クラシック 未知との遭遇
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2019/01/20 (日)  年末年始雑感・音楽篇〜ウィーンフィル・ニューイヤーと純烈
2018/12/25 (火)  NHK大河ドラマ「西郷どん」が終わって〜クラ未知的西郷隆盛論 前編
2018/11/25 (日)  ジネット・ヌヴー賛〜稀代の天才ヴァイオリニストを偲ぶ
2018/10/27 (日)  ストラディヴァリウス考察〜奇跡、その真相
2018/09/30 (日)  さらばFMえどがわ
2018/08/31 (金)  わが母を偲んで
2018/05/25 (金)  エジソンを凌駕した知られざる偉人2〜エミール・ベルリナー
2018/04/25 (水)  エジソンを凌駕した知られざる偉人1〜ニコラ・テスラ
2018/03/05 (月)  平昌五輪 二人の長野県人メダリストの明と暗
2018/02/15 (木)  贋作昨今〜曜変天目からモーツァルト「アデライード協奏曲」を考察する
2018/01/15 (月)  2018年始雑感〜アルゲリッチ、ABC予想など
2017/12/10 (日)  一橋大学オーケストラ47年ぶりの同期会
2017/11/16 (木)  カズオ・イシグロからFMえどがわ20周年、そして、おめでとう奈良さん!
2017/10/25 (水)  小池百合子の失敗〜希望から絶望へ
2017/10/04 (水)  小池百合子必勝のサプライズ〜最後の一手はミスターXの出馬だ

2008年5月〜2017年9月のコラム
 2019.01.20 (日)  年末年始雑感・音楽篇〜ウィーンフィル・ニューイヤーと純烈
(1) ニューイヤーコンサートのティーレマンは想定外の素晴らしさ

 年の瀬も押し迫った12月27日、FMえどがわのディレクターNoririn松尾嬢から電話あり。「急ですが、1月4日に出演できませんか?」ときた。毎週金曜の「おかえりなさい」という番組の新春一発目を「クラシックで幕開け」的な中身にしたいという。植木等じゃないが、「待ってましたと出かけよう」と即決。

 構成はイノシシ〜平成回顧〜新年とした。まず一曲目。干支のイノシシに直接因んだ音楽を調べたが、ない。そこで最も「猪突猛進なクラシックは何?」に切り替えると、「天国と地獄」と出た。♪3時のおやつは文明堂〜現役最古のCMソングの原曲でお馴染み。スタートはこれに決まる。次は「平成回顧」。昨年の漢字が「災」だったように、平成はまさに災害の時代だった。最大のものは2011年の東日本大震災だ。震災一ケ月後の4月10に印象的な演奏会があった。「プラシド・ドミンゴ・コンサート・イン・ジャパン2011」である。このころ、原発の影響で、数多の海外アーティストがドタキャンする中、ドミンゴは「大好きな日本の皆さまの少しでも力になれば」との思いで、やってきてくれた。コンサートの終盤、観客と一緒に「ふるさと」を流暢な日本語で歌う。実に心温まる場面だった。思えば1996年7月7日、母と叔母とで行った「3大テノール」日本公演でも、日本語で「川の流れのように」を歌ったが、ドミンゴが他の二人をリードしていた。アンコールは十八番「グラナダ」。そこで、2曲目は1994年ドジャースタジアム・ライブのテイクを選曲した。因みにドミンゴは、昨年ベルリン国立歌劇場で、ヴェルディの「マクベス」のタイトル・ロールを演じている。77歳の歌唱はまだまだ健在である。
 どん尻はなんといってもウィーンフィル・ニューイヤーコンサートである。クラシック・ファンにとっては新年恒例のイヴェント。これを聴かずして年は明けない。始まったのは1939年12月31日、指揮者はクレメンス・クラウス(1893−1954)。当時はナチスの統制下。市民のガス抜きが目的だったといわれている。第2回は1941年1月1日。以後毎年元日に行われるようになる。因みに、NHK紅白は1951年第1回が元日で4回目から大晦日となって今日に至るが、これは1954年の元日が新春公演のため会場の空きがなかったから、というのがその理由。今日、東西の年末年始の大音楽イヴェントが、真逆の形で今のスタイルを成しているのも面白い。初代指揮者のクレメンス・クラウスは、終戦後の1946〜47年は、ナチスの協力者と見做されて、ヨーゼフ・クリップスにその座を譲るが、1948年から復帰、通算12回を数えた。1955〜79年はコンサートマスターのウィリー・ボスコフスキーが25回を務める。ヴァイオリンを弾きながらのスタイルは、ワルツ王ヨハン・シュトラウスを彷彿とさせるもの。1980〜86年はロリン・マゼールで7回。1987年は帝王カラヤンが最初で最後の登場。ここから連続登壇がなくなる。従って、ボスコフスキーの連続25回の記録は今後まず破られることはないだろう。選定基準は明らかではないが、人気と実力を兼ね備えた一流指揮者であることは間違いない。私の中のベスト・パフォーマンスは、カルロス・クライバー(89、92)とジョルジュ・プレートル(08、10)。前者は絶妙なる統制感、後者は至上なる愉悦感とでも言おうか。素晴らしきこと甲乙つけがたしである。日本人指揮者は小澤征爾(02)のみ。はたして次はいつだれが?

 さて、79回目の今年はクリスティアン・ティーレマンである。1959年生まれ59歳ドイツの指揮者。現在ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の首席。得意はワーグナー。特に聖地バイロイト音楽祭での活躍は目覚ましく、総監督を務めるワーグナーの曾孫姉妹の覚えもよく、近々、バイロイト音楽祭・音楽顧問の座に就くことが確実視されている。そんな、今まさに旬な指揮者ティーレマンが振るニューイヤーが楽しみでないわけがない。そこにFMのネタ探しが絡まるのだから、いつも以上に耳目を凝らした。とはいえ心配もある。なぜって、ティーレマンは巨漢で強面。レパートリーの中心は重厚なドイツ本流。粋でお洒落なウィンナ・ワルツとは水と油、との先入観があった。ところが、始まって、そんな杞憂はすぐに吹き飛んだ。構えは大きく気持ちは繊細、音楽は活き活きと躍動する。しかも聴衆に向ける笑顔は強面とは裏腹に実にチャーミング。最終楽曲の「ラデツキー行進曲」が終わると、会場は自然とスタンディング・オベーションとなった。これは結構珍しいことで、ここ十年では、巨匠ムーティにもバレンボイムにもメータにもなかった。聴衆がいかに満足したかの証。ニューイヤーのティーレマンは想定外の素晴らしさだった。

 では、何を選曲しようか? 終演間際にやった「突進ポルカ」? 今年は日墺修好150年だから、干支のイノシシを意識したのか? でも音がない。この一つ前がヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「天体の音楽」。ティーレマンのスケール感が曲の壮大さにドンピシャと嵌まった今演奏会屈指の名演だった。この曲は、医学生が開催する舞踏会の発足を記念して書かれ、初演が1868年だから明治元年。元号が慶応から明治へと変わった年。これは平成から新元号に変わる今年に相応しいではないか。音は、ウィリー・ボスコフスキー指揮:ウィーン・フィル(73年録音)がある。3曲目はこれに決定。そして、締めは定番「ラデツキー行進曲」。小澤征爾2002年ニューイヤーコンサートのライブ・テイクを選んだ。

 1月4日夕方6時からの生本番は、パーソナリティの横山剛氏が「ニューイヤーコンサート」を見ておいてくれたお陰もあり、30分間、終始和やかに推移、まずは成功裡に終わった。何かあればまたお呼びくだされ。

(2) NHK紅白初出場の「純烈」には浅からぬ縁がありまして

 大晦日、NHK紅白歌合戦では、初出場を果たした歌謡コーラスグループ「純烈」を応援した。なぜって、メンバーの一人が知り合いだからである。その名は後上翔太32歳、メンバー最年少。他のメンバーが芸能界からの転身組なのに対し彼だけが大学中退で加入したという変わり種。ではその経緯を。

 話は私の大学時代に遡る。1964年東京五輪の年に大学生となって上京した私、初年度は吉祥寺に居を構えた。4畳半一間、友人との同居生活につき家賃は月2,250円と格安。そんないわば仮住まいだったため、二年目からは国分寺に転居した。その下宿の大家さんが鈴木さんといって、国立癌センターの部長さん宅だった。
 鈴木先生は大のクラシック好き。そのせいもあって、偉い先生なのにフレンドリーに接していただいた。リビングには英国製ワーフェデールのスピーカーが鎮座し格調高い音を醸し出していた。その音を聴きたくて母屋に毎日のように入りびたったものである。そこで聴いたクリスティアン・フェラスのヴァイオリンの美音が今でもはっきりと耳奥に残っている。奥様も明るく気さくな方で、遂には家族同士のお付き合いに発展。夏休みには一家で私の長野の実家に来ていただくほどに。その折、同行した同じ下宿の住人松村君と二人で先生をたきつけ、連れ立って善光寺裏の城山公園に行き、植木等の映画「ニッポン無責任シリーズ」を真似て、粉石鹸を仕込み公園の噴水からシャボン玉を噴き上げる実験(悪戯)を行った。結果は見事失敗に終わったが、そんなバカげた学生の提案にも付き合ってくださる気さくな先生だった。
 先生には二人のお嬢さんがいて、当時、姉が涼子ちゃん小学校高学年、妹が理枝子ちゃんで小学一年生だった。理枝子ちゃんの愛称はリンリコ。利発で可憐な女の子で、♪「鉄腕アトム」主題歌を歌う凛々たる歌声が印象的だった。月日は流れ、私の結婚に際し、仲人を鈴木先生ご夫妻にお願いしようということになり、鈴木家を訪問した。そこで再会したリンリコは中学生になっていて、私らの前でピアノの弾き語りを披露してくれた。ユーミン、かぐや姫、チューリップ、なんでもござれ。ピアノもうまく美声も健在。そこで披露宴での余興を依頼することに。曲は、その日聴いた中で一番嵌まっていたユーミン(当時荒井由実)の「ひこうき雲」に決定。本番も素晴らしい歌唱で会場の喝采を浴びた。1975年6月7日のことである。だがしかし、数年後、この歌は、ユーミンが知り合いの子供が亡くなったことをモティーフに書いた曲、ということに気づく。こいつは結婚式に相応しくナカッタ! ジックリ歌詞を読めば判るはずなのに、当時いかに詞を理解していなかったかと我が身の間抜けさに恥じいった次第である。

 それはさておき、リンリコはその後、後上さんという銀行員と結婚。男の子を出産。これが翔太くんである。中学生のころ我が家に来て、息子の直紀と一日中バスケット・ボールに興じていたのを思い出す。彼はその後、東京理科大学に進学、科学者を目指すが、そんなある日、リンリコから電話がくる。「翔太が大学を中退して歌謡コーラスグループに参加するって言うの」。「おいおい、やめときな。そんなもん売れるわけないって。せっかくおじいちゃんと同じ道を歩んでいるんだから、もったいないよ」と言ったものの、もう決めちゃったの体。ならば応援するしかないと、即、激励文を添えて通販商品「ムード歌謡大全集」を贈った。この翔太くんが加入した歌謡コーラスグループこそ「純烈」である。「純烈」は“夢は紅白!親孝行!”なるスローガンを掲げ、未開の地スーパー銭湯をフランチャイズに苦節10年、昨年大晦日、遂にNHK紅白出場の夢を叶えたのである。おめでとう翔太。年が明けて困った問題が起きちゃったけど、4人一致団結して頑張ろうぜ。いやはや人生いろいろである。

<付録>

 昨年12月30日、TVで見た日本レコード大賞授賞式で一つ感じたことがある。レコ大は例年、10曲の優秀作品賞の中から大賞が選ばれるという仕組みである。大賞は、日本作曲家協会が主催なので、日本人作曲家の作品しかその資格はないはず。1979年、我がRCAレコードの西城秀樹は、「ヤングマンYMCA」で特大ヒットを飛ばしたにも拘わらず、外国曲だったことで、無念の涙を呑み、我々応援部隊も悔しい思いをしたものである(受賞はジュディ・オング「魅せられて」)。ところが昨年末のレコ大、優秀作品賞10曲の中に外国曲が含まれていた。DA PUMPの「USA」である。司会のTBS安住アナは、「この10曲の中から栄誉ある大賞が選ばれます」と何度もアナウンス。結局、「USA」の受賞はなかったのだが、もしや外国曲もOKと規約が変わったのか、それとも「大賞は不可」を承知で入れ込んだのか。DA PUMP「USA」は才人・ライジングプロ平哲夫社長とドン周防郁雄氏の最強タッグのバックアップにつき、もしや!?
 とはいえ、大賞受賞の乃木坂46「シンクロニシティ」と「USA」を純粋に比べれば、「USA」の方が受賞に相応しいのは明白である。楽曲のインパクト、ヒットの度合い、大衆へのアピール度、支持層の幅広さ、いずれも勝っている。お茶の間も「えっなぜ?」と感じたに違いない。まあ、レコ大ではよくあることだが。グローバル時代に、そろそろ「外国曲不可」の制約を外したらどうだろう。でも、この業界、体質は新しそうで意外と古い。はてさて、今後の進化やいかに? いろいろ考えさせられたレコード大賞でした。
 2018.12.25 (火)  NHK大河ドラマ「西郷どん」が終わって〜クラ未知的西郷隆盛論 前編
 12月16日(日)、NHK大河ドラマ「西郷どん」が終わった。原作:林真理子、脚本:中園ミホ、音楽:富貴晴美という女性トリオによる制作陣。中でも富貴のテーマ音楽が光った。勇壮なオーケストラに挟まれて、里アンナがエキゾチックなメロディーを妖艶に歌う。両端部は維新を牽引した英傑のパワーを、中間部は南国の孤島に流された辛苦を表し、それはまた、西郷の人生を覆う数奇な運命と不可解な二面性をも象徴する。なかなか見事な音楽だった。ドラマの出来はまあ普通だろうか。それよりも、NHK大河ドラマはその年の歴史番組の流れを主導するから、それが楽しかった。
 テレビは歴史ものが好きで、よく見るし気に入ったものはDVDに残している。2018年度で残した番組は優に100本を超す。その中で幕末・維新モノは30%近い。この比率は例年より高い。やはり大河の影響だろう。日本史では、戦国、江戸、幕末・維新、第二次大戦前後あたりの時代がとりわけ面白いので、この流れは歓迎だった。
 2018年最後の「クラ未知」は、この一年で見た番組、読んだ本を礎に、維新の巨人・西郷隆盛に迫りたい。彼の二面性を、J.S.バッハ「フーガの技法」鏡像フーガに擬えて、RECTUS(正置形)とINVERSUS(転回形)の二章で対比、西郷隆盛の光と影を考察したいと思う。

第一章:RECTUS〜西郷隆盛の光

 内村鑑三(1861−1930)の名著「代表的日本人」は、日本を代表する5人の傑出した人物を取り上げている。西郷隆盛(1827−1877)は、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮らに伍して巻頭を飾る。著者の西郷への信愛度が解ろうというものだ。初版の刊行は1894年。タイトルは「Japan and the Japanese」、英語で書かれている。改訂版が1908年で、タイトルを「Representative men of Japan」に変えた。これは世界の偉人6人を描いたエマソンの「Representative men」(1850刊行)に倣ったもの。
 内村は改訂版の前書きに「青年期に抱いていた、わが国に対する愛着はまったくさめているものの、わが国民の持つ多くの美点に、私は目を閉ざしていることはできません」と記している。
 鹿鳴館に代表されるような西欧の物真似である文明開化を標榜し、富国強兵・殖産興業を掲げ日清・日ロの戦いに勝利する。「代表的日本人」が書かれたのは、明治維新から約40年を経た、まさにそんな時期である。前書きは、そんな日本に嫌気がさした内村の心情を如実に表している。「日本には西洋かぶれの勇ましい人間ばかりじゃない、国と人と平和を愛する真の偉人がいたのだよ」との思いを込めてこの書を世界に発信したである。

 内村は明治維新に果たした西郷の役割をこう記す。
明治維新という革命が、西郷なくして可能であったでしょうか。木戸や三条(実美)を欠いたとしても、革命は、それほど上首尾ではないにせよ、たぶん実現をみたでありましょう。必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、「天」の全能の法にもとづき運動の方向を定める精神でありました。
 革命を始動させた原動力が西郷であり、さらに突っ込んで「1868年の日本の維新革命は西郷の革命だった」と断言したあと、内村は彼の生い立ちから精神形成〜人格へと話を進める。

 西郷は、語るに値するほどの名門ではなく、薩摩の大藩にあっては、“中等以下”に位置する家に生まれた。「動作ののろい、おとなしい少年で、仲間の間では、まぬけ」で通っていたという。成長すると大きな目と広い肩を特徴とする太った大男になった。若いころから陽明学に親しみ、禅の思想も探求した。書をよくし漢詩を詠んだ。他に類をみないほど生活上の欲望がなかった。身の回りのことにも財産にも無関心。下男を叱るのを見かけたことがない。争いごとが嫌いで、人の平穏な暮らしを、決してかき乱そうとはしなかった・・・・・内村は、そんな西郷の性格を表すエピソードを二つ挙げている。
一つ目。西郷が宮中の宴会に平服で参加した後、早めに退出した。入り口で脱いだ下駄が見つからなかったので、小雨の中を一人裸足で歩きだす。城門にさしかかると、門番に呼び止められ、怪しいものと思われ身分を訪ねられる。「西郷大将」と答えるが、門番は信用せず門を通過させない。そこで、西郷は自分を証明してくれる誰かが来るまで、雨の中に立ち尽くした。しばらくして、岩倉具視の馬車が通りかかり、ようやく出ることができた。

二つ目。人の家を訪問しても、中の方へ声をかけようとせず、その入り口に立ったままで、誰かが偶然出てきて、自分を見つけてくれるまで待っていた。
 これらのエピソードは、西郷の本質は「待つ」であることを語る。但し西郷はこうも云う。「機会には二種ある。求めずに訪れる機会と我々の作る機会とである。世間でふつうにいう機会は前者である。しかし真の機会は、時勢に応じ理にかなって我々の行動するときに訪れるものである。大事なときには、機会は我々が作り出さなければならない」。
 将軍徳川慶喜は、1867年10月、「大政奉還」申し出という延命策に打ってでた。このままでは体裁だけの改革に終わり、真の新しい時代は来ない。これを実現するために、西郷はあくまで武力による討幕に拘った。そして、「王政復古」〜「戊辰戦争」という逆転の流れを作ったのである。これなくして明治維新はなかった。これぞ西郷の云う「作り出した機会」である。

 そして、これらを読むうちに、ふと、西郷隆盛という人物像は何かに酷似していると思い当たった。
雨ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイウモノニ ワタシハナリタイ
 知らぬ者なき宮沢賢治「雨ニモマケズ」の一部である。内村は言及していないが、大男の西郷は間違いなく大飯ぐらいだっただろう。“一日ニ玄米四合”というのは、あまりに大食漢であり、病弱な賢治のイメージと合わないと常々思っていた。賢治が描く理想像だからそれでもいいのだが、違和感は拭えなかった。それが、西郷と結びついたとき、きれいに払拭された。病の床で手帳の切れ端に「雨ニモマケズ」を記したとき、宮沢賢治の頭の中には西郷隆盛があった。「丈夫な体」「慾がない」「怒らない」「静かに笑う」「自分を勘定に入れずに他人のために尽くす」「困っている人間を放っておけない」「よく勉学し習得する」「デクノボー」「褒められることを望まない」「自らを主張しない」等々、これらはことごとく西郷の性格性向に合致する。西郷の農本主義の傾向は農学校に学んだ賢治と共通する。見事な符号である。巷間、モデルは同じ花巻出身のキリスト者・斎藤宗次郎(1877−1968)と云われているが、斎藤は内村の最も忠実な弟子だったという。これも、「雨ニモマケズ」に西郷の精神が投影されていることの裏付けとなりはしないか。私は確信する。宮沢賢治「雨ニモマケズ」の人物像は間違いなく西郷隆盛であると。むしろこれまで、文学者も歴史学者も、このことにだれ一人言及しなかったことが不思議である。

 章の最後に、宗教家としての内村が確信した西郷の霊的体験に触れておきたい。
ところでわが主人公が、日夜、好んで山中を歩き回っているとき、輝く天から声が直接下ることがあったのではないでしょうか。静寂な杉林の中で、「静かなる細き声 still small voice」が、自国と世界のために豊かな結果をもたらす使命を帯びて西郷の地上に遣わせられたことを、しきりと囁くことがあったのであります。そのような「天」の声の訪れがなかったなら、どうして西郷の文章や会話の中で、あれほど頻りに「天」のことが語られたのでありましょうか。
 「静かなる細き声」とは預言者が天=神から聞く声のこと。天啓である。天の啓示に従い「敬天愛人」を訓とし自らの使命に邁進した西郷は、最後、自身の信条を貫き通して命を絶った。まさに殉教である。内村は、西郷隆盛という気高きラストサムライの中にイエス・キリストを重ね合わせていたのかもしれない。

第二章:INVERSUS〜西郷隆盛の影

 本章では西郷の影=負の側面に言及してみよう。ここに二つの史実がある。

 まずは、赤松小三郎(1831−1867)の一件である。赤松は信州上田藩の藩士。江戸に出て英式兵法を習得し、京都に私塾を開く。門下生に薩摩藩士がいたことから、藩の兵学教授として招聘され、京都の薩摩藩邸で藩士800名に英国式兵法を教える。薩摩の軍隊を蘭式から英式に切り替える指導的役割を果たした。
 一方で、新時代にふさわしい政府と政治の在り方を立案した。立法は普通選挙で選出された二院制議会で、行政は議員からなる内閣即ち議院内閣制によって行う。誰でも分け隔てなく受けられる教育制度の確立。果ては、兵士の体格向上を図るための肉食奨励に至るまで、実に先進的な内容で、かの坂本龍馬の「船中八策」に先立つ。イギリス公使館の通訳アーネスト・サトウは、日記に「西郷は、幕府の代わりに国民議会を設立するという先進的思想の持ち主だった」と記しているが、これはおそらく赤松の受け売りだろう。

 赤松は、兵法・政治体制等持てる知識をことごとく薩摩に伝授して帰藩する直前、1867年9月、薩摩の刺客・中村半次郎に刺殺された。赤松が薩摩の軍事機密を知り過ぎてしまったことが原因とされる。黒幕は不明のままだが、西郷が関与していたことは想像に難くない。中村半次郎(1839−1877)は明治維新を機に桐野利秋と改名、西郷を師と仰ぎ、岡田以蔵らと共に幕末の四大刺客の一人に数えられる剣の達人である。大河ドラマの最終回を見るまでもなく、西南戦争において最後の最後まで西郷の傍らにいて運命を共にした一人だ。常人には御しがたい個性の持ち主だが、西郷の命令でなら何でも動く。逆に西郷が命じなければ動かない人間なのである。
 薩摩の軍事改革の恩人を、自らの大義(都合)のために切り捨てる。やられたほうはたまったものではない。西郷の非情な一面である。

 もう一つは相楽総三(1839-1868)と赤報隊のケースである。彼も西郷命の人間である。明治維新革命においては様々な節目があるが、薩長・維新勢力における最大の正念場は、大政奉還(1867.10.
14)〜王政復古の大号令(同年12.8)あたりの将軍徳川慶喜の粘り腰だったろう。討幕の密勅を偽造してまで慶喜の排斥を図ったのだが、怜悧な慶喜は失脚の口実を作らせない。もはや武力討幕しか道はない。そこで動いたのが西郷だった。腹心の相楽に命じ、赤報隊に騒乱を起こさせ、見かねた幕府が薩摩屋敷を襲うように仕向ける。赤報隊は、江戸の町で毎夜のように、放火・略奪・強姦・強殺を繰り返す。そして決まって三田の薩摩藩邸に逃げ込む。江戸ではこのテロ集団を「薩摩御用盗」といって恐れた。止めは、江戸市中取締の庄内藩屯所の襲撃だった。遂に切れた幕府は薩摩藩邸の砲撃を決行。1867年12月25日のことである。この知らせを聞いた西郷は「これで戦の口実が出来た」とほくそ笑んだという。
 武力討幕の大義を得た新政府軍は鳥羽伏見の戦いを開戦。そして、江戸城無血開城、戊辰戦争の勝利を経て維新革命を達成する。一連の流れの中、西郷の働きは際立っており、まさに西郷なかりせば維新は成らず、であった。さて、問題はこの後である。

 江戸で手柄を立てた相楽総三・赤報隊の開戦後の役割は、一揆・打ちこわしが頻発する不穏な世情の中、新政府軍をスムーズに進軍させること。「新政府は年貢を半減する」と触れ回りながら先兵として東進したのである。これが西郷の指示であることはいうまでもない。戦いは新政府軍の勝利で幕を閉じる。新政府スタート。しかしながら、即、財政難が露見。「年貢半減」など履行できるはずもない。そこで西郷は信じられない仕打ちを行う。「年貢半減」は政府の方針ではない。そんな偽約束を触れ回った赤報隊は「偽官軍」であるとして、相楽以下隊員を処刑してしまうのである。指示を忠実に実行した人間を処刑する。何たる非道! 目的のためには手段を択ばない非情の革命家・西郷隆盛の、もう一つの顔である。

 二章にわたり西郷隆盛の光と影を見てきた。物には裏表がある。人間は二面性を持つ。自分の胸に手を当てるまでもなく、そんなことは明白である。だが、寛容と残忍〜西郷の二面性は不可解にして強烈。常人の比ではない。一枚の写真も残っておらずゆえに風貌も捉え難い。あるときは英雄あるときは逆賊。評価は天と地。人生は明と暗。このとてつもない振幅。広漠たるスケール。そして謎。この混然一体感こそが西郷の魅力なのだろう。次回は、そんな西郷隆盛の思想に踏み込んでみたい。
<参考資料>

「代表的日本人」 内村鑑三著(岩波文庫)
100分de名著「代表的日本人」NHK-TV
大河ドラマ「西郷どん」NHK-TV
ザ・プロファイラー「西郷隆盛」NHK-BS
英雄たちの選択「決戦!西南戦争」NHK-BS 他
 2018.11.25 (日)  ジネット・ヌヴー賛〜稀代の天才ヴァイオリニストを偲ぶ
(1) 近年聴いたブラームスのヴァイオリン協奏曲

 先日、福島社長から「急用でコンサートに行かれなくなったので、よかったら是非」と連絡をいただいた。東京都交響楽団サントリーホール公演、指揮は小泉和裕、ヴァイオリン・ソロはレイ・チェンで、曲目はブラームスの「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77」と「交響曲 第4番 ホ短調 作品98」の二曲。小泉は2008年GWラ・フォル・ジュルネ東京でシューベルトの「グレート」を聴いて以来だし、ヴァイオリニストのレイ・チェンは注目の若手。二つ返事でお言葉に甘えることにした。

 福島社長とはこのところ、ブラームスのヴァイオリン協奏曲でご縁がある。しかもすべてがサントリーホール。まずは、撮り逃した2016年5月8日のジャニーヌ・ヤンセン(Vn)とヤルヴィ:N響のライブ録画をBD−Rで補填いただいたこと。次は、昨年10月2日、オケ同期の指揮者・宮城敬雄と17歳の若手パウロ・クロプフィッチュ(Vn)によるコンサートをご一緒したこと。そして今回と、謂わばブラームスVn協奏曲atサントリーホール三部作(?)である。

 小泉のブラ4は手堅い好演。悪くはないが、もう一つガツンとくるものがない。私のブラ4初体験はフルトヴェングラー:ベルリン・フィル1948のLPである。当時中学生だった私は、大人から「何か欲しいものあるかい?」と問われたら、決まってノートに書き留めている「購入予定レコード・リスト」から「じゃ、これいいですか」と図々しく甘えたものだ。このLPは大阪の小倉のおじさんからいただいたもの。問われた私は「ワルターのブラ4」をお願いしたのだが、「ワグナーのがなかったのでこれにした。店の人はこれもいいって言ってたよ」なる文章が添えてあった。「ワグナーじゃねえよ」と呟いたかどうかは別として、聴いてビックリの名演奏! 最初の音Hが永久に伸びてゆくのでは、そんな悠久さを感じさせ、引き続き湧き出るロマンの奔流に胸が抉られた。とまあ、こんな体験があるので、ブラ4は余程の演奏でないと胸に刺さらないのだ。

 さて、レイ・チェンの協奏曲である。1989年台湾生まれの29歳。カーチス音楽院でアーロン・ロザンドに師事。2009年、エリザベート王妃国際音楽コンクールで最年少優勝した逸材である。
 この日のブラームスは、素直な音楽性とよく通る美音がマッチして音楽が活き活きと息づいていた。因みに、楽器はストラディヴァリウス・ヨアヒム1715(これは以前庄司紗矢香の楽器だったはず。貸与元は日本音楽財団である)で、カデンツァもヨアヒムのもの。まさにヨアヒム尽くしの好演だった。
 レイ・チェンもヤンセンもクロプフィッチュも素晴らしい。技術に破綻はなく楽譜に記した作曲者の意図にも忠実(と感じられ)、奏者の個性もそれなりに感知される。しかし何かが足りない。フルヴェンの4番じゃないが、心をワシ掴みにするような強烈さが。
 そんな時、私はジネット・ヌヴーを聴く。ここにはヴァイオリン本来の魔力がある。ヴァイオリンのことをフィドルfiddleと呼ぶが、語源はラテン語で“人を誑かす”という意味がある(石井宏著「誰がヴァイオリンを殺したか」より)。聴く者を何かに駆り立てるような、狂気ともいえる魔力である。

(2) ジネット・ヌヴー、そのあまりにも強烈な音楽と人生

 ジネット・ヌヴー(1919−1949)のブラームスのヴァイオリン協奏曲は4つの録音が遺されているが、ヌヴー28歳、1948年5月3日ハンブルクでのライブ録音が演奏録音共に群を抜いている。共演はハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮:北西ドイツ放送交響楽団。

 導入のオケでホルンが音を外すなどただならぬ緊張感が漂う。長い前奏のあと満を持して登場したソロ・ヴァイオリンの何という迫力。食いつかんばかりに挑戦的。何かにとり憑かれたような異様さ。冒頭で心を鷲掴みにされた聴き手は生贄の子羊のごとく祭祀に身を委ねるだけだ。
 ブラームスのヴァイオリン協奏曲の第1楽章は尋常ではない。何がって、その旋律の多様さである。普通ソナタ形式においては、第1主題と第2主題の他には一つかせいぜい二つの副次的主題があるだけだ。ところがこの曲にはなんと6つもの副次主題がある。ブラームスはこれら多様な素材を熟練の技で精緻な逸品に変える。稀代の名工と云われる由縁である。
 ヌヴーはこれら8つの主題の各々の特質を見事なまでに弾っ張り出す。描き切る。第1主題の気高さと第2主題の哀感の対比。その間に点在する旋律は、時に激しく時に鋭く時に情熱的に時に切なく時につつましく時に威厳を宿し時に憧憬を湛えて羽ばたく。その多彩な表現力はブラームスの本質を余すところなく表出する。まるで万華鏡の景観である。
 ハイフェッツ、オイストラフ、ミルシテイン、シェリング、グリュミオー、シゲティ、フランチェスカッティ等々、錚々たる名手たちと丹念に聴き比べて確信した・・・・・数多のヴァイオリニストの誰もがヌヴーの下では色褪せる。これはまさに奇跡の名演である。もしや、会場が作曲者の生誕地というのも一役買っているかもしれないが。

 切れがよく粒立ちのいい音。くっきりと浮かび上がる旋律線。曖昧さを排除する解釈。一方で、表情には滾るような情熱と澄み切った気品が宿る。時折顔を出す節度あるポルタメントも魅力的。冷徹たる解釈と楽器を自在に操る最高度の技術と多彩な表現力を併せ持つ、こんな音楽家がどのようにして生まれてきたのだろうか。

 1919年8月11日、パリで5人兄弟の末っ子としてこの世に生を受けたジネット・ヌヴー。大伯父はフランスの作曲家シャルル=マリー・ヴィドール。彼は、私が知る限り、93歳というクラシック音楽史上没年最高齢の作曲家である。それに引き換えジネットのなんたる薄命! が、これは後述する。
 幼少期にヴァイオリニストとしての教育を母から受ける。その後11歳でパリ音楽院に入学。ここで出会ったヴァイオリン教師がジュール・ブーシュリ(1877−1962)である。彼について、画家エドゥアール・マネの姪ジュリー・マネは「サラサーテは正確さと純粋さにかけては見事な才能の持ち主だが、雄大さに欠ける。その点ジュールのヴァイオリンは独特の風格と気品が漂う」と評している。かの「ツィゴイネルワイゼン」の作曲者にして大ヴァイオリニストのサラサーテを凌ぐというのだ。論点の「雄大さ」と「気品」は後のジネットに通ずるものを感じる。
 ジュール・ブーシュリの教えを受けたヌヴー以外の音楽家をヴァイオリニスト中心に列記すると・・・・・ヘンリク・シェリング、クリスティアン・フェラス、ローラ・ボベスコ、イヴリー・ギトリス、ミシェル・オークレール、ミシェル・シュヴァルヴェ、クララ・ハスキル、ジャン・マルティノン、など錚々たる名手が並ぶ。

 そんな偉大なヴァイオリニスト・教師の薫陶を受けたジネットは、15歳で第1回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに臨み見事優勝する。180人の候補者の中には当時24歳のダヴィッド・オイストラフがいた。あまりに圧倒的なジネットの演奏を聞いたオイストラフは故郷の妻に宛てこう書き送っている。「わずか15歳のヌヴー嬢が、ヴィエニャフスキの嬰ヘ短調(第1番)の協奏曲を弾いたとき、僕はまるで悪魔のように素晴らしいと思うしかなかった。彼女が第1位で当然さ」。9歳年下の少女に打ちのめされ2位に甘んじたオイストラフはその後世界的大ヴァイオリニストになる。そして数々の名曲を録音する。その中にはヌヴーと共通の曲、例えば、ブラームス、シベリウスの協奏曲、ショーソンの「詩曲」などがあるのだが、現在、両者の演奏を聴き比べても、ヌヴーの圧倒的優位は変わらない。コンクールでの得点差は26点という大差だったというが、この差は永遠に埋まらなかったことになる。これだけでもヌヴーの天才性がわかろうというものだ。

 ヌヴーの師はもう一人いる。パリ音楽院の女性教授ナディア・ブーランジェ(1887−1979)である。10歳でパリ音楽院に入学。この早熟ぶりはヌヴーとも共通し、しかも作曲を学んだヴィドール教授はヌヴーの大伯父という因縁もある。作曲家としては、ローマ大賞の次点に甘んじるが、指導した妹のリリ(1893−1918)は1913年に受賞。姉の仇を妹が討った形となった。彼女の作品「深き淵より」は劇的緊張感に満ち、「ピエ・イエス」は敬虔と清澄を醸し出す。感情の対称が見事な二作品である。因みにオケ時代の楽友フルートの辻本泰久の師・林リリ子の名はリリ・ブーランジェからとったものだという。
 ナディアは指揮法も学び、25歳で指揮者としての活動を開始、その後幾度か欧米名門オーケストラを振っている。現在では珍しくなくなった女流指揮者の先駆だ。
 教育者としての分野は、和声法、対位法、楽曲分析、ソルフェージュと多岐にわたる。門人も多士済々・・・・・作曲家はアストル・ピアソラ、アーロン・コープランド、ヴァージル・トムソン、指揮者はレナード・バーンスタイン、イーゴリ・マルケヴィッチ、スタニスラス・スクロヴァチェフスキ、ピアニストではディヌ・リパッティ、クリフォード・カーゾン、ダニエル・バレンボイム、ジャズ界のクインシー・ジョーンズ、キース・ジャレット、ドナルド・バード、ミシェル・ルグランなど。まさに綺羅星のごとくである。
 ヌヴーはこの偉大な教師から、作曲法と楽曲の読みを学んだ。権威あるコンクールに於いて、15歳という若さで、後に巨匠ロストロポーヴィチをして「神のような存在」と言わしめたオイストラフを寄せ付けずに優勝した天才性こそ、持って生まれた資質の上に、技術をジュール・プーシュリ、音楽性をナディア・ブーランジェから授けられ培われたものだったのである。

 ヴィエニャフスキ・コンクール後、ジネットは洋々たる演奏活動を展開する。1935年11月、オイゲン・ヨッフム指揮のベルリン・フィルとの共演に始まり、1936年にはウィレム・メンゲルベルク、1943年にはヘルマン・アーベントロート、1945年ヘルマン・シェルヘン、1946年ヘルベルト・フォン・カラヤン等との共演でヨーロッパを席捲、1947年にはシャルル・ミュンシュ指揮のニューヨーク・フィルハーモニック、セルゲイ・クーセヴィツキーのボストン響との共演等でアメリカ上陸を果たす。
 そのアメリカ公演での反響は殊の外すさまじく、「この演奏にブラームスはジネット・ヌヴーの虜になったに違いない」(ヘラルドトリビューン)、「音楽の知性と詩情とエネルギー、強烈な個性と感性から創られたパリジェンヌ。舞台上で黒髪と長身が印象的な少女は、威厳のあるステージマナーで聴衆を魅了した」(ワールド・テレグラム)、「その激しくほとばしるような演奏には真摯さと強い個性が凝縮されていると同時に気高いまでの節度を保っている。このようなブラームスのVn協奏曲をこの街で聴いたのは何シーズンぶりだろうか。若さがみなぎる情熱と巨匠の威厳と抑制とがともに寄り添うような演奏を」(ザ・タイムズ)etc 絶賛の嵐とはこのことだろう。特に、ブラームスのヴァイオリン協奏曲への高い評価が目立つ。

 しかし、そんなキャリアの絶頂にいたジネットに運命の日がやってくる。

 1949年10月28日、エール・フランス パリ発ニューヨーク行きのロッキード・コンステレーション機は、3度目のアメリカ・ツアーに向かうジネットらを乗せてオルリー空港を飛び立った。そして数時間後・・・・・大西洋上に浮かぶポルトガル領アゾレス諸島のサンミゲル島に墜落。乗客乗員48名全員が死亡。ジネット・ヌヴーは、兄のピアニスト ジャンと共に、帰らぬ人となった。そしてまた、偶然にも、同機にはボクシング世界ミドル級王者のマルセル・セルダンがニューヨークで待つ恋人エディット・ピアフとの逢瀬を胸に乗り込んでいた(搭乗前談笑するジネットとセルダンの写真が遺されている)。ピアフの名曲「愛の讃歌」が生まれたのはこのすぐあとのことである。

 栄光の未来を約束された天才ヴァイオリニストは、こうして僅か30年の生涯に幕を降ろした。聞けば、フランクのヴァイオリン・ソナタやチャイコフスキーの協奏曲のレコーディング計画があったという。どんなパフォーマンスを示してくれただろう。実に実に何としてでも聴きたかった! でも、見果てぬ夢。遺された録音を聴くしかない。私は毎年10月28日には、ジネット・ヌヴーのブラームスの協奏曲と兄ジャンとの第3番ソナタを聴く。エピローグにショパンの嬰ハ短調ノクターンを聴く。ジネット・ヌヴーは永遠に私の心の内に生き続ける。

<参考資料>

ジネット・ヌヴー・ザ・コレクション 7枚組CD
リリ・ブーランジェ:「深き淵より」CD
ヴァイオリンの奥義〜ジュール・ブーシュリ回想録
     マルク・ソリアノ著 桑原威夫訳(音楽之友社)
誰がヴァイオリンを殺したか:石井宏著(新潮社)
 2018.10.27 (日)  ストラディヴァリウス考察〜奇跡、その真相
(1) ストラディヴァリウス展に行く

 先日、ヴァイオリンの銘器ストラディヴァリウス展に出かけた。場所は六本木・森アートギャラリー。題して「ストラディヴァリウス300年目のキセキ展」。世界に現存する600挺ほどのストラドのうち21挺が集結しているという。これは見逃すわけにはいかない。
 会場に着いたら、ちょうど実演が始まるところだった。楽器はストラディヴァリウス グレヴィル、アダムス、クライスラー Stradivarius Greville, Adams, Kreisler 1726。文字通りこれはかつて世紀の名手フリッツ・クライスラーの手にあったもの。今日の奏者は川久保賜紀。まず三浦理恵子のピアノ伴奏でエルガー「愛の挨拶」を演奏。温かく包み込むような音色はエルガーの愛の表現にピッタリだった。次は大作、J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番から「シャコンヌ」。熱演ではあったが輪郭が甘く感じられたのは、楽器の性向か、はたまた奏者乃至曲との相性か。そういえば、クライスラーが弾くJ.S.バッハは聴いたことがない。

 観賞中のご婦人が貧血で倒れるというハプニングのあと、別のストラドとの聴き比べが行われる。楽器は「ダ・ヴィンチ」Da Vinci 1714。おもむろに同じ曲が奏される。なんと音が全然違う! 光が飛び散るような燦然とした響きだった。クライスラーのしっとり感とダ・ヴィンチの輝き。両極併せ持つストラディヴァリウスの凄さを感じた。

 いよいよ展示室へ。一部屋に銘器21挺がひしめく。なんとも壮観である。案内によると、ストラディヴァリウスは作られた時期により、初期、挑戦期、黄金期、晩年期の4つに分かれるそうだ。全展示品の半数以上11挺が黄金期(1700−1726)のモノだった。
 最も気になったのは、実演で聴いた「ダ・ヴィンチ」である。他の銘器と比べた場合、正面の顔は、違いは分かっても見分けがつかない。ところが背面なら判る(撮影OKだったので撮った写真を掲載する)。北イタリアの冷気の中で長い年月を重ねた木目が幾重にも連なって見事な紋様を刻んでいる。その美しさは 展示品中随一だった。しかも一枚板である。調べてみたら、黄金期11艇の内、一枚板は5挺、二枚板は6挺だった。
 背面の素材はメープルである。きわめて硬い。硬さを優先するなら一枚板がいいはず。なのに二枚板もある。このあたりが、ストラディヴァリの感性であり面白さなのだろう。試行錯誤する天才!

 「ダ・ヴィンチ」と命名したのはアントニオ・ストラディヴァリ(1644-1737)自身だという。自己の最高傑作を自認して自国最高峰の芸術家の名を冠したとも。ならばもう少しジックリとその音に浸ってみたい。家に帰って、「ダ・ヴィンチ」が聴けるコンテンツを探したら、一つのCDに遭遇した。中澤きみ子のソロによる「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集」(フィリップ・アントルモン指揮:ウィーン室内管弦楽団 の共演)である。クレジットによるとプロデューサーは中澤宗幸。我が国ヴァイオリン製造・修復の権威で、かのTSUNAMI VIOLINの製作者だ。演奏者が奥様で、ご子息は「ストラディヴァリウス展」の実行委員長の中澤創太氏。しかも中澤きみ子氏は盟友H教授が教鞭をとる尚美大学の客員教授をしていたようだ。これも何かの縁か。

 使用楽器は、第1番〜第3番はストラディヴァリウス「ロマノフ」1731、第4番と第5番「トルコ風」は「ダ・ヴィンチ」である。数ある同曲全集のCDの中でも二艇のストラドを弾き分けているのはこれしかない。流石ヴァイオリンをよく知る中澤氏のプロデュースであり、これはまた、発売元カメラータ・トウキョウ代表・井坂紘氏の“レコードにはできる限りの付加価値を”の精神が反映している。

 全曲中、第5番「トルコ風」が群を抜いていた。ヴァイオリンの響きは煌びやかで美しく、青空に吹き抜けるような爽快感がある、と感じた。流石に「ダ・ヴィンチ」は期待通りの音を聞かせてくれた、と思った。だが、これは「ダ・ヴィンチ」と分かっていたからそのように感じた、ということかもしれない。もし先入観なしに利き音したら、ストラドと指摘できただろうか? ストラドがいい音と感知できるのではなく、ストラドと認識しているからいい音に感じるのである。これぞストラドだけが持つ偉大なる先入観。ブランド力なのだ。では、なぜストラドだけがかくなるブランド力を有するようになったのか。

(2) 誰がヴァイオリンを殺したか

 「誰がヴァイオリンを殺したか」(石井宏著 新潮社)。実に物騒なタイトルだが、これぞヴァイオリン音楽に関する名著である。タイトルから、現代のヴァイオリンはその本来の響きを失っている、という著者の嘆きが伝わってくるが、伝説のヴァイオリニスト ウジェーヌ・イザイ(1858−1931)が弾く「ユモレスク」から始まる物語は、ヴァイオリンという楽器の魔力を論理的考証によって的確に解き明かしてくれる。記述からストラディヴァリウスの神秘を読み取って、その不可思議な魅力と真実に迫ってみようと思う。

 いま、5億円のストラディヴァリウスと200万円の現代ヴァイオリンを、幕の向こうで一人の演奏家に交代で弾いてもらったとき、果たしてどれくらいの人がいい当てられるだろうか? おそらく、こんな実験は恐ろしくて試みることができないような実験であるに違いない。正直な話、ヴァイオリンのプロたちとても正確にはいい当てられず、間違える人が続出するかもしれない。クレモナの銘器(ストラディヴァリウスなど)とて、5億円と200万円のような極めて歴然とした音質の差があるわけではない、と著者は説く。現に、数年前アメリカで行われた「ストラディヴァリウスVS現代ヴァイオリンの聴き比べ」なる催しで、集まったその道のプロたちの正解率は2〜5割だったとか。かくなる私も、前月、テレ朝「芸能人格付けチェック」で、20億円のストラドと200万円のヴァイオリンを見事取り違えてしまった(耳が悪いんじゃ)。
 さらに著者は、日本人は「このヴァイオリンは“音がいい”」という表現をするが、西洋人はsonorityとかresponseというワードを使う。楽器が敏感に反応するか、よく鳴り響くか、という表現だ、と語る。個体としてのヴァイオリンは「鳴り」の差しかなく、音色は演奏者が作るモノという視点なのである。
 2013年にNHKで行われた実験によれば、ストラドと現代ヴァイオリンの差は指向性と出た。斜め上方への音の出方が突出しているのだ。これが、ストラドの音がホールの最後列まで届く秘密と結論していた。但しこれも音の強さの事。音色とは別物である。

 それではクレモナのヴァイオリンの値段とは一体なんの値段なのか。それは、ヴァイオリンの古い銘器たちは楽器ではなく「骨董品」、その値段なのだ、と著者は云う。

 骨董の価値を高めるには伝説が必要である・・・・・アントニオ・ストラディヴァリはその生涯で仕上げの決め手となるニスの調合を変えている。黄金期のそれは遅乾性のニス。乾燥が遅いため、塗っては乾かし塗っては乾かしの作業に長い日時を要した。この工程が黄金期の音を決めた大きな要因だ、という。ところがストラドの評判が上がり注文が増え始めると、迅速に仕上げる必要が生じ、速乾性のニスに変えざるを得なくなった。そこで、ストラディヴァリは古いニスの処方を廃棄してしまった。だから、もう黄金期と同じものは永久に作ることはできない。これが、ストラディヴァリウスの音の神秘を語る伝説の一つだ。

 これらの伝説を信仰にまで高めた者たち、それが英国人楽器商ヒル一族である。彼らは18世紀から20世紀にかけて、5代にわたり、ストラディヴァリウスを蒐集し修復し個々の特徴を的確に把握する。さらには、楽器個々の変遷の歴史を丹念に調べ、時には話を盛って、伝説として巧妙に嵌め込んでゆく。こうして、骨董としての効能書きcaptionを完璧に作り上げた。そして、ついには、クレモナの銘器に関する鑑定・修理・評価(値づけ)の世界最高にして唯一の権威となった。ストラディヴァリウス神話・信仰の完成である。そして今日に至るまでヒル一族の下した鑑定評価は絶対的なものとしてまかり通っている。

 ストラディヴァリウスの価値とはなんだろう? 黄金期に限って考えれば・・・・・まずは、史上最高のヴァイオリン製作者ストラディヴァリが、遅乾性ニスで仕上げをした銘器だということ。そしてそれが数百挺しか現存してないということ。これらは厳然たる事実であり、その稀少性は動かしがたい。これに付随するのが再現性である。材料もフォルムも決して真似ることは出来ず、特にニスについてはその処方が失われて再生は全く不可能である、と。

 では、本当に再現は不可能なのだろうか。まずはストラド独特の深紅色の遅乾性ニス。一滴の血液から特定部位のがん細胞が見つかる時代である。今の科学の力なら、ニスの成分分析など、いとも簡単にできるのではなかろうか。現に、2010年、ヨーロッパの研究チームによって、ストラドのニスは“当時使われていた一般的なニスだった”ことが判明している。次は材質。表面のスプルース&背面のメープルと同強度同硬度同材質の木材を選び出すのは確かに難しいかもしれない。ストラディヴァリが調達していたパナヴェッジョの森から切り出したとしても当時のモノではない。だが、現代の技術をもってすれば“同質に加工すること”はそれほど難しいこととは思えない。そして、CTスキャンでなら、真のストラドと寸分違わぬフォームを再現するのも困難ではないだろう。現に、世界中でストラド再現の試みがなされている。

 しかも、一方で、クレモナの楽器の中には衰えてきて響きの弱くなっているものも多いはず、と著者は云う。木材の材質疲労である。音が出ている間じゅうあの木製の胴は振動し続ける。たとえば、持ち主がプロ奏者ならば、一日数時間も音を出す。作られてから300年間余、銘器の胴は振動し続けているのである。木材には寿命がある。どんなに硬くて強い木でも振動に対する耐性が限界に近づく(越えている)と想像がつくのである。だから、もしかしたら、現代科学の力を駆使して再現したストラドの方が本物のストラドよりも“よく鳴る”可能性があるのでは?

 だがしかし、こんな素人の妄想をあざ笑うかのように、ストラディヴァリウスは高騰を続ける。それは、ストラドだけが別格だからだ。300年ほど前、刺激と活気の街クレモナで、ストラディヴァリという類まれなる天才職人が、試行錯誤を重ね精魂傾けて作り上げた品々は、比肩するものなき絶対の存在として現代に君臨している。今日の試みは、再現であって超越ではない。取り組む者たちの心中には、「追い越したい」ではなく「追いつきたい」との願望しかない。盗むのではなく真似るに止まっている。だから、いつまでたってもホンモノを超えられない。ホンモノには敵わない。この事実こそが「ストラディヴァリウスの奇跡」なのではないだろうか。

 2002年初版の「誰がヴァイオリンを殺したか」に記されたストラドの値段は5億円だった。現在は15−20億円が相場のようだ。十数年でなんと3〜4倍。ストラディヴァリウス・バブルはいつまで続くのだろうか。

<参考資料>

「誰がヴァイオリンを殺したか」石井宏著 (新潮社)
「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集」CD(CAMERATA)
    中澤きみ子(Vn)フィリップ・アントルモン指揮:ウィーン室内管弦楽団
「至高のヴァイオリン〜ストラディヴァリウスの謎」NHK-BS 2013年1月OA
 2018.09.30 (日)  さらばFMえどがわ
 9月20日、約2年間やらせていただいたFMえどがわ「りんりんクラシック」を終えた。自分としては甚だ残念だが、「明日へ・・・笑顔りんりん」なる番組が終わるのだから仕方がない。
 FMえどがわはコミュニティFMである。9月23日付朝日新聞によると、最近はコミュニティFMの開局が増えているそうだ。2011年の大震災以来、情報発信源として自治体が開局を促す意向が強まったからとも。そんな中にあって、FMえどがわは開局21年の老舗なのだ。

 私の友人にかのランキング誌の草分け「オリコン」創業時のメンバーN氏がいて、彼の友人にFMえどがわのI氏がいた。元放送制作会社のI氏がEMえどがわに転職したのが一昨年2月。「なにかいい企画はないかしら?」とN氏に相談があり、クラシック番組はどうかと、私にお鉢が回ってきたのである。
 それからあれこれ詰めて、「身近な題材からクラシック音楽につなげる」をコンセプトに、「明日へ・・・笑顔りんりん」という3時間の生番組の一コーナーとして、「りんりんクラシック」が始まった。放送は毎月第3木曜日の夕方5時からの30分間。相方はパーソナリティーの奈良禎子さん。私の通称はなんとなく“下町のクラシックおじさん”に決まる。

 第1回OAは2016年9月15日。演題は「男はつらいよ」クラシック。寅さんの舞台葛飾柴又は江戸川区の隣にして放送エリア内。主演の渥美清が亡くなったのが1996年8月4日で没後20年。山田洋次監督はクラシックに造詣が深く、映画の中にはクラシック音楽がふんだんに出てくる。地元のレジェンドにして全国区の寅さん「男はつらいよ」をクラシック音楽に繋げる構成は「りんクラ」コンセプトに大合致。スタートはこれしかなかった。

 48作の中から選んだのは第11作「寅次郎忘れな草」(1973年8月4日公開)。マドンナは浅丘ルリ子扮するドサ周り歌手のリリー松岡。懐かしい昭和のヒット曲がふんだんに登場する。美空ひばり「越後獅子の唄」1951、平野愛子「港が見える丘」1947、山口淑子「夜来香」1950。これら3曲は、リリーが口ずさんだり安キャバレーで歌う曲目だ。二人の出会いは北海道網走。「私たちの生活ってあぶくみたいなもんだわね」と言うリリーに「うん、あぶくだよ。それも上等なもんじゃねえよな・・・・・」と応える寅次郎。互いの中に同質性を見出した二人はまるで恋人ムード。これ、他のマドンナとはない空気感。共演回数が最多の4回というのも頷ける。ただ、マイ・ベストは第17作太地喜和子マドンナの「寅次郎夕焼け小焼け」(1976年7月24日公開)。宇野重吉と寅さんのやり取りが絶妙で、ショパンの「華麗なる大円舞曲」が使われている。これは母も好きだったが、また別の話だ。
 「忘れな草」に挿入のクラシックは、北海道の原野を逍遥する寅さんのBGMとして流れるリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」第3楽章「若き王子と王女」と妹・さくらが農場で倒れた寅さんを迎えに行く列車がサロマ湖付近を走るあたりで被さるJ.S.バッハ「G線上のアリア」の二曲。特に「シェエラザード」の優美でロマンチックなメロディーは夏の北海道の大自然によく似合う。

 11月24日はオペラの日。そこでオペラに因んだ題材を探していたら、ピコ太郎の「PPAP」にぶち当たった。“ペンパイナップルアポーペン”の胆はパ行の音のつながり。結び付いたのはモーツァルトの歌劇「魔笛」の「パ、パ、パ」の二重唱。これは、鳥刺しパパゲーノと恋人パパゲーナのデュエット・ソングで、歌の前段全てが「パ」だけで出来ている。1791年の秋に初演された「魔笛」を見たウィーンの観客は、こぞって「パ、パ、パ」と歌いまくったそうな。ピコ太郎の元祖はモーツァルトか!? この他にもパ行ヒット曲は「踊るポンポコリン」、「うちの女房にゃ髭がある」などがある。でもこれ、アイディア倒れで受けなかった。

 2017年2月16日は、音楽コンクールを題材にして直木賞と本屋大賞をW受賞した恩田陸「蜜蜂と遠雷」を取り上げた。決勝まで残った4人のコンペティター、風間塵、栄伝亜夜、高島明石、マサル・アナトールが夫々弾いた曲を掛けながら小説の全容を30分でまとめた。これはまさに直球の題材。放送のタイミングは、直木賞受賞の直後にして本屋大賞受賞前と絶好だった。

 12月21日は「りんクラ的X’masクラシック」。レオナルド・ダ・ヴィンチの「サルバトール・ムンディ」からヘンデルのオラトリオ「メサイア」の「ハレルヤ・コーラス」に繋げる。「サルバトール・ムンディ」がダ・ヴィンチの真作ということが確定して、史上最高価508億円が付いたとのニュースが流れたのは11月中旬。ややあって、落札者はUAEのルーヴル・アブダビと判明したが。
 この絵画と「ハレルヤ・コーラス」は容易に直結。サルバトール・ムンディSalvator Mundiはイタリア語で“世界の救世主”の意味。メサイアMessiahはラテン語で“救世主”のこと。ヘンデルの「メサイア」の中では合唱曲「ハレルヤ・コーラス」が群を抜いて有名だ。508億円が高いかどうか? 絵画素人の私は分らないが。

 2018年のスタートは1月18日。戌年繋がりで「子犬のワルツ」を、初夢からドビュッシー「夢」を、新年の風物詩ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートから「ラデツキー行進曲」を選曲。明るく爽やかにスタートを切った。番組のオープニングはドリーブ「スワニルダのワルツ」にしているが、この後は変則オープニングを多用した。この方が一曲余計に掛けられるからだ。

 2月15日はボロディン「ダッタン人の踊り」でのオープニング。この曲、前回の冬季五輪ソチ大会の開会式で使われており、ここから今年の平昌五輪へと繋げる。ワルトトイフェルの「スケータズ・ワルツ」は女子スピードスケート500mの小平奈緒、プッチーニ「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」は男子フィギュアの羽生結弦と宇野昌磨への応援曲として選曲。結果、翌16日には小平が金、17日には羽生が金、宇野が銀メダルを獲得。効果は抜群だった!?

 5月は尾崎紀世彦「五月のバラ」がオープニング。バラに因んでヨハン・シュトラウスUのワルツ「南国のばら」、五月に因んでメンデルスゾーンの無言歌集から「五月のそよ風」を選曲。「南国のばら」はシューリヒト&ウィーン・フィル(1963年録音)の演奏を選んだが、ウィーン・フィルの音色にシューリヒトが絶妙の味付けをしているまさに名人芸。録音現場に居合わせた指揮者岩城宏之の「神だ!」の叫びもエピソードとして紹介した。

 演奏にもそれなりに拘った。前述シューリヒトの「南国のばら」を始め、ベルリオーズ「幻想交響曲」第4楽章「断頭台への行進」はバーンスタイン&ニューヨーク・フィルハーモニック(1963年録音)、ヴィヴァルディの「四季」はアーヨ&イ・ムジチ合奏団(1959)、ドヴォルザークの「新世界より」はクーベリック&ベルリン・フィル(1972)、スメタナ「モルダウ」はクーベリック&チェコ・フィル サントリーホール・ライブ(1991)、ホルスト「惑星」はボールト&ニュー・フィルハーモニア管(1966)、シューベルトの「野ばら」はバーバラ・ボニーのソプラノ(1994)等々。

 6月21日はグリンカ「ルスランとリュドミラ」序曲でオープン。このムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの演奏(1965ライブ)は凄いの一語。人類が到達した最高度のアンサンブルである。この回は、開催中のロシア・ワールドカップに因んでロシア音楽特集とした。プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」から「モンタギュー家とキャプレット家」、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、ショスタコーヴィチの「ジャズ・ワルツ第2番」など、ユニークな名曲で固めた。無論西野ジャパンへの応援も忘れずに行う。予選リーグ突破は天晴れだった!

 7月は「ウルトラマンの歌」で意表を突くスタートを切る。こころは“変身”クラシック。クラシックと変身楽曲との対比を楽しんでいただいた。ベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」第2楽章→ビリー・ジョエル「今宵はフォーエバー」、ペツォールトのメヌエット→サラ・ヴォーンの「ラバーズ・コンチェルト」、ホルストの組曲「惑星」から「木星」→平原綾香「ジュピター」の3曲。これは内輪ウケした企画だった。

 とまあ、そんなこんなで積み重ねた回数が34回。使用楽曲は96曲。作曲家別ベストを集計したら、第1位はモーツァルト(8曲)、第2位がベートーヴェン、ヨハン・シュトラウス、チャイコフスキー(各5曲)、第5位がショパン(4曲)だった。やっぱり私のナンバー1はモーツァルトなんだと改めて認識した次第。

 2年間の「りんクラ」は実に勉強になった。多数でなくても不特定な方々へ発信するために、あやふやな知識はあれこれ調べてキチっと修正した。使いたい音源を所持してないときは躊躇せずに購入した。なので、出演料かつかつは毎度のこと。帰りに両国あたりで一杯引っかけた日には持ち出しは必至となった。だが、そんなことはお構いなし。天から何かが舞い降りて、身近な事象と音楽がうまく結び付いたときの高揚感は何物にも代えがたかった。そして、8月16日のバーンスタイン生誕100年の回が、母が亡くなった日と重なったことを付け加えておく。母は「あんた薄情ね!」とは言わないだろう。「りんクラ」に携わることをことのほか喜んでいたのだから。

 最後に、私をこの番組に導いてくれたN氏とI氏、喋りド素人の私を優しくリードしてくれた奈良禎子さん、ディレクターのO君と彼から引き継いで台本のグレードアップを図ってくれたNoririn、レアな音源を快く貸してくれたH教授、いつも熱心に聞いてくださったF社長、そして静かに応援してくれた亡き母に、心から感謝を申し上げます。 
 2018.08.31 (金)  わが母を偲んで
 2018年8月16日、母が旅立った。享年97歳。不思議なことに、この日は母の父・私の祖父である岡村助太郎じいさんの命日だった。祖父は、お盆でコチラに戻ってきていたわけだから、送り盆のこの日「芳子行くぞ!」と言いながら連れ去ってしまったのだろう。
 1947年4月、私の父・早石が亡くなってすぐ、祖父は私たち母子が住む新潟に出向き、「芳子行くぞ!」と自らが住む長野に連れ帰った。71年後歴史が繰り返されたのか!?

 6月15日早朝、母が嘔吐したので念のため近所の掛かりつけの病院に行く。前日まで、天丼やら私の作ったカレーやらを食べていたから、食当たりか胸やけだろうと軽く考えていたが、なんと即入院、余命数か月の宣告を受けた。
 昨年秋、妹の久子おばさんが亡くなってから急に元気がなくなったのは事実だが、それでも身の回りのことはすべて自分で行う生活ペースが変わることなく続いており、2月21日の誕生日の折など「まずは100歳を目指そうね」と祝ったものだから、それを聞いたときのショックは計り知れないものがあった。

 お医者さまに、「岡村さんなら大丈夫」と云われて4時間の手術に耐えた。強い気持ちで必死に生きようとした。だがしかし、思いのほか病の進行が早く、入院から二か月で帰らぬ人となった。本当にあっという間の時間であった。人間の最期というのは人それぞれだろうが、母の場合は、痛みも苦しみもそれほど訴えることなく、周りに世話をかけずに、まるで一陣の風が吹き去るように、スマートに旅立って行った。

 母は自分の事より人様が喜ぶことを優先する人だった。亡くなる間際まで興じた親族恒例サッカー・ワールドカップ優勝国当てくじへの賞金付加とか、年末年始のじゃんけん大会、あみだくじ、UNO大会などへの賞金提供など、みんなが喜ぶ顔をいつも楽しんでいた。
 一昨年、永六輔さんが亡くなった時、彼の言葉を聞いて私にこう言った。「あっちゃん、人間は二度死ぬんだってね。一度は肉体が死んだとき、二度目はみんなに忘れられたとき。私は忘れられないでいられるかな」と。私は「たっちゃんはみんなにいい思い出をたくさん残してるのだから、いつまでも忘れられることはないさ」と返した。まるで昨日のことのように思い起こされる。

 「たっちゃん」というのは、従妹の真理子が幼児のころに付けた母の愛称だ。地方企業で経理を任されていた母が、家に帰っても算盤片手に夜なべをしているのを見た従妹が、「いつもひとっちゅふたっちゅやってるね」と言ったことからついたもの。60年ほど昔の話である。以来親族はみんな母を「たっちゃん」と呼ぶようになる。母はこの愛称が大のお気に入りで、最近は曾孫がそう呼ぶのを聞いて、「RayちゃんもYouくんも“たっちゃん”だね。この歳まで、だれも私を“おばあちゃん”と呼ばなかったよ」とご満悦だった。

 小学4年生になった時、「なにか習い事をしなさい。お習字とピアノ、どっちがいいの?」と訊かれた私は、即座に「習字」と答えた。当時ピアノは女の子の専売特許と思っていたからだ。「そうなの」と一旦受けた母だったが、数日後、「やっぱりピアノにしなさい。先生決めちゃったから」。なら、なんで訊いたのよ なのだが、従うしかない。当時から私は素直だったのだ。同時に、ベートーヴェン「月光」ソナタとショパン「幻想即興曲」の2枚組SPを買い与えられた。ピアノはイグナツィ・ヤン・パデレフスキー(1860−1941)。「この人、ポーランドの首相だったんだよ」と母に教えられた。この2曲、戦時中から家にあった蓄音器で盤が擦り切れるほど聴いたものである。
 その後、時代はLP〜ステレオと移行するが、それに伴い私のハードも免税プレーヤー〜ステレオ装置へと進展。ここでも母の財力の世話になった。もし、あのとき「ピアノ」を押し付けてくれなかったら、私のクラシック音楽への興味は喚起されなかったかもしれない。これは母への最大級の感謝である。

 今夏、母の入院中によく聴いた曲がある。ブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調」である。特に第2楽章のAdagio。なんともいえず優しい曲想なのだ。それでいて品格がある。プレッシャーのきつい毎日、鼓舞される音楽よりも癒される音楽が欲しかったのだろう。
 お気に入り曲にはMy Best演奏を選び出すのが我が常套。ハイフェッツ/カペル、シゲティ/ホルショフスキー、シェリング/ルービンシュタイン、ヌヴー兄妹、スーク/パネンカ、グリュミオー/シェベック、フェラス/バルビゼ、チョン/フランキ、モルドコヴィチ/オピッツ、ムローヴァ/アンデルシェフスキーなど十数枚の手持ちCDの中からMy Bestに選定したのは、ナタン・ミルシテインのヴァイオリンとウラディミール・ホロヴィッツのピアノによる1950年録音のモノラル盤だ。
 主要主題の品位ある優しさはいうまでもないが、特筆すべきは22小節目。他の奏者が総じて強奏する中、ミルシテイン&ホロヴィッツのコンビは抑制された優雅さを醸し出す。優しさの底に精神の靭さが潜む。

 ナタン・ミルシテイン、1903年現ウクライナのオデッサ生まれ。ウラディミール・ホロヴィッツ、1903年ウクライナのキエフ生まれ。ミルシテインはホロヴィッツのことを「彼とは70年来の友人で、自分は他の誰よりも彼のことを知っているはずだ」と著書「ロシアから西欧へ」で述べている。一方、ホロヴィッツは著作「ホロヴィッツの夕べ」の中で「1921年末にミルスタインと会った。彼とは生涯の友人になり一緒にデュオのリサイタルを開く貴重な仲間となった」と述べている。その後、1925年、二人は連れ立ってアメリカに亡命する。まさに戦友である。二人は生涯にわたり夥しい数のライブを共演している。なのに、レコードはこのブラームスの「ソナタ 第3番」のみ。実に不思議で残念な話である。80年代にミルシテインが「ヴォロージャ(ホロヴィッツの愛称)、もう僕らは若くない。だからもう少し内容のある提示をしようよ」と、フランクと「クロイツェル」のレコーディングを提案したという。が、結局調整がつかずこの企画は幻に終わったそうだ。
 ミルシテインはまた、「ロシアから西欧へ」の中で、「ブラームスの室内楽は好きではないが、ヴァイオリン・ソナタは全くの例外だ。そして特に第1番ト長調の第1楽章が好きだ」と述べている。が、私はこれを言い換えたい。「ミルシテインさん、大好きな第1番ではなく、第3番をレコーディングしてくれてありがとう。これほど素晴らしい第2楽章は他にありません。まさに神がかり的な名演です」と。

 母の入院中に癒された曲がもう一つある。ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110」である。この曲はフーガを取り入れた第3楽章が特に有名だが、何といっても凄いのは第1楽章だ。冒頭の第1主題の高貴なる優しさ。この主題を転調を伴いながら8回繰り返すだけのシンプルな展開部の様相。これぞ、ソナタ形式を極限まで追い詰めた“形式の革命児”ベートーヴェン天才の証である。
 My Bestはポリーニ(1977年録音)。究極の形式の中に高貴な優しさを湛えたピアニズムの極致!である。このころのポリーニは本当に素晴らしい。

 “たっちゃん”芳子母は人に優しく強く前向きに生きた。上記二曲に通じる人生だったと思う。

   <参考文献>

   「ロシアから西欧へ ミルスタイン回想録」
      ナタン・ミルスタイン、ソロモン・ヴォルコフ共著、青村茂&上田京訳(春秋社)
   「ホロヴィッツの夕べ」デヴィッド・デュバル著、小藤隆志訳(青土社)
 2018.05.25 (金)  エジソンを凌駕した知られざる偉人2〜エミール・ベルリナー
 トーマス・エジソン(1847−1931)が、音を記録・再生する“フォノグラフ”を完成したのは1877年12月5日。ここからオーディオの歴史が始まった・・・・・とまあ、我々の常識はこうである。ところが、彼に先んじた人間がいたようだ。フランスの詩人で発明家のシャルル・クロス(1842−1888)である。クロスは考案した機器の仕様書類を厳封して、1877年4月30日にフランスの科学アカデミーに預ける。12月5日、エジソンの発表を聞いたアカデミーが開封すると、驚くなかれ、そこにはエジソン以上に本格的な蓄音機の仕様書が眠っていたのである。エジソンに先んずること7か月。しかしながら、クロスには実験の資金がなく試作品もできなかったために着想に止まらざるを得なかったというわけだ。フランスは彼の功績を評価し、1948年制定のACCディスク大賞にその名を留めた。ACCとはAcademie Charle Crosの頭文字である。

 エジソンの“フォノグラフ”は、錫箔を塗った円筒に録音する所謂シリンダー方式。機器を前にしたエジソンは「メリーさんの羊 Mary has a little lamb」を吹き込む。これが世界初の録音とされる。発明王エジソンは同時に有能な実業家でもあった。“フォノグラフ”を直ちに特許申請し、商品化を行う会社「エジソン・スピーキング・フォノグラフ」を設立する。こうして世に出た“フォノグラフ”だったが、エジソンの意に反してサッパリ売れなかった。録音・再生における針と音溝との接触が完全でないと十分な音量が得られない。音が全く出ないケースも生じるほど。要するに商品としての完成度が未熟だったのだ。

 電話を発明したアレキサンダー・グラハム・ベルのヴォルタ研究所の技師チチェスター・ベルとチャールズ・ティンターはフォノグラフの改良に着手。改良点は、錫箔シリンダーをワックス・コーティングに、ハンドクランク駆動をゼンマイ乃至モーターに変換し、振動膜と針との固定にルーズ・カップリングを導入したこと。これにより針の追随性が向上し録音・再生ムラが大幅に改善された。ベル=ティンターは、1885年、これを“グラフォフォン”と名付け、エジソンに事業提携を持ちかけるも決裂。以後、両者は蓄音器の覇権を巡るライバルとなった。本家の意地があるエジソンは、シリンダーをソリッド・ワックスに変換するなど改良に励む。1890年代には、ジャンニ・ベッティーニが登場。針にスバイダー方式を導入するなど音質を画期的に向上させる。これら一連の流れの中、シリンダー式蓄音器の性能は飛躍的に向上し、業界はシリンダー全盛時代を迎えることになる。

 シリンダー方式でなされた録音には、エジソンの声をはじめ、ブラームスの「ハンガリー舞曲 第1番」の自作自演、大ピアニスト ヨーゼフ・ホフマン少年時代のピアノ演奏、フローレンス・ナイチンゲールの声、イヴェット・ギルベールのシャンソン、名ソプラノ ネリー・メルバの歌などがある。

 さて、いよいよベルリナーの登場である。彼こそが、エジソンのシリンダー式蓄音器をコペルニクス的転換で覆し、レコードの未来を切り拓いた改革者・功労者である。

 エミール・ベルリナー(1851−1929)は、1851年、ドイツはハノーヴァーに住むユダヤ系商人で学者の家庭に生を受けた。学校教育は14歳まで、その後は家の商売を手伝うが、1870年、普仏戦争が勃発すると、一家はアメリカに移住した。エレクトロニクスに興味を持ったベルリナーは、ニューヨークの私大クーパー・ユニオンで物理学と電気工学を学ぶ。彼の努力はベルの電話器の改良案の特許取得という形で実を結ぶ。ベルはこれを買い取るとともにベルリナーをヴォルタ研究所に採用した。時期的に、先輩であるベル=ティンターの蓄音器改良に携わったはず。ならば、既にこの時点でエジソンとの対決の萌芽があったことになり、これも奇しき因縁である。

 ベルリナーが、水平回転ディスク方式“グラモフォン”を構想したきっかけは、1883年、 スミソニアン博物館で見た“フォノートグラフ”だった。1857年、フランス人技師レオン・スコットが考案した機器。樽状の箱で受けた音を、ススを添付した紙を引き裂いて音の波形を記録するというもの。後に紙は回転するドラム状の筒に巻かれ、更に水平なガラス上に記録するようになった。回転ドラムはエジソンの“フォノグラフ”の先駆となり、水平ガラスはベルリナーの“グラモフォン”の発想につながった。同じ対象から正反対の機器が生まれる。科学の面白さか。
 “フォノートグラフ”は当時音を可視化はしたが、音そのものの再生は出来なかった。それが、2008年、近年の技術により音として再生された。これが人類最古の録音とされる。

 “フォノートグラフ”からヒントを得たベルリナーは、水平回転方式による蓄音器開発に没頭、1884年、ベル社を去り独立を果たす。そして、1887年、遂に完成(特許申請は9月26日)。水平回転ディスク方式“グラモフォン”の誕生である。ベルリナーは、記念すべき第一声として、「きらきら星 Twinkle, twinkle little star」を朗読した。この肉声も現在試聴可能である。

 エジソンの“フォノグラフ”とベルリナーの“グラモフォン”との差異は、原理・形態面では、垂直型と水平型であるが、機能面では複製の量産の可否ということになる。“フォノグラフ”の円筒が困難なのに対し、“グラモフォン”のディスクは容易。これが、“グラモフォン”が勝利した最大の要因である。
 現代のレコード製造工程は・・・・・音を刻んだ円盤である「ラッカー盤」凹→銀・ニッケルメッキを施した「メタル・マスター」凸→銅メッキを施した「マザー」凹→ニッケル・クロームメッキを施した「スタンパー」凸。スタンパーで塩化ビニールのディスクをプレス、ディスク凹の完成。スタンパーの音溝が摩耗したらマザーに戻る。場合によってはメタル・マスターにまで。保存も量産も容易。ベルリナーの“グラモフォン”は当初からこの機能を備えていたのである。

 ベルリナーは、1895年、フィラデルフィアに「ベルリナー・グラモフォン社」を設立。蓄音器業界はまだエジソン・シリンダー方式の時代。後発の“グラモフォン”は苦戦の船出だったが、徐々に改良を加え、エジソンの牙城に迫ってゆく。そして遂には覇者となるのだが、これはベルリナー一人の力によるものではない。レコード黎明期に大きな足跡を残した二人の同士を忘れるわけにはいかない。

 一人目はエルドリッジ・ジョンソン(1867−1945)である。ジョンソンはニュージャージー州キャムデン出身の機械技師。彼の作るゼンマイが高性能だったため、ベルリナーは“グラモフォン”に採用した。1900年までの5年間で納入したゼンマイは25.000個に達した。しかし、このころ、ベルリナー・グラモフォン社にとんでもない問題が持ち上がる。営業を担当していたシーマンという男が、サウンドボックス部の特許に関し、訴訟を起こしたのである。これを受けて立ったのがジョンソンだった。結果は勝訴、但し“グラモフォン”という名前は使用しないという条件がつく。これら一連の流れの中、ジョンソンはベルリナーの共同経営者となり、故郷のキャムデンに本社・工場を移し「ビクター・トーキングマシン社」を発足させた。1901年のことである。

 二人目はフレッド・ガイスバーグ(1873−1951)である。ガイスバーグはドイツ系アメリカ人。ベルリナーとは1891年に出会い録音技師を務めた。1897年、ベルリナーが英国グラモフォン社を設立すると、即、ロンドンに赴任。目的はレコーディング。根っからの音楽人間だったガイスバーグは水を得た魚。ヨーロッパ中を駆け巡り、録音活動に邁進する。 1898年8月2日、宿泊ホテルの近くのパブで働くアマチュア女性歌手からスタートしたガイスバーグの録音。この一滴がやがて大河となり膨大な音楽の記録が遺される。そんなアーティストの一端を列記しておこう。

<鍵盤楽器奏者>
エドゥアルド・グリーグ、セルゲイ・ラフマニノフ、アルバート・シュヴァイツァー、ウラディミール・ド・パハマン、ヨーゼフ・ホフマン、イグナッツ・ヤン・パデレフスキー、アルトゥール・シュナーベル、ウィルヘルム・バックハウス、アルフレッド・コルトー、アウトゥール・ルービンシュタイン、マルグリット・ロン、ウラディミール・ホロヴィッツ、ワンダ・ランドフスカ

<弦楽器奏者>
パブロ・デ・サラサーテ、ヨーゼフ・ヨアヒム、フリッツ・クライスラー、ヤン・クーベリック、ミッシャ・エルマン、ヤッシャ・ハイフェッツ、ヨーゼフ・シゲティ、ジャック・ティボー、パブロ・カザルス

<歌手>
エンリコ・カルーソー、ティト・スキーパ、ベニャミーノ・ジーリ、ヒョードル・シャリアピン、ゲルハルト・ヒュッシュ、シュルル・パンゼラ、ネリー・メルバ、ジェラルディン・ファーラー、ロッテ・レーマン、エリザベート・シューマン

<指揮者>
アルトゥーロ・トスカニーニ、ウィルヘルム・フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、 ウィレム・メンゲルベルク、フェリックス・ワインガルトナー、レオポルド・ストコフスキー

 20世紀の演奏史を飾る錚々たる演奏家たちである。これらの音は赤盤として健在、大半は復刻CDで聴くことができる。レコーディング・プロデューサーのパイオニア フレッド・ガイスバーグの足跡は、後輩のウォルター・レッグ(EMI)に受け継がれ、カタログは充実の一途を辿った。

 1897年創立の英グラモフォン社は、1931年、英コロンビア社と合併しEMIに、1901年創立のビクター・トーキングマシン社は、1929年、ラジオ局RCAに買収されRCAビクターに。 シリンダー型蓄音器の販売会社米コロムビア社は1888年、コロムビア・フォノグラフを設立。1906年、コロムビア・グラフォフォン社。1938年、CBSコロムビアとなる。
 1898年設立のハノーヴァーのベルリナー・グラモフォン社の本社&工場は、クラシック専門レーベル、ドイツ・グラモフォン社となる。

 蓄音器のフォーマット競争に勝利したベルリナーは、レコード音楽産業の礎を築いた。エジソンの残り香は辛うじてコロムビア・レコードに母体として残るのみだ。果たしてこの差は何だったのか?
 無論、最大の差はフォーマットである。だが、見逃してならない観点は、二人の音楽への思い入れの差ではなかろうか。確かに、エジソンの“フォノグラフ”にも、ブラームスやホフマンなど、偉大な音楽の録音がある。だがこれは、アーティストからの強い要望によるものだ。それに対し、ベルリナーは、会社設立の二年後には音楽先進国に支社を設立し、有能な部下を派遣し自主的・積極的に本場の音楽を録音させる体制をとった。これぞ、ハードとソフトの両輪により、レコーディング音楽を世に広めることを企図していた証ではないか。複製の大量生産を可能にする水平ディスク方式は、ベルリナーの理念と固く結びついていたのである。

 ベルリナーの“グラモフォン”は、誕生時のSPレコード〜1948年LPレコード〜1958年ステレオ・レコードと進化、1982年主役をCDに譲るまで、音溝が刻まれたディスクを水平に回しカートリッジで音を拾うという基本機能を変えないまま、レコードの主流であり続けた。エジソンを凌駕したエミール・ベルリナーの知名度はもっともっと上がってしかるべきである。

 かくなる私は、レコード音楽産業に従事し約半世紀の間サラリーマン生活を送ってきた。そして、今もまだ音楽を随一の趣味として、まあ、充実した人生を送っている。ベルリナーのお陰である。携わったレーベルRCAビクターは、CBSコロムビアと米国を二分する大レーベル。その二つのレーベルは、今や、ソニーBMGとして合一されている。いやはや、時代は変わる!
<参考文献>

 レコードの世界史 岡俊雄著(音楽之友社)
 赤盤伝説CDセット(BMGジャパンファミリークラブ制作)
 音でたどるオーディオの世紀(社団法人日本オーディオ協会刊)
 2018.04.25 (水)  エジソンを凌駕した知られざる偉人1〜ニコラ・テスラ
 生物学者・福岡伸一氏が朝日新聞に連載中の「動的平衡」は無類の面白さである。生物学を基点にして、絵画、哲学、数学、スポーツ、映画、歴史etcと話は多岐に広がる。
 最高に興味を惹かれたものの一つに、2016年8月4日のアルド・マヌーツィオに関する記載があった。ルネサンス3大発明の一つ活版印刷の祖グーテンベルクは有名だが、アルドは、印刷文化の始祖だとか。小型化と各種フォントの開発、レイアウトの標準化を図り誰もが持ち歩ける本を実現した。これぞ書物史における革命。彼なくしては今日の書籍文化は語れない。しかるに、グーテンベルクは誰もが知っているが、アルド・マヌーツィオを知る人は少ない。かくいう私も初めて聞く名前だった。歴史上、有名な人物の陰に隠れているが、その人と同じ、否むしろその人以上の偉業を成し遂げた人間は確かに存在する。
 今回は、知らぬ者なき発明王エジソン(1847−1943)を凌駕した知られざる偉人の一人、ニコラ・テスラにスポットを当てる。

 ニコラ・テスラ(1856−1943)はクロアチア生まれのセルビア人。幼少期から青年期にかけて後にエジソンを超える元となった原体験が二つある。一つは4歳のとき自作して近くの小川で回した水車。「いつかアメリカに行って、ナイアガラ瀑布を利用して力を作る」という夢を育む。もう一つはグラーツ工科大学で観察した直流電気機械の整流子から発する大きな火花。整流子不要を直観し、これを介さない「二層交流モーター」を発明。テスラ生涯の夢「交流システム実用化」の萌芽となった。

 1884年、28歳の夏、テスラはこの夢を引っ提げて新天地アメリカに渡る。エジソンへの紹介状を手に。テスラとエジソン。発明史に輝く二人はこうして運命の出会いを果たした。
 このころのエジソンは生涯の絶頂期。蓄音機、炭素顆粒送話器、白熱電球を次々に発明。電源供給のための電力事業にも乗り出していた。電力方式は直流。エジソンが直流を選んだのは、当時、交流による火災や関電事故が多発していたから。技術が未熟だったのだ。

 そんな折、エジソンの門を叩いたテスラは直ちに採用される。直流方式を推進するエジソンに、テスラは交流の優位を説く。耳を貸さないエジソン。決裂は時間の問題か?
 とはいえ、確信する「交流システム」ではあったが、一人で実現できるはずがない。ならば、ここに腰を落ち着け、時間をかけてエジソンを説得するしかないと考えた。エジソンは最新の蒸気船に装備された直流発電機が故障すると、テスラに修理を命じる。テスラは迅速に原因を突き止め、徹夜で作業に当たり、一日で修理を完成させた。テスラのスキルを認めたエジソンは、様々な機械の設計を彼に任せるようになる。やりがいを感じたテスラは仕事に没頭、大きな成果を上げた。
 ある時、開発中の直流発電機の問題点に気づいたテスラは、改良策を提案。エジソンは受け入れ、完成したら5万ドルのボーナスを約束する。数か月後、テスラ完成、約束通りのボーナスを要求。ところがエジソンの反応は想定外。「なんと真に受けたのか。君はアメリカ流のユーモアというものがわからないのかね」。テスラキレる。辞職。

 二人の決別には、「直流」「交流」というフォーマットの違いもあるが、その他の要因も見逃せない。エジソンの師は母。正規の教育は受けていない。テスラは工科大学で数学や物理学の基礎を叩きこんでいる。基盤の差は歴然。エジソンの礎は「努力」。「天才は99%の汗と1%のインスピレーション」に代表されるように、地道に実験・経験を積み重ねて結論を導くタイプ。テスラは、直観を重んじ、具体的な作業に入る前には頭の中に未来予想図が描かれているタイプ。エジソンを皮肉った「天才とは99%の努力を無にする1%の閃きのことである」は有名な台詞。性格的にも実務家肌のリアリストVS夢想家肌のロマンティスト。テスラはこうも云う。「エジソンが干し草の山の中から針を見つけようとしたら、蜂の勤勉さをもって藁を一本一本調べ針を見つけるまでやり続けるだろう。わたしは、理論と計算でその労力を90%節約できるはずだとわかっている悲しい目撃者である」。基礎能力もタイプも性格も違う。テスラがエジソンと袂を分かったのは必然である。

 エジソンのもとを去ったテスラに資本の手を差し伸べたのはウェスティング電気会社だった。社が既に採用していた単相交流システムとテスラの多層システムが結び付き飛躍的な進化を遂げる。これにより、大規模発電と高電圧送電が可能となって、電力供給の効率化が図られた。一方、直流方式は、送電ロスが著しく、送電距離はせいぜい2〜3Km。このため安定した電力供給を行うには、夥しい数の発電所が必要という構造的弱点を抱えたままであった。

 あくまで直流システムに拘るエジソンのGE社に引導を渡したのは、1893年、シカゴで開催された万国博覧会だった。
 数々の交流機械、高周波装置、放電照明等の発明品の展示、そして、極めつけはスペクタクルな放電実験だった。エジソンはフォノグラフ(蓄音機)キネトスコープ(映画)などで対抗するが、劣勢は否めなかった。まさにこの博覧会こそ交流電気の勝利を世界に告げる一大イヴェントとなったのである。

 博覧会後、テスラは高周波高電圧の変圧器を考案。代名詞となった共振変圧器「テスラコイル」である。これによる照明装置は、エジソンの白熱電球を凌駕して、現代のネオンサインや蛍光灯の先駆けとなった。

 同年、ナイアガラ開発会社が、滝による水力発電実用化への入札を図ると、応募したのは2社。テスラのウェスティング社とエジソンのGEだったが、驚くことにガチガチの直流派だったGEが交流に鞍替えしていた。結果、発電はウェスティング、送電はGEを選定。テスラの交流システムの勝利となった。「ナイアガラ瀑布に交流電力システムを構築する」というテスラ少年時代の夢が遂に実現したのである。

 ここで、日本の電力事業を見ておこう。起点は1883年発足の東京電力の前身・東京電灯会社。当初はエジソンの直流方式を進めていた。キーマンは二人、岩垂邦彦と藤岡市助。岩垂は交流の優位を見抜いて藤岡に進言するも、藤岡はあくまで直流に拘り、結果、岩垂退社。関西に出向き大阪電灯会社を設立。テスラの交流システムを推進した。これが60Hz方式。一方、藤岡の東京電灯会社は、遅ればせながら交流の優位を認知、選んだのはドイツAEG社のシステムで、これが50Hz。かくして日本には50/60併存が生じたのである。境目は長野県。長野が60で東京は50。長野県出身の私は、高校時代までは60のレコード・プレーヤーを、大学からは50を使った。まあ、別段不便はなかったけれど。

 電力フォーマット戦争に勝利したテスラは、「世界システム」の構築に向かう。1901年「センチュリー」誌に掲載された論文こそ、20世紀の幕開けを告げる記念碑的論文となった。そこには、無線による電力の送電と情報伝達のシステム、すなわち、無線電信、ラジオ放送、写真電送、ファクシミリなどの技術が説かれていた。さらに石炭の枯渇を見越して再生可能な自然エネルギーにまで言及している。「世界システム」は、時代を先取りしすぎた構想ゆえか、壮大過ぎる戦略ゆえか、途中頓挫してしまうが、ここに盛り込まれたテスラの先進的アイディアは、トランジスタ・ラジオ、ラジコン、ケイタイ電話〜スマフォ、電気自動車、ロボット技術、太陽熱や風力発電にまでつながってゆく。

 クリストファー・ノーラン監督の映画「プレステージ」(2006年米)では、デヴィッド・ボウイがニコラ・テスラを演じている。スティーブ・ジョブズを超える男とも云われるイーロン・マスクのテスラモーターズはアメリカ最新鋭の自動車会社。社名はもちろんニコラ・テスラに由来する。高級電気自動車に特化し、主力車ロードスターは圧倒的人気を博す。搭載の誘導モーターや無線給電システムはテスラ技術の発展形だ。史上最大のオタクと呼ばれ、マッドサイエンティストにも名を連ねた“エジソンを震え上がらせた大天才”ニコラ・テスラは間違いなく現代に生き続けている。
 2018.03.05 (月)  平昌五輪 二人の長野県人メダリストの明と暗
 私は長野県出身である。だから、平昌五輪に出場した二人の長野県人アスリートの動向を大きな関心を持って追った。スピードスケートの小平奈緒とノルディック複合の渡部暁斗である。金メダルの最有力候補として平昌に乗り込んだ二人だったが、片や金、片や銀と明暗を分けた。金メダルという同じ目標を胸に挑んだ二人を分けたものは何だったのか?

(1)金メダルを一切口にしなかった小平奈緒の場合

 小平奈緒は、1986年5月26日、長野県茅野市で生まれた。茅野市と聞いて即座に頭に浮かんだのは、長野市立山王小学校5年と6年のときの私の担任・田村和郎先生のことだった。田村先生は私たち生徒を決して子ども扱いしなかった。子供だからこの程度で、という感覚はなく、常に一人前の人間として扱ってくれた。ある意味変わり種の先生である。ジュニアとシニアを区別しない、ロシア女子フィギュアのエテリ・トゥトベリーゼ コーチを彷彿とさせる。だから、先生の言動には理解しがたいことも多々あった。私が映画「戦場に架ける橋」の感想文を書いた時のこと。なにやら分からないまま「とても感動した」と安易に結んだ文章に対し、「君は一体何に感動したのか。戦争の悲惨さにか。それともその中でうごめく人間の無力さにか。何に対してどう感じたかを書かないと、君の文章は進歩しない」なる赤ペンをいただいた。当時は理解できなかったが不思議に記憶に残っている。お陰で徐々に、物事を記すときは具体的事例に基づいて論理的に書く、という習慣が身についたと思っている。
 卒業記念文集「だるま」の後書きも印象的だった。「爛々たるだるまの目と真一文字に結んだ口は不屈の闘志だ。苦難を睨み据えてその中に飛び込んでゆく勇気と実行力だ。肩の丸みは、不正を憎み、臆病や卑怯をのりこえて一足一足誠実で真剣な生活を続けるものの激しい気迫を密かに湛えている」など、先生の表現は哲学的ですらあった。

 小平奈緒の言葉にも哲学的な匂いを感じる。茅野市繋がり? 田村先生と重なる。

「ただひたすら究極の滑りを磨く」

「そこに一秒でも速い自分がいればいい」

(相手が)「いてもいなくても一緒」

「氷と対話をする」

「学びと経験を積み重ねた者が強い」

「他から与えられるものは有限 自ら求めるものは無限」

 これらの言葉は、メダルを狙いにいった2014ソチ五輪で5位に甘んじた屈辱の後、死に物狂いで挌闘した過程で生まれたものだ。邪念を打ち払い自己を極限まで追い込む無限の努力。スケートに一途に打ち込むまるで求道者だ。「一番高いところからの景色を見渡したい」と間接的表現ながら金メダルを口にしたソチの時とは違い、「金メダル」という言葉を一切口にしていない。金メダルが欲しくないはずがないのに。

 2014年、小平奈緒は単身オランダに渡った。ソチでスピードスケート全メダルの7割を獲ったオランダに、自らの足りない部分を探す旅だった。師事したコーチは、1998長野と2006トリノで3つの金メダルに輝いたマリアンヌ・ティメル。14歳から競技スケートを始めたという遅咲き。トリノの500mではスターターとの呼吸が合わずにフライング失格。2002ソルトレークはメダルなし。彼女も挫折を知るアスリートだった。彼女の体験すべてが、27歳という決して若くなくして武者修行の旅に出た小平の糧になったと考えても間違いではないだろう。
 ティメルが小平に伝授したのが「怒った猫」BOZE KATのフォーム。ところが、風圧を避けるための低い姿勢に慣れていたため、上体を起こすこの姿勢に感覚的に馴染めない。オランダ滞在中に自己記録を更新することはできなかった。でも小平は貫いた。「失敗しようが成功しようが自分の選んだ道。だから信じて進む」との信念で。

 2016年4月、2年間のオランダ修行を終えて帰国。信頼するコーチ信州大学教授・結城匡啓氏と二人三脚でフォーム固めに臨む。オランダの物真似ではない小平奈緒独自のフォームの習得である。「22か月計画」のスタートだった。
 試行錯誤の末、辿り着いたのが最新スポーツ科学「ヒップロック」理論。一枚の骨盤を左右別々に動作させる感覚。そのために骨盤周辺の筋肉を片方ずつ意識して鍛える。骨盤に特化したトレーニングは10種類を超えた。これにより骨盤の傾きがなくなり体幹が安定し足裏で氷を強く押すことができるようになった。氷のコントロール=氷との対話の進化である。特にカーブでの効果が著しかった。
 和の精神を取り入れたのも小平の独自性の一つ。結城コーチの後輩高橋佳三教授から古武術のノウハウと精神を習得する。一枚歯の下駄によるトレーニングや前述「相手がいてもいなくても一緒」の精神は高橋氏から伝授されたものである。
 オランダ直伝のBOZE KATと最新スポーツ理論と和の技法の融合。自ら求めるものは無限という小平の貪欲さが遂に揺るぎないフォームを完成させた。

 2016/17シーズンから始まった小平の快進撃は止まるところを知らず、殊に“自分の距離”500mはワールドカップ15連勝、内外の公式戦24連勝という無類の強さを発揮したまま平昌五輪に突入した。

 2018年2月18日、スピードスケート女子500m。36秒94。五輪新での優勝。日本女子スピードスケート史上初の金メダルだった。次に滑るライバル・李相花への気遣いから、快記録に沸く観客を制することも忘れない。フェアに戦いたいとの思いが読み取れた。

 金メダルが確定してまず駆け寄ったのはライバル・李相花のもと。「たくさんのプレッシャーの中よくやったね。チャレッソ!あなたのことをリスペクトしている」と声をかけた。

 妨害の意図が明らかな韓国人スターターの号砲にスタートでやや動揺しながらも究極の滑りを実現した小平と絶好のスタートからあわや逆転も感じさせるスムーズな滑りを見せた李相花との差。それは最後のコーナリングだった。出過ぎたスピードを制御できずにややバランスを崩した李に対し、小平はその足裏で強くしっかりと氷を押すことができた。苦難の道のりの中で磨かれた究極の滑りが土壇場で栄光へと導いてくれたのだ。

 追い続けた金メダルを得たとき、小平の脳裏に浮かんだもの。それは支えてくれた多くの人たちへの感謝の気持ちだっただろう。究極の滑りを習得するために関わってくれた人たち。大学を出た後所属先が見つからないときに手を差し伸べてくれた相沢病院相沢孝夫理事長。笑顔と食事で心と栄養をケアしてくれたかつてのチームメイト石澤志穂さん。夏場の自転車トレーニングをサポートしてくれた幸壬申学氏。平昌開幕直前に亡くなった親友・住吉都さんのことなど・・・・・。

 試合後のインタビューを小平奈緒はこう結んだ。

「いい時も悪い時も私を認めてくださるみなさんが周りにいてくれた。そんなみなさんに報いることができたこと。一緒にうれしい気持ちを共有できたこと。それが一番うれしい」

 究極の滑りで一つの頂点を極めた小平は「五輪のゴールの先にまだ見るべきものがある」と言った。それは世界記録への挑戦。小平奈緒は3月に行われる高地カルガリーでの国際大会で世界新記録36秒36に挑む。

(2)金メダルに拘りまくった渡部暁斗の場合

 渡部暁斗は、1988年5月26日、長野県北安曇郡白馬村で生まれた。白馬村は1998長野五輪のジャンプ競技会場。渡部はこれを見てノルディック競技に目覚め、金メダルを夢見るようになった。
 あれから20年。ノルディック複合のエースに成長した渡部暁斗に付けられた仇名は「シルバーコレクター」。2014ソチでの銀メダル以降、ワールドカップ2014/15シーズンで総合2位、2015/16では世界選手権銀メダル。なるほど「シルバーコレクターに」に相応しい(?)戦績である。これに一念発起した渡部は2017/18のオリンピック・シーズンで見事な変身を果たす。オリンピック直前の故郷白馬大会まで4連勝、ワールドカップ総合ランキング1位を引っ提げ、金メダル最有力候補として平昌に乗り込んだ。この時の言葉。

「もう、銀メダルは要らない」
「金メダルを獲るなら、獲って当たり前と思われる状況を作って、獲る。」

 なるほど、彼の戦歴を見みれば「銀メダルは要らない」の台詞は痛いほど解かる。1998長野五輪の金メダリスト清水宏保は、「金は歓喜、銀は口惜、銅は安堵」なる名言を吐いた。渡部はもう銀の口惜しさを味わいたくないのだ。だが私は、後者の言葉「獲って当たり前の状況で獲る」には引っかかった。獲ったこともないのに獲り方まで考える。ちょっと不遜過ぎはしないかと思った。危うい考えだと思った。ノルディック複合の前半はジャンプ。これほど自然に左右される競技はない。ポイント補正があるとはいえ風の状況で結果は大きく変わる。それは自力ではどうすることもできないものなのに。「金メダルへの執着心」と「獲り方にまでの言及」。この発言が渡部を縛った。

 2月14日、ノルディック複合ノーマルヒル。前半のジャンプの結果、渡部は三番目、ライバル エリック・フレンツェルは五番目スタート。その差僅かに8秒。後半のクロスカントリーは、まるでソチのリプレイを見るかのような、二人の一騎打ちとなった。勝負どころの4周目の登り坂で、猛然とスパートしたフレンツェルと懸命に追いすがる渡部とは、力感においてその差は歴然だった。フレンツェル金、渡部銀。ソチと同じ結果となった。

 2月20日、ラージヒルに雪辱を期す。ジャンプは首位。後半のクロスカントリーはトップ・スタート。24〜34秒後にドイツ人選手3人が集団で控える。解説の1992アルベールビル、1994リレハンメル団体金メダリスト荻原健司は理想的スタートと言い切った。渡部はノーマルヒルの反省からハイペースで積極的に逃げ込みを図る。だがスキーが走らない。ワックスのミスか? ドイツ3人衆が一塊でヒタヒタと押し寄せてくる。なんという無気味さ、と思う間もなく3周目で飲み込まれ、あえなく5着。ドイツ勢がメダルを独占した。
 敗因に、ワックスの選択ミスもあっただろうが、最大のものは、ライバルのドイツ人選手3人が背後に固まったことだろう。日本が金メダルを獲った女子パシュートやマススタートを見るまでもなく、集団が交代で風避けを務めれば個々のスタミナ温存が図れるからだ。

「頂上は見えているが上り方が分からない。またいろいろ考えなくてはいけない」

 ノーマルヒルの誤算は、不振と侮ったフレンツェルが本番にしっかりと合わせてきたこと。その読み違い。ラージヒル最大の敗因は、前述のように、ライバルのドイツ勢3人の集団協力体制が偶然整ってしまったこと。まさに人知を超えた状況形成だった。

 オリンピックで金メダルを獲るのは至難の業だ。これまで、勝って当然といわれたアスリートのいったい何人が獲れずに散っていったことだろう。自分が完璧なパフォーマンスをしても、ライバルが上回れば負ける。想定外の状況がベスト・パフォーマンスを許さないことも度々ある。それが勝負というものだ。

 競技の翌日、全日本スキー連盟は「渡部の肋骨が、オリンピック前に、骨折していた」ことを明らかにした。ならば、クロスカントリーの滑走が力強さに欠けたのも頷ける。怪我を押しての頑張りもそれまでの労苦も称賛に値することは確かだ。

 でも、私は敢えて言いたい。渡部の敗因は心構えにあったと。金メダルが欲しいのはアスリートなら当然だ。だがそれは相対的なものだ。いくら頑張っても人知の及ばないことがある。同じ長野県人にして、奇しくも同じ誕生日の小平奈緒と渡部暁斗を分けたもの。それは、試練の末に「いてもいなくても一緒。ただひたすら究極のパフォーマンスをするだけ」という境地に達したか否かの差ではなかっただろうか。
 2018.02.15 (木)  贋作昨今〜曜変天目からモーツァルト「アデライード協奏曲」を考察する
 昨年12月20日に放映されたTV東京「なんでも鑑定団」。番組の名物鑑定士・中島誠之助氏の鑑定が話題となっている。
 徳島のラーメン店の店主が持ち込んだ茶碗に対して、例の歯切れのよい口調でこう断定。「なんでも鑑定団 始まって以来最大の発見。12−3世紀中国南宋時代に福建省建陽で焼かれた曜変天目に間違いございません。日本にある曜変はたったの3点。すべて国宝です。今日は、これで4点目が確認されたということです」・・・・・結果、付けも付けたり鑑定額2500万円!
 ところがこれに異を唱える人物が現れた。中国福建省の陶芸家・李欣紅さんである。「この茶碗は私が作った土産品さ。市場じゃ1400円くらいで売てる。建陽の人ならみな知てるよ。だから曜変天目であるはずないよ」。

 はてさて、どちらが正しいか? 2500万円VS1400円。鑑定士VS現地のおばさん陶芸家。これは面白い図式と様子を見ているが、未だ結論は出ていないようだ。陶芸の専門家から「科学的な分析を」と促されるもTV東京側はダンマリの一手。自信があればやるはずだから、どうやらおばさんが正しいか? 中島誠之助 世紀の大誤審!?

 クラシック音楽の世界にも贋作話は様々ある。そんな中から、本日は、モーツァルト世紀の贋作事件「アデライード協奏曲」をとり上げてみたい。

 モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は第1番K207から第5番K219までの5つが真作。第6番、第7番は偽作とされている。
 第6番 変ロ長調 は当初K268という番号だったが、ケッヘル第6版ではAnh.C14.04という番号に変更される。Anhはドイツ語のanhangの略で補遺という意味。Cは「偽作、または疑義ある作品」の印。第7番ニ長調はK271iという番号のままであるが、限りなく疑わしい作品に選別されている。そのため両者とも「新モーツァルト全集」には入っていない。

 ここでざっとケッヘル番号について記しておきたい。モーツァルトは35歳の生涯の中で膨大な数の作品を残した。彼は1784年の2月から自筆の「作品目録」を書いていて、これ以降の作品は“比較的”作曲年代が特定できるが、それ以前の作品は、まとまった記録がないため整理は困難を極める。その上、出版社が楽譜を売る目的でモーツァルトの作品と偽るケースも少なからず存在した。こんな云わば魑魅魍魎のモーツァルト作品群に、完成順に番号(追番)を与えたのがルートヴィヒ・フォン・ケッヘル(1800−1877)である。ケッヘルは600曲余りのモーツァルト作品を、「自筆目録」を軸に、楽譜上の記述、手紙、その他諸々の資料を読み解いて、なんとか作品ごとに追番を付け終えた。K1―K626。1862年。「モーツァルト作品目録」の誕生である。
 とはいえ、これで完璧であろうはずがなく、その後改定は8版を数える。特にアルフレート・アインシュタインによる第3版(1937年)、フランツ・ギーグリングらによる第6版(1964年)の改定は大幅なものとなった。
 ケッヘル番号の基本は完成順に並べることであるから、年代変更があった作品は番号を変える必要が生じる。このため改定作品はケッヘルのオリジナル番号と改定番号を併記する。
 例えば、優雅なメヌエットでお馴染みの「ディヴェルティメント 第17番 ニ長調」のオリジナル番号はK334。改定番号はK320bである。これは検証の結果、「ディヴェルティメント第17番ニ長調」は、確定している作品「セレナード第9番ニ長調『ポストホルン』」K320のすぐあと2番目に完成(1番目は2つの行進曲320a)が判明、ということで与えられた番号である(因みにK320bの直後に完成が判明すれば、その作品は320b Aと表記される)。
 書物などではK320b(334)などと表記する場合もあるが、CD等はオリジナル番号のK334のみの表記が一般的だ。完成年代順という目録のコンセプトは分かるが、オリジナル番号の浸透度の高さが尊重されているのだろう。
 Anhが補遺。C番号付きは「偽作、または疑義ある作品」というのは前述のとおりである。

 さて、「アデライード協奏曲」である。1933年、新たにモーツァルトのヴァイオリン協奏曲というピアノ・スコアが出版された。校訂者は、フランスのヴァイオリニストで作曲家のマリウス・カサドシュ(1892−1981)。甥は名ピアニスト ロベール・カサドシュ。曰く「10歳のモーツァルトの自筆譜から校訂した。譜面上には『アデライード王女に献呈』という書き込みがある」という触れ込みだった。モーツァルト10歳の自筆譜、そのピアノ校訂版、アデライード王女に献呈なる書き込み。いかにも胡散臭い話ではないか。
 アデライード王女とはフランス国王ルイ15世と王妃マリー・レグザンスカの間に生まれた四女マリー・アデライード・ド・フランス(1732−1800)のことで、フランス革命で断頭台の露と消えたルイ16世の叔母にあたる。父の愛妾ポンパドール夫人との確執、王女マリー・アントワネットとの関係性、フランス革命による運命の暗転等、その波乱の人生はなかなかキャッチーなものがある。

   カサドシュがこの話を持ち込んだ相手の一人にドイツの高名な音楽学者フリードリヒ・ブルーメ(1893−1975)がいた。ブルーメはナチスの御用学者でJ.S.バッハの研究者としても著名。名著「バッハ伝承の謎を追う」にはそんなバッハ研究者としての見解が見て取れる。それは「バッハはその晩年において教会音楽への心からの関係を持たなかった」というもの。バッハを神聖化するドイツ音楽史において、この見解はある意味画期的だった。ところが、後の発見、例えば所持したカーロフ聖書の欄外の記述やカンタータ上演の頻度などから、晩年のバッハが教会音楽に背を向けたとするブルーメの見解は説得力を欠くことになった。このあたりに、彼の進取の気性と検証の甘さという表裏両面が垣間見える。

 ブルーメは、カサドシュが持ち込んだ「アデライード協奏曲」に飛びついた。カサドシュが根拠としたというモーツァルトの“自筆譜”も検証せずに、これを真作と認めてしまった。そして、「アデライード協奏曲」は目出度く(?)「モーツァルト作品目録」第3版でK.Anh.294aなる番号が与えられ、補遺作品に認定された。
 翌年1934年、名ヴァイオリニスト ユーディ・メニューインがこの曲をレコーディングする。この録音はCD化されていて、曲目表記は「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 K.Anh.294a『アデライード』」となっている。試聴してみたが、10歳の自筆譜からの作品(との触れ込み)とはいえ、およそモーツァルトらしからぬ内容である。メロディーラインのなんという陳腐さ!「森の水車」か? よくもまあ、こんな曲を認定したものだ、が正直な感想だ。

 「アデライード協奏曲」の末路はどうであったか。学者の疑義が相次ぎ、カサドシュは、1977年、ついに自分がでっち上げた贋作であることを認めた。発表から44年目のことだった。そして、K.Anh294a という補遺番号はK.Anh.C14.5という「偽作、または疑義ある作品」に選別された。カサドシュにしてみれば、44年間も騙し通し、レコーディングまで実現、「偽作」の括りとはいえ「モーツァルト作品目録」にタイトルが残ったのだから、以て瞑すべしかもしれない。
 贋作騒動はなぜ後を絶たないのか? 数年前の佐村河内守事件のように、一つはお金もあるだろう。あとは、あらぬ名誉欲? 人を騙す快感? 人は外観で簡単に騙される。

外観というものは一番ひどい偽りであるかもしれない
世間というものはいつも虚飾にあざむかれる
               〜ウィリアム・シェイクスピア「ベニスの商人」より
 なお、「アデライード」ネタは、数年前福島輝男氏から、音源は桧山教授から提供いただいた。切に感謝申し上げる次第です。
<参考資料>

小宮正安著:モーツァルトを作った男(講談社現代新書)
小林義武著:バッハ伝承の謎を追う(春秋社)
モーツァルト作曲:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 K.Anh294a「アデライード」CD
 2018.01.15 (月)  2018年始雑感〜アルゲリッチ、ABC予想など
(1)アルゲリッチさん初共演なぜ

 昨年12月25日付けの朝日新聞に「アルゲリッチさん初共演なぜ」という見出しがあった。記事は、当代屈指の名ピアニスト マルタ・アルゲリッチ(1941−)が、長年拒否し続けてきたウィーン・フィルハーモニーと遂に共演したというものである。演目はリスト:ピアノ協奏曲第1番。指揮はダニエル・バレンボイム。理由は、女性演奏家を拒否してきたウィーン・フィルがやっと門戸を開放したからとのこと。そんな目で年明けのウィーン・フィル ニューイヤーコンサートを見たら、確かに数人の女性団員が確認できた。
 ではいつごろからかと思い、手持ちの映像を調べてみた。2010年には女性がいる。余談だが、この年の指揮者はジョルジュ・プレートル(1924−2017)で、わたしの中では最高のニューイヤーコンサートの一つ。特に冒頭の喜歌劇「こうもり」序曲のニュアンス豊かな表現には舌を巻いたものだ。
 これ以前の手持ち映像は1992年、カルロス・クライバー(1930−2004)まで遡るが、ここには女性団員の姿はない。このクライバーも凄いの一語で、オケとの一致一体これに勝るものなしの名演である。私にとってのウィーン・フィル ニューイヤーコンサートのベスト・パフォーマンスは、これら、1992年クライバーと2010年プレートルということになる。それはさておき、要するに、ウィーン・フィルに女性団員が初めて登場したのは1992年から2009年の間ということが判明した。あとはネット検索である。その結果、楽友協会(ウィーン・フィルの統括組織)が女性の入団を許可したのは1997年、ということが確認できた。

 ここで朝日新聞の記事に戻ろう。書いたのはヨーロッパ支局長の石合力氏。
彼女とウィーン・フィルを隔てていたものは何だったのか。楽屋を訪ね、本人に直接、聞いてみた。「これまで演奏しなかったのは、女性がひとりもいないオケだったからです」権威におもねらず、やりたくないことを拒んできた彼女なりのこだわりだった。
1842年に設立されたウィーン・フィルは常任の指揮者を置かない任意団体で、国立歌劇場から選ばれるメンバーは長年、男性だけだった。女性の入団を認めたのは1990年代後半から。現在は148人の奏者のうち1割が女性だ。
 なーんだ。1990年代後半と書いてあるではないか。ちゃんと読みなはれ。でもまあ、見落として調べたお陰で名パフォーマンスに再会、再認識できたのだからよしとしよう。

 この記事にケチをつける積りはサラサラないが、やはり「クラ未知」精神から見ると物足りない。女性団員がひとりもいないことがネックだったのなら、1997年から数年の時点で出演していたっておかしくはない。20年はいかにも長すぎる。だからアルゲリッチの「女性がひとりもいないオケだったから」というのは理由説明として十分ではない。有能な記者なら本当の理由を引き出そうと切り込んだだろう。しかも、見出しを「初共演なぜ」と大上段に振りかぶったのだから、この内容ではいかにも中途半端だ。楽屋を訪ね、本人に直接聞いたのに、もったいない話である。ならば、その理由を私なりに探ってみよう。

 私はかねがねアルゲリッチに対し不満を持っている。無論演奏上のことであろうはずはなく、現役では最も好きなピアニストの一人だ。ならば、それは何かといえば、レパートリーの偏りである。人気曲をやりたがらない傾向が目立つのだ。
 煩雑になるから、コンチェルトのCDに絞ると、やっているのは、モーツァルトでは、第18番、第19番、第20番、第21番、第25番。ベートーヴェンでは第1番&第2番。チャイコフスキーの第1番、ショパンの第1番&第2番、リストの第1番、ラフマニノフの第3番、プロコフィエフの第3番やラヴェルなど。ないのは、モーツァルトの第23番と第27番、ベートーヴェンの第4番、第5番「皇帝」、グリーグやブラームス第1番&第2番、ラフマニノフの第2番など、プロのピアニストならこぞって弾きたがる人気曲が結構抜けている。ショパン・コンクールで彼女の一つ前の優勝者マウリツィオ・ポリーニ(1942−)と比べてもその差は歴然だ。

 でもまあ、これはさほど珍しいことではないのかもしれない。ユニーク過ぎる名手ベネディッティ=ミケランジェリはさておき、20世紀きっての巨匠ウラディミール・ホロヴィッツにしても、ラフマニノフの第2番やグリーグは弾いていない。レパートリーは、大家の場合、演奏者の好みそのものだから、理由は「弾きたくないから」で済みの話だろう。ウィーン・フィル初出演でも、既存のレパートリーを弾けばいいだけだ。20年のタイム・ラグの説明にはならない。

 では別角度から。「アルゲリッチは暗譜が苦手」という噂がある。だから暗譜が必要な協奏曲の大曲のレパートリーが増えない。昨今、室内楽にシフトしているのはそのためだとも。とはいえ、昨年5月12日、水戸芸術劇場で聴いた、小澤征爾指揮:水戸室内管弦楽団とのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番は暗譜だった。ウィーン・フィルとの初共演曲のリスト:ピアノ協奏曲第1番も昔から馴染みの楽曲。無論暗譜で弾いただろう。これも又タイム・ラグの説明にはならない。

 人気曲のレパートリーの少なさも、暗譜の不得手も、タイム・ラグの積極的な理由と結びつかなかった。残念だがペンディングにするしかない。「私なりに探ってみよう」などと大見栄を切ったにしては情けない話である。このモヤモヤ感は、彼女に精進を促すことで晴らそうか!?「アルゲリッチさん、やっとウィーン・フィルと共演してくれたのだから、今後少しずつでいいからレパートリーを増やしていってくださいな。水戸芸術劇場のアンコールで弾いたシューマン「献呈」が天国的美しさだっただけに、せめてモーツァルト第23番K488の第2楽章「シチリアーノ」だけでも聴かせていただきたく存じます」。オシマイ。

(2)数学の超難問 ABC予想「証明」〜京大望月教授論文掲載へ

 これは朝日新聞昨年12月17日の見出しである。私は数学が大の苦手で、高校〜大学を通して極端に成績が悪かった。ところが近年急に数学が好きになった。これは何も難しい問題が解けるようになったわけではない。興味が湧いてきたのだ。面白いと感じるようになったのだ。キッカケは「博士の愛した数式」。小川洋子の小説も寺尾聡主演の映画も。「江夏の背番号24は4の階乗」「220と284は友愛数」「オイラーの等式eiπ + 1 = 0 なんと美しいこの形」などの台詞が実に新鮮に響いたのである。

 それからというもの、数学関連の報道や映画やTV特集番組など解からぬまま興味本位で漁ってきた。映画「グッド・ウィル・ハンティング」(1997米)の中に「難解な定理は交響曲のようにエロティックだ」なんて台詞を発見すると、俄然うれしくなってしまう。ちょっとキザだけど悪くない。エロティックというならマーラーあたりか。もし形容詞がノーブルならモーツァルトでファンタスティックならベルリオーズかな、などと勝手に想像して楽しんでいる。

 「ポアンカレ予想」は1904年にフランスの数学者アンリ・ポアンカレ(1854−1912)が唱えた「単連結の3次元閉多様体は3次元球面と同相だ」というもの。「単連結の3次元閉多様体」という宇宙を紐で括って引っ張れば球面と同じようにどこにも引っかからずに手元に戻ってくる。これが証明されれば宇宙の形が解明される。そんな、とてつもなく壮大な予想である。これを、2006年、ロシアの数学者グレゴリー・ペレルマン(1966−)が証明した。彼は、証明後、賞金もフィールズ賞も拒否したまま姿を消してしまった。

 ポアンカレ予想は証明に100年を要したが、300年を費やしたのは「フェルマーの最終定理」である。これは、フランスの数学者ピエール・ド・フェルマー(1607−1665)が唱えた「3以上の自然数n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない」という定理。イギリスの数学者アンドリュー・ワイルズ(1953−)が、谷山・志村理論を手掛かりに証明に成功。10歳の時に抱いた夢を実現した。1995年のことだった。

 そんな中で、飛びぬけて興味をそそられたのは「リーマン予想」である。きっかけは2011年に放映されたNHK-BS「素数の魔力に囚われた人たち〜リーマン予想を解くのは?」だった。
 「リーマン予想」は、ドイツの数学者ベルンハルト・リーマン(1826−1866)が1859年に唱えた“素数の並び”に関する予想で「ゼータ関数の非自明の0点はすべて一直線上にあるはずだ」というモノ。
 素数とは1と自身の数以外に約数を持たず 2、3、5、7、11、13、17、19、23・・・・・と延々と続く正の整数。ある時は一つ置いて出現したかと思えば次はなかなか出てこない、など、神出鬼没、全く脈絡がない。「ゼータ関数」は素数情報で成り立つ関数だから、これが作るグラフがある一定の法則性を示すなら、一見何の脈絡もない素数の並びに法則性が見出せることになる。これが「リーマン予想」の解である。

 リーマン予想の証明に、数学者の挌闘は脈々と続いてきたが、150年間証明されないまま今日に至っている。例えば、映画「イミテーション・ゲーム」(2014年米)で描かれたイギリスの数学者アラン・チューリング(1912−1954)は、ナチスの暗号機エニグマの解読には成功したものの、リーマン予想には失敗、自殺した。その他、ジョン・ナッシュ、ゴッドフレイ・ハーディーとジョン・リトルウッドなど、天才と呼ばれた数多の数学者たちがこれに立ち向かい、精神異常をきたすなど、ことごとく敗れ去ってきた。史上最大の難問といわれる由縁である。

 “リーマン予想に立ち向かうのは自殺行為”といわれた20世紀を経て、近年、他の分野との関連から新たな動きが生じてきた。ヒュー・モンゴメリー博士とフリーマン・ダイソン博士の出会による量子物理学との連動。アラン・コンヌ博士による非可換幾何学からのアプローチ。などなど、これらの流れから「非可換幾何学を使って素数の暗号が解けるとき森羅万象を説明する“万物の理論Theory of Everything”も完成する」との結論が導かれてもいる。「リーマン予想」の証明が万物の謎を解明する〜なんてファンタスティックな話だろう! 果たしてこんな日がやって来るのか? もし生きている間に出会えたら、それは最高にエキサイティングな瞬間になるだろう。

 話を元に戻そう。昨年12月朝日新聞の記事は
長年にわたって世界中の研究者を悩ませてきた数学の超難問「ABC予想」を証明したとする論文が、国際的な数学の専門誌に掲載される見通しになった。執筆者は京都大学数理解析研究所の望月新一教授(48歳)。今世紀の数学史上、最大の業績とされ、論文が掲載されることで、その内容の正しさが正式に認められることになる。
 これはザクっといえば
1以外に同じ約数を持たない正の整数A、BでA+B=Cの時、ABCの素因数の積の自乗は必ずCよりも大きくなる
 というもので、これは元式が解らなくても、この簡略化された説明は一応理解できる。そうなるともう嬉しくなって解ったような気になる。また、望月教授という日本人が解いたというのも身近に感じる。ただし、彼は48歳。数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞は“資格は40歳以下”という年齢制限があって、受賞できないそうだ。

 などなど、「博士の愛した数式」をきっかけに、数学をテーマにした様々な物語に出会えた。深く理解はできなくとも、数式の美しさ、格闘する人間の執念などにロマンを感じることはできる。これが楽しい。映画「博士の愛した数式」のラスト・シーンに「てのひらに無限を乗せ ひと時のうちに永遠を感じる」というウィリアム・ブレイクの詩が現れるが、まさにこれこそが人間というものの特質でありロマンなのではあるまいか。AIがいくら発達してもこの感覚は人間にしか得られないものだと思っている。
 2017.12.10 (日)  一橋大学オーケストラ47年ぶりの同期会
 「如水会々報」12月号「同好会だより」に、私が書いた「一橋大学管弦楽団43卒同期会」なるレポートが掲載された。メンバーの冠婚葬祭の際にランダムに会ってはいたものの、「同期会」の形で一堂に会するのは1970年以来となる。成り行き上「お前が書け」と仰せつかったのだが、規定で止むなしとはいえ字数制限がきつく、元原稿からはほど遠い単なるレポートに甘んじざるを得なかった。これではやや欲求不満につき、詳細を書きたくなった。まずはその元原稿から。

一橋大学管弦楽団43卒 同期会

 大阪EXPO70 ブラームス「ドイツ・レクイエム」演奏会での同期会以来47年ぶり、同期生・宮城敬雄君の指揮によるサントリーホール「ブラームスの夕べ」を有志で鑑賞した翌10月3日、「東天紅」高輪店に9名が顔をそろえた。
 「マエストロ、指の表情が絶妙だったよ」「ソロ・ヴァイオリンのパウロ君は凄い才能だ」など、ひとしきり前日のコンサート談義をしたあとは、メンバー持参の当時のアルバムやプログラムを見ながらの回顧と近況に話が行き交う。「写真、さすがにみんな若いワ」「尾原ジイサン(常任指揮者の愛称)に『ブラ1』やりたいと申し出たが、なかなかOKくれなかったよな」「その音、CD化して聴いたが、やっぱりヒドかった」「お前の下宿はまるで雀荘」「学園祭でチケットを買ってくれたのが今の家内」「指が痛くてもう吹いとらん」「妻とコンサート三昧の日々」「『蜜蜂と遠雷』は読むべし」などなど、追懐悦楽のひと時だった。
 これを機に、今回止む無く欠席の野村誠君と松岡滋君を加えた11名で、そして、旅立ってしまった羽賀仁君と鈴木礼史君と山田広君の追悼を胸に、これからは隔年くらいに集まろう、との思いも新たに散会した。(参加者)黒田卓治、田中隆英、辻本泰久、馬場信三、藤田周三、丸山弘昭、宮岡五百里、宮城敬雄、岡村晃(文責)

 以上が元原稿である。これならまあまあ場の雰囲気も掴めようが、本チャンの字数はこの6割程度だったから無味なるものとなってしまったわけだ。では、気分も新たに更なる味付けを試みたい。

(1) 宮城敬雄 指揮者デビュー20周年記念コンサート“ブラームスの夕べ”

 指揮者・宮城敬雄。一橋大オケ時代はオーボエ奏者。得意技は急(Allegro)よりも緩(Adagio)。1966年3年生の定期演奏会のベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」第2楽章「葬送行進曲」は、深みのある美音から哀愁が湧き出る絶品のパフォーマンスだった。当時から高い音楽性が滲み出ていた。
 そんな彼が、1995年、五十路を迎えて一念発起。プロ指揮者への道を歩み始める。そして、早くも2年後の1997年、第1回の演奏会を開く。その後、ロイヤル・フィル、サンクトペテルブルク響、スロバキア・フィル、東京フィルなど一流オケを指揮、ウィーン学友協会大ホールやサントリーホール、ドヴォルザーク・ホールなど世界の檜舞台で演奏、錚々たるキャリアを積んだ。そして、本年10月2日、サントリーホールで、デビュー20周年記念コンサート“ブラームスの夕べ”を開催。オケは東京ニューシティ管弦楽団。これに合わせて、我らがオケの同期会開催の運びとなったわけである。

 颯爽溌溂たる「大学祝典序曲」が終わると、パウロ・クロプフィッチユ君が登場。彼は宮城君が審査委員を務める「ブラームス国際コンクール」ヴァイオリン部門2017年の優勝者。ウィーン出身の弱冠17歳。名曲中の名曲「ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」をこんな若者が大丈夫かいな・・・・・との不安は、ソロが始まって即、杞憂に終わった。どちらかといえば鋭い細めの音ながら、なんというか音楽の構えそのものがとてつもなく大きいのだ。ブラームス特有の情熱を奥底に秘めたロマンティシズムの表出! 大好きなクリスチャン・フェラス(1933−1982)を彷彿とさせた。同伴の福島輝男氏(日本アート・センター社長)も「もはや名手の域!」と新たな才能との出会いに感嘆しきり。帰りのビールが美味かった。
 翌日、宮城君に聞いたところ、二人とも、手ごたえ十分の演奏に夜中の2時まで盛り上がり、次はベートーヴェンかシベリウスか? まで話が広がったとか。実現したら是非聴いてみたい。どちらかなら、フェラスの名演があるシベリウスのほうかな?
 “ブラームスの夕べ”の最後を飾ったのは「交響曲第1番」。プログラムの中で、宮城君は「ブラームスは私の一番好きな作曲家」と言い切っている。勇壮で情熱的。見事な演奏だった。この曲はまた、1967年、我々オケ最後の定期演奏会のメイン演目でもあった。部長の田中隆英君がオファーしたところ、常任指揮者・尾原勝吉ジイサンに「お前らにはまだ早い。無理だ」と、なかなかOKを貰えなかったとか。この一件、今回の同期会で初めて知ったが、はてさて、この日の宮城君の演奏を天国のジイサンはなんと評するだろうか。

(2) 常任指揮者尾原“ジイサン”勝吉さんのこと

 一橋大オケの常任指揮者は尾原勝吉先生(1899−1981)。愛称“ジイサン”。N響の前身新交響楽団の創立メンバーの一人で、パートは第2ヴァイオリン。「宮沢賢治が聴いたクラシック」というCDブックの中に、賢治がチェロを習いに新響を訪れる件があるが、そのメンバー表には確かに尾原勝吉の名前がある。黒柳徹子の父・守綱氏や小澤征爾の師匠・斉藤秀雄の名も見える。ジイサンはなかなか大した音楽人だったのだ。

 「一響」という一橋大学管弦楽団の同人誌があるが、その2017年7月号に、2年先輩の高塩満氏寄稿の「尾原ジイサンの新交響楽団『関西』演奏旅行記」なるルポが掲載された。旅行期間は1938年4月1日−5日。旅行記は新響の機関紙「フィルハーモニー」に掲載され、3日と4日が尾原先生の担当だった。これを一部抜粋する。

 昭和13年4月3日、目の覚めたときには「未だ早いなア」と思ったが、腕時計は最早6時を少し回って居る。此処は名古屋市舞鶴公園附近の或る旅館だ。何しろ午前8時名古屋発の汽車に乗り込まなければ午後2時大阪に於ける練習に間に合わぬと云うのだから、うっかり寝坊もして居られん。今日は今度の旅行中の最強行軍の日で、我々としては殆ど例のない6時と云う早起きをし、8時から12時近くまで約4時間汽車に揺られ、午後2時から約2時間の練習をし、7時から演奏会をやろうと云う。しかも最早旅行3日目で皆大分グロッキーになっている上だから相当なものだ。
 今晩のプログラムは、大体、静岡・名古屋でやった物でベートーヴェンの第8交響曲が加わる丈なので、練習は案外あっさり終わる目算で居たら、何しろ名古屋の演奏成績があまり芳しくなかったので、ローゼンシュトック先生に相当根よく油を絞られた。
 従前の旅行には大体関西に於いては京都に一夜、大阪に二夜となってゐたが、今度初めて京都の演奏を取り止めて、大阪に三晩開催する事にしたので、果たして三晩朝日会館大ホールを、ファンで埋め尽くし得るか、と云ふ少なからぬ疑念が我々当事者の間に持たれてゐた。然るに、いざ幕を開けて見るとどうだ、我々の懸念は、結構、単なる杞憂に過ぎなかった事が解かり、溢れんばかりの大観衆が熱狂的歓呼?を以て我が新響を迎えてくれた時、私は思わず目頭の熱くなるのを覚えた。ロッシィニの序曲「セヴィラの理髪師」に始まり、最後のベートーヴェンの「第8交響曲」に至るまで息詰る緊張裡に素晴らしい出来栄えで演奏を終わった。果ては、アンコールのブラームスのハンガリアンダンス」第5番までも。
 きつい日程の中、上々の首尾で終わった大阪第1夜演奏会。オケマンの喜びが伝わってくる。今も昔も変わらないなあと思う。だがしかし、時は戦時真っ只中。演奏旅行の初日4月1日には、かの国家総動員法が公布されている。そんな時代のルポは実に貴重な記録である。演奏曲目を見
ると、大阪第3夜に「ブラ1」がある。これも何かの因縁か。

 オケ時代、練習で音を外すたびにジイサンから睨まれたものだ。無言の睨み。コワッ! でもそんな緊張感、悪くなかった。人生ダラーっとしてたらつまらない。
 こうしてジイサンの足跡を回顧するにつけ、凄い人の薫陶を受けていたんだなあと、今更ながら思う。かの伝説の名指揮者・ヨーゼフ・ローゼンシュトック(1895−1985)の下で演奏していたなんて! そんなジイサンだからこそ、ピアノの安川加寿子(1922−1996)、ヴァイオリンの辻久子(1926−)など、本来学生オケでは考えられないような重鎮が共演してくれたのだ。尾原ジイサン 素敵な思い出をありがとう!

(3) Orchestra's 11

 10月3日、「東天紅」高輪店。47年振りのオケ同期会である。野村誠(ティンパニー)と松岡滋(トランペット)が仕事等の都合で欠席。集まったのは9名。メンバーが持ち寄ったアルバムとプログラムなどを見ながらの昔話から現況まで、話は尽きなかった。

 部長の田中隆英(ビオラ)は現在故郷の宇部に住む。2013年に、家の蔵からオケ時代のオープンリール・テープが見つかりCD化。これをネタに私が「如水会々報」(2014年1月号)と「クラ未知」(2013年9月15日)に経緯と思い出話を書いた。この一連の流れを今度は田中が「一響」(2014年4月号)に書いている。前日のコンサートではP席に陣取り、宮城の指揮ぶりを真正面から入念に見ていた。「指の表情が絶妙だったよ」は彼の発言。尾原ジイサンと演目を協議するのも彼と副部長の仕事だった。
 副部長は馬場信三(ホルン)。1年生のとき、定期演奏会のチケットを売りに国立音大の学園祭に出かけた。なかなか売れない中、唯一買ってくれた音大生がいた。これが彼の奥様である。生真面目な馬場ならではのエピソードだ。現在闘病リハビリ中も頑張って出てきてくれた。帰路が同じで、なんとなく名残惜しかったものだから、東京駅で飲みなおして昔話の続きをした。
 宮城敬雄の指揮活動をもう一つ。伊藤忠太設計の一橋大学兼松講堂において、国立シンフォニカ―を率いての定期演奏会を毎年開催している。2010年以来13回を数え、大学と地域住民の皆様との交流に一役買っている。
 辻本泰久(フルート)はオケ随一の名手。名フルーティスト林リリ子(1926−1974)の弟子。2年生とき、津田塾大学アンサンブル・フィオリータとの合同演奏会で、彼のソロでJ.S.バッハの「管弦楽組曲 第2番」を演奏したことがある。それはもうプロ級のパフォーマンスだった。私の結婚式(1975年)では、その中から「ポロネーズ」と日本歌曲「宵待ち草」を披露してくれた。この日、そのことを話したら、曲目は忘れていた。彼ほどの名手は演奏の場が多々あっただろうから、これはまあ止むをえまい。黒田卓治(トロンボーン)は学者肌。物事を深く静かに思索するタイプだ。国分寺恋ヶ窪の私と同じ下宿の住人だった。そこはいつしかオケの連中のたまり場となって、多々なる麻雀と少々の試験勉強に精を出したものだ。そこによく来た丸山弘昭(チェロ)は、私の祖母が作ったおにぎりが忘れられない、勉強ならともかく、麻雀なのに差し入れとはありがたい限りだったと語る。彼の結婚式で、松岡と私で♪「我が良き友よ」を歌ったのも懐かしい思い出だ。藤田周三(トランペット)は柔和な紳士。最近、奥様とコンサートによく出かけるという。オケの同期がプロの指揮者になっていることを信じない奥様への証明のため、前日来られなかった彼に、その日のプログラムを渡した。宮岡五百里(フルート)は今回の世話人。本来なら、4年前、田中と話をした私がやらねばいけなかったのだが・・・・・。コンクールの審査員でもある宮城に「『蜜蜂と遠雷』を読むべし」と勧めたのはこの男。私にも、「如水会々報」への掲載に関して様々アドヴァイスをくれた。因みに彼の兄の宮岡千里氏は、ソニーの創始者・井深大氏の秘蔵っ子。かのトリニトロンの実質的発明者だ。チェロを嗜み、学生時代はN響就任前の岩城宏之の指揮の下で活動、社会人になってからは、我らが2年先輩の徳永正剛氏(ホルン)と共に藤沢交響楽団で活躍されたそうだ。そして、私岡村晃(トランペット)は、譜面台に競馬新聞を置く不謹慎なオケマンだった。そんな私にクラシック音楽の面白さを教えてくれたのは同期の連中である。♪君たちがいて僕がいた。二年後にまた会いましょう。
 2017.11.16 (木)  カズオ・イシグロからFMえどがわ20周年、そして、おめでとう奈良さん!
 FMえどがわ「りんりんクラシック」で心がけていること。それは音楽の外側から発想する、ということ。リスナーは、クラシック音楽が好きな人も嫌いな人も、関心ある人もない人も、様々だ。だから音楽側から入ると間口が狭まってしまう。
 直近の10月は、読書&スポーツの秋から発想し、村上春樹&ヤナーチェク「シンフォニエッタ」に結びつけた。「シンフォニエッタ」がスポーツ祭のために書かれた音楽で、村上の小説「1Q84」に重要な小道具として登場するからである。そう決めていた矢先の10月5日夜、ノーベル文学賞はカズオ・イシグロに、との報道が飛び込んできた。「偉大な感情の力をもつ小説で、われわれの世界とのつながりの感覚が、不確かなものでしかないという底知れない淵を明らかにした」が授賞理由。なぜ村上ではなくイシグロだったのか? これについては確固たる持論があるが、またの機会に。

 カズオ・イシグロの作品を調べてみたら、「夜想曲集」というのがあった。タイトルから「りんクラ」と結び付きそうだ。ならばコッチに切り替えるか。ホットな話題がいいに決まっている。今年の2月は直木賞受賞作「蜜蜂と遠雷」をやって好評だったりもしたし。早速「夜想曲集」を求めて書店に走るが在庫は最早カラ。しからばとAmazonに発注するも、届いたときは放送日を過ぎていた。300頁ほどの文庫本に5つの短編だから長さも手ごろ。タイトル通り全篇音楽関連の話。放送には間に合わなかったけれど、面白く読むことができた。

第1篇:老歌手
 舞台はヴェネチア。離婚を決めている年老いた名ジャズ・シンガーが、カフェ回りのポーランド人ギタリストに伴奏を依頼。運河に浮かぶゴンドラから妻がいるホテルの窓に向かい最後のメッセージを歌う。窓辺に現れなかった妻の微かなすすり泣きが聞こえるラストは感動もの。夫婦の状況を示唆する絶妙な語り口。結末に向かう見事なテンポ感。老歌手の人生からさりげなく滲み出る奥義。受け入れるしかない運命の儚さ。様々な感情の襞が、深く静かに華やかに、ヴェネチアの運河の流れに溶け込んでゆく。5篇中の最高作だ。
♪「恋はフェニックス」「惚れっぽい私」「ワン・フォー・マイ・ベイビー」etc

第2篇:降っても晴れても
 学生時代共通の友人だった男女が結婚。その夫から現在の夫婦生活の危機を救ってくれと依頼された男と彼の妻との間に起こる奇妙なお話。舞台はロンドン。「ラバーマン」はビリー・ホリデイとサラ・ヴォーンのどちらがいい?などの問いかけや、ラストで踊るサラ・ヴォーン&クリフォード・ブラウンの「パリの四月」を8分間続く、とする勘違い(実際は6分19秒)など、興味深し。
♪「ラバーマン」「パリの四月」「ビギン・ザ・ビギン」etc

第3篇:モールバンヒルズ
 イギリス人ソングライターが、夏の間歌作りのため訪れている姉夫婦のカフェで、仕事にも夫婦生活にも行き詰っているスイス人の中年ミュージシャン夫婦と出会う。モールバンの美しい自然に囲まれて、互いの音楽が、人生が、響き合う。設定された舞台がエルガーの生誕地に近く、なかなかに楽しめた。
♪「ダンシング・クイーン」、エルガー、ヴォーン・ウイリアムズ、ヤナーチェクetc

第4篇:夜想曲
 面相の悪さから整形手術を敢行、術後のリハビリでホテルに滞在することになった腕達者のジャズ・サックス吹きと同じ境遇で隣部屋の住人となっているセレブ有名人(第1篇「老歌手」の妻と同一人物)という、顔が包帯ぐるぐる巻きの二人が、ハリウッドの高級ホテルを舞台に繰り広げるちょっと無気味なコメディー。部屋にBang
&Olufsen(デンマークのお洒落なコンポ)が設置されているとはなんとセレブなホテル!
♪「ニアネス・オブ・ユー」、ビル・エヴァンス、チェット・ベイカー、ウェイン・ショーターetc

第5篇:チェリスト
 舞台は、アドリア海に面したあるイタリアの都市。7年前、ハンガリー人ドサ周りチェロ青年と一回りほど年上のチェロを弾けないが才能を見抜く目と教えることに長けた女性との交流が始まる。彼女の特訓で青年は見る見る上達、明日のスターと期待されるも、女性は意に沿わない男と結婚することに。青年は今もまだ、ドサ周りに甘んじている。
♪ブリテン:チェロ・ソナタ、ラフマニノフ:チェロ・ソナタ

 共通する状況設定は夫婦の危機なのだが、読後感が、なんとなくホンワカとしている。なぜかと思ったら、物語の締め方だった。〜ぼくに何がわかる? はたして彼女は正しいのだろうか? 何もわからない・・・・・など、おしなべてフワっとしたエンディングなのである。「自分が小説を書く上で大切にしていること。それは心情を伝えること。私はこう感じる、君たちはどう感じるだろうか。人間は経済活動だけでは不十分、人間としての感情を分かち合うことが重要だ」。先日見たTV「カズオ・イシグロの白熱教室」での発言だ。彼は投げかけるだけ。決して押し付けない。どう感じるかは読む人の自由。共感してくれればうれしい。でもしてくれなくても構わない。感情を分かち合えることが重要なのだから。ホンワカしているのはそれが理由だろう。

 12月10日はノーベル賞の授賞式。カズオ・イシグロの受賞の弁が楽しみである。

 11月の「りんクラ」で「夜想曲集」を取り上げようかと一度は考えた。クラシック曲もそこそこ出てくるし、副題が「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」で、「夕暮れ」は「枕草子」の「秋は夕暮れ」にも繋がる。でもちょっと弱い。そんな折、ディレクターのNoririnから「FMえどがわ」特大号なる番組冊子を渡される。読むと「11月30日は開局20周年」との文言が飛び込んできた。これだ! 開局20周年に引っ掛けて「20」をキイワードに選曲しよう。

 まずは“第20番”と名の付く曲の代表として、モーツァルト作曲:ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K466 を選曲する。特徴はニ短調という調性。両端楽章は陰鬱ながら黒水晶のような美しさがある。これらに挟まれる第2楽章は変ロ長調。対照的に明るく安らぎに満ちた曲想だ。20周年に相応しい第2楽章をお届けする。
 演奏はマルタ・アルゲリッチのピアノとクラウディオ・アバト指揮:モーツァルト管弦楽団。アルゲリッチは、今年の5月、水戸芸術館で小澤征爾:水戸室内管弦楽団でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を聴いた。これも素晴らしい演奏だったが、アンコールに弾いたシューマンの「献呈」が圧巻だった。音楽が天空を駆けまわっていた。

 2曲目は、大作曲家20歳のときの作品をお届けする。20歳までにちゃんとした作品を書いている人は、神童/天才と呼ばれた人たちに限られる。天才モーツァルトは、オペラや交響曲、ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲など、既にたくさんの名曲を書いている。彼に負けず劣らず凄いのはシューベルト。「歌曲王」と呼ばれ生涯に600曲以上の歌曲を作ったシューベルトだが、20歳までになんと半数の300曲以上を作っている。

 今日は、シューベルト20歳、1817年の作品、歌曲「ます」をお聴きいただく。20歳のときに作った歌曲は、この他に「死と乙女」「音楽に寄せて」などがあり、有名な「魔王」や「野ばら」はそれ以前10代の作品。彼の早熟ぶりがうかがえる。
 詩は、クリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルト(1739−1791)。文豪ゲーテやベートーヴェンの「第九」の作詩者・シラーの、先輩格にあたるドイツの詩人だ。

 では、シューベルト作曲:歌曲「ます」をエリー・アメリンクのソプラノ、ルドルフ・ヤンセンのピアノでお贈りする。エリー・アメリンク(1933−)は20世紀を代表するオランダの名ソプラノ。透明な歌声と躍動感あふれる歌唱で、清流を泳ぐ「ます」の活き活きした姿を見事に表現している。

 最後の一曲はハプニング選曲を。 実は11月25日は「りんクラ」パーソナリティー奈良禎子さんの誕生日なのだ。ここは渾身の曲プレゼントで締めようではないか。選んだのはワーグナー作曲:ジークフリート牧歌である。これぞ、クラシックの歴史において、究極・最高のバースデー・プレゼントだと思うのである。

 ワーグナーは作曲家リストの娘・コジマと結婚。56歳のとき待望の男の子が誕生。そのとき作曲中の楽劇「ジークフリート」にあやかって、ジークフリートと命名した。楽劇の中で「ジークフリートは世界の宝」という台詞があるが、授かった男の子はまさに“ワーグナーの宝”だった。そんな、宝物を授けてくれた奥さんへの感謝の気持ちを込めて作ったのが「ジークフリート牧歌」である。
 1870年12月25日、コジマの誕生日の朝、コジマがまだ2階の寝室で寝ている時間に、階段に15人の楽師を配置。静かに始まった音楽は徐々に音量を増してゆく。コジマ、夢うつつの中、音楽を聞く。寝ぼけ眼でドアを開けると、階下に通じる階段で夫ワーグナーが指揮する小オーケストラが自分の誕生祝いの曲を奏でている。この時のコジマの感激やいかに!流石音楽史上の巨人のプレゼント、超ど級のスケールではないか。

 曲は、作曲中の楽劇「ジークフリート」などから、幾つかの動機を使って構成されている。
 「愛の平和」の動機とか「世界の宝」の動機など、ワーグナーが選んだ動機は、優しく愛情に満ちたものばかり。彼のジークフリートへの愛情とコジマへの感謝の念がよく表れている。ということで、本日最後はワーグナー「ジークフリート牧歌」を、奈良さんへのお誕生日プレゼントとしてお届けする。演奏は、ブルーノ・ワルター指揮:コロンビア交響楽団。

 ブルーノ・ワルター(1876−1962)は19世紀から20世紀にかけて活躍。トスカニーニ、フルトヴェングラーと共に3大指揮者と呼ばれた巨匠。「ジークフリート牧歌」の慈愛に満ちたスケールの大きな表現は、同曲中随一の名演奏である。

 奈良さん,お誕生日おめでとう。そして、FMえどがわ20周年おめでとう。ひとまず、次なる10年に向けて頑張ってゆきましょう。
 2017.10.25 (水)  小池百合子の失敗〜希望から絶望へ
 10月23日の朝刊に踊る 総選挙 自民圧勝、希望惨敗の文字。前回「クラ未知」では、「橋下を擁立すれば小池・希望は勝てる」と提言したが、表現を変えれば、「橋下擁立がなければ小池・希望は負ける」ということだから、これは当然の結果だった。総選挙を総括する。

 総理大臣・安倍晋三。森友・加計問題に見る権力の私的濫用。文書隠しという不都合の隠蔽。一片の誇りもない米ロへの追従。誠意の欠片もない国会運営。聞くも恥ずかしい見え見えの嘘。弱者への傲慢な態度。なりふり構わぬ延命工作。こんな諸悪の見本市みたいな男に日本の政治を任せておくわけにはいかない。そんな折、臨時国会冒頭に伝家の宝刀を抜いた。解散総選挙である。狙いは「勝ってすべてをリセットする」、目論見は「今なら勝てる」。まさに自己都合だけの職権行使。こんな卑劣な政治行為を絶対に許すわけにはいかない。だが選挙は相対的選択行為。受け皿がなければ巨悪に勝てない。そこに現れたのが小池・希望の党だった。

 小池百合子は、昨年、裸一貫捨て身で臨んだ都知事選を制し、今年、都議選にも大勝利。安倍政権を倒す力は備えつつあった。解散総選挙を想定し、2月には「希望の党」の商標登録を済ませてもいた。とはいえこの時期、虚を突かれたのは事実。準備不足は否めない。だが、安倍政権への批判がここまで高まる好機はもう来ない。打って出るのは今しかない!

 9月下旬、「希望の党」は結党した。対立軸は安倍政権。スローガンは「寛容な改革保守」と「しがらみのない政治」。敢えて使った「保守」というワードに小池らしさを見たものの、解りにくさは否めなかった。「しがらみのない政治」も迫力に欠けた。安倍政権を対立軸に戦うのなら「邪悪政治の撲滅」とか、きつければ、「清廉で誇りある政治」とかが妥当だったのではなかろうか。急仕上げの隙が垣間見える。

 小池百合子は、この選挙を「政権選択選挙」と位置づけ、一気に政権奪取を目論んだ。まさに大勝負!天下分け目の戦いである。「政権選択」ならば、過半数233の議席獲得が必要で、そのためにはそれ以上の擁立が不可欠。さらに、政権奪取した際の首班の顔が見えていなければならない。総理大臣は国会議員に限られる。小池は東京都知事。辞して自ら出馬するか留まってそれなりの人間を立てるか。二者択一しかなかった。

 結党の理念とスローガン、選挙の大義と戦略は構築した。あとは候補者擁立である。民進党党首・前原誠司は、古い名前のままでは戦えないとして、丸ごと「希望の党」への併入を試みた。希望の党の側から見ると、民進党現職衆議院議員の数は魅力的。候補者擁立の大きな核となりうる。喉から手が出るこの状況。しかし、小池は筋を通す。「全員を受け入れる考えはさらさらない」。政治理念を異にする者の排除だった。民進党=旧民主党の失敗は理念の異なる者の寄せ集め政党だったこと。この轍を踏むまいとした小池の決意は正解のはずだった。

 公認のため候補者は10か条の「政策協定書」へのサインを求められた。この手順にも間違いはなかった。政党における理念の一致は一定程度不可欠なのだから。問題は言葉遣いだった。記者からの誘発だったにせよ「排除する」は強烈過ぎた。この言葉が流れを変えた。

 「排除」という言葉が生まれてしまった理由の一つは選別の主軸に「安全保障」を置いたことではなかったか。小池の政治理念から鑑みてどうしても受け入れられない概念。それは「安全保障」における甘えの体質だ。「憲法死守イコール平和」とする短絡的甘えの構造。小池にとって「安全保障」とは戦って勝ち取るもの。この基本を異にする者は受け入れられない。だから「排除」という強い言葉が出てしまったのだ。

 国政において、「安全保障」ほど微妙な問題はない。戦争放棄と戦力不保持を標榜する「憲法第9条」の下、自衛隊という明らかな軍隊を持つ構造的矛盾。専守防衛を標榜しながらも集団的自衛権行使を可能ならしめる安保法制を整備した現実対応に孕む矛盾。日米同盟に守られて経済発展を遂げてきた戦後日本の歴史。唯一の核被爆国でありながら核兵器廃絶を主張し得ないジレンマ。基地の大半を沖縄に置く不公平。理不尽な地位協定。非核三原則の死守云々や核保有の是非論まで。理念も実務も歴史背景も憲法解釈においても、諸々の矛盾を抱えパラドックスに満ちた超難題なのである。国民の考え方も多岐多様。米国の傘をアリモノと見做し現行憲法を守ることだけで平和が達成されると考える平和ボケの人たち。日米同盟への過信から米に盲従する人々。隣国の脅威を必要以上に煽る軍事志向者。経済負担を考えずに自主防衛を唱える無鉄砲な勇者、などなど。国を守るということは愛国心と密接に関わってくる。愛国心は理性よりも感情に左右され勝ちだ。だから割り切れない。是非を決められない。押し付けられない。ことほど左様に、安全保障は一筋縄では済まされない。政治家にとって、これほど厄介な問題はないのだ。

 小池百合子は、「安保法制」を選別の最前列に持ち出した。これがさらなる傷を深めた。「安全保障」に無関心な有権者にも、一昨年、安倍政権が先導した、紋切り型答弁に終始し議論不足のまま力づく採決によって押し切った「安保法制」一連の流れは、少なからず記憶に残っている。国会外で沸き上がった「阻止」コールの映像もリアルに記憶しているはずだ。「安保法制」は、今日に繋がる安倍邪悪政治の発端でもあった。
 だからして、「安保法制」が「踏み絵」となった瞬間、有権者は驚嘆した。「なんだ、安倍政権と同じじゃないか」。小池百合子と安倍晋三の同一視。抱いていた小池百合子像が崩れ落ちる。安倍邪悪政権を糾弾する正義の騎士ではなくなったのである。「排除する」のフレーズがさらに拍車をかけた。側近・若狭勝の発言も悪影響を与える。「政権奪取は次の次」は覚悟と一貫性のなさを、「候補者過半数を擁立できなければ、小池氏は出ない」は、利己と保身を露呈した。偶像は加速度的に転げ落ちていった。小池百合子は、人生のもっとも大事な時期に、禁断のテーマを選択し禁句を発してしまった。油断と傲慢の産物? 小池百合子の致命的なミステイクだった。

 政治には表と裏がある。選別において、裏で安全保障を問うのはいい。表では別のテーマ、もっと単純で当り障りのないもので問うべきだった。例えば、「日本国憲法」死守か否か?程度の。まずは「死守する」を排除して、裏で「安保法制」を問う。そこで選別をすればいい。表は優しく裏で厳しく。世間は表しか見ていないのだから。
 選挙は「どう見せるか」に成功したものが勝つ。それを一番知っていたのは小池百合子だったはずである。近年の彼女の勝利は「巨悪に立ち向かう健気な弱者」を演じたことではなかったか。それが、公認候補者選び以降、「排除する強面女」「邪悪な権力者を凌ぐ強権者」に映ってしまった。世間は引く。マスコミは煽る「一緒に写真が3万円」「都民ファースト都議離党」「希望の党は民進党の金目当て」などなど、昨日礼賛、今日誹謗。あまりに無節操! でもこれはいつもの話。「ブレない真面目な弱者」枝野幸男の「立憲民主党」に注目が移る。今回のテーマであるはずの「安倍邪悪政権の糾弾」が「小池百合子の失態追及」にすり替わる。小池に逆風、安倍に順風。完全に潮目が変わってしまった。たった数日間の出来事。公示日が迫る。

 「希望の党」はなんとか過半数以上を擁立した。残るは自身の出馬か存在感ある「ミスターX」の擁立。ミスターXの名は橋下徹。これが私が提言した「希望の党」逆転の発想だった。
 「小池さん、出ても出なくても無責任」とは自民のホープ小泉進次郎の演説だったが、この揶揄を払拭する唯一の方法が橋下を共同代表として国政に送り込むことだった。小池は都政に専念し、橋下は国政に手腕を発揮する。これぞ必殺の一手だったはず。(巷では、「小池が国政に出た後の都知事に橋下を」は流布したが、「橋下擁立」の着想はほとんど聞かれなかった)。

 ところが、見ての通り、10月の公示日、「希望の党」の候補者リストに橋下徹の名はなかった。小池にこのアイディアがなかったのか? 口説いたのに断られたのか? 諦めてトライすらしなかったのか? 永久にわからないだろう。いずれにしても、この時点で勝負はついた。橋下擁立という必殺技を繰り出せず、消化試合さながらの選挙戦は、自民党圧勝、希望の党惨敗という結末を迎えた。言葉の怖さを思い知らされた選挙だった。

 「希望の党」の出現で安倍邪悪政権打倒を期待した総選挙は見ての通りの結果に終わった。安倍晋三は、懸案はすべてリセットされたと陰でほくそ笑む。森友・加計学園問題は未解明のまま封印され、米国への盲従はさらに強まり、対ロ外交も自主性なしの追従に終始する。核兵器禁止の意思表示の糸口も見出せず、尊重を置き去りにした小手先の憲法改正論議が始まる。邪悪政治がますます幅を利かせだす。この虚しさ、遣る瀬無さ。

 小池百合子は負けた。希望が絶望に変わった。マスメディアは一斉に不手際を叩く。でも待ってほしい。たった一月前、世間は彼女に「打倒安倍政権」を託したのではなかったか。彼女に巨悪の糾弾を託したのではなかったか。「排除」という一言はそれほど悪辣な言葉なのか。政党が理念の違うものを排除することがそれほど悪いことなのか。そんなことで真の巨悪をのさばらせてしまっていいのか。有能な政治家を潰してしまっていいのか。日本国民は今こそ本質をしっかりと見つめなければいけない。
 2017.10.04 (水)  小池百合子必勝のサプライズ〜最後の一手はミスターXの出馬だ
 めまぐるしく変わる政局の中、小池百合子は10月3日こう断言した。「100%私は出ません。都政に専念します」「希望の党は過半数233人以上の候補者を擁立して政権奪取を狙います」。マスメディアはこの矛盾を突く。出馬せずに過半数がとれるはずはない・・・・・もっともである。だが、あの賢明な小池百合子が、意図なくこんな矛盾発言をするだろうか? 必ず裏があるはずだ!と私は読む。

 10月2日、リベラル派・枝野幸男が新党「立憲民主党」設立を表明した。総選挙政局は日々刻刻目まぐるしく変わる。正に猫の目だ。これで民進党の解体は形の上でも確定した。とっくに役割が終わっている寄せ集め政党の解体は実に喜ばしい。

 「希望の党」は現在、民進党との合流問題でゴタゴタの様相を呈している、と世間には映る。でもこんなこと、小池氏にとっては想定内。マスメディアは合流というが、小池氏は最初から合流とは考えていない。選別である。だから、一部で顰蹙を買う「全員を受け入れるつもりはサラサラない」発言は既定方針を貫いたまで。小池&前原会談でこの基本は確認しているはず。なのに、前原氏が「全員受け入れ」と言ったのは勘違いか二枚舌か確信犯か。どちらにしても揉めるのは当たり前。利にさとい政権与党がこの虚を見逃すはずがない。

 安倍首相は「政策・理念を捨てて野合する政党でいいのか?」〜と牽制するが、これは的外れ。2009年小沢・民社の話。「希望」は政策・理念を一致させたいから選別しているのだ。
 菅官房長官は「政策なし、選挙目当ての数合わせ」〜これは違う。政策があるから「リベラルを排除」するのだ。
 山口公明党委員長は「政権を獲れない人たちが名前を変えただけで獲れるはずがない」〜だからどうなの。党首は根幹の一致を図って動いているのだから見守ってくださいな。
 共産党小池書記局長は「希望の党は自民党の補完勢力だ」〜これはその通り。何が悪いのって胸を張ればいい。
 人気者・小泉進次郎は「希望の党は民進党のコスプレ。小池さんは出ても出なくても無責任。今まさにこのジレンマに陥っている」〜流石進次郎、説得力がある。「出ても出なくても無責任」。さて、小池百合子「希望の党」これにどう対応するか?が今回のテーマだ。

 これらの批判が功を奏したのだろう、「希望の党」の勢いは減速気味。最新の世論調査(10月1日付)では、「比例でどの党に投票する?」に対し、「自民」24.1、「希望」14。「まだ決めてない」が42.8。マスメディアは希望の14を不振と見る。確かにこのままでは勝てない。が、こんな数字は一夜にして変わる。ポイントは42.8の無党派層だ。もし、42.8の内27が希望に流れれば、残り15.8が全部自民にいっても、41対39.9で勝てる。これは投票日までに実現すればいいこと。焦ることはない。2週間強、まだ時間はタップリある。

 10月3日、「希望の党」第1次公認候補192名が発表された。過半数の233まで41名。これ以上の数字を公示日までに間に合わせなければならない。実質10月6日だ。これは結構忙しい。でもやるといったからには出してくるだろう。
 この間僅かだが、「希望の党」に関連する話題を絶やさないことが肝心だ。「三都物語」もいい。他からの批判も大歓迎。枝野さんの新党結成、どうぞおやりください。側近・若狭勝の失言「小池氏は233人候補者を立てられなければ出ない」と「政権奪取は次の次でいい」は「オイオイオイ」だが・・・・・小池氏は口封じを命じたそうだがもっともだ。党首が「出ない。ここで政権奪取」と言っているのだから。まさに真逆。本来なら首ですよYou’re fired。まあ、無能ぶりが露呈しちゃったのだから、いずれは?
 あと、注意すべきは「理念・政策」でぶれないこと。数がほしいからといって、例えば、「リベラル排除」を撤回したりしないこと。あくまで「改革保守」「改憲」を貫くこと。無論「しがらみのない政治」は訴え続ける。

 小池氏が「安保法制反対者」を受け入れないのなら、昨年の安保法制国会で反対した民社党議員はだれも入れないはず、という意見に対してはこう反論すればいい・・・・・民主党議員の中には「安保法制」そのものに反対の人もいればそうでない人もいる。そのものに反対する人にはご遠慮願う。そうではない、あの時の政権運営とマヤカシ推進に反対した人たち、この人たちは受け入れる。「反対」には二種類ある。一面的に見ないでほしい。これでOK。

 戦術の核は「安倍政権の邪悪さ」を徹底的に突きまくること。しがらみのない政治の「希望の党」は体質的にそんな安倍政権とは明白に違うことを一貫して主張し続けることだ。今は、結党のゴタゴタで論点がズレ始め、「安倍政権の邪悪さ」「大義なき解散」が隠れつつある。これは自民の思うつぼ。先述若狭氏の失言「負けるなら出ない」は小池氏の我欲ととられる。これは出さないこと。あくまで国民ファーストを貫くことだ。

 10月6日までは、自民21.1、希望14のままでいい。いきなりサプライズを出すのだ。世論調査で、「小池氏が知事を辞めて出馬するのは良いと思うか」に対し、「思わない」が72%。この数字は大きいし変わらないだろう。ならば小池氏は出るべきではない。尤も本人は出る気はないはず。ならば、どうする?

 出馬しなければ政権は取れない。でも出ない。この矛盾を一気に解決する方法。それは、小池氏はそのままに、政治理念が同じで人気があって華がある「希望の党」の看板になりうるミスターXを出馬させる。これしかない。ミスターXは小池氏と共同代表となり、選挙戦を二枚看板で戦う。キャッチフレーズは、「都政は小池 国政はミスターX」。二人で安倍政治の邪悪さを突きまくる。主要テーマは加計問題と第9条改憲案が適当か。リベラルに対しては、得意の安全保障で攻めまくる。「あなた方はどうやって日本を守るつもりなのか」。これでいい。

 勝った暁には総理大臣指名選挙でミスターXの名前を書く。安倍晋三退陣。このシナリオが成立する!? そんなミスターXが存在するのか? 日本にたった一人いるのである!

 ミスターXの名は橋下徹。彼は現在フリーの身。先日TVのレギュラー番組「橋下徹と羽鳥慎一」も終了させた。政界から引退したと云うが、かつて「20,000%ない」と言って出た人である。あってもおかしくはないではないか。出馬元は「希望」か「維新」か。「小池&橋下」の二枚看板さえ掲げられれば、どちらでも構わない。希望の場合は共同代表、維新のままなら共闘で。10月6日、「希望の党」か「日本維新の会」のどちらかのリストに橋下徹の名前を入れる。これぞ小池百合子最後の一手。超ド級のサプライズだ。

 橋下氏は2011年、当時海のものとも山のものともつかない松井一郎とタッグを組んで、大阪都知事大阪市長W選を圧勝した実績がある。今度の相方は小池百合子。まさに最強タッグではないか。
 二人が選挙カーの壇上から「邪悪安倍政権を倒そう!チャンスは今だ!」と拳を振りかざす。これは迫力ありますよ。一気に風が吹く。山が動く。安倍自民は壊滅的敗北。これが、私が考える「希望の党」必勝のシナリオである。

 保守二大政党を不安視する向きもあるだろう。でもよく考えてほしい。これまで、1955年以降60数年(この間10年弱を除き)は、保守(自民党)内での政権交代の繰り返しではなかったか。ならば同じこと。党が別なら緊張感も増す。リベラルは、立憲民主党と共産党にお任せする。小沢氏には引っ込んでもらう。保守とリベラルのすみ分けがはっきりした。民進党の解体でいい形になった。

 問題は橋下氏に出馬の意志があるかということ。小池氏が「橋下さん、あなたが一緒に戦ってくれれば、間違いなく勝てます。邪悪な安倍政権を倒しましょう。今がチャンス。一緒につかもうではありませんか。私は東京五輪が終わるまでは都知事に専念します。その後は国政の場であなたと力を合わせて頑張るつもり。橋下さん、このチャンスを活かさない手はないじゃありませんこと。ご決断を!」と口説けば、橋下氏は承諾するはずである。男児たるものこの千載一遇のチャンスに賭けない手はないではないか。

 三都物語なぞは東西大連立の伏線に過ぎなかった。小池百合子&橋下徹の最強タッグで、邪悪安倍政権をぶっ潰してほしい。これが私の夢である。単なる空想で終わるかもしれないが、誰よりも先んじてこのようなストーリーを描けただけでも満足の巻だ。



[2008年5月〜2017年9月のコラム]
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2015/04/29 (水)  モツレクに斬り込む4〜「涙の日」Lacrimosaにおけるモーツァルトの指示
2015/04/12 (日)  モツレクに斬り込む3〜コンスタンツェ その見事な裁量
2015/04/01 (水)  ちょっと変だぜ世の中が with Ray ちゃん
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2015/02/25 (水)  アメリカが「モツレク」で犯した罪
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2015/01/25 (日)  映画「バンクーバーの朝日」と沢村栄治
2015/01/13 (火)  新年に寄せて with Rayちゃん
2014/12/25 (木)  2014ランダム回顧 with Rayちゃん
2014/12/10 (水)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究11〜
          バッハ第3の不易流行「バッハはユーミンの先導師」

2014/11/25 (火)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究10〜バッハ第2の不易流行「平均律」
2014/11/10 (月)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究9〜バッハ不易流行その1「対位法」
2014/10/25 (土)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究8〜「旅に病んで」の深意
2014/10/10 (金)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究7〜果てしなき不易流行
2014/09/025 (木)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究6〜「おくのほそ道」に「不易流行」を探る
2014/09/05 (金)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究5〜芭蕉における「不易流行」の概念
2014/08/05 (火)  Jiijiのつぶやき〜葉加瀬太郎 間違いだらけの音楽講座
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2014/07/13 (日)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート5 〜 最後に綻んだファンハール采配
2014/07/11 (金)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート4 〜 戦犯はダビドルイス
2014/07/08 (火)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート3 〜 ベスト4出揃う
2014/06/30 (月)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート2 〜 グループリーグに異変
2014/06/26 (木)  2014ブラジル・ワールドカップ・リポート1 〜 日本終戦にJiijiの提言
2014/06/25 (水)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究4〜「おくのほそ道」に見る対置 Contraposition の妙
2014/06/10 (火)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究3〜J.S.バッハ シンメトリーの意識
2014/05/25 (日)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究2〜「ゴールドベルク変奏曲」に見る宇宙観
2014/05/05 (月)  芭蕉とバッハ:作品に潜む共通性の研究1〜芭蕉の宇宙観
2014/04/15 (火)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する7〜ある作曲家の論評
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2014/02/25 (火)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する3〜許光俊の前代未聞の推奨文
2014/02/20 (木)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する2〜本当に知らなかったのか?
2014/02/16 (日)  驚愕のペテン師・佐村河内守を考察する1〜空前絶後の事件
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2013/12/05 (木)  晩秋断章〜今年の秋は回帰がテーマ
2013/11/20 (水)  上原浩治&ボストンの奇跡2〜「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」
2013/11/10 (日)  上原浩治&ボストンの奇跡1〜それは「スイート・キャロライン」から始まった
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2013/10/10 (木)  私的「下山事件論」最終回〜時代に殺された下山定則
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2013/09/02 (月)  閑話窮題〜「風立ちぬ」を観て
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2013/06/25 (火)  私的「下山事件論」2〜犯人の行動を追う
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2013/05/15 (木)  「魔笛」と高山右近12〜松本清張「モーツァルトの伯楽」を読んで
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2013/03/10 (日)  「魔笛」と高山右近8〜フリーメイソンへの入会
2013/02/25 (月)  「魔笛」と高山右近7〜人生最大の転機
2013/02/10 (日)  「魔笛」と高山右近6〜ミュンヘンからウィーンへ
2013/01/31 (木)  「魔笛」と高山右近5〜シカネーダーという男
2013/01/25 (金)  「魔笛」と高山右近4〜モーツァルトとウコンドノの接点
2012/12/25 (火)  「魔笛」と高山右近3〜「ティトス・ウコンドノ」という宗教劇
2012/12/10 (月)  「魔笛」と高山右近2〜モーツァルトとミヒャエル・ハイドン
2012/11/25 (日)  「魔笛」と高山右近1〜タミーノは高山右近か?
2012/11/05 (月)  大滝秀治最後の台詞に健さんが涙したわけ
2012/10/25 (木)  リアリズムよりリリシズム〜「あなたへ」を観て読んで
2012/10/20 (土)  村上春樹と尖閣問題とノーベル賞と そして、山中教授
2012/10/05 (金)  尖閣問題の真相〜それは田中角栄の不用意な発言から始まった
2012/09/05 (水)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックE
2012/08/25 (日)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックD
2012/08/15 (水)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックC
2012/08/13 (月)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックB
2012/08/10 (金)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピックA
2012/08/07 (火)  ロンドン五輪2012/意外性と歴史回顧のオリンピック@
2012/07/25 (水)  私の中の中島みゆき5−中島みゆきは“演歌”である4
2012/07/10 (火)  私の中の中島みゆき4−中島みゆきは"演歌"である3
2012/06/27 (水)  閑話窮題〜波動スピーカーなど
2012/05/31 (木)  閑話窮題〜風薫る季節の中で
2012/05/20 (日)  私の中の中島みゆき3−中島みゆきは"演歌"である2
2012/05/10 (木)  私の中の中島みゆき2−中島みゆきは"演歌"である1
2012/04/20 (金)  私の中の中島みゆき1〜私的一元的中島みゆき論
2012/04/05 (木)  痛快!芥川賞作家田中慎弥D 記者会見発言の真相
2012/03/20 (火)  痛快!芥川賞作家田中慎弥C 作家としての石原慎太郎
2012/03/10 (土)  痛快!芥川賞作家田中慎弥B「共喰い」を読んで
2012/03/01 (木)  痛快!芥川賞作家田中慎弥A「ポトスライムの舟」VS「神様のいない日本シリーズ」
2012/02/20 (月)  慎んで「懺悔の記」
2012/02/15 (水)  緊急臨発!もう一つの芥川賞作品を考証する
2012/02/10 (金)  痛快!芥川賞作家田中慎弥@「神様のいない日本シリーズ」の面白さ
2012/02/05 (日)  FM放送
2012/01/25 (水)  小澤征爾 日本の宝
2012/01/10 (火)  閑話窮題〜2012新年雑感
2011/12/25 (日)  閑話窮題〜2011今年も暮れ行く
2011/12/05 (月)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション31−40
2011/11/25 (金)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション21−30
2011/11/15 (火)  閑話窮題〜リュウちゃんのシューベルト超天才論
2011/10/31 (火)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション11−20
2011/10/25 (火)  「究極のシューベルト歌曲集」キャプション1−10
2011/10/13 (木)  「究極」ついに完成
2011/09/30 (金)  「ローレライ」は「春の夢」から生まれた
2011/09/20 (火)  「白鳥の歌」から
2011/09/11 (日)  「冬の旅」から
2011/08/31 (水)  「さよならドビュッシー」を読んで〜不協和音の巻2
2011/08/25 (木)  「さよならドビュッシー」を読んで〜不協和音の巻1
2011/08/15 (月)  「さよならドビュッシー」を読んで〜協和音の巻
2011/07/31 (日)  閑話窮題〜とんでもないサッカー論
2011/07/25 (月)  閑話窮題〜「なでしこジャパン」クラ未知的総括
2011/07/10 (日)  閑話窮題〜「シェエラザード」にまつわるエトセトラ
2011/06/30 (木)  大震災断章[9] 圧巻の長渕 剛
2011/06/20 (月)  大震災断章[8]届け!音楽の力〜海外アーティスト編
2011/06/05 (日)  大震災断章[7]赤子の特権で踊り捧げる
2011/05/25 (水)  大震災断章[6]自民党よ、あんたに言われる筋合いはない
2011/05/20 (金)  大震災断章[5]菅直人を戴く不幸
2011/05/12 (木)  大震災断章[番外編] 東北に捧げるアダージョ
2011/05/09 (月)  大震災断章[4] エネルギー政策の正しいあり方
2011/04/30 (土)  大震災断章[3] 原発をどうする
2011/04/25 (月)  大震災断章[2] 原発事故は人災
2011/04/20 (水)  大震災断章[1] 想定外は恥
 2011/03/23 (水)  シューベルト歌曲の森へ21 なんてったって「冬の旅」14
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる 最終回>
 2011/03/10 (木)  シューベルト歌曲の森へS なんてったって「冬の旅」13
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その4>
 2011/02/25 (金)  シューベルト歌曲の森へR なんてったって「冬の旅」12
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その3>
 2011/02/15 (火)  シューベルト歌曲の森へQ なんてったって「冬の旅」11
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その2>
 2011/02/05 (土)  シューベルト歌曲の森へP なんてったって「冬の旅」10
<「辻音楽師」の調性における定説に、敢えて疑問を投じる その1>
2011/01/20 (木)  閑話窮題――地デジ化の効用
2011/01/10 (月)  シューベルト歌曲の森へO なんてったって「冬の旅」9<いかがなものかこの本は!>
 2010/12/25 (土)  シューベルト歌曲の森へN なんてったって「冬の旅」8
<「最後の一葉」は「最後の希望」がべース の根拠>
2010/12/10 (金)  シューベルト歌曲の森へM なんてったって「冬の旅」7 <シューベルトとオー・ヘンリー>
2010/11/29 (月)  シューベルト歌曲の森へL なんてったって「冬の旅」6 <「冬の旅」は僕の分身>
2010/11/19 (金)  シューベルト歌曲の森へKなんてったって「冬の旅」5 <これですべてが読めた!>
2010/11/10 (水)  シューベルト歌曲の森へJなんてったって「冬の旅」4 <シュ−ベルト戸惑う>
2010/10/28 (木)  シューベルト歌曲の森へIなんてったって「冬の旅」3 <ミュラー順番決定の真相>
2010/10/18 (月)  シューベルト歌曲の森へHなんてったって「冬の旅」 2<「勇気」におけるミュラーの事情>
2010/10/07 (木)  シューベルト歌曲の森へGなんてったって「冬の旅」1<曲順の謎>
2010/09/22 (水)  シューベルト歌曲の森へF法隆寺のリュウちゃん6「すぐに権威にならないで!」
2010/09/03 (金)  シューベルト歌曲の森へE法隆寺のリュウちゃん5「拙速は禁物」
2010/08/23 (月)  シューベルト歌曲の森へD法隆寺のリュウちゃん4「野ばら」は鈍感?
2010/08/09 (月)  シューベルト歌曲の森へC〜フェリシティ・ロット
2010/07/26 (月)  シューベルト歌曲の森へB〜法隆寺のリュウちゃん3「ひとまず 3大歌曲集以外へ」
2010/07/15 (木)  シューベルト歌曲の森へA〜法隆寺のリュウちゃん2「涙の雨」
2010/07/07 (水)  シューベルト歌曲の森へ@〜法隆寺のリュウちゃん1「三大歌曲集」
2010/06/24 (木)  シューベルト歌曲の森へ〜プロローグ
2010/06/07 (月)  シューベルト1828年の奇跡19〜キルケゴールとシューベルトA
2010/05/30 (日)  シューベルト1828年の奇跡18〜キルケゴールとシューベルト@
2010/05/10 (月)  ショパン生誕200年 独断と偏見による究極のコンピレーション
2010/04/22 (木)  シューベルト1828年の奇跡17〜ブレンデルとポリーニ3
2010/04/14 (水)  映画「ドン・ジョヴァンニ」〜天才劇作家とモーツァルトの出会い を観て
2010/04/09 (金)  シューベルト1828年の奇跡16〜ブレンデルとポリーニ2
2010/03/31 (水)  シューベルト1828年の奇跡15〜ブレンデルとポリーニ1
2010/03/21 (日)  シューベルト1828年の奇跡14〜内田光子の凄いシューベルト2
2010/03/11 (木)  シューベルト1828年の奇跡13〜内田光子の凄いシューベルト1
2010/02/24 (水)  シューベルト1828年の奇跡12〜アインシュタイン、その引用の謎C
2010/02/15 (月)  シューベルト1828年の奇跡11〜アインシュタイン、その引用の謎B
2010/01/29 (金)  シューベルト1828年の奇跡10〜アインシュタイン、その引用の謎A
2010/01/20 (水)  シューベルト1828年の奇跡9〜アインシュタイン、その引用の謎@
2010/01/11 (月)  永ちゃんとリヒテル
2009/12/25 (金)  シューベルト1828年の奇跡8〜ミサ曲第6番
2009/12/09 (水)  シューベルト1828年の奇跡7〜駒からはなれよ
2009/11/26 (木)  シューベルト1828年の奇跡6〜「グレート、この偉大な交響曲」E
2009/11/16 (月)  シューベルト1828年の奇跡5〜「グレート、この偉大な交響曲」D
2009/11/06 (金)  シューベルト1828年の奇跡4〜「グレート、この偉大な交響曲」C
2009/10/26 (月)  シューベルト1828年の奇跡3〜「グレート、この偉大な交響曲」B
2009/10/17 (土)  シューベルト1828年の奇跡2〜「グレート、この偉大な交響曲」A
2009/10/07 (水)  シューベルト1828年の奇跡1〜「グレート、この偉大な交響曲」@
2009/09/29 (火)  Romanceへの誘いG「ブラームスはワルツが好き?」
2009/09/21 (月)  Romanceへの誘いF「シューベルトはソナタが苦手?」その5
2009/09/16 (水)  Romanceへの誘いE「シューベルトはソナタが苦手?」その4
2009/08/31 (月)  Romanceへの誘いD「シューベルトはソナタが苦手?」その3
2009/08/24 (月)  Romanceへの誘いC「シューベルトはソナタが苦手?」その2
2009/08/17 (月)  Romanceへの誘いB「シューベルトはソナタが苦手?」その1
2009/08/03 (月)  Romanceへの誘いA「ドメニコ・スカルラッティとJ.S.バッハは同期の桜」
2009/07/20 (月)  Romanceへの誘い@「セザール・フランク二つの顔」
2009/06/29 (月)  茂木健一郎氏クオリア的冬の旅――3
2009/06/22 (月)  茂木健一郎氏クオリア的冬の旅――2
2009/06/15 (月)  茂木健一郎氏クオリア的冬の旅――1
2009/06/01 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――最終回
2009/05/25 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――8
2009/05/18 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――7
2009/05/11 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――6
2009/04/27 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――5
2009/04/13 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――4
2009/04/06 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――3
2009/03/30 (月)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――2
2009/03/21 (土)  バッハ・コード〜「ロ短調ミサ」に隠された謎――1
2009/03/09 (月)  閑話窮題――チャイ5
2009/03/02 (月)  閑話窮題――「フィガロの結婚」真実の姿 後日談
2009/02/23 (月)  閑話窮題――もう一度吉田秀和を斬る
2009/02/09 (月)  生誕100年私的カラヤン考――最終章
2009/02/02 (月)  生誕100年私的カラヤン考――7
2009/01/26 (月)  生誕100年私的カラヤン考――6
2009/01/19 (月)  生誕100年私的カラヤン考――5
2009/01/12 (月)  生誕100年私的カラヤン考――4
2008/12/29 (月)  生誕100年私的カラヤン考――3
2008/12/22 (月)  生誕100年私的カラヤン考――2
2008/12/15 (月)  生誕100年私的カラヤン考――1
2008/12/01 (月)  ケネディ追悼 モーツァルト「レクイエム」に纏わる石井宏と五味康祐
2008/11/17 (月)  石井宏のこの一枚を聴け!
2008/11/10 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――7=エピローグ
2008/10/27 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――6
2008/10/13 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――5
2008/10/06 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――4
2008/09/29 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――3
2008/09/22 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――2
2008/09/15 (月)  これってタブー?〜吉田秀和を斬る――1
2008/09/01 (月)  真夏の夜の支離滅裂――小林秀雄を斬る 2
2008/08/25 (月)  真夏の夜の支離滅裂――小林秀雄を斬る 1
2008/08/11 (月)  二つのバイロイトの第九――エピローグ
2008/08/04 (月)  二つのバイロイトの第九――その2
2008/07/29 (火)  二つのバイロイトの第九――その1
2008/07/14 (月)  続・ハイフェッツの再来
2008/07/07 (月)  ハイフェッツの再来
2008/06/30 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――最終回
2008/06/23 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――6
2008/06/16 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――5
2008/06/09 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――4
2008/06/02 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――3
2008/05/26 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――2
2008/05/21 (水)  「フィガロの結婚」〜3人の風雲児が産んだ奇跡の傑作
2008/05/19 (月)  「フィガロの結婚」真実の姿――1
2008/05/12 (月)  クラシック 未知との遭遇――プロローグ

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