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2017/10/04 (水)  Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 (])
2017/07/03 (月)  Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 (\)
2017/02/10 (金)  Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 ([)

2009年1月〜2016年12月のコラム
 2017.10.04 (水)
 Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 (])
10. ヴェルサイユ楽派の音楽―声楽編U

  ドラランドの次にご紹介するのはアンドレ・カンプラ(Andre Campra 1660-1744)による二つの作品です。
  カンプラもドラランドとほぼ同時代の作曲家で、大クープランなどとともに2番目の黄金期に属しています。彼はイタリア人の父を持ち、南仏の古都エクサン=プロヴァンスに生れ30代半ばまでその周辺で活動し、パリに出てきたのが1694年となるため、彼らよりも多少遅い時期に活躍した作曲家となります。1678年に聖職者となってトゥロンやアルルの教会で楽長を務め、1683年にはトゥールーズのサンテティエンヌ教会の楽長となり、教会に世俗の楽器弦楽器を採り入れ、聖歌隊員にヴァイオリンなどを学ばせるなど様々な改革を行っています。1694年休暇を利用してパリにやってきますが、ちょうどその頃ノートル・ダム大聖堂では楽長が死去し空席が生じたことから新しい楽長を募集しており、そこですぐにカンプラに白羽の矢がたてられたのです。本来楽長は試験によって選ばれるのですが、彼は実力者の口添えもあって無試験でその地位に就くことができました。彼はノートル・ダムの楽長時代にミサ曲やモテットを書いていますが、どうやら彼の興味は世俗音楽の方にあったようで、1697年にはオペラ・バレ「優雅なヨーロッパ L’Europe galantes」などを作曲したものの、聖職者でありながらこうした作品を書いていることへの世間からの非難を畏れてこれを弟の名前で発表しました。更に99年に書いた「ヴェネツィアの謝肉祭 Le carnaval de Venise」も同様で、結局は世間に知れ渡ることになり、1700年にはこの楽長職を放棄して王立音楽アカデミー(パリ・オペラ座)の指揮者に就任しています。ここで彼は50曲近いオペラやバレエ音楽を書いています。フランスのオペラといえば、リュリ、そして後年のラモーがとりわけ有名ですが、カンプラはちょうどその二人を橋渡しする役を果たしています。彼がオペラに果たした功績は歌と共にバレエを重視した「オペラ・バレ」という世界を築き上げたこと、と言われています。彼の音楽は、フランス語の歌詞によるイタリア生まれのカンタータの分野でも重要な役割を果たしたように、リュリの呪縛から解放されフランス様式とイタリア様式を見事に融合させたこと、と言われています。
  時代がルイ14世からルイ15世へと変わると、それに合わせるように王室礼拝堂でそれまで活躍していたドラランドは年間を通して務めていた王室礼拝堂副楽長の職務を四半期のみにしたいと国王に申し出、それが受理されたことから新たに3人の副楽長を選任し、その一人にカンプラが選ばれ(1723年1月)、再び宗教音楽の世界に戻ってきたのです。作曲者の紹介が長くなってしまいましたが、そのカンプラの宗教作品の中で特によく親しまれているのが「レクイエム」と「テ・デウム」の2曲で両曲とも古くから録音されてきたものです。
  まず「レクイエム」ですが、ここでもフランスの伝統にしたがって「怒りの日」は省かれています。ただ通常省かれることのない「ベネディクトゥス(主の御名によってこられた方は祝福されたまえ)」までも省かれており、その理由はわかりませんがデュ・コロワの例に従ったのでしょうか。この作品の作曲時期を巡っては彼が王室礼拝堂の副楽長に就任した1723年頃という説もありますが、内野允子氏はいくつかの根拠をあげ、1700年以前のノートル・ダムの楽長時代に書かれたという説を紹介しています。出版社のデュランは1695年と推定しています。以前シャルパンティエのレクイエムのところで、この曲の作曲年代を南フランス時代と書きましたが、それは誤りでパリの「ノートル・ダム時代」と訂正しておきます。いずれにしろ王室礼拝堂のために書かれた曲ではないことになります。曲は5人の独唱(ソプラノ2、アルト、テノール、バス)と、同じく5声部による合唱(ソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バス)、そしてオーケストラも5声の弦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ2、バス、通奏低音)にリコーダーを加えた編成となっており、この時期の作品としては比較的長い45分ほどの演奏時間を要します。この作品、フランス・バロックの宗教音楽というと必ず紹介されるほどよく知られた作品です。冒頭の悲しみに満ちた序奏に始まる入祭唱が感動の音楽の始まりかと聴き手に思わせますが、曲がアップテンポに変わるとその期待は裏切られます。いかにもフランス・バロックらしい華やかさはありますが、ここには死者への悲しみを思わせる情感などはあまり感じられません。その点がシャルパンティエなどと決定的に違うところでしょう。でもたいへん美しい作品であることは間違いありません。第1曲入祭唱で何度か繰り返される「たえざる光が彼らを照らしますように」の”luceat eis”が特に耳に残ります。この曲の録音はかつてルイ・フレモー指揮によるパイヤール室内管弦楽団、フィリップ・カイヤール及びステファヌ・カイヤーの両合唱団他によるエラート原盤のLPで親しんできましたが(CDはR20E-1005 録音:1960年)、さすがに古くなり、現在はフィ リップ・ヘレヴェッヘ指揮シャペル・ロワイヤル他に よる古楽器演奏のCD(キング・インターナショナル KKCC-9204 録音:1986年8月)がありますので、こ ちらをお勧めします。こちらはヴェルサイユ・ピッチ を採用しています。でもフレモー盤も器楽陣にラリュー のフルートやアランのオルガン、ベッケンシュタイナー のクラヴサンなど名手を揃えていて捨てがたい魅力を持っています。またこの作品もドラランドのところでご紹介したWIMAのサイトでスコアを閲覧することができます。
  カンプラのもう1曲はやはり「テ・デウム」です。フランス・バロック期の作曲家はどうも皆この「テ・デウム」を作曲しています。レクイエムとは正反対ともいえる華やかで煌びやかないかにもヴェルサイユ楽派らしい音楽です。輝かしいトランペットのファンファーレによる序奏に続いて合唱が歌いだす手法はリュリ以来の伝統で、編成は正確なところは楽譜を見ないとわかりません(フランスのモテットは演奏団体によってソリストの布陣がよく異なるので)が私の持っているCDでは4人の独唱者(ソプラノ、テノール2、バリトン)と5声部による合唱、そしてトランペット、オーボエ2、フルート2、ファゴット、ティンパニーと弦という大編成のオーケストラで、グラン・モテと同様の形式で書かれています。その内容も独唱(レシ)あり、重唱あり、そして合唱ありで、それらが代わる代わる歌われる手法も見事です。この曲が書かれた時期も不明ですが、終曲の合唱がレクイエム終曲のフーガ(Cum sanctis)とよく似ていること他の理由から、レクイエムよりは後に書かれたと考えられています。カンプラはノートル・ダム及び王室礼拝堂の副楽長時代に多くのモテットを作曲し、王室礼拝堂でもそれらは歌われてきましたが、このテ・デウムはレクイエムより後の17世紀の終わりに作曲されたと考えられていますので、王室礼拝堂のために書かれたものではありせん。テ・デウムというと戦勝記念や何かのお祝いのために書かれることが多いのですが、この曲は何のために書かれたのでしょうか?第1曲の華やかさは第9曲の合唱や終曲(12曲)にもいかんなく発揮されていますが、それ以上に第3曲のテノールのレシや第7曲のフルートのアンサンブルに載せて歌われる二重唱などとても印象的で、聴きどころの多い作品だと思います。この演奏はやはりルイ・フレモー指揮モンテ=カルロ国立歌劇場管弦楽団、フィリップ・カイヤール合唱団他のCD(エラート R20E-1006)で聴くことができます。古楽器による演奏はエルヴェ・ニケ指揮によるCDが出ているようですが、残念ながら私はまだ持っていません。

  最後にご紹介するのはジャン・ジル(Jean Gilles 1668-1705)のレクイエムです。この作品もフランス・バロックの宗教音楽というと必ず採り上げられるほどの名曲です。このジルはパリに出たこともなく、ましてやヴェルサイユとは何のかかわりも持たなかったので彼をヴェルサイユ楽派とするのは厳密には間違いなのですが、この時代に活躍した作曲家として広い意味でヴェルサイユ楽派に含めて紹介されることが多いので、ここでもその慣例に従っておきます。彼は1668年アヴィニョン近郊のタラスコンという町に生れ、幼少の頃から才能を開花させ、9歳の時にエク=サン=プロヴァンスの聖ソヴール教会の聖歌隊員となっています。ここで彼は当時楽長を務めていたギョーム・ポワトヴァン(Guillaume Poitevin 1646-1706)から音楽を学びますが、このとき8歳年長でやはりポワトヴァンの弟子だったのが、アンドレ・カンプラになります(カンプラは1681年にアルルに移動)。ポワトヴァンはジルの才能を高く評価し、引退の際自身の後継として彼を指名し、ジルは1693年から95年までその楽長を務めました。以後一時的に旅先の小村アクド(ラングドック地方)にある聖堂の楽長を務めるなどし、1697年ラングドックの首都トゥールーズのサン=テティエンヌ教会の楽長に推薦され、以後最後までこの職を全うしますが、小さい頃から病弱だった彼は1705年2月、37歳という若さでその短い生涯を閉じています。
  このレクイエムがいつ頃書かれたのか正確な年代はわかっていませんが、面白い逸話が残されています。1756年にフランスで最初の音楽評論を書いたラベ・ド・モランベール(Antoine-Jacques Labbet de Morambert)によると、ジルは、あるときトゥールーズの市議会議員が二人亡くなりその息子たちから葬儀のためにレクイエムを作曲するよう依頼されました。彼が曲を完成し、遺族のもとにもっていくとあまりにその音楽が立派過ぎてこれでは演奏に膨大な費用がかかりすぎるとして、彼らは作曲料の支払いを拒んだのです。これに激怒したジルは、それではとこの曲を封印してしまい、自らの葬儀の際に演奏するように、と遺言を残したのです。その結果この曲が初演されたのはジルの葬儀の際(1705年2月6日)で、その指揮をしたのがアンドレ・カンプラだった、というのです。ところがこの逸話の信ぴょう性は現在疑われています。というのもこの曲が書かれたのは1694年以前と現在考えられており、ジルがトゥールーズに行ったのは1697年で、このときすでにカンプラもトゥールーズを離れているからです。ただこの話の真偽はともかくとして、この作品を有名にしたのがカンプラであったことは事実のようです。彼は後にこの作品をパリに紹介し、フィリドールがコンセール・スピリテュエルのコンサートでこの作品を採り上げるや瞬く間のうちに人気を博し、1770年代までに少なくとも15回以上演奏されたということです。この曲の記録に残っている大きなコンサートのうち一つは1764年9月24日フランス・バロック第三期黄金時代の最後を飾る大作曲家ラモー(Jean-Philippe Rameau 1683-1764)の葬儀の際に演奏されたもので、このときは180人の大編成による演奏で、キリエでは多くの列席者の涙を誘ったとか。そしてもう一つは1774年5月にヴェルサイユ宮殿で執り行われたルイ15世の葬儀の際に演奏されました。以後この作品は長い眠りにつき、再びこの作品が脚光を浴びることになるのは1958年、ルイ・フレモーがエラートにこの曲を録音したことに始まります。この作品は1764年に出版されたのですが、それはミシェル・コレット(Michel Corrette 1709-95)によって編曲された版でオーボエ、ホルン、トランペット、ティンパニーと太鼓を加えた大編成のオーケストラで、おそらく規模から考えてラモーやルイ15世の葬儀にはこの版が使用されたのではないでしょうか。オリジナルのオーケストラ編成は弦楽器、通奏低音にフルート(トラヴェルソ)を加えただけの簡素なものです。この曲はカンプラのレクイエムのように軽さを感じることもなく、本当に素晴らしい作品だと思います。モーツァルトの著作などでも知られる批評家井上太郎氏が著した「レクイエムの歴史」(平凡社)のなかで彼はこの作品を酷評していますが、人それぞれ感じ方が違うものだな、とつくづく思わされます。曲の構成はイントロイトゥス(入祭唱)、キリエ、グラドゥアーレ(昇階唱)、オフェルトリウム(奉献唱)、サンクトクス、ベネディクトゥス、アニュス・デイ、コンムニオ(聖体拝領唱)からなり、これはほゞカンプラと同じで(カンプラにはベネディクトゥスがない)、ここでも「怒りの日 ディエス・イレ」は省かれています。
  この作品のCDは名曲だけにかなり多く発売されていて、私はもちろんすべてを聴いているわけではありませんが、どの版を使用するかによってその印象は大きく異なってくるようです。手元にあるCDのうち一番古い録音が前述したフレモー盤(エラート R20E-1010)になります。オーケストラはパイヤール室内管弦楽団、合唱はフィリップ・カイヤール合唱団で、ソリストはナディーヌ・ソートロー(S)、アンドレ・マラブレラ(T)、レミー・コラッツァ(T)他でオルガンにマリー=クレール・アランが加わっています。こちらはコレットによる編成の大きな版による演奏ですが、室内オーケストラを使っていますので、それほど大編成という印象は 受けません。むしろバロック的な響きでトランペットやティ ンパニーが加わっているとはいえ、慎ましやかな印象を受け ます。ティンパニーの連打による葬送行進曲で始まりますが、 このティンパニーの連打は楽譜にはないそうで、当時の習慣 に従ったものでしょう。このコレット版による演奏はとても ダイナミックです。恐らく当時の厳かな葬儀の模様を再現しようとしたに違いありません。ただあのラモーの葬儀の際の180人にも上る演奏とは比べ物にはならないと思いますが。冒頭の葬送行進曲に続くテノールのソロはどことなくオペラチックで、「たえざる光を彼らの上に et lux perpetua luceat eis」で一転して速いテンポになるのはカンプラと同様ですが、カンプラほどの軽さは感じられません。
  二枚目は1981年に録音されたフィリップ・ヘレヴェッヘ指揮によるもので(Brilliant Classics 93890)オーケストラはラインハルト・ゲーベルに率いられたムジカ・アンティクヮ・ケルン、合唱はコレギウム・ヴォカーレ・ヘントが担当しています。もともとの原盤はArchiv(DG)で、こちらはオリジナルの手稿譜に基づいた版によっており、オーケストラも小編成で一切の誇張もなく、慎ましやかで、その古楽本来の響きからは当時の感動が伝わってくるようです。この演奏には冒頭のティンパニーや太鼓による葬送の奏楽はありません。ただヘレヴェッヘは1990年にもう一度この曲を録音しており(オーケストラ、合唱はシャペル・ロワイヤル 仏harmonia mundi HMC-901341)、これには冒頭太鼓による連打があり、HMVのオンライン・ストアに掲載された紹介文を読むと、1764年の版に基づいているとのことで、そうなるとこちらはコレット版を使用しているのかなとも思うのですが、どうやら太鼓だけのようで、オーケストラはオリジナル編成のようです。ただアルヒーフ盤より音楽はかなり多彩な響きで、全体に少し派手な印象を受けます。それはそれで楽しめますが、あの素朴ともいえるほどの鄙びたいかにも南フランスのレクイエムといった感じはなくなります。
 もう一枚はジョエル・コーエン指揮のボストン・カメラータ、エクサン・プロヴァンス音楽祭合唱団他(エラート WPCS-4578)による演奏で、このCDの特徴はあくまでもこの音楽を南フランス、プロヴァンス地方特有のスタイルで貫いていることにあります。演奏の最初と最後に比較的長い太鼓の連打による葬送の行進が置かれ、曲の間にはグレゴリオ聖歌が挿入されています。これらは当時南フランスでレクイエム演奏の際行われていた習慣だとコーエンは言います。またこの地方では町の有力者が死ぬと人々が棺を担ぎ音楽を奏しながら町を練り歩く習慣があった、とも言います。太鼓にも独特のリズム付けが行われています。それと作曲者があえて省いた「怒りの日」がここでは昇階唱のあとグレゴリオ聖歌で歌われています。しかもかなり長く。更に録音会場として選んだのは、ジルが幼少期に聖歌隊員となり、またのちに楽長を務めたエク=サン=プロヴァンスの聖ソヴール教会という念の入れようです。コーエンはジルが遺言で自身の葬儀で演奏するようしたためたその儀式を再現したかったのでしょう。従って全体にはかなり長い演奏時間となります。 この作品でとても印象に残るのは冒頭のテノールのソロとそれに続くアップテンポの「たえざる光を彼らに」との対比の見事さ、それと3曲目(昇階唱)でも「永遠の安息を」からアップテンポの「正しき者は永遠に In memoria aeterna・・・」への変化や、終わりの方で3回ずつ二度軽快に歌われる「non non non」がやけに耳に残ります。また独唱者たちによって歌われるゆったりとした優美な旋律のサンクトゥスと、そのあとに続く力強い合唱「いと高きところにホザンナ Hosanna in excelsis」の対比も見事です。
  さてでは一体この作品の演奏は誰のものがいいのか?ですが、それぞれに良さがあるのでどれか!と決めるのは難しいでしょう。ただ私個人の趣味でいえば、オーセンティックな演奏からは離れますが、フレモー盤のモダン楽器によるダイナミックな演奏が気にいっています。この作品を現代に蘇らせたことへの敬意も含めて。もちろんヘレヴェッヘ盤(Brilliant)の清楚なたたずまいの演奏も捨てがたいですが。尚、この作品にはラモーの葬儀の際の演奏を再現したスキップ・センペ指揮ラ・ストラヴァガンテ、コレギウム・ヴォカーレ・ヘント他による盤(Paradizo PA-0013)もあります。私はラモーの葬儀にはコレット版が使用されたのではと前述しましたが、コーエン盤の解説書を読むとそれ以上に大きな編成でクラリネットやファゴットを加え、更に他の作品からの引用などもくわえているということで、相当大掛かりだったことがわかります。

  一枚のCDから短い文章を書くつもりがかなり長くなり、結局ヴェルサイユ楽派前期の紹介になってしまいました。ここでひとまずフランスのバロック音楽の紹介を終えたいと思います。
 2017.07.03 (月)
 Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 (\)
9. ヴェルサイユ楽派の音楽―声楽編 T

  まず初めにご紹介したい作品は既にシャルパンティエの「レクイエム」のところで少し触れたのですが、ウスタシュ・デュ・コロワ (Eustache du Caurroy 1549-1609) (最近では「コーロワ」と音引きする表記が多い) の「死者のためのミサ曲」です。この作品をここで扱うのは時代的に適切ではないかもしれません。ただこの曲が後世に与えた影響を考えここでご紹介することにします。
  コロワの生涯について詳しいことはわかっていません。ただ1549年に北フランスのボーヴェで洗礼を受け、当地の大聖堂 (ゴシック建築として名高いサンピエール大聖堂、あまりに建物が巨大すぎて、途中で建築を放棄) の聖歌隊員を1569年まで務め、その後パリに出てシャルル9世の下で王室礼拝堂の歌手となり、1578年にはアンリ3世の王室礼拝堂副楽長に就任しています。更に暗殺されたアンリ3世に変わって1594年王位に就いたアンリ4世の王室礼拝堂でも副楽長を務め、翌年にはシャンブルの音楽監督にまでなるなど国王から厚く信頼され、その名声も広まり絶頂期を迎えます。彼は1609年に亡くなるまで多くの宗教曲や器楽曲を残しています。この「死者のためのミサ曲」は1636年に出版されたもので、この作品が何故フランス音楽史上重要なのかというと、1590年頃にこの曲は既に作曲されていたと考えられていますが、1610年にやはり暗殺された国王アンリ4世の葬儀の際演奏され、以後フランス国王の葬儀にでは公式にこの曲が演奏されるようになったことです。コロワ自身はその前年に亡くなっていましたが、音楽を手厚く保護しフランス音楽の発展に大きく貢献した国王アンリ4世とコロワの結びつきの強さを証明しています。カトリックでは16世紀のトリエント公会議で定められたレクイエムの歌詞を使用することになっていますが、フランスの宮廷とパリ高等法院はこの決定を認めなかったためコロワもそれには従わず昇階唱の「主よ、永遠の安息を与えたまえ Requiem aeternam」は「われ、死の暗黒をさまよえども Si ambulem」という歌詞に変更されています。これはフランスにおけるルネサンス以来の伝統とされています。更にこのレクイエムでは「怒りの日 Dies irae」もカットし、アニュス・デイの前に「ピエ・イエズ(恵み深きイエスよ)」を置くなど、一般的なレクイエムとはかなり異なっています。これらは後のフランスにおけるレクイエムの一つの模範となっており、フォーレの作品などもこの伝統に則っています。コロワのレクイエムはちょうど時代がルネサンスからバロックへと変わる大きな変化のなかで生まれ、音楽自体はルネサンスの伝統的なポリフォニー (5声部による) を感じさせますが、グレゴリオ聖歌の使用は控えめで、合唱を支える器楽も部分的に独立した動きを示すなど、既にバロックへの移行を感じさせる音楽、と言われています。この曲はミシェル・ラプレニ指揮のアンサンブル・ヴォカール・サジッタリウス、ラ・フェニーチェ (管楽アンサンブル) 他の演奏 (エラート WPCS
-16158) で聴けます。ポリフォニーの美しさが光る秀演です。

  ヴェルサイユ楽派の音楽としてはここからになりますが、リュリやシャルパンティエとその周辺についてはこれまでにご紹介してきましたので、ここではその中で触れることのできなかった作曲家や作品を扱います。最初にご紹介するのは器楽編同様ドラランドの音楽からです。ここでは二つの作品をとりあげます。
  ドラランドについて前回あまり紹介できませんでしたので、改めてここで少し触れておきますと、彼は1657年12月15日パリの高級洋服店の15番目の子供として生まれました。尚彼の名前の表記は、ミシェル=リシャールはよいとしてそのあとの名前に、「ド・ラ・ランド de la Lande」や「ド・ラランド de Lalande」などの表記もありますが、ここでは一般的な表記「ドラランド Delalande」にしておきます。彼は10代になるかならない頃、ルーブル宮殿の前にある王家ゆかりのサン=ジェルマン=ローセロワ教会の聖歌隊員となり、そこでオルガン奏者シャブロンについて音楽を学んだといわれています。天賦の才に恵まれたドラランドはすぐに頭角を現し、20代前半のうちにいくつかの教会のオルガニストを歴任するようになります。その一つがサン=ジェルヴェ教会 (確かステンドグラスの美しい教会でパリ最古のオルガンがある) で、ここは代々クープラン家がその職を受けついできましたが、大クープランがまだ若かったこともあって、1679年ドラランドがその任に就きます (6年後クープランにその地位を譲る)。そして1683年王室礼拝堂の副楽長の椅子をめぐるコンクールで、シャルパンティエが病気で欠席したこともあり見事1位となり、4人の副楽長のうちの一人に選ばれました。彼は国王からの信頼が厚く、結局副楽長の椅子をすべて独占することになります。そして1687年にリュリが亡くなるとヴェルサイユの音楽総監督となり「礼拝堂楽団付作曲家」「王室楽団作曲家 (1690)」「王室楽団楽長 (1695)」など次々に要職を手中に収めていきます。王室礼拝堂だけでなくシャンブルにも彼の権力は及んだのです。その点ではリュリ以上の権力者になった、といえるでしょう。1715年にルイ14世が亡くなると、ようやく彼も少しずつ要職を離れるようになり1722年妻の死を契機に完全に引退することになります。その4年後の1726年彼は肺炎を発病し68歳で世を去りました。国王は彼の死を悼み直ちに彼のグラン・モテの中から優れた40曲を選び、出版させました。
  彼の功績は何といってもヴェルサイユの王室礼拝堂で演奏され、後にコンセール・スピリテュエルでも演奏されるようになったグラン・モテにあり、彼はこの分野で生涯に70曲以上の作品を残しています。その華やかな音楽はもっともヴェルサイユ楽派らしい作曲家といっても過言ではありません。そのグラン・モテから2曲を採り上げたいと思います。最初は「怒りの日Dies irae」です。ドラランドはレクイエムを書いていませんが、それに匹敵する音楽はいくつか残しています。その一つがこの「怒りの日」でこれはよくレクイエムの中の続唱として歌われ るのですが、しばしば単独の作品としても作曲され、その 先駆者はリュリになります。リュリは1683年にルイ14世 の王妃マリ=テレーズの葬儀のために書いたのですが、ド ラランドはその7年後、長男の王太子ルイの妃で29歳の若 さで亡くなったマリ=アンヌ・ド・バヴィエールの葬儀のた めにこれを作曲しました。リュリの作品はいかにも絶対権力 者らしい男性的な激しさが感じられるのに対し、ドラランドの方は女性的で優しさに包まれています。どちらも素晴らしい作品ですが、私はドラランドの優しさに惹かれます。冒頭の悲劇的な響きをもった短い序奏部に導かれ、ソプラノ (ドゥシュ) の合唱で歌われるグレゴリオ聖歌に基づくディエス・イレーの旋律はリュリやシャルパンティエも同様ですが、女性の声だからでしょうかとても柔らかな響きで慈愛が感じられます。9曲目「私を羊の群れの中におき Inter oves」の三重唱と合唱の掛け合いも見事ですが、何といってもこの作品の最大の聴きどころは「涙の日Lacrimosa」から終曲の「憐れみ深き主イエズスよ Pie Jesu Domine」に至る天国的ともいえる優しさに満ちた音楽で、最後の「アーメン」など何と形容したらいいでしょう。心が洗われます。このドラランドの「怒りの日」はフィリップ・ヘレヴェッヘ指揮シャペル・ロワイヤル他の素晴らしい演奏 (仏ハルモニア・ムンディ 901352 国内発売:キング・インターナショナル) で聴くことができます。尚リュリの作品はテ・デウムと一緒に収められた前記パイヤール指揮の演奏で聴くことができます。
  ドラランドの作品の中から次に採り上げるのは「テ・デウム」です。リュリやシャルパンティエの作品同様、この作品もその輝かしさにおいては一歩も引けをとりません。まさにヴェルサイユの栄光を伝える華々しい音楽です。このテ・デウムは「怒りの日」より以前の1684年に作曲されています。ポール・コロー指揮のエラート盤の解説者内野允子氏によると、彼の生存中に最も多く演奏された作品で、そのために何度も改定が施されたとか。1706年のパリのサン・ルイ・デザンヴァリ教会における献堂式で再演された際には4つの合唱用に書き換えられたそうで、ぜひこの版を聴いてみたいと思いますが、その楽譜は失われてしまったそうです。この作品についてはドラランド唯一の自筆譜(パリ国立図書館に保管)が残されていて、その表紙には「故国王陛下がいつものミサの時間を越えな いようにと望まれた簡素なテ・デウム Te Deum Simple que le feu Roy ayant voulu qu’il ne dura guere plus que Sa messe ordinaire」と書かれていることから、それは作曲時のものでは なく、ルイ14世が亡くなった後におそらくは何らかの演奏の 機会に書き記されたものと思われ、今日ではそれに基づいて演奏され、それにも全体の演奏時間を考慮して大小2種類の版があるとか。そのため楽譜には各楽章の演奏時間まで指定されているといいます。私の手元には2種類のCDがあり、一つはモダン楽器によるルイ・マルティーニ指揮パイヤール管弦楽団、フランス音楽青少年合唱団他 (R20E-1008) によるものと、もう一枚は古楽器による前記ポール・コロー指揮王室大厩舎・王宮付楽壇、ナント声楽アンサンブル他 (WPCC-4252) で両盤ともエラート原盤のCDです。前者はクラヴサン奏者として名高いロランス・ブレー (Laurence Boulay) 校訂版による演奏で約38分、そして後者はオーストラリア出身で現在パリでリュリやドラランドなどフランス古典音楽の出版を手掛けている学者ライオネル・ソーキンズ (Lionel Sawkins) による校訂版で約35分となっています。因みにこの作品については3種類のスコア(手稿譜)がネット上に公開されていて閲覧することができます。1689年にアンドレ・ダニカン・フィリドールのコレクションによる写本、1706年のトゥールーズ伯のために再びフィリドールによって作成された写本、そして1741年のコヴァン写本と呼ばれる彼の死後に作成された手稿譜です。興味のある方は WIMA (Werner Icking Music Archive) のサイト (http://www.icking-music-archive.org/index.php) に入って検索すると閲覧できます。ただいずれも国立図書館所蔵の自筆譜とは異なっていて、この2種のCDともその自筆譜に基づいて演奏されているようです。前者のマルティーニ盤はシャルパンティエのテ・デウム同様古くからの名盤で懐かしいものですが、さすがに録音は古くなってしまいました (1950年代後半か60年代初めの録音?)。後者のコロー盤 (録音:1990年) はいわゆるヴェルサイユ・ピッチ (A'≒392Hz) を採用しており、また奏法もイネガルを採り入れるなどフランスの古楽演奏に相応しい堂々たる立派な演奏です。他にウィリアム・クリスティ指揮による盤もあるようですが、こちらはまだ聴いていません。
  ドラランドのグラン・モテはその他に「深き淵より De profundis」や「ミゼレーレ Miserere」などがよく知られており、中でも前者はドラランドをヴェルサイユ楽派最大の宗教音楽作曲家として知らしめてきた傑作と言われ、ステファーヌ・カイヤー指揮カイヤー合唱団、パイヤール室内管弦楽団他の名録音がありますが (エラート R20E-1009)、今聴いてみると少し色あせた感があります。
 2017.02.10 (金)
 Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 ([)
8. ヴェルサイユ楽派の音楽―器楽編

 ここではこれまでに紹介してこなかったヴェルサイユ楽派のCDをとりあげますが、今まで教会音楽を中心に扱ってきましたので、初めに私が少し気になった管弦楽や器楽作品にも触れてみたいと思います。

 ヴェルサイユ宮には三つの音楽組織があったことは以前にも触れましたが、その一つシャンブルから、ドラランドの「王の晩餐のためのサンフォニー集」(ヒューゴ・レーヌ指揮サンフォニー・デュ・マーレ 仏ハルモニア・ムンディ KKCC−107)をご紹介します。ドラランド(Michel-Richard Delalande1657-1726)はこれも既に触れましたが、1683年にシャルパンティエが病気のため出席できなかった王室礼拝堂副楽長のイスをめぐるコンクールで見事1位を獲得し、その後ヴェルサイユにおいてエキュリーを除くあらゆる要職に就くなどリュリにとってかわる権力者に上り詰めていきます(但しリュリのように悪質ではない)。以前フランス音楽の第三期黄金時代は更に三つの世代に分けられると言いましたが、このドラランドはフランソワ・クープランなどと共にその第二世代の頂点を飾る作曲家で、したがって今回のテーマではあまり触れませんでした。この「王の晩餐のためのサンフォニー」ですが、本CDの解説者美山良夫氏によると、この晩餐はDinnerではなく観劇などの後にルイ14世が催した夜食会の意味で、その食事コースの合間に演奏された音楽だそうで、まさにターフェルムジークになります。ドラランドはルイ14世のために185曲からなる12の組曲によるサンフォニーを書き、その大半は1703年フィリドール(アンドレ・ダニカン?)によって集められたコレクションの中に収録されているとか(彼は更にルイ15世のためにも約120曲、6つの組曲を残している)。レーヌは4枚組のCDとしてその全曲を録音していますが、この一枚にはその中から4つの組曲が収録されています。大バッハがリューネブルクで過ごしていた青年時代(1700〜03)、しばしばツェレの宮廷を訪れ、そこでフランス人楽団によるフランス音楽を聴いていたというのはよく知られていますが、ひょっとするとこれらの音楽も聴いていたかもしれません。バッハがのちに作曲した有名な管弦楽組曲(正式名称は「序曲」)は、フランス趣味による音楽であり、この時代に耳にした音楽が反映されているとも言われています。ドラランドによるサンフォニーもこれを十分に予感させるもので、組曲第7番などはバッハの組曲を更にフランス的にした音楽のように聴こえます。その他組曲第5番のシャコンヌではカスタネットを大胆にフィーチュアし(もちろん原譜にはなく即興的に採り入れているのでしょうが、こうした遊びも当時よく行われていたことでしょう)とても楽しい音楽が優雅に繰り広げられます。
 (現在この抜粋盤は廃盤のため4枚組の全曲盤―輸入盤―の方が入手しやすいようです)

 次にエキュリーからの一枚をご紹介しましょう。かつてエラート・レーベルの初期に「空想の音楽会(原題は”CHATEAUX ET CATHEDRALES”)」というシリーズがありました。その中に「ヴェルサイユ宮、大厩舎における野外音楽会」(パリ・ラリー・ルーヴァール狩猟ラッパ・アンサンブル他 エラート WPCS-5865)という一枚があります。これがとても面白く楽しめます。演奏は決して優れているとはいえないものもあり、時に調子っぱずれのラッパが耳を襲ったり、 不揃いでハチャメチャになったりもします。でもこ れが何とも臨場感があって、いかにも野外音楽とい った感じなのです。全部で行進曲やファンファーレ など17曲が収録され、演奏者も前記の他パイヤール 指揮の吹奏楽団などが加わっています。但しどの曲を どの団体が演奏しているのかは記載がありません。作 曲者としては、エキュリーには欠くことのできないアンドレ・ダニカン・フィリドール(老フィリドール 1647頃-1730)やマルカントワーヌ・ダンピエール(Marc-Antoine Dampierre 1676-1756)、リュリなどの作品が収められています。多くは馬上で演奏された作品のようです。フランス・バロックの音楽ではよく管弦楽作品やクラヴサン、ヴィオールなどの器楽作品に「フォリア」(イベリア半島に起源をもつ3拍子の舞曲で、コレッリのヴァイオリン・ソナタが有名)の旋律が使用されることがありますが、リュリの「国王つき連隊のための行進曲」の後半でもこれが使われており、行進曲に三拍子のリズムとはいかにも優雅です。このCDにはパイヤールによる解説が付されていて、これがとても面白い読み物になっています。それによると調子っぱずれに聴こえるのはどうやら我々の耳が平均律にならされてしまったからなのかもしれません。彼は次のように書いています。「平均律音階になれていて、こういう音になれていない耳には、ここに聞かれる正確さの欠如とも言うべきものや、狩猟ラッパのひびきに驚きを覚えるかも知れぬ。だが、ここでは、正確さは、欠如しているどころか、絶対的で自然なものである。つまりこれは、和声的な音列の持つ正確さだ。それは別種の正確さにすぎないのであって、たとえ現代のわれわれを驚かすとしても、われわれの祖先たちを恍惚とさせたのである」(粟津則雄訳)と。最近私が読んだ「数の魔力」という本(ルドルフ・タシュナー著 鈴木直訳 岩波書店。私のような数学的素養のない年寄りには難しすぎる)にもこんな記述がありました。「ピアノが楽器として受け入れられるのは、ただひとえにわれわれが『神の耳』で音楽を聴いていないからに過ぎない」と。

 フランスのバロックといえば、マラン・マレ(Marin Marais 1656-1728)に代表されるヴィオールの音楽を外すわけにはいきません。以前フランス映画で「めぐり逢う朝(アラン・コルノー監督、ジェラール・ドパルデュー主演、原題は“Tous les matins du monde”)」というのがあり、マレが若き日を回想する物語で、古楽ファンならずともご覧になった方が多いかと思います。その映画の中に彼の師としてヴィオール奏者サント・コロンブが登場しますが、むしろ彼が主役ともいえるほど映画では重要な役割を果たしていました。このサント・コロンブはもちろん実在のヴィオール奏者ですが、生没年などは不明で、その生涯についてもほとんどわかっていません。ただいくつか断片的にわかっていることからどうやらあの映画に近いような生活を送っていたようです。彼の功績は従来の6弦によるヴィオラ・ダ・ガンバにさらにもう一弦加えてガンバを7弦による独奏楽器として発展させたことで、これによりガンバは豊かな表現力を持つ楽器として一躍ヨーロッパで脚光を浴びることになります。彼がどれほどの作品を残したのかわかりませんが、パリ国立図書館に残された1冊の写本には67曲の「2つのガンバのためのコンセール集」が残されているとか。その彼の作品を集めたCDに「哀しみのトンボ―〜サント・コロンブ:ヴィオル曲集」(deutsche harmonia mundi BVCD-1518)というのがあります。演奏は近年女流ガンバ奏者として注目を集めるヒレ・パール他によるものです。私はこのCDを初めて聴いた時、暗く陰鬱な世界にちょっと戸惑いを覚えたのですが、何回か聴いているうちに聴けば聴くほど味わいのある素晴らしい音楽だと、思うようになりました。ちょっと神秘的で、哲学的でさえあります。中でも「再発見 Le Retrouve」と題された曲は、その緩急の対比など見事で、まさに彼の魅力を再発見 する素晴らしい作品です。またそのあとに続く「語り 合い Le Conference」の中に聴かれるエコーの効果な ど、間違いなく彼が第1級の音楽家であったことを証 明しています。弟子であったマラン・マレは彼の死を 深く悼み「サント・コロンブ氏へのトンボー」を作曲 しましたが、これはマレの代表作ともいえる傑作で、 ガンバの名曲としてよく演奏されます。この「トンボー」は本来「墓」を意味する言葉ですが、当時フランスでは偉大な人へのオマージュとしてヴィオールやクラヴサンの作品によく登場します。近代ではラヴェルの「クープランの墓」が有名ですが、フランスの伝統的なジャンルと言えます。この「サント・コロンブ氏のトンボー」は多くの人が演奏していますが、クイケン兄弟が演奏する「ヴェルサイユの音楽」(deutsche harmonia mundi BVCD-5008)のCDがお勧めです。これには映画の中で印象的に使用されていたヴァイオリンとガンバのための作品「”聖ジュヌヴィエーヴの丘”教会の鐘」も収録されています。単純なメロディが繰り返されて進行する不思議な音楽で、これもとてもいい曲です。

 ヴィオール同様フランス・バロックに欠かせないのがクラヴサンの音楽です。フランスのクラヴサンといえば、ダングルベール(Jean-Henry D’Anglebert 1635-91)やフランソワ・クープラン(大クープラン、Francois Couperin 1668-1733)、ラモー(Jean-Philippe Rameau 1683-1764)がすぐにあげられるほど多くの名曲があります。このクラヴサンの音楽がフランスで発展した理由として、リュートの存在が指摘されます。フランスでは16世紀後半からエール・ド・クールと呼ばれる宮廷歌が盛んになり、これはいわゆるリュート・ソングで、そこからリュートの音楽が著しい発展を見せゴーティエ一族らがアルペジオ奏法などを生み出します。これがやがてクラヴサンの音楽に採り入れられ、フランス・クラヴサン音楽の祖となるシャンボニエール(Jacques Champion de Chambonnieres 1602-72)につながっていくのです。そんな歴史的背景からかクラヴサンにはリュート・ストップといわれるレジスターがあり、リュートのような音色を出すこともできます。やがて通奏低音楽器としてのリュートは次第にテオルボやキタローネにとってかわり、独奏楽器としてはこのクラヴサンが発展していきます。私はチェンバロ(フランスではクラヴサン)の音楽も好きでバッハの作品も含めよく聴いていますが、フランスでは高度に完成されたダングルベールや、大クープランの音楽などより、このシャンボニエールの作品に惹かれます。シャンボニエールは父も同名なのでややこしいですが、祖父と父とは王室礼拝堂のオルガニストとして活躍し、この息子は幼少の頃から優れた音楽的才能を発揮したといわれています。1638年には父の後を継ぎ、更に王室のクラヴサン奏者になっています。そして40代になると国王ルイ14世のクラヴサン教師になるなど彼は活動の絶頂期を迎え、その名声は国外にも知れ渡るようになります。ドイツにおけるクラヴィーアの組曲を確立させバッハへの道を拓いたフローベルガー(Johann Jakob Froberger 1616-67)にも大きな影響を与えています。彼の弟子にはフランス・バロック史上優れたクラヴサン奏者となったルイをはじめとするクープラン一族やダングルベールなどがいます。彼は1662年に王室クラヴサン奏者の地位をダングルベールに譲らざるをえなくなるのですが、一説ではその前年王室の宮廷作曲家(最高権力者)の地位に上り詰めたリュリの通奏低音奏者を断ったため、とも言われています。彼はまた踊りの名手でもあり、あの1653年に催された「国王の夜のバレ」にもルイ14世やリュリと共に踊り手として出演しています。その彼の音楽を集めたCD「シャンボニエール:クラヴサンのための作品集/フランソワーズ・ランジュレ(マーキュリー PC 10170)」がお勧めです。冒頭に置かれた「組曲 ニ長調」の美しさは絶品です。軽快で実に洗練されており、「アルマンド”ラ・ミニョンヌ”」と題された冒頭の和音を聴いただけですぐにその音楽に惹き込まれてしまいます。第5曲のサラバンドはさながらリュートのための音楽のようでもあり、続く終曲ジグも軽快で親しみやすい音楽です。彼は晩年2巻(60曲)からなるクラヴサン曲集を出版しましたが、これがフランスにおける最初のクラヴサン音楽の出版物と位置付けられています。このCDには5曲の組曲が収められていますが、前記の2巻の曲集に収められているのは2曲目の組曲ト短調のみで、演奏はすべて手稿譜に基づいています。それと一つ指摘しておかなければならないのは、この時代のフランスでは組曲といっても、音楽に一貫性があるわけではなく、便宜上同じ調性の舞曲をまとめたにすぎないので、それを生真面目に全部演奏することはあまり意味を持たないということです。例えばダングルベールの組曲など、一つの組曲に多いものでは20以上の舞曲が集められていたりするので、演奏者はその中のいくつかの舞曲を選んで一つの組曲を構成し演奏すればよい、とされています。しかしこれがドイツのフローベルガーに大きな影響を及ぼし、彼によって定型化されたクラヴィーアの組曲が生まれていくことになるのです。その意味からもシャンボニエールが果たした功績は非常に大きなものといえるでしょう。

 器楽の最後にオルガンの音楽を一つご紹介します。クラヴサンもオルガンも鍵盤音楽であり、作曲者によってはどちらで演奏すべきか指定していない楽曲もあって、よく両方で演奏されたりもします。ただ基本的にクラヴサンは世俗音音楽のためのものであり、オルガンは教会音楽のための楽器です。フランスのオルガン音楽もクラヴサン同様「ヴェルサイユ楽派」の音楽として輝かしい歴史を持っています。その発展の口火はティトゥルーズ(Jean Titelouze 1563-1633)によって開かれますが、17世紀の後半に入るとそれまでのポリフォニックな音楽から変わって、世俗音楽からの影響を大きく受けるようになります。オペラやバレの中で歌われる「レシ」(注)や、クラヴサン音楽の舞曲、同じくオペラのディアローグ(対話)やデュオ、トリオなどもオルガン音楽に組み込まれてきます。こうした音楽は主にニコラ・ルベーグ(Nicolas Lebegue 1631-1702)やギョーム・ニヴェール(Guillaume Gabriel Nivers 1632-1714)、ルイ・クープラン(Louis Couperin 1626頃-1661)らによって作られていきます。これによってフランスのオルガン様式が確立され、これは更に大クープラン、ニコラ・ド・グリニー(Nicolas de Grigny 1672-1703)、ルイ・マルシャン(Louis Marchand 1669-1732)らによってその黄金時代を迎えます。1690年大クープランが22歳の時に書いた「小教区のためのミサ曲」はフランス・バロック・オルガンの最高傑作といわれています。ただ今回私がここでご紹介したいのは、クープランではなく、その端緒ともなったルベーグの音楽です。彼はフランス北部の街ラオンの貧しい家に生まれ、若いうちにパリに出るやすぐに頭角を現し、1665年にサン=メリ教会のオルガニストになりますが、その3年後には王室礼拝堂のオルガニストに迎えられます。王室礼拝堂には4人のオルガニストがおり、春・夏・秋・冬の各シーズンごとに交代でその任に当たっていました。彼はオルガニストであるだけでなく、 優れたクラヴヴサン奏者であり、教育者、またオルガン 建造にもかかわっていました。彼はオルガンに多彩なス トップを導入し様々な音色を生み出すなどしてフランス ・バロック・オルガンの基礎を作りました。彼のオルガン のための組曲はプレリュードに始まり、各鍵盤(当時のオ ルガンは4段鍵盤が基本)を利用したデュオやトリオ、そしてトランペット、コルネット、クロモルヌなどのリード・ストップによるレシなど非常に多彩な音楽になっています。彼は全部で4巻からなるオルガン曲集を出版していますが、第1巻の序文に自作の演奏についていくつか注意書を記しています。その中で@「ひとつの組曲を全曲演奏する必要はなく、その時の宗教的なインスピレーションに合わせて曲の選択を自由にしてよいこと」、A「作曲者が指定したレジストレーションを忠実に守らなければいけないこと」、B「演奏者は練習に励むこと」などと書いていますが、@はクラヴサンでも同様な習慣があったことはご紹介しました。またABは何やらバッハを思わせる記述ではないでしょうか。このルベーグと並んで同時期に活躍したニヴェールのオルガン作品もそれに劣らず素晴らしいものです。彼はルベーグと共に4人の王室礼拝堂オルガニストのうちの1人でした。壮麗さという点ではニヴェールの方が勝っているようにも思います。この二人によってヴェルサイユ楽派のオルガン音楽の基礎が作られたのです。ヴェルサイユ楽派のオルガン組曲にはしばしば冒頭もしくは最後に「プラン・ジュー Plein-jeu」と呼ばれる華やかな楽曲が置かれますが、これは大きな音量を出すためいくつかのプリンシパル(銀色に輝く金属系のパイプ)を同時に開放して演奏するフル・オルガンでそのストップの組み合わせはほぼ定型化されていたようです。こうしてフランスには独特のオルガン芸術が花開き、これら多彩な音色を持つフランスのオルガン音楽と、トッカータに代表される華やかな技巧を誇るイタリアのオルガン音楽が、やがて融合しバッハの巨大なオルガン芸術がうまれていくことになります。ルベーグとニヴェールのオルガン音楽は「バロック・オルガン大全集V―フランス・ヴェルサイユ楽派編」(エラート R30E-586〜96)のCDに含まれており、演奏はマリー=クレール・アランやアンドレ・イソワール他です。これは現在入手することは難しいですが、形をかえて発売されたりもしており、入手が可能です(「マリー=クレール・アラン:フランスのオルガン音楽(エラート 22枚組)」他Naxosレーベルからも二人の作品を収録したCDが発売されています)。
(注) レシはレチタティーヴォと混同されがちですが、元来バレ・ド・クール(宮廷バレー)の各幕の冒頭で解説を行う伴奏つきの語り歌でした。それが17世紀初頭から独唱そのものをさすようになり、やがて器楽の独奏までもがレシと呼ばれるようになりました。オルガンの場合4段鍵盤のうちの4段目が右手の独奏(レシ)用ストップの鍵盤として半分だけの形になっていました。
 まだまだ他にご紹介したいCDはたくさんありますが、今回はあまり紹介されることの少ない音楽のCDを中心にご紹介しました。



[2009年1月〜2016年12月のコラム]
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2016/07/14 (木)  Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 (Y)
2016/04/03 (日)  Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 (X)
2015/12/16 (水)  Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 (W)
2015/08/30 (日)  Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 (V)
2015/06/12 (金)  Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 (U)
2015/04/05 (火)  Z. シャルパンティエとリュリのテ・デウム: ヴェルサイユ楽派の宗教音楽 (T)
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2009/01/08 (木)  ようこそ古楽の花園へ!

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