尽きない最終回となります。
<参考資料>
ワーグナー「ニーベルングの指環」第3夜「神々の黄昏」DVD
ルネ・コロ(ジークフリート)
ヒルデガルト・ベーレンス(ブリュンヒルデ)
ハンス・ギュンター・ネッカー(グンター)
マッティ・サルミネン(ハーゲン)
エッケハルト・ウラシハ(アルベリヒ)
リスベート・バルスレフ(グートルーネ)
サヴァリッシュ指揮:バイエルン国立歌劇場管弦楽団 他
ニコラウス・レーンホフ(演出) 1987公演 (東芝EMI)
最新名曲解説全集 歌劇編U(音楽之友社)
映画「ニーベルンゲン」第1部 第2部(フリッツ・ラング監督1924独)BD
「エッダとサガ〜北欧古典への案内」 谷口幸男著(新潮社)
2024.08.31 (土) ワーグナー「ジークフリート」原典との照合
私にとって“ジークフリート”といえば、まずは「ジークフリート牧歌」ということになります。FMえどがわでDJをやった時も吉祥寺で画廊コンサートをやった時もワーグナーを語るときには欠かせない作品でした。
革命家で野心家のワーグナーが、待望の男の子が生まれて幸福感に満たされ、妻コジマへの感謝を込めて作ったのがこの作品。彼は当時作曲中だった楽劇「ニーベルングの指環」第2夜「ジークフリート」にあやかって我が子をジークフリートと命名。気分はまさに「ジークフリート=世界の宝」そのものだったでしょう。
非公開の初演は誕生の翌年1870年のクリスマス12月25日、スイス トリプシェンのワーグナー邸でした(現在はワーグナー記念館になっています)。コジマに気づかれないよう、寝室に通じる螺旋階段にオーケストラを配備、起床するのを見計らって演奏をスタートさせました。この日はまたコジマ33歳の誕生日でもありました。
曲中には、作曲中の「ジークフリート」から「愛の平和の動機」、「世界の宝の動機」、「恋の絆の動機」、「ワルキューレ」から「まどろみの動機」などをふんだんに挿入、慈愛に満ちた美しい音楽世界を現出します。なんというプレゼント! コジマの驚きと感動は想像を絶するものがあります。世にサプライズは数多あれど、これほどまでの代物はそうはないでしょう。
当の本人ジークフリート・ワーグナーがロンドン交響楽団を指揮したレアな録音が遺されていますが(1927年)、一音一音に慈愛の念が籠るブルーノ・ワルター指揮:コロンビア交響楽団(1959年)の演奏が絶品です。
では「ニーベルングの指環」第2夜「ジークフリート」の登場者とあらすじを記しましょう。最初にワーグナー作品と原典での登場者名を対照併記します。そのあとあらすじを記しますが、最後に 【照合】欄を設けて ←で原典との関連性を記します。関連する事柄は太字で明記します。( )内は原典名です。
<ジークフリート> |
<原典> |
ジークフリート |
ジークフリート(ニーベルンゲンの歌) シグルス(エッダ) |
ミーメ |
ミーメ(ニーベルンゲンの歌) レギン(エッダ) |
アルベリヒ |
アルベリヒ(ニーベルンゲンの歌) ファーヴニル(エッダ) |
名剣ノートゥング |
名剣バルムング(ニーベルンゲンの歌) 名剣グラム(エッダ) |
さすらい人(ヴォータン) |
オーディン(エッダ) |
大蛇ファーフナー |
火を噴く龍ハーフナー(ニーベルンゲンの歌) |
ブリュンヒルデ |
ブルンヒルト(ニーベルンゲンの歌) |
〃 |
ブリュンヒルド(エッダ) |
第1幕 森の洞窟
<第1場>
小人族の
ミーメが剣を鍛造している。「私が鍛えた最上の剣もあいつが全部へし折ってしまう」とぼやきながら。バックに流れる「ジークフリートの動機」から“あいつ”とはジークフリートのことと判る。その
ジークフリートが帰ってくる。「お前のやることはすべてがイラつく。今日も森で小川に自分の顔を映したがお前に少しも似ていない。私の親はいったい誰なのだ。本当のことを教えろ」とミーメに迫る。「お前の母はジークリンデ。父親は殺されたと聞いた。私は森で倒れていたお前の母を介抱した。彼女はお前を生んで死んだ。だから私はお前を育てたんだ」とミーメが答える。ならばその話の証拠を見せろと迫るジークフリートに、「これがその証拠、ジークリンデの置き土産だ」とノートゥングの破片を見せる。控え目に「剣の動機」が響く。「ならばそれをちゃんと鍛え直せ」とジークフリート。
ミーメとしては、ノートゥングを再生し、ジークフリートにそれを持たせ、指環と財宝を守る大蛇ファーフナーを倒させ、それらを奪い取ろうと企んでいる。が、再生の方法がわからず口には出さない。ジークフリートは鍛え直されたノートゥングを持ってここを飛び出したいと念じている。「ジークフリートの使命の動機」が鳴り響きジークフリート退場。
<第2場>
槍を持ったさすらい人(
ヴォータン)がやってくる。ミーメに「ここでもてなしてもらう代わりに知恵を授けよう。わしの頭を担保にして知恵くらべの賭けをするのだ。まずはお前の知りたいことを私に質問しろ。答えられなかったらわしの頭をやる」と傲慢に提案する。「槍の動機」。ミーメは3つの質問をする。さすらい人はすべて答えるのだが、それは次のようなものだ。
1 地底に住むのはニーベルング族 支配者の名はアルベリヒ ある魔法の指環で統治していた。
2 地上に住むのは巨人族 ファーフナーが大蛇に身を変えアルベリヒから奪った財宝と指環を守っ
ている。「大蛇の動機」。
3 雲の上には神々がいて、ヴァルハルという城に住む。支配者はヴォータン。トネリコから作った
槍を持ち、柄には神聖な契約のルーネ文字が刻まれている。彼はそれで世界を意のままに動か
す。「ヴァルハルの動機」。高鳴る「槍の動機」。
さすらい人はさらに「ミーメよ、今度はお前の首が担保だ。これから3つの質問をするからすべて答えよ」と迫る。やり取りは下記の通り。
1 ヴォータンが厳しい態度をとりながらも最も愛しているのはどの種族か?
それはヴェルズング族 そのジークムントとジークリンデはジークフリートという最強の子孫を
生んだ。
2 あるニーベルング族はジークフリートを使ってファーフナーを倒し指環を得ようとしている な
らばそのための武器は?
それはノートゥングという剣だ だがそれは破片と化して今は賢い鍛冶屋が持っている。
3 では誰がノートゥングの破片から再生するのだ?
それはわからん 私じゃできないからだ。
そこでさすらい人、「ミーメよ、最後の質問の答えを教えてやろう。ノートゥングを再生するのは“怖れを知らぬ者”のみだ。担保にしたお前の頭は私からその者に委ねることにする」 と言い放つ。「ジークフリートの動機」が流れ“怖れを知らぬもの”とはジークフリートであることを示唆する。
<第3場>
さすらい人が去った後、「ジークフリートの使命の動機」と共にジークフリートが戻ってくる。ミーメは「さすらい人が来て賭けをしたが負けて私の頭はノートゥングを再生する者に委ねられた」とジークフリートに言う。さらには「ノートゥングを再生できるのは怖れを知らぬものだけだ。お前は怖れを知っているのか」とけしかけ、「知るものか。ならばその“怖れ”とやらを教えてくれ」とジークフリートに言わせる。これを受けてミーメは「俺と大蛇ファーフナーのもとに行こう。そうすれば怖れを知ることができるぞ」とジークフリートを誘導する。ジークフリートは「そのためには最強の剣が必要だ。早く再生しろ。鍛冶屋なんだろう」とミーメに促すがラチが開かない。
ジークフリートは「その破片をよこせ。お前にはもう用はない。父が遺した鋼は息子に従うだろう。私自身が鍛えるぞ」と宣言。破片を粉々にし、トネリコの幹で作った炭を燃やし、溶かし固め鍛えて、遂にノートゥングを再生する。一方ミーメは、ジークフリートが大蛇から財産を奪った後、横取りするために、彼を消す毒を煮込む。互いの思惑を込めた歌声が交錯して幕となる。
【照合】
ジークムントの息子
ジークフリートはアルベリヒの弟鍛冶屋のミーメに育てられている
←
ジークムント王の息子
ジークフリートは鍛冶屋
ミーメの下で刀鍛冶の修行に励んでいる(ニーベルンゲンの歌)
←シグムント王の息子
シグルスは小人の
レギンの養育を受ける(エッダ)
ジークフリートはヴォータンの槍によって砕かれた剣
ノートゥングを自分の力で再生する
←
ジークフリートはミーメから習得した刀鍛冶の技術で強い剣を鍛造する(ニーベルンゲンの歌)
←
シグルスはレギンから
グラムという名剣を与えられる(エッダ)
第2幕 深い森
<第1場>
ゆっくりと引きずるように「巨人の動機」から「大蛇の動機」、そこに「指環の動機」が絡む不気味な前奏で始まる。「欲望の洞窟」に
アルベリヒがいる。奥には指環と財宝を守る大蛇ファーフナー。そこにさすらい人がやってくる。「何しに来た。お前はわしが持っていた指環や財宝を奪って巨人たちの報酬にした。それを奪い返すなどできるわけはない。ルーネ文字の契約に反するからな。指環はわしが取り返して世界を支配する」とアルベリヒ。これに対しさすらい人 「一人の英雄が指環を救い出すために近づいてくる。彼がファーフナーを倒すだろう。二人のニーベルング族が指環を争う。お前はどうする? ほかの事もよく学ぶがいい」と言って立ち去る。揶揄されたと思ったアルベリヒは「不安なわしを冷笑したな。軽率な神々の一族め。お前たちの滅亡を見届けてやる」と叫ぶ。
<第2場>
ジークフリートとミーメがやってくる。「ここでお前は怖れを学ぶことになる。凶暴な大蛇がいるからな」とミーメ。「そんなものは怖れるに足らない。心臓にノートゥングを突き刺してやる」とジークフリート。
ミーメが立ち去ったあと、ジークフリートは小鳥の鳴き声を聞く。「森の小鳥の動機」。ジークフリートは小鳥と会話をしようと葦笛を吹くが反応がない。そこで角笛を高らかに吹き鳴らす。「角笛の動機」。すると、小鳥には通じなかった角笛に大蛇ファーフナーが反応して出てくる。二者は言い合いから格闘になる。「角笛の動機」と「大蛇の動機」が交錯した後、ジークフリートはファーフナーの心臓にノートゥングを突き刺す。ファーフナーいまわの際に「お前をしかけた奴はお前の命を狙っていることを忘れるな」と忠告して息絶える。
ジークフリートが手に付着したファーフナーの血を舐めると、なんと
小鳥の言葉が解るようになる。小鳥は「ジークフリートよ 洞窟の中にはニーベルングの宝も隠れ兜も指環もある。もし指環を得たらお前は世界の支配者になるだろう」と話す。
<第3場>
忍び足で歩むミーメをアルベリヒが見つける。二人はジークフリートが持ち帰ることになるファーフナーの財産(指環と隠れ兜)について口論となる。「わしの財産をお前に渡すわけにはいかない」と強弁するアルベリヒに「私が育てたジークフリートが得た財産は私のものだ。兄貴風を吹かしてもらっては困る」とミーメは返す。アルベリヒは「なんといまいましい。だが指環はいずれあるべき持ち主に帰ることになる」と捨て台詞を残して立ち去る。
隠れ兜と指環を持ってジークフリートが洞窟から出てくる。そこで小鳥が「不実なミーメに用心なさい。あなたは悪者の言葉の裏にある悪巧みを見抜けます」とジークフリートに忠告する。
ミーメは「ご苦労様。ところで怖れを覚えたかね」と訊くと「教えてもらえなかったね」とジークフリート。ミーメは「お前の役目はもう終わった。お前が剣を鍛えている間に私が煎じたこの飲み物を与え永い眠りに就かせてやる。その間に獲物を頂くまでだ」と心の中で呟きながら、「さあこれで元気が回復するぞ」と煮込んだ毒を飲ませようとする。が、ミーメの魂胆がわかっているジークフリートはこれをはねのけ彼をノートゥングで刺し殺す。「ジークフリートの使命の動機」が不気味さを帯びて流れる。
ジークフリート、小鳥に話しかける 「私は父も母も見たことはない。小人が唯一の友だったがずる賢い罠を仕掛けたから殺してしまった。親切な小鳥よ、教えてくれ。本当の友はどこにいるのか」。「高い岩の上にブリュンヒルデという気高い女性が炎に囲まれて眠っている。その炎を越え目覚めさせるのは怖れを知らぬ者だけだ」と小鳥。これに応えて「怖れを知らぬ愚かな子供。それはジークフリート、私だ。ブリュンヒルデに怖れを学ぶ。小鳥よ、私をそこに導いてくれ」とジークフリートは喜び勇んで小鳥の後を追ってゆく。
【照合】
巨人族
ファーフナーは大蛇に身を変えて財宝を守っているが
ジークフリートが刺し殺しそれを奪う。その時剣に付着した血を舐めると
小鳥の言葉が解るようになる。
←
ジークフリートは火を噴く龍
ハーフナーに行く手を遮られてこれを剣で刺し殺す。その返り血を浴びると
小鳥の言葉を解するようになる(ニーベルンゲンの歌)。
小人族の
ミーメは罠を仕掛けたことが
ジークフリートに見透かされ殺される。
兄のアルベリヒは姿をくらます。
←
レギンの兄
ファーヴニルは父の財産を独り占めにしようとして龍に身を変えている。レギンは
シグルスを唆してファーニブルを殺させる。この企みを知ったシグルスはレギンを殺しその財宝を手にする(エッダ)。
第3幕 岩山の麓の荒野
<第1場>
「エルダの動機」や「槍の動機」等が絡みつつ、やや弾むように重みを持って、前奏曲が奏される。さすらい人(ヴォータン)はエルダを呼び出す。エルダは世界の智を司る女神だが、かつてヴォータンがブリュンヒルデを産ませた母でもある。さすらい人はエルダに「お前の知恵から助言を得たい」と言うが、自分の考えを聞いてもらいたいというのが本音だろう。さすらい人はこう言い放つ。「私はかつて一度は世界をニーベルング族の欲望に委ねてしまったが、今や、ヴェルズング族の類まれな一人の若者にわしの遺産を譲ることにした」。「ジークフリート愛の動機」、「ジークフリートの動機」。さらに「お前が産んだブリュンヒルデをこの若者がやさしく目覚めさせる。目覚めたお前の娘は世界を救う行為を成し遂げる。永遠の若者に未来を委ねるのだ」とエルダを眠らせる。「ジークフリート愛の動機」が感動的に流れる。
<第2場>
小鳥に導かれてジークフリートが岩山の麓にやってくる。待ち受けていたかのようにさすらい人が話しかける。「どこへ行く」。「火に囲まれている岩山だ。私が目覚めさせるべき女性がそこに眠っている」とジークフリート。「その女性はわしの力で閉じ込められている。彼女を目覚めさせるということはわしの力を無にするということだ。わしの槍がお前を遮ってやる。この槍は、昔、今お前が持つノートゥングを打ち砕いたのだ」。これを聞いたジークフリートは、さすらい人こそが父の仇と悟る。槍と剣が交錯し槍が折れる。「剣の動機」と「槍の動機」。ジークフリートが打ち克ったのだ。
さすらい人は「行くがいい。わしはお前を止められなかった」と、自分に代わる英雄の出現を見届けて姿を消す。ジークフリートは「今こそ愛する友を呼び寄せるのだ」と炎の中へ飛び込んでゆく。
「角笛の動機」〜「まどろみの動機」〜「ジークフリートの動機」が対位法的に絡み合い、「炎の動機」に誘われるようにジークフリートは歩を進める。
ヴォータンの槍が恐れを知らぬ若者の剣・再生ノートゥングによってへし折られました。この剣はかつて無双の槍に打ち砕かれたもの。これは実に象徴的な出来事で、世界を治める力が大神ヴォータンからヴェルズング族の若者ジークフリートに託された、即ち、世界の権力が神々から人間に移された証なのです。
<第3場>岩山の頂
火を潜り抜けたジークフリートはブリュンヒルデが眠る岩山の頂に辿りつく。「まどろみの動機」。初めは男の兵士と思ったが兜と鎧をはぎ取るとそれは美しい女性だった。あまりの美しさに心が乱れ「今、この女性こそが私に怖れを教えてくれた!」と感知する。目覚めたブリュンヒルデは「太陽に祝福を! 私を起こした英雄は誰?
」と問いかける。「ジークフリートの動機」。「炎を越えあなたを目覚めさせたのはこの私です」とジークフリート。ブリュンヒルデは「ジークフリート、貴方が私の永い眠りを目覚めさせてくれたのですね。神々に、世界に、輝く大地に、祝福を!」と喜ぶ。
ところが、「今や私の胸には炎が燃え盛っている」と抱きつくジークフリートを「神でさえ私には近づけなかった。英雄たちも頭を垂れた。鎧と兜を引き裂かれた私はもはやブリュンヒルデではない。暗黒が私の視野を曇らせ霧と恐怖の中から不安と恥辱が乱れてもつれあう」と撥ねつける。激情に駆られるジークフリートをすぐには受け容れないブリュンヒルデの気高さか。
しかし、徐々に不安が遠のくブリュンヒルデは「太陽に照らされて、私の恥辱の昼が輝き出す。ジークフリート、私の不安を見つめて!」と話し始める。ここで流れ出す「愛の平和の動機」の美しさ! さらには「世界の宝の動機」が重なる。まるでこのあたり、「ジークフリート牧歌」そのものだ。
ブリュンヒルデはまだ「ジークフリート、世界の宝。そんなに荒々しく近づかないで」と踏み出せずにいるが、「目覚めよ!ブリュンヒルデ、甘美な喜びが僕らに笑いかけている。僕のものになってくれ」とジークフリートは迫る。するとブリュンヒルデは「純潔の光が灼熱の炎へと燃え上がる。天上の知恵は私から吹き飛ぶ。愛の歓喜がそれを追い払う。今や私はあなたのもの」とついに愛を受け容れる。「ジークフリートの動機」「恋の絆の動機」が交錯する。
そして最後、「恋の絆の動機」「ジークフリートの愛の動機」を軸に、「私にブリュンヒルデの星が輝き、彼女こそが永遠に私の宝、輝かしい愛!喜んで死を迎えよう」(ジークフリート)/「崇高な行為をそれとは知らずに成し遂げる人よ!笑いながらあなたを愛し笑いながら滅びましょう。ヴァルハルの世界よ、塵となって砕けよ! 神々の栄華よ、喜びのうちに結末を迎えよ! 神々の黄昏と破滅の夜が訪れるがよい」(ブリュンヒルデ)と二重唱で次夜の結末を示唆しつつ幕となる。
【照合】
ヴォータンとエルダの娘
ブリュンヒルデは、ヴォータンの怒りを買い、周りを火に囲まれた岩の上で眠らされる。
←
ブリュンヒルドは、オーディンの怒りを買い、周りを火に囲まれた山上に眠らされる(エッダ)
ワーグナーは、「ニーベルングの指環」第2夜「ジークフリート」で、「ニーベルンゲンの歌」や「エッダ」から、兄弟のいさかい、鍛冶屋、剣、鍛造、財宝、龍(大蛇)、血、小鳥の言葉など様々なキイ・ワードを取り込んでストーリーを構築したことが判ります。
印象的なのは、炎を飛び越えてやってきた英雄とそれを待ち受けていたブリュンヒルデがストレートに愛の世界に飛び込めないシチュエーション。これは、ワーグナーが、苦難の末に成就したコジマとの愛を暗示し書き止めておきたかった ということでしょうか?
それにしてもワーグナーという人は凄い! 楽劇「ジークフリート」の第1幕と第2幕。これ全体の2/3に当たるのですが、ここには女性歌手は一切登場しません。僅かに鳥の声が女声で歌われるだけ。むさくるしい男どもが極太い声でああだこうだと理屈をこねまわすばかり。それを2時間半も聞かされる。普通のオペラなら一作が終わる時間。たまったもんじゃないと感じる人もいるでしょう。並みの作曲家にできる業ではないですね。「いやなら見なくていいぜ」、そんなワーグナーオレ流の声が聞こえてきそうです。
<参考資料>
ワーグナー「ニーベルングの指環」第2夜「ジークフリート」DVD
ジークフリート・イェルサレム(ジークフリート)
グレアム・クラーク(ミーメ) ジョン・トムリンソン(さすらい人)
アン・エヴァンス(ブリュンヒルデ)
バレンボイム指揮:バイロイト祝祭管弦楽団 他1991公演 (小学館)
最新名曲解説全集 歌劇編U(音楽之友社)
映画「ニーベルンゲン」第1部 第2部(フリッツ・ラング監督1924独)BD
「エッダとサガ〜北欧古典への案内」 谷口幸男著(新潮社)
2024.07.31 (水) ワーグナー「ワルキューレ」原典との照合
私の「ワルキューレ」体験ですが、これは何といっても2016年11月6日の東京文化会館に止めを刺します。幼馴染のクラシック友達M.F氏が、都合で行かれなくなりチケットが回ってきましてね。「行かれますか。良い席ですよ」に「行かないわけがありません」と二つ返事でOK、もう一人のクラシック友達T.F氏をお誘いしました。
第1幕の配役は、ジークリンデがペトゥラ・ラング(S)、ジークムントがクリストファー・ヴェントリス(T)、フンディングがアイン・アンガー(Bs)。演奏は、アダム・フィッシャー指揮:ウィーン国立歌劇場管弦楽団です。
幕が上がる。荒々しい「嵐の動機」からジークムントとジークリンデが出会って間もなく、「ジークリンデの動機」を奏でるウィーン・フィルの弦の美しさに陶然としたものです。幕間にはチケット付属のワインをたしなんで、第2、3幕まで、実にゴージャスな宵を過ごすことができました。
M.F氏には感謝の気持ちを込めて共同で「ニーベルングの指環」DVDブック(小学館)全4巻をお贈りしました。実はこれ、T.F氏が制作したオペラDVDブックのベストセラー商品なのです。そんなT.F氏も昨年帰らぬ人となってしまいました。T.F氏は「クラ未知」の一番の愛読者で、毎月必ず感想をよせてくださいました。彼の会社日本アートセンターが神保町だったこともあって、ほぼ月に一度、如水会館で会食をご一緒しました。食事のあとは決まって14階の一橋クラブに移動してクラシック話に花を咲かせたものです。気の置けない大切な友人の一人だったT.F氏。残念です。淋しいです。でも、またいつか、楽しく音楽の話でも・・・・・。
因みに、“ワルキューレ”とはヴォータンが産み育てた9人からなる女戦士のこと。リーダーはヴォータンとエルダとの娘 強く賢く高い徳の持ち主ブリュンヒルデです。
では「ニーベルングの指環」第1夜「ワルキューレ」の登場者とあらすじを記しましょう。最初にワーグナー作品と原典での登場者名を対照併記します。そのあとあらすじを、最後に 【照合】欄を設けて ←で 原典との関連性を記します。関連する事柄は太字で明記します。( )内は原典名です。
また今回からは、示導動機(ライトモティーフ)にも触れながら話を進めたいと思います。示導動機とはワーグナーが考案した、人物、物体、出来事、感情などを表わす200余りに上る動機のこと。時々のシチュエーションの意味するところが瞬時に感知・理解できるツールで、ワーグナー自身はこれを「迷路のようなドラマにおける案内役」と述べています。しかもこれ、無味乾燥なものではなく豊かな情感が籠っており、それ自体実に音楽的。ワーグナーの才能に驚嘆です。以下、これを「・・・の動機」という形で記します。
<ワルキューレ> |
<原典> |
ジークムント |
シグムント(ヴォルスンガサガ) |
ジークリンデ |
シグニュー(ヴォルスンガサガ) |
ナイディング族 |
フン族(ニーベルングの歌) |
フンディング |
シゲイル(ヴォルスンガサガ) |
名剣ノートゥング |
名剣バルムング(ニーベルンゲンの歌) |
ブリュンヒルデ |
ブルンヒルト(ニーベルンゲンの歌) |
〃 |
ブリュンヒルド(エッダ) |
第1幕(3場) フンディングの家の中
冒頭「嵐の動機」が鳴り響く。ウェルズング族(人間族)の双子の兄妹であるジークムントとジークリンデは敵対する一族ナイディング族との戦いの中、別れ別れとなり、その後ジークリンデは敵であるフンディングに嫁ぐことになった。一方、ジークムントは更なる戦いでキズを負い武器も失い、それと知らずにフンディングの館にたどり着く。とそこには留守を預かるジークリンデがいた。「ジークリンデの動機」。二人は互いに惹かれあい、話すうちに幼いころに生き別れた兄妹であることを悟る。
「フンディングの動機」が聞こえ、この家の主フンディングが帰宅する。彼は男の存在を訝るが一族のしきたりから客人としてもてなすことにする。しかし、その男が一族の敵と知るや「丸腰の者を討つわけにはいかないが、明日、貴殿に戦いの準備が整ったならば、そこで雌雄を決しよう」と言い放ちその場を立ち去る。
ジークリンデは、寝酒に薬を混ぜてフンディングを眠らせ、ジークムントには蜂蜜入りの酒を与える。宿命の糸に導かれた二人は気持ちを高揚させ愛の喜びに浸る。ジークリンデは、「フンディングの婚礼の宴に、独眼の老人がやってきて最強の剣・ノートゥングを庭のトネリコの幹に刺し、一堂に『これを引き抜いた者こそが真の勇者であり剣を持つにふさわしい』と話しましたが、誰一人抜ける者はいませんでした。トネリコに刺さった剣はそのままここにあります」とジークムントに語る。これを聞いたジークムントは見事剣を抜き取り「ノートゥング!ノートゥング!」と叫ぶ。独眼の老人とはヴォータン。二人の父親だったのだ。
ジークムントが「冬の嵐は去りて」と歌い、ジークリンデが「あなたこそが春です」と返し、トネリコからノートゥングが引き抜かれ「剣の動機」が響きわたる〜この一連のシチュエーションこそ第1夜「ワルキューレ」の白眉。最高に感動的な場面だろう。
そして、武器を手にし愛を確かめ合った二人は忌まわしい館を飛び出し、自由の世界に羽ばたいてゆくのだが・・・・・。
【照合】
ジークムントと
ジークリンデの兄妹は運命の糸に導かれ愛の結晶ジークフリートを生む
←
シグニューは魔法使いと姿をとりかえ、森にやってきて兄
シグムントと床を一つにして、シンフィヨトリを生む(ヴォルスンガサガ)
フンディングは
ジークリンデを娶る
←
シゲイルという王は
シグニューに求婚する(ヴォルスンガサガ)
ナイディング族は客人に一宿一飯のもてなしをする
←
フン族は客人を大切に扱う(ニーベルングの歌)
フンディングとジークムントの祝宴に
独眼の老人が現れて、トネリコに剣を刺し「これを引き抜いた者にこの剣を与える」と言う
←シゲイル王がシグニューの父ヴォルスングを訪れた宴に
独眼の老人が現れ「木の幹に剣を刺しこれを引き抜いた者にこの並びなき名剣を与えよう」と言って消える(ヴォルスンガサガ)
名剣の名は
ノートゥング
←名剣の名は
バルムニング(ニーベルンゲンの歌)
第2幕 荒涼とした岩山
<第1場>
「ウェルズングに勝利を。フンディングはヴァルハラには入れさせない」とヴォータンは、
ブリュンヒルデにワルキューレの出動を命じてジークムントへの加勢を促す。ブリュンヒルデはヴォータンと知恵の女神エルダとの娘。女戦士ワルキューレのリーダーである。
そこにヴォータンの正妻フリッカが現れてこう言う。「フンディングが私に助けを求めにやってきた。結婚の神としてはそれを受けざるを得ない。ジークムントとジークリンデは不義を犯したのだから赦すわけにはいかない」と。ヴォータン、一旦は「純粋な愛で結ばれた二人を赦すべきだ」と反駁を試みるも、フリッカの正論を崩せず、言うことを聞く羽目になる。
<第2場>
鳴りわたる「不機嫌の動機」。ヴォータンは再度現れたブリュンヒルデに、「私はフリッカの言いつけを守ることにした。お前もそれに従え。ジークムントを倒すことがお前の役目だ。これに背いたらただではすまぬ」と威嚇。権力の象徴「槍の動機」が流れる。ブリュンヒルデは不本意ながら父の言いつけを守ることにする。
ヴォータンはこれに先立って「フライアを取り戻すために指環をファーフナーに渡したが、これを取り返さねばならぬ。自分が結んだ契約だから私はこれをできない。これができるのは我々神とは関りのない勇者しかいない」、さらに「愛を呪うアルベリヒは憎しみから子供を儲けようとしている。そうなれば神々の終焉は確実に近づく」と、第2夜以降の展開を示唆する言葉を発する。即ち、神と関りのない勇者とはジークフリートであり、アルベリヒが儲ける子とはハーゲンのことだ。
<第3、4場>
フンディングに追われてジークムントとジークリンデが岩山に駆け込んでくる。そこにブリュンヒルデが現れる。ブリュンヒルデは「私と共にヴァルハラに行ってもらいます。戦って負けるのがあなたの運命だから」とジークムントに言い放つ。聞こえる「運命の動機」と「死の予告の動機」。これに「私はジークリンデを残して死ぬわけにはいかない。もしそれが定めならここで私たち二人の命を絶つ」とジークムント。
この覚悟に動かされたブリュンヒルデは“戦いの運命”を変え、ジークムントに勝利を与え二人が生きることを容認する。これぞまさにヴォータンの言いつけに背く行為だ。
<第5場>
ジークムントはフンディングとの戦いに臨む。見守るブリュンヒルデは「ノートゥングの力を信じて勝ちなさい」と檄を飛ばす。そこに突然、ヴォータンが現れ、槍を使ってノートゥングを打ち砕く。剣を失ったジークムントは敢えなくフンディングに討たれてしまう。
ブリュンヒルデはジークムントの傍らに倒れているジークリンデを発見。「あなたを助けます」と愛馬グラーネに乗せて立ち去る。
一部始終を見ていたヴォータンは、フンディングには「フリッカの元に行き私は約束を守った と言え」と促し、立ち去ったブリュンヒルデに対しては「私の命令に背くとは許せぬ。捕まえたら恐ろしい罰を下す」と叫んで幕となる。
【照合】
フリッカは結婚の神でヴォータンの正妻
←
フリッグはオーディンの妻で最高の女神(エッダ)
ブリュンヒルデはヴォータンとエルダの娘で女戦士ワルキューレのリーダー
←
ブルンヒルトはアイスランド女王で男勝りの強者(ニーベルンゲンの歌)
←
ブリュンヒルドはオーディンの教えに背いたワルキューレ(エッダ)
第3幕 ブリュンヒルデの岩の頂
<第1場>
「ワルキューレの騎行」が渦のように流れる中、ワルキューレの8女戦士が集まっている所に、リーダーのブリュンヒルデが馬を駆りジークリンデを乗せてやってくる。「あの人と一緒に死ねばよかった」と言うジークリンデに「あなたのおなかにはこの世で最も気高い勇者が宿っている。生きなさい。私がヴォータンを足止めします。東に向かって逃げなさい。そこには森があり指環を得て蛇に姿を変えたファーフナーが居座っているのでヴォータンは近づけないはずです」。さらに「これは父上が砕いたジークムントの剣の破片です。生まれてくる勇者はこれを鍛えなおして使うでしょう。その子を“ジークフリート”(勝利を保つ者)と名付けます」とジークリンデに告げる。鳴り響く「ジークフリートの動機」。これを受けてジークリンデは「ああこの上なく美しい奇跡!」と歌うが、これが「愛の救済の動機」で、このあと物語の大団円「ブリュンヒルデの自己犠牲」の場面でもう一度だけ現れる。これぞワーグナーが紡いだ最も高貴にして美しいモティーフだ。
<第2、3場>
激怒のヴォータンが現れる。「不機嫌の動機」頻発。ブリュンヒルデに向かって「神に背いたお前に罰を与える。この山の上でお前を眠らせる。通りすがりの男がお前を目覚めさせわがものとするだろう」と言い放つ。これに対してブリュンヒルデ「私の犯した罪はそんな辱めを受けなければならないほど深いものなのでしょうか。私は父上が忘れようとしたジークムントへの愛を尊重しました。それこそが父上が私に教えてくれたものではありませんか。私の半身は父上です。私が慰み者になるということは父上が嘲笑を受けるということです」と訴える。さらに「一つだけ願いを聞いてください。眠る私の周りを火で囲んでください。恐れを知らぬ勇者だけが私に近づけるように」。ヴォータンはこれを聞き容れ火の神ローゲを呼び出し燃える炎で岩山を囲む。「魔の炎の動機」。
「魔の炎の動機」が「まどろみの動機」に移ると、ヴォータンは「私の槍を恐れる者は絶対にこの炎を越えられない」と歌う。そこに「ジークフリート」の動機が力強く重なり、炎を越える勇者はジークフリートであることを暗示する。そして、眠りに入るブリュンヒルデを愛しむように「まどろみの動機」が徐々に弱まって幕を閉じる。
【照合】
ヴォータンに背いた
ブリュンヒルデは周りを火に囲まれた岩の上に眠らされる
←
オーディンの怒りを受けた
ブリュンヒルドは火に囲まれた山上に眠らされる (エッダ)
「ワルキューレ」は、「ニーベルングの指環」において、ワーグナーが最初に台本を手掛けた「ジークフリート」に繋がる前段の物語。主軸となる英雄ジークフリートの出自を明らかにしておきたかったのでしょう。
「ラインの黄金」が物語の枠組みを示し、「ジークフリート」「神々の黄昏」が叙事的出来事を物語るものだとすれば、「ワルキューレ」はかなり叙情に寄った物語といえます。思想的にも他の三夜が、「権力」「欲望」「愛の呪い」など、どろどろとした心情を軸に展開するのに対し、「ワルキューレ」では堅固な掟を“通じ合う気持ち”が覆してゆく。そこには純潔と官能が併存する愛の世界が現出します。拠り所とした出典は「ヴォルスンガサガ」。ここからこのような世界を創り出してしまうワーグナーの創作力は驚異です。しかもその中に、以降につながる数々の鍵を埋め込んでいる。その作劇力の非凡さも示導動機の使い方と相まって見事としか言いようがありません。
<参考資料>
ワーグナー「ニーベルングの指環」第1夜「ワルキューレ」
NHK-BSザルツブルク音楽祭2017公演 BD
ペーター・ザイフェルト(ジークムント、アニヤ・ハルテロス(ジークリンデ)
ヴィタリー・コワリョフ(ヴォータン)、アニヤ・カンペ(ブリュンヒルデ)
クリスティアン・ティーレマン指揮:ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
CD-BOOK 魅惑のオペラ: バレンボイム指揮:バイロイト祝祭管弦楽団 他1991公演 (小学館)
最新名曲解説全集 歌劇編U(音楽之友社)
映画「ニーベルンゲン」第1部 第2部(フリッツ・ラング監督1924独)BD
「エッダとサガ〜北欧古典への案内」 谷口幸男著(新潮社)
2024.06.30 (日) ワーグナー「ラインの黄金」 原典との照合
我がクラシック友達T.M.氏は三菱商事フィナンシャル部門のトップを務め、退職後は投資コンサルタント会社を経営、ワールドワイドに活躍するビジネスマンです。得意先にドイツの会社がある関係で夏には度々バイロイト祝祭劇場にも出かけています。「バイロイトは古代ギリシャの円形劇場を模しているので見やすいのですが、冷房がないからやはり暑い。椅子は木製で硬く長時間耐えるのは大変です。で、ウォルフガングの娘の時代になってからは、作りが突拍子もなくてね。やはりオーソドックスな演出の方がいいですよ」などと話しています。ウォルフガングとはリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)の孫ウォルフガング・ワーグナー(1919-2010)のこと。娘はカタリーナとエファの姉妹。リヒャルトの曾孫ですね。今、この二人がバイロイトの制作運営を全面的に仕切っています。
私も彼女たちのプロダクションを毎年テレビで見ますが、T.M.氏の云う通りまるで感心いたしませぬ。例えば、2019年の歌劇「タンホイザー」。このオペラ、主人公の騎士タンホイザーが、愛欲の都ヴェーヌスブルクと芸術と純潔の殿堂ワルトブルクを行き来し「愛欲/純愛」の挟間で葛藤、最後は彼を慕う純潔な女性の犠牲によって救われる といういかにもワーグナーらしい身勝手な思想による物語なんですが、このプロダクション、ヴェーヌスブルクがなんとサーカス団の移動トラックになっている。そこには愛欲の女神ヴェーヌスと共に黒人の道化と小人が乗り込んでいる。しかも彼らは殿堂ワルトブルクに乱入してタンホイザーを煽りまくる。いやはやもう見ちゃおれんほどの珍演出。ところが、ワーグナーの勇壮荘厳な音楽がこんなヘンテコ演出を救っちゃうんですね。偉大なるかなワーグナーの音楽です。私はここでワーグナーの曾孫姉妹に言いたい。奇をてらうだけでは曽祖父の音楽に失礼ですよと。
今回取り上げるのは「ニーベルングの指環」の序夜「ラインの黄金」です。これが「指環」の序夜なのですが、ワーグナーが初めに台本に着手したのは「ジークフリート」で、1848年、ワーグナー35歳のとき。彼はこれを「ジークフリートの死」と「若きジークフリート」の二部に分けました。後に前者は「神々の黄昏」、後者が「ジークフリート」となります。これらの物語はゲルマンの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」に基づいていますが、これは前回のクラ未知で記述した通り。これに先立つ「ワルキューレ」はアイスランド伝承の「サガ」から、「ラインの黄金」は北欧神話の「エッダ」と「ニーベルンゲンの歌」から、夫々採られています。面白いことにワーグナー「指環」の台本は完成形と逆の順番で書かれたことになります。
このように、ワーグナーは「指環」の台本はすべて自身で書いています。オペラの作曲家として、これは異色中の異色といえます。モーツァルトもロッシーニもヴェルディもプッチーニも、私の知る限り、自ら台本を書いた作品は皆無です。やはり、少年時代にシェイクスピア劇に夢中になっていたことが、他の作曲家と一線を画す大きな理由の一つとなっているのでしょう。
「ラインの黄金」の台本が完成したのは1852年11月。作曲開始は1853年11月で翌1854年5月には完成。以下「ワルキューレ」が1856年4月、「ジークフリート」と「神々の黄昏」は、間に「トリスタンとイゾルデ」、「マイスタージンガー」の作曲が入ったため、夫々1871年2月と1874年11月に完成しました。曲作りの方は完成形の順番通りということですね。1848年の着手から26年の歳月が流れたことになります。
では「ニーベルングの指環」序夜「ラインの黄金」の登場者とあらすじを記しましょう。最初にワーグナー作品と原典での登場者名を対照併記します。そのあとあらすじを記しますが、最後に 【照合】欄を設けて ←で 原典との関連性を記します。関連する事柄は太字で明記します。( )内は原典名です。
<ラインの黄金> |
<原典> |
最高神ヴォータン |
オーディン(エッダ) |
ヴォータンの妻フリッカ |
フリッグ(エッダ) |
フリッカの妹フライア |
フレイヤ(エッダ) |
3人のノルン |
3人のノルニル(エッダ) |
火の神ローゲ |
ロキ(エッダ) |
ニーベルング族アルベリヒ |
アルベリヒ(ニーベルンゲンの歌) |
巨人族ファーフナー |
火を噴く龍ハーフナー(ニーベルンゲンの歌) |
<第1場>ライン河の水底
ライン河の黄金を守る3人の乙女が戯れているとアルベリヒという二―ベルハイムから来た小人が割り込んでくる。アルベリヒが言い寄るが乙女たちはからかうばかりで相手にしない。そんな中、彼女らは「黄金から指環を作った者は世界の権力が手に入る。ただし、そのためには愛をあきらめなければならない」と話す。アルベリヒは乙女が我がものにならないのなら愛を断念して「黄金から指環を作って復讐してやる」と宣言する。
【照合】
“ライン河に黄金”の図式は、映画「ニーベルンゲン第2部」で、ジークフリートがクリームヒルトに遺したニーベルンゲンの財宝をハーゲンがラインの河底に隠匿する場面があるが、おそらくそこからヒントを得ていると思う。
<第2場>天上界〜神々の世界
世界は、地底ニーベルハイムに住むニーベルング族(小人族)と地上に住む巨人族とヴェルズング族(人間族)、そして天上の神々という三つの層に分かれている。
最高神ヴォータン、その妻フリッカ、フリッカの妹フライア、火の神ローゲ、その他神々が完成した城ヴァルハラを満足げに見上げている。だが、ヴォータンはその裏で、城を作らせた巨人族のファーゾルトとファーフナーの兄弟に「完成した暁には義妹のフライアを授げる」と約束している。但しこれは、狡猾な策謀家ローゲから「フライアをやらずに済むようにするからとにかく作らせてしまいなさい」との助言があったため。巨人族兄弟がフライアを所望したのは、彼女が美しいからだけではなく、彼女だけが不老不死・若さを保つリンゴを育てることができるからだ。
ヴォータンはローゲに「フライアを渡さずに済む方法は何なのだ」と詰め寄る。ローゲは「フライアの代わりとなるものなどありません。がただ一つ、愛を諦めた男がラインの河底から奪い取った黄金を鍛えあげて作った指環ならばとって代われるかもしれません。なにしろこの指輪を手にしたものは世界を征服できるというのですから」。ヴォータンは巨人兄弟にこの話をすると「ならば指環をフライアの代わりにしてやってもよい」と答え「それまで担保としてフライアは預かる」と言い残して立ち去る。フライアが連れ去られたことで神々たちは見る見る若さを失ってゆく。
【照合】
ヴォータンの妻は
フリッカで結婚の女神 もしやヴォータンは恐妻家?
←オーディンの妻は
フリッグ 女神の中で最も優れているという(エッダ)
ヴォータンが独眼なのは
フリッカを妻とするための担保としたから
←オーディンが独眼なのは、片目を巨人族が保有する
知恵と知識が詰まった泉を飲ませてもらうための担保としたから(エッダ)
フリッカの妹
フライアは不老不死のリンゴを育てる不可欠な女神
←フリッグに次いで優れているのが
フレイヤ という記述あり(エッダ)
ヴォータンの槍は権力の象徴で
名は無い
←オーディンの槍は最強で
グングニルという名がある(エッダ)
ヴォータンの命令で城を造ったのは
巨人族の兄弟ファーゾルトとファーフナー
←オーディンの命令で城を造ったのは巨人族の鍛冶屋が手配した超強力な
1頭の馬(エッダ)
火の神
ローゲは悪知恵の働く策謀家
←巨人族の
ロキは仕事はできるが狡猾さも天下一品 と書かれている(エッダ)
<第3場>地底に広がるニーベルハイム 小人族アルベリヒとミーメが住むところ
アルベリヒは弟ミーメに隠れ兜を作らせる。これと指環でニーベルハイムを支配することに。そこに、ヴォータンとローゲがやって来る。無論指環や財宝を強奪するためだ。ローゲは言葉巧みにアルベリヒを誘導、隠れ兜で蛙に変身させたところを捕まえ縛り上げる。
【照合】
アルベリヒは隠れ兜を使って
ニーベルハイムを支配する
←ジークフリートは隠れ兜でグンターとブルンヒルトの
結婚を手助けする(ニーベルンゲンの歌)
<第4場>ライン河畔の山上
ヴォータンとローゲは縛り上げたアルベリルヒを引き立て地上にやって来る。アルベリヒに命令を出させニーベルングの財宝を運び込ませる。財宝と合わせ隠れ兜も指環までも取り上げる。ヴォータンは「今や最も強大な支配者へと私を高めるものを得た」と高笑いし、アルベリヒを解放してやる。アリベルヒは「わしは指環に呪いをかけた。指環を持つものはその呪いから決して逃れられない。指環の支配者は指環の奴隷となる」と捨て台詞を吐き立ち去る。
ファーゾルトとファーフナーがフライアを連れて登場。ヴォータンはフライアと引き換えに財宝と隠れ兜はいいが指環だけは渡せないと言い張る。そこに知恵の女神エルダが現れてこう言う。「今あるものはすべてが終わり世界に暗黒の日々が近づいています。呪いのかかった指環は捨てなさい」。ヴォータンこれを聞き容れフライアは解放される。
このあと巨人兄弟に争いが起こり、結果、ファーフナーがファーゾルトを殺し代替え品を独り占めして立ち去る。
雷神ドンナーは雷を呼び、幸福の神フローは城への虹の橋を架ける。神々はヴォータンが名付けたヴァルハルに入城の歩を進める。
ローゲは「自分は神々と行動を共にするのが恐ろしい。彼らは終末に向かっている」と言いながら、黄金を盗まれて嘆くラインの乙女には「その黄金はもう返らない。お前たちは神々の新しい輝きに浴して今後は幸せに楽しむがいい」と二枚舌を使う。
一件落着に見えるヴァルハル築城とフライア奪還だったが、物語は神々の未来に暗雲を投げかけて幕となる。
【照合】
アリベルヒはニーベルング族に財宝を造らせ、それを元手に世界を支配する野望を持つが、それらは
ヴォータンら神々に奪い取られる
←アリベルヒが作らせた財宝は
ジークフリートに奪われる(ニーベルンゲンの歌)
今回は「ラインの黄金」を約2時間半観てまとめました。一つ、面白かったのは、本来神と云えば高潔全能の存在のはずですが、ここに登場する最高神ヴォータンはかなりいい加減な神様だということです。
例えば、ファーゾルトに「ヴォータン、あなたは神々の長なのにすぐ考えを変えてしまう。契約はちゃんと守るべきだ」と諭されと、「まじめにとるとは何事か。ただ冗談で契約しただけなのに」と実に不誠実な対応をする。また妻フリッカには「あなたはいつも自分勝手。つまらない権力や支配欲のためなら愛情や女性の価値を平気でないがしろになさる」となじられる。さらには、「指環は盗めばいい。盗んだものを盗んで何が悪い」など、およそ神らしからぬセリフを吐く。とまあ、こんな不埒な神々だから最後に終焉を迎えるのは当然の帰結 と感じてしまいます。このあたり、ワーグナーの神への思いは、同じプロテスタントでありながら、J.S.バッハのような絶対的敬虔さではなく、ある種の疑念を抱いていたのではないか とさえ考えてしまいます。このあと、そんなワーグナーの宗教観についてもメスを入れられたら と思います。
次回は第1夜「ワルキューレ」を掘り下げてみましょう。
<参考資料>
ワーグナー「ニーベルングの指環」序夜「ラインの黄金」
DVD サヴァリッシュ指揮:バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団 他1989公演 (東芝EMI)
CD ベーム指揮:バイロイト音楽祭管弦楽団 他1966公演 (日本フォノグラム)
CD-BOOK 魅惑のオペラ: バレンボイム指揮:バイロイト祝祭管弦楽団 他1991公演 (小学館)
最新名曲解説全集 歌劇編U(音楽之友社)
クラシック音楽史大系6:オペラの世紀(パンコンサーツ)
映画「ニーベルンゲン」第1部 第2部(フリッツ・ラング監督1924独)BD
「エッダとサガ〜北欧古典への案内」 谷口幸男著(新潮社)
ワーグナー:歌劇「タンホイザー」 2019バイロイト音楽祭公演BD
2024.05.22 (水) ワーグナーの「指環」を原典から考察する
ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」は上演に4夜、16時間も要するとてつもない大作です。かつてFMえどがわDJ時代に“下町のクラシックじいさん”といわれていた私は、CD、DVDを各4セットづつを所有、何度か見聴きしてはいますが、とてもその全貌を把握できてはおりませぬ。とそんな折、Brownie K氏から無声映画「ニーベルンゲン」第1部「ジークフリート」と第2部「クリームヒルトの復讐」BDを借りることができました。これはワーグナーが「指環」を作る原典となったゲルマンの叙事詩を映画化した1924年ドイツの作品。陰謀渦巻く心理描写、愛憎心理の葛藤等が、深遠な古代ゲルマンの森、不気味な洞窟、絢爛たるニーベルンゲンの財宝、壮麗な宮殿、迫力ある戦闘シーンなどの映像共々、見事なリアリティで描かれており、活き活きとした活弁とも相まって、4時間40分、まさに釘付け。ドイツ文化の底力を感じさせられました。
見終わって、5月22日はワーグナーの誕生日でもあるし、今月の「クラ未知」は「指環」を取り上げるしかないな と思うに至りました。
ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」4部作は1848年に構想して1874年に完成。1876年、ワーグナーの理想を実現するためバイエルン国王ルートヴィヒUが莫大な国費を費やして建設したバイロイト祝祭劇場で初演されました。
台本を書くにあたって、ワーグナーが参考にしたのはゲルマンの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」と北欧神話「エッダ」「ヴォルスンガサガ」、そしてギリシャ悲劇です。ギリシャ悲劇はその構成に影響を与えており、序夜「ラインの黄金」〜第1夜「ワルキューレ」〜第2夜「ジークフリート」〜第3夜「神々の黄昏」という“三部”構成は、アイスキュロスの悲劇「オレステイア」三部作に倣ったものといわれています。一方、「ニーベルンゲンの歌」、「エッダ」、「ヴォルスンガサガ」は作劇上の礎となったもの。ここではその概要を考察します。
(1)ニーベルンゲンの歌
「ニーベルンゲンの歌」の成立は13世紀初頭。元になったのは口承で伝えられてきたニーベルンゲン伝説です。映画「ニーベルンゲン」に沿って内容を把握しておきましょう。なおニーベルンゲンはニーベルングの複数形。太字はワーグナーの「指環」と関連あるワードです。
第1部:ジークフリート
ジークムント王の息子ジークフリートは天下無双の強者。ニーベルンゲン族の鍛冶屋ミーメの下で刀鍛冶の修行に励んでいる。技術を習得し強い剣を作り上げたジークフリートは、ミーメの仲間の古老から聞いた絶世の美女クリームヒルトを娶ろうと、ブルグント国の都ウォルムスに向かう。クリームヒルトはライン河畔に栄えるブルグント国の王女なのだ。
途中、火を噴く龍ハーフナーが現れ行く手を遮るが、これを自ら鍛いた剣で倒す。そこで龍の返り血を口にしたジークフリートは小鳥の言葉がわかるようになる。更にその先で、ニーベルンゲン族の首領アルベリヒに命を狙われるが逆襲、名剣バムルングと隠れ兜、そしてニーベルンゲンの莫大な財宝を手に入れる。
ウォルムスに着いて、城主グンター王にその妹クリームヒルトとの結婚を申し出る。するとグンターは、自分にも結婚したい相手がいる。その名はブルンヒルト。アイスランドの王女にして男勝りの強者。彼女との間をとりもってくれれば妹をやる と言う。ジークフリートは承諾し二人はアイスランドに出向く。結婚を申し込むグンターにブルンヒルトは「私との戦いに勝てば」との条件を出す。まともじゃ勝てないグンターは、ジークフリートに、「隠れ兜を使い自分の身代わりになって戦ってくれ」と頼む、結果、これに勝ったグンター(といっても実際に勝ったのはジークフリートだが)とブルンヒルト、そしてジークフリートとクリームヒルトの二組の結婚式が行われる。
グンター王にはハーゲンという叔父が後見人としてついている。ブルンヒルトは、実は自分を破ったのは隠れ兜で身を隠したジークフリートだと知ってしまう。彼女はハーゲンに「ジークフリートを殺してほしい」と懇願する。不死身のジークフリートにも唯一の弱点があることを知るハーゲンは、狩りのあと、そこを突きジークフリートを殺す。最愛の夫を殺されたクリームヒルトはハーゲンへの復讐を誓い、ブルンヒルトは自害する。
第2部:クリームヒルトの復讐
強大なフン帝国の王アッチラは寡婦となったクリームヒルトを妃に求めている。ところが、ジークフリートを失ったクリームヒルトには人を愛する気持ちを失っており、夫ジークフリートを殺したハーゲンへの復讐心だけが残っていた。そして、その目的を達するためアッチラ王との結婚を承諾する。
フン帝国に入ったクリームヒルトは、アッチラ王に「麗しき女王よ、わが命を女王に捧げる」と誓わせる。そして、ハーゲンを含むブルグントの一族を帝国に招き入れフン族との戦闘に巻き込む。そこでハーゲンを撃ち、本懐を遂げる。その過程でクリームヒルトも死に、グンターはじめすべての登場人物は死に絶えてしまう。
(2)北欧神話「エッダ」
「エッダ」は数百年にわたる歌謡の集成として9〜13世紀に成立した北欧神話を伝える文書群のこと。この源流にはニーベルンゲン伝説が含まれているため、「ニーベルンゲンの歌」と重複する部分が少なからずあります。本章では、谷口幸男著:「エッダとサガ〜北欧古典への案内」を参考に、ワーグナーの「指環」との関連を探ります。まずは参考資料の要約を下記。関連ワードは太字で記します。
<神話から>
世界の中心には主神オーディンが居座る。神族と巨人族の間には争いが絶えず、戦場で死んだ兵士たちはオーディンの城ヴァルハラに祀られる。ヴァルハラに仕える乙女はワルキューレと呼ばれ、武装して馬にまたがり空中を駈ける。彼女たちは、オーディンの意志に従って闘い、戦死者をヴァルハラに運ぶ。オーディンには鴉がいて、世界で見聞したことを主人に報告する役割を果たす。オーディンはまたルーン文字の神でもある。彼の妻はフリッグといい、女神の中でもっともすぐれている。フリッグに次いですぐれた女神はフレイヤである。
神々の宝は巨人から生まれた小人族が作る。彼らのスキルは高く、作る武器や装飾品は見事なものだ。泉のほとりには3人のノルニルがいて、彼女たちは人間だけでなく神々の運命をも司る。
あるときオーディンは巨人族が所有する知恵と知識が詰まった泉を飲ませてもらうため自身の眼を抵当として巨人族に渡した。オーディンはまた常にグングニルという最強の槍を持ち歩く。この槍こそオーディンの力の象徴なのだ。
ロキという巨人がいる。仕事はできるが狡賢さも天下一だ。オーディンは巨人の鍛冶屋に砦の建設を命ずる。鍛冶屋は超強力な馬を使って1年半で完成させるから、報酬にフレイヤをくれという。オーディンこれを認める。工事が始まる。馬の能力は絶大で、期日までに完成しそうになる。これは大変ということで、オーディンはロキに取り決めを無効にするよう働きかけよと命ずる。ロキは牝馬を使って馬を遠ざけ完成を遅らせた。結果フレイヤを差し出さずに済んだ。
神々〜巨人〜人間の間には争いが絶えず、遂に世界は終末を迎える。そして海中から新しい大地が浮かび上がる。
<英雄伝説から>
シグムント王の息子にヘルギがいる。ヘルギは抗争が絶えないフンディング族を制圧、フンディング殺しの異名を取った。
シグムント王にはもう一人、気高く武勇にすぐれたシグルスという名の息子がいる。幼少期を母の再婚先で過ごし、小人のレギンの養育を受ける。レギンはグラムという名剣を鍛えてシグルスに与え、グラニという立派な馬も授ける。レギンの兄ファーヴニルが父の遺産を独り占めし龍の姿に身を変えているので、レギンはシグルスに協力を促し龍の住み家に出向く。シグルスは見事龍を刺し殺す。その時、龍(ファーヴニル)の血が口に入ると鳥の言葉がわかるようになる。鳥が話すには「レギンは兄に復讐するためにお前を唆したのだ」と。これを聞いて憤ったシグルスはレギンを刺し殺しファーヴニルの財宝を手中にする。
国への帰り道、山上に大きな光焔を見る。そこに進むと、火の中に武装した兵士が横たわっている。兜を外すとそれは女で、ブリュンヒルドというワルキューレだった。オーディンに背いたため焔に囲まれ眠らされていたのだ。彼女は恐れを知らぬ者としか結婚しないと心に決めていた。火焔を乗り越えて起こしてくれたシグルスこそ自分に相応しいと感じ、二人は結婚の約束をする。
シグルスはギョーキ王のもとを訪れる。王には息子グンナル、ホグニと娘グズルーンがいる。シグルスはグズルーンの母に忘れ薬を飲まされ、ブリュンヒルドとの婚約を忘れさせられてしまう。そしてグズルーンを妻にすることに。
グンナルはブリュンヒルドとの結婚を願っており、シグルスとグズルーン、ホグニは求婚の旅に同行する。結果、ブリュンヒルドはグンナルの妻となるも、彼女の思いはシグルスに向いたまま。そして、ブリュンヒルドとグズルーンの口論から事態は暗転、悲劇的結末へと向かう。
(3)ヴォルスンガサガ
「エッダ」が北ゲルマン人に伝えられた神話〜英雄伝説を歌謡形式による韻文で書かれたものであるのに対し、「サガ」は、12〜13世紀、アイスランド人が様々な伝承を散文で記したものです。「指環」との関連でいえば、その中の「ヴォルスンガサガ」が最も深いつながりがあります。源流にニーベルンゲン伝説があるので、「エッダ」と内容的に重複する部分も多いのですが、散文で書かれていることもあって、「エッダ」にはない補足的記述も一部見受けられます。ここではその補足部分を「指環」と関連するものに限って考察しておきます。
「エッダ」に登場するシグムント王に至る系譜は、オーディンを起点にシギ〜レリル〜ヴォルスング〜シグムントという流れになる。シグムントにはシグニューという妹がいる。ある宴席に、見知らぬ片目の老人が現れ、木の幹に剣を刺し、「これを引き抜いた者にこの並びない名剣を与える」と言い残して消える。老人がオーディンであることは言うまでもない。一同みな試みるも誰一人抜けず、シグムントだけが抜くことができた。その後、シグムントとシグニューは床を一つにしてシンフィヨトリという男の子を生むことになる。
以上、ワーグナーが参考にしたといわれるゲルマン/北欧の伝承作品群を見てきましたが、ワーグナーはこれらを「指環」においてどう取り込み料理したか? 次回から「指環」4作に沿って考察しようと思います。
<参考資料>
映画「ニーベルンゲン」第1部 第2部(フリッツ・ラング監督1924独)BD
「エッダとサガ〜北欧古典への案内」 谷口幸男著(新潮社)
最新「名曲解説全集」第19巻「歌劇U」(音楽之友社)
ワーグナー:楽劇「ニーベルンゲンの指環」全4作(小学館「魅惑のオペラ」)DVD-BOOK
2024.04.15 (月) 春のクラシック楽曲のやぶにらみ的考察
去年の桜は早すぎて、せっかく出かけた弘前城や角館が葉桜になっており残念な思いをしたものですが、今年は普通に戻りました。やはり、桜の下での入学式、桜花賞はいいものです。そしてMLB、NPBの開幕、マスターズ開催とやはり春到来はウキウキします。
この春暗雲垂れ込めた水原一平氏の違法賭博問題も、4月11日、米連邦検察が「水原氏の送金は24億5000万円に上り、詐欺容疑で訴追した。大谷選手が関与していたことを示す証拠はなく、彼は被害者とみられる」との見解を発表しました。額の莫大さに唖然としたものの、大谷選手の潔白は証明されたわけで、まずは一安心。あとはドジャースのワールド・シリーズ制覇に向けて突き進んでほしいものです。
今回は、春に因んだ楽曲をクラ未知的斜視的角度から考察してみましょう。
(1)「春の声」〜ヨハン・シュトラウス2世
ワルツ「春の声」。この曲の誕生は実にユニーク。ピアノの魔術師 フランツ・リストが関係しているんですね。1883年、ヨハン・シュトラウス2世がオペレッタ「愉快な戦争」の初演のためブダペストに滞在していた折、旧知の間柄のリストとパーティーを開き、そこで互いが勝手気ままに演奏し合って生まれたのが「春の声」でした。その年の暮、歌詞がつけられてウィーンで初演。大喝采を浴びました。華やかなサロンと3度目の結婚を控えたシュトラウスの幸福感が反映して、明るく躍動感に満ち、まさに春到来を思わせる楽曲です。
この心躍る楽曲は映画「男はつらいよ」にも何度か登場します。第8作「寅次郎恋歌」では、マドンナ池内淳子演じる未亡人貴子さんの一人息子学くんが、転校後間もないため友達ができないのを見兼ねた寅さんが、江戸川の川原で一緒に遊んでやって友達作りに一役買う。そんな場面で流れていました。我が子に友達ができて喜ぶ池内さんの自然な演技がとても印象的でした。そうです、親というもの、子供に友達ができることが何よりもうれしいのです。シリーズ「男はつらいよ」は本作で初めて100万人動員を果たし、翌1972年からは盆暮れ年2回公開が定着します。
「春の声」はこの後、第9作「柴又慕情」、第30作「花も嵐も寅次郎」、第41作「寅次郎心の旅路」にも登場。合計4回も使われています。これはシリーズ48作中最大の頻度。山田監督一番のお気に入り曲といえるでしょう。これに続いては「トロイメライ」(シューマン作曲)が3回となっています。
正月恒例のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートでは1987年の演奏が圧巻でした。指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン。人気上昇中のソプラノ歌手キャスリーン・バトルをソリストに登用、「春の声」本来の姿で演奏されました。流石カラヤン、筋が通ったエンターテインメントでした。私の記憶では、ニューイヤーの歌手のゲスト出演はこれが最初で最後かと思います。ウィーンフィル・ニューイヤーではこれ以降、指揮者が毎年入れ替わるのが恒例となります。
日本の国民的映画「男はつらいよ」と世界のクラシックファン垂涎のウィーンフィル・ニューイヤーコンサート。この2大行事の恒例化に「春の声」が関与(?)していたのは面白い偶然といえるかもしれません。
因みに、キャスリーン・バトルは技量/容姿兼ね備えた抜群のスター性の持ち主。創美企画時代、彼女が歌うニッカ・ウィスキーのCM「オンブラ・マイ・フ」をフィーチャーしたLD「DIVA」をリリース。発足間もない新会社の売り上げに大いに寄与しました。これも懐かしい思い出です。
(2)ドビュッシーの「春のロンド」
「春のロンド」はドビュッシー「管弦楽のための映像」の終曲。スコットランド風の「ジーグ」、スペイン風の「イベリア」に続く第3曲がフランス風の「春のロンド」というわけです。「ロンド」は「輪舞曲」と訳され、その名の通りメインの旋律が何度も現れる闊達な舞曲風楽曲形式で、ベートーヴェンやチャイコフスキーのコンチェルトの終楽章を華やかに飾っています。が、そんなイメージでこのドビュッシー「春のロンド」を聴くと肩透かしを食らうことになります。まず、主要主題がフランスの童謡「もう森へは行かない」に基づく旋律なのですが、これが皆目掴めない。ロンドなので何度か出てくるはずですが、実に不明瞭。聴き馴れたドイツ的ロンドとは似ても似つかぬ、霧に覆われているような感覚なのです。ドイツ系音楽に慣らされた私のようなものはフランス的テイストに馴染めないのかもしれませんね。アルマ・マーラー著「グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想」によれば、1910年、交響曲第2番「復活」のパリ初演に参列したドビュッシーは第2楽章の途中で席を立ってこう言ったそうです。「マーラーの交響曲はあまりに異国的でスラヴ的だ」。これもフランス的とドイツ的の相容れなさの表象なのでしょうか。
ドビュッシーの音楽には、形式的不明瞭さはあるものの、響きの“清涼感”は独特です。作家・立原正秋が「夏に聴く音楽はドビュッシーが一番」というのも理解できます。
私の場合、「ロンド」と聞いてすぐ頭に浮かぶのは、モーツァルトのトルコ行進曲です。これはピアノ・ソナタK331の第3楽章なのですが、形式はロンド、表記は Alla Turca Allegretto(トルコ風アレグレット)となっています。形式的にはかなり自由で、これを「フランス風ロンド」という向きもあります。また、行進曲という表記はありませんが、左手が刻むリズムがトルコ軍の行進を表わしているということで昔から「トルコ行進曲」が通り相場となっています。
これらはまあいいとして、興味深いのはAllegrettoという速度表記です。これは、Allegro(快速に)が、1分間に四分音符を120〜152刻む速度なのに対し、Allegretto(やや快速に)は96〜120なのです。
そこで、今回、モーツァルト「トルコ行進曲」のMyコレクションから10枚のCDを選んで速度を算出することにしました。まず、楽譜から「トルコ行進曲」の小節数を数える。これを2倍して四分音符の数を算出する〜448個。これと各々のピアニストの演奏時間から速度を割り出し、遅い順に並べてみました。( ) 内数字は録音年。
ウラディミール・ホロヴィッツ(1968) ♩=107
グレン・グールド(1970) ♩=109
ワルター・ギーゼキング(1954) ♩=121
宮沢明子(1983) ♩=125
藤田真央 (2021) ♩=126
内田光子(1983) ♩=127
アンドラーシュ・シフ(1980) ♩=129
リリー・クラウス(1956) ♩=130
フリードリヒ・グルダ(1977) ♩=132
ウィルヘルム・バックハウス(1955) ♩=141
以上、Allegrettoの速度(♩=96〜120)に収まっているのは、ホロヴィッツとグールドの二人だけということが判明しました。あとはすべてAllegroの速度となっており、おそらく現在はこの傾向が強いと思われます。因みに著名な行進曲の速度、例えば、スーザの「星条旗よ永遠なれ」は116、ヴェルディの歌劇「アイーダ」大行進曲は101としっかりAllegrettoの枠内に収まっています。やはり行進曲はAllegrettoがスタンダードということでしょうか。モーツァルトが行進曲という意味合いからAllegrettoとしたのなら、ホロヴィッツとグールドが最も作曲者の意図に忠実ということになりますね。また、10人中の最古参バックハウスが最速だったのは意外でした。
「ロンド」を軸にドビュッシーからモーツァルトに跳んでみましたが、作曲者の意図をこんな角度から考察するのも楽しいものです。
(3)ワーグナー「冬の嵐は去りて」
「冬の嵐は去りて」はワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」第1日「ワルキューレ」の第1幕でジークムントが歌うアリア。楽劇「ニーベルングの指環」は、序夜「ラインの黄金」、第1夜「ワルキューレ」、第2夜「ジークフリート」、第3夜「神々の黄昏」の4夜16時間にわたって繰り広げられるワーグナー畢生の大作オペラです。神々/人間族/地底族が権力の象徴「指環」を巡って争い、やがて黄昏が世界を覆うという物語。ワーグナーはこれを作るにあたり、ゲルマンの英雄叙事詩「ニーベルンゲンの歌」、北欧神話「エッダ」、アイスキュロスのギリシャ悲劇「オレステイア」等を参考にしたといわれています。「ニーベルンゲンの歌」はなんと無声映画があるようで、これはBrownie K氏からお借りすることになっていて、今からとても楽しみにしています。
「冬の嵐は去りて」は第2日目から主人公として登場するジークフリートの父ジークムントが、母となる妹ジークリンデとめぐり逢い、「私こそが春」と溢れる思いを吐露する、ワーグナーらしからぬ(?)メロウ&メロディアスなアリアです。「冬の嵐は去り快い季節となった 柔らかな光に包まれ春は輝いている」と歌い始めるのですが、春Lenzという単語が代名詞を含め13回も出てきます。歌い終わったジークムントに向かってジークリンデは「そうです あなたこそが春なのです」と感涙の言葉を投げる。さすが fanatic & paranoid なワーグナーの濃厚さです。
その昔「指環」を初めて聴いたとき、兄妹の結婚〜なんて妙な、といささか奇異の念に打たれましたが、我が国の天皇家の歴史を辿れば近親婚はさして珍しいことではなく、近頃では徐々に違和感がなくなってきています。
以上、春のクラシック3曲を取り上げてみましたが、春楽曲は上記の他にも、ヴィヴァルディ「四季」〜「春」、モーツァルト「春への憧れ」、ベートーヴェン「スプリング・ソナタ」、メンデルスゾーン「春の歌」、シューマン:交響曲第1番「春」、マーラー「大地の歌」〜「春に酔える者」、ストラヴィンスキー「春の祭典」、コープランド「アパラチアの春」等、数多あります。またいつか、これらの曲についても考えてみたいと思います。では今月はこの辺で。
<参考資料>>
最新名曲解説全集(音楽之友社)
新モーツァルト全集(ベーレンライター版)
映画「男はつらいよ第8作〜寅次郎恋歌」(1971年12月公開)DVD
CD「寅さんクラシック」(畑中隆一制作BMGビクター)
「グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想」(アルマ・マーラー著、石井宏訳 中公文庫)
CD「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート1987」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
キャスリーン・バトル(ソプラノ)
CDワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」〜「ワルキューレ第1幕」
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
セット・スヴァンホルム(テノール)、キルステン・フラグスタート(ソプラノ)1957録音
2024.03.11 (月) 中島みゆきコンサート「歌会VOL.1」〜超私的レポート
2月22日、東京国際フォーラム ホールA。待ちに待った中島みゆきコンサートに行ってきました。みゆきさんライブはいつも一緒のN.Yさん同伴で。前回の「2020ラスト・ツアー〜結果オーライ」が、コロナによるイベント自粛要請により、2月26日、大阪フェスティバル・ホール公演終了後に中断、今回は4年ぶりの開催でした。N.Y.さんは前回行っていますが、一緒に行く予定だった回は中断後だったので、私にとっては2018年の夜会以来6年ぶりのお目通りとなります。今回タイトルは変わって「歌会VOL.1
」。前回“ラスト・ツアー”と銘打ったのは「全国に出向く“ツアー”としてはラスト」という意味だそうで、単発のコンサートは今後も続けるそうです。“VOL.1”だものね。なので、当分、みゆきさんにはお目にかかることができそうで楽しみです。
前回は、「アザミ嬢のララバイ」「悪女」「宙船」「最後の女神」「麦の唄」「慕情」「糸」など、ヒット曲、タイアップ曲が数多く並び、「ラスト・ツアー」に相応しい内容となっていました。そこへゆくと今回は、19曲中15曲が2000年以降の楽曲で、最新シングル「心音」もあり、その歌詞のように“未来へ”向かうみゆきさんの意欲がヒシヒシと伝わってくる構成でした。
スタート曲
「はじめまして」は、中断した前回ツアーのラスト曲。今回は、あの時の続きですよ というメッセージでしょう。それよりも何よりも、登場したみゆきさん、なんと眼鏡をかけていたのにはビックリ。心配したのは声でしたが、出だしはやや安定感に欠けたものの、進むにつれて張りある声がビンビン出てきて、心配は全くの杞憂に終わりました。
2曲目
「歌うことが許されなければ」は2020年のアルバム「CONTRALTO」から。「繰り返される戦いの日々 言葉は閉じこめられてゆく」という文言がありますが、この時点ではロシアのウクライナ侵攻はまだ。ロシアの言論統制とコロナによるライブ自粛を予見しているかのようです。みゆきさんの透視力でしょうか。
これに続く「医療三部作」は前半の圧巻。「最近の報道を見ていると病院の映像がとても頻繁に出てくるような気がします。これまでこんなことがあったでしょうか」と前置きして、ドラマ「PICU小児集中治療室」主題歌「倶に」(AL「世界が違って見える日」収録)〜「病院童」(AL「問題集」収録)〜ドラマ「Dr.コトー診療所」主題歌「銀の龍の背に乗って」の三連荘。
「倶に」はスケール大きな曲想の中にグッと迫る歌詞が浮き立ちます。「風前の灯火だとしても 消えるまできっちりと点っていたい」。この言葉どこかで聞いたことがあるな と思ったら秋吉敏子さんでした。「歳をとるのは逆らえない。だから、そのことをどうこう考えても仕方がない。大切なのはその日その日をしっかりと生きること」。私ももうすぐ80代。偉大な二人の女性アーティストの言葉が身に沁みます。
「病院童」は座敷わらしの病院版。発想がユニークです。「病院は戦場だ 病院は外国だ 普通の表通りから さほど遠くない」。そんな病院の童(わらし)になりたいとみゆきさんは歌う。座敷わらしが住み着いた家は財を成すといわれている。病院童は出会った患者さんに「きっと治ってね きっと笑って帰ってね」と呼びかける。幸運の妖怪なのです。
編曲の瀬尾一三氏はこの曲についてこう述べています・・・・・童だからと最初メルヘン・タッチで仕立てましたが、みゆきさんからダメ出しを食らいました。「“戦場”なんだからもっと緊張感を出して」と。そこで、「じゃERにしちゃうぞ」とロックにしたら気に入ってもらえましたね。みゆき&瀬尾コンビは38年。切っても切れないパートナーです。瀬尾さんはまた中島みゆきについてこう語っています。
中島みゆきが作り上げてくるものは、マクロ〜ミクロ、平面的なもの〜俯瞰的なものとオールマイティみたいにとてつもなく幅広い。日常気づかないような心の襞にあるささくれみたいなものを何気なく提示してくる。時には傷に塩もありますが、そういうものを含めた上で大きな愛がある。決して見捨てない包むような愛ですかね。だから最後には癒される。個人、あなたというところの対峙の仕方をしているので、そこが聴く人に一番響くのだと思います。彼女にはまだ僕には見せてない切り口があると思うのでお互い現在進行形というところでしょうか。まだまだいい作品が出てくると思います。
隣の二人連れ女性の一人が「みゆきさんの歌は全部私に語りかけてくれてるような気がする」と喋っていたのも、こういうことなのでしょう。
「銀の龍の背に乗って」は、非力を嘆く医師が「明日は龍の背に乗って 命の砂漠へ 雨雲の渦を運んで行こう」と歌う。非力なら龍の力を借りればいい。大切なのは人の命を救うこと。本質を見失わないみゆきさんの視点です。
「LADY JANE」はとあるJAZZ喫茶の一コマを歌っています。実在するみゆきさんお気に入りの店だそうです。2015年のアルバム「組曲」に収録。ここでピアノを弾いている小林信吾さんはみゆきバンドのバンマスでしたが、2022年、帰らぬ人になってしまいました。62歳の若さでした。この日、「間奏のピアノ・パートは小林さんが遺したソロ・テイクを入れます」とみゆきさん。その部分で、ピアノに寄り添い懐かしみ祈るようなみゆきさんの姿がとても印象的でした。
いつかの「夜会」で、ファンクラブ「なみふく」会員でもあるN.Y.さんがチケットをゲットできなかった折、当時小林さんのマネージャーをやっていたカオちゃんこと冨原香織さんに獲ってもらったことがありました。小林さん、その節はありがとうございました。謹んでご冥福をお祈りします。
前半の最後は恒例の「おたよりコーナー」です。ここで登場したのが寺崎要氏。かの伝説的ラジオ番組「中島みゆきのオールナイトニッポン」のきっかけを作り構成を担当した敏腕放送作家です。リスナーからの便りを選りすぐってみゆきさんに渡すのも彼の役目。そんな中から生まれたのが1983年の名曲「ファイト!」でした。
2023カタール・ワールドカップ予選リーグ第2戦、対コスタリカ戦。終了間際に吉田麻也がクリア・ミスを犯し痛恨の敗戦を喫してしまいます。次のスペイン戦は勝つしかなくなってしまった。批判集中、キャプテンとしての責任感とも相まって、吉田は極度に落ち込む。そんなとき耳にしたのが中島みゆきの「ファイト!」だった。「冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ」。このフレーズに「落ち込んでる場合じゃない、やるしかない」と我に返る。日本は強豪スペインを撃破。グループステージを突破することができました。「あの歌のお陰で生き返りました」と吉田。日本中が歓喜したあの戦いの陰には中島みゆきの「ファイト!」があった。
今回も中島&寺崎コンビは手慣れたやり取りで会場を盛り上げました。一番多かったおたよりは「明日は誕生日。おめでとうございます」というもの。そうです、みゆきさんは次の日、2月23日で満72歳となるのです。しかも干支は辰、年女ですね。そして、休憩に・・・・・。
その昔、夜会かなんかの休憩時間に、タムジンこと写真家の田村仁氏とバッタリ出会ったことがありました。いつものようにN.Y.さん同伴で。そのときタムジンさん「えっ、そういうこと」と発したのですね。“そういうこと”とはどういうこと? いかにもタムジンさんらしいファジーな表現でした。タムジンさんは、みゆきさんのフォト・ワークをアルバム第2作「みんな去ってしまった」から担当しているので、そろそろ半世紀に達する長い付き合い。みゆきさんにとって一番気の置けないスタッフの一人といわれています。
第6作「生きていてもいいですか」(1980)は、女の情念を突き詰めて、当時、「中島みゆきは暗い」との定説を決定づけたアルバム。その中に、砂漠にオアシス的な心温まる楽曲が存在します。「蕎麦屋」。私の大好きな曲です。
世界中がだれもかも偉い奴に思えてきて
まるで自分ひとりだけがいらないような気がする時
突然おまえから電話がくる あのう、そばでも食わないかってね
あいつの失敗話にけらけら笑って丼につかまりながら、おまえ
あのね、わかんない奴もいるさって あんまり突然云うから 泣きたくなるんだ
みゆきさん、落ち込んでるな と感じて「そばでも食わないか」と誘い、他愛もない話をしながらふと「わかんない奴もいるさ」と言葉をかける。これ、タムジンさんのことといわれています。「そういうこと」/「わかんない奴もいるさ」。何か同じテイストに聞こえます。
さあ、休憩のあと、みゆきさんの声はますます力強く我々を圧倒します。スタートは「夜会」楽曲5連荘。1989年から始まった中島みゆきの言葉の実験劇場「夜会」からミラージュ・ホテル〜百九番目の除夜の鐘〜紅い河〜命のリレー〜リトル・トーキョーが間断なく歌われ、しかも早替わり、素早い五変化で我々の目も楽しませてくれました。
中でも
「命のリレー」が圧巻。この歳になると「この一生だけでは辿り着けないとしても 命のバトン掴んで願いを引き継いでゆけ」のフレーズが心に刺さります。自分はいったい何を息子や孫たちに引き継いでやれるのだろうかってね。
「慕情」は倉本聰書き下ろしのTVドラマ「やすらぎの郷」(2017)の主題歌。
愛より急ぐものがどこにあったのだろう 愛を後回しにして何を急いだのだろう
甘えてはいけない 時に情けはない 手離してはならぬ筈の何かを間違えるな
これまた、心に沁みます。人は誰しも愛を優先したいけど叶わないこともある。手離してはならぬ筈の何かこそが愛なんだろうけれども、しばし後回しにして後悔するものです。このドラマにはBMG時代に作った、CD「きりんのなみだ」で朗読をお願いした八千草薫さんが出演していました。ジャケット写真はタムジンさん。2003年の良き思い出です。
「体温」は「こんなに危ない世の中で 生きてるだけで奇跡でしょう 体温があるだけで拾いもんでしょう」と歌うアメリカン・ポップス風の軽快なナンバー。AL「世界が違って見える日」(2023)に収録されており、吉田拓郎がサイド・ギターを弾いています。たくろうといえば、2006年、つま恋での「永遠の嘘をついてくれ」のパフォーマンスが忘れられません。たくろうの歌い出しのあと、突然、ジーンズに白いロング・スリーブの中島みゆきがステージに現れましてね。予想外のハプニングに会場は興奮の坩堝と化しました。
「永遠の嘘をついてくれ」は、1995年、中島みゆきが吉田拓郎に提供した楽曲。夢に向かいながら果たされない男が「まだまだ、これから」と強がっている。そんな男に「いつまでもたねあかしをしないでくれ」と永遠の嘘を聞き続けたい相手。両者の心情の綾が複層的に呼応する。たくろうの歌を本人よりもドンピシャに描いちゃう(?) みゆきさんは凄いなあと思います。
互いをリスペクトし日本の音楽シーンを颯爽と牽引してきた二人が織りなす感動のステージでした。私はここから音声を取り出して、自作CD「中島みゆきSupremeベスト」に入れております。
このあと、ウクライナを彷彿とさせる
「ひまわりSUNWARD」、初のアニメ主題歌
「心音」、アンコールの
「野うさぎのように」、
「地上の星」でステージは終わりました。
みゆきさん、71歳と364日の記念すべきステージ。女神降臨の宴でした。帰りは恒例の感想会。中島みゆきのステージを40年、150回以上も見続けているN.Y.さんも「今日のは殊の外よかった」との言。このあと「クラ未知」を書くにあたって何度かメールのやり取りをしました。N.Y.さん、ありがとう、またよろしくね。
<参考資料>
NHK-BS「中島みゆきスペシャル」1994 O.A.
BSフジ「輝く続ける中島みゆき」2021.3.7 O.A.
NHK-BS「SONGS 中島みゆき」2022.1.27 O.A.
TBS-BS「心に刺さるグッとフレーズ」2022.12.29 O.A.
2024.02.15 (木) 「ZENさんのぶらり音楽の旅」という本
年明け早々、朋友Iceblue功ちゃんから電話が来る。「ZENさんから本人が書いたという本が送られてきました。当然岡村さんにもいってますよね」。「いや、来てないな。どんな本?」と私。「自分の会社時代の体験談といったところですかね。見たところレギュラーの出版本ではなくて、自費出版みたいです」とのことでした。
ZENさんとは渡部全助氏。私のRCAレコード〜創美企画時代の上司であり、(形の上で)縁浅からざる人物であることは間違いありません。功ちゃんが「当然いってますよね」というのは、「自分に送ってきたのだから、それ以上に深いつながりのある岡村さんには当然送られているはず」という意味合いです。
まあ、そのうち届くだろうとあまり気にもかけずにいましたが、一か月たっても着荷せず。その間、「送ってきたけど岡村さんには当然いってるよね」とか「来たから読んでみたけど肝腎の曲名が間違っている」とか「なにもしてないのに自分がやったように書いている」とか、「封を開けずにゴミ箱に捨てた」とか、耳に入るはああだこうだのオンパレード。こうなると読んでみたくなるのが人情です。早速功ちゃんに「しばし貸してほしい」と送ってもらいました。タイトルは「ZENさんのぶらり音楽の旅」。早速読んでみましたが、実に面白い。何がといえば、その内容ではなく、失礼を承知で言っちゃいますが、常識&注意力を疑わざるを得ない作文力のことです。これは、今回のテーマとしてきっちりと書かせていただきますが、その前に一言。
ZENさんは榎本襄(JOE)さんとの共同経営会社SVACの破産画策中なのです。この会社、創美企画の出版会社なのですが、本体がソフト制作から撤退した後、ZENさんが社長で映像担当、JOEさんが取締役でCD担当として、ここSVACでソフト制作販売事業を続行してきました。
ところが、数年前から業績が徐々に悪化、事務所の維持も困難となり、遂にはJOEさんの自宅マンションに事務所を移して細々と業務を継続。JOEさんに継続の意思はあるものの、ZENさんにその気はなくなり、昨年から、会社破産に向けて動き出したわけです。続けたい者とやめたい者。二人の溝が埋まらないまま、ZENさんは会社破産に突き進みます。JOEさんは「破産させるのは仕方ないとして、ならばせめてこちらの権利分は残してほしい。例えばレコード会社に個人で支払った保証金や、事務所代わりに使ったマンションの家賃の一部等を」とZENさんに請願するも「弁護士の下、破産手続きは進んでいる。申し立てがあるなら弁護士に言ってくれ」との返答だったとか。これが、これまで数十年もコンビでやってきたパートナーへの言い様でしょうか。この確執・いざこざがたたり、昨年秋、JOEさんは脳梗塞を発症してしまいました。
そんなわけで、藤圭子を世に出した敏腕ディレクターとして、業界にその名を轟かせてきたJOEさんですが、現状、体調はすぐれず、生活も決して楽ではないようです。パートナーが困っている時に、ZENさん、自費で本を出してあちこちに配りまくるとは、一体どういう神経をしているのですか。そんな金があるのなら、せめてJOEさんに払うべきものを払ってからやるのが筋というものじゃないですか。個人的恨みつらみはないものの、仁義を重んじる私としては、「ZENさんのぶらり音楽の旅」なる本を徹底的に叩いてやろうと思うわけであります。
まず指摘したいのは、間違いだらけの記述です(P数字はミスのページ)。
誤 正
フォーク・クルセーダス P5 ザ・フォーク・クルセダーズ
夫婦船 P22 夫婦舟
エルビス P29 エルヴィス
アメリカン・ポップ アメリカン・ポップス
長田貴子 P30 永田貴子
ブレンチ P52 ブランチ
依存 P58 異存
時の過ぎゆくままに P109 時の過ぎゆくまま
浸出 P113 侵攻
ジョン・バエズ P117 ジョーン・バエズ
邦画販売課 P120 邦楽販売課
積み込む P128 包み込む
多いに P132 大いに
男優主演賞 P138 主演男優賞
クールファイブ P144 クール・ファイブ
総立 P152 創立
ZENさんは会社時代、常々こう言っていました。「なあお前、文章を書く時一番気をつけなくてはいけないこと知っとるか。それはな、固有名詞は絶対に間違えたらいかんちゅーことや。言い訳が利かんからな。よく覚えとき」。そんなZENさんが固有名詞をこれだけ間違っています。昔から言行不一致の人でした(笑)。では個別にツッコミを入れておきましょう。
●「ザ・フォーク・クルセダーズ」が「フォーク・クルセーダス」はイカンですな。「ザ」抜けはまあいいとして、音引きと濁音がマチマチなのはいただけません。阪神「タイガース」を、「タイーガズ」と書くようなもの。阪神ファンにドヤされまっせ!
●ZENさんは三笠優子さんを評してこう言っていました。「三笠優子というのは凄い歌手だ。歌に物語がある。やはり浪曲をやっていた人は違うな」。それほど敬愛する三笠優子さん最大のヒット曲「夫婦舟」を「夫婦船」と書いちゃまずいでしょう。客船じゃないんだから。
●「エルビス」ではなく「エルヴィス」と書きましょう。RCAレコードの屋台骨を担った偉大なアーティストの表記違いは罪です。これはまた「クールファイブ」ではなく「クール・ファイブ」も同じこと。“ナカグロ”なんかいいじゃないかと言うなかれ。こちらもRCA邦楽の礎を築いた偉大なアーティストなのですから。
●内山田洋とクール・ファイブの「長崎は今日も雨だった」の作詞者は「長田貴子」ではなく「永田貴子」です。ZENさん本文で、女性のような名前ですがこの方は男で長崎「銀馬車」の支配人・・・・などと延々と説明しているのですから名前を間違えちゃいけませんね。
●「アメリカン・ポップ」、「ブレンチ」、「依存」、「積み込む」、「多いに」、「総立」あたりは、ケアレス・ミスか常識欠如のなせる業。ZENさんは酔っぱらうとよく、「お前、俺を超えられるか」と仰っていましたが、よくよく自分を知らない人のようです(笑)。大言壮語は気を付けましょう。
●映画「カサブランカ」の挿入歌は「時の過ぎゆくまま」ですね。「時の過ぎゆくままに」は沢田研二だよ。
●ナチス・ドイツ「浸出」ってなに?確かに「浸出」という言葉はありますが、コレ、物が溶け出すという意味。これは私の想像ですが、ZENさん、ナチス・ドイツの「シンシュツ」でP/Cを引いたのでしょう。そこに「浸出」という文言が出てきたので採用した。ここは「侵攻」でしょうね。ニュースを見てればよく出てくる文言です。
●「ジョン・バエズ」じゃなく「ジョーン・バエズ」です。桜田大臣の「レンポウさん」に「レンホウです」ときつく言い放った蓮舫議員でしたが、ZENさん、ここはフォークの女神に怒られまっせ。「ジョーンです。ジョンは男の名前よ」って。
●「邦楽販売課」を「邦画販売課」はないでしょう。RCAは画廊経営の会社じゃないんですから。
●アカデミー賞においては、昔から「主演男優賞」が通り相場で「男優主演賞」とは言いません。「ひっくり返っているだけじゃないか、目くじら立てるなよ」なんて言わないでくださいな。文中にもあるような、例えば、「アーネスト・ボーグナインは映画『マーティ』に出演した」の「出演」をひっくり返せば「演出」したになっちゃいます。男優ボーグナインが監督になっちゃうのだから大違いでしょう。コレ、屁理屈!?
以上、今回は一目瞭然、解りやすいミステークを指摘させていただきました。次回は文章力構成力等内容について言及してみたいと思います。まあ、指摘疲れしていなければの話ですが。
2024.01.17 (水) 新年所感〜メサイア出現を待望する
年明け早々、1日には能登半島地震が、2日には海上保安庁機と日航機の衝突事故が、立て続けに起きるという最悪のスタートを切った日本でした。被災された皆様には一日も早く日常が訪れますようお祈りいたします。
そんな状況下、「火の球となって」は掛け声ばかり、本気度ゼロの我が国総理大臣の言葉は全く心に響きません。半世紀前に吉田拓郎が「この国ときたら賭けるものなどないさ」と叫んだ♪落陽(詞:岡本おさみ)の世界から無進化状態むしろ退化甚だしい日本です。世界を見れば、ウクライナVSロシア、パレスチナVSイスラエルの戦争が継続中。地球沸騰。世界銀行からは世界経済3年連続減速の見通しが発出。まさに混沌暗黒お先真っ暗の世の中です。
これらのあおりを受けて新年恒例のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートは1月6日に延期。やはり気分が出ません。指揮のクリスティアン・ティーレマン(1959-)は5年ぶり2度目の登場。初登場の2019年は、珍しやスタンディング・オベーションの喝采でしたが、自分にとっては、前年に母を亡くしたためでしょう、淋しい気持ちで観たのを想い出します。あれから早5年。今年は母の七回忌の法要です。
番組ゲストは作曲家・指揮者の久石譲氏。生で聴くのは初めてだとか。その感想はといえば「思った以上に楽しかった」でした。「思った以上に」ってどう思っていたんかい。さらには「ティーレマンさんは頭のいい組み方をしていますね」と来た。「頭のいい」は音楽家に対する誉め言葉たり得ない。またウィーンフィルに対しては「バランスがいい」の一言。音色的特質や演奏そのものに対する言及はほとんどなし。まあ、これがこの音楽家氏の感性なのでしょう。そのくせこの方、音楽の本場ウィーンで行われる伝統あるイヴェントに対し、どこか上から目線の云い様なんですね。肩書が作曲家・ピアニスト・指揮者なんか付いていますがすべてが三流!? 超一流のイヴェントに対して三流音楽家が何ほざく、もっと謙虚に喋れんのかい!と言いたくなります。
第2部ではブルックナー(1824-96)の「カドリール」が演奏されました。これは2024年がブルックナー生誕200年のメモリアル・イヤーだから。これを目指して、ティーレマン&ウィーンフィルはブルックナーの交響曲全集を完成させています。これを買おうか買うまいか、現在大いに迷っているところ。どれもみな同じように聞こえるブルックナーの交響曲は最後の3曲があればいいような。7番はハイティンク、8番はクナッパーツブッシュ、9番はクレンペラーで十分かと思っております。失敬!
ツィーラーの「ウィーンの市民」はヨハン・シュトラウスUの「ウィーン気質」と並ぶウィーン人を描いた名品。ウィーンの音楽家、例えばシューベルトや不死身のアウグスティンなどから、ウィーン人の気質はロマンティスト&楽天家と感じていました。「ウィーン気質」はロマンティスト、「ウィーンの市民」は楽天家的側面を各々象徴しているように思います。この日の「ウィーンの市民」におけるティーレマンのダイナミックな表現は、我がお気に入りのアルバム「ウィーンの休日/クナッパーツブッシュ」の巨人ファフナーの歩みのような凄演をちょっと思い出させてくれました。
一方NHKニューイヤー・オペラコンサートは例年通り1月3日にO.A.されました。毎年、最後を締めくくるのは歌劇「椿姫」の「乾杯の歌」や喜歌劇「こうもり」の「ぶどう酒の燃える流れに」など底抜けに明るい曲と相場が決まっていたのですが、今年はヘンデル(1685-1759)のオラトリオ「メサイア」から「ハレルヤ・コーラス」でした。これもこのところの世相を反映しているのでしょうか。
オラトリオ「メサイア」は、イエス・キリストの降誕〜苦悩〜受難〜贖罪〜復活という流れの中に、人類の救い主としてのキリストの存在を賛美と尊崇の念を以って描き出します。スタンダードなテキストが宗教曲としては珍しい英語なのはヘンデルがイギリスに帰化したからでしょう。彼はウェストミンスター寺院に眠っているのです。全曲の中から印象的な歌詞を抽出すると
主は天と地そして海と陸 すべての国を揺り動かす
そしてすべての民が望むところをもたらす
人々が暗い闇に覆われている今
主こそすべての民に平和をもたらす正しき救い主
すべての民の心に安らぎをもたらす救い主
「メサイア」とは「油を注がれたる者」即ち「神から選ばれし支配者」の意味。まさに「救世主」のこと。「ハレルヤ・コーラス」の”ハレルヤ“とは神を称える賛美の言葉。三位一体説から神=主イエス・キリストであるからしてキリスト賛美の言葉でもあるわけです。
アメリカの調査会社ユーラシアグループが「今年の世界リスク」を発表しました。そのベスト5を挙げてみましょう。
1 トランプの大統領復帰
2 瀬戸際に立つ中東
3 ウクライナの分割
4 AIのガバナンス欠如
5 ならず者国家の枢軸
6番目に我が日本のリスクを付け加えるとすれば、民意からかけ離れた優柔不断なリーダーの下、大志無き政治屋が保身に走るだけのお寒い政治状況 といったところでしょうか。
上記“6大リスク”を総括すれば、身勝手な理屈で不正を正当化しAIを悪用し嘘で固めた正義を振りかざす権力者ばかりが横行する「真のリーダー不在の分断と格差の世界」ということになるでしょう。彼らはまた温暖化がもたらす異常気象にも無関心。だからこそ、世に平和をもたらし人に安らぎをもたらすメサイア=救世主の出現を待つしかない。出でよメサイア!と祈りつつオラトリオ「メサイア」に耳を傾ける今日このごろなのであります。
昨年は、老化防止のために理屈抜き丸暗記をいくつか敢行してきました。ダービー馬90頭、有馬記念馬68頭を皮切りに、戦後日本の総理大臣37人、アメリカ大統領14人、イギリス首相19人、中国の国家首席6人、ソ連〜ロシアの首長・大統領11人、横綱35人、「冬の旅」24曲、「我が祖国」6曲、「展覧会の絵」10曲、「ローマ三部作」12曲、鎌倉五山、京都五山 etc。
今反芻すると1〜2割は忘れていますね。面目なし(笑)。でも忘れたら反復する。この繰り返しでなんとか頭に刷り込まれるものなんです。 で、今年は手始めに命数法、即ち、万・億・兆・京・・・・・などの超特大数字の表示名を全部覚えようかと思い立ちました。では京の次から下記、( )内は0の数。
垓(20)𥝱(24)穣(28)溝(32)澗(36)正(40)載(44)極(48)
恒河沙(53)阿僧祇(56)那由多(60)不可思議(64)無量大数(68)
こんな数、どこで使うんじゃい! では、今回はこれでお開きといたしましょう。
2024年が良き年でありますように!
<参考資料>
最新名曲解説全集21声楽曲1(音楽之友社)
ヘンデル作曲:オラトリオ「メサイア」 DVD (ワーナー・ミュージック・ジャパン)
ホグウッド指揮:アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック
ウェストミンスター大聖堂1982年収録
<CD>
ウィーンの休日/クナッパーツブッシュ指揮:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団1957
ブルックナー作曲:交響曲第7番
ハイティンク指揮:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団1978
ブルックナー作曲:交響曲第8番
クナッパーツブッシュ指揮:ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団1963
ブルックナー作曲:交響曲第9番
クレンペラー指揮:フィルハーモニア管弦楽団1970
2011/03/23 (水) シューベルト歌曲の森へ21 なんてったって「冬の旅」14
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる 最終回>
2011/03/10 (木) シューベルト歌曲の森へS なんてったって「冬の旅」13
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その4>
2011/02/25 (金) シューベルト歌曲の森へR なんてったって「冬の旅」12
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その3>
2011/02/15 (火) シューベルト歌曲の森へQ なんてったって「冬の旅」11
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その2>
2011/02/05 (土) シューベルト歌曲の森へP なんてったって「冬の旅」10
2010/12/25 (土) シューベルト歌曲の森へN なんてったって「冬の旅」8