《バックナンバー》
ジャズとミステリーの日々  2006年9月〜2022年12月

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2022年12月某日  2022年海外ミステリ小説ベスト・テン
2022年10月某日  備忘録205 フィルム・ノワール落ち穂拾い その3
2022年10月某日  備忘録204 フィルム・ノワール落ち穂拾い その2
2022年10月某日  備忘録203 フィルム・ノワール落ち穂拾い その1
2022年9月某日  備忘録202 ジェームス・キャグニー主演の戦争スパイ映画
2022年9月某日  備忘録201 米国30年代の異色ギャング映画
2022年9月某日  備忘録200 加藤泰のヴァイオレンス映画
2022年9月某日  備忘録199 ゲイリー・クーパー主演のマイナーな映画 その3
2022年9月某日  備忘録198 ゲイリー・クーパー主演のマイナーな映画 その2
2022年8月某日  備忘録197 ゲイリー・クーパー主演のマイナーな映画 その1
2022年8月某日  備忘録196 バート・ランカスター主演の文芸映画 その2
2022年8月某日  備忘録195 バート・ランカスター主演の文芸映画 その1
2022年8月某日  備忘録194 カウリスマキの敗者3部作 その2
2022年8月某日  備忘録193 カウリスマキの敗者3部作 その1
2022年8月某日  備忘録192 ゲイリー・クーパーが主演した戦後の西部劇 その3
2022年8月某日  備忘録191 ゲイリー・クーパーが主演した戦後の西部劇 その2
2022年8月某日  備忘録190 60年前後のアメリカ音楽映画
2022年8月某日  備忘録189 ゲイリー・クーパーが主演した戦後の西部劇 その1
2022年8月某日  備忘録188 30年代のアメリカ映画
2022年7月某日  備忘録187 ロベール・ブレッソンの映画 その2
2022年7月某日  備忘録186 ロベール・ブレッソンの映画 その1
2022年7月某日  備忘録185 最近の映画
2022年7月某日  備忘録184 ベティ・デイヴィスの初期主演映画
2022年7月某日  備忘録183 ロバート・ミッチャムの主演映画
2022年7月某日  備忘録182 2本の異色フィルム・ノワール
2022年6月某日  備忘録181 成瀬巳喜男が手がけた2本のオムニバス映画
2022年6月某日  備忘録180 原節子の主演映画 その2
2022年6月某日  備忘録179 原節子の主演映画 その1
2022年6月25日  余談:ミステリー小説読後感想
        心に触れるアイルランドの風景、初老の男と子供の心の交流

2022年6月某日  備忘録178 川島雄三の映画 その2
2022年6月某日  備忘録177 川島雄三の映画 その1
2022年5月某日  備忘録176 ハワード・ホークスの映画 その3
2022年5月某日  備忘録175 ハワード・ホークスの映画 その2
2022年5月某日  備忘録174 ハワード・ホークスの映画 その1
2022年5月某日  備忘録173 ウィリアム・ワイラーの映画 その3
2022年5月某日  備忘録172 ウィリアム・ワイラーの映画 その2
2022年5月某日  備忘録171 ウィリアム・ワイラーの映画 その1
2022年5月某日  備忘録170 ジョン・フォードの映画 その4
2022年5月某日  備忘録169 ジョン・フォードの映画 その3
2022年5月某日  備忘録168 ジョン・フォードの映画 その2
2022年5月某日  備忘録167 ジョン・フォードの映画 その1
2022年5月8日  余談:『少年王者第10集 怪獣牙虎篇』を読んだ
2022年2月某日  備忘録161 懐かしの日本映画:大学の山賊たち、地獄の底までつき合うぜ
2022年2月某日  備忘録160 懐かしのイタリア映画:激しい季節、わらの男
2022年1月某日  備忘録159 三船敏郎の若き日の知られざる映画
2022年1月某日  備忘録158 ブレッソンの徹底して理解を拒む映画
2022年1月某日  備忘録157 アンドレ・カイヤットの映画 その2
2022年1月某日  備忘録156 アンドレ・カイヤットの映画 その1
2022年1月某日  備忘録155 50年代の西部劇 その2:ハサウェイとマテ
2022年1月某日  備忘録154 50年代の西部劇 その1:ブルックスとローランド
2021年12月某日  2021年海外ミステリー小説ベスト・テン
2021年12月某日  備忘録153 老女優が共演した滋味に富む逸品
2021年12月某日  備忘録152 ナチスと戦う戦争謀略映画
2021年12月某日  備忘録151 大川恵子が出演した2本の映画
2021年12月某日  備忘録150 ハンフリー・ボガートのフィルム・ノワール
2021年11月某日  備忘録149 50年代前期の異色日本映画
2021年11月某日  備忘録148 エリア・カザンの中後期作品
2021年11月某日  備忘録147 エリア・カザンの初期作品
2021年11月某日  備忘録146 大映の娯楽時代劇
2021年11月某日  備忘録145 最近の映画から
2021年10月某日  備忘録144 戦前戦後の音楽映画
2021年10月某日  備忘録143 市川雷蔵の代表作2本
2021年10月某日  備忘録142 日米の秀逸な軍事裁判映画
2021年10月某日  備忘録141 ドン・シーゲルの初期映画 その2
2021年10月某日  備忘録140 ドン・シーゲルの初期映画 その1
2021年10月某日  備忘録139 松本清張原作映画 その2
2021年10月某日  備忘録138 松本清張原作映画 その1
2021年10月某日  備忘録137 山田洋次の2本の初期映画
2021年9月某日  備忘録136 最近の映画から
2021年9月某日  備忘録135 ハリウッド50年代初期の名作
2021年9月某日  備忘録134 英国の宮廷劇と家庭劇
2021年9月某日  備忘録133 ハリウッド40年代後期の名作
2021年8月某日  備忘録132 大映の雷蔵時代劇
2021年7月某日  備忘録131 黄昏期の西部劇
2021年7月某日  備忘録130 黄金時代の西部劇
2021年6月某日  備忘録129 戦前・戦後の珍品日本映画
2021年6月某日  備忘録128 ルルーシュのヴァンチュラ主演映画
2021年6月某日  備忘録127 トリュフォーのアイリッシュ原作映画
2021年5月某日  備忘録126 最近の映画から
2021年5月某日  備忘録125 巨匠ムルナウの古典的サイレント映画
2021年5月某日  備忘録124 アメリカの古いスリラー映画
2021年5月某日  備忘録123 チェコの心に響く音楽映画
2021年5月某日  備忘録122 ロミー・シュナイダー主演映画を観る その4
2021年5月某日  備忘録121 ルイーズ・ブルックスに魅せられて その2
2021年5月某日  備忘録120 ルイーズ・ブルックスに魅せられて その1
2021年5月某日  備忘録119 フィルム・ノワールをさらに掘り起こす その3
2021年5月某日  備忘録118 フィルム・ノワールをさらに掘り起こす その2
2021年5月某日  備忘録117 フィルム・ノワールをさらに掘り起こす その1
2021年4月某日  備忘録116 ロミー・シュナイダー主演映画を観る その3
2021年4月某日  備忘録115 ロミー・シュナイダー主演映画を観る その2
2021年4月某日  備忘録114 スティーヴ・リーヴス主演イタリア製《剣と魔法》映画
2021年3月某日  備忘録113 ドイツ戦前派の巨匠パブストの2作
2021年3月某日  備忘録112 原節子が主演した「智恵子抄」
2021年2月某日  備忘録111 ジェームス・スチュアートとジャック・レモン
2021年2月某日  備忘録110 ジョン・ヒューストンの2本の異色作
2021年2月某日  備忘録109 中原ひとみとアンナ・カリーナ
2021年2月某日  備忘録108 サイレント時代のドイツの巨匠ムルナウを観る
2021年2月某日  備忘録107 ロミー・シュナイダー主演映画を観る その1
2021年2月某日  備忘録106 90年代の新感覚ドイツ映画
2021年1月某日  備忘録105 40年代のフィルム・ノワール その4
2021年1月某日  備忘録104 三船敏郎のドキュメンタリー・ビデオ
2021年1月某日  備忘録103 レスターとパウエルのレアなドキュメンタリー映像
2020年12月某日  2020年海外ミステリー小説ベスト・テン
2020年12月某日  備忘録102 40年代のフィルム・ノワール その3
2020年12月某日  備忘録102 40年代のフィルム・ノワール その2
2020年12月某日  備忘録101 40年代のフィルム・ノワール その1
2020年12月某日  備忘録100 確かな腕の職人監督千葉泰樹の映画3作
2020年12月某日  備忘録99 豊田四郎監督の文芸映画2作
2020年12月某日  備忘録98 成瀬巳喜男の後期の賛否を呼ぶ家族映画2本
2020年12月某日  備忘録97 成瀬巳喜男の夫婦もの3部作を構成する2本
2020年12月某日  備忘録96 キャグニーが真価を発揮したアクション映画
2020年12月某日  備忘録95 好漢ジェームズ・キャグニーのギャング映画代表作
2020年11月某日  備忘録94 さっぱり良さが分からないゴダール映画
2020年11月某日  備忘録93 奇妙だが抗しがたい魅力を放つカウリスマキの映画
2020年11月某日  備忘録92 老いてなお風格を漂わせるジャン・ギャバンの2作
2020年11月某日  備忘録91 50年代後期、成瀬巳喜男と原節子の異色作
2020年11月某日  備忘録90 50年代半ば、黒澤明脚本の逸品2作
2020年11月某日  備忘録89 フィルム・ノワールの名品2作
2020年10月某日  備忘録88 フェデーとカルネの古典的名作
2020年10月某日  備忘録87 デュヴィヴィエの戦前の代表作2本
2020年9月某日  備忘録86 クルーゾーの初期と後期の2本の映画
2020年9月某日  備忘録85 ジャン・ギャバンのメグレ警視もの2本
2020年9月某日  備忘録84 ジャン・ギャバン50年代の犯罪映画2本
2020年9月某日  備忘録83 ブレッソンの迫真的な脱獄映画
2020年9月某日  備忘録82 フランジュの荒唐無稽な活劇映画「ジュデックス」
2020年9月某日  備忘録81 ジョルジュ・フランジュの衝撃作「顔のない眼」
2020年9月某日  備忘録80 トリュフォーによる2本の映画
2020年9月某日  備忘録79 ジャック・フェデーの古典的名作
2020年9月某日  備忘録78 シャブロルの初期の映画3本
2020年9月某日  備忘録77 ブレッソンの独自性が発揮された中期の映画
2020年9月某日  備忘録76 ロベール・ブレッソンの初期映画2本
2020年9月某日  備忘録75 リノ・ヴァンチュラのアクション映画〜その2
2020年9月某日  備忘録74 リノ・ヴァンチュラのアクション映画〜その1
2020年9月某日  備忘録73 モダン・ジャズを使ったフランス往年の犯罪映画
2020年8月某日  備忘録72 ロベール・アンリコ晩年の2作品
2020年8月某日  備忘録71 40年代後期のギャバンの主演作2本
2020年8月某日  備忘録70 ジェラール・フィリップ主演の2作品
2020年8月某日  備忘録69 カルネ&ギャバン・コンビの代表作「霧の波止場」
2020年8月某日  備忘録68 ヴィスコンティの「異邦人」
2020年7月某日  備忘録67 ジャック・ベッケル後期の名品2作
2020年7月某日  備忘録66 ジャック・ベッケル初期の凡作2本
2020年7月某日  備忘録65 ルネ・クレマンとアラン・ドロンのコンビによる2作
2020年7月某日  備忘録64 ルイス・ブニュエルの珍作と名作
2020年7月某日  備忘録63 シモーヌ・シニョレとシャルル・アズナブール
2020年7月某日  備忘録62 原節子が出演した戦前映画を見る その4
2020年7月某日  備忘録61 ピア・アンジェリの初主演作
2020年7月某日  備忘録60 “怒れる若者たち”の映画
2020年7月某日  備忘録59 40年代の2本のフィルム・ノワール
2020年7月某日  備忘録58 原節子が出演した戦前映画を見る その3
2020年7月某日  備忘録57 原節子が出演した戦前映画を見る その2
2020年7月某日  備忘録56 原節子が出演した戦前映画を見る その1
2020年6月某日  備忘録55 戦後のデュヴィヴィエの犯罪サスペンス映画 その2
2020年6月某日  備忘録54 戦後のデュヴィヴィエの犯罪サスペンス映画 その1
2020年6月某日  備忘録53 得るものがほとんどなかった2冊の映画本
2020年6月某日  備忘録53 フリッツ・ラングの初期の珍作と晩年の怪作
2020年6月某日  備忘録53 50年代初期フリッツ・ラングのフィルム・ノワール
2020年6月某日  備忘録53 「デデという娼婦」シモーヌ・シニョレの暗い情念
2020年6月某日  備忘録52 メルヴィルの日本未公開作品2作
2020年6月某日  備忘録51 40年代後半の対照的なフランス映画2本
2020年6月某日  備忘録50 日仏の興味深い映画ドキュメンタリー2本
2020年6月某日  備忘録49 50年代の地味なフランス映画
2020年6月某日  備忘録48 ルネ・クレマンの初期作品2本
2020年6月某日  備忘録47 戦後民主主義の教条映画
2020年6月某日  備忘録46 伊丹万作のコメディ2本
2020年6月某日  備忘録45 グレアム・グリーン原作の2本
2020年6月某日  備忘録44 ロバート・アルドリッチの隠れた逸品2本
2020年6月某日  備忘録43 ノワール風味の作品2本
2020年6月某日  備忘録42 市川崑の50年代風刺映画
2020年6月某日  備忘録41 戦前の時代劇2作
2020年5月某日  備忘録40 見逃していたルノワールとデュヴィヴィエ
2020年5月某日  備忘録39 原節子の戦前作と芦川いづみの初期作
2020年5月某日  備忘録38 ルノワールの未見映画を制覇する〜その6
2020年5月某日  備忘録37 ルノワールの未見映画を制覇する〜その5
2020年5月某日  備忘録36 ルノワールの未見映画を制覇する〜その4
2020年5月某日  備忘録35 ルノワールの未見映画を制覇する〜その3
2020年5月某日  備忘録34 ルノワールの未見映画を制覇する〜その2
2020年5月某日  備忘録33 ルノワールの未見映画を制覇する〜その1
2020年5月某日  備忘録32 成瀬巳喜男の戦前未見映画を制覇する〜その3
2020年5月某日  備忘録32 成瀬巳喜男の戦前未見映画を制覇する〜その2
2020年5月某日  備忘録31 成瀬巳喜男の戦前未見映画を制覇する〜その1
2020年5月某日  備忘録30 トリュフォーによる後期の2作
2020年5月某日  備忘録29 心に残った最近の2本の映画
2020年5月某日  備忘録28 グールディングの手腕が光る40年代の2作
2020年5月某日  備忘録27 ドイツ時代のフリッツ・ラングの2作
2020年5月某日  備忘録26 ドイツの表現主義と映画人の亡命を追う2本のドキュメンタリー
2020年5月某日  備忘録25 久松静児の代表作2本
2020年5月某日  備忘録24 ベティカーの「七人の無頼漢」をようやく鑑賞
2020年5月某日  備忘録23 ジェーン・フォンダとフェイ・ダナウェイ
2020年5月某日  備忘録22 70年代米国の話題作2本を再見
2020年5月某日  備忘録21 溝口のドキュメンタリー映画とドイツの歴史的映画
2020年5月某日  備忘録20 成瀬巳喜男の無名の作品3本
2020年5月某日  備忘録19 「カッコーの巣の上で」
2020年5月某日  備忘録18 木下恵介の2作、「夕やけ雲」と「肖像」
2020年5月某日  備忘録17 若きピア・アンジェリが美しい「The Light Touch」
2020年5月某日  備忘録16 オフュルスの流麗なカメラ「たそがれの女心」
2020年5月某日  備忘録15 50年代の知られざる日本映画
2020年5月某日  備忘録14 60年代と70年代の逸品米映画
2020年5月某日  備忘録13 成瀬巳喜男の2作、名品「秋立ちぬ」に涙する
2020年4月某日  映画備忘録 12 シオドマクとベティカーの初期作品
2020年4月某日  映画備忘録 11 初期のマンキウィッツ作品2本
2020年4月某日  映画備忘録 10 隠れた名作、山田と三船の「下町」
2020年4月某日  映画備忘録 9 ジョセフ・ロージー70年代
2020年4月某日  映画備忘録 8 ジョセフ・ロージー60年代
2020年4月某日  映画備忘録 7 3本の異色日本映画
2020年4月某日  映画備忘録 6 渋いフィルム・ノワール3本
2020年4月某日  映画備忘録 5 「欲望の砂漠」と「大いなる夜」
2020年4月某日  映画備忘録 4 溝口健二の2作
2020年4月某日  映画備忘録 3 ヴィスコンティの2作
2020年4月某日  映画備忘録 2 芦川いづみの2作ともう1本
2020年4月某日  映画備忘録 1 原節子の2作
2019/12/26 (木)  2019年ミステリー&映画ベスト10
2019/04/03 (水)  新元号について思う
2019/01/11 (金)  2018年ミステリー&映画ベスト10
2018/06/16 (土)  ポーランドという国
2017/12/30 (土)  2017年ミステリー&映画ベスト10
2017/10/24 (火)  衆院選挙雑感
2017/01/10 (火)  年始雑感
2016/12/26 (月)  2016年海外映画ベスト10
2016/12/22 (木)  2016年海外ミステリー・ベスト10
2016/10/10 (月)  5月のバルト3国ではバード・チェリーが花開いていた
2016/09/03 (土)  若きサッチモが活躍する異色ジャズ・ミステリー
2016/08/20 (土)  リオ五輪で吉田沙保里選手が流した涙
2016/08/09 (火)  天皇の「お気持ち表明」を聞いて感じたこと
2016/08/06 (土)  北朝鮮のミサイル攻撃
2016/08/03 (水)  天皇の生前退位表明
2016/07/28 (木)  クーデター未遂事件後のトルコの行く末
2016/06/25 (土)  英国のEU離脱とナショナリズムの台頭
2016/05/29 (土)  オバマ大統領の広島での演説に思う
2016/04/16 (土)  あのリスベットが帰ってきた、『ミレニアム4』とともに
2016/04/02 (土)  秘話が明かされるブラウニーのドキュメンタリーDVD
2016/02/28 (日)  昨年公開の外国映画ベストテン
2016/02/14 (日)  「夜は千の眼を持つ」をめぐって
2016/01/30 (土)  ベルリンの壁と冷戦
2016/01/16 (土)  年始雑感
2015/12/28 (月)  2015年海外ミステリー・ベスト10
2015/12/16 (水)  最大の不正と欺瞞を生み出しているのは安倍政権だ
2015/11/29 (日)  追想の原節子
2015/02/15 (日)  2014年海外ミステリー&映画ベスト10
2014/11/20 (木)  健さんが死んでしまった
2014/06/22 (日)  6月のリスボンではジャカランダの花が咲く
2014/05/26 (月)  日本が危ない
2014/05/18 (日)  2013年海外ミステリー・ベスト10
2014/05/10 (土)  春を寿ぐジャズ
2013/09/12 (木)  藤圭子が逝ってしまった
2013/07/26 (金)  ジャズ・ヴォーカル・ベスト3
2013/07/14 (日)  ニコラス・W・レフンの「ドライヴ」は凄い映画だ
2013/07/07 (日)  暗殺者の正義
2013/06/28 (金)  桜井ユタカさんの思い出
2013/01/18 (金)  2012年海外映画ベスト10
2012/12/16 (日)  2012年海外ミステリー・ベスト10
2012/12/08 (土)  映画「アルゴ」とイラン米大使館員人質事件の真実
2012/11/29 (木)  アメリカの裏の世界をテーマにした2冊のミステリ小説
2012/11/15 (木)  維新の会のお粗末さと維新八策の空虚な中身
2012/11/01 (木)  都知事を辞職して我執と老醜をさらす石原慎太郎
2012/10/24 (水)  週刊朝日の「ハシシタ」報道をめぐって
2012/10/22 (月)  野田政権の末期的症状
2012/09/22 (土)  危機的な日中関係に手をこまねくだけの無能な野田政権
2012/09/10 (月)  『花かげ』 その2
2012/09/09 (日)  『花かげ』 その1
2012/08/31 (金)  オスプレイ配備反対運動はなぜ盛り上がらないのか
2012/08/22 (火)  領土問題と日本のとるべき道
2012/07/31 (火)  久しぶりにすぐれた冒険小説の書き手が登場した
2012/07/14 (土)  佐々部清監督と同席した至福の5時間
2012/06/28 (木)  小沢一郎よ奮起の時だ、民主党は自滅せよ
2012/02/17 (金)  ホイットニー・ヒューストンが死んだ
2012/02/08 (水)  橋下徹信者たちの異常な行動
2012/01/31 (火)  橋下徹大阪市長の言動への違和感
2012/01/11 (水)  帰って来たナチス・ドイツの探偵ベルンハルト・グンター
2011/12/27 (火)  年末雑感〜さらば民主党
2011/12/17 (土)  2011年海外映画ベスト10
2011/12/10 (土)  2011年海外ミステリー・ベスト10
2011/11/19 (土)  トルコという国
2011/10/29 (土)  だけど・・・美しい
2011/06/14 (火)  永見緋太郎の事件簿
2011/06/02 (木)  『人生譜』
2011/05/16 (月)  彼らはただ去っていく、ムーンライト・マイルの彼方に
2011/05/01 (日)  脱原発の気運が盛り上がらないのはなぜか
2011/04/23 (土)  『何人に対しても悪意を抱かず』
2011/04/16 (土)  石原都知事4選に思う
2011/04/14 (木)  原発事故に関する海外での風評とアメリカ頼みの復旧対策
2011/04/02 (土)  東電と癒着した原子力安全委員会の手抜き管理が原発事故を生んだ
2011/03/29 (火)  震災にまつわる言動で醜悪さを露呈した3人
2011/03/21 (月)  原発事故の真の原因は、ずさんな原発政策にある
2011/03/19 (土)  大地震被災地救援の遅れは許しがたい
2010/12/29 (水)  2010年海外映画ベスト10
2010/12/26 (日)  2010年海外ミステリー・ベスト10
2010/12/22 (水)  ジャコの魂に触れる
2010/12/19 (日)  フランキー・マシーンに春は来るのか
2010/11/07 (日)  巻き込まれ型サスペンス・ミステリーの面白さ
2010/10/31 (日)  リスベットの圧倒的な存在感の前ではすべてが霞んでしまう
2010/10/24 (日)  感涙を誘うブラウニー若き日の破天荒な演奏
2010/10/17 (日)  再訪、黄昏の大英帝国
2010/10/10 (日)  凶悪な少女売買組織を殲滅し、アティカスは去って行った
2010/10/03 (日)  武家社会に生きる男たちの戦いが胸を熱くする
2010/09/26 (日)  マーカス・ミラーと交響楽団の共演を堪能した一日
2010/09/19 (日)  少年と刑事の崩壊した家庭に救いは訪れるのか
2010/09/12 (日)  長崎の四海楼で太麺皿うどんを食べた
2010/07/25 (日)  相撲界汚染報道の影でのさばる巨悪
2010/07/19 (月)  混迷する政治に打開の手立てはあるのか
2010/06/29 (火)  天木直人著『さらば日米同盟』が指し示す日本のとるべき道
2010/06/21 (月)  国民を裏切る菅新首相の露骨な現実路線
2010/06/12 (土)  ユダヤとイスラムの対立にほの見える、かすかな希望
2010/06/02 (水)  マスコミが黙殺する2つの疑惑――その2「官房機密費の使途」
2010/06/01 (火)  マスコミが黙殺する2つの疑惑――その1「創価学会と後藤組」
2010/05/25 (火)  沖縄基地問題で放置される日米同盟に関する論議
2010/05/24 (月)  米軍クラスター弾投下訓練と韓国艦沈没事件
2010/05/17 (月)  エコー・パークに幽かに響くモンクとコルトレーン
2010/03/22 (月)  ひたすら逃げる“祖国なき男”のたどる道は
2010/03/11 (木)  洋楽曲名あれこれ――その3「ジャズ・スタンダード」
2010/03/04 (木)  2つの涙
2010/03/01 (月)  洋楽曲名あれこれ――その2
2010/02/22 (月)  洋楽曲名あれこれ
2010/02/16 (火)  耐える男の美しさを描き続けたディック・フランシス
2009/12/26 (土)  2009年映画ベスト10
2009/12/20 (日)  2009年海外ミステリー・ベスト10
2009/12/11 (金)  「少年王者」――幻の「怪獣牙虎篇」
2009/11/29 (日)  永遠のスター、中村錦之助
2009/11/15 (日)  山川惣治の「少年王者」が愛と勇気を教えてくれた
2009/10/19 (月)  美空ひばり考
2009/10/08 (木)  “犬の力”に突き動かされた人々がたどる運命は
2009/09/18 (金)  黄昏の大英帝国
2009/08/31 (月)  総選挙で圧勝した民主党に期待する
2009/08/28 (金)  クリフォード・ブラウンの2枚のレアCD
2009/08/07 (金)  ジャンゴの洒脱とフレディの熱気
2009/07/30 (木)  「野望」と「復讐」をテーマにした2冊の本
2009/07/24 (金)  植草一秀氏の痴漢冤罪事件と最高裁の不当判決
2009/07/16 (木)  醜さをさらけ出す末路の自民党
2009/07/09 (木)  ジェファーソン・ボトルをめぐる謎と騒動
2009/07/02 (木)  村上春樹について思うこと
2009/02/18 (水)  五輪招致、築地移転という石原の愚挙に怒リの声を
2009/02/16 (月)  小泉発言を過大報道するマスコミの荒廃と堕落
2009/01/31 (土)  フレディ・ハバードの思い出――その2
2009/01/29 (木)  フレディ・ハバードの思い出――その1
2009/01/25 (日)  イスラエルのガザ攻撃とオバマ新政権
2009/01/23 (金)  オバマの大統領就任に思う
2009/01/21 (水)  官僚も政治もメディアもみんな劣化している――その2
2009/01/20 (火)  官僚も政治もメディアもみんな劣化している――その1
2008/12/30 (火)  読み逃していた久々の傑作冒険小説
2008/12/26 (金)  映画ベスト・テン2008
2008/12/22 (月)  ジャズ・ベスト・テン2008
2008/12/20 (土)  今年、心を動かされた2冊のノンフィクション
2008/12/18 (木)  ミステリー・ベスト・テン2008
2008/11/27 (木)  ボデイガードから逸脱したアティカスはどこに行くのか
2008/11/18 (火)  田母神論文から見えてくる異常な風景
2008/11/15 (土)  給付金問題で麻生首相の見識のなさがさらけ出された
2008/11/09 (日)  B級アクションの面白さを満喫できる2本の洋画
2008/10/30 (木)  銀行ギャングとカンサス・シティ・ジャズ
2008/10/22 (月)  破滅に向って突き進む兄弟――ルメットの圧倒的な新作映画
2008/10/06 (月)  7年ぶりのフロスト警部シリーズの新作を堪能
2008/09/30 (火)  ポール・ニューマンの思い出
2008/09/19 (金)  心惹かれるクラウス・オガーマンのニュー・アルバム
2008/09/04 (木)  日本を舞台にしたハンターの新作にがっくり
2008/08/01 (金)  ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」が解き明かす真実
2008/07/23 (水)  9.11テロはアメリカの陰謀だったのか
2008/07/16 (水)  資本主義の末期的症状が露呈している
2008/07/10 (木)  民主党のアキレス腱、前原誠司
2008/07/04 (金)  官僚と自公政治家の劣悪さ加減
2008/06/30 (月)  痛風発症顛末記
2008/05/19 (月)  「長いお別れ」と「ロング・グッドバイ」
2008/05/12 (月)  ヴァネッサ・レッドグレイヴの2本の新作映画
2008/05/05 (月)  違憲判決はなぜ下せないのか――日本の裁判制度(その3)
2008/04/27 (日)  裁判官の過ちは誰が裁くのか――日本の裁判制度(その2)
2008/04/25 (金)  いまの日本の裁判制度はこれでいいのか(その1)
2008/03/29 (土)  ジャズ・コンポーザー、ファンタジー小説、フィルム・ノワール
2008/03/17 (月)  新銀行東京 責任逃れに終始する石原都知事の醜さ
2008/03/14 (金)  孤独と妄執の作家、ウィリアム・アイリッシュ
2008/01/24 (木)  団塊オヤジのヒーローはビートルズなんかじゃない
2008/01/19 (土)  ペリー・コモの思い出
2007/12/26 (水)  今年のミステリーは「キューバ・コネクション」が1位だ
2007/12/10 (月)  太麺皿うどんにはまる
2007/12/06 (木)  W.C.フィールズ語録
2007/11/25 (日)  新たに発掘されたジャコの驚くべき演奏
2007/11/05 (月)  ギリシャで見た虹は大きかった
2007/11/03 (土)  女暗殺者タラ・チェイスはアラブに向かう
2007/11/01 (木)  目をくぎ付けにする迫力満点のコルトレーンのDVD
2007/10/06 (土)  刑事に復職したハリー・ボッシュを待っていた事件は
2007/10/04 (木)  ベラ――日本にも本物のレディ・ソウルがいた
2007/09/29 (土)  暗いベルリンと明るいプロヴァンス
2007/09/17 (月)  忘れられた作家 W.P.マッギヴァーン
2007/09/14 (金)  ハードボイルドの戦後史
2007/09/11 (火)  もうひとつの「カサブランカ」
2007/07/31 (火)  米国ネオコンの陰謀を図書館員は阻止できるか
2007/07/18 (水)  酔余の果てのジャズ・トーク
2007/07/16 (月)  むかしバニー・ベリガンというトランペッターがいた――その2
2007/07/15 (日)  むかしバニー・ベリガンというトランペッターがいた――その1
2007/07/12 (木)  ジャズとエロティシズム
2007/07/08 (日)  今年の翻訳ミステリーは不作、でも掘り出し物もあるぞ
2007/07/07 (土)  クリフォード・ブラウンのプライヴェート盤
2007/07/06 (金)  最近のアクション映画はけっこうおもしろい
2007/06/07 (木)  ロイ・ヘインズのドラミングに酔った一夜
2007/05/20 (日)  この国のゆくえ
2007/05/15 (火)  黒澤明の空白の5年間
2007/01/08 (月)  ディック・フランシス6年ぶりの新作に拍手
2006/12/17 (日)  ミステリー・ランキングの好ましからぬ風潮に喝!
2006/12/03 (日)  最近のヴォーカル・アルバム――グラディス・ナイトと水林史
2006/11/12 (日)  藤沢周平の映画化作品をめぐって
2006/11/11 (土)  バルセロナを吹く風には影があったか
2006/11/10 (金)  サンセット77のロジャー・スミスは颯爽としていた
2006/11/05 (日)  ラッシュ・ライフに込められたストレイホーンの悲痛な思い
2006/10/15 (日)  チンドンとバルカンが融け合うとき
2006/10/14 (土)  TWA800便墜落の真相は究明されたか
2006/10/10 (火)  クリフォード・ブラウン断章
2006/10/09 (月)  カリフォルニア・ワインとヴァージニア・マドセン
2006/09/22 (金)  ガルヴェストンの殺し屋の血はいつ鎮まるのか
2006/09/21 (木)  真のコスモポリタン、ザヴィヌル
2006/09/09 (土)  ミュンヘン行き夜行列車の乗り心地は
2006/09/03 (日)  ブガッティは占領下のパリを疾走したか
2006/09/02 (土)  コルトレーン異論
2006/09/01 (金)  ハリー・ボッシュはどこに行くのか

2022年12月

2022年12月某日  2022年海外ミステリ小説ベスト・テン

1「捜索者」タナ・フレンチ(早川文庫)
2「嵐の地平」C・J・ボックス(創元文庫)
3「ネヴァー」ケン・フォレット(扶桑社文庫)
4「プロジェクト・ヘイル・メアリー」アンディ・ウィア(早川書房)
5「われら闇より天を見る」クリス・ウィタカー(早川書房)
6「アリスが語らないことは」ピーター・スワンソン(創元文庫)
7「ベルリンに墜ちる闇」サイモン・スカロウ(早川文庫)
8「ロンドン・アイの謎」シヴォーン・ダウド(創元社)
9「潔白の法則」マイクル・コナリー(講談社文庫)
10「天使の傷」マイケル・ロボサム(早川文庫)


2022年10月

2022年10月某日  備忘録205 フィルム・ノワール落ち穂拾い その3

脱獄者の叫び Cry of the Hunted
1953米 ジョセフ・H・ルイス 評点【C】
これはフィルム・ノワールと言うよりクライム・アクション映画に近い。ルイジアナの沼地に逃げた脱獄囚と彼を追跡する警官の追いつ追われつの活劇と、そのなかで芽生える彼らの友情を描く。主演はヴィットリオ・ガスマンとバリー・サリヴァン。小粒な映画だが、さすがに名手J・H・ルイス、小気味いいテンポで間延びさせない

見知らぬ訪問者 Phone Call from a Stranger
1952米 ジーン・ネグレスコ 評点【B】
これも題名から受ける印象とは異なってフィルム・ノワールではなく、一種の人情話だ。ナナリー・ジョンソンの脚本がよく出来ている。空港で4人の男女が知り合い、仲良くなる。彼らの乗った飛行機が墜落し、生き残った男ゲイリー・メリルが他の3人の遺族を訪ね、フラッシュバックで彼らの家庭の様子が描かれる。大筋は「舞踏会の手帖」を想起させる。4人の男女のひとりにシェリー・ウィンタース、遺族のひとりで下半身不随の女性にベティ・デイヴィスが扮する。男は最後に自宅に帰り、分かれようと思っていた妻とよりを戻す。

2022年10月某日  備忘録204 フィルム・ノワール落ち穂拾い その2

桃色の馬に乗れ Ride the Pink Horse
1947米 ロバート・モンゴメリー 評点【C】
「湖中の女」同様、ロバート・モンゴメリーが監督・主演を務めるフィルム・ノワール。メキシコの田舎町を舞台にした不思議な味わいの映画だが、出来はいまいち。モンゴメリーは殺された戦友の小切手をネタにしてギャングから金をゆすり取ろうとする男を演じる。奇妙な題名は、彼に付きまとう少女が乗るメリーゴーラウンドの馬に由来する。

狂った殺人計画 Impact
1949米 アーサー・ルービン 評点【B】
B級フィルム・ノワールだが、なかなかの掘り出し物。主演のブライアン・ドンレヴィとエラ・レインズがじつにいい味を出している。善良な会社社長ドンレヴィが悪妻の陰謀により偽装交通事故で殺されかけるが生き延び、田舎町でガソリンスタンドの女オーナー、レインズに雇われて車修理工として働き始め、第2の人生を送るが、やがて復讐するため妻の前に現れる、というストーリー。終盤は裁判劇になる。「幻の女」のヒロイン、レインズがじつにきれいだ。顔立ちに気品があり切れ長の目が魅力を放っている。

2022年10月某日  備忘録203 フィルム・ノワール落ち穂拾い その1

暗黒街の復讐 I Walk Alone
1947米 バイロン・ハスキン 評点【C】
若き日のバート・ランカスターとカーク・ダグラスが初共演したフィルム・ノワール。刑期を終えて出所したランカスターは、元相棒のクラブ・オーナー、ダグラスに分け前をよこせと迫るが、裏切られて怒りを爆発させる。ダグラスの愛人だがのちにランカスターになびくファム・ファタール役のクラブ歌手をリザベス・スコットが演じる。ダグラスはデビューしてしばらくは、このような卑劣な悪人の役ばかりやっていた。映画としてはちょっと間延びしており、いまいち盛り上がりに欠ける。

犯人を逃がすな Cry Danger
1951米 ロバート・パリッシュ 評点【C】
冤罪で服役していた男が出所し、真犯人と消えた金のありかを探す話。それに刑事や義足の元海兵隊員や悪党の酒場オーナーがからむ。主演はディック・パウエル、ファム・ファタールの悪女にロンダ・フレミングが扮する。冒頭、ロサンジェルスに着いた列車からパウエルが降り立ち、駅のホームから地下道へと歩くシーンはなかなかカッコいいが、そのあとのトレーラーハウスに住んでから以降の展開が緩く、尻すぼみ気味。


2022年9月

2022年9月某日  備忘録202 ジェームス・キャグニー主演の戦争スパイ映画

血に染まる太陽
1945米 フランク・ロイド 評点【C】
太平洋戦争前夜の日本を舞台にしたスパイ映画だが、珍品の部類に入るだろう。発売されたビデオでは「東京スパイ大作戦」というとんでもない邦題になっていた。原題は「Blood on the Sun」。このSunは日出ずる国、日本のことだろう。主演のジェームス・キャグニーは東京の英字新聞の編集長で、彼が日本の謀略を暴こうと暗躍する話。上海から来た謎の美女に懐かしのシルヴィア・シドニーが扮する。キャグニーは日本精神に通じており、柔道の達人という設定で、道場での稽古や乱闘シーンで背負い投げや足払いで相手を投げ飛ばす。撮影されたのはハリウッドのスタジオであろう。東洋人がたくさん登場し、カタコトの日本語を話すのがおかしい。さらに、世界征服の野望を抱く田中義一首相、その副官の東条英機大佐が登場して密議を巡らすのも珍妙そのもの(俳優たちの顔は実物に似ていなくもない)。キャグニーの部屋の壁に天皇の写真が飾ってあり、キャグニーは秘密の情報が書かれた文書を、ここなら大丈夫だろうと考えてその写真の裏に隠し、部屋を捜査しに来た日本の官憲は写真の前で最敬礼して通り過ぎる、というシークエンスも笑いを誘う。そのほか、香港風の夜店の様子や、田中首相が天皇陛下に申し訳ないと派手に飾り立てられた部屋で切腹する場面など、ずっこけシーンは随所にある。ストーリーとして辻褄の合わない箇所が多く、内容は三流だが、コメディ映画としてみればじつに面白いと言える。

鮮血の情報
1947米 ヘンリー・ハサウェイ 評点【B】
第2次大戦中のOSSの活動と情報部員たちの決死の行動を描いたスパイ映画。原題の「マドレーヌ街13番地」はナチ占領下のフランス、ルアーヴルのゲシュタポ本部の住所だ。ジェームス・キャグニーはベテラン情報員で新米情報員を指導する教官を演じる。新米情報員のひとりに戦前の日本の映画ファンの心を捉えた古き良き時代のフランス女優アナベラが、情報部に潜入したナチのスパイに悪役専門のリチャード・コンテが扮する。新米情報員たちは厳しい訓練を終えてナチ占領下のフランスに赴くが、不測の事態が生じて教官のキャグニーが自らフランスに潜入し、レジスタンスの助けを得て使命を果たそうとする。前半はドキュメンタリー風に描かれるが、このあたりから映画は緊迫感をはらんでいく。このころキャグニーは40代終りだが、台詞も身のこなしも若い頃と同様、歯切れ良くスピーディだ。「血に染まる太陽」とは打って変わったスリリングなスパイ映画であり、常套的なハッピーエンドで終らないのもリアリティを感じさせる。

2022年9月某日  備忘録201 米国30年代の異色ギャング映画

Gメン
1935米 ウィリアム・キーリー 評点【B】
ギャング映画全盛期のジェームス・キャグニー主演作のひとつ。ここでは初期のFBIの活動が描かれており、キャグニーはギャングではなく、彼らを摘発するFBI捜査員を演じる。おそらく、多数作られたGメン映画の先駆けとなった作品だろう。ギャング映画で儲けていたワーナーが批判を逸らすためにこれを作ったと言われている。友人のFBI職員がギャングに殺され、売れない弁護士のキャグニーは奮起してFBIに入局し、銀行強盗一味にを追跡する。キャグニーを巡って、弁護士時代のガールフレンドであるキャバレーの踊り子と、FBIに入って彼が惚れる上司の妹という二人の女が登場する。踊り子に扮するのが30〜40年代に活躍した妖艶な美女アン・ドヴォラック。ドヴォルザークと同じ名前(Dvorak)なのでチェコ系であろう。いかにもハリウッドらしいハッピーエンド映画だが、キャグニーの軽快なフットワークとテンポのいい場面展開、洒落た会話、迫力ある銃撃戦により、見応えのある作品になっている。

銃弾か投票か
1936米 ウィリアム・キーリー 評点【C】
これもワーナーのギャング映画のひとつだが、「Gメン」と同じく警察の捜査官を軸として描かれており、またギャング役で名をなしたエドワード・G・ロビンソンが刑事を演ずるという点でも「Gメン」におけるキャグニーと軌を一にしている。ニューヨーク市警の刑事ロビンソンが警察をクビになったと偽装してギャングの組織に潜入し、悪の親玉を暴く物語。ロビンソンの恋人役のバーのマダムにジョーン・ブロンデルが扮している。ギャング組織のNo.2でロビンソンと対決する悪辣非情な男をハンフリー・ボガートが演じる。このころのボガートはギャング映画の悪役専門の俳優だった。ロビンソンの巧さと存在感が際立っており、内容もスピーディな展開で見る者を飽きさせない。

2022年9月某日  備忘録200 加藤泰のヴァイオレンス映画

懲役十八年
1967東映 加藤泰 評点【B】
いま「加藤泰、映画を語る」という本を読んでいる。それで加藤泰の全盛期のこの2本の映画が未見だったことを思い出した。これは安藤昇主演の暴力映画。戦後の混乱期、特攻生き残りの男たちが戦死者の遺族を救うためマーケットを作ろうとしている。リーダーの安藤昇が副リーダーの小池朝男にあとを託して刑務所に入る。だが小池が遺族を締め出し私腹を肥やしていることを知った安藤は、脱獄して小池に復讐するという話。これに、安藤が慕う遺族の娘桜町弘子との交流、同房のやくざ水島道太郎との友情、鬼のような看守若山富三郎との確執が絡む。自身が特攻志願兵だった安藤はさすがの貫禄、時代劇のお姫様役だった桜町もなかなかの熱演、野良犬のようなチンピラに扮する近藤正臣もいい。

みな殺しの霊歌
1968松竹 加藤泰 評点【C】
逃亡中の殺人犯が、心を通わせ合った少年を輪姦して自殺に追い込んだ5人の女に復讐するため次々に殺していく物語。警察の捜査と犯人の犯行が交互に描かれる。主演の殺人犯に佐藤允、彼が惹かれる食堂のウェイトレスに倍賞千恵子が扮する。ウールリッチの「黒衣の花嫁」の男性版といった内容の作品であり、和製フィルム・ノワールの趣があるが、筋立ての不合理さ、辻褄の合わなさが目立つし、暴力性と取って付けたような感傷性が過剰で、やや辟易する。倍賞千恵子の可愛さが際立つ。構成に山田洋次が参加している。

2022年9月某日  備忘録199 ゲイリー・クーパー主演のマイナーな映画 その3

機動部隊
1949年米 デルマー・デイヴス 評点【C】
「摩天楼」と同年に制作された、太平洋戦争における米海軍空母部隊の活動を描く戦争映画。ゲイリー・クーパーは空母パイロットの士官で、やがては空母を指揮して日本軍と戦う男を演じる。映画は艦長のクーパーが退任して空母から降りるシーンで始まり、彼の若きの日の回想というかたちで物語が綴られる。前半の話しの流れはジョン・フォードを想起させ、快調に進むが、後半は、真珠湾攻撃から始まり、ミッドウェー海戦、沖縄海戦と戦争シーンがだらだらと長く続き、やや退屈する。ここには実写がかなり使われているようだ。モノクロ撮影だが、最後の4分の1ほどはなぜかカラーになる。クーパーの妻をジェーン・ワイアット、クーパーの良き上官をウォルター・ブレナンが演じる。

燃えつきた欲望
1950米 マイケル・カーティス 評点【C】
ゲイリー・クーパーが妄執と欲望に駆られる男を演じるドラマ。19世紀末の南部の町に馬に乗ってクーパーがやって来る。自分たちの一家を追い出したタバコ工場経営者に復讐するためだ。物語はクーパーの復讐の経緯が、クーパー、経営者の娘パトリシア・ニール、幼なじみのローレン・バコールの3角関係を絡めながら描かれる。パトリシア・ニールとローレン・バコールは、このころ20代半ば、美しさの頂点にある。この映画の前年、クーパーとニールは「摩天楼」で共演し、不倫関係に陥った。この映画の撮影の頃も続いていたかどうかは分らない。ここでのニールは、クーパーの求婚を受け入れるが、策を弄して父を自殺に追い込んだ彼に復讐する冷酷非情な女を演じる。その悪女ぶりはなかなかのもの。いっぽうのクーパーも妄執と欲望のとりこになり、最後はすべてを失って町を去る。話の流れは「ジャイアンツ」を想起させる。好漢クーパーがこれほど頑迷偏狭な男を演じるのも珍しい。映画としてはよく出来ており、名手フロイントの撮影も見事だが、あまりに暗くどろどろしており、好きになれない作品だ。

2022年9月某日  備忘録198 ゲイリー・クーパー主演のマイナーな映画 その2

戦ふ隊商
1931年米 オットー・ブローワ&デヴィッド・バートン 評点【C】
クーパー主演映画としては「モロッコ」の翌年に制作された西部劇。新天地カリフォルニアをめざす幌馬車隊の苦難の旅が描かれる。クーパーは旅のガイド役を演じる。幌馬車隊は険しい雪の山道を越え、インディアンの襲撃を撃退しながら西へと進む。旅の描写に、一人旅するフランス娘リリー・ダミタとクーパーとの反発しながら惹かれ合う恋が絡む。クーパーの若々しい笑顔がまぶしい。

薔薇と硝煙
1934米 リチャード・ボレスラウスキー 評点【D】
南北戦争中の情報戦を描くメロドラマ風の映画。実質的な主演は北軍のスパイとして南軍の町に潜入する女優に扮するマリオン・デイヴィス。ゲイリー・クーパーはデイヴィスと恋仲になる南軍の将校を演じる。原題の「Opereator 13」は女スパイ、デイヴィスのコード・ネーム。ハーストの愛人として知られたマリオン・デイヴィスは、女優としては大成しなかったが、なかなかの美女だ。いまいち個性がないのが女優として大成しなかった理由だろうか。


2022年8月

2022年8月某日  備忘録197 ゲイリー・クーパー主演のマイナーな映画 その1

海の魂
1937米 ヘンリー・ハサウェイ 評点【D】
19世紀半ばの米国、若い船乗りゲイリー・クーパーが法廷で海上での殺人罪により裁かれようとしている。そこから時間がさかのぼって、事件に至る経緯が物語られる。クーパーが乗った英国から米国に向かう船が難破し、彼は一艘のボートに乗った乗客を救うため、それに群がる残りの乗客を海に投げ込んだ。彼に密命を与えていた英国情報部員の弁護により、彼は釈放される。クーパーの相棒を演じるジョージ・ラフトはあまり精彩がない。クーパーが愛する貴族の女性をフランシス・ディーが演じる。クーパーは颯爽としているが、映画の内容はプロットが妙に入り組んでおり、つじつまの合わない箇所も多く、あまりスカッとしない。

久遠の誓ひ
1934米 ヘンリー・ハサウェイ 評点【C】
ゲイリー・クーパーは脳天気な詐欺師の役を演じる。一緒に暮らす相思相愛の女はキャロル・ロンバード。クーパーは亡くなった前妻とのあいだの5歳の娘シャーリー・テンプルを、手切れ金をもらって前妻の実家の養子にしようとするが、久しぶりに会った我が子の可愛さにほだされ、一緒に暮らそうとと決心する。彼は娘とともにロンバードが先乗りしていたパリに行き、3人で生活する。彼はロンバートと娘のために堅気になるが、安月給で娘の学校への入学金の支払いに困り、親しくなった富豪の老女の首飾りを盗むが・・・というストーリー。クーパーとロンバードの美男美女ぶりもさることながら、シャーリー・テンプルの無邪気な可愛さは筆舌に尽くしがたい。テンプルが子役として一世を風靡したのもうなずける。

2022年8月某日  備忘録196 バート・ランカスター主演の文芸映画 その2

旅路
1958米 デルバート・マン 評点【B】
原作はテレンス・ラティガンの小説「Separate Tables」。英国の港町にある長期滞在型の小さなホテルに住む人々を描いた群像劇風の映画。バート・ランカスターはホテルの女経営者ウェンディ・ヒラーと婚約している作家。ほかに、虚言癖のある退役軍人にデヴィッド・ニヴン、高圧的な母親に支配されている内気なオールドミスにデボラ・カー、モデルでランカスターの前妻にリタ・ヘイワースが扮する。舞台はほとんどこのホテル内だけに設定されている。ラストで、軽微なわいせつ罪を犯したニヴンはホテルから退去しようとするが、経営者ヒラーや滞在客の厚意により、思いとどまる。ニヴンを慕うカーは母親に逆らい、自立しようとする。ランカスターはヒラーの許しを得てヘイワースとよりを戻す。人情の機微に通じた、毅然とした姿勢の女経営者役を演じるウェンディ・ヒラーがじつに素晴らしく、抜群の存在感を放っている。

明日なき十代
1960米 ジョン・フランケンハイマー 評点【C】
これは中学生のころ、リアルタイムで見ている。エヴァン・ハンター(87分署シリーズのエド・マクベイン)原作の非行少年を描いた社会派映画。舞台はイタリア系の愚連隊とプエルトリコ系の愚連隊が争いを繰り返すニューヨークの貧民街。「ウェストサイド物語」を彷彿とさせる。イタリア系のチンピラ3人がプエルトリコ系の盲目の少年を刺し殺す。すぐに検挙された彼らを、担当の検事補バート・ランカスターは第1級殺人罪で起訴しようとするが、事件を調べるうちに、複雑な要素が絡み合っているいることに気づく。映画の後半では裁判の模様が描かれ、意外な真相が明らかになる。ランカスターは、知事に立候補しようとする検事の思惑や、少年たちと同じく貧民街で生まれ育った自らの出自の板挟みになりながら、信念を貫ぬこうとする男を巧みに演じている。

2022年8月某日  備忘録195 バート・ランカスター主演の文芸映画 その1

愛しのシバよ帰れ
1952米 ダニエル・マン 評点【C】
原作はウィリアム・インジの戯曲。米国の田舎町で暮らす家庭に起きた悲劇を描く。バート・ランカスターは元アル中でいまは禁酒の会に通う寡黙なマッサージ師。その妻にシャーリー・ブースが扮する。妻はいつも数ヵ月前に行方不明になった飼い犬が戻ってくることを願っている。題名のシバはその犬に名前だ。ランカスターは精悍な容姿、いっぽうのブースは太った中年女で、見た目の釣り合いが取れていない。実年齢もブースのほうが10数歳年上だ。彼らの家庭に若いピチピチした大学生の女の子が下宿する。ある事件がきっけけでランカスターは酒を飲み、暴れまくって病院に担ぎ込まれる。家に帰った彼は妻と愛を確かめ合い、妻はシバが二度と戻らないことを自覚する。シバとは過ぎ去った青春の象徴だろうか。

雨を降らす男
1956米 ジョセフ・アンソニー 評点【B】
バート・ランカスターが口八丁手八丁の詐欺師を演じた、「エルマー・ガントリー」を思わせるファンタジー風味の映画。共演はキャサリン・ヘップバーン。原作はリチャード・ナッシュの戯曲。米国中西部で牧場を営む一家の婚期を逃した一人娘をヘップバーンが演じる。干ばつで苦しむ彼らの家にランカスターが現れ、100ドルくれたら雨を降らしてやると言う。一家は半信半疑で彼の言うとおり雨乞いの儀式を始める。そこに内気な保安官ウェンデル・コーリーが現れ、詐欺の容疑で手配されているランカスターを逮捕しようとするが、一家に乞われて逃がしてやる。するとそこに雨が降り始める。容姿に自信のないヘップバーンはランカスターの言葉に勇気づけられ、保安官と結ばれる。ランカスターは一家に幸せを与えて去って行く。いかにもアメリカらしい大らかな映画だ。

2022年8月某日  備忘録194 カウリスマキの敗者3部作 その2

街のあかり
2006フィンランド・仏・独 アキ・カウリスマキ 評点【C】
3部作の最終作。カウリスマキの映画のなかで、これがいちばんロベール・ブレッソンに近似する作品かもしれない。同僚から疎んじられ、友だちも恋人もおらず、孤独な日々を送る主人公の警備員は、親しくなった女に騙されて窃盗団の宝石店への押し入りを許し、再度同じ女に騙されて犯人に仕立てられ、刑務所に入る。カメラはそんな彼の行動をたんたんと追いかけるだけで、彼の心理をうかがわせるような描写はいっさい省かれている。彼は最後にようやく、それまで拒んでいたソーセージ売りの女の愛を受け入れるかに見える。お馴染みのカティ・オウティネンはスーパーのレジ係としてちらっと登場する。

愛しのタチアナ
1994フィンランド・独 アキ・カウリスマキ 評点【B】
カウリスマキの中期作品。お馴染みのマッティ・ペロンパーとカティ・オウティネンが主役を務めるモノクロで撮られたロード・ムーヴィー。いっぱしの不良を気取るが根は内気で女と口もきけない2人の中年男、仕立屋でコーヒー好きのマト・ヴァルトネンと自動車修理工でウオッカ好きのペロンパーが、行く当てのないドライヴに出かけ、途中で知り合った2人の女に頼まれ、何日もかけて港まで送り届ける話。女の一人に扮するのがオウティネン。彼らはホテルの部屋で女と同室しても、手を握るどころか、言葉すら交わさない。とぼけた味わいと奇妙なユーモアと諧謔が全編にあふれている。

罪と罰
1983フィンランド アキ・カウリスマキ 評点【D】
カウリスマキの長編第1作。ドストエフスキー「罪と罰」の映画化。全体的な撮り方はロベール・ブレッソンを彷彿とさせる。冒頭の食肉解体工場のシークエンスからしてブレッソンの影がちらつく。のちのカウリスマキ独特のスタイルはまだ確立されておらず、全体としての印象は生真面目で、台詞が多く、重苦しい。とはいえ、音楽の使い方や色彩の配置には早くもカウリスマキらしさが感じられる。カウリスマキ映画常連のマッティ・ペロンパーが端役で顔を出している。

2022年8月某日  備忘録193 カウリスマキの敗者3部作 その1

浮き雲
1996フィンランド アキ・カウリスマキ 評点【A】
カウリスマキの「フィンランド3部作」または「敗者3部作」と称されるシリーズの第1作。主演は彼の映画常連のカティ・オウティネン。レストランの給仕長を務める妻は、市電運転士の夫とつつましく暮らしていたが、市電は不況による人員整理、レストランは大手チェーンによる買収のため、2人とも失業してしまう。彼らは職探しに奔走するがなかなか見つからず、困窮する。妻はやがて、かつてのレストラン経営者の助けを得て、かつての従業員仲間を集め、新しいレストランを開く、というストーリー。テレビ・ドラマでよく見かけるような、ありふれたな話だが、カウリスマキ独特の描き方により、とぼけた味わいをたたえた、ユーモアと悲哀がないまぜのユニークな作品になっている。終盤、レストランの開店の日、誰も客が来ず従業員はやきもきするが、やがて一人、二人と客が訪れ、最後に満員になるというシークエンスが、常套的ではあるが、興趣を盛り上げる。

過去のない男
2002フィンランド・独・仏 アキ・カウリスマキ 評点【B】
3部作の第2作。旅の男が列車でヘルシンキに着き、公園で一夜を明かそうとするが、暴漢に襲われ、身ぐるみ剥がれて執拗に殴打され、瀕死の状態で病院に担ぎ込まれる。奇跡的に蘇生した彼は海辺で昏倒しているところを住民に助けられるが、すべての記憶を失っていた。港町のコンテナを与えられて住み着いた彼は、人間としての生活を取り戻し、救世軍の女性カティ・オウコネンと親しくなる。やがて彼は身元が判明し、妻が住む元の家に戻るが、妻と別れてヘルシンキの港町に戻り、救世軍の女性と結ばれる、というストーリー。ありふれたメロドラマのような話だが、カウリスマキの手にかかると、コンテナで生活する貧しい人々のユーモラスだが情愛ただよう情景や、感情を排した役者の表情や会話から立ち上る不思議な人間味により、心温まる愛すべき映画になる。主人公の男が食堂車で寿司をを食べながら日本酒を飲み、演歌のような日本の歌が流れるシーンが印象に残る。

2022年8月某日  備忘録192 ゲイリー・クーパーが主演した戦後の西部劇 その3

軍法会議
1955米 オットー・プレミンジャー 評点【C】
これは西部劇ではなく、実話に基づく法廷ドラマ。クーパーは米国空軍の父と言われたビリー・ミッチェルを演じる。時は1920年代。空軍の重要性を訴えるが取り合ってもらえず、劣悪な環境に置かれたままの陸軍航空隊の状況に業を煮やし、第1次大戦の空の英雄ミッチェル将軍(降格されて大佐になる)は新聞に陸海軍指導者たちを批判する声明を発表し、それによって軍法会議にかけられる。ミッチェルは敢えてこの軍事法廷で裁かれることにより、主張の正当性を世間に知らしめ、信念を貫こうとする。映画の3分の2は軍法会議の緊迫したやり取りに割かれている。法廷での彼の証言には、のちの真珠湾攻撃を予見するような発言も出てくる。監督はこういう映画が得意なプレミンジャー。彼はこのあと、同趣向の法廷映画「或る殺人」を撮った。苦悩するミッチェルを演じるクーパーはさすがの貫禄。ねちねちとミッチェルを問い詰める検事役をロッド・スタイガー憎々しげに演じている。

西部の人
1958米 アンソニー・マン 評点【D】
クーパーが演じるのは、かつて強盗団の一味だったが、いまは真っ当な生活を送っている男。彼は図らずもかつての一味と再会し、再び強盗の仲間入りをするよう強制される。クーパーに同行する酒場の歌手にジュリー・ロンドン、一味の首領でクーパーの叔父にリー・J・コッブが扮する。じつに暗い、陰惨な映画だ。アンソニー・マンの嗜虐趣味は一連のジェームス・スチュアート主演の西部劇で垣間見られたが、この映画ではそれが全開しており、主人公が過去の妄執に再び囚われる筋立てといい、最後のゴーストタウンでの殺し合いといい、陰鬱な空気が全体をおおっている。まるで後のマカロニ・ウェスタンを先取りしたかのような映画だ。ロンドンはストリップを強要されたりコッブに犯されたりと、散々な目にあう。クーパーより10歳も若いのにクーパーを育て上げた叔父を演じるコッブは、半分気が狂ったような老人の役を怪演している。

2022年8月某日  備忘録191 ゲイリー・クーパーが主演した戦後の西部劇 その2

ダラス
1950米 スチュアート・ヘイスラー 評点【C】
舞台は南北戦争直後の新興の町ダラス。クーパーは家族の仇を探す南軍ゲリラのお尋ね者を演じる。プロットは込み入っていて、ストーリーを要約するのが難しい。クーパーは新任保安官になりすまし、ダラスの町を牛耳って牧場主から牛を奪い取る悪漢兄弟と対決する。クーパーは最後に牧場主の娘ルース・ローマンと結ばれる。出だしは快調だが、途中からもたもたした展開になり、いまいち盛り上がりに欠ける。最後のクーパーと悪の親玉レイモンド・マッセイとの暗闇での決闘のシーンは迫力がある。

スプリングフィールド銃
1952米 アンドレ・ド・トス 評点【B】
南北戦争の最中、北軍の輸送部隊が頻繁に南軍ゲリラに襲われるため、内通者がいると覚った北軍将校のクーパーは、指揮の失敗によって軍隊から追放されたように見せかけ、スパイとしてゲリラ部隊に潜入する。名手アンドレ・ド・トスのツボを心得た演出が際立っている。ド・トスはウォルシュ〜シーゲルの系譜に連なる娯楽映画の巨匠と言っていいだろう。緊迫感は最後まで持続しており、クーパーと家族との葛藤も過不足なく描かれている。クーパーは多少年を取った感はあるが、義侠心に富む勇者を見事に演じている。

2022年8月某日  備忘録190 60年前後のアメリカ音楽映画

パリの旅愁
1961米 マーティン・リット 評点【C】
ポール・ニューマン主演のジャズを題材にした音楽映画。音楽は全面的にデューク・エリントンのスコアが使われている。ニューマンは妻のジョアン・ウッドワードと共演する。米国人のトロンボーン奏者ニューマンはパリに住み、親友のサック奏者シドニー・ポワチエとともにバンドを率いてクラブに出演し、人気を博している。米国から観光旅行でやって来た2人の女ウッドワードとダイアン・キャロルが演奏を聴きにクラブを訪れ、ニューマンとウッドワード、ポワチエとキャロルがそれぞれ恋仲になる。彼らは女たちから一緒に帰国しようと乞われるが、ニューマンはパリで作曲を勉強したい、ポワチエは人種偏見のないパリにいたい、という理由で思い悩む、というストーリー。演奏の吹き替えは誰だろう。ポワチエはおそらくポール・ゴンザルヴェス、ニューマンはローレンス・ブラウンのようだが、よく分からない。ニューマンが演奏する仕草は見事で、まるで本当に吹いているようだ。ルイ・アームストロングがワイルドマンという役名の有名トランペッターとして出演し、ニューマンのバンド・メンバーとジャム・セッションをする。セルジュ・レジアニがバンドのギタリストを演じている。

わが恋は終りぬ
1960米 チャールズ・ヴィダー 評点【C】
ダーク・ボガードが主演するフランツ・リストの伝記映画。リストは実際の彼と同じく、自尊心の強い、貴族の女にもてる、超絶技巧の人気ピアニストと設定されている。彼はロシアの皇族である公爵夫人カロリーヌ(キャプシーヌ)に一目惚れし、それまで同棲しており、子供までもうけた伯爵夫人を捨てて、彼女と結婚しようとするが、ローマ法王から離婚の許可が得られず、絶望して僧院に入り、作曲に専念する、というメロドラマ。ボガードのピアノ演奏シーンがふんだんに挿入されるが、驚くのは、「パリの旅愁」のニューマンもそうだったが、それ以上にボガードの手の動きが素晴らしく、素人目には本当に弾いているように見えることだ。友人としてショパンやジョルジュ・サンド、駆け出しの作曲家としてワーグナーも登場する。キャプシーヌの美しさが際立っている。

2022年8月某日  備忘録189 ゲイリー・クーパーが主演した戦後の西部劇 その1

無宿者
1945米 スチュアート・ヘイスラー 評点【B】
ゲイリー・クーパー主演の西部劇で、珍しくクーパー本人がプロデューサーを担当している。クーパーが演じるのは歌が好きでお人好しで拳銃が下手という流れ者。全体にコメディ・タッチであり、主人公の流れ者が早撃ちの悪漢ダン・デュリエに間違われることから騒動が起こる。デュリエの愛人ロレッタ・ヤングはクーパーを利用してデュリエを逃亡させようとするが、善良なクーパーに惹かれ、三角関係になる。最後はクーパーを殺そうとするデュリエをヤングが撃ち、クーパーとヤングが結ばれる。素朴な持ち味を出すクーパーとともに、最後に射撃の名手ぶりを見せる鉄火女ロレッタ・ヤングがなかなかいい。ミルトン・クラスナーの撮影も出色。

遠い太鼓
1951米 ラオール・ウォルシュ 評点【C】
開拓時代のフロリダでの米国軍隊とセミノール・インディアンとの戦いを描いた映画。時代設定は西部劇だが、内容としては活劇戦争映画に近い。ゲイリー・クーパー率いる小隊は敵の砦を破壊したが、インディアンの大軍に追撃されて湿地帯を逃げ回る。最後はクーパーと敵の酋長との一騎打ちとなり、クーパーは水中での格闘で相手を倒す。ウォルシュらしい手際のいい演出と快適な場面展開がいい。全編、フロリダでロケされており、エヴァグレイズ湿地帯の美しい自然風景が印象に残る。クーパーは颯爽としているが、相手役のマリ・アルドンという馴染みのない女優がヴァージニア・メイヨに似たあまり品のない顔つきで、興が削がれる。

2022年8月某日  備忘録188 30年代のアメリカ映画

戦艦バウンティ号の叛乱(南海征服)
1935米 フランク・ロイド 評点【C】
18世紀末に起きた英国船バウンティ号反乱事件のハリウッドによる最初の映画化。このリメイクであるマーロン・ブランド主演の大作「船艦バウンティ」(1962)は中学生のとき、リアル・タイムで胸をときめかしながら見た。交易のため南洋に船出したバウンティ号。水夫たちは船長の冷酷無慈悲な命令に苦しめられながら、ようやくタヒチに到着する。楽園でしばらく過ごしたあと、英国への帰途、船長の虐待に耐えかねた水夫たちは、航海士の指揮のもと、反乱を起こすという物語。横暴な船長にチャールズ・ロートン、人望の篤い正義漢の航海士にクラーク・ゲイブル、狂言回し役の新任士官候補生にフランチョット・トーンが扮する。いつもながら、サディスティックな船長役を憎々しげに演じるロートンが巧い。出来のいい娯楽作だ。

ゾラの生涯
1937米 アナトール・リトヴァク 評点【C】
19世紀末のフランス社会派自然主義作家エミール・ゾラの伝記映画。前半ではゾラが貧困生活から抜け出し、作家として成功するまでが描かれ、後半ではゾラが被告の無実を信じて陸軍の欺瞞を暴くために戦ったドレフュス事件の顛末が描かれる。主演のポール・ムニは演技過剰の感があり、やや興ざめする。善玉と悪玉がはっきり図式化されており、またゾラが正義と真実を貫いた英雄として描かれており、単純で深みのない映画だが、分かりやすいことは確かだ。ゾラの親友として、セザンヌやアナトール・フランスが登場する。


2022年7月

2022年7月某日  備忘録187 ロベール・ブレッソンの映画 その2

やさしい女
1969仏 ロベール・ブレッソン 評点【B】
原作はドストエフスキーの短編小説。質屋を営む男が店を訪れた学生風の若い女に一目惚れして結婚するが、やがて夫婦の関係に波風が立ち、妻が自殺するというストーリー。これがデビュー作となる主演のドミニク・サンダはまるで少女のように痛々しい。映画は妻が部屋の窓から飛び降りるシーンで始まり、夫が部屋のベットに横たえられた妻の死体を前にして語る回想によって進む。いつものように、出演者は喜怒哀楽の表情を徹底して表さない。かすかな笑い声は暗闇のなかで聞こえるだけだし、女は顔をおおって泣き、泣き顔を見せない。道端に咲く花、動物園で動き回る猿、博物館の骨格標本などの描写はすべて無機的で本筋とは関係なさそうだが、全体を通して見るとつながりが感じられないでもない。結婚後しばらくして妻は夜どこかに出かけるようになるが、どこで何をしているのかは説明されない。それとない暗示によって、若い男と浮気しているようだと観客は感じるが。冒頭と末尾の、窓辺のベランダの椅子が揺れ、テーブルが倒れて花瓶が落ち、白いスカーフが宙に舞うシーンが印象に残る。

白夜
1971仏 ロベール・ブレッソン 評点【C】
これもドストエフスキー原作短編小説の映画化。場所や時代設定は異なるが、比較的原作に忠実に映像化されている。ヴィスコンティ監督版とよく比較されるが、優劣を語るのは愚かなこと。視点もスタイルもまったく違う映画なのだから。ある夜、画学生の男がセーヌ川に身投げしようとする女を助ける。女は1年前に旅立った恋人とそこでの再会を約束していた。付き合って話をしているうちに男は女に激しい恋心を抱く。女も男に好意を寄せ始めるが・・・というストーリー。いつものブレッソン映画と同じく、俳優の演技は無表情、無感情だし、本筋には関係ないシークエンスを、いかにも関係ありそうに挿入するのもブレッソン流だ。しかしここには、主人公の男(ジャンピエール・レオにそっくりだ)の日常生活が醸すユーモア、夜のパリの雑踏やポンヌフの橋の下を行く観光船が醸すロマンティシズム、ストリート・ミュージシャンが奏でるボサノヴァ風のポップ・ソングが醸す通俗性、主人公の女の裸身が醸すエロスなど、ブレッソンにしては異色の要素が散見される。

2022年7月某日  備忘録186 ロベール・ブレッソンの映画 その1

ブローニュの森の貴婦人たち
1944仏 ロベール・ブレッソン 評点【C】
ブレッソンの長編第2作。戦後の作品とは異なり、ここではまだブレッソンは伝統に沿った撮り方をしており、ポール・ベルナール、マリア・カザレスという役者を使って、まともな演技をさせている。プロットも、男に去られた女が、復讐のため、いかがわしい踊り子の女を男に引き合わせるという、フランス映画によくある物語が基になっている。ジャン・コクトーが書いた台詞はいかにも戯曲風で、虚構性を際立たせる。

少女ムシェット
1967仏 ロベール・ブレッソン 評点【B】
田舎の村に住む少女のまったく救いのない受難物語。少女は貧窮家庭で家事をし、病気で伏せる母親を看病し、赤ん坊の世話をし、父親から暴力を振るわれ、学校では蔑まれ、先生に反抗し、学友や近所に頑なな態度を取り、友だちもなく、施しを拒否し、密猟者に犯される。彼女はいつも孤独で、夢も希望もないし、神の恩寵もない。出演者の情感の表出はいっさい排されており、彼女の悲惨な日常生活が冷徹なカメラにより淡々と描かれる。印象に残るシーンが2ヵ所ある。ひとつは罠にかかった鳥や鉄砲で撃たれたウサギが悶え苦しむシーン、もうひとつは、終始無表情な少女が、遊園地でバンピングカーに乗って笑顔を浮かべるシーンだ。これは「田舎司祭の日記」と同じくベルナノスの原作だという。なぜこんな映画を作ったのか、よく分からない。そして、それなのになぜ画面に惹かれ、少女の運命に見入ってしまうのかも、分からない。

2022年7月某日  備忘録185 最近の映画

秘密と嘘
1996英 マイク・リー 評点【A】
主演:ブレンダ・ブレッシン、ティモシー・スポール

この世界に残されて
2019ハンガリー バルナバーシュ・トート 評点【B】
主演:カーロイ・ハイデュク、アビゲール・セーケ

2022年7月某日  備忘録184 ベティ・デイヴィスの初期主演映画

痴人の愛
1934米 ジョン・クロムウェル 評点【B】
サマセット・モーム原作「人間の絆」の映画化。ベティ・デイヴィスがとんでもない悪女を演じる。真面目な医学生レスリー・ハワードはカフェのウェイトレス、ベティ・デイヴィスに惚れ込むが、彼女は稀代の悪女で、ハワードの愛を手玉に取り、自由奔放、次々にいろんな男と関係を結び、最後に落ちぶれ果てる。ハワードはそんなデイヴィスに愛想を尽かしながらも、彼女のことが忘れられない。可愛さと悪魔性が同居する女を嬉々として演じるデイヴィスが、とにかく凄い。

マルタの鷹
1936米 ウィリアム・ディターレ 評点【E】
ハメット原作「マルタの鷹」の2度目の映画化。ベティ・デイヴィスは探偵を操る詐欺師の女を演じるが、内容はプロットが大幅に改変され、原作や1941年版映画とは似ても似つかぬ、締まりもないし見どころもない大味のコメディ犯罪映画になっている。

2022年7月某日  備忘録183 ロバート・ミッチャムの主演映画

She Couldn't Say No(セラーズ先生今日は)
1954米 ロイド・ベーコン 評点【C】
英語字幕で鑑賞。フィルム・ノワールの傑作「天使の顔」(1953)のロバート・ミッチャムとジーン・シモンズが再共演した映画。非情な「天使の顔」とは打って変わって、アーカンソー州の田舎町を舞台にした朴訥なコメディ。ミッチャムは町医者、シモンズはこの町に立ち寄る金持ちの若い女性を演じる。内容的には凡庸だが、とぼけた味わいとのんびりした雰囲気は悪くはない。

The Angry Hills(怒りの丘)
1959米 ロバート・アルドリッチ 評点【C】
英語字幕で鑑賞。第2次大戦中、ナチ占領前後のギリシャを舞台にしたスパイ・サスペンス映画。主演のロバート・ミッチャムはアメリカ人ジャーナリストに扮する。アテネに立ち寄ったミッチャムはレジスタンス運動員の名簿を英国情報部に渡すように頼まれ、ゲシュタポの執拗な追跡を逃れ、田舎の村や都会のアパートに匿われながら海外に渡ろうとする、というストーリー。フィルムはオリジナル版がかなりカットされているようで、脈絡がない箇所が散見される。そのせいか、アルドリッチらしい切れ味がなく、いまいち緊迫感に欠ける。スタンリー・ベイカーが演じるゲシュタポのリーダーのキャラクターが曖昧なのも一因か。とはいえ、ミッチャムが夜のアテネの街を逃げ回るシーンは迫力十分だ。

2022年7月某日  備忘録182 2本の異色フィルム・ノワール

Beyond a Reasonable Doubt(条理ある疑いの彼方)
1956米 フリッツ・ラング 評点【B】
フリッツ・ラングの米国制作作品のなかで唯一未見だった映画。英語字幕で鑑賞。死刑制度を題材にしたフィルム・ノワール。状況証拠だけで死刑が宣告される現状に一石を投じるため、作家のダナ・アンドリュースは友人の新聞社社長と組んで、自分が殺人事件の犯人であるように見せかけ、わざと警察に逮捕されるように仕向けて、裁判で無実の証拠を提出し裁判制度の不備を突こうと画策する。計画は予定どおりに進行するが、無実を証明する証拠を持って裁判所に向かう新聞社社長が車の事故に遭って死亡し、証拠は焼失していまったため、彼は窮地に立たされる、というストーリー。最後にどんでん返しがあるが、それには触れないでおこう。社長の娘で彼の恋人にジョーン・フォンテインが扮する。フリッツ・ラングならではの皮肉とペシミズムが横溢しているが、映像の点ではノワール的感興は乏しい。これはラングのアメリカ時代最後の作品になった。

Slightly Scarlet(悪の対決)
1955米 アラン・ドワン 評点【C】
一部の識者のあいだで評判が高いフィルム・ノワール。英語字幕で鑑賞。主演はジョン・ペイン。ロンダ・フレミングとアーリーン・ダールという2人の女優が共演する。撮影は名手ジョン・アルトン。カラー作品だが、アルトンのすぐれたカメラワークにより、ノワール的な雰囲気が濃厚に漂っている。町を牛耳るボスとその手下のジョン・ペインとの対決、ペインとフレミング&ダールの姉妹との三角関係が描かれる。2人の女優はいずれも赤毛で、けばけばしいテクニカラーの彩色にマッチしている。作品としてはB級的な色合いが強く、話の運びはおうおうにして不自然であり、緊迫感が削がれる。


2022年6月

2022年6月某日  備忘録181 成瀬巳喜男が手がけた2本のオムニバス映画

四つの恋の物語
1947東宝 豊田四郎/成瀬巳喜男/山本嘉次郎/衣笠貞之助 評点【D】
恋をテーマにした4つの物語を上記の4人の名だたるベテラン監督が描いたオムニバス映画。労働争議による混乱のためか、全体に出来は良くない。唯一、面白いのは黒澤明が脚本を書いた第1話の「初恋」。中流家庭の高校生の息子とその家にしばらく居候する少女との淡い恋を描いた短編で、高校生を池部良、彼の両親を志村喬と杉村春子、少女を久我美子が演じる。二人の名優の好演もあり、よくまとまっている。これがデビュー作の久我は太った丸ぽちゃの顔で、見慣れた容姿とはまったくイメージが異なる。成瀬巳喜男監督の第2話「別れも愉し」はダンサーの小暮実千代が主人公。彼女は同棲相手の男が新しい恋人と真剣に暮らそうと思っているのを知り、わざと別れ話を持ち出して自ら身を引く。ここには成瀬らしいきめ細かな演出が見られず、脚本のせいもあるだろうが、やっつけ仕事の感がある。

くちづけ
1955東宝 筧正典/鈴木英夫/成瀬巳喜男 評点【A】
 石坂洋次郎の短編小説をもとに、3人の監督が分担し同一のスタッフで撮ったオムニバス映画。珍しく成瀬巳喜男が共同製作者として全体のまとめ役を務めている。松山善三の脚本が良い。また3作全体を通してキャスティングが素晴らしく、俳優はみな嫌味のない素直な演技を見せている。第1話の筧正典監督「くちづけ」は仲のいい男女の大学生=青山京子と太刀川洋一が色んな経緯を経て接吻するまでを描いた作品。彼らが接吻するのは多摩川の河原。ロケ地は狛江のあたりだろうか。大学キャンパスのシーンは青山大学でロケされたようだ。他愛ない話だがほのぼのとしており好感を与える。大学教授役の笠智衆がいい味を出しており、青山の義姉役の杉葉子も落ち着いた美しさを放つ。
 鈴木英夫監督の第2話「霧の中の少女」では、夏休みで会津の田舎に帰省している大学生の娘=司葉子の実家を、学友の男=小泉博が訪れて彼女の家族と過ごす数日間が、ユーモラスなタッチで描かれる。のどかな田舎の村の情景と心和む家族の描写は「石中先生行状記」を想起させる。司の妹に中原ひとみ、両親に藤原鎌足と清川虹子、祖母に飯田蝶子という配役も絶妙。中原ひとみの無邪気な可愛さが際立っている。飯田蝶子の元気のいいばあさん役も絶品で、温泉の風呂で民謡の「会津磐梯山」を歌うシーンは抱腹ものだ。
 成瀬巳喜男が自ら演出した第3話「女同士」は、やはりいちばん出来がいい。これもコメディ風の作品で、成瀬の悠揚迫らざる名人芸を堪能できる。倦怠期にある妻を高峰秀子、夫の町医者を上原謙、看護婦を中村メイコ、八百屋の青年を小林桂樹が演じる。夫と看護婦の仲を疑う高峰は看護婦を八百屋の青年と結びつけようと画策する。それが功を奏し、中村は結婚のため退職して高峰は一安心するが、代わりにより美人の看護婦がやって来るという皮肉な落ちでラストになる。この新看護婦役でワン・カットだけ登場するのが八千草薫、誰が見てもその美しさは格別だ。八千草は俳優クレジットに入っていない。とっさの思い付きで配されたのだろうか。成瀬映画ならではのチンドン屋が登場して愉快な気分を味わわせてくれる。心が温かくなる幸せな映画だ。

2022年6月某日  備忘録180 原節子の主演映画 その2

白雪先生と子供たち
1950大映 吉村廉 評点【B】
田舎の村の小学校を舞台にした教師と生徒のドラマ。日本教職員組合が協賛したお仕着せ映画だ。主演の原節子は心優しい小学校教師を演じる。彼女以外に名の知れた俳優はほとんど出ていない。彼女は担当する学級で起きる家庭の貧富の差によるいじめに心を痛め、浮浪児を自宅に住まわせて学校に通わせ、校庭の池に工場の廃液が入り込むのを阻止するため工場主のPTA会長と談判する。最後はみんなが和解してハッピーエンドとなる。ここでの原節子は29歳だがじつに美しく撮られている。彼女が最高にきれいなのは1949年の「お嬢さん乾杯」だが、それに並ぶ美しさだ。その理由のひとつは抑制された演技に終始していることにあるだろう。前作「晩春」で小津安二郎の薫陶を受けた余波かもしれない。笑みを浮かべたり、悲しみを浮かべたりする彼女の表情は、わざとらしさが感じられないでもないが、息を呑むほど臈たけている。病気で伏せる彼女の顔がアップになるショットには色気と気品が漂う。子供のひとりが原節子に抱きついて泣くシーンがある。子供の顔は彼女の胸の谷間に埋められている。一瞬、この子に取って代わりたいという妄想が浮かんだ。この映画は出来からすれば凡作の域を出ないが、原節子が美しく撮られていることと子供たちの熱演を評価して【B】を呈上する。

ふんどし医者
1960東宝 稲垣浩 評点【A】
 原節子が医者の妻で博打が大好き、負けが込めば背後で酒を飲んでいる夫に着物を脱がせて賭場に差し出すという珍しい役を演じていることを知り、以前から気になっていた映画をやっと見ることができた。蘭学を学んだ名医だが清貧に甘んじ、貧しい庶民のために医療を施した男の物語。場所は大井川沿いの島田宿、時代は江戸末期から明治初期に設定されている。かつての宿場町を再現した見事なセットに驚かされる。美術は成瀬映画でお馴染みの中古智だ。いつも妻の博打のためにふんどし姿になるのでふんどし先生と呼ばれる名医に森繁久彌、その妻に原節子、森繁に命を助けられ弟子入りして医者を志すやくざ者に夏木陽介、夏木を慕う旅館の娘に江利チエミが扮する。ほかに森繁と親友の御典医役で山村聰、原節子と博打で対決するやくざの親分役で志村喬が出演する。
 映画の後半、町の子供が腹痛になる。森繁は食あたりだと診断するが、長崎で学んで帰った夏木はチフスだと主張して主従が対立する。顕微鏡で見てチフスだと分かった森繁は自分の腕が時代遅れになったと痛感するが、急いで罹患した子供たちを隔離する。無理解な町民はそれに怒って子供たちを取り戻し、森繁の住居兼病院を打ち壊す。森繁は立身出世を捨てて町民のために尽くした自分の人生は何だったのかと慨嘆する。最後は、森繁が江戸の医学所に赴任する夏木を送り出し、自分たちの非を覚った町民が総出で病院を建て直し、新しい世になったからふんどし姿で外を歩くのは禁止だと言う役人を無視して、彼が妻と二人で街道をのんびり歩くシーンで終る。
 これはユーモアと悲哀がないまぜになった、一級品の映画だ。ここでは夫婦愛が描かれ、インテリが大衆に裏切られる話が描かれる。またこれは時代の流れに取り残される男を描く映画でもあり、その点では稲垣の「無法松の一生」に通じる。そして若い医師の成長物語である点で黒澤の「赤ひげ」と似ていなくもない。原節子が博打を打つ姿は、森繁がふんどし姿になる冒頭と、顕微鏡を買う金を得るため自分の体をかけて勝負する終盤の2箇所に出てくる。当時40歳の原はいまなお美しい色香を感じさせる。彼女はこの映画公開の2年後に引退する。

2022年6月某日  備忘録179 原節子の主演映画 その1

青春の気流
1942東宝 伏水修 評点【D】
太平洋戦争に突入して2ヵ月後に封切られた国策映画。脚本は黒澤明。これは黒澤が脚本を書いた初の映画ではないだろうか。原節子は俳優クレジットのいちばん最初に出てくるが、実質的な主演は航空機会社の設計主任という役の大日方伝。彼を支援する会社重役の一人娘が原節子で、彼女は彼を好きになるが、彼のほうは貧しい家庭の娘、山根寿子に愛を抱いている。映画では大日方と仲間が新型飛行機の製造に奮闘する様子と、彼を巡る三角関係の成り行きが交互に描かれる。原節子は結局、振られてしまう。22歳の若々しい原節子が見られることだけが取り柄の映画だ。

幸福の限界
1948大映 木村恵吾 評点【C】
女の幸せとは何かをテーマにした原節子主演の家庭劇。原節子は会社に勤めながら演劇を学ぶ中上流階級家庭の次女。自立した女を目指す現代的な女性で、母親や、夫が死んで嫁ぎ先から実家に帰った長女を、「性行為を伴う女中だ」となじり、私は結婚しないと宣言し、父親から叱責されて家を出るが、女の幸せには限界があると悟り、結局、惚れていた劇団主宰者の藤田進と結婚し、家族とも和解して絵に描いたようなハッピーエンドとなる。いかにも戦後間もないころの映画だが、古臭い封建主義を批判していたのに最後はそれを受け入れるという、何とも締まらない話になっている。父親役の小杉勇は1937年の日独合作映画「新しき土」で原節子の許婚者を演じていた。原節子と藤田進は「わが青春に悔なし」をはじめ、戦中から戦後にかけて多くの映画でコンビを組んだ。原と藤田がスキーに出かけ同じ部屋に泊まるが何も起こらないという挿話は、この前年の映画「誘惑」を思い起こさせる。28歳の原節子はたまに「誘惑」で見せたような上目遣いの下品な表情をするが、おおむね好ましい美しさを保っている。なぜか、ところどころで原節子のスカート下の脚がアップで挿入される。夜、藤田進の家に押しかけるシーンで、彼女は座って、スカートはいたまま、ガーターを取りストッキングを脱ぐ。足元しか映されていないが、このショットにはドキッとする。

2022年6月25日  余談:ミステリー小説読後感想
         心に触れるアイルランドの風景、初老の男と子供の心の交流

「捜索者」タナ・フレンチ
(ハヤカワ・ミステリ文庫)
近年、これほど心を打たれたミステリー小説はない。おそらく今年のベスト・ワンだろう。シカゴ市警を退職し、妻と離婚してアイルランドの田舎の村に移り住んだ初老の元刑事が主人公。彼の家に地元の貧農の子供が現れ、行方不明の兄を探してくれと言う。子供の懇願に負けて捜査するうちに、彼は村に隠された秘密に気がつく、というストーリー。全体的な雰囲気は昨年発売された傑作「ザリガニの鳴くところ」を思わせる。文庫本だが680ページもあり、通常の小説2冊分もの長さだが、途中でまったくだれることがない。ミステリー的な要素は希薄だが、主人公の孤独な心情とアイルランドの自然の描き方がとてもいい。いちばん感動するのは元刑事と彼の家に出入りするようになった子供との交流だ。子供は生意気で頑なな性格だが、主人公の家の改修を手伝うようになり、しだいに心を開いていく。物語の中盤で、この子供に関するある事実が明らかになり、ああそうなのかと納得する。彼は子供に射撃を教えるが、それは終盤に起こる出来事の伏線になる。訳者はあとがきでロバート・パーカーの「初秋」との類似を指摘しているが、どこかわざとらしさが臭う「初秋」よりも、この小説のほうがはるかに流れが自然で押しつけがましさがない。この小説には犬が登場して興趣を盛り上げる。ぼくは子供と犬が出てくる小説や映画は嫌いなのだが、こうも巧みに書かれては降参して脱帽せざるを得ない。途中で好ましげな風情の未亡人レナが登場し、犬の飼育を巡って主人公と親しくなる。全体に筋立てや筆致にこれ見よがしの作為性がなく、静かで慎み深い。閉鎖的な村や詮索好きの住民の描写も巧いし、登場人物それぞれの造形もしっかり描かれている。素晴らしい小説だ。この作家の旧作は3冊翻訳出版されているという。読まなければならない。

2022年6月某日  備忘録178 川島雄三の映画 その2

花影
1961東宝 川島雄三 評点【C】
大岡昇平原作小説の映画化。銀座のバーの雇われマダムが多くの男と関係をもったあげく死を選ぶまでを描く。主演は池内淳子。彼女は大学講師の池部良、弁護士の有島一郎、TV番組製作者の高島忠夫、会社社長の三橋達也と次々に関係をもつ。また彼女が父のように慕う骨董評論家、佐野周二との交友も描かれる。出番は少ないが淡島千景も三橋の義理の母役で出演する。池内淳子が凡庸な容姿で、男をとりこにするような魔性の女に見えないのが難。またなぜ自殺を決意するのか、その心理過程がよく分からず、映画としての出来は芳しくない。だが、終盤、再会した池内淳子と池部良が夜に満開の桜の下を散歩するシーンは息を呑むような美しさを放つ。この出演者たちにはモデルがあり、池内淳子のモデルは坂本睦子、佐野周二は青山二郎、池部良は作者の大岡昇平自身だという。この坂本睦子は30年代初頭から文壇バーの女給をしており、直木三十五、菊池寛、坂口安吾、中原中也、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平と、錚々たる文人たちと男女遍歴を重ねたあげく、58年に睡眠薬自殺をしたらしい。いやはや、すごい女性がいたものだ。

箱根山
1962東宝 川島雄三 評点【B】
大手資本による観光開発競争が激化する箱根を部隊に、長年にわたって反目し合う2軒の老舗旅館の趨勢と若い男女の爽やかな恋愛を軽妙に描いたドラマ。川島雄三にしては珍しい青春映画の様相を呈している。原作は獅子文六の小説。ぼくは高校初年のころ、朝日新聞でこの小説の連載を読んでおり、映画が公開されたときも見に行った。そのときはあまり面白くないという印象を持ったが、今回見直して、それほど悪い出来ではないと思った。犬猿の仲の2つの旅館、その片方の若番頭役の加山雄三、もう片方の一人娘役の星由里子が主人公。加山側の旅館の女将を東山千栄子、大番頭を藤原鎌足、星側の旅館の主人夫婦を佐野周二、三宅邦子が演じ、また観光会社社長に東野英治郎、大物政治家に森繁久弥、温泉ボーリング屋に西村晃が扮して達者な演技を見せる。加山雄三の演技は稚拙だが、セーラー服姿の星由里子がじつに自然で可愛らしい。ところどころに川島らしいブラック・ユーモア風の構図が顔を出す。全体としては川島映画特有のあくの強さがなく物足りないが、冒頭の狂躁的な開発競争の描き方の面白さと、星由里子の可愛さを買って、4つ星を献上する。

2022年6月某日  備忘録177 川島雄三の映画 その1

人も歩けば
1960東宝 川島雄三 評点【B】
高く評価するファンがいるので前から見たいと思っていた川島雄三作品。梅崎春生原作ということでも気になっていた。結論から言うと、これは川島の傑作のひとつだと思う。前作の「貸間あり」と同じくフランキー堺主演だが、「貸間あり」よりはるかに面白いことは確かだ。銀座のキャバレー・バンドのドラマー=フランキー堺が質屋に婿入りするが、意地悪な姑=沢村貞子と嫁=横山道代にいびられ、家出する、ところが姑と嫁はフランキーが莫大な遺産を相続すること、1ヵ月以内に手続きしなければその権利を失うことを知らされ、大慌てでフランキーを探しまくる、というストーリー。喜劇だが川島得意のいわゆる重喜劇ではなく洋風のスクリューボール・コメディであり、奇人変人が多数登場し、早口で会話を交わし、スピーディな展開で進行する。家の卓上プレイヤーでソノシートをかけたり、路上で傷痍軍人が軍歌を歌っていたりと、随所に昔懐かしい光景が映し出される。家出したフランキーが寝泊まりする木賃宿の主人に加東大介、占い好きの銭湯の親父に森川信、フランキー行きつけの居酒屋の女将に淡路恵子と芸達者揃い。脱線トリオやロイ・ジェームスまで登場してナンセンスな気運を盛り上げる。終盤に大きなオチがあるが、それは言わないでおこう。エンディングで加東、森川、淡路などが格好だけだが楽器を手にしてバンド演奏し、フランキーが本職のドラム・プレイを披露する。最後まで人を食った映画だ。

「赤坂の姉妹」より 夜の肌
1960東宝 川島雄三 評点【C】
赤坂の花街を舞台に3姉妹の生き方を当時の世相を絡めて描く風俗映画。内容は異なるが雰囲気的には「女は二度生まれる」を思わせる。バーを経営しつつ男を渡り歩いてのし上がる長女に淡島千景、一人の男に尽くす次女に新珠三千代、学生運動にのめり込む三女に新人の川口知子が扮する。ほかに出番は少ないがしたたかな舞台女優を久慈あさみが演じる。淡島、新珠、久慈という3人の美女の競演が見ものだが、やはり淡島の美しさが群を抜いている。彼女は三橋達也、松村達雄、フランキー堺、田崎潤、伊藤雄之助と、実業家や政治家など、次々に男を乗り換えて成功を目指す。冒頭、田舎から出てきた三女が国会議事堂の門に花を添えるが、これは樺美智子への手向けの花だろうか。淡島と新珠の取っ組み合いの喧嘩はなかなかの迫力。


2022年5月

2022年5月某日  備忘録176 ハワード・ホークスの映画 その3

群衆の歓呼
1932米 ハワード・ホークス 評点【D】
ジェームス・キャグニー主演のカー・レース映画。人気カー・レーサーの没落と再生の物語。兄に憧れてカー・レーサーになる弟との兄弟愛と確執、恋人との別れと再会といった挿話が絡む。全体にメロドラマ風であり、ホークスらしさはあまり発揮されていない。

無限の青空
1935米 ハワード・ホークス 評点【C】
これもジェームス・キャグニー主演の航空映画。原題の「Ceiling Zero」とは雲と地上の間が霧や雪で視界ゼロになり、操縦不能になることを指す。航空映画とはいえ、ところどころに挿入される操縦席やバーなどのシーンを除き、場面はほぼ航空会社の管制室に限定されているが、緊迫感は十分に醸し出されている。ベテラン・パイロットのジェームス・キャグニーと管制室指揮官パット・オブライエンの友情、女を巡るパイロット同士の確執、危険な飛行に挑む男たちの心意気などが描かれ、典型的なホークス映画と言える。映画はコメディ風に始まるが、途中で仲間のパイロットが事故死するあたりから雰囲気は暗くなり、ホークスにしては珍しく、最後は悲劇で終る。

2022年5月某日  備忘録175 ハワード・ホークスの映画 その2

光に叛く者
1931米 ハワード・ホークス 評点【C】
ウォルター・ヒューストン主演の刑務所映画。真面目な青年が誤って人を殺してしまい、10年の懲役刑に処せられる。入獄した彼は自暴自棄になるが、新しく赴任した所長付きの運転手になり、所長の娘と親しくなって生きる意欲を取り戻す、というストーリー。つじつまの合わない箇所やご都合主義の展開はたくさんあるが、話の流れはスムーズでホークスの演出力を感じる。青年を告発する検事であり、のちに所長として刑務所に赴任するウォルター・ヒューストンはさすがの貫禄。青年の同房で所内の裏切り者を殺す特異な風貌のボリス・カーロフもなかなかの怪演。

永遠の戦場
1936米 ハワード・ホークス 評点【B】
第1次大戦中、フランス軍中隊のドイツとの戦いを描く戦争映画。新しく赴任した中隊の副官をフレデリック・マーチ、先任の指揮官をワーナー・バクスターが演じる。同じ女性を愛する副官と指揮官の苦悩と友情、死に直面した兵士たちの怯えと勇気をテーマとしており、ホークスの「今日限りの命」や「コンドル」を彷彿とさせる。過酷な戦争が描かれるが、力点が置かれるのは兵士たちが土壇場で示す男らしさと英雄的行為であり、そこにジョン・フォードの戦争映画との違いがある。そのヒーロー礼賛の空気は鼻につかないでもない。脚本のウィリアム・フォークナーは30〜40年代にしばしばホークス映画で脚本家として雇われていた。紅一点の女性に扮するのはジューン・ラングで、あまり馴染みがないが、なかなかきれいな女優だ。中隊に志願する老兵士でじつは指揮官の父親という役のライオネル・バリモアは、のちに「キー・ラーゴ」などで車椅子に乗る頑固な老人を演じた。

2022年5月某日  備忘録174 ハワード・ホークスの映画 その1

ヒズ・ガール・フライデー
1940米 ハワード・ホークス 評点【A】
これは世評に違わぬスクリューボール・コメディの傑作だ。シカゴの新聞社の編集長ケイリー・グラントと敏腕女性記者ロザリンド・ラッセルが主役。彼らは夫婦だったが現在は離婚し、ラッセルは新しい許婚者ラルフ・ベラミーとともに街を離れようとしている。まだラッセルに未練があるグラントは嫌がるラッセルに手練手管を使って死刑囚を取材させるが、その男が脱獄して大騒動になり・・・というストーリー。凄まじい早口のマシンガン・トークを交わすグラントとラッセルが見事、ホークスの緩急を踏まえたスピーディな演出も絶妙で、間然するところがない。のちにビリー・ワイルダーが「フロント・ページ」としてリメイクしたが、出来は断然このホークス版のほうがいい。

果てしなき蒼空
1952米 ハワード・ホークス 評点【D】
カーク・ダグラス主演。開拓時代、奥地に住むインディアンとの毛皮交易のためミズーリ川を船でさかのぼる一行の苦難の旅を描いた西部劇。船旅の描写にはホークスらしい豪快さが示される箇所もあるが、全体としてドラマは平板で盛り上がりに欠ける。

2022年5月某日  備忘録173 ウィリアム・ワイラーの映画 その3

砂漠の生霊
1930米 ウィリアム・ワイラー 評点【C】
チャールス・ビックフォード主演の西部劇。ワイラー初のトーキー作品だという。原作は「The Three Godfathers」という小説で、何度も映画化されており、そのなかではジョン・フォードの「3人の名付け親」(1948)が有名。砂漠をさまよう3人のならず者が生まれたばかりの赤ん坊を命がけで町まで送り届ける話。全体に宗教的な色合いが強い。

巨人登場
1933米 ウィリアム・ワイラー 評点【C】
ジョン・バリモア、ビービー・ダニエルズ主演。エルマー・ライスの戯曲の映画化。この邦題は意味不明、原題は「Counselor at Law」(弁護士)だ。場面設定はほとんどニューヨーク一等地のビルの弁護士事務所のみに限定されており、そこで仕事する弁護士の慌ただしい一日が描かれる。ひっきりなしに扉が開け閉めされ、人々が出入りし、速射砲のように会話が交わされる。活気がみなぎっているが、舞台劇の雰囲気が濃厚すぎるのが難。主人公の弁護士を演ずる名優ジョン・バリモアはさすがの貫禄。

2022年5月某日  備忘録172 ウィリアム・ワイラーの映画 その2

この三人
1936米 ウィリアム・ワイラー 評点【B】
ミリアム・ホプキンス、マール・オベロン、ジョエル・マックリー主演、リリアン・ヘルマンの戯曲「子供の時間」の映画化。これはワイラーが初めて作家性を前面に打ち出した作品であろう。女生徒寄宿学校を経営する親友同士の二人の女性の生活が生徒の嘘の密告によって破綻する話。ワイラーの鮮やかな演出力を感じる。元々は二人が同性愛の噂を立てられるという筋だったが、当時の倫理規定によってプロットが和らげられ、一人の男を巡って乱れた関係を持っているという噂に置き換えられた。この映画では最後に彼らの無実が立証され、ハッピーエンドになるが、のちにワイラーが原作に忠実にセルフ・リメイクした「噂の二人」では救いようのない悲劇で終る。

孔雀夫人
1936米 ウィリアム・ワイラー 評点【D】
ウォルター・ヒューストン主演、シンクレア・ルイスの小説「ドッズワース」の映画化。自動車会社社長ウォルター・ヒューストンは実業界を引退し、若い妻ルース・チャタートンと一緒に欧州旅行に出かける。妻はパリやウィーンなど行く先々で出会う男と浮気を繰り返し、最初はそれを許していたヒューストンもついに愛想を尽かし、旅先で知り合った知的な女メアリー・アスターのもとに向かう。ストーリーの展開や描き方はフランス映画を思わせる。妻役のチャタートンが女としての魅力皆無で話の流れに説得力がなく、テーマは上流階級の男女関係に終始しており現実感に乏しい。

2022年5月某日  備忘録171 ウィリアム・ワイラーの映画 その1

黄昏
1952米 ウィリアム・ワイラー 評点【A】
ローレンス・オリヴィエとジェニファー・ジョーンズ主演、セオドア・ドライザー原作小説の映画化。妻子ある実直な中年男オリヴィエが田舎から出てきた女工ジョーンズに惹かれて人生を踏みはずし破滅する物語で、「嘆きの天使」や「緋色の街」の系統の作品。ただし、ジョーンズは純真な女で心からオリヴィエを愛するという点で、それらの悪女ものとは一線を画している。女は男のもとを去って舞台女優として成功し、男は浮浪者となってNYの街をさまよう。ワイラーの語り口の巧さ、ローレンス・オリヴィエの抑えた演技が絶品。

偽りの花園
1941米 ウィリアム・ワイラー 評点【A】
アメリカ南部の旧家を舞台にした打算と欲を剥き出しにする女主人を巡る物語。リリアン・ヘルマンの戯曲の映画化。「月光の女」の名コンビ、ベティ・デイヴィスとハーバート・マーシャルが冷酷な妻と病弱な夫を演じる。描き方はやや図式的だが、ドラマとしての緊迫感は高い。グレッグ・トーランドの撮影が見事で、屋敷の中の奥行きや縦の構図が素晴らしく、とくに階段のシーンは見応え十分。始終白塗りで登場するベティ・デイヴィスは圧巻の演技、とりわけ心臓発作で苦しむ夫を無表情に見ているシーンは印象に残る。

2022年5月某日  備忘録170 ジョン・フォードの映画 その4

人類の戦士
1931米 ジョン・フォード 評点【C】
ロナルド・コールマンとヘレン・ヘイズ主演、シンクレア・ルイスの小説「アロウスミス」の映画化。細菌の研究に取り組む理想家肌の医師の半生を夫婦愛を絡めて描く。後半にコールマンを助ける黒人医師が登場するが、映画では黒人は召使いや道化役としてしか扱われなかったこの時代に、フォードが良識あるインテリ役に黒人を配したのは、画期的な出来事だったはずだ。

俺は善人だ
1935米 ジョン・フォード 評点【B】
真面目なサラリーマンがギャングと瓜二つだったことから巻き起こる珍騒動を描いた、フォードにしては珍しいスクリューボール風コメディだが、なかなか良く出来ており、隠れた傑作と言っていいと思う。実直な事務員と凶悪なギャングの二役を演じるエドワード・G・ロビンソンが素晴らしい。相手役のジーン・アーサーも適役、その他の俳優もじつにいい味を出している。

2022年5月某日  備忘録169 ジョン・フォードの映画 その3

幌馬車
1950米 ジョン・フォード 評点【A】
フォードらしさがにじみ出た、滋味豊かな西部劇。新天地を目指すモルモン教徒の幌馬車隊の旅が描かれる。幌馬車隊を先導するカウボーイにベン・ジョンソン、その相棒にハリー・ケリー・ジュニア、一行のリーダーにワード・ボンド、旅役者の一座の踊り子にジョーン・ドルーと、フォード映画ではお馴染みの脇役たちが主役を務める。旅の途中で強盗団が加わり、サスペンスが醸成されるが、全体としては地味な映画であり、ガンファイトのシーンも最初と最後のごくわずかしなかない。しかし西部の情景が美しく映し出されており、ジョンソンとドル―の淡い恋も微笑ましい。ジョンソンの目覚ましい乗馬術も披露される。

荒鷲の翼
1956米 ジョン・フォード 評点【D】
ジョン・ウェイン主演、第2次大戦で名を馳せた米海軍航空隊の士官フランク・ウィードの伝記映画。ウィードの勝ち気な妻にモーリン・オハラが扮する。夫婦愛や兵士たちの友情、陸軍兵と海軍兵の豪快な喧嘩が描かれ、いかにもフォード映画らしいが、全体に大味であり、ウィードが階段から転げ落ちて半身不随になって以後の展開が弱い。

2022年5月某日  備忘録168 ジョン・フォードの映画 その2

メアリー・オブ・スコットランド
1936米 ジョン・フォード 評点【C】
ジョン・フォードには珍しい歴史劇。16世紀スコットランド女王で、政争に敗れイングランドに亡命したが女王エリザベスに敵対して処刑されたメアリー・スチュアート=キャサリン・ヘプバーンの生涯が、恋人ボズウェル伯=フレデリック・マーチとの悲恋を交えて描かれる。ヘップバーンの演技の巧さはさすが。フォードとヘプバーンはこの映画がきっかけで恋仲になった。

真珠湾攻撃
1943米 ジョン・フォード 評点【D】
真珠湾攻撃を題材とする記録フィルムと劇をミックスさせた戦意高揚映画。共同監督のグレッグ・トーランドが実質的な監督を手がけたという。アメリカを体現する紳士ウォルター・ヒューストンや兵士の亡霊ダナ・アンドリュースが登場する奇妙な作品。日本の風習やハワイの風景、そこに住む日系人の生活が紹介されるが、日本をそれほど憎むべき仇には描いていないのはフォードらしいと言うべきか。後半の真珠湾爆撃シーンは映画のための撮影だが実写と見まごうほど迫力満点だ。

2022年5月某日  備忘録167 ジョン・フォードの映画 その1

コレヒドール戦記
1945米 ジョン・フォード 評点【B】
ジョン・ウェイン、ロバート・モンゴメリー、ドナ・リードが主演する、第2次大戦中のフィリピン戦線での米軍兵士の苦闘が描かれた戦争映画。原題「They Were Expendable」(彼らは消耗品だった)どおり、厭戦ムードが漂う作品であり、右翼好戦派と見られるジョン・フォードの決して単純ではない錯綜した戦争観が示されている。だが兵士たちの心意気と友情の描き方は典型的なフォード・スタイルだ。転戦する哨戒魚雷隊の将校ジョン・ウェインと看護婦ドナ・リードの出会いと別れが切ない。

栄光何するものぞ
1952米 ジョン・フォード 評点【C】
ジェームス・キャグニー主演。第1次大戦中、フランス戦線で田舎の村に駐屯する米軍海兵隊の騒動を描いたコメディ風戦争映画。ドタバタ喜劇だが、ここにも厭戦気分が影を落としている。村の娘に扮して新兵ロバート・ワグナーと恋仲になるマリサ・パヴァンは我が愛しのピア・アンジェリの双子の妹で、これが映画初出演とのこと。

2022年5月8日  余談:『少年王者第10集 怪獣牙虎篇』を読んだ

5月の連休の初頭、所用があって大阪に行った。その機会に、ようやく念願の山川惣治作『少年王者第10集 怪獣牙虎篇』を読むことができた。「少年王者」と「怪獣牙虎篇」については、以前、このコラムの《「山川惣治の「少年王者」が愛と勇気を教えてくれた》《「少年王者」――幻の「怪獣牙虎篇」》で書いているので、参照していただきたい。これは死ぬまでに何とか読みたいと思っていた本だ。この本が、おそらく日本の図書館で唯一、大阪府立中央図書館付属の国際児童文学館に所蔵されていることは、以前調べて知っていた。なかなか大阪に行くチャンスがなかったが、やっと長年の願望が実現した。

国際児童文学館がある東大阪市の荒本までは、泊まっていたホテルの近くのなんば駅から電車で約30分。大阪中央図書館の一角にあり、図書は館内でしか閲覧できない。閲覧を申し込んで書庫から出してもらった『少年王者第10集 怪獣牙虎篇』は、むかし懐かしい左右18cmほどの真四角の集英社おもしろ文庫オリジナル版。表紙は、凶暴そうな大ゴリラがすい子を抱え、短剣を手にした少年王者真吾とにらみ合っている絵だ。口絵の見開き2ページには、真吾と、親友の黒豹が、タイトルに出てくる怪獣牙虎と戦う様子が描かれている。

あらすじはこうだ。「アフリカで従者とともに生まれ故郷の王国を目指して苦難の旅を続けるザンバロは、砂漠で水と食糧がなくなり、力尽きようとしている。そこに親友ザンバロの窮状を伝え聞いたアメリカの学校に通う真吾が、夏休みを利用してザンバロを助けるためすい子とともにヘリコプターで駆けつけ、ザンバロたちを救う。ヘリが故障したため彼らは一緒に砂漠を旅して密林にたどり着くが、そこはかつて真吾が仲間の動物たちと過ごした場所だった。真吾は仲間に会えるのを楽しみに密林に駆け込んだが、そこはいまや、どこからかやって来た巨大なゴリラ人とその手下の牙虎に支配されており、真吾の仲間の動物たちは荒れ地に追いやられていた。真吾は仲間を助けるべくゴリラ人、牙虎と立ち向かう。真吾はまず苦闘のすえ凶悪な牙虎を倒し、ついに象を持ち上げて崖から突き落とす怪力の持ち主であるゴリラ人と対決する」

感動に浸りながら、記憶に焼き付けるためていねいに読み進むうちに、ところどころで、あれ、この文章は読んだことがあるぞ、この絵は見たことがあるぞという既視感を覚え始めた。そして最後の、真吾がゴリラ人と格闘して川に落ち、一緒に滝まで流され、ゴリラ人は滝から落ちるが、真吾はかろうじて滝縁の岩にしがみつき、力を振り絞って体を持ち上げたところに、岸にいたザンバロがツタで作ったロープの輪を真吾に投げる、という箇所にいたり、これは間違いなく以前に読んでいるという確信を得た。60数年という隔たりを越えて記憶が甦った。これは読んだことがある。なぜそれを覚えていなかったのか? おそらく、当時のぼくは、小学校の高学年になり、絵物語の世界から漫画や小説の世界に入りつつあったため、あまり印象に残らなかったのだろう。ともあれ、「怪獣牙虎篇」を読むことができて、至福のひとときを味わった。

上に書いたように『少年王者第10集 怪獣牙虎篇』はザンバロがロープを投げたところで終わる。これは最終巻だから、「少年王者」は未完で終了したことになる。当時絶大な人気があった「少年王者」の物語が完結していないのは不思議な気がする。しかし、考えてみれば、「少年王者」は第8集「解決篇」で大団円を迎えたと見るべきなのかもしれない。この第8集の最後で、真吾はアフリカのジャングルに別れを告げ、すい子とともに文明世界のアメリカで暮らすため飛行機に乗り、盟友ザンバロは故郷の王国に向けて旅立つ。その後の巻で描かれる、真吾のアメリカでの活躍――ギャングを退治する――やザンバロの苦難の旅も面白いのだが、どうしても付け足しの感を否めない。作者の山川惣治もそう思って未完のまま「少年王者」を終わらせ、次に取り組む「少年ケニヤ」に全力を集中したのだろう。


2022年4月

2022年4月某日  備忘録166 

媚薬
1958米 リチャード・クワイン 評点【C】
主演:ジェームス・スチュアート/キム・ノヴァク/ジャック・レモン

月夜の出来事
1958米 メルヴィル・シェイヴルソン 評点【C】
主演:ケイリー・グラント/ソフィア・ローレン

2022年4月某日  備忘録165 

三人の妻への手紙
1949米 ジョセフ・マンキウィッツ 評点【C】
主演:ジーン・クレイン、リンダ・ダーネル、アン・サザーン、カーク・ダグラス

悪人と美女
1952米 ヴィンセント・ミネリ 評点【B】
主演:カーク・ダグラス、ラナ・ターナー、ウォルター・ピジョン、ディック・パウエル、グロリア・グレアム

2022年4月某日  備忘録164 

風と共に散る
1956米 ダグラス・サーク 評点【C】
主演:ロック・ハドソン/ローレン・バコール/ロバート・スタック/ドロシー・マローン

走り来る人々
1958米 ヴィンセント・ミネリ 評点【B】
主演:フランク・シナトラ/シャーリー・マクレーン/ディーン・マーティン/マーサ・ハイヤー

2022年4月某日  備忘録163 

フィラデルフィア物語
1940米 ジョセフ・マンキウィッツ 評点【B】
主演:キャサリン・ヘップバーン/ケイリー・グラント/ジェームス・スチュアート

ミニヴァー夫人
1942米 ウィリアム・ワイラー 評点【B】
主演:グリア・ガーソン/ウォルター・ピジョン

2022年4月某日  備忘録162 

ヒトラーズ・チルドレン
1942米 エドワード・ドミトリク 評点【D】
主演:ティム・ホルト

マドモアゼル・フィフィ
1944米 ロバート・ワイズ 評点【C】
主演:シモーヌ・シモン

殺しの名画
1946米 アーヴィング・リース 評点【D】
主演:パット・オブライエン/クレア・トレヴァー


2022年2月

2022年2月某日  備忘録161 懐かしの日本映画:大学の山賊たち、地獄の底までつき合うぜ

大学の山賊たち
1960東宝 岡本喜八 評点【C】
たまたまアマゾン・プライムビデオでこの映画を見つけ、懐かしさのあまりレンタルで見た。60年ぶりの再見。昔この映画を見て登場する女優のひとり、柳川慶子に惚れ込んだ記憶がある。いま見ると、柳川のちょっと愁いを帯びた表情としとやかな風情はたしかに悪くないが、なぜ当時そこまでのぼせたのか、よく分からない。山崎努、佐藤允、久保明、それに白川由美、柳川慶子、上原美佐が主演する青春スキー映画。そのほかの出演者ではミッキー・カーティスの個性が光る。また上原謙と越路吹雪の中年コンビも悪くない。雪山の山荘が舞台で、「銀嶺の果て」と「幽霊と未亡人」をミックスさせたようなコメディだ。東宝の当時の青春スターが総出演という感じで、もし加山雄三がデビューしていたら、とうぜん加わっていただろう。山崎努は「天国と地獄」(1963)がデビュー作だと思っていたが、どうやらこの映画がそうらしい。「隠し砦の三悪人」(1958)で鮮烈にデビューした上原美佐は、この映画を最後に引退する。岡本喜八のテンポのいい演出が冴えている。冒頭、雪山でスキーヤーが滑る映像が映し出され、「終」の文字が入り、あれと思わせるが、デパートのCM映像だったことが分かる。成瀬巳喜男が「おかあさん」で使っていた、洒落たアイデアだ。

地獄の底までつき合うぜ
1959東映 小沢茂弘 評点【D】
「大学の山賊たち」を見た余勢を駆って、もう1本、子供のころに見た懐かしい映画をアマゾン・プライムビデオで見た。片岡千恵蔵主演のギャング映画だ。このころ「地獄の」云々という題名の千恵蔵主演のギャング映画が何本か作られたが、これはそのひとつ。千恵蔵主演の現代物アクション映画は、ほかに有名な多羅尾伴内シリーズや無宿シリーズ(「アマゾン無宿」とか「ヒマラヤ無宿」とか!)など、いろいろあった。荒唐無稽な内容だが当時は人気があったのだろう。この映画、若山彰が歌う主題歌はよく覚えているのだが、中身はまったく記憶にない。もしかすると昔見たのは予告編だけだったのかもしれない。東シナ海で船から落ちて死んだと思われていた男が日本に帰って自分を殺そうとした仲間に復讐する話。主人公の男に千恵蔵、その弟の大学生に高倉健、潜入捜査官に江原真二郎が扮し、ほかに中原ひとみ、佐久間良子などの女優陣、山形勲、柳永二郎などの悪役陣となかなか豪華な配役。冒頭、千恵蔵は自分の七回忌法要に棺桶を届けさせ、そのなかから躍り出て暴れまくる。そして終盤、千恵蔵は霊柩車に乗って悪人たちの巣窟に向かい、そこに格好いい主題歌が流れるという趣向。

2022年2月某日  備忘録160 懐かしのイタリア映画:激しい季節、わらの男

激しい季節
1959伊・仏 ヴァレリオ・ズルリーニ 評点【B】
川本三郎のこの映画に関する文章を読んで、そういえばこの有名な映画をまだ見てなかったと思い出した。私などより一世代前の映画ファンは、この「激しい季節」のエレオノラ・ロッシ・ドラゴに陶然となり、「過去を持つ愛情」のフランソワーズ・アルヌールに恋心を抱いた。この映画は第2次大戦下の夏、イタリアのアドリア海に面した町が舞台。都会の大学に通う金持ちの息子ジャンルイ・トランティニャンが帰省し、地元の遊び仲間と再会して旧交を温める。ガールフレンドのジャクリーヌ・ササールは彼を愛しているが、彼は偶然知り合った戦争未亡人エレオノラ・ロッシ・ドラゴに一目惚れし、人目を忍んで密会するようになる。やがてこの町にも戦争の波が及び・・・というストーリー。ヨーロッパ映画にはよくある愛のパターンだが、それに戦争を絡ませているのがミソか。ロッシ・ドラゴの愁いを帯びた眼差し、色っぽい厚めの唇は、たしかに男心をくすぐるとはいえ、トランティニャンが可愛いピチピチしたササールを捨てて年上の女になびくのは、個人的には納得がいかない。この映画には印象深いシーンがいくつかある。トランティニャンの実家の豪邸でみんながダンスをするシーン。若者のひとりがレコード・コレクションをあさって「アーティ・ショウの〈テンプテーション〉がある」と言うが、プレイヤーにかかるのはビング・クロスビーの〈テンプテーション〉だ(と思っていたが、あとで調べると、これはテディ・レノという歌手らしい。それにしても歌い方はビングにそっくりだ)。それに続いて官能的なアルトサックスがマリオ・ナッシンベーネ作の〈激しい季節〉のテーマを奏でるなか、トタンティニャンとロッシ・ドラゴは踊ったあとキスを交わし、それに気がついたササールは号泣する。彼らが初めて結ばれるシーンでは全裸のロッシ・ドラゴが惜しげもなく乳房をさらす。これも当時の映画ファンのあいだで大きな話題になったであろう。また、ムッソリーニ政権が倒れ、民衆が町の市庁舎に押し寄せ、ムッソリーニの銅像を引きずり下ろすシーンも印象深いし、トランティニャンとロッシ・ドラゴが駆け落ちのために乗った列車が連合軍に空爆されるシーンも迫力満点だ。

わらの男
1958伊 ピエトロ・ジェルミ 評点【C】
前の「激しい季節」とは設定がまったく逆で、愛する妻子がいる職工の中年男が若い女にメロメロになる話。監督のピエトロ・ジェルミが自ら主演を務める。若い女には婚約者がおり、最初は中年男の求愛を避けているが、肉体関係をもったとたん、積極的になり、家族を捨てられない中年男はその激しい愛をもてあます。この映画で印象深いのは小学校低学年ほどの年の主人公の息子の可愛さだ。少年が見せる喜怒哀楽の天真爛漫な表情や仕草は、どうしようもない愛おしさを感じる。だから私は子供と動物が出る映画は嫌いなのだ。カルロ・ルスティケリの映画テーマは当時のヒット・パレードを賑わした。


2022年1月

2022年1月某日  備忘録159 三船敏郎の若き日の知られざる映画

激流
1952東宝 谷口千吉 評点【C】
どこかの山奥の村で行なわれているダム工事にまるわる物語。新任の設計技師としてやって来た三船敏郎が、立ち退きを拒否する村人を説得したり、工事を長引かせるためダイナマイトで坑道を爆破しようとする地元のやくざと対決したり、いろんな困難に遭いながらなんとかダムを完成させる。三船はけんかに強いひげ面の熱血漢という設定。飯場で賄い婦をする勝ち気な娘を久慈あさみが演じる。久慈は三船を好きになるが、三船には東京に恋人がいる。しかし最後に恋人は三船を見限って去り、晴れて三船と久慈の愛は成就しエンドとなる。久慈あさみはあまり馴染みのない女優だが、面長の美形で妙な色気がある。

黒帯三国志
1956東宝 谷口千吉 評点【C】
柔道家の若者の一本気な生き様を描いたアクション映画。時代はおそらく大正または昭和初期。北九州の町の柔道場で修行する三船敏郎は、拳闘クラブの連中に因縁を付けられて叩きのめし、道場主の佐分利信から破門されるが、それは上京して外務省の留学試験を受けたいと思っている三船への温情だった。三船は生活資金を得るため北海道の土木工事現場で働き、タコ部屋を仕切る悪辣なやくざを懲らしめる。東京に戻り、試験に受かった三船は結果を知らせるため九州に帰るが、柔道場が拳闘と唐手の連中に乗っ取られたのを知り、怒りを爆発させて彼らと決闘し、恨みを晴らす。三船は道場主の娘=香川京子、北九州の名士の令嬢=岡田茉莉子、北海道の飯場の売店女=久慈あさみ(久慈は「激流」と同じく、ここでも飯場の女を演じている)という3人の美女に惚れられるが、最後は香川京子と結ばれる。香川京子の可愛さが印象に残る。

2022年1月某日  備忘録158 ブレッソンの徹底して理解を拒む映画

たぶん悪魔が
1977仏 ロベール・ブレッソン 評点【D】
虚無的な若者が自殺願望にとらわれ、死を遂げるまでが描かれる。これはブレッソンの最後から2番目の映画であり、いつもと同じく、語り口は極端なまでに削ぎ落とされている。登場人物たちの顔にはまったく表情がなく、会話には感情的な要素が欠落しており、身ぶりはまるでロボットのようだ。映画で描かれる若者たちの行動は、ほとんど説明がないので、前後の脈絡が分からないし、何をしようとしているのか理解できない。環境破壊がひとつのテーマのようであり、映画のなかで工場の煤煙、海の汚染、農薬散布、水俣病患者などのニュース映像が断片的に映し出される。大まかな筋立ては、若者が政治にも恋愛にも熱中できず、地球の行く末に絶望して死を選ぶ、という流れであろうと推測できる。いずれにせよ、この映画の分からなさは際立っており、まるで徹底して観客を拒否するかのようであり、見終わって、いつものブレッソン作品以上に当惑と疲労感を覚える。

湖のランスロ
1974仏・伊 ロベール・ブレッソン 評点【D】
アーサー王伝説の聖杯探求物語の後日談。時代は中世、騎士ランスロットと王妃グィネヴィアの不倫、生き残った騎士同士の対立と争いが描かれる。役者の表情や動作にまったく感情がこもっていないのは、いつものブレッソン映画のとおりだ。騎士たちの戦闘や馬上槍試合は鈍重でぎこちなく、中世の戦いはきっとこうだったろうと思わせるリアルさがある。だが、話しの流れがよく分からない。登場人物たちは始終甲冑を身につけているが、戦闘とは無縁の状態でも重たい甲冑を着て歩き回るのは不自然だし、馬の脚や騎士の足や武具などがやたらにクロースアップされるのも意味不明。無機的な感覚、ストイシズム、アンチ・ロマンティシズムは十分に示されているが、だから何なの、何を表そうとしているの、と言いたい気持ちになる。

2022年1月某日  備忘録157 アンドレ・カイヤットの映画 その2

洪水の前
1954仏 アンドレ・カイヤット 評点【D】
50年代の社会情勢と家庭問題をテーマとする社会派映画。法廷で4人のハイティーンの少年少女が告発される冒頭のシーンと、同じく法廷で彼らに判決が下される掉尾のシーンにサンドイッチされて、彼らの親たちがクロースアップされ、その家庭環境と彼らが犯行に至った過程が描かれる。朝鮮戦争が勃発し、世間は第3次大戦になるのではと怯えている。少年たちは南の島に避難するため金持ちの家から高価な切手を盗もうとするが、成り行きで殺人を犯してしまう。彼らは非行少年ではなく、真面目で仲間思いの普通の子供たちであるというのがミソか。話の筋立ては黒澤の「生きものの記録」と一脈通じるものがあり、当時は戦争の脅威が現実のものとしてあったのであろうが、いまの時点で見ると非現実的で荒唐無稽の感がある。少年少女たちのひとりに、のちの「女王蜂」で知られる妖艶な女優マリナ・ヴラディが出演しており、清楚な姿を披露している。

眼には眼を
1957仏 アンドレ・カイヤット 評点【A】
以前、学生のころにこの映画を名画座で見て衝撃を受けたが、久しぶりに再見し、改めて強いインパクトを感じた。いま見てもこの作品には人に訴えかける力がある。「ラインの仮橋」と並ぶカイヤットの傑作のひとつだろう。フランス人医師クルト・ユルゲンスはアラブのどこかの国の病院に勤めている。ある夜、彼の自宅にアラブ人の女性の病人が担ぎ込まれるが、プライベートな時間を邪魔されたくない彼は診察せず、病院に行けと追い払う。女性は病院で手当てを受けるが、手遅れで死んでしまう。女性の夫は医師に恨みを抱き、復讐するため医師を砂漠に連れ出し、道に迷わせる。医師は水も食料も尽きてよろよろと砂漠をさまよう、というストーリー。全体は3つのパートに大別できる――病人が死亡して医師が何者かに付け狙われる街中のシークエンス、医師が治療に呼ばれて遠く離れた田舎の村に行き、不条理な体験をするシークエンス、医師が死亡した女性の夫とともに砂漠をさまようシークエンスだ。どのパートにおいてもサスペンスの醸成が素晴らしい。ここで描かれるアラブ民族の文化・風習・心理は、西欧人には理解しがたいものとしか映らないだろう。だが、アラブが企てる復讐は、西欧人にとっては理不尽であっても、アラブ人にとっては正義なのだ。その構図は映画制作から60年後の今日も変わっていない。見ているときは気づかなかったが、あとになって「河は呼んでる」の可憐な女優パスカル・オードレが出演しているのが分かった。医師が亡くなった女性の実家を訪れたときに出会う女性の妹役を演じているのがオードレのようだ。

2022年1月某日  備忘録156 アンドレ・カイヤットの映画 その1

火の接吻
1949仏 アンドレ・カイヤット 評点【C】
イタリアのヴェニスとヴェローナを舞台にした恋愛映画。「ロミオとジュリエット」の物語を下敷きに、ガラス職人の若者セルジュ・レジアニと没落貴族の娘アヌーク・エーメの悲恋が描かれる。ヴェニスで撮影隊が「ロミオとジュリエットを」撮っており、主演の代役に選ばれたのがレジアニとエーメ。二人は会ったとたんに恋に落ち、ロミオとジュリエットのように運命に導かれるがごとく悲恋へと突き進む。ジュリエット役の人気女優にマルチーヌ・キャロル、没落貴族の娘に横恋慕する成り上がり者の実業家にピエール・ブラッスールが扮している。脚本はマルセル・カルネと組んで詩的レアリスムを推進したジャック・プレヴェール。それかあらぬか、ストーリー展開や情景描写はカルネやデュヴィヴィエを思わせる。レジアニとエーメが若い。とくにエーメの可憐さは格別。エーメが全裸で川で泳ぐシーンは一見の価値あり。

裁きは終りぬ
1950仏 アンドレ・カイヤット 評点【C】
愛人を安楽死させた女性の裁判を、陪審員たちの行動を通して描いた社会派法廷劇。出演しているのは、ミシェル・オークレール、ヴァランティーヌ・テシエを除き、ほとんど無名の俳優たちだ。裁判の過程と並行して、農夫、印刷工、退役軍人、貴族の男、裕福な老婦人など、さまざまな陪審員たちの私生活がコミカルな味わい、シリアスな雰囲気を混ぜ合わせて描かれる。映画が投げかけるのは、気まぐれな陪審員が被告の有罪・無罪を判断することへの疑義だが、それにしても、フランス映画ではどうしてこうも恋愛ばかりが描かれるのだろう。登場人物たちが繰り広げる恋のさや当て、不倫、三角関係などは、見ていていささかうんざりする。いちがいに比較はできないが、陪審員を中心とした法廷劇なら「12人の怒れる男」のほうがはるかにすぐれている。

2022年1月某日  備忘録155 50年代の西部劇 その2:ハサウェイとマテ

向こう見ずの男
1958米 ヘンリー・ハサウェイ 評点【B】
これは見応えのある上出来の正統的西部劇だ。父親を探して旅をする若者ドン・マレーは長男を彼に殺されたと思い込んだ牧場主の一家から命を狙われ、逃げ回る。マレーは射撃の名手だが人を殺すのを嫌う純朴な男。彼は善良な農園主に助けられ、娘のダイアン・ヴァーシと恋仲になるが、引き続き父親探しの旅を続ける。マレーを付け狙う牧場主が農園主を撃ち、それを知ったマレーは牧場主と決着をつけるべく町に向かう。物語はテンポ良く快調に進み、途中でだれることはない。登場人物の性格設定も的確で、火だるまになった牧場主の息子をマレーが助け、牧場主が復讐を諦めるエンディングも鮮やかだ。

遥かなる地平線
1955米 ルドルフ・マテ 評点【C】
米国開拓時代、北西部を調査して太平洋への道を開拓したルイス&クラーク探検隊の苦難の旅を描いた史実に基づく西部劇。隊長のルイス大尉にフレッド・マクマレー、副隊長のクラーク中尉にチャールトン・ヘストン、調査に協力するインディアンの娘にドナ・リードが扮する。ルイジアナを買収したジェファソン大統領の命を受け、探検隊は船でミズーリ川をさかのぼり、困難に遭いながらも調査の旅を続ける。ストーリーにはにインディアンの襲撃やヘストンとリードの悲恋がからむ。あれっと思ったのは、川をさかのぼる途中に滝があり、彼らが船を陸に揚げて山越えするエピソード。これはヘルツォークの「フィッツカラルド」と同じじゃないか。ヘルツォークはこの「遥かなる地平線」にヒントを得てあの映画を作ったのだ。

2022年1月某日  備忘録154 50年代の西部劇 その1:ブルックスとローランド

最後の銃撃
1956米 リチャード・ブルックス 評点【B】
毛皮狩猟のためバッファロー狩りをする2人の男の確執を描く修正主義西部劇。ガンファイトの場面はほとんどなく、バッファローを殺すシーンが念入りに描かれるのが印象深い。バッフロァーがライフルで次々に射殺される様子が現実に撮影されており、むごたらしく陰惨だ。動物愛護が盛んな現在では絶対に撮影できないだろう。主演のスチュアート・グレンジャーはバッファロー・ハンターとして知られるが、殺すことに嫌気がさしている。だが、バッファロー狩りに異常な執念を燃やすもう一人の主演ロバート・テイラーの求めに応じて狩猟の旅に参加する。ハンサムなスターとして人気のあったテイラーは、50年代半ばごろからときどき悪役を演じるようになった。ここでのテイラーが扮するのも悪役で、しかも陰湿でインディアンを蔑視し、殺しを楽しむ異常性格の男だ。バッファローを撃ちまくる彼の表情には殺戮への陶酔がうかがえる。ここではインディアンが同情的に描かれており、捕われたインディアンの娘デブラ・パジェットを居留地に送り届けたグレンジャーは、そこで暮らすインディアンが飢えに苦しんでいるのを見て、食料を届けてやる。物語は最後に主演の2人が敵対し、洞窟に逃げ込んだグレンジャーが出てくるのを待っているうちにテイラーは夜の寒さのため凍死してエンドとなる。こんな終わりかたの映画も珍しい。いろんな意味で異色の西部劇だ。

渡るべき多くの河
1955米 ロイ・ローランド 評点【C】
これもロバート・テイラーが毛皮狩猟者を演ずる西部劇だが、「最後の銃撃」とは打って変わってコメディ・タッチの陽気な映画だ。開拓者一家と知り合ったテイラーに、一家の一人娘で男勝りの勝ち気なエリノア・パーカーが一目惚れし、結婚を迫るが、気楽な独り身が好きなテイラーは逃げ回り、それをパーカーが追いかける、というストーリー。インディアンとの決闘シーンもあるが、全体としては大らかでのどかなコメディ・ウェスタンに仕上がっている。


2021年12月

2021年12月某日  2021年海外ミステリー小説ベスト・テン

01 「老いた殺し屋の祈り」マルコ・マルターニ(ハーパーブックス)
02 「天使と嘘」マイケル・ロボサム(早川文庫)
03 「亡国のハントレス」ケイト・クイン(ハーパーブックス)
04 「父を撃った12の銃弾」ハンナ・ティンティ(文藝春秋社)
05 「オクトーバー・リスト」ジェフリー・ディーヴァー(文春文庫)
06 「越境者」C・J・ボックス(創元文庫)
07 「ラスト・トライアル」ロバート・ベイリー(小学館文庫)
08 「ヨルガオ殺人事件」アンソニー・ホロヴィッツ(創元文庫)
09 「死ぬまでにしたい3つのこと」P・モリーン&P・ニーストレーム(ハーパーブックス)
10 「自由研究には向かない殺人」ホリー・ジャクソン(創元文庫)

2021年12月某日  備忘録153 老女優が共演した滋味に富む逸品

八月の鯨
1987米 リンゼイ・アンダーソン 評点[A]
リリアン・ギッシュとベティ・デイヴィスといういずれ劣らぬ老年の大女優が共演した静謐で味わい深い映画。舞台はメイン州の島、海辺を見下ろす丘に建つ家で過ごす老いた姉妹のひと夏の生活が淡々と描かれる。冒頭で少女時代の彼女たちが仲良く丘から海を眺め、夏にやって来るクジラを見るシーンが写し出され、最後は老いた彼女たちが、今年はクジラが来ないねと言いながら、同じように丘の上に立っているシーンで終わる。当時、妹役のリリアン・ギッシュは93歳、姉役のベティ・デイヴィスは79歳。実年齢とは逆に、デイヴィスは老けており、ギッシュのほうが若く見える。二人とも夫を亡くしており、姉のデイヴィスは盲目で、妹のギッシュが面倒を見ているという設定。ギッシュのやさしいが毅然とした物腰、デイヴィスのわがままで偏屈な言動は、二人の女優のイメージそのままだ。彼女たちの演技は演技という概念を超越しており、存在そのものが映画的な感興を呼び起こす。とりわけギッシュの存在感は素晴らしく、「狩人の夜」や「許されざる者」での凛としたたたずまいを彷彿とさせる。ほかに怪奇映画で有名なヴィンセント・プライス、往年の美人女優アン・サザーン、ジョン・フォード映画常連のハリー・ケリー・ジュニアといった渋い老優が近隣の住人として出演する。島と海の情景のえもいわれぬ美しさも特筆に値する。

2021年12月某日  備忘録152 ナチスと戦う戦争謀略映画

36時間
1964米 ジョージ・シートン 評点[B]
第2次大戦下、ノルマンディ上陸作戦を題材にした出色の軍事諜報映画。独軍の情報を探るためヨーロッパに飛んだ連合軍司令部少佐のジェームス・ガーナーは、麻薬を飲まされて意識を失い、気がついたら駐留米軍の病院におり、すでに戦争が終結してしていることを知る。彼を誘拐した独軍が、連合軍の上陸地点を聞き出すため、そのように仕組んだのだ。最初はそれを信じていたガーナーは、ふとしたきっかけで偽装を見破り、看護師をさせられていたユダヤ人女性エヴァ・マリー・セイントの助けを得て脱走し、スイスを目指して逃げる。前半は病院のなかの駆け引き、後半は一転して森のなかの逃走劇、独軍による手の込んだ偽装、独軍担当医師と親衛隊の対立などが綿密に描かれ、話は緊迫感をはらみながらスピーディに展開する。

クロスボー作戦
1965英 マイケル・アンダーソン 評点[C]
ドイツ軍が開発した新型ロケット兵器の工場を破壊するため英国から送り込まれた工作員たちの活動を描いた戦争スパイ映画。工作員に扮するのはジョージ・ペパード、ほかにトレヴァー・ハワード、ジョン・ミルズ、トム・コートネイなど、クセのある英国の名優が共演、ソフィア・ローレンも登場して色を添えるが、全体として盛り上がりとサスペンスに欠けるし、ヒロイズムを賛美するかのような精神が少々鼻につく。

2021年12月某日  備忘録151 大川恵子が出演した2本の映画

多情仏心
1957東映 小沢茂弘 評点[D]
大川恵子が珍しく出演した現代劇映画で、原作は里見クの風俗小説。現代とはいっても時代は戦前の昭和初期。主演の佐野周二は資産家で道楽者の好人物を演じる。彼に惚れて妾になるのが大川恵子。高倉健がハーフの不良青年として出演している。通俗的なメロドラマで、映画としては凡作。時代状況もはっきりせず、最後に「日本軍、中国に進出」という号外が写し出されて時代が分かる。デビューして間もない大川恵子は、鬘をかぶっていないせいか、後年よりふっくらしており、瑞々しく可愛らしい。

暴れん坊一代
1962東映 河野寿一 評点[B]
これは大川恵子が出演した最後期の作品のひとつ。この年の末、彼女は結婚のため引退してしまう。主演は大友柳太朗。剣の腕は立つのに下級旗本で出世できないことに絶望した大友は江戸を出奔して桑名に流れ着く。彼は渡し船で同乗した大川恵子が女郎屋に売られると知って買い取り、その後二人は夫婦になる。大友は桑名のやくざの親分に見込まれ一家の客分になる。大名に恨みを抱く大友は東海道を通る大名行列を止めて評判を集める。時は幕末、安政の大獄、桜田門外の変など、世情不安のなか、大友は生きる道を模索する、というストーリー。時代劇が曲り角に来ていた時期に作られたこの作品は、東映得意の娯楽時代劇ではなく、侍の不条理と夫婦の愛情を描いた人情時代劇に仕上がっている。大友柳太朗は侍としての生き方に悩みながらも、大川恵子と相思相愛の生活を送る。豪放磊落な表のイメージとは裏腹に、繊細で真面目な性格だったという大友にとっては、まさに我が意を得た映画だったのではないか。大川恵子も出番が多く、清楚な美しさを発散しながら、夫に寄せるひたむきな愛を見事に表現する。話の流れにはちぐはぐな箇所もあるが、彼らの熱演により、好感の持てる映画になった。

2021年12月某日  備忘録150 ハンフリー・ボガートのフィルム・ノワール

潜行者
1947米 デルマー・デイヴス 評点[B]
再見。ハンフリー・ボガートとローレン・バコールのコンビによる3度目の共演作。無実の罪でサンクエンティン刑務所に服役していたボガートが脱獄し、サンフランシスコに逃走する。偶然通りかかったバコールは彼に同情しアパートに匿う。ボガートは整形手術を受けて顔を変え、バコールの助けを得て真犯人を捜す。ボガートの顔は映画の中盤まで写し出されない。手術後、包帯を剥がと、初めて彼の顔が現れる、という趣向が面白い。ロバート・モンゴメリーの「湖中の女」を想起させるが、手法はこの映画のほうが洗練されている。ボガートを助けるタクシー運転手や整形医、彼の正体を知って脅迫する謎の男など、奇妙な脇役の登場が興味を呼ぶ。大昔に見たときはじつに面白いと感じたが、いま見るとそれほどでもない。メロドラマ風のエンディングがやや興を削ぐ。

大いなる別れ
1947米 ジョン・クロムウェル 評点[C]
これも再見。チャンドラーの小説を模した邦題はダサさの極み。原題「Dead Reckoning」とは、さまざまな情報や要素から現在位置を知る推測航法のこと。フラッシュバックで始まり、悪女が登場する、典型的なスタイルのフィルム・ノワール。終戦直後、落下傘部隊の大尉ボガートは相棒とともに殊勲メダル受理のためワシントンに向かうが、途中で相棒が逃走し行方をくらます。ボガートは軍隊本部の許可を得て真相を探るため相棒の故郷の町に向かう。秘密を暴こうとする彼が出会う謎めいた酒場の歌手がリザベス・スコット。ストーリーは二転三転し、リザベスの悪巧みは最後に至ってようやく明かされる。リザベスはローレン・バコールに似ているが、エラが張った骨太のごつい顔立ちで、ファム・ファタールとしてはいまいち魅力に欠ける。


2021年11月

2021年11月某日  備忘録149 50年代前期の異色日本映画

ここに泉あり
1955独立プロ 今井正 評点[B]
終戦直後に結成された田舎の楽団が艱難辛苦のすえに市民オーケストラとして成長するまでを描く。群馬交響楽団がモデルだという。コンサートマスターとして楽団を引っ張る優秀なヴァイオリニストに岡田英次、彼の妻になる楽団のピアニストに岸惠子、楽団のマネージャーとして奔走するのは小林桂樹、そのほか、楽団員に加東大介や三井弘次、会計係に東野英治郎といったクセのある俳優が脇を固めている。楽団員はチンドン屋などのアルバイトをし、生活苦に耐えながら、山奥の小学校やハンセン病療養施設などを廻り、人々に音楽を送り届ける喜びを味わう。全体として戦後間もないころの風景が巧みに写し出されている。山田耕筰が特別出演している。

命美わし
1951松竹 大庭秀雄 評点[C]
命の尊さを称えるコメディ風のヒューマン・ドラマ。会津若松城とおぼしき城の壕そばに住む一家の物語。壕に飛び込む自殺者を救うため夜回りをするのが日課の図書館長に笠智衆、その妻に杉村春子、新聞記者の長男が三國連太郎、学生の次男が佐田啓二、自殺しようとして救われる女が淡島千景と桂木洋子というぜいたくな配役。紆余曲折のすえ、三國と淡島、佐田と桂木が結ばれる、という他愛ないストーリー。ケチな悪人役で定評ある小沢栄太郎が珍しく善人の坊主を演じている。笠と杉村の夫婦が夜ごと、のどかに尺八と琴の演奏に興じる光景は、浮世離れした感じを与える。配役の豪華さに比べて、内容はメリハリに欠け、物足りない。

2021年11月某日  備忘録148 エリア・カザンの中後期作品

荒れ狂う河
1960米 エリア・カザン 評点[C]
1930年代、ルーズヴェルトのニューディール政策のもと、しばしば氾濫して被害をもたらすテネシー川にダムが建設される。流域の住民は政府が土地を買い上げて立ち退かせるが、川の中州に住む一家の家長の老女だけは頑として立ち退きを拒否している。彼女を説得するため派遣された政府の役人をモンゴメリー・クリフト、一家の孫娘をリー・レミックが演じる。クリフトはレミックと恋仲になるが、周辺の頑迷な住民から敵視され、迫害を受ける。ダムの放水が始まる直前、中州の家を去った老女は息を引き取り、レミックはクリフトとともに街を後にする。題材は面白いし、川の風景の描写も見応えがあるが、いろんなテーマを詰め込みすぎてプロットが中途半端になってしまっている。3年前に自動車事故で損傷した顔を整形手術したクリフトの表情が痛々しい。

突然の訪問者
1972米 エリア・カザン 評点[B]
エリア・カザンがこんな映画を撮っていたとは知らなかった。ベトナム帰還兵問題を扱った衝撃的な問題作であり、いわゆるアメリカン・ニュー・シネマの流れに沿った映画だと言える。ベトナム帰還兵の若者が妻と赤ん坊と暮らす田舎の家に突然、戦友だと称する2人の男が訪れる。若者はベトナム戦争の最中、現地の少女を強姦して殺害した部隊の同僚たちを告発した。2人の訪問者は告発されて軍法会議にかけられ服役していた兵士たちだった。彼らは復讐する意図はないと言うが、家には不穏な空気が漂い、不気味な緊張感に包まれる。終盤、いきなり暴力が噴出し、夫婦は袋叩きにされ、陵辱される。痛めつけられる夫婦は米国の象徴であろうか。戦友を密告した若者は、赤狩りで友人たちを密告したカザン本人の姿と重なる。当時、ベトナム戦争を表だって告発する映画はまだほとんど作られていなかった。この映画は物議を醸し、まともには公開されなかったらしい。登場人物は数人のみ、当時は新人だった主演のジェームス・ウッズを含めて出演者はみな無名の俳優、撮影場所も1箇所に限定されており、極端な低予算映画だ。

2021年11月某日  備忘録147 エリア・カザンの初期作品

ブルックリン横丁
1945米 エリア・カザン 評点[B]
20世紀初頭のニューヨーク、ブルックリンの安アパートに住む貧しい一家の生活を描いた映画。主人公の主婦をドロシー・マクガイアが演じる。彼女はアパートの掃除婦として家計を支え、心優しいが生活能力のない飲んだくれの芸人の夫を抱え、二人の子供を育てながら、懸命に生きる。長女は作家を目指しているが、このあたりはスティーヴンス監督の「ママの想い出」を思い起こさせる。ドロシー・マクガイアといえば口のきけない少女を演じたフィルム・ノワールの名作「らせん階段」が印象深いが、この映画でもなかなかの好演。脇役では彼女に好意を寄せる朴訥なアイルランド系巡査のロイド・ノーランが秀逸。

ピンキー
1949米 エリア・カザン 評点[C]
2年前の「紳士協定」でユダヤ人問題を描いたカザンは、この映画で黒人問題を取り上げた。黒人なのに白い肌で生まれた美しい女、ジーン・クレインが主人公。北部で出自を隠して看護婦として生活していた彼女が生まれ故郷の南部に帰ってくるところから映画はスタートする。彼女の祖母にエセル・ウォーターズ、彼女の一家が仕えた屋敷の女主人に大女優エセル・バリモアが扮する。白い肌の黒人女性の苦悩が描かれるのは興味深いし、話の流れも途中で予想がつくとはいえ手堅くまとまっているが、多数の頑迷な白人から迫害されながらも一部の良心的な白人に助けられて現地で看護学校の設立に寄与するという筋立ては、現在の視点で見れば安易すぎる。

2021年11月某日  備忘録146 大映の娯楽時代劇

鳴門秘帖
1957大映 衣笠貞之助 評点[C]
何度も映画化された吉川英治のベストセラー小説の大映版。幕府転覆の陰謀を暴くため阿波に潜入した隠密とそれを阻止しようとする阿波藩との戦いを描く。幕府隠密に長谷川一夫、彼に戦いを挑む阿波藩士に市川雷蔵、彼を仇と狙う武家娘に山本富士子、彼を助ける女スリに淡島千景という豪華な配役。長大なストーリーがスピーディな場面転換で要領よくまとめ上げられている。最後の長谷川と雷蔵の決闘シーンは引き分けで両方のスターに花を持たせている。

二人の武蔵
1960大映 渡辺邦男 評点[C]
五味康祐の剣豪小説の映画化。吉岡一門との抗争から巌流島の決闘まで、宮本武蔵の戦いの軌跡を描く映画だが、武蔵は2人いたという奇抜な設定と奔放な着想により、お馴染みの物語が換骨奪胎されている。真摯な求道者の武蔵を長谷川一夫、無骨な乱暴者の武蔵を市川雷蔵が演じ、佐々木小次郎には勝新太郎が扮する。ほかに夢想権之助やお通を模した女も登場する。長谷川武蔵は江戸の天覧試合で柳生宗矩と対決し、雷蔵武蔵は柳生の里で石舟齋一門と戦い、最後は阿蘇の山頂で2人の武蔵が決闘する。荒唐無稽な筋立てだが、それなりに楽しめる。

2021年11月某日  備忘録145 最近の映画から

ホモ・サピエンスの涙
2019瑞 ロイ・アンダーソン 評点[C]

異端の鳥
2019チェコ ヴァーツラフ・マルホウル 評点[B]

コリーニ事件
2019独 マルコ・クロイツパイントナー 評点[B]


2021年10月

2021年10月某日  備忘録144 戦前戦後の音楽映画

狂乱のモンテカルロ
1931独 ハンス・シュワルツ 評点[D]
ワイマール時代ドイツの陽気でコミカルなオペレッタ映画。欧州の架空の小国の駆逐艦艦長と女王の恋の顛末を描いた脳天気な内容の映画だが、日本で公開されたときはヒットしたらしく、エノケンがこの映画の挿入曲に日本語歌詞をつけて歌っていたという。女王役でやんちゃな魅力を振りまくアンナ・ステンはその後ハリウッドに招かれて映画を撮る。丸々と太ったピーター・ローレが船員のひとりとして出演。挿入曲のひとつ「モンテカルロの一夜」がヒットし、トミー・ドーシーのコンボでイーディス・ライトの歌をフィーチャーしたものなど、いろんなヴァージョンが作られ、コンチネンタル・タンゴのスタンダードにもなっている。

未完成交響楽
1933墺&独 ヴィリ・フォルスト 評点[C]
若き日のシューベルトの恋を未完成交響曲の作曲と絡めて綴った音楽映画。これも戦前に日本で公開されて大きな評判になったようだ。映画の前半、貧乏な音楽家シューベルトが質屋の娘から好意を寄せられ、なにかと便宜を図ってもらって恋仲になる。後半では、ハンガリーの貴族の娘の音楽教師になったシューベルトが娘と相思相愛になるが身分違いによって失恋するまでが描かれる。映画では、恋に破れたシューベルトは完成させた交響曲の楽譜に「わが恋の成らざる如く、この曲もまた未完成なり」と書き入れ、3楽章以下を破り捨てるが、これはもちろん創作。遊び好きな貴族の娘に扮する女優より、シューベルトを親身になって後押しする質屋の娘を演じる女優の方がだんぜん可愛いので、この映画での彼の行動は納得しがたい。

カーネギー・ホール
1947米 エドガー・G・ウルマー 評点[C]
ついでにクラシック音楽を題材にした映画をもう一本。これはカーネギー・ホールに勤めるひとりの女性の生涯を軸にしたハリウッド製の音楽映画。主演はマーシャ・ハント。ストーリーはたあいないが、当時カーネギー・ホールを本拠地としていたニューヨーク・フィルを中心に、ブルーノ・ワルター、リリー・ポンス、ピアティゴルスキー、ルービンシュタイン、ハイフェッツ、ストコフスキーなど、多くの有名なクラシック・アーティストが出演して著名な曲を演奏するのが見もの。ホラー映画やフィルム・ノワールで有名な監督のウルマーにとっては畑違いの映画だが、そつなくまとめている。

2021年10月某日  備忘録143 市川雷蔵の代表作2本

薄楼記
1959大映 森一生 評点[A]
一種の忠臣蔵外伝であり、物語は堀部安兵衛の高田馬場の決闘で始まり、赤穂浪士の吉良邸討ち入りで終わる。それに絡めて、ひとりの高潔な武士、丹下典膳の妻との愛、堀部安兵衛との友情、そして彼をを見舞う悲劇が描かれる。主演の市川雷蔵の気品あるたたずまいが素晴らしい。共演は勝新太郎。全体に漂う虚無感、決闘シーンの美しさが際立っている。白眉は雪のなかで、片腕を失い、足を負傷した雷蔵が寝たまま敵と戦うラストであろう。原作は五味庚祐、脚本は伊藤大輔。

斬る
1962大映 三隅研次 評点[B]
暗い出生の秘密をもつ武士がたどる悲惨な運命を描いた時代劇。主演は市川雷蔵。迫力ある殺陣はなかなかのもの。梅に鶯というのどかな風景から一転して悲劇に至るラスト・シーンが印象深い。

2021年10月某日  備忘録142 日米の秀逸な軍事裁判映画

東京裁判
1983東宝 小林正樹 評点[A]
あらゆる日本人必見の映画だ。昭和23年の極東軍事裁判の模様を戦争に至る日本の足跡と絡めて綴った4時間を超える長大なドキュメンタリー作品。戦後25年にして公開された米国務省の膨大なフィルムをもとにして製作された。以前、断片的には見ていたが、今回、改めて全体を見て大きな感慨を覚える。勝者が敗者を裁くことの是非、国家と個人の関係、天皇の戦争責任といった重いテーマが浮き彫りにされる。

ニュールンベルグ裁判
1961米 スタンリー・クレイマー 評点[B]
1946年の連合軍による司法分野のナチス戦犯裁判を描いた劇映画。裁判長を務める米国田舎町の判事スペンサー・トレイシー、激しく糾弾する検察官リチャード・ウィドマーク、必死に防戦する弁護人マクシミリアン・シェル、裁かれるナチスの元司法大臣バート・ランカスター、落ちぶれたドイツ貴族夫人マレーネ・ディートリッヒ、証人として出廷する被害者モンゴメリー・クリフトとジュディ・ガーランドなど、錚々たる顔ぶれの俳優による丁々発止の演技が素晴らしく、法廷の行き詰まるような緊迫感は見応え充分、3時間にわたるドラマは最後までまったくだらけることがない。被告全員に終身刑の判決が下されるが、関係者のひとりは、数年後にはみな釈放されるだろうと言う。ラスト、獄中のランカスターが面会に訪れたトレイシーに「分かって欲しいが、ユダヤ人の大量殺害について自分は本当に知らなかったのだ」と訴えると、トレイシーが「すべては君が最初に無実の者を処刑したときに始まったんだよ」と応じるシーンが印象に残る。

2021年10月某日  備忘録141 ドン・シーゲルの初期映画 その2

殺人捜査線
1958米 ドン・シーゲル 評点[B]
サンフランシスコを舞台に、密輸した麻薬を回収するため次々に殺人を犯す組織の手先とそれを追う捜査官の攻防を描いたフィルム・ノワール犯罪映画。これがノワールたり得ているのは、行く先々で殺しまくる麻薬回収人イーライ・ウォラックの偏執病的な異常性格による。素早い場面展開、的確な犯罪描写、全体に漂う緊迫感が見事。初期ドン・シーゲルの傑作のひとつだ。

グランドキャニオンの対決
1959米 ドン・シーゲル 評点[C]
西部劇のような題名だが、これは寂れた鉱山町で発生した殺人事件を捜査する保安官が主人公とする現代のサスペンス映画。主演はコーネル・ワイルド。クライマックスのケーブルカーでの死闘は、ルドルフ・マテ監督「第二の機会」のロバート・ミッチャムとジャック・パランスのケーブルカーでの対決を思い起こさせる。

2021年10月某日  備忘録140 ドン・シーゲルの初期映画 その1

中国決死行
1953米 ドン・シーゲル 評点[C]
第2次大戦中の中国、飛行機が墜落して地元ゲリラ部隊の手に落ちた日本軍将校を捕縛するため現地に赴く米軍部隊の作戦を描いた戦争映画。主演はエドモンド・オブライエン。

第十一号監房の暴動
1954米 ドン・シーゲル 評点[C+]
待遇改善を要求して刑務所の囚人が起こす暴動を描いた社会派映画。配役は地味だが、スピーディな展開はシーゲルならではのもの。

2021年10月某日  備忘録139 松本清張原作映画 その2

眼の壁
1958 大庭秀雄 評点[D]
手形詐欺に引っかかって会社の会計課長が自殺し、部下の若い社員が真相を探るため新聞記者の友人とともに長野の村に行き、事件の背景を探る。主演は佐田啓二、謎の女に鳳八千代、そのほか、西村晃、多々良純、渡辺文雄といった渋い役者が脇を固めているが、話の流れが分かりにくく、あまり面白くない。

わるいやつら
1980 野村芳太郎 評点[D]
病院の院長が、女好きと金儲けが高じて墓穴を掘り、殺人を犯し破滅する話。登場する男と女はみな計算高い身勝手な連中ばかりで、見ていてうんざりする。主演は片岡孝夫、彼を取り巻く女に松坂慶子、梶芽衣子、藤真利子、宮下順子。当時おそらく女優として絶頂期にあった松坂慶子の美しさが際立っている。

2021年10月某日  備忘録138 松本清張原作映画 その1

ゼロの焦点
1961 野村芳太郎 評点[C]
前作に続き、松本清張原作映画を何本か見る。本作は脚色を橋本忍と山田洋次が担当、 主演は久我美子、ほかに高千穂ひづる、有馬稲子という女優陣が共演している。新婚の夫が金沢に出張したまま消息を絶った。妻は金沢に行って夫の行方を追ううちに、彼の隠された過去と死の真相を知る、というストーリー。冬の北陸のさびれた光景が印象に残る。

黒い画集 あるサラリーマンの証言
1960 堀川弘通 評点[B]
これも脚色は橋本忍。清張原作映画のなかでは出色の作品のひとつ。主演の小林桂樹にとっても代表作といえるだろう。大会社の課長で出世の道に乗り、幸せな家庭をもつ主人公は、部下の若い事務員を愛人に囲っている。ある晩、彼女のアパート出た彼は自宅の近所に住む顔見知りの男と出会って挨拶を交わす。翌日その男が殺人で逮捕され、殺害時刻には別の場所で主人公と会ったとアリバイを主張する。愛人関係がばれては困る主人公は会っていないと嘘をつくが、良心の呵責で苦悩する、という話。ラスト、すべてを失った主人公が釈放されて警察署から出てくるシーンが印象に残る。小林桂樹は明朗軽妙なサラリーマンもので知られているが、この映画や成瀬の「女の中にいる他人」などのように浮気が発覚しそうになって苦しむサスペンスものの主人公をやらせても上手かった。

2021年10月某日  備忘録137 山田洋次の2本の初期映画

下町の太陽
1963 山田洋次 評点[C]
山田洋次の監督第2作で、倍賞千恵子との長く続いたコンビの嚆矢となった映画。倍賞のヒット曲をもとにした、いわゆる歌謡映画であり、工員として働く彼女が紆余曲折を経て別の工場で働く勝呂誉と結ばれるまでを描く。彼女の父に藤原釜足が扮し、下町の親父らしい味を醸し出している。息子が亡くなって精神に異常をきたした近所の老人を演じる東野英治郎は、同じような役を演じた「警察日記」を彷彿とさせる。

霧の旗
1965 山田洋次 評点[B+]
松本清張原作小説の映画化。脚色は橋本忍。山田洋次がこのような司法サスペンスや一種の悪女を題材とするシリアスな映画を監督するのはきわめて珍しい。兄が殺人罪で逮捕され、兄の無実を信じる妹の倍賞千恵子は高名な弁護士の滝沢修に弁護を依頼するが断られる。兄は有罪となり獄中で死ぬ。弁護士を恨む妹は復讐を企てる、というストーリー。全体の筋立てはアンドレ・カイヤットの「眼には眼を」を想起させる。頻出する夜のシーンは陰影に富んでおり、フィルム・ノワール色が濃い。西村晃、川津祐介、新球三千代など、クセのある俳優が共演している。


2021年9月

2021年9月某日  備忘録136 最近の映画から

博士と狂人
2019米・英 P・B・シェムラン 評点[B]
19世紀半ばの英国、オックスフォード英語辞典の編纂・出版にまつわる秘話。主演のメル・ギブソンとショーン・ペンはなかなかの力演。

17歳のウィーン フロイト教授人生のレッスン
2018墺・独 ニコラウス・ライトナー 評点[B]
ナチスに併合されたウィーン、ゲシュタポに蹂躙されるなか、田舎から出てきた純朴な青年がフロイト博士との交流を通して人生を学んでいく。

2021年9月某日  備忘録135 ハリウッド50年代初期の名作

見知らぬ人でなく
1955米 スタンリー・クレイマー 評点[B]
すぐれた医学技術と高い理想を持っているが、独善的で頑なな性格である青年医師の心の葛藤を描いたヒューマン・ドラマ。医学生の主人公にロバート・ミッチャム、貧しい彼が学費を得るために結婚する看護師にオリヴィア・デハヴィランド、主人公の学友にフランク・シナトラが扮する。前半の話しの流れは「陽のあたる場所」を想起させる。彼は苦労して医科大学を卒業し、田舎町の病院に勤め、献身的に仕事するが、しだいに周囲と軋轢が生じる。この映画の配役はじつにユニークであり、主人公のミッチャムをはじめ、大学の恩師にブロデリック・クロフォード、学友のひとりにリー・マーヴィン、町病院の先輩医師にチャールズ・ビックフォード、さらにはミッチャクが色香に唆される町の金持ちマダムにグロリア・グレアムと、フィルム・ノワール常連の俳優がたくさん出演している。デハヴィランドは不美人のオールドミスの役であり、きれいな女優なのに、「女相続人」など、なぜかこういう役が多い。

ボーン・イエスタデイ
1950米 ジョージ・キューカー 評点[C]
大ヒット舞台劇を映画化した風刺コメディ。粗野で横暴な田舎成金ブロデリック・クロフォードが議員とコネを作るため、踊り子上がりの無教養な愛人ジュディ・ホリデイを連れてワシントンにやって来る。成金は愛人に教養をつけさせるため取材しに来た記者ウィリアム・ホールデンを教育係に雇う。知識を身につけた愛人は成金の元から去り、愛し合う記者とともに新しい人生に踏み出す、というストーリー。全体的なプロットは「マイ・フェア・レディ」に似ている。アメリカ民主主義を無条件に賛美しているのが鼻につくが、映画としてはよく出来ており、ホリデイ(オスカー受賞)とクロフォードの持ち味を生かした演技もじつに巧み。

2021年9月某日  備忘録134 英国の宮廷劇と家庭劇

ヘンリー八世の私生活
1933英・米 アレクサンダー・コルダ 評点[C]
好色な暴君として有名な16世紀イングランド王ヘンリー8世の行状を描いた歴史宮廷劇。彼は男子の後継者を得るため、離婚したり処刑したりして6回も妻を取り替える。主人公にチャールス・ロートン(オスカー受賞)、処刑される2番目の妻アン・ブーリンにマール・オベロンが扮する。肖像画とそっくりにメイクしたロートンはまさに適役、無慈悲で横暴だがどこか憎めないヘンリー8世を見事に演じている。

幸福なる種族
1944英 デヴィッド・リーン 評点[C+]
第1次大戦終結後から第2次大戦直前までの20年間のロンドン下町の中流階級一家の日常を描くホーム・ドラマ。デヴィッド・リーンはこの翌年の1945年の「逢びき」が出世作となり、その後10年ほど、ディケンズ原作の文芸ものや小味な恋愛映画や皮肉を効かせたコメディ映画を作っていたが、1957年の「戦場にかける橋」以降、大作志向に転じた。「幸福なる種族」はロンドン特有の棟割長屋に引っ越してきたロバート・ニュートンとシリア・ジョンソンの夫婦、その3人の子供、母親の老婆、オールド・ミスの姉からなる一家の生活や出来事がたんたんと綴られる。労働者たちのストやナチスの台頭などの世相も散りばめられ、時代と歴史の流れを感じさせる。丁寧に作られていて見飽きることはないが、ノエル・カワードの原作戯曲には生活における経済的な側面がバッサリ抜け落ちている。

2021年9月某日  備忘録133 ハリウッド40年代後期の名作

ママの想い出
1948米 ジョージ・スティーヴンス 評点[A]
舞台は1910年代のサンフランシスコ、ノルウェーからの移民一家が貧しいながらも助け合いながら堅実に生きていく姿を描いた家庭劇。スティーヴンスの見事な演出により、日常の挿話が哀歓を込めてていねいに描かれ、愛すべき映画に仕上がっている。愚痴をこぼさず生計をやり繰りし、4人の子供に愛情を注ぎ、嫌われ者の伯父や気の弱い姉にもやさしく接する聡明な母にアイリーン・ダン、作家志望の長女で映画の語り手役にバーバラ・ベル・ゲデスが扮する。アイリーン・ダンの演技は絶品だが、この年のオスカー女優賞は「ジョニー・ベリンダ」のジェーン・ワイマンにさらわれた。米国の名女優のなかで当然オスカー主演女優賞を与えられてしかるべきなのに受賞していないのは、このアイリーン・ダンとバーバラ・スタンウィックだ。出演者のなかでは伯父役のオスカー・ホモルカの渋い演技も素晴らしい。この映画は当時の日本映画に影響を与えたのではないだろうか。成瀬巳喜男の家庭ドラマに一脈通じるものがあるし、中村登の映画「我が家は楽し」で母親の山田五十鈴が画家を目指す娘の高峰秀子の絵を高名な画家に見せに行く挿話は、この映画の母親が娘の書いた小説を人気作家に読んでもらう挿話を借用している。

ジョニー・ベリンダ
1948米 ジーン・ネグレスコ 評点[C+]
舞台はノヴァスコシア半島沖の離島。島にやって来た心やさしい医師リュー・エアーズは製粉所を営む農夫チャールズ・ビックフォードと知り合い、その娘で白痴扱いされている聾唖者のジェーン・ワイマンが本当は聡明であることを見抜き、手話や読書を手ほどきする。やがて彼女は美しく成長するが、それに目をつけた町の乱暴者に手込めにされ、妊娠する、というストーリー。タイトルのジョニー・ベリンダとは娘が産む男の子の名前。閉鎖された田舎町の悪習、障害者への偏見、よそ者への反感、嘘の噂話の拡散が描かれる。主演のワイマンはロナルド・レーガンの最初の妻であり、地味だが可愛い顔立ち、これによってオスカーを受賞した。


2021年8月

2021年8月某日  備忘録132 大映の雷蔵時代劇

昨日消えた男
1964 森一生 評点[C]
市川雷蔵主演のユーモア・ミステリ時代劇。退屈な日々に暇を持て余す雷蔵扮する将軍吉宗は町奉行所の同心になりすまして巷の殺人事件を解決しようとする。奉行の大岡越前に扮するのは、なんと三島雅夫。吉宗が知り合う浪人が宇津井健で、これが最後に朝廷からの使者だと分かるという、なんとも人を食った設定。これは1941年公開のマキノ雅弘監督の同名映画のリメイクということになっているが、設定も筋立てもまったく異なるらしい。この長谷川一夫・山田五十鈴主演のオリジナルは以前から見たいと思っているのだが、まだその機会を得ない。

大江山酒天童子
1960 田中徳三 評点[D]
源頼光による大江山の鬼退治を題材にした娯楽時代劇。酒呑童子に長谷川一夫、源頼光に市川雷蔵、渡辺綱に勝新太郎、ほかに本郷功次カ、中村鴈治郎、小沢栄太郎、左幸子、山本富士子、中村玉緒も出演する大映オールスター映画。酒呑童子は圧政を強いる京の都の権力者に戦いを挑む男で、その配下に鬼や山賊がいるという設定であり、鬼の片腕を切り落とす渡辺綱や都を荒らす盗賊袴垂の挿話も織り込まれるが、プロットが中途半端であまり面白くない。


2021年7月

2021年7月某日  備忘録131 黄昏期の西部劇

新・ガンヒルの決闘
1971米 ヘンリー・ハサウェイ 評点[C]
グレゴリー・ペック主演の、70年代には珍しい正統的な西部劇だが、ジョン・スタージェスの決闘3部作のひとつ「ガンヒルの決闘」とはまったく関係なく、刑務所から出獄した主人公のペックが裏切り者に復讐するためやって行く町の名がガンヒルというだけのこと。とはいえ、その復讐は中途半端で盛り上がりに欠ける。この映画で面白いのは、ペックがかつての恋人から唐突に送りつけられた6歳の少女を四苦八苦しながら面倒を見るエピソードだ。ペックはしかたなく少女と行動を共にするが、最初は厄介に思っていたのにだんだん愛情が湧いていく情景が微笑ましい。

リオ・コンチョス
1964米 ゴードン・ダグラス 評点[C]
連邦軍の新式銃を盗み、インディアンに売って白人を攻撃させようとする元南軍将校の一味を追って、騎兵隊の中尉と軍曹、インディアンを憎む流れ者のガンマン、色男の犯罪者がメキシコに潜入するというストーリー。主演はリチャード・ブーンとスチュアート・ホイットマン。時代のせいか、ややマカロニの風味がある。葬儀中のインディアンをリチャード・ブーンがライフルで殺しまくる導入部が強烈。終盤に登場する、いまだに戦争を継続しようとする狂気の元南軍将校と、彼が丘の上に立てた建設途中の邸宅が印象深く、コッポラの「地獄の黙示録」を想起させる。

2021年7月某日  備忘録130 黄金時代の西部劇

六番目の男
1955米 ジョン・スタージェス 評点[B]
リチャード・ウィドマーク主演のミステリー仕立ての西部劇。共演はドナ・リード。ウィドマークは行方不明の父親を探して5人組の旅行隊がインディアンに殺された現場に行くが、そこには同じく夫を探すドナ・リードがいた。調べが進むに連れて、旅行隊には金を奪って逃走した6番目の男がいたことが明らかになる。ふたりは真相を求めてテキサスの牧場に向う、というストーリー。きびきびした演出と出演者たちの魅力により、爽快な活劇映画に仕上がっている。

星のない男
1955米 キング・ヴィダー 評点[D]
流れ者のカウボーイ、カーク・ダグラスが、無賃乗車の貨物列車で相棒になった若者とともに、西部のある町にたどり着く。彼は東部から来た女牧場主ジーン・クレインが経営する牧場に牧童頭として雇われるが、隣接する牧場との縄張り争いに巻き込まれる、という話。カーク・ダグラスは格好いいが、映画としては思いのほか盛り上がりに欠ける。


2021年6月

2021年6月某日  備忘録129 戦前・戦後の珍品日本映画

土俵祭
1944 丸根賛太郎 評点 [D]
若き日の黒澤明の脚本、片岡千恵蔵主演の珍しい相撲映画。一種の芸道もの映画であり、若い相撲取りの片岡が逆境に耐え、精進を重ねて功成り名遂げるまでが描かれる。新派劇のような常套的なお涙頂戴人情噺だが、この前年に黒澤が初監督した「姿三四郎」を思わせないでもない。片岡千恵蔵は顔だけ見ればそれふうだが、体は小柄だし骨格も普通で、およそ相撲取りには見えない。相撲取りに扮するほかの役者も、太めの岸井明を除き、みな体格は貧弱で、現実味がないことおびただしい。撮影は宮川一夫だが、期待に反して映像は平凡。

暁の追跡
1950 市川崑 評点 [C]
池部良主演の警察映画。新橋駅前の交番を舞台に、若い真面目な巡査、池部良の仕事と私生活、同僚巡査との交流や軋轢、警察官としての悩み、麻薬密売犯の捜査などが描かれる。同僚巡査に水島道太郎、伊藤雄之助、藤原鎌足、本庁刑事に菅井一郎などの渋い役者たちが配され、池部の恋人のラーメン屋の娘に杉葉子が扮している。当時の新橋、銀座界隈の光景がロケによってドキュメンタリー風に映し出されるのが興味深い。季節は真夏で、汗をしたたらせながら捜査する察官たちの姿は黒澤の「野良犬」の三船敏郎と重なる。池部と杉の恋人コンビが微笑ましい印象を与える。音声が悪く、台詞がよく聞き取れないのが難。

2021年6月某日  備忘録128 ルルーシュのヴァンチュラ主演映画

冒険また冒険
1972仏 クロード・ルルーシュ 評点 [E]
リノ・ヴァンチュラ主演の犯罪コメディ映画。間抜けな犯罪者グループの5人が有名人を誘拐して身代金をせしめ、大金を手にして有頂天になるが、意外な落とし穴はまるというストーリー。冗長で散漫な印象しか受けない。

男と女の詩
1973仏 クロード・ルルーシュ 評点 [C]
これもリノ・ヴァンチュラ主演の宝石強奪の過程と中年男女の恋を描いた映画。カンヌの宝石店で相棒と一緒に宝石を強奪しようとしている犯罪者のリノ・ヴァンチュラが、宝石店の隣の骨董品店の女主人フランソワーズ・ファビアンと親しくなり、恋に落ちる、というストーリー。サスペンスなのかラヴストーリーなのか、中途半端な内容だが、ヴァンチュラはいい味を出している。冒頭、この監督の旧作「男と女」の映像が映し出されるので面食らうが、これは刑務所で囚人たちがこの映画を見ているという設定。

2021年6月某日  備忘録127 トリュフォーのアイリッシュ原作映画

暗くなるまでこの恋を
1969 仏 フランソワ・トリュフォー 評点 [B]
トリュフォーにしては珍しく、当時のフランスの男女の人気スター俳優、ジャンポール・ベルモンドとカトリーヌ・ドヌーヴを起用したサスペンス映画。原作はウィリアム・アイリッシュの小説「暗闇へのワルツ」。トリュフォーはこの前年に同じくアイリッシュ原作の「黒衣の花嫁」を映画化している。ぼくは当時リアルタイムで「黒衣の花嫁」を見て、つまらなくてがっかりした記憶がある。それもあって、この映画は見ていなかったが、こちらはなかなか良い出来に仕上がっている。アフリカの小島でタバコ栽培業を営むベルモンドは新聞広告で花嫁を募集するが、やって来た女は写真と大違いの美女ドヌーヴ。一目惚れしたベルモンドはドヌーヴと楽しく新婚生活を送るが、ある日ドヌーヴはベルモンドの銀行預金をすべて引き下ろして姿を消す。彼女の行方を追うベルモンドは南フランスでドヌーヴを見つけるて問い詰めるが、またもや彼女の魅力にはまり、一緒に逃亡生活を送るというストーリー。ベルモンドは純朴な青年を好演しているし、ドヌーヴの悪女ぶりも見もので、小ぶりのおっぱいを惜しげもなくさらして我々の目を楽しませてくれる。話の流れもだれることなくスムースに展開するだが、問題はラストだ。大昔に読んだ小説の記憶によると、映画は原作にほぼ忠実だが、エンディングが異なる。小説では、財産を失い、殺人犯として警察に追われる男は、女に毒を盛られ、それと知りつつ飲んで死ぬが、映画では毒を盛られた男が女への愛を語り、その真情にほだされた女は改心して男を助け、二人で雪山をスイスに向けて逃亡する。ここはドヌーヴが徹底的に悪女でなければならず、映画版の甘いエンディングだと幻滅を覚える。冒頭にジャン・ルノワールに捧ぐという献辞が出てくる。ラストの2人が国境に向うシーンは「大いなる幻影」の引用であり、ベルモンドがドヌーヴを見つけるホテルの部屋のシーンはヒッチコックの「めまい」の引用だという。ほかにも随所にいろんな映画への目配せがあるようだが、言われなければそれを分からず、トリュフォーの独りよがりという気がしないでもない。

黒衣の花嫁
1968仏 フランソワ・トリュフォー 評点 [C]
これは映画公開時に見ているが、「暗くなるまでこの恋を」見たのに触発されて、同じくアイリッシュ原作のこの映画を50年ぶりに再見。コーネル・ウールリッチ名義による同名小説の映画化で、当時、期待して見たがまったくつまらない映画でがっかりしたことを記憶している。つまらなかった原因は主演のジャンヌ・モローが中年のおばさん風で、若い美女であるはずの役にまったくそぐわなかったからだ。内容は、結婚式当日に夫を殺された妻が、犯人の男5人をひとりずつ殺していく復讐譚。監督のトリュフォーもこれを失敗作と認めているが、今回、見直して、それほどひどい出来でもないと思った。つじつまの合わない箇所はあちこちにあるが、原作がそうだからしょうがない。40歳のジャンヌ・モローはたしかに中年顔になっており、体も太ってきているが、醜いところまではいっていない。最大の問題はカラーで撮ったことでノワール的な雰囲気が半減していることだ。これがモノクロだったら、もっとましな映画になっていただろう。


2021年5月

2021年5月某日  備忘録126 最近の映画から

イーダ
2013ポーランド・デンマーク パヴェウ・パブリコフスキ 評点 [A]

ジュディ 虹の彼方に
2019英・仏・米 ルパート・グールド 評点 [D]

2021年5月某日  備忘録125 巨匠ムルナウの古典的サイレント映画

サンライズ
1927 米 F・W・ムルナウ 評点 [A]
ムルナウがハリウッドに招かれた撮ったサイレント映画。古典的名作として名高い。田舎に住む真面目な農夫が都会から来た女のとりこになり、女に唆されて貞淑な妻を湖でボートから突き落として殺そうとするが、寸前で思いとどまる。恐くなった妻は向こう岸に着くと電車に乗って都会に逃げる。農夫もそのあとを追い、街中で妻と仲直りし、食事したり遊園地で遊んだりして楽しい時間を過ごす。家に帰る途中、嵐になり、ボートが転覆して、農夫は助かるが妻は行方不明になり・・・というストーリー。視覚的表現が素晴らしく、夜の湖畔や街並みなどの光と影を巧みに使った映像が見事。遊園地の幻想的な情景も印象に残る。これらがすべてセット撮影だというから驚きだ。都会のシーンなどはロケで撮られたとしか思えないほどリアルだ。全体的にメルヘン的なお伽話を思わせる雰囲気が漂っている。農夫と都会の女との逢引きや彼が妻を殺そうとするシーンの暗い緊迫感、都会のシーンの明るい陽気な雰囲気、嵐のシーンの荒れ狂う自然の描写など、この映画はじつに変化に富んでいる。田舎の夫婦を演じるのはジョージ・オブライエンとジャネット・ゲイナー。ゲイナーの瑞々しく清楚な若妻ぶりがなかなか可愛い。

タルチュフ
1925 独 F・W・ムルナウ 評点 [D]
ムルナウとしては軽い題材の室内劇風サイレント映画。金持ちの老人宅に住み込む家政婦は羊の皮をかぶった狼で、主人の遺産を自分のものにしようとしている。それを知った老人の孫は、司祭を装う偽善者タルチュフが旧家の主人に取り入って財産を騙し取ろうとするのを主人の妻が阻止する映画を見せ、祖父に騙されていることを気づかせようとする、という話。映画のなかで上映される映画、いわゆる劇中劇でタルチュフ役を演じるエミール・ヤニングスの、狂気をはらんだ、憑かれたような演技が凄まじい。サイレント映画は表情や仕草が大げさだが、それににしても、ヤニングスのこの不気味な動作や、さらにガマガエルのような家政婦の憎々しげな表情は、迫力がありすぎて笑いを誘う。これは一種の教訓劇であろうが、喜劇映画のようでもある。

2021年5月某日  備忘録124 アメリカの古いスリラー映画

最も危険なゲーム(猟奇島)
1932米 アーヴィング・ピシェル 評点 [C]
人間狩りをテーマにしたホラー風のスリラー映画。ハンターのジョエル・マクリーが乗っていた船が座礁して孤島に流れ着く。彼はジャングルのなかで豪壮な館を見つける。そこには同じく船が難破してここに辿り着いた美女フェイ・レイがいる。館の主人のロシア貴族が彼を歓待するが、彼の趣味は人間狩りだった。マクリーとレイは館から放り出され、ロシア貴族や使用人たちが弓をもって追いかけるなか、必死に逃げるというストーリー。

闇夜の目(Eyes in the Night)
1942米 フレッド・ジンネマン 評点 [D]
フレッド・ジンネマンの最初期の監督作品だが、あまり面白くない。会社からあてがわれた企画で手の施しようがなかったのか。盲目の探偵が敵国スパイの陰謀を阻止するという荒唐無稽な話。探偵役にいつもは悪役が多いエドワード・アーノルド、調査の依頼人にアン・ハーデイング、その妹にドナ・リードという配役。若く可愛いデビューしたばかりのドナ・リードを見れるのが収穫。

2021年5月某日  備忘録123 チェコの心に響く音楽映画

コーリャ 愛のプラハ
1997 チェコ・英・仏 ヤン・スヴェラーク(英語字幕版) 評点 [A]
共産主義政権末期のプラハでの出来事を描いたチェコ映画。プラハで暮らす中年の男ロウカは優秀なチェロ奏者だが、女好きの独身主義者で、オーケストラから解雇され、葬式のBGMを演奏する楽士として生計を立てている。彼は友人から頼まれ、車を買う金ほしさに、子持ちのロシア女と偽装結婚する。だが女はドイツに亡命してしまい、彼は残された5歳の息子と一緒に暮らすはめになる。ロウカは悪戦苦闘しながら言葉の通じない子供の世話をするが、しだいに二人のあいだに親子の絆が芽生える、というストーリー。子供と動物を扱った映画は、涙を強要されるので嫌いなのだが、そう思いつつも、やはりこうも見事に作られると感動してしまう。地下鉄で子供とはぐれる挿話、無観客の映画館でロシアのアニメ映画を見る挿話、子供が高熱を出して看病する挿話、子供のためにロシア語ができる友人に頼んで電話越しに童話を読んでもらう挿話など、心を打つシーンがたくさんある。終盤、ビロード革命が起こりチェコは民主化され、ロシア女はプラハに戻って息子を引き取り、帰国する。空港でのロウカと子供の別れのシーンは不覚にも涙がこぼれた。主人公が音楽家なだけに、クラシックの曲があちこちに流れる。ドヴォルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」第2楽章が随所に流れて耳に残る。斎場で歌われる「主は私の羊飼い」や「わが母に教え給いし歌」などの歌曲も美しい。エンディングのラファエル・クーベリック(本人の映像)が指揮するチェコ・フィルに入って、ロウカがスメタナの「わが祖国」を演奏するシーンも印象深い。これは1990年5月、プラハの春音楽際のため40年ぶりに帰国したクーベリックが市庁舎広場で何万人もの市民を前に行なった「わが祖国」の感動的な演奏を再現したものであろう。主演のチェロ奏者を演ずる監督の実の父ズディニェク・スヴェラークの飄々とした演技もいいが、5歳の子供アンドレイ・ハリモンがかわいらしく、じつに自然で表情豊かだ。2人の生活のなかで起こるさまざまなエピソードの描写が素晴らしく、プロットにおける細部の詰めの甘さを補っている。オスカーの外国語映画賞を得たのもなるほどと思わせる。

2021年5月某日  備忘録122 ロミー・シュナイダー主演映画を観る その4

デス・ウォッチ
1980 仏・独 ベルトラン・タヴェルニエ 評点 [D]
ロミー・シュナイダーが亡くなる2年前の映画で、彼女は42歳だが、まだ充分にきれいだし、落ち着いた女の魅力を発散している。これは奇妙な近未来映画。ロケ地は不明だが、イギリスの古い街のようだ。テレビ局の社員ハーヴェイ・カイテルは目にカメラを植え込まれる。女流作家のロミー・シュナイダーは医師からあと2週間の命だと宣告される。カイテルはシュナイダーを追いかけ、その目で見た彼女の映像が、死を前にした人間の姿としてテレビで放映される。やがてカイテルとシュナイダーは行動をともにするようになり、心を通じ合わせる。彼らは山野をさまよい歩いた後、彼女が死に場所と決めた、かつての夫マックス・フォン・シドーが住む海岸の家に向う。そこで彼女は、死の宣告は嘘であり、本当は健康な体であることを知らされるが、結局は死を選ぶ、というストーリー。テレビのリアリティ番組への批判が込められているのだろうが、いくら近未来とは言え、あまりに荒唐無稽な話であり、医師が患者が騙すのは常軌を逸しており、彼女が最後に自ら命を絶つのも不自然だ。

サン・スーシの女
1982 仏・独 ジャック・ルーフィオ 評点 [C]
ロミー・シュナイダーの遺作。これが公開されて1ヵ月後に彼女は亡くなった。題名のサン・スーシとはドイツの宮殿のことだと思っていたが、そうではなく、映画に出てくるパリの亡命者たちが集うカフェの店名。相手役のミシェル・ピッコリはこれが6回目のシュナイダーとの共演。撮影に入る数ヵ月前に息子が事故死したことにより、シュナイダーは撮影中、いつも精神状態が不安定だったというが、映画からはあまりそんな雰囲気は感じられない。多少やつれが目立つが、若いころの頬のふっくらした愛らしい面影をいまなおとどめている。人権活動家のピッコリは南米国大使との面談中、とつぜん相手を射殺する。勾留されたピッコリは面会に来た妻シュナイダーに、戦時中のベルリンとパリで暮らした少年時代の出来事を話す。彼の過去は公判の法廷でも物語られる。ベルリンに住んでいたマックス(少年時代のピッコリ)はユダヤ人だったため父親がナチ突撃隊によって殺され、父の友人エルザとミシェルのウェルナー夫妻に引き取られる。反体制新聞を発行していたミシェルは身辺の危険を察知し、エルザとマックスをパリに避難させる。ナイトクラブで歌手として働き始めたエルザは、ナチスに逮捕された夫のミシェルを釈放させるため、彼女目当てで店に通っていたドイツ大使館の高官に身を任せるが・・
・というストーリー。シュナイダーは現代のシーンにおけるピッコリの妻と過去のシーンにおけるエルザの二役を演じる。ヴァイオリンの独奏で何度も流れる「亡命の歌」という曲の哀感漂う旋律が心に残る。映画としては、筋立てにもうひとつすっきりしない箇所があるし、全体としてセンチメンタリズムの色合いが濃いのもマイナス点だ。

2021年5月某日  備忘録121 ルイーズ・ブルックスに魅せられて その2

カナリヤ殺人事件
1929米 マルコム・セントクレア(英語字幕版) 評点 [D]
S.S.ヴァン・ダイン原作の探偵ファイロ・ヴァンスを主人公とするミステリー小説シリーズの一作の映画化。サイレントからトーキーへの過渡期の映画で、もともとサイレント用として作られたものにアフレコによって台詞を吹き込み、サウンド版にしたもの。音楽はいっさい入っていない。探偵ヴァンスを演じるのはウィリアム・パウエル。人気の踊り子カナリヤの殺害事件が起こり、名探偵ヴァンスが真犯人を突きとめる。ルイーズ・ブルックスがカナリヤを演じるが、映画が始まって間もなく殺され、出番は少ない。カナリヤは自分と関係のあった知名人を脅迫して金をせしめようとする根っからの悪女で、陰影に乏しく、ブルックスのコケティッシュな魅力が活かされていない。

淪落の女の日記
1929独 G.W.パブスト(英語字幕版) 評点 [C]
「パンドラの箱」に続いてルイーズ・ブルックスがドイツでパブスト監督のもとで主演したサイレント映画。運命のいたずらによって浮沈と流転の道を歩む女ティミアンが主人公。ティミアンは裕福な薬剤師の家の娘だが、継母から疎んぜられ、厳格な感化院に送られる。感化院を脱走した彼女は高級娼婦になるが、父親が亡くなって遺産が入り、という具合に、零落と上昇を繰り返す彼女の人生が物語られる。逆境にあっても逞しく生きるティミアンを演ずるルイーズ・ブルックスは、いつもと同じくキュートで色っぽく蠱惑的だが、役柄のせいで、前作のルルと比べて、あっけらかんとした屈託のない開けっぴろげの魅力に欠けている。出演する男優では、蛇のように狡猾そうで薄気味悪い薬剤店の店員と、無気力で脳天気な伯爵家のボンクラ息子が印象に残る。ここには、ワイマール時代末期、ナチス台頭直前のドイツの遊興に明け暮れる上流階級の人々への風刺がうかがわれる。

2021年5月某日  備忘録120 ルイーズ・ブルックスに魅せられて その1

港々に女あり
1928米 ハワード・ホークス(英語字幕版) 評点 [B]
ハワード・ホークス若き日のサイレント映画。ヴィクター・マクラグレン主演だが、ルイーズ・ブルックスが初めて重要な役で出演した映画としても有名。船乗りのマクラグレンは寄港する各地の港で酒場に入り浸って女と遊ぶのを生き甲斐にしている。彼は女のことで同じ船乗りのロバート・アームストロングと喧嘩したすえ、切っても切れぬ固い友情を結ぶ。マクラグレンはアムステルダム、リオデジャネイロ、サンペドロと港を巡り、マルセイユに着いたところでサーカスの女芸人のルイーズ・ブルックスと巡り会い一目惚れし、船から下りて彼女と一緒に住もうとする。マクラグレンは後年のジョン・フォード映画では容貌魁偉な存在感のある中年や老人を演じたが、この映画では若々しいハンサムな容姿を披露している。出演する女優のなかで、ボブカットのルイーズ・ブルックスの魅力が飛び抜けている。彼女が見世物で高いはしごの上から小さなプールに飛び込むシーンはひときわ印象深い。この映画にはホークスらしさが充満している。すでにこんな初期のころから、喧嘩を通して結ばれる男同士の友情というハワード・ホークスのテーマはかたちをなしていたのだ。邦題の「港々に女あり」(原題は A Girl in Every Port)はなかなか味わい深い題名だ。この言葉は成語になっているが、この映画によって人口に膾炙されるようになったのだろうか、それともすでに成語としてあったものを邦題にしたのだろうか?

人生の乞食
1928米 ウィリアム・ウェルマン(英語字幕版) 評点 [B]
ルイーズ・ブルックスの初主演作。サイレント映画で、共演はウォーレス・ビアリーとリチャード・アーレン。孤児院で育ったブルックスは養子に入った家のエロ親父に手込めにされそうになり、ライフルで撃ち殺す。そこに浮浪者の若者アーレンがやって来る。事情を聴いた彼は彼女に同情し、一緒にカナダに逃げようと誘う。男の子に変装した彼女は彼とともに逃走し、貨物列車に飛び乗るが、そこには全国を流れ歩く浮浪者の一団がいる。ホーボー・グループの親分ビアリーはブルックスが女であることを見抜き、自分の女にしようとする。そこにルイーズを殺人犯として追いかける警察隊が迫る、というストーリー。ハワード・ホークス監督の「奇傑パンチョ」への主演で知られる個性派俳優ビアリーは、ここではいわゆるグッド・バッド・ガイを演じており、最後に義侠心を発揮してブルックスとアーレンの逃亡を助け、警察に撃たれて死ぬ。ブルックスは終始鳥打ち帽をかぶって男の子のこの格好をしているが、終盤に至って女の格好になり、トレードマークのボブカットを披露する。ウェルマン監督らしく、社会問題が絡められた映画になっているが、全体としては笑いが散りばめられた良質の娯楽作に仕上がっている。

2021年5月某日  備忘録119 フィルム・ノワールをさらに掘り起こす その3

仮面の男
1944米 ジーン・ネグレスコ 評点 [B]
以前見ているはずだが、内容を覚えていないので再見。原作はスパイ小説作家エリック・アンブラーの「ディミトリオスの棺」で、これもはるか昔に読んでいるが、錯綜したストーリーだったこと以外、中身は記憶から抜け落ちている。主演はドイツから亡命した異色俳優ピーター・ローレ。トルコの海岸にディミトリオスという男の死体が打ち上がる。ディミトリオスは冷酷な悪党で、悪辣な仕事に手を染めており、戦時中はスパイとしても稼いでいたということを知った旅行中の作家ピーター・ローレは、興味を引かれて、ギリシャ、イタリア、フランスと、その男の足跡を追いかける。ローレの行く先々に正体不明の男シドニー・グリーンストリートがつきまとい、やがて死んだはずのディミトリオス(ザッカリー・スコット)が姿を現す、というストーリー。「マルタの鷹」「カサブランカ」でお馴染みのローレとグリーンストリートのコンビは独特の怪しげな雰囲気を醸し出しており、奇妙な存在感が横溢している。

静かについて来い
1949米 リチャード・フライシャー 評点 [C]
この映画も見ているうちに、ぼんやりと以前見たことがあるのを思いだした。雨の日に犯行を重ねる連続殺人鬼を追う刑事ウィリアム・ランディガンが、女性雑誌記者ドロシー・パトリックの協力を得て犯人を追い詰めるサイコ・スリラー。無名の俳優を使ったB級の小品だが、けっこう面白い。警察は目撃証言に沿って犯人に似せた等身大のマネキン人形を作るが、それが不気味な効果を上げている。

2021年5月某日  備忘録118 フィルム・ノワールをさらに掘り起こす その2

その男を逃がすな
1951米 ジョン・ベリー 評点 [B]
多くのフィルム・ノワールに主演した好漢ジョン・ガーフィールドは赤狩りで証言を拒否してブラックリストに載り、失意のうちに若死にした。これはガーフィールドが主演した最後の作品。金を強奪したチンピラ強盗ガーフィールドは警官に追われてプールに逃げ込み、シェリー・ウィンターズと知り合って彼女の一家が住むアパートに行く。彼は一家を脅迫してそのアパートに立てこもり、ほとぼりが冷めるのを待つ。話の流れはハンフリー・ボガート主演の「必死の逃亡者」を想起させる。愛情を知らずに育った小悪党を見事に演じるガーフィールドがいい。彼にほのかな恋心を抱くが最後にやむをえず彼を射殺するウィンタースも女の悲しみを演じて素晴らしい。脚本ダルトン・トランボ、撮影ジェームス・ウォン・ハウと一流スタッフが参加している。

サイド・ストリート
1950米 アンソニー・マン 評点 [C]
アンソニー・マン初期のフィルム・ノワール。郵便配達夫のファーリー・グレンジャーはふとした出来心で妻の出産費用にあてるため弁護士事務所で金を盗む。彼は妻キャシー・オドネルに説得されて盗んだ金を返そうとするが、その金はバーのバーテンダーに持ち逃げされる。探し当てたバーテンダーは殺されていた。いっぽうで警察は美人局で男を強請っていた女が殺された事件を捜査している。この2つのストーリーが並行して描かれ、途中で重なり合うが、2つの事件の関連がよく分からないし、女を殺したのが誰かも判然としない。話の流れはけっこう面白し、サスペンスもあるのだが。

2021年5月某日  備忘録117 フィルム・ノワールをさらに掘り起こす その1

眠りの館
1948米 ダグラス・サーク 評点 [B]
メロドラマの巨匠ダグラス・サークが手がけたフィルム・ノワールの1本。「或る世の出来事」などのコメディ女優として知られるクローデット・コルベールの主演、いつもは気のいい善人役を演じるドン・アメチーの悪役など、いろんな点で異色の映画だ。寝台車の寝台で目ざめたコルベールが絶叫するシーンで幕が開く。彼女は自分が列車に乗った記憶がない。コルベールの夫のアメチーは愛人に入れ込み、妻の財産を手に入れるため、彼女に催眠薬を飲ませて暗示をかけ、夢遊病に陥ったように見せかけ、自殺に追い込もうとしている。列車で知り合ったロバート・カミングスは彼女を助けて真相を探ろうとする。映画としてはサスペンスフルな展開で見応えがあり、コルベールの邸宅の階段シーンや寝室の窓辺のシーンなどの陰影深い撮影が興趣をそそる。アメチーの情婦に扮するヘイゼル・ブルックスは無名だがなかなか魅力に富んだ悪女ぶりを見せている。

明日に別れの接吻を
1950米 ゴードン・ダグラス 評点 [C]
ジェームス・キャグニー主演の犯罪スリラー。映画は法廷場面から始まる。被告席にいる犯罪に関係した女、警官、弁護士などの証言によって、キャグニーの行状が語られる、という趣向。入獄していた凶悪犯キャグニーは脱獄に成功し、情婦バーバラ・ペイトンのアパートを根城に、悪徳警官ワード・ボンドと組んで強盗を繰り返す。彼は上流階級の女に惚れて彼女と高飛びしようとするが、情婦に撃たれて死ぬ。中年になったキャグニーは、女を平気で殴ったりして本領を発揮するが、若いころのキビキビした動きに欠けている。またストーリー展開にいまいちメリハリがなく、前作のラオール・ウォルシュ監督「白熱」に比べると、迫力不足は否めない。監督の力量の差か。


2021年4月

2021年4月某日  備忘録116 ロミー・シュナイダー主演映画を観る その3

地獄の貴婦人
1974仏 フランシス・ジロー 評点 [C]
悪徳弁護士ミシェル・ピコリと、ロミー・シュナイダー、マーシャ・ゴムスカの姉妹が組んで、保険金殺人を繰り返すという、淫靡でグロテスクな映画。弁護士が計画を立て、姉妹のどちらかが金持ちの男と結婚し、夫を殺して保険金をせしめる。死体の処理法は酸鼻をきわめる。死体をバスタブに入れて硫酸を注ぎ、ドロドロになった液体をバケツに汲み入れ、庭に穴を掘ってそこに埋めるシーンの詳細な描写は陰惨きわまりない。真性の悪女を演じるシュナイダーは思いのほか影が薄く、あまり精彩がない。

限りなく愛に燃えて
1976仏独伊 ピエール・グラニエ=ドフェール 評点 [D]
この陳腐な日本題には辟易する(原題は「窓辺の女」)。ロミー・シュナイダーとフィリップ・ノワレは前年に作られた傑作「追想」で見事な共演ぶりを見せていたが、この映画でのノワレは脇役に徹している。30年代半ば、軍事独裁政権による戒厳令下のギリシャ。イタリア外交官の妻ロミー・シュナイダーは、官憲に追われて部屋にに忍び込んだ反政府共産主義革命家と恋に落ちる。彼女は旧知のフィリップ・ノワレの助けを得て、彼を国外逃亡させようとする、というストーリー。それから数10年後、シュナイダーとそっくりの若い女性が父母の痕跡をたどるためギリシャを訪れる。それはシュナイダーと革命家の遺児だった、という後日談が最後に付け加えられる。こう書くと面白そうだが、実際にはメリハリに欠け、緊迫感が乏しく、映画的興趣は薄い。

2021年4月某日  備忘録115 ロミー・シュナイダー主演映画を観る その2

すぎ去りし日の
1970仏 クロード・ソーテ 評点 [C]
妻と別居し、愛人とともに過ごしている男が、車を運転中、事故を起こす。車から放り出されて草むらに横たわっている男が、これまでの生涯を回想する、というストーリー。愛人にロミー・シュナイダー、男にミシェル・ピッコリ、妻にレア・マッセリが扮する。シュナイダーはピッコリと数多く共演しているが、これは共演第1作。冒頭、バスタオルを体に巻いてタイプライターを叩いている彼女の姿が印象に残る。

夕なぎ
1972仏 クロード・ソーテ 評点 [B]
ロミー・シュナイダーは解体業者のイヴ・モンタンと相思相愛の同棲生活を送っているが、そこにかつての恋人でコミック作家のサミー・フレイが現れ、恋心が再燃する。モンタンは必死に彼女をつなぎ止めようとするが、彼女の心は揺れ動く。やがて彼ら3人はお互いに相手を許容する奇妙な三角関係を形成する、というストーリー。モンタンは陽気で精力的な男、フレイは物静かで内省的な男と描き分けられている。シュナイダーがじつに美しく撮られている。終盤、彼女は雲隠れしてしまうが、残された2人の男が仲良くカードゲームに興じているところにひょっこり姿を現す。そのエンディングのシーンが印象深い。

2021年4月某日  備忘録114 スティーヴ・リーヴス主演イタリア製《剣と魔法》映画

ヘラクレス
1958伊 ピエトロ・フランチーシ 評点 [A]
中学から高校にかけてのころ、スティーヴ・リーヴスは我が愛するヒーローのひとりだった。この映画は、当時は見逃したが、リーヴスの記念すべき初主演作。ボディビル・コンテストのチャンピオンだが俳優としては無名だったリーヴスは、イタリアに呼ばれてこの映画に出演し、一躍、スウォード&サンダル映画、いわゆる「剣と魔法」映画のスーパースターになった。古代ギリシャ時代、英雄ヘラクレスは王位継承問題に巻き込まれ、王位の証しである黄金の羊を捜す旅に出る。リーヴスの筋骨隆々たる肢体が画面を圧倒し、ヘラクレスと結ばれる王女シルヴァ・コシナも妖艶な魅力を発散する。

ヘラクレスの逆襲
1959伊 ピエトロ・フランチーシ 評点 [A]
中学生のころだったと思うが、なんの気なしに見たこの映画で初めてステーヴ・リーヴスの魅力にはまり、その後、「バクダッドの盗賊」や「マラソンの戦い」や「ポンペイ最後の日」など、リーヴス主演の「剣と魔法」映画を立て続けに見た。これは前作「ヘラクレス」の続編。ヘラクレスは前作で恋に落ちたシルヴァ・コシナと結婚したが、船の旅で上陸した島で泉の水を飲み、記憶と力を失って島を治める魔女のとりこになる、というストーリー。怪力を駆使してライオンや巨人と戦い、悪漢を蹴散らすリーヴスの勇姿に陶然となる。


2021年3月

2021年3月某日  備忘録113 ドイツ戦前派の巨匠パブストの2作

パンドラの箱
1929独 G.W.パブスト 評点 [A]
ハリウッドのフラッパー女優ルイーズ・ブルックスがドイツに招かれて主演したサイレント映画。ヒロインのルルを演じた彼女は大きな脚光を浴び、ルイーズ・ブルックスは役名のルルとともに、ファム・ファタールの不滅のシンボルとして映画史にその名が刻み込まれた。場末の踊り子ルルの波瀾万丈の物語が綴られる。ルルは金持ちの愛人を手玉にとって結婚にこぎつき、夫の息子を誘惑したり、貴族の夫人と親しい関係を結んだりしたあげく、夫殺しの罪で牢獄に入るが、脱走してサーカスの芸人をたらしこみ賭博船に潜り込む。だがまたもや揉め事を引き起こしてロンドンにに逃げ、零落して街娼となり切り裂きジャックと出会う。ルルは男を破滅させる自由奔放な悪女だが、天真爛漫で屈託がない。彼女のなかには、したたかさと可愛さ、淫蕩と純情、非情と思いやりが同居しており、トレードマークの短髪ボブカット、しなやかな体の線、コケティッシュな表情や仕草は、男の劣情をそそらずにはおかない。この映画にはそんなルイーズ・ブルックスの魅力が横溢している。

三文オペラ
1931独 G.W.パブスト 評点 [D]
ベルトルト・ブレヒトが書いた有名な音楽劇の初映画化作。作曲はクルト・ワイル。資本主義社会への批判が込められているが、映画は政治的な色合いが薄められており、コメディ風味の娯楽作に仕上がっている。舞台はロンドンの貧民街、泥棒団の親分メッキー・メッサーと乞食団の親分の娘ポリーとの結婚話を軸に、メッキーの投獄と脱走、体制に反抗する乞食の大群デモなどのエピソードが織り込まれる。冒頭で評論家と出演者たちが「この映画はナチスによって公開禁止になった」と話す短いシーンが出てくるが、これはあとから付け加えられたものなのだろうか。名高い挿入曲「マック・ザ・ナイフ」はストーリーが始まって間もなく、大道芸人によって歌われる。ワイルの妻で女優のロッテ・レーニャがメッサーの情婦ジェニー役で出演し、歌を披露している。レーニャといえば、「007危機一発」でボンドを陥れようとするスメルシュの女指揮官ローザ役が忘れられない。

2021年3月某日  備忘録112 原節子が主演した「智恵子抄」

智恵子抄
1957日 熊谷久虎 評点 [C]
熊谷久虎は原節子の義兄。戦前は歴史映画や国策映画を撮る気鋭の監督だったが、太平洋戦争が始まると狂信的な右翼皇国思想にのめり込み、原節子もその影響を受けた。そのせいで戦後は映画界から干され、わずかに原節子のつてで、数本の彼女主演映画で監督を務めただけに終った。これはその一本で、原節子の主演により高村光太郎の妻智恵子の生涯を描いた映画。光太郎には山村聰が扮している。智恵子の光太郎との出会いと結婚、絵を描くことの断念、苦しく貧しい生活、やがて訪れる精神の異常と死が淡々と描かれる。当時36歳の原節子は美しく、演技もなかなかのもの。映画としてはそれほど悪い出来ではなく、熊谷は一定の力量をもった監督であったことがうかがわれる。


2021年2月

2021年2月某日  備忘録111 ジェームス・スチュアートとジャック・レモン

ハーヴェイ
1950米 ヘンリー・コスター 評点 [B]
ジェームス・スチュアート主演のほのぼのとしたコメディ。米国中西部の田舎町に住むスチュアートはハーヴェイという名の巨大な白ウサギが友だちで、いつも連れ歩いているが、そのウサギは彼以外の誰の目にも見えない。同居する妹は困って彼を精神病院に入れようとするが、自分もときどきウサギが見えると告白するし、病院長まで彼と接するうちにウサギが見えるようになる、というストーリー。ウサギはなにかの暗喩だとか風刺だとか、いろいろ考えられるが、つまらない裏目読みは止めておこう。のんびりした素朴な雰囲気が好感を誘う。スチュアートの人格や個性が役柄に見事にマッチしている。

酒とバラの日々
1962米 ブレイク・エドワーズ 評点 [B]
監督がブレイク・エドワーズ、主演がジャック・レモンというとコメディを連想させるが、これはアルコール中毒の怖さと飲酒によって壊れていく家庭の悲劇を描いたシリアスな映画。ジャック・レモンとリー・レミックはパーティで知り合って結婚するが、夫のレモンは飲酒のせいで会社をクビになり、妻のレミックもしだいに酒に溺れるようになる。夫は断酒会に入って禁酒し、真面目に働き始めるが、妻は酒を断つことができず、家を出て自堕落な生活を送る。アル中の怖さを扱った映画にはビリー・ワイルダーの「失われた週末」があるが、「酒とバラの日々」のほうがリアルで強烈な印象を与える。マンシーニとマーサーのコンビによる、はかなくも美しい旋律、リリカルで幻想的な歌詞の主題歌は永遠の名曲だ。

2021年2月某日  備忘録110 ジョン・ヒューストンの2本の異色作

勇者の赤いバッヂ
1951米 ジョン・ヒューストン 評点 [C]
スティーヴン・クレインのベストセラー小説の映画化。南北戦争に従軍した北軍兵士が恐怖に怯えていったんは逃亡するが、意を決して前線に復帰し、奮戦して手柄を立てるというストーリー。もともとは敵前逃亡が主要なテーマだったが、スタジオによって20分以上カットされた結果、勇敢な兵士の活躍を描く映画になってしまった。多くのB級西部劇に出演した主演のオーディ・マーフィは第2次大戦のヨーロッパ戦線での武功で有名だが、戦後は戦争後遺症に悩まされていたという。

白い砂
1957米 ジョン・ヒューストン 評点 [B]
第2次大戦末期、南太平洋の孤島に流れ着いた米軍兵士が、島に取り残された尼僧と出会い、2人だけの奇妙な生活が始まる、彼らはしだいに心を通わせ始めるが、そこに日本軍が上陸し、2人は山中の洞窟に隠れる、兵士は日本軍の倉庫から食料を盗み出そうとして見つかるが、そこに米軍からの攻撃が開始されて危うく難を逃れる、というストーリー。出演はロバート・ミッチャムとデボラ・カー。出演するのはほとんどこの2人だけであり、その点ではアルドリッチの映画でリー・マーヴィンと三船敏郎が出演した「太平洋の地獄」を思わせる。デボラ・カーは尼僧姿がよく似合う。46年の「黒水仙」での修道女もさまになっていた。朴訥なミッチャムと清楚なカーの組み合わせは悪くない。彼らはこの数年後に「サンダウナーズ」の夫婦役で再び共演している。

2021年2月某日  備忘録109 中原ひとみとアンナ・カリーナ

姉妹
1955日 家城巳代治 評点 [B]
家城巳代治監督、新藤兼人脚本による独立プロ作品。主演は野添ひとみと中原ひとみの「ひとみ」コンビ。河野秋武、内藤武敏、多々良純、望月優子といったクセのある俳優が脇を固めている。野添と中原は仲のいい姉妹。父は発電所の技師で、一家は発電所のある山奥の村で暮らしている。姉妹は街中の叔母の家に下宿して高校と中学に通っており、ときどき村に帰省する。彼女たちは生活のなかで社会の矛盾を経験しながら成長していく。姉妹を中心とした街中での出来事、山村での出来事が淡々と綴られていく。50年代半ばの日本、一般家庭の生活は貧しく、主婦は家計のやりくりに苦労しているが、そんななかでも人々は元気に生きていこうとする。かつての日本の情景がここにある。出演者のなかで出色なのは、奔放な振る舞いで周囲をはらはらさせる妹の中原ひとみで、じつに可愛くみずみずしいし、自然な演技も素晴らしい。内気でしとやかな姉を演じる野添ひとみの抑えた演技にも好感を覚える。姉妹の性格がきっちり描き分けられているのは脚本の新藤の手腕だろう。この2人がお互いに相手を思いやりながらけなげに生きていく姿は心を打つ。場所はどこと明示されていないが、ロケは長野県の松本市で行なわれたようだ。

修道女
1966仏 ジャック・リヴェット 評点 [C]
アンナ・カリーナ主演の修道女受難物語。原作は18世紀のディドロの小説だが、監督のリヴェットは溝口健二の「西鶴一代女」にインスピレーションを得たという。たしかに、没落貴族の娘が嫌々ながら修道院に入れられ、院長に嫌がらせを受けて監禁され、次に移った修道院では性的被害を受け、首尾よく逃亡するも娼婦に身を落とすというストーリーは「西鶴一代女」を想起させるが、溝口作品ほどの精神性は感じられない。

2021年2月某日  備忘録108 サイレント時代のドイツの巨匠ムルナウを観る

吸血鬼ノスフェラトゥ
1922年独 F・W・ムルナウ 評点 [C]
吸血鬼映画の元祖である古典的名作。ドイツ表現主義時代のサイレント映画で、ブラム・ストーカー原作の「吸血鬼ドラキュラ」を翻案したもの。異様な風貌の吸血鬼オルロック伯爵が印象に残る。

最後の人
1924年独 F・W・ムルナウ 評点 [B]
サイレント時代のドイツ映画を代表する一作。高級ホテルのドアマンを務める主人公エミール・ヤニングスが老齢のため洗面所担当に格下げされことによって起こる悲喜劇を描く。映画はいったん悲劇で終るが、字幕で「現実にはあり得ない話だが」と説明されたあと、別ヴァージョンの幸運が舞い込む後日談が語られる。

2021年2月某日  備忘録107 ロミー・シュナイダー主演映画を観る その1

ちょっとご主人貸して
1964年米 デヴィッド・スイフト 評点 [C]
ロミー・シュナイダーは主にフランスを本拠地として活動したが、初期には米英にも招かれて映画に出演していた。これはハリウッドで撮られたスラップスティック喜劇で、ジャック・レモンと共演している。ジャック・レモンは広告会社に勤めるサラリーマン。妻の親友ロミー・シュナイダーが夫との離婚を決意してレモン夫妻の隣の家に住み始めた。シュナイダーは叔父の遺産を相続することになったが、幸福な結婚を続けていることという条件が付いていた。探偵に見張られているため、シュナイダーに頼まれ、レモンが夫としてシュナイダーと同居している振りをすることになった。そこに復縁を迫ってシュナイダーの本当の夫マイケル・コナーズが現れ、ドタバタ騒ぎが加速する、というストーリー。若いシュナイダーは美しく、コケティッシュな魅力にあふれている。これはぼくがひところ大好きだったミステリー&ファンタジー小説作家ジャック・フィニイの原作だという。フィニイがこんな小説を書いていたとは知らなかった。

地獄のかけひき
1968年英 ディック・クレメント 評点 [D]
このころよく作られた英国製スパイ・コメディ映画。トム・コートネイとロミー・シュナイダー主演。「長距離ランナーの孤独」で反抗する若者を演じたコートネイがここでは失業中の無気力な男を演じる。コートネイが殺人事件に遭遇し、そこに諜報組織が絡んでスパイ合戦に巻き込まれる。諜報員の女を演じるシュナイダーはきれいだが、話の筋がさっぱり分からない

どしゃ降り
1970年仏 レオナール・ケーゲル 評点 [C]
ロミー・シュナイダーとモーリス・ロネ主演のサスペンス映画。ロミー・シュナイダーと恋人の男が乗っていた車が崖から海に転落し、シュナイダーだけ助かる。そこに警察と一緒に男の兄モーリス・ロネが現れる。シュナイダーはロネの車に同乗してパリに帰る。ロネはシュナイダーに疑惑を抱くが、彼女の魅力に囚われて恋に落ちる。そこに死んだと思っていた元恋人の弟が現れてシュナイダーを脅す。どうやら車の事故はシュナイダーが彼を殺すために仕組んだものだったらしい。困った彼女はある行動に出る、というストーリー。筋立ては弱いが、悪女シュナイダーの妖しい魅力はなかなかのもの。エンディングは「太陽がいっぱい」を思わせる。

2021年2月某日  備忘録106 90年代の新感覚ドイツ映画

バンディッツ
1997年独 カーチャ・フォン・ガルニエ 評点 [C]
女囚4人が刑務所内でバンドを組み、警察のパーティに呼ばれた際に隙を見て脱走する。彼らが逃げ回っている最中、刑務所からレコード会社に送ったデモテープがレコード化されて大ヒットし、バーでライブをしたり、マスコミの取材に応じたりするうちに人気バンドにのし上がる。彼らは港で最後のライヴをやって南米に逃げようとするが、警察はそれを察知して包囲する、という話。

ラン・ローラ・ラン
1998年独 トム・ティクヴァ 評点 [D]
恋人を救うため20分で大金を用意しなければいけなくなったローラが、金策のためベルリンの街を駆け回る。ゲームのように3つのパターンのストーリーが繰り返され、1度目、2度目は失敗、3度目でようやく成功する。ところどころでアニメが挿入され、ポップ感覚が横溢している。


2021年1月

2021年1月某日  備忘録105 40年代のフィルム・ノワール その4

Tメン
1947 アンソニー・マン 評点 [B]
紙幣偽造団一味を逮捕するため潜入捜査をする米財務省調査官(Tメン)の苦闘をセミドキュメンタリー風に描いたフィルム・ノワール。デニス・オキーフ主演。監督のアンソニー・マンは西部劇で有名だが、初期にはB級のフィルム・ノワールを手がけていた。これもそのひとつで、テンポのいい演出もさることながら、最大の見どころは名手ジョン・アルトンの見事なカメラ・ワークだ。随所に出てくる光と影を活かした夜の都会のローキー撮影は素晴らしく、見る者の胸をときめかせる。とりわけ冒頭の密告者が殺し屋に殺害されるシーンの鮮やかさは印象深い。

黒い天使
1946 ロイ・ウィリアム・ニール 評点 [C]
コーネル・ウールリッチのサスペンス小説の映画化。原作は大昔に読んでいるはずだが、記憶喪失が素材になっていること以外はまったく内容を覚えていない。美貌の女性歌手が殺され、彼女に強迫されていた男が逮捕されて死刑を宣告される。男の妻は夫の無実を信じ、歌手の元夫であるバーのピアノ弾きの助けを借りて真犯人を突きとめようとする、というストーリー。主演は悪役専門のダン・デュリエで、ここでは珍しく善人を演じており、達者なピアノ・プレイを披露する。謎めいたナイトクラブのオーナーにピーター・ローレ。B級作品だが予想外のどんでん返しもあり、けっこう楽しめる。

2021年1月某日  備忘録104 三船敏郎のドキュメンタリー・ビデオ

Mifune: The Last Samurai
2015 スティーヴン・オカザキ 評点 [C]
期せずして三船敏郎のドキュメンタリー・ビデオを2本続けて見た。これは米国の日系ドキュメンタリー映画作家が監督した劇場公開作。日本のチャンバラ映画の歴史に絡めて三船の出演映画と俳優としての生き方が描かれる。紹介される出演映画は黒澤映画が中心であり、新しい発見はあまりない。米国人向けに三島という人間の表面をなぞっただけのような印象を受ける。土屋嘉男、夏木陽介、香川京子、司葉子などの共演俳優、スティーヴン・スピルバーグ、マーティン・スコセッシといった米国の有名監督のインタヴューが挿入される。

三船敏郎 サムライの真実
2020 NHK 評点 [B]
こちらは昨年末に生誕100年記念としてNHKで放送されたもの。さまざまな角度から俳優三船の姿が浮き彫りにされており、とくに戦争体験が三船の人格形成に大きな影響を与えたとしているのは含蓄がある。また三船が製作に意欲を燃やしたが未完に終った「孫悟空」にまつわる挿話も興味深い。三船が使った台本に書き加えられているおびただしい注意書きやコメントが目を引く。ここでも香川京子と司葉子が出演して三船についての思い出を語っている。二人とも上品に年を取っているのが印象深い。男優で登場するのは宝田明だけで、まだ存命している仲代達矢や山崎努が出演していないのは解せない。

2021年1月某日  備忘録103 レスターとパウエルのレアなドキュメンタリー映像

Lester Young Story: Song of the Spirit
1988(英語版、字幕なし) 評点 [C]
レスター・ヤングの生涯を追った1時間20分のドキュメンタリー・ビデオ。レスターをフィーチャーした短編映画「Jammin' the Blues」などの映像を織り込みつつ、カウント・ベイシー、バスター・スミス、バック・クレイトン、ロイ・エルドリッジ、ジョー・ジョーンズ、ディジー・ガレスピーといった大物ミュージシャンや、ジョン・ハモンド、ノーマン・グランツなどのプロデューサーが登場してレスターについて語る。いまでは彼らのほとんどが鬼籍に入ってしまっている。レスターの娘や甥へのインタヴューも挿入される。字幕がないので彼らの喋る内容がよく分からないのがもどかしいし、最後が10分ほど欠落しているのも残念だが、貴重なドキュメンタリーであることは確かだ。

Bud Powell: Inner Exile
1998(仏語版、英語字幕) 評点 [B]
フランスで製作されたバド・パウエルのドキュメンタリー・ビデオ。尺は約1時間。幼少期から42歳で死に至るまでの波乱に富んだパウエルの人生が、フランスで撮られたさまざまなライヴ・ビデオやプライヴェートな映像を織り込みながら、警官に殴打されて発症した精神の病い、セロニアス・モンクとの友情、栄光の日々、フランスへの移住、苦難の時期にフランシス・ポードラが差し伸べた支援などのエピソードとともに物語られる。中空を凝視しながら無心にピアノを弾くパウエルの姿が印象的なクラブでの演奏風景もさることながら、冒頭と末尾に挿入される、寒々とした冬の日、どんよりした曇り空の下、海鳥が舞うどこかの波止場を歩くパウエルの映像が心に残る。


2020年12月

2020年12月某日  2020年海外ミステリー小説ベスト・テン

各種のミステリー・ベスト10では、昨年に続いてアンソニー・ホロヴィッツの「その裁きは死」が軒並み1位になっているが、これは本格ミステリーとして妙味があることは確かではあるものの、サスペンスやアクションの面での面白さは希薄だし、主人公の探偵コンビの関係も前作と同じで新鮮味が感じられないので、ぼくのベスト10には入らない。ということで、まったくの個人的嗜好に基づく今年のマイ・ベスト・ミステリーは以下のようになった。

01 「ネヴァー・ゲーム」ジェフリー・ディーヴァー(文藝春秋社)
02 「老いた男」トマス・ペリー(早川文庫)
03 「レイト・ショー」マイクル・コナリー(講談社文庫)
04 「汚名」マイクル・コナリー(講談社文庫)
05 「発火点」C・J・ボックス(創元文庫)
06 「ザ・チェーン 連続誘拐」エイドリアン・マッキンティ(早川文庫)
07 「隠れ家の女」ダン・フェスパーマン(集英社文庫)
08 「死んだレモン」フィン・ベル(創元文庫)
09 「弁護士ダニエル・ローリンズ」ヴィクター・メソス(早川文庫)
10 「作家の秘められた人生」ギョーム・ミュッソ(集英社文庫)

1位のジェフリー・ディーヴァー「ネヴァー・ゲーム」は、バウンティ・ハンターの一匹狼コルター・ショウを主人公とする新シリーズの第1作。コルターはすぐれた知能と鍛え上げられた体力を武器に、ビデオゲームを模倣する連続殺人犯を追う。登場する人物の造形が見事だし、場面展開は鮮やかでスリリングだし、得意のどんでん返しも冴え渡っている。2位のトマス・ペリー「老いた男」は、任務中のある事件がきっかけで行方をくらまし、長年にわたって隠遁していた元米軍特殊工作員の老人が、突然見知らぬ敵に襲撃されて逃走する。頭脳明晰、格闘と武器にも長けた彼は執拗に襲う殺し屋を撃退し、犬と途中で知り合った女性とともに逃亡を続けながら、真相を探ろうとする、というストーリー。老人と若い工作員との友情も描かれており、上出来の冒険アクション小説に仕上がっている。3位と4位には名手マイクル・コナリーの2作がランクイン。3位「レイト・ショー」は新キャラクター、ロス市警深夜勤務担当の女性刑事が主人公。4位の「汚名」はお馴染みの刑事ハリー・ボッシュ・シリーズの新作。いずれも正義感と反骨精神に富んだ主人公が体制の強いる抑圧や軋轢を撥ねのけながら不屈の意志で事件の捜査にあたるという、ハードボイルドの王道を行く小説。かくも長きにわたって質の高い第一級のミステリーを書き続けるコナリーには、脱帽するしかない。5位に入ったのはC・J・ボックスの「発火点」。お馴染みのワイオミング州猟区管理官ジョー・ピケットを主人公とするシリーズの新作。自らが信じる正義に従って殺人事件を捜査する心優しいピケットの行動はボッシュと共通する。違いは、ボッシュの舞台がロスという都会なのに対して、ピケットの舞台はワイオミングの大自然という点だ。6位以下のコメントは割愛。

2020年12月某日  備忘録102 40年代のフィルム・ノワール その3

戦慄の調べ
1945 ジョン・ブラーム 評点 [C]
20世紀初頭のロンドンを舞台にした歴史フィルム・ノワール。才能あるが時々記憶喪失に陥る作曲家&ピアニストが美人歌手の悪女に騙され、知らぬ間に殺人を犯して身を滅ぼす話。主人公の音楽家を演じるレアード・クリーガーは無名だが、悪女役にリンダ・ダーネル、事件の捜査にあたる警察の検視官にジョージ・サンダースが扮している。原題の「Hangover Square」は主人公の住んでいる地名。暗い色調、霧に煙る街路、記憶喪失、ファム・ファタールの悪女と、ノワールの条件は揃っている。

高い壁
1947 カーティス・バーンハート 評点 [B]
これも記憶喪失の男の話。戦争後遺症で頭痛と記憶喪失に悩まされている男が妻を殺したと思い込み警察に逮捕されるが、精神に問題ありとして精神病院に収監される。病院の女医の親身の努力により麻酔療法で記憶が甦った男は自分の犯行ではないと悟り、病院を抜け出して真犯人を捜す、というストーリー。主人公の男をロバート・テイラー、彼を助ける女医をオードリー・トッター、妻が務める出版社の編集長をハーバート・マーシャルが演じている。男が運転する車が道をそれて横転する冒頭のシーン、回想風に挿入される記憶の断片、男が雨の降りしきるなか病院を脱走し、犯行現場に向かうクライマックスなど、見どころは多く、一級品ののサスペンス映画だ。

2020年12月某日  備忘録102 40年代のフィルム・ノワール その2

底流
1946 ヴィンセント・ミネリ 評点 [B]
物理学教授の娘でオールドミスのキャサリン・ヘッバーンは、父の理論を実用化して売り出そうとする裕福な実業家ロバート・テイラーに見初められて結婚する。彼には行方不明の弟がいるが、彼は弟のことを話題にするのを異常に嫌がる。彼女は夫の弟の影が屋敷をおおっているのに気づく。やがて弟のロバート・ミッチャムが現れ、夫の隠されていた暗い秘密が明らかになる、というゴシック・ロマン風フィルム・ノワール。姿を現さない人物の影が主人公を不安に陥れるという前半の流れはヒッチコックの「レベッカ」を想起させる。監督のヴィンセント・ミネリ、撮影のカール・フロイントともども、腕のいいスタッフ、キャストによるこの映画は、さすがにストーリー展開もセット・デザインも一級品だ。デビューして間もないミッチャムはまだ若々しい。本来のイメージからすると、異常性格の犯罪者をミッチャム、善良な男をロバート・テイラーが演じるのが順当だと思われるが、この映画ではその逆をいっているのが面白い。ブラームスの交響曲第3番が伏線に使われている。

美人モデル殺人事件
1941 ブルース・ハンバーストーン 評点 [C]
フィルム・ノワールは1941年の「マルタの鷹」が嚆矢だとされているが、同年に製作されたこの映画も、登場人物たちのフラッシュバックによってドラマが進むこと、異常性格の刑事が登場することによって、最初期のフィルム・ノワールとしての骨格が明白に備わっている。原題は「I Wake Up Screaming」だが、邦題がダサすぎる。「悲鳴とともに目が覚める」とか「目を覚ますと誰かがいる」とか、もっと雰囲気のある題名が付けられてしかるべきだ。スポーツ・プロモーターのヴィクター・マチュアが美人のウェイトレスをモデルとして売り出そうとするが、彼女は殺され、彼が殺人犯と疑われる。異常に執念深い刑事が彼に罪を着せようと執拗に付け狙う。彼は嫌疑を晴らそうと走り回るうちに、彼女と同居していた姉のベティ・グレイブルと恋仲になるというストーリー。重要な狂言回しのホテル従業員に、あの印象深い脇役俳優イライシャ・クック・ジュニアが扮している。エンディングも洒落ており、映画の出来としてはそれほど悪くない。なぜか「虹の彼方に」のメロディが随所で流れる。

2020年12月某日  備忘録101 40年代のフィルム・ノワール その1

魅せられて
1949 マックス・オフュルス(英語字幕版) 評点 [B]
ここからしばらく、これまで未見だったフィルム・ノワールを見ることにする。マックス・オフュルスが描く恋する女性はあまりにナイーヴで無分別だ。贅沢な生活を夢見る世間知らずの女バーバラ・ベルゲデスが大富豪の男ロバート・ライアンと結婚するが、夫の冷酷さと異常な性格を知り、虐待に耐えられず家を出て病院の受付事務員として働き始め、雇い主である医師のジェームス・メイソンと親しくなる。妊娠した彼女はライアンに呼び戻され家に戻り、紆余曲折の末、疲弊した彼女をメイソンが救うというメロドラマ風フィルム・ノワール。金銭に執着する横暴な金持ちの実業家ロバート・ライアンはハワード・ヒューズがモデルだという。オフュルス特有の流れるような移動カメラはベルゲデスとメイソンのナイトクラブでのダンス・シーンに活かされている。また女がボートを待つ波止場のシーンや、階段や客間が映し出される豪邸のロー・キー撮影は、ノワールの雰囲気を高めている。異常性格の男を演じさせてロバート・ライアンほどの適役はいない。ジェームス・メイソンはオフュルスのもう一つのフィルム・ノワール「無謀な瞬間」でも主演のジョーン・ベネットを助ける男を演じていた。資金不足のため映画の最後が尻切れトンボになったのが残念。

おとし穴
1948 アンドレ・ド・トス 評点 [C]
保険調査員のディック・パウエルは、郊外のマイホームで貞淑な妻ジェーン・ワイアットと可愛い息子と平穏な生活を送っていたが、横領罪で刑務所送りになった男の愛人リザベス・スコットの魅力に負けて一夜を共に過ごす。スコットに横恋慕する保険会社のお抱え探偵のレイモンド・バーはパウエルを罠にはめて脅迫し、彼女を我がものにしようとする、というストーリー。リザベス・スコットはファム・ファタールだが、悪女ではなく善良な女であり、そこがこのフィルム・ノワールをいまいち印象の薄いものにしている。

2020年12月某日  備忘録100 確かな腕の職人監督千葉泰樹の映画3作

ひまわり娘
1956 千葉泰樹 評点 [B]
源氏鶏太原作の明朗サラリーマン映画。主演は三船敏郎と有馬稲子だが、内容的には有馬がメインで三船は助演と言える。新入社員として会社に就職した有馬が、女性社員から嫉妬されたり、スト騒ぎに巻き込まれたり、取引会社の社長御曹司に見初められたりしながら、紆余曲折の末、会社の先輩である朴訥で人のいい三船と結ばれるというストーリー。このとき有馬は21歳、美しく可愛い。有馬といえば小津映画での暗いイメージが強いが、ここでは若々しい溌剌とした魅力を発散している。他愛ない映画だが好感を覚える。

鬼火
1956 千葉泰樹 評点 [C]
生活に困窮した病気の夫を介護する人妻がガス集金人に料金の代わりに体を要求されて自殺するという、吉屋信子原作のなんとも気の滅入る暗い内容の映画。1時間足らずの小品だが上手くまとまっている。集金人に加東大介、人妻に津島恵子。人はいいが小狡い男を加東大介が好演している。首を吊って死んだ人妻の足元でガスが鬼火のように燃えているのを集金人が発見し、半狂乱で逃げていくホラー風のシーンでエンドとなる。

好人物の夫婦
1956 千葉泰樹 評点 [C]
志賀直哉原作、子供のいない夫婦のあいだに立った小さな波風を描いた、これも1時間足らずの静かな小品。舞台はおそらく鎌倉あたりの海岸であろう。そのためか小津映画を想起させなくもない。画家の夫を演じるのは池部良で妻役は津島恵子。妻は祖母の看病にため大阪に行っているあいだに夫が女中に手をつけたと疑うが、誤解だったと分かり元の鞘に収まるという他愛ない話だが、ユーモラスな風味としっとりした雰囲気は悪くない。

2020年12月某日  備忘録99 豊田四郎監督の文芸映画2作

猫と庄造と二人のをんな
1956 豊田四郎 評点 [D]
豊田四郎の文芸映画2本を見る。豊田四郎といえば文学作品ばかり撮っていた監督であり、「雁」と「夫婦善哉」はたしかに名作であるとはいえ、全体的にはそれほどの作家性は感じられない。この映画は関西の芦屋付近を舞台に、甲斐性なしのぐうたら男、彼がひたすら可愛がる飼い猫、彼の前妻と後妻をめぐる騒動を描いた谷崎潤一郎の小説に基づくコメディ。ぐうたら男を森繁久弥、前妻を山田五十鈴、後妻を香川京子、男の母親のごうつく婆を浪花千栄子が演じている。登場人物全員が自分のエゴと本能を剥き出しにして行動しており、誰にも感情移入できない。瞠目すべきは香川京子で、しとやかで清純なイメージの彼女が、ここでは勝ち気で気性の激しい浮気性の不良女に扮しており、画面ではいつも下着姿か水着姿なのであっけにとられる。終盤の山田五十鈴と香川京子による取っ組み合いのけんかシーンは壮絶。作品としてはそれなりに上手くまとまっているが、あまり好きな映画ではない。

駅前旅館
1958 豊田四郎 評点 [C]
井伏鱒二原作、上野界隈の旅館を舞台に、従業員の日常や客の生態を描いたコメディ。この映画が評判となって東宝の駅前シリーズが生まれた。老舗旅館の番頭役の森繁久弥が主人公。ライバル旅館の番頭に伴淳三郎、旅行会社のツアコンにフランキー堺、旅館の主人に森川信が扮している。昔の上野駅の光景、騒々しい修学旅行の生徒、ロカビリーに熱狂する若者など、当時の時代性が色濃く表れており、団体旅行の客たちが旅館で巻き起こす珍騒動が物語られると同時に、押し寄せる時代の波のなかで居場所がなくなる昔気質の番頭の悲哀が浮き彫りにされる。女優陣は淡路恵子、草笛光子、浪花千栄子というお馴染みの顔ぶれだが、なんといっても飲み屋の女将で森繁と気心を通じ合わせる淡島千景の可愛さと美しさが強く印象に残る。二人の絡みは名作「夫婦善哉」を彷彿とさせる。

2020年12月某日  備忘録98 成瀬巳喜男の後期の賛否を呼ぶ家族映画2本

妻として女として
1961 成瀬巳喜男 評点 [C]
鮮烈なリリシズムをたたえた前作「秋立ちぬ」とは打って変わって、夫婦と夫の愛人の三角関係が破綻し、家庭が崩壊するさまを描いた、成瀬にしては珍しくどろどろした暗い映画。大学教授の夫の森雅之とその妻の淡島千景、森の愛人で淡島が経営する銀座のバーのマダム高峰秀子の3人の葛藤が軸になっている。森と淡島には2人の子供がおり、実はこの子供たちは高峰が生んだ子だが、子供を生めない淡島が引き取り愛情を注ぎながら育てている。夫が妻の公認で女と愛人関係を続けるという設定は、夫役が森雅之ということもあり、「浮雲」を思わせる。それかあらぬか、回想シーンで描かれる戦時下の淡島との出会いも「浮雲」を彷彿とさせる。三角関係は安定していたが、積年の怨念が表出し、高峰と淡島の全面対決に発展する。2人の女は最終的に優柔不断で身勝手な森を責めたて、男のエゴイズムが浮き彫りにされる。大時代的な新派劇のようで、成瀬にしてはあまりにドラマ性が強すぎる。終盤に自分たちが高峰の子だったことを知らされてショックを受ける姉と弟を演じるのは星由里子と大沢健三郎。星の可愛さが際立っている。大沢は前作の「秋立ちぬ」で主演しており、この翌年にも「女の座」で高峰の息子に扮し、3作連続で成瀬の映画に出演することになる。彼らが大人たちを相手にせず、自分たちの力で頑張って生きていこうと明るく言い合うエンディングは、月並みだが救いを感じさせる。高峰と同居する母親役の飯田蝶子の飄々とした演技が印象に残る。

女の座
1962 成瀬巳喜男 評点 [B]
2年前の「娘・妻・母」と同じような華やかな布陣によるオールスター家族映画。配役が豪華で、笠智衆と杉村春子の老夫婦、その娘が上から順に三益愛子、草笛光子、淡路恵子、司葉子、星由里子という大家族だ。同居する亡くなった長男の嫁が高峰秀子で彼女が主役を演じる。男優陣は次男がラーメン屋を営む小林桂樹、アパートを経営する長女の夫が加東大介、実家に転がり込む三女の夫が三橋達也、そのほか、宝田明、団令子、丹阿弥弥津子、夏木陽介という、成瀬映画ではお馴染みの顔ぶれ。だが一番の常連の中北千枝子がいないのは不思議千万。大家族の日常が、結婚問題、相続問題、嫁姑問題などを絡めながらたんたん描かれており、その点でも「娘・妻・母」を思わせる。また、亡くなった長男の嫁が中心となって雑貨店を切り盛りしているという設定は、この2年後の「乱れる」を想起させるし、老夫婦が最も頼りにするのは血のつながらない彼女だという点では小津の「東京物語」と似ている。これだけの多彩な登場人物を、日常の何げないエピソードを絡めながら、それぞれの性格をきっちり描き分ける成瀬の力量はさすがだ。ユーモラスなシーンが多く、司葉子と星由里子の掛け合いなどはとりわけ微笑ましい。高峰のひとり息子の死は唐突すぎる感があり、葬儀のシーンもやや冗長な印象を与える。かつての成瀬ならもっと簡潔に描いていただろう。このような深刻な挿話もあるにせよ、全体としての雰囲気は明るい色調を帯びている。

2020年12月某日  備忘録97 成瀬巳喜男の夫婦もの3部作を構成する2本

夫婦
1953 成瀬巳喜男 評点 [A]
成瀬巳喜男映画の最後の宝の山に分け入り、未見だった50〜60年代の4作品を鑑賞する。これは「めし」に続く成瀬の夫婦もの3部作の第2作。夫の上原謙の妻役には前作と同じく原節子が予定されていたが、原が病気になって杉葉子が抜擢された。この映画のいちばんの魅力は杉葉子にあり、彼女はかいがいしく夫に尽くす心優しく美しい妻を、わざとらしさのない自然な仕草で見事に演じている。上原謙は優柔不断で頼りない夫を演じさせたら天下一品だ。この映画では倦怠期の夫婦という問題のほかに、住宅難と妊娠がテーマになっている。夫婦は夫の同僚で妻を亡くした三國連太郎の家に間借りする。前作の「めし」では姪が登場して夫と仲良くなり、夫婦のあいだに波風が立ったが、この映画で波風を立てるのは妻と心を通い合わせる三國連太郎だ。終盤、妻が妊娠し、夫は生活が苦しいから中絶しようと言い、妻も嫌々ながらそれに従うが、最後になって考えを変え、二人はなんとかして育てていこうと決意し、ハッピーエンドとなる。鰻屋を営む妻の実家の父親の藤原鎌足、兄の小林桂樹、妹の岡田茉莉子も好演しており、彼らのやり取りが心を和ませる。


1953 成瀬巳喜男 評点 [C]
「めし」「夫婦」に続く夫婦もの3部作の最終作。夫婦を演じるのは上原謙と高峰三枝子。3作のなかではいちばん深刻な内容で、他の2作では夫婦の危機は未然に回避され、仲直りするが、この「妻」では夫が実際に会社の同僚の事務員丹阿弥弥津子と浮気して肉体関係をもち、妻が丹阿弥の家に乗り込んで詰り、丹阿弥は身を引くが、夫婦関係の冷たさは解消されない。映画の冒頭、夫が黙って出勤のため家を出て、妻も黙ってそれを見送るが、エンディングでもまったく同じ冷え冷えした光景が繰り返される。高峰が箸を楊枝代わりに使い、お茶で口をすすいで飲み込み、それを上原が嫌そうに見るシーンが倦怠期の味気ない夫婦関係を示している。夫婦が住んでいるのは前2作と違って持ち家で、2階を間貸ししているが、間借り人のひとりとして前作に続いて出演している三國連太郎のとぼけた味わいが、全体の暗い色調に明るさを添えている。

2020年12月某日  備忘録96 ジェームズ・キャグニーが真価を発揮したアクション映画

我れ暁に死す
1939 ウィリアム・キーリー 評点 [C]
悪徳政治家の不正を暴いたため罠にかけられ投獄される新聞記者の苦闘を描いたドラマ。記者役にジェームス・キャグニー、刑務所で知り合ってキャグニーと友情を結ぶギャングにジョージ・ラフトが扮する。義侠心を発揮し、キャグニーを助けて死ぬラフトがカッコよく、主役のキャグニーを食っている。

栄光の都
1940 アナトール・リトヴァク 評点 [B]
ニューヨークの下町に住む少年少女が成功を夢見てそれぞれの道を歩む。ジェームス・キャグニーはボクサー、その弟のアーサー・ケネディは音楽家、キャグニーの恋人アン・シェリダンはダンサーを目指す。端役で若きエリア・カザンとアンソニー・クインが出演している。試合中に相手のボクサーの卑劣な反則で失明し、新聞売り子をするキャグニーが、弟が指揮するオーケストラの演奏をラジオで聴いているところに、ダンス・ツアーの巡業を止めてシェリダンが帰ってきて彼に寄り添い、エンドとなる。

2020年12月某日  備忘録95 好漢ジェームズ・キャグニーのギャング映画の代表作

汚れた顔の天使
1938 マイケル・カーティス 評点 [C]
30年代後半のジェームズ・キャグニーが主演したギャング映画を4本まとめて見た。この映画はキャグニーのギャング映画の代表作のひとつと目されているが、図式的なセンチメンタリズムが目立つ。ギャングのキャグニーは殺人罪で捕まり、死刑を宣告されるが、死刑執行に際して、幼なじみの牧師パット・オブライエンの頼みを聞き入れ、キャグニーに憧れる少年たちを幻滅させるため、わざと泣き叫んで情けない姿をさらす。キャグニーの恋人役にアン・シェリダン、敵役の悪徳弁護士にハンフリー・ボガートが扮している。

彼奴は顔役だ
1939 ラオール・ウォルシュ 評点 [A]
これもキャグニーのギャング映画を代表する一作で、ラオール・ウォルシュのツボを心得たスピーディな演出、キャグニーのきびきびした演技により、名作に仕上がった。原題「The Roaring Twenties」どおり、禁酒法下の20年代を舞台に、第1次大戦の戦友3人の友情と裏切りが描かれる。戦争から帰還した自動車整備工のキャグニーはタクシー運転手として働き始め、密造酒の運搬で稼ぐようになり、大もうけして暗黒街の大物にのし上がるが、大恐慌で一文無しになる。キャグニーが愛した女プリシラ・レインはかつての戦友で彼と袂を分かった正義派弁護士ジェフリー・リンと結ばれる。いまや零落した彼と心を通い合わせるのはナイトクラブを経営していた年増の女グラディス・ジョージだけだ。キャグニーの戦友のひとりで大物ギャングになったハンフリー・ボガートから脅迫されたリンは、キャグニーに助けを求める。キャグニーはレストランでボガートを撃ち殺すが、自分も子分に撃たれて死ぬ、というストーリー。出演者たちの性格がきっちり描き分けられているのが見事だし、中盤の倉庫襲撃シーンと終盤のレストランでの銃撃シーンも迫力満点。落ちぶれたキャグニーが見せる侠気が心を打つ。最後、雪の降るなか、キャグニーが階段で絶命するラスト・シーンは素晴らしく、万感が胸に迫る。

2020年11月

2020年11月某日  備忘録94 さっぱり良さが分からないゴダール映画

小さな兵隊 1960 ジャン=リュック・ゴダール 評点 [D]
女と男のいる舗道 1962 ジャン=リュック・ゴダール 評点 [C]
アルファヴィル 1965 ジャン=リュック・ゴダール 評点 [D]
メイド・イン・USA 1967 ジャン・=リュック・ゴダール 評点 [D]
ゴダールの60年代の映画をまとめて見たが、総じてあまり面白くない。すべてアンナ・カリーナが出演しており、彼女のコケティッシュな魅力を堪能できたことは収穫だったが。この4本のなかでは、アンナ・カリーナが娼婦に落ちぶれ、最後は無残に路上で射殺される女を演じた「女と男のいる舗道」がいちばんまともな作りで映画的興趣があり、断髪のカリーナもあでやかだ。ほかは、アルジェリア紛争を題材にしたスパイ映画「小さな兵隊」も、未来都市での活劇ハードボイルド映画「アルファヴィル」も、リチャード・スタークの悪党パーカー小説が原案だという「メイド・イン・USA」も、登場人物たちがやたらに動き回り、拉致されたり拷問されたり追跡したり発砲したりするが、話の展開がさっぱり分からないし、ゴダール特有の詩や小説や哲学書の引用がちりばめられ、知的スノビズムが鼻について、退屈しか感じなかった。

2020年11月某日  備忘録93 奇妙だが抗しがたい魅力を放つカウリスマキの映画

パラダイスの夕暮れ 1987 アキ・カウリスマキ 評点 [B]
ハムレット・ゴーズ・ビジネス 1987 アキ・カウリスマキ 評点 [C]
真夜中の虹 1988 アキ・カウリスマキ 評点 [B]
マッチ工場の少女 1990 アキ・カウリスマキ 評点 [C]
コントラクト・キラー 1990 アキ・カウリスマキ 評点 [B]
ラヴィ・ド・ボエーム 1992 アキ・カウリスマキ 評点 [B]
フィンランドの映画作家アキ・カウリスマキの初期から中期にかけての作品を6本見た。彼の映画の多くは労働者や失業者など、社会の底辺にいる者たちであり、彼らが体験する社会の不正義や不条理が、ドラマ性を排した淡々としたタッチで描かれる。そこからは巧まざるユーモアと乾いた叙情が立ち上り、飄々とした味わいを醸し出す。俳優たちは大げさな演技やこれ見よがしの動作を一切しない。その点では敬愛する小津安二郎からの影響が感じられるし、またロベール・ブレッソンとも一脈通じるものがある。同じく小津を尊敬するホウ・シャオシェン、ジム・ジャームッシュ、アレクサンダー・ペインなどの作風とも似通っている。カティ・オウティネンやマッティ・ペロンパーといった個性的な俳優が常連でしばしば主役を務めるのが興趣をそそる。
「パラダイスの夕暮れ」「真夜中の虹」「マッチ工場の少女」は負け犬三部作と呼ばれている。「パラダイスの夕暮れ」の主人公はゴミ清掃車の運転手を務める不器用だが真面目な男で、スーパーのレジ係の孤独な女と奇妙な恋愛をする。「真夜中の虹」の主人公は炭鉱が閉鎖されて職を失った男、ヘルシンキに出てきて日雇いで稼ぐ彼は駐車違反の切符切りの子持ち女と知り合い、同棲する。男は無実の罪で逮捕されるが脱走して女とともにメキシコに逃げる。「マッチ工場の少女」は3作のなかでいちばん悲惨で救いのないストーリーだ。題名どおりマッチ工場で働く女が主人公。彼女は家で横暴な義父とぐうたらな母の面倒を見ている。ダンスクラブで会った男と一夜を過ごして妊娠するがが男に捨てられた彼女は、薬局で買ったネコイラズで男を殺し、さらに義父と母親も殺害する。「ハムレット・ゴーズ・ビジネス」はシェイクスピアの「ハムレット」を現代社会の出来事に移し替えたパロディ。「コントラクト・キラー」はロンドンを舞台にしたジャンピエール・レオ主演のフィルム・ノワール風コメディで、主人公は人生に絶望して死のうとするが死にきれず、自分を殺させるために殺し屋を雇うが、花売り娘に出会って恋に落ち、生きる希望を取り戻すものの、殺し屋に襲われて慌てふためくという話。殺し屋を演じるケネス・クラークが人間味にあふれており、バーの親父に扮するセルジュ・レジアニの枯れた風格も印象深い。「ラヴィ・ド・ボエーム」はパリが舞台。それぞれ画家、作家、音楽家として成功を夢見ながら共同生活する3人の貧しい若者の友情を描いた、古き良き時代のフランス映画を思わせる人情映画。映画監督サミュエル・フラーとルイ・マルが特別出演する。エンディングで情感豊かに流れる歌は、なんと日本語で歌われる「雪の降る町を」だ。

2020年11月某日  備忘録92 老いてなお風格を漂わせるジャン・ギャバンの2作

ギャンブルの王様
1959 ジャン・ドラノワ 評点 [B]
ジャン・ギャバン主演の人情ドラマ。ギャンブル好きでプレイボーイの貧乏男爵ギャバンが、ある晩カード・ゲームで大勝ちし、豪華なヨットを手に入れる。彼は昔の恋人ミシュリーヌ・プレールを誘ってオランダへの船旅に出かけるが、川上りの最中、フランスの田舎でガス欠になり、無一文でで立ち往生する。プレールはレストランで地元の朴訥なワイン醸造主と意気投合して結婚のため船を下りる。ギャバンは船着き場の前の安食堂に入り浸って常連客の仲間に入り、食堂の女主人と気持ちを通い合わせる。やがてギャバンの元に金が届き、女主人が見送るなか、彼は意気揚々と船出する、というストーリー。たあいない話だが、ユーモアのなかにそこはかとない哀感が漂っており、捨てがたい味わいがある。ジャン・ギャバンの飄々とした持ち味が活かされており、共演のミシュリーヌ・プレールもコケティッシュな魅力を発散している。

親分は反抗する
1961 ジル・グランジェ 評点 [C]
これもジャン・ギャバン主演のユーモアを交えた犯罪映画。ベルナール・ブリエをはじめとする3人の小悪党がニセ金で一儲けしようと企み、南米に隠遁していたその道のプロ、初老のジャン・ギャバンを呼び寄せる。ギャバンの指図のもと、彼らは優秀な印刷職人を雇い、ニセ金作りに着手する。3人はギャバンを出し抜こうとするが、逆にギャバンは職人と示し合わせ、刷り上がったニセ札をひそかに売り払って逃走する、というストーリー。全体に雰囲気が緩慢でのんびりしており、あまり面白くない。職人の妻にマルチーヌ・キャロル、ギャバンの旧知の女で印刷用の紙を手配する女にフランソワーズ・ロゼーが扮している。

2020年11月某日  備忘録91 50年代後期、成瀬巳喜男と原節子の異色作

コタンの口笛
1959年 成瀬巳喜男 評点 [B]
監督の成瀬巳喜男としてはきわめて異色の映画。石森延男原作の児童小説の映画化。子供のころ、聞いてはいなかったが、ラジオドラマでこの「コタンの口笛」を放送していた記憶がある。北海道のアイヌ人部落に住む中学3年生の姉と1年生の弟が主人公。この2人が貧しさと偏見に耐えながらけなげに生きていく姿が描かれる。妻を亡くして男手ひとつで2人を育てる父親に森雅之、姉が憧れる美術の教師に宝田明、理解力のある校長に志村喬といった実力ある役者が脇を固めている。この映画は不評で失敗作と言われている。たしかに成瀬巳喜男にこのような社会性のある題材は似合わないし、いわれなき差別を告発する姿勢にも底の浅い感じを否めない。しかしストーリーはたんたんとした流れのなかにいろんな事件や挿話が巧みに絡み、破綻なく進んでいるし、大人の役者もそうだが、子供たちの演技もきわめて自然で好感が持てる。そして美術の中古智が川のほとりのアイヌ人部落のセットを見事に作り上げている。弟が川で釣りをするシーンや、主人公たちの隣家に住む老婆の野辺送りのシーンなど、印象的な場面もあり、それほど悪い出来とは思えない。

女囚と共に
1956 久松静児 評点 [C]
36歳の原節子主演、女性刑務所を舞台に、刑務官と女囚の対立と交流を描いた社会派ドラマ。俳優陣がたいへん豪華だ。原節子が演じるのは刑務官を率いる課長。ほかに、刑務所長に田中絹代、女囚には久我美子、香川京子、岡田茉莉子、杉葉子、淡路恵子、小暮実千代、浪花千栄子などが扮している。さまざまな悲しい過去を持った女囚が入所し、彼女たちの起こした事件がフラッシュバックで物語られる。力作だが、全体として底が浅く図式的で、所長や課長をはじめとする刑務官はみな善良で熱心に女囚を世話するし、反抗的だった女囚も最後には改心する。のちに悪役専門になった上田吉二郎が真面目な刑務所職員を演じているのに目を見張った。

2020年11月某日  備忘録90 50年代半ば、黒澤明脚本の逸品2作

吹けよ春風
1953 谷口千吉 評点 [B]
脚本は監督の谷口と黒澤明の共作。主演は三船敏郎。三船扮するタクシー運転手が遭遇するさまざまな客と出来事をオムニバス風に綴った映画。客として乗ってくるのは、小泉博と岡田茉莉子のアベック、演劇スターの越路吹雪、酔っ払いの小林桂樹と藤原釜足、強盗の三國連太郎、抑留からの帰国した山村聰と、多士済々。ユーモアと哀感がないまぜに散りばめられており、三船の芸達者ぶりもなかなかのもので、それなりに楽しめる。

あすなろ物語
1955 堀川弘通 評点 [B]
井上靖原作の連作短編小説集の映画化。弟子の堀川弘通の監督デビュー作のために黒澤明が脚本を書いた。ぼくは子供のころにこの小説を読んで感銘を受けている。少年の成長物語で、小学6年生、中学3年生、高校3年生のそれぞれに時期に少年が出会った年上の女性への思慕、その出会いと別れが描かれる。第1話は山村で祖母と暮らす少年と家に転がり込んだ親戚の娘岡田茉莉子とのエピソード。第2話は祖母が亡くなって寺に預けられた少年と住職の娘根岸明美とのエピソード。第3話は没落しつつある旧家に下宿した主人公とその家のひとり娘久我美子とのエピソード。登場する女性たちはみな勝ち気で意志が強く、少年は彼女たちと出会って翻弄されたり感化されたりする。第1話で少年が出会う青年木村功によって語られる「あすなろの木」の逸話――あすなろはいつも檜になろうとして頑張っているが、けっして檜になれない――が3話を通底する主題になる。全体のなかでは、雪深い山の中で、少年が突然闖入した美女岡田茉莉子に心をときめかし、恋人木村功への付け文を渡す使者を務める第1話が圧倒的に良い。ジョセフ・ロージーの名作『恋』を想起させる。ここで少年を好演する久保賢は、この4年後に『コタンの口笛』でアイヌの少年を演じた。第3話では彼の実兄久保明が成長した主人公を演じている。

2020年11月某日  備忘録89 フィルム・ノワールの名品2作

天使の顔
1953 オットー・プレミンジャー 評点 [A]
ロバート・ミッチャムとジーン・シモンズ主演、フィルム・ノワールの傑作のひとつ。以前、字幕なしで見たときはジーン・シモンズの悪女ぶりに圧倒されたが、今回、字幕付きで見て、彼女の哀れさが強く印象に残った。救命士のミッチャムが豪邸に駆けつけ、帰り際に居間でピアノを弾いているその家の娘シモンズと出会う冒頭のシーンから、車が崖から墜落するエンディングのシーンまで、間然するところなく緊迫したストーリーが続く。とりわけ、シモンズが車を猛烈な勢いでバックさせて同乗するミッチャムとともに崖から転落するエンディングはショッキングだ。可愛い顔の美少女ジーン・シモンズがファム・ファタールの悪女を演じているのがこの映画を特異なものにしている。彼女は父親の小説家ハーバート・マーシャルの愛を独り占めしたくて、継母を毛嫌いしている。彼女の犯行は欲得ではなく愛ゆえのものであり、父親を失い、愛するミッチャムにも拒絶される彼女の姿は、悪女なのに脆さと痛々しさを感じさせる。ハリー・ストラトリングのカメラは夜のロサンジェルスや邸宅内の光景を見事に捉えている。

マカオ
1952 ジョゼフ・フォン・スタンバーグ 評点 [C]
これもロバート・ミッチャムとジェーン・ラッセル主演のフィルム・ノワールだが、ノワールの要素は希薄で、異国情調を盛り込んだ娯楽サスペンス映画に近い。監督のスタンバーグは途中で降板し、ニコラス・レイが引き継いだという。マカオでの賭博場の光景は同じくスタンバーグが監督した『上海ジェスチャー』を想起させる。マカオに船で着いた元軍人の流れ者ミッチャムとキャバレー歌手ラッセルが、闇社会を牛耳る悪漢と彼を逮捕しようとする警察との暗闘に巻き込まれるというストーリー。安直な筋立てだが、茫洋としたミッチャムと蓮っ葉なラッセルはなかなかの魅力。夜の波止場での追跡シーンなどはフィルム・ノワールの雰囲気が濃厚だし、ホテルの部屋でのミッチャムとラッセルの喧嘩シーンで、扇風機の羽根で枕が切り裂かれ羽毛が一面に舞い飛ぶ印象深いシーンもある。悪漢の情婦役でグロリア・グレアムが出演しているが、印象は薄い。

2020年10月

仕事が忙しかったため、今月は以下の4作しか見ることができなかった。いずれもフランス映画の古典的な名作であり、これで戦前のフランス名画で見たいと思っていたものはほぼ見終わったのではないかと思う。

2020年10月某日  備忘録88 フェデーとカルネの古典的名作

女だけの都
1935 ジャック・フェデー 評点 [A]
どんなフランス映画のベストテンにも必ず入るジャック・フェデーの名作だが、以前VHSで見たときは退屈して途中で見るのを止めてしまった。今回見終わって、名作たるゆえんが理解できた。フランドルの小さな街。スペインの軍隊が街にやって来るという報が入り、お偉方たちは町が略奪されるのではないかと怯え、町長が急死したと偽って一行を通過させようと企む。町長夫人はそんな情けない男たちを尻目に、女たちだけで色気を武器に町を守ろうとする、というストーリー。皮肉とエスプリが込められた一種の艶笑譚で、女たちは軍隊を迎え入れ、晩餐会を開いてもてなし、夜の務めも嬉々としてこなす。死んだふりをするがくしゃみをしてボロを出す町長、厳粛な顔で袖の下を受け取る生臭坊主が笑いを誘う。酒場の女将がひとりで何人もの将校の相手を務め、部屋の窓のカーテンが次々に閉まるシークエンスはルビッチを想起させる。男勝りの町長夫人を演じるフランソワーズ・ロゼーが秀逸、生臭坊主役のルイ・ジューヴェも印象深い。ロケではないかと思わせる巧妙精緻なオープン・セットが見事だ。

北ホテル
1938 マルセル・カルネ 評点 [B]
マルセル・カルネの代表作のひとつだが、いま見ると古くさく感じるのを否めない。パリのサンマルタン運河沿いに建つ安宿、北ホテルを舞台にしたメロドラマ。人生をはかなんだ青年ジャンピエール・オーモンと恋人のアナベラがホテルの部屋で心中を図るが、女は助かり、男は逃亡する。それを見つけた隣室の中年男ルイ・ジューヴェは男を見逃し、女を助ける。傷か癒えたアナベラはホテルのメイドとして働き始め、ジューヴェは同棲していた情婦アルレッティと縁を切り、アナベラと恋仲になるが、彼女は逃亡した青年が忘れられない。警察に自首した青年はやがて釈放され、彼女とよりを戻す。肩を寄せ合うアナベラとオーモンが映されるなか、幻滅したジューヴェは宿敵の前にわざと姿をさらして銃で撃たれて、映画は終る。アナベラの可憐な美しさとルイ・ジューヴェの落ち着いた渋さが際立っている。これも町のセットが素晴らしく、ホテルの前の運河に架けられた橋と遊歩道に備えられたベンチがオープニングとエンディングで効果的に使われている。

2020年10月某日  備忘録87 デュヴィヴィエの戦前の代表作2本

我等の仲間
1936 ジュリアン・デュヴィヴィエ 評点 [C]
ジャン・ギャバンとシャルル・ヴァネル主演。宝くじで10万フランを当てた5人の仲間が共同で小川のほとりの荒れた別荘を買い、みんなで力を合わせて改装してレストランを開こうとする。やがて仲間はひとり去り、ふたり去りして減っていき、最後にギャバンとヴァネルが残される。ようやくレストランを開業するが、ヴァネルの妻をめぐってギャバンとヴァネルのあいだに3角関係が生じ、狡賢い悪妻の言葉に踊らされたヴァネルから面罵されたギャバンはヴァネルを射殺する、というストーリー。陽気で楽しい雰囲気からしだいに暗い雰囲気になっていく、ペシミズムの作家デュヴィヴィエらしい映画。悪女を演じるヴィヴィアーヌ・ロマンスはこれが出世作になった。話の流れからして、ギャバンとヴァネルは友情と信頼で結ばれており、いくら女を巡って言い合いになってもギャバンがヴァネルを射殺するのは不自然で、無理やり悲劇にしたという感がある。本来の悲劇版のほかに、おそらく米国向けに作ったと思われるハッピー・エンディング版がある。DVDに収録されたハッピー・エンディング版を見ると、そこではギャバンが射殺を思いとどまり、ふたりは仲直りする結末になっており、こちらのほうが自然な結末に思える。

旅路の果て
1939 ジュリアン・デュヴィヴィエ 評点 [C]
南フランスの引退した俳優のための養老院を舞台に、そこで暮らす老人たちの人間模様が描かれる。舞台で脚光を浴びた女たらしの俳優にルイ・ジューヴェ、実力がありながら成功しなかった俳優にヴィクトル・フランサン、代役専門で舞台に立ったことがない道化者の俳優にミシェル・シモンが扮しており、この3人が主要登場人物。近所のカフェで働くウェイトレスの少女を誘惑し、自殺に追い込もうとするジューヴェの狂気を秘めた冷酷な表情が印象に残るが、全体としてあまりのも芝居がかっており、絵空事のような空しさがつきまとう。

2020年9月

2020年9月某日  備忘録86 クルーゾーの初期と後期の2本の映画

犯罪河岸
1947 アンリジョルジュ・クルーゾー 評点[B]
一度見ているが、中身を忘れたので再見。クルーゾーのごく初期の作品でルイ・ジューヴェが刑事役を演じる。人気歌手の妻とピアノ伴奏者の夫が主人公。歌手は女好きの大金持ちから映画に出演させてやると言われて屋敷に行くが、彼に襲われそうになったので花瓶で殴って逃げる。夫のピアノ弾きは妻が男と密会していると勘違いしてて屋敷に行くが、男は死んでいた。刑事が登場して捜査を始める。最初に夫が、次に妻が犯人と疑われるが、最後に刑事が事件を解き明かし、真犯人を逮捕して一件落着、というストーリー。顔は恐いが人情味のある刑事を演じるルイ・ジューヴェの存在感が光る。この刑事は男やもめで、混血の幼い息子を育てているという設定。この息子がなかなか可愛く、父親に会いたくなり、警察署にやって来て眠ってしまう。嫉妬深いピアニストに扮するベルナール・ブりエも適役。この映画はミステリーといういより人情物、世話物という感じで、クルーゾーは主人公夫婦の友人でピアニストを密かに愛する女写真家を狂言回しに配したり、夫婦の激しい痴話喧嘩を挿入したりして雰囲気を盛り上げている。エンディングも鮮やかだ。

スパイ
1957 アンリジョルジュ・クルーゾー 評点[C]
見たと思っていたが、未見だったクルーゾーの後期の作品。これは冷戦を皮肉ったパロディ映画なのだろうか。田舎の精神病院を舞台に、素性の分からない怪しげな諜報員や監視人や亡命スパイがつぎつぎに現れる。彼らが喋ることが嘘か本当か分からず、経営困難の病院を建て直す金ほしさにスパイを匿うことを承諾した院長はてんてこ舞いする。カフカを思わせる悪夢のような状況は、ヒッチコックを思わせないでもないが、スパイ映画のパロデイのようでもある。主演の院長に扮するジェラール・セティは無名だが、入院中の色っぽい女性患者に監督の妻ヴェラ・クルーゾー、亡命して病院に匿われるスパイにクルト・ユルゲンス、某国の諜報員にピーター・ユスチノフとサム・ジャフェと、くせのある役者が脇役で出演している。

2020年9月某日  備忘録85 ジャン・ギャバンのメグレ警視もの2本

殺人鬼に罠をかけろ
1957 ジャン・ドラノワ 評点[C]
ジョルジュ・シムノン原作のメグレ警視ものの一作。ジャン・ギャバンの演じるメグレは、原作の印象とはかなりイメージが違うが、トレンチコートにフェルト帽、いつもパイプをくわえており、これはこれで様になっている。パリ市内で女ばかり狙う連続殺人事件が発生し、メグレの指揮のもと、警察が罠にかけて犯人をおびき出そうとする話。犯人があっさり分かってしまうのが物足りないし、終盤は犯人とその妻と母親の心理関係に焦点が当たり、文芸臭が濃くなってサスペンスの味わいが薄れる。犯人役は軟弱な風貌のジャン・ドサイ。その妻役のアニー・ジラルドの知的な風貌と抑えた演技が印象に残る。リノ・ヴァンチュラが端役の刑事を神妙に演じている。

サン・フィアクル殺人事件
1959 ジャン・ドラノワ 評点[C]
ジャン・ギャバンのメグレ警視シリーズ第2作。メグレは生まれ故郷サンフィアクル村にやって来る。村の城館に住む、彼が子供のころ密かに慕っていた伯爵夫人から、彼女に届いた脅迫状について調査を依頼されたからだ。翌日、伯爵夫人は心臓発作で死ぬが、メグレは仕組まれた殺人だと見抜く。最後にメグレは城館に夫人の一人息子や秘書や管理人などの疑わしい人物を集め、犯人を指摘する。映画としての盛り上がりに欠けるし、犯行の手口も現実味に乏しいが、寒々とした冬の村の情景は印象に残る。年老いた伯爵夫人にルノワールの「ボヴァリー夫人」で主役を演じたヴァランシーヌ・テシエ、放蕩者の息子にクルーゾーの「情婦マノン」で好演したミシェル・オークレールが扮している。

2020年9月某日  備忘録84 ジャン・ギャバン50年代の犯罪映画2本

筋金を入れろ
1955 アンリ・ドコアン 評点[C]
ジャン・ギャバン主演の犯罪映画。題名の「筋金」は「ヤキ」と読む。ギャングの大物ギャバンがニューヨークからパリに帰ってきて組織の麻薬密売網立て直しのために雇われるが、終盤にいたって彼は警察の潜入捜査官だったのが明かされるという話。最後に組織は一網打尽になる。麻薬の製造や売買がドキュメンタリー風に描かれるのが興味深い。ギャバンが経営するクラブの会計係で彼の愛人になるマガリ・ノエルがなかなか可愛い。組織の冷酷な殺し屋をリノ・ヴァンチュラが演じる。組織のボスに扮するマルセル・ダリオとギャバンは「大いなる幻影」以来の共演。

赤い灯をつけるな
1957 ジル・グランジェ 評点[B]
監督のジル・グランジェは50〜60年代にギャバンの映画を数多く手がけた人物。パリで駐車場とレストランを経営するギャバンの裏の顔は強盗グループのリーダー兼運転手。グループのひとりにリノ・ヴァンンチュラが扮する。ヴァンチュラは珍しく物分かりのいい仲間を演じていると思っていると、最後で狂気の男になる。グループに警察の手が迫り、ギャバンの弟を密告者だと勘違いして殺そうとするヴァンチュラとギャバンが撃ち合いになって2人とも死ぬ。若いアニー・ジラルドがギャバンの弟の恋人で男を手玉に取る悪女を演じ、ギャバンにほっぺたをはたかれる。ヴァンチュラをはじめ、「筋金を入れろ」と同じく、ギャング映画ではお馴染みの役者がたくさん出演している。

2020年9月某日  備忘録83 ブレッソンの迫真的な脱獄映画

抵抗 死刑囚の手記より
1956 ロベール・ブレッソン 評点[B]
ブレッソンにしてはストレートで分かりやすい脱獄映画。実話に基づいており、体験者の手記を忠実に映像化したという。ナチス占領下の下のフランス、レジスタンス活動での投獄された男が脱獄するまでが描かれる。男はスプーンの先を床で研ぎ、ミノを作ってドアの羽目板を剥がし、布を裂いて撚り合わせ、ベッドの針金で補強してロープを作る。看守の目をかすめて黙々と作業する男の姿が丹念に描写される。その映像は、緊迫感を醸成しようというあざとさがないだけに、じつにリアルで生々しい。男を支えているのは自由への渇望だ。死によって結末を迎えることが多いブレッソンの映画のなかで、主人公が脱獄に成功して足早に夜の闇に消える印象的なエンディングのこの映画は、きわめて異例の作品だと言える。

2020年9月某日  備忘録82 フランジュの荒唐無稽な活劇映画「ジュデックス」

ジュデックス
1963 ジョルジュ・フランジュ(英語字幕版) 評点[C]
サイレント時代に人気を博したという連続活劇映画をリメイクした作品。ジュデックスとは怪盗紳士の名前で、二枚目の奇術師チャニング・ポロックが演じる。彼はいつも黒マントとつば広帽子という格好で登場する。映画は悪徳銀行家に殺害の脅迫状が届くシーンからスタートするが、筋立ては荒唐無稽で、暗殺、誘拐、追跡、格闘が脈絡なく盛り込まれる。始まって間もなく、仮装パーティに鳥男が現れて次々に鳩を取りだし、見るものは呆気にとられる。銀行家の娘で脆い人形のようなエディト・スタブが川に流されるシーンはオフィーリアを連想させる。終盤、なぜか女曲芸師シルヴァ・コシナが登場し、白タイツ姿で城館の屋根によじ上り、同じく黒タイツ姿の女賊フランシーヌ・ベルジュと格闘するシーンは、ヒッチコックの「泥棒成金」を想起させる。

山師トマ
1965 ジョルジュ・フランジュ(英語字幕版) 評点[E]
ジャン・コクトーの小説の映画化。第1次大戦中、パリ郊外の貴族の未亡人の城館に、有名な将軍の甥だと名乗る青年が現れ、救護部隊を組織して傷病兵を救おうとする未亡人を助けたあと、戦争の最前線に向かう、というストーリー。最後に青年が詐欺師だったことが分かる。未亡人をエマニュエル・リーヴァ、彼女を愛する新聞記者をジャン・セルヴェという達者な役者が演じているが、映画として何を表現したいのかよく分からず、話もだらだらと続き、まったく面白くない。

2020年9月某日  備忘録81 ジョルジュ・フランジュの衝撃作「顔のない眼」

顔のない眼
1960 ジョルジュ・フランジュ(英語字幕版) 評点[A]
以前から見たいと思っていた映画をやっと見ることができた。山田宏一が著書「フランス映画誌」で一章を費やしてオマージュを捧げ、澁澤龍彦も絶賛していた。期待に違わぬ、怪奇と幻想、リアリズムとメルヘン、残酷と耽美が渾然一体となった恐怖映画の傑作だ。森に囲まれた郊外の屋敷が舞台。高名な医師ピエール・ブラッスールが、交通事故で顔全面に火傷を負った愛娘エディット・スコブの顔を元通りにするため、助手アリダ・ヴァリに若い娘を誘拐させ、その顔の皮膚を剥ぎ取って娘の顔に移植しようとする、というストーリー。冒頭、アリダ・ヴァリが犠牲者の遺体を河に沈めるシーンが見る者に強烈な印象を与える。暗闇のなか、ヴァリに引きずられる女の死体の白い脚が目に焼き付く。娘のエディット・スコブがいつも顔に付けている、二つの穴から両目だけがのぞく、ゴム製とおぼしき白いマスクがなんとも不気味だ。誘拐した女の顔から皮膚を剥ぎ取る移植手術の描写は目をそむけたくなるほど生々しい。エンディングも鮮やかだ。スコブがヴァリの喉をメスで突き刺し、檻から放たれた犬がブラッスールに襲いかかる。スコブは解き放ったハトが舞い踊るなか、暗い森のなかに歩み去る。残酷なリアリズムと耽美的なロマンティシズムに彩られた、恐怖と美と哀切感が漂う、忘れがたいエピローグだ。ドイツの撮影監督で「メトロポリス」や「霧の波止場」を手がけたオイゲン・シュフタンの冷徹なカメラ映像が陰鬱な雰囲気ををいやがうえにも醸し出す。アリダ・ヴァリはあの「第三の男」から10年後の出演、年輪を経て顔の怖さが目立つ。抱き締めたら折れてしまいそうな脆弱な肉体、はかなげな容姿のエディット・スコブはフランジュ監督の秘蔵っ子で、このあと「ジュデックス」にも出演している。

殺人者を狙え
1961 ジョルジュ・フランジュ(英語字幕版) 評点[C]
フランジュが「顔のない眼」に続いて撮った映画だが、掴みどころのない変な作品だ。冒頭、城の主とおぼしき貴族の老人が鏡の裏の隠し部屋に入って息絶える。これがどうやらピエール・ブラッスールらしい。続いてジャンルイ・トランティニャンが恋人ダニー・サヴァルに車で送ってもらって城にやって来る。城では老人の甥や姪が集って遺産相続会議が開かれる。彼らは遺産管理人から、老人は一両日中に死ぬと診断されていたので死んだはずだが、遺体が見つからなければ5年間は相続できないと言われ、遺体探しに奔走するが、その間に相続人たちはひとりずつ殺されていく、というストーリー。「そして誰もいなくなった」を思わせる筋立てだが、なんとも緩い間延びした展開でサスペンスはまったく盛り上がらない。パリに帰ったはずのダニ・サヴァルがなぜか城に隠れていてときどき姿を現すし、城のなかのアナウンス・システムから不気味な声が流れるし、何やら内容不明のイヴェントが催されて地元の人々が集り、最後は犯人がスポットライトのなかで銃で撃たれて死んで終わりとなるが、狐につままれたようで、いったい何だったのだという気持ちになる。興味の焦点は、あの「河は呼んでる」に主演した美女パスカル・オードレの出演にあったのだが、姪のひとりに扮したオードレの出番はあまりなく、途中で殺されてしまうので残念至極。余談だが、ひところ日本でタレントとして活躍したジュリー・ドレフュスはパスカル・オードレの娘だ。上品な美しさはよく似ている。

2020年9月某日  備忘録80 トリュフォーによる2本の映画

柔らかい肌
1964 フランソワ・トリュフォー 評点[C]
フランス映画は不倫や三角関係を扱った映画がとにかく多い。これも不倫の果てに破滅する男を描いた恋愛映画だ。著名な文芸評論家ジャン・ドサイが、従順な妻と愛する子供がいながら、スチュアーデスの若い女フランソワーズ・ドルレアックに惹かれて関係をもち、ずるずる深みにはまって抜き差しならなくなり、最後は妻に射殺される、というストーリー。トリュフォーは戦前派の巨匠たちの映画を批判していたのに、ここでじっくりと描かれる不倫の顛末の語り口は、オール・ロケという点に新鮮味はあるにしても、根本的にはそれらとまったく変わらない。

夜霧の恋人たち
1968 フランソワ・トリュフォー 評点[B]
トリュフォーのアントワーヌ・ドワネルものの第3作。軽妙なコメディ映画に仕上がっている。ジャンピエール・レオ扮するアントワーヌは入隊した陸軍から不適格者として除隊させられ、娼婦を買ったあと、かつてのガールフレンドの家を訪ね、父親の紹介でホテルのフロントとして働き、その後さらに私立探偵事務所の調査員、家電修理人の職に就く。映画は短いショットをつなぎながら、彼が仕事で遭遇する失敗や恋愛などのさまざまなエピソードをコメディ風に描いていく。売らんかなという下心見え見えの日本題は最悪だが、全体に漂うとぼけた味わいとジャンピエール・レオの飄々とした演技は好感が持てる。

2020年9月某日  備忘録79 ジャック・フェデーの古典的名作

ミモザ館
1934 ジャック・フェデー 評点[B]
母と子の情愛を描いたメロドラマ。名作とされているが、いま見るとやはり古臭いという感じは否めない。コメディっぽい出だしで始まるが、しだいに重苦しい様相を帯び、最後は悲劇で終る。主演のフランソワーズ・ロゼーはさすがの貫禄、素晴らしい名演技だ。南仏でミモザ館というホテルを営む中年夫婦、お人好しの夫はカジノに勤めており、ロゼーが演じるしっかり者の妻ルイーズがホテルの経営を仕切っている。彼らは他人から預かって育てている幼い男の子ピエールを溺愛している。やがてピエールは実の父に引き取られてパリに行く。ルイーズは金を仕送りしてピエールの生活を助ける。成長して賭博や違法な仕事に携わるようになったピエールを心配したルイーズは、彼を更生させるため自分の元に呼び寄せる、ピエールは惚れ込んだギャングのボスの性悪女ネリーとともにミモザ館にやって来る。ルイーズは派手に遊びまわるネリーを追い出したいが、ピエールのために我慢する。ネリーはギャングのボスに連れ去られ、会社の金を使い込んでカジノで大敗したピエールは絶望して自殺する、というストーリー。後半、ミモザ館でのルイーズとネリーの対立は、いわゆる嫁と姑の構図だが、ルイーズのピエールへの情愛は、母としての愛と女としての愛が入り交じったものであることは明らかだ。最後のシーン、ピエールの遺体をかき抱くルイーズ、窓から吹き込む風、その風に吹かれて舞い踊る札束が印象深い。ヌーヴェルヴァーグ派から忌み嫌われた映画のようだが、主人公の心理的葛藤は巧みに描かれていると思う。

2020年9月某日  備忘録78 シャブロルの初期の映画3本

いとこ同志
1959 クロード・シャブロル 評点[C]
田舎からパリに出てきたジェラール・ブランは、いとこのジャンクロード・ブリアリのアパルルトマンに居候して大学に通う真面目な青年。ブリアリも同じ大学に通う学生だが親のすねをかじる女好きの遊び人。アパルトマンではいつも仲間を呼んで乱痴気パーティをしている。ブランはパーティで知り合った美女ジュリエット・メニエルに一目惚れするが、ブリアリが彼女を横取りして同棲し始め、3人の奇妙な同居生活が始まる。真面目に勉強していたブランは大学の試験に落ちて落第するが、要領のいいブリアリは遊びほうけていたにもかかわらず合格する。ブリアリの拳銃の誤射によってブランは死ぬ、というストーリー。どこが面白いのか分からない。当時としては男女の恋愛ゲームにふける若者の生態を描いたのが目新しかったのだろうか。最後の主人公の死は取って付けたようで不自然さを感じる。ヌーヴェルヴァーグ派のなかでシャブロルの技法は比較的オーソドックスだと思う。アンリ・ドカエの撮影はさすがに見事だ。

二重の鍵
1959 クロード・シャブロル 評点[C]
この映画は、大昔、学生のころに見ている。中身はほとんど覚えていないが、面白くなかったという印象がある。モノクロだと記憶していたが、今回再見してカラーだったので驚いた。再見しての印象は以前と変わらない。ブルジョア家族のすさんだ人間関係とそこで起きた殺人事件を描くミステリー仕立ての映画で、エクサンプロヴァンスの裕福なワイン醸造業業者の邸宅が舞台。隣の家に住む女芸術家と不倫しており、妻と別れたいと思っているが、家も財産も妻の持ち物なので無一文になることを恐れる夫、夫の不倫を知りながら、格式を重んじ、名家の体面を守ろうとする妻、いつもクラシック音楽を聴いているマザコンの息子と、世間知らずのファザコンの娘、娘の婚約者で傍若無人にふるまう粗野な流れ者といった登場人物が絡み合いながらストーリーが進行し、最後は夫の不倫の相手の女芸術家が殺され、息子が犯人だと自白して終る。シャブロルはブルジョアジーの欺瞞性と俗物性を描こうとしたのかもしれないが、夫が妻を憎む様は常軌を逸しており、口論に際して夫が妻に浴びせる罵倒はあまりに異常だ。サスペンスの要素も希薄で、ヒッチコックの影響を云々する評もあるが、どこがヒッチコック風なのか理解に苦しむ。粗野な若者に扮する無名時代のジャンポール・ベルモンド、女芸術家に扮するアントネッラ・ルアルディは存在感を発揮している。

気のいい女たち
1960 クロードシャブロル 評点[D]
パリの家電製品店に勤める若い女たちの生態を描いた風俗映画。シャブロルの初期映画を3本続けて見て感じるのは悪意のある目線だ。彼は登場人物を皮肉と嘲笑の目でしか見ない。そこには作り手の人間性の卑しさと驕りを感じる。ここでも女たちは脳天気にいつも夜の街で遊び回り、男たちは女をものにすることに熱中する。そして最後にひとりの女が殺人鬼に引っ掛けられて命を落とす。映画を見終わって、後味の悪さだけが残る。こういう映画を見ると、ブレッソンの簡潔で抑制された禁欲的な作品を見たくなってくる。

2020年9月某日  備忘録77 ブレッソンの独自性が発揮された中期の映画

バルタザールどこへ行く
1964 ロベール・ブレッソン 評点[B]
これは酷使されるロバと貧しい純朴な娘をめぐる不条理な物語で、主人公はバルタザールという名のロバだ。感情表現を極度に抑えるというブレッソンの演出法からすれば、感情を表に出さないロバはもっとも相応しい出演者だと言える。フランスの片田舎の村が舞台。少女マリーは家で飼っていたロバと仲良しになる。やがてロバはほかの家に売られるが、逃走してマリーの家に舞い戻る。ロバは再び他家に売られ、村の不良ジェラールにパンの配達のため酷使され、体を壊す。成長したマリーは自分を手込めにしたジェラールから離れられなくなる。ロバはあちこちの家で酷使されたすえ、マリーに引き取られる。マリーは幼なじみの真面目な青年ジャックから求婚されるが、ジェラールに首ったけの彼女はそれを拒絶する。だがマリーはジェラールと仲間に慰みものにされ辱められて姿を消す。いっぽうロバは山中をさまよったあげく羊の群れのなかで息絶える。おおむねそんなストーリーだが、本筋に関係ないいろんなエピソードが脈絡なく描かれる。そもそも、この映画ではエピソードが断片的に綴られ、それらを結びつける説明が極端に省かれているので、流れはよく分からない。マリーは最後に家からいなくなるが、もしかしたら死んだのかもしれないし、ジェラールの生死もはっきりとは描かれない。ブレッソンはドストエフスキーの「白痴」に想を得たとのことだが、ならばムイシュキンはロバで、ナスターシャは貧しい娘か。話の流れは掴みにくいけれども、全体としてはけっして難解ではない。何を言いたいのかよく分からない映画だが、奇妙な魅力をたたえていることは確かだ。

2020年9月某日  備忘録76 ロベール・ブレッソンの初期映画2本

罪の天使たち
1943 ロベール・ブレッソン 評点[C]
ブレッソンの処女作。女受刑者に出獄後の居場所を提供する女子修道院が舞台。ブルジョア家庭の娘アンヌマリーと元受刑者テレーズという2人の修道女の友愛と憎悪、そして心の葛藤を軸に物語は進む。おそらく人間の原罪、神の救いといった命題がテーマなのだろう。修道院での生活が克明に描かれているのが興味深いと言えば言える。映画の冒頭、夜中に院長が刑務所を訪れて受刑者と面会するシーンが印象に残る。

田舎司祭の日記
1950 ロベール・ブレッソン 評点[D]
ブレッソンの第3作。題名どおり、田舎の教会に派遣された若い牧師が心に抱く孤独、健康への不安、宗教への懐疑、頑迷な村民との軋轢が日記形式で描かれる。感情表現は極端に抑えられており、全編を通じてまったく救いがなく、暗鬱な空気に支配されている。最初から最後まで苦悩し続ける主人公の司祭はこの世の苦悩を一身に背負っているかのようだ。それでも彼は死ぬ間際に「すべては神の思し召しだ」と口走る。信仰とは何かを考えさせられる。

2020年9月某日  備忘録75 リノ・ヴァンチュラのアクション映画〜その2

墓場なき野郎ども
1960 クロード・ソーテ 評点[A]
リノ・ヴァンチュラとジャン・ポール・ベルモンドが共演したギャング映画の傑作。友情と裏切りがテーマだが、ヴァンチュラが子連れで逃走するギャングだという設定が新味。原作はジョゼ・ジョバンニ。イタリアに逃亡中のヴァンチュラはパリに帰還しようとするが、密航したニースで警備隊と銃撃戦になり、仲間と妻が殺され、2人の幼児を抱えて立ち往生する。パリのかつての仲間に連絡して助けを求めると、一匹狼のベルモンドが偽装した救急車を運転して現れ、彼らをパリに連れて行く。パリの旧友たちから、かつて恩義を施したにもかかわらず潜伏場所を提供するのを拒否されたヴァンチュラは、ベルモンドのアパルトマンに身を潜めるが、旧友たちが警察に密告しようとしているのを知り、復讐する、というストーリー。落ちぶれたギャングの悲哀と寂寥をまとうヴァンチュラがなかなかの存在感。飄々としたベルモンドも印象深く、ゴダール映画の彼よりはるかにカッコいい。行動をともにしているあいだにヴァンチュラとベルモンドが友情と信頼の絆で結ばれる過程の描写が秀逸。ベルモンドの車に拾われて逃亡を助ける若い女サンドラ・ミーロが色っぽい。

地獄の決死隊
1960 ドニス・ド・ラ・パトリエール 評点[B]
リノ・ヴァンチュラ主演の戦争映画だが、戦闘場面がほとんどなく、一種のロード・ムーヴィに仕上がっているところが面白い。北アフリカで戦闘中のヴァンチュラをリーダーするする4人のフランス軍兵士は、ドイツの将校ハーディ・クリューガーを捕虜とし、戦線から退却して駐屯地に戻ろうとする。彼らが車で砂漠を旅する間に、敵対していたドイツ将校とのあいだに友情が生まれるが、もうすぐ目的地というところで、味方の誤射のためにヴァンチュラ以外の全員が命を落とす、というストーリー。クリューガーが良い味を出しており、「飛べフェニックス」での彼を彷彿とさせる。兵士のひとりを演じるシャルル・アズナブールも印象に残る。

2020年9月某日  備忘録74 リノ・ヴァンチュラのアクション映画〜その1

脱獄12時間
1958 ゲツァ・フォン・ラドヴァニ 評点[C]
意外な拾いもの。刑務所から脱獄したリノ・ヴァンチュラほかの3人が田舎の港町に行き、旧知の女エヴァ・バルトークの助けを得て船で逃げようとする。結局、3人のうち、一人は脱獄の際に負った怪我で死に、一人は殺され、ヴァンチュラは警察に捕まり、バルトークだけが船に乗って街を離れるという話。ハンガリー系の美人女優バルトークが見られるのは収穫。写真屋の主人で助手のバルトークに懸想するゲルト・フレーベが狂気と哀れさを醸し出して見事だ。

情報は俺が貰った
1959 ベルナール・ボルドリー 評点[D]
リノ・ヴァンチュラ主演のスパイ映画とギャング映画をミックスしたような作品。ヴァンチュラはアクション・スターとしての面目を発揮するが、筋立てがよく分からない。話はヴァンチュラが刑務所を脱獄するところからスタートする。彼はどうやら国の防諜局の一員で、脱獄は敵のスパイ組織に潜入するための工作だったらしいが、そのあとの流れがちぐはぐで面白みに欠ける。

2020年9月某日  備忘録73 モダン・ジャズを使ったフランス往年の犯罪映画

殺られる
1959 エドゥアール・モリナロ 評点[C]
再見。ロベール・オッセン、マガリ・ノエル主演のサスペンス映画。音楽はアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ。恋人ノエルの夜の外出に不信を抱いた若者オッセンが、行先の別荘を突きとめて潜入すると、そこではパーティが開かれていた。それは女性人身売買組織が女を手に入れるための罠だった。オッセンはノエルを救い出し、警官隊との銃撃戦の末、一味は射殺される。ベニー・ゴルソン作の音楽、ジャズ・メッセンジャーズの演奏が効果を上げている。一味の殺し屋フィリップ・クレイの不気味さが印象に残る。

彼奴を殺せ
1959 エドゥアール・モリナロ 評点[B]
リノ・ヴァンチュラ主演のサスペンス映画。撮影はアンリ・ドカエ、音楽はバルネ・ウィランによるジャズ。妻を殺されたヴァンチュラは不起訴になった犯人を復讐のため殺すが、犯行後に家から出るところをタクシー運転手に目撃される。彼は運転手を殺すため執拗に付け狙い、目的を果たすが、その一部始終が無線マイクを通して配車係の電話センターに聞こえており、運転手仲間が総出でヴァンチュラを追いかける。追い詰められたヴァンチュラは警官に撃たれて死ぬ。ケニー・ドーハムを含むバルネ・ウィラン・クインテットの演奏が雰囲気を盛り上げる。アンリ・ドカエのカメラは夜のパリの街を見事に映し出している。

2020年8月

2020年8月某日  備忘録72 ロベール・アンリコ晩年の2作品

夏に抱かれて
1987 ロベール・アンリコ 評点[C]
ナチス占領下のフランス。レジスタンスの一員でユダヤ人医師の未亡人アリスが、仲間である恋人の外交官ジェロームとともにユダヤ人の国外逃亡を助けるため、ジェロームの幼友達である田舎の製靴工場主シャルルの家を訪ねる。同居しているうちにシャルルはアリスに惹かれていく、というストーリー。主演のナタリー・パイをはじめ、出演者はみな馴染みない俳優だが、内容は悪くない。出だしが丘の上を自転車で走るシーンという点でアンリコの傑作「追想」を想起させるし、女と友人同士の男2人の3角関係が描かれるという点では「冒険者たち」を彷彿とさせる。

サン=テグジュペリ 星空への帰還
1994 ロベール・アンリコ 評点[D]
サン=テグジュペリの伝記映画。これも「追想」と同じくサイクリングのシーンから始まる。第2次大戦中、偵察飛行に出発しようとするサン=テグジュペリがこれまでの人生を回想する話。彼はその飛行で撃墜され、命を落とす。回想シーンが頻繁に挿入され、話があちこちに飛ぶので、流れがよく掴めないが、全体としてアンリコらしいノスタルジックな雰囲気に満ちている。

2020年8月某日  備忘録71 40年代後期のギャバンの主演作2本

狂恋
1946 ジョルジュ・ラコンブ 評点[C]
当時恋愛関係にあったジャン・ギャバンとマレーネ・ディートリッヒの唯一の共演作。田舎町の建築請負師ギャバンは小鳥屋を営む未亡人ディートリッヒと出会って恋に落ち、一緒に暮らすようになるが、ディートリッヒは金持ちの領事から求婚され、どちらを選ぶか迷う。嫉妬に狂ったギャバンは彼女を絞め殺す。彼は裁判で無罪になるが、彼女が本当は自分を愛していたと知り、彼を仇と付け狙う青年にわざと撃たれて死ぬ。映画としてはそつなく仕上がっているが、2人の顔合わせという以外、どこといって取り柄がなく、あまり印象に残るシーンもない。

港のマリー
1949 マルセル・カルネ 評点[C]
シェルブールでレストランと映画館を営むジャン・ギャバンは田舎の港町で、同棲している愛人の妹ニコール・クールセルを見初める。貧しい暮らしから抜け出してパリに行きたいと願うクールセルは、誘いに乗ってギャバンに会いに行く。紆余曲折の末、2人は結ばれる、というストーリー。ギャバンがレストランのオーナーであり、若い娘に入れあげる、という設定は「殺意の瞬間」を想起させる。そこでギャバンがたぶらかされる娘は稀代の悪女だったが、この「港のマリー」での娘は、当初はギャバンを騙そうとしているかに見えるが、そうではなく、前途に悩んでいるだけだということが分かる。ギャバンは愛人の浮気の現場を見つけ、後ろめたさを感じることなく若い娘と一緒になることができるという、きわめてご都合主義の筋立てになっている。クルセールの美しさは特筆すべきものがある。

2020年8月某日  備忘録70 ジェラール・フィリップ主演の2作品

愛人ジュリエット
1950 マルセル・カルネ 評点[B]
夢をテーマにした美しさと哀切感漂うファンタジー映画。ジェラール・フィリップ主演。美女ジュリエットと知り合ったフィリップは彼女と旅行するため店の金を盗み、逮捕される。獄中で彼は夢を見る。ドアが開くと、のどかな村が広がっており、丘の上に城館がある。そこは忘却の国で住民は記憶を持たない。彼はそこでジュリエットに巡り会うが、彼女は城館に住む貴族に捕われる。目が覚めた彼は釈放されるが、現実のジュリエットが店の主人と婚約したと知り、忘却の国に戻って彼女と会うため、工事場の危険立ち入り禁止と書かれたドアを開ける・・・というストーリー。ジュリエット役のシュザンヌ・クルーティエの清楚な美しさが際立つ。森のなかでの村人のダンスのシーンが印象に残る。

夜ごとの美女
1952 ルネ・クレール 評点[B]
以前見たことがあると思っていたが、どうやら初見のようだ。これもジェラール・フィリップ主演の夢を題材とするファンタジー風コメディ映画。フィリップは売れない音楽家。学校で生徒たちに馬鹿にされながら音楽を教え、金持ちの家でピアノ教師と務め、狭いアパートで騒音に悩まされながら作曲する日々を送る。夢のなかで、彼は老人の昔は良かったという言葉とともにいろんな時代に行き、さまざまな美女に恋をする。その美女は現実世界では車修理工の娘だったり、ピアノを教える家の夫人だったり、カフェのレジ係だったり、郵便局の窓口係だったりする、というストーリー。全体にミュージカル仕立てで、夢のなかでわざと陳腐な書き割りセットを使っているのが面白い。現実の世界で彼のズボンの膝が裂けると、夢の世界でもそうなったりするというような細かいギャグが洒落ている。最後は彼の作曲した譜面がオペラ座で採用され、恋人も得てハッピーエンドとなる。まさに夢のような幸福な映画だ。

2020年8月某日  備忘録69 カルネ&ギャバン・コンビの代表作「霧の波止場」

霧の波止場
1938 マルセル・カルネ 評点[B]
詩的リアリズムの傑作と言われるカルネの名作。主演はジャン・ギャバンとミシェル・モルガン。脱走兵ギャバンは港町ルアーブルに流れ着き、雑貨屋の娘モルガンと出会って恋に落ちる。遊園地でモルガンとデートするギャバンは因縁をつけに来た地元のやくざピエール・ブラッスールを平手でめった打ちして追い払う。南米に密航する前、モルガンに別れをを言うため雑貨屋に来たギャバンは、彼女に言い寄る義父ミシェル・シモンを叩きのめすが、店を出た直後、ブラッスールに撃たれて死ぬ。霧に煙る港町の情景、波止場の端にぽつんと建つ食堂、憂い顔で窓辺にたたずむベレー帽とレインコート姿のモルガン、どこまでもギャバンについてくる子犬など、印象的なシーンは多い。「早くキスしてくれ、時間がない」と言うギャバンの死に際の台詞もきまっている。ミシェル・モルガンは好みの女優ではないが、当時17歳の彼女が美しいことは確かだ。

かりそめの幸福
1935 マルセル・レルビエ 評点[E]
シャルル・ボワイエ、ギャビー・モルレー主演。売れない画家ボワイエは社会に敵意を燃やし、人気女優モルレーを狙撃するが軽傷に終る。裁判の過程で2人は惹かれ合うようになり、モルレーは貴族の夫を追い出し、放免されたボワイエを自宅に迎え入れて一緒に暮らすが・・・というストーリー。プロットが支離滅裂でどうしようもない。ボワイエは二枚目ぶりが様になっているが、モルレーはおばさん風で魅力に欠ける。

2020年8月某日  備忘録68 ヴィスコンティの「異邦人」

異邦人
1969 ルキノ・ヴィスコンティ 評点[D]
有名なカミュの不条理小説の映画化。主人公のムルソーをマルチェロ・マストロヤンニが演じる。その恋人役にアンナ・カリーナ。アルジェリアで生活する平凡なサラリーマンがアラビア人を殺害して逮捕される。彼は取り調べてそれまでの生活を振り返る。母親の死、養老院での葬式、恋人との海水浴や映画鑑賞、単調な毎日、無感動な日々、そして彼は友人の別荘で出会ったアラビア人を、太陽の強い日差しのなかで射殺する。死刑の宣告、最後は独房での彼の長い独白で終わる。原作を忠実に映像化しているようだが、あまり面白くない。

2020年7月

2020年7月某日  備忘録67 ジャック・ベッケル後期の名品2作

今日はベッケルの手腕を確認するため、既見だが後期の傑出した2作を見た。1952年の「肉体の冠」以降のベッケルの映画は、どれも見事な語法と冷徹な視線で、シニシズムを漂わせながら、引き締まった緊迫感と奥深い情感を描き出しており、初期作品とは甚だしい相違がある。

現金に手を出すな
1954 ジャック・ベッケル 評点[A]
再見。以前見ているはずだが、ジャン・ギャバンが老メガネをかけて手紙を見るシーン以外はまったく覚えていなかった。ジャン・ギャバンが裏稼業から足を洗う前の最後の仕事として、仲間とともに金塊を強奪したが、新興ギャングの一味がそれを知り、誘拐したギャバンの仲間を人質にしてその金塊を奪おうとする、というストーリー。最後は銃撃戦となり、新興ギャングたちは射殺されるが、燃える車のなかに残された金塊は警察に押収されてしまう。新興ギャングのリーダーにリノ・ヴァンチュラ、ギャバンの仲間の愛人にジャンヌ・モローが出演、2人とも若々しい。初老のギャングを演じるギャバンの存在感はさすがに大したもの。テンポのいい流れ、簡潔な語り口で、男たちの友情と義侠が描かれる。


1960 ジャック・ベッケル 評点[A]
再見。これも大学生のころに見たが、細部は記憶から抜け落ちていた。脱獄をテーマにした映画は数多いが、これはそのなかでも最高の一作だろう。ベッケル監督の遺作で、囚人5人が脱獄のためひたすら穴を掘る話。彼らは歯ブラシに鏡の破片をくくりつけて覗き穴から看守の動きをチェックし、金具で穴掘りのための道具を作り、時間を計るために小瓶をくすねて砂時計を作り、下水道に出るため執拗に穴を掘り続ける。やっと穴が開通し、いざ決行となったとき、映画は意外な結末を迎える。細部の描写が真に迫っており、コンクリートを崩すため金具でガンガン叩いたら、その音が看守に聞こえないわけはないのだが、全編に横溢する緊迫感がそんな瑕疵を帳消しにする。同房のの5人の囚人たちの性格が巧みに描き分けられている点も称賛に値する。登場人物は、新入りの囚人に面会に来るガールフレンドを除き、すべて男だけだ。

2020年7月某日  備忘録66 ジャック・ベッケル初期の凡作2本

今日はジャック・ベッケルの初期の映画を2本見た。これらは、後期の充実した作品と比べて、別人が撮ったかと思うほど微温的で底が浅い、軽量級の映画だ。

赤い手のグッピー
1943 ジャック・ベッケル 評点[C]
ベッケルの監督第2作。フランスの片田舎の村を舞台にした金と殺人と恋愛にまつわる話で、ジョン・フォードの「タバコ・ロード」を彷彿とさせる。田舎の奇妙な風習とパリからやって来た青年の戸惑いがユーモアを交えて描かれるが、製作意図がよく分からないし、全体に間延びしており、面白みに欠ける。

幸福の設計
1947 ジャック・ベッケル 評点[D]
パリに住む貧乏暮らしの若い夫婦がたまたま買った宝くじで大当たりとなるが、その札をなくしてしまい大騒動になるという他愛ない話。結局、夫が札をしまった場所を思い出し、めでたしめでたしとなる。パリに暮らす庶民の姿がコメディ風に描かれており、オー・ヘンリーの短編小説を思わせないでもない。

2020年7月某日  備忘録65 ルネ・クレマンとアラン・ドロンのコンビによる2作

しばらくフランス映画が続く。今日はルネ・クレマンが「太陽がいっぱい」以後にアラン・ドロンを起用して作った2作の映画を見た。

生きる歓び
1961 ルネ・クレマン 評点[C]
ルネ・クレマンが「太陽がいっぱい」に続き、アラン・ドロンを起用して作ったコメディ映画。仕事がなく食うに困ったドロンはファシスト団体の黒シャツ党に入り、アナーキストの印刷屋一家に潜入するが、その家族に気に入られ、娘と恋仲になる。彼はアナーキスト一派の本部から送られてきた暗殺者を装うが、そこに本物の暗殺者が現れて爆弾テロを仕掛けようとする、というストーリー。軽い喜劇で風刺の要素はあまり感じられない。ドロンの2枚目ぶりもさることながら、アナーキスト一家の娘を演じるバルバラ・ラスがじつに可愛いらしい。

危険がいっぱい
1964 ルネ・クレマン 評点[B]
再見。封切り当時に見ており、中身はけっこう記憶に残っている。クレマンが監督したアラン・ドロン主演3部作のひとつで、奇妙な味わいを醸す上出来のサスペンス映画。南仏にやって来た遊び人のドロンが、ギャングのボスの情婦に手を付けたために送り込まれた殺し屋から逃げ回り、富豪の未亡人とその姪が住む邸宅に住み込んで運転手を務めることになる。その屋敷には隠れ部屋があり、そこに未亡人の夫を殺した愛人がひそかに匿われている。姪はドロンを好きになるがドロンは彼女を相手にしない。やがて未亡人と愛人と殺し屋は銃の相撃ちで死ぬが、ドロンは姪の策略で警察に殺人者と疑われ、隠れ部屋での生活を余儀なくされる、という皮肉な結末で終る。未亡人に妖艶なローラ・オルブライト、姪に若く初々しいジェーン・フォンダが扮している。ドロンは粗野で生意気でふてぶてしい若者の役で、彼が本質的に持つイメージにマッチしている。余談だが、ローラ・オルブライトは歌手でもあり、ジャズっぽいテイストでスタンダードを歌ったLPを何枚か作っている。ヘンリー・マンシーニの見事な伴奏で歌った「Dreamsville」はなかなかの好盤だ。

2020年7月某日  備忘録64 ルイス・ブニュエルの珍作と名作

今日はルイス・ブニュエルによるシモーヌ・シニョレ主演の冒険映画と世評高い不条理映画の2本を見た。

この庭に死す
1956 ルイス・ブニュエル 評点[C]
シモーヌ・シニョレを主演に据えたブニュエルの知られざる仏墨合作映画。前半は南米の田舎町が舞台。娼婦シニョレ(またもや娼婦の役だ)は、料理人の老人シャルル・ヴァネルや神父ミシェル・ピッコリ、正体不明の流れ者ととも、暴動が起きた町から逃れるため、船に乗って川を下る。そこから後半のサバイバル逃避行になり、彼らは追っ手を逃れるため途中で船を降りて密林を旅するが、食糧が尽き、風雨にさらされて絶望感がつのり、人間の本性が顔をのぞかせる・・・というストーリー。登場人物は前半と後半で性格ががらりと変わる。冷酷な悪人だった流れ者は逃避行グループのリーダーとしてメンバーを引率するし、娼婦は計算高く利己的だったのに、流れ者を愛する従順な女になるし、清廉潔白だった神父はダイアモンドに目が眩むし、温厚だった料理人は気が狂って仲間を撃つ。ブニュエルはこの人間性の変貌を描きたかったのだろうか。シニョレは35歳だがまだ若く、肌も引き締まっている。ともあれ、これはブニュエルにしては分かりやすい、直球勝負の冒険サバイバル映画だ。

皆殺しの天使
1962 ルイス・ブニュエル 評点[C]
これは大学生のころ池袋の文芸座かどこかで見た記憶がある。ブニュエルがメキシコで作った、彼の諸作のなかでももっとも論議を呼ぶ、合理的解釈を拒否する不条理映画。ルノワールの「ゲームの規則」を思わせないでもない。ある金持ちの屋敷が舞台。料理人や召使いなどの使用人がひとり、ふたりと屋敷から出ていき、最後に執事だけが残る。台所にはなぜか羊が数匹おり、熊も歩いている。屋敷に集った20人ほどの上流階級の男女が、晩餐のあと居間で寛いでいるあいだに、その部屋から外に出られなくなる。彼らはだんだんパニックに陥り、恥も外聞もなく反目し合い、罵り合う。飢えと渇きに苛まれた彼らは壁のなかの水道管を壊して水を飲み、迷い込んできた羊を食べて飢えを癒やす。家の外には警官や見物人がいるが、彼らも家中に入っていくことができない。数日後、彼らは外に出られなくなったときの状況をたどることで、ようやく出られるようになる。その後、彼らが出席する教会のミサで、同じように出席者が外に出られらくなるところで映画は終る。現状から抜け出したいのにできないという寓話は、ブルジョアジーへの風刺のようでもあるし、教会への批判のようでもあるし、社会の閉塞感を表現しているようでもあるし、共同幻想に呪縛される人々を描いたようでもあるし、人間一般を嘲笑うブラックユーモアのようでもある。人々を解放に導く女性レティシアのニックネームがワルキューレだということ、劇中に反復が頻出することも意味深だ。当惑する観客や批評家を前に高笑いするブニュエルが目に見えるようだ。

2020年7月某日  備忘録63 シモーヌ・シニョレとシャルル・アズナブール

今日はシモーヌ・シニョレの代表作のひとつと、アンドレ・カイヤットの戦争捕虜映画の2本を見た。

嘆きのテレーズ
1953 マルセル・カルネ 評点[B]
エミール・ゾラの小説を翻案した犯罪映画。主演はシモーヌ・シニョレとラフ・ヴァローネで、ローヌ河畔の町リヨンが舞台。マザコンの情けない夫と尊大な姑に女中のようにこき使われるシニョレは、夫の知り合いの逞しいトラック運転手ヴァローネに惹かれ、不倫関係に陥る。二人は逃亡しようとするが夫に嗅ぎつけられ、ヴァローネは列車のなかで誤って夫を突き落とし、殺してしまう。その死は事故として処理されるが、列車のなかで目撃していたやくざ者に脅迫され、口止め料を払うことにするが・・・というストーリー。ここでのシニョレは悪女ではなく、運命の糸に操られてドツボにはまる哀れな女を演じる。若いシニョレは肉感的だが翳りのある美しさと侵しがたい品格をたたえている。息子の死を知らされて全身不随になり口がきけなくなった姑のシニョレをにらむ恐い目が印象に残る。語り口は分かりやすいが、やや冗漫だ。

ラインの仮橋
1960年 アンドレ・カイヤット 評点[A]
第2次大戦中、ドイツ軍の捕虜になった2人の男の対照的な生き方を描いた映画。パン屋の娘婿の冴えないパン職人シャルル・アズナブールとハンサムな新聞記者ジョルジュ・リヴィエールは、応召してドイツ軍の捕虜になり、農村で強制労働させられる。リヴィエールは村長の娘を誘惑し、森で裸にして車を奪い脱走する。アズナブールは一緒に逃げようと誘われるが断り、村に残って労働に励む。やがて彼は男手がなくなった村で必須の存在になり、村長の代わりまで務める。脱走したリヴィエールはロンドンで反独新聞を発行し、レジスタンスの闘士として活躍する。終戦となり、パリに帰ったリヴィエールは新聞社の社長に推され、ゲシュタポの協力者だったかつての恋人とよりを戻す。アズナブールもパリに帰るが、妻にこき使われる生活が嫌になり、リヴィエールのつてを借りてドイツの農村に戻ろうとする。映画はアズナブールがライン川の仮橋を渡ってドイツに向かい、リヴィエールがそれを見送るシーンで終る。目的のためには手段を選ばぬ功利主義の男と、運命を受け入れ生活の充足感と労働に喜びを見出す男、カイアットはどちらかに与することなく、対等な視線で両者の生き様を描いており、是非の判断は観客に委ねている。ルノワールの「大いなる幻影」とはある意味できわめて対照的な映画だ。

2020年7月某日  備忘録62 原節子が出演した戦前映画を見る その4

今日は原節子が出演した太平洋戦争末期の国策映画を2本見た。これでいま手持ちの戦前に原節子が出た映画はすべて見終わったことになる。

決戦の大空へ
1943年 渡辺邦男 評点[C]
海軍省後援、戦意高揚と海軍航空隊員徴募のためのPRを兼ねた国策映画。土浦飛行学校で予科練として訓練に励む少年航空兵の生活、倶楽部の一家との交流が描かれる(倶楽部とは少年兵たちが休日に訪れて寛ぐ場所を提供する一般家庭のこと)。登場人物は見事に現実とはかけ離れ、類型化、理想化されており、少年航空兵はみな純朴で品行方正、教官は厳しいが人情に篤く、倶楽部の一家はやさしく思いやりに富んでいる。「若い血潮の予科練の〜」と歌われる有名な「若鷲の歌」(西条八十作詞・古関裕而作曲)はこの映画に挿入されてヒットしたらしい。少年兵たちを世話する家族の姉に扮する23歳の原節子は例えようもなく美しい。原節子はいわゆる“銃後の姉”で、少年たちを温かく見守り、時にはやさしく励まし、心を込めて戦場に送り出す、女神のような存在。少年たちは原節子に守るべき日本国の象徴を見て、彼女の面影を胸に死地に赴く。原節子神話の原点はこの時代の“銃後の姉”という役柄にあったのかもしれない。敵の軍艦に体当たりして戦死した航空学校の先輩が義挙と称えられ、見習うべきヒーローとして敬われるのは、当時としては当たり前のことであろうが、間もなく行なわれる特攻隊攻撃を予兆させ、胸が痛むし憤りを覚える。

怒りの海
1944年 今井正 評点[D]
前作と同じく海軍省後援、軍艦の父と称された平賀譲の伝記映画。平賀譲という人物は知らなかったが、海軍技術中将、男爵、工学博士で、東大教場を経て海軍で軍艦の設計を主導し、最後は東大総長を務めてこの映画公開の前年に没した偉人らしい。映画では平賀の晩年、欧米との軍縮条約による建造制限のなか、軽量でも重装備が可能な軍艦の設計に悪戦苦闘する姿が描かれる。主演は大河内伝次郎、例のとおり大河内の台詞が聞き取りにくく、何を喋っているのか理解不能。原節子はその娘だが出番は少ししかない。ちなみに、この年、原節子はこの映画1本にしか出演していない。

2020年7月某日  備忘録61 ピア・アンジェリの初主演作

今日は我が愛するピア・アンジェリの初主演作である1950年のイタリア映画と、同時期の異色イギリス映画の2本を見た。

明日では遅すぎる
1950 レオニード・モギー 評点[C (A)]
以前、YouTubeで劣悪な画質で見たが、ようやくきれいな画質、字幕付きで、このピア・アンジェリの初主演作を見ることができた。ここでは彼女は本名のアナ・マリア・ピエランジェリという名前でクレジットされている。撮影当時、ピアは17歳、まだ幼さの残る清純な表情は何とも言えず愛らしい。仲間の女生徒たちのなかで彼女の美しさは飛び抜けている。思春期の少年少女の性への憧れと悩み、大人の無理解を描き、性教育の必要性を訴える、一種の学園ものイタリア映画で、内容はCだが、ピアの美しさにAを付ける。ピアはこのあとイタリアで同趣向の映画にもう1本出演したあとハリウッドに招かれ、フレッド・ジンネマンの「テレサ」で主演を務める。

女狐
1950 マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー 評点[B]
商業主義とは一線を画す良質のドラマを作ったイギリスの監督チーム、パウエル&プレスバーガーによる一作。アレクサンダー・コルダとデイヴィッド・セルズニックという英米の名制作者がコンビを組み、セルズニックの妻ジェニファー・ジョーンズを主演として作られた映画。時代はおそらく19世紀末、イギリスの片田舎の村が舞台。ジプシーの血を引く野性と魔性の娘ジェニファー・ジョーンズは、朴訥な牧師に求婚されて結婚しながら、いっぽうで尊大な地主に惹かれて関係をもち、その色恋が村に波紋をかき立てるというストーリー。原題の「Gone to Earth」が結末の悲劇を暗示している。邦題の「女狐」はジョーンズjがキツネを可愛がっていることから付けられたのだろう。話の流れはジョーンズが主演した「白昼の決闘」を思わせ、山や森林など自然の風景が映し出されることと相まって、神話的なイメージを醸し出している。テクニカラーで撮影されたヒースの丘が美しい。

2020年7月某日  備忘録60 “怒れる若者たち”の映画

今日は50年代末期〜60年代初期のイギリス・ニュー・ウェイヴ映画を2本見た。

年上の女
1959 ジャック・クレイトン 評点[B]
50年代後半のイギリスを席巻した階級社会に反逆するする“怒れる若者たち”運動に連なる映画。内容はモンゴメリー・クリフト主演の「陽のあたる場所」を思わせる。ローレンス・ハーヴェイ、シモーヌ・シニョレ主演。田舎から地方都市に出てきて市役所に勤め始めた野心に燃えるハーヴェイは素人演劇グループに入り、町を牛耳る実業家の娘を見初め、彼女を口説き落として上級階級の一員になろうとするが、いっぽうで同じグループにいたフランス女の人妻シニョレと知り合い、相思相愛の不倫関係に陥る。彼は本当にシニョレを愛するようになり、思い悩むが、結局シニョレを捨て、妊娠したボスの娘とと結婚する。シニョレは失意のうち深酒し、車で事故死する・・・というあらすじ。シニョレは当時38歳、盛りは過ぎたがまだ色香を漂わせており、演技も絶品で、味気ない生活のなかで巡り会った年下の恋人と重ねる逢瀬の喜びと哀しみを見事に表現している。

土曜の夜と日曜の朝
1960 カレル・ライス 評点[C]
これも“怒れる若者たち”運動に連なるイギリス映画で、原作はアラン・シリトー。労働者階級からの脱却を夢見るが叶わず、鬱屈した気持ちを抱えながら日々を送る若者の姿を描く。設定は「年上の女」とちょっと似ており、旋盤工のアルバート・フィニーが同僚の妻と不倫しつつ、同じ階級の娘シャーリー・アン・フィールドと親しくなる。停滞した英国階級社会に対する苛立ちが全編にくすぶっている。好演しているフィニーはこの2年後、「トム・ジョーンズの華麗な冒険」でブレイクする。ジャズ・アルト奏者ジョン・ダンクワースの主題曲は日本で小ヒットになった。

2020年7月某日  備忘録59 40年代の2本のフィルム・ノワール

今日は初期のフィルム・ノワールを2本見た。

3階の見知らぬ男
1940 ボリス・イングスター 評点[C]
初見だと思ったが、以前見た記憶がある。フィルム・ノワールは1941年の「マルタの鷹」に始まるというのが定説だが、それ以前にもこの映画のようにノワール色が濃い作品が作られていたのだ。B級だが、ニューヨークの夜の歩道のシーンや、主人公の新聞記者が見る悪夢の表現主義的な映像はなかなかのもの。狂気の異常者を演じるピーター・ローレは面目躍如。主人公の恋人役のマーガレット・タリチェットは無名の女優だが好感が持てる。犯人に間違えられる男にイライシャ・クックが扮している。

脱獄の掟
1948 アンソニー・マン 評点[B]
アンソニー・マン初期のフィルム・ノワール。撮影は名手ジョン・アルトン。犯罪組織の一員デニス・オキーフは自分が罪をかぶって入獄していたが、情婦クレア・トレヴァーの手引きで脱獄、接見していた弁護士秘書マーシャ・ハントのアパートに隠れるが、警察に嗅ぎつけられ、2人の女とともに、組織から差し向けられた殺し屋を撃退しながら、南米に密航するため車でSFに向かう。彼は旅の途中でハントと心を通わせ合うが、その想いを振り捨てて彼女を車から降ろし、復讐しないでくれというトレヴァーの願いを聞き入れ、船に乗って出港を待つ。だがハントが組織に拉致されたと知り、彼女を助けるため船を下りて組織の根城に向かう・・・というストーリー。物語はトレヴァーのナレーションを挟みながらは簡潔にテンポ良く進む。組織のボスの残酷な所業にマンの趣味が垣間見える。ジョン・アルトンのカメラはさすがに素晴らしく。霧に煙る波止場や街の情景に心を奪われる。

2020年7月某日  備忘録58 原節子が出演した戦前映画を見る その3

今日は太平洋戦争下に原節子が出演した映画を2本見た。

指導物語
1941 熊谷久虎 評点[D]
鉄道省・陸軍省後援、国粋主義に傾斜していた熊谷らしい批評性が皆無の時局迎合戦意高揚映画。この映画が公開されて2ヵ月後に日本は真珠湾を攻撃する。戦地に機関兵として赴く若者と彼を教育する鉄道員の物語。定年間近の老機関手に丸山定夫、朴訥な青年兵に藤田進、原節子は丸山の聡明な娘を演じ、家計を切り盛りし、兵士をやさしく送り出す。蒸気機関車が驀進するシーンがふんだんに挿入されるから鉄道ファンがこれを見たら喜ぶだろう。原節子は21歳だが、落ち着いた風情で大人っぽい感じを醸している。藤田進は若々しい。藤田はこの2年後に「姿三四郎」に出演して評判になる。原と藤田のコンビによる映画は翌年の「緑の大地」や戦後の「我が青春に悔いなし」をはじめ何本かあるが、これが初顔合わせではないだらうか。

望楼の決死隊
1943 今井正 評点[C]
朝鮮北部で治安維持にあたる日本の国境警察隊の日常任務と過酷な戦闘を描いた一種のアクション映画。冷静沈着だが人情味のある隊長に高田稔、その賢妻に原節子という布陣。規律を重んじ、情に篤い警察隊員、従順で素朴な現地の農民、野蛮で非道な匪賊(抗日武装ゲリラ)という図式的な構図。現地でロケしたと思われるが、穏やかな春と厳寒の冬の情景が映し出される。国策映画のひとつだが、内容的には西部劇に近い。終盤の、警察の駐在所が匪賊に襲われ、あわや矢玉尽きて討ち死にかというところに援軍が現れるという流れは、騎兵隊の砦がインディアンに襲われて危ないところに助けの兵隊が駆けつけるという西部劇のパターンと同じだ。実際のところ、これはゲイリー・クーパー主演のアメリカ映画「ボー・ジュスト」の翻案だという。23歳の原節子の心優しい毅然とした若妻ぶりは美しいうえに色気を感じさせる。この映画では原節子が銃を手にして敵と戦うという文章を読んだことがあるが、見た限りでは、機関銃を望楼に運んだり、夫から自決のための拳銃を渡されたりはするが、銃を撃つシーンはなかった。しかし彼女が夫の横で銃を構えているスチール写真がある。確認のため、もう一度見なくてはならない。この映画の今井正や山本薩夫など、戦後は左翼を志向した監督は、戦時中にはこのような国策映画を作っていたという事実は記憶に留めておくべきであろう。この映画については、今井正監督の興味深い証言がある。<宿に着いた晩、原節子がやってきて、今井さん、これ兄(熊谷監督)からですって封筒を差し出すんです。その手紙には、日本は全勢力を挙げて南方諸国に領土を確保しなければならない。その時に日本国民の目を北方にそらそうと目論んでいるのは、ユダヤ人の陰謀だ、この「望楼の決死隊」は日本国民を撹乱しようとするユダヤの陰謀だから、即刻中止されたいというようなことが書いてあった。その影響で原節子までユダヤ人謀略説をとなえるありさまだった>

2020年7月某日  備忘録57 原節子が出演した戦前映画を見る その2

今日は10代のころの原節子が出演した2本の映画を見た。

母の曲
1937 山本薩夫 評点[C (A)]
大衆向けの母ものメロドラマだが、原節子の輝かしい美少女ぶりが際立つ一作。原節子は当時17歳、デビュー2年目で、日独合作の「新しき土」に主演した翌年に撮られた作品。原節子は岡譲司、英百合子の夫婦のひとり娘でピアノを習う女学生という設定。一家は上流家庭で、母と娘は大の仲良しだが、母の英は無教養で引け目を感じており、原の同級生の母親たちから笑いものにされている。それが高じて、原自身も同級生から意地悪され、英は娘の幸せのために家を出て昔の知り合いの男と同居する。父の岡はかつて訳ありだった心優しいピアニスト入江たか子と再婚する。月日が経ち、原の結婚式の日、英は雨のなか、建物の陰から花嫁姿の原を涙ながらに見つめる、というストーリー。なんといっても、神々しいまでに美しい原節子のセーラー服姿に感動する。英百合子は戦前映画の母役でよく見かけるが、哀れさを押し売りするような風貌が鼻につく。このころ人気絶頂だった入江と原の共演は、おそらくこれが初めてであろう。英の旧知の気のいい男を演じる三島雅夫はまだ若いが、頭の毛が、後年はふさふさしているのに、ここではなぜか真ん中がハゲている。三島は「晩春」で原から「おじさま、不潔よ」と言われるが、この古い映画でも、原は家に来訪した可哀想な三島に「出ていって」と言う。母と娘が受けるいじめの様子はかなり執拗に描かれる。身分違いによる悲劇は、古今東西、昔からあった芝居や映画の構図のひとつだ。この映画はアメリカの小説で何度も映画化された「ステラ・ダラス」の翻案だという。映画のなかで原節子が演奏する曲はメンデルスゾーンの「ベニスの舟歌」とのこと。

田園交響楽
1938 山本薩夫 評点[D]
孤児である盲目の少女と、彼女を引き取って世話をし成長を見守る教師との愛を描いた映画だが、支離滅裂、中途半端な作品。ジッドの同名小説の翻案だという。題名どおり、ベートーヴェンの6番が全編に流れる。厳寒の北海道、クリスチャンの高潔な教師高田稔は雪宿りの家で出会った盲目の少女原節子を哀れみ、家に連れて帰って育てる。最初は獣のようだった少女は、しだいに言葉を覚え、分別がついて、美しい娘に成長する。教師は娘をこのまま手元においておき、自然のなかで生きさせたいと思うが、東京から訪れた弟は、手術で目が見えるようにさせ、社会に出て生活させるべきだと言う、教師は考えを変え、娘を東京に連れて行き、手術を受けさせる。手術は成功して彼女は目が見えるようになるが、教師に会うため病院を抜け出して北海道に帰り、吹雪の中をさまよって倒れる。それを見つけた教師は彼女をそばの教会に運び込む、というストーリー。少女が獣から人間になる過程はヘレン・ケラーを描いた「奇跡の人」を思わせるが、この映画ではあっという間に言葉を覚え、普通の喋り方ができるようになるのが不自然。目が開いた彼女が、金も持っていないし、右も左も分からないのに、どうやって一人で東京から北海道に行ったのかが不可解。終盤、吹雪のなかをさまよう様は「新しき土」で火口をさまよう原節子をほうふつとさせるが、倒れて雪に埋もれてしまうのに生きているのも納得できないし、エンディングも訳が分からない。18才の原節子は美しいが、映画の展開はあまりにもお粗末だ。

2020年7月某日  備忘録56 原節子が出演した戦前映画を見る その1

これまで未見だった原節子出演の戦前の映画を何作か見ることにする。

緑の大地
1942 島津保次郎 評点[C]
太平洋戦争中の国策映画。当時22歳の原節子の美しさが際立っている。舞台は中国の青島。土木技師の夫、藤田進が働く青島に、妻の原節子が赤ん坊を連れて船で赴く。彼女は船中で日本語学校の教師として赴任する入江たか子と知り合う。この3人が主要登場人物だが、誰が主役かははっきりしない。藤田進は地元農民の反対に遭いながら運河建設を進める。原節子は入江たか子が夫の初恋の相手だったことを知って嫉妬し、思い悩む。最後は対立していた中国農民が日本人の善意を知り、協力することになり、全員の誤解が解けて運河建設に汗を流す、というありきたりの結末で終る。原節子とともに、入江たか子のたおやかで上品な容姿も印象深い。ほかに、千葉早惠子、若い池部良が現地中国人に扮して出ている。

2020年6月

2020年6月某日  備忘録55 戦後のデュヴィヴィエの犯罪サスペンス映画 その2

前日に続いて、戦後に撮られたデュヴィヴィエの映画を2本見た。

殺意の瞬間
1956 ジュリアン・デュヴィヴィエ 評点[C+]
悪女ものの犯罪ドラマ。人気レストランのオーナー・シェフである初老の男ジャン・ギャバンのもとへ別れた妻の娘が訪ねてくる。娘の恋情にほだされてギャバンは彼女と結婚するが、彼女の目当てはギャバンの財産であり、やがて彼女はギャバンを殺して遺産をものにしようとする、というストーリー。魔性の娘役はダニエル・トロレム。真面目そうな感じのきれいな娘で、言動が怪しいと思って見ていると、しだいに本性を表わす。若い娘にたぶらかされ、翻弄されるギャバンのあわれな姿がじっくり描かれる。レストランの向かい側の雑踏する市場の風景が興味深い。後半、冷酷なギャバンの母親が登場すると、陰惨な場面が多くなる。この母親の非人情ぶりは娘の異常な悪行と一対をなしている。魔性の娘という点で、プレミンジャーの「天使の顔」で演じた可愛いジーン・シモンズの凶悪さを想起させる。

自殺への契約書
1959 ジュリアン・デュヴィヴィエ 評点[B]
サスペンスに富んだ密室人民裁判ドラマ。カメラは元レジスタンスの仲間が開く同窓会の会場である屋敷のなかの広間からまったく外に出ない。出演者はそこに集まる10人だけで、中年になっても上品な色香を放つダニエル・ダリューをはじめ、ポール・ムーリス、ベルナール・ブリエ、リノ・ヴァンチュラ、セルジュ・レジアニなど、曲者役者ばかり。彼らは15年前の大戦中、この仲間で会合しているときゲシュタポに急襲され、リーダーが命を落とした。ダリューとムーリスは、それが裏切り者が密告したためだったことを知り、その男をあぶり出すためこの集まりを企画した。ストーリーは2転、3転し、最後まで真相が分からない。裏切り者が判明しても、なおショッキングな結末が用意されている。脚本がよく出来ており、この2年前に作られた「12人の怒れる男」に触発された映画かもしれない。

2020年6月某日  備忘録54 戦後のデュヴィヴィエの犯罪サスペンス映画 その1

今日は戦後にデュヴィヴィエが撮った映画を2本見た。

パリの空の下セーヌは流れる
1951 ジュリアン・デュヴィヴィエ 評点[C]
ある日のパリの一日、街で暮らすさまざまな人々のエピソードを綴った群像劇。パリにやって来た若い女性ブリジット・オベールの描写からスタートし、彼女の友人であるモデルの女、その恋人の医師試験に臨む医学生、ストに参加する工員、猫好きの老婆、殺人鬼の彫刻家、学校帰りに道草をする少女などが点描される。語り口はさすがに巧い。終盤、オペールが殺人鬼の犠牲になるのがデュヴィヴィエ的か。有名な主題歌はスト中の工員が門外に抜け出して家族と開く銀婚式パーティで歌われる。

埋もれた青春
1954 ジュリアン・デュヴィヴィエ 評点[D]
暗い入り組んだ恋愛犯罪映画。正義漢の高校生が、10数年前に父親が検事を務めた殺人事件の裁判で終身刑になった男が冤罪ではないかと疑い、事件の真相を追う。その裁判では、状況証拠だけで妻とその妹と三角関係にあった男が妻を殺したと判定されたが、実際は妹が犯した殺人だったと分かる。しかし、殺人に至る妹の心理状態がよく分からないし、他の登場人物たちの行動も納得できないし、過去の事件に入れ込む検事の息子の動機も不明確で、全体にすっきりしない。三角関係の妹役のエレオノラ・ロッシ=ドラゴの異様な美しさが際立っている。

2020年6月某日  備忘録53 得るものがほとんどなかった2冊の映画本

映画についての本を2冊読んだ。

スター女優の文化社会学
2017 北村匡平 評点[D]
副題に「戦後日本が欲望した聖女と魔女」とあるように、原節子と京マチ子を中心として戦後日本のスター女優の変遷をたどった本。全体的に生硬であり、社会学や哲学の理論や学説が援用され学術論文のような装いを呈している。「我が青春に悔いなし」で原節子が戦後民主主義を象徴する女優になった、という説は分かるが、話はそこで止まっており、その先の彼女の歩みを捕捉していない。掲載されている戦後10数年ほどの映画雑誌の人気投票リストは興味深いが。

フリッツ・ラングまたは伯林=聖林
2004 明石政紀 評点[E]
ひどい内容だ。ここまで中身の乏しい本も珍しい。フリッツ・ラングの評伝とのことだが、その体をなしていない。ラングの思考や行動についての記述はほとんどなく、大部分が作品のあらすじの紹介と手前勝手な感想に割かれているだけ。文体も軽薄で、面白くもない駄洒落を織り込み、本人だけが悦に入っている。あとがきによると、著者はラングが好きではないという。そんな人間に説得力のある論考が書けるわけがない。ラングの本といえば、この駄作以外に、インタヴュー集「映画監督に著作権はない」しかなく、他の大監督に比べて極端に少ない。気迫と心情のこもった、真っ当なラング論を読みたい。欧米の本格的な評伝の邦訳刊行が待たれる。

2020年6月某日  備忘録53 フリッツ・ラングの初期の珍作と晩年の怪作

ここまで来ればトーキー以後のラングをみんな見てしまおう、ということで、未見だったフランス時代の1作とドイツに帰って撮った遺作を見た。これで、残るは「条理ある疑いの彼方へ」のみになった。ここに至れば、「メトロポリス」以外は見ていないラングのサイレント作品も、大作ばかりなので退屈することを覚悟のうえで、見ようという気持ちに駆られる。

リリオム
1934 フリッツ・ラング 評点[C]
ラングがベルリンを脱出し、米国に渡る前、フランスで撮った唯一の作品。スタッフには製作エリッヒ・ポマー、撮影ルドルフ・マテ、音楽フランツ・ワックスマンとのちに渡米する映画人がいる。主演のシャルル・ボワイエも間もなくハリウッドを主な活動の場にした。音楽の共同担当にジャン・ルノワールとあるので、もしかして、と思ったが、これはLenoirで監督のRenoirとは一文字違う作曲家らしい。原作は大当たりした戯曲。のちにハリウッドで「回転木馬」としてミュージカル化された。全体の3/4まではユーモアを加味したリアリズム・タッチの映画だが、最後の1/4でファンタジーに転ずる。回転木馬の客引きだった女たらしの乱暴者リリオムは結婚しても仕事せず家庭を顧みないが、従順な妻が妊娠したこと知り、金策のため強盗しようとして追い詰められ自殺する。天国の門で煉獄行きとなるが、16年後に1日だけ地上に帰って善行を施せば天国に行けると言われ、16歳に成長した娘に会う、というストーリー。地上の警察署と天上の警察署がまったく同じで、天上では羽を生やした同じ警察官が同じことをやっている、というのが笑わせる。ラングらしさはあまりないが、戯曲の筋立てと達者な役者のおかげで、それなりに面白い内容になっている。

怪人マブゼ博士
1960 フリッツ・ラング(英語字幕版) 評点[E]
戦後、ラングがドイツに帰って撮った2作のうちの1作で、これが最後の作品になった。原題は「The 1000 Eyes of Dr. Mabuse」で、32年の「怪人マブゼ博士」(The Testament of Dr. Mabuse)の続編的な内容。マブゼが残した遺書に影響されて世界の破滅を企む悪人組織とそれを阻止しようとする警察の戦いを描いたスリラー。悪人を追う警部にゲルト・フレーベ、それに巻き込まれる男女にピーター・ヴァン・アイクとドーン・アダムス。時代錯誤の荒唐無稽でマンガのようなプロットと展開。見どころなし。

2020年6月某日  備忘録53 50年代初期のフリッツ・ラングのフィルム・ノワール2本

未見だったフリッツ・ラングの2本の充実したフィルム・ノワールを見た。

青いガーディニア
1953 フリッツ・ラング 評点[B]
フリッツ・ラングによるフィルム・ノワールの1本。いつもの重苦しいラングとは異なり、ハリウッド・スタイルの明るい雰囲気のサスペンスだが、出来はなかなか良い。主演は電話交換手のアン・バクスターと新聞記者のリチャード・コンテ。恋人に振られたバクスターは女たらしのイラストレーターの誘いに乗って酒を飲み過ぎ、男のアパートで暴行されそうになるが、拒否したところで意識がなくなり、夜中に帰宅したあと、翌朝男が殺されたことを知る。彼女は自分が殺したかどうかで悩み、新聞記者のコンテに相談する。コンテは最初は新聞のネタに利用しようとするが、バクスターに惚れて真相を究明しようとする、という内容。話の展開が巧い。途中でだれることなく、テンポよく進む。この演出力が、ラングがハリウッドで長年仕事できた理由であろう。ノワールにしては全体的に軽いが、夜の雨の情景、深夜の新聞社フロアにバクスターが登場するシーン、鏡を使ったサスペンスの盛り上げなどには目を奪われる。アン・バクスターは巧いし、脇役も個性的だが、悪役顔のコンテはどうにもいただけない。原作は「ローラ殺人事件」で有名なヴェラ・キャスパリ。ナット・コールの主題歌が随所で使われており、本人も登場して歌っている。

ハウス・バイ・ザ・リヴァー
1950 フリッツ・ラング 評点[B+]
いかにもラングらしいゴチック風味のダークなフィルム・ノワール。設定されている時代や場所は不明だが、おそらく19世紀後半の南部であろう。ラングによると、人はみな潜在的に犯罪の衝動を持っているとのことだが、この映画の主人公である作家ルイス・ヘイワードは特別だ。メイドを無理やりものにしようとして殺してしまい、嫌がる会計士の弟リー・ボウマンを言いくるめて死体遺棄を手伝わせ、殺人の罪を弟になすりつけようとし、おまけに自分から離れようとする妻ジェーン・ワイアットまで殺そうとする。低予算の地味な映画だが、話の展開はテンポよく滑らかで、最後まで緊迫感が持続する。光と影を生かした映像が見事で、川辺の家のたたずまい、暗い屋敷のなかで白いカーテンがはためく様子、階段の上で行なわれる惨劇、月光に照らされる川の光景など、見どころは多い。

2020年6月某日  備忘録53 「デデという娼婦」のシモーヌ・シニョレに女の暗い情念を見た

期待して見たベッケルのデビュー作は、あまりの人を食ったような内容に拍子抜けしたが、そのいっぽう、ついでに見た「デデという娼婦」は暗い情念に満ちた名作だった。

最後の切り札
1942年 ジャック・ベッケル 評点[E]
ベッケル監督のデビュー作。初期のベッケルはこんな作風だったのだ。前に見た「七月のランデヴー」も軽量級だったが、これも荒唐無稽なマンガのような犯罪映画だ。コメディとして作られているのだろうが、陳腐すぎて笑えない。警察学校の同期生ふたりが、どちらが首席になるかを競って、高級ホテルで起きた殺人事件を捜査するという話。このふたりの振る舞いが、演技なのだろうが、妙に気取っていて鼻持ちならない。ギャングの親玉にピエール・ルノワール、その妹にミレーユ・バランという配役も、中身のつまらなさを補っていない。わずかに、終盤に出てくる、暗い夜の、車での追跡シーンが、師匠ルノワールの「十字路の夜」を彷彿とさせる。

デデという娼婦
1953 イヴ・アレグレ 評点[A]
犯罪メロドラマの傑作。埠頭にたたずむ娼婦のシモーヌ・シニョレを映す冒頭のシーンが素晴らしい。シニョレには娼婦役が似合っているし、その姿態はいつもは悲劇の予感をまとっている。舞台は港町のアントワープ。シニョレが働く娼館の主人がベルナール・ブリエ、シニョレのヒモのクズ男にマルセル・ダリオ、シニョレと恋仲になる船乗りにマルセル・パリエロという、打ってつけの布陣だ。シニョレは港にやって来た船乗りと恋仲になり、娼館主の助けを得て、ヒモ男を捨て、船乗りと一緒に旅立とうとする。捨てられたヒモ男は腹いせに船乗りを射殺する。それを知ったシニョレは復讐を決意し、ヒモ男を見つけて車で轢き殺す、というストーリー。始まって間もなく、霧に煙る夜の埠頭を歩くシニョレと船乗りの情感漂うシーンが印象に残る。船乗り役のパリエロはジャン・ギャバンを彷彿とさせる。この映画でのシモーヌ・シニョレは若く、肌は滑らかだ。その風貌は肉感的だが下品な感じはない。彼女はけっして媚びないし、大げさな感情表現をしない。そこに本源的な美しさを感じる。シニョレはヒモに尽くす娼婦だが、たんなる人のいい愚鈍な女ではない。街中で暴動が起こったとき、殴り合いを微笑みながら見ているシニョレの顔に、隠された素顔がほの見える。彼女の本性が表われるのは、恋人の船乗りが殺されたときだ。彼女は死体を抱いて泣きわめいたりしない。冷静に死体を船に運べと言い、殺したヒモ男の居場所を探し出し、苦痛を与えるため、娼館主にゆっくり走らせてと言って車で轢き殺させる。最後は冒頭と同じ埠頭のシーンで終るのも気が利いている。他の出演者では娼館の主人で船乗りの旧友のベルナール・ブリエがいい。風采は上がらないが義理と人情をわきまえており、シニョレを助ける。この映画を見てシモーヌ・シニョレの魅力を再認識した。彼女の主演した映画では、「肉体の冠」「悪魔のような女」「影の軍隊」を見ているが、ほかの映画をもっと見たくなった。こうして見る映画の輪が広がっていく。

2020年6月某日  備忘録52 メルヴィルの日本未公開作品2作

メルヴィルのこれまで未見だった2本の映画を見た。これでメルヴィルの映画はすべて見終わったことになる

フェルショー家の長男
1963 ジャン=ピエール・メルヴィル(英語字幕版) 評点[C]
メルヴィル初のカラー作品で、ジョルジュ・シムノン原作、撮影はアンリ・ドカエ。以前、字幕なしで見ていたが、あらすじを頭に入れていても、当然ながら話の流れはよく分からなかった。今回は英語字幕で鑑賞。元ボクサーの若者ジャン=ポール・ベルモンドが、以前に犯した罪で訴追されかかっている銀行家シャルル・ヴァネルに秘書として雇われ、アメリカに逃亡する銀行家に同行し、運転手&ボディガードとしてニューヨークからニューオーリンズへと旅をする話。一種のロードー・ムーヴィーだ。旅をするあいだに、若者が主導権を握り、老人の銀行家は体調を崩して、主客転倒する。ノワール的な要素はあまりない、不思議な味わいの映画だ。無表情な顔で非情に振る舞うベルモンドの行動規範がよく分からないが、そこがメルヴィルらしいところか。ベルモンドを取り巻く女たちは、ヒッチハイカーのステファニア・サンドレッリをはじめ、パリで捨てる愛人、ニューオーリンズで懇ろになるダンサーなど、みな官能的な美女ばかりだ。

この手紙を読むときは
1953 ジャン=ピエール・メルヴィル 評点[D]
メルヴィル3作目の長編劇映画。修道女の姉ジュリエット・グレコとその妹イレーヌ・ガルテル(かわいい!)、そして生来の女たらしのフィリップ・ルメールが出演する、およそメルヴィルらしからぬメロドラマ。後半の話の流れがよく分からない。破綻していると言ってもいいだろう。舞台はカンヌ、修道女のグレコは文房具店を営む両親が事故で死んだので、未成年の妹ガルテルを助けるため一時的に還俗する。自動車修理工のルメールは妹を見初めてホテルに連れ込み、強引にものにする。そのあとの展開が不可解だ。自殺未遂した妹のためグレコは無理やり妹と修理工を結婚させる。だが修理工はグレコが好きだと告白し、グレコは最初は拒絶するが、先にマルセイユに発った修理工のあとを追って列車に乗る。きれいだがのっぺりした顔、終始、無表情のグレコの行動は脈絡がなく、理解に苦しむ。修理工とホテルの金持ち女との情事とその顛末などは、まったく本筋に絡まない、余計なエピソードだ。修道女が男に目覚めるという構図は、逆パターンだがのちの「モラン神父」を想起させる。

2020年6月某日  備忘録51 40年代後半の対照的なフランス映画2本

今日は戦後間もないころのフランス映画を2本見た。

海の牙
1946 ルネ・クレマン 評点[B]
大学時代に見て以来、50年ぶりに再見。潜水艦の映画だということと、女が潜水艦から落ちて船との間に挟まれて死ぬシーンだけしか覚えていなかった。第2次大戦末期、敗色濃いナチス・ドイツの密命を受け、オスロから南米に赴くUボートに乗船した人々の運命を描く。途中でドイツが降伏しヒットラーが自殺したことが分かり、乗船していた国防軍将軍、親衛隊幹部、政商、記者、乗組員たちは動揺する。それを誘拐された医師が冷静に観察する。これは戦争映画ではなく、極限状況下におかれた人間の行動を冷徹に描いた心理ドラマだ。ストーリーの展開が巧いし、潜水艦のなかの緊迫した雰囲気がよく描かれている。狭い内部を的確に捉えるカメラが素晴らしい。

七月のランデヴー
1949 ジャック・ベッケル 評点[D]
「肉体の冠」「現ナマ」「穴」を撮ったベッケルの監督作とは思えない、ありきたりな青春映画。49年といえば戦後間もないのにパリの街には戦禍の傷跡はまったくない。当時インドシナ戦争でフランスはベトナムで戦っていたのに、それも影を落としていない。演劇と音楽を楽しみ、恋愛をし、未来を手探りする若者たちが描かれるが、表面をなぞっただけにすぎず、平板な印象を受ける。主演はダニエル・ジェランだが、この俳優はキャラクター的に好きではない。もう一人の主役ローリス・ロネはじつに若い。最初はロネだと気がつかなかった。終盤レックス・スチュアートがライヴ・ハウスに現れて熱演を披露する。

2020年6月某日  備忘録50 日仏の興味深い映画ドキュメンタリー2本

映画に関するドキュメンタリー映画を2本見た。

リュミエールの子供たち フランス映画の100年
1995 アラン・コルノーほか 評点[B]
リュミエール兄弟の「工場の入り口」から「レオン」まで、100年間に作られたフランス映画300本の名場面がコラージュ風にまとめられた作品。歴史や映画や俳優が系統立って紹介されるわけではなく、視線、歌、ギャグ、キスなどのテーマごとに各映画の短いシーンが脈絡なく無造作に繋がれている。名監督の重要な作品は万遍なく網羅されており、記憶に残っているシーンも多く、なかなか楽しい。「ピクニック」などの名画もアウトテイクも映し出される。幸せなドキュメンタリー映画だ。

生きてはみたけれど 小津安二郎伝
1983 井上和男 評点[C+]
小津の没後20年にちなんで作られた記録映画。ゆかりの場所の映像、親しく接した人々へのインタヴュー、さまざまな映画のシーンによって構成されている。数多くの映画人が登場するが、なかでは笠智衆、杉村春子、淡島千景、東野英治郎の言葉が興味深い。今日出海が「小津の映画にはどれも孤独感が漂っている」と言っている場面、厚田雄春がカメラを手にして撮影法を語っている場面が印象に残る。いまではここで喋っている人たちの多くが鬼籍に入ってしまっている。新しい発見はないが、要領よくまとめられており、編集も丁寧だ。主要な作品はほとんど紹介されているが、「浮草」が抜けているのは大映から借りられなかったからか。

2020年6月某日  備忘録49 50年代の地味なフランス映画

前回に続いて50年代のフランス映画を2本鑑賞。

ガラスの城
1953 ルネ・クレマン 評点[D]
判事ジャン・セルヴェの妻ミシェル・モルガンは保養先でプレイボーイの青年ジャン・マレエと恋に落ちる。マレエはパリに帰り、モルガンは夫とともにベルンに赴くが、マレエからに電話に応じ、モルガンは夫の目を盗んでパリに旅立ち、マレエとの逢瀬を楽しむ。最後はベルン行きの飛行機が墜落してモルガンは死ぬ。フランス映画伝統の不倫と恋愛ゲームの物語で、ていねいに作られてはいるが、あまり面白くない。

雪は汚れていた
1952 ルイス・サフラスキー 評点[E]
ジョルジュ・シムノン原作の犯罪映画。ナチ占領下のフランスの田舎町。母親が娼婦で、他家に預けられて成長した青年ダニエル・ジュランが主人公。いまは母親の経営する売春宿に同居する彼は根っからの悪人、兵隊を殺して拳銃を奪い、育ての親の家に押し入って時計を強奪するなど悪事を重ねるが、逮捕されたあと心優しい娘への愛に目覚めて改心し、銃殺されるというストーリー。底の浅いありきたりの勧善懲悪映画。

2020年6月某日  備忘録48 ルネ・クレマンの初期作品2本

今日はルネ・クレマンの初期作品を2本見た。

鉄格子の彼方
1949 ルネ・クレマン 評点[B]
仏伊合作映画。女を殺してジェノヴァに流れ着いた中年の男にジャン・ギャバン。ギャバンと恋仲になるバールの女給仕にイザ・ミランダ。港町の風景を映すカメラが見事。ミランダの娘でギャバンと最初に仲良くなる女の子がかわいい。話の流れがスムースでテンポ良く進む。話の筋はデュヴィヴィエ風だが、それほど叙情に流されず、乾いた描写なのがクレマン的か。あっさりしたエンディングもいい。

しのび逢い
1954 ルネ・クレマン 評点[D]
仏英合作映画。タイトルからメロドラマを連想するが、これはジェラール・フィリップ主演のシニカルなコメディで、どうしようもない女たらしの一代記といったような作品。ロンドンに住むフランス人で優男のプレイボーイが金持ちの女と結婚するが、妻の親友に懸想し、彼女を口説き落とすため自分の女遍歴を物語る。出演する女優は知らない名前ばかりで、あまり魅力的ではない。

2020年6月某日  備忘録47 戦後民主主義の教条映画

ともしび
1954 家城巳代治 評点[C+]
北星映画配給、日本教職員組合後援の独立プロ作品。貧しい農村で学ぶ小学生たちを描いた映画。出演は香川京子のほか、内藤敏武、加藤嘉、花沢徳衛など演劇人たち。生徒に慕われる熱血漢の教師、権力を盾に偉ぶる村長、村長にゴマをする校長、事なかれ主義の無気力な先生、子供たちの家は日々の生活に追われる貧困家庭で、貧しくて教科書を買えない子供、赤ん坊をおぶって登校する子供と、絵に描いたように図式的な映画だが、つまらないかというとそうではなく、けっこう面白い。その主因は子供たちの自然な演技にある。子供たちの顔つきがいい。みな日本人本来の顔をしている。いまの映画に出てくるふにゃけた顔の子供たちとは全然違う。熱血漢の先生に内藤敏武、主演の子供のお姉さん役の香川京子が可憐で美しい。掃き溜めに鶴だ。54年当時、筆者は7歳で、宮崎のこんな農村のなかのこんな小学校に通っていた。生徒の数はもっと多かったし、子供たちの家庭はこれほど貧しくはなかったが。

2020年6月某日  備忘録46 伊丹万作のコメディ2本

今日は伊丹万作によるトーキー初期の古典的な作品2本を見た。

赤西蠣太
1936 伊丹万作 評点[B]
本作は伊丹の代表作。伊達騒動を題材にしたコメディ時代劇で、志賀直哉原作とのこと。伊達屋敷にスパイとして潜り込む赤西蛎太が主人公。片岡千恵蔵が醜男の蛎太と美男の原田甲斐の2役を演じる。サザエさんのように登場人物がみな海産物にちなんだ名前なのが人を食っている。蛎太は陰謀の証拠を手に入れ、屋敷を辞して国に帰ろうとするが、怪しまれないため、美人の腰元梅村容子に付け文をして騒動が持ち上がる。猫を持ち運んで行ったり来たりするシークエンスや、中間が何度も同じような言伝のため雨のなか外出させられてうんざりするシークエンスなど、伊丹は繰り返しによってユーモアを醸成させる。アメリカ映画の喜劇、とくにルビッチあたりの影響が感じられる。全体に軽妙洒脱な味わいが漂っているが、原田甲斐の登場シーンを思い切り歌舞伎調にしてコントラストをつけているのが面白い。千恵蔵のとぼけた演技も見事。

気まぐれ冠者
1935 伊丹万作 評点[C+]
これまたナンセンスなコメディ時代劇。音声が悪く、台詞がよく聞き取れないのが難。風来坊の2人組がある国で御前試合での腕前が認められて家来になり、敵対する隣国に偵察に行く話。主演は美男の若者、片岡千恵蔵だが、相棒の間抜けな太っちょ、髯の勘十のキャラクターがなかなか良く、千恵蔵を食っている。仕官するときの殿様と千恵蔵の俸給に関するやりとりや、敵国で捕えられた2人が牢屋を抜け出して姫の部屋に現れる場面など、抱腹もの。バカバカしいとぼけた味わいがいい。

2020年6月某日  備忘録45 グレアム・グリーン原作の2本

今日はグレアム・グリーン原作の2本の映画を見た。

静かなアメリカ人
1958 ジョセフ・マンキウィッツ 評点[C]
50年代初頭、インドシナ戦争下のサイゴン、フランス植民地のベトナム政府は独立を目指すベトコンが仕掛けるゲリラ戦争によって守勢に立っている。旧正月の祭りに湧くサイゴンの川辺でアメリカ人の若者の死体が発見されるという発端。フランス人の警部が捜査を開始する。イギリス人の記者マイケル・レッドグレイヴが事件を真相を語るというストーリー。アメリカの青年にオーディ・マーフィ、マーフィに求愛されてそれまで同棲していたレッドグレイヴの元を去るベトナム女にジョージア・モル(どこかで見た顔だと思っていたが、スティ−ヴ・リーヴス主演「バグダッドの盗賊」で王女役を演じた女優だった)。彼らの三角関係が軸になっており、市内テロの爆弾を供給したのがマーフィだと思い込んだレッドグレイヴが、女を奪われた腹いせに、敵対組織にマーフィを売る。イギリス人記者、アメリカ人青年、フランス人警部という配置は悪くないが、その構図の面白さが描かれていないし、アメリカ人青年の実体もよく分からない。彼は当時ベトナムに介入し始めたアメリカを象徴しており、アメリカ人が殺されるという話はのちのベトナム戦争を暗示していると見ることもできなくはない。

ハヴァナの男
1960 キャロル・リード 評点[C+]
冷戦下のスパイ活動を皮肉ったコメディ映画。革命前のキューバ、ハヴァナで家電店を経営するイギリス人が本国の情報部にリクルートされ、彼は金ほしさにいい加減な情報をでっち上げて送るが、それによって騒動が巻き起こるというストーリー。主人公の店主にアレック・ギネス、彼の友人のドイツ人医師に巨漢バール・アイヴス、情報部から送り込まれる美人秘書にモーリン・オハラ、情報部長にラルフ・リチャードソンという、なかなか渋い顔ぶれ。パロディとしてはよく出来ている。エンディングの、ロンドンの道端で売られている精巧な玩具が日本製だったというオチには、どんな意味が込められているか、カストロが許可し、革命後のキューバでロケ撮影が行なわれたらしい。

2020年6月某日  備忘録44 ロバート・アルドリッチの隠れた逸品2本

今日は昨日に続き、反骨の映画作家アルドリッチの知られざる作品を2本見た。

地獄へ秒読み
1959 ロバート・アルドリッチ 評点[C]
終戦直後のベルリンで不発弾処理という命がけの仕事に携わる元兵士たちを描いた映画。処理班の班長にジャック・パランス、班員のひとりで身勝手な振るまいの嫌われ者にジェフ・チャンドラー、彼らが下宿する家の家主にマルチーヌ・キャロル。ベルリンの瓦礫だらけの街並みが印象深い。ベルリンで撮影されたとあるが、戦後10数年経った撮影当時、まだこんな風景画残っていたのだろうか。不発弾を処理するシーンの緊迫感が見事。6人の班員が生き残りゲームに金を賭けるエピソードと、パランスとキャロルのロマンスがストーリーに絡む。彼らはひとりずつ命を落とし、最後にパランスだけが残る。パランスといえば「攻撃」の凄まじい形相と鬼気迫る演技が忘れられないが、ここでも好演している。全体に寸詰まりの感じがするが、案の定、現行版はオリジナル版の30分短縮ヴァージョンらしい。

ガーメント・ジャングル
1957 ヴィンセント・シャーマン 評点[C]
ニューヨーク衣服業界の内幕を労使の対立と親子の葛藤という視点を軸に描いた作品。監督のアルドリッチが体制告発の姿勢を弱めようとするスタジオの方針に従わず撮影終了直前に解雇され、シャーマンが後を引き継いだ、いわくつきの映画。社員の組合結成を拒否する旧弊な会社社長にリー・J・コッブ、実情を知り組合に肩入れする社長の息子にカーウィン・マシューズ、社長が雇う組合潰しの親玉にリチャード・ブーン。コッブは終盤にブーンの悪辣な仕事ぶりを知り、改心して組合を受け入れようとし、ブーンに殺される。このあたりの描き方が唐突かつ中途半端であり、アルドリッチが拒否した筋立てであろう。コッブは「波止場」で、これとは反対に港湾を牛耳る組合のボスの役をやったが、性格付けは同じであり、さすがに好演している。けっきょく悪人の潰し屋たちは警察に逮捕され、最後は組合と協調する息子が会社の経営を引き継ぐという甘い結末だが、アルドリッチらしさは随所に表れており、潰し屋たちが組合のリーダーを刺殺するシーンなどは緊迫感に満ちている。

2020年6月某日  備忘録43 ノワール風味の作品2本

今日は、厳密にはフィルム・ノワールではないが、ノワールの雰囲気が漂う作品を2本見た。

夜までドライヴ
1940 ラオール・ウォルシュ 評点[C]
長距離トラック運転手の生活を描いたノワール風のドラマ。ウォルシュらしく、話は小気味いいテンポで展開する。主演の運転手のジョージ・ラフト、その弟で相棒のハンフリー・ボガート、ラフトが惚れるダイナーの女給にアン・シェリダン、ラフトに横恋慕する運送会社社長夫人にアイダ・ルピノという配役。ラフトとボガートの兄弟はいずれ一旗揚げようと無謀に仕事し、事故を起こしてボガートは片腕を失う。ルピノは悪女役で、夫の会社に雇われたラフトと一緒になりたいがあまり、夫を殺して事故を装う。ルピノがガレージの自動開閉扉によってトラウマに襲われるあたりがノワール・タッチ。ラフトは殺人を教唆したとして裁判にかけられるが、最後に無実が証明されてハッピー・エンド。ボガートは翌41年にルピノとの共演で「ハイ・シェラ」の主役に抜擢され、人気を得ることになる。

枯葉
1956 ロバート・アルドリッチ 評点[B]
反骨魂に満ちた男性的な映画で知られるアルドルリッチにしては珍しいサスペンス・タッチのメロドラマ。自宅でタイピストとして働く孤独な中年独身女性ジョーン・クロフォードが退役した若者クリフ・ロバートソンと知り合い、求愛されて、逡巡した末に結婚するが、夫の語った過去の話が嘘であることを知って疑惑に苛まれる。ロバートソンはかつての妻が自分の父親と不倫している現場を目撃してショックを受け、精神に異常をきたしたという設定で、このへんがノワール風と言えなくもない。クロフォードは夫が正気に戻ったら自分から去って行くかもしれないことを覚悟して精神病院に入れる。クロフォードの演技が圧巻。歪んだ家族関係で正常な発育が妨げられる息子という設定はアルドリッチの作品に多い。ナット・コールの歌う「枯葉」が主題歌で、このメロディは随所に挿入される。

2020年6月某日  備忘録42 市川崑の50年代風刺映画

今日は市川崑の風刺映画を2本見た。

青春怪談
1955 市川崑 評点[C]
獅子文六原作のコメディ。初老の会社顧問で男やもめの村山聰と娘のバレエを学ぶボーイッシュな北原三枝、寡婦の轟夕起子と息子で金勘定に強いビジネスマンの三橋達夫の4人が織り成す結婚騒動の顛末を描く。全員が奇人・変人の類いだ。北原と三橋は気の合う友人で、お互いの親を結婚させようと企む。なんといっても太めだが可愛い轟夕起子の愛嬌のある天真爛漫さが見もので、彼女の演技とも地ともつかない少女のような表情と仕草ががこの映画を完全にさらっている。北原を恋い慕うバレエ学校の後輩を演じる芦川いづみは当時20歳、あどけなさといじらしさが印象に残る。

満員電車
1957 市川崑 評点[E]
川口浩主演の社会風刺コメディだが、面白くない。一流大学を出た若者が人口増、景気の悪さ、旧弊な社会体質のせいで落ちぶれるという話。個々の挿話を、おそらく監督はユーモアを込めて描いているつもりなのだろうが、全然ユーモアになっていない。すべてが無機的で、脈絡なく暗い話が続く。川口の父母役でせっかく笠智衆、杉村春子という名優が出ているのに、まったく生かされていない。ただし群衆シーンの撮り方は迫力がある。

2020年6月某日  備忘録41 戦前の時代劇2作

今日は戦前の時代劇を2本見た。

忠臣蔵赤垣源蔵 討入り前夜
1938 池田富保 評点[C]
阪東妻三郎主演。かつて歌舞伎や講談でお馴染みだった忠臣蔵外伝「赤垣源蔵徳利の別れ」の映画化。兄の屋敷に居候して飲酒に明け暮れる赤穂浪士、源蔵を描く前半は、彼を想う隣家の娘との挿話も入り、のんびりしたムードでなかなか良い。家を追い出された源蔵は、討ち入りの前夜、雪の降しきるなか、饅頭傘に合羽姿で一升徳利をぶら下げ、兄の屋敷に別れの挨拶に行くが、兄は不在、源蔵は兄の羽織を衣紋掛けに掛け、それに向かって盃を掲げ、暇乞いをする。阪妻はさすがの貫禄。応対する女中のおすぎがかわいい。後半は芝居がかっているが、時代を考慮すればしょうがないだろう。

待って居た男
1942 マキノ正博 評点[A]
長谷川一夫、山田五十鈴、榎本健一主演の軽妙なコメディ・ミステリー時代劇。伊豆の温泉旅館で若女将に奇怪な事件が連発する。冒頭30分を過ぎてから、江戸の目明かし(長谷川)とその妻(山田)が湯治客としてようやく登場。やる気のない長谷川に代わって、あたしが謎を解いてやると張り切る山田。そこに地元の目明かし金太(エノケン)が現れる。人はいいが無能なエノケンに長谷川が陰で捜査して犯人を教え、エノケンは最後にみんなの前で自分が推理したかのように犯人を告げる。戦時下とは思えないほどのんびりした、ドタバタあり、ユーモアありの、とぼけた味わいに満ちた映画。長谷川と山田のコンビが絶妙だし、エノケンも本領発揮。人に何かを訊くたびに「いろいろ親切に教えてくれてありがとう」と馬鹿丁寧に礼を言うエノケンには、思わず吹き出してしまう。ほかに高峰秀子、藤原鶏太、新藤英太郎も出演。画質が悪く、音声も聞き取りにくいのが残念。この前年に作られた同趣向の長谷川・山田コンビによる「昨日消えた男」も見てみたいものだ。

2020年5月

2020年5月某日  備忘録40 ルノワールの見逃していた1作とデュヴィヴィエの旧作

ランジェ氏の犯罪(英語字幕版)
1936 ジャン・ルノワール 評点[C]
出版社に務めながら小説を書く主人公のランジェ。出版社の社長は強欲で女たらしだ。隣の洗濯屋の女店長とランジェが恋仲になる。列車事故で社長は死に、社員たちは協同組合を作って経営危機にあった会社を建て直すが、そこに死んだはずの社長が神父に変装して姿を現す。ルノワールには珍しく回想形式の映画。テンポのいいコメディだが、いささか退屈。終盤、神父姿の社長が、死に際に「神父を呼んでくれ」というのには爆笑。浜辺の波打ち際を去る男女2人の姿を追うラストシーンがいい。シルヴィア・バタイユが出ているとこことだが、確認できなかった。

地の果てを行く
1935 ジュリアン・デュヴィヴィエ 評点[C]
ジャン・ギャバンが主演で、パリで殺人を犯し、バルセロナに逃げて外人部隊に入り、モロッコに渡って兵隊としての日々を過ごす男を演じる。ギャバンが恋仲になる酒場の踊子にアナベラ、外人部隊の隊長にピエール・ルノワールという布陣。それにギャバンが部隊で親しくなる戦友やギャバンを付け狙う警察の手先が絡む。デュヴィヴィエの話術は巧みだが、全体に叙情味が強い。冒頭の夜のパリやバルセロナの街を映すカメラに心惹かれる。終盤の戦闘シーンは緊迫感に欠ける。

2020年5月某日  備忘録39 原節子の戦前作と芦川いづみの初期作

上海陸戦隊
1939 熊谷久虎 評点[D]
第2次上海事変の日本軍の戦いをドキュメンタリー風に描いた、海軍省後援国策映画。市街戦の描写は迫力あるが、中国軍の動きはまったく映し出されず、迫真性に欠けるし、録音が悪くてよく聴き取れない。隊長役に大日向伝、最初は日本軍を憎んでいるが親切にほだされて心を入れ替える中国娘を原節子が演じる。原が汚れ役をやるのはおそらく初めてだろう。野性的な少女を演じる19歳の原は日本人離れした風貌でなかなかの魅力。

しあわせはどこに
1956 西河克己 評点[C (A) ]
戦争で両親を亡くした薄幸の若い女性がたどる運命を描いた通俗メロドラマ。主演の芦川いづみは当時21歳、主演はこの映画が初めてではないだろうか、しとやかで清楚、とにかく可愛い。相手役の葉山良二もこのころは痩せており、好青年に映っている。色魔の会社同僚に頬が膨らむ前の宍戸錠、芦川が同居していた家の悪辣な叔父に殿山泰司。芦川は、空襲で死んだと聞かされていた母が生きており、過ちによる殺人罪で刑務所に入っていたことを知る。戦後11年、まだ戦争の影が濃い。芦川が務める東京の会社や街角は都会風で洗練されているが、住んでいた横浜の家の近辺には戦後の荒廃が残っている。最後に2人は結ばれてハッピー・エンド。映画としてはCだが、芦川いづみに絞ると評価はA。

2020年5月某日  備忘録38 ルノワールの未見映画を制覇する〜その6

十字路の夜
1932 ジャン・ルノワール 評点[C+]
フィルム・ノワールの祖型的映画であり、以前、英語字幕版で見て展開がよく分からなかったので、日本語字幕版で再見したが、やはり分からなかった。現行版はオリジナル版からかなりカットされているようだ。トーキー初期風でサイレントの名残りが濃いように感じる。メグレ警視役にピエール・ルノワール。前半はあまり動きがないが、後半、唐突にに事態が動き、犯人グループはあっさり逮捕されて事件は解決する。謎めいたショット、意味ありげなショットが頻繁に挿入される。展開は間延びしており、筋の流れが掴めない。雰囲気だけを重視して作られたような印象であり、その点では「3つ数えろ」を想起させるが、そこではマーロウが行動していた。ここでのメグレは何も行動しない。BGMはなく、音楽といえば登場人物が演奏するアコーディオンやかけるレコードのみ。娼婦ヴィナ・ヴィンフリーデが艶めかしく、メグレに胸の傷を見せ、眼前で着替えするシーンはエロティックだ。霧に煙る夕暮れの車道、深夜のカーチェイスが印象に残る。

ショタール商会
1933 ジャン・ルノワール 評点[C]
地方都市の食品卸問屋を舞台にしたコメディ。問屋の社長は仕事を手伝うという条件でひとり娘を詩人の男と結婚させるが、詩人はずぼらで仕事できない。怒った社長は彼を家から追い出す。だが詩人がゴンクール賞を受賞したので慌てて連れ戻す。その後、詩人は作品を書けなくなるが、問屋の仕事に腕を発揮し、一方の社長は文学に目覚めるという皮肉な結末。奥行きを感じさせる窓越しのショットが多い。冒頭の3分ほどのシークエンス――カメラは最初にタイトルの看板を映し、外から仕事場のなかに入ったあと、自宅の食卓に座る社長を窓越しに撮る――や、その後の舞踏会のシーンでの、流れるように移動するカメラが印象的。

2020年5月某日  備忘録37 ルノワールの未見映画を制覇する〜その5

草の上の昼食
1959 ジャン・ルノワール 評点[C]
以前、あまりに馬鹿馬鹿しいので中断した映画、今回ようやく視聴を完了した。セックスと幻想を詰め込んだ大らかなドタバタ喜劇。ポール・ムーリスの欧州連合大統領を目指す生物学者、カトリーヌ・ルーヴェルの野性的な農家の娘、いずれも好演。南仏の陽光降り注ぐ森と山と川が美しく、ルノワール的な水のイメージが横溢している。山羊を連れた爺さんが横笛を吹くと、突風が吹き荒れ、人々の性衝動を誘発する。女性器を連想させる木々が映し出されるシーンは淫靡の極みだ。人工授精を提唱し、愛の行為は抑制すべしと主張する生物学者が農家の娘とセックスに耽り、子供が出来で結婚するという皮肉な結末。

捕えられた伍長
1961 ジャン・ルノワール 評点[C]
これがルノワールの遺作。ここにはもはや水のイメージも窓越しのショットもない。ドイツの収容所に捕えられた伍長ジャンピエール・カッセルが何度も脱走を企て、遂に成功するまでが描かれる。「大いなる幻影」とよく似た筋立てだが、これは第2次大戦であり、もはや騎士道精神はなく、階級意識も不鮮明だ。だが、主人公に一緒に逃亡しようと誘われる農民の兵士が、「ここには階級も身分もなく、みんなが友だちで仲間だ。パリに戻ったら慣習としきたりに支配され、そんな関係が失われる」と言って拒否するところに、階級社会の現実が、そして「大いなる幻影」のテーマが浮かび上がる。終盤、逃亡する2人が乗る列車のコンパートメントに闖入する酔っ払い、そのあとに出てくる国境近くの農夫はルノワール自身の投影であろうか。

2020年5月某日  備忘録36 ルノワールの未見映画を制覇する〜その4

大いなる幻影
1937 ジャン・ルノワール 評点[B]
再見。初見は大学のときだったと思う。これは反戦映画と言われるが、本質的には理想主義的なヒューマニズム映画だ。主人公の中尉がジャン・ギャバン、捕虜仲間の大尉がピエール・フレネー、捕虜収容所長のドイツ軍大尉がエーリヒ・フォン・シュトロハイム。ルノワールはリアリズムに徹して描いたと言っているが、衣装やセットはそうだとしても、収容所での待遇がこれほど礼儀に厚いものだとは思えない。第1次大戦とはいえ、捕虜と収容所長の貴族同士の騎士道精神に富んだ友情が結ばれることなど、現実にはありえないだろう。仲間の捕虜を逃がすため射殺される大尉の行動もリアリティに欠ける。とはいえ、話術は巧みで流れによどみはない。謹厳実直で騎士道を重んじるドイツ軍人役のシュトロハイムが見事。脱走したギャバンとドイツの小村の寡婦との束の間の恋愛は哀切感漂う。随所に表れる窓越しのショットが奥行きを感じさせる。ルノワール独特の空間処理だ。ルノワールの映画ではショウのステージが挿入されるものが多いが、ここでも収容所内で捕虜たちが演じる歌や踊りが披露される。「幻影」とは何か。労働者階級のギャバンと貴族階級の大尉は戦争がなければ友情を育むことはなかった。一緒に脱出する金持ちのユダヤ人との友情もそうだ。ドイツ人の寡婦とも戦争がなければ恋に落ちることはなかっただろう。戦争が幻影を生じさせた。いっぽう貴族階級同士のフレネーとシュトロハイムは戦争がなくても心が通じ合う。そもそもフランスの貴族階級はゲルマン人(フランク人)であり、ドイツ貴族と同じ血筋だ。そんな間柄なのに、シュトロハイムが心ならずもフレネーを射殺するという皮肉。これも戦争が生み出す幻影なのか。

ゲームの規則
1939 ジャン・ルノワール 評点[C]
以前、延々と続く恋愛遊戯に飽き飽きして見るのを中断した映画。今回ようやく最後まで見た。名作との世評高いが、どこがいいのか分からない。上流階級の夫婦の駆け引き、男女の浮気や色恋沙汰が、喜劇タッチで風刺風に描かれる。監督のルノワール本人が狂言回し的な役で出演。バロック音楽のように撮ったとルノワールは言ったそうだが、たしかに多くの登場人物の織り成すインモラルな恋の騒動を追いかけるカメラは、バロック音楽を思わせないでもない。ナチスとの戦争に傾いていくなかで、現実を直視しようとしない時代風潮を批判したと言われるが、果たしてそうなのか。ナチス・ドイツのフランス侵攻は1940年。39年の映画製作時点において仏独が開戦していたかどうかは分からないが、当時、ナチスの脅威が間近に迫っていたことは確かだ。だが、これは恋愛ゲームに明け暮れる貴族や使用人を戯画化しただけの映画としか見えず、迫り来る悲劇の予兆などという説は、後からのこじつけに過ぎないように思える。とはいえ、狩りのシーンで映し出される無残に殺されたウサギやキジ、パーティが終わったあとの静けさと無常感は、何かを感じさせないでもない。中条省平によると、《「この世界に恐ろしいことがひとつある。それは、すべての人間の言いぶんが正しいということだ」という「映画史に残る名セリフ」が、この人間喜劇の「原理」となっており、「だれもが正しいということは、だれもが正しくないということ。善と悪がポジとネガのように反転しあいながら、ドラマは織りなされてゆきます》とのことだが、そんなことはまったく感じ取ることができない。

2020年5月某日  備忘録35 ルノワールの未見映画を制覇する〜その3

ラ・マルセイエーズ
1938 ジャン・ルノワール 評点[C]
1789年のバスチーユ襲撃から革命軍の王宮占拠、1792年のプロシャとの戦いに至るフランス革命を、マルセーヌの義勇軍に参加した若者の行動を中心に描く。国歌ラ・マルセイエーズが民衆に広まるエピソードが添えられる。全体に描き方がぬるい――それがルノワールの持ち味だと言えばそれまでだが。ルイ16世にピエール・ルノワール、革命軍のリーダーにルイ・ジューヴェが出演。世間の動乱をよそに、舞踏や美食にふける王族や貴族の描写はさすがに巧い。ナチス台頭に備え、国民の団結を促すのをねらって作られたと言われれば納得できる。

自由への戦い
1943 ジャン・ルノワール 評点[D]
ルノワールのアメリカ亡命時代の一作。ナチス占領下のフランスの小さな町でのレジスタンスを描いた映画。学校教師のチャールズ・ロートンが主演、隣に住む同僚教師にモーリン・オハラ。現状追認してナチスに協力する実業家にジョージ・サンダース。小心者のロートンは最後に抵抗主義に目覚め、裁判で自由と勇気の大切さを長々と演説する。このあたりはチャップリンの「独裁者」を思わせる。全体に図式的、教条主義的で、最後のロートンとオハラが子供たちに人権宣言を読み聞かせるシーンなどは、あまりにあざとい。ルノワールが思いどおりに撮れなかったことを勘案しても、出来はよくない。

2020年5月某日  備忘録34 ルノワールの未見映画を制覇する〜その2

ボヴァリー夫人
1933 ジャン・ルノワール 評点[C]
フロベール原作の、欲求不満の田舎医者の妻が不倫と浪費を重ねた末に身を滅ぼすという話。夫のピエール・ルノワールは適役だが、夫人のヴァランティーヌ・テシエはあまり魅力的に見えず、みんなが惚れるほどの美女とは思えないので興が削がれる。どうもルノワールは女の趣味が良くないようだ。前半、いやに短いシークエンスで簡潔に進行すると思っていたが、案の定、もとは3時間ほどの長さだったが、ルノワールの意志に反してカットされ、1時間40分に短縮されたのだという。とはいえ、ストーリーの流れはスムーズで、窓越しに中から外を、外から中を映すカメラは印象深く、独特の奥行きを感じさせる。乗馬による森での夫人と好色貴族との密会シーンは官能的でエロティシズムが匂う。公証人の若者との情事のシーンでは馬車が使われる。女が手紙をちぎって窓から投げ捨てるのが印象的。両方のシーンに馬が出てくるのは偶然ではないだろう。

トニ
1935 ジャン・ルノワール 評点[D]
南仏にやって来た出稼ぎ労働者が、宿屋を営む女と結婚するが、以前から好きだったのに他人の妻になった女のことが忘れられず、破局を迎えるという話。ルノワールの映画はほとんどが女の不倫の話だが、ここでは珍しく男が不倫する。のちの時代のイタリア・ネオレアリスモ映画を思わせるが、資本家と労働者の対立といったような社会的な観点はなく、男女の色恋に絞られている。海に浮かぶ小舟や鉄橋を走る男のような印象に残るシーンがあり、男が蜂に刺された女の針を取るため背中を舐めるシーンなども官能的だが、全体に地味な印象。列車に乗ってやって来る労働者たちのシーンで始まり、別の労働者たちがやって来る同じようなシーンで終わる。

2020年5月某日  備忘録33 ルノワールの未見映画を制覇する〜その1

素晴らしき放浪者
1932 ジャン・ルノワール 評点[B+]
こういう大らかで自由闊達な作品をどう評価したらいいのだろう。セーヌ川に身投げした浮浪者を古本屋の店主が助けて自宅に居候させると、浮浪者はあまりに尊大で傍若無人、感謝もせずに居座り、古本屋の生活を引っかき回し、店主の妻を寝取り、愛人の若いメイドともねんごろになり、けっきょくメイドと結婚するが、式の当日、ボートが転覆、行方不明になった浮浪者は川下で岸に上がってカカシの服に着替え、どこかに悠然と歩み去る。最後は「どん底」のラスト・シーンを思わせる。やりたい放題の浮浪者の自由な振る舞いと、古書店主や近隣住民の人の良さが際立っている。セーヌ岸辺のロケで、橋に群がる見物人が印象深い。全体に水のイメージが豊穣だ。主演のミシェル・シモンは伊藤雄之助を想起させる。

牝犬(英語字幕版)
1931 ジャン・ルノワール 評点[B+]
ラング「緋色の街」のオリジナル。「これは社会劇です――これは悲劇です――どちらでもない、皆さんと同じ哀れな人間の話です」という人形芝居の前口上で始まり、同じ人形芝居の窓枠のなか、浮浪者の2人が去って行くシーンで終わるという結構が、いかにもルノワールらしい。そこかしこで映し出される、窓越し、ドア越しにに捉えられた情景が、ルノワール的な映画空間を感じさせる。省略の技法が冴えており、冒頭間もなく、主人公が女を助けて家に送っていき、自宅に帰って女房に罵倒されると、次のシーンではすでに女と恋仲になっているし、女の殺害を直接的には映さず、殺害後の光景を窓越しに撮るショットはとりわけ素晴らしい。この殺害シークエンスでの、路上のストリート・ミュージシャンの演奏に人々が群がるショットとアパート階上の殺害部屋のショットを交互に映す手法は、のちにフィルム・ノワールで、犯人の絶望的なショットと一般市民の平和なショットのクロスカッティングとして多用された。「牝犬」の基本的な話の流れは「緋色の街」と同じだが、ペシミズムと絶望感に満ちた「緋色の街」と大らかで楽天的な「牝犬」の対照的なエンディングに、ラングとルノワールの資質と表現スタイルの違いが表れている。どちらが優れているとか劣っているとかいう問題ではない。どちらも真実なのだ。主演のミシェル・シモンは適役だが、ファム・ファタールを演じるジャニー・マレーズは太めのおばさん顔で、身も心も入れ込むほどの女には見えないのが難点。その点、ジョーン・ベネットなら男がとりこになるのも納得できる。ラストで、人形劇の窓枠のなか、「人生は美しい」と言いながら去って行くミシェル・シモンは、その後まもなく、セーヌ川に飛び込み、助けられた古本屋の主人の家庭を引っかき回す。「素晴らしき放浪者」は「牝犬」の後日談なのだ、

2020年5月某日  備忘録32 成瀬巳喜男の戦前未見映画を制覇する〜その3

サーカス五人組
1935 成瀬巳喜男 評点[B]
「妻薔薇」に続く成瀬のトーキー4作目。田舎の町で遭遇した5人組の楽隊と曲馬団の姉妹の交流を中心としたストーリー。スケベ男の藤原釜足、ヴァイオリン奏者を夢見る真面目な大川平八郎、とぼけた味わいの御橋公など、お馴染みの顔ぶれ。姉妹は「乙女心」と同じ配役。のんびりした田舎の風景、ユーモアと哀感がないまぜとなった味わいは、なかなか良い。楽隊が町を練り歩くシーンなどは「旅役者」を思わせる。大川と曲馬団の姉が束の間の遭遇で心を通わせ合うエピソードが情感を誘う。男女の語り、姉妹の語りのシーンには後年完成する成瀬スタイルの萌芽が見られる。ラスト・シーン、真夏の陽光の中、海岸沿いに歩き去る5人プラス1人の後ろ姿が美しい。

なつかしの顔
1941 成瀬巳喜男 評点[B]
戦時色が強い30分強の短編映画だが、いかにも成瀬らしい出来栄え。農家の嫁で夫が出征中の花井蘭子が主演。なかなかきれいだ。出演者はみな抑えた演技で好演している。田舎の村では兵隊が行軍練習や軍事訓練をしており、空では飛行機が飛び、ニュース映画で戦地で戦う日本軍が映し出される。だが生活はのんびりしており、のどかな田んぼで農婦が作業している。そんな農家の日常がたんたんと描かれる。内容は、出征中の長男がニュース映画に映っていたと聞いて、母親と嫁がかわりばんこに町の映画館に見に行くという話で、ほとんど何も起こらないが、見ていると心が温まる。少年が木から落ちて怪我をするが、知らせを聞いて母親が駆け出すと、次のシーンでは家で少年が寝ており、軽くて良かったねと姉が話しかけているという大胆な省略は成瀬ならでは。ショットのつなぎも洒落ており、遊び心が感じられる。ラスト近くで少年が足を引きずりながら模型飛行機を持って歩くシーンは、「秋立ちぬ」のカブトムシを持つ少年、「まごころ」のフランス人形を持つ少女の同じような歩行シーンと重なる。

愉しき哉人生
1944 成瀬巳喜男 評点[C]
不思議な映画だ。成瀬作品のなかでももっとも風変わりな映画だろう。謎の一家が町に引っ越してきて生きる喜びと幸せをもたらして去って行くというファンタジー風の内容。トンカチの音に合わせて娘が歌い出したり、雨の水たまりのシーンにダンスの合成映像が挿入されたりと、ミュージカル風の趣向も凝らされている――歌やダンスは学芸会風の出来だが。田舎の町に突風が吹くと荷車に乗ってよろず屋一家が現れるという出だしからしておとぎ話風だ。床屋、薬屋、時計屋などの町の住民の描き方も面白い。謎の一家の父親の柳家金語楼、娘の山根寿子と中村メイコ(子役時代のメイコ、最後に配役を見て分かった)は、町の人々に、苦しくても貧しくても、工夫と考え方しだいで人生は楽しくなる、と教え、彼らはしだいに謎の一家の言動に感化される。戦時下の、欲しがりません勝つまでは、という方針に沿って作られたものだろう。小川や野原を映すカメラの柔らかな視線が良い。これで戦前の成瀬のトーキー作品はぜんぶ見終わったことになる。

2020年5月某日  備忘録32 成瀬巳喜男の戦前未見映画を制覇する〜その2

禍福・前篇+後篇
1937 成瀬巳喜男 評点[C]
世評は低いが、出来はそれほど悪くない。主演の入江たか子はいつものように耐え忍ぶ役。大学を卒業して外交官になる予定の高田稔には結婚を約束した恋人入江たか子がいたが、商売の負債を抱える田舎の実家から、持参金目当てで金持ちの娘竹久千恵子との結婚を強要され、見合いだけするつもりで帰省するが、活発で感じのいいその娘が好きになり、入江を捨てて彼女と結婚する。入江は身ごもっており、家を出て自力で子供を産んで高田に復讐しようと決心するまでが前篇。入江、竹久、入江の親友逢初夢子の主要登場女性はみな善人で思いやりがある。高田も良心の呵責に悩む真面目な男。悪役は高田の父親と入江の父親で、非人情で身勝手な役どころ。ところどころにセンスのある面白いショットの繋ぎがあるし、男と女、または女どうしで散歩しながら会話するシーンにも成瀬らしさが感じられる。野球を観戦するシーンが挿入されるのは珍しい。全体に暗いメロドラマ調だが、ラスト、保育園に務めて笑顔で子供たちの世話をする入江のシーンでエンドとなり、希望の光が差し込むので救われる思いがする。

三十三間堂通し矢物語
1945 成瀬巳喜男 評点[C+]
成瀬初の時代劇で、チャンバラ・シーンもあるが、内容は芸道ものに近い。通し矢の記録保持者の記録に挑んだが失敗して自害した父の恨みを晴らすため、息子の若者は父に恩を受けた女将が営む宿屋に住んで弓の稽古に励むが、なかなか上達しない。そこに見知らぬ侍が現れて若者と女将を助ける、というストーリー。実話に即した話らしい。太平洋戦争末期の45年に撮影、公開されたとは信じられない、見事なセット、しっかりした演出である。主演の長谷川一夫は風格があるし、田中絹代の毅然とした姿もいい。田中はこういう市井の宿屋の女主人の役が似合っている。通し矢に挑戦する若者は弱々しく演技過剰。人物の描き方は図式的だが、ショットの繋ぎに工夫があるし、全体のテンポや流れも悪くない。

2020年5月某日  備忘録31 成瀬巳喜男の戦前未見映画を制覇する〜その1

桃中軒雲右衛門
1936 成瀬巳喜男 評点[D]
成瀬の芸道もの第1作。月形龍之介が主演した実在の浪曲師の一代記。成瀬らしさはほとんどなく、ストーリーもお粗末だし、芸のためにすべてを犠牲にする独りよがりの主人公に感情移入できない。若き日の月形は精悍だが不気味な風貌。妾の芸者、千葉早智子はほかの映画ほどきれいに見えず、魅力がない。月形の友人として出る若き三島雅夫は痩せており、最初は誰か分からなかった。

君と行く路
1936 成瀬巳喜男 評点[E]
出来は悪い。珍しく鎌倉の洒落た洋館に住む2人の兄弟――大川平八郎と佐伯秀男――が主人公。兄の悲恋がテーマで、ストーリーにはまったく救いがない。彼らはテニスをやったりレコードを聴いたりして優雅な暮らしだが、妾の子という劣等感に苛まれている。愛する男女が結婚できないのをはかなんで自殺するのは無理な設定――自殺するシーンを敢えて映さないのは成瀬らしいが。屈辱を受けてもすぐ立ち直る母親、清川玉枝のしたたかさが面白い。

雪崩
1937 成瀬巳喜男 評点[E]
大佛次郎原作。出来は最悪に近い。上流階級のサラリーマン佐伯秀男が控えめな女性霧立のぼると結婚するが、妻に飽き足らず、妻を捨てて昔の恋人とよりを戻そうとし、父親に反対されて妻を殺そうとまで企てる、という非現実的な話。佐伯は実行する前に思いとどまるが、その身勝手さは同情の余地なし。佐伯の住まいは洒落た洋館、外食はフランス料理と、空虚な洋風趣味に満ちている。台詞が観念的で堅苦しく、役者は棒読み状態。良識ある父親と佐伯の会話はまったく非日常的だ。ときおり画面に紗がかかって内面のモノローグが現れるのは興を削ぐし、終わり方も唐突で不自然。いいところなし。

2020年5月某日  備忘録30 トリュフォーによる後期の2作とデュヴィヴィエの問題作

終電車
1980 フランソワ・トリュフォー 評点[B]
ナチス占領下のパリで芝居を上演する人々を描いた、カトリーヌ・ドヌーヴのための映画。女優のドヌーヴは、ナチに追われて地下に隠れる主宰者の夫に代わり、劇場を切り盛りしている。レジスタンス・シンパの俳優にジェラール・ドパルデュー。37歳のドヌーヴは容色衰えておらず、きれいだが能面のような表情は若いころと変わらない。伝統的なフランス映画のムードが横溢しており、ディテールの描写は巧い。終盤の観客を騙す遊び心も効果的だ。芝居の製作過程の描き方は「アメリカの夜」を思わせる。フランスで大ヒットしたのは分かるが、いかにも私たちはナチスに抵抗しましたと言いたげな自画自賛風のストーリーは、いささか鼻につく。

日曜日が待ち遠しい
1983 フランソワ・トリュフォー 評点[C]
モノクロで撮られたコメディ・タッチのミステリー。トリュフォーの遺作。不動産屋の店員ファニー・アルダンは、妻殺人の容疑者になった社長ジャンルイ・トランティニャンの嫌疑を晴らすため捜査に乗り出す。ハワード・ホークスとヒッチコックへのオマージュが横溢している。アルダンはきれいに撮れており、キャサリン・ヘップバーンを意識したのなら成功している。トランティニャンはかなり老けた感じだ。

パニック
1946 ジュリアン・デュヴィヴィエ 評点[C+]
米国からフランスに戻ったデュヴィヴィエの第1作。悪女ヴィヴィアンヌ・ロマンスの犠牲になる変人の占い師役に怪優ミシェル・シモン。パリ郊外の町、移動遊園地を作る広場の一角で死体が発見されるのが発端。悪辣な男が愛人のロマンスを唆し、ロマンスに好意を寄せるシモンを騙して、自分が犯した殺人の罪をなすりつける。男がばらまいた噂が踊らされ、集団心理で住民のみんなが無実の人間を追い詰める怖さ。クルーゾーにもそんな映画があった――「密告」だったか。夜のシーンの撮影が陰影に富んでおり、フィルム・ノワールのムードが漂っている。

2020年5月某日  備忘録29 心に残った最近の2本の映画

希望の灯り
2018 トーマス・ステューバー 評点[B]
ドイツ映画。旧東独ライプツィヒ近郊の巨大なスーパーマーケットを舞台に、在庫管理係として入社した若者と職場の人々、彼が恋心を抱く年上の女性、フォークリフトの操縦を習う先輩の中年男性との交流を描く。倉庫でフォークリフトが行き来するバックで流れる「美しく青きドナウ」は「2001年宇宙の旅」を想起させる。旧東独の経済格差、貧しさの中で孤独を抱えながら生きる人々が印象に残る。

僕たちのラストステージ
2018 ジョン・S・ベアード 評点[B+]
米・英・加合作。サイレント時代から40年代初期まで活躍したコメディ・コンビ、ローレル&ハーディの晩年の英国ツアーを描いた伝記映画。日本では極楽コンビとして知られる。主演の2人の好演が光る。驚くのは彼らが本物そっくりなこと。このコンビに注がれる制作者の愛情のこもった温かい眼差しが心を打つ。地味だが愛すべき佳品。

2020年5月某日  備忘録28 グールディングの手腕が光る40年代の2作

剃刀の刃
1946 エドマンド・グールディング 評点[C+]
サマセット・モーム原作の文芸メロドラマ。自分を探す青年の彷徨と、彼を愛するが豪華な生活も捨てることができない女の物語。タイロン・パワーとジーン・ティアニー主演。流れるように移動するカメラワークが印象深い。残酷で自分勝手な女を演じるジーン・ティアニーはとても美しいが、こういうエラの張った頬骨の高い顔は好みではない。モームに扮するハーバート・マーシャルの余裕のある演技がいい。スノッブ気質丸出しの金持ちクリフトン・ウェッブや、幸せな結婚をしたが夫と子供が事故で死んで零落するティアニーの友人アン・バクスターなどの人生模様も描かれる。

悪魔の往く町
1947 エドマンド・グールディング 評点[B]
異色フィルム・ノワール。成り上がろうとする奇術師の栄光と破滅の人生を描く陰鬱な映画。主演のタイロン・パワーは活劇俳優からの脱皮を図ってこの映画の主演を志願したというだけに、なかなかの熱演。カーニバルの一座に入ったパワーは透視術の技を身につけ、一流の奇術師になって成功するが、精神科医の女と結託して金儲けを企み、自滅して落ちぶれ、ギークに成り果てる。“ギーク”とは、字幕では“獣人”と訳されているが、見た目は普通の人間だが檻に入って蛇や鶏を食い殺す男のことで、見世物の世界では最下層の芸人。不気味なタロット占いがパワーの行く末を暗示する。主人公を取り巻く女は3人――カーニバルでパワーが助手を務める女奇術師ジョーン・ブロンデル、パワーが結婚する芸人仲間の女コリーン・グレイ(美しい!)、一儲けを企む曲者の精神科医ヘレン・ウォーカー。悪女役はウォーカーだが、パワーとは仕事だけの付き合いで男女関係にならないのが、女で破滅する話が多いノワールとしては変わっている。映画会社は興行を考慮し、パワーのイメージを根っからの悪人にさせないようにしたらしい。本来なら手管を使ってのし上がろうとし、詐欺と悪事を企むパワーに同情の余地はないが、パワーにとって、最初は愛人だったブロンデルは最後には母親のような存在になるし、妻のグレイには誠実で最後まで愛を捧げるし、酒瓶を誤って手渡して酒浸りのブロンデルの夫を死なせたことで良心の呵責を感じており、観客は同情を感じざるを得ない。終盤に印象的なシーンがある。騙されたパワーがウォーカーを問い詰めるシーンで、警察のサイレンが鳴る。パワーは警察を呼んだとかと尋ねると、ウォーカーは何も聞こえないと言う。だが観客にははっきり聞こえる。男の幻聴なのか、女が嘘をついているのか、分からないことが、虚構と現実の境目をぼかし、不安感を醸し出す。エンドはタロット占いどおり縛り首になるかと思いきや、再会した妻のグレイに救われるというハリウッド的な甘い結末。

2020年5月某日  備忘録27 ドイツ時代のフリッツ・ラングの2作

メトロポリス
1927 フリッツ・ラング 評点[B]
3時間半の大作として公開されたサイレント映画。これは欠損部分を復元した2002年の2時間版。セット・デザインと撮影の素晴らしさに目を見張る。のちに作られるSF映画のあらゆる要素が詰まっている。ラングは渡米して見たニューヨークの摩天楼と資本主義に触発され、ウェルズの「タイム・マシーン」にも影響を受けて、これを作ったという。平和を説く清純なマリアと卑猥に踊りまくる淫蕩なマリアのコントラストが面白い。資本家と労働者の対立は当時の世相を反映しているが、あまりに図式が稚拙だし、資本家の息子と労働者の娘の恋愛、最後に彼らが手を結ぶという成り行きの安易さには辟易する。人造人間のマリアに扇動されて労働者たちは反乱を起こすが、彼らが騙されたと思ってマリアをリンチする顛末は、のちの米国第1作「激怒」を思わせる。

怪人マブゼ博士
1932 フリッツ・ラング 評点[B]
全体の仕立ては警察による犯罪の捜査を主眼とするサスペンス映画。精神病院に囚われた狂気のマブゼが院長に乗り移り、悪を企てる。ベッドで犯罪の手法を筆記し続けるマブゼは、牢獄で「わが闘争」を書いたヒットラーか。蓄音機による部下への指示は、ナチスのプロパガンダによる大衆操作の前触れか。前作の「M」とは異なり、活劇風で、表現主義的要素は希薄。主人公ローマン警部のキャラクターが面白い。犯人が夜の闇を車を疾走させて逃走するシーンが印象的。

2020年5月某日  備忘録26 ドイツの表現主義と映画人の亡命を追う2本のドキュメンタリー

Exils: de Hitler a Hollywood
(亡命者たち:ヒットラーからハリウッドへ)
2007 english subtitled 評点[A]
30年代後半、ナチスの台頭によってアメリカに渡ったユダヤ系映画関係者の軌跡を描くドキュメンタリー。元はPBSの番組「Cinema's Exiles: From Hitler to Hollywood」らしい。ナレーションは仏語で、英語字幕付き。紹介されるのは、フリッツ・ラング、ルビッチ、ワイルダー、シオドマク、ジンネマンなどの監督、ピーター・ローレ、ディートリッヒなどの俳優、フランツ・ワックスマン、コーンゴールドなどの音楽家と、多彩。40年代初頭前後のベルリンの惨状とロサンジェルスの明るい光景のコントラストが印象に残る。掘り下げが物足りないし、たとえばオフュルスやルノワールなどフランス系の亡命者に触れられていないのは残念だが、それでも手際よく概観されているのは貴重。印象に残る言葉、その1:「フィルム・ノワールを創ったのは亡命したドイツ系映画作家だった」、その2:「米国でのラングとワイルダーは対照的だった。スタジオ・システムと格闘したラングはいつまでもドイツの影を背負っており、米国に馴染めず、賞にも恵まれなかったが、ワイルダーは米国と恋に落ちてヒット作を連発し、オスカーをいくつも受賞した」

From Caligari to Hitler
(カリガリからヒットラーへ)
2014 english subtiteld 評点[B]
クラカウアーの名著「カリガリからヒトラーへ」の映像版。ナレーションは独語、英語字幕付き。ワイマール時代のドイツ映画を総括するドキュメンタリー。この時代は大衆の時代と定義されているる。1920年のロベルト・ヴィーネによる「カリガリ博士」によって表現主義の怪奇幻想映画が始まり、そしてムルナウ、ラング、パプストが現れる。だが、この時代はそういう映画ばかりだったのではない。「パンドラの箱」や「嘆きの天使」のような女の一代記もあったし、コメディやヴォードビル映画もあったし、後期にはヌーヴェルバーグを先取りする「日曜日の人々」なども生まれた。ドイツ人の好む英雄叙事詩がナチスを生んだ。

2020年5月某日  備忘録25 久松静児の代表作2本

警察日記
1951 久松静児 評点[A]
福島県の小さな町の警察署に勤務する警察官と町に暮らす人々を描く。町の周辺は畑や野山。会津磐梯山と猪苗代湖の風景が美しい。田舎の町のこっけいさと貧しさ、日常のエピソードが、ユーモアと哀しみを交えながらつづられる。ストーリーの流れは巧みで、映画としての構成は「本日休診」を思わせる。主演の人情味ある警官、森繁久彌をはじめ、殿山泰司、十朱久雄などの同僚、伊藤雄之助、多々良純などの他の登場人物は、みな好演している。戦争で息子をすべて亡くし精神異常になって今も戦争中と思い込んでいる東野英治郎の老人は「本日休診」の三國連太郎扮する遙拝隊長を思わせる。その三國はここで朴訥純粋な青年警官を演じる。子役の仁木てるみもいじらしい。署長の三島雅夫も好演。三島といえば東映時代劇の悪役というイメージだが、小津の「晩春」ではあまり似合わない好好爺の大学教授を演じていた。錦之助と柳太朗主演の「ゆうれい船」を見たときは、三島が錦之助の仲間の少年に扮しており、腰を抜かした。町民の暮らしは貧しい。貧しさ故に、母は捨て子し、子供のために無銭飲食し、万引きし、娘を身売りする。当時、戦後はまだ続いていた。貧しさをあまりに強調しており、センチメンタリズムがやや垂れ流しなのが難点。

神坂四郎の犯罪
1956 久松静児 評点[C]
一種の裁判劇。雑誌編集長の森繁久弥が会社の金を横領し、偽装の無理心中によって愛人の左幸子を死なせた罪で起訴される。裁判での証言者の発言に合わせて回想シーンが挿入される。各人の証言が食い違い、何が真実なのか、彼は口八丁の女たらしなのか真面目な好人物なのか分からないという、黒澤明の「羅生門」を思わせる内容。森繁の演技はオーバー気味で、編集長という役柄に似合っていない。裁判では証拠が何も示されないは非現実的だし、話の展開が稚拙で深みがない。

2020年5月某日  備忘録24 ベティカーの「七人の無頼漢」をようやく鑑賞

七人の無頼漢
1956 バッド・ベティカー 評点[B]
ランドルフ・スコット主演、ゲイル・ラッセル、リー・マーヴィン共演の西部劇。スコットとベティカーがコンビを組んだラナウン・サイクルと言われる一連のシリーズの嚆矢をなす。妻を殺され、大金を奪われた元保安官の復讐譚。小気味いい話の流れ、無駄を省いた簡潔な演出(拳銃の音だけで撃ち合いがあったことを暗示する)は素晴らしく、西部の美しい風景を映すカメラも見事。しかしアンドレ・バザンの受け売りの蓮重彦實をはじめ一部の連中が言うほどの名作とは思えない。リー・マーヴィンはいわゆるグッド・バッド・ガイで、「ヴェラクルス」のバート・ランカスターを思わせる。

パリ、テキサス
1984 ヴィム・ヴェンダース 評点[C]
ハリー・ディーン・スタントン主演、ナスターシャ・キンスキー共演のロードムーヴィー風映画。ある種の雰囲気があることは確かだが、もうひとつ良さが分からん。「アメリカの友人」も「ベルリン天使の詩」も「ハメット」も、ヴェンダースの映画で面白いと思ったものはひとつもない。テキサスの風景は美しいし、子役はなかなか可愛かったが。

2020年5月某日  備忘録23 ジェーン・フォンダとフェイ・ダナウェイ

ネットワーク
1976 シドニー・ルメット 評点[B]
金儲けと視聴率に走るテレビ業界を鋭く抉った映画だが、誇張しすぎ。業界を戯画化しているかのようで、コメディに近い。精神異常になったテレビ司会者が使えるわけがない。良識派のニュース部長にウィリアム・ホールデン、野望に燃える上昇志向のプロデューサーにフェイ・ダナウェ、人気が落ちて精神に異常をきたすアンカーマンピーター・フィンチ。全体としてキャプラの「群衆」を想起させる。

コールガール
1971 アラン・J・パクラ 評点[C+]
ネオ・ノワールのひとつ。失踪者を捜しにNYに出てくる刑事にドナルド・サザランド、失踪者の知り合いのコールガールにジェーン・フォンダ。フォンダはきれいだし演技も大したもの。無表情なサザランドも印象的。映画としては、話の展開がよく分からないし、犯人はすぐ分かって興を削がれる。全体にまだるっこしく、画面も暗すぎてよく見えない。

2020年5月某日  備忘録22 70年代米国の話題作2本を再見

タクシー・ドライバー
1976 マーティン・スコセッシ 評点[B]
封切りを見て以来の再見。記憶に残る衝撃的な映画であることは確かだし、カルト映画になるのも分かるが・・・。ベトナム帰還兵の後遺症による犯行という見方もあるが、そうではなく、より一般的に、孤独な男が妄想を膨らませると解釈するべきでは。しかし、いくら異常な男でも、好きな女との初デートでポルノ映画を見せるだろうか?

チャイナタウン
1974 ロマン・ポランスキー 評点[A]
封切りを見て以来の再見。30年代のロサンジェルスが活写される。水の利権をめぐる不正と殺人を捜査する私立探偵にジャック・ニコルソン、被害者の妻で街の大立て者の娘にフェイ・ダナウェイ。いずれも存在感が豊かだ。大立て者役のジョン・ヒューストンも貫禄充分。カラー作品ながらフィルム・ノワールの色濃く、ハードボイルドとノスタルジーの香りが匂い立つ。ポランスキーの才能が存分に発揮されている。

2020年5月某日  備忘録21 溝口のドキュメンタリー映画とドイツの歴史的映画

ある映画監督の生涯〜溝口健二の記録
1975 新藤兼人 評点[B]
溝口健二の生涯と人物像を、多数のインタビューやゆかりの場所の丹念な取材によって浮かび上がらせる。溝口に薫陶を受けた監督、新藤兼人執念を感じる。依田義賢、宮川一夫など溝口組の有名なスタッフ、伊藤大輔や増村保造などのほか、多くの俳優たちへのインタビューが圧巻。顔ぶれが凄い。田中絹代、山田五十鈴、入江たか子、森赤赤子(残菊物語)、山路ふみ子(愛怨峡)、小暮美智代、京マチ子、乙羽信子、香川京子、若尾文子と、豪華そのもの、ほかに浦辺粂子、中村鴈治郎、進藤英太郎、小沢栄太郎、柳永二郎なども出てくる。聞き手が新藤だからこれだけの人たちが参集したのであろう。作品内容の解剖はあまりなされていないし、引用作品はスチール写真が多く、動画があまり使われていないのが難点。

Menschen am Sonntag(日曜日の人々)
1930 Robert Siodmak 評点[B]
ドイツのサイレント映画。英語字幕。ロバート・シオドマク&エドガー・ウルマー監督、ビリー・ワイルダー脚本、フレッド・ジンネマン撮影助手と、のちにアメリカに亡命してハリウッドで一家をなす錚々たる人々によって作られた。それまで主流だったセット撮影や表現主義映像とは打って変わり、素人の俳優を使い、ドキュメンタリー・タッチで手持ちカメラの市内ロケによってベルリンの人々の日常生活を描く。撮影は29年。世界大恐慌に入る直前で、ナチス台頭前夜。ワイマール共和国時代の最後の穏やかなドイツが映し出される。

2020年5月某日  備忘録20 成瀬巳喜男の無名の作品3本

朝の並木路
1936 成瀬巳喜男 評点[B]
翌年に成瀬の妻になる千葉早智子主演。千葉は働くために田舎から東京に出てくる。前年の「妻よ薔薇のように」とは反対の設定。千葉は洗練されて美しく、とても田舎育ちには見えない。頼りの友人は飲み屋の女給として働いていた。仕事が見つからない千葉はやむをえず女給になり、客の大川平八郎に好意を抱く。やがて彼女は大川と逃避行するが、夢だと分かって驚かされる。北海道に転勤する大川にもらった住所を橋の上で破り捨てるラストが印象に残る。

はたらく一家
1939 成瀬巳喜男 評点[C+]
徳川夢声主演。徳永直のプロレタリア小説が原作。低賃金で幼子を抱え、一家全員で働かなければ生活できない貧しい家庭を描く。技術を磨きたい長男、中学に行きたい4男、だが思いどおりに行かない。39年にはまだ軍部の検閲が緩やかだったのか。40年代だったらこの映画の公開はできなかっただろう。

俺もお前も
1946 成瀬巳喜男 評点[C]
エンタツ・アチャコの主演でサラリーマンの悲哀をユーモアを交えて描く。社長の私用にこき使われ、ただ働きさせられる2人の姿は少し誇張しすぎか。彼らの家は貧しいが、戦後間もないのに戦争の影はほとんどない。

2020年5月某日  備忘録19 「カッコーの巣の上で」

カッコーの巣の上で
1975 ミロシュ・フォアマン 評点[B]
Cuckoo's Nestとは精神病院の俗称。入獄から逃れるための精神病者を装う反抗者ジャック・ニコルソンと、患者を厳格に管理しようとする看護婦長ルイーズ・フレッチャーの戦い。全体の展開は「暴力脱獄」に似ている。型にはまることからの脱却と自由の追求というアメリカ的なテーマはアメリカ人受けするだろう。ジャック・ニコルソンはキリストの象徴なのではないか。

偽りの果て
1947 アンリ・ドコアン 評点[D]
怪優ミシェル・シモン主演。車でひき逃げした酒浸りの医者の偽装工作が泥沼にはまる。地味な映画で夢も救いもない。

セント・アイブス
1976 J・リー・トンプソン 評点[D]
売れない作家チャールズ・ブロンソンが富豪から盗まれた日記と引き換えに支払う金の受け渡しを頼まれるサスペンス映画。粗雑な展開とご都合主義のストーリー。見どころは珍しく悪女になるジャクリーヌ・ビセットの美しさだけ。

2020年5月某日  備忘録18 木下恵介の2作、「夕やけ雲」と「肖像」

夕やけ雲
1956 木下恵介 評点[A]
おそらく馬込のあたりであろう魚屋が舞台。船乗りになることを夢見る高校1年の少年が主人公。東野英治郎が妻の望月優子とともに店を切り盛りしており、息子にあとを継いでもらうことを望んでいる。アプレゲールで玉の輿結婚を願う姉の久我美子がうまい。主人公の少年の親友の同級生との付き合いの描き方が同性愛的。手を握り合って歩いたり、足先をすりあわせ合ったりする。ちらっとしか出ないが親友の父母を演じる中村伸郎と山田五十鈴が印象に残る。父親が亡くなり、少年は夢を捨てて魚屋を継ぐ。ストーリーの展開がきびきびしており、無駄な愁嘆場が排されている。貧しい家の悲しい話だが後味は良い。

肖像
1948 木下恵介 評点[C]
黒澤明の脚本。古いが格安な家を買った不動産ブローカーの小沢栄太郎が、住んでいる画家の一家を追い出すため、娘と偽って妾の井川邦子を連れ、家の2階に間借りする。画家に頼まれて肖像画のモデルになった井川は、善人揃いの一家にほだされ、自分の行為や生活が恥ずかしくなって家を出る。基調はヒューマニズムだが底が浅く展開は図式的。強欲だが小心者の不動産屋を演じる小沢が巧い。舞台となった当時の自由が丘の光景はまだバラック建ての家が目立つ田舎町のよう。

2020年5月某日  備忘録17 若きピア・アンジェリが美しい未公開作「The Light Touch」

いちごブロンド
1941 ラオール・ウォルシュ 評点[B]
クーパー主演「ある日曜日の午後」(33)のリメイク。ジェームス・キャグニー、オリヴィア・デハヴィランド主演のコメディ。スターになる前のリタ・ヘイワースが共演。プロットの流れがいい。ウォルシュの語り口の巧さが表れている。歯科医に扮するキャグニーの軽快な動作が見事、ハヴィランドもきれいだ。

The Light Touch
1951 Richard Brooks 評点[C (A) ]
ピア・アンジェリのデビュー4作目。米映画への出演は「テレサ」に次ぐ2作目。20歳のアンジェリは瑞々しく、美しさが際立っている。舌足らずな英語の発音も可愛い。舞台はイタリア、美術館からの絵画窃盗を描く軽い犯罪映画。主演のスチュアート・グレンジャーが絵画泥棒、アンジェリは贋作を描かされる画家、人情味のある一味の黒幕にジョージ・サンダース。映画としての評価はCだが、アンジェリはA。

2020年5月某日  備忘録16 オフュルスの流麗なカメラが光る「たそがれの女心」

たそがれの女心
1953 マックス・オフュルス 評点[A]
主演の貴婦人にダニエル・ダリュー、その夫で貴族の将軍にシャルル・ボワイエ、ダリューの不倫相手の外交官にヴィットリオ・デシーカ。1900年のパリが舞台。ダリューが売る耳飾りの宝石が糸となって織り成す運命のタペストリー。オフュルスならではの流麗なカメラワークがため息が出るほど素晴らしい。美しい衣装とセット、舞踏のシーンが見事だし、階段を追うカメラも出色。ダリューが列車の窓から手紙を細かくちぎって捨ていると、その破片が白い雪に変わるシーンが印象深い

歴史は女で作られる
1955 マックス・オフュルス 評点[C]
オフュルス唯一のカラー映画。マルティーヌ・キャロル主演。実在の踊子ローラ・モンテスの栄光と没落――ババリア王の愛人に上り詰めたが、最後はサーカスに見世物に落ちぶれた女の数奇な一生が絢爛豪華に描かれる。溝口の「西鶴一代女」を彷彿とさせる。

忘れじの面影
1948 マックス・オフュルス 評点[B]
オフュルスのアメリカ時代の作品。ツヴァイク原作。ジョーン・フォンテーン&ルイ・ジュールダン主演。1900年のウィーンを舞台にしたメロドラマ。オフュルス特有のアパートの階段、舞踏、見世物(名所を旅する列車を旅を模した乗り物)の撮影が印象深いが、流れるようなカメラの動きは希薄。

2020年5月某日  備忘録15 50年代の知られざる日本映画

最後の脱走
1957 谷口千吉 評点[C]
第2次大戦終結直後、中国に残留して八路軍に強制使役される軍医の鶴田浩二と女子看護婦部隊を率いる原節子。谷口監督の旧作「暁の脱走」と「誰がために鐘は鳴る」をミックスしたような作品。俳優の演技が大げさすぎる。37歳の原節子は残念ながら少し老けてしまっている。

一刀斎は背番号6
1959 木村恵吾 評点[C]
五味康祐原作の、山奥から出てきた剣聖、伊藤一刀斎の末裔がプロ野球でホームランを打ちまくるという娯楽作。稲尾や中西など、当時の西鉄と大毎のスター選手が出演している。一刀斎を演じる菅原謙二は線が細くて似合わないが、余り強そうでないのがいいのかもしれない。

2020年5月某日  備忘録14 60年代と70年代の逸品米映画

組織
ジョン・フリン 1973 評点[A]
ロバート・スタークの悪党パーカー小説を原作とするハードボイルド・タッチの犯罪映画。刑務所から出てきて自分を売った組織に復讐するロバート・デュヴァルと、それを助けるかつての相棒ジョー・ドン・ベイカーの絆、男の友情がいい。その点では東映ヤクザ映画を彷彿とさせるが、アメリカ映画なので雰囲気は乾いており、人情やしがらみのような湿った空気は希薄。後味が爽やかだ。

ある戦慄
1967 ラリー・ピアース 評点[B]
ブルックリンからマンハッタンに行く地下鉄車内で凶暴なチンピラが振りまく恐怖を描く。最初の40分でブルックリンの各駅から乗る、抱く鬱屈した感情を抱く人々が紹介される。暴力を振るわず言葉でネチネチと乗客を痛めつける、狂気をはらんだ粗暴なチンピラ2人は悪魔の手先か。。同じニューヨーク派のルメットの「12人の怒れる男」57やカサヴェテスの「アメリカの影」(59)を思い起こさせる。ラリー・ピアースといえば、高校生のころに見た同監督の「わかれ道」(63)は強く印象に残った。

2020年5月某日  備忘録13 成瀬巳喜男の2作、名品「秋立ちぬ」に涙する

秋立ちぬ
1960 成瀬巳喜男 評点[A]
子供が出てくる映画と言えば清水宏だが、小津安二郎も子供の扱い方が巧かったし、それに負けていないのが成瀬巳喜男だ。成瀬で子供が出ている映画は、戦前の「まごころ」それに「銀座化粧」「おかあさん」ぐらいしかないが、そんななかで「秋立ちぬ」は子供そのものが主人公という点できわめて異色。話の流れがとても自然で、まったく間然するところがない。。1960年の時点で主人公の少年は小学6年生だがら、筆者とほぼ同じ年頃であり、その点でも感慨深いものがある。母親役の乙羽信子はとても魅力的に見える。当時はまだ銀座界隈には川が流れていたし、デパートの屋上からは東京湾が見えたのだ。少年が住む八百屋は新富町のあたりだろうか。旅館の前の川は埋め立てられる前の築地川か。これとそっくりな情景を「銀座化粧」でも目にした記憶がある。成瀬特有のショットのつなぎや場面転換が絶妙で、過剰な演出やオーバーな感情表現が排されており、ところどころにユーモアが挿入され、まだるっこしさを感じさせない。少年が寄宿する家の藤原釜足と賀原夏子の夫婦のやり取りなど抱腹もの。ダッコちゃんなどの当時の世相、下町の人情と不人情、子供たちの無邪気な残酷さなどがごく自然に描かれている。少年が仲良くなった近所の少女と二人で散歩する埋め立て中の晴海のシーンや切ないラストが印象深く、一見、詩情あふれるドラマのように見えるが、ここには成瀬のペシミスティックな人生観が反映されている。もしかすると成瀬自身の孤独な少年時代が投影されているのかもしれない。

舞姫
1951 成瀬巳喜男 評点[C]
題材が成瀬に相応しくないためか、凡作。成瀬は次作の「めし」でようやく本領を発揮する。主演の高峰三枝子はダンス教室を主宰している。夫の山村聰との間に男女の子供がいて、娘役にこれがデビュー作の岡田茉莉子。高峰の結婚前からの友だちで今も付き合っている男が二本柳寛。娘の岡田もバレエ教室に通っている。夫、山村の冷たい態度と執拗な言葉の攻撃に耐えきれず、高峰は家を出る。自宅は鎌倉の瀟洒な家。夫婦関係を描いた作品だが、出来はあまり良くなく、全体的にメロドラマチック。上流家庭は成瀬に似合わない。鎌倉の竹塀道などは小津の映画を想起させる。とはいえ、高峰と二本柳のデート・シーンなどは成瀬調だし、余韻のあるラストも悪くない。

2020年4月

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 12 シオドマクとベティカーの初期作品

ロスト・ハイウェイ
デヴィッド・リンチ 1996 評点[D]
「ツイン・ピークス」を思わせる悪夢のような映画。途中で主人公が別の人物に入れ替わる。何が何だか、よく分からん。

デンジャー・ヒート
サミュエル・フラー 1989 評点[D]
ジェニファー・ビールズ主演。フィリピンのマルコス対アキノの政変を取材するカメラマンが巻き込まれる陰謀。煙くすぶるゴミの山スモーキー・マウンテンが印象に残る。

ミステリアスな一夜
バッド・ベティカー 1944  評点[E]
1時間のB級映画。怪盗ボストン・ブラッキー・シリーズの一作らしい。ベティカーの処女作だが見どころなし。

クリスマスの休暇
ロバート・シオドマク 1944 評点[C+]
フィルムノワール。サマセット・モーム原作。ジーン・ケリーが異常な夫、ファム・ファタールならぬオム・ファタールを演じて妻のディアナ・ダービンを苦しめる。全体にメロドラマっぽいが、ところどころに光と影を生かしたシオドマクらしい映像が見られる。夫婦が暮らす特殊な構造の家(渡り廊下から窓ガラス越しに家の内部を見下ろす構図)が興味深い。

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 11 初期のマンキウィッツ作品2本

他人の家
ジョセフ・マンキウィッツ 1949 評点[C]
父と子の相克を描く。主演のリチャード・コンテは悪者顔なので善人役は似合わない。暴君の父親エドワード・G・ロビンソンはさすがの貫禄。エドワード・ドミトリクが西部劇「折れた槍」(54)としてリメイクした。

復讐鬼
ジョセフ・マンキウィッツ 1950 評点[B]
異色フィルムノワール。狂気の復讐鬼と化し、ドロドロした恨みをぶちまけるリチャード・ウィドマークの熱演が見もの。医師役のシドニー・ポワチエはこのデビュー作から優等生の黒人青年を演じ続けた。ホワイト・トラッシュと黒人の対立が巧みに描き込まれている。

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 10 隠れた名作、山田と三船の「下町」

希望の青空
山本嘉次郎 1942 評点[C]
高峰秀子と池部良主演。共演が原節子、入江たか子と豪華な布陣。老舗団子屋の老主人がバスの中で優しい女学生、高峰を見初め、孫、池部の嫁にさせようとする。若い二人は結婚とはどんなものかを知るため、池部の兄弟姉妹の家を巡り歩いて人生を学ぶ。戦時下とは思えないフランス風ののどかな映画。池部のデビュー2作目、出征前の出演作。

下町
千葉泰樹 1957 評点[A+]
1時間足らずの小品だが内容は豊か。隠れた名品と言える。昭和24年、貧しい時代の東京下町での数日間の出来事がたんたんと描かれる。シベリア抑留から帰らぬ夫を待って東京に出てきて、下町で茶を行商する子連れの女、山田五十鈴の抑えた演技が絶品。葛飾の荒川土手(四ツ木界隈らしい)で資材置き場の番人をして暮らすシベリア帰りの朴訥な善人、三船敏郎も味わい深い。山田が三船の番小屋を借りて弁当を食べるシーンの、三船が鮭の切り身を半分にちぎって山田に分けてやる描写が温かく、切ない。三船は母子ともに浅草に遊びに行く。遊園地で遊び、映画を見、アイスクリームを食べて喜ぶ子供がいじらしい。雨が降って旅館に泊まる夜の情景が見事。突然の三船の事故死を知り、呆然とする山田の表情がすばらしい、まさに入神の演技だ。母子が住むアパートの隣に住む妾の淡路恵子も好演。美術の中古智も見事。

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 9 ジョセフ・ロージー70年代

愛と哀しみのエリザベス
ジョセフ・ロージー 1975 評点[C]
原題「Romantic Englishwoman」。邦題がダサすぎる。作家の夫マイケル・ケインとその妻グレンダ・ジャクソンが暮らす家に怪しい青年ヘルムート・バーガーが入り込む。心が満たされない妻はドイツでその青年と情事にふける。それを追う夫。虚と実が交錯する。

パリの灯は遠く
ジョセフ・ロージー 1976 評点[B]
原題「Monsieur Klain」。受け狙いの邦題がクサい。「暗殺者のメロディ」(72)に続くアラン・ドロンの起用。ナチス占領下のパリ、同姓同名のユダヤ人に間違えられ、相手のユダヤ人を憑かれたように探す美術商の男。最後は自ら入り込むかのように収容所行きの列車に乗り込む。カフカ的な迷宮の世界。せっかくジャンヌ・モローが出ているのに出番は少ない。

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 8 ジョセフ・ロージー60年代

秘密の儀式
ジョセフ・ロージー 1968 評点[B]
落ちぶれた年増の娼婦エリザベス・テイラーが死んだ娘の墓参りの途中に頭のおかしい痩せた少女風の女ミア・ファーローにママと声をかけられ、彼女が一人で住む豪邸に入り浸る。彼女の財産を狙う叔母たちと義理の父親ロバート・ミッチャムが絡む。異常な世界と奇妙な物語はロージーならでは。

夕なぎ
ジョセフ・ロージー 1968 評点[C]
テネシー・ウィリアムズの戯曲の映画化。地中海の島で女王のように暮らすエリザベス・テイラーと、そこにやって来る流れ者リチャード・バートン。バートンは死の天使か。エヴァ・ガードナーの「パンドラ」を想起させる。テイラーの秘書役のジョアンナ・シムカスの影が薄いのが残念。

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 7 3本の異色日本映画

西銀座駅前
今村昌平 1958 評点[C]
1時間足らずの小品。狂言回し役にフランク永井。柳沢慎一主演。会社から命じられた今村昌平がやけっぱちで撮ったような印象。今村の師、川島雄三のナンセンス映画を想起させる。

爛(ただれ)
増村保造 1962 評点[B]
徳田秋声原作。主演は若尾文子、田宮二郎。冒頭の寝転んでタバコをくゆらす下着姿の若尾文子が出色。若尾の悪女ぶりはなかなかのもの。上京した姪の水谷良重との絡みは強烈で、増村ならではの描写だが、全体に現実離れしており、作り物めいている。

大地の侍
佐伯清 1956 評点[C]
大友柳太朗主演の東映時代劇だがチャンバラ場面はない。明治維新直後、奥羽の小藩の武士たちによる苦難の北海道開拓物語。山形勲が悪役と思いきや血も涙もある維新政府の役人を演じる。

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 6 渋いフィルム・ノワール3本

秘密調査員
ジョセフ・H・ルイス 1949 評点[C]
グレン・フォード主演のフィルムノワール。暗黒街のボスを脱税で起訴するため苦闘する財務省捜査官たちをセミドキュメンタリー風に描く。やや盛り上がりに欠ける。

非情の時
ジョセフ・ロージー 1957 評点[C]
英国に渡ったロージーが本名で撮った第1作。アル中のマイケル・レッドグレイヴが死刑24時間前の息子を救うため真犯人を捜す。サスペンスはやや空回りだが、自分を殺させるラストは衝撃的。

ショックプルーフ
ダグラス・サーク 1949 評点[B]
サミュエル・フラー脚本のフィルムノワール。保護観察官のコーネル・ワールドが美女パトリシア・ナイトの更生を助けるうちに恋仲になり、言い寄る昔の仲間の男を殺したと思い込んで2人で逃走する。逃避行の末に破滅するかと思いきや、油田で働いていた2人は捕まるが、死んだと思った男は生きており、男気を発揮して嘘の証言をしたため、2人は無罪になり、ハッピーエンド。将来を嘱望される正義漢から逃亡者になる男、男の思いと温かい家庭にほだされて改心する女。やや甘いメロドラマ風のサスペンスだが、意外に面白い。

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 5 「欲望の砂漠」と「大いなる夜」

欲望の砂漠
監督:ウィリアム・ディターレ 1949 評点[C+]
南アフリカのダイアモンド採掘に絡む復讐譚。若き日のバート・ランカスター主演。ポール・ヘンリード、クロード・レインズ、ピーター・ローレと曲者揃いの配役だが、内容はいまいち。

大いなる夜
監督:ジョセフ・ロージー 1951 評点[C+]
フィルム・ノワール。ロージーのアメリカ時代の最後の作品。原作はスタンリー・エリン。バーを経営する父と高校生の息子との葛藤。主演はジョン・バリモア・ジュニア。題材はいいし、流れもいいが、話の展開に難あり。

夕暮れのとき
監督:ジャック・ターナー 1956 評点[C]
フィルム・ノワール風だがあまりノワール色は濃くない。無実の罪で逃亡中の主人公にアルド・レイ。彼を助ける女にアン・バンクロフト。彼らを銀行強盗犯と保険調査員が追う。地味なB級だがけっこうまとまっている。

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 4 溝口健二の2作

歌麿をめぐる五人の女
監督:溝口健二 1946 評点[C]
溝口の戦後第2作。歌麿役は板東蓑助。この人はのちにふぐの毒で死んだ坂東三津五郎とのこと。水茶屋の看板芸者役に田中絹代。衣装や美術はさすがに凝っており、カメラワークも流麗だが、ストーリーが起伏に乏しく、情念の発露がない。

楊貴妃
監督:溝口健二 1955 評点[D]
溝口の晩年の香港との合作による大作だが、玄宗皇帝役の森雅之、楊貴妃役の京マチ子、ともに役に似合っていない。セットは豪華だし、山村聰、小沢栄太郎、山形勲、新藤英太郎、杉村春子と配役もいいが、全体に安っぽく深みがない。

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 3 ヴィスコンティの2作

地獄に堕ちた勇者ども
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 1969 評点[B]
封切り時に見て以来の再見。あの名作「ヴェニスに死す」の前作にあたる。1933年、ナチス政権掌握直後のドイツで、貴族のように暮らす鉄鋼経営者一家のたどる運命。主演はダーク・ボガード、イングリッド・チューリン、ヘルムート・バーガー、シャーロット・ランプリング。国会放火事件、大学での焚書、親衛隊による突撃隊の虐殺が描かれる。なんといっても、女装してキャバレー・ソングを歌い、少女をレイプするバーガーの異常さが圧倒的。

若者のすべて
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 1960 評点[B+]
ヴィスコンティのネオレアリスモ時代の最終作。前作は「白夜」、次作は「山猫」。アラン・ドロン、アニー・ジラルド主演。南部からミラノに移住した貧しい一家の話。家族愛、兄弟愛が描かれる。

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 2 芦川いづみの2作ともう1本

風のある道
監督:西河克己 1959 評点[B]
東京の中流家庭の3人姉妹の生き方を描いた1959年の作品で、芦川いづみは次女、長女が北原三枝で3女が清水まゆみ。芦川いづみのかわいさが際立つが、清水まゆみもなかなかキュート。葉山良二が共演。内容は川端康成原作の通俗的なメロドラマで、よくあるご都合主義的な筋立てだが、見ていてそれほど退屈はしない。川端康成は婦人雑誌などに連載する通俗小説は弟子に代筆させていたらしいが、これもそのひとつか。プロットの重要なところで戦争が影を落としている。59年の時点でも人々にとって戦争体験は日常のなかに染み込んでいたのだ。父親役の大坂志郎がなかなかよく、最初は頼りないダメ親父ふうだったのに、だんだん存在感を増していき、エンディングでは奥さんに「死ぬまで恥をかきながら歩いて行かなきゃならん」と含蓄ある言葉をかける。

霧笛が俺を呼んでいる
監督:山崎徳次郎 1960 評点[C]
赤木圭一郎、芦川いづみ、葉山良二。新人の吉永小百合が少女役で出ている。久しぶりに横浜に戻った船乗りの赤木が親友の死に疑念を抱いて・・・というストーリーは「第三の男」にそっくり。芦川のかわいさに見とれる。

白と黒
監督:堀川弘通 1960 評点[B]
橋下忍脚本、2転、3転するストーリーが小気味いい上出来のサスペンス。小林桂樹の検事、被告の弁護士に仲代達矢。ほかに東野英治郎、小沢栄太郎、西村晃と曲者役者が勢揃い。せっかく淡島千景が出ているのに殺される役で回想シーンだけの登場なのはガッカリ。

2020年4月某日  映画備忘録〜毎日が2本立て 1 原節子の2作

七色の花
1950 監督:春原政久 評点[C]
珍しや杉村春子主演。共演は竜崎一郎、原節子。杉村は踊りの師匠。竜崎は流行作家、原は竜崎の恩師の娘。竜崎は善人だが杉村と原を二股かける煮え切らない男。竜崎に捨てられたと誤解した原節子は自殺をはかるが助かる。このあたりはかなり唐突な印象。杉村が身を引いて二人は結ばれる。原は当時30歳だが、じつに美しく瑞々しい。

東京の恋人
1952 千葉泰樹 評点[B]
原節子と三船敏郎主演のコメディ。靴みがきの少年たちと仲間で銀座の街角で似顔絵を描く原節子。三船敏郎は宝石職人。32歳の原はまだ魅力満点。すけべな会社社長の森繁久弥と恐妻の清川虹子がうまい。上京する母親のため、病気で伏せる娼婦の杉葉子の夫役を三船が演じるのは、キャプラの「一日だけの淑女」の引用か。

2019.12.26 (木)  2019年ミステリー&映画ベスト10

【2019年海外ミステリー・ベスト10】
01.「償いの雪が降る」 アレン・エスケンス(創元文庫)
02.「沼の王の娘」 カレン・ディオンヌ(ハーパーブックス)
03.「訣別」 マイクル・コナリー(講談社文庫)
04.「暗殺者の追跡」 マーク・グリーニー(ハヤカワ文庫)
05.「11月に去りし者」 ルー・バーニー(ハーパーブックス)
06.「メインテーマは殺人」 アンソニー・ホロヴィッツ(創元文庫)
07.「生物学探偵セオ・クレイ」 アンドリュー・メイン(ハヤカワ文庫)
08.「ザ・プロフェッサー」 ロバート・ベイリー(小学館文庫)
09.「拳銃使いの娘」 ジョーダン・ハーパー(ハヤカワ・ポケミス)
10.「ケイトが恐れるすべて」 ピーター・スワンソン(創元文庫)

【2019年映画ベスト10】
01.「COLD WAR〜あの歌、2つの心」 パヴェラ・パヴリコフスキ
  (波・英・仏)
02.「ジョーカー」 トッド・フィリップス(米)
03.「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」 クエンティン・
   タランティーノ(米・英)
04.「ドッグマン」 マッテオ・ガローネ(伊)
05.「カツベン」 周防正行(日)
06.「永遠の門〜ゴッホの見る未来」 ジュリアン・シュナーベル
  (米・英・仏)
07.「イエスタデイ」 ダニー・ボイル(英)
08.「グリーンブック」 ピーター・ファレリー(米)
09.「運び屋」 クリント・イーストウッド(米)
10.「ブラック・クランズマン」 スパイク・リー(米)

2019.04.03 (水)  新元号について思う

新元号は「令和」と決まった。巷間、安倍と永久を混ぜ合わせた「安久」になるとか、官房長官ではなく首相自身が額縁を掲げるとか噂されていたが、それらの予想は覆された。安倍首相もそこまで能天気ではなかったということか。とはいえ、首相はあちこちに出まくって新元号について自慢げに説明し、やはり鉄面皮ぶりをさらしている。お前のための元号ではない、と言いたくなる。

それにしても、桜の開花をめぐる浮かれ騒ぎが一段落もしないうちに巻き起こった、この新元号をめぐっての狂騒、新聞の号外を求めて狂乱する人々を見ると、つくづく日本は平和だなと思う。このあと、新天皇即位、そしてオリンピックと、日本が抱える重要な事案、深刻な問題は脇に押しやられ、浮かれ騒ぎは続く。不都合な案件から目を逸らすための安倍政権の策謀に、メディアも国民もうまく乗せられているように感じる。

「令和」という文字を見ての第一印象は、昭和への連想だった。戦前の昭和に回帰したいという安倍首相と日本会議一派の忌わしい思いが込められていると感じた。「令」とは、馴染みのない漢字であり、意味がよく分からなかった。とっさに頭に浮かんだのは「巧言令色少なし仁」という論語の言葉だった。いずれにしろ、あまりいいイメージは浮かばない。とはいえ、「令」は命令するに通じるから上からの押しつけだ、などと言う者もいるが、安倍首相は言葉の意味について無知だろうからは、そんな意図などなく、おそらく学者や側近から、「令」は「良い」という意味ですなどと説明されて、何も考えずに、だったらこれにしよう、と思ったのだろう。外国のメデイアでもいろいろ論評されているようだが、漢字の意味を知らない連中が受け売りで説明しても、まったく説得力を持たない。

初めての国書からの出典だ、などとはあまり得々と言わないほうがいい。出典となった万葉集の文章は、中国の古典詩集からのパクリだというではないか。初めて漢籍を排して国書を出典とした、などと言ったら、中国から揶揄され、嘲笑されるだろう。そもそも元号そのものが中国のやり方を真似て始められたものだから、そんなことで独自性を打ち出しても意味がない。

「令和」という言葉は、意味はともかく、リズムと響きはいい。違和感はあるが、「平成」のときと同じく、そのうちに慣れるのだろう。ぼくは新元号はカナ3文字になるのではないかと思っていた。明治、大正、昭和、平成と、3、4、3、4、という文字数で来ているので、次は3ということになる。とりあえず、それは当たった、どうでもいいことだが。これもどうでもいいことだが、有識者懇親会のメンバーに、珍妙な衣服の宮崎高笊i性が感じられない林真理子といった気色悪い人たちが入っていたのは何故だろう。安倍首相のお友達だったからか。いずれにせよ、体裁を整えて格好をつけるためだけの会であることは明らかだ。

ぼくは現今の象徴天皇制を必ずしも否定はしないが、天皇の代替わりごとに元号が改まり、官公庁などの公の文書では西暦でなく元号で記載することが半ば義務づけられていることや、国歌が天皇の世の永久の繁栄を祈る歌であることを見ると、天皇は象徴以上の存在として機能しているように感じる。間もなく退位される今上天皇が、即位以来、象徴の意味について思い悩んできたことは、何度かの国民へのメッセージを通じてぼくたちも知っている。そして日本会議をはじめとする極右の連中が国会議員と結託して、天皇を元首とする戦前の体制に戻そうとしていることも知っている。そうはさせないためにも、新元号の制定、新天皇の即位を契機として、ぼくたちはもう一度、象徴天皇制とは何かについて考えなければならない。

2019.01.11 (金)  2018年ミステリー&映画ベスト10

【2018年海外ミステリー・ベスト10】
01 『あなたを愛してから』 デニス・ルヘイン (早川ポケミス)
02 『そしてミランダを殺す 』ピーター・スワンソン (創元文庫)
03 『暗殺者の潜入』 マーク・グリーニー (早川文庫)
04 『真夜中の太陽』 ジョー・ネスボ (早川ポケミス)
05 『カササギ殺人事件』 アンソニー・ホロヴィッツ (創元文庫)
06 『影の子』 デイヴィッド・ヤング (早川ポケミス)
07 『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』 A・J・フィン (早川書房)
08 『燃える部屋』 マイクル・コナリー (講談社文庫)
09 『ダ・フォース』 ドン・ウィンズロウ (ハーパー・ブックス)
10 『許されざる者』 レイフ・ペーション (創元文庫)

【2018年映画ベスト10】
01 『スリー・ビルボード』 マーティン・マクドナー (米・英)
02 『スターリンの葬送狂騒曲』 アーマンド・イアヌッチ (英・仏)
03 『万引き家族』 是枝裕和 (日)
04 『シェイプ・オブ・ウォーター』 ギレルモ・デル・トロ (米)
05 『ミッション・インポッシブル:フォールアウト』 クリストファー・マッカリー (米)
06 『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』 ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス (米)
07 『ワンダーストラック』 トッド・ヘインズ (米)
08 『ロープ 戦場の生命線』 フェルナンド・アラノア (西)
09 『モリーズ・ゲーム』 アーロン・ソーキン (米)
10 『ラッキー 』ジョン・キャロル・リンチ (米)

2018.06.16 (土)  ポーランドという国

6月上旬、ポーランドに旅行した。

ポーランドの国土面積は日本の5分の4。北はバルト海、南はチェコ/スロヴァキア、東はドイツ、西は旧ソ連邦のベラルーシ/ウクライナに接している。人口は日本の約3分の1ほどだ。ソ連崩壊、民主革命から約30年、ポーランドは順調に経済が成長しており、東欧随一の新興国になっている。インフラに投資したり現地法人を設立したりする日本の企業も増えているようだ。EUに加盟しているが、通貨はユーロではなく独自通貨のズロチだ。そのため他のヨーロッパの国々と比べて物価は低い。ユーロ圏に加わることによる混乱を警戒して、いまのところ国民は自国通貨を選択している。賢明な判断と言うべきかもしれない。経済的にはまだ発展途上にあるが、ポーランドの人々は堅実で、心は豊かだ。犯罪発生率がきわめて低く、治安がいいのがその証拠であろう。国民の95パーセントがカトリック教徒であり、教会は大小とりまぜて至る所にある。

ポーランドではモミの木をよく目にした。日本で見かけるものとは違って、葉っぱが和毛のようにふさふさしている。コーカサスモミと言われる種類の木でトウヒとも称されるらしい。公園や広場などに行くと、バラの花などに囲まれて、このモミの木が緑色鮮やかにすっくと立っているのが印象的だった。そのモミの木のように、ポーランドの女性は概して胸が大きく下半身が豊かで、女性らしいふくよかな体つきをしている。ポーランドは親日国だという。その背景には、トルコが親日国になったのと同じような経緯があった。長くロシアに侵略され、国土を奪われていたポーランドは、1900年代初め、日露戦争で日本がロシアに勝利したことに溜飲を下げた。その当時、日本はポーランドの独立運動を支援したり、ロシアで捕虜になったポーランド人兵士や、シベリアで混乱のなか親を失ったポーランドの孤児を救出したりした。彼らはその恩義をいまも忘れていないのだという。

ポーランドではショパンが国民的英雄になっていた。ワルシャワの国際空港が「ワルシャワ・ショパン空港」と命名されていたり、紙幣にショパンの肖像が使われたりしており、ワルシャワには随所にショパンゆかりの地があった。ショパンというと、我々にはピアノの小品の作曲家というていどのマイナーなイメージしかないが、本国では絶対的なヒーローになっているようだ。ほかに故ヨハネ・パウロ2世ローマ教皇の銅像や偉業をたたえる史跡もあちこちにあり、ショパンと並ぶポーランドの偉人になっているらしい。現代のポーランドの英雄といえばサッカーのレヴァンドフスキで、6月29日のワールドカップ日波戦では日本は彼に苦しめられるだろう。ぼくなどはポーランドと言えばアンジェイ・ワイダやカワレロヴィッチやポランスキーなどの映画監督を真っ先に連想するが、現地の人たちに話を向けても反応は鈍く、あまり関心がないようだ。ほかにポーランド出身の著名人といえば、地動説を唱えたコペルニクス、ノーベル賞を2度も受賞したキュリー夫人がいる。

ポーランドは、周辺の小国と同じく、昔からロシアとドイツという強国の狭間で、国土が分割されたり消滅したりするという苦難の歴史を歩んできた。ワルシャワ、クラクフ、ポズナン、ヴロツワフ、トルンなど、どの街に行っても、他国に侵略されたり支配されたりした足跡をもっている。18世紀末にはロシア、プロイセン、オーストリアに分割されて国を失った。その後、独立を回復したが、第2次大戦が勃発すると国土は再びナチス・ドイツとソ連に分割されて消滅した。第2次大戦中にはカチンの森事件やワルシャワ蜂起などの悲劇に見舞われた。戦後、独立を果たしたが、ソ連の衛星国として共産党が支配する独裁政権が続いた。1989年のソ連崩壊により、ようやく民主化が実現し、自由を獲得した。国民は、第2次大戦中はナチスへのレジスタンス運動、共産党支配時代には民主化運動を展開し、大きな犠牲を払いながらも弾圧に反抗した。その過程はアンジェイ・ワイダの映画、とりわけ初期の抵抗3部作に感動的に描かれている。ポーランドの人々はそんな苦難と抵抗の歴史を背負いながら、いま独自の道を歩んで発展しようとしている。

首都ワルシャワの街は爆撃でほとんど壊滅したが、戦後、史跡は忠実に再現された。いっぽう古都クラクフはほとんど打撃を受けず、歴史的な建造物や街並みがそのまま残っていた。アウシュヴィッツ&ビルケナウ絶滅収容所は、そのクラクフから車で1時間ぐらいの郊外、オシフィエンチムにあった。ユダヤ人強制収容所については、これまで写真、映像、本、映画などで表面的に知ってはいたが、現実にアウシュヴィッツの広大な敷地に立ち並ぶ収容棟、ガス室、焼却炉などを目撃し、有名な「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)というゲートに掲げられた文字、展示されているおびただしい数の髪房、靴、カバン、眼鏡フレーム、チクロンBの缶などを目の当たりにすると、あまりの異常さに衝撃を受け、言葉を失う。ナチス・ドイツは、民族浄化という名のもと、ここで150万人もの人々を殺害した。ユダヤ人絶滅計画は、広島・長崎への原爆投下と並ぶ、20世紀の人類が犯した最大の暴虐非道な愚行であり、人間はどこまでも残酷になり得る生き物だということの証しだと痛感する。迫害を受けた被害者であるユダヤ人が、いまは加害者としてパレスチナ人を迫害しているという現実は、なんという歴史の皮肉だろうか。

2017.12.30 (土)  2017年ミステリー&映画ベスト10

【2017年海外ミステリー・ベスト10】
 1 「暗殺者の飛躍」 マーク・グリーニー (早川文庫)
 2 「晩夏の墜落」 ノア・ホーリー (早ポケ)
 3 「フロスト始末」 R.D.ウィングフィールド (創元文庫)
 4 「青鉛筆の女」 ゴードン・マカルパイン (創元文庫)
 5 「ブラック・ボックス」 マイクル・コナリー (講談社文庫)
 6 「プリズン・ガール」 L.S.ホーカー (ハーパーブックス)
 7 「湖の男」 アーナルデュル・インドリダソン (創元文庫)
 8 「悪魔の星」 ジョー・ネスボ (集英社文庫)
 9 「ダーク・マター」 ブレイク・クラウチ (早川文庫)
10 「楽園」 キャンディス・フォックス (創元文庫)

【2017年海外映画ベスト10】
 1 「ラ・ラ・ランド」 デミアン・チャゼル (米)
 2 「マンチェスター・バイ・ザ・シー」 ケネス・ロナーガン (米)
 3 「カフェ・ソサエティ」 ウディ・アレン (米)
 4 「ブレードランナー2049」 ドゥニ・ヴィルヌーヴ (米)
 5 「希望のかなた」 アキ・カウリスマキ (フィンランド)
 6 「パターソン」 ジム・ジャームッシ ュ(米)
 7 「セールスマン」 アスガー・ファルハディ (イラン・仏)
 8 「ザ・コンサルタント」 ギャヴィン・オコナー (米)
 9 「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」 ジャン=マルク・ヴァレ (米)
10 「ドリーム」 セオドア・メルフィ (米)

2017.10.24 (火)  衆院選挙雑感

今回の衆院選挙は、選挙戦開始前にいだいていた危惧が、自民党の勝利という最悪のかたちで現実のものになってしまった。その戦犯は小池だ、と小池百合子への非難が集中している。確かに、小池が目測と戦術を誤ったため、結果的に自民党を利することになった。小池にとって今回は千載一遇のチャンスだった。異論もあるだろうが、小池が持論を封印して現実主義に立って行動し、自ら選挙に打って出れば、自民党を蹴散らし、安部を倒して政権を奪取することもできたはずだ。小池はいま65歳、3年後には68歳になる。もう小池旋風を再び巻き起こすのは無理だろう。

勝った自民党は、いまは謙虚な態度を装っている。だが、嘘つき男の安部晋三はすぐに姿勢を変え、何でもやりたいほうだいにやるだろう。これから、日米同盟は後戻りができないほど深まり、対米従属はますます加速する。対中関係、対韓関係はさらに悪化する。実質経済は弱体化し、格差が広がる。特定秘密保護法、集団的自衛権容認、共謀罪法ときて、次は憲法改訂、非常事態法へと進む。こうして日本は着々と軍事国家、戦前の体制への逆戻りの道を歩むことになるかと思うと、やりきれない気持ちになる。

ぼくは昔から小池百合子に好感をもてなかった。小池は、その時々の権力者と寄り添いながら、ここまでのしあがった。風を読んで博奕を打つこともできる。その意味では、とてもしたたかな政治家だが、なぜ人気があるのか、よく理解できなかった。彼女の右翼タカ派志向は安部と変わらない。だが、その政治信条よりも、ぼくは彼女の言動にうさん臭さを感じてきた。彼女はいつも笑顔を絶やさないが、あれが気持ち悪い。人が笑うのは、何かを隠そうとするとき、弱みを取り繕うときだ。それから、彼女はしばしば横文字――アウフヘーベン、ワイズ・スペンディング、パラダイム・シフト、チャーター・メンバー――を使うが、あれもいかさまっぽい。何かを喋る際、同工異曲のものなのに、さも真新しいものだと見せかけようとする手口だ。

しかし、恥さらしの安部を権力の座から引きずり下ろすためには、もし小池に力と勢いがあるのなら、彼女に託すしかないと思っていた。毒を以て毒を制すだ。ところが、当初は革新的なイメージを背負って出発した希望の党への期待は、小池の例の「排除」発言、自民党とほとんど変わらない目標、中身のない政策のため、急速にしぼんだ。選挙後は自民党との提携も視野に入れるという小池の発言、若狭や細野といった無能な側近の手際の悪さが、それに拍車をかけた。

とはいえ、小池だけを悪者に仕立て上げる論法には異を唱えたい。小池が波風を立てなければ、野党が共闘してして統一候補を立て、自民党と互角の勝負になる可能性もあったが、それを小池がぶち壊す結果になったことは確かだ。だが、国民の多くが自民党を選んだのは事実だ。自民党に票を入れるということは安部首相を続投させるという意思表示だ。責任は国民にある。暴政を続ける安部に長期政権を許すとは、あえて言うが、日本人はなんと考えの浅い国民なのだろうと思う。

欧米のような国土の侵略をめぐる苛酷な歴史を経験せず、下からの民衆革命も起こらなかった(明治維新は革命ではなく権力闘争だ)日本は、けっきょくのところ、自力ではなく外圧によってしか変革できないのかもしれない。そこそこ豊かな生活を送っている日本人は、自分の足元の生活が危機に陥らないかぎり、長年続いたシステムを変えるのが嫌いなのだろう。今回の選挙で、野党が自民党と互角の結果になったり自民党に勝ったりした地域は、過疎化によって経済が疲弊している北海道と、米軍基地によって平穏と安全が脅かされている沖縄だけだったことが、それを物語っている。

希望の党から出馬した元民進党の議員たちが党首である小池への批判を強めているが、馬鹿な連中だとしか言いようがない。もともと小池の人気と力をあてこんで希望の党に鞍替えした者たちに、小池を責める資格はない。自分の実力のなさを反省すべきだ。いっぽうの小池は、いろいろと敗戦の弁を語っているが、「ガラスの天井は破ったが鉄の天井に阻まれた」などと言い、自分の言動や振る舞いを棚に上げ、敗戦の原因を女性の社会進出を阻む世間の慣習にすり替えている。これは女の武器を利用して政界を渡り歩いた小池らしい責任転嫁であり、彼女の人間としての器の小ささを示している。

今回の投票に際しては、安部が過大に煽り立てた北朝鮮危機に踊らさせて自民党に票を入れた人も少なくなかったようだし、投票しても何も変わらないという諦めの気持ちから棄権した人もいたであろう。しかし、安倍政権の暴走とこの国のゆくえを憂う人もたくさんいるはずだ。立憲民主党が人気を得たのは、たんに判官贔屓の同情票だけからではないだろう。腐った政治の現状を打破したいと思っている人たちが立憲民主党を支持したのだ。立憲民主党はリベラル派ということになっているが、実際のところは戦後の日本を主導した中道保守の系譜につながる党だと思う。これから野党再編があるのかどうか分からないが、野党第1党になったこの党には、獲得した議席は少ないけれど、安部に一泡吹かしてもらいたい。

2017.01.10 (火)  年始雑感

昨年は安倍政権の失政と暴政が白日のもとにさらされた年だった。安倍首相の意を汲んだ日銀の金融政策は挫折し、経済はいっこうに好転せず、アベノミクスの失敗が明らかになった。鳴り物入りで開催されたロシアとの首脳会談では、安倍はプーチンにいいようにあしらわれ、北方領土交渉が頓挫した。中国に対しては敵視政策を続け、関係が改善する兆しはまったくない。さらに、沖縄で墜落した在日米軍のオスプレイの安易な飛行再開を許したし、誰が見ても破綻している核燃料サイクル計画の続行を決めた。そして、年金カット法案、カジノ法案というとんでもない悪法を強引に成立させ、天皇の退位問題については、明仁天皇の意志や世論を踏みにじり、一代限りの特別法を設けることによってお茶を濁そうとしている。

安倍政権の暴走はますます歯止めがきかなくなっている。野党のだらしなさ、自民党内リベラル派のお粗末さは目を覆うばかりだが、それにも増して悲惨なのはメディアの腰抜けぶりと国民の従順ぶりだ。官邸の恫喝が功を奏しているのだろうか、マスコミは政府の発表や出来した事象をそのまま報じるだけで、欺瞞や虚偽をまったく追求しようとしない。そして、これだけ失政や悪政が続いているにもかかわらず、国民から安倍の退陣を要求する叫び声が上がらない。日本人は大人しすぎる。その点では、朴大統領を職務停止に追い込んだ韓国国民や、結果の良し悪しはともかく、変化を求めてトランプを大統領に選んだアメリカ国民を見習わなければならない。

世界では寛容の精神が希薄になり、偏狭なナショナリズムが頭をもたげようとしている。そんななかで、EUの動向、中東の情勢も気になるが、今年注目されるのは、やはり米国の新大統領トランプがどんな政治を行なうかだ。トランプは暴言を吐いた。だが彼は美辞麗句ではなく本音で語った。それが米国の半分の人間に共感を与えたのだ。しかし、その本音を実行に移したら、米国は混迷する。米国の混迷は世界に混乱をもたらす。衰えたとはいえ、米国はいまだに経済的にも軍事的にも圧倒的な力をもつ世界一の大国であり、その動向が世界に与える影響は大きい。トランプが自慢と恫喝だらけのツィッターで発する言葉に当事者たちが一喜一憂する姿は、無様を通り越して滑稽だが、ロシアがサイバー攻撃で米大統領選に介入した問題はトランプにとって意外な落とし穴になるかもしれない。トランプ新大統領が日ごろの言動に沿った強硬な政策を実行するのか、それとも状況に配慮しつつ柔軟な政治を行なうのか、よく分からない。しかし、彼が閣僚に指名した連中の経歴や考え方――極右の差別主義者、好戦的な軍人、大企業や証券金融会社の幹部――を見ると、その方向はおのずと明らかだろう。

たとえトランプがどんな善政を布こうが、憎しみや対立を煽り、舌先三寸で人心を掴んだ品性が低い男のやることを、ぼくはまったく信用しない。だが、信用するしないに関わらず、これから世界はそんな男を相手に外交交渉をしなければいけなくなる。日本もあらゆる情報や人脈を駆使し、知略を尽して巧妙に立ち回らなければならないが、いまの安倍政権では、それは到底できないだろう。なにしろ安倍は、飼い犬よろしく、フライングでトランプと面談してひんしゅくを買い、どんな政策を打ち出すのか分からないのに、新大統領になったトランプと真っ先に会談しようと画策し、世界の物笑いの的になっている。しかも、各国に先駆けてトランプに会うことを自慢するのだから、愚劣の極みだ。

そして日本では、右翼国粋主義者の側近に囲まれ、無能無策な大臣を従えた安倍晋三の独裁がとうぶん続くことになる。社会保障費の充実などは掛け声だけ、乏しい国家予算のなかで、安倍政権は防衛費と公共事業費を突出して増強させる。憲法改悪に足を踏み出すのは時間の問題だ。民進党はもはや分裂状態で野党としての機能を果たしておらず、政府与党から完全に馬鹿にされている。唯一、安倍の対抗勢力として期待がもてるのは小池百合子だろう。ぼくは小池を人間的に好きになれないが、したたかな政治家であることは間違いない。小池は新党の結成を準備していると聞くが、そこに自民党や民進党から現政権に不満を持つ議員が結集すれば、有効な抑止力が生まれ、安倍の専横の打破につながるかもしれない。

2016.12.26 (月)  2016年海外映画ベスト10

映画とは、(1)個々の人間と人間同士の関係がきちんと描かれていなくてはならない、(2)プロットが破綻なく展開していなくてはならない、(3)映像が観客に何かを語りかけるものでなければならない、というのがぼくの持論だが、それらの観点からして、今年公開された洋画にはすぐれた作品が多かったように思う。
 1 『ブリッジ・オブ・スパイ』 監督:スティーヴン・スピルバーグ (米)
 2 『ハドソン川の奇跡』 監督:クリント・イーストウッド (米)
 3 『幸せなひとりぼっち』 監督:ハンネス・ホルム (スウェーデン)
 4 『ブルックリン』 監督:ジョン・クローリー (アイルランド・英・加)
 5 『レヴェナント〜甦えりし者』 監督:アレハンドロ・イニャリトゥ (米)
 6 『ヒッチコック/トリュフォー』 監督:ケント・ジョーンズ (米・仏)
 7 『ディーパンの闘い』 監督:ジャック・オーディアール (仏)
 8 『奇蹟がくれた数式』 監督:マシュー・ブラウン (英)
 9 『オデッセイ』 監督:リドリー・スコット (米)
10 『キャロル』 監督:トッド・ヘインズ (英・米・仏)
1位の「ブリッジ・オブ・スパイ」については1月30日付けの本欄で記した。時代は1950年代末から60年代初めにかけて、ニューヨークの弁護士である主人公は偏狭な愛国主義者たちの中傷や脅迫に会いながら、信念を貫き、捕まったソ連スパイの裁判で弁護に当たる。やがて、この服役したソ連スパイと、スパイ飛行中にソ連に撃墜されて捉われた米軍パイロットとの捕虜交換を実現させるため、主人公は東ベルリンに向かう。冷戦時代の米ソの政治的駆け引き、壁を建設中のベルリンの街、当時の社会風俗などの生々しい描写は迫力に満ちており、トム・ハンクス以下の出演者たちの自然な演技も素晴らしい。実話に基づく感動的な名作だ。2位のクリント・イーストウッドの「ハドソン川の奇跡」もエンタテインメント映画として最高ランクに入る傑作。これもトム・ハンクス主演だ。ニューヨークのニューアーク空港を飛び立って直後、バードストライクで操縦不能に陥った飛行機をハドソン川に不時着させるというシンプルな実話を、よくこれほど起伏に富んだ、奥行きのある映画にできたものだ。86歳という老齢なのに、老いてますます高まるイーストウッドの作劇術の巧みさに感心する。

3位のスウェーデン映画「幸せなひとりぼっち」は、高齢化社会となった近年あちこちで作られている、孤独な老人が主人公の映画。妻を亡くし、人生に絶望した、狷介固陋、嫌われ者のジジイが、近所に引っ越してきたイランから移住した家族と触れ合ううちに人間性を取り戻すという、「グラン・トリノ」と「カールじいさんの空飛ぶ家」(冒頭の10分間)をミックスしたようなストーリー。よくある話しだが、語り口がうまいので間然するところがない。コミカルな場面展開、ところどころで醸し出されるほのかな詩情と随所に挿入される老人の若き日のエピソードが効果を上げている。4位の「ブルックリン」は、1950年代初頭、アイルランドからニューヨークのブルックリンに移住した若い女性の物語。故郷アイアルランドへの愛憎入り混じった想い、新天地ニューヨークでの悲喜こもごもの生活が哀歓ゆたかに綴られる。シチュエーションは少し甘いが許容範囲内であり、後味は爽やかだ。個性的な風貌の少女俳優として「ラブリーボーン」や「ハンナ」で強い印象を与えたシアーシャ・ローナンの、大人の女性としての抑えた演技に心惹かれる。

5位の「レヴェナント〜甦えりし者」はアメリカ西部開拓時代の実話を基にした映画。極寒の荒野で、瀕死の重傷を負い、仲間に裏切られ、息子を殺された罠猟師の復讐譚。持って回ったような思わせぶりな撮り方をする監督のイニャリトゥはあまり好きな映画作家ではないが、この映画はストレートで分かりやすい。過酷な自然、生と復讐への凄絶な本能が、迫力たっぷりに描かれる。6位の「ヒッチコック/トリュフォー」は映画ファンを陶然とさせるドキュメンタリー映画。1966年に出版された「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」は映画作家にとってバイブルとなった対話本だが、本作品はこの本のためのヒッチコックとトリュフォーの対話テープ音源を中心に、さまざまな監督へのインタビュー、ヒッチコック映画からの抜粋などを織り交ぜて構成されており、映像テクニックの面白さを堪能できる。

7位以下は割愛するが、その代わりに、先日WOWOWで見た映画「ホワイト・ゴッド」について触れておきたい。昨年末に公開されて気になっていたが見逃してしまった作品だ。珍しくハンガリーの映画で、少女と犬の物語だが、内容はその言葉から受けるほのぼのとした印象とはまったくかけ離れており、虐待された犬が集団となって人間たちに反旗を翻すという話。明らかにサミュエル・フラーが後期に作った異色作「ホワイト・ドッグ」(黒人を攻撃するよう調教された犬と、それをなんとか普通の犬に戻そうと試みる女の物語)を下敷きにしている。ブダペストの街を犬の大群が疾走するシーン(CGはいっさい使っていない)は、ある種、叙事詩めいた趣があり、人間を襲う犬が何を象徴しているのか、いろいろな解釈ができるだろう。笑顔をほとんど見せない少女の厳しい表情が印象深い。人間関係が希薄に見えるのはハンガリーの国柄であろうか。「ホワイト・ドッグ」のシビアーなエンディングに比べて、結末が甘いことが、この映画の唯一の弱点だ。

2016.12.22 (木)  2016年海外ミステリー・ベスト10

今年は例年になく多くの良作に恵まれた。「ミレニアム」シリーズの続編や「犬の力」の完結編のほか、コナリー、グリーニー、ディーヴァーなどの名手たちによる密度の濃い新作が発売されたし、有望な新人作家の力作も刊行され、海外ミステリーにとって充実した年になった。ぼくのベスト10は以下のとおりだが、これら以外にも読み応えのある小説がたくさんあった。見てのとおり、「このミス」や「週刊文春」のランキングとはまったく異なる、個人的嗜好に基づく独断のランキングになっている。
 1 『ミレニアム4〜蜘蛛の巣を払う女』ダヴィド・ラーゲルクランツ(早川書房)
 2 『暗殺者の反撃』 マーク・グリーニー (ハヤカワ文庫)
 3 『ジョイランド』 スティーヴン・キング (文春文庫)
 4 『狼の領域』 C・J・ボックス (講談社文庫)
 5 『その雪と血を』 ジョー・ネスボ (ハヤカワ・ミステリ)
 6 『扇動者』 ジェフリー・ディーヴァー (文藝春秋)
 7 『リボルバー・リリー』 長浦京 (講談社)
 8 『ガンルージュ』 月村了衛 (文藝春秋)
 9 『転落の街』 マイクル・コナリー (講談社文庫)
10 『ザ・カルテル』 ドン・ウィンズロウ (角川文庫)
1位の「ミレニアム4」については4月16日付けのこのコラムで書いた。旧3部作に続き、新しい作家によって再スタートした新「ミレニアム」シリーズの第1作だ。主人公のリスベットは旧作と同じキャラクター設定のもと、胸のすくような活躍を見せるし、新たに登場する人物たちも巧みに描き分けられており、スピーディな展開、起伏に富んだプロットも鮮やかだ。
2位の「暗殺者の反撃」は冒険小説ファンを熱狂させるグレイマン・シリーズの第5作。自分がなぜCIAから命を狙われるのか、その理由を探るためアメリカに潜入した主人公が刺客と死闘を繰り広げながら真相を突き止める。これまでの作品と比べて戦闘シーンは控えめだが、内容は相変わらず圧倒的に面白い。グレイマンの物語はこの作品でいちおう第1期のピリオドが打たれた。これから始まる第2期の彼の冒険に期待したい。

3位の「ジョイランド」はスティーヴン・キングの小品だが、感動を誘うビタースイートな青春ミステリー小説。海辺の古ぼけた遊園地でアルバイトをする大学生のひと夏の経験が回想形式で描かれる。遊園地で起こる奇妙な出来事、近所に住む母子との出会いが、美しいセンティメントとノスタルジーを生み出している。主人公の青年はその夏の経験を経て大人へと旅立つ。幽霊も出てくるが、ホラー色はそれほど強くない。嫌みのない甘さと切なさが心に沁みる。キングの小説は同時期に「ミスター・メルセデス」という大作のミステリー小説が刊行され、そちらも力がこもっているが、同趣向の小説を書くディーヴァーの巧さに比べると、もうひとつ盛り上がりに欠けていた。4位の「狼の領域」はC・J・ボックスによる猟区管理官ジョー・ピケットを主人公とするシリーズの新作。正義感と責任感は強いが暴力は苦手な主人公が醸し出す確固たる存在感が魅力を呼ぶ。大自然の美しさと厳しさがていねいに描き込まれており、主人公を助けるネイトという男の強烈な個性に惹きつけられる。

5位のノルウェーの作家ジョー・ネスボによる「その雪と血を」はクリスマスの時期、厳冬のオスロが舞台。麻薬組織の殺し屋がボスの妻を殺すよう命じられるが、殺し屋は標的の女に恋してしまう。一種の悪女もの小説であり、フィルムノワールの趣きを漂わせる暗い情感と詩的な描写が秀逸。冒頭の印象的な殺しのシーンから哀切感漂うエンディングまで、全編にわたって描かれる主人公の哀しい生きざまが心を打つ。6位のジェフリー・ディーヴァー作「扇動者」は身振りや表情から人の思考を読み取るキネシクスの専門家である捜査官キャサリン・ダンス・シリーズの第4作。今作でダンスは集団をパニックに駆り立てて無差別殺人を繰り返す凶悪犯を追う。二転三転するストーリー展開はページを繰る手を休ませない。家族や恋人など、ダンスの個人生活も興趣豊かに描かれており、いつもながらディーヴァーの巧さに脱帽する。

国内ミステリーからは2作のすぐれた冒険小説をランクインさせた。7位の「リボルバー・リリー」は大正末期の関東と東京が舞台。かつて特務機関で訓練された美貌の凄腕女性殺し屋が、陸軍部隊とヤクザから狙われる小学生の男の子を助け、凄惨な戦いを繰り広げながら安住の地を目指す。映画「グロリア」や「レオン」を彷彿とさせる痛快な小説。8位の「ガンルージュ」も似たようなストーリーで、群馬の温泉郷を舞台に、元公安エリートの主婦と元ロッカーの女体育教師が、北朝鮮特務工作員の一団に誘拐された子供たちを奪還すべく奮闘する物語。いずれも荒唐無稽と言ってしまえばそれまでだが、一気読みさせる気迫と興奮に満ちている。

9位の「転落の街」はハリー・ボッシュ・シリーズ久々の新作。ロス市警未解決事件捜査班に籍を置くボッシュが2つの奇怪な事件を捜査する。コナリーの筆致は変わらず暗い情念に彩られており、読む者を魅了する。10位の「ザ・カルテル」はあの話題になった「犬の力」の後日談。メキシコの麻薬王とDEAの捜査官による執念の抗争が、麻薬戦争によってもたらされる荒涼たる風景とともに描かれる。

以上のほか、マイクル・コナリーによるリンカーン弁護士シリーズの新作「証言拒否」、元刑事が誘拐された少女の救出に執念を燃やすドン・ウィンズロウのハードボイルド小説「失踪」、1910年代のニューオーリンズを舞台にした、若きルイ・アームストロングが重要な役で登場するレイ・セレスティン著「アックスマンのジャズ」、珍しくアルゼンチンの作家カリル・フェレによる、アルゼンチン現代史の闇を浮かび上がらせた「マプチェの女」、行き場のない男女の破滅的な行動がノワール色豊かに綴られたチャールス・ウィルフォードの「拾った女」、麻薬捜査局と麻薬カルテルの攻防を予想外の新鮮な手法で描いたM・A・ロースンの「奪還〜女麻薬捜査官ケイ・ハミルトン」など、今年は本来であればベスト10に入ってもおかしくない説得力のあるのある作品が目白押しだった。

2016.10.10 (月)  5月のバルト3国ではバード・チェリーが花開いていた

少し前の話になってしまうが、今年5月前半、バルト3国に旅行した。バルト3国とは、ヨーロッパ大陸の北方に位置する、ロシアの西端とバルト海に挟まれた3つの小国だ。北からエストニア、ラトヴィア、リトアニアと並んでいる。3国合計の国土面積は日本の約半分、人口は660万人で、ほぼ千葉県のそれに近い。バルト海を挟んで、北はフィンランド、西はスウェーデンに面しており、東はロシアとベラルーシ、南はポーランドと接している。地理的には北欧と言っていいだろう。

バルトの国々はヨーロッパの小国の例にもれず、ロシアやドイツなどの強国に蹂躙され、苦難の歴史を歩んできた。3国とも、20世紀初頭まではロシア帝国に支配されていたが、ロシア革命ののち1918年にいったん独立した。しかし第2次大戦中、ナチス・ドイツが侵攻し、独ソ不可侵条約を結んだソ連とドイツによって占領された。戦後はソ連に併合されていたが、1991年、ソ連崩壊によってようやく独立を果たした。近年は領土拡張の野心に燃えるプーチンが、ウクライナに続いてバルト3国に侵略の矛先を向けているようだが、3国ともEUに加盟しており、NATOの加盟国でもあるので、下手をするとNATOと戦火を交えることになりかねないから、ロシアも簡単には手が出せないだろう。

バルト3国には日本からの直行便がないので、飛行機は往路も復路もフィンランドのヘルシンキ経由だった。ヘルシンキから2時間かけてフェリーでバルト海を渡ってバルト3国北端のエストニアに入り、3つの国を見て回ったあと、再び同じようにヘルシンキに戻ることになる。ヨーロッパの中心から離れており、長らく共産圏に属していたため、どの国もけっして豊かではない。産業はバイオテクノロジーや木材加工が中心であり、最近は観光による収入も増えているという。だが、世界中どこでも見かける中国人の騒々しいツアー客には、ここでは一度も遭遇しなかった。ヨーロッパの中心都市と比べるとひなびた印象を抱くが、落ち着いた街並みは美しかったし、古い寺院や城塞などの見所も多く、ゆっくりと景観を楽しむことができた。

バルト3国では、日本では見かけない、小ぶりな白い花が咲く木が、街なかや郊外など、至るところで目についた。雪柳を思わせる可憐な花だ。ツアー・ガイドに訊くと、「バード・チェリー」という木だという。帰国してネットで調べたら、この木はヨーロッパ北部に自生するサクラの一種で、「エゾノウワミズザクラ」という日本名があるらしい。場所によっては木の下にタンポポが咲いており、白色と黄色の花の取り合わせが目に鮮やかだった。

バルト3国といえば、日本でいちばん知られているのは、リトアニアで「命のヴィザ」を発給した杉原千畝の物語であろう。第2次大戦中の1940年、当時、臨時の首都になっていたカナウスの領事館で領事代理を務めていた杉原は、本国外務省の訓令に背き、領事館に押し寄せるナチス・ドイツの迫害によってポーランドから逃れてきた多くのユダヤ人難民に、出国して日本を通過するためのヴィザを発給し、彼らの命を救った。帰国後の杉原は、指示に違反したため外務省をクビになり、さまざまな職を転々とした。1968年、杉原ヴィザによって助かった新生イスラエルの高官が、貿易会社の現地事務所長としてモスクワに赴任していた杉原を探し当て、杉原が失職覚悟でヴィザを発給したことを知り、イスラエルはその功績を顕彰した。

杉原がヴィザを発給したカナウスの旧日本領事館は、現在、資料館として保存され、一般公開されている。普通の家屋のような小さな領事館だ。狭い執務室には杉原が寝食を犠牲にしてヴィザに署名したデスクがあった。首都のヴィリニュスには杉原通りと命名された道路もある。帰国の際の機中で、たまたま映画プログラムのなかに2015年に公開された唐沢寿明主演の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」があり、それを見て杉原という人物と当時の状況に関し、より深い知識を得ることができた。戦前、戦後を通じて、本省の訓令に反し、自分の信条に従って行動した外交官が、いったい何人いただろうか。私たちは日本人として杉原千畝を誇りとしなければいけない。

もうひとつ、今回の旅行で印象深かったのは、同じくリトアニアの「十字架の丘」だった。発祥の時期はよく分からないが、19世紀半ばだと言われている。上に記したように、歴史上、リトアニアはつねにロシアの圧政にさらされてきた。リトアニア人は何度かロシアに対して武装蜂起したが、失敗に終わった。戦死した兵士の家族が遺体の代わりに十字架を丘に建てたのが「十字架の丘」の始まりとされている。ロシア革命後に独立したリトアニアで、この丘は、カトリック信仰者のための、平和を願い死者を弔う場所になった。第2次大戦後、この地を併合したソ連は、何度かブルドーザーで十字架を撤去した。しかし、その都度、人々は十字架を再び建て、十字架の丘は復活した。

「十字架の丘」は、リトアニア北部、シャウレイという村の近くにある。広い野原のなかに小高い丘があり、何万本にも及ぶ無数の大小さまざまな十字架で埋め尽くされている。異様な光景だ。訪れる観光客が供える十字架により、その数はいまも増え続けている。丘のふもとに十字架を売っている店があったので、ぼくも小さな十字架を一本買い、世界の平和を祈念して丘の中腹に建てた。

2016.09.03 (土)  若きサッチモが活躍する異色ジャズ・ミステリー

ジャズを題材にしたミステリーはめったにない。たまにジャズが登場する小説もあり、マイクル・コナリーのハリー・ボッシュ・シリーズのように、印象的に使われ、効果を上げているミステリーもあるが、たいていの場合、ジャズは背景として、雰囲気を盛り上げる素材として扱われるだけだ。だから、レイ・セレスティンが書いた本作「アックスマンのジャズ」のように、若き日のルイ・アームストロングが活躍するミステリーは稀有な例だと言える。

これは1918年のニューオーリンズを舞台にした異色の作品だ。住民を残忍に斧で惨殺する連続殺人鬼、アックスマンを追って、私生活に秘密を抱える警察署の主任刑事、その上司だった、マフィアの手先として投獄され、出所したばかりの元刑事、ピンカートン探偵社に勤める若い女性の3人が、それぞれの理由から犯人を追うのだが、探偵社の女性の友人で彼女を助けるミュージシャンがアームストロングなのだ。

ニューオーリンズは紅灯街のストーリーヴィルが閉鎖され、稼ぎ場所を失ったミュージシャンたちは葬儀を先導するマーチング・バンドやミシシッピ川を遊覧する蒸気船のダンス・バンドで糊口をしのいでいる。ルイはまだ18歳、駆け出しのミュージシャンで、石炭の積み出しのアルバイトをやっているが、めきめきトランペットの腕を上げ、仲間から注目されている。この小説の魅力のひとつは、主人公たちのキャラクターが見事に造形されていることだ。若きルイについては、生い立ちや考え方が簡潔に綴られており、両親が別れて祖母に育てられたこと、感化院に入れられ、そこでトランペットを学んだことなどが回想のなかで鮮やかに描かれている。これはほぼ史実どおりだ。著者はかなりアームストロングについて研究したに違いない。終盤、犯人がわかる経緯はやや唐突だし、主人公たちを待ち受ける運命にも違和感を覚えるが、エンディングは爽やかだ。

ここには、ルイ・アームストロングのバンド仲間として、クラリネットの名手ジョニー・ドッズや、その弟のドラマー、ベイビー・ドッズも登場して、ルイと会話を交わす。また、ルイをバンドに雇ったキッド・オリーやフェイト・マラブル、さらにはキング・オリヴァーやジェリー・ロール・モートンといったジャズの創始者たちの逸話もでてくる。史実によると、このあとルイは、一足先にシカゴに進出していた師匠のキング・オリヴァーに呼ばれて、1923年、シカゴに上り、オリヴァー率いるクレオール・ジャズ・バンドのメンバーになり、記念すべき初録音を経験する。そのレコードで聴かれるルイのソロは力強く溌剌としており、すでに師のオリヴァーを凌駕している。その後、彼はニューヨークに出てフレッチャー・ヘンダーソン楽団に加わったあと、シカゴに戻り、史上に名高いホット・ファイヴ、ホット・セヴンによる吹き込みセッションを行い、ジャズ界を席巻することになる。

この小説は、アックスマン事件から数年後、シカゴで主人公の2人が探偵社の社員として人生を再出発するところで終わるが、これは続編が作られるであろうこと、それは1920年代のシカゴを舞台にしたものであろうこと、そしてそこに再びルイ・アームストロングが登場し、彼らとともに活躍するであろうことを暗示している。続編の発刊に期待が高まる。

2016.08.20 (土)  リオ五輪で吉田沙保里選手が流した涙

リオ・オリンピックもそろそろ終わりに近づいた。2020年東京オリンピックへ向けての選手育成強化方針が功を奏しているのだろうか、今回は例年にも増して日本選手の活躍が目立った。陸上男子4x100mリレーの驚異の力走による銀メダルには感動したし、バドミントン女子ダブルスのタカマツ・ペアの金メダル、水泳女子200m平泳ぎの金藤選手の金メダル、テニスの錦織選手の強敵ナダルを破っての銅メダルは素晴らしかったし、体操男子総合と個人総合の内村選手の金メダル、福原選手率いる卓球女子総合の銅メダル、柔道女子70kg級の田知本選手の金メダルも印象深かった。また、あまり陽のあたらないカヌーや競歩といった競技でメダルを取る選手が現れたことも嬉しかった。4年間にわたって必死で修練を積んできた選手たちが語る試合後のインタビューでのコメントは、勝って発する喜びの言葉にしろ、負けて発する悔しさの言葉にしろ、心に触れるものがあった。

そんななかで、長年、絶対王者として君臨してきたレスリング女子53kg級の吉田沙保里選手は、決勝で敗れ、銀メダルで終わってしまった。あくまで素人の目で見た感想にすぎないが、吉田選手は準決勝まではとてもいい試合をしていた。準決勝の試合運びを見るかぎり、彼女のパワーはまだ衰えていなかった。動きにもスピードがあったし、タックルやバックをとる動作も素早かった。だが決勝では、相手が吉田をよく研究していたことにもよるのだろうが、勝つだけの力はあったのに、勝ちを意識して慎重になりすぎ、思い切った技を仕掛けられなかったように感じた。それだけプレッシャーがあったのだろう。何年にもわたってプレッシャーに打ち勝ってきた彼女の精神力は並大抵のものではないはずだ。そんな彼女でも、いろんな状況が重なり、今年感じていた重圧はとりわけ大きかったのだ。

試合後のインタビューで、吉田選手は、涙ながらに、しきりに「すみません、すみません」と謝っていた。精一杯、力を尽くしたのだから、称えこそすれ、誰も非難などするはずがないのに。以前から五輪を見るたびに思うのだが、柔道や女子レスリングなど、勝って当然という空気のなかで試合をする選手の痛々しいまでの悲壮感は、なんとかならないものかと思う。家族や関係者が応援するのはあたりまえだし、プレッシャーをはねのけて試合に挑むのが選手の宿命だと言ってしまえばそれまでだが、何かが選手たちに異常な重荷を課しているように思えてならない。負けて悔しいと流す涙なら分かるが、それよりもむしろ、彼らはみんなの期待に応えられなくて申し訳ないと涙を流すのだ。オリンピックはいまやどこの国にとっても国威発揚の場になってしまったが、それでも日本の選手が示す表情には、欧米のそれとは異なる、きわめて日本的、アジア的な、公と私が混然となった、日の丸を背負う重苦しいストレスを感じる。異論もあると思うが、日本のスポーツ界はいまだに昭和43年に自殺したマラソンの円谷幸吉選手を取り巻いていた状況から抜け出ていないのではないだろうか。

2016.08.09 (火)  天皇の「お気持ち表明」を聞いて感じたこと

8月8日に発表された天皇の声明は、表面的には「年をとって体が言うことをきかなくなったから生前退位を認めてほしい」という趣旨のことが述べられるにとどまった。ぼくは、広島と長崎への原爆投下の中間の日だし、終戦記念日の直前というタイミングだから、平和と不戦の願いも織り込まれるのではないかと思っていたが、それは思い過ごしだった。

敗戦の日、そして天皇の声明というと、どうしても終戦の詔勅(玉音放送)が思い浮かぶ。あの何を言っているのか分からない漢文調の言葉、独特の異様な抑揚は、「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」という一節とともに、きわめて印象深い。国民はこの詔勅で、初めて天皇の声を聞いた。第2次大戦末期、すでに日本の敗戦は決定的だったのに、ずるずると降伏を先に延ばし、戦地の将兵のみならず、米国に東京大空襲や原爆投下をする口実を与え、多数の市民を死に至らしめた最大の責任が、国家元首であり陸海軍の統帥者であった昭和天皇にあったことは言うまでもない。その責任を取り、最低でも退位すべきなのは当然なのに、昭和天皇はそのまま天皇の地位に留まり、一夜にして神から人間になった。国民はそれを平然と受け入れ、誰も「天皇よ、責任を取れ」とは言わなかった。げに不可思議なるは日本を呪縛する天皇制の魔力なり。

ぼくは平成天皇が何度も南の島に慰霊の旅をし、海に向かって頭を下げる後ろ姿に、多くの国民を死に追いやった昭和天皇の贖罪の気持ちが込められていると感じていた。今回の声明にはそんな思いは込められていなかったが、ぼくは2つの点に天皇の心情が表れていると感じた。ひとつは、天皇が何回も「象徴としての天皇」という言葉に言及したことだ。自民党が作った憲法改正草案には「天皇は日本国の元首である」とうたわれている。安倍首相や日本会議の連中はそのようにしようと画策している。天皇の言葉は、そんな動きに対して異を唱え、現行憲法にあるとおり、天皇とは元首ではなく象徴なのだ、と念を押しているようにぼくには響いた。

もうひとつは、生前退位という概念自体がもっている意味だ。知られるように、現在の皇室典範に規定されている終身天皇という制度は明治憲法下の皇室典範をそのまま引き継いだものだ。終身制になった理由はいろいろ言われているが、根底に「現人神であり国家の基軸である天皇が途中で降板することなどあってはならない」という考えがあったことは確かだろう。それが生前退位制となると「天皇とはたんなる役職、役割であり、それを果たせなくなったら交替する」ということになるから、まったく考え方が異なる。だから、安倍首相が眉をしかめ、国民会議の連中が大反対するのだ。今回の天皇の声明の端々に、安倍や日本会議の思惑への抵抗がうかがえる。それは、象徴としての立場の強調や、天皇の行為を「機能」という言葉で表現したことや、天皇崩御の際の過度な自粛や大げさな服喪の行事を懸念する言葉に表れている。天皇が以前に示した自分の埋葬を火葬にしたいという意向や墓稜を縮小したいという意向も、そんな考えの表れだろう。

天皇の生前退位の希望に対し、日本会議の幹部は「国体の破壊につながる」と怒っているらしい。安倍の周辺では「天皇が勝手に生前退位などと口にするのは憲法違反だ」と言っているバカな政府関係者もいるという。憲法違反を推進した人間が憲法違反だと叫ぶのは、ほとんどジョークだ。ともあれ、天皇の意向がはっきりした以上、そしてアンケートによると国民の大多数が生前退位に賛成している以上、安倍首相はその方向に舵を切らざるを得ない。いっぽうで安倍を支える右翼や日本会議からは激しく反発されるだろう。面白くなってきた。

2016.08.06 (土)  北朝鮮のミサイル攻撃

昨日のニュースで北朝鮮ミサイルの破壊措置命令を常態化させるという政府方針が報じられたが、これほどバカげた笑い話はない。2、3日前の日本近海へのミサイル落下で、日本のミサイル防衛システムが無力だということが証明された。予告のある実験にならある程度は対処できるが、予告なしの攻撃には役に立たないのだ。アメリカから大金を払って購入した迎撃ミサイル・システムは、実戦には役立たずの代物だった。そんなものを使って破壊措置命令を常態化させても、ジョークのネタになるだけで、何の意味もない。いつものとおり、大手メディアは政府の発表をそのまま報じるだけで、官邸からにらまれるのを恐れ、そのバカさ加減にはまったく触れていない。硬直した対応をしているかぎり、北朝鮮の暴挙を止める手立てはない。外交を通じて関係改善を図るべきなのだ。しかし、いまの日本の外交力はゼロに等しい。その点では、中国のしたたかな外交を少しは見習わなくてはならない。

2016.08.03 (水)  天皇の生前退位表明

目下のところ大きな関心を抱いているのは、8月8日に出されるという天皇の声明だ。広島と長崎への原爆投下日の中間、終戦記念日の直前というタイミングは偶然ではあるまい。おそらく官邸と宮内庁は中身を巡って、せめぎ合いをやっているだろう。宮内庁の職員は官僚だから本来なら官邸の言いなりのはずだが、そのなかに天皇側近がおり、彼らが天皇を意を呈して動いているので、官邸としてもそれを無碍に扱うことができない。生前退位の意向をどんな言葉で表明するのか、安倍政権の憲法改正への動きを牽制するような文言が入るのかどうか。天皇は許されるぎりぎりの範囲内でそれを言いたいが、安倍首相としてはそうさせたくない。天皇の口からそれが出れば、安倍や安倍を支える日本会議の連中は今後思いどおりの行動がとりにくくなる。果たしてどうなるのか・・・と、これはぼくの勝手な想像だが、当たらずと言えども遠からずだと思う。ふたを開けて見ればがっかり、ということもあり得るが。

2016.07.28 (木)  クーデター未遂事件後のトルコの行く末

7月中旬のクーデター未遂事件のあと、予想どおり、トルコはエルドアン大統領独裁化の道を突き進んでいる。そもそも、今回のクーデターはエルドアンが仕組んだ「やらせ」であるという疑惑が強い。計画があまりにもお粗末だし、杜撰だった。エルドアンはやすやすと逃げのび、反乱分子はあっという間に鎮圧されてしまった。そして反体制派の大粛清が始まった。いまやエルドアンは、国民からの支持を背景に、公務員、裁判所、報道機関など、あらゆるところから反体制派を一掃しつつある。エルドアンを支持する国民は、いずれ泣きを見ることになるだろう、安倍首相が暴政をふるう日本と同じように。エルドアンはプーチン率いるロシアとの関係を修復した。そして安倍はプーチン、エルドアンとの友好関係を深めている。プーチン、エルドアン、安倍の仲良し強権トリオは、今後、手を携えて勢力維持を図っていくのだろうか。

2016.06.25 (土)  英国のEU離脱とナショナリズムの台頭

この数年、ロンドンに何度か旅行したが、いちばんの繁華街オックスフォード・ストリートを歩くと、まるで人種の見本市場だった。アジア系、中東系、黒人、インド人など、じつにさまざまで人種で満ちあふれており、人種のるつぼといわれるニューヨークなどよりはるかに雑多だった。1980年代半ばに初めてロンドンに行ったときは、そんな印象は持たなかったから、この数10年でそこまでなったのだろう。それを見て、よくこれだけの多彩な人種が同居していられるなと思ったのと同時に、いったん何かがきっかけで反発が生まれたら瞬く間に燃え広がる可能性があるなと感じたことを覚えている。

国民投票により、英国のEU離脱が決まった。投票前の調査では、離脱派と残留派は拮抗しているが離脱派のほうが若干上まわっていると伝えられていた。だから離脱派が勝つのは想定内だったはずだ。それなのに政治家や経済界の連中は、こんな結果になって驚いた、予想外だった、などと寝ぼけたことを言っている。もし本当にそう思っていたのなら当事者の資格などない。

このような結果になった背景として、英国民の心の根底に、かつて大英帝国として世界の覇権を握っていたというプライド、鼻持ちならないエリート意識があるであろうことは想像に難くない。そんな過去の栄光の残滓にしがみつく英国民には、独仏にリードされ、自分たちの思うようにならないEUの現状が我慢できないものと映っていたに違いない。とはいえ、直接的な原因は、貧富の格差が拡大し、生活に苦しむ人々が増えたことにあるのは確かだろう。そんな労働者階級や貧困層が抱く現状への不満は、移民の排斥、異分子の嫌悪に結びつき、ナショナリズムが形成される。扇動的な政治家がそれをあおる。いま、そんな排外主義的ナショナリズムが世界に広がりつつある。米国のトランプ現象や、フランスの国民戦線をはじめとするヨーロッパ各国での右翼政党の躍進も根はひとつだろう。

EUがこれからどうなるのか、英国のEU離脱が世界の経済に与えるマイナスの影響はどのていどなのか、専門家たちの意見はさまざまだ。EU加盟国のなかに、英国に続いて離脱しようとする国が出るのではないかと恐れる人もいれば、かえって結束が固まる方向に行くだろうと見る人もいる。ただ、経済の停滞とイスラム過激派のテロを背景に、ヨローロッパの主要国でナショナリズムが高まり、移民排斥の気運が高まっていること、勝ち組である独仏が主導するEUの体制に対して抱く負け組の国々の不満が増大していることを考えると、EUの今後が多難なことは間違いないだろう。

偏狭なナショナリズムが高まり、共存ではなく孤立への道を歩むと、国どうしの争いが勃発する危険が高まる。2回の大戦を経験した教訓によってEUが生まれた。その理念は、争いをなくし、協調してことに当たろうという精神だ。いまの流れが加速されれば、その協調志向が崩壊する。米国でのトランプ人気を支えるのも英国でEU離脱を支持した人々と同じく、富の分配にあずかれず現状に不満を抱く者たちだ。まさかトランプが次期大統領に選ばれることはないと思っていたが、今回の英国での投票結果を見ると、そうも言い切れなくなってきた。そうなれば世界の混迷はますます深まるだろう。

EU離脱に賛成するかしないかはともかく、日本の現状を考えると、英国民がこのようなドラスティックな選択をしたという事実は、ある意味で羨ましい気がしないでもない。日本では安倍政権がいかに失政を重ねても、憲法違反の集団的自衛権を容認しても、アベノミクスが破綻しても、内閣支持率は下がらず、自民党は安泰のままだ。最悪の政権でも存続を許す日本国民と、キャメロン首相にノーを突きつけた英国民、この違いはどこから来るのだろう。ともかく、日本国民は大人しすぎる。少しは英国人の爪の垢を煎じて飲まなければならない。

2016.05.29 (土)  オバマ大統領の広島での演説に思う

今回のオバマ大統領の広島訪問に関しては、あらゆるメディが歓迎一色に染まっていた。「謝罪しないのなら来るな」という声がまったく上がらないのは異様だった。ましてや、つい先日、沖縄で元米兵による女性殺害事件があったばかりだ。オバマ帰れの声が少しは湧き上がってもおかしくない。異論はあったが、友好ムードに水を差したくない政府に迎合するマスコミがあえて黙殺したのかもしれない。

米国大統領の被爆地訪問はたしかに意義あることだと思う。しかし、5月27日のオバマ大統領の広島での演説は、おおむねメディアでは好評をもって報道されているが、ぼくは苦々しい思いがこみ上げてくるのを禁じ得なかった。原爆の投下がまるで他人事のように語られていたからだ。その言葉には主語がなく、受動態によって、まるで天災かなにかであったかのように語られた。そこには米国が実行したという意識が見事に抜け落ちていた。謝罪しないということは分かっていたし、米国内の議会や世論への配慮から明白な謝罪はできないにしても、原爆を投下した国としての責任がまったくなく、むしろ「原爆を落とされたのは日本に責任がある」と言っているような言外のニュアンスは、米国人の驕りを感じさせた。和解は歓迎すべきことだし、相手を赦すのは重要なことだ。だが、まったく反省しないどころか、当然のことをしたまでだと居直る人間を赦すのは難かしい。

核廃絶に向けての努力を口にするオバマの言葉も空しく響いた。オバマは2009年、プラハでの演説で、核なき世界を追求する決意を表明してノーベル平和賞を受賞したが、その後の彼は何ひとつその決意を実行してこなかったし、その言葉とは裏腹に、核を保有する姿勢を崩さなかった。それを象徴していたのが、広島を訪れた際にも随行員が手に提げていた核兵器の使用を指令するための「核のカバン」だった。核による抑止力が有効だとする理論がいまだに支配的であり、ロシアや中国が核兵器を重視する政策をとっている国際社会にあって、核廃絶の方向にはなかなか転換できないという現実は理解できる。しかし、オバマが掛け声ばかりで、核廃絶の気運を盛り上げようという努力すらしていないでのは責められてもしかたがない。核廃絶を唱えながらも自国では核兵器の近代化を推し進めるオバマと、核なき世界を口にしながらも米国に追随して国連での核兵器禁止条約の提案に反対する日本。そこに悪しきダブル・スタンダードが端的に表れている。

「日本に原爆を投下したのは、戦争を早く終わらせるため、何十万人もの兵士の命を救うためだった」というのが米国の大義名分だが、そこに人種差別と人体実験の要素があったことは明らかだ。米国は自分たちの同胞であるヨーロッパの国民には原爆を落とさなかったに違いない。彼らに「アジアの黄色人種ならいいだろう」という考えがあったであろうことは否定できない。

かなり昔のことだが、知り合いの米国人と話していて、話題が第2次大戦に及び、ぼくが「原爆は日本に落とす必要などなかった。当時の日本には戦力も体力も食糧もなく、戦争を続けられるような状態ではなかった。日本が降伏するのは時間の問題だったのに、米国は原爆を投下して30万人の市民を殺した」と言ったら、彼は「そんなことだとは全然知らなかった。戦争を終わらせるために使わざるを得なかったのだとばかり思っていた」と答えた。米国人は学校でそのように教育されてきた。米国でのアンケート調査によると、以前は日本への原爆の投下が「正しかった」と回答する人が70&から80%を占めていた。だが、情報が発達して真実を知る機会が高まった結果、最近の調査によると、「正しかった」という回答が45%に減った。それでも、「間違っていた」と回答する人は29%だから、依然として「正しかった」と考える人のほうが多いが、その差は縮まっている。しかも若年層では「間違っていた」とする人のほうが、若干だが「正しかった」とする人を上まわった。年齢層が上になるほど「正しかった」と回答する人が多数を占める。これを見ると、原爆投下に対する意識が、とくに若者のあいだで、大きく変化していることが分かる。これは明るい材料だと言えよう。

それにしても、今回の安倍政権のオバマへの厚遇ぶりは異常だった。広島訪問による日米の歴史的和解、結束の強さをアピールするためであろうが、G7のその他の国などどうでもいいというような、ないふりかまわぬ米国追随ぶりを、サミットに出席した他の首脳は不快に感じたのではないだろうか。本来なら、広島への訪問はオバマだけでなくG7の首脳全員で行なうべきだったであろう。

広島でオバマの後に演説した安倍首相は、自分のやっていることと正反対のことを平気で口にしていた。いつものこととはいえ、よくそんな二枚舌を使えるものだ。G7の会合で安倍は「世界はリーマンショック級の危機にある」と叫んで各国首脳を困惑させた。この頓珍漢な発言は世界中から失笑を買った。どうにも救いがたい愚鈍ぶりであり、無恥のきわみだ。参院選を見据え、アベノミクスの失敗を世界の経済危機に転換して消費税増税の延期への布石ししようという魂胆なのは目に見えている。政権維持のためにサミットを出汁に使おうとしたのだ。あまりに稚拙で姑息なやり方だと言うほかない。

2016.04.16 (土)  あのリスベットが帰ってきた、『ミレニアム4』とともに

『ミレニアム』3部作――「ドラゴン・タトゥーの女」「火と戯れる女」「眠れる女と狂卓の騎士」――は、スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンによるサスペンス&アクション・ミステリー小説シリーズだ。本国では2005年から2007年にかけて発売された。それから1年後には世界各国で翻訳本が刊行されて大きな話題になり、日本でもベストセラーになった。だが、作者はこの3部作を書き終えたあと、刊行を前にして急逝したため、シリーズはこのあと途絶えてしまった。作者は6部作の構想をもっており、4作目以降についてはスケッチが残されていたとされている。出版社はそのスケッチを基にして他の作家にシリーズを書き継がせようとしたが、著作権をめぐって遺族と元パートナーのあいだで対立が起こり、実現できないままになっていた。

そして突然、昨年末に『ミレニアム4 蜘蛛の巣を払う女』上下巻が早川書房から翻訳刊行された。どんないきさつがあったのか分からないが、執筆したのはダヴィド・ラーゲルクランツという国外では無名のスウェーデン人作家だ。シリーズの原著者ラーソンが書き残したスケッチには拘泥せず、この作家がおおもとから新たに構想を練ったオリジナルな小説だという。『ミレニアム』3部作を読んで心躍る感覚を味わったぼくは、期待と危惧の念を抱きながら、この新作を手にした。そして、読み進むうちに危惧は雲散し、期待が裏切られなかった嬉しさが湧き上がった。

『ミレニアム』3部作の面白さのひとつは、登場人物は共通だし、話の流れも受け継がれているのに、3作それぞれのスタイルが異なっていた点にある。第1作はホラー風サスペンス、第2部は冒険アクション、第3部は法廷ミステリーと、一作ごとにテイストが異なっており、それが全体のストーリーに奥行きを与えていた。今回の新作はITスリラーとスパイ・アクションをミックスしたような作風になっている。主人公のジャーナリスト、ミカエルと、天才ハッカー、リスベットをはじめ、前作から引き継がれる登場人物たちはまったく同じキャラクターであり、作者が綿密に3部作を研究した跡がうかがえる。新たに登場する人物は多彩だが、それぞれの性格と個性は巧みに描き分けられている。起伏に富んだプロット、スピーディな場面展開も申し分ない。旧シリーズと比べて遜色ない出来ばえであり、原著者のラーソンが書いたものだと言われても信じてしまうだろう。

このシリーズの最大の魅力は、リスベット・サランデルという、背中にドラゴンの刺青を入れた、天才的なハッキングの才能と情報収集能力を備え、格闘や射撃にも長けた、人間嫌いだが独特の正義感をもつ、パンク少女風の格好をした小柄な娘の造形にあった。『ミレニアム4』によってそのリスベットが帰ってきたのが、なによりも喜ばしい。今回も彼女は胸のすくような活躍を見せる。長年音信がなかったミカエルとリスベットが、ある事件をきっかけに再び連絡を取り合い、協力して事件を解決していく流れの小気味よさは、心憎いばかりだ。リスベットが自閉症の少年を助けて逃亡するうちに、その少年と心を通わす挿話には心を打たれるし、深い余韻を漂わせるエンディングも鮮やかだ。

ひとつだけ難点を言えば、新作でリスベットとミカエルが遭遇するのが新しい敵ではなく、旧シリーズの流れを引きずった敵であることだ。原著者ラーソンの意図がどうだったかは知らないが、前3部作で強敵を倒し、大団円を迎えたのだから、新しいシリーズでは、再び過去の亡霊と対決するのではなく、まったく新しい巨大な敵に渾身の戦いを挑んでほしかった。それはともかく、これからどんな展開になるにせよ、次に刊行される第5部がいまから待ち遠しい。

2016.04.02 (土)  秘話が明かされるブラウニーのドキュメンタリーDVD

先日、クリフォード・ブラウンのドキュメンタリーDVD 『Brownie Speaks: A Video Documentary』(2014) を入手した。ブラウンと個人的に親しかった人々、近親者、友人、バンド・メイトなどのインタビューや、ゆかりの地の映像、さまざまな写真や音楽などによって構成された、彼の生涯と業績を検証するDVDだ。

ブラウンの伝記『クリフォード・ブラウン〜天才トランぺッターの生涯』(ニック・カタラーノ著)により、その人柄や実績はすでにファンには馴染み深いが、彼の兄妹やベニー・ゴルソン、ドナルド・バード、ルー・ドナルドソン、ハロルド・ランドなどのミュージシャン仲間が語る思い出話を聞くと、字幕がないのでインタビューで喋っている内容は完全には分からないけれども、いまさらながらブラウンがいかにみんなに愛されていたか、いかに周囲に大きな影響を及ぼしたかが実感として伝わってくる。興味深いのは、ちらっと登場して訳の分からないことを呟くブラウンの若き日の恋人アイダ・メイや、ブラウンにトランペットを教えた伝説の教師ボイジー・ロワリーが思い出を語る貴重な映像だ。

ぼくがこのDVDで一番期待していたのは、ブラウン自身の演奏が収められた新しい動画が見られるのではないか、ということだった。ブラウンの動画として現在巷に流布しているのは、1956年2月に彼がスーピーー・セイルス・ショウというテレビ番組に出演して演奏した〈レディ・ビー・グッド〉と〈メモリーズ・オブ・ユー〉の2曲だけである。これらはYouTubeで見ることができるが、画質はおそろしく劣悪だ。伝記によるとブラウンはスティーヴ・アレン・ショウという番組にも出演したらしいので、その映像がどこかにに残っている可能性がある。だが、このDVDに挿入されているのはスーピー・セイルス・ショウの断片だけであり、しかも画質はさほど良くない。その点では残念ながら期待外れだった。

しかし、それを補ってあまりあるのは、ブラウンの妻だったラルーと息子のクリフォード・ジュニアのインタビュー映像だ。クリフォード・ジュニアはブラウンが1956年6月に亡くなったとき、まだ生後7ヵ月だった。成長した彼はカリフォルニアのラジオ局でジャズを中心とした番組のDJをしており、その世界では著名な存在だという。彼は、子供のころに父が有名なジャズ・ミュージシャンたっだことを認識した経過や、偉大な父をもったことの誇りなどについて淡々と語っている。

そしてブラウン未亡人のラルーは夫の思い出を語っているが、驚いたのは、そこで「クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス」のレコーディングにまつわる秘話が明かされていることだ。知られるように、このLPは、ブラウンがストリング・オーケストラをバックに、スタンダード曲をほとんどアドリブを交えず、原メロディをストレートに吹いたものだ。ムード音楽としては一級品だが、インプロヴィゼーションが含まれていないのでジャズとは言えない。なぜ身も心もジャズに捧げていたブラウンがこんなアルバムを録音したのか、ぼくは以前から不思議に思っていた。同じウィズ・ストリングスものでも、たとえばチャーリー・パーカーのレコードは演奏のなかにアドリブのパートがあり、ブラウンのものとは根本的に異なる。

インタビューでラルーは次のように語っている。「結婚して間もなく、彼は子供を欲しがりました。私はもっと二人だけの生活を楽しみたかったので、まだ駄目と言いました。でも彼はあきらめず、何度も私に頼みました。根負けした私は、じゃあ、私の好きなスタンダード・ソングをイージー・リスニング・スタイルで演奏するレコードを作ってくれたらオーケーするわ、と言いました」。そうか、そうだったのか。あのレコードは子供が欲しかったブラウンが妻のリクエストに応えて吹き込んだものだったのか。なんともほほえましいエピソードだ。ぼくは長年の疑問が解けた思いがした。それがこのDVDの一番大きな収穫だった。

2016.02.28 (日)  昨年公開の外国映画ベストテン

もう時期遅れなので止めようかとも思ったが、毎年やっているので、やはり書いておかないと気持ちが落ち着かない。昨年公開された外国映画の、ぼくが見た範囲内でのベスト・テンだ。
 1 『イミテーション・ゲーム』 監督:モルテン・ティルドゥム (英・米)
 2 『アメリカン・スナイパー 』 監督:クリント・イーストウッド (米)
 3 『あの日のように抱きしめて』 監督:クリスティアン・ベッツォルト (独)
 4 『独裁者と小さな孫』 監督:モフセン・マフマルバフ (ジョージア・仏・英・独)
 5 『チャッピー』 監督:ニール・ブロムカンプ (米)
 6 『セッション』 監督:デミアン・チャゼル (米)
 7 『ミッション・インポッシブル/ローグ・ネイション』 監督:クリストファー・マッカリー (米)
 8 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』 監督:ジョージ・ミラー (豪・米)
 9 『007 スペクター』 監督:サム・メンデス (英)
10 『バードマン』 監督:アレハンドロ・イニャリトゥ (米)
1位の「イミテーション・ゲーム」は、コンピューター創造の基礎を築いた数学の天才であり、第2次大戦中に敵国ドイツの暗号解読に貢献した実在の英国人アラン・チューリングの、実話をもとにした歴史秘話だ。チューリングは天才にありがちの、心に闇を抱えた、孤独を好む傲岸不遜な男。彼はチームを率いてナチスの暗号エニグマを解読し、英国の対独戦争勝利を陰で支えたが、その事実は後年になるまで明らかにされることはなく、恥ずべき汚名を着せられて失意のうちに亡くなった。この映画ではそんな男の栄光と悲哀が描かれる。英国では60年代末まで同性愛は違法行為であり、処罰の対象になっていたことを知れば、チューリングの悲劇はいっそう重く胸に迫る。特異な容貌のベネディクト・カンバーバッチは迫真の演技でエキセントリックな主人公を演じている。脚本がよく書けており、落ち着いた画面の色調も素晴らしい。

2位の「アメリカン・スナイパー」も実話に基づいた映画で、イラク戦争の英雄だった狙撃の名手が主人公。彼の人生が、生い立ちや妻との出会いなども含め、気負いなく、ごく自然に描かれる。戦場の描写が圧巻であり、異様な緊迫感に満ちている。監督クリント・イーストウッドの衰え知らずには驚かされる。84歳でこれだけのパワーと演出力を見せるとは奇跡に近い。前作の「ジャージー・ボーイズ」も良かったが、今作も見事な出来だ。イーストウッドは題材の選び方がうまいし、映画の文法を知っている。じっくり描くべきところ、省略すべきところが分かっている。だから、まったくだれる箇所がない。すごい監督だ。

3位の「あの日のように抱きしめて」は風変わりな映画だ。舞台は第2次大戦末、ドイツ敗戦直後のベルリン。強制収容所で顔に大怪我を負った女が、整形手術を受けて街に戻り、生き別れた夫を捜す。女はようやく夫を捜しあてるが、彼は彼女が妻だとは気がつかず、妻の財産を自分のものにするため妻になりすましてくれと彼女に頼む。女は真実を隠してその提案を受け入れるという、なんともミステリアスなストーリーだ。印象深いシーンがある。夫がアパートで妻の衣服を女に着せる、女は無表情でそれを着る、着終った女を恍惚とした表情で夫が見つめる――奇妙な倒錯した愛の感覚が漂う。これは明らかにヒッチコックの映画「めまい」へのオマージュだ。このシーンは、「めまい」でのジェームス・スチュアートと再会したキム・ノヴァクとのアパートでの官能的なシーンと重なり合う。これは第2次大戦を題材にしているが戦争映画ではない。男と女のねじれた愛のかたちを描いた映画だ。

それに劣らずユニークな映画だったのは4位の「独裁者と小さな孫」だ。独裁者が支配する中央アジアの小国が舞台。その国に革命が起こり、逃げ遅れた初老の独裁者が小さな孫を連れて、羊飼いや旅芸人に変装しながら国外脱出を目指す。映画はその逃避行をユーモアと残酷さが入り混じった視線で追いかける。国民を搾取し、多くの人々を無実の罪で処刑してきた独裁者への復讐の念に燃えて民衆は暴徒と化す。獄舎から解放されて故郷に帰る政治犯は悲惨な現実を目にする――それらをすべてを幼い孫が穢れなき目で見つめている。クライマックスの浜辺のシーンは衝撃的だ。ここには、人間の愚かさ、やさしさ、残酷さが、冷徹なタッチで描かれている。孫に扮した少年の自然な演技に驚かされる。日本の凡百の子役には及びもつかない巧さだ。

以下は駆け足で。5位の「チャッピー」は子供の心を持つロボットと社会の底辺に生きる人間の心の通い合いを描いたSF映画。ならず者のチンピラが、最初はバカにしていたロボットとしだいに気脈が通じ、ついにはロボットを守って敵と戦う、その心意気に打たれる。6位の話題になった「セッション」はビッグ・バンド・ドラマーを目指す青年と、彼を厳しく指導する鬼教師との熾烈な戦いを描いた、一種のスポコン映画。鬼教師の壮絶なしごきに耐えて猛訓練する青年、その意地と根性のぶつかり合いが見どころだ。ジャズの本質に対する理解が希薄だし、教師の狂気を帯びた言動には辟易するが、ラストの演奏シーンはなかなかの迫力。

7位の「ミッション・インポッシブル/ローグ・ネイション」はよくできたアクション映画で、主演トム・クルーズの体を張った危険な演技はなかなかのもの。ジャズ・ファンとしては、冒頭のシーンで名盤「モンク&コルトレーン」が小道具として使われ、通好みのドラマー、シャドウ・ウィルソンの名がキーワードとして出てくるのが嬉しい。アクション・シーンで言えば他を断然圧していたのが8位の「マッドマックス/怒りのデス・ロード」だ。メル・ギブソンが主演した前の「マッドマックス」3部作にはそれほど惹かれなかったが、この新作は撮影が凄まじく、発想もユニークだし、大いに楽しめた。主演のトム・ハーディは面構えがいいし、ヒロインのシャーリーズ・セロンの女戦士振りにも目を見張らされる。とはいえ、これはアカデミー作品賞にノミネートされているし、キネ旬の外国映画ベストテンでは1位に入っているが、そこまでの映画とは思えない。9位以下についてのコメントは割愛。

2016.02.14 (日)  「夜は千の眼を持つ」をめぐって

以前から見たいと思っていた映画「夜は千の眼を持つ」(Night Has a Thousand Eyes)が先ごろ日本でDVD発売され、ようやく念願がかなった。1946年制作のアメリカ映画、ジョン・ファロー監督、エドワード・G・ロビンソン主演のフィルム・ノワールだ。ある夜、鉄橋から飛び降り自殺しようとしている若い女を、追いかけてきた恋人の男が助ける、彼女は空を見上げて“千の眼が見つめている・・・怖い”と口走る、という魅惑的なプロローグから、映画は始まる。間もなく予知能力を持つマジシャンが登場し、自らの過去を語り始める。たまたま若い女が1週間後に死すべき運命にあるのを予知した彼は、それを阻止しようと奔走する、という内容である。この映画は、ほぼ全編が夜のシーンで占められており、予知能力をめぐる不思議な謎、運命に踊らされる者たちが抱く不安感が全体を覆っている。フィルム・ノワールらしいダークな雰囲気が横溢した佳品だった。主演のエドワード・G・ロビンソンは貫禄充分だし、ヒロインのゲイル・ラッセルも瑞々しい美しさを発散していた。

この映画の原作はミステリー作家コーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)が書いたサスペンス小説だ。ぼくははずいぶん前に読んだことがある。たしか原作では、自殺しようとする女を助けるのは、たまたま通りがかった刑事という設定だったはずだ。未来を予知するマジシャンの回想シーンがやたらに長く、全体の3分の2ほどを占めるという破格の構成になっていた。空に輝く星が恐怖をあおるという発想や、予言された死から逃れられるかどうかというサスペンスが面白く、ウールリッチ独特の哀愁味や寂寥感と相俟って、なかなか面白かったという記憶がある。映画は比較的、原作に忠実に作られていると思う。"Night Has a Thousand Eyes"という印象的な題名は、どうやら19世紀後半のイギリスの詩人、フランシス・ウィリアム・バーディロンの詩の一節が出典らしい。

ジャズ・スタンダードとして知られる曲「夜は千の眼を持つ」はこの映画の主題歌ということになっている。ところが、映画のなかではこのメロディはパーティ会場のダンス・シーンでちらっと流れるだけ、ほとんど印象に残らず、とうてい主題歌とは言い難い。この曲の作詞はバディ・バーニアー、作曲はジェリー・ブレイニン、ほとんど無名のソングライターたちだ。映画のスタッフ・クレジットには、“音楽:ヴィクター・ヤング”とだけ表記されており、この2人のクレジットはどこにも見当たらない。そんなわけで、映画に使われた経緯は謎めいている。この曲は1960年のジョン・コルトレーンの演奏によって有名になり、その後、ソニー・ロリンズ、ソニー・スティット、スタン・ゲッツ、ポール・デスモンドなど、多くのジャズメンが採り上げてスタンダード化した。インスト・ナンバーとして用いられることが多く、主にラテン・リズムを使って軽快に演奏されるが、ヴォーカル曲としてもカーメン・マクレエ、モーガナ・キング、ボサ・リオなどが歌っている。歌詞の内容は“夜は言葉の奥に隠されたものを見抜く。夜は千の眼を持っているから、真実の心と嘘の心を見分けることができる”というもので、東洋のことわざに当てはめれば“天網恢恢疎にして漏らさず”ということになろうか。

ところで、これには同名異曲がある。60年代前半に活躍したアメリカのポップ歌手ボビー・ヴィーにによる「The Night Has a Thousand Eyes」というヒット曲だ。「燃ゆる瞳」という邦題がついている。“ぼくには嘘をつかないでくれ。空にある千の眼をごまかすことはできないんだから”と不実な恋人に訴えかける歌詞で、調子のいい軽快な歌だ。1962年にビルボード誌Hot100の3位に入る大ヒットになった。カーペンターズがあの名盤『ナウ・アンド・ゼン』でカヴァーしている。

「夜は千の眼を持つ」の原作者コーネル・ウールリッチのサスペンス小説は40年代後半から50年代前半にかけて、アメリカで数多く映画化された。いちばん有名なのはヒッチコックが監督した「裏窓」であろう。ぼくが好きなのはロバート・シオドマク監督の「幻の女」(Phantom Lady)だ。これは小説も名作だが、映画もロー・キーを生かした撮影が素晴らしく、当時さかんに作られたフィルム・ノワールを代表する傑作だと思う。ほかにも「暁の死線」(映画題名「デッドライン25時」)、「黒い天使」、「窓」、「豹男」などが映画化されている。彼の作品には、期限内に事件を解決しなければ自分の身が危なくなるというタイム・リミット設定のものが多く、追われる者の不安や孤独、自分は無実なのに誰も言うことを信じてくれないといった状況が哀感たっぷりの筆致で描かれており、フィルム・ノワールで採り上げるにはぴったりの素材だった。60年代末にフランスのトリュフォー監督がウールリッチ作の「黒衣の花嫁」と「暗闇へのワルツ」を映画化したが、内容的には凡作だった。

2016.01.30 (土)  ベルリンの壁と冷戦

最近、たまたま冷戦下のドイツを舞台にした小説を、2冊続けて読んだ。ひとつは須賀しのぶという作家の 『革命前夜』 (文藝春秋2015年)。これは1989年、ベルリンの壁が崩壊する直前の騒然としたドイツ、ドレスデンの音楽大学に留学した日本人のピアノ学徒を主人公とする、一種の青春小説であり、なかなかの力作だった。東独では人々が弾圧や告発に怯えながら西側に逃げようとする。やがて東側諸国で民主化運動が勃興し、社会主義政権が倒れ、ついにベルリンの壁が崩壊する。そんな状況のなか、バッハを敬愛する主人公の青年は、さまざまな学友たちと交流し、悩んだり啓示を受けたりしながらピアノを極めるため苦闘する、という内容である。作者はクラシック音楽に造詣が深いと見え、主人公が練習したり演奏会で弾いたりする有名なピアノ曲の音楽的描写は堂に入ったものだと思うが、門外漢のぼくにはその成否がよく分からない。「クラシック未知との遭遇」のコラムを担当している清教寺氏の意見を聞いてみたいところだ。

もう1冊は特捜部Qシリーズで知られるデンマークのミステリー作家ユッシ・エーズラ・オールスンが書いた 『アルファベット・ハウス』 (早川書房2015年)。第2次大戦中、親友同士である2人の英空軍パイロットがドイツ上空で撃墜されて不時着。あやうく脱出した彼らは傷病SS将校になりすまし、精神に異常をきたした振りをしてフライブルク近郊の精神病棟に送られる。そこに略奪した財宝で金儲けを企む悪徳将校たちが紛れ込み、彼らを虐待する。身の危険を感じた英軍パイロットのひとりは、もうひとりを残したまま単独で病棟から脱出する。それから30年近く経ったあと、自責の念に駆られた彼は親友の安否を確認するためフライブルクに向かう、という内容の活劇サスペンス小説だ。精神病棟の陰惨な光景が描かれる第1部、主人公の必死の捜索によって真実が明かされる第2部、いずれも読みごたえがある。

この2作を読んで、むかし旅行したベルリンやドレスデンの街並みを思い出していた矢先、スティーヴン・スピルバーグ監督の新作映画 『ブリッジ・オブ・スパイ』 を見たら、そこにまたもや冷戦時代初期のベルリンの光景が映し出されていた。この映画は史実に基づいている。冷戦が始まった1950年代末期の米国、主人公の弁護士は政府の指示により、捕まったソ連スパイの裁判で弁護人を引き受け、愛国主義者たちの中傷や脅迫に合いながら信念を貫き、弁護に当たる。やがてソ連上空をスパイ飛行中のU2型機が撃墜され、パイロットが捕らわれる。服役中のソ連スパイと捕虜になった米軍パイロットの交換話が持ち上がり、主人公はその交渉と交換実現のため東ベルリンに向かう。彼が赴いたベルリンでは、東西を隔てる壁を建設している最中だった、という内容である。

スピルバーグは重い政治社会テーマを素材に、良質の娯楽性に富んだ奥深い人間ドラマに仕上げており、その鮮やかな手腕には脱帽せざるをえない。出演者は主演のトム・ハンクス以外、ほとんど知られていない役者ばかりだが、彼らの演技は素晴らしく、とりわけソ連のスパイになる俳優は際立っている。映画は50年代末期という時代を、風俗やテレビ番組や音楽など、細部にわたって見事に再現しており、その点でも一見の価値がある (懐かしの「サンセット77」が丸い画面のブラウン管テレビから流れる!)。 とりわけ印象深いのは、米ソの駆け引きが見事に描かれる東ベルリンの情景だ。以前、テレビのドキュメンタリー番組でベルリンの壁を建設中の生々しい映像を見たが、この映画では、大通りの真ん中に建てられる壁、西側に逃げようとして窓から飛び降りる市民など、ドキュメンタリー映像と全く同じ光景が映し出さ出ており、慄然とする。

このところ、出版物や映画やテレビ番組などで、冷戦やベルリンの壁をテーマにしたものが多いような気がする。頻発するイスラム過激派のテロ、混迷する中東、激しさを増す大国どうしの覇権争いといった現代の世界情勢が、その遠因である第2次大戦後の冷戦時代の回顧、検証に走らせるのだろうか。

1月24日にNHKで放送されたドキュメンタリー・シリーズ「新・映像の世紀」の第4集 「冷戦:世界は秘密と嘘に覆われた」 は衝撃的な番組だった。冷戦時代、東側ではスターリンや東独の秘密警察が人々を弾圧し、米国では、FBIが国内の人権を侵害し、CIAが海外の秘密工作に携わって各国で反米政権を転覆させた。この番組ではその経緯がつぶさに映像で明らかにされる。これを見ると、冷戦時代は核兵器戦争が現実の恐怖として世界を覆っていたこと、そしてジョンソンのような無能無策の大統領、レーガンのような極右思想に凝り固まった大統領が共産主義への敵対心をあおって世界各地で紛争や混乱を引き起こしたことがよく分かる。ベルリンの壁に象徴される冷戦は1989年に終わったが、その後遺症は大きい。アルカイダやISのような組織は米国の陰謀が撒いた種から出現したのだ。

2016.01.16 (土)  年始雑感

年末から年始にかけて、のどかな正月気分に水を差すようなショッキングなニュースや事件が相次いだ。

12月28日、慰安婦問題に関する日韓の合意が電撃的に発表された。遅きに失したとはいえ、これは安倍政権の外交的成果を評価せざるを得ないと思っていたら、なんのことはない、韓国内で元慰安婦や支援団体の激しい反発に合い、韓国政府は立ち往生している。そもそも安倍首相の謝罪は口先だけ、心中では誤った歴史認識を改めようとせず、謝罪の気持ちなどかけらもないことは見え見えだ。この合意は日韓双方ともアメリカに言われて従っただけの政治的産物にすぎない。安倍が韓国に行き、彼女たちに会って頭を下げでもしないかぎり、元慰安婦たちは納得しないし、少女像の撤去に応じないだろう。しかに安倍にそんな度胸や勇気があるはずもない。ましてや、元慰安婦の気持ちを逆なでするような妄言を吐くバカな国会議員が出てくる。安倍の周りは右翼国粋主義の側近だらけだから、今後もそんな発言は続くだろう。

大晦日の夜の祝賀騒ぎのなか、ドイツのケルンで起きた集団暴行事件がドイツに激震を走らせている。容疑者のなかに中東からの難民が含まれていたことから、もともとイスラム排斥を訴えてきた極右勢力が、ことさら不安をあおりたて、移民排斥の気勢を上げている。集団心理による犯罪や性的暴行はなにも難民にかぎった話しではない。そして100万人以上にのぼる多数の難民が流入したら、そのなかにたちの悪いのが混じっているのは当然だ。それなのに、この事件を契機に、ドイツ国内の排外主義たちと呼応するかのように、EUの旧東欧諸国も、もともと反対していた難民受け入れ政策への反発を強めているという。難民を積極的に受け入れてきたメルケル首相はさぞ頭が痛いだろう。

1月3日にサウジアラビアがイランと国交を断絶した。サウジがシーア派の聖職者を処刑し、それを怒ったイランの民衆がサウジ大使館を襲撃したのが発端だった。中東の大国、サウジとイランには、もともとスンニ派とシーア派の宗教的な対立があったが、今回、サウジが強硬策に出たのは、石油価格の下落により経済が悪化し、充満した国民の不満を外部に転嫁するため、そして蜜月関係にあったアメリカが敵国イランと融和しようとしているのを牽制するためだった、と専門家は分析している。この機に乗じてサウジに手を伸ばそうとするロシア、虎視眈々と状況をうかがう中国、イスラムの強国どうしの抗争をほくそ笑んでいるイスラエル、中東の覇権をめぐる大国の思惑が危機をあおる。

イスラム国(IS)のテロは続発する。1月12日にはイスタンブールで、そして14日にはジャカルタでテロが発生、ついにアジアにまで及んだ。イスラム過激派テロの根本的な原因は、格差、貧困、差別、そして欧米大国のエゴにある。力で抑え込もうとするかぎり、憎悪の連鎖は続き、テロはなくならない。

1月6日に北朝鮮が行なった水爆実験は、日本のメディアにも世界各国にも大騒動を巻き起こした。ほんとうに水爆だったのかどうかについては疑義が呈されているが、いずれにせよ、日本がこのことで大騒ぎするのは、北朝鮮と日本国内の軍備拡張論者の思うつぼであり、愚の骨頂だ。これは北朝鮮が常套手段とする挑発であり、北朝鮮への対応は国連安保理に任せておけばいいのだ。

国内では1月4日に通常国会が始まったが、相も変らぬ次元の低い論戦に終始している。目立つのは安倍の強硬姿勢だ。安倍は完全に野党を舐めている。参院選を見越し、安倍政権は財源を無視して未曾有のバラマキ政策を進めている。選挙のために金を配るのだから、これは選挙違反に等しい。いっぽうで安倍は、あれだけ急いで安保法案を成立させたのに、いまのところ自衛隊の海外派遣は封印している。選挙前に派兵すれば国民から反発されるからだ。だが、衆参両院で3分の2を確保すれば、いまは猫かぶりるしている安倍は一気に本性を表すだろう。共産党の野党共闘の申し入れを蹴った民主党は参院選で勝つ大きなチャンスを逸した。参院で与党が3分の2以上の議席を取れば、自民党は何でもできる。すでに安倍は勝った気になり、改憲を口にしている。いまとなっては安倍が調子に乗りすぎて失策を犯すのを待つしかない。

2015.12.28 (月)  2015年海外ミステリー・ベスト10

今年も相変わらず国内ミステリーは盛況を呈していたが、海外ものの出版は低調だった。そのため国内作品を加えないと10作をすべて満たすことができなかった。マーク・グリーニーやマイケル・コナリーといった、ぼくの守備範囲である冒険・ハードボイルド系のすぐれた作家の新作が出版されなかったこともあり、今年は例年に比べてちょっと寂しいベスト10になった。
 1 『神の水』 パオロ・バチガルピ (早川SFシリーズ)
 2 『槐 (エンジュ)』 月村了衛 (光文社)
 3 『限界点』 ジェフリー・ディーヴァー (文藝春秋)
 4 『強襲』 フェリックス・フランシス (イーストプレス)
 5 『模倣犯』 M・ヨート & H・ローセンフェルト (創元文庫)
 6 『声』 アーナルデュル・インドリダソン (創元社)
 7 『スキン・コレクター』 ジェフリー・ディーヴァー (文藝春秋)
 8 『アノニマス・コール』 薬丸岳 (角川書店)
 9 『ありふれた祈り』 ウィリアム・ケント・クルーガー (早川ポケミス)
10 『ゲルマニア』 ハラルト・ギルバース (集英社文庫)
1位に挙げたパオロ・バチガルビの『神の水』はSFと銘打たれて出版された作品だが、内容的にはダークなイメージをたたえたパワフルなヴァイオレンス冒険小説だ。面白さの点では他を圧倒しており、数年前に話題になったドン・ウィンズロウの『犬の力』を思い起こさせる。舞台は近未来のアメリカ、地球温暖化によって水が枯渇しかけているアメリカ南西部では、コロラド川の水利権をめぐって各州が抗争している。主人公は給水公社に雇われて派遣された工作員の男、それに敏腕ジャーナリストの女と難民の少女がからむ。物語はこの3人の行動がが交互に描かれ、やがて彼らは運命的な出会いを果たす。暴力と裏切りが支配する世界、崩壊しつつある荒涼とした都市で、彼らは苦闘しつつ人間性を保ちながら生き延びようとする。廃墟となったスラムで暮らす貧民と環境整備地区に閉じこもる富裕層、街を牛耳る麻薬カルテルなどの描写も異様な迫力にあふれている。

1962年にスタートして冒険小説ファンを熱狂させたディック・フランシスの競馬シリーズは全部で44作書き継がれた。さすがに中期以降は作者の筆力が衰えたが、ぼくは2010年の最終作まで、全作を読んでいる。最後の数作は息子のフェリックスとの共作だった。そしてディック亡きあと、フェリックスが単独で競馬シリーズを書き始めた。4位に挙げた『強襲』はその新・競馬シリーズの第一作だ。結論から言うと、これはなかなかの力作である。骨折して騎手を引退し、現在は財務アドヴァイザーを務める男が主人公。同僚が射殺された事件を調べているうちにインターネット・ギャンブルにまつわる陰謀があることに気づく。やがて暗殺者の魔の手が彼のもとの迫る、という内容。フェリックスの作家としての資質は父親の域に迫っている。これからの新作に期待したい。

ジェフリー・ディーヴァーの小説は、今年、2作出版された。3位の『限界点』は連邦機関に所属する警護官を主人公にした単発作品、いっぽう7位の『スキン・コレクター』はお馴染みリンカーン・ライム・シリーズの新作である。内容としては、プロのボディガードが才知を尽して凄腕の殺し屋から標的を守る『限界点』の面白さが際立っている。ディーヴァー得意のどんでん返しの連続で、最後までスリル満点だ。ニューヨークで起きた異常な連続殺人事件を追うライム・シリーズの新作『スキン・コレクター』も、いつものように読み応えは充分であり、新味も付け加えられたいるが、展開がパターン化した感があり、少し手垢がついたような印象は否めない。

国内ミステリーからは2作品をランクインさせた。月村了衛の2位『槐』は、手に汗握る凄まじい冒険アクション小説だ。最強の女戦士が、思わぬ行きがかりから、悪逆な暴力組織に襲われた子供たちと先生の集団を助けて立ち向かう。ちょっと荒唐無稽な感がなきにしもあらずだが、意外な展開と迫力あるアクション・シーンはリーダビリティ抜群で、小心な先生が身を挺して生徒を守るシーンなどもあり、めっぽう面白い。月村了衛は今年、もう1作、『影の中の影』という同じような趣向のアクション小説を上梓しているが、この『槐』のほうが数段すぐれている。8位に入れた薬丸岳の『アノニマス・コール』は、ある理由で刑事を辞めた男が主人公。離婚した元妻のもとにいる娘を誘拐された彼が、娘を奪還すべく自力で奔走する、というストーリーだ。設定にやや難はあるが、警察の腐敗をからませたり、癖のあるキャラクターの脇役を登場させたりと、最後まで飽きさせない。

今年もブームが続いている北欧ミステリーの新作なかで、とりわけ興味深かったのは5位のスウェーデン・ミステリー『模倣犯』だ。主人公の犯罪心理捜査官は、無類の女たらしで自己中心的という、なんとも嫌味な男で、周りから蛇蝎のごとく嫌われている。こんな反感を催させる不快な性格の男が主人公のミステリーなど、めったにないだろう。だが彼が身に降りかかった災難を乗り切るため連続殺人犯を捕まえようと悪戦苦闘するのを読み進むうちに、不思議にそんな唾棄すべき男に感情移入してしまう。登場する人物がみな人間味豊かなのも物語に奥行きを与えている。そんな奥行きの深さは北欧ミステリーのもう1作、6位に入れたアイスランドが舞台の『声』についても言える。かつてボーイ・ソプラノ歌手として名声を馳せた男の栄光と転落の人生と、主人公である心の傷を抱えたレイキャヴィク警察の警部の孤独な生活が、悲しみとほのかなユーモアをたたえながら文学的香り豊かに綴られる。

文学的香りといえば、9位のウィリアム・クルーガー作『ありふれた祈り』もそのスタイルに属するミステリーで、トマス・H・クックの記憶シリーズを想起させる。ミネソタの田舎町で暮らす平凡な家族を襲った悲劇が、主人公の少年時代の思い出として語られる。少年が大人の世界を垣間見るひと夏の体験は、切なく、ほろ苦い。個人的には、あまりこの手のミステリーは好きではないが、作者の確かな力量を感じる。10位のハラルト・ギルバース作『ゲルマニア』はナチスが支配する戦時下のベルリンが舞台、ユダヤ人であるため職を追放された元刑事が親衛隊に呼び出され、猟奇殺人事件の捜査を請け負うことになる。収容所送りになることを怯えながら、ドイツからの脱出を画策しつつ捜査にあたる彼は意外な真相にたどり着く、というストーリーだ。緊迫したベルリンの状況、空襲によって瓦礫と化した街の描写が巧みに描かれている。

2015.12.16 (水)  最大の不正と欺瞞を生み出しているのは安倍政権だ

今年は、海外ではイスラム国による多発テロ事件、国内では憲法違反の安保法制の成立と、暗いニュースが目立った。そして、フォルクスワーゲンの排ガス不正、旭化成建材の杭打ち工事データ偽装、東芝の不正会計、化血研の血液製剤不正といった、いろんな偽装や欺瞞が明らかになった年でもあった。しかし、私たちの生活に直接被害をもたらす最大の不正は、安倍政権による嘘とごまかしだったと言える。

安倍首相の欺瞞は、数え上げればきりがない。▼解釈改憲というごまかしによって安保法制をでっち上げ、他国の戦争に加担する道を作る。▼アベノミクスがすでに破綻していることは明らかなのに、成果を上げていると言い募り、“経済は回復基調にある”と嘘をつく。▼安保法制によって日米安保の片務性が解消されたと言いながら、米軍基地にかかる費用は減額できず、対米従属に徹して思いやり予算の増額を認める。▼日本人の安全が第一と言いながら、欧米とイスラム過激派の戦いに足を突っ込み、有志連合に参加すると公言して日本をテロの危険に巻き込む。▼話し合いの扉は開かれていると言いながら、時代錯誤の歴史認識を改めようとせず、隣国である中国、韓国との関係を冷え切らせ続ける。

安倍と菅の悪辣コンビによる嘘と言い逃れはまだまだある。▼コントロールされていると胸を張る福島原発は、いまだに汚染水を垂れ流し続けている。▼沖縄基地問題では、普天間の負担軽減を口実に、辺野古に新しい米軍基地を建設しようとする。▼弱者救済と少子化対策は掛け声だけ、利権を確保することと選挙で勝つことしか考えず、1億総活躍担当などという無用な大臣職を新設して糊塗し、大企業と結託して貧富の格差を増大させる。▼社会保障費の財源がないと言いながら、国政の無駄や利権の温床である独立行政法人を放置して費用の節約を怠り、大企業の法人税を減税し、防衛費を増大させ、選挙対策で金をばらまく。▼北朝鮮拉致問題は、解決に向かうどころか、むしろ遠のいているのに、進展しているかのように装う。

このように書いていくと、腹立たしさが募るばかりだ。安倍政権はまさに嘘と偽装で塗り固められている。暗愚な安倍の暴走は日本を泥沼のなかに引きずり込もうとしている。こんなに非道な政権は戦後かつてなかったのではないだろうか。野党はてんでんばらばらの状態で、まったく力がない。そもそも、倒閣の先頭に立つべき野党第1党の民主党が解体寸前だ。野党がだらしがないから安倍政権はますます増長する。やりたい放題だ。このままでは、来年の参院選で自民党が勝つのは目に見えている。

マスコミもまったく頼りにならない。読売、産経をはじめ、大新聞はすべて安倍の恫喝に委縮し、政権の広報誌に成り下がった感がある。新聞は、紙面で消費税を増税せよと言いながら、“知識には課税せず”などともっともらしい論理を持ち出し、自分たちだけは軽減税率の適用を受け、利益を得ようとする。公平を旨とする新聞が不公平を助長するのだ。そんな彼らが、どうして権力の乱用を阻止できようか。

稀代の劣悪な首相、安倍晋三と、その茶坊主である菅義偉官房長官は、国民を騙す国賊に等しい。あまりに国民をバカにしている。それなのに、支持率はいっこうに下がらない。国民はなぜ安倍政権の欺瞞を見抜けないのだろう。安倍の言う“日本はよくなる”という言葉を信じているのだとしたら、あまりにお人好しだと言わざるをえない。詐欺に引っかかったら、騙す方が悪いのはもちろんだが、見え透いた嘘に騙される方も阿呆なのだ。

来年はもっとましな世の中になってもらいたいものだが、暗い材料ばかりで、どう考えても明るい兆しは見えない。野党もマスコミも頼りにならないとすれば、国民が自覚し、怒りを持って立ち上がるしかない。国民が騙されていることに気がつき、それが突破口になって安倍政権打倒の機運が盛り上がることを願うのみだ。

2015.11.29 (日)  追想の原節子

原節子が9月に亡くなっていたというニュースが報じられたのは11月26日だった。享年95歳。不思議な偶然だが、その前夜、デビューして間もない若き日の彼女が出演した、夭折の天才、山中貞雄監督の映画「河内山宗俊」を見ていた。1936年の作品だ。映画そのものの、無駄を排したテンポのいい展開、奥行きを感じさせる画面構図に心惹かれるいっぽうで、ぼくは原節子の当時16歳にしては大人びた瑞々しい美しさに陶然となっていた。彼女が降りしきる雪を背景に哀しげにたたずむシーンの優雅な風情は絶品だった。

原節子が女優として活動したのは1935年から62年まで、年齢でいえば15歳から42歳までだ。彼女はデビューして間もなく、彫りの深い美貌によってスターになったが、女としての美しさが花開く20代前半は、太平洋戦争たけなわの時代で、もっぱら戦意高揚映画に出演していたのが惜しまれる。女優として本領を発揮し始めたのは戦後になってからだろう。小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男、吉村公三郎など、監督にも恵まれ、多くの名作に出演した。とりわけ小津安二郎とのコンビは有名になった。1963年、その年に亡くなった小津に殉じるかのように映画界を引退し、以後は人前にいっさい姿を現さなくなった。それが原節子を神格化した。

小学生のころ、母に連れられて見た映画のひとつに「ノンちゃん雲に乗る」(1955年)がある。子役の鰐淵晴子が主演した児童向け映画だが、鰐淵の母親役をやったのが原節子だった。だが、それは後になって知ったことであり、映画のなかでの彼女の顔はまったく覚えていない。中学に入って「日本誕生」(1959年)を見た。日本武尊に扮する三船敏郎が主演の神話を題材にした東宝オールスター映画だ。これには原節子がなんと天照大神の役で出ていた。この映画での彼女の顔はいまも覚えている。威厳のある面長のお姉さんという印象を抱いた。余談だが、岩戸隠れのシーンで扉をこじあける手力男神をやったのは、当時の人気相撲力士、朝潮だった。

原節子という女優の名前と顔を初めて認識したのは、大学に入って、名画座で黒澤明の「わが青春に悔いなし」(1946年)を見たときだった。1960年代終わりごろのことで、彼女はすでに映画界から引退していた。民主主義を素朴ににうたいあげたこの幸せな映画でヒロインを務めた原節子は、じつに生き生きとしていた。映画の後段、汗にまみれながら野良仕事に精を出す彼女の溌剌とした表情が忘れられない。原節子が出た映画は、それほどたくさんは見ていないが、見た範囲で言えば、木下恵介監督の喜劇「お嬢さん乾杯」(1949年)で没落華族の娘を演じた彼女がいちばん深く印象に残っている。このころ、彼女は29歳、いちばん綺麗に見える時期だったかもしれない。ラスト・シーンでの彼女の台詞 “惚れております” が印象深かった。

一般的に原節子といえば、「東京物語」(1953年)をはじめとする一連の小津安二郎作品によってかたち作られた、しとやかで控えめだが芯の強い女性というイメージが強いだろう。たしかに「東京物語」における彼女の存在感は抜きん出ている。成瀬巳喜男の「めし」(1951年)や川島雄三の「女であること」(1958年)で彼女が演じた人妻役も同じ系統の女性だった。しかし原節子はほかにも、さまざまな監督のもとでさまざまな役を演じた。そんななかで印象に残っているのは、黒澤明の作品「白痴」(1951年)でのナスターシャ役だ。これは映画としては失敗作だと思うが、小津作品とは正反対の、感情の起伏が激しいミステリアスなファム・ファタールを演じる原節子はじつに鮮やかで、強く印象に残っている。彼女は目に力がある。その目でキッとにらまれたら身がすくんでしまいそうだ。そんな、情念を燃やし、男を狂わす女の役を彼女がもっと演じていれば、女優としてのイメージや評価もいまとは違ったものになっていたかもしれない。

現役時代の原節子は演技が下手だと言われていたらしい。戦前の彼女の映画はほとんど見ていないので、若いころの彼女がどうだったのかはよく分からない。しかし、戦後の作品に関しては立派な演技をしているように思う。彼女を愛し、重用した小津安二郎の薫陶もあったのかもしれない。しかし、彼女に関しては、演技が上手いか下手かといったことなど、どうでもいい。原節子には存在自体から滲み出るオーラがあった。ただ立っているだけで、その姿かたちから漂う品格が見るものをとりこにした。

原節子の死去はマスコミでそれほど話題になっていないような気がする。引退してから50年間、まったくの隠遁生活を送っており、もはや伝説のなかの女優になってしまっていたからだろうか。しかし、画面のなかの彼女はいまも見るものを惹きつける魅力をもっているし、ときおり選出される各種の「日本の女優ベスト・テン」といったセレクションでは、つねにトップ・スリーに入っている。時代の流れもあるだろうが、そんな日本を代表する女優の死にメディアがあまり関心を示さないのは、この国の文化の貧困を物語っているように思われてならない。

2015.02.15 (日)  2014年海外ミステリー&映画ベスト10

2014年海外ミステリー・ベスト10

 1. 「暗殺者の復讐」 マーク・グリーニー (ハヤカワ文庫)
 2. 「米中開戦」 トム・クランシー&マーク・グリーニー (新潮文庫))
 3. 「ブラック・フライデー」 マイクル・シアーズ (ハヤカワ文庫)
 4. 「ハリー・クバート事件」 ジョエル・ディケール (創元社)
 5. 「ナイン・ドラゴンズ」 マイクル・コナリー (講談社文庫)
 6. 「黒い瞳のブロンド」 ベンジャミン・ブラック (早川ポケミス)
 7. 「パインズ〜美しい地獄」 ブレイク・クラウチ (ハヤカワ文庫)
 8. 「判決破棄〜リンカーン弁護士」 マイクル・コナリー (講談社文庫)
 9. 「ゴーストマン〜時限紙幣」 ロジャー・ホッブス (文藝春秋)
10. 「その女アレックス」 ピエール・ルメートル (文春文庫)


2014年映画ベスト10

 1. 「ネブラスカ〜ふたつの心をつなぐ旅」 アレクサンダー・ペイン (米)
 2. 「6才のボクが大人になるまで」 リチャード・リンクレイター (米)
 3. 「小さいおうち」 山田洋次 (日)
 4. 「ジャージー・ボーイズ」 クリント・イーストウッド (米)
 5. 「インサイド・ルーウィン・デイヴィス〜名もなき男の歌」 ジョエル&イーサン・コーエン (米)
 6. 「友よさらばと言おう」 フレッド・カヴァイエ (仏)
 7. 「東京難民」 佐々部清 (日)
 8. 「her 世界でひとつの彼女」 スパイク・ジョーンズ (米)
 9. 「舞妓はレディ」 周防正行 (日)
10. 「ノア〜約束の舟」 ダーレン・アロノフスキー (米)

2014.11.20 (木)  健さんが死んでしまった

健さんが死んでしまった。11月10日に亡くなったが、公表されたのは11月18日だった。本人の希望により、密葬が終わってからの発表ということにしたという。いかにも健さんらしいエピソードだ。

ぼくは長年にわたる高倉健のファンだった。小学生のころ、健さんのデビュー直後から映画を見続けてきたから、ぼくのファン歴は年季が入っている。健さんから何かを学んだとか、健さんが人生の指針だった、ということではない。ただ、無骨、ストイック、真っ正直、律儀といった健さんのイメージに自分を重ねて合わせ、ひたすら憧れていた。おそらく素顔の本人の性格はそんなイメージとはかなり違っていただろう。だが、ファンというものは自分の憧憬と理想をヒーローに投影するものなのだ。

高倉健というと、やくざ映画のヒーローとして、そして「幸福の黄色いハンカチ」以降の国民的スターとして語られることがほとんどだ。だがぼくは、それより前、50年代後半から60年代前半にかけて雑多な映画に出演していた若き日の健さんも心に残っているし、いまも記憶に焼き付いている。ぼくが初めて見た健さんの映画は、東映からデビューして間もない1956年に主演した「大学の石松」シリーズの一作だった。やくざの親分の息子で空手の達人の主人公が大学に入学して起こるさまざまな騒動をコミカルに描いた一種の青春映画で、のちの加山雄三の「大学の若大将」シリーズの先駆けともいうべき内容だった。ぼくはこれを見てすぐに健さんのファンになった。

健さんのキャリアはおおむね次の3つに時代に分けられるだろう。第1期は1956年から64年にかけて、東映に入社し、若手スターのホープとしてさまざまなジャンルの映画に出まくっていた時代、第2期は1965年から75年にかけて、日本侠客伝、網走番外地、昭和残侠伝などのやくざ映画シリーズで一躍人気スターになり、やくざ映画を中心に映画出演していた時代、第3期は1976年以降、東映を退社してフリーになり、数々の名作、話題作をつくった実り多い時代だ。

初期の健さんは、東映現代劇のエースとして、サラリーマンもの、文芸もの、探偵もの、ギャングもの、サスペンスもの、美空ひばりとコンビのユーモアものなど、あらゆるジャンルの映画に出演していた。ぼくはもちろん全部は見ていないが、かなりの映画は見ている。源氏鶏太原作の「万年太郎」(1960年)、片岡千恵蔵と共演の「地獄の底までつきあうぜ」(1959年)、武田泰淳原作の「森と湖のまつり」(1958年)、三國連太郎と共演の「東京アンタッチャブル」(1962年)、美空ひばりと共演の「青い海原」(1957年)、「花形探偵合戦」(1958年)など、いまも記憶している映画は多い。マッギヴァーンのミステリ「悪徳警官」を翻案した「親分を倒せ」(1963年)などという映画もあった。なかでも強く印象に残っているのは現代やくざの抗争を描いた小林恒夫監督の「暴力街」(1963年)だ。これは勢力拡大を図る新興やくざの度重なる嫌がらせに対し、昔気質のやくざの健さんが堪忍袋の緒を切らし、単身殴り込みをかけるという、のちに興隆したやくざ映画の原型と言ってもいい、迫力に満ちた忘れがたい映画だった。

多くの映画に、主演、準主演で出ていたにもかかわらず、当時の健さんの人気は、それほど盛り上がらなかった。そのころ、現代劇映画の人気スターといえば、石原裕次郎や小林旭がいたが、健さんは、格好はよかったが、裕次郎のような都会的な洒落た雰囲気はなく、アキラのような吹っ切れた身軽さもなく、いま思うとどこか野暮ったい感じがつきまとっていた。健さんの人気がいまいち広がらなかったは、そのあたりに理由があっただろう。だがぼくは裕次郎もアキラも眼中になく、ひたすら健さんが好きだった。

そして60年代半ばから健さんはやくざ映画に出演し始め、スターダムにのし上がる。これによって、寡黙、不器用、禁欲的といった健さんのイメージが出来上がった。健さんが初めて大きな脚光を浴びたのは「網走番外地」シリーズ(1965年〜72年)だと思うが、これはやくざ映画というよりも、コミカルな味付けのアクション映画というべきであろう。一連のやくざ映画のなかでは、「日本侠客伝」シリーズ(1964年〜71年)も人気があったが、何といっても大ヒットした「昭和残侠伝」シリーズ(1965年〜72年)が最高だろう。耐え続けたすえに怒りを爆発させるストーリーは、きっちり構成された様式美、随所に漂う哀しい情念、心に響く主題歌とあいまって、見る者を画面のなかに引きずり込んだ。

当時大学生で70年安保騒ぎの渦中にあったぼくは、他の多くの学生と同じく、自分を映画のなかの健さんと同化させた。そのころ、池袋にあった映画館、文芸地下で、よく健さんのやくざ映画シリーズ4本立ての深夜興行を見た。仇の住処に殴り込んだ健さんの後ろから忍び寄ってくる奴がいると客席から「うしろ!」という叫び声がとんだ。健さんが悪の親玉を切り伏せると、拍手とともに「よし!」という声が上がった。明け方、映画館を出るときは、健さんを真似て、左肩をやや落とし、ガニ股気味に歩いた。そんな時代だった。

やくざ映画が下火になり、東映を退社したあとの健さんは俳優として大成した。フリーになって以降の健さんの映画の最高傑作は、山田洋次監督の2作「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)と「遥かなる山の呼び声」(1980年)であろう。とくに前者は日本映画の名作のひとつと言える。健さんは影を帯びた武骨な男を演じて素晴らしいし、山田監督の作劇術が冴えわたっている。「駅 Station」(1981年)は、映画としての出来はそれほど良いとは思えないが、大晦日の北海道のさびれた港町の居酒屋の情景は忘れがたい名シーンだ。健さんと倍賞千恵子は最高の名コンビだった。晩年の作品のなかでは、涙を強要するような演出には困ってしまうが、やはり「鉄道員」(1999年)が印象深い。

こう書いていると健さんの後期の映画で印象に残るものは、ほとんどが北海道を舞台にしたものなのに気がつく。健さん自身は九州、筑豊の炭坑町の出身なのに、心に残る映画の舞台はなぜか北海道が多かった。そして健さんには雪の降るシーンがよく似合った。健さんはアメリカ映画にも何作か出演したが、そのなかではロバート・ミッチャムと共演したシドニー・ポラック監督の「ザ・ヤクザ」(1974年)が出色だった。

晩年の健さんは老いが目立った。題名は忘れたが、かなり前の映画で、画面に映された健さんの手の甲に老人性のシミが浮き出ているのを見て、健さんも年をとったな、と愕然としたことがある。以前は見せなかった涙も見せるようになった。だが、健さんは見事に年をとった。最後まで映画に意欲を燃やしていた。昨年の健さんの文化勲章受章は大きな話題になったが、ぼくは辞退したら格好いいのにと思っていた。健さんに勲章など似合わないと思ったからだ。しかしそれはファンの勝手な思い込みであり、とうぜん健さんは勲章を受けた。記者会見での健さんの「前科者の役ばかりやっていた私がこんな章をいただくとは・・・」という言葉が印象的だった。

健さんが逝って、また昭和が遠のいた。でも健さんと同じ時代に生きて幸運だった。個人的なことになるが、ぼくは健さんの縁続きになるらしい。結婚した娘の嫁ぎ先の実家が健さんの遠い親戚にあたるという。それを知ったぼくは、一度でいいから健さんに会い、握手して「子供のころからファンでした」と言い、笑顔を見たいと思っていた。いまはそれも叶わぬ夢になってしまった。

2014.06.22 (日)  6月のリスボンではジャカランダの花が咲く

5月末から6月初めにかけてポルトガルに旅行した。ポルトガルといえば、種子島の鉄砲伝来やキリスト教の布教で日本とは馴染み深い国だ。カステラ、コンペイトウ、テンプラなど、ポルトガル語が語源の日本語は多い。以前、国際会議で知り合いになったペドロという陽気なポルトガル人は、ポルトガル語から日本語になった言葉がたくさんあることを知っており、あれもそうだ、これもそうだと、例を挙げて説明していた。ポルトガルと日本とのつながりはポルトガル国民のあいだでもよく知られているのだろう。

ポルトガルの人口は日本の10分の1、面積は日本の4分の1で、国土はイベリア半島の西端に、南北に長く伸びている。大航海時代にはマゼランやヴァスコダガマが世界各地を巡り、アフリカ、南米(ブラジル)、東南アジアに植民地をつくって旺盛な国力を誇ったが、いまはEUのなかの小国になっている。経済的には、ギリシャやスペインほどの危機には陥っていないが、南欧各国の例にもれず、景気後退に見舞われており、かつての植民地ブラジルに出稼ぎに行く人が増えているらしい。

ポルトガルを舞台にした映画といえば、アンリ・ヴェルヌイユ監督、フランソワーズ・アルヌール主演の「過去をもつ愛情」(1954年)が思い浮かぶ。映画の内容は通俗的なメロドラマだったが、そこに出てくるリスボンの街並みとアマリア・ロドリゲスが歌うファド「暗いはしけ」が印象的だった。もうひとつ、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の遺作「リスボン特急」という映画があるが、これはリスボンとは何の関係もない、パリを舞台にした犯罪映画だった。

ポルトガルでは、どこに行ってもアズレージョが目についた。アズレージョとは装飾タイルのことで、教会や駅舎など公共建築物の壁や床だけでなく、一般の家の外壁にも使われており、ポルトガル建築の主要な要素になっている。ポルトガルの街並みを、誰かが美しい包装紙で包まれたようだと言っていたが、たしかにそんな言葉がぴったりくる。アラビア風の雰囲気を漂わせるアズレージョは、ポルトガルの地理的、歴史的な文化の伝統を物語っていた。

こんどの旅行では、とにかく老人の旅行客が多かった。どこに行っても、観光バスから降りてくるのは、ドイツやイタリアの老人会のツアー客ばかりだった。老人大国になったのは日本だけのことではないのだと痛感した。ポルトの街で、通りを歩いていると、女の子から「ニー・ハオ」と声をかけられた。その子にとって、東洋人というと中国人が思い浮かぶのだろう。以前は外国に行くと「コンニチワ」と声をかけられることが多かったものだ。いまや中国が世界中で存在感を増しており、日本は影が薄くなっているのを実感した。

首都のリスボンでは街じゅうでジャカランダの花が鮮やかに咲き乱れているのが印象的だった。ジャカランダは南米原産の木で、5月から6月にかけて紫色の花が咲く。リスボンに住む人たちは、日本人が桜で春を愛でるように、ジャカランダの花が咲くと夏の訪れを感じて浮かれ騒ぐのだという。映画「過去をもつ愛情」にあるように、リスボンは坂の街だ。どこに行っても坂があり、サンフランシスコを思わせた。急な勾配の場所では、上と下を行き来するためケーブルカーが設置されている。どこかからネルソン・リドルの往年のヒット曲「懐かしのリスボン」のメロディが聴こえてくるような気がした。

他の都市もそうだが、リスボンにも由緒ある教会や修道院があちこちにあり、それらを見て回ると、ごっちゃになってどこがどこだか分からなくなる。日本に宣教師としてやってきたフランシスコ・ザヴィエルは、ポルトガルでは聖人に列せられており、他の聖人たちと並んで教会に像が建てられている。リスボンの中央部にあるサンロケ教会は小さな建物だが、古いイエズス会の教会で、16世紀末に天正少年遣欧使節団がリスボンにやって来たとき、この教会に滞在したそうだ。教会の内部には日本からやって来た少年使節の絵が飾ってある。430年前、戦国時代の日本からはるばるやって来た少年たちは、どんな思いでこの教会に足を踏み入れたのだろう。

ポルトガル中部にコインブラという古都がある。ヨーロッパ最古の大学がある学園都市であり、観光客も多い。この街の一角に洗濯女の像があった。50年代半ばにジャクリーヌ・フランソワが歌ってヒットしたシャンソン「ポルトガルの洗濯女」にあやかって建てられたものらしい。この像のすぐわきにファドを生で聴かせる店があった。ポルトガルの音楽といえばファドだ。ファドは、ギター2本をバックに歌うスタイルは同じだが、地方によって雰囲気や歌い方が異なっている。リスボンのファドは哀感が漂い、暗く物悲しいが、コインブラのファドは学生たちによって歌われるせいか、もっと陽気で明るい感じがする。

北部に位置するポルトガル第2の街ポルトは港湾都市で、大聖堂や中世風の古い町並みがあり、ポート・ワインの産地、積出港としても有名だ。ポート・ワインは酒精強化ワインで、発酵の途中にまだ糖分が残っている段階でブランデーを加え、発酵を止めるのが製法の特徴だ。そのため甘みがあり、アルコール度数も高い。本場のポート・ワインを味わってみたが、日本人にとっては甘みが強すぎて、デザート・ワインとして少量飲むのならいいが、がぶ飲みするようなものではない。

ポルトガルの北から国境を越えるとスペインのガリシア地方に入る。イベリア半島の北西端だ。そこにカトリックの聖地として有名なサンチャゴ・デ・コンポステラがある。威容を誇る大聖堂の前の広場は巡礼や観光客でいっぱいだった。最近は自転車で巡礼する人が多いようだ。広場の脇に自転車を止めた巡礼者と話をすると、ドイツ人だった。フランスの国境の街で鉄道を降り、そこから2週間ほど自転車をこいでたどり着いたという。ハンドルには巡礼者の標しであるホタテ貝の殻がぶら下がっていた。

運河が巡るきれいな町アヴェイロに行ったときのこと、運河沿いに歩いていると、地元の女の子がポルトガル語で歌う「ちょうちょう」の歌が聴こえてきた。“ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉にとまれ”という、あの唱歌である。現地ガイドに訊くと、これは原曲がスペイン民謡だとのこと。明治時代に文部省が小学校唱歌を編集したとき、ドイツ民謡やスコットランド民謡など、外国曲をもとにして歌詞をつけたものが多かったことは知っていたが、「ちょうちょう」もそうだとは知らなかった。ポルトガルの小さな町での日本の唱歌との出会いに、ちょっとした感慨を覚えた。

2014.05.26 (月)  日本が危ない

日本はいま軍事国家への道を突き進もうとしている。この国がこんな方向に進む日が来るとは思ってもいなかった。靖国神社への参拝、秘密保護法の制定、武器輸出の解禁、集団的自衛権行使容認と続けば、行きつく先は軍事国家であり、核武装だ。安倍内閣は平和で豊かな社会を築いた戦後日本の体制を捨て去り、この国を戦前の天皇制軍国主義国家に戻そうとしている。

安倍晋三という愚昧な首相の独りよがりの暴走により、集団的自衛権の容認に向けて憲法解釈が変更されようとしている。安倍は安保法制懇などといういかさまの組織によってかたちを整え、「他国のために戦う」という集団的自衛権の本質を、「国民のみなさんを守るため」という欺瞞と「限定的にしか使わないから安心して」という嘘によって偽装する。そんな子供だましの茶番が通用すると思っているのだとしたら、安倍はあまりに国民をバカにしている。

そもそも安倍は、憲法9条の改訂が難しいので、96条の改訂を目指し、それも反発されたので解釈改憲を持ち出してきた。そんな経緯を見ると、何を言っても安倍の言葉は信用することはできない。だいいち、自衛のため以外の戦争をしないと誓った日本が、なぜ他国のために戦わなければいけないのか? 日米安保条約の、アメリカは日本を守るために戦うが日本はアメリカのために戦う規定がないという片務性を解消するためだというが、それは間違いだ。安保条約によって日本は沖縄をはじめ各地に米軍基地を提供し、大きな犠牲を強いられているし、米軍のために膨大な国の予算を使っている。だからこれは現状でも充分に双務的な条約なのだ。

安倍の暴走に、野党はなすすべがないし、自民党の良識派も沈黙したまま、歯止めをかけるのは公明党だけという状況は、あまりにも情けない。目にあまるのは、学者どもの権力との癒着とメディアの権力への迎合だ。なかでも目立つのは、安保法制懇の座長を務める北岡伸一という元東大教授の御用学者の三百代言ぶりだ。北岡の、安倍の意を体した、国民より国家が大事と言わんばかりの極右的な言動は、まさに国民を欺くものだ。

危機を回避するため対話と安全保障の枠組みをつくろうと世界各国が苦慮しているいま、集団的自衛権などと叫ぶのはまったくナンセンスだ。過去のあやまちから学ぼうとせず、平和主義を放棄し、対立から和解への道を閉ざし、日本を「戦争ができる国」にして、いたずらに近隣諸国と緊張関係をつくり出そうとする安倍に、政治を司る資格はない。

安倍は、いくら見え透いた茶番を演じても、いくら原発事故はコントロールされていると嘘を言っても、バカな国民は自分を支持してくれると思っているのだろう。しかし、ここまでコケにされれば、そろそろ国民も安倍の愚かさに気付くはずだ。もし、それでも安倍を支持するとすれば、日本人は歴史や教訓に学ぼうとしない三流の劣等国民だということになる。もしそうだとすれば、安倍を支持するツケは国民自身が負わなければならない。

2014.05.18 (日)  2013年海外ミステリー・ベスト10

前回に書いた「春を寿ぐジャズ」は、ややタイミングがずれた題材だったが、今回のテーマはもっと時機を逸している。2013年のベストといえば、本来なら昨年の年末、遅くとも今年の1月ぐらいまでには書かなければいけないものだ。いまごろこんなのを書くとはという誹りをを甘受しつつ、これを読みたいというごく少数の奇特なかたのために、汗顔のいたりだが、昨年の海外ミステリー小説のベストをリスト・アップする。
 1. 「暗殺者の正義」 マーク・グリーニー (ハヤカワ文庫)
 1. 「暗殺者の鎮魂」 マーク・グリーニー (ハヤカワ文庫)
 3. 「夜に生きる」 デニス・ルヘイン (ハヤカワ・ポケミス)
 4. 「11/26/63」 スティーヴン・キング (文芸春秋)
 5. 「クラッシャーズ 墜落事故調査班」 デイナ・ヘインズ (文春文庫)
 6. 「スケアクロウ」 マイクル・コナリー (講談社文庫)
 7. 「ファイナル・ターゲット」 トム・ウッド (ハヤカワ文庫)
 8. 「冬のフロスト」 R・D・ウィングフィールド (創元推理文庫)
 9. 「ミステリー・ガール」 デイヴィッド・ゴードン (ハヤカワ・ポケミス)
10. 「シャドウ・ストーカー」 ジェフリー・ディーヴァー (文芸春秋)
2013年は海外ミステリーにとって近年にない充実した年になった。突如現れた驚異の作家マーク・グリーニーによる2作をはじめ、毎年のベスト・テン常連のマイクル・コナリーやジェフリー・ディーヴァー、久しぶりの登場であるデニス・ルヘインやR・D・ウィングフィールドなどによる、読み応えのある傑作・力作が揃った。

昨年はマーク・グリーニーによる暗殺者グレイマン・シリーズの第2作「暗殺者の正義」と第3作「暗殺者の鎮魂」が相次いで発売され、冒険小説ファンを狂喜させた。2013年の1位はぶっちぎりでこの2作、どちらも甲乙つけがたいので、同率1位だ。近来、これほど血沸き肉躍る小説はめったにない。その面白さは全盛期のA・J・クィネルに匹敵する。「暗殺者の正義」はアフリカの小国の独裁者、「暗殺者の鎮魂」はメキシコの麻薬マフィアが主要な敵だ。一匹狼の主人公のプロに徹した戦いぶり、意表を突く場面展開、すさまじいアクション・シーンは迫力満点で、ページを繰る手がもどかしい。

順位は第3位になったが、面白さではデニス・ルヘインの「夜に生きる」もグレイマン・シリーズに引けを取らない。前作「運命の日」の続編であり、禁酒法時代のアメリカのギャングたちの生きざまが描かれる。ボストンとフロリダを舞台に、下っ端から大物にのし上がる主人公ジョーの数奇な人生が、親分の情婦との恋愛、友情と裏切り、敵対するギャング団との抗争を通じてハードボイルド・タッチで描かれる。さながらアメリカ社会の裏面史を綴る大河小説の感がある。ルヘインのストーリーテラーとしての才能が発揮された叙事詩的なエンタテインメント小説だ。

第4位はスティ−ヴン・キングの「11/26/63」。ぼくはそれほど熱心なキング・ファンではないが、タイム・トラヴェルを扱った小説だということで読む気になった。上下巻合わせて1000ページを超える大作だが、さすがにキング、それほど苦労することなく読了できた。高校教師の主人公が、ひょんなことから時間の穴を通って60年代初期のテキサスに行き、ケネディ大統領の暗殺を食い止めようとする時間旅行SFであり、ホラー的な要素はあまりない。60年代のアメリカが哀感を込めてノスタルジックに描かれており、かつて愛読したファンタジー作家ジャック・フィニイの小説をほうふつとさせる。

第5位の新進作家デイナ・ヘインズ作「クラッシャーズ〜墜落事故調査班」は思わぬ掘り出し物だった。オレゴン州で旅客機の墜落事故があり、国家運輸安全委員会の航空事故調査チームが招集される。メンバーは各地から悲惨な事故現場に赴き、不眠不休で原因究明にあたる。各分野の調査のプロたちの仕事ぶりが克明に描かれており、じつに興味深い。調査官たちの活躍と並行して、テロリストやFBIの動きも挿入され、緊迫感が醸し出される。意外な展開が周到に用意されており、終盤のクライマックスも大いに盛り上がる。作家のヘインズはこれが第1作とのこと、今後の新作が楽しみだ。登場人物たちの会話が、どこかフロスト警部の喋り方に似ていると思ったら、訳者はフロスト・シリーズを手がける芹澤恵氏だった。

第6位、マイクル・コナリーの「スケアクロウ」は「ザ・ポエット」(1997年)以来となるLAタイムズの新聞記者ジャック・マカヴォイを主人公とするハードボイルド小説。マカヴォイは、コナリー・ファンにはお馴染みのFBI捜査官レイチェル・ウォリングとともに、残虐な連続殺人鬼を追いかける。主人公と犯人の視点から交互にストーリーが語られるという構成がスリル満点で、コナリーのストーリー展開の巧さに舌を巻く。マカヴォイは長年勤めた新聞社から解雇通知を受け取っており、新聞業界の不況という時代背景が描かれていることも興味深い。

第7位の「ファイナル・ターゲット」はトム・ウッドによる殺し屋ヴィクター・シリーズの第2作。ヴィクターはCIAの依頼を受けて暗殺を実行するが、そこには卑劣な罠が仕掛けられていた。プロとしての知恵とテクニックを駆使して冷静に危機を脱するヴィクター、スピーディな場面展開が素晴らしく、一級品の冒険小説に仕上がっているのだが、いかんせん、グリーニーによる同趣向の暗殺者グレイマン・シリーズという超弩級の大傑作の前では、どうしても影が薄くなってしまう。

第8位の「冬のフロスト」は待望久しいR・D・ウィングフィールド作フロスト・シリーズの新訳。凍てつく真冬、イギリスのデントン市で、少女誘拐や売春婦連続殺人など、つぎつぎに起こる事件に追われながら、無能な部下と人手不足をぼやきつつ捜査にあたるフロスト警部の活躍が描かれる。フロストの傍若無人ぶりはひところよりトーンダウンし、人情味が付け加わったものの、下ネタ満載の下品なジョークは健在。自己保身しか眼中にない署長の間抜けぶりも笑わせる。いつもながら芹澤恵氏の訳は素晴らしい。フロスト・シリーズの未訳があと1作だけになってしまったのは寂しいかぎりだ。

2012年に評判になったデイヴィッド・ゴードンの第1作「二流小説家」を、ぼくはそれほど高く評価しなかったが、第9位に入れたこの第2作「ミステリー・ガール」は面白かった。探偵事務所に雇われた小説家志望の青年が風変わりな事件に巻き込まれる話で、ちょっとゴシック・ホラーの匂いが漂っており、一昔前のB級ノワール映画のような味わいがある。主人公は一種のダメ人間だが、語り口が飄々としているので雰囲気は暗くならない。主人公を取り巻く登場人物が奇人・変人揃いで、奇妙な魅力を放っている。

第10位、ジェフリー・ディーヴァーの「シャドウ・ストーカー」は、相手の心理を読み取るキネシックスのプロであるロサンジェルスの捜査官キャサリン・ダンスを主人公に据えたシリーズの第3作。今作でダンスが対決するのは人気カントリー歌手にまとわりつく異常なストーカーだ。ジェフリー得意のどんでん返しはやや手垢がついた感があるが、一気に読ませるし、筋運びがとにかくうまいし、アメリカ音楽業界の一端が垣間見えるのも興味深い。不満なのは、主人公が得意とするキネシックスが、まったく事件の解決に役立っていない点だ。

2014.05.10 (土)  春を寿ぐジャズ

「クラシック未知との遭遇」の2月10日付のコラムに、「春呼ぶクラシック」という興味深いコラムがあった。それに触発されて、春をテーマにしたジャズ・ナンバーののリストを作ったのだが、ぐずぐずしているうちに、季節はもう5月、初夏のような陽気になってしまった。とはいえ、せっかく作ったので、時宜にかなわなぬことを承知のうえで、ここに発表しておきたい。
 1.  四月の思い出 (I'll Remember April) バド・パウエル・トリオ
 2.  パリの四月 (April in Paris) チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス
 3.  春の如く (It Might As We'll Be Spring) クリフォード・ブラウン
 4.  春が来たというけれど (Spring Is Here) クリス・コナー
 5.  ジョイ・スプリング (Joy Spring) クリフォード・ブラウン=マックス・ローチ・クインテット
 6.  春はいちばん憂鬱な季節 (Spring Can Really Hang You Up the Most) フィル・ウッズ
 7.  今年の春は少し遅くなりそう(Spring Will Be a Little Late This Year) エラ・フィッツジェラルド
 8.  カッコーへのセレナーデ (Serenade to a Cuckoo) ローランド・カーク
 9.  春よりも若く (Younger Than Springtime) アート・ファーマー
10.  とつぜん春が訪れた (Suddenly It's Spring) スタン・ゲッツ
春の曲といえば、ジャズ・ファンが真っ先に思い浮かべるのは、(1)の「I'll Remember April」と(2)の「April in Paris」であろう。ジーン・デポール作曲の有名なスタンダード「I'll Remember April」は、曲の構造がジャズに適しているため、多くのジャズ・ミュージシャンによって演奏され、歌われてている。ブラウン=ローチ、マイルス、ロリンズ、MJQ、エロール・ガーナーなど好演はいくつもあるが、やはり最高の名演はバド・パウエルが1947年に吹き込んだピアノ・トリオ・ヴァージョンであろう(『バド・パウエルの芸術』Roost)。

ヴァーノン・デューク作曲の「April in Paris」は、同じくデュークが書いた「Autumn in New York」と並び称せられる名曲。春のパリ、秋のニューヨークの美しさを綴ったこの2曲は、まさに好一対の傑作バラードだ。この曲のヴァージョンでいちばん有名なのはカウント・ベイシー楽団の演奏であろう。ほかにセロニアス・モンクやコールマン・ホーキンスなどの演奏も知られているが、ぼくはチャーリー・パーカーがストリングスをバックに悠然と吹く1950年のセッションを第一に挙げたい(『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』Verve)。

ロジャース&ハマースタイン・コンビが作った(3)「It Might As Well Be Spring」はミュージカル『ステート・フェア』の挿入曲。これもソニー・スティットやアストラッド・ジルベルト=スタン・ゲッツなど、いろんなジャズ・プレイヤーや歌手によって採り上げられているが、代表的なヴァージョンといえば、なんといっても初期のクリフォード・ブラウンがパリで録音したバラード演奏にとどめをさす。情感と知性が混然一体となった至高の名演だ(『クリフォード・ブラウン・パリ・セッション』Vogue)。

(4)の「Spring Is Here」はロジャース&ハートが書いたスタンダード。“春が来たというのに、なぜわたしは浮き浮きしないのだろう”という寂しい心を綴った曲だ。インスト・ヴァージョンの代表的なものとしては、ビル・エヴァンスが挙げられるだろう。だが、ここではクリス・コナーによるヴォーカル・ヴァージョンをリスト・アップしたい。クールな歌唱が瑞々しい魅力を放っている(『バードランドの子守唄/クリス・コナー』Bethlehem)。

ジャズメンが書いたオリジナルでは、クリフォード・ブラウン作(5)「Joy Spring」という名曲がある。ブラウン=ローチ・クインテットが吹き込んだこの曲は彼らの代表的名演のひとつに数えられている。これは喜びに満ちた春をイメージして書かれたものだということになっているが、マンハッタン・トランスファーのヴォーカル・ヴァージョンでは、"spring"を“春”ではなく“泉”という意味に解釈してジョン・ヘンドリックスが歌詞を書いている(『クリフォード・ブラウンとマックス・ローチ』EmArcy)。

(6)「Spring Can Really Hang You Up the Most」はトム・ウルフという作曲家による、春のイメージとはほど遠い、ダークな色調の渋い曲。隠れた名曲ともいうべきバラードであり、ジャッキー&ロイ、マーク・マーフィ、サラ・ヴォーンなど、ジャズ歌手によって歌われることが多いが、スタン・ゲッツやケニー・バレルなどのインスト・ヴァージョンもある。ぼくが好きなのはフィル・ウッズが初来日した折にライヴ録音されたドラマティックな演奏だ(『フィル・ウッズ&ザ・ジャパニーズ・リズム・マシーン』RCA)。

フランク・レッサー作曲の(7)「Spring Will Be a Little Late This Year」も失恋の歌で、“今年は春の訪れが少し遅くなる。あなたが去ってしまって、わたしの心は冬のまま”という美しいバラード。レッド・ガーランドやアニタ・オデイの演唱があるが、最高のヴァージョンはエラ・フィッツジェラルド。ストリング・オーケストラをバックに切々と歌うエラの歌唱は素晴らしいの一語に尽きる(『ハロー・ラヴ/エラ・フィッツジェラルド』Verve)。

ジャズメンが書いた春の曲には、「Joy Spring」以外にもう1曲、マイルス・デイヴィスのオリジナル「Swing Spring」があるが、これはあまり面白い演奏ではない。その代わりに、ぼくはマルチ・リード奏者ローランド・カーク自作自演の(8)「Serenade to a Cuckoo」をリストに入れたい。春を告げる鳥といえば、日本ではウグイスだが、西洋ではカッコーらしい。カークがフルートで演奏するこの曲はカッコーの鳴き声を模したユーモラスで愛らしい佳曲だ(『アイ・トーク・ウィズ・ザ・スピリッツ/ローランド・カーク』Limelight)。

(9)「Younger Than Springtime」は、これもロジャース&ハマースタイン・コンビによるミュージカル『南太平洋』の挿入曲。“君は春よりも若く、星の光よりも柔らかく、6月の風より暖かい”という恋人を賛美する歌で、実質的には春の歌とは言い難いが、まあいいだろう。フランク・シナトラやオスカー・ピーターソンが採り上げているが、トランペットのアート・ファーマーがトミー・フラナガンのトリオをバックにワン・ホーンでリリカルにうたい上げる演奏がベスト・ヴァージョンだ(『アート/アート・ファーマー』Argo)。

最後を締めくくるのはバーク&ヴァン・ヒューゼンが作ったマイナー・スタンダード(10)「Suddenly It's Spring」。恋する心のときめきを春の訪れにたとえた曲だ。アル・コーン、ズート・シムズ、フィル・ウッズなど、なぜか白人サックス奏者が好んで演奏している。ぼくのチョイスは軽快にスイングするスタン・ゲッツのヴァージョンだ(『ウェスト・コースト・ジャズ/スタン・ゲッツ』Verve)。

2013.09.12 (木)  藤圭子が逝ってしまった

8月22日に報じられた藤圭子の自死にショックを受けた人は多かっただろう。ぼくもそのひとりだ。彼女の死はメディアで大きく取り上げられたが、70年代初頭にほんの数年間しか活躍しなかった、いまとなっては忘れられた歌手であるはずの藤圭子の死に、あれほどメディアが大騒ぎしたのは、投身自殺だったという異常性と、彼女が宇多田ヒカルの母親だったという話題性によるものだろう。

1969年、初めて「新宿の女」を歌う藤圭子をテレビで見たときの衝撃は、いまもはっきり記憶に残っている。彼女のドスのきいた声、身振り手振りを排し、媚を交えず無表情で歌う姿、野暮ったい髪に隠れた人形のような端正な顔は、大学生だったぼくに鮮烈な印象を与えた。そんな声で、そんな表情で歌う歌手を見たのは初めてだった。そこには、拒絶、諦観、怨念といったような情感が入り混じっていた。彼女の歌は、勝つ見込みのない70年安保闘争で疲弊した若者の心に深く浸み込んだ。その意味で、藤圭子はまさしく時代が生んだ歌手だった。

それより少し前、カルメン・マキという少女が「時には母のない子のように」という曲でデビューした。カルメン・マキの無表情で淡々と歌う様子は、寺山修司が歌詞を書いた哀感漂う曲調と相俟って、人々の心に焼きついた。だが、衝撃度という点では、藤圭子のほうが比べものにならなないほど大きかった。当時、藤圭子の歌を「これは演歌ではなく怨歌だ」とか「大衆のルサンチマンが込められている」とか、したり顔で解説する文化人もいたが、そんな言葉は歌のパワーの前で空しく響いた。ぼくたちはただ、その異様な迫力に打たれ、ひたすら彼女の歌に聴き入っていた。

藤圭子の歌が本物の迫真性を帯びていたのは、ほんの1年ほどのあいだだったと思う。シングル盤で言えば、1969年9月発売の「新宿の女」から70年7月発売の「命預けます」までの4作だ。その後の彼女の歌はしだいにインパクトが薄れていった。1971年に前川清と結婚したあたりから、彼女のオーラは失せ、ごく普通の演歌歌手になっていった。彼女の声は、以前のような迫力がなくなってしまった。声帯ポリープの手術をしたせいもあったのかもしれない。どこかで、彼女が「以前のように歌おうとしてるんだけど、どうしてもできないのよ」と喋っているのを聞いたことがある。

あれは1971年だっただろうか、会社のビルのエレベーターで偶然、藤圭子と乗り合わせたことがある。小柄でほっそしりした女の子が乗ってきたと思ったら彼女だった。彼女は終始、付き人らしき女性とペチャクチャ喋っていた。伝え聞くところによると、藤圭子はもともと明るい陽気な子だが、歌の暗いイメージと合わせるため、あえて本来のキャラクターを封印していたのだという。歌手を売り出すためのレコード会社の戦略として、とうぜんそんなこともあったであろう。

いつしか人々の前から消えていった藤圭子が再びクロースアップされたのは、宇多田ヒカルの母親としてだった。その後に流れた、大金をもって世界中を豪遊したり、カジノで賭博したり、麻薬所持の疑いがかかったりといったニュースは、かつて彼女のファンだった者たちを唖然とさせた。思えば、このころすでに彼女は精神も生活も虚ろなものになっていたのだろう。

藤圭子は薄幸というイメージを背負ってぼくたちの前に現れた。それは作られたイメージであったはずなのに、それに呪縛されたかのように、晩年の彼女は不幸に見舞われ、実体のない生活を強いられた。それを思うと、何ともやりきれない思いがする。だが、40年前の藤圭子は、短期間であったにせよ、確かな実体としてぼくたちの前にいた。あのときの彼女は輝いていた。いまはただ、藤圭子の魂よ、安らかにと祈るのみだ。

2013.07.26 (金)  ジャズ・ヴォーカル・ベスト3

先日、「“ブルーノート総選挙”をやるので投票に参加してほしい、ブルーノートのアルバムのなかで、いちばん好きなものを3枚、順番をつけて挙げてくれ」という依頼があった。先ごろの参院選はじつにつまらない最悪の選挙だったが、こんな選挙なら歓迎だ。とはいえ、名盤だらけのブルーノートからベスト3を選ぶのは至難のわざ、あまり考えてもしょうがないので、エイヤーで選んだのは、≪@ バードランドの夜/アート・ブレイキー Vol.1 Aソニー・ロリンズ Vol.2 Bホレス・シルヴァー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ≫だった。

ブルーノートだと、ぼくにとっては『バードランドの夜』が不動の1位だが(クリフォード・ブラウンの生涯の名プレイがフィーチャーされているので)、あとはその日の気分によって入れ替わる。バド・パウエルの『アメイジング』もいいし、デクスター・ゴードンの『ゴー』も捨てがたい。ロリンズだったら『ニュークス・タイム』も好きだし、グラント・グリーンの『ラテン・ビット』のような楽しいものを選ぶ手もある。

ブルーノート総選挙の結果は、近日中に発表になるらしいが、おそらくソニー・クラークの『クール・ストラッティン』、キャノンボール&マイルスの『サムシン・エルス』、コルトレーンの『ブルー・トレイン』あたりが上位にくるのだろう。いずれにせよ、AKB総選挙にあやかってとはいえ、こんなキャンペーンでジャズが活性化されるのならけっこうなことだ。

ベスト3といえば、だいぶ以前、何かのおりに、ジャズ・ヴォーカルのベスト3を選んでくれと言われたことがあった。これには、躊躇することなく次の3枚を挙げた。
  1. ブック・オブ・バラード/カーメン・マクレエ(Decca)
  2. ナイト・イン・マンハッタン/リー・ワイリー(Columbia)
  3. ジス・イズ・アニタ/アニタ・オデイ(Verve)
エラの『メロー・ムード』も素晴らしいし、ビリーのコモドア・セッションも名唱だが、個人的に好きなアルバムというと、こうなる。この3枚は、以前から今日に至るまで 、つねに変わらぬ、永遠のフェイヴァリット・アルバムだ。カーメン・マクレエの抑制されたエモーション、リー・ワイリーの哀感漂うエレガンス、アニタ・オデイの自由奔放なフレージング 、どれもジャズの一部であり、またそのすべてだ。この3枚に共通しているのは品格=クラスだ。品格のないジャズはジャズではない。

カーメン・マクレエはこのアルバムが吹き込まれた1950年代後期がいちばん良かった。このころ以降は少しずつアクが強くなり、ねちっこさが全面に出てくるようになる。この『ブック・オブ・バラード』でのカーメンは、とにかく抑制された表現力がすごい。さらっと歌っているのに奥が深いのだ。侵しがたいディグニティと正確なイントネーション、あふれ出るヒューマンな温かさは、いつ聴いても引きずり込まれてしまう。

リー・ワイリーは、この『ナイト・イン・マンハッタン』が吹き込まれた1950年には、おそらく声の盛りがすでに過ぎていたと思うが、それがそこはかとない哀感を感じさせる。歌い方はオールド・ファッションだが、それが何とも言えないノスタルジーをかき立てる。ボビー・ハケットとジョー・ブシュキンの伴奏が絶品だし、忍び寄るようにそっと入るストリングスが美しい。洗練と気品はこのアルバムのためにある言葉だ。

アニタ・オデイは1950年代半ばに快作を連発したが、なかでも『ジス・イズ・アニタ』は傑出していた。リズミックな曲における天衣無縫な乗り 、バラードにおける微妙な感情表出は神がかっている。アニタは声がドライだし声域が狭い。ピッチもときどきフラット気味になる。だが、奔放自在なジャズ・フィーリングがそれらをすべてカヴァーしていた。軽快で小粋なバディ・ブレグマンのアレンジが抜群の効果を上げている。

これら3枚のアルバムとも、部分的にストリングスがフィーチャーされているのは、偶然ではない。ヴォーカルのバックに流れるストリングスは聴く者の心を和ませる。しかも、これらのアルバムで、ストリングスは出しゃばらない。ヴォーカルの背後で、そっと静かに、たゆたうように響いている。それが、得も言われぬ情感を醸し出している。

2013.07.14 (日)  ニコラス・W・レフンの「ドライヴ」は凄い映画だ

昨年、日本で公開された映画は、見たか見なかったかは別として、めぼしいものは把握しているつもりでいた。だが、こんな凄い映画が公開されていたとは知らなかった。ニコラス・ウィンディング・レフン監督の「ドライヴ」、2011年製作のアメリカ映画だ。先日、WOWOWでたまたまこの映画を見て、その圧倒的な魅力に驚嘆した。

主人公は天才的な車の運転テクニックをもつ男。車の修理工場に勤めているが、運転能力を生かして映画のスタントマンをやるかたわら、夜は強盗一味のために逃走用の車のドライヴァーをしている。この男が、同じアパートで幼い息子と暮らす女と知り合い、思いを寄せるようになる。やがて服役中だった夫が女のもとに戻ってくる。夫は借金していたマフィアから強盗を強要される。男はこの一家を助けるため逃走ドライヴァーを引き受けるが、そこには卑劣な罠が仕掛けられていた、という内容の映画だ。

まず主人公の造形がいい。彼はつねに寡黙で、必要なこと以外はぜんぜん喋らない。演じるのはライアン・ゴズリング。このゴズリングの演技と表情が素晴らしい。いつもサソリの絵柄のボマージャケットを着ているのが印象深い。この男がどこから来たのか、それまで何をしていたのかについては、まったく説明がない。それまで物静かでおとなしかった主人公が 、とつぜんチンピラを殴りつけるシーンがある。彼は徹底的に殴り蹴り、相手をボコボコにしてしまう。だから、説明はないものの、彼は暴力の世界に身をおいていた人間であろうと観客は想像できる。相手役の女を演じるのがキャリー・マリガン。それほど美人ではないが、童顔で愛嬌があり、妙に印象に残る女優だ。そのほかの役者もみな存在感がある。

簡潔な語り口、スピーディな流れで、話は無理なく進む。全体に漂うダークな感覚が深い奥行きを感じさせる。無駄な台詞や冗漫な描写はいっさいなく、映像だけで登場人物の心の動き、男と女が互いに惹かれていく様が表現される。そこが凡百の映画とはまったく違う。レフン監督の演出力はたいしたものだ。主人公の冷めた表情には、どこか危ないものが潜んでいるように感じられるが、その危なさは後半になって一気に噴出する。暴力シーンの描写が斬新で鮮やかだ。最後は、女の一家を助けた主人公が、傷を負いながら車でどこかに去っていくのだが、このあたりは、ちょっと「シェーン」を連想させないでもない。

ぼくはこれを見て、1978年のアメリカ映画「ザ・ドライバー」を思い起こした。監督はウォルター・ヒルでライアン・オニール主演のネオ・ノワール映画だ。これも主人公は車の運転技術にすぐれた、強盗のための逃走車のドライヴァーをしている男だ。彼は来歴不明で、名前も分からないし、寡黙でほとんど言葉を発しない。そんな謎めいた主人公と夜のロサンジェルスの暗い色調、すさまじいカー・チェイスが印象的な映画だった。話の筋は異なっているが、主人公の設定は「ドライヴ」とまったく同じだ。どこにもそんなことは書かれていないが、レフン監督がこの映画をつくるにあたって「ザ・ドライバー」の設定を借用しているのは間違いないだろう。そう思っていたら、評論家の町山智浩が「ドライヴ」の元ネタは「ザ・ドライバー」だと断定して語っていた。

この映画の監督ニコラス・ウィンディング・レフンはデンマークの出身だ。WOWOWでは、「ドライヴ」と同時に、レフン監督のデンマーク時代の旧作「プッシャー」「ブロンソン」「ヴァルハラ・ライジング」も放映していた。いずれも、独特のクセがある奇妙な味わいの映画だ。中世の北欧の奴隷戦士を描いた「ヴァルハラ・ライジング」は別として、「プッシャー」も「ブロンソン」も、街に巣食う犯罪者の生態と彼らが衝動的に溢れ出させる凄惨な暴力が描かれており、見ごたえ充分だった。ニコラス・ウィンディング・レフン、いま、いちばん気になる映画作家のひとりだ。

2013.07.07 (日)  暗殺者の正義

新人作家マーク・グリーニーによる暗殺者グレイマン・シリーズの第2作『暗殺者の正義』が邦訳出版された(ハヤカワ文庫)。昨年出た第1作「暗殺者グレイマン」は素晴らしかったが、これも前作に優るとも劣らない、傑出した冒険小説に仕上がっている。今作でグレイマンは、ロシアのマフィアとアメリカのCIAの双方から依頼されて、アフリカの小国の独裁者を暗殺または拉致しようとする。当然ながら、そこには罠が仕掛けられている。グレイマンは敵にも味方にも心を許すことなく、友情と裏切りのはざまで、孤立無援で戦う破目になる。とにかく、主人公のプロに徹した戦いぶりが圧倒的におもしろい。主人公のグレイマンは請け負った仕事に関しては冷徹な殺し屋に徹するが、弱者に対する暖かな眼差しを持ち合わせており、仕事の渦中でとばっちりをくって敵に捕らわれた者を助けたり、落ちぶれた同業者へ憐みの心を抱いたりする。そこが読者の共感を呼ぶのだが、それゆえ彼は窮地に陥ることになる。

スピーディな場面展開、戦闘場面の迫力あふれる描写、鮮やかな人物造型は、まさに一級品であり、全盛期のクィネルを彷彿とさせる。巧みなプロットの積み重ねは尋常の上手さではない。武器に関する過不足ない説明が緊迫感を高めているし、危機に陥った時のプロらしい対処のし方も説得力充分だ。紅一点として登場する国際刑事裁判所の女性捜査官との束の間の触れ合いは、この女の馬鹿さ加減には多少閉口しつつも、本筋には関係ないようでいて、主人公の行動に最後まで影を落としている。冒頭から終結部まで、まったくだれるところがない。マーク・グリーニーは冒険小説不作と言われるこの時代に久々に現れた、本物の冒険小説作家だ。次作がいまから待ちきれない。ブラッド・ピット主演で映画化が企画されているというが、見たいような、見たくないような。

2013.06.28 (金)  桜井ユタカさんの思い出

ソウル評論家の桜井ユタカ(櫻井温)さんが6月11日に亡くなった。71歳だった。桜井さんは素晴らしい人だった。何年か前、病気で倒れるまでは、いつも一緒に飲んでいた。箱根の温泉に行ったり、逗子でバーベキューをやったりしたことも何度もあった。楽しい思い出がたくさんある。桜井さんの業績や経歴については、若いころから親交のあった評論家の吉岡正晴さんのブログに詳しい(吉岡正晴のソウル・サーチン)。これは心に響く桜井さんの追悼文だ。ぜひお読みいただきたい。

ぼくはジャズ人間だし、桜井さんはソウルの評論家なので、本来なら接点がないはずだ。話は30年前、ぼくがレコード会社に勤めていたときにさかのぼる。それまでぼくはジャズを担当していたが、新たにモータウン・レーベルの発売権が移ってきたのに伴い、ぼくにモータウンを担当せよとの社命が下った。モータウンといえばソウルのビッグ・レーベルだ。だが、ぼくも含めて社内にはその方面に知識のある人間がいない。当時の上司のIさんは、ソウルとモータウンに詳しい人を顧問として臨時に雇うという。こうして会社に来ていただいたのが桜井さんだった。桜井さんには週に3日出社してもらうことになった。こうして2人のコンビによるモータウンの編成作業が始まった。

それまで会社に来られたときに黙礼ぐらいは交わしていたが、桜井さんとはほとんど話したことはなかった。一緒に仕事をするうちに、桜井さんは一見したところ、とっつきにくいが、打ち解けると、とてもやさしい、気持ちのいい、純粋な心を持った人だということが分かってきた。知らない人や気の合わない人には無愛想だが、いったん心が通じ合うと、何の遠慮もなく開けっぴろげに付き合うことができる人だった。偉ぶった素振りなどかけらもなかった。

初めてモータウンに関する打ち合わせをしたとき、ぼくは桜井さんを「桜井先生」と呼んだ。当時、レコード会社の人間が評論家の人と接するとき、“先生”と呼ぶのが習慣になっていた。ところが桜井さんは即座に「先生はやめてください。ぼくはあなたの先生じゃありません」と言った。そのとおりだ。それを聞いて、ぼくは嬉しくなった。この人とならいい感じでやっていけそうだと思った。

桜井さんは、ソウルに関して以外、まったく無欲の人だった。そして権力とも無縁の人だった。権力を嫌っていたというよりも、関心がなかったというほうが正しいだろう。長いあいだにわたって音楽業界にかかわってきたので、かつて付き合いのあったレコード会社の社員のなかには、すでに会社の中枢にいる人たちもたくさんいたが、桜井さんはどんなに偉くても、気が合わない人とは付き合おうとしなかった。波長が合えば、どんなに下っ端の人とでも積極的に付き合った。

桜井さんは、ときどきカントリーを聴くことはあるが、基本的にソウル以外の音楽には関心がなかった。その点でも桜井さんの純粋さは徹底していた。ソウルにまったく無知だったぼくは、桜井さんにいろんなことを教わった。桜井さんには押しつけがましいとことは微塵もなかった。これがいい、あれがいいとは言うが、これを聴け、あれを聴けとは一切言わなかった。オーティス・レディング、サム・クック、ジャッキー・ウィルソン、グラディズ・ナイト、桜井さんが好きだと言った歌手をいろいろ聴いていくうちに、ぼくは少しずつソウル音楽の楽しさを、ごく初歩的な段階ながら、理解するようになった。

桜井さんとは、ほんとうによく飲んだし、よく遊んだ。一緒に仕事をし始めてから、仕事が終わったあと、会社の仲間を誘って近くの居酒屋で飲むようになった。最初のうちはAさん、Mさん、Nさんなど、以前から桜井さんと親しかったほんの2、3人が付き合うだけだったが、そのうちに、宣伝担当のAさん、クラシック担当のSさん、営業担当のMさん、コレポン担当のH嬢など、しだいにその輪が広がっていった。そんなとき、桜井さんは会社の費用には絶対にさせなかった。いつも割り勘だった。しかも、いちばん年上なのだからと言って、必ず自分が多めに払った。

そんな仲間たちと、毎年秋に箱根の温泉に一泊で旅行した。桜井さんはふざけて「箱根ソウル・セミナー開催のご案内」というプログラムを作った。講師に誰それを呼んで、こんなセミナーをするというプログラムだった。それを信じて参加する人もいたが、実態は箱根の温泉旅館に行って、飲んで騒いで温泉に浸かって帰ってくるという、たんにそれだけの旅行だった。夏には厨子に行ってバーベキュー・パーティをやったし、鎌倉の花火を見に行ったこともあった。素晴らしい時間を過ごすことができた。

数年たってモータウン・レーベルが別の会社に移ったあとも、そんな付き合いは長く続いた。7、8年前あたりだったろうか、桜井さんが体調を崩してからは、さすがに会う回数は減ったが、それでもときおり電話がかかって来て、昔からの仲間のAさんやMさん、M嬢などを誘って飲んでいた。桜井さんに最後に会ったのは、6年近く前、森崎ベラさんのライヴを見に高円寺のライヴ・ハウスに行ったときだった。桜井さんは、もう酒があまり飲めるような状態ではなかった。また会いましょうと言って別れたが、それ以降、桜井さんは入院してしまい、二度と会うことはなかった。

桜井さんは「ソウル・オン」という月刊誌を発行するかたわら、「ソウル大辞典」を著すべく、いくつかの出版社に打診していたが、どこからも思わしい返事が得られなかったため、自費出版というかたちで刊行しはじめた。これはアメリカで発売されたソウル・ミュージックの全レコードをアーティスト別にABC順に紹介、解説するという、膨大な情報が網羅された数巻にわたる大部な本であり、おそらく世界でも類を見ないだろう。第3巻のOの項目まで刊行されたが、そこで病いのため途絶えてしまった。桜井さんとしてはさぞ心残りだっただろう。

いま思えば、桜井さんとともに過ごした日々は、遅くきた青春時代だったのではないかと思う。青春というには、ぼくも含めてみんな年をとりすぎていたが、あの活力と体力と浮かれ騒ぎは、まさに青春だった。桜井さんという稀有の人に巡り合えたのは、そして親しく接することができたのは、無上の幸運だった。いま、桜井さんは天国でオーティス・レディングやサム・クックと楽しく交遊しているだろう。桜井さん、長年にわたるお付き合い、ありがとうございました。

2013.01.18 (金)  2012年海外映画ベスト10

昨年末、不測の出来事があって書きそびれてしまった2012年の映画ベスト・テンを、年を越してしまったが、ここで披露しておきたい。
 1. 「アルゴ」 ベン・アフリック (米)
 2. 「おとなのけんか」 ロマン・ポランスキー (仏・独・波)
 3. 「終の信託」 周防正行 (日)
 4. 「プレイ 獲物」 エリック・ヴァレット (仏)
 5. 「幸せへのキセキ」 キャメロン・クロウ (米)
 6. 「スノーホワイト」 ルパート・サンダーズ (米)
 7. 「ルアーヴルの靴みがき」 アキ・カウリスマキ (芬・仏・独)
 8. 「J・エドガー」 クリント・イーストウッド (米)
 9. 「ヒューゴの不思議な発明」 マーティン・スコセッシ (米)
10. 「アーティスト」 ミシェル・アザナヴィシウス (仏)
ぶっちぎりの1位は「アルゴ」だ。これについては12月8日付の当欄で書いたとおり。近来まれなサスペンス映画の傑作である。2位の「おとなのけんか」はロマン・ポランスキーの最新作。前作の「ゴースト・ライター」とはうって変わって、皮肉のきいたコメディ映画だ。子供どうしが喧嘩し、一方の両親が片方の両親の家に謝罪に訪れ、最初は友好的に和解の話し合いがなされていたが、しだいに冷静さを失い、本音を言い合って狂乱の修羅場と化す、という内容。登場人物はたった4人、場所もアパートメントの一室だけという設定の小品だが、よくできた脚本、ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレットをはじめ芸達者な俳優たちの堂々たる名演により、魅力あふれる映画に仕上がっている。

3位の「終の信託」は周防正行監督の5年ぶりの映画。海外映画だけではリストを埋めきれないので、日本の作品だがここに入れた。前作「それでもぼくはやっていない」と同じく、社会的テーマを扱ったシリアスな映画だ。題材は安楽死であり、とても重たい内容だが、ドラマとしての出来は一級品。死を間近にした患者役の役所広司の演技が絶品だし、取調室での医師=草刈民代と検事=大沢たかおの緊迫したやりとりも異様な迫力に満ちている。4位の「プレイ 獲物」はフランスのスリラー映画。妻子が連続殺人鬼に誘拐されたことを知った強盗で服役中の主人公が、刑務所を脱獄し、妻子を取り戻すため殺人鬼を追う、というストーリー。主人公〜犯人〜警察の3者による追跡と逃亡が巧みに描かれており、二転、三転するプロットとあいまって、良質のサスペンス映画になっている。CGを使わない生身のアクションが迫力満点で、最初から最後まで緊迫感が途切れない。

5位の「幸せへのキセキ」は、ひょんな行きがかりから閉園寸前の動物園を購入した男が、妻の死の痛手から立ち直り、子供たちや飼育員とともに動物園を再建しようとする物語。さまざまなトラブルを乗り越えて、最後はみんなが幸せになるという、絵に描いたようなハッピー・エンディング映画だが、主演のマット・デイモンはじめ、出演者全員の自然な演技が好ましく、愛すべき内容に仕上がっている。6位の「スノーホワイト」は、グリム童話「白雪姫」の物語を大胆に改変し、アクションやホラーの味付けを施したダーク・ファンタジー。復讐のため剣を手にして立ち上がる白雪姫、戦うヒロインという設定が新鮮だ。特撮が巧みに使われており、話の展開もスムースで淀みがない。

7位の「ルアーヴルの靴みがき」は、人間の善意、貧しくても助け合いながら生きる下町の住民たちの人情を描いた映画。北フランスの小さな港町で靴みがきをしながらつつましく暮らす老人と、アフリカから密航してロンドンに行こうとする少年の出会いが、ペーソスを交えながら綴られる。カウリスマキ監督の温かい眼差しが感じられ、人生はそんなに捨てたものではない、という気持ちにさせてくれる。8位の「J・エドガー」は、FBIの初代長官に就任し、48年間にわたって長官を務め、秘密裏に収集した政治家、実業家、芸能人のプライベートなデータを武器に、米国の政治・社会を裏から操ったJ・エドガー・フーヴァーの生涯を描いた伝記映画。イーストウッド作品としては、「ミスティック・リバー」「チェンジリング」などの系列に属する、人間の内部の暗い情念と心の闇を写し出した映画だ。主演のレオナルド・ディカプリオが、これまでのキャリアのなかでもベストといえる渾身の熱演を見せる。

9位の「ヒューゴの不思議な発明」はスコセッシ監督にしては珍しいファンタジー作品。パリを舞台に、時計台に隠れ住む孤児の少年が繰り広げる冒険が、幻想的な映像で描かれる。映画の父メリエスが登場するあたりから、映画へのオマージュが浮かび上がってくるが、全体として話が有機的に結び付いているとは言い難く、なにかあざとさが感じられてならない。10位の「アーティスト」はハリウッド創成期、サイレント時代のスターの栄光と没落をテーマにしたメロドラマ。時代に合わせてモノクロのサイレント映画仕立てになっているのが話題を呼んだ。アイデアは面白いし、内容的にもそれなりに楽しめるが、アカデミー作品賞をとるほどのすぐれた映画とは思えない。

2012.12.16 (日)  2012年海外ミステリー・ベスト10

今年もベスト・ランキングの時期になった。相変わらず海外ミステリーの出版点数が少ないのが寂しい。とくに新潮文庫や文春文庫があまり翻訳ものを出さなくなったのが目立つ。また最近の傾向として、北欧やドイツなど、ヨーロッパのミステリーの出版が多いこと、人間の心理を重厚に描く文学的な味わいが強いミステリーが多くなったことが挙げられる。米英型の胸がスカッとするスリラーや冒険小説が少なくなり、ファンとしてはフラストレーションがたまるばかりだ。ということで、2012年海外ミステリのマイ・ベスト・テンだが、今年は断トツの1位という小説はなかった。たまたま以下のようなランキングになったが、1位から5位まではほぼ同列であり、実際のところ差はほとんどない。
 1. 「脱出空域」 トマス・W・ヤング (ハヤカワ文庫)
 2. 「真鍮の評決」 マイクル・コナリー (講談社文庫)
 3. 「アイアン・ハウス」 ジョン・ハート (ハヤカワ・ポケミス)
 4. 「追撃の森」 ジェフリー・ディーヴァー (文春文庫)
 5. 「パーフェクト・ハンター」 トム・ウッド (ハヤカワ文庫)
 6. 「マイクロワールド」 マイクル・クライトン&リチャード・プレストン (早川書房)
 7. 「特捜部Q〜Pからのメッセージ」 ユッシ・エーズラ・オールスン (ハヤカワ・ポケミス)
 8. 「解錠師」 スティーヴ・ハミルトン (ハヤカワ・ポケミス)
 9. 「尋問請負人」 マーク・アレン・スミス (ハヤカワ文庫)
10. 「濡れた魚」 フォルカー・クッチャー (創元推理文庫)
1位の「脱出空域」については7月31日付のコラムで記した。最近では珍しいストレートな冒険小説である。内容としては、この作家の前作「脱出山脈」のほうがすぐれているが、全編、飛行機のなかを舞台にしたこの第2作も、最初から最後まで無類緊迫感に包まれており、男の意地と心意気が胸を熱くさせてくれる。2位の「真鍮の評決」はマイクル・コナリー作のリンカーン弁護士シリーズ第2作。知り合いの弁護士が殺害され、その後任として殺人事件で逮捕されたハリウッドの大物映画関係者の弁護を引き受けることになった主人公の活躍が描かれる。入り組んだプロットと語り口の巧さが冴えわたっており、第1作をしのぐ出来ばえだ。われらのヒーロー、一匹狼の刑事ハリー・ボッシュが脇役で登場するのも興味を呼ぶ。

3位は「アイアン・ハウス」。ジョン・ハートは「川は静かに流れ」「ラスト・チャイルド」と、家族の絆をテーマとして傑作ミステリーを書き継いできたが、これは一転して殺し屋を主人公とするハードボイルド風クライム・スリラー。組織から抜けようとする殺し屋が、愛する女と生き別れになっていた弟を守りながら追手と戦う話である。今作でも描かれる親子兄弟の絆は印象深く、次々に迫る敵との戦い、主人公の生い立ちにまつわる謎と相俟って、サスペンスは一級品だ。4位の「追撃の森」はリンカーン・ライム・シリーズで人気沸騰のジェフリー・ディーヴァーによるノン・シリーズ作品。女性保安官補を主人公に、森のなかでの悪漢との体力と知力を尽くした戦いと追いつ追われつの逃避行が描かれる。ディーヴァー得意の二転、三転するストーリー展開はさすがであり、まったく舌を巻く巧さだ。

5位の「パーフェクト・ハンター」は超一流の殺し屋が次々に押し寄せる敵と戦うという内容だったはずだが、じつはどんな筋の運びだったか、よく覚えていない。でも面白かったことだけは確かであり、読後のメモにも高得点が記してあるので、ここに挙げておく。6位の「マイクロワールド」は亡きマイクル・クライトンが残した梗概をもとにリチャード・プレストンが書いたSF小説。新薬開発をたくらむベンチャー企業のボスから次元変換機で体をわすが2センチのサイズに縮められ、ハワイの森林に放り出されてしまった大学生たちが、巨大な昆虫や動物と戦いながら専門知識を駆使してなんとか脱出しようとする、映画「ミクロの決死圏」を思わせる内容の作品だ。冴えない脇役と思っていた登場人物のひとりが、途中から徐々に主人公として活躍し始めるという凝った趣向が面白い。ここまで読ませる小説に仕上がったのは、文章が下手なクライトンではなく、巧者のプレストンが書いたからだろう。

7位の「特捜部Q〜Pからのメッセージ」は、いま流行の北欧ミステリーの一冊。コペンハーゲン警察で未解決事件を扱う特捜部の活躍を描くシリーズの第3作。主人公である厄介者の警部補は、今回もチームワークなどまったくとれない奇妙な部下たちを率いて、ビンに入って流れ着いた「助けて」という手紙に端を発する、新興宗教にからむ少年誘拐事件に挑む。このシリーズはどれも読みごたえがあるが、今作はそのなかでも面白さの点では抜群だろう。8位の「解錠師」は、幼い時の事件のトラウマで喋れなくなった、天才的な錠前破りの才能をもつ少年を主人公とする風変わりなクライム・ノヴェル。端的に言えば、少年の成長を描く青春小説といった趣の作品であり、みずみずしい情感を感じさせるが、ミステリーとしての要素は希薄だ。

9位の「尋問請負人」については11月29日付のコラムで書いた。謎の過去を引きずる尋問のプロが、誘拐された少年を助けながら罠をかいくぐって敵と戦うという話。主人公やその周辺には女がいっさい登場しないが、登場人物のキャラクターはしっかり描かれており、陰惨な拷問シーンもあるが読後感はさわやかだ。10位の「濡れた魚」は1929年のベルリンを舞台にした警察小説。ベルリン警視庁の風紀課所属ながら殺人課への転身を目指す若い警部が遭遇する錯綜した事件が物語られる。ナチス台頭の前夜、ボルシェビキのスパイが暗躍し、悪徳とデカダンがはびこる物情騒然たるベルリンの描写がなかなか読ませる。これは大河小説の第1巻で、時代を追いながらシリーズとして続くらしい。

選外だが興味を引かれた小説が2冊ある。ひとつは「天使のゲーム」(カルロス・ルイス・サフォン著、集英社文庫)。前作「風の影」と対をなす、戦前のバルセロナを舞台にしたファンタジー・ミステリーで、あの“忘れられた本の墓場”も登場する。前作同様、本への愛が全編にあふれており、印象深いが、どうも話の展開がよく呑み込めないし、結末も判然とせず、前作と比べると出来はいまいちだ。もうひとつは「湿地」(アーナルデュル・インドリダソン著、創元社)。珍しくアイスランドの警察ミステリーだ。こんな国の小説まで翻訳されるとは、北欧ミステリ・ブームも極まった感がある。内容的には荒涼とした風土のなかの暗い人間ドラマであり、じっくり読ませるだけの力はあるが、あまりのシリアスさと悲痛なムードにいささか辟易する。

2012.12.08(土)  映画「アルゴ」とイラン米大使館員人質事件の真実

イラン革命から間もない1979年11月、テヘランの米大使館が暴徒化した学生らに占拠され、館員と家族が人質にされる事件が起こった。大使館に軟禁されたのは約60人。そのうち6名は脱出してカナダ大使の私邸に匿われた。もし彼らがイラン当局に見つかれば処刑はまぬかれない。米CIAはこの6人の救出を計画する。人質奪還のプロであるCIA局員が思いついたアイデアは、偽の映画製作話をでっち上げ、ハリウッドの映画関係者やカナダ政府の協力のもと、ロケの撮影スタッフにまぎれて彼らを出国させるという作戦だった。果たして救出作戦はうまく行くのか。

この嘘のような実話を映画化したのが「アルゴ」だ。これは文句なく面白い。映画としての面白さと完成度の高さで言えば、今年のベスト1かもしれない。監督で製作・主演も兼ねるベン・アフリックは、監督3作目にして早くも素晴らしい力量を見せつけた。映画は、大きく言って、アメリカで計画を立てお膳立てをするパートと、現地テヘランにおける脱出行を描くパートの2つに分かれる。そこに、隠れ家に住む6人の人間関係や作戦を指揮する主人公の家庭問題などのエピソードがからむ。イランでの暴徒たちが米大使館に乱入する様子や、テヘランの街の陰惨な光景などは、ドキュメンタリー映像が巧みに織り交ぜられ、生々しい迫力があるし、計画が少しずつ練り上げられていく展開の描き方も見事だ。とりわけ、隠れ家を抜け出てテヘラン空港へ向かい、飛行機に乗り込むまでの緊迫感は格別で、成功すると分かっていても、手に汗握るようなスリルを感じさせる。史実に基づいているとはいえ、とうぜん細部は映画として盛り上げるために手が加えられているのだろうが、そのあたりの脚色の巧さも特筆すべきだ。アフリックの抑えた演技がいいし、ハリウッドのプロデューサーに扮するアラン・アーキンはじめ他の出演者たちの自然な所作も非の打ちどころがない。

ここには政治的な主張はない。冒頭に字幕で、前政権のパフラヴィ国王がアメリカの傀儡だったこと、パフラヴィ政権の圧政にイスラム勢力が反旗を翻して革命が起きたことなどの背景説明がなされるだけだ。それはそれでいい。ここに政治的なメッセージなどを盛り込むのは無粋であり、エンタテインメントに徹して正解だったと思う。この映画の唯一の瑕瑾はエンディングだ。壊れかけていた主人公の家庭が元に戻るという幕切れは、いかにも取ってつけたようで、興を削がれる。もっとあっさりと終えるべきだったと思う。

ところで、米大使館で人質になっていた52人だが、当時のカーター政権は救出作戦がすべて失敗し、外交的なアプローチも功を奏さず、カーターが大統領を退いてレーガンが就任した1981年1月、1年3ヶ月ぶりにようやく解放された。人質の解放がこんなに遅れた背景には、次期大統領を狙うレーガンが画策した陰謀があったという話を、以前なにかで読んだことがある。根も葉もない与太話ではない。証拠の書類や証言もある歴史上の事実だ。

イラン側はもともと、アメリカに亡命したパフラヴィ元国王の引き渡しを要求して人質をとったのだが、1980年7月にパフラヴィが死去したためその意義が薄れてしまった。そして米政府とイランとの水面下での交渉により、人質を解放する方向に向かって話が進んでいた。ところが、大統領選での勝利を狙うレーガン陣営は、ひそかにイランと接触し、レーガンが政権を取ったら特別な配慮をするから、その代わりにカーターが大統領でいる間は人質を解放しないでくれと持ちかけた。イランがその話を呑み、その結果、カーターは人質の解放に失敗して大統領選で敗北した。カーターの敗因は大使館員人質事件での対応のまずさにあったとマスコミは論評している。もしカーター政権下で人質が解放されていれば、カーターが勝って2期目の大統領になっていた可能性が高い。選挙の駆け引きの道具にされた人質たちは、たまったものではない。本来ならもっと早く帰国できたものを、レーガン陣営の策謀のせいで長期にわたる軟禁を余儀なくされたのだ。大統領選に勝つためにはここまで汚いことをやるのか、という思いに捉われるが、それがアメリカという国の実態なのだ。

2012.11.29 (木)  アメリカの裏の世界をテーマにした2冊のミステリ小説

ミステリ小説を読む楽しみのひとつは、ぼくたちが知らない世界を知ることにある。最近読んだ2冊のミステリがそんな世界をテーマにしたものだった。

ひとつは、これが処女作になる新人作家マシュー・クワークが書いた『The 500』(早川ポケミス)。描かれるのはアメリカの政治を陰で操るロビイスト業界だ。ハーヴァード大学で学ぶ苦学生の主人公がワシントンの政界を裏で牛耳るロビイスト会社に雇われ、張り切って仕事に励んで頭角を現すが、じつはその会社には隠された秘密があり、主人公には危険な罠が仕掛けられていた、という内容の小説だ。ジョン・グリシャムの出世作『法律事務所』と筋立てが似ているが、よく出来た小気味いいテンポのスリラーに仕上がっている。途中で正義に目覚める主人公の動機づけが弱いのが難だが、リーダビリティは抜群で一気に読ませる。しっくりいっていなかった父親との絆を取り戻すエピソードも心に触れる。

アメリカには3万を超えるロビイストが存在しており、政府の政策決定に大きな影響力を及ぼしていると言われるが、日本では馴染みのないビジネスであり、ぼくたちにはその実体はよく分からない。この小説に出てくるロビイスト会社は、政界の大物たち(ワシントンにはそんな政治を動かす人間が500人いると言われており、それがこの小説の題名になっている)と懇意にし、秘密を握り、場合によっては弱みを捏造したりして、それをネタに相手を意のままにコントロールしている。現実の世界でも、ここまで極端ではないにせよ、70年代初頭までFBI長官を務め、政治家や著名人の隠された情報を収集して影響力を振るったエドガー・フーヴァーの例もあるし、これに近いようなことが行なわれているのではないだろうか。

もうひとつはマーク・アレン・スミスという作家の『尋問請負人』(早川文庫)。これもこの作家のデビュー作だ。こちらは尋問請負業という世界を扱ったスリラー。あらゆるテクニックに通じた尋問のプロが主人公で、民間企業、政府機関、犯罪組織から依頼されて、対象者から情報を引き出し、報酬を得ている。彼は新たに仕事を引き受けたが、対象者が少年であることを知ってその少年を窮地から救い出し、執拗に迫る敵と戦いながら仕組まれた陰謀に立ち向かう、という内容だ。この男は幼いころの記憶を失っているが、その謎は物語が進むにつれて少しずつ明らかになっていく。

警察や軍隊に所属する尋問のプロというのはいるが、尋問請負業などという民間ビジネスが実際にあるのかどうか、分からない。でもアメリカのことだから、あってもおかしくはない。主人公の尋問は一種の拷問だが、入念に計算された心理的なテクニックを用いて相手を責め、ほとんど血を流すことなく自白を引き出す。この尋問のシーンがなかなか興味深い。プロットも巧妙で最初から最後までサスペンスが持続している。全体にトーンは暗く、陰惨なシーンもあるが、読み心地は快調だし、余韻のある幕切れも申し分ない。孤独を好む冷静沈着な主人公の造型がユニークであり、相棒の調査員をはじめ、登場人物が端役に至るまできっちりと描かれている。ここでも主人公の背景には父親が影を落としており、それらが相俟って、この小説に奥行きがもたらされている。

2012.11.15 (木)  維新の会のお粗末さと維新八策の空虚な中身

野田首相が突然、解散すると言い出した。この破れかぶれの解散宣言に、民主党だけでなく、早く解散せよと言っていた各政党や議員たちも慌てふためいている。総選挙は12月16日とのことだが、これで民主党は、離党者の続出、選挙での惨敗により、壊滅状態になるだろう。当然の報いだ。次は自民党が第1党になるとの見方がメディアには強いが、そうなれば旧い政治の復活であり、事態は最悪だ。だからといって、第3極に望みを託せそうな政党はいない。まったく絶望的な状況だ。

橋下徹率いる日本維新の会は第3極の台風の目になると言われている。だが、果たして橋下徹に日本の命運を託せるのだろうか。国政に送り込もうとしている候補者はとうぜん玉石混淆であろうし、むしろ信頼に足る人物などほとんどいないと考えたほうがいいだろう。維新の会に鞍替えした国会議員の顔ぶれを見ても、これといった人物は見当たらない。橋下人気にあやかって選挙を乗り切ろうという思惑が見え見えの連中ばかりだ。

そもそも橋下が国政に打って出るにあたって、党代表の座を餌に連携を求めたのが安倍晋三だったのには、開いた口がふさがらなかった。安倍晋三といえば、いまは自民党総裁に返り咲いたが、かつて首相の座の重圧に耐えきれず政権を投げ出して腰抜けぶりをさらけ出した人間だ。憲法改正、対米従属、核武装容認という超保守思想の持ち主であることは2人に共通しているが、それにしてもヘタレ政治家の安倍にすり寄るとは、橋下の見識のなさもはなはだしい。もっとも、我執と老醜の権化、石原慎太郎を尊敬していることからして、すでに橋下のダメさ加減は明らかなのだが。

維新の会のブレーンに、いつのまにか竹中平蔵が収まっている。小泉純一郎をヒーローと仰ぐ橋下徹からすれば、小泉政権下で経済政策を推し進めた竹中と組むのは自然な流れだったのだろう。だが、竹中平蔵といえば、アメリカの手先となって、構造改革、規制緩和のお題目のもとに市場原理に基づく新自由主義政策を推進した結果、日本の経済を弱体化させ、それまでにない格差社会を生み出した張本人だ。日本をダメにしたA級戦犯だ。そんな輩が経済政策の舵取りをすれば、日本社会はまたもや大きな打撃を受けることになる。

維新の会が公約として華々しくぶち上げた維新八策の中身はお粗末きわまりない。そこには寡頭政治志向と対米従属志向が色濃く感じられる。総じて、脈絡なく美辞麗句が並べられているが、ほとんど具体的な施策や目標数値が入っておらず、机上の空論に近い。お互いに矛盾するような目標も散見され、思いついたことを端から端に並べただけのような印象が強い。

「統治機構の作り直し」の項では首相公選をうたっている。これは議院内閣制を廃止して大統領制にしようということか。いずれにせよ、決めることができる政治を目指すにしては、発想が短絡的すぎる。アメリカの大統領は強大な権限を持っていると思われがちだが、実際には議会によって大統領の行政はつねにチェックされており、昨今のオバマ大統領のケースを見ても分かるように、大統領の所属政党と議会多数派が異なれば、大統領は思うように権限を行使できないのだ。

「財政・行政・政治改革」の項では、衆議院の議員数を240人に削減、参議院を廃止と、ここだけはやたら具体的に書かれている。議員数の削減はけっこうだが、以前から削減が叫ばれているにもかかわらずいっこうに実現しない現状で、こんな夢みたいな目標を掲げられても、はなはだ説得力がない。「外交・防衛」の項には日米同盟を基軸にするという文言はあるが、アジアへの目線がまったく欠けている。「憲法改正」の項では、改正への要件緩和と国民投票の実施をうたい、改正への意思をはっきり打ち出している。

「社会保障制度改革」では雑多な目標が掲げられているが、肝心の増え続ける社会保障費にどう対処するのかには触れられていない。「経済政策・雇用政策・税制」の項でも、同じく総花的にうたい文句が並んでいるが、どういう方向に転換したいのか、何を重点的にやっていくのかがまったく見えない。いずれにせよ、竹下平蔵がバックにいれば、どんなきれいごとを言っても、弱者切り捨て、大資本寄りの施策になるのは明らかだ。

というわけで、維新の会にはまったく期待できないが、かといって石原新党などは問題外だし、小沢新党やみんなの党も頼りない。12月の選挙でどこに投票すればいいのか、頭を抱えてしまう。

2012.11.01 (木)  都知事を辞職して我執と老醜をさらす石原慎太郎

石原慎太郎が都知事を辞して国政に復帰すると言い出した。またスタンドプレーで赤恥をさらすのか、とうんざりする。国会で居場所がなくなり、突然、議員を辞職したのは1995年のことだ。そして今回、またもや突然の都知事辞職だ。世間を驚かせて存在感を際立たせようという姑息な思惑なのは目に見えている。

それにしても、石原はほんとうに責任感のかけらもない男だ。「最後のお勤めをさせてくれ」と言って都知事4選を果たしてから、まだ1年半しか経っていない。辞職の理由が、またもや「国への最後のご奉公をするため」ときた。いったい何度“最後”があれば気が済むのだ。都民に託された使命を彼はどう考えているのか。オリンピック誘致はどうするのだ。新銀行東京の後始末と責任はどうつけるのだ。本人は「お国のために、若いやつがだらしないから、おれが出るしかない」などとほざいているが、なんのことはない、自分の権力欲を満足させたいだけに過ぎない。

ぼくは偉そうに威張り散らす人間が大嫌いだ。そんなやつは三流のクズ人間だと思っている。その典型が石原慎太郎だ。そんな石原の言うことに、周りの連中が誰も異を唱えず、ありがたがって拝聴しているのは、情けないかぎりだ。こんな身勝手な権力欲と硬直した国家主義に凝り固まった、頑迷横暴な老人に国政を任せたら、日本は間違いなく崩壊する。なにしろ石原は尖閣問題を引き起こして経済的、外交的に大きな損失を招いた張本人だ。領土問題を解決するには戦争も辞さないと本気で主張する男だ。

石原は辞職会見で憲法に関する持論をまくしたてた。国政に復帰したらいまの憲法を廃棄して新憲法を作るという。大日本帝国憲法にでも戻そうと言うのか。いまの憲法はアメリカのお仕着せであり、条文は日本語の体をなしていないという。およそ文学とも呼べないヘタくそな文章しか書けない石原が、よく恥ずかしげもなく憲法の条文を批判できるものだと思うが、それはともかく、1946年に公布された日本国憲法は、アメリカの圧力がなければ作りえなかった奇跡的な憲法だ。あの当時、日本の政治家や学者だけに任せておけば、戦前の旧い考えや体制を振り払うことはできず、あれほど大胆で進歩的な憲法を作り出すことはできなかった。旧弊な思想を解体させ、徹底的に民主的なものにしようという占領軍の意図があったからこそ、あの世界に誇る憲法ができたのだ。お仕着せだから悪いという石原をはじめとする憲法改訂論者の考えは、あまりに短絡的だし次元が低い。

石原慎太郎は旧態依然たる老人政党「立ち上がれ日本」を土台にして新党を結成するようだ。石原としては、周りに乞われて新党を立ち上げるという方向に持っていきたかったのだろうが、80歳の年寄りに、もはやそこまでの影響力はなかった。石原新党は単独では何のインパクトももたらさないだろう。それを危惧する石原は、維新の会などに色目を使い、連携を図ろうとしている。メディアは第3極の連携などともてはやすが、頭のいい橋下徹は、もはや終わってしまった政治家である石原との連携話に乗らないだろう。政策や考え方の点でも、共通するところはあるにしても、肝心の部分では大きく異なっている。そもそも石原は、ズケズケものを言うから革新的に見えるが、その実体は、原発問題にしろ消費税問題にしろ、考え方はことごとく保守的だ。その意味では自民党と同じ体質であり、むしろ自民党よりもっと右寄りだと言える。

大多数の国民は石原新党など支持しないと思うが、なかには石原の威勢のいい言葉に惑わされ、低次元の感情を刺激される者もいるだろうし、下品な言葉で怒鳴り散らす彼を強者だと勘違いし、ひたすら崇めるマゾヒストのような者もいるだろう。だまされてはいけない。石原はよく「最近の日本人は我欲にまみれすぎている」というが、いちばん我欲にまみれているのは当の石原だ。辞職会見のなかで石原は官僚に操られる国の行政を憂え、官僚の独善を打破すると意気込んだ。それはいい。だが、官僚の独善に代わって石原の独善が居座るのは願い下げだ。こんな無責任な、弱者を切り捨て、外国人を蔑視し、国民を戦争に駆り立てる輩に、国政を司る資格はない。

2012.10.24 (水)  週刊朝日の「ハシシタ」報道をめぐって

維新の会について触れる前に、先ごろメディアを賑わした週刊朝日の「ハシシタ」報道をめぐる騒動について、一言記しておきたい。週刊朝日が橋下徹の出自について記事にし、それに対して橋下は人権侵害だと怒り、週刊朝日=朝日新聞社を出入り差し止めにしたが、すぐさまく週刊朝日が謝罪し、次号以下の連載を中止したことにより、事態は収まった、という事件だ。

これについては、週刊朝日側に非があると唱える論調が大半だったようだが、ぼくは見解を異にする。この記事(レポーターは佐野眞一)では、まず橋下徹の政治手法をやり玉に挙げ、ヒットラーに似ている、古くさい弱肉強食思想、大衆迎合主義、にわか勉強で身に付けた空虚な政治的戯言などと指摘し、後段で橋下の父親の縁戚だという人物へのインタビューが載り、父がどんな人物だったかが語られ、被差別部落の出身であること、父が暴力団の組員だったことが明らかにされている。

これについて、橋下は人権侵害だと言ったわけだが、何が人権侵害なのだろう。 橋下の政治手法についてのこのような批判は、これまでいろんなメディアでさんざん書かれてきたことであり、ことさら目新しいものではない。また、被差別部落云々や父親が暴力団云々についても、これまで週刊誌などで何度も取り上げられてきたし、橋下自身も認めていることであり、秘密でも何でもない周知の事実だ。だから、橋下がいまさら人権侵害だと主張しても筋が通らない。

そもそも橋下徹は、公人である以上、そのルーツを追跡調査していくら公表されようが文句は言えない。橋下本人も政治家になる決心をした時点で、そのことは覚悟していたはずだ。事実、彼は「自分のすべてが丸裸にされるのはいたしかたないと思っている」と語っている。週刊朝日の書き方はたしかにえげつないが、その内容に誤りがないかぎり、またその出自を誹謗中傷しているのでないかぎり、何を書かれようが致しかたないのだ。

橋下がもし被差別部落の出身を明らかにされたことを怒っているのだとすれば、それは間違っている。それは同和問題をタブーにさせ、差別を助長させることにつながる。彼は、差別や偏見と戦うため、「何でも自由に書いてくれ」と言うべきなのだ。彼が被差別部落の出身だと世間が知っても、彼の人気は落ちなかったではないか。被差別部落出身だのヤクザの息子だのということは、政治家として立派な仕事をすることと、いっさい関係がない。それを彼は身をもって証明すればいいのだ。

週刊朝日の腰砕けぶりも情けない。佐野眞一はこの記事のなかで書いている。「オレの身元調査までするのか、橋下はそう言って、自分に刃向うものと見るや、生来の攻撃的な本性をむき出しにするかもしれない。だが、それくたい調べられる覚悟がなければ、そもそも総理を目指すこと自体、笑止千万である」。これだけの意気込みで書いているのだから、物議をかもすのは覚悟の上だったはずだ。とうぜん徹底抗戦かと思いきや、親会社の朝日新聞からの圧力があったせいかどうか分からないが、早々と白旗を上げてしまった。

結果を見れば、橋下徹がパワーを見せつけて、落ち目だった人気を回復させたことになる。だが実体は、怒りまくって見当違いの非難をした橋下の度量の低さと、あっさり軍門に下った週刊朝日の軟弱ぶりが明らかになった、なんともお粗末な攻防劇だった。

2012.10.22 (月)  野田政権の末期的症状

野田政権のひどさは目に余る。二枚舌を使い、自己保身に走る野田首相と、税金の無駄遣いを放置する各省の大臣。こんなに無為無策で厚顔無恥な首相は、これまでいなかったのではないだろうか。

2030年までに原発ゼロを目指すと公言しながら、片方で中断していた原発の建設を再開させ、米国から圧力がかかってその方針を反故にする。絵に描いたような嘘つき内閣だ。住民の反対にあって米国内では訓練を実施できないオスプレイの沖縄への配備を、政府は異を唱えることなく受け入れる。沖縄での飛行訓練にあたっての合意などあっさりと破られ、米軍は住宅密集地の上空で危険な操縦モードで訓練しているが、それに対して政府は抗議すらしない。

尖閣問題に関して、政府はバカの一つ覚えのように領土問題は存在しないと言い張るのみで、いっこうに中国と外交交渉しようとしない。元はといえば外交の不手際でこの問題が起こった。外交の失敗は外交で取り返すしかないのだ。玄葉外相がヨーロッパを回って領土問題に対する日本の立場を訴えたが、こんなものはたんなる自己満足に過ぎず、当然ながら何のインパクトももたらさなかった。おそらく尖閣問題は野田内閣が交代しないかぎり、前に進まないだろう。

国内政治では解散総選挙を恐れて臨時国会を開こうとせず、国民の生活に直結する重要法案は棚上げのまま、完全に政争の具と化している。各省庁の税金の無駄遣いが次々に明るみに出ても、野党はそれを追及できない。震災復興費は、それに当てるために増税すると言っておきながら、肝心の被災地の復興などなどそっちのけで、省庁の我欲により、復興とは関係ない費用に予算がどんどん使われている。これはもはや犯罪的だ。国民はもっと怒るべきだ。こんな体たらくでは消費税の増税は社会保障費に当てるという政府の約束も、まったく信用できない。

脳なし大臣どもは官僚の言いなりで、提出された書類にめくら判を押している。田中法相の更迭など、あまりにお粗末すぎて話にもならない。野田首相は何があっても、カエルの面にしょんべん、恥という概念がまるでないみたいに総理の椅子にしがみついている。。こんなに無能なくせに狡猾な首相は見たことがない。最近の世論調査によると、野田内閣の支持率は18%に落ちたとのことだが、まだ18%もあるのが驚きであり、10%以下であってもおかしくない。自民党でも何でもいいから、一刻も早く政権交代してくれと言いたくなる。

この状況に多少は風穴を開けてくれるのではないかと期待していた小沢一郎は、民主党から離れて新党を結成したが、残念なことにまったく存在感を発揮していない。このまま表舞台から遠ざかってしまうのではないかという思いすら抱いてしまう。そもそも小沢新党の幹事長に東祥三がなったということで期待は遠くかすんでしまう。創価大学出身、公明党を皮切りに各党を流れ歩いた東は、ヒゲなど生やしてカッコつけだけは一人前だが、ヴィジョンや見識がまるでなく、葉巻とゴルフと銀座のクラブが大好きなだけで、およそ政治家としての魅力も実力も皆無だ。こんな輩しか幹事長に据えられないというところに、小沢新党の人材不足が露呈している。もっとも、人材不足は小沢新党だけにかぎったことではないが。

それなら、最近は一時ほどの勢いはなく、人気も落ちてきているようだが、橋下徹の維新の会はどうなのだろう。これについては維新八策の内容ともども、次回のコラムで考察したい。

2012.09.22 (土)  危機的な日中関係に手をこまねくだけの無能な野田政権

尖閣諸島国有化への中国の反発は予想以上に激しく、日中関係は危機的な状況に陥っている。中国各地で起きた反日デモは、デモというより暴動に近い。デモを黙認してきた中国政府は、このままでは自分たちに矛先が向かいかねないと見て、9月18日以降、一転して警備を強化し、デモを鎮圧する方針に方向転換した。それでもまだ事態は予断を許さない。尖閣周辺を徘徊する中国の警備船や大挙して向かってくると噂される漁船団と、日本の海上保安庁の巡視船とのあいだで、もし小競り合いが生じれば、戦火を交える事態にも発展しかねない。

テレビで見ると、中国でデモに参加してたるのは、そのほとんどが若者だ。反日デモは経済発展の恩恵にあずかれない一部の不満分子の鬱憤のはけ口だという指摘は当たっているだろう。狂ったように日本製品を破壊する彼らを見ていると、これが文明発祥の地のひとつであり、老子や荘子を、李白や杜甫を生み出し、未開の日本に技術や文化を伝えた中国のいまの姿か、と暗澹たる気持ちになる。デモのなかには毛沢東の肖像を掲げている者が目立った。たしかに、あの狂気じみた光景は、60年代に猖獗をきわめた紅衛兵運動を想起させるものがある。いくら経済発展を遂げても、広い国土、膨大な人口、極端な貧富の格差をかかえる中国は、内政的には綱渡り状態なのだ。

荒れ狂った反日デモも中国政府の締め付けにより、どうやら収まりつつある。だが今度は、日本製品の不買運動や輸出入手続きの遅延、日本企業現地工場の中国人工員たちのストライキなど、中国得意の嫌がらせ戦術を用い始めた。中国政府は何も指示していないと言うが、陰で糸を引いているのは明らかだ。デモ禁止令が出てから暴徒化デモがぴたりと収まった背景にも、反日デモへの政府の関与が見え隠れしている。日本が被る経済的損失は多額にのぼるであろうが、お互いに経済を依存し合っている現状からして、これは両刃の剣であり、中国側も打撃を受けることになる。中国もどこかの時点で幕を引こうと落としどころを探っているのは間違いない。

以前、石原慎太郎都知事が得意げに「尖閣諸島を都が買い上げる」とぶち上げたとき、丹羽前駐中国大使は「石原都知事の尖閣購入を許せば日中関係に重大な危機をもたらすことになる」と警告を発して問題になり、この発言によって大使の職を更迭されることになった。当時ぼくは、これはしごく真っ当な発言であり、これのどこが問題なんだ、と疑問に思ったものだ。いまになって、丹羽前大使の予測の正しさが証明され、外務省は赤恥をさらしたことになる。

メディアは何も言わないが、このような事態に至ったそもそもの原因が、石原慎太郎の尖閣購入発言にあったことは確かだ。石原のスタンドプレーがこのような危機的な日中摩擦を引き起こした。その石原は、自分の責任はそっちのけで、政府の弱腰を批判したり、中国の反発をあおるような言動を繰り返している。それなのにメディアも政府も石原の責任を追及しない。自国を愛するものは他国も尊重しなければならない。それが真の愛国者だ。臆病な人間は自分の怖がりを隠すために、つねに居丈高にふるまう。他国を蔑視する石原は、似非愛国者であり、大衆扇動家であり、恥ずべき卑劣漢だ。

そして、当然ながら国の外交をつかさどる野田内閣にも大きな責任がある。尖閣を国有化したのは正しい判断だったとしても、果たして国有化の意図を正しく中国に伝えていたのだろうか。山口外務副大臣が「外相や首相が国有化の趣旨を十分説明しなかったのはまずかった」ともらしていることからして、ほとんど何も説明していなかったのだろう。だから中国から「石原都知事と野田政権が筋書きを描いた出来レースだ」などと勘繰られることになる。これは明らかに外交の失敗だ。野田政権の外交能力はゼロに等しい。

この日中関係の危機は、一刻も早く打開しなければならないのに、野田首相は代表選という茶番劇にうつつをぬかしたり、何の意味もない国連総会に出席したりして、まったく手を打とうとしない。本来なら首相なり外相なりが自ら中国に赴いて話し合わなければならない事態だが、日本からそれを持ちかけても中国首脳はすぐには会おうとしないだろう。それなら、中国と絆の深い政治家、たとえば田中真紀子とか小沢一郎とかを特使として派遣すればいいではないか。いまは政敵がどうの、面子がどうのと言っている場合ではない。無為無策、手をこまねいているだけの野田政権に、政権の担い手としての資格はない。

2012.09.10 (月)  『花かげ』 その2

昭和7年に初めてレコードになった永岡志津子の「花かげ」は、前回に書いたように、「絵日傘」のB面に入れるため急きょ作られたせいか、伴奏が貧弱だしアレンジも単純で、テンポがきわめてスローであり、インパクトに乏しい。

この曲を、印象的なイントロで始まる海沼實の編曲を用いて初めて録音したのは、少女歌手時代の川田正子だったようだ。レコードは戦後まもなくの頃に発売されたと推定される。30秒前後にも及ぶ比較的長いイントロが、じつに味わい深い。いまではこの海沼實版が「花かげ」の定番アレンジになっている。おそらく、この川田正子のレコードによって「花かげ」は広く普及するようになったものと思われる。

作詞の大村主計(かずえ)は明治37年生まれ、山梨県諏訪村出身の童謡詩人である。生まれ故郷にある向岳寺は桜の名所で、そこには「花かげ」の詩碑が建立されており、『幼い時に、向岳寺の桜吹雪の下を人力車にゆられて隣村に嫁いでゆく姉の花嫁姿を見送った大村主計が、その思い出を詠んだのが、この「花かげ」です』という趣旨の説明が付されているという。

童謡研究家、石田小百合氏が書いた『なっとく童謡・唱歌』の「花かげ」の項を読むと、大筋はそのとおりだが、主計がそれを経験したのは、彼が幼いころではなく、意外にも20歳のときだったらしい。嫁にいった姉はるゑの回想によると、3歳違いの弟、主計とは小さいころからとても仲が良く、毎日、2人で小学校に登下校し、いつも一緒に勉強や遊びをしていたという。「嫁入りの日、主計は、私と離れるのが嫌だと言って、家の大黒柱につかまり大粒の涙を流していました。いくらなだめても泣きやみませんでした」

20歳の大人が姉の嫁入りのとき、悲しくて泣きじゃくったのだ。おそらく大村主計はとても感受性の強い、純粋な人だったのだろう。彼の詩は、一般的には「花かげ」と「絵日傘」以外は知られていない。だから、彼は繊細な詩人として影の薄い人生を送ったのだろうと勝手に想像していたが、実際はそうではなかった。大村主計は、戦後、新聞記者になり、スポーツタイムズの編集局長や社長を歴任するいっぽう、音楽著作権協会の理事や日本童謡協会の副会長を務めたりしている。

戦後の経歴を見ると、大村主計はビジネス感覚にすぐれた、リーダーシップのある人物だったと思われる。「花かげ」の歌詞から受けるイメージと現実とのギャップに驚かされる。ほんの少しだが、20歳で詩作をやめ、以後は武器商人となってアフリカを放浪したフランスの詩人ランボーを思い起こした。

2012.09.09 (日)  『花かげ』 その1

日本の童謡のなかには、心の琴線に触れる独特の情感が込められているものがある。それらには、短歌の世界にも一脈通じる、はるか昔から培われてきた日本人特有の感性が反映されている。日本古来の音階が使われ、歌詞も古風で雅やかだ。そんな童謡のひとつに「花かげ」がある。

「花かげ」という曲の素晴らしさを再認識したのは、“エムズの片割れ”というブログによってだった。たまたま、このブログで紹介されている「花かげ」の音を聴き、曲の成立過程を知って、この曲の魅力にはまってしまった。「花かげ」は、いつ、どこでだったかは記憶にないが、たしかに子供のころに聴いたことがある。おそらく、ぼくと同世代の多くの方もそうであろう。こんな曲だ("花かげ by 安田章子 at YouTube)。

「花かげ」の作者は、作詞・大村主計(かずえ)、作曲・豊田義一。曲が作られたのは昭和7年であり、同年、レコード化された。こんな歌詞だ。

    十五夜お月さま ひとりぼち
    桜吹雪の 花かげに
    花嫁姿の お姉さま
    俥にゆられて 行きました

    十五夜お月さま 見てたでしょう
    桜吹雪の 花かげに
    花嫁姿の 姉さまと
    お別れ惜しんで 泣きました

    十五夜お月さま ひとりぼち
    桜吹雪の 花かげに
    遠いお里の お姉さま
    私はひとりに なりました

はらはらと花散る満開の桜並木、人力車に揺られて嫁に行く文金高島田の姉、空にはぽっかり十五夜お月さま。美しいイメージを喚起する、抒情味あふれる歌詞だ。作詞の大村主計は、幼いころの思い出をもとにしてこの詩を書いたという。なんともいえない郷愁と哀感を誘うメロディもまた素晴らしい。作詞の大村主計も作曲の豊田義一もこの「花かげ」と、同時にレコード化された「絵日傘」だけが有名であり、この2曲以外には、これといった人口に膾炙される作品は残していない。

この曲が昭和7年にポリドールでレコード化されたとき、「花かげ」はB面であり、A面は、同じ大村・豊田の作詞・作曲コンビによる「絵日傘」だった。最初に「絵日傘」を録音することになり、B面がないと困るということで、この2人が急きょ作ったのが「花かげ」だった。少女歌手、永岡志津子が歌ったこの初演レコードを聴くと、にぎやかな演奏をバックにした華やかな「絵日傘」に比べて、「花かげ」は寂しげで地味な印象を受ける。しかし、「絵日傘」も日本情緒に富んだいい曲だが、日本人の哀調を帯びた曲好みを反映してか、長い年月を得たいまでは「花かげ」のほうが圧倒的に人気が高い。

「花かげ」の魅力に惹かれて、いろんな歌手が歌ったレコードを探し集めた。いま手元には18種類のヴァージョンがある。初演の永岡志津子、川田正子、伴久美子といった少女歌手や、安田章子(由紀さおり)、古賀さと子などの童謡歌手、島田裕子、鮫島有美子などのソプラノ歌手をはじめ、山崎ハコ、石川さゆり、園まりといった歌謡曲系歌手や、アイシャなんていうマレーシアの歌手が歌ったものまである。

そんななかで、いちばん心惹かれるのは、“エムズの片割れ”氏と同じく、塩野雅子という歌手が歌ったヴァージョンだ。瑞々しさをたたえた美しい歌唱が心にしみる。安田章子の歌も素直でいいし、島田裕子の抑えた歌も悪くない。それらに比べて、鮫島有美子は、オペラ風の技巧を前面に出しすぎで、もうひとつ心に響かない。歌謡曲系では、石川さゆりのこぶしを利かせた歌は空回りしているし、園まりや芹洋子のねちっこい歌は気色悪い。こういった曲は、声楽家が朗々と歌うのも何かしっくりこないし、歌謡曲歌手がスラーをかけて歌うのも不気味だ。余計な装飾を施さず、ひたすら端正に、クリーンに歌うのが、いちばん似合っている。

2012.08.31 (金)  オスプレイ配備反対運動はなぜ盛り上がらないのか

反原発デモの盛り上がりにより、どうやら政府も脱原発の方向に舵を切りそうな情勢だ。政府の自主的な判断によってではなく、国民からの突き上げによって脱原発に向かうというのは、なんとも情けないかぎりだが、それでも結果的にそうなるのであれば結構なことだ。

反原発の動きが高まるいっぽうで、沖縄米軍基地へのオスプレイ配備を阻止しようという気運が盛り上がらないのはなぜだろうか。ことは沖縄だけの問題にとどまらない。沖縄に配備される前に、オスプレイは、訓練飛行のため狭い日本全国の空を低空で飛び回る。そして沖縄に配備されたら、あの住宅や学校が密集している普天間飛行場を離着陸するのだ。

あまりの事故の多さから、米国タイム誌はオスプレイを「空飛ぶ恥 (Flying Shame)」と呼んだ。オスプレイの多発する事故の原因は何なのか。設計に携わった米国人技師による「機体に構造的な欠陥がある」という証言もある。だが米軍と日本の防衛省は機体の欠陥ではなく操縦ミスということで配備を押し切ろうとしている。かりに操縦ミスが原因だったとしても、それで安全だなどと言えるはずがない。操縦ミスが多発するということは、それだけ操縦が難しいということであり、今後も事故が起こる可能性が高いからだ。

政府は安保条約の事前協議の対象外だからという逃げ口上を使っているが、対象内であれ対象外であれ、日本の国土と国民を危険にさらす可能性のあることなら、止めてくれというのが当然であろう。おそらく米軍と防衛省のあいだには、事前になんらかのやりとりはあったと思う。しかし防衛省は対象外ということで一蹴されてしまったのだろう。事実上、日本はいまだに米国の占領下にあるのだ。

聞くところによると、本国アメリカでは、ニューメキシコ州、ハワイ州などで、住民の反対運動により、オスプレイの飛行訓練が中止や延期になっているという。自分の国では断念したものを他国に問答無用で押し付ける、そんなことが許されていいのか。自国ではできないことを日本に強要する、そんな姿勢には、日本に原爆を投下したことと同じような、アメリカという国の驕りとアジアへの蔑視を感じる。

野田政権は、領土問題では中国や韓国に対して毅然とした態度で臨むと言っているが、日本の上空を危険な代物が飛び回り、住民に被害が及びかねないという、まさに日本の主権が侵される事態に対して、米国には何も異論を唱えることができず、言いなりのままだ。メディアもそれを後押ししている。オスプレイ反対の動きが盛り上がらない背景のひとつには、メディアの反応の鈍さがある。大手新聞ではオスプレイの危険性について申し訳程度に小さな記事でしか載らないのに、操縦ミスが原因だから安全だとする米国の調査報告を大きく記事にする。まさに米国や日本政府の意向そのままの報道ぶりだ。

このままいけば、オスプレイは今年10月から沖縄に配備される。だが、オスプレイ反対の気運が高まり、沖縄だけでなく全国に反対運動が広がれば、米国も配備計画を見直さざるをえなくなる。脱原発の次は反オスプレイだ。運動の高まりに期待したい。

2012.08.22 (火)  領土問題と日本のとるべき道

竹島への韓国大統領の上陸、尖閣諸島への香港活動家の上陸により、いま領土問題が大きくクローズアップされている。ロシア首相の国後島訪問もそうだが、日本の政治が安定しており、政府が日ごろからしっかりした外交を行っていれば、このような事態には陥らなかったはずだ。しかし日本は国力が弱まり、不安定な政治状況が続き、政府は国内問題にかまけて外交をないがしろにしてきた。そのツケがいま回ってきたのだ。

このようなとき、必ず愛国心をふりかざし、日本は軟弱だ、直接行動をとれなどと煽り立てる輩が出てくる。権力亡者の三流政治家、石原慎太郎など、その典型だ。げんにその後、尖閣に上陸した日本のバカどもがいた。18世紀のイギリスの思想家が「愛国心はならず者の最後の拠り所」と言ったように、やたらに愛国心を駆り立てるのが最悪の愚策であることは、歴史が証明している。韓国大統領が竹島に上陸したのは、愛国心をあおり、失墜した支持を回復するための手段だったことは明白であり、世界の物笑いの的になった。それと同じ轍を日本が踏むことほど愚かなことはない。

領土に関する紛争は厄介な問題だ。双方の国がどちらも主張を譲らず、どうしようもなく平行線をたどる。最終的な解決は、武力衝突=戦争によってしかなしえない。だが、戦争は回避しなければならない。では、日本は何をすべきか。毅然とした態度をとるべきことは当然だ。対韓国で言えば、竹島問題を国際司法裁判所に提訴したり、韓国への金融援助を打ち切るなどという考えをちらつかせるのもいいだろう。だが、そういった強面のカードを使うのと同時に、水面下では衰弱した外交を正しく機能させ、あらゆるルートを通して、お互いへの理解と信頼を求め、友好関係を築き上げなければならない。

民主党政権はアジアに向ける目線がまったく欠けていた。鳩山元首相は就任早々、東アジア共同体構想をぶち上げたが、沖縄問題でつまずき、アメリカの思惑がらみで首相の座を引きずりおろされ、以来、対アジア外交はおろそかになっていた。アメリカは、日本が中国、韓国と友好な関係を保ち、アジアが一体化して共同歩調をとるのを恐れている。だから、北方領土、竹島、尖閣諸島に関しては、我関せずの立場をとり、紛争の火種をあえて温存してきた。今回の事態をアメリカはほくそ笑んでいるだろう。かりに尖閣問題で日本と中国のあいだに武力衝突が起こったとしても、安保条約があるからといってアメリカが日本のために戦うわけがない。他国のために自国の兵士の血を流すことを、あの手前勝手なアメリカが認めるはずがない。

これまで日本は外交の舞台において、まったく存在感を発揮してこなかった。アメリカの飼い犬も同然の日本の言うことなど、経済大国のころならならまだしも、国力が落ちたいま、どこからも相手にされないのは当然だ。さらに、一部の頑迷な政治家がいまだに過去の日本のアジアへの侵略を正当化するような発言をするため、アジアの各国はいまも日本に警戒心をもっている。日本がいま、なすべきことは、ドイツを見習って過去を完全に清算し、アメリカへの隷属・依存状態から脱却することだ。そして憲法9条をかかげて前面に打ち出し、アジアに向けて独自の平和外交を展開し、緊密なパートナーシップを築かなければならない。それこそが最高の国防策になるのだ。

いまの民主党政権に、そんな広い視野に立った外交ができるのか、自己保身に汲々としている弱体化した外務省にそれができるのか、アメリカがそれを許すのか、問題はたくさんある。少なくとも、いまや死に体となった野田首相、外務省の繰り人形の玄葉外相では何もできないことは明白だ。だが、その方向を目指す以外、日本の生き残る道はない。

2012.07.31 (火)  久しぶりにすぐれた冒険小説の書き手が登場した

最近は心踊る冒険小説にはめったに出会わなくなってしまったが、そんななか、久しぶりに期待できる新しい冒険小説の書き手が現れた。トマス・W・ヤングだ。ヤングは昨年、第1作『脱出山脈』で初めて日本に紹介された。今年に入って第2作『脱出空域』が刊行されている。アフガニスタンで空輸の任務に就いている飛行士のパースン空軍少佐と女性兵士ゴールド陸軍曹長が活躍するシリーズだ。

第1作『脱出山脈』(ハヤカワ文庫)の印象は鮮烈だった。パースンは航空士として航空機に乗り込み、兵士や物資の輸送にあたっている。ある日、彼が乗った捕虜を搬送する輸送機がアフガン山中でタリバン兵の撃ったミサイルに迎撃されて不時着する。からくも生き延びたパースンは、同乗していたゴールド軍曹とともに、見知らぬ雪山のなかで迫りくる反政府ゲリラと戦いながら、米軍基地をめざして決死のサバイバル行をする、という内容だ。ブリザードが荒れ狂う酷寒のヒンズークシ山脈で繰り広げられる敵部隊との追いつ追われつの攻防、人質にされたゴールド軍曹を奪還するため捨て身で敵地に乗り込むパースン少佐の戦いは、読んでいて胸が熱くなる。

これはアリステア・マクリーンやデズモンド・バクリーを彷彿とさせる、いまどき珍しい正統派の冒険小説だった。猛威をふるう過酷な大自然、悪辣で狡猾な反政府ゲリラのリーダーと、お膳立ては万全に整えられている。主人公たちの困難に打ち勝つ不屈の闘志、兵士としての誇りと気概が、あますところなく描かれており、読みごたえは抜群だ。ストーリーの展開がやや類型的だし、人物造型も多少粗削りなところがある。だが、ここまでスリルとアクションが混然一体となった内容に仕上がっていれば、そんな不満は吹き飛んでしまう。

今年出た第2作『脱出空域』(ハヤカワ文庫)は、それから4年後という設定。パースンは飛行士になり、機長として輸送機を操縦しており、ゴールドは曹長に昇進している。2人は爆弾テロで負傷した兵士をドイツに運ぶためアフガニスタンを飛び立つが、タリバンのテロリストが飛行機に爆弾を仕掛けたとの情報が入る。高度が下がると爆発する仕掛けになっているらしい。パースンはゴールドや乗組員とともに、幾多の困難や障害に遭遇しながらも、生還を目指して必死の飛行を続ける、というストーリー。小説の舞台はほとんど飛行機のなかだけだ。500ページ近い分量の最初から最後まで、飛行機はひたすら飛び続ける。

飛行機を題材にしたパニック小説は、映画にもなったアーサー・ヘイリーの『大空港』やトマス・ブロックの『超音速漂流』など、いろいろあるし、一定の条件で爆発する仕掛けの爆弾をモチーフにしたものも、映画『スピード』などの前例がある。そういう意味ではけっして新鮮なアイデアとは言えない。だが彼らは、いつ爆弾が爆発するかという恐怖と闘いながら、機体の不調、潜入したスパイの工作、目的地の空港からの着陸拒否、燃料切れによる空中給油、雷雨による落雷や火災など、これでもかというほど次から次へと試練に見舞われる。そのため緊迫感が最後まで持続し、終始、飛行機のなかという閉ざされた設定ながら、まったくだれることがない。

パースンとゴールドは固い絆で結ばれているが、恋愛感情があるのかどうかは、はっきりとは描かれていない。次作でそんな2人の関係がどんなふうに発展するのかも興味をそそられる。この『脱出』シリーズ、“山”“空”と続いたので、順当なところ、次回作は“海”のはずだが、主人公のパースンは飛行士なので、そんな海を舞台にしたストーリーが成り立つのかどうか・・・。どんな設定になるにせよ、近来稀な手に汗握る冒険小説作家、トマス・W・ヤングの新作を大いに期待したい。

2012.07.14 (土)  佐々部清監督と同席した至福の5時間

4月中旬のことだから、もう3ヵ月も前のことになる。その日、とても貴重な経験をした。映画監督の佐々部清さんとの懇親会に出席し、親しく話をする機会に恵まれたのだ。これはぼくの会社時代の大先輩Tさんの執念が実って実現した会だった。これが実現に至った経緯については、Tさんが開設しているブログ(「脳卒中からの生還〜五体満足に戻るまで」)をご覧いただきたい。

ぼくは映画好きではあるが、日本映画については、古い映画は見るが、最近の映画はめったに見ない。わざと感動を押しつけるあざとさ、俳優のオーバーな演技、受け狙いがみえみえの設定が鼻について、最近の日本映画は、どうにも見る気になれないからだ。だが、ある日、Tさんに「『三本木農業高校、馬術部』をたまたま見たけど、とてもよかった」と聞いて、その映画を見た。たしかによかった。そこには映画本来のヒューマンな感動があった。こうしてぼくは佐々部清という監督の名前を記憶にとどめた。そして佐々部監督作品のDVDを次々に見て、この監督のファンになった。

佐々部監督の映画の撮り方は正攻法だ。奇をてらった撮り方はしない。佐々部作品は基本的にヒューマニズムに立脚している。その語り口は、私見だが、木下恵介を思わせる。描き方は静かだが、だからこそ、映像から伝わる感動は深い。それからキャスティングがいい。主演する俳優はあまり有名ではないが、演技がとても自然で、スト―リーのなかに素直に入っていける。佐々部作品には悪人はあまり出てこない。悪人なしでストーリーが成立するのかと疑問を持つ人も多いであろうが、これが立派に成立するから不思議だ。それから、いい映画には必ず心に焼きつくシーンがあるが、たとえば「チルソクの夏」のテラスのシーンとか、「夕凪の国、桜の街」の川辺の木の下で若い男女が語らうシーンなどのように、佐々部作品にもそれがある。

佐々部監督は、これまで劇場用映画を11本つくっている。そのなかで、ぼくが見た範囲内でのベスト3は以下のとおりだ。

  チルソクの夏 (出演:水谷妃里、上野樹里) 2003年
  夕凪の国、桜の街 (出演:麻生久美子、田中麗奈) 2007年
  三本木農業高校、馬術部 (出演:長渕文音、柳葉敏郎) 2008年

佐々部さんは、VTRの規格をめぐる競争で日本ビクターのVHSが打ち勝つまでを描いた2002年の映画「陽はまた昇る」で監督デビューした。そして大ヒットした「半落ち」を経てつくった第3作が「チルソクの夏」だ。70年代後半の下関(佐々部監督の故郷)を舞台に、陸上競技をする日本の女子高生と韓国の男子高生の恋愛と友情が描かれている。これは素晴らしい映画だ。語りたいことはたくさんあるが、長くなるので省略する。「夕凪の国、桜の街」は、原爆のもたらす悲劇が静かに、情感豊かに描かれる。過去と現在の2部構成になっているが、1960年前後の広島を描いた前半が圧倒的にいい。「三本木農業高校、馬術部」は、青森県の高校を舞台に、馬術部の女子高生と馬との交流を描いた映画。実話をもとにしたものだという。校長役の松方弘樹がいい味を出している。

居酒屋での佐々部監督との懇談は、Tさんのほか同じく会社時代の仕事仲間のK嬢も同席して、5時間があっという間に過ぎた。映画の実作者から聞く映画つくりにまつわるさまざまな話はとても興味深く、至福のひとときを味わった。佐々部監督の気さくな人柄、率直な話しぶりに感動した。映画監督というと、何となく威厳のあって近寄りがたいというイメージがあるが、佐々部さんはそれとは正反対の、温かい心を感じさせる人だった。この会に出席してくれた佐々部監督に、そして会に呼んでくれたTさんに感謝したい。

大好きな映画「チルソクの夏」につて、監督からいろんなこぼれ話を聞けたのは、何よりの僥倖だった。テラスで主演の男女が会うシーンは、「ロミオとジュリエット」のバルコニーでの出会いを思わせたが、監督から、あれは「ウェスト・サイド物語」のバルコニー・シーンをイメージして描いたと聞いて、やはりそうかと膝を打った。陸上部の女子高生仲良し4人組が、みなスポーツの演技が堂に入っていて感心したが、これはオーディションのときに、スポーツの経験がある俳優を選んだと聞いて、なるほどと納得した。そのほか、主人公の父親役の歌手、山本譲二や、主人公の相手役の韓国人男子高生のキャスティングにまつわる話も興味深かった。この映画には、下関の市民が多数エキストラで出演したらしい。下関では、毎年、七夕の日にこの映画の上映会が行なわれているという。なぜ七夕かは、この映画を見れば分かる。

佐々部監督は、2011年に映画「ツレがうつになりまして。」をつくったあと、今年に入って松本清張原作のTVドラマ「波の塔」を撮った(6月にテレビ朝日系で放送)。昭和30年代の雰囲気がよく出ており、だれたところのない、骨格のしっかりした引き締まったドラマになっていた。これからも佐々部監督には、頑張っていい映画をどんどん撮ってもらいたい。

2012.06.28 (木)  小沢一郎よ奮起の時だ、民主党は自滅せよ

暗愚な人間が権力を握ることほどやっかいなものはない。野田首相の虚仮の一念で、消費税増税法案が6月26日に衆議院で可決された。民主党からは57人の議員が反対票を投じた。このうち果たして何人が、近く小沢一郎が結成するであろう新党に行くのか分からない。だが、ともあれ民主党の帰趨は明らかになった。党内では、積極的に分裂させようとする者、なんとか分裂を回避させようとする者、さまざまな思惑が交錯しているが、小沢とその一派が離党し、新党を結成するのは確実だろう。これは歓迎すべき事態だ。もはや民主党に期待するものは何もない。ここまで国民を愚弄し、裏切り続けてきた民主党は壊滅の道をたどるしかない。

マニフェストでうたったことは何ひとつ実行せず、やらないと言っていたことばかりやってきた民主党は、しょせん自民党と同じ穴のむじなだった。国民は民主党に騙されたのだ。野田政権は、改革などどこ吹く風、官僚に思うように操られ、無駄な経費削減の努力を放棄し、大型公共事業を復活させ、霞が関に巣くうシロアリたちの既得権益を温存させた。そして沖縄では基地負担を軽減させるどころか、アメリカの言いなりに危険極まりないオスプレイの配備を強行させようとしている。

さらに野田政権は、福島原発事故で日本という国が滅亡の瀬戸際までいったのに、その教訓をまったく生かすことなく、脱原発の方針は棚上げにし、諸悪の根源である原子力ムラを放置し、安全基準も明確でないのに大飯原発を再稼働させた。新設される原子力規制委員会は骨抜きにされかかっており、おまけに、どさくさまぎれに原子力の軍事利用への道を開きかねない文言を原子力基本法に付け加えた。こんな民意を顧みない民主党は一刻も早くつぶすべきだ。

いまは小沢一郎に賭けるしかない。小沢がほんとうに期待に応えてくれるのかどうか、確信はない。しかし、彼は真っ当なことを主張している。改革抜きの消費税増税に反対し、安易な原発再稼働に反対し、マニフェストに立ち返れと言っている。正しいことを言っているのだ。いまやアメリカに対してまともにものが言えるのは小沢しかいない。早ければ今年の秋ごろとも言われている総選挙には、小沢にはぜひ新党を率いて臨み、政権を取り、国民の望む改革を実現してもらいたい。

しかし小沢一郎の前には異常とも言える小沢バッシングの壁が立ちはだかっている。国策捜査によるでっち上げ裁判では、ようやく無罪を勝ち取ったのに、無謀な上告により、いまだに訴追から解放されていない。そこに降って湧いたのが某週刊誌に載った小沢のスキャンダル報道だ。あまりに露骨な小沢潰しだ。劣化したメディアは完全に官僚の走狗になり果て、野田政権の御用マスコミと化し、検察と司法官僚が仕組んだ小沢裁判の真相を追求しようとせず、小沢に悪のイメージを植え付けようとする。戦後ここまでメディアが堕落したことはなかったのではないだろうか。

だが、正義は小沢一郎にある。小沢が新党を結成し、理念と信念を説けば、必ず心ある国民はついてくる。小沢一郎よ奮起の時だ、民主党は自滅せよ。

2012.02.17 (金)  ホイットニー・ヒューストンが死んだ

2月11日にホイットニー・ヒューストンが亡くなって以降、その早すぎる死を連日のように報ずるテレビの芸能番組では、いつも「オールウェイズ・ラヴ・ユー」の歌声が流れている。ホイットニーの絶頂期に日本でのレコード・プロモーションの一端を担ったぼくは、懐かしさと痛ましさを感じながらそれを見ている。

1990年代初頭、レコード業界は興隆を迎えており、洋楽のセールスも上向きではあったが、なかなか大規模なヒット・アルバムは生まれなかった。当時、ぼくはレコード会社の洋楽部門の責任者だったが、社内や業界仲間とのミーティングなどでは、決まって“どうやったら10万枚売れるアルバムをつくれるか”について話し合っていた。ぼくたちがホイットニー・ヒューストンの映画サントラ盤『ボディガード』を発売したのは、そんなときだった。1992年のことだ。初めて主題歌シングル「オールウェイズ・ラヴ・ユー」を聴いて、その素晴らしさにヒットを確信したが、あれほど売れるとは思ってもいなかった。シングルもアルバムも、映画のヒットと相乗効果となり、売れに売れた。大きなプロモーションをしたのは発売当初だけで、あとは、坂道を転がり落ちる雪玉が膨らむように、ほっておいても売れ続けた。けっきょくアルバム『ボディガード』は180万枚というモンスター・ヒットになった。そして、このアルバムを皮切りに、洋楽の大型ヒットが続出するようになった。少し前まで10万枚売るのに頭を悩ませていたのが嘘のようだった。

いま思えば、この頃、90年代半ばの数年間が、日本のレコード史上、洋楽がいちばん栄華を謳歌していた時期だった。現在は音楽業界全体が落ち込み、ヒットの規模も小さくなった。洋楽アルバムの場合、100万枚はおろか、10万枚に達するものさえほとんどない。せいぜい2、3万枚売れれば大ヒットという状況だ。『ボディガード』発売当時のレーベル担当者や一緒に仕事していた仲間もいまは散り散りになったし、業界再編が進み、ぼくがいたレコード会社も競合他社に合併吸収されてしまった。光陰矢のごとし、時勢の移り変わりの激しさを痛感する。

知られるように、「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は映画のための書き下ろし曲ではない。1974年にカントリー歌手ドリー・パートンが作詞作曲し自ら歌った曲のカヴァーである。原曲はごく普通のカントリー・バラードであり、とくにすぐれた曲とも思えない。これがあれほど説得力のあるドラマチックな曲になった要因は、ひとえにホイットニーの比類ない歌唱力にあった。彼女の聴く者の心に直接訴えかける、神がかり的な歌唱によって「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は奇跡的な名曲になった。

ホイットニー・ヒューストンは一般的にはポップス歌手に分類されているが、その歌唱はR&Bやゴスペルに根ざしていた。レコーディングにあたっては、おそらく意識的に、そんなテイストは抑えられていた。だがライヴとなると、彼女はR&Bフィーリングを前面にに打ち出し、黒人歌手としてのルーツを全開させていた。ホイットニーの天与の歌唱力は傑出していた。マライア・キャリーやセリーヌ・ディオンなどが束になっても敵わなかった。1998年にホイットニーとマライアがデュエットした「ホエン・ユー・ビリーヴ」という曲を聴くと、ホイットニーの底力のあるパワフルな歌唱に比べ、マライアは声も歌い方も貧弱で、実力の差は歴然としていた。

ホイットニーには、挨拶のため訪れたコンサート会場の楽屋や、マスコミ取材のため赴いたニューヨークのホテルなどで、数回会っている。客と接しているときは愛想がいいが、身内だけでいるときの彼女の神経質そうな様子や仕草が記憶に残っている。『ボディガード』で音楽界の頂点に上りつめたあとのホイットニーの転落は、そんな彼女のナーヴァスな性格が背景にあったのかもしれない。音楽でも映画でも文学でも、芸術や芸能の世界には、頂点を極めたあと急速に衰退する人が多い。『ボディガード』のあと、ホイットニーは映画に立て続けに主演したり、新機軸を打ち出したブラック・コンテンポラリー志向のアルバムをつくったりと、いろんな新しいアイデアを試みたが、どれも成功には至らず、徐々に存在感が薄らいでいった。

ホイットニーがドラッグやアルコールを用いるようになったのは、成功への焦りと凋落への危機感がプレッシャーとなってストレスが重なったからだろう。後輩のマライア・キャリーやセリーヌ・ディオンの台頭という状況もあったのかもしれない。さらに夫ボビー・ブラウンとの結婚生活の不幸がそれに拍車をかけた。家庭の荒廃はストレスを倍化させる。たび重なる夫の暴力にもかかわらず、彼女はなかなか別れようとせず、14年間も結構生活を続けた。そんな夫とは早く離婚してしまえばいいのにと思うのだが、なぜ我慢していたのか、よく分からない。他人には推し量ることができない精神的な理由があったのだろう。長く続いたドラッグ癖や不摂生のため、あの並はずれた歌唱力まで失われてしまった。数年前に10年ぶりに行なわれたワールド・ツアーでは、まったく声が出ず、会場ではブーイングが起きたり、公演をキャンセルするなどのトラブルに見舞われた。その後、ドラッグを断ち切るための努力を続け、回復の兆しを見せていた矢先の今回の悲劇だった。

栄光に続く失墜、絶頂のあとに陥る衰退。神に愛された者は早く神に召されるというが、それにしても、名声を享受したアーティストの悲惨な末路は、あまりに寂しく、痛ましい。

2012.02.08 (水)  橋下徹信者たちの異常な行動

前回書いたように、橋下徹と山口二郎のテレビ番組での討論は、橋下による山口の一方的なこき下ろしに終わった。橋下のディベートの巧さは天性のものがある。先方の論点を巧妙にそらし、相手を貶しながら自分の知識と実績を誇示する。相手はよほどの知識と弁舌がなければ太刀打ちできない。山口は原理原則論に終始し、具体的に事例を挙げて論じる橋下に対して、なすすべがなかった。橋下だって触れられて困るところはある。山口が個別の政策について問題点を指摘していれば、もっと生産的な議論になっていただろう。

この討論はけっこう話題になったらしく、ネットで調べてみると、たくさんの論評や感想の書き込みがある。そのほとんどは橋下を礼賛し、山口を貶すものだった。山口二郎の主宰するブログには、彼を中傷する嫌がらせコメントが多数書き込まれ、一時、炎上状態になったらしい。橋下を批判すると、橋下信者らがよってたかって攻撃する。一種の魔女狩りだ。いまの橋下に集まる人気、その人気に便乗しようとする連中、狂信的な橋下支持者たちの行動は、どこか異常なものを感じる。

不満と鬱屈がたまっている大衆は、橋下の威勢のいい言葉に溜飲を下げ、橋下が罵倒する学者や知識人を攻撃し、誹謗する。そこにぼくは反知性主義、粗野な原始的感情にに踊らされて行動する人間の姿を見る。いつの時代にも、どこの国にも、そんな連中はいる。そんな現象がが国家的規模で巻き起こった結果、1930年代のドイツではナチズムが台頭し、1950年代のアメリカではマッカーシズムが吹き荒れ、悲劇を生んだ。

そういえば、橋下徹がまだ大阪府知事になる前の2007年、大阪のテレビ番組で、橋下が光市母子殺害事件の弁護団に懲戒請求を行なうよう視聴者に呼びかけ、その結果、ものすごい数の懲戒請求が弁護士会に殺到した事件があった。あの裁判の弁護団の手法は、たしかに姑息だし怒りを覚える。だが、だからといって、そんな集団制裁みたいなことをしても、たんなる腹いせであり、何の解決にもならない。げんにそれらの懲戒請求は弁護士会ですべて却下され、逆に橋下が懲戒請求にかけられ、懲戒処分が下った。橋下のやったことは、大衆の低次元の感情に訴え、無知な世間をけしかける煽動だった。

異論を唱える者を攻撃し、罵倒する橋下、その尻馬に乗って、橋下が敵とみなす者を攻撃する橋下シンパの大衆、この構図は不愉快だし、不気味だ。橋下が「あいつは敵だ」と一言口にすれば、彼らはいっせいにそれを攻撃するだろう。橋下がナチズムだとかマッカーシズムだとか言うつもりはない。ただ、改憲や核兵器保有を主張したり、大阪にカジノを作ってギャンブルを興隆させると言ったりする言動からして、彼が国政の権力を握ったら、反対論などお構いなしに、大衆的な人気に乗じて、一気にそんな方向に突き進むことを恐れる。

橋下は国政に進出するにあたって、「国の統治機構を変える」と言っている。おそらく道州制と首相公選制を念頭に置いているのだろう。その考え方の当否は別として、政治の変革は必要だ。だが、問題は、この国をどういう方向にもっていくかだ。橋下の考えの全体像はまだ見えないが、強者に弱く、弱者に強くなるのでは、たまったものではない。日本に混乱と荒廃をもたらした小泉純一郎政権の二の舞になってしまう。

2012.01.31 (火)  橋下徹大阪市長の言動への違和感

2週間ほど前、日曜日の午前中のことだが、たまたまテレビで報道番組を見ていたら、ゲスト出演した新大阪市長の橋下徹と北海道大学教授の山口二郎が議論を戦わせていた。議論といっても、橋下が山口を一方的にやり込めるという成行きだったが、それを見ていて、橋下の論戦のしかたに、どうしようもない違和感、言い換えれば、不快感を抱いた。橋下行政への疑問点を指摘する山口に対し、橋下は相手を中傷しながら自分の政策の正しさをまくしたてていた。いわく「現場を知らない学者ふぜいに何が分かるか」、いわく「売れない本ばかり書いている評論家の言うことなど聞くに値しない」といった感じである。

山口二郎という人は、もともと民主党の政策ブレーンのひとりであり(当然ながら今の民主党政権には批判的だが)、橋下の政治手法をハシズムと称して批判している評論家である。橋下は、日ごろ自分を論難している山口への鬱憤を吐き出したのだろう。だが、それにしても、山口の準備不足、説明力不足もあったと思うが、橋下の居丈高な物腰、独りよがりの反論は異常だった。同席していた通俗小説家、渡辺淳一の太鼓持ちのような声援ににこやかに応対するのと好対照だった。橋下の相手に有無を言わせぬ高圧的な物言い、強引に自分の主張を通そうとする態度は、嫌悪感をすら催させた。

橋下の自分を批判する者へのエキセントリックな反発は毎度のことのようだ。そんな橋下の弁舌に爽快さを感じる人もいるだろうが、ぼくは危なさを感じる。橋下の言動は、小泉純一郎元首相を思い起こさせる。小泉の仮想敵をつくってそれを撃破するやり方だ。郵政民営化を金科玉条に、「自分に反対する者はすべて抵抗勢力だ」と言い放ち、「自民党をぶっつぶす」と叫んだ小泉の威勢のいい言葉に、国民は拍手喝さいした。郵政民営化が何を意味するのか、誰も分かっていなかった。国民の圧倒的な支持を背景に、小泉はアメリカに隷従し、竹中平蔵と組んで構造改革の名のもとに市場原理政策を推し進め、その結果、日本の経済は破綻し、格差が広がった。小泉を支持したつけはあまりに大きかった。

大阪府知事としての橋下の実績は目覚ましい。人件費をはじめ無駄な歳出をカットして財政を再建した手腕は見事だったし、特権にあぐらをかいていた職員労組との対決や情報公開の徹底なども称賛に値する。たしかに橋下の言うように、思い切った改革をやろうと思ったら、ある種、独裁的な行動を取らざるを得ないこともあるだろう。しかし、二言目には、民意を得たのは俺だ、だからやりたいことは何でもできる、と言い放ち、いわば民意を盾にとって異論を封殺するやり方、自分と意見の異なる者を敵とみなして徹底的に攻撃するというやり方は、デマゴーグに近いし、危険なものを感じる。

友人のAくんが、「橋下は大阪府知事選に出馬するとき、“絶対に出ません”と言明してウソをついた、そんな奴は信用できない」と言っていた。そういえば、大阪維新の会の国政への参画についても、自分の主張が国政に反映されるのならやりませんと言っていたにもかかわらず、各政党がことごとく橋下の考えを前向きに考慮すると言っているのに、次回の衆議院選に維新の会から多数を擁立すべく準備中だという。政治家に二枚舌はつきものだが、橋下はそんな連中とは一線を画していたはずじゃないのか。

大阪府と大阪市の二重行政を解消するため、橋下は大阪都構想を華々しくぶち上げている。そこまでしなくても、しくみとシステムを変えるだけで弊害は解消できると思うのだが、それはいいとしよう。問題は教育に関する彼の考え方だ。甘えの蔓延や競争の欠如をなくすという方針は賛成だが、教員管理を強めれば教育が良くなるという橋下の考えは間違っている。ましてや、父兄やPTAに教師を評価させるなど、とんでもないやり方だ。

折から、もうすぐ80歳になる権力志向の傲慢な老人、石原慎太郎が新党の党首に担ぎ出されようとしている。国民のことなどそっちのけで政治の主導権争いにうつつをぬかす低能政治家どもの愚かさを直す薬はない。仮に石原新党が結成された場合、橋下の維新の会がそことタッグを組むことなどありえないと思う。だが、橋下の意見の異なる者を徹底攻撃する姿勢、憲法改定、核兵器肯定、公営ギャンブル推進といった彼の発言からして、石原の考えと共通するものも多い。橋下と維新の会のこれからの動きにより、橋下徹という政治家の正体が明らかになっていくだろう。

2012.01.11 (水)  帰って来たナチス・ドイツの探偵ベルンハルト・グンター

昨年刊行されたミステリーで未読だったものを何冊かこの年末年始に読んだ。面白かったのはフィリップ・カーの「変わらざるもの」(PHP文庫)。フィリップ・カー、ファンにとっては懐かしい名前だ。ナチス時代のベルリンを舞台に私立探偵ベルンハルト・グンターが活躍する異色ハードボイルド小説「偽りの街」でカーが邦訳デビューしたのは、もう20年以上も前のことになる。グンターを主人公とする物語は好評を博してシリーズ化されたが、1989年の第1作以降、3作で中断していた。15年ぶりにこのシリーズを復活させたのが本書「変わらざるもの」だ。原著の刊行は2006年。

再開された本作の時代は1949年、米ソ英仏の4カ国が統治する戦後の混乱のなかのドイツが舞台だ。グンターはミュンヘンで探偵業を営んでいる。グンターは権威に刃向い、へらず口をたたき、自分の規律を曲げない一匹狼であり、近年では珍しい正統派ハードボイルド・スタイルの主人公として描かれる。連合国による戦犯の処刑、ユダヤ人組織による元親衛隊員への復讐など、騒然とした世情のなか、グンターはいくつかの仕事を手がける。一見それぞれ別個の事件でありながら、終盤になってそれらのつながりが明らかになる。物語の主な舞台はミュンヘンだが、主人公が捜査のためウィーンに赴くシーンがある。ウィーンの街の描写は映画「第三の男」を彷彿とさせる。

詩人シラーの言った言葉として引用される「真実は虚偽のなかに生き続ける」など、印象深いフレーズがそこかしこに出てくる。前半はハードボイルド・タッチだが、後半、ナチの残党とCIAによって罠にはめられたグンターの反撃と復讐という話になって、俄然、冒険小説の色彩を帯びる。善玉、悪玉入り乱れて登場人物は多彩だが、誰が善で誰が悪と単純に割り切らない捉え方が、本書に奥行きと現実感を与えている。ミステリーとしての出来は上々で、読みごたえ充分だ。

興味を惹かれるのは、本書で語られるナチの戦犯狩りの実態とカトリック教会の果たした役割だ。ナチの残党は、ある者は経歴を詐称して難を逃れ、ある者は地下組織の助けで南米に逃亡する。地下組織オデッサとともに彼らの逃亡を助けていたのがカトリック教会だった。面白いことに、カトリック教会は戦時中は改宗したユダヤ人を国外に亡命させていた。つまり彼らはユダヤ人もナチもともに助けていたわけである。ドイツという国が体験した辛酸と復興に向けて模索する姿が克明に描かれているのが印象深い。

もう1冊、クレイグ・マクドナルドの「パンチョ・ビリャの罠」(集英社文庫)も、風変わりだがけっこう楽しいミステリーだった。主人公は映画の脚本も書く犯罪小説家、時代は1957年、メキシコ、テキサス、ロサンジェルスを舞台とする冒険小説だ。メキシコ革命の英雄パンチョ・ビリャが暗殺されたあと、遺体を埋めた墓から頭部が切断されて誰かに盗まれた――本書はこの1920年代半ばに起きた史実を下敷きにして書かれている。前半の首の争奪戦や財宝探しにまつわるドタバタ劇はドナルド・ウェストレイク風だし、酒と女が好きな破滅型の主人公という造形や、悲哀感が濃くなる後半はジェイムズ・クラムリーを想起させる。さらに“首”つながりで、サム・ペキンパーの傑作映画「ガルシアの首」がいやおうなく思い浮かぶ。

実在の人物がたくさん登場するのも興味を呼ぶ。主人公は脚本について助言するため、映画「黒い罠」の撮影現場に行く。そこで監督のオーソン・ウェルズと悶着を起こしたり、出演していた女優マレーネ・ディートリッヒと旧交を温めたりする。「黒い罠」はウェルズがアメリカで撮った最後の映画で、1958年の公開当時は不評だったがのちに再評価され、今ではカルト的な名作としての定着している。フィルム・ノワールの最後の傑作とされており、冒頭のクレーンを使った長回し撮影が衝撃的だった。

ほかに、主人公のけんか別れした友だちという設定でヘミングウェイが何度も言及される。片目の伝説的な監督サム・フォードのモデルは、解説氏の言うアンドレ・ド・トスではなく、名前からして、後年目を患って眼帯をしていたジョン・フォードであろう。あるいはラオール・ウォルシュか。面白いのは、あのイラク戦争を起こした米国前大統領ジョージ“猿の脳みそ”ブッシュが登場すること。大学生として姿を見せるブッシュは意外にも主人公を助ける善人役だ。さらにブッシュの祖父である当時の上院議員プレスコット・ブッシュが悪役として登場、イェール大学の秘密結社スカル&ボーンズの黒幕として主人公を追いかけ回す。

正直なところ、本書のミステリー小説としての出来はいまいちだ。プロットは未消化だし展開も荒っぽい。それでも「止まった時計でも1日に2回は正確な時刻を指す」というような気の利いた警句が挿入されているし、映画撮影の裏話や実在の人物の絡みも面白く、不思議な魅力をたたえていることは間違いない。

2011.12.27 (火)  年末雑感〜さらば民主党

「もう民主党とは決別だ」。12月22日に報じられた八ツ場ダム建設再開が決定したというニュースを見て、そう思った人は多かったに違いない。「俺はとっくに見限っている」と言う人も少なくないだろう。ある意味で八ツ場ダム建設計画の中止は民主党が掲げる改革の旗印の象徴だった。それが反故にされたのだ。

2011年は、世界に目を向けると、中東に民主化運動が吹き荒れた「アラブの春」とともに、肥大化した金融資本体制が破綻した年だった。悪知恵を働かせ、金を転がして利益を得るマネー・ゲームが行き着いた地点が、世界的な金融不安だった。それにしても、単なる一私企業である格付け会社が国債の格付けを下げただけで株価が乱高下し、やれ財政破綻だと大騒ぎになるのは、どう考えても異常だ。何度もの苦難を経て人類が培ったはずの叡智はどこに消えたのか。

しかし日本では、2011年は東日本大震災と東電福島原発事故の年として歴史に刻まれるだろう。震災が及ぼした衝撃と影響は大きかった。そして政治のうえでは、2011年は民主党政権の無能力さ、欺瞞と裏切りが明らかになった年でもあった。震災からの復興施策の遅れ、原発事故への対処の杜撰さは、政府の責任以外のなにものでもない。12月16日に発表された原発事故収束の宣言などは、現実とはかけ離れており、茶番としか言いようがない。誰もが収束とは程遠い状態だと知っている。当初は盛り上がった脱原発の機運や電力供給システムの見直し論議も、いまは萎えてしまった。

民主党政権は、鳩山、菅、野田と猫の目のように首相が交代するにつれて、ますますひどくなっている。ぼくたちは古い政治からの脱却と改革を求めて民主党に投票したのに、いまや民主党は自民党とまったく変わらない政党になり下がった。野田政権は国民との約束であるマニフェストを次々と破って平然としている。これはまさに裏切り行為だ。公務員改革はいっこうに手をつけようとせず、消費増税を打ち出し、官僚の筋書きどおりに動き、財界の顔色をうかがって政策を決める。無駄な支出を省く振りをするため、何の効力もないのに事業仕分けという姑息な芝居をする。国民を愚弄するにもほどがある。

あげくのはては八ツ場ダム工事再開の決定だ。マニフェストで華々しくぶち上げた大型公共事業見直し方針の完全な放棄である。国交省に負けじとばかりに、防衛省は次期戦闘機の導入を決めた。一機数百億円もする戦闘機を米国から大量に購入するのだ。財政赤字で苦しんでいるいま、そんなことに巨額の費用を投じる余裕などないはずだ。政府は各省庁のコントロールがまったくできていない、支離滅裂だ。

それに追い打ちをかけたのが、12月24日に発表された来年度の政府予算案だ。国の借金を減らさなければいけないのに、国債の発行が過去最大だそうだ。そして八ツ場ダムをはじめとする公共事業費が大きく計上されている。歳出削減が必要なとき、ましてや巨額の復興費や社気保障費を計上しなければいけないとき、なぜ公共事業を増やすのか。ここまでやるかと驚くのは社会保障費に関するからくりであり、その一部はこれからやる増税を財源にしているという。増税法案が国会を通らなかったらどうするのだろう。これは粉飾予算そのものであり、一般の企業ならけっして承認されないだろう。財務官僚の考え付いた案をそのまま採用したのだろうが、野田政権の官僚依存体質が端的に表れている。

野田首相の愚昧さ、指導力のなさには、情けなくて言葉も出ない。能面のような表情の乏しい顔で原稿を棒読みし、バカのひとつ覚えのように消費増税への意欲を繰り返すだけで、改革への情熱はまったくうかがわれない。消費増税をするなと言っているのではない。その前にやることがあるだろうと言っているのだ。歳出を減らす努力をせず、何が増税か。マニフェストでうたっていた公務員人件費の削減、議員定数の削減は、なにひとつ手をつけていない。

閣僚も無能なぼんくら大臣ばかりだ。藤村官房長官はカエルのような顔でボソボソと喋るだけで、迫力のないことおびただしい。カエルのほうがまだ生気に満ちている。最悪なのは玄葉外務相だ。11月下旬、日米地位協定の裁判権の運用見直しについて米側の合意を得たと、大きな目玉をギョロつかせて得意げに発表していたが、何のことはない、実態は米側の裁量に任されているわけで、協定そのものを改正しないかぎり、在日米軍が治外法権状態であることに変わりはない。玄葉の外交についての識見や能力はゼロに近い。米国の顔色ばかりをうかがい、漁船の領海侵犯に対して中国に抗議もできない。稚拙な外交によって日本の主権は侵害される一方だ。あげくのはては、駐クロアチア大使のセクハラ事件を闇に葬るという卑劣なことをやる。一川防衛相の愚鈍と無知蒙昧は言わずもがな、他の閣僚も推して知るべしだ。みんな官僚の手のひらであやつられる繰り人形だ。官僚たちはほくそ笑んでいるに違いない。

八ツ場ダム工事再開やTPP推進に抗議して民主党から離党する議員が現れ始めた。当然の結果だ。いまの党の方針には従えないという自分の信条からにせよ、次の選挙で民主党では落選するという保身からにせよ、これから離党者はもっと増えるだろう。あるいは小沢一郎の一派が大挙して離党し、新しい党を立ち上げるかもしれない。もはや、いまの民主党に期待するものは何もない。このままでは民主党は解体したほうがいい。

もう旧来の政治家、既成の政党はあてにできない。でも、だからといって、たとえば大阪で旋風を巻き起こしている橋下徹に期待できるのだろうか。政治家らしからぬ率直平明な物言いは好感が持てるし、明確な目標設定力と果敢な実行力があるのは証明済だ。とはいえ、「政治は独裁だ」と傲然と言い放つのは、一面の真理を突いているにせよ、青臭い感じが否めない。国政に関してどんな考えを持っているのかも未知数だ。それでも、いまの腐った政治に風穴を開けるためには、橋本徹的な流れや、あるいは名古屋の河村たかしが推し進める改革運動に希望をつなぐしかないのかもしれない。

2011.12.17 (土)  2011年海外映画ベスト10

  映画界は相変わらず邦高洋低が続いている。毎週公開される邦画はあきれるほど多いが、そのほとんどは、テレビ・ドラマと同程度の、奇をてらった、志の低い映画ばかりで、およそ見る気が起きない。俳優は喜怒哀楽をオーバーに表現することが演技だと勘違いしており、まるで小学生の学芸会だ。監督は客に受けることだけしか考えていないし、そうでなければ自分勝手な美学に酔いしれている。よくこんな映画のために資金を出す連中がいるものだ。と愚痴ったところで、今年封切られた洋画だが、去年の「アバター」ような圧倒的な1位はないにせよ、全体に小粒ながら質の高い映画が揃ったと思う。ベスト10は以下のとおり。
1. 「ゴーストライター」 ロマン・ポランスキー (仏・独・英)
2. 「トルー・グリット」 ジョエル&イーサン・コーエン (米)
3. 「ザ・ファイター」 デヴィッド・O・ラッセル (米)
4. 「ヒアアフター」 クリント・イーストウッド (米)
5. 「この愛のために撃て」 フレッド・カヴァイエ (仏)
6. 「ブラック・スワン」 ダーレン・アロノフスキー (米)
7. 「孫文の義士団」 テディ・チャン (中・香)
8. 「アリス・クリードの失踪」 J・ブレイクソン (英)
9. 「ラスト・ターゲット」 アントン・コルベイン (米)
10.「ザ・タウン」 ベン・アフリック (米)
  1位の「ゴーストライター」は、いまや巨匠の部類に入ったポランスキー監督、ユアン・マクレガー主演のサスペンス映画。元英国首相の執筆する自叙伝のゴーストライターに雇われた主人公が、仕事中に抱いた謎を解き明かすうちに巨大な陰謀の存在に気がつく、というストーリー。しだいに深まる謎、周到に練られた伏線、緻密な画面構成、無駄のない場面展開、ポランスキーの作劇術の巧さに酔わされる。とりわけ主な舞台になる米国東海岸の島の荒涼とした風景は印象深く、それだけで画面が何かを語りかけてくる。むかし撮った「チャイナタウン」を思わせるポランスキーのストーリーテリングの妙を堪能できる。
  2位の「トルー・グリット」はコーエン兄弟による60年代のジョン・ウェイン主演映画「勇気ある追跡」をリメイクした西部劇。酔いどれ保安官と気丈な少女による、少女の父を殺した犯人の追跡行を描いた映画。タフな少女を演じるヘイリー・スタインフェルドの新人とも思えぬ堂に入った演技が秀逸。ジェフ・ブリッジスはあまり好きな役者ではないが、この映画での保安官役はなかなかのもの。ユーモアを織り交ぜた骨太でドライな雰囲気のなかに神話的なイメージが垣間見える演出が素晴らしい。終盤、少女を抱えてひた走る保安官の頭上に満天の星がまたたくシーンは圧巻であり、あのフィルム・ノワールの名作「狩人の夜」を想起させる。

  3位の「ザ・ファイター」は家族の絆を軸に据えた実話に基づくボクシング映画。主人公はボクサー役のマーク・ウォルバーグだが、むしろ主人公より彼を取り巻く自堕落な家族のほうが印象深い。主人公はマネージャーを務める身勝手な兄と母親に振り回されるのだが、この兄と母親の像が絶品で、とりわけ兄役のクリスチャン・ベイルがじつにいい味を出している。いい加減だが愛すべき家族と真面目な息子の切るに切れない絆が、深刻にではなく軽妙なタッチで描かれているのが面白い。エンディング・ロールで映し出 されるモデルになった実在の元ボクサーの映像が印象に残る。
  4位の「ヒアアフター」はクリント・イーストウッド監督にしては珍しい死後の世界を扱ったスピリチュアル&ヒーリング・ドラマ。冒頭に迫真の津波のシーンがあるが、この映画を見て間もなく東日本大震災があり、そのシンクロニシティに衝撃を受けた。死者を嘆き、癒しを得たいと願う人間の感情が丹念に描き出され、イーストウッド作品にしては後味のいい映画に仕上がっている。抑えた演技が見事な霊能者役のマット・デイモンをはじめ、役者たちの巧さが際立っている。

  5位の「この愛のために撃て」は、誘拐された身重の妻を救うため看護士の夫が孤軍奮闘するフランスのスリラー・アクション。犯人の要求に従ったため警察に追われる破目に陥った主人公は、絶望的な状況のなか、妻を救うためパリの街を走り回る。好評を博したカヴァイエ監督の前作「すべて彼女のために」も同じような設定の映画だったが、緊迫感は今作のほうが上まわる。ごく普通の男の必死の戦いが小気味いいタッチで描かれる。ハリウッド製の予算とCGをたっぷり使った大味なアクション映画と比べて、なんと生彩に富んでいることか。
  6位の「ブラック・スワン」はナタリー・ポートマンの壮絶な演技で話題になったバレエを題材とするホラー・タッチのサイコ映画。アロノフスキー監督の前作「レスラー」では父と娘のすれ違う愛が描かれていたが、本作では母と娘の歪んだ愛がひとつのテーマになっている。プリマをめざすバレリーナが精神的に追いつめられる様子が執拗に描かれ、重苦しい緊張感を生んでいる。

  7位の「孫文の義士団」は辛亥革命前夜の香港を舞台に、決起の打ち合わせのために立ち寄った孫文を暗殺者の一団から守って奮闘する男たちの捨身の戦いを描いた活劇アクション映画。ドニー・イェンやレオン・ライなどのスターが大勢出演しているが、特定の主人公がいない、いわば群像劇のような構成。とにかくアクション・シーンの迫力に度肝を抜かれる。後半は凄まじいカンフー・アクションの連続で、香港映画の逞しいパワーを感じさせる。
  8位の「アリス・クリードの失踪」は今年の掘り出し物の一作。冴えない男2人が身代金目当てで金持ちの娘を誘拐する事件を描いたクライム・サスペンス。ストーリーは二転三転し、誘拐された娘と犯人の男たちの立場が逆転したり、男たちのホモセクシャル関係が暗示されたりと、驚愕の幕切れに至るまで、まったく予断を許さない。登場人物はたった3人、場面はほとんど監禁場所のみという低予算映画だが、緻密な構成によって全編にテンションが張り詰めている。

  9位の「ラスト・ターゲット」はジョージ・クルーニー主演のハードボイルド・タッチのスリラー。引退を決めた孤独な暗殺者が最後に引き受けた仕事には罠が仕掛けられていた、というストーリー。主人公が隠れ住むイタリアの田舎町ののどかな風景がいいし、淡々と描かれる日常生活も説得力がある。ただしラストが甘い。原作(「暗闇の蝶」)の非情に徹した描き方に比べて、映画は感傷的過ぎる。
  10位の「ザ・タウン」はベン・アフリック監督主演、ボストンの犯罪多発地区を舞台に、銀行強盗を生業とする主人公の行く末を描いたクライム映画。主人公は強盗に入って銀行員の女性を人質にとり解放した後、その女性と親しくなる。女性は強盗犯とは知らずに主人公と恋に落ちる。強盗仲間同士の反目やFBIとの駆け引きがスリリングだし、ボストンの街でのロケがリアルさを際立たせている。

  圏外の作品では、アカデミー賞の主要部門をほぼ独占した「英国王のスピーチ」があるが、丁寧に作られた歴史ドラマではあるものの、それほど感銘を受ける映画とも思えない。ほかに興味を引いたものに「フェイク・クライム」がある。コメディ・タッチのクライム・サスペンスで、一昔前の良質のハリウッド・コメディを思わせる楽しいストーリーなのだが、出来はいまいち。主演にキアヌ・リーヴスではなくもっと巧い役者を使い、演出にもう一工夫あったら、おそらく見応えのある映画になっていただろう。

2011.12.10 (土)  2011年海外ミステリー・ベスト10

  早くも12月に入り、巷ではクリスマスのイルミネーションが空しく妍を競っている。歳を追うごとに1年が経つのが早く感じる。というわけで、年末恒例の私的2011年海外ミステリー・ベスト10だ。今年は近年では珍しく海外ミステリー豊作の年だった。出版点数は相変わらず一時期に比べると少ないが、充実した小説が揃っていた。しかもバラエティに富んでおり、冒険、ハードボイルド、スパイ、クライム、SFと、いろんなジャンルにわたって読みごたえのある作品が出版された。ベスト10は以下のとおり。
1. 「ジェノサイド」 高野和明 (角川書店)
2. 「流刑の街」 チャック・ホーガン (ヴィレッジ・ブックス)
3. 「硝子の暗殺者」 ジョー・ゴアズ (扶桑社文庫)
4. 「時の地図」 フェリクス・パルマ (早川文庫)
5. 「ムーンライト・マイル」 デニス・レヘイン (早川文庫)
6. 「サトリ」 ドン・ウィンズロウ (早川書房)
7. 「007 白紙委任状」 ジェフリー・ディーヴァー (文芸春秋社)
8. 「13時間前の未来」 リチャード・ドイッチ (新潮文庫)
9. 「生還」 ニッキ・フレンチ (角川文庫)
10. 「二流小説家」 デヴィッド・ゴードン (早川ポケミス)
  ぶっちぎりの1位は高野和明の「ジェノサイド」。あまりの圧倒的な迫力とリーダビリティに、海外ミステリーという範疇をあえて破り、この国内小説を1位にせざるをえなかった。それほど本作は素晴らしく、文句のつけようがない。一言で言えばxxx(これから読むひとのため伏せる)の誕生をテーマにしたSF冒険小説だが、いろんなテーマが絡んでおり、短いスペースでは説明しきれない。民間軍事会社で働く元アメリカ陸軍特殊部隊員と薬学を学ぶ日本の大学院生の2人が主人公。主な舞台は東京、ワシントン、アフリカのコンゴだ。強烈な謎が提示され、それがしだいに明らかになっていき、衝撃の事実へと結びつく。すべてのパズルが、かっちりと噛み合わせられている。ここには進化、医学、文明、科学などに関する鋭い考察があるが、それでいてエンタテインメントに徹している。アフリカでの脱出行は冒険アクション、ワシントでンの秘密作戦は諜報陰謀劇、日本での創薬シーンはサスペンス、すべてが一級品の出来栄えだ。さらに、随所に描かれる親子の愛、勇気と友情が胸を熱くする。読み始めたら止まらない、600ページ近い分量を一気に読了してしまう。

  以下は駆け足で。2位のチャック・ホーガン「流刑の街」は駐車場の警備員をしているイラクからの帰還兵が主人公の陰謀と復讐をテーマにしたハードボイルド小説。鬱屈した日々を送っていた彼は、麻薬組織を襲撃する自警団チームに加わる。全体に漂う非情な空気と適度な甘さがいいし、ボストンの街の描写、登場人物のキャラクター造形も魅力に富む。ストーリーの流れも快適、活劇シーンも迫力たっぷりだ。
  3位のジョー・ゴアズ「硝子の暗殺者」はアフリカで密猟監視員として働く元CIAの敏腕スナイパーが主人公の冒険小説。彼は大統領暗殺計画を阻止するために呼び戻されるが、そこには罠が仕掛けられていた。モンタナの山岳地帯で展開する追う者と追われる者、プロのスナイパー同士に対決がスリリングだ。絶頂期のスティーヴン・ハンターを想起させる旧き佳き西部劇の味わいが何とも言えない。

  4位のスペインの作家、フェリクス・パルマ著「時の地図」は3部構成の時間旅行SF小説。時は19世紀末のロンドン。切り裂きジャックやエレファント・マンやブラム・ストーカーなど実在の人物が登場して花を添える。全体の狂言回しを務めるH・G・ウェルズは第3部では主人公となって大活躍する。ちょっとディッケンズを思わせるユーモアを交えた大時代的な語り口や当時のロンドンの風俗描写が楽しく、読書の醍醐味を満喫させてくれる。
  5位のデニス・レヘイン「ムーンライト・マイル」については以前に記した。ハードボイルド小説ファンをとりこにしたパトリック&アンジー・シリーズの最終作。初期の頃の作品に比べるとボルテージは落ちるが、読みごたえは充分。一般的な評価は高くないようだが、ぼくとしては愛着がある作品だ。

  6位の「サトリ」は好調ドン・ウィンズロウの冒険小説。名作として有名なトレヴェニアン作「シブミ」の続編をウィンズロウが書いたということで話題になった。続編といっても「シブミ」の前日談で、若き日の暗殺者ニコライ・ヘルが危険な任務を請け負い中国に潜入し、日本の武術や碁の精神を武器に、迫り来る敵と戦う。奥深い内面性とエモーションがあった「シブミ」に比べて、細部の書き込みが少なく、ただストーリーを追うだけなので、物足りなさは否めない。でもスピーディで軽快な流れはなかなかのもの。
  7位の「007 白紙委任状」は、これもあのジェフリー・ディーヴァーが007の新シリーズを書いたということで話題になったスパイ冒険小説。時代は3.11以後の現代、南アフリカを主な舞台に、30代初めの若々しいジェームズ・ボンドの活躍が描かれる。懐かしい上司のMやミス・マニーペニーも登場、車、料理、美女に目がないボンドの描写もオリジナルを踏襲しており、ディーヴァー得意のどんでん返しも盛り込んでの大サービス。悪役が小粒なのが気になるものの、ディーヴァーの巧さが光っており、楽しさは抜群だ。

  8位のリチャード・ドイッチ「13時間前の未来」はタイム・リープというアイデアを使った異色サスペンス小説。第12章から始まり、第1章で終わるという凝った構成。妻を殺害された主人公が1時間ごとに時間をさかのぼりながら犯人を見つけ、殺害を阻止しようとする。この手の小説は読者の好みによって好き嫌いがはっきり分かれるが、ぼくはこういった趣向のミステリーが好きなので、大いに楽しめた。
  9位のニッキ・フレンチ「生還」は心理サスペンス小説。正体不明の男に監禁された主人公の女性は辛くも脱出するが、警察は彼女の言葉を信用しない。身の危険を感じた彼女は自力で犯人を探す、という筋立て。主人公の陥る悪夢のような状況は緊迫感たっぷりで、一昔前のアイリッシュのようなサスペンス風味を感じさせる。各種のベスト10にはおそらくランクインされないだろうけど、これは地味ながらぼくにとっては今年の掘り出し物の1冊だ。

  10位のデヴィッド・ゴードン「二流小説家」は、各種ミステリー・ランキングで上位を総なめにすると思われるサスペンス小説。大衆ライト・ノヴェルやポルノ小説を書いてきた冴えない作家が、連続殺人の死刑囚から自伝を書いてくれと頼まれて遭遇する奇妙な事件が軽妙なタッチで描かれる。頼りない主人公の作家、パートナーを買って出る女子高生、ストリッパーのガールフレンドなど、生き生きした人物造形が見事。たしかに玄人受けするであろう内容だが、でも、それほどのものか、と思わないでもない。
  以上のほかにも、南アのケープタウンにはびこる犯罪と暴力を描いたクライム・ノヴェル「はいつくばって慈悲を乞え」(ロジャー・スミス著、早川文庫)や、麻薬運び屋と保安官や殺し屋が入り乱れて争い合う、虚無感と焦燥感漂うノワール小説「生、なお恐るべし」(アーバン・ウェイト著、新潮文庫)などの秀作もあり、今年はほんとうに海外ミステリー・ファンにとって実り多い1年だった。

2011.11.19 (土)  トルコという国

11月前半、トルコに行ってきた。

トルコはイスラム教の国であり、いたるところに玉ねぎ型のドームのモスク(イスラム寺院)がある。だが、他のイスラム教国と違って、政治と宗教は完全に分離されている。だから飲酒もまったく自由で、トルコ産のビールやワインもある。女性も自立しており、美女が多い。服装も西欧諸国と同じで、イスラム特有のヴェールで顔を覆った姿などもあまり見かけない。

トルコにはカッパドキアやパムッカレなどの奇景、エフェソスやベルガマなどの古代遺跡があり、かつて東ローマ帝国の首都だった人口1000万人を超える大都会イスタンブールがある。それぞれ壮観であり、好奇心を満足させてくれる。ただ、有名なトロイの遺跡は、低い丘の上に石や壁の残骸がころがっているだけで、期待して行くと当てが外れる。“つわものどもが夢のあと”という感じだ。観光用に建てられた大きな木馬が入口に空しくそびえている。

トルコは大の親日国だという。長年、隣国ロシアとの戦いで苦汁をなめてきたトルコは、 日露戦争で日本がロシアを破ったことに狂喜し、以来、日本への親近感が高まったという話を聞いたことがある。だが、どうやらトルコ人の日本びいきの真の理由は、1889年に日本を訪問したトルコの軍艦が和歌山県の串本沖で遭難したとき、地元の人々が乗組員を親身になって世話したことにあったようだ。この挿話は日本ではあまり知られていないが、トルコでは教科書にまで載っており、誰もが知っている話で、だからトルコ国民はこぞって日本が好きなのだということらしい。

またトルコ人は日本人の性格や態度にも好感を持っているようだ。観光で訪れる各国の人々のなかで、横柄に威張り散らすフランス人やドイツ人、傍若無人で姦しい中国人や韓国人と比べて、日本人は穏やかだし節度があり、いちばん愛されているという。お世辞の分を割り引いても、おそらくそのとおりだろう。

トルコには建国の英雄がいる。ムスタファ・ケマル(アタチュルク)だ。第1次大戦に枢軸国側に加わって敗北した帝政オスマン・トルコは、イギリス、フランス、イタリア、ギリシャに国土を分割占領され、壊滅寸前になった。それを救ったのが北部方面総司令官だったケマル将軍である。ケマルはギリシャ軍と戦って追い払い、国王を追放して帝政を廃止し、国土を回復させた。1923年にトルコは共和制に移行、初代大統領になったケマルは、強烈な意志と指導力で、政教分離、義務教育、女性の政治参加、アルファベット文字の採用といった近代化政策を推し進めた。ケマルのヴィジョンと実行力がなければ、その後のトルコの興隆はなかったに違いない。いまの日本の政治家どもにケマルの爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。

トルコの産業で盛んなのは第1次産業であり、経済的には自給自足で、かつてはインフレに悩まされたが、いまは比較的安定している。道路網は整備されているが、鉄道は未発達であり、全体としてはまだ発展途上にあると言えるだろう。

NATO加盟国であるトルコは、地理的にはヨーロッパに近いが、政治・経済的にはアメリカの影響が強い。貨幣は現地通貨のトルコ・リラとともに米ドルが流通している。トルコはガソリン代が高い。物価は日本の半分ほどなのに、1リットルが220円もする。トルコは産油国ではないが、近隣には産油国がたくさんあるので、そこから買えば安いはずなのだが、わざわざアメリカから買っており、だから高くなるらしい。このあたり、政治的な思惑が からんでいるのだろう。

トルコは以前からEU入りを望んできたが、まだ加盟には至っていない。ヨーロッパの反イスラム感情が最大の障害であり、ほかにもキプロス問題やクルド人問題がネックになっている。国内ではEU入りに賛否両論があり、国力を上げ、真の大国を目指すために加盟すべきだという論と、ヨーロッパ諸国の風下に立って不利益を被るよりも、このまま自給自足で行くべきだという論に二分されている。もっとも、いまEUは、ギリシャの金融不安がその他の国にも飛び火しかかっており、EU崩壊の危機にさらされているから、現状で はEU加盟など論外であろう。

トルコもそうだし、いま国王夫妻が来日中のブータンもそうだが、日本に好意を寄せる国は少なくない。本来なら、それらの国々を足掛かりに、日本がもっと存在感を発揮し、世界を相手に自主的な平和外交をリードできるはずだ。しかしアメリカの属国であり、飼い犬になり下がっている現状では、そんな主体的な外交などできるはずがない。情けないかぎりだ。


2011.10.29 (土)  だけど・・・美しい

「ライク・サムワン・イン・ラヴ」「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームズ」など、ジャズでよく演奏されるスタンダードをたくさん書いた作詞・作曲家コンビ、ジョニー・バーク=ジミー・ヴァン・ヒューゼンの佳曲のひとつに、「バット・ビューティフル」がある。歌詞の冒頭を日本語訳してみよう。
恋とはおかしなもの/そして悲しいもの
時には静まり/時には荒れ狂う
喜びをもたらすかと思えば/災いも運んでくる
だけど・・・美しい
この「恋」を「ジャズ」に置き換えれば、先ごろ発売された本『バット・ビューティフル』(新潮社)の内容を言い表す文章になる。

これはジャズ史上の有名なミュージシャンを題材にした連作短編小説集だ。イギリスの作家ジェフ・ダイヤー著、訳者はあの村上春樹である。ダイヤーは純文学系の作家のようだが、日本ではまったく無名であり、邦訳されるのはこれが初めてだ。この本を読む気になったのは、題材として採り上げられているミュージシャン――レスター・ヤング、セロニアス・モンク、バド・パウエル、ベン・ウェブスター、チャールズ・ミンガス、チェット・ベイカー、アート・ペッパー――に惹かれたからであり、村上春樹にはなんの関心もない。とはいえ、こんな無名の作家による、しかも原書が刊行されてから10数年も経っている地味な小説が日本で発売されることになったのは、訳者が村上春樹だからであろう。まことに村上印は霊験あらたかと言わねばならない。

本書はこれらのミュージシャンをテーマにした、それぞれ独立した7つの短編からなっている。これらの短篇のあいだにデューク・エリントンをモチーフにした短い挿話が挟まれており、さらに巻末にはジャズ史を俯瞰する長文のエッセイが収められている。小説とは言うものの、内容的には、小説ともエッセイとも断片的伝記ともつかない、虚実ないまぜのスタイルで書かれている。それぞれのミュージシャンについての文献やインタビュー、さらに彼らを撮影した写真などをもとに、作者の独特の視点からイマジネーションを膨らませて書かれたもののようだ。

とりわけ作者がインスピレーションを受けたのは写真だったらしい。まえがきには次のような一文がある。
写真、それは1秒のほんの何分の1かの瞬間を捉えたにすぎないのだが、その写真の「実感された持続性」は、その凍結された瞬間の前後両方に数秒ずつ伸びている。つまり、その前後に起こったことと、これから起こるであろうこともまた、含まれている。
たしかにジャズメンを撮った写真はぼくたちの心を刺激する。演奏中の写真もそうだが、むしろ日常のなにげないショットのほうに、より惹きつけられるし、何かを感じさせるものが多い。本書の扉に載っている、おそらく楽屋で撮られたものであろう、ヘンリー・レッド・アレン、ベン・ウェブスター、ピー・ウィー・ラッセルの写真(撮影はミルト・ヒントン)は、なるほどストーリーを感じさせるし、見るものの想像力をかきたてる。

しかし、この本で作者が紡ぎ出すストーリーは、あまりに暗い。まず第1章のレスター・ヤングを読んで、その救いのない陰鬱さに気が滅入った。ここには死ぬ間際のレスターが描かれている。ホテルの部屋で浴びるように酒を飲み、サックスを手にするのも覚束なくなり、朽ち果てるのを待つだけのレスター。彼の頭を去来するのは、軍隊時代の悲惨な体験やビリー・ホリデイとの交流だ。あまりに荒涼とした心象風景に暗澹たる思いになる。その他の章もほとんどこんな調子で、人生の晩年を迎えたミュージシャンの悲惨な境遇と孤独な心が書かれており、読むのがつらくなる。

あとがきで作者はこう書いている。
ビバップ時代のジャズ・ミュージシャンにとって、生きて中年を迎えることは、夢のような長寿と思えた。(中略) その生活スタイルを思えば――飲酒、ドラッグ、人種差別、過酷な旅、身をすり減らす時間――より穏健な人生を送っている人々よりいくぶん平均寿命が短いくなるのはやむを得ないことかもしれない。それでも、ジャズ・ミュージシャンたちが実際に被っているいる被害を見ると、そこには何か別の要素があるのではないか、ジャズという形態そのもののなかに、それを創造する人々から苛烈な課徴金を取り立てていく何かが潜んでいるのではないか、と考えざるを得ない。
たしかに、かつてのジャズメンにはドラッグ、アルコール、狂気、破滅的な生活がつきものだった。そしてそれが小説や映画の題材にしやすいのも分かる。でも、それらばかりが強調されると、ちょっと待て、と言いたくなる。それらはジャズの一面を切り取っただけにすぎない。即興演奏に覚える、あのぞくぞくするような心の高揚、独特のリラックス感やユーモア感、それらを抜きにしてジャズを語ることはできない。ジャズメンの心の闇だけしか描かれていなければ、「だけど・・・美しい」と言うことはできまい。

唯一、心がなごむのはベン・ウェブスターの章だ。汽車で旅をしている彼の車中でのほほえましいエピソードが語られる。アップ・テンポで演奏するときの狂戦士のような荒々しさ、バラードを吹くときの赤子をそっと腕に抱くようなやさしさ、そんなベンの姿がここには捉えられている。これを読むと、以前見たベンの映像が思い浮かぶ。時は1970年前後、場所はコペンハーゲンのクラブ。ベンは「オールド・フォークス」を吹く。椅子に座ったままの演奏である。老境の彼はもう長く立っていることができないのだ。ピアノは旧友のテディ・ウィルソン。ベンはもう昔のようには吹けない。相変わらず端正なテディのピアノと比べて、ベンはブレスも続かないし音も分厚くない。だが、人生の終わりにさしかかった彼らが何の気負いもなく悠然と演奏する姿の、なんと美しいことか。いつしか、テナーを吹くベンの目から涙があふれ、頬を流れる。ついさっき、かつてバンドの同僚だった敬愛するジョニー・ホッジスが死んだとの報に接したからだ。

各章の間をつなぐ、深夜から早朝にかけてハリー・カーネイの運転する車で次の公演地に向かうデューク・エリントンを描いた掌編もまた、本文を読んで落ち込んだ気持ちを、一瞬だが解きほぐしてくれる。エリントン楽団の番頭格だったバリトン・サックス奏者ハリー・カーネイは最初期から最後期まで45年もの長きにわたってバンドに在籍した。そして1974年にエリントンの死を見届けたあと、それから4ヵ月後にデュークを追うように亡くなった。カーネイはここに書かれているように、旅をする際、実際にいつも車で行くデュークの運転手を務めていた。

本文はあまりの暗さに辟易とするが、巻末のエッセイは読みごたえがあり、著者のジャズに対する見識の深さがうかがえる。進化と伝統、技術とオリジナリティ、模倣と個性、時代との関連、コルトレーンの音楽分析など、矛盾を内包するジャズのダイナミックな動きについての論考は説得力があり、すべてとは言えないまでも、かなりの部分、うなずける。ジャズの伝統に触れての「今も続いている伝統の影響は、音楽の深化や進歩をくぐり抜けてなお、過去の偉大な先人がそこにいることを確認させてくれる」という文章などは的確な指摘だし、現代のジャズについて、レスター・ヤングが言った「ああ、いいねえ・・・でもあんた、おれのために歌をひとつうたってくれないか?」という科白を引用しながら、ジャズメンの技術は格段の進歩を遂げていても、かつてのような音楽的興奮を呼び起こすのは難しいと論ずるくだりも、読むものを納得させる。

2011.06.14 (火)  永見緋太郎の事件簿

ジャズをテーマにした日本の小説といえば、ぼくなどの世代でまず思い浮かぶのは、五木寛之の「青年は荒野をめざす」や「海を見ていたジョニー」といったあたりだろうか。とはいえ、昔これら五木の小説を読んだときは、底の浅いヒロイズムとご都合主義の筋運びにうんざりさせられた。それより以前、石原慎太郎がジャズを取り入れた小説を書いていたが、五木よりもっと中身が薄っぺらい、陳腐な通俗小説だった。そんな作家たちより、筒井康隆の笑いと毒に満ちたジャズ小説のほうが、作者がジャズをよく知っているだけに、はるかに楽しめた。近年では奥泉光が「鳥類学者のファンタジア」などのジャズをテーマにした小説を書いているが、妙にこねくり回した内容で小説としての感興には乏しかった。

最近読んで面白かったジャズ小説に、田中啓文の「獅子真鍮の虫」(2011年、創元社)がある。これは田中啓文が書き継いでいる短編連作ミステリー<永見緋太郎の事件簿>シリーズの最新作であり、「落下する緑」「辛い飴」に続く第3作にあたる。小説の語り手はベテラン・ジャズ・トランペッターの唐島英治、唐島英治クインテットを率いてジャズ・クラブなどに出演している。そのグループの若きテナー奏者が永見緋太郎、ジャズにしか興味がない天才肌のミュージシャンだが、推理力も天才的で、彼らが遭遇する珍事件を直観と閃きで推理し、あざやかに謎解きをする。つまり、永見がホームズ役、唐島がワトソン役というパターンだ。

事件といっても、血なまぐさいことが起こるわけではない。せいぜい、楽器がなくなったとか、歌手が行方不明になったというような、日常的にありふれた事件だ。謎解きも、いわゆる机上の空論で、そんなことは現実的にはありえない、というようなものばかり。つまり一種のパロディなのだが、これが読んでいてなかなか楽しい。知的なユーモアに包まれているし、ジャズに関するさまざまな蘊蓄、ジャズ・ミュージシャンの生態が、戯画や誇張をまじえながらも、いききと描かれている。大音量で叩きまくる大ぼら吹きのドラマーや、ジャズ好きが高じて自宅にスタジオを作った医師など、実在の人たちをモデルにしたとおぼしき登場人物がいろいろ現れて、ニヤリとさせられる。

1作目と2作目では、彼らが東京でのクラブ・ギグや国内各地にビータをした際に出会った事件が描かれていた。この第3作で、唐島はグループを解散し、永見と一緒にアメリカに旅立つ。アメリカに渡った2人は、ニューヨーク、シカゴ、ニューオリンズと、ジャズにゆかりの深い街を廻り、現地のミュージシャンと交流したりしながら、本物のジャズの感触をつかみとる。シカゴで伝説のフリー・ジャズ奏者ジュゼッピ・ローガンを彷彿とさせる老ジャズマンと出会ったり、ニューオリンズで現地のブラスバンドに飛び入り参加して喝采を浴びたりする。

著者の田中啓文はおもにSFやホラーを書く作家だが、テナー・サックス奏者としてときおりステージに立つミュージシャンでもあり、ジャズに関する知識や愛着は並々ならぬものがある。その一端を示しているのが、各短編の末尾に著者が付す「大きなお世話的参考レコード」だ。ここには、それぞれの話に関連したレコードが独断と偏見で並べられている。採り上げられたレコードは、作者の好みを反映してか、ジャズの本流というより傍系的なものや周辺的なものが多い。たとえばニューオリンズの話の項に挙げられているのは、ダーティ・ダズン・ブラス・バンド、プロフェサー・ロングヘア、オミニバス・アルバム「ファンキー・ガンボ」といった具合だ。このレコード紹介コーナーはとても啓発させられる。これによって、ぼくはハワイアンとブルースが幸せに融合したタジ・マハール&フラ・ブルース・バンドや沖縄の島唄歌手、大工哲弘の面白さを知った。

五木寛之の小説が、60年代半ば、若者が暗いジャズ喫茶で黙々と大音量のジャズを聴き、高橋和巳に心酔し、東映やくざ映画で高倉健が悪者を斬り殺すのに快哉を挙げていた時代のものだとすれば、田中啓文は、インターネットからダウンロードしてジャズを聴き、村上春樹を読み、いつも携帯電話をいつも手放さない現代という時代を反映しているということができる。著者あとがきによると、永見緋太郎シリーズは本作でいったん終了とのことだが、できればいま少し続けてもらいたいものだ。

2011.06.02 (木)  『人生譜』

心が洗われるようだ。深い余韻と豊かな潤いを感じる。どこかで聴いたことがあるみたいな、懐かしさを感じさせるメロディが、怒りも喜びも悲しみもすべての感情を包み込んで、洗い流してくれる。ドン・プーレンの "Ode to Life"(人生譜)だ。試聴はここで("Ode to Life" by Don Pullen at YouTube)。

ドン・プーレンは一言では言い表せないほど特異な個性をもったピアニスト&コンポーザーだった。プーレンのピアノは打楽器的な奏法に特徴があった。伝統性から前衛性まで、いろんな要素を兼ね備えたスタイルの持ち主であり、しばしばグリッサンドを用いて鍵盤を引っかき回し、興が乗ればひじ打ちでフリーっぽいフレーズを炸裂させた。じつを言うと、調子に乗ったときのプーレンの猫が鍵盤の上で跳びはねているようなプレイは、あまり好きではない。だが抑制された演奏をするときのプーレンは、きわめて奥深い味わいを感じさせた。

プーレンはエキセントリックなピアノ・スタイルからは想像もつかないほど美しい曲を書く。"Ode to Life" のほかにも、有名な "Song from the Old Country" をはじめ、"Samba for Now" "Trees and Grass and Things" "Sing Me a Song Everlasting" "At the Cafe Centrale" など、ブルースに根ざした、素朴な味わいの、魅力あふれる曲をたくさん書いている。プーレンの含蓄に富んだ側面は、そんな自作曲を演奏するときに、いちばん好ましいかたちで発揮されていた。

"Ode to Life" には3種類のヴァージョンがあるが、ぼくの好きなのは1992年にボストン・グローブ・ジャズ・フェスティヴァルで録られたソロ・ピアノによるライヴ・ヴァージョンだ。10分を超える長い演奏だが、起承転結をたくみに織り込みながら、寄せては返す波のように悠揚迫らぬ雰囲気で弾いており、少しもだれるところはない。初演はアルバム『Random Thoughts』(1990)に収められており、これもソロ演奏。もうひとつはアルバム『Ode to Life』(1993)に入っているホーンを加えた演奏。いずれもまとまりのある内容だが、ライヴ・ヴァージョンのスケールの大きい演奏に比べれば格が落ちる。

ドン・プーレンは60年代半ばに前衛派のピアニストとしてジャズ・ミュージシャンのキャリアをスタートさせた。その後、R&Bバンドで働いたあと、70年代に最後期のチャールズ・ミンガス・グループに起用されて注目された。70年代終わりにミンガスの同僚だったテナーのジョージ・アダムスと組んで双頭バンド、ジョージ・アダムス=ドン・プーレン・カルテットを結成。メンバーには同じくミンガス・グループの番頭格だったドラムスのダニー・リッチモンドもいた。このバンドは10年ほど続いたが、このころがプーレンのキャリアのハイライトだったと思う。

80年代末にカルテットを解散したプーレンは、90年代に入ってアフリカン・ブラジリアン・コネクションというバンドを立ち上げた。このグループによるアルバムの一枚が、前記『Ode to Life』であり、ここには表題曲のほか、1992年に亡くなった長年の盟友ジョージ・アダムスへの追悼曲 "Ah, George, We Hardly Knew Ya" が収められている。これがまた、涙なしには聴けない名曲だ。切々とした情感、亡き友をしのぶ思いが胸に迫り、感動を誘う。プーレンはその後も旺盛に活動していたが、アダムスのあとを追うように、1995年、53歳で死去した。

モダン・ジャズ史上、コンポーザーとしても知られるミュージシャンというと、パーカー、ガレスピー、モンク、コルトレーン、シルヴァー、ゴルソンといった名前が思い浮かぶ。彼らのつくった曲は多くのジャズメンによって頻繁に採り上げられている。ところが、時代のせいもあるだろうが、プーレンの曲は仲間うちでたまに演奏されるだけで、一般的にはほとんど演奏されることがない。それでもプーレンは上記の人たちと肩を並べる、すぐれたコンポーザーだったと思う。

ふたたび "Ode to Life" を聴く。しみじみとした美しい音だ。ちょっとサッチモの歌った "What a Wonderful World" を想起させる。いろいろあったけど、人生はそんなに悪いものじゃなかった、という気持ちが湧いてくる。死ぬときは、こういう音楽に耳を傾けながら旅立ちたいものだと思う。

2011.05.16 (月)  彼らはただ去っていく、ムーンライト・マイルの彼方に

ボストンを舞台にした私立探偵パトリックとアンジーを主人公とするデニス・レヘインのハードボイルド・ミステリー・シリーズの新作「ムーンライト・マイル」が翻訳発売された(角川文庫)。なんと前作「雨に祈りを」から11年ぶりの作品であり、シリーズ最終作と銘打たれている。

デニス・レヘインは1994年にパトリック&アンジー・シリーズの第1作「スコッチに涙を流して」を発表して以来、ほぼ毎年コンスタントに彼らの物語を書き継いできたが、1999年に第5作の「雨に祈りを」を発表して以来、このシリーズの執筆を中断し、単発の小説に移行してしまった。

パトリック&アンジー・シリーズの魅力は、登場人物の人間関係とボストンという街の描き方にあった。幼馴染である主人公の男女ふたりの微妙な関係に興味をそそられたし、彼らと固い友情で結ばれている人間兵器ブッバというキャラクターも印象的だった。ハードボイルドの基本的な骨格を備えながらも、主人公たちが心に傷を負いつつ、荒廃していく街で人間の心に潜む邪悪な魂と戦う姿が、それまでにない新鮮な感動をもたらした。

第1作以来、パトリック&アンジー・シリーズの面白さのとりこになっていたぼくは、第5作で途切れたのを残念に思っていた。単発作品に移ってからのレヘインは、「ミスティック・リヴァー」「シャッター・アイランド」「運命の日」と力作を書いてきたが、よくできた歴史小説である「運命の日」を除いて、みな救いのない悲劇性が強調された、読んでいて気が滅入るような小説ばかりになってしまった。

もうこのシリーズは終わってしまったのかと諦めかけていたところに、今回の新作の登場である。これはシリーズ第3作「愛しき者はすべて去り行く」の後日談として描かれている。「愛しき者は〜」は行方不明になった女の子を救出する事件だったが、今作は、それから12年後、いまや高校生に成長したその娘が再び行方をくらました、知らせを受けたパトリックが心にわだかまりを抱えつつ捜索を始めると、いろいろな謎が浮かび上がるという物語だ。

12年経って、パトリックとアンジーの環境にも大きな変化が訪れている。あれっと言うべきか、やっぱりと言うべきか、パトリックとアンジーは夫婦になっており、なんと子供までいる。そんな設定のせいか、これまでのシリーズと比べて、ややインパクトに欠けるきらいがあるし、後半のロシアン・マフィアが登場するあたりからの筋の展開に荒っぽさを感じる。とはいえ、さすがに登場人物の造形はすぐれているし、的確な風景描写も冴えており、読みごたえは充分だ。

不動産バブルの崩壊と9.11を経たあとのアメリカの苦難、人々の荒んだ心情がクローズアップされており、これまで以上にやりきれなさや哀感が漂っているが、随所に示されるパトリックの子供によせる愛情や独特のユーモアを交えた軽妙な文体が重苦しさをやわらげている。家庭を守るために安定した仕事に就こうとするパトリックだが、心のなかに鬱積する世の中の不正義に対する怒りを押しとどめることができず、なかなか安定した収入を得る生活をおくることができない。このあたりの描写も読者の共感を呼ぶだろう。

最終作にあたり、シリーズを締めくくろうとする作者の意図があちこちにうかがえる。爽やかな余韻を感じさせるエンディングも完結篇にふさわしい。レヘインがこのパトリックとアンジーの物語を中途半端なままにせず、11年を経てとはいえ最終作を書いたことに、作者としての良心を見る思いがする。

訳者あとがきに、レヘインが語った次のような言葉が紹介されている。「シリーズものには、しかるべき巻数というものがあると思っている。たとえば《あのシリーズは15巻目が最高!》なんて話は聞いたことがないだろう。どんなシリーズでも終わるべきときというのがあるのだ。(中略)わたしは、最終巻で主人公たちが死ななければならないとは思っていない。彼らはただ、去っていくだけだ」

レヘインはよく分かっている。どんなシリーズでも長く続けばマンネリになり、完成度が低下することは避けられない(稀な例外がマイクル・コナリーのハリー・ボッシュ・シリーズだ)。パトリック&アンジー・シリーズを6作で終了させたのは正しい判断だったと思う。シリーズの終了は惜しいが、パトリックとアンジー、それにブッバの物語が高水準を維持したまま終わったことに拍手を送ろう。

2011.05.01 (日)  脱原発の気運が盛り上がらないのはなぜか

原発事故に関する論議――事故の実態と原因、不信を呼ぶ公式発表、ずさんな安全管理、政・官・産・学の癒着の構造、海外での風評――はほぼ出尽くした感があるけれども、これから日本のエネルギー政策をどう進めていくかについてはあまり議論の俎上にのぼってこないし、とうぜん沸き起こるべき脱原発の気運も思ったほど勢いづいていない。海外では、アメリカやフランスは当たり前のように原発推進を表明しているが、ドイツはさすがに違う。原発の方向に舵を切ろうとしたメルケル首相は、世論の反対を見てすばやく方向転換した。大した国だ。隷属するアメリカの意を体して国策として原発を推進してきた日本は、そうすんなりとはいかないだろう。日本政府は、それでも原発は推進すると言いたいけれど、いま言ってしまっては反発があるので、とうめんはマスコミを使って世論を誘導し、ほとぼりが冷めたころを見計らって、そんな方向にもっていく腹づもりだろう。

4月19日付けの朝日新聞に原発に関する世論調査の結果が載っていたが、それを見て愕然とした。『原発の今後』という問いについて、「増やす」が5%と僅少なのは当然としても、「現状維持」が51%もあり、「減らす」は30%しかない。『原発利用』という問いには、「賛成」が50%で「反対」が32%だ。原発に関して賛成と現状維持が半分も占めている。原発事故がいまも深刻な状況にある現在、もっと反対の動きが高まっていいはずなのに、この意識の低さはどうしたことか。国民はこんな被害にさらされても、まだ目覚めないのか。いや、そんなことはあるまい。これは、原発推進の流れを頓挫させたくない政府・産業界、さらにアメリカの意向を汲んだ新聞の世論操作・世論誘導なのだ。クリントン国務長官の訪日にタイミングを合わせての発表だったことがそれを物語っている。政府とマスコミが合作した原発は続けますよというアメリカへのデモンストレーションだとしか考えられない。

これまで日本では、原発推進の盛り上がりのかげで、政府・官僚と電力会社のアメとムチの工作により、原発反対の声は抑え込まれてきた。学会では、原発に反対する原子力学者は露骨に冷遇されてきている。原発事故についてテレビに出演して解説しているのは、ほとんど信用できない御用学者ばかりだが、筋が通った説得力のある話をする数少ない学者のひとりに、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏がいる。一貫して原発に反対してきた原子力工学者だ。そのためであろう、小出氏は61歳のいまも助教(かつての助手)のままだ。公平中立であるべき裁判官や検事といえども、国の意向に逆らったら報復人事を受け冷や飯を食わされる。同じく国家公務員である国立大学の教職員もその例に漏れないのだ。広瀬隆氏のような在野の研究者がいくら声高に原発反対と叫んでも無視される。国会議員にも河野太郎のように脱原発を主張する人はいるが、異端者でありリーダーシップをとることはできない。

一般的に、いったん進んだ科学技術が後戻りすることはない。原子力という技術を発明してしまった以上、人間はそれをとことん利用しようとするだろう。だが、原子力という悪魔の技術は、ほんとうに人間がコントロールできるものなのか。人間が発明した技術によって人間自身が滅ぼされ、世界が終わりを告げる、というSF小説を思い起こしてしまう。いくら安全設計をし、危機管理をしても、巨大な自然災害の前ではなすすべがない。スリーマイル、チェルノブイリ、福島と、大きな事故がいくら起こっても、いっこうに世界は脱原発に向かおうとしない。つくづく人間とは、懲りない生きものだと思う。せめて広島・長崎を経験した日本は、ドイツを見習って毅然とした態度で軌道修正し、脱原発をめざすべきだ。そのためには国民が原発反対の声を上げなければならない。政府やマスコミの世論誘導に惑わされず、自分で考えて強く意志表示しなければならない。

2011.04.23 (土)  『何人に対しても悪意を抱かず』

このところ「ウィズ・マリス・トウォード・ナン」という曲のいろんなヴァージョンを繰り返し聴いている。安らぎをたたえた美しいメロディーが頭にこびりついて離れない。聴き慣れないメロディー・ラインだが、ちょっとゴスペル風のフレイヴァーを帯びた柔らかな響きが、懐かしさとやさしさを感じさせる。震災や原発事故でささくれた心の痛みをやわらげてくれるような気がする。

これはトム・マッキントッシュというトロンボーン奏者が作曲したジャズ・ナンバーである。一般的にはあまり知られていない曲だが、聴き込んだジャズ・ファンなら、ああ、あれね、とうなずく人も多いだろう。ここで("With Malice Toward None" by Tommy Flanagan at YouTube)試聴できる。

曲名の「ウィズ・マリス・トウォード・ナン」(With Malice Toward None)とは「誰に対しても悪意を持たずに」という意味だ。アメリカ16代大統領リンカーンが第2期大統領就任に際して行なった演説の一節であり、正しくは、 "With malice toward none, with charity for all"(何人に対しても悪意を抱かず、すべての人に思いやりをもって)と続く。リンカーンの言葉というと、日本では、あの有名な「人民の人民による〜」というゲティスバーグ演説以外はあまり知られていない。だが本国アメリカではこの言葉も名言として人口に膾炙されているらしい。自国の先住民を制圧し、他国を武力攻撃してきた、あの好戦的なアメリカで、こんな仏の境地みたいな慈愛と寛容に満ちた言葉が広く好まれるとは、なんとも皮肉な話だ。

作曲者のマッキントッシュはジャズテットやサド・メル・オーケストラのメンバーとしての活動歴があるが、トロンボーン奏者としては大成せず、コンポーザーとして通好みの人々の記憶に残っている。作風としては、ちょっとベニー・ゴルソンに似ている。ゴルソンからファンキーなテイストを薄め、洗練さを増した感じ、と言ったらいいだろうか。ジャズテットにはベニー・ゴルソン、サド・メルにはサド・ジョーンズという練達の作編曲者がリーダーにいたため、グループ在団時には彼の曲が採り上げられることはあまりなかったが、60年代以降、一部のミュージシャンのあいだで少しづつ演奏されるようになった。彼の曲には「カップ・ベアラーズ」や「ザ・デイ・アフター」といった佳曲もあるが、いちばん有名なのはこの「ウィズ・マリス・トウォード・ナン」であろう。

「ウィズ・マリス・トウォード・ナン」はどうやら讃美歌を下敷きにして書かれたものらしい。讃美歌461番「主われを愛す」がそれだということだが、その方面については無知なので、よく分からない。だが、先にも書いたように、この曲はどこかゴスペル風の響きを帯びているし、清澄な雰囲気が漂ってるので、原曲が讃美歌だというのも充分に納得できる。

この曲はマッキントッシュの作品のなかではいちばんポピュラーだとはいえ、レコーディングはそれほど多くはない。せいぜい20種類ぐらいだ。ピアノのトミー・フラナガンはマッキントッシュの曲を愛奏しており、この「ウィズ・マリス・トウォード・ナン」も2回レコーディングしている。ベースとのデュオ演奏とトリオ演奏だが、内容としては1978年に吹き込まれたデュオ・ヴァージョンのほうが断然すばらしい。フラナガンのやさしさ、メロディストとしての特質が最高度に発揮されているし、寄り添うように弾くジョージ・ムラーツのベースが一体感を醸し出している。この曲の代表的な演奏といえるだろう。

この曲を最初に演奏したのは1959年、サックス奏者のジェームス・ムーディだった。ムーディも2回吹き込んでおり、初演ではフルート、再演ではテナーを吹いている。ほかに、ハワード・マギー(tp)、ビル・ハードマン(tp)、クリフォード・ジョーダン(ts)、ミルト・ジャクソン(vib)、ボビー・ティモンズ(p)、ジョン・ヒックス(p)といったミュージシャンたちのヴァージョンがある。それぞれ持ち味を生かした聴きごたえのある演奏になっている。曲がいいと演奏もよくなる好例であろう。ジョン・ヘンドリックスが歌詞を付け、ランバート・ヘンドリックス&ロスが歌ったヴァージョンもある。まるで祈りを捧げるかのような厳そかなコーラスが印象深い。

こうして名前を挙げると、いわゆる超一流のミュージシャンはミルト・ジャクソンぐらいで、あとは、実力はあるのに、あまり陽の光があたる道を歩んでこなかった、縁の下の力持ち的な人たちばかりだ。フラナガンにしても、晩年はトリオを率いてリーダーとして活躍したが、長年サイドメンや歌伴ピアニストとして脇役に甘んじていた経歴の持ち主だ。自身がジャズマンとしては日陰の道を歩んだマッキントッシュの曲は、そんな一流にはなれなかったミュージシャンたちの心情に訴えかける何かがあったのかもしれない。

マッキントッシュ本人のヴァージョンは、2004年に彼が77歳にして吹き込んだ唯一のリーダー・アルバム『With Malice Toward None』に収められている。かつてのボスであるテナーのベニー・ゴルソンと新進ピアニスト、ヘレン・サンを中心とした演奏で、ゴスペル・テイストのアレンジが施されており、さりげないが心を打つサウンドに仕上がっている。

2011.04.16 (土)  石原都知事4選に思う

事前の予想どおり、石原慎太郎は都知事選に圧勝した。失政や失言を繰り返し、リーダーとしての能力のなさ、人間性の欠如、卑怯な本性を露呈しても、都民は石原を選んだ。自分が設立させた新銀行東京で巨額の赤字を出しながら責任逃れをしても、オリンピック誘致で多額の費用を無駄に使っても、築地市場移転という愚策を推し進めても、そして最近の“天罰”発言によって被災者の心を逆なでしても、多くの都民の意識は変わらなかった。

石原はほくそ笑んでいるだろう。おれは何をしてもいいんだと驕り昂ぶっているに違いない。この弱者を蔑視し、外国人を差別する78歳の権力志向老人を4度も知事に選ぶ都民がいるとは、不思議のきわみだ。週に2〜3日しか登庁せず、威張り散らして暴言を吐き、湯水のように税金を使って物見遊山まがいの海外視察を繰り返し、事故によって原発の危険性が露呈してもそれでも原発は推進すべきだと言い張る、こんな輩をリーダーに選ぶ人間は、自虐的な心情の持ち主としか思えない。まるで、殴られても蹴られても妾を作られても、いつまでも自立せず夫にすがり続ける魯鈍な妻のようだ。

強い人に任せておけば安心だという、日本人独特の羊のような他人任せの心性のなせるわざだろうか。それにしても、早く引退して三文小説でも書いていればいいのに、かつては「60、70の老人に政治を任せちゃいけない」と言っておきながら、自分は80歳近い老残をさらしながら都知事の椅子にしがみつく石原を、なぜ支持する一般都民がいるのか、どうにも理解できない。

2011.04.14 (木)  原発事故に関する海外での風評とアメリカ頼みの復旧対策

福島原発事故の国際事故評価尺度が最大のレベル7に引き上げられたというニュースが4月12日に大きく報道されたが、いまさら訂正するなど物笑いの種でしかなく、バカバカしいの一語に尽きる。最初はレベル4という評価だったわけだが、アメリカなどからは早くから低すぎると指摘されていたし、日本の専門家たちも、水素爆発があった時点で、とてもそんレベルではないことなど、とっくに分かっていたはずだ。

こんなていたらくだから、原発事故に関する政府・東電の発表が海外から不信感を買うのも当然だ。海外の政府や専門機関は、最初から、何か隠しているのではないか、本当のことを言っていないのではないか、と疑っていた。その疑念はいまも消えていない。それが要因となって、福島原発事故に関する妄想や憶測が入り混じった海外での誇大報道を生んだ。

海外では一時、日本中が放射能に汚染されているかのような受け取り方をされていた。もう放射能災害で1万人が亡くなったとか、日本の食品はすべて汚染されているとかいった話が広まったし、来日する外国人は激減し、在留外国人はいっせいに本国に帰国したり西日本に避難した。そうなった大きな理由が、さっぱり要領を得ない日本政府や東電の発表に不信感があおられたことにあるのは間違いない。

そんな過大報道はいまは多少は収まったようだが、いぜんとして放射能に汚染された日本という風評は薄れていない。韓国では放射能雨が降るからということで小学校が休校になったというし、欧米では日本からの輸入物は食品だけでなく工業製品も汚染されているという風評が流れている。原発事故により福島ですでに50人が亡くなったと報道したメディアもある。日本から入国する人や輸入する物品には税関で放射能測定を課している国もあるらしい。いったん被った日本は怖いというイメージ、日本に対する不信感を拭い去るのは容易なことではない。

震災から2週間ほど経ったころのことだが、ドイツ語に堪能な友人が、ドイツのYahooに載った原発事故に関するニュースについて教えてくれた。日本にいる駐在員が書いたというそのニュースとは、「東電はこの危機で多くの厳しい生活をしている人達を平気で利用している。その多くがホームレスであり、外人労働者である。それどころか未成年者もいるらしい。彼らは長期間原発で働いていて被曝したうえ簡単に解雇されるので、廃棄労働者と呼ばれている。このような失業者への搾取はここ数10年来行われてきた」「日本では "Fukushima 50" と呼ばれる勇者達50人が、生命を賭して原発災害に立ち向かっている。彼らはすでにかなりの放射線を浴びていて、少なくともその1/3はこの仕事が終わったらすぐに死亡することは確実であろう」というような内容だった。

これを聞いたときは、こんないい加減な話をどこででっち上げたのだろう、と一笑に付したが、その後まもなく、週刊誌などで、実際に東電は原発の下請け作業員にアジアなどの外国人を使っていたことを読むに及んで、ドイツYahooの記事はあながち完全なまゆつば記事でもないのだと知った。さらに、『Fukushima 50』という言葉も、日本のマスコミではまったく出てこないが、アメリカのあるメディアが、事故発生直後に発電所に残って作業にあたった50人前後の人たちをこう呼んでその勇敢な行為を称えたことから欧米で広まった言葉だということが分かった。ヒーロー好きなアメリカらしい取り上げ方だが、それやこれやで、日本と海外での報道のされ方の違いを実感した次第である。

アメリカのマスコミはさかんに誇大報道しているが、政府機関は危機感を募らせながらも現実に即して冷静に事態を分析している。1週間ほど前の朝日新聞にアメリカ原子力規制委員会が作成した福島原発事故に関する報告書が紹介されていた。現状に関する推定と復旧のための対策がまとめられており、じつに理路整然とした内容だと感じた。問題なのは、なぜ当事国である日本でこのような報告書をつくることができないのかだ。もしかすると、つくられているけど、隠しているのかもしれない。新聞の記事によると、この報告書には、冷却用に注入する水を、海水ではなく、できるだけ早く真水に切り替えるべきだとか、水素爆発の危険を防ぐため窒素ガスを格納容器に注入すべきだといった具体的な提言がなされていた。東電は、その提言に沿って、海水から真水に切り替え、窒素ガスを注入したことになる。

情けないことに、もはや日本の東電も原子力安全委も安全保安院も、アメリカの指摘によって対策を講じるしかなくなった。東電は打つ手がすべて後手に回り、右往左往しているようにしか見えない。本来ならリーダーシップを発揮すべき原子力安全委や安全保安院もまったくコントロールしておらず、無能さをさらけ出している。それが実態なのだ。大震災から1ヵ月以上が過ぎたいまもなお、福島原発は危険な状況にあり、安定化のめどは立っていない。これ以上日本の連中に対応させていては危ない。もはや復旧のためには、恥も外聞も捨てて、国際管理に委ねるか、アメリカに全面的に対応策を立ててもらうかしかない。

2011.04.02 (木)  東電と癒着した原子力安全委員会の手抜き管理が原発事故を生んだ

福島原発の事故はいまだに深刻な状況から脱していない。今回の原発事故に関し、新聞や週刊誌などは、ようやく現場の状況や復旧作業の進捗具合だけでなく、東電という会社の欠陥だらけの安全対策や、原子力安全委員会のいい加減な安全管理について報道し始めた。

福島原発の事故は津波をかぶったことによる電気系統の故障によって起こった。いっぽう、同じ太平洋岸に位置する東北電力の女川原発(宮城県)は被害をまぬかれた。明暗を分けたのは津波対策の違いだった。福島原発は津波の高さを最大5.6mに想定して設計されたが、女川原発は9.1mに想定して設計された。しかも施設は海面から14.8mの高さに建設されていた。今回、福島原発にも女川原発にも10数mの津波が押し寄せたが、女川原発は、一部の設備は浸水したものの、備えが充分だったため、致命的な被害にはいたらなかった。いまここはは被災した近隣の町民の避難所になっているという。福島原発の災害が安全対策の不備によって引き起こされたものであることは明らかだ。

3月26日付けの朝日新聞によると、2006年の国会で、当時の原子力安全保安院の寺坂信昭院長は「原発で非常用電源が失われても、炉心溶融はありえないだろうというぐらいまで安全設計をしている」と述べた。そして現在の原子力安全委員会の斑目春樹委員長は、東大教授だった2007年に、原発の非常用電源がダウンすることを想定していないのかと問われ、「割り切りだ。ちょっと可能性がある、そういったものを全部組み合わせていったら、設定ができなくなるし、ものなんて絶対に造れない」と話していた。こんな無責任な、安全に関して無頓着な輩が、原子力の安全を管理する組織のトップに納まっているのだ。

われわれは、まかり間違えば大惨事につながる原子力発電は、とうぜん、あらゆる可能性を考慮して設定されていると思い込んでいた。ところがそうではなかったのだ。斑目春樹安全委員会委員長の言うように、あらゆる可能性を組みこめば設定できなるなるのなら、原発を建設せず、手間はかかっても別の方策を検討すればいい。国と東電は結託して、原発推進のため、安全性を無視してきたことになる。この欺瞞と裏切りは徹底的に追及しなければならない。

原子力安全委員会は東大を中心とした学者たちがメンバーになっている。東電は有り余る金を武器に、政治家や学者たちに金をばらまいてきた。政治家への寄付はともかく、有力大学に多額の寄付をしており、とくに東大には毎年、総額5億円もの金を寄付しているというから驚く。そんな大学の学者連中がテレビで解説しても、まともに信じることはできない。安易に原子力発電に頼る電力会社、それを監督すべき原子力安全委員会や原子力安全保安院のスキだらけの規制、それを擁護する御用学者。利害関係が一致した彼らが、安全を無視して、原発推進という共通目的に向かって並走した。馴れ合いで進められてきた原子力行政、政府・産業界・学者の癒着の構図がここにある。

アメリカの原子力規制委員会(NRC)は、原子力の安全に関する監督業務を担っており、日本の原子力安全委員会に相当する機関だと思われるが、日本よりはるかに強い権限と責任を負っているときく。アメリカではすでに20年も前に、NRCの主導のもとに、原子炉のすべての電源が失われた場合のシミュレーションを実施し、それを安全規制に活用した。しかし日本では、送電線が早急に回復することなどを理由に、すべての電源が失われることまでは想定に入れてこなかった。今回、福島原発では、まさにそれが起きたわけだ。日本のでたらめな安全管理にあきれかえる。

原子力安全委員会の代谷誠治という委員は、「きちんとマネジメントされていれば事故は防げたと思う。事業者の自主努力に任せていた」と語っている。バカなことを言うな。事業者にしっかりした安全対策をさせるよう監督するのが安全委員会の役目だろう。そんな責任逃れは通用しない。これまで責任を果たしてこなかったばかりか、いままた責任逃れをしようとする委員たち、こんな連中に原発の安全管理が任されてきたのかと思うと、怒りがこみ上げる。

2011.03.29 (火)  震災にまつわる言動で醜悪さを露呈した3人

危機にあって人がとる行動や発する言葉は、その人の本性を露呈する。菅直人は震災対策の遅れと混乱により、リーダーシップのなさをさらけ出した。そして以下の3人は震災に関連して口にした言葉によって愚かさと醜悪さをさらけ出した。

ひとりは言わずと知れた石原慎太郎都知事。「震災は我欲にまみれた日本人への天罰だ」という“天罰”発言だ。あわてて謝罪はしたが、その後も自分の趣旨は違うとの弁明を繰り返して平然としている。石原の言葉は、彼が被災した人たちへの思いやりがかけらもない破廉恥漢だということを証明している。被災地の人たちの苦しみと悲しみを思えば、そんな言葉など出るはずがない。我欲にまみれた日本人というのは、ある意味で当たっているところもある。だがいまの状況において“天罰“などとは、リーダーがけっして口にしてはいけない言葉だ。それを口走る石原にリーダーとしての資格はない。天罰を受けるなら、我欲の権化である石原こそが真っ先に受けるべきだ。石原は都知事選に出ないと言っておきながら、ギリギリになって前言を翻し、出ると言い出した。もともと出る意欲は満々で、みんなから懇願されて出るかたちにもっていこうとしたという浅智恵なのはミエミエだ。下劣な品性は救いようがない。

下劣さという点では渡辺恒雄読売新聞会長も人後に落ちない。ナベツネの鶴の一声で、周囲の反対を押し切り、プロ野球セ・リーグは予定どおり3月25日に開幕すると言いだした。けっきょくは選手会、政府、世論の声に屈し、パ・リーグと同じく4月12日開催に落ち着いた。偉そうに威張り散らすナベツネの意向にみんがが振り回された。プロ野球関係者はそんなにナベツネが恐いのか。この「たかが選手」と言い放つ思いあがった権力亡者がふりまく老害を誰も止めることができないのは情けない。プロ野球の最高責任者であるはずのコミッショナーですらナベツネには逆らえない。自分が発言するたびにファンがプロ野球から離れていくことに、彼は気づいていない。裸の王様だ。「電力不足? 関係ねーよ」とうそぶく、この厚顔無恥な醜いもうろく老人を、いつまで周りは崇め続けるのか。

知名度では上の2人に劣るが、醜さの点で負けていないのは、民主党代議士の三宅雪子だ。大地震から5日後、静岡が震源地の余震がきたときのことを、自分のブログに「アロマオイルの香りを楽しみながら英語の勉強をしていたら、ぐらっときた」と書いた。三宅雪子といってもピンとこないかもしれないが、以前、議会で強行採決の際、誰にも押されていないのに不自然な転倒をして車椅子で登院していた女性、と言えば、ああ、あれかと思い起こす人も多いだろう。まあ、プライベートな時間になにをしようといいし、アロマオイルを楽しんでも構わない。だが、被災地の惨状、不眠不休で原発事故の復旧に当たる人たちのことを考えれば、復興の先頭に立つべき国会議員がそんなことをブログに書くべきかどうかなど、子供でも判断できる。この女の無神経さ、愚鈍さには、ほとほとあきれ果てる。

最大の地方自治体の首長、世論をリードすべき大マスコミのトップ、国民を代表する国会議員が、ここまで愚かとは。これがこの国の実態なのだ。

2011.03.21 (月)  原発事故の真の原因は、ずさんな原発政策にある

原発事故について、もう少し書いてみたい。

いまは放水によってある程度の冷却水がプールに貯まり、冷却システムを稼働させるための電源が設置されるところまでこぎつけたようだが、それで原子炉を正常化できるのかどうか、まだ分からない。政府や東電の記者会見を聞いていると、不信感がつのるばかりだ。憶測でしかものを言わず、実態がどうなっているのか、さっぱり要領を得ない。核燃料の安定化に失敗し、放射性物質が格納容器から本格的に外に漏れだしたらどうなるのか、最悪の事態というだけで、誰も何も説明しようとしない。怖くて説明できないのか、それともただ前例がないから分からないだけなのか。

それから、ときどき記者会見する原子力安全保安院とは、いったい何なのだろう。経済産業省の一機関だということだが、官房長官や東電の発表と重複するようなことしか言わず、ぼくらがいちばん知りたいようなことについては何もしゃべらない。海外の政府やメディアは、そんな状況に苛立ち、情報を隠しているのではないかと不信の念をつのらせている。きわめて深刻な事態と捉えている各国政府は、日本駐在の外交官を続々と帰国させ始めた。アメリカにいる知り合いから最近届いたメールからも、そんな情勢が伝わってくる。

今回の原発被害は、施設が津波で水に浸かって電気系統がいかれ、制御装置が働かなくなったことによって引き起こされたらしいが、原発の危機管理マニュアルは徹底していて、二重三重に安全対策を講じてあり、リスク管理は万全だったはずじゃなかったのか。今回のような大災害のための安全対策はなぜ練られていなかったのだろうか。想定外だっだとは言わせない。この地震は、めったにない巨大なものだったにせよ、未曽有のものではない。過去に事例があったし、起こりうるはずのものだった。

仕事で東京電力とかかわったことのある旧友がいる。彼は東電の事なかれ主義に徹する隠蔽体質を目のあたりにしてきたという。彼によると、東電では、事故は“事象”、故障は“不具合”と呼ばれ、レポート一枚で処理される。何か事故が起きても、“事象”“原因”“対策”と項目を分けてレポートを書くと一件落着になる(枝野官房長官が記者会見で“事象”という言葉を使って原発の状況を説明したとき、その言葉に違和感を覚えた人も多いだろう。ぼくもそうだったが、あれは関係者のあいだで使われる内輪の用語だったのだ)。

現場で作業している人たちの努力には頭が下がるが、東電という会社は、親方日の丸体質と特権意識がどっぷり染みついた連中によって運営されていた。官僚との馴れ合い、自己保身、まさに旧態依然たるお役所体質だ。天下り事業の最悪の典型だ。東電の会長や社長など、どこにいるのか、いまだに記者会見に姿を現さない。そんな輩によって危ない原発が推進されてきたかと思うとぞっとする。東電だけではない。馴れ合いでそれを放置してきた政府・官僚の責任も重い。

そして、原発の危険性、東電の隠蔽体質を知っていながら推進政策に加担してきた大手メディアの責任も大きい。いずれ一段落したら責任追及が始まるだろう、運よく最悪の事態を回避できたらの話だが。当然ながら、これまでの原発に頼るエネルギー政策は転換を迫られる。見ているがいい。大手メディアは、自分たちの責任を棚に上げ、安全管理はどうなっていたんだ、などと言いだすだろう。本来の権力を監視すべき役目を放棄し、いまや権力に取り込まれた厚顔無恥なメディアのなれの果てだ。

東電の実態はマイナーなメディアでレポートされたこともあったようだし、原発の危険性を告発する本が出版されたりもしてきた。以前、たしか針金を誤って原子炉だか冷却水だかに落としてあわや大惨事という事故があって、それでぼくもイージーな人為ミスが大惨事につながりかねないという認識はもっていた。だけど身近な深刻な問題としては把握していなかった。原発の危険性も分かっていたつもりだったし、冷却が必須だということは知っていたけれど、運転をストップしても冷却し続けなければ炉心が溶融することや、使用済み核燃料も何年間も冷却し続けなければいけないことは、今回初めて知った。

そもそも核燃料を安定させるために、水で冷やすという、きわめて原始的な方法に頼っているということが信じられない。冷却が途絶えると大惨事になるし、ちょっとした作業ミスが最悪の事態を招く。つくづく原子力というものは非人間的なものだと思う。原子力とは、人知を超えたもの、人間がコントロールできない物質なのだ。そんなものを使いこなそうとするのは人間の思い上がりだ。原子力に頼らなくても、電力を安定供給させる方法はいくつもあると専門家は指摘している。叡智を集めて安全な方法を開発したらいいのだ。

2011.03.19 (水)  大地震被災地救援の遅れは許しがたい

東日本巨大地震から1週間が過ぎた。被災地の惨状、風景の消えた映像には言葉を失う。救援、復興に向けての動きはようやく本格化してきたようだが、まだ食料や燃料などが行き届いていない孤立した被災地もあるらしい。救援活動の遅れは、政府の許しがたい失態だ。とにかく対応が遅い。いまだに被害の全容は掴めていないし、復興へ向けてのプログラムも示されていない。菅首相と枝野官房長官のパフォーマンスばかりが目立ち、指導力のなさがいろんな局面に表れている。

被災地が広範囲にわたっているだとか、道路が分断されているとか、自治体が混乱しているとか、いろいろ困難はあるとしても、もっとやりようがあったはずだ。ある友人は「ヘリ、落下傘部隊、軍需車両等、機動部隊を先頭に、自衛隊全軍を投入すべき」と言っていた。そのとおりだ。戦後未曽有の非常事態なのだ。5万人とか10万人とかではなく、自衛隊の人員、装備を総動員し、持っているヘリコプターをすべて投入して救援と物資の輸送にあたらなければならない。米軍からの援助はどの程度得ているのだろうか。面子がどうのなどと言っている場合ではない。ヘリの借り受けなど最大限を援助を乞わなければならない。政府のやり方はどうにも手ぬるすぎる。

それにしても、首相はじめ政府の閣僚は、テレビに映るとき、どうして一様に作業服のようなものを着ているのだろうか。真剣にやってますというポーズであろうが、自分たちが作業するわけでもないのにあんな格好をするのは滑稽のきわみだ。

日本という国の滅亡につながりかねない福島原発の事故は、政府の誤ったエネルギー政策、東京電力の怠慢と過信をさらけ出した。地震大国の日本で原発を作り続けるのは、誰が考えても無茶な話なのだが、背に腹は代えられず、政府・産業界・マスコミがこぞって原発は安全だとアピールしながら進めてきた。地震などの天災、人災、単純な作業ミスなどが、原発の場合は大惨事につながるという危険性には目をつむってきた。国民は、疑心を抱きながらも、それに従ってきた。国民は騙されたのだ。今回の地震の規模が想定外だったなどという言い訳は通用しない。マグニチュード9以上の地震、10mを超える津波は、過去にもチリ地震やスマトラ沖地震などで起きている。なぜそれを想定に入れておかなかったのか。

原発が安全ではなかったことが、こんな最悪のかたちで証明されたのは悲劇だ。スリーマイル島やチェルノブイリや日本でも何度か起こった原発事故から得た教訓を、東電は何も生かせていなかったわけだ。おれたちの原発は安全だと過信していたのだろうか。それとも危機意識の欠如か、技術不足か。いずれにしても犯罪的だ。現場の技術者や作業員の人たちはいま決死の覚悟で復旧に当たっているが、原発を推進した連中は安全な場所に引きこもり、テレビなどに出て箸にも棒にもかからない解説をしている。そんな連中をこそ真っ先に事故現場に行かせ、自分たちの手で破損を修理させたい。

2010.12.29 (水)  2010年海外映画ベスト10

今年のこのコラムを締めくくるのは2010年洋画ランキング。私的ベスト10は次のとおり。
@ 「アバター」 監督:ジェームズ・キャメロン
A 「闇の列車、光の旅」 監督:ケイリー・ジョージ・フクナガ
B 「すべて彼女のために」 監督:フレッド・カヴァイエ
C 「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」 監督:ジョニー・トー
D 「オーケストラ!」 監督:ラデュ・ミヘイレアニュ
E 「ミレニアム」3部作 監督:ニールス・アルデン・オプレヴ/ダニエル・アルフレッドソン
F 「カールじいさんの空飛ぶ家」 監督:ピート・ドクター
G 「瞳の奥の秘密」 監督:フアン・ホセ・カンパネラ
H 「ナイト・アンド・デイ」 監督:ジェームズ・マンゴールド
I 「アリス・イン・ワンダーランド」 監督:ティム・バートン
1位は「アバター」で決まりだ。今年はなんといってもこの映画にとどめをさす。これほどセンス・オブ・ワンダーを心地よく刺激してくれる映画はかつてなかった。CGにしろ3Dにしろ、たんに技術を誇示するだけではなく、完全に映画と一体化し、物語に融け込んでいた。パンドラという異星の豊饒なイメージにも心が躍るが、それだけではなく、文明批評的な視点や武力で他国を制圧する自国アメリカへの鋭い批判などが、この映画を奥深いものにしていた。まったくジェームズ・キャメロンは凄い監督だ。

2位の「闇の列車、光の旅」は今年一番の掘り出し物と言えるかもしれない。中南米のギャングたちと貧しい不法移民の実態、そして若い男女のつかの間の淡い愛を描いたロード・ムーヴィー・タッチのクライム・サスペンス映画だ。メキシコとアメリカの合作であり、監督は日系アメリカ人である。ギャング団のボスを殺してしまい、追っ手から逃れるため移民の一団が乗るアメリカ行きの列車にもぐり込んだチンピラの青年が、車内で職探しにアメリカに向かう少女と出会う。追いかけるギャングの一味、青年は逃げる、そして少女も彼と行を共にする。映画の作りは淡々としているが、サスペンス・ドラマとしての骨格は充分に備わっている。青年と少女のほのかな愛は、1959年のソ連の傑作反戦映画「誓いの休暇」に出てくる、列車で知り合った少年兵と少女のつかの間の心の触れ合いを描いた挿話を思い起こさせる。だが監督の視線はけっして甘くはない。この映画からは、中南米の底辺に暮らす人々や不法移民の過酷な境遇が浮かび上がるし、ギャング団の固い絆や生きるために友情すら犠牲にする若者の描き方は、作り手の鋭い問題意識を物語っている。クライマックスのリオグランデ河を背に追っ手と対決するシーンが感動的だ。

3位の「すべて彼女のために」は、無実の罪で投獄された妻を救うため、すべてを投げうって奮闘する夫を描いたフランスのサスペンス映画。夫の必死の努力の甲斐もなく妻は禁固刑を宣告される。そして夫はある決断をする。妻を助けるために奔走する夫の行動は壮絶だ。全編が緊迫感にあふれている。彼は平凡な学校教師だが、絶対に妻を救うんだという信念に駆られ、挫折したり裏切られたりしながらも、怯むことなく一直線に突き進む。夫が一線を踏み越える場面はショッキングだが、巧みな筋運び、リアルな描写のため、充分な説得力がある。

4位の「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」はけれんたっぷりに描かれたフランス・香港合作のノワール風アクション映画。元は殺し屋、年老いた今は足を洗ってパリでレストランを営む男が主人公。マカオに住む娘の家族が惨殺された。彼は復讐のためマカオに乗り込み、地元の犯罪組織の下っ端を雇って犯人を追う。主演のジョニー・アリデイは抑制された演技でいい味を出している。アリデイを助ける3人組チンピラのリーダーを演じるアンソニー・ウォンも渋い。アクションは派手だが、それだけに終わっていない。男たちの意地と友情が胸を熱くする。

5位の「オーケストラ!」は、フランス得意のヒューマン・コメディ映画。かつては一流オーケストラの天才指揮者、今はしがない清掃作業員が、昔の仲間たちを集めて有名オーケストラになりすまし、ロシアからパリに赴いて公演をやろうと奮闘する物語。現実にはありえない話だが、涙あり笑いありの楽しい映画になっていた。わが敬愛する友人Oさんは、“かつて一流楽団の演奏家だったとはいえ、何年も一緒にやっていなかった連中が、ろくにリハーサルもせずにコンサートなどできるわけがないじゃないか”と言って切り捨てた。たしかにそのとおりだが、まあお伽話なので・・・。そんな欠点を補って余りあったのが、オーケストラと共演するパリの女性ヴァイオリニスト役として出演したメラニー・ロランの輝くばかりの美貌だった。

6位の「ミレニアム」3部作については10月31日付けのこのコラムで記した。さまざまなミステリーの要素を融合させた、重厚・長大な陰謀と報復の物語であり、副主人公リスベットの強烈なキャラクターが圧巻だった。7位の「カールじいさんの空飛ぶ家」はディズニー/ピクサーのアニメ映画。これは冒頭のシークエンスが絶品だった。10分間ほどのシークエンスで、カールじいさんのこれまでの人生が、サイレント仕立てで走馬灯のように描かれる。これがなんとも素晴らしかった。あまりの美しさ、温かさ、哀しさ、はかなさに、涙がこみ上げてくる。このシークエンスがあまりに傑出しているので、このあと始まるカールじいさんの冒険を描いたメイン・ストーリーは印象が薄くなってしまう。

あとは駆け足で。8位の「瞳の奥の秘密」は25年にわたる愛と執念を描いたアルゼンチン映画。人間の心の奥底に潜む微妙な襞、暗い情念が、綿密な構成、凝った映像により表現される。9位の「ナイト・アンド・デイ」はトム・クルーズ、キャメロン・ディアス主演のアクション映画。もともと、この手のよく出来たアクション映画は嫌いではない。ツボを心得た作りでエンタテインメント作品として成功している。キャメロン・ディアスは相変わらずスタイル抜群だが、少し老けたか。10位の「アリス・イン・ワンダーランド」は「不思議の国のアリス」の後日談を描いたファンタジー映画。もともと、この手のよく出来たファンタジー映画は嫌いではない。アリスが再会するウサギやマッド・ハッターやチェシャ猫やハートの女王など、おなじみのキャラクターは巧妙に映像化されており、見ているだけで楽しくなる。

2010.12.26 (日)  2010年海外ミステリー・ベスト10

年末恒例の海外ミステリー・ランキング。まずは私的ベスト10を挙げる。
@ 「エコー・パーク」 マイクル・コナリー (講談社文庫)
A 「回帰者」 グレッグ・ルッカ (講談社文庫)
B 「フランキー・マシーンの冬」 ドン・ウィンズロウ (角川文庫)
C 「ラスト・チャイルド」 ジョン・ハート (ハヤカワ文庫)
D 「さよならまでの3週間」 C・J・ボックス (ハヤカワ文庫)
E 「ハンターズ・ラン」 ジョージ・R・R・マーティンほか (ハヤカワ文庫)
F 「五番目の女」 ヘニング・マンケル (創元文庫)
G 「ロードサイド・クロス」 ジェフリー・ディーヴァー (文芸春秋社)
H 「古書の来歴」 ジェラルディン・ブルックス (武田ランダムハウス)
I 「ノンストップ」 サイモン・カーニック (文春文庫)
海外ミステリー不況と言われ、出版点数が減っているにもかかわらず、読んだ作品をリストアップしてみると、コナリー、ルッカ、ディーヴァー、ウィンズロウといった実力作家たちの充実した作品が出版されており、今年はけっこう傑作・名品が揃った年だったんだなと感じる。とくにこのランキングの上位4作は、どれも甲乙つけがたい傑作揃いであり、便宜上このようにランク付けしたが、どれが1位になってもおかしくない。

簡単にそれぞれの作品に触れておこう。1位から5位までの小説については過去にこのコラムでレヴューを書いている。1位の「エコー・パーク」は今年最高のハードボイルド小説。ロス市警に復職して以降のハリー・ボッシュもののなかのベストであろう。ボッシュ・シリーズが12作目に至ってもなお高水準を保っているのは奇跡に近い。ストレートな場面展開、幾重にも練り上げられたサスペンスが素晴らしいし、ボッシュの心の闇が作品に奥行きを与えている。2位の「回帰者」はアティカス・シリーズの最終作。アティカスの怒りが炸裂する活劇スリラーであり、スピーディな場面展開、全編を貫く異様なテンションが印象深い。大きな収穫はブリジット・ローガンが久しぶりに登場したこと。それにしても、シリーズ初期のころと比べて、主人公アティカスのあまりの変身ぶりは、あっけにとられてしまう。

3位の「フランキー・マシーンの冬」については前々回のこのコラムで記したばかりなので割愛。これまでの3作に共通するのは、構成がしっかりしており、筋運びに不自然さがないこと、余計な描写が排され、流れのテンポが軽快なことである。そしてエンタテインメントに徹した小説であることも共通している。だが、4位の「ラスト・チャイルド」はちょっと傾向が異なる。テンポは軽快とは言いがたいし、内容的にも文学的な色合いが濃い。しかし登場人物はみな造形が陰影深いし、主人公の少年の家族の再生を願うひたむきな心が胸を打つ。読み終えて癒しと救いの兆しを感じさせるのもいい。感動させられるという点では、これが今年一番かもしれない。5位の「さよならまでの3週間」は今年の掘り出し物の一冊。ごくありふれた毎日を送っている一家が災難に巻き込まれるという話で、それほど強烈なインパクトがあるわけではないが、ごく平凡な会社員が必死で敵と戦うサスペンス、じわじわと怖さが忍び寄ってくる筋運びは、うまい、の一語に尽きる。

6位の「ハンターズ・ラン」は、ジャンルからいうと、ミステリーというよりはSF小説の部類に入るだろう。だが中身は第1級の冒険小説に仕上がっている。時代ははるかな未来。人類が入植した遠い植民星のひとつが舞台だ。ひょんなことから山奥の秘密基地を発見した主人公の探鉱師ラモンは、その基地から出現した怪物のような異星人につかまってしまい、無理やり人狩りの猟犬に仕立て上げられる。こうしてカナダを思わせる人跡未踏の森林地帯に、異星人、ラモン、逃げる男の3人による追っかけっこが始まるわけだが、この追跡と逃避がじつにスリリングで活気にあふれている。さらに、最初は反目し合っていた追うもの同士、追われるもの同士に芽生える奇妙な友情も、この冒険物語の面白さを盛り上げている。

7位の「五番目の女」はスウェーデンの警察小説ヴァランダー警部シリーズの新作。このシリーズを読むのは初めてだが、世評にたがわぬ読みごたえのある一作だった。スウェーデン南部の田舎町イースタ警察署の警部ヴァランダーは、チームを率い、地道な捜査の積み重ねによって、試行錯誤しながら陰惨な連続殺人事件の犯人を追う。本来なら単調になってもおかしくないストーリー展開だが、読み進むうちにしだいに引きずり込まれる。驚いたのは、不屈のヒーローであるべき主人公ヴァランダーが、情けなく、かっこ悪いこと。死体を見て吐き気をもよおすし、疲れたと言って弱音を吐くし、薄給をぼやく。最初のうちは、なんだこいつはと気が削がれるが、そのうちに人間味のある主人公に愛着を感じるようになる。これも作者の筆力のせいだろう。ここには今日のスウェーデンがかかえる社会問題がたくみに織り交ぜられている。その意味では、60〜70年代に発表された同じスウェーデンの警察小説マルティン・ベック・シリーズの正統的な後継者ということができる。

8位の「ロードサイド・クロス」は、相手の動作から嘘を見抜くキネクシスの専門家、キャサリン・ダンス捜査官シリーズの第2作。今回はネットいじめという、きわめて今日的な問題がテーマに据えられている。相変わらず作者ジェフリー・ディーヴァーの構成力の巧みさ、筋運びのうまさが冴えわたっており、面白さは群を抜いている。だが難点もある。ひとつは、小説の半ばごろで、その後の展開の予想がついてしまうこと。それから、キネクシスの達人なのに、それが肝心の捜査にあまり役立っていないのも拍子抜けする。9位以下は割愛。

今年は上記のように充実したミステリーが並んだが、業界は活況を呈しているとは言いがたい。気になるのは、良質のミステリーを出し続けてきた新潮文庫や文春文庫に元気がないことだ。とくに新潮文庫の海外ミステリーの出版点数の少なさが目立つ。それに比べて講談社文庫は健闘している。12月に入って、思いもかけずマイクル・コナリーの新作「死角」が出版された。読むのはまだこれからだが、1年にボッシュ・シリーズの新作が2作も読めるとは嬉しい驚きだ。訳者古沢嘉通さんの頑張りに拍手。

2010.12.22 (水)  ジャコの魂に触れる

ジャコ・パストリアスが亡くなって23年が経つが、その存在感は薄れるどころか、ますます大きくなってきているように思う。いまもなお、ことあるごとに若き日の未発表パフォーマンスがCD発売されてファンを魅了しているし、ジャコが作った曲は絶え間なくカヴァーされているし、ミュージシャンたちはいつもジャコから受けた大きな影響を口にしている。ところが、ジャコについて書かれた本といえば、これまではビル・ミルコウスキーが書いた伝記「ジャコ・パストリアスの肖像」1冊だけという、きわめてさびしい状況だった。

そんななか、このほどようやくジャコ・ファンの渇を癒す、干天の慈雨ともいうべき待望の本が出版された。松下佳男著「ワード・オブ・マウス〜ジャコ・パストリアス魂の言葉」(リットーミュージック)である。これは真実のジャコの姿を知ることができる秀逸な本だ。ジャコ・ファン必読の書といえよう。長年にわたるジャコ・フリークであり、ジャコが今日正当な評価を受けるに至った最大の功労者でもあるアドリブ誌元編集長、松下佳男氏が満を持して著した渾身の一作である。ジャコのすべてを知り尽くしている、ジャコの語り部ともいうべき松下氏でなければ書けなかった本であろう。

これは単なる伝記本ではない。“ジャコ本人が自ら語るジャコの真実”とでも称すべき画期的な内容の本だ。本書の根幹をなすのはジャコがインタビューで語った言葉である。松下氏はあらゆるジャコのインタビューを渉猟して取捨整理し、テーマ別に編纂した。テーマは、ジャコを形作ったもの、フロリダという地、ベーシスト/コンポーザーとしてのジャコ、ソロ・デビュー・アルバム、ウェザー・リポートの日々など、多肢にわたっている。素晴らしいのは、テーマ別に章が構成されているとはいえ、章を追っていくと、あたかもジャコの生涯を辿っているような、絶妙の編集がなされていることだ。しかも各章の前後には、松下氏による、過不足のない、的確な解説が付されている。これによって読者は、あたかもジャコが自らの生涯や音楽感や奏法や考え方について語り下ろした本を読んでいるかような錯覚に捉われてしまう。

それにしても、インタビューで語っているジャコの、いかに若々しく、溌剌と、活気に満ちあふれていることか。そしてその語り口が、なんと率直で、知的で、オープン・マインドなことか。表紙の帯に寄せたマーカス・ミラーのコメントに、“あなたがジャコの魂を覗いてみたいのなら、その答えはここにある”という一節があるが、本書を読むと、確かにほんとうのジャコの魂、純粋無垢な心をかいま見る思いがする。これに比べて前掲の本「ジャコ・パストリアスの肖像」は、唯一の伝記であり、貴重なことは確かだが、あまりにジャコの最後期、精神を病んで以降の時期に重きが置かれていたと言わざるをえない。

余談だが、なぜミュージシャンの伝記本や伝記映画は、悲劇性を強調したものになってしまうのだろう。ほとんどのその類の本や映画では、そういったミュージシャンの暗い側面、破滅や悲運などの要素が前面に出たものになっている。たとえばチャーリー・パーカーを扱ったクリント・イーストウッドの映画「バード」がそうだった。ドラマ性を打ち出すためには、ある程度そんな内容にならざるをえないのは分かるが、悲劇ではなく、もっとミュージシャンの前向きな側面、音楽へのひたむきな意欲、天衣無縫な人間性といった要素が描かれなければ、薄っぺらいものになってしまう。

ジャコの伝記「ジャコ・パストリアスの肖像」にもそんな不満があった。でもファンが知りたいのは、そんな暗い時代のジャコではない。ジャコの常軌を逸した行動など、くだくだと読みたくない。ぼくたちが知りたいのは、あのジャコの音楽が、なぜ、どのようにして形成されたのか、フレットレス・ベース誕生の秘密は、彼はハーモニクス奏法をどんなふうに開拓したのか、デビュー・アルバム創作の背景は、ウェザー・リポート時代の彼は何を考え、どんなことをやろうとしていたのか、というようなことなのだ。そんなファンの願いをかなえてくれるのが、本書「ワード・オブ・マウス〜ジャコ・パストリアス魂の言葉」だ。ジャコ自身の言葉によって、そんな謎や疑問がすべて明らかになる。

折りしも来年はジャコ生誕60年という節目の年に当たり、いろいろな企画が準備されているという。ファンなら是非とも聴きたいと願っている重要アルバムの未発表トラックや未発表セッションが陽の目を見そうだ。また製作が進行中のジャコのドキュメンタリー・フィルムも公開されるかもしれない。この本は読者に自分なりの新たなジャコ像を思い描かせてくれる。これを読んで、改めて、いまあるジャコの音楽、これから発表されるジャコの音楽に接すれば、きっと新しい発見を見出すことができるに違いない。

2010.12.19 (日)  フランキー・マシーンに春は来るのか

昨年、邦訳出版された「犬の力」でわれわれハードボイルド&冒険小説ファンを驚嘆させたドン・ウィンズロウの新作「フランキー・マシーンの冬」(角川文庫)は、期待を裏切らない読みごたえ満点の活劇ミステリーだった。

小説の舞台はサンディエゴ。もとはイタリア・マフィアの凄腕の殺し屋、60歳を過ぎたいまは第一線を退き、サーフィンに興じながら釣具屋を営むフランキー・マシーンが主人公だ。かつての仲間に揉め事の処理を頼まれたフランキーは、裏切りにあって危うく殺されかかる。彼はなぜ自分が命を狙われるのか、心当たりがない。身を隠すが刺客の手はつぎつぎに迫る。フランキーは追っ手を撃退しつつ死力を尽くして真相を探り、元凶に迫る。

本書はまずキャラクターの設定がいい。主人公のフランキーは犯罪組織にかかわる伝説的な殺し屋でありながら、仁義と友情に篤く、自分なりの行動規範をもつ男だ。だから犯罪者とはいえ読者の共感を呼ぶ。このフランキーは、前作「犬の力」に出てきた殺し屋ショーン・カランをほうふつとさせる。あちらは舞台がニューヨークでアイルランド系マフィアの話であり、サンディエゴのイタリアン・マフィアであるフランキー・マシーンとは設定が正反対だが、人物造形はよく似ており、まるでこれは「犬の力」からカランを主人公にして独立させたのスピンオフ作品のようだ。その他の登場人物も端役に至るまで生き生きと陰影豊かに描かれている。

そして素晴らしいのはスピーディで緊迫感あふれる筋運びだ。フランキーは攻勢に転じる機会をうかがいながら若いころを回想する。このように現在と過去が交互に描かれる小説は、ストーリーの流れが阻害されかねないが、この小説は無駄な描写が排されており、テンポが軽快なので、まったく流れがだれることはない。敵の手をかいくぐりながらフランキーが必死の反撃を試みる現在のシーンもサスペンスにあふれているが、マフィアの下っ端からしだいに頭角を現して練達の殺し屋として名を高める過程を描いたフランキー若き日のストーリーもすこぶる面白い。サンディエゴの裏社会の主導権をねらって大小の組織が入り乱れて敵対・和合を繰り返す物語は、さながらウェスト・コーストのマフィアの興亡史を読む思いがする。

この小説の大きなモチーフになっているのはマフィアの世界の友情と裏切りだ。その点では前作「犬の力」と似ているが、ものに憑かれたような暗い熱気と狂躁的なパワーに包まれた「犬の力」とは異なり、これはポップで軽快なエンタテインメントに徹した作品に仕上がっている。雰囲気としては、何年か前に出たウィンズロウ作の「ボビーZの気怠く優雅な人生」を思い起こさせる。殺しのシーンが多いにもかかわらず、全体に爽快感があふれているし、ユーモアがあり、テンポも軽やかで小気味いい。ラストの余韻も鮮やかだ。

本書と対極にあるのが、これと前後して読んだブライアン・グルーリー作「湖は飢えて煙る」だ。これはミシガンの田舎町を舞台にした地方新聞記者を主人公とする物語。これまでの人生で挫折を重ねてきた主人公の再生の物語であり、「フランキー・マリーンの冬」とはまったく趣が異なるが、現在と過去が交互に語られる構成は同じだ。だが、こちらはその構成が悪い結果をもたらした典型的な例だと言える。描写が細かすぎるし余計な挿話が多すぎて、話の展開がまだるっこしい。登場人物の印象も散漫だ。その点、「フランキー・マシーンの冬」は簡潔な描写なのに個々のキャラクターは鮮明に心に焼きつく。作者のセンスと力量の差がはっきり表れていると言えるだろう。

2010.11.07 (日)  巻き込まれ型サスペンス・ミステリーの面白さ

ミステリー小説を読むときは、新聞の広告や雑誌の書評などで当たりをつけて購入する。40年以上も読み続けている経験とカンからして、その当たりにあまり外れはない。それでもたまには予想に反して、どうしようもないカスを掴まされることがある。そのいっぽう、それほど期待していなかったのに、読んでみたらすごく面白かったというケースもある。今年6月に翻訳刊行されたC・J・ボックスの「さよならまでの三週間」(ハヤカワ文庫)がまさに後者だった。

これはなかなかの掘り出しものだ。デンバー観光協会に勤める青年ジャックが主人公。子宝に恵まれないジャックと妻のメリッサは、女の子の赤ん坊を養子として迎える。ところがある日、赤ん坊の実父が突然現れ、親権を主張して、3週間のうちに赤ん坊を返すようにと言ってきた。実父はまだハイティーンで、地元のギャングとつるむワルであり、背後には市の有力者で裁判官の父親が控えている。書類手続きに不備があり、法律的には相手に分があるが、ジャックはいまやわが子同然の赤ん坊をどうしても手放したくない。わが子を守るためのジャックの必死の戦いが始まる。

この小説はまず話の流れがいい。ごく平凡な男が、家族を救うため、形勢不利ななか徒手空拳で悪と立ち向かうというシンプルなストーリーが、小気味いいテンポでストレートに展開する。それに登場人物のキャラクター造形が見事だ。やや類型的ではあるが、主要な登場人物はもとより、主人公の会社の上司や地元の警官たちといった端役も含めて、みな生き生きと描かれている。悪漢たちの不気味な嫌がらせがじわじわと怖さを醸し出すし、主人公を助ける仲間たちの心意気もきっちり伝わってくる。だから、ストーリーの自然な流れと相俟って、物語の中に抵抗なくスムースに入り込める。いわゆる巻き込まれ型サスペンス小説の一種であり、小品ながら、きりっと引き締まった、読み応えのある内容に仕上がっている。

最近の海外ミステリーは以前と比べて長大であり、上下2巻があたりまえになっている。そのため冗長になってしまい、本筋にあまり関係のないストーリーや心理描写や内的独白といった余計なものを省いて1巻に収めるようにすれば、もっとすっきりと引き締まった小説になるのに、と思われるものが多い。そのあたりにも昨今の海外ミステリー不振の原因があるのかもしれない。その点、500ページ弱という適度な長さの本書は、まさに良質なミステリーの見本であり、最初から最後までまったくだれるところがなくサスペンスが持続している。

本書と同時期に同じ作者のワイオミングの猟区管理官を主人公にしたミステリー・シリーズの新作「震える山」も翻訳刊行されている(講談社文庫)。だが面白さの点では、ノン・シリーズのこの本のほうに軍配が上がる。一昨年に刊行された、これもノン・シリーズの巻き込まれ型サスペンス小説「ブルー・ヘヴン」もよかった。殺人現場を目撃し、追っ手に追われて逃げ込んできた幼い姉妹を助け、凶悪な犯罪者たちと対決する頑固な老牧場主の戦いを描いた傑作だった。時代の流れに取り残されながらも自分の信念に基づいて行動する老カウボーイが心に残った(主人公の名前はジェス・ローリンズという。思わず、ソニー・ロリンズが演奏した「おいらは老カウボーイ」のメロディが頭に浮かんだ)。

巻き込まれ型サスペンスといえば、これも6月刊行のサイモン・カーニック作「ノンストップ!」(文春文庫)が典型的な巻き込まれ型ミステリーだった。読み手は冒頭からいきなり強烈なサスペンスに引きずり込まれる。主人公は平凡に暮らす証券マン。開巻、旧友から電話がかかる。電話の向こうで彼は主人公の住所を口走り、息絶える。その瞬間から主人公は謎の集団に追われ始める。妻は失踪して連絡が取れない。おまけに彼は殺人事件に遭遇して警察から犯人扱いされてしまう。こうして彼は理由もわからぬままロンドンの街を右往左往と逃げまどう。まさに題名どおり、疾走感あふれる緊迫したノンストップ・サスペンスだ。ただし、そのスピードは、後半に入り、謎が解けていくにつれて失速する。最後に判明する事件の構図もぞんがい平凡でしょぼい。出だしが強烈なだけに、後半の息切れは残念だが、まあ、これはこの手のミステリーの常で、しょうがないだろう。

2010.10.31 (日)  リスベットの圧倒的な存在感の前ではすべてが霞んでしまう

日本も含めて世界中で大ベストセラーになったスウェーデンのミステリ小説3部作『ミレニアム』の映画版は、今年1月に第1部「ドラゴン・タトゥーの女」が日本公開されたが、それに続いて、9月に第2部「火と戯れる女」と第3部「眠れる女と狂卓の騎士」が同時に封切られた。

原作が大ヒットしたにもかかわらず、意外にも、東京近辺では渋谷シネマライズだけの単館ロードショーというひっそりした公開だったが、これは日本にはあまり馴染みのないスウェーデン映画であり、スタッフ&キャストも無名だということによるものだろう。第2部と第3部の一挙公開というかたちは正しいやり方だったと思う。シリーズ3作のうち、第1部は完全に独立した内容だが、第2部と第3部はストーリー的に密接につながっているからだ。

小説『ミレニアム』3部作は、ジャーナリスト兼雑誌発行人のミカエル・ブルムクヴィストとフリーの調査員リスベット・サランデルが活躍する連作ミステリーだが、第1部が謎解き、第2部が活劇スリラー、第3部が法廷+謀略ものという具合に、パートごとに趣きが異なっており、それが面白さを持続させていたが、映画版でもそのスタイルはそのまま踏襲されている。

映画の中身は原作にかなり忠実に作られている。枝葉なエピソードは省かれているので、原作に比べて映画は奥行きの点で物足りなさを感じなくもないが、映画というメディアの性質からして、それで正解だったと思う。屋外のシーンはいつもどんよりした曇り空だ。そのせいか映画の画面は陰鬱で重苦しい。でもそれがいかにも北欧らしいし、この長大な謀略と復讐の物語によく似合っている。

今回公開された第2部と第3部では、リスベットが主役となって凶悪な犯罪組織に徒手空拳で立ち向かう第2部が圧倒的に面白い。それに比べて、リスベットのアクション・シーンが少ない第3部は見劣りがする。このことからも分かるように、『ミレニアム』はリスベットという登場人物がいなければ成立しない物語なのだ。その意味では、彼女は表面的な主人公のミカエルよりも重要な役割を担っているといえる。

『ミレニアム』に登場するリスベットを、ボディガード・アティカス・シリーズに出てくるブリジット・ローガンと重ね合わせる人が多い。ぼくも小説『ミレニアム』第1部でリスベットが現れたとき、すぐにブリジットを思い浮かべた。背の高さが正反対なだけで(ブリジットは184cm、リスベットは154cm)、あとは鼻ピアス、タトゥーの彫りもの、娟介な性格と、二人は驚くほどそっくりだし、ブリジットは探偵、リスベットは調査員と、職業もよく似ている。

アティカス・シリーズ最終作について記した10月10日付のコラムで、ぼくは「ブリジットという印象的な造形の登場人物がいなければ、このシリーズの魅力は、半減とまではいかなくても3分の1は減っていただろう」と書いたが、『ミレニアム』の場合、リスベットがいなければ、その魅力の3分の2は減っていただろう、と言いたい。それほど彼女の存在感は強烈なのだ。

映画でリスベットを演じたノオミ・ラパスという女優は、きわめて小説のイメージに近い。ちょっとメイクが濃すぎるし、もう少し色っぽさがほしい気もするけれど、まずは満足すべきキャスティングだろう。それに比べてミカエルに扮したミカエル・ニクヴィスト(なぜか役名と名前がそっくりだ)は、原作のイメージとはかけ離れている。原作のミカエルは出会う女からいつも惚れられる色男という感じなのに、映画で扮した役者は野暮ったい武骨な大男で、どうにもそぐわない。

映画に出てくるリスベット以外の女たちも、なぜかみな骨太でごつい外見の女優ばかりだ。ミレニアム誌の女編集長で、ミカエルと肉体関係を結んでいるエリカなど、映画では真四角の顔をした中年のおばさんといった風采で、色っぽさはかけらもない。スウェーデンというと、古くはグレタ・ガルボやイングリッド・バーグマンといった美人女優を生んだ国なのに、どういうことなのだろう。とはいえ、ストックホルムを何度か訪れたぼくの経験からして、スウェーデンには顔のつくりの大きい、ごつい女性が多いことは確かだし、ガルボにしろバーグマンにしろ、よく見るといかつい女ではあるのだが。

この映画はハリウッドでリメイクが計画されている。主演のミカエルには007俳優のダニエル・クレイグが決まったらしい。これはぴったりのキャスティングだが、肝心のリスベット役は、今の時点では未定とのこと。いずれにせよ、ハリウッド製なら「ダヴィンチ・コード」のように小説の話題と連動させた大掛かりな映画になってもおかしくない。来年の今ごろはアメリカ版「ミレニアム」で映画界が盛り上がっているかもしれない。

2010.10.24 (日)  感涙を誘うブラウニー若き日の破天荒な演奏

クリフォード・ブラウンのレアな音源をCD化しているRLRレコードが、去年から今年にかけてまた数枚の新しいアルバムを発売した。これまでのものと同じく、もとになっているのは、イタリアのPhilologyが会員向けに有料頒布していた厖大な『Brownie Eyes』シリーズである。生前ブラウニーはいつもテープ・レコーダーを持ち歩き、クラブでのライヴ・セッションやリハーサルをまめにテープに録音していた。そんな音源をせっせとCD化してきたのがPhilology=RLRレコードである。クリフォードにきわめて近い親族から提供されたものであろうと推測される。

最近RLRから出たブラウニーのレアCDのなかでもファンにとって格別な魅力を放っているのは、『Clifford Brown Plays Trumpet & Piano: The Complete Solo Rehearsals』(RLR-88654)というアルバムだ。ブラウニーがひとりで楽器を練習しているトラックを中心に収められた2枚組セットである。リハーサルというよりは、イメージとしてはトレーニングに近い。その意味では、ここには、きわめてパーソナルなブラウニーの姿が凝縮されていると言ってもいい。とはいえ、練習風景を収めたCDなど、ブラウンの熱心なファン以外は興味をそそられないだろう。しかも、およそ全体の70%を占めているのがトランペットではなくピアノの練習風景とあれば、なおさらだ。

妻のラルーによると、ブラウニーは自宅のスタジオで、トランペット以外にも、練習でしばしばピアノを弾いていたようだ。ここでの彼のピアノ・プレイは、アレンジやハーモニーやフレージングを確認しながら弾いているからだろう、同一フレーズの繰り返しが多い。練習だから当たり前だが、聴いていて面白いものではない。それでも、まともにインプロヴィゼーションをやっている個所などは、けっこう聴きごたえがある。トランペットのフレーズをピアノに移し替えたような感じに聴こえるのが興味深い。彼はピアニストとしてもなかなかの力量をもっていたと言えるだろう。

ブラウンはトランペット以外にも、ピアノ、ベース、ヴァイブなど、さまざまな楽器を演奏することができた。ピアノの実力はここに聴くとおりだ。ヴァイブ演奏の腕前については、ハーブ・ゲラーの次のような証言がある。
ある日、マックス・ローチの家でパーティが開かれたことがあってね。たくさんの人が集まって、噂話に花を咲かせていた。ブラウニーはあまり話の輪に加わろうとはしていなかった。居間の隅にマックスがこれから練習しようとしていたヴァイブが置いてあった。ブラウニーはヴァイブに歩み寄り、2本のマレットを手にとって演奏し始めたんだ。彼がいろんな楽器を演奏することは、折に触れて私もこの目でみていたけど、しばらくして彼が4本のマレットを使って巧みに演奏しだしたときは、びっくりしてしまったよ。当然ながら、マックスは頭にきていた。これから覚えようとしているヴァイブを、ブラウニーがいとも軽々と演奏してしまったんだからね。
(『クリフォード・ブラウン:天才トランペッターの生涯/ニック・カタラーノ』音楽之友社刊より)
このアルバムには、ピアノによる練習トラックが大多数を占めるなか、トランペットを練習しているトラックも2曲ある(<チェロキー>と<ディジー・アトモスフィア>)。いずれも10分以上にわたる長尺であり、ブラウニーはひたすら吹き続ける。録音データの項には1954年、フィラデルフィアにてと記載されている。たしかに、この温かみのあるフレージング、リラックスしたブローは、後期のそれではない。おそらく1954年10月前後だろう。クリフォードはこのころ、ウェスト・コーストから新妻のラルーを伴ってフィラデルフィアに戻り、新居を構えた。この2曲はその自宅地下にしつらえたスタジオで録られたものだと思う。<チェロキー>の途中に、女性の声が聞こえてクリフォードは練習を中断し、二言三言話をしてまた練習に戻る箇所がある。話しかけた女性はラルーだろう。想像するに、「晩ごはんはなんにする?」「そうだな、ステーキがいいな」というようなやり取りでもしているのだろうか。

ブラウニーは功なり名遂げても、学生のころと同じく練習に明け暮れていた。妻のラルーは次のように思い出を語っている。
私たちが朝食をとると、クリフォードは練習に入ります。外出から帰ると練習します。お昼を食べると練習に戻ります。とにかくクリフォードは時間さえあれば、いつでも練習していました。トランペットを吹けないところ、ミュートをつけてもだめな場所にいるときでも、唇や舌を動かしてました。マウスピースだけで吹いていたこともあります。とにかく彼は絶え間なく練習していたんです。
(同書より)
上に引用した以外にも、ラルーは同書のあちこちでクリフォードの練習の虫ぶりを語っている。ラルーの語る思い出を読み、そしてアルバムに収められたトランペットやピアノを練習している模様を聴くと、彼は天才などではない、努力の人だったんだ、という思いを深くする。常人ではなしえない努力があったからこそ、ブラウニーという天才が生まれた。だから“不断の努力があってこそ天才は開花する”と言うべきか。

だが、これらの練習トラックも、このアルバムに収められた1曲<オーニソロジー>の前には、その輝きがかすんでしまう。<オーニソロジー>はまさしく感涙ものの演奏である。ハイスクール時代のブラウンの音楽の師、ボイジー・ロワリーと二人で吹き込んだものだ。ジャケットには1949/50と書かれているが、ブラウニーはまだハイスクールの生徒だったはずであり、もう1〜2年ほど前の時期に録られたものではないだろうか。初めてこれををPhilologyの一枚で聴いたときは、その純粋さと真剣さが漂うプレイに思わず目頭が熱くなった。以前のこのコラム(2006年10月10日付け)で、ぼくはそれに触れて書いている。少し長いが再録しよう。
これまで集めたブラウンの未発表音源のなかで、近年もっとも感動させられたのは、ティーンエイジャーのブラウンが当時教えを受けていた音楽教師ポイジー・ロワリーと一緒に練習しているテープだった。ブラウンがトランペット、ロワリーがアルト・サックスを吹き、〈オーニソロジー〉をデュオで演奏している。このブラウンのプレイがファッツ・ナヴァロにそっくりなのだ。演奏は当然ながらまだ幼く、未完成だ。その彼が、必死にナヴァロそっくりに吹こうとしており、聴いていると胸が熱くなる。ブラウンのアイドルが、ガレスピーと並び称せられたビバップ時代の名手ナヴァロだったことはつとに有名だが、それが手にとるように分かる演奏だ。
このアルバムにはもう1曲、予期せぬ嬉しいボーナス・トラックがある。クリス・パウエル&ザ・ブルー・フレイムズの演奏する<アイ・カム・フロム・ジャマイカ>のラジオ放送トラックだ。この曲はブラウニーの初レコーディング・ナンバーとして有名だ。クリス・パウエルのバンドに在団時代の1952年3月にスタジオ録音されたもので、アルバム『ザ・ビギニング&ジ・エンド』に収録されてLP化された。そしてここには、そのオリジナル・ヴァージョンとともに、同時期に行なわれたライヴ・セッションの放送音源が収められているのだ。この放送音源はスタジオ録音より長尺になっており、ブラウニーのソロも倍の長さになっている(スタジオ・ヴァージョンは0:36、放送ヴァージョンは1:12)。このソロが素晴らしい。のちのブラウニーを彷彿とさせるフレーズが散りばめられているし、熱気をはらんだ奔放自在なブローは、まさに天馬空を往くが如きだ。

ティーンエイジャーのブラウニーが懸命に吹く<オーニソロジー>と、このR&Bバンド時代の21歳の彼の輝かしいソロがフィーチャーされた<アイ・カム・フロム・ジャマイカ>、両者とも音質は悪いが、その歴史的価値は計り知れない。この2曲だけで、このアルバムは購入する意義がある。

2010.10.17 (日)  再訪、黄昏の大英帝国

10月初頭、1週間ほどロンドンに旅をした。昨年9月に続く2年連続のロンドン旅行だ。昨年は好天に恵まれたが、今年はそれとは正反対。毎日がどんよりした曇り空で、時間によって雨がパラつく。おまけにかなり肌寒い。東京で言えば11月末、初冬といったところだろう。10月のロンドンはこれが普通だそうだ。こんな北のはずれの、いつも寒く天気が悪い土地に、かつては世界に覇を唱えた大国が、よくできたものだ。

不安定な政治体制、金融不安と景気後退、移民問題など、イギリスもご多分にもれず多くの懸案を抱えているが、表面的には人々の生活は落ち着いているように見える。ロンドンでは、昨年と同じく、今年もウッドサイド・パークにある二女夫婦の家に厄介になった。市内から地下鉄で北へ30分ぐらいのところある住宅地だ。東京近辺で言うと、田園都市線の鷺沼とか多摩プラザという感じだろうか。ただし、駅の周辺には何もない。駅から出たらすぐに住宅が連なっている。家はイギリス特有のセミデタッチといわれる二軒一棟の建物。2階建ての建物を真ん中で2つに仕切り、左右それぞれに別々の家族が住むスタイルだ。ロンドンはこのセミデタッチ様式の住宅がほんとうに多い。市内も郊外の住宅街も、どこに行ってもこのスタイルの家が建ち並んでいる。

ロンドンはいたるところに公園があり、緑の芝生と木々が生い茂っている。市内にはあちこちに広大な公園があるし、郊外のベッドタウンにもそこかしこに広々とした緑地がある。ウッドサイド・パークの家の周辺にも、歩いて数分のところに、ゆったりした広さの公園 が数か所あり、小川が流れ、リスが走り回っている。さらに、多くの家には、前庭や裏庭があり、落ち着いた景観を生み出している。ウッドサイド・パークの家にもちょっとした裏庭があり、リンゴの木がなっていた。こんな緑に囲まれた生活環境こそ、人間が暮らす場所という思いがする。

一日、現地の旅行社が主催する日帰りツアーに参加した。ストーンヘンジ〜バース〜カースルクームを巡るツアーだ。移動はすべてマイクロバスである。最初に訪れたストーンヘンジはロンドン市内から西へ2時間のところにある有名な古代遺跡。紀元前3000〜1000年のあいだに建てられたという環状列石で、宗教儀式に使われたものらしい。見晴らしのいい野原のなかに巨石群がこつぜんと姿を現す。壮観なことは壮観だが、たんにそれだけだし、周りから眺めるだけなので、いささか拍子抜けする。まるで食前酒も前菜もデザートもなしに、メインディッシュだけがドンと出てきた感じだ。

次に向かったのはバース。スートーンヘンジから北西に1時間、ローマ帝国時代に栄えた古都だ。ここは温泉が湧いている。風呂を愛した古代ローマ人は、ここに大浴場を作り、神殿を建てた。地名のバース(Bath)はそこに由来している。発掘されたローマ風呂跡は 博物館になっており、観光することができる。なるほど、往時がしのばれる優雅な雰囲気 だ。泉からはいまも湯が湧き出ている。風呂の湯は手を差し入れると熱かった(あとから 知ったのだが、湯に手を浸すのは禁止されている)。バースの町はとても落ち着いた佇まいで、散策するには最高である。日本で言うと、倉敷(行ったことはないが)といった感じだろうか。町の一角にロイヤル・クレセントと呼ばれる場所がある。その名のとおり、三日月形の道路沿いに長大なテラスハウス(長屋形式の集合住宅)が建っている。美しい景観だ。

最後に赴いたカースルクームは、バースから北に30分、観光客に人気の高いコッツウォルズ地方南部の村である。コッツウォルズは古き良き時代の田舎の家並みがそのまま残っている場所で、家はみなライムストーンという蜂蜜色の石灰岩でできており、ほのぼのとした穏やかな風情が漂っている。でも、まあ、いわゆる田舎の村であり、それ以上でも以下でもない。田舎の風景など、わざわざイギリスに行ってまで見るほどのものか、という気がしないでもない。カースルクームのマナー・ハウスで休憩し、イギスス伝統のアフタヌーン・ティーを食した。マナー・ハウスとはかつての領主の館で、いまはホテルになっている。豪壮な邸宅であり、庭園が美しい。アフタヌーン・ティーは、紅茶とともにサンドイッチ、スコーン、ケーキなどが供される。サンドイッチはパサパサだし、ケーキは甘すぎるし、およそ日本人の舌には合わないが、このマナー・ハウスで供するものは正統的なアフタヌーン・ティーとして定評あるのだそうだ。そんなものなのだろう。

イギリスの料理は、フィッシュ&チップスを除いて、概して美味しくない。林望氏の『イギリスはおいしい』は楽しい本だが、いくら林氏がイギリス料理の素晴らしさを力説しても、やはりまずいと言わざるを得ない。でも、料理はまずくても、そして天気は悪くても、イギリスの緑に囲まれた空間は心に落ち着きと安らぎをもたらす。その光景に、最盛期を終えたかつての大国が淡々とした境地で斜陽期を迎えている、というイメージを重ね合わせた。

2010.10.10 (日)  凶悪な少女売買組織を殲滅し、アティカスは去って行った

グレッグ・ルッカ作、<ボディガード・アティカス・シリーズ>の新作『回帰者』が翻訳刊行された(講談社文庫)。シリーズ最終作と銘打たれている。

<ボディガード・シリーズ>といっても、主人公のアティカス・コディアックが実際にボディガードとしてチームを組んで活躍するのは、最初の3作までだった。このシリーズは、脇役だった女探偵ブリジット・ローガンを主人公に据えた4作目の『惑溺者』で方向転換し、5作目の『逸脱者』の後半で、題名どおり、アティカスはボディガード稼業から大きく逸脱してしまう。長い期間をおいて再開したシリーズ第6作『哀国者』は、初期の作品とは似ても似つかぬ、アティカスと女殺し屋ドラマを主人公とする謀略スリラー・ドラマへと変身していた。これほど激しく変化していくシリーズもあまり例がないだろう。

今回の7作目にして最終作となる『回帰者』は、前作のスタイルをさらに推し進めたハイ・テンションの激越な冒険小説に仕上がっている。アティカスは、アリーナ(元の女殺し屋ドラマ)とともに、グルジアに隠棲している。親しくしていた隣家が何者かに襲われ、少女が連れ去られた。アティカスは、平穏な生活を捨て、少女を救うため、中東、トルコ、オランダ、アメリカと飛び回り、凶悪な少女人身売買組織と対決する。全編を貫く異様な緊迫感が素晴らしい。場面展開はスピーディで小気味いいし、銃撃シーンの迫力も群を抜いており、読みごたえ満点、第一級の活劇スリラーである。

前作には登場せず、もう出番はないのかと残念に思っていた女探偵ブリジットが、思いがけず途中から姿を現す。久しぶりのブリジットの登場に、胸のつかえが下りた思いがする。そもそもアティカス・シリーズの売りのひとつが、長身、鼻ピアスの、とっぽい女探偵ブリジットにあった。ブリジットという印象的な造形の登場人物がいなければ、このシリーズの魅力は、半減とまではいかなくても三分の一は減っていただろう。シリーズ最終作にあたり、ごく自然な設定でブリジットを再登場させた作者の心意気が嬉しい。

アティカス・シリーズの初期作品は、仲間との緊密なチームワークのもとに依頼者を敵から守るという物語が読み手を楽しませたが、それと同時に、アティカスと彼を取り巻く女たちとの微妙な関係と揺れ動く心情が、同種のハードボイルド小説にない、独自の奥深さをもたらしていた。後期の作品ではそんな味わいは希薄になっていたが、この最終作になって、それが多少とも復活しているのも好ましい感じがする。それにしても、アティカスは、最初はアリソンという恋人がいて、そのあとブリジットと恋仲になり、同僚のナタリーとも関係をもち、女殺し屋ドラマにベタ惚れする、というぐあいに、シリーズを通してつぎつぎに女を取り替える。そんな身勝手な男なのに、読み手が共感し、感情移入してしまうのは、アティカスの複雑な心の揺れがきっちり描かれているからだ。

このシリーズが終わるのは惜しいが、前作の6作目を読んで、もう長くはないなという予感がしていた。内容がどんどん変質していき、もう元のボディガードには戻れないし、これ以上新しい展開を生み出すのは無理だろうと思ったからだ。マイクル・コナリーの<ハリー・ボッシュ・シリーズ>という稀な例を除いて、長く続くシリーズはどれもマンネリに陥っている。同工異曲のストーリーを繰り返す愚を避け、テンションを持続したまま打ち止めにする作者ルッカに潔さを感じる。アティカスの戦いの物語は7作という短さで完結してしまったが、忘れ得ぬハードボイルド・シリーズとしてファンのあいだで永遠に語り継がれるだろう。

2010.10.03 (日)  武家社会に生きる男たちの戦いが胸を熱くする

ときどき時代小説を読んだり、時代劇映画をみたりする。身分制度に縛られた武家社会における男の生き方とか剣に生きる武芸者たちの戦いといった物語に惹かれるからだ。最近は、藤沢周平や隆慶一郎のような、この人の書いたものならなんでも読みたいと思わせる時代小説作家には、なかなかめぐり合わない。そんななか、先ごろ久しぶりに読みごたえのある時代小説に出会った。百田尚樹の『影法師』だ。

この小説は、北陸の小藩が舞台だ。主人公は貧乏な下士の生まれながら国家老にまで上りつめた戸田勘一。物語は、子供のころともに剣を学んだ親友の磯貝彦四郎の死の報に接した彼の回想から始まり、2人の友愛を軸に、彼らの幼年期から青年期へと成長していくさまが描かれる。ストーリー展開は破綻がなく緩急に富んでおり、筆致はスムースだ。まったくうまい。前半は藤沢周平の『蝉しぐれ』を思わせる。だが読み終わって想起するのは浅田次郎の『壬生義士伝』だ。けれんたっぷりのうまさなのだ。

苦難の道を歩む勘一が家老にまで出世したのに、文武に秀で、情に篤く、将来を嘱望されていた彦四郎は、なぜ汚名を着せられ、零落の果てに亡くなったのか。それがこの小説のテーマのひとつだ。あえてケチをつければ、そこのところに説得力がいまいち欠けている気がする。だが語り口のうまさ、骨格の堅牢さが、そんな瑕疵を脇に押しやってしまう。この作家が時代小説を書くのはこれが初めてということだが、そうとは思えないほど剣戟のシーンは迫力があるし、勘一の恋心や藩士たちの生活もうまく描かれており、時代小説としての結構が備わっている。

ここ数年、毎年のように藤沢周平作品の映画が作られているが、山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』をはじめとする3部作を除いて、あまり心に残るものはない。そんななかで、今年7月に封切られた『必死剣鳥刺し』は完成度の高い時代劇映画だった。原作は藤沢周平の短編集『隠し剣孤影抄』のなかの一篇である。

この映画では、剣の達人であるがゆえに、無能な藩主と藩政を牛耳る家老の仕組んだ卑劣な策にはまり、苛烈な道を歩まなければならなかった男の生き方が、たんたんと、静謐なタッチで描かれる。監督の平山秀幸は、オーバーな描写を排し、気負わずクールに撮っており、緊密な画面をつくり出している。主演の豊川悦司の抑制された演技が秀逸だ。ラスト15分の死闘は壮絶極まりない。これほど凄愴美にあふれた剣戟シーンを見るのは久しぶりだ。

しかし、この映画に描かれているは本来の藤沢周平の世界ではない。原作に忠実に作られているのだが、それでもそう思う。藤沢の小説にはやさしさがある。弱者にそそぐ温かいまなざしがあるし、どんなに悲惨な物語でも、どこか読む者をほっとさせるヒューマンな味がある。だが、この映画から立ちのぼるのは非情さと冷徹さだ。見終わって、やりきれない気持ちになる。よく出来た、密度の濃い映画であることは確かなのだが。

2010.09.26 (日)  マーカス・ミラーと交響楽団の共演を堪能した一日

9月初めのある日、東京国際フォーラムで、マーカス・ミラーとNHK交響楽団の共演コンサートを見た。東京ジャズ2010のプログラムのひとつとして組まれたコンサートだ。

このコンサートは今年5月に発売されたマーカス・ミラーの新作アルバム『ナイト・イン・モンテカルロ』を再現したものだ。これは2008年11月にモナコで行なわれたコンサートのライヴ・アルバムで、マーカスはモンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団と共演、ゲストにロイ・ハーグローヴ(tp)とラウル・ミドン(vo, g)が入っていた。今回の東京での再現コンサートは、モンテカルロ・フィルに代わってN響がが入り、ゲストにはクリスチャン・スコット(tp)とロバータ・フラック(vo)がフィーチャーされている。

『ナイト・イン・モンテカルロ』は傑作アルバムだった。今年発売されたジャズ・アルバムのなかのベストだと言える。アレンジはすべてマーカス自身がやっている。彼がここまで本格的なアレンジャーだったとは知らなかった。オーケストラ・アレンジは、やや洗練の度合いが足りないし、ある意味で常套的だ。しかしオーケストラとマーカスの絡みはじつにスリリングで、見事な一体感を生み出している。一発勝負のライヴだし、ふだんはクラシック音楽を演奏するモンテカルロ・フィルとしては不慣れな譜面だったからであろう、オーケストラのサウンドはラフなところもあるが、心地いいグルーヴに包まれ、ほとんど気にならない。マーカスのベース・ソロは、このところちょっとマンネリ気味のところがあったが、オーケストラとの共演というセッティングにより、きわめて新鮮に聴こえるし、奥深さが感じられる。

ゲストがまた最高だった。ロイ・ハーグローヴはいつものように精妙なプレイを披露するし、ラウル・ミドンのヴォーカルも鮮やかだ。ミドンのマウス・トランペットはトランペットそっくりで、思わず笑ってしまうが、なかなかの聴きものだ。ハーグローヴのトランペットとミドンのマウス・トランペットの掛け合いは愉快の一語に尽きる。

というわけで、マーカスとN響の共演コンサートは大いに期待していたのだが、結果は満足半分、不満足半分だった。不満足の大きな理由はPAにある。オーケストラの響きがぼやけていて、マーカス・バンドとオーケストラの音がうまく融合せず、気持ちよく聴こえてこないのだ。オーケストラの音は天上から吊るしたマイクで拾っていた。クラシックのコンサートの場合は通常マイクを通さない生音だ。そんなクラシックのオーケストラと、エレクトリック・フュージョン・バンドの共演ステージという、PAセッティングの難しさもあったであろう。その点、アルバム『ナイト・イン・モンテカルロ』は、ミキシングによってバランスのいいサウンドに仕上がっていた。

だが演奏そのものはたっぷり堪能できた。〈アイ・ラヴズ・ユー・ポーギー〉やオペラのアリア〈わたしのお父さん〉でマーカスが演奏したフレットレス・ベースは深いエモーションを感じさせ、感銘を受けた。リズム感あふれる〈ブラスト〉や〈ソー・ホワット〉での乗りのよさも心惹かれるものがあった。新世代の有望トランペッター、クリスチャン・スコットは気合の入ったプレイが印象深く、〈アマンドラ〉などで披露した艶のある鋭いサウンドは確かに大きな将来性を感じさせた。やんちゃ坊主のような風貌が格好よく、デビュー当時のフレディ・ハバードを思わせた。ロバータ・フラックは〈プレリュード・トゥ・ア・キス〉を歌い、ラップのようなものをまで披露していたが、これはご愛嬌といったところか。マーカスは若いころロバータのバック・バンドで演奏していたとの由だが、ここで共演したのはそんな縁があってのことだろう。

余談だが、マーカス・ミラーがウィントン・ケリーの親戚であることは、知る人ぞ知る事実だが、どんな親戚関係かについては諸説がある。マーカスはケリーの甥だという説が流布しているが、従兄弟だという説もある。でも、どうやらマーカスの父の従兄弟がケリーだというのが真相のようだ。昨年のことだが、マーカスが来日して東京ブルーノートでライヴをやったとき、幸運なことにセットの合間に楽屋を訪ねることができた。会って話したマーカスは気さくで快活なナイスガイだった。ウィントンについて訊ねたところ、マーカスがまだ子供のころ、よくケリーが家にやってきて、遊んでくれたという。マーカスは、ケリーのピアノが大好きで、よく聴いていた、いちばん好きなレコードはヴィージェイの『ケリー・アット・ミッドナイト』だと語っていた。フェイヴァリット・ジャズマンであるケリーについて話ができたのは望外の喜びだった。

2010.09.19 (日)  少年と刑事の崩壊した家庭に救いは訪れるのか

今年春に刊行されたジョン・ハートの邦訳第3作「ラスト・チャイルド」は心に触れる名品ミステリーだった(ハヤカワ文庫・上下)。

この小説はノースキャロライナ州の田舎町に住む少年ジョニーと刑事ハントが主人公だ。ジョニーは母親と二人暮らし。妹が行方不明になり、父も失踪して以来、母は傷心のあまり薬物に溺れてしまっているが、ジョニーはひたすら妹のゆくえを探し、壊れた家庭を立て直そうとしている。いっぽう刑事のハントは仕事熱心なあまり妻に逃げられ、一緒に暮らす息子とは心が通い合わない。ハントは上司から嫌がらせを受けながらも、ジョニーの一家を助け、妹の捜査を続けている。そして、ある事件をきっかけに謎が少しずつ解き明かされていく。

この小説全体を覆っているのは、崩壊した家族の融和と再生、男同士の友情というテーマだ。ジョニーは妹を探し出すことができれば、父も帰ってくるし母も立ち直り、もう一度家族の絆を取り戻すことができると信じている。不器用な鬼刑事ハントは心を閉ざす息子と触れ合いたいと願っている。そんな彼らの気持ちを支えているのが、ハントとジョニーを結ぶ愛情であり、ジョニーと腕が不自由な親友ジャックとの切ない友情だ。母と子、父と子が、バラバラになった家族のつながりを求めてもがき苦しむ。

テーマとしてはとても重い。ちょっとデニス・レヘインの「ミスティック・リヴァー」を思わせる。だがまったく救いのない沈鬱な「ミスティック・リヴァー」に比べ、この「ラスト・チャイルド」には癒しの光がさしているし、後味がとてもいい。余韻を漂わせたエピローグには温かさと明るさが漂っている。テーマがテーマだけに文学的な色合いは濃いが、謎解きの点でも充分に面白い。ミステリーとしての緊迫感に富んでいるし、錯綜した人間関係や謎めいた黒人の大男の出現が奥行きを与えている。真相が解明されるラストの迫力は圧巻だ。

去年出たジョン・ハートの前作「川は静かに流れ」もまた家族をテーマに据えたミステリーだった。故郷に帰って来た主人公が殺人事件に遭遇し、憎しみ合う父との軋轢に苦しみながら謎を解いていくという内容だった。これは、大方の評判はとても高かったが、ぼくはあまり感銘を受けなかった。主人公の青年の考えや行動がはっきりしないし、展開がもたついていており、もうひとつストーリーに入りこめなかった。それに比べてこの新作「ラスト・チャイルド」は数段すぐれている。主人公たちの心情がひたひたと伝わってくるし、何よりも全編に熱いエモーションと温かいまなざしが感じられる。今年刊行された海外ミステリーの大きな収穫だ。

2010.09.12 (日)  長崎の四海楼で太麺皿うどんを食べた

8月下旬、九州の長崎を旅した機会に、以前からの念願を実現させることができた。四海楼で太麺皿うどんを食すことだ。長崎の四海楼はちゃんぽんと皿うどんを生み出した料理店として有名だ。ぼくは太麺皿うどんが好きで、東京近辺の皿うどんを供する店を探して食べ歩いている。だから、発祥地である長崎の四海楼で一度は皿うどんを食べてみたいと、かねてから思っていた。

皿うどんとは、本場、長崎では、柔らかい太麺にとろみをつけた具をかけたもののことを言う。油で揚げた細麺を使ったものはチャーメンと言われ、太麺の皿うどんとは別な料理とされている。ところが、東京では、なぜか揚げた細麺を使ったもののほうが皿うどんという名で定着しており、太麺の皿うどんは例外的な扱いをされている。ちゃんぽんを食べさせる店では、だいたい細麺皿うどんも供しているが、太麺皿うどんはメニューに載っていないところも少なくない。ぼくは細麺には興味がない。惹かれるのは太麺の皿うどんなのだ。

ちゃんぽんは、四海楼の創業者である陳平順氏が、明治の末年、中国からの留学生に、安くてヴォリュームのあるものを食べさせてやりたいという思いから考案した料理で、長崎の中華街を中心に広まった。汁のないちゃんぽんである皿うどんは、ラーメンに対して焼きそばがあるように、ちゃんぽんのヴァリエーションとして考え出されたものらしい。

長崎の一夜に赴いた四海楼は、グラバー邸のすぐ近くにあった。中国の城を思わせる5階建てのド派手なビルであり、各階には名店街やパーティー用のホールやちゃんぽん博物館などが入っている。最上階の5階が一般用のレストランであり、長崎港が見渡せ、夜景がきれいだ。ここは長崎の観光名所のひとつになっているのだろう。

席に着き、餃子、角煮、エビチリといった定番的な料理とともに皿うどんをオーダーする。わりあいアッサリした味だが、魚介や野菜のコクが出ていて旨いことは旨い。しかし期待を上回るものではなかった。口ではうまく説明できないが、ぼくが理想とする皿うどんの味とは微妙に違う。これなら、恵比寿の〈どんく〉や、かつて東銀座にあり今は人形町に移った〈思案橋〉のほうが、ずっと美味しい。そんなものかもしれない。本家は観光名所としては有名だが、味の面では風化してしまっているのだろう。地元の人は、ちゃんぽんや皿うどんなら、もっと別に行きつけの店があるようだ。でもぼくとしては、今回は発祥の店で皿うどんを食べた、ということで満足だった。

話は変わるが、長崎というと真っ先に頭に浮かぶのは、美空ひばりが歌った「長崎の蝶々さん」という歌だ。長崎を詠った歌謡曲は多く、ちょっと挙げるだけでも、「長崎のザボン売り」「長崎の鐘」「長崎の女]「思案橋ブルース」「丸山花町母の町」「長崎ブルース」「長崎は今日も雨だった」といくらでも出てくが、「長崎の蝶々さん」は別格だ。異国情緒と日本情緒が混然一体になった曲調、“さくらさくら”や“ある晴れた日に”を効果的に配したアレンジ、悲しい唄なのに明るくサラッと歌うひばりの歌唱、すべてが一級品だ。

でも、いまとなってはこの歌も、遠い昔に流行った歌としてノスタルジーのなかに埋もれてしまっている。40年ぶりに訪れた長崎は、NHKの番組にあやかった坂本龍馬ブームの真っ只中にあった。町の観光地を歩くと、どこにでも龍馬の看板や龍馬がらみの土産物が目につく。実際に、龍馬ゆかりのスポットをめぐる観光客が多いようだ。大河ドラマは見ていないからよく分からないが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」はむかし読んだことがあるけど、坂本龍馬と長崎とのかかわり合いって、そんなに深いものだったっけ。まあ、いずれにせよ、それで長崎が経済的に潤うのなら、けっこうなことだ。

2010.07.25 (日)  相撲界汚染報道の影でのさばる巨悪

野球賭博に端を発して、相撲界と暴力団とのつながりがマスコミをにぎわせている。野球賭博をやっていた相撲関係者はほかにもたくさんいるはずなのに、名前が挙がって処分されたのは、大関琴光喜、大嶽親方、阿武松親方など、前回の相撲協会理事選で貴乃花に投票したとみられている人たちばかりだという。だとすれば、今回の野球賭博問題は反貴乃花一派が企んだリークだという説は、たしかにそうとしか思えない。それを裏付けるかのように、こんどは当人の貴乃花が暴力団組長と会食したという報道が流れた。誰かが貴乃花の追い落としを狙って工作しているのは間違いないだろう。

それにしても、賭博は、賭博に参加した者よりも賭博を開帳した者のほうが罪は重いはずなのに、参加者ばかりが取り沙汰されていて、開帳した暴力団側のほうはいっこうに名前が挙がってこない。警察はまじめに捜査しているのだろうか。どうも捜査するデモンストレーションだけに終始しているような気がする。

相撲界と暴力団とのつながりに関するニュースが後を絶たない。もっと追求すべきネタはたくさんあるはずなのに、こんな、どうでもいいような題材を新聞の第1面で採り上げるほど、メディアは衰弱しているのか。マスコミはいかにも正義派面をして、相撲界の黒い交際を書きたてるが、暴力団との関連で言えば、もっと悪辣な癒着がいくつもあるのに、彼らはいっこうに暴こうとしない。たとえば前にこのコラムでも採り上げた創価学会と暴力団との結びつきなどは、もっと悪質だし重大な問題だ。ところがマスコミはそんな巨悪を無視して、弱いもの叩きのように相撲界ばかりを話題にする。

そもそも相撲界は、芸能界と同じく、昔からヤクザや暴力団とのつながりが深かった。相撲はスポーツではない。芸能や歌舞伎と同じく、日本古来の伝統的な見世物、興行なのだ。だから相撲とヤクザとのつながりは、そして古いしきたりの存続は、ある意味で当然だ。もし相撲界が“浄化”され、スポーツになったら、相撲は相撲ではなくなってしまう。

相撲界の野球賭博に関連して、賭けゴルフや賭けマージャンといった行為まで非難の対象になったが、こんなことは誰もが日常的にやっている。そもそも賭博は国の独占事業であり、公営ギャンブルは政治家や官僚の利権の温床になってきた。宝くじや競輪や競馬などに関連して多数の天下り法人が作られているのは周知の事実。そこには右翼や暴力団も関与していると噂されている。パチンコ業界と警察の癒着も目に余る。パチンコでは、本来違法である換金が、景品交換所での現金化というかたちで行なわれている。事実上の賭博行為であり、違法なのに警察・検察はそれを容認しているのだ。そしてパチンコ関連団体は警察庁の再就職の受け皿になっている。すべてがなれ合いなのだ。

公営賭博にたかり、甘い汁を吸っている政治家や官僚を棚上げにし、相撲界の賭博ばかりを報道する。巨悪を放置し、罪を弱者にかぶせ、強者にすり寄る。メディアはいつからそんな権力の走狗になったのだ。

2010.07.19 (月)  混迷する政治に打開の手立てはあるのか

先日行われた参議院選挙は民主党の惨敗に終わった。大方の予想と同じく、ぼくもこの選挙で民主党が議席を減らすだろうとは思っていたが、10議席も減らすとは予想していなかった。その分、まるでゾンビが復活するかのように、滅亡寸前の自民党の議席が増えてしまった。改選議席数では自民党が民主党に勝ったわけだが、得票総数では民主党のほうが自民党を上回っている。それでも民主党が負けたのは、一人区で自民党が大きく勝ち越したためだ。

参院選での民主党敗北の原因は、菅首相が消費税増税を打ち出したためだというのが一般的な見方だが、それだけではないだろう。こうなったのは、民主党政権になって改革を期待していたのに、いっこうにそんな動きが見られないどころか、むしろ後退しているという現状に対する国民のいらだちが最大の要因だろう。改革などすぐにはできないことなど分かっている。だが民主党は改革のための道筋をまったく示さず、事業仕分けといった小手先の作業に終始してきた。国民の多くが期待していた脱官僚・公務員制度改革など、手をつけるどころか、官僚の言いなりのまま、天下りを容認する国家公務員退職管理基本方針を推し進めようとするなど、まったく逆行してきた。

公務員制度改革だけしか訴えていなかったみんなの党は、今回の参院選で大きく票を伸ばした。ここに国民の意志が如実に反映している。でも、だからといってみんなの党が政権を託すに足る党かというと、はなはだ心もとない。一時的に人気を集めるだけの党にすぎないように思う。論陣を張れるのは渡辺喜美と江田憲司しかいないし、どうも渡辺という代表は胡散臭い感じがする。

参院選で負けて、これから民主党は不安定な政治運営を強いられることになる。メディアでは政界再編という言葉が飛び交っている。最悪のシナリオだが、民主党が自民党と手を組むこともありうるだろう。なにしろ、消費税問題をはじめとして、いまの民主党の政策は自民党とあまり違わないのだから。それでも民主党は改革を進めざるを得ない。国民がそれを求めているし、参院選の得票総数1位という結果からして、まだ国民はかろうじて民主党に望みを託しているのだから。

もうひとつ、メディアで話題になっているのは、小沢一郎の動向と民主党内の権力争いだ。この混沌とした政治状況を、もし打開できる政治家がいるとしたら、小沢一郎かもしれない。小沢一郎はいまや悪人という印象が定着してしまっているが、民主党内ではいまも破格のパワーをもっている。1ヵ月ほど前の朝日新聞に、安保闘争50年の特集で評論家の吉本隆明へのインタビューが載っていた。そのなかで吉本は、いまの政治状況に触れ、次のように語っていた。
日本はこのところ衰退の一途をたどっていると思います。政治もどんどん悪くなっている。実行力、交渉力が必要です。カネの問題で批判されたけど、小沢一郎さんが100人を超す国会議員を引き連れて中国へ行った。あれだけですよ、民主党政権がアメリカに衝撃を与えたのは。
さすがは吉本隆明、鋭い指摘だ。老いたりとはいえ、状況を見る目は曇っていない。アメリカが怖いのは小沢一郎なのだ。小沢一郎が、消費税増税反対、アメリカからの自立、沖縄基地撤廃を唱えて立ち上がれば、大きな支持を得られる可能性がある。検察審査会の議決とか、側近の顔ぶれが悪すぎるとか、いろんな問題を抱えているが、小沢一郎にはそれをやる力がある。小沢にとって、もう一度表舞台に返り咲く最後のチャンスは、これしかない。あとは本人がその気になるかどうかだ。

2010.06.29 (火)  天木直人著『さらば日米同盟』が指し示す日本のとるべき道

今年は改定日米安保条約が成立してから半世紀になる。安保体制50年という節目の年にあたり、本来なら安保条約存続の是非に関する論議が活発になって当然なのに、あまりそんな盛り上がりは感じられない。そんななか、アメリカと、そして世界とのかかわりにおける日本の立場を検証し、日米関係はどうあるべきか、日本ははどんな方向を目指さなければいけないかを示唆する、重要な本が出版された。天木直人という人が書き下ろした『さらば日米同盟』(講談社)だ。

これは日本国民必読の書だ。天木氏は元外交官であり、2001年、駐レバノン特命全権大使のとき、アメリカのイラク攻撃を支持すべきではないと、当時の小泉首相と川口外相に進言して、外務省を罷免された。その後は外交問題を中心に評論・執筆活動を続けている。この本で天木氏は、アメリカと軍事同盟を続けることの危険性を説き、安保条約を解消して対米従属から脱却し、東アジアを中心とした集団安全保障体制を目指すべきだと主張する。
「普天間基地移設問題がたとえどのようなかたちで決着したとしても、日米同盟関係が存続するかぎり、日本は米国から押しつけられる軍事要求圧力に悩まされ続けることになる。米国の軍事協力要請は、手を替え、品を替えて、次々突きつけられてくる。そして日本はそのつど、その対応に苦しめられることになる」
「日本の安全保障とは何の関係もない米国の戦いに国民を巻き込み、日本を守るはずの自衛隊員の命を危険にさらす、そんな日米関係を維持、発展させていくことなど、日本のためになるはずがない。
「そもそも二国間の軍事同盟で安全保障を守るという考え方が古いのだ。これからの安全保障政策は、皆がお互いを敵視しないこと、そしてその約束を破るものを皆で監視し、規制していく、そういう考え方に基づいたものでなくてはならない」
こうして天木氏は、憲法9条を堅持し、“いかなる国の脅威にもならない、いかなる国にも攻撃をさせない”という平和外交を宣言し、専守防衛に徹する自立した自衛隊をもちつつ、東アジア集団安全保障体制を構築せよと論じる。

憲法9条を高く掲げて対米従属状況から自立せよと説く天木氏の論旨は明快であり、大きな説得力がある。安保条約は冷戦の終結とともに役割を終えたはずなのに、アメリカの戦争に日本を加担させるための同盟となってそのまま存続している。そして治外法権の米軍基地は沖縄を中心に全国に散らばったままだ。つまり日本は事実上のアメリカによる占領状態が続いているのだ。

日米同盟擁護派は、安保条約によって敵国に対する抑止力が保たれているとしばしば主張する。だが、そもそも安保条約によって、そして日本に米軍基地があることによって、アメリカはほんとうに有事の際、日本を守ってくれるのだろうか。安保条約の条文は、それに関してきわめて曖昧であり、解釈によってどうにでも受け取れる。天木氏は書く。

「たとえ条約でその義務が明文化されていようと、いくら米国高官が日本を守ると繰り返してみても、決断するのはその時の大統領だ。米国の大統領が自国の若者たちを日本のために犠牲にするかどうかの判断は、結局、米国国民の支持を得られるかどうかで決められる。そして米国という国を多少なりとも知っている者であれば、米国は日本を守るために自国民の血を流すことは決してしない国であることを知っている」
安保条約は、抑止力になっているどころか、アメリカの戦争に加担することにより、逆に日本がテロとの戦いに巻き込まれる危険を生んでいるのだ。そして日米同盟があるかぎり、日本は自前の国防政策を立てることができない。国防政策はつねにアメリカによって決められるし、自衛隊はいつまでもアメリカの下請けのままだ。

安保体制賛成論者、たとえば外務省OBの岡本行夫などは、日本があまり自立すると言いだすとアメリカが怒って見捨ててしまうぞ、と、アメリカの手先のような脅し言葉を吐く。だがアメリカが自分から日米同盟を解消し、基地を引き揚げることなどありえない。アメリカにとって日本はいつまでも手放したくない、おいしい国なのだ。

日本国民が強いられる大きな犠牲と負担は軍事的側面だけにとどまらない。年次改革要望書というかたちで、アメリカは日本にさまざまな制度や施策に関して要望を突き付けている。ゼロ金利、金融自由化、労働者派遣法の改正、そしてあの郵政民営化などは、みなアメリカの要望に沿ったかたちで実現したものだ。日本はアメリカの要求を拒否できない 事実、上記のようなアメリカの国益に沿った政策が施行された結果、日本の社会は混乱に陥っている。天木氏は喝破する。
「一億総中流化と言われ、皆がそれなりの生活を送っていた日本が、なぜここまで格差社会に分断され、日々の生活に苦しむようになったのか。もちろん、いろいろな理由があげられるだろう。しかし私は、その大きな理由が米国との歪んだ関係にあると思う。米国との関係を正しい関係にできなかった日本の指導者と、それを許してきた私たち国民のあきらめにこそ、その原因があると思う」
民主党政権になって、日米関係は見直されるどころか、いっそう強く対米従属に傾斜していっている感がある。メディアも政治家も、誰もそれに対して異議を唱えようとしない。それでも、メディアがダメでも、そして政治家がダメでも、国民が日米同盟の欺瞞性に気づき、自立すべきだとも声を上げれば、流れは変わる。この迫力に満ちた本は、そのための起爆剤になるかもしれない。

2010.06.21 (月)  国民を裏切る菅新首相の露骨な現実路線

菅直人新内閣が発足して2週間が過ぎた。いま民主党をまとめることができるのは菅直人しかいない。彼にはリーダーシップと実行力があるし、鳩山前首相のように国民の侮蔑をかうような誤りを犯さないだろう。民主党は参院選に勝つだろうし、菅政権は長期にわたる可能性が高い。長く続いた政治の混迷が終わるのだから、基本的には歓迎すべきことだと言える。

しかし、就任以来の菅新首相の言動を見ると、あまりに露骨な現実主義路線に、これは最低の内閣かもしれないという思いがこみ上げてくる。首相になるやいなや、彼は対米従属政策をあからさまに打ち出し、消費税増税を高らかに唱え、それまで大馬鹿だと言っていた官僚をプロフェショナルだと持ち上げた。これでは自民党政権と変わらないどころか、市民派という仮面をかぶっているだけに、よりたちが悪い。野党時代には改革を叫んでいながら、権力を握ったとたん、前言をひるがえしてはばからない。もともと菅直人という人間のなかにあった権力志向的な側面が一挙に噴き出した感がある。

ある意味で、前首相の鳩山と菅の考え方は正反対だと言えるかもしれない。理想主義の鳩山と現実主義の菅だ。鳩山は従来の日米関係からの脱却を目指していた。アメリカとの関係の見直しをはかり、アジアとの協調を重視して東アジア共同体の創設を提案した。これは基本的には正しい方向だったと思う。しかし悲しいことに、彼には信念と実行力がなかった。官僚に丸め込まれ、アメリカの怒りを知るに及んで腰砕けになり、従来のままの対米従属路線に傾いていった。そして後を継いだ菅はすべての責任を鳩山政権に押し付け、最初から対米従属の道をひた走っている。日本にとって嘆かわしいのは、理想主義の鳩山にリーダーシップがなく、現実主義の菅にリーダーシップがあることだ。いまやメディアも政治家も、対米従属政策に誰も異議を唱えようとしない。

消費税問題もそうだ。鳩山は「4年間は増税しない」と言って消費税問題を封印したが、菅は首相になったとたん、現実路線に大きく舵を切り、消費税増税の必要を強調した。現状の国の財政を見るかぎり、遅かれ早かれ増税は避けられないだろう。でも、その前にやることがあるはずだ。これまでの自民党政権で膨れ上がった税金の無駄遣いを徹底的に削減しなければ、増税などやってはならない。事業仕分けなどによる表面的なやり方ではだめだ。公務員制度の改革、天下りや無駄な行政機関の一掃、議員定数の削減(議決投票をするだけのボンクラ議員が多すぎる。いまの人数の半分で充分だ)などの抜本的な問題には、まだまったく着手されていない。増税を説く菅首相の会見には、その辺への言及がまったくなかった。内閣支持率が発足当初から10パーセントも割ったことが判明した今日、彼はあわててムダの削減に取り組むと語ったようだが、遅きに失する。

理想に向かって突き進むには困難が伴う。現実に安住するほうがやり易いのは当たり前だ。でも国民は改革の理想に期待して民主党に投票したのではなかったか。理想を掲げ、なおかつ信念と実行力をもった政治家が、なぜいまの日本に現れないのだろう。

2010.06.12 (土)  ユダヤとイスラムの対立にほの見える、かすかな希望

“サラエボ・ハガダー”という値もつけられないような稀少な古書がある。ヘブライ語で書かれたユダヤ教の写本であり、細密画による美しい挿絵が描かれている。500年ほど前にスペインで作られたものだ。先ごろ読んだジェラルディン・ブルックス著『古書の来歴』(ランダムハウス講談社2010年刊)は、この書物が歴史の波にもまれながら、どのように生き残ったかを描いた歴史ミステリー小説だ。主人公は古書鑑定家の若い女性。行方不明になっていた“サラエボ・ハガダー”が発見され、保存修復を依頼された主人公は、本に付着していたいくつかの手がかりをもとに、イマジネーションを働かせてこの古書の来歴を推理する。

本書では、主人公がこのサラエボ・ハガダーを調査する現代の話と、その本がさまざまな人々の手にわたり、多くの障害を乗り越えて生き延びるさまを描く歴史上の過去の話とが、交互に語られる。1941年、ナチスによって、他のユダヤ関連の書物とともに焚書にされようとしていたサラエボ・ハガダーを救ったのは、イスラムの学者だった。そして1990年代初頭、ボスニア紛争のさい、セルビア軍の爆撃で破壊されつつあったサラエボの国立博物館からこの本を救ったのは、またもやイスラム教徒の博物館学芸員だった。

本書はフィクションだが、ここで語られる“サラエボ・ハガダー”は実在の書であり、またこのユダヤの古書を2度にわたって破壊から救ったのがイスラム教信者であったことも歴史上の事実である。ぼくが興味をそそられたのは、ユダヤ人と反目しているはずのイスラム教徒がユダヤの書を救ったという経緯だった。

この本を読んでぼくは、4月20日付の朝日新聞に載った、あるユダヤ人が書いた寄稿文を思い起こした。モントリオール大学の歴史学教授ヤコブ・ラブキンという人が寄稿した論文だ。ラブキン教授は、「シオニズム(イスラエルの地に祖国を建設しようという政治的イデオロギー)は本来のユダヤ教と相反する考え方だ。ユダヤ教徒はほかの民族を抑圧してはいけない。パレスチナ人を征服、抑圧することによって実現したイスラエルという国は、本来建設されるべきではなかった」と主張している。
 「イスラエルは、建国60年以上たったいまも自国をホロコーストからユダヤ人を究極的に守る存在と位置づける。だからこそ、世界中のユダヤ人コミュニティーに、ユダヤ人が唯一安全に暮らせるのはイスラエルしかないという恐怖感を植え付けようとしている。実際には同国はユダヤ人にとって最も危険な場所になっている」
 「国際法に違反する民族浄化に従事し、ガザ地区の一般市民に途方もない集団的な懲罰を加え、パレスチナ人の人権と国家建設への渇望を拒み続けるイスラエルの建国記念日を祝うことはできない。我々が祝うのは平和な中東においてアラブ、ユダヤ双方の人々が平等に暮らすときだ」
ぼくたちはユダヤ人というと、まっさきに、パレスチナ人を抑圧し、自国の権益拡大しか眼中にない好戦的な連中というイメージが思い浮かぶ。だが、この寄稿文を読んで、ユダヤ人といってもさまざまであり、このように真っ当な考え方の持ち主もいること、イスラエル・イコール・ユダヤではないのだということを思い知らされた。

イスラエルのパレスチナでの非道な行為は終わらない。つい5月末にも、ガザ支援船団をイスラエル軍が攻撃し拿捕するという事件が起きている。アメリカがイスラエルを支援するかぎり、イスラエルの暴挙はいつまでも続くし、アラブ人のテロによる報復は繰り返される。しかしユダヤ人のなかにも、ラブキン教授のような考え方の人がいるのだ。イスラエル国内にもパレスチナへの武力攻撃に反対する声がある。イスラエル軍のなかにさえ、パレスチナでの殺戮に反対し兵役を拒否する兵士が出てきている。問題なのは、それらが少数派だということだ。

それでも、ラブキン教授の寄稿文を読むと、そしてイスラム教徒がユダヤの古書を救ったという事実を知ると、パレスチナの和平への道にかすかな希望の光が見えてくる思いがする。

2010.06.02 (水)  マスコミが黙殺する2つの疑惑――その2「官房機密費の使途」

マスコミが採り上げようとしない、もうひとつのニュースは、官房機密費についての野中広務元官房長官の爆弾発言だ。

4月の末、野中氏は記者たちを前に官房長官時代の機密費の使途について語った。官房機密費は内閣官房長官が領収書なしに自由に使える金だ。今年度の予算では14億6万千円となっている。野中氏は、自民党の要職にあった議員のほか、野党議員、さらには評論家やマスコミの言論人にまで金を渡していたことを暴露した。
「政治家から評論家になった人が、“家を新築したから3千万円、祝いをくれ”と小渕総理に電話してきたこともあった。野党議員に多かったが、“北朝鮮に行くからあいさつに行きたい”というのもあった」「前任の官房長官からの引き継ぎ簿に評論家らの名前が記載され“ここにはこれだけ持っていけ”と書いてあった。返してきたのはジャーナリストの田原総一朗氏だけだった」
これまで断片的には伝わっていた話だが、官房長官経験者からこのように事実として語られたことの意味は大きい。

野中氏の発言で驚かされたのは、ジャーナリストに金がばらまかれていたということだ。議員たちの盆暮れの付け届けや外遊の餞別に我々の税金が使われていたことにも腹立たしいが、100歩譲ってそれは見逃すとしても、許せないのは権力を監視するべきジャーナリズムに金が渡っていたことだ。メディアの人間が政治権力から金銭供与されることなど、絶対にあってはいけないことだ。これは権力とメディアとの究極の癒着の構図だ。金銭や物品の供応に厳しい欧米でこんなことがあれば、笑いものになってしまう。金を受け取ったジャーナリストは即刻クビだし、業界では仕事できなくなる。

野中氏がいまこんなことを暴露した意図はどこにあるのか。政治の浄化のために告白したなどというきれいごとではありえない。ジャーナリストのなかで実名を挙げたのは、金を返したという田原総一郎だけだ(だからといって田原が免罪符を得たわけではない。たまたま野中氏のときは受け取らなかっただけということもありうる)。ここに意図的なものを感じる。つまり野中氏は、金をもらったジャーナリストの連中を、俺を攻撃したら田原のように名前をばらすぞ、と恫喝しているのだ。金を受け取ったジャーナリストの名前が明らかにされれば、評論家はメディアから相手にされなくなるし、記者だったらクビになる。金を渡した人間の実名は公表されるべきだが、野中氏は絶対に明らかにしないだろう。

この野中発言は新聞などで申し訳程度に、ごく小さい記事として載っていた。しかしその後、メディアの信用にかかわる重大な事件であるにもかかわらず、テレビや新聞ではいっこうに後追い記事がなく、黙殺され続けている。わずかに東京新聞が追いかけているだけだ。メディアの自浄装置が働いていないのだ。大新聞やテレビの記者たち、とくに編集委員クラスのなかに、身に覚えのある者がいるのではないか、と勘繰られてもしょうがない。

官房機密費といえば思い出すのは平野官房長官の就任早々の記者会見だ。彼は官房機密費について記者から訊かれ、「そんなのあるんですか」ととぼけた。けっきょく平野氏は機密費の使途を公開しないことに決め、鳩山首相もそれに同調した。民主党は野党時代には透明化を主張していたのに、政権をとって機密費を手にしたら、この豹変ぶりだ。これでは国民に見放されるのも無理はない。

これを書いている今日、たまたま鳩山首相の辞任という電撃ニュースが飛び込んできた。余談だが、鳩山政権失敗の最大の戦犯はこの平野官房長官だと思う。マスコミ劣化の要因のひとつは、旧態依然たる記者クラブ制度にある。民主党が政権交代前に約束していた記者クラブを解放するという案をつぶしたのは平野官房長官だった。彼はまた沖縄の米軍基地移設に関して、「民意を斟酌しなければならない理由はない」などと発言したこともある。まったく国民をバカにした態度だ。彼は首相をサポートするどころか、足を引っ張っていた。こんな厚顔無恥で自民党より保守的な体質の輩を官房長官に据えておくことが、政権への批判の強まりにつながることに、なぜ鳩山首相は気が付かなかったのだろうか。

公の権力が発言した内容をそのまま書くだけではジャーナリストとして半人前だ。その発言を吟味・検証し、隠された真実をつきとめることにジャーナリズムの本質がある。彼らの務めは権力を監視することなのだ。ところがいまの日本のメディアは、記者クラブという温床でぬくぬくと過ごし、権力に金をもらって飼いならされ、権力側の発言を検証もせず報じるだけに終始している。情けないことに、これがいまの日本のメディアの実態なのだ。

2010.06.01 (火)  マスコミが黙殺する2つの疑惑――その1「創価学会と後藤組」

最近の大手メディアの劣化、衰弱は目を覆うものがある。表面的には正義派面をしておきながら、実際はあたりさわりのないことしか活字にせず、権力の不正を暴こうとしない。記者会見などで公表された内容だけを報道し、実態を追求しようとしない。マスコミが劣化すれば、政治は停滞し、社会には不正義が蔓延する。

5月下旬に発売された写真週刊誌「フライデー」に、山口組系暴力団後藤組と創価学会の驚くべき癒着を暴露する記事が載った。これは元後藤組組長の後藤忠政氏が著した『憚りながら』(宝島社)という書籍を紹介する記事である。ぼくはこの本は読んでいないが、フライデーの記事によると。創価学会が60年代終わりから70年代にかけて、静岡県富士宮市で土地を買い漁っていたとき、後藤組を使って地元住民の反対運動を封じた経緯が書かれているらしい。後藤組は当時の創価学会の山崎正友顧問弁護士に依頼されて、池田大作名誉会長の了解のもと、反対派の弾圧にあたったという。創価学会が巨大権益にまつわるトラブルを処理するために後藤組を利用してダーティ・ワークをさせていた実態の一端が明らかにされていることになる。

公明党の支持母体である創価学会が、暴力団と癒着した関係を続けていたことが暴露されたのだ。これが事実なら、暴力団幹部の特等席での相撲観戦といったニュースなどとは比べものにならない、はるかに由々しい問題だ。本来なら国会で重大問題として取り上げられなければならない。ところが国会ではいっこうに取りざたされる気配がない。そしてテレビや新聞など、大手マスコミでもまったく黙殺されており、話題に上らない。活気を帯びているのはネットの世界でだけだ。政治もジャーナリズムもまともに機能していないのだ。

もともと創価学会は日蓮正宗の在家信徒団体なのに、いつのまにか宗教団体になり、池田大作名誉会長はまるで神様のように敬い奉られ、絶対権力をもつようになった。公明党を通じて政治の世界に進出、芸能界やマスコミから、警察、裁判所にいたるまで、あらゆる分野に信徒を送り込んでいる。大手メディアでは創価学会の話題はタブーだ。政治の世界でも、献金問題や矢野問題で池田名誉会長を国会で証人喚問しようという動きはあったが、実現には至っていない。どうも、この証人喚問という手は公明党を牽制するためのカードとして使われているふしがある。

何を信じるかは個人の自由だ。ぼくは無神論者だが、創価学会に入信しているからといってその人物を貶めるつもりはない。でも、信者たちが池田名誉会長をまるで教祖のように崇めるさまはに異常なものを感じる。創価学会ウォッチャーではないから、実態はよく知らないが、元公明党委員長の竹入義勝や矢野絢也、元顧問弁護士の山崎正友といったかつての大物幹部の多くが、脱会後、創価学会批判の急先鋒になっていること、言論妨害や離反者への脅迫といった話が絶えないこと、そして今回の暴力団との関係の暴露に関するマスコミの異様な沈黙ぶりなどが、この団体の暗部を物語っているように思う。

2010.05.25 (火)  沖縄基地問題で放置される日米同盟に関する論議

沖縄の普天間基地移設問題によって鳩山政権が揺らいでいる。けっきょく辺野古への移設という従来の案に沿ったかたちで決着することになりそうだ。だが沖縄県や名護市は絶対阻止という姿勢を崩していない。基地問題は本来、政権の死命を制するような大きなテーマではなかったはずだ。だが鳩山政権はこれに振り回されるばかりで、ぼくたちが期待していた公務員制度改革などの重要案件は遅々として進んでいない。マスコミは連日のように鳩山首相の迷走ぶりを取り上げている。

目に余るのはマスコミの論調の意識の低さだ。基地問題の根幹は日米同盟であり、これが続くかぎり、日本はアメリカの属国のままだし基地はなくならない。ところがマスコミは、鳩山首相の支離滅裂な言動や沖縄県民の阻止に向けての動きやアメリカの思惑といった目先のニュースを追いかけるだけで、肝心の安保条約は是か非かに関する論議は棚上げされている。まるでアメリカの意を体するかのように、マスコミは日本にとって安保条約の存続が当然であるかのような姿勢に終始している。

もともと冷戦という世界状況に対処するためのものだった安保条約は、冷戦が崩壊すると、存在意義はなくなった。だから、その時点でとうぜん見直しがなされるべきだった。ところが現実は、そのまま東アジアにおける中国や北朝鮮への安全保障という目的にすり替えられて継続してきた。しかし、いまや中国が日本に軍事行動をとることはあり得ないし、北朝鮮に、挑発行動は起こすにせよ、日本を攻めるだけの国力があるはずがない。それらの脅威が過大に論じられているにすぎない。米軍の駐留予算の7割は日本が負担している。ぼくたちの税金が使われているのだ。“抑止力”という幻のお題目のもとに、アメリカの軍事戦略のため、日本は金を出し、土地を提供してきたのだ。アメリカにとって、これほどおいしい話はない。

鳩山首相は5月初め、訪問した沖縄で「米海兵隊の抑止力が必要だということを学んだ」などと寝言みたいなことを言っていた。いったい何を考えて「普天間基地を、最低でも県外、できれば国外に移転する」と約束したのだろう。これでは小学生並みの現状認識能力しかないと言われてもしかたがない。首相が基地移設を白紙に戻すと言ったとき、ぼくは彼には思い切ったビジョンがあるのだろうと思っていた。アメリカに日本の要望を飲ませるには、安保条約の破棄という覚悟をもって交渉するしかない。折もよく、今年はちょうど安保条約締結から50年という節目の年であり、見直しの好機を迎えている。日本が安保条約を終了すると言ったら、アメリカは怒るだろう。アメリカの世界防衛体制の一角が崩れるからだ。さまざまな面で脅しをかけてきたり、嫌がらせをするだろう。でも、日本との関係を断ち切ることはできない。これだけ緊密に連携している社会経済情勢がそれを許さない。

いま、日本の採るべき立場はこうだ。<1>世界の宝ともいうべき平和憲法は遵守する。<2>安保条約を終了し、米軍基地を撤収させる。<3>自衛のための自前の軍隊をもつ(日本はすでに軍事費からすると世界で6番目の軍事大国だ)。これ以外に日本の進むべき道はない。

しかし実際は、そもそも鳩山政権の発足当初から、基地移設に関しては、北澤防衛相や岡田外務相といった担当大臣や平野官房長官(これは鳩山政権で最悪の閣僚かもしれない)は及び腰だった。やる気のなさが彼らの言葉の端々に表れていた。でも、鳩山首相が安保条約破棄も辞さないという強い意志で本気で交渉すれば、そして自分の考えを国民に示し、世論の後押しを得て、これが日本と日本国民の意志だと主張すれば、事態は動いたと思う。アメリカは政権の発言よりも世論の盛り上がりに敏感だ。しかし首相にそんな覚悟はなかったし、世論の後押しもなかった。けっきょくアメリカの思い通りになった。彼らはさぞかし、ほくそ笑んでいるだろう。

2010.05.24 (月)  米軍クラスター弾投下訓練と韓国艦沈没事件

先日、テレビ朝日の番組「ニュース・ステーション」を見ていたら、基地移設問題で揺れる沖縄で、米軍がクラスター爆弾の投下訓練をやっているというニュース映像を流していた。米空軍嘉手納基地から戦闘機がクラスター弾の実弾を装着して飛び立ち、近海の無人島に投下しているのだという。

クラスター爆弾は殺傷能力が高く非人道的な武器だとして、国際的に使用禁止にしようとする動きが進んでいる。クラスター爆弾禁止条約は日本も含めて世界の大多数の国が署名しているが、肝心のアメリカ、イスラエル、ロシア、中国などは署名していない。クラスター爆弾は爆撃による被害も凄まじいが、最大の問題は不発弾になる子爆弾の数が多いことだ。戦争により不発弾が散乱した土地に住む多くの人々、とくに子供たちが、不発弾の爆発で命を落としたり手足を失ったりしている。米軍が日本で投下訓練しているクラスター弾は、いずれアフガニスタンで、もしかしたら将来的にはイランで、実際に使われることになるだろう。日本もアメリカの戦争に加担し、爆弾の投下を手助けしていることになる。日本に米軍基地があるというのは、こういうことを言うのだ。

そんななか、3月末に韓国で起こった哨戒艦沈没事件は、大方の予想どおり北朝鮮の魚雷によるものだという調査報告が発表された。韓国は北朝鮮制裁のため国連の安保理に提訴するという。だが、どんなかたちで制裁が行なわれるにせよ、韓国と北朝鮮が戦火を交えることはないだろう。昔だったら報復攻撃し、全面戦争に突き進むケースだ。しかし現代においては、いくら深刻な二国間トラブルが起こっても、戦争にまで発展することはない。戦争になれば、勝っても負けても、その犠牲は甚大だし戦費もかさむ。だいいち、朝鮮半島の現状維持を望むアメリカや中国がそれを許さない。だから政治と外交による決着になる。

とはいえ、とうぜん軍事的緊張は飛躍的に高まる。韓国艦沈没事件が北朝鮮の魚雷攻撃によって起きたことは間違いないだろう。あらゆる証拠がそれを裏付けている。しかし、そのタイミングと影響を考えると、なにか胡散臭いものを感じる。韓国に駐留している米軍は撤退計画が進んでいるが、この事件による軍事的緊張により、その計画は白紙に戻されるだろう。沖縄の米軍基地移設問題をかかえる日本でも、やはり北朝鮮は怖い、日米同盟による抑止力は必要だ、沖縄の基地は必要だ、という論調が主流を占めることになる。すべてはアメリカの産軍複合体の思い通りにことが運ぶ。

北朝鮮がこれまで武力挑発を繰り返してきたことは確かだが、今回の事件が北朝鮮の仕業だったとすれば、その目的は何なのか、識者によっていろんな説が唱えられているが、誰もが納得できる決定的な説はない。北朝鮮の魚雷など、その気になればいくらでも偽装できる。アメリカの戦争につねに捏造がからんでいたのは歴史的事実だ。ベトナム戦争のトンキン湾事件、イラク戦争の大量破壊兵器など、アメリカはでっちあげによって攻撃の口実を作ってきた。だからといって、今回の事件がアメリカによる捏造だと言うつもりはないし、オバマ政権がそんなことをするとは思えない。でも、あまりに出来過ぎた話なのが気になる。

こうして軍事的緊張が醸成されれば、アメリカの存在感は増すし、米軍による安全保障の重要性も高まる。やはり日本にとって安保条約は必要だという方向に物事が流れる。これでは日本は、いつまでも日米同盟に依存し、米軍基地が存在し続けるであろうし、アメリカの戦争の片棒を担ぐことから抜け出せないままになってしまう。

2010.05.17 (月)  エコー・パークに幽かに響くモンクとコルトレーン

マイクル・コナリー作のハードボイルド・ミステリー、ハリー・ボッシュ・シリーズの新作「エコー・パーク」が翻訳出版された(古沢嘉通訳、講談社文庫)。これは紛れもない傑作である。前作「終決者たち」の出版が2007年、シリーズ外の「リンカーン弁護士」をあいだに挟んで、2年半ぶりのボッシュものだ。

前作でロス市警に復職したボッシュは、未解決事件班の刑事として再び難事件に取り組む。現在捜査中の連続女性惨殺事件が、13年前に起こった未解決の若い女性失踪事件に結びつく。ストーリーの流れは真っ向勝負のストレート、簡にして要を得た筆致で一気に読ませる。最近のミステリーにありがちな、まだるっこしい言い回しや思わせぶりの描写は、いっさいない。「天使と罪の街」で活躍したFBI女性捜査官レイチェル・ウォリングが再び登場してボッシュをサポートするのも彩りを与えている。ボッシュの一匹狼的な行動が軋轢を生み、検察の政治的な思惑や犯人と目される男の不審な言動などもあり、ストーリーは二転、三転するが、テンポがいいので話の展開は分かりやすいし説得力がある。

ボッシュ・シリーズはこれが12作目だが、1992年の第1作発表以来、18年ものあいだ、作者のコナリーがつねに第一級の内容を維持し続けているのは驚異的なことだと言わねばなるまい。この「エコー・パーク」は、“シリーズ最高傑作”というキャッチ・コピーは大げさにしても、出色の出来であることは間違いない。ボッシュ・シリーズはボッシュの内面に巣くう暗い怒りが人間的な陰影を生み出し、それがひとつの魅力になってきた。今作ではそのあたりがいまひとつ濃く描かれていないような気もするが、よく練り上げられストーリーと迫力あふれる筆致がそんな不満をはねのけてしまう。

ボッシュはジャズを愛聴しており、これまでの作品ではよく家でひとり静かにウィスキーを飲みながらマイルスの「カインド・オブ・ブルー」やペッパーの「ミーツ・ザ・リズム・セクション」といったジャズのCDに耳を傾けるシーンがあった。今作で彼が聴くのは、セロニアス・モンクとジョン・コルトレーンの「ライヴ・アット・カーネギー・ホール」というアルバムだ。これは1957年に吹き込まれたライヴ盤である。録音されたテープは長らくアメリカ議会図書館の倉庫で眠っていたが、録音から50年近くを経た2005年に発掘されCD化された。ボッシュはこれを“箱の中の奇跡”と言っている。彼が取り組む未解決事件とのアナロジーを連想させるこのCDは、事件の解明に微妙な影響を及ぼしている。このあたりの挿話もこの小説を魅力あるものにしている。

枝葉なことながら気になるのはボッシュの年齢だ。小説では、彼の年齢ははっきりとは触れられていない。だが彼はベトナム戦争に従軍しているから、それを考えると、どう若く見積もっても60歳にはなっているはずだ。事実、今回の小説にも、“ベトナムで戦って40年が過ぎた”というような一節が出てきたように記憶する。でも、小説でのボッシュの行動からして、とても彼が60歳を超えた男とは思えない。まあ、このあたりはあまり気にせず、素直にボッシュの活躍を楽しむべきなのだろう。

「エコー・パーク」は新作とは言っても、原書の発売は2006年であり、本国アメリカではそのあとボッシュ・シリーズはすでに2作も上梓されている。日本での翻訳が追い付いていないのだ。あとがきで訳者の古沢さんは、そのあたりの事情について説明すると同時に、昨今の厳しい翻訳ミステリー状況にも触れておられる。いまは音楽業界と同じく出版業界もずいぶん苦しいようだ。たしかにこのところ海外ミステリーの出版はずいぶん減ってきている。だが話題先行のベストセラーばかり追いかけていては、ますます翻訳ミステリー小説の固定ファンを失うことになる。せめてマイクル・コナリーのような作家の作品をきちんと発売しなければ、出版社は怠慢のそしりをまぬかれないだろう。

2010.03.22 (月)  ひたすら逃げる“祖国なき男”のたどる道は

作家がたまたま発表したミステリー小説が好評でその続編を書くということはよくある話だが、その続編が40年以上もたってから書かれるという例は、めったにあることではない。

イギリスの伝統的な冒険小説作家のひとりにジェフリー・ハウスホールドがいる。ハウスホールドは冒険小説の系譜で言えば、日本でも有名なハモンド・イネスやアリステア・マクリーンの先輩格にあたるが、1939年に発表した小説「追われる男」(Rogue Male)が冒険小説の古典として知られているにもかかわらず、翻訳された作品が少なく、日本での知名度はあまり高くない。そのハウスホールドが、1982年、前作を発表してから43年を経て書いた「追われる男」の続編「祖国なき男」(Rogue Justice)が、昨年末に翻訳出版された。「追われる男」が最初に邦訳されたのは1960年だから、それから数えると、日本ではじつに半世紀ぶりの続編発売ということになる。このところ数少ない骨太の冒険小説に仕上がっており、ファンの渇を大いに癒してくれた。

前作の「追われる男」(創元社文庫)は、題名どおり、ひたすら逃げまわる男の話だった。時代は第2次大戦前夜、ヨーロッパ某国の元首を暗殺しようとして失敗した主人公が、必死に追っ手を振り切り、なんとか母国イギリスに逃げ帰るが、そこにも暗殺者が送り込まれ、またもや徒手空拳で逃げまわる、という異色のサバイバル劇だ。主人公が書いた手記という体裁になっており、いかにもイギリスらしい淡々とした筆致だが、全編に強烈なスリルがみなぎっていた。だが奇妙なことに、主人公の逃避行は詳細に描かれるが、暗殺のターゲットである国家元首が誰かは書かれていないし、主人公の名前も明らかにされないし、動機も判然としなかった(とはいえ、誰が読んでも、相手の国がドイツでターゲットはヒットラーだということは容易に想像はつく。おそらく執筆当時、イギリスはまだドイツと戦火を交える前だったことを考慮して、こんな書き方をしたのだろう)。

この小説はフリッツ・ラング監督によって映画化されている。映画のタイトルは「マン・ハント」(1941年)。主演はウォルター・ピジョンとジョーン・ベネットが演じた。ここでは暗殺の相手はヒットラーであり、主人公を追いかけるのはゲシュタポと、はっきり設定されており、反ナチのプロパガンダ映画になっている。基本的な枠組みは原作と同じだが、細かい部分は大きく脚色されており、原作には出てこない女性との色恋なども描かれる。さすがにフィルム・ノワールの名匠ラングの作品だけに、光と影を巧みに使った霧の街ロンドンのサスペンスフルな描写などは見ごたえ充分だ。

そしてこのほど翻訳された続編の「祖国なき男」(同じく創元社文庫)だが、ここでは主人公は再度、ドイツに潜入してヒットラーの暗殺を企てるが果たせず、またもや広いヨーロッパ大陸の各地を逃げまわる破目におちいる。この続編では、前作ではぼやかされていたターゲットの名前も明記されるし、主人公の動機もすべて明らかにされている。前作では主にイギリスの丘陵地帯に舞台が固定されていたが、続編では主人公はイギリスに帰国できず、ドイツ、スロバキア、ルーマニア、ギリシャ、トルコと各地を転々とするし、前作では一匹狼で、ほとんど逃げることに終始していた主人公は、続編ではレジスタンスの連中と行動を共にし、銃を手にして応戦し敵を何人もやっつける。女っ気がないという点では前作も続編も同じだが、まったく女が出てこなかった前作に比べ、続編ではごく淡いロマンスの味付けもなされている。

ということで、活劇の度合いと逃亡のスケールからすれば、出来としては続編のほうが前作を上回っている。だが、常に誇りを失わず、不屈の闘志で困難に立ち向かう男を描く、という点では、甲乙を付けがたい。すべて一人称で書かれたこの本作は、前作ともども、簡潔で力強く、すぐれた冒険小説の見本のような作品だ。いま、このような抑制された文体で手に汗握る面白さを味わわせてくれるミステリーはめったにない。現代は硬派の冒険小説が生まれにくい時代なのだろうか。

2010.03.11 (木)  洋楽曲名あれこれ――その3「ジャズ・スタンダード」

  さて、ジャズでよく演奏されたり歌われたりするスタンダードの邦題だが、戦前から親しまれているだけに、由緒正しい(?)日本語が使われており、さすがに今となっては古めかしいと感じられる言葉も目につく。戦後に定着したスタンダード・ソングの日本語題名は、50年代終わりにジャズ・ヴォーカルの評論家として活躍していた大橋巨泉氏が命名したものが多いと聞く。「あなたはしっかり私のもの」(I've Got You Under My Skin)、「君にこそ心ときめく」(I Get a Kick Out of You)、「口に出せない素晴らしさ」(Too Marvelous for Words)などがそうらしい。さすがに元俳人だけあり、日本語としてのリズム感がいいし、立派な曲名だと言える。

  そんな巨泉氏がつけた曲名に、有名な誤訳がある。コール・ポーター作の「帰ってくれたらうれしいわ」(You'd Be So Nice to Come Home To)だ。言うまでもなく、クリフォード・ブラウンをフィーチャーしたヘレン・メリルの歌がこの曲の決定版とされている。最初この曲名を見たとき、間違いだとは分からなかったが、原題の最後に "to" がついているのが妙に気になって、これは "to me" ということだろうけど、なぜ "me" が省略されているのか疑問に思ったものだ。その後、この邦題は誤訳らしいという噂が流れ、やがてシナトラ協会を主宰している三具さんのヘレン・メリルへのインタビュー記事により、正解が分かった。この曲名は“家に帰ってあなたに会ったら、きっとあなたは素敵でしょう”という意味なのだ。つまり、家で帰りを待っているのではなく、旅先にいる男(女)が、家で待っている女(男)を想う歌なのだ。原題を補足すると、「You'd Be So Nice (for Me) to Come Home to (You)」ということになる。だから、たとえば「あなたのもとに帰りたい」というような訳が相応しいだろう。ポーターの曲には、ひねった歌詞が多い。この曲もそうだが、説明されればなるほどと思うし、歌詞に出てくる“そよ風に吹かれているあなたは素敵”とか“月の光を浴びているあなたは素敵”とかのフレーズも納得がいく。

  同じコール・ポーターに「さよならを言うたびに」(Everytime We Say Goodbye)という曲がある。これにも、いかにもポーターらしい洗練された歌詞が付いており、レイモンド・チャンドラーの小説「長いお別れ」にフランス人が言った言葉として出てくる“さよならを言うたびに私は少しづつ死ぬ”というフレーズなども挿入されているが、題名はストレートで、間違えようがない。しかし以前は「いつもさよならを」という珍妙な日本語名が付いていた。"everytime" を“いつも”と解した誤訳である。
  "You Stepped Out of a Dream" はフォー・フレッシュメンやソニー・ロリンズの演唱で知られる曲だ。大昔にヴァンプ女優のラナ・ターナーが出たハリウッド映画で、彼女が階段を下ってくるシーンで使われ、以後、ターナーのトレードマーク・ソングになった。これには「夢から覚めて」という邦題が付いているが、じつは“君は夢の中から抜け出したようだ。目も唇も笑顔も、すべてが美しすぎる”という、恋人の美しさを熱烈に賛美する歌であり、明らかな誤訳だ。もっとも、適切な邦題はと言われても、なかなか思い浮かばないが。

  "Willow Weep for Me" というバラードの名曲がある。ジャンヌ・モロー主演、ジョセフ・ロージー監督の悪女映画「エヴァの匂い」で、ビリー・ホリデイの歌うこの曲のレコードが印象的に使われていた。正しい邦題は「柳よ泣いておくれ」だが、「柳は泣いている」とか「柳はむせぶ」とか、間違った曲名が使われることが多い。"weep" には "s" が付いていないので、“泣いている”ではなく、命令形の“泣いてくれ”と解さなければならない。
  ニューオリンズ・ジャズでよく採り上げられる曲のひとつに、ルイ・アームストロングの持ち歌として知られる "Do You Know What It Means to Miss New Orleans?" というスタンダードがある。これに以前は「ミス・ニューオリンズ」という訳名が付いていた。"miss" を独身女性に付ける敬称ととったことによる間違いであり、ここでの miss" は言うまでもなく“〜がなくて寂しい”という意味である。いまは正しく「ニューオリンズを忘れることは」とか「懐かしのニューオリンズ」という題になっているようだ。

  明らかな間違いとまでは言えないにせよ、誤訳とすれすれのところにある邦題もある。映画「カサブランカ」で使われてスタンダードになった "As Time Goes By" だ。これは「時のたつまま」または「時の過ぎゆくまま」という日本語曲名だが、“時がたち、時代を経ても、男が女を求め、女が男を愛するという原則は、永遠に同じ”という、やや月並みな人生の真理を歌った内容であり、曲名としては「時はたっても」のほうが相応しい。
  もうひとつ、30年代にバニー・ベリガンの歌とトランペットで大ヒットした "I Can't Get Started (with You)" という曲は「言い出しかねて」が定訳名だが、歌詞からすると“私はどんなことでもやってのけるし、誰からも愛されるのに、あなただけは思い通りにならない、あなたとだけは恋をスタートすることができない”という曲であり、正しい訳かどうか、微妙なところだ。とはいえ、これも相応しい邦題を付けるのは難しい。「君だけはなびいてくれない」じゃ様にならないし・・・。

  誤訳ばかりをあげつらったが、もちろん素晴らしい曲名もある。これまで見てきたように、おおむね主語述語が備わり完結した文章になっている原題は日本語に置き換えるのが難しいが、そんな英文をうまく訳してある邦題などは感心する。「月光のいたずら」(What a Little Moonlight Can Do)、「時さえ忘れて」(I Didn't Know What Time It Was)、「捧ぐるは愛のみ」(I Can't Give You Anything but Love)などは名訳と言えるだろう。ジャズのスタンダードとは言い難いが「月光価千金」(Get Out and Get Under the Moon)も見事な邦題だ。我々にはキング・コールの歌で馴染み深いが、戦前にエノケンの歌でヒットしたときに付けられた曲名のようであり、さすがに時代を感じさせる。「浮気はやめた」(Ain't Misbehavin')や「恋したみたい」(Almost Like Being in Love)なども、特にどうということもないようだが、まさにこれしかないという鮮やかな曲名だと思う。

  こうやって見ていくと、名訳にしろ誤訳にしろ、それに取り組んだ先人たちの苦心の跡がうかがえる。こういったスタンダードもいまのCDではカタカナで表記されることが多いようだが、それも時代の流れだろう。でも、ぼくにとっては「イフ・アイ・ワー・ア・ベル」よりも「もしも私が鐘ならば」のほうに愛着があるし、「ホエア・オア・ホエン」よりも「いつかどこかで」のほうがしっくりくる。そんな感覚は、もう古臭いものになってしまったのだろうか。

2010.03.04 (木)  2つの涙

  先週、日本中の多くの人々がテレビで目撃した2つの涙があった。ひとつは言うまでもなく、浅田真央がバンクーバーで流した涙だ。

  ぼくは冬季オリンピックにはあまり興味をそそられない。若いころスキーやスケートをかじったことはあるが、もともと足元がしっかりしていない場所は好きじゃない。それにスキーやスケートの選手の多くは、帽子をかぶりサングラスをしているので、誰が誰だがよく分からないし表情が見えないのも、魅力が削がれる理由のひとつだ。それでもフィギュア・スケートの真央ちゃんとキム・ヨナの対決はスリリングだった。結果はキム・ヨナの圧勝に終わったわけだが、スケートにはど素人のぼくから見ても、キム・ヨナの安定感のある、滑らかで優雅な演技は、どこか堅さのある真央ちゃんのそれを、明らかに上回っていた。
  真央ちゃんはコーチ・サイドのゲーム・プランに問題があったのではないだろうか。彼女は演技曲に重苦しい曲を選び、トリプル・アクセルに固執した。でも、ああいう場面では、重厚な芸術性を打ち出すよりも華やかに舞い踊るほうが印象的だし、トリプル・アクセルの得点配分がそれほど高くないことだって分かっていたはずだ。それとも、まともにはキム・ヨナに勝てないので、あえてそうやって一発逆転を狙うという作戦だったのだろうか。いずれにしても、識者やマスコミは、難易度の高いジャンプにそれほど重きを置かない採点方法を問題にしていたが、ルールがそうなっている以上、終わったあとでそれに文句を言っても意味がない。
  競技のあとに真央ちゃんが流した悔し涙に、ぼくは彼女の負けん気の強さ、勝利への執念を見た。そんな堅固な意志、靭い精神があったからころ、つらい訓練に耐えて、ここまでこれたのだろうと思った。メダルを狙うほどのスポーツ選手は、さまざまな誘惑を抑え、日々の厳しい練習や体の鍛錬や食事制限を自らに課さなければならない。いくら運動神経があっても、軟弱な精神では駄目なのだ。軟弱さでは人後に落ちないぼくなどは、真っ先に脱落する。スポーツにしろ音楽にしろ、一芸に秀でた人は、けっして最初から天才なのではない。強固な意志による努力の積み重ねが一流のスポーツ選手やミュージシャンをつくる。真央ちゃんはまだ気力が衰えていない。つぎの世界選手権ではキム・ヨナに勝ちたいと言っている。今度はきっと悔しさを晴らすことができるだろう。

  もうひとつ、ぼくたちが目にしたのは、トヨタ自動車の豊田章男社長が流した涙だった。アメリカに行き下院公聴会で証言したあと、現地ディーラーとの会合に出席した豊田社長は、ディーラーたちの励ましの言葉を聞き、涙を流した。緊張を強いられる公聴会が終わってホッと一息ついたところに、仲間たちから熱い支援のメッセージが発せられ、感極まって思わずこみ上げた涙だった。孤立無援の覚悟で敵地に乗り込んだら、思いもかけず味方がいたという心境だろう。
  今回のアメリカでのトヨタ騒動はバッシングと政治ショーの臭いがプンプンする。アメリカによる、世界一の自動車会社の地位を日本に奪われたことに対するトヨタたたきと、選挙を前にしての議員たちの地元民へのデモンストレーションだ。日本の政府の手をこまねいて傍観するだけという無策ぶりが腹立たしい。公聴会はなんとか乗り切ったが、トヨタの試練はまだまだ続く。豊田社長の経営手腕がどうなのかは、よく分からない。一部には創業家出身のお坊っちゃんぶりを揶揄する声もあるようだが、ただのボンクラとも思えない。少なくとも奥田元会長よりはましだろう。小泉、竹中と結託し、構造改革という名のもとに日本を衰退に追い込んだ元凶のひとりが奥田だ。奥田のとった安易な拡大路線がいまの大量リコールにつながっているのは明らかだ。
  トヨタ問題に関する報道のなかで、電子制御という言葉がしばしば登場したが、ぼくにとっては耳慣れない言葉だった。車に詳しい人にとっては常識なのかもしれないが、現在の車にこれほどまでコンピューター・システムが組み込まれているとは知らなかった。いまやコンピューターがなくては車も動かない時代なのだ。もう後戻りはできない、この流れはもっと加速するだろう。いまさらながら、世の中のコンピューターの浸透ぶりに驚かされる。未来はまったく予測がつかない、いや、実際はだれかの予測のもとに動いているのかもしれない。コンピューター社会の恐ろしさは、これまで小説や映画でいろいろ描かれているが、ジェフリー・ディーヴァーの新作「ソウル・コレクター」のように、ITを駆使してあらゆる情報を集め、権力を握り社会を操ろうとする者が、いつ現れてもおかしくない。

2010.03.01 (月)  洋楽曲名あれこれ――その2

ポップ&ロックの世界で有名な誤訳曲名に、ビートルズの「ノルウェイの森」(Norwegian Wood)がある。歌詞の内容と、森だったら woods になるはずだ、という理由からして、原題の意味は“ノルウェイの森”ではなく“ノルウェイ製の家具”なのだそうだ。でも歌詞はあいまいだし、単数の wood でも森を意味する場合があり、そうだとは断定できない。最近は“ノルウェイ産の木材で内装された部屋”という説が有力らしいが、knowing she would という言葉の語呂合わせで、たんなる駄洒落だという説や、ノルウェイの森を思わせる部屋という意味だから“ノルウェイの森”という題でいいんだという説もあるようだ。なにしろビートルズだし、村上春樹の同名小説が大ヒットしたこともあり、こうだああだと論議がかまびすしい。ビートルズの曲では、ほかにも「抱きしめたい」(I Want to Hold Your Hand)が誤訳として知られているが、これは曲の雰囲気を考え、意図的に“君の手を握りたい”じゃなく“抱きしめたい”にしたらしい。似たような意図的な誤訳に、ジョン・デンヴァーの「太陽を背に受けて」(Sunshine on My Shoulders)がある。たしかに“太陽を肩に浴びて”よりはこのほうが日本語としてしっくりくる。“肩”といえば、古いポール・アンカのヒット曲に「あなたの肩に頬うめて」がある。原題は "Put Your Head on My Shoulder" であり、邦題とは逆に“ぼくの肩に君の頭をあずけて”ということになるが、これも日本語にしにくいので、あえてこうしたのかもしれない。

ビートルズが出たらエルヴィス・プレスリーにも触れなければなるまい。50年代のエルヴィスのヒット曲のひとつに「ただ一人の男」(I Was the One)がある。これは明らかな誤訳であり、歌詞に "I was the one who taught her to kiss" とあるように、この one は“ひとつ”という意味の名詞ではなく、ものを表す代名詞だ。歌詞の中身は“彼女にすべてを教えたのは俺なのに、彼女は俺に嘘をつき、裏切った。でも俺は嘘をつくことなんか教えてない。いったい誰が教えたんだ”という内容であり、「教えたのは俺なのに」というような曲名が妥当だろう。50年代のエルヴィスには面白い曲名が多い。「ドントまずいぜ」(Don't)などは傑作で、大いに笑える。これはいまでは「ドント」というカナタナ表記になってしまっている。ほかに「どっちみち俺のもの」(Anyway You Want Me)、「浮世の仕打ち」(How's the world Treating You)などの曲名には、いかにも時代の雰囲気がうかがえる。60年代初期の大ヒット曲「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」(It's Now or Never)はカタカナ表記になっているけど、昔は「今宵かぎりの恋」という題だったように思うのだが、記憶違いだろうか。ぴったりはまった曲名としては、「あの娘が君なら」(She's Not You)や「恋のあやつり糸」(Please Don't Drag That String Around)などが挙げられよう。

ボビー・ヴィーが歌った60年代のヒット曲に「燃ゆる瞳」というのがある。原題は "The Night Has a Thousand Eyes"。ジャズ・ファンならお分かりのように、ウィリアム・アイリッシュ原作映画の主題歌で、コルトレーンなどの演奏でジャズ・スタンダードになっている「夜は千の眼を持つ」の同名異曲だ。「燃ゆる瞳」は、“君が嘘をついても、夜空の星が君のやったことを見てるよ”というという歌詞であり、恋人の不実をなじる曲だ。だからこの邦題も誤訳の臭いがする。今回のテーマからは少し逸れるが、日本ではヒットしなかったけれど、ジム・ロウという歌手が50年代終わりに歌った曲で、「グリーン・ドア」(Green Door)というロックンロール調のナンバーがある。“あの緑の扉の向うから、ピアノの音や楽しそうな笑い声が聞こえるけど、いったい何をやってるんだろう”という内容の曲だ。ぼくは以前から、このタイトルと歌詞の中身からして、70年代初頭のアメリカ・ポルノ映画の古典「Behind the Green Door」と関係があるに違いないと思っていた。最近 Wikipedia で調べてみたら、やはり「Behind the Green Door」は、この「グリーン・ドア」という曲にインスパイアされてつくられた映画らしい。

前回にも書いたように、60年代前半の日本の洋楽ポップス業界では、一つの曲がヒットしたら、それにあやかるため、その後も同じイメージの曲名をつけるというやり方が流行した。これは日本独特のスタイルであり、欧米にはあまり例がない。そんななかで忘れられないのは“フルーツ娘”ナンシー・シナトラの曲だ。「レモンのキッス」がヒットして、「イチゴの片想い」「リンゴのためいき」「フルーツカラーのお月さま」と、原題とはまったく関係ない果物路線の曲名が続いた。それから“街角男”と異名をとったデル・シャノンがいる。「悲しき街角」「花咲く街角」と続き、「さらば街角」で打ち止めになった。“霧男”ジョン・レイトンも印象深い。「霧の中のジョニー」と「霧の中のロンリー・シティ」の2曲しかないが。こうやって書いていくと、当時の洋楽ポップスの曲名は、プリミティヴで他愛ないけれど、夢があったし活気に満ちていたとつくづく思う。時代が若かった、ポップスの青春時代だったのだ。

次回はジャズのスタンダード・ナンバーについて書くことにする。

2010.02.22 (月)  洋楽曲名あれこれ

  洋楽曲の曲名や外国映画タイトルの日本語表記がカタカナ中心になったのは、いつごろからだろうか。さすがに原語がフランス語やドイツ語だったらカタカナにはしないようだが、英語が原語のものは、いまでは大多数の題名がカタカナ表記になっている。もっとも、最近は仕事の場やマスコミや政治の世界も含め、巷にカタカナが氾濫しているから、社会全体がそうなってしまっているのだろう。
  なにしろ、いまや菓子はスイーツだし、売店はショップだし、新聞ではガヴァナンスやライフラインやコンプライアンスやゼロシーリングといったわけの分からない言葉が踊っている。誰もがそんな言葉の意味が分かるほど日本の国民の英語力が向上したとは思えない。要するに、欧米が身近になったことに加え、雰囲気、カッコよさ、分かったような気になる、というようなことから使われているわけだ。こうもカタナカが蔓延すると、かえって平仮名と漢字による日本語のほうが、新鮮に響いてくる。
  いまでは、洋楽CDのタイトルや曲名はカタカナが圧倒的に多い。それに輪をかけた状態なのが洋画だ。出版業界はそうでもないようだが、それでも村上春樹の新訳(「長いお別れ」→「ロング・グッドバイ」、「ライ麦畑でつかまえて」→「キャッチャー・イン・ザ・ライ」)のように、最近はカタカナの邦題が増えている。いまのレコード会社や映画会社の担当者は、いちいちインパクトのある日本語にしようと頭を悩ます必要がないから、楽だろう。昔はそうではなかった。30年ほど前、ぼくがレコード会社の洋楽で編成を担当していたときは、原題の意味を調べ、歌詞の内容をチェックしながら、どんな日本語タイトルにしようか、あれこれ思案したものだ。

  曲名の付け方には時代の風潮があるが、そのころ、1970年代は、それより一昔前の50〜60年代風の曲名がまだ幅を利かせていた。50年代終わりから60年代初めにかけての洋楽ポップス黄金時代には、ある曲がヒットしたら、それと同趣向の曲名が次々に出てくるという現象があった。「悲しき・・・」や「恋の・・・」がその代表格といえる。「悲しき・・・」の嚆矢は1960年のケイシー・リンデンが歌った「悲しき16才」だった。これが大ヒットし、以後「悲しきインディアン」「悲しき少年兵」「悲しきかた想い」「悲しきあしおと」「悲しき街角」「悲しきカンガルー」「悲しきクラウン」「悲しき悪魔」「悲しき雨音」「悲しき女学生」「悲しき願い」「悲しき戦場」「悲しき天使」「悲しきジプシー」と、何年にもわたって続々とつくられた。
  「恋の・・・」もたくさんある。これは「恋の日記」(1959年)、「恋の片道切符」(1960年)というニール・セダカのヒット曲がきっかけだったと思う。その後「恋の一番列車」「恋の汽車ポッポ」「恋の条件反射」「恋の売り込み」「恋のアイドル」「恋のむせび泣き」「恋のパームスプリングス」「恋のバカンス」「恋の渚」「恋のハッスル」「恋のレッスン」と出てきて、「恋の終列車」「恋の診断書」「恋のサバイバル」「恋のナイト・フィーバー」と70年代まで続いた。ぼくがレコード会社に入ったころ、曲名をつけるとき、困ったら頭に“恋の”をつけたらいい、と先輩に教わったことがある。
  インストものでは、なんといっても「・・・ブルース」が白眉だ。1958年のベルト・ケンプフェルト楽団による「真夜中のブルース」のヒットが発端だった。そのあと、ケンプフェルト自身の曲も「星空のブルース」「欲望のブルース」「面影のブルース」と続き、そのほか「白い夜霧のブルース」「黒い傷あとのブルース」「白い渚のブルース」「褐色のブルース」「青い灯影のブルース」「暗い港のブルース」(なぜか色に関連したネーミングが多い)など、トランペットやサックスやクラリネットをフィーチャーしたムードっぽい器楽演奏曲には何でも“ブルース”と曲名が付けられた。アート・ブレイキーのジャズ・ナンバーも「危険な関係のブルース」という邦題でヒットした。これらのなかで実際に音楽的にブルース形式なのは「褐色のブルース」だけだ。ほんとうはブルースじゃないのに曲名にブルースが入るのは、淡谷のり子などの戦前の歌謡曲以来の日本の伝統だろう。

  邦題をつける場合、英語をそのままカタカナにすれば問題ないが、日本語訳するとなると、とうぜん誤訳も生まれる。カントリーのスタンダードに "Have I Told You Lately That I Love You" という曲がある。かつてこれに「打ち明けるのが遅かったかい」という題がついていた。これは "lately" を "遅い" と解釈したことによる間違いであり、この場合、 "lately" はとうぜん "最近" という意味だ。いまは「愛しているって言ったっけ」と、正しい曲名になっているようだ。同じカントリーの曲でも、ウィリー・ネルソンの名曲 "Funny How Time Slips Away" の邦題「時のたつのは早いもの」などは見事な訳名といえる。カントリーには誤訳ではないが珍妙な訳もある。 "Sunny Side of the Mountain" という曲には、「陽のあたる山の腹」という定訳名がある。“山の中腹”や“山腹”ならともかく、“山の腹”はないだろう。
  R&Bナンバーにも珍訳はある。テンプテーションズのヒット曲に "Beauty Is Only Skin Deep" というのがある。これには「美人はこわい」という邦題がついていた。初めてこの曲名を見たとき、思わず笑ってしまった。原題の意味は、“美しさなんてたかが皮膚の皮一枚だけのことじゃないか”という意味だが、それが“美人はこわい”になるのだから、恐れ入る。なぜそうなったか分かるような気もするが。素晴らしい邦題もある。グラディス・ナイト&ピップスの「さよならは悲しい言葉」だ。原題は "Neither One of Us (Wants to Be the First to Say Goodbye)" という長いタイトル。原題に即し、曲の内容も踏まえた、この美しいバラードにぴったりの名訳だと思う。もっと古い曲では、ブラウンズの「谷間に三つの鐘が鳴る」(The Three Bells)やビリー・ヴォーンの「峠の幌馬車」(Wheels)などが、そっけない原題をうまく日本語にした例として印象に残っている。

  誤訳にしろ珍訳にしろ名訳にしろ、日本語訳の曲名には味があるし、潤いが感じられるし、曲のイメージが浮かんでくる。それに比べて、タカタカの曲名のなんと無機的で味気ないことか。こんなところにも、昨今の洋楽ポップス衰退の一因があるのかもしれない。

2010.02.16 (火)  耐える男の美しさを描き続けたディック・フランシス

ディック・フランシスが亡くなった。2月14日のことだ。89歳だった。死因は老衰だという。リアル・タイムでフランシスの書く競馬シリーズと称されたミステリー小説を読み続けてきたぼくとしては、感慨深いものがある。フランシスはもとはイギリスの障害競馬のチャンピオン・ジョッキーであり、騎手を引退後、1962年に自分の体験をもとにミステリー小説を発表、以後ほぼ年1作のペースで、一貫して競馬を題材にしたミステリーを書き続けた。2000年に執筆を手助けしてきた妻が死んで筆を折ったが、2006年に息子の協力を得て再開し、4年が経ったところだった。

ぼくは日本で最初に翻訳出版されて以来、フランシスの小説を欠かさず読んできた。最初に出たのは、本国イギリスでは第3作の「興奮」だった。ぼくがまだ大学生のころだ。資料を見ると1967年だったようだ。すでにその時点で、イギリスでは5作も発売されていた。だから日本への紹介はかなり遅れたことになる。それから第4作の「大穴」が翻訳され、やっと日本語版第3弾として、本国第1作の「本命」が発売された。以後はほぼ順を追って、イギリスで発表されるごとに翻訳されてきた。

ぼくは競馬にはまったく興味がないが、フランシスの競馬シリーズには心を奪われた。フランシスのミステリーは、競馬はあくまで素材であり、本質は冒険的な色彩を帯びたハードボイルド小説だった。主人公は、つねに自分なりの行動規範と男としてのプライドをもつ、克己心に富んだ人間だ。そんな男が、逆境をはねのけ、卑劣な妨害に耐え、静かな闘志を胸に秘めながら、競馬界にはびこる不正や陰謀を暴く。主人公たちはけっしてスーパーヒーローではない。ときには敵に捉えられて痛めつけられ、恐怖のあまり失禁したりもする。だが人間としての誇りと意地は失わない。障害競馬の騎手はつねに恐怖と闘っている、と彼は書いている。フランシスは、人はいかにしたら恐怖を克服することができるかを描きたかったのではないだろうか。彼の小説には、耐える男の美しさがあった。それはハードボイルドの真髄そのものだ。そんな男の物語にぼくたちは胸を熱くした。

フランシスの競馬シリーズは全部で43作ある。日本ではすべて早川書房から発売されている。ぼくがいちばん愛着があるのは、初期の10作ほど、「本命」(1962)から「煙幕」(1972)あたりまでである。これらは、どれも遜色なく、圧倒的におもしろい。このシリーズは最初のうちは早川ポケミスで出ていたが、途中から単行本になった。ところが、ちょうど単行本に切り替わったあたりから、微妙にトーンダウンしてきた。初期のころの濃密な気迫がなくなってきたし、人間像の陰影も薄れ、サスペンスの味も鈍ってきた。それでも読み続けたのは、フランシス独特の空気は持続されていたからだ。毎年、年末に出る新作が楽しみだった。2000年に休止したときは寂しさを覚えたが、5年の空白を経て再起したときは嬉しかった。80歳を超えてなお彼が書く意欲をみせたことに喝采を送った。内容としては、全盛期の出来には比べるべくもなかったが、それでもフランシスらしい雰囲気は保っており、充分に読む楽しみを味わわせてくれた。

驚くべきことにフランシスは、これだけ多くの小説を書いているのに、4作に散発的に登場する隻腕の元騎手シッド・ハレーを除き、同一の人物を登場させていない。ミステリー作家は、アイデアが途切れたときや作家として曲がり角に来たとき、同一の主人公を使ってシリーズ化することが多い。そのほうが書きやすいからだが、そんな場合、それまでの勢いが失速するケースがほとんどだ。ギャヴィン・ライアルしかり、A. J. クィネルしかり、ポーラ・ボズリングしかり。みな、それまではさまざまな主人公によって読み応えのある小説を書いてきたのに、同一の主人公でシリーズ化したとたん、つまらなくなってしまった。だがフランシスはその方向には行かなかった。これは希有なことだと思う。だから、初期と中後期では出来に差があるものの、一貫して高水準を維持できたのだと思う。

フランシスの小説は、2000年の中断まで、すべて菊地光が訳している。名訳という人も多いが、ぼくは異論がある。たしかに最初のうちは歯切れのいいシンプルな文体がいいと思ったが、何冊も読んでいるうちに、いつもまったく同じ調子、同じパターンなのに抵抗感を覚えるようになった。まず、やたらに主語が省略される。それからどの小説の主人公も会話の言葉ががいつも同じ口調になっている。さらには、菊地光が訳した他の小説、たとえばロバート・B・パーカーなどの訳文とフランシスの訳文が、まったく同じ調子の文体なのだ。つまり、原文に即しておらず、どれも訳者の文体で統一されてしまっているのだ。2006年の再起以後の小説は、菊地が逝去したので、弟子だという北野寿美枝が訳しているが、こちらほうが(おそらく)原文に即しており、菊地訳よりはるかに好ましく感じる。

翻訳の題名にも違和感がある。フランシスの小説は、「本命」「度胸」「興奮」「大穴」「飛越」といった具合に、すべて漢字2文字で表記されている。原題が基本的に単語1語か2語だからという理由もあるのだろうが、しかしこれだと、みな似たような題名になってしまうので、どれがどれだが識別できない。フランシスの小説には、競馬関係者だけでなく、いろんな職業の人物が主人公として登場するが、たとえばイギリスの諜報部員が行方不明になった名馬を捜索するのはどれだっけ、人気俳優が南アフリカで活躍するのはなんていう小説だっけ、と思っても、題名が浮かんでこないのだ。小説の面白さとは関係ないことであるにせよ、ファンとしては困ったことではある。

ひところ、フランシスの小説はすべて妻のメアリーが書いていたというニュースが飛び交ったことがある。たしかに調査や構成などで妻が協力していたのは事実らしい。真実は不明だが、たとえ妻が書いていたにせよ、競馬シリーズが素晴らしいミステリー小説だったことに変わりはない。2006年の再起以降は息子のフェリックスが協力してきたという。再起第2作以降はフェリックスとの共著になっている。フランシス亡きあと、どうなるのか分からないが、再起以降の小説の出来からしてフェリックスに才能があることは確かなようなので、できれば彼に父の衣鉢を継いで書き続けてもらいたいものだ。

2009.12.26 (土)  2009年映画ベスト10

ジャズ・アルバムの今年のベストをリスト・アップしようとしたが、ぼくが聴いたかぎりにおいて、ことさら収穫と言えるようなものはなかった。たいていの新譜には耳を通しているはずだが、心に残るサウンド、繰り返し聴きたいと思わせる音楽は数少なかった。だからジャズのベストを挙げるのはやめ、そのかわり今年見た映画で印象に残ったものを挙げることにする。

          1.レスラー (監督:ダーレン・アロノフスキー 2008年米)
          2.扉をたたく人 (監督:トム・マッカーシー 2008年米)
          3.グラン・トリノ (監督:クリント・イーストウッド 2008年米)
          4.スラムドッグ$ミリオネア (監督:ダニー・ボイル 2008年英)
          5.幸せはシャンソニア劇場から (監督:クリストフ・バラティエ 2008年仏)
          6.ウェディング・ベルを鳴らせ (監督:エミール・クリストリッツァ 2007年セルビア/仏)
          7.正義のゆくえ〜IEC特別捜査官 (監督:ウェイン・クラマー 2009年米)
          8.イングロリアス・バスターズ (監督:クエンティン・タランティーノ 2009年米)
          9.パイレーツ・ロック (監督:リチャード・カーティス 2009年英/独)
        10.ベンジャミン・バトン〜数奇な人生 (監督:デヴィッド・フィンチャー 2008年米)

相変わらず、金をかけたハリウッド映画には、記憶に焼きつくようなものはなかったし、たくさんつくられている日本の映画も見ようという気にさせられるものはなかった。いい映画だったと心に刻み込まれるのは、やはり作り手に訴えたいもの、表現したいものがあり、それが明確に巧く示された作品ということになる。

1位に挙げた「レスラー」には、力が衰え、落ちぶれてもなおプライドを持って生きようとするレスラーの姿が描かれる。不器用な彼は心が離れた娘との関係を修復できないし、惚れあったストリッパーとの愛も成就できない。容貌魁偉に変身した主演のミッキー・ロークははまさに適役だし、ストリッパー役の大好きなマリサ・トメイの演技も絶品だ。2位の「扉をたたく人」も奥深い映画だ。孤独な老大学教授と外国から来た若者との心の触れ合いと、中近東出身者への不当な差別の実態が描かれる。主演のリチャード・ジェンキンスがいい味を出しているし、端役も含めて出演者全員の自然な演技がリアリティを生んでいる。公開当時、全米でたった4館での上映だったが、しだいに注目され、最終的には270館に拡大し、6か月にわたるロング・ランになったという話には、アメリカの良心を見る思いがする。

3位の「グラン・トリノ」はいかにもクリント・イーストウッドらしい作品。筋立てはむかしの西部劇のパターンの現代版を思わせる。頑固な人種差別主義者の隠居した元自動車工が、隣家の中国からの移民家族と親しくなり、その家の少年を男として鍛え、悪辣な中国系チンピラと対決する話で、きれいにまとまっている。ただし、エンディングの描き方には違和感がある。4位の「スラムドッグ$ミリオネア」はオスカーを受賞し、世界中でヒットした話題の映画だ。インドの大都市ムンバイのスラム街で育った青年の波乱万丈の人生が、さまざまなエピソードを散りばめながらビルドゥイングスロマン風につづられていく。エンタテインメントとしてすぐれているし、ラストのインド映画お決まりのダンスも楽しい。とはいえ、インド社会の実態はこんなものではないだろう。

5位の「幸せはシャンソニア劇場から」は心温まる映画だ。第2次大戦前夜のパリ、下町の演芸場を舞台にした人情話で、劇場を愛する下町の人々の心意気、父と子の切ない絆が、興趣ゆたかに描かれる。ちょっとフランク・ダラボン監督の「マジェスティック」を思わせる。特筆すべきは歌手志望の娘を演じるノラ・アルネゼデール。その美しさと存在感は只者ではない。6位の「ウェディング・ベルを鳴らせ」は拾いものだった。一部に熱心なファンを持つユーゴスラビアの監督クリストリッツァの作品で、田舎から都会に花嫁探しにやってきた純朴な少年が遭遇する珍騒動を描いたコメディ。画面からあふれるヴァイタリティと大らかなユーモアとのどかな人生讃歌は、理屈抜きで見る者をハッピーな気分にさせてくれる。

7位の「正義のゆくえ」は移民や不法滞在者など、外国からアメリカに流れ込んでくる人々をとりまく厳しい環境を描いたシリアスな映画。「扉をたたく人」に似ているが、こちらのほうが、もっと救いようのない現実を直視している。学校で、ちょっとアラブ人を擁護する発言をしたためFBIからスパイの嫌疑をかけられる女生徒の挿話がでてくるが、このような理不尽な事件は実際に起こっているのだろう。大スターのハリソン・フォードがよくこんな地味な映画に出演したものだ。監督のウェイン・クラマーは切れのいいアクション映画「ワイルド・バレット」でぼくがひそかに注目していた人だ。8位の「イングロリアス・バスターズ」はご存知タランティーノの新作。第2次大戦中、ブラッド・ピットを隊長とするドイツに潜入したアメリカの特殊部隊の破天荒な暴れぶりが描かれるが、大きなテーマは、家族全員をナチに虐殺されたユダヤ少女の復讐譚だ。成長した彼女に扮するメラニー・ロランは初めて見たが、品格のある美しい女優だ。「シャンソニア劇場〜」のアルネゼールといい、フランスには将来有望な女優がたくさんいる。劇場を爆破してナチの要人を皆殺しにする場面になって、これは荒唐無稽なファンタジーなのだと納得する。タランティーノ得意の残酷シーンはわりあい控えめだし、話としては楽しめる。9位以下については割愛。

テレビ放映された映画では、WOWOWで10月に放送されたフィルム・ノワール特集がよかった。「上海から来た女」「飾窓の女」「キッスで殺せ」などは有名だしビデオ化もされているが、ジャック・ターナーの「夕暮れのとき」、ジョセフ・H・ルイスの「秘密調査員」、ダグラス・サークの「ショックプルーフ」、ジョセフ・ロージーの「大いなる夜」など、これまで本の記述でしか知らなかった未公開映画、未ビデオ化映画を見ることができたのはありがたかった。また同じくWOWOWで12月放送のロバート・アルドリッチ特集も、初期の日本未公開作品が含まれており、有意義だった。同じ映画ばかり繰り返し放送しているNHK-BSに比べ、自社制作のつまらない2時間ドラマは願い下げだが、こういう珍しい貴重な映画を放送してがんばっているWOWOWに拍手を送りたい。

2009.12.20 (日)  2009年海外ミステリー・ベスト10

  今年ももう年末になってしまった。各社から発表されている2009年のベスト・ミステリー・リストを見ると、「ミレニアム」「犬の力」の2作が他を引き離して圧倒し、それに続いて「グラーグ57」「ユダヤ警官同盟」「ソウル・コレクター」「川は静かに流れ」といったところがトップ10内に入っており、例年どおり、どこも似たような結果になっている。相変わらず国内ミステリーの好調に比べて海外ミステリーは不調のようで、東高西低現象はますます強いみたいだ。元来のへそまがりな性格にもよるが、東野圭吾をはじめ、いま売れている日本のミステリー作家の書く小説は、スカッとしないし、なにかいじましい感じがするし、ミステリー本来の心躍る興奮がないので、ぼくはほとんど読まない。日本の作家で読むのは、奥田英朗や貴志祐介など、ほんの一握りの人たちだけだ。
  最近は翻訳ミステリーが売れず、出版社だけでなく翻訳者も苦しい状況にある。そんななかで、今年10月、翻訳ミステリー大賞シンジケートなるものが、ミステリー翻訳者たちによって設立された。書店員が選考する本屋大賞が“日本の小説”だけを対象としているのに対抗し、本屋大賞の向こうを張って、翻訳者たちの投票により翻訳ミステリーの大賞を選ぶという。賞の選定と並行して「翻訳ミステリー大賞シンジケート」というサイトを運営し、選考過程やエッセイを載せて海外ミステリーの活性化をはかるらしい。これによってどこまで読者を増やせるか分からないが、少しでも海外ミステリーに新風を吹き込み、復興のきっかけになってくれれば、ファンとしてはうれしい。もっとも、ふたをあけてみれば、今年度の選考の結果が「ミレニアム」や「犬の力」だったとしたら、既存のランキングと変わり映えしないことになるが。

  ということで、今年の私的海外ミステリー・ベスト10を挙げておこう。

          1.犬の力/ドン・ウィンズロウ(角川文庫)
          2.野望の階段/リチャード・N・パターソン(PHP研究所)
          3.「ミレニアム」3部作/スティーグ・ラーソン(早川書房)
          4.嵐を走る者/T・ジェファソン・パーカー(ハヤカワ文庫)
          5.ソウル・コレクター/ジェフリー・ディーヴァー(文藝春秋社)
          6.大聖堂〜果てしなき世界/ケン・フォレット(ソフトバンク文庫)
          7.黒衣の処刑人/トム・ケイン(新潮文庫)
          8.最高処刑責任者/ジョセフ・フィンダー(新潮文庫)
          9.リンカーン弁護士/マイクル・コナリー(講談社文庫)
        10.誇りと情熱/ジェフリー・アーチャー(新潮文庫)

  「犬の力」は、ぼくにとってぶっちぎりの1位だ。この本の素晴らしさについては、10月8日付けの本欄に書いたとおり。DEA捜査官、麻薬カルテルのボス、ニューヨークの殺し屋たちの織りなす友情と愛、裏切りと抗争の物語は、圧倒的な迫力で読む者を魅了する。キャラクター造形が見事だし、描写力も一級品。残酷なシーンもあるが読後感は不思議にさわやかだ。2位の「野望の階段」についても、7月30日付のコラムで触れた。アメリカの大統領選にまつわる話であり、厳密にはミステリーではないが、面白さは抜群。パターソンのストーリーテリングの巧さに酔わされる。この本がほとんど話題に上らないのは、マイナーな発売元だからだろうか。
  ベストセラーになった3位の「ミレニアム」3部作は今年一番の話題作だろう。たしかに面白さは抜群だ。謎解き、冒険スリラー、スパイ謀略、法廷サスペンスと、さまざまな要素が詰まっている。そしてヒロインの刺青女リスベットがいい。彼女の人物像は際立っており、じつに印象深く、ボディガード・アティカス・シリーズに出てくる女探偵ブリジットを彷彿とさせる。だが、主人公のミカエルはじめ、それ以外の登場人物たちが、いろいろと活躍するわりには、どうもキャラクターとして影が薄いし、生きた人間として心に響いてこない。“21世紀のベスト・ミステリー”などと騒がれているけど、そこまで褒めちぎる気には、ぼくはなれない。
  4位の「嵐を走る者」はサンディエゴの保安官補を主人公とするハードボイルド。あまり派手な盛り上がりはないが、ジェファソン・パーカーらしい奥行きのある描写と心やさしい雰囲気が快い余韻をもたらす。こんないい小説が、どのランキングにも入っていないのはなぜだろう。5位の「ソウル・コレクター」はお馴染みリンカーン・ライム・シリーズの新作。ITを駆使する犯人という新機軸はあるものの、ややストーリー展開のパターンが固定化してしまった感は否めない。それでも一気に読めてしまうのは、ディーヴァーの語り口の巧さのせいだ。
  6位の「大聖堂〜果てしなき世界」は、18年前に発売されてヒットした「大聖堂」の続編。内容としてはミステリーというよりも歴史小説の範疇に入るだろう。イギリスの中世の地方都市を舞台にした、天才的な建築職人を主人公に、修道士、尼僧、騎士、商人、農夫など多数の人物が登場する壮大な物語だ。とにかく面白い。正邪入り乱れて繰り広げられる波乱万丈のストーリーは、長大だが最後まで読み飽きない。作者のケン・フォレットは、「針の眼」などのスパイ冒険小説で知られているが、本質はこういった歴史小説のほうにあると思う。フォレットは現代のディッケンズだと言ったら褒めすぎだろうか。
  あとは駆け足でいこう。7位の「黒衣の処刑人」は英国特殊部隊あがりの始末屋が活躍するヒーロー・アクション小説。ストーリーが分かりやすく、内容的には軽いが、スピーディな展開はなかなかのもの。8位の「最高処刑責任者」は日本の大企業のアメリカの子会社に勤める営業マンが主人公の企業サスペンス小説。これも話のテンポがよく、深みはないが読みごたえは充分だ。最後の「リンカーン弁護士」「誇りと情熱」については以前のコラムで触れた。両方とも作者の最高の出来からはほど遠いが、ストーリーテリングの才で読ませる。

  そのほか、今年発売されたミステリーのなかではジョン・ハート作の「川は静かに流れ」が評判がいいようだが、ぼくには退屈だった。主人公の設定がもうひとつはっきりしないし、ストーリーの流れももたもたしている。「グラーグ57」「ユダヤ警官同盟」は未読。がっかりしたのは10月に発売されたスティーヴン・ハンター作ボブ・リー・スワガー・シリーズの最新作「黄昏の狙撃手」。まるでシノプシスを読んでいるみたいに中身がスカスカで肉付けに欠けており、クライマックスもいっこうに盛り上がらない。あの「極大射程」や「狩りのとき」の濃密な雰囲気、湧き立つようなスリルはどこにもない。ハンターも老いたのだろうか。

2009.12.11 (金)  「少年王者」――幻の「怪獣牙虎篇」

  山川惣治の「少年王者」について新たな発見があったので、今回はそれについて書くことにする。少し話が込み入ってしまうので、興味のない方は読み飛ばしてください。

  11月15日付けの本欄で「少年王者」の話を書いたあと、河出書房新社から2008年に発売された『山川惣治〜「少年王者」「少年ケニヤ」の絵物語作者』というビジュアル本を手に入れた。戦前から戦後にかけての山川惣治の仕事、軌跡が、作品紹介とともに詳しく載っており、より深く山川さんの業績を知ることができた。この本に、1947年から1954年にかけて発刊されたオリジナル単行本であるおもしろ文庫版「少年王者」の第1集から第10集までの表紙がぜんぶ掲載されていたが、1984年に復刻された角川文庫版の10巻と内容が違うことに気がついた。最後の3巻だけ、それぞれの篇名を並べてみる。

おもしろ文庫角川文庫
第8集解決篇アメンホテップ財宝篇
第9集ザンバロ篇解決篇
第10集怪獣牙虎篇ザンバロ・アメリカ篇

つまり、角川文庫版では、オリジナルのおもしろ文庫版の最終巻「怪獣牙虎篇」が抜けているのだ。
  このところ、ブログ『リュウちゃんの懐メロ人生』の筆者である博覧強記の“リュウちゃん”から、メールでいろいろとご教示してもらっているが、そのやり取りのなかで、“「少年王者」の物語には、真吾がアメリカに渡ったあと、再びアフリカに戻ってくる話がある”ことを教えていただいた。ぼくはそんな話を読んだことがないので、びっくりしてしまった。つまり、角川文庫は「ザンバロ・アメリカ篇」で終わっているが、実際にはそのあとの話があったことになる。角川の復刻版全10巻は、オリジナルのおもしろ文庫版の第1集から第9集までしか収録されておらず、なぜか最後の「怪獣牙虎篇」はカットされたわけだ。そしてこの「怪獣牙虎篇」に、アメリカから再びアフリカに戻った真吾の活躍が書かれているのだろう。そうと知ったぼくは、なんとかしてそれを読みたいと思った。

  おもしろ文庫版「少年王者」は、たまにネットで売りに出されているようだが、15,000円などと高額だし、すぐに売れてしまうので手に入れるのは容易ではない。リュウちゃんのサジェスチョンにより、ぼくは「怪獣牙虎篇」を、日本で出版されたすべての出版物を収集・保存しているはずの国会図書館で閲覧しようと思い立った。パソコンで検索して「少年王者」が所蔵されていることを確かめ、永田町の国会議事堂の隣にある国会図書館に出向いた。国会図書館に行くのは初めてのことだった。しかし、山川惣治を含む児童書はすべて支部図書館である上野の国際子ども図書館にあることが分かり、その日はむなしく帰宅。日を改めて上野公園のはずれ、芸大の近くにある国際子ども図書館に行った。
  国際子ども図書館で詳しく調べたところ、おもしろ文庫版「少年王者」はあったが、全巻は揃っていなかった。そして残念なことに、第10集の「怪獣牙虎篇」がなかった! 検索の結果、「怪獣牙虎篇」は、これも支部図書館である大阪の国際児童文学館にあることが分かった。取り寄せは不可なので、読むためには大阪に行かなければならない。さらに、例の橋本大阪府知事のすすめる緊縮財政方針により、国際児童文学館はもうすぐ廃館、所蔵図書は府立中央図書館に移設することになり、その準備のため12月28日から休館だという。
  ということで、「怪獣牙虎篇」はいまだにぼくにとって幻のままだ。でも、幻がたやすく現実になってはつまらないので、いつまでも幻に遊ぶのも楽しいことかもしれない(負け惜しみの気持ちも込めての言だが)。それにしても、なぜ国会図書館の検索データに所蔵場所が分かりやすく示されていないんだ、こういう貴重な図書なのに、なぜ分散させず、きちんと1か所に所蔵しとかないんだ、まったく日本のいい加減な文化行政は・・・と、またジジイの繰り言が出てしまう。

  国際子ども図書館には、おもしろ文庫第9集の「ザンバロ篇」があったので、借り出して読んだ。50年ぶりに、あの懐かしい正方形のおもしろ文庫を手にして、いささか感激した。もっと大判だと思っていたが、縦横17〜18センチと、判型は記憶にあるより小さかった。おもしろ文庫の「ザンバロ篇」は3つのパートに分かれており、パート1がザンバロの故郷の王国への旅、パート2が真吾とすい子のアメリカでの学園生活とギャングとの戦い、パート3が再びザンバロの旅という構成になってる。明らかにこの巻は子供のころ読んだ記憶があった。
  読み返して分かったのは、角川文庫の復刻版全10巻には、おもしろ文庫「ザンバロ篇」のパート2までしか収録されていないということだった。すっかり忘れていたが、パート3の冒頭に、真吾のもとにザンバロがアフリカで苦難の旅を続けているという報が人づてに届き、真吾とすい子が、“もうすぐ夏休みだから、ザンバロを助けるためにアフリカに行こう”と話すシーンがある。「怪獣牙虎篇」は、おそらく、それを受けて二人がアフリカに戻るという流れなのであろう。前に触れた『山川惣治〜「少年王者」「少年ケニヤ」の絵物語作者』というビジュアル本には、「怪獣牙虎篇」の口絵――真吾とかつての友だち黒豹ケルクが大牙虎と戦っている絵――が載っていた。この絵から想像するに、真吾は仲間の動物たちと再会を果たしたのだろう。それまでの巻で、真吾は腰布のようなものを巻いているが、ここではパンツをはいている。アフリカに虎がいたっけ、などと言うのはやめておこう。あくまでこれは、ファンタジーの世界なんだから。

  それにしても、角川文庫になぜ「怪獣牙虎篇」が収録されなかったのだろうか? それから、あんなに夢中になって読んでいたのに、なぜ子供のころのぼくは、最終巻の「怪獣牙虎篇」を読んでいないのだろうか? 謎は深まるばかりだ。

  国際子ども図書館では、もう読めないだろうと思っていた「幽霊牧場」の前・後篇も読むことができた。子供のころ、「少年王者」とともに読んで強く印象に残っている山川惣治作の西部劇絵物語だ(おもしろ文庫 1953年)。久しぶりに再読して、これは傑作だという感を深くした。山川さんの作品にしては珍しく、これは少年が主人公ではないし、ドラマは悲劇仕立てだ。
  「幽霊牧場」の主人公は、両親を悪辣な白人に殺されたインディアンの青年、サンドロ。それに射撃の名手である白人の娘アリスが副主人公としてからむ。父母をインディアンに連れ去られた少年トニーも登場して色を添える。サンドロは少年のころ、白人に追われているところをアリス母子に助けられ、以後その恩を忘れず、インディアンの一隊を率いる闘士に成長したあと、アリス母子をことあるごとに助ける。アリスは母を腹黒いインディアンに殺され、インディアンを憎むようになるが、サンドロだけは憎めない。この二人はお互いにほのかな思慕を抱くようになる。終盤のクライマックス、騎兵隊の大軍に追い詰められたインディアンがみな殺されるなか、サンドロだけがひとり残って銃で戦っている。アリスを慕う銃の下手な騎兵隊の若い少尉がサンドロと対決しようとすると、そばにいた射撃の名手アリスは思わず自分が前に出てサンドロを撃つ。サンドロは相手がアリスと見て、自分は撃たずにアリスの弾を受けて、死ぬ。最後は、アリスがサンドロの墓に花をたむけて項垂れているシーンで終わる。
  ここには、インディアンを殲滅しようとする白人、それに立ち向かうインディアン、インディアン青年と白人少女のほのかな愛、白人とインディアンの抗争がもたらす悲劇が、詩情豊かに、雄大に、格調高く描かれている。山川惣治の底知れぬ才能に、改めて胸を打たれた。

2009.11.29 (日)  永遠のスター、中村錦之助

  またまた懐旧談になってしまうが、今年は中村錦之助の生誕77年目だとかで、池袋の新文芸坐で「錦之助祭り」が開催された。中村錦之助が全盛期に出演した東映時代劇の上映会だ。3月にパート1が行われたらしいが、気がつかなかった。11月にパート2があると聞き及び、見に行った。
  文芸坐はむかし大学生のころによく通った、懐かしい旧作専門の映画館だ。「錦之助祭り」は日替わりの2本立てという、昔懐かしいスタイルで上映された。ぼくが見に行ったのは、11月中旬、「おしどり駕籠」と「源氏九郎颯爽記・濡れ髪二刀流」の2本立ての日だった。

  フィルムでスクリーンに映し出される錦之助の映画を見るのは何年振りだろう。最後に見てから、たぶん30数年は経っているに違いない。いささか感慨にひたってしまった。「おしどり駕籠」は1958年のカラー作品。監督はマキノ雅弘、錦之助の相手役は美空ひばりで、ほかに中村賀津雄、中原ひとみ、月形龍之介が共演という華やかな顔ぶれ、まさに絵にかいたような明朗東映時代劇だ。錦之助は大名家の若君と江戸の左官屋の二役を演じ、ひばりは錦之助と恋仲の勝気な矢場の看板娘に扮する。25歳の錦之助は凛々しく引き締まっており、20歳のひばりは頬もふっくらと可愛らしい。二人は満開の花のように生気に満ち、光り輝いている。

  いっぽうの「源氏九郎颯爽記・濡れ髪二刀流」は1957年のモノクロ作品で監督は加藤泰。田代百合子、千原しのぶが共演という、やや地味な配役だ。「源氏九郎颯爽記」は源義経の末裔と称する美剣士、源氏九郎を主人公とした、伝奇的な色合いを帯びた映画シリーズであり、全部で3本つくられた。これはその第1作であり、錦之助は白塗り、白装束、白鞘の刀というお馴染みの白づくめの格好で登場するが、まだ主人公のキャラクター設定は確立されていない。名匠・加藤泰としてはごく初期の監督作品であり、出来はあまりよくないが、それでも独特のロー・アングルを使ったり、男を慕う女の情念を描いたりと、後年の加藤泰らしさは各所に表れている。

  ぼくは小学生のころ、ラジオ・ドラマ新諸国物語シリーズの映画化である「笛吹童子」(1954年)、「紅孔雀」(1954〜55年)を見て以来の中村錦之助のファンだ。同じく錦之助のファンだった3歳違いの兄の影響もあったと思う。当時、よく二人で錦之助の映画を見に東映専門の映画館に出かけた記憶がある。ぜんぶとまではいかないが、60年代半ばごろまでに封切られた、たいていの錦之助主演映画は見ているはずだ。
  錦之助の代表作といえば、衆目の一致するところ、1961年から65年にかけて、年一作づつつくられた内田吐夢監督の「宮本武蔵」五部作だろう。これはまさしく、映画のなかでの武蔵の成長ぶりと俳優としての錦之助の成熟の過程が混然一体となった、日本映画を代表する名作のひとつだと思う。そのほか、一心太助、殿さま弥次喜多、源氏九郎、清水次郎長や森の石松など、彼は何を演じても魅力を放っていた。そして時代を経るにつれてアイドル・スターから演技者へと脱皮していった。

  錦之助が生き生きと楽しそうに地で演じていたのは、一心太助や下町の火消しなどに扮して威勢のいい啖呵を切ったりする江戸っ子の役だったと思う。でも、源氏九郎シリーズや、「剣は知っていた」「美男城」などの陰りのある孤高の剣士を演じたときの錦之助も見事だった。源氏九郎シリーズはたった3作しかつくられなかったが、錦之助の演じた当たり役のひとつと言っていい。先にも書いたように、1作目の「濡れ髪二刀流」(1957年)では主人公の造形はまだ際立っていないが、第2作の「白孤二刀流」(1958年)でその個性が明確になり、第3作の「秘剣揚羽の蝶」(1962年)に至って完成をみた。ある種、凄愴な雰囲気をたたえたこの最終作(監督は伊藤大輔)には時代劇の様式美の極致が示されている。

  余談だが、錦之助主演の源氏九郎は、大映で市川雷蔵が演じた眠狂四郎と、写真のポジ・ネガの関係にあると思う。どちらも原作は柴田錬三郎の小説であり、両者とも白皙の容姿、クールな佇まい、超俗異端の剣の達人だが、眠狂四郎の黒ずくめ、女色に耽る、転びバテレンの息子という暗い出自に比べて、源氏九郎の白ずくめ、禁欲的、義経の子孫という高貴な生まれは、きわめて対照的だ。これはそのまま錦之助と雷蔵の個性の違いにも通ずるかもしれない。虚無的なアンチ・ヒーローという像が大衆に好まれ、柴錬は眠狂四郎の物語をたくさん書き続けたが、「源氏九郎颯爽記」は、突出したキャラクターではなかったせいか、長編1作と中編集1作しか書いていない。だから映画も3作しかつくられなかっのだろう。残念なことだ。

  股旅ものを演じたときの錦之助も素晴らしかった。いくつかある記憶に残る作品のなかでは、「関の彌太っぺ」(1963年)も味わい深い名品だが、やはり加藤泰監督の「沓掛時次郎・遊侠一匹」(1966年)にとどめをさす。映画全体に漂う、やり場のない哀しみと切々たる情感が胸を打つ。前年につくった「明治侠客伝・三代目襲名」と並ぶ、これは加藤泰の最高傑作であろう。そして錦之助の抑制された演技は、彼が演技者としてピークを迎えたことを示している。錦之助が出演した加藤泰監督の映画には、ほかにも「真田風雲録」(1962年)という、安保闘争を下敷きにしたといわれる異色ニュー・ウェイヴ時代劇もあった。だが錦之助の成熟とは裏腹に、この60年代半ばごろ、不幸なことに映画界は時代劇が低迷し、東映はやくざ映画路線に方向転換しつつあった。「沓掛時次郎・遊侠一匹」で最高の演技をみせた錦之助は、この年、あと1作だけ撮ったあと、東映の専属を離れてしまう。

  共演した俳優やスタッフの懐古話を読むと、錦之助は、気のいい、裏表のない、誰とでも分け隔てなく付き合う、無類の好青年だったらしい。彼はみんなから“錦兄い”とか“旦那”とか呼ばれて慕われていた。仲間は撮影が終わると撮影所近くの錦之助の家に集まり、飲んだり食ったりしたあと祇園に繰り出し、また錦之助の家に帰って雑魚寝し、翌朝一緒に撮影所に向かうという毎日だった。
  60年代半ば、時代劇が斜陽化し始めたころ、危機感をもった東映のベテランや脇役の俳優は、待遇改善を求めて俳優組合を設立し、錦之助は彼らに頼まれて組合の代表になった。大スターの看板俳優が大部屋俳優たちのための組合代表になることなど、前代未聞の出来事だろう。板挟みになった錦之助の心労は大きかったと思う。この争議はけっきょく組合側の敗北に終わった。錦之助は、“組合を解散したあとも組合員に不利なことはしない”という約束を会社側から取り付け、その後まもなく東映を去った。錦之助という人物を物語るエピソードだと思う。

  錦之助が東映でコンビを組んだ女優のなかで、共演した回数がもっとも多いのは丘さとみだった。数えてみると、オールスター・キャストものを除いて12本ある。その次に多いのは高千穂ひづると千原しのぶで、それぞれ8本で共演している。そして大川恵子との共演7本と続く。東映のお姫様女優のなかで、ぼくがいちばん好きだったのは大川恵子だが、映画に出なくなって以降の彼女は何をしていたのだろうか。錦之助と大川恵子の共演作のなかでは、「剣は知っていた・紅顔無双流」(1958年)が、とりわけ品格のある逸品だったと思う。ゴールデン・コンビと言われた美空ひばりとの共演作は意外に少なく、5本しかない。

  中村錦之助と美空ひばりは、とりわけ気の合う、親しい間柄だったらしい。二人は結婚しようとしたが、錦之助の母親が反対したため実現しなかった、と何かの本で読んだことがある。「魚屋の娘ふぜいと梨園の御曹司では身分が違う」と母親が言ったのかどうか知らないが、もしそうなら、歌舞伎だってもとをただせば河原乞食で、役者稼業を長く続けているだけの話じゃないかと言いたくなる。美空ひばりにとって、錦之助は特別な存在だったようだ。手元に資料がないので不確かだが、ひばりが晩年、病床にあるとき、面会はみな断っていたが、錦之助と島倉千代子だけには会ったらしい。またひばりが亡くなって自宅に亡き骸が帰ったとき、遺族のはからいで錦之助だけが亡き骸と対面してひばりに別れを告げたという。
  今回、大きなスクリーンで久しぶりに見た映画「おしどり駕籠」の錦之助とひばりは、匂い立つように美しかった。時代は移り、錦之助もひばりも亡くなっても、スクリーンの中で、彼らは永遠にまばゆいばかりの輝きを放っている。

2009.11.15 (日)  山川惣治の「少年王者」が愛と勇気を教えてくれた

10月17日付けの本サイト連載コラム「クラシック未知との遭遇」に紹介されているブログ「リュウちゃんの懐メロ人生」はカラオケと歌謡曲の話を中心とした楽しい読み物だが、そのなかの1編、山川惣治についての話を読んでいるうちに、むかし、山川惣治の絵物語を読みふけった記憶が甦った。

いま団塊の世代の男たちのなかには、昭和20年代後半から30年代前半に山川惣治の書く絵物語に胸をときめかせた人が多いのではないだろうか。山川惣治の「少年王者」に夢中になったのは、たぶん小学校の低学年のころだったと思う。どんな経緯で読み始めたのかは覚えていない。おそらく親が買い与えてくれたのだろう。正方形に近い大判の単行本だった。毎回、新刊が出るたびにむさぼるように読んだし、同じ本を内容を記憶するまで何度も読み返した。子供のころに住んでいた宮崎の田舎の家のすぐ裏側に山林があった。当時のすべての子供たちと同じように、ぼくは少年王者を真似て、腰にナタをくくりつけ、ジャングルの探検にでかけた。木陰に草を敷いて住処を作り、木の枝のつたを垂らしてぶらさがった。

絵物語とは、いまの若い人は知るよしもないだろうが、小説と漫画が合体した本であり、読む紙芝居、吹き出しのない漫画のような読み物だ。挿絵と文が、一つのページにほぼ同じ分量づつ組み合わされており、戦後間もなく、漫画が主流を占めるようになる前の一時期、子供たちのあいだで大いに流行った。山川惣治や小松崎茂などが人気作家として活躍した。

「少年王者」はアフリカのジャングルでゴリラに育てられた少年、真吾の波乱万丈の冒険を描いた物語だ。単行本で全10巻になる。一言で言うなら日本版ターザンだが、ストーリーはターザン物語よりはるかに起伏に富んでいる。真吾の親友で強力無双の原住民戦士ザンバロ、真吾を慕う少女すい子、正義の怪人アメンホテップ、そして凶暴な赤ゴリラ、魔神ウーラ、豹の老婆、河馬男など、善悪入り乱れて数多くの登場人物がでてくる。さらに太古の恐竜や人食い怪樹モンスターツリーや沼に棲む巨大な鰐ガランビといった凄まじい怪物も現れ、真吾たちに襲いかかる。すい子はいつも悪漢に捉われるが、危やうしというときに必ず少年王者、真吾がやってきて救い出す。

山川惣治は「少年王者」に続いて「少年ケニア」を書いた。これにも魅了された。こちらはワタル少年が主人公で、それに金髪の少女ケート、マサイ族の偉大な酋長ゼガが同行し、父を捜してアフリカ奥地の秘境を旅する。全20巻であり、「少年王者」よりも長大だ。山川惣治の代表作といえば、この「少年ケニア」を挙げる人もいる。だが、ぼくにとっては「少年王者」のほうが圧倒的に印象が強いし、愛着が深い。

「少年ケニア」は全巻を読了しなかった。途中から興味が漫画に、さらには絵のない小説に移ったからだ。そして善のなかに悪があり、悪のなかに善があることを知り、、少年の日の記憶は薄らいでいった。それから長い年月がたったあと、突然、山川惣治の世界が再び目の前に現れた。1983年から84年にかけてのことだ。角川文庫から山川惣治全集が復刻発売されたのだ。ぼくは「少年王者」全10巻と「少年ケニア」全20巻を買い求めた。再び接した山川惣治の絵物語は素晴らしかった。ページをめくるたびに、忘れていた挿絵やストーリーが次々に頭のなかに甦った。それまで住んでいたジャングルが焼け、遠くのジャングルに移動するため真吾が仲間の動物たちを率いて砂漠を旅するシーンが胸を熱くした。すい子たちを助けるため、動物たちに別れを告げ、ハゲワシに乗って砂漠を横断するシーンが心を震わせた。

山川惣治はどこが魅力なのか? まず鮮烈きわまりない絵がある。2色刷りなのだが、構成力にすぐれており迫力たっぷりだ。真吾がゴリラやライオンやワニや恐竜や大タコと死闘を演ずるシーンなどは、生き生きした躍動感にあふれている。そして物語性豊かなストーリー展開がある。奇想天外な生き物や悪辣非道な悪者が次々に登場するし、真吾と動物たちの友情、ザンバロとの固い絆などもしっかり描かれているし、全巻をとおしてまったくだれることがない。山川惣治の雄大なイマジネーションが全編に迸っている。

「少年王者」は全10巻だが、実質的には9巻目で終わったと言っていいだろう。第9巻で、、真吾は悪者をすべてやっつけ、はぐれていたすい子や探検隊の面々と合流し、故郷の王国を探しに奥地に向かうザンバロに別れを告げて、アフリカのジャングルからアメリカに旅立つからだ。第10巻では、ザンバロの苦難の旅と並行して、アメリカに渡った真吾とすい子の学園生活や、ギャング一味との対決が描かれるが、この巻で大団円にするには、やや中途半端な終わり方だ。想像するに、いったん9巻目で物語は終わったが、好評なので続編を書いた、けれども次作の「少年ケニア」が佳境に入り、そちらにに力を集中するため続編は1巻だけで終了することにした、という成行きだったのではないだろうか。でも、秘境での冒険ではなくなったとはいえ、真吾のその後の活躍をもう少し見たかった気がする。

角川文庫の山川惣治全集は、「少年王者」と「少年ケニア」が出たところで、残念なことに打ち止めになった。文庫発売と同時に「少年ケニヤ」をアニメ映画化するなど、角川得意のメディア・ミックス商法で話題を広げようとしたが、売れ行きが不振だったためだろう。山川惣治について詳細に論じたサイト「山川惣治と絵物語の世界」によると、彼は「少年王者」「少年ケニア」以外にも、秘境冒険もの、ボクシングもの、柔道もの、時代ものなど、さまざまな絵物語を書いているらしいが、ぼくがこの2作のほかに読んだものといえば「幽霊牧場」だけしかない。「幽霊牧場」は、細かな内容は覚えていないが、インディアンや騎兵隊が登場する怪奇性を帯びた西部劇だった。卑劣な手を使ってインディアンを滅ぼそうとする白人と、それに立ち向かう情け深い勇敢なインディアンというストーリーだったと思う。この当時、西部劇というとインディアンが悪者になるのが当たり前だったが、山川惣治はそんな常識に捉われなかった。「少年王者」にも、白人中心の西欧文明を批判する視点がみられる。たかが子供向けの読み物とはいえ、山川の懐の深さが表れている。「幽霊牧場」、もう一度読み直してみたいが、おそらく叶わぬ願いだろう。

山川惣治は1992年、84歳で亡くなったが、文庫の解説によると、息子に真吾、娘にすい子と名付けたらしい。本人も「少年王者」にいちばん愛着を感じていたのだろう。山川惣治の絵物語はノスタルジーのなかの一風景にすぎないとはいえ、あまりに鮮やかに心のなかに息づいている。たとえばぼくがインディ・ジョーンズなど秘境探検映画が好きだったり、アリステア・マクリーン、デズモンド・バグリーなどの冒険活劇小説が好きだったりすることの背景には、子供のころの「少年王者」を読んで胸をときめかせた経験があるのは間違いないだろう。空想のなかで、真吾はいまも密林を飛び回り、邪悪な生き物を退治し、勝利の雄たけびをあげている。

2009.10.19 (月)  美空ひばり考

先日、『ひばり伝〜蒼穹流謫』(斎藤慎爾著 講談社刊)という美空ひばりの評伝を読んだ。河原乞食や異形者の系譜といった視点は面白かったが、さして新しい発見があるわけでもないし、全体にまとまりがなく、それに著者の文章があまりに詠嘆的で、興醒めを感じてしまった。ひばりについて書かれた本は数多い。その全部に目を通したわけではないが、いくつか読んだ範囲で言えば、正統的な伝記として中身の濃い本田靖春の『戦後〜美空ひばりとその時代』、異様な迫力でひばりの本質に迫る竹中労の『完本・美空ひばり』が読み応えがあった。というわけで、この新刊はそれほど心に残らなかったが、それでも読み進むうちにひばりの歌が聴きたくなり、彼女の死後に発売された『大全集』『珠玉集』といった集大成CDセットを引っ張り出して、しばし耳を傾けた。

美空ひばりは昭和28年、レコード・デビューして4年後、16歳のとき、〈上海〉〈アゲイン〉〈スターダスト〉といったアメリカのジャズ風ポップ・ソングを立て続けに吹き込み、翌29年には〈A列車で行こう〉を録音した。以前、初めてそれらを聴いたとき、彼女のジャズ歌手としての恐ろしいまでの巧さにびっくりした。ジャズ評論家の油井正一氏などの書かれた記事を読み、ひばりのジャズ歌手のしての才能は知識として知ってはいたが、実際に聴いたその歌は、たしかに並はずれた凄さだった。彼女はおそらく英語はよく知らなかったであろう。だがその発音やイントネーションは唖然とするほどうまく、漫然と聴いているとアメリカの一流歌手が歌っているようにしか聴こえない。リズムへの乗りやフレーズの崩し方など、まったく堂に入っている。スキャットで歌いまくる〈A列車で行こう〉などには度肝を抜かれる。たぶん洋楽のレコードを聴いて覚えたのであろう。彼女は譜面は読めず、メロディを耳で聴いて覚えた由だが、ここまで自然なかたちで自分の歌にできるとは、常識の枠内を超えいる。

ディスコグラフィを見ると、ひばりのシングル盤は、デビュー3年後の昭和27年からがぜん多くなり、28年には19枚、29年には16枚も発売され、以後もそんな調子で34年まで続く。平均して毎月1枚以上も発売されていた計算になる。現在からすれば信じれない数字だ。彼女が発売したシングルを順を追って聴いていくと、デビュー当時から10年ほどのあいだに、ありとあらゆる類いの曲を歌ってきたのが分かる。伝統的な歌謡曲から、江戸情緒もの、民謡、小唄端唄、マドロスもの、そして、ジャズ、ブギ、ルンバ、マンボ、タンゴ、カントリーなどの洋楽志向の曲、はてはツイストやドドンパまでと、その幅の広さに驚かされるし、すべてを完璧に、天衣無縫に歌いこなす力量に圧倒される。

デビュー曲が〈河童ブギウギ〉だったことからも分かるように、もともと彼女のなかには、ポップス志向の要素、いわゆるバタくささが強くあったように感じる。しかし、その体内には日本の伝統性が染み込んでおり、それらが違和感なく融合して出来上がったのが、ひばり独特の音楽だった。けれども、それだけではない。美空ひばりは他の歌手とはまったく次元の異なる存在だった。あの猥雑な身振り、官能的な声には、日本の前近代性が色濃くにじみ出ている。彼女の歌には、原初的な魂の迸りのようなものを感じる。そんな意味では、彼女は歌手というより日本古来の芸能者であり、彼女の歌は社会から抑圧された者が思い描く幻だったように思う。

しかし、ひばりの歌がほんとうの意味での広がりと深みをもっていたのは、昭和33〜34年ごろまで、デビューしてから10年間ぐらいだったと思う。それ以後はしだいに演歌や芸道ものがレパートリーの中心を占めるようになった。そして歌い方も、初期の自由闊達さがなくなり、重苦しさが前面に出るようになっていった。その転機になった曲は昭和35年の絶唱〈哀愁波止場〉だったと思う。以後の彼女は、〈車屋さん〉や〈ひばりの佐渡情話〉、あるいはより後期の〈風酒場〉など、成熟した歌唱力を示す曲があるとはいえ、天上から地に降り立ったように、伝説に包まれてはいるが“普通の”歌手になった。昭和30年代終わりに彼女は洋楽スタンダードを歌ったアルバム何枚かを出したが、10年前の吹き込みと比べると、巧いことは巧いが、ただそれだけの歌になっている。年齢を重ねて声質や姿勢が変化したせいだったのかもしれない。あるいは戦後の混乱期を終えて高度成長期に向かう時代の流れがそうさせたのかもしれない。

日本コロムビアが公表した美空ひばりのシングル売り上げランキングによると、1位が〈柔〉、2位が〈川の流れのように〉(ちなみに、以下は、3位〈悲しい酒〉、4位〈真赤な太陽〉、5位〈リンゴ追分〉)だという。いくらレコード大賞受賞曲とはいえ〈柔〉のようなつまらない曲が1位というのは悲しい。もっとつまらないのは〈川の流れのように〉だ。なによりも歌詞が陳腐で薄っぺらく、心に迫るものが何もない、退屈な曲だ。ぼくのフェイヴァリット・ナンバーを3曲挙げろと言われれば、月並みだが〈リンゴ追分〉〈港町十三番地〉〈花笠道中〉ということになる。でも、ほかにも〈越後獅子の唄〉〈チャルメラそば屋〉〈津軽のふるさと〉〈君はマドロス海つばめ〉〈長崎の蝶々さん〉〈港町さようなら〉など、好きな歌はたくさんある。

ところで先にふれた『大全集』だが、正式タイトルは『今日の我に明日は勝つ/美空ひばり大全集』という。これは基本的に彼女が発売した全シングルの両面をオリジナル音源でクロノロジカルに集大成したもののようだが(どんな方針のもとに編成されたのか、何の説明も付されていないので分からない)、全シングルといっても、洋楽曲や日本の既成曲をカヴァーしたものは入っていないし、オリジナル曲でもいくつか抜けているというお粗末な内容になっている。何か事情があったのかもしれないが、理由は分からない。いずれにせよ、日本の音楽史上、最高の宝ともいうべき美空ひばりの足跡は、もっと欧米を見習い、完全なかたちで残しておくべきだ。

2009.10.08 (木)  “犬の力”に突き動かされた人々がたどる運命は

  いやぁ、驚いた。圧倒された。ドン・ウィンズロウの新作小説『犬の力』(角川文庫、2009年9月刊)だ。驚いたのは、かつて愛読したニール・ケアリー・シリーズとは、まったく味わいの異なる小説だったから。圧倒されたのは、その内容があまりに破天荒で、激烈で、迫力に満ちていたから。まさかウィンズロウがこんなふうに化けるとは思わなかった。これはアメリカDEAの麻薬捜査官、ニューヨークのアイルランド系殺し屋、メキシコ麻薬カルテルのボスという3人の、30年に及ぶ壮絶な戦いと興亡の物語だ。文庫本の上下巻合わせて1000ページを超える長大な作品だ。麻薬戦争を縦軸に、主人公たちのファミリー内の抗争や愛、友情、裏切りを横軸にしたストーリーは、ある種、叙事詩的な色合いを帯びている。
  ウィンズロウの出世作になったシリーズ第1作『ストリート・キッズ』をはじめとするニール・ケアリー・サーガは、ハードボイルド・ミステリーでありながら、主人公である非行少年あがりの青年探偵の一種の成長物語のような趣を呈しており、青春小説を思わせる瑞々しいタッチが魅力を放っていた。でも面白かったのは全部で5作を数えるシリーズの1作目と2作目(『仏陀の鏡への道』)ぐらいで、あとはだんだんスリルに乏しくなっていった。最終作『砂漠で溺れるわけにはいかない』などはまったく盛り上がりに欠け、シリーズ外の『ボビーZの気怠く優雅な人生』は痛快な出来だったとはいえ、ああ、もうウィンズロウは終わりだなと思ったものだった。だから、久しぶりに発売されたこの新作の変貌ぶりと力強さにびっくりしたのだ。
  ここに描かれる、メキシコを拠点とする南米の麻薬ビジネスの実態――暴力による組織化、権力との癒着、陰謀、暗殺――はすさまじい。そこにアメリカ政府がCIAを通じて仕掛ける汚い謀略が混乱と殺戮を生む。おそらく、かなりの部分が事実に近いだろう。執念に駆られ、家族を捨ててまで麻薬カルテルのボスを追いかける捜査官、ニューヨークのマフィアの手先から凄腕の殺し屋に成長する、独自の倫理感をもつ青年、家族や仲間を愛しながらも、ビジネスのためには平気で敵や邪魔者を消すカルテルのボス――主人公たちは、善人にしろ悪人にしろ、みな血肉のある陰影ゆたかな造形がなされている。この3人以外にもたくさんの人物が登場するが、みな生き生きと描かれている。なかでも主人公たちにからむ美貌の高級娼婦の存在感は際立っている。全編に銃弾と血と汗がほとばしっているが、エンタテインメントの骨格を踏まえたストーリー展開は心地よく、後味は爽やかだ。一皮むけたウィンズロウの今後から目が離せなくなった。

  いっぽう、ハリー・ボッシュ・シリーズを中心に質の高いハードボイルドを書き続けているマイクル・コナリーの新作『リンカーン弁護士』(講談社文庫、2009年6月刊)は、久々のシリーズ外の作品。コナリーには珍しく、弁護士を主人公にしたリーガル・サスペンスだ。禁欲的で暗い影のあるボッシュと違い、この弁護士は、腕は立つが、高級大型車リンカーンを乗り回し、金になる依頼人を捉まえるのに汲々としている人間だ。さすがにコナリーで、語り口は巧いし、人間関係――とくに主人公と別れた妻の検事のとの――描き方も面白く、それほど起伏のないストーリー展開なのに、最後まで一気に読ませる。だが、金勘定にめざとい享楽的なキャラクターという主人公の設定が、もうひとつ馴染めない。
  あとがきによると、ボッシュ・シリーズは最後に日本で発売された『終決者たち』以降、アメリカではすでに4冊も出ているらしい。訳者の古沢嘉通さん、頑張ってください。

2009.09.18 (金)  黄昏の大英帝国

9月上旬、所用でロンドンに10日間ほど旅行した。ロンドンに行ったは10数年ぶりだ。市内の随所にある広々とした公園は相変わらず美しかったが、街中は以前と比べて、ずいぶん汚くなったように感じた。通りには紙くずやタバコの吸い殻が散乱しているし、犬のフンもあちこちにある。

ロンドンの住民は少数民族がますます増えているようだ。人種の多さで言えばニューヨークが有名だが、もしかしたらロンドンのほうが上かもしれない。オックスフォード通りにあふれる歩行者も地下鉄の乗客も、インド系、中国系、東南アジア系、黒人系、中近東系、東欧系など、雑多な人種が入り混じっている。かつての植民地政策の名残であろうが、移民を積極的に受け入れていることにもよるのだろう。いま、ロンドンの全人口のうち3人に1人は、こういったアングロ・サクソン以外のエスニック・マイノリティらしい。

ロンドン市内では、レンガ造りの古い建物が歴史を感じさせるいっぽう、コンテンポラリーな建造物が目立っていた。チェルシーやサウス・ケンジントンなどの高級住宅街の瀟洒な佇まいは以前のままだが、いっぽうで、テムズ川の向こうには巨大な観覧車ロンドン・アイが見えるし、ザ・シティにはガーキンと言われるの弾丸のような異様なスイス・リ本社ビルがそびえている。



わりあい時間の余裕があったので、シャーロック・ホームズ博物館に行ってみた。むかしミステリーを読み始めたころ、ホームズの物語をむさぼるように読んだミステリー愛好者としては、一度は訪れなければなるまい。小説に記載されているとおり、ベイカー街221Bという番地に、その博物館はあった。もともとベイカー街にはそんな番地はなかったが、ホームズ博物館をつくるために、わざわざ設けたらしい。古いタウン・ハウスの一部の1階から3階までが、小説のイメージに合わせて、あたかもホームズが居住していたかの如く内装されており、それなりに楽しめた。

ロンドンは物価が高い。実感としては東京より高い感じがする。以前は1ポンドが200円以上していたが、いまは約160円であり、ポンドの価値はずいぶん下がった。その今の換算レートで計算しても、ロンドンのものの値段は高い。食材は比較的安価だが、ビールは1パイントが700円だし、タバコは一箱なんと1000円もする(そんなにタバコが高くても、そして屋内は全面的に禁煙になっても、タバコを吸う人は多い。みな通りで吸っている。だから歩道には吸い殻が散乱する)。

地下鉄の料金も初乗り640円とバカ高い(プリペイド・カードを使えばその半額以下で乗れるが)。高額の付加価値税のせいもあるだろうが、カフェやレストランで食べる食費も日本よりかなり高い。家賃も高額らしい。そのいっぽう収入は、アメリカと同じく格差が激しいのでいちがいには言えないが、平均的には日本より低いはずだ、おまけに税金や社会保障費も高額なので、手取りはもっと少なくなる。社会保障は充実しているとはいえ、一般的な人々の生活は楽ではないだろう。

ロンドン滞在中は、郊外の、市内の中心地から地下鉄で北に約40分ほどのウッドサイド・パークという駅の近くの家に寄寓した。セミ・デタッチと称される、イギリス特有の2軒長屋だ。駅名のとおり、そのあたりは緑が多く、レンガ造りのセミ・デタッチ家屋がたくさん建ち並んでいる。とても静かで落ち着いた感じの地域だ。このあたりには日本人がたくさん住んでいる。ここから駅で言うと2つ離れたフィンチリーという町にはユダヤ人が多い。フィンチリーは日本人とユダヤ人が多いのでJJタウンと呼ばれているという。

ある夜、そのJJタウンの一角にあるパブに行った。店名は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」。あのサリンジャーの有名な小説のタイトルだ。店内にはジョン・レノンの写真がたくさん飾ってある。なんでもレノンが愛読したのがこの小説だったらしい。ここは、まあ、日本で言えば居酒屋だろう。勤め帰りのサラリーマンや地元のオヤジたちが声高にビールを飲みながら喋っている。そこで飲んだラガーとギネス、それにフィッシュ&チップスはさすがに美味しかった。

2009.08.31 (月)  総選挙で圧勝した民主党に期待する

8月30日に行われた総選挙は、当初の予想どおり民主党が圧勝した。30日深夜の時点で民主党が獲得した議席数は300を超え、いっぽうの自民党はやっと110議席という状況だ。公明党も一気に議席を落とした。とはいえ、小選挙区で自民党の大物議員や族議員が次々に落選し、これは風通しがよくなるぞと思っていたら、かなりの候補者が比例区でしぶとく復活当選してしまっている。どうも現行の選挙制度は不可解だし、問題が多い。いちばんの問題は議員の数が多すぎることだ。いまの半分の人数で充分だ。

この惨敗という結果を受けてコメントを語る自民党幹部の言葉はひどかった。彼らはみな、「我々の政策や訴えが有権者の理解を得られなかった」などと、まるで自分たちは正しいことをやってきたのに、それを理解できない国民が悪いとでも言うような口ぶりで語った。麻生首相などは、茫然自失といった状態で会見に臨み、ロボットのように機械的な受け答えで敗戦の弁を語っていたが、最後まで自分の責任を認めようとせず、改めてリーダーとしての資質のなさと往生際の悪さをさらけだした。自民党の方針の誤りをはっきり認めていたのは、落選した与謝野財務相だけだった。こんな状況では、総選挙後の自民党の解体は時間の問題だろう。

これは日本の政治の大きな転換点だ。長年にわたる自民党の疑似独裁政権によって生じた、疲弊した官僚機構、権力と癒着した政治、国民から乖離した行政、小泉の悪政がもたらした様々な弊害、対米従属外交を、やっと是正するするときがきたのだ。でも民主党はこれからが大変だ。それを誰よりも自覚しているのは、これから政権を担う民主党の議員の人々だろう。問題は山積みしている。増税せず国債も発行せず、財源を確保できるのか、官僚制度を改革できるのか、頭のいい官僚をほんとうに彼らは使いこなせるのか、景気の回復は、年金問題は、介護制度は、郵政民営化の見直しは、米軍基地問題は、対外政策は・・・どれひとつとして揺るがせにできないことばかりだ。

民主党にほんとうの改革ができるのだろうか。ぼくは期待できると思う。鳩山代表はマニフェストを実現できなかったら責任を取ると断言している。彼の友愛の理念は本物だと思う――ちょっと青臭い感じもするが。民主党はこれまで、権力にしがみつき、官僚に依存する自民党の政治を見てきた。そして自分たちならこうするという方針を練ってきた。だから彼らは、衆議院の過半数の議席を得たことにより、それを思い切って実行できる。大勢が決まったあとの会見で語る鳩山、管、岡田ら民主党幹部の顔は引き締まっていて、覚悟の思いが表れており、浮かれた様子やだらけた雰囲気はなかった。党内にはいろんな考えの持ち主がおり、なかには前原一派のような軍備増強論者もいて、けっして一枚岩ではない。もしかしたら意あって力足らずになるかもしれない。でもぼくはいまの民主党の改革への熱意は本物だし、それを実行できるパワーもあると思う。すぐに実行できなくても見切りをつけず、長い目で民主党の改革のゆくえを見守っていきたい。

ここからは余談になる。ぼくが見ていたテレビ朝日の選挙速報は深夜12:30で終わり、そのあと番組は自民党御用ジャーナリストの田原総一郎が司会する討論会に切り替わった。田原は開口一番、「民主党が300議席も獲ったのにびっくりした」と言った。そして「こんなにひとつの党に議席が集まるなんて、どこかおかしい、気持ちが悪い」などと口走った。以前からマスコミでは民主圧勝という予測がなされていたのに、実際にそんな結果が出てほんとうにびっくりしているのなら、田原は度しがたい阿呆だ。民主党が圧勝したのは、自民党政治から決別したいという国民の思いが強く、小選挙区制だがらそれがストレートに出ただけのことであり、素人でも理解できる。そんなことも分からない田原はジャーナリスト失格だ。討論がスタートする前、安倍元首相がビデオ出演して総選挙の結果について喋ったが、田原は「麻生さんにはビジョンがなかったが、安倍さんはビジョンを持っていた」と、この政権を途中で投げ出して世界の笑い物になった自民党党敗北のA級戦犯にすり寄っていた。テレビ朝日がなぜこんな程度の低い俗物ジャーナリストを重用するのか分からない。

2009.08.28 (金)  クリフォード・ブラウンの2枚のレアCD

 この数年、クリフォード・ブラウンのレアな音源をCD化して出しているRLRレコードから、今年また2枚のアルバムが発売された。いずれも、前に出たブラウンとエリック・ドルフィの共演盤や、ラスト・コンサートと銘打たれたノーフォーク市コンチネンタル・レストランでのライヴ盤と同じく、イタリアのPhilologyから出ている厖大な『Brownie Eyes』シリーズによってすでに一部のコレクターは耳にしている音源だが、データも編集もいい加減なPhilology盤とは異なり、きちんとした編集がなされ、音質も向上し、詳しいライナーノーツも付されているので、ファンにとっては購入する価値がある。

 まず『Clifford Brown: The Complete Quebec Jam Session』(RLR 88646)だが、これは1955年7月29日に行われたカナダのケベックでのジャム・セッションを中心としたアルバム。ロブ・マッコーネルという地元のトロンボーン奏者との共演であり、メンバーはブラウンとマッコーネルを除いて不明だ。ライナーではテナーをハロルド・ランドと推定している。録られた場所はクラブではなく、スタジオか誰かの自宅(おそらくマッコーネルの)だと思われる。ブラウン=ローチ・クインテットがケベックにツアーをしたときに行われたセッションであろう。〈All the Things You Are〉〈Lady Be Good〉〈Strike Up the Band〉〈Ow!〉など、全5曲、ブラウンとしては珍しい曲が並んでいるのは興味深いが、演奏としては散漫で、あまり見るべきものはない。それでも〈Strike Up the Band〉でのブラウンのアップ・テンポに乗った輝かしいソロは聴きものだ。
 ほかにこのアルバムにはシカゴのビーハイヴで録られたライヴが3曲、ボストンのストーリーヴィルで録られた放送録音が2曲、ブラウンのテレビ出演時の演奏2曲が収められている。ビーハイヴでのライヴは1955年12月の録音。むかし『ロウ・ジニアス』というタイトルで発売された、ロリンズとブラウンのジャム・セッションの未発表曲だ。この演奏がアルバムのなかでは一番素晴らしい。〈A Night in Tunisia〉〈Billie's Bounce〉でのブラウンの颯爽たるプレイはファンの渇を癒してくれる。いまのところブラウンの動く映像が見られる唯一のソースが、1956年2月にテレビのスーピー・セイルス・ショウに出演したときのものだが、最後の2曲〈Lady Be Good〉〈Memories of You〉はそこで演奏されたトラックだ。インタビューで、ブラウンが最近子供が生まれたことを嬉しそうに語っているのが痛ましい。これより4ヶ月後、ブラウンは息子の成長を見ることなく交通事故死してしまう。

 もう一枚のアルバムは『Clifford Brown: The Lost Rehearsals 1953-56』(RLR 88651)とタイトルされている。このCDは前掲の『Quebec Jam Session』よりはるかに充実しており、聴きごたえがある。これは1953年6月にブラウンがタッド・ダメロンのグループに入って行なったリハーサル・セッションが中心になっている。収録曲は〈Somebody Loves Me〉〈Indiana〉〈I'll Remember April〉〈A Night in Tunisia〉など8曲。ブラウンはジャズ・シーンにデビューしたばかりだったが、すでにほぼ完成されたスタイルで演奏しているのに驚かされる。メンバーにはベニー・ゴルソン、ジジ・グライス、フィリー・ジョー・ジョーンズなどが入っている。ブラウンは1953年6月11日にダメロンのグループに入ってプレスティッジに〈Choose Now〉など4曲を録音している。だがこのリーハーサル・セッションではそれらの曲は演奏していない。だから、おそらくこのリハーサルはライヴ演奏のためのものであろう。
 ここにはほかに2種類の演奏が収録されている。1954年録音の〈Pennies from Heaven〉〈Second Balcony Jump〉など4曲は、メンバーがテディ・エドワーズ、カール・パーキンス、マックス・ローチ(いずれも推定)となっている。これが正しければ、ブラウン=ローチ・グループを旗揚げした直後のリハーサル・セッションであり、あのGNPから発売された『イン・コンサート』の前後ということになる。ここでのブラウンは最高のプレイを展開している。前のセッションと比べて長足の進歩を遂げているのが分かる。とくに〈Pennies from Heaven〉での美しいフレーズが次々にあふれ出るソロは感動的だ。最後の3曲はロリンズ加入後の1956年のセッション。ブラウンは、ダブル・タイム、トリプル・タイムを駆使して、速く吹くことに異常な執念を燃やしており、明らかに後期の特徴が見られる。こうしてアルバム全体を聴くと、それぞれのセッションに、初期、中期、後期のブラウンのスタイル、吹き方の違いが表れており、興味が尽きない。

 ブラウンのレア音源のCD化もそろそろ大詰めの感があるが、ぼくの知るかぎり、まだ素材は残っているはずだ。噂によると、ブラウンがコルトレーンと共演した音源もあるらしいが、これはまだまったく世に出ていない。でも、2人とも同時期にフィラデルフィアを拠点として研鑽していたから、存在している可能性はある。ブラウンは1951年に、ベニー・ハリスの代役として、チャーリー・パーカーのクインテットに入ってクラブで1週間演奏しているから、もしかしたらパーカーとの共演テープも発掘されるかもしれない。まあ、あまり期待せずに待つことにしよう。

2009.08.07 (金)  ジャンゴの洒脱とフレディの熱気

 最近、レコード業界全体の売り上げが落ちてきているなかで、ジャズの売れ行きも芳しくないようだ。でも、もともとジャズは、そんなに売れる音楽ではなかった。いまの状況はもとのセールス・スケールに戻っただけのことで、だったらポップスなどのように高望みせず、売り上げに見合った体制、経費で、ファンの好みに沿いながら、地道に売っていけばいいだけの話だ。でもまあ、現実的には、つねに右肩上がりの計画と実績を強いられるレコード会社としては、いったん膨らんだ事業を縮小させるという考えはなかなか受け入れられないだろうけど。
 ということで、最近聴いて面白かったジャズのアルバムを挙げておこう。

Jazz Manouche Vol.2 (Rambling Records)
 タイトルどおり、ジャズ・マヌーシュ、いわゆるジプシー・スイングのコンピレーション・アルバム。前に出た第1集もよかったが、この第2集も面白い。フランスで制作されたもので、ほとんど聴いたことのないミュージシャンが並んでいるが、選曲が素晴らしく、内容は充実している。ジャケットの洒落た感覚にも心惹かれる。
 最近は、ジプシーという言葉が差別用語だとかで、マヌーシュやロマといった言葉が使われているようだが、本国フランスやアメリカではいまもジプシーという言葉を普通に使っており、実際はどうなのか、よく分からない。まあ、いつの世にも、いきがって新しい言葉を使いたがる人種はいるわけで。
 アルバムの中身は、もちろんギターをフィーチャーした演奏が中心だが、ピアノ、ヴァイオリン、アコーディオン、テナー、コーラスを前面に出したものもあり、バラエティ豊か。演奏はみなそれなりに聴きどころがあるし、曲の配列は緩急に富んでおり、知っている曲、無名の曲がいい具合に散らばっていて、BGMとして流していて飽きがこない。
 当然ながら、ジプシー・スイングの開祖ジャンゴ・ラインハルトのサウンドと、ここに収められたジャンゴの“子孫”たちのサウンドは、似て非なるものだ。テクニックやサウンドはジャンゴそっくりだが、ジャンゴの演奏にあった深み、仄暗さ、官能性などは、ここにはない。でも、日本の歌謡曲にも通じるマイナー調のメロディ、軽快なスイング感は、聴いていて心地よく、心が和んでくる。

フレディ・ハバード/ウィザウト・ア・ソング:ライヴ・イン・ヨーロッパ1969 (EMI)
 昨年末に亡くなったフレディ・ハバードの未発表ライヴ。1969年といえば、それまで所属していたアトランティックからCTIに移籍する前後の時期だ。フレディはローランド・ハナ以下のリズム・セクションをバックに、ワン・ホーンで、思い切り奔放に吹きまくっている。まるで飛び散る汗が感じられるかのようだ。
 フレディのワン・ホーン・セッションは珍しいが、珍しいのはなにもフレディに限ったことではない。マイルスだってリー・モーガンだって、昔からトランペッターのレコーディングは複数のホーンを入れて行われるのが一般的だった。いずれにせよ、編成の大小はフレディのプレイに影響を及ぼしてしていない。
 ライヴというセッティングのせいもあるのだろうが、ここでの彼のプレイは荒っぽいし、無意味なフレーズが目立つ。強力なパワーと熱いエモーションをたたえながら、どんなに速くても、どんなに長くても、つねに品格と安定感を保って吹いていた60年代前半のプレイとは、比べるべくもない。そういう意味では、これはけっして一級品ではない。でも、90年代以降の彼の唇の故障による凋落を思うと、この元気いっぱいの演奏にはある種の感慨を覚える。こんながむしゃらなプレイがフレディの身上であり、そんな彼をぼくたちは愛したのだ。

2009.07.30 (木)  「野望」と「復讐」をテーマにした2冊の本

 たまにはジャズとミステリーについて書かないと、このコラムのタイトルからして、看板倒れになってしまう。今日は最近読んだ2冊の本を採り上げる。

野望への階段/リチャード・ノース・パタースン(PHP研究所、2009年)
 「罪の段階」や「サイレント・ゲーム」で知られるリチャード・ノース・パタースンは、いまいちばん安心して読めるミステリー作家のひとりだ。どの作品も、説得力のある淀みないストーリー展開、しっかりした人物造型、抑制された的確な描写で貫かれており、すべて水準以上の内容に仕上がっている。パタースンの小説は弁護士が登場するリーガル・ミステリーが多いが、この新作は、これまでとはガラリと趣向を変えて、アメリカ大統領選をテーマにしたものになっており、厳密にいえばミステリーの範疇には入らないだろう。だが面白さは、これまで同様、一級品だ。
 主人公の共和党上院議員は、心に傷を負った元湾岸戦争の英雄という設定。共和党の大統領候補指名争いに出馬したこの上院議員の指名獲得へ向けての戦いが描かれる。対立候補との虚々実々の駆け引きやキリスト教右派勢力の動向は興味深いし、相手陣営の汚い策略で主人公が窮地に陥るなど、プロットは起伏に富んでおり、意表を突くエンディングまで、一気に読ませる。読後感は爽やかで、改めてパタースンのストーリーテリングの才に感心する。主人公が恋に落ちる黒人女優や、元統合参謀本部議長で国務大臣を務めた黒人政治家など、実在の人物をモデルにしたとおぼしき登場人物も興趣を盛り上げる。これは今年の海外エンタテインメント小説のベスト3に入るだろう。

誇りと復讐/ジェフリー・アーチャー(新潮文庫、2009年)
 このジェフリー・アーチャーの新作は、近年の低迷していた彼の小説のなかでは、上等な部類に入る。無実の罪で投獄された男の復讐譚だが、読み始めて間もなく、あれ、これはもしかして、あの有名な古典小説が下敷きになっているのでは、と思っていると、案の定、そのとおりだった。ストーリーテリングの巧さはパタースンと同様だが、異なるのは登場人物の描き方に深みがないこと。もともとアーチャーは人物造型というよりプロットで読ませる作家だった。初期の「大統領に知らせますか」や「ケインとアベル」などは、キャラクターの形成という点では物足りなくても、切れ味のいい、スリルに富んだストーリーの流れで抜群のリーダビリティがあった。だがこの新作は展開の予測がついてしまう。だから、面白いことは確かだが、小説としてのコクがないし、読後の余韻もない。刑務所のなかの描写などは、さすがにアーチャーの実体験が生かされており、興味深くはあるのだが・・・。まあ、アーチャーに30年前と同じレベルの小説を期待するのが間違いなのだろう。
 訳者の永井淳氏は、アーチャーのほとんどの小説を訳してきた人だが、この本を手がけた直後に亡くなった。ほかにアーサー・ヘイリーもすべて永井氏の訳だった。自然で滑らかな日本語を操る名訳者だった。またひとり、昔から読んできた馴染み深い訳者が逝ってしまった。

2009.07.24 (金)  植草一秀氏の痴漢冤罪事件と最高裁の不当判決

今年6月、最高裁は、電車内で痴漢をしたとして1,2審で実刑判決を受けた経済学者、植草一秀氏の上告を退ける決定を下した。植草氏は懲役4か月の刑に服することになった。2006年に起きた植草氏の痴漢事件はマスコミで大きく報道されたが、この最高裁の上告棄却に関するニュースは新聞の片隅に小さく扱われていたので、気がつかなかった人も多かっただろう。

この事件、及びそれ以前の2004年に彼が起こしたとされるスカート覗き見事件について、ぼくは当初、新聞などの記事を鵜呑みにしていた。単なるテレビに出演して売れっ子だった経済学者が起こした痴漢事件というぐらいの認識しかなかった。しかし、たまたまネットで、これらの事件はでっち上げであり、植草氏は冤罪だという書き込みがたくさんあることを知り、疑問をもった。そして、事件の不自然なことと捜査のずさんなこと、植草氏を支援する組織ができていること、植草氏は、大学の職場やマスコミに露出する機会は失ったものの、冤罪をはらすため、政府の経済政策の非を暴くため、積極的に活動していること、ぼくが信頼する何人かのジャーナリストが植草氏の無罪を信じていることなどにより、これは仕組まれた事件だったのだと確信するようになった。

植草氏は痴漢による罪で2回逮捕されている。最初は2004年4月、品川駅のエスカレーターで女性のスカートのなかを手鏡で覗き見しようとした事件だ。「覗き見した」ではなく、「覗き見しようとした」というのが意味不明だ。逮捕した警官は植草氏を尾行していたようだが、何のために尾行していたのか。覗き見の証拠は、逮捕した警官の証言だけで、ほかには何もない。被害者とされる女性は告訴もしていない。植草氏は逮捕後すぐに防犯カメラの映像を見てくれと主張したが、その映像はなぜか消去されていた。地裁の下した判決は罰金50万円、手鏡1枚没収。植草氏は冤罪を主張したが、このときは控訴を断念した。

2回目は前回の事件の判決が下りてから1年半後の2006年9月、京急線の車内で女性の尻に触ったとして逮捕された。このときも決定的な証拠はなかった。被害者の女性の証言はあいまいだし、車内で植草氏を取り押さえた“屈強な”男性2名は、終始無言のまま、駅員に彼を引き渡したあとどこかにいなくなり、行方不明のまま、公判にも姿を見せなかった。車内にいた別の乗客が、植草氏は何もしていなかったと証言したが、認められず、けっきょく地裁では懲役4か月の実刑が言い渡された。植草氏は上告し、最高裁まで争ったが、最高裁の上告棄却で罪が確定した。

両方の事件とも、調べれば調べるほど、胡散臭さが強くなる。最初の事件は、尾行していた警官がタイミングをねらって捕まえたとしか思えないし、2回目の事件も、植草氏を取り押さえて消えた2人は、やはり公安など警察関係者だった可能性が高い。証拠らしい証拠がなく、“合理的な疑い”が濃厚なのに、なぜ裁判官たちは有罪の判決を下したのか、という疑問も浮かんでくる。

もしこれが冤罪だったとしたら、誰が、何故、植草氏に罪を着せようとしたのだろうか。植草氏はテレビや雑誌で、しばしば小泉政権の経済政策を批判し、小泉・竹中の構造改革路線の誤りを指摘し、彼らが隠したがっていることを詳細な分析のもとに暴いていた。その口封じのために権力側が仕組んだ国策捜査だった、というのが、いちばん納得できる説明だ。とりわけ彼らが危惧したのは、植草氏が追及していた“りそなインサイダー疑惑”だっとという。植草氏は小泉・竹中のいちばん触れられたくない部分に踏み込んだのだ。検察・警察が国策捜査をやらないと思ったら大間違いだ。最近の西松建設違法献金事件のように、これまでいくつも実例がある。

ぼくは最近まで、この「りそな銀行」処理にまつわるインサイダー取引疑惑については、まったく知らなかった。『小泉政権の誤った経済政策によって日本は不況に陥った。政府は銀行が破綻しても救済しないと言明した。そして危機的状況には至っていなかった「りそな銀行」が破綻するという風説を意図的に流し、前言をひるがえして突然国有化した。これを演出したのが金融・経済財政担当大臣の竹中平蔵だった。それによって外資系ファンド、国会議員、政府関係者がインサイダー取引をして大儲けした』――これが“りそなインサイダー疑惑”だ。これについては植草氏の、明快・精緻なレポートがネットに載っている(UEKUSAレポートPlus)。不可解なことに、「りそな銀行」国有化の過程で、この銀行の会計監査の責任者だった会計士が変死している(自殺として処理されたが遺書はない)。

裁判所の予断や偏見による誤審、意図的になされる検察に有利な判決はいくつもある。司法はけっして行政から独立していない。こんな貧弱な証拠でよく有罪にするなと思う判決もあるし、高知のスクールバスと白バイの衝突事件のように、警察のでっち上げの疑いが濃厚なのに、それを無視してバスの運転手を有罪にする、とんでもない裁判官もいる。裁判官と検察がグルになっているとしか思えない。植草氏のケースもそれにあてはまる。6月に上告棄却の決定を下した最高裁の裁判長は近藤崇晴という人物だ。この裁判官は、これまでの来歴を見ると、植草氏の事件に限らず、権力側の意にべったり添った判決を出し続けている。こんな裁判官は、もうすぐ衆院選と同時に行われる最高裁判事の国民審査で、ぜったいに×をつけなくてはならない。

それにしても最悪なのはマス・メディアだ。とくに新聞の罪は大きい。まるでありふれた痴漢事件そのままに、警察の発表をまるごと記事にして、植草氏をさらし者にした。記者たちはとうぜん、取材を通じて、この事件の胡散臭さ、おかしさを分かっていたはずだ。だが彼らは紙面でそれに触れようとしないし、それをいっさい追求しようとしない。日本郵政のかんぽの宿疑惑のときもそうだったし、西松建設事件のときもそうだった。権力監視のためのマスコミが、権力にすり寄り、その走狗になり果てている。

痴漢は起訴されただけで、本人は社会的に抹殺されるし、家族も大きな苦悩を味わう。痴漢のでっち上げは、許しがたい卑劣な行為だ。植草氏は1回目の逮捕のあと、テレビ番組をすべて降板、早稲田大学から教授の職を解かれた。マスコミには登場しなくなったものの、ネットや雑誌などでは、以前より鋭く権力批判を展開していた。そのひとつが先の“りそなインサイダー疑惑”だった。そのため彼らは植草氏のジャーナリストとしての息の根を止めようと2回目の事件を仕組んだ。不当な最終判決が下りてしまったが、植草氏はいまもブログや講演や著書を通じて真実を明らかにしようとしている。ぜひ巨悪に屈することなく、小泉・竹中の行った不正を暴き、名誉を回復してもらいたい。

2009.07.16 (木)  醜さをさらけ出す末路の自民党

いまや政界は解散、総選挙一色になっている。先日、新聞で報道された元外務次官の核密約告白は、日本が戦後保持してきた非核三原則がじつは嘘だったこと、政府・官僚は国民を欺いていたことの、当事者からの証言であり、本来なら大事件のはずなのに、野党はいっこうに追求するそぶりも見せない。いまはそれどころではない、というのが本音なのだろう。

自民党が最後の悪あがきをしている。もはや末期的状況を通り越して、断末魔の醜さをさらけ出している。これが自民党の末路だ。戦後60年続いた自民党政権が崩壊するときは、こんなにも無残な姿をさらすものなのだろうか。

古賀選挙対策委員長の辞任にはあきれるばかりだ。これから選挙を戦おうというときに、その責任者が辞めるのだがら、話にならない。敵前逃亡と言われてもしょうがない。都議選惨敗の責任をとるというのは口実であり、衆院選で負けるのは確定的だから、その責任を逃れようという魂胆なのは見え見えだ。

ここまでくれば、すんなり麻生首相に解散させるしかないのに、小泉の子分の中川や武部といった次の選挙で当選が危ぶまれそうな議員たちが、麻生を退陣させようと画策している。この期に及んで、首相を誰にしようと、ほとんどその効果は期待できない。むしろマイナス効果だ。また国民の信任を得ずに首相が代わったということで、国民はますますそっぽを向くだろう。そんなことも分からないほど、彼らの頭は劣化しているのだ。

舛添厚労相を首相にという声があるようだ。舛添は人気があるらしいが、ほんとうにそうなのか。ほかに魅力のある人材がいないから、相対的に彼が目立つだけにすぎないというのが実態だろう。他のボンクラ議員たちよりはましだが、彼は年金問題で二枚舌を使ったし、処理の不手際が目立ったし、責任の追求も曖昧なままだ。だいいち、ときおり見せる小賢しげなニヤニヤ笑いが鼻につく。

本来の党のマニフェストとは別のマニフェストを作ろうとしている一派もあるようだ。ひとつの党にいくつもマニフェストがあることの異常さに、彼らは気がつかないのだろうか。ここまで無秩序状態になってしまったら、総選挙で敗退したあと、自民党は分裂する可能性が高い。

もはや次の衆院選で民主党が勝つことは確実だ。あとはどれだけ票を伸ばすかが焦点になる。気になるのは、議席が増え過ぎて、次元の低い候補者まで当選してしまうことだ。前の郵政民営化選挙で、無能な自民党候補がたくさん当選してしまったが、あれと同じようになる恐れがある。いまの民主党からして有能な議員ばかりじゃない。なかには横峯のように低劣な輩もいる。そういう連中が増えれば、党としてのダメージになりかねない。

民主党がほんとうに国民に対して開かれた政治を実現できるのか。不安な材料はたくさんある。もしかしたら、力不足、結束力不足が露呈するかもしれない。理想を追い求めるあまり、現実の問題に対処しきれず、挫折するかもしれない。期待が大きいだけに、すぐに改革の効果が表れないと、反発が起きるかもしれない。それでも、少なくとも自民党よりましなことは確かだ。ここは民主党に日本の政治を任せてみたい。

2009.07.09 (木)  ジェファーソン・ボトルをめぐる謎と騒動

1985年、ロンドンでクリスティーズのオークションに1本のワインが出品された。アメリカ独立宣言の起草者であり、建国の父とされている第3代大統領トーマス・ジェファーソンが所有していたシャトー・ラフィット1787年のボトルだった。これは10万5000ポンド(当時のレートで約3200万円)という空前の高額で、フォーブス誌を発行する富豪マルコム・フォーブスによって落札された。今日に至るもこの金額を超えて取引されたワインはない。先ごろ読んだドキュメント本『世界一高いワイン「ジェファーソン・ボトル」の酔えない事情』(ベンジャミン・ウォレス著、早川書房2008年刊)には、その通称“ジェファーソン・ボトル”にまつわる騒動と顛末が生々しく描かれている。

ジェファーソン・ボトルを持ち込んだのはローデンストックというドイツのワイン・コレクターだったが、彼はパリの古い邸宅の地下室で見つかったということ以外、ボトル発見の経緯については詳細を語らなかった。クリスティーズのワイン担当者もその他の高名なワイン鑑定家たちも、当初はみな本物と信じていた。ところが、シャトー・ディケムやシャトー・マルゴー、ムートンなど、ジェファーソンが持っていたと称する18世紀産の第1級ワインをローデンストックが次々にオークションに出品するに及んで、本物かどうかに関する疑惑の声が上がり始めた。

ワインは真贋の判定が難しい。ラベルや刻印は偽造しようと思えば専門家でも見分けがつかないほど精巧に作れるし、そもそも本物のワインの空ボトルをとっておき、それに適当なワインを入れれば、見た目にはまったく分からない。ワインを開けて飲んでみて、ちょっと味がおかしいと思っても、18世紀の古いワインがどんな味かを知る人はほとんどいないし、飲んだことのある人でも。保存方法や保存環境の違いで味は変化するから、少し変だと思っても、絶対に違うとは言い切れない。さらにワイン業界や製造元はスキャンダルになるのを嫌がり、疑惑があっても自分たちの不利益にならないかぎり、そっとしておこうとする。そのためこのローデンストックが持ち込む古酒ワインに関する疑惑は、まともな追及や検証がなされず20年近くが過ぎた。

その後、2000年代に入って、ジェファーソン・ボトルを購入した石油関連企業のオーナー、ビル・コークがその真贋を確かめることを決意し、私財を投じて調査チームを作り、徹底的な究明に乗り出した。彼らはさまざまな調査や分析をした結果、偽物と断定し、2006年にアメリカ連法裁判所にローデンストックを「偽造ワイン販売」の理由で提訴した。その裁判はまだ決着がついていない。

この本は面白い。ビル・コークが組織した調査チームは、元連法裁判所判事、元FBI捜査官、元イギリス情報部員、物理学者などからなる大がかりなもので、彼らがジェファーソン記念館に保存されているワイン購入履歴や領収書を調べたり、最新の科学技術を使って年代測定したり、ボトルのガラスや刻印を分析したり、ローデンストックの身元を調査したりするくだりは、ミステリー小説も顔負けのスリルにあふれている。日本でも有名なロバート・パーカーやレナータ・サトクリフといったワイン・ジャーナリストも登場するし、ワイン業界にまつわるさまざまな裏話やオークション会社クリスティーズとそのライバルであるサザビーズの確執も語られる。

だが、しょせんは1本が何10万円、何100万円もする超プレミアム・ワインと、それにむらがる一部の金持特権階級の世界の話だ。そこには自慢とスノビズムが充満している。当時、ワインを愛好する上流社会では、このようなヴィンテージ・ワインの垂直試飲会や水平試飲会がひんぱんに開かれていた。ジェファーソン・ボトルをはじめとする偽造ワインの横行はこのような風潮抜きには考えられない。読み終ったあとになんとなく虚しさを感じる。これを読みながら、数年前に日本であった旧石器時代の遺物の捏造スキャンダルを思い出した。次々に重要な石器を発掘してゴッドハンドと言われたアマチュア考古学研究家が、じつはそれらの遺物を捏造していたいう事件だ。ひとりの人間がそんなに貴重な遺物をいくつも発掘するなんて、どこかおかしいと思うのが普通だが、業界ではみんながそれを本物と信じていたというから笑ってしまう。お粗末さと異常さという点で、どこか似ている。

ワイン業界は異常な世界だ。ロバート・パーカーが「これは近来にない凄いワインだ」と激賞したら、それまで無名だったシャトーのワインの値段が10倍に跳ね上がる。この世界では、ずいぶん前から銘醸ヴィンテージ・ワインが偽造されてきたらしい。大がかりなワイン偽造グループが摘発されたこともある。いま世界中に出回っているラフィット、ラトゥール、マルゴー、ペトリュス、DRCなどの数量は、それらのワインの年間生産量をはるかに超えると言われている。つまり偽造品がかなり含まれていることになる。おそらく日本にも少なからずその手の偽造ワインが入ってきているだろう。大金を払ってそれを飲み、「さすがに味が違う」と悦に行っているアホウがいるわけだ。いや、ぼくのことではありません。以前はそんなワインを飲んだこともありましたが、いまは卒業しました。丹念に探せば1本1000〜1500円で満足すべき美味しいワインがたくさんあるので、それで充分です。

2009.07.02 (木)  村上春樹について思うこと

  村上春樹の新作小説『1Q84』がベストセラーになっているようだ。ぼくは基本的にベストセラーの類いは読まないことにしている。だからこの本も読んでいないので、これについて語る資格はない。これまでに読んだ村上の作品といえば、『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』という初期の小説、ジャズや翻訳に関するエッセイ集、チャンドラーのハードボイルド・ミステリー『ロング・グッドバイ』の新訳ぐらいしかない。小説2作は初期の大江健三郎を思わせる設定が印象に残っただけで、内容的には惹かれるものがなかった。『ロング・グッドバイ』の新訳は、かつての清水俊二訳に比べると、正確ではあっても、文章のリズム感や生き生きした情感が希薄で、ちっともすぐれているとは思わなかった。ということで、ぼくは村上春樹のいい読者ではない。でも、ジャズや海外ミステリーなどへの興味、世代的な近さを通じて、彼はぼくにとってある種の共感を覚える存在だった。だがいまは彼の言動に人間的な疑問を感じている。
  もはや旧聞に属するが、村上春樹は今年2月、イスラエルに赴き、エルサレム賞を受賞した。パレスチナ人を抑圧し、虐殺するイスラエルという国が授ける賞を村上が受けたことについての是非は、いまは問わない。ノーベル賞が欲しいから、そのためのパスポートと言われるエルサレム賞を貰ったのだという説があるが、その真偽もいまは問わない。ぼくが問題にしたいのは、彼が授賞式でしゃべったスペーチだ。知られるように村上は、堅く高い壁と壊れやすい卵という例を引き合いに出して、どんなに壁が正しく卵が間違っていても、自分は卵の側に立つ、と言った。これはイスラエルの暴挙を非難した、勇気ある大胆な発言だとして、おおむね評価が高いようだが、ぼくに言わせればどうしようもなく偽善的な臭いを感じる。ほんとうに弱者の側に立って強者を非難するのなら、なぜそんなあいまいな暗喩を使わずに、堂々と思っていることを主張しないのか。そこには、文学者であることを楯にとり、文学的な比喩によって意味をぼかし、イスラエルの心情を逆なでしないようにしたいという配慮が見える。そうやって免罪符を得ようとする卑怯な心根を感じる。
  そもそもイスラエルの暴挙に反対なのなら、受賞を拒否し、その理由を説明すればいいだけだ。単純な話だ。しかし彼は、みんなが出るなと言うから出席したのだという。それはそれでいいと思うし、理解できる。それでも、彼が言うように、言いたいことを言うために授賞式に出てきたのだったら、もってまわった曖昧な言い方ではなく、堂々と思っていることを明確に、分かりやすくしゃべるべきなのだ。それが文学者としての良心だ。2001年、エルサレム賞を受賞した批評家スーザン・ソンタグは、ユダヤ人でありながら、受賞式でイスラエルのパレスチナ人への迫害や軍事的侵略を非難し、軍事行動の停止と自治区からの撤退を求めた。これこそ真の勇気ある発言だ。文学・芸術といえども政治と無縁ではありえない。いまの世の中、文学者は、どんなに政治や社会から超然としようとしても、それらから逃れることはできない。村上の受賞スピーチには、いくら卵の側に立つと言っても、その不明瞭な比喩的表現のなかに、どこか部外者的、傍観者的な考え方が見え隠れしているように感じられてならない。

2009.02.18 (水)  五輪招致、築地移転という石原の愚挙に怒リの声を

  オリンピックの東京への招致で国会決議が遅れていることに対し、石原都知事が居丈高にがなりたてている。自分が勝手にぶち上げたくせに、まるでオリンピック招致に誰もが賛成するのが当然で、反対なやつは非国民だと言わんばかりだ。新銀行東京をはじめとする都政の失敗をオリンピックで誤魔化そうとする石原の自分本位で姑息な考え方は、あきれるばかりだ。
  オリンピック招致にかかる費用は、招致活動費150億円、施設整備費2400億円、大会運営費3100億円だという。このうち施設整備費は半額を国費で負担する。また大会運営費は国が債務保証をする。つまり、都の税金だけではなく、国の税金まで使われるのだ。おそらく上記の金額は実際にはもっと膨れ上がるだろう。石原は3兆円の経済効果あると言うが、都の意向に沿って算出された眉唾の数字であり、まったくの机上の空論だ。これが都の財政を圧迫し、教育、医療、福祉といった住民の生活に直結する予算の削減につながるのは間違いない。
  石原の自己満足と、利権を得ようとして周辺に群がるハイエナどものために、なぜそんな無駄遣いをしなければならないのか。巨額の金をつぎ込んでオリンピックを開催しても意味はない。社会インフラの整備という点ではオリンピックの効果はたしかにあるだろう。だがいまの東京に社会資本の整備は必要ない。オリンピックを開催した都市の多くは、その後、財政悪化に苦しんでいると聞く。国民の反応も醒めている。世論調査による支持率は59パーセントであり、これは候補の4都市のうち最下位だ。アンケートの質問の仕方によっては、もっと下がるだろう。
  築地市場の移転計画も無茶苦茶な話だ。毒まみれの豊洲になぜ市場を移転しなければいけないのか。みんなが反対しているのに、石原はこれも強引に計画を進めようとしている。移転の理由は施設が老朽化したからだというが、それなら建て替えたり設備を刷新したりすればいいだけの話だ。由緒ある築地市場がなくなるのは誰も望んでいない。築地の跡地をどうするのかも決まっていない。当初は東京オリンピックのメディアセンターだか選手村だかにしようという構想があったが、その話は消えたらしい。何か利権に絡む話があるとかんぐられてもしょうがない。
  石原は年をとってますます頑迷になり、権力欲が旺盛になってきた。家に引っ込んで三文小説でも書いていればいいのに、国政で居場所がなくなり、都政を私物化して権力欲を満たそうとしている。権力志向の強い人間は臆病だし卑怯だ。失敗しても責任を取らず、真っ先に逃げる。彼は何をするにも贅沢三昧だし、住民に向ける温かい目線など皆無で、いつも威張り散らし、弱者を蔑視する。こんな品のない破廉恥な男を、都民はいつまでのさばらせておくのか。
  自分が制作に携わり、脚本も書いた2007年の駄作映画「俺は君のためにこそ死ににいく」を、クリント・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」よりずっといいと自画自賛する石原の感覚は、どこか異常なものを感じる。なにしろ彼は東京にカジノを作ろうと本気で考え、それを稀有壮大なアイデアだと思い込んでいるんだがら、度し難いバカさ加減だ。なんでも思いつきでことを進め、そして失敗する。新銀行東京がそのいい例だ。だがけっして責任を取ろうとしない。
  とここまで書いてきて、新銀行東京が、旧経営陣の2名に対して損害賠償を請求する訴訟を起こすというニュースが入ってきた。請求額は100億円だという。そんな金をこの2人が払えるわけがない。すべての責任を旧経営陣に転嫁しようという石原の腹が見え見えだ。石原が周囲の反対を押し切って強引に設立したのが新銀行東京だ。そして彼は無理な経営方針をこの銀行に押し付けた。どう考えても一番の責任は石原と東京都にある。この損害賠償請求訴訟は、自分たちの責任逃れのため、免罪符を得るためのものとしか考えられない。
  都民はもっと声を大にして、石原に対してノーの叫び声をあげてもらいたいと切に望む。

2009.02.16 (月)  小泉発言を過大報道するマスコミの荒廃と堕落

  マスコミの質の低下は目を覆うばかりだ。いまさら挙げつらっても虚しさを感じるだけだが、それでもここ数日のメディア報道の惨状には怒りの声を発したくなる。小泉発言に関するニュースの異常な垂れ流しぶりだ。
  小泉元首相が、彼にすがることでしか生き残れない木っ端議員たちとの会合で発言した麻生首相批判の言葉が、連日のように新聞やテレビで取り上げられている。引退を表明している小泉が何を言おうと、そんなに大きく報道するようなネタではない。ほかに国民に知らせるべきニュース、追及すべきテーマはたくさんある。ところが、小泉が麻生を批判したとたん、マスコミはそれを面白がって取り上げ、やれ政局だなどと騒ぎ立てる。大企業が潤えばすべてがうまくいくという新自由主義のでたらめな発想により、金持ちを優遇し、格差を助長し、年金制度を改悪し、アメリカの犬になり、日本を外国に売り渡した張本人が小泉だ。みんなそれを知っている。だが、この小泉発言の過大報道により、悪の根源である小泉の構造改革が、まるで守っていかなければならない錦の御旗であるかのようなイメージが醸し出されつつある。
  そもそも麻生は正しいことを言ったのだ。言うことがころころ変わる恥さらしの無能な人間でも、たまには正論を吐くときがある。彼は郵政民営化を否定し、国民の多くはその中身を知らなかったと言った。それは本当のことだ。彼はバカ正直に、つい本音を言ってしまい、それがたまたま正鵠を射た。つまり、小泉のやった改革は間違いだったと公の場で認めたのだ。これは画期的なことだ。これまで自民党では、心のなかでは思っていても、誰もそれを言わなかった。マスコミはこぞって麻生を批判したが、ほんとうはよく言ったと褒めるべきなのだ。そして郵政民営化がらみの「かんぽの宿」疑惑を徹底的に究明し、小泉構造改革の不正を暴くべきなのだ。麻生が郵政民営化はやるべきではなかったと言い、鳩山邦男総務相が、「かんぽの宿」売却に関する疑惑を追及する。当然のことだ。だが、この小泉発言に関するメディアの浮かれ騒ぎにより、疑惑追及の勢いにブレーキがかかってしまった。
  政治通によると、あの小泉発言は、面子をつぶされた怒りによるものではなく、「かんぽの宿」の疑惑隠しのための巧妙な計算から出たものだった。つまり小泉は疑惑の責任が自分に降りかかってくることを恐れて、ああいう発言をしたのだという。ほんとうにそうなのかどうか、ぼくには分からない。でも、そのせいで「かんぽの宿」疑惑がどこかに吹き飛んでしまったことは確かだ。「かんぽの宿」疑惑は、たんに日本郵政がオリックスへの譲渡契約を白紙に戻せば済むという問題じゃない。オリックスの宮内会長という稀代の政商がたくらんだ、政府の手先として規制緩和を推進し、それによって金儲けするという仕組み、規制緩和を利権にして甘い汁を吸ってきた流れ、そしてそれに小泉がどう絡んだのかという構図、それらの真相が解明されなければならない。それをしてこそ、小泉・竹中の構造改革の真実がさらけ出される。
  国民は小泉の威勢のいい掛け声に騙され、彼が唱える改革を信じたがために、いま塗炭の苦しみにあえいでいる。それでもまたマスコミは、以前と同じように、国を壊した元凶である小泉を擁護し、疑惑隠しに加担し、国民を誤った方向に導こうとするのか。

2009.01.31 (日)  フレディ・ハバードの思い出――その2

  ぼくは以前、レコード会社に勤め、ジャズを担当しているとき、フレディ・ハバードのレコードを何枚かつくったことがある。なかでも思い出深いのは『バラの刺青』というアルバムだ。録音したのは1983年だった。ここでフレディは全曲ハーモン・ミュートをつけて吹いている
  このころフレディは、いろんなセッションに入って忙しく活動していた。各種のジャズ・フェスティバルにも盛んに出演し、フェスティバル男と言われていた。ジャズだけでなく、ポップス系のセッションにも顔を出していた。たしかJポップの録音に参加したこともあったと思う。彼の奏法は以前に比べて荒っぽくなっていた。勢いに任せて吹きまくるのだが、同じようなフレーズの繰り返しが目立ち、肌理が粗くなっていた。制作方法によっては、もっとセンシティヴな演奏ができるはずだと思ったぼくは、ミュートをつけて吹けば、吹き過ぎを抑え、羽目を外さずに演奏できるのではないかと考えた。そこでハーモン・ミュートで演奏するアルバムを作らないかとフレディに打診したところ、OKという返事がきた。曲とサイドメンも、ほぼこちらの提案を受け入れてくれた。
  グループ構成は、ピアノ・トリオだけをバックにしたワン・ホーン編成にしようとも考えたが、バラエティの点で少し変化をつけたほうがいいと思い、半分はワン・ホーン・カルテット、もう半分はテナーを加えたクインテットでいくことにした。スタジオは、ニューヨーク市内から車で40分ほどの、ニュージャージーにある有名なヴァン・ゲルダー・スタジオをおさえた。以前のレコーディングのとき、彼はスタジオに大幅に遅れてやって来て、ぼくたちを困らせた。そこで今回は前日からマンハッタンのホテルに泊らせ(彼はロサンジェルスに住んでいた)、レコーディング当日は彼をピックアップして一緒にスタジオに入ることにした。これで "Ready for Freddie" という事態は回避できた。フレディは車のなかで、ミュートをつけて吹く練習をずいぶんやったんだぞ、と言っていた。
  サウンドとしての狙いは、『バックラッシュ』に入っている〈アップ・ジャンプト・スプリング〉のような、抑制の利いたスリリングな演奏にあった。ジャズのレコーディングに立ち会う際、状況によって、あれこれ口出ししたり注文をつけたりする場合と、こちらからほとんど何も言わずミュージシャンに任せる場合がある。このフレディのレコーディングは前者だった。ぼくはかなりアイデアやサジェスチョンを出した。〈星に願いを〉を録るとき、最初は4拍子のミディアム・スローでやってみたが、もうひとつ盛り上がった演奏にならない。そこでぼくは少しテンポを上げ、3拍子でやってみようと提案した。その結果、うまく躍動的で引き締まったテイクが出来上がった。また、バラードの〈プア・バタフライ〉の録音に際しては、プレイにめりはりをつけるため、各コーラスの最初の2小節にブレイクを入れてくれと注文した。
  フレディにとっては不慣れなセッティングの録音だったが、回を重ねるにつれて、彼はしだいに調子を上げていった。レコーディングの途中、彼は、今度の曲はミュートをつけず、オープンで吹いてもいいか、と訊いてきた。ミュートばかりなので、フラストレーションがたまったのだろう。でもぼくはノーと言った。これは全曲ミュートでというコンセプトなので、譲るわけにはいかなかった。フレディは少し不服そうな顔をしたが、了承し、気を取り直してレコーディングを続けた。メンバーのなかでとくに素晴らしかったのはピアノのケニー・バロンだった。バロンは、伴奏に、ソロに、小気味いいピアノを弾き、フレディと見事なコラボレーションをつくり出した。このアルバム成功の一因はバロンにあったと思う。半分だけに参加したテナー奏者には、当時売り出し中のリッキー・フォードを起用した。フォードはビッグ・トーンの持ち主で、ややオールド・スタイルなので、このアルバムの趣旨に合うと思ったのだが、もしかしたら、もっと新しい感覚の人のほうが良かったかもしれない。
  レコーディングが終わったあと、フレディはぼくに向って、「最初は、いいものができるか半信半疑だった。オープンで吹く曲もやりたいと思った。でもレコーディングしながら、だんだん気持ちが乗っていった。いまは結果にとても満足している」と礼を言ってくれた。初めてこういうレコーディングを経験して、新しい可能性が広がったという気持ちになったのだろう。出来上がったレコードは、ほぼ狙い通りの内容になった。そこには、マイルスのミュート・プレイともまた異なる、クールななかに奔放さをたたえた、フレディ流のミュート・スタイルがあった。幸いなことに、発売されたアルバムは評判がよく、売れ行きも好調だった。とうぜん第2作は作ろうと思えばできたのだが、けっきょく社内体制の変化により実現しなかった。しかし、このアルバムが発売されたあと、他社からフレディの同趣向のアルバムがいくつか発売された。
  いま、このアルバムを聴き返すと、フレディがリズムに合わせて頭を右にかしげ、足で調子をとりながらトランペットを吹いていた姿が思い浮かぶ。いまごろ彼は天国で、アイドルだったクリフォード・ブラウンやジャズ・メッセンジャーズの前任者リー・モーガンと一緒に、そんな恰好でジャム・セッションに打ち興じていることだろう。

2009.01.29 (木)  フレディ・ハバードの思い出――その1

  昨年暮、新聞の記事でフレディ・ハバードが亡くなったのを知った。死亡したのは2008年12月29日、70歳だった。事実上、フレディはすでに過去の人になってしまっていたので、それほど衝撃を与えるニュースではなかった。でも彼のトランペットを愛し、個人的にも多少のかかわりをもったぼくは、ある種の感慨を抱かずにはいられなかった。
  90年代初め、フレディは上唇が破裂し、そこから感染症にかかって演奏できなくなった。唇の故障はトランペッターにとって致命的だ。心臓病の持病もあったらしい。2000年代に入って再起したが、もう以前のようには吹けなくなった。年齢によるパワーの衰えもあったかもしれない。再起後、2枚のアルバムをつくったが、往年の輝きは消えうせており、聴くのが痛々しかった。
  フレディ・ハバードのトランペッターとしての絶頂期は60年代だったと思う。クリフォード・ブラウンの流れを汲んでいたが、同時に新しいモダンな感覚も身につけていた。彼のフレーズはどんなに急速調の曲でもけっして乱れなかった。正確なアーティキュレーションと至妙のリズムへの乗り、メロディックなフレージング、あふれんばかりのパワーとエモーションは、誰にも真似ができなかった。彼のプレイにはトランペットという楽器のイメージそのものとも言える華やかさと躍動感があった。
  フレディは誰もが認める名手でありながら、ジャズ界に音楽的な影響力を及ぼすようなアーティストにはならなかった。彼は、フレディならこの一枚、と言えるような、万人が納得する代表作、人気盤をつくっていない。それが彼のミュージシャンとしての存在感を希薄にした。ぼくもフレディのアルバムで、絶対の名盤は? と言われると、はて、どれだろうと迷ってしまう。好きなアルバムということで言うなら、インパルスの『ジ・アーティストリー・オブ・F.H.』、ブルーノートの『オープン・セサミ』、アトランティックの『バックラッシュ』あたりだろうか。
  フレディが最初期、60年代前半に在籍したのがブルーノート・レーベルだ。『オープン・セサミ』(1960)は初リーダー作であり、そのせいか、彼の演奏は肩に力が入り過ぎて、やや硬い感じがする。内容としての完成度は、それより少しあとの『ハヴ・キャップ』や『レディ・フォー・フレディ』のほうが上だろう。でも『オープン・セサミ』は、タイトル曲と〈ジプシー・アイズ〉という2曲の佳曲が入っており、個人的な愛着を感じる。評論家筋には『ブレイキング・ポイント』が評価が高いようだが、これは繰り返して聴きたいと思うようなアルバムではない。
  ブルーノートとの契約期間中、インパルスに吹き込んだ『ジ・アーティストリー・オブ〜』(1962)は、おそらくフレディの魅力が最高に発揮されたアルバムであろう。どこまでも続く美しいアドリブ・ラインは、まさにクリフォードを彷彿とさせる。メンバーや曲目の魅力と相俟って、フレディで一枚だけを挙げるなら、ぼくはこのアルバムになる。60年代後半に所属したアトランティックで彼が最初に吹き込んだ『バックラッシュ』(1966)はベストセラーになった。ジャズ・ロック風のサウンドで話題になったが、なかの1曲、ワルツ・テンポで演奏される自作の〈アップ・ジャンプト・スプリング〉は、“ラヴリー”という形容詞がぴったりの愛すべきナンバーだ。
  70年代に入ると、彼はCTIの専属になり、折からブームになったポップ・フュージョン路線に沿ってコマーシャルなヒット作を連発するが、玄人筋からは不評を買った。とはいえ『ファースト・ライト』などはけっこう楽しいアルバムに仕上がっている。その後も彼はたくさんのリーダー・アルバムを録音したが、印象に残るようなものは見当たらない。フレディはサイドマンとしても、若いころから病気で倒れるまで、数多くのセッションに参加しているが、聴きごたえがあるのは、やはり60年代前半のジャズ・メッセンジャーズ時代と70年代後半のVSOPクインテットによる諸作だろう。
  フレディはオリジナルもたくさん書いたが、記憶に残るような有名曲は生んでいない。比較的知られているものといえば、〈アップ・ジャンプト・スプリング〉と〈バードライク〉ぐらいだろう。彼は時間にルーズで、よくセッションに遅れてやってきた。『Ready for Freddie』というアルバム・タイトルそのまま、メンバーはいつも録音スタジオでフレディが現れるのを待った。生意気でやんちゃな性格であり、頼まれれば何でもやってしまうお調子者だった。彼が真の偉大なミュージシャンになりきれなかったのは、そのあたりにも原因があったと思う。だが彼は、愛嬌のある憎めない人柄により、そして何よりも抜きん出たプレイにより、みんなから愛された。

2009.01.25 (日)  イスラエルのガザ攻撃とオバマ新政権

  イスラエルはようやく停戦し、ガザから撤退した。だが封鎖はいぜんとして続けているので、これからどうなるのか予断を許さない。イスラエルはブッシュ政権の末期を狙ってガザに侵攻し、オバマの大統領就任に合わせて図ったかのように一方的に停戦した。おそらくこのタイミングで停戦するというのが最初からのシナリオだったのだろう。停戦の時期についてオバマ陣営と裏取引があったと勘繰る人がいても不思議ではない。
  イスラエルのガザ攻撃は、戦争というよりも殺戮だった。イスラエルはガザからのロケット弾攻撃に対する報復だと主張するが、ガザを封鎖し続けてハマスにわざと攻撃させ、それを口実にハマスを殲滅しようとしたことは明らかだ。ハマスの射つロケット弾はきわめて命中精度の低いもので、およそ有効な攻撃とは言えなかった。100歩譲ってハマスの攻撃に対する報復を認めるにしても、こんなに一方的な虐殺が許されていいはずがない。
  イスラエルの高官は「アメリカが第2次大戦中に日本にやったのと同じ攻撃をしているまでだ」とうそぶいたらしい。一般住民を巻き込む人口密集地への無差別攻撃だ。しかも劣化ウラン弾や白リン弾といった残虐な兵器を使っている。戦争とは、本来、兵士どうしが戦うものなのに、イスラエルのガザ攻撃で犠牲になった人の多くは一般住民だった。ナチス・ドイツをすら思わせる悪逆非道ぶりだ。
  この暴挙を世界中の誰も止めることができなかった。アメリカがその気になれば止めさせることができたであろうが、残り少ない任期のブッシュが動くはずはなく、イスラエルもそれを見越しての行動だったのだろう。当初、イスラエルの攻撃の背景にはアメリカがいるという話があった。つまり、アメリカは不況を解消する手段のひとつとして戦争をしたい。そのためイスラエルをけしかけてこの戦争を起こさせ、イランが出てくるのを待つ。イランが参戦したところでアメリカが入り、イランを攻撃する。アメリカとしては、戦争になったら経済が活気づくし、目の上のたん瘤のイランも叩けるので一石二鳥だ、という見方だ。真偽のほどはわからない。
  アメリカ国内のユダヤ勢力や人脈が国の政治、とくに中東問題に及ぼす影響が大きいと言われる。実態はよく分からないが、一説によると、ユダヤ勢力も一枚岩ではないという。つまり、ユダヤ勢力には2派があり、一方は親イスラエル、もう一方は反イスラエルで、反イスラエル派は、あまりイスラエルが派手に立ち回っては困る都合があるのだそうだ。この説を信じるなら、ブッシュの時代は親イスラエル派が優勢だったため、イスラエルをいっさい抑えようとしなかったことになる。
  オバマ新政権は、ユダヤ系のスタッフが多数を占めているらしい。また大統領選挙中にはオバマはユダヤ・ロビー団体と手を組んでいた。そして、イスラエルのガザ攻撃について、大統領就任前とはいえ、彼がいっさい黙して語らなかったことに失望させられた。こういったことだけとり上げると、オバマはイスラエル寄りだと見られてもしかたがないだろう。でも、前回にも書いたように、それでもぼくはオバマに期待したい。
  アメリカはこれまで軍需産業と金融資本とユダヤ・ロビーに支配されてきた。その体制を一挙に変えようとすれば、それこそすぐに暗殺されるだろう。つまり、極端に言えば、誰が大統領になっても同じなのだ。だとすれば、たとえ限界があるとしても、オバマの弱者に寄せる目と平和への信念に期待し、彼が時間をかけて、政治的な巧みさを発揮しながら変革していくことに望みをつなぐしかないのだ。オバマがジレンマに陥ることは免れない。でも彼はブッシュ時代に世界から孤立したアメリカを変えていくだろう。ブッシュのように、善と悪で一元的に色分けしたり、他国に無理やり攻め入ったり、石油資本の手先になったり、金融経済を野放しに放置したりはしないだろう。
  オバマ大統領は、早くもクリントン時代に中東和平交渉を行ったミッチェル元上院議員を特使としてパレスチナに派遣し、積極的に和平に取り組む方針を示した。アメリカがイスラエルの肩をもたなければ、そしてイスラエルがガザ封鎖を解いて住民を生殺しから解放すれば、和平への道は開けるだろう。いずれにしても、前途が多難なことは確かだ。アフガン問題はもっと難しい。オバマはアフガンにもベテラン外交官を特使として派遣するが、同時に軍隊も増派する。武力を背景にした話し合いという作戦だ。あまりイスラムに理解を示せば、国民から弱腰との非難が沸き起こることもありうる。アフガンはいま以上に泥沼に陥るかもしれない。

2009.01.23 (金)  オバマの大統領就任に思う

  オバマの大統領就任式には200万人という歴史的な大観衆が集まった。これまでのアメリカの歴史を振り返ると、よく黒人の大統領が誕生したものだと思わずにはいられない。キング牧師が1963年にワシントンで行った有名な「私には夢がある」演説の“夢”が、実現しつつあるのだ。1964年の公民権法の制定によって、それまで公然と行われていた人種差別は形のうえでは終わりを告げたが、実態としてはその後も陰に陽に差別は長く続いた。
  1950年代終わりから60年代前半にかけて、アメリカでは黒人たちの人種差別撤廃運動の嵐が吹き荒れていた。団塊の世代であるわたしたちは、60年代の前半、中学生から高校生ぐらいのころ、そんな現実をまったく知らず、洋画やポップ・ソングによって、単純にアメリカへの憧れをかき立てられていた。それほど遠い昔ではない、ほんの昨日のことに思える。それがいまは、黒人が大統領に就任し、黒人と白人が手を取り合って喜び合っている。よくここまで辿り着いたものだ。だが、キング牧師の夢はいまだ完全には実現していない。偏見は根強く残っている。
  オバマの就任演説は、派手に理想をぶち上げるのではなく、現実的な立場に立って困難を乗り切ろうという、足が地についた内容だった。自分本位な考え方を戒め、個々人の責任を訴える演説の趣旨は、ケネディの就任演説を思い起こさせた。彼の言葉には力がある。その口調は力強く、説得力にあふれている。エキセントリックになるらない、抑制した話しぶりが、信頼感を与える。それと比べて、政治風土や習慣の違いがあるとはいえ、日本の首相の中身のない空疎な演説はほんとうに情けない。
  しかしオバマには、悪化する経済情勢、高まる貧富の格差、医療保険制度改革、テロとの戦い、パレスチナ問題など、難題が山積みだ。オバマはアメリカ国内だけでなく、これまで対立してきた国も含めて世界中から歓迎されている。ここまで期待が高まると、改革がうまく進まなかった場合の反発が懸念される。国民のあいだで熱狂的な支持があるいっぽう、オバマにはたいしたことはできないという醒めた見方をする人もいる。だが、ぼくは期待できると思う。
  若いころ、オバマは高給な職をなげうって、シカゴの低所得者が住む区域で社会活動家として働いた。もっと楽なやり方もあったのに、あえて彼は貧困者や恵まれない人々のために尽力した。その1点だけで、ぼくはオバマを信頼できる気がする。彼の国民に向ける目線は確かだし、意見を異にする者と冷静に対話できる能力をもっている。イスラムへ和解のメッセージを発信する柔軟な姿勢ももっている。彼の誠実さ、平和を求める志は誰も疑うことはできない。
  しかし、ただ誠実なだけでは政治はできない。巧妙に立ち回ることも必要だ。時には過去の言葉と矛盾した行動をとることもあるだろう。おそらく、いちばん骨が折れるのは、アメリカの政治を影で動かしてきた産軍複合体とユダヤ勢力への対処だろう。あまり性急にことを運びすぎると、極右白人至上主義者だけでなく、産軍複合体からも暗殺される危険が増大する。そのあたりは、オバマ自身がいちばんよく分かっているだろう。そして彼は、たとえ時間はかかっても、アメリカという国をあるべき方向に変えていくだろう。
  問題は日米関係だ。専門家はオバマ新政権が日本に過大な要求をしてくる可能性を指摘している。しかし、アメリカでの政権交代は、これまでの対米従属外交を清算し、正常な状態に改めるいいチャンスだ。とは言え、いまの日本の政治家や外交官には、そんなことができるような人材は見当たらないので、期待薄だが。

2009.01.21 (水)  官僚も政治もメディアもみんな劣化している――その2

  麻生首相の無能ぶりは、とどまるところを知らず露呈しまくり、もはや断末魔の状態を呈してきた。3年後の消費税増税を法案に盛り込むかどうかで、自民党が揺れている。増税の是非はともかく、いまこの時期に増税なんてことをぶちあげると、国民にどんな反応を引き起こすか、子供でも分かる。すでに閣議決定したからと言って麻生は強行しようとしているが、給付金問題と同じく、言うことはころころ変わるのに、変えなければいけないものに関しては意固地に変えようとしない。まったく度し難い頭の悪さだ。
  定額給付金について、以前は自分はもらわないと言っていたのに、いまはその時にならないと分からないと言い出した。以前は高額所得者には辞退してもらいたいと言っていたが、いまは全員が受け取りどんどん消費に回そうという方向に変わって来たのだ。つまり発案した時点と現在では、状況が違ってきたので、給付金の意味付けも、最初は貧困救済策だったのに、景気浮揚策にすり替わったのだ。誰かが言っていたが、病気の症状が以前と違うのに、同じ治療法で対処しようとしているようなもので、これでは病気が治るわけがない。

  定額給付金はもともと公明党が主張した案だった。公明党があれほど給付金にこだわったのは選挙対策費の捻出のためだったということが、政治通のあいだで公然の事実として口にされている。つまり、創価学会員に給付された金の一部が創価学会に上納される。それが今度の総選挙で公明党の選挙資金に使われる、という筋書きだ。だが、マスコミはこの情報をつかんでいないはずはないのに、どこもいっさい報じていない。
  政治と同じく、メディアの惨状もどうしようもない。彼らはトヨタ相談役の奥田のスポンサー引き揚げ発言をまともに批判できないし、御手洗経団連会長のキャノン大分工場建設に絡む裏金疑惑も封印されたままだ。その1で挙げたさまざまな社会問題も含めて、すべてうやむやのままになっている一因はメディアにある。権力を監視し、不正を追及する使命があるマスコミがこのだらけきった体たらくで、どうする。記者クラブで政府や官僚の発表する説明をそのまま報じているだけの、現在のマスコミ記者の質の低下は深刻だ。

2009.01.20 (火)  官僚も政治もメディアもみんな劣化している――その1

  2009年は、いろんな意味で歴史に記憶さるべき年になりそうだ。早くて5月といわれる衆議院の総選挙で民主党が勝つのは確定的であり、長く続いた自民党政権が崩壊する。アメリカでは初の黒人大統領が誕生し、ブッシュの右翼強硬路線は終わりを告げる。

  民主党に期待するところは大きい。真っ先にやってもらいたいのは、官僚政治の打破、公務員制度の改革だ。これまで掛け声だけは勇ましくても、いざ取りかかると必ず骨抜きになってしまっていた。政治家の利権と官僚の既得権益が一体になって税金が食い物にされる状態が野放しになっていた。天下りや「わたり」を一掃すること、無駄な独立行政法人をつぶすこと、政治家や大企業ではなく、国民に目を向けて仕事させること、これらはすべて絡み合っている。いま世の中にはびこる不正や不公平――汚染米、年金問題、裁判制度、耐震偽装、アスベスト禍、薬害、BSE牛肉問題――の多くは、官僚の怠慢や不作為が原因で起こっている。
  こういった問題は、いつも責任の追及がなおざりになる。官僚たちは責任逃れに終始するし、政治家やマスコミの追及も、てぬるい。小物だけが処罰され、本当の悪は野放しのままで、真の原因が明らかにされないまま、うやむやのうちに話題が下火になってしまう。膿を出し切らないまま放置されるので、また同じような問題が起こる。民主党政権になったからといって、すべてがよくなる保証はない。改革は容易には実現できないだろう。それでも、いまのままよりは絶対にましなはずだ。
  日本の政治そのものが、いつもそうだった。問題が起こっても、きちんと総括できない。だから、同じ問題がまた蒸し返される。ことは社会問題だけにかぎらない。歴史認識の問題にしてもしかりだ。戦前の日本の歩んだ道を、肯定すべきところ、否定すべきところを国として総括していないから、いつまでもくすぶり続ける。靖国問題がそうだし、田母神のような幼児的なことを言い出す輩が出てくるのも、それが原因だ。
  官僚の次元の低さは対外関係においても露呈している。すべてアメリカ頼みで、アメリカに対しては何も反対できない。新聞の報道によると、大統領に当選したオバマに日本側から、すぐに日本の首相に挨拶の電話をかけてほしいという依頼が、いくつもの筋から舞い込んだ。けっきょく日本はオバマが最初に電話をかけたグループのなかに入り、関係者は胸をなでおろした。そして麻生首相と電話で話した時間が、中国の胡錦涛主席より何10秒か長かったことで大喜びしたそうだ。これがいったい外交と言えるだろうか。じつにばかばかしく、情けない。
  拉致問題でアメリカに裏切られたと言って青い顔になり、民主党政権になりそうだと言って不安になり、オバマから電話がかかって来たと言って喜ぶ。毅然とした態度で接することができないのは、自分のやり方に自信がないから、アメリカの顔色ばかり窺っているからだ。安保体制を金科玉条のように守り、すべてアメリカの言いなりだ。だから高い戦闘機を買わされ、米軍基地のために法外な金を出し、アメリカの起こす戦争に加担させられることになる。

2008.12.30 (火)  読み逃していた久々の傑作冒険小説

  こんな素晴らしい本を読まずにほっておいたとは、自らの不明を恥じなければならない。ジョン・マノック著「Uボート113最後の潜航」(ヴィレッジ・ブックス)だ。紛れもない傑作である。2008年初頭に発売され、買っておいたのだが、もうひとつ読む気が起らず、書棚に積んだままにしておいた。数日前、この本を取り出して読み始めたところ、これが抜群に面白く、一気に読み終った。
  これは久しぶりの正統派冒険小説だ。もっと早く読んでいれば、今年のぼくのミステリー・ベスト・テンのトップ・スリーには入っていただろう。自分のことを棚上げして言うのもなんだが、書評家たちのレベルの低さはどうしようもない。この本はあまり話題にならなかったし、年末の各種ミステリー・ランキングにもいっさい入っていない。たぶんみんな読んでいないのだろう。その理由は、ひとつには発売元がマイナーなヴィレッジ・ブックスだったこともあるだろう。これがハヤカワ文庫や新潮文庫だったら、もっと注目されていたはずだ。また、およそ魅力をそそられない邦題のせいもあるかもしれない。
  この小説はいわゆる第2次大戦秘話だが、戦争ものというより海洋冒険ものと言ったほうが内容を正確に表している。連合軍の輸送船攻撃のためアメリカ南部沖に派遣されたドイツの潜水艦Uボートが米軍戦闘機の攻撃を受けて激しい損害を被り、部品を調達して修理しなければならない破目に陥る。Uボートはひそかにミシシッピ川下流の沼沢地に赴き、ドイツと気脈を通じる土着ケイジャン住民の助けを借りてUボートを修理しようとする。果たして乗組員は難を逃れ、母国に帰ることができるか――というストーリーだ。
  一読してボブ・ラングレーの「北壁の死闘」やジャック・ヒギンズの「鷲は舞い降りた」を思い出した。それら第2次大戦を舞台にした冒険小説の名作と比べても、この本はまったく遜色がない。まず、プロローグが現代であり、海底に沈んでいる潜水艦が発見され、そこから話は過去にさかのぼってUボートをめぐる話になり、エピローグで再び現代に戻る、という構成が絶妙だ。そして、全編にあふれる男たちの熱い友情と心意気が素晴らしい。第2次大戦をテーマにした小説だと、ドイツ人は敵役になることがほとんどだが、この本では、Uボートの乗組員であるドイツ人はみなナチスの所業を嫌う、固い絆で結ばれた信義に篤い軍人として描かれる。主人公であるUボートの艦長は冷静沈着で知略に富み、情けを知る武人だ。これに、熱血漢のアメリカ民間サルベージ船の船長とその相棒や、奸計をめぐらす悪辣なケイジャンのリーダーや、Uボートの所在を突き止めようとする英国から派遣された無線通信将校などがからむ。
  潜水艦のなかの緊迫した状況下で示されるドイツ軍人たちの勇気と誇り、敵と味方のあいだに芽生える友情が、読み手の心を熱くする。Uボートの先任下士官とケイジャンの娘とのロマンスがあったり、妖術使いの老婆が登場したりと、エピソードも盛り沢山だ。短いながら迫力満点の戦闘シーンやスリリングな水中のサルベージ作業も手に汗握るし、電信の“筆跡”によって相手を特定できるなどという蘊蓄も散りばめられている。エピローグも予想どおりとはいえ、とても爽やかだし感銘深い。難を言えば、登場人物たちが図式的すぎることだが、敵地の真っ只中、ミシシッピをUボートが遡航するというわくわくするストーリー展開のなかに、それも隠れてしまう。
  これはアリステア・マクリーンやデズモンド・バグリーの流れを汲む冒険小説の久々の名品だ。今年の最後をこの小説で締めくくれたことを神に感謝しよう。

2008.12.26 (金)  映画ベスト・テン2008

  ミステリー、ジャズときたので、ついでに映画も今年のベスト・テンをつくってみた。映画も東高西低現象が著しい。ネットで映画の上映情報を検索すると、聞いたこともないような日本の映画がやたらにあちこちで公開されているが、それに比べて洋画はほんとうに数が少ない。
  今年は洋画が不振らしいが、それも当然だろう。ハリウッド製の映画が、大がかりなCGを使った、味わいに乏しいものばかりなら、いくらなんでも観るほうは飽きてしまう。ましてやリメイクや過去のヒット・シリーズの続編ばかりで、アイデアの枯渇がはなはだしい。とはいえ、有卦に入っている邦画も、柳の下のどじょうを狙った二番煎じのものや、客を泣かそうという意図が見え見えのものばかりで、およそ食指をそそられない。けっきょくひっそりと単館で公開されるインディ系の洋画のなかから、よさそうなものを探して観ることになる。
  ぼくの映画ベスト・テンは、そんな作品を中心としたものになった。

          1.その土曜日、7時58分
          2.イースタン・プロミス
          3.おくりびと
          4.つぐない
          5.ダージリン急行
          6.ワイルド・バレット
          7.バンク・ジョブ
          8.アメリカン・ギャングスター
          9.いつか眠りにつく前に
        10.あの日の指輪を待つきみに

  「その土曜日、7時58分」「イースタン・プロミス」「つぐない」「ワイルド・バレット」「いつか眠りにつく前に」の5作品については、以前のこのコラムで書いた。「その土曜日、7時58分」は、断然、他を圧して今年の1位だ。これだけ完成度の高い、人間のどうしようもない愚かさと悲劇性を描き出した映画はめったにない。2位の「イースタン・プロミス」は、主演のヴィゴ・モーテンセンのハードボイルドそのものと言えるクールなたたずまいと迫真のアクション・シーンに惹かれる。4位の「つぐない」は重層的な物語構成により、運命と歴史に翻弄される男女が格調高く語られる。最後にほんの少しだけ登場するヴァネッサ・レッドグレイヴの名演が忘れられない。6位の「ワイルド・バレット」を評価するには、ジュールス・ダッシン監督による1955年の名作「男の争い」が遥かな映画的記憶として使われていることを指摘するだけで充分だ。
  3位の「おくりびと」については、アイスブルー氏のコラムに詳しく書かれている。今年の日本の映画のなかで、唯一心に触れた作品だ。滝田洋二郎監督は、“死”という冷酷な現実を、ユーモアを織り込みながら、心やさしい視線で見つめる。出演者たちの自然な演技も素晴らしい。ぼくはかつて1年ほど庄内地方の鶴岡という町に住んだことがあるが、この映画で映し出される庄内の四季おりおりの風景は、とりわけ印象に残った。ただし、主人公と父親をつなぐ“石”にまつわる挿話は、ちょっと作り物めいた感じがして好きではない。映画としての盛り上げのために、このようなエピソードが必要なことは分かるけれど。
  5位の「ダージリン急行」は3人のダメ兄弟が繰り広げる列車によるインド旅行の顛末を描いた、一種のロード・ムービーだ。ユーモアとペーソス、なんとも言えないとぼけた味わいが、ほのぼのとした情感を浮かび上がらせる。7位の「バンク・ジョブ」は国家的陰謀の罠にはまった銀行強盗たちの必死の逃走と反撃を描いた、B級っぽい臭いがぷんぷん漂う作品。ストーリー展開がスピーディで小気味よく、後味が爽やかだ。
  8位の「アメリカン・ギャングスター」はハリウッドの大作映画のなかで、今年唯一印象に残った作品。70年代のニューヨークを舞台に、ギャングと刑事の対決を描いたリドリー・スコット監督の映画だ。ストーリーにしろ映画技法にしろ、とても奥が深い。ハリウッド映画のなかで、いま信頼して観ることのできる監督は、リドリー・スコットぐらいのものだろう。
  今年、いちばん頭にきた映画は「ミスト」だった。「ショーシャンクの空に」や「マジェスティック」といった秀作をつくったフランク・ダラボン監督の新作ということで期待して観に行ったら、これがとんでもない映画だった。突然現れた異世界の怪物に襲われた親子が、なんとか逃げのびようとするが、万策尽きてもはやこれまでと自殺を決意し、父親が子供を殺し、自分も自殺しようとしたところで軍隊がやってきて助かったことに気づくというストーリーだが、こんな残酷な話のどこが面白いのか。何も中身がない、ひどい映画だ。あの清々しい「ショーシャンクの空に」を手がけたのと同じ人の映画とはとても思えない。こんな映画でも褒める評論家がいる。だから映画評論は信用できない。

2008.12.22 (月)  ジャズ・ベスト・テン2008

  このコラムのタイトルは「ジャズとミステリーの日々」なのに、肝心のジャズについてあまり採り上げる機会がない。ひとつには、新譜のなかに魅力あふれるものがあまりないからだ。ぼくは各社から発売されるジャズの新譜にはほとんど耳を通しているが、書きたいと思わせるような心惹かれるアルバムにはめったに出くわさない。でも、ときどきハッとするようなものにぶつかる。今年発売されたジャズ・アルバムのなかから、これはいいと思ったものを順不同で10枚リスト・アップしてみた。

          1.ジョー・ザヴィヌル/75〜ラスト・バースデイ・ライヴ(Victor)
          2.ダニーロ・ペレス&クラウス・オガーマン/アクロス・ザ・クリスタル・シー(EmArcy)
          3.ミリアム・アルター/ホエア・イズ・ゼア(Enja)
          4.土岐英史/The One(Ragmania)
          5.川嶋哲郎/哀歌(M&I)
          6.ジャコ・パストリアス/ライヴ・アット・プレイヤーズ・クラブ(King Int'l)
          7.ロイ・ハーグローヴ/イヤーフード(EmArcy)
          8.パット・トーマス/デサフィナード(MGM)
          9.マーティン・テイラー/フレタニティ(Sony)
        10.ロマン・アンドレン/ファニータ&ビヨンド(P-Vine)

  順不同とは言っても、いちばん上に挙げたジョー・ザヴィヌルのアルバムだけは、断然、ぼくにとって今年のジャズ・アルバムのベスト・ワンだ。ザヴィヌルは昨年亡くなったが、これは死の2か月前のライヴ。体の具合はかなり悪かったはずなのに、ここに聴かれる圧倒的なエネルギーとヴァイブレーションに満ちあふれた演奏は、そんなことは微塵も感じさせない。ウェザー・リポートのかつての僚友ウェイン・ショーターとのデュエット・ナンバーはとりわけ感動を誘う。
  ダニーロ・ペレスとミリアム・アルターについては以前に書いた。いずれも静謐ななかにヒューマンな美しさを感じさせるアルバムだ。ジャコのアルバムも前に触れたとおり、絶頂期のジャコが自由奔放に演奏する姿に心が躍る。
  土岐英史の『The One』は14年ぶりのリーダー・アルバムだという。土岐は日本でNo.1のアルト・プレイヤーだし、世界中でも彼を超えるアルト吹きはほとんどいないと断言できる。昔からそう思っていたが、艶やかなトーンといい、メロディックなフレーズといい、この新作を聴いて、ますますその感を深くした。彼がそんなに長い間アルバムを吹き込まないなんて、そしてインディ・レーベルからしかレコードを出せないなんて、ほんとうに不幸なことだ。このレコード業界はどこか狂っている。
  川嶋哲郎は、このところ、ソロやデュオやピアノレス・トリオの作品ばかりだったが、この新作『哀歌』は久しぶりにピアノ・トリオと共演したワン・ホーン・アルバムだ。やはりリスナーとしては、このほうが音の座りがいいし、安心して聴ける。ソニー・ロリンズを彷彿とさせる、骨太の逞しいトーンは、これこそテナー・サックスの音と快哉を叫びたくなる。
  ロイ・ハーグローヴは、いまのトランペッターのなかではNo.1だろう。今年発売された『イヤーフード』には、音の輝き、迫力に富んだなラインなど、彼の美点がよく表れている。ソロが全体的に短いのが不満だ。もっとバリバリ吹きまくるロング・ソロを聴きたい。
  パット・トーマスは2年ほど前に『ムーディーズ・ムード』というアルバムで初めて聴いて、その素晴らしさに心を奪われた。60年代前半に活動していた、ほとんど無名の女性歌手だが、歌唱の巧さ、自然で素直な唱法、ソウルフルだが中庸を心得た歌声は、思わず聴き惚れてしまう。こんな歌手はなかなかいない。今年初復刻された『デサフィナード』はボサノヴァ集だが、やはり彼女の滋味あふれる歌に浸ることができる。
  イギリスのギタリスト、マーティン・テイラーの『フレタニティ』には彼のメロディの美しさが最高度に示されている。稀代のテクニックの持ち主だが、その演奏はたんなる技量のひけらかしに終わっていない。スウェーデンのキーボード奏者/アレンジャー、ロマン・アンドレンの『ファニータ&ビヨンド』は、ラテン・グルーヴの心地よいサウンドが限りないイマジネーションをかきたてる。

2008.12.20 (土)  今年、心を動かされた2冊のノンフィクション

  今年読んで感心した本に、建築士の平松剛が書いた『磯崎新の「都庁」』(文芸春秋)というノンフィクションがある。1985年に行われた新宿新都庁舎の設計コンペに参加した丹下健三と磯崎新という師弟の戦いを追ったドキュメンタリーだが、これがとてつもなく面白い。けっきょく丹下健三が勝って、あの醜悪きわまりない、権力志向を絵に書いたような都庁が作られた。コンペは建前だけの出来レースだった、当時の鈴木都知事と親しい関係にあり、都の運営するさまざまな役職に従事していた丹下が勝つことは最初から決まっていたという噂が流れた。磯崎は、不利を知りつつ戦いを挑み、全力を出し切って敗れた。これを読むと、建築界の天皇といわれた保守派の巨魁、丹下と、斬新な発想で世界的な評価を得ていた革新派の旗手、磯崎、この二人のコンセプト、発想、設計手法の違いが鮮やかに浮かび上がる。
  青山通り沿いに国連大学ビルがある。ずいぶん前、このビルを初めて見たとき、「えらく醜い、つまらないデザインのビルだな、新宿の新都庁舎に似ているな」と思った。あとで調べたら、案の定、設計は丹下健三だった。新都庁舎も国連大学ビルも、代々木のオリンピック屋内競技場のような斬新な設計をしたのと同じ人によるものとは思えないほど、アイデアの貧困さが露呈している。代々木体育館のとき、彼は51歳、新都庁舎のときは72歳だった。年齢を経て建築界に君臨し、世俗にまみれたすえの創作力の衰えであろう。
  1996年に完成したお台場のフジテレビ本社ビルを設計したのは丹下健三である。このビルは球体の展望室が印象的だが、もともとビルの天辺に球体を置くというアイデアは、磯崎新が新都庁舎コンペに提出した設計にあったものだということを、この本を読んで知った。丹下はそのアイデアを、そっくり自分の設計に取り入れたことになるが、こういうのは盗用とは言わないのだろうか。

  もう1冊、油井大三郎というアメリカ現代史の学者が書いた『好戦の共和国アメリカ』(岩波新書)という本にも目を開かされた。これはアメリカという国が成り立ちのころから今日までに行った戦争の歴史を追いながら、その好戦性を考察した本だ。これを読むと、先住民を抹殺したり封じ込めたりするいっぽう、イギリス、フランス、スペイン、メキシコなどと戦争しながら領土を増やしていったアメリカの国民性のなかに、力によって相手を屈服させるという思考が根づいていったのが分かる。
  1899年から1900年かけてにフィリピンを植民地化するさい、アメリカは植民地化に抗して独立運動を展開する人々を制圧するために軍隊を派遣した。当時の政府は独立運動家たちの残虐行為を誇大に喧伝し、ときの大統領セオドア・ローズヴェルトはこれを「野蛮との戦い」だと強調して、国論を戦争支持に持っていった。これと同じような言葉を、わたしたちは数年前に聞いたことがある。2003年にブッシュ大統領がイラクを攻撃したときだ。ブッシュは「大量破壊兵器」を保有していると決めつけ、「独裁政権を倒し、自由を守るため」という大義名分で世論を煽り、イラクに侵攻した。アメリカは100年前も現在も、まったく思考回路は同じなのだ。
  建国以来、領土拡張のための戦い、共産主義との戦い、イスラム勢力テロとの戦いと、戦争を続けてきたアメリカは、いまやイラクの泥沼化、金融破綻により、その力が揺らぎ始めた。もはやこれまでのような「自由と独裁」や「文明と野蛮」という単純な二元論では問題を解決できないことが明らかになった。金力と武力で世界の覇権を握り、自国中心のグローバリズムを他国に押し付けてきたアメリカの権威は失墜しつつある。日本の政府は、それでもなおも属国としてアメリカにしがみつこうとするのだろうか。

2008.12.18 (木)  ミステリー・ベスト・テン2008

  今年も各社から2008年ベスト・ミステリー・ランキングが発表されているが、「フロスト気質」「チャイルド44」「運命の日」の3作がどのランキングでもトップないしトップ近くを占めており、相変わらずどれも変わり映えのしない内容になっている。昨年から始まった早川書房の「ミステリが読みたい」は対象期間が昨年10月から今年9月までとなっており、締切が早すぎてとても2008年のベストとは言えない。競合誌より早く発売して本を売ろうとする魂胆であろうが、海外ミステリーの老舗とはとても思えない姑息なやり方だ。宝島社の「このミス」と文春のベスト・ミステリは、いつもと同じく重苦しい内容のものばかり並んでおり、しかも順位に異同があるだけで、ランク・インした作品はほとんど同じだ。内容的には早川書房のリストがいちばんぼくの好みに合っているが、自社から刊行された本が不自然に多すぎる。
  ミステリー業界は、このところ日本の作品がたくさん刊行され、それなりに売れているのに比べ、海外の小説は作品数も売り上げも激変しているようだ。音楽や映画でも、この東高西低現象は著しい。これはいったいどういうことなのだろう。読みやすく、分かりやすく、心地よく涙腺を刺激する日本の小説のほうが一般受けするのは当たり前であろうが、ぼくに言わせれば、日本のミステリーは、ごく一部の例外を除いて、こくも深みもないし、あざとさばかりが目につき、心に迫るものがないので、およそ読む気がしない。
  というところで、ぼくの今年のミステリ・ベストは次のとおり。

          1.フロスト気質/R・D・リングフィールド(創元社文庫)
          2.哀国者/グレッグ・ルッカ(講談社文庫)
          3.掠奪の群れ/ジェイムズ・カルロス・ブレイク(文春文庫)
          4.解雇通告/ジョセフ・フィンダー(新潮文庫)>
          5.善良な男/ディーン・クーンツ(早川文庫)
          6.聞いていないとは言わせない/ジェイムズ・リーズナー(早川文庫)
          7.チャイルド44(新潮文庫)
          8.ホット・キッド/エルモア・レナード(小学館文庫)
          9.独善/ウィリアム・ラシュナー(講談社文庫)
        10.時空を超えて/ギョーム・ミュッソ(小学館文庫)

  「フロスト気質」「哀国者」「掠奪の群れ」「ホット・キッド」の4作については、以前に触れた。リングフィールドの「フロスト気質」は長いあいだ待った甲斐があったと思わせる、期待を裏切らない出来栄え。フロスト警部のキャラクターが光っているだけでなく、ミステリーとしての骨格もしっかりしている。ルッカの「哀国者」は、初期のボディガード・シリーズとはまったく異質のものになってしまったが、リーダビリティは抜群。ブレイクの「掠奪の群れ」もギャング仕立ての爽快な青春小説で一気に読める。これまで発売されたブレイクの3作、どれも同じ作風なのが少し気になる。レナードの「ホット・キッド」は枯淡の味わい。歯ごたえはないが安心して読める。
  4位の「解雇通告」はエンタテインメントに徹した痛快な企業小説。苦境に立たされた主人公の反撃を描くストーリーは迫力満点だ。5位の「善良な男」はホラーもので知られるクーンツにしては珍しく化け物が出てこないサスペンス小説。ちょっとアイリッシュを思わせる昔風のスタイルと場面展開がなかなかいい。6位の「聞いていないとは言わせない」はノワール風の筋立てで、開巻から一気に読ませるが、最後のどんでん返しが、いまひとつ後味が悪い。これがもっと真っ当なエンディングだったら傑作になっていただろう。
  7位の「チャイルド44」は各種のベスト・テンで絶賛を博しているが、ぼくはあまり高くは評価できない。たしかに筆力はなかなかのもので、後半の冒険小説的な展開もいいが、50年代の旧ソ連の非人道的な体制という時代設定に意義を見いだせない。スターリン時代の粛清が横行した理不尽な状況は、すでに何十年も前にさまざまなかたちで明らかになっている。今さらそんな状況をながながと描かれても、どうしようもない違和感を感じてしまう。なぜ犯人が恐るべき殺人鬼になったかというあたりも、もうひとつ納得がいく説明がされていない。
  今年の特記すべきこととして、北方謙三の「水滸伝」全19+1巻の読了があった。2007年から読み始め、切れ切れに読み進んで、やっと1年半ぐらいかけて読み終った。細かいことを言い出すときりがないのでやめるが、とにかく抜群に面白かった、とだけ言っておこう。

2008.11.27 (木)  ボデイガードから逸脱したアティカスはどこに行くのか

  グレッグ・ルッカ作ボディガード・アティカス・シリーズの最新作「哀国者」が発売された(講談社文庫)。アティカス・シリーズは現代最高のハードボイルド・ミステリー・シリーズのひとつだった。“だった”と過去形で書いたのは、このところ、このシリーズがハードボイルドの範疇からはずれてきているからだ。とくに今作はそのはみ出し方が尋常ではない。もはやハードボイルド・ヒーロー小説というよりも、ロバート・ラドラムばりのスパイ謀略活劇の様相を呈している。
  もともとこのシリーズはボディガード業を営むアティカスが、身辺警護を依頼され、仲間たちとチームを組んで襲撃者から依頼人を守るという構成のミステリーだった。さまざまな策を弄して依頼人を襲う敵に対し、プロとしての自信と誇りをもって、緊密なチームワークを保ちながら迎え撃つアティカスたちの戦いが面白かった。だが、アティカスの仲間のひとりである女私立探偵ブリジットを主人公にしたスピンオフ作品「惑溺者」あたりから、そのスタイルが崩れ始めた。その次の「逸脱者」でさらに本来の路線からの逸脱は大きくなり、今度の「哀国者」でボディガード物語からの乖離は決定的になった。
  今作は前作「逸脱者」の続編になっており、アティカスは恋人になった女暗殺者アリーナとともに、自分たちを襲撃する謎の殺し屋集団と血みどろの戦いを繰り返す。そして彼らは敵の元凶――アメリカ政府の影が見え隠れする――を探り出し、それを抹殺しようとする。女暗殺者アリーナの超人的な強さは分かるとしても、プロの殺人部隊をやっつけるほどアティカスって強かったっけ、という疑問もわくが、それはともかく、あれよあれよというまに、物語は予想外の方向にどんどん進んでいく。リーダビリティは抜群なのだが、もはや今作は初期の作風とはまったく別のものになってしまっている。
  このシリーズが本来のボディガードの物語から離れていっているからといって、つまらなくなったわけではない。「惑溺者」以降、今作までの3作は、どれもスト―リーの面白さは絶品だし、展開はスピーディで緊迫感もたっぷりある。ただ、処女作「守護者」以下の初期3作に書かれていた、ボディガードとして命を賭けて依頼者を守るという信念、仲間どうしの絆と信頼感といった要素が希薄になってしまったのが不満なのだ。たった3作での方向転換は早すぎる。だが、ここまで話が拡散してしまったら、もう初期のボディガードという特殊な職業をじっくり描きこんだ物語に戻るのは難しいだろう。
  あとがきによると、ルッカはアティカス・シリーズの次の作品をすでに、ほぼ完成させているという。次回作もアティカスとアリーナのコンビによる作品らしい。このシリーズには、アティカスの恋愛遍歴という側面があった。アティカスは最初のうち同僚のナタリーと恋仲だったが、途中で女探偵のブリジッドと愛しあうようになる。そして前作以降、女殺し屋のアリーナと結ばれている。主人公のアティカスより読者の人気が高いと言われるブリジットは、今作には登場してしない。アティカスに捨てられたかたちになったブリジットは、今後どうなるのか、これからどんなふうにこのシリーズにからんでくるのかが気になるところだ。

2008.11.18 (火)  田母神論文から見えてくる異常な風景

  戦前の日本の侵略行為を正当化する論文を書いたことによって解任された田母神前航空幕僚長が、先日、国会に参考人招致された。だが質問に立った議員たちは田母神を追求しきれず、何のための参考人招致だか分からないまま終わってしまった。持論を展開される恐れがあるという理由で、この参考人質疑はテレビで中継されなかった。つまり勝負の行方は最初から決まっていた。質問する前から議員たちは及び腰だったのだ。議員たちの質問はじつにへたくそで、お粗末だった。なぜやったのか、どんな考えをもっているか、といった質問をしてしまえば、相手は、頭が悪く、論理も矛盾だらけでも、自信だけはたっぷりあるので、いくらでもしゃべりまくる。けっきょく田母神は言いたいことだけを言って、胸を張って帰って行った。
  今回に限らず、国会で参考人招致をすると、いつもこれと同じような結果に終わる。議員たちがいくら質問しても、やり方が拙劣なので、まったく迫力がない。相手になめられっぱなしで、事件の解明など何もできない。こんな参考人招致など、まったく意味がない。彼らはシビリアン・コントロールの重要性を田母神に問いただしたのか。彼の歴史認識の欠陥と、自分は何でも知っていて、すべて正しいという歪んだ考えと思い上がりを指摘したのか。質問する国会議員たちの質の低さは、どうにもあきれるばかりだ。
  田母神の論理には、いくらでも破綻がある。彼は「日本は侵略していない」と言う。だが政府の見解は侵略戦争を反省するという立場だ。自衛隊の最高指揮官は首相であるいじょう、軍隊の指揮命令系統からして、幕僚長は、個人的な考えはどうであろうと、とうぜん最高司令官である首相の方針に従わなければならない。言論の自由などという以前の話であり、組織にいる人間として当たり前のことだ。また彼は「太平洋戦争はアメリカの策略だった。東京裁判により日本はアメリカのマインド・コントロールのもとにあった」と主張する。そういう面があったことは確かだ。だが状況がどうであれ、日本が攻撃を仕掛けたことは厳然たる事実である。あらゆる面で事実上アメリカ軍の支配下にある自衛隊の幹部が、アメリカに向ってそう言い切れるか。そのあたりを突けば、田母神の主張はボロボロになったはずだ。
  彼の書いた論文はあまりに稚拙で、まともに反論することさえばかばかしい。誰かの言ったことを自分の都合にいいように解釈し、それを歴史的事実のように書いており、すべて歴史の歪曲と空威張りだらけだ。「張作霖爆殺事件はコミンテルンの陰謀だ」とか「盧溝橋事件は中国共産党の仕業だ」とか「中国や朝鮮には、相手国の了承を得て軍をすすめた」などという、どんな歴史学者もまともに取り上げない噴飯ものの主張をする。「東南アジアでは戦時中に行った日本軍の行為が高く評価されている」などという論も、まったく現実を知らない人間のたわごとに等しい。シンガポールやインドネシアに一度でも行ったことがある人間だったら、とうていこんなことを言えないだろう。田母神は戦後の自虐史観を改めたかったと言っているが、「日本は侵略していない。日本こそ被害者だ」などという主張こそが自虐史観そのものだ。
  田母神のような、自分の狭い考えに凝り固まった、幼稚な頭の人間はあちこちにいる。問題なのは、田母神本人よりも、こんな人間がどうして公の組織のトップに据えられたのかということだ。防衛省はとうぜん彼のこうした考え方や、それを自衛隊内に広めようとする彼の行動を知っていただろう。それを知っていながら彼を幕僚長に据えたのは、いったいどんな理由からなのだろう。さらに不思議なのは、解任後の彼に対する、まるで腫れ物に触るような扱いだ。田母神は幕僚長を解任はされたが懲戒処分にはならず、定年扱いになり、退職金を満額もらうという。居直った彼を誰も懲罰することができないのだ。
  なぜかテレビや新聞では報道されていないが、聞くところによると、田母神は浜田防衛大臣から今回の問題で詰問された折に、自分の考えを支持している人として元首相の森喜朗と安部晋三の名前を挙げたという。今回の懸賞論文募集を主催したアパ・グループの代表である元谷は、以前から田母神と懇意にしていたし、また森や安部との親しい付き合いでも知られている。元谷は安部の後援会、安晋会の有力な会員である。ホテル・マンション事業を展開するアパ・グループが、耐震偽装問題で疑惑の渦中にあったことは、まだ記憶に新しい。アパはヒューザーと同じく耐震偽装に関与していたとする証言があったにもかかわらず、謝罪をしただけで罪には問われなかった。田母神〜アパ・グループ〜森/安部という関連を解明し、誰が田母神の出世を後押ししたのかを明らかにして、責任者を断罪すると同時に、シビリアン・コントロールを自衛隊に再度徹底させなければ、問題を真に解決したことにはならない。

2008.11.15 (土)  給付金問題で麻生首相の見識のなさがさらけ出された

  このところの定額給付金をめぐるぶさまな対応で、麻生太郎という低次元の首相の化けの皮が剥がれた。最初は全世帯に一律給付と明言しておきながら、身内から批判が出ると所得制限をもうけると言いだし、それだと事務的に膨大な手間と費用がかかると指摘されると、高額所得者には辞退してもらうなどという言いだす。こんないい加減な施策など聞いたことがない。まるで小学生が親にいたずらを問い詰められて、次々に苦し紛れの言い訳をしているようだ。あげくの果ては具体的な手続きに関しては市町村のやり方に任せるときた。丸投げされた市町村が混乱することは必至だ。麻生という人間の無定見さ、決断力のなさが露呈された。首相をはじめ政府首脳には、まったく当事者能力が欠けている。
  このばらまきは、選挙対策以外の何物でもない。誰かが言っていたが、選挙対策で金をばらまいたら法律違反だが、明らかな選挙対策でも、国民全員ににばらまいたら罪にはならないのだ。チャップリンが映画「殺人狂時代」で言った、「少数の人を殺したら罪になるが、戦争で多数の人を殺したら英雄として称賛される」という言葉を思い浮かべる。2兆円という財源をあてて景気対策をするなら、もっと有効な金の使い道があるだろう。世論調査で国民の60%以上が給付金に反対しているのに、おれのやり方は国民から支持されているとうそぶき、銀行の貸し渋りのため資金繰りにあえいでいる中小企業を支援する対策が急務なのに、それを棚上げにして、麻生は金融サミットに出席するため日本を旅立った。
  そもそも口をひん曲げてしゃべる人間は信用できない。漢字を読めないのも、一つや二つ間違えるのはご愛嬌だが、麻生のように、こういくつも出てくるようじゃ、漫画だけしか読んでないからだと言われてもしょうがない。周りの連中はなぜ漢字の読み間違いを首相に指摘しないのだろう。安部、福田に続いて、麻生はお坊ちゃん首相のお坊ちゃんたる資質をみごとに炸裂させている。もともとすぐに解散、総選挙するために選ばれた首相なのに、いったんその座についたとたん、政局より政策などともっともらしいことを言いながら、いつまでも首相に椅子にしがみつこうとする彼の姿は、ほんとうに醜い。だがまあ、それほど急いて選挙をやることもない。このままでは内閣支持率は落ちる一方だろうし、こうして墓穴を掘り続ければ、総選挙で自民党が大敗する可能性がますます高まるわけだから。

2008.11.09 (日)  B級アクションの面白さを満喫できる2本の洋画

昨今の鳴り物入りでつくられるハリウッド製アクション大作は、CGをこれでもかと使った、大味で空疎な内容のものがほとんどだ。それに比べて、同じアクションものでも、あまり金をかけないB級作品のなかに、ときおり心躍る映画を発見できる。
今年6月に観た『イースタン・プロミス』(2007)はそんな映画のひとつだった。監督はデヴィッド・クローネンバーグ、主演はヴィゴ・モーテンセンとナオミ・ワッツ。スタッフ、キャストからするとB級とは言えないかもしれないが、B級の雰囲気を色濃く漂わせている。ロンドンを舞台にしたロシア・マフィアの生態と抗争をテーマにした映画であり、人身売買をなりわいとするマフィア内部の友情と裏切り、謎めいたマフィアの運転手モーテンセンと、偶然マフィアとかかわることになる女医ワッツとのほのかな愛が、終始小気味いい緊迫感をたたえながら描かれる。ある種の様式美をたたえた画面に引きずり込まれる。
クローネンバーグ特有の残酷シーンにはへきえきするが、アクション場面は見ごたえ充分だ。なかでも凄まじいのは、公衆サウナでの格闘シーン。素っ裸のモーテンセンが、彼を襲ってきた殺し屋と戦うのだが、これが本物さながらの途方もない迫力にあふれており、度肝を抜かれる。こんなにリアルな格闘シーンはめったにない。ストイックな風情をたたえたモーテンセンがクールで格好いい。彼はこれまで冴えない役が多かったが、これで一流スターの仲間入りをするだろう。
10月に観た「ワイルド・バレット」(2006)もこれと同趣向のB級アクション映画だった。監督はウェイン・クラマー、主演はポール・ウォーカー。こちらはアメリカのニュージャージーが舞台で、主人公が所属するのはイタリアン・マフィアだ。警官殺しに使われた銃の後始末を任された主人公、だが隣家の少年がその銃を持ち出して暴力をふるう養父に発砲し、行方をくらます。主人公は銃と少年を探して夜の街を走り回り、それにロシア・マフィアや汚職警官がからんでくるというストーリーだ。マフィアの手下を演ずる主人公ポール・ウォーカーのきびきびしたアクションと不敵な面構えがいい。端役だと思っていた主人公の妻が途中から存在感を表し、胸のすくような活躍をするのが面白いし、少年に撃たれる虐待親父を、ただの悪役ではなく人間味のある男に描いているのもストーリーに奥行きを与えている。
あっと思ったのは、最後近く、少年を救出した主人公が、腹を撃たれて重傷を負いながら必死に車を運転し、子供を家に送り届けるシーンだ。あのジュールス・ダッシンが監督したフランス製フィルム・ノワールの大名作『男の争い』のラスト・シーンと同じじゃないか。これは脚本も手がけた監督のクラマーが捧げた『男の争い』へのオマージュなのだ。ただし、最後のとうとつなハッピー・エンドはいただけない。それから、これは中身には関係ないが、原題は「Running Scared」であり、「ワイルド・バレット」とは日本でつけた題名のようだ。「バレット」とは何のことかと思っていたが、どうやら弾丸の「bullet」のことらしい。「bullet」の発音は「ブレット」であり、「バレット」とは絶対に言わない。こんな題をつけた配給会社は恥を知るべきだ。

2008.10.30 (木)  銀行ギャングとカンサス・シティ・ジャズ

シンクロニシティというのだろうか。何かをやっていると、それと同じようなことに立て続けに遭遇することがある。先日、まえから探していてやっと手に入れた「拳銃魔」(Gun Crazy 1949)、「夜の人々」(They Live by Night 1949)という2本の古いアメリカ映画のビデオを観た。両方とも、1930年代の不況時代のアメリカで、若い男女が無軌道に銀行強盗を繰り返し、逃避行のあげく自滅するという内容の、フィルム・ノワールの古典である。実在の銀行強盗コンビ、ボニーとクライドを題材にしたものだ。ボニーとクライドはアメリカ・ニュー・シネマの口火を切ったアーサー・ペンの映画「俺たちに明日はない」(1967)の主人公でもあった。そして、たまたまこれと前後して読んだ2冊のミステリー小説が、まったく同じテーマ、同じ時代設定のものだった。ひとつはジェイムズ・カルロス・ブレイクの「掠奪の群れ」、もうひとつはエルモア・レナードの「ホット・キッド」だ。偶然、そんな映画や小説が続いただけのことで、べつにアメリカの銀行ギャングに興味があったわけではない。
「掠奪の群れ」(文春文庫)は「無頼の掟」「荒らぶる血」で絶賛を博したジェイムズ・カルロス・ブレイクの邦訳第3作。これは1930年代半ばにアメリカ中西部を暴れ回った実在の銀行強盗ギャング、ハリー・ピアポント(ハンサム・ハリー)の太く短い生涯を追った実録小説だ。ハリー・ピアポントは有名なジョン・ディリンジャーの仲間で、一味のなかでは参謀格としてディリンジャーを補佐した。ディリンジャーは警官に撃たれて殺されたが、ハリーは捕まって電気椅子で処刑されている。小説では、ハリーを中心に、このディリンジャー・ギャングが、逮捕、脱獄、銀行強盗を繰り返す顛末が描かれる。注目すべきは、仲間同士の信頼と友情を描くのに力点が置かれていることであり、その点ではブレイクの前2作と同様である。ここに登場するのは、自由を求めて、奔放に生き、人生を謳歌する若者たちであり、そこには社会の不正義の告発といったメッセージもないし、悪人たちの暗い心の闇をうつし出すというような内面描写もない。その意味では一種の青春小説とも言うことができるし、読後感はとても爽やかだ。
ディリンジャー・ギャングにしろ、ボニーとクライドにしろ、1930年代にアメリカ全土を荒らし回った銀行強盗たちは、当時、一種の義賊として大衆からもてはやされていた。義賊といっても銀行から奪った金を大衆にばらまいたわけではない。だが、けっして一般人からは金を奪わなかったし、銃を向けるのは銀行と警官だけだった。30年代初期の大不況時代、自分たちが苦しいのに銀行だけは肥え太っているとして、銀行は庶民の怨嗟の的だった。だから大衆は、その銀行から金を奪い、官憲を嘲弄するかのように逃げ去るギャングを、一種のヒーローとみなしたのだ。いま、アメリカで金融不安が起こり、政府が金融会社を助けるため公的資金を投入しようとして、国民からそれを非難する声が上がったが、70年前の状況もそれと同じだったのだろう。
いっぽうエルモア・レナードの「ホット・キッド」(小学館文庫)だが、これはレナードの前作「キューバ・リブレ」に登場し米西戦争を戦ったアメリカ海兵隊員の息子が主人公になっている。これも1930年代半ばのアメリカ中西部を舞台に、主人公であるFBIの捜査官が宿敵の銀行ギャングを追いつめる話だ。地の文は少なく、ほとんど登場人物たちの交わす会話で物語は進行する。いかにもレナードらしく、こくはないが乾いたユーモアととぼけた味が横溢している。
この小説のなかに、主人公の捜査官がギャングの足跡を追ってカンサス・シティに足を運ぶ場面がある。捜査官がリノ・クラブというバーに行くと、バーテンダーから「もうすぐ、レスター、バック・クレイトン、ベイシーらのジャム・セッションが始まりますよ」と告げられる。これはいったい何年のことなのだろうと思いながら読んでいくと、主人公がクラーク・ゲイブル主演の映画「男の世界」を観るシーンが出てくる。調べてみると、この映画は1935年に公開されている。してみると年代は1935年ということになる。このころ、カンサス・シティは悪徳政治家トム・ペンダーガストの支配のもと、一大歓楽街が形成され、たくさんの売春宿、ダンス・ホール、クラブ、賭博場などが軒を連ねており、ジャズが街じゅうで聞こえていた。
レスター・ヤングがカウント・ベイシーのコンボ(ジョーンズ&スミス・インク)で初録音をするのは、その翌年、1936年だ。このころベイシーのオーケストラは地元カンサス・シティで随一の人気バンドにのし上がっていた。レスターは1933年にベイシーのバンドに入った。斬新なテナー・スタイルが評判になり、それを聞きつけたフレッチャー・ヘンダーソンに呼ばれ、レスターはいったんベイシーのもとを辞してニューヨークに赴き、全米に名を轟かせていたヘンダーソンのオーケストラに加入する。だが、あまりに時代を先取りしたサウンドがファンの嗜好になじまず、すぐ故郷のカンサスシティに戻り、ベイシーのバンドに再加入する。1935年はレスターが再加入して間もないころだろう。このころ、実際にレスターをはじめとするベイシーの一党は、この小説に出てくるリノ・クラブを根城に、夜毎仕事が終わったあとジャム・セッションに打ち興じており、それが大きな評判を呼んでいた。残念ながらそれは歴史として記録されているだけで、録音は残されていない。ベイシー・バンドは1936年にカンサス・シティを離れ、ニューヨークに進出するが、その旅の途次、シカゴで吹きこんだのが、前記ジョーンズ&スミスのセッションだ。ここでのレスター・ヤングのインスピレーションあふれるソロは、彼の全レコーディングのなかで間違いなく最高のプレイであろう。
主人公の捜査官はこのリノ・クラブでジェイ・マクシャンというピアノ弾きと親しくなり、街を案内してもらう。実際のマクシャンは、そのころはまだバーのピアニストだったが、それから間もなくバンドを結成する。そこに若きチャーリー・パーカーが加入することになる。パーカーは、ひと夏オザークの山にこもり、前記1936年に吹き込まれたジョーンズ&スミスのレコード「レディ・ビー・グッド」でレスター・ヤングの演奏を徹底的に研究し、マクシャンのもとで腕を磨いてビバップの開拓者になるわけだが、それはこの物語より数年あとのことである。ロバート・アルトマンが監督した映画「カンサス・シティ」(1996)はちょうど1935年前後のカンサス・シティが舞台になっていた。リノ・クラブのようなバーでミュージシャンたちがジャム・セッションをするシーンが出てくるし、たしかパーカーを思わせる黒人の少年がクラブにもぐりこんで演奏を熱心に聴くシーンも出てきたと記憶する。ただし映画で演奏されたジャズは、30年代とは似ても似つかぬモダンなスタイルだったが、これは当時のように演奏できる現役ミュージシャンがいないのだから、しかたがないだろう。
「ホット・キッド」は、内容はいまいちだが、そんな若いレスターやベイシーが溌剌と演奏していたカンサス・シティ、ビバップの温床になったカンサス・シティのイメージを頭のなかに浮かび上がらせてくれる小説だった。

2008.10.22 (水)  破滅に向って突き進む兄弟――ルメットの圧倒的な新作映画

1950年代から映画を撮っているアメリカの監督は、みんなもう引退したか、亡くなってしまっているだろうと思っていたが、驚くことにシドニー・ルメットはいまもまだつくり続けている。しかも、以前にも増して力感あふれる映画を。先週観た「その土曜日、7時58分」(2007年)がそれだ。それほど期待せずに観に行ったが、これがすごい映画だった。内容はどうしようもなく暗い。だが、全体にみなぎる緊迫感と異様なまでの迫力、細部まで緻密に練り上げられた骨格は素晴らしい。紛れもない傑作だ。たぶん今年観た映画のなかでベストだろう。
麻薬にはまって会社の金にまで手をつける金欠状態の兄と、離婚した妻に払う子供の養育費がとどこおっている気弱な弟がいる。この兄弟が金目当てに強盗するが、どんどんドツボにはまっていく。事態は悪いほうへ、悪いほうへと動いていき、最後には、とうぜん破滅が待っている。これは犯罪をテーマにした映画であり、最初のうちは現代風ノワール的な展開で進行する。絶望的な状況、何とかそれを打開しようとするが、逆にどんどん泥沼に嵌っていくという流れは、フィルム・ノワールの行き方そのものだ。だが、途中で父親が登場すると、ストーリーは父と子の確執のドラマへと移行し、悲劇的な色合いを帯びていく。
これは監督の演出もさることながら、まずはキャスティングの時点で成功が約束されたと言ってもいい。兄をフィリップ・シーモア・ホフマン、弟をイーサン・ホークが演じている。ホフマンは「カポーティ」でのくさい演技が鼻についたが、この映画ではそれが見事にはまっており、破滅に向って突き進むダメ男を絶妙に演じている。ホークも、これまで観た映画では一度もいいと思ったことはなかったが、ここでの、兄の言いなりに行動する、人はいいが気の弱い弟は、まさに適役だ。
映画の後半に登場する兄弟の父親をアルバート・フィニーが重厚に演じる。フィニーは、このところ、このような老境に入った男の役を演じて巧さを発揮している。「トム・ジョーンズの華麗な冒険」の颯爽たる快男児ぶりを思うと、隔世の感がある。兄の妻を演じるマリッサ・トメイは、「いとこのビニー」以来、ぼくのフェイヴァリット女優のひとりだった。もう40歳を過ぎているが、いまも見事な体型を保っており、色っぽさにぞくぞくさせられる。
それにしてもシドニー・ルメットは83歳という年齢で、よくこれだけ力強い映画を撮れたものだ。ウィリアム・ワイラーにしろ、ビリー・ワイルダーにしろ、名監督と言われた人たちの多くは、晩年になると、往時と比べて見る影もない凡作しかつくれなくなった(フレッド・ジンネマンのように、最後まで傑作を撮り続けた監督もいるが)。年齢とともにくる創作意欲の減退、モティベーションの枯渇は、ある意味で避けられないものだろう。そんななかで、ルメットが新作に込めた気迫、衰えを知らないエネルギーは、驚くべきことだと思う。

2008.10.06 (月)  7年ぶりのフロスト警部シリーズの新作を堪能

R・D・リングフィールドのミステリー小説、フロスト警部シリーズの邦訳第4作「フロスト気質」(創元文庫)がやっと発売された。前作からじつに7年ぶりだ。今回も期待にたがわぬ面白さにあふれている。フロスト・シリーズは回を追うごとに長くなっており、今作は上下2巻で900ページという大長編だが、一気に読み終えてしまう。独特のフロスト言葉からくる訳しにくさと長大な分量からして、翻訳に時間がかかるのはしょうがないとしても、7年ぶりとは読者を待たせ過ぎだ。それにしても、これだけの長編を、途中でだれることなく面白さを持続させ、さまざまな事件をすべて収まるべきかたちで収まらせる作者の力量は大したものだと思う。
ストーリーの展開はこれまでと同じだ。イギリスの地方都市の警察署に勤めるジャック・フロスト警部が、新しく配属された部下とともに難事件の捜査にあたる。今回は子供の誘拐事件が本筋だが、それと同時にいくつもの事件が発生し、フロストたちはへとへとになりながら不眠不休で捜査する。複数の事件が同時発生するというパターンは、ある意味で警察小説の典型だ。むかしイギリスの作家ジョン・クリーシーが書いたギデオン警視シリーズというモジュラー型警察小説があったが、あれと同趣向である。
このシリーズ最大のユニークさは主人公フロストの強烈なキャラクターにある。フロストは、いつもヨレヨレの服を着た風采の上がらない、厚顔無恥で不潔な中年男であり、上司のタバコをくすねるセコイ奴であり、しもねたのジョークを連発して周囲の顰蹙を買うオヤジだ。だが捜査の腕とカンは確かで、とんでもないミスも犯すが、いやみを言ったり無理難題を押し付ける出世のことしか頭にない脳なし署長や、手柄を独り占めしたがる同僚を敵にまわし、忙しさと不運をぼやきながらも、寝食を忘れて捜査に没頭し、犯人を追いつめる。
今回もフロストのお下劣なジョークは冴えわたっている。

        「リストに出てくるやつを片っ端から引っ張ってくるんだ。でもって、ちんぽこがまだあったかくて、先っちょが興奮に震えているやつがいたら、問答無用で容疑者ってことにしてよろしい」

        「全裸の若い娘に停車を求められたのに、停まらなかったった? おれなら半裸でも停まってやるのに――いや、たとえ服を着てたって、おっぱいの片っぽでもちらっとのぞかせてくれりゃ、もう即座に停まってやる」

        「ジャック、急いでこっちに来てくれ。死体がおかしなことになってるんだ」「ちんぽこが2本生えてたのか? だったら、リズを行かせるけど」

        「ああいう店の連中は客の差し出すクレジット・カードしか見ていない。試しにおまえの自慢のムスコをだらんとぶら下げて店に入ってみな。誰も気がつきゃしないから」

        「警部、準備ができたら言ってください。わたしのほうはいつでも大丈夫ですから」「愛しあうつもりなら、まずはドアを閉めてくれ。気づかなくてごめんよ」

        「先週なんて、給油機の裏にしゃがみ込んでうんちをしている男が、防犯ビデオに映ってました。見ますか?」「いや、遠慮しとく。おれだといけないから」

とまあ、こんな具合に、フロストは得意のジョークを全編で炸裂させる。新しくフロストのもとに配属された若い女性警部補が、へきえきしながらも、けなげにそれに耐える姿がおかしい。
そんなふうに、相変わらずフロスト・パワーは全開なのだが、今作は心なしか、いままでより彼の傍若無人さが影をひそめ、人間的な面が浮き出ている感じがする。妻を亡くした彼の孤独感が描かれるし、敵対する同僚の気持ちを汲んでやったり、気弱な小悪党に同情したりするし、部下たちからけっこう慕われている様子も見て取れる。だが、あのフロストのことだ。次回作では、またもとのみんなから忌み嫌われるハチャメチャな人間に戻るような気がする。
冒頭で翻訳の遅さに文句をつけたが、遅くても待ったかいがあったと思わせるのは、内容と同時に翻訳が素晴らしいからだ。訳者の芹澤恵さんはとても自然な日本語に仕上げている。女性(だと思う)なのに、フロストの発する下品なジョークを、よくここまで巧みに訳せるものだと感心する。この人は、以前ミステリー・ファンのあいだで評判になったキース・ピーターソンのウェルズ記者シリーズ4部作を訳している。これも内容ともども訳も上々だった。
作者のリングフィールドは残念なことに、すでに鬼籍に入っている。フロスト・シリーズは全部で6作で終わってしまったらしい。今作の「フロスト気質」は1995年発表の4作目だがら、あと2作しか残っていないことになる。次の翻訳まで、今回ほど間を空けないでほしいという思いのある反面、あと2作しか読めないことを考えると、あまり早く終わってほしくない気持にもなってしまう。

2008.09.30 (火)  ポール・ニューマンの思い出

ポール・ニューマンが9月26日に亡くなった。83歳だった。ぼくが映画をむさぼるように見始めたころ、最初に魅せられた俳優のひとりがポール・ニューマンだった。60年代初め、中学生の終わりから高校生にかけてのころ、ぼくは新作の封切りや旧作のリバイバルなど、映画館にかかる洋画を手当たりしだいに見ていたが、そのひとつに、封切り上映の「ハスラー」(61年)があった。ポール・ニューマンを見たのは、この映画が初めてだった。ニューマンは天才的なビリヤードの腕をもつちんぴらの若者を演じた。生意気で驕慢だが、純粋な心をもつ若者の挫折と再生、非情な勝負の世界、日蔭者どうしの男女の愛が描かれる、モノクロの奥深い画面に惹きつけられた。パイパー・ローリー、ジョージ・C・スコット、ジャッキー・グリーソンといった脇役も光っていた。それまで映画といえば西部劇や青春ものばかり見ていたが、「ハスラー」によって映画の新しい魅力を知った。
それから間もなく、リバイバル上映で「傷だらけの栄光」(56年)を見た。ニューマンはこの映画で、不良少年からボクシングの世界チャンピオンになったロッキー・グラシアノという実在の人物に扮し、生き生きと演じていた。共演のピア・アンジェリの美しさにも圧倒された。このころ見た映画で、ヘミングウェイのいくつかの短編を組み合わせた映画「青年」(62年)があった。主演はリチャード・ベイマーだったが、ニューマンが、ほんの一場面に、いまで言うカメオ出演していた。パンチドランカーになった元ボクシング選手を演じて、強烈な存在感を放っていた。当時のニューマンの映画には、ほかにシリアスな現代版西部劇「ハッド」(62年)、ノーベル賞授賞式を舞台にしたスパイもの「逆転」(63年)、黒澤明の「羅生門」を翻案した「暴行」(63年)などがあったが、どれにおいても彼は、いかにも上り調子のスターらしい、新鮮な輝き、生々しい迫力を発散していた。イスラエルの建国戦争を題材にした大作「栄光への脱出」(60年)でのニューマンは、映画としても散漫で、あまり強い印象がなかったけれど。
ポール・ニューマンは50年代に登場した、戦後世代の新しいタイプの映画スターだった。学校で演技の基礎を学んだ役者であり、戦前のハリウッド・スターとは一線を画していた。当初は反抗的な若者を演じることが多く、そういう意味では、おなじころに登場したマーロン・ブランドやジェームス・ディーンとひとくくりにできる。実際、彼らはみなエリア・カザンらが創設したアクターズ・スタジオの出身だ。だが、ブランドもディーンもエリア・カザンが監督する作品に起用されてスターになったが、ニューマンは一度もカザンの監督作品に出ていない。全身からふてぶてしさをにじみ出させるブランド、いつも拗ねたような表情のディーンに比べて、スマートで都会的なニューマンは、あまり個性的でないと見なされていたのだろう。戦前からの映画ファンによると、アクターズ・スタジオで学んだ新しい世代の俳優たちは、戦前のスターに比べて演技が臭いという。たしかに、彼らからアル・パチーノ、ダスティン・ホフマン、ジャック・ニコルソンにつながるこの養成所出身の俳優たちの、“システム”や“メソッド”で磨かれた達者すぎる演技は、わざとらしさが鼻につくときもある。

朝日新聞にはニューマンの死亡記事が大きく載っていたが、これを書いた記者はあまり彼の映画を見ていないに違いない。おそらく資料を調べてまとめただけだろう。そこには「『明日に向って撃て』や『タワーリング・インフェルノ』で知られるポール・ニューマン・・・」と書かれている。たしかにこの2作は興行的にヒットしたが、俳優としての彼をこの2作で代表されては、ファンとしてはそれはないだろうと言いたくなる。おまけに、いくつか列挙されている出演映画のなかに、重要なものが抜けている。私立探偵ルー・ハーパーを演じた「動く標的」「新・動く標的」が入っていないし、彼が最高の演技を示した「暴力脱獄」も入っていない。
「動く標的」(66年)はロス・マクドナルド原作のハードボイルド小説の映画化だ。冒頭に、朝、自分のアパートで起きた探偵が、寝ぼけ顔でコーヒーを淹れようとして粉が切れているのに気がつき、顔をしかめながら前日に使って捨てたフィルターを屑入れから取り出し、コーヒーを淹れるという、印象的なシーンがある。「暴力脱獄」(67年)でのポール・ニューマンは素晴らしかった。些細なことで投獄され、矯正労働キャンプに送られた若者が、看守たちの圧政に反抗し、自由を求めて何度失敗しても脱獄を繰り返す。ニューマンの本領が完璧に発揮されていた。80年代以降では、何と言っても「評決」(82年)での渾身の演技が最高だった。心に傷を負った、酒びたりのしがない弁護士が、大病院の医療ミスの告訴を引き受け、一流弁護士事務所のエリートと戦ううちに自分を取り戻し、悪辣な誹謗や裏切りに遭いながら必死の戦いをするという、骨太の力強い映画だ。女からかかった電話のベルが鳴り続けるなか、彼がひとり物思いに沈むラスト・シーンが忘れられない。晩年の「ロード・トゥ・パーディション」(2002年)で演じた、老いたギャングの親玉も見事だった。
本来なら、ポール・ニューマンは「暴力脱獄」か「評決」でアカデミー主演男優賞を獲るべきだった。けれども彼は何度もノミネートされながら、ずっとオスカーには無縁なままだった。やっと「ハスラー2」(86年)で受賞したが、こんな凡作で受賞させたくなかった。アカデミー賞なんて、こんなものだ。ニューマンがアカデミーの会員から嫌われたのは、彼が役柄だけでなく、実生活でもハリウッドの映画社会に馴染まず、公民権や反戦のための活動をやっていたからなのだろうか。
そういえば、今年4月に亡くなったチャールトン・ヘストンに関する新聞の死亡記事も、たしか「『猿の惑星』で有名な・・・」と書かれていた。いくらなんでも、「ベン・ハー」や「十戒」をさしおいて「猿の惑星」が真っ先にくるんじゃ、ヘストンが可哀そうだ。ニューマンとヘストンは、ある意味で対照的な存在だった。ヘストンは体制に順応する保守派であり、ニューマンは体制に刃向う進歩派だった。だが2人とも、50年代以降のアメリカ映画を支えた偉大なスターだったことに変わりはない。ヘストン、ニューマンの相次ぐ死去によって、古き佳きアメリカ映画はますます遠くなった。

2008.09.19 (金)  心惹かれるクラウス・オガーマンのニュー・アルバム

クラウス・オガーマンが全面的にアレンジを手がけた新作が発売された。ピアニストのダニーロ・ペレスをフィーチャーしたアルバム『アクロス・ザ・クリスタル・シー』(Universal)だ。ヨーロッパ的な美意識とラテンの感覚が混然一体になったサウンドに仕上がっており、ラテン特有の哀感が、情感過多にならず、クールな感覚で表現されている。たとえて言うなら、炎が、真っ赤な火花を出すのではなく、青白く妖しい光を発しながら燃え盛っている感じだ。見た目は冷たいが触ると熱い。久しぶりに、オガーマン独特の繊細な美しさが横溢したストリングスの響きにたっぷり浸ることができた。
最近の音楽にあまり親しんでいないジャズ・ファンのなかには、オガーマンがまだ現役のコンポーザー&アレンジャーでいることに驚く人がいるかもしれない。だが彼は70歳を超えた近年になっても健在である。2001年にはダイアナ・クラールのアルバム『ザ・ルック・オブ・ラヴ』に秀逸なアレンジを提供したし、1990年代初めにはマイケル・ブレッカーをフィーチャーした『シティスケイプ』の続編的なアルバムを発表しており、数は少なくなったとは言え、いまも充実した作品をつくっている。
しかしオガーマンといえば、何と言っても1960年代にクリード・テイラーのプロデュースのもと、アントニオ・カルロス・ジョビン、ビル・エヴァンス、アストラッド・ジルベルト、ウェス・モンゴメリー、スタン・ゲッツ、ウィントン・ケリーなどによるヴァーヴやA&Mへのイージー・リスニング・ジャズのレコーディングで、アレンジャーとして活躍していたときの印象が強い。当時、やはりクリード・テイラーが起用して脚光を浴びたアレンジャーにドン・セベスキーがいる。オガーマンはセベスキーと比べると地味な存在だったが、ぼくはオガーマンのアレンジが大好きだった。セベスキーの派手なアレンジとは違い、オガーマンのサウンドはあまり目立たない。だが、そのクールで洗練された感覚は、ジャズの伝統とは異質なものがあり、とても新鮮に聴こえた。彼はドイツ人であり、作風の背景にはヨーロッパ近代音楽の土壌があった。フィーチャーするアーティストの歌や演奏を最大限に活かした、出しゃばらないアレンジ、品格のあるデリケートな弦の響きは、一聴してすぐにオガーマンだと識別できた。
このころのアルバムでは、一般的には1967年のジョビンのアルバム『ウェイヴ』に施したアレンジが評価が高い。ぼくはウィントン・ケリーの『カミン・イン・ザ・バック・ドア』というアルバムが好きだ。これはジャズ的な要素は希薄だが、メロディを比較的ストレートに、だが独特の飛び跳ねるようなタッチで弾くケリーのピアノに、ところどころにうっすらとかぶさる流麗なストリングスの響きにぞくぞくさせられる。残念なのは収録曲がすべて3分前後という短さで終わっていることだ。同様の行き方のアルバムに、ビル・エヴァンスの『V.I.P.のテーマ』がある。ビル・エヴァンスとは、その後2枚のアルバムで共演しているが、そのなかでは、発売当時評判は良くなかったが、『ウィズ・シンフォニー・オーケストラ』がいい。このサウンドは、今回のダニーロ・ペレスと組んだ新作『アクロス・ザ・クリスタル・シー』を思わせるものがある。
その後オガーマンは、70年代半ばごろから、プロデューサーのトミー・リピューマに重用され、フュージョンやAORのレコーディングで異才を発揮するようになった。ジョージ・ベンソンの『ブリージン』、マイケル・フランクスの『スリーピング・ジプシー』、ジョアン・ジルベルトの『アモローゾ』といったアルバムがそれだ。ベンソンやフランクスのアルバムの成功は、オガーマンの精緻を極めたアレンジ抜きには考えられない。オガーマンは『ウェイヴ』のヒット以来、ジョビンとしばしばコンビを組むようになり、数枚のコラボレーション・アルバムを作ったが、オガーマンの関連したボサノヴァ・アルバムで言えば、ぼくはジョビンとの諸作での多彩なアレンジよりも、ジョアン・ジルベルトの『アモローゾ』のシンプルなサウンドのほうに愛着を感じる。ダイアナ・クラールが『ザ・ルック・オブ・ラヴ』のなかで〈スワンダフル〉を、オリジナル・メロディを無視してジルベルトそっくりに歌っているが、これは彼女のこのアルバムへのオマージュの表れであろう。
オガーマンのクラシック近代音楽の資質は、レコード会社から枠をはめられず、自由なアレンジを任された場合に、はっきり示されている。ビル・エヴァンスとの『シンバイオシス』がそうだし、ランディ・ブレッカーをフィーチャーした『シティスケイプ』がそうだ。彼はリーダーとして純粋にクラシック音楽に徹したアルバムも発表している。彼が単独のリーダーとなってレコーディングしたジャズ的な作品として『夢の窓辺に』があるが、このあたりになると、楽理に詳しい人や実演家にとっては興味深いかもしれないが、一般的なジャズ・ファンからすると、ちょっと高踏的すぎてついていけない感じがする。
オガーマンはこういったジャズやフュージョンやボサノヴァのフィールドと同時に、ポップスの世界でも実績を残しており、シナトラ、サミー・デイヴィス、バーブラ・ストライサンドといったヴォーカリスト、ベン・E・キングやドリフターズのようなR&Bシンガー、コニー・フランシスやマット・モンローなどのヒット曲歌手など、さまざまなレコーディングでアレンジャーとして起用されてきた。今回、ネットで調べて初めて知ったが、60年代初めに洋楽のヒット・パレードをにぎわしたレスリー・ゴーアの〈涙のバースデイ・パーティ〉や〈恋と涙の17才〉といったヒット曲が、オガーマンのアレンジによるものだった。クインシー・ジョーンズがプロデュースしたことは知っていたが、実際にサウンドを作ったのがオガーマンだとは知らなかった。オガーマンはほんとうの意味での音楽の職人なのだと改めて痛感した。

2008.09.04 (木)  日本を舞台にしたハンターの新作にがっくり

しばらく仕事が忙しく、単行本の翻訳の締切に追われて何もできない状態だったが、やっと一段落ついたので、このコラムを再開することにする。
何もできないとはいっても、少しは本を読んでいた。相変わらず海外ミステリーは不作で、ハッとさせられるようなものはない。逆に期待はずれでがっかりさせられるものが多い。緊迫したストーリーと意表を突く展開が素晴らしかった「シンプル・プラン」でデビューしたスコット・スミスの10数年ぶりの第2作「ルインズ〜廃墟の奥へ」(扶桑社ミステリー)は、とくにひどかった。メキシコの秘境を舞台にした一種のホラー小説だが、メキシコという土地の描写にリアリティがないし、登場人物たちの行動も説得力がない。上下2巻のうち、上巻の半ばから、彼らが襲われる化け物ツタ性植物の恐怖が、えんえんと描かれる。何か面白い展開があるだろうと思って我慢して読んでいたが、最後まで何も起こらない。まったくの駄作だ。これが短編だったら、もっと引き締まったホラー小説になっていたかもしれない。
これほどひどくはないにせよ、スティーヴン・ハンターの新作「47番目の男」(扶桑社ミステリー)も首をかしげざるをえない内容だった。久しぶりに「極大射程」のボブ・リー・スワガーを主人公に据えた小説であり、期待に胸が高まったのもつかのま、日本が舞台だと知って嫌な予感がした。その予感が現実になった。出だしは快調で、ボブ・リーの父アールの、太平洋戦争末期、硫黄島での戦闘が描かれる。このあたりは、クリント・イーストウッドの映画「硫黄島からの手紙」を思わせ、日本の軍人や兵士も名誉と責任を重んじる立派な人間として描かれている。アールが硫黄島から持ち帰った日本刀にまつわる話がこの小説を貫くテーマになる。アールが亡くなった現在、息子のボブ・リーがその刀を探し出し、刀の持ち主の遺族に届けるため日本にやって来る。ここまではいいが、そこから話は現実ばなれしてくる。題名から想像されるとおり、この小説は「忠臣蔵」がもうひとつのテーマになっている。それはいいとしても、なんとあの射撃の名手ボブ・リーが、復讐のため、日本で剣道を習い、日本刀を手にして悪者を斬りまくるのだ。全体の4分の3、日本でのボブ・リーの行動と、日本の裏社会を牛耳る悪の親玉を描くストーリーは、あまりに荒唐無稽で、まるで劇画だ。最後の清澄庭園での刀による決闘は、タランティーノの映画「キル・ビル」のようだ。
スティーヴン・ハンターが書き綴ってきた“スワガー・サーガ”は、なんと言っても、「極大射程」「ダーティ・ホワイト・ボーイズ」「ブラックライト」といった初期の作品が最高だった。ハンターは、元海兵隊員の天才スナイパー、ボブ・リー・スワガーを主人公とした3部作のあと、ボブ・リーの父親のアール・スワガーを主人公にしたシリーズを書いた。“ボブ・リー・スワガー3部作”の手に汗握る緊迫感、自分も追われながら相手を追いかけるボブ・リーを描く、きびきびしたストーリー展開に比べると、“アール・スワガー・シリーズ”は、絶対的な悪を退治するという、アメリカ的な平板なコンセプト、荒っぽい筋立てが目についたが、それでもストーリーテリングの冴えは抜群で、充分に楽しむことができた。こんどの「47番目の男」は、ボブ・リーが主人公なのに、筋立てはアール・スワガーのシリーズに近く、おまけに珍妙に描かれる日本の文化や社会が背景になっており、いままでのハンターの小説のなかでは、内容としてはいちばん落ちる。ハンターもパワーが衰えたのだろうか。それにしても、アメリカの作家や映画監督が日本を描くと、どうしてこんなに現実味のない、紙芝居のようなものになってしまうのだろう。ミステリー小説のなかで、日本をリアリティをもって説得力豊かに描いたものといえば、トレヴェニアンの「シブミ」だけしかない。日本を舞台やテーマにしたアメリカ映画だと、まともに見られるのはリドリー・スコット監督の「ブラック・レイン」ぐらいか。
気を取り直して、買ったままでまだ読んでいないエルモア・レナードの「ホット・キッド」、リングフィールドのフロスト警部シリーズの待望久しい新作「フロスト気質」に、これからとりかかる。この2作は、おそらく期待して間違いないだろう。

2008.08.01 (金)  ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」が解き明かす真実

アメリカが北朝鮮への「テロ支援国家指定」の解除を決定し、日本は拉致問題が解決しないうちにそんな事態になったのであわてている。核を無力化したという証拠もろくにないのにそうするのは、ブッシュが大統領の任期切れ前に実績を残したいからだ。もし日本の政府や外務省が、アメリカは日本との同盟関係にひびを入れるようなことはしないと考えていたとしたら、救いがたい愚か者ぞろいだ。アメリカは本性を露呈した。口先では甘いことを言っていても、アメリカが日本のことなど真剣に考慮してくれるわけがない。覇権国家アメリカにとって、日本は属国であり、手先であり、何でも言うこときかせ、いざとなったら切り捨てる国だ。コイズミが、そんな日米関係をいっそう助長した。
アメリカの欺瞞はいまに始まったことではない、戦前から続いている。日本はそれによって戦争を起こし、原爆を投下され、敗戦して占領された。そのアメリカの欺瞞性を克明につづった本を読んだ。ヘレン・ミアーズの書いた「アメリカの鏡・日本」という本だ。ぼくはこの著者の名前も本のことも知らなかった。これを知ったのは、的確な指摘、明快な論旨で、いつも教えられることの多い天木直人さんのサイトによってだった。
ヘレン・ミアーズはアメリカの女性歴史学者で、日米開戦前に2度にわたって訪日して日本の歴史や文化を研究し、日本・アジアに関する専門家としてアメリカの大学で教えていた。戦後の1946年、GHQの諮問機関である労働政策委員会のメンバーとして来日、日本の労働基本法の策定に携わった。アメリカに帰国後の1948年にこの本を出版したが、一部で注目されたものの、日本を擁護し、アメリカを糾弾する内容だったため黙殺された。彼女はその後、不遇を余儀なくされ、やがてその名は忘れ去られた。日本では原著出版後まもなく、翻訳出版が企画されたが、マッカーサーは出版を禁じた。占領が終わった1951年にようやく「アメリカの反省」と題して出版されたが、当時はまったく話題にならなかった。その後1995年にアイネックスという出版社から伊藤延司の新訳で発売された。ぼくが読んだのは2005年に角川書店から出版された、その復刻版である。
この本でミアーズの主張の根本にあるのは、「日本は西欧に学んだことを忠実に実行したにすぎない。日本の行為を批判するまえに、そのもとになった西欧文明を批判しなくてはならない」という考え方だ。タイトルにある「鏡」は、「日本は西欧列強=アメリカが生み出した鏡であり、そこには西欧自身が写っている」という意味が込められている。そこから彼女は、日米の開戦は日本を占領するためにアメリカが仕掛けたものだったこと、原爆を投下する必要はなかったこと、アメリカは日本を裁くほど公正でも潔白でもないことを説き明かす。
彼女の論旨は「日本の本当の罪は、西洋文明の教えを守らなかったことではなく、よく守ったことなのだ」という一文に表れている。彼女は「私たちはアメリカから多くのこと、とくに隣接地域の不安定政権とどのように対処するかを学んできた。そして学んだことを実行すると、先生から厳しく叱られるのである」という、新渡戸稲造が1932年にアメリカで行った講演に際する言葉を引用する。「明治維新以後、日本には2つの選択肢しかなかった。ひとつは工業経済に移行し、軍備を確立し、欧米との力の均衡のもとに独立国家として生きていく道、もうひとつは中国のような半植民地国家、または欧米のどこかの国の植民地になる道である・・・満州事変に至るまでの日本の行為は、欧米民主主義諸国がつくった国際法で許されていた。それが罪だとするなら、イギリスは共犯であり、アメリカは従犯である。満州事変はたしかに有罪だ。しかし、中国に言わせれば、欧米列強も日本と同じくらい罪が重い」
彼女は、パール・ハーバーは青天の霹靂ではなかった、アメリカ政府は開戦が迫っていることを予期していた、いや、むしろ経済封鎖によって追い詰め、「最後通告」を突き付けることによって、意図的にそうしむけたのだと説く。こうして「リメンバー・パール・ハーバー」を合言葉に、アメリカは日本への憎悪と恐怖を植え付けたのだということを、彼女は暴き出す。
1945年春ごろから、日本はさまざまなかたちでアメリカに降伏を打診していたが、アメリカ政府はことごとく無視または拒否した。ポツダム宣言を受けるか否かを迫って、わずか11日後に広島に原爆を投下した。原爆はポツダム宣言受諾を早めただけだった。そのためにアメリカは21万人の市民を殺した。それを正当化するため、アメリカ政府は当時の日本の力を意図的に過大に評価した。しかし実体は、マッカーサーが「史上これほど迅速、円滑に武装解除が行われた例はない」と言ったほど、日本には何も残っていなかった。戦闘の狂気と恐怖で錯乱していた絶体絶命の状況下、日本軍がフィリピンで2000人の非戦闘員を殺害した責任を問われ、山下将軍が断罪された。しかし、それと、事実上すでに負けていた国に新型爆弾を投下し、たった1秒で14万人の非戦闘員を殺すことと、どちらの罪が重いのか、と彼女は問いかける。
さらに彼女は、戦争中から戦後にかけて喧伝された日本民族の侵略性や好戦性は、つくられた脅威だったと説く。日本の歴史、文化、伝統をこと細かに説明し、世界中に植民地をつくっていた欧米列強と比べて、日本がいかに歴史的拡張主義からほど遠かったか、そんな日本がなぜアメリカに戦争を仕掛けるに至ったかを、きわめて説得力に富む筆致で論ずる。
ぼくの知り合いに日米のハーフのアメリカ人がいる。もうかなり以前のことだが、飲みながら話をしたおり、話題が太平洋戦争になった。ぼくが「アメリカ政府は暗号を解読することにより、日本が開戦することを知っていたが、国民の日本憎しの意識を醸成するために、あえて先に攻撃させた」と話し、さらに「原爆であんなに一般市民を殺す必要はなかった。日本はすでに負けていたんだ」と言った。すると彼は「そんな話は初めて聞いた。学校ではそんなふうには教わらなかった。戦争を早く終わらせ、人命を救うために原爆を使ったと聞いていた。それがアメリカのためにもなるし、日本のためにもなるからやったとばかり思っていた」と語っていた。ことわっておくが、このアメリカ人は弁護士で、いちおうインテリの部類に属する。ましてや、アメリカで生まれ育ち英語しか話さないとは言え、母親が日本人だ。そんな人間でも、理解の程度はこんなものなのだ。
勝者が敗者を裁く東京軍事裁判を審理中だった1948年、このような勝者の論理を根底からひっくり返す本が、どんな運命をたどったかは想像にかたくない。強者の利益のために弱者が翻弄されるのが歴史の常だ。アメリカという強者は、いまあらゆる場面で自国の利益をむき出しにし、世界の各地を蹂躙しようとしている。そんな時代だからこそ、アメリカの欺瞞、強者の驕りを60年前に解き明かし、警鐘を鳴らしたこの本は、いま多くに人によって読まれるべきものだと思う。

2008.07.23 (水)  9.11テロはアメリカの陰謀だったのか

2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件はいまも記憶に生々しい。これはオサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダの犯行ということにされているが、じつはアメリカ政府の陰謀、自作自演だったという説が、以前からネット上で流布している。ぼくは、アメリカ政府が仕組んだことかどうかはともかく、アメリカ政府が中東派兵の口実にするため、事件をサポートしたか、あるいは事前に察知しながら見逃していた可能性はあると思っていた。だが、このほどベンジャミン・フルフォードが書いた『9.11テロ捏造〜日本と世界を騙し続ける独裁国家アメリカ』(2006年徳間書店)を読むに及んで、政府の自作自演もありうるかもしれないと思うようになった。
著者のフルフォードは元フォーブス誌のアジア太平洋支局長だった人で、テレビの討論番組などにも出演しており、ぼくも見たことがある。この類いの陰謀論はほとんどが眉唾もので、まともに採り上げるに値しないが、この本は、あまり秩序だって理路整然と論じられいるとは言い難いにせよ、なるほど、そうかもしれないと思わせることが書かれている。 この本では、世界貿易センタービル(WTC)とペンタゴンへの攻撃にまつわる、さまざまな疑惑がとりあげられている。

まずWTCビルだが、ツイン・タワー(1号棟と2号棟)の崩壊は、政府の公式見解によると「激突した飛行機が起こした火災による熱で鉄骨が溶けたため」ということになっている。だが、飛行機の火災による熱は、鉄骨を溶かすほどの高熱を発しないし、火災でコンクリートが粉々になることはありえない、と専門家は言っている。映像を見るとコンクリートや鉄骨が粉々にちぎれて飛び散っているが、これは爆薬を使った爆発であることの証しだという。実際、崩壊の直前にビルから爆発によって煙が噴き出ているのが映像で確認できる。歴史上、火災が原因で鉄骨の建物が崩壊した例はひとつもないそうだ。
ツイン・タワーに続いて、それより低い7号棟ビルが崩壊した。低いといっても47階建ての高さがある(ツイン・タワーは110階建て)。ツイン・タワーからはいちばん離れた7号棟であるこのビルが、もっと近くのビルは崩れなかったのに、、飛行機の衝突もなしにいきなり崩壊した。しかも6.5秒というものすごい速さで、あっというまにきれいに崩れ落ちた。こんな崩れ方は、物理的に見て、火薬を使って爆発を起こしたとする以外に説明がつかない。上記の理由により、WTCビルは、航空機の衝突によってではなく、事前に仕掛けられた爆発物によって崩壊したのだという。
そのほか、ビルのオーナーが事件の2か月前にWTCのビル群を購入し、35億ドルという巨額の保険をかけ、事件後に80億ドルという保険金を受け取ったこと、民間機ではなく軍用機だったと言う目撃者が多数いるということ、跡地から、機体を特定できる部品がひとつも見つかっていないことなど、疑惑を裏付ける事例が多数、列挙されている。

もっと疑惑だらけなのは、ペンタゴンへの飛行機の突入だ。まず、ツイン・タワーに最初に飛行機が突っ込んでからほぼ1時間が経っており、警戒していないわけはないのに、防空体制にひっかからなかった。そして、低層のペンタゴンに地面すれすれの超低空飛行で突っ込んだのに、周囲の芝生はきれいなままだった。起きた火災は小規模だったし、機体の破片が異常に少ないし、乗客の遺体も一体もない。もっとおかしいのは、壁の先にぽっかりと穴があいていることだ。この穴の写真を見ると、素人の目で見ても、たしかに飛行機に激突して、なぜこんなトンネルのような穴が開くのか、理解できない。航空エンジニアや軍事技術者は、“この鉄筋コンクリートの丸い穴は、飛行機の激突などではできない。ミサイルに使われる指向性爆薬によってできたとしか考えられない”という。
激突する瞬間の映像が収められたペンタゴンの監視カメラの映像は、最初のうちは公開されなかった。ごく最近になって公開されたが、明らかに何か所も編集された跡があるし、激突したときの映像は収められていない。すべてを総合すると、ペンタゴンへの攻撃はミサイルだった可能性が高い。ミサイルが飛んできたと証言している目撃者もいる。そしてここでも機体が識別できる部品は一切回収されていない。航空機事故調査委員会のメンバーだった元空軍大佐は、どんな事故であっても、部品が回収されないことなどありえないと言っている。

アメリカ政府は、アルカイダの犯行と断定できる証拠はあると言っているのに、ひとつも開示していない。この事件後、アメリカはアフガニスタンを攻撃し、そしてイラクに侵攻した。ブッシュ大統領の支持率は、それまで50%を切っていたのに、事件直後には90%に達した。そしてアメリカは産軍複合体の思いどおりの方向に進んだ。愛国者法が制定され、逮捕したい相手がいたら、テロリストと決めつければ、何の手続きもふまず逮捕できるようになった。ジャーナリストは情報源を明かすことを拒めば逮捕されるようになった。テロ対策といえば、どんな人権を無視したことでもできるようになった。
これによってネオコンの牙城であるアメリカ新世紀プロジェクトのシナリオ通りに事が運んだ。2007.07.31付けの日記「米国ネオコンの陰謀を図書館員は阻止できるか」にも書いたが、アメリカ新世紀プロジェクト(Project for the New American Century)はネオコンのシンク・タンクで、会員にはウォルフォウィッツ元世界銀行総裁、チェイニー副大統領、ラムズフェルド元国防長官、アーミテージ元国務副長官、ジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事(ブッシュ大統領の弟)などがいる。彼らは、“アメリカは軍事的・経済的優位を利用してもっと指導力を発揮しなければならない、それがアメリカのための、ひいては世界のためになる”という基本理念から政策を提言している。そして、彼らは、2000年9月に発表したレポートで、“アメリカが変革を遂げるためには、真珠湾攻撃のような、その触媒となる壊滅的な打撃をもたらす事件が必要だ”と論じている。

たしかに疑惑だらけだ。でも、ほんとうにアメリカ政府の陰謀なのか、ということについては疑問もある。アルカイダの犯行にするなら、飛行機などを体当たりさせなくとも、ビルを爆破・崩壊させればすむのではないか。激突した飛行機が旅客機ではなく軍用機だったのなら、旅客機そのものや、旅客機に乗っていた乗客はどこにいったのか。110階建のビルを爆薬で崩壊させるには、何日もかけて、ビルのすみずみにまで何か所も爆薬を仕掛けなければならないのに、いつそんなことをやったのかなど、疑問点は多い。飛行機の突入による衝撃と火災でビルが倒壊することは十分ありうるとする専門家もいる。たしかにこういう陰謀論はむかしからいかがわしいものが多いし、あまり信用できない気もする。
とは言え、現実にアメリカの歴史は、政府と軍部とCIAがからむ陰謀で彩られている。アメリカが国民を欺いて戦争に誘導したことは、これまでにいくつもあった。アメリカ国内で事件を起こしてキューバ人のせいにし、キューバとの開戦にもちこもうとした「ノースウッド作戦」がある。これは統合参謀本部が作成したが承認されなかった。実際に実行に移されたものには、アメリカが本格的にベトナムに介入するきっかけとなったトンキン湾事件、麻薬がらみでパナマの実質支配をもくろんだパナマ侵攻作戦、CIAが隠れて麻薬や武器を売買していたイラン・コントラ事件などがある。だから、いまの政府の顔ぶれ、石油産業や軍需産業との癒着ぶりからして、9.11テロはアメリカ政府が仕組んだものだったとしても、けっして不思議ではない。

2008.07.16 (水)  資本主義の末期的症状が露呈している

洞爺湖サミットは予想通り何の具体案も出ない茶番で終わった。サミットなどは、大国が自分たちの都合のいいように世界をコントロールしようとする会議だし、おまけに地球全体のことを考えるなどというのはお題目で、実態は各国が自国の利益を優先させようとするわけだから、話がまとまるわけがない。いま緊急にやるべきことは、原油の高騰、食糧の高騰、迫りくる世界恐慌という危機的状況にあって、その対策を至急講じるべきなのに、G8は「強い懸念」を表明しただけだ。強い懸念など、すでに世界中の人々が表明している。大きなテーマだった地球温暖化対策にしても、アメリカのわがままのため成果はなかった。
原油高が止まらない。投機マネーが原因だという。資本主義の末期的症状だ。背景には中国やインドなどの需要が増えたのに比べ、原油生産の伸びが小さいという状況があるらしい。それでも需要と供給を比べると、まだ供給量のほうが多く、余裕があるから、本来だったらこんなに値上がりするはずはない。そこに介入するのがアメリカの投機マネーだ。サブプライム問題でアメリカ経済が失速し、ドルが下落した。行き場を失った投資ファンドが原油先物取引市場に流れ込み、値段を吊り上げる、と専門家は仕組みを解説している。
諸悪の根源はアメリカでのサブプライム問題と錬金術のような金融経済だ。そもそもサブプライムローンに関する説明を読むと、そんな詐欺まがいのローンをよく政府が規制もせずやらせていたものだと思う。ましてやそんな危ないローンが証券化されて、金融機関や投資家のあいだで取引されるに至っては、あきれるばかりだ。監督官庁が財務省なのかFRBなのか知らないが、いったい何をやっていたのだろう。いまアメリカでは政府系住宅金融機関の破綻が話題になっているが、まだまだ金融不安は起るだろう。金銭へのあくなき欲望は、規制しなければどこまでも膨れ上がり、やがては社会を破壊する。
原因が分かっているのなら、手を打てばいいのに、アメリカは何もやろうとしない。ドル安に歯止めをかければ原油高は止まるということだが、アメリカ政府は本格的な対策を講じようとしない。金利や税金の調整で対処しようとしたが、そんな小手先の施策では効果がなかった。中東の産油国が増産計画を発表したが、量が少なく、これも効果がなかった。もはや投機を抑制し、金融市場を規制するしか手がないのに、アメリカ政府はまったく腰を上げる気配がない。それは、それを望まない力が働いているからだ。それでぼろ儲けしている石油資本が、ブッシュやチェイニーをはじめ政権主導者たちのバックについているからだ。大統領が交代すれば、その悪の連環は断ち切れるのだろうか。
ひるがえって、日本は何をしているのだろう。原油、食料品の高騰は、日本だけでは解決できない。だったらヨーロッパ各国と連携して、アメリカに金融規制を迫ればいい。だが日本はそれができない。アメリカの属国だからだ。情けないことに、いまの日本はアメリカに言われたことに従うだけだ。それでも日本で対処できることはあるだろう、再採決されてしまったが、ガソリン暫定税を廃止するとか。そのぶん税収減になるが、余分な道路など作らなければいい。地方に回す財源が必要なら、国の無駄使いを減らせばいくらでも出てくるし、省庁には巨額の隠し財源もある。だが福田首相は「困りましたね」などと、まるで他人事のように言うだけだ。
考えてみれば、わたしたちはおとなしすぎる。もっと怒りの声を上げなければならない。ガソリンの値上がりや物価の高騰だけではない。コイズミ時代に端を発する、格差の拡大、社会保障制度の改悪、海外資本の乱入、在日米軍の肩代わり費用の拡大など、これだけ国民をないがしろにした政治がおこなわれても、怒りの声が政府に届かない。日本では大規模なデモが行われなくなって久しい。韓国ではアメリカ牛肉再開に反対するデモによって、李政権が苦境に陥っている。韓国のデモは多分にネットの風評に踊らされたものらしいので、手放しでは賛同できないが、わたしたちも少しはあれを見習うべきだ。日本人よ、デモで怒りを示せ。そうすれば国は動く。

2008.07.10 (木)  民主党のアキレス腱、前原誠司

とにかく次の総選挙では、何としてでも民主党に自民党を打ち破ってもらわなければならないが、その民主党にも課題はたくさんある。いちばん大きな問題だと思うのは、前原誠司という元代表の存在だ。この、腹話術の人形のような顔をした、いつもニヤニヤ笑っているように見える男は、どうにも薄気味悪い。前原の言動は自民党より右寄りであり、こんな人間が変なかたちで力を握ったら、あの日本を泥沼に追い込んだコイズミやアベの二の舞になりかねない。
この男が危険なのは、公然と憲法9条改正と軍備増強を唱えていることだ。京都大学で学んだということだから頭はいいのだろうが、あの政府御用達の権力主義政治学者、高坂正堯に師事したというから、お里が知れている。前原は、世界に伍し、中国・北朝鮮の脅威に対抗するには軍備が必要だと主張する、いわゆる“現実”論者だ。彼は集団的自衛権の必要を説き、政府が提案したテロ対策特措法の延長に賛成したが、それはアメリカとの関係をまずくするのは国益に反するという理由からだった。まさにコイズミのやった対米従属外向そのものだ。こんな人間が民主党のなかにいては、しかも副代表として一派を形成していては、今後の党としての結束が危ぶまれる。
中国と北朝鮮の脅威をやたらに煽り立てるのは、軍拡論者の常套手段だ。憲法9条を改正し、外に出て戦闘行為をする軍隊を日本が持てば、アメリカの属国である日本は軍隊を思いのままに利用され、軍備の増強は止まるところを知らなくなる。行きつく先は核武装になるだろう。世界の宝とも言うべき憲法9条を維持し、アメリカへの依存から脱却し、いまの自衛隊はそのまま専守防衛の自衛隊として存続させる――これ以外に日本が生き残り、世界に向かってその存在感を発揮する道はない。
前原が政治の力学を分かっていないのは、自民党との対決姿勢を見せていないことからして一目瞭然だ。政権を奪取するためには、すべての正当な手段を行使していまの自公政権を追い詰めなくてはならない。彼には、何が何でも自民党を倒すという気概と迫力がまったくない。彼の主張するような協調路線をとっていれば、いつまでたっても政権など取れはしない。自民党にいいように利用されるだけだ。前原は、突然の敵前逃亡で世間の失笑を買った“お坊ちゃん”アベと親しいというが、さもありなん、浅薄な考え方は確かに似ている。
最近の前原は、民主党のマニフェストを(しかも自分が代表のときに立案した農業政策を)批判して物議をかもしたり、なぜか浮かれ騒いでいるいるコイズミが呼びかけた勉強会なるものに、厚顔無恥な政治芸者の小池百合子と一緒に出席し、コイズミに首相候補とおだてられてたりと、自民党を利するような言動が目立つ。まるで民主党を分断するため自民党から送り込まれた手先のようだ。あの自民党お抱えの無定見なジャーナリスト田原総一朗に褒められるようでは、もう救いがたいところまできている。
民主党はもともとが寄り合い所帯だから、けっして一枚岩ではなく、さまざまな考えの議員がいる。それが当然であり、意見が異なるやつは異端分子だから出ていけ、などと言うつもりは毛頭ない。だが前原のタカ派的で無節操な考えは、どうにも許しがたい。最近の自民党寄りの言動は民主党の分裂を誘うようなものであり、自民党の思うつぼではないか。こんな人間は一刻も早く民主党から追い出すべきだ。

2008.07.04 (金)  官僚と自公政治家の劣悪さ加減

いまの官僚たちの横暴さ、鈍感さは目に余る。国民のうえにあぐらをかき、税金を食い物にしているとしか言いようがない。高度成長期には彼らも国力増進に大きな役割を果たし、官僚制度が機能していた。だがときは移り、バブルがはじけ、老人が増えて少子化社会になり、国の借金が膨れ上がったいま、意識を変え、新しい時代に対応していかなければならないのに、いまだに彼らは旧い体質のまま、既得権にしがみついている。居酒屋タクシーなどは氷山の一角であり、いまの官僚のモラルのなさ、次元の低さは目を覆うばかりだ。
自公政権の政治家たちも、どうしようもない。本当に国のこと、国民のことを考えているのなら、官僚体制の旧弊を変えなければならないのに、そうするどころか、そのまま存続させようとしている。改革しようとする気骨のある者もいるが、利権にしがみつき、官僚に取り込まれたベテラン議員に阻まれて、何もできない。そもそも彼らは、大臣になったとたん、なぜ自分の管轄する省を守り、官僚の言いなりになるのだろうか? 官僚の助けがなければ国会で答弁ができないからなのか? とにかく何も問題意識をもたないぼんくら大臣が多すぎる。大臣は官僚の作った答弁書を棒読みするだけだ。こんな茶番のような国会など、実質的には何の意味もない。
そもそも、大臣という名称がいけない。こんな平安時代の太古に使われていた、いかにも偉そうな響きのする名称だから、大臣になりたがる無能な政治家どもが輩出するのだ。国民に奉仕する機関のリーダーらしく、アメリカ式に“長官”とか“省長”とか、すっきりした呼称に改めるべきだ。名称が変わったからといって優秀な人材がその任に就くという保証はないが、“名は体を表す”だ。少しは実務主導のかたちになるだろう。
話はそれたが、百害あって一利ない独立行政法人や天下りの弊害がこれほど叫ばれながら、いまだにいっこうに改革の兆しが見えないのは、いったいどういうことだろう。独立行政法人の使う無駄な費用は膨大な額にのぼるし、そこに天下り、利権をむさぼるほかはなにもしない元官僚どもに支払われる給料も巨額だ。このシステムが汚職や官製談合の温床になっているのは周知のとおりだ。
さきごろ成立した国家公務員制度改革法も、官僚や、官僚の意を体した議員の横やりにより、骨抜きの内容になってしまった。これから進められるという改革は、本質に切り込まない、いい加減なものになるであろうことは目に見えている。そもそも、いちばんの問題は、省において、ある人間が次官になったら、その人間と同期の者は省を辞めなければならないという人事制度だ。50歳代半ばで省を出た人間の働き先は、その省の人事部が斡旋する。こういうことでは、いつまでたっても諸悪の根源である天下りはなくならない。まずこの人事制度を廃止しなければならないのに、そんな動きは見られない。
これを改革するには、いまの自公政権では無理だ。彼らには本気で改革する意思がないし、やろうと思ってもできない。政権が変わらなくてはだめだ。民主党政権になったからといってほんとうに変革できるどうか分からないが、いまよりはましだろう。

2008.06.30 (月)  痛風発症顛末記

ついに出た、いや、お化けじゃなく、痛風が。10日ほど前のこと、左足のかかとに何か違和感を感じた。でもその日は歩くのに、とくに支障はなかった。ところが翌日、朝起きると、かかとに激痛が走り、痛くて歩けなくなった。知らないうちに何かにぶつけたせいなのか、それとも疲労骨折にでもなったのか、あれこれ原因を考えたが分からなかった。その日の夜、友人たちと飲み会が入っていた。欠席しようかと思ったが、何とか歩けなくはないので、よせばいいのに、痛みをこらえ、左足を引きずりながら、いつもの倍以上の時間をかけて歩き、電車を乗り継いで集合場所に行った。友人のひとりが「それは痛風だよ。おれもなったことがある」と言う。それで思い当たった。ぼくは尿酸値が高めで、痛風に気をつけるように医者から言われていたのだ。すっかり忘れていた。その日、酒を飲んでも痛みは麻痺せず(あたりまえだが)、解散して電車に乗ったが、途中でタクシーを拾い家に帰った。翌日、かかりつけの医院に行って血液検査をしてもらった。見事な痛風だった。尿酸値は、7.0までは正常の範囲内、7.0を超えると高尿酸値で痛風発症の危険あり、8.0以上だと要薬服用という基準がある。ぼくはそれまでぎりぎり7.0以内にとどまっていたが、このときの数値は8.6にまで跳ね上がっていた。
体にたまった老廃物のひとつである尿酸は、通常、腎臓で分解され、尿といっしょに排泄される。ところが、プリン体という成分を多く含む食物を食べすぎて過剰に尿酸が生成されたり、過度のストレスにさらされたり、腎臓の機能が低下したりすると、腎臓は処理しきれなくなり、排泄されるべき尿酸が血液に流れ出す。それがある程度の量を超すと、尿酸が結晶となって関節部に付着し、関節炎を発症させ、痛みが生じる。それが痛風のメカニズムだ。尿酸値が高いまま放置しておくと、腎機能障害などの内臓疾患を引き起こす。以上はインターネットから得た知識だ。痛風というと、足の指の付け根が痛くなるというイメージがある。ぼくもそう思っていた。だがそうなるのは全体の70%ほどで、残りの30%は膝や肘の関節、ぼくの場合のようにかかとといった、いろんなところに発症するのだそうだ。痛風になったら、痛み止めの薬を飲み、患部を湿布し、痛みが退くのを待ってから、尿酸値を下げる薬を服用することになる。痛みは自然に退いていく。ぼくの場合、3〜4日したら痛みはかなり薄れ、1週間ほど経ったら、ほとんど正常に戻った。関節に付着していた尿酸の結晶はどこに行ったのだろう。ネットで調べても、それについてはどこにも説明がなく、分からない。
尿酸値を下げるには、プリン体を多く含む食物を食べないのが、まず第一の療法だという。魚卵、内臓系の肉などにプリン体が多いのは、どの説明を読んでも同じだし、野菜をたくさん食べるのがいいということも一致しているが、それ以外の食物については、意外に説明にばらつきがあり、どれを信じていいのか分からない。納豆などは、ある医者は大豆にはプリン体が多いから絶対食べてはだめだと言うし、別の医者は納豆菌は尿酸値を下げるから食べたほうがいいという。アルコールに関しても、ビールにいちばんプリン体が含まれるということは確かだが、それ以外の酒については説明がまちまちだ。ワインなら飲んでもいいという医者もいるし、ワインもだめだという医者もいる。そもそも最近は、たとえプリン体を多く含むものを食べても、実際に体内に取り込まれるのは微量なので、そういう食事療法をしてもあまり意味はない、尿酸値が上がる最大の原因は、腎臓の機能が弱っていることにあるのだ、という説が唱えられているらしい。素人には説得力のあるロジックだ。いずれにせよ、これだけ科学が発達しても、医学分野にはまだまだ分からないことが多いということなのだ。
とにかく、いったん高尿酸値になった以上、この症状と末長く付き合っていくほかはないと考える今日このごろである。

2008.05.19 (月)  「長いお別れ」と「ロング・グッドバイ」

遅ればせながら、昨年出版されて話題になった村上春樹の新訳、レイモンド・チャンドラー作「ロング・グッドバイ」を読んだ。ぼくがこの本の旧訳である清水俊二訳の「長いお別れ」を読んだのは、たぶん大学1年のころだったと思う。ハヤカワのポケミスで、当時としては破格に分厚かった。いまならそれほど多い分量ではないだろう。なにしろ昨今のミステリはどんどん長大になっていて、上下2巻などはあたりまえになっているが、昔はそんなに長い本はめったになかった。「長いお別れ」は1953年の作品であり、全部で7作あるチャンドラーの長編のなかで最後から2番目に発表された。
当時、一読して大きな感銘を受け、これこそチャンドラーの最高傑作と確信したが、それまでの彼の作品とは、いくつかの点でかなり異なっているという印象を受けた。長さもそのひとつだが、それ以外に、主人公の私立探偵フィリップ・マーロウがいつも喋るへらず口や警句が影を潜めていること、全体に動きが少ないこと、ハードボイルド小説の特徴である行動を通して謎を追うというスタイルではなく、男同士の友情を描くことに力点が置かれていることなどが違いとして挙げられる。また、それまで小説のなかで女に心を動かされることがなかったマーロウが、ここでは美女に心を奪われてキスしたり、それとは別の金持ち女とベッドをともにしたりするのにも驚かされた。全体として、それまでになく文学的な香りに包まれているのも異色だった。
この小説によって、ぼくはギムレットという飲み物を覚えたし、開店して間もないバーの魅力も教えられたし、「ギムレットには早すぎるね」という科白に魅了された。「さよならを言うのは少しのあいだ死ぬことだ」という文が出てくるが、その後、コール・ポーターの作った「さよならを言うたびに」というスタンダード・ソングの歌詞の一節に「さよならを言うたびに、私は少しづつ死ぬ」とあるのを知り、どっちがどっちをパクったのだろうと思ったりしたものだ。
大学のころ、チャンドラーの長編2作目である「さらば愛しき女よ」の清水俊二訳と英語の原文を読み比べて、清水訳にかなりの省略があるのに驚いたことがある。原文にある文章を、ものによって訳していないのだ。映画字幕が本業の清水なので、そのやり方を小説でも踏襲しているのだろうかと思った。ただし、急いで付け加えておくと、省略があっても清水訳に違和感はまったくなかった。簡潔ななかに情感をにじませた、清水訳独特の魅力あふれる文体になっていた。翻訳の際に訳者の一存で省略してしまっていいのかどうか、異論もあるだろう。でも結果として原文が見事な日本語に移し替えられており、読者に感銘を与えるなら、それが許されてもいいような気がする。
さて、今回の村上春樹の新訳「ロング・グッドバイ」だが、省略はなく、きわめて忠実に訳しているようだ。文章もうまいし、言葉の使い方は現代的で分かり易く、明快だ。だが何かこくのようなものが抜け落ちており、行間からにじみ出る表情が希薄な感じがする。ふつうのハードボイルド小説だったら、このような乾いた、たんたんとした文体でいいのかもしれない。だがチャンドラーは、ハードボイルドとは言え、ある種のセンチメントをにじませた文章で知られる作家なのだ。それに比べて、清水訳の「長いお別れ」には、おそらく多少の省略があるであろう。文体はいま読み返すと古いし、言葉の使い方も昔風で、いまの感覚からするとしっくりこない箇所もある。だがそこからは独特の情感が立ち上ってくるし、ロサンジェルスの当時の情景が鮮やかに浮かび上がる。たとえて言うなら、デジタル録音のCDとアナログ録音のLPの違いだ。デジタルは音がクリアーでノイズもなく、明らかに音質はいい。それに比べてアナログは音質は悪いが、音に味わいがあり、温もりと肌理を感じさせる。
ということで、チャンドラーはずっと清水訳で慣れ親しんできた思い入れもあると思うが、ぼくとしては清水訳に愛着を覚える。だがいまの若い人にとっては、とうぜん村上訳のほうが読みやすいだろう。若い読者が村上訳でこの半世紀以上も前に出版された、いまや古典と言える小説を読んで、どんな印象を受けるのか、興味あるところだ。

2008.05.12 (月)  ヴァネッサ・レッドグレイヴの2本の新作映画

最近、たまたまイギリスの女優ヴァネッサ・レッドグレイヴの出演した映画を2本続けて観た。「いつか眠りにつく前に」と「つぐない」だ。両方とも奥行きのあるすぐれた恋愛ドラマである。レッドグレイヴが演じるのは死期が迫った老いた女性の役で、主演ではないが主演者以上に印象深かった。レッドグレイヴの役者としての素晴らしさに、久しぶりに触れることができた。
「いつか眠りにつく前に」(ラホス・コルタイ監督、2007年米)は、死の床に伏している老女の頭のなかで駆け巡る若き日の一瞬の恋の回想が話の中心になる。この老女がレッドグレイヴで、回想のなかで若き日の主人公を演ずるのはクレア・デインズ。久しぶりに観るデインズは相変わらず可愛いが、ちょっと年をとった感じがする。相手役の若い男を演じるパトリック・ウィルソンは、初めて観る俳優だが、どことなくモンゴメリー・クリフトを思わせる風貌をしており、好感が持てる。恋に落ちたこの2人が、ある事件が起こって別れなければならなかった、その顛末が描かれ、主人公の女性の歩んできた人生が、彼女の娘たちに生きる力を与える。人生は空しいけれど、それでも生きる価値があるというメッセージは、少し底が浅い感じもするが、けっしてあざとくはない。レッドグレイヴの存在感のある演技が絶妙だ。アメリカのニューイングランドの風景も美しい。終わり近くに、主人公のかつての親友の役でメリル・ストリーブが登場し、レッドグレイヴと演技を競う場面があるが、相変わらずストリーブのうますぎる演技が鼻につく。レッドグレイヴの自然でわざとらしさのない表情とは大違いだ。
「つぐない」(ジョー・ライト監督、2007年英)もまた過去と現在が2重、3重に交錯する映画だ。1930年代のイギリス、上流階級の令嬢キーラ・ナイトレイとその屋敷の使用人である若者が愛し合うようになるが、ナイトレイの妹で小説家をめざしている多感な少女が幼な心にそれを嫉妬し、その若者が暴行事件の犯人だと嘘の証言をしたため、若者は逮捕されてナイトレイとの仲を引き裂かれる。以前、ジョセフ・ロージー監督、ジュリー・クリスティ主演の、「恋」という美しくも残酷な映画があったが、この「つぐない」はそれとよく似た筋立てである。映画では、その後の2人がたどった運命と、自分の罪を何とかして贖おうとする妹の姿が描かれる。ナイトレイの、「パイレーツ・オブ・カリビアン」とはおよそイメージの異なる、しっとりした美しい立ち振る舞いに目を奪われる。妹役は、少女時代、若者時代、老年時代と3人の役者が演じており、死を目前にした老年に扮しているのがヴァネッサ・レッドグレイヴだ。出番はほんの少しだけだが、これがすごい。じつに抑制のきいた、それでいて表情豊かな演技だ。ラスト・シーンの美しさが深く心に焼きついて離れない。
両方とも重たいテーマの映画だが、不思議に観終ったあとの印象は明るく、すがすがしい。大金をかけて作ったハリウッドの大作映画などではとうてい味わえない感銘をもたらしてくれる。映画としての出来、奥深さの点では、「つぐない」のほうが一枚上であろう。それにしても、こういった欧米のすぐれた映画を観るにつけても、日本の映画の演技者はなぜみんな底が浅く、下手なのだろう。正式の演技の訓練を受けていないからだろうか、それとも伝統の違いのせいか、あるいはスタッフやキャストの映画作りに対する姿勢の違いからだろうか。

2008.05.05 (月)  違憲判決はなぜ下せないのか――日本の裁判制度(その3)

2008年4月に名古屋高裁の判決で示された、イラクへの自衛隊派遣は違憲だという判断は、画期的だった。判決を下した青山邦夫裁判長は定年前の3月末に依願退職しており、判決文は代わりの裁判長が代読した。退官後、青山氏は大学教授の職につくという。政府がどんな姑息な手を使って屁理屈をこねようとも、イラクへの自衛隊派遣が戦争行為に加担していることは誰の目にも明らかであり、憲法に違反しているのは当たり前だ。だが当たり前のことであっても、裁判官にとって、違憲判決を下すには、職を辞すほどの覚悟がなければならないのだ。
これに関連し、いつも愛読している天木直人氏の刺激的なブログに、1973年に長沼ナイキ基地訴訟で自衛隊の違憲判決を下した札幌地裁の裁判長、福島重雄氏のことが紹介されていた。憲法9条をめぐる違憲判決はそれ以来のことで、じつに35年ぶりだという。福島裁判長には、当時、裁判所の上層部や国会から、原告の訴えを却下するよう、さまざまなかたちで圧力がかかっていた。それに屈せず違憲の判決を下した福島氏は、その後、人事の面で露骨な嫌がらせを受け、福島や福井などの家裁の裁判官を歴任、二度と判決文を書くことなく、定年まで9年を残して退官し、弁護士になった。
国家にとって都合の悪い判決を下す裁判官は、閑職に追いやられ、出世の道が閉ざされる。 この国の裁判には、国家権力が介入してくる。司法の独立という概念はたてまえであり、司法といえども時の権力の意に従属するのが現実だ。法学者のあいだには、「高度に政治的な国家行為について、司法は判断する権利を持っていない」と言う者もいるようだが、とんでもない考えだ。利権と党利党略にまみれた政治家たちの暴走を裁判所がチェックしないで、いったい誰がやるというのだ。
だらけきった政治や官僚機構と同様、司法もほこりに塗れている。おそらく裁判官になった当初は理想に燃えている者も多いだろう。だがそのうちに時流に身を任せ、権力に迎合して出世への道を優先するようになる。冷や飯を食うのは誰だって嫌だ。だがそれでいいわけはない。福島氏や青山氏のような、出世を投げ打って信念を貫く、気骨のある裁判官がいなければ、そしてそれをバックアップする世論がなければ、この国の裁判所の体制は腐ったものになってしまう。

2008.04.27 (日)  裁判官の過ちは誰が裁くのか――日本の裁判制度(その2)

無実の人間が犯人に仕立て上げられた疑いが濃厚なのに、裁判所は検察・警察の主張に沿った判決を下すという例が、このところ相次いでいる。もしかしたら、こんなとんでもない裁判はいまに始まったことではなく、昔からあったのかもしれない。最近よくメディアで話題になっている痴漢の冤罪事件もそのひとつだが、ここで問題にしたいのは富山県と高知県でそれぞれ起こった冤罪事件だ。これも新聞やテレビの報道番組などで採り上げられているので、ご存知の方も多いと思う。
富山県の事件は、2002年に氷見市で強姦の容疑で逮捕された男性が、懲役3年で有罪が確定し、服役して出所後に、真犯人が自白して無実だと分かったいうものだ。裁判官はろくな証拠もないのに警察のねつ造した物語を信じ、検察の言うことを鵜呑みにして有罪にした。実際、この事件に関する記事を読むと、証拠らしい証拠はなく、しかも明白なアリバイがあるのに、なぜ立件したのか、なぜ有罪になったのか、不思議でならない。どんなに無能な弁護士でも、こんないい加減な立件だったら無罪にもっていけるだろうに、弁護士はどんな弁護をしたのだろう。2007年に行われたやり直し裁判の際に、裁判長は誤審したことに対するお詫びもしなかったし(当人がやった誤審ではないにしても、裁判所として謝罪するがあたりまえだ)、警察の不当な捜査や自白の強要、検察のずさんな取り調べにも言及しなかった。弁護側は「予断と偏見に基づいて不当な逮捕・取り調べをした」ということで当時の県警取調官の証人尋問を求めたが、検察側の言い分を認めて裁判長は請求を却下してしまった。誤審した裁判官も最悪だが、この再審の裁判官もどうしようもない。すでに無実は分かっているにしても、なぜこんな誤認逮捕、誤認起訴が起こったのかを、裁判を通じて明らかにし、責任者を断罪すべきだ。そして最高裁は誤審した裁判官に、そういう結論に至った経緯を問いたださなければならない。真相をさらけ出さなければ、同じようなことが何度も起こってしまう。
高知県の事件も、誰が見ても警察のでっち上げとしか考えられない。2006年に高知市郊外で県警の白バイと中学生を乗せたスクールバスが衝突した事件だ。白バイを運転していた交通機動隊員が死亡し、スクールバスの運転手が安全確認を怠ったとして業務上過失致死罪で起訴され、有罪になった。だが白バイが無謀な運転で突っ込んできたこと、スクールバス運転手が充分に完全確認していたことは、バスに乗っていた先生や生徒、外部の目撃者など、多数の人の明確な証言がある。また当時この道で白バイが猛スピードで運転訓練を繰り返していた事実もある。唯一の証拠であるブレーキ痕の写真は専門家が入念に検証した結果、警察のねつ造である可能性がきわめて高い。にもかかわらず、地裁の片多康裁判長――悪質なのであえて名前を挙げる――は弁護側の主張を一切しりぞけ、身内をかばって罪を転嫁しようとしているとしか思えない警察の言い分や警察側の証言を全面的に採用し、有罪にした。2007年に高裁で行われた控訴審では、柴田秀樹という裁判長が、証拠調べもせず、即日、上告を却下した。驚くのは、この裁判長が、たまたま後ろを走っていた別の車の運転手の証言を「供述者が第三者であるというだけで、その供述が信用できるわけではない」という訳の分からない理由でしりぞけていることだ。だったら、利害関係のある白バイ隊員の仲間の証言は、もっと信用できないじゃないか。こんな愚かな裁判官がいるとは信じられない。こんな無茶苦茶な判決、警察のでっち上げが許される国は、もはや法治国家とはとても言えない。
裁判というものは、合理的な疑いがあるものは無実に、つまり疑わしきは罰せずというのが大原則のはずなのに、疑わしいどころじゃない、でっち上げの臭いがぷんぷんするこういった事件に対して、どうしてこんな判決が出てしまうのだろう。ひとつの理由として、裁判官と検察には人事の交流があり、日常的な接触から仲間意識が生まれるという背景があるらしい。だから検察の主張に沿った判決をする裁判官がいるというのだ。これは退職した元裁判官の証言だ。もうひとつには、最近の裁判は量刑を重くする方向に向かっているが、それだけじゃなく、どうも疑わしきを罰する方向にも向かっているらしい。無罪が多すぎるので、もっと有罪を言い渡すようにという圧力がどこかからかかっているというのだ。最近は、袴田事件のように、考慮すべきことが明らかな新しい証拠が出てきても、再審請求が棄却されることが多いようだが、これも上記のような理由によるものと思われる。裁判官も公務員であり、人の子なので、上司の言うことを聞かなければ、地方に飛ばされるし、偉くなれないとなれば、そうせざるを得ないこともあるのだろう。だから、退官を目前にして国に不利な判決を下す裁判官や(名古屋高裁の自衛隊イラク派遣違憲判決)、退官後にあの判決は間違いだったと告白する裁判官が(袴田事件の死刑判決)出てくる。
それらが本当だとしたら――上に挙げた事例を見るかぎり、本当だとしか考えられないが――、裁判を受ける方はたまったものではない。裁判官が真剣に、公平に審理したすえに誤った判断を下したのなら、まだ分かる。だが最初から検察に有利な判決をすることに決めているとすれば、公平であるべき裁判官が信頼できないとすれば、いったいどうすればいいのだ。裁判官の不正は誰が裁くのだろう。
だからぼくは来年から始まる裁判員制度に基本的に賛成だ。この制度はアメリカの圧力によって導入されたものだからとか、単なるガス抜きだとか言って反対する声が多いが、きっかけが何であれ、いい制度は取り入れたほうがいい。裁判員がいいのか、欧米のような陪審員や参審員がいいのかどうかはともかく、社会から閉ざされた職業裁判官に加えて一般の市民が審理に参加するようになれば、庶民感覚が反映された判決が下される可能性が多少とも高まるからだ。

2008.04.25 (金)  いまの日本の裁判制度はこれでいいのか(その1)

このところ裁判について考えさせられることが多い。光市母子殺害事件の差し戻し審は死刑の判決が出た。最高裁が一審・二審の無期刑判決は軽すぎるので死刑が望ましいと示唆して差し戻したのだから、弁護側が今回のようにどんなに卑劣な手を使ったところで、この結果になることは予想がついていた。これだけの極悪非道な犯罪だし、現在の日本での最高刑は死刑なのだから、死刑の判決は当然であろう。この間の、遺族、とくに被害者の夫であり父だった本村さんの気持は、とうてい他人が推し量れるようなものではなかったと思う。それにしても、毅然とした態度で、驕ったり居直ったりすることなく、首尾一貫して自分の考えを主張してきた本村さんの姿勢は立派だ。心の靭さと志の高さがある。誰でも真似ができることではない。
この裁判に関連して、いくつか考えるところがある。ひとつは、事件が発生してからここまでくるのに9年という長い歳月が経っていることだ。しかも弁護側は控訴すると言っているので、まだ結審していない。とにかく裁判に時間がかかり過ぎる。最高裁では上告後、4年間もかけて審議しながら、自分で判決を下さずに高裁に差し戻した。死刑が相当と判断したのなら、なぜ自ら判決を下さなかったのか。差し戻ししたって、下級の裁判所は上の意向に沿った判決を出すに決まっている。司法の側も結審するまで時間がかかり過ぎるのは問題だと認識しているのなら、もっと短くするよう努力すべきだ。
もうひとつの問題は死刑を適用する基準が明確ではないことだ。これまでの判例が大きな基準になるということだが、これが納得いかない。判例があってもそれが妥当かどうか分からないではないか。判例はあくまで参考というのなら話は分かるが。このところ判決に際して量刑が重くなる傾向にあり、光市事件の2人の殺害というケースは、以前なら死刑ではなく無期刑になる人数だという。そもそも4人以上殺したら死刑だなどという考え方がおかしい。ひとり殺しても5人殺しても殺人は殺人だ。犯行の動機や殺害方法や計画的だったか発作的だったかといった点は考慮されるべきだろうが、何人殺したかで死刑か無期か有期刑かの判断が下されるのは、どう考えてもおかしい。
現在の日本の量刑制度にも問題がある。最高刑は死刑であり、その次に重い刑は無期刑だ。だが無期刑の場合、実際には早くて10数年ほどで仮釈放され社会に出てくるという。最高刑と2番目の刑のあいだに差があり過ぎるのだ。それを考えると、費用や収容場所の問題もあるだろうが、一生閉じ込めて社会復帰させない終身刑という量刑があるべきだと思う。凶悪な犯罪の加害者が、何かの理由で死刑にならなくても、終身刑があってそれが適用されれば、被害者側としても少しは気持ちが休まるのではないだろうか。
それから、これは光市事件とは関係がないし、司法というより立法の問題だが、早急に改めなければいけないのは時効制度だ。時効は、時間が経てばその犯罪の軽重に対する考え方が変わり、社会的な影響も減り、証拠も散逸するという理由から設けられた制度だという。趣旨は分かるが、なぜ殺人のような、どの時代においても凶悪なことに変わりはない犯罪にまで適用させているのかが理解できない。科学捜査は日々発達しており、DNA鑑定によって以前は分析できなかった証拠まで解明できるようになってきている。最先端の技術によって古い証拠品を鑑定し、犯人を特定できたとしても、時効の壁に阻まれるて逮捕できなくては意味がない。凶悪犯罪には時効がないアメリカの警察には、実際にそういった状況に対応した未解決事件専門の部署を設けている州もある。日本もせめて殺人は時効なしにすべきだ。

2008.03.29 (土)  ジャズ・コンポーザー、ファンタジー小説、フィルム・ノワール

最近聴いたCD
「ミリアム・アルター/ホエア・イズ・ゼア」(ENJA):チェロとクラリネットとソプラノにスリー・リズムというユニークな編成のグループが演奏するベルギーの女性コンポーザー、ミリアム・アルターの作品集。上品で柔らかいサウンド、気負いのない落ち着いた雰囲気がいい。何より素晴らしいのは曲そのものだ。まるでベニー・ゴルソンの現代版のような、哀感ただよう美しいメロディが心に沁みる。数年前に聴いたアルターのアルバム「アルター・エゴ」も同趣向の佳品だった。
「ドッチー・ラインハルト/さまよう瞳」(OMAGATOKI):ジャンゴの遠縁だというドイツの女性歌手のアルバム。ジプシー系(いまはロマとかマヌーシュとか言うんですか)のミュージシャンにはジャンゴの親戚がたくさんいるらしい。ちょっとノラ・ジョーンズを思わせるところもある一種の無国籍音楽で、自然な歌唱は好感が持てる。ジャンゴの曲を2曲歌っている。〈ヌアージュ〉のヴァーカル版はこれまでもあったが、〈マイナー・スイング〉を歌で聴くのは初めてだ。これがじつに洗練された心地よい味わいを醸し出している。

最近読んだ本
「運命の書」ブラッド・メルツァー(角川書店):フリーメイソンの暗号云々という宣伝文句、いかにもそれらしい装丁、ダン・ブラウンと同じ訳者という、「ダヴィンチ・コード」を思わせるイメージにつられ、歴史に秘められた謎や秘密結社の陰謀がテーマかと思って読んだが、そんな話とは関係ない、とんでもない凡作だった。こういうあこぎな宣伝方法をとる出版社には腹が立つ。でもまあ、騙されたこちらの負けということだろう。フリーメイソンの暗号はほんのさしみのつまで、内容はアメリカの大統領にまつわる陰謀話。そう割り切ってしまえば、楽しめないこともないが、流れにあまり緊迫感がないし、だいいち悪者が小物すぎて、肩すかしを食ってしまう。
「Y氏の終わり」スカーレット・トマス(早川書房):本と哲学をベースにしたファンタジー小説。大学院の研究生である女性主人公が、研究テーマである異端作家の呪われた本を偶然手に入れるという発端は、サフォンの「風の影」を思わせ、本好きをとりこにする。だがそのあとは展開がガラリと変わって、主人公は意識のなかの別世界に入り込み、ミステリアスな冒険をすることになる。哲学、物理学、数学、遺伝学といった、さまざまな理論が引用されるが、全体としてこの種の小説にありがちな衒学臭はあまりなく、話の展開はスムースだ。この本にはヴァン・ヴォークトのSF小説「非Aの世界」の影響が見られるが、現代的なアイデアが盛り込まれており、意識のなかの世界での主人公の行動は、まるで映画「マトリックス」のようだ。この本はおそらく年末のミステリー・ランキングでかなりの上位に入るだろう。でもぼくはあまり高い点はつけない。好みの問題だ。

最近観た映画
ウィリアム・アイリッシュの伝記を読んだ影響か、このところフィルム・ノワールにはまっている。フィルム・ノワールとは1940年代から50年代にかけてアメリカで作られた、ある傾向のスリラー/サスペンス映画のことで、ほとんどは低予算のB級作品だ。フィルム・ノワールの定義は、などと言いだすと長くなるので止めておこう。いずれ機会があれば稿を改めたい。現在日本でDVDで観られるフィルム・ノワールはごく限られている。以前NHK-BSやWOWOWで未公開の貴重なノワール映画をいくつか放送したが、まだまだ観たいものはたくさんある。だめもとでレンタル屋で探したら、嬉しいことに以前出ていたRKO作品のVHSがかなり並んでいた。こんなにビデオ化されていたとは知らなかった。
「ブロンドの殺人者」(1945年米):とうてい観ることはできないだろうと思っていたフィルム・ノワールの逸品。監督はエドワード・ドミトリク、原作はレイモンド・チャンドラーの「さらば愛しき女よ」だ。主人公のマーロウに扮するディック・パウエルは陽気な歌うスターという軟弱なイメージが強いが、意外にもしょぼくれてはいるがタフな探偵に扮していい味を出している。ロサンジェルスの夜の街が鮮やかに映し出され、、悪女に振り回される男の哀しさが浮かび上がる。「さらば愛しき女よ」は75年に制作されたロバート・ミッチャム主演作がある。これもいい出来だったが、ミッチャムが老けているし、ちょっとノスタルジー感覚をあざとく前面に出し過ぎの感があった。
「暗い鏡」(1946年米):これもレンタル屋で見つけたVHSで、監督はロバート・シオドマク、主演はオリヴィア・デ・ハヴィランド。監督のシオドマクはフィルム・ノワールの名手で、「幻の女」「殺人者」「らせん階段」など、名作をたくさん作っている。この作品は一種のニューロティック・サスペンスで、性格異常者の犯罪がテーマになっている。双子の女性のどちらかが犯人だが、どちらなのか分からない。次第に異常者のまとっていた仮面がはがれていくプロセスが緊迫感を盛り上げる。双子を演ずるハヴィランドがすごい。ハヴィランドといえば、「風と共に去りぬ」のメラニー役のせいか、上品でやさしいイメージが強いが、ここでの演技は鬼気迫るものがある。

2008.03.17 (月)  新銀行東京 責任逃れに終始する石原都知事の醜さ

新銀行東京を存続させるかどうかが決まる都議会での予算案の審議が終わったようだ。石原都知事が主導してスタートした新銀行東京は、開業3年目の今年3月期の決算で、累積赤字が1000億円になるという。野放し同然でずるずるとここまで悪化し、危機に陥った責任は、とうぜん銀行の経営幹部にあるし、都議会にもあるが、責任をとるべき最大の人物は、誰が見たって都知事の石原だろう。ところが石原は破綻の責任を銀行の経営者だけになすりつけ、存続のために400億円の追加出資を提案している。新たに出資したところで、再建できる保証も見込みもない。知事は「立て直す方策はいくらもある」と強がるが、具体的な策は何も言わない。再建案らしきものはあるが、ごく大雑把なプランで、とうてい実現可能かどうか判断できない代物だ。ここで清算すれば1000億円かかると石原は主張するが、これも、なぜそれだけかかるのかの具体的な説明はない。経済や金融の専門家はこぞって立て直しは難しいと言っている。さらに、設立当初の“中小企業の振興のため”という趣旨も、すでに存在意義はなくなっているというではないか。
都議会での野党の追及も生ぬるい。海千山千の石原にいいようにあしらわれている。まるで素人どうしが泥試合を演じているようだ。銀行側の作成した調査報告書によると、ここまで至ったのはすべて当初の代表執行役員の責任ということになっているが、これをまとめた銀行の現在の代表執行役は、設立に携わった元都庁の役人だ。石原の答弁と同じになるのは当たりまえであり、都庁の責任にするはずがない。野党の議員はそこを追求し、当事者ではなく第三者の信頼できる調査機関に再度調査させるよう要求すべきだった。そして、もう審議は終わってしまったが、いまからでも遅くはない、初代の代表執行役を呼んで、実態はどうだったのかを聴取すべきだ。さらに金融庁なりしかるべき機関なりに新東京銀行の実状を精査してもらい、再建策が妥当かどうか評価してもらうべきだ。拙速は誤った結論を生む。
そもそも石原は、ビジネス・コンサルタントの大前研一が食事の席でしゃべったアイデアを聞いて、すぐにそれに飛びつき銀行設立に向けて走り出したという。金融の素人が思いつきでことを運んだわけだ。石原はむかしから受けを狙った大風呂敷が得意だった。他国を攻撃し、社会的弱者を侮蔑し、傲岸不遜にふるまう石原の言動は醜悪だ。本人は文学者と自称するが、実体は三文通俗作家である彼の品性がそのまま表れている。こういう自己中心型の権力志向人間は、えてして自分の責任となると逃げ回るものだが、これは石原に見事に当てはまる。新東京銀行は都が85%の株を保有しており、実質は都営銀行だ。都のトップである石原と担当部署の幹部は、定期的に経営状態について報告を受け、指示を出していたはずだ。責任がないなどという言い逃れは通用しない。だが石原は、「初代の代表執行役員は奥田元経団連会長からの推薦だ」と主張し、「すべて自分の一存でやって来たわけではない」と言い訳する。そうやって必死で責任転嫁する彼の姿は卑しい。
ぼくは都民ではないが、怒りを覚える。都民ひとりあたり1万円を超える負担になるというこんなでたらめな追加出資が、許されていいはずがない。だが、そもそも石原のような人間を知事に選んだのは都民だ。かりにこの予算案が通っても――自民党+公明党が多数を占める都議会だから、そうなる公算は高いが――、それは石原を選んだ自分たちのせいなのだ。

2008.03.14 (金)  孤独と妄執の作家、ウィリアム・アイリッシュ

先日、ウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)の伝記『コーネル・ウールリッチの生涯』(フランシス・M・ネヴィンス著 2005年早川書房刊)を読んだ。アイリッシュは日本でもファンの多いアメリカのミステリー作家だ。ハード・カヴァーの上下2巻という大作だが、かなりの部分が彼の書いた18冊の長編とおびただしい数に上る短編の解題にあてられており、伝記というより評伝に近い。
じつはぼくはこの本の原書を持っている。10数年ほど前のこと、アメリカのあるマイナー・レコード会社の社長と仕事で知り合った。渡米した折り、一緒に食事をしている最中に話が趣味に及び、お互いにミステリー小説が好きだということが分かった。その社長がアイリッシュを知っているかと訊くので、大好きでほとんど読んでいると答えると、彼は大感激した。彼はアイリッシュの大ファンなのに、周りにはあまりアイリッシュが好きという同好の士がいなかったのだ。帰国後しばらくすると、この本の原書がプレゼントとして送られてきた。嬉しかったが、なにせ大部の本なので、読みとおす気力がなく、ざっと目を通しただけで書棚に飾ったままにしておいた。今回、ありがたいことに、やっとそれを日本語で読むことができた。訳者の門野集氏の労力を多としたい。

アイリッシュの長編小説はすべて早川のポケミスか創元文庫で翻訳されており、ぼくはそのほとんどを、はるか昔の高校から大学のころにかけて読んだ。何冊か出ている短編集もいくつかは読んでいる。代表作がいまだに絶版にならず、創元文庫やハヤカワ文庫で入手できることからすると、アイリッシュはいまも新しい読者に読まれ続けているのだろう。
アイリッシュの小説のなかでいちばん印象深いのは、やはり世評高い『幻の女』(Phantom Lady)だ。殺人の嫌疑がかかった男がアリバイを証明してくれる一晩付き合った女を必死で探すが煙のように消えてしまった謎、そして死刑執行が迫るなか必死でその幻の女を探す友人の切迫感が強烈きわまりない。それから『暁の死線』(Deadline at Dawn)も忘れがたい。都会の暮らしに疲れた若い男女が夜明けまでに街を出るバスに乗らなければならないのに殺人事件に巻き込まれるという設定が緊迫感を醸成する。『夜は千の眼を持つ』(Night Has a Thousand Eyes)はホラー的な要素もある異色作で、短い序章のあと、自殺しようとした女の回想となり、これがが延々と全体の半分近い分量も続く。だがライオンの顎によって死ぬという予言の不気味さ、全体を支配する死と運命のイメージが緊張感をつのらせる。記憶喪失をテーマにした濃厚なサスペンスが持続する『黒いカーテン』(The Black Curtain)もよかった。
アイリッシュのミステリーを分類するならスリラー/サスペンスということになるだろう。だがその作風は独特で、孤独と恐怖、悪夢と妄執が全編を覆っている。登場人物たちは、焦燥と絶望に駆られながら、迫り来る死と運命に立ち向かう。筋立てや謎解きには、現実離れした設定やつじつまの合わないところもあるが、全体を流れるサスペンスが強烈なので、そんな欠陥を吹き飛ばしてしまう。アイリッシュの筆致はセンチメンタルで、そこが乾いた文体を特徴とするハードボイルドとは一線を画している。そんな感傷的な文章が、ものによってかなり鼻につくことも事実だが、はまったときに醸し出すムードは何とも言えない味わいがある。
たとえば、次のような文だ。これは有名な『幻の女』の出だしの部分で、知っている人も多いと思うのでここに引用するのは気が引けるが、いちおう書いておこう。

     夜は若く、彼も若かった。
     だが夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。

これは原文だと次のようになっている。

     The night was young, and so was he.
     But the night was sweet, and he was sour.

原文にある独特のリズムやリリシズムが、日本語訳になると薄れてしまうのが残念だ。

アイリッシュは1930年代半ばごろからパルプ・マガジンに短編スリラー小説を書き始め、人気作家の仲間入りを果たした。1940年に長編第1作「黒衣の花嫁」を刊行して名声を確立、60年代初めまで書き続けたが、全盛期は40年代で、50年代以降は知名度の高まりとは裏腹に、あまり見るべき作品はない。
彼は最初、本名のコーネル・ウールリッチという名前で書いていたが、途中からウィリアム・アイリッシュという筆名を使った作品も並行して発表するようになった。一部、ジョージ・ハプリー名義の小説もある。ブラック・シリーズ(黒衣の花嫁、黒いカーテン、黒いアリバイなど)の場合はウールリッチ、その他の小説(幻の女、暁の死線、夜は千の眼を持つなど)はアイリッシュという使い分けをしていたようだ。最近はウールリッチという呼び方で定着しているようだが、ぼくは最初に読んだのがアイリッシュ名義の『幻の女』だったこともあり、アイリッシュという呼び方のほうに愛着があるので、この駄文では名前をアイリッシュに統一している。
アイリッシュは生涯結婚せず、独身のまま母親と一緒にホテル住まいをしていた。外出を嫌い、人とほとんど付き合いをせず、とくに母親が生きている間は、大の大人が「母がダメと言っているから」という理由で食事の誘いを断っていたという。彼はある種の精神的なコンプレックスを抱えていたのだろう。母親の死後は多少は人付き合いもするようになり、たまにパーティなどにも顔を出していた。それと同時に酒の量も極端に増え、アル中のような状態になり、最後は孤独のうちに60年代終わりに死んだ。このあたりは母親ほどの年上の女性と結婚し、同じくアル中になったチャンドラーと相通ずるものがある。この本によると、亡くなる前の数年間、アイリッシュは彼の小説のファンと親しく付き合ったらしい。索漠とした人生の最後近くになって交わしたファンとの交流に関するエピソードは、ほっとするような気持ちを抱かせる。

アイリッシュの小説はその多くが映画化されている。40年代から50年代にかけて、ハリウッドは彼の小説を原作とする映画をさかんに作った。長編はすべて映画になっているし、短編をもとに映画化されたものも多い。そのなかでいちばん有名なのはヒッチコックの『裏窓』であろう。この『裏窓』は別として、それ以外のほとんどのアイリッシュ原作映画は低予算のB級作品だ。だがなかにはフィルム・ノワールの古典になっているものもある。とくにロバート・シオドマクが監督し、フランチョット・トーンが主演した『幻の女』は傑作として名高い。さすがに『殺人者』や『らせん階段』を作っているノワールの名手シオドマクで、都会の夜のムードが光と影の世界として鮮やかに映像化されている。フランスのトリュフォーが『黒衣の花嫁』と『暗闇へのワルツ』(暗くなるまでこの恋を)を映画化したが、あまり面白くなかった。
アイリッシュ原作映画でぼくが観ているのは、フランスで作られたものを除くと、『幻の女』と『裏窓』の2作だけだ。ほかにも観たい映画はたくさんあるのにビデオ化されていない。町に放たれた豹が若い女性たちを襲う恐怖を描いた長編『黒いアリバイ』が原作の『The Leopard Man』(ジャック・ターナー監督)や、殺人を目撃したのに誰も信じてくれない少年の不安と恐怖を描いた短編『非常階段』が原作の『窓』(テッド・テスラフ監督)は、フィルム・ノワールとしてしばしば言及される。『夜は千の目を持つ』(ジョン・ファロー監督)は映画としての出来は良くないらしいが、エドワード・G・ロビンソンが出ているし、主題歌がジャズ・スタンダードになっているので、一度は観てみたいと思っているのだが、ビデオ化されるのを待つしかない。列車事故で亡くなった女性と入れ替わって生活する女の顛末を描いた『死者との結婚』が原作のバーバラ・スタンウィック主演『No Man of Her Own』(ミッチェル・ライゼン監督)にも興味をひかれる。
『裏窓』はヒッチコックの名作映画だが、原作の短編とは似て非なるものに仕上がっている。原作の主人公は孤独で全体の印象は暗いが、映画の主人公は恋人や友人がおり、明るさと奥行きを感じさせるし、ヒッチコックらしいユーモアもある。伝記の著者によると、 アイリッシュとヒッチコックには精神的兄弟とも言うべき類似性があるという。作品のプロットやサスペンスはたしかに近いものがある。ヒッチコックがアイリッシュの小説を映画にしたのは『裏窓』1作だけだったが、他の作家が原作の『断崖』『疑惑の影』『私は告白する』『めまい』などは、アイリッシュが原作と言ってもおかしくない。アイリッシュの暗さとヒッチコックの明るさは、一見正反対のようだが、ヒッチコックの映画には、ときどき暗い情熱とも言うべき心の闇が露出したものがある。だから2人は精神分析的に同類だという指摘はとても興味深い。

蛇足だが、40年代はラジオの黄金時代で、アイリッシュのサスペンス作品はラジオ・ドラマにぴったりだったため、長・短編を問わず、彼の小説を基にしたドラマが多数作られたという。驚くのは出演する声優にハリウッド・スターを使っていることで、この本によると、フレドリック・マーチ、モーリン・オハラ、ケイリー・グラント、クレア・トレヴァー、ルシル・ボール、ブライアン・ドンレヴィ、ジョセフ・コットン、エドワード・G・ロビンソン、ダナ・アンドリュース、ヴィクター・マチュア、フランチョット・トーンといった錚々たる顔ぶれが並んでいる。このころ、映画スターにとってラジオへの出演は割りのいい小遣い稼ぎだったのだろうか。

2008.01.24 (木)  団塊オヤジのヒーローはビートルズなんかじゃない

2005年に公開されてヒットし、昨年はその続編まで作られた「三丁目の夕日」は、涙を誘うストーリーといい、これでもかと出てくる昭和30年代の懐かしい風俗や遊び道具や家庭用品といい、たしかによくできた映画だった。だがぼくのような、実際にその時代に子供のころを過ごした団塊世代の人間にとっては、風景や小道具が何か作り物めいた感じがして、手放しで褒め称える気持ちにはなれなかった。これよりは、小栗康平の「泥の河」や大林宣彦の「異人たちとの夏」のほうが、はるかに本物の昭和30年代を生身で感じさせたし、感動も深い映画だったと思う。
最近読んだ山口文憲というエッセイストの書いた「団塊ひとりぼっち」(文春新書)は、団塊の世代の実像について書かれた面白いエッセイ集だ。団塊の世代とは第2次大戦後のベビーブーム時代、具体的には1946年以降の数年間に生まれた人間のことだが、この本では、その団塊世代にまつわるイメージや発言が紹介され、世代観のいい加減さが例証を交えて軽妙に語られている。
そもそもぼくは世代論というものが嫌いだ。最近の若いやつはなどと言って、若者の軟弱さをあげつらうオヤジを見ると、自分も若いころはそうだったじゃないかと言いたくなる。社会の変化によって意識や行動が変わるのは当然だが、ぼくは人間の基本的な考え方に昔も今もそれほど変わりはないと思う。マスコミはよく世代にレッテルを貼ろうとする。団塊の世代などはもっぱらじっぱひとからげで扱われるが、団塊といっても人数が多いだけに多種多様であり、みんないっしょくたにされていいわけがない。
団塊の世代について流布している一般論には、多くの誤解がある。団塊の世代というと“全共闘”、“ビートルズ”、“シングル・ライフ”に象徴されるらしい。だが、“シングル・ライフ”かどうかはさておき、“全共闘”に関して言えば、本書で書かれているとおり、全共闘に入って騒いだ人間はぼくらの世代のほんの一握りにすぎない。ぼくも当時はポール・ニザンやフランツ・ファノンを読み、吉本隆明に傾倒し、デモに参加して機動隊に追いかけられ、逃げまくった。しかしまわりにいる同世代の知り合いを見回しても、ほとんどがいわゆるノンポリであり、大学時代にそんな経験をした人間はほんの数えるほどしかいない。圧倒的な少数派だ。
“ビートルズ”については、あたかも団塊の世代にとってビートルズがヒーローだったかのように言われているが、これは絶対に間違いだ。ぼくの経験で言えば、中学から高校にかけていつも聴いて楽しんでいた洋楽ポップスは、ビートルズが出現して以降つまらなくなり、聴くのを止めた。そして、それ以前からなんとなく興味を持っていたジャズに少しづつのめり込むようになった。だから、ぼくにとって青春時代の音楽ヒーローはエルヴィス・プレスリーやニール・セダカ、ヒロインはコニー・フランシスやジョニー・ソマーズであり、けっしてビートルズではない。むしろビートルズは洋楽ポップスの天国のような楽しい世界を地獄に突き落した、憎き敵なのだ。そんなふうに思っている同世代の人間はたくさんいるはずだ。
とは言え、世代特有の経験によって、団塊の人間が特殊な行動をとることはあると思う。この本を読んで確かにそうだと思ったのは、団塊の世代は戦争の影を引きずっており、カラオケのレパートリーのなかに軍歌が入っているという指摘だ。いま考えれば恥ずかしさで冷汗が出てくるが、ぼくが大学生のころ、カラオケなんていうものはなかったが、「海行かば」や「戦友」といった軍歌の歌詞を覚え、春歌などとともに粋がって友だちと大声で歌っていた記憶がある。団塊の世代は純粋な戦後生まれであり、戦争は直接的には知らないわけだが、ぼくたちが子供のころ、大人たちがする戦争の話を聞いていたし、街なかでは手足が不自由になったいわゆる傷痍軍人が音楽を奏でて物乞いしていたし、ラジオでは終戦の混乱で行方知れずになった近親者を探す「尋ね人の時間」という番組をやっていたし、抑留兵の引き揚げが大きなニュースになっていた。だから戦争のことは、ある種の疑似体験として知っていたことになる。
著者によれば、団塊オヤジは声がでかくて、厚顔無恥で、よく群れたがり、議論好きだということで、若い連中からバカにされ、まるでお荷物のように差別されているという。ぼく自身に関して言えば、たしかに声はでかいがけっして厚顔ではないし、議論も好きなほうだが群れるのは嫌いだ。それはともかく、人数が多いためにいろんな局面で過度の競争にさらされ、社会問題のネタになり続け、いまや定年を迎えて資産や退職金を狙う商売人たちのえじきにされようとしている団塊の世代が、なぜそこまで悪口を言われなければならないのか、途方に暮れるばかりだ。

2008.01.19 (土)  ペリー・コモの思い出

ペリー・コモが亡くなって6年目の昨年、彼が60年代半ばに録音した3枚のユニークなアルバムがCD復刻発売された。カントリーを歌った『ザ・シーン・チェンジズ(ナッシュヴィルに歌う)』、カンツォーネを採り上げた『ペリー・コモ・イン・イタリー(イタリアの思い出)』、ボサノヴァが中心の『ライトリー・ラテン(オルフェの歌)』の3枚だ。これらは旅情3部作といわれているそうだ。そんな言葉は初めて聞いた。“旅情”という言い方が相応しいかどうかは異論もあろうが、これら1965年から66年にかけて制作された3枚のアルバムは、それまでとは路線を変えた異色作として、たしかに異彩を放っている。とはいえ、ナット・キング・コールやディーン・マーティンやコニー・フランシスなど往年の人気歌手はみなヒット曲やスタンダードだけでなく、こういった様々なジャンルの曲も歌っていたのであり、コモだけが特別だったわけではない。
ペリー・コモというと、50年代の「時の終わりまで」や「星を見つめないで」といったヒット曲や、アメリカのスタンダード・ソング、ショウ・テューンをジャジーに歌ったアルバム、70年代の「アンド・アイ・ラヴ・ユー・ソー」による復活ヒットなどで有名だ。そんななかにあって、この3部作はあまり一般的には高く評価されていない。だがこれが、聴けば聴くほど味わい深い、彼のナチュラルでハートウォーミングな持ち味がよく出た、じつにいい出来なのだ。ヴォーカル・ファンならその魅力のとりこになること請け合いだ。
ボサノヴァがコモの穏やかで寛ぎのある歌唱に合っているのは想像のとおりだが、有名無名のカントリー・ナンバーを、スムースにそして軽やかに歌った『ザ・シーン・チェンジズ』も素晴らしい。温かさのなかにペーソスをたたえた「時のたつのは早いもの」などは最高だ。3部作のなかでもとりわけ心に響くのはカンツォーネやイタリア民謡を歌ったアルバム『コモ・イン・イタリー』だ。大編成ストリングスをバックに、ソフトに、品格豊かに、悠揚迫らず歌うコモは、イタリア特有のメロディの美しさと相まって、歌の素晴らしさを堪能させてくれる。「アネマ・エコーレ」や「アリヴェデルチ・ローマ」などは絶品だ。
ペリー・コモは44年もの長きにわたってRCAレーベルに在籍した。ひとつのレーベルとこれだけ長く専属契約を続けたアーティストは、音楽業界では稀有であろう。コモのオフィシャルなアルバムは、1987年、75歳のときに制作されたものが最後になったが、その後90年代に入り、80歳を過ぎても、彼は折にふれてコンサートやツアーを続けていた。驚くべきは老境に入ってもなお、声に衰えを感じさせず、若いころと同じく素晴らしい歌を披露していたことだ。これはコモがいわゆるクルーナー・スタイルの歌手で、声を張り上げて歌うタイプではなかったことによるものだろう。コモより3歳若いフランク・シナトラが60年代終わりごろには早くも衰えが目立っていたのとは対照的だ。
1982年11月、ぼくはニューヨークのスタジオでペリー・コモに会ったことがある。RCAスタジオでジョン・ルイスのレコーディングに立ち会っていたときのことだ。そのスタジオの隣のレコーディング・ルームでペリー・コモが新作アルバムのレコーディングをしていた。それを知ったぼくは、ルイスのレコーディングの合間を縫って隣の部屋に行き、たたたま知り合いの関係者がいたのでコモに紹介してもらった。ほんのあいさつ程度の言葉を交わしただけだったが、コモの温かい人柄と大歌手なのに気取りのない雰囲気が心に残った。人懐っこい笑顔はいまも記憶に焼き付いている。
その翌月、コモは2度目の来日公演を行った。あれは中野サンプラザのホールだっただろうか、初日のコンサートを聴きに行った。最高のステージだった。なかでも感動したのは、彼の1955年のヒット曲「バラの刺青」を歌ったときだった。この曲は日本だけでヒットし、本国ではまったく無名だったので、彼は歌詞もメロディも覚えていなかった。だがこの曲の日本でのポピュラリティを知ったコモは、来日前に譜面とレコードで練習した。ステージでは、歌詞を手にしながら、オーケストラ抜きでピアノだけの伴奏で歌ったが、その歌は充分に心に響いた。ファンのためにそこまで準備してくれたことに胸が熱くなった。それと反対に、1984年のダイナ・ショアの初来日公演にはがっかりした。同じく日本だけのヒットである「青いカナリヤ」をレパートリーに加えたのはいいが、彼女はメロディを歌わず歌詞のレシテーション、つまり朗読に終始したのだ。これには白けた。少し事前に練習しておけば歌えただろうに。コモとの歌手としてのプロ根性の違いが如実に表れたステージだった。
蛇足ながら付け加えると、今回、上記のCD3枚はSSJというインディペンデント・レーベルによって、原盤を所有するBMG(RCA)からサブライセンスを受けて発売された。レコード会社はヒット曲志向がますます強まる傾向にあり、せっかくある自社の過去のカタログの発掘までなかなか手が回らないところが多い。またレーベルを熟知したベテランの社員が辞めていき、カタログを生かした企画がおろそかになるという事情もあるだろう。だから、いまのところサブライセンスの条件が厳しいのがネックになっているようだが、こういった意欲がありファンのニーズをよく知る第3者がメジャーの会社から原盤を借り受けて発売するというスタイルは、もっと広がってほしいと思う。

2007.12.26 (水)  今年のミステリーは「キューバ・コネクション」が1位だ

今年も残りあとわずかだ。恒例の2007年海外ミステリーの私的ベスト10を挙げておこう。海外ミステリーといっても、ぼくが読むのは、主にハードボイルド系、冒険小説系に限られる。謎解きパズラーやノワールなどはほとんど読まないので、当然ここには入ってこない。

     1.キューバ・コネクション/アルナルド・コレア(文春文庫)
     2.市民ヴィンス/ジェス・ウォルター(早川文庫)
     3.暗殺のアルゴリズム/ロバート・ラドラム(新潮文庫)
     4.テロリストの口座/クリストファー・ライク(ランダムハウス講談社)
     5.ダーク・ハーバー/デイヴィッド・ホスプ(ヴィレッジブックス)
     6.終決者たち/マイクル・コナリー(講談社文庫)
     7.復讐はお好き?/カール・ハイアセン(文春文庫)
     8.インモラル/ブライアン・フリーマン(早川文庫)

10作選ぼうと思ったが、ぼくが読んだ範囲で今年のベストに入れるに値するものは8作しかない。まだジェフリー・デーヴァーの新作を読んでいないし、読んでいれば当然ここに入ると思うが、それにしても今年はとび抜けた傑作がなく、全体に不作だった。1位の「キューバ・コネクション」については7/18の日記で書いたとおり。多少荒削りなところがある冒険小説だが、キューバから流れ着いた主人公のアメリカでの下宿先の母子との心の交流が感動を呼ぶ。2位の「市民ヴィンス」は、最近駄作の多いアメリカ推理作家協会賞受賞作にしては珍しく、ちょっとエルモア・レナードを思わせるタッチの、小気味いい犯罪小説だった。3位の「暗殺のアルゴリズム」はラドラムの死後に発表された遺稿作品のひとつ。絶頂期を思わせる出来で、巨大な陰謀と戦う男女が快調に描かれ、ページを繰る手が止まらない。
4位の「テロリストの口座」は、腕力に自信がない金融専門の捜査官が資金の流れを探ってテロリストの牙城に迫る話。ストーリーの展開が面白いし余韻も感じさせる。この作家はまだ3作しか邦訳されていないが、これからが期待できる人だ。5位「ダーク・ハーバー」の作家ホスプはこれがデビュー作だが、罠にはめられたボストンの若手弁護士の必死の戦いをフレッシュな感覚で描き、爽やかな読後感を残す。6位の「終決者たち」については10/6の日記に書いた。地味だがストーリーの流れはストレートで、読みごたえは充分。7位の「復讐はお好き?」はハイアセンならではの奇人と変人、皮肉とユーモアが満載で、いつもと同じく安心して楽しめる一作。8位の「インモラル」は少し冗長だし、ミステリー的には弱いが、主人公であるミネソタ州の田舎町の刑事が印象深いキャラクターで、後半に登場するラスベガスの女刑事との出会いも面白い。
年末に発表された「このミス」のベスト10とダブるのはハイアセンの1作だけ。つまらない「このミス」のベスト10をあげつらっても意味はないが、ディーヴァーは別として、あとは相変わらず、ノワールものや怪奇仕掛けの謎解きや奇妙な味の短編集が並んでいて、およそ食指を動かされないものばかりだ。「キューバ・コネクション」がランク外なのは、いかに投票者たちが本を読んでいないかを物語っている。ここで6位に入っているジョー・ゴアズの「路上の事件」を、ぼくはあまり高く評価しない。ゴアズは好きな作家だし、このような青春・成長小説の趣きを呈したミステリーは嫌いではないが、これは主人公の顔が見えてこないし、全体の作りが薄っぺらい感じがする。7位の「デス・コレクターズ」のオカルトや異常心理を扱ったスリラーもうんざりだ。
ということで、今年は海外ミステリーは不作だったが、来年は、フロスト警部シリーズの数年ぶりの新訳(遅すぎる!)や、グレッグ・ルッカのアティカス・シリーズ、スティーヴン・ハンター、ジェームス・カルロス・ブレイク、ネルソン・デミルなど、期待の作品が続々と翻訳出版されるようなので、賑やかになりそうだ。今年はミステリーの新作を読むのはもう終わり。これから正月にかけては、昔読んで面白かったことは覚えているが、内容は忘れてしまった都筑道夫の伝奇時代小説を何冊か書庫から引っ張り出して、読み返すとしよう。

2007.12.10 (月)  太麺皿うどんにはまる

太麺皿うどんをご存じだろうか。ふつう皿うどんというと、ちゃんぽんと並ぶ長崎の名物料理で、細いパリパリの揚げ麺に魚介や野菜のあんが乗っかっているやつのことを言うが、太麺皿うどんは、太くて柔らかい麺を使った皿うどんのことだ。ぼくはこの太麺皿うどんが大好きで、日本太麺皿うどん愛好家協会を設立したいと思っているほどだ。7〜8年前、東銀座にあった「思案橋」という店でこれを食べたのが、そもそものきっかけだった。たまたま昼飯を食べに入ってこれを注文したら、抜群においしかった。具のあんはやや甘めで、それにソースをたっぷりかけて食べると、なんとも言えない絶妙の味が口のなかに広がる。
ぼくは小学校から高校2年まで宮崎に住んでいた。宮崎市に「四海楼」という中華料理店がある。これは長崎に本店がある店で、中華料理とはいっても長崎風の味付けがしてある。ここの焼きそばがおいしくて、高校のころ、学校帰りにこの店でよく食べていた。いま考えると、それが太麺皿うどんだった(と思う)。宮崎を離れて数十年、「四海楼」で食べたのと同じ焼きそばで出会ったことがなかったが、東銀座の「思案橋」で食べた太麺皿うどんがまさしくその味だった。
それから機会があるごとにそこで太麺皿うどんを食べていたが、昨年この店が閉店してしまった。以来、東京近辺の太麺皿うどんがメニューにある店を探して食べ歩いているのだが、これが意外に少ない。ちゃんぽん専門店でも、たいてい普通の皿うどんはあるが、太麺皿うどんを食べさせる店はそう多くない。渋谷の並木橋近くにある「長崎」の太麺皿うどんは絶品だ。揚げた太麺を使っており、それとあんがじつによくマッチしている。あんの味は思案橋より上かもしれない。ここは老舗の店で、池波正太郎がよく立ち寄ったらしい。虎ノ門にある「長崎飯店」はチェーン店で、渋谷や新橋にも支店がある。ここの売りは量が多いことで、大盛りにすると食べきれないくらいほど盛り付けて出てくるが、味はいまいちだ。これもあちこちにチェーン店がある「リンガーハット」は、太麺皿うどんがメニューにない店も多いが、渋谷店にはある。ここは味もよく値段も手ごろで、好感が持てる。「思案橋」は八丁堀に本店があるらしいが、まだ行っていない。
太麺皿うどんは即席のパック商品がある。取り寄せて試してみたが、これがけっこう及第点をつけることができる味だった。カップ麺がサッポロ食品から出たということだが、どのコンビニやスーパーに行っても置いてない。いちど味見をしたいと思っているのだが、売れないから早々と製造中止してしまったのだろうか。

2007.12.06 (木)  W.C.フィールズ語録

世の中には建前と本音があり、みんなそれを状況に応じて使い分けているのだが、政治家や役人や評論家やマスコミがあまりにきれいごとばかり並べ立ててばかりいると、本当のところはどうなんだ、たまには本音はこうだと言ってみろよと言いたくなる。
自国の利益しか考えず、産軍一体となって他国に惨禍をもたらすアメリカ、そのアメリカの属国として言いなりになってきたつけがまわり、いまや資源問題で尻に火がついている日本、それぞれ本音は見え見えなのに、白々しい理屈を言い立てて正当化しようとしている。日本の政治家たちもそうだ。国民の苦境などそっちのけで、百害あって一利ない特殊法人の改革整理を阻止しようとしたり、必要のない道路建設のための予算を分捕ろうとしている。もっともらしい理由をでっちあげているが、自分たちの利権確保のためであることは明白だ。マスコミの不甲斐なさ、感度の鈍さもはなはだしい。どうでもいいような興味本位の事件ばかりを追いかけ、なにかの不祥事を起こした当人に正義面して居丈高に謝罪を迫るいっぽう、たとえば四国で起こったとんでもない警察のでっちあげ事件などは取り上げようとしないし、石油価格高騰に対する政府の対策の遅れも追求しようとしない。そういった社会的不正を究明するのが本来のジャーナリズムであるはずなのに。
そんな状況を見るにつけても思い起こされるのが、W.C.フィールズの言葉だ。フィールズは戦前のアメリカで映画やラジオで活躍した喜劇俳優で、厭世的で人間嫌いなキャラクターで売った人だ。アメリカでの人気は高かったが、チャップリンのような笑いとペーソスを持ち味にした芸人ではなかったため、日本では受け入れられなかったらしい。いまでは知っている人もあまりいないだろう。ぼくも名前だけしか知らず、映画は見たことがない。いろんな場面で彼が語った嫌味とユーモアがないまぜの言葉は、そこに込められた皮肉と逆説が受け、評判になって、W.C.フィールズ語録としていまに残っている。どこで読んだのか聞いたのか、まったく記憶にないが、ぼくはその語録を手帳にメモしている。いくつか書き出してみよう。

    「金持ちとは、金をもっている貧乏人にすぎない」

    「わたしに偏見はない。みんなのことが平等に大嫌いだ」

    「子供と動物が嫌いだからといって、悪いやつとは限らない」

    「やってみて成功しなければ、もう一度トライしろ、そして止めろ。
    そんなくだらないことにかかずらう必要はない」

負け惜しみとも開き直りとも受け取れるが、偽善をつき、本音で語っているのが、ある種、爽快だ。政治家や役人もたまにはこんなように本音を言ったらどうだろう。でも言ったらマスコミがすぐさま鬼の首でも取ったように叩くだろうし、言えるわけがないか。

2007.11.25 (日)  新たに発掘されたジャコの驚くべき演奏

こんな凄いジャコの未発表音源があったとは、奇跡に近い。12月中旬に世界に先駆けて日本発売される『ジャコ・パストリアス/ライヴ・フロム・ザ・プレイヤーズ・クラブ』だ。1978年といえば、ジャコがウェザー・リポートで人気の絶頂にあり、気力も充実し、音楽性も頂点にさしかかっていた時期だ。ウェザーのアルバムで言えば、『ヘヴィ・ウェザー』と『ミスター・ゴーン』のあいだにあたる。ここには、その1978年1月、ジャコがウェザーの仕事の合間を縫って故郷のフォート・ローダーデイルに里帰りした際、若き日にともに育った地元のミュージシャン仲間であるリッチ・フランクス(ds)、アレックス・ダーキ(p)とトリオを組んで行ったライヴ・セッションが収められている。

当時、ドラマーのフランクスが、ダーキと組んだトリオで、プレイヤーズ・クラブというラウンジにレギュラー出演していた。そこに町に帰ってきたばかりのジャコが突然現れ、フランクスたちを驚かせた。彼らはみな同じバンドに在籍したり、レコーディングで共演したりして切磋琢磨しながら成長してきた音楽仲間だった。久しぶりの再会を祝し合ったあと、持ってきていたベースを手にしてジャコがステージに上がり、8年ぶりの共演セッションが始まった。そのとき客のひとりが録音していたテープがこの音源だ。そんな経緯で録られたものだが、発売に際してはジャコの遺族が管理するパストリアス・エステートが許可を出しており、れっきとした正規盤にあたる。

感動させられるのは、心身ともに健康であり、若さにあふれていたジャコ、いちばん輝いていた時代のジャコが、ウェザーでのグループの一員としての制約から解放され、ひとりのミュージシャンとしてのびのびと自由奔放に演奏し、イマジネーションを羽ばたかせていることだ。ここまでインプロヴァイザーとしてのジャコが全面的にフィーチャーされたアルバムはかつてなかった。これからは、このアルバムを聴かずしてジャコを語ることはできなくなるだろう。聞くところによると、このときの音源はこれ以外にもあるらしい。近い将来の続編の発売を期待したい。

冒頭のメドレー〈デクステリティ〜ドナ・リー〉から、いきなり異様な迫力に引きずり込まれる。ドラムスだけをバックに、最初から最後まで息もつかせず弾きまくるジャコのアドリブがスリリングだ。ある意味でこのアドリブは『肖像』所収の同曲のを超えているかもしれない。これはジャコが飛び入りで参加したセッションであり、事前に何の打ち合わせもなかったが、それが信じられないほど演奏のクオリティは高い。〈フリーダム・ジャズ・ダンス〉の3者が緊密に一体となったダイナミックなプレイ、〈クル〜スピーク・ライク・ア・チャイルド〉の静から動へと自在に移り変わる大胆な音の流れには唖然とさせられる。この日が誕生日だった妻のトレイシーに捧げて、〈ポートレイト・オブ・トレイシー〉を心をこめて演奏しているのも胸を打つ。この曲から始まる3曲のメドレーで、ジャコはさまざまな曲の引用を散りばめながら、えんえんと超絶無比の無伴奏ソロを繰り広げる。全73分をあっという間に聴き終えてしまう。こういった曲や〈星影のステラ〉や〈コンティニューム〉といったお馴染みのナンバーに加え、〈フリーダム・ジャズ・ダンス〉〈ドルフィン・ダンス〉〈ネフェルティティ〉など、ジャコの演奏としてはここでしか聴けない曲が並んでいるのがファンとしては見逃せない。音質はこの種のプライヴェート録音にしては驚くほど良好だ。

2007.11.05 (月)  ギリシャで見た虹は大きかった

10月中旬、ギリシャに行ってきた。どうしても行ってみたかったというわけでもないが、やはり文明発祥の地のひとつであり、ローマ時代以降の世界の歴史や文化にさまざまなかたちで影響を与えた国だ、一度はその風土に触れておかなければなるまい。
ギリシャはどこに行っても遺跡だらけだ。有名なアテネのパルテノン神殿をはじめ、デルフィやオリンピアやミケーネや、とにかく古代遺跡ばかりで、それらを見て歩いていると、さすがにいささか飽きてくる。だが、日本がまだ弥生時代初期ににあり、文字もなく、竪穴式住居に住み、やっと狩猟から農耕に移行しつつもいまだに原始的な暮らしをしていた時期に、ギリシャではすでに文字を使い、大神殿を造り、哲学や科学が栄え、演劇を楽しむという高度な生活を営んでいたという事実は、凄いとしか言いようがない。
いまのギリシャの産業といえば、農業などの第一次産業と観光が主だ。少し街を出れば、どこまでもオリーブ畑や綿花畑が続く。EU加盟国のなかでは貧しいほうの部類に入るだろう。それでも日差しが強い地中海気候のせいか、人々の表情は明るい。だが以前は、60年代終わりから70年代前半にかけて、軍事独裁政権下で人々の自由が縛られていた時代があった。ギリシャというと思い浮かべるのは、そのころ民主化のために戦った女優のメリナ・メルクーリだ。映画「日曜はダメよ」への主演で有名だが、ほかにもいい映画にたくさん出ている。赤狩りでハリウッドを追われてヨーロッパに渡った名映画監督ジュールス・ダッシンと結婚した。「日曜はダメよ」はダッシンが監督し、出演もしている。メルクーリは軍事政権が倒れたあと文化担当大臣になって、ギリシャから各国に持ち去られた歴史遺産の返還に尽力した。
ギリシャではあちこちで、あの「日曜はダメよ」のテーマ・メロディが流れていた。もちろん観光客のために演奏したりCDをかけたりしているわけで、現地の人々が日常聴いているのはポップスやロックだ。もうひとつ、頻繁に聴いたのはアンソニー・クイン主演映画「その男ゾルバ」のテーマ曲だった。ギリシャの民族楽器ブズーキを使った、のどかさのなかに哀感が漂うサウンドだ。ほかにギリシャを舞台にした映画といえば、50年代の古いハリウッド映画で、アラン・ラッドとソフィア・ローレンが主演した「島の女」がある。海女になる若いローレンのはちきれんばかりに逞しい肉体が話題になった。その主題歌でローレンが歌った「イルカに乗った少年」は当時日本でもかなりヒットした。だが地元の人に訊いても誰もこの曲を知らなかった。
バルカン半島の先端から突き出たペロポネソス半島には遺跡や古代に栄えた町が多いが、今年8月から9月にかけて猛威をふるった山火事(放火が原因だという)の跡が痛々しかった。道路の片側のはるか後方に連綿と続く山並がみな丸ぼうずになっている。その状態が道路近くまで続き、焼け焦げの跡が生々しい。バスで走っていると、そんな光景が延々と続く。火事の凄まじさと広大な被害がよく分かった。
奇岩で知られるギリシャ北方のメテオラの山で、巨大な虹を見た。珍しく少し雨が降ったあとだった。虹はすぐ間近の中空にかかっていた。その足元は山あいの谷間にまで伸びている。虹の足元を見たのは初めてだ。アテネからメテオラに行く途中、映画「300」に出てくるスパルタ王レオニダスの銅像が建っている場所があった。以前は観光客の関心を呼ばなかったが、映画が公開されてヒットして以来、人気が出てきたスポットだという。あたりには何もない、だだっ広い平原にポツンと銅像だけが建っている。地名は聞き洩らしたが、ここがかつてテルモピュライと呼ばれたところなのだろうか。ペロポネソス半島のスパルタからは300キロ以上あるだろう。レオニダス以下の300人は、こんなに遠くまで遠征してきて10万人のペルシャの大軍と戦ったのだ。
エーゲ海の島のひとつ、ヒドラ島で食べた新鮮なピスタチオが美味だった。ピスタチオはオリーブなどと並ぶギリシャの特産品らしい。ピスタチオのアイスクリームまである。日本で食べるものと違って、香ばしく歯ごたえがあり、味が濃かった。

2007.11.03 (土)  女暗殺者タラ・チェイスはアラブに向かう

グレッグ・ルッカは、マイクル・コナリーの“ハリー・ボッシュ”と並ぶ現代最高のハードボイルド・ミステリー・シリーズ、“ボディガード・アティカス”の作者だ。そのルッカによる新しいキャラクターを主人公にしたシリーズ第1作の翻訳が発売された。『天使は容赦なく殺す』(文芸春秋社刊)だ。主人公はタラ・チェイスという女性で、海外での非合法活動に従事する英国情報部SISの特務員、つまり暗殺要員のリーダーだ。この本では、イギリスでテロを繰り返す狂信的テロリスト・グループの元凶である中東のイスラム原理主義指導者の暗殺を命じられた彼女の行動が描かれる。ハードボイルド・スタイルのアティカス・シリーズとは異なり、こちらはスパイ/冒険小説の色合いが濃い。主人公のタラ・チェイスは、アティカス・シリーズの『暗殺者』でおぼろげに姿を現し、『逸脱者』で全貌をさらけ出した凄腕の女殺し屋ドラマを彷彿とさせる。また同じアティカス・シリーズの副主人公とも言うべき女探偵ブリジットを思わせるところもある。
読み終わっての感想をひとことで言えば、これはフリーマントルとイアン・フレミングをミックスしたようなスパイ活劇だ。イギリスの情報組織のなかでの内部対立や、政治的判断によって現場の要員が捨て駒にされる状況がいっぽうにあり、プロに徹するクールな殺し屋が単身アラブに乗り込み、平然と暗殺をやってのけるアクションがもういっぽうにある。ストーリの流れは快調で、一気に読める。冒険小説としては面白いし、展開もスリリングだ。だがアティカス・シリーズとは違い、主人公の造形には深みがなく、その他の登場人物たちとの絡みにも陰影がないし、友情や心意気といったような血の通った要素が感じられない。あとがきによると、これはルッカが原案を書いたコミック本のキャラクターをもとにして書かれたそうだが、こんな内容になっているのはそれも影響しているのだろう。
この新シリーズはいずれ第2作が邦訳されるというが、それはともかく、アティカス・シリーズは今後どうなるのかが気になる。1996年以降、ほぼ毎年1作のペースで出版されたアティカス・シリーズは、5作目の『逸脱者』を最後に中断した。そして作者が書いたのが、このタラ・チェイス・シリーズや、以前邦訳が出た女ロック・シンガーを主人公にした『わが手に雨を』だった。アティカス・シリーズの前々作『惑溺者』はサブ・キャラクターのブリジットが主人公でアティカスは脇に回った番外編、前作の『逸脱者』はアティカスが女殺し屋に拉致されるという異色作、いずれも面白さは抜群だったが、シリーズ数作目にして早くもストーリーが拡散してしまった。ファンとしては、行動する世界は狭くても、仲間との連帯感や男女の関係の機微を描きながら、プロとしての矜持をもって活躍するボディガードという特殊な世界をじっくり描き込んだ作品をもっと書いてほしいと思う。アティカス・シリーズは、6年間の中断を経て、新作が今年アメリカで出版されたらしい。どんな内容なのか、期待して翻訳を待ちたい。

2007.11.01 (木)  目をくぎ付けにする迫力満点のコルトレーンのDVD

ジョン・コルトレーンのヨーロッパでのライヴを収めた驚くべきDVDが発売された。『Jazz Icons: John Coltrane Live in '60, '61, '65』がそれだ。ここには、それぞれがコルトレーンの60年代の歩みにおける重要なステップとなる時期の3種類の演奏が収められている。これらのフッテージが初ビデオ化のものなのかどうか、ジャズDVDにそれほど詳しくないので分からない。もとはテレビでオン・エアされたものらしいが、画質はまあまあだ。だがそんなことより、アトランティック時代から黄金のカルテットの末期に至るコルトレーンの発展・変貌が、この1巻で目の当たりにできるのが素晴らしい。なにしろ、コルトレーンとケリーの共演、、ドルフィーとの共演、黄金のカルテットの迫力満点の映像が次々に出てくるのだから凄い。
最初のセットは1960年3月にドイツで撮影されたもの。これはマイルス・デイヴィス・クインテットが渡欧した際にマイルス抜きで演奏されたステージだ。コルトレーン〜ウィントン・ケリー〜ポール・チェンバース〜ジミー・コブという顔ぶれにより、〈グリーン・ドルフィン・ストリート〉〈ウォーキン〉〈ザ・テーマ〉を演奏する。このとき、トレーンはマイルスのもとを離れて独立する意思を固めていたが、マイルスにこれが最後だからと説き伏せられて、いやいやながらツアーに参加したという。アトランティックへの『ジャイアント・ステップス』セッションから8ヶ月後であり、トレーンは自信に満ちた表情で深いエモーションをたたえながら吹いている。
このセットで貴重なのはウィントン・ケリーだ。ケリーを捉えた映像は少ないだけに、ピアニストのなかでいちばん愛するケリーが絶頂期に演奏する生の姿が見られるのが、ぼくにとっては最高にうれしい。〈枯葉〉(ケリー)〜〈ホワッツ・ニュー〉(コルトレーン)〜〈ヴァーモントの月〉(スタン・ゲッツ)と続くバラード・メドレーも聴きものだ。ここでゲッツが加わる。このツアーはノーマン・グランツが企画したもので、マイルスのほか、スタン・ゲッツとオスカー・ピーターソンが同行していた。このセットにはそのゲッツとピーターソンがゲストで参加し、最後の〈ハッケンサック〉でコルトレーンと共演する。ゲッツは時々ライヴで手抜きをしたということだが、ここでのゲッツは本気を出しており、コルトレーンと気合いの入った掛け合いをする。左右に並んだ2人がサックスを口にくわえる直前、顔を見合せてニヤッと笑うのが印象深い。
続くセットは1961年12月に同じくドイツで撮られた映像。コルトレーンは前月にエリック・ドルフィを加えて有名なヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ・セッションを行っており、これはその翌月、まったく同じメンバー――コルトレーン〜ドルフィ〜マッコイ〜ワークマン〜エルヴィン――でヨーロッパにツアーした際のライヴだ。曲は〈マイ・フェイヴァリット・シングズ〉〈さよならを言うたびに〉〈インプレッションズ〉の3曲。ここでは即興演奏の限界を突き破ろうとするかのような、破竹の勢いで吹きまくるコルトレーンが圧巻だ。このヨーロッパ・ツアーはコルトレーンがリーダーとして初めて行ったものだった。
最後のセットは1965年8月、ベルギーでシューティングされたもの。コルトレーン〜マッコイ〜ギャリソン〜エルヴィンという黄金のカルテットにより、〈マイ・フェイヴァリット・シングズ〉〈ナイーマ〉〈ヴィジル〉が演奏される。ここでのトレーンはフリーキーなトーンを多用し、より激越なプレイを繰り広げる。これより9ヶ月前、コルトレーンは『至上の愛』を吹き込み、以後急速にフリーなスタイルに傾斜していったが、これはその時期の演奏であり、まさに混沌の世界に足を踏み入れようとするコルトレーンが捉えられている。トレーンの苦痛を耐えるような表情、ドラムスを叩くエルヴィンの体からもうもうと発する湯気のような白い煙りが印象に残る。この年の末、カルテットからマッコイとエルヴィンが脱退し、コルトレーンは完全に無調の世界に入り込むことになる。
このJazz Icons第2期シリーズには、第1期に続いて、ファンの関心をそそるDVDがたくさん収められている。なかでも、このコルトレーンのほか、あのオクターブ奏法がたっぷり堪能できるウェス・モンゴメリーや、ポール・デスモンドをフィーチャーしたデイヴ・ブルーベック・カルテット(ドラムスはジョー・モレロ!)、ドルフィーを擁するミンガス・グループなどの映像は、誰もが見たくなるだろう。

2007.10.06 (土)  刑事に復職したハリー・ボッシュを待っていた事件は

現代最高のハードボイルド小説と言えるマイクル・コナリー作ハリー・ボッシュ・シリーズの新作「終決者たち」(講談社文庫)が発売された。私立探偵になっていたボッシュは、前作の最後で暗示されていたとおり、LA市警の刑事に復職し、未解決事件捜査班に所属して、以前チームを組んでいた女性刑事キズミン・ライダーと再びコンビを組んで、17年前に起こった少女殺害事件の再捜査にあたる。
ボッシュ・シリーズのすごいところは、これまでの11作、どれをとっても駄作がないことだ。とうぜん出来の良し悪しはあるが、悪いと言っても通常の基準からいけば、充分に高いレベルに達している。第1作の「ナイト・ホークス」から1作ごとに高みに上っていったこのシリーズは、第4作の「ラスト・コヨーテ」で頂点に達した感があった。その後、第5作「トランク・ミュージック」を経て、第6作の「エンジェルズ・フライト」あたりから第8作「シティ・オブ・ボーンズ」までは、やや力が落ちたように思われたが、ボッシュが刑事を辞して探偵になった9作目の「暗く聖なる夜」と10作目の「天使と罪の街」で、再びかつての輝きとパワーを取り戻した。自由になったボッシュが活躍するこの2作には、それまでにない心のゆとりのようなものが醸し出されており、ボッシュ・シリーズが新しい段階に入ったことを感じさせた。
それを受けての11作目になる本書だが、しばらくのあいだ警察機構から解放されていたためか、それとも刑事に復帰したばかりのせいか、未解決事件を再捜査するボッシュは、これまでに比べて一匹狼としての性格や内面に鬱屈している怒りをあまり表に出さない。また全体に動きが少なく、前半は昔の証拠や供述調書を調べたり、関係者に再度の聞き込みをしたりといった地道な捜査が続き、やっと急展開を見せるのが4分の3あたりになってからで、全体に地味な印象を受ける。
ここには、前作、前々作に挿入されていた、ボッシュが引退した老ミュージシャンにサックスを習うシーンや、別れた妻との交流といった、本筋に関係ないエピソードがほとんど描かれていない。本来、こういった挿話がストーリーを陰影豊かに彩るのだが・・・。またボッシュはジャズが好きで、これまでの小説ではよく自宅に帰って、夜なか、ひとり静かにアート・ペッパーなどのCDに聴き入るシーンがあり、それが彼の孤独と安らぎを感じさせた。今作でもマイルスの「カインド・オブ・ブルー」を聴くシーンがあるにはあるが、ボッシュの心象風景はいまひとつ浮かび上がってこない。
というわけで、「ラスト・コヨーテ」と並んで最高傑作だと信じる前々作の「暗く聖なる夜」、ボッシュ・シリーズ以外のキャラクターたちも登場して盛り上がる前作の「天使と罪の街」と比べると、本書はやや期待外れと言わざるを得ない。とは言え、筋立てはストレートで引き締まっているし、ストーリー・テリングの巧さは相変わらずだ。またボッシュの事件解決への執念や娘を失った家族の悲劇が浮き彫りにされており、充分に読み応えのある内容に仕上がっていることは間違いない。また、不正を憎むボッシュと腐敗した市警幹部との対立や、黒人やユダヤ人を排斥するチンピラ集団などを描くことによって、物語に厚みが加わっている。だから、シリーズをすべて訳している古沢嘉通氏が、これをいちばん好きな作品だと書いているのも分かる気がする。
ボッシュは12作で打ち止めという話をどこかで読んだ記憶があるが、作者のコナリーは考えを変えて、もっと書き続けることにしたようだ。訳者あとがきによると、ボッシュ・シリーズは、本国では2005年に出版された本作のあと、2006年、2007年と続けて2作出版されているらしい。今回は比較的地味な捜査に終始したが、シリーズは今後もこんな調子で続いていくとは思えない。何かありそうな予感がする。このあとボッシュはどんな事件と遭遇するのだろうか、興味は尽きない。

2007.10.04 (木)  ベラ――日本にも本物のレディ・ソウルがいた

付き合いのあるソウル・ミュージック愛好家に誘われ、昨夜、ベラさんのライヴを観に、高円寺のJIROKICHIに行った。素晴らしいソウル・ヴォーカルに圧倒された。ベラさんの正式の名前は森崎ベラという。一般的な知名度はないが、熱心なソウル/R&Bファンのあいだで絶大な支持を集めている歌手である。彼女は、日本人として、ほとんどただひとりと言っていい本物のソウル歌手だ。男女を問わず、聴いていて恥ずかしくなるような歌手が多いなかで、ベラさんは格が違う。既成のソウル系歌手たちは彼女の足元にも及ばないだろう。ベラさんの、わざとらしさのない、自然な唱法、よくとおる声、ナチュラルな乗りは、聴くものを引きずり込む力を持っている。その歌は、外人の真似ではない、オリジナリティにあふれており、自信に満ち堂々たるた歌いぶりには、レディ・ソウルとしての風格が漂っている。あの聴いていると気持ちが悪くなる、わざとらしさの固まりのような大阪弁のピアノ弾き語り歌手に、ベラさんの爪の垢を煎じて飲ませたい。ホーンを含む8人編成のバンドを従えた、〈イン・ザ・ミッドナイト・アワー〉に始まるディープ・ソウル・ナンバーのオン・パレード、本物のソウル・ヴォーカルに酔った一夜だった。これだけの歌唱力を持ち、聴き手に感動を与え、固定ファンもついている歌手が、1枚もCDを出していないという事実は、日本の音楽シーンの悲しい現実を物語っている。今の日本の音楽ビジネスの世界は、彼女のような歌手をじっくり腰を据えて育成することができる環境にないのだ。

2007.09.29 (土)  暗いベルリンと明るいプロヴァンス

朝日新聞の映画評での「第三の男」や「カサブランカ」を思わせる秀作という言葉に釣られて、映画「さらば、ベルリン」を観たが、きわめて退屈な凡作だった。映画評論家はあてにならないことを再認識した。ナチ陥落後の崩壊したベルリンを舞台に、ノスタルジーたっぷりにモノクロで撮影されているが、「第三の男」などに似ているのはそれだけで、およそ心に迫るものがない映画だった。監督はスティーヴン・ソダバーグ、主演はジョージ・クルーニーとケイト・ブランシェット。ベルリンにやってきたアメリカの従軍記者クルーニーが、かつて恋仲だったブランシェットに出会い、娼婦に身を落としているのを知る。いまもブランシェットを愛しているクルーニーは、彼女の謎の行動に不審を抱きながら、彼女を助けてベルリンから脱出させようとするという話だ。肝心のブランシェットが魅力ある女に見えないので、クルーニーの彼女に執着する気持ちが観る者に伝わってこないし、ブランシェットの悪女としての描き方が中途半端で、どうにも盛り上がりに欠ける。たしかに米英ソの3国が共同統治する瓦礫だらけのベルリンは「第三の男」のウィーンを想起させるし、最後の雨が降りしきる飛行場のシーンは「カサブランカ」のラスト・シーンを思わせないでもないが、たんに雰囲気を似せただけであり、映画的記憶と言うのもおこがましい。描かれるべき人間の存在感や悲劇性がちっとも浮かび上がってこない。ソダバーグという監督の力量のなさが如実に表れた映画だと思う。
これと前後して観た、リドリー・スコット監督、ラッセル・クロウ主演という「グラディエーター」のコンビによる映画「プロヴァンスの贈りもの」は、自然に融け込める佳品だった。主人公は金儲けしか眼中にないロンドンの辣腕トレーダー。子供のころ親しくしていた叔父が亡くなり、遺産としてプロヴァンスの田舎の古いシャトーとぶどう畑を相続する。彼はその遺産を売り払おうとするが、手続きのためプロヴァンスの屋敷に滞在するうちに、地元の人々や自然との触れ合いを通じて真実の人生に目覚め、プロヴァンスに住んでワイン造りに生きようとする、という内容だ。リドリー・スコットにしては珍しく、コメディ・タッチで明るく描いている。よくあるテーマであり、ストーリーはかなりご都合主義で現実ばなれしているが、ぼくはこういう夢のある軽い映画は嫌いではない。ラッセル・クロウは楽しそうに演じているし、恋人役のマリオン・コティヤールも生き生きしている。欲を言えば、プロヴァンスという土地の風景をもっと描いてほしかった。プロヴァンスには、田舎にしろ街にしろ、心に触れる独特の魅力があるが、それがいまひとつ伝わらない。それに、ワインに対する思い入れも物足りない。ワインはこの映画の重要な要素のひとつなので、もう少し作者としてのワインに向ける独自の視線があってほしかった。そういう点では、同じくワインをテーマにした傑作映画「サイドウェイ」と比べると、だいぶ格が落ちしてしまう。だがこの映画は、あまり余計なことを考えずに、スコット監督の語り口の巧さに乗って素直に楽しむ映画であろう。

2007.09.17 (月)  忘れられた作家 W.P.マッギヴァーン

前回の日記で触れた小鷹信光の本「私のハードボイルド」には、ぼくが以前読み漁ったミステリー作家の名前がたくさん登場し、懐かしさをかき立てられた。ぼくは中学の2年か3年のころ、ある日とつぜん翻訳ミステリーを読み始めた。きっかけは特になかった。強いて言えば、ポピュラー音楽や映画やTV番組で培われた欧米に対する憧れからだったと思う。最初はお決まりのシャーロック・ホームズから入り、それが面白かったので、エラリー・クイーン、ヴァン・ダイン、アガサ・クリスティ、G.K.チェスタトンなどの、いわゆる本格ものの名作を手当たり次第に読みまくった。翻訳ミステリーと言えば、当時は創元推理文庫と早川書房のポケミスという2つのシリーズがあり、ぼくはもっぱらそれらの本を中心に読んでいた。
エラリー・クイーンは国名シリーズも良かったが、悲劇4部作のひとつ「Yの悲劇」のドラマティックな筋立てと驚くべき結末に陶酔した。ヴァン・ダインはマザー・グースの無邪気な歌と不気味な殺人を組み合わせた「僧正殺人事件」に慄然とした。アガサ・クリスティは「そして誰もいなくなった」の不可能な設定と巧妙精緻な謎解きに唖然とした――「アクロイド殺し」の結末には腹が立ったけれど。そのうちに、そういった謎解きに終始する小説に飽き足らなくなり、高校に入ると、サスペンスもの、ハードボイルトもの、スパイもの、警察ものといったミステリーに興味が移っていった。
ハイティーンのころ、創元文庫やポケミスで愛読したのは、ウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)、パトリック・クエンティン、アンドリュー・ガーヴ、シャーロット・アームストロング、ジャック・フィニイ、W.P.マッギヴァーン、トマス・ウォルシュ、ジョナサン・ラティマー、スタンリー・エリンといった作家たちだった。E.S.ガードナーのペリー・メイスン・シリーズ、エド・マクベインの87分署シリーズもよく読んだ。ハードボイルドでは、やはり最初に「血の収穫」や「ガラスの鍵」「マルタの鷹」でハメットにはまり、「大いなる眠り」や「さらば愛しき女よ」でチャンドラーのとりこになった。「長いお別れ」はちょっと遅く、大学に入ってから読んで、これこそ最高傑作と確信した。こういった正統派のハードボイルド以外に、ミッキー・スピレインを筆頭とする暴力やセックスを売り物にする扇情的なハードボイルド小説もあり、それなりに楽しめた。
イアン・フレミングの007シリーズを最初に読んだのは、創元文庫の「ダイアモンドは永遠に」だった。そして「ロシアより愛をこめて」「死ぬのは奴らだ」「ドクター・ノオ」と読んだあたりで、ショーン・コネリー主演の映画第1作「007は殺しの番号」が1963年に日本で封切られた。これはあまり評判にはならなかったが、続く第2作の「007/危機一発」が大当たりし、今に続く人気映画シリーズになった。スパイものではほかにドナルド・ハミルトンのマット・ヘルム・シリーズ(部隊シリーズ)が面白かったが、ディーン・マーティン主演の映画はおふざけの度合いが強すぎて、日本ではもうひとつ受けなかった。

そんなミステリー作家のなかで、ぼくがいちばん愛着を感じていたのは、レイモンド・チャンドラー、ジャック・フィニイ、ウィリアム・P・マッギヴァーンの3人だった。チャンドラー、フィニイについてはいずれ稿を改めるとして、ここではマッギヴァーンについて書くことにしたい。マッギヴァーンは、いまではほとんど取り沙汰されることがないが、50年代に、非常に力のあるハードボイルド〜サスペンス小説を書いた小説家であり、とくに悪徳警官もので名声を高めた。長編デビュー作の「囁く死体」(48年)にはじまる初期の作品では、雑誌編集者やPR会社の社員を主人公にした巻き込まれ型のサスペンス小説を書いていたが、4作目の「殺人のためのバッジ」(51年)で腐敗した警官を題材にし、大きな話題になった。以後、「ビッグ・ヒート」(53年)、「恐怖の限界」(53年)、「最悪のとき」(55年)といった作品を発表し、悪徳警官のテーマを掘り下げ、巨大な社会悪と戦う男を描いた。
マッギヴァーンの筆致は、うねるような熱気とぞくぞくするような緊迫感に満ちていた。まるで筆者の息づかいが聞こえるように感じられた。マッギヴァーンの諸作のなかで、ぼくが個人的に好きなのは、「悪徳警官」(54年)と「緊急深夜版」(57年)だ。「悪徳警官」は、ギャングと気脈を通じあっていた刑事が、弟が殺されたことを契機に、汚名のなかでギャング組織に戦いを挑むという話、いっぽうの「緊急深夜版」は新聞記者が主人公で、さまざまま妨害に合いながら市長選挙に絡む不正を暴くという話で、いずれも主人公の孤独と不正を糾弾する気迫がよく描かれており、強烈なサスペンスと圧倒的な迫力にあふれていた。
マッギヴァーンの小説のいくつかはハリウッドで映画化されている。「復讐は俺に任せろ」(53年)の原作は「ビッグ・ヒート」であり、フリッツ・ラング監督、グレン・フォードが主演した。チンピラのリー・マーヴィンが情婦のグロリア・グレアムに熱湯を浴びせるシーンがショッキングだった。また「悪徳警官」(54年)は同名小説が原作で、監督はロイ・ローランド、ロバート・テイラーが主演した。いずれもいまではフィルム・ノワールの古典になっている。日本でもこの「悪徳警官」を翻案した映画が製作された。東映の「親分(ボス)を倒せ」(63年)で、石井輝男が監督し、高倉健が主演した。当時、ぼくは大ファンだった高倉健が出るし、しかもマッギヴァーンの原作ということで、期待してこの映画を観に行ったが、小説のイメージからほど遠い、なんとも四畳半的なギャング映画でがっかりした記憶がある。このころ高倉健は、東映現代劇で、サラリーマンものや青春ものやギャングものなど、いろんな映画に主演していたが、いまだ人気は出ていなかった。高倉健がトップ・スターに躍り出るのは、この映画から2年後、同じ監督が撮った「網走番外地」によってであった。
閑話休題、マッギヴァーンは、一作ごとに作家として高みに上っていき、人間性の悲劇を描いたり、社会的不正を告発したりする姿勢を強めていったが、そのかわりミステリー的な要素はしだいに希薄になった。57年に発表した「明日に賭ける」は銀行強盗を扱ったクライム・ノヴェルだが、人種問題が大きなテーマになっていた。サスペンスの要素は薄いが、そこに描かれた黒人と白人の反目と友情は、大きな感動を与えた。これはハリウッドで映画化され、「拳銃の報酬」(59年)というタイトルで日本でも公開されたが、残念ながらぼくは観逃している。ロバート・ワイズが監督、ハリー・ベラフォンテ、ロバート・ライアンが主演した。ぜひ観たいのだが、、まだDVD化されていないようだ。この映画の音楽はジョン・ルイスが作曲し、MJQが演奏したジャズであり、〈スケーティング・イン・セントラル・パーク〉というワルツの名曲が挿入されている。
このあと、マッギヴァーンはついにミステリーから離れ、普通小説をに移行してしまった。普通小説に移行後のマッギヴァーンの作品は、1作だけ、「七つの欺瞞」(60年)という小説がポケミスで訳された。これは普通小説とは言っても、サスペンスの要素も盛り込まれた、一種の冒険小説的な味わいの小説であり、ぼくは気に入っていたが、売れ行きは芳しくなかったのだろう、けっきょく訳されたのはこれだけで終わってしまった。それからずいぶん経った1980年、突然マッギヴァーン作の「ジャグラー〜ニューヨーク25時」という小説がハヤカワ・ノヴェルズから出版された。これは同名映画の公開に合わせて原作本として発売されたものだった。だがこのときも、マッギヴァーンの小説が続いて訳されることはなかった。
ぼくがマッギヴァーンを読みまくったは60年代だったが、彼が実際にミステリー作家として活躍したのは50年代だった。とうぜん彼の小説は50年代という時代背景を抜きにしては語れないだろうが、いま考えると、彼が描いたテーマは時代を超えた普遍性を帯びていると思うし、本の行間からにじみ出る異様な迫力は、いまも読む者に訴えかける力を持っていると思う。先日、ポケミスの「緊急深夜版」をはじめ、いくつかのマッギヴァーンの本を、倉庫から探し出した。今度それらをじっくり読み返すつもりだ。

2007.09.14 (金)  ハードボイルドの戦後史

昨年刊行されてミステリー・ファンのあいだで話題になった小鷹信光の本「私のハードボイルド」を読んだ(早川書房刊)。これはベテランのミステリー・ライター&翻訳家である筆者の青春時代から今日までのハードボイルド小説との熱いかかわりを綴った長編エッセイだ。戦後まもないころの映画への傾倒、高校時代のハメットやチャンドラーとの出会い、その後の翻訳やエッセイなどでの活躍、同業翻訳家や編集者との交流といった個人史が、海外ミステリーの翻訳の歴史、ハードボイルド小説の日本への受容と変遷、ハードボイルド論争、ミステリー雑誌の盛衰などとともに語られる。
以前とても面白く読んだ本のひとつに、宮田昇の「戦後翻訳風雲録」(2000年、本の雑誌社刊)がある。これは、はるかむかし早川書房の社員としてでポケミスを編集し、その後独立して翻訳権エージェントを立ち上げた宮田が、編集者の立場から、当時の出版社の内情や翻訳者との交流を綴ったドキュメントだ。こちらが、編集者の立場から戦後の翻訳ミステリーの歴史を書いたものであるのに対し、小鷹の「私のハードボイルド」は、書き手、翻訳者の立場から書いたものであり、ある意味でこの2著は好対照をなしている。
ぼくがミステリーを読み始めた60年代半ば、翻訳ミステリー雑誌といえば早川書房のEQMM(現在のHMM)しかなかった。だがそれ以前、50年代終わりから60年代初めにかけて、このEQMMと「マンハント」「ヒッチコック・マガジン」という3誌の翻訳ミステリー雑誌が競合していた時代があった。それは日本での海外ミステリー小説、とくにハードボイルド小説の興隆と軌を一にしている。「私のハードボイルド」で語られるそのころの状況は、海外ミステリー・ファンにとってとても興味深い。またこの本では、当時の隠れた逸話もいろいろ紹介されている。記者の勘違いで書かれた“アンドレ・ジイドがインタビューの際にハメットを激賞した”という記事を江戸川乱歩が読み、それを乱歩が雑誌や解説で紹介したため、以後はその話が定説になって流布され、最近まで事実としてまかり通っていたという経緯などは、いかにも情報が乏しい戦後の混乱期ならではの話で微笑ましい。ジャズの偉大なトロンボーン奏者ジャック・ティーガーデンが、実際は生粋の白人なのに、日本ではアメリカ・インディアンの血をひくと長いこと信じられていた話を彷彿とさせる。これはもともとティーガーデンの風貌がインディアンを思わせることから起こった誤解だった。ジャズ界の最高の権威だった亡き油井正一さんがそう書くので、他の評論家もそれに倣い、既定の事実になってしまったようだ。
小鷹信光という人は、以前はハードボイルドというよりも、アメリカの裏社会やポルノ業界に詳しいライターという印象が強かった。かつて小鷹は、ミステリー小説ももちろん翻訳していたが、どちらかというと軽ハードボイルド・スタイルのものが多かったし、それよりもいろんな男性雑誌に興味本位のアメリカ通俗社会事情を書きまくったり、ポルノ小説を翻訳したりしていて、むしろそんなアメリカ風俗の紹介のほうが本業のように感じていた。だが、「パパイラスの舟」という立派なミステリー・エッセイ集を書き、ロス・マクドナルドやジェイムス・クラムリーを訳し、ダシール・ハメットへの思い入れからハメットの小説の新訳やハメット伝の翻訳を刊行するに及んで、小鷹のハードボイルドへの愛着の強さを知り、考えを改めた。それでも、今回の「私のハードボイルド」を興味深く読んでもなお、どうにもこの人の文章や考え方は“軽い”という印象を拭いきれない。むかし読んだ中田耕治や稲葉明雄のエッセイやポケミスのあとがきに感じた、どっしり腰を据えた姿勢や心のこもった気迫は感じられず、ただ歴史を追いかけ、パルプ・マガジンをコレクションし、上っ面だけをなでまわすだけのように思えてならない。この人の売り込みの巧さ、旅のエッセイやゴルフ・リポートなど多方面に手を伸ばし、2足も3足ものわらじを履いてきた経歴のせいで、そう感じるのかもしれない。

2007.09.11 (火)  もうひとつの「カサブランカ」

「カサブランカ」といえばアメリカの国民映画と言ってもいいほど絶大な人気をもつカルト・ムーヴィーだ。その映画「カサブランカ」の後日談を描いた小説の翻訳を先日見つけた。『もうひとつの「カサブランカ」』という本だ(マイクル・ウォルシュ著、2002年、扶桑社刊)。興味をそそられて読んでみた。映画は主人公の酒場経営者リックが警察署長のルイと飛行場で交わす「これが美しい友情の始まりだな」という台詞で終わっているが、この小説はそのシーン、その台詞で幕が開く。映画好きにとっては心憎い出だしだ。リック、ルイ、反ナチ運動の闘士ヴィクター・ラズロ、ラズロの妻でリックの元恋人イルザという主要登場人物は、映画のキャラクターを忠実になぞっている。というよりも、映画に主演したハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン、ポール・ヘンリード、クロード・レインズの4人のイメージそのままに書かれていると言うべきだろう。
小説はこの4人に、バーのピアノ弾き、サムを加えた5人を軸に展開する。リック、ルイ、サムの3人は、カサブランカをひそかに発ち、リックが手助けして脱出させたイルザとラズロを追って、リスボン、そしてロンドンに赴く。そしてリックはイルザやラズロとともに、ナチスに抵抗する地下活動に加わり、危険な任務を果たすためナチ占領下のチェコに潜入する・・・といった粗筋である。こう書くと冒険小説みたいで面白そうだと思われるかもしれないが、内容としては二級品の出来だ。だいいち、イルザへの想いを断ち切ったはずのリックが、また彼女を追いかけまわす動機がはっきりせず、説得力に欠ける。リックはそんな柔な男ではないはずだ。それにチェコでの地下活動も、なんとも迫力に乏しく盛り上がりに欠ける。この小説では、そんな後日談と並行して、故郷喪失者になる以前にリックが何をしていたかが描かれているが、むしろそっちのほうが面白い。リックがユダヤ人という設定には違和感があるが、彼がニューヨークで生まれ育ち、ギャングの組織に入り、頭角を現してボスの片腕になり、クラブの経営を任されるが、他の組織との抗争に巻き込まれ、アメリカを逃げ出すというストーリーが、一種のピカレスク・ロマンのような生き生きしたタッチで、物語性豊かに描かれている。
「カサブランカ」の後日談を描いた小説はこれ以外にも読んだことがある。題は忘れたが、たしか主人公のリックが兵士として潜水艇か何かに乗ってドイツとの戦争に参加するが、攻撃を受けて沈没し、米軍の船に助けられるところから物語が始まったと記憶しているが、細かい内容は覚えていない。
「カサブランカ」はたしかによく出来た映画だけれど、それほど歴史に残るような名作ではない。1942年度のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚色賞を獲るほど評価されたのは、多分に戦時下という当時の情勢によるところが大きい。「マルタの鷹」「ハイ・シェラ」で評判になったハンフリー・ボガートは、続いて主演したこの映画で俳優としての地位を不動のものにした。ハードボイルド(非情)な役で売り出したボガートが、一見サスペンスの体裁をとりながら内実はメロドラマのこの映画で人気が沸騰したのは、皮肉と言えば皮肉な話だ。それはともかく、飛行場のシーンでボガートが着ていたトレンチコートは、ベルトの結わえ方も含めて、男のカッコ良さの代名詞になったし、この映画からは、冒頭に記した「美しい友情の始まり」をはじめ、「君の瞳に乾杯」、「そんな昔のことは忘れた、そんな先のことは分からない」、「プレイ・イット・アゲイン、サム」(実際は映画ではこのままの台詞は使われていないが)といった名台詞がたくさん生まれた。「カサブランカ」はのちにロバート・ワグナー主演でリメイクされたが、当然ながら駄作だった。日本でも石原裕次郎主演のムード・アクション映画としてリメイクされている(「夜霧よ今夜も有難う」)。ハリウッドでは続編映画も企画されたが実現しなかったらしい。いまならすぐに続編が作られただろう。この映画にインスパイアされて作られた映画も多いし、「ボギー! 俺も男だ」のようなパロディー映画もある。
『もうひとつの「カサブランカ」』という訳題は、「カサブランカ」にひっかけて話題にしようという意図から付けられたのであろうが、あまり趣を感じさせるタイトルではない。原題は "As Time Goes By" だが、これはこの映画で使われて大ヒットした曲のタイトルだ。"As Time Goes By" は最近は「時の過ぎゆくままに」という邦題がよく使われるが、以前は「時のたつまま」という邦題で通っていた。沢田研二が歌った「時の過ぎゆくままに」という歌謡曲があるが、これは "As Time Goes By" という曲とは何の関係もないけれど、なぜか沢田のこの歌がヒットしたころから、それが "As Time Goes By" の邦題に使われるようになった。この題はなんとなく感情過多で女々しい感じがして、ぼくは簡潔ですっきりした「時のたつまま」のほうが好きだ。ついでに言えば、両方とも "As Time Goes By" の訳としては間違っている。これは“男女の色恋はいつの世も同じ”ということを謳った歌であり、「時はたっても」という訳が正しい。この曲は、ビリー・ホリデイやカーメン・マクレエをはじめ、たくさんの歌手が歌っているが、ぼくが決定的名唱だと思うのはリー・ワイリーの歌だ。ワイリーはヴァースから入り、人生の辛酸を舐め尽した酒場の女主人が若者に語りかけるような調子で歌い、この曲の素晴らしさを引き出して間然するところがない。
歌の話が出たついでに触れると、「ア・ビューティフル・フレンドシップ」というスタンダード・ソングがある。出だしの歌詞は "This is the end of a beautiful friendship" というフレーズで始まるが、これは明らかに、映画「カサブランカ」の最後の台詞である "・・・this is the beginning of a beautiful friendship" を下敷きにしたものであろう。ちなみに、「ア・ビューティフル・フレンドシップ」という曲は、“これまでは兄妹のような関係だったけれど、そんな美しい友情はもう終わり、これからは恋人どうしよ”という洒落た内容の歌だ。

2007.07.31 (火)  米国ネオコンの陰謀を図書館員は阻止できるか

今年の5月に刊行されたラリー・バインハートの『図書館員』(早川文庫)は、アメリカの大統領選をテーマにしたミステリー本だ。主人公はワシントンの大学図書館に勤める図書館員で、ひょんなことからアルバイトで大金持の邸宅にある私設図書館の整理を頼まれる。ときは大統領選の真っ只中で、共和党の現職大統領と民主党の女性候補が激しく戦っている。主人公のアルバイト先の大金持は現職大統領の影のブレーンであり、形勢不利になった大統領を再選させるため、とんでもない陰謀を計画する。図書館員にその計画を知られたと思った大金持は政府の秘密組織に彼を殺させようとする。図書館員はつけ狙う殺し屋から必死で逃げ回りながら真相を探る・・・といった内容のサスペンス小説である。
深刻な題材だが、ユーモアを交えながら軽妙なタッチで書かれており、面白いことは面白い。現職大統領の、ヴェトナム戦争行きを逃れるため州兵に志願したとか、州兵時代はほとんど訓練に参加せず、遊び呆けていたといった経歴や、9.11事件のときはワシントンから逃げ去って身を隠していたといった記述は、あきれるほど現実のブッシュ大統領そのものだ。また、エネルギー業界、兵器業界、製薬業界の利益を代弁している元石油会社社長の国務長官は、明らかにチェイニー副大統領がモデルであろう。このあたりは大いに笑える。しかし悪人たちがあまりに戯画化されすぎていたり、プロの殺し屋が素人に簡単にやられてしまったりで、筋立てに現実感がなく、出来としては満点が5つ星なら、3つ星半か4つ星といったところだ。
それよりはるかに興味深かったのは大統領選にからむ裏話だった。たとえば、こういう逸話が出てくる。「レーガン対カーターの大統領選を翌年に控えた1979年末、イランの在テヘラン米大使館員人質事件が起きた。カーター大統領は人質解放の交渉をしていたが、レーガン陣営は秘密裡にイランと交渉し、大統領選挙投票日まで人質を解放せずにいたら軍事援助をすると約束した。その結果カーターは人質を解放できなかったことが大きな理由となって落選した。そしてレーガンの大統領就任式の当日、人質は解放された」。この裏取引はどうも事実らしいが、公の歴史的事実になっているのかどうかはよく分からない。もし公の事実だとしたら、共和党に対して非難の嵐が吹き荒れないのが不思議だし、よくレーガンの声望が地に落ちないものだと思う。また、「大統領に必要な資質は、政策の決定や実行力などではなく、過剰な負荷に耐えうること、突発的な事態に対処できること」といった含蓄ある言葉があちこちに出てくるのも面白い。
この本に“新世紀のアメリカのためのプロジェクト”(PNAC = The Project for the New American Century)という組織の話が出てくる。これは実際にアメリカで活動している、ネオコンの牙城と言われているシンクタンクだ。PNACは、アメリカがリーダーシップを執ることが、アメリカにとっても世界にとっても望ましいことだという基本姿勢に基づき、軍事、外交、資源の保全などをどのように進めるべきかを論じ、政府に提言し、世間に啓蒙している。つまりこれは、アメリカが世界を支配する方法を考える団体だ。彼らは、世界じゅうの戦略上の拠点に米軍を永続的に駐留させること、石油確保のため中東地域の支配権を握らなければならず、そのためには何度かの戦争を経験しなければならないこと、その戦争は、アメリカに楯突く国へのデモンストレーションとしても有効であることなどと主張している。驚くべきことに、これらのPNACの主張はすべてアメリカによってものの見事に実践済みなのだ。
この本にはそこまで書かれていないが、PNCAには、ネオコンの中心人物と言われるウォルフォウィッツや、チェイニー副大統領、ラムズフェルド元国防長官も名を連ねている。ネオコンの主要な論客の多数を占めるのがユダヤ系だ。彼らの主張の背後にはイスラエルの思惑があると言われるのも当然であろう。恐ろしいのは、「変革を実現するためには、かつての真珠湾攻撃のような、引き金となるための大惨事が必要だ」という彼らの主張だ。これは9.11事件となって実現してしまった。9.11事件がネオコンの陰謀だと言ってしまうのは短絡過ぎるが、あの事件には、政府はテロを察知していたのにわざと防がなかったという説がいまだに根強いだけに、荒唐無稽とはけっして言えない話だと思う。少なくともブッシュ政権がPNACの描いたプランどおりの政策で動いていることは確かだ。そして日本はそのためのコマであり、彼らの策謀の片棒を担がされようとしている。

2007.07.18 (水)  酔余の果てのジャズ・トーク

昨夜は音楽評論家のAさんと久しぶりの飲食セッションをした。Aさんと会うときは、何となく、こんな話をしようとか、あれについて訊いてみようとか思っていても、実際に話し始めると、そんなものは消え去ってしまい、テーマはあっちへ飛び、こっちへ飛び、脈絡なくどこまでも膨らんでしまう。まるでジャズのようだ。こういうのを談論風発と言うのだろうか、それともたんなる酔余の饒舌か。その夜もそうだった。話題は最近の音楽情勢から社会問題、懐旧談、自転車、IT関連、映画、TV番組、ヒッチコック劇場、文学、落語と、つぎつぎに移り変わる。Aさんとは、ときどき詩の話をする、この夜は話に出なかったけれど。詩について話すのは、音楽業界ではAさんと音楽誌編集長のMさんぐらいしかいない。最初は青山の洋風居酒屋で飲んでいたが、途中でAさんの発案で新宿のゴールデン街に場所を変えた。ゴールデン街に行ったのは何年ぶりだろう。小雨のせいか人影はまばらだった。入ったバーは映画関連の客がよく来るという店。壁には比較的最近のヨーロッパ映画のポスターが貼ってある。老人力(古い!)がついたため店の名前は失念した。カウンターの奥には感じのいい上品なマダムがいた。しばらくすると、マダムが先客の若い外国人と流暢なフランス語で喋り始めたのにはびっくりした。さすがはゴールデン街だ。その店で何を話したかはあまり記憶にないが、血液型による性格の分類は信頼できるか否かで盛り上がったのは覚えている。楽しい夜を締めくくるのに相応しい、すてきにたわいない議論だった。

2007.07.16 (月)  むかしバニー・ベリガンというトランペッターがいた――その2

バニー・ベリガンの代表的演奏といえば、自身のオーケストラによる〈言い出しかねて〉や〈囚人の歌〉、グッドマン楽団での〈キング・ポーター・ストンプ〉や〈絶体絶命〉、ドーシー楽団での〈インドの唄〉〈マリー〉などが有名だが、ほかにも彼の名演はたくさんあり、枚挙にいとまがない。ぼくが好きなのは、1936年10月に、当時彼がレギュラーで出演していた「Satuday Night Swing Club」というラジオ番組で演奏した〈ダウン・バイ・ジ・オールド・ミル・ストリーム〉という曲だ。ノスタルジックなメロディーをもったフォーク・ソング調の曲であり、スタジオ・オーケストラをバックに、最初から最後までベリガンのソロがフィーチャーされている。ベリガンは最初にルバートでストレートにワン・コーラスを吹き、イン・テンポになると一転してスインギーなリズムに乗って、オーケストラをバックに、得意のフレーズを散りばめながらダイナミックなインプロヴィゼーションを繰り広げる。彼の2コーラスにわたるソロは、だんだんと熱気を帯びていき、最後のカデンツァでクライマックスを迎える。これはサッチモの〈タイト・ライク・ジス〉やロイ・エルドリッジの〈ワバッシュ・ストンプ〉と並ぶトランペットの歴史的名演だと思う。
初期のものでは、ドーシー・ブラザーズ・バンドに入って1933年3月に録音した〈ムード・ハリウッド〉がいい。コーニーなバンド演奏のあと、後半に出てくるベリガンのソロには、明らかにビックス・バイダーベックのフレーズの痕跡がみられる。終り近くのバンドとの掛け合いがスリリングだ。ベリガン自身のオーケストラにも名演は多い。あまり知られていないが、1938年1月に吹き込まれた〈ア・セレナーデ・トゥ・ザ・スターズ〉は絶品だ。ベリガンはヴォーカルを挟んで2回ソロをとるが、最初は地を這うような低音で、2回目には天を翔ぶがごとき高音で、あらゆる技量を開陳しながら吹いている。珍しいものに、オーケストラを解散した後の1940年にピアノとドラムスだけを伴奏に吹き込んだ〈ジャダ〉〈リンガー・アホワイル〉〈サンデイ〉〈チャイナ・ボーイ〉の4曲がある。これは「Modern Rhythm Choruses」という教則本のために録音されたものだ。そこでのベリガンのソロを採譜し、インプロヴィゼーションのサンプルとして本に載せたのであろう。この教則本は1970年代半ばまで、アメリカの地方の楽器店などで手に入れることができたという。すべてアドリブだけの1分半ほどの短い演奏だが、シンプルな編成なだけに、彼の自由奔放なフレージングを鮮やかに聴き取ることができる。この頃になると彼の体調は思わしくなくなり、演奏も精彩を欠くようになったと言われているが、この迫力あふれるプレイを聴くかぎり、そんな様子はまったく感じられない。
ベリガンは歌手のリー・ワイリーと恋仲だった。ワイリーはスイング時代に活躍した美貌と洗練された歌唱で知られる歌手だ。代表作の『ナイト・イン・マンハッタン』を愛聴するファンは日本にも多い。リー・ワイリーは1933年3月に初録音したが、そのとき伴奏したドーシー・ブラザーズ・バンドにはベリガンも入っており、美しいソロやオブリガートを吹いている。ワイリーは1936年ごろには人気歌手にのし上がっていたが、そのころにはベリガンとワイリーの仲はミュージシャンの間では公然の秘密になっていた。2人の関係はそれから数年間続いた。当時すでにベリガンは結婚しており、子供もいた。夫の不倫を知ったベリガン夫人は子供を連れて家を出た。数年間、別居を続けたあと、1940年にベリガンがバンドを解散して間もなく、彼らは再び一緒に住むようになった。その後ワイリーは元グッドマン・バンドのピアニストだったジェス・ステイシーと結婚した。ワイリーは恋多き女で、いろいろなミュージシャンと噂になっていた。この不倫騒動はベリガンがワイリーに振り回されただけだったのかもしれない。でも実体は不倫とは言え、スイング時代最高のトランペッターと白人女性ジャズ・ヴォーカルの最高の名花のラヴ・アフェアは、なんともファンのロマンティックな想像力を刺激する話ではないか。
『情熱の狂想曲』(Young Man with a Horn)は、天才トランペッターの栄光と挫折を描いた映画だ。1949年に作られ、カーク・ダグラスが主演、ドリス・デイ、ローレン・バコールが共演している。これはビックス・バイダーベックの生涯にヒントを得てドロシー・ベイカーが書いた小説を映画化したものだが、ベリガンを愛するぼくには、ビックスよりもむしろベリガンの映画だと思えてしかたがなかった。ハリウッド映画らしく、最後に主人公は再生してハッピー・エンドになったり、主人公がやたらに血の気の多い人間だったりするあたりは、事実とかけ離れているが、2人の女をめぐる人間関係や、ストレスから過度の深酒に陥るところなどが、ベリガンを彷彿とさせる。トランペットの実際の音を、ベリガン・スタイルを追随したハリー・ジェームスが吹いているのも一因かもしれない。

2007.07.15 (日)  むかしバニー・ベリガンというトランペッターがいた――その1

かつてバニー・ベリガンというジャズ・ミュージシャンがいた。スイング時代最高の白人トランペッターと謳われた人だ。1930年代初めに頭角を現し、有名・無名のさまざまなバンドに入ったり、数多くの吹き込みセッションに参加したりして、偉大なトランペッターとしての名声を確立、30年代半ばにベニー・グッドマンやトミー・ドーシーなどの一流オーケストラに在籍して歴史的名演を吹き込む。そのプレイはスイング時代のあらゆる白人トランペッターに影響を与えた。1937年に自らのオーケストラを結成、〈言い出しかねて〉が大ヒットしたが、バンド経営に失敗して3年で解団する。長年の深酒により、1942年、33歳の若さで病死――ベリガンの経歴を記すとこんな感じになる。
バニー・ベリガンという名前を口にすると、ぼくの頭は、あの振幅の大きい、艶やかなトランペットの響きでいっぱいになる。高音から低音へと変幻自在に駆け巡るアドリブ、フレーズの最後に入るジャズ・フィーリング横溢のヴィブラートが浮かんでくる。ベリガンは高音も素晴らしかったが、豊かな音量の低音も美しかった。あれだけ見事な低音を吹けるトランペッターは、スイングとモダンとを問わず、古今東西、ベリガン以外に誰もいない。ベリガンのアイドルはルイ・アームストロングであり、実際に彼のプレイはルイの影響が顕著だが、同時にフレージングにはビックス・バイダーベックの影も見られる。つまり黒人トランペットの元祖であるルイと白人トランペットの嚆矢となったビックスの両方のスタイルを織り交ぜて、独自のスタイルを編み出したのだ。当時の白人トランペッターはこぞってベリガンのスタイルを模して演奏した。だがベリガンと他のプレイヤーとの違いは歴然としている。ベリガンのプレイには数小節聴いただけで、すぐにそれと分かる輝かしいトーンと独特の個性があった。
イギリスで発売された5枚組の『Bunny Berigan: The Key Sessions 1931-1937』というCDセットがある。それには"A Legend of Jazz Trumpet Who Played Like an Angel and Lived Like a Devil"という副題が付いている。つまり「天使のように演奏し、悪魔のように生きた伝説のトランペッター」というわけだが、言いたいことは分かるけれど、これは誤解を与えかねない表現だ。むしろ「悪魔のように演奏し、天使のように生きた」と言ったほうが正しいと思う。彼は大酒飲みで、しじゅう飲んでいた。ステージに現れるときはいつもアルコールの臭いを発散していたという。だがラッパを口にくわえると、どんなに酔っていてもけっして演奏が乱れることはなく、常に美しい音を響かせた。彼はやさしい人柄で、バンドのメンバーと接するときは、一度も怒ったり、言葉を荒立てたりすることはなかった。メンバーから給料の値上げを申し込まれると、何とかやり繰りしてそれに応じていた。ベリガンの伝記『Bunny Berigan: Elusive Legend of Jazz』(Robert Dupuis著、Luisiana State University Press刊)を読むと、ベリガンのサイドメンたちは異口同音に、ベリガンの過度の飲酒癖とバンド統率力の欠如を挙げ、にもかかわらず、その素晴らしい人間性と天才的なプレイを敬愛し、いつまでも彼と行動をともしたかったと、懐かしさを込めて回想している。
通説では、ベリガンが1937年から率いたオーケストラは人気が出ず、成功しなかったとされているが、ぼくはそうではなかったと思う。だいいち、大会社であるヴィクターの専属になり、3年に渡って90曲以上もレコーディングしているのだ。売れなければこんなに続けて録音はしていないだろう。それにバンドのヒット曲も持っており、ツアーの予定もぎっしり詰まっていた。メンバーには、ジョージー・オールド(ts)、レイ・コニフ(tb)、ガス・ビヴォナ(cl)、ジョー・ブシュキン(p)、バディ・リッチ(ds)といった一流のミュージシャンを擁して、音楽面での実力も備えていた。だから、グッドマンやドーシーほどではないにせよ、かなりの人気があったと考えられる。前掲の伝記によると、バンドへの出演依頼はたくさんあったのに、資金的な理由で解散に追い込まれたらしい。リーダーであるベリガン自身の経営能力に問題があったことによるが、マネージャーがいい加減な人間でバンドが食い物にされたこともあったようだ。もともとヘヴィ・ドリンカーだったのに加え、バンド経営上のストレスでさらに激しく酒をあおるようになり、それが彼を死に追いやった。

2007.07.12 (木)  ジャズとエロティシズム

ルイ・アームストロングが1928年に吹き込んだ曲に〈タイト・ライク・ジス〉(Tight Like This)という傑作がある。この時期、ルイ・アームストロングは創造性の頂点にあった。ホット・ファイヴ、ホット・セヴンというレコーディング・コンボによって歴史的名演を次々に吹き込み、当時の、そして後世の、トランペッターのみならずあらゆるジャズ・ミュージシャンに影響を及ぼした。そんな吹込みのなかでも一世一代の演奏だと思われるのが〈タイト・ライク・ジス〉だ。後半に出てくるルイのトランペット・ソロは神がかり的で、静かな出だしでスタートし、次第に熱気を増していき、最後にクライマックスを迎えるというドラマティックな構成は見事というほかはない。あらゆる時代を通じて最高のジャズ・パフォーマンスであり、何度聴いても大きな感動を覚える。
この曲は、そのものズバリ、セックスを題材にしている。曲名の〈タイト・ライク・ジス〉は、「ああ、こんなに固くなって」という意味だが、何のことを指しているのかは言うまでもないだろう。演奏の途中に何度か "Oh, it's tight like this" という女性の叫び声が挿入されるが、これはアレンジャーのドン・レッドマンが女の声を模して入れたらしい。そんな卑猥な曲が時代を画するジャズの名演になったのだからおもしろい。アメリカでは、同時期に録音された〈ウェスト・エンド・ブルース〉がルイ・アークストロングの至高の名演とされているのに比べ、この曲はあまりの卑猥さのためか、それほど高く評価されていない。だがテーマが何であれ、〈タイト・ライク・ジス〉でのルイの入神のプレイは、断然、他の吹き込みを圧している。
ジャズは創成期から、猥雑なものや裏社会的なものと密接にかかわりあっていた。黒人のディキシーやスイングには、性や麻薬を暗示する曲がよく見受けられる。それはジャズの本源的な活力と不可分の関係にあった。20世紀の文学や美術にはセックスやエロティシズムをモティーフにしたものが多いが、ジャズもそれと同列に論じることができる。
デューク・エリントンにも同趣向の曲がある。〈ウォーム・ヴァリー〉(Warm Valley)という曲だ。1940年にアルト・サックスのジョニー・ホッジスをフィーチャーして録音されたバラードであり、これはエリントン・オーケストラの傑作であると同時に、ホッジスの代表的名演のひとつに数えられている。曲名の「暖かい谷間」とは何か? 誰もが連想するごとく、それは女体の秘められた箇所だ。始原的なエネルギーを感じさせるルイの〈タイト・ライク・ジス〉とは違って、こちらは香気漂うソフィスティケートされた演奏であり、ホッジスのプレイは、えもいわれぬ艶かしさと官能性をたたえている。ホッジスのソロは絶品であり、独特のスイートなトーン、グリッサンドを生かした息の長いフレージングは、ため息が出るほど美しい。これは〈ソフィスティケイテッド・レディ〉や〈香水組曲〉といった曲で成熟した女性への賛美を表現したエリントンが、一歩踏み込んで女性の神秘性やエロティシズムをモチーフに作った異色の作品なのだ。

2007.07.08 (日)   今年の翻訳ミステリーは不作、でも掘り出し物もあるぞ

2007年も半分が過ぎたが、今年は翻訳ミステリーが不作で、これまでのところ特筆すべき小説がほとんど見当たらない。ジェフリー・アーチャーの「ゴッホは欺く」(新潮文庫)はもうひとつコクがなかったし、トマス・ハリスの「ハンニバル・ライジング」(新潮文庫)はまるで映画のノベライゼーションのようで、中身がスカスカだった。G.M.フォードはぼくの好きな作家だが、ノンフィクション・ライターのフランク・コーソを主人公とするシリーズの第4作「毒魔」(新潮文庫)は、これまでの3作がすべて高水準だったのに比べて、かなり落ちる内容だった。プロットの展開が雑だし、事件の真相を知る謎の女が描き方があいまいだし、一部ではコーソ以上にファンが多いと言われる相棒の全身刺青女カメラマンが、今作では魅力に乏しいしで、がっかりさせられた。細菌テロという題材が相応しくなかったのかもしれない。
そんななかで唯一推奨に価するのが、これが初めての訳出となるアルナルド・コレアの「キューバ・コネクション」(文春文庫)だ。キューバの情報部員カルロスは海外での長年にわたる諜報活動を経て本国に帰ってくるが、妻に死なれ、子供たちとは心が通い合わない。そんなとき、アメリカに亡命するため子供たちが嵐のなかを筏で出発したのを知ったカルロスは、子供たちを救うべくそのあとを追う。そしてアメリカに渡ったカルロスを危険な罠が待ち受けている、といった内容である。骨格がしっかりしており、諜報のプロであるカルロスの行動がハードボイルド・タッチで描かれるのがいいし、カルロスの仇敵であるCIA部員との戦いも緊迫感がある。もっとも心惹かれるのは、人間どうしの魂の触れ合いだ。カルロスと子供たちの間の父と子の愛情、そしてアメリカでカルロスが下宿する一家との交流は、胸に迫るものがある。ストーリー展開に多少難があるが、でも全編に脈打つ男の誇り、親子の絆、切ない男女の愛が、それを充分に補っている。

2007.07.07 (土)   クリフォード・ブラウンのプライヴェート盤

先ごろ、クリフォード・ブラウンのプライヴェート録音された音源をCD化した『Clifford Brown at the Cotton Club 1956』が発売された。これを機会に、この数年間に発売されたクリフォード・ブラウンのプライヴェート録音盤の内容を検証しておこう。めぼしいものを挙げれば次のようになる。

    Clifford Brown + Elic Dolphy/Together 1954 (RLR 88616) 2005
    The Last Concert/Brown-Roach Quintet (RLR 88617) 2005
    Brown-Roach Quintet/More Live at the Bee Hive (RLR 88626) 2006
    Clifford Brown at the Cotton Club 1956 (Lonehill LHJ10292) 2007

これらは初CD化と謳われているが、実際はそうではない。これらの音源はすべてイタリアのPhilologyレーベルにより『Brownie Eyes』というCDシリーズに入ってすでに世に出ている(一般売りはされていないが)。『Brownie Eyes』シリーズは現在Vol.36まで発売されている。これはブラウンのレアな音源が網羅された、ファンにとってはまさに宝石箱のようなシリーズだが、いかんせん編集がいい加減で、同じ音源がたくさんダブっていたり、データがデタラメだったりするので、嬉しい反面、どうにも腹立たしい。上に掲げた4つのアルバムの音源は、この『Brownie Eyes』から取ったものだと思われるが、まとまったセッションを抜き出し、音を改善し、データを整備し、きちんとした解説が付してあり、それなりに意義のあるものに仕上がっている。
この4作品のなかで、もっとも聴き応えがあるのは、今年になって発売された3枚組の『At the Cotton Club 1956』だ。このコットン・クラブは有名な30年代にエリントンが根城にしたニューヨークのクラブではなく、オハイオ州クリーヴランドのジャズ・クラブだ。このアルバムには、このコットン・クラブに1956年5月28日〜6月1日に出演した際の第3期ブラウン=ローチ・クインテットによる演奏が収められている。ブラウンは、〈A列車で行こう〉〈ジョードゥ〉などで、後期の彼を特徴づけるスムースなフレージングを駆使し、自信に満ち溢れたソロをとっている。音質もプライヴェート録音にしては良好だ。共演のソニー・ロリンズも本領を発揮しており、バラードの〈ダーン・ザット・ドリーム〉などは圧巻だ。冒頭でブラウンがメンバーを紹介しているが、その最後で「I play the trumpet. My name is Clifford Brown」と自己紹介する彼の言葉が深く印象に残る。なお、コットン・クラブでの演奏は全体の4分の3ほどで、残りの4分の1には56年2月に出演したバッファローのタウン・カジノにおける演奏のエア・チェックが入っている。
これに次いで心惹かれるのは『More Live at the Bee Hive』という2枚組のセットだ。シカゴのクラブ、ビー・ハイヴでのブラウンのライヴは、かつて『ロウ・ジニアス』というタイトルのLPで発売されたものがあるが、これはそれより4ヶ月ほど前の1955年6月30日に録られたもの。現在は『Live at the Bee Hive』としてCD化されている『ロウ・ジニアス』は、ブラウンとロリンズとのジャム・セッションを収めたもので、ブラウン=ローチ・クインテットにロリンズが加入するきっかけとなったセッションと言われているが、この『More Live at the Bee Hive』はハロルド・ランドを含む第2期レギュラー・クインテットによるライヴだ。これも演奏、録音ともに上々で、ブラウンがストップ・タイムに乗って延々とスリリングなソロをとる1曲目の〈君去りし後〉をはじめ、快演の連続だ。最後の3分の1は、以前エレクトラからLP発売されたままCDになっていなかったアルバム『ピュア・ジニアス』の全曲が収録されている。
『The Last Concert』は、現在のところ亡くなる前のブラウンが聴ける最後の演奏である、ノーフォーク市のコンチネンタル・レストランでの1956年6月18日のライヴが収められた2枚組。ブラウンのラスト演奏と言えば、以前はコロンビアから出た『ビギニング・アンド・ジ・エンド』所収の、ブラウンが車で事故死した当日のフィラデルフィアでのジャム・セッションとされていたが、これはブラウンの伝記『クリフォード・ブラウン:天才トランペッターの生涯』(ニック・カタラーノ著、音楽之友社刊)に明らかなように、それより1年前の録音であることが判明した。コンチネンタル・レストランのライヴは音が悪い。また無謀ともいえるほどの猛烈なアップ・テンポによる演奏が多く、そんな速さでもけっして支離滅裂にならず整然としたプレイをするブラウンの技量に唖然とさせられるが、音楽性という点からは高い評価はできない。このアルバムも最後の3分の1ほどは、55年7月のブラウン=ローチがただ一度だけ出演したニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでのライヴが収められている。最後の1曲〈2人でお茶を〉は、珍しくチェット・ベイカー、ポール・デスモンド、ジェリー・マリガン、デイヴ・ブルーベックなどの名手たちとジャズ・セッションをするブラウンが聴ける貴重なトラックだ。
『Together 1954』は、1954年6月にブラウンがLAのエリック・ドルフィ宅で行なったジャム・セッションを収めたアルバム。当時まだ無名だったドルフィは自宅のガレージをスタジオに改装し、ミュージシャン仲間に解放していた。ブラウンとローチは、ここでテディ・エドワーズの後任テナー奏者のハロルド・ランドを見つけた。寛いだジャム・セッションなので、演奏としての緊迫感は期待できないが、〈ファイン・アンド・ダンディ〉の天空を飛翔するが如きソロなど、ここでもブラウンのプレイは素晴らしい。ブラウンがピアノを弾くトラックもある。ドルフィのプレイはパーカーを彷彿とさせながら、後の彼のスタイルの萌芽をそこかしこに感じさせて興味深い。このときのセッションには、もう1曲〈ワフー〉があり、『Brownie Eyes』には入っているが、ここには収録されていない。アルバム最後の2曲はブラウンの自宅での練習セッションで、ピアノを伴奏にブラウンがトランペットを吹いているとクレジットされているが、このトランペットはブラウンではない。フレージングもイントネーションも明らかに別人だ。『Brownie Eyes』では、ピアノ伴奏がブラウンで、トランペットはリー・モーガンまたはビル・ハードマンとなっているが、おそらくこれが正しいであろう。

2007.07.06 (金)  最近のアクション映画はけっこうおもしろい

このところハリウッド製のアクション映画を立て続けに観ている。やはり大きなスクリーンで観る映画はいい。しばらく映画館には足を運んでいなかったが、これから時間をみつけてできるだけ映画館に通おうと思う。なにしろ今年からシルバー料金の1000円で観れるわけだし。きっかけはスティーヴン・ハンターの冒険小説の傑作「極大射程」を映画化した『ザ・シューター/極大射程』だった(アントワン・フークア監督、マーク・ウォルバーグ主演)。引退した元米特殊部隊の伝説的な名狙撃手ボブ・リー・スワガーが巻き込まれた大統領暗殺にからむ陰謀をめぐるストーリーで、映画はほぼ原作に忠実に作られている。話の流れは快適でメリハリよく、緊迫感にあふれており、スワガー役のウォールバーグの面構えや体の動きもいい。原作にあったストイックな男の生き方のような感覚は生かされていないが、そこまで要求するのは無理だろう。ハンターは「極大射程」以後、ボブ・リーの父親アール・スワガーを主人公に、舞台を50年代のアメリカに設定して「悪徳の都」「最も危険な場所」といった小説を発表しているが、こちらのほうがむしろヒーローが悪と戦うという図式や視覚的なイメージからして、映画化しやすいと思うのだが、どうだろう。
公開されて間もない鳴り物入りの大作『ダイ・ハード4.0』は、予想どおり感心しなかった(レン・ワイズマン監督、ブルース・ウィリス主演)。CGや特殊効果を多用し、大金を投じて大掛かりに作っているが、現実ばなれした設定や場面展開には笑ってしまうし、何度も死んでいておかしくないのにけっして死なない主人公の不死身ぶりがあまりに荒唐無稽すぎる。『ダイ・ハード』は第1作が傑作だった。高層ビルの中という限られた空間で、生身の体だけで悪と対決するという設定が良かった。ビルの外にいる、誤って子供を射殺したため拳銃を持てなくなってしまった警官との交流といった挿話もいい。その警官が最後に思わず拳銃を抜いて主人公を救うシーンなど最高だった。『ダイ・ハード』は新しいシリーズが作られるにつれて、大作志向がエスカレートしていき、どんどんつまらなくなっている。
話題の『300(スリー・ハンドレッド)』は凄い映画だった(ザック・スナイダー監督、ジェラルド・バトラー主演)。紀元前に300人のスパルタ軍が100万人(!)のペルシャ軍と戦ったとされる「テルモピュライの戦い」を描いたアメリカン・コミックの映画化だが、まず、これまで見たこともない、暗く粗いセピア調の画像処理に引きずり込まれる。早回しとスロー・モーションを巧みに使った戦闘場面、仮面をかぶった不死部隊や怪力巨人や巨大象など、ペルシャ軍の不気味な姿も迫力満点だ。スパルタ王レオニダスに扮するバトラーの肉体美と気迫のこもった演技、筋骨隆々たるスパルタの兵士たちにも惚れ惚れする。というわけで、このところ多い古代史劇のなかでは、「グラディエーター」と並ぶ、第1級の娯楽映画に仕上がっていた。でも、最近のこういった映画を観るにつけ、かつてイタリアで盛んに作られたスティーヴ・リーヴス主演の、いわゆる“スウォード・アンド・サンダル”映画が懐かしく思い出される。スティーヴ・リーヴス主演映画は、アメリカではDVDで出ているのに日本ではいまだにビデオ化されていない。ぼくは一度あるビデオ制作会社にこの手の映画のビデオ発売を進言したことがある。担当者も乗り気になったが、契約金が高くて採算が合わないということで実現しなかった。昔こういった映画を観て胸を躍らせた団塊の世代の人間はたくさんおり、DVD化を待っていると思うのだが。

2007.06.07 (木)  ロイ・ヘインズのドラミングに酔った一夜

6月初め、東京ブルーノートでベテラン・ドラマー、ロイ・ヘインズのライヴを観た。バンドはアルト・プラス・スリー・リズムというカルテットで、ヘインズからすると孫のような若手ばかりをメンバーに従えていた。ヘインズは1925年生まれだから、今年で82歳。以前は丸い顔と大きな目で精悍な雰囲気を放っていたが、いまは年齢相応に、別人のように顔つきが変わってしまっている。40年代からプロとして演奏しているので、もう半世紀以上も活動し続けていることになる。ヘインズのプレイは、さすがに往年のパワーはなくなったが、まだまだ健在で、シャープなビート、巧妙なフィル・イン、的確な小ワザにより、スイング感あふれるドラミングを聴かせていた。曲は〈オール・ザ・シングズ・ユー・アー〉〈ヤードバード・スイート〉〈ドナ・リー〉といったバップ・クラシックが中心。同行した、自他ともに認める世界一のジャコ・パストリアス・ファンであるMさんは、名盤『ジャコ・パストリアスの肖像』の冒頭に収められている〈ドナ・リー〉が出てきたので、手を叩いて喜んでいた。1曲だけ、ウィンナ・ワルツの〈ドナウ川のさざ波〉(アニバーサリー・ソング)という変な曲をやり、歌を歌ったり、ステージの前方にハイハットを持ってきて叩いたりと、エンタテイナーぶりを見せていた。これは彼がステージでいつもやる趣向なのだろうか。
ヘインズはチャーリー・パーカーに気に入られ、40年代終わりから50年代初めにかけてパーカー・クインテットのレギュラー・ドラマーとして活躍した。パーカーと共演した人でいまも現役で演奏しているのは、ロイ・ヘインズぐらいしかいないのではないだろうか。同じドラマーで3歳年上のマックス・ローチは存命だが、もう叩けないはずだ。ヘインズといえばヴァーサタイルなドラマーとして有名で、ビバップの時代から出発したが、その後もあらゆる時代のあらゆるスタイルのミュージシャンから共演の声がかかった。エルヴィン・ジョーンズの代役でコルトレーン・カルテットに入って1963年のニューポート・ジャズ祭に出演し、エルヴィンをも凌ぐ大熱演を披露したのは有名だ。このライヴを収録したアルバム『セルフレスネス』を愛聴するファンは多い。ゲイリー・バートンやチック・コリアとの共演も忘れられない。リーダー・アルバムでは、ローランド・カークをフィーチャーしたインパルスの『アウト・オブ・ジ・アフタヌーン』やフィニアス・ニューボーンと共演したニュージャズの『ウィ・スリー』が良かった。
Mさんとともに同席した、元ドラマーで現在はプロモーション会社を経営しているHさんは、かつてドラムスの修行のために渡米し、フィリー・ジョー・ジョーンズに弟子入りしていたことがある。Hさんによるとフィリー・ジョーは自分がいちばん尊敬するドラマーとしてロイ・ヘインズの名を挙げていたそうだ。余談だが、Hさんはフィリー・ジョーに、彼が自分で書いた〈ビリー・ボーイ〉のドラムスの譜面を見せてもらったことがあるという。あのマイルスのアルバム『マイルストーンズ』に入っているガーランド〜チェンバース〜フィリー・ジョーのトリオによる曲だ。フィリー・ジョーはあらかじめその譜面を作ってレコーディングに臨んだ。予想のつかないスリルに満ちあふれ、天衣無縫に聴こえるフィリー・ジョーのドラミングだが、じつは彼はいつも前もって周到に準備していたのが分かって驚いてしまった。

2007.05.20 (日)  この国のゆくえ

日本はいったいどうなってしまうのだろう。戦後最悪の安部政権のもとで、この国はなりふりかまわず憲法を改正し、軍事国家への道を歩もうとしている。安部はとにかく何が何でも、A級戦犯の祖父、岸信介の遺志を継いで改憲しようとしているようだ。小泉の時代から続いて、個人情報保護法、改正教育基本法、防衛庁の省への格上げ、あげくのはては問題だらけの国民投票法案と、ろくな審議もせずに悪法を次々に成立させ、右傾化を推し進めている。その先には改憲が待っている。改憲論者たちは、「アメリカから押し付けられた憲法だから、自主憲法を制定しなければならない」という。だが、押し付け憲法で何が悪いか。押し付けかどうかは憲法学者によって意見が分かれているが、たとえそうであったとしても、だからこそ世界に誇るべき素晴らしい憲法ができたのだ。戦後間もなく新憲法を作る際、もし日本人だけに任せておけば、戦前の流れを引きずったものになっていたに違いない。押し付けと言うなら、むしろ、集団的自衛権を早く持てとアメリカから圧力をかけられているのだから、憲法改正こそ押し付けと言うべきだ。
憲法が改正されれば、戦争への道が開かれる。すでに政府は1機何百億円もするF22ステルス戦闘機をアメリカから大量に購入しようと計画しているという。日本の軍需産業は拡大し、武器輸出の禁止が解かれることもそう遠いことではないだろう。とうぜん、その先には核武装がくる。軍備を持つからには、核兵器がなければ強い立場に立てないからだ。すでに、核保有について論議できないのはおかしい、などと言う自民党議員や軍拡論者が出てきている。唯一の被爆国であり、二度と戦争は起こさないと誓い、核兵器の廃絶を訴えてきた日本が、核を持つ国になるかもしれないのだ。こんなことを許していいのか。再軍備を唱える輩は、バカの一つ覚えのように北朝鮮が攻めてきたらどうするんだと言うが、良識ある軍事評論家たちは、北が攻めてくることなどありえないと主張している。軍拡論者にとって、北朝鮮が民主国家になってしまえば、再軍備しようという大きな理由が失われることになる。いまの北朝鮮は彼らにとってまことに都合がいい存在だ。
もはやジャーナリズムにこの風潮を押しとどめる気概はない。耐震偽装の元凶と言われながら罪に問われなかった連中が安部の後援会である安晋会の幹部に名を連ねていること、統一教会とのつながり、かつての日本の核武装を容認する趣旨の発言など、安部の周りに叩く材料はいくらでもあるのに、一部の週刊誌を除いて、圧力がかかっているのか、それとも名誉毀損で訴えられるのが怖いのか、マスコミはなぜか取り上げようとしない。民主党の追求も迫力がなく、歯がゆいことこのうえない。疑惑だらけの松岡農水相ですら、引きずり下ろすことができないままだ。
安部の言動のお粗末ぶりは、日本の代表としてほんとうに恥かしい。慰安婦問題に関し、軍が強制したのは明白なのに、渡米前は、慰安婦を軍が強制したかどうかは証拠がないなどと言っておきながら、渡米後は前言を翻して強制の事実を認めるというていたらくだ。でも日本軍の悪行をあからさまにしたくない安部の本音は「強制ではなかった」であろう。A級戦犯が祀られている靖国神社に参拝したくてしょうがない安部の本心は見え見えだ。そもそも、安部に至るこれまでの自民党政権が、戦前の日本が犯した過ちを直視し、きっぱりと精算していなかったから、いまもアジア各国から疑いの目で見られ、謝罪しなければならないのだ。いつまでも謝まり続けなければいけないのは、過去を精算していない政府首脳が自ら撒いた種なのだ。
安部はしきりに愛国心を強調し、「美しい国」などという気持ちの悪いキャッチフレーズを使う。とんでもない時代錯誤だ。愛国心とは、上から押し付けられるものではなく、自然に湧いてくるものなのだ。「愛国心は、ならず者の最後の拠りどころ」とどこかの学者が言ったが、まさにそのとおりで、昔から愛国心を言い立てる人間にろくな奴はいない。いままた安部の指示で集団的自衛権に関する有識者会議というものが始まった。安部は議論するのがなぜいけないのかと言っているが、参加する「有識者」たちがみごとに安部の意を体した輩たちであることからして、この集まりが集団的自衛権の行使を推進するためのものなのは子供でも分かる。その先にくるのは戦争への参加だ。そんなに愛国心が大切なら、そんなに戦争したいのなら、自分が戦場に行け! 戦争したい奴は、自分が鉄砲を持って兵隊たちの先頭で戦場に立て!
世の中は景気が良くなっているというのに、企業が上げた利益は従業員には還元されず、株主と経営陣にまわってしまうため、一般庶民はその恩恵にあずかれない。これから年寄りが多くなるというのに、支給される年金は先細りになるいっぽうだ。このうえ軍隊が公認されると、支出される軍事費は止まるところを知らず膨れ上がるだろう。アメリカと一部の企業トップと政治家だけが肥え太り、しわ寄せは国民に回ってくるという構図はますます助長される。年金法案、公務員天下り規制法案のようなザル法ばかり作り、自分の利権にばかり汲々としている自民党議員、大物議員の腰巾着になり権力をひけらかすだけの自民党議員がいかに多いかはあきれるばかりだ――もちろん全員がそうだというわけではなく、真剣に世の中を良くしようと努力している人もいるが。沖縄の米軍飛行場移転による環境破壊も懸念される。
なのになぜ、こんな安部を支持し、こんな自民党に投票する国民がいるのだろう。先日の都知事選もそうだ。石原のような、外国人や女性を蔑視し、側近政治を敷き、いつも威張り散らす人間に、どうしてみんな投票するのだろう。「国民は、自分の識見の程度に合った政府を授かる」と誰かが言っていたが、最後に泣いても、それはそんな政府を選んだ自分たちのせいなのだ。でも、そんなことを言って、うそぶいているわけにはいかない。こんどの参院選は、絶対に自民党を阻止し、もうひとつ頼りないけど、なんとか民主党に政権を取らせなければならない。そうでなければ、ぼくたちの子供や孫が、とんでもないことになってしまう。

2007.05.15 (火)  黒澤明の空白の5年間

昨年出版されて話題になった書籍「黒澤明vsハリウッド」(田草川弘・著、文藝春秋社・刊)を読んだ。噂に違わぬ力作である。これは、日本の真珠湾攻撃を題材にしたハリウッド映画「トラ・トラ・トラ!」の監督を依頼された黒澤明が、1968年12月、撮影が開始されて3週間後に突然監督を解任された事件の真相を追ったドキュメントだ。著者は、日本側、ハリウッド側、双方を幅広く取材し、資料を掘り起こして、製作にいたる経過、契約内容の詳細、黒澤の書いた脚本や絵コンテの検証、撮影中のさまざまなトラブルなどを、ニュー・ジャーナリズムの手法も取り入れて描いている。とくに興味を引かれるのは、アメリカの映画芸術科学アカデミーやUCLAの図書館に保管されていた映画会社(20世紀フォックス)の資料を発掘したり、製作責任者だったエルモ・ウィリアムスに取材したりした成果が盛り込まれている点だ。当時この映画の日本語脚本の英語への翻訳をしたという著者の個人的な思い入れのためでもあろうが、文章はパセティックで迫力があり、ぐいぐい引きずり込まれる。
この事件の背景には、黒澤の映画の撮り方を知らずに監督を依頼してしまった20世紀フォックスと、ハリウッド流の仕事の進め方を知らずに監督を引き受けてしまった黒澤という構図がある。それがこの悲劇を招いてしまった。この本によって監督解任にまつわる謎はいちおう解明されているが、それでもなお不明な部分は残る。第一に、黒澤はハリウッド・スタイルの映画の作り方を知らなかったということだが、映画業界に身を置く人間が、アメリカの映画制作の手法を知らないということがありえるだろうか、仮に知らなかったとしても、監督を引き受ける以上、なぜ情報を得ようという気にならなかったのだろうか。自分流のやり方で押し通せると思っていたのだろうか。だとすれば、考え方が甘すぎたといわざるを得ない。第二に、撮影を開始してすぐに黒澤は異様な言動が目立ち始め、神経衰弱症と診断された。これは果たして病気なのだろうか。それまで東宝の撮影所で撮っていた黒澤は、この映画で初めて東映の京都撮影所を使った。撮影所で黒澤の暴君ぶりに慣れている東宝撮影所だったら、スタッフが離反しストに入ることもなかったし、ひいては黒澤がノイローゼになることもなかったのではないだろうか。第三に黒澤プロダクションでアメリカ側との間に立って契約を取り仕切った青柳哲郎というプロデューサーの役割がよく分からない。黒澤が監督を解任されたあと、黒澤に契約書の中身を知らせなかったということで責任を追及された青柳は黒澤プロを辞めた。だがほんとうに黒澤の言うとおりなのか。周囲の関係者たちも黒澤の説明を支持しているようだが、どうも日本の誇りである黒澤を傷つけまいとする配慮が感じられる。このあたりの真相は藪の中だ。この事件のいちばんの原因は、ハリウッドと組んで映画を撮るやり方に関して、黒澤に助言し、意見を言う人が周囲に誰もいなかったことにあると思う。それにしても、この本で紹介されている黒澤の構想や脚本を読むと、「トラ・トラ・トラ!」を黒澤が撮っていれば、さぞ素晴らしい映画に仕上がっていただろうと思われてならない。
この事件以降の黒澤の映画は、正直に言ってつまらなくなった。もともと黒澤の映画の根幹をなしていたのはヒューマニズムであり、戦後民主主義の肯定だった。「わが青春に悔なし」や「酔いどれ天使」「野良犬」「生きる」といった昭和20年代の作品には、ヒュー−マニズムに根ざした弱者へのやさしいまなざしがあった。そして人間という善と悪が同居する存在への鋭い洞察があった。ところがいっこうに民主主義が根付かず、弱者は依然として弱者のままである日本社会へのいらだちが、「悪い奴ほどよく眠る」や「天国と地獄」で黒澤の映画に影を落とし始める。この傾向は1965年の「赤ひげ」で一段と顕著になった。「赤ひげ」における人間の描き方は図式的で深みがなく、弱者はあくまで善人、強者はあくまで悪人であり、赤ひげがまるで神のように、善人を助け、悪人をためらいもなくやっつける。そこには、底辺から沸き起こるエネルギーによって社会が良い方向に動くことに絶望し、善き独裁者の助けを待望する思いが滲み出ていた。だが、映画に込められた黒澤のメッセージはともかく、それまでの黒澤映画は、すべてぎらぎらした気迫が満ちあふれ、緊迫感がみなぎり、観客の心に訴えかける圧倒的な力を備えていた。それから5年後の1970年、「暴走機関車」の企画の挫折や「トラ・トラ・トラ!」の監督降板といった紆余曲折を経て、やっと公開された黒澤映画「どですかでん」は、観客をがっかりさせ、興行的失敗に終わった。社会の底辺で貧しくも明るく生きる人々を描いたこの映画には、画面から語りかけるものがなかった。その後間もなく黒澤は自殺未遂事件を起こす。以後の黒澤の映画は、「赤ひげ」までのタッチとは一変し、憑きものが落ちたかのように社会性が希薄になり、熱気と力強さが消えうせてしまった。まるで人間の生きる姿をはるか天上から見下ろしているかのような空虚さが漂う作品ばかりになった。もし「トラ・トラ・トラ!」を黒澤が監督していたなら、もしかしたらその後も以前の作風を持続させていたかもしれない。だから、なおいっそう「トラ・トラ・トラ!」の監督降板が惜しまれるのである。

2007.01.08 (月)  ディック・フランシス6年ぶりの新作に拍手

ディック・フランシスの6年ぶりの新作ミステリー小説「再起」が2006年末に発売された(早川書房)。フランシスは2000年に妻を亡くして以来、筆を絶っていた。一時、後年の彼の小説は妻が代筆していたという噂が流れたが、その真偽はともかく、80歳を過ぎた彼は、もう新作を書くことはないだろうと思われていただけに、今回の突然の新作発表は嬉しい驚きだった。1962年の第1作「本命」以来、リアル・タイムで彼の競馬ミステリーを欠かさず読み続けてきたぼくにとって、内容はともかく、フランシスの新作が読めるということだけで幸せな気分になる。
さてその新作だが、主人公はこれが4回目の登場になる隻腕の元騎手シッド・ハレー。読後の感想は、予想どおり、全盛期の筆致やプロットに比べるべくもない、ごく平凡な出来というのが正直なところだ。第一に、悪と戦う主人公の姿がしっかり描かれていないし、その他の登場人物のキャラクラーも浮き上がってこない。そのうえ、犯人が小粒で肩透かしを食らうし、本物の悪人は野放しのままでカタルシスを味わえない。という具合で、作品としてのレベルは低いが、それでもフランシスの新作を読む喜びは大きい。そもそも内容への不満はこの作品に限ったことではない。すでに80年代中期以降から、筆力の衰えが感じられた。それでも、禁欲的な主人公が苦境のなかで自分の弱さを克服しながら不正に敢然と立ち向かうという基本的な小説作法は貫かれており、独自の魅力を放っていた。そういったスタイルはこの新作でも変わっておらず、そこかしこに、フランシスならではのいぶし銀のような味わいが感じられた。インターネットによるギャンブルの実体を描いたりするなど、86歳になる作家が書いたとは思えないほど新しい社会状況を取り入れているのも興味深かった。作品としての出来がどうであれ、引退からカムバックし、新作を書いてくれたフランシスの意欲に脱帽する。
翻訳について一言。これまでのフランシスの小説はすべて菊池光が訳してきたが、2006年に菊池が亡くなり、この新作「再起」は菊池の弟子だという北野寿美枝が訳している。菊池光の訳は、最初のうちは名調子だと思わせたが、中期以降、あまりに文体が類型化してしまい、いささか辟易していた。どれもこれも同じような描写、同じような会話なのだ。なにしろ、フランシス同様ほぼ全作品を訳しているロバート・パーカーの小説と文体が同じで見分けがつかないから困ってしまう。今回の北野訳は、やや固さはあるものの、菊池のスタイルを残しながら、より原文に即して訳しているように思われ、好感を覚えた。

2006.12.17 (日)  ミステリー・ランキングの好ましからぬ風潮に喝!

年末恒例のミステリー小説ベスト・ランキングを発表する「このミステリーがすごい」(宝島社)が今年も発売された。いろんな好みを持った人たちが選んだものを集計するわけだから、たかがお遊びにすぎず、目くじら立てて真剣にあげつらうのは子供じみていると知りつつも、ついこのところの集計結果のつまらなさを論じたくなる。最初のころはそうではなかった。1987年末の第1回発売のときは、海外の1位にトレヴェニアンの「夢果つる街」、国内の1位に船戸与一の「伝説なき地」というハードボイルド、冒険小説の秀作が選ばれており、その後もおおむね同傾向の作品が好結果を得ていた。だが2000年あたりから、本格ものやクライム・ノヴェルで文学志向の強い作品が並ぶようになった。ミステリーは謎とスリルと主体にしたエンタテインメントであり、キャラクター造形はとうぜん重要だが、純文学的な要素があまりに濃くなるとミステリーとしての本来のかたちが失われてしまう。もともと「このミス」は、老舗のミステリー・ランキングである週間文春のミステリー・ベスト10へのアンチ・テーゼとして出発したのだが、いまではこの2者のランキングはほとんど変わりない内容になってしまっている。
あまり関心のない国内小説はともかく、海外作品の今年の集計結果を見ると、予想はしていたがローリー・リン・ドラモンドが1位であり、ほかにカズオ・イシグロやトマス・H・クックなど、相変わらずミステリー色の薄い作品が並んでいる。ブレイクの「荒ぶる血」やコナリーの「天使と罪の街」が入っているのはいいとして、ルッカの「逸脱者」はランク外だし、ハンドラーの「ブルー・ブラッド」に至っては言及すらされていない。短編集が多いのも最近の特徴であり、昨年はジャック・リッチーの「クライム・マシン」が1位になっていたが、今年もトップ10内に3作の短編集が入っている。そもそもミステリーのランキングで短編集が長編をおさえて上位にくるというのがおかしな話で、ある物事の一断面を切り取った短編と、時間の流れを盛り込んで全体をじっくり物語る長編とでは、読後の感動の質が違うし、長編のほうがはるかに大きなインパクトをもたらすはずだ。すぐれた長編があるにもかかわらずこんな事態が起るのは、リストアップされた長編は選者によってバラつきがあるのに比べて、短編集はまんべんなく票を集めるからであろうが、こんなところにもランキング集計のいい加減さが表れている。
こういった傾向の背景には選者の質の問題があると思う。文学志向の小説をもてはやす選者が増え、ミステリー本来の謎とサスペンスを主体とする小説を好む選者が減ったのだ。また“読書のプロ”といううたい文句とは裏腹に、あまりミステリーを読んでいない選者もかなりいるように思う。70数人いるメンバーのなかには、ぼくが個人的に知っている人も2〜3いるが、どうみても日頃あまり読んでいるとは思えない人ばかりだ。まあ、別にランクがどうであろうと、ベストセラー本が嫌いなぼくとしては、自分が好きな本を読んでいればいいから関係ないが、ただでさえ海外ミテリーが売れないと云われる昨今だけに、これによってミステリーの読者が遠のき、出版点数がますます減るということにも結びつきかねないので、そうも云っていられない。みなさん、ハラハラ・ドキドキする、予想が裏切られてびっくりする、感動で胸が熱くなるミステリーを、もっと読みましょう。というところで、ぼくの今年の海外ミステリー・ベスト10は下記のとおりです。

      1.「荒ぶる血」ジェイムス・カルロス・ブレイク(文春文庫)
      2.「天使と罪の街」マイクル・コナリー(講談社文庫)
      3.「逸脱者」グレッグ・ルッカ(講談社文庫)
      4.「風の影」カルロス・ルイス・サフォン(集英社文庫)
      5.「ブルー・ブラッド」デヴィッド・ハンドラー(講談社文庫)
      6.「復讐病棟」マイケル・パーマー(ヴィレッジ・ブックス)
      7.「ファニー・マネー」ジェイムズ・スウェイン(文春文庫)
      8.「幸運は誰に?」カール・ハイアセン(扶桑社ミステリー)
      9.「アルアル島の大事件」クリストファー・ムーア(創元文庫)
    10.「ナイトフォール」ネルソン・デミル(講談社文庫)

2006.12.03 (日)  最近のヴォーカル・アルバム――グラディス・ナイトと水林史

ソウル・ミュージックについては表面を聴きかじっただけなので、あれこれ云うのは気がひけるのだが、女性ソウル歌手のなかでぼくがいちばん好きなのはグラディス・ナイトだ。グラディス・ナイト&ザ・ピップスとしてモータウンに吹き込んだ〈さよならは悲しい言葉〉(Neither One of Us [Wants to Say Goodbye] )は涙なくしては聴けない絶唱だし、ほかにもブッダ時代の〈めぐり逢い〉(Best Things Ever Happened to Me)など、バラードの名曲を数多く生み出している。余談だが、〈さよならは悲しい言葉〉は、モータウンのヒット曲の邦題としては1〜2を争う名訳だと思う(ちなみに最高の珍訳はテンプテーションズの〈美人はこわい〉[Beauty Is Only Skin Deep])。そのグラディス・ナイトがスタンダード・ソングを歌った新作アルバム「ビフォア・ミー」が発売された(ユニバーサル)。歌っているのは、エリントンの〈私が云うまで何もしないで〉、ガーシュウィンの〈やさしき伴侶を〉といった、ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルドなど偉大なジャズ歌手たちの愛唱した曲ばかり、全部で13曲。このところジャズ以外のジャンルのベテラン歌手がスタンダード・ソングを歌ったアルバムがいろいろ発売されているが、これもその一枚と云える。だが、さすがに歌の巧さにかけては天下一品のグラディスだけに、それらとは一線を画する、聴き応えのある奥の深い内容に仕上がっている。彼女はオーバーな表現を避け、歌詞を大切にしながら、抑制を効かせた歌唱をしている。歌の巧い人は思いのままに感情を露出して歌うことができるが、そこを敢えて抑え、コントロールして歌うことによって、かえって聴き手に深い感動を与える。ここでのグラディスの落ち着きのある気品に満ちた歌唱はその最良の例だ。昨今のジャズ・ヴォーカルの新録音アルバムに物足りなさを感じていたぼくは、このアルバムによって久しぶりに渇を癒すことができた。
水林史(みずはやし ふみ)という女性歌手に興味を持ったのは、3年前に発売されたギタリスト、キヨシ小林の「ジャンゴ・スイング」というアルバムによってだった。キヨシ小林のジャンゴ・ラインハルトの流れを汲む小粋なスイング演奏も楽しかったが、耳を奪われたのはゲスト歌手として3曲だけ共演した水林史の歌だった。彼女の歌唱は、けっして声量はないし、ジャズ的な乗りも感じられない。だがその自然な声を生かした気取りのない唱法、巧く歌おうなどという小ざかしさがまったくない歌いぶりは、胸に響くものがあった。タイプは違うが、初期のアストラッド・ジルベルトのようなと云ったら、分かっていただけるだろうか。聴くに耐えない日本人女性ジャズ歌手が続々と量産されているなかにあって、日本人としての声と発音を素直に表現した水林の歌は一服の清涼剤のようだった。彼女が歌ったのは、50年代初めのドリス・デイのポップ・ヒット曲で美空ひばりも歌っていた〈上海〉、服部良一作曲の戦後間もないころに流行った歌謡曲〈胸の振り子〉、60年代初期にヒットしたハワイアン・ソング〈チョットマッテクダサイ〉の3曲。これらの曲から想像される如く、そこにはノスタルジックなムードが漂っているが、妙な押し付けがましさはなかった。その水林史が、黒船レディと銀星楽団というグループを組んで「古本屋のワルツ」というアルバムを出した(波に月レコード=e-music/ダイキサウンドより発売)。これはJポップ仕立ての内容になっており、キヨシ小林のアルバムとは趣が異なるが、軽いスイング感覚、落ち着いた雰囲気、そこはかとないノスタルジックな気分は同じだ。そして水林の奇をてらわない素直で伸びのある歌は、ここでも抜群の心地よさを放っており、思わず聴き惚れてしまう。このアルバムは彼女が歌詞を書いたオリジナル曲が中心だが、1曲だけ〈上海〉の再吹き込みが収録されている。タイトル・ソングの〈古本屋のワルツ〉は神田の古本屋街のテーマ・ソングになっているらしい。
ベテランの大歌手グラディス・ナイトと無名に近い新人である水林史を、同列に語ることはできないが、このふたりには共通するものがある。自分の歌唱、スタイルをよく知っており、それを自然なかたちで歌に取り込んでいる点だ。それは、たとえば、大げさな表情でわざとらしくピアノの弾き語りをする大阪弁の女性歌手とは対極にある歌い方だ。

2006.11.12 (日)  藤沢周平の映画化作品をめぐって

山田洋次の監督した藤沢周平原作の映画「武士の一分」が間もなく公開される。いったいどんな映画になっているのだろう。山田洋次は4年前に同じく藤沢周平作品である「たそがれ清兵衛」を映画化している。これは傑作だった。江戸時代末期の下級武士の生活、貧しいながらも矜持を失わない主人公の姿がしっかり描かれていたし、小説を読んでイメージする海坂藩の世界がほぼそのまま映像化されていた。撮り方には押し付けがましいとことがなく、落ち着きのある品格が感じられた。最後の決闘シーンも緊迫感に満ちていた。真田広之はじめ出演俳優はみな好演しており、とくに宮沢りえが絶品だった。けれんのない、抑制された自然な演技が素晴らしかった。宮沢りえはいつからこんな素晴らしい女優になったのだろう。ただひとつだけ疑問がある。成長した清兵衛の娘の明治時代になってからの回想という体裁をとっているが、そんな必要があったのだろうか。こういった回想スタイルは昔も今もさまざまな映画でよくみられる手法だが、この映画の場合は、あまり意味のない、余計なアイデアだったように思う。「たそがれ清兵衛」に比べて、昨年公開された「蝉しぐれ」(監督は黒土三男)は凡作だった。何度も出てくる四季折々の自然の風景はたしかに美しいが、ストーリーに融け込んでいないし、こんなに同じような風景が何度も映し出されると、もういいよと言いたくなる。側室になった幼なじみのふくを主人公たちが助け出すシーンもまるで稚拙な漫画のようで、不自然さがつきまとう。最大の問題は俳優のミス・キャストだ。主演の市川染五郎は、いかんせん、どうにも表情に乏しく、観客はまったく感情移入ができない。木村佳乃は思いのほか好演しているが、たたずまいが時代劇には向いていない。主人公の父親を演ずる緒形拳のうますぎる演技だけが浮き上がってしまっている。
さて「武士の一分」だが、主演は木村拓哉だというが、出来はどうなのだろう。山田洋次のことだから、つまらないものにはなっていないはずだが・・・。この映画を山田洋次が撮っているということをニュースで知ったとき、藤沢周平にそんな小説があったかなと思った。その後、連作短編集「隠し剣秋風抄」のなかの一編「盲目剣谺返し」が原作であることを知った。「隠し剣秋風抄」は出版されたときに買って読んだが、どんな内容か忘れてしまっていたので、その本を引っ張り出して再読した。藤沢周平らしい好編ではあるが、それほど印象深い作品ではない。なぜ山田洋次は、長編、短編ともに傑作が多い周平作品のなかから、この地味な小説を選んだのだろうか。盲目の武士が主人公で、たしかに物語としての結構は組み立てやすいし、観客に訴えかけるものを期待はできるだろうけれど・・・。

2006.11.11 (土)  バルセロナを吹く風には影があったか

カルロス・ルイス・サフォンというスペインの作家が書いた「風の影」という小説(集英社文庫)には、本好きの者をとりこにする魅力があふれている。これは青春小説と歴史ロマンとミステリの要素を掛け合わせたような本だ。ときは戦争が終わって間もない1945年、場所はフランコの軍事独裁政権下にあったスペインのバルセロナ。11歳の少年ダニエルは、古書店を営む父に連れられて「忘れられた本の墓場」という巨大な書物保管施設に行き、フリアン・カラックスという謎の作家の書いた「風の影」という1冊の本とめぐり合う。この本に感動して、カラックスという作家のことを調べ始めたダニエルは、誰かがカラックスの書いたすべての本をこの世から抹殺しようとしていることに気づく。ダニエルの身辺に奇妙なことが起り始めるが、彼は内からこみ上げる欲求に駆られ、カラックスの秘められた過去を追求する。そしてダニエルの少年から青年への成長の過程とカラックスの数奇な運命をたどった人生とが、交互に二重写しのように描かれる。
これは愛の物語だ。男と女の愛、友だち同士の愛、親子の愛。同時に勇気と友情の物語でもある。心惹かれるのは、書物に寄せる深い情熱がそこかしこに滲み出ていることだ。登場人物たちは生き生きと描かれており、とくに、いつも毅然とした姿勢を貫く、慈愛に満ちたダニエルの父親や、ダニエルと深い友情で結ばれる書店の従業員フェルミンは、忘れられない印象を与える。全体の雰囲気はロバート・ゴダードの小説に似ているが、ゴダードの場合は悲しみと苦渋に満ちているのに比べて、こちらは希望と心優しさを感じさせる。
「風の影」で描かれるバルセロナは、どこか陰鬱で迷宮のような都市を思わせる。これは内戦の傷跡がいまだに残り、独裁政権下で秘密警察が暗躍し、人々が安逸に暮らせなかった時代を描いているからだろう。ぼくは仕事や観光で、いずれも短期間だが3回ほどバルセロナを訪れている。現在のバルセロナは光に満ちあふれた素晴らしい街だ。人々は親切で食事もおいしい。そして街中に美術があふれている。バルセロナはピカソやダリを生んだ街であり、ガウディが築いた街なのだ。聖家族教会やグエル公園に行くまでもなく、大通りを歩くと、街灯やアパートなど、いたるところに、あの曲線を生かした特異なガウディの作品を目にすることができる。この小説を読んで、表面をなぞっただけでは分からないバルセロナの影の部分を知ることができた。もう一度バルセロナを訪れて、「忘れられた本の墓場」があるアルコ・デル・テアトロ通りに行ってみたくなった。

2006.11.10 (金)  サンセット77のロジャー・スミスは颯爽としていた

むかし「サンセット77」というアメリカのテレビ番組があった。日本で放送されたのは昭和30年代の終わりごろだったろうか。ロサンジェルスを舞台にしたシリーズものの探偵ドラマだ。中学生だったぼくはこの毎週この放送が楽しみだった。原題は「77 Sunset Strip」といい、サンセット大通りのビルに居を構える私立探偵事務所の探偵たちが活躍する都会調の洗練されたミステリー・ドラマだった。事務所にはふたりの探偵がいて、先輩格のスチュアート・ベイリーにはエフレム・ジンバリスト・ジュニア、相棒のジェフ・スペンサーにはロジャー・スミスが扮していた(のちにもうひとり探偵が増えたが)。毎回登場するクーキーというビルの駐車係をエドワード・バーンズが演じており、いつも櫛で髪を整えていた。この3人がメイン・キャラクターだったが、ほかにも、ロスコーというパナマ帽のような帽子をかぶり、葉巻をくわえたノミ屋の親父みたいな男が出ていたが、あれは何者だったのだろう。主演の3人のなかではとくにクーキーの人気が高まり、最初は端役だったが途中から出演するシーンが増え、最後にはクーキーが主演するドラマまで作られた。ハヤカワのポケミスで1冊だけだが、「サンセット77」の小説が翻訳出版された。作者はテレビの脚本陣のひとりだったロイ・ハギンズ。スチュアート・ベイリーが主人公だったと記憶しているが、読んだはずなのに中身はまったく覚えていない。
当時わたしたちは、日本とはあまりにかけ離れたアメリカへの憧れだけを胸に、いずれそこに行けるだろうとは夢にも思わず、この「サンセット77」「サーフサイド6」「逃亡者」などのミステリー/サスペンス・ドラマ、「うちのママは世界一」などのホーム・ドラマ、「ブロンコ」「シャイアン」「ライフルマン」などの西部劇、「ミッチ・ミラー・ショウ」などの音楽バラエティといったアメリカ製テレビ番組を、ただ食い入るように観ていた。70年代半ば以降、仕事で頻繁にアメリカに行くようになったが、あれは1975年だったろうか、初めてロサンジェルスに行き、「サンセット77」の探偵事務所のモデルになった場所を車で通ったときは、感慨深いものを感じた。Sunset Stripとはサンセット大通りのビバリーヒルズ寄りの区域のことで、あたりには芸能人が立ち寄るクラブやレストランが並んでいる。すぐ近くにディーン・マーティンの経営するクラブ(「ディノ」という店だったか)やタワー・レコードがあった。
閑話休題、「サンセット77」は、男性コーラスとフィンガースナップをフィーチャーした洒落たテーマ曲でも話題になった。ドン・ラルク楽団の演奏したレコードがヒットしたが、実際にドラマで使われた音とは微妙にテンポやニュアンスが違っていたのが残念だった。スチュアート・ベイリーの吹替えは、最初に臼井正明が担当し、途中で黒沢良に交代した。黒沢良は渋い低音で人気のあった声優だったが、ぼくは最初の臼井正明のほうが好きだった。いっぽうロジャー・スミスの吹替えは園井啓介で、スミスの爽やかな風貌にぴったりの声だった。園井啓介は人気俳優で、テレビの「事件記者」やメロドラマで主演し、映画でも活躍したが、なにか事件を起こして芸能界から去ってしまった。クーキーの声は高山栄が演じていた。吹替えなしの番組を観たことがあるが、吹替えの印象があまりに強く、俳優たちの生の声には違和感を覚えた記憶がある。ぼくはロジャー・スミスのファンで、いかにもアメリカらしいハンサムな好青年といった感じが気に入っていたが、片方のエフレム・ジンバリストが、「サンセット77」のあと、テレビの「FBI」で主演し、映画にも出て(「暗くなるまで待って」)活躍したのに比べて、ロジャー・スミスは個性のなさが災いしたのだろうか、その後はパッとせず、アン・マーグレットと結婚して俳優から足を洗い、芸能マネージャー業に転じてしまった。
さて、そのロジャー・スミスだが、当時1曲だけ彼の歌ったシングル盤が発売された。「恋の渚」(Beach Time)という曲だ。クーキー役のエドワード・バーンズがコニー・スティーヴンスとデュエットした「クーキー・クーキー(櫛を貸して)」(Kookie, Kookie 〔Lend Me Your Comb〕)は大ヒットしたが、ロジャー・スミスのこの曲は本国アメリカではまったく不発で、日本でもそこそこのヒットで終わってしまった。でも当時ラジオの洋楽ヒット・パレード番組を欠かさず聴いていたぼくは、番組で何度かかかったこの曲ををけっこう気に入っていた。それから40年以上過ぎたいま、以前から探していた「恋の渚」の音を、先日あるところからやっと手に入れた。もう一度聴きたいと思っていたのに、どんな曲だか忘れてしまっていたが、曲をかけたとたん、メロディが甦った。ロジャー・スミスの声が甦った。そして、青春の思い出が噴水のように湧き上がった。陳腐な表現だが、ほんとうにそうだったのだからしょうがない。スミスの歌は下手だし、曲の作りも当時の月並みなヒット・ソングだ。だが、40年ぶりに聴いた「恋の渚」には、タイム・マシンのように聴くものをかつての時代に連れ帰らせる、不思議な魔力があった。

2006.11.05 (日)  ラッシュ・ライフに込められたストレイホーンの悲痛な思い

先日、あるレコード会社からの依頼で、ジャズ系スタンダード・ソングの訳詞をした。歌詞の翻訳はめったに手がけることがないので、面白い経験をさせてもらったが、とくに〈ラッシュ・ライフ〉(Lush Life)という曲の奥深い中身を知ることができたのは幸運だった。これはデューク・エリントンの片腕としてバンドに貢献した作・編曲者ビリー・ストレイホーンが作詞・作曲した曲だ。ストレイホーンといえばエリントンのテーマ曲〈A列車で行こう〉の作者として有名だが、彼が〈ラッシュ・ライフ〉を作ったのは、音楽シーンにデビューする前の1936年、21歳のときだった。詞を書いたのはもっと後になってからのことらしい。バラードの難曲だが、挑戦しがいのある曲だからであろう、ジョン・コルトレーン、エラ・フィッツジェラルドなど、多くのジャズメンが採り上げている。この曲はヴァースの部分が異常に長い。通常のスタンダード曲はヴァースなしで演唱されることが多いが、この曲に関しては、ほとんどの場合ヴァースを省略せずに歌われ、演奏される。曲名は、一般的には「豊かな人生」とか「みずみずしい人生」とかを意味するとされているが、ぼくはかねがね歌詞の内容はよく分からないながら、"Life is lonely..."などというフレーズが出てくるので、この解釈には疑問を持っていた。今回、初めて歌詞をじっくり読んでみて、思ったとおり寂しさを歌った曲だが、そこには予想を超えた複雑な心情が込められていることに胸を打たれた。
歌詞を要約すると、こんな感じになる。

    以前はよく歓楽街に出掛け、いかがわしい店に入り浸っていた
    そこは人々が人生という車輪の軸のうえで寛ぐところ
    ジャズやカクテルを楽しみ 生きている実感を得るところ
    だが 女たちはみな悲しげで 沈んだ暗い顔をしていた
    化粧の名残りをとどめてはいるが もう褪せ落ちてしまっている

    そして あなたに会い、とりこになった
    わたしは夢中になり 気も狂わんばかりだった
    しばらくのあいだ 心を焦がすあなたの微笑みは
    わたしを愛してしまった悲しみを帯びていると思い込んでいた
    だがそうではなかった またもやわたしの勘違いだった

    人生はまた孤独になった
    すべてが確かなものに見えていたのは つい去年のことなのに
    いまはまた つらい毎日に戻ってしまった
    わたしはどこかの小さなバーで
    酒びたりの人生を送り 朽ち果てるだろう
    わたしと同じように寂しく生きる人々といっしょに

このように、内容的には愛した女に裏切られて続けて絶望した男の歌だ。それにしては、あまりに荒涼とした心象、やりきれない孤独感が全体を覆っている。歌詞は難解で、意味が幾重にも積み重なっている。この曲を理解するには、ビリー・ストレイホーンが同性愛者だったことを知る必要がある。彼はそれを早くから公言していた。こんにちでは同性愛も世間的に認知され、差別もなくなってきているが、彼が生きていた時代はまだ同性愛者は白眼視され、まともには生きていけなかった。それだけに、言い知れぬ苦労を味わったに違いない。今度こそ愛する人にめぐり合えたと思ったのに、またもや勘違いだった・・・そんな報われない愛の続く自分の人生、誰からも理解されないまま孤独に生きる人生を、彼は詞に綴ったのだ。それを考えると、この歌に込められた絶望の深さは測り知れないものがある。タイトルの"lush"には、辞書をひくと“豊かに生い茂った”という意味のほかに、“飲んだくれ”という意味もある。内容からすると"Lush Life"という曲名は、“酒びたりの人生”という訳が正解のようだが、もしかすると、逆説的な意味で“豊かな人生”と命名したのかもしれない。
ストレイホーンは1939年にエリントンに雇われ、以後30年ものあいだほとんど行動をともにし、エリントンと共同で、あるいは代役で、作曲・編曲し、ピアノを弾いた。彼の書いた曲には、〈ラッシュ・ライフ〉や〈A列車で行こう〉のほか、〈デイ・ドリーム〉〈チェルシー・ブリッジ〉〈レイン・チェック〉など、名曲がたくさんある。エリントン・オーケストラは1940年から42年にかけて、絶頂期を迎えた。エリントンの創作手法の高まり、ジミー・ブラントン(ベース)やベン・ウェブスター(テナー)といった優秀なサイドメンの加入などがその背景にあったと言われるが、ぼくはその第一の要因はストレイホーンだったと思う。それ以前のエリントン・バンドもたしかに素晴らしいが、40年に吹き込まれた〈ジャック・ザ・ベア〉〈ココ〉〈コンチェルト・フォー・クーティ〉などの妖しいまでの美しさに彩られたサウンド、精緻をきわめた構成、千変万化するテクスチャーは、それまでのエリントンにはなかったものだ。ジャングル・スタイルと称された特異な演奏や、微妙なトーンを積み重ねたカラフルなサウンドを通じて、アメリカに生きる黒人としての美意識を打ち出してきたエリントンだったが、これらの作品には、マッシヴなアンサンブルの魅力と同時に、それまでとはきわめて異質な技術的洗練さ、高踏的な感覚が加えられていた。そこにはストレイホーンの提供したさまざまの創造的なアイデアがあったように思う。エリントンの偉大さには変わりはないが、これらのエリントン芸術の最高度に完成された作品群は、ストレイホーン抜きには生み出されなかったのではないだろうか。このようにストレイホーンは傑出した才能に恵まれていたにもかかわらず、生涯エリントンの影の人として働き、1964年、51歳で亡くなった。
ストレイホーンが亡くなったとき、エリントンはその死を悼み、アルバム「ビリー・ストレイホーンに捧ぐ」(And His Mother Called Him Bill)を吹き込んだ。これはストレイホーンの作った曲をビッグ・バンドで演奏したアルバムであり、後期エリントンの傑作のひとつになった。エリントンはストレイホーンのことを「わたしの右腕であり、左腕であり、両目だ。わたしの脳は彼の頭にあり、彼のはわたしのなかにある」と、その一心同体ぶりを語っていた。アルバムの最後に収められている、エリントンがソロ・ピアノで切々と弾き綴る〈蓮の花〉の美しいメロディには、深い哀切の念が込められている。

2006.10.15 (日)  チンドンとバルカンが融け合うとき

クラリネット奏者、大熊ワタル率いる型破りのジャズ・ユニット、シカラムータ(CICALA MVTA)の最新アルバム「生蝉」が発売された。オフィシャル・リリースとしては初のライヴ・アルバムだ。このバンド本来の無国籍的なエネルギーが満ちあふれた、素晴らしい内容に仕上がっている。ぼくが大熊ワタルとシカラムータを知ったのは、2001年に発売された「凸凹(デコボコ)」からだった。見世物の呼び込みから始まり、江戸情緒漂うチンドン、哀感をたたえたバルカン半島やトルコの異国風フレーズ、アルバート・アイラーやジェリー・ロール・モートンまで飛び出す、なんでもありのサウンドにすっかり魅了されてしまった。クラリネットのほか、ヴァイオリンやチューバをフィーチャーした楽器編成もユニークだった。思わず、20年ほど前に短期間だが活動したジャズ・グループ、360度音楽経験集団の破天荒なジャズを思い出してしまった。リーダーの大熊ワタルは、最初はパンクをやっていたミュージシャンらしいが、その視野の広さ、感性の豊かさはたいしたものだ。バンド名のシカラムータは、明治から大正にかけて活躍した演歌師、添田唖蝉坊のラテン語で書かれた墓碑銘の一節「CICALA MVTA」(声なき蝉)から取られたものだという。添田唖蝉坊は反政府的な壮士演歌を自ら書き、歌った、日本歌謡の草分けとも云うべき人で、昭和初期まで生きた。テキ屋の世界とも親交があったらしい。シカラムータは1998年にファースト・アルバム「シカラムータ」を発表、この「凸凹」は彼らの2作目にあたる。その後3作目の「ゴースト・サーカス」を発売し(2004年)、それに続く4作目が今回のアルバムになる。トルコやバルカンのフォーク・ソングは独特のメロディーやリズムを持っているが、どこか我々日本人にとって懐かしい響きを帯びている。またアイラーはフリー・ジャズのミュージシャンだが、トラディショナルなルーツと魂の叫びが込められたフレージングで、他のフリー系ジャズメンとは一線を画していた。だから、これらの音楽がチンドン・サウンドと並んでもまったく違和感がない。こんどの新作はライヴなだけに、彼らの音楽の祝祭的な賑やかさ、グローバルなスケールの楽しさがダイレクトに伝わってくる。

2006.10.14 (土)  TWA800便墜落の真相は究明されたか

ネルソン・デミルの新作ミステリ「ナイトフォール」(文春文庫)は、どうにも評価しがたい小説だ。主人公は前々作「王者のゲーム」に登場した元ニューヨーク市警刑事で、現在は連邦対テロ機動隊の捜査官であるジョン・コーリー。だから当然、「王者のゲーム」でコーリーが犯行を阻止しながらも逃げられた悪辣なテロリストと再び対決すると読者は思う。ところがそのテロリストはまったく登場せず、旅客機墜落事故の真相究明がテーマになっていることで、まず肩すかしを食らう。これは1996年に実際に起ったTWA800便のロングアイランド沖での墜落事故を下敷きにしている。この事故は230人もの死者が出る大惨事になった。事故から5年後、コーリーは妻のFBI捜査官ケイトとともに、ミサイルで撃墜されたという目撃者がたくさんいるにもかかわらず事故として処理されたことに不審を抱き、FBIの妨害にあいながらも独自の捜査を開始する。この捜査活動が中心に描かれるわけだが、目撃者や証人からの事情聴取がやたらに長く、通常の小説の倍以上のスペースを割いてえんえんと続く。ここで再び読者は面食らってしまう。だがけっして冗長ではない。長いことは長いが、会話はおもしろく、主人公のへらず口が快調で、長さを感じさせない。そんな調子で進んで、最後近く、やっと事実が明らかになり、いよいよ背後の陰謀が明かされるというところで、とんでもないことが起きてしまう。そうか、これに結びつくのか、伏線はあったのだが、気がつかなかった。でも、あれっ、陰謀の真相はどうなったの。国家的な謀略があったことを匂わせてはいるが、何も明らかにされないまま終わってしまう。狐につままれたような感じだ。ということで、なんともへんてこりんな小説なのだが、面白いことは確かで、かなりの長編だが途中でだれることなく一気に読めてしまう。でもまるで、おいしい料理をたくさん食べたが、消化しないで胃のなかに残っているような気持ちだ。前作の「アップ・カントリー」も変な小説だった。かつて兵士として戦ったベトナムを再訪する男の話で、ベトナムの各地の描写がえんえんと続き、かなり辟易した。傑作スリラー・アクションだった「王者のゲーム」のあとだけに、がっかりした記憶がある。あとがきによると、今年秋に出版される予定の次回作は、この「ナイトフォール」の続篇だという。こんどこそ真相が明らかにされ、スカッとさせてくれることを期待したい。ところで、この小説の会話のなかに「クソが扇風機にぶちあたったような」という表現が何度も出てくる。アメリカ人は、くだけた会話のなかで「クソの山を踏んずける」とか、この「クソ」(shit)を使った言葉を使うのが好きで、ぼくも実際に耳にしたことがあるが、とくにこの「クソが扇風機にぶちあたる」(The shit hit the fan)は、強烈なだけに妙に印象に残る表現だ。

2006.10.10 (火)  クリフォード・ブラウン断章

10月30日はクリフォード・ブラウンの誕生日だ。ブラウンは1956年6月、26歳の若さで自動車事故により亡くなった。生きていれば今年で76歳になる。ブラウンはモダン・ジャズの歴史上、最高のトランペッターだった。最高のなかのひとりではない、唯一無二、他を圧して最高だった。そして彼ほど生前その人柄を愛されたミュージシャンはいなかった。どんなに彼のプレイが素晴らしかったか、どんなに愛すべき人間だったかについては、これまでいろんなところで語りつくされているので、ここで贅言は避ける。ぼくは彼のレコードを繰り返し聴いている。彼が残した正規のレコーディングだけでなく、リハーサル・テープやライヴの放送録音などをCD化したものも含めて、手に入る音源なら何でも捜し求めて聴きたいと思っている。ぼくは一般的にライヴを観ることにはそれほど興味はないが、ブラウンなら、もし彼の日本公演が行なわれたら、学校でも会社でも休んで、日本中でやるすべての公演を追いかけて観に行くだろう。そんなブラウンのファンは世界中にたくさんいるに違いない。
これまで集めたブラウンの未発表音源のなかで、近年もっとも感動させられたのは、ティーンエイジャーのブラウンが当時教えを受けていた音楽教師ポイジー・ロワリーと一緒に練習しているテープだった。ブラウンはおそらく中学生のころだと思われる。ブラウンがトランペット、ロワリーがアルト・サックスを吹き、〈オーニソロジー〉をデュオで演奏している。このブラウンのプレイがファッツ・ナヴァロにそっくりなのだ。演奏は当然ながらまだ幼く、未完成だ。その彼が、必死にナヴァロそっくりに吹こうとしており、聴いていると胸が熱くなる。ブラウンのアイドルが、ガレスピーと並び称せられたビバップ時代の名手ナヴァロだったことはつとに有名だが、それが手にとるように分かる演奏だ。どんなに革新的なスタイルを築いたミュージシャンでも、最初は憧れのヒーローの真似からスタートするのだ。パーカーだってレスター・ヤングを徹底的に学ぶことによって新しい奏法を生み出した。若き日のブラウンがどんな練習をしていたかについては、唯一の伝記の翻訳書「クリフォード・ブラウン〜天才トランペッターの生涯」(音楽之友社刊)に詳しい。
ブラウンがジャズ界にデビューした当時、4歳年上のマイルス・デイヴィスはすでにビッグ・ネームだった。だが、マイルスがブラウンのプレイに嫉妬を覚えたであろうことは想像に難くない。事実、ブラウンがブレイキーのクインテットに入ってバードランドでライヴのためにリハーサルをやっているのを聴きに来たマイルスが、帰りしなにブラウンにむかって「お前の口なんか、いかれてしまえばいい」と叫んだという逸話がある。ステージにいたメンバーのひとりは「あれは冗談なんかじゃない、きっと本気だぜ」と言っていたという。このエピソードは前掲の伝記に記されている。ジャズのトランペットといえば、ルイ・アームストロングの昔から、輝かしい音色で高らかに吹きまくるのが本道だ。だがマイルスは意識的にかテクニック不足のためか、50年代半ばあたりから、陰りを帯びたトーン、間を生かしたフレージングという、独自の道を切り開いた。これは本来のやり方ではブラウンに太刀打ちできないと考えたマイルスが編み出した奏法だと思われる。
ブラウンがジャズ界で活躍したのは、1953年から56年にかけてのたった3年間だけだった。52年のR&Bバンド時代を含めても4年余りの活動期間だ。幸いなことに、そんな短期間にしては少なくない量のレコード吹き込みが残されている。ここでレコードに残された彼の演奏のなかでぼくの好きなもののベスト・ファイヴを挙げておこう。

    1. Split Kick (from "A Night at Birdland/Art Blakey Vol.1" Blue Note)
    2. Clifford's Axe (from "The Best of Max Roach & Clifford Brown in Concert" GNP)
    3. Delilah (from "Clifford Brown & Max Roach" EmArcy)
    4. Donna Lee (from "The Beginning and the End" Columbia)
    5. It Might As Well Be Spring (from "The Complete Paris Session Vol.3" Vogue)

ブラウンの代表作について、近年の日本のジャズ・ジャーナリズムではデタラメな評価がはびこっている。最近ではブラウン=ローチというと、真っ先に挙げられるのが「スタディ・イン・ブラウン」らしいが、「クリフォード・ブラウン&マックス・ローチ」のほうが上位にくるべきだ。たしかに「スタディ・イン・ブラウン」も素晴らしいし、たとえば傑作とされる〈チェロキー〉は、アップ・テンポの凄まじい演奏だが、音楽的内容から云えば、「クリフォード・ブラウン&マックス・ローチ」に入っている〈ジョイ・スプリング〉〈ダフード〉〈デライラ〉〈ジョードゥ〉などの名曲・名演に比べると影が薄い。同様に、「ウィズ・ストリングス」が代表作の一枚に入っていることが多いが、このアルバムはイージー・リスニング音楽としてはすぐれているが、ジャズではない。ブラウンはここで、本人自らの意思か制作者からの要請によってかは分からないが、いっさいアドリブをしていない。しようとするそぶりすら見せていない。そこが、たとえばパーカーの「ウィズ・ストリングス」と違うところで、パーカーのほうは立派なジャズになっている。ぼくはジャズじゃないから音楽として聴く価値がないと云っているのではない。音楽のジャンルに優劣はなく、ぼく自身もジャズ以外の音楽も楽しんでいる。そうではなく、ブラウンの「ウィズ・ストリングス」が、ジャズの名盤のようになっている風潮がおかしいと云っているのだ。音楽の好き嫌いは個人の自由だが、一部の聴く耳を持たないライターのせいで評価が歪んでしまうのは、どうにも腹立たしい。

2006.10.09 (月)  カリフォルニア・ワインとヴァージニア・マドセン

友人に勧められて、遅ればせながら「サイドウェイ」(2004年)という映画をDVDで観た。タフじゃなくても生きられる、人生に失敗しても生きていける、そういう気持ちを抱かせてくれるハートウォーミングな映画だった。監督はアレクサンダー・ペイン、主演はポール・ジアマッティ、トマス・ヘイデン・チャーチ、ヴァージニア・マドセンという、日本では無名に近いスタッフ・キャストによる作品で、鳴り物入りの大作とは正反対の地味な小品である。教師をしながら小説家を目指すワイン好きの風采の上がらない男が主人公で、落ち目のテレビ・タレントである女好きのマッチョな友人の結婚式を前に、1週間かけてふたりでカリフォルニアのワイナリーめぐりをするというストーリーだ。主人公は離婚した前妻にいまだに未練があり、小説を書いているがどの出版社からも出版を断られ、ワインめぐりの最中に知り合った女といい仲になるがけんか別れしてしまう、絵に描いたようなダメ人間だが、最後に彼はその女と気持ちが通じ合い、再び前向きに生きようとする。落ち着いた演出、出演者たちの自然な演技、カリフォルニアのワイン・ロードの美しい風景がいい。ワインなどそっちのけで、結婚を控えているのに同じくバーで知り合った中国系の女の尻ばかり追い掛け回すマッチョ男が笑いを誘う。
強く印象に残ったのはナパ・ヴァレーの美しいワイン畑の景色だ。「いちばん偉大なワインはピノ・ノワール」だの「カベルネ・フランからは最上のワインはできない」など、ワインに関する薀蓄が随所に出てくるのも興味深い。ぼくもワインは好きで、カリフォルニア・ワインもときどき飲む。カリフォルニアのワインは、赤も白も最初のうちはおいしく飲めるのに、途中から過度に甘さが出てきてしまうのが特徴だ。本来いいワインであれば、逆に最初は味のバランスがとれていないが、しだいに落ち着いたものになる。ピノ・ノワールのような繊細な味のワインなどは特にそれが問題で、カリフォルニアの出来のいいピノ・ノワールでも、本場のブルゴーニュ産の優美・典雅なテイストを知ってしまえば、あまり触手は動かされない。「いちばん偉大なワインはピノ・ノワール」という見方についてだが、ブルゴーニュもたしかに素晴らしいし、折にふれて飲みたくなるから納得はできる。だが最後に立ち返るのはやはりカベルネ・ソービニヨンやメルローを主体にしたボルドー、というのがぼくの持論だ。
ところで主人公がバーで知り合う女をヴァージニア・マドセンという女優が演じていた。ヴァージニア・マドセンは、有名な映画には出ていないし、それほど知られていないが、ぼくが以前から大好きな女優だった。この女優の存在を教えてくれたのは、映画とジャズ・ヴォーカルと野球を愛した亡き団長こと伊藤勝男さんだった。ちなみに、冒頭に書いた“タフじゃなくても生きられる”という一節は、その団長が出版したハードボイルドを論じた本のタイトルだ。ヴァージニア・マドセンを初めて観たのは、野球をテーマにした「万歳スタジアム」という映画のビデオだった。おそらく日本未公開作品であろう。ウィリアム・ピーターセン(トマス・ハリスの「レッド・ドラゴン」の最初の映画化「刑事グラハム〜凍りついた欲望」に主演)がマイナー・リーグの野球選手で、マドセンはその恋人に扮した。金髪の官能的な美人女優だが、どこか物憂さと哀しさを感じさせる雰囲気が印象的だった。ほかに、ぼくが観た映画では、悪女ものの「ホット・スポット」(1991年)やホラーものの「キャンディ・マン」(1992年)などに出演しており、ぜんぶB級作品ばかりだ。久しぶりに「サイドウェイ」で観たマドセンは、まだ充分に色香を感じさせた。腹のまわりなどに中年にさしかかった様子が見て取れたが、そこがまた魅力を放っていた。

2006.09.22 (金)  ガルヴェストンの殺し屋の血はいつ鎮まるのか

暴力と死の非情な世界に生きる若き殺し屋ジミー・ヤングブラッドの生きざまを描いたジェイムズ・カルロス・ブレイクのハードボイルド小説「荒ぶる血」(文春文庫 06年4月刊)は、この作家の稀有の力量を確信させる傑作だ。舞台は1930年代のアメリカ南部、テキサス州のメキシコ湾岸沿いの歓楽都市ガルヴェストン。主人公はその街を牛耳る暗黒街のボスに雇われているメキシコ系の揉め事始末屋であり、その数奇な生い立ち、独自のルールに則った行動、ボスや仲間との交流、宿命の女との出会い、愛する女のために死地に赴くさまが、乾いたタッチでリリシズムをたたえながら描かれる。なんと云っても素晴らしいのは、登場人物たちの造形が際立っていること。主人公はもとより、ボスや仲間、近隣の住人、端役にいたるまで、ひとりひとりのイメージがくっきりと浮かび上がる。会話や行動、何気ない仕草などの描写により、その人物のキャラクターが生き生きと立ち上がってくるのだ。あとがきにも書かれているように、定職に就く以前、放浪中の主人公が無賃乗車した貨車のなかで知り合う兄弟の少年などは、ほんの1ページしか登場しないが、忘れがたい鮮烈な印象を与える。登場する悪役たちも、単なる悪役ではなく、それぞれ独自の存在感を放っている。また死地に赴く主人公に同行する仲間の描写も、東映の健さん主演のヤクザ映画を思わせる友情と義侠を感じさせて胸が熱くなる。豊富なエピソードが点描されるのもストーリーに奥行きを与えている。メキシコ革命のエピソードは神話的なイメージをたたえており、主人公がガルヴェストンにたどり着くまでの波乱に富んだ幼少年時代のエピソードは第1級のピカレスク・ロマンのようだ。全体に凄惨な暴力が描かれているが、読後感は爽やかで、落ち着いた品格を漂わせている。
この作家の初めて邦訳された前作「無頼の掟」は、昨年発売されて評判が高かったが、じつはぼくは読んでいなかった。“スタイリッシュな犯罪小説”などという惹句のためだ。ボストン・テランの「神は銃弾」など、その手の小説にうんざりしていたぼくは、これもその一種だろうと思い、敬遠していた。ところが先日、このところの海外ミステリーの不作のせいで読むものがなく、なんの気なしに「無頼の掟」を読んだところ、その面白さにたまげてしまい、あわてて「荒ぶる血」を読んだという次第。前作の「無頼の掟」は、スティーヴン・ハンターを思わせる、ウェスタン小説と青春小説の要素もある瑞々しい活劇小説だった。今度の「荒ぶる血」は、同じようなスタイルながら、前作の浮き立つような熱いタッチとは異なり、より落ち着いたクールなテイストに包まれているが、そこから滲み出る情感は素晴らしく、前作と甲乙つけがたい出来になっている。あとがきによると、「荒ぶる血」はジェイムズ・カルロス・ブレイクの長編7作目であり、彼の小説のほとんどは南北戦争、メキシコ革命戦争、20世紀初頭のギャング・エイジなど、古い時代のアメリカを舞台にしているらしい。そのなかの1作は、「荒ぶる血」にちらっとだけ登場したが、その影が小説全体をおおっているメキシコ革命軍の闘士フィエロだという。早く読みたい。なぜ、これだけの素晴らしい作家が、これまで日本に紹介されなかったのだろう。編集者の怠慢ではないのか。最近、日本では海外ミステリーが売れないと云われているが、たんに面白い本が出てないだけのことで、本当は面白い本は本国ではかなり出版されているのに、それが日本に紹介されていないということではないか、と勘ぐりたくなる。最後に疑問をひとつ。この本に一瞬だけ登場するメキシコ革命の英雄 Pancho Villa は“パンチョ・ビジャ”と表記されている。ぼくの知るかぎり、“ビラ”“ビリャ”“ビヤ”という表記はあったが、“ビジャ”というのは初めてだ。いったいどの表記が正しいのだろうか。

2006.09.21 (木)  真のコスモポリタン、ザヴィヌル

8月初旬にブルーノート東京で行なわれたジョー・ザヴィヌル&ザ・ザヴィヌル・シンジケートの演奏は素晴らしかった。CDで聴いて感じた興奮を生のステージで追体験できた。こんな経験はめったにあるものではない。80年代後半のギル・エヴァンス・オーケストラと同じような、音楽の持つ本源的なエネルギーを感じた。なんと言っても最高なのは、そのサウンドの国際性だ。彼の音楽には国境がない。そしてジャンルの枠もない。ラテン、アフリカ、中近東など、辺境(とされている)音楽を取り込み、融合させ、圧倒的なパワーを生み出している。ザヴィヌルの音楽は、アメリカなどはけっして世界の中心ではなく、その一部に過ぎないことを証明している。ジャズとはもともとがそのように様々な要素を取り込んで形作られてきた音楽なのだ。そしてその開放感あふれるカラフルなサウンド。エネルギーの波がうねりのように押し寄せ、心地よいテンションが聴くものを包み込む。ザヴィヌルの自由自在なサウンド構成力とファンキーなキーボード・プレイは、74歳とは思えないくらい若々しい。キーボード〜ギター〜ベース〜ドラムス〜パーカッション〜ヴォーカルという6人編成のバンドだが、ドラムスのナサニエル・タウンスリー以外はほとんど無名に近いメンバーだ。だが彼らの繰り出すプレイの、なんと豊饒なグルーヴに満ちていることか。そして、まさにこの世界そのものを思わせる、かぎりなくコスモポリタンな音楽の、なんと魅力に富んでいることか。そんなザヴィヌルの音楽は、アメリカではまったく評価されていないという。これは、ジャズの本場がもはやアメリカではなくなったということなのだろう。

2006.09.09 (土)  ミュンヘン行き夜行列車の乗り心地は

いささか旧聞に属するが、今年6月、WOWOWで「ミュンヘンへの夜行列車」(Night Train to Munich)という映画が放送された。日本全国でいったい何人の人が観たか知らないが、近年、これほど楽しませてもらった映画はなかった。WOWOWは、ひところは往年のハリウッド製フィルム・ノワール特集など、面白い映画をやっていたのに、最近はアニメや韓国映画や商魂まる見えの低級な映画ばかりで、解約しようかと思っていたところ、たまにこんな素晴らしいのをやるので止められない。これは1940年のイギリス映画で監督はキャロル・リード、主演はレックス・ハリソン、ポール・ヘンリード、マーガレット・ロックウッドという日本未公開のサスペンス映画だ。キャロル・リードといえば「第三の男」(1949)が有名だが、これはそれよりかなり前、戦時下の映画であり、リードとしてはごく初期の作品であろう。ナチスに捉われた物理学者を救出するためイギリスの諜報部員がドイツに潜入するという話で、プロットは二転、三転、いまのCGを多用した大仕掛けの映画とは一味違う、小味ながらピリリと引き締まり、イギリスらしいユーモアもそこかしこに散りばめられた傑作冒険サスペンス映画になっていた。フリッツ・ラング監督、ゲイリー・クーパー主演のアメリカ映画「外套と短剣」(1946)も、同じくナチス・ドイツへの潜入をテーマにしたスパイ・サスペンス映画だったが、それよりはるかに出来はいい。
驚いたのは、脚本がシドニー・ギリアットだったこと。ギリアットといえば、あのサスペンス映画の傑作「絶壁の彼方に」の監督だ。話の展開、全体の味付けも「絶壁の彼方に」を彷彿とさせるものがあり、これは監督のリードよりも、ギリアット色が色濃く出た映画だと思った。また、イギリス時代のヒッチコック映画、「三十九夜」(1935)や「バルカン超特急」(1938)とも、一脈も二脈も通じ合っている。ジャズ評論家で映画にも造詣が深い佐藤秀樹さんから「バルカン超特急」の脚本陣にギリアットが加わっていると教えていただいたが、なるほどそうなのかと合点がいった。あれは列車のシーンが中心だし、これも題名どおり、最後の列車のシーンでクライマックスを迎える。そしてもうひとつ、なんとこの映画には、「バルカン超特急」に出て来た2人組のイギリス紳士が登場するのだ。2人組のイギリス紳士とは、主人公たちと同じ列車に乗り合わせた、クリケットの試合ばかり気にしながら呑気に旅をしている2人で、本筋にはまったく絡まないのだか、妙に印象に残る扱いだった。ずいぶん以前に読んだヒッチコックに関する本で、この2人組紳士は、ほかにもいくつかの映画に同じ役で登場していると知ってはいたが、その1本がこれだったのだ。この映画では、2人の紳士はやはり主人公たちとたまたま同じ列車に乗り合わせるが、「バルカン超特急」よりもはるかに重要な役を与えられ、大いに活躍するので嬉しくなってしまう。主演のレックス・ハリソンが、独特の朗々とした喋り方は熟年になってからの彼と同じなのに、いやに若く溌剌としているが面白い。また「カサブランカ」でレジスタンスの闘士を演じたポール・ヘンリードが悪役で登場するのも興味深い。このような40年代、50年代のイギリス映画は、面白いものがたくさんあるはずなのに、TVでもDVDでもなかなか観ることができないのが残念だ。もっとNHK-BSなどで放送してくれないものだろうか。

2006.09.03 (日)  ブガッティは占領下のパリを疾走したか

ロブ・ライアン作の、第2次大戦中のパリでのレジスタンス運動を題材にした冒険小説「暁への疾走」(文春文庫)を読んだ。出だしはボブ・ラングレーの傑作「北壁の死闘」を彷彿とさせ、これは面白いのでは・・・と期待して読んだが、結果はいまいち。出来は悪くないし、天才レーサーたちの競争と友情、そして裏切り、名車ブガッティを駆って展開されるナチス占領下のパリでのレジスタンス運動、前半を被う青春小説風のロマンティシズムと、面白くなるなるための条件は揃っているのに、主人公ウィリアムズをはじめ登場人物たちのキャラクターがもうひとつ立ち上がってこず、感情移入ができないのだ。クラシック・カーやカー・レースが好きな人にとっては面白いのだろうが・・・。でも及第点には充分達している。この手の小説には、さっきの「北壁の死闘」をはじめ、ジャック・ヒギンズの「鷲は舞い降りた」、ケン・フォレットの「鴉よ闇へ翔べ」、最近のジェフリー・ディーヴァーの「獣たちの庭園」など、傑作がたくさんあり、ハードルが高いのだ。ライアンの小説では、これまで「アンダードッグス」を読んだだけだったが、あまり強い印象は残っていない。ライアンはほかにも、このような第2次大戦秘話をいくつか書いているらしいが、それらに期待をつなげたい。

2006.09.02 (土)  コルトレーン異論

今年の初め、コルトレーンの代表作「至上の愛」の成立過程を追ったドキュメント本「ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実」の翻訳(音楽之友社)が出版された。これを読むと、彼の人生は苦闘の連続だったことが実感できる。この本を読んだのを機会に、改めて「至上の愛」を聴いてみたところ、こんなにも耳にすんなり入ってくる、“まともな”ジャズだったのか、と驚いてしまった。特に第1部から第3部までの流れ、構成の妙、緩急の付け方、ソロの配分、気迫の漲りは素晴らしいと感じた。第4部は重たいが、この本を読んで、サックスで詩を読んでいるのだと知って納得できた。昔聴いたときは少し違和感を感じた第1部の後半に入る詠唱も、とても自然な流れに乗ったものに聴こえた。このアルバムが、コルトレーンが最後の混沌世界に入り込む直前の、彼がたどり着いた最高の境地を表現したものだという評価は、充分に納得できる。
コルトレーンというと思い出す話がある。フィラデルフィア時代の友人だったコンポーザー&サックス奏者ベニー・ゴルソンから直接聞いた、若いときのコルトレーンに関するエピソードだ。あるとき、ゴルソンがフィラデルフィアのバーに入ると、トレーンがカウンターの上で歩き回りながらホンキング・スタイルでサックスを吹いていた。びっくりしたゴルソンがあんぐりと口をあけて見つめていると、トレーンはゴルソンがいるのに気がついて、バツの悪そうな笑いを浮かべたという。あのコルトレーンも若い頃はそんなことをやっていたのだ。若き日のコルトレーンがこのようにR&Bスタイルで演奏していたことは、この本にも紹介されている。これをめぐっては、否定的に切り捨てる人と肯定的に評価する人がいるようだが、著者のアシュリー・カーンは、この時代のR&Bスタイルで演奏した経験が彼の成長にプラスになったとしている。ぼくもまったく同感だ。トレーンは金を稼ぐためにもやっていたのだろうが、同時に自らもカウンターの上でのホンキング・プレイを楽しんでいたに違いない。そして他の様々な要素とともに、彼が独自のスタイルを生み出す土台になったはずだ。
コルトレーンの関して、前から気になっていることがある。彼がマイルス・デイヴィスのクインテットに入って吹き込んだ〈ラウンド・ミッドナイト〉の2つのテイクに関してのことだ。マイルスは1956年9月10日、コロンビアにこの曲を吹き込んだ。それから1ヵ月半後の10月26日、こんどはプレスティッジに同じ曲を吹き込んでいる。これは有名なマラソン・セッションの2回目にあたる。コロンビアの「ラウンド・ミッドナイト」(吹き込み時の正式曲名は「'Round About Midnight」)は、アルバムのタイトル・トラックになり、決定的名演とされてきた。いっぽう、プレスティッジの同曲は、マラソン・セッションをレコード化した4部作には収録されず(コロンビアのヴァージョンがアルバム・タイトルになったので、プレスティッジが気を遣ったからだといわれている)、「&モダン・ジャズ・ジャイアンス」というアルバムにひっそりと収められ、あまり話題にはのぼらないままになっている。だが、ぼくの聴くかぎり、プレスティッジ・ヴァージョンのほうが出来がいいと思う。第一の理由はコルトレーンのソロが素晴らしいからだ。コロンビア・ヴァージョンでは覚束なげに、手探りするように吹いているのに、プレスティッジ・ヴァージョンでは、自信に満ちて、印象的なフレーズをちりばめながら、堂々と吹き切っている。たった1ヵ月半でこれだけ進歩を遂げたのか、と、マイルス時代の彼の成長の速さに目を奪われる思いがする。また演奏全体としても、瑞々しさと集中力という点では初演のコロンビア版が上だが、プレスティッジ版にはそれを補って余りある緊迫感と成熟性がある。ところが世間一般ではコロンビア・ヴァージョンばかりが取りざたされ、コルトレーンのソロの比較もあまり耳にしたことがない。いったいなぜなのだろう。

2006.09.01 (金)  ハリー・ボッシュはどこに行くのか

マイクル・コナリーのハリー・ボッシュ・シリーズ最新作「罪と天使の街」(講談社文庫)が発売された。シリーズ10作目だ。ボッシュ・シリーズは、グレッグ・ルッカのボディガード・アティカス・シリーズと並んで、現代最高のハードボイルド小説だ。前作から、LAの警察を退職し私立探偵をはじめたボッシュが、今回はFBI特別捜査官のレイチェル・ウォリングと共に、The Poetを追い詰める。The Poetとは、1997年に出たボッシュ・シリーズ外の小説「ザ・ポエット」に登場する連続殺人犯だ。開巻間もなく、驚くことに「わが心臓の痛み」で活躍した、引退したFBI捜査官テリー・マッケイレブが死んでしまう。それを残念に思う間もなく、物語は快調に進み、別々に捜査していたFBI側とボッシュ側が交差し、小気味いいテンポで最終章になだれ込む。じつに巧い。ボッシュの娘に寄せる愛が描かれたり、「バッドラック・ムーン」の女主人公を登場させたりと、本筋に関係ない挿話が奥深さを作り出しているのも見逃せない。イーストウッド監督主演で映画化された「わが心臓の痛み」への不満を巧みに小説に盛り込んでいるのも面白い。6,7,8作目あたりでパワーが落ちたと思われたボッシュ・シリーズは、前作の「暗く聖なる夜」で再び輝きを取り戻した。ぼくはこの「暗く聖なる夜」と「ラスト・コヨーテ」がコナリーの最高傑作だと思っているが、今回の新作もそれらと比べて遜色ない出来だ。このシリーズはあと2作で終わりだという。もっと書いてもらいたいとも思うが、マンネリに陥るのを避けるにはそのくらいでちょうどいいのかもしれない。とにかく、ボッシュがLAの刑事に復職する次回作が楽しみだ。


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